清水共栄女子野球部、始動! - タテ書き小説ネット

清水共栄女子野球部、始動!
茶務夏
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︻小説タイトル︼
清水共栄女子野球部、始動!
︻Nコード︼
N9363BK
︻作者名︼
茶務夏
︻あらすじ︼
高校野球公式戦に女子の出場が認められるようになった世界。
野球強豪校・清水共栄に、九人の少女がいた。
十六年前に急逝した名投手の生まれ変わり・梓。
元は甲子園出場捕手だが幼なじみの少女と入れ替わってしまった
優。
プロ野球指導者だったが事故に遭い、少女の身体に脳移植された
啓子。
1
六年前に同級生の少年と入れ替わり、最近、元の身体に戻ってし
まった少女・弥生。
先祖伝来の呪いで性転換し、野球を断念した天才バッター・一美。
少女に身体を交換させられ野球特待生の地位も奪われた雪絵。
符術で往年の名外野手である祖父を憑依させる力を得た美紀。
小学生の少年と一日十二時間入れ替わるようになった、留学生の
シャーロット。
アラビアの魔神により学園を守る魔法少女にされた元少年・真理
乃。
新入生の梓と弥生は野球部に入ろうとするが、自由闊達な雰囲気
だった部は今や女子禁制の時代錯誤な空気に包まれていた。嫌がら
せじみた入部テストを切り抜けた二人だったが、監督からも拒まれ
る。彼らと決定的に対立した梓たちは、梓の幼なじみである美紀の
勧めに乗り、女子野球部を結成して男子野球部に夏の公式大会へ向
けた校内代表決定戦を挑むと宣言した。
梓と同級生の優と雪絵を加え、美紀の伝手で真理乃とシャーロッ
トを獲得。一美を勝負の末に仲間にする際に啓子も加わり、ついに
メンバーが揃う。
そして始まる代表決定戦。序盤は男子野球部に巣食う邪霊により
エラーなどが続出、相手に先制されるが、逆転に成功。さらに真理
乃が邪霊を退治、以後は純粋な力勝負に。
七色の変化球を操る梓も快調だったが、打球を腹に受けて負傷。
追い上げられ、再逆転を許す。だが、喜びや楽しさ・誇り・意地な
ど、それぞれに野球への熱い想いを抱くナインの打撃がつながり、
九回表に逆転。九回裏を梓が乗り切り、強敵が待ち受ける甲子園へ
の第一歩を踏み出すのだった。
2
プロローグ
西暦二〇××年。高校野球連盟︵高野連︶は一つの決断を下した。
高校野球公式戦への女子部員の出場を認めることにしたのだ。
少子化と野球人気の凋落による、慢性的な部員減。女子部員を参
加可能とするこの決定はそれを解消するだけでなく、男女の機会均
等を求める社会全体の風潮にも合致し、新規の野球ファンを獲得す
る一助にもなる。発案者である高野連のお偉いさんは、そう言って
胸を張ったものである。
それから十年。彼の予想は半ば当たり、半ば外れた。
女子を補うことで廃部寸前だったチームなどは息を吹き返し、参
加高の減少には歯止めがかかった。しかし、野球人気の長期低落傾
向にはさしたる影響を及ぼさなかった。
もちろんそこには、金満球団の一人勝ちがすっかり定着した日本
プロ野球の退廃や、他のスポーツの興隆、娯楽の多様化細分化など
様々な要因が絡むわけで、高校野球だけが少し努力したからと言っ
て即座に流れが変わるわけもない。
ただ、女子部員の公式戦参加がファンの増加をもたらさなかった
理由として、スターやアイドルと呼ぶべき女子選手が現れなかった
ことは︱︱それはまったくもって誰の責任でもないのだが︱︱指摘
できるだろう。
高校生ともなると男女の肉体差はやはり大きく、現在に至っても、
春夏の甲子園出場を果たすチームにはいまだに女子のレギュラー一
人さえ存在したことはなかったのである。
3
第一部﹁少女、九人﹂第一章﹁宇野梓﹂
一陣の風が吹き抜けて、火照った頬をなでていく。
﹁あ⋮⋮いい風﹂
走り込みを終えて家に帰り着き、庭で柔軟体操に取りかかってい
た少女はしばし動きを止めて、心地よい風を全身で受け止めた。
豊かな髪をポニーテールにまとめ上げた、整った可愛い顔立ちの
少女だ。美少女であると言っても文句をつける人はいないだろう。
飾り気のないトレーナーの上下に身を包んだその姿はいささか野暮
ったいが、服装は少女の魅力をいささかも損なってはいなかった。
少女に目を留めた者が最初に注目するのはその表情である。まっ
すぐで澄んだ眼差し。顔立ちからは活気が自然に感じ取れる。生き
ること自体を喜んでいるような明るさが、その一挙一動にみなぎっ
ているのだ。
今も、天を仰いで伸びをした少女はむやみにうれしそうに微笑ん
でいる。
東の地平線からは朝陽がゆっくり昇り始めている。初春の空には
雲一つ見当たらない。今日はいい天気になることだろう。
︱︱何か、幸先良さそうだな。
別に縁起を担ぐ質ではないが、せっかくの入学式なのだ。どんよ
りした曇り空や土砂降りよりは、晴れてる方が気分がいい。
﹁梓、ご飯ができたわよ﹂
家の中から母親が呼ぶ。
﹁はーい!﹂
少女︱︱宇野梓は元気に返事をすると家の中へ引き返していった。
﹁美紀姉ちゃん、おはよう!﹂
玄関前で待っていてくれた幼なじみの村上美紀に梓は声をかけた。
美紀は梓より一歳年上。今日から一年ぶりに同じ学校に通うことに
4
なるのだ。
と、美紀はわざとらしくため息をついた。
﹁どしたの?﹂
﹁いや、梓はいいよね。スタイルが良くて。キヨミズの制服もすご
く似合うし﹂
陰気なわけではないが、美紀には自虐的なところがある。
﹁またまた。美紀姉ちゃんがそんなこと言うと嫌味だよ﹂
美紀の方がよほどキヨミズ︱︱清水共栄高校に通う生徒は自校の
ことをそう称することが多い︱︱の空色のブレザーをみごとに着こ
なしているのに。
梓がそう言っても、美紀はかぶりを振る。
﹁人間、動かずにじっとしてることなんてそうそうないよ﹂
唐突に美紀はそんなことを言い出した。小首を傾げる梓に美紀が
解説を始める。二人が小さい頃からの会話のパターンである。
﹁服ってのは身体動かしてる時に似合うかどうかが一番大きいんだ
よ。あたしは背が高すぎるし不器用だからさ。どうにもいけない。
サイズの合わないパーツで組み立てた人形動かすみたいなものだよ。
歩いたり手を挙げたりするたんびにどこかアンバランスなポーズに
なる﹂
たしかに美紀は背が高い。ついでに言えば三つ編みに眼鏡で、い
かにも真面目な優等生という雰囲気だ。そして実際親しくない人間
の前では、美紀は優等生の猫をかぶっていて挙措が穏やかなのだけ
ど、それは今言ったようなことを気にしているからかもしれない。
﹁百七十、越えた?﹂
梓は少し話題をそらしながら駅に向かって歩き出す。
﹁越えた。⋮⋮うまくいかないもんだね﹂
答えた美紀が、梓を見下ろして苦笑した。
﹁あんたは百五十、越えた?﹂
﹁こないだやっと﹂
梓は少し面白くなさそうな顔をする。
5
﹁僕も小学校の頃はぐんぐん伸びてたんだけどなあ﹂
どこから見ても少年には間違われそうもない姿形でありながら、
梓の一人称は﹃僕﹄である。後に述べる理由により、これは物心つ
いた頃から変わっていない。
﹁ま、あきらめるのはまだ早い。身長の伸び方は一定のペースなん
てものとは無縁なんだから﹂
﹁わかってるんだけどね。⋮⋮﹃昔﹄がそうだったから﹂
美紀が梓の頭を撫でる。
﹁何すんのよ、美紀姉ちゃん﹂
﹁いや、身長百八十五センチの大投手がこんなちっちゃい女の子に
なっちゃったってのがいつ見ても面白くてね﹂
言われた梓は頬を膨らませる。
﹁また人のことおもちゃ扱いするんだから﹂
駅へ抜ける近道の、人気のない林の中を二人は進んでいる。二人
だけが知る秘密を話題にできるのはこんな時ぐらいのものである。
今から十六年前の冬、梓は三十六歳のプロ野球選手だった。
名前は小林拓也。年配のファンでなくても日本のプロ野球に多少
なりと興味がある人ならば、今でも誰もがその名を知っているサウ
スポーだ。
高校三年の春に選抜大会で優勝、夏に選手権大会で準優勝した小
林はドラフト一位で指名を受けた。
十八年間の生涯通算成績は、二百八十五勝百五十三敗。主なタイ
トルは、最多勝八回、最優秀防御率五回、MVP二回。所属してい
たのが、彼が現役の間に一度しかリーグ優勝をしたことがない弱小
球団であったことを考えれば、この数字は驚異的である。彼が孤軍
奮闘し続けたおかげで球団は身売りを免れていたとも言われていた
くらいだ︵今から十年前、五年連続最下位を喫した球団はとうとう
売却されたが︶。さらに彼は、二回のノーヒットノーランと一回の
完全試合を達成した。
6
だが、単に優れた記録を残すだけでは、現役生活を終えると同時
に忘却という容赦ない力がファンに作用していく。
その活躍をリアルタイムで知らない若者にさえ小林の名が知られ
ているのは、その最期によるところがむしろ大きいだろう。
前の年にチームのリーグ優勝と日本一とを果たし、最多勝と最優
秀防御率のタイトルも手中に収めていた︵無論MVPも獲得してい
る︶三十五歳の小林拓也は投手として二度目の絶頂を迎えていた。
連投に耐えられる丈夫な肩と速球とに頼っていた若い頃とはスタイ
ルが違うが、打者の心理を読み尽くすような老練な投球術は、面白
いように凡打の山を築くのだ。
そんな三十五歳の夏、病魔が彼を襲った。
そこから一年半の闘病生活の末、妻と二歳の息子を遺して小林拓
也は世を去った。
と、ここまでは誰もが知る客観的な事実。
梓にとっての問題はその後だ。
苦痛に満ちた最期を終えたその次の瞬間、小林拓也は宇野梓とし
てこの世に新たな生を受けていたのである。
お腹がすいた。眠い。おしっこをしたい。
梓としての最初の数年間は原始的な欲求がとにかく強く、前世の
記憶も意識の片隅に押しやられていた。だがどういうわけか、それ
が完全に失われることはなかった。
前世の記憶が再び明確になったのは幼稚園に通い始める前後。そ
の時期が、梓の人生において最も困難な時代だったと言えよう。
三十代男性の意識を持ちながら四歳の幼女として振る舞うのは極
めて難しい。誰に説明するわけにもいかず、梓は混乱に陥った。自
分の境遇を嘆き、スカートを穿かされそうになるたびに抵抗し、梓
と呼ばれても返事をしなかった︵傍目には単に泣いたり拗ねたり暴
れたりが激しくなったとしか映らなかったのだが︶。
しかしその時期を通り過ぎると、梓はやがて素直に現状を受け入
7
れるようになった。自分のかつての身体が失われて新たな身体があ
てがわれた以上、じたばたしても始まらないという開き直りである。
それにこの身体もそんなに悪いものではない。︵当たり前だが︶
ものすごく若いし、何より健康そのものだ。
︱︱もしかしたら、﹃拓也﹄の時に実現しそこなった夢を叶えら
れるかもしれない。
十年前にあるニュースを聞いてその可能性に思い当たった時、梓
の気持ちの切り換えは完了した。第二の人生を思いっきり楽しんで
やろうと心に決めたのである。
というわけで、梓は女の子としての生活をすっかり満喫すること
にした。
一人称が﹃僕﹄であることや、小さい頃から傍目には妙なトレー
ニングを欠かさないこと、誕生日プレゼントに特注のグラブをねだ
ることなど、いくつかの特徴を除けば、梓の﹃過去﹄を窺わせるも
のは何もない。
もちろんこんな話を信じてもらえるわけも信じさせるつもりもな
いから、周囲には隠し通すつもりでいた。学校の勉強も手を抜いて
おいて、変に目立たないように気をつけていたくらいである︵中学
に入った頃からは本気で勉強し直さなければならなくなったが︶。
そんな中、小さい頃から賢い上にオカルト好きだった美紀だけは
梓の事情に感づいた。
ただ美紀にしてもやたらに騒いでもろくなことにならないことは
承知しているので周囲には黙ってくれている。梓にとっては実にあ
りがたい理解者なのである。
﹁話戻すとさ﹂
むくれた梓をなだめるように美紀が言う。
﹁あんたのピッチングは体格の助けなしでもやっていけるものに改
良したんでしょ? 達に十年以上知恵を絞っていたわけでもあるまいし﹂
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﹁うん!﹂
梓はきっぱりと断言する。その様は、小さな男の子のように無邪
気で誇らしげだった。
﹁今はまだ、パワーが足りないんだけどね。もっともっとトレーニ
ングして⋮⋮目標は、再来年﹂
それが﹃夢﹄への再挑戦の時。問題も不安もたくさんあるけれど、
梓は待ち遠しくてしかたがない。
﹁夏の全国高校野球選手権大会﹂
何度も梓の﹃夢﹄を聞いている美紀が合いの手を入れる。
﹁今度こそ、真紅の優勝旗を手にしてみせるんだ!﹂
晴れ渡る空を見上げながら、宣言するように梓は言った。
﹁まずは、野球部が入れてくれるかが問題だけどね﹂
水を差す言葉とは裏腹に、美紀は梓に優しく微笑んだ。
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第一部﹁少女、九人﹂第二章﹁小笠原優﹂
少女は丁寧に襟元のリボンを結び、開かれた三面鏡を眺めた。
鏡の向こうから見返すのは、セミロングの髪を肩口で切り揃え、
カチューシャを着けた少女。
名前は小笠原優。今日から清水共栄に通うことになる高校一年生。
目鼻立ちのくっきりした、意志の強さを感じさせるルックスの持ち
主である︱︱本来は。
﹁これで、大丈夫かな?﹂
今、傍らに立つ青年に問いかける少女の表情は、不安そうに怯え
ている。自分の着ている空色のブレザーやスカートを恐る恐る取り
扱う様は、生まれて初めて制服を着たかのようですらある。その不
自然なくらいの動揺ぶりからは、少女は入学式に出るのではなく魔
女裁判に引き出されるのだと解釈されてもおかしくないほどだった。
﹁まあまあかな。それと、そんなにおっかなびっくりすることはな
いから。制服はもともと少しくらい乱暴に着ても大丈夫なように作
られてるんだし﹂
背の高い、引き締まった体つきをした青年は、妙に慣れた手つき
で少女の服装や髪型を細かく整えていく。名前は山本猛。優とは三
つ違いの大学一年生。
﹁でも⋮⋮何か、落ち着かないよ。だって、学ランと全然違うんだ
ぜ、この布地。妙に薄くってさ⋮⋮﹂
愚痴をこぼす少女に対し、駄々をこねる妹をなだめるように青年
が言う。
﹁いつも穿いてるスカートと変わらないんだから、気にすることな
いってば﹂
だがその言葉が少女の態度を硬化させた。そっぽを向いて、拗ね
るように言う。
﹁俺がいつも穿いてるのはジーパンだよ﹂
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青年はオーバーな仕草で肩を竦めると、少女の肩に手を置いた。
﹁それはこの前までの話でしょ、猛ちゃん﹂
﹁⋮⋮はい﹂
十五センチの高みから見下ろされ、少女はしょんぼりとうなだれ
た。
二人の現在の関係を説明するには、時間を二週間前︱︱とある事
故の起こった日まで遡る必要がある。
その日の夕方までは、優は優であり猛は猛であったのだ。
猛がジョギングを終えてマンションに帰ると、空っぽのはずの自
分の部屋にはなぜか灯りが点いていた。
﹁あ、おかえり﹂
玄関を開けると当たり前のような顔をして優が台所から顔を覗か
せた。自分の家から持ってきたのか、ひよこのアップリケが入った
エプロンまで身に着けてすっかり新妻気取りである。
﹁今夜はキムチ鍋やってみるね。猛ちゃんの好きなうんと辛いやつ﹂
﹁何でお前がここにいるんだよ?﹂
優の台詞を無視し、スニーカーを脱ぎ散らして猛は訊いた。優は
上がり框に膝をつき、そのスニーカーを整える。切り揃えた後ろ髪
がさらりと流れ、猛は思わずドキリとした。
﹁だってあたしおばさまとおじさまにお願いされたもの。﹃わがま
まな息子だけどよろしく頼みます﹄ってご丁寧に﹂
猛の父親はこの春に名古屋の企業へと転職し、つい昨日母親とも
ども引っ越した。だから本来、その日からは猛の一人暮らしが始ま
るはずだったのだが。
﹁まだ少し早い気もするけれど、許婚としては望むところだし﹂
﹁だからその言い方はやめろって⋮⋮﹂
猛と優はマンションの部屋が向かい合わせにある幼なじみである。
優は小さい頃に猛の母が冗談で言ったはずの言葉を気に入って、山
本家で遊んでいる時はよく﹃猛の許婚﹄を自称している。
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﹁鍵はどうした?﹂
﹁おばさまからいただいてるわ﹂
猛の両親は本気で優を猛の嫁にしようと考えているのかもしれな
い。彼らが名古屋行きを決めたのは、自分たちがいない間に二人が
一線を越えてしまえば却って都合がいいという計算もあったのでは
なかろうか。そんな不穏な発想までしてしまう。
エヘンとばかりに胸を張る優に、猛はひどくぶっきらぼうな口調
で言った。
﹁俺は飯より先に︱︱﹂
﹁お風呂でしょ? できてるわよ﹂
風呂場に行けば少し熱めのちょうどいい湯加減。優は猛の好みな
ら何でも心得ているのである。
少しジョギングに気合を入れすぎていたため、何はともあれ早く
さっぱりしたかった。服を脱ぎ捨てて洗濯機へと放り込む。
小さな腰掛けに座って汗を流そうとした猛だが、風呂場のシャン
プーを切らしていたことをその時になって思い出した。
おまけにタオルや替えの下着まで持って来るのを忘れている。予
期していなかった優の存在にすっかり調子を狂わされている。
買い置きをしまっているはずの押入れは、風呂場からかなり遠い
位置にある。優がいる以上裸でうろつくわけにもいかない。
﹁優、押入れから新しいシャンプーと⋮⋮箪笥からタオルも、持っ
てきてくんないか?﹂
言ってから、何だか恥ずかしくなる。
﹁はーい。⋮⋮あっ、猛ちゃんブリーフなんだ﹂
﹁ひ、人の下着見るなよ!﹂
﹁タオルがないなら下着や洋服も忘れてるってことでしょ。違う?﹂
﹁⋮⋮そうだけどさ﹂
三つ年下にも関わらず、小さい頃から猛は優にやり込められてば
かりだった。
優の足音が近づいて来る。風呂場のドアのすりガラス越し、すぐ
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外にコトリとシャンプーを置く白い手が見えた。
優が去るのを待ってドアを開ける。腰掛けから立ち上がり、シャ
ンプーに手を伸ばそうとしたその時。
いきなり足が攣った。
﹁あいたたたたた!!﹂
特殊な痛みが足を駆け抜け、声を上げずにはいられない。猛は風
呂場と脱衣所の境の辺りに突っ伏してさらに呻く。
﹁猛ちゃん、どうしたの!?﹂
廊下と脱衣所を隔てるドアを開け、優が飛び込んできた。
と。
﹁きゃあ!!﹂
優の悲鳴。と同時にやたら固いものが猛の後頭部にぶつかり、猛
は一瞬意識を失った。
﹁いってえ⋮⋮﹂
気がつくと同時に、猛の額に激しい痛みが走る。情けないが涙が
出る。痛くて目もなかなか開けられない。
身体を起こして額を手でさする。ずきずき痛むがどうやら出血は
していないようだ。
﹁いたたたたたた⋮⋮﹂
すぐ傍では優が痛がっている。だが不思議なことに、妙に声が低
い。
恐らくさっき、慌てていた優がドアを開けたら滑って転び、その
額が自分の後頭部に当たったのだな、と猛は見当をつけた。
猛は床にあぐらをかき、おかしなことに気がついた。
なぜ自分は服を着ているのだろう?
なぜ自分は風呂場の濡れたタイルでなく、脱衣所の乾いた床に座
っているのだろう?
なぜ自分は後頭部の痛みや足の攣りを感じないのだろう?
まだ涙の滲む目を開ける。自分の身体を見下ろして、最初に目に
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入ったのは黄色く可愛いひよこのアップリケだった。
自分たちの身体が入れ替わっていると認識した三秒後、漫画や小
説におけるお定まりのものとよく似たパニックが二人を襲った。
だが五分が経過して混乱の時が去ると、現実的な問題が浮上する。
とりあえず猛となった優は風呂に入る他なく、その後は夕食を食
べながら、今後のことを相談することにした︵と言っても、優の身
体になった猛にとって、キムチ鍋は辛すぎてとても食べられなかっ
たのだが︶。
しかし話し合うべき対策などあまりない。何度か頭をぶつけてみ
ても元には戻れず、とにかく元猛は優として、元優は猛として、元
に戻れるまで相手のふりを続ける他ないだろうという結論が出た。
幸い春から猛は大学一年生、優は高校一年生である。学校の人間
関係で苦労させられることはなかったし、家庭の方もそれぞれの事
情から充分ごまかしのきく状況であった。
﹁じゃあ⋮⋮いってきます﹂
元猛の優は足取り重く玄関で靴を履く。
﹁一人で大丈夫? ついて行こうか?﹂
自分はすでに大学の入学式をこなした元優の猛が保護者みたいな
口を利く。
﹁⋮⋮いいよ。道はわかってるんだし﹂
﹁それもそっか。これで四年目だもんね﹂
優が入学したのは清水共栄。去年まで猛が通っていた高校だ。
﹁⋮⋮まさかひと月前に卒業したとこに入学するなんてな⋮⋮﹂
﹁けど猛ちゃんはいいね。一度教わったことばかりなんだから、優
等生間違いなしだよ﹂
﹁受験が終わったら詰め込んだことなんてみんな忘れちゃったよ。
それより優こそ羨ましいさ。受験なしに大学入れたんだから﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
優は軽口を叩いたつもりだったが、それが失敗したことをすぐに
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悟った。
﹁⋮⋮あたしさ、入学式の後、野球部から誘われちゃった﹂
少しの沈黙の後、猛は表情を曇らせて口を開いた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
それはそうだろう。﹃山本猛﹄は清水共栄の主将として、去年の
チームを夏の甲子園準優勝まで引っぱったキャッチャーなのだ。
﹁断っちゃって、ごめんね﹂
元優の猛は、野球を知ってはいても選手としてやっていけるだけ
の経験を持たない。入部してもいずれボロが出るから、どう考えて
も断る他なかったのだが。
﹁⋮⋮仕方ないって。だいたい国立大の野球部なんて大したことな
いんだから﹂
﹁でも、あそこの野球部はずいぶん強いんでしょ?﹂
優の胸がチクリと痛む。
元優の言う通りだ。大学に入ってからも野球は続けたかった。野
球が盛んかどうかが大学を選ぶ基準の一つだったくらいである。
けれど今、野球は続けられそうにない。少なくとも、高いレベル
での野球はできない。
身体が入れ替わった二週間前の晩。股間から突起物が消え、好物
を食べられなくなったあの時に味わった、アイデンティティの喪失
感。あの時に数倍する何かが自分の中で失われたのを優は感じてい
た。
﹁⋮⋮気にすんなって﹂
それでも、優は猛に笑ってみせた。笑顔が不自然に引きつってな
ければいいと願いながら、笑ってみせた。
﹁去年決勝でさ、小林にピシャリとやられた時にある程度踏ん切り
はついてたんだよ。俺はあいつみたいにはなれないなって﹂
去年の夏の甲子園。二年生でありながら関西の野球名門校・大西
義塾のエースナンバーを背負った小林和也。清水共栄は決勝で彼に
完封負けを喫していた。猛自身四打席凡退、三つの三振を奪われた。
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﹁大学入ったら遊びも覚えようかなって考えてたぐらいなんだから
⋮⋮優が気にすることないって、ほんとに﹂
幼なじみを慰めたくて、自分を敢えて道化にした一言である。言
いながら、優は内心そんな自分に少し酔っていた。
だがそれは、予想外の反応をもたらした。
﹁⋮⋮猛ちゃん、いつの間にそんな負け犬根性身につけてたの?﹂
﹁⋮⋮え?﹂
ふと見れば、不愉快そうな猛の顔。平凡で人畜無害な顔立ちだと
思っていた自分の本来の顔だが、こうして怒られるとけっこう迫力
もある。
﹁⋮⋮ゆ、優?﹂
﹁そりゃ﹃山本猛﹄の野球人生に空白ができちゃうのは残念だけど
⋮⋮あたしある意味でうれしかったのよ。だって、猛ちゃんが小林
さんに借りを返す絶好の機会が与えられたんだから!﹂
﹁か、借りを返すって⋮⋮﹂
﹁小林さんはまだ高校生。﹃小笠原優﹄も高校生。今年もう一度甲
子園に出て、今度こそ打ち崩してやればいいじゃない!﹂
﹁あの⋮⋮もしもし?﹂
清水共栄はこの県随一の野球名門校だ。今年の夏も甲子園に出場
する見込みは充分にある。だが新入生の女子を甲子園で、しかも大
西義塾戦に起用するような自殺行為をするわけがない。そもそも女
子がベンチ入りメンバーに選ばれる可能性すら皆無だろう。
﹁それが何よ! 一度抑えられたくらいでそんな弱音吐いて! 猛
ちゃんそれでも男の子なの!?﹂
﹁今は女の子なんだけど⋮⋮﹂
﹁つまんない理屈こねないの!!﹂
猛に一喝されると優は怖くて口をつぐんでしまった。
﹁入学式が終わったら野球部に入部届出してきなさい。わかったわ
ね?﹂
﹁ちょ、ちょっと? ﹃優﹄は陸上部に入るんじゃなかったの?﹂
16
去年の中学生陸上大会で百メートル走県三位の記録を残した﹃小
笠原優﹄である。高校でも陸上部に行くと元猛の優は思っていた。
﹁別にいいわよ、元に戻れるまでその身体は猛ちゃんのものなんだ
から﹂
﹁け、けど⋮⋮﹂
優の脳裏に不意に悪夢のようなビジョンがよぎる。ついこの前ま
で後輩として扱っていた面々を先輩と呼び、球拾いや雑用に駆り出
され⋮⋮。いや、それくらいまだいい。選手に起用されることもな
いまま、三年間マネージャー役として飢えた雄の群れを世話するな
んて⋮⋮考えるだけで背筋が寒くなる。
﹁野球部に入らなかったら⋮⋮﹂
猛の目が残忍に光った︵としか優には見えなかった︶。
﹁晩ご飯は辛いものだけだからね。当然水を飲むのは禁止﹂
﹁そ、そんなのやだ⋮⋮﹂
優は真っ青になる。この身体には、辛い食べ物は拷問に等しいの
だ。
﹁わかったわね? じゃあ、早く行かないと遅刻しちゃうわよ﹂
猛に背中を押されるように玄関を出る。
優はままならない人生の転変に打ちのめされつつよろよろとマン
ションを出た。足は意思とは無関係に、三年間通い慣れた道を歩き
出す。
前を行く自分と同じ制服を着た二人の少女︱︱小柄で元気そうな
ポニーテールの少女と背の高くて三つ編みの少女︱︱が談笑するの
をぼんやり眺めながら、優の気持ちは暗く沈んでいくばかりであっ
た。
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第一部﹁少女、九人﹂第三章﹁青田啓子﹂
少女はいつもの場所で壁にもたれ、ぼんやり空を見上げていた。
百七十五センチの長身を持て余すでもなくすらりと立つその姿は、
実にさまになっていた。腕を組み、片足は壁に預けている。今は物
憂げな表情に包まれているが顔立ちの鋭さは隠しようがない。長く
まっすぐ伸ばした黒髪も、手入れに無頓着なせいか、美しさよりも
むしろ無造作な荒々しさを逆説的に顕している。
ここは旧校舎と新校舎の合間に隠れているデッドスペース。出る
必要のない行事が行なわれている間はここで時間を潰すのが青田啓
子の習慣になっていた。
新入生の初々しい声が連れ立って体育館へ向かっていく。もう数
分で式が始まれば、その声もきれいに静まるのだろう。
と、足音がして啓子は振り向いた。
髪を肩口で切り揃えてカチューシャを着けた、くっきりした目鼻
立ちの少女である。驚いたような顔をして啓子のことを見ている。
上履きの色から判断するに、新入生。
﹁体育館はあっちだよ﹂
﹁ど、どうもすみません﹂
啓子が手で方向を示すと、まるで男みたいに頭を下げて去ってい
った。
︱︱迷ってここに来るものかな?
普通に使う廊下からここまでの道のりは、少し入り組んでいる。
よほどの方向音痴か、あるいは兄弟か誰かがいてこの学校に前に来
たことがあるか。
︱︱だとしても、新入生が入学式をさぼるかね?
妙に浮かない顔をしていた。何か、この学校に来たくない事情で
もあるのだろうか︵清水共栄は進学校にしてスポーツも各種盛ん。
生徒の自主性尊重が浸透した校風で、バイトなども自由。芸能人も
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何人か通っている。さらには教師の質も高く生徒を人として扱って
くれる、かなり恵まれた学校だが︶。あるいはじっとしてるのが苦
手なのか︵そんな落ち着きのない性格にも見えなかったけど︶。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
さらにいくつかの推論を重ねようとした啓子だが、それが無駄な
作業に過ぎないことに気づいてしまった。
人の行動を観察し、その心理を推測する。身について三十年近く
になる習慣だ。昔はそれなりに役に立ちもした。
しかし今のこの身体では、この生活では、何の意味もない。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
空を見上げる。
﹁⋮⋮何やってんだか﹂
ため息がこぼれた。
式が始まったのだろう。さっきまでの喧騒が嘘のように消え去っ
た。体育館の中では、新入生たちが何がしかの希望と不安に胸とき
めかせていることだろう。
⋮⋮今の自分にはとんと縁遠い。
ポケットを探って煙草の袋を出す。一本くわえ取り、今度はライ
ターを出そうとして、尖った声に止められた。
﹁田村さん! 何してるんですか!!﹂
白衣に身を包んだ女性が歩み寄ってきた。髪をひっつめ、銀縁の
眼鏡をかけている。
﹁念のために見に来て本当によかった。早く体育館に行って下さい
! また先生方に変な注目受けたらどうするんですか!﹂
啓子から奪った煙草を自分のポケットにしまいながら、女性は叱
りつける。
﹁⋮⋮矢野さんこそ式、出なくていいの?﹂
﹁保険医に入学式は関係ありませんよ。階段転げ落ちてさっそく保
健室に運び込まれた子もいますしね。とりあえず大きな怪我はして
19
なかったから寝かせておきましたけど、早く戻らなくっちゃ⋮⋮﹂
せかせかと言い立てながら、矢野と呼ばれた保険医は啓子の手を
引く。
﹁相変わらず真面目だね。ただの隠れ蓑なのに﹂
﹁それだけが取り柄ですから﹂
矢野は不機嫌そうに応じた。
﹁ところで最近、大森さんが来ないね﹂
﹁⋮⋮所長は多忙ですので﹂
答えるまでのちょっとしたためらい。啓子はさらにつついてみる
ことにした。
﹁こんな面白いモルモットがまだ死にもしないでピンピンしてるの
に?﹂
﹁そんな言い方はしないで下さい!﹂
矢野は表情を険しくした。
﹁所長が手術をしなければ、田村さんはあの時確実に︱︱﹂
﹁こんなところでしゃべっちゃ、まずいだろ?﹂
啓子の言葉に我に返ったようだ。矢野は口をつぐんだ。
﹁⋮⋮新しい手術でも手がけたのかな?﹂
﹁⋮⋮ご明察です﹂
啓子が少し黙って言葉を待つと、矢野は声を落としてさらにしゃ
べり出した。
﹁田村さんと逆です。二十代のOLだった人ですが、中学生の男の
子の身体に⋮⋮﹂
︱︱なるほどね。大森はサドだし、今頃はさんざん言葉で嬲って
遊んでるんだろうな。
あの移植手術から三年経ってすっかりすれた啓子よりも面白いお
もちゃが手に入ったわけだ。様子を見に来ないのも肯ける。
さて。あんなサイコ医者に会わずに済めばそれに越したことはな
い。しかし︱︱
﹁て、ことは。この先のこっちの生活はどうなるの? 患者を二人
20
も観察してられるほど研究所に余裕があるとは思えないけれど?﹂
﹁⋮⋮来年の三月をもって、田村さんへの接触は最小限度のものに
なる見込みです。もちろん、定期的な検査には来ていただく必要が
ありますけど﹂
﹁ならあなたとの同居生活も後一年、ってこと?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁長いことお疲れさま﹂
﹁いえ、別に⋮⋮﹂
﹁まさかこれほど生きるなんて誰も思ってなかったろうからね﹂
﹁ですから、そういう言い方はよして下さい!﹂
﹁はいはい。ま、今教えてもらってよかったよ。心の準備だってで
きるしね﹂
その言葉に矢野が血相を変える。
﹁田村さん、まさか自殺でも︱︱﹂
﹁今になってそんなことはしないよ。三年も生きてると、いつ死ぬ
かもしれない仮の身体でも、少しは未練を感じるしね。心の準備っ
て言ったのは、来年春以降の生活について﹂
そこまで言ってようやく納得してもらう。
﹁と言っても、やりたいことはないけれど﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁どうしたの?﹂
矢野は黙り込んでいたが、思い切ったように口を開いて啓子に訊
ねた。
﹁前から気になっていたんですけど⋮⋮田村さん、以前みたいに野
球なさらないんですか? プロを目指したりしないんですか?﹂
﹁⋮⋮この身体でかい? ま、草野球ぐらいはできるかもしれない
けど、ドラフト指名してもらえるとは思えないな﹂
啓子が肩をすくめると、矢野はあわてたようにかぶりを振る。
﹁いえ、あの、選手としてプロでプレイするのは難しいでしょうけ
ど、事故に遭う直前は二軍監督を務めてましたよね。そんな風にい
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ずれ監督やコーチみたいな形で︱︱﹂
﹁女にそういう仕事を回してくれるオーナーはいないよ。何より選
手がそんな指導者を認めない﹂
啓子が即座に切り捨てると、矢野も黙りこくった。
啓子はまた空を見上げた。
校舎の建物に切り取られた四角い空はむやみに青く澄み渡り、今
の啓子にはひときわ遠い存在だった。
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第一部﹁少女、九人﹂第四章﹁森弥生﹂
少女と少年は、並んでベッドに寝かされていた。
少女はウエーブのかかった長い髪の毛をしている。それが枕元に
ふわりと広がっている様は、おとぎ話によく登場する眠れる美女を
連想させた。実際に、額の秀でた顔立ちにも高貴な雰囲気が見て取
れる。
少年の方は、これといった特徴のない平凡な顔をしている。強い
て言えば、﹃男の子﹄から﹃男﹄へと成長を遂げつつある精悍さが
その面差しにみなぎっている、とでも表現できようか。
まずは少女が目を覚ました。
﹁いってえな、畜生⋮⋮﹂
額を撫でさすりながら、上半身を起こす。そして周囲を見渡した。
﹁⋮⋮どこだ、ここ?﹂
少女は立ち込める消毒薬の匂いに鼻をひくつかせる。病院? 確
かに無機質な白さがまぶしいベッドは病室のそれによく似ている。
しかしベッド横に立てられている白い布の衝立は、病院ならば病室
ではなくて診察室に置かれる類のものだろう。
壁際に寄せてあるのは、身長や座高の測定器。壁には﹃虫歯予防
デー﹄だの﹃インフルエンザに注意しましょう﹄だのの、内科や外
科にしては統一感のないポスター。何より窓の向こうに見える体育
館とグラウンド。
﹁ああ⋮⋮保健室か﹂
少女は納得したように肯くと、再びベッドに横になる。身体の節
々が痛むのだ。特に額の辺りがズキズキと痛んだ。
しかし保険医は出払っているようで、保健室は静まり返っていた。
ということは、大した怪我ではないのだろう。
﹁骨は折れちゃいねえ⋮⋮な。捻挫もなし﹂
頭を手で押さえて痛みに耐えつつ、少女は手足の感覚を確かめて
23
いく。
﹁この頭の痛みは⋮⋮そうだ、修平だ。ったく、修平の奴あんなと
こでこけんなよな。おかげで俺まで入学式に︱︱﹂
そこまでぼやいたところで少女は顔色を変えて、慌てたように跳
ね起きて周囲を見回した。その目が隣のベッドで眠っている少年に
止まる。彼にも大きな怪我はないようだ。
が、少女はすぐに怪訝な表情になった。
﹁⋮⋮え?﹂
次の瞬間、少女は自分の身体をまじまじと見下ろした。客観的に
見れば何の不思議もない、この学校の制服である空色のブレザーを
着た美少女である。
次に少女は毛布をはねのけて、下半身にスカートを穿いているこ
とを確認する。
最後に自身の胸と股間に手を当てた。
﹁修平! 修平!!﹂
少女は少年を荒々しく叩き起こした。相手が自分と一緒に階段を
転げ落ちたことは承知しているが、自分と同様深刻な怪我はしてい
ないはずだと考えた。
どうしても保険医が戻って来る前に話をつけておかなくてはなら
ない。決して人前ではできない話ということもあり、少女は焦って
いた。
﹁修平! 起きろてめえ!!﹂
﹁う⋮⋮ん、あと五分⋮⋮﹂
﹁何寝ぼけてやがる!﹂
﹁何よ⋮⋮乱暴しないでよ、弥生ちゃんてば⋮⋮頭痛いんだから⋮
⋮﹂
顔をしかめながら、少年はようやく目を開けた。
﹁⋮⋮あれ?﹂
眼前に仁王立ちする少女を見て、少年は先ほどの少女とまったく
同じ怪訝そうな表情になった。
24
弾かれたように飛び起きて、自分が学生服を着ていることを確認
する。鏡に駆け寄り自分の顔を見ると、少年は世にも情けない表情
になった。
﹁とにかく人が来ねえ今のうちに善後策話し合おうぜ。つっても学
校の方は当面問題ないから、まずは家での振る舞い⋮⋮ええと、今
ここで話が終わる前に誰かが来ちゃまずいわな。そん時は⋮⋮放課
後、駅ビルの本屋で合流するぞ﹂
少女がまくし立てる言葉は今ひとつ少年に届いていないようだ。
少年は茫然自失の面持ちで呟いた。
﹁まさか⋮⋮あたしたち⋮⋮今さら?﹂
少年の言葉に、少女はため息をつきつつ、うなだれながらもはっ
きりと答えた。
﹁そうだよ⋮⋮元に戻っちまった﹂
25
第一部﹁少女、九人﹂第五章﹁鮎川一美﹂
少女は睡魔と戦っていた。
もっともそれは、退屈な話をしている校長にばかり責任があるわ
けでもない。鮎川一美は常人よりも眠気に対する耐性がいささか低
いのである。
奥二重の目は、転校当初こそ﹃神秘的﹄と誉めそやされることも
多かったが、わずか一週間後には﹃単にいつでも眠いだけ﹄とクラ
スメートに正当な評価を受けるようになっていた。
﹁大正十三年に設立されました本校は、大正デモクラシーと称され
ました当時の気風を受け、常に生徒一人一人の自由を尊重する姿勢
を︱︱﹂
校長は元々歴史教師だったらしい、と誰かが言っていた。訓示の
たびに昔の話を持ち出すことからの単なる推測に過ぎないかもしれ
ないが。
むしろ逆じゃないのか、とあくびをこらえながら一美は思う。こ
んなに歴史の話が下手じゃ、教師なんて︱︱少なくともキヨミズの
教師なんて︱︱務まらない。
︱︱そこら辺、大西とはえらい違いなんだよね。
一美は三ヶ月前まで通っていた高校のことを思い出す。
春と夏の甲子園。そのためだけに存在すると言っていい高校だっ
た。全国から野球特待生がかき集められて激しいサバイバルを繰り
広げる。晴れて一軍選手に昇格すれば普通の授業は欠席すらも黙認
されて、ひたすら野球さえしていればいい。やがてベンチ入りメン
バー、さらにはレギュラーとなれば、王侯貴族並の待遇が与えられ
た。
野球に力を入れるのは元々私立校の常としての生徒確保の宣伝活
動に過ぎなかったのだろうが、いつしかあの高校では手段が目的に
すり替わっていた。授業の質は低くて、また誰もそんなところに期
26
待していなかった。
一美にはそれを否定するつもりはない。自身、大西義塾にいた時
はその恩恵をたっぷりと味わっていた人間である。
しかしそこを離れて普通の学校に来てみると、やっぱりいびつだ
ったかな、と思いもする。勉強せずとも割と成績の良い一美だった
が、今年の一月にここへ転校してきた時は授業のレベルの高さに苦
戦し、猛勉強をして何とか最近追いつけるようになったのだ。
ただでさえ、先祖代々伝わる奇病の発症および転校という環境の
激変に戸惑っているところに、これは辛かった。
﹁ふぁ⋮⋮﹂
ついに大口開けてあくびをしそうになる。
いくら自由な校風とは言えさすがにこれはやばいと思い、一美は
唇を噛んで必死に我慢した。あくびに伴う涙がわずかに滲んで、視
界を霞ませた。
﹁また野球が非常に盛んなことも本校の特徴として挙げられましょ
う。昨年夏の甲子園では惜しくも大西義塾に敗れましたものの準優
勝となり︱︱﹂
︱︱その優勝チームの一員が、こんな姿でここにいるなんて、誰
も思いはしないよな。
やや乱れていたスカートの裾を直しつつ、一美は心の中で思った。
だがそんな感慨も、強い眠気の前に掻き消えていく。
とうとう一美は頭を垂れて、式が終わって隣の女友達に揺り起こ
されるまでの数十分間を眠って過ごすこととなった。
27
第一部﹁少女、九人﹂第六章﹁田口雪絵﹂
﹁昨年夏の甲子園では惜しくも大西義塾に敗れましたものの準優勝
となり︱︱﹂
校長のその言葉を聞いた瞬間、少女は椅子に座っていられなくな
った。
クラスごとに横一列に並ぶパイプ椅子。その一番端に座っていた
少女︱︱田口雪絵は、大きな注目も集めることなく体育館脇のトイ
レに行くことができた。幸い教師も付き添いには来なかった。
用を足したいわけではない。とにかく誰もいない場所に行きたか
った。心の中で荒れ狂っている感情をどうにかして静めなければな
らなかった。
﹁くそったれ⋮⋮﹂
さすがは私立でトイレもきれいなものである。公立校なら間違い
なく汚れ放題のこんな場所のトイレさえ、美しく装われて清潔に保
たれている。
﹁何で俺がこんなところにいんだよ! 雪絵の野郎! 畜生! 泥
棒! ぶっ殺してやる!﹂
便所の壁を蹴りながら薄汚い言葉を吐き散らす雪絵だが、その声
は鈴を転がすように可愛らしい。幼さを残した色白の顔立ちも保護
欲をかきたてる類の魅力に満ちている。
また一方でその身体はしなやかに引き締まり、彼女が優れた運動
選手であることも示していた。
洗面台の鏡がふと目に留まる。そのせいで雪絵は自分の姿を再確
認することになる。
現実を認めたくなくて雪絵は大きくかぶりを振る。しかしそれで
鏡の中の姿が変わるわけもない。背中まで伸ばした長い髪が大きく
揺れ、うなじで束ねている二つのリボンにかかった重みが、改めて
現実を突きつけた。
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﹁俺は稲葉陽介﹂
鏡に向かい、声に出して言う。鏡の中のツインテールの美少女が
口を開き、声優のようなソプラノで言葉が語られる。
﹁何を言っているんだい、雪絵﹂
からかうような笑いを含んだ男の声が背後から聞こえてきた。
五十絡みの白髪痩身の男が立っている。
雪絵の父、田口純二だった。
﹁ここは男子トイレだよ。君が入る場所じゃないな﹂
ぼさぼさに伸ばした白髪を振り乱し、ばりばりと頭を掻いてふけ
を撒き散らしている。背広もネクタイもどこから引っぱり出してき
たのか皺くちゃだ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
何も答える気になれず、雪絵は純二を睨みつける。しかし相手は
殺気を込めたそんな視線も柳に風と受け流す。
﹁たった一年の辛抱じゃないか。いや、私なら一年では足りないと
思うところなのに﹂
﹁俺は、あんたや雪絵みたいな変態じゃない!﹂
﹁言葉遣いには気をつけたまえ。元に戻るのが一年後より遅くなる
かもしれないよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
静かで穏やかだが、純二の言葉は雪絵の罵声をぴたりと止めた。
﹁返事は?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
不承不承と傍目にもわかる形でだが、雪絵はうなだれて恭順の意
を示した。
雪絵が陽介に戻るためには、この﹃父親﹄を怒らせるわけにはい
かないのだ。
十日前の晩。雪絵から会いたいとの電話があった時、陽介は意外
に感じはしたものの何となく承知していた。
29
陽介と雪絵は、小学校時代からの知り合いだ。と言っても家は離
れているし、クラスが一緒だったことも一度しかない。むしろ学校
の外でよく会った。
二人は別々のリトルリーグに所属し、それぞれのチームのエース
で四番だったのだ。
次の日、試合をよくやった河川敷のグラウンドで、雪絵はすでに
待っていた。陽介は土手の階段を足早に駆け下りて、雪絵の立つマ
ウンドに近づいていった。
︱︱あいつ、あんなに可愛かったんだ。
グラブを手にしている雪絵の顔は、強い闘志をみなぎらせていた。
彼女がどんなつもりで陽介を呼んだかはその姿を見ればとてもよく
わかったが、それでも陽介の脳裏にまず浮かんだのは﹁可愛い﹂と
いう言葉だった。
子供の頃は負けず嫌いな性格や口の悪さばかりが目についたもの
なのに、我ながらずいぶんものの見方が変わったものである。
︱︱ま、あいつも女だもんな⋮⋮。
この﹃勝負﹄につきあったらその後は喫茶店にでも誘ってみよう
か、と陽介は考えた。
﹁待った?﹂
久しぶり、と言いたい気分だったが前日の晩に電話で話したばか
りでそれもおかしいかと思い、陽介はそんな風に声をかけた。
﹁そうね。⋮⋮三年ぐらい﹂
雪絵は陽介を見据えると、そう言った。
﹁⋮⋮え?﹂
﹁稲葉、リトルリーグやめる時にあたしと勝負して負けたよね﹂
そこまで教えられて、ようやく思い出す。
﹁あたしに三振くらってホームラン打たれた後、言ったよね。﹃今
度こそ負かしてやるからな!﹄って﹂
そこでつと目を逸らすと、やや声を落として言った。
﹁あたし、あれからずっと待ってたんだけどな﹂
30
﹁あ⋮⋮それは⋮⋮﹂
最初から、無視するつもりだったわけじゃない。
しかし中学に入ってから陽介はどんどん背が伸び、筋力もついて
きた。今目の前にいる雪絵とは︱︱雪絵も女子にしてはそれなりに
身長の高い方だと思うが︱︱もはや十五センチの差が生じている。
陽介にとって、雪絵はもはや戦うべき相手とは思えなくなり⋮⋮
そしていつしか約束を忘れてしまったのだ。
﹁ま、済んだことはどうでもいいよ。けど今は、三年前と同じつも
りで相手して﹂
﹁あ、ああ﹂
陽介はバットを手に、バッターボックスに向かおうとした。
ともにエースで四番の二人である。投手と打者として一打席勝負
した後、次は立場を入れ替えて打者と投手として一打席勝負、とい
う方法で三年前は戦ったものであった。
﹁ところでさ﹂
﹁ん?﹂
﹁あたしがもし勝つか引き分けかしたら⋮⋮あたしの言うこと一つ
聞いてもらえない?﹂
後にして思えば、雪絵のこの提案を断ればよかったのだ。
しかし陽介は、雪絵が﹃引き分け﹄と自分から譲歩したことにあ
る種のショックを受けた。小学校時代の、傲慢とさえ言えた彼女か
らは考えづらい台詞だったからだ。
﹁わかったよ﹂
陽介はあっさり契約を交わしてしまった。今の自分なら雪絵に負
けはおろか引き分けることすらありえないという自負が後押しして
いた。
﹁でも金くれとかはなしだぞ。俺にできること言えよな﹂
左バッターボックスに立ちながら、陽介は言った。
﹁あ、それは絶対大丈夫だから﹂
雪絵はにっこりと微笑んだ。
31
雪絵の投げた二球目のボールを、陽介のフルスイングしたバット
が捉えた。
ボールは高々と打ち上げられると、長い長い滞空時間の後にセン
ター方面奥の木立の向こうに消えた。
﹁ホームラン、だね﹂
雪絵が自分から負けを認めた。
﹁今の⋮⋮手元で微妙に変化してなかったか? 打つ瞬間まで直球
としか思ってなかったから、芯で捉え損ねた﹂
雪絵を慰めるためと言うよりは、完全勝利といかなかった悔しさ
が言わせた言葉だ。上空の風向き次第ではセンターフライとなって
もまったくおかしくない打球だったのだ。
﹁うん、ツーシーム。独学で覚えてみたんだけど⋮⋮。でもやっぱ
り稲葉すごいパワーだよ。芯外してもあそこまで持っていけるんだ
から﹂
雪絵はさばさばと答えると、マウンドを降りてきた。
﹁ほら稲葉、早くマウンド行ってよ﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
相手の技巧を力と運で捩じ伏せたような勝ち方を誇る気にはなれ
ず、陽介は少し沈んだ気分になる。
だがマウンドへの十八メートルを歩くうちに陽介は気持ちを切り
換えた。
自分は男で雪絵は女だ。力に差があるのは勝負する前からはっき
りしていた。雪絵はそれを補おうとして変化球を使ったが、自分の
スイングがさらに上回っていた。
それだけのことだ。
マウンドに立ち、雪絵に向き直る。雪絵は左バッターボックスで
すでに構えている。陽介も雪絵も右利きだが、過去の大打者たちを
真似て小さい頃から左打ちだった。
﹁行くぞ﹂
32
﹁うん!﹂
陽介は全力のストレートを投げ込んだ。百五十キロは超えそうな
スピードボールだ。
雪絵はバットをぴくりとも動かさなかったが、それは手が出なか
ったからではない。
﹁ボールね。あたしのストライクゾーンよりボール一個高い﹂
キャッチャーも審判もいないため、捕球されることなく通過した
ボールはバックネットに当たって地面に転がる。だがそれよりも雪
絵の断言は早かった。
﹁ああ﹂
三年前とは比較にならない球速にも雪絵はまるで臆さずに、持ち
前の選球眼を発揮している。そのことに内心感心しつつ、陽介は雪
絵の判定に同意した。
﹁二球目、行くぞ﹂
﹁どうぞ﹂
今度はど真ん中に投げた。前よりもさらに速い球だった。
チッ!
鋭く振り抜かれたバットがボールをかすめる。ボールは擦過音を
立て真後ろへ飛んだ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
陽介は、夏以来︱︱全国大会の準決勝で敗れて以来︱︱しばらく
忘れていた感覚を思い起こす羽目になった。
﹁花持たせてくれるつもり? でもそんな気遣いは願い下げよ﹂
真後ろへのファウルは、タイミングが完璧に合っている証拠だ。
一歩間違えればボールはきれいに弾き返されていた。
雪絵は力押しだけで勝てる相手ではない。三年経った今でも、紛
れもない強敵だった。
﹁三球目、行くぞ﹂
﹁いいわよ!﹂
陽介は振りかぶり、投げる。
33
前の二球より速度の遅いそれは、しかし、ホームベースの手前で
角度をつけて落ちた。まっすぐ来ていればジャストミートしたはず
の雪絵のバットはものの見事に空を切った。
﹁⋮⋮フォーク?!﹂
呆然とした雪絵に、陽介は答える。
﹁推薦の内定出た時に挨拶に行ってさ、その時監督に教わったんだ。
まだ無闇に投げるなって言われてたけど、お前相手じゃ使うしかね
ーだろ﹂
そう言った瞬間、雪絵の顔が目に見えて輝いた。
﹁ツーワン、だな。四球目、行くぞ﹂
﹁⋮⋮うん﹂
一球遊ぶ手もあったが、陽介はこれで決着をつけようと心に決め
た。
フォークはまだ会得できたわけではない。変化させ損ねればただ
の棒球だ。何より、自分の本分は速球にある。
最も自信のある内角低目へのストレート。何人もの強打者を打ち
取ってきた決め球で勝負することにした。
陽介の手を離れたボールは、狙い通りのコースへ最高のスピード
で走る。
しかし。
雪絵は的確にバットをコントロールして、陽介の速球を完璧に捉
えた。
金属バットの甲高い音が響き、打ち返された球が速いゴロとなっ
て陽介に迫る。
﹁く⋮⋮!﹂
グラブを差し出すより一瞬速く、打球は陽介の股間を抜けていっ
た。
﹁⋮⋮センター前ヒット、か。バックがよほどの名手でない限り﹂
﹁うん。⋮⋮引き分けで、いいかな?﹂
不安そうに訊ねる雪絵に、陽介は答える。
34
﹁そりゃそーだ。ヒットもホームランも打たれたことには変わりな
いんだから。⋮⋮で、俺は何すればいいんだ?﹂
﹁⋮⋮あたしんち来て、お茶飲んで﹂
雪絵はにこやかにそう言うと、後片づけを始めた。
﹁うちの裏庭で栽培してるハーブ使ってるんだ﹂
そう言って雪絵が差し出したお茶は渋く、薬臭い味がした。しか
し一口で飲むのをやめたらまずいと言っているも同然だ。陽介は無
理矢理カップの中身を飲み干した。
少し頭がくらくらした。
いくらか楽になるかと考えて天井を仰ぎ、その動作にふさわしい
会話を始める。
﹁何か、意外だな。田口っていいとこのお嬢様だったんだ﹂
雪絵の家は屋敷と呼ぶにふさわしい豪華な代物だった。天井は高
く、調度は優雅な作りの年代もの。何気なく出されたティーカップ
にも、風格とか気品みたいなものがあった。
﹁祖父さんだか曽祖父さんだかの遺産食い潰してるだけよ。母さん
なんかあっさり愛想尽かしてあたしを産んだら実家に帰っちゃった
しね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
触れてはいけない話題に首を突っ込んだかと一瞬後悔したが、陽
介の言葉は呼び水に過ぎなかったようで雪絵は自分から色々しゃべ
り出した。
医者になったものの変な研究にはまって病院を辞めてしまった父
親のこと︵母親はその病院の院長の娘だったそうだ︶、放任主義で
育てられた雪絵自身の子供の頃のこと、それなりに残っている資産
やかつての田口家の威光に群がっていた有象無象のこと、そうした
連中や自分を取り巻く環境への反発から、己のプレーだけが問われ
る野球にのめり込んでいったこと。
﹁だから別に野球じゃなくてもよかったんだろうね。けど一番身近
35
だったのはあのグラウンドで練習してるリトルリーグだったから﹂
雪絵の家は、最前二人が勝負したグラウンドから歩いて三分ほど
のところにあった。
﹁なるほど﹂
一方的にまくし立てる雪絵に押され、陽介はただ相槌を打つばか
りになっていた。
﹁誰にも負けないって思ってた。いずれ甲子園に行ってプロになる
もんだって思ってた﹂
﹁うん﹂
なぜかあくびをしそうになり、陽介は必死に耐えた。
﹁でも男と女の差ってものがあるんだよね。単なる体力の問題じゃ
ない、イメージとか決めつけとか偏見の問題﹂
﹁うん﹂
﹁そういう世界だってもっと早く知ってたらさっさと見切りもつけ
たんだけどね。一番身近な大人はあの通りの放任主義だったし﹂
﹁うん﹂
ソファの柔らかさが妙に心地よかった。
﹁で、まあ、何となくふんぎりのつかないまま一人で練習は続けて
たわけよ。でも最近起きた二つの出来事がなければ、そろそろ野球
もやめるはずだったんだけどね﹂
﹁二つ?﹂
﹁一つは、親父が変な装置を発明したこと。もっとも、人体実験は
まだしてないからほんとにそんなことができるのやら実は疑わしい
もんなんだけど﹂
陽介は何が﹃そんなこと﹄なのか訊こうとしたが、口から言葉は
出なかった。
﹁もう一つは、あたしよりそれほど巧いとも思えない奴が、大西義
塾の野球特待生なんかになったこと﹂
︱︱大西義塾? 野球特待生?
どこかで聞いたフレーズだ、と回転の鈍くなった頭で考える。
36
﹁だから勝負申し込んだのよ。そいつがこの三年間であたしよりは
っきり強くなっていたら、笑って送り出してやろうって思ってた﹂
陽介は瞼が重くなっていくのを感じた。
︱︱いかんいかん、こんなところで眠ってる場合じゃ⋮⋮。
まだ昼にもなっていないが、ここらで切り上げよう。家に帰って
支度をしなければ。明日には家を出て、関西へ向かい、寮に入るの
だから。
﹁ところが引き分け。そこで稲葉、目が覚めたらもう一度テストさ
せてもらうわよ﹂
︱︱テストって何だよ? 俺は推薦で大西義塾に入ったのに⋮⋮。
﹁あたしとあんた、どっちがその身体を使うのにふさわしいかをね﹂
その言葉を聞くと同時に、陽介の意識は深く沈んでいった。
﹁わ、ほんとに成功した﹂
同い年くらいの、少年の声が耳に届いた。
目は覚めたが、まだ眠い。目をつぶったまま、まどろんだような
状態だ。
硬い寝台に寝そべっている。病院のような匂いが鼻につく。
﹁ほんとにとはご挨拶だね雪絵。日本医科学界の鬼才であるこの僕
の言葉を信じていなかったのかい?﹂
やや甲高い男の声が応じる。陽介の父親と同じくらいの年齢だろ
うか。
﹁べらべらしゃべんないでよ。ちょっと頭痛い⋮⋮﹂
﹁それは大変だ。どんな痛みだい?﹂
年輩の男が心配そうに声をかける。
﹁んー、前にウイスキー飲んでみた時の翌朝の痛み、に似てるかな﹂
﹁⋮⋮そうか。陽介君には睡眠薬を多めに飲ませたからな。それが
まだ体内で処理できていないのだろう﹂
﹁そっか⋮⋮。稲葉の奴、お茶なんてもう少し遠慮して飲みなさい
よね。おかげであたしが苦労するなんて⋮⋮﹂
37
少年はまるで女の子のようなしゃべり方をする。なかなか気持ち
悪い。
と、どちらかがこちらへ近づいてきた。
﹁へえ、あたしってこうして見るとけっこう可愛いわね﹂
さっきよりも近い距離から、少年は相変わらずの口調で何だか意
味不明なことを言う。
そこでふと、その口調に聞き覚えがあるのに気がついた。同時に、
その声にも。
だがその口調とその声は、別々の人間のものであるはずなのだが。
そんなことを漠然と考え始めると同時に、さっきからの会話を頭
の中で反芻する。
﹁おや、雪絵。もう女の子に興味を持つようになったのかい?﹂
﹁気持ち悪いこと言わないでよ。元の自分の身体だから気になるだ
け﹂
目を開けた。
自分を見下ろしていた少年と目が合った。
会話から立てていた馬鹿げた仮説は、視覚情報によって万全の補
強を受けた。
﹁おはよう、稲葉﹂
稲葉陽介の姿をした少年が、稲葉陽介であるはずの自分に笑いか
ける。
上半身を起こして自分の身体を見下ろす。その胸に豊かに膨らん
だ乳房が存在していることが、シャツの上からはっきりわかった。
突発的に叫ぼうとした瞬間。
年輩の男が腕に注射をし、すぐさま意識はブラックアウトした。
﹁海野十三は読んだことがあるかね?﹂
再び意識を取り戻した時、身体には拘束衣が着せられていた。
暴れ、叫び、もがいたが、座らされていた椅子から転げ落ちるこ
としかできなかった。あくまで冷静さを崩さない﹃陽介﹄と年輩の
38
男性に対し、床に這いつくばっている自分がいかにもみじめに見え
た。
取りあえず年輩の男︱︱雪絵の父である純二︱︱の話を聞くこと
にした。
﹁いや﹂
答える声はれっきとした少女の美声。拘束衣の中では腕が柔らか
い乳房に触っている。
今の自分はまぎれもない少女であった。
﹁戦前の作家だがね、彼の作品の中に面白い理論が提示されている﹂
知らないことは予想済みだったのか、純二は嬉々として解説を始
めた。
﹁脳髄からは電波が放出されている。ゆえに強力な装置でAの電波
をBの脳に吸い寄せれば、Aの人格をBに移植させられるのではな
いか、という話だ﹂
﹁⋮⋮はあ?﹂
大して賢いわけではないが、その理屈が何かおかしいことぐらい
はわかる。
﹁もちろんこれは与太話の域を出ない。この発想がまかり通るなら、
ラジオを強力にすれば放送局を乗っ取れることになるからね﹂
それはその通りだ。
⋮⋮しかし。
それなら、今自分の身に起こっている現象はどう解釈すればいい
のだろう?
﹁ただし、人間の身体から電波が発散されているのは事実だ。そし
て私はこれを、電波の発信ではなく受信した電波の一部が漏出した
ものだと仮定して、ある仮説を立てた﹂
純二の身振り手振りが激しくなってきた。
﹁脳髄はものを考える器官にあらず。人格を構成する電波を受信し、
それを肉体の各所に伝達する電話局なり、という発想だ﹂
﹁⋮⋮な、何言ってんだかわかんねえよ﹂
39
﹁雪絵も最初はそう言ったよ。例え話をしてみよう。君はラジコン
をやったことがあるかね?﹂
﹁あ、ああ﹂
﹁我々人間の肉体とはラジコンカーのようなものなのだ。意識・記
憶・感情といった人格はどこか離れたところにいる﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁我々はラジコンカーに取り付けられたカメラやマイクから情報を
得ている。そしてコントローラーを通じて電波を送り、それに応じ
て肉体が動くという寸法だ﹂
純二は突拍子もないことを平然と言った。
﹁あるいは、ネットゲームに例えてもいいだろう。我々の肉体はコ
ンピューターの中にいるキャラクターであり、意識は外の世界から
キーボードを通じて操作している。ただし見聞きできる情報はコン
ピューター内部のものだけだから、自分たちが本当は外の世界にい
ることを認識できないでいる状態なのだ﹂
﹁⋮⋮じゃあ、外の世界ってどこだよ?﹂
﹁それはわからん﹂
肝心な点についての考察を、純二はこれまた平然と切り捨てた。
﹁宇宙の果てか四次元か別世界か⋮⋮それを﹃こちら側﹄から確認
する術までは、さすがの私もまだ見つけていない。私が可能にした
のは、ラジコンカーの例えで言えば、別のマシンを動かす方法だけ
なのだ。今日の実験でそれは証明された﹂
﹁だから⋮⋮俺が田口になって、田口が俺になったってのかよ!﹂
﹃雪絵﹄は叫んだ。
﹁その通り。脳内のある個所に刺激を与えて電波の受信設定を白紙
にした。君と雪絵、二人同時にその処理を行なった上で、雪絵の身
体に送られる電波を君の身体へ、君の身体に送られるはずの電波を
雪絵の身体へと流し込み、その状態を維持できるように受信設定を
新しく書き込む。医学・工学・物理学・化学に通じた私でなければ、
この人格交換機を作ることも操作することもままならなかっただろ
40
う﹂
陶然となっている純二に、﹃雪絵﹄はがなり立てる。
﹁てめえ、なんでこんなくだらねえ真似しやがった!﹂
﹁くだらないとは失敬な。理論を証明するための貴重な実験だ。そ
してこれからは金持ちに話を持ちかけて、この機械を高額の料金で
利用してもらうのだ﹂
純二はくだらない願望を、夢見るように語る。
﹁稲葉、おねむの前にあたしが言ったこと聞いてなかった?﹂
純二の横で﹃雪絵﹄を落ち着いて見つめていた﹃陽介﹄が、その
時口を開いた。
﹁この入れ替わった状態で勝負してよ。それであんたが勝つか引き
分けるかしたら、すぐに元に戻してやるわ﹂
﹁⋮⋮元に戻れるのか?﹂
﹁私を誰だと思っているのかね。元に戻せる見込みもなしにこんな
ものを作るような物騒な真似はせんよ﹂
﹁じゃ⋮⋮じゃあ⋮⋮今すぐ勝負だ! 早くこの服脱がせろ!﹂
意外と時間は経っていなかった。まだ午後の三時半である。
先ほどのグラウンドに引き返した﹃雪絵﹄と﹃陽介﹄は、入念に
準備運動をしていた。
︱︱ボール、大きいんだな。
﹃雪絵﹄は今の自分の身体になかなか慣れることができなかった。
ついさっきまでより身長は十五センチ低くなっている。手も足も
小さくなり、筋肉も薄い。まるで二年間ほど時間を巻き戻されてし
まったかのようである。
だが、この身体で戦うしかない。
﹁勝つか引き分けって言ったよな?﹂
気持ちよさそうにバットを振る﹃陽介﹄に訊いた。
﹁うん。引き分けでOK。稲葉があたしと互角以上の実力を持って
いるなら、大西義塾に行く資格はあると思うから﹂
41
﹁実力って何だよ⋮⋮﹂
﹁何だって訊かれても困るけどさ、あたしはさっきその身体であん
たからヒットを打てたでしょ。あんたに野球のセンスがあるなら、
同じくらいのことはできるんじゃない?﹂
そう言われると反論は難しいが、﹃雪絵﹄の心は不安に満たされ
ていく。
﹁もし、俺が負けたら⋮⋮﹂
﹁あたしが代わりに活躍してあげるわ。この身体でね﹂
﹃陽介﹄はあっさり言ってのけると、激昂しそうな﹃雪絵﹄を遮
って付け加えた。
﹁ま、あたしも一生﹃稲葉陽介﹄やってたいわけじゃないから。あ
んたも甲子園行きたいだろうしね﹂
ふてぶてしく﹃陽介﹄は笑う。
﹁夏と春の甲子園に出れば満足だから。一年で返してあげるわよ﹂
甲子園出場を遠足か何かのように気軽に言う。もっともその言は、
大西義塾にさえ入学すればほぼ決定事項となるだろう。
左バッターボックスに入った﹃陽介﹄を、﹃雪絵﹄は制した。
﹁ちょっと待った。少し投球練習させろよ﹂
﹁それもそうだね。じゃあ気が済むまでどうぞ﹂
打席を外し、こちらを眺める。
﹁⋮⋮見るなよ﹂
﹁はいはい﹂
相手が後ろを向いてから、﹃雪絵﹄はふりかぶって直球を投げた。
︱︱全然駄目だ。
体格の差はいかんともしがたく、陽介の時とは比較にならない力
のない球だった。それどころか、雪絵本人が投げていた球にもはる
かに劣っている。
野球センス、という﹃陽介﹄の言った言葉が頭を過ぎる。
首を振り、その考えを打ち消した。
この身体には慣れていないんだから仕方がない。それは﹃陽介﹄
42
も同じじゃないか。
そう思い込むことにした。何より、勝つか引き分ければいいとい
うことは、この第一の勝負はまだ気楽にできる。
さっきだって、バッターとして雪絵を打ち崩したんだ。ここは負
けたって構わないじゃないか。とにかく気楽に、気楽に。
﹁⋮⋮もういいぜ﹂
﹁意外に早いね﹂
バッターボックスで﹃陽介﹄が構える。
外角低目を突いた直球を投げた。
敵は完璧にボールを捉えた。
その瞬間にわかっていたことだったが、未練がましく﹃雪絵﹄は
振り返った。
打球はあっという間に視界から消える、文句なしのホームランだ
った。
チッ!
バットを掠めたボールはふわりと斜め後ろへ飛んで行った。
﹁巧いキャッチャーだったら飛びついてたかもしれないね。ま、い
いや。ツーナッシングってことにしとこ﹂
自分のものだった﹃陽介﹄の声。その余裕たっぷりなしゃべりに
憤る暇もなかった。
あと一球。あと一球ストライクを取られたら、﹃雪絵﹄は一年間
陽介に戻れなくなる。
それなのに﹃陽介﹄の球を打てる見込みはまったくなかった。
バットが重い。小柄な身体が思うように動かない。振り遅れる。
今だって、ちょっとしたファウルチップなのに手が痺れてしまって
いる。
﹁タ、タイム﹂
﹁はいはい﹂
小さくて柔らかい手を揉みほぐす。それは死刑執行をいたずらに
43
引き伸ばすような空しい行為に思われた。
うつむいた視線が胸の膨らみに留まる。意外と大きいバストも、
今の﹃雪絵﹄にとってはスイングの邪魔でしかない。
こんな身体じゃまともなバッティングにならない。
どんどん思考が暗くなっていく。
当てることはできても、ヒットにはできそうにない。
︱︱!
﹁お待たせ﹂
恐る恐る、﹃雪絵﹄はバッターボックスに入った。
﹁行くよ!﹂
大きくふりかぶった﹃陽介﹄。
そして豪速球がその手から放たれた直後、﹃雪絵﹄はバットを横
に倒して構えた。
当てて転がすセーフティバントを狙ったのだ。
今も﹃雪絵﹄は鈍足ではないはず。この足なら成功率は低くない
だろう。一対一の勝負で判定の難しいこんな手を使うのは卑劣な気
もしたが、もはや﹃雪絵﹄はなりふり構っていられなかった。
バットがボールに当たる。
しかし。
ボールは小さいフライとなって、ファウルグラウンドに点々と転
がっていった。
スリーバント︱︱ツーストライクからのバント失敗によるアウト。
雪絵はがくりと膝を突いた。
﹁誰かが来たらいけない。早く戻ろう﹂
純二に促され、雪絵は体育館に戻る。
﹁大丈夫?﹂
隣に座っていた女子が小声で話しかけてくる。ポニーテールの快
活そうな少女だ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
44
しかし雪絵は無言のまま、乱暴に腰を下ろした。
︱︱俺はこんなところにいるはずじゃなかったんだ!
暗い怒りが雪絵の心の中に渦巻いていた。
45
第一部﹁少女、九人﹂第七章﹁村上美紀﹂
入学式が終われば今日はお開きだ。昇降口は三学年がごった返し
て混雑している。
グラウンドから戻ってきた梓は、そこから出てくる美紀の姿を偶
然見つけて近づいた。
﹁美紀姉ちゃん、よかったら一緒に帰ろ﹂
﹁あれ、野球部は?﹂
﹁入部申し込みしたら、今日はもう帰っていいって言われたんだ﹂
言うと、美紀の目つきが少し鋭くなる。
﹁実際にはもう少しきつい言い回しだったんじゃない?﹂
﹁⋮⋮まあ、ね﹂
︱︱女に野球ができるわけねーじゃん。迷惑なんだよな、そうい
うの。
マネージャーではなく選手志望だと言ったとたん、それまで快活
に応対していた坊主頭の野球部員は、参政権を要求するチンパンジ
ーを見るような目で梓をジロジロ見つめた。
︱︱ま、うちの学校は建前上誰がどんな部活に入るのも自由だけ
どよ。野球ごっこしたいなら、お仲間集めて新しい部でも作った方
がいいんじゃねーの? 後になってこんなはずじゃなかったとか言
われて退部届出されても後味悪いし、帰ってくんない?
薄汚い口調でそう言うと、入部届の用紙を梓の手元から抜き取っ
た。
その瞬間、ここに自分の居場所がないことを梓は痛感した。
最近は野球人気が落ちたせいで、却って高校野球に相撲などと同
様の﹃日本文化の伝統性﹄みたいなものを求める輩が増えてきたこ
とは知っていた。自分たちの特殊性をやたらに強調するのは少数派
の自己憐憫にありがちなことで、当然そうした連中は、頑なで閉鎖
46
的な思想に酔っていることが多い。男尊女卑などはその最たるもの
だろう。
だが、去年の夏に甲子園で見た清水共栄野球部はそんな空気と無
縁に思えた。だからこそ梓はこの高校に入ったのだが、去年の三年
生がいなくなったこと︵あるいは、監督なり顧問教師が変わったこ
と︶によって、状況ががらりと変化したのかもしれない。
と、理屈の上では納得できる。一応、最悪の場合はこういうこと
もあるかもしれないと覚悟もしていた。
けれど、かつて慣れ親しんでいた世界から拒絶されるのは、やは
り辛くて寂しかった。
その時、隣の机で入部申し込みをしていた女の子がいきなり立ち
上がると、逃げるように駆けていった。
まだ名前は覚えていないが、同じクラスの子だ。何を言われたの
か、辱めを受けたように顔を真っ赤にしている。だが、どんな表情
をしているかは目の辺りを拭い続ける手に隠されて見えなかった。
襟元で丁寧に切り揃えた髪や、頭を飾るカチューシャの可愛らしさ
が、却って痛ましかった。
梓の応対をしていた部員が、女の子の相手をしていた部員に言っ
た。
︱︱あーあ、泣かせちまった。
︱︱あれぐらいで泣いちまう箱入り娘に野球ができるわけねーだ
ろ。
︱︱何、あの子も選手志望?
︱︱ああ。しかもキャッチャーやりたいだとさ。
︱︱マジ? 山本主将がまだいたらきっとすげえ怒ったぜ。
︱︱キャッチャーをなめるなってな。
ひとしきり盛り上がった後、坊主頭は梓に向き直る。
︱︱そーいうことで、バイバイ。
︱︱わかりました。
︱︱ところで、お嬢ちゃんはポジションどこ希望だったわけ?
47
︱︱ピッチャーです。
その場を嘲笑が包んだ。梓の背後にいた新入生の男子たちも遠慮
なく笑い出した。
﹁愚痴らないの?﹂
学校を出て歩き出しても野球部で起きたことを話そうとしない梓
に美紀が訊く。
﹁泣き言言っても始まらないもん﹂
とにかく耐えて、がんばってみようと梓は心を決めていた。
どうにもならないとはっきりしたら、その時改めて考えるだけだ。
﹁うん、それでこそ今を生きる女だ。えらいえらい﹂
頭をなでなでされる。
﹁うれしいようなうれしくないような⋮⋮﹂
じゃれているうちに、梓は見覚えのある通りに入っていることに
気づいた。
﹁美紀姉ちゃん、これって駅に向かう道じゃないよね﹂
﹁ご名答。今はあんた暇なんだろ? 偏神堂覗くくらいつきあいな
よ﹂
﹁うん、わかった﹂
偏神堂は美紀の行きつけの古道具屋だ。梓も美紀とショッピング
がてらこの街へ来た時はよく寄ることになったので、昔から知って
いた。
店内に一歩入ると、今が四月の上旬だということを忘れてしまう。
しかし冬や、ましてや夏を連想する店というわけではない。ひん
やりとしてかび臭い空気に包まれ、申し訳程度の薄暗い照明が照ら
し出すこの空間は、むしろ季節から隔絶された鍾乳洞のようである。
そして鍾乳石や石筍の代わりにこの空間を占めているのは、埃ま
みれの古道具や古本の山だ。いかにもいわくありげな人形や、この
店にあるのが却って不自然で不気味な美しいドレス。猫足のテーブ
48
ルがあるかと思えば古いSF雑誌が積み上げられたりもしている。
用途のわからない歯車やねじがやたらと放り込まれたボール箱の隣
は、きれいに整頓された糸や針が収められた年代物の豪奢な小箱。
何度来ても正体不明な店である。
価格設定も尋常ではない。地方の山中に不法投棄されていそうな
古ぼけた洗濯機に五百万の値がついていたり、怖いぐらいに精緻な
造りのアクセサリーが五百円で売っていたりする。梓は何か不安な
気がするせいで、この店で買い物をしたことはなかった。
﹁僕、美紀姉ちゃんと一緒の時しかこのお店に来られないんだよね。
どうしてだろ?﹂
﹁この店は人見知りするからね。あんたは健全すぎるから、いまい
ち苦手みたいだよ﹂
そんな話の最中に店に入って来たのは、四十を過ぎていると思し
き男性。穴の開いたセーターによれよれのジャージ。つっかけをパ
タパタさせながら、怪奇雑誌の山を調べたり小物類の置かれた棚を
眺めたりしている。美紀の言ったことは冗談にせよ、言いたかった
ことは何となくわかる気がする。
美紀に目を戻すと、何かカードの束のようなものを手にして真剣
な表情をしている。
﹁それ何?﹂
梓の声が耳に入らなかったかのように、美紀はまっすぐレジに向
かう。二十代とも五十代とも見える年齢不詳の店番に何枚かのお札
を払ってカードを受け取った。
﹁もう帰りたいんだけど、いい?﹂
﹁う、うん。珍しいね、いつもは長居するのに﹂
﹁このお札、早く試してみたくてさ﹂
﹁⋮⋮僕を実験台にするのはやめてよね﹂
﹁今日はやんないって。目の前で買い物したんだからごまかしも利
かないだろうし﹂
﹁﹃今日は﹄ってのが、ものすごく嫌なんだけど⋮⋮﹂
49
オカルト好きの美紀は、変なものを色々買い込んでは使ってみる
癖がある。その時は頭の良さよりも好奇心の強さが先に立ち、しば
しばこの店でイカサマ商品を掴まされてしまう。ただそれは、美紀
いわく﹃使い方を間違えたせいで失敗した﹄ことになるらしい。
今回のお札の効能についても帰る道すがら聞かされたが、本物な
らすごいね、という以上の感想は抱けなかった。
﹁ってことは、今日の犠牲者は耕作さんなのね﹂
﹁犠牲者なんて失敬だね。被験者と呼びな﹂
﹁耕作さんもお年なんだから、下手なことしたら命に関わるよ﹂
梓がたしなめると、美紀は少しむくれたような顔をする。
﹁大丈夫だって。あのジジイなら殺しても死なないよ﹂
美紀の祖父は村上耕作という。小さい時に両親を事故で亡くした
美紀を男手一つで育ててきた。
美紀と仲良くなってからそのことを知った時、梓はすごく驚いた。
村上耕作は元プロ野球選手︱︱しかも一時期は拓也の同僚だった
のである。
ホームランバッターではなかったがシュアなバッティングを誇り、
守備や走塁には天才的なセンスを見せた。二十年前、四十四歳でア
キレス腱を切ってしまい引退したが、それまで怪我らしい怪我を一
つもしなかった頑健ぶりである。
ただし歯に衣着せずズケズケと物を言う性格はフロントとの軋轢
を生み、三十一歳の時に世代交代を理由に最初の球団からトレード
されて以降は、いくつものチームを渡り歩くこととなる。しかし野
球ファンの支持は絶大なもので、外野手に不安のあるチームのファ
ンは﹁村上を獲ればよかったのに﹂あるいは﹁村上を追い出さなけ
ればよかったのに﹂とぼやくことがしきりだった。
引退後は解説者としてテレビにラジオに新聞にと活躍している。
拓也時代はいまいち耕作が苦手だった梓だが、美紀の友達という
立場で接する分には常に優しいおじさんである。もっとも、美紀と
50
頻繁に口喧嘩する際の姿は往年の迫力そのままなのだけれど。
﹁おお、梓ちゃんいらっしゃい﹂
にこやかに出迎える耕作の笑顔を見ると、美紀の狼藉を見て見ぬ
振りしようとしていることに罪悪感を覚えてしまう。
︱︱けど、まあ、美紀姉ちゃんも本当に危険なことはしないだろ
うし⋮⋮。
まだしまわれていないこたつに潜ってほうじ茶をいただきながら、
梓はそんな風に自己弁護を済ませた。
﹁しかし梓ちゃんも可哀想に。またこのバカ娘と二年間一緒になっ
ちまうなんてな﹂
﹁うるさいねクソジジイ。手塩にかけた孫娘をバカとは何だい、バ
カとは﹂
部屋から戻ってきた美紀が悪態をついた。まだ制服を着替えても
いない。よほど今回の実験に気がはやっているらしい。
﹁バカをバカっつって何が悪ぃんだ。俺が何遍言っても変な宗教か
ら足洗わねえくせに﹂
﹁あれは宗教じゃないって何度言ったらわかるんだか。これだから
昭和生まれは⋮⋮﹂
罵りながら、美紀は大胆にもその場で二枚のお札を取り出した。
梵字や紋様が赤く書かれたものと、黒く書かれたものだ。
﹁またくだらねえもん買いやがって。今度はどんなおもちゃなんだ
?﹂
﹁成功したら教えてやるさ﹂
美紀は制服の袖をまくり上げると黒いお札を一枚、自分の左腕に
貼りつける。そして赤いお札を右手に取った。
﹁ジジイ、右腕出しな。効果は三時間って話だから、今夜締め切り
の原稿には差し支えないだろ﹂
﹁いきなり言われてハイソウデスカと出す奴がいるか。いつぞやみ
たいに電撃喰らわされたら堪らねえ﹂
﹁そりゃそうだろね﹂
51
その瞬間、美紀は耕作の右腕に飛びつこうとした。
﹁そんな儀式につきあえるかってんだ!﹂
しかしそれは耕作にあっさりかわされる。六十を過ぎても、かつ
ての名外野手の動きは鈍っていなかった。
だが。
﹁実は右腕じゃなくてもいいんだよ﹂
ニヤリと笑い、美紀は耕作の禿げ上がった頭に赤いお札を貼りつ
けた。
﹁何しやが︱︱﹂
途中で不意に言葉が途切れ、耕作は糸の切れた人形のようにその
場に崩れ落ちた。
そして美紀も。
﹁み、美紀お姉ちゃん? おじちゃん?﹂
予想外の展開に、取り残された格好の梓はうろたえて声をかけた。
すると。
﹁う⋮⋮うん⋮⋮心配すんな、梓ちゃん﹂
そう言いながら、美紀が起き上がった。だが目が回ってでもいる
のか、すぐにうずくまってしまう。
﹁あの⋮⋮美紀姉ちゃん?﹂
﹁おい美紀、どこに行きやがった? 梓ちゃんが呼んでるぞ!﹂
声を張り上げた美紀は、自分の声に驚いたようだった。
恐る恐る、といった雰囲気で自分の身体を見下ろす。そして空色
のブレザーとスカートを目にして完全に固まってしまった。
と、いきなり首をめぐらして誰かを探す。
﹁その声は美紀だな! ﹃大成功﹄って何のこった?﹂
そんな美紀の様子を眺めながら横たわっている耕作を調べた梓だ
が、その身体は眠りこけたように穏やかな呼吸をしていた。
﹁⋮⋮今回は、本物だったの?﹂
自分自身のことを棚に上げて、目の当たりにした不思議に梓は呆
然となってしまった。
52
第一部﹁少女、九人﹂第八章﹁シャーロット・L・ミラー﹂
小学校から家へ帰る途中、悟は父の謙蔵と行き会った。
﹁おう、悟。今日はもう帰りか﹂
穴の開いたセーターに、よれよれのジャージ。原稿を仕上げたば
かりで外に出たのか、上機嫌な言葉と対照的に謙蔵の身なりはぼろ
ぼろだ。しかし当人はいつも通りその辺には無頓着である。
﹁う、うん。始業式だから早く終わったんだよ﹂
往来で家族に︱︱しかも父に︱︱会ったのが恥ずかしくて、悟は
早口で答えると早足で通り過ぎた。
﹁父さん偏神堂に行って来るけどすぐ帰るからなー﹂
背中に、家の中で話してる時そのままの大きな父の声が響いた。
悟は低い背︵六年生になった今年も、クラスの男子で一番前になり
そうだ︶をさらに縮めるようにして、その場から遠ざかった。
家に帰り、自室で漫画や野球雑誌を読んだりしているうちに、お
昼が近くなる。
階下の台所へ降りた時、ちょうど玄関のドアが開いた。
﹁タダイマー。パパさん、お昼ご飯ありマスカ? もうシャルはお
腹ペコペコデス﹂
陽気な声とともに、とても背の高い美少女が台所にやって来る。
ショートカットの金髪が明るく輝き、大きな青い瞳は好奇心に満ち
ている。
去年の秋から永井家に住むようになったアメリカからの留学生、
シャーロット・L・ミラーである。
﹁お帰りなさい、シャーロット。父さんは出かけてるから、僕が作
るね﹂
﹁悟も早いデスネ。そう言えば小学校は始業式デシタネ﹂
清水共栄の空色のブレザーを無造作に脱いで椅子にかけ、シャー
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ロットは冷蔵庫から牛乳のパックを取り出すとラッパ飲みした。
﹁姉さんは?﹂
﹁聡美は新聞部の新入生勧誘と取材に大忙しネ。編集会議もやるか
ら帰りは夜になるって言ってたヨ﹂
﹁そっか⋮⋮ピラフでいい?﹂
﹁オーケーオーケー。悟の料理ならシャルは何でも大好きヨ﹂
父は翻訳家兼主夫で、母はテレビ局のプロデューサー。悟と聡美
は同性の親によく似た人生を歩みつつあった。
二人は昼食の後、いつものように悟の部屋で漫画を読んだ。
シャーロットは小さい頃日本製のアニメや漫画に夢中になって日
本が好きになり、ついに留学までするに至った子である。アメリカ
にいた時から日本語に接していたからか、まだ高校二年生なのに実
に流暢な日本語をしゃべる︵語尾がエセ外人的なのは、わりと意図
的なもののようだ︶。
﹁やっぱり﹃ドラゴンブレード﹄は漫画の方がはるかにいいデスネ。
実写で映画にしようなんて考えたハリウッドの神経を疑いマス﹂
数十年前に流行ったアクション漫画の愛蔵版を貪るように読んで
いたシャーロットは、一息つくと悟に言った。
﹁そんなことがあったの?﹂
﹁大昔の話、歴史的な失敗作デスネ。確かラズベリー賞ももらった
はずデス﹂
ラズベリー賞が何かは知らないが、話の流れからろくなものでは
ないのだろうと悟は推測した。
﹁何でもかんでも実写にして自分たちの理解しやすいレベルに引き
ずり下ろさないと気が済まない、わが母国ながらアメリカも困った
ものデスネ﹂
﹁でも⋮⋮日本は何でもかんでも漫画やアニメにしないと気が済ま
ないみたいなところがあるよ﹂
悟が言うと、シャーロットはにっこりと笑う。
54
﹁その通りデスネ。人のふり見てわがふり直せ。もって他山の石と
せよ。そういう考え方を理解しているなんて、悟は賢いデスネ﹂
いい子いい子と頭を撫でられるが、悟は恥ずかしくてその場を離
れてしまう。
大柄なシャーロットにそんなことをされると、まるっきり大人と
子供みたいになってしまい、彼女と対等な立場になりたいと願って
いる悟にとっては屈辱的なのだ。
シャーロットにとって彼は異国にできた弟みたいな存在に過ぎな
いだろう。
それは理解しているのだが。
悟の方は五歳年上のこの少女にひそかに恋しているのだった。
︱︱僕とシャルの身長が逆だったらよかったのに。
悟はそっとため息をついた。
すぐ帰ると言っていた父が実際に帰って来たのは三時を回った頃。
悟とシャーロットは居間でおやつを食べていた。
﹁偏神堂の主人と世間話になってな、スティーブン・クイーンの﹃
ミスター・クリスの生涯﹄訳し終えたとこだって言ったら自分のこ
とみたいに喜んでくれて⋮⋮秘蔵の酒振る舞われたり、祝い品だっ
て言ってこんなものまでもらったり⋮⋮あー、父さんはひとまず寝
るぞ。明日の晩飯までは、いないものと考えてくれ﹂
赤ら顔して言いたいことを言うと、自分の部屋にこもってしまっ
た。筆が乗った挙げ句に無茶な徹夜をしてやがて反動に襲われるの
は、謙蔵が満足のいく仕事をした時のいつもの癖である。
後に残されたのは二つの小箱。それぞれ赤と青のビロード張りの、
見るからに上等な箱である。さっき言ってた﹃祝い品﹄だろう。
悟は箱を開けてみた。
﹁腕時計、かな?﹂
中に収められていたのは金属︱︱黄金でも白銀でもない、白銅と
も呼ぶべき穏やかな輝き︱︱の装身具だった。時計のような文字盤
55
と針がついているし、手首に嵌めるとちょうどよいぐらいの大きさ
だ。
しかし針は一本しかない。箱と色を揃えた赤と青の針で、今は零
時を指している。
﹁ストップウォッチ、でもなさそうデス﹂
つまみで針を操作することはできるが、スイッチの類はない。一
回りさせると零時のところでそれ以上針は進まなくなった。戻すこ
ともできたが、何となく進めきったところに針をセットしておく。
小さな紙に素っ気なく印刷された説明書があったが、ラテン語ら
しくてシャーロットにも読めなかった。
﹁青のほうが少し大きいデスネ﹂
言いながら、シャーロットは二つを手にして見比べる。確かに対
を成すようによく似ているが、赤の方がいくらか小さい。
﹁こっちの方が女の人用なのかな?﹂
﹁そうデショウネ。今の悟にはそっちの方がぴったりデスガ﹂
﹁ふん﹂
すねてみせるがシャーロットのからかう通りで、背の低い自分が
恨めしくなった。
シャーロットは手首に青のブレスレットを嵌めて、感触を確かめ
るように腕を動かす。
釣られるように、悟も赤のブレスレットを嵌めてみた。
その時。
﹁?!﹂
一瞬立ちくらみのようなものを覚え、悟は頭を抱えて目をつぶっ
てしまった。
﹁な、何? 今の?﹂
呟いて目を開けた時、見える景色に違和感があった。
さっきと同じ、居間である。しかし視界に入っているのはテレビ
やピアノ。それらはさっき、自分の背後にあったものばかりだ。
56
そしてその視界の中心には、小さな男の子が座っていた。
﹁何デスカ? 今の変な感覚は?﹂
どこかで見たことのある男の子はそんな言葉を呟いて、きょとん
とした表情をしてこちらを見上げる。
その時になって、悟は自分の視点がやけに高くなっていることに
気づいた。
一瞬のうちに、背が伸びている。
身体を見下ろす。
大きく膨らんだ胸が、Tシャツを持ち上げていた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ぼんやりと、手首に嵌めたブレスレットを見る。
零時の位置を示すその針は、青い色をしていた。
57
第一部﹁少女、九人﹂第九章﹁藤田真理乃﹂
暮れ始めた空をよぎるその飛行物体を見出した時、清水誠三郎は
高校生活初日を終えて帰宅の途につくところであった。
中学時代にサッカーで鳴らした誠三郎は、清水共栄でもやはりサ
ッカー部に入部した。初日ではあったが上級生に混じって練習を行
ない、周囲の賞賛を得るとともに自分自身も手応えを掴むことがで
きた。
帰ろうとした時にはマネージャーとして入部した同級生から次の
日曜日のデートの誘いも受けた。なかなか可愛い子だったので、も
ちろん断るような真似はしない。
﹁清水君ってさ、ひょっとしてこの学校と関係あったりする? 名
字が清水だし、入学式の始まる前にも先生に呼ばれてたでしょ﹂
﹁それは総代挨拶の件だったんだけど、ま、関係はあるよ。俺のお
袋がここの理事長してるんだ﹂
てらいなく誠三郎は口にした。
﹁じゃあ、あの挨拶も理事長さんの子供だから?﹂
﹁いや、普通に、入試の点数が一番だったからだってさ﹂
﹁ほんと? へえーっ、清水君ってすごいのね! サッカーがうま
くてかっこよくて、頭もいいなんて!﹂
﹁大したことないよ﹂
謙虚なことを言いながら照れ臭そうに頭をかく。
すると目の前の女の子はさらに感心したように言ってくれた。
﹁それに全然いばんないんだね。清水君って素敵!﹂
︱︱女って本当にバカで無邪気だな。ま、それくらいが扱いやす
くて好きだけど。
そんなことを考えながら、誠三郎は少女をあしらう。
と、まあ、彼の高校生活はバラ色の享楽的なものになるはずだっ
たのである。
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マネージャーと別れた後、ふと空を見上げたその瞬間までは。
むやみにジグザグな飛行をしている様子から、初めは高高度から
飛行機かヘリコプターが墜落しそうになっているのかと思った。し
かし爆音やプロペラ音は一向に聞こえない。
そのうちに物体の高度が下がり、誠三郎はその輪郭に唖然とした。
﹁か⋮⋮怪物?﹂
蝙蝠のような羽を広げ、頭に角を生やし、長い尾が蠢いている。
口は爬虫類のように突き出てその中から牙を剥いており、手足には
巨大な爪も備わっていた。しかも全身は黒光りする金属的な鎧に覆
われ、手には身の丈ほどもある矛を携えている。
その怪物を、後方から光弾が襲った。
﹁!﹂
天を振り仰いだ誠三郎は、その光を放った者を見た。
少女が空を翔けていた。
亜麻色の長い髪を風にたなびかせ、軽装ではあるが金色の鎧に身
を包み、その背からは光が翼のように迸っている。凛々しい瞳がひ
たと怪物を見据えていた。
少女は空中に浮いたまま手にしていた杖を構え、その美しい唇を
動かす。と、杖の先端から光弾が生じ、再び怪物を包んだ。
﹁シギャアアアア!!﹂
黒い鎧が砕け散り、怪物は喚きたてながら落ちていく。その先は、
彼が出てきたばかりの清水共栄に面している裏山。
誠三郎が今歩いているのは、学院から歩いて二分の我が家へ通じ
る裏道だ。人っ子一人歩いていない。
今見たものが夢かどうかを確かめるべく、誠三郎は裏山へ向かう
ことにした。
﹁誠三郎君じゃない?! 何してるのよ、こんなところで!!﹂
舗装路から山道へ入ろうとした時、鋭い言葉に呼び止められた。
59
﹁げっ、冴子さん!﹂
振り返れば、小池冴子が立っていた。
冴子は誠三郎の三つ上の兄・孝二郎の中学時代からの恋人で、誠
三郎にとってはもはや姉のような存在だ。孝二郎が中学卒業と同時
にいきなりアメリカへ留学してしまったにも関わらず清水家へは頻
繁に出入りしていて、母や姉と仲がいい。
しかし誠三郎は冴子が苦手だった。頭が切れ、押しが強く、男勝
りという言葉がよく似合うこの女性は、呑気で心優しく優柔不断気
味な孝二郎とはベストカップルかもしれないが、誠三郎の好みとは
かけ離れているのだ。
だが今は、そんなことさえ気にならない。
﹁冴子さんも見たんですか? あの怪物と女の子?﹂
﹁⋮⋮何のこと? 子供はさっさと帰りなさい﹂
三歳の年齢差に過ぎないが、確かに冴子には誠三郎を子供呼ばわ
りできるだけの風格がある。しかしその言葉には、いつにない動揺
も窺えた。
﹁そんなつれないこと言わないで下さいよ。冴子さんだって物々し
い装備しちゃって、スクープ写真を撮ろうとか思って来たんでしょ
?﹂
清水共栄では新聞部に君臨していた冴子だが、今日も取材道具一
式の詰まっていそうな大きなバッグを肩に負っている。確か、大学
でもそういう関係のサークルに入ったと母か姉から伝え聞いていた。
あれだけ異様な光景なのに他に野次馬が押し寄せないのが不思議
と言えば不思議だが、この辺りは清水家の敷地が大きく広がってい
る。たまたま人目につかなかったのだろう。
﹁これは、キヨミズの部室に置きっぱなしにしてたのを引き取って
きただけよ。私があいつを追っているのには別の理由があるの﹂
﹁別の理由って? 俺もつきあいますよ。ボディガードくらいはで
きると思いますし﹂
夕焼け空に浮かび上がっていた映画のような光景に、誠三郎の心
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は浮き立っていた。好奇心に駆られ、本気で迷惑そうな冴子の視線
もはねのけて自分を売り込む。
﹁あなたに関係は︱︱﹂
断ち切るような迫力ある言葉に、途中でブレーキがかかった。
﹁ないことも、ないわね。⋮⋮わかったわ。ついて来なさい﹂
ため息をつくように言うと、さっそく歩き出す。誠三郎も慌てて
後を追った。
﹁あなた、キヨミズの成り立ちはどんな風に聞いているの?﹂
若草の萌え始めた林の中に分け入りつつ、冴子はいきなり誠三郎
に訊いた。
怪物と少女の話をしようと思っていたのに出鼻をくじかれた誠三
郎は、やむなく答えることにした。
﹁どんな風にって⋮⋮俺の曾祖母さんの清水万里って人が、親から
受け継いだ遺産で大正時代に創立したって聞いてますけど⋮⋮ほん
とは違うんですか?﹂
﹁いいえ、大体合っているわ﹂
冴子は薄く笑うと続けた。
﹁違うのは、創立者は藤田千造って人だったことと、そのための資
金は親からの遺産ではなかったこと﹂
﹁⋮⋮え? じゃ、その藤田って人が金を出して、曾祖母さんはお
飾りだったとか?﹂
婿を尻に敷き、百歳を超えるまで矍鑠と生き、多くの教え子に慕
われ、没後数年が経つ今でも教育界で尊敬の念とともにその名が語
られるという清水万里である。そんな曾祖母が誰かの操り人形に甘
んじていたとはとても思えない。
だが冴子は大きくかぶりを振った。
﹁千造さんはとても頭がよくて優しい人で、生まれついての教育者
とでも言う人だったようだわ。ただ当時の学校教育の方針とはどう
にも考え方が合わなくて、あちこちを首になった挙げ句、自分で学
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校を作るしかないと決意した﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁けれど学校を作るのなんて簡単にできることじゃないわよね。金
策に苦労して⋮⋮その時、関東大震災が起こった﹂
﹁⋮⋮それで? もしかして、火事場泥棒でもしたんですか?﹂
﹁いいえ。ただ、壺をもらっただけ﹂
﹁壺?﹂
﹁華族様のお屋敷の後片づけに駆り出された時に、手間賃代わりに
ばかでかくて汚い壺を渡されたという話。向こうにしてみれば場塞
ぎなガラクタを厄介払いしたつもりだったのかもしれないけどね﹂
﹁で、それが何なんです?﹂
さっきから冴子の話は一向に行方が見えない。苛立ちつつ、誠三
郎は問う。
﹁その壺を磨いていたら、魔神が出たのよ﹂
﹁マジン?﹂
﹁ええ。魔神﹂
真面目な表情を崩さずに、冴子は言ってのけた。
﹁アラビアンナイトのランプの精とか、そんな感じの奴?﹂
﹁ええ。かつてソロモン王に封印された、アラビア世界最強の魔神・
マリードの一人。ゲームや漫画によく出てくるイフリートやジンよ
りも位は上ね﹂
笑おうとした誠三郎だが、冴子がこんなつまらない冗談を真顔で
言うわけがないことも知っている。
﹁⋮⋮なんでそんなものが日本にあったんですか?﹂
﹁エルサレムにあったものが、やがて王朝の盛衰に伴ってバグダッ
ドに流れ、バグダッドからイギリス人がロンドンに持ち帰り、明治
時代にロンドン留学していた華族のボンボンが買い取って故郷へ持
って来た⋮⋮という話だわ﹂
﹁それで⋮⋮その魔神様が、壺から出してもらったお礼に学校を建
ててくれた?﹂
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﹁話が早くて助かるわね﹂
﹁⋮⋮そのおとぎ話が事実としても、うちの曾祖母さんはどこで絡
んでくるんです? て言うか、あの女の子や怪物とその話がどう関
係してくるんです? だいたい、どうしてそんなことを冴子さんが
知ってるんですか?﹂
冴子は直接問いに答えず、代わりに一層変なことを言い出した。
﹁そのマリード、女好きなのよ。しかもサディスティックで倒錯気
味﹂
﹁⋮⋮はあ?﹂
﹁学校を開きたいという千造さんの願いは叶えた。けれど代わりに
言ったのよ。﹃魔法によって創り出したものを維持するには、魔力
を持つ守護者が必要だ﹄って﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁もちろんそんな人、簡単に見つかるわけがない。そこでマリード
は、困っちゃった千造さんに持ちかけたの。﹃お前が受け入れるな
ら、お前に私の魔力を貸し出しても良い﹄。そして千造さんは、一
種の罠とも知らずに受け入れてしまった﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁アニメで魔法少女ってあるでしょ? あんな感じで、千造さんは
魔力を得た代わりに女の子にされちゃったのよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁で、しかたないから名前も変えた。清水万里って名前にね。魔法
の力で戸籍も周囲の記憶も改竄できたみたい﹂
立て続けに妄想めいた素っ頓狂な話を聞かされてきた誠三郎は、
いきなり身内の名前が出てきたことに驚いた。
﹁あの⋮⋮冴子さん。どこからそんな作り話考えついたんですか?
いくら何でも怒りますよ、俺﹂
少し語気を荒げ、誠三郎は訊ねる。自分の曾祖母が元は男だった
と聞かされて愉快な気分になれるわけもない。
63
しかし冴子はきっぱりと言ってのけた。
﹁あいにくだけど、これは事実よ。私だってこんな出来損ないのゲ
ームみたいな話、裏づけもなしに信じるわけないじゃない﹂
そうまで言われると誠三郎の心にも揺らぐものはある。辛辣だが
根は生真面目で、嘘の苦手な冴子のその言には重みがある。
あるいは冴子は、突拍子もない妄想の虜になっているのかもしれ
ない。だがそれなら、今はそれにつきあう以外なさそうである。
﹁⋮⋮裏づけって?﹂
﹁当のマリードと魔法少女からじかに話を聞いたのよ。その魔法少
女が、さっきあなたも見たあの子。一年の時から同じクラスだった
んだけどどうも挙動不審なところがあって、一年ほど前にようやく
正体突き止めたの﹂
冴子に一度マークされたらたいていの情報は調べ上げられ、プラ
イバシーも何も隠せるものではないと聞いたことがある。この話が
事実としたら、むしろその魔法少女の方が気の毒だと誠三郎は内心
思った。
﹁⋮⋮じゃあ、さっきの女の子は俺の曾祖母ちゃんだってんですか
? けど俺が小学生の時に葬式︱︱﹂
﹁魔法少女だって不老不死じゃないわ。生娘でなくなった時点でマ
リードに引退させられるしね﹂
生娘、という死語に相槌が遅れた。
﹁万里さんが結婚した後は頻繁に代替わりをして、あの子は当代の
魔法少女。名前は藤田真理奈﹂
その名字を聞き、誠三郎は最前の話を思い出す。
﹁藤田ってことは⋮⋮その、千造さんの子孫か親戚ってことですか
?﹂
その質問に冴子は力ない笑みを浮かべた。
﹁ええ。真理奈は千造改め万里さんの直系の子孫。本名使うわけに
もいかないから、先祖の昔の名字を借りてるのよ﹂
﹁直系って、ええと⋮⋮﹂
64
万里がまだ千造だった時に作った子の子孫か? しかし、生娘で
なければ魔法少女にはなれないという設定だ。それとも男時代の行
為はリセット扱いされるとか? いや待て、﹃昔の名字を借りてい
る﹄ということは、本当は藤田姓の人間ではない。やはり清水の家
の人間なのか?
曾祖母の長男は? 誠三郎の祖父である。祖父の子供は娘ばかり
だがその長女は? 誠三郎の母である。
だが誠三郎には女のきょうだいは姉一人しかいない。その姉は大
学を卒業してすぐの三年前に早々と結婚している。
何かはまだ判然としないがものすごく嫌な予感に囚われ出した誠
三郎に向かい、冴子は立て板に水としゃべりまくる。
﹁万里さんは理事長と教師を兼任しながら十年。それ以後は、在校
生がスカウトされては卒業するまでの数年間ずつ担当してきたそう
よ。で、元の男に戻る人が七割。男に戻るよりは女のままでいたい
と決めた人が二割。在学中に男に戻らない決断して処女を捨てた人
が一割。⋮⋮っていう数字はマリードからの受け売りだから、どこ
までほんとかはわからないけど﹂
﹁⋮⋮あの⋮⋮男に戻る戻らないって⋮⋮﹂
﹁だからさっきも言ったでしょ。あのマリードの奴は倒錯趣味の女
好きだって!﹂
そこまで冷静に語っていた冴子は、ここへ来ていきなり吐き捨て
るように言った。
﹁男の子が女の子になって、戸惑ったり悩んだり泣きべそかいたり
強がったり開き直ったりする姿を見物するのが大好きだって、それ
はもううれしそうに語るのよ、あの性根の爛れたサディスト変態魔
神は!﹂
﹁じゃあ、歴代の魔法少女はみんな⋮⋮﹂
﹁そういうこと。さっきあなたが見た女の子は、あなたのお兄さん
の孝二郎。ついでに言えば、あなたのお姉さんも、あなたのお母さ
んも、魔法少女にされるまではれっきとした男子だったという話よ﹂
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﹁⋮⋮⋮⋮﹂
その言葉は、薄々話の行方に感づき始めていた誠三郎をもしたた
かに打ちのめした。
﹁⋮⋮嘘だろ﹂
敬語も忘れ、呟いてしまう。
﹁こんなとこだけ嘘ついてもしかたないでしょ! あなただって思
わなかった? 孝二郎が長男なのに﹃二郎﹄なのは変だって?﹂
﹁まあ、時々⋮⋮でも、姉さんは昔から姉さん︱︱﹂
﹁だからそれは、マリードの魔力による記憶の改変。だいたい、あ
のお姉さんの思い出にしては妙に男っぽくない? その記憶﹂
﹁⋮⋮う、うん﹂
絵に描いたような大和撫子の姉・真理恵だが、小さい頃はやけに
お転婆だったように覚えていた。その話をするたびに、当人は顔を
赤らめて黙ってしまうのだったが⋮⋮。
﹁さすがにすべてのエピソードを丸々作り直すのは難しいみたいね。
あの人の昔の名前は信一郎って言ったらしいわ﹂
そう教えられても、誠三郎の記憶の中の姉は姉だった。
途方に暮れながら足を運び続け、そしてそもそもここに来るきっ
かけとなったもののことを思い出す。
﹁冴子さん、そっちの話はひとまず置いといて、さっきの怪物は一
体︱︱﹂
﹁終点よ﹂
誠三郎のその問いに答える代わりに、冴子は言って指を差す。
その先で魔法少女と怪物が対峙していた。
両者の周囲は、ドーム状の薄いガラスめいたもので覆われている。
二人の接近に気づいた怪物が口から黒い炎のようなものを吐いた
が、誠三郎が驚くよりも回避するよりも早く、炎はドームに弾かれ
て霧散する。まるで漫画やアニメに出てくるバリアのようであった。
﹁真理奈が魔法結界で周囲を包んでいるようね。あいつの攻撃がこ
66
ちらにまで届く恐れはないわ。もうだいぶ弱っているようだし、い
よいよ年貢の納め時かしらね﹂
﹁⋮⋮あれは何なんですか?﹂
﹁私も直接見るのは初めてだけど、悪の組織の親玉よ。もう少し正
確に言うと、人の悪意を養分に成長する魔法生物。変な知恵がつい
たせいで、自分で人の悪意を養殖すれば餌がたくさん手に入ると知
ったのね。で、仲間をこしらえたり、人間をスカウトしたりして、
その活動を組織化してたわけ﹂
﹁的確な説明ありがとう、冴子﹂
バリアの中から少女が冴子に声をかけてきた。その目は隙なく怪
物を見据えているが、口元は形良く笑みを浮かべている。
﹁許さんぞっ、許さんぞおっ、チャーミーマリナ! 貴様がおとな
しく先月卒業しておれば、わしはいつものように力を回復し、組織
を再建できたものを⋮⋮!! たとえ地獄に堕ちようと、わしは貴
様を呪い続けて⋮⋮﹂
怪物は、その姿にふさわしい地の底から響くようなドスの利いた
声で、呪詛を並べ立てている。
﹁冴子さん、あの、﹃チャーミーマリナ﹄って⋮⋮﹂
﹁今時の魔法少女には二つ名が付き物だってマリードが主張するの
よ。最近じゃネタ切れで安直な名前しか思いつかないようだけど﹂
冴子が忌々しいと言わんばかりの表情で答えた。
﹁それに卒業って⋮⋮﹂
﹁卒業時にマリードがその人から魔力を取り除く契約が、二代目以
降の魔法少女には結ばれているの。三月から四月にかけて勢力を立
て直したこいつと新しい子が改めて戦い始める、そんないたちごっ
こがここしばらくは続いていたみたい﹂
そんな外野の会話を受け、真理奈は微笑みながら、怨嗟の声を漏
らし続ける怪物に話しかける。
﹁そう、わたしたちが三年生の三学期になると姿をくらますのがあ
なたの昔からの手。おかげで母さんも姉さんも他の方たちも、あな
67
たを仕留めきれずに次の世代へバトンタッチするしかなかった⋮⋮﹂
少女はしばし感極まったように目を伏せ、そして毅然とした視線
を怪物に向けた。
﹁でもそんなループも今日で終わり! あなたの野望はここで完全
に潰えるんだから!﹂
凛とした声で宣言するように言うと、杖を構え直して怪物に向け
た。
﹁邪まな法理によって産み出された哀れなる魂よ! 聖なる光に浄
化され、願わくは次なる生を幸福のうちに全うせよ!!﹂
少女が言い終えると同時に、杖の先端から溢れんばかりの光が生
まれ、怪物の全身を包み込む。
﹁ギャアアアアアアアアア!!﹂
断末魔の悲鳴が止む。光も途絶える。
と、そこには黒い怪物の代わりに、小さな白い子猫が一匹いるば
かりだった。
﹁真理奈ったら最後の最後まで優しいわね﹂
﹁⋮⋮優しくなんかないわ。下手に殺したら悪霊化するかもしれな
いって考えただけよ﹂
真理奈が冴子にそっけない返事を返しているうちにバリアは消え
去った。真理奈の鎧もたちまち形を失い、その服装は清水共栄の制
服に変わる。また手にしていた杖は光りながら形を変えて、真理奈
の首にペンダントとしてぶら下がった。
一方、どうやら魔王のなれの果てらしき子猫は、ニャアと一声鳴
くと無邪気な足取りで彼方へ走り去っていった。
﹁⋮⋮ふう﹂
子猫を見送った魔法少女は、肩を落として大きな吐息をつく。し
かしその姿は、弱々しさよりはむしろ艶かしさを思わせ、誠三郎は
自分が妙な感情を抱きそうになるのを恐れて口を開いた。
﹁あんた⋮⋮ほんとに、兄貴なのか?﹂
﹁そうよ、誠くん﹂
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少女︱︱藤田真理奈を名乗っているが、本来は誠三郎の兄である
ところの清水孝二郎であるらしい︱︱は、姉の真理恵と同じように
誠三郎を呼んだ。
﹁この場にいるってことは⋮⋮冴子から、全部聞いたのかしら?﹂
﹁全部かどうかはわからないけど⋮⋮とりあえず、うちの家族が変
態揃いなのはよくわかった﹂
﹁母さんや姉さんをひどく言うもんじゃないわ。この生活も慣れれ
ばそんなに悪いものでもないし。⋮⋮まあ、私は愛する冴子がいる
から元に戻るけどね﹂
﹁恥ずかしいこと真顔で言わないで﹂
﹁事実だから、しかたないでしょ﹂
それにしても女の子らしい口調以上に意外なのは、そのきっぱり
さっぱりした態度。本来の兄の性格とはかけ離れていて、まるで冴
子が二人いるみたいだ。
﹁ああもう! 最後の最後まであんたと話してると調子狂うわ。さ
っさと元に戻って!﹂
﹁じゃ、最後の儀式よろしくね﹂
﹁わかってるわよ!﹂
頬を染めた冴子が、バッグの中から筒を取り出した。それは誠三
郎もひと月ほど前に手にした覚えのある、卒業証書を収める筒。
中から丸まった卒業証書を引き出すと、冴子はそれを真理奈に手
渡した。そして真理奈は芝居がかった仕草で恭しく受け取る。
すると、真理奈の全身から光が溢れ出し、それが首に掛かったペ
ンダントに収束する。
﹁眩しい!﹂
山中での珍妙な卒業証書授与をぼんやり見ていた誠三郎は、思わ
ず腕を掲げ光を遮る。
やがてその光が収まると、そこには三年前よりもかなり大人びた
孝二郎が学生服を着て立っていた。
その場にいた三人とも、しばらく動けずにいた。もっとも、たち
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の悪い冗談の総仕上げを見せられたような気分の誠三郎と他の二人
とでは沈黙の意味は違っていただろうが。
﹁あ⋮⋮その⋮⋮た、ただいま﹂
昔とまるで変わらない緊張気味の口調で、孝二郎が冴子に言う。
﹁おかえりなさい、孝二郎﹂
いつになく優しい声で応じ、かつて見せたことがないほど幸せそ
うな表情で、冴子は孝二郎に抱きついた。
︽おうおう、なかなか感動的な光景じゃねえか、なあ?︾
恥かしげもないカップルの抱擁シーンをまざまざと見せられてい
た誠三郎は、誰もいないはずの横合いから突然声をかけられた。
﹁だ、誰だ?!﹂
声のする方向を向くと、そこにはペンダントがふわふわ宙に漂っ
ている。それはさっきまで真理奈の首に下がっていたものに相違な
かった。
︽活きがいいねえ。こりゃあ弄り甲斐があるってもんだ。じゃ、こ
れから三年弱よろしく頼むぜ︾
どうやらペンダントから発せられているらしい声はそんなことを
言うと、避ける間もなく誠三郎の首に掛かった。
その瞬間、誠三郎の全身を激しいショックが走り抜けた。
﹁あんっ!! ⋮⋮え?﹂
自分の上げた甲高い悲鳴に驚いた誠三郎は喉元に手をやり、新た
な驚愕に見舞われる。
指で触れている喉仏がどんどん引っ込んでいき、あっという間に
つるつるの喉になってしまったのだ。
﹁な、何、これ⋮⋮﹂
そう呟く声も、さっきまでの自分の声とはまるで違う可愛らしい
声。アニメに出てくる美少女の︱︱それもローティーンの︱︱声み
たいな、どこか作り物めいた声だ。
うろたえている誠三郎に、孝二郎が気の毒そうな視線を向けて言
70
う。
﹁誠三郎、あの、すぐ終わるから楽にしててな。⋮⋮って、冴子ち
ゃん、何カメラ構えてるのさ!﹂
﹁だって私、孝二郎の変身シーンは見てないもの。マリード、どう
せならスローテンポでじっくりやってくれないかしら?﹂
︽お安い御用︾
冴子のリクエストにペンダントが答えた。どうやらこれは、アラ
ビアの魔神マリードの変化した姿であるようだった。
︽ならまずは顔を済ませるぜ︾
そんな声と同時に透明な何かが顔を撫で始める。と、シャッター
を切りまくりながら冴子はヒュウと口笛を吹いた。
﹁どうせならビデオも持って来るんだったわね。ま、これなら連続
写真でも充分一部始終が収められるけど﹂
﹁え? え?﹂
パニックに近い状態に陥った誠三郎に、冴子は胸ポケットからコ
ンパクトを放る。
思わず開いて覗き込むと、鏡の向こうから愛くるしい美少女が誠
三郎を見つめ返した。
つぶらで大きな瞳に、小さいが形の良い鼻と唇。にきびもそばか
すもないきめ細やかな肌。さらに髪の毛もいつの間にか品のある栗
色に変わっている上、肩口まですらりと伸びていた。
首から下は学生服であり、体格も身体の構造も男のままであるの
だが、今の誠三郎の顔は完全に美少女のものになっていた。
﹁これが⋮⋮わたし? って、ええっ?!﹂
︽お前さんのお好み通りに言語中枢と性格設定いじらせてもらった
ぜ。うん、確かにこういうロリ顔にはほんの少し背伸び気味の﹃わ
たし﹄が一番しっくり来るわな︾
﹁わ、わたしの好みって、何言ってるんですか?!﹂
︽大昔は色々俺様の趣味を押しつけてたんだけどな、どうもそれじ
ゃ後がよくねえんだ。女の生活に馴染めずにおかしくなったり、不
71
幸を一身に背負ったような精神状態になっちまうことが多くて、見
てて楽しくない。かと言って心までこっちの思うがままに完全に変
えたらそりゃ単なる粘土細工に過ぎないからやっぱりつまらない。
なもんで、そのうち俺様は考えを改めた。そいつ自身の意志を尊重
して、そいつが理想とする女の子に変えてやろうとな︾
﹁⋮⋮理想の女の子?﹂
︽心理学用語で言うところのアニマに近いかな。お前さんみたいに
おとなしくて素直で従順な少女を求める奴もいれば、孝二郎みたい
に気が強くて頭が切れる女こそ肌に合う奴もいる。そんな各人の理
想像を反映させてやると、これがいい具合に新生活に順応した状態
で煩悶してくれるんだな︾
︵おとなしくて、素直で、従順⋮⋮︶
マリードの言葉に、誠三郎は呆然とする。それは、自分はそうい
う女が好きだ。だからと言って、そんな女に﹃なりたい﹄わけでは
ない。
︵こんなの嫌! 嫌! 嫌!︶
しかし、内面で荒れ狂う感情は、なぜか表情や言葉となって噴出
しようとしない。これがすなわち性格の変化なのかと焦るが、その
焦りもまた表面には容易に顕れず、誠三郎は内気な少女のようにお
ろおろするばかり。
﹁あの、マリード、解説もいいけど、手早く終わらせてやってくれ
ないかな?﹂
そんな有り様を見かねたように、孝二郎が声をかける。
﹁冴子ちゃんも、あんまりいじめないでよ﹂
﹁それもそうね。あの誠三郎君が当人の理想の女の子になるっての
が、それだけで笑えると思ったけど⋮⋮何だか、可哀想になってき
ちゃった﹂
昔から冷戦状態にあることが多かった冴子が、今や自分を憐れん
でいる。そのこと自体が現在の惨めな境遇を雄弁に物語っていて、
とても辛い。
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︽了解了解︾
マリードが応じると同時に、変化は誠三郎の全身を襲った。
﹁ああんっ!!﹂
胸の双丘が意外なほど大きく膨らみ、シャツがブラジャーに変形
して乳房をぴったりと支える。ごわごわしていた学ランが滑らかな
空色のブレザーになって、全体に小さく華奢になった体格を可愛ら
しく飾る。
下半身では男性の象徴がすっと体内に吸い込まれるのが感じ取れ
た。またお尻がなだらかに大きくなっていくのもはっきり伝わって
くる。
そしてトランクスはパンティーとなり、股間の変化を見事に受け
止めた。またズボンはスカートとなり、ふわりと広がったかと思う
と、ほっそりと生まれ変わった両脚を優雅に包み込むのだった。
見下ろせば、ついさっきシュートを決めた大きな両足は嘘みたい
に縮んでしまい、汚れたスニーカーはきれいで小さな革靴になって
いた。
︽よし、完了。じゃあ、改めてよろしく頼むぜ、真理乃︾
﹁真理乃⋮⋮?﹂
清水誠三郎だった少女は、ペンダントを見下ろして問いかける。
その声からは誠三郎であった時の傲慢さや強引さが影を潜め、実に
繊細で可憐。臆病と表現してもよさそうだ。
︽藤田真理乃。真理奈の妹ということにでもしておくさ。ある意味
事実だろ? ちなみに魔法少女に変身してる間はプリティマリノと
名乗れよ︾
マリードはそんな変化を面白がるような笑い混じりの声で言った。
﹁で、でも⋮⋮悪者は、お兄ちゃんがさっき倒したばかりでしょ?
わたしがやることなんて何にも⋮⋮﹂
︽わかってねえな、あれは副業みたいなもんだ。あの身の程知らず
がつまらんことを企んでたからやむなく戦っていただけさ。それく
らい、冴子から話聞いた時点で理解しろ︾
73
﹁ご、ごめんなさい﹂
少女︱︱真理乃は叱責されたみたいに首を竦めた。
︽俺が本当に楽しみたいのは、体育の授業でブルマを穿いて男子の
嫌らしい視線に恥ずかしい思いをする姿とか、スクール水着を着て
クラスメートと胸を比較して小さいのを嘆いたり大きいのを恥じら
ったりする姿とか、家庭科の調理実習で作ったケーキを男子に食べ
させて不思議とうれしい気持ちになってしまう姿とか、部活動で芽
生える女同士の友情とか、バレンタインの告白とか、そんな平凡な
学園生活よ︾
マリードが機関銃のようにしゃべり倒す。
﹁あの⋮⋮ならマリードさんがご自分で女子生徒に変身したら⋮⋮﹂
︽お前はバカか? 俺が楽しみたいのは、男から女になったお前が、
それらのイベントに戸惑ったり馴染んだりする姿なんだよ! アイ
ドルのことが大好きで四六時中密着していたいストーカーだって、
全員がアイドルそのものになりたいってわけじゃねえだろうが。ち
っとは考えてからものを言いな!︾
﹁ご、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!﹂
真理乃は再び首を竦め、ひたすらに謝りまくった。
﹁ある意味適応が早いと言うか⋮⋮﹂
﹁あの性格ならマリードの思うがままよね、可哀想に⋮⋮﹂
真理乃とマリードの漫才を眺めながら、孝二郎と冴子はため息を
ついた。
74
第二部﹁少女たちは集う﹂第一章﹁一人目、二人目、三人目﹂
入学式の翌日、森弥生は早朝に目を覚ましてしまった。
大きく、柔らかく、暖かなベッド。天井が高く、広々として、豪
華な調度品で飾られた﹃弥生﹄の︱︱﹃自分﹄の︱︱部屋。吉田家
における乱雑な四畳半の自室や、敷きっぱなしのせんべい布団とは、
何もかもが雲泥の差である。
それなのに。
︱︱落ち着かねえ。
ちょうど六年前の四月、修平と身体が入れ替わった直後はあんな
に戻りたいと願っていたこの部屋は、今ではまるっきり他人の部屋
のようだ。居心地の悪さしか感じない。
そして部屋以上に落ち着かないのが、今現在の自分の身体。
女子としては平均的な身体のはずだが、男子に比べるとどうにも
小さくて華奢で手足は細い。そのくせ胸と尻は妙にでかい。
六年前に入れ替わった時、そしてそれからしばらくのうちは、﹃
修平﹄の身体より背が高かったくらいなのに、長い歳月は﹃弥生﹄
の身体をすっかり﹃女﹄に作り変えていた。
入れ替わりによって両方の性別を経験した弥生である。男女差別
的な発想に囚われるわけはない。それでも今の肉体の非力さは、元
に戻れた喜びよりも、力を奪われたという理不尽な苛立ちをもたら
しそうになっている。
﹁ま、あいつはあいつで大変なんだろうけど⋮⋮﹂
天井を見上げながら、弥生は昨日の修平との会話を思い返した。
昨日、保健室から入学式後の教室へ向かいクラスメートと合流し
た後︵二人は同じクラスで、もちろん大した怪我はしてないとわか
ると同時に教室中の笑いを誘った︶。学校を出てから人目を避けて
本屋で修平と再会した弥生は、彼を引き連れてカラオケボックスへ
75
向かい、個室に入った。
飲み物を持ってきた店員が出て行き扉が閉まると、弥生は立ち上
がってしゃべり出す。
﹁おかえりなさいませ、お父様。わたくしも今日から高校生。勉学
や部活動に一層励むことにいたします。お母様、お手伝いいたしま
すわ。弥生は女の子ですもの、これくらい当然ですわ。⋮⋮いかが
かしら? 修平君﹂
魅惑的な笑みを浮かべつつ優雅に一礼し、修平に問いかける。
修平は、途方に暮れた表情である。怖れのようなものもそこには
混じっているようだ。
﹁⋮⋮⋮⋮弥生ちゃん⋮⋮もう、すっかり元に戻っちゃったの?﹂
﹁んなわけねーだろ。演技だ演技。昔の暮らし思い出して、適当に
味付けしただけさ﹂
大股広げてソファに座る。すると修平は安堵したようにため息を
ついた。
﹁ちょっとだけほっとした⋮⋮。弥生ちゃんが女の子らしくなって、
あたしだけ男の子らしい性格に戻らなかったらどうしようって、今
すっごく怖かった⋮⋮﹂
今朝まで自分のものだった少年の肉体が、いかにも少女めいた口
調で少女めいた感慨を漏らす。弥生の趣味には合わないが、それは
言っても詮ないことと我慢する。
﹁そこまで思わせたってことは、俺の演技力もまんざらじゃないっ
てこったな﹂
﹁うん、ちょっと気取りすぎかもしれないけど⋮⋮家の中でお父様
やお母様相手に言う台詞ならそれほど違和感ないかな。でも学校じ
ゃもう少し砕けた言い方にしないと変だよ﹂
﹁そこら辺は追々修正かけてくさ。六年前までしゃべってた言葉だ、
どうにかやっていけるだろうよ﹂
﹁うん、六年前のあたしよりはずっと簡単だと思う﹂
﹁修平のお墨付きもらえれば心強いや。それで、修平。お前は今の
76
ところ無理に家で会話しなくていいからな﹂
﹁え、どうして?﹂
﹁俺、一週間ぐらい前おふくろと喧嘩したんだよ。最近のうちの親
子喧嘩、半月ぐらい口きかないのが普通だから、今日話しかけたり
したら却って不審がられるぜ﹂
﹁そ、そうなんだ⋮⋮でも、喧嘩の原因って何?﹂
﹁⋮⋮何だったかな⋮⋮部屋が散らかってるから掃除しろとか、高
校入ったんだから小遣い上げろとか、予備校通えとか⋮⋮それらの
複合要因によるもんだな﹂
弥生の答申に修平はため息。
﹁⋮⋮つまりは深刻な問題じゃないってことね。あ、でも、お父さ
んは?﹂
﹁おやじはリストラ生き残った代わりに残業地獄。最近は俺が起き
出す前に会社行って、俺が寝ついてから帰ってくる。けど、おふく
ろよりは注意した方がいいな。なかなか会わない分、逆に変化が目
につくかもしれない﹂
﹁⋮⋮わかったわ﹂
打ち合わせは順調に進んでいったが、ある時、流れは不意に変わ
った。
﹁ところで、部活だが﹂
﹁わかってる。野球なんてやるのは六年ぶりだけど、がんばるから﹂
修平が気負ったように宣言する。
数秒の沈黙の後、弥生は言った。
﹁⋮⋮何を言っとるんだ貴様﹂
﹁え? あたしが弥生ちゃんの代わりに野球部入るんでしょ?﹂
リトルリーグから中学の野球部までの六年間、弥生は﹃修平﹄と
して野球をし続けてきた。最初は入れ替わりがばれないための演技
のつもりだったが次第にのめり込み、今ではいっぱしの球児である。
もちろんこんなアクシデントがなければ今日にも野球部に入るつも
りでいた。
77
対照的に﹃弥生﹄として六年間暮らすうちにすっかりおしとやか
になっていった修平に向かって、弥生は言った。
﹁お前が今でも野球やりたかったのならもちろん止めはしねえけど
⋮⋮俺の代わりに野球をやるという言い草が気になるぞ﹂
漫画なら頭上に疑問符を浮かべそうな顔をしていた修平は、その
言葉に眉をひそめた。
﹁⋮⋮弥生ちゃん、もしかして、その身体で野球するの?﹂
﹁して悪いか﹂
弥生はソファにふんぞり返って問い返す。
﹁わ、悪くはないけど⋮⋮あたし、中学の時はずっと文化系の部活
だったし⋮⋮﹂
﹁知ってるよ。でもこの身体、体育の成績はけっこういい方だろ?
道場通いもまだ続けてるんだし﹂
﹁う、うん⋮⋮﹂
﹁野球はパワーだけでやるもんじゃない。そりゃ慣れるまで少し手
間取るかもしれねーけど、やってやれないことはないさ﹂
弥生としては既定事実を口にしただけのつもりだったが、修平は
食い下がってきた。
﹁でも⋮⋮女の子が野球部に入れるの?﹂
﹁お前いつから差別論者になったんだよ﹂
﹁そんなつもりじゃないけど、そういう風に考える人は実際にいる
でしょ﹂
﹁レギュラー獲れるかどうかまではわからんが、性別理由に入部自
体を断るような真似はしないだろ。仮にもキヨミズの野球部だぜ。
そんな器の小さいことするかよ﹂
去年の夏、部活と受験勉強の合間に観ていた国営放送の実況中継
を弥生は思い出す。清水共栄のベンチには明るく闊達な雰囲気が漂
い、それはとても素敵な空間に見えた。自分よりほんの二歳や三歳
年上の彼らが、すごく大人の立派な人々に見えた。
あの人たちと同じ場所に立ちたい。子供っぽい憧れではあるが、
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それがキヨミズを受験する大きな要因であったのは間違いない。
﹁でも、女の子は生理があるんだよ。だから激しい運動なんかは控
えて、身体を大切にしなくちゃ⋮⋮﹂
﹁んな理屈言い出したら女の運動選手はみんな間違ってるって結論
になるぞ﹂
答えながらも弥生は、修平が小学五年の頃から急におとなしくな
っていったことを思い出す。あれはつまり、初潮を迎えて弥生の母
親辺りに諭されでもしたのかと、今になって思い至った。
﹁でも⋮⋮﹂
﹁お前さっきから﹃でも﹄﹃でも﹄ばっかりだな。俺がまどろっこ
しいこと大嫌いなのはお前だって知ってるだろ﹂
弥生が言うと修平は困ったような顔になるが、やがて口を開くと
きっぱり言った。
﹁野球とか、そういう運動部に入るのはやめて欲しいの。﹃弥生﹄
が乱暴なことすると、お母様やお父様がすごく心配しちゃうから﹂
﹁お前が言うか?!﹂
﹁あたしだから言えるの!﹂
六年前に入れ替わった直後は演技ができずに散々暴れ回って弥生
を嘆かせていた修平は今、弥生の叫びにそう応じた。
﹁あたしが六年前﹃お転婆﹄になった時、お母様もお父様もすごく
気に病んじゃったの﹂
﹁森グループの社長令嬢が男子と取っ組み合いの喧嘩してちゃ外聞
が悪かったからだろ。あるいは由緒正しい侯爵家の後を継ぐ一人娘
にもしものことがあったら大変だ、とかさ﹂
由緒正しい平民の家系である吉田家で清く貧しく成長した弥生は、
近年本来の生家に対して批判的な意見を抱くようになっていた。
﹁それだけじゃないもん!﹂
修平は頬を膨らませて憤る。﹃弥生﹄がやれば様になる可愛い仕
草と台詞だが、修平の顔にはそぐわない。
﹁お母様もお父様も優しい人だから、試合とか競争とか戦いとかが
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嫌いなの。本当なら道場通いだってやめさせたいって思ってるわ﹂
﹁でも続けてるよな。爺さんの顔色窺ってるから﹂
弥生の祖父・権兵衛は入り婿だ。没落傾向にあった森家を再建し
た立役者で、北陸の故郷に隠居した今でも、弥生の教育方針その他
様々な事柄で気弱な息子夫婦に口を挟んでいる。お嬢様である弥生
が修平とクラスメートになったのも、元はと言えば﹃小中は近所の
公立校で充分﹄という権兵衛の発言があったからだ。
﹁そんな言い方よして!﹂
﹁事実は事実だろ。とにかく、俺は野球をやるぜ﹂
弥生は毅然とした態度で言いはなった。
﹁かーちゃんととーちゃんに気を遣わせるのは済まないが、それし
きのことで六年続けてきたことやめられっかよ﹂
と、修平の顔色が変わった。
﹁⋮⋮何が﹃それしき﹄よ﹂
低く垂れ込めるような声は、一転して激しい雷鳴のように個室に
響き渡った。
﹁弥生ちゃん、あたしの六年間何だと思ってるのよ!!﹂
即座に反論できずにいた弥生に向かって、
言葉を叩きつける。
﹁あたし、弥生ちゃんの代わりにあの家でがんばってきたのよ! 森家の一人娘らしく、華族令嬢にふさわしく、おしとやかに、礼儀
正しく、立派なレディに見えるように!﹂
﹁ちょっと待︱︱﹂
﹁それだけじゃないわ! 道場じゃお爺様の理想通りに強く凛々し
く、学校じゃ先生たちのイメージを壊さないように真面目に、クラ
スのみんなの前じゃお嬢様ぶってるなんて思われないように気さく
に⋮⋮あたし、六年間ずっと演技してきたのよ! 入れ替わる前の
弥生ちゃんらしく振る舞おうと、それだけを考えてずっと暮らして
きたのに⋮⋮﹂
そこで言葉に詰まり、うなだれて、さめざめと泣く。
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﹁⋮⋮⋮⋮﹂
一方、まくし立てられた弥生は、必死に言葉を探していた。
自分が﹃吉田修平﹄の暮らしを心地よく感じたのと同じように、
修平も﹃森弥生﹄の生活を楽しむようになり、自ら進んで変わって
いった︱︱てっきりそう思っていたのだが、どうもそれだけでもな
かったらしい。
修平の言い分は、入れ替わり当初はともかく、今の弥生とは相容
れない考え方だ。しかし現在の修平にとっては、すべての発想の根
底にあるような重要な信念なのだろう。
その気持ちに対しては、こちらも真摯に答えなければならない。
下手な言葉は何の足しにもならない。
だがそんな気遣いは、次の修平の台詞の前に雲散霧消した。
﹁それなのに何よ! 弥生ちゃんたら自分のことしか考えないで、
野球続けるだなんてくだらない駄々こねて︱︱﹂
﹁今、何つった?﹂
弥生のドスの効いた声。気配の急激な変化を感じたのか、修平が
顔を上げる。
﹁弥生ちゃ︱︱﹂
﹁﹃くだらない﹄? お前こそ、俺の六年間を何だと思ってんだ!
!﹂
言葉を選ぼうとする間に頭の中で渦巻いていた様々な思いをぶち
まけるように、弥生は爆発した。
﹁小四から中三までの﹃吉田修平﹄としての人生も、今の俺を形作
ってきたんだ。その中で野球がどんだけ大きな位置を占めてるか、
お前だって知ってるだろうが!﹂
リトルリーグの最後の試合。女子︱︱田口とかいう名前だったか
︱︱の放った三遊間を破るサヨナラヒットを止められず流した涙。
野球部を中心に世界が回っていた中学の三年間。単に野球だけで
なく、バカ話に興じ、漫画やCDの貸し借りをした。生まれて初め
てエロ本やエロDVDに接したのも野球部の仲間を通じてのことだ
81
った。
そしていつも︵エロ観賞時以外は︶傍らで見守っていてくれた、
弥生の姿の修平。
﹁それをたかが身体が変わったぐらいで古い学ランみたいに捨てら
れるかってんだ!﹂
﹁でも、身体が変わるってことは人生が変わるってことよ!﹂
果敢に言い返す修平だが、その反論をすでに予想していた弥生は
唇を歪めた。
﹁二度あることは三度あるっていうだろが。もう一回入れ替わるこ
とだってあるかもしれねーぜ。いや、もっとあるかもしれない。お
前、そのたんびに自分の生き方コロコロ変えられるのか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
その可能性を思い巡らせてはいなかったらしい修平は、一瞬黙る。
しかしすぐに態勢を立て直して挑みかかった。
﹁⋮⋮今の自分、今の生き方にこだわる必要があるの? 六年前、
あたしは普通の男の子で、弥生ちゃんは普通の女の子だったわ。で
も今じゃすっかり考え方も感じ方も身体に似合うものに変わっちゃ
ってる﹂
そして、頬を赤らめてから続けた。
﹁弥生ちゃんだって、生理経験すればわかるわよ。その身体は乱暴
なことするのに向いてないんだって⋮⋮男の子とは違うんだって﹂
少女の身体と人生を受け入れるに至った葛藤の一端を垣間見せる、
修平の言葉。
しかしその反駁もまた、弥生の想定するところだった。
﹁そりゃいつかは俺だって変わるだろうさ。生理一回経験しただけ
で、あっさり野球やめる気になるかもしれない。今は演技の女言葉
もいつの間にやらごくごく自然にしゃべれるようになってるかもし
れない﹂
そこで一旦言葉を切る。修平の顔を真正面から見つめ、言った。
﹁でも、今、俺は野球をしたいんだよ﹂
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﹁⋮⋮⋮⋮﹂
長い長い沈黙の後、修平は言った。
﹁平行線ね﹂
結局その言葉を潮に二人は別れ、弥生は六年ぶりの﹃わが家﹄に
帰ったのだった。
﹁⋮⋮ほんと、今さらだよな﹂
昨日の保健室で修平が言ったフレーズを思い出す。
こんなことさえ起こらなければ、修平と大喧嘩をやらかすことな
どなかった。考え方の違いなど露わになることもなく、これまで通
り仲良くしながら、高校生活も楽しくスタートを切れただろう。も
ちろん野球部にもすんなり入部していただろうに。
しかし時間を巻き戻すことはできない。もう一度入れ替われれば
一番いいと思うが、それは六年前散々試みてついに叶わなかったこ
とである。今回もまた、人為的には不可能と考えていいだろう。結
局のところ、今の弥生にできることはほとんどない。
﹁ああっ、苛々する!﹂
自分一人で事態の打開が図れないこんな時には、何も考えずに寝
てしまうのが一番なのだ。ささくれ立った気持ちが静まり、適切な
対処法が思い浮かぶことが多い。時には自然に物事の片がついてい
る場合もある。
しかし今、弥生がいるのは安眠もできない﹃自室﹄。修平の︱︱
﹃弥生﹄の︱︱香りが全身を包み込み、気持ちは無駄に昂ぶるばか
りである。それに今から寝直したら遅刻するかもしれないし。
ならば、次善の策を採るしかない。
弥生はベッドから抜け出すと、やたら巨大なクロゼットの中から
ジャージを探し出して着替え、部屋を出た。
﹁少しジョギングして来るわね﹂
すでに起き出して朝食の支度などを始めている使用人たちにそう
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言い置くと、弥生は豪邸から飛び出した。修平の習慣ではなかった
ようでみんなびっくりしていたが、そこまで﹃弥生﹄らしさを装う
気にはなれない。
﹁⋮⋮って、俺が本物の弥生のはずなのに﹂
自嘲しながら、弥生は適当に走り出した。
森家と吉田家はわりと離れてて、﹃修平﹄として暮らしていた時
は森家を訪れることもほとんどなかった。だからこの近辺の地理に
はとんと不案内になっている。
記憶を掘り起こし、修正しながら、弥生はゆっくりしたペースで
身体を動かした。
﹁⋮⋮やっぱり女の身体だな⋮⋮﹂
一歩踏み出すたびに胸が揺れる。ブラジャーの表示によると﹃弥
生﹄の胸はBカップらしく、決して巨乳ではないはずだが、その振
動は弥生に自分の性別が変化したことを如実に示していた。
とは言え、走る能力自体に致命的な格差があったわけではなかっ
た。男だった時の走力復活は無理にしても、これなら走塁や守備に
著しく支障を来たすほどではない。
それに柔軟性や俊敏さにおいて、﹃弥生﹄は﹃修平﹄と互角かそ
れ以上と思わせるものを持っているようであった。武道修行の賜物
だろうか。
バッティングに関しては、現時点ではまだわからない。動体視力
は悪くなさそうだから選球眼に変化はないだろう。しかしパワーは
さすがに比べるべくもない。
また肩の力も落ちていそうだから、長距離の返球が必要な外野守
備をこなすのは難しかろう。同じことは盗塁阻止に強肩が求められ
るキャッチャーにも言える。ピッチャーの経験は元よりないから論
外。内野にしてもサードやショートでは深いゴロをアウトにするた
めに肩が要求される。かと言ってファーストは、打撃に自信がある
が守備が不得手というタイプにあてがわれる可能性が高い。
﹁打順は八番か九番。ポジションはセカンド⋮⋮こんなとこかな﹂
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去年、中学の野球部では三番ショートを務めた弥生である。もち
ろんキヨミズでも、あわよくばクリーンナップを狙っていた。しか
し﹃弥生﹄の身体でそこまで望むのは無茶でしかないこともすでに
自覚していた。
だが、守備と走塁を徹底的に磨き抜き、長打は無理でも単打や四
球によって出塁率を上げ、何より、チームメイトとの連繋能力を高
めれば⋮⋮レギュラーの座なら、あるいは。
﹁見てろよ、修平﹂
人の生き方を真に決めるのは性別でも立場でもない。そいつ自身
の意志だ。そのことをあのわからず屋に教えてやる。
拳を握り締めた時、彼方から快調に駆けて来る少女に気がついた。
弥生よりも十センチ以上背の低そうな、小柄な女の子だ。ポニー
テールがぴょこぴょこと弾むように揺れている。走るのがよほど好
きなのか、やたら明るく幸せそうな顔が印象に残った。
﹁おはよーございます!﹂
すれ違いざまの元気な挨拶が何とも愛らしい。年下にも見えるが、
明確な判断がつかないので、弥生もとりあえず敬語で返した。
﹁⋮⋮おはようございます!﹂
そう口にしたら、何だかずいぶん気が楽になった。
自分は昨日の朝までの自分とは変わってしまったが、こうして変
わらず朝のジョギングに精を出している。昨日までと同じように、
道行く人に挨拶されれば返事を返す。
大丈夫、自分は変わらずやっていける。弥生は自分に言い聞かせ
ながら、森家へと引き返し始めた。
そんな楽観的な気持ちが続いたのは、登校し、授業を受け、放課
後を迎えて野球部部室に行くまでのことだった。
授業初日となる今日は、退屈と評していいくらい、平穏無事に時
間が流れていった。
時間割通りに教師たちは現れるが、最初の授業ということもあり、
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ほとんどの場合は自己紹介と授業の進め方に関する説明だけ済ませ
ると、チャイムが鳴る前に教室を去る。自然、余った時間は隣近所
のクラスメートとの交流に費やされる。
修平に釘を刺されていたこともあり、弥生は上品でありながらフ
レンドリーなお嬢様を演じることにどうにか成功していた。席の近
い修平が一度もダメ出しをしなかったから、少なくとも、失敗して
はいないぐらいのことは言えるだろう。
それは修平の振る舞いについても同様。多少品が良すぎるきらい
はあるが、落ち着いた男子というイメージは悪いものでもない。
放課後になり、弥生は教室を出る。その前方を、わずかに早く出
た修平が歩いていた。
下駄箱から小さいスニーカーを出し、野球部に入部したらスパイ
クを買いに行かなきゃなどと考えつつ、昇降口から外へ。と、前を
行く修平はグラウンドとは反対の校門方向へ向けて歩き出していた。
弥生は背後から軽く肩を叩く。修平が驚きもせずに振り返る。
﹁野球部は第二グラウンド。逆方向だぜ﹂
人ごみの中、聞き耳を立てている人間がいるとも思えないが、周
囲に男言葉を聞き咎められないよう、小声で囁く。
﹁ここの部活、入部受付はいつでもやってるはずでしょ? そりゃ
あんまりのんびりしてたらまずいけど、三日くらいは下準備が必要
だから。身体動かしてみたり、ルール再確認したり﹂
修平の方は人前とあって明確な女言葉を使おうとしない。
﹁やっぱり、俺のふりするつもりなんだな﹂
﹁確認するまでもないんじゃない? 今の声のかけ方だって、それ
を前提にしてたと思うけど?﹂
﹁⋮⋮まあな﹂
﹁弥生ちゃんは、もう入部?﹂
﹁ああ。一日も早く馴染まないと勝負にならねえからな﹂
答えてから、弥生は質問の意味に気づく。
﹁修平⋮⋮いいのか?﹂
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﹁嫌だけど、嫌って言って従ってくれるわけもないもの。仕方ない
でしょ﹂
拗ねた口調で応じると、そっぽを向いた。
﹁ただ、喧嘩とかにならないように、本当に気をつけてよね。今の
弥生ちゃんが雄々しくしても、それは全然かっこよくなくて、単に
変な女って思われるだけなのよ﹂
﹁⋮⋮お前も、そういう可愛い口調したって変な男としか思われな
いこと、忘れるなよ﹂
﹁あ⋮⋮﹂
修平は顔を真っ赤にする。
﹁ま、俺だって今の立場くらいわきまえてるさ。安心しろって﹂
言って、弥生は野球部部室に向かった。
﹁⋮⋮どういうことでしょう?﹂
弥生はにこやかな笑みを崩さず、新入部員受付の席についていた
野球部員に訊ね直す。しかしその顔は、ところどころが怒りのため
に引きつっていた。
﹁先輩もご存知とは思いますが、十年前から女子の高校硬式野球公
式戦への参加は正式に認められるようになりました。つまり、選手
として入部する権利はわたくしにもあるわけで、マネージャーを志
望しなければ入部不可能などと門前払いを食わせるのは、明らかに
筋違いではないかと思いますが?﹂
﹁⋮⋮多いんだよな、権利権利って言えば何でも叶うと思ってる女﹂
弥生の反論に辟易した風の、坊主頭の野球部員は弥生をねめつけ
るように見上げながらそう言った。周囲の部員のせせら笑いに力を
得たか、坊主頭はさらに続けた。
﹁女なんかに野球ができるわけねーだろっつってんの。わがまま言
って試合に出たって恥かくだけなんだからやめておけって忠告して
るんだよ﹂
﹁ハッ﹂
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思わず、弥生は相手を鼻で笑っていた。それはもう、ハリウッド
映画の中の高慢ちきな女ばりの、まさに冷笑だった。
取り囲む部員たちが一瞬息を飲み、空気が一気に険悪になるのを
肌で感じ取る。
顔が見る見る朱に染まっていく坊主頭を見下ろしながら、弥生は
さらに見下すような言葉を継いだ。
﹁誰が、﹃試合に出してくれ﹄と言いました? わたくしは﹃選手
として入部したい﹄と言っているだけです。その後レギュラーなり
代打や代走なりの座を獲得して試合に出られるか、ものにならずに
三年間ベンチ入りもできずスタンドで応援する羽目になるかは、わ
たくしの能力次第﹂
周りが変に静かになったのが却って怖い。頭の中の冷めた部分は
警報を鳴らし始めているが、言葉はなかなか止まらない。
久しぶりにしゃべる女言葉は、現実感の伴わない芝居の台詞みた
いだ。﹃修平﹄だった時には思っていても口にしなかったようなこ
とまでいくらでも口をついて出る。
﹁同じスタートラインに立つことを要求するのがそれほどおかしな
ことでしょうか? まあ、権利とわがままの区別もつかないあなた
のようなおバカさんは、競争相手が増えてしまうとベンチ入りの乏
しい可能性がますます乏しくなってしまうから、さぞかし怖いんで
しょうけど︱︱﹂
ブンッ!
不意に立ち上がった坊主頭が太い腕を振り回して弥生に殴りかか
った。
ある程度心の準備をしていた弥生はそれをよける。
﹁ベラベラベラベラやかましいんだよ、このクソ女!﹂
よほど激昂したのか口の端から泡を吹きながら、坊主頭は叫んだ。
立ち上がると、予想以上に背が高く筋肉もついている。当たればで
かいパワーヒッターかと、弥生はその場にそぐわない見立てをした。
﹁ここで暴力沙汰はやめておけ、大久保。人目がある﹂
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少し離れた場所から声がかかる。銀縁の眼鏡をかけたなかなかハ
ンサムな部員だ。大久保がきっと二年だから、たぶん三年生。そう
言えばこの顔は、去年の甲子園でベンチ入りしていたような気もす
る。
人目がなければやっていいのかと突っ込みかけた弥生だったが、
眼鏡の奥の無表情な瞳を見れば、どんな回答が返ってくるかは明ら
かだった。
その目が弥生に向く。冷酷とも表現できそうなその視線に、弥生
は少したじろいだ。
故障でもしたのか右の二の腕に包帯を巻いているが、粗暴さを剥
き出しにした大久保よりも、この眼鏡の方が本質はよほど暴力的な
存在に思われた。
﹁今年の一年は、男も女も口が回るのが多いようだな﹂
﹁それって俺も入ってるんすか、白石先輩﹂
眼鏡を白石と呼んだのは、小柄な少年。
﹁⋮⋮上田中の、三輪?﹂
弥生のかすかな呟きを聞きつけて、少年はうれしそうに話しかけ
てくる。
﹁へえ、よく知ってるね。いかにも俺が、中学通算打率八割の三輪
晃。稲葉陽介と並んで上田中を全国大会ベスト4に導いた立役者っ
て奴?﹂
半疑問形の語尾は神経を微妙に苛立たせるが、弥生を見つめる目
には嘲りや侮りがなくて、むしろ好奇心に満ちている。
弥生は中学時代、二度ほど三輪のチームと対戦していた。きれい
な二塁打を打って、二塁の守備に就いていた三輪に﹃ナイスバッテ
ィング﹄と声をかけられたこともある。
もちろん今の弥生がその時の﹃修平﹄であることなど、相手にわ
かるわけもない。
六年前の入れ替わり時にすでに何度も経験していたことだが、知
人に自分を自分と認識してもらえないのはやはり寂しい。
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もっともそんな感傷に耽っていられたのはほんの一瞬。
﹁一年坊主は引っ込んでろ﹂
﹁ういっす﹂
大久保の唸るような声に、三輪もあっさり口を閉じて下がってし
まう。弥生が孤立無援である状況に変化はない。
だからと言って、こんなことで尻尾を巻くのはプライドが許さな
かった。
﹁先ほどのわたくしの質問にはどなたからも回答をいただけていな
いようですが? 実力も測られずに入部を拒まれるという理不尽に
黙って従えるほど、わたくしは寛容ではございませんわ﹂
﹁⋮⋮なら、測ってやれば満足か?﹂
白石が眼鏡の奥の目を光らせた。
貸し出されたユニフォームは、数年前のリニューアル以前のデザ
インだった。用具置き場の隅で肥やしになろうとしていたそれは、
身体を動かすたびにすえた臭いを発する。それでも、ブレザーにス
カートのままでバットを振らされるよりはマシだと言うべきか。
弥生の﹁偉そうな言葉﹂に合わせてやるとやらで、五十メートル
走や遠投のような基礎的な項目は排除。いきなりバッターボックス
で一打席勝負をすることになった。
ここで問われるのは弥生のバッティングのみ。ゆえにボール球は
ノーカウントで、弥生が三振するか凡退するかヒットを打つかまで
勝負は続き、前二者の場合は入部をあきらめよとの、白石からのお
達し。
選手としての適性を測るという大義名分とは裏腹に、ひどく雑な
テスト方法だ。しかし見た目にわかりやすいことは間違いない。周
囲を取り巻いていた野球部員や入部志望者や野球好きの野次馬はこ
ぞってこの提案を歓迎し、弥生としても事態の打開を図るためにと
一か八か賭けに出てみることにした。
ピッチャーを務めるのは大久保。右投げのようだ。
90
﹁女のくせに左かよ﹂
左バッターボックスに入った弥生を見て、さっそく嘲る。理屈に
もなっていない罵倒に過ぎないので無視する。
白石がキャッチャー。内外野の守備もきちんと七人配置。審判は
三輪が買って出た。
﹁プレイ!﹂
三輪の声とともに、大久保の巨体から速球が投げ込まれる。
内角高めの直球を弥生は平然と見送った。
﹁ボール﹂
﹁手が出なかったか? 女﹂
﹁あんなクソボール、小学生でも見送りますわ。男﹂
﹁てめえ!﹂
実にわかりやすいことに、次は弥生の腹部付近にボールが襲い来
る。さっきのパンチと同様、弥生は軽やかによけてみせた。
もっともそれは、狙ったものでもなかったらしい。投げた瞬間露
骨に動揺していた大久保は、弥生がよけるのを見届けた後で帽子を
脱ぐと、右腕の袖で汗を拭った。
﹁本来ならノーツーですわね。ピッチャーの独り相撲ほどバックを
苛立たせるものはございませんわよ﹂
﹁うるせえっ!﹂
弥生の挑発に、大久保は面白いほど簡単に乗ってくる。もしかし
たらストライクが入らないことを当人も意外と気にしているのかも
しれない。
﹁大久保落ち着け。これは普通の試合じゃない。ボール球は何球で
も投げられる﹂
その時白石が立ち上がりもせずマウンドに声をかけた。大声では
ないが、よく通る声である。
﹁そしてこのお嬢さんが手も足も出ないストライクを三回投げ込め
ば、それで終わりだ。間違っても軽い球を置きに来るなよ﹂
弥生は内心舌打ちをする。それが大久保を挑発してみた狙いだっ
91
たからだ。
白石の助言はさっそく功を奏した。
ほぼど真ん中に剛球が突き刺さる。下手に当ててもボテボテのゴ
ロ確実の球威だ。
﹁ストライィィィク!﹂
妙にノリノリな三輪の声が響いた。
次の球もほぼ同じコース。同じスピード。
﹁ストライックツゥー!﹂
白石のアドバイス一つで、大久保はいともたやすく本調子に戻っ
たらしい。味方にしてみればけっこうなことだが、敵の弥生として
ははなはだ難儀な状況である。
﹁あと一球、あと一球!﹂
周囲でギャラリーをしていた二年生や一年生が図に乗って騒ぎ出
す。野次馬たちも尻馬に乗る。
﹁あと一球! あと一球!﹂
それにしても、冗談抜きでやかましい。
敵意を剥き出しにした野次が弥生の耳朶を満たす。
﹁女なんかが男に勝てるわけないんだよ﹂
本当にこの野球部は去年の夏とは様変わりしてしまったものであ
る。
まるで何か、良くないものに取り憑かれたみたいだ。
﹁三振さんしーん﹂
一瞬だけ頭に血が上りそうになった。
弥生は、バッターボックスをいったん外すと大きく深呼吸した。
︱︱孤立無援なんて、珍しくもない。
修平と入れ替わったこの六年間。修平が隣にいない時、弥生は常
に一人で事態に対処せねばならなかった。入れ替わりなんて突飛な
話を誰に信じてもらえるあてもない以上、それは必然の成り行きだ
った。
周囲のあらゆる人間が森弥生を吉田修平と認識している。修平と
92
して褒められ、修平として叱られ、仲の良かったクラスの女子にも
吉田君と呼ばれ、たまに会えた森家の母親にさえも﹁弥生のお友達
の吉田君﹂として接してくる。
自分が自分として扱われない不安と孤独。それを弥生はとてもよ
く知っている。
六年前の最初の頃に︱︱善意さえも決して素直に受け取れなかっ
たあの頃に︱︱比べれば、こんなのははるかに生ぬるい状況だ。
﹁逆風なんざ、慣れてるさ⋮⋮!﹂
﹁何か言ったか﹂
﹁いいえ、何にも。お待たせしました﹂
﹁プレイ!﹂
三輪の宣言とともに、大久保は投球動作に入った。
そして襲い来る、直前の二球とまったく変わらぬ球速と球威とコ
ースのボール。
だが。
︱︱同じ手が三度も通用されてたまるか!
弾き返せるほどのパワーは、今の自分にはない。
しかし、カットするくらいなら。
弥生がバットを振ると、ボールは速度もそのままに斜め後ろのフ
ァウルグラウンドへと飛んで行った。白石が瞬時にマスクを跳ね上
げて追うが、無論届かない。
手が少し痺れる。だが悪い感触じゃない。
次のボールも同様にカット。その次も、さらにその次も。
一球たりとてミスが許されない。神経を使うし、全身にも疲労は
蓄積されていく。それでも弥生は昂然とマウンドを睨みつけ、ボー
ルに立ち向かった。
五球目をカットした辺りで、大久保のピッチングが再び乱れた。
投げた瞬間わかるようなボール球の連発。白石がもう一度声をか
けても収まらない。
二十球目を越えた頃、久しぶりにあの剛速球が来た。しかし弥生
93
は確実にカットした。
大久保の顔色が青ざめて見えた。
そこからキャッチャーの捕れない球が三球続き、ついにマウンド
に守備陣が集まった。
いつしか、周囲の野次が静まっていることに、遅まきながら弥生
は気づいた。
プレイ再開後の初球は、ストライクゾーンに入れることだけを意
識したような棒球。
︱︱遅い!
弥生は短く持ったバットを、コンパクトに鋭く振り抜いた。
ライナー性の打球は、ピッチャーの頭上を楽々と越えて、セカン
ドとショートのど真ん中を通過し、突っ込んできたセンターの手前
にぽとりと落ちた。
センターがボールを返球しようとした時には、弥生は悠々と一塁
に到達していた。
弥生は大きく息をつくと、マウンド上で固まっている大久保を見
ながら声を張り上げようとした。
﹁ではこれで︱︱﹂
﹁次は守備のテストだ。まずはピッチャーからやってもらおうか﹂
だがその時、白石がプロテクターを外しながら、無表情に宣告し
た。
その宣言に、守備陣や野次馬が動きを止める。と、次の瞬間には
ほぼ全員が白石に同調していた。
﹁まぐれ当たりでいい気になってんじゃねーぞ!﹂
﹁守備ができなきゃレギュラーになんかなれっこねーもんな﹂
﹁でかい口叩いたんだからピッチャーぐらいできんだろ!﹂
︱︱ある意味、定番の展開だけどさ。
自分たちで決めた取り決めを勝手に破って恥じないその醜さに腹
は立つが、弥生に勝ち名乗りを上げる選択肢は存在しないようだ。
と言っても、ピッチャーとは無理を言う。
94
﹁ピッチャーはしたことがありませんわ﹂
﹁能書きはいい。早く投げろ﹂
右利き用と左利き用、二つのグラブを弥生の足元に投げる。やむ
なく弥生は右利き用のグラブを手に取った。
﹁フォアボールもデッドボールも振り逃げもあり。打者一巡を終え
て無得点に抑えていれば、お前の勝ちだ﹂
︱︱何だ打者一巡てのは。スリーアウトを取ればピッチャーの勝
ちだろうに。
﹁それでもし点が入ったら、入部の件は取りやめになりますの?﹂
﹁ああ﹂
わかりやすくも相変わらず弥生の側に不利なルール。しかし周囲
は歓声を上げる。すでに公正の感覚もフェアプレイの精神もなく、
彼らは生意気な一年女子が痛い目に遭って泣きべそをかく姿を見た
くてたまらないだけなのだろう。
魔女狩りの時や黒人をリンチにかける時もこんな風に民衆は盛り
上がったのかもしれないなどと、弥生は場違いなことを考えた。
﹁⋮⋮それで、キャッチャーはどなたが?﹂
自分はバッターの一人になるらしい白石を見て、弥生は問うた。
﹁大久保、お前が座ってろ﹂
白石はマウンドでまだ沈んだ顔をしていた大久保に命じたが、大
久保は首を振った。
﹁俺、キャッチャーはしたことないっす﹂
﹁座ってればいいんだ。気にするな﹂
あまりにひどい。
︱︱例え奇跡が起きて勝てたとしても、こんな連中にこの先つき
あうなんて馬鹿馬鹿しいにも程がある。
そんなことを思った、その瞬間。
﹁ピッチャーのテストなら、僕に受けさせてくださーい!﹂
元気な少女の声が、グラウンドに響いた。
95
野次馬を掻き分けるようにして現れたのは今の弥生よりも背の低
いポニーテールの女の子。中学時代のものと思しい赤いジャージに
身を包んでいる。
そのむやみに明るい顔に見覚えがあった。
﹁あなた、今朝の﹂
﹁君も一年生なんだね。僕は宇野梓﹂
名乗りながら手を差し出されると弥生の返事は自動的に決まる。
﹁⋮⋮森弥生﹂
﹁よろしく!﹂
弥生の手を握り、ぶんぶん振り回した。梓の手は、高校生の小柄
な少女のものとは思えないほど大きくて、握力も予想をはるかに上
回る強さだった。
﹁さっきのバッティングかっこよかったよ! あれを見てたら、僕
もがんばらなくちゃって気分になれたんだ!﹂
﹁昨日追い出された女が、何の用だ?﹂
横でしばし呆然としていた白石が、不快感も顕わに問い質す。
﹁また入部申し込みに来たんです。宇野梓、ポジションはピッチャ
ーです!﹂
近くに転がっていたボールを手に取ると、梓は挑むように言った。
﹁弥生ちゃんが今から無理矢理受けさせられるところだったピッチ
ャーのテスト、代わりに僕に受けさせてください﹂
﹁意味と内容を理解してないのか? 合格しなければそれっきりだ
ぞ﹂
﹁さっきの話だと、先輩たち九人を打ち取ればいいんでしょ?﹂
そして梓は、弥生が耳を疑うような台詞をさらりと言ってのけた。
﹁簡単です﹂
その一言が、新たな燃料となった。
﹁なめんなチビ女!﹂
﹁そんなに泣きたいなら相手してやらあ!﹂
怒号がグラウンドのあちこちから響いた。
96
﹁⋮⋮こちらとしては、しつこい希望者をふるい落とせて大歓迎だ﹂
白石はそう言うと、ギャラリーの中から自分以外の八人のバッタ
ーを見繕った。
﹁あ、キャッチャーは弥生ちゃんにやってもらいます。いいですね
?﹂
﹁いいだろう。急造捕手に何ができるかは知らんが﹂
弥生の意見も聞かずに、梓は白石の了解を得た。
﹁わたくし、あいにくキャッチャーも未経験ですわ﹂
﹁それでもいいよ。君ならわざとパスボールすることはないでしょ
?﹂
他の人間ならやりかねないと言っている、その判断は正しいだろ
う。さっきの一言で梓はこの場にいる野球部員全員を敵に回したの
だから。
︱︱けど、もし野手がわざとエラーしたりしたら、どうするんだ
ろう?
﹁じゃ、サインは僕が出すね﹂
弥生の疑問など知らぬげに、梓は右手の指をパッパッパと広げて
みせた。
﹁一がストレート、二が縦に落ちるカーブ、三がシュートで四がス
ライダー、五がチェンジアップね。ストライクゾーンの中に必ず収
めるから、後ろへ逸らすのだけ気をつけて﹂
﹁ちょ、ちょっと!﹂
小声で打ち合わせると足早にマウンドへ上がろうとした梓を、弥
生は引き止めた。
﹁あなた、そんなに球種がありますの?﹂
それどころか、カーブなどは他にも何種類か覚えていそうな言い
方だ。
﹁まあね。⋮⋮時間はたっぷりあったから﹂
弥生には意味不明な呟きを最後に残して、梓は小高いマウンドに
向かった。
97
派手に振り回された七人目の打者のバットはものの見事に空を切
り、彼はそのまま地面に倒れ込んだ。
﹁⋮⋮ストライク。バッターアウト﹂
審判をしている三輪の、覇気のない宣告。
最初のうちは騒いでいた野次馬も、寂として無言。
弥生が案じていた守備陣のサボタージュによるエラーなどとは、
無縁の展開。
七人連続三振。
県下一の名門野球部に属する二年生や三年生が、小柄な一年女子
の投げる球を、当てることすらできずに次々三振していくのだ。
ついさっき二年生ピッチャーから粘り勝ちのヒットを放った弥生
でさえ、その光景には唖然とする他なかった。
︱︱こんな奴が今までどこに隠れてた?
野球がうまい女子として弥生の脳裏に思い浮かぶのは、リトルリ
ーグで対戦した田口の他に数人。そして田口以外は全員、中学以降
はソフトボールなど野球とは異なるスポーツに進んでいる。その中
に宇野梓という少女はいなかった。
八人目は、最初からバントの構え。もはや当てることしか考えて
いない。
梓は何の変哲もない右のサイドスローから球を投げる。ランナー
はいないがセットポジション。そして、その投球フォームからは球
種の違いをまったく判別できない。
今回の初球は右打ちの打者の胸元へと切り込んでいくようなシュ
ート。ぶつけられるかと恐れたバッターは慌ててのけぞるが、それ
は打者の近くでの曲がりが大きくキレがあるからで、ストライクゾ
ーンはぎりぎり掠めている。まずワンストライク。
若干腰が引けた相手をからかうように、次は外へ外へと逃げてい
くスライダー。これもゾーンを通過していてツーストライク。
そして最後は、やや高めの軌道から、二球目のスライダーと似た
98
横の変化を見せつつ下へも落ちていく、落ちるカーブ。打者は体を
よろめかせて結局バットに当てられず、しかも判定はストライク。
バッターアウト。
八人連続三振。
弥生は、ほぼ勝利を確信した。単なる目先のピッチング勝負だけ
でなく、自分と梓を包んでいた空気を打ち破れる手応えを感じた。
場の空気はマウンド上の小さい少女に掌握されつつあった。新入
生だから。女だから。そんな偏見は、優れた投球の前には無価値な
呟きに過ぎないと、誰もが悟りつつあった。
だが。
風を切り裂く素振りの音が、沈黙に満たされたグラウンドの大気
を震わせた。
九人目のバッター︱︱白石の一振り。
﹁球は軽い。当たれば飛ぶ。違うか?﹂
昂ぶるでもなく、つまらなそうに、白石は梓に問う。
﹁そうですね。芯で捉えればの話ですけど﹂
平然と答える梓。
﹁二十四球、見せてもらった﹂
それが回答だと言わんばかりに、白石は左バッターボックスに立
った。
﹁タイム!﹂
弥生は審判役の三輪に告げると、マウンドに駆け寄った。慣れな
いプロテクターのせいでやけに動きづらい。
﹁宇野さん﹂
﹁何?﹂
﹁彼が只者じゃないことは、おわかりですわね?﹂
﹁そうだろうね。たぶん今は治りかけの怪我の大事を取って、部員
勧誘の仕事に回ってるんじゃないかな。本来は一軍のレギュラーだ
と思う﹂
﹁そこまでわかってらっしゃるなら︱︱﹂
99
﹁もう少し、本気で行くよ﹂
弥生の言おうとしていたことを先回りするように、梓は答えた。
﹁ここからはノーサインで。捕球がますます大変になるとは思うけ
ど⋮⋮よろしく﹂
﹁身体を張ってでも、止めてみせますわ﹂
弥生は即答した。
梓は﹁できる?﹂とは聞かず、ただ﹁よろしく﹂と言った。それ
は、難しくてもやってくれという意味だ。
たかだか二十四球を受けた関係に過ぎないが、それでもある程度
は自分を信頼してくれての、梓の言葉。
︱︱その心意気に応えずして何が野球選手か、ってなもんだ。
今後の高校生活三年間のかかった理不尽な勝負のさなかにあって、
弥生は総身が奮い立つのを感じていた。
﹁プレイ!﹂
弥生がしゃがんでミットを構えると、梓は投球動作に入った。こ
れまでと違う構え。
上半身を横に倒して、ボールを持った右手はほとんど地面すれす
れの位置。
︱︱アンダースロー!
低い低い位置から放たれた球は、投げ下ろす形のオーバースロー
やサイドスローとは違い、浮き上がるような軌道を描いてミットに
向かってくる。弥生は辛うじて捕球した。
その投法は白石にとっても予想外だったようだ。スピードはさほ
どでもなかったが、手を出さずにストライクゾーンを通過する球筋
を見送った。
﹁ストライク!﹂
間髪を入れずに二球目。再びアンダースロー。同じフォームから
同じスピードで投じられるボール。
だがその浮き上がる球は、今度はバッターの近くでスッと沈み込
んだ。下手投げと相性の良い変化球、シンカーだ。
100
弥生さえぼんやり予測していたくらいだ。さすがに白石も狙って
いた。沈むところを叩こうと、バットは低目に振り抜かれていた。
しかし梓のシンカーは、そのさらに下をかいくぐっていた。弥生
の予想よりもはるかに低く、弥生は両膝を地面につけ、倒れ込みそ
うな姿勢になって何とかボールを確保した。
﹁ストライク、ツー!﹂
﹁タイム﹂
今度は白石が間合いを取る。バッターボックスを離れ、素振りを
何度となく試みる。
﹁⋮⋮つまらん小技をいくつもいくつも⋮⋮最後は何が⋮⋮﹂
そんな呟きを聞きながら、弥生もラストボールが何かを考えてし
まう。
フォームを変えることで目先を変えることには成功した。変化球
のキレの良さで二度目も巧くかわすことができた。だが後は何が残
されている?
変化球を何種類も操る梓の巧みなピッチングには、しかし明白な
弱点がある。球威に乏しいと思われる点と、スピードに恵まれない
点だ。
もとより打たせるつもりがないのだから、前者については問うま
い。けれど、後者は空振りをさせる上で重要な要素︱︱緩急をつけ
られないことになり、致命的だ。そこいらの高校生ならまだしも、
甲子園に出るようなバッターを相手にするとなっては。
︱︱まともなキャッチャーなら、それでもどうにか料理してみせ
るんだろうが。
弥生は自分が無力なことを痛感させられつつも、じっとしていら
れずにマウンドへ再度足を運んだ。
﹁あの⋮⋮ボールになるスローボールを投げてみては?﹂
﹁それなら四球目、普通のスピードでも多少は緩急がつくね﹂
弥生の思いつくことなど梓はすでに考えていたようで、あっさり
あしらわれた。
101
﹁でも、当てられて内野まで転がったら終わりだし。スローボール
の方が、今は怖いよ﹂
言われて、弥生は自分たちの追い込まれている状況をまだ理解し
きってないことに気づかされた。内野ゴロを打たせても、それは打
ち取ったことにはならないのだ。
目を向ければ、一塁手が腕を組んで棒立ちしている。二塁手が憮
然とした表情でマウンドを睨んでいる。三塁手が白石に小声で声援
を送っている。
これほどのピッチングを見せても、まだ彼らは梓を認める気にな
らないようだった。
﹁大丈夫﹂
弥生から不安でも読み取ったのか、励ますように梓が言った。
﹁打たせないように最善の球は投げるから。二人でどうにかして野
球部に入ろうね﹂
﹁⋮⋮あなたと一緒にプレイできるなら、こんな部に入らなくても
構わない気もしてきますわ﹂
﹁うれしいけど、野球は九人いないとできないよ﹂
﹁そりゃそうですわね﹂
弥生が定位置に戻ったところで、白石の方もバッターボックスに
入り直した。
﹁プレイ!﹂
梓が足を上げる。今度は本来のサイドスロー。そして放たれるボ
ール。
速くもない、コーナーをぎりぎり突くわけでもない、打ってくだ
さいと言わんばかりのボール。弥生が不安とともに待ち構える手前
で、白石がスイングにかかる。
すると。
宙に浮いている球が、揺れた。
水に浮く小船がちょっとした波にゆらゆらと揺れ動くごとく、空
気の微細な流れに影響を受けるようにボールは不規則な変化をしな
102
がら、ストライクゾーンに飛び込んでくる。
︱︱まさか、ナックル?!
指先で弾くように投げる変化球、と言ってしまえば簡単だが、つ
まり投げる瞬間までは主に親指と小指でボールを保持する握りにな
る。中学時代、弥生のチームメイトが試しに投げようとしてポロリ
ポロリとボールを取り落としていた姿を思い出す。半端でない握力
が要求されるのだ。
しかし効果は絶大だ。何せ投げた本人にもわからないランダムな
変化。プロの一流選手でさえ芯で捉えるのが困難な変化球。
白石も、ものの見事に空振りした。
だが喜んでもいられない。臨時キャッチャーに過ぎない弥生にと
って、ナックルの球筋は見極めるのがあまりに困難だった。
︱︱でも。
弥生は捕球をあきらめる代わりに、全身で
ボールの予想進路を塞いだ。
︱︱後ろにだけは、逸らさない!
プロテクターに当たってボールが地面にこぼれる。白石がバット
を放り出して一塁へと走り出す。三振振り逃げだ。でもこれなら一
塁に投げてアウトにできる。
即座に拾って投げようとした時、梓の声が飛んだ。
﹁投げないで!﹂
本来ならありえない台詞。しかし、すぐに弥生もこの勝負のルー
ルに気づく。
九人をアウトにする必要はない。打者一巡で点を与えなければ、
梓の勝ちなのだ。
駆け寄って来た梓と二人、ホームベースの上に立つ。一塁に到達
したところで自分の言葉を思い出したらしい白石は、戸惑ったよう
に動きを止めている。
﹁この勝負、宇野さんの勝ちですわね﹂
弥生が言うと、白石の顔が朱に染まる。
103
﹁それともそこから無理矢理ホームを目指します? そんなみっと
もない真似、まさかなさらないとは思い︱︱えっ!?﹂
白石が二塁へと走った。ベースを蹴って、さらに三塁へ。
﹁弥生ちゃん、来るよ!﹂
﹁梓さんは下がってらして﹂
手にボールを握りしめ、弥生は身構える。
︱︱なめんのも大概にしやがれ。
﹁わたくし武道の黒帯持ってますの。暴走ランナーの一人や二人、
通しやしませんわ﹂
正確には、黒帯を与えられたのは﹃弥生﹄の身体の修平だったわ
けだが、弥生とて六年前までは道場通いしていた身である。どうに
か食い止めてみせると心に決めた。
だが白石が三塁に到達した時。
﹁そこまでだ、白石。それ以上の醜態を晒すな﹂
低く重い声がグラウンドの彼方から発せられた。
見れば、いつしか三塁側ファウルゾーンの一角に、ロードワーク
から帰って来たらしいユニフォーム姿の連中が十数人立っている。
弥生たちと対戦した連中の多くとは比較にならない風格を漂わせ、
聞くまでもなく野球部一軍の連中だろうと見当がついた。
その後ろから現れたのは、年の頃は四十半ば、細く引き締まった
身体をキヨミズ野球部特注のウインドブレーカーに包んでいる男。
サングラスと髭のせいで表情は窺えない。
﹁あらましは見物人から聞いた。その勝負はお前の完敗だ﹂
﹁監督⋮⋮﹂
﹁しばらく三軍で頭を冷やして来い﹂
﹁⋮⋮はい﹂
命じられた白石は、うなだれて、その場を去って行った。
だが、ようやく状況が好転したかと喜びそうになった弥生に、監
督は宣告した。
﹁練習の邪魔だ。君たちも消えてくれ。野球部に女子選手を入れる
104
つもりはないのでな﹂
﹁⋮⋮今の宇野さんのピッチングをご覧にならなかったのですか?﹂
ここまで来て監督ごときにびびってもいられない。弥生は挑戦的
に問い質した。
﹁ナックルだな。それ以前のボールも、動画に撮っていた部員にさ
っき見せてもらった﹂
携帯電話の画面をかざしながら、落ち着いた口調で応じられる。
﹁他の変化球もキレはいい。サイドスローとアンダースローをうま
く使い分ければ、そう簡単に打たれはしないだろう﹂
﹁なら、どうして︱︱﹂
﹁私がこの部の監督に就任したのは、勝つためだ﹂
弥生と梓を等分に見ながら、監督は話す。
﹁前任者の吉野先生は教育の一環として部活動を捉えていた。その
考えを否定するつもりはないが、結果として昨年夏の甲子園では準
優勝に終わった。ましてや昨年秋は関東大会で敗戦。どちらも学校
関係者にとっては不満の残る成績だ﹂
いったん唇を湿らせると、男は長広舌を続ける。
﹁ゆえに前監督が急病に倒れた半月前、私が四国から招聘された。
この夏こそ清水共栄を甲子園で優勝させるために﹂
そこまで言われて弥生は思い出した。目の前にいる男︱︱確か真
田という名だった︱︱が、各地の高校を渡り歩き野球部を甲子園常
連に仕立て上げてきた名監督であることを。
﹁しかしそれは、選手に通常の高校生活を犠牲にすることを強いる。
単刀直入に言えば、野球以外つぶしの利かない人間を作り出すこと
になる﹂
姿を見せて以来ほとんど変化のない、いかめしい表情のまま真田
は言った。
﹁だから、実を結ばない花に用はない﹂
﹁少し言葉足らずですわね。﹃金になる実を結ばない花﹄でしょう
105
?﹂
相手の思考法を掴んだ気がして、弥生は口を開いた。
﹁それと、もう少しわかりやすくおっしゃる方がよろしいんじゃあ
りませんかしら? そこに居並ぶドテカボチャの中には今の比喩が
通じてらっしゃらないお歴々もおいでのようですし﹂
弥生の台詞に居並ぶ野球部部員がざわめきそうになるが、真田の
言葉が遮った。
﹁ならば言い換えよう。プロになれる見込みのない選手に用はない﹂
場が一気に静まった。
想像はついていたが、ストレートに言ってのけられると、思いの
外弥生にも堪えた。
昨日の修平との口論ではそこまで話題が広がらなかったが、こう
して﹃元の身体﹄へと戻った今、弥生も﹃弥生﹄として将来のこと
を考えないわけにはいかない。
高校野球のレギュラーくらいは﹃弥生﹄の身体でもなれるかもし
れない。だがさすがにプロは無理だと思う。野球をいずれはあきら
めなければならない時は来る。
今はこれまでと同じように野球を続けたい︱︱そんな願いの裏に
は、新たに生じた不安からの逃避も含まれていたのだろう。だが見
ないようにしたかった不安は、突然目の前で真田の宣告という具体
的な形を取った。
高校の三年間を、将来につながらないことに費やす。それは徒労
と言わないか?
むしろ事前の選別で不安を解消してくれる真田の態度は、一種の
優しさかもしれない。
そんな風に自分を納得させそうになり、しかし、弥生は思い直す。
︱︱俺は無理でも、梓はものが違う。
もし選別がこの部活に必要なものだと仮定したとしても、男女の
性差は決して基準にならない。そんなもので、この小さな天才投手
を切り捨てさせてたまるものか。
106
そう思い、何とか反論しようと口を開いた横で、梓が先にしゃべ
った。
﹁プロになる気がなくて、でも甲子園で優勝したい人は、この部活
にふさわしくないってことですか?﹂
弥生と同様、真田にとっても予想外の質問だったらしい。絶句し
ているところに、梓は畳み掛ける。
﹁僕は将来のために野球をしてるわけじゃありません。今のために
野球をしてるんです。野球しかしないで後悔する方が、野球できず
に後悔するよりよっぽどマシです﹂
百五十センチあるかないかの身体で、梓は真田を見上げる。だが
彼女の真摯な問い掛けには、体格の差も年齢の差も感じさせない力
がこもっていた。
﹁僕や弥生ちゃんから、競う機会まで奪わないでください!﹂
気圧されていた真田が肯きそうになる。だが、まるで何かに取り
憑かれたように大きく身を震わせると、結局はかぶりを振った。
﹁⋮⋮女子は存在自体が男子の妨げになる﹂
﹁何、わけのわからないことを⋮⋮!﹂
激昂しそうになった弥生が前に一歩踏み出す。と、真田の背後に
いた選手の一人がせせら笑った。
﹁男はケダモノだって言うだろ? 俺らに犯されてもいいのか、あ
あん?﹂
﹁黙っていろ渡辺!﹂
﹁言ってることはおんなじでしょうが。俺の方が少しばかり率直な
だけですよ﹂
渡辺と呼ばれた選手がおどけると、取り巻きらしい数人が追従笑
いをする。その瞬間、弥生には、一軍メンバーであるはずの彼らが
ひどく矮小な連中に成り下がって見えた。
梓の様子を窺えば、顔を真っ赤にして立ち尽くしている。何を言
えばいいのかもわからなくなっているようだ。
もっともそれは弥生も同じ。ここまであからさまな物言いをする
107
輩には、プライドを刺激する手も効かないと思われる。
その時、事態を打開し、さらに弥生には思いも寄らなかった方向
へ導く人物が現れた。
﹁ここの野球部に入れてもらうには手詰まりっぽいね、梓﹂
背後から聞こえた声に振り向くと、三つ編みに眼鏡で背の高い女
子が立っていた。その隣には温和そうな顔立ちの女子。こちらは新
聞部の腕章をかけている。
周囲から﹁新聞部だ﹂というざわめきがさざ波のように立った。
﹁正義の新聞部様が何のご用だい? あいにく野球部の方針は監督
に一任されてるからなあ。外からジンケンシンガイとかジョセイサ
ベツだとか騒いでも効き目はないと思うぜ﹂
渡辺のその言葉に、温和そうな女子が反応した。
﹁渡辺くーん、今年の新聞部は少し方針変更してるんですよお。や
たらと喧嘩は売らないで、読者の皆さんに面白がってもらえる記事
をたくさん載せるんですー﹂
声もしゃべりも見た目を裏切らない、よく言えば温厚な︵悪く言
えばネジが一本外れたような︶ものだった。
﹁ということでー、新聞部企画で面白いことしませんかー?﹂
一瞬場が沈黙し、何となく近くにいた弥生が訊いてみた。
﹁⋮⋮﹃面白いこと﹄とは、何でしょう?﹂
﹁男子野球部対女子野球部の試合さ﹂
三つ編み眼鏡の女子が答えた。野暮ったい出で立ちとは違い、そ
の歯切れのよい口調は彼女の鋭さを感じさせた。
﹁ただの練習試合じゃ面白くない。夏の甲子園大会県予選出場の権
利を賭けた、校内代表決定戦ってことで、どう?﹂
その問いは、射抜くような視線とともに、真田へと投げかけられ
た。
﹁女子野球部など、あったのか?﹂
﹁今から作る。エースはこの宇野梓。野手はそこの森弥生に、あた
108
し村上美紀、他六名﹂
村上美紀と名乗った女子は、梓と弥生を優雅に指し示した。
﹁女子の即席チームが男子と試合? 馬鹿馬鹿しい。我々にはどん
なメリットがある?﹂
﹁特にないね。けど試合を拒否した場合のデメリットはけっこう大
きいと思うよ。女子の挑戦に対して尻尾を巻いて逃げたって風評は
避けられない﹂
﹁先ほどまでの監督さんたちと梓さんたちのやり取り、集音マイク
でばっちり録音させてもらってますー。お話伺う限りでは、男子の
皆さんが負けるわけなさそうですよねー﹂
新聞部の女子が合いの手を入れると、渡辺の子分の一人が血相を
変えて怒鳴った。
﹁永井! 何そんなもん勝手に録音してやがる!﹂
﹁勝手にと言われましてもー、ここはお外のグラウンドですよー?
人様に聞かれたくない内緒話がしたかったら、それにふさわしい
場所があったんじゃないでしょうかー?﹂
永井と呼ばれた新聞部の女子は不思議そうに小首を傾げた。
﹁⋮⋮試合に応じなければ、さっきの会話が記事になる、というこ
とか﹂
﹁甲子園優勝を目指す男子野球部が負けるはずのないお遊び企画に
つきあわないのはなぜか? 色々な角度から検討してみたくなるん
じゃないかな、部長﹂
﹁そうですねー﹂
村上と永井は阿吽の呼吸を見せ、真田にプレッシャーを与えてい
た。
﹁いいんじゃねーっすか、監督。そこでぶちのめせば、もうこいつ
らも逆らわないみたいなんすから﹂
渡辺が面倒臭そうに言うと、周囲の者たちが賛同の意を表してざ
わつく。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮よかろう。時期は、六月十五日。県予選抽選の一週
109
間前でどうだ﹂
﹁いいね。どちらが勝つにせよ、気分よく予選に乗り出せる﹂
﹁それまでに女子野球部が九人揃わなかった場合は、こちらの不戦
勝だな?﹂
﹁もちろん。人数足りないのに試合しようなんて無理難題までは言
わないさ﹂
﹁⋮⋮何だか、急転直下って感じですわね﹂
﹁そ⋮⋮そうだね﹂
試合の話がまとまるとともに、弥生たちはグラウンドから叩き出
された。それは、まあ当然かもしれない。彼女たちは入部希望者ど
ころか対戦相手になってしまったのだから。
﹁けれどまあ、これはこれでいいですわね。わたくしはすっきりし
ましたわ﹂
ボロボロのユニフォームから制服に着替え終わった弥生は、大き
く伸びをした。
あんな腐った連中と一緒に野球をするくらいなら、梓や見知らぬ
女子たちと組んだ方がよほど気持ちよくプレーできるはずだ。
﹁村上さんに永井さん、でしたわね? お礼を申し上げますわ﹂
﹁いや、礼には及ばない﹂
﹁そうですよー。私の方は企画が成功すれば新聞部の評判が上がっ
てうれしいってだけですしー、美紀ちゃんは美紀ちゃんで何か企ん
でいるだけでしょうからー﹂
なかなか失敬な言い草だが、村上美紀は特に反論もしなかった。
﹁それにしても絶妙のタイミングだったね、美紀姉ちゃん﹂
美紀とは知り合いらしく、梓は親しい口調で美紀に話しかけた。
﹁まあね。最近の野球部についてちょっと聞き回ったらよからぬ噂
が色々飛び込んで来たもんで。だから永井さんを引っぱり出してみ
たのさ﹂
﹁梓ちゃんってお人形さんみたいにちっちゃくて可愛いですねー。
110
ポニーテールなんか、こんなにふわふわしてますよー﹂
会話していることを無視して、永井は梓の頭を撫でたり髪を弄ん
だりしている。
梓が軽くため息をつくと、美紀が訊ねた。
﹁⋮⋮野球部、まだ入りたかった?﹂
﹁ううん。あそこまで言われちゃうとさすがに引いたから、美紀姉
ちゃんの提案はちょうどよかったんだけど⋮⋮戦って勝てるのかな
って思って。負けたら意味ないし﹂
﹁そりゃそうだね。そこはまあ、残り六人次第のところもあるけれ
ど⋮⋮キヨミズはなかなか大した学校だよ。とんでもない奴が隠れ
ていても、不思議じゃない﹂
美紀は不敵に笑ってみせた。
﹁ところで、村上さんは新聞部なのでしょうか?﹂
﹁いや、あたしは帰宅部。ちょいと顔が広いもんで、あちこちにコ
ネがあるんだわ﹂
﹁⋮⋮野球のご経験は?﹂
弥生が訊いた時、なぜか梓が若干顔を強張らせた。
﹁⋮⋮ぼちぼち。ま、大丈夫。本番じゃ足引っぱるような真似はし
ないから⋮⋮たぶん﹂
のっけから不安に駆られる弥生だが、すでに確保できた人材にけ
ちをつけてる場合でもない。
﹁美紀姉ちゃんは、何人くらい当てがあるの?﹂
永井のいじくりから逃れつつ、梓が訊ねてきた。
﹁三、四人ほど。普通の一年はまだよくわからんので、そこは梓と
森さんにお願いしたいんだが﹂
﹁弥生で結構ですわ﹂
すらりと口をついて出た。美紀は﹁ならあたしも美紀でいいさ﹂
と応じた。
﹁じゃ、僕と弥生ちゃんで三人くらい見つけられればいいってこと
?﹂
111
﹁新入生名簿、お貸ししますねー﹂
学校作成のものとはとても思えないほどきれいに読みやすく印刷
され、プライベートにもかなり踏み込んだ記述が満載の小冊子を、
永井が手渡してくれる。野球部とのやり取りを見ていても思ったこ
とだが、この学校の新聞部は半端じゃなさそうだ。
﹁私も美紀さんの挙げた候補に一人心当たりがあるのでー、これか
らちょっとアプローチして来ますねー。よい結果が得られたら報告
いたしますー﹂
にこやかに言うと、永井は去っていった。
﹁あたしも早速一人スカウトしに行く。たぶんすぐ食いついてくる
はずなんでね﹂
﹁では⋮⋮わたくしと梓さんは今日はひとまず名簿をチェックする
くらいですわね。本格的な部員集めには明日から取り掛かるという
ことで﹂
﹁がんばろうね、弥生ちゃん!﹂
夕陽に照らされた梓の明るい笑顔に、弥生の顔もほころんだ。
﹁ええ。梓さん、美紀さん、これからよろしく﹂
六年ぶりにできた女友達に、弥生は力強く微笑んだ。
弥生が二人と別れた帰り道、修平が静かに隣にやって来た。
﹁こんな時間まで何してたんだ?﹂
﹁あの後気が変わって野球部の見学に行ったの。結果的には見物だ
ったけど﹂
弥生が問うと、修平は唇を尖らせた。
﹁なんで女子野球部ってことにしちゃったのよ。おかげであたし、
裏方でしか手伝えないじゃないの﹂
﹁修平は﹃修平﹄らしく野球部へ入るんじゃなかったのか?﹂
﹁あんな根性の曲がった連中に﹃修平﹄がつきあうわけないでしょ﹂
﹁なるほど﹂
修平はわざとらしく、大きく息を吐く。
112
﹁﹃弥生﹄のイメージすっかり台無し。何なのよ、あのお嬢言葉の
乱発と喧嘩腰の物言いは。これで明日っから高飛車な女って評判に
なっちゃうわ﹂
﹁バカな振る舞いをしたのも、バカな女と思われるのも俺だ。お前
が気に病むな﹂
弥生が毅然と答えると、修平は恨めしそうに弥生を睨んでみせた。
﹁こんなことになるってわかってたら、あたしももっと好きにやる
んだった﹂
﹁俺はアレがお前の好みだと思ってたんだがな﹂
﹁⋮⋮!﹂
言われた修平は言い返そうとして、でも自分でも思い当たる節も
あるのか何も言えず、しばらく口を開けたり閉じたり。
春の生暖かな風を浴びながら、二人は黙って歩く。
やがてそれぞれの家へ続く分かれ道にさしかかった時、修平はぽ
つりと言った。
﹁義務感なんて重石は要らなかったってことよ。それって大きな違
いでしょ?﹂
﹁そりゃそうだ﹂
113
第二部﹁少女たちは集う﹂第二章﹁四人目﹂
﹁痛いっ!﹂
夕暮れの台所に、少女の可愛らしい悲鳴が走った。
藤田真理乃は包丁で切ってしまった指先を口で吸う。血の味に涙
がにじんだ。
︽おいおいまたか? この調子じゃ絆創膏がなくなっちまうっての︾
胸元から軽薄な挑発を繰り返してきたマリードの声すらも、やや
不安げになっている。
﹁だって⋮⋮わたし⋮⋮お料理なんてしたことないもん⋮⋮﹂
変身して身体や性格が変わっても、知識や経験に変化があるわけ
ではない。
我慢できず、とうとう真理乃はすすり泣いてしまった。
少女になったせいでこらえ性がなくなったのか。あるいはこれも、
本来の自分である誠三郎の﹃理想の女性像﹄に影響を受けてのこと
なのか。
︽あー⋮⋮すまん。先代がタフでからかいがいのない女だったもん
だから、お前さんに対してはしゃぎすぎちまった。やりすぎた。悪
かった︾
マリードは、昨日出会って以来初めてと言っていい、優しい声を
真理乃にかけてきた。
︽⋮⋮ま、無理はすんな。今夜もコンビニに行くとしようぜ︾
﹁うん⋮⋮﹂
まるっきり小さい女の子みたいな扱いをされた自分の情けなさに、
消え入りたい気分になりつつも、真理乃はマリードの提案に従って
後片づけを始める。
そして外出の支度をしようとエプロンを外した時、玄関の安っぽ
いチャイムが鳴った。
114
昨日の夕方。
恵まれた男子高校生から一転わけのわからない魔法少女にされて
しまった藤田真理乃こと清水誠三郎は、変身完了したその足で学校
近くのおんぼろアパートに行かされ、そこがこれから三年間の自分
の住居となることを知らされた。
︽歴代の魔法少女とその協力者の、由緒正しい活動拠点さ!︾
家具の少ない六畳一間に、三人が思い思いに腰を下ろす。全体に
古ぼけた雰囲気はあるが、真理奈が一ヶ月も空けていたにしては荒
れた雰囲気もなく整っていた。
﹁大家さんも昔アレだったとかで、家賃はただ同然。ちょっとやそ
っとの騒ぎなら見逃してくれる。学校は目と鼻の先だし、見かけの
割にはいい環境だと思うよ。で、生活費は俺の時と同じように月に
一度清水の家から振り込まれるんじゃないかな。家賃が安いから大
した額でもないけど、ぜいたくしなければ余裕を持って暮らせるは
ずだよ﹂
付き添いの先代魔法少女︱︱孝二郎が、新しい生贄を得たためか
テンションの高い魔神︱︱マリードをフォローして、真理乃となっ
た誠三郎にレクチャーしていく。
﹁で、でも⋮⋮わたし、転校生ってことになっちゃうんでしょ? こんな時期に転校してくる一年生なんて変だし怪しまれるし⋮⋮﹂
﹁何が言いたいのかしら? 真理乃ちゃん﹂
孝二郎について来た冴子が、単刀直入に切り込んできた。
﹁だから、その⋮⋮わたしのこと、元に、戻して⋮⋮﹂
流されるようにここまで連れて来られた真理乃は、どうにか反論
して自分を運び去ろうとする流れに抗おうとしたが、それは虚しい
試みだった。
︽心配すんな。手続きはもう俺が済ませてるから。入学初日はなぜ
か欠席しちまった一年A組の藤田真理乃ってことでな︾
﹁え?﹂
︽クラス関係者の記憶と書類をちょいといじれば一丁上がり。これ
115
くらい、朝飯前よ︾
そう言えばこの魔神には、人の記憶を操る力さえあるのだった。
ここまで色々できれば何でもありだと、真理乃は魔神に逆らうのを
内心あきらめてしまいそうになる。
︽と言っても、こんなことまでできるのは契約を交わした相手に関
する事柄くらいだけどな。だいたい、協力者になってもらった連中
まではごまかせるもんでもないし︾
﹁⋮⋮﹃協力者﹄?﹂
﹁私みたいな、魔法少女のサポーター﹂
真理乃の疑問に冴子が答えた。
﹁いくら力があっても大きい学園だから一人じゃ手が回らないこと
もあるし、この変態野郎にしてみれば真にご所望なのは﹃元男の子
の、女の子としての日常生活﹄だもの。魔法少女が出張るまでもな
いトラブルの芽を摘んでおいたり、魔法少女の正体がばれないよう
に工作活動や世論形成を図ったり、体のいい小間使いよ﹂
︽魔法なんてのは、かける相手に術者の素性だの何だのを知られれ
ば知られるほど効果が薄れていくものだしな。下手打って千人全員
にばれるくらいなら、信頼できる十人に手伝わせて、魔法をかける
かもしれない九百九十人には絶対ばれないようにした方がいい︾
そんな魔法の特性は初めて聞いたが、思えば昔話には、魔術師が
自分の真の名前を敵に知られないようにする話などもあったような
気がする。他に魔神の知り合いもいないことだし、真理乃はマリー
ドの言葉を受け入れることにした。
﹁協力者に選ばれるいきさつは、成り行きだったりスカウトされた
り。生徒とか教職員とかのキヨミズ関係者には、常時二十人ほどい
るみたいね。私にしても他に誰がこんな変態魔神のボランティアや
らされてるのかは、ほとんど知らないんだけど﹂
冴子はとことんマリードを罵倒するが、協力者なんてものを務め
てきた間柄によるものか、妙に息の合った補足を入れていった。
そして一段落すると立ち上がり、孝二郎の手を引く。
116
﹁そろそろ帰るわよ、孝二郎。真理乃ちゃんとマリードの初夜を邪
魔しちゃ悪いしね﹂
﹁ちょ、ちょっと待って! ﹃初夜﹄って何ですか?!﹂
そそくさと冴子と孝二郎がアパートから立ち去った直後。真理乃
はその意味を知った。
︽ほれ、いいかげん着替えな。制服以外の服も見てみたくなってき
た︾
マリードの妙に鼻息荒い声。しかし逆らえる性格でもない今の真
理乃にとって、その声は絶対だった。
︽当面の生活に必要なものは俺からのプレゼントだ。この部屋に全
部揃えてあるぜ︾
見れば、壁には可愛らしい私服がかかっていた。洋服ダンスを開
ければ、別の私服や学校指定のジャージ。もちろん下着類もふんだ
んにしまわれている。鏡台には化粧品なども一式準備されていた。
なぜか、すべて新品。
﹁これも、全部魔法で?﹂
︽ああ。服のサイズもぴったりだぜ。だからさっさと着替えなって
の︾
自分の身をもって体験しているのだから今さらマリードの魔力を
疑ったりはしないが、アラビアの魔神とやらが日本の女の子向けの
各種商品を魔法で生成する図がなかなか思い浮かばず、真理乃は異
界に足を踏み入れた気持ちを一層強くした。
それでもファッションショーをどうにかやり遂げると、今度は女
子として初めてのお風呂体験。それら一つ一つの行動に数時間前ま
で男子だった真理乃は無論戸惑うわけだが、さらにマリードがそん
な様子を胸の谷間のペンダントから観察しては︽ほれ、せっかくス
カート穿いてんだ。くるっと一回転して裾を翻らせるくらいやって
みせな。ズボンと違って脚を包み込まない分、頼りなさと開放感と
が味わえるだろ?︾だの︽おうおう、身体の予想外の柔らかさにび
っくりしてやがるな? ついさっきまで引き締まった男っぽい身体
117
してたお前さんにはさぞかしショックだよな? けれど心のどこか
ですべすべした肌や華奢な体格を可愛らしくて心地いいとも感じ出
しているだろ?︾だのと大喜びするのだから始末に負えない。ペン
ダントを外そうにも、契約を結ばされた関係なのか、どうしても手
を伸ばすことができなかった。
寝る直前にはトイレまで経験させられて泣きそうな気分で床に就
き、一夜明けた今日は女子生徒として初の学校生活。今後三年間は
間違いなく元に戻してもらえないわけだからいっそ開き直ればよい
のだが、現在の性格ではそれもままならず、真理乃はとても内気な
少女として新しいクラスの一員になった。それでも近くの席の女子
数人には声をかけてもらい、悪印象は与えずに済んだようである。
言葉遣いはまるっきり女の子らしくなっているし、控え目でおとな
しい性格。敵を作る方が難しいくらいではあるが。
ちなみに本来の自分たる清水誠三郎の存在は、記憶や痕跡が消え
去っていたわけではなく、突然留学したことになっている。︽そう
いう操作には、お前さんが本気で男に戻るのをやめた時に取り掛か
るんだよ︾とマリードがこっそり囁きかけてきた。
そんなこんなで真理乃としての一日目を終えて新たな家に帰還。
昨夜や朝昼はコンビニの弁当やパンで済ませていた食事を、今回は
マリードの命令で自炊することになった結果あえなく挫折したとこ
ろへ、誰かの来訪を告げるチャイムが鳴ったのである。
恐る恐るドアを開けると、キヨミズのブレザーを着た長身の女子
学生が立っていた。眼鏡に三つ編みの野暮ったい雰囲気だが、その
奥の眼光はかなり鋭く、真理乃をなで斬りにするように一瞥した。
﹁あの⋮⋮どちら様でしょう﹂
おずおずとした真理乃の態度に対し、相手はなぜかにやりと笑っ
た。
﹁なるほど。本当に、兄弟でも女性観てのはずいぶん違うもんなん
だね、マリード﹂
118
︽千差万別よ。だから俺はいつまで経ってもやめられねえのさ︾
﹁え? あの、もしかして⋮⋮﹂
﹁あたしは村上美紀。見ての通りキヨミズの学生で、二年生。マリ
ードの協力者よ。これからよろしく﹂
村上美紀と名乗った少女は、すたすたと部屋に上がり込んだ。
﹁は、はあ⋮⋮﹂
よろしくと言われても、何をどうしたものかさっぱりわからない。
昨日の冴子の話ではこちらの負担軽減とかいざという時の援助とか
が協力者の仕事であって、しかも冴子の態度から察するに、あまり
向こうにメリットのある仕事でもなさそうで、つまり、マリードお
よび真理乃に彼らから接触してくるとは考えていなかったのだが。
︽冴子に聞いたか? にしてもお前さんがわざわざ来るたあどうい
う風の吹き回しだい︾
彼女の来訪はマリードにとっても珍しいことだったようだ。
﹁今度女子野球部を立ち上げることにしたんでね。お嬢さんをスカ
ウトしに来た﹂
﹁え、ええっ!?﹂
驚く真理乃を無視して、マリードは座布団に腰を下ろした美紀に
話しかけた。
︽ふむ。野球部は候補の一つではあったな。ただし希望順位として
はかなり低いが︾
﹁またどうして?﹂
︽そりゃこっちの台詞だ。女子に人気がないから女子部員が入らな
い。妙な選民意識に憑かれる。ますます女子に人気がなくなる。ま
すます女子部員が入らなくなる。以下繰り返しの悪循環がいったい
何年続いてるよ。廃部寸前の部を立て直すって楽しみは十年ほど前
の相撲部マネージャーで満喫したしな︾
﹁こっちは立て直すどころか、まだチームすら作れる段階じゃない
よ。創部に立ち会った経験はないんじゃないか?﹂
︽余計悪いっての。俺が今年部活で見てみたいのは、少女同士の清
119
潔な友情とか、他校の美しい強敵との激突とかなんだよ。脈のあり
そうなクラスメートと交渉したり、退部しそうな上級生に泣きつい
たりする面倒ごとはしばらく勘弁だ︾
﹁あ、あの⋮⋮わたし、野球ってやったことが⋮⋮﹂
恐る恐る声をかける真理乃を無視し、美紀は小首を傾げる。
﹁ちょいと切り出し方間違えたかな? なら否応なしに関わらせて
あげるよ﹂
︽今度は何だよ︾
﹁男子野球部に、邪霊が憑いた気配がある﹂
︽何だと?︾
からかい調子だったマリードの声が、一気に引き締まった。
﹁もちろんあたしは本職じゃないから細かいことまではわからない。
あんたがまだ気づいてないということは、小物も小物なんだろうね。
でも、あのグラウンドには不審な気配が確かにあった。そうでもな
くちゃ、あんなでたらめなゲームがまかり通ったわけがないだろう
しね﹂
そう言って、美紀は放課後の出来事を細かく説明した。
︽なるほど、そいつは邪霊だろうな。野球部関係者の誰かに巣食い、
そいつの負の感情を喰らう代わりに願いを叶えてやってるんだろう
よ︾
﹁そろそろ周囲の連中にもちょっかい出してるのかもね、たらふく
食べて肥え太っていく真っ最中ってところなんじゃないの?﹂
︽たぶんな︾
﹁あの⋮⋮すみません、マリードさん⋮⋮邪霊って昨日みたいなの
ですか?﹂
思いきって声を上げると、ようやく二人の反応が得られた。
︽ん? 心配すんな。あれほどの大物じゃないさ︾
﹁そりゃ三十年がとこ、東日本一帯を荒らしていたような奴と比べ
るのはね﹂
︽昨日のあれが成虫とすれば、卵か幼虫程度の存在だな。自然発生
120
的に湧いたっぽいし、怖がるほどでもない。それでも何の手も打た
なければいずれ厄介なことになるから、その前にきっちり祓ってお
かねえとな︾
﹁ええと、でも⋮⋮さっき、負の感情を食べる代わりに願いを叶え
るって言っていませんでしたか? 別に悪いことをしているように
は⋮⋮﹂
︽ああ、知らない奴には誤解を招く言い方だな。正確に言えばこう
だ。連中は、人間の負の感情を喰らって、もっと悪質な負の感情を
排出する。有害なウランを分裂させるともっと毒性の強いプルトニ
ウムが作られるようなもんだ︾
﹁だから少しばかり願いが叶ってもその人間はちっとも幸せになら
ないし、万が一にも負の感情が消えないように、その人間の一番の
望みは絶対に叶わないようにする⋮⋮という話だったね、マリード﹂
︽その通り。願いを叶えるってのは、最初の頃、人間の身体に潜り
込んでも拒絶されないための、ちょっとした手土産みたいなもんだ
からな。そのうちそんな気遣いも失せる︾
そこまで言うと、マリードは考え込むような声音になった。
︽だがそうなると⋮⋮女子野球部に入る方がまだマシかね。男子野
球部にマネージャーとして入部しても、近づきすぎて突き止める前
に逃げられちまう可能性が高い。二ヶ月泳がせてる間に宿主を特定
して、試合の最中に一息に仕留める⋮⋮これだな︾
﹁あたしには願ったりだけど、試合に出ない存在だったらどうする
? 野球部に属してるのはたまたまで、宿主の願いが別の方面に向
かっている場合は﹂
︽野球絡みでそれだけ強い影響力が発揮されてるんだから、宿主の
願望もそっち向きだろうさ。二ヶ月も経てば最低レギュラーくらい
にはなってるはずだ︾
﹁じゃ、決まりだね﹂
ほんのわずか安堵によるらしい吐息をつくと、美紀は威勢よく立
ち上がった。
121
﹁これでやっと四人目だ。あんたも心当たりがあったら誘っといて
おくれ﹂
︽野球に興味がある若い女なんて、そんな物好きは知らねえよ︾
口調は終始乱暴ながらなごやかに談笑する美紀とマリードに、真
理乃は口を挟んだ。
﹁あの⋮⋮わたしの気持ちは、どうでもいいんですか⋮⋮?﹂
末っ子の優等生として育ち、家でも学校でも自分の意見が尊重さ
れなかったことのない元誠三郎な真理乃には、自分を無視して頭越
しになされた一連の会話はかなり不快なものだった。今の性格ゆえ
に、感情を表に出すには至らなかったけれど。
︽無意味だろ。お前が俺様に逆らえるわけねえんだから︾
﹁無駄だね。今のあんたがマリードに逆らえるわけないんだし﹂
だが二人の回答は、真理乃の中の自尊心を派手に打ち砕いた。
︽何せ今のお前は、おとなしくて従順で都合のいいお人形さんみた
いな女だからな。そんな女の意向なんざ、聞いてどうするんだ?︾
﹁言葉は悪いがマリードの言う通り。﹃あんたの中の男の子﹄が女
の子に対する好みを変えない限り、逆らえずに周囲に流される状況
は変わらないね。あんたにとっちゃ悲しいことかもしれないけれど﹂
二人に言われ、昨日の言葉を改めて思い出す。今の自分︱︱真理
乃の性格は、本来の自分である誠三郎の好きな女性像に基づくもの
であることを。
﹁でも、でも、わたし、野球なんてルールも知らないし⋮⋮﹂
﹁すぐ覚えられるよ﹂
︽野球漫画でもテキストにすれば三日くらいでマスターできるさ︾
﹁漫画なら貸すよ。うちに﹃ドカ弁﹄全四十九巻があるから明日持
って来る﹂
﹁け、けど⋮⋮﹂
二人に即答されても、真理乃は弱々しい口調ながらさらに反論し
た。口答えなどできないと言われた内心の反発が激しかったせいか
もしれない。
122
﹁こんなちっちゃな身体じゃ、全国大会行くような男子のチームと
対戦なんて⋮⋮﹂
その反論の内容は、あまりと言えばあまりに気弱なものだったが。
﹁あ、それは心配無用。魔法少女の身体は特殊な造りになってるか
ら﹂
︽別にいかさましてるわけじゃねえけどな。日本人の女子高校生が
発揮して不自然でない範囲で、最高レベルの身体能力を持ち合わせ
てるって寸法だ︾
真理乃の懸命な反駁は、これにて打ち止めとなった。
123
第二部﹁少女たちは集う﹂第三章﹁五人目﹂
女子野球部の面々と別れた新聞部部長の永井聡美がやって来たの
は永井家︱︱自分の家であった。
﹁まあ難しいとは思いますけどー、まずは私がアタックするのが筋
ですもんねー﹂
のんびりした口調で独り言を呟きつつ、聡美は玄関のドアを開け
た。
﹁いっそのこと昨日のままの方がまだ楽だったかもー⋮⋮﹂
呟き続けながら靴を脱いだ時、奥の居間から顔が覗く。
去年の秋から永井家に滞在中の留学生、シャーロット・L・ミラ
ーの顔だ。ぱっちりした目鼻立ちが相変わらず可愛らしい。
だがシャーロットは普段のように陽気に声をかけてくるわけでな
く、不安そうな顔をして聡美のもとに駆け寄って来ると聡美に抱き
ついてきた。日本人高三女子として平均的身長を有する聡美の顔は、
長身なシャーロットの豊満な胸に埋まりそうになる。
何もかも、まるで昨日と同じだった。
﹁もしかして、悟ちゃんですかー?﹂
﹁う、うん⋮⋮﹂
﹁一晩で元に戻ったと思ったら、懲りもせずまた入れ替わりですか
ー。シャルの身体が病みつきにでもなりましたかー?﹂
﹁違うよ!! 僕もシャルもなんにもしてないのに、また入れ替わ
っちゃったんだよ!﹂
シャーロットの身体である悟の後ろから、これまた昨日と同じよ
うに、悟の身体であるシャーロットが不安げな表情で現れると聡美
の顔を見上げてきた。
昨日。帰宅部のシャーロットよりだいぶ遅れて帰った聡美は、流
暢な日本語をしゃべる留学生と語尾の怪しい日本語をしゃべる弟に
124
出迎えられた。悪ふざけと判断した聡美は二人の頭をぶっ叩いた上
で自室へ行こうとしたが、痛む頭を押さえながらもやけに真剣にす
がる二人の姿を見て、どうやら何事かが起こったらしいと遅ればせ
ながら理解した。
入れ替わりの原因が二人の手首にはめられた時計っぽい腕輪にあ
るであろうことはほぼ確実で、聡美は眠りこけていた父親を叩き起
こすと事態の打開を命じた。しかし翻訳家を気取る父親は説明書ら
しき紙に書かれたラテン語を読む能力を持たず、聡美は父親を気が
済むまで罵倒すると早急の対策を申しつけ、自分はとりあえず入れ
替わった二人が現在の身体で生活するために不可欠な各種情報の収
集にかかった。夜遅くにテレビ局から帰宅した母親もその判断には
同意見で、聡美に全面的に協力してくれた。
しかるに今朝。目を覚ました悟とシャーロットはすっかり元に戻
っていて、身体にも何ら異常がないことから、そのまま登校してい
ったのである。唯一、手首のアイテムだけはいかなる理屈によるも
のか、どうしても外すことができなかったが。
﹁今度の入れ替わりは、何時ごろに起きましたかー?﹂
﹁えっと⋮⋮三時半ごろかな、シャル﹂
金髪碧眼長身の美少女が、発育途上の少年を見下ろしながら訊ね
た。
﹁そうデスネ。シャルが学校の門を出て、すぐデシタ﹂
﹁気がついたら知らない場所にいて、またシャルの身体になってて
⋮⋮学校の中を探せばお姉ちゃんに会えたかもしれないけど、シャ
ルを知ってる人に会ったらごまかすのが難しいと思って、急いで家
に帰って来ちゃった﹂
そう説明する悟は、まだブレザーのまま。昨夜はしばらく元に戻
れないかもと覚悟を決めて風呂や着替えも経験したはずだし、悟を
弟のように思っているシャーロットが着替えをされて嫌がるとも思
えないが、エロ方面に目覚めていない小学六年の悟にとっては恥ず
125
かしさが先に立ってしまうのだろう。今度も元に戻れるなら、着替
えをせずに済ませたいというところか。
まあ、男の子の微妙な心理はとりあえずどうでもいい。
﹁ふむふむ。昨日の最初の入れ替わりとほぼ同時刻みたいですねー﹂
聡美が思いつきを口にすると、当事者の二人は驚いたようだった。
﹁そうか⋮⋮そうだよね、昨日とおんなじ時間だ。でも、どうして
?﹂
ショートカットの金髪をかきながら、悟が呟く。
﹁いったい、どういうことデショウ?﹂
悟と聡美を見上げながら、シャーロットも不思議そうな声を上げ
る。
﹁二人とも本気で言っているんですかー? 法則性は簡単に思いつ
くじゃないですかー﹂
呆れながらも聡美は二人の腕にはまった物品を指差す。
﹁昨日の二人の入れ替わりを引き起こしたのはその腕輪でー、なら
今日の入れ替わりも、それを身につけていたから起きたと考えるべ
きじゃないですかー﹂
﹁それぐらいは僕だってわかるよ﹂
﹁入れ替わりが起きてー、元に戻ってー、また起きてー。腕輪の機
構から考えて、これは入れ替わって元に戻るというワンセットがも
う一度繰り返されていると思うんですー﹂
﹁その根拠は何デスカ?﹂
﹁腕輪についてるコントロール機構は十二目盛り刻みの盤を一周す
る針一本しかないですよねー。これって、一目盛りごとに何か別の
機能が働くというよりは、単純に入れ替わり現象に関する一つの単
位を調節する装置と考えていいんじゃないでしょうかー﹂
﹁う、うん﹂
﹁重さや長さが入れ替わりに関係しているとも思えませんし、それ
は時間でしょうねー。針で指定した時間、二人が入れ替わっていら
れるという感じではないでしょうかー﹂
126
聡美の言葉に二人が腕輪を改めて見る。針は昨日と同様十二の位
置で止まっていた。
﹁じゃあ⋮⋮えーと⋮⋮今夜の三時半まで、僕らは入れ替わったま
まってこと?﹂
﹁一時間の刻みが私たちの一時間と同じかどうかは定かでないです
けどねー。昨日も深夜零時から朝七時までの間に元に戻っていたわ
けですから、十数時間も見ておけば大丈夫ってことでしょうねー﹂
﹁でも⋮⋮元に戻っても、この腕輪を外せないとまた明日入れ替わ
るんデスネ﹂
﹁たぶんそうでしょうねー。仮に入れ替わりが十二時間続くとした
ら、そこから十二時間経つとエネルギーが充電されたとか、二人の
魂が次の入れ替わりに耐えられるくらい回復したとかの条件が整っ
てー、また装置が作動するんじゃないかとー。もっともそれは今後
もこの法則性が成り立ち続ける場合の話ですけどねー﹂
途方に暮れたような顔をする弟と友人に、聡美は笑いかけた。
﹁まあ、腕輪の外し方はあの翻訳者もどきに説明書を解読させます
からー、そのうち外せるんじゃないでしょうかー。夕方から夜中ま
での入れ替わりなら基本的に私たち家族の内側で納まる話ですしー、
せいぜいめったにない経験を楽しむということでー﹂
そこまで言って、聡美は別口の用件を思い出す。
﹁あー⋮⋮悟ちゃん、せっかくシャルの身体になってることですし、
入れ替わってる時間を利用して高校野球を経験してみるつもりはあ
りませんかー?﹂
﹁いきなり何わけわかんないこと言い出すのさ?!﹂
聡美に聞かされた推論を整理するのに手一杯という感じの悟が、
急に明後日の方向に飛んだ聡美の話について行けずに叫ぶ。
﹁実はですねー、うちの高校の野球部がどういうわけか聞き分けの
ないアホの子の集団になってしまいましてー⋮⋮﹂
姉の説明を聞き終え、悟はシャルと顔を見合わせた。本来の自分
127
のものである男の子の顔が戸惑っている。たぶん自分もシャルの顔
で同じ表情をしているのだろうなと思った。
﹁悟ちゃんは野球が大好きですしー、シャルの身体はスポーツにと
ても適した身体ですからー、もし引き受けてくれたなら、かなりの
活躍が期待できると思うんですけどー﹂
﹁そんなこと言われても⋮⋮﹂
悟としては、安易に肯けるわけもない。自分は確かに野球好きだ
けど、観るのが主で、実際にプレーするのは逆に苦手なくらいであ
る。そんな自分が、まして他人の身体と立場で活躍なんてできるわ
けがない。しかも相手は高校生なのだ。
﹁だいたい、そんなの僕じゃなくて︱︱﹂
シャル本人がやれば、と言いかけようとして、口を噤んだ。シャ
ルは身体に似合わずスポーツの類が大嫌いな、典型的な文化系オタ
クなのである。スポーツ漫画やスポーツ観戦まで嫌いなわけではな
いので悟と衝突したことなどはないが、自分でプレーするのがとに
かく嫌いだと明言してはばからない。
そう考えると、姉の期待している通り、悟の心とシャルの身体の
組み合わせが最も今回のシチュエーションにはふさわしいような気
も、しないでもない。
それにまた、姉の話す男子野球部のひどさも、悟の気持ちを煽っ
ていた。男だ女だなんてつまらないことにこだわる子供っぽい連中
を、シャルの身体を借りてとは言え、子供の自分が叩きのめすこと
ができたら、それは痛快なことだろうと思えてきた。
心が少し昂ぶってきて、でもこれは自分一人で決めていいことな
どではないことを思い出す。
﹁シャル⋮⋮どうしよう?﹂
﹁悟は、どうしたいデスカ?﹂
悩んだ末に問いかけると逆に問い返された。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮シャルは人と競うことが嫌いで⋮⋮そのせいもあってアメリ
128
カの家を出て来たようなものデスケレド⋮⋮﹂
悟には初耳の話。ぼやかした物言い。だがそれを質す前に、シャ
ルは言い切った。
﹁⋮⋮悟が戦いたいのなら、シャルの身体で戦ってもいいデスヨ﹂
﹁シャル⋮⋮﹂
見上げる少年の複雑な笑顔に、悟はどんな言葉や表情を返せばい
いかわからず、でも、自分の意思を固めつつ、姉に向き直った。
﹁僕でいいのなら⋮⋮やってみたいな。どれほどのことができるか
は、わからないけど﹂
﹁自発的に引き受けてくれて助かりますー﹂
聡美はにこやかに微笑んだ。
﹁私が説得失敗したら、明日からは美紀ちゃんが色々仕掛けてきた
はずですからねー。ほんと、一番穏当な展開だと思いますよー﹂
﹁⋮⋮ミキって、もしかして、村上美紀のことデスカ?﹂
﹁そうですよー﹂
聡美は悟に説明した。
﹁女子野球部を作るって言い出した張本人でー、私のお友達でもあ
るんですー。シャルも二年連続おんなじクラスなんですよねー﹂
姉が答えると、悟の身体のアメリカ人留学生は、大仰なまでに安
堵の吐息をこぼした。
﹁あの、シャル、どうしたの?﹂
﹁⋮⋮悟。美紀さんの意向に反しなくて幸いデシタ。あの人はとて
も頭が切れる人で⋮⋮味方としては頼れマスガ、万一敵に回すとか
なり怖い人デス⋮⋮﹂
﹁悟ちゃん? 今さらやめましたなんてなしですからねー?﹂
妙におどろおどろしいシャルの言葉と言質を取ったかのごとき聡
美の台詞を聞くと、悟の胸中には早くも不安が満ち始めてきた。
129
第二部﹁少女たちは集う﹂第四章﹁六人目﹂
帰りに吉田家から持って来たマスコットバットを今までの調子で
一振りしてみると、弥生はその重さを持て余してよろけてしまう。
危うく自室備え付けのやたら高そうな鏡台を壊しそうになった。
﹁やっぱ筋力はずいぶん違うよな⋮⋮﹂
大久保と対戦した時は怒りと緊張でアドレナリンが大放出してい
たのかもしれないが、毎度都合良くそうなってくれるわけもない。
修平の身体の感覚は早めに忘れなければならない。一昨日まで馴
染んでいた道具が意のままにならない事実を前に、弥生はその決意
を固め直した。
改めて素振りをしようと再びバットを構えた時、ベッド脇のサイ
ドテーブルに置いていた携帯電話が鳴った。
﹁は、はい? 弥生ですけれど﹂
バットをとりあえずベッドの下に放り込むと、弥生は誰からかか
って来たか確認もせず電話を取った。﹃弥生﹄は中学時代から持っ
ている携帯だが、貧乏な﹃修平﹄だった弥生にはまだまだ使い慣れ
ない機械なのである。
﹁あ、こんばんは、梓です﹂
ほんの二時間前に別れた小さなピッチャーの元気な声が、弥生の
耳に飛び込んだ。
﹁あ⋮⋮ら、こんばんは、梓さん。どうしましたの?﹂
ほんの一瞬砕けた男口調でしゃべりそうになったが、弥生はどう
にか﹃弥生﹄らしさを保とうと心がけた。
﹁あのね、名簿見てたら昨日野球部で見かけた子の住所がわかった
んだ。僕と弥生ちゃんの家のちょうど真ん中くらいのマンションに
住んでる子なんだけど⋮⋮﹂
﹁思い立ったが吉日とも言いますものね。つきあいますわ﹂
﹁まだそんなに時間遅くないし、これから誘いに行ってみようかな
130
って︱︱って、一緒に行ってくれるの!?﹂
﹁そのお誘いの電話だったのでしょう?﹂
笑みを含んだ声で、弥生は梓に問い返す。
﹁早くチームを結成したいですものね。本当の勝負はそこからなん
ですし、前段階はさっさと済ませてしまうに限りますわ﹂
そして弥生は梓との待ち合わせ場所などを決めていく。
﹁ちなみに、その子の名前は?﹂
もしかしたら知った誰かかと思ったが、今度もまったく無名だっ
た。
﹁小笠原優って子。僕と同じクラスで、今日一人だけ休んでたから
名字がわかったんだ﹂
﹁猛ちゃん、ご飯できたよ﹂
猛の身体の元優が、ベッドに潜り込んでいる元猛な優に、優しく
声をかけた。
﹁⋮⋮食べたくない﹂
﹁別に﹃優﹄の身体はダイエットなんかする必要ないわよ? 丸一
日まともなもの食べてないんだし、そろそろ起きなさいってば﹂
明るく気分を盛り上げようとしてくれる猛のしゃべり方は優だっ
た時と変わらなくて、ほんの少しだけ優の気持ちを和ませる。
でも、昨日受けた精神的な衝撃は、まだ優の心に深く根を張って
いた。
ついこの前まで自分が所属していた清水共栄野球部が、いくらか
はキャプテンとして自分が作り上げたはずの野球部の空気が、ひど
い方向に様変わりしていた。
来るものは拒まず、去るものは追わず。情実抜きの実力勝負。規
律で集団を縛る代わりに自立した個人を束ねる。それらの理念が失
われた野球部で、優はただ女子であるという理由だけで入部を阻ま
れた。たったひと月前に、卒業する猛を涙とともに送ってくれた後
輩たちが、すっかり変わり果てた邪悪な面相で優を罵倒し、嘲笑し、
131
拒絶した。
しかも断られるだけでなく、そこには女性を傷つけ辱めるような
態度と物言いがまかり通っていた。ついこの前まで男だった優には
そうした低劣な悪意への免疫がない。自分がそれに晒されることへ
の苦痛と、大切な幼なじみである﹃優﹄の人格がその攻撃を受けて
いることへのショックや罪悪感とが、ないまぜになって元少年の少
女を襲った。
自分の過去の努力がまるで無意味だった徒労感と、現在の自分に
加えられた攻撃。その連打が優の心を激しく打ちのめし、この十年
来流したことのなかった涙が後から後から溢れ出てしまった。優は
逃げ出すように野球部から去り、そのままマンションに帰った。
朝に家を出る前はひどい脅しをしていた元優の猛も、涙の跡もく
っきりと、悄然とした面持ちで玄関に立ち尽くす優の姿を見ると、
さすがに追い打ちをかけるような真似はしなかった。優の話をじっ
くり聞きながら、甲斐甲斐しく食事や風呂などの面倒を見て、その
まま静かに寝かしつけた。
そして今日、優は布団に潜ったまま一日を無為に過ごしていた。
﹁明日は学校行けそう?﹂
﹁わからない﹂
﹁⋮⋮あの、ね。もう、野球部とか、そういうの、気にしないでい
いからね。その⋮⋮猛ちゃんが、好きなようにすれば⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
だがそんなことを言われても、途方に暮れるばかりである。入れ
替わって二週間経った今も優の身体で暮らすことへの戸惑いはまだ
強く、野球部に入ってレギュラーを目指すという当面の目標は絶好
の逃避となっていたのだから。そしてそうした意味合いを抜きにし
ても、この身体で野球に取り組むのは、それなりに心躍る試みであ
ったのだから。
﹁つまんないこと言う相手はね、ほっとけばいいの。喧嘩してもい
いことないし、じっとしてれば向こうはそのうちいなくなっちゃう
132
から﹂
優の頭を軽くなでながら、本来の優は真摯な口調で語りかける。
そんなのは尻尾を巻いて逃げるみたいで嫌だと感じる。少しピン
ト外れな部分もある物言いだ。でも、そう口に出そうとして、三年
前のことを思い出した。
優が中学に入ってすぐの頃。いじめのようなことがあったらしい。
猛は高校に入学したところで、入れ違いになった中学のことはわか
らないし、時に猛の家の夕食に招かれる優はそんな目に遭っている
素振りを見せはしなかった。だからそれは、猛の母親の憶測を聞い
ただけなのだが。
今自分が聞かされているのは、その時の経験に基づく教えなのか
もしれない。かつて辛い目に遭わされた先輩からのアドバイスなの
かもしれない。
枕に顔を埋めながらそんなことをぼんやり考えていると、精神的
には三歳年下の相手に慰められている自分が情けなくなってきた。
しかも自分が苦しんでいる事柄なんて、その相手が十三歳の時に切
り抜けたものに比べれば、きっと些細なことなのに。
優は、ベッドの上で上半身を起こした。
﹁猛ちゃん?﹂
﹁お腹空いてきた﹂
ぶっきらぼうに言うと、立ち上がって台所に向かおうとする。
ずっと横になっていたのが不意に起き出したせいか、よろめく。
すると猛の力強い腕に支えられた。
﹁猛ちゃん、大丈夫?﹂
一瞬その腕にもたれそうになり、優は慌てて足に力を込める。
﹁ちょ、ちょっとふらついただけだよ。いちいちそんな過保護にす
るなよな﹂
そんな風に声を張り上げつつも、その後に小声で付け加えた。
﹁でも⋮⋮気を遣ってくれて⋮⋮ありがと﹂
﹁何もごもご言ってるの?﹂
133
﹁な、なんでもない!﹂
ごまかして台所に。ダイニングには盛り付けられるのを待つばか
りのご飯の釜や味噌汁と肉じゃがの鍋などが並び、食欲をそそる。
と、玄関のチャイムが鳴った。
﹁誰かしら?﹂
猛がそそくさと玄関に向かう。
その姿を何気なく眺めながら、優はここが優の家であるという重
大事に気づいた。
﹁ちょっ! ま、待って︱︱﹂
だが制止するより早く、猛はドアを開けていた。
﹁こちらは小笠原さんのお宅⋮⋮ですわよね?﹂
ドアを開けた青年に弥生は訊ねた。新聞部謹製の名簿によると小
笠原優は兄弟がいない上に一人暮らしのはずなのだが。
﹁あ、その、僕は優の幼なじみでして⋮⋮﹂
とたんに青年は顔を赤くしてしどろもどろになる。単なる幼なじ
みよりは一歩進んだ間柄らしい。弥生の隣では梓が、珍しいものを
観察するようにそんな青年を眺めている。
そして青年の後ろから、髪を肩口で切り揃えた可愛い顔の女の子
が現れた。青年の方は安堵したように奥に引っ込んで行く。
﹁あの⋮⋮私が小笠原ですけど⋮⋮プリントか何か持って来てくだ
さったんですか?﹂
その表情としゃべり方に、弥生は好印象を抱く。かなり頭の良さ
そうな子だ。
今、弥生と梓は制服姿だ︵梓はジャージで行きたがったが、初め
て接する人の家に行くのだからと弥生が主張した︶。遅くまで教師
の手伝いをしていたクラス委員が欠席者への届け物に訪れたとでも
解釈したのだろう。
﹁クラス単位の連絡があるわけではありませんわ。わたくしはD組
の森弥生と申します﹂
134
﹁僕は同じB組の宇野梓。ところで、さっきの男の人⋮⋮﹂
おや、と弥生は思う。梓は自分と同様、どころかたぶんそれ以上
に、一直線な野球バカかと見ていたのだが、男女関係にもそれなり
に関心があるとは。
﹁去年キヨミズ野球部のキャプテンだった山本さん?﹂
前言撤回。やっぱりこの子は野球バカだ。
﹁え、ええ⋮⋮﹂
﹁やっぱりそうなんだ。去年の夏の大会で、何度かインタビュー受
けてたから顔に覚えがあったんだけど⋮⋮今は大学生? 野球続け
てるの?﹂
﹁野球は、その、休んでるみたいです。⋮⋮えっと、大学は、勉強
が難しいみたいで﹂
小笠原優は、どこか奥歯に物が挟まったような言い方で答えた。
﹁そうなんだ。でももったいないなあ。プロでも通用しそうないい
キャッチャーなのに﹂
﹁そ、そんなことないですよ。リードは下手くそですしキャッチン
グは失敗だらけですしバッティングもなっちゃいないですし﹂
幼なじみゆえか、優のコメントはやたらと厳しかった。
﹁そこまで辛辣な言い方しなくても⋮⋮﹂
そんな会話を聞きながら、弥生はふと、自分たちの立場を思い出
した。
﹁ええと、山本さんに関してはわたくしも梓さんと同意見なのです
が、とりあえず外に出ませんか? この近くにある公園なり広場な
りでお話ができればと思うのですけれど﹂
今日は休んでいたという話だが、現在は身体を動かすのに支障も
なさそうである。
﹁外、ですか?﹂
﹁うん!﹂
梓がにっこり笑って肯く。
﹁昨日、君のこと野球部で見かけたけど、キャッチャーやりたいっ
135
て言ってたよね? 僕のボールを受けてもらいたいんだ﹂
梓が言うと、廊下の角から山本が顔を覗かせた。そのまま優を庇
うように進み出る。
﹁あの⋮⋮優は、ちょっと疲れてるんで、そういう話はやめてもら
えないかな﹂
﹁盗み聞きは感心しませんわよ。いくら可愛い幼なじみが気になる
からって﹂
﹁いえ! あの、別に、そういうんじゃなくって﹂
弥生に軽くからかわれただけでうろたえる山本を制し、優が言っ
た。
﹁近くに公園があります。そこへ﹂
﹁大丈夫なの、た︱︱優?﹂
幼なじみを案ずるあまりか、何か口が回っていない山本に、優は
答えた。
﹁大丈夫よ、猛お兄ちゃん﹂
隅に砂場とブランコが設置された小さい公園には、陽が沈みきっ
た今では誰もいない。弥生たちがそこに着くとすぐさま優は口を開
いた。
﹁あなたたちは、野球部の人ですか? 今の野球部に、入れたんで
すか?﹂
﹁残念ながら僕たちも門前払い。でも野球はやりたかったから、成
り行きもあって、女子野球部を作ることにしたんだ﹂
ベンチにスポーツバッグを置いててきぱきとジャージに着替えな
がら、梓が応じる。
﹁⋮⋮女子野球部﹂
思いがけない答えを聞いたようにぼんやりしている優に、弥生は
畳み掛けた。
﹁エースはこちらの宇野梓。うまくメンバーを揃えられたら、二ヶ
月後に男子野球部と校内代表決定戦をする手はずまでは整っていま
136
すわ。そこで勝てば、甲子園予選にわたくしたちが出場することに
なりますの﹂
﹁男子と試合、ですか⋮⋮﹂
優の表情が暗く沈んでいく。まあ、いきなり聞かされれば恐れを
なすのも無理はない。
﹁そりゃ、相手は強いでしょうけれど、決して戦えないほどの力の
差はありませんわ。梓さんのピッチングをご覧になれば︱︱﹂
弥生を遮り、着替え終わった梓が訊ねた。
﹁男子は、怖い?﹂
そっちの問題か、と弥生は合点が行った。
優のマンションへ向かう道すがら、昨日の入部申し込みの際に優
が泣かされていたという話を、弥生も梓から聞いていた。
﹁だったら試合の無理強いはしないけど⋮⋮とりあえず、僕らの部
に入ってみない?﹂
準備よく用意していたミットを、梓は優に放り投げる。おっかな
びっくりという風情ではあったが、優はそれを受け取った。そして
梓自身もグラブを嵌める。
優がミットを嵌めると、まずは立ったままのキャッチボールが始
まった。
公園の中でぽつんと光る外灯の下。白いボールが最初はゆっくり
と、次第に速く、二人の間を行き来する。
そのうち梓が、ボールをコントロールして優の取りづらい方へ投
げたりし始める。お返しとばかりに優も、梓がジャンプしなければ
届かないような球を投げ返す。もちろん相手が絶対取れないような
ボールは投げない。
どちらも無言。けれど脇から見ている弥生にも、二人がキャッチ
ボールを通じて相手に深く興味を抱きつつあることが見て取れた。
そのうちに二人は離れ出し、やがて互いの距離が十八メートルほ
どになったところで、優が腰を下ろしてミットを構えた。
多少ぎこちない観はあったが、それは紛れもない本職のキャッチ
137
ャーの姿だった。
梓もそれまでとは違う、ピッチャーとしての投球動作に入る。大
き目のポニーテールがぴょこんと弾むように跳ねた。
右のサイドスローから、まずはど真ん中への直球。優のミットが
小気味よい音を立てて梓のボールを受け止める。
二球目。まったく同じモーション、同じタイミングで投げられた
球は、落ちるカーブ。優は動じずに身体を沈め、ミットを下げずに
捕球した。
︱︱あ、巧い。
ミットだけ下げると、審判にボールの判定をされる恐れが高まる。
この子はボールの捕り方を知っていると弥生は思った。
ピッチャーから見て右に曲がるシュート。左に曲がるスライダー。
弥生が難儀した変化球の数々を、優はどれも難なくミットに収めて
いく。捕球の技術自体が高度だし、ボールへの反応もいい。
と、次に梓は大きく振りかぶった。
オーバースローの右腕から放たれたボールは、ストライクゾーン
に入る寸前からストンと急角度に落ちる。弥生は思わず叫んだ。
﹁梓さん、あなた、フォークまで投げられますの?﹂
﹁うん。昼間は弥生ちゃんが取れるかどうか不安だったから使わな
かったけど﹂
﹁⋮⋮賢明な判断でしたわね﹂
弥生なら後ろに逸らしていた可能性はかなり高かったろう。そし
て目の前の優は、落差が大きく地面にワンバウンドしたボールを、
それでも冷静にキャッチしていた。
優が立ち上がった。
梓のもとに歩み寄り、その右手を手に取ってしげしげと眺める。
﹁⋮⋮手、大きいね。指も、フォークを投げられるくらい長い﹂
フォークは基本的に人差し指と中指の間にボールを挟んで投げる。
ある程度の指の長さが求められる変化球だ。
︱︱今の俺じゃ、まあ無理だろうな。
138
弥生は﹃弥生﹄の、﹃修平﹄に比べるとはるかに小さい手を見下
ろした。
﹁うん。握力もけっこうあると思う﹂
﹁故障したことは?﹂
﹁一度もないよ。変化球の投げ方はしっかり勉強したからね﹂
﹁今度は、私が構えたところに指示したボールを投げてみて。でき
る?﹂
次第に優の声に熱がこもってきた。
﹁ストライクゾーンの中なら、どこへでも。でもまだ変化球全部見
せてないよ﹂
﹁⋮⋮え?﹂
﹁チェンジアップとシンカーとナックル。後はカットボールもとり
あえずできるよ。それ以外にもいくつか練習中﹂
﹁アンダースローでも投げられること、言い忘れたら駄目ですわよ﹂
弥生が言い足す頃には、優は金銀財宝の山を前にした冒険者みた
いな顔になっていた。
キャッチャーの求める理想のピッチャーがどんなものかは人にも
よるだろうが、コントロールが良くて球種の多彩な梓というピッチ
ャーは、優のお気に召したらしい。
﹁じゃ、じゃ、じゃあ、フォームと球種両方言うから、それでやっ
てみて!﹂
返事も待たずに元いた位置に駆け戻ると、優は次々と指示を出す。
その声は、ずいぶんと弾んでいた。
そして梓は、その指示をすべてこなし、同時に完璧なコントロー
ルも披露してみせた。
三十球ほど投げたところで、優はまた梓に駆け寄る。
﹁息、全然上がってないね﹂
﹁これくらいならね。朝晩走って鍛えてるから、スタミナはそれな
りにあるはず﹂
139
﹁こんなすごい女の子がいるなんて⋮⋮信じられない﹂
うっとりしたように呟く優だが、彼女のキャッチャーとしての技
量もかなり﹃女の子﹄離れしたものである。まあ、信じられないの
は弥生も同感だ。
﹁⋮⋮梓さん、あなた、何者ですの?﹂
﹁んー、野球が大好きな可愛い女の子?﹂
﹁﹃可愛い﹄とか自分で言わないでくださいな﹂
ボケと突っ込みが一通り済んだところで様子を窺えば、優も笑っ
ている。最初に会った時の沈んだ様子はもう見られない。
﹁小笠原さん。わたくしたちのチームのキャッチャー、引き受けて
くださいますか?﹂
﹁は、はい! 喜んで!﹂
﹁よろしくね、優ちゃん!﹂
﹁こ、こっちこそ!!﹂
優は梓の手を、壊れ物を扱うように、やがてしっかりと強く、握
り返した。
﹁ところで、キャッチャーの技術は山本さんに教わりましたの?﹂
どうにも気になっていたことを、弥生は訊ねてみた。
﹁え、あ⋮⋮そ、そんなとこです﹂
どうも彼絡みの話になると優はひどく動揺するようである。
﹁今はOBということになるのでしたら⋮⋮あの人に男子野球部の
連中をビシッと叱っていただいたりできないものでしょうか? 別
に今さら未練はありませんけど、部の雰囲気があんなでは有望な人
材も逃げてしまう危険性がありますわよ。キヨミズの野球部が没落
する様なんて見たいわけじゃありませんし﹂
思わず言ってしまったら、早速梓から突っ込みが入る。
﹁うーん、でも、それはやっぱり現役の取り組む問題じゃないかな。
退場した人は、救いを求められでもしない限りは、出しゃばっちゃ
いけないと思う﹂
そして優の方は、深々と頭を下げた。
140
﹁あの⋮⋮ごめんなさい。でも、猛お兄ちゃんは今すごく苦労して
て、その、迷惑かけたくないんです。本人も気に病んではいるんで
すけど﹂
そして顔を上げると、きっぱりと言った。
﹁代わりに、私が試合でがんばりますから。あんな男子はみんなコ
テンパンにやっつけちゃって、心底反省させちゃえばいいんです﹂
﹁頼もしい言葉ですわ﹂
皮肉でなく、弥生は思った。
141
第二部﹁少女たちは集う﹂第五章﹁七人目﹂
﹁はい、お弁当﹂
﹁サンキュ﹂
梓たちと出会った翌朝、優は学校へ行く支度をてきぱきと整えて
いた。
休んでしまった昨日はもとより、一昨日と比べても、はっきりと
自分の心境が変化したことがわかる。闘志が湧いてきたのを自分で
も感じていた。
﹁あーあ。なんか、妬けちゃう﹂
と、鞄に弁当箱を入れる優を眺めていた猛が、不意にこぼした。
﹁え?﹂
﹁入れ替わってからの猛ちゃん、あたしが何言ってもどこか元気な
かったのに、野球ができるって決まったらとたんに生き生きしちゃ
ってるんだもん﹂
ぷいとそっぽを向いて流しで洗い物を始める猛を見て、優は入れ
替わる以前にもこんなやり取りがあったことを思い出す。
ちょうど一年くらい前だろうか。正捕手の座を獲得した上キャプ
テンにも選ばれて、それまで以上に無我夢中で野球に取り組んでい
た、そんな時期のある日の晩。自室でその日最後のトレーニングを
終えた猛のもとへ、タイミングを見計らうように優が遊びに来た。
遊びと言っても、特に何をするでもない。飲み物を飲みながらお
しゃべりする程度のひと時。それまではいつもつきあってきたこと
だけど、その日は疲れがひどくて断った。
その時の、猛に対してはめったに不平不満を言わない優の漏らし
た言葉。
︱︱野球の練習は十時間できても、あたしと十分間話すのはでき
ないんだ。
表面的にはそれきり後を引かなかったが、猛にとっては、ずっと
142
小骨のように心の中に引っかかっている言葉だった。
あれからしばらく考えて、でも改めて言う機会のなかった返事を、
今の優は口にした。
﹁その、食べることと寝ることみたいにさ、どっちが欠けても駄目
なことって、あると思うんだ。寝られないと、どんなうまいご飯食
べていてもそのうちまずくなるし、まともなものを食べられなけれ
ば、ふかふかの布団で気が済むまで寝ても、やっぱり苦しい﹂
口にすると想像していた以上に恥ずかしくなる。やや早口気味に、
優は続ける。
﹁だから、俺にとっちゃ、野球も⋮⋮野球以外のことも、両方なく
ちゃ駄目で、つまり、その、野球さえできればいいってわけじゃな
くて!﹂
猛が振り向きそうだったので、先に優は猛の背中にしがみついた。
熱くなった顔を猛の背中に押し当てて言った。
﹁⋮⋮いつも、ありがとな。あんまり口に出して言ってこなかった
けど、優がずっとそばにいてくれるから、俺、ずっとがんばってこ
れたんだ﹂
リトルリーグの頃から、試合のたびに猛の親と一緒に応援に来て
くれた優。勝っても負けても猛以上に感情を顕わにし、励ましてく
れる優。大きな大会の前には手製のお守りを作ってくれる優。
﹁⋮⋮あたしこそ、ありがと。はっきり言葉にしてもらえると、や
っぱりうれしいもん﹂
背中越しに、猛の声で本来の優が答える。その真面目な受け答え
に、ますます気恥ずかしくなって、優は現状維持を続けてしまう。
Tシャツ一枚越しに感じる猛の体温。それを上回って火照る優の
顔。相手も感じ取っているに違いないという確信が、その火照りを
さらに強める。
︱︱﹃俺﹄の背中って大きいんだな⋮⋮。
﹁ところで﹂
﹁な、何だ?﹂
143
おかしなことを考えそうになっていたところへ声をかけられて、
優は慌てて応じた。
﹁昨夜、猛ちゃん、あたしのこと﹃猛お兄ちゃん﹄って呼んでたわ
よね。どうしてあたしが呼ぶように﹃猛ちゃん﹄じゃないの?﹂
優に向き直って、猛が問う。
﹁え、その⋮⋮だって、﹃猛ちゃん﹄じゃ、ただの幼なじみじゃな
くて、まるで恋人同士みたいで、恥ずかしくって⋮⋮﹂
しどろもどろにそう答えると、猛は小さい子供をからかうような
笑みを浮かべる。
﹁あたしは入れ替わる前、﹃猛ちゃん﹄って呼び方で周りのみんな
に猛ちゃんのことを話してたけど?﹂
﹁そ、それは別に、優がそう話すのはいいけど、でも、俺は⋮⋮﹂
﹁ふむ。つまり猛ちゃんは、あたしたちが恋人同士であることは認
めても、自分がそれを公言するのが照れ臭いってこと?﹂
﹁え⋮⋮えっと、その⋮⋮﹂
猛の﹃恋人同士﹄という言葉に、優はひどく取り乱す。さっきの
猛の背中の感触を思い出し、なぜだか頬がどんどん熱くなる。
その時、玄関のチャイムが鳴った。
﹁あ、あの、きっと、宇野さんか森さんが迎えに来たから。行って
来る!﹂
鞄やバッグをひっつかむと、優は猛の追及から逃れるように部屋
の外へ飛び出した。
﹁おはようございます。⋮⋮って、小笠原さん、熱でもありますの
?﹂
迎えに来た弥生は、優の顔を見ると形の良い眉を心配そうにひそ
めた。日の光の下で改めて見る彼女の顔は実に整っていて、深窓の
令嬢という言葉などが似合いそうだった。
﹁だ、大丈夫です。早く下に降りましょ﹂
ごまかそうとしたが、弥生には感づかれたらしい。唇が軽く笑っ
144
ていた。
部屋のある二階から降りて、マンションのエントランスを抜ける。
門の手前のやや広いスペースで、二人は梓たちを待つ。
﹁昨夜家で一年生の名簿をチェックしたのですけれど、小笠原さん
と梓さんのクラスに、ぜひとも獲得したい人材がいましたわ﹂
そう切り出して、弥生は田口雪絵という名を口にした。
﹁すごい子、なんですか?﹂
三歳下の女子まではさすがに知らないのでそう応じるしかなかっ
たが、その鈍い反応は弥生のお気に召さなかったようだ。
﹁リトルリーグ時代、最高のプレーヤーとして鳴らした子ですわ。
⋮⋮大西義塾へ野球留学した稲葉はご存知でしょう?﹂
今度は辛うじて知っていた。高校入学以前から超高校級と騒がれ
ていた、打って良し投げて良しの大物だ。
現在入院中のキヨミズの前監督が、去年の秋から部活指導の合間
を縫ってスカウトに取り組んでいた姿を覚えている。その甲斐もな
く、甲子園での優勝が一番狙いやすいからという理由で、少年はは
るばる関西の高校を選んでしまったのだが。
﹁その稲葉がリトルリーグにおいて、ピッチャーとしてもバッター
としても一度たりとて勝てなかったのが、田口雪絵ですの﹂
それはすごいと言えばすごい、が。
﹁⋮⋮三年前の力がどれほど参考になるかしら。男女の体格差はど
んどん大きくなるし﹂
﹁わたくしも、今、彼女が稲葉に勝てるとまでは思いませんけれど。
でも猫の手でも借りたいこの状況では、願ってもない戦力には違い
ありませんわ﹂
﹁それは、そうですね﹂
優は同意の相槌を打つ。考えてみればまだ試合もできない部員数
なのだ。
﹁じゃあ、私と宇野さんで誘ってみますね。放課後、森さんが合流
する前に仲間にできていればいいんですけど⋮⋮﹂
145
そう言って弥生を見ると、お嬢様は少し唇を尖らせていた。
﹁どうしたんですか? 森さん﹂
﹁⋮⋮どうも口調が硬いですわね﹂
優は一瞬、入れ替わりがばれでもしたかと焦ったが、そんなわけ
はないと思い直す。
﹁同学年に敬語を使うのはやめてくださいません? 聞いていて背
中の辺りがむずむずしますの﹂
﹁⋮⋮いや、あの、お嬢言葉全開の森さんにそういうことを言われ
ても﹂
思わず素に近い口の利き方をしたが、弥生はむしろうれしそうな
顔になった。
﹁わたくしのこれは、まあ、習い性みたいなものですわ。お気にな
さらないで﹂
優の突っ込みを平然と受け流す。
﹁弥生と呼んでくださいません? わたくしも、あなたのことを名
前で呼びたいですし﹂
﹁う、うん。⋮⋮弥生、さん﹂
女の子を名前で呼ぶことなど優以外に経験がなかった。緊張した
が、弥生はにっこりと微笑んでくれた。
﹁梓さんと美紀さんが来ましたわ、優さん﹂
﹁三人でスタートした部が一晩経ったら六人か。これなら明日には
九人以上揃うかね﹂
優たちと挨拶を交わした村上美紀は、ざっくばらんな口調で言う
と笑みを浮かべた。不敵と形容したくなる、鋭い笑顔だった。
彼女こそが、梓と弥生を焚きつけて女子野球部を立ち上げた張本
人。そして昨夜、自らも部員勧誘に挑んで二人の獲得に成功したと
のこと。
﹁それで⋮⋮その大量の漫画は?﹂
美紀の荷物に、優より先に弥生が突っ込んだ。鞄の他に、美紀は
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漫画の詰まった紙袋を三つほど持っている。
﹁昨日スカウトした片方が、野球のルール知らないなんて言うもん
でね。まずはこいつで勉強してもらおうかと﹂
紙袋を覗き込めば、優もかつて熱心に読んだ野球漫画の古典。
﹁⋮⋮まあ、一人はド素人として、もう一人の方は経験者でしょう
か?﹂
﹁⋮⋮えーっと、そう呼ぶにはちょいと無理があるかな。野球漫画
は各種熟読してるって話だから、ルールは問題なく覚えてるはずな
んだけど⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
弥生が顔を強張らせる。軽い不信が顔に浮かび、しかめ面一歩手
前という感じ。
﹁で、でもね、弥生ちゃん。二人とも身体能力はかなりのものなん
だって﹂
と、美紀とは幼なじみのお隣さんだという梓がフォローにかかっ
た。
﹁それに、その⋮⋮美紀姉ちゃんが目をつけた人なんだから、きっ
と只者じゃないよ!﹂
どれほどの信頼関係が成立してるのか、やけにきっぱりと断言す
る梓。
﹁⋮⋮梓さんがそう言うなら、大丈夫ね﹂
弥生に言い聞かせる意味も込めて、優は口を挟んだ。
美紀はまだ信用できなくても、梓なら信じることが︱︱。
﹁あたしは信用できなくても、梓のことは信じられるかな?﹂
優の心を読んだように、美紀が声をかけてきた。
﹁! その、あの⋮⋮﹂
図星を突かれて動揺する優。笑う美紀。
﹁どうやらいいキャッチャーさんに出会えたようだね、梓﹂
﹁うん!﹂
梓が美紀にこっくり肯く。そんな二人を眺める弥生は、優に顔を
147
向けると苦笑し、それ以上は不満を面に表さなかった。
貸す相手の住処に漫画を置いてくるということで、学校の近くで
美紀とは別れた。相手は学校のずいぶん近くに住んでいるらしい。
﹁予想外に早く着きましたわね﹂
校門に差し掛かったところで腕時計を見ながら弥生が言う。
﹁みんな早起きだね﹂
昨夜のうちに優のマンション前で待ち合わせると三人で決めたわ
けだが、美紀を加えた四人が集まったのは予定よりも十五分ばかり
早かった。
﹁⋮⋮何だかわくわくしちゃって、今朝は目覚ましが鳴る前に目が
覚めちゃった﹂
優が二人に言うと、梓も弥生も笑って肯いた。
二人ともまるで屈託がない。二ヶ月後には男子野球部︱︱甲子園
優勝を目標に掲げる、実際にその目標を射程に収めている、そんな
チームと戦うというのに。
だが優自身、心の昂ぶりは否定のしようもない。
﹁わたくしもB組に顔を出してよろしいでしょうか? もし田口さ
んが登校していらしたら、その場で勧誘してしまいたいですし﹂
﹁あ、その可能性はあるよね!﹂
﹁弥生さんは田口さんの顔を知ってるの?﹂
新しい高校生活三日目の上に昨日は休んでしまった優は、クラス
メートの顔をまだ覚えていない。田口雪絵の存在をなぜか知らなか
ったらしい梓も同様だ。
﹁何度か見かけたことはありますわ。ちょっとしたアイドル並に可
愛い顔をしてらして、男子の間ではかなり人気があった⋮⋮らしい
ですわね﹂
D組に荷物を手早く置いてきた弥生とともに、優たちはB組に向
かった。
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田口雪絵は、まだ人の少ない一年B組の教室で、教科書をぼんや
り眺めていた。
雪絵の身体になってからも陽介だった時と変わらず、朝は早くに
目が覚めた。陽介としての魂に朝練などの記憶が焼きついているか
らか、雪絵の身体に早起きしてトレーニングに努めていた習慣が身
についているからか。純二はその辺を気にしているようだが、雪絵
にとってはどうでもいいことだ。
身体を交換されて十日が過ぎ、今の生活は悪い意味で安定してき
ている。夕食前のひと時、純二にいくつか検査を受け、質問をされ
る。それ以外は何をしてても咎められない。
こちらに気を遣ってと言うよりは、実験対象に余計な刺激を与え
ないというコンセプトによるものなのだろう。もし逃げても、帰る
家も、助けを求める相手も思いつかないし。一度﹃陽介﹄の家へ駆
けて行ったこともあったが、道端で鉢合わせした﹃母親﹄の見知ら
ぬ少女を見るような目に耐えられなくなり、結局田口家へ引き返し
た。
それでもだだっ広い家に見知らぬ﹃父親﹄と二人だけでいるのは
とても居心地が悪く、入学式までの休みの期間、なるべく昼は外出
していた。街中を歩いていると男がナンパしてくるので、公園だの
河原だのひと気の少ない林の中だのをぶらつき歩いた。
そんな内面的には荒んだ暮らしの中、雪絵は無気力感に囚われつ
つあった。
純二たちの言葉を信じれば一年後には、大西義塾のレギュラーと
して夏と春の甲子園に出場、満足して野球への未練を断ち切った陽
介が身体を返してくれるとのこと。その言葉を素直に信じれば、元
に戻った後に備えて野球の練習に励むのがベストだろう。
だが、もし向こうが﹃陽介﹄の身体と立場に満足したら、そのま
ましらばっくれてしまえばいい。雪絵には対抗手段がないのだから
泣き寝入りするしかない。そして陽介がそうしないという確信が、
雪絵にはまったく持てなかった。
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そうした不安の根底にあるのは、入れ替わりを賭けた二度の勝負
の記憶。入れ替わった状態で惨敗したことはもとより、本来の身体
で戦って勝ちきれなかったことが、雪絵の心には傷となって残って
いた。
自分に自信が持てない。あの時に言われた﹁野球のセンス﹂とい
う言葉が、とてつもない重みを伴って心を押しつぶす。
今教室で教科書を開いているのは、勉強でもする他ないかという
意識ゆえ。頭が良くなれば純二の研究を理解して自力で元に戻れる
かもという積極性もいくらかはあれど、野球以外にすることが思い
つかないための消去法的な発想が何より大きかった。
と、教室に三人の女子が入って来た。
教科書を黙々と読んでいるのが田口雪絵と聞かされて、優は意外
な気がした。これまで弥生が話していたイメージとずいぶん食い違
っていたからだ。もっともそれは、弥生にしても予想外だったらし
い。頭は悪いわけでもないが、勉強家ではないとのこと。
﹁まあ、まずは当たってみるだけですわね﹂
弥生はそう言ってずんずん席に近づいていく。後を追う優は、少
し嫌な予感がした。
﹁田口雪絵さん。女子野球部に入ってくださいません?﹂
何のひねりもないあまりにストレートな勧誘。昨夜の自分も似た
ような誘われ方だったが、優の場合は野球部に入部しようとしてい
たという事前情報があったわけで、誰にでも使っていいやり口では
ないだろう。
悪い予感は当たりやすいもので、雪絵はツインテールの可愛らし
い顔立ちにふさわしからぬ剣呑な目つきで、こちらを睨んできた。
﹁なんだ? てめえら﹂
﹁わたくしは一年D組の森弥生。こちらはこのクラスの宇野梓さん
と、小笠原優さんですわ。今度女子野球部を結成して男子野球部と
試合をする予定ですの。あなたにも加入していただければ心強いと
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思いまして﹂
﹁俺は野球になんか興味ねーよ﹂
想像をはるかに超えて蓮っ葉で冷淡な口調に、優のみならず梓も
腰が引けそうになっている。それでも弥生は果敢に前へ出続けた。
﹁そんな見え見えの嘘をつくこともないでしょうに。大西義塾へ野
球留学した稲葉陽介がリトルリーグ時代に手も足も出なかった天才
少女は、それなりに有名でしてよ﹂
その時、つまらなそうに相手をしていた雪絵の表情が一変した。
﹁その名前は口にすんな!!﹂
教室中が静まり返るほどの怒声。クラスメート全員の視線がこち
らに集中する。
優は、突然怒鳴られて怒りに顔を引きつらせている弥生の腕を引
いて、耳打ちした。
﹁弥生さん、もうすぐ授業が始まるから。とりあえず教室に戻って﹂
﹁ですけれど⋮⋮﹂
﹁ひとまずここは、私と梓がやってみるわ﹂
口にしながらも、梓は今回役に立たないような気がした。一本気
な弥生や梓では頑なになっている相手には弱い。正面からぶつかっ
て弾かれるだけだろう。
﹁てめえら、二度と近寄るなよ﹂
周囲の視線もものともせずこちらを睥睨する雪絵に、優は小さく
ため息をついた。
少しばかり骨が折れそうな相手だ。
打者と対戦するに際して重要なのは、相手の能力や性格性向を把
握することだ。レベルの低いバッターなら手の出ない苦手なコース
を突き止めればおしまい。苦手など克服した強打者なら、逆に好き
なコースからボール一個外れるようなところへ投げさせることで、
打ち損じを誘える。
まだオリエンテーション中心の授業時間、優は雪絵をこっそり観
151
察した。
どの時間も寝ていた。
だが最初から授業を受ける気もなく寝ているわけではない。まず
教師が説明を始める時は起きて話を聞いている。それが終わって雑
談めいた話題になると、寝まいといくばくかの努力はするようだが、
次第に船を漕ぎ出すのだった。
朝教科書を読んでいたことと考え合わせると、勉強をするつもり
はあるが気合を入れるほど強い意志でもないというところか。
そして休み時間や昼休み。男女問わず、友達を作るには至ってい
ないらしく、ぽつんと席についている。昼休みに別のクラスの誰か
が食事を誘いに来るということもない。話しかけられればそっけな
いながらも返事はするが、自分から積極的に人づきあいをしようと
いう雰囲気ではない。
その二つの観察と、朝の弥生とのやり取りから、優は雪絵をどう
攻めるかを考えた。
放課後。帰り支度を手早く済ませて席を立とうとした雪絵の前に、
優は進み出た。
﹁てめえ、今朝言っただろ︱︱﹂
﹁稲葉陽介を、甲子園で倒したくないですか?﹂
相手の罵声を遮って、優は推測しうる唯一の決め球を放った。
続けようとした言葉を雪絵が止めた時、優は大きな手応えを感じ
た。
長年好きで続けてきた何かをやめるのは、主に四つの理由による。
夢中になれる別の何かを見つけたか、続けられる環境でなくなった
からか、飽きたか、それにまつわる不快な出来事があったからか。
今日一日の学校での暮らしを見るに、一番目の理由はない。二番
目の理由も説得力には乏しい。三番目の理由は、朝の激しい態度が
否定している。
ゆえに有力候補と推測するのは四番目。きっかけは恐らく稲葉陽
152
介。かつて自分のいいカモだったライバルが夏春夏の甲子園三連覇
を狙う有力校にスカウトされ、自分には声がかからない。それはプ
ライドの高い人間にとってはさぞ屈辱的なことだろうと、優は見当
をつけた。
だから、それを克服できるとそそのかしてみた。
﹁⋮⋮女子野球部なんかで甲子園に行けるかよ﹂
﹁あなたが入れば、行けるかもしれません。少なくとも投手は、キ
ヨミズの男子野球部にだって立ち向かえる逸材です﹂
﹁⋮⋮嘘つけ。そんな女いるわけねーだろ﹂
﹁なら、今から確かめてみませんか?﹂
雪絵に応じながら、後ろでおろおろと見守っていた梓を手招きす
る。
﹁きっと一球見ればびっくりして、私たちと一緒に戦いたいと思い
ますよ﹂
とどめとばかりに一押し。
幸い、雪絵は乗ってきた。
﹁⋮⋮びっくりしなかったら承知しねーからな﹂
﹁はい。その時はご自由に﹂
勝利を確信した優は、にこやかに笑いながら、投球練習のできる
学校近くの空き地へと梓と雪絵を導いていった。
153
第二部﹁少女たちは集う﹂第六章﹁八人目、九人目﹂
自宅の居間にいた悟を、昨日や一昨日と同じ感覚が包む。時刻は
三時半。
気がつくと、悟はまたシャーロットの身体になって、見慣れぬ学
校の階段下に腰掛けていた。周囲を見回すと、屋上に上がる手前の
階段らしい。どうやらシャルが、入れ替わり直後の悟が困らないよ
うに、ひと気のないこの場所を選んでくれたようだ。
立ち上がろうとして、スカートの膝上にメモが数枚置かれている
のを見つけた。
日本人よりよほど丁寧で上手なシャーロットの字が、悟に今から
注意すべき点を伝えてくれる。現在地から昇降口までの位置や、村
上美紀たち女子野球部メンバーとの合流場所など、昨夜校舎の地図
を見ておいただけでは不安な情報が入念にフォローされ、さらには
﹃シャーロット﹄に声をかけてきそうな相手やその場合の対処法ま
で記されていた。
そして最後には﹃怪我には気をつけて、無理はしないでね﹄との
添え書き。
﹁⋮⋮漫画に出てくる、世話焼きなお母さんみたい﹂
実の母親より母親めいていると思いつつ、シャーロットの声で悟
は少しぼやく。
だが、シャルの気遣いはやはりありがたいし、実際に役に立つ。
メモをきちんと暗記して、昨夜写真で見た美紀の顔を脳裏で再確認
しつつ、悟は階段を降りていった。
真理乃はおどおどと、指定された集合場所に足を運んだ。美紀の
他にもう一人、長い髪にウエーブのかかった、品の良さそうな女子
が居合わせていた。
近寄るより先に美紀が声をかけてくる。
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﹁二人は初顔合わせだね。一年A組の藤田真理乃に、一年D組の森
弥生﹂
﹁よ、よろしくお願いします﹂
﹁同学年ですから、敬語は不要ですわ﹂
気品ある容姿にふさわしいお嬢様めいた言葉遣いで、弥生は話し
かけてきた。
﹁ピッチャーとキャッチャーは七人目をゲットするために別行動中
って話。で、もう一人二年生がここに来るはずなんだけど⋮⋮﹂
説明しながら美紀が腕時計を見て眉をひそめた時。
﹁お、遅くナリマーシタ。ごめんなさい!﹂
やけに背の高い女子が、珍妙なアクセントの言葉とともに飛び込
んで来た。見れば、金髪に青い瞳の外国人。ショートカットがよく
似合う、可愛い女の子だ。
美紀は一瞬怪訝そうな顔をしてその少女を眺めたが、すぐに話し
始めた。
﹁ま、今度からは気をつけておくれ。紹介するよ。あたしのクラス
メートでアメリカからの留学生、シャーロット・L・ミラー﹂
﹁よ、よろしくお願いシマース﹂
留学生は大柄な身体を不器用に折り曲げ、ぺこりと挨拶する。し
ゃべり方は少々胡散臭いが、性格は悪くなさそうだ。
﹁さて。梓さんたちをただ待つのも時間のロスですし、練習を始め
たいと思うのですが。美紀さん、練習場所に心当たりがあるとのこ
とでしたわね?﹂
自己紹介直後の互いに相手の出方を伺うような空気を打ち破って、
弥生が口を開いた。
﹁ああ。正確には真理乃が知ってる﹂
﹁え、ええっ?﹂
いきなり話題を振られて真理乃がうろたえるところへ、美紀が畳
み掛けた。
﹁この子は理事長の家の親戚でね。あの裏山もよく遊び歩いたって
155
話だ。穴場にも詳しいはずだから、案内してもらっておくれ﹂
学校裏手に広がる清水家の敷地を指しながら、美紀は地面に置い
ていた鞄を手に取る。
確かに、理事長の家の親戚というのは間違いでもないし、敷地内
で部活の練習ができそうなスペースにも心当たりはあるが、そうい
う話は事前に真理乃本人にも伝えてほしい。こちらは昨日の晩に野
球部に入れとだけ指示されたばかりで、グラブもバットも持たない
まま、右も左もわからず付き従っている状態なのだから。
﹁美紀さんご自身は?﹂
﹁部員候補にアタックしてくる。練習は経験者の弥生に仕切ってほ
しいんだが、どう?﹂
﹁⋮⋮それがベストのようですわね。任せてくださいませ﹂
テンポよく話をまとめると、美紀は去っていった。そして弥生が
真理乃に向き直る。
﹁では、案内をお願いいたしますわ﹂
﹁は⋮⋮はい⋮⋮﹂
昨日会ったばかりとは言え面識のあった美紀がいなくなり、真理
乃は緊張してしまう。誠三郎だった時は人見知りしない質だったの
に、これも真理乃の性格設定ゆえか。
と、弥生が表情を和らげ、にこやかに微笑んで言った。
﹁硬くなることはありませんわ。チームメイトなんですもの、仲良
くやりましょう﹂
﹁リラックス、リラックスね、真理乃さん﹂
シャーロットも近寄って来て、背中をぽんぽんと叩いてくれる。
︱︱二人とも、いい人みたい。
絵に描いたようなお嬢様に、絵に描いたような外国人。キャラク
ターの濃さでは美紀をも上回りそうな二人だが、彼女のようなシビ
アさは感じない。
優しい言葉をかけてもらったことで、真理乃はとりあえず安心で
きた。
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﹁は、はい。えっと⋮⋮練習できそうな場所は、こっちです!﹂
林をしばらく奥に進むと、私有地を示す金網のフェンスに突き当
たる。だが生い茂る潅木を掻き分けると、そのフェンスが一部破れ
て内部に入り込めるようになっている。
そこからほんの少し歩いただけで、開けた場所に出た。雑草は腰
くらいまで伸びているが、樹木の類は存在しない。シャーロットが
感嘆したように言った。
﹁広々してマスネ﹂
一辺が百五十メートルの正方形くらいのエリア。野球のグラウン
ドよりは広いだろう。
﹁元は、キヨミズの女子運動部の合宿所として開放されていたって
いう話です。十年くらい前に学校の敷地を拡充したから、少し遠い
こっちは用済みになって建物とかもほとんど壊されちゃいましたけ
ど﹂
林と境を接するところに用具置き場に使われていたプレハブが、
ぽつんと一つ。
ひとまずその中でジャージに着替え、三人は外に出た。
﹁ど、どうかしら? 森さん﹂
﹁弥生で結構ですわ﹂
真理乃が振り返れば、弥生は腕組みをして空き地を眺め回してい
る。
﹁広さは充分ですけれど、この雑草が問題ですわね。整地しないう
ちはキャッチボールと素振りとランニング⋮⋮後はせいぜいフライ
の捕球練習に⋮⋮﹂
しばらく呟き、それから我に返ったように真理乃とシャーロット
へ視線を向ける。
﹁お二人、野球はほとんど未経験ということでしたわね?﹂
問われて肯くと、弥生は﹁用心に持って来ておいてよかったです
わ﹂などと呟きつつ、バッグからグラブをいくつか取り出して、見
157
繕ったものを二人に手渡す。
﹁なら、今日はこの使い古しで勘弁してくださいな。いずれは自前
で手に合ったグラブを持っていただきたいところですけれど﹂
真理乃に与えられたのはシャーロットに渡されたものよりも古ぼ
けたグラブ。﹃吉田﹄と名前が入っている。
﹁吉田さんって、誰デスカ?﹂
シャーロットが自分の手にはめたグラブを見ながら弥生に訊ねた。
﹁友人ですわ。今は野球から一時遠ざかってますの﹂
自分は新品みたいなグラブをはめながら質問に答えると、弥生は
二人に言った。
﹁まずはキャッチボールから始めましょう﹂
真新しい硬球を手に取ると、一辺が五メートルほどの三角形を三
人で形作る。
﹁投げながら、少しずつ距離を広げて行ってくださいません? お
二人の遠投の能力なども測りたいですし﹂
そして、弥生は真理乃の胸元に柔らかくボールを投げてきた。
グラブで捕球し、右手に持ち替えてシャーロットの胸元に投げる。
それをシャーロットが捕って、弥生に投げる。弥生は数歩後ろに下
がると、また真理乃に投げてくる。真理乃もそれにならって距離を
広げてからシャーロットに投げる。
何球かそんなことを繰り返していると、心地好い感覚が心を包む
ような気がしてきた。
相手のボールを受ける。相手にボールを投げる。
その他愛ない行為が、やけに楽しい。ボールをやり取りするたび
に、全身がくすぐったくなるような気分。
会話のキャッチボールという言葉があるけれど、実際のキャッチ
ボールは下手な言葉を費やすよりもよっぽど気持ちよく相手と会話
しているように、真理乃には感じられた。
と、三角形が一辺二十メートルほどになった頃、どこか場違いな
電子音が鳴り響いた。
158
﹁すみません、わたくしの携帯ですわね﹂
弥生が駆け寄ってバッグから携帯を出す。画面を眺めると、小さ
く拳を握りしめた。
﹁どうしたんですか、弥生さん?﹂
﹁優さん︱︱キャッチャーをやってる子からの連絡が入りましたの。
もう一人部員を獲得できたようですわ﹂
そしてたどたどしい手つきでメールを打つと、手を軽く合わせる。
﹁顔を知ってるわたくしが迎えに行かなければならないので、すみ
ませんけれどお二人でキャッチボールを続けてくださいません?﹂
﹁わかりマシタ。イッテラッシャーイ﹂
﹁弥生さん、道わかる?﹂
﹁ご心配いりませんわ。方向感覚は悪くない方ですから﹂
言いながら、弥生は道を引き返して行く。
﹁⋮⋮人手が少ないのも大変デスネ﹂
シャーロットが真理乃に話しかけてきた。
﹁そうですね⋮⋮。わたしなんて、野球はしたことないのに、村上
先輩に引っぱってこられたくらいだし﹂
思わず愚痴をこぼすと、シャーロットは苦笑した。
﹁シャルも同じネ。あんまりスポーツとかは好きじゃないんだけど﹂
﹁でも、今のキャッチボールはずいぶん楽しそうでしたよ﹂
﹁⋮⋮そうネ。真理乃さん、キャッチボール続けマショ。今度はも
っと離れてみて﹂
﹁は、はい﹂
三十メートルほど離れてやってみる。自分もシャーロットも余裕
で投げ合える。
ではもう少し。まだまだ問題なし。さらに遠ざかって。
真理乃は自分の新たな身体の持つ能力に驚きつつ、どんどん距離
を広げていった。
﹁弥生さんが迎えに来るって﹂
159
﹁じゃ、出発しよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
雪絵は前を歩く宇野と小笠原について行きながら、まだ半ば呆然
としていた。
︱︱なんだ、こいつら。
最初に見せられたのが、自分が陽介だった時に苦労して覚えた球
を落差で大きく上回るフォーク。愕然とした表情を隠す間もなく小
笠原に見られてしまい、追い打ちとばかりに宇野が繰り出すカーブ
やシュートやスライダーを見てしまうと、もはやどんな強がりも言
えなくなった。そして駄目を押すように放たれた、ナックル。
正直、﹃陽介﹄の身体であっても打ち砕けそうにない変化球の数
々だった。
またそれをきっちりと捕球する小笠原も、女子とは思えない反応
の良さ。少なくともこのバッテリーが男子野球部に挑むのはまった
く不自然な話ではないと思われた。
もしかしたら、この二人はキヨミズの男子野球部を完封してしま
うかもしれない。そうなれば本当に女子野球部は甲子園に出場でき
てしまうかもしれない。大西義塾と試合をすることになって、雪絵
が陽介と対戦することさえ可能かもしれない。そこで勝てさえすれ
ば、十日前のあの敗北の雪辱を果たしたことになるかもしれない。
だが、そんな想像を広げる一方で、雪絵は居心地の悪さに近い感
覚も覚えていた。
︱︱こいつら、俺よりセンスがあるんだよな。
請われる形で女子野球部への入部に同意したものの、その期待に
応えるほどの働きができる自信を、今の雪絵は持てずにいた。
この﹃雪絵﹄の身体を使いこなせる気がしない。﹃陽介﹄の投げ
る速球にきりきり舞いしたように、男子野球部のピッチャーにも手
玉に取られてしまうかもしれない。塁に出ても走塁に失敗するかも
しれない。守備で足を引っぱるかもしれない。
これまで︱︱雪絵と対戦せずに済むようになった中学以降は特に
160
︱︱自信過剰気味に過ごしてきた元陽介の雪絵は、十日前のショッ
クからいまだに回復していなかった。
﹁あ、弥生ちゃん﹂
朝雪絵に話しかけてきた、気取った容姿の女がこちらに寄って来
た。森とか言ったか。
﹁ようこそ、女子野球部へ。歓迎いたしますわ﹂
気取った女は物言いまで気取ってる。雪絵は差し出された手にお
ざなりな握手をした。
﹁弥生ちゃん、今はどうなってるの?﹂
﹁美紀さんと新入部員二人と合流いたしましたわ。美紀さんは次の
候補の勧誘に向かい、わたくしたち三人は独自の練習場所に行った
ところでしたの﹂
﹁その二人は、どんな具合かしら?﹂
小笠原の質問に、森は小首を傾げる。
﹁まだ何とも言えませんわね。自前の道具も持ってない素人さん二
人ですから。ひとまずはキャッチボールを始めたところで優さんの
連絡が入って⋮⋮﹂
茂みの隙間に隠れたフェンスの切れ目から私有地らしき敷地に入
りつつ、森はそんなことを言った。
話す内容を聞いて、雪絵は少しばかり安堵する。
全員が全員男子顔負けの女ばかりではないようだ。いくら何でも、
野球をしたことのない素人なんかは目じゃない。この気取った女に
も、きっと勝てるだろう。
﹁あそこが、藤田真理乃さん提供の練習場所ですわ。もっとも、草
むしりして設備も整えないことには、専門的な練習は︱︱﹂
後ろを行く三人に目的地らしき開けた場所を手で示しつつ正面に
向き直った森が、ぽかんと口を開ける。
そしてそれは、雪絵も同じだった。
やけに背の高い外人の女が、右手に握ったボールを投げる。
はるか、はるか彼方、百メートルはないにせよ、八十メートル以
161
上は向こうにいる人影が、グラブを上げてボールを捕る。そして投
げ返す。
再び八十メートル以上の距離を越え、ボールはノーバウンドでこ
ちら側に戻ってきた。
﹁あ、オカエリナサーイ﹂
イントネーションのおかしい挨拶をしながら、外人女が手を振っ
た。向こう側の人影も雪絵たちに気づいたか駆け寄って来る。
﹁⋮⋮強肩自慢のライトとレフトが互いの定位置に立ったままキャ
ッチボールをすることが、たまにありますわね。プロ野球での話で
すけれど﹂
﹁⋮⋮私も、それ思い出した﹂
森と小笠原のそんな会話を雪絵はぼんやりと聞いていた。
﹁どうしてあたしを女子野球部に入れようなんて考えるのかな? 帰宅部の女子なら他にいくらでもいるでしょ﹂
昇降口を出たところで村上美紀と名乗る二年の女子に捕まった鮎
川一美は、とりあえずそう訊いてみた。
﹁二月の球技大会、ソフトボールの部、二年D組対一年A組の第一
打席。あのホームランを目にしたらなかなか忘れられませんよ﹂
言われて、あの時の相手チームに三つ編み眼鏡の子がいたことを
ぼんやり思い出す。
﹁適当に振り回してたら飛んだだけだって。あれ以外にホームラン
打ってないじゃん。凡退もしてたし﹂
本気を出したら目立ちすぎると思い、ホームランは一試合一本で
自粛していた。
﹁その凡退は、チームがリードしていた時の話ですよね。追い上げ
る局面で二度ほど狙い澄ましたようなヒットを放って、同点や逆転
の起点になったのを、あたしは覚えてます﹂
﹁⋮⋮ずいぶん記憶力がいいんだねえ﹂
﹁数少ない取り柄なもんで﹂
162
お褒めに預かり恐縮、とばかりに美紀は優雅な礼をする。慇懃無
礼半歩手前みたいな挙措だが、性根の卑しさは感じられないので、
一美はそれほど気分を害したりはしない。
﹁あなたの打棒が加われば盾と矛が揃ったようなもの。男子野球部
にも、きっと勝てる﹂
﹁⋮⋮盾はもう確保してるんだ。ピッチャーのこと? 鉄壁の守備
ってこと?﹂
﹁前者です﹂
﹁ふうん⋮⋮﹂
一度大きく伸びをすると、一美は美紀に提案した。
﹁その子と勝負させてくれない? 方式は、︱︱﹂
一美の説明をじっと聞くと、美紀は問いかけた。
﹁その意図は?﹂
﹁昔入ってたチームが割とレベル高かったんでね。あんまり程度が
低いんじゃ、どうにもやる気になれないってこと。もしあたしが七
割打てちゃったりしたら、この話はなかったことにして﹂
﹁⋮⋮そうですね。そんなに打たれるようじゃ、梓もまだまだだ﹂
決然と肯くと、美紀は携帯を出してどこかにかける。事情説明を
簡潔にまとめ、相手の了承をすぐさま取りつけたようだ。通話を切
ると一美に向き直った。
﹁OKはさせましたけど、部員が九人揃ってるわけじゃないんで、
形式的には不完全なことになりそうです﹂
﹁それはいいよ、あまり微妙なところへは打たないように気をつけ
るし﹂
﹁それと、グラブも持ってない素人が私を含めて数人いるので、今
日のところは勘弁してください。勝負は⋮⋮明日の放課後というこ
とで﹂
﹁了解﹂
﹁では明日、この時間にこの場所で待ち合わせましょうかね﹂
そう言うと美紀は昇降口から校舎へ上がろうとする。思わず一美
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は訊いた。
﹁あれ? 部活行くんじゃないの?﹂
﹁もう一人、誘いたい人がいるんです。図書室に﹂
﹁どうして誘われるのか、その理由がわからない﹂
図書室で物理の問題集に取り組んでいた青田啓子は、突然隣に腰
掛けて女子野球部に入らないかと言い出した村上美紀と名乗る二年
生の女子に、そう訊ねた。
腹を立てているわけではないが、この三年間、人に言えない秘密
を抱えて生きてきたせいか、警戒する相手への声音は自然と冷たく
尖る。それに若い子の相手をするのは、やはりしんどい。特に本来
異性であった女子の相手となれば、なおさらだ。
﹁こっちが事故の後遺症で身体弱いのって、けっこう知られている
ことだと思っていたけれど? 体育だってかなり見学してるし﹂
あれから三年、いまだに啓子は﹃あたし﹄や﹃わたし﹄などの一
人称を使えずにいる。その人称は、本来の自分に似合わないし、本
来の啓子に対して失礼な気もするから。かと言って﹃僕﹄や﹃俺﹄
を使う度胸もなくて、﹃こっち﹄などを代用し続けている。
﹁先刻承知の上で、誘います﹂
美紀は眼鏡を軽く押し上げ、答えた。
﹁球技大会の時、二年A組のソフトボールチームの指揮を執って優
勝した姿を拝見しまして。選手としてよりは、むしろ監督的な能力
に期待してるんです﹂
美紀に言われて、二ヶ月前のことを思い出す。他の競技に力を入
れていた関係で、あぶれ者の寄せ集めじみた編成になっていたチー
ム。そんな中一人だけソフトボールを第一希望にしていた成り行き
から久しぶりにキャプテンなんて肩書きを授けられ、少しばかりが
んばってみたあの数日間。
三年前までの本来の自分をいくぶんか取り戻した気になれた、あ
の数日間。
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美紀の誘いをいつしか魅力的に感じ出し、しかし、啓子は冷静に
聞くべきことを聞く。
﹁それで? 肝心のチームは完成しているの?﹂
﹁⋮⋮まだ七人ですね。あなたが入れば八人目﹂
﹁プレイング・マネージャーとしても、一人足りないね。そういう
のは九人、せめて八人揃えてから声をかけてほしいものだけど﹂
﹁それは、八人いれば考えないでもないって受け止めていいんです
かね﹂
美紀が目を光らせると、啓子に反論する暇も与えず続けた。
﹁なら、明日の放課後少しつきあってもらえませんか? うちのエ
ースが四番候補と対戦する名勝負が見られますし、その場で八人目
も獲得しますから﹂
呪いのようなものだ、と父親はかつて切り出した。
今から八年ほど前。鮎川一美が小学四年生の時のこと。テストの
名前欄にはやっと漢字で書けるようになった﹁篠原一実﹂と書いて
いた時のこと。リトルリーグで四番の座を不動のものにしようとし
ていた時のこと。将来自分の性別が男から女に変わるかもしれない
なんて、夢にも思っていなかった時のこと。
何百年前からか、一美の家には奇妙な病気が発症するようになっ
ていたという。十三歳の誕生日から十七歳の誕生日の間に、性別が
変わってしまうという症状。ただし誰もがというわけでもなく、確
率はおよそ四割。現代の医学では、元に戻ることも予防することも
不可能。性別変化をするかしないか事前に判定することさえできな
い。
先祖伝来の口伝においては戦国時代に端を発する。地方の豪族だ
った先祖がある日旅の僧侶を虐げて、その数年後、三人の娘の性別
が一晩のうちに変わってしまったというものだ。それぞれ有力な家
柄との婚礼を間近に控えてのこの椿事。一族郎党は対処する術もな
く、散を乱して逃げ惑い、以後二度と家運は栄えなかったとのこと。
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しかし﹃呪い﹄は執拗につきまとって現在に至る。
対象となるのは、宗家の子供。宗家が子に恵まれず廃れれば、最
も近い分家の子供が次の標的となる。家名が問題なのかと、宗家の
子供が一斉に嫁や婿養子になったこともあるが、その際は一番年上
の子供が嫁いだ先で同じことが起きた。それが今に続く篠原の家。
性別の変化に伴うのは、体格・筋力・容姿の劇的な変化。性格の
変化は緩やかに起こる上に個人差が大きいので、これは本人次第と
いうものだろう。記憶や知識などはまったく変化しない。
だからお前も野球よりは勉強を、と言われて、当時の一実はひど
く回りくどい説教だと判断した。後は適当に聞き流して、その場を
やり過ごした。
だがその後もことあるごとに繰り返され、中学を卒業する頃には
真剣に受け止めるようになっていた。けれど対策も何も取りようが
ないため、せいぜい今の生活を失うことがありうると、覚悟を決め
るだけだったが。
そして去年の十二月。十七歳の誕生日を数日後に控えた朝。一晩
のうちに変わり果てた自分の身体を見下ろして一実は深くため息を
つくと、メールで両親に報告した。そして用心に買ってあった女物
の服の中でサイズの合うものを着込むと、大阪支社勤めの父親と二
人暮らしだったマンションを出て、東京行きの新幹線に乗り、母親
と弟妹が暮らす実家に帰り着いた。
通い慣れた高校にもう一度行くことも、ともに戦ってきたチーム
メイトたちに最後に顔を見せることも、無論できない相談だった。
﹁あら珍しい。この前もう野球はしないとか言ってなかった?﹂
村上美紀との会話の後に帰宅した一美は、ほぼ四ヶ月ぶりに素振
りをしていた。さらに後から帰宅した母親がそれを見て、軽い口調
で言った。
﹁うるさいよ、伯母さん﹂
﹁お腹を痛めて産んだ親に向かって何て口を利くのかしらねえ、こ
の子は﹂
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ハンカチを取り出してさめざめと泣くふりをする。実に苛立たし
い。
﹁もう戸籍上はおばさんだろ。しかもにんべんの方﹂
篠原家の子供は﹃呪い﹄が発症した場合に備え、生まれると同時
に田舎の役場に手を回して、親戚である鮎川家の戸籍も入手してお
いてある。詳しいことはよく知らないが、病弱なので転地療養して
いるという理屈で義務教育などの問題はやり過ごしたらしい。
そんなわけで鮎川一美は、元の自分︱︱篠原一実の、従姉妹とい
うことになっている。戸籍上の両親は、父親の妹である叔母夫妻。
ほとんど逢ったこともない。
﹁はいはい。伯母さんは引っ込むことにしますよ﹂
すねたように言って姿を消した。と思ったら、またひょっこりと
顔を出す。
﹁あなたはやっぱりバット振ってる姿が一番似合うわよ。可愛い女
の子になってもね﹂
﹁どうしたの、優ちゃん。元気ないね?﹂
グループの先陣を切って歩いていたはずの梓が、いつの間にか最
後尾の優の隣にいた。
﹁人数的には、九人揃ったわけだけど⋮⋮これで男子に勝てるのか
なって、ちょっと不安になって⋮⋮﹂
今日の勝負に、昨日見つけた雑草だらけの敷地は不適だ。そこで
学校から少し歩いたところにある河川敷のグラウンド目指して、放
課後を迎えた今、グラブやバットを手にした主にジャージ姿の女子
が九人、そぞろ歩いているわけである。
その一団を眺め渡して、優は頼もしさよりは不安の方を覚えてし
まっていた。
昨日女子としては並外れた強肩を示したシャーロットは、帰りに
全員で立ち寄ったスポーツ用品店で買った新品のグラブを、小学生
みたいに飽かず眺めていじり回している。
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その隣、同じく高い身体能力を披露した真理乃は、しかし内気で
気弱な性格。誰かに何か話しかけられるたびにどこかおどおどした
態度で応じている。
雪絵は他のみんなから、やや距離を置いたところを一人で歩いて
いる。昨日の朝から見慣れた仏頂面は今日も健在。
先頭を行く弥生と美紀は、今日新たに仲間となるかもしれない二
人と会話していた。
弥生はさっぱりした性格で積極的。高飛車と思われかねない口調
だが、優としては男子並につきあいやすい。しかし優は、弥生の野
球の実力をまだきちんと見ていない。大久保の百四十五キロをファ
ウルで何度も粘り最後にはヒットを打ってみせた、とは梓から聞い
ているが、守備や走塁もそれなりのものでなければ困る。
美紀は頭が良い。今日の休み時間、梓は優との雑談の折に﹁美紀
姉ちゃんは頭が切れるけれど詰めが甘い﹂などと寸評していたが、
この二年生は人を見る目があるし、その人材を束ねる行動力もある。
ただし、野球の実力は未知数だ。
そして新顔の三年生二人。今日の勝負を提案してきた鮎川一美と、
その勝負を観戦に来た青田啓子。
一美は飄々としていて、奥二重の目が眠そうで、どこにでもいそ
うな愛嬌のある可愛い女子高生にしか見えない。
長身の啓子は、観戦ということで一人だけ制服姿だ。どこか人を
寄せつけない雰囲気。雪絵のように周囲を威嚇するような感じでは
なく、あえて他人に近づくまい他人を近づけさせまいとしているよ
うな、印象。身体の線が細く、野球どころかそもそもスポーツに向
いているように見えないのも気になる。
それにまた優は、自分の能力にも疑問符をつけざるを得ない。ピ
ッチャーの球を捕る、そのキャッチャーとして最低限の技術は今も
保たれているが、盗塁を防ぐ肩の力はどれほどあるか。バッティン
グはどうなることか。
それらを口に出したわけではないが、梓は優の考えを追うように
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言った。
﹁試合まではひと月以上あるからね。練習すれば、穴を見つけて埋
めるのも、長所を見つけて伸ばすのも、きっと間に合うよ﹂
﹁練習は、男子もするわよ﹂
﹁それはそうだけどさ。まずはその前に、今日のことに集中しよう
よ﹂
﹁今日のことって、七割打てるか打てないかの件?﹂
優はのんびり歩いている一美に目をやり、肩をすくめた。
﹁まさか梓さん、打たれるかもしれないなんて考えてるの?﹂
優としては軽口のつもりだったが、梓は真面目に肯いた。
﹁油断してたら﹂
﹁ちょっと待って。いくら何でもあなたの球が女子にそうポンポン
打たれるわけ︱︱﹂
﹁男子野球部の人たちも、僕のことを甘く見て油断してたよ。優ち
ゃんも雪絵ちゃんも、最初は似たようなものだったでしょ?﹂
言われ、優は口を噤んだ。
﹁じゃ、ルールの再確認するよ﹂
河川敷のグラウンド。そのバッターボックスの周囲に、啓子を除
く優たち八人が集まると、一美がのんびりした口調で口火を切る。
啓子は少し離れたベンチに腰掛けている。
﹁あたしが打つ。そちらのエース︱︱梓ちゃんだっけ?︱︱が投げ
る。十打席勝負。そのうちあたしが七本ヒットを打ったら、あたし
の勝ち。言い換えれば、梓ちゃんがあたしを四回アウトにできれば、
その時点で梓ちゃんの勝ち。フォアボールになったら、打数に数え
ないでやり直し﹂
﹁つまり打率七割に達するかどうかがポイントなわけですわね。そ
の基準はどこから?﹂
弥生が手を挙げて一美に訊ねる。
﹁あんまり深い意味はないけどさ。昔いたチームで、あたしトータ
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ルだと七割打ってたから。そんな平均的なピッチャーじゃ、つきあ
っても面白くないと思ってね﹂
﹁そのチームってのは、リトルリーグか草野球だろ? 図に乗って
んじゃねーよ﹂
隅で雪絵が吐き捨てるように言った。
﹁雪絵さん! 無礼な物言いはおやめなさい!﹂
﹁きゃんきゃんうるせーっての、お嬢様。ほれ、今のは俺の独り言
だから、話続けろよ﹂
雪絵と弥生はどうも反りが合わないらしくて、昨日から何度とな
く衝突している。優としてはそのたびにうろたえてしまうし、シャ
ーロットや真理乃も落ち着かない様子だが、この場の中心人物たる
梓と一美、それに美紀は平然としていた。
そんな美紀が一美に言う。
﹁三振じゃなくて凡打でもアウトですよね﹂
﹁当然でしょ? そっちの人数が足りないのはわかってるから、空
いてるポジションに微妙な打球が飛んだらフォアボール同様ノーカ
ウントということで﹂
﹁よかったね、梓。こないだの九連続三振よりは条件が楽だ﹂
美紀が言う。言わでもがななことをあえて口にしたのは相手にプ
レッシャーをかけるためかと優は推測したが、一美は面白そうに目
を輝かせただけ。そして梓に向かって言う。
﹁それともう一つ。昨日提案した時は言い忘れてたけど、どの打席
もツーナッシングから始めることにしようよ。時間の短縮にもなる
でしょ?﹂
場が静まり返る。
﹁えーと、一球空振りするたびに一つアウトになるってことです、
ヨネ?﹂
シャーロットが語尾だけ珍妙にして周囲に訊ねる。どうもこのア
メリカ人、素の日本語は達者らしい。自らを不利にしすぎる一美の
案に驚いて、思わず地が出たようだが。
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もっとも、驚いたのは優も同じだ。この人はマゾか何かか、それ
とも内心では女子野球部に入りたくてしかたないのか、などと色々
考えてしまい、半ばフリーズ状態。
だが梓もとんでもないことを言い出した。
﹁なら、ツースリーからにしませんか? そうすれば一打席一打席
がお互い逃げも隠れもできない一球勝負ってことになります。ただ
それだけだと僕の方がまだ有利過ぎるから、フォアボールはヒット
扱いということで﹂
﹁その意気やよし⋮⋮と応じたいところだけど、キャッチャーさん
と相談してみたら?﹂
と一美が振るのとほぼ同時に、優は梓をグラウンドの隅に引っぱ
っていった。
﹁鮎川さんも鮎川さんだけど、梓さんも何言ってるの? そんな変
なことしなくても普通にやれば︱︱﹂
﹁あれは、たぶん一美さんなりのバランスの取り方だよ﹂
﹁え?﹂
﹁普通に十打席僕の球を見続ければ、必ず打てるから勝負にならな
い。だから各打席ツーストライクはハンデとしてプレゼント⋮⋮っ
て考えたんだと思う﹂
﹁嘘でしょ? そんなの自信過剰にも程がある⋮⋮﹂
﹁一美さん本人がそう思ってることは間違いないよ。実際の実力は
知らないけど﹂
﹁だからって、それに乗っかるの?﹂
﹁十球で済むならそれもいいでしょ? それとも優ちゃんは、ボー
ル球で遊んだりしてリードを楽しみたい? 僕はそれより一刻も早
くメンバーを九人揃えたいんだけど﹂
﹁⋮⋮それ言われちゃうと、反論しようがないじゃない﹂
﹁重要なのはもちろん内野ね。外野までそうそう打球が飛ぶとも思
えないし﹂
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﹁センターラインのセカンドとショートは、初心者には荷が重いで
しょう。わたくしと雪絵さんがやるということで異存はありません
わね?﹂
﹁誰がやるにしろファーストは素人かよ。なら外人さんがやって。
一番背が高い﹂
しばしの打ち合わせの末、ファーストにはシャーロット、セカン
ドに弥生、ショートに雪絵、サードに真理乃という配置にした。美
紀が外野でひとまずセンターの位置に立つ。
優が定位置に腰を落とし、梓がマウンドに登る。そしてバットを
かついだ一美が悠々と右バッターボックスに入った。第一打席。
﹁じゃあ⋮⋮お願いします﹂
﹁いつでもどうぞ﹂
優のサインに応じて梓がサイドスローから繰り出した第一球は、
ナックル。
打ちに行った一美は盛大に空振りし、派手に一回転すると尻餅を
ついた。
﹁これで第一打席はこちらの勝ち⋮⋮なんですよね?﹂
思わず優が確認すると、膝をついて立ち上がろうとしていた一美
が肯く。
﹁面白い球投げるね。こりゃいいピッチャーだわ﹂
﹁⋮⋮そう思うなら、勝負はやめにしてチームに入ってくれません
?﹂
﹁一度始めたことを途中で放り出すのは好きじゃなくてね。それに、
こんな楽しい対決はなかなかできないし﹂
大きく伸びをして軽く素振りをすると、一美はバッターボックス
に入る。第二打席。
︱︱緊張するほどでもなかったかな。
優は軽く息をつく。スイングの鋭さは女子離れしていたけれど、
これなら残り九打席で三つのアウトを取るのは簡単そうだ。
︱︱一打席くらい花を持たせるか。
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二球目、優は内角高めにストレートを要求した。梓は怪訝そうな
顔をしたが、肯く。
指先から放たれる球。球速としては百二十キロに届かないくらい
だろうか。
一美はタイミングを計るように軽く左足を踏み出すと、バットを
振り抜いた。
甲高い金属音を後に残し、白いボールがライナーとなって右中間
を突き破る。センターの美紀には捕れない。ライトに選手がいても
よほど異常な守備位置についていない限り捕れるわけがない。そん
な完璧な長打だった。
律儀に一塁まで走って行った一美が、戻って来ると優に言った。
﹁いい流れを自分から捨てると、あんまりいいことないよ﹂
梓がマウンドから降りて、優をグラウンドの隅へ連れて行く。引
っぱる腕が少し痛い。
﹁内角高めが一美さんの弱点とか、そういうわけではなかったの、
かな?﹂
いつもは無邪気に明るい笑顔が、今は露骨なまでに強張っている。
﹁え、ええと、一球空振りさせただけじゃ、そんなことはわからな
いです﹂
思わず敬語を使ってしまう。
﹁じゃあサービス? 哀れみ? それって一美さんにすごく失礼だ
よ﹂
﹁で、でも、仲間になってくれる人なんだから、完膚なきまでにや
っつけちゃうのも、その、向こうのプライドとか⋮⋮﹂
﹁そんな程度で砕けるようなプライドなら、粉微塵にしちゃえばい
いんだよ﹂
梓はきっぱりと言ってのけた。
﹁だいたい、手を抜いたらこっちが粉々にされかねないんだから﹂
一美の言葉も梓の言葉も、見事に正鵠を射ていた。
173
第三打席。優が提案したのはスライダー。マウンドの梓もすぐに
肯く。
右打者の内角から横滑りに滑って最終的には外角に達する、梓の
数ある変化球の中でも最大の横変化を誇るボール。
一美は長打を打てるバッターであり、口先だけではないことがは
っきりした。それでも当たらなければ関係ない。
そんな優の思惑は、しかし、あっさり打ち破られる。
一美は体勢を泳がせながらもスライダーの変化に対応し、バット
を強振。打球は矢のようなライナーになり、ジャンプしてグラブを
伸ばしたショート・雪絵の十センチほど上空を通過すると背後の地
面で勢いよく弾んだ。
﹁まあ、こんなもんかな﹂
上機嫌で一美が一塁から引き上げてくる。と、静まり返っていた
グラウンドの中、雪絵のこぼす言葉がやけにはっきり聞こえた。
﹁ただのショートライナーで調子乗んなよ。俺が普通の背丈の男な
ら捕れてた球だろが﹂
一美のそばにいた優は焦るが、一美は眠そうな表情を崩さなかっ
た。
そして第四打席。今度はシュート。
しかし一美は急激に内角に切れ込んでいくシュートにも臆さない。
肘を上手く畳んで、弾き返す。
打球はさっきを上回る速度で、ショートのちょうど真上、頭上五
十センチの地点を通過した。雪絵は今度は何も反応できなかった。
一塁に目を移せば、一美が雪絵に向かってにやりと笑いかけてい
た。
狙って打ったのは、その場にいる誰の目にも明らかだった。
第五打席。一美は梓がオーバースローから繰り出したフォークを
きれいにすくい上げ、センター前にぽとりと落とした。
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これで五打数四安打。残り五回のうち、三回打ち取らなければな
らない。
﹁ここまでずっと横手だったのに上手で来るからね。上手でないと
投げられないか投げづらい球かな、くらいは読めたよ﹂
戻って来た一美の言葉を聞いて、優は恥ずかしさに顔を赤くした。
相手は数少ない情報を元に的確な読みを働かせたのに、自分は梓の
球種に頼ってばかりの芸のない配球をしてしまったことに気づかさ
れたから。
しかし、そんな風に一度悩み出すと、何を投げさせても打たれる
ような気がしてきた。
こんな気持ちになったのは、去年の夏以来二度目のことだ。大西
義塾との甲子園決勝戦で向こうの四番だった二年生・篠原一実。高
校本塁打の記録を塗り替えそうな勢いだった巨漢︵去年の冬、難病
を患ったとかで姿を消してしまったそうだが︶。けどその本質は、
ピッチャー渾身のボールを軽々スタンドに運ぶパワーでなく、あら
ゆるボールに即応できる目と反射神経、それを打撃に反映する天才
的なバットコントロールにあったと思う。
今バッターボックスに立っている鮎川一美は、その篠原からごつ
い身体とパワーだけを抜き取った存在であるような、そんな錯覚を
覚える。
そして今の優は、猛だったあの時と同じように、迷い始めてしま
った。二本目のホームランを打たせてキヨミズの反撃機運を根こそ
ぎ奪ってしまったあの時と同じように。
迷いは決して何も産まない。第六打席、成功の記憶にすがって梓
に投げさせたナックルは、ボテボテながらも一二塁間を巧みに抜け
るヒットとなった。
﹁魔球とは違うしね。消えはしないから、一度見れば当てるぐらい
はどうにか﹂
一美のコメントに応じる余裕もない。
残り四打席のうち、三回を打ち取る。今の優には、それはもはや
175
途方もない難事業に思われてならなかった。
﹁梓さんが、リードして﹂
マウンドの梓に駆け寄って優は言った。言って、自分はキャッチ
ャー失格だと思った。
こんなすごいピッチャーと組んでいるのにむざむざヒットを打た
せてしまう。このままだと自分のせいで投手を、チームを、壊して
しまう。
それはどうしても耐えられなかった。だから、誰に言われるより
先に自分で判断して、サインを梓に出してもらおうと考えた。
自分にはこのチームの頭脳なんて務まらない。ただ梓の球を受け
る壁になる。それが自分にはお似合いだ。本当はきっと、去年の夏
だってそうだった。決勝まで進めたのは単に運が良かったからで、
それを勘違いして下手なリードをしたせいで、大西義塾にああまで
みじめな惨敗を喫することになって⋮⋮。
﹁優ちゃん、泣かないで﹂
うつむいていた優の顎を軽く指で持ち上げて、突然梓はそんなこ
とを言った。
﹁な、泣いてなんかないよ!﹂
ちょっと目が潤みそうになっていたのは事実だが、涙をこぼした
りはしていない。優は躍起になって反論した。
﹁うん。その負けん気があればまだ大丈夫﹂
梓は優ににっこりと笑いかけた。
﹁気弱は勝負に禁物だよ。まだ一打席分余裕はあるんだし、がんば
ろ﹂
﹁き、気弱とかそういうんじゃなくて、本当に、梓さんがリードし
た方がよっぽど⋮⋮﹂
﹁それは無理。僕のリードって目も当てられないくらいひどいもん﹂
言って、梓は首を横に振る。
﹁例えば今考えてるのは、一美さんは二球続けてナックルが来ると
176
は思ってない気がするからもう一球行こうかな⋮⋮ってところだけ
ど、どう?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ごめんなさい。私が間違ってた﹂
一美がここまで唯一打ち損じたナックルを意識してるのは明らか
で、それを連投したりしたらちょうど目の慣れている一美にとって
は絶好球になる可能性が高い。この打者心理をかけらも読んでない
意見は、優を奮起させるための口から出まかせだと思いたいが。
﹁ふと思ったんだけど﹂
﹁うわ!﹂
優と梓が話す横に、見物人のはずの青田啓子がいつの間にか立っ
ていた。
﹁緩急つけたらどう?﹂
﹁か、緩急って、でも、梓さんは見ての通りあまり速い球が投げら
れるタイプじゃ⋮⋮﹂
﹁緩急は球の速い遅いだけじゃないよ﹂
﹁え⋮⋮? ああ!﹂
優と梓が同時に叫んだ時、弥生や美紀たちも集まって来た。そし
て美紀が啓子に笑う。
﹁青田さん、観客が選手にアドバイスするのは筋違いだよ?﹂
﹁選手なら問題ないね?﹂
﹁もちろん﹂
﹁⋮⋮久しぶりに血が騒いできたよ、柄にもなく﹂
﹁あなたは元々そういう人だったんじゃないの?﹂
﹁⋮⋮かもね﹂
美紀とのそんな会話を済ませると、啓子は居並んだ他の六人に向
かって言った。
﹁三年A組、青田啓子。これからよろしく﹂
﹁それにしても、どうしてうちの部員には、野球に詳しい割にグラ
ブも持っていないような人が何人もいるんでしょう?﹂
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バックネット近くにまとめておいたバッグの中から予備のグラブ
を出しながら、弥生が近くで梓と打ち合わせをしていた優にぼやい
た。昨日買うまで小笠原優としてのミットは持っていなかった優と
しては、曖昧な笑みを浮かべるしかない。
﹁ぐ、偶然の一致ってやつじゃない? あ、あれ? この吉田って
誰?﹂
﹁⋮⋮幼なじみですわ﹂
﹁え? 男の子? 女の子?﹂
自分のバッグから飲み物を取り出して飲んでいた梓が、反応よく
食いついてくる。
﹁男ですけれど、それが何か?﹂
﹁どんな関係?﹂
﹁どんなも何も、まだ変なことにはなっていませんわ﹂
﹁ふーん。﹃まだ﹄かあ﹂
﹁梓さん! 言葉尻を捉えるのはおよしなさい! 優さんも妙な顔
をしない!﹂
﹁私は変な顔なんかしてないよ!﹂
﹁グラブ一つ引っぱり出すのにいつまでかかってんだてめーら!!﹂
雪絵に怒鳴られ、三人は慌ててグラウンドに戻る。
﹁わがまま言って悪いけど、走り回るのは苦手なんでファースト希
望﹂
制服姿にグラブをはめた啓子が言う。
﹁ならシャルが外野に行きますネ﹂
守備位置を変更し、八人がグラウンドに散る。そして迎える第七
打席。
﹁いい感じになってきたね。すごく楽しそうだな﹂
一同の様子をのんびり眺めていた一美が打席に入り、戻って来た
優に言った。
﹁だから、そう思うならさっさと終わらせましょうよ。空振り三回
でいいんですから﹂
178
優が応じると、一美は目を細める。
﹁元気になったようで何より。まあ、今は勝負のことだけ考えよう
よ。投げて、打って、捕って、走る、それだけをさ﹂
﹁⋮⋮はい!﹂
優が腰を落とし、ミットを構える。梓が投球体勢に入る。いつも
なら、そこから左足をしっかり踏み出して右腕を力強く振り抜く。
球種に関わらず常に一定のタイミング・一定のモーションを保つの
が、梓のピッチング。
だが、今の梓は左足をちょんと踏み出し、そのまま右腕を小さく
振った。
ランナーが出た際に盗塁を警戒して投球動作を短縮するのがクイ
ックモーション。だがこれは、クイックモーションというにもあま
りに速く、しかし代償として球威はまったく期待できない。
打席の一美があわててタイミングを取り直そうとしているのが感
じられる。本来盗塁を抑止するのがクイックモーションであり、も
ちろんその球速は維持するものだから。
︱︱ところがこれは、球速まで犠牲にしてるんだな。
優のリード通り、梓の指から放たれたボールは、奇跡のようにゆ
っくりと宙を漂った。球速六十キロもなさそうに見えてしまうほど
の、紛う方なきスローボール。
一美もそれは目で捉えているが、クイックモーションに応じるべ
く切り換えた体勢は、脳の再度の切り換え要求にまでは反応できな
い。早過ぎるスイングの始動。
バットが空を切り、その後をゆるゆるとボールが通過して優のミ
ットに収まった。
﹁⋮⋮いっそのこと一回転すればよかったかな?﹂
バットをこつんと額に当てながら、一美が言った。
﹁二段構えはやられたよ、ナイスリード﹂
その言葉は、今の優にとって最高の勲章であった。
179
︱︱偉そうにアドバイスしたけれど、必要なかったかな。
一塁ベース近くで身構えていた啓子は、一美を空振りに切って取
ったバッテリーを見ながらそんなことを考えた。あそこで口を挟ま
なくてもすぐに自力で思いついただろうし、実際に投げた球には啓
子のアドバイスには抜けていた工夫も盛り込まれていた。
さて、これで七打数五安打。もう二回抑えれば、一美を仲間にす
る条件は達成される。
本来なら守備位置を調整して一美シフトでも作り、打たせて取る
ピッチングを徹底したいところ。しかし一美は、先刻のショートを
狙った打球を見るに、どこへでも自在に打ち分けられる模様。梓の
球威のなさが災いしていると言えよう。
もっともそれは、梓のレベルが低いからではない。変化球のキレ
と制球力が生命線の梓のピッチングが、動体視力と反射神経を主武
器とする一美のバッティングに対して徹底的に相性が悪いからとい
う話に過ぎない。今快音を飛ばしている一美にしても、球威のある
重い球を擁するピッチャーを相手にした場合にどこまで力を発揮で
きることか。
︱︱って、何考えてんだか。ここはベンチでも試合前のミーティ
ングルームでもなくてグラウンドだってのに。
気を取り直して意識を第八打席のマウンドに向けると、今度の梓
はサイドスローでもオーバースローでもなく、アンダースローで投
げていた。
︱︱どこまで器用なんだろね、この子。
それは打席の一美も同意見だったようで、﹁今度は下手かいっ!﹂
などと叫んでいる。
それでも初見の球を打ち返してしまうその技術はさすがだが、流
し打った打球は地を噛むような鋭いゴロながら、啓子の真っ正面に
転がって来た。捕って一塁を踏めばアウト。
なのに、腰を落とし、捕球しようとして、強烈な打球はグラブの
拘束を逃れんとばかりに跳ねる。一度は収まったはずのボールが、
180
地面にこぼれた。
ボールを日常的に扱うそれまでの生活が失われて三年。それは同
時に大手術の代償として激しい運動を控えてきた三年間。その不利
は、さっきフェアグラウンド内に足を踏み入れた瞬間から自分自身
が誰より強く意識してしまっている。
ボールを掴もうとする手が滑る。
心が焦りに囚われそうになった時、傍らを飛び跳ねるように駆け
ていく影。
梓が一塁のカバーに入ろうとしていた。
ベースを踏み、啓子の方を向いてグラブを伸ばしながら、瞳が明
るい光を放つ。
勝利へと一直線に突き進む、力強い眼光。この勝負の間、ずっと
失われなかった輝き。啓子の決意を最後に後押ししたその光に導か
れるように、啓子はボールをトスしていた。それは一秒前までとは
別人のように、実に自然でスムーズな動きだった。
駆け込んで来た一美。梓のグラブに吸い込まれるボール。
﹁アウト、ですわね﹂
ベース後方でバックアップに入っていたセカンドの子が口を開く
と、一美も肯いた。
﹁ちょっと間に合ってなかったね。ここからあたしが勝つには二打
席連続ヒットかあ﹂
そんなやり取りを聞きながら、啓子は深く息を吐いた。
﹁次にちょっと投げてみたい球があるんだけど⋮⋮いい?﹂
第九打席に入る前に、優をマウンドに呼んで梓が言った。
﹁いいけど⋮⋮どんな球?﹂
梓の答えに、優は耳を疑った。
﹁そんなの打たれるに決まってるじゃない! 梓さん、どうかしち
ゃったの?﹂
﹁それが本当に打たれるかどうかを試してみたくって。まだ一打席
181
余裕がある今だから、やってみたいんだけど⋮⋮駄目?﹂
小首を傾げて少しばかり背の高い優を見上げてくる梓。ポニーテ
ールを弾ませたその姿は妙に可愛くて、優はいささか冷静でいられ
なくなる。
﹁う、打たれても私は知らないからね!﹂
﹁ありがと! じゃ、コースの指定はよろしくね﹂
やたらとうれしそうな梓の声を背に、優は自分のポジションに戻
った。
﹁あのおチビさん、今度は何をしてくるのかな?﹂
﹁私にもよくわかりません﹂
一美とそんな会話をしていると、梓がとある行動に出た。
そして梓が球を投げる。
一美のバットはものの見事にボールの下を空振りした。
﹁一美さん、これからよろしく!!﹂
その場にいた梓以外の全員が驚愕からいまだ覚めやらぬ中、梓の
明るい声がグラウンドに響き渡った。
182
第三部﹁少女たちは備える﹂第一章﹁試合二ヶ月前﹂
﹁ほ、本当にそんな呪文なの⋮⋮?﹂
︽嘘ついてどうするってんだ。ほれ、さっさと唱えな︾
時に四月十五日の深夜。清水家の敷地内にある、雑草がはびこる
女子野球部の練習場。
その中央にぽつんと一人、真理乃は立っていた。
﹁で、でも⋮⋮恥ずかしいよぉ⋮⋮﹂
︽今さら何言ってやがる。女になってからこっち、お前にとっちゃ
やることなすこと全部が羞恥プレイだろうが︾
﹁そ、そうだけど⋮⋮﹂
︽うじうじ悩んでると夜が明けちまうぜ。お前も練習で疲れてるん
だから、ぱっぱと済ませてぱっぱと帰っちまおうや︾
胸元で光るペンダントの中から語りかけるアラビアの魔神・マリ
ード。その声に押されて、真理乃はようやく決意を固めた。
﹁ピュ、ピュリファイプリティサプリメント! プリティマリノが
あなたのお世話しちゃいます!﹂
マリードの言語センスのなさに泣きたくなりながらも、真理乃は
設定された呪文を唱え終える。すると少女の全身を光が包み、服装
がジャージの上下から一転して、動きづらくはないが全体的にフリ
ルがひらひらしたいかにも魔法少女的なドレスへと変化した。手に
はバトンほどの大きさのパステルカラーに彩られたステッキまで持
っている。
突然可愛らしく変貌した自分の衣装に心の準備はしていても驚き、
さらにそのふわふわひらひらした服装を心地好く感じている自分に
困惑しつつ、真理乃はマリードに訊ねた。
﹁それで、これからどうすればいいの?﹂
︽どうすればも何も、やりたいようにやれっての。今のお前にはそ
れを叶えるくらいの力があるんだからよ︾
183
そう言われても戸惑うばかりだが、真理乃はとりあえずステッキ
を眼前に突きつけた。
練習場はチームが結成されて数日を経た今も、本格的な練習ので
きる状況にはない。草むしりさえできれば、雪絵の家からピッチン
グマシンを持って来て打撃練習をしたり、内外野の守備練習をした
り、もちろん梓の投球練習もできるのだが、人手の絶対的な少なさ
がネックとなり整地作業は遅々として進まなかった。結果、全体練
習は、キャッチボールや素振り、ランニングなどの基礎的なものに
留まっている。
﹁え、えーと⋮⋮野球の練習をしやすいグラウンドになってくださ
い﹂
おずおずと真理乃が言うと、ステッキの先から温かな色合いの光
が放たれた。
その光が練習場内の草に触れると、草たちはCGか何かのように
ひょこひょこと動き始め、むしられる恐れのないエリアへ移動した
り、林の奥へと消えて行ったりした。同時に草が抜けた後の地面も
丁寧に整えられ、均されていく。
気がつけば目の前には、草の生い茂っていない整地されたグラウ
ンドが広がっていた。
︽よし、上出来だ。初仕事お疲れさん︾
マリードに温かい声をかけられ、真理乃は深く息を吐いた。同時
に変身が解け、服装がジャージ姿に戻っていく。
︽にしてもグラウンドに向かって﹃なってください﹄は傑作だった
な︾
﹁しょ、しょうがないでしょ。どんな風に言えばいいかわからなか
ったんだもん﹂
︽別にバカにしてるわけじゃねえよ。前の真理奈なんざ味も素っ気
もねえ、魔法少女にあるまじき魔法の使い方してたからな。それに
比べりゃ頭悪そうなくらい可愛い方が、俺ぁよっぽど好きだぜ︾
﹁全然褒め言葉になってないよお⋮⋮﹂
184
︽しっかし、お前さんが自分から魔法を使いたいなんて言い出すと
はねえ︾
マリードがからかい気味の口調で、さらに言い募る。
︽俺様の力を借りるなんて真っ平御免だと思ってるように見えたん
だが︾
﹁だって⋮⋮みんな、とってもがんばってるから⋮⋮何かお手伝い
したくって⋮⋮﹂
使いづらい練習場に案内したのは真理乃なのに、誰もそのことで
咎めようとはしない。言葉遣いが悪くておっかない雪絵さえ、﹃こ
の歳になって草むしりかよ﹄とぼやきつつ、毎日熱心に草を引いて
いる。だからこそ、そんな彼女たちがたまに見せる、整ったグラウ
ンドで練習したいと言いたげな表情が、真理乃にはとても辛かった。
そこで今夜、夕食︵自分で炊いてみたご飯とスーパーで買った値
引きお惣菜︶を食べた後、マリードに打診してみたのである。
﹁でも⋮⋮魔法ってすごい力なんだね﹂
真理乃は美しいグラウンドを見て少し不安になる。人の力では何
日かかるかわからない作業をほんの数分で終えてしまった自分。
﹁男子野球部と試合する時に邪霊を祓うってマリードは言ってるけ
ど⋮⋮わたし、それに備えて変身してなくちゃいけないの?﹂
変身状態だとこんなすごい力を発揮できてしまう。そしてその力
を使わずにフェアプレイに徹する自信が、自分にはなかった。フラ
イを落球しそうになった時、空振り三振をしそうになった時、無意
識に力を使ってしまうとしたら、とても嫌だ。
︽安心しな︾
そんな真理乃の不安を見越したように、マリードはきっぱりと答
える。
︽この力はお前一人が願ったって使えるわけじゃねえ。肝心な一瞬
が訪れるまでは俺が力をがっちり制御してるから、お前は自分の気
持ちに素直に野球やってりゃいいんだよ︾
﹁⋮⋮よかった﹂
185
真理乃は心の底から安堵した。
︽ま、そこら辺はいいとして⋮⋮あいつ、何か打つ手は持ってるの
かねえ?︾
﹁﹃あいつ﹄って?﹂
︽村上美紀さ。あいつ込みで頭数は揃ったけど、あいつ一人だけは
技術もなけりゃ身体能力もずば抜けちゃいない。と言って、十人目
の選手を熱心に探してる風でもねえし⋮⋮︾
マリードにわからないことが、真理乃にわかるわけもなかった。
﹁いいかげんに観念しな、ジジイ﹂
﹁そりゃこっちの台詞だ、バカ娘﹂
村上家の居間で、遅い夕食を終えたばかりの孫と祖父が睨み合う。
﹁あんた梓のこと可愛がってきただろが。あの子が理不尽なバカ男
どものせいで甲子園に行けないなんてことになりゃ、あんただって
往生できないだろ?﹂
﹁縁起でもねえこと口にするんじゃねえや、バカ。そりゃ梓ちゃん
の願いなら俺だって叶えてえけどよ。だからってなんで俺がおめえ
の身体で野球しなきゃなんねえんだ?﹂
﹁ジジイの身体で野球したって梓のチームには入れないからさ。何
せキヨミズの女子野球部だからね。清水共栄に在籍してる女子以外
はお断りだよ﹂
﹁ならてめえが自分でやりやがれ!﹂
﹁あたしが頭使うこと以外はとんと駄目なことくらい知ってるだろ
?﹂
﹁なら他の女子引っぱってくりゃいいだろが!﹂
﹁今時野球を自分でやろうなんて考える女子はそうそういないって
の。梓以外に学校内で七人使えるのを集められたのが奇跡みたいな
もんだよ﹂
﹁最近の若い奴は情けねえ。俺が若い頃は、プロを目指す女子だっ
ていたのによ﹂
186
﹁甲子園を女人禁制にしていたのはジジイ世代やその上の連中の怠
慢だろ。おまけに金満球団に牛耳られてプロまで魅力なくしてたら
世話ないや﹂
﹁本当に口が減らねえな、てめえは﹂
﹁まったくだね。誰に似たのか知らないけれど﹂
﹁⋮⋮だいたいフェアプレイに反するってもんだろが。俺ぁ、自分
で言うのも何だが、プロで四十四まで一線張り続けた選手だぜ? そんなのが高校生に混じって野球するってのは卑怯じゃねえか?﹂
﹁ロートルが背負ったこと言ってんじゃないよ。だいたい、それは
そんなに悪いことかい?﹂
﹁当たり前だろ︱︱﹂
耕作が怒鳴りかけるのを美紀は制した。
﹁生まれ変わりってもんがあると仮定しようや。霊魂だか何だかよ
くわかんないものが実在するってとこまではジジイも認めてるんだ
から、これくらいは許容範囲でいいな?﹂
﹁⋮⋮それを仮定するとどうなる?﹂
﹁一流のプロ野球選手から女の子に生まれ変わった子がいるとする。
前世のことをかなりはっきり覚えていて、野球の技術も失われてい
ない。で、その子は小さい頃から甲子園目指してせっせとピッチン
グ、じゃねえや、野球のトレーニングに励んできた﹂
﹁ちょっと待て。そりゃひょっとして︱︱﹂
﹁目的意識があって蓄積があるから、幼稚園の頃から新しいテクニ
ックの上積みも重ねてこれた。今じゃいっぱしの高校球児。さて、
この子のしていることは卑怯か? やるんだったら前世の記憶なん
か忘れてからにしろなんて言えるか?﹂
﹁そりゃ言えるわけねえだろ。けどな、その子は他にどうしようも
ねえが、お前がやろうとしてんのは俺たちがやらねえと決めればや
らずに済むこった﹂
﹁⋮⋮ふん。なら、こう考えてみな。ジジイが昔からあたしを野球
漫画よろしく野球選手として鍛え上げてきたとする。それこそあた
187
しをジジイのコピーにするくらいの勢いで﹂
﹁そんなことするわけねえだろが﹂
﹁したとして、さ。その時、打球があたしの守備位置に飛んで来た
時の反応や、投手の投げたボールに対する反応とかは、ジジイ本人
とジジイに叩き込まれたあたしとじゃ、どれほど違ってくるよ? それを今から即席でやる、と考えたらどうだ?﹂
﹁⋮⋮どう言い訳したって野球するのは俺だろが。他の誰が知らな
くても、お天道様と俺とお前にはわかってる﹂
﹁果たしてそうかな? 野球するのは村上美紀であって、村上耕作
じゃない﹂
﹁だから、おめえはその身体を俺に動かさせようとしてんだろうが
!﹂
﹁でもそのことを証明できる人間はいない。霊魂の存在さえ現在の
科学で把握することはできてないんだ。Aの霊魂をBの身体に取り
憑かせてるなんて誰も思わないよ。そもそもあたしたちはあのお札
によって幻覚を見てただけかもしれないだろ? ジジイは眠ってる
間あたしの身体を動かす夢を見ていた。あたしはジジイに身体を明
け渡す錯覚を感じつつ実は自分の意識で自分の身体を動かしてた。
その三時間の間二人に意思疎通を交わしていたような記憶が残って
いるのは単なる偶然の一致。こんな説明だって成り立つさ﹂
﹁⋮⋮屁理屈もいいとこだ﹂
﹁乗っかっとくれよ。この話、ジジイにゃ何一つデメリットはない
だろ? こないだも三時間経てばきっちり元に戻って、後遺症も何
もなしってことは明らかだ。若い女の身体で若い女の子と野球を楽
しめるなんて、冥土の土産にゃちょうどいいじゃないか﹂
﹁この先はどうなるよ。真夏の炎天下で空の身体が三時間野晒しじ
ゃ戻るに戻れねえぞ﹂
﹁そこは心配なく。うってつけのポジションを﹃村上耕作﹄には準
備してあるからさ﹂
﹁⋮⋮ああ、そういうことか﹂
188
﹁そういうこと。にしても気が早いね。真夏の炎天下なんて、まず
はキヨミズの男子野球部を倒さなきゃ始まらない話なのにさ﹂
﹁お前以外の子は使えるんだろ? なら勝てるさ。お前の見込みに
ゃそう間違いはねえ﹂
﹁グラウンドの整備が終わった? あの広さを? 夕方の練習が終
わってから今までの間に? ⋮⋮ああ、人海戦術。金持ちはやるこ
とが違うねえ。⋮⋮うん。それじゃ、今から持ってくからそこで待
ってろよな。⋮⋮違うって、むしろ明日の夕方よりは今の方が都合
いいんだよ。⋮⋮怖いって今さら何言ってやがる。お付きの人とか
いるんだろ。じゃな﹂
真理乃からの電話を切り、雪絵は﹃父親﹄の純二に言った。
﹁ピッチングマシン、運んで﹂
﹁おやおや人使いが荒いね、雪絵。もう日付が変わろうという時刻
じゃないか﹂
﹁ドラキュラみたいな生活してる人には関係ないだろ﹂
﹁それはそうだ。よし、行こう﹂
軽いノリで立ち上がる。深く考えず口を開くこの相手にも少しは
慣れてきた。
庭からピッチングマシンを引いてきて、ガレージの軽トラックの
荷台に積み込む。助手席に乗るとすぐ発進し、雪絵の指示に従って
道を進む。
﹁しかしピッチングマシンなんてわざわざうちから運ばなくてもい
いんじゃないかね? 森家の令嬢も清水家ゆかりのお嬢さんも加わ
っているんだし、調達は可能だろう?﹂
﹁百八十キロのスピードと宇野並に豊富な変化球投げられるピッチ
ングマシンはそうそうないから﹂
あんなマシンで何年間も毎日バッティング練習してたら、俺の百
五十キロにびびるわけもないよな⋮⋮と、こちらは心の中で呟く。
そして雪絵の言葉に、自己流の改造をマシンに施した怪しい学者
189
は上機嫌で肯いた。
﹁ふむ。ところで宇野とは?﹂
﹁チームのピッチャー﹂
﹁ほう。あのマシンには私の知る限りの変化球をすべてプログラム
したのだが⋮⋮女子高生と互角とは、まだまだ私も不勉強だったよ
うだな﹂
﹁あんたが不勉強なわけじゃなくて、宇野がどうかしてるだけだよ。
あいつ今年で十六なんて絶対嘘だ。何十年もピッチングのことしか
考えてない妖怪に決まってる﹂
軽トラックが稲葉家の近所を通る。懐かしいけれど、今の自分と
は切り離された風景。
﹁君がそれだけ他人の話をするとは珍しい﹂
いくら何でもそんなわけねーだろ、と純二の言葉に反論しそうに
なり、この変人科学者相手に自分からはほとんど口を利いていなか
ったことに気づく。
﹁一年間楽しめる環境が形成されつつあるようだね。私としても被
験者が不快なまま実験を終えるのは不本意だったので、何よりだ﹂
﹁黙ってろ﹂
ヘッドライトの先、学園の裏山へ差し掛かる道の入口に、相変わ
らずおどおどした態度の真理乃が待っていた。
190
第三部﹁少女たちは備える﹂第二章﹁試合一ヶ月前﹂
肩慣らしに百七十キロの直球を打ってみたが、狙った方向へは飛
ばない。目はとうに慣れているけれど、まだ力負けしないバッティ
ングフォームを確立できていない。
隣では、シャーロットが市販のピッチングマシンを相手に百二十
キロの球を打ち込んでいる。野球未経験の素人さんと言う話だった
が、ひと月でずいぶんバッティングフォームもさまになってきた。
気持ち良さそうに金属音を響かせている。
﹁百八十キロを五球、その後三十球ランダムでよろしく﹂
﹁わかりましたわ﹂
一美のリクエストに応じて弥生がマシンを操作する。
マシンから吐き出された硬球が、高速で迫る。バットを操り芯で
捉える。五球中どうにか三球は狙い通りの方向へ放てたが、まだ飛
距離が足りない。
そしてストレートからナックルまで、何が飛び出すかわからない
ランダムプログラムに従って飛び出すボールを三十回打つ。前の六
球と合わせて三十六球中、二十七本がヒット性の当たり。ただし長
打は六本ほど。
﹁やっぱり一美さんはすごいデスネ﹂
同じタイミングで打撃練習が一段落したシャーロットが、汗を拭
きながら一美に話しかけてきた。
﹁まだ駄目だよ。あたしは打つしか能がないからね。残り一ヶ月で、
長打をきっちり打てるようにならないと﹂
﹁でも百八十キロの球をポンポン弾き返してマスシ⋮⋮実戦だと百
四十とか百五十くらいデスヨ?﹂
﹁機械と人間は、やっぱり違うから。梓ちゃんの﹃あの球﹄見れば
わかるでしょ?﹂
﹁ああ、それはそうデスネ⋮⋮﹂
191
グラウンドの隅でシャドーピッチングをしている梓に目をやり、
シャーロットが呟く。梓と一美の勝負は、ひと月経った今も鮮烈な
印象を他のナインに残していた。
﹁さ、よろしくお願いしますわ、二人とも﹂
二台のマシンをそれぞれ操作していた弥生と雪絵がバットを持っ
て打席に入る。入れ替わりに一美とシャーロットがマウンド上に置
かれているマシンに向かった。
﹁偵察、うまく行ってるデショウカ?﹂
﹁大丈夫でしょ。ま、分析は賢い面子に任せて、あたしたちは鍛錬
に励むだけだけど﹂
そう言うと、一美は硬球をマシンにセットし始めた。
﹁一年生でスタメン二番かい。三輪っての、大したバッターのよう
だね﹂
少し遅れてやって来た美紀の言葉に、啓子が言い添える。
﹁バッティングだけじゃない。走塁も積極的だし、セカンドの守備
も堅実だよ﹂
啓子と美紀と優と真理乃。四人は今、校舎屋上から、男子野球部
と去年の西東京代表校の練習試合を観戦していた。真理乃がビデオ
カメラを据えつけて試合経過を録画し、他三人はその場で目につい
た選手やプレーに関してメモしておく。
試合は二回裏。すでに清水共栄男子野球部は八対〇と大きくリー
ドしている。コールドゲームになるとしても五回までにどれほど点
差がつくことか。
﹁で、三番が弥生や梓にとって因縁の相手・白石。三軍からは舞い
戻ってたんだね﹂
今度は優が答えた。
﹁あの人以上のキャッチャーはいない、みたいですから。ピッチャ
ーの長所を生かすよりは、自分のリードにピッチャーを当てはめよ
うとするやり方、だって話ですけど﹂
192
猛としての去年までの知識を交えて話すわけだが、その辺は間接
話法にしないと当然ながら不審がられる。ぼろは出していないと思
うけど、時々今の立場を見失いそうになるのが怖い。
﹁バッターとしては、苦手なコースがないタイプですね。どこへ投
げても喰らいついて、四番へつなげようとする打ち方です。長打も
狙えば打てるようで、厄介です﹂
言った矢先、快音を発して打球が右中間のフェンスを越えていっ
た。ツーランだ。
﹁その四番が、彼か。あの下品な男﹂
右の打席に立った渡辺を見て、美紀が珍しく憎々しげに言う。梓
と弥生が男子野球部と揉めた時に酷いことを言われたそうで、去年
までのキャラクターを思い出せば、彼が何をどんな風に言ったかは
優にも想像がついた。
﹁ただ、打ちますよ。半端でなく﹂
その声をかき消すような甲高い音。二年生だった去年よりさらに
飛距離が伸びていて、二打席連続のホームランだということは打っ
た瞬間はっきりしていた。それを打った当人が一番はしゃぎ、ピッ
チャーを嘲るように何か言いながらダイヤモンドを一周している。
﹁今の男子野球部に最もふさわしい四番のようだね。良くも悪くも﹂
美紀の辛辣なコメントに、優は内心身を竦ませる。﹃優﹄には直
接関係ないことなのだから、表面には出さないよう努めたけれど。
﹁次の五番が、個人的にはむしろ怖い﹂
啓子がぽつりと言い、静かに左打席に立った長谷川をビデオカメ
ラ越しに眺めている。
長谷川は、動揺を隠せないピッチャーが投げた棒球を二球見送り、
三球目のスライダーを強打。打球は左中間フェンスを直撃したツー
ベース。誰にともなく美紀が訊ねた。
﹁あの投手の決め球は、スライダー?﹂
﹁正解﹂
﹁十一対〇になった練習試合。緊張が切れてもおかしくないそんな
193
状況下で、自分なりの課題を見つけて打席に立ったってことかい。
大したもんだね﹂
一打席見ただけでそれを見抜いた美紀も大したものだと思う。も
っとも、最初は素人と言っていたのに、練習が本格的に始まった途
端、玄人肌の打撃技術と職人的な外野守備を披露して見せた彼女の
ことだ。この程度で感心するのは却って失礼かもしれない。
続く六番の堀内と七番の工藤は簡単にヒットを打って、一点追加。
状況は一死一二塁。
﹁六番は﹃くせ者﹄ってあだ名が昔からついていたそうです。七番
はミートするのがうまいですね﹂
しかし八番の高橋、九番ピッチャーの柴田が凡退して、二回裏は
終わった。
﹁八番のライトは、打撃は不得手ですけど、守備がすごいです﹂
三回表。優の解説を裏付けるように、右中間を破りそうだった相
手チーム四番の打球をライトはジャンピングキャッチしてのけた。
さらにそこから、肩を見せつけるようにキャッチャーまで返球した
ボールはノーバウンドでミットに吸い込まれる。
続く五番は三遊間を抜けそうな当たり。ショートがうまく回り込
んで捕球すると、矢のような送球をファーストへ。
﹁あのショートは⋮⋮一番バッターか。守備もいいけど打撃もいい
のかな?﹂
﹁そうですね。足を生かしてコツコツ当ててきます。盗塁も得意で
すし﹂
言いながら、優は今の自分の肩について考える。猛の肩よりは弱
いはずなので、スローイングをもっと工夫しなければなるまい。
﹁真理乃、どうした?﹂
美紀の声に驚いて振り向くと、真理乃が口元を押さえてしゃがみ
込んでいた。
﹁な、何でもないです。ちょっと、その、立ちくらみしただけで⋮
⋮﹂
194
気丈に言ってカメラを覗き込もうとしているが、また口元を押さ
える。性格はやたらと気弱な子だけれど、身体はいたって健康とい
う感じがしていたのだが。
と、美紀が真理乃に近寄り、小声で何か言った。﹁見えたのかい
?﹂と優には聞こえたが、どんな意味なのか見当もつかない。
しかし真理乃はその言葉を聞くと小さく肯き、﹁最初からずっと
⋮⋮我慢はしてたんですけれど⋮⋮﹂と呟いた。
﹁あんたは意外と過敏な子なんだね。ま、悪いばかりじゃないから
気に病むこたないさ﹂
美紀はまた優には微妙に意味不明な台詞を発し、そのままビデオ
カメラの前に立つ。
﹁録画はやっとくから真理乃は引き上げな。体調が回復したら練習
に復帰しといてくれ﹂
﹁⋮⋮はい。その、ご迷惑かけちゃって、本当にごめんなさい﹂
ぺこりと頭を下げる真理乃に、啓子がグラウンドを見つめてメモ
を取りながら、静かに声をかけた。
﹁気にしなくていいよ。体調が悪い時は無理しちゃ駄目だ﹂
﹁そうだよ、真理乃さん。あの、家に帰っちゃってもいいからね﹂
優が言い足すと、真理乃はもう一度謝ってから校舎の中に入って
行った。
﹁さて。人数減った分気合入れて観察しようか﹂
さっきの会話について訊いてみたかった優だが、美紀に機先を制
された。
﹁ピッチャーはこの柴田の他に誰が有力?﹂
﹁え、えっと、三年だと阿部がいます。右の軟投派で、柴田と左右
の二枚看板ですね﹂
﹁今投球練習してる彼かな?﹂
﹁あ、そうです﹂
五回までに両投手を起用するらしい。優はメモと鉛筆を持ち直し
た。
195
﹁時間がずれ込んですまない。トリプルヘッダーの三つ目が意外と
長引いてね。結局うちの男子が三連勝だったけど﹂
そんなことを言いながら美紀たち三人が戻ってきたのは夜遅く。
仮設の照明が灯る中、最後の練習メニューまで終えた直後だった。
﹁三試合目の相手はどこでしたかしら?﹂
﹁神奈川の箱根創生﹂
﹁去年の夏は優勝候補の一角でしたわね。大西に二回戦で競り負け
ましたけれど﹂
そんな相槌を打ちながら美紀と啓子と優を見れば疲労困憊の様子。
身体は動かさなくとも、本気で頭を使えば疲れるものだ。
﹁それで、ミーティングの方は満足いくものになりました?﹂
﹁ま、どうにか。向こうの手の内はある程度見えてきたわけだし、
うちらの力も把握できてきたしね﹂
練習で鍛えられるのは戦闘や戦術レベルの技量。戦略がしっかり
しないことには劣勢の挽回は難しい。数時間の練習時間を犠牲にし
ても、チームの頭脳たる彼女ら三人に知恵を絞ってもらったのは無
駄ではないはずだ。
そんなことを考えながら、弥生が何となく場を仕切って解散を宣
言する。
三々五々帰宅の途につく仲間たちを見送ってから、弥生はプレハ
ブに入った。
﹁みんなは?﹂
﹁帰ったよ。さ、もうひと踏ん張りするかねえ﹂
大きく伸びをして、弥生は縫い目のほつれたボールを修繕中だっ
た修平と向かい合って座る。そして転がっている汚れたボールを手
に取ると、消しゴムでこすり始めた。
マネージャーとして女子野球部に入部した修平。その雑用を手伝
うのが、弥生の部活の締めくくりになっていた。今日はボールの手
入れだが、日によってやることは様々だ。
196
しばらく黙々と作業に集中していたが、弥生があくびをすると修
平が口を開いた。
﹁他の子にもやらせればもっと早く終わるのに﹂
﹁俺たち二人で済む仕事なんだから、他の手を煩わせるまでもねー
よ。ピッチングの自主トレが残ってる梓みたいな奴もいるんだし﹂
そう言うと、修平は唇を尖らせる。
﹁⋮⋮弥生ちゃんだって、帰ったら練習するんでしょ? 大変なの
はおんなじなのに﹂
﹁俺の練習時間が減るのと梓や一美さんの練習時間が減るのはわけ
が違うっての。男子野球部倒すなんて無茶、エースと四番の大活躍
がなければ不可能なんだから﹂
﹁でもぉ⋮⋮﹂
﹁修平、すっかり﹃弥生﹄に戻ってるぜ﹂
弥生がからかうと、修平は顔を赤くした。
﹁別にいいでしょ。二人きりなんだから﹂
﹁おやおや。﹃今の身体に合わせる﹄とか言ってたのはどこの誰だ
ったかな。ま、確かに人前じゃ﹃物静かで理知的な吉田君﹄で通っ
てるみたいだけど﹂
﹁そうよ。がさつな弥生ちゃんだったらこうは行かなかったでしょ
うね﹂
﹁誰ががさつだよ。俺の評判知らないわけじゃねーだろ? ﹃キヨ
ミズのお嬢﹄だぜ﹂
﹁⋮⋮どう考えても褒め言葉じゃないわよ、それ﹂
いつものようにバカ話をしながら、秘密を共有する二人の夜は更
けていく。
197
第三部﹁少女たちは備える﹂第三章﹁試合前夜﹂
﹁ブレスレットを外す方法だけはわからないってのは意外でしたね
ー﹂
﹁まったくだわー﹂
﹁⋮⋮申し訳ございません﹂
姉の聡美と母の早紀子が深々と息を吐く。その横には小さくなっ
ている父の謙蔵。
取扱説明書の翻訳自体はわりと早く終わっていたが、結局嵌めた
二人の男女の心を一定時間入れ替える機能がわかり、﹁ただし男は
赤のブレスレットを、女は青のブレスレットを、腕に嵌めてはいけ
ない﹂というすでに推測済みの要注意事項が載っていたことを確認
しただけで、それをしてしまった場合の対処法は不明だった。
謙蔵が丁悦屋に話を持っていったが、店の主人もその場合のフォ
ローまでは知らないとのこと。参考になるかもしれないラテン語の
資料を山と持ち帰って解読に励んだが、今日それがすべて終わって
も、ブレスレットの追加機能は判明したものの、悟とシャーロット
を元に戻す方法は皆目わからなかった。
悟が隣を見下ろせば、悟の身体のシャルもどこかしょんぼりして
いる。
ひとまずみんなを慰めようと、悟は口を開いた。
﹁でも、時間の調節ができるようになったからよかったよ。これな
ら午前中やお昼頃からの試合でも僕が出られるようになるし﹂
そう言うと、家族はみな生暖かい笑みを浮かべて悟を見つめた。
﹁あの、悟ちゃん? そりゃシャルの身体で野球をする分には好都
合かもしれませんけどー、将来的にどうするつもりですかー?﹂
﹁いくら何でも日本とアメリカに離れて交換生活はできないわよね
ー。シャルにずっと日本にいてもらうかー、いずれ悟ちゃんにアメ
リカに行ってもらうかー⋮⋮﹂
198
﹁さらにその先はどうしましょー。まさか今の状態で、それぞれ別
の恋人を作れるわけもないですしー。国際結婚ってことになります
よねー﹂
﹁母さんは別に、それはそれで構わないわよー?﹂
﹁私も異論はないですけどー﹂
﹁ならその辺を、二人の人生設計には組み込んでもらうということ
になるわねー﹂
まくしたてる姉と母の言葉に、悟は本来シャルのものである顔を
真っ赤にした。
抗議しようとした時、横にいたシャルに腕を掴まれ引っぱられる。
小さな悟の身体では大した力でもないが、悟は素直に従い居間を出
て、二階のベランダに上がった。
よくよく見れば、悟の顔をしたシャーロットも頬を赤く染めてい
る。
﹁あの、ごめんね。お母さんとお姉ちゃんが変なこと言って﹂
﹁⋮⋮イイエ、しょうがないと言えばしょうがないデスヨ。完全に
元に戻れる保証がないのデスカラ、そういうことを今のうちから考
えておくのも当然デスシ﹂
なぜかその話題には触れたくなさそうな、淀んだ口調。
︱︱シャル、僕のこと嫌いなのかな。
そんな想像をすると悟の胸は苦しくなる。寂しくて寂しくてたま
らない。
﹁シャルは、僕とそうなるの、嫌?﹂
率直に訊いてみると、シャーロットは悟を見上げ、慌てたように
首を振る。
﹁悟のことが嫌いなんてことはアリマセンヨ? ただ、シャルはそ
ういう、人間関係みたいな問題を考えるのを避けてきたところがア
リマシテ⋮⋮﹂
語尾を濁したしばし後、小さな声で、シャルは臆病だからと付け
加えた。
199
﹁前にもそんなこと言ってたよね? どういうこと?﹂
悟の方を見ずに、手すりに腕を乗せて夜の住宅地を眺めていたシ
ャーロットは、やがてこちらを向くと、おずおずと口を開いた。
﹁シャルは子供の頃からアニメや漫画が大好きデシタ。これは悟も
知ってマスネ﹂
質問ではなく確認の問いかけ。悟が肯くより早く、シャルは続け
た。
﹁なのにシャルの家庭は、パパがスポーツマニア︱︱と言うよりも
体育会系︱︱な人で、シャルも姉さんたちと一緒に、小さい頃から
トレーニングを毎日やらされてマシタ。野球やバスケやアイスホッ
ケー⋮⋮近所のスポーツクラブには全部加入シマシタ﹂
おかげでこんなに背が伸びて、と隣の悟の頭に背伸びして手を伸
ばす。
﹁でもシャルは勝ち負けがつくものが好きじゃないんデス。負けた
いとは思わないけど、勝てなくても別に気にナリマセン。そしてそ
れは、パパたちの考え方とは違ってマシタ﹂
そこで言葉を切ってくれたのは、悟に考える時間を与えるための
ようだ。
悟は思い描く。勝ちにこだわらない子が、勝つことが何より大事
と考える家族の中で過ごす生活を。当然負ければ責められる。きっ
と勝っても次の勝利を目指して追い立てられる。好きなものに接す
る時間も奪われて、トレーニングや競技をやらされて。
それはとてもとても居心地の悪い生活だろうと思った。
家族が自分と相容れない性質の持ち主だという状況は、さっき悟
が想像してみたことよりも、さらに寂しいことのように思われた。
﹁ほっといてくれ、って、言えればよかったんデショウネ。でもシ
ャルは勝負事が嫌いな臆病者だから、パパたちに面と向かってそん
な風に言うこともできませんデシタ﹂
他の日本語以上に、﹃臆病者﹄という単語はシャルの口からすら
りと流れる。たぶん、アメリカにいた時にも英語で同じような言葉
200
を投げつけられていたのではないだろうか。
﹁だから⋮⋮日本に?﹂
﹁ええ。ハイスクールで留学生の募集を知って、グランマが亡くな
った時シャルに直接遺したお金を使って、パパたちには何も言わな
いで、逃げ出すように日本に来ました。連絡を取っているのはママ
だけ﹂
いつもの妙な語尾がなくなっている。シャーロット自身も気づい
たようで、苦い笑みを浮かべた。
﹁場所が変われば自分も変われると思ってました。今までは嫌なこ
とをやらされていたから、自分は歪んで臆病になっていただけなん
だと。でも、日本に来たら来たで、わたしは﹃変な外人﹄を演じて
ます。本当の自分を出すのが怖くて、仮面の陰に隠れてます。こう
して身体が入れ替わっても、今の今まで悟にまで隠してた、本当の
臆病者﹂
しゃべりながら、シャーロットの目から涙が一筋流れる。悟から
顔を背けるように再び手すりに寄りかかり、力なく庭を見下ろす。
寂しさを抱えたまま傷つけられて。そこから逃げても、逃げたこ
とに罪悪感を覚えて。
﹁いつも悟にお姉さんぶってましたけど、これがもっと本当に近い
わたしなんです。家族とまともにしゃべることもできない、逃げて
ばかりの、臆病な弱虫︱︱悟?﹂
悟は、背後から両腕でシャーロットをすっぽりと抱きしめた。
﹁泣かないで、シャーロット﹂
気の利いた台詞なんて言えやしない。だから思っていることを、
ただ言った。
﹁その⋮⋮僕はシャルの味方だから。本当のシャルがどんな人か、
まだよく知らないかもしれないけど、それでも、僕は僕の知ってる
シャルのことが大好きだよ。今のシャルも﹂
自分で言った﹃好き﹄の言葉に鼓動が高鳴る。上ずった声で、さ
らに言う。
201
﹁だからシャルも、自分のことを悪く言うのはやめて。たとえシャ
ルは平気でも、僕が、嫌だから﹂
﹁悟⋮⋮﹂
潤んだ声で呟くと、シャーロットは顔を覆った。力を抜くと、悟
の胸に背中を預ける。
女の子の悟と男の子のシャーロット。でも背の高さはこの方がい
い。
腕の中に抱えているシャルが愛おしくて、もっと強く抱きしめよ
うと思った時。
背後から、誰かが尻餅を突く音がした。
﹁何やってんですかー、このお年寄りはー﹂
﹁そんな罵り方しないでー、ママは老化が気になる微妙なお年頃な
んだからー﹂
ベランダを覗き見できる位置で頭の悪いやり取りをしている新聞
部部長とテレビ局プロデューサーに呆れつつ、悟は声をかけた。
﹁あの⋮⋮いつから?﹂
﹁うーん、わりと最初の方からですねー﹂
﹁嘘⋮⋮﹂
頭を抱える悟を無視し、早紀子はシャーロットに声をかけた。
﹁シャルちゃん。今、逃げたい?﹂
悟が目をやると、シャルは一瞬考え込む顔になってから、首を横
に振った。
﹁なら、私たちはあなたのパパたちよりも、あなたの家族に近いっ
てことかしらねー﹂
﹁わたしの、家族⋮⋮?﹂
﹁日本には﹃遠くの親戚より近くの他人﹄って言葉があるのよー﹂
﹁そりゃ少し意味が違うですー﹂
聡美が母親に突っ込んでから、こちらもシャーロットに向き直る。
﹁仮面なんか何だってんですかー。うちの家族だってどいつもこい
つも仮面かぶって暮らしてますよー? 父親は道楽翻訳家に似合い
202
な﹃無神経なオタク﹄の仮面。母親は余計な敵を作らないために﹃
おとぼけおばちゃん﹄の仮面。悟はスポーツ苦手な貧弱な体格をご
まかすために﹃インドア少年﹄の仮面。私は少々高い攻撃性を隠す
ために、﹃人畜無害﹄の仮面﹂
﹁お姉ちゃん、それはかぶり損ねてる﹂
悟の突っ込みを黙殺して聡美は続けた。
﹁シャルもつまんないことにこだわってると頭痛くなりますよー。
駄目な﹃本当の自分﹄なんて一生隠してればいいんですー。隠し通
せばそれは事実でなくなりますからー﹂
﹁⋮⋮ありがと、聡美﹂
﹁じゃ、下に降りてご飯にしましょうねー﹂
早紀子に促され、シャーロットは階下に降りて行く。と、聡美は
悟を引き止めた。
﹁どうしたの?﹂
﹁かっこいいこと言った以上、明日は勝たなきゃ駄目ですよー?﹂
﹁それくらい、わかってるよ﹂
﹁明日の試合は新聞部がきっちり中継してインターネット放送しま
すからねー。新聞部のスタンスとしては女子寄りですけど、結局勝
負事は勝てば官軍負ければ賊軍。負けたら女子野球部は相当肩身狭
くなりますよー?﹂
﹁⋮⋮がんばるよ。シャルにもう嫌な思いはさせないって決めたん
だ﹂
﹁はいはい、ごちそうさまですー﹂
﹁ごちそうさま。これは、小笠原さんが?﹂
カレーライスの皿を空にして、啓子は優に訊いた。
﹁いえ、あの、猛お兄ちゃんが作ったものをおすそ分けしてもらっ
て⋮⋮﹂
しどろもどろになりながら優が答える。お隣さんが絡むと、この
子はいつもこうだ。
203
﹁へえ。甘口のわりにはおいしかったよ。ありがとう﹂
啓子はそう言うと皿を脇に除けて、食事の最中も広げていた紙や
鉛筆を片づけた。
﹁これで、決まりですよね﹂
自分の使っていた紙を眺めて優が言う。
ポジションはかなり簡単に決まったが、打順がなかなか悩ましく、
試合前日の今日まで固まっていなかった。そこで啓子と優が、優の
部屋で最後の作業をしたのである。
﹁どう機能するかは実際にやってみないとわからないけどね﹂
﹁そこは指揮次第でもありますよね﹂
言って、優が期待の眼差しで啓子を見る。そういう役割を望まれ
ていることは美紀に誘われていた時から承知していたけれど、やは
りちょっとしたプレッシャーだ。
﹁⋮⋮﹃監督﹄、本当に何もしないつもりなのかな﹂
啓子が思わず愚痴をこぼすと、優があきらめるような口調で応じ
る。
﹁でも、就任した時ご自分でおっしゃってましたものね。孫の義理
でベンチに座るだけだから何もしないって⋮⋮﹂
﹁本当に何もしない、って言うか、たまに来れば必ず寝てるし﹂
﹁あんなに徹底してると却って潔く見えてくるのが不思議ですね﹂
﹁まあ、美紀さんをあそこまで鍛え上げていてくれたことには大感
謝だけれど﹂
﹁同感です﹂
そんな話をしていると、チャイムが鳴る。お迎えが来たようだ。
﹁時間ぴったり。さすが矢野さんだ﹂
啓子が荷物を持って立ち上がると、優も玄関までついて来る。
﹁あの⋮⋮啓子さんのお身体の具合、今はどうなってますか?﹂
﹁意外と快調。これまで怖がって身体動かさなかったのが、逆にい
けなかったのかもね﹂
﹁そうですか⋮⋮﹂
204
靴を履きながら答えた啓子に優は顔を綻ばせ、しかし念を押すよ
うに付け足した。
﹁でも、無理はしちゃ駄目ですよ﹂
﹁そりゃ不可能でしょう。無理しないで勝てる相手じゃない﹂
﹁そうかもしれませんけど⋮⋮﹂
﹁ま、死なないようには注意するよ。この先もあなたたちと野球を
したいしね﹂
﹁私も、啓子さんともっと野球したいです﹂
優が律儀に言葉を返した。
頭の回転では美紀に、個別の技術に関する知識と経験では梓や一
美に劣るものの、野球についての総合的な頭の良さでは優が秀でて
いる。そして啓子は︵かつての経歴があるのだから当然だが︶さら
に上を行っていた。
身近に接していればすぐわかるもので、二ヶ月経った今では優が
啓子に師事しているような雰囲気さえある。
啓子としても、本来は二十歳以上年下のこの女の子を、自分の蓄
積を伝える弟子のように見なしつつあった。
だからこそ、明日は負けたくないと改めて思う。できるだけ長く、
実戦の中で優に色々なことを教えてあげたいから。
また明日、と挨拶して啓子はドアを出た。
ドアの外には、保険医にして女子野球部顧問となっている矢野が
待っていた。
﹁今夜の検査は中止になりました。群馬で手術可能な事故が起きた
もので、所長はそちらに向かっています﹂
階段を降りながら、彼女は啓子に告げる。
研究の始まりは戦時中。訓練を施して実戦経験を積ませた古参兵
がバタバタ死んでいく状況下、そうした兵隊の損傷していない脳な
どをリサイクルできないものかと考えた軍人とその手の人体実験を
したくてたまらなかった歪んだ医学者が手を結び、研究所が極秘裏
に発足したという。
205
極秘裏ゆえに戦後も生き延び続けた。危うく戦犯として絞首刑に
なりかけた後にとても偉くなった人物ともつながりがあったため、
戦後も役所や警察から便宜を図ってもらう伝手は失われず、資金面
での援助も今日まで途絶えていない。この研究はある種の医学者を
惹きつけるらしく、人材補給にも問題はない
︵矢野は、そんな研究をするところとは知らずに入ったとのことだ
が。嘘のつけない真面目な性格だからたぶん事実だろう︶。
当初の﹁頭を吹き飛ばされた兵隊と首から下を失った兵隊をその
場でくっつけてすぐに戦線復帰させる﹂という目標に到達したわけ
でもないが、それなりに研究成果は挙げていて、一般に公表されて
いる医学研究よりは少し先を進み続けている。
脳のタイプがある程度適合すれば、無事な脳を無事な身体に完全
移植して、最低一年間生き延びさせるくらいには。
﹁そうなんだ⋮⋮。で、何か注意事項みたいなものは?﹂
﹁特に何もおっしゃってませんでした。私たちにしても四年目は未
知の領域ですし、手術後にスポーツを始めた人もこれまでいません
でしたし、様子見状態です﹂
﹁先週の検査結果は?﹂
﹁⋮⋮問題ありませんでした﹂
﹁了解。それが聞きたかった﹂
どこかが悪くなっているという感覚はなかったが、確認できれば
なお安心できる。たとえ悪くなっていても、明日の試合に出るつも
りではあったけど。
啓子が助手席に乗り込むが、なかなか発進しない。矢野の方を見
れば、運転席に座ったもののエンジンもかけずに啓子をじっと見つ
めている。その瞳が潤んでいる。
﹁⋮⋮早く帰ろう。明日に備えてしっかり寝ておかないといけない
しね﹂
間が持たなくなってそんなことを言うと、矢野がようやく口を開
いた。
206
﹁⋮⋮田村さんが﹂
声を詰まらせ、でもすぐに続ける。
﹁田村さんが﹃明日﹄の話をしてくれるなんて、初めてですよね⋮
⋮検査結果を自分から聞いてきたのも﹂
気恥ずかしくなってそっぽを向いたが、矢野はなおも言い募った。
﹁私、もっとがんばります。所長たちにももっとがんばってもらい
ます。田村さんができるだけ元気に暮らしていけるように⋮⋮﹂
車が出るまでしばらく時間がかかるかなと思いつつ、啓子は矢野
をせかそうとは考えなかった。
矢野は︱︱そして所長の大森らも︱︱かなり歪んではいるけれど、
患者のために必死に努力する医者ではあるのだ。
梓が庭に出て軽く身体を動かしながら空を眺めていると、隣の庭
先に美紀が現れた。
﹁まだ寝てなかったのかい﹂
﹁それを言うなら美紀姉ちゃんも﹂
垣根越しに会話を交わしながら、二人で澄んだ夜空を見上げる。
幸いにも梅雨の晴れ間で、明日の予報でも雨は降らない。適度なコ
ンディションになりそうだ。
﹁耕作さんは?﹂
﹁とっくに寝床の中。年寄りは夜も朝も早いからね﹂
﹁そうだよね﹂
とりあえず振ってみた話題だが、後が続かない。耕作を美紀に憑
依させることの是非は当事者二人で散々話し合ったことだろうし、
前世の記憶を思いきり活用している自分が口を挟むのもどこか気が
引けるし、耕作が動かす﹃美紀﹄がチームの軸と呼べそうなくらい
優れた選手になっていることもあるから。
そんな風に、変に気を回したり軽い罪悪感を覚えたりで黙ってい
ると、美紀が言った。
﹁ありがとさん﹂
207
﹁何が?﹂
﹁いや、問い返されてもちょいと困るんだけど⋮⋮梓が身近にいて
くれたこと、それ自体に、かな﹂
美紀は照れ臭そうに視線を外す。
﹁あたしの家のちょうど隣にあんたが生まれてくれて、あたしだけ
に生まれ変わりのこと打ち明けてくれて、いつも目をきらきらさせ
て夢みたいな夢語ってくれて、あたしの通う高校に入学してくれて、
あたしの女子野球部案に乗っかってくれて、ジジイとあたしのこと
も咎め立てしないでくれて。⋮⋮全部、あたしにとって都合がよか
ったからありがたいって意味に過ぎないけどさ﹂
どうしてこの幼なじみはいつも偽悪的な物言いをするのだろうと
思いつつ、梓は言う。
﹁僕もやりたいことやってるだけだよ。高校に入るまで全然野球の
チームに入らなかったのは、甲子園に行く前に下手な練習させられ
たり連投させられたりで肩が壊れたら嫌だなって思ったからだし﹂
美紀に向き直って、苦笑する。
﹁自分に都合がいいかどうかで判断してるのは、美紀姉ちゃんとお
んなじ。⋮⋮だから、同じ意味で、美紀姉ちゃん、ありがとう﹂
この得難い幼なじみと一緒に、大好きな野球ができる。自分は幸
せ者だと思う。
美紀が耕作を自分の身体に憑依させる口実として女子野球部を立
ち上げ、自分自身を選手に仕立て上げたことも、それによって何か
をしようとしてることも、わかっている。
でもそれはきっと、彼女にとっていいことなのだろう。善悪の判
断はしっかりしてる幼なじみなのだ。そしてもし生来の詰めの甘さ
が出て彼女が失敗しそうになったら、その時は自分が手伝ってあげ
ればいい。
﹁がんばろうね﹂
梓が笑いかけると、やっとこちらに視線を戻した美紀も笑ってく
れた。
208
﹁⋮⋮ああ。まずは明日の一勝だ﹂
209
第四部﹁少女たちは挑む﹂第一章﹁一回表﹂
﹁今日はよろしくお願いします﹂
男子野球部監督の真田はそう言うと、律儀に深々とお辞儀した。
﹁いや、俺は別に何もしねえからよ。バカな孫がとんだ迷惑かけち
まったようだが、ま、よろしく頼まあ。本気でやってくれて構わね
えからよ﹂
女子野球部監督の村上耕作がそう返すと、頭を上げた真田は鼻白
んだ顔をする。
﹁もちろん、そのつもりです。我々の目標は甲子園優勝以外ありま
せんので﹂
︱︱ふうん。
真田の背後に屯している男子野球部員を見る。何割かは真面目に
試合前の練習に取り組んでいるが、半分以上の連中はてんで勝手に
私語を交わしている。さすがに咎められるほどのバカ騒ぎはしてな
いが。
皮肉を一つくらい言おうかとも思ったが、やめにした。真田は結
果さえ出せば文句は言わない類の監督のようだ。そしてこの浮かれ
気分の坊主どもに効く最高のお灸は、実際の試合で叩き潰される経
験だろう。
軽く頭を下げてベンチに引き上げると、交換したメンバー表をマ
ネージャーの吉田に手渡し、自身は長椅子の中央にどっかりと腰を
下ろした。その横を、仲間に﹁トイレ﹂と説明しながら駆けて行く
美紀。
そして十数秒後。意識をがくんと引っぱられる感覚とともに、耕
作は﹃美紀﹄の身体でトイレの個室の中に立っていた。ベンチの奥
に、更衣室などと一緒に設置されたトイレの中だ。
あらかじめ耕作の身体に札を貼っておき、今、美紀の身体にも札
を貼って二人の意識をつないだところ。まくり上げたアンダーシャ
210
ツの左腕の袖を下ろして、札が剥がれないようにぴったりと覆う。
明るく赤い朱色のアンダーシャツとストッキング。白いユニフォ
ームのフロントと袖口にズボン脇のラインも、同じ色が縁取る。
鏡を見てこれまた朱色の帽子をかぶり直しつつ、耕作は心の中の
美紀に話しかけた。
︵実際に見ると思ってた以上に不愉快な連中だな。お前はともかく
温和な梓ちゃんが怒るのも無理はねえ︶
︵だろ? まあせいぜい見せつけてやっとくれよ。プロ生活二十五
年の技術をさ︶
︵お前に言われるまでもねえや︶
美紀の身体の耕作はきびきびとした足取りでグラウンドへ戻って
行った。
男子野球部専用のグラウンドを取り囲んでいるのは男子野球部の
二軍と三軍、それに噂を聞きつけて現れたキヨミズの生徒たちがも
ちろん大部分。しかし新聞部と提携した放送部の撮影機材なども設
置されて中継の準備は万全。さらに近隣の強豪校も、清水共栄男子
野球部の偵察になればと部員を送り込んでいるらしい。勝手の違う
学校に戸惑った様子の学生たちが何人か見られる。
誰もが男子野球部の圧勝を自明のものとしている。女子野球部に
向けられる関心は、せいぜいが顔の品評。二軍や三軍の連中は露骨
に嘲笑っている。
もっとも、そんな判断も無理はない。何せ女子野球部は、練習試
合の一つもこなしてはこなかったのだから。
実戦経験と情報の漏洩。二つを秤にかけ、啓子や美紀たち首脳陣
が決めた方針だ。普通ならありえないことだろうが、エースと四番
が妙に︱︱まるで何十試合と公式戦に出場してきたかのごとく︱︱
場慣れしているこのチームでは、そんな決定も成立しうる。
︱︱度肝を抜いてやろうじゃないか。観客と、相手チームの。
弥生は内心でそんなことを考えながら、八人の仲間とともに歩き
211
出した。
ホームプレート前に両チームが整列した。白いユニフォームに黒
い帽子の男子野球部と対峙すると、女子野球部の赤はよく映える。
相手の列の尻の方に大久保の姿があった。弥生と視線が合うと、
険しい顔で睨みつけてくる。しかしそこには、二ヶ月前のような嘲
りや侮りの感情は見当たらなかった。
︱︱ちっとは目が覚めたってことかね。
真っ向睨み返しながらそんなことを思っているうちに、挨拶。
﹁よろしくお願いします!!﹂
女子九人の声がぴたりと揃ったのに対し、乱れている男子の声。
後攻なので、そのまま三々五々グラウンドに散って行く。
ベンチに引き返してバットを手に取ると、弥生は左のバッターボ
ックスに向かった。
一番セカンド 森弥生
二番キャッチャー 小笠原優
三番レフト 村上美紀
四番サード 鮎川一美
五番ショート 田口雪絵
六番ピッチャー 宇野梓
七番ライト 藤田真理乃
八番センター シャーロット・L・ミラー
九番ファースト 青田啓子
以上九人、補欠なし。これが本日のスターティングメンバー。
︱︱まさか俺が一番になるとは思わなかったな。
足の速さなら優、バッティングの巧さなら美紀、パンチ力なら真
理乃、その辺の面子が選ばれると思っていたのだが。
︱︱まあ、俺なりのやり方でがんばるしかないわな。一番はけっ
こう好きな打順だし。
打席でバットを構え、投手に向かう。三年生の左投げ、本格派の
柴田が先発だ。
212
﹁プレイボール!﹂
主審の宣告とともに、ピッチャーが投球動作に入った。
ボールに喰らいつく執念。あるいは根性。
弥生をトップバッターに据える決め手となったのが、この要因だ
った。﹁気合と根性で何でも片づくと思ってる奴はバカだけど、気
合と根性をまったく考慮に入れない奴も同じくらいバカだ﹂と啓子
は優に語った。
その言葉の正しさを、一塁ベース上に立つ弥生の姿が証明してい
た。
ツースリーから、速球だろうがカーブだろうがお構いなしにファ
ウルで六球粘り続け、最終的に選んだフォアボール。ピッチャーに
とっては、下手をすればヒット以上に嫌な形で塁に出たノーアウト
のランナー。
︱︱柴田は意外に神経が細かいしな。
さて、二番バッターのセオリーとしては送りバント。しかし優が
右バッターボックスに入ってバットを寝かせると、三塁手が露骨に
前進守備の態勢になる。捕球をしたら二塁へ向かう弥生を刺し、あ
わよくばダブルプレーも取ろうと思っているのだろう。
︱︱それをおとなしく受け入れるようじゃ勝てるわけがない。
三塁コーチャーズボックスにちらりと目をやれば、啓子の出すサ
インも優と同意見。
柴田が一球目を投じる。バントしろと言わんばかりの直球はマス
クをかぶる白石の指示か。あるいはフォアボールに動揺した柴田自
身の失投かもしれないが。
優は、素早くバットを構え直すと、鋭く振り抜いた。バスターだ。
ゴロとなった打球は、サードの横を抜けてレフト前へ⋮⋮
転がる前に、不思議と勢いが鈍り、ショートが回り込むのが間に
合った。
そして姿勢を崩しながらもセカンドへ素早い送球。弥生がフォー
213
スアウトとなる。果敢なスライディングでセカンドの送球を乱して
くれたおかげで、ファーストへ駆け込んだ優の方はセーフだったが。
一死一塁。結果的にはバント失敗と同じ。
︵俺らとしちゃ、攻めの姿勢だから良しと思いたい。だがそれは同
時に、守る側にしてみれば良く防いだと思い込める形でもある︶
︵精神的には五分五分なら、何かの工夫で均衡を崩したいところだ
ね︶
美紀の身体で左打席に立ちながら、耕作は美紀と心の中で会話を
展開する。
︵回りくどい言い方する必要もねえだろ。俺が第一球でどうするか、
わかってるな?︶
︵もちろん︶
ピッチャーが第一球を投じる。ゆっくりと大きく曲がるスローカ
ーブ。
︱︱まるで警戒してなかったってことか。
それでも当然、耕作は必要以上に大きなスイングで空振りする。
スイングが終わるのをもどかしげに待っていたキャッチャーが急
いで二塁に送球する。
が、ピッチャーが投げると同時に盗塁のスタートを切っていた優
は、とうに二塁ベース上に到達していた。
︵さすが。中学時代は短距離走者だっただけのことはあるね︶
︵んなのは大して関係ねえよ。プロにゃあ鈍足なのに二度もホーム
スチールを成功させた捕手なんてのがいるぜ︶
︵あたしだって知ってるさ。盗塁はスピードよりもタイミング。つ
まり優がピッチャーの投球モーションを見極めてたってことだろ︶
︵⋮⋮わかってんなら無駄話すんな︶
ピッチャーが二球目を投げる。速い直球。百五十キロを超えてい
るかもしれない。
だが耕作の目は白球をしかと捉えていた。
214
︵右方向へ引っぱるんだね︶
︵あたぼうよ。これで先制点はいただきだ︶
鋭くバットを振り抜くと、甲高い金属音とともにライナーが放た
れる。二塁手の頭上は超えるだろう。
そう思いながらファーストへ走る耕作の視界の中⋮⋮
打球は急に重力が増したかのように落ち、飛びついたセカンドの
グラブに収まった。
︵何だありゃ?︶
︵いけない!︶
ノーバウンドで打球を捕られて美紀がアウト。啓子の指示を見て
慌てて優が二塁に戻るがとても間に合わず、ダブルプレー。
スリーアウト。チェンジ。
ベンチへ引き返しながらも、耕作は呆然とした表情のままだった。
︵最近のバットかボールは変なのか? 打球が妙な具合に落ちたぞ︶
︵道具にゃ問題はないと思うよ。⋮⋮二ヶ月の間に予想を超えて力
を増してたみたいだ︶
︵何がだ?︶
︵ああ、こっちの話。ジジイは守備に専念してくんな︶
215
第四部﹁少女たちは挑む﹂第二章﹁一回裏﹂
プロテクターを着けながらも、優の気持ちは浮かない。
内野の頭を超えたと思った美紀の打球がなぜかライナーで捕られ
てダブルプレー。その前の自分の打球にしても、抜けると思ったゴ
ロが急に失速してしまった。
先取点を取れておかしくないはずが、終わってみれば無得点。梓
のピッチングに悪影響が出なければいいのだが。
﹁沈んじゃ駄目だよ、優ちゃん﹂
通りすがりに優の背中をぽんと叩きつつ、梓がマウンドに向かう。
﹁⋮⋮いけないいけない﹂
優は首を振った。気にしてるのは自分自身だ。梓に転嫁してどう
する。
気持ちを今度こそ切り替えて、優はポジションについた。
男子野球部の一番バッターは三年の橋本。足の速い左バッターで、
去年からの一番だ。
﹁よろしくな、お嬢ちゃん﹂
三月、優が﹃猛﹄として卒業した時には感極まって涙をこぼした
橋本は、今の優をせせら笑うように見下ろして言った。
﹁プレイ!﹂
審判の声とともに、梓が投球動作に入る。梓にとっては基本のサ
イドスロー。
左打者の脇腹を抉り込むようなスライダーが走り、橋本は大きく
身をのけぞらせた。
しかしボールになったわけではなく、ストライクワン。梓と弥生
が二軍のバッターと勝負した時同様、曲がりの大きさに橋本も翻弄
されたのだ。
もちろんそんな誤認識は一軍メンバーともなればすぐに修正して
くるだろうが、梓の武器は変化の大きさだけじゃない。
216
二球目。同じ変化をしながら、内側低めへボール半個、ずらした
スライダー。同じ球と錯覚した橋本は打ちに行ったが、芯では捉え
られずボールを引っかけた。
打球は力なくフェアグラウンドを転がり、セカンドの弥生の真っ
正面に。すんなりとさばいてボールは一塁へ。ワンナウト。
橋本は頭をかいて苦笑しながらベンチへ戻って行く。一球目と同
じボールを打ち損じたと思い込んでくれれば、次の打席も簡単に抑
えられそうだ。
二番バッターがこれまた左打席に入る。一年生の三輪。中学で鳴
らしたらしいが、早くもキヨミズでレギュラーの座についていると
いうことは、その実力は本物なのだろう。
﹁相変わらずコントロールいいね、あの子。審判役で見る分にはい
いけど、打者として対戦すんのは怖い怖い﹂
飄々とバットを構えながら、三輪は気軽な口調で優に話しかけて
きた。
二ヶ月前の対戦をしかと覚えている以上、あの時使ったというカ
ーブやスライダー、シュートは予想の範疇にあるわけだ。一球しか
見ていないシンカーやナックルも警戒していることだろう。
優のサインに梓が肯き、球を投げる。
指先から放たれたのは、バッターを挑発するがごときスローカー
ブ。緩い球にタイミングを合わせ損ねればボテボテの内野ゴロ。見
逃せばストライク。
﹁いただき!﹂
だが、三輪は惑わされずに巧く当てた。打球はサードの一美の横
を抜けていく。
と、ショートの雪絵が回り込んで逆シングルで捕球。すぐさまフ
ァーストに送球する。
間一髪、三輪の足よりボールの方が速かった。ツーアウト。
﹁ナイスショート!﹂
﹁あれぐらい誰でも捕れるっての﹂
217
セカンドの弥生が声をかけるけれど雪絵はそっぽを向く。いつも
のことではあるが。
そして三番の白石を迎えた。
優は左打席に入った白石を見上げた。自分の後を継いで正捕手と
なり、主将となった男を。極度の負けず嫌いが珠に傷だが、気が合
う後輩と思っていた、そんな男のことを。
﹁⋮⋮今の野球部、楽しいですか?﹂
優は、思わず白石に訊いてしまった。
﹁勝つために効率良く最大限の努力をしている。努力自体は楽しく
ないが、勝てば楽しい思い出になる﹂
優の疑問を少女の拙い抗議とでも受け取ったか、白石は素っ気な
い口調で応じた。
﹁勝てるんですか?﹂
﹁現時点ではまだ大西には勝てない。だが先発ピッチャー三人を使
えるレベルまで徹底的に鍛え上げ、他にも手駒を増やせば、八月に
は勝負になる﹂
使えるレベル。手駒。そんな言葉をチームメイトに使う白石の姿
に対し、優は無性に悲しくなった。
﹁大西のことなんて知りませんよ。私たちに勝てるつもりでいるん
ですか?﹂
声が尖る。白石が打席を外し、虚を突かれたように優を見下ろす。
﹁⋮⋮当たり前だ。こんなところで立ち止まってられるか﹂
﹁私たちも、そう思ってます﹂
プレイ再開。初球のサインを出す。
梓がオーバースローから投げ下ろした初球は︱︱外へ逃げるシュ
ート。
初見のオーバースローに対し、恐らく一美と同様の思考を辿った
白石は、落ちる変化球を想定したスイング。それが空を切り、ワン
ストライク。
テンポ良く二球目を投げさせる。同じオーバースローから、ボー
218
ルになっても構わないきわどいコースへのナックル。バッターもそ
う思ったか見逃してストライクツー。優は揺らぐボールをこぼしそ
うになるが、何とかミットの中に収めてみせた。
さらにすぐさま三球目。今度もオーバースロー。今度はスライダ
ー。そして白石は空振りで三振。スリーアウト、チェンジ。
﹁考えすぎる人? 三球目は一球遊んでくるとか思ったのかな﹂
マウンドから下りてきた梓が優に訊ね、優は肯いた。
﹁その気になれば反射神経で打てるのに、なまじ頭が回るもんだか
ら。オーバースローの意味づけにもしばらく悩んでいてくれれば楽
できるんだけど﹂
﹁それは無理じゃないかな。次の打席もフォークを温存するのは難
しい気がするよ﹂
﹁⋮⋮そうね﹂
遅いボールとさらに遅いボールしか使えない配球で挑む以上、変
化球のバリエーションで相手の目先をごまかし通すしかない。フォ
ークも重要な選択肢としていずれは披露する他なくなるだろう。
219
第四部﹁少女たちは挑む﹂第三章﹁二回表・二回裏﹂
七番バッターである真理乃は、右バッターボックスに入る梓を見
やりながら、ネクストバッターズサークルに向かった。
この回先頭打者の四番・一美がセンター返しのお手本のようなバ
ッティングであっさり出塁。五番の雪絵が三振に倒れて、一死一塁
という場面。
もっとも、そんな状況判断よりも真理乃の意識を占めるのは、グ
ラウンド全体に黒い靄のように広がる邪霊の気配。一ヶ月前に屋上
から男子野球部の試合を観戦した時をはるかに上回る濃密さで、他
のみんながよくこんな場所で平然としていられるものだと不思議に
すら思える。
その濃密さの中心にいるのは、男子野球部で守備についている、
とある選手。彼の心に邪霊が巣食い、それが男子野球部の面々を歪
めているのは、もはや明らかだった︵ひと月前は選手たちの間を小
さい靄がこまめに飛び回っていたが、もう本来の棲み家に定住して
周囲に触手を伸ばしている段階⋮⋮とはマリードの解説︶。
︽相手チームの選手に触るってのは、こりゃ意外と難しいもんだな。
触れば俺が一瞬で仕留めてやるんだが、無理矢理触ろうとしたら警
戒して邪霊が逃げるだろうし︾
真理乃にしか聞こえない形でマリードが話しかけてくる。
︵今さらそんなこと言われても⋮⋮じゃあどうするの?︶
真理乃は内心でマリードに文句をつける。気弱な性格は相変わら
ずだが、二ヶ月間常に会話を続けてきたこともあり、マリードへの
態度は少しずつ打ち解けてきた。
︽できないたあ言ってないだろ。試合終了の挨拶直後とか、下校途
中に待ち伏せとか、手段はいくらでもあるさ︾
︵でもそれじゃ、わたしたちきっと勝てないよ?︶
一回表、優と美紀の打球がアウトになったのは、邪霊が手を伸ば
220
したせいだった。あんな卑怯な手を使われたら、ただでさえ苦しい
はずのうちのチームに勝機はない。
邪霊を祓うのが第一目標とマリードには言われていたが、真理乃
の感情としてはチームの勝利の方が優先する。そのためにも、試合
中に邪霊を祓ってしまいたい。
︽ま、向こうは向こうで物理法則完全に捻じ曲げるほどの力はない
んだがな。宿主が不審に思うほどの露骨な不正はできないし。現に
ほれ、あれ見ろ︾
マリードに言われ気持ちを試合に戻すと、
梓がファーストとセカンドの間をきれいに抜くヒットを放っていた。
一死一二塁。
︽さっきの一美もそうだが、文句のつけようのない打球なら介入の
余地もないんだよ︾
そしてマリードは無茶を言った。
︽そうだ。お前、﹁強風﹂とかじゃ防げないくらいどでかいホーム
ラン打て。そうすれば標的に触るチャンスもできる。一石二鳥だ︾
︵そっ、そんなのできないよお!︶
︽理論上は余裕でできるっての。実際、お前は練習じゃガンガン飛
ばしてるだろうが︾
︵でもでも、自信ないもん⋮⋮︶
﹁あの、真理乃ちゃん? 次は真理乃ちゃんデスヨ?﹂
﹁あっ! ご、ごめんなさい!﹂
シャーロットに声をかけられ、真理乃はあたふたと右打席に入る。
バットを構え、ピッチャーと相対する。身体が一瞬大きく震える。
初めての実戦。打撃練習の時は打ちやすい球を梓に投げてもらう
けど。ピッチングマシンの速球ならかなり打ち慣れてきたけれど。
打たれまいとする相手の投げる球を打とうとするのは、これが初め
て。
﹁きゃっ!﹂
内角高め、と言うか、顔に当たりそうな速球が真理乃の頬のすぐ
221
横を通過した。思わず悲鳴を上げ、尻餅をついてしまう。
バットを杖に立ち上がる。守備についている選手や見物人の笑い
声が、耳につく。
︽キャッチャーの野郎わざと指示しやがったな。びびらせれば腰が
引けるとでも読んだんだろう。舐められてるぞ、お前︾
マリードの言葉は焦りを含んでいる。気弱な真理乃の性格をよく
知る彼にしてみれば、当然の反応だろう。
だが真理乃自身は、却って自分の心が冷静になっていくのを感じ
ていた。
おとなしくて、素直で、従順。そんな、誠三郎としての好みの女
性像が不意に変わったわけではない。
でも誠三郎の好きな女の子とは、常に誰かの助けを借りなければ
やっていけないほど、依存心の強い人間ではない。自力でやらねば
どうにもならない局面では、きちんと自力で立てる子なのだ。
今はまさに、そうした局面だった。
二球目。速いがコースの甘い、芸のないボール。
︱︱いける!
ボールに当たったバットを目一杯振り抜くと、打球はライト側ポ
ールのさらに右を果てしなく飛んでいった。特大のファウル。
その打球を見た瞬間、グラウンドの空気が変わったのを感じた。
﹁嘘だろ﹂﹁流し打ちであの飛距離かよ﹂などとざわめいている。
︽よくやった! ホームランにならなかったのは惜しかったが、そ
の調子だ!︾
マリードが珍しく素直に褒めてくれるのがうれしい。真理乃は気
をよくしてピッチャーに対峙する。
三球目、打って変わってかわすような変化球。でも梓の球に比べ
ればキレがない。
今度も大きく振りぬいたボールは、しかしスタンドインする手前
で力を失い、レフトのグラブに吸い込まれた。
︽大丈夫。今の二つの打球で、相手は﹁打たれるかも﹂と思うよう
222
になった。その手の悪い予感てのは、実現しやすくなる方向に物事
を運ぶもんだ︾
﹁真理乃ちゃん、ナイスバッティング!﹂
引き上げる真理乃に一塁ベース上から梓が声をかけ、二塁塁上の
一美も笑顔で拍手していた。
ベンチに戻ると、弥生や優からもホームランを打ったかのごとく
迎えられた。弥生は素直に喜び、優の方は真理乃を盛り上げようと
意識してややオーバーにしているようだが。
アウトになって打席を外れると気弱キャラに逆戻りしてしまった
真理乃には、ちょっとくすぐったい。三振に倒れた雪絵が憮然とし
た表情をしているのも気にかかってしまう。
でも、もちろん悪い気分じゃない。
八番のシャーロットが三振に倒れてチェンジとなったが、ランナ
ーを二人出したチャンスを逸しても、チームの空気が沈むには至ら
なかった。
その裏、梓と優のバッテリーは四番の渡辺を手玉に取るように三
振に仕留めてみせた。渡辺は梓に向かって何か喚いたようだが、ラ
イトの真理乃にまでは聞こえなかった。
続く五番長谷川の打球はレフト線のきわどい位置に上がったが、
美紀が巧みな位置取りをしてすんなりと捕球する。
︽さすがは往年の名手だな。少しうまい外野手ならダイビングキャ
ッチでもして一見派手なナイスプレーになるところなんだが︾
真理乃とマリードは、美紀に耕作が憑依していることを知ってい
る。たとえ教えられなくともマリードなら呪具たるお札の存在をす
ぐに看破しただろうが、それくらいは先刻承知の美紀が先手を打っ
たのだ︵ただし耕作は真理乃たちの秘密を知らされていないので、
真理乃にとっては少しややこしい事態になっている︶。事情を聞か
された直後、もう一人の元男な少女の登場に浮かれまくったマリー
ドによる独演会に、真理乃がつきあわされたのは言うまでもない。
223
︵⋮⋮でも、美紀さん、何を考えているのかな?︶
それは美紀から打ち明けられて以来真理乃の脳裏にこびりつく疑
問だった。いくら相手が祖父で短時間のこととは言え、自分の身体
を他人に明け渡すなんて真理乃には信じられないことだ。
︽⋮⋮⋮⋮︾
︵マリード? どうしたの?︶
こんな時いつもなら思いつきを適当に並べ立てるマリードが、今
はなぜか無言になってしまった。
︽⋮⋮ちょっと、あの札のことで思い出したことがあってな。⋮⋮
まあ、まだ急ぐようなことにもなってないだろうし、騒ぐことでも
ないだろ、うん。試合が終わったら美紀本人に確認してみるさ︾
独りで勝手に納得したような具合のマリードに、真理乃が詳しく
問い質そうかと思っていると、六番堀内が三振に倒れてチェンジ。
何となく訊きそびれ、試合の後に考えればいいかと気持ちを切り替
えた。
結果的にその判断は正解だったと、だいぶ後になってから真理乃
は知ることになる。
224
第四部﹁少女たちは挑む﹂第四章﹁三回表﹂
ツーストライクから五球ファウルで粘ったものの、結局啓子は三
振に倒れた。
︱︱まだ気持ちが長丁場のペナントレース仕様になってるのかな。
三塁コーチャーズボックスに向かいながら自問自答する。一試合
一試合が負けたら終わりの真剣勝負。そんな切羽詰まった状況にあ
る現在を、頭は理解しているのに心はいまいち把握しきれていない
ような感じがある。
もっともそれは、三年前に交通事故に遭って、四十歳プロ野球球
団二軍監督の田村隆行から、十五歳女子中学生の青田啓子になって
しまって以来の、全生活に関して言えることなのだが。
︱︱ま、そんなことはどうでもいいさ。
打席に入る弥生に向け、啓子はそっと姿勢を変える。﹁自分の判
断で打て﹂のサイン。一死無走者では他に指示の出しようもないけ
れど、弥生は律儀に確認した。
率直に言って、最初に顔を合わせた時最も不安だったのは弥生だ
った。だがものの一分と話さないうちに、不安は払拭された。
三十年前の漫画にもなかなかいないような口調。優美な容姿。近
隣に名の通った大社長の一人娘という立場。お嬢様の気まぐれか何
かかと思ったものなのに、内面は鉄火肌と言うかむしろ明らかに男
性的思考の持ち主で、啓子にしてみればものすごく話しやすい。ま
たマネージャーを務めている修平とは小学校以来の﹁友人﹂とのこ
とだが、どんな関係かは誰の目にも明白で、ばれていないと思って
いる辺りがうぶで微笑ましくもある。
もちろん性格だけの話ではなく、野球の技術も大したものだ。武
道をやっていることが役立っているのか、選球眼が良く、スイング
の思い切りがいい。
ピッチャー柴田の二球目。左投手がプレート一塁寄りから左打者
225
の外角に投げ込む、厄介なクロスファイア投法。しかし弥生はうま
く対応した。
キン、とボールを芯で捉える音。投げ終わって体勢を立て直して
いないピッチャーの股間をきれいに抜く、センター返し。
これで三イニング連続の出塁。そろそろホームに返して先制点と
行きたいところだ。
二番の優に対し、啓子がサインを出す。ヘルメットのつばに手を
やるのは了解の印。
そして初球。優は三塁線に、打球の勢いを上手に殺す鮮やかなバ
ントを決める。
一回表のバスターを警戒したか、サードの守備位置が少し下がっ
ていた。急いで駆け寄るキャッチャーとピッチャーとサードのほぼ
中央に転がる打球。声をかけて白石が掴み、二塁はもはや無理と見
てそのまま一塁へ送球するが、かなりの余裕を持って優はセーフ。
これでまた一死一二塁。打順はクリーンナップに回り、三番の美
紀。
場の空気は試合前に比べてはっきりと変わっている。女子野球部
が毎回ランナーを出して押しているのに対し、男子野球部は梓の前
にパーフェクトに抑えられているのだ。
ここで押し込めれば、流れは一気に傾く。
啓子がヒッティングのサインを出すや、美紀は即座に了解の合図
を送った。
あからさまなボール球を見送った二球目、甘く入ったストレート
をためらわず強振。
ゴロとなった打球は高速で一塁線を抜けようとして、飛びついた
ファーストに捕球される。だがそこから一塁ベースカバーにトスし
て美紀をアウトにするのが精一杯。
二死二三塁。ついにランナーが三塁に進んだ。しかも次打者は四
番の一美。
マウンド上のピッチャーの元に、一塁からボールを手にしたセカ
226
ンドが近寄る。後からショートとサードも何かに気づいたかのごと
く、マウンドに駆け寄って行く。
しばし話し合った後、それぞれの守備位置に戻って行った。
ピッチャーはしゃがみ込み、スパイクの紐を直そうとしている。
サードがこちらに近寄って来る。
﹁弥生、優、ボールに注意!﹂
啓子の言葉に、サードベースから数歩離れていた弥生が慌てて塁
に戻った。優も同様。
そして啓子を見た三塁手は舌打ちすると、グラブに隠し持ってい
たボールを投手へと投げ返した。
隠し球。手の込んだ牽制球の一種。こんなプレーでアウトになっ
たら、ダメージは計り知れないところだった。それを回避できたこ
とに軽く安堵の吐息をつく。ピッチャーの手にボールが渡ったこと
を確認し、弥生も啓子に目礼すると再びリードを取る。
そして一美への第一球。それは、どんなスラッガーでも打ちよう
のない、打者の背中に抜ける大暴投。
だが、その時。
リードを取っていた弥生が何かに足を取られたようにたたらを踏
んでよろめいた。
素早く立ち上がってすっぽ抜けたボールをキャッチした白石が、
サードへすさまじい速さの牽制球。弥生は急いで引き返そうとする
が、タッチの差で間に合わず、アウト。
よってスリーアウト。ゆえにチェンジ。
弥生はめげる様子も見せずすぐに起き上がったが、やはりショッ
クは隠しようもない。それは傍に立っていた啓子にとっても同じこ
とだった。
真理乃の思いがけぬ長打力の発揮以来、いい感じに盛り上がって
いたこちらの流れが淀みそうな、嫌な予感が啓子を襲った。
227
第四部﹁少女たちは挑む﹂第五章﹁三回裏﹂
﹁リード一つ満足に取れないのかよ、お嬢﹂
雪絵が苛立ちを抑えきれずに言うと、グラブを手にベンチを出る
ところだった弥生は、唇を噛んで何も言い返そうとしなかった。
その様子に誰より弥生が自分自身を責めていることを感じ取り、
弥生が軽い口調で罵り返すことを期待していた雪絵は、内心ひどい
罪悪感に襲われる。
だからと言って掌を返すように自分がフォローするのもおかしな
話で、結局それ以上何も言わないまま二人は守備位置についた。
バカなことを言ってしまったのは、さっきの自分のバッティング
が尾を引いているからだ。せっかく前を打つ一美が見事なヒットを
放ち、後ろの梓もちゃんと続いたのに、間で自分が三振したせいで、
二回の表は得点できずにいた。
そんなことを思い返している間にもゲームは進んでいく。今打席
に立っている相手の七番は当てるのが巧いとミーティングで説明を
受けた記憶があるが、すぐツーストライクに追い込まれると、その
ままあっさり三振に終わった。これで三振は毎回の四つ目か。
速いテンポで積極的にストライクを取りに行く。まっすぐで直截
な梓の性格にとても似合うピッチングだ。球種が豊富でコントロー
ルも絶妙なところにこの投げ方だから、相手としては気がついたら
三振していたという気分ではなかろうか。
︱︱このままパーフェクトくらいやってのけそうだよな。
攻めはうまくいってないが、梓の投球は快調そのもの。このまま
完封できればそのうち打線も一点くらいはもぎ取れるだろう。
と、八番打者が球に当てた。ボテボテのゴロが雪絵の前に転がる。
簡単にさばいてファーストに送球。これにてツーアウト。
﹁ナイスショート﹂
三塁から一美が声をかけてくるが、当たり前のゴロを当たり前に
228
処理しただけなので、別に褒められてもうれしくない。腰を落とし
て、次の打者に備える。
九番はピッチャー。投げる方に専念しているようで、構えを見て
も大したことはなさそうと一目でわかる。そして案の定初球を引っ
かけて、ついさっきと同じボテボテのゴロとなった。
さっきをリプレイしたように、ゴロは雪絵の前に。これでこの回
もパーフェクト。
そう思った矢先。
打球がイレギュラーバウンドして、予想外の方向に跳ねた。
さらに、不測の事態に慌てて突き出したグラブが、球をあらぬ方
向に弾いてしまう。
一美が即座に追いついたが、もうバッターランナーは一塁到達。
雪絵のエラーで、敵チームに初の出塁を許してしまった。
﹁ドンマイドンマイ。グラウンドがよくないよ﹂
一美がすぐに声をかけてくる。梓や美紀や弥生も。だが雪絵は言
葉を返す余裕もない。
弾み方は確かに変だったが、冷静にやれば捕球可能だったはずだ。
なのに弾いてランナーを出してしまった。
動揺を抑えきれないまま次の打者が来る。打順が一巡りして、ト
ップバッター。
それでも梓の投球に大きな変化はない。ツーストライクからファ
ウルで数球粘られたものの、最後はナックルで三振に⋮⋮
取ったのだが、優が球をこぼした。それを見てバッターが走り出
す。振り逃げだ。
優が球を拾おうとするが、油にでもまみれているかのように、な
かなか掴めない。悠々セーフで、二死一二塁。
ツーアウトだがエラー絡みで二人も出塁。雪絵はすごく嫌な感じ
がした。
二番打者の三輪は、雪絵が陽介だった去年のチームメイト。全国
大会準決勝まで進んだ時には、一番ショートとしてとにかくよく短
229
打を打った。
だが梓の球はそこいらの中学生とはわけが違う。現にここまで男
子野球部の誰もヒットで出塁したわけじゃ︱︱。
キン!
快音が響き、雪絵の右、一美の左、二人のちょうど真ん中を速い
ゴロが抜けていった。必死に飛びついたが捕れない。
けれど点が入ったわけじゃない。得点圏の二塁にランナーが進ん
でいたから、守備位置は浅めに変更している。満塁でも次のバッタ
ーを仕留めれば︱︱。
身体を起こした視線の先、三塁コーチが腕をぐるぐると回し、二
塁走者が三塁を蹴ってホームに向かっていた。
︱︱ふざけんな!
レフトの美紀は、守備の勘はいいが肩が強いわけではない。それ
でも雪絵の中継があれば、あんな浅いヒット一本で二塁から走者を
返しはしない。
だがレフトに向き直ると、今度は美紀がボールを取り落としてい
た。
やっと拾って中継の雪絵のもとに届いた時には、もう本塁は間に
合わない。三塁へ投げて残った走者の進塁を防ぐのが関の山。
一点を先制され、ツーアウトながらなお一二塁。打順はクリーン
ナップに回って、三番の白石。
﹁やな感じだねえ﹂
マウンドに九人全員が集まった。一美の口調は軽いが、ネガティ
ブなことをあまり言わない彼女の性格を考えると、ここはけっこう
な正念場だろう。
﹁ま、基本を忘れずに。きちんと捕って、きちんと投げる。これし
かできることはないんだし﹂
啓子のさばけた物言いはもっともだが、さばけすぎていて今の雪
絵の落ち込みと不安を払拭する役には立たない。
230
﹁梓、あれ、やってみる?﹂
﹁まだ早いよ﹂
優の提案を、梓は瞬時に却下した。それに啓子がすぐさま賛同す
る。
﹁梓に同意。魔球ってわけでもないから目が慣れられたらそれまで
だしね。先々のこと考えたら、できれば今日は最後まで使いたくな
い切り札だ﹂
﹁新聞部のインターネット中継、やらなければよかったデスカネ⋮
⋮﹂
シャーロットが呟く。彼女は新聞部部長の家に住み込んでいると
いう話だったか。
﹁いえ。負けた時の言い逃れなど決してできないよう、何らかの手
を打つ必要はありましたわ。リアルタイムですから細工も疑われな
い、公明正大な方法だと思います﹂
﹁このままだと俺らの負けを天下に晒すことになりそうだけどな﹂
弥生の言うことは正論だが、何となく混ぜ返す。どうもいまだに
ウマが合わないのだ。
﹁はい、喧嘩は終わり。梓がうまいこと投げて、打たれた時はあた
しらがしっかり守る。つまるところは、それだけの話だろ?﹂
美紀が睨み合いそうになった雪絵と弥生に割って入って、まとめ
にかかった。どうもユニフォームを着ると、美紀には切れ者という
よりは年配のご隠居めいた貫禄が加わる。
その言葉を潮に、ナインは所定の位置に散って行った。
左バッターボックスに白石が入り、プレイ再開。
梓の一球目は、オーバースローからストンと落ちるフォーク。こ
の試合で初めて登場したこの変化球に、バットは空を切る。
二球目はサイドスローからのシンカー。見送って、ツーストライ
クノーボール。
︱︱あんだけ選択肢が多いと、配球を読んで打つのはもう無理だ
231
って。
内角に食い込むか、外角に逃げるか、曲がるか、落ちるか、揺れ
るか。フォームからの判断はつかない変化球ばかり。たまにはスロ
ーボールも加わるから手に負えない。
︱︱あれで球が速かったら、誰も手出しできないんだろうけどな。
だが悲しいかな梓の球は速くないから、目のいい奴は変化を見極
めて即応できる。特に球に目が慣れていく後半のイニングに行くほ
ど、その可能性は高まっていく。フォークを最初から使わなかった
のはそのためだ。
そして三球目、アンダースローからのカーブを、白石は捉えた。
打球は高々と舞い上がり、ライト奥へ。二人の走者はすぐに走り
出し、二塁ランナーはすでにサードベースを回っている。二塁へカ
バーに入りながらも、もう雪絵にできるのはライトの真理乃を見守
ることだけ。
と、落下地点に走る真理乃が足をもつれさせそうになった。
しかし、真理乃はすぐに立ち直ると、その後は軽快に駆ける。落
ちてくる白球を見上げながら、おっかなびっくりグラブに右手を添
えつつも、しっかりとボールを捕った。
︱︱次はきっちり打たねーとな。五番に入ってる意味がねーや。
内心で呟きながら、雪絵は引き上げた。
232
第四部﹁少女たちは挑む﹂第六章﹁四回表﹂
︵さっき黒い靄がわたしの周りから消えたのって、マリードがやっ
たの?︶
試合前、真理乃は一人でこっそり着替え、その際にあの恥ずかし
い呪文を唱えてすでに変身している。言わば魔力の元栓が開いてい
るような状態なので、それを使うか使わないかはマリードの気分次
第だ。
︽ああ。ちょっくら力を解放した。⋮⋮これは余計な助太刀とは言
わないだろ? 本来ありえないものを排除しただけで、落下点に達
してフライを落球せず捕ったのは、お前の実力によるものなんだか
らよ︾
︵ううん。マリードを責めたりしたいわけじゃなくて⋮⋮ありがと︶
︽いちいち礼なんざ言うな。元男に言われてもうれしかねえさ︾
ベンチに引き返すと、一美がバットを持って打席に向かう。二回
表と同じ状態から始まるので、一人でも塁に出れば真理乃まで回る
計算だ。
それにしても三回の表裏はひどかった。弥生が足をもつれさせた
のも雪絵がゴロを捕り損ねたのも優が振り逃げを許したのも美紀が
ボールを拾えなかったのも、みんなあの黒い靄にまとわりつかれた
せいだったのだ。
︵あれでもまだ弱い邪霊なんだよね⋮⋮︶
︽おう。力と知恵がつけば手下をこしらえたり陰謀を企んだりして
厄介な存在になるぜ︾
︵そして、さっきみたいに人の暗い気持ちを吸い取るの?︶
ミスやエラーをした直後、弥生たちの身体からは暗い何かがぼん
やりとにじみ出た。黒い靄は、根を伸ばすようにそれに絡みつき、
自分のものとしていった。それにまた、彼女たちを嘲笑う男子選手
からも同質の存在が湧き出して、同様に黒い靄の養分となる。
233
︽そういうこった。ああいうのがはびこってると、楽しい世の中に
はならないわな︾
不意に起こった歓声に顔を上げると、一美がライト前に転がる美
しいヒットを放って一塁に到達していた。打率七割という当人の弁
は、やはり事実だったらしい。練習でバカみたいに打っている姿は
見慣れていたが、キヨミズの男子野球部を敵に回してここまでやれ
るとはさすがに考えていなかった。
続いて打席に入る雪絵。だが彼女の全身からは、まだ暗いものが
じわじわと周囲に溶け出していて、邪霊の黒い靄がそれを啜ろうと
周囲にまとわりついている。
五球目、バットを途中で止めたが振ったと判定されて、ストライ
クバッターアウト。
その瞬間、雪絵の全身からはさらに濃く溢れ出すものがあった。
︵がんばらないと、いけないよね︶
︽頼むぜ。さ、準備始めな︾
真理乃がネクストバッターズサークルに入り、梓が打席へ。前回
ヒットを放った打者の登場に、守る選手は守備位置をやや深く取り
ダブルプレーを狙う。啓子の出しているサインを見れば、梓に任せ
るとのこと。
そして初球、梓は一塁線にお手本のようなバントを決めた。ツー
アウトにはなったが、二塁に一美を進めて真理乃の打席。
︽エースに活躍期待されてるぜ︾
︵わかってる︶
強攻してダブルプレーに終わる危険性と、ランナーを得点圏に進
める代わりにツーアウトになるデメリット。二つを秤にかけて梓が
この状態を選んだのは、続く真理乃がヒットを打つと思えばこそだ。
真理乃は腹に力を込めると、打席に立ってバットを構えた。
︽邪霊の干渉は抑え込む。残るはお前がピッチャーとの力勝負に勝
てるかどうかだ︾
︵うん!︶
234
一球目、外角に逃げる直球を追って泳ぐような空振り。
二球目、ワンバウンドになったスローカーブを、まるでゴルフの
ようにアッパースイングして空振り。
︽落ち着けバカ娘! 小学生でももうちょいマシなバッティングが
できるぞ!︾
︵うう⋮⋮ごめんなさい⋮⋮︶
ベンチの梓たちも﹁真理乃ちゃん、落ち着いて!﹂などと声をか
けてくる。気まずい。
だがこの時、幸運が味方した。
二球連続の素人じみた空振りにピッチャーが油断したのか、三球
目は真ん中高めの甘いコースに入ったのだ。背後でキャッチャーの
舌打ちが聞こえた。
真理乃はここを先途と渾身の力でバットを振り抜いた。確かな手
応え。
快音とともに、白球はライトフェンスをはるかに越えて行った。
︽さてと、ここからがもう一つの本番だぜ︾
︵う、うん︶
真理乃はバットを置くと、一塁ベースへゆっくり走り始めた。
一塁手の渡辺は真理乃にそっぽを向いて、﹁女になんか打たれて
んじゃねーよ!﹂と投手の柴田を叱りつけている。
二塁手の三輪は、真理乃が通り過ぎた時に﹁お見事﹂と言った。
遊撃手の橋本と三塁手の堀内は﹁まぐれだまぐれ﹂としゃべり合
っている。
そして本塁。
唇を噛んで、三塁を回った真理乃を睨みつけている、捕手の白石。
その全身から黒い濃い靄が立ち昇り、うねうねと渦を巻いている。
邪霊の宿主となってしまっている被害者。
︽一瞬触れればいいんだ。そうすれば俺様が片づける︾
マリードは言うが、白石はホームベースから少し離れたところに
235
立っていて、普通に通過していては触れられそうにない。
そこで真理乃は思いきった行動に出た。
﹁きゃっ!﹂
ホームベースを踏んだ直後に派手に転び、白石の立っているとこ
ろへ倒れ込む!
よけられたらどうしようもなかったが、さすがにそこまで冷血で
もなく、白石は真理乃を抱え込んだ。
身体が触れ合った瞬間、真理乃は自分の身体から眩い光が迸り、
相手にまとわりつく黒い靄を焼き払うように消し去る様を見た。
それと同時にグラウンド全域から靄が消え失せる。空気がはっき
りと変わったのを、真理乃は感じ取った。魔法少女からの変身も、
マリードがそっと解いてくれた。
﹁ご、ごめんなさい!﹂
用が済めば野郎に抱かれる必要もない。急いで立ち上がるとぺこ
りと頭を下げる。
﹁い、いや⋮⋮﹂
意外に純なのか顔を赤くしている白石に背を向け、ベンチに引き
上げる。すると大喝采が真理乃を待っていた。
続くシャーロットもセンター前ヒットで出塁したが、啓子はピッ
チャーゴロでこの回の攻撃は終了。
しかし値千金の逆転ツーランにより、二対一。チームはこの試合
初めて優位に立った。
そしてこれは真理乃とマリードと、他には美紀くらいしか知らな
いことだが⋮⋮試合の正常化というとても大きな出来事がひそかに
達成されたイニングでもあったのだ。
236
第四部﹁少女たちは挑む﹂第七章﹁四回裏・五回表・五回裏﹂
四回裏の守備につきながら、弥生は呼吸が楽になっているのを感
じた。煙か何かで燻されていたところに、爽やかな風が吹き込んだ
ような印象。
︱︱柄にもなく、緊張してたのかね。
しかしそれは弥生だけではなく、チーム全体に気分を一新したよ
うな雰囲気があった。
二度目の打席を迎えた四番の渡辺。梓のシュートを力任せに引っ
ぱった打球が低い弾道のライナーで外野へ抜けようとした時。
三回裏のエラーとは別人のような俊敏な動きで雪絵が飛びつき、
しっかり捕球した。
︱︱やっぱりすごいよな。
何と言うか、センスが違う。だから﹁ナイスショート﹂と声をか
けるのだが、当人は騒ぐなとでも言いたげに軽く手を上げると次に
備える。
二連続の凡退で荒れる渡辺を尻目に、五番の長谷川が打席に。初
球、梓のフォークを簡単に拾い上げ、センター前に楽々落としてみ
せる。一死一塁。
それでも流れは自分たちにあると弥生は感じるし、その感覚は裏
切られない。続く六番を梓が三振に取り、七番はサードライナー。
チェンジ。
五回表は弥生からの打順。急いでベンチに戻ると、マネージャー
の修平がバットとヘルメットを差し出してくれた。周囲にからかわ
れるのも嫌なので、ひったくるように奪い取ると打席に向かう。
打席に向かう途中、同じクラスの女子がバックネットから小さく
声援を送ってくれた。手を振って、バッターボックスに入る。
自分たち女子チームに声援がかけられたのはこの試合初めてのこ
237
とで、そういう点からも空気の変化を肌に感じる。開始前に予想さ
れたであろう一方的な展開になってないばかりか、逆にこちらが勝
っているのだから、変わってくれなければおかしいが。
だが真理乃の逆転弾で気が抜けたか、弥生はサードゴロに倒れて
しまった。続く優がレフト前ヒットで出ただけに、悔しい。
三番の美紀が打つ。ライトとセカンドの中間に落ちるポテンヒッ
トになりそうな打球になったが、ライトが勢いよく突っ込んでアウ
ト。三連続でいい当たりを放っているのに、ファインプレーに遮ら
れている。当人は﹁こんなこともあるさ﹂とあっさりしているが。
二死一塁で四番の一美。だがこの打席はレフトへの浅いフライに
終わって、チェンジ。
五回裏。最初のバッターは三振に倒れ、次の九番はセンターフラ
イ。トップに返って一番の橋本の打球はセカンドゴロ。弥生はきっ
ちり捕球して、丁寧に一塁へ送球した。
梓の球は徐々に当てられるようにはなっているが、絶妙なコント
ロールが威力を発揮している。ストライクゾーンに入る球だけでな
く、ここへ来てボールになるような球も織り交ぜ始めたのが大きい。
バッターが序盤で見逃した球と同じと思って打ちに行けば芯を外し
て打ち取られるという寸法だ。優のことだから、最初からその辺も
見越してピッチングをリードしていたのかもしれない。
このまま行けば勝てる。弥生は確信した。
238
第四部﹁少女たちは挑む﹂第八章﹁六回表﹂
︱︱肩に力入りすぎてるなあ。
一美がそんなことを思いながらベンチから眺める中、打席に入っ
ていた雪絵は小飛球を打ち上げた。ファウルグラウンドで一塁手が
捕球する。
雪絵は唇を強く噛んでベンチに戻る。三打席連続ノーヒット。ク
リーンナップとしては自慢できる数字じゃない。と言っても三番の
美紀と数字上は変わりないわけだが、好守に阻まれてる美紀に対し、
雪絵の打席は正真正銘の凡退。そこで比べても落ち込みたくなるこ
とだろう。
幸い、このベンチに雪絵を咎めるような輩はいないが。
︱︱ああいうチームでなくてよかったよ。
守備についている男子野球部に一瞬視線を移し、一美は思った。
四番の渡辺とその取り巻きらしいサードやショートの声がでかい。
誰かがミスをすればあげつらい、せせら笑う。セカンドの三輪やセ
ンターの長谷川などはマイペースな性格のようだが、マウンド上の
柴田などはからかわれる度に居心地悪そうにしている。
渡辺はムードメーカーに過ぎず、実際の指揮を執っているのはキ
ャッチャーの白石のようだが、その関心はチームの勝ち負けにしか
ないらしく、雰囲気がどれだけ悪かろうが勝てば構わないという思
想の持ち主に見受けられた。それは、ベンチで戦況を見つめている
真田監督に対する評とも似通っていて、白石にとっては真田の監督
就任は渡りに船だったのだろうと一美は想像した。
それはさておき、そろそろ雪絵にアドバイスの一つもした方がよ
さげな気がする。あまりこういう役柄が得意でない一美だが、この
チームでバッティングに関する発言に一番説得力があるのが自分だ
ということくらいは承知している。
︱︱メンタルな部分が大きそうだから何言えばいいのか、正直よ
239
くわからんけどねえ。
それでもバットをバットケースへ乱雑に滑らせる雪絵に、近づこ
うとした時。
﹁何だ、あれ⋮⋮﹂
当の雪絵がグラウンドに目をやって呆然としてしまった。そして
グラウンドの内外あちこちから、失笑や哄笑が聞こえてくる。
遅れて一美も振り向くと、打席に立った梓が珍妙な構えを取って
いる。
バットを大きく大きく振りかぶっていて、背中を越えてバットの
先端がほとんど左の腰につかんばかり。もちろん腰を大きくねじら
なければできない構えで、ピッチャーの投げる球はまともに見えそ
うもない。
さすがに三塁コーチをしていた啓子がタイムをかける。一美も梓
のもとに駆け寄った。
﹁一点リードしてるからちょっと試してみたいんですけど⋮⋮駄目
ですか? ランナーもいないし、ちょうどいいかって思って⋮⋮﹂
﹁好きにしていいとはサインを出したけど、打てそうにない構えで
遊んでいいとは⋮⋮﹂
﹁いや、啓子ちゃん。梓ちゃんの構えは、でたらめだけど当たれば
飛ぶよ﹂
﹁当たればって、そもそも投げる球も見ないで当たるはずが︱︱﹂
珍しくまくし立てようとする啓子を制し、一美は言った。
﹁当たる見込み、少しはあるからそんなことやってみるんでしょ?﹂
一美の問いかけに、梓はこっくりと笑顔で肯いた。
﹁⋮⋮オーケー。こんな局面じゃなければ絶対許可しないけれど、
やってみて﹂
﹁はーい!﹂
啓子が所定の位置に引き上げるのを見ながら、一美は梓に訊いて
みる。
﹁確率はどれくらい?﹂
240
﹁ピッチャーの球を三十球見て一割五分くらい⋮⋮というのが、希
望的観測﹂
﹁もう少し高めれば、使える武器になるよ。がんばって﹂
﹁はいっ﹂
一美がベンチに戻ると、梓の構えが変わらないことに雪絵が不満
そうな顔をしていた。
﹁あんな打ち方、ありなんすか﹂
伝法な口を利く雪絵だが、さすがに体育会系で年功序列にはきち
んと従う。
﹁変則打法は昔からあるしね。大昔の天秤打法とか、ちょっと昔の
がに股打法とか。あれは全身をバネにしてるから、インパクトの瞬
間に全力をボールに叩き込むって点じゃ、理に適った構えだよ﹂
﹁でも球が見えなきゃ話にならないじゃないっすか﹂
﹁読める⋮⋮違うな、わかるんじゃない? ピッチャーが何投げる
か、同じピッチャーのよしみで﹂
﹁そんな簡単にわかるんなら、ピッチャーはみんなヒットを量産し
て︱︱﹂
雪絵が言い終わる前にマウンド上のピッチャーが初球を投げた。
キャッチャーはバスターを警戒していたのか、外角への速球。
と、梓が右足を踏み出す。腰から背、背から肩、さらに肘、手首
と、うねるようにバットへ力が駆け上がって行く様が、一美には感
じ取れた。
引き絞った弦から矢が放たれるように、遠心力を伴うバットが高
速で振り出される。その軌道は、投げられたボールとホームベース
上で正面衝突した。
右中間のフェンスを高々と越えて、この日二本目のホームランが
成立した。
男子野球部はピッチャーを交代した。左の柴田に代えて、右の阿
部。
241
︱︱速球が売りなのに、女子に二本もホームランを打たれちゃ、
ね。
その二番手・阿部は、続く真理乃とシャーロットを変化球で連続
三振に仕留めた。
梓ほどではないが球種は豊富、ある意味で柴田より優れた投手の
ようにも思えるが、二番手に甘んじている理由を何となく一美は理
解した。
キャッチャーのサインに首を振りすぎるのだ。
自分のピッチングに確固たる信念を持つ、と言えば聞こえはいい
が、度が過ぎればキャッチャーとの信頼関係を崩してしまう。特に
我の強いリードをする白石との相性はよくないことだろう。
︱︱二ヶ月後、甲子園で今年の大西と今年のキヨミズがやるとし
て⋮⋮。
六回裏の準備をしながら、一美はちょっとしたシミュレーション
をする。
︱︱どんだけ今年大西の戦力が低下したと仮定しても、やっぱり
大西の勝ちだね。今年のキヨミズは、個人の力量とチームプレーは
いくらか上達したかもしれないけど、チームワークは去年に遠く及
ばない。
そこまで考えて、一美は肝心なことを無視していた自分に苦笑す
る。
︱︱﹁今年のキヨミズ﹂は、俺たち女子野球部じゃないか。
三対一と点差を広げた中、四番バッターもまた自分たちの勝利を
半ば確信していた。
242
第四部﹁少女たちは挑む﹂第九章﹁六回裏﹂
優はマスクの下で舌打ちした。
︱︱そろそろやばい。
二番の三輪はショートゴロに打ち取った。しかしその打球は充分
に鋭く、雪絵の反応が少しでも遅かったらレフト前に抜けていると
ころだった。
マウンドに駆け寄り、梓と相談する。
﹁限界だと思うよ﹂
﹁⋮⋮もうちょっとだけ。このイニングだけは、今のバリエーショ
ンで行かない?﹂
梓はバッターボックスの横で素振りを繰り返す白石を時折横目で
見ながら、優に言う。
﹁次のバッター抑えたら⋮⋮ってことで、駄目かな?﹂
優はしばし思案した。
今は六回。ここからパーフェクトでアウトの山を重ねたとしても
最終回には再び白石に打順が回る。これまで二打席抑えてはいる。
しかしさっきのライトフライは、正直かなり危なかった。さらに、
こちらが逆転してからこの方、梓のピッチングをベンチから食い入
るように観察している。
この試合に負ければ、夏の甲子園を目指す権利を失う。それは両
チームの誰もが認識しているが、白石の執着は群を抜いていた。
仮にここで梓がピッチングを切り替えるとして、その実物を間近
で見せた後三イニングの猶予を与えた場合。今の白石にかかったら
九回裏には梓のこの切り札さえも攻略可能としてしまうかもしれな
い。
もし今ホームランを打たれても、まだ一点残っている。
ここをしのげば最大の山場は越えられる。
﹁全部ナックルで行けば、フォアボールやヒットはあっても、ホー
243
ムランはないでしょ﹂
﹁⋮⋮わかった。けど四番からは出し惜しみなしで行こうね﹂
﹁うんっ!﹂
明るく肯く梓の笑顔にかすかな不安を慰められながら、優は本塁
に戻って行った。
優は外角低めへとナックルを要求した。梓が肯く。
サイドスローから放たれる揺らめく球が、優の要求したコースへ
と投げ込まれる。
しかしそれを、白石は捉えた。金属音が鼓膜を叩き、ミットに収
まるべき球はバットにさらわれていた。
弾丸のように飛ぶ打球の先には︱︱梓。
ライナーを捕ってくれればツーアウト、などと思ったのは一瞬。
梓の身体に打球が食い込み、その身をくの字に折ってマウンド上に
倒れ込むまでのことだった。
﹁梓!﹂
顧問の保険医である矢野先生がベンチから駆けて来て、マウンド
上で軽い触診をした。
﹁骨は折れてないわ。でも、お腹を打っているひどい打撲よ﹂
﹁⋮⋮だいじょぶですよ、だいじょぶ﹂
立ち上がる梓だが、その顔には脂汗が浮いている。
﹁試合なんてできる状態じゃ︱︱﹂
﹁自分の身体は、自分が一番わかってます﹂
強く言い切ると、梓は汗を拭って集まって来たナインに笑ってみ
せた。
﹁ワンナウト一塁。ゲッツー狙っていこ﹂
無理をしているのは明らかだが、優は梓を止められなかった。梓
に代わって男子野球部を抑えられるほどのピッチングができる人間
は、このチームにいないのだ。
244
﹁優ちゃん。あれは少し延期ね。ちょっと体力使うし、今やっても
効果ないから﹂
梓のまだ少し焦点の定まらない眼差しに、優は肯くことしかでき
なかった。
自分たちが必死でフォローすればどうにかできる。そう思い込も
うとした。
腹部打撲は、深刻な故障につながる負傷ではない。しかし試合の
流れをひっくり返すには充分すぎるダメージだった。
痛みが集中力を削ぎ、コントロールが定まらない。変化球のキレ
さえ悪くなった。そのどちらも、梓にとっては致命的な問題だ。
四番渡辺が右中間を真っ二つに破る二塁打を打って、まず一点。
三対二。
五番の長谷川に対しては、コースを突いたボールがことごとく外
れてフォアボール。
六番堀内がライト線を破る、再逆転の二点タイムリーツーベース。
三対四。
七番工藤の時に、初の暴投。三塁に進塁したランナーはレフト前
のヒットで悠々生還。これでこの回四失点で、三対五。
八番の高橋も四球で出してしまい、一死一二塁。
九番のピッチャー阿部は気のない三振に倒れたものの、まだツー
アウト。
そして打者一巡。一番に返って橋本。
﹁試合放棄した方がいいんでない? ピッチャーちゃんボロボロだ
よ﹂
妙に気遣う口調が混じり始めた橋本の言葉に歯噛みしたくなる。
けれど相手チームからもそう見える梓の現状は事実。
観客の空気も再び変わり出している。痛々しい見世物を見ている
時のような、哀れみや同情を含んだ好奇の視線。
ミットを構える優自身、心のどこかで勝負をあきらめそうになる。
245
けれど。たまに痛む腹を押さえながら、それでも瞳から強い光を
失わずに一球一球投げ続ける梓を見ていると、自分が先に音を上げ
るわけにはいかないと思えた。
落ち損ねたフォークを橋本が引っかける。ボールは小フライとな
って優の真後ろへ。
普段ならファウルになるのを見過ごしそうな遠いフライ。それで
も今は、アウトをもぎ取れる数少ないチャンス。
優は必死に飛びつき、ミットの先端でボールを拾い上げた。
長かった六回裏の終了。
優はマウンドに駆け寄り、へばりそうになっている梓に肩を貸し
た。
まだ二点差だ。
246
第四部﹁少女たちは挑む﹂第十章﹁七回表・七回裏﹂
ベンチ中央で眠りこけている耕作を片隅に追いやり︵この期に及
んで目が覚めないのを見ていると、この爺さん病気か何かかと疑い
たくなる。孫の美紀が何も言わないから大丈夫なのだろうけど︶、
梓をなるべく安静な状態で寝かせた。﹁ありがと﹂と囁く声の弱さ
に、弥生は胸を突かれる。
そしてベンチを見渡し、このチームがいかに梓を軸として機能し
ていたかを痛感した。
冷静な美紀と啓子、マイペースな一美。彼女たちが変わらずにい
ることは心強いが、他の面子を引っぱる牽引力にはやや乏しい。雪
絵は、自分の打撃の不調に落ち込んでいるところへ加えて梓が怪我
したことで、ますます余裕をなくしている。シャーロットと真理乃
はおろおろしているし、優は憔悴した表情を隠しきれていない。
︱︱くそったれ、こういう役回りは柄じゃないんだけどよ。
内心で舌打ちしつつ、弥生は口を開いた。
﹁皆さん、何腑抜けた面を晒してますの? 残り三イニングでわた
くしたちは三点取らなければならないんですのよ?﹂
ベンチ全員の視線を浴びているのを顔に感じながらも、弥生は平
静を装い、言い募る。
﹁この回、上位打線は何としても塁を埋めます。そして一美さん、
四番らしく、そろそろ打点を上げてもらいますわよ﹂
弥生が敢えて矢面に立てた一美は、いつもの眠そうな目つきを崩
さずに平然と応じた。
﹁そうだねえ。いいかげん、ランナーのいる場面で打ちたくなって
きた﹂
﹁すまないね。ま、あたしも三番らしい仕事をしなきゃいけないと
思ってたところさ﹂
下手をすれば当てこすりに受け取られかねない一美の言葉に、打
247
てば響くように美紀がすぐさま応じる。さらにバットを手にした啓
子の一言。
﹁ノーヒットで終わるのは嫌だし、努力してくる。次のバッターが
ゲッツーになれば無駄になるけどね﹂
上級生三人が三文芝居紛いのアジテーションに乗ってくれたこと
に内心感謝しながら、弥生も強気の口調で応じた。
﹁ご心配なく。きっちり続いて差し上げますわ﹂
さらに、梓にも檄を飛ばす。
﹁梓さん。あなたも一休みしたらもう少しマシなピッチングをして
くださいな。死にそうな顔してますけれど、地獄の鬼は野球を知ら
ないと昔の人もおっしゃってます。野球を続けたければ、無理して
でも起き上がって、どうにかして相手を抑えてください﹂
﹁⋮⋮そうだね。死ぬのは嫌だ﹂
梓も弱々しいながら明るい口調で答え、ゆっくりと身を起こした。
この回トップバッターの啓子は、有言実行を果たした。二番手ピ
ッチャー阿部の曲がりの大きいカーブを巧みに捉え、レフト前への
ヒット。無死一塁で、弥生が打席に入る。
︱︱さて。でかい口叩いた以上、石にかじりついてでも塁に出な
きゃね。
相手は右の軟投派。変化球とコントロールが生命線の、梓とまっ
たく同じタイプ。もちろん直球がいくらか速い以外はすべて梓に及
ばないので、ある意味女子野球部にとって最も与しやすい相手だ。
残る問題は、打つ側の力量。
何度か首を振った後、阿部が第一球を投げる。打ち気に逸る打者
を焦らすような、やたらとゆったりしたフォーム。
︱︱心を平らに。
不意に思い出したのは、道場の師範の言葉だった。
﹃弥生﹄に戻ったことにより六年ぶりに週一回通うことになった
道場だが、修平が部活の終わった後で毎日丁寧に指導してくれた甲
248
斐あって、幸いボロは出ていない。
野球と武道。まったく違うようでも、六年間野球に打ち込んだ弥
生の目には、何がしかの共通項を感じ取ることが珍しくない。身体
の捌き方や物の見方など、それなりに野球の参考にさせてもらって
いて、意外と実り多いイベントになっている。
︱︱人が目指す物事を成し遂げる力は、たいていの場合すでにそ
の人の中に備わっています。けれど、人は心を乱しやすく、それゆ
えに力を発揮することなく失敗する。
総髪に山羊みたいな顎鬚と胡散臭いことこの上ない師範の言は、
その風貌を裏切って、しごく真っ当なものである。
︱︱ただ一途に思い、集中する。集中していることを忘れ、心が
平らになるくらい集中する。よほどの無理難題以外は、それで切り
抜けられます。
来た球を打つ。
球を打つ。
打つ。
打つ。
打つ。
⋮⋮打った。
初球を強打した打球は、ピッチャーがグラブを差し出すより先に
股間を抜ける速いバウンドで、センター前へと転がっていった。
ノーアウト、一二塁。
ベンチの中で、反撃への機運が高まっていく。観衆も、女子への
声援を再開する。
続く優は、打ち損じてゴロ。だが二塁手を深いところまで追わせ
た結果、進塁打にはなり、一死二三塁。
そして三番美紀が、歴戦の強者のごとく悠然と左打席に入る。
初球を鋭く強振! セカンドの頭を越え、ライト前のヒットにな
りそうだ。
走り出そうとして、しかし、三塁コーチャーズボックスでシャー
249
ロットがストップをかけているのが目に入る。
振り返れば、ライトの高橋が予想以上の俊足を飛ばしている。下
手をすればフライとして捕球してしまいそうな勢いで。
やむなく塁間で足を止めると、落下地点には一歩届かず、しかし
ワンバウンドでグラブに収めた。
そこから動作に何の遅滞もなく、レーザービームのような返球が
本塁に走る。
啓子は送球動作を見るなり三塁へ引き返していたが、確かにそれ
は足の速くない啓子では絶対に間に合わないタイミングだった。三
塁が塞がっている以上弥生も二塁に足止めとなり、一死満塁。
四番の一美が打席に入ると、前の三打席を見た観客の間からかす
かな期待のどよめきが起こる。そこには紛れもない四番打者の風格
があった。
だがそれはバッテリーも同様。初球は大きく外れるボール球で様
子を窺いにかかる。
けれど、満塁で押し出し四球を与えるわけにもいかない。勝負の
勢いから言っても、男子の女子に対するプライドという観点から言
っても。
そして梓に対して五割の打率を上げた一美が、ストライクゾーン
に入る緩い変化球などを、むざむざ見逃すわけもない。
左中間のど真ん中を突き破るライナーを見た瞬間、弥生はがむし
ゃらにホーム目指して走り出した。キャッチャーが構えてはいるが
球はまだ来ない。あの当たりでそう簡単に返球が来るわけがない。
啓子に続いてホームを踏み、五対五。
振り返れば一塁にいた美紀も三塁を回ったところ。でもセンター
の球をショートがうまく中継し、本塁クロスプレーでタッチアウト
となった。
二死二塁。
しかし雪絵はスローボールにタイミングを合わせ損ね、ピッチャ
ーフライに終わった。
250
七回裏の先頭、三輪の当たりは一二塁間を抜けようという強い打
球。
︱︱させるか!
弥生は必死に食らいつき一塁送球、間一髪でアウト。
﹁ワンナウト! ワンナウト!﹂
髪を振り乱して声を張り上げる。ウエーブのかかった今の長い髪
は嫌いじゃないが、こんな時はひたすら煩わしい。
同点なのに、心穏やかではいられない。切迫感が声に出る。応じ
る声にも不安と焦り。
梓の調子はまだ回復しないまま、クリーンナップを迎えてしまっ
た。そのことを誰もが知っているからだ。
まずは三番白石。さっきの三輪と同じ右打ちの打球が、三輪のそ
れよりはよほど速く、啓子と弥生の間を通過していく。
そして四番の渡辺は、キレの悪いスライダーを軽々とセンターへ
運んだ。
本式の野球場ならバックスクリーンを直撃していそうな、ツーラ
ンホームラン。七回表に追いついた二点が、再びあっけなく突き放
される。五対七。
五番の長谷川はきれいなセンター返し。ホームランを打たれた後
とりあえず心機一転を図ろうとした守備に、また嫌な感じを与える
新たなランナー。
一死一塁で、六番の堀内はバントの構えをした。
残り二イニングでリードは二点。送りバントをする可能性も、な
くはない。梓が投げると同時にサードから一美がダッシュで前へ詰
め寄る。
と、堀内はバントだろうがバスターだろうがし放題の、梓のすっ
ぽ抜けた球をわざわざ見送って、﹁ごくろーさん﹂と一美に笑いか
けた。好意など微塵も存在しない、もがく相手を嘲るニヤニヤ笑い
だった。
251
﹁⋮⋮⋮⋮!﹂
そのせせら笑いを見た瞬間、弥生の目に不意に涙が湧き上がりそ
うになった。
仲間が、野球が、自分がいいように踏みにじられているような憤
りと無力感がこみ上げてきた。そんな風になるのは、男子野球部と
の因縁が生じて以来、初めてのことだった。
無論、意地でも実際に涙を流したりなどはしなかったが。
二球目、普通に構えた堀内に、梓は急角度で落ちるフォークを投
げ込んだ。本来の調子に近いそれを、堀内は引っかける。面食らっ
たような顔で一塁に走り出す。
ショートの雪絵が猛然とダッシュして、素手でゴロを掴んだ。そ
のまま二塁上の弥生にトス。二塁フォースアウト。
スライディングをかけてくるランナーの足をジャンプでかわしな
がら、一塁へすぐさま送球。若干逸れたが、啓子が長身を活かして
グラブに収め、一塁もアウト。
ダブルプレー。チェンジ。
﹁ナイスショート!﹂
練習では散々繰り返してきたが試合では初めて決めたゲッツー。
たとえ二点差を追う苦しい展開でも、打者が不快な野郎でも、連係
プレーが巧くいった喜びまで消せはしない。だから引き上げる時に
雪絵に声をかけると、小声で答えが返ってきた。
﹁⋮⋮ナイスセカン﹂
﹁何元気をなくしていますの? 礼儀知らずでデリカシーに欠けて
いて野球以外にはとんと知恵の回らない雪絵さんから無駄な強気が
消え失せたら、ほとんど何も残らないも同然ですわよ﹂
﹁ぺらぺらうるせーよ、蓮っ葉お嬢が!﹂
普段にやや近い反応を引き出せて、弥生は内心少し安堵した。
この試合、雪絵には都合の悪いことばかり起きている。一人だけ
ここまでノーヒットな上に、再三チャンスを潰している。守備でも
先制点のランナーを出してしまったエラー。
252
普通に慰めても、真理乃やシャーロットじゃあるまいし雪絵が素
直に反応するわけもない。だから弥生としては、とにかくいつも通
りに接することしかできないのだった。
253
第四部﹁少女たちは挑む﹂第十一章﹁八回表・八回裏﹂
八回表、男子野球部は三人目のピッチャーをつぎ込んできた。
阿部に代わり、大久保。
﹁二イニングくらいしか投げてないのに、どういうことデショウ?﹂
シャーロットの身体の悟が疑問を口にしてみると、弥生が答えて
くれた。
﹁軟投派のピッチャーでは、梓さんの球に慣れているわたくしたち
にとって相性が良いと考えたのではないでしょうか。あの投手は球
が速くて重い、正反対のタイプですから﹂
﹁さっきベンチで監督に何か言ってるみたいだったわよ。弥生を抑
えたいって直訴したのかもしれないわね﹂
横合いから優が弥生に言った。弥生と大久保の四月の因縁は、悟
も聞いている。
﹁まあ、二ヶ月前の状態から考えるに、大したピッチャーでもあり
ませんわ。球の速さなら最初の柴田投手の方が上ですし、真理乃さ
んとシャーロットさんなら力負けすることもないんじゃないかと思
いますわ﹂
﹁僕のことは戦力外扱い?﹂
バットを手にベンチを出て行こうとした梓が、苦笑混じりに口を
挟んだ。
﹁回復してない怪我人が余計なこと考えてもしかたないでしょう?
三球投げさせて偵察要員としての任務を果たしてくれれば、この
打席は上出来ですわ﹂
﹁無茶はしないで﹂
﹁⋮⋮りょーかい﹂
まだいくらか覚束ない足取りで、梓は打席に立った。
そして大久保の右腕から投じられた初球。
﹁⋮⋮弥生﹂
254
優が、静かに口を開いた。
﹁⋮⋮何でしょう?﹂
﹁あなたの話だと、百四十五キロがせいぜいという話だったよね。
て言うか、私の得た知識でも、その程度って話だったんだけど﹂
﹁⋮⋮少なくとも四月は、そうでしたわ﹂
﹁私の目には、百五十キロは優に超えているように見える﹂
﹁同感ですわ﹂
﹁弥生ちゃんに打たれたのがショックで、修行したんでない? 一
途な男の子ってのは、伸びる時には一気に伸びるからねえ﹂
﹁⋮⋮傍迷惑な話ですこと﹂
一美も交えた会話を聞きながら、悟は三番手のピッチャーもただ
ならない存在であることに不安と緊張を感じてしまう。
ここまで三打席で一安打。だがそのヒットも得点には関係ないも
ので、攻撃面でチームに貢献できていない。守備にしても、ミスは
犯していないという程度のことであり、チームの中で自分が役に立
っていないように思えてならなかった。
︱︱漫画とかだと、こういう時は目立たない脇役が意外な活躍を
するものだけど。
この二ヶ月、シャルと入れ替わってからの午後三時半以降は、毎
日何時間も野球の練習に費やしてきた。素人同然だった自分だが、
啓子や優などの丁寧な指導のおかげでずいぶん上達したと思う。
それでもキヨミズ男子野球部は強かった。
﹁梓、バカ⋮⋮っ!﹂
優が思わず口走る。三球目、梓が先刻と同じ構えを取って、バッ
トを思いきり振ったのだ。しかし今度は見事に空を切り、梓は地面
に倒れ込んだ。見かねたか、キャッチャーが手を貸して立たせ、梓
が引き上げて来る。
﹁無茶はしないでって言ったでしょ!﹂
﹁ごめんね。⋮⋮さすがに二球見ただけじゃ配球の見当がつかない
や﹂
255
呟くように言って、ベンチにがくりと座り込む。打球を受けた直
後に比べれば相当マシになったが、それでもまだ顔色は青い。
﹁あの、わたしたちががんばるから。梓さんは休んでて﹂
普段はひどく気弱な真理乃がきっぱりと言うと、打席に走って行
った。
﹁⋮⋮ピッチャー、これまでの二人とは比較にならないくらい本気
の目をしてたよ﹂
梓がぽつりと言った。ネクストバッターズサークルに入ろうとし
ていたシャーロットは思わず足を止めて聞き入った。
﹁僕らのことを舐めてかかったりなんかしていない。甲子園の決勝
みたいな生真面目な顔で、速くて重そうな球をビシビシ投げ込んで
来た。コントロールも絶妙﹂
﹁そんなにすごいなら、どうして先発に起用されなかったんだろ﹂
﹁⋮⋮わたくしたちが相手だから、本来の実力以上の力を発揮して
いるのかもしれませんわね﹂
﹁弥生ちゃん、一体どんな恨みを買うような真似したわけよ? お
おっと、シャーロットちゃん、出番は間近っぽいよ。もうツーナッ
シングになってるし﹂
一美に言われて振り返ると、続く三球目を真理乃が空振りしたと
ころだった。
﹁は、ハーイ﹂
シャーロットっぽい口調で応じ、悟は打席に向かう。すれ違う真
理乃はしょんぼりうなだれていて、悟に﹁がんばってください﹂と
小声で言うのが精一杯の様子だった。
ツーアウトランナーなし。三塁コーチの啓子のサインも、当然な
がら、普通に打てというだけの指示。
右打席に入った悟だが、唸りを上げて迫り来るような初球のスト
レートに対し、完全に腰が引けてしまった。内角低めの際どいコー
スに鋭く決まったボールはストライク。
次は外角高めへの剛速球、とにかく振ってみたが、そんな気持ち
256
で当たるわけもなく、あっさりツーストライク。
このままじゃいけないと思い、タイムを取る。素振りをして、バ
ッティングフォームの感覚を正常に戻そうとする。
と、観客の中の一角に目が留まった。
ビデオカメラの脇にいる、新聞部部長たる姉。そしてその隣にい
る小柄な少年。
︱︱シャル!
入れ替わった時、悟の身体は自宅にいたわけだが、ここまで試合
を見に来たようだ。今は姉の聡美と会話していて、悟と視線は合っ
ていない。
好きな人が自分を見ている。そう思うと、いいところを見せなけ
ればと気合が入る。
鼻息荒く、打席に入り直す。
しかし、キレの鋭い変化球にあえなく三振してしまった。
センターの守備位置につきながら、悟は自分を責めていた。
︱︱これでもう、九回表しかない。
勝つためには最終回に三点、最低でも負けないために二点取らな
ければならない。しかし相手チームの投手は万全の状態。
せめて悟は、打てないまでも粘って、攻略の糸口を掴むなり相手
の体力の消耗を誘うなりするべきだったのだ。
︱︱負けたら、終わっちゃう。それに、シャーロットだってこの
ままじゃバカにされて⋮⋮せっかく僕に身体を貸してくれたのに。
そうなった時のことを想像し、悟は身を震わせた。
悟自身、小学校で﹁性別の違い﹂とは別の﹁性差﹂みたいなもの
を色々と感じ始めてきている。昔よりはずいぶん改善されたと聞く
けれど、﹁女が男に逆らうなんて﹂とか﹁女なのに男っぽいことを
するなんておかしい﹂といった意識を無自覚に振りかざす子は男女
を問わずいる。
でも今日グラウンドで男子野球部の選手や観客たちが飛ばす野次、
257
放つ視線は、小学校とは比較にならないほど露骨で侮蔑的なものだ
った。明日からシャーロットがこの空気にまとわりつかれるのかと
想像すると、とても嫌だった。
︱︱みんなは、違うのに。
チームメイトを見渡して思う。男か女かで何らかの社会的評価を
自動的に下すような手合いは、このチームにはいなかった。シャー
ロットの身体と立場を借りてとは言え、その一員でいられるのが悟
にはうれしかった。
︱︱負けたくないよ⋮⋮。
唇を噛み、球を投げる梓を見る。
と、空振りに終わったバッターがすごすごと引き上げて行った。
﹁ワンナウト! しまっていきますわよ!﹂
セカンドで弥生が鼓舞するように叫ぶ。普段のしゃべりは漫画の
お嬢様みたいなのに、グラウンドではとても男っぽい人だ。
続く八番バッターも三球三振。
﹁ツーダン! あと一人!﹂
知的で控え目なキャッチャーの優が、返球しながら珍しく声を張
り上げる。
バッターボックスには三番手ピッチャー。大きな身体で、バッテ
ィングも得意そうだ。
それでも身長百五十センチの梓は、臆することなく球を投げ込む。
打球を受けて以来どこか縮こまっていたフォームが、いつしか元
のしゃんとしたものに戻っていた。
遊び球のない三球勝負。最後は地面にワンバウンドする急角度の
フォークを空振りさせて、三者連続三振。チェンジ。
外野からベンチに駆け戻る。ベンチでは梓たちが話をしている。
﹁下位打線だったからどうにかしのげたね。優ちゃん、体調戻って
きたし、九回裏は投げ方変えるよ﹂
﹁うん!﹂
﹁死ぬ気で三点、奪い取りますわよ﹂
258
︱︱みんな、あきらめてない。
悟は一人で落ち込んでいた自分が恥ずかしくなった。勝負は最後
の瞬間までわからないと、自分以外の誰もが理解しているのだ。
そんな風に考えていると、ちょんと腕をつつかれた。
﹁みんな、すごいですね⋮⋮。わたし、あきらめちゃいそうになっ
てました﹂
初顔合わせ以来何となく仲良くなっていた真理乃が、こっそり囁
いてくる。
﹁⋮⋮実はシャルもそう思ってたところヨ。でも、がんばりマショ
ウ﹂
小学六年生が高校一年生を励ますことの不思議さを内心で面白が
りながら、いつものようにシャーロットの身体の悟は言った。
259
第四部﹁少女たちは挑む﹂第十二章﹁九回表﹂
﹁死ぬ気で三点、奪い取りますわよ﹂
弥生の発破を聞きながら、啓子は打席に向かった。
確かに、死んでもいいから打ちたい、アウトにしたい、塁に出た
い、そんな局面というものはあるものだ。
ちょうど今のように。
打席に入り、ピッチャー大久保と対峙。
三塁コーチャーズボックスから見ていた通りの、力のこもった球
が襲い来る。振るのも覚束なくて、ワンナッシング。
二球目、当てに行ったがボテボテのファウル。ツーナッシング。
︱︱アウトにはなれないよな。
一番の弥生以降が期待できないわけではないが、ここで自分があ
っさりアウトになったら、八回裏に梓の三連続三振でどうにか引き
戻しかけた流れを再び手放す気がする。
三球目を、啓子はうまいことカットしてファウルした。
四球目、五球目、六球目。続けるうちに、大久保の顔色が変わっ
ていく。
七球目、初めてのボールを得た。カウントはこれでツーワン。
八球目、またもファウル。
︱︱みっともなくても何でもいいさ。ヒットは難しくても、フォ
アボールでいいから塁に出て、後ろにつなげれば⋮⋮。
そう思った矢先の九球目。
大久保の速球が、啓子の頭に直撃した。
ヘルメットに当たって明後日の方向に大きく飛んで行ったボール。
ふらふらとその場に倒れ込む啓子。
三塁コーチに入っていた悟が光景の意味を理解しきれずにいるう
ちに、ベンチから梓や優たちナイン全員が飛び出して来た。マネー
260
ジャーの修平も矢野先生も後に続き、ベンチは眠ってる監督を残し
て空になる。もちろんその頃には悟も啓子の元に駆け寄っていた。
﹁触らないで! 脳を刺激しちゃ駄目!﹂
抱え起こそうとした弥生に、矢野先生の聞いたこともないような
鋭い叱責が飛ぶ。手を止めた弥生をどけて、容態を診ようと彼女が
しゃがみ込んだ時。
﹁まだ生きているよ。心配は⋮⋮少しだけでいい﹂
目を開いた啓子が言った。しかし起き上がろうとして力が入らな
いのか、その場にまた横たわる。
審判に自分がデッドボールになったことを確認すると、悟に目を
移して言った。
﹁シャーロット﹂
﹁な、何ですか?﹂
﹁特別代走よろしく。九回裏の守備までにはどうにか復調しておく
から﹂
﹁と、特別代走って?﹂
﹁怪我人が出て治療に時間がかかるけど交代はさせたくない。ある
いは交代するわけにいかない。そんな時に使う制度ですわ。基本的
に一つ前の打順の選手が代走になりますの﹂
弥生が解説し、修平が抱えてきた担架で運ばれそうになる啓子に
言った。
﹁ですけれど、もう少し早く復帰してくれないと困りますわ。この
回もう一度啓子さんには打席に立ってもらうつもりですもの﹂
﹁⋮⋮努力はするよ﹂
﹁努力って! そんなことでどうにかなるようなものじゃないです
よ! おとなしくしててください!﹂
矢野先生が叱りつけながら担架上の啓子に付き従い、ベンチへと
戻って行った。
﹁さ、シャーロットさん、お願いしますわ﹂
いつの間にか弥生が悟のヘルメットを持って来て差し出す。悟は
261
朱色に輝くそれを受け取り、しっかりと頭にかぶる。
何もできないまま終わるかと思っていた自分に与えられた、特別
の役割。
﹁啓子さんの代わりにホームを踏みマス。弥生さん、返してくださ
いネ?﹂
﹁上位打線を信頼してくださいな﹂
悟は一塁ベースに向かった。
︱︱頭に来た球はよけてくれよ。いくら塁に出るチャンスだから
って⋮⋮。
弥生はネクストバッターズサークルで啓子が倒れるまでの一部始
終を見ていた。
自分の頭目がけて力んだボールが飛んで来た時、啓子はよけよう
とした。そのまま当たりに行ったりしたらデッドボールでも無効扱
いされるし、それは当然の行動なのだが。
啓子は、そのまま頭を後ろに引いた。正面から車が来た時に真後
ろへ飛び退るような、よけようという意志は見せつつも当たること
はほぼ確定なよけ方だったのだ。
彼女が取り乱していたとは思えない。ファウル連発を強いられて
追い詰められていた状況打破のため、出塁の絶好の機会とばかりに
うまいこと当たりに行ったのだろう。ボールは気持ちいいくらい跳
ね返っていたし、もしかしたら当たる時に衝撃をヘルメットで弾く
ような当たり方をしたのかも、とすら疑いたくなる。まあ、それな
らベンチに担ぎ込まれる羽目にもならないだろうが。
︱︱なるべくなら、こういう局面で対戦したくなかったんだが。
弥生は左打席に入り、大久保と二ヶ月ぶりに向かい合った。
女子を見下したあの頃の嫌らしい目つきではない。同じグラウン
ドに立つ対等な敵と認識した、錐のように尖った視線が弥生を射抜
かんとする。
︱︱ふん、けっこういい目してやがら。
262
デッドボールの直後、マウンド上で帽子を脱いで頭を下げていた
大久保の顔は、蒼白になっていた。ファウルの連発後にコントロー
ルをやや乱していたこともあるし、メンタル面の弱さは変わらずか
と思っていたのだが、今大久保の目を見て、そうでもなかったらし
いと悟る。
そして初球。打てるものなら打ってみろとばかりに、ど真ん中に
ストレートが決まる。弥生だって二ヶ月練習してあの時よりは上達
したはずだが、それでも速さと球威を増したこの球を打つのは至難
の技に思えた。
と、球を捕ったキャッチャーの白石が、一塁へ牽制球を投げた。
悟は頭から滑り込んで、一塁にどうにか帰った。一塁手の渡辺が
お尻の辺りにグラブでタッチする。
危うくアウトにならずに済んだことを安堵するよりも、シャルの
身体を触られた不快感の方がわずかに上回る。悟は渡辺を睨みつけ
ると、さっきよりは浅く、だがやはりできる限り遠くへリードを取
った。
︱︱みんなどうしてああいう嫌らしい言葉や態度に我慢できるん
だろ。高校生の女の子だと、大人だから気にならないのかな。
塁に出た時の、ファーストのセクハラ紛いの言動は、悟以外にも
及んでいた。しかし男の幼稚な振る舞いとばかりに、弥生や一美な
ど他のみんなは軽くあしらっている。
状況が状況だから、個人的な不快感などは耐えるにしくはない。
しかし悟に一つのアイデアがひらめいた。
︱︱盗塁すれば、あんなスケベなファーストなんか無視できるよ
ね。ダブルプレーになる危険性も減るし、もしかしたらあのすごい
ピッチャーを動揺させられるかも⋮⋮。
シャーロットの足は、それほど遅いわけではない。悟は次第に決
意を固めてピッチャーの投球を待った。
263
︱︱あの牽制受けて、まだ大きなリード取ってるよ。
弥生は危なっかしいものを見る思いで、塁上のシャーロットを眺
める。
二点差の最終回、無死一塁。ランナーはアウトになったら元も子
もない以上、暴走などは厳に慎むべきだと弥生は思うのだが。
いや、今考えるべきはピッチャーとの勝負だ。弥生がヒットを打
ちさえすれば、何も問題ない。
投球動作に入った大久保が二球目を投げるのを待つ、わずかな時
間。
その時シャーロットが二塁へ走り出した。
︱︱嘘!
焦りながらも必死に頭を回転させる。あのタイミングでは白石の
送球で刺される危険性はかなり高い。空振り程度で援護になるか。
大久保の球を打つしかない。
弥生は即座に判断を固めると、力を込めて速球に挑んだ。
悲しいくらいボテボテのゴロ。最悪だ。
それでももちろん、弥生は懸命に一塁へ走る。あきらめない限り、
何かが起きるかもしれない。
優がネクストバッターズサークルから見守る中、弥生の打球は力
なく転がった。
だが、大久保はその弱い打球をじっくりと待って捕った。そして
おもむろに二塁に投げようとして、すでに二塁に駆け込みかけてい
るシャーロットを見て、驚いたように動きが一瞬止まる。
︱︱ああ、盗塁に気づいてなかったのか。
弥生との対決に集中する余り、ランナーに注意を払っていなかっ
たらしい。
ためらった後、大久保は一塁へ送球する。
だがその球は、一塁手の頭上を越えた。
ライトの高橋が隙なく一塁後方のバックアップに入っていたため
264
に、二三塁とは行かなかったが、それでも無死一二塁。
︱︱続かなくっちゃ。
優はバットを軽く素振りした。
この局面の課題としては、二人のランナーを進塁させること。ワ
ンナウトになっても、当たっている美紀と一美ならランナーを返し
てくれる。
︱︱送りバントで行こう。
心に決めて、ベンチを見る。きっと啓子だって、同じように考え
るだろう。
二人のランナーに簡単なサインを送り、打席に入る。
相手にも警戒はされているだろう。それでもランナーを二人抱え
ている以上、極端な前進守備などはできない。うまいところに転が
せば、オールセーフさえ狙えるかも⋮⋮。
だが、そんな目論見は打ち砕かれた。
真上に上がった小フライ。白石が簡単に捕り、アウトとなった。
﹁ほら、あんまり辛気臭い顔するもんじゃないよ。裏でしっかり梓
の球捕ってくれりゃ、それで充分なんだから﹂
美紀の身体で耕作が声をかけると、しょんぼりしていた優は少し
だけ笑ってくれた。
﹁そうですね⋮⋮後の攻撃、お願いします﹂
﹁任せときなって﹂
言うと、ぶらりと打席に入る。負けられない試合で二点のリード
を許し、九回表、一死一二塁。そこそこシビアな局面ではあるが、
これ以上の修羅場だって何度となく潜って来た身だ。いちいち震え
たり緊張したりする歳でもない。
︵球は重くて速いときてるけど、どうするんだい?︶
頭の中で美紀の心が耕作に訊いてくる。
︵向こうにしてみりゃ、三振や内野フライ以上にゲッツーがありが
たいはずだ︶
265
︵次を考えればね︶
ネクストバッターズサークルでは一美がバットを振っている。こ
こまで四打数三安打、長打の恐れもある四番には、あまり回したく
ないだろう。
︵このキャッチャー、三振を取ることに関心があるわけじゃねえ。
追い込んでから打たせて取るようなボールを要求してくる、その可
能性は低くないと思うぜ︶
︵そこで期待通りにゲッツー打ったら目も当てられないね︶
︵そん時ゃ思う存分罵ってくれや︶
幸い、耕作が罵られることはなかった。
ツーツーからの五球目、セカンドゴロになってくれと言わんばか
りのカーブを、バットコントロールを利かせてライト前へ。
飛び出し気味だったシャーロットが二塁から駆けに駆けてホーム
へ突入、クロスプレーをかいくぐって六対七。
しかし三塁を狙った弥生がホームからの素早い送球に刺され、ツ
ーアウトとなった。
二死一塁、バッターボックスに向かうは四番の一美。
︱︱バッテリーの隙を突くしかないよね。
歩きつつ、バットを手に伸びをしながら、この打席ですべきこと
を思う。
︱︱﹁本気でかかれば抑えられるはずだ﹂っていう隙を。
打席に立ってバットを構え、投手と向かい合う。警戒心に満ちた、
まったく相手を舐めてかかってはいない態度。
しかしながら、捕手は立ち上がったりはしていない。一点差、ラ
ンナーあり、当たっている四番。普通の相手なら敬遠の選択肢が浮
かんでもおかしくはない場面にも関わらず。
そこを利用する。
一球勝負。チャンスは、もちろん初球。
セットポジションから、大久保が剛球を投じる。
266
即座にその軌道と速度を見極め、いつもよりバットの振りかぶり
を大きく取る。いつもより強く踏み込み、いつもより速く鋭く力強
く振る。
真芯で捉え、思いきり引っぱった打球は、高々とレフトへ飛んで
行った。
飛距離は充分、残るは方向性。滞空時間の長い打球は、レフト線
に近いフェアグラウンドの上空を、ゆっくりと遠ざかって行く。
マウンド上の大久保を始め、男子野球部の面々は呆然と打球の行
方を見送っていた。
一美は祈る思いでレフトポールと打球を見比べる。
︱︱入ってくれないと、ちょっときついことになるんだよ。入っ
ておくれよ。
今の筋力でできる最高のパフォーマンス。もう一度同じことをや
れと言われても、そうそうできるものではない。
それにまた、もう一度球を打てるチャンスがあるかもわからない。
しかし、打球はポールのほんのわずか外側を通過して、彼方へ消
えて行った。
白石がマウンドに向かう。彼が何かを言うと大久保が激昂するが、
それでも折れた様子もなく、粘り強く言い聞かせている。
戻ってきた白石は、腰を落とすことなく、立ったままグラブを高
く掲げた。
ボール。
観客席から野次が飛んだ。しかしその程度でこのキャッチャーが
逆転弾の危険性を無視して勝負してくれるとは、とても思えない。
ボール。
投げる大久保は不満そうだ。まぐれ当たりだと思っているのか、
一美の実力を認めた上で勝負したいと思っているのか。
ボール。
これにてワンスリー。もう一球ボール球が来れば一美は塁へ出る。
逆転のランナーだ。しかし、ツーアウトで続くバッターは今日ノー
267
ヒットの雪絵。
大久保が五球目を投げた時、一美は露骨に下手くそっぽい空振り
をしてみせた。さらに大久保にバカっぽく笑いかけてみる。背後の
白石が、高い位置から声をかけてくる。
﹁小細工しても無駄だ。もう、こんな状況であんたと勝負はしない﹂
﹁今日のこの機を逃したら、二度とあたしと勝負なんてできないよ
?﹂
﹁⋮⋮甲子園に行けなくなるよりはマシだ﹂
六球目も、絶対に一美のバットでは届かないようなはるか彼方へ
のクソボールだった。
一美が敬遠される様を見ながら、雪絵は鼓動が急激に速くなって
いくのを感じていた。
怒りや興奮でなら歓迎もできただろう。しかしそれをもたらす感
情は、恐怖の一言に集約できるものだった。
自分が打てなければ、少なくとも塁に出られなければ、さもなけ
ればアウトになる前にランナーにホームを踏ませなければ、ここで
試合は終わる。
そして雪絵には、打てる自信はおろか塁に出る見込みさえ、もう
想像できなかった。
陽介だった頃、自分の前の打者が敬遠されることなんてなかった。
敬遠され、勝負を避けられるのは自分だった。対戦するどのチーム
も陽介のことを恐れていた。
しかし﹃稲葉陽介﹄の身体と立場を失った今、雪絵はあまりに無
力だった。
男子野球部のほとんどの人間にとって田口雪絵など無名の存在。
知っている人間にしても、リトルリーグ時代すごかったからと言っ
て今もすごいなどと考えてくれはしない。
ここまで四打席、雪絵はノーヒット。そのうち三度はランナーを
置いての凡退。いいように相手バッテリーにあしらわれた。
268
ピッチャーの球が打てない。それだけでも充分に怖い。だがそれ
以上に、打てなかった時のチームメイトに会わせる顔がない。肝心
な場面で打てなかった自分を、自分自身が受け入れていけそうにな
い。
ミスをあげつらうような物言いは、このチームで自分以外誰もし
ない。例えば一美はいつもの眠そうな顔で平然と、弥生は毅然とし
た姿勢を崩さないまま、﹁しかたがない﹂と雪絵の肩を叩くだろう。
しかし、だからこそ、その優しさにもたれかかるような真似はし
たくなかった。
来年の春に元に戻ると﹃陽介﹄は言っている。それを信じれば残
り一年弱の辛抱だ。学校で男子野球部の連中とすれ違えばせせら笑
われるくらいのことはあるだろうが、期間限定と思えば大したこと
はない。すでに雪絵はクラスの中でも変わり者のポジションを獲得
していることだし。
でも、﹃雪絵﹄の身体や立場からは逃れられても、自分が自分で
あることからは逃れられない。打てないみじめな自分を抱えてこれ
からずっと生きていかなければならない。そんな状態には耐えられ
ない。
それもこれも、打ってしまえれば簡単な話なのに⋮⋮打てそうに
ない。
自分が壊れてしまいそうな恐怖が、雪絵の全身を締めつけた。
震えが走る。全身から力が抜けていく。嫌な汗が流れる。まとも
に立っていられない。
︱︱これって病気じゃないか⋮⋮?
そう思いついた瞬間、雪絵は少しだけ気楽になった。
病気なら、しょうがない。突然のアクシデントなんだから、打席
に立てなくてもしょうがない。
一美が六球目を見送って一塁に歩き出した時、雪絵は逆にベンチ
へ歩き出した。
﹁雪絵ちゃん、どうしたの?﹂
269
ベンチから出て来た梓に訊ねられた時、雪絵は不意に我に返った。
進行方向のダッグアウトには、アウトになった自分を責め続けて
いる弥生と優。泣きそうな顔で、でも一生懸命声援を送っているシ
ャーロットと真理乃。目の前の梓にしても、まだ腹が痛むのか、軽
く手を当てている。塁上から自分の行動を不審な気持ちで眺めてい
るであろう、一美と美紀。そしてベンチに横たわり、保険医の矢野
の手で頭に各種検査用のコードを貼り付けられ、体調を調べられて
いる啓子。
自分以外の全員が、それこそ﹁死ぬ気﹂で戦っている。戦おうと
している。
今のこの体調不良は急病なんかのせいじゃない。単に自分がプレ
ッシャーに潰されそうになっているだけだ。
そう悟った途端、雪絵はいたたまれなくなった。
逃げ道を求め、ベンチの中に突っ込むと、そのまま奥へ抜けて行
った。
校舎側へ逃げようとして、ユニフォーム姿であることを意識して
しまい、結局袋小路のトイレの個室に立てこもった。
﹁雪絵ちゃん!﹂
少し遅れて、梓が一人で駆け込んで来た。
﹁あれ? あの⋮⋮ほんとにトイレ? だったらごめんなさいだけ
ど⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁雪絵ちゃん?﹂
﹁出てけよ!!﹂
雪絵は叫んだ。八つ当たり以外の何物でもないと知りながら、叫
んだ。
﹁打てねーよ! どうせ俺がアウトになって試合終了なんて決まり
きってんだから、わざわざ打席に立つ必要なんざねーだろーが! ほっとけよ!!﹂
270
トイレの壁にわんわんと響き渡るような大声で叫ぶ。それなのに、
梓は逃げる様子もなく待ち続け、雪絵が叫び終わるタイミングを見
計らったように、静かに声をかけてきた。
それは母親が小さい子供にかけるような、優しい声だった。
﹁やってみなくちゃ、わかんないよ﹂
﹁わかるって言ってるだろ!!﹂
自分がまるっきり駄々をこねていることは明らかだったけど、雪
絵には他に言うべきことなど思いつかなかった。
﹁考えすぎて熱くなっちゃってるだけだと思うんだけどなあ。雪絵
ちゃん、僕らの中で一番野球センスあるのに﹂
﹁⋮⋮ふざけんなっ!!﹂
自分にセンスなんか、あるわけない。一美のようなバッティング
もできなければ、梓や真理乃のようにホームランを打つこともでき
ない。優のような足の速さもなければ、美紀のような守備の判断の
良さも欠いている。啓子のように賢くもなければ、シャーロットの
ように強い肩も持ってない。
﹁弥生のように、がむしゃらに、やる、気力も⋮⋮ないし⋮⋮⋮⋮﹂
ドアの向こうの梓に、他のメンバーと比較した時の自分の情けな
さを縷々並べているうちに、泣けてきた。
身体を交換されて以来、怒ることで自分を守ってきた。自分は本
来は男なんだから、泣くなんてみっともないとも思っていた。
けれどそれはごまかしだ。男として生まれた体格の良さに頼って
野球をしていただけの自分。そんな自分が、男子と必死に戦ってい
るチームメイトの女子たちに比べてどれほどご立派なものか。
打てない悔しさ、侮られる惨めさ、自分の弱さを痛感した悲しさ。
一旦堰を切った感情は留まるところを知らず、雪絵は小さい子供
のように狭い個室の中で泣きじゃくった。
ずいぶん長い間泣いていたように思う。
けれど梓はドアの外でじっと立っていた。
271
﹁雪絵ちゃんは、さ﹂
噛んで含めるように、雪絵に語りかける。
﹁一美さんの次に当てるのが巧いし、真理乃ちゃんの次に飛距離が
あるし、美紀姉ちゃんの次に守備がしっかりしてるし、優ちゃんの
次に走塁が上手だよ﹂
﹁⋮⋮中途半端だって、ことだろ﹂
﹁違うよ。総合的なことを言ったら、絶対に僕らの中で一番いいプ
レイヤーだと思う。雪絵ちゃんが絶対に打てないなんてことは、絶
対にありえないよ﹂
梓はきっぱりと言い切った。
﹁でも⋮⋮そんなの⋮⋮練習の話で⋮⋮今日の本番じゃ全然⋮⋮﹂
ネガティブな意識に囚われて、梓の言葉を素直に受け取れない。
それに泣きすぎたせいで、口を開いても言葉に詰まってしまう。
﹁だから、考えすぎだよ。そりゃ百パーセントの保証なんてできな
いけど。せっかく野球できるんだし、どんな結果に終わっても、楽
しくやろうよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮楽しく?﹂
それは、雪絵が長らく聞いていなかった言葉だった。勝てばうれ
しいし楽しいが、野球すること自体が楽しいという感覚は、久しく
忘れていた。
梓は静かに語りかける。ドア越しに、言葉で雪絵を抱きしめよう
とするかのように。
﹁どっちかが勝ってどっちかが負ける。それは決まっていることだ
けど、でも、どっちも楽しくプレイすることはできるんじゃないか
な? そりゃ負ければ悔しいけれど⋮⋮それも込みで、楽しく﹂
﹁だって、みんな、﹃死ぬ気で﹄って⋮⋮﹂
﹁雪絵ちゃん、今まで本気で野球やってこなかったね?﹂
からかうようにそう言うと、梓は笑った。
﹁楽しいから、必死になってみんながんばってるんだよ﹂
その言葉を聞いた瞬間、雪絵の中で何かがほどけた。
272
ベンチに戻ると、みんなの視線が痛い。単にこちらが痛がってい
るだけで、真理乃などを筆頭に、みんな真剣に気遣っているだけな
のだが。
﹁おかえり﹂
ベンチに上半身を起き上がらせていた啓子が、まず口を開いた。
すでにコードは外れている。
﹁けっこうな時間稼ぎありがとさん。おかげで九回裏の守備には間
に合いそうだよ﹂
鷹揚に言ってご苦労とばかりに手を振る。そのおどけた仕草で、
場がほぐれていく。
﹁さ、きっちり仕事して来てくださいな﹂
バットを突き出して弥生が言った。
受け取って、しばし雪絵はためらい、口ごもる。心構えはできた
けど、でも何かを言わなければ悪いような気がして。
﹁凡退したら罰ゲーム、だっけ?﹂
すると横から優が言葉を挟んだ。﹁ええ﹂と弥生がオーバーなま
でに肯く。
﹁負けたら夏休みにはマサイ族とでも野球しに行きますわ。つきあ
ってもらいますわよ﹂
﹁⋮⋮何、わけわかんねえこと言ってやがるんだよ。だいたいそん
なの、九人全員で行くんなら罰ゲームになんてなんないだろーが﹂
﹁負けの責任を負う者だけは、自腹で参加してもらいますの。他の
方はわたくしがお小遣いで招待いたしますけれど﹂
﹁ふざけんな!﹂
怒鳴りつけると、弥生が目を細めた。
﹁その攻撃的な面構えがあなたにはお似合いですわ。普段通りにし
ていれば、それでいいんですのよ﹂
そしてバッターボックスを指し示す。
﹁さ、行ってらっしゃい、あなたの立つべき場所へ﹂
273
﹁てめーに芝居がかった口調で言われなくても、行くさ﹂
守備陣や観客席からの、罵声と嘲弄。耳には入るが受け流す。
打席に入り、バットを構え、対戦するピッチャーを見据える。
初球、内角ぎりぎりへの速球。見送った。
速い。
二球目、同じコースへの速球。バットを振ったが後ろへファウル。
手に痺れが走る。
重い。
けれど、それは想像の範囲内に収まっている球だった。
ツーアウト、ツーストライクノーボール。それでも雪絵は、わく
わくするものを感じていた。どんな球が来るのか、それをどう打ち
崩すのか、意識がすんなりとそこに集中していくのを、明瞭に自覚
していた。
そして放たれた三球目。今度は外角ぎりぎりのいいコースを突い
た速球。
︱︱でも、打てる!
雪絵は外に踏み込むと、思いきりよくバットを振り抜いた。
球を遠くへ弾き返す、しばらくぶりの心地いい感触。もちろん打
球の行方を見定める余裕などなく、すぐさま一塁に走り出す。
一塁直前でちらりと目をやれば、右中間に飛んだボールは転々と
グラウンドを転がっている。フェンスに当たったクッションボール
の弾み方を見誤ったのか、ライトもセンターもボールからは遠い。
一塁を蹴り、二塁へ。
二塁に到達する寸前、ホームの方から歓声が上がる。美紀のホー
ムインなら同点、一美も生還したのなら逆転。守備陣の混乱。まだ
ボールは外野から返って来ない。雪絵は二塁も蹴って、三塁へと走
った。
三塁ではコーチのシャーロットがぐるぐる腕を回している。
︱︱ほんとかよ。
274
一瞬思ったが、全力疾走の快さに身を委ねて、三塁ベースを蹴る。
ホームでは、仁王立ちしたキャッチャーが鬼のような形相。
しかし、本塁突入二メートルというところで、返球がキャッチャ
ーのミットに収まってしまった。かいくぐってホームにタッチしよ
うとしたが及ばず、アウト。
ホームベース横に大の字になり、しばらく雪絵は天を仰いでいた。
そこに、梓と弥生が覗き込みに来る。
﹁ランナーが二人いて、ツーアウトで、俺が本塁突入でアウトにな
ったってことは、二点が入ったと考えて⋮⋮いいんだよな?﹂
﹁簡単な計算ですわね﹂
﹁立てる?﹂
梓が差し伸べた手を、強く握って立った。
﹁立たなきゃならないだろ? 九回裏があるんだから﹂
275
第四部﹁少女たちは挑む﹂第十三章﹁九回裏﹂
﹁体調は大丈夫?﹂
ベンチを出しなに優が訊くと、梓は笑顔で肯いた。無理をしてい
る様子は伺えない。
﹁痛みはだいぶ引いて来たから。もう問題なく、投げられると思う﹂
﹁ようやくね﹂
﹁うん。⋮⋮六回裏の頭から使ってたら、もっと楽に勝てたかな。
こんな痛い思いせずに済んだかもしれないし﹂
﹁たらればは禁句でしょ﹂
優は笑ってたしなめると、所定の位置についた。
男子野球部の攻撃は、トップバッターの橋本から。ここまで無安
打で終わっているせいか、敗北が迫る危機感ゆえか、顔が強張って
いる。まだだらけている相手ベンチの様子を見るに、前者の可能性
の方が高そうだが。
︱︱まさか俺が橋本や白石の最後の夏を終わらせるなんてな。
一瞬感慨に耽りそうになった、そんな自分を戒める。女子野球部
員の排除という形で、先に喧嘩を売ってきたのは男子なのだ。
それに、梓の切り札が効果を発揮しなかったら、この勝負はまだ
どう転がるかわかったものではない。
︱︱頼むよ、梓。
そしてマウンドに立つ梓は、左手に嵌めていた特注のグラブを、
右手に嵌め直した。
﹁両手投げ? そんなことまでできるのか、あのピッチャー﹂
呆気に取られた男子野球部ベンチの中で、寡黙な長谷川がまず口
を開いた。
マウンド上、左手でボールをしばし弄んでいたピッチャーは、お
もむろに振りかぶるとアンダースローで第一球を投げ込む。右のア
276
ンダースローとまるで変わらない、スピードはないが制球力抜群の
ボールが外角一杯に決まった。
白石は、歯軋りする思いでそのボールを見つめていた。
︱︱これがあいつらの切り札か。
九回裏が始まる時、守備位置に散って行く相手チームの顔が妙に
明るかったのを、白石は不審に感じていた。いくら再々逆転したと
は言え、点差はわずか一点、こちらの打順は上位。とても楽観視で
きる状況ではなかったはずなのに。
その答えが、眼前にあった。
右ピッチャーの投げる球と左ピッチャーの投げる球はまったく違
う。どんなチームでもなるべくピッチャーは左腕と右腕の双方を準
備するし、プロのチームではリリーフを起用しづらくするために打
線を左バッターと右バッターでジグザグに配置することが多い。
特に左バッターは左ピッチャーに弱いとされていた。
二球目の高めに浮き上がるボールを橋本は空振りする。左の下手
投げなどそうそういるものではない。橋本にしてもいきなり出くわ
したそんなピッチャーに対策の立てようはないだろう。
それでも三球目を橋本は打ちに行った。力ないポップフライでは
あるが、レフトとショートとサードの中間点に落ちそうな面白い打
球だ。
しかし、果敢に走って来たショートが滑り込み、グラブに掬い上
げて捕球した。
周りの選手に声をかけられ、軽く笑みを浮かべている。何が気に
食わないのか初回から不機嫌そうな顔をしていたショートだが、さ
っきの逆転タイムリー三塁打で気分一新できたらしい。
二番の三輪が打席に入り、三番の白石はネクストバッターズサー
クルに向かう。
背後のベンチから堀内や渡辺の声が聞こえてくる。
﹁これ⋮⋮負けたら、俺ら、夏の大会に出られないんだよな⋮⋮﹂
﹁じょ、冗談だろ。これ、壮行試合みたいなものだよな、な?!﹂
277
︱︱見苦しいことを言わないでくれ。
今になってうろたえている渡辺自身、音頭を取って校内代表決定
試合を望んだ張本人の一人なのに。
その時、三輪が初球の外角球を見送ってストライクとなった。
﹁三輪! 塁に出なかったら承知しねえからな!﹂
﹁当たってでも出ろよ! さっきの女みたいに!!﹂
︱︱ひどいチームだ。
白石は、心のどこかが急激に冷えていくのを感じた。自分が主将
として率いるこのチームに、まるで愛着を抱けなかった。
︱︱去年の山本先輩のチームは、こんな風じゃなかったのに。
個々人の技量は今年ほどではない。けれどチームワークははるか
に良かった。
だから今年、自分が率いるチームは、技術を向上させようと思っ
た。技術の上乗せさえあれば、去年先輩が涙を呑んだ相手である大
西義塾にだって、きっと勝てると信じた。
白石の方針にいい顔をしなかった前任の吉野監督は、︵それを白
石当人が認めることはないだろうが︶白石に都合良く、急病で倒れ
た。さらに白石に都合良く、似た考えの持ち主である真田が後任の
監督の座に収まった。
ところが、個々人の技術が伸びるのと反比例するように、チーム
の結束はばらばらなものになってしまった。
それでも、勝てばいいと思い込むことにした。甲子園で優勝すれ
ば、すべてを帳消しにできると考えることにした。
なのに今、こんなところで自分の高校三年の夏は終わろうとして
いる。公式戦ですらない、校内の内輪揉めのような試合によって。
二球目、ピッチャーの球はすっと沈み込んだ。左下手のシンカー、
その名をスクリューボールと呼ぶ。三輪は捉えきれずに空振り。ツ
ーストライク。
︱︱本当に、大したピッチャーだ。
球種の多さが何らピッチングの妨げになっていない。例えばカー
278
ブの後にスライダー、スライダーの後にシュートなど、立て続けに
違う種類の変化球を投げていくと、指先の感覚が狂って失投してし
まうものである。プロでも珍しくない話だ。それなのにこの小柄な
投手は、テレビのチャンネルを変えるよりも簡単に、正確に、自分
の球種を切り替えてしまえる。
三輪はそこから二球ファウルを続けたが、最後は再度のスクリュ
ーボールによって三振に倒れた。ツーアウト。
引き上げて来る三輪が、すれ違いざま話しかけてきた。
﹁俺たち厄介な相手に喧嘩売っちゃいましたね﹂
﹁⋮⋮まだ終わったわけじゃない。スクリューだろうが何だろうが、
打つ﹂
半ば自分に言い聞かせるように宣言して、白石は打席に入った。
︱︱ある意味、俺を反面教師にしちゃったのかな⋮⋮。
左打席に立つ白石を見上げながら、優は思った。
猛だった時の自分も、前の吉野監督も、重んじたのはチームの和
だった。勝ちたいのは山々だが、四千校以上が参加する大会で頂点
を極められるのはたった一校。その座に辿り着けない可能性の方が
はるかに高く、またそれは決して恥ずかしいことではない。
だから自分は結果よりも過程を大事にしたのだけれど、その結果
の甲子園決勝戦での敗北は、去年二年生だった白石に別のメッセー
ジを与えてしまったのかもしれない。
︱︱でも、勝つのは俺たちだ。
優は立ち上がり、梓に声をかけた。
﹁梓! 本気出して行こう!﹂
梓がこくんと肯き、投球動作に入る。
今度も左で投げるが、これまでのアンダースローとは違う。
左足を軸にして、大きく大きく上半身をひねる。お尻や背中を完
全にこちらに向け、むしろ左肩が突き出そうな勢い。
軽く腰掛けるように左足を曲げた次の瞬間には、全身がバネのご
279
とく一気に弾ける!
オーバースローのフォームから、ボールが放たれた。
︱︱トルネード!
その特徴的なフォームは、もちろん白石の知るところだ。大きな
溜めを作って球速や球威を増す投法。
しかしそれは、体格に恵まれた速球派の投手がやるから意味があ
るのだ。百二十キロが百三十キロになったところで、打ち頃の球で
あることには変わりない。
そんな白石の想像通り、球は百四十キロや百五十キロに達するも
のではなかった。
だが、打てると感じて振りに行ったボールは、かくんと下に折れ
た。
︱︱引っかかった。
変則フォームは目くらましだ。ストレートが生きるフォームだか
らと言って、変化球を投げないと思い込んだのが間違いだった。
この一球の空振りを取るために、慣れないフォームで投げる。こ
のバッテリーならそれくらいのことはやりかねない。
だが二球目、再びピッチャーはトルネードの構え。
︱︱子供騙しが二度も通じるか。
変化球を中心に待つ。たとえストレートでも、この遅い球速なら
対応できる。
そう思って白石はバットを構えた。
来た球は変化しない。まっすぐなストレート。少しは速いがやは
り大したことはない。
︱︱なめるな!
白石はバットをフルスイングした。
しかし。
バットはストレートで走るボールの下を空振りした。
280
︱︱バッター、罠に嵌まってくれたみたいだね。
サードから、一美は梓とバッターの対決を観戦していた。もちろ
ん守備に備えて気を抜いてはいないが、この勝負は三振か長打で終
わるだろうと確信していた。
二球目のストレートを空振りしたバッターは、不審げな顔をした。
間違いなく打てると思ったボールを空振りしたのだから、それも当
然だろう。
︱︱俺も、そうだった。
入部する時の梓との対決。第九打席で突然左のトルネードから投
げ込まれたストレートを、今の打者と同じように一美は空振りして
いた。
と、バッターはタイムを取って素振りを始めた。もしかすると、
今の梓のボールの秘密を悟ったのかもしれない。
だが、わかったところで、残り一球でどうにかできる球ではない。
︱︱そういう点からも、一球目のフォークはうまかったな。さす
が優ちゃん。
﹁打てよ白石!﹂
﹁ただのまっすぐだろうが!!﹂
慌て出した男子野球部のベンチから悲鳴のような声が上がる。
確かに、梓のあの球はストレート。ただし﹁ただのまっすぐ﹂と
は少し違う。
恐らくスピードガンで測れば、百三十キロそこそこ。しかし、伸
びがあるから見た目よりもはるかに速くバッターは感じる。
普通、ストレートと言っても決してまっすぐではない。重力の影
響を受けていくらかは下に落ちる。けれど梓のストレートは、たぶ
んボールの回転数が異常なまでに大きいのだろう、﹁ただのまっす
ぐ﹂よりもその落ちの度合いが小さい。だから普通のストレートと
思って振ったバットは、ボールの下を通り過ぎてしまう。
目を狂わせ、経験則を狂わせる。﹁ただのまっすぐ﹂とは根本的
に別の存在だと意識を切り替えなければ打てるものではない。
281
溜めの大きなトルネード投法で作り出すエネルギー。それを無駄
なくボールに伝える全身の柔軟性。さらにその力をきっちり回転数
の増加につなげる、卓越した投球技術。それらの産物であるこの﹁
落ちないストレート﹂こそが、梓の真の切り札だった。
バッターは再び打席に入る。だがその顔は刑の執行を待つ罪人の
ように青ざめていた。
梓の三球目は、内角高め一杯の﹁落ちないストレート﹂。渾身の
力で振られたであろうバットは、今度もボールの下を空しく通り過
ぎた。
ストライクスリーバッターアウト。ゲームセット。
︱︱たった二球じゃ適応はまず無理だよ。
マウンドに駆けながら、一美はバッターにちらりと視線を投げて
内心呟いた。
乞うて同じ球を投げてもらった第十打席。一美も、わかっていて
も打てなかったのだ。
282
エピローグ
﹁女子の力量を見くびっていた。甲子園での試合に臨むように、本
気で取り組まなければならなかった﹂
マウンド上に集まって喜び合う女子野球部に背を向け、白石がベ
ンチに引き上げると、仲間たちはまだぼんやりと敗戦のショックに
打ちのめされていた。何人かはすすり泣いている。そんな中に真田
監督の声が響く。
﹁今回の敗北は、お前たちの意識をそのように導き損ねた私の責任
だ。すまなかった﹂
深々と頭を下げる真田に、渡辺が憎々しげに毒づいた。
﹁すまなかったで済めば警察はいらないっすよ。責任、どう取るつ
もりなんすか?﹂
﹁もちろん辞職する﹂
即答した真田に、一瞬誰もが口を利けなくなる。しかし涙声の橋
本が突っ込んだ。
﹁そんなの、それはそれで無責任じゃないっすか。俺らには関係な
いっすけど、二年や一年はどうすんですか?﹂
﹁先ほど試合中に校長から連絡が入った。吉野先生の容態が急に回
復し、近いうちに復職なさるそうだ。どの道、私は夏の大会が終わ
った時点で吉野先生に部を引き継ぐことが確定していたが、それが
少し早くなっただけのことだ﹂
真田は淡々とした口調で言った。そして静まり返った一同に告げ
る。
﹁挨拶はきちんとして来い。敗者にも振る舞うべき礼儀はある﹂
梓をもみくちゃにして遊んでいた女子野球部ナインだが、男子野
球部の面々がベンチから現れたのを見て、ホームベース前に移動し
始める。
283
︵さて、ジジイにはもうしばらくつきあってもらうよ。まさか嫌と
は言わないだろうね︶
美紀の身体の耕作に、美紀が心の中で話しかけてきた。
︵梓ちゃんのためだ、やってやらあ。あの子のがっかりした顔見る
くれえなら、おめえの身体で三時間カンカンノウ踊るくらい、耐え
られるさね︶
︵人をらくだ呼ばわりかい︶
︵てめえで動けないんだ、死体と大差ねえだろ︶
︵⋮⋮それもそうだね︶
素直に同意する美紀にいささか妙な気がしたが、真理乃が耕作に
声をかけてきたので、そちらに意識を集中する。
﹁あの、美紀さん。今夜にでもアパートに来てくれませんか? そ
の、ちょっと、内密に相談したいことがあるみたい、じゃなくて、
あって⋮⋮﹂
︵何だ今の言い間違いは?︶
︵細かいこと気にすんじゃないよ。あたし相手の用向きなんだから、
素直にはいと言っておくれ︶
美紀の言うことは正論で、耕作は真理乃に承諾した。
挨拶をする頃には打席に立っていた時の興奮状態も薄れ、白石は
すっかり虚脱感に包まれていた。
元はと言えば、自分が女子の入部を認めなかったせいですべてが
始まってしまった。そのせいで橋本や長谷川や渡辺と挑む夏が、こ
の六月で終わってしまった。
挨拶を終えたその場に立ち尽くしてぼんやりしていると、後ろか
ら声をかけられた。
﹁負けちゃいましたね。ま、女子にはキヨミズの看板背負って、せ
いぜい勝ち進んでもらいたいっすけど﹂
一年生の三輪はずいぶん気楽な声音で言ってのけた。白石はつい
皮肉な口調になる。
284
﹁よくそんな気になれるな。お前、この先連中が卒業するまで校内
の決定戦で負け続けでもしたらどうするんだ? 甲子園に出られな
いまま終わるかもしれないんだぞ﹂
﹁それなんだが﹂
長谷川が、横から声をかけてくる。
﹁二つの野球部を併合すればいいと思う﹂
二年の高橋も会話に加わってきた。
﹁元はうちに入ろうとした子らなんすから、受け入れれば問題ない
んじゃないですか?﹂
言われてみればそれは名案に思えてくる。後に遺恨を残さない、
一番合理的な解決法だという気がしてきた。
﹁それはいいが⋮⋮なんで俺に聞く?﹂
﹁主将にはそこら辺の環境整備に力を振るってもらいたくてな。一
番強硬だったお前さんが考えを改めれば、男子側の意識改善には効
果絶大だろうし。俺も暇だから手伝うよ﹂
長谷川が﹁暇だから﹂の部分にやけに力を込める。冷静な表情の
裏で、やはり今回の一件には思うところがあったのだろう。
﹁⋮⋮努力するよ﹂
白石は若干目を逸らしながら言った。
﹁もちろん、やるにしても、夏の大会が終わった後になるでしょう
けどね。今いきなりこんな話持ちかけたって、そこまでして甲子園
に出たいのかって思われるのがオチですし﹂
﹁だとすると、二ヶ月くらい先になるかもしれないっすね﹂
﹁二ヶ月先って何だよ。甲子園出なきゃありえねー数字だろが﹂
高橋と三輪のやり取りを聞きながら、ありえなくはないだろうと
白石は思った。
彼女たちは、キヨミズの男子野球部に勝ったのだ。最低でも甲子
園出場くらいはしてくれなければ困る。
﹁打撃投手、ねえ﹂
285
頭を下げる大久保を見ながら、一美は少し途方に暮れた気分だっ
た。
﹁あたしなんかに関わるよりさ、自分の練習した方がいいんじゃな
いかな? 君、二年生でしょ?﹂
﹁あんた︱︱あなたの相手をするのが、一番の勉強になると思うの
で﹂
言うと、もう一度深々と頭を下げる。
﹁よっし、ただし他にも色々手伝ってもらうよ? 何せこちとら人
手が足りないんだからね﹂
﹁構わないので⋮⋮よろしくお願いします﹂
ひたすら恭順の意を示す大久保を前に、一美はやはり途方にくれ
てしまう。凶悪な顔をしたグリズリーが懐いてきたようなものだ。
昔の自分と背格好は大差ないが、今のこちらはか弱い少女であるだ
けにプレッシャーも半端でない。
﹁啓子ちゃん、ちょいと相談に乗っておくれよ﹂
頼れる少女の顔を遠くに見つけると、一美は悲鳴に似た声を上げ
た。
遠くから一美に声をかけられ、啓子はそちらに歩き出す。
﹁田村さん、今から研究所で細かい検査をしないと︱︱﹂
﹁少しだけ待ってくれないかな?﹂
啓子は矢野を遮った。九回裏の間中、ベンチから泣きそうな顔で
啓子を見守り続けていた彼女に対し、ちょっと申し訳ない気分には
なるが、今は一美を優先したい。
﹁友達が、呼んでるから﹂
はにかみながら言うと、矢野は軽く目を見開いた。
﹁⋮⋮早く用を済ませてくださいね﹂
﹁了解﹂
軽く手を振って応じると啓子は歩き出す。
ふと見上げた空は、どこまでもどこまでも広がっていた。
286
︱︱啓子さん、元気そうだ。よかった。
心なしかいつもより弾んだ足取りで歩いている啓子を遠くに見か
け、悟は安堵の吐息をついた。
﹁目立ったプレイはなしでしたけど、目立つヘマもしてませんし、
ま、小六の坊主が高校生に混じったにしてはよくやったですねー﹂
いつの間にか背後に、探していた二人が立っていた。この一件の
主催者である新聞部部長の聡美がいるのは当然だったが、その背中
に隠れるように、あまりこの場にそぐわない身体で立つ人がいる。
﹁お姉ちゃん、シャル⋮⋮﹂
﹁あの⋮⋮悟、勝手に悟の身体で外に出てごめんなさい。でも、悟
がシャルの身体でどんな風にがんばってるのか、どうしても見てみ
たくなって⋮⋮﹂
悟の身体のシャーロットが、もじもじしながらシャーロットの身
体の悟を見上げる。緊張でもしているのか、いつもの変な語尾を使
う余裕はないらしい。
﹁ううん。気にしてないから謝ることなんかないよ。シャルに見て
もらって、僕、うれしかった﹂
悟は腰をかがめてシャルに視線を合わせ、微笑みかける。だがす
ぐにため息をついた。
﹁大活躍ってわけにはいかなくて、僕の方こそごめんね﹂
﹁ううん! 悟、すごくかっこよかった!!﹂
そう言って、悟の首に抱きつくと、シャルは悟の頬にキスをした。
︱︱僕が大きな男の子でシャルが小さな女の子ならすごく似合い
のシーンなんだけど。
そんなことを考えながらも、悟は今の状態もそれほど悪くないか
なと感じていた。
︱︱何見せつけてんだよ。
ふと伸びをした視界の端に、抱き合っているシャーロットと小学
287
生くらいのガキの姿を見かけ、雪絵はとりあえず心中で毒づく。も
っとも、二人が他人に見せつける意図などないことくらいは明らか
だ。
と言うか、背の高いシャーロットと小柄な少年の抱擁をなぜかカ
ップルのそれと考えてしまった自分にむしろ呆れてしまう。そばに
新聞部の変な部長もいるし、おおかたシャーロットのホームステイ
先の子供、部長の弟なんだろう。
﹁雪絵﹂
不意に、優に声をかけられた。
﹁ちょっと考えたんだけど、ピッチャーの練習やる気はない?﹂
﹁俺が?﹂
﹁リトルリーグの頃はやってたんでしょ? 男子に勝って県大会に
出る以上、この先は梓一人じゃきついもの。肩のいい真理乃とかと
一緒に何人かで、控えピッチャーの役目も務めて欲しいんだけど⋮
⋮どう?﹂
﹁⋮⋮そんなんでいいんなら﹂
雪絵は謙虚に答えたつもりだったが、優は不満そうに頬を少し膨
らませる。
﹁積極的じゃないなあ。まずは県大会の二回戦や三回戦、雪絵たち
にお試し登板してもらうよ。そこで行けるとわかったら、梓の連投
を避けるために準決勝で先発ね。甲子園でも似たようなことをやっ
てもらうつもり﹂
﹁県の準決!? 甲子園?!﹂
﹁何驚いてるの?﹂
優は不思議そうな顔で雪絵を見つめ返す。
﹁私たち、キヨミズの男子に勝ったんだよ。もしかしたら去年より
強かったかもしれないチームに。こうなったら甲子園目指すのが当
然じゃない﹂
﹁⋮⋮それもそうか﹂
雪絵は天を仰いだ。夏至近くではあるが、さすがに日は沈み出し
288
ている。
その沈み行く方角に視線を据えて、雪絵は呟いた。
﹁大西義塾と、本当にやれるかもしれないんだな⋮⋮﹂
﹁運が良ければね﹂
優の声を聞きながら、雪絵は遠い空の彼方にいる相手に心の中で
言った。
︱︱バカだな、雪絵。俺と身体なんか取り替えなくても、こいつ
らと甲子園を目指せたのに。
厭わしかった今の立場と身体を、今日、雪絵は少しだけありがた
く思った。
今のこの自分でなければ、この仲間たちに出会うことはできなか
ったのだから。
雪絵と並んで西の空を見上げながら、優もまた大西義塾のことを
考えた。
雪絵は稲葉陽介のことを思っているのだろうが、優が思い出すの
は小林和也と篠原一実のこと。あいにく篠原は病気で姿を消してし
まったが、小林和也はこの春のセンバツでもマウンドに上り、夏春
連続の優勝投手になっていた。
もちろんあのチームには、小林以外にもすごい連中はたくさんい
る。去年の夏レギュラーだったメンバーの多くが今年も三年として
残っているし、例えば一年の稲葉だってうまく鍛えられていたら侮
れない戦力となって現れることだろう。正直、今日倒したキヨミズ
男子とて比べ物にならない圧倒的な強さを誇るはずだ。
それに引き換え、キヨミズ女子野球部ときたら、一人が故障した
らリタイアするしかない必要最小限の人数。そのうち二人は野球を
始めて二ヶ月の素人で、一人はいつドクターストップがかかっても
おかしくない体調。
両者が戦えるのは、早くても甲子園の一回戦。そこまでにはまず
県内の強豪を撃破していく必要があるし、運が悪ければ甲子園でも
289
決勝戦まで勝ち残らなければならない。
それでも。
あきらめない限りは、いつかきっと戦えるような、そんな奇妙な
実感が優にはあった。
そんなことを思ううち、少しばかり不安になる。
︱︱やばい。俺、今はちょっと、元に戻りたくない。
入れ替わりがもう一度起きて元に戻った場合に備え、優は暇を見
つけては元優である猛にキャッチャーとしての技術や知識を教え込
んでいる。けれど今日、男子野球部と試合をして、優は自分が梓た
ちとの野球を楽しんでいるのを痛感した。
このまま元に戻れなかったらという恐怖より、このまま甲子園に
挑む楽しさの方がまさりつつある。中途半端なところで元に戻りた
くはない。
︱︱九月くらいに元に戻れれば一番いいんだけど⋮⋮。
ひどく身勝手なことを、優は願っていた。
﹁小林先輩に秦先輩、何観てるんすか?﹂
稲葉陽介は︱︱正確には、陽介の身体の田口雪絵は︱︱AVルー
ムの大画面で高校野球に見入っている主将と副主将に声をかけた。
映像はビデオではなくパソコンから接続されていて、どうやらネッ
ト中継されている映像らしい。
﹁清水共栄が負けたよ﹂
小林和也は陽介に振り向くと、面白そうな顔をして言った。整っ
た端正な顔立ちながら表情は人懐っこい。
﹁へ? 県大会もう始まってましたっけ?﹂
﹁女子野球部が設立されて、校内代表決定戦をやったんだとさ。そ
こで惜敗﹂
画面をよく見れば、確かに一方のチームは女子選手しかいなかっ
た。
﹁嘘でしょ? キヨミズって、春の関東大会優勝したチームじゃな
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いっすか﹂
﹁嘘じゃないって。男子の油断もあったんだろうけど、この女子っ
てけっこういい選手が揃ってるぜ。まずピッチャー﹂
小林が言うと、傍らの秦が即座に画面を操作した。右のオーバー、
サイド、アンダー、さらに左のアンダーにトルネード。どのピッチ
ャーも大きなポニーテールが揺れているから、同一人物なのだろう。
﹁器用な子もいますね。でもそんなの目先を変えるだけじゃ︱︱﹂
﹁いやいや、球種がでたらめに多くてコントロールも完璧なんだよ。
男だったらスカウトが絶対ほっとかないような天才だな﹂
そこまで真面目な口調だった小林の声が、急に甘いものになる。
﹁まあ、とっても可愛いから野球選手なんかやらなくてもアイドル
になれそうだけど﹂
﹁小林、それは君の極めて個人的な価値判断に過ぎない﹂
ここまで無言だった秦が、合成音のように冷徹な突っ込みを入れ
る。
ちなみに陽介も、秦に内心で同意した。そのピッチャーはやたら
元気で明るい表情をしていて、可愛くないと言ったら嘘だが、だか
らと言ってアイドルになれるほど飛び抜けているとは思わない。
﹁ま、まあ、それは措くとして。バッターもすごいんだって﹂
今度は背番号5をつけたバッターが映し出される。四打数三安打
一敬遠。男子ピッチャーの投げる速球や変化球を、バッティングセ
ンターのようにポンポン打ち込んでいく。
﹁篠原みたいな奴って、女子にもいたんだなあ﹂
感慨深げに小林が言う。篠原と直接の面識はない陽介だが、テレ
ビで彼の打棒は知っていたし、彼がチームメイトからいかに高い評
価を受けていたかも日々の部活の中で知るに至った。そんな篠原を
引き合いに出すことそれ自体が、画面内の女子バッターに対する小
林の評価を示していた。
﹁他にもなかなかやるのが何人か。九回逆転のスリーベース打った
子もすごかったな﹂
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そして陽介は画面の向こうに、ツインテールをたなびかせて走る、
三ヶ月前までの自分の身体を見た。
﹁⋮⋮へえ、女子野球部に入ってたんだ﹂
﹁稲葉、知り合いか?﹂
﹁昔のライバルですよ。てっきり俺に嫉妬してふて腐れてると思っ
たんだけど﹂
﹁ほう。世間は狭いね﹂
﹁でも、こんなきっちり記録してどうするんですか? まさか有力
校の一つだなんて考えてるわけじゃないでしょう?﹂
﹁確かに、そこまではな。九人しかいない部がまともに勝ち上がれ
るとは思えない﹂
小林は肩を竦める。
﹁大会まで間があるし、暇だったからネットを覗いてただけなんだ
よ。そしたら秦がつきあってくれて、で、こいつが特技を遺憾なく
発揮してくれてる最中なのさ﹂
﹁稲葉、この程度の作業は﹃きっちり﹄とは言わない。単なる手慰
みだ﹂
情報収集・整理・分析に超人的な才能を持つ秦の言葉には重みが
ある。
﹁けれど、番狂わせはあるかもしれないぜ? そして万が一俺らと
やることになったら、このデータは重要な価値を持つはずだ﹂
﹁小林がピッチャー宇野梓の画像をブロマイドに加工して使用する
以外に、このデータが役に立つ事態が発生する可能性は極めて低い
と、僕は思う﹂
小林のそれなりに説得力ある言い訳は、秦によって瞬時に粉砕さ
れた。
その日の晩、美紀は真理乃の住むアパートを訪れた。
と、チャイムを鳴らしても真理乃の返事がない。不審に思ってド
アノブを取ると、鍵もかかっていなかった。
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中に入れば、部屋の真ん中でちゃぶ台につっぷして眠っている真
理乃。
︽真理乃にはちょいと眠ってもらった。サシで話、したかったんで
な︾
ペンダントからマリードの声が低く響く。
﹁おやおや、別にあたしにはしたい話なんかないけどね﹂
︽あの赤と黒の呪符。ありゃ密教系傍流の札だな? 魂魄移送の術
に使うやつだ︾
マリードに言われ、美紀は不覚にも顔色を変えてしまった。
︽ずいぶん前に話だけ聞いたもんだから、思い出すのが遅れちまっ
た。各々百八枚二組の札を使って、赤の札を貼った人間の魂を黒の
札を貼った人間の身体へ三時間憑依させる。けれどあの札の目的は
その先だ︾
魔神は一拍間を置くと、知られたくなかったことをしゃべり出し
た。
︽百八回目の憑依が成立した時、もう赤の人間の魂が元の身体に戻
ることはない。そのまま一生黒の身体で生きていくことになる。黒
の人間の魂が消えることはないが、身体の主導権は赤に譲ったまま
になる︾
﹁⋮⋮アラビアの魔神なら、アラビアらしくしてればいいんだよ。
何で日本のローカルな呪術まで知ってんのさ﹂
︽俺がこっちに来たのは明治だぜ? そんじょそこらの新興宗教よ
りも俺の方がよほど日本に根ざして久しいくらいさ。その程度の知
識は持ってて当然だろ?︾
マリードは即座に美紀をやり込めると、問い質してきた。
︽で、そんなもん使ってお前は何がしたいんだ?︾
ごまかしても無駄な気がしたので、美紀は本心を言うことにした。
﹁⋮⋮ジジイに長生きしてもらう。あたしの身体なら後六十年くら
いは保つからね﹂
︽⋮⋮それだけ? 本気かよ?︾
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﹁家族を大事にして悪いかい?﹂
片膝つくと、美紀はしゃべり出した。
﹁あたしの家族はもう一人しか残ってないんだよ。たった一人。父
方の祖母さんと母方の祖父さんはあたしが生まれる前に。母方の祖
母さんはあたしが物心つく前に。そして父親と母親は、あたしが物
心ついた直後に、みんないなくなっちまった﹂
︽いや、だからって、自分の人生台無しにして︱︱︾
﹁あたしの人生は父さんと母さんが死んだ時に一度台無しになって
るんだ﹂
マリードを黙らせ、美紀は続けた。
﹁昨日までいた大切な人がいない。大好きな人にもう二度と会えな
い。口でいくら言われたって、納得なんかできるもんか。だからあ
たしは必死で調べた。おかげでオカルトの類にはずいぶん詳しくな
ったよ。そして、生まれ変わりの当事者にも会った﹂
真相を見抜いた直後の、梓の素っ頓狂な顔を思い出して、美紀は
薄く笑った。
﹁その瞬間はうれしかったね。生まれ変わりがあるんなら、父さん
や母さんにもまた会えるって思った。どんな子になってるかな、と
か、あたしが二人より年上なんて変なの、とか、色々想像したもん
だよ﹂
だがしばらくすれば、幻滅がすぐにやって来た。
﹁でも一人だけだ。ずいぶんたくさんの人に出会ってきたのに、生
まれ変わりを自覚しているのは一人だけ﹂
黙るマリードに、美紀はまくし立てた。
﹁つまり、生まれ変わったら昔の記憶はたいていの場合失われちま
うってことだよ。それじゃ他人と大差ない﹂
そして辿り着いた結論。偏神堂を見つけてからは、そこで入手で
きるアイテムを上手に使いこなして目的を達しようとしてきた。
﹁だからあたしは、残ったたった一人の家族とずっと一緒に生きて
いくんだ。どんな手を使ってでもね﹂
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心の中に澱のように淀んでいたものを吐き出し終えると、大きく
息を吐いた。
マリードもじっと黙りこくっていたが、やがて口を開いた。
︽⋮⋮ま、赤の他人の俺が何を言うのも無粋だわな。止めはしねえ
よ。ただし絶対に手伝うようなこともしないがな︾
﹁それで充分すぎるさ。ありがとう﹂
予想外に恵まれた展開に、美紀は心底感謝した。しかし慌てて付
け足す。
﹁真理乃には言わないでおくれよ。この子がこういう話聞かされて、
平静でいられるとは思えない﹂
︽言わねえよ。お前さんの妨害になるってわかりきってるからな︾
そしてマリードは別のことを訊いてきた。
︽で、これまで何枚使ってきた?︾
﹁今日でちょうど半分の五十四枚目。もう二ヶ月ほどで使いきる計
算だね﹂
真理乃が目を覚ますと、美紀がお茶を淹れていた。
﹁寝てたんで、悪いけど勝手に上がらせてもらったよ。ついでにお
茶も頂戴した﹂
﹁え、あの、ご、ごめんなさいっ!!﹂
慌てて起き上がった真理乃を、美紀は手で制する。
﹁まあいいから。あ、マリードの用件はもう済んだから。あたしは
これを飲み終わったら帰らせてもらうよ﹂
﹁そ、そんな⋮⋮あ、これ、どうぞ!﹂
真理乃は咄嗟に台所へ走ると、冷凍庫の中から昨夜作ってみたア
イスクリームを出してみた。
最初はマリードに言われて渋々始めた料理やお菓子作りだったが、
これも﹃理想の女性像﹄ゆえか、次第に作るのが楽しくなってきた。
今美紀に出したのは、シンプルだが濃厚な味のバニラアイス。
﹁なかなかおいしいね。お茶請けにはどうかと思うけど﹂
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﹁あ、ごめんなさい!!﹂
﹁いや、たまには悪くないさ。あ、これコンビニで買って来たから﹂
美紀が差し出す袋には、真理乃の好きなお菓子が詰まっている。
部活帰りの会話などで真理乃が言ったことを覚えていたのだろう。
アイスを食べながら、しばらくおしゃべりした。美紀は物知りで
頭がいいから、話をするといつも驚かされてばかりだ。真理乃だっ
て、バカじゃないはずなんだけど。
︱︱楽しいな。
女の子になって、性格まで変えられて、最初の頃はどうなるもの
かと思ったけれど、それでもいつの間にか今の生活に慣れ親しんで
いる。すっかり女の子の暮らしに順応するのは怖いけど、どうせ卒
業まで元に戻れないのなら、こうして前向きに楽しむのも悪くない
かと思えるようになってきた。
と、そこで、いつもならやかましい声がとんと聞こえないことに
気づいた。
﹁マリード、何黙ってるの?﹂
︽うるせえな。俺様は今、女であることにすっかり順応してるお前
をどうやって辱めてやろうか、頭脳をフル回転させて考えていると
ころなんだよ︾
﹁じゅ、順応なんかしてないもん!﹂
陽が沈み始め宵闇が辺りを包む中、弥生は女子野球部の練習場で
バットを振っていた。修平がセットしたピッチングマシーンから吐
き出される球をがんがん打っていく。
﹁弥生ちゃん、そろそろ終わりにしない?﹂
﹁⋮⋮もう十球﹂
﹁試合に勝ったんだから、今日ぐらいいいじゃないの。他のみんな
はもう帰って休んでるのに﹂
﹁下手な奴が努力しないでどうすんだよ。俺は一美さんや雪絵とは
わけが違うんだから、こういう時に差を詰めるしかねえだろうが﹂
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﹁⋮⋮わかったわよ﹂
結局その後二十球を打ち込み、弥生はバットを置いた。
﹁はい、タオル﹂
﹁お、サンキュ﹂
修平から渡されたタオルでごしごしと顔を拭く。するとタオル越
しに修平のため息。
﹁弥生ちゃん、いつになったら女の子らしくなるのよ? 猫はかぶ
り続けてるけど、いつまで経っても人目のないところだと男の子み
たいにがさつで⋮⋮﹂
﹁お前こそ、いつになったら男らしくなるんだ? 俺が男言葉使っ
てるの聞かれても洒落で済むけど、お前の女言葉は﹃修平﹄の嗜好
を疑われかねないんだからな?﹂
﹁しかたないでしょ。使う気になれないんだから﹂
﹁俺も同じだっての。⋮⋮六年前は、自然に言葉遣いが変わってい
ったんだけどなあ﹂
﹁あたしたち、思春期も過ぎて人格が完成しちゃったとか?﹂
﹁かもな﹂
顔を見合わせ、深いため息。
﹁ま、いいんじゃないか? どっちか片方だけ変化がないのは問題
だけど、どっちも変わらない分には﹂
﹁それは、そうだけど⋮⋮﹂
﹁難しい顔するなって﹂
弥生はそう言うと、修平に近寄った。
相手の身体を抱き寄せ、唇と唇を重ねる。幸い照明は逆光になっ
ていたので、キスしているのが数ヶ月前までの自分の顔であること
は、いつもより意識せずに済んだ。
さすがにその先に進む気には、まだなれないけれど。
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新しいプロローグ
﹁人、多いね﹂
周囲を見渡して言った梓に弥生が応じた。
﹁百五十校が参加するという話ですもの。神奈川や大阪ほどではな
いにせよ、試合数の多さは半端じゃありませんわ﹂
男子野球部との試合から一週間後の六月二十二日。県庁所在地の
文化センター。
来月の上旬から始まる県大会予選の組み合わせ抽選会場に、梓た
ち清水共栄女子野球部員一同は到着したところだった。
﹁にしても女子はやっぱ少ないね。うちらずいぶん目立ってるんで
ないかな?﹂
一美の言う通り女子生徒の姿は少なくて、目に入るのはひたすら
男、男、男。
全員が女子な上に、百五十センチのちびっ子だの金髪碧眼の留学
生だので構成された梓たちの集団はやたらと注目を集めていた。も
ちろん、男子野球部を倒したという情報も、すでに多くの人が知っ
ているだろう。
春季関東大会の県予選で優勝した清水共栄は、本来ならAシード
が決定していた。だがそれは男子野球部の成し遂げたことであり、
女子野球部としてはシード権を辞退、ノーシードで一回戦から戦う
ことになる。
会場内に入ってホールの座席に腰を下ろせば、周囲には様々な高
校の制服がずらり。名前を聞けば梓もよく知っている高校ばかり。
﹁あの⋮⋮向こうっ側からわたしたちを睨んでるの、どこの高校⋮
⋮?﹂
﹁河出商業ね。去年と一昨年、決勝で甲子園行きを逃してる県北の
名門校﹂
真理乃に優が解説している横では、シャーロットと転校生の一美
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相手に弥生と雪絵が知識を披露し合っている。
﹁あそこにいるのが岩波一高ですわね。県立の進学校ですけれど、
去年の夏は県大会ベスト4まで進出して話題になりましたわ﹂
﹁あの白いブレザーは、扶桑大一枝。一昨年の春、センバツに出て
る﹂
そんな会話に囲まれていると、次第に梓は心躍ってきた。不安と
期待が交錯し、鼓動がどんどん高まっていく。
︱︱戦いが、始まる。
敗者は容赦なく退場させられ、勝ち残った者は休む間もなく次の
戦いを強いられる、死力を尽くした闘争。全国で四千以上のチーム
が覇を競い、たった一つの真紅の旗を目指して、繰り広げられる死
闘。
三十数年ぶりに味わうそれへの期待に、梓は酔いそうになった。
悪酔いとばかりは言えない。心のどこかでずっとこれを待ち望ん
でいたのだから。
セレモニーが終わり、いよいよ抽選開始。
﹁さ、行ってらっしゃい、キャプテン﹂
梓に振り向いて、弥生が笑う。
﹁恥ずかしいからやめてよ、くじ引きで決まったことなのに⋮⋮﹂
立ち上がりながら、梓は唇を尖らせる。最上級生の啓子も一美も
キャプテンになるのを敬遠し、九人全員でくじを引いたのだ。
﹁あたしは、くじ引きの神様も妥当な判断をするもんだと思ったけ
どね﹂
美紀の言葉に優や啓子が微笑んで肯く。
﹁ほら、愚痴は後で聞いたげるから、行ってきな﹂
﹁はーい﹂
梓が座席横の段差を降りて行こうすると、一美が声をかけてきた。
﹁楽しい相手、引いてきてよ!﹂
﹁はい!﹂
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元気に答え、梓は舞台へと駆けて行った。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n9363bk/
清水共栄女子野球部、始動!
2014年3月8日03時22分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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