野心家と淫魔 - タテ書き小説ネット

野心家と淫魔
秋水
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
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︻小説タイトル︼
野心家と淫魔
︻Nコード︼
N4051BR
︻作者名︼
秋水
︻あらすじ︼
※ノクターンから移転してきました。よろしくお願いします。
騎士か、傭兵か?
騎士道か、野心か?
1
中世のロマンと近代の合理主義が交錯する異世界に迷い混んだ青年
は、その身を麗しい女性に変えて一人の男を助ける。それは悲惨と
喜びが複雑に絡み合う世界での、長い旅の始まりだった。
男の論理で
時代の過渡期にあって逞しく生きる人々と、騎士と傭兵の狭間で懊
悩する男達。騎士道とは時代遅れの概念なのか?
支配された世界で、女達は何を思うか?
架空の近世を舞台にした傭兵もののファンタジー。
2
死は身近に︵前書き︶
移転してきました。こちらでもよろしくお願いします。
3
死は身近に
1
音楽が好きだった。
生まれつき両脚が動かない彼にとって、音楽は大きな癒しであり、
生き甲斐だった。裕福とは言えずとも貧しくもない家庭が幸いし、
これまでの17年間、彼は音楽に不自由したことはない。クラシッ
クのコンサートにロックミュージシャンのライブ。ジャズのセッシ
ョンに、安物とはいえ自分だけのヴァイオリンと、教師。
周囲は萎えて動かない脚を不憫がったが、そもそも生まれつき動
かないのが普通なのだから、さほど不幸とは思わずに彼は音楽に耽
溺し続ける。
だが、その日々も今や幕を下ろそうとしていた。
︵ここまでか︶
朦朧とする意識の中で彼はふとそう思った。四肢は動かない。元
より動かない脚は別として、腕にも力は入らないし、首も動かせな
い。それどころか、地力では呼吸もできないのが今の彼だ。
生来の異常は脚のみではない。10歳まで生きることも叶わない
と宣告された業病が、七年遅れて彼を蝕んでいた。
︵ようやく、とも言えるかな︶
死は生まれたときから身近にあった。恐らくは同年代の誰よりも
死と言うものを考えてきた自覚がある。だから、死ぬのは怖くない。
4
何故ならそれは必然に過ぎないのだから。寧ろ多額の医療費の負担
を両親にかけ続ける日々がようやく終わると、安心感すら覚える。
︵心残りなのは⋮⋮︶
今も涙を流し続ける優しい両親の心に大きな傷をつけてしまうこ
と。産まれてきたことそれ自身で大きな負い目を背負わせたと思っ
ている彼は今までの人生でできる限り親孝行であろうと努めたが、
最後の最後で結局は最大の親不孝をしてしまうことになる。
︵泣かなくていいのに︶
彼の主観では、彼は十分幸せだった。不本意な死とは思わない。
頭のどこを探しても、感謝の言葉意外は見つかりそうもなかった。
︵願わくば、新しい、健全な子供が生まれますように︶
それだけ祈って、彼は微笑みながらこの世に別れを告げた。
5
転移︵前書き︶
少しの間短い話が続きます。
6
転移
胡蝶の夢という話がある。夢の中で蝶になって飛んでいた男が、
覚めてから今の自分がもしや蝶の夢なのではないか、と思う話だ。
長い病院暮らしの中で空想を巡らせる事が多かった少年は窓の外
を可憐に飛ぶ蝶を見るたび、その話を思い出して、夢の彼方の自分
を想像した。別段、自分を不幸と思ってのことではない。だが現状
に不満がないわけではない。ただの退屈しのぎ、現実からの軽い逃
避に過ぎない、誰でもやっていそうなことだ。第一不幸と思っては
両親に無礼だと少年は固く信じていた。
死を迎えた精神が眠りにつくように消滅しようとする刹那の時、
少年の魂はひらひらと舞う蝶を見つけていた。蝶は少年の周囲を弄
ぶように飛び回り、輝く燐粉を浮かべながら舞う。その姿は儚くも
気高く、高貴でありながらどこか淫靡ですらあった。
︵ばかにしているのか︶
苛立ちを覚える。少年は未練なくこの世を去ったと思っており、
死に際は彼なりに精一杯の尊厳を保った末のものだったという自負
がある。胡蝶の悪戯な舞いは、まるで少年の小さな誇りと満足をと
るに足らないことのように嘲笑っているように見えた。
︵死んだ身の人間をなぶるか。神でも悪魔でも許さんぞ︶
どのみち死んでいる。何を恐れる事もない。少年は蝶を捕らえよ
うと周囲をかき回し、おいでおいでと誘うようにひらひらと舞う蝶
に更に怒り、躍起になって追い回す。そして、その手が蝶に触れた
7
瞬間。
意識が、消滅した。
8
冷静と情熱の間で
1
最初に感じたのは渇き。飢えよりもなお強烈で、暴力的なまでの、
渇き。
︵⋮⋮が、飲みたい︶
衝動は本能から絶え間なく発し、神経を灼き切らんばかりに責め
立て、下腹部の疼きは狂おしいほど。頭をハンマーで殴打するよう
にガンガンと欲望が埋め尽くす。渇きを、癒せ、と。生まれてはじ
めて経験するほどの渇望が、﹃彼女﹄を覚醒させた。
﹁五月蝿い! 黙れ!﹂
この渇望は自分のものではない、その直感が理不尽への怒りに彼
女を導き、狂おしい渇望から解き放った。苛立つ彼女は力一杯地面
を叩き、怒鳴り散らす。だが、
﹁なっ!?﹂
拳を叩きつけた地面は陥没し、周囲に地割れが走る。怒鳴り声も
聞きなれた自分のものとは全く異なる、可憐で透き通るようなもの
だ。男の声とは、とても思えない。
﹁死後に見る夢⋮⋮? いや、あの世か? にしてもこれは⋮⋮!﹂
趣味が悪い、と一人ごちる。慌てて視線を体に向ければ、そこに
9
あるのは豊満な体つきを申し訳程度の薄布で包んだだけの、女の身
体だ。傍らを流れる川に姿を映せば、銀髪緋眼の愛らしくも淫靡な
美女の姿。だが頭から二本突き出た曲がった角は、その身が人外の
身であることを雄弁に主張していた。
﹁夜魔⋮⋮か? これも胡蝶の夢なのか。しかしこれは⋮⋮これは
⋮⋮﹂
とても出歩けたものではない、と激しい羞恥を覚えた。一般的な
家庭に生まれ育ち、病室と学校と家ぐらいしか世界のない彼女にと
って、このような布切れに等しい格好は許容できるものではない。
まして、身体は自分のものではないという意識が強いのだから。
何か隠せるものを、と周囲を探るが、見渡す限り鬱蒼とした森が
広がるのみで、木の枝か木葉ぐらいしか調達できそうにない。仕方
なく彼女はなるべく自分の姿を視界に入れないようにしながらその
場に座り込む。
︵⋮⋮なにがなんだかわからんが、命は繋がったわけか。にしても
これからどうしたものか⋮⋮︶
状況は不明点だらけ。姿は女、それも、まともな女とは思えない。
或いは超常の力でも備えてるのかも知れないが、それを知るすべは
ない。思わずため息をついたところで、
﹁こっちか? さっき大きな音がしたのは﹂
松明の光と、複数の男たちの声が聞こえた。
10
︵ッ!︶
反射的に身を隠し、息を潜める。不明事項が多すぎる上、悪魔の
ような角に男好きのする身体。人を見た安心感よりも、警戒心が先
に立った。光源の見え方からしてまだ距離は遠い。声が聞こえたの
は優れた聴覚によるものだろう。少なくとも五感は並みの人間より
は優れているのではないか、と彼女は思った。
月も差さない夜のこと。男たちはうろうろと歩き回っているだけ
だ。今なら、密かに歩いて逃げることも⋮⋮
︵歩く?︶
どうやって歩くのだろうか。車椅子でしか動けなかった彼女は歩
くという感覚がわからない。歩け、と念じても、正常そのものに見
える脚はぴくりとも動かない。背中に羽も生えているが、飛ぶとな
ると更に難しいだろう。人間の背に羽はないのだから。車椅子もな
い今、這うしか彼女に逃げる手段は残されていなかった。
︵捕まれば何をされるかわかったものでは⋮⋮︶
まともに動けない美女を、夜間に大勢の男が取り囲んだときに何
が起きるか、わからないわけがなかった。自分の想像に身震いした、
そのあと。
耐え難い渇望が、突如として身を灼いた。
2
渇く。
11
とにかく、喉が渇く。
狂おしく喉は潤されることを望み、本能は身体を責め立てる。一
秒たりとて我慢はできない。今すぐに渇きを癒せと言う命令が、最
緊急のものとして発せられる。身体は熱く火照り、気が狂いそうな
程だ。堪らず川から水をすくい一息に飲み干すが、渇きは一向に収
まらない。
いや、本当は知っているのだ。この渇きを癒すのに、何が必要な
のか。
舌なめずりして松明の灯りを見つめる。緋色に光るその眼は正気
ではない。闇夜でも紅い月のように光るその眼は、捕食者のものだ。
立ち上がり、歩く。
歩けないなどとなぜ思ったのか。歩けなければ獲物を追い詰める
こともできないというのに。それに何故身を隠そうと思ったのか、
今となっては全く彼女には理解できない。こんなに飢え渇いている
のに、わざわざ獲物から逃げるなど、冗談ではない。
どこかで、今の自分が自分ではないという違和感があったが、今
はどうでもよかった。とにかく、渇きをどうにかしなければならな
いし、そのための手段もあるのだから。
﹁な、なんだ!? なんなんだ、この香りは!?﹂
﹁魔術か!? 吸うな! 正気を保てなくな⋮⋮あがっ!﹂
多少は知恵の回るものもいたようだが無駄なことだ。徐々に近付
12
く恐怖と焦燥の声を楽しみながら、彼女は彼らの無駄な努力に寧ろ
微笑ましさすら感じていた。我が身すら灼く渇望から、夜魔として
彼女が放つ淫靡な香りは身体の至るところから人を犯す。吸わない
程度でどうにかなるものではないのだ。案の定、彼女がゆっくりと
足を進め、たどり着いた時には、男たちは全員が倒れ伏していた。
数は5人ほど。何れも甲冑を身につけ、刀剣の類いで武装してい
る。歳は20代から30代か、甲冑の着こなしから即席の兵ではな
く、ある程度は熟練を積んだ者達だと推察されたが、今はいきりた
つ自分の逸物を抑え、苦しげに口を開閉するより能がない。鍛えた
筋肉も、積み上げた技も無意味な、男としての無様さを晒すより他
はなかった。
︵いただきます︶
取り落としたらしい松明の火が延焼しないよう砂を蹴りかけて消
火すると、辺り一面は完全な闇が支配した。それと同時に、彼女の
食事が始まる。
﹁や、やめろ。やめてくれ⋮⋮!﹂
首筋に牙を突き立て、徐々に貫く。溢れる血を舐めとる舌は傷口
を優しく撫で、啜る唇は甘く愛撫する。絶大な快楽が男に与えられ
ているのだろう。男のズボンが刺激臭のする体液で濡れた。射精し
たらしい。だが痛みもなく身体の活力が失われる感覚に男は恐怖す
る。その恐怖がなおのこと彼女に美味な食事を与えるとも知らずに。
︵すぐに死なせては勿体ない︶
闇夜の中、緋色の眼だけが輝き、喉を鳴らす音、血を舐める音だ
13
けが響く。吸血された男は徐々に声を発することもできないほどに
衰弱し、身動きもできないまま自分の番を待つ残りの4人は、まる
で殺されるのを待つ家畜のように恐怖を倍加させた。
︵散々になぶってこそ、食事の価値も上がるのだから︶
雑な食事は獲物に無礼と考えた彼女は絶命寸前にまで男を追いや
ると、生死の境目で男の命を弄んだ。生気を失い、乾いていく肌と
は引き換えに股間からは止めどなく熱い精液が迸り、逸物は冗談の
ように隆起している。どれくらいなぶりものにしたか。ついに発狂
して笑みを浮かべ出した辺りで彼女は男に飽きて、速やかにその心
臓を貫いた。 3
男逹をぼろ雑巾同様の姿に変えた後、彼女は正気に返った。
物言わぬ死骸と化した男逹はミイラのように干からびており、た
だ逸物だけが異常に肥大してそそりたっている。人間としての尊厳
を完全に破壊された姿だ。例え親族でもこんな醜い死骸は引き取る
まい。そんな風に彼女は思った。
︵違う︶
ぎり、と奥歯を噛む。
︵私の意思じゃない。こんなことをするつもりはなかったんだ︶
無意識に殺す、という言葉を避けている事に気付き、その欺瞞に
自己嫌悪する。言い訳ならいくらでも出来る。先ほどの衝動は自分
14
本来のものではない、自分はそもそも歩き方すら知らない。人を襲
い犯すなど考えたこともないのだから、これは自分がやったことで
はない。だが、どう言い繕おうと目の前で干からびた死骸と、反対
に満たされた飢えと渇きは誤魔化せない。殺したのだ、他ならぬ自
分が。それも、愉悦と共に。その自覚が生まれると同時に喉の奥か
ら吐き気がこみ上げ、その場に戻した。
︵今後は空腹や渇きを感じる度にこれと付き合わなければならない
のか⋮⋮︶
身震いする。その都度人を殺さなければならないとしたら、間違
いなく悪魔の類いだろう。この場で自殺するのが一番なのではない
か、と思い、震える手で剣を手に取る。生存のためとはいえ、元は
人間だ。元より生きることにそれほど執着のなかった身なのだから。
そう言い聞かせながら喉に切っ先をあてがい、一思いに突こうとし
て、
︵⋮⋮嫌だ︶
恐怖がそれを押し止めた。
︵身勝手でも、まだ死にたくない。ついさっき死んだのに、もう死
ななければならないなんて。私は一体何のために生まれたんだ⋮⋮
?︶
死は怖くない、と思っていたつい先ほどの事がずいぶん前の事に
思える。今やみっともなくも生に執着する自分を彼女は自嘲した。
これからなんとか出来るかもしれない。それまでは命を保留にさせ
てくれ。そんな考えすら浮かび、達観した方だと思っていた自分自
身の醜さに嫌気がさす。
15
﹁許してくれとは言わない﹂
死骸に向けて敢えて冷たくいい放つ。埋めてやりたいとは思った
が、シャベルの類いがない状態では5人分の墓穴を掘るのは困難だ
った。
﹁魂があるのなら存分に恨め﹂
どうせ化け物なのだから、自分もろくな死に方をすることはない
だろう。そうあるべきだ。そう思って踵を返したところでその優れ
た聴覚が、今にも消え入りそうなか細い呼吸の音を拾った。
︵まだ、生きている人間が⋮⋮!︶
弾かれたように駆ける。正気を失っている間に歩く、という動作
を覚えたらしい神経は、今や走ることも可能としていた。元は健康
な両足である。﹃補給﹄も済ませたためか、驚くほど軽やかに両足
は動く。
︵間に合え、間に合え︶
呼吸は徐々に弱々しくなっており、まるで虫の息だ。放置すれば
確実に死んでしまうだろう。焦る彼女は無意識に背の羽を動かして
おり、自分でも気付かないうちに短距離の滑空を繰り返していた。
人外そのものの速度で走る彼女は数分と経たずして地面に倒れ伏す
男を発見する。
︵息はまだある⋮⋮! 間に合ったか︶
16
男は旅装に簡易な甲冑を身にまとい、若干の血に塗れた長剣を抜
き身で持っている。状況的に先程の男逹に追われていたのだろうか。
肩口に裂傷があるらしく、外套の切れ端で止血を行っているものの、
かなりの出血の痕がみられる。背丈は彼女より二回りほど高いが、
肩幅は広く筋肉はバランスよくついており、鍛えられた戦士である
ことが伺えた。
﹁お迎えか⋮⋮命乞いは無意味だろうな﹂
怪我に加えて淫気による侵食も受けているのだろう。だが黒い瞳
は恐れることなく緋色の瞳を睨み付け、尊厳を失うことはない。黒
髪で飾られた容貌は整っていながらも野性味を感じさせる。歴戦の
戦士、という言葉が自然と彼女の脳裏に浮かぶ。
﹁悪魔が本当にいたとは驚きだが、こんな美人が相手なら悪くない
⋮⋮やれよ。どうせ助からん﹂
口調とは裏腹に瞳は力を失っていない。その証拠に男は剣を手放
さず、目をそらさずに睨み付ける。油断すれば斬られる。そう確信
させる何かが男からは感じられた。言葉は油断を誘うものに過ぎな
いのだろう。とはいえ、元から彼女は男を殺すつもりなどない。
﹁剣を離せ。確かに今、人を殺めてきたが、お前をどうこうするつ
もりはない﹂
男の表情に不審が浮かぶが、委細構わず彼女は続けた。
﹁信用できないのは理解している。だがこのままでお前は確実に助
からん。⋮⋮私のためだ、救われてくれ﹂
17
﹁⋮⋮悪魔が人助けか。これは面白い冗談だな﹂
皮肉げに男は返すが、その手は剣を離している。委ねた、という
よりは選択の余地がないからだろう。どうにでもしてみろと言わん
ばかりに近場の樹にもたれ掛かる。
﹁生まれたてでな、悪魔のいろはも知らんのだ。だが何せ生まれた
てだ。救えるかどうかは保証しない。分のわるい賭けだと思え﹂
軽口で応じつつ近付く。だが何故か救えるはずだという確信があ
った。人を殺めることが出来るのなら、生かすこととて出来るはず、
そう思って、
﹁運任せか、それも悪くはねぇな。こちとら勝負運の強さには自信
が⋮⋮!?﹂
唇を奪った。
﹁⋮⋮ッ﹂
男の表情が驚愕に変わる。魂を持っていく気か、そう思ったのだ
ろう。片手が剣を探るが彼女はその手を制止する。
︵さっきの感覚の逆を行け︶
生命力をつぎ込む感覚、奪うのではなく渡すように、無論やった
ことなどなかったが、予想以上にうまくいったようだ。内から活力
が消える一方、男の肌には赤みが増し、心臓の鼓動は早くなる。
︵成功か。しかし一応初めてのキスになるわけだが、男とか⋮⋮︶
18
自嘲するが、一方で満足感を覚えていた。少なくともこの男は救
える、と。
︵不思議だ、今こいつに刺し殺されても構わない気がする︶
自殺する勇気はないが、最低限人を救うことが出来た。そう思い
ながら寂しげに微笑むと、彼女は唇を離し、男から外套を脱がせて
羽織る。
﹁命の代金だ。貰っていくぞ。こんななりでは表を歩けんし、町に
も入れんからな。もう会うこともないだろうが、折角救った命だ、
精々息災でいてくれ﹂
外套のフードを目深に被り、角と身体を隠すと、呆然と見送る男
を後にして彼女はその場を去った。
人間社会に溶け込む困難さを思いつつも、人を一人助けたという
事実が、少しだけ足取りを軽くしているのを感じながら。
19
入門
1
森を出ると街道に出た。
踏み固められた地面に、馬車が行き来するためとおぼしき轍の跡
は人間世界への道標のようにも見え、人里をどう探したものかと不
安でいた彼女を安堵させたものの、遮るものが乏しく、身を隠すも
のにも不足する街道は、別の意味で彼女に不安をもたらした。
︵何せ、まともな身ではない︶
男はまさか悪魔が本当にいたとは、と言っていた。迷信やお伽噺
の中の住人と半ば信じられているのならば、そうそう見破られる事
もないとは思うが、外套で頭から足元まですっぽり覆った姿という
のも中々異様である。治安状態もまた心配だった。帯剣した男逹が
森をうろつく世界である。一人歩いていて無事ですむかどうかは怪
しい。
︵日中の移動は避けるか⋮⋮︶
別な問題として、果たして太陽光をこの身は受け付けるのかとい
うものもある。見た目は妖しい淫魔だが、能力は吸血鬼に近い。日
光を浴びて灰に、という可能性も捨てきれない以上、移動は夜間に
限り、日中は物陰に身を隠すのが正解のように思えた。幸いにして
夜眼は利き、体力もある。5人分も吸い取ったためか、暫くは食事
も要らないという確信もあった。
20
︵とはいえ、日中にまるで何もできないというのは行動に支障を来
しすぎるな。この身体で何が出来て何が出来ないのか、確かめる必
要はあるな⋮⋮だが、それよりも目下の問題は︶
外套をはだけ、全裸も同然の我が身を心底情けない目で見て彼女
は嘆息した。
﹁こんな格好で歩けるか。まともな服が要る﹂
まるで痴女同様の姿をどうにかすること、それが急務だと確信し
つつ、夜が明けるまで彼女は街道に沿って歩いた。
街道に沿って歩き始めてから数日。彼女はようやく街を見つけた。
元いた日本の街とは比べ物にならないが、それなりに大きな街なの
だろう。大きな城壁に囲まれた街の周辺には大勢の隊商が馬車を連
ね、夜明けの開門を待ってキャンプを張っている。あの中に入れれ
ば、と思いつつも入ってしまえば否応なしに誰かと接せざるを得な
いことがわかっているために、彼女は慎重にならざるを得ない。情
報収集は物陰に身を潜めながらでも優れた聴覚が果たしてくれるし、
隠形を得意とするらしい身体はその気になれば苦もなく一切の気配
を遮断し、物陰ひとつで誰の目にも触れないように身を隠すことが
可能だ。身体能力の優越というだけでは説明のつかないこの現象か
ら、彼女は五感にせよ気配遮断にせよ、何か魔術的な補正が働いて
いるのではないかと思うようになっていた。
21
︵流石に何の遮蔽もないところに一人ぽつんと立てば見つかるだろ
うが⋮⋮どうやらこの街は商業を重視する都合上、入門に税を払わ
ずともいいようだな。ならば私でも入れるかもしれない。とにかく
朝を待つか︶
日中、意を決して太陽光に僅かずつ身を晒したところ、意外にも
何の異常もなく終わった。ただし夜間や影のある場所に比べれば若
干身体の動きが鈍り、五感の働きも低下したため、やはり基本的に
は夜道を行くものなのだと彼女は確信する。
︵それにしても服だ、なんでもいいからまともな服が欲しい。この
際女物でも文句は言わんから⋮⋮︶
結局道すがら、彼女は衣服の調達に失敗していた。いい加減、精
神的に追い詰められていた彼女は隊商から密かに盗むか、さもなく
ば淫気で昏倒させて強奪するかを本気で検討したのだが、結局のと
ころ人間としてのモラルを人間でなくなったために却って意識して
しまい、ここまで外套の下はほぼ全裸という間抜けな格好で来てし
まった。人前に彼女が出ないのはそれが原因でもある。
︵とにかく服だ、服⋮⋮明日からは街に入るのにこれは恥ずかしい。
今日中に何とかしなくては⋮⋮︶
彼女は隊商逹が寝静まるのを待ってから動きだし、どこかに捨て
られた服でもないかと、自分でも無駄とわかっている努力を始めた。
︵どうにもならなかった⋮⋮︶
22
呆然としつつもうどうにでもなれと彼女は隊商に紛れて足を進め
る。混ざってみてわかったが気配の遮断は無理でも薄める程度は可
能なようで、あからさまに不審な格好をした彼女に視線をやるもの
は一人もいない。門番が一応は一人一人改めてはいるが、商業を重
視するがゆえに人の往来には垣根を設けない街柄なのだろう。職務
への士気が低く、彼女もあっさり通れた。
︵とはいえ、世にも恥ずかしい格好で大勢の人間のいるところを歩
いているのは確かなわけで⋮⋮露出狂か私は︶
遠い目で自嘲する。元々街を探したのに理由はあまりない。ただ、
農村などよりは街の方が密かに溶け込むのに適しているだろうし、
何かしら食い扶持を稼ぐ手も︵尋常の食事で済むのかという問題は
さておき︶あるだろうと思ってきたのだが、狭い路地いっぱいに人
が溢れるなかを半裸に外套で歩くという体験をしてみると、もしか
して自分はとんでもないバカなのではないかという気がしてきた。
︵とにかく金だ。服屋くらいあるだろう⋮⋮なんとか稼いで服を買
おう︶
遺体をこれ以上辱しめる事に耐えきれず、追い剥ぎをしなかった
事を、彼女は今激しく後悔していた。剣の一本でも持ってきていれ
ば、売ることもできたろうに、と。
︵後悔先に立たずだ。何はともあれ街にはついた。なんとかせねば
⋮⋮︶
最悪の場合娼婦という手があるのだが、それだけはなにがあって
も絶対にごめん被りたい、と身震いしつつ、彼女は街を歩き回った。
23
2
音楽を愛好していた彼女は、ヨーロッパの歴史にもある程度精通
している。その知識を元にこの世界の文化レベルを推察したところ、
ルネサンス期あたりではないかと当たりをつけていた。
無論、細部は異なる。例えばこの世界には魔術が存在し、日常生
活に浸透して社会の一部となっており、街を歩き回っている間に彼
女は馬もなしに進む馬車や、火打石もなく煙管に火をつける男を見
ている。だがそれらは限定的な使用に止まり、社会の根幹を形成す
るほどではないらしく、結果として文化レベルは近世ヨーロッパに
類似したものに止まっていた。
︵馬車を一時的に引くことは出来ても、長時間引くのは無理という
ところか。魔術というには余りにささやかだが、もっと強力な魔術
の使い手もやはりいるのだろうか?︶
少なくとも自分の使う、魔術としか言い様のない能力はかなり強
力だ。鍛えられた5人の男を瞬時に戦闘不能に陥れ、ゆっくりと惨
殺するだけの間、効果を発揮したのだから。そこまで考えて彼女は
数日前の光景を思いだし、かぶりを振る。
︵⋮⋮ともかく、このぐらいの文化レベルなら、街道は予想通り安
全とは言えないだろう。何処かに護衛の仕事を扱っている、冒険者
ギルドのようなところがあればいいのだが⋮⋮︶
ギルドとは言わなくとも、斡旋所のような所はないか。そう思っ
て探したところ、果たして彼女はそれを見つけた。彼女の想像では
雑然とした何でも屋であり、路地裏にでもあるのだろうと思ってい
たのだが、実際には官庁らしきものが林立する街の一等地に存在し、
24
役人と思われる者逹が忙しなく動き回る、公共施設だった。
︵文字が読めねば気付かなかったな。識字力があるとわかったのは
大きな収穫というべきか︶
興味深げに建物を眺めていると、仕事を終えたらしい役人が彼女
に近づいた。
﹁驚いたでしょう。バイステリの斡旋所は統領府から大きな支援を
受けていますからね。余所とは力の入れ方が違います﹂
隠形を忘れていたことに内心彼女は慌てたが、田舎からやってき
たおのぼりさんか何かだと思われたようで、役人は構わずに喋り続
ける。
﹁巡礼の方なら、街道に盗賊一人でなかったのに気付かれましたか
?バイステリは商業で持っている街ですからね。街道整備と安全の
確保は街の生命線ですから、定期的に行っているのです。お陰でこ
の街の周辺はどこよりも安全だという評判が立って、連日人の往来
が絶えないという訳なんです。王都にだって負けませんよ﹂
自慢げに語る役人の言葉に、彼女は得心する。街道の安全確保が
公共事業の一環なら、冒険者ギルドのような個人営業の組織に任せ
るはずもない。この分ならうまく仕事にありつけるかもしれない。
そう思いながら役人の街自慢を一通り聞いたあと、彼女は切り出し
た。
﹁実は道中で置き引きにあって、路銀を全てとられてしまいました。
今日泊まる宿もなく、頼れる伝もない地の事、なにかお仕事を紹介
していただけると嬉しいのですが﹂
25
﹁なんと、それはお気の毒に⋮⋮﹂
役人は目を丸くして同情する。街に誇りを持つだけあって使命感
は確かなようで、鞄からノートを取り出すと、パラパラとめくり始
める。
﹁今ですとアンツィオに向かう隊商団の護衛ですね。護衛といって
コンド
も飯炊きや洗濯係も募集⋮⋮というよりは傭兵団を臨時に編成する
ッティエーレ
形になりますから、そういった枠も当然ありますし、この街の契約
レノス
傭兵隊長アルフォンソ隊長の指揮下なんで、隊の規律も保証します。
隊長の直属兵も出ますしね。お嬢さんがもし教皇都市にいく予定な
ら、アンツィオはまさに中継都市ですから、ちょうどいいと思いま
すよ?﹂
いくつか彼女の知らない言葉が出てきたものの、問題のない仕事
であることはわかった。前金がでるかどうかは怪しいが、そこは交
渉するしかないだろう。衣服の調達は目下の急務であった。
﹁身元保証人がいらっしゃらないようですから、旅券を拝見させて
頂いても宜しいですか?すぐにでも斡旋しますよ﹂
笑顔でそう告げる役人に、彼女は自分の浅はかな企てが音を立て
て崩れるのを感じた。
﹁旅券、ですか⋮⋮﹂
﹁はい、旅券、或いは巡礼証ですね。ご領主様か、司教様から頂い
たものを拝見させて頂いても宜しいですか?﹂
26
甘かった。平民の移動や職業選択に大きな制限があろうことは予
想してしかるべきだった。冷や汗を浮かべつつ、彼女は事態をどう
処理すべきかぐるぐると考えた。
農民の逃散は領主にとって最も恐るべきであり、それを防止する
ために旅行に制限をつけるのはどこの国でもかつてはやったことで
ある。商人にも見えない、修行に来た職人でもない、ぼろの外套を
纏った女一人とあらば、巡礼者としか見なしようがなく、旅券の提
示を求められたのは当然と言える。門でも提示を求められていたの
だが、気配を消す能力のお陰で彼女はそれに気づかなかった。
﹁⋮⋮どうされました? まさか、旅券がない、とか⋮⋮﹂
不審の色が役人の表情に加わる。言い繕いようがない。なくした
と言うべきかとも思ったが、不審さがなお増すだろう。最低でも取
り調べられるだろうし、そうなれば扇情的な衣服と頭の角が露にな
る。
︵使うまいとは思っていたが、背に腹は代えられない⋮⋮!︶
魔女狩り、露出、処刑、半裸と二重三重に追いつめられた彼女は
ついに禁を破る決意をした。
︵淫気で昏倒させてうやむやにするしか⋮⋮!︶
加減がわからないために、下手をすれば行政府が集中するとおぼ
しきここ一角を完全に汚染し、大騒動になるのは目に見えていたが、
最早形振り構うべきではないと彼女は決意していた。死ぬことより
も半裸の痴女が外套一枚で街を徘徊していたと思われるのが凄まじ
い屈辱であり、それが彼女をして凶行に走らせる。命までは取らん。
そこでちょっとやばいぐらい悶えていろ。役人が声を荒げかけたそ
27
の時、
﹁アラエル、探したぞ!﹂
数日前に聞いた声が、背後からした。
28
再会
1
この世界に来て数日で、探すような知己もなければアラエルとい
う名前にも心当たりのない彼女は、当然の事ながら呼び掛けを自分
トラウマ
の事とは思わずに無視し、商業都市の中核に決して癒えることのな
い心理的外傷を刻むべく努力していたが、声の主はそんな彼女にお
構い無く役人と彼女の間に割って入る。
﹁俺が悪かった。心を入れ換えて働くから、そうつんけんするなよ﹂
﹁なんの話だ、私はお前など⋮⋮﹂
知らぬ、と言いかけて驚愕に目を見開く。声に聞き覚えがあるの
も当然だ。二回りほど高い背丈、ぼさぼさの黒髪に恐れを知らない
強い意思を感じさせる黒い瞳は、転移したその日に救った男に相違
なかった。二度と会うこともないだろうと決めつけて救命目的とは
いえ接吻までした相手に不意に遭遇した驚きとバツの悪さから、彼
女は思わず絶句し、顔を赤らめて戸惑う。それをいいことに男はど
んどん話を進めた。
﹁役人さん。見ての通り、こいつは俺の家内なんだ。いいとこのお
嬢様なんだが、嫁ぎ先の俺が爵位なしの三男騎士だったのが運のつ
きでね。働きもせずフラフラしてるのを見かねて巡礼に出ちまった
ってわけなんだ。しっかり者だが世間知らずでね。見逃してくれな
いか?﹂
勝手に家内扱いされた彼女は抗議も忘れて口を開閉させるのみだ
29
が、流石に彼女とて好き好んで街の真ん中で凶悪極まりない淫気を
散布したいわけではない。男の意図は汲めたのでとりあえずは何も
言わず任せたが、視線を合わせた瞬間、任せておけ、と若干得意気
な表情をされたのが癪に触ったため、踵で男の足の爪先当たりを思
い切り踏んでやった。
﹁ぐおっ⋮⋮何故⋮⋮﹂
﹁奥様、もうその辺りで⋮⋮騎士様も反省なさっておられるようで
すし﹂
そのやり取りが彼女にとっては心底腹立たしいことに、微笑まし
く映ったのだろう。役人は警戒を解き、くすくすと悪意ない笑みを
浮かべている。
﹁知らぬこととはいえ、貴族の方に無礼を働いてしまいました。申
し訳ありません。それで、お仕事の斡旋はどうしましょうか?﹂
﹁情けない話だが貧乏騎士の悲しさだ。俺も路銀を切らせている。
傭兵の口があれば家内共々噛ませて欲しいんだが、どうかな? 騎
士の修行にもなる﹂
﹁それでしたら先程奥様にも申し上げましたが、アンツィオ行きの
定期護衛隊が募集中ですね。安全な仕事で騎士様には物足りないと
コンドッティエーレ
思われるかもしれませんが、行軍中の気配りや警戒や偵察など、学
べるものも大きいのですよ。何よりこの街の契約傭兵隊長アルフォ
ンソ隊長と、実戦経験豊富な直属兵も参加しますから、参考になる
はすです。貴族の方ですと、お手数ですが紋章局までお越し頂けま
すか? 紋章官が照会を終えましたら、問題なくお仕事を斡旋でき
ます﹂
30
﹁仮成立ってところだな。それじゃあ、俺はこいつに怒られなきゃ
ならんから、少ししてから行くことにするよ﹂
頭を掻きながら苦笑いする男に役人は親しみを覚えたのだろう。
あまり辛く当たってはいけませんよと彼女に告げて雑踏の中へと消
えていった。後にはにこやかに手を振る男と、無表情のまま静かに
怒る彼女が残される。
﹁⋮⋮あー⋮⋮言いたいことは色々あるだろう⋮⋮がっ!?﹂
彼女は物も言わずに男の耳を摘まむと、一切遠慮せずに引っ張り
ながら進み、人気がない路地裏まで来ると、壁面に叩き付けた。そ
の光景は一瞬人目を引いたものの、痴話喧嘩とでも思われたのだろ
う。注意を払う者はいなかった。それが尚更腹立たしい。
﹁ご推察の通り危機にあったのは確かだし、助けてもらったのは感
謝しているが、それとこれとは話が別だ。私はお前の妻になった覚
えはない。大体なんだ、アラエルとは﹂
痛むらしい耳を押さえつつ、頭一つ分下から猛烈な勢いで詰問す
る彼女に、男はやれやれ、といった様子で答える。
﹁心配しなくても妻だなんて思っちゃいねぇよ。ただ俺の命の代金
が外套一枚って言うのはどうも気に食わなくてな。残りの借りを返
すために近場で立ち寄りそうな所で張ってたら、案の定追い詰めら
れてるところにでくわしただけだ。名前も特に意味はない。旦那が
嫁の名前を知らないのは変だろ?﹂
う、と彼女は口ごもる。手詰まりの上追い詰められていたのは事
31
実であり、短いやりとりの中で、男が彼女の行動パターンと陥るト
ラブルをかなり正確に予測していた事に驚いたのだ。
﹁案外義理堅いのだな⋮⋮相手は悪魔だぞ。お前の前に5人殺して
いる﹂
﹁察しがついてるのかどうか知らんが、ありゃ刺客だ。俺も色々訳
ありでね。お前がやらなきゃ俺が殺してた﹂
致命傷を負っていたくせに、よく言う。とも思ったが、表情を見
て呆れた。どうやら本気でそう思っているらしい。なにがあろうと
自分は生き延びる。そういう確信がこの男にはあるらしい。
﹁で、どうする? こちとら腐っても騎士でね。恩は返したい。生
まれたてだっていうなら世間知らずは本当の事だろ? 少しは助け
になるさ。まぁ、信頼できないって言うならそれは尤もだけどな﹂
考えるまでもない、とは言いたくなかったが、実際彼女には余り
選択の余地がなかった。男に頼らずとも恐らく生きてはいけるだろ
うが、それは夜な夜な人を襲う悪魔としての生だろう。自分の素性
を知り、なおかつ味方してくれるこの世界の人間が今の彼女には絶
対に必要だった。人の中で、生きていたいのならば。
﹁⋮⋮交渉成立だ。あれは私個人の自己満足のようなものだから礼
を言われる筋合いでもないが、非常に難儀しているのも事実だ。遠
慮なく利用させてもらう﹂
﹁女に頼られるのは男の甲斐性みたいなもんだ。俺はエーリヒ。エ
ーリヒ・シュトレンだ。お前の本当の名前は?﹂
32
名前を答えようとして彼女はふと躊躇した。日本にいたころの名
前はこの世界では恐らく馴染みなく相当に奇異であり、況してや男
名である。そして彼女自身男の自分が女の振りをしていると言うこ
とを認めたくなかったため、この身体と、本物の自分と言うものは
切り離しておきたかった。
﹁⋮⋮アラエルでいい。生まれたてだ。名前がないのだから⋮⋮そ
れと、世話になるに当たって、心得て欲しい事がひとつある。それ
から、それとは別に、今すぐ叶えてほしい要望がある﹂
エーリヒは若干面食らいながらもその先を促した。
﹁まず、理解しがたいと思うが、私自身の性自認は男だと言うこと。
見た目ではなく中身で判断しろよ、くれぐれもな! それと、もう
一つは⋮⋮﹂
アラエルはここ数日の怨念をたっぷり込めて吐き出した。
﹁私に、まともな服を買え!﹂
2
﹁実のところ資金には余裕があるから買おうと思えば何でも買える
が⋮⋮まともな服か。女物なんぞ俺は知らんぞ﹂
﹁私だって知るものか。気付いたらこの姿に生まれてこの格好だっ
たんだ!﹂
アラエルとエーリヒは服屋を探して街をさ迷っていた。アラエル
は根気よく自分が本来は男であることを説明した上で男物の服を希
33
望したが、あっさり断られたため、已む無く女物を探している。
﹁着るもの一つ自ままにならんとは⋮⋮!﹂
﹁そうは言ってもお前、服装統制なんて今に始まった事じゃねぇぞ。
俺だって流石にどうかと思うしな﹂
身分に応じて着用できる服装には規定が存在し、例外はあれど比
較的厳格に守られているのがこの世界であり、男女の服装統制は更
に強固で、女が男物など着た日には殆ど異常者扱いされるだろうと
説得されてしまえば是非もなくアラエルは諦めざるを得ない。目立
つのはとにかく避けなければならないのだから。
﹁新品の上物も扱ってるところもあるみたいだな。俺達じゃ場違い
だが、流石は商業都市バイステリと言ったところか。どうする、こ
う見えて資金に余裕はあるぞ﹂
﹁中古で構わん。代わりに着回せるように何着か頼む。お洒落した
いわけではないんだ﹂
衣類は基本的に上の身分、ないしは金持ちの着古しを下の身分の
ものが購入していく形であり、一般庶民や下級貴族の服装というの
は中古が殆どであり、エーリヒ自身も中古を着ていると言う。
﹁俺としては洒落た格好をしてくれて構わないのだがな﹂
皮肉げに笑うエーリヒの耳をアラエルは摘まみ、口許まで引き下
げた。
﹁私は男だ!﹂
34
見た目完全に女じゃ仕方ないだろとこぼしつつ、エーリヒは両手
を挙げて降参を示す。憤然としながらアラエルは近くの中古品店の
戸を潜り、ずかずかと入る。意識的にがに股をやっているその姿は、
アラエル自身滑稽で不自然極まるとすら思っていた。
﹁何でもいいから適当に上から下まで見繕ってくれ!﹂
自棄っぱちな宣言から、生まれて初めてアラエルは女装すること
になった。
3
滑り出しこそ怪訝な顔をされたものの、買い物は順調にいった。
貞操観念が強く、露出に厳しい時代なのだろう。上流階級の色落
ち品と見られる肌着やワンピースは何れも襟が高く首を覆い、スカ
ート部も足元まですっぽりと覆うほど長かった。装飾は乏しい実用
品ではあるが、僅かに襟元にレースの透かしが入っており、素朴な
がら上品な印象を与える。現代社会の技巧と計算を凝らした服に慣
れたアラエルにはその素朴さが心地好く映った。
現代衣装との大きな違いはゴムのあるなしで、伸縮性が乏しいた
めにワンピースにはベルト代わりの腰紐が、靴下には靴下のずり落
ちを防止するためのベルトが付属しており、着用は簡素な見た目ほ
ど簡単と言うわけでもない。
︵⋮⋮これはいわゆるガーターベルトと言うものなのではないのだ
ろうか⋮⋮︶
ゴムの普及した現代社会では廃れ、半ば好事家向けの下着と化し
35
たガーターも、この世界では現役である。当初を思えば随分とまと
もな格好をしているはずなのだが、アラエルはやはり大きな違和感
を感じていた。スカートの中を覗かれたら殺すか死ぬかしよう、そ
う決意するぐらいには。
﹁問題は角か⋮⋮﹂
小さいとはいえ、あからさまに角である。側頭部から二本、山羊
に似た曲がった角が生えている。流石に大きな問題であり、見とが
められれば火炙りもあり得る。帽子でも被るかと思うが、常に被る
わけにもいかない。仮に帽子で頭を隠しつつ、さてどうしたものか
と四苦八苦していたところ、エーリヒがやってきた。
﹁買い物が長いな。やはり女にとって衣服選びは格別なのか?﹂
﹁長くない! 私は男だと言っている!﹂
自分の買い物時間は長かったのか。必要最低限の選別しかせず、
アラエル自身は我ながら順調だと思っていただけに、不本意であり
また戦慄を覚える。身体に引きずられて精神まで女性化したのでは
ないかと思うと頭を抱えたくなった。
﹁まぁ、俺はあまり買い物をすることもないからな。それはそうと、
お前の角隠しだが、こういうものを見つけた。男の俺の見立てだか
らいいかどうかは知らんが、付けてみないか?﹂
そういってエーリヒが取り出したのは花をあしらった紅い二つの
リボンだった。髪留めとしては大きい。ヘッドドレスやコサージュ
といっていいだろう。角を隠すにはなるほど、十分で不自然のない
デザインと言えた。
36
﹁悪くないな。今ちょうどどうしたものかと悩んでいたところだ。
⋮⋮買い物が長くなったのはそのせいであって、衣服選びに時間を
かけていたわけではないぞ。勘違いするな﹂
﹁何を言ってるんだお前は? いいから付けてみろよ﹂
言い訳がましくなっていたことに気付いて顔をしかめつつ、アラ
エルはリボンを角を隠すように結ぶ。鏡に我が身を映そうとそっぽ
を向いたが、この世界に鏡はなく、磨き上げた銅板が代わりを果た
すのみであったため、アラエルは客観的な意見を知りたくなった。
﹁どうだ、隠れたか?﹂
振り向き問う。瞬間、エーリヒが目を丸くして息を飲むのがわか
った。
﹁エーリヒ?﹂
返事なく、何かぶつぶつと言うだけのエーリヒにアラエルは不審
がる。隠れていなかったか。なにか別の手を考えねばならないか。
﹁エーリヒ、外套の下がまともになったのだ。角の方はフードでい
いだろう﹂
﹁いやまて、よく似合っているから取るな﹂
見当違いの事を言うエーリヒにアラエルは僅かに苛立つ。
﹁似合う似合わぬは問題ではない。角が隠れるかどうかが問題なの
37
だ。くれぐれも言っておくが、衣服の美醜など私には興味など⋮⋮﹂
﹁いや、隠れている。相当近くまで寄らないとわからんだろうし、
装飾品だと思われるだろう。だからそのまま付けておけ﹂
﹁そう言うことならまぁ、構わぬが⋮⋮﹂
妙に必死のエーリヒを不思議がりつつアラエルはその場を後にし
たが、数分もしない間にエーリヒの言葉に疑いを感じるようになっ
た。
﹁おいエーリヒ、視線を感じるぞ。明らかに見られている。お前私
を謀ったのか﹂
エーリヒは天を仰いで嘆息する。必死だと言うのにそんな反応し
か返さないエーリヒの耳をアラエルは摘まみにかかったが、いい加
減慣れたのか、するりとかわされた。
﹁まともな格好にフードを下ろせば、そりゃあこうなるよ。まぁ俺
としちゃ悪い気はしないが、中身がこうも堅物ではなぁ﹂
そのあと宿に着くまでアラエルは周囲の視線に対して挙動不審に
なり、エーリヒはそんな彼女をニヤニヤと眺めていた。
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使用画像はOMCで発注したものです。
絵師様はちとせみどり様です。
38
中央広場にて
1
世界には三つの軍がある。
一つは最も伝統的で、戦時には主力を勤める封建騎士軍であり、
戦争のプロフェッショナルとしてもう何世紀にも渡ってその価値を
示し、今なお主力として各国軍の基幹を担う。攻守に秀で、高度な
軍事的知識を持ち、戦闘訓練を幼い頃より継続して続けるが故に基
礎体力からして平民とは雲泥の差があるが、動員には数多の制約が
あり、数を揃えるのも、遠征するのも困難である。
二つ目は制度上の問題で騎士に動員をかけることができない自由
都市や共和国が編成する市民軍で、平時には職人や商人として働く
市民達に軍事教練を施し、有事に際して動員をかけることで主とし
て防衛戦に用いられる。平時にはランニングコストを支払うことも
ないために、最も安価な兵力として機能する一方、戦死者がそのま
ま都市生活への打撃に繋がると言う欠点を持つ。
三つ目は義務や名誉のためではなく、金のために戦う傭兵軍であ
り、主力は主として食いつめた平民によって成る。しかし没落貴族
や領地を継ぐことのできない貴族の次男三男が武名を稼いで身を立
てるために傭兵稼業に身を投じるケースも珍しくはなく、その実力
は騎士軍にも劣らない。騎士軍よりも動員が容易で、市民軍よりも
消耗を許容することのできる彼らは、使い勝手のよい兵力として各
国で用いられている。
都市国家バイステリ市と契約を交わしたアルフォンソもまた、そ
39
のような傭兵隊長であった。
﹁隊長、隊長、起きてください。いい加減時間ですよ﹂
天蓋つきベッドのクッションの山に埋もれたような豪奢な金髪の
男に向かって筋骨隆々の傭兵が呼び掛ける。聞こえているはずなの
だが、ベッドの主は無反応のままクッションに身を埋めるばかりだ。
﹁隊長、アルフォンソ隊長。今日は護衛隊の結成式ですよ。起きて
ください﹂
﹁うるさいですねぇ。結成式は昼の2時からじゃないですか﹂
アルフォンソはようやく身を起こし、物憂げに傭兵を睨む。まだ
若い。30も半ばにはなっていないだろう。髪を整えれば貴族的と
言える容姿をしていたが、寝癖だらけではだらしないという印象以
外を与えることはなかった。
﹁隊長、ところがもう1時半です。昨日はあちこちはしご酒で、寝
たのは朝の6時じゃないですか﹂
﹁めんどくさいですねぇ。誰が定期護衛隊なんて考えたのやら。私
でしたか﹂
アルフォンソと彼の率いる傭兵隊、﹃白衣団﹄がバイステリ市と
40
契約を交わしてからもう3年になる。50名ほどの白衣団は常備戦
力として常に街の治安維持や街道護衛に当たっており、ここまで大
過なく任を全うして市民からの信用も厚いが、一方で無駄飯ぐらい
の傭兵隊を叩き出せと言う論調もあり、アルフォンソとしては存在
意義を示すためにも有事平時の区別なく役に立てるところを示さね
ばならない。アルフォンソはバイステリに何ら愛着はないが、市か
ら支払われる給料にはそれなりに愛着があるのだ。
﹁それじゃあまぁ、ぱっぱと済ませますか﹂
眠い目をこすり、大あくびをするその姿は歴戦の傭兵隊長には見
えないが、戦時には配下の50名を核心として数百の傭兵を集め、
千を越える人間を指揮する。都市国家同士の小競り合いで彼がバイ
ステリを勝利に導いた事も多々あり、今や名誉市民として破格の待
遇を受けていた。野心家、成り上がりと彼を批判する声も市参事会
にはあったが、彼自身の興味はずいぶん前から保身へと振れており、
市政に関与する気もなく淡々と依頼されたことをこなすことだけを
考えている。
バイステリに限らず、都市国家乱立のエルヴン半島にはこうした
コンドッタ
したた
職業軍人としての傭兵隊長が多数おり、それぞれが都市国家と自在
に契約を交わして強かに立ち回っている。
コンドッティエーレ
人は、彼らを契約傭兵隊長と呼んだ。
2
﹁こう言うと物凄く無礼だが、エーリヒ、お前は紳士なのだな﹂
41
真剣そのものな眼差しのアラエルにエーリヒは心底情けなさそう
な表情になった。
﹁本当に無礼だなおい。俺は獣か何かか﹂
﹁いや、感心しているのだ。今の私の立場は高くない。お前に色々
と頼らざるを得ないのだが、そこにいささかも漬け込まないお前の
人格は賛嘆に値するかも知れぬ﹂
エーリヒは更にげっそりする。
﹁命の恩を仇で返す趣味はねぇよ﹂
二人が再会してから一日が過ぎた。宿に一泊する折り、アラエル
は当然相部屋であろうと予測し、別段それに不満もなかったのだが、
エーリヒは強引に別々の部屋を取り、安宿とはいえアラエルは久々
に暖かい毛布と安眠できる環境でぐっすりと眠ることが出来た。
﹁まぁ半分は冗談だが、私は別に構わなかったのだぞ。中身は男だ。
宿泊の度にお前に二倍の宿代を支払わせるのも問題だしな。以後は
相部屋で構わん﹂
﹁俺が構うんだよ!﹂
宿を引き払い、護衛隊の結成式に参加するべく街の中央広場へと
歩を進める二人は相変わらず注目を引いている。今やアラエルも自
分の見た目が標準以上であることを認識してはいたが、時折感じる
好色な視線は初めて経験するものであり、耐え難いものがあった。
そういった視線から目をそらすためにアラエルはエーリヒをうんざ
りさせることに精魂を注ぐ。
42
︵⋮⋮まぁ、うんざりしているのも半ばは演技だろうな。わざわざ
私を相手に﹃負けて﹄くれているのだろう︶
無表情にからかいつつそう思う。境遇は概ね話した。今後人を殺
す可能性があることも。同情や慰めの言葉はなかったが、恐らくは
可能な限り優しくあろうとしているのだろう。会話に際してエーリ
ヒは敢えて負けてアラエルを立てているように見えた。
︵私は幸運だな。いい男ではないか。私が女なら惚れていたかもな︶
返せるものと言えば自分の体ぐらいしかないアラエルはそこを申
し訳なく思う。早く自立せねば重荷となるだろう。悪魔を連れ歩く
ことにメリットがあるとも彼女には到底思えない。今回の護衛には
付き合ってもらうが、なんとか今回限りで負担を掛けるのも終わら
せねば。そう思いつつ歩いていると、いつの間にか無言になってい
たらしい。怪訝な表情のエーリヒが顔を覗き込んできた。
﹁急に黙りこくってどうした? 俺はここで別れるけど、一人で広
場まで行けるか?﹂
﹁あ、あぁ。ふと考え事をな。済まない、聞いていなかった。広場
までは行けるが、お前は何処に行くんだ?﹂
或いは変な表情を見られていたか。そう危惧するアラエルを余所
にエーリヒは気にした様子もなく話す。
﹁ここの鍛冶屋に甲冑の仕立て直しを頼んでいてな。馬も預けてい
るのがあるから、少しそっちに行ってから広場に行くことにする。
時間には間に合わせるから、悪いけど待っててくれ﹂
43
結成式は装備の具合も見られる。傭兵隊の装備は基本的に全て自
弁であるから、上等な装備をしたものには支払われる給料にも差が
出るのだ。騎士であり、鎧兜を持つエーリヒは隊のなかでは恐らく
は高給取りだろう。
﹁了解した。しかし森のなかで会ったときは馬も鎧もなかったよう
だが、いつの間に用意したのだ?﹂
﹁鎧は戦利品でね。サイズに合ってなかったんで、この街の鍛冶屋
に預けてたのを引き取りにいく道中だったんだよ。馬は軍馬と駄馬
で使い分けていてな。お前と会う前に使っていた駄馬はやられたが、
預けていた軍馬は健在だ﹂
騎士というのも手間と金がかかる商売だとアラエルは嘆息する。
思えば馬にしても戦場で求められる性質と、平時に求められる性質
は全く違うため、一頭いればいいと言うものでもない。鎧兜とて平
時に持ち歩くには重く、嵩張りすぎる。資金に余裕があるとは言っ
ていたが、この分ではどこまで本当かわからない。アラエルは改め
て自立せねばと思いつつ、一人広場へと向かった。
3
広場は喧騒に包まれていた。
募兵数は50、そこに街の常備戦力である白衣団から10。計6
0の傭兵が護衛を務めることになるが、そこに飯炊きや洗濯、荷物
運びなどの支援要員が混じって、約100人。これら支援要員は概
ね傭兵達の縁者で構成されると言う。
44
この100人が50ほどの馬車と、40人の商人を一週間ほどか
けて南の街アンツィオまで護衛するのが、アラエルとエーリヒの請
けた仕事である。見物の市民も含めれば広場は数百の人間が集中し
ており、かなりの賑わいを見せている。
︵街の人口はどの程度だろうか? そう広くもない街だし、恐らく
は10、いや5万以下か? しかしこの世界ではこの街は都会に分
類されるようだ。護衛の傭兵60というのはさて多いのか少ないの
か⋮⋮︶
人混みを眺めながらエーリヒがくるまでどう暇を潰したものか、
と考えていたところ、傭兵隊の女達がアラエルに気づいた。
﹁おやまぁ、あなたが噂の別嬪さんかい。ほんとにまぁ、綺麗なも
んだねぇ﹂
その声につられて周囲からの視線が集中する。アラエルは苦笑い
するしかない。
﹁こんなに育ちの良さそうな別嬪さんが、わたしらに混じって炊事
洗濯とはねぇ。あんた器量よしなのに男を見る目はなかったねぇ。
馴れ初めはどうだったんだい。あんたみたいな箱入りはやっぱり悪
い男に惹かれちまうのかい﹂
どうやらダメ亭主に愛想を尽かして巡礼に出た女と言うことで噂
になっていたらしい。一応は貴族の奥方という設定のはずだが、下
級貴族は貴族視されないのか、女達は容赦なくアラエルを質問攻め
にする。中には若い女もいるが、大抵はアラエルより二回りは歳上
だろうか。どこか慣れている印象を受けたアラエルは、彼女たちも
45
また何度もこういった仕事を経験してきたのだろう、と推察した。
﹁あぁいえ、その、あれの妻というのは言葉の綾で、まだ祝言は挙
げていないと申しますか、その﹂
なし崩し的に妻扱いされてもお互い困るだろうと考えたアラエル
は、ただの恋人と言うことで誤魔化そうとする。どうせ後々別れる
のだ。後腐れは少ない方がいい。妻というのは重すぎるだろう。だ
が、その発言は却って危うかった。
﹁結婚してないのかい! そりゃあんた遊ばれてるよ!﹂
﹁そうそう! 悪いことは言わないから好い人を探しなって!﹂
口さがない彼女らにとってアラエルは絶好のオモチャなのだろう。
自分達の想像に確たる証拠を得たとばかりはしゃぐ。勝手に騙され
た女に仕立てあげられたアラエルは内心憤慨した。
︵まだ一日だが、いい加減な男とは思えぬのに⋮⋮︶
この世界で唯一頼れる男の陰口を目の前で好き放題に言われては、
穏やかではいられない。反論すべくアラエルは口を開こうとするが、
それは却って火に油を注ぐことになると思い直し、曖昧に微笑みそ
の場を去ろうとする。その時、
﹁待ってください。今の話は本当ですか﹂
幼さを残す青年の声がアラエルを引き留めた。見ればいかにも騎
士然とした紅顔の若武者が緊張した面持ちでアラエルに熱の籠った
視線を注いでいる。その意味するところを理解できないアラエルで
46
はなかったが、不躾な、としか思うことはなかった。
結成式を前に精一杯固めたであろうその姿は、なかなか立派な甲
冑に比して今一つ貧弱な体つきのせいでどこか滑稽さが漂い、頼り
ない雰囲気を出している。甲冑は恐らくサイズに合っていないだろ
う。動きにもぎこちなさが感じ取れる。鎧を着て動くのに慣れてい
ないのだ。歳は恐らくエーリヒよりもアラエルよりも下か。育ちの
良さそうな上流貴族といった印象をアラエルは受けた。
﹁北の王国アデルバード、ラシュトー伯アントンが息子、騎士トリ
スです。今の話が本当なら僕にはその男が許せない。どうかそんな
男とは別れて、僕の愛を捧げさせて頂けませんか。率直に申し上げ
ます。一目見て、あなたに恋してしまった﹂
青年にとっては一世一代の告白であり、それなりに感動的だった
のだろう。周囲は沸き立ったが、アラエルは氷点下にまで冷めきっ
ている。義憤に誤魔化して人の女を奪おうとする性根が気に食わな
かったし、何より青年が自分の行為に対して﹃いいことをしている﹄
と信じて疑っていないのが苛立った。
︵事を荒立ててはエーリヒがここで仕事をしづらくなると思い黙っ
ていたが、そろそろ腹が立ってきたな︶
こっぴどく振ってやろう。そう思った矢先、大きな影がアラエル
を覆った。
﹁よう、待たせたな﹂
振り向いた瞬間、乗馬したエーリヒの姿にアラエルのみならず周
囲全てが息を飲んだ。
47
軍馬はこれが馬なのかと思うほどに大きく、何より足が太い。発
達した筋肉は馬用の甲冑に覆われ、ただでさえ感じる威圧感が増し
ている。素人目にもこれが名馬ということはすぐにわかった。
乗り手も馬に負けていない。
ランス
銀色のフルプレートは装着者の体型にぴたりとはまり、腰に剣を
佩き、騎士の象徴である騎士槍をランスレストに載せたその姿は正
しく威風堂々。赤い飾り緒は雄々しく風に揺れ、まるで難攻不落の
城が人という形をとって現れたかのような威厳を醸し出している。
その姿に女達は自然と口をつぐみ、若い女などは頬を染めて見つめ
ている。物語から出でたような重装の騎士が、そこにいた。
︵これは、認めざるを得ないか︶
周囲の反応に僅かに溜飲を下げつつ、アラエルは心ひそかに白旗
を上げる。
﹁見事な男振りだな、エーリヒ﹂
敗けをみとめる
全く、これはシャポーを脱ぐしかない。その思いを込めてそう言
うと、芝居がかったしぐさで大仰に頷くと、エーリヒはしたり顔で
返した。
﹁惚れ直したか﹂
﹁ばかめ﹂
惚れてしまいそうだった、などとは絶対に漏らすまい。そう思い
48
ながらアラエルは広場の中央へと足を進めた。
結成式はもう始まろうとしている。
49
傭兵隊にて
1
こいつも案外若いのだな、とアラエルは横目でエーリヒを見なが
ら思う。
丁重にアラエルを扱い、指一本触れないまま会話でも常に立てる
ところから、内面はかなり老成した人間だとアラエルは思っていた
が、一方で事前に何も言わずに見事な男ぶりを不意に見せつけ、企
てが上手くいったと見るや得意げに﹃惚れ直したか?﹄である。そ
れもタイミングが小憎らしい。同じ騎士の少年に口説かれていたま
さにその時に出てくるのだから。どうしても対比してしまう。して
やられたという感はあるが、一方でどこかその意地の張り方が微笑
ましい。
﹁持っていかれると思ったか? まぁ、毛並みは向こうのほうが上
のように見えたが﹂
口の端を吊り上げて皮肉げに笑いつつそう言ってみると、果たし
て若干不満げな反応が返ってきた。
﹁傭兵隊に入ってきている時点で、どんだけ毛並みがよくても文無
しの部屋住み次男三男だろ。貴族の次男以下は教会に放り込まれる
か、軍人として声望を稼いで仕官するか、さもなきゃ遍歴の騎士だ。
いまどき遍歴の騎士なんてロマンチックでもなんでもないんだから、
大抵の穀潰しは傭兵隊で成り上がるしかないんだよ﹂
持っていかれると思ったか、という質問には答えないところが尚
50
更アラエルの笑いを誘う。なんだよ、と抗議するエーリヒを尻目に
しかたないが、こいつは本質的なところでやは
アラエルはくすくすと笑った。
ゆえ
︵見た目がこう故
り私を男と思っていないか。それはちと不本意だが、気持ちは理解
できるかもな。私が様々な意味で出来損ないの女ではなく、普通の
女であればよかったのだが︶
死ぬ勇気がない以上は生きていかねばならないが、誰かと共に人
生を送ることはできないだろう。若干の寂寥感を感じつつ、振り切
るように話題を転換する。
﹁お前もそうなのか? 軍馬も甲冑も預けていたということは、元
からここで軍務に就く予定だったのだろう?﹂
そういえば刺客にも追われていたが、どういう事情があるのか、
そこにも興味があったが、踏み込みすぎるのは無礼でありまた不要
と思ったアラエルはそこまでは問わない。だが隠すほどのことでは
なかったのか、聞いてもいないのにあっさりとエーリヒは回答を口
にした。
﹁ああ、妾腹の生まれでね。正室から嫡男が生まれたんで手切れ金
だけ渡してお払い箱だ。仕方ないから領地を継ぐのは諦めて傭兵仕
事をしてたんだが、嫡男側の人間が俺の存在を邪魔に思って刺客を
差し向けてきやがるんだ。そのつもりもないのに迷惑な話だ﹂
そんなわけで生きていくためには傭兵しかないってわけさ、と肩
を竦めるエーリヒに悲劇ぶったところは一切ない。寧ろ重荷がとれ
てせいせいしたという感情すらそこには伺えた。
51
コンドッティーエレ
﹁アルフォンソ隊長も元は貧乏貴族の次男だが、一介の傭兵から身
を起こして今やこの街の契約傭兵隊長だ。中には小国の君主になっ
た傭兵だっているし、俺もその例に倣おうとしてるってわけさ﹂
俗っぽいだろ? と言いながら皮肉な笑みを浮かべる。自慢でき
るような目的ではないと思っているのだろう。若干のバツの悪さが
表情から伺えた。
﹁私には馴染みがない世界なのでなんとも言えぬが、男子として一
国一城を目指すことが悪いとは思えないな。寧ろ何故お前がそこに
妙な後ろめたさを覚えているのかがわからぬ﹂
﹁そういう表情をしていたのか?﹂
そういうとエーリヒは暫く押し黙り、やがて顔を上げると、まぁ
俺にも色々あるのさ、とだけ告げた。
﹁それよりも遅いな。アルフォンソ隊長がそろそろ出てくるはずな
んだが﹂
広場には白衣団がずらりと並び、指揮官の到着を待ち構えている
というのに定時を過ぎても一向に主役は現れない。気の短い傭兵達
はガヤガヤと騒ぎ、いらだち始めた。
﹁案外、寝坊しているのかもな﹂
﹁ねぇよ。街の契約傭兵隊長だぜ﹂
と、その時。不意に質の異なるざわめきが起こり、空気が変わっ
たことに気づいた二人は白衣団の方を見る。果たして、金髪碧眼の
52
優男がのろのろと広場に用意された高台に上っていくところだった。
﹁噂をすれば影、か。若いな、あれがアルフォンソ隊長とやらか﹂
﹁だろうな。俺も見るのは初めてだが、10年かそこらの間に上り
詰めた出世頭って話だぜ﹂
高台に上ったアルフォンソは鬱陶しげな目で傭兵達を見下ろし、
気だるげに首を振る。どうも傭兵隊長らしくないな、というのがア
ラエルの感想だった。
﹁あー⋮⋮バイステリ市の契約傭兵隊長アルフォンソです。ここに
集まった皆さんの中には何度もこの護衛に参加されてる方もいらっ
しゃると思うので、色んな挨拶は省かせてもらいますが、とりあえ
ず一つだけ﹂
心底うんざりした、という表情でアルフォンソは続ける。
﹁この仕事は護衛という大義名分もさることながら、市にとって失
業者対策と言う一面もあります。仕事を求めて流入した方々は都市
にとっての不穏分子と化す可能性があるので、こうやって傭兵の口
を常に紹介しているのです。市参事会の中にはそのままついでに戦
死してくれればさっぱりするという声もあり、私自身も虎の子であ
る白衣団を温存するため、皆さんを最も危険な箇所に投入する気で
す。それが嫌なら今からでも契約を取り消して尻尾を巻いて実家に
帰るか、もう少しマシな職場を探してください。以上です﹂
言うだけ言って投げやりに高台を降りたアルフォンソに、その場
に集まった傭兵達は一様に沈黙する。アラエルなどは開いた口が塞
がらない思いだった。
53
﹁⋮⋮なんとまぁ、建前というのを用いない御仁なのだな﹂
﹁まぁ実際言うとおりなんだけどな。どこの街でも傭兵隊は嫌われ
者だ﹂
もっと不満が渦巻くと思えたが、いつもの事なのだろう。やがて
広場は再び喧騒を取り戻し、募兵官の前で給料交渉に入る列があち
こちにでき始めていた。
﹁しかしお前、常雇いの白衣団と臨時雇いの傭兵隊とは区別されて
いるようだが、どうやって栄達する気だ?﹂
﹁無論、白衣団への入団を希望するんだが、同じような考えのやつ
は大勢いるだろうから難航するだろうなぁ。この護衛中に何か大活
躍ができればいいんだが、さてどうなるかな。まぁ騎馬は貴重な存
在だから、少しはマシと思いたいがね﹂
自らも騎馬の列に並ぶエーリヒは渋い顔をしている。エーリヒだ
けではない、騎馬持ちの傭兵達は皆が皆渋い顔をしていた。身なり
はいずれもいい。恐らくは貴族なのだろう。だが、幼い頃から戦闘
訓練ばかりしてきた騎士というのは、とにかく潰しの利かない人種
である。平民とは別の意味で職業選択の自由がないのではないかと
アラエルには思えた。
︵生き残るのに必死なのは、私だけではないか︶
尚更甘えたことは言えない。そう思いつつアラエルは両頬をぴし
ゃりと掌で打つと、自らもまた女達の列に混じりにいった。
54
2
結成式の翌日、護衛隊は商人達を囲みながらアンツィオに向けて
出発した。
囲むと言っても護衛隊のうち戦闘要員は六十、支援要員が四十で、
商人は四十。護衛対象のほうが数が多く、十分には囲みきれないた
め、前面を厚く、側面を薄くまばらにせざるを得ない。とはいえ戦
闘要員を増やせばその分支援要員も増加するため、これ以上の増員
まぐさ
は無価値と判断されたのだろう、と、アラエルの傍らで馬を進めつ
つエーリヒは推測する。
まぐさ
﹁同じことは騎馬や馬車にも言えて、馬を使う以上は秣を用意しな
きゃならんから、数を揃えれば揃えるだけ秣用に新たな馬車をこさ
えなきゃならん。特に軍馬は大食いだから、必然的にこいつのため
に多量の馬車が必要になって、行軍の際に思い切り脚を引っ張るこ
とになる﹂
﹁馬のために速度が落ちるというのも変な話だな⋮⋮﹂
行軍は退屈である。その上世間知らずで隊の仕事にも不慣れなア
ラエルは容姿も相まって護衛隊から浮いており、話す相手もほぼい
ない。必然的にエーリヒとよく話す事になった。
﹁馬だけで飛ばせればそりゃ、速いんだが。その辺の草を食わせれ
ばいいってわけじゃないからな﹂
まぐさ
商用の馬車の他、秣を積む馬車、食料や炊事道具を積む馬車、夜
営用の簡易天幕を積む馬車と、百四十人が一斉に移動するには色々
と準備するものが多く、また脚も遅くなる。当初アラエルは護衛六
55
十を少ないと感じたが、それでも支援要員と合せて百四十人という
のはやはり大所帯である。塩に水といった生きていくうえでの必需
品に加え、ライ麦や大麦のような穀物と酒を揃えれば、かなりの荷
馬車隊が出来上がる。そこに馬のための干草、藁、大麦が加われば
行軍速度は嫌でも落ちた。
﹁行軍というからもっと速く歩くものと思ったが、予想外に遅いの
で驚いた。とはいえこれだけ荷馬車を抱えれば当然か﹂
アラエルはもう三時間ほど歩いているが、歩き慣れない彼女です
ら遅いと感じる。一時間に三リーグ︵キロ︶歩いたかどうかとエー
リヒは言っていた。堂々たる体躯を誇るエーリヒの馬などは逆に遅
すぎて疲れているように見える。
﹁一日辺りの行進距離は概ねどこでも八から十リーグって言われて
るな。さてと⋮⋮﹂
エーリヒが馬から飛び降りる。物々しいプレートアーマーは後続
の馬車に預け、今は最低限の装備しかしていない。周囲の安全確保
は騎馬持ちが交代で行うことになっており、非番の際には武装を解
いて自由にするように指示が与えられている。護衛とはいえ、四六
時中完全武装では戦えない。当然だが馬鎧も既にない。
﹁そろそろ疲れたろ。乗れよ﹂
﹁私に乗馬の心得などないぞ﹂
急な申し出にアラエルは驚くが、エーリヒは気にしない。
﹁俺が手綱を引くから大丈夫だ。馬も休ませなきゃならんが、お前
56
ぐらいの体重なら乗ってても乗ってなくても同じだろ﹂
確かに疲れは感じてきていたが、人間より能力の高い悪魔である。
この程度のペースなら問題なく持つと思っていたため、歩ける旨は
伝えたが、結局のところ強引に押しきられ、アラエルは乗馬した。
︵どうも過保護だな⋮⋮︶
エーリヒはつい先程まで周辺の安全を確保するための偵察に出て
いた。確かに馬を休めるために降りる必要はあるのかもしれないが、
アラエルを乗せようとするのはエーリヒの気遣いだろう。好意は有
り難いが、いささか過剰なのではないかと嘆息する。周囲には依然
として歩いている女も大勢いるのだから、若干後ろめたい気持ちも
ある。
︵それともうひとつ⋮⋮︶
アラエルは背後から視線を感じていた。それも、友好的とはいい
がたい視線を。正確にはそれはアラエルに向けてではなく、手綱を
引きながらアラエルと会話を交わすエーリヒに向けられていた。
︵厄介なものだ⋮⋮︶
先日、エーリヒのために大恥を掻いた少年騎士トリスは、あれ以
来エーリヒを敵視しているらしく、恨みのこもった視線を時折ぶつ
けてきた。当人は気付かれていないと思っているのだろうが、隠し
きれていない。悪いことに周囲も暇な道中にいいオモチャができた
と囃し立てるのだから始末に終えなかった。
﹁おいエーリヒ。盛大に恨みを買ってるぞ。なんとかしてくれ、胃
57
が痛い﹂
﹁なんとかって言ってもなぁ⋮⋮名誉とか誇りとか気にしそうな年
頃だろうし、育ちもよさそうとなると、まぁお決まりの行動に出る
だろうから、それまではどうしようもないかな﹂
余り興味はないのだろう。面倒くさげなエーリヒにアラエルは頭
を痛める。無用なまでに相手のプライドを刺激することもなかった
ろうに、と。
﹁具体的に、どうなるんだ﹂
エーリヒはさも当然の如く答えた。
﹁決闘だろ﹂
果たしてその日の夜、その通りになった。
3
光源が限られる時代、夜間は基本的に集団で歩くことはない。ま
して、女を大勢含む集団ならなおのことである。護衛隊と商人達は
日が落ちる前に夜営の準備を整え、食事と寝床の準備をする。そん
な最中である。トリスが暴発したのは。
﹁決闘を申し込みます! 僕が勝ったならアラエルさんを解放しな
さい!﹂
見張りの準備をしていたエーリヒは、あぁ、やっぱりな。という
顔を。近くの川に水汲みに出ようとしていたアラエルは心底うんざ
58
りした。
﹁そもそも捕らえられた覚えもないのだが⋮⋮﹂
少年のなかではさぞヒロイックな話が展開しているのだろうと思
いつつ、百歩譲って捕らえられていたとしても、喧嘩を売る相手を
少しは選べと言いたくなる。エーリヒとトリスでは体格が違いすぎ
る。勝敗はやるまでもなく明らかだ。
﹁騎士様、お気持ちは嬉しいのですが、私は強いられた訳ではなく、
自ら付いていっていて⋮⋮﹂
無駄に終わることを予感しつつ仲裁に入るが、やはりというか徒
労に終わった。
﹁大丈夫です。必ずやこの男を打ち倒して救って見せますから﹂
︵話を聞けと言うのに︶
何を言っても無駄か、と諦める。当のエーリヒはというと、やは
り冷めた目で面倒そうにトリスを見るだけだった。
﹁あー⋮⋮俺としては戦う理由がないから、応じかねるんだが﹂
勝ってもエーリヒは得るものが何もない。寧ろ護衛の仕事中に同
僚を叩き伏せたということで処罰される可能性もある。やるだけ損
な決闘など無視するに限るのだが、それはこちらの都合であって、
トリスには無関係な事なのだろう。臆病者と吠えるトリスは引き下
がる気配がない。
59
︵くれぐれも無視するよう言っておいたが、無視し続けたとして、
護衛の間中はこの険悪な雰囲気が続くわけか︶
渦中の人物として妙な注目も浴びているアラエルは思わずため息
を吐く。と、その時。口論する二人の間に一人の男が割って入った。
﹁ご両人、仲良きことは結構だが、仕事を忘れちゃいけないぜ﹂
20代半ばと見られるその男は騎馬持ちの一人であり、鍛え上げ
られた体格とエーリヒをも凌ぐ長身が特徴の男で、無精ひげが騎士
というよりは傭兵らしさを強調している。アラエルは騎馬持ち同士
の顔合わせの際に男の顔を見た覚えがあった。
︵確か、カールマンといったか︶
アルフォンソと比べればこちらが傭兵隊長と思うだろう。実戦経
験がありそうだな、とアラエルは推察した。
﹁まずはアンツィオまでの護衛が俺達の仕事だ。決闘についてはそ
の後考えるとして、今は仕事に励もうぜ﹂
有無を言わせぬカールマンの仲裁に、トリスは不承不承、エーリ
ヒは肩を竦めてこれを受け容れた。傍から見ていたアラエルも安堵
して胸を撫で下ろす。
︵仲裁するにしてもある程度の実力がないと無理というところか。
問題の先送りに過ぎぬとはいえ、助かった︶
会釈して感謝の旨を伝えると、カールマンは片目をつぶり、親指
を立てて返した。妙な愛嬌を感じたアラエルはくすりと笑う。
60
︵常識人がいると助かるな︶
少なくとも護衛の間は悩まされることがなさそうだ、そう思った
アラエルは水汲みに戻り、食事の準備を整える。
カールマンに対する常識人という評価が覆るのは、翌日になって
からだった。
4
翌朝、アラエルはふと気づくと自分が賞品になっている事を知っ
た。
決闘の話がいつの間にやら拡大され、騎馬持ち10人による模擬
戦となっており、その賞品に自分が充てられていたのである。
﹁どういうことだこの馬鹿野郎﹂
行軍しながらエーリヒの耳を摘んで口元に引き寄せる。やられた
エーリヒは心底情けない顔をするのみだ。
﹁いや、その場の勢いというか、なんというか。まぁその、多分大
したことにならないだろうから、あまり気にする事はないかなと⋮
⋮﹂
﹁なんで私に今まで一言もない。私の了承もなしに勝手に話を進め
たのはこの口か、この口か﹂
容赦なく唇を摘んで引く。怒りのために人外の力を若干使ってい
61
たらしい。馬の手綱を引くエーリヒはたたらを踏み、苦痛に表情が
歪んだ。
﹁その辺にしてあげてください﹂
両手を挙げて降参を表明するエーリヒに容赦することなく追撃を
加えていたアラエルは、後ろから笑い混じりにかけられた声に手を
離す。
﹁アルフォンソ隊長﹂
﹁彼だけが悪いというわけではないのですよ。エーリヒ卿、偵察の
時間が近づいてきました。そろそろご準備のほうをよろしくお願い
します﹂
馬上でゆるやかに歩を進める傭兵隊長アルフォンソは、にこやか
に微笑みながら彼方より駆け戻る騎馬を指す。好機と見たのだろう。
言い訳のついたエーリヒは即座に乗馬し、後ろも振り返らずに馬車
に向かって駆けていった。アラエルは呆然と見送るしかない。
﹁隊長もこの馬鹿げた決闘を知っているのですか? ならやめさせ
てください。仕事に差支えが出ますし、私も困ります﹂
止めるならアルフォンソしかない。そう思ったアラエルは一縷の
望みを賭けるが、アルフォンソはくすくすと笑うのみだ。その様子
に、隊長すらも了承の下でこの決闘が行われることを察したアラエ
ルは暗澹とした気分になる。
トーナメント
﹁護衛を蔑ろにするわけには参りませんから、アンツィオまでは何
事もありません。馬上槍試合を見るのは初めてですか? なかなか
62
勇壮な見世物ですよ。これこそ騎士の華と言うのは騎士の常套句で
すね。小規模とは言え見ごたえがありますから、ここはひとつ楽し
んで⋮⋮﹂
﹁アルフォンソ隊長﹂
怒気を込めてそう言うと、アルフォンソは肩を竦め、下馬してア
ラエルと並ぶ。
﹁ご心配なく、貴女の安全は私が保証しますから。それに、実際の
ところ彼らの大多数にとって貴女はどうでもいいのですよ﹂
﹁決闘そのものが目的と?﹂
﹁そういうことです。まぁ、あの若武者君と貴女の騎士殿はまた違
うでしょうが﹂
一体何のために、と目で問うアラエルにアルフォンソは馬の手綱
を取り、アラエルと並んで歩きながら答える。
﹁傭兵隊に来る人間というのは、身分の貴賎を問わず窮乏していま
ここ
す。お金がなく、故郷に居場所もなく、戦場で身を立てる以外どう
しようもない者達の最終処分場が、傭兵隊というわけなのです﹂
私も含めてね、と言うその表情は自嘲を多く含んでいた。
﹁平民はそれでも日常世界への帰還を夢見ます。また、それが許さ
れる立場です。ここで食い繋いでお金を貯め、やがてそれを元手に
商売をはじめよう、と。尤も、多くは軍隊色に染まって帰れなくな
るわけですが。ですが、貴族は違います。貴族は商売することが倫
63
理的に禁じられているからです﹂
貴族とは即ち武門である。武門に許されるのは剣を奮うことだけ
だ。そうやって命を賭ける事の代償に彼らは特権を許されている。
金儲けに興じるなど、許されることではないのだ。貴族は戦場で華
々しく戦い、平民を城館から支配する存在であることが、この世界
では求められている。
コンドッティエーレ
﹁だから彼らは栄達を求める。私の下で軍歴を重ねるのもひとつの
手ですが、より手早い栄達は、彼ら自身が契約傭兵隊長になること
スポンサー
です。⋮⋮話が長くなりましたが、例えば馬上槍試合に勝利すれば、
注目度が上がってその道に一歩近づけると思いませんか? 出資者
もいることですし﹂
そういって振り返るアルフォンソの視線の先には護衛を受けて馬
車を進める商人達の姿があった。
﹁傭兵隊への軍需物資の供給を一手に握ることが出来れば、野心あ
る商人にとっては大きな飛躍のチャンスになります。もちろん、た
だの行商にはそれだけの力はありませんが、場合によっては行商同
士で連帯し、一人の傭兵隊長を育てることもあります。そうして出
資を受けた傭兵はやがて兵を集め、軍功を挙げ、略奪品や戦利品を
故売屋に売り、商人はそれを都市に流して潤う⋮⋮傭兵隊というの
は、一種の巨大な商家なのです。後援者なしにこれを設立できるも
のは、まずいません﹂
アルフォンソの話はアラエルにとっては余りに異質過ぎた。略奪
を自明とし、戦禍で以って自らの給料を購っているように聞こえる
のだ。
64
﹁都市から給料が払われているのではないのですか?﹂
﹁確かに払われていますね。今は。ですが戦時ともなると遅滞なく
払われる事はまずありません。軍の規模が千人規模に上昇する上、
戦死の危険から雇用料も跳ね上がるからです。更に言えば都市すら
も略奪を我々に求めています。傭兵隊の略奪は、所属する都市に富
をもたらしますから﹂
この世界の常識に疎いアラエルには消化できるような話ではない。
だが、手軽に参加した傭兵隊にはこの世界の醜い現実が凝縮されて
いる気がするとアラエルは感じた。
﹁失礼、生々しい話を聞かせましたね。まぁそんなわけで、少し話
は逸れましたが⋮⋮騎馬持ちの貴族であれば傭兵隊長を目指さぬ者
はいないでしょう。私のように都市に召抱えられて富貴を楽しむに
はそれしかありませんからね。つまり彼らは貴女をダシにして商人
達にアピールをしようとしているのです。だから、貴女は余り気に
することなく、気軽に馬上槍試合をご覧になってください。何気に
士気も高揚しますから、私も歓迎していますよ﹂
アルフォンソはにこやかな笑みを終始崩さずにそれだけ言い、馬
上の人となるとその場を駆け去って各所に命令を伝えにいった。入
れ替わりのように後方から馬蹄の音が響き、完全武装のエーリヒが
現れる。
﹁なぁアラエル、俺としては最後まで反対したんだが、事が隊長に
までいっちまったもんで、どうしようもなくてさ。ひどい事にはな
らないと思うから、機嫌を直してくれないか?﹂
機嫌を伺うような声のエーリヒにアラエルは口を開きかけて、止
65
めた。
﹁お、おい。まだ怒ってるのか。頼むよ、このとおりだから﹂
怒鳴りつけることもせずに下手に出るエーリヒ。男尊女卑的な社
会にあっては異例な丁重さだろう。だが、それだけにアラエルは聞
くことができなかった。
お前は、略奪に参加したことがあるのか、と。 66
馬上槍試合
トーナメント
馬上槍試合は大きく分けて三つに分類される。
ジョスト
一騎討ち。完全武装の騎士同士が木槍を片手に真正面から突撃し、
相手を落馬させる競技である。最も手軽であることから開催される
事も多く、また大規模な試合の前座としても催される。
ブーフルト
騎馬試合。馬術の巧みさを見せるための競技で、得物は持たずに
盾を用いて集団でぶつかり合う。槍刀を持たぬとはいえ騎馬と人間
の重量を乗せた体当たりをまともに受けるため、落馬は無論のこと
そこから踏みつけられての死というのは珍しくない。
トゥルネイ
団体戦。これは最早戦争である。数百、数千の騎士達が互いに整
列し、一斉に互いに向かって突撃し、槍と甲冑で衝突しては反転し、
また衝突することを延々と繰り返す。落馬しても納得がいかなけれ
ば剣を引き抜いての斬り合いが始まり、場合によっては息絶えるま
で戦い合う。ルールは手出し無用の中立地帯が設けられていること
と、武具の刃をつぶすことの2点のみであり、装備は全て本物を使
用する。
例年死者が多数発生するこれらの﹃遊び﹄は騎士にとって自らの
武勇を示し、士官への道筋を作るほか、有力な家の娘を嫁に娶るた
めの手段でもあり、また試合で得られる戦利品や身代金は糊口を凌
ぐための重要な収入源でもあった。
死人が多く発生し、死なぬまでも戦士として再起不能の大怪我を
負うことは騎士達にとっては何ら問題にはならなかった。何故なら
ば騎士とは戦うために存在するのであり、それこそが彼らの存在意
67
義なのだから。
1
トーナメント
アンツィオ市はちょっとしたお祭り騒ぎになっていた。先触れの
騎馬が馬車の到着と、郊外での馬上槍試合を布告したのである。
バイステリに比べると小さな街だが、これでも歴とした都市国家、
即ち独立国であるという。ここエルヴン半島にはそんな都市国家が
山ほどあるとアラエルは聞いていた。娯楽が少ない街なのだろう、
郊外の小高い丘には市民達が繰り出しており、農夫達も鍬を置いて
見物に来ている。丘から見下ろす街道に程近い草原には簡易の競技
場が現地の大工らによって設営され、早くも物売りが周囲に菓子や
飲み物を売って回っていた。
﹁本当にやるとは⋮⋮﹂
もうどうにでもなれ、と半ば開き直ったアラエルはフリルを多数
あしらった白いドレスで無意味なまでに美々しく飾られている。彼
女は賞品なのだ。賞品は試合が終わるまで競技場の特等席で美しさ
をアピールしていなければならない。着替えに際して断固拒絶を決
め込もうとしたアラエルだが、女達によって無理やり着替えさせら
れる気配を察知し、すんでのところで自ら着替えて正体の露見を避
けていた。
﹁日々が心臓に悪すぎる。悪魔を賭けて騎士が試合をするとはどう
いうことなのだ﹂
68
ジョスト
パロディ
競技は一騎討ちによって行われるが、全体としてその構成は騎士
道物語のおふざけのようなものであり、騎士達も傭兵達も気楽な様
子で、見物客も和やかな雰囲気の下、弁当持参の家族連れできてい
る。
﹁決闘だの、馬上槍試合だのと脅かすから心配したが、なんという
ことはないか⋮⋮?﹂
﹁いや、それがそうでもなさそうだ﹂
銀色の甲冑も美々しくエーリヒが乗馬してやってくる。その目は
若干の緊張感を含んでいた。
トーナメント
﹁馬上槍試合は軍事演習がその起源だ。それを他所の都市国家の領
域で許可も取らずに始めるというのは、実のところちょっと問題だ。
てっきりバイステリでやるのかと思ったんだが、友好都市とはいえ
アンツィオでやるとはな。見ろよ、向こうでアンツィオの傭兵隊が
待機してる﹂
指差す方向に目をやれば、なるほど、軽装備とはいえ30人ばか
りの一団が長槍や弩片手にこちらを睨み付けている。見物客とは違
う、警戒の色がありありと伺えた。
トーナメント
﹁馬上槍試合で昂ぶった騎士達が周辺の農村や町を襲うなんて珍し
くもねぇ。警戒は当然だぜ。アルフォンソ隊長は何を考えてこんな
ことをしているのやら﹂
﹁⋮⋮前から思っていたが、騎士というのはもっとこう、礼節やら
騎士道精神にあふれているべきではないのか⋮⋮? お前の話を聞
いていると、なんだか野盗と大して変わらぬ気がしてくる﹂
69
頭を抱えるアラエルにエーリヒは何をいまさら、と言うように肩
を竦めた。
﹁野伏せり、追いはぎ、盗賊強盗、そんなの騎士の常だ。大体の騎
士っていうのは腹と懐を空かして彷徨ってるからな。実際のところ、
街道護衛で一番の脅威は強盗騎士で、単独の行商はそれを恐れて街
道から反れた道を歩くんだ﹂
騎士道という倫理観は、あくまでも﹃こうだったらいい﹄という
願望の寄せ集めに過ぎず、遵守するかどうかは各騎士ごとに異なる
のが現状だという。
﹁騎士っていうのは要するに戦うのが商売だからな。戦場で強けれ
ば騎士はそれでいいとする荒々しい気風だってまだまだ健在なんだ
ぜ⋮⋮始まるな。賞品はお前の接吻だ、勝ちを祈っててくれ﹂
﹁緒戦で突かれて倒れてろ、馬鹿﹂
ヘルムのバイザーを下げて剣を胸に構えて敬礼するエーリヒを、
アラエルは罵声を以って見送った。
2
木槍が砕ける。歓声が上がった。
チャージング
衝突する二人の騎士の槍は両者とも狙い違わずに互いの盾を突く。
人馬の重量を十分に乗せた必殺の突進は、数百キロもの衝撃力を以
70
って襲い掛かる。堪らず両者ともにふらつくが、分厚い鎧に助けら
れたか、受け流しが功を奏したか、互いに落馬することなく競技場
の端まで駆けると、直ちに新たな木槍を手に取り、反転して突進す
る。雄雄しい戦いぶりに声援が降り注ぎ、待機する騎士達も自分の
番を今か今かと興奮した面持ちで待ちわびていた。
﹁おい、これは死人が出てもおかしくないぞ﹂
反面、空気に乗り切れないアラエルは慌てていた。自分をダシに
してやっていると聞かされていても、これで死者でも出ようものな
ら寝覚めが悪すぎる。エーリヒやカールマンはこういった経験もあ
るのだろう、ニヤニヤと笑い、軍馬の足慣らしをしていたが、少年
騎士トリスなどは青ざめて震えている。これを引っ張り出すのはあ
まりに酷と思えた。大体トリスの乗る馬は馬体からして大分異なる。
これでは不利もいいところだろう。
﹁アルフォンソ隊長、これは滅茶苦茶です。楽しむどころではあり
ません。中止を﹂
傍らのアルフォンソはしかし、にこやかな笑みを崩さずに見物す
るのみである。
﹁アルフォンソ隊長﹂
﹁止めると、暴動が起きかねませんからね⋮⋮始まってしまったも
のは、仕方ありませんよ﹂
そう返答しつつもその目は遠く、アンツィオ市を見ている。試合
の事など眼中にない様子はアラエルを不安にさせた。
71
︵何か意図があって、敢えてやらせているのか?︶
他国領土で軍事演習など、思えば異常事態である。お祭り騒ぎに
かこつけてアルフォンソは恫喝をやっているのではないか。そのよ
うな疑念が生まれるが、何はともあれアラエルは目下の光景に失神
寸前である。
何せ、回避というのがまるで念頭にない。ただ木槍を相手の盾に
ブルファ
突き入れるだけである。互いに猛スピードで走る軍馬に跨り、完全
イト
武装の騎士が避けることもせずに真正面からぶつかり合う牡牛の戦
いだ。スポーツとは絶対に呼べない。狂気の沙汰である。もし槍が
盾ではなく、甲冑の継ぎ目に突き刺さればどうなるか? そんなこ
とは火を見るより明らかだった。
﹁ご心配なく、完全武装の騎士というのはそうそう簡単に死にませ
ん。それに、これは彼ら自身のアピールを兼ねています。見物客の
中にはアンツィオの有力商人の姿もちらほらと見える。彼らも命を
賭けているのですよ﹂
要するに止める権利はアラエルにはないと言外に言っている。そ
うまで言われれば退かざるを得ないが、万一、と思えばやはり膝が
震えた。
﹁⋮⋮貴女は変わっている﹂
僅かに声のトーンを落とすアルフォンソに、アラエルはふと視線
を向けた。
﹁この程度の死の危険など、危険のうちにも入らない。これは市井
でも傭兵でも同じはず。我々は長じるまでに数限りない死というの
72
を経験し、その中で死というものに慣れていく。ところが貴女はこ
ういう事に慣れていないように見受けられる﹂
五十まで生きる人間が少なく、平均寿命が短い世界にあっては、
死生観は酷く淡白なものとなり、命の価値は落ちる。どう生きるか
ではなく、どう死ぬかが重要視される世界にあって、アラエルの死
生観は若干変わっていた。
﹁貴女は育ちがよさそうに見える。また常識にも疎い。何処かの姫
君かとも思いましたが、所作には貴族独特の物腰が感じられない。
また、長時間歩くのもさほど苦にしない割には、洗濯や炊事に慣れ
ているようには見えない。不思議な人です⋮⋮何者ですか?﹂
にこやかな中に鋭い視線を向けるアルフォンソに、アラエルは冷
や汗を流すしかない。知らぬうちにそこまで観察されていた事に若
干の恐怖を感じた。
﹁⋮⋮まぁ、どうでもいいことです。私の仕事にさえ干渉しなけれ
ば﹂
そういうとアルフォンソはアンツィオへと再び視線をやる。アラ
エルは胸をなでおろした。見れば再び木槍が砕け散り、片方の騎士
が馬から滑り落ちた。途端に従者と思しき者が駆け寄り、騎士を回
収する。決着だ。
︵釘を刺されたか︶
何か変な事をするようなら容赦はしないぞ、という意味だろうが、
実際のところアラエルには何をする力もない。勘違いもいいところ
なのだが、立場の危うさを自覚するがゆえに恐れを抱かざるを得な
73
い。
︵一筋縄では行かぬことばかり、か︶
改めて我が身を処する難しさを知る。それでもアラエルは人であ
ることに執着したかった。何もかも面倒になって夜道を行けば、堕
ちていくのは簡単だろう。瞬く間に悪魔の仲間入りだ。やがてはそ
うなるのかも知れなかったが、それでも最後までは人間でありたい
というのが彼女の願望だ。
﹁おや、次の組み合わせですね﹂
物思いに耽るアラエルはアルフォンソの声に引き戻される。見て
いなかったのではないか、と思うアラエルだが、出てきた騎士二人
を見て表情を険しくする。それを見たアルフォンソは口の端を吊り
上げて意地の悪い笑みを見せた。
﹁エーリヒ卿とカールマン卿ですね﹂
3
エーリヒとカールマンは今次護衛隊でも注目されている二人であ
る。両者ともに優れた体格と装備を持ち、歴戦の威風が感じられた
からだ。馬の扱いも確かであり、二人の偵察は誰よりも正確で素早
かった。自然と護衛の最中にも何れが優れた腕前の持ち主かが話題
になり、賭け事の対象にもなっている。
﹁あー⋮⋮お手柔らかにな﹂
74
﹁おいおい、もっと様式美に則ろうぜ﹂
エーリヒは何処か苦々しく、カールマンはやる気十分といった風
で対峙する。体格はカールマンが上だが、馬はエーリヒが上だ。
﹁様式美ってなんだよ。傭兵騎士だぜ、俺たち﹂
﹁それでも騎士だろ、賞品は加えてお前の恋人だ。見栄を切る資格
は十分にあるぜ﹂
﹁恋人じゃねぇよ。⋮⋮ま、魔性の女なのは否定しないがな﹂
角笛が響き渡る。両者は共に馬に拍車を当てた。訓練を受けた軍
馬は即座に馳歩にまで加速し、彼我の距離は瞬時に縮まる。2メッ
トを超える木槍を垂直から水平にまで同時に下ろし、互いに盾を狙
って突き出す。
﹁ごぁッ⋮⋮!﹂
カールマンの槍が砕け、エーリヒの身体が大きく傾ぐ。エーリヒ
の槍は原型を留めたまま残っており、それはつまり、一方的にカー
ルマンがエーリヒを突いた事を意味した。
﹁畜生、やりゃあがる⋮⋮!﹂
激しく咳き込みながらも両足でふんばり、馬を反転させるとエー
リヒは獰猛に笑った。
・・・
﹁おこりを狙いやがった⋮⋮!﹂
75
おこり
人が何かをするとき、必ずそこには予備動作と言われる動きが生
じる。打とう、突こうとする心が先行し、却って動作が緩慢になっ
カウンター
たり、狙いが明白になったり、防御がおろそかになるのだ。理論上
はこれを見切ることで一方的に後の先を入れることが可能となるが、
動揺する馬上で相手に合わせるのは言うまでもなく至難である。そ
れをやってのけたということは、カールマンが馬上での戦いに熟達
し、達人級にまでその技能を高めていることを意味した。
﹁腕のリーチもあるんだろうが⋮⋮やべぇなこりゃ﹂
﹁エーリヒ、お前もなかなかやるようだが、まだまだだな。後10
年も経験と深みを積めば、俺に追いつくいい男になれるかも知れん
が、今はまだそのときではない。そういうことだ﹂
﹁喧しい、勝負はこれからだ自惚れ屋!﹂
﹁よくいった色男!﹂
カールマンが次の槍を手に取ったのを確認するとエーリヒは拍車
を入れて駆け出す。再び両者は距離を詰め、互いの盾を狙って槍を
突き出す。
またしても砕けたのはカールマンの槍だけだった。
4
﹁あの馬鹿⋮⋮自信満々で出て行って、これか⋮⋮!﹂
76
アラエルは気が気ではない。目の前でエーリヒとカールマンが衝
突すること既に7度。その都度砕けるのはカールマンの槍ばかりで、
エーリヒの槍は掠る程度だ。彼我の実力差は明らかとはいえ、エー
リヒは不屈の精神で以って耐え、なお諦めることを知らない。それ
が余計にアラエルを苛立たせる。
︵死ぬぞ⋮⋮!︶
チャージング
頑丈な甲冑越しとはいえ、突進の衝撃力は身体に伝わっているだ
ろう。常人ならとっくに死んでいてもおかしくない。アラエルには
かかし
エーリヒが、頑丈な身体が災いして気絶すらできず、技量で圧倒さ
れる相手にひたすら案山子のように突かれているように見えた。
﹁彼我の技量差は明らかですね。エーリヒ卿も悪くはないのですが、
槍試合慣れということならカールマン卿が上のようです。エーリヒ
卿はどうやら戦場育ちの傭兵で、カールマン卿は遍歴の騎士をやっ
ていた可能性がありますね﹂
冷静に分析するアルフォンソの表情に感情は伺えない。まるで品
定めをするように二人を見ている。
﹁⋮⋮勝敗は明らかです。止めて下さい。このままでは死んでしま
う﹂
﹁できません﹂
アルフォンソは言下に断った。
﹁恐らく貴女自身理解していると思うのですが、騎士は誇りや面子
を重視します。当人が戦意を喪失していない以上、それを止めるこ
77
とは大きな恥辱となるのです。それぐらいなら死んだほうがまし⋮
⋮100人騎士がいれば、100人がそう答えるでしょう﹂
アラエルは膝の上についた拳を握り締める。指の間から血が覗い
た。
﹁命あっての物種では、ないのでしょうか⋮⋮﹂
﹁それは真に金言ではありますが、体面を失った騎士は家の名誉を
も失い、その影響は家中全体にまで回ります。騎士が名誉を重んじ
るのは伊達や酔狂ではなく、そうしなければ食べていくこともでき
ないからなのです﹂
冷酷にして華麗なる騎士の世界がアラエルの前に立ちふさがる。
この世界に疎い、まして女の身ではそれは異様に高い壁のように感
じられた。
﹁⋮⋮ですが、貴女とエーリヒ卿の間柄はここでは周知のこと。こ
こで、貴女にだけはエーリヒ卿を救う事が可能です。貴女が正しい
と思うなら、白旗を上げてやりなさい。最後まで交戦を諦めなかっ
た彼の名誉は守られ、貴女は恋人を守ったという賞賛を得られるか
も知れない﹂
言葉は事務的で、表情には相変わらず何の変化も読み取れなかっ
たが、アラエルは飛びつきたくなった。
︵こんな馬鹿な事で死なせて堪るか!︶
アラエルはすぐさま立ち上がると、今まさに衝突の体勢に入ろう
とした両者に呼びかけるために競技場の中央まで走る。その姿に会
78
場がしんと静まり返った。
︵これ以上は、無意味だ︶
アラエルは苛立つ。ただの競技に命まで賭けられる男たちが信じ
られなかった。自らの命も顧みず、却ってそれを誇りとする騎士達
に嫌悪感を覚えた。そして、そんなことをしなければ生きていくこ
ともできない世界に苛立っていた。
﹁エーリヒ!﹂
だからもうこんな馬鹿げたお祭りからはさっさとおさらばだ。そ
う思って声を上げたそのとき、バイザー越しにその目を見た。
双眸が、雄弁にそう主張している。野獣のようだとア
︵止めたら、許さん︶
ギラつく
ラエルは思った。黒い瞳は炎のようで、そこに疲労や諦めの感情は
ない。焼け付くばかりの闘志ばかりがそこからは感じられた。
﹁⋮⋮お前、何のために戦っている!? 仕官のためか、自前の傭
兵隊のためか、それとも名誉のためか!?﹂
結局出てきたのはそんな言葉だった。エーリヒは敢然と答える。
﹁お前のためだ!﹂
馬鹿野郎、言いやがった。アラエルは頬を紅潮させ、息を大きく
吸い込む。率直にそういわれてしまえばアラエルも負けを認める︵
シャポーを脱ぐ︶しかなかった。
79
﹁よし、許す! 死んでも勝って来い!﹂
﹁応!﹂
エーリヒとカールマンはその後十八度に渡って互いに槍を砕きな
がら交差し、陽が落ちるまで戦った後両者共に昏倒して引き分けた。
80
勝利する者、負ける者
1
アラエルは地獄にいた。
そこは地獄の焦熱を以て肉を焼き、尊厳を根こそぎ破壊するほど
の辱しめを絶えず与える。しかも彼女がそこから逃れるすべはない。
身動き一つ取れないように拘束されているからだ。
その地獄の名前を、羞恥といった。
﹁いい加減に起きろ、この馬鹿騎士﹂
白皙の肌を朱に染めてアラエルは眼下で眠るエーリヒに抗議する。
しかし起こすのを峻巡しているのか声は小さく細い。
﹁35人だ。35人もさっきから私を見て笑うんだ。私の名誉は破
壊された。騎士としてどうなんだ、お前は﹂
目の端に涙を溜めながらそれでも小さく抗議することしかできな
い。そして今また新たにアラエルを見て微笑む者を確認すると、無
言で抗議の視線をアラエルは送った。
﹁36人⋮⋮﹂
アラエルが疲労困憊で倒れたエーリヒを膝の上に載せてから随分
になる。その間ずっと彼女は周囲からの好機の視線にさらされ続け
ていた。何も好き好んで載せようとしたわけではない。街のベッド
81
に持っていくのが一番とは思うし、そもそも医師に見せるべきとも
思う。だが周囲の者から一騎討ち終了と共に鎧を外されたエーリヒ
は、問答無用でアラエルの元に運ばれ、膝にのせられたのである。
﹁あんた、なかなかいい女じゃないか﹂
傭兵隊の女達は口々に見直したと言ってあれこれとアラエルの代
わりに仕事をこなしているため、彼女にやることはない。いつまで
でもエーリヒを膝上に載せていて何の問題もないのだ。その他にも
飲み物の手配など、女達にはアラエルへの好意が目立つ。
︵何がどうなっているのやら⋮⋮︶
魔性の美貌を持ち、世間知らずで炊事洗濯にも慣れず、傭兵達の
注目の的だったアラエルは護衛隊の中ではどちらかといえば嫌われ
ており、特に女からの不人気は当人も自覚していたが、それが馬上
槍試合を経て急速に変わった。それがアラエルには解せない。
発破をかけたあの後、アラエルは恥も外聞も捨ててエーリヒを喉
が枯れるまで応援した。今思い返せば赤面するよりないというほど
なりふり構わず、騒ぎ立て、槍が粉砕する度に声を上げた。
いつしか彼女の狂熱は全体に伝染、最終的には会場全体がエーリ
ヒを応援する異常事態と化し、何一つ卑劣な事をしていないにも関
わらず会場全てを敵に回したカールマンはやがて動きを鈍らせ、圧
倒的な技量差にも関わらず落馬。会場は大きく沸いたものの、気力
だけで馬上に止まっていたらしいエーリヒはそれを見て緊張の糸が
切れたのか、勝ち名乗りもせずに落馬したため、引き分けの裁定が
下され、今に至る。
82
﹁さぞやりにくかったろうな﹂
くすりと微笑む。カールマンには悪いことをしたと思っているが、
勝手に巻き込んだのだからおあいことアラエルは開き直る。
焚き火の光が暗闇を薄く照らす。傭兵隊には市内への入場が許可
されなかった。想定されていた事なのだろう。周囲では夜営の支度
が整いつつあり、野菜の煮込みの匂いがする。気付けば腹が減って
いた。
︵こいつはもっと減っているだろうな︶
エーリヒの頬を撫でる。ぬるりとした感触が指先を伝わった。汗
か、と思い指を見れば、赤々とした血液が指先を僅かに染めている
のに気付く。僅かながら擦過傷ができていた。
︵暗がりで見落としたか。位置的に砕けた木槍の破片が兜に飛び込
んだのだろうな︶
頬でよかった。目なら失明も有りうるし、片目を失ってもなおエ
ーリヒは戦ったろう。そうアラエルは確信していた。肌着の下は醜
い打撲傷で埋め尽くされているだろう。明日は動けないかもしれな
い。
立身への思惑がなかったはずはない。事実大立ち回りをしたエー
リヒは名を上げた。だが、先ず以てエーリヒの胸中にあったのはや
はり自分を遊びとはいえ他人に奪われたくないという思いであろう
事は、アラエルも理解していた。
︵私のために、か。別にお前のものというわけでもない怪しげな女
83
によくそこまで尽くせる︶
そう思うと頬の傷が何かとても尊いものにアラエルには思えて、
繰り返し撫でてしまう。指を染める朱も今は心地よかった。我なが
らなんと単純な、と笑うが、次の瞬間には悲しくなってきた。
︵アンツィオに着いた。お別れだ。深く関わりすぎたが、お前には
もっとまともな女が似合う。私のような出来損ないには勿体ない︶
わかれ
好意は自覚している。それゆえに裏切るのが辛い。頬の傷は今や
彼女の不実を責めるようだ。
トーナメント
アラエルは短刀をエーリヒの懐から取りだし、自らの指を僅かに
傷付ける。痺れるような痛みが身を苛むが、馬上槍試合でエーリヒ
が味わった苦痛に比べれば取るに足りはしないと無視する。
︵下らん自罰意識だ⋮⋮︶
そう思いつつも今はエーリヒの苦痛や苦労を分かち合いたかった。
他ならぬ自分だけは観客ではなく、あの瞬間エーリヒに全てを捧げ
られた存在であり、意識の上では彼と戦っていたとアラエルは信じ
たかった。出血する指先をエーリヒの傷口に当てる。乾きかけの血
と、まだ固まる様子も見せない血が混ざる。そっとすくいとったア
ラエルは血を口許に運び、舐める。
︵ほら見ろ、四の五の理屈をつけても、本質は吸血鬼ではないか︶
美味い、と感じる自分を嘲笑いつつも、尊敬すべき男と同一化を
成し遂げたような気がして、アラエルは泣きながら笑っていた。も
う十分だ、私は愛情を受けた、そうだろう? 微かに呟きながら目
84
頭を拭う。指の傷はやがて塞がった。アラエルは再びエーリヒの頬
を撫でる。様々な感情の奔流の中にあったアラエルは撫でるうちに
ようやく冷静さを取り戻し、周囲の様子を伺う余裕ができてきた。
だからだろうか、自分を何処かから見詰める、誰かの気配を感じた
ような、気がした。
﹁お医者様ですか?﹂
昼間に暴れた騎士達のためにアンツィオから医師が派遣されてい
る。もし今の光景を見られていたなら言い訳が立たないとアラエル
は苦い顔をした。自分の血液を人の傷口に塗り付けたり、人の血液
を舐めるなど非常識極まりない。やってからアラエルは怪我人にす
ることではないと後悔した。
﹁⋮⋮?﹂
だが誰も現れることはなく、再び辺りを静寂が支配する。気のせ
いか、と思ったアラエルは頬に手をやるが、その瞬間にぱちり、と
焚き火が弾け、思わず手を引く。同時に膝の上で眠るエーリヒが身
じろぎするのをアラエルは感じた。
﹁んん⋮⋮ここは⋮⋮ぐえっ!?﹂
エーリヒが起きるのを確認すると同時にアラエルは身を慌てて起
こす。結果としてエーリヒは膝から滑り落ち、地面にしたたかに後
頭部を打ち付ける羽目になった。
﹁やっと起きたか。あまり世話を焼かせるなよ﹂
﹁あ、あぁ⋮⋮﹂
85
寝ぼけ眼のエーリヒは状況がよくわかっていないのだろう。目を
丸くしてアラエルを見つめた。
﹁私は食事の支度がある。あと、馬の世話もな。お前は疲れている
のだろう? 後で食事を持っていくゆえ、天幕で休んでいろ﹂
有無を言わさずそう指示すると、背を向けて歩き出す。後ろで不
満そうな声が聞こえるが、知った事ではなかった。とにかくどこで
自分が寝ていたのかをエーリヒに気付かせる訳にはいかない。それ
だけがアラエルの関心事なのだから。
︵今日も星が綺麗だ︶
楽器が欲しいな、そう思いながらアラエルは女達の集団に身を投
じる。好意はまだ続いているらしく、アラエルは歓待された。ただ、
いつの間にか姫と言うあだ名がつけられていたのは閉口せざるを得
なかった。
2
トーナメント
翌日以降も馬上槍試合は続く。
試合で最も名を上げたのがエーリヒなら、面目を完全に失ったの
は少年騎士トリスだった。
体格に恵まれず、ために甲冑はサイズに合わず、馬も小さなもの
を選ばざるを得なかった彼は当然のように実戦経験に欠け、試合の
86
経験も一切ない。それでも騎士は騎士。訓練そのものは受けていた
ために勇気を振り絞って試合には出場した。アラエルは一人だけ明
らかに装備も体格も劣るトリスを心配して、なんとか思い止まらせ
るようにしたのだが、それは却って彼の自尊心を大いに傷付け、意
固地にするだけの効果しか生まなかったらしく、ぶっつけ本番の奇
跡を信じてトリスは槍を取ることになる。
トーナメント
そうして始まった彼にとっての馬上槍試合は悲惨なものだった。
騎士は体面を重んじ、名誉を自己の命よりも重視する。彼らにと
って名誉とは先祖代々脈々と受け継がれてきた伝統であり、自らが
依って立つ基盤である。実家を嫌い名を捨てた騎士ですら、﹃騎士
である﹄ということには並々ならぬ自負と誇りを持つ。名誉を汚さ
れ﹃騎士である﹄ことが出来なくなれば、それは死よりも恐るべき
事だった。だから僅かな侮辱にも騎士達は容易く剣を抜き、簡単に
命を賭け、奪う。自分が侮辱に泣き寝入りする貧弱な騎士だと侮ら
れないために。侮辱には決して退かず、直ちに復讐する強い騎士だ
と見なされるために。
そんな騎士達にとってトリスのとった行動は論外であった。人の
恋人に横恋慕した挙げ句に勝手に恥を掻き、逆恨みして決闘だなん
だと騒ぎ立てるなど騎士のやることではない。自分であれば即座に
斬殺していると言う騎士すらいた。
剣を抜き、決闘を口にしたら騎士は当事者達がどれだけ理性的で
あっても、もう止まれない。臆病者という世間の嘲笑が彼らの退路
を自動的に断つ。戦いを回避することで実家が被る損害が彼らの背
を押す。こうなってしまえば、負けて死ぬ方がまだしも面目が立つ
と言う事情がどちらかの流血なしでは終わらない文字通りの死闘へ
と彼らを誘う。大多数の者にとって決闘や侮辱とはそういうもので
87
あり、余程の侮辱を受けた場合でなければ慎むべきものだった。
エーリヒは侮辱や決闘を柳に風と受け流し、カールマンは事態を
トーナメント
巧妙に流血なしで終わる方向へと誘導、最後にアルフォンソが監督
することで誰にとっても利益のある馬上槍試合へと決闘は変化した。
その器と手腕に騎士達は例外なく感服したが、そうなると無用の騒
ぎを起こしただけのトリスへの視線はなおのこと冷たくなる。
ーー青二才、短慮の報いを払え。
容赦なく騎士達は経験のないトリスに襲い掛かり、全員が一合で
トリスを叩き落とした。
3
﹁が⋮⋮あぁ⋮⋮﹂
何度目かになる落馬を経験し、トリスは地面に這いつくばる。ラ
イバルと定めたエーリヒは初日から大一番の勝負を繰り広げてこれ
に引き分け、翌日以降もけろりとした顔で出場しては騎士達を叩き
落としていく。しかも叩き落とされた騎士達は一様に誇らしげな顔
をしていた。
ーー敗れようとも、悔いはない。
トリスの対戦相手は違う。全員が露骨に彼を見下すのだ。
ーー貴様など、騎士ではない。
88
例外はカールマンとエーリヒぐらいのもので、彼らはトリスの若
年を理由に自ら敗北を宣言。槍を水平にすることなく会場を立ち去
ったが、それもまた彼にとっては屈辱的なことであった。
﹁く、そぉ⋮⋮﹂
息も絶え絶えになりながら高台を見る。そこにはエーリヒの耳を
摘まんで口許に寄せ、がみがみと何事か言うアラエルの姿があった。
トリスは、今や二人が余人の立ち入れぬ関係だと理解している。
試合の始まったその日の夜、せめて勝利の祝福をとアラエルのと
ころのまで向かったのが間違いだった。膝の上にエーリヒを載せて
愛しげに頬を撫でるアラエルはトリスの今までの行動を全否定して
いるに等しく、血を混ぜて舐める行為などは見たことがないほど淫
靡で、自らがただのピエロであることを完全に理解させた。
彼は敗北者だった。彼は若さと恵まれた出自のゆえに取り返しの
つかない過ちを犯し、騎士としての全てを失いつつあった。
﹁まるでぼろ雑巾ですね﹂
立ち上がることもできず、這いつくばるトリスの頭上から声が掛
けられる。声には一切何の感情もなく、淡々と述べるだけだが、あ
からさまな侮辱である。ただちに剣を抜こうとするも、そんな体力
はどこにもなく、また惨めに這いつくばるだけに終わった。
﹁およしなさい。私もそれなりにやります。何せ傭兵隊長は実力主
義ですからね。貴方が万全でも絶対に負けませんよ﹂
にこやかに微笑むのはアルフォンソ。言わずと知れた傭兵隊長だ。
89
今やトリスも現実を知った。勇気など何の役にもたたないどころか、
却って身を危うくすると言うこと。そして自分の実力など、騎士の
中では下の下に位置すると言うこと。
﹁ねぇトリス卿、貴方がこうして這いつくばっているのは、貴方が
弱すぎるからです。貴方が強ければ這いつくばっているのはエーリ
ヒ卿のほうだった。そうでしょう?﹂
世は弱肉強食、強力な中央政府なき世界で、それは唯一の理だっ
た。誰も助けてくれないのだから、自分が強くなるしかない。
﹁でもね、あなた達の言う強い弱いなんて、実は無意味なんですよ。
私はここの騎士の誰よりも強いのですが、それは槍が上手いとか剣
が強いとか、そういうことではありません﹂
アルフォンソはにこやかな笑みを崩さず、トリスに囁いた。
﹁10分以内に全ての騎士を皆殺しにして、しかもそれを誰にもわ
からないように口封じできる。それが私の力です﹂
アルフォンソはそう言いながら周囲を固める傭兵達を指す。視線
に気づいた白衣団の傭兵達は、即座に弩を構え、密かに騎士達に照
準する。白衣団だけではない。一般の傭兵の中にも白衣団同様に素
早く反応した者達がおり、彼らは競技場を封鎖するような位置に陣
取っていた。
トリスは愕然とする。彼にとって強さと言うのは騎士道物語の中
の英雄達に象徴される、剣術や魔法の事を指したが、そんなものが
まるで相手にならない存在が、そこにいた。どんな英雄も数には、
否、組織力には勝てない。
90
﹁これが本物の力です。加えてバイステリにも強い影響力を持つ私
は、ある程度の事件なら揉み消すことすら可能ですから、虐殺行為
も問題ではありません。私には、なんでもできるんですよ。さて、
ここで耳よりな話です﹂
呆然とするトリスにアルフォンソは続ける。人生経験においても
戦歴においても、トリスとは天と地ほども違う彼の言葉は、まるで
託宣のようだった。
﹁本物の力と言うものを、手に入れてみませんか?﹂
91
バイステリへ
1
トーナメント
最終日を迎えた馬上槍試合は大きな熱狂に包まれていた。
決勝にまで駒を進めたのは多くの予想通りにエーリヒとカールマ
ンであり、彼らはトリスに勝利を譲った他は互いを相手に引き分け
たのみで、他は全勝で通している。戦績は五分と五分であり、最後
の一戦こそが決め手となる。引き分けはあり得ない。どちらかが勝
つまで水を被せてでもやらせねば、誰も納得しない。
とはいえ、会場には片方の勝利をより願う雰囲気が形成されてお
り、その雰囲気をカールマンは感じ取っていた。
﹁いけねぇな。これじゃ俺が悪者じゃないか﹂
会場は明らかにエーリヒの勝利を望んでいた。これはカールマン
の責任ではなく、誰より美しいという理由で試合の賞品扱いされて
いたアラエルが元々エーリヒの恋人であると改めて認識された事に
原因があった。カールマンの槍の腕前がエーリヒを凌ぐことも悪い
方に作用し、自分達で賞品に仕立て上げながら、騎士や見物客は恋
人を救うために強敵と戦う英雄という配役をエーリヒに宛がい、熱
狂していた。そこがカールマンには面白くない。
傭兵騎士の中でも年長に属するカールマンはロマンチストであり、
自分が正義の側であることを尊んだ。彼にとって、道を踏み外して
自ら汚辱に満ちた死へと進軍しようとする若い騎士をさりげなく救
うのは正義と言えたが、恋人の唇を守るために戦う騎士に立ち塞が
92
るのは全く面白くも何ともない。
言ってしまえば興が削がれた。エーリヒの槍の腕は既に見切って
いる。中々の腕前ではあるが自分には及ばないとカールマンは確信
している。前回負けたのは何よりもやる気が失せたのが大きい。そ
して今、同じような状況にある。やる気など最早ない。であれば、
カールマンがやる事は決まっていた。
﹁いてて、いてててて⋮⋮﹂
わざとらしく腹を押さえ、痛がる。その様に会場は不審がってし
んとなる。
﹁あーあー、腹が痛い。食いすぎた。こりゃ無理だ。棄権する﹂
それだけ言うとカールマンは馬を返し、会場を後にする。暫くし
た後、会場は歓声で満たされた。
﹁まー、あんな目をされちゃなぁ⋮⋮﹂
振り返って高台を見つつ一人ごちる。
﹁女の目じゃないか。羨ましい﹂
不戦敗だが、この結果はカールマンの評判を下げなかった。結局
初日の大立ち回りから誰もが共通の物語を望んでいたのだから。カ
ールマンはそこに協力しただけの話である。却ってカールマンはエ
ーリヒに道を譲った男らしい行為を讃えられた。無論、計算の内で
ある。
93
とはいえ、そうさせたという意味では、エーリヒの勝利はアラエ
ルが呼び込んだとも言えた。
2
﹁い、いいか。目を瞑ってろよ。くれぐれも目を開けるなよ。開け
たら殺すからな。あと微動だにするなよ。動いたら殺すぞ。本気だ
からな、刺すぞ﹂
顔を真っ赤にしてアラエルはエーリヒに相対する。内心ではいっ
そ縛ってやりたがったが、そうもいかない。目を合わせるのも恥ず
かしいアラエルはさっきから一度もエーリヒを見ず、あらぬ方向を
見ながら喋っている。
﹁ここまできたから覚悟を決めてやるだけであって、そこに特別な
感情は一切ないと覚悟しろよ。いいか、他の誰が相手でも同じよう
にする事を事務的にこなしているだけだからな。そこを勘違いする
なよこの馬鹿⋮⋮!﹂
﹁お前、追い詰められると凄い事になる方なのな﹂
﹁なんでそんなに落ち着いてるんだお前はッ!﹂
落ち着き振りが腹立たしいアラエルはエーリヒの耳を摘もうとす
るが、するりと避けられる。
﹁目は閉じているし、身動きもしない。ついでに言うなら勘違いも
しねぇよ。他の誰がなんと言っても俺は勘違いしねぇから﹂
94
子供を諭すようなエーリヒの口調にアラエルは一層顔を紅くする
も、ついに覚悟を決めたのか一歩二歩と近づき、呼吸がかかるほど
の距離まで詰めると、腰に手を回そうとして、
︵そこまではやり過ぎだろう!︶
慌てて引っ込め、頬に軽く接吻を済ませてから、全速力で逃げ出
した。
︵わ、私は男だと言っている⋮⋮!︶
胸の高鳴りが苛立たしい。紅潮する頬が苛立たしい。後ろから追
いかけてくる好意に満ちた笑い声と歓声が苛立たしい。何もかもが
苛立たしい。何より、嬉しいと感じている自分が一番苛立たしかっ
た。だが、腹立たしいこともある。
︵あいつは、一体、なんであんな素っ気ない態度を取るんだ⋮⋮!︶
思考がそこまでたどり着いた辺りでアラエルは頭を掻き毟り、不
自然ながに股で会場を後にした。とはいえ何処にいくというわけで
はない。ただ恥ずかしさの余りに会場から離れたかっただけだ。試
合が終わり、アンツィオで一旦護衛隊は解散となったが、アラエル
に給料は未だ支払われない。バイステリに拠点を置くエーリヒが往
復の契約で仕事を請けていたため、その縁者として登録されている
アラエルもバイステリに着くまで給料が支払われないのだ。
︵別れる決意をしたその後にこれとは、なんとも間が抜けている︶
とはいえ、給与係からその旨を告げられたとき、不思議な安堵が
あったのも確かである。
95
︵自立せねば、枷となるというのに⋮⋮︶
夜道に堕ちるよりは人でいたいが、親しくなりすぎれば出来損な
いの女であり、人ですらない我が身が確実に枷となる。それを思え
ば一期一会の繰り返しが一番とは思うものの、そこまで強く生きら
れるのかは疑問だった。
︵とはいえ、私には常識が欠けている。補う意味でも暫く行動を共
にするのは悪くない。どの道他に手もないのだ。知識もお金もなし
にこのような殺伐とした世界を歩けば、望まずとも夜道に堕ちてし
まう︶
いい訳じみているぞ。と思う自分に他に手はないのだからやむを
得まいと返し、アラエルは復路も傭兵隊と行動を共にすることにす
る。問題はただ一つ。
︵微笑ましげなものを見る視線と、これから付き合わねばならんの
か⋮⋮︶
会場を出ると、どこからか先回りしてきていた女達が彼女を迎え
る。姫は初々しくて可愛いねぇ、という言葉が泣き出したくなるほ
ど恥ずかしかった。
3
護衛隊はアンツィオの周辺に暫く留まり、抜けた分の傭兵を募兵
してバイステリへと帰還する。この際に護衛隊は郵便物等の配達も
請け負っており、両都市の連絡にも一役買っていた。
96
帰りも当然手ぶらでは帰らない。アンツィオからバイステリへ向
かう商人の護衛も仕事の内であり、大都市であるバイステリへの輸
送量は往路を超えるものとなる。この繰り返しがバイステリ市によ
るアンツィオ市への安全保障の証明となり、両都市の友好と商業の
発展に貢献しているのだ。
﹁そういえば聞いたかい、姫様﹂
土埃に塗れる裾を気にしながら歩くアラエルには、行きと比べて
よく声が掛かる。行きはほぼエーリヒとしか話していなかったが、
今は騎士や傭兵に商人、飯炊きの女と、とにかく様々な人間が好ん
でアラエルと話そうとしてきた。この時も傍らで歩く恰幅のいい女
︱︱恐らくは誰か傭兵の妻であろう︱︱が満面の笑みを浮かべなが
らアラエルに話しかけてくる。
﹁あんたのいい人が、白衣団に声がかかったってよ﹂
我が事のように喜びながら告げた女にアラエルは目を丸くする。
初耳だった。期待通りの反応に女は歯を見せて笑い、アラエルの背
を軽く叩きながら続けた。
﹁よかったねぇ。護衛隊にたった一度参加して入隊だなんて、流石
はエーリヒさんだよ。あんたも鼻が高いろう?﹂
﹁それは勿論⋮⋮そうですか、それはよかった﹂
油断ならない人間に見えるアルフォンソの下、傭兵という戦争を
生業とする仕事に就く事は必ずしも手放しで喜べるわけではなかっ
たが、エーリヒやカールマンといった人種は戦争から逃れられない
97
宿命にある。そうである以上、アラエルは単純に喜ぶことにした。
﹁他の騎士様や、傭兵の方々で雇用が認められた方はいらっしゃい
ますか? 例えばカールマン卿とか⋮⋮﹂
敢えてトリスの名は出さなかった。まだ歳若いにも関わらず誇り
のすべてを剥奪されたかのような彼に同情を感じてはいたが、とて
も入れるとは思えなかったのだ。だが、女は意外な答えを返す。
﹁そうそう、今回参加された騎士は皆採用だよ。あのトリスも含め
てね! 全く隊長は何を考えているのだか。それに傭兵でも結構召
抱えられた人は多いみたいだね。聞いておくれ、うちの宿六も白衣
団入りだよ!﹂
いぶか
それを聞いてアラエルは訝しむ。事前に聞いていた話では白衣団
は50名程度の精鋭であり、増員は難しいという事だった。それが
今回の護衛だけで急に何十人も増員というのは理屈に合わない。ま
さか試合が効いたというわけでもないだろうに。
︵何か、そうせざるを得ない事情があるのだろうか?︶
明確な軍拡である。平時に全く役に立たない常雇いの傭兵を増員
する以上、そこには何らかの意図があると考えて然るべきだった。
思えば友好都市の筈のアンツィオで何日にも渡って馬上槍試合をや
ったのも妙だ。何か事情があるに違いないと思いつつも、アラエル
の知る限りではそれ以上の考察は不可能であった。
︵後でエーリヒにでも聞いてみるか︶
そう思ってエーリヒの顔を思い浮かべると、胸が少し高鳴る。試
98
合当日の夜の事を思い出すと、今でも死にたくなった。
︵忘れろ忘れろ忘れろ⋮⋮! 奴は尊敬に値するが、恋愛対象では
ない⋮⋮!︶
ぶんぶんと首を振って記憶から追い出そうとするアラエルを眺め
る女は、若いね、とだけ言ってアラエルから離れ、伴侶と思しき傭
兵と会話を始めるのだった。
その日は、少しだけ早く行軍が終わった。
4
野営の準備にもアラエルは慣れてきた。食事の支度や朝早くの洗
濯にもぎこちないながら参加している。
食事に関しては塩味がきつすぎ、また半ば腐ったものしかないた
めに臭いもきついが、我慢が出来ないほどではない。皆が同じもの
を食べるのだから文句を言えるわけがないのだ。天幕暮らしも慣れ
れば悪くはなく、特にこの世界の人間は魔術を用いて簡単に着火で
きるため、夜間でも明かりや暖房にさほど苦しむことはない。アラ
エルには使えなかったが、方々で簡単に火が灯るのだから同じこと
だった。
︵最大の問題は入浴だな⋮⋮︶
この世界の人間には入浴の習慣がない。どころか、病気というの
は水から来るものだと信じているところがある。加熱処理されてい
ない生水は飲み水としては確かに危険であり、病気の原因になるが、
だからといって身体の清潔さを保つのに必須の入浴を絶っては、不
99
潔さは増すばかりである。まして護衛の列を組んで汗を掻きながら
延々と行進しているのだ。最低限、肌着は毎日着替え、洗濯を小ま
めに行うことで対処はしているが、貧乏人の集団である護衛隊はそ
もそも古着のそのまた古着という程度のものしかなく、洗濯するた
びにぼろぼろになっていく様はアラエルを閉口させた。そもそも洗
剤がなく、水に浸けて洗濯板と棒で力任せに擦るしかない以上、た
だでさえ耐久度の低い肌着はすぐ破け、ほつれ、使用不能のぼろき
れになる。
︵私自身、身を清めたいしな⋮⋮行水ぐらいはしたいものだ︶
復路は荷物が増えたが、囲む人数は同じである。即ち川に小船を
浮かべ、そこに荷物を積んで両側から引くことで多くの荷物を少な
い労力で運んでいる。馬車よりも輸送量が多く、馬草を消費するこ
ともない船は効率的な輸送手段だが、反面、川沿いしか進めない欠
点があり、進む道が限定される。隊は往路とは違う川沿いの道を進
み、往路よりも若干長い時間をかけてバイステリへ帰還している。
一方で川の水が使えるために洗濯は捗り、飲料水にも不足はしな
いが、これだけ水があるのだから身体を清めたいとアラエルは思っ
ていた。
︵火種に不足しないのだから、入浴とて出来そうなものだが、さて
⋮⋮︶
要するに加熱処理されていない水が問題なのであって、一度沸か
してからの水なら皆、普通に飲む。同じ理屈で沸騰させてから冷ま
した湯なら入りそうだと思ったが、飲み水と風呂とでは必要とされ
る熱量がまったく違うことに思い至り、断念する。
100
︵入れないとわかると、余計に入りたくなるな⋮⋮︶
急にあちこち痒くなってくる。ダニ、ノミ、シラミ。全て旅のお
供ということをアラエルも知った。石鹸は貴重品なので使用不能だ
が、この際水に浸かれるならなんでもいい。食事の支度を終え、エ
ーリヒのところに配膳するころにはアラエルの頭の中は水浴で占め
られており、大いに不審がられたものの、まったく気にならないほ
どであった。
︵よし、今夜決行だ!︶
誰が何を言っても上の空のアラエルは、寝静まったころを狙って
行水に行く事を決意した。
5
夜間であれ、歩哨は立つ。とはいえすり抜ける方法などアラエル
には幾らでもある。隠形の能力は健在だ。気配を消し、アラエルは
川へ向かう。着替えは持っている。タオルのようなものはないが、
ぼろきれなら幾らでもあった。
オーバードレスを脱ぎ、ワンピースを川岸に置く。人気がないの
は確認している。念のため気配を探ったが、周囲には誰もいないと
確信できた。月光が白い肌を照らす。二本の角と背に負った小さな
翼が影に異形を浮き上がらせた。
︵いざ︶
万感の思いを込めて川へと裸身を滑らせる。途端につま先から頭
101
まで冷気が駆け巡り、思わず足を止めそうになったが、この機会を
逃したら次は一体いつ入れるかわからないと言い聞かせ、思い切っ
て一気に身を沈めた。
︵寒いが、心地いい︶
川とて清浄とは言い難い。町の人間も旅人も、川に汚物を垂れ流
す。アラエルも野営地の上流を選んだが、その更に上流から何が流
れているかはあまり考えたくない。とはいえ、目に映る川は澄んで
清浄のように見えるし、ここ何週間の汚れをまとめて浄化している
ようだった。
︵もう慣れたが、最初は鼻が曲がるかと思ったぞ。誰も彼ももっと
清潔にすべきだろう⋮⋮︶
とはいえ清潔の概念そのものが違う。下着を毎日替える事が彼ら
にとって最上の清潔なのだ。身体の汚れは洗濯した下着が吸い取っ
てくれると本気で誰もが信じているらしく、そのために洗濯要員は
重労働なのも相俟って重視されている。つまり、この隊は彼らの価
値感でいえばかなり清潔に気を使っていることになる。
︵替えないよりは確かによほどマシだが、本質的な解決にはなって
いないな⋮⋮入浴とはいわなくても、身体を清潔にするような手を
進めないものか︶
半身を起こしてぼろきれで身体を拭く。気休めではあるが少しは
清潔になった気がした。水の冷たさにも多少は慣れた。あまり長居
して誰かに見つかれば、貞操観念が強固な時代のこと、非難される
恐れもあったが、それでも身体を清める快感には替えがたく、アラ
エルは暫くそこで水浴を楽しんだ。
102
︵そろそろ、上がるか︶
気配は消してもアラエルがいない事はわかる。夜間ゆえまだ気付
かれていないだろうが、面倒なことになる前に戻るべきだった。そ
うして川から上がり、水を拭いつつ周囲に気を配ると、先ほどまで
には感じなかった何かが、彼女の探知範囲内に入ってきていた。
︵誰か探しに来たか⋮⋮? いや、方向が野営地とは違う︶
木陰に身を隠しつつ、更に感覚を鋭敏にして探る。夜間が幸いし
たらしく、アラエルの感覚は正確にその存在を捉える。
︵3人ほどか。歩き振りから気付かれている可能性はないな。金属
が擦れる音がする。腰に剣を差しているということは、兵士か⋮⋮
?︶
隊の人間ではないとアラエルは当たりをつけていた。歩き方が慎
重に過ぎる。発見を避けるようにそろりと進む足運びは偵察者のよ
うだ。野営地を伺って一定以上には進入せず、遠目にさまざまな角
度から見渡すような動きはなおのこと確信を強める。隊の人間であ
るわけがない。
︵我々を偵察している⋮⋮?︶
その可能性に気付いた時、心臓が大きく脈打った。
﹃護衛隊を組んでいけば確かに襲撃のリスクは減るが、その分行動
予定や陣容は明らかになる。ちょっと調べれば、どこで野営して、
どういう道を通るかなんてすぐわかるんだからな。だから根性の入
103
った野盗だと、徒党を組んで襲撃に来る事もある﹄
エーリヒは護衛の始まりに際してそう言った。事実、そういった
大規模な野盗の群れに壊滅させられた護衛隊もあるのだと言う。そ
して、そういった野盗との戦いは命がけになる分、向こうも容赦な
く命を奪いに来ると。
奇襲を受ければ熟練のアルフォンソやエーリヒでも危ないだろう。
だが、運よくアラエルは偵察に来た野盗を発見している。落ち着き
を取り戻すと、寧ろ余裕が生まれた。
︵喜べエーリヒ、入団早々、お前に手柄が舞い込んだ︶
素早く、しかし音を立てないように気をつけながら服を着ると、
アラエルは気配を消して野営地に向かう。無論、後ろの3人への警
戒は解いていない。
︵真っ向勝負ならお前は負けない、そうだろう?︶
足を引っ張ってばかりだったという自覚を持つアラエルは、隊と
エーリヒに役立てたことを喜びながら音もなく闇に溶けて消えた。
104
夜戦
1
報告を受けた護衛隊は俄かに騒がしくなった。
実のところ兆候は既に昼間にはあったらしい。騎士や白衣団の表
情には不意を衝かれたという思いはなく、来るべきものが来た、と
いうものが読み取れた。こちらが敵に気付いたことはすぐに知れる。
不意を衝くことに失敗した賊が襲撃を諦めるか、それとも強襲を選
択するかは不明だったが、徒党を組んで待ち伏せをしていたと思わ
れる賊が存在を察知された程度で逃げ出すとはとても思えなかった。
戦いが迫っている。
﹁馬車の中身を空にして車陣を作ってください。非戦闘要員はその
中へ。傭兵隊は外周で防御に当たります﹂
アルフォンソの指揮の下防御体制が固められる。空になった荷馬
車を円形に配置して簡易の陣地とすると内側に商人や女達が入って
松明に火をつけ、外周に傭兵たちが長槍や弩を構えて陣取る。アラ
エルは内側、エーリヒは当然外周だ。アルフォンソは商人達の馬車
すらも強制的に陣地として使用しており、当然非難の声が上がった
ものの、緊急時ということであっさりと意見は退けられた。
︵戦闘要員の数を非戦闘要員が上回るから仕方ないとはいえ⋮⋮護
衛としては若干本末転倒ではないのだろうか︶
荷馬車も財産である。後で保障はするのだろうが、これでは一体
何のための護衛なのかと商人たちが文句を言うのも無理はない。森
105
や川を利用して効果的な防御陣を組み上げるのは流石と言えたが、
一方でまさか大規模な野盗の襲撃を想定しておらず、泥縄的に指揮
しているのではないかとも邪推してしまう。
﹁命あっての物種。まぁ、間違った采配ではないのだろうが⋮⋮﹂
アラエルも戦闘用意を整えつつ独りごちる。尤も剣を佩き甲冑を
着て、というわけにはいかない。そもそも女がそういったものを用
いることは禁じられているし、余りがあるわけでもない。彼女の場
合の戦闘用意というのは包帯や矢の準備を言う。
﹁アラエル、恐らく襲撃が近い。守ってやりたいが、騎士は遊撃に
当たることになっている。くれぐれも気をつけろよ﹂
緊張した面持ちのエーリヒが馬を引きながらやってくる。アラエ
ルはその額を軽く指で弾いた。
﹁馬鹿。誰に物を言っている。お前の窮地を救ったのは誰だ。お前
は精々、一度拾った命を早々と捨てないようにだけ気をつけておけ﹂
やりたくはないが、戦えば並みの人間よりは強いだろうと言う自
信がアラエルにはある。この点では悪魔の身体というのも悪くはな
いと思えたが、かといって一人で何もかもなぎ倒せるほど強力とは
思えない。いつぞやのように淫気を使えば100や200は制圧で
きそうだったが、それは味方ごとである。まったく無意味だ。
﹁いや、甘く見るな。負けた軍隊についていった女の末路は悲惨だ
ぞ。⋮⋮それに、どうも嫌な予感がする。これからぶつかるのは、
ひょっとしたらただの野盗じゃないかもしれねぇ﹂
106
真剣な表情を崩さないエーリヒにアラエルは少しだけ不安になる。
不意打ちではなく正々堂々と戦うなら負けるはずはない、そういっ
た思いがあったのは確かだが、エーリヒやカールマンが盗賊ごとき
に遅れを取るとも思えない。それがここまで警戒する理由が何なの
か気になったアラエルは問いただそうと口を開く。しかしその瞬間、
角笛の音が響き渡り、戦闘配置をアルフォンソが告げた。
﹁やっぱりおいでなすったか。それじゃあ、また後でな﹂
馬上の人となったエーリヒは騎士達の列に馬を走らせる。集中運
用するらしい。トリスを除いた騎士全てがそこにいた。
﹁⋮⋮私たちは、何と戦うんだ?﹂
とき
疑問に答える者はいない。代わって、敵の発する鬨の声が聞こえ
てきた。
2
賊は、陣の真正面から攻撃を仕掛けてきた。
護衛隊は野営に当たって見通しのいい場所を選んでいる。木々の
合間を縫っての不意急襲的な攻撃はできない。従ってその攻撃は愚
直な正面攻撃となり、守備側の護衛隊に有利なものとなった。
﹁矢を放て! 盾を構えよ!﹂
前哨戦、即ち矢戦が始まった。白衣団の傭兵達は戦時において隊
長としての役割を果たす。号令の下、傭兵達は大盾を構えて矢を防
107
ぎ、盾の壁の合間から弩を次々に射ち放った。弩は機械式の巻き上
げ機で通常のものよりも重く太い矢を高い張力で張られた弦に置き、
引き金と共に射出する兵器であり、素人でも即座に扱える強力な武
器である反面、速射性に劣る。ただ引き、放てばいい通常の弓に比
べて、巻き上げ機を回さねばならない分、どれほど操作に熟達して
も連射はできないのだ。しかしその威力は並みの騎士甲冑を易々と
貫く。
風切音を残して矢が飛ぶ。敵の位置までお辞儀もせずに直進した
矢は夜間ゆえの見通しの悪さが災いし、当たることはなかったもの
の、足を止めさせるには十分だった。敵も弓で反撃を行うが、通常
の弓しか保有しないのか、盾を貫通することもできない矢は、一切
何の脅威にもならなかった。
巻き上げを終えた弩が再び矢を放つ。不用意に大きく身を晒した
幾人かの敵がその身を貫かれた。申し訳程度の甲冑をまるでないも
ののように貫通した矢は胴体に深々と突き刺さり、瞬時に絶命へと
導く。矢を受けた敵兵はその場で膝を折り、頭から地面に倒れた。
それを見た周囲の敵兵が焦り、背を向けるがそれこそいい的であっ
た。
﹁狙え、放て﹂
無防備な背中に矢が突き刺さる。頭部に命中した敵などは文字通
り頭蓋を粉砕された。引くことも反撃することもできない敵は弩の
連射性能の低さを頼みに前進を始めるが、途端に傭兵達は長槍を前
に出し、抜刀隊との二段構えで防御に当たる。剣と弓しか持たない
のだろう、それを見た敵の間に動揺が広がり、歩調が乱れる。その
間にも矢は容赦なく襲い掛かる。
108
圧倒的であった。
﹁⋮⋮装備の質が違いすぎるのか⋮⋮? これではまるで殺戮だ﹂
夜目の利くアラエルは戦場の模様を正確に把握している。だが、
あまりに一方的な展開は寧ろ吐き気を催させた。既に5人死んだ。
直進する弾道を描く弩は命中精度に大きく優れ、また射手の配置そ
のものも凹形を描いて十字に矢を浴びせられる体勢にある。出血覚
悟で突撃を行えば矢による被害は極限されるだろうが、槍と剣が出
迎えるだろう。それでもこのまま遠距離戦を続けるよりは分がある
はずだったが、戦意に欠けるのか、敵はおろおろとするばかりであ
る。
︵そんなことなら、最初から来なければ⋮⋮!︶
ごみのように人が死ぬ。矢を放つ者の動きにも遅滞はない。慣れ
ているのだろう。まさしく機械的に彼らは機械弓を扱い、放った。
アラエルは身体の震えが止まらない。
︵早く逃げてくれ、早く⋮⋮︶
祈るように敵を見る。恐怖に歪んだ顔がいくつも見えた。降参す
るか、逃げろ、とひたすらに思い両手を握り締める。だが、次の瞬
間。常人よりも鋭い感覚を持つアラエルは、左からぞわりとした悪
寒を感じる。
﹁!?﹂
正面の敵のような怯え交じりのそれではない。試合で感じたよう
な陽性のそれでもない。むき出しになった獣性と、強い憎悪をアラ
109
エルはそこに感じた。
一言で言えば、それは﹃敵意﹄というものであった。
3
﹁ああ、やはり陽動でしたか﹂
アルフォンソは側面から上がった喊声に驚きもしない。
﹁正面の敵にやる気が感じられないのでもしやと思いましたが、な
るほど、主力は側面攻撃のために温存していたと言う事ですね。小
賢しくも軍略を使うとは、やはり野盗の類とは違うようですねぇ﹂
首脳部と言うべきアルフォンソとその一団に一切動揺はない。ア
ルフォンソも、その直属の部下達もこの程度の戦闘ならば数限りな
く経験しているのだ。
﹁どうしますか? 隊長の予想が正しかった場合、側面から仕掛け
てきた連中は装備がいいはず。今の備えでは対抗できませんが﹂
部下の傭兵の問いにアルフォンソは即座に答えた。
﹁極論すれば護衛対象以外はどうでもいいのです。今行っても女達
が邪魔になりますし、十分な戦力も抽出できません。代わりが利く
のが傭兵のいいところ、そうでしょう? ああ、それと⋮⋮﹂
予備隊の編成にかかる部下の背中にアルフォンソは呼びかける。
110
﹁側面からの騒ぎで動揺して持ち場を離れた兵がいた場合、相手が
騎士でも射殺するように。敵前逃亡ですから﹂
そう言うと自らも下馬し、周囲をただちに部下が固める。その中
の一人、一際背が低く、槍も剣も持たない、鎧すらも最低限の少年
の肩をアルフォンソは叩いた。
﹁さて、行きますよ。トリス﹂
4
側面からの攻撃に、隊は浮き足立っていた。
急速に接近する敵は乗馬しており、その分弩にしてみればいい的
のはずであったが、矢を恐れずに進むだけの度胸と、騎馬の速度が
射程の利を帳消しにした。側面を不意に衝かれたという動揺もあり
照準は定まらず、結果として接近までに2度の斉射を行ったのみで
弩兵は役割を終えた。倒せた敵は一人もいない。
﹁槍を!﹂
4メットほどの長槍が列を作り、石突を地面に突き刺して騎馬突
撃に備える。長槍による密集陣形は騎馬突撃に対する最大の備えに
なるとされていたが、そもそも正面に比べて配置されている人間が
少なく、十分な厚みがあるとは言いがたい。そこに、凄まじい速度
で突撃をかけてくる騎馬が迫る。その得物に気づいた時、傭兵達は
血の気が引いた。
ランス
﹁騎士槍!? き、騎士だっ﹂
111
ランス
3メットはある円錐形の槍は、紛う事なき騎士槍であり、そんな
ものを扱うのは騎士以外にあり得なかった。銀色の甲冑を身にまと
い、外套をはためかせて突撃する騎士の数は目算で20。傭兵達は
自分達が何と戦っているのか、今初めて知った。
﹁びびるな! ランス突撃なんぞ前時代の遺物だ! 持ち場を離れ
ず槍で迎え撃て!﹂
震える膝を無理やりしゃんと立たせ、傭兵達は槍を構える。騎馬
の重量を載せたランス突撃は凄まじい破壊力だが、石突を地面に突
き立てた長槍は言わば地面そのものを支えにしている他、射程でも
勝る。うかつに飛び込めば串刺しになるのは騎士であると、彼らは
知っていた。
ラン
しかし接触まで残り数秒、という瞬間、傭兵達は自らの考えがあ
まりに浅はかだった事に気づく。
﹁あ⋮⋮﹂
ス
突入の瞬間、左右に分かれた騎士達は長槍の正面を迂回し、騎士
槍を捨てて薄い槍列の両側面から斬りかかった。
﹁あ、あ、あぁぁぁぁッ!?﹂
結果は、すぐに出た。
5
112
状況がひっくり返った。アラエルには少なくともそうとしか思え
なかった。
側面から奇襲をかけてきた敵は装備といい、動きといい、敵の主
力であることは間違いなく、薄くしか張られていなかった側面の傭
兵達を瞬く間に蹴散らし、馬車の列に邪魔をされたものの、下馬し
てしまえばなんということもなく、女達のいる車陣の内側に易々と
侵入した。
正面でこちらをひきつけていたと思われる敵も今や戦意を燃やし、
果敢に攻めかかって来る。側面に援護が来るのはもう少し後だろう。
その﹃もう少し﹄の間にどれほどの女が死ぬのか、アラエルは想像
したくもなかった。
︵商人達は本陣の更に奥⋮⋮まさか私達をアルフォンソ隊長は最初
から陣が破られたときの盾として?︶
女は無条件に守られるはず、無意識にそう信じていた自分をアラ
エルは怒鳴ってやりたい気分だった。アルフォンソにしてみれば護
衛対象と物資を守りきれれば面目は保たれるのであって、直属でも
ない傭兵とその縁者がどれだけ死のうとどうでもいいのだから。
﹁くっ﹂
手近な棒を取ると、敵の騎士達に向かう。生き残った傭兵達が果
敢に戦っていたが、旗色は悪い。突破は時間の問題だろう。そう思
ったアラエルは傭兵と切り結ぶ騎士の一人に駆け寄り、横合いから
力の限り殴りつけた。棒が砕け、破片が宙を舞う。
﹁くっ⋮⋮!﹂
113
打たれた騎士は大きくたたらを踏んだものの、すぐに剣を構え直
す。バイザー越しでは表情を読むことはできなかったが、恐らく大
したダメージなどないだろう。アラエルに武術の心得などない。殴
るにしてもただ力任せに殴っただけでは、例え人外の力であったと
しても力が分散し、効果的な打撃を与えられない。それどころか反
動で手は痺れ、指を曲げることも叶わない。
﹁姫⋮⋮!﹂
目の前の騎士と切りあい、追い込まれていた傭兵が驚愕に目を見
開く。女が自ら戦場に出てくるのが意外だったのだろう。だが、気
にしている暇はない。
﹁引き受ける! 他の加勢に行け!﹂
﹁お、女に任せて逃げるわけには⋮⋮!﹂
男としての矜持がアラエルを見捨てることを許さなかったのだろ
う。傭兵は再び剣を構える。アラエルは強い調子でもう一度言った。
﹁ここが破られたら取り返しがつかない! エーリヒ達が来るまで
の辛抱だ、他の加勢に!﹂
傭兵は少しの間逡巡したものの、済まない、と言い残して他の騎
士の下へと走り出した。その場にはアラエルと騎士の二人が残され
る。
﹁ほぉ、いい女だな。女だてらに向かってくる無謀さは気に食わな
いが、その顔は惜しい。奴隷になるなら、助けてやってもいいぞ?﹂
114
勝ちを確信しているのだろう。男はニヤニヤと笑いながら、それ
でも油断なく剣を構えるのはアラエルの馬鹿力を警戒してのものか。
手札を無意味に晒してしまった事をアラエルは今更に後悔する。と
はいえ、退く気も、まして降伏する気もなかった。地面に唾を吐き
捨て、いつでも動けるように両膝を軽く曲げる。
﹁お前らなんぞ、騎士ではない!﹂
﹁よく言った小娘⋮⋮!﹂
ガントレット
男は剣を逆さまに持ち替え、刃の部分を篭手で持ち、鍔と柄をア
ラエルに向ける。生け捕りにする気だ、と思ったアラエルは、生け
捕られた後どのような目に遭うか想像して身震いした。
﹃負けた軍隊についていった女の末路は悲惨﹄。エーリヒの言葉が
現実の恐怖となって襲い掛かる。騎士とはいえ、商人を襲うような
連中に慈悲を求めるだけ無駄だろう。冷や汗が落ちる。とはいえ、
今更逃げるわけにもいかない。
男が踏み込む。反射的に右に避けた。
︵速い⋮⋮!︶
見かけの鈍重さに反して、その斬り込みは驚くほど速かった。避
けなければ間違いなく肩を強打され、戦闘不能に陥ったろう。反撃
しようにもこちらは丸腰である。
続いて横薙ぎの斬撃。悪魔の瞬発力と動体視力を頼りに避ける。
何か武器を、と見回すが目の前の騎士甲冑相手に有効そうな武器な
115
ど何処にもなかった。
︵棍棒ひとつあれば、押し切れるというのに⋮⋮!︶
だが、回避に専念しているからこそなんとか避け続けることがで
きるという面もあった。いかに能力に優れるとはいえ、武術の心得
も戦闘経験もないアラエルが、殺伐とした世界で延々と剣を振り続
カウンター
けてきた騎士と戦うのは無理がある。打ち込めば逆に呼吸を読まれ
て後の先を取られるだろうと言う予感もあった。
﹁よほど目がいいのか⋮⋮よくかわしおる。だが、いつまでかわせ
るかな?﹂
男の言う通りだ。慣れない戦いに短時間にも関わらずアラエルは
息が上がってきている。無駄な動きが多いために消耗が大きいのだ。
対する男は重甲冑にも関わらず余裕が見えた。アラエルには反撃の
手がなく、男は一撃アラエルに当てれば勝ち。しかも体力勝負でも
男に分がある。絶望的な状況だ。
︵何が悪魔の力だ⋮⋮そんなあやふやなものに頼って出てきたのか
⋮⋮!︶
斬撃を回避しつつ後悔する。思えば終始甘かった。敵に同情すら
していた。何かあっても自分の能力は人よりも高いのだから大丈夫
だと、高をくくっていた。だが実際には目の前の男一人を足止めす
るのが精一杯で、それも長くは持ちそうにない。
︵英雄か何かになったつもりで出てきて、この様か⋮⋮!︶
足がもつれる。息が荒くなる。汗が目に入り、それをぬぐうたび
116
に恐怖した。かわしきれないのではないか、と。それでもなんとか
アラエルはかわし続けた。悪魔としての身体能力は、男の挙動を見
てからでも十分に回避を可能としている。だが、アラエルは初めて
の実戦で半ばパニックに陥り、忘れていた。
剣には、刺突もあるということを。
﹁がっ⋮⋮!?﹂
斬撃に慣れていたアラエルは下がる事を回避の基本としており、
不意に突き出された突きのリーチの長さに対応できない。速度でい
っても突きの速さは斬撃を上回る。腹部を柄で強かに打たれたアラ
エルは吹き飛び、うずくまって咳き込み、嘔吐する。
﹁手間取らせてくれたな、小娘﹂
男は兜を外し、甲冑を手際よく外していく。アラエルは動け、今
なら勝てると必死で自らを励ますが、呼吸すらままならず、意識は
今にも飛びそうだ。身動きひとつとれないアラエルに男はゆっくり
と近づく。
﹁ちと早いが、この分だと勝ちは確定している。先に味あわせても
らおうか﹂
下卑た笑いを浮かべながらズボンを下ろす。隆起した逸物がアラ
エルの目に入り、恐怖と嫌悪感が沸き起こった。犯される。そう確
信したアラエルは必死で四肢に力をこめるが無駄だった。
首筋近くに剣が突き立てられ、オーバードレスが破られる。スカ
ートは引き裂かれ、下着が露になった。無遠慮に胸が掴まれ、痛み
117
にアラエルは顔をしかめる。
﹁もっといい顔をしろ﹂
平手打ちが頬を襲う。一切の遠慮なしに戦士の力で打たれたそれ
は、アラエルを萎縮させるのに十分だった。怯えた表情のアラエル
に男はにやにやと笑い、下着に手をかけると力任せに引き裂いた。
﹁他でも戦っているからな、すぐに済ませて、後で可愛がる事にす
るか﹂
言うと男は自分の手のひらに唾をかける。無理やり押し込むつも
りだと悟ったアラエルはこの後来るであろう痛みに怯え、目を閉じ
て歯を食いしばる。
﹁⋮⋮エーリヒ⋮⋮﹂
僅かに呼吸が戻った時、呼んだのはこの世界で最も頼れる男だっ
た。
﹁エーリヒ⋮⋮! 助けてくれ!﹂
﹁おう!﹂
グリーブ
瞬間、重たい軍靴が男を蹴り上げ、宙を舞わせる。放物線を描い
て落下した男は受身もままならず、地面に叩きつけられて転がった。
見上げれば、そこにはアラエルの英雄が抜き身の剣を携え、銀色の
甲冑も美しく、しかし表情だけは怒りに満たして雄雄しく屹立し、
アラエルを守るように剣を構えていた。
118
﹁こいつは、俺の女だ﹂
構えを攻撃的なものに変えながら、静かに言い放つ。
﹁くれてやるわけには、いかねぇな!﹂
119
騎士と傭兵の狭間
1
側面攻撃が始まった時、エーリヒは動けなかった。
主力の攻撃を援護するため、正面の敵が総攻撃に移ったのである。
先程までの怯えた戦いぶりが嘘のように正面の敵は遮二無二突進に
転じ、弩に貫かれて数多の犠牲者を出しながら距離を詰めてくる。
味方弩兵は後退を余儀なくされ、長槍と抜刀隊、そして騎士達が前
に出る。
弩を扱う敵と対戦する際には損害を恐れず距離を詰めるのが常道
とはいえ、それをただの野盗がやってのけるのは異常である。それ
が正しいと理屈ではわかっていても、耳障りな風切り音を残して直
進する弩の矢は恐怖で足を縛るのだ。統制のゆるい集団がこの恐怖
に立ち向かうことが出来るとは思いがたい。違和感を感じたエーリ
ヒは突撃する賊の後方に目をやる。果たして、想像通りのものがそ
こにあった。
﹁こいつら、使い捨てか⋮⋮!﹂
後方から弩を構えた兵士達が目の前で突撃する賊に照準を合わせ
ている。幾人かの賊は戦場から逃れようとしたところを即座に射殺
されており、その躊躇のなさから言っても、保有する装備の質から
しても、彼らと賊が同じ組織に所属するとは思えなかった。恐らく
は元々この辺りに根を張っていた盗賊を後から来た騎士達が壊滅さ
せ、生き残りを使い捨ての道具に使っているのだろう。だとすれば、
この襲撃はかなりの殺意を以て計画されていると考えるべきだった。
120
賊が迫る。槍の列に足を止めたものの、後方から放たれる矢が彼
らに停止を許可しない。突き出された槍に何人かがその身を貫かれ
て死に、降り下ろされた槍に更に何人かが頭や肩を潰されたが、な
お止まらず突進する。槍列を抜けた彼らを、抜刀隊と騎士達が出迎
える。
﹁かかれぇーっ!﹂
カールマンが吠える。ここまで来た敵は少数。その上疲労に喘い
でいる。たちまち賊は押し包まれ、全員が切り刻まれて壊滅したが、
陣は乱れ、射撃は一時的に止んだ。その隙を敵が逃すはずもない。
﹁敵本体、接近!﹂
見れば先程まで味方に弩を向けていた部隊が整列もせず、各々剣
を片手に向かってくる。定石であれば先程と同様に弩、長槍、剣の
三段構えで防ぐべきだったが、突撃が間髪いれずになされたために
陣形の再編が間に合わない。弩は接近されれば無意味。長槍は隣の
者と肩を触れ合わせるほどの緊密な陣を組まねば却って不利な武器
であり、詰まるところ迎え撃つにはこちらも剣を抜くしかなかった。
乱戦である。
﹁抜刀ぉ!﹂
弩兵、槍兵共にそれまでの得物を下ろし、抜刀する。よく通る声
はまたしてもカールマンだ。エーリヒ、カールマンの二人は今次護
衛隊における武の象徴であり、特に見るからに豪傑然としたカール
マンの存在は士気を高めるのに効果的だ。こういった個人の武勇に
秀でた指揮官の真価は乱戦にこそ発揮されるため、この状況は望む
121
ところですらあるが、敵の主力が隊の脇腹を食い破りつつある今、
整然と隊列を組んで膠着状態に持ち込める集団戦ではなく、流動性
が高く、人員の掌握が困難な乱戦では側面に手当ての隊を送るのも
困難である。敵が敢えて乱戦に打って出たのも、側面と正面とで相
互に支援するためという目算があると思われた。
﹁くそっ、邪魔だ!﹂
エーリヒは抜き放った長剣を力任せに眼前の敵に叩きつける。騎
士見習いの従卒といったところか、敵は剣でこれを難なく防ぐが、
エーリヒは即座に蹴りを入れ、たたらを踏ませる。なんとか踏みと
どまったものの、兜の狭い視界に不馴れなのだろう。激しく動いた
ためか、エーリヒの位置を一時的に見失っている事が見えた。その
隙にエーリヒは死角に回り込む。
﹁くたばれ﹂
どれだけ甲冑が頑丈でも、人間が着用する以上は非装甲部ができ
る。間接部分の柔軟性を確保しなければ、戦うことすらできないの
だから。エーリヒが狙ったのはどれだけ時代が進歩しようが絶対に
急所となる箇所、即ち首だった。
剣の中程から先端にかけて滑らすように斬り付けたその一撃は若
い騎士見習いの首を切り落とし、戦場のただ中に赤い噴水を作る。
圧倒的な技量差がなければなし得ない﹃えぐい﹄殺しに敵味方が沸
いた。
﹁次っ!﹂
エーリヒは焦っていた。窮地に陥った側面を救うため、アラエル
122
が丸腰のまま敵と戦っているような気がしてならなかった。アラエ
ルはこの時代にあって例外的なまでに人死にを恐れる反面、自分自
身に関しては奇妙なまでに卑下し、軽んじているとエーリヒは見て
いる。エーリヒとは別の意味でアラエルは死を恐れていないのだ。
放置すれば間違いなくアラエルは前線に立つという確信がエーリヒ
にはあり、その焦りが殊更えぐい殺し方を選択させた。
敵主力が側面から突っ込んできたとしても、正面を放置すること
は許されない。まさにそれこそが敵の狙いなのは明白であり、側面
の敵に内部から食い破られるが早いか、その前に正面の敵を破り反
転するのが早いか、という勝負のただ中によそ見はできない。ゆえ
にエーリヒは当たるを幸いに片っ端から敵を斬り伏せ、それもなる
べく惨い殺し方をすることで士気を挫こうとしていた。
﹁次っ、じゃない。エーリヒ、お前はいい。すぐに側面にいけ!﹂
敵兵の手首を切り落としながらカールマンが叫ぶ。甲冑は既に血
塗れだ。
﹁あっちにはお前の姫さんがいるだろうが! ここで行かねば男が
廃るぞ!﹂
﹁そんなの皆同じだ、俺だけ特別扱いできん! それよりはここを
さっさと片付けて⋮⋮!﹂
﹁馬鹿、違うだろうが!﹂
カールマンは普段の余裕を棄てて怒鳴る。
﹁ここからただの傭兵が一人二人行っても状況は変わらん! だが、
123
この中で最も実戦慣れしたお前なら違うかも知れない! 俺かお前、
どっちかしか皆の期待には応えられない。行くのならお前だ!﹂
斬り結びながら周囲の傭兵も頷く。支援要員の女達は殆んどが傭
兵の縁者だ。それが直接脅威に晒されている今、誰も彼もが駆けつ
けたいだろう。だが、手前勝手に離脱してしまえば戦線は崩壊し、
殲滅が待つばかりである。だからこそ、この中で最強の戦力に自ら
の想いを託して行かせるのだ。
﹁⋮⋮済まん﹂
今また一人の敵の胴を薙ぎつつ、エーリヒは呟いた。
﹁済まん、皆、済まない!﹂
援護に入った傭兵に後を任せ、エーリヒは戦場を後にする。ただ
で済むとは思っていない。アルフォンソは許可なく持ち場を離れた
傭兵への問答無用の重罰を事前に明言している。どれだけ手柄をあ
げても戦後には処刑されるかも知れない。その辺りは承知した上で
カールマンや傭兵達も頼んでいるし、エーリヒも受けている。言い
方を変えればエーリヒは全員のためのスケープゴートにされたのだ。
それでもエーリヒは仲間が敢えて自分にだけ特別に気を遣ってく
れたのだと思っていた。
襲撃を受けた側面に駆けつけた時、エーリヒは意外なほどここの
備えの傭兵が健闘しているのに気付いた。
124
傭兵の強みは集団戦にあり、裏を返せば個々の実力では例外を除
いて騎士に及ばない。当然だ。幼い頃から軍事訓練を受け、肉を食
い、過激な遊戯に身を置いてきた者と、傭兵になるまでは民間人だ
った者とでは地力に差が出る。しかも前者は重甲冑であり、後者は
軽装甲冑なのだから。その傭兵達が、数でも質でも圧倒する騎士を
相手に奮戦している。
﹁怯むな! 死ぬまで戦え! 増援が来るまで持ちこたえればいい
!﹂
士気が異様に高い。陣を崩された軍としては異例なほどだ。
﹁姫を殺させるな! 手が空き次第援護に行け!﹂
それを聞いた瞬間、エーリヒは弾かれたように傭兵と斬り合う騎
士の背後に回り、一息で騎士の首を刎ねる。騎士道に照らし合わせ
れば横槍も背中を襲うのも卑劣きわまりなかったが、気にしている
場合ではない。突如として目の前で斬り合っていた敵の首が落ちて
呆然とする傭兵に近付き問い質す。
﹁女達は!? 避難しているのか!?﹂
傭兵は目の前の人間がエーリヒであると知ると正気を取り戻し、
慌てて答えた。
﹁女達は既に避難しています! ですが敵の勢いが強くて、突破は
時間の問題です。エーリヒ卿の恋人が、時間を稼ぐといって騎士の
一人と向こうで交戦中です! 早く行ってください!﹂
﹁わかった! 悪いが増援が来るまでまだ踏ん張ってくれ! 騎士
125
にはなるべく二人以上で掛かるようにしろ!﹂
必死の形相で指差す傭兵にエーリヒは短く指示を与え、その場を
後にする。傭兵は無言で頷くと、剣を構えて次の敵を求めて駆けて
いく。
やがて視界に捉えたアラエルは騎士を相手に丸腰のまま、身の軽
さを活かして必死でこれを引き付けていた。だが、騎士の方が一枚
上手である。剣の動きは敢えて単調なものに抑えられ、アラエルの
回避を後退一辺倒のものに誘導している。そして温存されていた突
きがアラエルを捉え、倒れ伏したアラエルを騎士は押さえつけて衣
服を剥ぎ取る。エーリヒは頭に血が上るのを感じた。
﹁エーリヒ⋮⋮﹂
か細い声が聞こえる。エーリヒの胸は高鳴り、疲労を忘れる。甲
冑を着ているのが嘘のようだ。力が溢れて加減は利きそうにない。
剣ではアラエルごと斬ると判断したエーリヒは足を使うことにした。
﹁助けてくれ、エーリヒ!﹂
﹁おう!﹂
渾身の力を込めて蹴り飛ばした男は、冗談のように空を飛んで地
面に叩きつけられた。
2
ああ、こいつはどうしてこう、ここぞという時に最高の見栄を切
126
ってくれるのだろう。アラエルはそんなことを考えながらエーリヒ
を見ていた。
剣は血まみれ、鎧にも返り血、あちこちにへこみや割れも見える。
激戦を潜り抜けてきたのだろうということが伺える。増援でないこ
とは一人しかいない事でわかった。処罰覚悟で持ち場を離れたのだ
ろう。普段なら怒鳴ってやるところだが、今はただ有り難かった。
﹁エーリヒ⋮⋮﹂
肌を隠しながらありがとう、と言おうとしたが、言葉が詰まって
出てこない。
﹁⋮⋮誰が、お前の女だ⋮⋮﹂
無理やり絞り出したのは全然違う言葉だった。視線の先でエーリ
ヒが肩を落とす。
﹁こんなときでもそれかよ⋮⋮﹂
﹁当然だ。私はお前を恋愛対象とは見ていない。私は男だと言って
いる﹂
﹁へぇへぇ、わかりましたよ。まぁちょっと待ってな。すぐに済ま
せる﹂
ああ、と頷くと外套が投げ渡された。身を隠しながら広い背中を
見つめる。威風堂々、その構えは覇気に溢れていた。
対照的に無様なのが敵の騎士である。ズボンを止める腰ひもがど
127
こかにいったらしく、萎えた逸物をぶら下げながら慌てて剣だけは
取ったものの籠手ひとつなく、完全武装のエーリヒに比べればいか
にも滑稽で、哀れさを催す格好だ。
﹁ま、待て。丸腰の相手を襲うのか。騎士だろう。戦場での乱取り
は戦の常だ。それでも恨むなら今戦うのは貴公にとっても不名誉だ。
後日再戦することを騎士の名誉にかけて誓う。刃を下ろせ﹂
エーリヒはふん、と鼻を鳴らすとお構いなしに近寄る。無論剣は
抜き身のままだ。
﹁あいにくと傭兵騎士でね。名誉なんてあまり気にしない身の上な
のさ!﹂
上段に振りかぶった剣を叩きつける。騎士は剣で防ぐも、すぐさ
ま蹴りが腹部にめり込んだ。
﹁あばっ⋮⋮き、貴様⋮⋮﹂
鎧をつけない身の軽さが幸いして受け身に成功した騎士は怒りの
ままに斬りかかる。エーリヒは防がず、ただ半歩ずれただけだった。
降り下ろされた騎士の剣がエーリヒの肩に命中し、アラエルは悲鳴
をあげかけるも、直後には剣が肩当ての曲面を滑って地面にめり込
むのに安堵する。
﹁そんな大振りで甲冑を相手にする気か。このど素人!﹂
騎士は徒歩では盾を用いない。両手に剣や槍を持って戦う。盾は
視界を隠し、動きを制限し、重心を狂わせて機動性を鈍くするのだ。
それはつまり、盾を用いずとも防御力は万全であると言うことでも
128
ある。頑丈なだけでなく曲面を多用したプレートアーマーは僅かな
体さばきだけで近接攻撃によるダメージをゼロにすることが可能で
あり、その分騎士は防御を捨てた攻撃一辺倒の剣術や槍術を操って
攻防ともに近接戦闘では最強の存在となる。これを破るには非装甲
部分を狙って斬る高度な技術か、重い鈍器のようなもので延々と殴
り、甲冑の中の人間を気絶させるか、さもなくば弩のような貫通力
の高い武器を使うしかない。しかしそれは全て甲冑ありきの話であ
って、甲冑なしでは前提の全てが崩壊する。
﹁あぁぁぁぁぁーッ!?﹂
地面にめり込んだ剣を引き抜いた騎士は、その瞬間再び剣を落と
すことになる。エーリヒが剣で男の肩を砕いたのだ。
﹁いけねぇ、血を拭うのを忘れていた。もう切れ味が鈍ってやがる﹂
刃の部分で斬ったにも関わらず、切断はかなわなかった。アラエ
ルは知らないが、三人ほどエーリヒの剣は斬っている。もともと大
して切れ味のよくない鋳型から拵えただけの段平である。幾度か剣
と打ち合ってもいるし、血糊に脂がつけば剣としては使い物になら
なくなるのも当然と言えた。それでも鈍器としては十分以上である。
エーリヒは頭を砕こうと剣を振りかぶる。
﹁降参⋮⋮! 降参する! 貴公の捕虜になろう! 身代金も払う
から、命ばかりは⋮⋮!﹂
﹁だから傭兵だって言ってるだろ⋮⋮!﹂
騎士のルールに降伏した者は命を助け、武具一式と身代金を勝利
者は得る、というものがある。だがエーリヒにそんな慈悲は欠片も
129
残っていないのは表情から明らかだった。剣を降り下ろし、騎士の
頭を砕く、その瞬間、
﹁エーリヒ!﹂
アラエルが鋭くエーリヒを制止した。
﹁殺すな﹂
﹁しかし、こいつは⋮⋮﹂
かぶり
アラエルは頭を振る。
﹁私の前で、降参した人間を斬らないでくれ。お願いだ﹂
冷や水を浴びせられた気分なのだろう。半裸で肩を砕かれ、惨め
に哀願する騎士を見て我に返ったエーリヒはバツが悪そうにしてい
る。我に返ったのはアラエルも同じだ。
︵復讐心のままに、エーリヒに不名誉を押し付けるところだった⋮
⋮︶
甲冑もなく、下半身は丸裸で戦意も低い。そんな男を相手取るエ
ーリヒは弱いものいじめをしているように見えた。都合のいいとき
にだけ騎士の名誉やルールを持ち出す男に腹は立つが、自分に乱暴
を働いたがゆえにエーリヒが怒って恥を書くのは許せない。アラエ
ルが視線でもう十分だ、と伝えるとエーリヒは冷静さを取り戻し、
剣を振って行けと促した。騎士はよろよろと立ち上がると、肩を押
さえながら来た道を引き返す。アラエルは安堵して胸を撫で下ろし
た。だが、不意に風切り音が響き、次いで鈍い音がする。
130
﹁あ⋮⋮﹂
エーリヒが助命した騎士の胸に弩の矢が突き刺さっていた。騎士
はぱくぱくと口を開閉した後、大きく咳き込んで血を吐いて倒れた。
﹁勝手な助命もご法度ですよ。エーリヒ卿﹂
背後から緩やかな足取りで普段と同じ笑みを浮かべながらアルフ
ォンソが現れる。その手には弩が握られていた。
﹁傭兵と騎士は違います。傭兵の戦いは皆殺し⋮⋮それは周知の事
実なのですから﹂
アラエルはその笑みに初めて、薄ら寒いものを感じた。
131
騎士団対傭兵隊
1
アルフォンソは周囲を固める5人の槍兵と共にやってきた。槍兵
達の穂先は既に赤い。ここに来るまでに何人か突き殺したのだろう。
そして今、アルフォンソの手にある弩がまた一人の騎士を屠った。
﹁エーリヒ卿。今さら言うまでもありませんが、許可なく持ち場を
離れたことは厳罰に値します。今はお互い生き残ることが優先され
ますが、片付きましたら沙汰を申し渡しますね﹂
﹁⋮⋮覚悟はしてるよ﹂
アラエルは弁護の口を開こうとしたが、エーリヒにそれを押し止
められる。アラエルが何を言おうと彼女の立場を悪くするだけだろ
う。発言権などないのだ。どれだけ目立とうとアラエルは飯炊き女
に過ぎない。
﹁ああ、そうそう。アラエルさん。貴女の奮戦のお陰で損害が想定
よりも遥かに少なくなりそうです。貴女の姿を見た傭兵達が発奮し
たようで、戦力に勝る騎士を相手に文字どおり死ぬまで戦いました
から。残念ながら貴女のように人間離れした力もないただの人間で
すから、皆死んじゃったのですけれど、お陰で軍需物質も女性の方
々も無事です。よかったですね﹂
暗に傭兵達が死んだのはお前のせいだ、と言われてアラエルは震
える。崩れそうになる身体をエーリヒが支えた。
132
︵それに今の言葉⋮⋮妙にひっかかる。私の人外の力を認識してい
る⋮⋮?︶
にこやかに笑うアルフォンソのその瞳はアラエルの心の奥底まで
見通しているかのようであり、外套一枚という無防備さもあってア
ラエルは恐怖した。
﹁⋮⋮そんなことより目下のこれだ。隊長が来たってことは増援連
れてきたんだろ? 嫌味や皮肉は手早く片付けてからにしようぜ﹂
怒りを込めた眼で睨みつつエーリヒがこれも嫌味を言うと、アル
フォンソは意に介した様子もなく頷いた。
﹁本陣から予備隊を抽出しました。前衛からは割けませんし、まぁ
こんなものでしょう。正直なところ予備隊編成までに前衛にまで食
い破られていたらお手上げでしたが、ここまでのようですねぇ。突
入までの手際と、その後の行動に妙なギャップがあります﹂
呑気に話すアルフォンソはどこか状況を楽しんでいるようだった。
﹁既に本陣近くまで敵も浸透してきていますが、全く脅威になりま
せん。エーリヒ卿はアラエルさんを連れて私についてきて下さい。
本陣まで送ります﹂
﹁⋮⋮随分と悠長なんだな。俺を使わないのか?﹂
エーリヒは隊でも有数の実力者だ。それを、アラエルの護衛に専
念すればいいという。疑問に感じるのも当然だった。だが、アルフ
ォンソは皮肉げに口の端をつり上げる。
133
﹁騎士としてのエーリヒ卿は最早戦力としては数えられませんね。
戦闘に次ぐ戦闘の上、護衛が関の山でしょうし、ごゆるりと見物を。
騎士2、従卒2に賊1を撃破。十分な戦功ですよ﹂
自分の疲労を自覚するエーリヒは黙りこむ。騎士の戦闘時間は長
くない。それに、とアルフォンソは続けた。
﹁我々はもう勝っているのですよ﹂
2
アルフォンソの言う通り、その後は先程までの苦戦が嘘のように
速やかに片が着いた。
突入した騎士達は本来ならば脇目も振らずに前面で交戦するカー
ルマン達に襲い掛かるべきだったのだろう。乱戦で陣が乱れきった
ところに騎士二十人の襲撃だ。持ちこたえられる訳がない。そうな
れば護衛隊は崩壊し、後は略奪も暴行も思うがままだったはずだ。
しかし騎士達はそれをせず、生き残った傭兵の掃討と、逃げ惑う女
の追撃、それに略奪品の獲得に向かい、時間を浪費した。アラエル
が抑えた騎士などは甲冑を脱ぎ捨てて暴行にかかっており、結果と
して駆け付けたエーリヒに斬られている。要するに突入までの間し
か集団としての統率を保てなかったのだ。
﹁後は個別に撃破すればいいだけ。こんな風にね﹂
アルフォンソが指し示す先では、五人の槍兵が三人の騎士を取り
囲んでいる。騎士達も剣を抜き背中合わせに死角をカバーしている
が、一人でも前に出ようものならば直ちにその死角を槍兵が衝き、
134
その場に縛り付ける。そうして動きの止まった騎士に向けてアルフ
ォンソが弩を照準した。
﹁ひ、卑怯ものめ!﹂
包囲された騎士の一人が声をあげる。
﹁こんな戦いがあるか、尋常に勝負しろ!﹂
返答は矢だった。正確に照準された弩は叫んだ騎士の頭に矢を撃
ち放ち、兜を貫通して即座に黙らせる。それを見た後の二人は恐慌
状態に陥り、アルフォンソ目掛けて走り出すがそれこそ思う壺だっ
た。
﹁突け﹂
五つの方向から槍が騎士達を襲う。長槍の長射程にものを言わせ
た攻撃は鎧を貫通することは叶わなかったが、足を止めることには
成功した。そこへアルフォンソは新たな指示を出す。
﹁叩け﹂
長槍が持ち上がり、勢いよく降り下ろされる。前後から次々に降
り下ろされる長槍は急所に命中せずとも確実に体力を削り、鎧に損
傷を与える。長柄の槍は穂先の重さも手伝って、降り下ろした際の
先端の速度は凄まじいものになるのだ。騎士達は何もできない内に
乱打され、降伏を叫ぶ間もなく殺された。
﹁倍の数とはいえ、騎士がこうも簡単にやられるとはな⋮⋮﹂
135
騎士は無敵ではない。弩に狙い射たれれば重甲冑といえども貫通
は免れ得ず、またその重量のゆえに連続した戦闘行動を取るのは難
しい。どんなに体力に溢れた騎士でも、激しく立ち回りながら連続
で戦えるのは僅か10分と言われている。数で押せば疲労を待った
後、半死半生の騎士を安全に殺せるのだ。だが、その場合でも一人
の騎士に対して十人が必要と言われている。それほど騎士は強い。
その騎士に僅か二倍の兵力で圧勝したアルフォンソにエーリヒは驚
愕する。
﹁﹃騎士団﹄が相手ならこんなものです。今のとて本来は曲芸に過
ぎません。槍は肩を並べて使うものですから。配置に着いた予備隊
が敵を押し返していますし、状況は残敵掃討に入りました。側面か
らの攻撃が失敗した以上、地力で劣る正面の敵もすぐに敗退するで
しょう。ほぼ同数の騎士団相手に完勝できることを証明できたのは
幸いでした﹂
完勝、という言葉にアラエルは眉を潜める。前衛でも側面でも多
くの傭兵が死んだ。特に側面の傭兵は見捨てられたに等しい。それ
をアルフォンソは完勝と言い切ったのだ。
︵この男の目は、どこか遠くを見ている︶
バイステリで見せたやる気のない傭兵隊長の姿ではない。遥か高
所から全てを見下ろし、高みを目指して地を這う者を一顧だにしな
い、英雄としての姿をアラエルは感じ取った。
︵歴史書に載るのは恐らく何時の世もこういう男なのだろう︶
足下で喘ぐ者の痛みを知らぬと批判するのは容易い。だが、この
世界の厳しい現実に触れたアラエルにはアルフォンソを批判するこ
136
とはできなかった。側面からの攻撃に慌てふためき、即座に予備隊
を動員すればどうなったか? 十分な編成もままならぬまま車陣の
外で騎乗する騎士を相手にするということだ。不利な戦いを強いら
れる。かといって車陣の外の傭兵達に撤退を命じるのも愚策だろう。
予備隊到着までの時間を稼ぐこともかなわない。見捨てることがあ
の時点で損害を極限する最良の手だったのだろう。足元の命を省み
ない者こそが、足元の命を最も多く救えるのだ。
︵とはいえ、私は⋮⋮︶
悪魔とはいえ地を這う者に過ぎない。情動に流され、大局的な判
断ができないただの無力な存在だ。アルフォンソと価値観を共有す
ることはできないだろう。一方で、傍らのエーリヒにも出来ること
ならば地を這う者であってほしかった。
︵未練だな︶
どの道別れねばならない。だというのに男の在り方を求めるなど
馬鹿げたことだ、とアラエルは自嘲した。エーリヒは寧ろ空を翔ぶ
存在になるべきなのだ。
アルフォンソの言葉に不快感を感じているのだろう。エーリヒの
表情は厳しく、拳は強く握られている。だがあくまでもこの世界で
上を目指すなら、それは未熟でしかないとアラエルは思う。
︵お前はここで多くの事を学び、空をいけばいい。私は夜道を這お
う︶
やはり道が違う。それを改めて思いながらアラエルは収まりつつ
ある戦場を見渡した。既に鬨の声も聞こえない。末端のそのまた末
137
端であるアラエルには実感もなかったが、アルフォンソの言う通り
戦闘はこちらの勝利で終わりつつあるらしい。
︵長い夜だ。もう眠りたい︶
そう思い、疲れた身体を引きずって本陣まで戻ろうとした時であ
る。
敵意に満ちた馬蹄の轟きが聞こえてきたのは。
3
騎士達が襲撃に失敗したのは明らかだった。そしてその原因は騎
士達自身にあった。女と商人の集団と侮り、側面の傭兵を蹴散らし
た時点で勝利したと早合点し、略奪に走ったのだ。
そもそも騎士達は略奪を目的としており、また家柄に差がなかっ
た騎士達は全員が同輩であったため、略奪品を纏めて管理し、分配
できる指導者がいない。そのために戦利品は分取り自由となり、結
果として彼らは勝利よりも略奪に夢中になって統制を失った。
その結果が壊滅である。全体的に傭兵達をみくびっていた彼らは
各所で手痛い反撃を受け、今や10騎に満たない数がほうほうの体
で逃げ出した程度である。ここで彼らはそのまま逃げ出すべきだっ
たが、騎士としての誇りと体面が、女や商人の集団に仕掛けて敗れ
たと言う事実を認めなかった。
既に疲労が濃く、そのままでは戦うことができないと感じた彼ら
は一番はじめの成功体験にすがる。即ち、集団による騎馬突撃だ。
馬上であるならば甲冑の重みも軽減され、またその攻撃力は徒歩の
138
比ではない。現にそれで多くの傭兵を破っているのだから、無理も
なかった。
騎馬の侵入を邪魔する馬車を破壊すると、彼らは意気揚々と陣の
中に侵入する。
かくして、この夜最後の幕は上がった。
4
﹁あぁ、ようやく戦力分散の愚に気付きましたか。しかしまだ負け
ていないと思っているのですかねぇ﹂
馬蹄の響きにもアルフォンソは動じない。周囲を側近が固めるの
すら制し、蔑むような視線で迫り来る騎士達を見るだけだ。
﹁おい、大勢は決したといっても洒落にならんぞ。騎馬ひとりは歩
兵10人並みって言われているんだ。守りを固めて騎士を集めろ!﹂
アラエルを庇いつつエーリヒが叫ぶ。確かに今さら勝ちは動かな
いだろう。だが、最後の突撃でアルフォンソ自身の首があげられな
いとも限らないのだ。
︵死ぬのが怖くない⋮⋮? いや、そんな壊れた人間ではない︶
アラエルはアルフォンソを冷徹ではあっても、冷静な人間である
と評価していた。無闇に身を危険にさらして喜ぶ類いの人間ではな
い。何か策があるのだろうと思い直す。しかしアラエルの考えは間
違っていた。
139
アルフォンソは壊れた人間ではなかった。しかし、心には寧ろ激
情を飼っていた。
﹁そうやって馬上から人を見下すのに慣れているから、時代に置い
ていかれる! いつまでも自分達だけが戦場の主役だと無邪気に信
じているから、傭兵にも後れを取る! 何が騎士団だ、ただの﹃騎
士の集団﹄が偉そうに!﹂
表情から笑みが消える。代わって現れたのは溢れんばかりの憎悪
と敵意だった。
﹁無統率な﹃騎士の集団﹄が私の﹃傭兵隊﹄に敵うものか。﹃騎兵
隊﹄になってから出直してこい!﹂
騎士達は止まらない。アルフォンソも退かない。騎士達の姿がは
っきりと見えるほどの距離になったとき、アルフォンソは不意に片
手を上げた。
﹁構え﹂
どこからか鉄の擦れる音がする。同時に異臭が漂い、鼻をつく。
﹁撃て﹂
雷のような音が鳴り響き、先頭を走る騎士が即死した。
6
140
その轟きは戦場の時を止めた。
着雷にも似たその響きは疾駆する馬の脚を止め、駆け付けた傭兵
達を怯ませる。閃光は頼りない松明よりも遥かに輝き、立ち上る煙
は鼻をつく臭いを発した。
どさり、と騎士が落馬する。その胸甲には一点の小さな穴が穿た
れ、絶え間なく血が溢れ出る。ぴくりとも動かないその様から、即
死したことは明白であった。
ーー雷を使う魔術か⋮⋮?
誰かがそう言った。人間には、なんの触媒もなしに様々な事を起
こせる﹃機能﹄がある。再現性がなく、常に同じ結果が出るとは限
らない上に個人によって結果にばらつきが激しいそれを、人々は明
確に他の自然科学と区別して魔術と呼んでいた。正体不明であるが
ゆえにおどろおどろしく扱われ、無限の可能性があるとすら信じら
れた魔術だが、日常で行使しうるそれはささやかな範囲に止まり、
表舞台に上がった事はかつてない。
だが、陸戦において最強を誇る騎士を轟音と共に一撃で仕留めた
それは、日常に埋没した便利な道具としてのそれではなく、まさし
くお伽噺の中の魔術に相違なかった。いずこからか魔術師が雷撃を
放った。誰もがそう信じ、戦場を沈黙が支配する。
﹁いいえ、これは魔術ではありません﹂
突如として訪れた静寂の中、アルフォンソが進み出る。
﹁これなる業は、我ら傭兵隊の新たな力、新たな技能。即ち﹃新兵
141
器﹄﹂
まるで舞台役者のように振る舞うアルフォンソは楽しくて仕方な
い、というように大仰に両腕を広げ、居並ぶ敵味方に解説を続けた。
暗がりの中から一人の兵が進み出で、従者の如くアルフォンソの傍
らに屈む。その手には槍にも似た細身の何かが握られている。
ハンドカノン
﹁戦乱相次ぐ東の大陸より取り寄せました。火薬の力にて石の礫を
弾き飛ばし敵を狙う、人呼んで手砲﹂
傍らの兵が立ち上がり、恭しく握られていたものをアルフォンソ
に差し出す。その顔に傭兵達は見覚えがあった。護衛の間中無様を
さらし続けた少年騎士トリスだ。その身を覆うのは槍兵にも劣る軽
装の胴丸であり、兜などは帽子ではないかと言いたくなるような簡
素さだ。騎士どころではない。兵士にすら見えない姿だ。だが、そ
の目は感動と興奮にうち震え、アルフォンソを予言者のごとく見つ
めている。
﹁ところがこれが失敗作⋮⋮射手もろとも吹き飛ばす粗悪品という
ことで、バイステリの職人ギルドに掛け合いまして改良しましたの
が⋮⋮﹂
アルフォンソが長物を取る。相当な重量があるのだろう。片手で
とって地面に打ち付けると重い音が響いた。従者を傍らに縦に構え
るそれは、まるで権威を象徴する錫杖の如く。
マスケット
﹁この火縄銃です﹂
7
142
﹁マスケット隊、射撃用意﹂
アルフォンソは命じつつ銃を手渡し、同時に抜刀して騎士に向か
う。トリスは銃を受けとると、直ちに銃口に鉄棒を突っ込み、筒内
を二、三度かき回した。同時に止まっていた時間が動き出し、騎士
達は馬を走らせ、傭兵達は槍を両手にあわててアルフォンソの周囲
を固めた。
﹁あの筒を壊せ!﹂
騎士達は必死で馬を走らせるが、その勢いは既に殺されており、
また乗り手に刻まれた銃の恐怖が鞍と鐙を通して馬に伝わる。そこ
にアルフォンソと傭兵が殺到し、行く手を塞いだ。
﹁火薬詰め、弾丸つき込め﹂
トリスは流れるような動きで銃口から黒い粉を流し込み、続いて
玉状の鉛を入れて鉄棒で突き入れる。雷が来る。そう思った騎士達
は懸命に突破を図るが、アルフォンソは巧みに部隊を指揮してこれ
を阻む。その間にもアルフォンソはトリスへの指示を止めない。
﹁口薬用意、火皿に入れ。火縄つけ、着火せよ﹂
支持用の二脚を銃にさしたトリスは立ち上がって構え、手際よく
火縄を鋏につけると、魔術を以て着火する。たちまち煙が立ち上っ
た。その筒先は、騎士の一人を向いている。
﹁ひ、ひぃぃ!﹂
143
狙いをつけられた騎士が怯えて背を向ける。矢の雨にも怯まない
騎士達だったが、視認もできない速度で飛来する﹃何か﹄には耐え
ることができなかった。一人が逃げればたちまち恐怖は伝染する。
騎士達は次々に馬首を返した。何よりもその轟音と閃光は、慣れな
い者には恐怖そのものだろう。だがアルフォンソは逃がさない。素
早く回り込んで馬を斬り、騎士を叩き落とす。それはまるで、どう
あっても銃によって目の前の騎士を抹殺せずにはいられないという
執念のようであった。
﹁火蓋切れ﹂
﹁こ、降伏する! 身代金も払うから、助命を⋮⋮!﹂
騎士のそんな言葉に、アルフォンソは薄笑いで返答した。
﹁撃て﹂
轟音が響き、狙いをつけられた騎士の兜に大穴が穿たれる。内部
で頭が弾けたらしい。力を失って倒れた騎士の兜から、赤黒い血と
骨が落ちた。衝撃的な光景にトリスはしばし我を忘れて呆然とする。
騎士達は半狂乱となって抵抗するが、既に馬を操る事も難しくたち
まち槍衾に制圧され、一人、また一人と切り刻まれていった。
﹁よくやりましたね。トリス。騎士二を撃破しました。貴方の手柄
です﹂
掃討に移行した現場を離れ、アルフォンソがトリスの肩を叩く。
トリスは信じられないようなものを見る目で銃を見ていた。
﹁僕が⋮⋮本当に僕がやったのですか?﹂
144
笑顔でアルフォンソが首肯すると、トリスは全身を震わせ、涙を
流す。だが、それが怯えや恐れからの物でないことは、歓喜に形を
変える表情が物語っていた。
マスケッティア
﹁小銃手トリス。傭兵の世界へようこそ。歓迎しましょう﹂
差し出された手をトリスは飛び付くように握り、片腕で未だ高熱
を発する銃をしっかりと抱き締めた。銃身が肌を焼くことなど気に
もせず、トリスは感動の涙を流し続ける。
﹁これが⋮⋮これが⋮⋮僕の力だ!﹂
8
﹁なんて武器だ⋮⋮﹂
エーリヒは驚愕に目を見開きながらトリスを見る。正確には、そ
の手の銃を。
騎士甲冑は確かに無敵ではない。だが、近接戦闘では無敵に近い。
これを打ち破るには同じ騎士を以て当てるか、弩を使うしかない。
長弓を使い、大仰角で矢の雨を降らせるという手もあるが、長弓射
手は専門的技能を要し、育成にかかる手間と時間は騎士のそれに似
たものがある。従って力のない者が騎士に対抗するには弩か、数で
押すかしかなく、そして弩は騎馬の速度によって無効化された。
だが、銃は違う。その轟音と閃光は人馬ともに恐怖を与え、当た
らずとも敵に損害を与える。近ければ近いほどその影響は大きいだ
145
ろう。また貫通力も弩に勝る。頑丈なはずの騎士甲冑が一撃で貫か
れた事からも、それは明らかだった。エーリヒは身震いして死んだ
騎士を見つめる。
﹁これが、今の戦場か⋮⋮﹂
その姿はどこか敵の騎士を憐れむようであり、傍らのアラエルも
またつい先日見たばかりの馬上槍試合のような戦いが過去のものに
なりつつあることを感じた。
︵悪魔の身体能力を持つ私でも、騎士一人抑えられなかった。だが、
銃があれば、引き金ひとつで倒せる︶
幼い頃から戦う事ばかり考えてきた戦闘のプロを、昨日兵士にな
った素人が殺す。これは騎士というものの全否定である。即席の訓
練だけを受けた兵士が何十年も鍛えた戦士を上回るなら、騎士など
いらないではないか。
︵エーリヒはそれを感じているのか?︶
頭の悪い男ではない。銃の持つ意義にすぐ気付いただろう。銃だ
けではない。槍による集団戦もそうだ。アルフォンソ直属の兵士達
の動きは他と明らかに違う。個人の武勇に任せるのではなく、完全
に連携して数の利を活かしていた。同数なら勝負は騎士の勝ちだろ
う。だが、倍の数ならアルフォンソは完勝できるのだ。
︵騎士道は、終わりかけている︶
その現場に自分はいる。それも騎士道を体現するような男と共に。
それを感じたアラエルはエーリヒの腕を少しだけ強く引いた。振り
146
返って見下ろすその目は、気のせいかどこか不安げに見える。
︵お前の価値は、私が知っている︶
そう瞳に込めて見つめると、エーリヒはやがて平静を取り戻し、
バツが悪そうに頭を掻いた。その様子が微笑ましかったアラエルは
くすりと笑い、本陣へとエーリヒを促し歩き出そうとする。その時、
﹁さて、敵も片付きましたし、エーリヒ卿、貴方の番です﹂
アルフォンソと長槍の列がそれを遮った。持ち場を離れた件か、
と思い至ったアラエルはにわかに緊張する。
﹁アルフォンソ隊長⋮⋮! エーリヒは⋮⋮!﹂
﹁アラエルさん、貴女には関係のないことです﹂
﹁ですが、エーリヒがいなければ敵による被害は拡大したはずです
! 現に私は助けられた﹂
アルフォンソは肩を竦め、首を振る。
﹁既に予備隊は出ていました。エーリヒ卿がいてもいなくても敵は
捕捉されていたでしょう。被害が抑えられたのは事実かもしれませ
んが、どれ程の違いがあったかは疑問ですね。アラエルさん、騎士
一人でなにか大きな事ができると思う方がおかしいのですよ。それ
に、たとえエーリヒ卿が千人の敵を薙ぎ倒そうと私には彼を罰しな
ければならない理由があるのです﹂
アルフォンソは冷然と告げた。
147
﹁これは軍規違反なのです。臨時に編成され、烏合の衆になりかね
ない危険を常に持つ傭兵隊を束ねるもの、それが軍規です。それを
蔑ろにされた以上、罰は執行されなければ依って立つ基盤が崩れま
す。覚悟はできていますね、エーリヒ卿﹂
﹁ああ、勿論だ。連れていってくれ﹂
エーリヒは剣を差し出し、両脇を槍兵が固めるのに任せた。
﹁敵前逃亡は処刑です。明日には早速執行しましょう﹂
﹁馬鹿なっ!﹂
血の気が引いたアラエルは思わず槍兵につかみかかる。不意をつ
いたためか反撃はなく、馬鹿力に任せて引き倒す事にアラエルは成
功した。逃げろ、エーリヒ。そう言おうとしたところで、
﹁止めろ!﹂
エーリヒの声に停止する。見れば周囲の槍の穂先が全てエーリヒ
とアラエルを指していた。
﹁アラエル。済まないがここでお別れだ。⋮⋮楽しかったぜ﹂
﹁な⋮⋮! そ、そんな馬鹿な話が⋮⋮!﹂
アラエルは諦めてしまったかのようなエーリヒに激昂するが、な
にもできない。抵抗すればエーリヒもアラエルも直ちに串刺しだろ
148
う。一人二人は切り抜けても、この重囲と何よりもアルフォンソを
抜く自信がアラエルにはない。硝煙の臭いが鼻をつく。トリスもま
チェックメイト
た無表情に狙いを定めていた。そこに未熟だった少年騎士の面影は
ない。詰みだった。
﹁アラエルさんの身請けはエーリヒ卿とも相談して決めます。それ
では、今日はゆっくり休んでください﹂
アルフォンソはエーリヒの手を縛ることなく連れていく。エーリ
ヒのような男にはあるいはそれこそが最も頑丈な拘束になるのだろ
う。エーリヒは抵抗することもなく護送されていった。後にはアラ
エルが残される。
﹁私のせいで⋮⋮﹂
その場に突っ伏したアラエルは力なく地面を叩いた。
﹁私のせいで、あいつが死んでしまう⋮⋮!﹂
149
槍の小路
アルフォンソから休めと言われたアラエルだが、休めるものでは
なかった。翌日にはエーリヒが処刑される。疲労はあったが、そん
な場合ではない。アルフォンソにはとりつく島もない。だが、他の
傭兵達の意見が助命で纏まればアルフォンソとて無視はできないは
ず。アラエルはそう信じた。そう信じざるを得なかった。
﹁虫のいいことを言っているのは承知しています。ですが、エーリ
ヒを助けてほしい⋮⋮!﹂
天幕を回るアラエルに傭兵達の反応は概ね同情的であり、良好で
あった。エーリヒは護衛隊でも人気が高い。特に前面の守備を担当
していた傭兵達は処罰されるのを承知の上でエーリヒを行かせた負
い目があるらしく、アルフォンソの処置に大きな不満を持っており、
積極的な協力を約束した。だが、アラエルは順調な経過にも関わら
ず全く安心できなかった。
︵アルフォンソ隊長が、これしきで動くはずがない⋮⋮︶
冷徹であり優秀な傭兵隊長であるアルフォンソがいちいち一介の
傭兵の愚痴程度に耳を傾けるとは思えない。傭兵達は嘘は言ってい
ないだろう。確かに助命を嘆願してくれるはずだ。それでもアラエ
ルには彼らがアルフォンソから冷たいひと睨みを受けただけですご
すごと引き下がり、黙ってエーリヒの処刑を眺めているような気が
してならなかった。
︵カールマン卿は確かに頼れるが⋮⋮︶
150
こちらは問題が悪化する可能性があるとアラエルは見ている。カ
ールマンはエーリヒを焚き付けた負い目が強烈であり、状況から罪
は減じられるものと思い込んでいたところに処刑の話を聞いたため、
剣を片手に憤然と駆け出した。その場は周囲が必死になって止めた
が、状況が動かなければアルフォンソ相手に斬りかかる可能性もあ
り、そうなればこちらは騎士達に人望厚いカールマンである。最悪
の場合アルフォンソとカールマンの間で隊が分裂して凄惨な殺し合
いが始まる。
︵見通しが甘い⋮⋮!︶
心中でカールマンに毒づく。エーリヒを走らせたのはカールマン
であったが、話を聞く限りエーリヒが処刑される可能性にさほど気
を払っていたとは思えなかった。カールマンは遍歴の騎士であり、
軍歴は長くとも騎士としての従軍の方が多く、封建的な軍制にあっ
ては独自判断がしばしば許されるという。その過去が、結果さえよ
ければ軍規は無視しても構わないとする考えにカールマンを至らせ
たのであろうとアラエルは推察したが、エーリヒが現実に処刑され
る瀬戸際、その行為はいかにも迂闊で甘いように見えた。
︵私など、犯されてしまえばよかったのだ!︶
どうせ男だ。守る処女もない。命は長らえたであろう。エーリヒ
の命とは引き換えられない。余計なことを。そこまで考えたところ
でアラエルは、はっとして自分の頭を殴り付けた。
︵馬鹿が! そんなことを考えては、エーリヒへの侮辱だ!︶
少なくとも傭兵生活の長いエーリヒはこうなることを承知で駆け
つけたはずだ。他ならぬアラエルの身を守るために。それを知りな
151
がら自分など助からなければよかったなどというのは、エーリヒの
命を賭けた行為を全否定するに等しい。
︵私とてあの時、嬉しかったはすだ⋮⋮! 処刑されるなど考えも
しなかった。見通しが甘いのは私だ︶
責任転嫁を始めたのは責任の重さを放棄したいからだ。そう思い
直したアラエルは疲れた脚を引きずって天幕を再び巡る。遠くの天
幕ではカールマンの声がした。彼もまた傭兵達の意見を助命で取り
まとめようとしているのだ。
︵いけない。さっきから思考が皆への恨みに刷り変わっている。こ
んなことでは助命で意見を纏められるわけがない⋮⋮︶
助けてほしいという必死の叫びはやがて、どうして助けてくれな
いという糾弾へと変化し、相手への不満と不信が先行する。そうな
ってしまえば同情や共感を得られるわけがないのだ。
︵とにかく今は歩こう。そして一人でも多く賛同者を集めるんだ。
経過は順調ではないか⋮⋮︶
アラエルはそうしてすべての天幕を回った。
2
﹁エーリヒ、起きているか﹂
牢屋代わりの天幕に収容されたエーリヒにアラエルは呼び掛ける。
天幕の入り口は固く閉じられ、窓もない。聞いた話では木杭に繋が
152
れているという話だが、その様を晒し者にしない配慮にアラエルは
安堵する。ただしアラエルにはエーリヒの顔を見ることも叶わない。
﹁なんだ。まだ起きていたのか。早く寝ろよ﹂
果たして返事があった。アラエルは渋面を作る。
﹁この状況で眠れるわけがないだろう。私もそこまで肝が太くない。
お前はなんでそんなに落ち着いているんだ⋮⋮? 明日には⋮⋮﹂
処刑、とは言えなかった。
﹁騎士だの傭兵だのやってると、生き死にてのは身近でね。まぁ、
布団の上では死ねないと覚悟はしているんだよ﹂
﹁それは戦死だろう!? こんな形での終わりは望まないはずだ!﹂
激昂する。エーリヒの乾いた死生観はアラエルにとって容認でき
ない。死にたくないと言ってくれたほうがよほどよかった。使えば
後がない切り札だが、淫気を使うという手もある。そこまでしても
生きていてほしいのに、何故命への執着がそんなに薄いのかと、理
不尽を承知の上で怒りが湧く。そんなアラエルに、エーリヒは呟く
ように語り始めた。
﹁最初に戦場に出たのは、14の頃だった。まだ俺は自分が貴公子
だと信じて疑わず、北にあるアルヴェリア王国の騎士見習いとして
戦っていた﹂
アルヴェリアは50年に渡って隣国アセリアと休戦と戦争を繰り
返しており、戦争をするために力を蓄え、戦争を始めては経過と共
153
に力尽きて互いに矛を納める事を延々と繰り返していたという。
﹁そんな開戦と休戦のサイクルは俺が戦場に出る頃にはかなり短く
なってきていた。戦争を通じて両国が国内の地盤を固め、財力と軍
事力を蓄えてきたんだ。お陰さまで国中何処に行っても戦争だらけ
だ。戦場には不足しなかった。特に国境地帯なんて悲惨だ。ペンペ
ン草一本生えちゃいねぇ。文字通りの焦土だよ﹂
エーリヒはそれだけ言うと口をつぐんだ。何か言うべきか言うま
いか迷っている。そう察したアラエルは、エーリヒが何を言おうと
迷っているのか、気付いた。
﹁エーリヒ、言わなくても構わな⋮⋮﹂
﹁略奪も、やった﹂
構わない、と言い切る前にエーリヒは言った。まるで自分から言
うな、と言われるのを避けたようだとアラエルは感じる。
﹁初陣は火付けだった。誘拐もやった。強盗もやった。国中が餓死
寸前なのに軍隊だけはやたらと多いんだ。俺達に食い物が回るわけ
ねぇ。それでも戦うには食い物が要るから奪うしかない。そうやっ
て何年も何年も戦ってきた。全部家のため、王家のためだって信じ
てた。そしてある日言われたんだ。お前は用済みだって﹂
そこから先はアラエルも聞いていた。エーリヒの父に子が生まれ
たのだ。それも、本妻の子が。
﹁生まれて間もない子の前で臣従の礼をとったよ。俺も若かった。
屈辱だった。庶子っていうのがどういうことなのか理解したぜ。そ
154
れで自棄になって傭兵隊に身を投じた。皮肉なもんで武名は上がっ
て、跡継ぎの弟が虚弱だったのも手伝って家臣の間に改めて俺を後
継ぎに推す声が出てきた。もう嫌気が差してたんで付き合いたくも
なかったが、刺客が送られてくるようになったよ﹂
天幕越しでは表情は伺えないが、恐らくは諦念を感じさせる表情
をしているのだろう、とアラエルは思う。エーリヒはまだ若い。だ
が、この世界は若者が若者であることを許さない。この世界は若者
にあまりに多くの試練を課す。そのなかで誰もが否応なく大人にな
っていく。
﹁ちょうどその頃だ。アセリアの都市ファーレンベルクの攻略戦が
あったのは。味方の領域のど真ん中に突出して敵の騎士達の出撃拠
点になってる上、その年の春にはアセリアのラウジッツ元帥が軍を
率いてそこから大規模な侵攻をするって噂が流れてた。真冬のど真
ん中に功囲が下令されて、正規軍と併せて二万で囲んだ。
包囲が長期になるにつれて兵糧も尽きた。略奪も限界に達した。
病気も流行るし氷雨で凍傷にかかるのも出てくる。飢えでばたばた
倒れて皆限界だった。司令官のダンジュー侯と副将のボードアン傭
兵隊長は必死で士気の維持に努めてたんで崩壊はしなかったが、今
思えばそれがまずかったのかも知れねぇ﹂
口調に苦いものが混じる。葛藤が感じ取れた。アラエルはそこか
らの展開に半ば想像がついたが、止めることはできない。エーリヒ
は、必死に語っている。
﹁ラウジッツ軍は間に合わなかった。俺たちの勝ちだ。春までにフ
ァーレンベルクは落ちた。ただ、最後の抵抗で実質的な司令官だっ
たボードアン隊長が戦死した。下がる一方の士気の維持するためず
っと前に立っていたからな。それで街が落ちたとき、二万の軍勢が
155
暴徒になって雪崩れ込んだんだ﹂
街は地獄と化したと言う。
﹁ファーレンベルクの人口は三万。かなりでかい街だ。だからこそ
長期の包囲にも耐えたんだ。それが、春には五百程度にまで減って
た。俺もやった。大勢殺した。女も子供もこ、ころした。司祭もや
った、教会も焼いた。街中血塗れで、鎧の内側にまで血が入ってき
て歩くたびに足の裏に血がこびりついて⋮⋮! 皆怒ってた。俺も
何かに怒ってた⋮⋮! がむしゃらに剣を振ってる時だけ、それを
忘れられる気がしてーー﹂
﹁エーリヒ、もういい!﹂
聞くに耐えなかった。話の内容がではない。天幕の向こうのエー
リヒがどんどん壊れて行く気がして、とても聞けなかったのだ。天
幕越しに激しい息遣いが聞こえる。表情を見ることができなくてよ
かったとアラエルは思った。壊れかけたエーリヒを見るのも怖いが、
それ以上に今の話を聞いた自分がどんな顔をしてエーリヒを見てし
まうのか、自信がなかった。
﹁⋮⋮それで、逃げ出した。今までだって散々悪いことはしてきた
のにな。今さら良心の呵責だなんて笑える。だからな、アラエル﹂
やがて落ち着きを取り戻したらしいエーリヒは、静かに言った。
﹁俺は、死に場所を選んじゃいけないんだ﹂
3
156
朝日が上る。長い一日が明けた。アラエルは意見をまとめるのに
失敗していた。
一般の傭兵はともかく、白衣団には一切の共感が得られることは
ついになかったのだ。彼らはアルフォンソの親衛隊であり、彼を奉
じること神のごときものがある。説得に心動かされる事はなく、た
だ拒絶あるのみであった。そしてアルフォンソの権威の源が白衣団
である以上、決定は覆らない。
︵こうなれば最後の手段だ⋮⋮!︶
淫気を使う覚悟をアラエルは固めている。試したことはないが、
百人程度なら制圧できる自信がアラエルにはあった。使えば最後、
自分もそして救い出すエーリヒも二度と人間世界には戻れず、延々
と夜道をさ迷うことになるであろうが、最早手段を選んでいる段階
は過ぎていた。傭兵達がエーリヒを引き出す。縛られてもいないエ
ーリヒは従容として死を受け入れようとしているように見える。ア
ラエルは内にある渇望を解放しーー
﹁そこまでです﹂
首筋に突きつけられた冷たい刃がそれを止めた。
﹁言ったはずです。私の仕事の邪魔は許さないと。何をするにせよ、
私の剣が貴女の首を刎ねるのが早い。無駄なことはやめなさい﹂
殺気を込めて睨み付ける。そこにいたのはアルフォンソであった。
︵淫気を読んでいた⋮⋮? やはり私の能力について何か知ってい
157
る︶
構わずに淫気を解放することもできたが、何故かアルフォンソに
は効き目が弱く、汚染する前に首が刎ねられるという確信が突如と
してアラエルに浮かんだ。体術では元よりかなうはずもない。頼み
の綱はカールマンが騎士を率いて乱入することだが、
﹁カールマン卿に期待しているなら無駄です。周囲を私の兵で固め
ました。騎士達もカールマン卿が動けなければ動かないでしょう。
大人しく見ていてください﹂
万事休すだ。悪魔としての切り札まで見破られてはなにも打つ手
がない。悔しさの余りに爪を手のひらに食い込ませるアラエルをよ
そに、アルフォンソは片手を上げて傭兵達に指示を出す。中には協
力を約束した傭兵もいたが、誰も彼もが後ろめたそうな顔で従うだ
けだった。
傭兵達は二手に別れて整列し、エーリヒの前に一本の道を作るや、
天高く突き上げる長槍を一斉に倒す。たちまちエーリヒの前の道は
人が一人ようやく通れる程度の狭さとなり、その左右を鋭い刃が舗
装した。
ガントレット
﹁槍の小路。アセリアの傭兵達の間で用いられる刑罰です。この槍
の道を最後まで歩ければ、罪人は無罪放免。しかし突き掛かる兵が
一人でもいれば、回避することは叶いません﹂
エーリヒの前に法務を担当する大剣を携えた傭兵が進み出て、罪
状と刑罰を説明する。この刑罰は走り抜けることも可能、と説明し
たが、エーリヒは歩くことを選択した。
158
﹁エーリヒ! 何を言っているんだ! 生き残る可能性があるのな
ら⋮⋮!﹂
﹁黙りなさい﹂
刃が首筋に食い込む。僅かに血が流れた。
﹁エーリヒ卿は尊厳を守ろうとしているのです。それを他ならぬ貴
女が汚してどうしますか? ⋮⋮始まりますよ﹂
粛々とエーリヒは足を進める。その足取りに迷いはなく、恐怖や
怯えは感じない。だが、アラエルは発狂しそうなほどに恐怖してい
た。エーリヒの左右には長槍が、いつでも突ける体勢の兵と共に待
っているのだ。今は突かれない。だが、これは処刑なのだ。どこか
で必ず、槍がーー
ガントレット
﹁さて、アラエルさんにひとつ、この槍の小路という刑罰を説明し
ましょう﹂
首筋に剣を突きつけたままアルフォンソは世間話でもするように
語りかけた。
﹁これは元々、傭兵のなかでもとりわけ﹃民主性﹄に定評のあるア
セリアの傭兵から始まったものです。彼らは処刑に際しても上官の
命で機械的に同僚を葬るのではなく、自らの意思で、自ら手を汚し
て死刑を執行することを望みました。そうすることによってアセリ
アの傭兵達の団結は強固なものとなり、彼らを戦場で恐るべき存在
にしたて上げたのです﹂
エーリヒは歩く。道は半ばに達した。まだ槍は来ない。
159
ガントレット
﹁この槍の小路もそうした彼らの精神が出ています。軍規としては
処刑でありながら、突くか否かは個人の裁量に委ねられ、一人でも
突いたなら、その行為は隊全体の意思として解釈され、死刑は問題
なく執行されます。しかし裏を返すと⋮⋮﹂
エーリヒは歩く。未だ槍は突かれない。槍の列は既に終わりが見
えた。アラエルの表情が驚きに変わる。
﹁誰も突く者がいなければ、隊の意思として民主的に無罪放免が決
定されます。つまり平素から嫌われているような者は容赦なく死刑
に処されますが、逆に人気のある者なら生かされる可能性も高いと
いうことで⋮⋮まぁ、実際に重要なのは場の空気なのですが、今回
は助命する空気だったようですね﹂
アラエルは最後まで聞かなかった。剣を突きつけられているのも
忘れて、ついに槍の列を越えたエーリヒの元へと走りだし、勢いの
ままに抱きつく。
﹁お、おい⋮⋮﹂
困ったような表情でアラエルをエーリヒは受け止める。腕の中の
アラエルは顔をくしゃくしゃにして泣くだけだ。
﹁私が⋮⋮私がお前を許すから⋮⋮なんの権限もなくても、私だけ
はお前を許すから⋮⋮生きてくれ。頼む⋮⋮!﹂
何度も繰り返すアラエルの頭を、エーリヒは困惑しながら撫でる。
朝陽が二人を照らしていた。
160
カリヨン︵前書き︶
推奨BGM。ビゼー、組曲﹃アルルの女﹄より﹃カリヨン﹄
161
カリヨン
1
﹁麗しき三文芝居﹂
駆け寄ったアラエルと宥めるエーリヒを皮肉げな薄笑いと共にア
ルフォンソは見る。傭兵達が感動の余りに拍手を鳴らし、涙を流す
ものがいる中で、彼だけが覚めていた。
﹁いえ、私だけではありませんか⋮⋮﹂
隊にあって自分の他にもう一人、エーリヒとアラエルを笑顔で見
つめない者の存在にアルフォンソは気付く。言うまでもない。トリ
スだ。傷ついたプライドは新たな力を与えられたことでねじ曲がっ
たのか、二人を見る目は怨念に近い。
﹁貴方の得物が﹃槍﹄でない事を残念に思いましたか?﹂
近寄って囁くと、びくり、と体を震わせる。図星を指されたのか、
その表情は自分の醜い性根を見透かされた事への後ろめたさで満た
されている。だが、やがてその表情は仮面のごとき無表情さを繕い、
内面の揺らぎを外に出さないようになった。
﹁⋮⋮僕の得物は﹃銃﹄です。それ以外では有り得ません﹂
そういって銃をトリスは強く握る。まるで自分の存在を確かめる
ようであった。
162
トリスは隊内唯一の銃手であり、槍も剣も持たないがゆえに槍の
小路に参加することはできなかった。その事をアルフォンソは当て
擦ったのだが、トリスは動じつつも槍を持つことを拒絶し、銃に拘
った。
﹁いい心がけです。もっとも、たとえ貴方の得物が槍であっても私
は貴方をあの列に参加させることはありませんでしたけれどね﹂
槍を持っていたら刺したでしょ、そういった意味を持たせた言葉
に苛立ち表情を歪めながらも、同時にアルフォンソの言葉に疑問を
抱いたらしい。表情に仮面を被せてトリスは冷静に尋ねた。
﹁その口ぶりですと、隊長は最初からエーリヒを殺す気がなかった
のですか?﹂
ガントレット
﹁はい。間違いなくこうなることは予想していました。それを知っ
ているからこそ、わざわざ槍の小路なんて迂遠な手を取ったのです。
確実に処刑したいなら斧でも剣でもありますからね﹂
ガントレット
処刑方法は一つではない。槍の小路など寧ろ発祥の地アセリアで
も一般的ではない。隊の士気高揚や規律の引き締めに行うのが主な
用途で、象徴的な処刑という面がある。より一般的な処刑はどこも
同じ、即ち斧か剣による斬首だ。法務官の持つ大剣はそのためにあ
り、切っ先がなく、両側に湾曲した剣は首を斬り落とすのに特化し
ていた。
﹁トリス、貴方が思うほど私の立場は磐石というわけではないので
す。アセリア伝説の傭兵隊長フランベルクをご存じですか?﹂
トリスは首を振る。彼の出身はエルヴンの小領主国である。遠く
163
アセリアのことを知るのは難しいですね、とアルフォンソは優しく
言った。そのわざとらしさが尚更トリスのプライドを刺激したらし
く苛立ちが面に出る。その様を確認するとアルフォンソは解説を始
めた。
2
フランベルクはアセリア公の忠実な封臣であり、また熟練の傭兵
隊長であった。
家格の低さから高い地位に任命されることはなかったものの、ア
ランツクネヒト
セリア最強の武人として名高く、アルヴェリアとの戦争において主
力を務めたのは彼が率いる傭兵隊であり、正規軍であるはずのアセ
リア封建軍は時を経る毎に急速にお荷物化し、実質的なアセリア総
司令官はフランベルクであったほどである。
清廉にして気骨ある武人であるフランベルクは、傭兵達に誠意と
慈愛を以て接した。良質の装備を手配し、食料や寝床の手配を怠ら
ず、戦利品の分配もあくまで公平な彼の傭兵隊は士気も錬度も規律
も高く維持されており、アセリアを連戦連勝に導く。ところがある
日、破局はやってきた。雇い主たるアセリア公の財布がついに擦り
きれたのだ。給料支払いが滞った。
折しもフランベルク軍はアルヴェリア王が直接指揮を取る戦いに
参加し、見事これを破る大手柄を挙げた直後である。戦利品の分配
はいかほどかと皮算用をしていたところにきた給料の不払いは彼ら
を激怒させた。
傭兵達にもここに入るまでの経緯は色々あるが、多くの傭兵にと
って一番の関心事は金である。金があれば誰も好き好んで傭兵にな
164
どならない。戦利品の魅力が、一般社会に比べて高額の収入が、彼
らを命知らずの戦士に仕立てあげるのだ。給料の遅配は致命的であ
る。彼らにとって名門名家の誇りや栄光など、口に入れても微塵も
腹がふくれないのだ。給料が支払われるまで一歩も動かないと傭兵
達は主張し、フランベルクは対応に四苦八苦するも、火に油を注ぐ
事態が発生する。
巻き返しを図るアルヴェリアが前線最大の拠点であるファーレン
ベルクを包囲したのだ。ただちに救援に向かうラウジッツ元帥の軍
に合流するよう命令が下されたが、ラウジッツ軍とは名ばかりの数
百の少数にすぎず、実質的にはフランベルク軍であることは明らか
だった。厳冬のただ中、給料が払われないまま最前線への突撃を命
じられた傭兵達はついに反乱を起こし、フランベルクを斬り殺した。
アセリアは最強の武将と最強の軍を同時に失い、前線拠点ファー
レンベルクもまた失陥したために交戦を断念。ここに五十年に渡る
戦争はアルヴェリアの勝利という形で幕を閉じたが、以後、解雇さ
れ野盗化した傭兵との傭兵戦争を両国は今も続行している。
その中で君主に対して忠実だった常勝の傭兵隊長フランベルクの
名は両国の間でロマンチックな回想の題材と化し、伝説の傭兵隊長
としてもてはやされる一方、大陸中の傭兵隊長に貴重な教訓を与え
ている。
傭兵に気を許すな、あの気高いフランベルクですら、殺されたの
だと。
3
165
﹁白衣団といえども人間です。表面的には絶対服従でも、内心では
私に対する不満は生まれます。傭兵隊長の権威というのは所詮薄氷
の上にあるようなものなのですよ。いくら私でも、エーリヒ卿のよ
うに人望のある者をそうそう処刑できません﹂
アルフォンソにとって今回の一件はそれを踏まえた上での茶番劇
に過ぎない。エーリヒを処刑すれば傭兵の間に不満が生まれ、最悪
の場合同情する傭兵との間で争いになる。かといって傭兵達の圧力
に屈して決定を曲げたという形は論外だ。ゆえに、アルフォンソは
大掛かりな舞台をこしらえ、敢えて迂遠な手段を取ることでエーリ
ヒを合法的に助命し、生殺与奪の権限が自身にあり、いかなる嘆願
にも耳を傾けないことを示しつつ、反意を抑え込んだのだ。
﹁あちらでは早速、軍規と侠気を両立させたと私を讃えていますよ。
無邪気なものですね。簡単に感情を操れる。とはいえ、油断するべ
きではありません。寝首を掻かれる時は、ほんの一瞬ですからね⋮
⋮少し長くなりましたが、どうですか、少しは傭兵隊長というもの
が理解できましたか?﹂
﹁わからない⋮⋮﹂
トリスは頭を振る。アルフォンソは流石に馬鹿らしくなった。
﹁⋮⋮そこまで頭が悪いとは思いませんでしたね。これは困りまし
た﹂
トリスはまたも頭を振る。
﹁僕がわからないと言ったのは、なぜ隊長がそこまで僕に教えてく
れるかと言うことです。今の話は明らかに傭兵隊長の視点に立った
166
もので、新入りに言うべきことじゃない。それぐらい僕にもわかり
ます。それを僕に敢えて語った。その理由が僕にはわからないので
す﹂
アルフォンソは不審がるトリスを普段通りの張り付けたような笑
顔で見つめる。どこか表情は楽しげだった。
﹁⋮⋮そうですね。今は、貴方の救いようのない愚かさと惨めさに
同情して、とでも言っておきますか﹂
﹁わかりました﹂
トリスはあっさりとアルフォンソの言葉を受け入れる。表情から
苛立ちが隠せていない。格の違いを認識はしても、自尊心は依然と
して強いのだ。だが無鉄砲に仕掛けることはもうない。僅かだが、
それは成長と言えた。
﹁⋮⋮僕はこれで。まだ僕は銃を使いこなせていませんから﹂
そういうとトリスは銃を背負い、皆と反対方向に去る。アンツィ
オからここまで、暇さえあればトリスは銃の訓練をしていた。そう
して得た戦果は彼の誇りであり、その力をくれたアルフォンソは絶
対的な存在であろうが、今までの人生を全て捨てるのは難しい。ト
リスのアルフォンソに対する感情は、憎悪と感謝が複雑に交錯する
ものとアルフォンソには映った。
﹁またこんなことをしていらっしゃるのですか。貴方らしいですね﹂
トリスと入れ替わって騎馬が来る。乗馬するのは頬に傷の目立つ、
歴戦の傭兵といった雰囲気の中年の男であった。
167
﹁ガウィーン、出迎えは貴方ですか。参事会の様子はどうですか?﹂
ガウィーンは白衣団の副将であり、アルフォンソにとって譜代の
家臣と言うべき存在である。彼の役目はアルフォンソの影となって
不在時の傭兵達の指揮を執り、参事会や市民の様子に目を配る事で
ある。今回アルフォンソはアンツィオでの軍事行動に加え、大規模
な募兵に市の秘密兵器である銃の使用と、いくらでも話題に上がる
ようなことをしていた。動きがないほうがおかしい。
﹁蜂の巣をつついたような騒ぎですね。特に民兵派は怒髪天をつく、
という感じです。戻り次第詰問されますよ。独裁者になる気かと言
われています﹂
﹁面倒ですねぇ⋮⋮野心がないことを証明するためにこれでも普段
ドゥーチェ
から色々と心掛けているのに、こんな小市民を疑うなんて。我らが
統領殿は?﹂
ドゥーチェ
ドゥーチェ
バイステリは共和制をとっており、政治は統領と呼ばれる任期つ
きの執政官が行う。ただし長い歴史の間にそれは形骸化し、統領は
参事会に名を連ねる貴族の持ち回りとなっている。
ドゥーチェ
﹁統領はアルフォンソ様を信頼していますね。どうやら北方の動き
が気にかかるようで、こちらも帰り次第意見を聞かせてほしいとか﹂
﹁もてる男は辛いですね。どうやら傭兵戦争にも一段落つきそうで
すか? こちらは面倒とは言えません。帰還次第すぐに参りましょ
う。来て早々で悪いのですが、先触れをお願いします﹂
アルフォンソはガウィーンが差し出す羊皮紙に幾つかの指令を書
168
くと、そのままガウィーンに手渡す。受け取ったガウィーンは馬を
飛ばしてバイステリへの帰路についた。
﹁さて、それなりに備えはしましたが、戦争になりそうですねぇ⋮
⋮困った困った﹂
言葉とは裏腹に、アルフォンソは楽しげに笑った。
3
川を遡行し、護衛隊はバイステリへと帰還した。森を抜け、街道
に出ると黄金色の小麦畑の長閑な風景が傭兵達の目を楽しませる。
バイステリへの食料の供給を行う農地だ。馴染みの光景なのだろう。
野良に出る農夫達はバイステリの市章を掲げて進む護衛隊の姿を認
めると手を振り、軽く会釈をする。気づいた傭兵達が次々に手を振
り返した。
コンタード
定期的に商隊を護衛して街道の安全を確保する護衛隊は盗賊団や
強盗騎士団の発生を防止し、街道沿いの地域の治安を良化させる。
城壁で保護されていない彼ら農夫にとって、それは何よりの安全保
障であった。バイステリは定期的に街道の治安維持に務める他、有
コムーネ
事には彼ら農夫を城壁の内側に保護する義務を負い、代わりに農夫
は都市へ食料や人間を供給する。自ら食料の生産手段を持たず、ま
コンタード
コムーネ
た人口密集度の高い都市では疫病の罹患率が高く、食料の全てと人
口の多くを周辺に依らざるを得ない。都市周辺地域と都市は相互補
完関係にある。
﹁⋮⋮って言っても、農民だって無力な存在ってわけじゃないんだ
けどな。自衛のために武装してるし、戦争が終わった後の残党狩り
なんかも積極的にやったりする。これは敗残兵が野盗化するのを未
169
然に防止してるんだが、装備や金目当てに土地勘を活かして徹底的
にやるから性質が悪い。俺も何度か殺されかけた。大体、傭兵の一
番の供給源は農地だしな﹂
乗馬させたアラエルを横目で見つつ、馬の手綱を引くエーリヒは
田園風景に見とれるアラエルに語りかける。一方的にまくし立てて
いるというのに近く、アラエルは答えない。その様子は自然な会話
というよりは、場を繋ぐために話しているようであった。
ガントレット
槍の小路が終わったその日から、エーリヒはとにかくよく喋る。
だが多くの場合、今のようにエーリヒが一方的にまくし立て、アラ
エルは返事をするきっかけも掴めないと言うパターンばかりであり、
とても会話と呼べたものではない。アラエルも返事をしようとする
努力を放棄してしまっていた。
︵なんというか、やはりこいつは⋮⋮︶
横目でちらりとエーリヒを眺めつつ、ため息をひとつ吐く。
︵若いな︶
明日には処刑と観念して自分の過去を滔滔と語ったのが恥ずかし
いのだろう。エーリヒにとってそれは絶対に誰にも語りたくない、
言わば原風景にして原罪のようなものだったはずだ。それを語りな
がら命永らえたのは当人にとって痛し痒しで、誇り高いこの男は他
人に自分の弱味を曝け出すような真似をした事をとにかく誤魔化し
たくて仕方がないのだ。
︵恥ずかしいのは、私も同じだというのに⋮⋮!︶
170
思い出してアラエルは赤面する。衆人環視の下で涙を流しながら
駆け寄ってすがり付き、死なないでくれと繰り返した事は、我に返
って見るとなんとも恥ずかしい。騎士道物語か何かではないのだ。
そんな三文小説を地で行くのは御免蒙るというのがアラエルの本音
である。だが、やってしまった。あの時の自分を殴り飛ばしてやり
たいが、最早過ぎ去ったことをどうこうできない。最早アラエルに
できる事は思い出すたびに毛布の中に頭を突っ込んでじたばたする
だけである。
︵もうすぐ別れるとはいえ、このままでおしまいというのは、後味
が悪いな⋮⋮︶
護衛を通じてアラエルはエーリヒに大きな好意を持った。この世
界で唯一の友人でもあるエーリヒとこのまま後味の悪い記憶を残し
て別れるのはなんとも嫌な話である。どうしたものかと思案を巡ら
せるが、いい案は浮かばない。思わずため息を吐くが。それを見た
エーリヒはなお更気を遣い、場を繋げようと色々と話し出す。それ
は聞いていて興味深い話ではあったのだが時宜を得ているとは言い
がたく、ただ知識が垂れ流されているだけであった。やはり会話に
ならない。エーリヒがそれではアラエルとしてもどう関係を修復し
たものかわかりかねた。
︵私はエーリヒを歳に似合わない熟成された人格の持ち主だと思っ
ていたが、もしや対人折衝経験が少ないのか?︶
エーリヒは14の頃からずっと戦場にいたという。つまりそれは
多感な青春時代を軍隊という閉鎖空間で過ごしたということであり、
冷静に考えれば自分の世間知らずをエーリヒは笑えないのではない
かという気がアラエルはしてくる。況してアラエルは表面上、女だ。
エーリヒが異性と接することに乏しかった可能性にアラエルは思い
171
至り、意外と歳相応かそれ以下の精神的余裕しかこういう方面には
ないのではないかという気がしてきた。
︵若いな、私もこいつも⋮⋮︶
些細な事でぎくしゃくして会話もままならない事に困り果てつつ、
アラエルは馬の背で揺られる。その目はやがてバイステリの城壁を
捉えた。
4
傭兵隊は、例え市によって雇用されたものであれ、市内への入場
は歓迎されない。それは常備傭兵隊である白衣団も例外ではない。
彼らは元々部外者であり、余所者である。城壁によって内と外を区
別する市民達にとって、剣呑な雰囲気を漂わせる傭兵隊は普段から
目にしたいものではないのだ。
コンタード
従ってアルフォンソは都市周辺地域に土地を与えられ、そこに部
下ともども居住し、都市を常に守護している。一種の領地貴族だが、
都市側には都市の治安維持の障害となる傭兵隊を隔離した上で定着
を図り、常備軍化を促進するという意図があり、傭兵隊側には解雇
の心配をせずに済むというメリットがある。傭兵隊は都市に不可欠
でありながら、厄介者でもあるのだ。ゆえに彼らはアンツィオにも
入ることができなかった。
だが、任務を果たしたこの日は違った。彼らは物資の輸送に成功
し、バイステリからアンツィオへの商路の安全性を証明した英雄で
あり、また強盗騎士団から多くの戦利品を奪い取ってきた勝利者で
もあった。バイステリの武威を示した彼らは武装したまま城門を潜
ることを許され、祝賀会の主役としてもてなされることが決定され
172
ていた。
*
﹁お祭り騒ぎだな﹂
バイステリの城門を潜るアラエルは市内の騒ぎに目を丸くする。
バイステリの人口は五万に届かない。しかし閑散とした街道や森林
を歩いてきたアラエルには、とてつもなく大きな規模の世界が城門
の内側に広がっているように見えた。最初に城門を潜った時に比べ
て特にそう感じるのは、街をあげて護衛隊の帰還を祝っているから
だろう。強盗騎士団を撃破したことは既に先触れによって伝わって
いる。その勝利が街を湧かせていた。
﹁では皆さんはこのまま中央広場へ。私は市庁舎に用事があるので、
また後程﹂
アルフォンソは城門を潜るとそういって指揮を副官のガウィーン
に引き継ぎ、市庁舎へと向かう。残った傭兵達は市民からの視線を
意識して綻ぶ顔を抑えつつ、整然と行進しながら中央広場へと向か
った。その後をアラエル達が追う。
カリヨン
からん、からんと鐘の音が街中に響き渡る。バイステリの象徴の
ひとつである組み鐘だ。教会に併設されたカリヨンは巨大な機械式
時計と共に街中の何処からも見える位置に設置しており、その複雑
さと精巧さから街の人間の誇りとして存在している。今も勝利を祝
うようにカリヨン奏者の指の動きに合わせて荘厳な音色を響かせて
おり、鐘の音と共に市内の暇な者達は次々と中央広場へ向かった。
﹁この音は⋮⋮﹂
173
中央広場へ近づくにつれて、アラエルは聞き覚えのある音を耳に
する。カリヨンの音に混じって弦楽器を携えた者達が音合わせを行
っていた。太鼓も吹奏楽器もある。素朴ではあるが、楽団が傭兵隊
を待っていたのだ。
﹁この世界にもあったのだな﹂
時代の技術的に難しいだろうと思っていたが、いかなる手段によ
ってか、アラエルの目にも見慣れた楽器群は確かにそこにあった。
無論形状は完成されたものではなく、黎明期の楽器といった感はあ
ったが、それでも弦楽器は弦楽器である。アラエルは郷愁を感じ、
暫く楽団を眺めていた。やがて音合わせを終えた楽団の前に杖を持
った男が歩み出て、地面を杖で突く。たちまち楽団は一斉に楽器を
構えた。
︵指揮者か︶
指揮法がまだ確立されていないのだろう。指揮者といっても、メ
トロノームの代わりにテンポを取るのが主な役割のようだった。杖
が突かれる。たちまち楽の調べが広場に響き渡った。同時に、傭兵
隊と周囲の女達に動きが生じる。めいめいが異性の元に歩き出し、
お辞儀をして身を委ね、あるいはリードし、音楽に合わせて踊り始
めたのだ。中には護衛の最中でアラエルが知り合った既婚者の夫婦
同士もいたが、独身者の元にも街の女が歩み出て踊りに誘うなど活
気を呈している。
︵なるほど、こうやって傭兵隊を地元に定着させようとしているの
か︶
174
余所者の傭兵隊は剣呑で、恐ろしい存在だ。では彼らを余所者で
なくしてしまえばいい。地元で結婚し、引退した後は傭兵で得た金
を元手に事業を起こすなり、技能を磨いて職人を目指すなりすれば、
市にとって彼らは最早怖い存在ではなく愛すべき隣人であり、また
有事の際には頼りになる戦士である。武力を持つ傭兵隊と市との契
約では傭兵隊が有利だが、市も無頼の傭兵達に市への忠誠心を生み
出すべく、様々な手を打っているのだろう。この世界の人間達は強
かだ。またそうして市が受け入れの姿勢を示すことは、未来永劫戦
場に身を置きたいと思う一部の人間以外には、傭兵にとっても大き
なメリットのある話である。
︵となると、花形はやはり⋮⋮︶
周囲を探ると案の定、騎士達の周囲には大勢の女達が群がってい
る。次男、三男とはいえ貴族は貴族。ただの傭兵とは将来性が違う。
無論そういった男をすべての女が狙えるわけでもなく、騎士達の周
囲にいるのは街の金持ちの娘と思われる、身なりのいい娘達だった。
特に人気なのはやはりカールマンとエーリヒで、カールマンは手際
よく次々とダンスの約束を取り付けているようだ。
︵それに比べてエーリヒは⋮⋮︶
見るからに要領が悪い。断ろうとしているのはわかるのだが、相
手の面目をどう立てたものかわからないらしく、中途半端に言葉を
濁してばかりいるため、周囲の女達も呆れている。どうやら本当に
異性と接触した経験が少ないらしい。あしらい方がわからないのだ
ろう。アラエルに気付くとしきりに視線で助けを求めてきた。
︵仕方ないな︶
175
世話が焼ける、などとエーリヒに思ったのは初めてだが不快では
なかった。不思議なもので、右往左往するエーリヒを見ているとア
ラエルはエーリヒが随分と身近な存在に見えてくる。あるいは精神
的な余裕を得たからか、とも思ったが、馬上では英雄の如き男が女
達に振り回されてしまう目の前の光景がおかしくて、アラエルは考
えるのをやめた。どうしてさっきまで会話が難しかったのか理解で
きない。今ならば簡単に話して、それどころか手玉に取る事もでき
そうだ、とアラエルはほくそ笑む。
﹁お嬢様方、申し訳ありません。エーリヒには先約が入っているの
です﹂
言を左右にするエーリヒに苛立ち始めていた女達の間に割って入
ってそう言うと、女達はああ、と納得した。
﹁煮え切らないと思っていたら恋人がいたのね。それならそうと言
ってくれればいいのに! 酷い人﹂
﹁いや、アラエルは恋人ってわけでもないんだが⋮⋮﹂
アラエルの立場を考慮し、恋人視されることに若干の後ろめたさ
を感じているのだろう。エーリヒは言葉を濁そうとしたが、アラエ
ルはそれ以上言うのを片手で制止した。
﹁はい。なにぶんまだ日が浅いもので、ご覧のとおりぎこちないの
ですが、流石にダンスの一番手は私に遠慮してくれたようです﹂
女達も何が何でもエーリヒと踊りたいというわけではない。有望
な花婿候補を探しに立派な騎士を何人か下見に来ただけだ。それだ
け聞くと、特に悶着もなくその場を去って別の騎士達を当たりにい
176
った。後には二人が残される。
﹁お前、馬を降りたら無能なのか?﹂
おかしさを隠し切れずにアラエルがそういうと、エーリヒは心外
だと言わんばかりに答えた。
﹁なんだよ、徒歩で戦っても俺は誰にも負けない自信があるぞ﹂
﹁そういう事を言っているのではないのだがな。お前にとっては鎧
兜に身を固めた騎士よりドレスを纏った貴婦人の方が苦手と見える。
女の腕は細いからな。剣のように乱暴に取り扱うことはできぬか﹂
﹁わ、悪かったな⋮⋮﹂
図星を指されたらしい。拗ねるように視線を逸らすエーリヒがア
ラエルにはますますおかしい。
﹁やれやれ、童貞でもあるまいに、女ひとつあしらえないようでは、
今後が思いやられるな⋮⋮﹂
﹁ど、童貞ってお前、女がそんな事口にするなよ⋮⋮﹂
﹁私は男だと常々言っているが? まぁいい、私が男だということ
を踏まえて⋮⋮﹂
アラエルはスカートの両裾をつまみ上げ、周囲の見よう見まねで
膝を折って腰を屈め、優雅に一礼する。
イル・キャバリエール
﹁私と一曲踊って頂けませんか? 騎士様﹂
177
5
市庁舎にやってきたアルフォンソは、敵意に満ちた視線による歓
迎を受けた。
コンドッティエーレ
﹁飽きない人たちですねぇ。私はしがない契約傭兵隊長。薄紙一枚
で首にされる儚い存在だというのに。給料に興味があるだけで、別
段こんな街の政治に何の興味もありませんよ﹂
傭兵隊に与えられる特権は多岐に渡り、費やす費用は膨大に上る。
専門家の集団ということで直属の兵にはギルドの親方を超える給料
がいる。死んだ傭兵にも補償はいる。戦争となれば千名ほどに規模
を拡大せねばならぬ。あまつさえ共和制をとるバイステリにおいて、
アルフォンソだけが僅かとはいえ土地を保有し、そこを領地として
徴税権を持ち、半ば独立国として経営している。全て市にとっては
耐え難い出費だ。それでも街を守ってくれるならばいいが、エルヴ
ンの都市の中には傭兵隊長に乗っ取られた街すら存在するのだ。傭
兵隊長は油断ならない存在として見られている。特にこのバイステ
リの場合は、更に問題があった。
﹁アルフォンソ隊長、無事のご帰還、おめでとうございます﹂
政治家の証である黒い上着を羽織った四〇代半ばほどの男が慇懃
に挨拶する。口ではアルフォンソの帰還を喜びながら、表情からは
アルフォンソに対する苛立ちや嫌悪感が見て取れた。
﹁マキリ書記長、ご丁寧にありがとうございます﹂
マキリは参事会におけるアルフォンソ嫌いの急先鋒であり、傭兵
178
隊そのものの追放と、傭兵隊に代わる市民軍の創設を日頃から主張
している。費用の嵩む傭兵隊をもっと安上がりな軍に変えてしまい
たいと思う議員は多く、﹃民兵派﹄と呼ばれる一派を彼らは構成し、
事あるごとにアルフォンソの権限を削ぎにかかっていた。
﹁参事会に相談もなく傭兵隊の拡充を決定したとか? あなたはど
うやらこの街を破産に追い込みたいようですね。あるいは、王にな
る気でも?﹂
挨拶もそこそこにマキリは詰問する。アルフォンソは柳に風と肩
を竦めてやり過ごした。
﹁彼らへの給料は暫く私自身の私財から支払います。これは通達済
みでは? 私とて財務局の権限にまで手を広げるのは越権行為とい
うことぐらい承知していますよ﹂
﹁だが、その私財とて元々は市の払ったものだ!﹂
﹁はい、契約書を取り交わして正式に、書記長殿もご覧になった上
で取り交わしたものですね﹂
マキリは押し黙る。アルフォンソは無感情にそれを見るだけだ。
﹁⋮⋮増員が必要な事情は聞いています。ですが、そういうことな
らば尚更市民軍の編成が必要なのではないのですか? 普段はパン
を焼き、レンガを積み上げつつも軍事訓練をつみ、一朝事あらばた
だちに防衛隊として馳せ参じる⋮⋮これこそ理想的な軍隊の姿と思
えませんか? 市民軍ならば、通常の傭兵軍に支払う給料と同じ額
で、その数倍の軍勢を手に入れることが可能なのです! 試算によ
ればその動員力は市民軍だけで二五〇〇⋮⋮!﹂
179
﹁思いません。不要です。許可できません。却下します﹂
アルフォンソはマキリの言葉が終わる前に議論の余地がない、と
言わんばかりの態度で却下した。
﹁何故ですか! 戦争は基本的に数でするものだと貴方はいつも言
っている! それなのに貴方はいつも市民軍の編成すら認めない!
エルヴンでも市民軍の編成は時代の流れです。多くの都市が傭兵
隊と市民軍を同時に保有している。なのにこの街では貴方の存在の
せいで市民軍を編成することが叶わない。貴方はご自分の政治的影
響力を失うのが怖くて、故意に市の防衛力を落としている!﹂
﹁貴方の考えは誤っています。烏合の衆という言葉をご存知でしょ
う? 市民軍はまさにそれです。もう何度もこの話はしましたが、
月に一度の顔合わせのような訓練に参加するだけの者達がプロの軍
人に勝てるわけがありません。金の無駄であり、また戦死されては
市の経済力に打撃が与えられます。そのような愚考を、私はバイス
テリ市の司令官として許すわけにはいきません。こと軍事に関して
は完全に私の領分であるということ、そろそろ書記長殿にもわきま
えてほしいところなのですが﹂
﹁郷土愛に燃える市民を、烏合の衆と言うか!﹂
﹁事実を述べたまでです。たとえ三倍の市民軍が相手でも、私は一
時間以内に完勝できるでしょう﹂
言い争う内にマキリの背後には民兵派の参事会員が、アルフォン
ソの背後には白衣団がつき、庁舎は一触即発の様相を呈する。だが、
その緊張は場違いなのんびりとした声によって中断されることにな
180
った。
﹁おや、アルフォンソ隊長。もうこちらに来られておられていたの
ですか。てっきり中央広場にいると思って出向いたのですが、楽し
げな雰囲気に思わずダンスを楽しんでしまいました。隊長も踊って
こられればよかったのに﹂
入り口から響いた声に、アルフォンソは即座に膝を屈めて敬礼す
る。続いて周囲も次々と膝を屈めるが、声の主は恰幅のいい体を揺
らしながら慌ててそれを制した。
﹁ああああ、隊長も書記長も皆さんも、ここは共和国なのですから
そんな礼を取らなくてもいいといつも言っているのに⋮⋮父上は偉
大でしたが、私はまだまだ若輩者ですから、膝を折るのは私の方で
すよ﹂
言いながら重そうに身を屈める男を周囲が制止し、その場の全員
が立ち上がったのでようやく男は身を屈めるのを止めた。
ドゥーチェ
﹁統領閣下、ご健康で何よりです﹂
﹁ああ、アルフォンソ隊長も壮健そうでよかった。隊長はバイステ
リの防衛の要だからね。書記長も元気そうですね。キミの立案した
外壁の修繕と強化計画、あれはよかった。是非予算をつけますよ﹂
ドゥーチェ
対立していた両名を立てつつ、バイステリ統領、ロレンソは難儀
そうに歩きながら席に腰を下ろし、汗をハンカチでひとふきした。
アルフォンソとマキリを始めとした者達はただちに文武の列に分か
れて左右に控える。
181
﹁さて、アルフォンソ隊長。報告にあった強盗騎士団だけど⋮⋮こ
れがただの強盗でないとキミは述べていたね。これはどういう意味
なのか、聞かせてほしいな﹂
ロレンソの言葉にアルフォンソは一歩進み出る。場の視線が全て
アルフォンソに集まった。
﹁賊は、その場に元々存在したと思われる盗賊達を事前に捨て駒と
して使ってきたほか、陽動や迂回といった高度な戦術を使ってきま
した。また、それにも関わらず現実に突入してからは統制を失い烏
合の衆と化し、容易に殲滅されたことからも、少なくとも突入直前
までは誰かしら軍師がいた可能性が高いと私は踏んでいます。なお、
それに関連して七名の傭兵が戦死し、四名が重傷を負ったため、補
償の準備をお願いする旨、報告にあげていますので後で目を通して
ください﹂
参事会員達がざわつく。アルフォンソの指揮する街道護衛でここ
まで戦死が出たのは初めてなのだ。ただの賊とは確かに違う。誰も
がそう思った。
﹁ああ、痛ましいことだね⋮⋮彼らもやがてはこの街のいい市民に
なったかもしれないのに。補償は確かに渡すよ。さて、アルフォン
ソ隊長はそれじゃあ、今回の襲撃がどういう意図を持って行われた
のだと思うのかな? 私見でいい、キミの意見を聞かせてほしい﹂
周囲の注目が再び自分に集まるのを確認すると、アルフォンソは
静かに口を開いた。
﹁⋮⋮北の王国アルヴェリアからの威力偵察﹂
182
傭兵と淫魔
1
祝賀会を終えた傭兵隊は郊外に退去し、アルフォンソの所領に宿
を取った。元は何もない荒地だったが、アルフォンソが私財を投じ
て開発と経営に努めた結果、多数の傭兵が駐留することもあって発
展し、バイステリの衛星都市︵と言うには流石に規模が小さすぎる
が︶としての地位を得ているという。いわば傭兵の宿場街であり、
宿泊施設や訓練施設のほか、酒場や娼館に賭博場と、少々後ろ暗い
施設まで不足はない。
生還した傭兵達が夜遅くまで飲み、騒ぐ一方でアルフォンソら首
脳部は戦死した傭兵の埋葬や重傷を負った傭兵の見舞いを続けてお
り、エーリヒと共に同道したアラエルはそれをかなり意外に思った。
﹃血も涙もない傭兵隊長とでも思いましたか?﹄
図星をさされたアラエルはう、と一歩後ずさったが、アルフォン
ソはにこやかな笑みを浮かべたまま続けた。
﹃血も涙もない人間でも、それを悟らせてはいけないのが傭兵隊長
です。墓参りに見舞いで部下の忠誠心が上がるならしめたものじゃ
ないですか。一銭もかかりませんよ。死んだ傭兵に悪い傭兵はいま
せんしね﹄
根底は冷徹であっても、冷徹でないように装うことができる。ア
ルフォンソはそういう人間ということだ。改めてアラエルはアルフ
ォンソを油断のならない人間と思う。
183
︵だが、それも今日までだ︶
明け方近く、アラエルは傭兵の縁者向けに用意された宿舎をそっ
と抜け出した。手元にはバイステリ市の発行するグラン銀貨が数枚。
信頼度の高い通貨であり、どこでも通用するという。護衛の給料だ。
安宿を何度か取ることしかできないが、それでも金は金である。最
低限の荷物も持った。隠形を使い、誰にも気付かれることなく街の
出口へと歩く。兼ねてよりの予定通り、ここで傭兵隊とエーリヒに
別れを告げるのだ。
︵いつまでもいていいはずがない︶
例え正体が露見しなくとも、自分のような出来損ないの女に関わ
ることはエーリヒの将来によくないとアラエルはずっと思っている。
広場での祝賀会の際、エーリヒが女達の誘いを受けることも断るこ
ともできなかったのは間違いなく自分のせいだ、とアラエルは認識
していた。アラエルに義理立てして受けることもできず、さりとて
恋人と言い切ることもできずに断ることもできなかった。そんなと
ころだろう。だがそれはエーリヒの将来を閉ざすことになる。アラ
エルは何も持っていないのだ。もしアラエルがあそこにいなければ
エーリヒに良縁が生まれ、そこから投資者が見つかり、独自の傭兵
隊を結成して栄達することとてありえたかも知れない。アラエルは、
その可能性を潰したともいえる。
︵だから、これまでだ︶
エーリヒは戦いに生きる男である。それが騎士というものの生ま
れながらの使命なのだろう。また、エーリヒにはそれしかできない。
馬から下りてしまえば何もできないのだ。そして軍歴を積み、出世
184
するに当たって、必ずどこかで自分が重荷になる。騎士というもの
に接してそう確信したアラエルは、何も言わずに別れることを随分
前から決意していた。
︵エーリヒ、お前は悪い女に引っかかったに過ぎん。いずれお前に
相応しい女が現れよう。私は夜道を歩けばいい︶
そう思いながら街を囲う木製の門に来たとき、
﹁何処行くんだ?﹂
馴染んだ声を聞いた。
﹁エーリヒ﹂
﹁散歩ってわけじゃなさそうだな⋮⋮もしやと思ったが、張ってて
正解だった﹂
目を丸くするアラエルに、頭を掻きつつエーリヒは答える。どう
やら夜からずっと門の前で張っていたらしい、目の下には隈ができ
ている。
﹁何故わかったんだ? 私は誰にも言わなかったぞ﹂
﹁言いはしなかっただろうが、行っただろ? アンツィオで給料係
に給料をもらいに﹂
そう、確かに行った。そして給料をもらうのに失敗して、結局復
路も行動を共にすることになったのだ。
185
﹁不審がった給料係が俺に注進してきたんだ。恋人がアンツィオで
俺を置いていく気なのかもってな。次に行動するとしたらこのタイ
ミングだろうから、一応見張ってたら案の定ってな﹂
エーリヒはアラエルに近づく。僅かに感じる迫力にアラエルは若
干気圧された。
﹁俺はお前にとって、別段なんて事はない他人だ。だからここでお
前が出て行くっていうんなら、とめる権利は俺にはない。だが、俺
には⋮⋮﹂
言いよどんだエーリヒは、暫し考えた後、大きくうなずいて口を
開く。
﹁俺にはお前が必要だ。手前勝手な話をするなら、お前がいてくれ
れば俺は救われる気がする。命の恩もまだ返し終わっちゃいない。
もう少し共にいてくれないか﹂
表情が綻んでしまいそうになる事を自覚したアラエルは、意識し
て引き締めなおした。
︵重症だ︶
アラエルは敢えてそう思い込むことにした。
︵エーリヒ、お前は私と共にあるということがどういうことか、理
解していない。私はまともな身ではないのだ︶
普通の身の上なら思い悩むことはない。だが、アラエルは人間で
はないのだ。エーリヒがいずれ立身出世を果たそうとしたとき、ア
186
ラエルの身がどれほどの重荷になるか、想像もつかない。
﹁エーリヒ、私は悪魔だ。心は人だとか、自覚はないとか言い訳を
するつもりはない。お前が処刑されそうになったとき、私は淫気を
使う気でいた。それ以前にも正体の露見を避けるため街の真ん中で
使おうともした。何れも使えば大惨事だろう。それほどの事を事態
が切迫すれば躊躇なく実行できる。その精神の在り方はやはり悪魔
なのだ。悪魔と人の人生は交わるべきではない﹂
そう、人死にが出ないからといって、アラエルは淫気の使用の制
限を厳格には定めていない。無意識のうちに切り札としていつでも
温存しているのだ。その事に気付いたとき、アラエルは寧ろ納得し
た。自分はやはり根本から最早人ではないのだと。ゆえに別れを告
げる意思は固い。だが、エーリヒは寧ろ呆れたような表情でため息
を吐いた。
﹁エーリヒ⋮⋮?﹂
真面目に話しているにも関わらずそのような反応を返されたアラ
エルは不審を覚える。敢然と否定するか、さもなくば消沈するか、
そのような反応を予想していたが、呆れられるのは想定外だった。
﹁あー⋮⋮お前、くそ真面目な奴だったな。そういや﹂
エーリヒは頭を掻きつつ目を閉じ、何事か思案する。アラエルは
徐々にイライラしてきた。
﹁私はいつだって大真面目だ。真面目にならねばならぬ身であろう。
エーリヒ、お前ももっと真面目に考えろ。角のついた人間などいな
いし、人の身に過ぎた力を行使しうる存在がどれほど恐ろしいか。
187
だから私は⋮⋮﹂
﹁そこまで。俺に話させろ﹂
エーリヒは掌を向けてアラエルを制止する。アラエルはむぅ、と
唸りながらしぶしぶ引き下がる。
﹁⋮⋮俺に言わせりゃお前は深刻に考えすぎなんだよ。お前より悪
魔じみた人間なんていくらでも見てきた。俺だってその一人だ。妙
にお前は人間を理想化している。けど、俺が思うに、﹃こうあらね
ばならない﹄なんて人間像は道学者と坊主以外には無関係だ。持っ
てる力の量が違うだけで、お前の在り方は十分人だよ﹂
﹁エーリヒ、しかし⋮⋮﹂
﹁お前、俺を許したんだろ? 何人も無抵抗の人間を殺した俺を﹂
不意に過去の恥部を持ち出され、アラエルの頬が朱に染まる。
﹁あ、あぁ。そんな権利は無論私にはないが、私は許している﹂
﹁だったら俺はお前の存在を許容する。何があっても俺だけはお前
の味方をしよう。それじゃダメか?﹂
沈黙が下りる。エーリヒは静かに、アラエルは困惑しながら互い
を見つめた。
︵⋮⋮思えば、今更か︶
我が身の恐ろしさに恐怖したなら、その場で自害する事もできた
188
はずだ。だが、アラエルはそれをしなかった。生きていたかったか
ら。何の目的もなくても、とにかく死ぬことは嫌だったから、こう
してここにいる。それも、命を奪う傭兵隊の中に。自分の言動と行
動はどこか矛盾している。そんな風にアラエルは思った。敢えて離
れる決意をしたのは、自身がエーリヒにとって重荷になると思った
からだが、エーリヒは許容するという。段々とアラエルは自分がど
うしたいのかわからなくなってきた。
﹁⋮⋮ああくそ⋮⋮頭がこんがらがるな⋮⋮﹂
﹁真面目に考えすぎているんだよ。俺は許容すると言った。開き直
れ。お前の居場所ひとつぐらい作ってやる。それぐらいの器量はあ
るつもりだ。俺と共に在って欲しい﹂
エーリヒは手を伸ばす。
﹁軽く言うが⋮⋮﹂
既にアラエルの表情からは固さが取れている。悪魔であるこの身
が誰かに害を及ぼさないか、特に将来あるエーリヒに大きな負荷を
負わせないかと思いつめていたが、エーリヒは言ったのだ。それを
許容すると。頼っても構わないと。アラエルは微笑んでエーリヒの
手を取った。謹んでお前の世話になろう、エーリヒ。容赦なく負荷
をかけてお前の人生を邪魔してやろうではないか。そう目で語ると
予想以上に伝達が上手くいったのか、エーリヒは苦笑した。お手柔
らかに、というところか。
﹁ところで私の頭には角がある。露見すると事だな﹂
開き直ったところでアラエルはエーリヒに現実を突きつけること
189
にした。
﹁まぁ、そうだろうな﹂
﹁加えて背中には羽がある。更に言えば私は毎日湯浴みしたい﹂
エーリヒの表情が若干引きつった。
﹁いや、入浴なんてよほどの王侯貴族でも毎日は⋮⋮第一体に悪い
ぞ﹂
﹁それは俗信に過ぎない。寧ろ却って健康を促進する。とにかく私
は毎日風呂に入りたいのだ⋮⋮つまり、私一人の居場所というのは
案外難しいぞ。言ったからには責任をとれ﹂
エーリヒは肩を竦めて渋い顔を作る。現実は甘くない。お荷物を
エーリヒは自ら好んで背負い込んだのだ。だがそこに後悔はないよ
うに見えた。それがアラエルには嬉しい。だが、それでもアラエル
はいつかはどこかで別れる必要があると思っている。
︵私は出来損ないの女だ︶
やがて邪魔になる時が来るだろう。そうなったなら、潔く消えよ
う。そう決意しつつ、今はただ目の前の男が頼もしかった。
190
傭兵と淫魔︵後書き︶
本作のテーマの一つは﹃劣等感﹄です。それが伝えられたかどうか。
第一部はこれにて終了。ここまでお付き合いありがとうございまし
た。
191
番外編 二人の日常
アンツィオからの帰路、護衛を勤めて1週間を過ぎた頃。エーリ
ヒは同僚の騎士からアラエルが発狂したという話を聞き、血相を変
えて彼女の天幕にまで馬を飛ばした。
聞いた話によると、朝早く起きたかと思えばわけのわからない歌
を大声で歌いだし、人間とは思えない勢いで身体を動かし始めたと
の事であり、とても正気には見えなかったらしい。わけがわからな
いながら、エーリヒは冷静を完全に失い、頑丈な愛馬をも疲労させ
る程の速度で直ちに現場にたどり着いた。
﹁アラエル! 無事か!?﹂
勢いよく天幕を開けると、果たして、そこには、
﹁あーたーらしーいー、あーさがきたー⋮⋮エーリヒか、お前も体
操するか?﹂
まさしく言われたままの光景が繰り広げられており、エーリヒは
膝を突いて倒れこむ。
﹁その前に、一体お前に何があったのか教えてくれ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮これには実際、深い事情があるのだ⋮⋮﹂
アラエルが5人の男を﹃喰って﹄からもう大分経つ。日々の食事
で栄養は賄えているものの、時折身を灼く渇望に苛まれてしまうの
だという。
192
﹁衝動というか、生存する上では不要なのだろうが、とにかく渇く。
この間も洗濯中に無意識に淫気を発していたらしく、両隣の女が卒
倒した﹂
ちなみにその女達は夜を待たずに意中の傭兵のところに駆け出し
たという。エーリヒは若干ぞっとした。
﹁そんなわけで健康的解決を図り、歌と体操に励んでいたというわ
けだ。今の私に近寄らない方がいいぞ。僅かだが淫気を出している
気がする﹂
言いながら謎の体操を続行し、きいたことのない歌を大声で歌う。
天幕の外からのひそひそ声が実に痛いが、アラエルも真剣である。
一見馬鹿馬鹿しい行為だが、アラエルの淫気が暴発した場合護衛隊
が崩壊するのだ。
﹁⋮⋮事情は理解したが、その、他にやりようはないのか⋮⋮? お前が発狂したと専らの評判だぞ⋮⋮﹂
﹁これ以外の手となると、それこそ誰かの血を啜るしかなさそうだ
な⋮⋮﹂
アラエルも問題だとは思っているのだろう。表情は暗く、沈みこ
んだ。
﹁そういえばお前のその、血を啜るって言うの、死ぬまでやらない
とダメなのか?﹂
﹁いや、腹は減っていないからな。ただ物足りないのが制御できな
193
くて困っているだけだから、少量でも問題はないはずだ﹂
エーリヒは天を仰いで諦める。そう言われてしまえば、おのずと
やることは決まっていた。
﹁あー⋮⋮俺の血を吸え﹂
﹁いいのか?﹂
目を丸くして若干身を乗り出すアラエル。よほど渇いているのか、
緋眼は爛々と輝き、喉を鳴らす。エーリヒは生命の危機を覚えた。
﹁ほっといたらえらいことになるだろうし、頼めるのも俺だけだろ。
加減しろよ。くれぐれも加減してくれよ﹂
そういいながら腕をめくり、脇差しで薄く傷つける。たちまち鮮
やかな赤が流れ落ちた。
﹁お前には世話ばかりかけるな⋮⋮心配するな。すぐ終わらせる﹂
そう言うとアラエルは腕に口付け、舌を這わせる。自然と上体を
下げ、エーリヒに従うような、まるで猫のような姿勢になるが、激
しい渇望に身を灼かれるアラエルは気づいていないのか気にしてい
ないのか、そのまま舐め続けた。寧ろエーリヒの方が慌て出したが
時既に遅い。
﹁待て、この姿勢はまずい。なにがまずいのか具体的には言えない
がとにかくまずい! もう少し穏当な姿勢で血を吸え!﹂
見下ろしながら慌てて腕を引き上げようとするが、半ば正気を失
194
っているらしい。両腕で挟み込み、決して離さないで甘えるように
舌で血を舐めていく。首もとを覆う襟のボタンを邪魔そうにはずす
と、白い首が露になり、血を飲み込む喉の動きに思わずエーリヒは
唾を飲んだ。
貞操観念が強固な時代である。女の露出は厳しく制限され、首や
脚も規制の対象となっており、厳重に隠されている。裏を返せば男
にとって首や脚ですら普段見ることのできない部分であり、それだ
けに不意に見せられれば理性が飛びかける。
﹁あー、あー⋮⋮こいつは男こいつは男こいつは男⋮⋮﹂
実質的には女だろうと常々思っているのだが、敢えてそう思い込
む事で理性を保つ。そうこうしている間に理性を飛ばしつつあるら
しいアラエルの着衣はさらに乱れ、片方の肩が覗き、太ももが露出
する。エーリヒの主観で言えば、それはもう裸だった。
﹁待て待て待て待て! 色々待て! 落ち着け、目がもう尋常じゃ
ないぞ! お前だって押し倒されたくはないだろう!?﹂
懸命に腕を抜こうとするがこんなときだけ役に立つらしいアラエ
ルの馬鹿力は捕らえて離さず、引き合う内に腕がアラエルの胸に包
まれた。瞬間、エーリヒは完全に停止する。その隙にアラエルは実
に美味そうにエーリヒの血を舐め啜っていた。
﹁ふう、満足した。途中からよく覚えていないが、まぁ本能に根差
す行動のようだしな﹂
195
爽やかに微笑むアラエルは着衣の乱れを直しながらエーリヒの腕
に軽く包帯を巻く。対するエーリヒは糸の切れた人形のように黙り
こくり、無反応だ。
﹁いい天気だ、洗濯日和だな! こんなに晴れ晴れとした気持ちは
久々だ! エーリヒ、また頼むぞ﹂
肩を叩いてアラエルは天幕を後にする。一人残されたエーリヒは
びくり、と震えてまた固まった。
暫くしてからエーリヒは甲冑もつけずに馬に飛び乗り、偵察とだ
け言い残して猛烈な勢いで馬を駆って出掛けた。その勢いたるや乗
馬の名手であるカールマンですら驚くほどであり、またエーリヒが
聖歌を歌いながら走りまわっていたこともあって、暫くしてから発
狂したのではないかという噂が流れた。
﹁二度とやらせるかーーーーっ!﹂
抑えきれない欲情を健康的に発散することを選んだエーリヒはし
かし、これ以後も何度もアラエルに血を与え、その都度歌を歌いな
がら走り回ったり、剣を振ったり、果ては開き直って夜の町に繰り
出したりすることになる。
196
番外編2 プレゼント︵前書き︶
挿し絵ありです。
イラストレーターはちとせみどり様。
オーダーメイドコムに発注したイラストです。
197
番外編2 プレゼント
1
傭兵隊は平時には街道の護衛の他、バイステリの治安維持も請け
負っている。即ち市内の警邏、昼間、夜間の城壁の外の見張り、入
門者の武器の預かりなどが仕事だ。都市は城壁によって囲われるこ
とで外部からの襲撃からの安全は確保できてはいるが、だからとい
って何万と人が暮らす都市から犯罪が絶えることはないし、不意に
街を襲う可能性のある国とて四周に存在しているのだ。戦時でなけ
れば給料は半額に減給されるため傭兵達は生活に困窮して副職に手
をつけるのだが、そんな彼らにも容赦なくこれら任務は周期的に回
ってきた。
そして給料半額どころか給料そのものがないのがアラエルのよう
な女達である。彼女らは街道護衛などで軍が動く際、それに随伴し
て様々な仕事をこなさない限り給料など出ない。だからといって暇
ということはなく、平時でもアルフォンソの領地で彼女らは様々な
仕事に追われる。それは洗濯、炊事、掃除といった家事一般の他、
糸紡ぎや裁縫、養鶏といった収入のあるものもあるが、男性優位の
社会にあっては男と同じ仕事に就くのは難しい。だが一方で例外と
いうものはなんにでも存在する。
﹁⋮⋮ふぅ﹂
ペンを走らせていたアラエルは最後のピリオドを羊皮紙に打つと、
大きく息を吐き出した。
﹁一言一句違えずに筆記しました。確認のために読み上げますか?﹂
198
羽ペンをインク壺に入れつつ傍らの傭兵に訊ねる。まだ年若いそ
の傭兵は顔を赤くして頭を振った。その様子にアラエルは内心苦笑
する。故郷に残した恋人に宛てた恋文なのだ。彼が依頼したのは。
若い女性を相手にあちこち相談しながら読み上げるのも恥ずかしい
が、それを目の前でもう一度読まれるのは羞恥の極みだろう。
﹁では、確かに。配達人は明後日までは逗留するそうです。届ける
のを忘れないでくださいね﹂
銅貨を受け取りつつにこやかに応対する。若者の頬が紅潮し、ぶ
んぶんと首を大きく縦に振ると、手紙をとって足早に外に出た。
代書人。それがアラエルの仕事である。もっとも本物の代書人は
文字の読み書きができない人間のため、役所手続きや書類作成も行
うため、アラエルがやっているのはただの代筆にすぎない。それで
も識字率の低い世界にあって読み書きができるということが大きな
武器なのに違いはなく、傭兵相手にアラエルの商売は繁盛していた。
ペン先をインク壺のなかで弄んでいる間に次の傭兵がやってくる。
こころなしか緊張しているように見えた。
2
﹁両替して銀貨五枚。パンにして二日ぶんか。悪くないが⋮⋮﹂
目の前に広げた銀貨の山を前にアラエルは微笑む。護衛の給料と
合わせれば銀貨は四〇枚ほど。都市で最下級の労働︵街路清掃や下
水作業要員︶に従事する者の日当が銀貨二十枚であることを考えれ
ば四分の一の収入だが、アラエルも一日中代筆をしているわけでは
なく、また女の身では報酬も低くならざるを得ない。妥当なところ
199
か、と思うことにした。
﹁妙に恋文が多かったのはどういうことかよくわからんが、滑り出
しはうまくいったな。この分なら貯金もできるだろうが、さて⋮⋮﹂
アラエルは傭兵隊の後ろ楯のもと、アルフォンソの領地でのみ代
書人をしている。どこの土地でも勝手な商売は先人の権益を侵すた
め排除されるのだ。その点、傭兵隊はそれ自体が小規模な都市に近
いため、商売相手には不足しない上、後ろ楯としても心強い。初日
は護衛に随伴するよりよほど実入りがいいとアラエルは思ったが、
翌日以降も依頼が来るとは限らないため、過信は禁物と戒める。だ
が目の前の銀貨を見ると、卑しいことは承知で表情が綻んだ。
︵まだ足りないが⋮⋮食費等を考慮して、約半年か?︶
少し前から欲しいものがある。それなりに高価なものなので貯金を
する必要があったため、仕事を斡旋してもらったのだ。気が長い話
ではあるものの、買ったときのことを考えると表情が緩む。
﹁なんだ、銀貨を前ににやけて﹂
油断していたアラエルは不意に仕事場に入ってきたエーリヒに気
付かず、醜態を晒した事に慌てる。
﹁せ、正当な労働の結果だ! 少しはにやけたって構わないだろう
? それより夕食の支度もある。そろそろ戻るぞ﹂
この世界では金と言うのは卑しいものとされている。だがそれを
置いても金の前でにやにやするには余り上品とは言えない。アラエ
ルは表情を引き締めて誤魔化し、足早に外に出る。空は赤みがかっ
200
ており、一日の終わりが近いことを知らせていた。照明が限られる
世界では日没が一日の終わりであり、夜明けが一日の始まりなのだ。
アラエルにも家事が待っている。
﹁待てって。何だかわからんが、俺が悪かったよ﹂
かつかつと意識的に歩を進めるアラエルの後をエーリヒは追いか
ける。傭兵とはいえ年がら年中槍刀を振り回すわけではない。エー
リヒは市中の見回りを終えたところである。市内では武装は制限さ
れるため、レイピア一つという出で立ちだ。しかし地味と言うこと
はなく、服装は贅を尽くしていた。市民向けに乱暴者の傭兵という
イメージを一掃すべくアルフォンソは私財を投じて制服を支給して
おり、市の服飾人の手になるという騎兵用の制服は、白地に金の刺
繍が施された上着に、黒いベレー帽に羽飾り、青い外套は風に揺れ
て華麗に翻るというもので、歩けば周囲の視線を惹き付けた。
︵⋮⋮誤解させたか?︶
どうやらエーリヒは自分を怒らせたと思い込んでいるらしい。と
アラエルは察した。実際には銀貨を前ににやけていたのを誤魔化す
ために早足で歩いているのだが、真剣に怒っていると取られるのも
ばつが悪いアラエルはここらで誤解を解くべきと考える。
﹁あー⋮⋮エーリヒ﹂
足を止め、別段怒っていない事を伝えようとしたとき、ふと閉店
間近の商店の店先が目に入った。
﹁アラエル⋮⋮?﹂
201
怪訝そうな顔でエーリヒが問うが、アラエルの目は食い入るよう
に店先に展示された商品を見ている。無言のまま暫く観察すると、
やがてアラエルは肩を竦めて微笑んだ。
︵ここでも、売られていたか︶
ヴァイオリン。言わずと知れた弦楽器の代表格だ。値札はない。
というよりこの世界に値札なるものはなく、全ての商取引がその場
その場の交渉次第である。だがそれなりに複雑な工芸品であるヴァ
イオリンは、やはり高額だ。バイステリ市でもヴァイオリンを見て
いたアラエルはそれを知っている。懐の銀貨ではまだ届かないが、
何れは。そう考えながらエーリヒに帰るよう促そうとアラエルは振
り返るが、そこに既にエーリヒはいなかった。
﹁おい、エーリヒ?﹂
﹁そこで待ってろ、今買ってくる﹂
店仕舞いの支度を整えていた店主を遮ってエーリヒは店内に突進
する。アラエルはぽつんと残されながら、呆然とそれを眺めていた。
3
宿舎に帰ってきたとき、アラエルは手元のヴァイオリンを片手に
固まっていた。言うまでもなくエーリヒが買ったものだ。
︵確かに欲しかったのは事実だが⋮⋮︶
タイミングがタイミングだけにまるでねだるような形になったの
が心苦しい。確かに世話になると決めはしたが、安いものならとも
202
かく高価な工芸品を与えられて当然と思うほど図々しくなりたくは
なかった。とはいえ、要らないと突っ返すなどできるはずもない。
﹁エーリヒ、その、だな⋮⋮﹂
或いは図々しいと思われていないかと恐る恐るアラエルは訊ねる。
だがエーリヒは寧ろ晴れ晴れとしていた。
﹁そういえばアンツィオから帰ってきたときも興味深げに楽団を見
ていたな。気付くべきだったか。俺は楽器のことはわからんが、お
前が喜んでくれるなら何よりだ﹂
ああ、とアラエルは納得する。
︵何か贈れるのが嬉しいのだな︶
親しい間での贈り物が、信頼や友情といった形のないものに形を
与える手段として用いられるのはこの世界でも同じだ。そして適切
な贈り物を選択するのが困難と言うのも同じである。エーリヒはア
ラエルが何かを欲しがっている事に気付き、ほとんど衝動的に買っ
たのだろう。多分喜ぶだろうとだけ考えて。となれば、アラエルが
すべきことは申し訳なさそうな目をすることではなかった。
﹁あぁ、大切にしよう﹂
ケースからヴァイオリンを取り出しながら感謝を込めて微笑む。
そのまま弦を鳴らして調律した。
﹁弾くのか﹂
203
エーリヒは嬉しそうに笑いながら腰を下ろす。当然だ、とアラエ
ルは目で告げた。
調律を終えたアラエルは勢いよく弦を鳴らし、体を音楽と共に傾
け揺らす。高価なものとはいえ、ヴァイオリンの中では安物だろう。
いい音色とはいえなかったが、それでも十分な音だとアラエルは思
った。
勢いよく始まった曲は晴れやかに進み、耳に心地よく響き渡る。
娯楽の少ない世界だ。音楽に接することも滅多とない。それだけに
エーリヒも熱心に耳を傾けるよい聴者になる。
<i76850<ruby><rb>8818>
</rb><rp>︵</rp><rt>どうだ</rt><rp
>︶</rp></ruby>
弦を鳴らしつつアラエルは片目を閉じて微笑む。
︵少しは、返せたか?︶
たった一人の観客に向けた演奏は、四分ほど続いた。終わるや否
大きな拍手がエーリヒから飛ぶ。
﹁久々に弾いたが、まともに演奏できたか。どうだ、感想を聞かせ
てほしい﹂
﹁ああ、とても綺麗だった﹂
アラエルは思わず膝を折って崩れかけた。
204
﹁美醜の話をしているのではないのだがな⋮⋮演奏の評価を⋮⋮ま
ぁ、気に入ってもらえたようだが﹂
聞くまでもない、といったところだろう。終始熱心に見つめられ
ていたので最後の方は流石に恥ずかしく、若干演奏の手が早くなっ
たほどだ。
﹁ところで、なんて曲なんだ?﹂
エーリヒが不意に訊ねる。アラエルはヴァイオリンをケースにし
まいつつ顔を上げた。
﹁クライスラーという作曲家の有名な曲でな。タイトルは⋮⋮﹂
そこまで言ってアラエルは言いよどむ。顔がみるみる赤くなり、
表情が強ばった。
﹁アラエル?﹂
﹁うるさい馬鹿! 食事の準備だ! 火を起こせ、薪をくべろ、水
を汲め!﹂
怪訝そうなエーリヒを無理矢理追い払うとアラエルはヴァイオリ
ンを置いて夕食の支度を始める。女はわからん、という背中に女じ
ゃない、と怒鳴って、アラエルは極力ヴァイオリンのことを忘れる
ことにした。
何度聞かれても絶対にタイトルだけは教えまい。そう決意しつつ、
その日の夜は暮れていった。
205
戦争の影︵前書き︶
ここから第二部が始まります。お引き立てのほどをー
206
戦争の影
1
エルヴン半島の北には峻険な山脈を挟んで、二つの国がある。
一つは北東に位置するアセリア公国。名目上大陸の全てを支配す
る神聖リシニア帝国の領土内における最大の諸侯であり、大陸屈指
の名門ファルケンブルク家の支配するアセリア、グラッツ、ザッツ
ベル、チローといった公爵領、伯爵領の集合体が、便宜上こう呼ば
れている。
もう一つは北西に位置するアルヴェリア王国。こちらは王家フル
ールドゥリスを中心とした王政を取る騎士の国であり、エルヴンへ
の騎士の最大の輸出国である。
国王を中心とした中央集権的な国家を形作り、豊富な資金力と軍
事力を誇るアルヴェリアのフルールドゥリス家と、神聖リシニア帝
国に強力な影響力を持ち、政略結婚で数多の貴族と婚姻関係にある
アセリアのファルケンブルク家は歴史を通じてお互いを不倶戴天の
敵と見定めていた。並び立たない両家の緊張はやがて戦争へと発展
し、五十年戦争と呼ばれる長きに渡る戦争を生み出す。
相続く激戦はやがて曖昧だった国境線を確定させ、どちらに付く
あいまいもこ
のか不明確なグレーゾーンの諸侯を殲滅し、我と彼とを峻別した。
ここに曖昧模糊とした諸侯の集合体としてのアルヴェリア、アセリ
アは消滅し、明確に他とは区別された領域を持つ国家が誕生する。
明確に他とは区別された領域。﹃主権国家﹄がここに生まれたので
ある。五十年の大戦を経て野望を増し、牙を研ぐ二つの国は、次の
207
衝突に向けて既に準備を整えていた。
*
アルヴェリア王都ピーリスは歴史ある都である。その歴史は古代
リシニア大帝国時代にまで遡り、その崩壊後はアルヴェリア王たる
フルールドゥリス家のお膝元として国内の政治経済の中心として大
陸有数の地位を得ている。その人口は十万を数え、市域の広さはア
セリア公都ヴィエナに倍し、大陸最大の都市の名を欲しいままにし
ていた。わけても中央に位置するテルリー宮殿は中央集権国家アル
ヴェリアの枢機を担うアルヴェリアの頭脳部であり、またアルヴェ
リアの有力諸侯が常駐する心臓部でもある。
﹁ブーシェ伯﹂
呼ばれた男は気だるげに振り返り、眠そうな目で頭を二、三度掻
く。豊かな赤髪は切り揃えられることもなくざんばらにたらしてお
り、掻いた端からフケが落ちる。少し手入れすれば都の女達を釘付
けにしそうなほど整った容姿は無精髭と垢に覆われ、貴族とは正反
対の野人めいた風貌は不潔さと凄味を見るものに与えた。周囲の貴
族達が何れも着飾り清潔にしているのと比べると明らかに野卑さが
目立つ。だが男はそんなことなど知ったことではないかのように厳
格な規律が求められるテルリー宮殿を闊歩しており、周囲もそれを
見咎めることがない。ブーシェ伯ジャン・ドゥ・グライーは、それ
が許される男だった。
﹁王太子殿下﹂
声の主に気付いたグライーは腰を落として膝をつく。特例が認め
られるただ一人の貴族たるこの男をして、テルリーの規律に服せざ
208
るを得ない相手が世には三人だけ存在する。一人はアルヴェリア王
シャルル。二人目は王妃メリザンド。そして最後の三人目が、慌て
て駆け寄る王太子ルイであった。
﹁伯爵、お立ちください。今は公式の場ではないのです。私のごと
き若輩に歴戦の伯爵が膝を折るなどあってはなりません﹂
﹁あぁ、ではお言葉に甘えて﹂
グライーはなんの躊躇もなく立ち上がる。堂々たる体躯のグライ
ーが立ち上がると、まだ成人を終えたばかりにすぎない十四のルイ
を見下ろす形となる。アルヴェリアの小貴族に過ぎないグライーの
立場からすればそれは不遜としか言いようがないが、ルイは気にし
た様子もない。金髪を振り、まるで子犬のようにグライーを見上げ
るその目は憧れに輝いていた。
﹁今、父上に報告を終えたところなのですよね? どうでしたか、
エルヴンの偵察は。豊かな地と聞きますが。私はエルヴンに行った
ことがないのです﹂
グライーは若輩ながらアセリアとの戦争で常に矢面に立った勇士
であり、傭兵との戦争でも大きな功を挙げている。テルリーからほ
ぼ出ることなのない年若い王太子には憧れの対象なのだろう。父王
シャルルの決めた宮廷の作法を守る気がないグライーにルイは偉ぶ
ることなく目上の者に対する礼を尽くして接する。主君の息子にそ
うまでされればグライーもまた生来の反骨や偏屈を隠し、臣下とし
ての礼を尽くすことに何の異存もなかった。
﹁流石に文化の香り溢れる土地ですね。かの地に比べればアルヴェ
リアもアセリアもまだまだ田舎、と思わざるを得ません。技術力で
209
も数段上ですね。我が方で運用している大砲を小型化したものを用
いていましたよ。これ、この程度のサイズで﹂
強盗騎士達をそそのかしてエルヴンに渡ったグライーは、バイス
マスケット
テリ市の傭兵隊との戦へと彼らを導き、戦術を授けている。その過
程で火縄銃を目撃しており、その威力を目の当たりにしていた。身
ぶり手振りでそのサイズを伝えるとルイは目を丸くして驚く。
﹁大砲がこのぐらいのサイズに縮むなんて信じられません。すごい
技術力ですね⋮⋮﹂
自国の優位を信じて疑わないルイが声のトーンを落とし、自信な
さげに俯くと、グライーは跪いてその目を見上げる。
﹁殿下、ご心配召されますな。戦は兵器でするものではござりませ
ぬ。先ずは正義、次に将の質。最後に兵の数が物をいうのが戦と言
うもの。此度の出征はエルヴンにおける王家の正当な権利を確保す
るための戦。神は我らを誼みたまうでしょう﹂
指を折りつつ、グライーは諭すように告げる。
﹁将の質。これは言うまでもなく。先手の副将にはこのグライーが。
本陣は陛下ご自身が率いて参ります。つまり鉄壁の布陣ですが、こ
れに加えて数⋮⋮﹂ グライーはにやりと笑い、内緒話をするようにそっと告げた。
﹁先鋒だけで二万、本陣は八万の堂々たる大軍です。いわばこのピ
ーリスがそのままエルヴンに雪崩れ込むようなもの。勝利は既定の
事実です。白百合の軍旗の向かうところ、全てがその武威にひれ伏
210
すでしょう﹂
﹁十万の大軍団⋮⋮!﹂
ルイの頬が興奮のあまりに紅潮する。十万の軍勢が歩調を合わせ
て威風堂々、行進しているところを想像したのだろう。それを指揮
するのが自分の父親となれば尚更だ。
﹁ブーシェ伯。もっと戦争のお話を聞かせてください﹂
不安が払拭されたらしいルイは勢いこんでグライーに武勇伝をせ
がむ。とはいえ王太子の教育は厳格に定められており、グライーの
ような人間は悪影響を及ぼすとして退けられている。さりとてむげ
に断ることもできぬとグライーは渋い顔になった。そこへ、
﹁殿下、ブーシェ伯もお忙しい身です。そろそろご勘弁を﹂
﹁叔父上﹂
テルリーの大理石の床をかつかつと鳴らしながら、ルイの叔父、
つまり国王シャルルの弟に当たるアルマ伯フランソワ・ドゥ・フル
ールドゥリスはグライーとルイの間に入る。グライーとは対称的に
その服装は謹厳実直そのもので、流行りの過ぎた長い黒外套を羽織
り、装飾の少ない上着にリボンひとつない靴は一見すると大貴族に
は見えない。だがそれらは身に纏う者の威厳を落とすことなく、却
って強い権威を付与しているように見えた。
﹁ブーシェ伯はこれからのエルヴン遠征に向けた軍議が諸将とあり
ます。遅れれば事でしょう﹂
211
ルイは目を丸くしてグライーに謝る。
﹁申し訳ありません。伯の貴重な時間を無駄にしてしまいました﹂
﹁いえ、殿下のお召しとあらば。臣に何の異存がありましょうか。
軍議が終わりましたらまた参ります。アセリア戦の時のとびきりの
話がありますよ。教育係には内緒です﹂
ルイは目を輝かせて礼を言い、その場を後にする。後には二人が
残った。
﹁いい子だな﹂
フランソワは目を細めてルイの後ろ姿を見つめる。その表情は慈
愛に満ちていた。
﹁ええ、素直なお方です。このまま曲がらずにご成長なされば必ず
やよい王になられるでしょう﹂
グライーが首肯する。しかしその表情は少年の未来を楽観してい
るようには見えない苦いものだった。
﹁実際のところ卿はどう思うのだ? 此度の出征について﹂
フランソワの言葉がルイに向けられた時のように穏やかなものか
ら、上下間系を意識した厳格なものに切り替わる。同じ伯爵とはい
え、吹けば飛ぶような土地しか持たない土豪上がりのグライーと、
王弟にしてアルマに広大な所領を持つフランソワとでは序列が違う
のだ。グライーも自然とへりくだり、立場を意識した言動を心掛け
る。ただし膝を折ることはない。その権利こそが戦功によって得ら
212
れるはずだった所領と引き換えに彼が手にした特権なのである。
﹁失礼ながら陛下の勇み足かと﹂
単純にして不遜なグライーの言葉に、しかし王族たるフランソワ
は苦々しげに首肯した。
﹁やはり卿もそう思うか﹂
アルヴェリアはアセリアとつい最近まで血で血を洗う熾烈な戦い
を繰り広げ、更にその後には反乱傭兵隊との戦いも始まり、鎮圧さ
しょうけつ
れたのはつい先日のことに過ぎない。国土は荒れ果て、国民は飢え
乾き、病が猖獗を極めている。アセリアとの戦いも完全に決着した
というわけではなく、国境線では未だにらみ合いが続いていた。こ
の上の戦争は国庫への巨大な負担となり、国家を破産に追い込みか
ねない。
﹁とはいえ気持ちは理解できます。先のアセリア公フリードリヒは
戦争はからっきしでしたが、政治的センスは凄まじかった。息子や
娘を片っ端から諸侯や諸国に婿や嫁にやって、気付けばファルケン
ブルク家によるフルールドゥリス家包囲網の出来上がり、というわ
けですから。北東のブールーニュ継承問題も結局はファルケンブル
ク優位で決着しています。場合によっては神聖リシニア全土が敵に
回ることを思えば、我々はファルケンブルクによって閉じ込められ
たに等しい﹂
武器を用いない戦争は常に国家間に存在する。婚姻政策によって
同盟者を増やし、或いは家そのものを乗っ取って敵対者を静かに包
囲するのはアセリアを支配するファルケンブルクのお家芸であった。
軍事力ではアルヴェリアのフルールドゥリスに一歩及ばないファル
213
ケンブルクは、常に数的優位と戦略的な優位を確保してから戦争を
仕掛ける。そして今、休戦中にも関わらずアルヴェリアは包囲下に
あった。
﹁その包囲網の蟻の一穴こそがエルヴンです。ここを支配下におけ
れば却ってアセリアの南部を脅かすのみならず、アセリアからエル
ヴンへ向けての商路を封鎖し、関税をかけることで莫大な収益を得
るのも、アセリアを締め上げるのも思いのままです﹂
それに加えて、とグライーは呟くように言った。
﹁陛下はご自分の寿命を数えていらっしゃる﹂
フランソワは重々しく首肯する。アルヴェリア国王シャルルが不
治の病に侵され、剣も握れぬ体ということは公然の秘密だった。
﹁お前のいう通りだ。死を目前に、陛下はご自分の代の様々な問題
を若い殿下に引き継がせることを恐れておられる。それが国力の限
りを振り絞った大遠征へと陛下を駆り立てるのだろう⋮⋮とはいえ、
やはり時期尚早の感はあるな﹂
国内諸侯でも遠征に賛成するものは少ない。若い貴族や貧乏貴族
はともかく、多くの貴族にとっては外国への大侵攻など、懐を痛め
るだけなのだ。とはいえ、戦争を通じて強化された王権は絶対であ
る。今や百年前のように気に食わない出征には反対する権利がある
などとは言えない。いかな大諸侯でも国王の命令があれば応えるよ
りないのだ。
﹁とはいえ、そこは陛下です。勝算そのものは十分に立ちます。桁
違いの動員力で押し潰す。正に王者の戦ですよ。エルヴン最大の国
214
家であるアデルバード王国でも動員できるのは精々一万が関の山と
いうところに十万の大軍は堪える。恐らく戦らしい戦もなしに終わ
るでしょうね。勝てれば実入りも大きい。諸侯も前向きに捉えつつ
ありますよ﹂
﹁﹃電光石火の﹄グライーとしてはそのような戦は不本意か?﹂
皮肉げに笑うフランソワに、グライーは渋い表情をする。
﹁大仰な二つ名は勘弁してください。私も戦争馬鹿というわけでは
ありません。楽に勝てるならそれに越したことはありません。ただ、
一つ⋮⋮﹂
グライーは歯を剥き出しにして獰猛に笑う。その表情は先に彼が
否定した戦争馬鹿そのものだった。
コンドッティエーレ
﹁バイステリ市契約傭兵隊長アルフォンソ。奴なら、或いは面白い
戦をしてくれるかもしれませんね﹂
2
雲ひとつない空に浮かぶ太陽から陽光が辺りを照らし、田園では
黄金色の稲穂が美しく輝く。心地よい風が周囲を払い、バイステリ
へと注ぐ大河アルノの流れは清涼。秋は中ごろに達し、北部エルヴ
ンを冷涼な空気が満たしている。その中にあってバイステリ郊外は
熱気に包まれていた。
﹁模擬戦用意﹂
長い金髪をかき上げつつ、高台に座すアルフォンソが呟くように
215
告げると、角笛が吹き鳴らされ、東西に整列した二組の騎士達が整
列して武器を構える。その装備は東西で僅かに異なり、東の騎士達
がいかにも騎士らしい重装備に身を固め、ランスを装備しているの
に対して、西の騎士達は重装備の騎士を中心に、比較的軽装備で武
器も手槍しか持たない騎士を左右に配している。
﹁エーリヒ、いつぞやの決着をつけるぞ﹂
東の重騎士の群れから一騎、進み出る。恵まれた体格に遠くまで
よく通る声はカールマンだ。殊更大声をあげようとしているわけで
もないのによく聞こえる声は一種の才能だ。戦場では意思の伝達手
段が非常に限定される。大きな声というのは馬鹿にできない効果を
持つと考えられていた。
﹁いつぞやって⋮⋮もういいだろ、その話は。槍じゃお前に勝てる
気しねぇよ﹂
周囲に促されて西の騎士達の中からしぶしぶといった風に出てき
たのはエーリヒだ。西の騎士の集団の中にあって比較的重武装とは
ハーフプレート
いえ、その甲冑は以前のものと比べると防御面積を減少させ、膝下
や腕の装甲は省略されている。半鎧といったところか。特に間接部
は装甲の減少が著しく、防御面での大きな後退が見て取れたが、同
時に甲冑に阻害されない滑らかな動きを実現させている。
﹁一騎討ちならそうだろうな。だが、今日のような乱戦こそお前の
本領なんだろ?﹂
ニヤニヤとバイザーの内側から好戦的な笑みを浮かべるカールマ
ンに、エーリヒは苦笑する。
216
﹁否定はしないが、ライバル認定は勘弁してくれ。さてと、挨拶は
こんなもんでいいか﹂
﹁ああ、始まるな﹂
両者とも騎士の隊列の中へ復帰すると、手旗が上げられる。全て
の騎士達が固唾を呑み、緊張が最大限に高まった。
﹁模擬戦開始﹂
アルフォンソの宣言と共に手旗が振り下ろされ、角笛が鳴り響く。
エーリヒとカールマンは同時に叫んだ。
﹁突撃!﹂
東の騎士達は雄雄しく、カールマンを先頭に雁の群れのように陣
を組んで。西の騎士達は柔軟に、エーリヒを中心として左右に広が
るように陣を組んで。両者は互いに向けて急速に接近する。
トーナメント
馬上槍試合ではない。騎馬による模擬戦が始まった。
3
﹁こいつら、よくもまぁ飽きないな⋮⋮﹂
アラエルはいつか見た光景と類似した光景に呆れつつ騎馬試合を
眺める。騎士達は誰も彼もが嬉々として馬を走らせており、そこに
恐怖は感じない。アンツィオで催された試合では木槍を用い、また
試合形式も一対一だったが、今行われているのは集団戦であり、用
いる武器は刃先を潰しただけの本物である。危険度はこちらのほう
217
が高い。
﹁馬鹿ではないのか﹂
命に対する考え方が違うのは理解しているが、それでもこうも繰
り返し危険な行為を戦争でもないのに繰り返されると文句も言いた
くなる。訓練大いに結構。だが、安全性を確保せよ。アラエルはそ
う言いたいが、この世界の住人、特に騎士にはそういった概念が大
いに欠落している。周囲でもバイステリの市民や傭兵隊がこの一大
イベントを熱狂と共に見守っており、内包する危険性については全
く問題にされていないようだった。
﹁仰る通り、馬鹿げた事なのですが、定期的に我々も人気取りに走
らなければいけませんからね﹂
アルフォンソが苦笑しつつアラエルに答える。聞かれていたか、
とアラエルは苦い顔をしたが、アルフォンソは気にした風もなかっ
た。
﹁傭兵隊は基本的に嫌われ者ですからね。都市の内部でも警邏や犯
罪者や酔っ払いの取締りを行うほか、入門の監視もしています。つ
まり、どれも嫌われる仕事というわけで。おまけによそ者と来ては
ね。市の方でも色々と歩みよりはしてくれていますから、こちらも
でもこのように定期的にイベントを開いては融和に努めているので
すよ﹂
費用は悲しいことに私持ちですが、というアルフォンソの表情は
言葉の割には悲しそうには見えなかった。額面どおりには受け取れ
ない。アラエルは生意気を承知で鎌をかけてみる事にした。
218
﹁⋮⋮私には、人気取りにかこつけて軍拡を誤魔化しているように
見えますが?﹂
眼前で模擬戦を繰り広げる騎士達は計四〇。その全てが正規雇用
であり、槍兵、弩兵の数はこれに数倍する数が今や揃えられている
という。アンツィオに帰還してから僅かな期間で白衣団はその数を
大きく拡充している。訓練も頻繁であり、街道護衛に関してもコス
トを度外視した大部隊で行っており、今や諸都市への威圧という面
が感じられる。明らかに戦争を睨んでいた。
﹁戦が近いのですか? ⋮⋮いえ、失礼しました。出過ぎた真似を﹂
アルフォンソは軽く片手でアラエルを制する。一介の飯炊きの分
を超えた事を自覚していたアラエルは即座に引き下がった。
﹁接触しますよ。どちらが勝つと思いますか?﹂
視線を競技場に転じると、そこではカールマン率いる騎士達と、
エーリヒ率いる騎士達が陣形を維持したまま今、まさに互いに向か
って槍を突き出そうとしていた。
﹁⋮⋮エーリヒの方が動きがいい。軽装備が幸いしたのでしょうか。
左右からカールマン卿の隊を包囲しているように見えます﹂
中央のエーリヒを支点として左右に展開した騎馬は身軽さを活か
し、両翼から効率的にカールマンの隊を包むのに対して、カールマ
ン側は愚直な突進を続けるだけだ。側面からの攻撃に晒されたカー
ルマン隊は勢いを大きく減じているのに対して、エーリヒ隊は同数
にも関わらず数的優位を各所で確保しつつある。
219
レイター
ランシエーレ
﹁ええ、その通りです。資金に余力がある騎士を重騎兵、そうでな
い騎士を槍騎兵としてエーリヒ卿に預けましたが、即座にその特性
を見出すのは流石ですね。正面衝突なら勝ち目はありませんが、両
者の速度差を活かした機動戦なら、寧ろ有利です﹂
もっとも、とアルフォンソは付け加える。
﹁結局のところ、この戦術は中央のエーリヒ卿が同じく中央のカー
ルマン卿の突進を支えきれるかにかかっています。逆にカールマン
卿にしてみれば後続の味方が崩れる前にエーリヒ卿を抜けば中央を
突破できるというわけで⋮⋮決着がついたようですね﹂
競技場ではカールマンの槍を受けてエーリヒが落馬していた。木
槍ではないのだ。直撃すれば流石に如何ともしがたい。崩れた中央
にカールマンの率いる騎士達が雪崩れ込み、次々に反転してエーリ
ヒ隊の背面を衝く。終わりだ。
﹁あ、あの馬鹿⋮⋮!﹂
魔術師から買った薬草をしまったバスケットを取ると、アラエル
は血相を変えてその場を後にした。
﹁⋮⋮こうも戦というものが発展しても、個人の武勇がまだまだ幅
を利かせるというのは、なかなか頭の痛い問題ですね﹂
走り出すアラエルの背中から、アルフォンソのそんな声が聞こえ
た。
4
220
﹁脱げ、馬鹿﹂
アラエルは問答無用でエーリヒを剥くと、打撲箇所に軟膏を塗り
つける。甲冑にもらったらしい。紫色に腫れ上がっていて探す必要
もないほどだ。甲冑も凹んでいる。打ち直しが必要だろう。
﹁いや、これは立派な訓練でな⋮⋮? 決して命を無駄にしている
わけじゃないんだが⋮⋮それ、この間魔女の婆さんから買った軟膏
かよ。うへぇ﹂
痛みに顔をしかめるエーリヒを無視してアラエルは手際よく軟膏
を塗りつけ、包帯を巻く。負傷者の手当てにも参加してきている。
随分とこういう事にも慣れてきた。
﹁大の大人がただの薬草で喚くな。それにしてももっと安全に出来
ないものか? これでは命がいくらあっても足りんぞ。お前も既に
部下を預かる身だ。無用のことで損なう事はないだろう﹂
エーリヒは騎兵隊を任せられていた。騎兵隊は順次拡大すること
が既定の方針として決定されているが、現時点ではエーリヒが騎兵
隊唯一の隊長である。騎士としてではなく、騎兵としての運用をエ
ーリヒは模索しているが、騎兵とは何かという問い直しから試行錯
誤は始まっていた。
﹁アルヴェリアじゃまだまだ重騎士の突撃は尊ばれているんだが⋮
シュワルツランツェンレイター
⋮反対にアセリアじゃ騎士はほとんど絶滅で、騎兵に鞍替えしたの
も多いらしい。黒色槍騎兵隊って騎兵隊はその猪突猛進ぶりで随分
恐れられたもんだ﹂
困り果てるエーリヒだが、アラエルはくすくすと笑う。
221
﹁何だよ、急に笑いだして。相談に乗れよ﹂
﹁私に戦術や編成のことなどわからぬ。わかるのはお前が中々充実
していて、楽しそうだと言うことだけだ﹂
図星を指されたらしいエーリヒはう、と声をあげた。
﹁お前はやはり軍隊が一番似合う男なのかもな。男子として一隊を
預かるのは、やはり嬉しいことなのであろう? 私の面倒を見ると
いう目的に一歩近づいたか? 楽しみなことだな、隊長どの﹂
包帯を巻き終えたアラエルはエーリヒを横たわらせ、水に浸した
ぼろ切れを額に当てる。
﹁今日は膝枕はないのか?﹂
﹁誰に聞いた馬鹿野郎﹂
打撲痕を殴打し、エーリヒが悶えるのを放置して他の騎士の介護
にアラエルは向かう。何故かアラエルは方々から介護を頼まれてい
た。
︵間違いなく戦争が近い︶
明言はされていないが肌でそれを感じる。皆もそう感じているか
らこそ、訓練にも身が入るのだ。
︵街道護衛であれだ。本当の戦争になったときどうなるか⋮⋮いや、
考えても詮なきことか。私にできることなど限られている。身分不
222
確かな出来損ないの女ごときに何ができるものか︶
アラエルの考えは一般的な意味では正しかったが、外れることに
なる。
この後、アラエルはエーリヒと共にアセリア公国に旅立つことに
なるのだ。
223
コンドッティエーレ達︵前書き︶
これから戦記っぽくなる予定です。主人公二人追いかけるのに比べ
るとこれらの描写に費やす労力は結構すごい。
224
コンドッティエーレ達
エルヴン半島は伝統的に諸国乱立の群雄割拠が続いている。
北にリシニア皇帝とアルヴェリア王を控え、東方に大陸で一般的
に信仰されるアノア聖教とは兄弟関係にあるアノア正教を国教とす
るクラス帝国と海一つ挟んで接触し、南に異教徒であるルネス王国
と船で一週間の距離で相対する。いわば周囲をぐるりと列強国家に
囲まれた形になるこの半島は、常に複数の国家からの干渉に晒され、
統一が不可能になっていた。
いずれかの勢力が強くなれば、必ずその他の勢力は外国勢力の力
を借りるなどして勢力の均衡を取り戻そうとし、その都度統一への
道は遠退き、やがて小国分立が固定化される。弱体なまま固定され
た諸国は列強の玩具も同然であり、過去においては列強同士の代理
戦争の駒としてエルヴンの群小諸国は使われた。
状況に変化が生じたのは百年前の事である。東部におけるクラス
帝国と、南部におけるルネス王国の影響力の低下。そして北部にお
けるアルヴェリアとアセリアの対立の激化に伴い、列強支配の空白
期間がここに生まれたのである。軛から解き放たれた諸国は生き残
りを賭けて互いに相争い、その過程でエルヴンにもいくつかの大勢
力が誕生し、自らをエルヴン人であると定義する思想も広がりを見
せた。
二大列強が容赦呵責なき大戦争を繰り広げる北方に比べて、小国
同士が争うのみのエルヴンの戦は穏やかなものであり、ここにエル
ヴンは繁栄の時を迎える。だが、北方における血で血を洗うがごと
き大戦争は、焼け跡から不死鳥が再生するように、より強力な力を
225
持った国家を誕生させる。
一つの戦争の終わりは次の戦争への準備期間に過ぎない。大国の
野心がエルヴンを虎視眈々と狙っていた。
1
無数の国家が乱立するエルヴンだが、それでも大きく幾つかの勢
力に分類することは可能である。その地域における最大の勢力が、
周辺の国家を率いるのだ。そうした地域大国を核とした勢力は五つ
に分かれ、日々複雑な利害関係の下、戦争と同盟を繰り返している。
人口五万を数える大陸有数の都市バイステリもまたそうした群小
国家を率いる盟主であり、周辺の都市と攻守同盟や関税同盟を締結
し、北部都市連合を形成して領域国家のような勢力圏を構築してい
た。
特権的な地位にあるのは無論の事バイステリだが、特権は義務と
表裏一体である。アルヴェリア侵攻確実という情報が各国に流れる
につれ、バイステリは自らのみならず、連合に参加する諸都市を防
衛する義務をつきつけられた。
﹁全員、揃いましたね﹂
アルフォンソは居並ぶ軍装の男達を一瞥すると、自らもまた円卓
コンドッティエーレ
の座についた。列席者は十二人。いずれもがバイステリの影響下に
ある都市の防衛を担当する契約傭兵隊長である。
﹁では、北部都市連合の防衛会議を始めますか﹂
226
それを合図として大きな地図が円卓に広げられ、諸将が注目する。
北部都市連合の勢力圏を可能な限り精確に描いた地図だ。地図は軍
事的に極めて重要であり、市販されている地図は敵国による利用を
避けるため、意図的に簡略化されている。精確な地図は国家機密で
あり、都市の秘宝と言えた。それがこの場にある。その事実に集ま
った諸将は背筋を伸ばす。
﹁皆さんが肌で感じている通り、アルヴェリア侵攻は最早確定的で
す﹂
アルフォンソの言葉に傭兵隊長達はざわめき、唾を飲み込む。北
の軍事大国として名高く、尚武の気風が強い騎士の国。それがアル
ヴェリア王国だ。首都ピーリスの人口は十万。総人口は二千万を軽
く超えると噂され、動員力においては比較にもならない。それが今、
エルヴンを伺っているという。
﹁我々は長らくこの狭いエルヴン半島の中で互いに争い、寸土を奪
い合って来ました。そうして惰眠を貪る間に北の大国は巨人同士の
熾烈な戦争を生き抜き、今や圧倒的な戦力を整えてその野心を露に
しています。このまま行けば我々の行く末は滅亡しかないでしょう﹂
そこまで言うとアルフォンソは一同を見渡し、柔和な笑みを浮か
べつつ告げる。
﹁団結が、必要です。諸卿の協力をお願いします﹂
それを皮切りに傭兵隊長達は討議を始める。アルヴェリアに比べ
れば遥かに小規模とはいえ、彼らもまた戦争のプロフェッショナル
コンドッティエーレ
である。ただ慌てておろおろとするものはいない。この場に集うの
は、いずれもが成り上がった契約傭兵隊長達なのだ。
227
﹁動員状況は?﹂
アルフォンソの問いに一人の傭兵隊長が目を合わせる。連合にお
ける第二の都市フィス・アノン市の傭兵隊長リーヴだ。フィス・ア
ノンは川を挟んで並び立つ二つの街フィス、並びにアノンから成り、
フィサーノとも称される。豊かな農業地帯を抱え、北部都市連合の
穀倉地帯として機能しており、副盟主と言うべき発言権を有してい
る。
﹁当地フィサーノにおいては現在騎馬を五十、槍を六百、弩が八十。
数としてはそれなりですが、アルヴェリア相手ではお寒い限りです。
とはいえ参事会も事態の深刻さは理解しています。予算と相談です
が、二千程度にまではなるものと思われます﹂
﹁二千⋮⋮!﹂
リーヴの発言に場がざわついた。エルヴンにおいて千を超える兵
力というのは大軍の範疇に入る。平素の小競り合いは数百、あるい
は数十人程度で行われており、数千人規模の戦というのは滅多にな
い。そんな彼らにとって二千というのは驚愕に値する大軍であった。
だが、アルフォンソは表情を曇らせる。
﹁心得違いをしないでください﹂
冷や水を浴びせるように声色を落として一同にアルフォンソは語
りかける。その表情に若干の苛立ちが含まれていた。
﹁これは私の予想ですが、アルヴェリアが本気で大動員をかければ、
その規模は十万を下回ることは絶対にありません。無論アルヴェリ
228
アは周囲をぐるりとアセリアに囲まれている状況ですから、抑えの
兵を残さねばなりません。ゆえにその全てがエルヴンに来るという
事はないでしょうが、それでもその半数、五万は覚悟せねばならな
いのです。﹃たったの﹄二千でざわついてもらっては困るのです﹂
諸将の目が驚愕に見開き、うな垂れて歯噛みした。彼らの常識と
は文字通り桁が違う、大国の圧倒的な国力を感じ取った傭兵隊長達
は自らの不見識を恥じ入ったのだ。わかっていたつもりだが、わか
っていなかったということであろう。余りにも彼らはエルヴンでの
戦に慣れていた。
﹁バイステリ市は最大四千を動員可能です。ですがこれでも十分と
はとてもいえない。改めて問います。連合各都市の動員状況と、最
大動員数を教えてください﹂
アルフォンソに促された各都市の傭兵隊長達は次々と動員状況を
語るが、連合第一、第二の都市であるバイステリとフィス・アノン
に比べればその数は乏しく、動員状況も芳しいとは言えなかった。
傭兵は戦時にのみ増員が許される。平時から数百、数千の規模の軍
を養う余裕などどこの都市にもないのだ。一通りの報告が終わった
とき、アルフォンソは連合全体で保有する兵力が現時点で四千程度
であり、侵攻が予想される春に最大限の動員をかけたとしても一万
五千程度にしかならない事を知った。
おそと
﹁最悪の未来を想定したとして、アルヴェリアから雪崩れ込む兵力
は恐らく七万。これは勝負になりませんね。どうします? 野戦で
やりますか?﹂
フィス・アノンのリーヴがそう言うも、賛同する傭兵隊長は一人
もいなかった。リーヴ自身もわかっていて言ったのだろう。でしょ
229
うね、とだけ言って両掌を天井に向ける。アルフォンソは手許の羊
皮紙に現時点での各都市の兵力を記すと、全員に語りかけた。
﹁そもそも我々には万を超える軍を指揮した経験もなく、またその
規模での訓練も行ったことがありません。たとえ相手が同数でも、
十二都市の傭兵隊による寄せ集めの烏合の衆では、十分な連携が取
れず撃破されるでしょう。野戦は不可能です﹂
﹁となると篭城ですか? しかし篭城というのは援軍の見込みがあ
ってやるものですよ﹂
どこか他人事といった風でリーヴが問う。だがその発言は正鵠を
射ていた。援軍のない篭城というのはただ破局を先延ばしするだけ
の愚策であり、一度包囲されたが最後、逆転の芽は限りなく小さく
なる。
﹁元々北部都市連合だけで相手にできる相手ではありません。唇滅
びて歯寒し、我々が抜かれれば中部や南部の国々が次は滅ぼされる
だけのこと。同盟を呼びかけています。それからもう一箇所﹂
アルフォンソは大陸地図を取り出すと、エルヴン北東部に羽ペン
を向けた。
﹁アセリア、ここに同盟を呼びかけます﹂
﹁アセリア、ですか﹂
リーヴは顎に指を当てて思考し、他の傭兵隊長達も地図に注目す
る。
230
﹁はい。リーヴ隊長。あなたは先ほど最悪の未来と仰いましたが、
真の最悪の未来は、アルヴェリアとアセリアに合意が成立して、共
にこのエルヴンに攻め入ることです。そうなってしまえば何をどう
しても我々に勝ち目は絶対にありません。詰み︵チェックメイト︶
です。ですがアルヴェリアだけならまだ手の施しようはある。その
ために先手を打ちたい﹂
アルヴェリアとアセリアは不倶戴天の怨敵同士である。同盟の可
能性は低い。だが、国家に真の友人がいないように、真の敵もいな
い。場合によっては一時的に両国が合意し、共にエルヴンの豊かな
大地と金を狙って攻め入るという可能性もあるのだ。
﹁ですが、アセリアは現在リシニア帝国内で諸侯同士の戦争に追わ
れています。だからこそアルヴェリア侵攻の可能性が高いと前々か
ら分析されていたわけで、援軍に駆けつける余裕がありますかな?﹂
アセリアを注視するリーヴがそう言うと、傍らの傭兵隊長が頷き
ながら続けた。
けち
﹁今のアセリア公ルドルフは吝嗇家です。自分のためにならない戦
に軍を動かすとはとても思えません﹂
けち
﹁吝嗇家、大いに結構じゃないですか﹂
アルフォンソは笑みを浮かべながら首肯する。
﹁大陸東部の雄、公称二十万のアセリア軍、雇ってしまいましょう。
アルヴェリアが鉄と騎馬で攻め入るなら、我々は札束と銀貨で迎え
撃つということです﹂
231
2
﹁本当にそんな言葉を入れるのですか?﹂
目の前の大柄な傭兵に、アラエルは冷たい視線と言葉を送る。美
しいだけにそういう顔をすると恐ろしい顔になり、歴戦であろうそ
の傭兵は後ずさりして表情をこわばらせた。
﹁私はただの代筆です。書けと言われれば何でも書きましょう。で
すが言わせてもらいたい。このような卑猥な言葉で埋め尽くされた
手紙を受け取る女の気持ちを﹂
アラエルは羽ペンの先で羊皮紙に記された言葉を指していく。
﹁私達は確かにお上品な生まれではない。ですが、顔も声もない手
紙の上では紳士たるべきです。何故なら、文章の上での無礼を補う
方法がないのですから。そう、手紙は文章だけしか伝えられないの
です! であれば、言葉遣いは慎重に慎重を重ね、一言一句魂をこ
めたものでなければならない。断じて、酒場の乱痴気騒ぎを持ち込
んではならないのです! そのような手紙を受け取ったなら、百年
の恋も冷めましょう!﹂
アラエルは立ち上がり、手紙をとって傭兵に突きつける。傭兵は
気おされて後退したが、アラエルは相手が下がっただけ前進し、壁
に傭兵を押し付けると、真剣な表情でまくし立てた。
﹁その上でもう一度問います! このような手紙でいいのかと! 敢えてこれでいいというなら、ええ、書きましょう、読み上げまし
ょう! ですがその後の保障は致しかねます!﹂
232
﹁す、すまん。ちょっと軽率だった! 考え直してまた来るから、
失礼するっ!﹂
引きつった顔で笑う傭兵は素早く身を翻し、慌ててアラエルの仕
事場から出て行った。
﹁まったく、何か知らんが最近はああいう手合いが多い。実入りの
いい仕事だと思っていたが、これは廃業も考えるべきか?﹂
憤然とするアラエルは苛立たしそうにカチャカチャと羽ペンでイ
ンクをかき混ぜる。傭兵が出て行ったばかりの戸を冷たい視線で見
ていると、不意に戸がたたかれた。
﹁今日の仕事はもう終わりですよ﹂
実際にはあと三十分ほどあったのだが、もはやアラエルにやる気
はない。インク壷に蓋をして羽ペンをしまうアラエルは帰り支度を
していた。だが戸は開かれる。アラエルは抗議しようとしたが、見
知った顔をそこに見出して表情を改める。
﹁エーリヒか﹂
﹁ああ、迎えに来たんだが。なんかハンスの奴が世にも情けない顔
して突っ走っていったぞ。微妙に笑ってたのがすげぇ怖かったんだ
が、お前何やったんだ﹂
ハンスというのは先程の傭兵の名だ。騎兵隊長であるエーリヒは
ある程度傭兵の名前と顔を把握している。本当に怖かったのだろう。
その表情が引き攣っていた。怒りを思い出したアラエルは憤然とし
てエーリヒに先ほどまで書いていた羊皮紙を突きつける。
233
﹁何をやったも⋮⋮これを見てみろ﹂
エーリヒは読み書きができる。羊皮紙を受け取ったエーリヒは暫
く無言でそれを眺めていたが、やがて再び表情を引き攣らせ、うへ
ぇ、と言ってつき返した。
﹁なんとまぁ、卑猥な単語の羅列だなこりゃ﹂
﹁これで恋文だと言うのだぞ! 全く以って話しにならん!﹂
特に護衛などがない時、アラエルは家事をこなす一方で代筆業を
営んでいる。洗濯や掃除、水汲みは中々の重労働で体力を消耗する
が、代筆は座ってペンを走らせるだけでよく、時間もさほど掛から
ない事からアラエルお気に入りの仕事なのだが、時折凄まじく卑猥
な内容の﹃恋文﹄を依頼する者がおり、そういう手合いに限って確
認のための読みあげを何度も要求するため、アラエルは廃業を考え
ていた。
﹁ただでさえ私のところに持ち込まれるのは妙に恋文が多いし、文
章の相談をしてくる者も多い⋮⋮加えてこれではもうやめてしまい
たくなるぞ﹂
﹁あぁ、やっぱりそういう風に使われてたのか、お前⋮⋮大体予想
はついてたが、仕様がない連中だなぁ⋮⋮﹂
何もかも察したと言わんばかりに天を仰いでエーリヒは嘆息する。
いまひとつエーリヒの言っていることがよくわからないアラエルの
頭には疑問符が浮かぶばかりだ。
234
﹁なんだ、こういう事態をお前は予想していたのか? というか何
故私のところに恋文ばかり来るのだ。女はともかく、男は高い確率
で恋文だぞ﹂
﹁断言するが、その依頼者のうち、本当に恋人がいるのはごく少数
だろうよ﹂
﹁なんだと、では彼らは架空の存在に恋文を出していたのか。それ
は一体どういう類の病だ﹂
﹁お前、遊ばれてるんだよ⋮⋮って言ってもわからんか。まぁ害の
ない事だから我慢できる限りは付き合ってやれ。いい気晴らしにな
るみたいだしな。どうしても駄目なら俺に相談してくれ﹂
頭に疑問符が増したアラエルはエーリヒに説明を求めたが、世の
中には気づかないならそのままのほうがいい事もあるとだけ返され
たため、不承不承ながら承知することにした。エーリヒに促されて
仕事場を出て施錠すると、夕暮れの街をアラエルは馬を曳くエーリ
ヒと共に帰路に着く。
﹁そういえば聞いたか、アセリアに使者が派遣されるんだが、その
護衛隊に俺とお前が含まれてるらしい﹂
﹁⋮⋮私もか?﹂
﹁そう、お前も﹂
怪訝そうな目でアラエルはエーリヒを見る。外国への使者の護衛
にエーリヒが選ばれるのはわかる。腕前は確かだし、外国への使者
ならバイステリとしても武威と言わずとも威信ぐらいは示したいだ
235
ろうから、街でもそれなりの格にあるものを出すだろう。騎士にし
て騎兵隊長のエーリヒが出るのはおかしくない。騎兵隊は隊長不在
となるが、副官はカールマンだ。問題はないだろう。
だがアラエルはただの女である。身分不確かで出生もわからない、
言ってしまえば流民同様の身の上であり、外国への使者の格として
は全く釣り合わない。護衛といっても街道を護衛するように軍を編
成するのではなく、使者いち個人を守り、威容を示せればそれでい
いだけの集団に飯炊きや洗濯女が必要とも思えない。はっきり言っ
て不可解だった。
﹁アルフォンソ隊長がねじ込んだそうだ。何か心当たりあるか?﹂
﹁確かにアルフォンソ隊長は妙に私に注目している気はするが、特
に心当たりはないな⋮⋮﹂
アラエルはアルフォンソが苦手である。見透かすような瞳が何処
か怖ろしい。従ってなるべく接触の機会を少なくしているのだが、
どこで何をしていてもアルフォンソは自分を監視しているような気
がする、とアラエルは思っていた。
﹁まぁ、俺としてはお前と一緒に行動できるのは悪いことじゃない
んだが。ともかく来週には出発だから準備しておけよ。荷物は騾馬
にでも乗せとけ﹂
騾馬というのは馬とロバの交雑種で、頑丈で力がある割りに大人
しく臆病な性格をしているため、女子供にも扱いやすい家畜として
広く使われている。アラエルもバイステリに行くのに何度か乗った
ことがあった。
236
﹁山越えするのだろう? 防寒着を買わねばな。しかし本当に何で
私が呼ばれたのやら⋮⋮他に女は?﹂
エーリヒは首を振った。
﹁いや、お前一人だ。だから皆困惑してた。隊長の考えることはよ
くわからんな﹂
男の集団に女一人というのも若干不安なアラエルだが、外国への
使節であり、そもそもエーリヒもいる。間違いは起こらないと思い
直した。
﹁まぁ決まったことなら是非もない。何をやるかは知らんが、炊事
洗濯ぐらいはこなそう﹂
﹁ああ、ところで⋮⋮﹂
﹁ん? なんだ﹂
話すうちに家まで来ていた。言葉を切るエーリヒにアラエルは顔
を向けて先を促す。
﹁さっきの手紙の内容、ちょっとここで読み上げてもらえるか?﹂
﹁読めるか馬鹿野郎ーっ!﹂
アラエルは顔を真っ赤にしてエーリヒの耳を引き、耳元で大きく
怒鳴った。
237
コンドッティエーレ達︵後書き︶
余談ですが、怒鳴って怒っても懲りずに変なこと書かせる人はまた
やってきて同じことを繰り返すので、アラエルはノイローゼ気味に
なったりします。
238
使節団の出発︵前書き︶
この時代の使者がどうやって行動していたかは完全に想像です。
そういうことって中々調べても出てきませんね。なので、あまり細
かいことは気にしないでください。
239
使節団の出発
1
アセリアへの使者が発つ。アラエルは場違いさを感じながらエー
リヒの傍らにあって騾馬に乗っていた。
﹁やはりどう考えても私だけ浮いているような気がする⋮⋮﹂
アセリアほどの大国への使者は盛大なセレモニーと共に見送られ
る。バイステリ市民の歓呼の声を受けるアラエルは例によって華麗
に飾り立てられ、見栄えだけはなるほど、使者に随行するに相応し
い飾り物であったが、その実は出身地不明、人種不明、身分不明と
怪しいことこの上ない身の上である。晴れがましい場には違和感を
激しく覚えた。
﹁市民は納得しているようだぞ。お前有名人だからな﹂
兜を残して完全武装したエーリヒは市民に手を振りながらアラエ
ルに声をかける。大勢から見られて不安がってはいないだろうかと
思ったらしく、この男はわざわざ前列からやってきたのだ。アラエ
ルは過保護な、と思う一方、実際不安だったので助かったと思う。
﹁私の悪名はそんなに広がっていたのか⋮⋮?﹂
﹁お前何かそんなに悪いことしたのか﹂
騾馬の上でおろおろと周囲を見渡すアラエルの頭をくしゃくしゃ
とエーリヒは撫でる。アラエルは顔を真っ赤にして手を払った。
240
﹁なんだ、私を愚弄するな﹂
﹁美人で有名だって言ってるんだよ。お前には不本意だろうがな。
とりあえず悪い覚え方はされてないから手でも振ってやれ﹂
﹁う、うれしくない⋮⋮!﹂
と、言いつつ手を振ってみると予想外に歓声が上がったのでアラ
エルはすぐに手を振るのを止めて騾馬の背に体を伏せた。騾馬は一
瞬怪訝そうにしたものの、すぐに気にしない事にしたらしい。小さ
な体ながら歓声を気にしない性格の騾馬は乗り手に構わず歩を進め
た。
﹁危ないぞお前⋮⋮﹂
苦笑しつつエーリヒは馬上で騾馬を軽く曳く。が、騾馬はエーリ
ヒがお気に召さなかったらしく、首を左右に振ってそのまま歩いた。
エーリヒは肩を竦める。
﹁しかしアセリアか⋮⋮まさかこんな形で行くとはな﹂
エーリヒは元アルヴェリアの騎士である。エーリヒだけではない。
随行する騎士にはアルヴェリア出身の騎士が非常に多い。騎士文化
が根付くアルヴェリアは諸国へ土地の継承権のない騎士を大量に輸
出しているのだ。言うまでもなく五十年戦争で激闘を繰り広げたア
セリアは祖国の怨敵だが、国家意識というのが乏しい時代の事、今、
彼らの中でバイステリの騎兵としてアルヴェリアと戦うための交渉
を行う外交使節を守りながらアセリアに行く事に疑問を感じる者は
いない。
241
﹁そういえばどんな国なんだ?﹂
なんとか立ち直ったアラエルは醜態を誤魔化すためにエーリヒに
訊ねる。群集の視線からアラエルを隠せる位置に馬を移動させたエ
ーリヒは市民からの罵声を浴びつつ答えた。
﹁正確には国じゃないな。いち領邦だ﹂
﹁領邦?﹂
﹁どこそこ伯爵だの、どこそこ侯爵の領地ってこった。神聖リシニ
ア帝国の一部だな﹂
神聖リシニア帝国は﹃名目上﹄この大陸の全てを支配する大帝国
である。しかし過去にアノア教の最高権力者である教皇と現世にお
ける支配権がどちらにあるかを巡る争いを繰り広げた結果、皇帝権
は教皇権と共に失墜し、いまや全く実態を持たず美名のみ轟く状態
が数百年続いている。中央権力の不在下にあっては各地を押さえる
地方権力が力を増すのは当然であり、リシニア帝国領内にあっては
帝国諸侯一人一人が名目的にはリシニア皇帝に忠誠を誓いながら、
事実上の独立国として自領を統治し、帝国諸侯同士で争い、同盟し、
婚姻を結んでいる。
その中で最大の力を持ち、強大な軍事力を持つアルヴェリア王国
と互角以上の戦いを五十年にわたって繰り広げたのがファルケンブ
ルク家が支配する領邦群である。四つの公爵領、三つの侯爵領、八
つの伯爵領を独占するファルケンブルク家は本拠地を南東リシニア
に位置するアセリアのヴィエナに置いた事から数多ある称号を代表
してアセリア公と称され、その領邦はアセリア公国と総称されてい
242
た。
﹁⋮⋮よくわからん﹂
﹁だろうなぁ。アルヴェリア人でもよくわかってないのは多い。ま
ぁ要するにリシニアって国のいち地方でありながら、実態としては
独立国ってことだな﹂
更にややこしいのはアセリア公ルドルフが﹃神聖リシニア皇帝﹄
でもあり、しかも帝国内にルドルフを含めて現在皇帝が二人いる、
ということである。リシニア帝国では元々の皇帝家の血筋が絶えて
以来、有力諸侯による選挙で皇帝を選出する制度が採用されており、
皇帝が死去すると直ちに有力諸侯同士による諸侯の買収や戦争が発
生するのが例となっていた。
この際、候補として名を連ねながら敗退した諸侯は唯々諾々と結
果に従うわけではない。当然のように彼らは選挙後も結果に納得せ
ず、現在の皇帝に対抗して皇帝を名乗った。今もまたアセリア公に
して皇帝たるルドルフに対抗して、バッセンバッハ家のルードヴィ
ッヒが皇帝を名乗り、激しく帝国内で争っている。
﹁⋮⋮済まん、段々とわけがわからなくなってきた。つまりだ、こ
れから行くそのアセリアという国⋮⋮なのかどうかわからないとこ
ろは、公爵で、侯爵で、伯爵で、更に皇帝が治める土地で、皇帝が
治めるのにいち領邦で、しかも現在本来一人しかいない筈の帝国皇
帝と帝国の領土内で戦争中、と?﹂
﹁そういうことだ﹂
首肯するエーリヒに、アラエルは少し考え込んだが、結局は首を
243
横に振った。
﹁わからん⋮⋮とにかくえらくややこしい場所だということだけは
わかった﹂
﹁概ねその理解でいいと思うぞ。とにかくリシニア帝国に関しては
いろんなことがこじれまくったせいで大陸でも一番混沌としている
からな﹂
エーリヒは苦笑いする。外部の者には今ひとつ理解が及ばない特
殊な世界、それがリシニア帝国という国であり、アセリア公国とい
う国であった。
﹁お二人とも、仲がいいのは結構ですが、市民が見ています。程々
にしてください﹂
固有名詞が多すぎると抗議するアラエルに、困った顔のエーリヒ
の二人は横合いから掛かる声に決まり悪そうに会話を中断した。公
式の場である。それなりの厳粛さは求められるのだ。
﹁お二人はとにかく目立ちますからね⋮⋮こういう場には慣れない
かもしれませんが、城門を出るまでは弁えてください。では、私は
これで⋮⋮﹂
政治家の証である黒い外套を羽織った男はどこか疲労した様子で
二人の側を通りすぎると、先頭に向けて馬を走らせる。規律を絵に
描いたかのような隙のない服装に権威を象徴する杖は彼が政府高官
であることを示していた。
﹁マキリ書記長か﹂
244
ぼそりとエーリヒは呟き、直後に表情を引き締めて口を閉じる。
まるで教師に怒られた悪童のようだとアラエルは微笑んだ。
︵今のが正使というわけか︶
使者というのは難航する人事の一つである。片道に何週間もかか
る旅路では、出発前とでは状況に変化が生じている可能性があるた
め、使者に大きな裁量権が委ねられる。本国の意向を伝書鳩のよう
に伝えるだけでは話にならないのだ。従って使者とはまず優秀でな
くてはならず、かつ相手国に無礼を働かない程度の礼節と家柄、役
職の持ち主であり、更に相手国の内情にも通じ、出来れば人脈を持
ち、そして長距離の移動に耐えられる体力の持ち主でなければなら
ない。マキリはバイステリの対アセリア外交を担当しており、彼以
外に使者が務まるものがいないという理由から、この使節の正使に
任命されていた。
︵傭兵嫌いと聞く。アルフォンソ隊長とは政治的に対立していると
か。あの疲労はそれゆえか?︶
民兵隊を組織しようとする一派とアルフォンソが対立しているの
は周知の事実だ。マキリ達は非常事態と言えるこの状況でもなお民
ドゥーチェ
兵の召集を認めないアルフォンソに不満を募らせているのだが、軍
権はアルフォンソが握り、統領もまた彼を信頼している。そんな中
でアルフォンソの傭兵に囲まれて遠くアセリアまで行けというのだ。
疲れるのも無理はないとアラエルは思った。
︵道中うまくやれるか心配だな⋮⋮︶
何せ長旅である。疲労も相まって苛立ちやすくなる。そんな中で
245
傭兵隊と統領府の高官の仲が悪化し、エーリヒの立場が悪くなって
もアラエルは困る。
︵何ができるとも思えないが、よい旅になるよう私も尽力せねば︶
両者の仲を取り持つ決意を固めつつアラエルは騾馬を進める。城
門はすぐそこまできていた。
2
馬車隊と馬丁達と表で合流し、アセリアへの使節は一路、北へ向
かった。アセリアへの外交を担当するマキリら政治家が五人、護衛
の騎士が二十、歩兵が三十、そこに馬丁とアラエルが入り、騾馬や
荷馬車、旅客馬車が軍馬のほかに入る。
本来ならばマキリ達使者は四頭だての大型馬車が相応しいのだが、
アセリアへの道には天険アルビ山脈が控えており、大型の馬車は通
行困難であり、また道路状況も悪いことから二頭だての小型の馬車
にマキリを始めとした使者達が乗り込むことになった。威容を示す
ためにそれなりの数を揃えたものの、道中の宿や食事は行く先々の
村や町を利用することになっており、食料や炊事洗濯要員を削れた
ために行軍速度は速い。とはいえ、中にはついていくのが難しい者
もいる。
﹁アラエル、大丈夫か?﹂
﹁⋮⋮露骨に遅れている以上、大丈夫とは言えないな﹂
アラエルが騎乗するのは騾馬であり、速度は遅い。また彼女自身
乗馬に慣れているわけではないために自然と遅れがちになり、例に
246
よってエーリヒに気遣われる事になる。
︵早速足手まといか⋮⋮我ながら情けない︶
アルフォンソの領地からバイステリへ向かう程度にしか乗馬の経
験がないアラエルは長時間手綱を握るのに慣れない。比較的御する
のが楽な騾馬とはいえ一時間、二時間と揺られれば疲労する。徒歩
の歩兵にあわせた速度であるにも関わらず彼女の騾馬だけが、主と
して乗り手の技量未熟によって遅れていた。これならば歩いたほう
がよほどいいか、と思ったアラエルは素直に騾馬を降りて手綱を曳
く事にした。効率的でない手綱さばきに振り回された騾馬も同様に
疲労していたらしく、最初からそうしろ、と言わんばかりに鼻を鳴
らす。アラエルは苦笑した。
︵それにしても、最近妙に疲れやすいな︶
痛む背中や腰を軽くさすりながらふとアラエルは思う。前はどれ
ほど歩いたとしても疲労は感じなかったし、それこそが悪魔の力と
思っていたのだが、ここのところはそうではない。腰をかがめる姿
勢が続けば腰が痛いし手も荒れる。長時間歩けばこれも足腰に堪え
るし、一日の終わりには酷く疲労することも多い。だからこそ最近
は代筆に熱心なのだが、それでもまだ並みの人間よりは体力に余裕
がある。
︵神通力にも限りが来たか?︶
そういえば、とアラエルは思い返す。吸血鬼らしい事をしたのは
転移したその日のみで、後はエーリヒから血をもらう程度で済ませ
ている。なお、その都度エーリヒは非常に面白い顔をするのでこれ
はアラエルお気に入りの嫌がらせも兼ねていた。
247
︵最近は徐々に血を吸いたいという衝動もなくなってきた。となる
と、血を吸わなくなった事が原因か︶
確かに重宝した能力だが、その発揮に人間の命を吸う必要がある
のならこれほど業の深いものはない。現状、命に別状もないのだし
寧ろ結構な事だとアラエルは思ったが、それはそれとしてこれから
の長い道のりに果たしてついていけるのかと考えると、若干不安が
ないでもなかった。
﹁ご婦人にこの速度は厳しいようですね。少し緩めますか?﹂
不意にマキリが問う。アラエルは慌てて首を横に振った。
﹁いえ、火急の用だと言うのに、女一人のために速度を落とすわけ
には!﹂
それこそ恥さらしである。そもそもここにいる必要がないのを無
理やりねじ込まれたのがアラエルなのだ。それを原因に到着予定を
遅らせては、縁者であるエーリヒの評判まで落ちると思ったアラエ
ルは必死で固辞し、やる気なさげに歩を進める騾馬の手綱を殊更に
力強く曳いて遅れを取り戻した。その様子にマキリの表情が僅かに
緩む。
﹁もう少しで村に着きますから、そこで一旦休憩を取りましょう。
旅は長いのですから、こんなところで疲れても仕方ありません﹂
マキリに軽く謝意を述べると、アラエルは傍らのエーリヒに済ま
ない、と目で告げた。
248
﹁気にするな。というか、お前が乗馬に不慣れなのを俺も失念して
いた。馬鹿だな、くそ⋮⋮﹂
こっちに乗るか、とエーリヒは自分の軍馬を指す。街道護衛の時
のように手綱は自分が曳くつもりなのだろうが、アラエルはむしろ
憤然と断った。
﹁私はお荷物になりたくない﹂
肩を怒らせ、嫌がる騾馬を曳いてずんずんと先に行くアラエルを、
エーリヒは肩を竦めて見送った。
3
戦時であれば話は別だが、平時にあって使者というのは突然やっ
てくるものではない。当然、事前に調整があり、その任につく者が
先発してさまざまな便宜を後からやってくる使節団のために取り計
らう。使節団が通る経路は事前に決められており、経路沿いの村や
町に接待のための依頼をするのも彼らの仕事である。バイステリが
構成する勢力圏の端近い、言わば境界線の村にたどり着いた一行は
すんなりと休息に入り、水や昼食を摂る事ができた。
﹁頼むから機嫌よく歩いてくれ﹂
騾馬をブラッシングしながらアラエルは語りかける。馬丁の仕事
もアラエルは見習っている。もう馬の手入れも少しは慣れてきてい
た。
﹁私にも立場があるのだ。無駄にエーリヒの評判を下げては申し訳
が立たん。もう乗りはしないから、しっかり歩いてくれよ﹂
249
騾馬はブラシを受け、体に水を浴びると嬉しそうに鳴き、アラエ
ルに鼻先を擦り付けた。
﹁よし、いい子だ﹂
頭を撫でてやると騾馬は目を細める。後は自分の疲労だな、とア
ラエルは気合を入れた。
︵それにしても、交流がないな⋮⋮︶
休息する使節達と護衛の騎士や兵士達の間にはまったく交流がな
い。互いに住む世界が違う上に不信感があるのだ。とはいえ長旅の
間中不信感だらけではいけないという思いはあるらしく、互いにち
らちらと相手を伺っていた。何かきっかけがあればいいのだが、と
アラエルは嘆息する。最初は自分がそのきっかけになると意気込ん
でいたが、今やついていくのが精一杯という現実を突きつけられて
しまっては、それも思い上がりだったと気分は沈みこむ。
﹁ちょっといいですか?﹂
落ち着いた年嵩の男の声がアラエルの背中に掛けられる。マキリ
書記長か、と思って振り返ると、果たしてそこにいたのは正使であ
るマキリだった。緊張させないように気遣っているのだろう。柔和
な表情を保ち、丁寧な口調で語りかける様子は若干アラエルを安心
させた。
﹁私に何か御用ですか?﹂
アラエルは騾馬の世話を一時中断して向き直る。不満そうに小突
250
いてくる騾馬を鬱陶しげにアラエルは片手で制する。その様子がお
かしかったらしいマキリは頬に少し笑いを浮かべつつ口を開いた。
﹁やはりご婦人にこのまま長旅を歩かせるのは心苦しいものがあり
ます。どの道アルビ越えは徒歩ですし、そこまでは馬車に同乗され
てはどうでしょうか?﹂
﹁しかし、それは⋮⋮﹂
アラエルは不満げに顔をしかめる。好意から薦めているのだろう
が、それでは完全にお荷物である。馬車は使節の威厳を示すために
華麗に飾られたもので、身分的にもアラエルが乗っていいものでは
ないのだ。疲れたから特別製の馬車に乗って残りの道を行くという
のは流石に彼女の矜持が承知しなかった。
﹁いえ、実のところ、これは親切心から申し上げているわけではな
いのですよ﹂
アラエルに皆まで言わせずにマキリが続ける。どういうことか、
とアラエルが表情を変えると、マキリは内緒話をするように声を小
さくした。
﹁貴女は傭兵から人気がありますからね。私達だけが馬車に乗って、
貴女が歩いていると見栄えが悪い。反対に、貴女に馬車に乗って貰
えれば少しは私達の心象もよくなるかも知れないと踏んでいるので
す﹂
それを聞いてアラエルは安堵する。正使のマキリがこのように現
状の分裂をよく思っていないのなら、旅の間にそれを継ぎ合わせる
のは難しいことではないと思えた。上手くはめられたか、と思いつ
251
つもアラエルはマキリの誘いに乗ることにする。
﹁そういう事でしたらご好意に甘えさせて頂きます﹂
腰を落として一礼すると、それはよかったとマキリは微笑んだ。
どこか、その表情に歳に似つかわしくない悪戯なものが混じって
いた気がしたが、気のせいだとアラエルは思うことにした。
※
﹁どういうことなんだろうか、これは⋮⋮﹂
旅が再開される。アラエルは荷物を積んだ騾馬を馬丁に預け、使
節用の馬車に乗り込んだ。貴人用とはいえスプリングが利いていな
い時代の馬車はガタゴトと揺れ、乗り心地がいいとは言い難い代物
わだち しつら
であったがその分クッションを重ねており、また街道には馬車の通
行を容易にするための轍が設えていて、ここを通る限りは揺れも多
少は緩和される。アラエルの旅は楽になったと言えるだろう。しか
し彼女は不審そうな表情で前を走る馬車に乗るマキリを見ていた。
︵何故、私の隣に座る者ばかり次々に入れ替わるのだ?︶
旅が再開されて二時間ほど。その間、アラエルは馬車に座りっぱ
なしだが隣に座る者はもう五人も入れ替わっている。それも使者だ
けではない。騎士に歩兵、馬丁と次々にアラエルの隣に座るのだ。
流石に彼女も困惑していた。
︵女っ気のない集団ゆえか⋮⋮と考えると何やら自分が酒場の女に
でもなった気分だな︶
252
そう思ってふと隣を見ると、まだ幼い馬丁の少年はちらちらとア
ラエルを伺っていたところだったらしく、目が合った。途端に少年
は顔を真っ赤にして前を向く。アラエルは苦笑した。
﹁別に取って食いはしないのだから、そう緊張しなくても⋮⋮﹂
そう声を掛けても無駄である。そうまで緊張させてはアラエルも
落ち着かず、困った表情で彼方のエーリヒを見ていた。と、そこへ、
﹁エーリヒ卿は先ほど偵察に走られましたね。お疲れでしょう。次
はエーリヒ卿が乗車してください﹂
マキリが一旦停止を命じ、エーリヒに声を掛ける。エーリヒは目
を丸くして俺か? と言うように自分を指差していた。
﹁いや、別に一日中馬の上でも疲れないのですが。というか貴人用
の馬車に乗るのも⋮⋮﹂
﹁今更ですよ。この馬車は誰でも乗っていいと私が決めたのですか
ら、さぁ早く。何かあったときにエーリヒ卿は十分に働いて貰わな
いといけませんからね﹂
マキリにそう言われてしまえば一介の騎兵隊長であるエーリヒに
何か言えるわけもない。渋々といった様子でエーリヒは少年と入れ
替わりでアラエルの隣に座る。
﹁さっきから何なんだ、これは﹂
交代すること六人目となったアラエルが首を傾げながら問うと、
253
エーリヒはいつもどおり肩をすくめる。
﹁⋮⋮よくわからんが、もしかしたら、という予想はあるな﹂
﹁なんだそれは、何が狙いなんだ、これは﹂
何か察したらしいエーリヒにアラエルは問いかけるが、答えが得
られることはなく、まぁ気にするなとだけしか返されることはなか
った。問うのも段々と馬鹿らしくなってきたアラエルは諦めて馬車
に揺られる。しばらくは直線が続くようで地平線の果てまで街道が
伸びていた。揺れは小さく、のどかな日差しが空から降り注ぐ。
︵しかし相変わらず役に立てていないな⋮⋮どこかの町か村に逗留
するのだろうが、飯炊きぐらいはやらねば⋮⋮︶
そう思いつつ、アラエルは定期的な揺れと慣れない馬旅の疲労に
誘われ、やがて頭はこくりこくりと舟を漕ぎ、当人の意思とは無関
係に眠りの中へと引き込まれていった。
﹁お、おい⋮⋮﹂
エーリヒが困惑したような声でそう言ったのが、まだおきていた
時にアラエルが最後に聞いた言葉だった。
※
大きく馬車が揺れてアラエルは目を覚ました。段差に乗り上げた
らしい。腰に鈍痛を覚える。貴人用とはいえ決して馬車の乗り心地
はよくない。
254
︵寝てしまったか⋮⋮︶
意識的に寝たわけではないが、意識を引き止めるのに努力しなか
ったのは事実である。周囲が歩き、馬を走らせる中で寝てしまった
アラエルは気まずそうにそっと目を開け、周囲を伺う。途端にアラ
エルは驚きで目を見開くことになる。
﹁な⋮⋮な⋮⋮な⋮⋮?﹂
周囲の目が残らず自分を見ている。それも微笑ましそうな目で。
わけがわからないアラエルは困惑した。てっきり呆れられていると
彼女は思っていたのだ。
﹁あー⋮⋮起きたのなら、その、なんだ。頭を除けてくれ﹂
傍らのエーリヒが頭を掻きつつそう言う。
﹁流石に恥ずかしい﹂
言われてアラエルは自分がエーリヒに寄りかかって頭を肩に預け
ていたことに気づく。顔を真っ赤にして体を離すと、何故か周囲か
らの視線が更に微笑ましいものに変わった。
﹁やはりこうなりましたか﹂
にこにこと笑いながらマキリが言う。独り言のようでいて、誰も
彼もに聞かせるようにしているらしく、その声は大きい。
﹁エーリヒ卿の隣でなら安心して寝るのですね﹂
255
﹁あ⋮⋮あ⋮⋮!﹂
瞬間、アラエルは自分がこの年嵩の政治家に上手く使われたこと
を理解した。
﹁ば、ば、馬鹿野郎ーっ!﹂
とりあえずエーリヒの耳を引いて耳元で怒鳴るも、そこには著し
く迫力というものが欠けていた。
256
天険アルビ
1
和んだらしい。その後、使者達と傭兵達は互いに雑談を交わしな
がら街道を進み、日が暮れて近くの町に宿を取るころにはすっかり
仲良くなっていた。
元々嫌い合っているわけではない。市の防衛を担っているのは誰
がなんと言おうと傭兵隊であり、また傭兵隊を養っているのは市な
のだ。両者は補い合う関係にある。きっかけさえあれば融和は可能
だと言う事をマキリは示したといえる。ダシに使われたアラエルが
真っ赤な顔で俯いていることなど些細な問題だろう。交流を深める
ためにマキリは町の酒場から食事と酒を運ばせて、使節団でささや
かな酒席を開いた。
﹁私達にも実のところ、わかっているのです﹂
宴もたけなわになった頃、マキリはエーリヒにそんな事を言った。
﹁月に一度の訓練に参加するだけの素人の集まりでは、傭兵隊には
とても敵わない。アルフォンソ隊長の言うことは正しいと﹂
﹁いや、そんなことは⋮⋮﹂
﹁事実です﹂
どこか寂しそうにマキリは水を口に含む。下戸なのか、それとも
任務に忠実なのか、一滴も酒を飲んでいない。
257
﹁どこの街でも民兵が傭兵隊を追い返したという話は聞きません。
たまに聞いたと思ったら戦いもせずに逃げ出したとか、そんな話ば
かりです。今の戦争は、昔とは違う。専門性が高くて容赦がないも
のです。日々を戦いの中に置く傭兵隊が主力を務めるのは時代の流
れでしょう﹂
ですが、とマキリは続けた。
﹁それでもやりようはある。平野の戦いなら勝てませんが、城壁の
上に陣取っての防御戦闘のみに特化すれば、決して無力な戦力では
ありません。主力がいない間の街の防衛ぐらいなら務まるし、その
分隊長達の負担も軽減され、市の防備も堅くなるでしょう。ですが、
アルフォンソ隊長はそれすらも許可しないのです﹂
マキリは悔しげに拳を握り締める。
﹁アルフォンソ隊長には感謝しています。その隊長と轡を並べて戦
いたいと思うのが、そんなにおかしな事でしょうか⋮⋮?﹂
エーリヒもアラエルも何も言うことができない。他ならぬ自分の
街を自分で防衛したい、その気持ちを無碍にされ、お前達など役立
たずだと、マキリ達はそう言われているのだ。屈辱は相手に対する
嫌悪を産み、目を曇らせ、やがて全うだった論争は感情的な対立に
行き着き、傭兵隊と市の重鎮達との関係に大きなヒビを入れる。そ
れがアルフォンソとマキリの対立の実態だった。
﹁愚痴を聞かせましたね。ですが、覚えておいてください。我々は
貴方方と対立する気はないということを。この難局を乗り切るため
我々は手を携えて戦う必要があるということを﹂
258
一礼してマキリはその場を去った。町長に挨拶に行くのだろう。
或いは、先発した先触れから届いているであろう手紙を確認するの
か。残された二人は酒席を立ち、表に出る。
﹁エーリヒ、私には⋮⋮書記長の言うことが間違っているようには
聞こえないが﹂
酒席から離れたアラエルはエーリヒに問いかける。エーリヒは首
を縦に振った。
﹁主力はともかく、補助戦力として民兵を使うのはエルヴンじゃ全
然珍しくない。うちの街ぐらいのもんだ。全部傭兵隊がやっている
のは。そこら辺は傭兵の間でも話題になっている。アルフォンソ隊
長には市政を牛耳る野心があるんじゃないかって噂は、身から出た
錆みたいなところはあるな﹂
市独自の戦力を許さず、その理由がいまひとつよくわからない。
ドゥーチェ
真意が読めない。これでは変な噂を立てるなというほうが難しい。
ただでさえ傭兵隊長は警戒されるのだ。統領の信頼がなければアル
フォンソはとっくに罷免されていた可能性もあるという。
﹁野心、か⋮⋮確かにアルフォンソ隊長はどこか底知れぬところが
あるからな。そうも見えるのだろうが⋮⋮﹂
市政を牛耳り、自らが王になる、という風にはアラエルには見え
なかった。直感だが、そういう事に価値を見出しそうにない。無論
根拠などないことなので、アラエルには判断のつかないことであっ
たが、それはエーリヒも共通して持つ考えだったらしい。
259
﹁俺もそう思う。というより、王になろうとしているのならそう疑
われている時点で半分は失敗だ。最後の最後まで意志を感じ取らせ
ず、気付いたときには手遅れ⋮⋮それがこの手の権力簒奪劇の常套
手段だ。アルフォンソ隊長がそれをわかっていないとは思えない﹂
とはいえ、では何が狙いなのかと問われれば﹃わからない﹄とし
か言いようがなく、そして人は﹃わからない﹄を恐れ、そこに自分
なりの解釈を与えて仮初の安心を得ようとする。その結果、或いは
アルフォンソにそのような野心があると看做されたのかもしれない
とアラエルは思った。
﹁何にせよ、ここでアルフォンソ隊長の思惑を考えても仕方がない。
俺達はアセリアまで歩くだけだ。後のことは後で考えよう﹂
﹁いや、私はそれでいいがお前は考えろ﹂
少し呆れながらアラエルはエーリヒの額を小突いた。
﹁なんだよ、考えても仕方のない事だろう?﹂
﹁例えそうでも私達が所属する傭兵隊の隊長なのだ。万が一がない
とは言い切れん。野心を抱いた挙句に処刑され、傭兵隊一同連座し
てさらし首という可能性だってあるだろう? そういう事を想定し
て色々と対策を整えるのは必要だ﹂
極端な例だが、ないとは言い切れない未来だ。騎士ではなく傭兵
なら、身の振り方は注意する必要があるだろう。う、とエーリヒは
言葉に詰まる、だが不満げな顔ですぐに言い返してきた。
﹁俺は考えるとして⋮⋮なんでお前はいいんだよ﹂
260
﹁異な事を。私はお前の世話になると言った﹂
両腰に手を当て、アラエルは寧ろ堂々と言う。
﹁お前の方針についていこう。一蓮托生だ。だからなお更よく考え
てくれ﹂
﹁堂々と言うなよ⋮⋮﹂
肩を落とし、うんざりしたような顔でエーリヒはアラエルを見る。
アラエルは思わず噴き出した。
﹁冗談だ。微力だが私もできうる限りの事はする⋮⋮現状、足を引
っ張っているがな﹂
﹁またそれか﹂
エーリヒはアラエルの頭をくしゃくしゃとかき回す。アラエルは
小さく悲鳴をあげて距離をとった。
﹁髪が! なんてことをする。粗雑に扱うな!﹂
﹁お前それで男を自称するなよ⋮⋮まぁ、それは置いといて、だ。
別に足を引っ張ってるって事はないだろ。今もああやって騒いでる
のは、お前のお陰なんだろうし﹂
それはマキリが上手く計らったからだ、そう思うアラエルは不満
げに口を開こうとしたが、エーリヒに制された。
261
﹁どんな形であれ、隊には貢献してるんだ。何を恥じる事がある?
誰も気にしちゃいない。⋮⋮少なくとも俺はお前にはずいぶん救
われた覚えがある﹂
バツが悪そうに頬を?き、目を反らしながらそんな事を言われる
と、そんな言葉を引き出した自分がなんだか酷く浅薄で承認欲求に
飢えた下らない存在に思えてきて、アラエルは慌てて手を振った。
﹁この話題は打ち切ろう。私が悪かった!﹂
﹁そうしてもらえると俺も助かるよ⋮⋮﹂
お互い気恥ずかしくなったらしい。会話が途切れた。二度と自虐
は言うまいとアラエルは心に誓った。わざと自分を貶めて相手から
望む回答を引き出しているようで、気分が悪い。
﹁と、ともあれ、エーリヒ、確かにお前の言うことも正しい。今考
えても詮無いこともある。今は旅の事だけ考えるべきか﹂
気まずさを誤魔化すために先程の自分の発言を翻すアラエルにエ
ーリヒは苦笑する。だが乗る事にしたらしく、遠く彼方を指しなが
ら口を開く。
﹁この彼方にある山がこれから俺達が超える天険、アルビ山脈だ。
古くから山岳信仰の対象になっているほど峻険で、それでいて交通
の要所になっている。あそこを北西に行けばアルヴェリア、北東に
行けばアセリア。三つの地域の自然国境になっている﹂
エーリヒの指す方向から不意に冷たい風が吹き、アラエルの髪が
舞う。山から吹き降ろされた風だろうか、とアラエルは思った。
262
﹁北の二国にも、エルヴンにも属さないシュヴァイツェル盟約者団
が支配する山だ。何百年もかけて道路の開拓や補修は行われている
が、それでも馬車の通行がままならないほど道幅は狭く、傾斜もき
つい。女の足で超えるのは難しい。限界だと思ったらすぐに言え﹂
﹁私はお荷物には⋮⋮!﹂
ならない、といいかけたアラエルは、妥協の余地がないと態度で
示すエーリヒに言葉を詰まらせる。
﹁⋮⋮心配には及ばん、これでも悪魔だ。飲まず食わずで数日歩き
続けたこともある。山脈ごときなんとでもなろう﹂
2
何ともならなかった。
転落の危険性があるほど狭い道は山肌を縫い、落下防止柵もない
その道を使節団は全員が徒歩で行く。傾斜は急で道路状態は悪く、
吹きすさぶ寒風はばたばたと外套を激しく揺らし、その冷気は肌に
痛い程だ。馬車の車幅にも然程余裕がない以上、隊はゆっくりと進
むが、それでもアラエルにはついて行き難いほどの速度であった。
﹁く⋮⋮ぅ⋮⋮﹂
歯を食いしばって杖を突きながら歩く。傍らではエーリヒが転落
を防ぐためにアラエルを庇いながら馬を曳いていた。こちらには余
裕が見える。というよりは目に見えて疲労し、落伍一歩手前なのは
アラエルだけだ。四十半ばのマキリですら問題なく険しい山道を歩
263
いている。
︵これで商用路とは⋮⋮︶
冬季でも通行可能な、最も整備の行われている古い山道というの
がこの道だという。事実、山の麓には山越えを行う行商や旅人目当
ての商店や宿が多数あり、街を形成していた。近寄ればまるで天に
向かって聳え立つ巨大な壁のごとく見えた山脈にアラエルは気圧さ
れたものの、道があるのなら歩けない道理はないと思って足を踏み
入れた。
だが、上るにつれ道路は狭く、傾斜は厳しく、そして風は肌を刺
す。上り道も半ばを過ぎたと言われたときはほっとしたが、真の地
獄はそこからだった。山の尾根沿いに刻まれた道たるやか細く頼り
ないもので、小型の馬車同士がすれ違うのにも困難を伴う。一歩踏
み外せば一体何百メートルあるのかわからないほど深い崖が待ち構
えており、無意識に蹴飛ばした小石が落ちていく様を見たアラエル
は心底恐怖した。空気も薄い。呼吸は先程から荒く、頭もぼうっと
していた。
︵山を歩きなれないのもあるのだろうが⋮⋮! やはり、体力は落
ちている︶
人外としての異能を失いつつあることをアラエルは確信した。だ
からといって休ませてくれとはとても言えない。寿命が五十程度の
この世界では老境といえるマキリすらも馬車を降りて歩いているの
だ。
︵この世界の住人は、やはり逞しい⋮⋮︶
264
死亡率が高い世界である。人死にが日常となった世界である。こ
れほど厳しい道のりも、危険に満ちた旅路も、彼らにとっては日常
の一部なのだ。アラエルの価値観で言えばこのような道が商用路と
して何世紀も通用するのは出鱈目もいいところだったが、死が常に
傍らに控える彼らにとって、これぐらいの危険は何でもないし、踏
み越えるに足るだけの体力もあるのだ。馬上槍試合に命を賭ける騎
士だけではない。誰も彼もがこの世界では逞しかった。
︵負けていられるか⋮⋮!︶
杖を突き、一歩一歩足を進める。落伍など許されることではない。
否、皆は許すだろう。だが自分で自分を許せなくなる。ただ歩くだ
け、何が困難なものか。寒さなどどうでもいい。高さなど道を踏み
外さなければいいだけの事。そう念じながらアラエルは足を踏み出
し、
﹁あ⋮⋮﹂
倒れこむところを、エーリヒに支えられた。
﹁限界だな﹂
恐らくはずっと前から助け舟を出そうとしていたのだろうが、本
当にアラエルが歩けなくなるまでは待っていたらしい。可能な限り
は歩くという意思を尊重したのだろう。そのエーリヒが助けたとい
うことは、傍目に見てもうアラエルは歩けないということだった。
﹁⋮⋮まだ歩ける。別に戦争をしているわけではない。私はお荷物
では⋮⋮﹂
265
﹁お前、昨日堂々と言ったろ。世話になるって﹂
曳いていた馬を他の兵に預けると、エーリヒはアラエルを背負っ
た。広い背中から体温が伝わる。
﹁世話を焼かせろ﹂
そのままエーリヒはアラエルを背負って歩き出した。背負われて
みると蓄積された疲労が溢れ、身動きひとつ取れない事を自覚した
アラエルは両腕をエーリヒの肩から首に回してしがみつく。自分の
無力さ加減に腹が立った。
﹁泣くな﹂
足を進めながらエーリヒが呟くように言う。言われて初めてアラ
エルは気づいた。泣いている。
﹁もう少しで下りだ。誰もお前を責めはしない。俺が責めさせない﹂
一旦止まってアラエルを背負いなおすと、エーリヒはまた歩き出
した。
﹁俺はお前の味方だ。そう言ったろ?﹂
顔が赤くなるのをアラエルは感じた。心臓が妙に高鳴る。これを
察されると格好が悪い。そう思ったアラエルは首を左右に振って気
持ちを切り替えると、話題を変えることにした。
﹁⋮⋮泣いてない﹂
266
﹁⋮⋮いや、しかし現にお前﹂
﹁うるさい、泣いてないと言ったら泣いていないんだ﹂
エーリヒはため息ひとつ吐くと、やれやれと言いつつ調子を普段
のものに変える。
﹁それにしても軽いなお前。もっと飯を食え。多少肉付きがいいほ
うが俺は好みだ﹂
﹁うるさい! 別にお前の好みなんぞ知ったことではない! もう
歩けるから下ろせ!﹂
﹁断る。しかしお前細いくせに胸だけ妙にあるんだな﹂
﹁馬鹿野郎、この変態、何考えながら背負っている! 身の危険を
感じるぞ、下ろせ!﹂
﹁断る﹂
意識的に真剣な空気を散らした二人の周囲から笑い声が漏れる。
峠を越えるまで後少しだった。
3
一向は峠を越えた。広大なアルビ山脈を越えるにはまだ数日を要
するが、難所を越えた今、一同は一息吐く。峠の麓ごとに宿もあり、
酒場もある。シュヴァイツェル盟約者団は交易の中継地点として発
展してきたのだ。山中で遭難しない限りはそれなりに快適に過ごす
事はできる。
267
﹁足が痛い⋮⋮﹂
﹁あー、こりゃむくんでるなぁ。もっと早く言えばよかったものを﹂
一方で限界まで歩いたアラエルは泣きそうな顔で素足をエーリヒ
に見せている。貞操観の強い時代にあっては余りよくない行為だっ
たが、この際どうしようもなかった。こういった場合の対処をアラ
エルは心得ていない。一室を借りたエーリヒは足の具合を診ていた。
﹁とりあえず高い位置に足を置いて横になってろ。今湯と水を持っ
てくるから﹂
寒冷地に置いては白湯売りというのが存在する。加熱殺菌した湯
を足に漬けたり、飲む旅人は多いのだ。今もこの部屋に隣接する大
部屋では村の白湯売りの少年から兵士や使者らが白湯を買い、それ
ぞれ美味そうに飲んでいる。
﹁⋮⋮それで、何をするんだ?﹂
﹁ん、水と湯で交互に洗いながら揉むんだが﹂
当然だろ、と言うようなエーリヒにアラエルは顔を真っ赤にする。
﹁却下だ馬鹿、自分でできる!﹂
﹁まぁ嫁入り前の娘が足を男に触られたくない気持ちはわからんで
もないが、心得もないんだろ?﹂
﹁私は男だと言っている!﹂
268
﹁ならなお更問題ないじゃねぇか﹂
エーリヒは面倒くさそうに水を汲み、湯を買い求める。アラエル
は慌てた。
﹁お前のほうが歩いているだろう? 寧ろ私がやってやる、横にな
れ﹂
﹁却下﹂
エーリヒは即座に断った。
﹁お前にやられると多分ただでは済まない気が⋮⋮というか何だそ
れ、誘ってるのか﹂
﹁誘ってる? 何がだ﹂
きょとんとするアラエルにエーリヒは頭を抱え、両手を湯に浸し
た。
﹁忘れろ。俺も下衆な事を考えた。とりあえず暴れるなよ﹂
﹁う、ぐぐぐぐぐ⋮⋮﹂
結局アラエルはエーリヒにされるままになった。とはいえ別段彼
女が意識したような色っぽいことはなく、むくんだ足に加えられる
刺激は実に的確であり、即ち激痛を伴うものであった。文句を言い
たいところだったが、明日から歩けなくなるよりはマシと必死でア
ラエルは耐える。その時、不意にノックの音がした。
269
﹁入っても宜しいでしょうか?﹂
戸板越しにマキリの声が聞こえる。エーリヒはアラエルの足に毛
布を掛けて被せ、どうぞ、と促した。
﹁今日はお疲れ様でした。慣れない山歩きでアラエルさんにはずい
ぶん苦労を掛けましたね﹂
﹁いえ、エーリヒが背負ってくれましたから⋮⋮﹂
気まずそうにアラエルは目をそらす。やはり後ろめたい。
﹁それで、用件なのですが、先触れから連絡が届きました。アセリ
ア領内に入りましたら、アイゼンシュタイン侯爵が迎えに来てくだ
さるそうです﹂
ニーズヘグ
﹁げ、悪竜侯か⋮⋮﹂
エーリヒが顔をしかめる。アラエルはその理由が気にかかったが、
騎兵隊長としてのエーリヒとマキリが話している以上、話の腰を折
るのはまずいと思い、黙っている。
ニーズヘグ
﹁ええ、悪竜侯です。アセリア首都ヴィエナに行くにはどの道アイ
ゼンシュタインを通過しなければなりませんからね。恐らくすでに
こちらに向かっているでしょうから、山を降りたら先触れを派遣し
ていただけますか?﹂
マキリもまた災難ですよね、と言わんばかりの苦笑を作る。二人
は力なく笑った。
270
﹁是非もない事です。わかりました、このまま天候の変化がなけれ
ば予定通り明後日には越せそうですし、着きましたら、先触れを出
して到着を知らせましょう﹂
﹁はい、よろしくお願いします。それでは私はこれで﹂
一礼するとマキリは部屋から出て行く。アラエルは早速聞いてみ
ることにした。
ニーズヘグ
﹁なんだ、その悪竜というのは﹂
﹁あー⋮⋮アセリア公の忠臣というか、まぁ名目上は格下なだけの
諸侯だが、もう臣下といっていいだろうな。とにかくそういう有力
諸侯の通称でな。竜の紋章を使ってるからそう呼ばれてるんだが、
竜じゃなくて犬だって言われるほどの忠義ぶりで知られててな﹂
エーリヒは大きくため息を吐きつつ、再びアラエルの足に湯をつ
けながら言った。
﹁アルヴェリア人にとってはかなり嫌な名だな。五十年戦争中も狂
気じみた戦いぶりで知られている。正直あまり会いたい人間じゃな
いんだよなぁ﹂
﹁なるほど、戦場での戦いぶりからついた渾名ということか﹂
名のある騎士や貴族はしばしば二つ名つきで呼ばれる。自称する
ものもあれば他称もあり、特に敵方から畏怖を以って名付けられる
ものはおどろおどろしいものとなった。
271
﹁もう一つ。恐れられるのは理由があってな。人間とは思えないん
だとさ。一族郎党全部な﹂
﹁人間とは思えない?﹂
現に人間でないアラエルは聞き捨てならない。エーリヒは首を縦
に振って続けた。
﹁銀髪赤眼、極端に白い肌が特徴なんだが、とにかく何か発する気
配が違うらしい。こう⋮⋮悪魔じみてるそうだ﹂
水を浸した桶に映る自分の銀色の髪と赤い目を見つつ、アラエル
は何か言い知れぬ悪寒を感じた。
272
農村にて
1
アルビを下りた一行はアイゼンシュタイン侯領に入った。アイゼ
ンシュタイン侯はアセリア公の家臣として振る舞っている。つまり
ここからは実質的にアセリア公国であった。一人の欠員もなくここ
まで来たことにマキリとエーリヒは安堵した様子で互いに笑顔を見
せあっている。十分な護衛があっても旅は命懸けだ。それも冬季の
山越えを含んでいるのだから。旅はまだ残っているとはいえ、ここ
からはアセリア公の庇護下に置かれる。他国の外交使節を自国内で
害されたとあってはアセリア公の面目は丸潰れであり、絶対に被害
を出さないように取り計らうだろう。アセリア公にバイステリへの
悪意がない限り、ここからは安全と言えた。
﹁既に先触れを出しています。明日か明後日にでも迎えが来るでし
ょう。最寄りの村で今日は宿を取りますか?﹂
エーリヒがそういうと、マキリは首肯して全員に語りかけた。
﹁文字通り山は越しました。ヴィエナまであと一息です。皆さん、
もう少し頑張って下さい﹂
護衛の兵士や使者らは笑顔を見せながら、がやがやと話し合う。
困難を越えた者同士の連帯感が今や彼らに生まれていた。冬のアル
ビとはそれ程の場所である。そこに出発当初の堅さはなく、身分を
越えて和気藹々とした雰囲気が形成されていた。
273
﹁⋮⋮すっかり仲良くなったようだな⋮⋮﹂
対称的に身も心も疲れ果てているのがアラエルだ。山登り初日で
足がむくみ、なんとか応急処置をして翌日また歩き、靴も入りがた
いほど腫れた足でまた今日も歩いた。疲労はピークに達しているだ
ろう。
﹁だから背負うと言ったのに⋮⋮﹂
﹁うるさい私を甘やかすな。山は越えたのだ。最後まで歩いてやる。
姫とは最早呼ばせぬぞ⋮⋮﹂
瞳は執念じみた輝きを放つが、最早疲労困憊で声にも張りがない。
エーリヒはため息一つ吐いてアラエルを馬上に持ち上げる。
﹁お、おい⋮⋮﹂
そのままエーリヒはアラエルを跨がらせると、自身はその後ろに
跨がって手綱を取った。
﹁意地でも下ろさんからな﹂
それだけ言うとエーリヒはゆっくりと馬を進める。アラエルは口
をぱくぱくと開閉させながら顔を真っ赤にする。周囲の傭兵から口
笛が飛んだ。
﹁おい馬鹿下ろせ。いやお前が下りろ。わかった、大人しく馬に揺
られるからお前は下りてくれ﹂
﹁断る﹂
274
エーリヒは鼻唄を歌いながらどこ吹く風で馬を進めるだけだ。
﹁たまにはこんな役得があってもいいはずだ﹂
﹁ば、ば、馬鹿野郎⋮⋮﹂
開き直ったエーリヒにアラエルは肘鉄、罵倒、説得と色々尽くす
が、旗色は圧倒的に悪かった。
﹁書記長、書記長﹂
馬車の傍らを行く一人の傭兵がマキリに声を掛ける。騎馬なしの
槍兵だ。身分差から今まで声をかけられることのなかったマキリは
僅かな驚きを表情に出しつつ振り返る。
﹁皆でどちらが折れるか賭けているのでさ。一口乗りませんかね?﹂
にやにやと笑う槍兵にマキリもにやりと笑い返す。
﹁一見してエーリヒ卿有利ですが?﹂
﹁そこはそれ、本気で泣き出したら折れるに決まってまさぁ﹂
違いない、と頷きつつもマキリは銀貨一枚をアラエルが折れる方
に賭けた。
﹁ありがとうございやす。これで大体半々、結構割れやしたね⋮⋮
参考までに、その心は?﹂
275
﹁簡単な事ですよ﹂
マキリは自信満々といった様子で二人を振り返る。
﹁あの様子は満更でもない様子です。最後まで仲良く馬上にいるで
しょう﹂
﹁はは、俺の見立てとおんなじだ!﹂
事実、その通りになった。ひとしきり抵抗したアラエルはやがて
俯いて黙ってしまい、エーリヒはなんの問題もなく馬を進める。そ
の耳には賭け事の事も入っているであろうが、最早何を言う気力も
ないらしい。黙ったまま村まで馬に揺られるだけだった。
2
普段ほど歩くこともなく、一行はアルビに近い農村に着いた。小
さな村だが、アルビに入る旅人や商人を相手にした宿業を副業にし
ているらしく、受け入れ準備は万端であり、難なく使節団は宿と食
事を確保できた。
﹁毎回思うが、旅をするほうも、受け入れるほうも慣れたものだな﹂
アラエルは宿泊の準備を整えつつ一人ごちる。
﹁案外、旅をしやすいように出来ているのか﹂
人一人が携行できる食料には限界がある。そして携行できる程度
276
の食糧で食いつなげるのは、長くて三日が関の山だろう。馬を使え
ば大幅に携行できる食糧や水の量は増えるが、今度はその馬に与え
る秣の心配をしなければならない。これを解決する手はただ二つ、
即ち大量の荷馬車隊を仕立てて行くか、さもなくば村や町に宿を取
りながら進むかだ。前者は軍隊のような組織にしか出来ない事であ
り、大多数の旅人は後者を選ぶ。となれば、人の往来の多い道に存
在する村や町が旅人慣れしており、受け入れ準備が整っているのは
当然といえた。
﹁銀貨と旅券さえあれば旅は難しくないということか。野宿に比べ
れば遥かに上等だな﹂
歩哨の指揮を執るエーリヒを遠目に見つつ、アラエルは与えられ
た宿に荷物を運び込む。城壁のない村である。アセリア公の勢力圏
であるとはいえ、使節に万が一の事があってはならない。そもそも
アセリア公は現在リシニア中部の雄であるバッセンバッハのバイエ
ン公国と戦争中だ。警備は当然と言えた。
︵私も頑張らねば︶
半ば足を引きずりつつアラエルは宿に上がり、部屋に荷物を運ん
で行く。足はまだ痛い。寝ていて構わないと言われたが、道中の殆
どを馬か馬車に揺られた身でそれは憚られた。そうして痛みを表情
に出さないようにしながら歩いていると、不意に手元の荷物が奪わ
れる。見ればアラエルと同年代であろう少女が慌てた様子でそこに
いた。
﹁貴族のお嬢様にこんな事させるわけにはいきません! 何もない
宿ですが、どうぞ部屋でお休みください!﹂
277
くすんだ金髪を邪魔にならないように後ろでくくり、汚れが衣服
につかないようエプロンを掛けた姿は一見して宿の娘とわかる出で
立ちだ。鳶色の瞳は叱責を恐れているのか不安げに揺れ、よく通る
声にも若干の恐れが含まれている。
﹁貴族⋮⋮?﹂
きょとんとした表情でアラエルは呟き、自分の事を言っているの
だと少ししてから気づいた。娘の勘違いがおかしくてアラエルは思
わずくすりと笑う。
﹁いえ、私はただの仕出し女です。これも仕事の内なので、お気に
なさらず﹂
軍隊に随伴して兵士の世話をするアラエルのような女を仕出し女
という。兵站という概念がなく、前線、後方という区別が乏しい時
代では以前にアラエルが経験した街道護衛のように軍隊の中に輸送
隊や看護人、飯炊きに洗濯女が混じるのは当然であり、この世界で
はかなり一般的な仕事である。千人の軍があればその後ろに三百の
女がついていくとも言われているのだ。しかし聞いた娘は驚きに目
を丸くする。
﹁え⋮⋮でも、騎士様の馬に二人で⋮⋮﹂
﹁あああああああ!?﹂
見てほしくないところを見られていた事に気づいたアラエルは近
くのベッドに突進すると、毛布に頭を突っ込んでばたばたと悶えた。
﹁だから下ろせと言ったのにー!﹂
278
後で血を吸ってやる、そう固く決意したアラエルは冷静を取り戻
し、突然の奇行にぽかんと口を開ける娘に振り返った。
﹁あれは足が痛かったから止むを得なくそうしていただけで、別に
私は貴族でも何でもないのです⋮⋮! それと、この話はできれば
しないでください。恥ずかしい⋮⋮!﹂
必死で説明するアラエルに娘はしばらく目を丸くしていたが、暫
くすると口元に手を当て、体を折ってくすくすと笑い出した。
﹁なーんだ。あんまり綺麗だし、あんな風にやってくるから、私て
っきり貴族様だと思っちゃった﹂
同じ身分だと理解した娘は一転して気軽な口調で話してくる。貴
族と思われるよりは随分楽ではあったが、表情には男と二人仲良く
馬上にあったことを遠慮なく揶揄するようなところがあり、アラエ
ルは引き攣った笑いを浮かべた。なかなか活発な性格の娘のようで
ある。
﹁でもいいよ。アルビを越えてきたんでしょ。私達がやっておくか
ら、休んでいてよ。それよりも都会の話を聞かせて欲しいな。見て
の通りの何もない村だから、旅人さんのお話が唯一の楽しみなの﹂
窓から外を覗き見れば、荷物の搬出や宿泊の準備は傭兵達から村
人へと引き継がれており、滞りなく進んでいた。傭兵達も休んでい
るものが多い。アラエルは言葉に甘えることにした。
﹁大した話もありませんが、それでよければ﹂
279
﹁決まりね。私はエルナ。貴女は?﹂
﹁アラエルです﹂
﹁ふーん、名前は貴族様みたいね。あ、そこのベッドに腰掛けてよ。
歩き方でわかるよ。足が痛いんでしょ?﹂
図星を指されたアラエルは苦笑しながらベッドに腰掛ける。エル
ナもまた近くのベッドに腰掛けて興味深げにアラエルをじろじろと
眺めた。男からのそういう視線にも最近はようやく慣れてきたアラ
エルだが、女の同年代から露骨に眺められるのはあまり経験がなく、
困惑する。
﹁⋮⋮何か?﹂
めかけ
﹁ううん、いいなーって思っただけ。あなたぐらい綺麗なら騎士様
のお妾さんにもなれるのね﹂
世の中不平等だわぁ、とエルナは嘆息する。妾とは正式な結婚相
手とは別に作る恋人、つまり愛人だ。エルナにはエーリヒとアラエ
ルがそう言う関係に見えたのだろう。とはいえ妾になった覚えのな
いアラエルは余りいい気がしない。エーリヒが妾を囲う類の男と見
られるのも不快だと思ったアラエルはやんわりと訂正する。
﹁私は妾というわけではないのですが⋮⋮﹂
﹁え、じゃあ正式なお嫁さんなの!? 平民なのに騎士様のお嫁さ
んなんて物語みたい! いいなぁー。私も騎士様や貴族様に見初め
られたいなぁ﹂
280
エルナは両手を握って一人盛り上がる。その言い様と、荷物を取
った時の慌てぶりから、アラエルはふと疑問に思った事を聞いてみ
ることにした。
﹁アセリアでは、貴族の統制が強いのですか?﹂
エルナの態度には貴族への憧れと畏れ。そして強い身分意識が見
える。バイステリにも貴族は多数おり、政治に関わる者も貴族が殆
どだが、平民との距離は近く、市の上級政治家であるマキリですら
アラエルに対して腰が低い。それに比べてエルナにとって貴族とい
うのは遠い存在であるらしく、下級貴族であり土地の継承権も持た
ないエーリヒや、護衛の騎士にすら憧れるように目を細めた。確か
に並みの傭兵よりも将来性はあるが、仕出し女ですら下級貴族は貴
族視しないのがエルヴンだ。
アイゼンシュタイン
﹁あ、そっか。南じゃそうなのね。うん、いろんな旅人さんにお話
聞くけど、アセリアは厳格みたい。うちの侯爵様は私達と接すると
身が穢れるって仰られて滅多にお姿を現されないっていう話だし、
お代官様も皆そうね。南の話を聞くとちょっと羨ましくなるわ﹂
それはまた極端な、とアラエルは若干表情を引き攣らせるが、エ
ルナはそれが当然というような表情で語る。身分差があればそこに
差別が生じて当然という意識があるのだろう。とはいえ快く受け入
れているわけではないようであった。
﹁最近はどんどんうちみたいな農村にも締め付けが強くなってきて
いるし、移動の制限に結婚の制限、職業の制限に居住の制限。制限
制限制限でもう嫌になっちゃう。貴女みたいな旅人が羨ましいわ。
私のお母さんもお婆ちゃんもこの村から一歩も出なかったって言う
し、私も多分そうなると思う。あーあ、どこかに私を気に入ってく
281
れる騎士様はいないかなぁ﹂
エルナはベッドに仰向けに転がって愚痴る。とはいえそこには諦
念が見え、本気で現状に不満を抱えている様子はない。現実という
ものが見えているのだろう。とはいえ憧れは捨てられない。微妙な
年頃だな、とアラエルは自分の事は棚の上にあげて思った。
﹁ね、ね! 騎士様を紹介してよ! あとさ、化粧とか教えて! こんなに沢山騎士様が来たの久々だし、帰りも寄るんでしょ? も
しかしたらお嫁さんは無理でもお妾さんにはしてもらえるかも!﹂
がば、と跳ね起きるとエルナはアラエルにすり寄って一気にまく
し立てる。アラエルは慌てて頭を振った。
﹁わ、私に化粧の心得はありません⋮⋮! 騎士様達は皆、交代で
警備を行っていますし、紹介は難しいかと⋮⋮﹂
﹁そこを何とか! 大丈夫、うちのご領主様は強いから敵なんて攻
めてこないよ。あ、私は二番目でもいいから、貴女の騎士様を紹介
してくれてもいいよ! 化粧の仕方教えてあげるから、お願い!﹂
じりじりと距離を詰めるエルナにアラエルはおろおろするばかり
である。足手まといのお荷物だという自覚があるアラエルとしては
変な事をして目立ちたくはないのだが、エルナにとっては滅多に来
ない好機なのだろう。その迫力にアラエルは圧倒された。ただし、
彼女にも譲れない一線がある。
﹁わ、わかりました。相談してみます。ただ、エーリヒは駄目です﹂
﹁エーリヒ様って貴女の騎士様?﹂
282
﹁私の、というわけではありませんが、まぁ、そうです。手を出さ
ないでもらいたい﹂
そう言うとエルナはまた体を折ってくすくすと笑った。
﹁貴族様が沢山のお妾さんを囲うのなんて常識でしょ? 正妻がそ
れを怒ったら却って器量が小さいって噂されるっていう話、私聞い
たことあるよ?﹂
アラエルは頷く。なるほど、それはそう言うものかもしれない、
だが、
﹁絶対駄目です﹂
アラエルは真顔でそう言い切った。その様子にエルナも鼻白む。
﹁う、うん。そこまで言うならいいけど⋮⋮﹂
アラエルは重々しく頷いた。ころころと表情の変わるエルナはア
ラエルから見て、中々の器量よしである。しかも積極的だ。擦り寄
られて悪い気はしないだろう。別にエーリヒの恋人という風に自分
を認識しているわけでもないアラエルだが、擦り寄られて表情を緩
めるエーリヒを見るのはなんとなく、そう、特に理由はないがなん
となくイライラするとアラエルは思っていた。
その後、エーリヒのところに相談にいったアラエルは村から宴席
を設ける旨が伝えられており、そこに交代で騎士も参加する事を聞
いてほっとした。どうやらエルナと同じようなささやかな野心を抱
く女は村にも多いらしい。
283
もちろん、アラエルはエーリヒに釘を刺すのも忘れなかった。
284
農村にて︵後書き︶
作者が突っ込みます。
エーリヒ、あなたの役得は﹃たまに﹄じゃない⋮⋮!ここのところ
は頻繁だ!
285
アイゼンシュタイン侯ヴィーザル︵前書き︶
挿し絵つけました。
イラストレーターはちとせみどりさまです。
286
アイゼンシュタイン侯ヴィーザル
1
村の広場にてアラエル達バイステリ使節団の歓迎の宴席が開かれ
る。エーリヒは警備の指揮を執っていたのだが、村長たっての希望
で警備を村の者と交代し、兵士や騎士もある程度は参加する運びと
なった。
﹁あんまりよくないんだがなぁ。そりゃ、ここはバイエン公国にも
遠いし、アルヴェリアまでも距離があるが⋮⋮﹂
アセリア公の庇護下とはいえ、戦時下にある国である。どれほど
実戦経験があるのかわからない村の者に警備を任せるのは責任感が
強いエーリヒには承服しかねるところがあったが、是非にと言われ、
マキリからも頼まれてしまえば受けざるを得ない。村長は全員参加
を強く希望したが、完全に警備を任せるのは流石にまずいと思った
エーリヒは半数参加を決定した。警備につく兵や騎士からは不満が
出たが、こればかりはどうしようもない。
﹁しかし、戦時下という割にはのどかなものだな﹂
エーリヒの傍らで食事を切り分けつつ、アラエルは呟く。
﹁私はもっとピリピリした空気を想像していたぞ﹂
村の雰囲気はのどかだが、アセリア公の事実上の家臣であるアイ
ゼンシュタイン侯の軍は現在、国境線で激しくバイエン公と戦って
いる。五十年戦争の始まりから終わりまで従軍し、大きな手柄を挙
287
げた前アイゼンシュタイン侯ヴィーゼルは隠居してなお前線で活躍
しており、歳の離れた子である現アイゼンシュタイン侯ヴィーザル
は親にも劣らない狂気の戦いぶりで敵味方を戦慄させ、親子二代に
渡ってアイゼンシュタインの武威を轟かせている。言わばアイゼン
シュタイン侯とはアセリア公旗下随一の武闘派なのだが、その領地
であるこの村に戦の気配はない。
﹁民衆にとっちゃそんなもんだ。戦ってのはどっか遠いところでや
ってて、自分らとは無関係ってな。特に農村は自給自足できるから
その傾向が強い。まぁ、実際に軍隊がやってきたら高確率で略奪に
遭うのも農村なんだがな﹂
一般的に、七日を超える連続行軍は難しい。それ以上の食料を持
ったまま行軍しようとすれば、ただでさえ長大な荷馬車隊は護衛も
ままならぬどころか、行軍そのものを困難にする程に膨れ上がり、
一切の作戦行動が取れなくなる。食料供給地から継続的に物資を輸
送するのは自軍の領域が近辺に存在するのなら不可能ではないが、
敵地に踏み込んでの戦いでは論外である。長く伸びた輸送隊は敵軍
の格好の標的であり、それを護衛しようとすれば、敵地で戦う軍と
同じ規模の軍がもう一つ必要とされるのだ。非効率極まりない。で
は、どうするか。
簡単な話である。敵地から略奪するのだ。そもそも自軍の領域か
ら輸送するにしても輸送隊が糧秣を消費するため、届く頃には大幅
にその量は減っている。それに比べて敵地での略奪は奪えば奪った
分だけが兵士達の腹に入り、そして敵への打撃にも繋がる。略奪と
放火は一揃いで行われており、ために激しく戦闘が続く地帯はしば
しば文字通りの焦土と化した。
﹁平和なこの村も、バイエンとの戦が続けば或いはそうなるかも知
288
れないのか⋮⋮﹂
騎士や兵士達と楽しげに騒ぐ村人を見ながら、アラエルは世界の
無情さをかみ締めるように呟く。
﹁かもな。救えないのはそれが別に珍しい事じゃないって事だ。と
ころで、なぁアラエル﹂
不意にエーリヒはアラエルに向き直る。
﹁どうした? 酒なら注がんぞ、お前は警備責任者だからな﹂
﹁いや、それはいいんだが⋮⋮来る女を片っ端から威嚇するのは止
めろ。怖がってる﹂
アラエルは宴の開始からエーリヒの傍らを動かない。酒を注ぎに
来る女達を次々に追い返しつつ、ことさらに親しげに会話する様子
を見せつけ、それでも寄ってくる女には敵意むき出しで応対してい
る。美人なだけに凄めば迫力があり、隊で一番の有望株ということ
で大勢来ていた女達も、今では遠巻きにおびえた目で見るだけだ。
その様子をエーリヒは、まるで猫が毛を逆立てて威嚇するようだと
思っていた。
﹁威嚇などしていない。ただ、お前は警備の責任者だからな。万が
一にも酒でも飲まれたら事だと思って守っているだけだ。感謝しろ。
それとも何か、お前も女と親しげに話したいのか?﹂
﹁いや、別に酒はどうでもいいし、話すのもどうでもいいんだが、
ただ無闇に威嚇するのはどうかと思うだけだ﹂
289
﹁どうだかな、鼻の下が伸びているぞ、色男﹂
﹁伸びてねぇよ。何に怒ってるんだお前。勘弁してくれ⋮⋮﹂
ふん、と鼻を鳴らしつつ、アラエルは相変わらず注意深く周囲を
警戒する。エーリヒは宴に和むどころではない。助けてくれと周囲
を見渡すが、誰も彼も見事に酔っ払っているか、或いはまたいつも
の痴話喧嘩かとニヤニヤしているだけだった。と、その時、新たに
村の女が二人に近づいてきた。アラエルは直ちに反応し、威嚇の態
勢をとったが、女が誰かわかると警戒を解いた。
﹁エルナ﹂
﹁アラエルったらずっと怖い目ね。そんなんじゃ騎士様も寛げない
わよ?﹂
宿屋の娘エルナも当然宴には参加していた。実のところこの宴席
の主役は村の娘達で、良縁に恵まれ難い彼女らに少しでも縁を、と
いう意図がそこにはある。都市生活者との間に良縁が生まれ、都市
つて
に移り住む娘が出れば、やがて土地の継承権のない農家の次男、三
男が都市に働きに出る際に頼れる伝となり、また村の特産物を卸す
際の繋がりにもなって村の発展にも寄与するのだ。村は基本的には
閉鎖的な共同体だが、だからといって基本的には都市との繋がりを
断ってやっていけるわけではない。
﹁エーリヒ様はさっきからお酒をお召し上がりになられていません
が、宜しいのでしょうか?﹂
﹁あ、あぁ。俺は一応警備の責任者だからな。何かあった時俺が酔
い潰れてちゃまずいだろ﹂
290
傍らのアラエルを伺いつつエーリヒは注意深く応対した。相変わ
らずアラエルはむすっとした顔でいる。エルナはそんな二人にくす
くすと笑う。
﹁真面目な方なのですね。じゃあアラエル、貴女飲みなさいよ﹂
﹁私ですか?﹂
アラエルは驚いたように自分を指す。エルナは首肯した。
﹁折角の席なんだし、むすっとしてるだけじゃ詰まらないでしょ?
エーリヒ様が飲めないんだから、貴女が飲まないと﹂
﹁実は飲んだことがないのです。なんというお酒なのですか?﹂
ヴァイツェン
﹁うちの村の修道院でお坊様が作ってる白ビールよ﹂
修道院は厳しい戒律の下に生きる聖職者の家である。彼らは村の
冠婚葬祭を司り、日々を礼拝と労働に費やし、自給自足の生活の中
で余剰の食料や物資を貧しい者に分け与えるというのが建前になっ
ている。
だが現実は厳しい。司祭としての仕事をこなしつつ自給自足に励
むのは困難で、真面目にそんなことをしていては経営破綻を起こし
てしまうのが修道院の実情だ。必然的に副業を始めることになり、
その一環として酒場の経営やビールの醸造が各地で行われている。
これは生水を忌避する人々に安全な飲み物を提供するという面もあ
って、咎められるどころか大陸全土で大いに推奨されていた。特に
アセリアではワインよりもビール優位であり、ほとんど村ごとに違
291
うビールが出る。
﹁その歳でお酒飲んだことないなんて珍しいのね。口当たりがよく
て甘いから、初心者でも飲みやすいと思うわよ﹂
﹁ほうほう⋮⋮!﹂
むすっとした顔はどこへやら、興味深げにエルナの話に聞き入る
アラエルにエーリヒは何か嫌な予感を覚えた。
﹁あー⋮⋮アラエル。そろそろ疲れないか? 足も痛むだろうし、
休まないか?﹂
﹁そういって私のいない間にまた鼻の下を伸ばす気だな。そうはい
かんぞ﹂
﹁しねぇってば⋮⋮﹂
もうどうにでもなれ、エーリヒはお手上げで成り行きに任せるこ
とにした。アラエルはエルナから酌を受けて白ビールを興味深げに
見つめ、やがてちびちびと飲みだす。
﹁ん⋮⋮苦味は薄い。不思議と果物のような香りがする﹂
﹁小麦から作ってるからね。こんな日でないと出てこないの﹂
小麦は麦の王様と称され、これから作られる白パンは最高級の食
べ物の一つとされる。庶民の口に入るのはライ麦やカラス麦から作
られた黒パンで、白パンはほぼ金持ちのものである。同様に小麦を
使用する白ビールも高級品であり、村で作られてはいても村人たち
292
に供されることは滅多にない。アラエルは杯を徐々に傾け、やがて
飲み干すと頬を僅かに朱に染めて大きく息を吐いた。
﹁いい飲みっぷりじゃない﹂
エルナがすかさずビールを注ぐ。その表情は悪戯な形を作ってい
たが、アラエルは気づく事がない。
﹁さ、もう一杯。もう一杯。ふふ、色っぽくなってる﹂
勧められるままにアラエルは飲み干す。瞳は焦点が合っていない。
危険を感じたエーリヒは席を立ち、足早に逃げようとしたが、
﹁⋮⋮どこへ、いく﹂
<i78750|8818>
一歩遅かった。がしりとエーリヒの袖はアラエルに掴まれ、離れ
ることはない。上気した頬は赤く、瞳は艶かしい。声もどこか色っ
ぽく、妙な艶があったが、エーリヒはそれが逆に恐ろしいと感じた。
﹁あ、あ、あー⋮⋮なんというかお前予想と期待を裏切らないのな﹂
﹁なにを、わけのわからない、ことを。すわれ、はなしあいてなど、
わたしひとりで、じゅうぶんだろう﹂
呂律が回っていない。エーリヒはおそらく意図的にこの事態を作
り出したエルナを見るが、悪戯な笑みを浮かべるだけだった。
﹁それじゃ、ごゆっくり﹂
293
それだけ言ってエルナは踵を返し、意中の騎士の元へと駆けてい
く。後には酔っ払いとエーリヒが残された。
夜は始まったばかりである。
2
﹁あたまがガンガンする⋮⋮﹂
翌朝、アラエルはベッドの上で起き上がることもままならず自己
嫌悪と体調不良と戦っていた。その傍らでは顔に引っかき傷を作っ
たエーリヒが介抱している。
﹁世話を焼かせろとは言ったが、流石にこういうのは堪らんぞ﹂
﹁申し訳ない⋮⋮﹂
二杯目を飲んだあたりからアラエルの記憶はきれいに飛んでいる。
何があったのかはさっぱりわからないが、エーリヒの顔を見る限り
ろくでもない事をしでかしたのは事実のようだ。もう飲むまいとア
ラエルは決意したが、その旨をエーリヒに告げたところ、﹃酔っ払
いは皆そういうんだ﹄と呆れられた。何を言われても言い返せない
アラエルはぐったりとベッドに伏す。
﹁二日酔いのところ悪い知らせなんだが、さっきアイゼンシュタイ
ン侯の先触れが来た。多分昼ごろには侯がやって来る。そしたら出
発だ。それまでになんとかしてくれ﹂
294
わかった、と頭痛をこらえつつアラエルが返すと、エーリヒはそ
の場を立ち去る。目の下に隈ができていた。寝ていないのだろう。
無駄に手間をかけてしまったアラエルは再び自己嫌悪の海に沈みこ
む。
﹁やー⋮⋮、アラエル元気ー?﹂
入れ替わりにエルナがおずおずと入ってくる。若干後ろめたいも
のがあるらしい。
﹁あまり元気ではありませんね⋮⋮﹂
﹁あはは、そうだろうね。ごめんごめん、まさか本当にお酒飲んだ
ことないとは思わなくってさ。私達って小さな頃から飲んでるから、
もうそれが当然だと思ってて﹂
生水に対する忌避から、飲酒はかなり一般的である。アルコール
が体に悪く、教会や権力者が嫌悪する酔っ払いを生むことは理解さ
れていたが、飲める水が少ない事から少年少女であってもこの世界
の人間は飲酒する。
﹁私もここまで酒に弱いとは思いませんでした。以後気をつけます
⋮⋮。あの、あまり聞きたくないのですが、私は昨日、エーリヒに
何をしたのですか⋮⋮?﹂
﹁えっとね、こう、しなを作ったり、もたれかかったり、肩を出し
たり、脚が見えたり、耳元で囁いたり、耳たぶ噛んだり⋮⋮うん、
凄かった。私でもどきっとした﹂
295
﹁ああああああ!?﹂
アラエルはベッドの角に頭を打ちつけた。エルナは慌てて制止す
る。
﹁死なせて下さい! 後生ですから!﹂
﹁大丈夫だって! エーリヒ様、凄い紳士的に対応していたから!
アラエルが潰れて寝た後は村の周りを賛美歌歌いながらぐるぐる
走り回ってちょっと怖かったけど!﹂
エーリヒの紳士ぶりは健在であったが、要らぬ手間と恥を掻かせ
たアラエルは穴がなければ掘ってでも入りたい気分である。勧めた
張本人であるエルナは若干の罪悪感を覚えているらしく、苦笑いし
ながら話題を転換した。
﹁あ、そういえば侯爵様が迎えにくるんだって。私、侯爵様を見る
の初めてだからちょっと楽しみだな﹂
ニーズヘグ
通称悪竜侯か、とアラエルは思い出す。戦場では狂気の戦いぶり
で敵味方に畏怖され、同列の帝国諸侯でありながらアセリア公に鋼
の忠誠心を持ち、身分意識が強くてエルナ達平民の前には姿すら現
さず、そして、纏う雰囲気は悪魔じみている。それがここ数日でア
ラエルが聞いたアイゼンシュタイン侯の噂だった。人柄のよさや、
統治の巧みさを称えるような話は一切なく、とにかく恐ろしげな印
象のみ受ける。
﹁私達も侯爵様についてはよく知らないの。ただ、とっても厳格な
方という評判だけは聞いているわ。お出迎えの準備に忙しいから、
私も手伝わないと。それじゃあアラエル、また帰りにね! あ、そ
296
うそう﹂
エルナは笑みを浮かべる口元を隠しつつ、戸口からアラエルに笑
顔を浮かべつつ語りかける。
﹁嘘みたいな話なんだけど、私も物語のお姫様になれそう! 騎士
様が私をお嫁にもらってくれるって! ロビン様って言うの! も
しかしたら私もバイステリに行くかもしれないから、その時はよろ
しくね!﹂
喜色満面といった様子でエルナは出て行く。アラエルは頭痛を覚
えつつも微笑ましいものを感じた。
︵器量よしと思っていたが、流石だな。いや、あの調子で本気で落
としにかかられれば、女慣れしていない男などいちころか。それに
しても同年代の女と話したのは初めてかも知れん。来てくれるなら
ありがたい︶
実のところ村の女と縁を繋いだ騎士や兵士は一人にとどまらず、
その原因は道中、散々エーリヒと恋人然としたやりとりを続けた自
身にあるのだが、アラエルは気づかない。話したためか、酔いも大
分さめてきた。ベッドから起き上がるとアラエルは軽く体操する。
︵醜態を見せた。本当に今のところいいところなしだ。名誉挽回せ
ねばな︶
そうして昼を回る頃には、アラエルは回復して撤収の準備を始め
ていた。
297
3
アイゼンシュタイン侯の隊は、旗鼓堂々とした隊列を組んでやっ
てきた。
重々しい太鼓の音と無機質な笛の音と共に、左右に揃いの軍装を
した槍兵の列を従え、中央に銀色の甲冑を煌かせる騎兵の集団が、
背中に巨大な鳥の羽を背負い、アイゼンシュタインの象徴である白
地に赤十字の外套を風に靡かせて颯爽と行進する。中央にはアイゼ
ンシュタインの紋章である﹃狼と竜﹄の軍旗が翻り、その威容、そ
の流麗さは遥かに距離を置いてもはっきりとわかるほどだ。
村の広場でそれを迎えるバイステリ側も威容を示すために隊列を
組むが、片やアルビを越え、長旅の道中にある使節団、片や磨きぬ
かれた甲冑に装飾品を多数つけた疲労のない軍隊。圧倒的に見劣り
するのはどうしようもなかった。
﹁全隊、停止﹂
村に入ったアイゼンシュタイン隊が号令一下、ぴたりと停止する。
近衛兵なのだろう。左、右と交互に、一切のずれなく繰り出されて
いた足はぴたりと同時に停止し、中央から一人の若い貴族の男が乗
馬したまま進み出る。兜を邪魔そうに外して傍らの騎兵に預けた時、
その場の誰もが息を飲んだ。
美しいのだ。例えようもなく。
年の頃は二十代の半ばか、細面の顔は彫刻かと思うほどに白く、
造形はまるで女のようだ。瞳はガーネットのように紅く、髪は白絹。
298
豪奢な白銀の髪は育ちのよさを表すかのように丁寧に切り揃えられ、
アセリア貴族の流行という長髪は風に靡く。体躯は細くとも華奢で
はなく、荒々しさは感じさせずとも均整を保っている。特別製と思
われる甲冑は流麗にして堅固、重厚な防御力を感じさせる一方で曲
面を多用し、無数の溝を入れたデザインは、刃や矢を受け流しつつ
重量の軽減を同時に成し遂げた最新式である。その姿を目に留めた
女の幾人かが呼吸を忘れて息を呑む。アイゼンシュタイン侯ヴィー
ザルは、そのような若者であった。
﹁よ、ようこそおいでくださいました。侯爵様。何もない村ですが、
精一杯の歓迎を⋮⋮﹂
我に返った村長が進み出て挨拶する。だが、
﹁下がれ、土民﹂
ヴィーザルは冷たく村長を見下ろし言い放つ。村長は何を言われ
たのかわからず、しばし呆然とした。
﹁は⋮⋮?﹂
﹁何故侯爵たる私が貴様らごとき土民と話さねばならぬ。何が歓迎
だ、虫唾が走る。二度は言わぬ、失せろ﹂
嫌悪感の篭った言葉に村長は狼狽し、礼もそこそこに慌ててその
場を立ち去る。貴族の、それもこのような物言いをする者の前に立
ち続けることは危険であることは誰もが承知していた。代わって正
使たるマキリが中央から徒歩で進み出る。
﹁アイゼンシュタイン侯爵とお見受けします。私はバイステリ市書
299
記長マキリ。この度は我が街から、アセリア公への友好の使者とし
て参りました﹂
受けるヴィーザルは馬上にて値踏みするかのようにマキリや使節
団を眺めつつ口を開く。
﹁いかにも、私が﹃皇帝陛下﹄の第一の家臣たるアイゼンシュタイ
ン侯ヴィーザルだ。長旅ご苦労だった。これより⋮⋮﹂
﹁待ってください﹂
マキリが静かにヴィーザルを制止する。話を中断させられたヴィ
ーザルは不満げにマキリを見下ろした。
﹁アイゼンシュタイン侯、私は身分こそ貴方に及ばない身ですが、
今、私は不相応にもバイステリ市の市章を負った正使の役にいます。
例え大陸にその名を轟かす名門アイゼンシュタインとはいえ、乗馬
してこれを見下ろすことは看過できません。下馬してください﹂
場の空気が凍る。傲慢にして尊大な若い大貴族を相手に、マキリ
は眉一つ動かさず馬を下りろと命じたのだ。しばらくの間沈黙が辺
りを支配し、風の音だけが響く。
﹁⋮⋮侯爵様﹂
沈黙の中、マキリが再度強い調子で促そうとしたところでヴィー
ザルは口を開いた。
﹁⋮⋮失礼した。皇帝陛下への使者に無礼を働いたことをお詫びす
る。改めて今後の予定について話し合おう﹂
300
下馬したヴィーザルに続き、次々と騎兵達が馬を下りる。張り詰
めていた場の空気が緩み、安堵の声があちこちから漏れた。
﹁⋮⋮俺もアルヴェリアで酷い貴族は何人も見てきたが、ここまで
偏見と差別意識に凝り固まってるのは初めてかも知れん﹂
忌々しそうにエーリヒは横目でヴィーザルを睨み付ける。
﹁アラエル、あの手の連中は平民を人間扱いしていない。アセリア
には無礼討ちの法がある。いとも簡単に剣を抜くぞ。視界に入るな。
離れるようにしておけ⋮⋮アラエル?﹂
エーリヒは傍らのアラエルを気遣うが、当のアラエルはおぼつか
ない様子でヴィーザルを見ていた。
﹁まだ酔いが抜けてないのか? それともあの人の皮を被った外道
侯爵の見てくれに惹かれたか?﹂
﹁そんなわけないだろう! ただ⋮⋮﹂
否定したアラエルは言いよどむ。エーリヒは何か言いたげなアラ
エルに耳を寄せた。
﹁ただ、何となく⋮⋮私と同類のような気がしただけだ﹂
悪魔じみた雰囲気がある。それをアラエルは直感で知った。
自分が派遣された訳は、或いはこの辺りにあるのかもしれない。
そうアラエルは思うようになった。
301
アイゼンシュタイン侯ヴィーザル︵後書き︶
ちなみにヴィーザルのフルネームは称号も込みで、ヴィーザル・マ
ルクグラーフ・ルドルフ・アルブレヒト・レオポルト・フリードリ
ヒ・オットー・フォン・ウント・ツー・アイゼンシュタイン、とな
ります。
訳すると﹃アイゼンシュタイン家にしてアイゼンシュタインの領主
たる辺境伯ヴィーザル﹄。土地の名前が家名になってる、ちょっと
珍しい貴族です。
ルドルフ以降の名前は歴代のアセリア公の名前。
302
皇帝ルドルフ
1
そこからの道中はそれまでの賑わいが嘘のように静かで重々しい
ものとなった。
エルヴンの使節団は両側をアイゼンシュタインの隊に護衛されな
がら街道を行く。煌びやかな集団に挟まれて行進する様はまるで囚
人の護送で、囲まれる使節団の騎士や兵達は不満げに足を進める。
主君であるヴィーザルの選民意識はその家臣にも伝染しており、下
級貴族と平民で構成される使節団は露骨なまでの軽侮をアイゼンシ
ュタイン侯の軍勢から感じていた。会話一つない旅は疲労を生み、
疲労は苛立ちを助長する。とはいえ何か騒動を起こすほど彼らも分
別がないわけではなく、残りの行程を彼らは安全に、しかし不満げ
に消化し、アイゼンシュタインを越えてアセリアに至り、首都ヴィ
エナまで後一日というところまで来た。
﹁山を越えてからの方が山とは思いませんでしたよ⋮⋮﹂
その日の行軍を終え、人口千人程度の町で宿を取った使節団はヴ
ィエナ入城に備えて酒場で休息を取っている。正使であるマキリは
行軍の間中、両者の間を取り持とうと努力を重ねていたが、取り付
く島もないアイゼンシュタイン隊を前にしては岸壁に打ち付ける細
波も同然であり、マキリは寧ろ使節団の暴発を抑えるのに必死にな
っていた。命よりも面目が大事とされるのがこの世界であり、特に
騎士はその傾向が強い。些細な事で斬り合いにでもなれば取り返し
がつかないのだ。疲労困憊のマキリは禿げを気にする様子で頭頂部
を撫でながら席に腰を下ろし、ビールを注文した。
303
﹁なんというか、まぁ、噂以上の御仁ですね⋮⋮﹂
テーブルを挟んでエーリヒが苦笑いする。その傍らではアラエル
が注がれたビールに興味深げな視線を送っていたが、頭をぶんぶん
と振ってその誘惑を振り切ろうとしていた。その様子をエーリヒは
苦々しげに、マキリは微笑ましそうに眺めている。
ニーズヘグ
﹁悪竜侯と呼ばれるのもわかります。アセリア諸侯からすら嫌われ
ているらしい。先の侯爵であるヴィーゼル様も同じような評判でし
たから、これがアイゼンシュタイン家なのでしょう﹂
対アセリア外交を担当するマキリはアセリアの内情にある程度精
通している。アセリアは確かに貴族の統制が諸国に比べて強固であ
り、平民と貴族は峻別されているのだが、それでもここまで自分の
領土の民を見下すのは異例であった。
﹁五十年戦争の主力を務めたアセリア、アイゼンシュタインは中央
集権の動きを進めつつあります。戦時に出征を渋った領主や、逆に
出征して家系が断絶した領主が次々と粛清されて領地没収の憂き目
にあっているとか。そして空いた領地には中央から派遣された代官
が任命され、君侯の力が上昇しています。領邦内ではほぼ絶対者な
のでしょうが、平民との距離は開く一方のようですね﹂
アルヴェリアにしろ、アセリアにしろ、次の戦争は確実と睨み、
王権を強大化させることに力を注いでいる。その過程で中間支配層
である領主は次々と取り潰され、地方はより大きな権力機構へと組
み込まれていくのだ。
﹁力を持つっていうのも考え物ですね⋮⋮ああはなりたくないもん
304
だ。あー、アラエル。一杯だけならいいぞ﹂
傍らで執念深くビールを眺めていたアラエルはびくりと跳ねて首
を振った。
﹁べ、別に飲みたいとは思っていないからな!?﹂
﹁顔に書いてる。何かあっても俺が宿まで連れてくから飲んどけ飲
んどけ。味を覚えちまったか﹂
エーリヒは天を仰ぎ、マキリは微笑する。話にひと段落ついたと
判断したらしいマキリは席を立った。
フレースヴェルグ
﹁明日はヴィエナです。ファルケンブルク家は大鷲と呼ばれる油断
のならない相手ですから、早めに寝ておきますね。それでは、また﹂
よい夜を、とエーリヒとアラエルは返してマキリと別れる。直接
交渉を担当するのは言うまでもなく正使であるマキリだ。アセリア
との同盟が成らなければバイステリの命運はアルヴェリアの大軍を
前に風前の灯火である。彼の責任は重い。見送ったエーリヒはアラ
エルに向き直る。ちびちびとビールをあおる姿は何か小動物じみて
いた。
﹁さってと⋮⋮んで、どうだ、なんかあったか、あの外道侯爵から﹂
﹁いや、何も。まったく関心を抱かれていないな。私は﹂
アラエルは直感的にヴィーザルと自分が同種の存在だと感じてい
る。寧ろ自分よりもよほどヴィーザルの方が悪魔に近いとすら思っ
た。容姿もどこか似たものがあり、自分の事について何らかの察し
305
がついているらしいアルフォンソが、何らかの意図を持って無理や
り一行に入れたとすれば、それはヴィーザルに関係するのではない
かとアラエルは思っている。だが、当のヴィーザルはアラエルなど
いないかのように振舞っており、アラエルは自分の考えが間違って
いたのではないかという気もしてきた。
﹁アイゼンシュタイン家は相当歴史のある家だ。殆どアセリア公家
ファルケンベルクと歴史が一致する。つい数ヶ月前に生まれたばか
りのお前とは大分違うし、俺も何かの間違いだと思わんでもないが、
あの家も不気味な話が多いからなぁ⋮⋮もしかしたらっていうのは
ある﹂
﹁不気味な話?﹂
杯を置くアラエルに、エーリヒは指折り数えた。
﹁噂だから当てにならんが、一族郎党、大体同じ顔とか、あれだけ
の名門なのに勃興時の逸話がさっぱりわからんとか、当主に狂を発
するのが多いとか、怪我したときに流れた血が比喩じゃなくて青か
ったとか⋮⋮まぁ与太話だな、特に最後のは。とはいえそういう噂
が流れる程度には不気味な一族ってこったな﹂
﹁まぁ、何の反応もないからには、これ以上はどうしようもないな。
精々警戒するぐらいだが、あれぐらいの上流貴族に私程度の警戒が
どの程度意味がある事なのか⋮⋮﹂
アセリアの諸侯の中でも一等浮いた存在、それがアイゼンシュタ
インである。しかし噂は噂に過ぎない。また、仮に同類だとわかっ
たとして、何がアラエルにできるわけでもない。考えても詮無き事
とアラエルは問題を棚上げすることにした。
306
﹁書記長ではないが、明日はヴィエナだ。そろそろ私達も寝よう。
ところでエーリヒ﹂
﹁ん?﹂
席を立ちかけたエーリヒはアラエルに目をやる。杯の中のビール
はまだ半分以上残っていた。泣きそうな顔でアラエルはエーリヒに
訴える。
﹁⋮⋮にがい﹂
﹁⋮⋮大麦のビールだからな。慣れれば美味いんだがお前にゃまだ
早いか﹂
残ったビールを一息に呷ると、エーリヒはアラエルを伴って宿に
戻った。
2
ヴィエナに接近するに連れ、使節団はその姿に度肝を抜かれた。
北方の戦争では新兵器である大砲を使用する。平地が多く、城砦
攻略の機会が多い北では重量物である大砲も比較的運用しやすく、
そして有用なのだ。それまでの投石器などとは比べ物にならないほ
どの勢いで鉄塊を吐き出す大砲は、従来の城壁を容易く打ち崩した。
とはいえ撃たれる側も進歩する。大砲の直撃に備えて城壁は高さ
307
を下げて代わりに厚みを増し、傾斜をつけて土塁を高く盛ることで
衝撃を緩和する。設計そのものも見直され、星型に配置された数多
の防衛拠点はそれぞれが死角をカバーしており、攻撃側がどこから
攻めようが直ちに有効な反撃が可能だ。従来型の垂直に立つ城壁な
ど問題にもならない。攻防共に充実したものこそが北方における最
新の城壁であった。
ヴィエナは、正にその見本と言えた。
都市をぐるりと囲む城壁群は重厚な厚みを誇り、その上から大地
を巨砲の群れが照準する。複雑な幾何学模様を描くその設計は、ど
こから敵が侵入しようと三方向から包囲して矢弾を浴びせられるよ
うに作られており、難攻不落を攻撃側に予期させた。人口七万を数
える大陸でも有数の都市であり、またアセリア最大の軍事拠点であ
るヴィエナの威容は、ピーリスを知るアルヴェリア人を含むエルヴ
ン使節団を圧倒し、畏怖させるに十分なものだったのである。
﹁僅か数年の突貫工事で作られたって言うが、何が突貫工事だよ⋮
⋮﹂
エーリヒが呻く。幾度かこの街をアルヴェリア軍が包囲したこと
もあるが、何れも攻略を果たせずに撤退している。その理由の一端
をエーリヒは知ったような気がした。そもそも五十年戦争がアルヴ
ェリアにとって形式的な勝利に収まり、アセリアに決定的な追撃を
浴びせられなかったのも、このヴィエナの存在が大きいと言われて
いるのだ。
城門が開く。バイステリのそれに比べて遥かに重厚で、巨大なそ
れはまるで地獄の門のようだと、エーリヒは思った。
308
﹁護衛の兵はここまで﹂
ヴィーザルが一同を振り返りつつ、宣言する。
﹁ここからは使者のみとなる。兵はここで武器を預けて市内で待機
すること﹂
市内への武器の持ち込みは原則的に禁止される。当然の処置だっ
た。エーリヒは部下に武器を城門詰め所に預けるよう指示し、自ら
も剣を預けてアラエルと市内に宿を確保しようと歩き出す。その背
中にヴィーザルが再び声をかけた。
﹁騎兵隊長と女は私と来い﹂
呼ばれたエーリヒは驚いて振り返る。
﹁⋮⋮我々もですか?﹂
﹁私はそう言った。手間をかけさせるな﹂
エーリヒは目を丸くしてアラエルと互いを見合った。一介の騎兵
隊長と仕出し女に一体何の用があるのか皆目検討がつかない。そも
そもアセリア公は現在リシニア帝国皇帝を名乗っている。アラエル
どころかエーリヒにすら謁見資格があるとは思えない。皇帝への謁
見はしかるべき地位の者にしか許されない特権なのだ。だが、ヴィ
ーザルは無表情のまま馬上でついてくるよう促した。
﹁謁見資格なら先日撤廃された。陛下はどのような身分の何者とで
も気軽に話される。貧民だろうが下級貴族だろうが悪魔だろうが、
必要とあらば陛下は話されるだろう。これ以上手間を取らせるな。
309
ついて来い﹂
問答無用と言わんばかりに馬を進める後ろで、エーリヒとアラエ
ルは已む無くそれに追随する。その後ろからやはり驚いた顔でマキ
リら政治家が続いた。
﹁どういう風の吹き回しだ?﹂
当然とも言える疑問をアラエルが口にする。だが、その表情には
ついに来たか、という確信があった。
﹁今まで無反応だったが、やっぱりお前に興味があるのか。さてど
ういう事情やら﹂
ヴィーザルは悪魔だろうが皇帝は会う、といった。言外に正体を
知っていると告げているに等しい。だが火炙りにする気はないと見
える以上、何らかの思惑がそこに働いており、二人の知らない何か
が大陸の二大勢力の片方の奥深くにあるということが察される。
﹁エーリヒ卿、アラエルさん﹂
一人ごちるエーリヒの後ろからマキリが足早にやって来る。その
表情には大きな疑問と疑惑が見て取れた。
﹁お二人はこの件に関して、何か心当たりは?﹂
二人共に首を横に振る。流石に誰にでも彼にでも打ち明ける類の
話ではない。マキリはどっか信用していない風であったが、疑問を
心の奥に落とし込んだらしい。それ以上追及することはなかった。
310
﹁わかりました。ですが、謁見の際にはアセリア公と目を合わさな
いように注意してください﹂
﹁ああ、無論だ﹂
当然のように答えるエーリヒに、アラエルは訝しがる。
﹁目を合わせる事が不敬なのか?﹂
エーリヒは首を横に振る。その表情からは緊張がありありと伺え
た。
﹁長い間玉座に就いてた家ってのは、一種の魔力を獲得するんだ。
とにかく目を合わせるな。心をしっかり持て。でないと、自分を保
てなくなるぞ﹂
不気味な予感を覚えつつも、アラエル達はヴィーザルに従ってヴ
ィエナの中枢、ベルデール宮殿へと向かっていった。
3
﹁アイゼンシュタイン侯ヴィーザル、バイステリよりの使者をお連
れした!﹂
ヴィーザルがそう述べると宮殿の扉がゆっくりと開き、一同をベ
ルデールの中へと誘う。防衛ではなく執務の場であり、貴族交流の
場として整えられたベルデールの内部は暖房が利いており、かなり
広大な空間にも関わらず真冬の寒さを一切感じさせない。だが行き
311
交う宮廷人達はいずれも緊張した面持ちであり、誰も彼もが忙しく
働いていた。そこに余裕は一切なく、中には無精ひげも剃らずに多
量の書類と格闘する貴族や、口角を飛ばして抜刀せんばかりの勢い
で議論を繰り広げる貴族もいる。宮廷内の雰囲気は全体的に刺々し
く、張り詰めていた。
﹁エーリヒ、あれは何と読むのだ?﹂
宮廷内を進む一行は幾つかの回廊を抜けた後、一際大きな部屋を
望む位置までやってくる。謁見の間だ。その部屋の扉の上に識字力
のあるアラエルにもわからない文句が二段に分けて彫刻されていた。
﹁古代語だな。衒学者御用達の教養言語ってやつだ。上段が﹃我ら
のあらゆる権力は領民の幸福にかかっている﹄。下段は﹃君主は領
民たちの迷妄と闇を照らし出す神に選ばれし光である﹄だな﹂
﹁そうだ、それが陛下の信念だ﹂
それまで無言で一同を先導するだけだったヴィーザルが振り返り、
誇らしげに胸を張る。
﹁我々はあの標語に従い、過去の迷妄と訣別した、合理的で理性的
な政治に向け前進している。全ては国家と国民の平穏と幸福のため
だ﹂
自らの領民を土民と蔑んだ男の言葉とは思えない台詞に、一同は
例外なく顔を引きつらせる。
﹁領民を導く我らは悉くが半神の如くあらねばならぬ。聖別された
存在でなければならぬ。ただの人に人を治める事など、絵空事に過
312
ぎぬ。そして我らを束ね、用いる存在こそ陛下なのだ。⋮⋮共和制
だのなんだのと言って、結局は自国ひとつ満足に守れぬ愚物どもに
言っても詮無き事か。ついて来い。この世に平安を遣わすのが誰か、
その身に教えてやる﹂
嘲笑を送りつつヴィーザルは先を行く。謁見の間に繋がる扉が左
右に開かれ、一同がそれを潜ると、奥行きのある広大な空間が目に
入った。
﹁よぉ、早かったな﹂
謁見の間の奥の奥。一段高い位置にある豪奢な玉座に脚を組み、
肩肘をついて行儀悪く腰掛ける青年が一同に声をかけた。次の瞬間、
﹁⋮⋮!?﹂
場の空気が一挙に重くなり、押しつぶさんばかりの重圧となって
襲い掛かる。使者の一人は呼吸困難に陥り、また別の一人は立つこ
ともできずに膝をついた。アラエルもまた心臓を鷲掴みにされたか
のような錯覚を覚え、歩くことが出来なくなる。
﹁しっかりしろ﹂
傍らでエーリヒが脂汗を浮かべながら激励する。アラエルはそれ
でようやく重圧から開放された。
﹁なんだ、今のは⋮⋮?﹂
息も荒く問う。エーリヒは唾を飲み込み、呼吸を正しながら答え
る。
313
カリスマ
﹁王の霊威ってやつだ。何度も高貴な座についていた家系はわけの
わからん魔術的な力を備えると言われている。気をしっかり持て、
取り込まれるぞ﹂
カリスマ
暴力的なまでの王の霊威は普段アラエルが目にする小さな魔術な
オーラ
ど比較にならない程の非日常性を以て襲い掛かる。アラエルは謁見
の間の彼方から、凶暴な大鷲が翼を広げる姿を幻視した。霊威に押
されて歩くことも難しい一行に、玉座の男が立ち上がって近寄る。
まだ若い。長い黒髪を整えることもせずに後ろで簡単にくくって垂
らすに任せ、肌も宮廷貴族にありがちな病的な白さというわけでは
なく、適度に焼けている。長身痩躯ながらも痩せぎすというわけで
はなく、寧ろ鍛え上げられた筋肉が豪奢な服越しにもわかる。一見
して大貴族というよりは下級騎士か、傭兵隊長を思わせる野卑さの
感じられる容姿だが、頭頂に輝く帝冠はその存在の高貴さを保証し、
何よりもその身から発する威光が、流れる血の尊さを主張する。
神聖リシニア皇帝ルドルフ四世。大陸で最も高貴な血筋を引く存
在が、そこにいた。
314
皇帝ルドルフ︵後書き︶
私の作品はダークファンタジーでしょうか?
315
巨人と蟻と
1
フレースヴェルグ
カリスマ
大鷲が歩く。一歩進む毎に圧力が増し、空気が震える。謁見の間
は王の霊威を最大限に発揮し、来訪者を威圧するよう計算されてい
た。ルドルフの左右に林立する飾り立てた文武の高官達が、贅を尽
くし天国かと見紛う程に作り込まれた壁画が、皇帝謁見に際して演
奏される楽の音が、そして他ならぬルドルフ自身の放つ強烈な威光
が、アラエル達を非日常的な世界へと誘う。
﹁ヴィーザル。ご苦労だったな﹂
暴力的なまでの存在感はそのままに、ルドルフは何の気兼ねもな
しに一同に歩み寄る。ヴィーザルが静かに膝をつくと、アラエル達
かしず
も慌てて膝をついて敬意を示した。ルドルフはそれを当然のことと
して受け入れる。幼い頃から大勢の家臣に傅かれて来たであろうル
ドルフにとって、公式の場で相手が跪くのは見慣れた光景なのだろ
う。そして、見慣れた光景を見て悦に浸る者はいない。
﹁使者殿もお役目ご苦労。長旅で疲れているだろうに窮屈な姿勢を
取らせる訳にはいかねぇな。ここは堅っ苦しくて落ち着かんだろ?
他ならぬ俺が落ち着かんのだ。交渉は別室で行うとしよう﹂
跪き、顔面蒼白のマキリの手を自ら取って立たせると、ルドルフ
は気さくに話しかけた。その表情に気付いたルドルフは豪放に笑う。
﹁済まんな、皇帝といえども守るべき典礼が多い。使者は必ずこの
316
間で謁見することになっている。馬鹿げた仕来たりだろ? 皇帝と
は名ばかりの儀礼と虜というわけだ! 哀れんでくれ。さぁこっち
だ。楽に話そう﹂
そう言ってルドルフは豪奢な外套を傍らの廷臣に預け、身軽にな
って一同を先導した。威圧的だった霊威が勢いを減じ、一同は胸を
撫で下ろすが、依然としてその表情は強ばり、足取りはおぼつかな
い。
︵初手で、挫かれている⋮⋮!︶
アラエルはルドルフに戦慄を覚えた。言葉とは裏腹にルドルフが
典礼を馬鹿げたことと思っていないのは明らかである。仕来たりに
かこつけて荘厳華麗な謁見の間に呼びつけて文武の百官で取り囲み、
強烈なカリスマで威圧すると同時に、膝を折らせて上下関係を悟ら
せる。使節団は短時間ながら異常な緊張状態に置かれた。その直後
に、この気さくな態度である。極度に張られた弓の弦が弛んで元に
戻らないように、或いは急激な温度変化に晒された物質が強度を失
い、砕けるように、使者たちの心は初手から折られたのだ。これが
どれほど交渉において不利をもたらすかは、アラエルでもわかる。
︵マキリ書記長は⋮⋮!︶
否応なしにルドルフに主導権を渡したが、このままのペースで話
が進めば、バイステリは間違いなく不利な交渉を強いられる。アル
ヴェリア侵攻が間近に迫っている今、アセリアとの同盟の重要性は
アラエルでもわかっていた。人間とは思えない巨大な存在感を前に
震えながらも、アラエルは視線に意思を込めてマキリと目を合わせ
る。
317
︵しっかり、してください!︶
視線に気付いたマキリは姿勢を正し、表情を厳めしいものに切り
替え、歩調を確かなものに改める。後ろを振り返ったルドルフはそ
の様を見てにやりと口の端を吊り上げた。猛禽類じみたその笑みに
アラエルは背筋を青くしたものの、正使たるマキリが毅然とした態
度を取り戻したことで僅かに安心する。マキリはアラエルと目を合
わせ、僅かに目礼した。
フレースヴェルグ
︵死肉貪る大鷲⋮⋮! 敵対する者からはそう呼ばれていると聞い
フレースヴェルグ
たが、皇帝ともあろう者があざとい真似を⋮⋮!︶
ニーズヘグ
アイゼンシュタインが悪竜なら、主君は死肉貪る大鷲だ。ファル
ケンブルク家の紋章である﹃双頭の鷲﹄からの連想でそう揶揄され
ているとアラエルは聞いていたが、小国からの使者を露骨に威圧す
る様は皇帝という言葉から受ける印象とは程遠い悪辣さを感じる。
思わず敵意ある視線を送るが、すぐさま主君の傍らに控えるヴィー
ザルが振り向き、殺意の籠った視線を投げる。
ーー陛下を害するなら、容赦せん。
紅い瞳は狂気を帯び、瞳孔は縦に割けている。人間の目ではない。
爬虫類じみた瞳は竜を連想させた。アラエルは竦み上がり、歯の根
が合わなくなるほど震えたが、奥歯を全力で噛み締めて震えを打ち
消し、きっ、と睨み返す。ヴィーザルは興味なさげに鼻を鳴らすと、
前を向いてルドルフに付き従う。
︵ここは地獄だ⋮⋮!︶
プレッシャー
ヴィーザルの霊圧から解放されたアラエルは全身に汗を掻き、荒
318
い息を吐く。比喩でなく心臓が止まるのではと思うほどの殺意を感
じていた。思わずその場に倒れ込みそうになるが、その肩をエーリ
ヒが支えた。
﹁エーリヒ⋮⋮﹂
また世話を掛けてしまった。情けない。そう思いながらアラエル
は微笑んでエーリヒを見上げるが、次の瞬間愕然とする。
︵なんて表情をしているんだ⋮⋮!︶
怯えている。アラエルが知る限りこの世界で最も力強く、誇り高
く、頼れるこの男が、まるで蛇に睨まれた蛙のように怯えていた。
顔には脂汗が浮かび、瞳は揺らぎ、膝は震えを隠せていない。アラ
エルを支える腕は不用意なまでに力が入っており、痛みを感じるほ
どだ。謁見の間で激励した人間と同一人物とは思えない。
﹁エーリヒ、痛い。やめてくれ﹂
耐えかねてそう言うとエーリヒは目を見開き、慌てて手を離して
距離をとる。表情は落ち着きを取り戻し、足取りも確かなものにな
ったが、アラエルには、それが先程までの失態を誤魔化すためにや
っているように見えて仕方がない。体面を保とうとする姿がとても
格好悪く見えたアラエルはつかつかと歩み寄ると、エーリヒの手を
取って自分の手と繋ぐ。汗が滑って気持ちが悪かったが、構いはし
なかった。
﹁お、おい⋮⋮﹂
小声でエーリヒは抗議する。アラエルは取り合わない。
319
﹁自分を保て。私がついている﹂
先ほどとはあべこべに激励されたエーリヒは、それでようやく本
当に落ち着いたらしい。深呼吸ひとつすると、アラエルの手を軽く
握って確かな足取りで歩く。もうアラエルは汗が気持ち悪いとは思
わなかった。
無数にある部屋の一室が開く。武器を用いない戦が、始まろうと
していた。
2
賓客用の部屋に案内された一行は、疲労困憊ながらようやく交渉
を始める事ができた。バイステリはマキリを中心に使者達五人とエ
ーリヒが並び、片隅にアラエル。アセリアは皇帝ルドルフを中心と
して、左にヴィーザル。右に白髭を蓄えた老貴族が控えていた。
﹁こいつはリビ。俺が若僧なんでな、政治にも先生が要るってわけ
だ。筆頭宰相を名乗らせている﹂
リビは主君の紹介に立ち上がり、一同に静かに礼をする。それを
見たマキリが呻いた。
﹁アセリアきっての知識人⋮⋮大宰相ヨハン・リビ⋮⋮! アセリ
ア公の懐刀⋮⋮!﹂
プレッシャー
リビからはルドルフやヴィーザルのような霊圧は感じない。だが、
320
眼光の鋭さと冷たさは二人以上だ。炎のように燃え、主君に仇為す
者を焼き付くすのがヴィーザルなら、こちらは氷の刃で静かに刺し
殺すかのような冷徹さを感じる。アラエルは新たな大物の登場にま
た震えた。
︵つまり文武の最高責任者と、皇帝自身が居並ぶここで交渉をしろ
と⋮⋮︶
小国の使節に対しては破格の待遇だ。破格すぎてまともな交渉が
できそうにない。現に使者でしゃんとしているのはマキリ一人だ。
後はアセリアの巨人達の存在の重さに耐えかねて怯えるばかりであ
る。エーリヒですら気圧されているのだ。無理もない。逆に歴戦の
エーリヒですら怯える相手に怯まないマキリが凄まじいのだ。
﹁この度はバイステリからの友好使節を受け入れてくださり、感謝
いたします﹂
マキリが口を開く。謁見ではない。これは不敬に当たらないだろ
う。初手で大きく躓かされたのを挽回するようにマキリの口調に淀
みはなく、却ってここから主導権を握り返してやるという気迫に満
ちていた。アラエルは老境のマキリの勇気に思わず感嘆する。
ドゥーチェ
﹁我が街の統領は今後とも陛下との友誼を大切にしていきたいと⋮
⋮﹂
﹁いくら出す?﹂
礼節に乗っ取ったマキリの口上は、ルドルフの不躾な一言に掻き
消された。
321
﹁い⋮⋮いくら、とは⋮⋮?﹂
﹁言葉通りだ。アセリアを動員する対価、いくら払う?﹂
マキリの表情が強ばり、狼狽の色を濃くする。どうあっても主導
権は握らせる積もりはないらしい。国力に差がありすぎる。家柄が
違いすぎる。軍事力が違いすぎる。交渉の余地がない。交渉をする
気が感じられない。
﹁わ、わたくしどもとしましては、これぐらいを⋮⋮﹂
震える声でマキリが額を提示するが、
﹁その倍だな。先の戦争は寸土も得ることなく終わってこちとら財
布の中身が火の車でね。軍隊というのは金食い虫だ。加えて今はバ
イエンと戦争中と来ている。この倍は貰わないとやってられん﹂
足下を見られている。どうあってもバイステリはアセリアに頼る
しかない。そこを見透かされては交渉が出来るわけもなかった。巨
額の費用の裁量権を任されているであろうマキリは、その更に倍を
示されて顔を青くする。
︵皇帝ともあろうものが、金、金と⋮⋮! 恥を知れ!︶
心の中でアラエルは吠えるが、彼女とて実際にはわかっている。
弱い者と強い者の間に対等の関係はない。強い者は弱い者から徹底
的に収奪する。それが世の理なのだ。アルヴェリア侵攻を控えたバ
イステリに選択肢はない。どうあっても、どれほど一方的な条件で
も呑まなければならない。同盟は結ばれるだろう。だが、それはア
セリアの言われるがままになった結果としてのものなのだ。そこま
322
でアラエルが考えたとき、マキリが突如席を立った。
﹁陛下、これまででございます﹂
予期せぬ行動だったのだろう。ルドルフは怪訝な表情になり、両
脇のヴィーザル、リビはルドルフを守るように立ち上がって身構え
た。
﹁アイゼンシュタイン侯も、リビ様も、身構えずとも大丈夫です。
寸鉄帯びぬ老身を警戒なさいますか? エーリヒ卿も構えを解いて
ください﹂
対抗するために立ち上がったエーリヒを制しつつ、マキリは使者
全員に立ち上がるよう命じる。
﹁交渉は決裂。残念でしたが、縁がありませんでしたな﹂
それを聞いたルドルフは僅かに驚いたものの、すぐにニヤニヤと
笑う。絶対の優位を確信しているのだ。
﹁ほぉう。じゃあ次はどこに行くつもりだ? バイエンなら無駄だ
ぞ。アデルバードか? ヤゲヴォか? ラースローか? どこもか
しこも遠いか、頼りないかだなぁ?﹂
﹁何処へも参りません。これからアルヴェリアに降伏します﹂
ルドルフは一瞬で笑うのを止めた。
﹁⋮⋮攻められるのが嫌で助けを請いに来たんだろ? 降伏っての
はおかしいんじゃねぇか?﹂
323
声の質が変わる。それまでの嘲笑し、威圧するようなものではな
い。相手の思惑を図る慎重な姿勢が感じられた。アラエルは空気が
変わったと思った。
﹁左様です。ですが無理難題を突きつけられてはいかんともし難い。
この上はせめて攻撃を受ける前に白旗を上げ、喜んでアルヴェリア
王の覇業に貢献する道を選びましょう﹂
﹁⋮⋮正使とはいえ、そんな権限がお前にあるのか? 下手な脅し
は俺に効かんぞ﹂
﹁はい、そんな権限は私に与えられていません﹂
マキリはあっさり首肯する。
﹁なので、アルヴェリアから帰りましたら私は、喜んで首を刎ねら
れようと思います﹂
ルドルフがぽかんとした表情で口を開ける。左右の重臣も呆気に
とられていた。
︵呑んだ︶
アラエルは内心で喝采をあげる。
︵空の高みから見下ろしていた連中を、交渉の場に引きずり下ろし
た︶
話を聞く必要もないと言わんばかりだった当初とは異なり、今は
324
皇帝も左右の二人も、マキリの話に耳を傾けている。こうなればマ
キリも狼狽えるはずもない。老境の弁舌の刃がこの世で最も高貴な
血を引く若き皇帝を貫いた。
﹁陛下、恐れながらそもそも陛下はリシニア皇帝といいつつ、今の
実情はアセリア公に過ぎませぬ。中部にバイエン、北部に去就を定
かにしないルクサンベルクにホーエンツァールと今のリシニアが分
裂状態なのは誰もが知るところ。そこにアルヴェリアがエルヴンを
押さえればどうなるかなど、子供でもわかります。我々と陛下はい
わば運命共同体。我々を助けるだけの理由が陛下にはおありにある
はずなのに、陛下は金、金と仰る﹂
図星を指されたらしい。ルドルフの表情が歪む。ヴィーザルは苦
虫を噛み潰したような顔をしていた。アラエルはこの旅で地味な印
象しか持たなかったマキリが、まるで大鷲の化け物と巨竜を相手に
一歩も引かずに闘う勇者のように見えた。
﹁本来なら条件は対等でもおかしくないところですが、国力の差を
鑑みて資金を出すことでそちらの面目を立てようと、こちらは敢え
て頭を下げているに過ぎません。その気遣いを逆手にとって侮辱な
さるなら、こちらにも考えがある。いちバイステリ人としてそう申
し上げておきましょう。ーー皆さん、次はアルヴェリアですよ﹂
アラエルは無言で立ち上がる。これが﹃引き﹄だということはア
ラエルにもわかった。本当にアルヴェリアに降伏するつもりは流石
にマキリにもないだろう。それは亡国を意味するのだから。これは
賭けだ、とはいえ、
﹁座れ。交渉再開だ﹂
325
ここまで引き込んでしまえば、それは勝率が十分高い、即ち賭け
時というべきだった。
326
劣等感︵前書き︶
少し際どいシーンが含まれているので、苦手なひとはご注意を。
本作はラブコメです。
327
劣等感
1
紆余曲折の末、ようやく本当の交渉が始まった。ルドルフも最早
嘲笑するかのような態度を取らず、威圧することもない。それまで
の一方的な通達と言うに等しいそれに比べれば格段の差がある。バ
イステリが勝ち取った大きな戦果だが、ようやくスタートラインに
立てたに過ぎない。マキリは表情を引き締め、部下の使者達もそれ
に勇気付けられる。
﹁⋮⋮では、陛下。資金の方は⋮⋮﹂
マキリが慎重に伺う。ルドルフはしかし、その話題からはなるべ
く早く遠ざかりたいと言わんばかりに苦々しげな表情でぞんざいに
答えた。その目はマキリではなく、傍らのリビを見ている。
﹁俺は交渉に負けたんだ。今更吹っ掛けたりはせん。さっき使者殿
が提示した額でいい﹂
マキリは安堵する反面、僅かに渋面を作る。逆転したとはいえ、
ほんの少し前は押されっぱなしだったのだ。つい口をついて出た額
は、許される限度ギリギリだったのだろう。ルドルフは資金交渉と
いう面ではバイステリに完全勝利を納めた事になる。だが、
︵それでも、勝ったのは書記長だろう︶
アラエルはそう思いながら密かに周囲を伺う。死人も同然だった
使者達は毅然とした面持ちで上司の補佐に当たっており、マキリは
328
何故か無言を貫く筆頭宰相リビや、そもそもこういった場に不馴れ
と見えるヴィーザルを連れるルドルフよりも勢い盛んで円滑に交渉
を進めていた。小国のいち使節が、大国の皇帝を交渉のテーブルに
着かせた。その事実が全員を勇気づけるのだろう。
︵それにしても、エーリヒは⋮⋮︶
マキリの大立ち回りを見てなお、アラエルの隣に座るエーリヒは
どこか精彩を欠く。寧ろマキリの戦いぶりを見てから更に顔色が悪
くなったとすらアラエルは感じた。何度か袖を引き、視線で大丈夫
か、と伺うものの、反応は鈍い。
︵皇帝は武門の棟梁。その威圧は同じ武人であるエーリヒにこそ一
番堪えたのか?︶
考えておきながら、アラエルはやはりそれはこじつけだろうと思
い直す。結局心の内がわからないアラエルは不安なまま意識を交渉
の場に戻す。
﹁⋮⋮まぁ、こうなっちまえばもう何もかもぶちまけた方が却って
すっきりするな。化かし合いはなしだ。腹を割って話そう﹂
何か言いたげなヴィーザルを片手で制し、ルドルフは行儀悪く椅
子に深くもたれ掛かると、無言を貫いていた筆頭宰相に頭を向ける。
﹁財務状況﹂
﹁破綻寸前です﹂
問われたリビは簡潔に返した。
329
﹁相次ぐ戦争に費やした費用はアセリアの歳入を大幅に上回ってい
ます。そもそも先の戦争の敗北原因も傭兵への給料不払いが原因で
すし、それ以前にアセリアは戦争末期の五年は一切の攻勢を行って
いません。全て、防衛戦です﹂
つまり戦争末期にはアセリアは攻勢に出る力を完全に喪失してい
たと言うことであり、攻勢に出ようとしたところで給料を払うこと
もできず立ち往生したのだ。アラエルは漠然とアセリアを超大国だ
と思い込んでいただけに、若干の肩透かしをくらった気分になった。
﹁ヴィエナの城壁建造に費やした金すら支払えていません。これで
陛下がもしバイエンに敗れれば、アセリアは間違いなく破滅でしょ
う﹂
リビはそれだけ述べると沈黙した。ルドルフは次にヴィーザルに
向かって顎を向ける。
﹁戦争全般﹂
﹁⋮⋮まず目下の問題であるバイエンとの戦争ですが、思わしくあ
りません﹂
ヴィーザルはしぶしぶ、という風に語り始める。
﹁バッセンバッハの至宝と呼ばれる名将ティリーを相手に我々は一
進一退。約三万の兵が二万のバイエン軍に拘束され続けています。
﹃赤目隊﹄や﹃黄色連隊﹄といった精鋭傭兵隊も投入していますが、
軍歴が違いすぎます。最終的な勝利は動かないとしても、しばらく
はこの状況が続くものと﹂
330
﹁赤目隊か。あそこも傭兵隊長が代替わりしたからな。まだまだテ
ィリーの相手ではないか﹂
バイエンとの戦争はアイゼンシュタインが戦っている。優勢な兵
力を得ながらこれを叩けないことは屈辱なのだろう。ヴィーザルは
沈痛な面持ちで語るが、ルドルフは気にした様子もない。
﹁また、我々は先の皇帝フリードリヒ陛下の遠大な策によってアル
ヴェリアを包囲下においていますが、各所領は広い地域に分散し、
中央の統制は行き届きがたく、連携は困難な上に軍備もまちまち⋮
⋮謂わば張り子の虎です﹂
﹁とまぁ、こういうわけだ﹂
ルドルフは膝を叩いて一同に向き直る。
﹁アセリアはお前らが思っているような大国じゃねぇ。振れば幾ら
でも兵力が飛び出す魔法の槌でもない。散々威圧しといてなんだが、
正面切ってアルヴェリアとやりあうのは難しい。俺だってお前らと
心中したくはないからな﹂
使者達の間に落胆の色が広がる。それはアラエルも同じだ。とに
かくアセリアとさえ同盟が成れば、あとは彼らがアルヴェリアを叩
いてくれる。そのような希望があったのだ。だがアセリアは財務破
綻一歩手前の見かけ倒しの大国であり、アルヴェリアをまともに引
き受ける事はできないという。だが、
﹁それで構いません。主力はエルヴンで引き受けます。陛下はここ
からアルヴェリアを引き付けてください﹂
331
マキリは失望した様子もなくすらすらと述べる。当初からアセリ
ア側の状況を把握していたかのような返答にルドルフは興味深げな
視線を向ける。
﹁ほう。お前らのところの傭兵隊長は随分耳がいいらしいな。こっ
ちの状況はお察しか。いいだろう。乗ってやる。アルヴェリアが行
動を開始すると同時に連中の国境線でひと暴れしてやろう。ヴィー
ザル、春までにバイエンの連中を何とか黙らせろ。行動不能にすれ
ばそれでいい﹂
ヴィーザルはルドルフに向き直ると、力強く応えた。それは交渉
の成立を意味している。アセリアは、やがて来るアルヴェリアの侵
攻に際して側面援護を掛けることを約束したのである。側面からと
はいえ、アルヴェリアと並び称される大国の攻勢はエルヴンに侵攻
中のアルヴェリア軍を動揺させ、或いは一時撤退に追い込むかもし
れない。使者達は安堵し、アラエルもまた息詰まる交渉が望ましい
結果を迎えて終わる事にほっとする。
﹁同盟締結だな。宜しく頼む﹂
ルドルフは立ち上がってマキリに手を差し出す。圧倒的な身分差
からかマキリは躊躇するが、覚悟を決めたのか力強く手を握り返し
た。バイステリ、アセリアの双方が立ち上がる。一瞬遅れたアラエ
ルは慌てて立ち上がり、皆に合わせて拍手した。
︵防ぎきれるかどうかはまだわからんが、一先ずはよし、というと
ころか⋮⋮?︶
交渉成立に安堵しつつもアラエルはエーリヒが心配で仕方ない。
332
相変わらず表情は暗く、心の内は知れなかった。早くこの場を立ち
去り、一体どうしたのかと問い質したい。そうアラエルが思ってい
たところで、ルドルフは謁見の場からここに至るまでで初めてアラ
エルに視線をやった。不意に投げられた無遠慮な視線にアラエルは
慌てて目を反らす。自分に語ることなどない。空気のようなものだ
とアラエルは自分を定義していた。だがルドルフはお構いなしにア
ラエルに視線を向けて口を開く。
﹁同盟締結となれば、連絡員をお互いに派遣する必要があるな﹂
マキリはルドルフの視線を訝しがる様子を見せつつも首肯した。
﹁心得ております。まずはこの場から幾人か。そちらからの使節は
帰り道に共にバイステリに向かうということで⋮⋮﹂
ルドルフはニヤニヤと笑いながら、片手をあげて無言でマキリを
制する。
﹁この娘が欲しい﹂
ルドルフがアラエルを指して言う。その瞬間、場が固まった。
﹁陛下、お戯れを⋮⋮!﹂
真っ先に動いたのはエーリヒだ。状況を飲み込めず目を白黒させ
るアラエルを守るように前に出て庇う。だが、ルドルフはエーリヒ
などいないかのようにアラエルに向かって歩き出す。
﹁陛下⋮⋮!﹂
333
﹁退け﹂
エーリヒの必死の抵抗はただ一言で封じられた。ルドルフは悠々
とアラエルの元まで歩き、エーリヒは呆然とそれを見送る。交渉開
始の段階にまで時を巻き戻したかのようだ。生まれが違う。階級が
違う。身分に圧倒的な差がある。ただの騎士であるエーリヒと皇帝
ルドルフでは同じ貴族でも天地の差がある。止めることなどできる
わけもない。
何が起きているのか全くわからないアラエルは迫るルドルフから
とにかく距離を取ろうと後ろに下がるが、やがて壁が足を遮る。す
ぐにルドルフが追い付いた。止めるものはいない。実態が破綻寸前
のアセリア公であれ、神聖リシニア皇帝を止められる人間がこの世
にいるはずもなかった。
﹁なぁ、お前﹂
息が掛かるほどの距離でルドルフは囁きかける。
﹁俺の女になれよ﹂
そのままルドルフはアラエルの腰を抱き、背中を抱き寄せて唇を
奪った。
﹁ーーッ!﹂
アラエルは反射的にルドルフから身を離し、平手打ちを放つ。ル
ドルフは薄笑いを浮かべながらそれをかわした。収まらないアラエ
ルはもう一度と振りかぶったが、その瞬間、喉元に刃が突き付けら
れる。
334
﹁ご苦労、ヴィーザル﹂
﹁いえ。陛下、遊びが過ぎますとまた奥方様が怒られますよ﹂
﹁そんときゃそんときだ⋮⋮あぁ、平民。かわしてやったのを感謝
しろよ。不問にしてやる﹂
唇を拭いつつ敵意を込めた視線でルドルフを睨み付けたアラエル
は、自らの仕出かした事の重大さに気付く。平民が皇帝を平手打ち
にして無事で済む筈がない。本来なら未遂でも処刑ものだ。アラエ
ルは屈辱を噛み締めながら膝を折る。
﹁⋮⋮愚行に対し寛大なご処置、感謝いたします。ですが⋮⋮!﹂
ぎり、と歯を鳴らし、目の端に涙を溜めつつアラエルは続けた。
﹁陛下にとっては路傍の石ころにも等しい存在にも、人としての尊
厳と誇りがあることを、どうかご記憶願います⋮⋮!﹂
ルドルフは鼻を鳴らすと、来たときと同じ、嘲笑の形に口を歪め、
その場を後にした。
こうして、その日の交渉は幕を閉じた。
2
交渉成功にも関わらず後味の悪さが残った。一行はほぼ無言でベ
335
ルデールを去り、護衛の兵士達が取っていた宿へと向かう。アラエ
ルはエーリヒの傍らにあって無言。エーリヒも何も言うことはない。
会話をしようとしても言葉が出てこなかった。
︵あれは乱心としか言いようがない。何でわざわざあんなことをし
て見せた? 百害あって一利なしだ。直前までの会話からはもっと
知性や理性が伺えたが⋮⋮?︶
不思議なのは同じ場所にいたヴィーザルやリビといった重臣達に
一切の動揺がなく、冷静に事を傍観したと言うことだ。だとすれば
乱心としかいいようのないルドルフの行動にも何らかの意味がある
はずだ。しかしその意味が読めない。不気味である。自分の知らな
いところで何かが動き、それに自分も絡め取られている。アラエル
はそんな得体の知れない恐怖を覚えた。だが、今はそれよりも彼女
にとって優先すべき事があった。
﹁エーリヒ﹂
部屋までやってきたアラエルは、窓枠に腰かけて階下の街を見下
ろすエーリヒに声を掛けた。
﹁今日のお前はどこかおかしい。早く休め。私も今日は疲れた。も
う寝る﹂
返事はない。アラエルはイライラしてきた。エーリヒから無視さ
れるのは初めてだ。様子がおかしいからと交渉の間中もずっと心配
していたし、今も自分自身他人を思いやれる状態にないのに心配し
ている。大人げないのは承知で腹が立った。接吻など受けて一番堪
えたのはアラエル自身なのだから、誰か一人ぐらい気遣ってくれて
も、という身勝手を承知で沸き上がる感情もある。
336
﹁エーリヒ。私はもう寝るからな⋮⋮っ!?﹂
そういって踵を返そうとしたところで、アラエルの視界はぐるり
と回る。直後に背中に鈍い痛みと衝撃が走り、アラエルは自分がエ
ーリヒに押し倒されたことを知った。
﹁おい、なんの冗談だ。今すぐやめろ、退け﹂
覆い被さるエーリヒは退かない。段々と怖くなってきたアラエル
は激しく抗議し、暴れるが、離されることはなかった。半ば怯えつ
つ、アラエルはエーリヒの表情を覗き込む。なんの表情もない顔か
らは感情を読むことも難しい。だがアラエルはその目から今まで見
たことのないものを読み取っていた。
︵あぁ、お前でもそういう目をするんだな︶
自分への怒り、失望、劣等感。それはアラエルに馴染みだ。自ら
を出来損ないの女と定義するアラエルは幾度もまともな身ではない
我が身を呪った。そんな目をエーリヒがしている。そう理解したと
き、アラエルは抵抗するのを止めて身を投げ出す。エーリヒは怪訝
な顔をした。
﹁⋮⋮何されるのかわかってるんだろ?﹂
アラエルは笑顔で頷く。
﹁そこまで愚かではない。承知している﹂
エーリヒは苛立った様子で声をあげた。
337
﹁何で抵抗しないんだよ。私は男だって言わないのかよ⋮⋮! 声
をあげれば幾らでも人が来るぞ⋮⋮!﹂
﹁エーリヒ、私はな﹂
アラエルは微笑んで言った。
﹁求められたら応じようと、結構前から決めていた﹂
エーリヒが絶句する。
﹁私ごときでお前の役に立てるなら、こんなに嬉しいことはない。
お前の調子が悪いのが何故かはよくわからんが、私をそのなんだ、
どうにかして気が済むなら、構わないからその、なんだ⋮⋮あー⋮
⋮できれば視線は外せ﹂
恥ずかしくなったアラエルは言葉を切る。暫くそのまま二人は視
線を交わしあったが、やがてエーリヒが視線を外した。
﹁⋮⋮済まん﹂
それだけ言ってエーリヒは部屋を出て表に走り出す。後にはアラ
エルだけが残された。
﹁何が済まんだ馬鹿野郎。いいと言っているのに⋮⋮﹂
役に立てない女の出来損ないが、こんなことでも役に立てるのな
ら本望だ。そう思っていたが、一方でアラエルは、そう言ったこと
を抜きにした場合、自分はどうしたいのだろうとふと考えた。
338
日が落ちる。冬の冷気が肌に痛かった。
339
劣等感︵後書き︶
エーリヒがなんでこういうことしたのか、果たして共感をもっても
らえるかなぁ。
どの辺りから様子がおかしくなったのか思い出して見てください。
340
ヴィエナ、冬︵前書き︶
http://www.youtube.com/watch?v
=GAkw︳Wi4yIo
341
ヴィエナ、冬
1
神聖リシニア帝国は嘗て大陸の全てを支配していた古代リシニア
大帝国の後継国家である。古代リシニア帝国がその広大な版図を支
配しきれずに自壊した後、その領域の東半分をクラス帝国が引き継
ぎ、西半分を神聖リシニア帝国が引き継いだのだ。
しかし皇帝権力が強大なまま温存され、強力な軍事力を誇った東
のクラス帝国に対し、西のリシニアは弱体な戦力しか持たず、帝国
分裂の隙をついて侵入した蛮族を食い止めることも叶わず事実上崩
壊、その領域は更に分割され、現在の西大陸における諸国の原型と
なった。
美名のみ残して崩壊した神聖リシニア帝国はそれでも入れ物とし
ての形だけは保ち続ける。その実態が諸侯による国家連合であり、
皇帝権など消え失せた今でもその権威だけは健在で、名目上は現在
も西大陸の全てを支配するリシニア皇帝は王の中の王として貴ばれ
ていた。
アセリア公家ファルケンブルクは、その座に六代続けて座る名門
である。これは選挙によって皇帝が決定される神聖リシニアにおい
ては異例の長期政権であった。
﹁どうもわからんな﹂
ルドルフは執務室で書類を読み上げつつ、ヴィーザルに語りかけ
る。
342
﹁俺には、普通の女に見える﹂
花押を押しながらルドルフは詰まらなそうに言う。アラエルの事
を語っているのだ。傍らにあって紙に筆を走らせるヴィーザルは僅
かに頬を緩めて笑った。
﹁実のところ、私から見てもただの女です。あれは能力の大半を失
っている。連れて来る価値はなかった﹂
手元の紙に署名を終えると、ヴィーザルは次の紙を取り、時折手
を止めて文面を工夫しつつ筆を走らせる。
﹁ただ、男の方はわかりませんね。今後化けるかもしれない。ファ
ルケンブルクに我々が従ったように、歴史の転換点にはそこに介入
する不思議な存在がいたと聞きます。言わば兆しですね。もっとも、
それもずいぶん昔の話ですが﹂
興味なさげに語りつつ筆を走らせる。一つ一つ皇帝代理人として
のサインが記されたそれらはバイエン公国の土豪や地方領主に向け
られた手紙であり、叛乱を煽り立てるものであった。直接対決でバ
イエンの名将ティリーを下し難いと知ったアセリアは、搦め手から
の攻略を同時並行で試みている。アセリアに比べて中央による統制
が弱体なバイエンには領内に半独立勢力が多数おり、中には親ファ
ルケンブルクの貴族家も存在する。切り崩しは有効であった。
﹁不思議な存在か。お前もそうなんだろう?﹂
書類から目を上げ、悪戯をする悪童のようにニヤニヤと笑うルド
ルフに、ヴィーザルは筆を止めて心底嫌そうな表情をした。
343
﹁一体何百年前の話をしているのですか。何代も重ねて人と交わり、
ファンタジー
私に残る能力など殆どありません。そもそも火竜の息吹よりも砲兵
の砲弾の方が余程強力です。いいですか陛下。我々は幻想世界に生
きているのではありません。現実に生きているのです。悪魔だのな
んだのを気にするのはやめましょう﹂
言葉を切ったヴィーザルはため息ひとつ吐く。ルドルフは肩を竦
めた。
﹁あの娘を送ったバイステリ市もまた現実に生きています。怪しい
と思うなら煮るなり焼くなり好きにどうぞ、でしょう。数世紀前な
らいざ知らず、今の世の中では悪魔の一人や二人を気にするだけ無
駄だと知っているのです。同盟締結に際してこちらから怪しまれる
要素を排除しただけの事。あの娘を使ってどうこうする積もりはな
いでしょうし、また、何かできるような存在でもないのでしょう﹂
﹁まぁ、俺の好みではあるがな﹂
ニヤニヤと笑うルドルフにヴィーザルはまた悪い病気が始まった、
と頭を抱える。気紛れで貴賎問わず女を囲う手癖の悪さは、側近達
の悩みの種だった。
﹁皇帝相手に平手打ちをするような気骨がいい。それにあれが兆し
だっていうのなら、側に置いておきたいだろ?﹂
﹁残念ながら振られたようですが﹂
ヴィーザルが冷たく切り捨てる。自分に絶対の忠誠を捧げるヴィ
ーザルの常ならぬその態度にルドルフは僅かに鼻白んだ。ヴィーザ
344
ルはもうこの話題は終わり、と宣言するように手紙を書き綴る作業
に没頭しており、部屋に沈黙が落ちる。ルドルフもまた手元の書類
に目を通す作業を再開した。
﹁陛下、アイゼンシュタイン侯。失礼いたします﹂
部屋の扉が開かれ、筆頭宰相たるリビが入室する。ルドルフとヴ
ィーザルは共に顔をしかめた。
﹁リビか。なんだよ、お小言か? わかってるよ、さっきの交渉は
よくなかった。だがお前も助け舟くらい出してくれてもよかっただ
ろう?﹂
リビはとんでもない、というように肩を竦める。
﹁老い先短い老骨にいつまでも頼られますな。小国の代表ならいい
練習相手でしょうに。これから帝国を引っ張っていくのは陛下なの
ですから﹂
リビは若く、政治的経験の浅いルドルフの補佐に回っている。だ
が決定的な誤りがない限りは静観し、後から問題点を指摘するスタ
ンスを取るリビをルドルフとヴィーザルは頼もしく思いつつも苦手
に思っていた。
﹁それよりも北部にやっていた使いが帰ってまいりました。ルクサ
ンベルクとホーエンツァールが協力を確約したそうです﹂
﹁きたか!﹂
ルドルフは勢いよく立ち上がり、拳を強く握り締める。ヴィーザ
345
ルも力強くルドルフに頷いた。ルクサンベルク家とホーエンツァー
ル家は共にリシニア北部の雄であり、アセリアとバイエンの戦に際
しては中立を決め込んでいた。勝ち馬を見極め、己を勝者に高く売
りつけるのはリシニア諸侯の常である。バイエンからも誘いの手は
伸びていたはずだが、結局のところ協力を取り付けたのはアセリア
だった。
﹁これでバイエンは南北に挟まれた事になり、戦況は一気に変わり
ます。攻勢をかけますか?﹂
ルドルフは暫く沈黙し、思考を巡らせていたものの、首を横に振
った。
﹁まだだ。バイエンの背後には恐らくアルヴェリアがついている。
今追い詰めすぎると藪を突付いて蛇を出しかねん。やるとしてもア
ルヴェリアの主力がエルヴンに出兵してからだ。当初の予定通り暫
くは封じ込めるだけでいい。今アルヴェリアと正面決戦になるよう
な事態は避けろ﹂
皇帝もバイステリに全てを語ったわけではない。リシニアにおけ
る最大諸侯であるアセリアが全力で攻め立てても屈しないバイエン
に、アセリアの首脳達は隣国アルヴェリアの影を見出していた。エ
ルヴン侵攻の間の時間稼ぎにバイエンは使われているのである。だ
とすればこれを降すのは元より容易ではなく、また下手に刺激した
場合、アルヴェリアがエルヴン侵攻を諦め、代わりにアセリアと真
正面から戦うことを決意させる可能性がある。それだけは絶対に避
けなければならない。
﹁ヴィーザル!﹂
346
呼ばれたヴィーザルは立ち上がって頷く。
﹁バイエン領内の不穏分子を扇動すると同時に軍事的圧力を加えま
す。こちらもかなり疲弊していますが、あちらも厳しいはず。春ま
では動きを抑えられるでしょう﹂
バイエン戦の司令官はアイゼンシュタイン家が務めている。手紙
束を取ったヴィーザルは礼もそこそこに急ぐ足取りで部屋を出た。
﹁リビ、こいつを持ってけ。お前が欲しがってたものだ﹂
ルドルフは書類の束に最早目を通すこともなく、次から次へと花
押を押すと足早にリビに近寄って突き出す。
﹁貨幣改鋳権、城壁建造権、街道の整備権、都市自治の保障、その
他諸々くれてやる。引き換えに各領邦から金をかき集めろ。アルヴ
ェリアがエルヴンに侵攻したら全力で賭けに出る﹂
受け取ったリビは厳かに一礼し、踵を返して退出する。後にはル
ドルフが残された。
﹁見てろよ。この一年で状況をひっくり返してやる﹂
黒い瞳が野心に燃える。貪欲さと攻撃性が隠れもしないその笑み
は、やはり皇帝のものではなかった。
2
347
その日の晩、エーリヒは帰ってこなかった。どこで何をしている
のか。そんな事を考えながらアラエルは暫く眠れない夜をすごした
が、結局のところ疲労が大きい。やがて寝入ってしまい、気付けば
朝を迎えていた。
連絡員の派遣等に関する取り決めはまだ為されていない。その他
にも出兵に関する具体的な話し合いなどがあり、すぐに帰るという
わけにはいかず、一週間ほど使節団はヴィエナに滞在することにな
っている。とはいえそこからはマキリらの仕事であり、アラエルや
護衛の兵にはやることがない。
︵エーリヒを捜すか︶
気まずい思いをしているのだろう。気にしていないと伝えなけれ
ば。そう思ったアラエルは朝食を摂るといささかおぼつかない足取
りで外に出る。冬のヴィエナは寒い。マフラーを首に巻き、市内を
当てもなく彷徨っていると、楽の音がアラエルの耳に入った。見れ
ば辻音楽師が大衆に向けてヴァイオリンの腕前を披露しており、足
元に置かれた帽子の中には若干の金銭が入っていた。
︵音楽の盛んな街と聞いたが、なるほど︶
ヴィエナの主であるファルケンブルク家は代々、文化の庇護者を
自認してさまざまな文化活動に援助の手を差し伸べている。特に熱
心なのが音楽で、そのためヴィエナには大陸中から音楽家が集い、
またヴァイオリン一つで身を立てようとする貧しい若者が路上で弦
を鳴らすため、朝から晩まで楽の音が絶えることがないのだ。久々
に音楽に触れたアラエルは銀貨一枚を投じると、大衆に混じって耳
を傾ける。暫くそうつつ目を動かし、エーリヒを捜していると、見
知った姿を視界に捉えた。
348
﹁ロビン卿﹂
護衛の騎士の一人であるロビンだ。向こうでもアラエルに気付い
たのだろう。にこやかに笑いながらアラエルに近づく。まだ若い騎
士だ。騎士らしく体格は堂々としているものの表情はあどけない。
十代なのではないかとアラエルは思っていた。
﹁おはようございます、アラエルさん。今日はヴィエナ巡りですか
?﹂
ロビンら護衛の騎士や兵は宮廷の中でのことを知らない。内心を
知らず屈託なく笑うロビンに若干アラエルは苦笑いするが、同時に
微かな疑問を覚える。騎士や兵はアラエルの事を姫と呼んでいる。
それはロビンも同じだ。それが急に名前で呼ぶようになっている。
アラエルには心当たりが一つあった。
﹁ああ、姫が他にいますものね﹂
アラエルが微笑みながらそう告げると、ロビンは絶句し、顔を真
っ赤にした。
﹁そ、それを何故⋮⋮!? まだ誰にも言っていないのに﹂
慌てぶりがおかしいアラエルはくすくす笑う。
﹁エルナと私は友達ですから。去り際に聞いたのですよ﹂
そんな繋がりが、とロビンは嘆息する。旅先でロマンスに興じた
のが若干恥ずかしいらしい。灰色の髪を軽く掻いて気恥ずかしさを
349
誤魔化していたが、観念したらい。アラエルに向き直るとそれを認
めた。
﹁少し歩きませんか?﹂
演奏が終わったのを見計らってロビンは提案する。特に当てがあ
るわけではないアラエルは頷いた。どの道エーリヒを捜すために歩
かなくてはいけないと思っていたのだ。宮廷で何があったかのはぼ
かした上でその旨を伝えると、ロビンは快く手伝う事を約束した。
﹁しかし、アラエルさんも言うようになりましたね﹂
歩き出したロビンはふとそんな事を言った。
﹁アンツィオへの護衛の時は、びくびくして終始エーリヒ卿の影に
隠れているような方でしたのに﹂
アラエルは思わず顔をしかめる。頼れるものが何もなく、知り合
いもエーリヒ一人という頃の話だ。びくびくしていた自覚が彼女に
はある。こういうことを言うからには、ロビンもその護衛隊にいた
のだろうとアラエルは思う。そんな事もわからない程当時のアラエ
ルには余裕がなかった。そうして二人で少しの間歩いていると、ロ
ビンが不意に口を開く。
﹁少し話を聞いてもらってもいいでしょうか?﹂
最初から何か話したかったらしい。アラエルが頷くとロビンは謝
辞を述べ、遠くを見ながら語りだす。
﹁実は、我々はもうすぐ騎士ではなくなるのです。いえ、実はもう
350
とっくに騎士ではなかったのですが、名実共にこれからは騎士では
なくなるでしょう﹂
諦観を感じさせる表情でそんな事を言うロビンにアラエルは驚く。
何故と問う瞳に気付いたロビンは寂しそうに微笑んだ。
﹁騎士というのは本来、主君から叙任されるものです。ところが家
も継げず、さりとて仕官先も見つからなかった我々は誰からも叙任
フリーランサー
されていません。誰とも主従関係にないのです。我々はその育ちと
技能のゆえに騎士と称されているに過ぎない、黒騎士です﹂
通常、騎士は自分の家や主君の紋章を背負って戦う。だが正式な
叙勲をなされていない彼らはそれが許されない。彼らが背負う紋章
は、バイステリの市章だ。
﹁ですが我々はこれからアルヴェリアと戦う。嘗ての主君に弓引い
た我々を最早騎士と呼ぶ者はいないでしょう。名実共にこれからの
我々は傭兵というわけです﹂
その技能ゆえに重宝されはするだろう。その軍事知識ゆえに重用
されはするだろう。だが、最早騎士とは呼ばれないのだ。彼らは傭
兵隊に組み込まれた時点で騎兵であり、或いは重装歩兵であるに過
ぎない。それは軍における兵科であって、身分や称号ではないのだ。
そして今、間近にかつての主家との戦争が待っている。
﹁だからでしょうか。あの村で、騎士様、騎士様、と呼ばれて⋮⋮
なんだかとても嬉しかったのです。気付いたら結婚を申し込んでい
ました。帰ってから実はもう騎士ではないのだと告げるのが若干、
後ろめたくはありますが﹂
351
ロビンは頭を掻きながらアラエルを見る。照れ臭そうに笑うその
顔が、アラエルにはとても気持ちのいいものに見えた。単純でしょ
う、あきれましたか、と問うロビンにアラエルは首を横に振る。
﹁エルナはいい子です。幸せにしてあげてください﹂
誰しも現実と折り合いを付けなければならない。騎士と呼ばれな
くなる事をロビンは惜しみつつも、仕方のない事と割り切ったのだ
ろう。アルヴェリアに帰っても居場所などないのだ。平民の娘を娶
って傭兵としてバイステリで生きることを決意したロビンは、アラ
エルが受ける印象よりもはるかに地に足がついた考えのできる、大
人だった。
︵相談してみるか⋮⋮︶
ひとしきり話したい事を話して満足したらしいロビンはアラエル
とヴィエナを歩きつつ、エーリヒを捜す。アラエルはふと、ロビン
にはエーリヒの様子がおかしかった事を話してもいいのではないか
という気がしてきた。どの道今のままでは会った時になんと話した
ものかわからないのだ。それにアラエルとて誰かに聞いてもらいた
い。不名誉になりはしないかとぼかしていたが、ロビンは信用でき
る気がした。実は、と前置きしてアラエルは事情を話す。ロビンは
やや驚きながらも真剣に話を聞き、やがて微苦笑した。
返ってきた答えは明確だった。
3
352
ロビンと分かれてエーリヒを捜すことになったアラエルは相変わ
らずヴィエナを彷徨う。エルヴンの気温に慣れたアラエルにヴィエ
ナの冷気は堪えた。そもそもヴィエナは大陸有数の規模を誇る大都
市であり、アラエルにとっては歩き慣れない街である。人一人捜し
て簡単に見つかるわけがない。だんだんとアラエルは腹が立ってき
た。
︵大体、何で私があいつを捜さねばならんのだ︶
巡りめぐって結局は宿にまで戻ってきたが、エーリヒが帰った様
子はない。人を押し倒しておいて、このまま一週間自分の前から雲
隠れを決め込む積りなのではないかと思うと、余計に腹が立つ。
︵もう捜さん。あいつが私を捜すべきだ︶
呼び出してやる。そう決意したアラエルはヴァイオリンケースを
担ぐと宿の屋根裏部屋に上がり、窓から外に出ると屋根上に慎重に
上がる。安定性が悪くふらついたが、気にしないことにした。
ようやく安定のいいところを見つけたアラエルはヴァイオリンを
取り出して調律する。屋根から響く楽の音に階下で群集がざわめい
てアラエルを見上げた。アラエルは会釈一つしてヴァイオリンをか
き鳴らす。
︵さぁ出て来い、馬鹿野郎︶
見下ろせば、中々の高さである。落下すれば大怪我は免れないだ
ろう。もっともヴィエナの人間にとってはなじみの光景らしい。目
立つために屋根の上で演奏する人間は多いようだ。大きく騒ぐこと
もなく誰もがアラエルを見上げて音楽に耳を傾けていた。聞き覚え
353
のない曲だからだろう、中々に人は集まっていた。
︵チャイコフスキーの⋮⋮なんという曲だったか?︶
思い出そうとして忘れている事に気付く。だが体は覚えていたら
しい。自然と腕と指は動いた。足場は悪くぐらつくが、落ちるまで
にエーリヒが来るという確信がなんとなくアラエルにはある。
どれだけ弾いていたのか。第一楽章を弾き終わった辺りで、血相
を変えたエーリヒが宿に飛び込んできた。アラエルは澄ました顔で
そのまま演奏を続ける。宿の中からどたどたと階段を駆け上る響き、
やがて出窓からエーリヒが顔を出す。
﹁お、お前なぁ⋮⋮!﹂
﹁騒ぐな、演奏中だ﹂
ぴしゃりと遮ってアラエルは第二楽章を演奏する。屋根瓦が揺れ
て欠片が地面に落ちる。エーリヒは真っ青になっていた。
﹁とりあえず降りろ、危ない。頼む、降りてくれ﹂
﹁反省したか?﹂
なんとなく二人の関係性を把握したらしい階下の群衆がエーリヒ
を野次る。エーリヒは肩を落として情けない表情になった。
﹁反省してるよ。だから早く降りろ﹂
﹁誠意が感じられない。まだ演奏途中だからそこで暫く待ってろ﹂
354
心配を掛けるのが楽しくなってきたアラエルは構わず第二楽章を
続行する。エーリヒは慌てた。
﹁わかった! わかったから! 反省している、頼むから降りてき
てくれ!﹂
頃合か、と判断したアラエルはヴァイオリンを仕舞うと慎重に足
場を確かめつつ出窓に向かい、したり顔で手をエーリヒに伸ばす。
心底疲労した様子のエーリヒはその手を取って中にアラエルを引き
入れた。階下の群集はそれを見ると解散する。
﹁ご苦労。騎士様﹂
﹁お前、滅茶苦茶するなぁ⋮⋮﹂
安心したらしい。その場にエーリヒは座り込んだ。アラエルは背
中から両腕を回す。驚いたエーリヒが振り返ると、アラエルはたお
やかに笑った。
﹁持っていかれると思ったか? まぁ、毛並みは向こうのほうが上
のように見えたが﹂
エーリヒはそれを聞いて暫く目を丸くしていたものの、やがてた
め息ひとつついてアラエルの手を見る。
﹁この手﹂
節くれだって無骨なエーリヒの手がアラエルの手を取る。
355
﹁会ったときは、まるで白魚のような手だったのに、随分汚れたよ
な﹂
かつて白く、細かった指も今はひびとあかぎれだらけだ。肉刺も
できている。綺麗とは言いがたい。手垢もこびり付いている。爪は
不ぞろいで落としきれない汚れが溜まっていた。
﹁働いているからな﹂
すまし顔でそう答えると、エーリヒは力なく項垂れた。
﹁俺が本物の貴公子なら、こうはならなかったんだろうな﹂
﹁さてな。私は案外、この手が気に入っている。なぁ、エーリヒ﹂
アラエルは正面に回りこむと、じっと目を見つめる。
﹁話してみろ、聞いてやるから﹂
冷気が肌を刺す。外では折りしも雪が降っていた。
356
ヴィエナ、冬︵後書き︶
ヴィーザルの態度がおかしかった理由は、ちなみに嫉妬です。
ファルケンブルクには私がいるでしょうが何別の悪魔抱え込もうと
してるんだこの馬鹿殿は代々の忠誠心をなんだとおもってるんだう
ちの妹を側妾にしろでなきゃ皇族から誰かうちによこせうががががー
と、思っていたのです。
357
騎士道を自らに問え
1
﹁すまん﹂
話始めたエーリヒはまずアラエルに頭を下げた。アラエルは何と
なくその理由に想像がついたものの、黙して聞くのに徹する。
﹁俺は自分で思うより遥かに下らん男だったみたいだ。白状すると、
持っていかれると思った。いや、実のところお前を俺の自由にでき
ると思っていた﹂
エーリヒは別に鈍くもないし耳も悪くない。アラエルと常に在り、
周囲に囃し立てられ、それをアラエル自身強く否定しない。そんな
状況でもう数ヵ月である。アラエルの人格に敬意を払いつつも内心
では周囲に騒がれて満更ではないし、独占しているという意識もあ
る。誰もが認めているだろうという自負もあったし、何かあっても
守りきれるという自信もあった。事実トリスや強盗騎士が相手なら
ば、いとも簡単に追い払えるだけの力がエーリヒにはある。誰もが
羨む女を連れる優越感があった。
だが、相手が大諸侯や皇帝ともなれば話は別だ。ヴィーザルが殺
気をアラエルに向けたとき、エーリヒは前に出る事がかなわなかっ
た。軍人生活が長く、宮廷にいることの少なかったエーリヒはこの
時初めて背後に広大な所領と万を越える動員力を持ち、歴史と伝統
によって聖別された大諸侯の重みと言うものを知ったのである。そ
358
の権威、その権力の前には、エーリヒ個人の武力など薄紙一枚の価
値もない。個人の力で立ち向かう事ができる力というものには限度
がある。
﹁何だか急に自分が、弱いものに威張り散らすだけの、いけすかな
い男に思えてきてな﹂
屈辱を感じながらも、次があればきっと前に出る。そう言い聞か
せて臨んだ交渉の場で、まず見せられたのは大諸侯に宰相、皇帝と
いったアセリアの巨人を前に一歩も引かないマキリの勇気と、そし
て相変わらず圧倒される自分自身だ。挙げ句に皇帝はアラエルに興
味を示した。
︱︱こいつは、俺の女だ!
丸腰の騎士には言えても、圧倒的な権威と権力を誇る皇帝には言
えない。立ち塞がったまではよかったが、そこから先は指一本動か
せなかった。アセリアが破綻寸前というのが事実であれ、アイゼン
シュタインすら従える皇帝ルドルフをいち騎兵隊長が遮れるわけが
ない。
︱︱退け。
魔術でも何でもないその一言でエーリヒは金縛りに陥り、後は黙
ってアラエルの唇が奪われるのを見ているしかなかった。エーリヒ
は権威と権力に負けたのだ。そして内心密かに自分の庇護下にある
と思っていたアラエルにも負けた。平手打ちをするだけの気骨がア
ラエルにはあっても、皇帝を相手に身命を惜しまず戦う度胸はエー
リヒにはない。精神的に追い詰められたエーリヒはアラエルが自分
のものであることを確かめようと押し倒したが、怒ることも騒ぐこ
359
ともなく許されてしまえば、身勝手で醜悪な自分のみが際立つ。
﹁それで、あんまり格好悪くて逃げちまった。⋮⋮あぁくそ、一か
ら十まで全部格好悪りぃな俺⋮⋮! 澄まし顔の裏で下らん事考え
て、挙げ句にこれなんだから⋮⋮! 何が騎士だ⋮⋮﹂
自分の醜い内心を吐露したエーリヒは情け無さそうに天を仰ぎ、
額を押さえる。その表情からは自分への怒りや恥ずかしさ、苛立ち
がありありと伺える。だが、
﹁お前は馬鹿か﹂
アラエルは心底呆れた、というように言う。ため息一つ吐いてア
ラエルは窓際に腰かけた。明かり一つない屋根裏部屋に、雪降る空
からの光がアラエルの背後から注ぐ。
﹁お前が思うような意味で呆れているわけではないぞ。あの場でお
前が私を守るために大立ち回りをして⋮⋮それがなんだ? 斬り伏
せられて終わりではないか。物語ではないのだ。現実的に考えろ。
私の平手打ちを許したのはそれが何の脅威にもならないからだ。素
手であれお前が同じことをすれば、絶対にただでは済まん﹂
﹁いや、しかし⋮⋮﹂
罵倒されるか、そんな風に思っていたのかと詰られるのを覚悟し
ていたエーリヒは狼狽える。アラエルは怒った様子もなく、ただた
だ、本気で呆れているようだった。
﹁権力や権威を屁とも思わない無謀さの何が美徳だ? 無論、そう
いったものに無条件で従うのはお前が思う通り、醜いだろう。だが
360
それも時と場合によりけりだ。⋮⋮大体、どちらがより格好悪いか
といえば、それは権力を傘に着て格下を終始いびりぬいたあの連中
ではないか﹂
思い出してむかむかしてきたらしい。アラエルは苛立ち、床を蹴
飛ばし文句を言う。暫く皇帝とヴィーザルへの悪口雑言が止まらな
かったが、やがて正気に戻ったのか、咳払いひとつしてともかく、
と続ける。
﹁私は別にお前を聖人君子の類いとは思っていない。共にいればそ
のなんだ、私の事をそういう風に思うのも理解できる。だがお前は
それでも私を対等に扱おうとしてくれているのだろう?﹂
﹁いや、そりゃ当然だろ﹂
醜い内心と理性は別物だ。幼い頃に培った騎士道が、立場の優位
を盾にした行為を卑劣だと断じる。弱者と女性を救済し、そこに見
返りを求めるな。邪な心を抱くな。そのような思いを抱くことすら
騎士道にもとる。敵がどれほど強大であれ愛するものを守るためな
らば屈するな。勇気を奮ってただ、戦え。それが誇り高い騎士だ。
そうエーリヒは学んでいる。第一、エーリヒにとってアラエルは命
の恩人で、虐殺行為を許すと言った唯一の女だ。格下視して見下す
などあり得ない。アラエルはそんなエーリヒを見て微笑んだ。
﹁私にはな、それがとても嬉しい﹂
花のようだ、とその笑顔を見てエーリヒは思った。
﹁ロビン卿が言っていた。騎士は騎士道を意識すればするほど、現
実や己の内側との齟齬に苦しむ。だが、そうやって開き直ることな
361
く理想を追求するのが、騎士のあるべき姿なのだとな﹂
一旦言葉を切った後、アラエルは少し顔を赤らめて口を開く。
﹁エーリヒ。お前は立派な騎士だよ﹂
アラエルがそう言った瞬間、エーリヒはアラエルを抱き締めてい
た。
2
﹁⋮⋮ということがありまして。窓際に座っていることも忘れて突
っ込んできたそこの馬鹿のせいで、私は危うく転落しかけたのです
よ﹂
﹁は、はぁ⋮⋮それはまぁ、お気の毒に⋮⋮﹂
手綱を捌くのにも少しは慣れてきたアラエルは騾馬の背に揺られ
つつ傍らを行くロビンにこぼす。聞くロビンは苦笑いを浮かべ、ち
らちらと後ろを伺っていた。
﹁幸い無事だったのですが、後頭部に大きなこぶができてしまった
のです。酷い話だと思いませんか?﹂
﹁あー⋮⋮あの、そろそろ許してあげた方が⋮⋮﹂
二人の後ろではエーリヒが死にそうな表情で馬を歩かせている。
乗り手の頼りない騎乗に馬は不満そうで、しきりに鼻を鳴らしてし
362
っかりしろと促していたが、エーリヒが復活する気配はない。馬は
やがて諦めて手綱を無視して流れのままに歩き出した。
﹁いいえ、暫くは許しません﹂
くすり、とアラエルが微笑むと周囲の傭兵達もくすくすと忍び笑
いを漏らした。
﹁バイステリに帰るまでは、遊ばせて貰います﹂
使節団は役目を終え、帰路についていた。護衛を務めるのはまた
してもヴィーザルとその近衛隊であり、相変わらずの差別と偏見の
目が一同を包んだものの、交渉の成功と皇帝相手に舌戦で勝利した
マキリの存在が一同の気持ちを軽くしており、行きとは異なり和や
かに進むことができた。アセリアを越えてアイゼンシュタインに至
り、今再び一行は天険アルビを望む地にいる。
一同の気持ちが軽いのにはもう一つ理由があった。行き道に宿を
とったアルビ近くの村に近づいているのだ。行き道で結婚を約束し
た者はロビンを筆頭に、それなりにいる。約束のない者でも村を挙
げて温かく歓待された記憶はまだ新しい。アラエルもエルナに会え
るとあって表情を綻ばせていた。
﹁ロビン卿、エルナはああ見えて悪戯なところや、機を見るに敏な
ところがあります。お気をつけて﹂
﹁あ、はい。ご忠告ありがとうございます。ところで私と話してい
ないでエーリヒ卿とも⋮⋮﹂
冷や汗をかきながらロビンはエーリヒを振り返る。相変わらず幽
363
鬼のような表情をしていた。アラエルは悪戯な笑みをこぼす。ここ
一番で外してしまったエーリヒは帰路につく間ずっとアラエルの玩
具と化していた。
﹁アルビがどんどん近くなってくるな⋮⋮﹂
雄大なパノラマが一同の眼前に広がる。また冬のアルビを越えね
ばならない。それを思えば身も引き締まるが、その前に村に立ち寄
ることを思えば、表情も綻ぶ。周囲を固めるいけすかない近衛隊と
もお別れである。口には出さねども、誰もがせいせいすると思って
いた。しかし、
﹁全体停止!﹂
中列で指揮を執っていたヴィーザルが突如として命じる。近衛兵
達は声に応じてぴたりと足を止めるが、使節団はそうはいかない。
慌ててたたらを踏み、多くの兵が押し合い圧し合いをして尻餅をつ
いた。
﹁アイゼンシュタイン侯、どうなされましたか?﹂
馬車から顔を出したマキリが怪訝そうに訊ねる。この規模の軍に
仕掛ける野盗はまずいない。それだけに不可解だったのだろう。ヴ
ィーザルは目も合わさず、遠くを見ていた。
﹁アイゼンシュタイン侯⋮⋮?﹂
﹁見ろ﹂
ヴィーザルは無表情に彼方を指す。
364
﹁煙が上がっている﹂
地平線の彼方、アルビの方向から灰色の煙が上がっていた。ちょ
うどそこは、今日使節団が滞在する予定の村と、同じ方向だった。
365
騎士道を自らに問え︵後書き︶
エーリヒは人間です。
隙の多いアラエルを見て、しかもこれだけ身近に過ごしてきて、な
にも感じないわけはないのです。しかも、手を出そうと思えば簡単
に出せる立場にいます。アラエルにいく場所なんてないし。
そこを抑えて、傲慢になりそうな心を律するのが、理性、騎士道な
のだと思います。
366
騎行
1
アルビ近くの名もなき村は、何十年も戦争に巻き込まれることが
なかった。
アイゼンシュタイン侯領の南部に存在する村はアルビに接しては
いるものの、隣接するシュヴァイツェル盟約者集団は専守防衛を旨
としており、敵対するアルヴェリア、バイエンとの距離は遠く、ほ
ぼアイゼンシュタイン侯の内庭といっていい位置に在ることが幸い
して戦火からは程遠い。
山賊や傭兵崩れの脅威は常にあるものの、それはこの世に生きる
限り恒常的に襲い掛かってくる危険だ。うまく付き合うしかない。
リシニア全土において農民は武装する権利を遥か昔に取り上げられ
ているが、代わりに領主や代官らが防衛の責任を負っている。そし
てこれまで、それはうまく機能していた。だが、この日それは破ら
れる。
半鐘がけたたましく鳴り響き、狂ったように村人が行き交って手
に手に鎌や鍬といった農機具や槍、弓を取る。武器の使用を農民は
禁じられているが、狩猟用に弓は必須で、槍も猪用と言うことで見
逃されている。実際にはいくつかの弓や槍は殺傷力の高い対人用で、
傭兵上がりの村人が持ち込んだものだが、このような武装を見逃さ
れること自体、この地方の代官に野盗や傭兵対策を行う力が欠けて
いる事を暗に示している。
367
﹁馬車で壁を作れ! 女子供は貴重品を今のうちに隠して修道院に
避難しろ! 十四以上の男は付いてこい!﹂
自警団の長が怒鳴ると、武器を手にした若者達は馬車や廃材を用
いて村の外周に簡易の防壁を築く。野盗対策に軽い防壁は築かれて
いるものの、高さ二メット程度で厚みもほぼなく、しかもところど
ころ崩れている壁は全く頼りなかった。半鐘の音はいよいよ強く鳴
り響き、高台から彼方を観察する男の焦りを表す。
﹁あぁ⋮⋮あ⋮⋮き、騎士だ⋮⋮騎士が、騎士が攻めてきたぁ!﹂
見張りの男が絶望の叫びを上げる。外周で迎え撃つ男達の表情に
恐怖が浮かんだ。野良に出ていた男達が森の中に潜む﹃何か﹄に気
付き村に逃れたのが一刻ほど前。ただちに村の緊急事態を知らせる
早馬が走り、全員集結を命じる半鐘がかき鳴らされてから半刻あま
り。まだ野良に出た男達が全員戻らぬうちに、それはやってきた。
今や息を潜め、冷たい汗を流しながら彼方を見つめる地上の男達に
もわかる。銀色の甲冑に揃いの外套を纏い、槍を構える姿は騎士以
外の何者でもない。その数は目算で五十。全員が騎乗している。勝
てる相手ではない。
﹁びびるな! すぐにお代官様の軍が助けに来てくれる! それに
侯爵閣下の近衛隊だって近くにいるんだ! それまで持ちこたえれ
ばいい!﹂
早馬は既に出た。また、昨日の晩にはアイゼンシュタイン侯率い
る軍から宿を取る旨、先触れが来ている。近衛隊はアイゼンシュタ
イン侯最強の軍だ。駆けつけるまで耐えきれば、村の逆転勝利だろ
う。
368
﹁ロビン様、早く来て⋮⋮﹂
伝統的に弱者を保護する機能を持つ修道院に避難したエルナを始
めとする女達は恐怖に震えながら聖印にすがり、何人かの娘は結婚
を約束した傭兵や騎士に祈りを捧げる。その中にはエルナも含まれ
ていた。
彼らは知らない。代官が既に攻撃に晒されて救援を出すどころで
はないことを。彼らは知らない。自分達が襲われる理由が、今この
村に近付きつつあるアイゼンシュタイン侯ヴィーザルにあることを。
勝ち目のない戦いが始まった。
2
﹁半数はここで待機して出撃に備えよ。残り半数は直ちに前進。騎
馬は私に続け。村に急行する﹂
甲冑を最初から着用していた半数の兵が直ちにヴィーザルに応え
る。残り半数もまた有事に備えた予備戦力として甲冑の着用にかか
った。
﹁我らが安全の確保に務める。使者殿はここで自らの身を守られよ﹂
自国領域においては使者を保護する義務がアセリア・アイゼンシ
ュタインの両侯に生じる。万が一にでも使節に死人が出れば面目は
丸潰れであり、大いに声望を落とすだろう。使者の前で騒動を見せ
ている時点で大きな恥なのだ。マキリは頷いたが、すぐに頭を振る。
369
﹁同盟したばかりで足を引っ張ったとあってはバイステリの名折れ
です! 最低限の護衛のみを残し、我々も共に戦いましょう﹂
ヴィーザルは苛立った表情でマキリを威圧するが、マキリは真っ
直ぐ見つめ返す。使節団にとってこの村は特別だ。理屈では他国の
事だが、感情面では割りきれない。なにせ村娘と結婚を約束した傭
兵が大勢いる。彼らは今すぐにでも駆けつけたい気持ちを押さえて
はいるが、待機でもさせようものなら暴発して飛び出すだろう。な
らばいっそ行かせた方がいい。そうマキリは判断したのだ。
﹁ちっ、時間の無駄だ。来るなら付いてこい! ただし指揮下には
入ってもらうぞ!﹂
根負けしたヴィーザルは馬を翻させると、軍旗を翳して近衛隊の
隊列を整える。
﹁エーリヒ!﹂
アラエルは非戦闘要員だ。当然マキリらとここに残る事になる。
呼ばれたエーリヒは先程までの腐った顔が嘘のように真剣な面持ち
だ。心配そうな顔のアラエルに無言で頷き、その決意を目で語る。
アラエルは重々しく頷いた。
﹁⋮⋮死ぬなよ﹂
先程とは別の意味を込めた瞳にエーリヒはまた頷いた。それでア
ラエルは少し安心する。続けて何か言葉をかけるべきか、そう思っ
て口を開いたところでヴィーザルが出撃を命じる。
370
﹁近衛中隊⋮⋮前へっ!﹂
槍先を揃えた歩兵が、外套をはためかせる騎兵が、号令一下一斉
に動き出す。脚の早い騎兵が前に出て、ヴィーザルを先頭に一糸乱
れず村へと急いだ。エーリヒも直ちに隊列に加わり、黒い愛馬を走
らせる。
﹃野伏せり、追い剥ぎ、盗賊強盗は騎士の常﹄
見送るアラエルの脳裏に、かつてエーリヒが語った言葉が、確か
な現実味を以て響いた。
3
村は死臭に満ちていた。苦悶の表情を浮かべた死骸がそこかしこ
に転がり、炎に焼かれて異臭を放つ。中には子供もいた。ヴィーザ
ルが駆けつけた時、全ては手遅れだったのだ。敵は首尾よく引き上
げており、後には焼け果てた村と、物言わぬ数多の死骸が残される。
﹁ひでぇな、こりゃあ⋮⋮﹂
エーリヒはその凄惨さに思わず目を背ける。武器を取る者が死ぬ
のはまだわかる。だが、どう見ても十代に達していない少年までが
殺害されているのは理解できない。そんなのはエーリヒにも経験が
︱︱
﹁う⋮⋮﹂
371
ある。それもそんなに昔の事ではない。忘れようと思っても忘れ
られない。それは殆どエーリヒの心の原風景と化している。略奪で
はない。殺戮と破壊そのものを目的とした虐殺だ。
﹁騎行か﹂
ヴィーザルがぼそりと呟く。その表情は氷のごとき冷徹さを保っ
ており、内心を伺うことはできない。
﹁ふざけた真似を﹂
略奪は物資調達のいち手段であって、破壊と殺戮はそれに付随す
るものに過ぎない。物資さえ手に入れば敢えて破壊する必要がない
場合もある。
対して騎行とは当初から破壊と殺戮を目的とし、行く先々の村落
を手当たり次第に潰していくものである。どこの領主でも王侯でも
農村からの収入に依存するところは大きい。騎行はそれら生産基盤
を破壊することで敵対する陣営の体力を弱らせることを最終的な目
的としていた。
とはいえ、体力を奪うような作戦が効果を発揮するには時間がか
かる。また、戦略上の要地を落とすわけでもないために戦争で大き
く優位に立てるわけでもない。その一番の意味は、挑発にあった。
敵は少数の騎兵で主戦場を迂回し、アイゼンシュタインの内庭で乱
暴狼藉を働くことで、ヴィーザルを嘲笑って見せたのである。
﹁侯爵閣下﹂
ぐるりと村の焼け跡を捜索していた近衛騎兵がヴィーザルの前に
372
馬を走らせる。下馬しようとした騎兵をヴィーザルは制して報告を
促した。
﹁やはり敵の姿はありません。破壊し、火を点けて立ち去ったもの
と思われます。⋮⋮これは推測ですが、敵はこちらの行動を観察し
ていて、我々の到着した頃に引き上げたものと思われます﹂
﹁⋮⋮この近辺の代官の軍はどうした?﹂
静かに問うヴィーザルに、騎兵は僅かに怯えつつも答える。
﹁到着した形跡がありません﹂
ヴィーザルは暫く馬上で佇む。報告に来た騎兵は居心地悪そうに
視線を左右にやった。
﹁安全は確保された。生存者の捜索と救助に当たれ﹂
命じられた騎兵は逃げるようにヴィーザルの前から駆け去る。目
の前で領民を焼かれてなお冷静さを保つヴィーザルにエーリヒは内
心舌を巻くが、その握りしめられた手が小刻みに震えるのを見て、
実のところ烈火のごとく激怒している事を知る。どれほど差別的で
あれ、領民を焼かれる事は貴族としての面目を潰された事になるの
だ。誇り高いこの男には耐えがたい苦痛だろう。少なくともどれだ
け平民が死のうと気にしない、という類いの貴族ではないとわかっ
てエーリヒは僅かに安堵する。
﹁閣下、私達も生存者を探してきます。人手は多い方がいい﹂
ロビンを始めとする部下達はもう目も当てられない状況だった。
373
何か仕事をさせた方がいいと思ったエーリヒがそう提案すると、ヴ
ィーザルは軽く腕を振ってそれを促した。一礼したエーリヒはバイ
ステリ隊を率いて捜索に赴く。死骸が多く、踏まないように歩くの
は困難だったため、一同は下馬した。
﹁修道院だ。修道院を探せ。あそこに避難したはずだ﹂
古来聖域に逃げ込んだものは神の庇護下に入ったと見なされ、俗
世の干渉から逃れると言う習慣がある。だが、ここまでする敵がそ
の習慣に遠慮するかといえば、やはり絶望的だった。他ならぬエー
リヒがファーレンベルクで聖職者を何人も斬っている。足下に広が
る凄惨な光景に、古傷が疼いた。
やがて修道院を見つけたとき、一同は絶望に足を止めた。
完全に焼けている。中に大勢逃げ込んだのを知った上で放火した
のだ。壁面は焼け焦げ、木材は炭化し、素朴ながらも美しかった修
道院は見る影もなく、梁すらも燃え落ちたのだろう。今にも崩れ落
ちそうな危うさだけがそこにあった。遠からず、影も形もなくなる
だろう。
﹁エルナ⋮⋮﹂
ロビンが崩れ落ち、甲冑ががしゃんと音をたてる。涙すら出ない
のか、呆然と修道院を見詰めるだけだ。
︱︱お慈悲を。せめて娘だけでも助け⋮⋮
その姿にエーリヒの胸は締め付けられる。ファーレンベルクの人
口は三万。彼らにも一人一人、愛しいと思うものがいただろう。死
374
んで、悲しむものがいただろう。もう全て帰ってこないのだ。今は
もうファーレンベルクという街もない。地図から消えて盗賊も寄り
付かないという。じきにこの村も地図から消えるだろう。
﹁おい! 誰か来てくれ!﹂
諦めきれずに崩壊の危険を怖れず駆け寄った騎士が叫ぶ。エーリ
ヒはそれで現実に引き戻された。
﹁地下室がある! 誰かいるかもしれないぞ!﹂
エーリヒははっとした表情でロビンと目を合わせる。修道院には
礼拝所やビールやワインの保管所として用いるため地下室が設けら
れている。俗世の音や光から隔離された空間は祈りを捧げるのにう
ってつけだし、暑さに弱いアルコールを保管するのには地下の冷気
が必要なのだ。二人は直ちに残りの騎士を率いて走り出す。
修道院は支えにしていた梁を失い、強度不足に陥っていた。ぐら
ぐらと天井は頼りなく揺れ、ぱらぱらと石材が落ちる。現在進行形
で崩壊していた。その様に恐怖した何人かが足を止めるも、構わず
走る二人に従い、全員が突入する。
﹁こっちだ! 出入口が埋まって入れない! 持ち上げるのを手伝
ってくれ!﹂
奥の一室、焼け焦げた死体の傍らで一人の騎士が懸命に石材を動
かそうとしていた。崩壊の危険を感じているのだろう。野性味のあ
る顔は焦りを感じていた。
﹁アグラヴェイン卿か。でかした!﹂
375
エーリヒの部下の一人であるアグラヴェインは騎士道を日頃から
強烈に意識している。誰もが生存を絶望視するなか、果敢に万が一
の可能性に賭けて崩壊寸前の修道院に踏み込み、そして見事希望を
探し当てたのだ。
﹁か細いものですが声が聞こえました。中にまだ何人かいるようで
す。はやく助けないと!﹂
騎士達はおお、と感嘆し、ただちに石材を持ち上げようとする。
だがかなりの重量があるらしく、持ち上げることは叶わなかった。
﹁くそ、諦めきれるか!﹂
エーリヒは甲冑を乱暴に外すと、剣を腰から鞘ごと外し、梃子の
原理で持ち上げようと石材に先を噛ませた。過重に耐えかねて騎士
の象徴である剣が曲がる。それを見たロビンもまた剣を石材に噛ま
せた。
﹁エルナ、エルナ、いたら返事しろ!﹂
騎士の徳目である女性への敬意すら忘れてロビンは必死に叫ぶ。
応える声はなかったが、ロビンも、エーリヒも、他の騎士も諦めな
い。やがて今にも消え入りそうな声がした。
﹁ロビン様⋮⋮?﹂
エルナの声だ。ロビンは表情を一転して笑顔に変え、剣がみしみ
しと音を立てるのも構わず石材を押し上げる。騎士達はそれに合わ
せて両手の指を血に染めながら持ち上げた。やがてロビンとエーリ
376
ヒの剣が鞘と共に割れた時、石材は持ち上がり、地下への扉が開か
れた。
﹁エルナ、今行く!﹂
﹁こないでください!﹂
地下への階段を下り始めたロビンをエルナが制した。
﹁ここに子供達を逃がすときに背中を大きく焼かれたの。酷い火傷
になってると思います。とても痛いんです⋮⋮こんなんじゃ騎士様
にもらってもらえないよ。助けてくれたのは嬉しいけど、汚いとこ
ろ見せたくないし、帰って下さい⋮⋮﹂
ロビンが絶句する。だが彼は再び階段を下り始めた。
﹁来ないでください! せめてまだきれいだった頃の記憶だけ残し
ておいて下さい! 結局住む世界が違うって言うことなんです!﹂
﹁馬鹿言うな!﹂
地下室まで下りたらしい。もう足音は聞こえない。
フリーランス
﹁私は⋮⋮私はもう騎士じゃないんだ。ただの傭兵だ。それに、私
が⋮⋮私がもし騎士なら、黒騎士じゃない本当の、本物の騎士⋮⋮
なら⋮⋮﹂
地下室から再び階段を上る音が響く。やがてエーリヒ達の前にエ
ルナを抱いたロビンが現れた。煤にまみれ、涙と鼻水で顔をしゃく
しゃにしたその姿は騎士の理想像である雄々しさからはほど遠い、
377
だが、
﹁火傷ぐらいで、女性を見捨てたりしないはずだ﹂
その姿はどんな物語の騎士よりも騎士らしいと、エーリヒは思っ
た。
378
騎行︵後書き︶
あと一回だけ続きます。
379
嵐の前
1
地下には女子供ばかりが十五人いた。入り込める空間の広さが幸
いしたようで、一時は全滅か、と覚悟していた騎士達は安堵するが、
村に元々いた人間の数を思えばやはり暗い気持ちになる。成年に達
した男は皆無であり、エルナが最年長と言う有り様だ。村の復興は
不可能と見なす他なかった。
﹁お坊様やお母さん達が、私達だけは生き延びてって、私達を地下
に⋮⋮﹂
涙ながらに語るエルナに、一同はすぐそばの焼け焦げた死体が最
期まで己の職務を全うした司祭と、エルナの母親であると知った。
緊張の糸が切れたエルナはそれに気付かない。エーリヒはそっと部
下に死体を目の届かないところに運ぶよう指示する。指示を受けた
騎士達は短く死体に敬礼し、躊躇することなく修道院の外へと運び
出した。
﹁ここは既に崩壊が始まっている。立てるか?﹂
エーリヒがそう問うと、エルナは気丈に頷いたものの、背中の火
傷が酷く痛むらしく、足取りは覚束ない。エーリヒはロビンと目を
あわせた。
﹁エルナ、無理しないで﹂
380
ロビンは再びエルナを抱き上げる。周囲をぐるりと囲まれ、子供
の視線にも晒されながらロビンに抱かれたエルナは顔を赤らめて抵
抗するも、結局はなすがままになった。その様をエーリヒは微笑ま
しく見つめる。
﹁さて、もう残ってるのはいないな? まずはここから出よう。話
はそこからだ﹂
一同は頷き、娘や子供達を連れて修道院を出た。道中に死体がい
くつかあり、手空きの騎士はそれらを回収したものの、全てを回収
するには時間も人も足りない。
修道院は、その一刻後に完全に崩れ落ちた。
2
安全確保の報が伝わり、待機していたマキリやアラエル、アイゼ
ンシュタインの近衛隊も村へとやってきた。
現場では未だ絶望的な生存者の捜索が続けられており、合流した
兵らは直ちにその仕事を割り振られる。捜索の甲斐あって更に五人
の生存者を見つけることができたが、その内一人は明日を迎えられ
ない程の重体で、残りの四名も何らかの怪我を負っていた。一方で
は埋葬の準備が始まっており、死体が一ヶ所に集められる。棺桶を
作る技能を持つものがいないかとエーリヒは聞いて回ったが、近衛
隊を含めても誰もおらず、やむなくそのまま土葬されることになっ
た。放置された死体が疫病の源になることは経験則から理解されて
おり、たとえ人間らしくない葬りかたとはいえ、埋葬は目下の急務
381
である。
﹁エルナ!﹂
村の有り様に半ば呆然としていたアラエルは、ロビンの腕の中で
俯くエルナを見ると、急いで駆け寄った。
﹁無事で⋮⋮無事でよかった。本当に⋮⋮!﹂
涙を流し、嗚咽を漏らすアラエルを見ているうちに寧ろエルナの
方に精神的な余裕ができたらしい。ロビンの腕の中に在るという安
心感もあるのだろう。エルナは落ち着いた声でアラエルに語りかけ
た。
﹁うん、私はこの通りぴんぴんしてるから、そんな泣かないで。ち
ゃんとロビン様もお嫁に貰ってくれるって言ってるし。⋮⋮でも、
火傷が結構酷くて、あなた達と一緒にアルビは越せないかな⋮⋮﹂
バイステリへの帰路に立ち塞がる冬のアルビは厳しい。ただでさ
え女の足で越えるのは困難と言われているのに、火傷を負い、心身
共に消耗していてはとても越えられるはずがない。たとえ道中をロ
ビンがずっと背負ったとしても、寒さに身体が保たないだろう。
﹁暫く療養するね。大丈夫、近くの町に親戚がいるから、そこに厄
介になるよ﹂
明るくそういうエルナだが、アラエルの表情は暗い。なにもでき
ないお荷物そのものの娘が一人転がり込んできて、日々を療養に費
やさせるだけの余裕がある家がどれだけあるだろうか。エルナには
行く場所がない。エルナだけではない。助かった者全てに行く場所
382
がなかった。農村は自己完結した世界であり、外部との接触は限定
的だ。村そのものを失った村人に居場所などない。働き口を探しに
町に出るか、さもなくば別の村で雑用をしながら生きるしかない。
﹁エルナには私が付きます。もう騎士ではないのですから、力仕事
でも下水整備でもなんでもやりましょう。ですが、他の子は⋮⋮﹂
ロビンは既に傭兵契約を打ち切ることを決意していた。だが、ロ
ビンの腕はそう長くない。エルナ一人を養うのが関の山だろう。他
の怪我人や、子供はおいていくことになる。バイステリ隊も慈善事
業をしにアセリアまで来たのではない。アルヴェリア侵攻が予期さ
れる今、貴重な戦力である騎士は一人でも大事だ。ロビンの離脱だ
けでもエーリヒには相当痛いだろう。
﹁私の領内の事だ。お前達が気にする事ではない﹂
冷然とした声が突如としてアラエル達に掛けられる。間違えよう
もないほど冷たいその声は、アイゼンシュタイン侯ヴィーザルのも
のだった。
﹁そこの娘をこちらに引き渡せ。私の領民だ﹂
無表情にそう言うヴィーザルにアラエルが、そしてロビンが反発
した。
﹁お言葉ですが、エルナは傷つき、疲れきっています。侯爵様の御
用には耐えません! まずは休息を﹂
﹁何か御用があるのでしたら、私が応えます。ですからエルナは⋮
⋮﹂
383
﹁誰に向かってものを言っている﹂
プレッシャー
紅い瞳が二人を睨む。途端に諸侯としての霊圧が二人を襲い、本
能的な恐怖が口を閉じさせた。
﹁下朗が、分際を弁えろ。貴様らごときと会話するだけで身の穢れ
だ﹂
オーラ
背後に控えているものが違う。いないところではどれだけこき下
ろせても、面と向かってみればその圧力、その霊威は常人のもので
はない。それが諸侯というものだ。二人は冷や汗を掻き、膝を震え
させる。だが腕の中に恋人を残すロビンは歯を食い縛ってヴィーザ
ルを睨み付け、震える膝をしゃんと立たせる。騎士の、男としての
矜持があるのだろう。ヴィーザルは目を細めて興味深そうにそれを
見た。ロビンが口を開こうとしたその時、
﹁ロビン様、下ろしてください﹂
剣呑な雰囲気を変えるようにエルナがにこやかに微笑む。ロビン
は半ば泣きそうな目でエルナを見つめた。
﹁侯爵様のご命だもの。従わなくちゃいけないでしょ﹂
貴方の立場を悪くするのは嫌。その目がそう語っている。ロビン
は躊躇したものの、エルナがお願い、と続けると、情けなさを噛み
殺しながらエルナをヴィーザルに差し出した。
﹁侯爵様、火傷を負った醜い女一人。何かの役に立てるのでしたら、
なんなりとお命じを﹂
384
激痛に耐えながらエルナは跪く。周囲が見守るなかヴィーザルは
エルナに近より、その背中に掌を当てた。
﹁済まなかった﹂
その瞬間、場に居合わせた全員が固まった。近衛隊すら唖然とし
てヴィーザルを見る。傲慢にして尊大、そんな貴族の代表格である
と見なされていたヴィーザルが、土民と蔑む女に謝罪したのだ。
﹁陛下よりの授かり物であるお前達を守れなかった事、慚愧の念に
堪えない。お前はこのままバイステリへ向かえ。持参金も渡してや
る。残りの者は私が面倒を見よう。村も戦が終われば再建する。い
つでも帰ってくるがいい﹂
冷徹にして厳格、そう聞いていたヴィーザルの意外な言葉にエル
ナは唖然とする。
﹁でも⋮⋮私、背中に大きな火傷を⋮⋮とてもアルビなんて⋮⋮﹂
﹁火傷などない﹂
ヴィーザルはエルナの背中から手を引く。
﹁もう治った﹂
驚いたエルナが恐る恐る背中に手をやる。痛みを覚悟したのだろ
う。歯を食い縛って目を閉じていたが、その手は最初はおずずと、
やがて大胆に、それでも一向に訪れない痛みに、表情が喜びへと変
化する。
385
﹁なかなか男を見る目があるな﹂
ヴィーザルが柔和な笑みを見せる。男ですらよろめく美貌が笑う
と更に輝きを増した。
﹁壮健であれ。我が領民よ﹂
エルナは緊張の糸が切れたのだろう。伏して泣き出し、傍らでは
ロビンが崇拝の眼差しでヴィーザルを見ていた。
﹁⋮⋮信じられない﹂
アラエルは目を丸くする。まるで、というよりは殆ど奇跡である。
エルナの火傷を、手をかざすだけでヴィーザルは治療したのだ。
ロイヤルタッチ
﹁高貴なる御手って奴だな。俺も見るのは初めてだが﹂
傍らにやってきたエーリヒが呟く。アラエルが視線を向けると、
怪我を負った村人達に次々と手を触れるヴィーザルを見つつ語る。
﹁詳しいところは知らん。だが高貴な身分の者だけが使えると言わ
れる治癒の奇跡だ。一説には⋮⋮あー、ヤブ医者がな、効果のない
薬を処方しても、患者が治ってしまう事があるらしい。つまり患者
側に治るという確信が生まれれば、治らないものも治るんだとさ。
あれと同じ原理らしい﹂
エルナとヴィーザルの身分差は天と地ほどある。遭遇できるだけ
でも片田舎の村娘には大きな体験であり、まして温かい言葉をかけ
られ、患部に手を触れられれば、治るという確信も生まれよう。だ
386
がそれだけで完治するなどとはにわかに信じがたい。強力な魔術、
否、奇跡の類いだ。
﹁アルヴェリアじゃ国王陛下が毎年やってる。患者との身分差が激
しいほどよく効くみたいで、王権の強化にも役立ってるそうだが⋮
⋮まぁ、なんというか、外道侯爵に全部持ってかれちまったか﹂
儀式めいたやりとりと共にヴィーザルは村人達を癒す。癒された
村人達の目には守りきれなかった事への恨みなど見えない。感動し
て涙を流すものが大半だ。近衛隊どころかバイステリの兵ですらヴ
ィーザルの奇跡に畏敬の念を抱いていた。
お優しい、ご領主様。
貴く尊い、侯爵様。
こうしてこの世界では君侯の力が民に優越する。普段どれだけ自
分達を蔑もうが関係がない。寧ろそれだからこそ、自分達のところ
まで下りてきてくれた時の感動は大きくなるのだ。
﹁⋮⋮神は善行をなすときはこっそりと、っていったはずだが、な
んともあざといな﹂
覚めた目で見るエーリヒは唇を尖らせる。だがアラエルは首を横
に振った。
﹁エーリヒ、それは違うな。侯爵様の思惑が何であれ、私は感謝せ
ずにはいられない﹂
アラエルは駆け寄ったロビンにすがり付いて泣くエルナに、涙を
387
目の端に溜めながら言った。
﹁エルナの背中は治った。これがすべてだ﹂
エーリヒは苦笑いして頭を掻き、違いない、と返した。
その翌日、一同はエルナを伴い、アルビに登った。
脱落者は、誰もでなかった。
3
村人を治療し、それぞれの今後の行く先を手配し、バイステリ勢
を送り出したところで、ヴィーザルの我慢は限界に達した。
元よりアイゼンシュタインの血は激しやすく、しかも執念深い。
強固な誇りは傲慢の域に達しており、僅かな事でも激怒して殺人を
ものともしない。特に未だ二十代半ばにも達しない若き当主である
ヴィーザルは一族の間ですら激しい気性と短慮で知られていた。
﹁代官はどうした? 何故釈明に来ない!﹂
激するままに傍らの近衛兵に怒鳴り散らす。代官の動きを押さえ
るために敵が別動隊を出していたのは知っていたが、目の前でみす
みすと村を焼かれた怒りはそんなことで収まらない。問われた近衛
兵は怯えながら答えた。
﹁管理下の村が滅びたことを恥に思ったらしく⋮⋮自刃しました﹂
388
ヴィーザルは大きく舌打ちする。こう言ったことは初めてではな
い。彼の代でアイゼンシュタイン領内には激しい粛清がなされてお
り、伝統的な領主というのはほぼ絶滅し、各地に派遣されている代
官達はヴィーザルに対抗する術がない。アイゼンシュタイン領内で
軍を動員できるのはヴィーザルただ一人なのだ。代官達はヴィーザ
ルに従う限り領民に対する絶対者であったが、一度不興を買えば、
いとも簡単に処分される。代官達がヴィーザルを畏れる事は神か悪
魔でも見るようなものがあり、彼らは自分のミスを絶対に認めず、
それが明らかになったならば、ほぼ例外なく自刃した。
急激な粛清がアイゼンシュタイン全体を恐怖と非効率の中に落と
し込んでいた。代官達の目は領民ではなくヴィーザルを見上げるば
かりで、口にする報告も彼の耳に心地よいものばかりになっている。
村が焼かれるまでそれに気付かなかった事など氷山の一角に過ぎな
い。そうして自らの為した改革のために皇帝から預かった民を、自
らの膝元と言っていい場所で損ねた事にアイゼンシュタインの若き
独裁者は苛立った。
﹁ただでは置かぬ⋮⋮安い挑発だが、乗ってやる。いいだろう、決
戦だ﹂
ヴィーザルは近衛大隊の集結を下命し、領内に大動員を宣告して
一路、北へと向かった。バイエン公国とにらみ合いを続ける国境に
変化が生じる。
誰もがアルヴェリアのエルヴン侵攻を確実視するなか、状況は徐
々に変化を見せつつあった。
389
嵐の前︵後書き︶
ここで第二部終了です。
390
番外編 ヴァンガルの戦い 前編
1
人同士の戦いの極致に決闘があるように、国家の戦争にも己の全
力を賭けて敵国と勝敗を決するやりかたがある。それが﹃会戦﹄だ。
運用できる兵力に限りがあるこの時代、戦争というものは複数回、
或いはただ一度の﹃会戦﹄によって終結すると考えられていた。大
国といえども消耗した兵力を短期に埋め合わせる術に乏しく、また
大軍を次から次へと準備するだけの資金的余裕もないのだ。ゆえに
数千、数万の大軍同士が対峙し、ただ一日で勝敗を決する会戦は戦
争の帰趨そのものを決定付けると理解され、王侯や将軍達はいかに
して自軍に有利な状態で会戦を行うかに日々を費やしている。
とはいえ会戦は不確定要素が多く、蓋を開けてみるまでその勝敗
がわからない。戦闘開始以前に絶対有利を噂された側が敵の巧みな
戦術によって敗退し、それがそのまま戦争全体の敗北に繋がること
など珍しくもない。こうした事情から有利な側でも敢えて会戦を行
うことを避け、守りを固めて敵の疲弊を待つことはよくあり、反対
に劣勢な側は座して滅亡する運命を覆すために守りを捨てて軍を集
中し、敢えて会戦を敵に強いることがある。
アセリア・アイゼンシュタインを相手に戦術的な勝利を幾度か収
めつつも不利を覆すに至らず、国力差から劣勢にたたされ続けたバ
イエンは守りを固めるアセリアの都市群を少数の騎兵で迂回、アイ
ゼンシュタイン領内に浸透し、略奪と騎行を敢行。同時に主力を集
中させ、国境線の村や町を手当たり次第に焼き払った。あからさま
な挑発に激怒したアイゼンシュタイン侯ヴィーザルは大動員を下令
391
し、近衛隊の集結を命じる。ここにバイエン、アイゼンシュタイン
の勝敗を決する大会戦の予兆が生まれる。
ヴィエナでそれを聞いたルドルフは、顔面蒼白となった。
﹁ヴィーザル、まだ早い!﹂
玉座から思わず立ち上がったルドルフは威厳を保つのも忘れて叫
んだ。
﹁北部のルクサンベルクやホーエンツァールはまだ動員が終わって
いない。アセリア軍も対アルヴェリアに多くが貼り付けられている。
賭けになるぞ⋮⋮!﹂
同盟したからといって、すぐさま北部の二諸侯が駆けつけるわけ
ではない。まずは傭兵隊長と契約し、募兵し、訓練を施さなければ
ならない。常日頃から契約している傭兵や近衛隊だけでは数が圧倒
的に足りないのだ。戦時体制下にあり、大勢の傭兵隊長と契約して
いるアセリア・アイゼンシュタインとは違うのだ。今会戦をやった
として、勝てるかどうかは全くわからない。負ければルドルフは貴
重な兵力を失い、一枚看板に等しい軍勢を失ったアイゼンシュタイ
ンは蹂躙されるだろう。そうなれば同盟すら怪しい。文字通りの決
戦だ。
とはいえ、領内を好き放題に荒らし回られてなお泣き寝入りして
いては領主としての沽券に関わる。軍事的合理性と貴族の誇りは全
く別物だ。そんな状態がいつまでも続けば中央統制がリシニアで最
も強固なアイゼンシュタインとはいえ、否、それだからこそ領民は
ヴィーザルを見放してしまうだろう。どちらに転んでもバイエンの
思惑通りだ。
392
﹁我が方の有利を盾に、時の経過を待って勝負を決めるはずが⋮⋮
裏目に出ましたか﹂
傍らでリビが呟く。その表情からは自らへの怒りが伺えた。バイ
エンとの戦いを早期に終わらせることに失敗したルドルフは速戦速
攻を得意とするヴィーザルを持久戦を得意とするその父ヴィーゼル
と交代させ、国力差を盾にひたすら時間を稼ぎ、北方の二諸侯と同
盟し、なおかつバイエンへのアルヴェリアからの支援が切れるタイ
ミングを見計らって必勝の体制で決戦に出ようとしていた。
だが敵はこちらの都合に合わせて動いてくれない。バイエンにし
てみれば時が経てば経つほど不利となることは先刻承知。そして北
方の二諸侯がアセリアについた事を以て猶予はなくなったと判断し、
劣勢を挽回するために決戦の意思を固めたのだろう。その挑発にヴ
ィーザルは見事にかかった。かからざるを得なかった。
﹁⋮⋮勝ったとしても、このタイミングでは背後のアルヴェリアを
刺激します。アイゼンシュタイン侯に自重を促しますか?﹂
リビの提案にルドルフは迷った。命じれば間違いなくヴィーザル
は止まるだろう。アイゼンシュタイン家はファルケンブルク家に忠
実だ。自らの誇りすら主家の命の前には投げ捨てる。命じさえすれ
ば領民がどれだけ殺されようと気にせずにひたすら主力を温存する
のは間違いない。そうすれば春には確実な勝利がやって来る。アル
ヴェリアの直接介入も気にすることなくルドルフはバイエンを叩き
潰し、リシニアを掌握するだろう。うまくいけばエルヴンとアルヴ
ェリアは両者とも痛み分けに終わり、アセリアは漁夫の利を得るか
も知れない。領民の不満など一時のものだ。ヴィーザルの名誉もす
ぐに挽回され、寧ろ高まるだろう。だが、
393
﹁︱︱俺は、皇帝だ!﹂
ルドルフの矜持が理性的な選択を拒否させた。
﹁略奪だの騎行だのはいい。戦の常だ。だが、なんで大陸で最も尊
い俺がアルヴェリアにそこまで遠慮せねばならん⋮⋮! 好き放題
にリシニアをかき回しやがって、気に食わん﹂
バイエンの影にアルヴェリアを見出だした時から、ルドルフはバ
イエンへの攻撃を手控えざるを得なかったが、若き皇帝にとってそ
れは大きな屈辱であった。
﹁追認する。ヴィーザルに思う存分やれと伝えろ! 俺の近衛隊も
つけてやる。絶対に勝て!﹂
リビは姿勢を正して命令を受けると、その場を足早に立ち去る。
ルドルフの決断は従来の策よりリスクは高いものの、決して愚かで
はない。北方の二諸侯が出てこない内にアセリア・アイゼンシュタ
インのみで決着をつけられればルドルフは援軍に来なかった諸侯に
対して優位に立ち、戦後処理でフリーハンドを得る。また、アルヴ
ェリアはエルヴン侵攻準備で忙しく、アセリアには防衛用の部隊を
張り付けるだけの可能性も十分に考えられた。
こうしてリシニアの二人の皇帝は互いに決戦意思を固め、そこに
向かって動員できる限りの軍を集結させる。後世、近くの町の名を
とってヴァンガルの戦いと称される戦いは、秒読み段階に入った。
2
394
﹁アイゼンシュタインのヴィーザルの名の下に、この者達の足が鈍
らんことを﹂
無数の足跡に向かってヴィーザルは槍を突き刺す。それを皮切り
に周囲の騎兵が同じように足元の足跡に槍を突き刺し、または剣で
叩いた。古来より伝わる呪術であり、逃げる者の足を止める効果が
オーラ
あるとされる。もっとも逃げる者にも対抗する呪術は当然あり、い
ずれが効果を発揮するのかは術者の持つ霊威次第と言われていた。
﹁相手はバイエンの至宝ティリー、私ではまだ及ぶまいな。やはり
呪術頼みは好ましくないか﹂
ヴィーザル率いるアイゼンシュタイン軍は騎行を繰り返すバイエ
ン軍主力を捕捉できずにいた。その逃走は巧みであり、現れたかと
思えば霧のように消え、諦めて戻ろうかと思えば影のようについて
きてこちらの後方に散発的な襲撃をかけてくる。アイゼンシュタイ
ン軍は鼻面を引き回されているも同然であり、いつしかバイエンの
領域内にまで引き込まれていた。
﹁周辺の略奪に出た騎兵が帰ってきました。やはりこの近辺の村は
もぬけの殻だそうです﹂
ヴィーザルと同じ、銀髪と赤目が特徴の副将ルナクルスが報告す
る。すらりとした長身に貴族的な面立ちのヴィーザルと比べると背
が低く、美麗と称していい顔には若さに似合わない歴戦を思わせる
古傷がいくつか走る。副将とはいえルナクルスは貴族でもなんでも
なく、﹃赤目隊﹄を率いる生まれも定かではない傭兵隊長に過ぎな
い。だが、大粛清で既存の軍事階級が消滅したアイゼンシュタイン
395
では、登用する人材の生まれに気を払う余裕がなかった。彼の他、
アイゼンシュタイン軍の高級軍人は殆どが二十代から三十代と異常
に若い。
﹁誘導されているな。明らかに⋮⋮。陛下の遣わしてくれた近衛隊
との接触は?﹂
ルナクルスは頭を振る。
﹁連絡に出した騎兵が帰ってきません。所在不明です。ヴィーゼル
様とも連絡が取れていません﹂
ヴィーザルはぎり、と奥歯を鳴らす。表情には大諸侯らしからぬ
露骨な苛立ちが浮き出ていた。
﹁孤立無援というわけか⋮⋮! くそっ!﹂
大粛清が祟ってアイゼンシュタインでは知識や技能の断絶が発生
している。ベテランの軍人が軒並み滅びるか逃げ去るかした後に大
慌てで手当たり次第に集めた家臣団は、若くなんの後ろ楯も経験も
ない素人の集団にすぎず、名将ティリーの仕掛けた罠に全員が容易
く引っ掛かった。進んでも敵と遭遇は叶わず、引けば後ろから襲う
ぞと脅しを掛けられる。後方との連絡線は断たれ、合流するはずの
味方は待てど暮らせどやってこない。時折見える敵の姿に引かれて
猛追するも、たどりついた先は例外なく焦土で、略奪する物資もな
くアイゼンシュタイン軍一万五千には戦わずして飢え死にの危機が
間近に迫っていた。
﹁提案なのですが、いっそ敵を無視してバイエン公都ミューラを攻
撃するそぶりを見せてはどうでしょうか﹂
396
ルナクルスが苛立つヴィーザルに提案する。多少の損害には目を
つぶって撤退すべきとは言わない。それを言った傭兵の一人が臆病
を理由にヴィーザル自らの手で斬られたという噂がかなりの真実味
を持って流れていた。
﹁流石に首都を狙われれば敵も出てこざるを得ません。或いは道中
で騎行を繰り返すのもいいでしょう。残念ですがこちらの行動を敵
に完全にコントロールされています。主導権を取り戻すのが先決か
と﹂
ヴィーザルは城塞攻撃に来たわけではない。飽くまでその意図は
敵主力部隊の殲滅である。とはいえそれを果たせずいたずらに消耗
している現状ではどうしようもなかった。食料も不足している。一
万五千の兵に与える食事の量は、地方領主が聞けば泡を噴くほどの
天文学的数字だ。更に言えばこの後ろに一万の支援要員が随伴して
おり、合計すれば二万五千の大集団となる。小さな村を幾つか略奪
した程度では腹が膨れない。最早戦略的にどうこうと言うより先に、
飢えを満たすためにも食料のありそうな場所を攻撃し、確保しなけ
れば戦う前に全滅しかねなかった。
﹁流石にミューラまでもぬけの殻という徹底した焦土作戦をとられ
ていた場合、お手上げですが、それはそれで閣下の名誉は守られま
すし、後は陛下がどうにかしてくれるでしょう﹂
首都は国の顔であり、君侯の権力の源泉だ。そこを放棄するとな
ればこれは自暴自棄であり、たとえ主力が健在でも先は短い。可能
性は非常に低いと思われた。ヴィーザルは首肯し、ミューラ直撃策
を受け入れかけた。しかし、
397
﹁敵兵発見! 丘の上からしきりに弩を射ってきます!﹂
見張りの報告がそれを中断させる。見れば彼方の丘から弩兵が最
大射程で矢を放っている。弩は直射して威力を発揮する武器であり、
最大射程を出せる曲射では全く効果が望めない。あからさまな挑発
だ。ヴィーザルは大きく舌打ちする。
﹁騎兵出せ。目障りな奴等を掃討しろ!﹂
ルナクルスは眉根を寄せて異を唱える。
﹁閣下、安い挑発です! これまで何度も引っ掛かったではありま
せんか! 恐らく追い付けません。無視してミューラに進むべきで
す!﹂
言われたヴィーザルは奥歯を噛んで思い止まる。経験が浅く激情
家ではあっても、理性的であろうと努める程度には理性的であった。
ルナクルスは胸を撫で下ろす。しかし、
﹁丘の上から敵槍兵が! 軍旗確認、﹃祈りを捧げる騎士﹄の紋章
⋮⋮ティリー伯の軍です!﹂
次の報告と共にそれは無意味なものと化した。敵主力を発見した
と思い込んだヴィーザルはただちに戦闘配置を指示し、ルナクルス
は最早止めることも出来ない。
﹁餌の出し方がうまい⋮⋮! 剣も交えない内にここまで消耗する
なんて⋮⋮!﹂
彼方の丘を睨みつつルナクルスは自分の傭兵隊を指揮するために
398
大剣を背負って駆け出す。指揮官としての技量の差を見せつけられ
た悔しさが表情に浮かんでいた。
バイエン軍はアイゼンシュタイン軍が戦闘配置についた頃を見計
らって撤退した。残されたアイゼンシュタイン軍は呆然とそれを見
送る。
この日もまた、疲労と食料だけが消えて終わった。
399
番外編 ヴァンガルの戦い 後編
1
ティリー伯爵ヨハン・セルクラエスはリシニア帝国に数多存在す
る中小貴族である。
伯爵と称号は美美しくとも、その実態は古城ひとつを抱えるに過
ぎない。リシニアでは必ずしも爵位と実力は比例しないのだ。公爵
以上の領土を持つ侯爵や方伯もいる。いわばティリーは貧乏貴族で
あった。
しかし貧乏であることはティリーの将来に何ら影響を及ぼさなか
った。信心深く、神への帰依心が強かったティリーは当初、修道士
になろうと学を学び、祈りを捧げる日々を送っていたが、折しも五
十年戦争真っ只中。教会が焼かれ、ごみのように人が死んでいくな
かでは寧ろ人を救うために剣を取らんと考え、バイエン公に仕官し、
以後、軍人としての道を行く。
バイエンは五十年戦争に神聖リシニア帝国側として参戦しつつも、
皇帝家であるアセリアとは距離を置いている。時にアルヴェリア、
時にアセリアと巧みに交渉して自国への損害を防ぐバイエン公ルー
ドヴィヒをティリーは深く信頼し、ルードヴィヒもまたティリーの
能力に信頼を寄せた。
そうして六十にならんとする今、ティリーはバイエン軍の総司令
官としてアイゼンシュタイン軍を迎え撃っている。
400
﹁皇帝陛下がお越しか﹂
ティリーは日課である神への祈りを終えたとき、部下からの報告
を受けて表情を綻ばせた。ティリーの率いる軍はアイゼンシュタイ
ン軍に比して劣勢であり、戦っても勝利は確実と言いがたい。その
ため主君が率いる新しい軍を待って全面攻勢に出る予定であった。
ルードヴィヒの到着は即ち二つの軍が合流に成功したことを意味す
る。
﹁おお、ティリー!﹂
迎えに出る間もなくルードヴィヒがやって来る。跪こうとしたテ
ィリーをルードヴィヒは押し留め、親しげに肩を抱く。六十近い老
将はルードヴィヒが子供の頃からの付き合いだ。相互の信頼関係は
強い。
﹁陛下の軍を損なうことなく御前に参上できました事、臣の喜びと
するところでございます。兵権をお返しいたしましょう﹂
それでもティリーは臣下としての一線を越えることがない。それ
が尚更ルードヴィヒの信頼を高める。
﹁馬鹿を申せ、余が指揮を執ったことなど滅多とないわ。これまで
通りお前が指揮を執るがいい! ここからはお前の本領だ。いよい
よ決戦が近い。頼んだぞ、ティリー﹂
大笑するルードヴィヒとは対称的にティリーは俯き肩を落とす。
﹁⋮⋮多くの村を焼きました﹂
401
ティリーは優秀な軍人であると同時に高潔な男だ。決戦をすぐに
と急かされれば敵の村を焼いて誘きだし、決戦を有利にと言われれ
ば味方の村も焼く。だが、一つ村を焼く度にその心は深く傷ついて
いた。
﹁⋮⋮済まぬ。お前には相応しくない事をさせた。許してくれ﹂
ルードヴィヒにとってもこれは本意ではない。とはいえ軍事的合
理性と当人の善良さにはなんの関係もない。ルードヴィヒには権力
の強化を強引に推し進め、リシニア全土を征服するかのように見え
るアセリアを挫くという大義があり、ティリーもまたいちバイエン
人としてそれに賛成しているのだ。綺麗事では戦に勝てない。信念
も、貫けない。
﹁だがこれからは違うぞ。二万の兵をかき集めた。敵は一万五千と
聞く。存分にお前の腕前を奮ってくれ!﹂
ティリーは表情を引き締めつつも口許に笑みを作り、跪いて敬礼
する。武人として正々堂々と雌雄を決することができるのが嬉しい
のだ。焦土作戦や騎行は全く本意ではない。武人は戦場を駆け抜け
てこそ。戦歴にしてアイゼンシュタイン軍の高級軍人全てをかき集
めても及ばぬほどの熟練者ティリーは、そういう古い人間だった。
こうしてバイエン軍は半ば飢餓に喘ぎながらミューラを目指し始
めたアイゼンシュタイン軍の目の前に陣を張って待ち受ける。略奪
に失敗したアイゼンシュタイン軍は空きっ腹を抱え、鼻面を引き回
された疲労を残したまま決戦に挑むことになった。
ヴァンガルの戦いが始まる。
402
2
バイエン軍は右翼に川を、背後に森を、左翼に馬車を並べて防壁
とする陣を敷いた。騎兵は一部が森に潜り込み、残りは全員が下馬
して敵に備える。槍兵が六メットに及ぶ長槍を密集して構え、その
槍の横陣の前と横に、この軍最強の部隊がずらりと列を組む。
ロングボウ
長弓。長さ二メットに達する弓は、構造的には何ら特別なものは
ない。ただの弓だ。しかし巨大な弓から放たれた矢は、通常の弓か
ら放たれた矢など比較にならぬほど遠くまで届き、装甲の貫徹力も
また比較にならない。これを扱える人間は限られており、二十年の
修練が必要とされる彼らは、優秀で貴重な傭兵として高値で取引さ
れている。
バイエン軍はアイゼンシュタイン軍を不動の体勢で待ち構え、正
面とハの字になるように配置された左右の長弓による矢の雨で仕留
める作戦を採用しており、長弓隊はその要であった。過去に何度も
その矢で騎士の突撃を阻んできた長弓隊と長槍の組み合わせは、待
ち構える限りにおいて最強の戦術と言われている。
﹁あれが、アイゼンシュタイン軍か。見事な行進だ﹂
旗鼓堂々と陣を組んでアイゼンシュタイン軍は現れた。散々に消
耗させたはずの敵軍の予想外なまでに見事な姿にティリーは感嘆の
声を漏らす。
﹁物見の報告によると、敵は僅かに残った食糧を昨日の晩に全て平
らげたとか﹂
403
﹁思いきりがいいな﹂
ティリーは可々と笑う。勝てばこちらから奪う。負ければどのみ
ち奪われる。そう思ったのだろう。焦土作戦は無駄だったかと笑い
つつも、十全な状態の敵と戦えるのなら、とティリーは張り切った。
﹁変わった布陣だな?﹂
ルードヴィヒが目を細めて敵陣を観察する。その陣容は、正面に
弩兵、その背後に槍や剣を構えた重装歩兵というものだ。ルードヴ
ィヒからは見えないが、背後には恐らく傭兵歩兵が控えている。騎
兵はいない。
﹁こちらの陣容に対応したのでしょう。恐らく前面の重装歩兵は近
衛隊です。騎兵も下馬させたのでしょう。矢の雨に、馬は弱いもの
ですから﹂
騎兵といっても元は騎士だ。馬上にあれば騎兵、下馬すれば重装
歩兵に変わる。馬上にあってはいい的であり、また怯えた馬は戦列
を乱す。合理的な判断であった。しかし、
﹁近衛が前、傭兵が後ろというのは解せぬな。どう思う? ティリ
ー﹂
ティリーは少し考えた後、答えた。
﹁アイゼンシュタイン侯は極めて差別的な人物であると同時に、誇
り高い人物です。傭兵を信じていないのでしょう。自らの切り札で
我らを切り開き、その後で突入させる心算と思われます﹂
404
先陣がいきなり崩れては戦にならない。まして傭兵は軽装備だ。
矢に耐えられない。
﹁なるほど、戦は傭兵どもではなく、貴族のものというわけか。古
風だが美しいな。となると先陣にヴィーザル自身がいるかもな﹂
ティリーは無言で頷く。間違いなく先陣にヴィーザルがいること
を、その目は疑っていない。古風な貴族とはそういうものだ。
その時、敵陣から角笛の音が鳴り響き、天地を揺るがす鬨の声が
響き渡る。一万五千人分の絶叫に、空気が振動し、木の葉が落ちる。
喚声を指揮するようにアイゼンシュタイン軍のただ中を近衛兵に囲
まれた白馬に白い甲冑を纏った若い男が行く。間違えるはずもない、
アイゼンシュタイン軍の総帥ヴィーザルだ。
﹁ほほう、いい男ぶりですなぁ﹂
予想が当たった二人は微笑む。両者とも騎士だ。敵が堂々として
いるのは寧ろ心地よく感じる。
﹁我々もやりますか﹂
ルードヴィヒはこくりと頷き、徒歩のまま陣中を歩き回る。敵軍
の勢いに恐れを抱きかけていた味方の兵は、その姿に自信を取り戻
し、喚声をあげる。今度は二万人の絶叫が辺りを震わせた。
﹁これぞ戦の醍醐味か。余もこれほどの大会戦は久々だ。心躍るな﹂
ルードヴィヒが耳打ちすると、ティリーは微笑んで答えた。
405
﹁左様、左様。老骨にも何やら熱いものが込み上げてきますなぁ﹂
敵陣から太鼓の音が響く。威圧感を伴う重厚な足取りでアイゼン
シュタイン軍は接近を始めた。彼我の距離が二百メットほどに縮ま
った時、ティリーは大きく上げた片腕を勢いよく振り下ろした。
﹁放てぇっ!﹂
たちまち最前列の長弓隊がつがえた矢を解き放つ。斜め上方に向
やじり
かって放たれた矢は遥か上空で最初の勢いを失った後、慣性のまま
に飛びつつも鏃の重さに引かれて落下し、地面に至るまでに猛烈な
加速度を得て矢の雨の表現そのままに殺到する。圧倒的な破壊力を
得た矢はアイゼンシュタイン軍先頭の弩兵隊が構える大盾を半ば貫
通し、背後に隠れた弩兵を恐怖させた。
アイゼンシュタイン軍も黙ってはいない。矢の雨を受けつつも百
五十メットまで前進した弩兵達は巻き上げた矢を次々に直射し、放
った側から大盾に隠れて次の矢を巻き上げる。弩の矢は騎士甲冑を
も貫通する。放たれた矢に捉えられた長弓兵達が瞬時に絶命した。
彼らには身を守る大盾も、甲冑もないのだ。
しかし押しているのは圧倒的にバイエンの長弓隊であった。弩と
長弓では射出速度が違う。弩が矢を一本射つ間に、長弓は四本を放
てる。加えて射手そのものの数すらもバイエンが上だ。数にして十
倍以上の矢に晒された弩兵達の大盾はたちまち針ネズミも同然とな
って使用不能となり、射撃のために身を曝した弩兵は次々と全身に
矢を受けて絶命した。堪らず弩兵達は我先にと武器を投げ捨てて後
退する。その後ろから、前衛の総崩れなど目に入らないかのように
ヴィーザル率いる本陣が現れた。
406
﹁見事な勇気ですな⋮⋮﹂
矢の雨に怯むことなく悠々と馬上で指揮を執り、しかも誰よりも
前を行くヴィーザルは古きよき時代を代表するかのごとき壮麗さに
満ち溢れている。
﹁うむ⋮⋮殺すには惜しい勇気だが、勇者に手心を加えたとあって
は却って無礼よ。手厚く迎えよ﹂
頷いたティリーが更なる射撃を命じる。左右に陣取る長弓隊が一
斉に矢をつがえ、解き放った。今や全力で射撃するバイエン軍の矢
の雨の中を、ヴィーザル率いる本陣は慌てることもなく進軍した。
最も矢が集中したのは先頭を行くヴィーザルである。指揮官を倒
せば戦はそれでしまいだ。必然的に矢という矢が彼を射つが、余程
訓練されているのか矢に晒されても馬は動じず、馬上のヴィーザル
も堂々と先頭を歩かせる。当然、その身と馬体に数多の矢が殺到す
るが、いずれもが甲冑の表面を滑り、貫通することがない。
﹁特別誂えですか。あれは貫通しませんなぁ﹂
ティリーが感心した、というように呟く。甲冑も日進月歩だ。長
フリューテッドアーマー
弓が脅威と認識されて随分経つ。前面の装甲を増やし、曲面を多用
する他、表面に無数の溝を入れたマクシミリアン式甲冑は矢や刃を
滑らせる。後方の近衛も同じで、頑丈な甲冑は矢をものともしなか
った。しかしティリーの表情に焦りはない。
﹁それもいつまで持ちますかな?﹂
407
人間は鉄の塊ではない。動く以上非装甲部はどうしても出るし、
垂直に突き刺されば箇所によっては貫通する。そもそも重装甲なの
は一部の兵だけで、殆どは軽装だ。距離が縮まるごとに近衛兵はば
たばたと倒れ、ヴィーザル自身も周囲の近衛に促されて後退した。
矢の雨は今や最大限に降り注いでいた。貫通はせずとも衝撃力は
伝わる。歩くだけで疲労する重装の歩兵達は絶え間なく降る矢に目
に見えて動きを鈍らせ、歩調を乱していた。それでもどうにか距離
を縮めた彼らはついにバイエン軍を捕捉する。
﹁おお、近接したぞ。見事、見事﹂
ルードヴィヒがぱちぱちと手を叩く。ここまででバイエン軍の被
害は十人程度。対するアイゼンシュタイン軍は既に三百人以上が倒
れている。一昔前なら全軍壊走だ。とはいえ近接されては長弓も役
に立たない。
﹁では、こちらもお出迎えと行きますか。⋮⋮槍列前へっ!﹂
疲れ果てたアイゼンシュタイン軍の前に長槍隊が前進する。近衛
の兵達は僅かに躊躇するも、既に突撃命令は出ているのだろう。槍
を揃え、剣を構えて突っ込んでくる。
﹁叩けっ!﹂
槍組頭の号令に従って一斉に槍が振り下ろされる。アイゼンシュ
タイン側も負けじと繰り出すが、片や無傷の槍兵隊。片や矢の雨を
潜り抜けた疲労困憊の近衛。勝敗は明らかだった。槍の隙間をつい
て何人かが斬りかかるも、バイエン側も斧槍や剣兵を繰り出して応
対する。アイゼンシュタイン側は乱戦に持ち込まんと幾度も突撃を
408
敢行するが、バイエンの陣は乱れず、却って綻んだ戦列を衝かれて
甚大な被害を出した。
ニーズヘグ
﹁陣を構えて待ち受ける敵に対して愚直な正面突撃をかけるとは見
事な騎士道だ! 見事で⋮⋮無価値だな! 悪竜侯!﹂
ルードヴィヒが嘲笑する。リシニアでも騎士道は健在だが、現実
カヴァレリアルスティカーナ
を無視した古臭い部分には容赦ない嘲笑が浴びせられている。戦の
在り方が変わりつつある今、非合理性や根性論の類いは田舎武士道
と呼ばれていた。ヴィーザルの美しくも無謀な突進などはその典型
というべきで、繰り返される突撃に近衛兵達はぼろぼろになりなが
ら剣を奮い、槍を突き出す。統制が取れているのは奇跡と言えた。
普通ならばとっくの昔に崩壊している。
﹁後方の森から騎兵を迂回させました。それが来るまで持ちこたえ
ればこちらの勝ちですが⋮⋮この様子ですと、敵がそれまで持つか
どうか﹂
ティリーも笑う。骨はあったが若すぎた、と漏らしながらもその
表情は完勝の喜びを噛み締めていた。と、その時、角笛の音が敵軍
から鳴り響く。
﹁退却か?﹂
ルードヴィヒとティリーは目を見合わせる。ありそうな話だった。
敵は最早精根尽き果てている。であればこの機を逃すべきではない。
﹁よし、全軍抜刀! 突撃!﹂
槍兵は長槍をそのままに、弓兵は弓を捨てて剣を抜き、我先にと
409
走り出す。案の定アイゼンシュタイン軍は背中を見せて逃げ出す。
追撃こそが多くの敵を討ち取る好機である。バイエン軍が全軍で追
撃にかかったその時、逃げるアイゼンシュタイン軍の近衛が左右に
分かれた。そして、
無傷の徒歩傭兵隊が姿を現した。
3
ヴィーザルはしばしば諸侯から無能と嘲笑される。それは彼の行
った急速な改革と、軍事における猪突猛進ぶりからだ。
ルドルフの後押しを得て行われた領内貴族の大粛清は既存の組織
を破壊し、技術や知識の断絶をもたらし、行政の非効率を生んだ。
ヴィーザルの家臣団は他ならぬ彼自身の手によって解体され、代わ
りに知識も経験もない素人同然の若者達がその座に就く。
軍事においても同様である。彼の軍の指揮官達は軒並み若く、経
験に乏しい素人揃いで、伝統的な戦術について何も心得ていなかっ
た。また彼自身激しやすく過度に誇り高いため、古風な騎士のよう
に堂々と最前線に立って士気を上げることはできても、その戦術能
力には疑問符がつく。
だがこれらは何れも一面的な評価である。大粛清は既存の組織を
破壊したものの、代わってアイゼンシュタインを一枚岩に仕立てあ
げた。官吏にせよ軍人にせよ、ヴィーザルの家臣団は忠誠心という
ことにかけては全く不安がなく、大陸じゅう見渡しても、と言うほ
どにその団結は固く付け入る隙がない。
410
また若者達は門地ではなく能力を優先して登用されており、引き
上げられた喜びもあって熱狂的に職務に従事する。ミスを発見され
れば自刃し、戦とあれば我先にと敵陣に突撃する様は他の諸侯から
すれば狂気としか言いようがなかったが、彼らにはそうするしか忠
誠の示しようがなかったのである。
そしてヴィーザル自身の指揮能力に関しては問題にもならない。
そもそも主将を名門貴族が担当し、副将を能力に秀でたものから選
抜するのが五十年戦争末期以来のやり方であり、主将は士気を上げ
ればそれでよく、作戦は副将であるルナクルスが担当していた。
そして若手の指揮官達は、定石を心得ない反面、定石に囚われる
こともなかった。
﹁赤目隊⋮⋮﹂
ツヴァイハンダー
背に大剣を負った副将ルナクルスは、壊走する味方の合間に敵を
見出だした瞬間、叫んだ。
シュトゥルムアングリフ
﹁突撃!﹂
ツヴァイハンダー
絶叫と共に大剣を背負った千人が横一線に薄い隊列を組んで敵陣
に走る。既に突撃態勢に入っていた敵は出鼻を挫かれたたらを踏ん
だ。一気に距離を詰めた赤目隊は背負った剣を抜き放ち、槍に向か
って叩きつける。
﹁斬れ!﹂
槍と剣では本来槍に分がある。しかしそれは距離を置き、隊列が
411
乱れていなければの話だ。接近されては長槍は却って不利となる。
ツヴァイハンダー
赤目隊は次々と長槍を切断し、無意味な木の棒へと変えた後、練達
の剣術で槍兵達を薙ぎ倒す。重量があり、リーチがある大剣は槍に
は剣のように、剣には槍のように使える他、乱戦では圧倒的な威力
を発揮する。バイエンの陣は崩壊した。
﹁黄色連隊遅れを取るなーっ!﹂
崩壊した陣に注ぎ込むように後詰めの傭兵隊が殺到する。穂先を
揃えて突きだされた長槍は友軍である赤目隊ごと貫く勢いであり、
体勢を立て直さんとしていた敵は串刺しにされる。刺突の勢いでへ
し折れた長槍を捨てた黄色連隊の傭兵達は各々抜刀し、何事もなか
ったかのように突撃を続ける赤目隊に混じって殺戮を続行した。
バイエン軍は崩壊した。敵の側面攻撃を防ぐために障害物を三方
に配置したことは今や仇となり、逃げ場のない兵士達はひたすらに
殺戮に晒される。中には近接戦闘に秀でた兵もいたものの、全軍の
編成が長弓と長槍に偏ったバイエンでは圧倒的少数にすぎず、乱戦
下で大くが斬り死にした。
アイゼンシュタイン軍の完勝だった。
4
ティリーは絶望的な状況下でなお防戦の指揮を執っていた。後背
に派遣した騎兵隊が最早最後の頼みの綱である。本陣が壊滅した以
上勝つことはできなくとも、彼らが脱出の隙を作ってくれると信じ
る他なかった。
412
﹁騎士は囮、歩兵が本命⋮⋮!﹂
ありえない。絶対にありえない戦術である。身分の高い者を盾に
身分の卑しい者が突っ込んでくるなどあり得なかった。それを提案
する副将が狂気なら、それを受諾する主将は狂人だった。結果とし
てティリーは彼が嘲笑した真正面からのごり押しで粉砕されたのだ。
﹁騎兵はなぜ来ない!?﹂
迂回機動の最中に道に迷ったわけでもないだろうに、騎兵はいつ
まで経ってもやってこなかった。まさか、という思いが首をもたげ
る、その瞬間、
﹁ティリー伯か﹂
満身創痍のヴィーザルが血にまみれた剣を片手に現れた。
﹁バイエン公は離脱ずみか。まぁいい。⋮⋮騎兵隊を待っているな
ら無駄だ。既に黄色連隊が潰している﹂
想像が現実になったティリーは剣を抜きつつ周囲を見る。側付き
の兵は既に僅か。ヴィーザルは近衛兵を左右に従えている。
﹁消極的で定石を踏みすぎたな。自ら足を止めて機動の余地をなく
すなど⋮⋮。どのような戦術を取るか最初からわかっていれば、勝
ちようもある。予想外に損害も出たが、これで終いだ。普通に戦っ
ていれば、卿の勝ちだったろうよ﹂
ヴィーザルが剣を構える。周囲の兵は動かない。一騎討ちだ。テ
413
ィリーは自らがついに時代に置いていかれた事を感じつつ、剣を構
える。
﹁なるほど⋮⋮これだから戦は奥深い! この歳でまだ学べるとは
な!﹂
ティリーは十八合ほど刃を交わした後、ヴィーザルに討ち取られ
た。
バイエン軍はその根幹というべき兵力と名将ティリーを失い、二
度と立ち直ることがなかった。ルドルフはバイエンの没収を宣言し、
アイゼンシュタイン侯爵領を公爵領に格上げする。
バイエンの早期消滅と、リシニア内乱の急速な終結はリシニアの
みならず、アルヴェリア、エルヴンを大きく揺さぶることになる。
414
番外編 ヴァンガルの戦い 後編︵後書き︶
次回から視点を戻しますー
415
バイステリ、冬
1
アラエル達がアルビを越えて暫くした後、北方で大きな変化が生
じた。
領内での略奪、騎行に激怒したヴィーザルが大動員を下令し、バ
イエン公国に向けて進軍を開始。バイエンからの挑発を受ける形で
決戦を挑み、皇帝ルドルフもこれを追認、自らの近衛隊を派遣して
リシニア内乱の速やかな解決を図ったのである。
挑発したバイエンは名将ティリーの指揮のもとアイゼンシュタイ
ン軍とアセリア軍を巧みに分断し、ヴィーザルを自国内に引き込ん
で消耗させた後、二万の軍を動員して迎撃。対するヴィーザルは一
万五千の軍で真正面からこれにぶつかった。当初こそバイエン優位
で進んだ戦いはしかし、我が身を省みないヴィーザルの遮二無二の
突進によって逆転し、ティリーは戦死。バイエン公ルードヴィヒは
逃亡したものの、一枚看板に等しい軍勢とティリーを失った影響は
強く、バイエンの街や城は次々と開城を余儀なくされ、バイエン公
都ミューラを落とされるに至り、バイエン公国は消滅した。今やリ
シニア唯一の皇帝となったルドルフはバイエンを没収して直轄領と
し、アイゼンシュタイン侯領を公爵領に格上げしてバイエンの残党
を共に叩いている。
以上の情報は当のルドルフが積極的に広めたものである。虚が実
となり、実が虚となるのが情報の恐ろしさであり、負けた戦を勝ち
と宣伝して挽回する例は過去にもある。虚報が出回らないうちにと
416
手を回したのだろう。話題そのものの衝撃性も手伝ってこの噂は急
速な拡散を見せていた。
﹁総勢三万五千の大会戦!?﹂
アラエル達の後を追いかけてきたこの噂は、バイステリの人びと、
特に政治家達の度肝を抜いた。
﹁破綻寸前のアセリア、などと⋮⋮。なんという大兵力だ。これが
北の大諸侯達の実力⋮⋮!﹂
行政府で催された会議の席上でマキリが呻く。注目すべきはアイ
ゼンシュタイン軍が皇帝の援軍との合流に失敗し、なおかつ都市や
地方の城塞に籠るバイエン軍と相対するために多数の兵力を国境に
張り付けているということである。それでもなおアイゼンシュタイ
ン軍には一万五千の兵を動員するだけの力があるのだ。周辺の中小
諸侯も含んでいるにせよ、十二都市全てかき集めて一万五千の北部
都市連合とは桁が違う。圧倒的軍事力でありながら、しかもそれは
北方では決して珍しくないのだ。
﹁アルヴェリアが攻めてくるとなれば、一体どれ程の⋮⋮!﹂
そのアイゼンシュタインを従えるアセリアですら恐れるのがアル
ヴェリアだ。今更ながらに大国の恐ろしさを知ったマキリは禿頭を
抱える。
﹁⋮⋮これは望ましい展開になりそうですね﹂
狼狽える政治家や傭兵達のなかで、一人冷静さを保っていたのが
アルフォンソだ。その言葉にその場の全員が視線を送る。
417
﹁アセリアがこうも見事にバイエンを下すとは、私も想像しません
でした。少なくとも来年いっぱいは続くと予想していたのです。そ
れが覆った。これはアルヴェリアには大きな衝撃のはず﹂
大陸の地図を眺めながらアルフォンソは説明する。次第に全員が
引き込まれていった。
﹁安全地帯と見込んだ側面が突如として最大の危険地帯と化したの
です。エルヴンどころではないでしょう。油断は禁物ですが、事に
よると戦争そのものが遠退くかもしれません﹂
おお、と一同がざわめく。それを見てやや楽観的に過ぎると思い
直したのだろう。アルフォンソはもっとも、とつけ加えた。
﹁理性的に動くのが人間とは限りません。状況は未だ不透明。最悪
を考えて行動しましょう﹂
2
バイエン敗退の報はバイステリの街でも大きく噂されていた。市
井では未だ戦争の脅威は遠く、北方での戦いも庶民にとっての刺激
的な噂話に過ぎず、ただ両軍あわせて三万五千という大軍の衝突が
驚きを以て語られてた。
﹁三万五千か。後方の要員を含めれば間違いなく五万を越える。凄
まじい数だな⋮⋮﹂
418
仕出し女のアラエルにも現実味は湧かない。余りに常識はずれな
のだ。訓練を終えた傭兵達の衣服を灰を水に浸した灰汁で洗いつつ、
世間話のネタにするアラエルに危機感は薄い。隣で洗濯をするエル
ナのほうがまだしも危険を感じていた。
﹁そんなに大勢の兵隊が集まって戦うなんて⋮⋮。ロビン様大丈夫
かな。その内アルヴェリアの王様が攻めてくるって私、聞いたよ﹂
不安そうにエルナは目を伏せる。最前線のアイゼンシュタインで
生まれ育ち、村を焼かれたエルナはアラエルより余程戦争の恐ろし
さを知っているのだ。それを見てアラエルも考え直す。
﹁⋮⋮アルフォンソ隊長は底知れないところがあるが、恐ろしく頭
が切れる。私達に出来ることは限られているが、信じよう﹂
力を持たない女の身に出来ることは少ない。エルナはこくりと頷
いた。そのまま暫く無言のまま二人は洗濯を続けて、物干しに絞っ
た肌着を干していく。風に揺れる大量の肌着は何やら船に張られた
帆のようで美しかった。
﹁ところでエルナ、バイステリはどうだ? 慣れたか﹂
暗くなった気分を一掃する意味を込めてアラエルが訊ねると、エ
ルナは魅力的な笑顔で答えた。
﹁うん、みんなよくしてくれるからね。それにとっても大きくて人
が一杯いて、ビックリしちゃった。とっても華やかなところなんだ
ね。都会って! アラエルもたしかここの育ちじゃないんでしょ?
最初に来たときはびっくりした?﹂
419
アラエルは薄く微笑む。そう、彼女もここに始めてきたときは︱︱
︵⋮⋮妙だな、寧ろ小さいと思ったような︶
なにと比べて小さいと思ったのかと思うと笑えてくる。バイステ
リはエルヴンでも有数の都市だ。大陸でもこれより大きな都市はそ
うあるまい。自分の知る限りではこれより大きな街などヴィエナぐ
らいしかない。そう思い直したアラエルは怪訝な表情のエルナに慌
てて答える。
﹁ああ、私も初めて来た時は驚いた。こんなに人がいるのだからな﹂
それを聞くとエルナはしきりに首を上下に振った。視線の彼方で
高くそびえるバイステリは田舎者にはいかにも巨大だ。普段はアル
フォンソの領地である傭兵街で仕事し、寝泊まりするとはいえ、バ
イステリとの繋がりは深いのが傭兵街だ。エルナも既に何度もバイ
ステリを訪れ、将来入居すべき家屋など物色しているという。
﹁それにしてもアラエル変なの! まるで殿方みたいな話し方が地
なんだね!﹂
おかしそうにエルナはくすくす笑う。何の気なしに喋っていて虚
をつかれたアラエルは目を丸くした。
﹁む⋮⋮そういえばいつのまにか素だったな⋮⋮﹂
﹁別にいいよ。私なんて最初から馴れ馴れしかったし。それになん
だか格好よくて似合ってるからね。惚れちゃいそうー﹂
すりすりとわざとらしく身を寄せてくるエルナをアラエルは苦笑
420
しながら押し止める。
﹁私にその気はない。異端審問で焼かれるぞ﹂
エルナは舌を出してこれまたあざとく笑って見せる。アラエルは
溜め息をついた。
﹁ところでなんでそんな口調が素なの? 回りが男兄弟ばかりだっ
たとか?﹂
﹁ああ、それは﹂
何故だっただろうか、とふとアラエルは考え込む。何故自分はこ
んな口調なのか、霞がかって思い出せない。難しい顔をして考え込
むアラエルにエルナは何か複雑な事情があると察したらしい。ごめ
んね、と申し訳なさそうな顔をして謝る。
﹁いや、いい。あまりにどうでもいい理由だから言ったものかどう
か悩んだだけだ。⋮⋮素で話したのは今のところエルナとエーリヒ
の二人だけだな。よければこれからも気安く喋らせて欲しい﹂
エーリヒと同格と言われて嬉しかったのか、エルナはぱっと表情
を輝かせる。
﹁うん! これからも色々教えてね、せ・ん・ぱ・い!﹂
ころころと表情の変わるエルナに、アラエルは自分が男なら惚れ
ているな、とロビンの幸福を祝する。そこに訓練を終えたエーリヒ
がやってきた。
421
うち
﹁おーい、飯の時間だぞ。二人はこれで上がりか? アラエルは代
書人をやらせろって騎兵隊のばかどもが煩い。俺は遅くなるから今
日は一人で帰ってくれ。最近は次から次へと新しい騎兵が来て訓練
がおっつかん﹂
丁度干し終えた二人は目を合わせて頷き、野外炊事場へと歩き出
す。
﹁あっ、ロビン様!﹂
やがて視線の彼方にロビンを見いだしたエルナは手を振りながら
駆け出した。
﹁アラエル、また後でね! 私にも文字を教えてねー!﹂
くるりと振り向いてそう言うエルナを微笑ましく見つめつつ、ア
ラエルはふと気になったことをエーリヒに聞いてみた。
﹁なぁ、どうして私はこんな口調なのだ?﹂
問われたエーリヒは、目を剥いてアラエルを見つめた。
﹁おい、まだ冬だぞ。もうぼけたのか。お前散々私は男だって言っ
ていたじゃねぇか﹂
それを聞いたアラエルは目を丸くして驚き、それからくすくすと
笑いだした。傍らではエーリヒが心配そうにそれを見ている。
﹁ああそうか、そうだったな。男なら惚れているどころか男だった。
こんな事を忘れているとは⋮⋮﹂
422
﹁忘れてたってお前⋮⋮﹂
エーリヒの表情が曇る。反対にアラエルは疑問が氷解して清々し
い気持ちになった。
﹁どうせ今日も大した食事ではなかろうが⋮⋮。ないよりはましだ。
お前は午後からも訓練だろう? しっかり食べて働くがいい!﹂
曇った表情を吹き飛ばすためにアラエルはエーリヒの背中を大き
く叩く。押されたエーリヒはたたらを踏んだ。どうしてそんな曇っ
た表情をするのかアラエルにはわからなかった。
北方とは異なり和やかな日々が続く。アラエルは、こんな日々が
いつまでも続けばいいのにと心から思った。
423
忘却
代書人の仕事をこなしつつアラエルは法務手続き等の本にも目を
通す。当初こそ代筆が多かったが、中には真面目に公的文書を依頼
する者もいる。そうなれば最早文字の読み書きができるだけのアラ
エルにはお手上げであり、申し訳ありませんがバイステリに、とい
うより他はなく居心地の悪い思いをしていた。本は貴重品であり、
高価なものだが、北方で開発された活版印刷術が広がりを見せてお
り、今までの稼ぎをあらかた費やすことでなんとか購入できる程度
には安かった。
︵文字が読める程度で、慢心してはならないな︶
エーリヒも部下の装備を調えるのが大変だと日々ぼやいている。
その給料を聞いたとき、余りに多額なのでアラエルは目を丸くして
驚いたが、その実は自らの騎兵隊の装備を調えるための費用が織り
込まれていると聞き、納得したものである。エーリヒに限らず公金
と私金の境目は曖昧だが、本来傭兵の装備は全て自弁が基本で、更
に遡れば食糧や運搬のための馬車や人夫も個人で用意するのが基本
だったという。エーリヒも初めてバイステリで傭兵になったときは
装備の度合いを見られている。
︵あの分では蓄財もままなるまい。世話の焼ける事だ︶
いずれ大怪我を負うかもしれない。そうなればもう傭兵は廃業だ。
傭兵街にもそういう戦えなくなった廃兵がいる。アルフォンソはそ
ういった傭兵達を自らの街に取り込んで仕事を斡旋していた。とは
424
いえ収入は乏しい。いつまでもエーリヒに頼れない。寧ろ頼られる
ぐらいでなければ、とアラエルは独特の文法に目を回しながら熱心
にページをめくる。そうしていると不意に、からん、と音を立てて
扉が開いた。
﹁いらっしゃいませ、代筆ですか?﹂
いつの間にかすっかり板についた営業用のたおやかな笑顔でアラ
エルは出迎えるが、一瞬後には表情を苦いものに変える。
﹁ハンスさんですか﹂
ハンスは傭兵の中でもとりわけ酷い内容の手紙をアラエルに書か
せる客だ。アラエルもいい加減にこの世界に慣れてきた。自分が遊
ばれていると言うことはわかっている。仕事は仕事だから誠実には
やるが、皮肉げな目になってしまうのはどうしようもない。
﹁今日はどんな内容の﹃恋文﹄を書けばいいのですか?﹂
羽ペンを弄びつつそう言うが、帰ってきた答えは意外なものだっ
た。
﹁家族への手紙を頼む﹂
はっとしたアラエルは姿勢を正してハンスを見る。その表情は真
剣そのものだ。戦争の気配を誰もが感じ取っている。傭兵の多くは
国許に家族を残して出稼ぎに来た農家の次男以下だ。アルヴェリア
相手の戦となればただでは済まない事は北の事情をいささかでも知
るものであればわかるだろう。アラエルは真剣な表情でペンを握る。
425
﹁承ります﹂
これまでも何度かそういった筆記を行った経験がアラエルにはあ
る。家族や恋人、親友への手紙を書く都度、傭兵達がアラエルにと
って他人ではなくなり、名も知らぬ誰かから実態を持った人間へと
変化していった。文字を読めると言うのは何と業の深いことなのだ
ろうとアラエルは思う。人が本来踏み込むことのできない領域にま
で、必然的に足を踏み入れることになるのだから。筆記するアラエ
ルは文字の癖を極力おさえ、せめて自分と言う存在が手紙に介在し
ないよう気を払う。
﹁⋮⋮出来ました。確認のため、読み上げますか?﹂
ハンスは無言で首を振った。
﹁あぁ、ところでお前に頼みがあるんだが⋮⋮﹂
﹁頼みですか?﹂
アラエルは怪訝な表情になったものの、すぐに微笑む。
﹁私にできることなら、なんなりと﹂
戦となれば矢面に晒されるのがハンスのような末端の傭兵だ。戦
争が近いと思われる今、少しでも力になりたいとアラエルは思って
いる。ハンスはにやりと口の端を歪める。
﹁傭兵には昔から言い伝えがあってな、美人の毛を懐に入れている
と助かるんだとよ﹂
426
アラエルは興味深げに頷いた。ありそうな話である。この手の呪
術的信仰は大陸全土で信仰されるアノア聖教と入り交じり、奇妙な
がら自然な共存をしている。アノア聖教がいかに大陸を塗り潰そう
と、人の心の内にある素朴な信仰までは駆逐できないのだろう。ま
じない、占い、げんかつぎ。様々な形で呪術は世界に息づいており、
大貴族や名将と呼ばれる人々ですら大真面目にこれを執り行う。特
に命を賭ける傭兵たちの間では顕著にそれがあった。
﹁髪の毛ですか。お安い御用です。今抜きますね﹂
そう言ってアラエルが銀髪に手を伸ばすと、ハンスはそれを押し
止めた。
﹁違う違う。そっちの毛じゃなくてな⋮⋮﹂
﹁髪の毛ではない?﹂
怪訝な顔のアラエルにハンスは手招きをする。釣られてアラエル
は頭を寄せた。
﹁役立つのは髪の毛じゃなくてだな⋮⋮﹂
内緒話をするようにハンスが囁いたその時、
﹁そこまでだーっ!﹂
仕事場の扉が勢いよく開き、バイステリの華麗な騎兵服に身を包
んだ三人ほどの男達がどかどかと踏み込み、ハンスを羽交い締めに
した。
427
﹁アグラヴェイン卿、ロビン卿、ユーウェイン卿﹂
ぽかんとした顔でアラエルが三人の騎士を見つめていると、中央
のアグラヴェインが高々に宣言する。
﹁我々は﹃無垢なるすれてない美しい淑女に余計な知識をつけずに
そのままにして遠くから愛でる騎士の会﹄。略して無垢な淑女を愛
でる騎士団だ! このむさ苦しくて暑苦しい男所帯に限られた美女
枠を無下に扱わんとする外道許すまじ! 鉄拳制裁してやる! 来
い!﹂
アラエルは壁際まで下がって信じられない者を見るような目でロ
ビンを睨む。睨まれたロビンは天を仰いだ。
﹁こいつ騎士道物語を読みすぎたんですよ⋮⋮﹂
騎士道物語と言うのはかなり一般的な書物で、安く手に入る大衆
娯楽だ。巷に溢れるそれらは中々馬鹿にできない出来の物もあるが、
大抵は騎士一人で百万の大軍を薙ぎ倒したとか、地下一千階の迷宮
を制覇したとか、そういう現実離れしたものである。
ともあれ、普段から騎士道を意識していることで有名で、実際に
崩れ落ちる寸前の修道院に突入してエルナ達を救いだしたことで大
いに男を上げた騎士アグラヴェインは、ついに騎士道を拗らせて彼
の頭にしかない騎士団を創設して僚友二人を巻き込んだらしく、ロ
ビンとユーウェインの二人は恥ずかしそうに目をそらしていた。
﹁まぁ、やってることは間違いではないのですけれどね⋮⋮﹂
ユーウェインが表から聞こえてくる悲鳴と殴打の音に半ばげんな
428
りしながら呟く。こちらにもアラエルは面識があった。珍しいアセ
リア騎士で、年の頃はロビンとそう変わらない。つまりアラエルよ
り年下だろう。エーリヒの部下の一人で、その関係でエーリヒと共
に何度か食事を家で振る舞ったこともある。欠食気味なのだ。彼ら
は。
﹁何故ハンスさんは殴られているのでしょうか? 何か彼が問題で
も?﹂
表から悲鳴が聞こえなくなった辺りでアラエルは訊ねる。ロビン
とユーウェインは共に視線を反らした。
﹁世の中には知らない方がいいこともたくさんあります﹂
まるでエーリヒのようなことを、と思いつつもそこに断固たる拒
否を感じ取ったアラエルはそれ以上の追求を避ける。多分知らなく
ていいことなのだろう。やはりハンスは油断のならない男だとアラ
エルは再確認した。
﹁ふぅ、片付いたぞ﹂
アグラヴェインが帰ってくる。やりすぎではないかと思う一方、
何かとおもちゃにされていた自覚が遅まきながら芽生えてきたアラ
エルは自業自得だとも思った。
きょう
﹁それで、卿達は何をしにこちらへ?﹂
まさか騎士が三人揃ってハンスを叩きのめしに来たわけではない
だろう。そう思って訊ねてみると、アグラヴェインとユーウェイン
はそっぽを向いて気まずそうな顔をした。
429
﹁この二人はアラエルさんの髪の毛が欲しいのですよ﹂
今度こそ髪か、とアラエルは呆れる。確かに世の中には過去の聖
人の遺髪のように高い魔術的効果を発揮するものもあるが、たかが
女の髪一つにそこまでの霊力が備わるとはとても思えない。騎士三
人集まって欲しがるほど大層なものでもなかろうと思ったが、二人、
と言うのに若干ひっかかりを覚えた。
﹁ロビン卿は?﹂
僅かに優越感を感じさせるように胸を張ってロビンは答えた。
﹁私は、エルナから既に﹂
それはそうだろう。ロビンからアラエルの銀髪でも出てこようも
のなら大騒ぎだ。くすりとアラエルは微笑んだ。
きょう
﹁わかりました。髪の一本、お安い御用です。なんの力もない女で
すが、矢や刀槍から卿達が守られるよう祈りましょう﹂
そういって銀髪を抜くと、恭しくアグラヴェインはそれを受け取
った。大袈裟な、とアラエルは若干困る。
ぐし
﹁お髪に賭けて誓おう。貴女とバイステリを守ると﹂
高らかに宣言するアグラヴェインは大真面目だが、相変わらず浮
いていて滑稽だ。僚友二人もそっぽを向いている。ただ、ユーウェ
インは受けとるものは受け取った。
430
﹁私にはまだ恋人がいませんが、貴女のような人が恋人ならよかっ
たと思う。だから今はこの髪をお守りにさせて頂きますね﹂
面と向かってそう言われると流石にどう返したものかアラエルに
ひと
はわからない。所在なさげに視線をさ迷わせていると、ユーウェイ
ンはやがて吹き出し、﹃可愛らしい女だ﹄と言った。その気障な態
度に、アラエルはユーウェインがアグラヴェインとは違う方向で騎
士道物語を読みすぎたのではないかと推測する。
﹁こんなことならもっと丹念に髪を手入れしておくのでした。この
程度ならお気軽にと他の騎士の方にも⋮⋮﹂
何やら和やかな気持ちになったアラエルがそう言ったところで、
仕事場の戸が音を立てて壊れた。何事かと視線をやると、そこには
大勢の傭兵や騎士達が雪崩れるようにして転がっていた。ハンスも
いる。話をずっと聞いていたらしい。
﹁⋮⋮前言撤回で﹂
その後、雪崩れてきた傭兵達を叱り飛ばして戸を直させていると
エーリヒが迎えにやってきた。アラエルを心配して帰ってきたとい
うエーリヒに、アラエルは相変わらず過保護な、と呆れる。だがエ
ーリヒは真面目な表情を崩さなかった。
その日、アラエルはエーリヒから多くの質問を受けたが、殆どは
知るはずもない事だったので、答える事ができなかった。何故自分
を男と思うのか、という質問はその最たるもので、とにかくそんな
気がするとしか返しようがなく、しかも最近はそうも思わなくなっ
てきたと言うと、エーリヒは難しい顔をして自室に引っ込んだ。
431
妙なやつ。そう思ってアラエルはその日を終えた。
432
全てを忘れたお姫様
1
ヴァンガルの戦いからひと月。バイエン公国は完全に征服された。
リシニア皇帝は今やルドルフただ一人となり、バイエン公ルードヴ
ィヒは帝国追放刑を受けた。バイエン内にはルドルフとヴィーザル
による粛清の嵐が吹き荒れ、領主が、騎士が、市民が次々と裁判に
かけられ、領地や財産を、時には命を没収される。これほどの苛烈
な処置は前例がなく、リシニア中が恐怖に震えあがる。
アルヴェリアに対して隙を見せられない焦燥が、極端な政策にア
セリア首脳部を走らせていた。特にバイエンとの戦いで主力を務め
たアイゼンシュタインは疲弊しており、大動員に伴って領内の治安
が悪化した他、破産宣告一歩手前まで追い込まれていた。財政難か
ら傭兵隊を即時解雇したヴィーザルに手持ちの兵力は近衛隊と若干
の傭兵しかなく、最早戦える状態ではない。
しかしその鮮やかな勝利は、アルヴェリアを揺さぶるに十分だっ
た。
﹁戦略を練り直す必要があります﹂
アルヴェリア王都ピーリス、テルリー宮殿にてこの国の頭脳を担
う者達が地図に目を落としていた。高級貴族達が集う中、小身であ
りながらただ一人この場に列席を許されているグライーは、緊張し
た面持ちで全員に現在の状況について説明する。
433
﹁来年まで決着することはないと思われていたリシニアの内乱に決
着がつきました。ルドルフは国内を固めにかかるでしょう。それだ
けではありません。我々の脅威に晒されたエルヴンから、ルドルフ
に同盟の申し入れがなされました﹂
列席する貴族たちの間に動揺が広がる。誰も彼もが青い顔をして
いた。彼らが見つめる地図の色は、今やアセリアの勢力圏一色に塗
りつぶされている。それに比べてアルヴェリアの勢力圏などは小さ
く、貧相なものにしか見えなかった。
﹁包囲網が、完成しつつあります。まさか我々の侵攻を逆用してエ
ルヴンに浸透するとは。皇帝ルドルフ、恐るべしと言わざるを得ま
せん﹂
実際のところルドルフにアルヴェリアと戦うだけの力はない。包
囲網は形だけのもので機能不全を起こしており、アセリアそのもの
は破綻寸前、エルヴンとの同盟はアルヴェリアに怯える者同士が組
んだ防衛協定に過ぎず、第一の家臣でありアセリアの武の象徴であ
るヴィーザルは財政難から戦力を失っている。せめて一息つきたい
というのが本音で、このタイミングでの戦争を望むものなど一人も
いないのだ。
だがそんな事はアルヴェリアにはわからない。高貴なオーラと華
麗なページェントで周辺諸国を威圧し、実態以上に自らを強く装う
事で侵攻を思いとどまらせるのがアセリア伝統の戦略だったが、今、
それは完全に裏目に出ていた。圧倒的な軍事力と資金力を持つ幻想
のアセリアにアルヴェリアの首脳陣は恐怖していたのである。
﹁一刻の猶予もありません。敵の準備は整いつつあります。座して
滅亡するよりは、先に仕掛けるべきです﹂
434
場に居合わせた貴族達が一斉に頷く。こうしてアルヴェリアによ
る武力侵攻は既定の方針を大幅に変更しつつも、ルドルフやアルフ
ォンソの思惑とは裏腹に、予定通り春には行われることが決定され
た。
2
女の仕事にも色々ある。養鶏や糸紡ぎなどは言わば定番だ。だが
技能があればもっと実入りのいい仕事もできる。案外自分が器用な
事を自覚したアラエルは代書の他、針仕事にも手を出していた。冬
場とあって外出するよりは家の中でいることも多い。刺繍のような
針仕事は打って付けの仕事だ。
﹁少しは慣れてきたか?﹂
西日に照らされる花柄の刺繍に薄く微笑みながらアラエルは針を
走らせる。服装統制が厳格で、庶民が使える色や素材に限りがある
世の中、刺繍の需要は高い。余りに華美なものは非難に晒されるも
のの、襟元や袖などに素朴な刺繍を施された衣服は身なりに気を遣
う市民に愛好されていた。中古品でも新たに自分好みの刺繍を施し
てほしいという声はあり、アラエルは刺繍を副業にしようとしてい
た。
﹁だがまだまだだな。また明日、エルナに教えてもらわなければ﹂
針にも慣れてきたアラエルだが、繕い、補修すればいいだけの今
までの仕事と違って刺繍に必要なのはお洒落のための針遣いだ。繊
435
細で丁寧な仕事でなければ申し訳なくて金を取る事はできないと思
うアラエルはエルナから教えを受けながら暇な時間に特訓していた。
よく見れば型紙に比べて歪さが目立つ。これでは売り物になるまい、
とアラエルはため息一つ吐く。そうして物思いにふけりながら次の
箇所に取り掛かろうとしていたからだろうか、針が指を突いた。
﹁痛っ⋮⋮﹂
きれ
たちまち赤い血が溢れ、布を汚す。慌てて口元に指を含もうとし
ガーネット
て傷口を見たアラエルは、流れ出る血にしばしぼうっとする。
あか
流れ出る血の朱さは柘榴石のようで、単純な赤ではなく、深さと
生々しさを併せ持つ。滴り落ちる様は上等のワインで、甘い香りで
も漂うようだ。味わえば、あるいは甘美な味がするかもしれない。
そう思ってアラエルは口元に指を運んだ。
﹁⋮⋮鉄の味だ﹂
不満げに顔が歪む。美味そうに見えても自身の血に魅力はない。
自らを傷つけて喜ぶ吸血鬼などいないのだ。彼女にとって魅力的な
のは飽くまで他人の血だ。自分の血で満足できるのなら、苦労はし
ない。妙な渇望を久々に感じてしまったアラエルは頭を振ってその
思いを打ち消すと、手早く止血をして刺繍に戻った。しかし針は定
まらず、集中は途切れがちになった。
﹁だめだな、これは﹂
ここのところ内側から湧き出るような衝動はないとはいえ、不意
に血を見ると渇きに喘ぐ。おとなしくやめてしまおう。そう思った
ところで仕事場の戸が叩かれる。規則性のある叩き方からエーリヒ
436
だとわかったアラエルは返事をしながら扉を開けに歩く。変な気持
になりかけていただけに、内心安堵していた。
﹁最近は早いな。まぁ私は嬉しいが、仕事はいいのか?﹂
扉を開けると、そこにいたのは果たしてエーリヒであった。アラ
エルの言葉を聞くとエーリヒは面食らったような顔をして視線を反
らす。何か変な事を言ったか、とアラエルは首を傾げる。
﹁私は嬉しいがって⋮⋮まぁ、別にいいんだが﹂
言われて気づいた。余りにあけすけに好意を表現している。アラ
エルの主義ではない。
﹁⋮⋮失言に気付いたなら、指摘するな﹂
お陰様でお互い気まずいだろうが、という意味を込めてそう言う
と、エーリヒは視線を反らしたまま、気まずそうに頷いた。自分の
事を棚の上に上げていたアラエルは若干後ろめたいものを感じなが
らも仕事場の錠を落とし、夕日の沈む町に出て帰路につく。
﹁怪我か?﹂
止血したばかりの指を見たエーリヒが指先を縛っているのに気付
く。アラエルは家に持って帰ってから仕上げるつもりだった刺繍を
ポシェットから取り出した。
﹁副業を開拓する積もりでな。修行中というわけだ﹂
半ば得意げにそう言うと、エーリヒは半ば感心し、半ば呆れたと
437
いうように笑う。
﹁お前、順調に女を磨いているのな⋮⋮﹂
﹁ああ、私にできることは少ないからな。代書でも刺繍でもやって
お前の役に立ちたいと⋮⋮﹂
アラエルは最後まで言うことができなかった。きっと笑っている
だろうと思って見上げたエーリヒの顔が曇り、不安げなものだった
からだ。
﹁私は男だ、が来ると思ったんだがな﹂
言われてアラエルは気付いた。また忘れている。最近は笑い事に
ならない程の頻度で自分の本来の性別を忘れていることが多かった。
そもそも自分が男という確信すらない。
︵私はどうしたんだろうな︶
沈黙したまま残りの道中を共に歩み、無言のまま二人は家に帰っ
た。
2
家に帰ると、アラエルは炊事を始める。食事といっても貧しいも
のでしかない。白パンは貴族のもので、庶民は大麦やカラス麦から
作られた固い黒パンが主食だ。だがこれだけでは栄養が足りない。
必然的に野菜や肉が必要となる。場合によっては纏めて粥にするこ
438
ともあり、それが最も手間がかからないのだが、日々がそれでは余
りにも食事に彩りがない。豆のポタージュや豚肉のシチューなど、
工夫の仕様はある。豚は近辺の森林に放たれており、庶民でも塩漬
け肉はそれなりに安価で購入できた。もっとも新鮮なものとなれば
それなりに値は張るし、古いものは肉に限らず酷い悪臭を発するた
め香辛料がまた必要となる。慣れはしたとはいえ、洗練とは程遠い
栄養補給のための貧しい食事にアラエルは苦笑したが、直後におか
しい、と思う。
︵思えば、私は何と比べてこの食事を貧しいと思っているのだろう
か?︶
今まで気にならなかったのが不思議なぐらいだったが、一度気付
けば次から次へと妙な事が思い浮かぶ。バイステリが小さく見える
のは何故か。どうして風呂がない事を不満に思うのか。極端なまで
の清潔感への憧れはどこから来るのか。そして死というものに対す
る慣れのなさは、一体何故なのか。そうやって物思いに耽っていた
からだろうか、気付けば肉を切り分けるナイフ捌きをしくじり、ま
た指を傷つけていた。
﹁あ⋮⋮﹂
血が流れる。その様にまたアラエルはうっとりとした。引きずら
れるな、もう慣れてきたはず、そう思って止血しようとしたところ
で大きな影がアラエルを覆う。
﹁⋮⋮最近吸っていないからな。俺のでよけりゃ、吸え﹂
ぶっきらぼうにエーリヒはそう言うエーリヒにアラエルは顔を赤
くする。
439
﹁⋮⋮どの辺りから見ていた﹂
﹁ぼーっとしだした辺りだな﹂
不満げにそうか、とアラエルが返すとエーリヒはナイフを腕に宛
がう。
﹁最近様子が変だからな。少しはなんだその、心配した。血が不足
していたのなら、構わないからいつでも言え。お前がそんな状態だ
と困る﹂
ため息ひとつ吐きつつ、エーリヒは安心したように微笑む。アラ
エルも笑った。まったく、詰まらないことで心配をかけた。そうい
えばもう一月は飲んでいない。そろそろ遠慮なく世話になって、顔
を白黒させるのを拝むとしようか。そんな気持ちでエーリヒの腕を
見た時、気付いた。
痕になって残る、いくつかの傷跡を。
﹁エーリヒ、やめろ!﹂
今まさにナイフを滑らそうとしていたエーリヒはその声で手を止
める。ナイフが手から離れて床に落ちた。エーリヒは目を丸くして
アラエルを見つめる。
﹁おい、驚かせるなよ。深く抉ったら流石に困るだろ。ああもう、
床に落ちちまった。ワインで拭くか。勿体ねぇ⋮⋮﹂
ナイフを取ろうとするエーリヒの手をアラエルは握って止める。
440
その目にエーリヒは徐々に表情を真剣なものに改めた。
﹁⋮⋮今更だろ? それにこちとら傭兵稼業だ。切った張ったは日
常だ。怪我のひとつや二つ、どうでもいい。お前もその辺は承知し
ているだろう?﹂
傭兵にとって日常生活ですら生傷は耐えない。いや、傭兵だけで
はない。乾いた死生観を持つ人々にとって、死の危険性があるほど
苛烈な訓練など日常生活の中に取り込まれているのだ。そんな中で
ナイフで薄くつけた傷など大した意味を持たない。そんな事はアラ
エルも知っている。だが、何故か、
﹁⋮⋮もういい。そう無造作に私の前で傷をつけるな﹂
今更ながら、もうそんな事はして欲しくないと、アラエルは思っ
ていた。
﹁俺は、寧ろお前の様子がおかしいほうが余程困るんだが⋮⋮﹂
そう言われてもアラエルはもう血を吸うことなどできない。いつ
の間にか人の心が復活したのだろうか、と自問するが、答えは出な
かった。
﹁⋮⋮なぁ、アラエル﹂
エーリヒは少し躊躇した後、思い切ったようにアラエルを見つめ
た。俯いていたアラエルはつられて見つめ返す。
﹁お前は、どこから来た?﹂
441
驚いたアラエルはびくりと体を震わせて後ずさる。どこから、そ
う、どこから生まれて来たのか。気付けばバイステリ近郊の森にい
たのは覚えている。だが、それ以前にも何かがあったような気がし
ていた。
﹁去年、初めて会ったころ、お前はよく﹃何か﹄、といろんな事を
比較していた。俺が知らないような事も知っていた。とても生まれ
たてには見えなかった。名前にしてもそうだ。何か別の名前がある
ような目をしていた。だから俺は思ったんだ。きっと悪魔界だか、
天界だかからやってきて、そこと比較しているんだってな。だが、
最近は比較しないな。﹃この世界では﹄とも言わなくなった﹂
エーリヒの表情が辛そうなものになる。問えばきっとよくない事
になると思っているのだろう。アラエルは表情を強張らせ、両手で
頭を抱えた。
﹁⋮⋮気付いたのはちょっと前だ。聞くのが怖くて聞かなかった。
できる事なら血が不足しているんだと思い込みたかった。だがもう
限界だ。お前、まだ覚えているか?﹂
アラエルは思い出した。何もかも忘れ果てている事を、やっと思
い出したのだ。名前はエーリヒが付けてくれたもの。その前の名前
はわからない。今も微かに頭に残る知識はどこで手に入れたものな
のか。そもそも自分はどこからここに来たのか。もうアラエルには
全く思い出せなかった。男か女かどころではない。自分というもの
が霞がかっていた。
﹁⋮⋮私は、誰だろう?﹂
言ってみると、酷く心細くなった。暗闇の中でひとりぽつんと立
442
ち尽くすかのような錯覚をアラエルは感じる。自分が確かめられな
い。そう思うと目の端に涙が溜まった。
﹁私は⋮⋮私は⋮⋮﹂
消え入りそうな声で不安げにおののくその細い身体をエーリヒが
そっと抱きとめた。
﹁⋮⋮泣くな。済まん、もっと早くに気付ければよかった﹂
それでようやくアラエルは自分の存在を少しだけ確かめる。今は
ただエーリヒが頼もしかった。
﹁話してみろ、聞いてやるから﹂
3
﹁あぁ、思い出した。そういえば味噌汁という料理もあったな﹂
唐突にアラエルがそういうと、エーリヒは呆れたような声を出し
た。
﹁こんな時に思い出すなよ。風情のないやつだな﹂
仰向けに転がりながらアラエルは指折り数える。その表情からは
憧憬と諦めが伺えた。
443
﹁話の流れは私の記憶に関してだっただろう? 少しばかり中断し
たが、まぁ些細なことだ﹂
傍らで溜め息をつきながらエーリヒはアラエルの髪をすく。銀髪
が月光に煌めいた。
﹁で、色々思い出せたか?﹂
アラエルは寂しげに頭を振った。
﹁大抵は言葉だけで意味までは忘れている。味噌汁は料理というこ
とはわかるが、製法までは知らんから無意味だな﹂
そうか、とエーリヒが返事をすると暫く沈黙が落ちる。不意にア
ラエルは横を向いてエーリヒを見つめた。視線を感じたエーリヒも
横を向いて視線を合わせたが、やがて照れ臭くなったのか、視線を
天井に戻した。
﹁⋮⋮私の勝ちだな﹂
﹁なんだそりゃ﹂
一人勝ち誇るアラエルにエーリヒは呆れる。だが不敵な笑みを浮
かべるアラエルはお構いなしに勝利宣言を続けた。
﹁こういうときに灯りを消せだの目を反らせだの言うのは私の役割
だろう? 意気地がないな、騎士殿﹂
﹁さっきまで泣いていた癖に今はなんでそんなに余裕なんだよお前
⋮⋮﹂
444
負けを認めるようにそっぽを向いてふて腐れるエーリヒの背中に
アラエルは抱き付いた。
﹁ああ、それは簡単な理屈だ。つまりな﹂
くすくすと笑いながらアラエルは耳元に囁く。
﹁お前がいるからだ﹂
言われた方は溜まったものではないらしい。頭をわしわしと掻き、
恥ずかしさを誤魔化していた。アラエルは悪戯心を覚える。
﹁︱︱もう一回、するか?﹂
﹁お、お、お前なぁっ⋮⋮!﹂
振り返ったエーリヒの表情からは瞬時に色々な感情を読み取った
アラエルは尚更楽しい気持ちになってくすくす笑う。少し前の不安
は消えていた。
︵ああ、もう⋮⋮︶
過去がわからなくても、記憶が消えても、体力が日に日に弱体化
しようとどうでもいいとアラエルは思う。今ここに、最も頼れる人
がいるのだから。
︵淫魔で、いいや︶
こうこうと月は照り、僅かに雪も降る。そんな夜のことだった。
445
全てを忘れたお姫様︵後書き︶
詳細はノクターンの方の﹃月の光﹄で。
いえ、詳細っていうほど詳細でもないけど・・・
446
閲兵行進
1
翌朝、アラエルは早目に起きるとエーリヒを起こすことなく手早
く朝食を整えると、いそいそと外出した。理由はただひとつ、恥ず
かしかったからである。
︵や、やりすぎた⋮⋮︶
元から好意は感じているし、それを心地よくも思っている。エー
リヒも鈍くはない。アラエルの好意は感じ取っているだろう。だが、
それにしても昨晩はやり過ぎたと今になってアラエルは大いに後悔
した。違う意味で顔を見たくない。冷静になるととてもそんな気持
ちになれない。昨日思い出したばかりのサンドイッチもどきを鬼の
ように固い黒パンと余りの豚肉、レタス等で作り、野菜のスープを
でっち上げると鞄を持って慌ただしくバイステリへアラエルは向か
った。本職の代書人に彼女は弟子入り志願をしている。仕事のない
時を見計らって助手をやりながら実地で仕事を覚えるのだ。
︵余り目立つのもよくないし、ここらで私もバイステリに取り込ま
れるべきだろう︶
仕事は師匠について覚えるのが一般的である。知識や技能の継承
は主として口頭や実地教育で行われ、仕事そのものも師匠の縁故か
ら紹介されていく。その過程で新参の者達は伝統的な枠組みの中に
取り込まれ、義務と引き換えに保護を受ける。この仕組みが大規模
になったものを、ギルド或いはツンフトと呼んだ。
447
代書人にギルドは存在しないが、代書人アラエルは少しばかり有
名になりすぎている。アルフォンソの傭兵街でのみの営業とはいえ、
バイステリの代書人にとっては余り面白い話ではないだろう。まし
てアラエルは代書人に必要とされるスキルを備えていない。その意
味でも本職の者からすれば苛立つ話であり、問題化する前にとアラ
エルは弟子入りを志願していた。
︵やはり人間真面目に働かねばな。何れはエーリヒも剣をとらなく
なる日が来るだろう。私とて仕出し女をいつまでも続けるわけにも
いかん。そう、真面目に働かねば!︶
昨夜の事を振り払うべく敢えて真面目に、真面目にとアラエルは
己の内で繰り返すが、それは逆に昨夜の事を強く意識させてしまう。
しまったと思ったときにはもう遅かった。囁いた睦言、体温の暖か
さ、淫靡な時間がありありと脳裏に甦り、瞬時に顔を紅くさせる。
堪らずアラエルは乗っていた騾馬から飛び降りて両頬を打ち、
﹁あーーたーーらしーーいーー朝が来たーー!﹂
平野のど真ん中で大声で歌いながら体操をすることで健康的に淫
靡な気持ちを追い払った。
2
﹁つ、疲れた⋮⋮!﹂
バイステリに着いたとき、アラエルは半死半生だった。言うまで
448
もなく体操の繰り返し過ぎが原因である。傭兵街からバイステリに
向かう者は多く、大勢がアラエルの奇行を目にしたわけだが、珍し
くはあっても今に始まったわけではないために見過ごされていた。
それどころかアラエルの体操はその合理性が着目され、傭兵隊で謎
の普及を遂げている。身体を動かすという事にかけて傭兵はプロな
のだ。時おり行うこの奇行のせいでアラエルに対する周囲の評価は
少し残念な美人となっている。
﹁それにしても朝も早いのに騒がしいな⋮⋮?﹂
代書人の師匠を探すアラエルはバイステリの活気に疑問を覚える。
人口五万の大都市とはいえ、常日頃から賑わっているわけではない。
だというのにこの日は、大勢の市民が外に出て騒がしかった。
﹁あ! アラエル!﹂
背中に聞き覚えのある声が掛けられる。溌剌とした声は間違える
筈もない。アラエルには数少ない同年代の友達であるエルナのもの
だ。振り返れば少し慌てた様子でエルナはアラエルに駆け寄ってき
ていた。
﹁お早うエルナ。今日は兵舎にいかなくていいのか?﹂
そう言うとエルナは表情を若干ひきつらせながらおそるおそると
言った風に訊ねる。
﹁今日は街の傭兵隊の閲兵が市内であるから、私達は皆お休みなん
だけど、もしかしてアラエル、忘れてた⋮⋮? エーリヒ様の姿が
ないから探してるんだけど、もしかして⋮⋮﹂
449
言われてアラエルは青ざめた。彼女が知るエーリヒの最後の姿は、
隣で寝ているところまでだ。放っておいても起きるだろうと放置し
てきたが、まだ来ていないとあればこれは責任問題だ。
閲兵式は兵の数と装備を点検する重要な式典だ。傭兵隊というの
は一般に汚職や腐敗が蔓延っており、一人で複数の隊に名前を変え
て登録し、給料を二重三重に受け取る猛者。支給された制服や装備
を売り払う不届き者。給料支給の時だけ出てくる幽霊隊員は珍しく
ない。そういった汚職を排除するため、全傭兵を一度に集め、一斉
点検を行う場が閲兵式なのだ。いかなる理由があっても欠席は許さ
れない。欠席即ち解雇である。
﹁お、起こしてくるっ!﹂
女と寝ていて遅刻しましたというのは考えうる限り最悪の理由で
ある。起こさなかった自分の責任とアラエルは慌てたが、その背後
から大きな影が差した。
﹁流石に起きているよ。慌てたがな⋮⋮﹂
振り返れば流麗な白衣団の騎兵服に身を包んだエーリヒが愛馬に
跨がりそこにいた。白地に金刺繍の施された上着に青い外套は美し
く、男振りを上げていたが、口許には今朝アラエルが用意したサン
ドイッチもどきの黒パンの食べかすが残っている。そのギャップに
アラエルとエルナは思わず吹き出した。
﹁なんだよ、二人して⋮⋮﹂
憮然とした表情でエーリヒは愚痴るも、視線から食べかすが残っ
ていることを知ったのだろう。情けなさそうな顔をして口許を拭っ
450
た。途端にアラエルは悲鳴をあげる。
﹁あぁぁ、馬鹿野郎。上等な上着の袖で拭うやつがあるか、それは
洗濯も難しいのに﹂
清潔の概念がアラエルとは違う男達は平気で袖やテーブルクロス
で食事の汚れを拭い、手掴みで料理を取る。野人じゃないのだから
道具を使えと言ってもそんな習慣はなく、指三本で食ってるから上
等な部類だろうと言われて絶句した程だ。傭兵ともなれば荒々しい
戦士そのものであり、騎士ですら礼儀作法なんのそのという態度が
より﹃男らしい﹄と見なされる風潮で、アラエルの抵抗は概ね無駄
に終わっている。
﹁お前の求める清潔というのは格が高いと思うぞ⋮⋮? さてと、
少し遅れちまったが、とっとと行ってくるか﹂
馬首を巡らせ、エーリヒは広場へと歩かせる。見送るアラエルは
ほっと胸を撫で下ろした。
﹁あぁ、そうだ﹂
不意にエーリヒは振り返り、アラエルに微笑む。
﹁お早うと、朝食ありがとうな。変わった飯だったが、馬上でも食
えた割には腹にたまって俺向きだった。面白い料理を知ってるんだ
な﹂
集合のラッパが響く、閲兵が近い。エーリヒは手綱をしごいた。
馬が乗り手に応えていななく。
451
﹁また、作ってくれ!﹂
それだけ言い残すとエーリヒは青い外套を風に翻し、疾風のよう
に去っていった。サンドイッチぐらいで大袈裟な。そうアラエルが
思っていると、エルナがにやにやと口の端を吊り上げながらアラエ
ルを見る。
﹁何かあったの? いつも優しいけど、エーリヒ様、今朝は特に優
しかったね﹂
言われてみればエーリヒらしくない態度だったとアラエルは思う。
妙な爽やかさが漂う態度で、思い出したアラエルは思わず吹き出し、
そして自分が特に意識することなく接していたことに気づく。
﹁教えない⋮⋮ことがこの場合は殆ど教えている事に繋がるのか?
まぁ、そう言うことだ﹂
その後アラエルは閲兵までの間、とりとめのないことをエルナと
話して笑いあった。
3
閲兵が始まった。点検官から点検を受ける傭兵は四千。これはバ
イステリ市の最大動員数であり、数としては中規模都市の人口に匹
敵する。都市と言っても人口千以下が殆どの世界にあって、四千と
いうのは破格の数字だ。一ところに集めればその威容は凄まじい。
実のところ閲兵には内外に向けての軍事的示威行為という意味が含
まれており、見物に集まったバイステリの市民達には安心感と誇り
452
を、群衆に紛れた密偵達には威圧を、そして参加する傭兵達には都
市への帰属心を与えることを目的としている。
﹁観閲行進始め﹂
バイステリの契約傭兵隊長アルフォンソの号令に従い、四千人が
市内を巡る。北方の大国が擁する近衛隊さながら、左、右と交互に、
狂いなく一斉に足を踏み出す傭兵達は何れも流麗に飾られながらも
己の武器を高々と掲げ、剣呑さと美しさを併せ持つ。市の服飾ギル
ドによって誂えられた彼らの制服は北方の近衛隊が着るような野暮
ったい実用一点張りのものではなく、最先端の流行を取り入れ、彩
りをふんだんに加えたもので見るものをしてため息を吐かせた。
まず槍兵が行く。四メットに及ぶ槍の林が延々と途切れることな
く移動する様は圧巻の一言であり、数としても最大多数を占める彼
らは正に軍の中核である。一斉に足を踏み出せば地面が揺れ、重い
足音が響き渡る。ざっざっざ、という軍靴の響きは見る者に軍隊と
いう組織の統制された暴力を強く印象づけた。
次に弓が行く。弩はその圧倒的な貫通力と扱いやすさから各国の
主力武器とされ、槍と並んで軍を象徴する。最も殺傷力の高い兵器
と称されるこれらは城壁に依って戦うバイステリにおいて重要な役
割を持っていた。担がれた弩の頼もしさに市民が歓声をあげるが、
その次に来る集団を目にしたとき、戸惑いの声があがる。
鉄砲隊。その数は最も少なく百程度。最新の武器は同時に高額で
あり、数を調達するのに時間と金がかかる。だが市民達が驚いたの
はその最新の武器を扱う集団が、みすぼらしく汚い格好だったから
である。見れば隊員には街の浮浪者や孤児が多く、隊長には彼らに
与える衣服を調達する資金力がなかったのだろう。いずれもが申し
453
訳程度の飾りつけをしているのみだ。だが先頭を行く少年は寧ろ胸
を張る。鉄砲隊が辻を曲がり、最後尾が現れた時、どよめきが広が
る。
大砲。エルヴンでは未だ珍しい北方の兵器が耳障りな音を立てつ
つ、四頭の馬に牽引されてやってきたのだ。その巨大さは大砲に慣
れないエルヴンの者にとっては衝撃で、たった二門の大砲に歓声が
広がった。
大砲の熱狂が冷めやらぬ内に最後の隊が姿を現す。その姿を見た
少年達が思わず叫んだ。
﹁騎士団だ!﹂
今やその規模を五百人にまで拡大した騎兵隊が威風堂々と馬を進
める。甲冑の肩当てや胸甲のみを纏ってその下の美々しい衣装をア
レイター
ランシエーレ
ピールし、青い外套にバイステリの市章を縫い込んだ姿は流麗にし
て堂々。虹の七色をすべて用いた槍騎兵、ランスの雄々しい重騎兵。
それは物語から抜け出たような軍勢であり、何よりも人の心に訴え
かける、戦場の名誉とロマンを象徴する存在であった。
その騎兵隊の列の中に、エーリヒとカールマンはいた。
﹁ようエーリヒ、今日はご機嫌だな﹂
にやにやと笑いながらカールマンがエーリヒの胸甲を叩く。華や
かな場に慣れていないエーリヒはこれまでこういった場では必ず苦
笑しながらしぶしぶ、といったように馬を歩かせてきていたが、こ
の日は市民に応えて手を振り、馬の前足を立たせたりして自らの馬
術をアピールしている。表情も明るかった。
454
﹁もうじきに戦争だ。それを思うと心が浮き立ってな﹂
答えたエーリヒにカールマンはおや、と首を傾げた。戦場に栄光
を求めるのは騎士の本能のようなものだが、エーリヒがそこまで好
戦的な性格をしているとは思わなかったのだ。意外な事を聞いた、
と思っていると、エーリヒはそれに気づき、ああ、違う違うと手を
振った。
﹁防衛戦というのが、いいんだ。愛するもの、守るべきものを守る
ために城壁の内側で戦う。これほどわかりやすい構図もないだろ?
これが正戦ってやつだな﹂
正戦とは世には正しい戦争と悪の戦争があるとする思想であり、
騎士達の間で古くから普及している思想である。略奪や民間人の殺
戮、大義なき戦争は古来、悪とされ、騎士は皆正しい戦争を行うべ
きとされていた。無論、現実は厳しく常に正戦を戦えるわけではな
い。だが侵略者から街を守るのはエーリヒの言う通り完璧に正戦の
条件に当てはまった。
﹁ああ⋮⋮そうか、お前も五十年戦争の末期には戦っていたんだな﹂
だが防衛戦を強調したエーリヒにカールマンは内なる心の叫びを
聞いていた。五十年戦争の末期、それを聞いたエーリヒは押し黙り、
悲痛な表情を浮かべる。
﹁エーリヒ、俺はその戦いには参加していないが、自分を責めるの
はよせ。気負う必要もない。あの状況では誰だってああなるんだ。
この街を救ったからってあの街は甦らんぞ﹂
455
ファーレンベルク。地図から消えた街の名だ。アルヴェリア軍が
攻め落とした、国境の大きな街。巡りめぐって、今はエーリヒがア
ルヴェリアから街を守る任についていた。
﹁⋮⋮面の皮厚く傭兵やってるんだ。責めちゃいないさ。ただ、こ
れでも騎士を自称してるんだ。できるなら正しい戦がしたい。守り
たいものもできたしな﹂
古傷を突かれたためか、エーリヒは馬をやや早足にしてカールマ
ンから遠ざかる。カールマンは肩を竦めてそれを見送った。
﹁気にしてるじゃねぇか。バカな奴。思い詰めてると死ぬぞ。正義
の戦なんぞ、おためごかしよ﹂
そうしている内に市民の熱狂は最高潮に高まり、歓呼の声は街を
揺さぶるほどになった。
﹁騎士団ばんざい!﹂
感極まった市民から万歳が起こる。
﹁バイステリの騎士団ばんざい!﹂
言われたカールマンはむず痒そうにはにかむ。騎士団ではなく騎
兵隊であり、ここにいる騎士達は何れも正規の騎士ではないフリー
ランサーだ。だが市民には区別がつかないのだろう。騎士団、騎士
団と呼ばれて騎士達は表情に喜色を浮かべ、ことさら騎士らしく謹
厳実直に振る舞いだした。
﹁ま、悪くない街だしな。俺の武名のあげついでに、守るか﹂
456
これぐらいでちょうどいいんだよ。そう言う思いを込めてカール
マンは呟く。
冬が終われば春が来る。アルヴェリア侵攻は、指呼の間に迫って
いた。
457
アルヴェリア侵攻︵前書き︶
今回は外国視点のみ!
458
アルヴェリア侵攻
1
正戦論は大陸全土に普及している。心ある聖職者や哲学者達の﹃
残虐極まる戦争に終止符を﹄という願いから成立したこの思想は当
然のように拡大解釈を重ねられ、時の権力者達の起こす戦争の自己
正当化に使われた。
そもそも立場が違えば正義も異なる。戦争とは正義と悪の対決で
はなく、それぞれの正義の対立に過ぎない。正戦論は戦争を抑止す
ることは叶わず、ただ戦争に一定の規定を設けるのみに終わった。
その規定も守られるかどうかはわからない程度のものである。
強国アルヴェリアの侵攻を間近に控えるエルヴン諸国は自らに戦
争の正義があることを確信していた。しかし侵略するアルヴェリア
にしてみれば、座して待てばアセリアによって包囲を受けるという
危機感があり、その意味で戦争の正義は完璧に自らにあるのだった。
エルヴンこそは包囲を崩す一点であり、ここを抑えねば遠くない内
にアルヴェリアはアセリアに併呑される。その危機感はバイエン敗
退によって現実味を増していた。
雪解けの四月。大動員がアルヴェリア国王シャルルによって発令
される。侵攻の幕開けだった。
﹁エルヴン侵攻軍、総勢三万。その副将か﹂
出陣に先立ち、アルヴェリア王都ピーリスにて閲兵式が催されて
459
いた。飾り立て、武威と華麗さを両立する二万の精兵を背後に従え
つつ、グライーは口の端を吊り上げて不遜に笑う。
﹁当初よりは少ないが⋮⋮悪くないな﹂
どれほどの大国でも数万の軍を動員するのは難しい。人数が増え
る毎に食糧や武器の供給は困難となり、却ってその戦力を低下させ
てしまうのだ。また、平時から数万の軍を維持しているわけでもな
く、必然的に傭兵を多く用いた軍はその規模を拡大させればさせる
ほど統制のとれない烏合の衆と化す。
アルヴェリアが列国から恐れられている理由は、その化け物じみ
た動員力にあった。戦時となれば眉一つ動かさずに数万の軍を複数
動かし、しかも完璧な統制を以て戦場を駆け抜ける彼らは自他共に
認める最強の軍事大国として名を響かせている。僅か一万五千の動
員で破産寸前まで追い込まれ、輝かしい勝利にも関わらず即座に傭
兵隊を解散せざるを得なかったアイゼンシュタインや、皇帝を決定
する一大決戦に大した援軍を派遣できなかったアセリアとは格が違
う。三万をエルヴンに向けて動員してなおアセリアに備えるだけの
余裕がある。これが軍事大国と言われる所以であった。
そして、これだけがアルヴェリアの全力ではない。
﹁おうおう、ブーシェ伯。にやついておるのう﹂
不意に背後から声をかけられたグライーは振り向き、初老の男を
視界に見いだすと瞬時に破顔する。
﹁オルランド侯!﹂
460
呼び掛けられたオルランド侯アンリ・ドゥ・ル・ランは扇で口許
を覆い、その裏側の笑顔を隠した。高貴なものは感情の変化を人に
見せてはならない。既に王家すらも守らない古い価値観を重視する。
ル・ランはそういう男だった。
おおいくさ
﹁暫く見ぬ内にまた男振りが上がったようじゃの。大戦を前に自然
と笑みがこぼれるとは頼もしい。麿も兵を率いてきた甲斐があった
わ。いい張り切りようじゃのう﹂
ル・ランは時代遅れとなった古風な口調を隠しもしない。血筋で
言えば王家よりも尊いとされる古い血を誇る、名門貴族としての自
負が自然体で滲み出ていた。対するグライーは不遜な態度も捨て、
笑顔でル・ランに接する。地方豪族に過ぎないグライーがこの地位
にあるのもル・ランの引き立てあればこそなのだ。彼にとってル・
ランは後ろ楯にして、父にも等しい。
﹁ええ、何せ全て併せれば六万の大軍ですからね。軍人として奮い
立ちます﹂
エルヴンと北方を隔てる天険アルビを支配するシュヴァイツェル
盟約者集団には二つの顔がある。一つが山脈を行き来する人々のた
めの中継地の支配者としてのもの。そしてもう一つが、大陸最大の
傭兵輸出国としての顔である。
農耕に適さない貧しい土地であり、増加する人口を支えきれない
アルビでは、薄い空気と峻険な山道を日常とする山の男達そのもの
が高価な輸出品となる。食うに困った若い男達は千人単位で州政庁
によって傭兵として海外に売られていた。その最大の輸入元こそが
アルヴェリアであり、今回の遠征に際してアルヴェリアは自軍と同
数のシュヴァイツェル傭兵を雇用する契約を交わしていた。
461
﹁しかし、オルランド侯がいらしたということは、揉めに揉めた主
将は侯が?﹂
本来エルヴン遠征の主将は国王シャルル自身が務める予定だった
が、病状の悪化とアセリアの動向がそれを許さず、代役の選考が行
われたものの、国王の代理など誰にもつとまるはずがなく、難航し
ていた。国内の誰よりも古い血を宿すル・ランであれば格としては
十分とグライーは思ったものの、ル・ランは首を振った。
﹁麿は主将代理といったところでおじゃるな。主将は別におる﹂
ならば誰が、と問うと、ル・ランは扇で表情を隠しつつ告げた。
﹁王太子殿下よ﹂
グライーの脳裏に子犬のようにじゃれつく王太子ルイの顔が浮か
ぶ。格としてはなるほど、文句はないが如何せん若すぎる。まだル
イは十四だ。成年しているとはいえ大軍の総帥としては軽すぎた。
グライーは表情を苦々しげなものに変える。それに気付いたル・ラ
ンは扇で軽くグライーの肩を叩いた。
ルドルフヴィーザル
﹁言いたいことはわかるが、陛下の気持ちも汲んでたもれ。陛下も
歳じゃ。翻ってアセリアの鷲と竜はいずれも二十代。それでいて政
務経験も実戦経験も積んでおる。今まで過保護に育てられた殿下が
渡り合うのは難しい﹂
オーラ
北方の大国は何れも統治機構そのものではなく、君主の霊威によ
って国を治めているところが大きい。強固な中央集権を成し遂げた
アルヴェリアとてそれは変わらず、今の王権の強固さは国王シャル
462
ルの器量の大きさゆえでもある。裏を返せば頼りない君主を戴いた
ならば崩壊しかねない危うさもあった。
﹁箔付けと実戦経験を兼ねて、ということですか。しかし、初陣が
これほどの遠征とは⋮⋮﹂
グライーも武門の常として非戦闘要員ではあるが十の頃には既に
戦場に立っている。それを思えば十四の初陣は遅いぐらいだが、そ
れにしても国家の一大事である遠征の総帥というのは荷が重い。実
質的に飾り物とは言え、勝敗の責任はやはり総帥にのし掛かるのだ。
特に敗北した場合、グライーもル・ランも生きている保証はない。
そうなれば実戦経験もない少年の双肩に、もっとも困難とされる敗
軍の撤退という重責が負わされる。
﹁それゆえの万全の体制でおじゃろう。主将は実質的に麿が、指揮
は卿が担当し、万一の場合でも麿が責任を取る。兵も麿が率いる兵
の他、陛下から近衛隊を預かっておじゃるゆえ、エルヴンの弱兵ご
ときには後れはとらん。卿は安心して辣腕を奮われよ﹂
なんでもないことのようにル・ランは言うが、事は重大だ。指揮
能力を持たない王太子を連れていく時点でル・ランには﹃必勝﹄が
義務付けられている。敗北すれば次期国王の権威は大幅に低下する
のだから。そして敗北したとしてその責を王太子に問えるはずもな
く、その場合飛ぶのはル・ランの首であり、通常より遥かに重い責
任が被せられるだろう。王太子の主将代理とは、貧乏くじに他なら
ない。
﹁うむ、貧乏くじに違いはない。されど成功すれば麿も卿も名誉は
大きく、王太子殿下の覚えもめでたい。それに卿にはあるのでおじ
ゃろう? この遠征を成功に導く自信が﹂
463
グライーは首肯する。アセリアに備えるために当初より軍の規模
を縮小したとは言え、成功させる自信が彼にはある。そして彼自身
の野心のためにも敗北は許されなかった。
﹁お任せください。鎧袖一触、半島を蹂躙して見せましょう﹂
にやりと笑うグライーの表情を、ル・ランは頼もしそうに見てい
た。
2
アルヴェリア動く。その報は直ちにアセリアのヴィエナにもたら
された。バイエンの占領政策に忙殺された皇帝ルドルフは身動きが
とれず、必然的に対アルヴェリアの最前線に立つのは諸侯、特に忠
臣アイゼンシュタインとなる。
そしてそのアイゼンシュタイン公国の公都リンドヴルムは絶望に
沈んでいた。
﹁また動員ですか⋮⋮﹂
ヴィエナからの指令を前に、当主ヴィーザル、老公ヴィーゼル、
副将ルナクルスといったアイゼンシュタイン家の首脳部は項垂れて
いた。
﹁規定路線として、動員には当然応える。応えるが⋮⋮﹂
464
ヴィーザルが疲れた目で側に控える官僚に目配せする。促された
官僚の一人がおずおずと進み出て兵権を預かるルナクルスに財務書
類を手渡すと、ルナクルスは手早く目を通し始めた。やがてその表
情が歪む。
﹁この程度の財務状況では、一万人程度の軍を三ヶ月維持できるか
どうかです。しかもこれは戦争中にかかる各種手当てを無視した数
字ですから、実質的にはさらに短くなります﹂
ヴィーザルは歯噛みした。五十年戦争、傭兵戦争、リシニア内乱、
その全てにおいてファルケンブルクからの命令に従ってひたすら戦
い続けたのがアイゼンシュタインという家であり、相次ぐ動員で家
計は最早火の車だった。度重なる動員に応える必要性から常備軍で
ある近衛隊を整備し、傭兵隊でも赤目隊や黄色連隊といった精鋭部
隊を平時は半給で抱えて半常備化しているが、それは全て耐えがた
い負担としてのし掛かってくる。一万という数字は決して少なくな
いが、アルヴェリアを前にしてはやはり頼りなかった。沈黙が支配
する場に、老公ヴィーゼルがゆっくりと口を開く。
﹁⋮⋮戦勝に伴う公国昇格で信用度も増した。業腹だが領内の商人
どもに再度借金を申し込みに行こう。そろそろ借金も大変な額に膨
れ上がっている。我々に破産されれば商人どもも一蓮托生で破滅だ。
受けざるを得まい﹂
度重なる動員でとうの昔に資産を使い果たしたアイゼンシュタイ
ンは借金を重ねて軍を維持していたが、凄まじい額の借金はついに
貸す側と借りる側の立場を逆転させていた。商人達にとってアイゼ
ンシュタインへの貸付が不良債権化するか否かは死活問題となるレ
ベルの問題となっており、借金を返してもらうために更なる貸付を
465
行う状態となっていた。
﹁陛下からもせめて近衛の派遣を頼もう。ホーエンツァールやルク
サンベルクの奴らにも協力させる。渉外は儂がやろう。息子よ、今
やアイゼンシュタインの当主はお前だ。存分に前線で槍働きを見せ
るがいい﹂
ドラキュラ
老公ヴィーゼルの言葉に若き竜公ヴィーザルは背筋を伸ばした。
﹁我が紋章たる竜と狼は災禍の象徴。誓ってアルヴェリアに災禍を
もたらしましょう。ルナクルス、二万だ。二万の兵を何とか訓練し
てかき集めろ。黄色連隊にも動員をかける。アトリにも協力させろ。
ここが正念場だ﹂
先の戦いで用いた傭兵の殆どは財政難から既に解雇されている。
これからルナクルスには少ない予算で傭兵達を誤魔化して集めて訓
練し、給料の遅配で殺されたフランベルクのようにならないよう注
意しながら圧倒的な物量のアルヴェリアと戦うための作戦を考える
という困難な仕事が待っていた。若干表情をひきつらせながらルナ
クルスは立ち上がり、敬礼してその場を去る。
﹁⋮⋮父上、実際のところアイゼンシュタインはもう限界です。こ
の戦が長引けば、破産宣告せざるを得ない⋮⋮領内の商人の多くが
連鎖的に破産すれば、もう領国経営どころでは⋮⋮﹂
ヴィーゼル
家臣達に目配せして下がらせると、ヴィーザルは父に弱音を吐い
た。皇帝の剣として永年アセリアと運命を共にしてきたアイゼンシ
ュタインだが、近年の戦争は余りに負担が大きく、また急速な中央
集権に舵を切ったために領内は非効率が蔓延っているのだ。戦える
状態ではない。
466
﹁今は耐えろ。負けては何も残らん。我々が堪えている間に陛下が
バイエンを平定し、皇帝軍を再編するまでだ。それで一息つけるは
ずだ﹂
老公ヴィーゼルは教え諭すように静かに言った。それは空虚な期
待ではなく現実に進められていることであり、今やただ一人の皇帝
となったルドルフがリシニア全土を掌握して大動員を発すれば、ア
ルヴェリアに対抗可能な軍が集まる可能性は高かった。だが、それ
でも現当主ヴィーザルの表情は曇ったままだった。
﹁先の五十年戦争もリシニア全土とアルヴェリアが戦いましたが、
痛み分けに終わっています。今回もやはり決定力には欠けるでしょ
う。そして第二の五十年戦争にはアイゼンシュタインもアセリアも
耐えられない⋮⋮勝つためには何かもう一つ、決定打が欲しい⋮⋮﹂
途中からその言葉は最早父に向けられていなかった。半ば自分の
考えを確かめるかのようにヴィーザルは呟き、彼方を見る。
﹁何か、新しい力が⋮⋮﹂
一月後、アイゼンシュタインは二万の兵を動員してアルヴェリア
との国境線上に張り付ける事に成功する。対してアルヴェリアは国
内に亡命してきていた旧バイエン公ルードヴィヒに二万の兵を預け
てバイエンへ侵攻。同時にアイゼンシュタインとの国境に二万の兵
を動員する。
皇帝の手によって平定しかかっていたバイエンは蜂の巣を突いた
ような騒ぎとなり、またアイゼンシュタインは北と西から包囲され
る危険に陥った。ここに、大陸全土を巻き込む大戦の幕が開かれた
467
のである。
468
アルヴェリア侵攻︵後書き︶
段々と気を抜く展開を作りにくくなってきたけど、意地でも日常パ
ートを戦争開始までには挟みたいところ。
469
五月の日
1
五月は恵みの季節である。四月までは厳しい寒さがまだ残り、草
木も花も姿を見せることはないが、一度暦が五月を迎えれば全てが
変わる。気候は心地よい暖かさへ変化し、心地よい風が頬を撫でる
様は精霊の口付けに喩えられる。眠っていた動物達は一斉に起き出
し、花も草も萌え出でて春の訪れを告げ、山の雪は溶けて冷涼な水
を流し、種を蒔いた農作物も芽を出して豊穣を約束する。
余りにも景色が一変することから、﹃美しい五月﹄と称される五
月の春の訪れは古来、生命の誕生と深く結びつけられている。多く
の生命にとってこの季節が繁殖の季節であり、植物が芽を出す季節
という他、厳しい冬を生き延びた喜びから自然と誰もがそう思った
のである。冬が試練の季節なら、五月こそは試練を乗り越えた先の
大きな喜びの季節であった。
そんな五月の上旬、小春日和の暖かいある日、彼らは天険アルビ
を越えてやってきた。
﹁いい陽気でおじゃるな﹂
眼下に広がる豊穣な大地と澄み渡る大河を魅入られたようにしば
し見つめて、ル・ランは馬をゆっくりと進める。優雅に扇で口許を
隠し、鎧も身に付けずに洒落た都の流行りの服を纏うその姿は、大
貴族にも、況して大軍の総帥代理にも見えない。しかしその目は蛇
のように熱なく容赦のないもので、見るものを萎縮させ、恐怖させ
470
オーラ
るほどの霊威を放っていた。
﹁戦にはいい季節でおじゃる﹂
その背後から総身を甲冑に固めた騎兵が続く。馬にまで装甲を施
し、色とりどりの外套にそれぞれの家の紋章を誇り高くあしらった
彼らはアルヴェリアの主力であり、自らの美意識と誇りと戦いを典
フルールドゥリス
礼の域にまで高めた騎士達であった。ランスの穂先に堂々とアルヴ
ェリアの軍旗である白百合を掲げて征くその隊列は重厚にして燦然
と輝き、春の陽に照らし出されて輝く甲冑は神々しさを彼らに付与
していた。その隊列はいつ途絶えるとも知れぬほど長く、一騎の重
量が大人十五人分にも及ぶ騎士と騎馬が一斉に歩けば、まるで地面
が震えるかのようであった。
整列し、行進するアルヴェリア軍が見渡す地平線の果てに、やが
ワイバーン
て無数の紋章を翻らせた槍の群れが現れる。﹃強い敵意﹄を意味す
る飛竜の紋章を押し立てるその軍は、アルヴェリアと同様に騎士を
中心とした編成をしながらも、その規模においてはアルヴェリアを
上回っていた。
﹁アデルバードでおじゃるか﹂
ル・ランが呟くと、傍らに進み出たグライーは小さく首肯する。
﹁周辺諸国にも動員をかけたのでしょう。こちらよりも数が多い。
まだ先陣しか到着していない今ならば勝機があると見たと思われま
す。⋮⋮それ事態は、間違っていません。正しい選択です﹂
アルヴェリアはエルヴン遠征に六万の大軍を動員している。しか
しこれほどの大軍ともなれば、大軍であることそのものが弱点とな
471
り、行軍に大きな制約を及ぼす。まず有り得ないことだが、六万の
兵が一団となって動けば先頭の集団が一日の行程八リーグを歩いて
なお最後尾は一歩も動けず、ただ渋滞する街道を呆然と眺めるとい
う事になるだろう。この状態で戦闘に突入したとして、戦えるのは
前衛のみであり、後方部隊が駆けつける頃には戦闘は終わっている。
無意味にして、非効率だ。更に言えば六万の軍に食べさせる食料な
どそうそう確保できるものではない。従って、集団としての機能性
を最低限発揮できる規模に軍を分割し、個別に運用しつつ要所では
集中するのが大軍運用の基本となる。
しかしアルヴェリアには大軍を活かしづらい制約が更にあった。
天険アルビの存在である。大軍の通過が可能な山道の数は限られ、
一万程度の軍ですら通過は困難なアルビこそは、長らくアルヴェリ
ア、アセリアの両国がエルヴンに手を出すことができずにいた理由
であった。どれほどの軍がいたとして、現地にたどり着けるのは山
越えを終えたばかりの疲労した少数の前衛のみという状況では、無
駄な消耗を強いられる。今アルヴェリアの眼前で陣を張るエルヴン
北西の雄アデルバード王国は、正にそのような理由から圧倒的国力
差にも関わらず数においてアルヴェリアに優越する戦力を集め、威
風堂々と決戦を挑んでいた。
﹁損害を気にせず幾度も攻めればそれでもやがて物量差でこちらが
勝つでおじゃろうが、無駄な損耗は避けるに越したことはない。麿
も先陣からいきなり敗将というのはごめんでおじゃる。さてブーシ
ェ伯にはこの劣勢を覆す如何な策がおありかな?﹂
問われたグライーは暫く黙ると、やがて薄笑いと共に口を開いた。
﹁ありません。真正面から粉砕します﹂
472
2
春を迎えたバイステリ市はにわかに忙しくなった。急速に雇い入
れた兵の訓練が日々行われ、鍛冶場の炉は休むことなく燃えて槍刀
を作り出し、籠城に備えて食料が運び込まれる。城壁そのものにも
応急措置ながら手が加えられ、ようやく認められた民兵達が熱心に
土嚢や石材を積み上げて市内から壁を補強していた。うららかな春
の陽が差し込む季節というのに働く民兵達の表情には余裕がない。
城壁強化の指揮を執るマキリすらもそれは同じだ。
﹁急がなければならない﹂
バイステリは迫るアルヴェリアを相手に篭城を決めていた。基本
的には市内に入ることができない傭兵隊も今や市内に帯刀したまま
入り、城壁の上や中で防戦に特化した訓練を行っている。冬季に雇
い入れた新兵達もようやく様になってきていたが、マキリの目には
やはりまだまだ頼りなく映るのか、表情は張り詰めたままだった。
﹁アデルバードが敗れた以上、次はこちらに来るのだから﹂
エルヴン北西の雄アデルバード王国は長年に渡ってバイステリと
北エルヴンの覇権を争ってきた国家であり、その軍事力はエルヴン
有数のものと理解されていた。それが今は、もうない。
アデルバードは元来、一世紀ほど昔にアルヴェリアの手によって
建国された衛星国であったが、本国アルヴェリアがアセリア戦や国
473
内の反乱のために動けない間にエルヴン人貴族による反乱が起こり、
エルヴン人国家として成立したという経緯を持つ。しかし立地上ア
ルヴェリアの経済浸透が大きく、親アルヴェリア勢力は未だ国内に
多くいる。長期持久は却って危ういと判断したアデルバードは会戦
に打って出た。結果は、たった一日で出た。
﹁前衛部隊のみを相手に、壊滅とは⋮⋮!﹂
一度にアルビを越えることのできる人員には限りがある。そこに
活路を見出したアデルバードはアルヴェリアの前衛部隊を超える兵
力を動員し、これに勝利して国内を固め、持久なり決戦なりの道筋
を作るつもりだったのだろう。エルヴン諸国からの援軍も期待して
いた筈だ。だが、数に劣るアルヴェリアは完膚なきまでにアデルバ
ードを粉砕し、主力を失ったアデルバードの城や街は降伏を余儀な
くされた。
きょうとうほ
橋頭堡︵攻撃の際の前進拠点︶を確保したアルヴェリアはアルビ
から次々と後続の部隊の増援を受けて規模を拡大しており、それを
遮る者はいない。バイステリに限らず、エルヴン諸国の軍は数万の
規模の野戦には全く不慣れなのだ。現実となった大国の侵攻を前に
バイステリは震え上がり、僅かでも兵をという声から、アルフォン
ソの反対にも関わらず民兵隊の結成が許可された。だが民兵隊の結
成を推進してきたマキリもそれを祝うゆとりはない。
﹁書記長、城壁の強化は首尾よく進んでいるようですね﹂
不意に日が翳り、聞き覚えのある声が頭上から投げられる。訓練
や城壁の強化の様子を視察に回っていたアルフォンソが馬上からマ
キリを見下ろしていた。マキリが書記長を相手に馬上から物を言う
非礼を視線で咎めると、アルフォンソは肩を竦めて下馬する。
474
﹁失礼を。しかしこの分ならかなり持ち堪えられそうです。応急と
はいえよく補強されている﹂
城壁の内周の建物を若干犠牲にしつつ、人海戦術で補強は続けら
れている。厚みを増していく城壁はなるほど、頼もしくも見えるだ
ろう。城壁の強化は純軍事的な理由のほか、パニックに陥りかねな
い市民への心理的な影響を考慮して昼夜問わず貴重な灯りをふんだ
んに用いてまで行われている。
だが、戦争は城壁でやるものではない。アルヴェリアが本気にな
ればどれだけ城壁が分厚かろうと無意味である。軍事に造詣が深い
マキリはバイステリ市の軍が質と量において大きくアルヴェリアに
溝を開けられていることを知っていた。
﹁⋮⋮どれだけ持ち堪えれば、勝てますか?﹂
篭城は自ら勝つ事を半ば放棄した戦術である。篭ると決めたから
には中部、南部のエルヴン諸国の援軍が到来することが大前提だ。
援軍到来まで持ち堪えれば勝機はあるが、そこまでの期間が長すぎ
ればそれ以前にバイステリは落ちてしまう。
﹁⋮⋮一週間、それだけ持ち堪えられれば、勝って見せます﹂
少しの間の後にアルフォンソがそう言うと、マキリは重々しく頷
いた。
﹁妥当なところです。というより、一週間以上は持たないと私は見
ています。アルフォンソ隊長、あなたと私の間には過去、諍いがあ
りましたが、今は協力し合える筈です。聖バイレステの加護があり
475
ますように﹂
街の守護聖人の名を唱えつつ、再びマキリは城壁強化の指揮を執
った。彼は軍人ではない。兵権は彼にないし、知識ばかり豊富でも
軍は動かない。戦って勝つ策はアルフォンソに委ねるより他になく、
そしてどこに密偵がいるかわからない今、その策は例えマキリにす
らも軽々に明かすべきではないのだ。それを弁えるマキリは、ただ
己の職務を果たすために民兵の元に向かった。
数日後、二万の軍勢を整えたアルヴェリアは、エルヴン北東の雄
バイステリへと矛先を向けた。
その後ろから、更に四万の軍が続く。
3
バイステリの戦略は、決戦回避と拠点防衛である。十二都市の連
合によってなる北部都市連合は緩やかな繋がりしか持たず、平時に
維持している軍勢も数百程度とささやかなため、連合しての野戦は
余りにもリスクが高く、必然的に各都市が篭城を選択せざるを得な
かったのだ。
とはいえ、これは有効な面もある。一般的に攻撃側は防御側の三
倍の人数が必要と言われており、兵の質量の差を城壁である程度埋
めることはもちろん、包囲下にない都市は篭城に拘らず出撃して援
軍に駆けつけ、都市を包囲する敵を逆包囲する体制も整えている。
逐次増援が後方からやってくるとは言え、眼前に展開しているの
476
は二万のアルヴェリア軍である。一万五千を動員し、篭城と有機的
な防御戦術を選択したバイステリを相手には苦戦は必至であり、そ
うして稼いだ時間は、中部や南部のエルヴン国家からの援軍到来ま
での貴重な間になると考えられていた。しかし、その戦略は初手か
ら破綻する。
﹁大胆な手を打つな⋮⋮﹂
城壁の上から地平線の彼方を進むアルヴェリアの軍旗を観察する
エーリヒは、背中に嫌な汗が流れるのを感じた。
﹁心臓を握りつぶせば、体は自然と崩壊するってか⋮⋮﹂
アルヴェリアは軍を十二分割し、同盟都市全てに同時攻撃を仕掛
けていた。しかしその割り振りは均等ではない。盟主バイステリ市
に軍の大半を向け、残りに抑えの兵のみを残したのである。即ち、
二万の内一万二千までもがバイステリに投入され、残り八千が各都
市に振り向けられたのだ。
元より、バイステリ以外の都市の軍事力など知れたものである。
例え少数のアルヴェリア軍であれ、貼り付けられれば城壁から出る
ことはできない。そして要のバイステリさえ落ちてしまえば、後は
赤子の手を捻るように次々と陥落させることがアルヴェリアには可
能なのだ。
﹁よぉエーリヒ、まるで森が動いているようだな﹂
がしゃがしゃと甲冑の音を響かせながらカールマンが歩み来る。
騎士達は素人も多い傭兵隊の中で最も強力で貴重な存在であり、特
に白兵戦の要として各所に配置されていた。カールマンが言う通り、
477
長槍を天に突き立てて整然と行進するアルヴェリア軍は、まるで動
く森のようであった。数はバイステリの凡そ三倍、城壁の加護すら
も無力とする、と言われる戦力差である。
﹁武者震いが止まらんなぁ﹂
げらげらと笑うカールマンだが、その額には汗が流れている。暑
さからのものではあるまい、とエーリヒは見当をつけたが、敢えて
その言葉に乗った。
﹁ああ、敵は三倍か。一人で四人倒せばお釣りが来る計算だな﹂
戦う前から萎縮しては勝てるはずもない。威勢のいい言葉は死地
に臨む自らを奮い立たせるための常套手段だ。やがて周囲から騎士
や傭兵達が次々と集い、口々に自らの勇気を主張し始める。
怖くないわけがない。だが、口に出せば終わりである。生命の価
値が安い世界において、命知らずであり、名誉のためなら容易く死
んでみせる事が、男の価値だった。一方で、その価値観を必ずしも
共用しない者もいる。
﹁あれか、かなり多いな⋮⋮﹂
吹き付ける強風に髪飾りを抑えながらアラエルが城壁の上に姿を
現す。敵軍を間近に捉えた最中にあって場違いな女の姿に周囲が怪
訝な目をした。
﹁おい、もう戦闘開始まで近いぞ。何しに来た﹂
苦々しげな顔のエーリヒにアラエルは若干後ろめたそうに答える。
478
﹁軍務だ。私は目がいい。あー⋮⋮て、敵の陣容を見ろ、という事
でな﹂
言葉は歯切れ悪く、その目は左右に泳いで誰とも視線を合わそう
としない。加えて無意味にその手は髪をいじるとなれば、信じろと
言う方が無理だった。エーリヒは溜め息一つ吐いてアラエルの手を
引く。
﹁敵が来るまで間があります。エーリヒ卿、ごゆっくり﹂
﹁公認かよ﹂
やや囃すようなロビンに手を振ると、エーリヒはアラエルを連れ
て歩き出した。抗議しようとアラエルは口を開いたが、結局は何も
言わずに引かれるまま誰も配置についていない胸壁まで誘導される。
﹁心配はありがたいが、もうここからは男の世界だ。わかるだろ﹂
エーリヒの言葉は静かで、目も穏やかだが、そこには断固たる拒
絶があった。戦闘を間近に控えた今、男達の持ち場に女が現れてい
いわけがないのだ。傭兵隊に属する大勢の仕出し女達もそこは弁え
て自分の持ち場から離れない。理はエーリヒにある。アラエルは項
垂れた。
﹁済まん。お前の言う通りだ。要らない恥を掻かせた。持ち場に戻
ろう﹂
女には女の戦場がある。炊き出し、手当て、看護など、長期間に
及ぶ籠城戦では何れもおろそかにできない要素である。エーリヒも
479
頷いた。
﹁必ず守ってやる。安心して待ってろ。お前がいるから俺も戦える
んだ﹂
城壁の階段を下りつつ背中に掛けられる声にアラエルは頬を染め
て振り返り、馬鹿、とだけ返した。やがて外套を翻してエーリヒが
持ち場に戻ると、誰にも聞かれていないのを確認するように周囲を
伺ってから、アラエルは一人呟く。
﹁⋮⋮臆病でも構わない。生きて帰れと言いたかったが、言ったら、
怒ったか⋮⋮?﹂
戦が始まる。
480
バイステリの戦い 1
1
古今において軍記ものの小説や歴史書で大きく取り上げられるの
は、数万の軍と軍が真正面から殴り合う会戦である。しかしそれは
戦争全体におけるほんの一部分であり、寧ろ会戦は例外とすら言え
る。
これは当然である。会戦とは言わば個人と個人の間で起こる決闘
を最大限に拡大したものであり、互いの間で決闘が合意されなくて
は起こりうる筈もないのだ。例え片方に決戦の意図があろうと、も
シュヴォシェ
う片方がそれを嫌がって軍を隠せば、会戦は起こらない。実際の戦
争の過半を占めるのは襲撃と称される略奪や騎行に伴う小競り合い
と、攻城戦である。これらは片方が戦闘を行う意思を固めれば、も
う片方の意思などお構いなしに発生するのだ。そしてこの二つは当
然のように多くの非戦闘要員を巻き込む凄惨なものであり、会戦に
象徴される戦争の華々しさから最も遠い、戦争の惨さを象徴してい
た。
﹁砲兵前へ﹂
アルヴェリア軍総帥代理を務めるル・ランの命に従い、がらがら
と重々しい音を立てながら暗緑色をした大砲の群れがそれぞれ四頭
の馬に牽かれて全軍の前に出る。その巨大な砲門はいずれもぴたり
とバイステリの垂直に立つ城壁に照準されていた。降伏勧告は既に
断られている。後は戦いあるのみだ。
481
ごんじょう
﹁オルランド侯ル・ラン家が当主アンリ。始祖シャルルより数えて
十二代。篭城側に言上申し上げる﹂
大砲の群れを左右に従えてゆっくりと馬を歩かせたル・ランは、
城壁の上から恐れと緊張の入り混じった視線を向けてくるバイステ
リ兵に向かって、悠々と語りかけた。
おおづつ
﹁わが精鋭の武威を前にして恐れぬその心意気や天晴れ。この上は
互いに矛先の鋭さを競うのみ。まずは我がル・ラン家の誇る大砲を
馳走致す。遠慮せず、受け取られよ﹂
それだけ言い放ったル・ランが馬首を返すと、左右の砲兵が火縄
を括り付けた導火棹に着火した。続けて仰角の調整が行われ、重々
しく大砲が首を持ち上げ、バイステリの城壁の中ほどに照準を合わ
せる。
﹁撃て!﹂
号令と共に集められた砲の火門に次々と導火棹が突き込まれ、轟
音と閃光、それに濛々たる黒煙を放ちながら砲弾が放たれる。野戦
では狙いを定める事ができず、何処に飛んでいくかわからない砲弾
も、巨大な城壁が相手となれば、はずす事は絶対にない。たちまち
砲弾の全てがバイステリの城壁に直撃し、石材を削り、凄まじい衝
撃を壁全体に与えた。その威力に城壁の上に陣取る兵士達がたたら
を踏み、頭を低くする。
﹁砲口清掃! 次弾装填かかれぇ!﹂
清掃用の螺旋棒やスポンジ棒を持った兵士達が号令に合わせて念
入りに口腔を清掃し、装薬の滓を拭い去る。暴発の危険性は大砲に
482
つき物のリスクであり、発射の都度の清掃は彼ら自身の命を救うた
めに必須の手順だ。同時に新たな砲弾が準備されるが、何せ砲弾に
しろ、砲本体にしろ、規格外の重さである。装填には手間がかかり、
また、装填しても発射の都度その衝撃で後退してしまう大砲は、毎
回仰角の修正を必要とした。そのためにその砲撃速度は酷く遅い。
だが、それでも用いるだけの利点が大砲にはあった。
﹁撃てぇ!﹂
組長の号令と共に再び大砲が火を噴く。装填速度や仰角の修正速
度にばらつきがあるために一斉射撃とはならないが、却ってそれは
轟音と衝撃が連続してバイステリを襲う事を意味する。垂直に立っ
た城壁はいい的であり、傷ひとつない美しくも威厳ある城壁は、瞬
く間に削れ、抉られ、その威容を失っていく。
﹁やせ我慢もいつまで続くか、見ものでおじゃるな﹂
舞い散る土埃を見ながらル・ランはくすりと笑う。
﹁包囲というのは、案外きついものでおじゃるぞ﹂
大砲はその重量ゆえに持ち運びに難しく、戦略上の大きな足かせ
カタパルト
ラム
になるほか、戦術的にも機動性に乏しい武器である。職人さえ連れ
て行けば現地でこしらえられる旧来からの投石器や破城槌の方が余
程運用が容易である。だが、その破壊力と、何よりも轟音と閃光は
篭城側の士気を大幅に削いだ。北方の戦いでは大砲を持ち出しただ
けで降伏した街すらあり、その実績で以って功城兵器は大砲へと移
り変わっている。城壁の上の兵士達は早くも恐怖して持ち場を離れ
つつあり、城壁から徐々に人影は消えていった。
483
﹁情けないのう⋮⋮攻め時か?﹂
﹁いえ、まだです﹂
片腕を挙げて全軍突入を指示しようとしたル・ランを副将グライ
ーが留める。ル・ランは怪訝な表情をしたものの、ゆっくりと腕を
下ろした。
﹁今攻めても無駄な犠牲が出るでしょう。このまま日没まで砲撃を
続行し、士気を完全に削ぐべきです﹂
野戦と城攻めの違いは、勝者にも確実にそれなりの損害が出ると
いうことである。野戦であれば快勝した場合、即ち敵の陣を粉砕し
た場合、後は集団対個人の戦いになるために一方的な殺戮となって
勝者に損害が大して出ないことも珍しくはない。事実アデルバード
との決戦でアルヴェリアはほぼ無傷の勝利を収めている。だが、城
攻めであれば地の利は圧倒的に守備側にある。どれほど見事に戦っ
ても、損害は無視できないほど出るのだ。最上の城攻めとは、攻め
落とす事にあるのではない。
﹁今日は突っぱねられた降伏勧告も、明日になれば受け容れられる
でしょう﹂
篭城側の自発的な降伏、それこそが最上の城攻めであった。グラ
イーの言葉にル・ランも頷き、更なる砲撃を砲兵に指示し、周辺の
兵には鬨の声を上げるよう命令する。途端に一万二千人分の絶叫が
バイステリへと降り注ぎ、断続的に轟音と衝撃が襲うバイステリに
音による攻撃を仕掛けた。
戦いはまだ始まったばかりである。
484
2
バイステリの城壁は垂直に立った姿をした伝統的なものであり、
その厚みもエルヴン有数とはいえ北方の城砦に比べれば重厚とは言
えない。つまり、砲撃に耐える事を前提とした設計が成されていな
いのだ。
これはエルヴンにおいて、アルヴェリアが行ったような力尽くの
城攻めが一般的でなかったことに由来する。動員できる兵力が互い
に大きくなく、城攻めでの兵の損耗を嫌う傭兵隊長ばかりのエルヴ
ンでは内応や謀略を以って城を落とすのが基本であり、守る側にし
ろ、攻める側にしろ、城攻めや篭城の技術は発展することがなかっ
た。そんな中突如持ち込まれた大砲は、バイステリの市民たちを恐
慌状態に陥らせるのに十分であった。
﹁これは、想像以上に⋮⋮!﹂
城壁に近い場所に天幕を張って負傷者の発生に備えるアラエル達
仕出し女は、砲弾の衝撃に慄いていた。直接目にするわけではない
とはいえ、鉛弾によって行われる乱暴なノックは城壁を揺るがし、
ぱらぱらと落下する石材や土埃は城壁が不壊の存在でないことを悟
らせる。直前までマキリの指示によって積み上げられた土嚢や石材
が背後の支えとなってはいるものの、音や衝撃への恐怖は防げない。
その上で襲い来る鬨の声は、魂を握りつぶすほどの心理的圧力を篭
城側に加えた。
﹁やだ⋮⋮怖い、怖いよ⋮⋮﹂
485
村を焼かれた経験のあるエルナがその場にうずくまり、がたがた
と震える。村を焼いた騎兵の数百倍の兵の圧力を受ければ、気丈な
エルナとて平気ではいられない。壁が崩れれば、それが全て市内に
雪崩れ込むのだ。市内には周辺地域から避難して来た農民を含めて、
今や収容限界ぎりぎりの八万人が篭っているが、訓練を受けた兵士
とそうでない市民や農民とでは戦闘力に圧倒的な違いがあるのは他
ならぬエルナ自身の村で証明されている。突入は殺戮を意味してい
た。
﹁エルナ、ロビン卿もエーリヒもついている。安心しろ﹂
自分自身恐怖に支配されそうになりながらも、震えるエルナを見
てなんとか冷静を取り戻したアラエルはエルナをそっと抱いて勇気
付ける。だがその言葉すらも外から響く轟音と鬨の声にかき消され、
届くことはない。見回せばエルナの他にも若い女を中心に、恐怖の
あまりに身動きのできない者が増えていた。
﹁家に帰らせて⋮⋮お願いだから﹂
すすり泣く音は砲撃の中でも不思議と聞こえた。それが更に女達
の士気を乏しくしていく。破局が近い、とアラエルは徐々に実感し
ていった。
︵これでは、城壁よりも先に市民達の心が砕けてしまう⋮⋮︶
強化された城壁は動揺しつつも何とか砲撃を受け止めている。だ
が、大軍の圧力と砲弾の衝撃は人の心を攻撃する。このままの状態
が続けば、やがて門は内側から開けられるだろう。アラエルは、こ
うも恐ろしい状態がずっと続くのならば、いっそ早々と降伏して欲
486
しいとすら思った。
砲撃は続く。城壁は揺れる。敵は味方弩兵の射程外から砲撃を行
っており、狙いも荒いために最も弱い箇所である城門を撃つことは
できずとも、撃てばその大半は城壁のどこかに着弾する。篭る側は
反撃も許されないままにその圧力に耐えるだけだ。そんな中、激し
い馬蹄の響きがアラエル達の元に近づいてきた。
﹁⋮⋮! 突破された!?﹂
騎馬の突入は市内の殺戮を意味する。護衛の兵などいないアラエ
ル達は逃げる事もできず、その場に縫い付けられたように動けなく
なったが、やがて近づく騎影と、その後に続く一団が掲げる軍旗に
一転して安堵の表情を見せる。
﹁エーリヒか!﹂
エーリヒ達バイステリの騎士達はアルフォンソの命令によって城
壁から後退し、予備兵力として突破に備えていた。砲を前にしては
いかな騎士甲冑とはいえ無力であり、最低限の監視要員を残して城
壁上に兵はいない。無用心極まりないとはいえ、砲撃が続行されて
いる間は敵も突入ができないはずだった。
﹁よぉ、元気そうで何よりだ。べそかいてないかと思ったぞ﹂
馬上から砲撃など何でもないというように語り掛けるエーリヒに、
半ば恐慌状態だったアラエルは顔を赤らめる。
﹁う、うるさい、私がこんな程度恐れるものか。お前こそ怯えて部
屋の隅で縮こまっていたのではないだろうな? 本来の持ち場は城
487
壁だったはずだぞ﹂
自分の怯えを誤魔化すためにそう言ったアラエルだが、エーリヒ
はそれを聞いてにやりと笑うと、背後のカールマンに向かって声を
掛けた。
﹁だとよ、カールマン。俺達は勇気が乏しいらしい﹂
﹁ほほう、姫の言葉ながら、聞き捨てならんなぁ﹂
冗談で言ったにも関わらず本気で取られたアラエルは驚いて訂正
しようと口を開けたが、エーリヒは片目を瞑ってそれを制する。
﹁それじゃあ⋮⋮一つ、勇気の証明をしなきゃならんな﹂
完全武装の騎士達はそれを聞くと次々と下馬し、城壁へと歩き出
した。城門から出撃する気かと思ったアラエルは顔色を蒼白にして
制止の声をあげる。
﹁待て、私が悪かった! お前の誇りに対して余りに無礼だった。
謝ろう。⋮⋮今出て行くのは自殺行為だ! 止めてくれ!﹂
歩みを止めない騎士達に不安を募らせたアラエルは駆け出してエ
ーリヒを引き止める。エーリヒは振り返ってアラエルに向き直った。
﹁ああ、悪い悪い。ちょうどいい言葉をもらったんで、利用させて
もらった。軽口なのは承知しているよ﹂
だったら何故、とアラエルは言い募ろうとしたが、不意に抱き寄
せられて言葉を飲み込む。抗議しようとしたが、今度は頭を撫でら
488
れた。
﹁任せとけって﹂
それだけ言うと、エーリヒは動揺する城壁の上へと続く階段を登
っていった。後には顔を先ほどとは別の意味で真っ赤にしたアラエ
ルが残る。
﹁な、何が任せとけ、だ⋮⋮﹂
城壁を揺るがす轟音も、魂を刈り取る鬨の声も耳に入らず、アラ
エルは呆然とその場に立ち竦んでいたが、やがて背後から大きな声
が上がった。
﹁アラエル、見て、あれ!﹂
エルナの声につられて見上げれば、城壁の上に登った騎士達が軍
旗や槍を手に、堂々と直立している姿がそこにあった。
朝陽に照らされて様々な意匠の甲冑は煌き、バイステリの市章が
刺繍された外套は強風にはためく。軍旗は威風堂々と風になびき、
すっくと立つその姿は、正しく騎士道物語そのものである。雄雄し
いその姿は決して降伏はしないというバイステリの意思の現れであ
り、内側に向けては必ず守り通してみせると言う確固たる決意の表
明であった。
﹁⋮⋮これは、負けていられないな﹂
あれほど恐ろしかった砲撃の音も、耳障りな鬨の声も、今となっ
ては恐ろしくなかった。壁の上に騎士が立ったからといって一方的
489
に撃たれ続ける立場は変わらないし、大軍の圧力が消えうせるわけ
ではない。だが、そこにバイステリ最強の部隊がいるという事実が
心を軽くしていた。
振り返れば、うずくまって泣いていたエルナ達も今は立ち上がり、
決意の表情でアラエルを見つめている。彼女達にもロビンを初めと
して騎士や兵士の夫や恋人が多いのだ。
﹁⋮⋮炊き出し準備を始めましょう! それから、矢の準備も!﹂
こうして、バイステリ市は街を挙げた戦闘態勢の構築に一歩踏み
出した。
490
バイステリの戦い 2
1
砲撃は日中の全てを費やして続行され、幾つかの砲が過熱によっ
て使用不能になるほどの鉛弾がバイステリの城壁に向けて吐き出さ
れた。にも関わらず城壁の上に詰める騎士達は小揺るぎもせず、沈
黙のままに交戦の意思を雄弁に伝えた。互いに損害はない。アルヴ
ェリア軍は無駄な消耗を嫌って兵を出さず、またその砲撃は城壁の
ような大きなものは狙えても、人間のような小目標を狙うには余り
に大雑把な代物であった。大砲は対人兵器ではなく、飽くまで功城
兵器なのである。
﹁へぇ、やる気満々じゃねぇか﹂
横一列に並んで堂々とアルヴェリア軍を睨み付けるバイステリの
騎士達を見やるグライーは、獰猛な笑みを浮かべた。端正ながらも
野性的で不潔さを取り繕おうともしない容貌が好戦的欲求のままに
歪んだその笑みは見る者に恐怖さえ抱かせる程であり、周囲に詰め
る兵達は思わず後ずさった。
﹁これこれ、兵が怯えておじゃるぞ﹂
ル・ランに言われて自らの失態に気付いたグライーは慌てて表情
を引き締める。名門ではなく土豪あがりで、領主としての責任すら
も放棄した純粋な軍人として戦場を駆け抜けてきたグライーは、異
端の貴族である。領地の拡大や位階の向上には興味を示さず、ただ
戦場で自らの軍事的な才能を発揮することのみを考える彼は、己の
491
才能を十全に発揮できる戦場においては野獣も同然の獰猛さを発揮
する。しかし自身ではその獣性を嫌っていた。
﹁ご無礼を。しかしこうも徹底抗戦の意思を示されては、どうあっ
ても兵を用いるよりありません。降伏するとしても、ある程度敵を
削らなければ﹂
激しい砲撃は城壁に目に見えて大きな損傷を与えていたものの、
都市というのは内部に様々な職人を擁している。バイステリほどの
大都市となれば石工や大工のギルドぐらいは抱えていて当然であり、
彼らは戦場には立たねど崩れた城壁に簡易的な修復を行うことはで
きる。射程外からの砲撃だけでは破壊と修復が延々と繰り返される
だけで、それは速効でエルヴン北部を制圧するというアルヴェリア
の戦略目標に合致しない。
﹁元より砲撃だけでは詰まらぬと思うていたのは麿も同じじゃ。し
て、策は?﹂
グライーは首を横に振った。
﹁力攻めより他にありません。敵の戦意がどれだけ持続するかにも
よりますが、千程度の損失は覚悟するべきでしょう﹂
﹁やはり手堅くいくよりないでおじゃるな。では明日よりは力攻め
と参ろう﹂
魔法のように城が落とせる戦術など古今において存在しない。人
為的な建造された要害に弱点があるわけがなく、どこを攻めようが
攻撃側は絶対に不利となるのが攻城の特徴である。損害少なく勝利
する事は不可能であり、しかも速攻を求められている以上、なおさ
492
ら損害は増える。とはいえ難攻不落の名城というのも数は少ない。
十分な戦力を用い、一定の損害を覚悟すればよほど堅固な城でない
限りは落ちる。グライーは真っ先に城に突撃する最も勇敢な兵千人
を失うことを覚悟し、ル・ランもまたそれを容れた。
アルヴェリア軍の首脳二人が血みどろの攻城戦を行う決意を固め
たその時、幕舎の外がにわかにざわめき、騎馬が忙しなく駆け巡る
音が響き渡った。時ならぬ騒ぎに二人は眉を潜める。半数以上が傭
兵で構成されたアルヴェリア軍はともすれば傭兵に主導権を奪われ
かねない危うさがある事を両者ともに認識しており、軍規の引き締
めに懸命になっていた。
ガントレット
﹁ちっ、士気がだれるのは功城の常とはいえ、初日からこれか。俺
も舐められたものだな。オルランド侯、行って何人か鞭の小路にか
けてやります。見せしめが必要だ﹂
必ず損害が出る功城戦は兵に嫌われる戦であり、攻撃側は士気の
低下と日々戦わねばならない。ル・ランも無言で首肯しかけたが、
幼い声がそれを遮った。
﹁どうかお待ちを。遠路はるばる正義の戦に駆け付けた我が軍の勇
者達を処罰しないでください。全て、私の我が儘が原因なのです﹂
その声に二人は聞き覚えがあった。弾かれたように立ち上がった
二人は直ちにその場に方膝を付いて跪ずき、最大限の敬意を幼い少
年に表する。
﹁王太子殿下、このようなところに⋮⋮﹂
アルヴェリア軍六万の総帥であり、次期国王たる王太子ルイは膝
493
をつく二人を慌てて立ち上がらせると、人懐こい笑みを浮かべた。
﹁お飾りに過ぎないとはいえ、遠征軍の総帥は父上が私に下さった
任。皆は最後尾から悠々と進めばいいと言いますが、それでは騎士
としてあまりに卑劣で無責任。宮廷育ちの世間知らずゆえ、何か役
に立てるなどと自惚れるつもりはありませんが、最前線でお二人の
戦いぶりを拝見できればと、やって参りました﹂
﹁ほうほう! それはなかなか立派なお心がけ⋮⋮﹂
渋い顔のグライーに対して寧ろ嬉々とした表情を浮かべたのがル・
ランである。軍略家であり、騎士というよりは軍人としての側面が
強いグライーにとって、王太子を抱えるのは厄介事を背負うのと同
義だが、伝統的な貴族であるル・ランには未だ指揮官先頭を尊ぶ心
がある。形だけでも前線に立とうとするルイの心がけは好ましいも
のと映ったのだ。開戦前には王太子の総帥就任を苦々しく思っては
いたものの、ルイ個人に対しては寧ろ甘いことも手伝ってにこやか
に出迎えた。
﹁何の遠慮がありましょうや。殿下は全軍の大将でおじゃる。将来
のためにも臣らの戦いぶりをとくとご見聞あれ﹂
ル・ランに促されるままに前線に赴いたルイは周囲ににこやかに
挨拶しながら足を進める。左右にル・ランとグライーを従えるその
姿に兵達がざわめき、ただちに整列して武器を捧げる姿勢をとった。
王家に連なる者は、その存在だけで大きく士気を高揚させられる。
地道で凄惨な功城戦でも、その成果を国家の象徴が見ていてくれる
というのならば、戦う価値は大いに上がるのだ。
﹁あれが、エルヴンの騎士達⋮⋮﹂
494
城壁の上に威風堂々とバイステリの旗を掲げる騎士達に、ルイは
感嘆の声を漏らす。それは騎士道物語そのものともいえる光景であ
り、若いルイには敵方でありながら尊敬の念すら覚えさせるものな
のだろう。グライーは城壁を指しながら解説する。
﹁エルヴンの騎士といいつつも、大半は我がアルヴェリアから傭兵
に出た騎士達です。先程から観察していますが、見た顔もちらほら
と。実戦慣れした者達ですので明日以降はかなり厳しい戦いになる
でしょう﹂
アルヴェリアの最大の敵は同じアルヴェリア人。これは傭兵業が
盛んになってからは過去よりも更にその傾向を増している。戦うに
当たって何人というのは関係がない。その時々の雇用や利害関係で
戦うのは騎士も傭兵も同じだ。だが、それを聞いたルイは顔をしか
める。
﹁アルヴェリアの騎士なのに、アルヴェリアに弓引くというのです
か? 彼らの忠誠心はどこへ行ったのでしょうか?﹂
人懐こい顔が一瞬にして冷酷なものに入れ替わり、子供らしい口
調が支配者としてのそれに変わる。その冷たさにグライーは気圧さ
れた。
﹁⋮⋮!? 彼らは我々と封臣契約を結んだわけではありません。
アルヴェリアで主君を見出だせなかった者達が外国で傭兵をやるの
は昔からのならいで⋮⋮﹂
﹁それでもアルヴェリアに生まれ育ち、その禄を食んできたはずで
す。アルヴェリア人ならアルヴェリアの王家に従うべきなのに、祖
495
国に弓引くなんて﹂
グライーはル・ランと顔を見合わせた。ルイの言葉はあまりに異
質なものだったのである。
﹁最近はそういう考えをするのか⋮⋮﹂
グライーは聞こえない程度の声で呟く。アセリアとの戦争でアル
ヴェリアは中央集権的な国家として内部を固め、王家は国家と一体
化するほど権力を強めている。王太子ルイからすれば、アルヴェリ
ア人である以上、王家には無条件で従うべきと考えるのが当然なの
だろう。それは、父王シャルルにもグライーにもル・ランにもない
考え方であった。人種と国家というものを、若い世代の支配者は不
可分のものと考え始めているのである。
これからは国外に出る騎士も数を減らすかもしれない。先ほどと
は打って変わって非難するような目で城壁を見つめるルイを見なが
ら、グライーはふとそんな風に思った。
2
イル・カヴァリエーレ
﹁﹃肝試し﹄は終わりか? 騎士殿﹂
夜の帳が辺りを包み、まだ冬の名残を僅かに残す夜の冷気が肌に
感じられるようになった頃、アラエルは城壁に登ってきた。その手
に持つ盆には砲火轟く中、女達が総出でこしらえたシチューとワイ
ンが載っている。腹が減っては戦は出来ない。長期戦が予想される
篭城となれば尚のことである。アラエルはエーリヒを、エルナはロ
496
ビンをと言った具合に傭兵隊の女達はめいめい自分の縁者を見舞い
に来ていた。
﹁ああ、警戒はしているが、多分夜襲もないだろう。今日の戦は仕
舞いだな﹂
敵味方の識別が困難な夜間において、下手な攻撃は同士討ちを招
き、却って仕掛けた側に不利になる。まして篭城側には城壁があっ
て隊列を維持できる上に光源の数も多い。よほど上手く不意を衝か
ない限りは昼間の戦闘より有利に戦える。アラエルはそうか、と返
すとエーリヒの傍らに歩み寄り、盆を渡すとその場に座り込んだ。
﹁なんだ、肉が入ってないのか﹂
盆に盛られたシチューをかき混ぜるエーリヒが不満げに口を尖ら
せる。豆と野菜のシチューは廉価で手間がかからない食事だ。肉は
腹に溜まる分動きを鈍らせるという考えもあって、今後ともエーリ
ヒら傭兵は散々これを食べることになるだろう。
﹁豆があるだろう。豆が。畑の肉だ。しっかり食え﹂
肩を竦めるエーリヒをよそにアラエルは自分のシチューを啜る。
エーリヒもやがて諦めて食事に移った。二日酔いを避けるためにワ
インは水割りされており、酒とはとても言えた代物ではなかったた
めに恐ろしく簡素で貧しい食事となったが、贅沢は言えない。
﹁⋮⋮どうだ、敵は諦めてくれそうか?﹂
食事を終え、簡単に祈りを捧げたアラエルは期待した返事が返っ
て来るはずもない事を承知の上で訊ねた。案の定エーリヒは首を振
497
る。
﹁今日は挨拶。明日が本番だな。見ろ、森のほうに灯りが見える。
木を伐り出して攻城兵器を作ってるんだ。明日は正攻法で来るぞ﹂
軍を出すのも投資である。それも巨額の。出兵して何もなすこと
なく帰るなど有り得ない。これだけの大軍を率いた敵が篭城側の士
気の高さを理由に帰るわけがなかった。明日は絶対に血が流れる。
敵が強行の意思を固めた以上それは間違いがない。そしてその流れ
る血は、エーリヒのものである可能性もあるのだ。それを思うとき、
アラエルはその身を震わせる。一対一、或いはもっと小集団の戦い
なら、ある程度は安心できるのだろう。エーリヒは強い。だが、千
や万の戦いになれば個人の強さなど大勢に何の影響も及ぼさない。
無双の剣士といえども、気紛れな流れ矢に脳天を射抜かれ、雑兵の
集団が繰り出す槍に突き殺される可能性がある。
﹁なぁエーリヒ、今朝は言いそびれたが⋮⋮﹂
何も気負うな、ただ生き延びる事だけを考えて欲しい。臆病でも
構わない。
死なないで欲しい。絶対に。
そう言おうとしてアラエルは自分がまた間違いを犯そうとしてい
るのではないかと考え直した。
﹁⋮⋮?﹂
間が開く。その長さにエーリヒが怪訝な表情を浮かべた時、アラ
エルは本心を胸に仕舞う事を決めた。
498
﹁⋮⋮精一杯戦って来い。絶対に負けるな!﹂
﹁おう! お前が応援してくれるなら百人力だ!﹂
どん、と胸甲を叩いてエーリヒは応える。雄々しいその姿にアラ
エルは頼もしさを感じながらも、胸を痛めた。エーリヒが今必要と
しているのは女々しい﹃行かないで﹄ではない。戦いに赴く決意を
固めさせる激励の言葉だ。だが、それで仮に奮戦したエーリヒが明
日戦死したとして、アラエルは自分の言葉を後悔しないかどうか、
自信がなかった。
︵未練に過ぎる。愚かしい⋮⋮!︶
迷いを断ち切るようにアラエルは肩に掛けていたケースからヴァ
イオリンを取り出し、調律を行う。時ならぬ楽の音に城壁中から視
線が集まった。エーリヒも相好を崩す。
﹁芸術的とはいえない注文だが、明るいのを頼む﹂
﹁元よりその積もりだが、なんとも芸術性に欠けるな﹂
薄く笑ってアラエルは弓を構える。さて何を演奏しようと考えた
が、結論を出す前に体が動いていた。優しい音が夜空に響き、城壁
の下で壁の修復に当たっている民兵達も一時、その手を休めた。
︵もう曲名も思い出せないが⋮⋮確か、エルガーだったか?︶
三分程の演奏の間、周囲の目を敵味方の別なく引き付けた後、ア
ラエルはタイトルを奇跡的に思い出して顔を赤らめながら城壁から
499
退散した。
3
朝陽と共に攻撃は再開された。
多少の損傷ならば補修を行うことは可能でも、攻撃の真っ最中に
それを行うだけの余裕はない。昼の内に城壁に破孔が出来てしまえ
ば突入は可能だ。また、連続する砲撃は城壁の足場を崩し、有利な
位置を削る。その隙に兵を送り出すのが、最も単純にして最も効果
的な城攻めである。
﹁近接して攻城梯子を架けろ。旧式の城壁だ。真下まで潜り込めば
もう矢も飛んできはしない。恐れるな!﹂
グライーは自ら前線に赴いて城に向かう兵を督戦する。城兵から
矢の雨が降り注ぐが、意に介した様子はない。不利な戦いを強いら
れる中、指揮官が怯えているようでは傭兵を中心とした軍は前に出
ないのだ。
﹁大砲は休まず撃て! 連中が頭を引っ込めてくれれば儲けものだ
! 弓兵どもを追い払ったら工兵を出して堀を埋める!﹂
勇将の下に弱卒なしの格言そのままにアルヴェリア軍は矢の雨が
降り注ぐ中を遮二無二突進する。角度をつけた木板を用いれば弩の
矢もある程度は無効化できることは知られている。また、垂直に聳
える城壁の上からの射撃には問題があり、距離を詰めれば詰めるほ
ど射手は無理な姿勢での射撃を強いられ、最終的には射撃不能に陥
500
る。弩は真下を撃つようにできていないのだ。だが、防衛側も必死
である。
﹁ブーシェ伯!﹂
指揮を執るグライーの周辺を守る騎士が連なって盾を構え、人の
壁を作る。直後、鈍い音が響いてその身が盾と甲冑ごと貫かれた。
義務を果たした騎士達はその場に倒れ伏す。弩であってもありえな
い貫通力にグライーの背に冷たい汗が流れた。
﹁マジかよ、この距離で騎士甲冑を抜くのか⋮⋮﹂
城壁上に陣取り、胸壁に隠れて射撃を繰り返す弩兵に混じり、人
ほどもある長筒を操る一団がぴたりと照準をグライーに向けていた。
狙撃というには精度が低く、大抵は地面を撃つものの、その威力は
弩をも上回る。最新式の甲冑でも防げるかどうかはかなり怪しいと
グライーは感じた。
﹁伯はお下がりください! 盾ではあの武器を防ぎきれませ⋮⋮﹂
護衛の騎士の一人が言葉を鉛弾によって中断させられる。胸甲を
貫かれたその騎士は胸と口から大量の血を吐き出した後、絶命した。
精度の低い狙撃だが、ごく少数、恐らくは一人か二人、完全に武器
の特性を理解している射手がいると思われた。
﹁⋮⋮っ! 大砲何をやっている。連中の頭を下げさせろ! 城壁
ごと吹っ飛ばせ!﹂
射撃を受けている間、歩兵の前進が停滞していた。苛立たしげに
砲撃を命じるグライーだが、それでも城壁からの射撃は止まない。
501
幾人か気紛れな砲弾によって吹き飛ばされた兵もいたものの、全体
としては恐ろしく高い士気の下で矢を放ち、鉄砲を撃っていた。わ
けても鉄砲隊は少数ながら脅威であり、その弾は当たれば大盾も甲
冑も無視して兵を貫いた。
﹁多少の損害は覚悟の上だ。これが攻城戦の醍醐味、燃えるじゃね
ぇか。上等上等!﹂
バトルクライ
雄叫びが青空へと吸い込まれていく。先日と打って変わって戦場
は苛烈さを増していた。
4
﹁上手く防いでいるようですね﹂
市庁舎の一室で指揮を執るアルフォンソに副官ガウィーンは城壁
の上で防戦する傭兵達の状況を報告した。予想された大砲による心
理的被害、即ち現場放棄と逃亡はごく僅かに抑えられ、今のところ
味方は敵に対してほぼ一方的な射撃を行っている。近接してきた敵
もいるが、そちらには落石が対応していた。もっともこちらは胸壁
から身を晒す必要があるため、敵の弓兵の狙撃を警戒する必要があ
るが。
﹁指揮官級がかなり健闘しています。大砲に慣れているのが大きい
ようですね。流石はアルヴェリアの騎士といったところでしょうか﹂
報告を聞いたアルフォンソは満足そうに肯く。
502
オーラ
﹁傍らで奮戦する貴族の姿は、小さくとも一種の霊威を生みますか
らね﹂
身分差が厳格な社会にあって、平民と肩を並べて戦う騎士の姿は
全軍に勇気を付与する。また、平民出身の兵が最も恐れる敵軍の突
入に際して、傍らで巌の如く構える騎士の姿は頼もしいものであっ
た。
﹁とはいえ総体として押されるのは如何ともしがたいですね。大砲
もかなり近接してきている﹂
アルフォンソは手元にバイステリ市とその周辺を模した模型を展
開しており、報告ごとにその模型の大地に陣取る各種の駒を移動さ
せ市庁舎に居ながら指揮を執る。篭城では蟻の一穴がそのまま落城
への道筋に至る事も珍しくない。アルフォンソは敵の突破に備えて
予備隊を手元に置き、慎重にこれを投入する役目を持っている。
﹁予備隊の騎士達が敵はまだかとじれています。敵の注意は城壁の
上に向いていますし、出撃を命じては?﹂
ガウィーンの言葉にアルフォンソは若干思案する。守るだけでは
いずれ数の差に圧倒される。短時間に区切っての出撃で近接してき
ている大砲だけでも始末できれば大きな影響があるだろう。いつく
るとも知れない敵を待ち構える騎士達も張り詰めた緊張感を発散す
る機会を伺っている。試してみる価値は十分にあった。許可を出そ
うとアルフォンソは予備隊の駒を手に取る。しかし、
﹁北の壁に攻城梯子がかかりました! 猛烈な矢と砲弾の援護射撃
で頭が出せません! 敵騎士が乗り込んできます!﹂
503
急を告げる報告が舞い込んでその企てを白紙に戻す。アルフォン
ソは城外に進めかけていた駒を北の城壁に配置する。
﹁敵も中々打つ手が早い。暫くは互いに奇策は打てません。正攻法
で防御と参りましょう﹂
ガウィーンは一礼して剣を片手にその場を立ち去った。
4
旧式とはいえバイステリの城壁は堅固であり、砲撃を以ってして
もそうそう崩れるものではない。大砲が壊れるのを半ば覚悟して十
分な火薬を詰めて撃てば、城壁を崩すだけの勢いで砲弾を射出でき
るのだろうが、高価で持ち運び困難な上、暴発すれば周囲に甚大な
被害を与える大砲をそのように扱う者はいない。
ラム
従って攻城は百年前と同様、攻城梯子による壁上占拠、破城槌に
よる城壁破壊、地下坑道を掘削しての城壁崩しなどが中心となる。
多大な犠牲を払いつつも距離を詰める事に成功したアルヴェリア軍
はこれら全てを平行して実行していた。
﹁弓兵下がれ! 騎士が来るぞ!﹂
防衛側は次々に架けられる攻城梯子のうち幾つかを蹴り倒し、引
っ掛けてなぎ払うものの、援護で放たれる矢に圧倒されて容易に近
づけない。その隙に騎士を中心とした部隊が次々と城壁の上に這い
上がる。乱戦に備えて軽装の甲冑を施しながらも隙のない身のこな
しは、彼らが精鋭である事を示していた。
504
﹁アルヴェリア王国が騎士、ランツィスカ家のマルセル、始祖より
数えて八代。一番乗りの栄誉に預かった! 誰ぞ名のあるものは出
てきて我と剣を交えよ!﹂
先陣を切った騎士が古式ゆかしく名乗りをあげる。守備を請け負
っていたエーリヒは迷うことなく応じた。
﹁バイステリの傭兵エーリヒだ。見事な武者ぶり結構! 傭兵が相
手じゃ不足かも知れんが、ひとつお付き合う願うぜ!﹂
アルヴェリアの騎士は面頬の奥で不敵に笑うと、外套をたなびか
せて抜刀した。
﹁シュトレン家のエーリヒ卿かっ! 相手にとって不足なし!﹂
騎士貴族には独自のネットワークがある。戦場働きの大きな騎士
は自然と武名が轟くもので、エーリヒはそれなりに有名人であった。
直ちにエーリヒも抜刀して互いに剣をぶつけ合う。
﹁おおおっ!﹂
互いの技量に圧倒的な差がなければ、騎士の戦いとは力任せであ
る。小手先の技は甲冑が防ぐのだ。長剣同士が金属音をあげて交差
し、そのまま吐息がかかりそうなほどに近接しての押し合いが始ま
る。二人の騎士は腕ずくで相手を叩き斬るべく刀身の中ほどに右手
を押し当てて梃子の原理で力を入れた。しかし膂力に大差はなく、
続いて示し合わせたように両者は有利な位置を占めるべくそのまま
左方向に回転を始めた。相手の体勢を崩し、圧倒する力で押し倒し
たとき、或いは動きに追随できずに相手を正面に捉え損ね、不利な
505
体勢で剣圧を受けたとき、勝負は決まる。
﹁ちっ!﹂
焦れたアルヴェリアの騎士は上体に力を込めてエーリヒを弾き、
その勢いで大きく後退した。仕切り直しである。しかし軽装とはい
え甲冑を纏ったまま梯子を登り、休息もなしに激しい戦闘に突入し
たその騎士はやはり疲労していたのだろう。ほんの僅かに構えが崩
れ、剣先がぶれた。対するエーリヒはその隙を見逃さない。
﹁もらった!﹂
真正面に剣を構える﹃鍬﹄の構えからエーリヒは一心不乱に突き
を放つ。その速度は神速というべきであり、篭手を抉り、僅かに開
いた胸を貫き通すのに十分だったであろう。だが、アルヴェリアの
騎士は反応した。
﹁やらせるかっ! 田舎騎士!﹂
騎士は僅かに下げた剣先がエーリヒの剣と接した瞬間、激しくエ
ーリヒの剣を左に弾いた。不意を衝かれたエーリヒは剣をあらぬ方
向に反らしたまま突進し、かわされるまま無防備な背面を騎士に晒
す。
﹁終わりだ! 一番槍の武功も頂くっ!﹂
﹁まだまだだよ! このボンボン騎士が!﹂
騎士の剣が背面に繰り出される瞬間、急速に反転したエーリヒは
自らの剣を投げ捨て、振り下ろされた剣が十分な勢いを得る前に両
506
手で刀身を掴んだ。剣を掴まれるとは思っていなかったのだろう。
騎士は呆気にとられる。
﹁剣だけ使ってればいいって教わったか? こういう手もあるんだ
よ﹂
剣を抜こうと焦る騎士は必死で力を込めて左右に動かし、剣先を
掴むエーリヒの篭手から赤いものが滴り落ちる。しかし躍起になっ
ていた騎士は不意にエーリヒが剣を手放した瞬間、その勢いのまま
に大きく姿勢を崩して転がった。
﹁十年早いんだよ!﹂
手放した剣を素早く拾い上げたエーリヒは慌てて立ち上がろうと
する騎士に向かって走り、大振りの一刀を見舞う。たちまち鮮血が
迸り、城壁を赤く染めた。
﹁大した事ねぇぞ! 畳んじまえ!﹂
意気上がるバイステリ側は騎士のみならず槍兵まで戦闘に参加し、
各所で城壁をよじ登るアルヴェリア軍を押し包んだ。アルヴェリア
軍がいかに多勢とはいえ、城壁に一度に上れる人数は限られている。
城壁の上では、バイステリが圧倒的に優位なのだ。
こうして、その日の戦も終わった。
507
バイステリの戦い 3
1
二日目を凌ぎ切ったバイステリは緊張の中にも活況を呈していた。
エルヴン人は万を越える軍勢を見ることがない。バイステリに駐
屯する四千の軍勢とて十分な大軍なのだ。それが移動する森のごと
き一万二千の大軍を目の当たりにすれば、怯えるのも仕方はない。
初日すら耐えられないのではないか、そのような声もあがっていた
ところでの勝利である。それも、真正面から堂々と弾き返す形での。
傭兵達の士気は上がり、市民達も大砲を恐れずに城壁の修復や武器
の製造、見張りの交代などを積極的にこなすようになっていた。
﹁アラエルさん。貴女のエーリヒ卿は何人斬ったのですか!?﹂
士気の高さの余りに川沿いでその日の洗濯をするアラエルら仕出
し女のところにまで市民達は現れ、興奮した口調でそんなことを次
々と聞いてきた。聞かれたアラエルは曖昧な笑みを浮かべるよりな
い。
﹁いえ、あまりエーリヒはそう言うことを言いませんので⋮⋮﹂
実際にアラエルはエーリヒがどのように戦ったか聞いていない。
怪我でもしていないかと日没と共に駆けつけてみれば案の定両手が
真っ赤に染まっており、蒼白になって手当てはしたものの、城壁を
預かる指揮官の一人であるエーリヒに暇はない。ろくに話もせずに
別れてしまったのだ。アラエルにも悪臭を放つその日一日分の傭兵
508
達の洗濯物を洗うという重労働が待っており、エーリヒばかりを心
配できない。死者も多数でているし負傷者も数多いる。負傷者には
看護人が要るし、仕出し女は傭兵の身内が主であるため、身内に死
者が出ればその女には少なくとも嘆き悲しむ時間が必要だ。人員が
そちらに割かれるため、仕事はいつも以上の重労働となる。
﹁俺は五人斬ったって聞きました! それも相手を選んで騎士ばか
りとか!﹂
﹁それは古い情報だろ。俺は十人って聞いたぜ﹂
﹁カールマン卿とどれだけ斬れるか競争しているって話を聞いたぞ
!﹂
藁灰を浸した灰汁で悪臭を放つ肌着を洗濯する手を止めずに聞き
耳だけを立て、やがて自分を無視して始まった勇ましい話にアラエ
ルは内心ため息を吐いた。
︵エーリヒ、お前は超人らしい。この分だとあと二日もすればお前
一人で千人は斬ったことになっているかもな︶
詳しい話は聞いていないが、仕出し女の同僚や、休息を取る騎士
や兵士の話から類推するにエーリヒが斬ったのは一人か二人といっ
たところだろうとアラエルは思っていた。第一、狭い城壁の上での
戦いは半ば乱戦であり、誰が何人斬ったなどと容易にわかるもので
はない。そして個人的な武勲稼ぎに意味もない。
︵⋮⋮寧ろ超人でいて欲しいのだろうな︶
圧倒的な軍に攻め込まれた状況で勝ち目があると信じるには、味
509
方が精鋭中の精鋭であると思うより他ない。バイステリの武の象徴
である騎兵隊の騎士達。特にエーリヒとカールマンはその願望を託
すのにうってつけと言うことである。その心理は十分にアラエルに
は理解できた。だが、その反面何故か苛立ちも覚える。
﹁印刷所が今、大急ぎでパンフレットを刷っていますし、布告屋は
その元本を前に歌を作っています。明日には町中にエーリヒ卿の武
勲が広まりますよ﹂
どうです、嬉しいでしょうといわんばかりの男にアラエルはずい
ぶん上手くなった作り笑いで応える。市民の士気が高いのは悪いこ
とではない。それを理解しているアラエルはひたすら感情を閉じ込
めた。
︵人を大勢殺した傭兵はよい傭兵か︶
傭兵隊の人間ならともかく、一般のバイステリ市民にとってのエ
ーリヒは半ば記号的な存在だ。当然である。普段傭兵隊はバイステ
リから隔離されているのだからその人となりを知りようがない。市
民にとってのエーリヒはただの﹃強い騎士﹄であり、だからこそ何
人斬ったと噂になる。だが間近でエーリヒを見ているアラエルは何
か侮辱されたような気持ちになった。
︵⋮⋮いけないな。あいつが戦場で武功をあげ、市民の士気を上げ
ることは悪い事ではないというのに。私がこれではあいつの名まで
落とす︶
軽く首を横に振ったアラエルはにこやかに微笑み、盛り上がる市
民に調子を合わせ、無邪気にその武功を喜ぶ風を装った。仕出し女
の癖に生意気だ。所詮は流れ者。そんな風評が立つよりはその方が
510
よほど賢明と思ったのである。アラエルに対して何ら悪意なく、寧
ろ完璧な善意でエーリヒの噂を伝えにきた市民達はその様子に満足
し、やがてガヤガヤと騒ぎながら洗濯場を後にした。
﹁⋮⋮人を斬るだけが男の価値なら、あまりにも詰まらんではない
か﹂
ス
アラエルとて傭兵隊に身を置いてそれなりになる。殺し、殺され
コア
る世の現実というのはよくわかっていた。しかし命のやりとりを戦
績に変えて噂に上らせるのは受け入れがたい。わら人形ではない。
斬るほうも斬られるほうも人間なのだ。数字ではない。
﹁いいえ、兵士の価値は人をどれだけ殺せるかです。そうでなけれ
ば、この街だって守れませんから﹂
ふと漏らした呟きに思わぬ返事があったことに驚いたアラエルは
僅かに慌てて振り返る。あまり人に聞かせていい類いの言葉ではな
かった。声の主は闇夜に溶け込むように佇んでおり、薄汚れた身な
りもあって姿は判然としない。しかしアラエルはその声に聞き覚え
があった。
﹁トリス卿⋮⋮?﹂
﹁で、合っていますよ。姫様。卿は不要ですが﹂
揶揄するようにそう言うと、トリスはゆっくりと松明が照らす位
置まで足を進めた。火縄銃兵独特の硝煙の臭いがアラエルの鼻をつ
く。
アラエルの夜間視力は衰えつつあるとはいえ常人よりはまだいい。
511
それにも関わらずアラエルには目の前の少年が嘗て大恥をかいた少
年騎士と同一人物であるとは思えなかった。あまりにも過去のトリ
スとは違いすぎるのだ。身に纏う衣服は粗末な上に薄汚れており、
特徴的だった金髪も煤にまみれている。何より違うのは右頬で、火
傷と煤煙の痕が生々しく、一生消えることはないのだろうとアラエ
ルに思わせた。
﹁そういえばお会いするのは久々でしたね。右頬が気になりますか
? 銃は発射の際に火炎を生じますからね。正確に目標を狙おうと
頬をつけると、こうなるのです。まぁ名誉の負傷というわけで﹂
物言いも皮肉めいており、記憶に残る甘さの残る少年像とはまる
で一致しない。何処かその言葉遣いはアルフォンソを思わせた。
﹁⋮⋮ご活躍なさったようですね。お疲れさまです﹂
いきさつがいきさつだけにアラエルとしては避けたい相手である。
今も怨念めいた感情が冷静を装う表情の裏側から読み取れるだけに、
なるべくならすぐ会話を切り上げてしまいたかった。
﹁はい。騎士ばかり三人ほど仕留めました。指揮する隊の合計なら、
恐らくは二十人ほど﹂
騎士を倒すのは並大抵の事ではない。騎士一人で兵十人分と称さ
れるのは伊達ではないのだ。それを三人も倒したのは偉業というべ
きである。だが自慢げに語るトリスの姿に、アラエルはあまりいい
感情を持てなかった。
﹁人の価値は人殺しの上手下手では決まらないとでも仰りますか?﹂
512
表情に嫌悪感が出ていたらしい。トリスは片頬を歪めてアラエル
を挑発した。
﹁ですが今は戦時で、僕達は傭兵です。包囲下で騎士道だの、人倫
だの、道徳は無価値です。敵を殺さないと皆殺しですからね﹂
当然である。負ければそんなことを言う余裕もなくなるだろう。
そこはアラエルも納得して、昼夜を問わず協力しているのだ。人を
殺す、間接的な協力を。
﹁エーリヒさんをはじめとして騎士の方々はそこがわかっていない。
聞きましたか? 城壁を上がってきた敵と一騎討ちをしたとか。笑
っちゃいますね。僕なら名乗りの最中で銃弾を叩き込むのに。いや、
そもそも騎士でもないのに何が騎士道⋮⋮﹂
﹁トリス卿﹂
いい加減腹に据えかねたアラエルは言葉を遮り、それ以上は口に
出さないながらも睨む瞳でたしなめる。言葉が過ぎます。当の本人
の縁者に言うような事ではない、と。表情を変えたアラエルにトリ
スは僅かに後退り、気弱な表情を浮かべた。
︵張りぼてか︶
スコア
女に一にらみされただけでこの有り様である。メッキが剥げれば
まだ世間知らずな少年ということだろう。嬉々として自らの戦績を
語るのも未熟ゆえと思えた。騎士として失敗した埋め合わせを銃に
見いだし、騎士というものを蔑むことで自尊心を回復させようとし
ているのかとアラエルは推測する。
513
﹁⋮⋮失礼しました。戦場の興奮がまだ冷めていないようです。夜
風にあたって熱気を冷ますとしましょう。それではまた明日﹂
己の失態に気付いたトリスは急いで表情を取り繕い、踵を返すと
やや早足でその場から遠ざかっていく。よくよく見てみれば衣服や
髪型にアルフォンソの影響が見てとれた。立ち去る背中が僅かに震
えていた事から、アラエルは罪悪感を感じる。
︵⋮⋮馬鹿な事をした︶
トリスも戦場に立っている。恐怖もあろう。その恐怖を虚勢で誤
魔化し、武勲を称えられたいと思うのは当然だ。それに対して冷た
い一瞥で答えたというのは如何にも了見が狭い。とアラエルは自ら
を嗤う。
︵明日もし会えれば、罪滅ぼしに称えよう。誰も彼もが街を守るの
に必死なのだから。市民も、トリスも、エーリヒも。私も必死にな
らねば︶
物思いにふけりつつ洗濯物を物干しに掛けると、アラエルは両頬
をぴしゃりと叩く。彼女の戦場は洗濯場であり、調理場であり、看
護所である。勝ち戦でも負傷者は出た。死者も出ている。そう思っ
て踵を返したところで、
﹁よぉ、お疲れ様だな。それで仕事も終わりか?﹂
不意にエーリヒが現れた。
﹁入れ替わり立ち代り、今日はどうも人と縁がある日だな。生憎と
私にはまだ仕事が残っているが、お前はしっかりと休んでおけ﹂
514
ほんの数時間前には殺伐とした斬り合いをしてきたばかりだと言
うのに普段どおりの表情のエーリヒにアラエルは少し安心する。エ
ーリヒはやや残念そうに肩を竦めた。アラエルはくすりと笑って隣
を通り過ぎ、看護所に向かおうとする。だが、通り過ぎる瞬間、不
意ににやりと笑ったエーリヒがぼそりと呟いた。
﹁とりあえずの防戦祝いに本物のワインと肉が振舞われたんだがな。
仕方ないから一人でちびちびやっとくとするか﹂
﹁それは置いてお⋮⋮﹂
思わず振り返ってしまったアラエルは失策に気付いて自らの口元
を押さえる。片やエーリヒはにやにやと笑うだけだ。
カルペ・ディエム
﹁お前もすっかり酒の味を覚えたなぁ。いや、食い意地に飲み意地
が張っているのは悪いことじゃない。その日を楽しめってな﹂
カルペ・ディエム
その日を楽しめは明日をも知れぬ命の傭兵の間で使われる決まり
文句のようなものである。いつ死ぬかわからない彼らは未来や永劫
という事を考えず、今この瞬間を全力で生きようとするのが一般的
カルペ・ディエム
だ。それは悪いことではないとアラエルは思っているが、積極的に
自分がそちらに与しているとは思われたくなかった。つまり、失策
である。
﹁最近はお前もこういう手を覚えたか。小ずるく女をひっかけて悦
に浸る男はもてないぞ﹂
精一杯の嫌味を以ってアラエルは応えたが、エーリヒは一向に堪
えた様子もない。得意げな顔が軽く苛立たせた。
515
﹁お前にはもてている﹂
﹁阿呆﹂
旗色悪し。そう感じたアラエルは会話を打ち切って大股に看護所
に向かう。背後でエーリヒが踵を返す気配を感じたアラエルは、ふ
と気になってもう一度振り返った。察したエーリヒも振り返って目
が合う。
﹁エーリヒ、さっき市民が来てな。お前が何人斬ったか知りたがっ
ていたぞ﹂
エーリヒは実に迷惑そうな顔をした。
﹁自慢げに語ることじゃねぇだろ。人殺しだぞ。適当に誤魔化しと
いてくれ⋮⋮って、なんで笑ってるんだ?﹂
言われてアラエルは自分の表情が綻んでいるのに気付いた。慌て
て引き締めるが、どうも上手くいかない。
﹁いや、なんでもない。それじゃあ、また明日だな﹂
その日も夜襲はなかった。攻防戦は三日目の朝を迎える。
516
バイステリの戦い 4
1
三日目の攻防戦は、二日目の猛攻が嘘のように低調であった。
初日の砲撃に屈さず、二日目の総攻撃にも揺るがなかったバイス
テリへの認識をアルヴェリアは改めつつあり、強引な力攻めを避け
たのである。攻撃は弓鉄砲の射程外からの砲撃が主となった。一見
手詰まりのように見えるが、アルヴェリア出身の騎士達はそう見て
いない。アルヴェリアが本気で力攻めを行えば、すぐにでもバイス
テリは陥落すると彼らは見ている。それをしないのには理由がある
のだ。
﹁自縄自縛だな﹂
砲撃を行うアルヴェリア軍を見下ろしつつ、エーリヒは皮肉げに
呟いた。
﹁ファーレンベルクの悪行が、こんなところでも足を引っ張ってや
がる﹂
戦争における略奪、殺戮は日常茶飯である。都市を占領した際、
三日間の略奪の許可を与えた君主が﹃慈悲深い﹄と称されるほど、
それは当たり前の事なのだ。だが物事には限度がある。都市そのも
のを地図から消してしまったファーレンベルクの虐殺は、アルヴェ
リアの威信を大いに傷つけた。その轍を二度と踏むまいとする余り
にアルヴェリアは以後、攻城戦というものに酷く慎重になり、攻め
517
手に徹底を欠く事となったのである。野戦においてはただ一日、僅
か数時間の戦闘でアデルバードを蹴散らしたアルヴェリアが都市一
つ落とせないのは、自らの消耗よりも苛烈な攻撃の末に兵士達が制
御不能の躁状態となって第二のファーレンベルクを起こさないかを
恐れるがゆえであった。
﹁時間を稼ぐ必要のあるこっちとしては願ったりかなったりだが、
それだけにこっちも大して敵を刺激できないってのもあるな﹂
攻撃する側にしろ、守る側にしろ、もっと﹃えぐい﹄手はある。
攻撃側なら投石器を組み立てて殺害した敵の死体を城内に投げ込み、
士気阻喪と疫病の蔓延を招いたり、川に毒を流して生活用水を汚染
する手がある。外界に出ることができず、狭い都市内に周辺の農民
すらも抱きかかえた都市は衛生状態が加速度的に悪化するのだ。ま
た、守る側でも高所という利点を活かして溶けた鉛、煮えた油、或
いは矢に汚物を浸けて放つ事で破傷風を狙うという手がある。だが、
今までのところ双方ともにその手は用いていない。やればやり返さ
れる。その相乗効果がもたらされる末は、大虐殺だ。ゆえに両軍は
行儀よく戦争をしていた。
﹁このまま状況が推移すれば重畳、というところなのですが、それ
をさせてくれる程やさしい相手ではないでしょうね﹂
気付けば隣にアルフォンソが来ていた。戦闘が低調なのを見計ら
って前線の視察に来たのだろう。甲冑もつけない軽装だが、注意深
く城壁の下を見る目は鋭い。
﹁ここでこのまま耐えていればやがて中部、南部エルヴン諸国の連
合軍が駆けつけてくれます。そうなれば挟み撃ちとなり、我々は圧
倒的優位に立てる⋮⋮﹂
518
それがバイステリの基本方針であり、希望であった。このまま戦
って勝てるなどとは誰も考えていない。しかし、
﹁そんな虫のいい話が、果たしてあるでしょうか?﹂
アルフォンソは不意にその方針に疑問を呈した。
﹁これぐらいの手は策の名に値しません。誰でも考えます。これだ
けの準備を整えてきた敵が読んでいないわけがありません。予想よ
り持ちこたえているのは結構ですが⋮⋮﹂
アルフォンソの言葉を中断させるかのように砲弾が着弾し、城壁
を削る。夜間に修復は行われ、城壁に気休めの緩衝材も吊るしては
いるが、日毎撃ち込まれる砲弾は砲撃を前提としていない城壁を修
復が間に合わないほどに損傷させていった。アルフォンソとエーリ
ヒは急いでその場に伏せて破片をやり過ごす。滅多に当たるもので
はないが、当たれば致命傷だ。初日のようなデモンストレーション
はもう必要がない。
﹁⋮⋮三日目だというのに見える敵の数は同じ。疲労を誘うために
連続攻撃は続けられていますが⋮⋮エーリヒ卿、アルヴェリア軍は
総勢六万を号していますが、ここにいるのはその三分の一。残りは
どこにいったのでしょうね?﹂
﹁⋮⋮ここに加勢に来ないで、直接中部に踏み込んだと?﹂
北部のバイステリが盾の役割を担う一方、南部と中部のエルヴン
諸国は矛の役割を担っている。だが攻撃側には今バイステリと交戦
しつつ、中部に攻め込む自由もあるのだ。そうなれば挟み撃ちどこ
519
ろではない。どれだけ籠城したとしても援軍は未来永劫やってこな
い可能性すらある。エーリヒは愕然とした。
﹁可能性としては。とはいえ市長ですらもエルヴン全体に対して出
来ることは限定的です。アセリアに南部、中部のエルヴン諸国と同
盟を結びあげたものの、意のままに動かすと言うわけにも参りませ
ん。政治的にこれ以上の手は打てなかったのですから、現場の我々
としては精々与えられた状況下で張り切るしかなさそうですね﹂
すくと立ち上がったアルフォンソが彼方を指す。そこには昨日も
バイステリを悩ませた空堀の埋め立てを担当する土嚢部隊が展開し
ていた。攻め口が限定されているからこそ有利に戦えるのが現状で
ある。堀が埋め立てられればアルヴェリアはどこからでも梯子を掛
けることが可能となり、数の利を活かしやすくなる。致命的ではな
いにしろ、かなり厄介な展開となることは必定だ。大型の破城槌も
侵入が可能となるだろう。
﹁休ませる気はないようですね。セオリー通りの手堅い城攻めと言
えます。では、守備はお任せしました﹂
早くも火を噴く味方の鉄砲隊の轟音を背にアルフォンソは身を翻
す。エーリヒもまた弩兵を集めて防戦の指揮を執った。攻めの手に
昨日ほどの勢いは感じられないにしろ、油断すればじりじりと不利
になる恐ろしさがある。消耗を狙っていると理解していても必死で
防戦に務めざるを得なかった。
﹁くそ、ただのいち騎士じゃ状況は変えられないか⋮⋮!﹂
矢は効果的に敵の進撃を阻み、鉄砲は盾ごと貫く。味方の損害は
少ない。有利に戦えていた。しかし今こうしている間にも敵の別動
520
隊が都市にとって唯一の頼みとする援軍を阻止するために動いてい
るのだと思えば、エーリヒの心中には焦燥感しか湧かない。アルフ
ォンソが千里眼の持ち主であれ、エーリヒどれだけ武勇の持ち主で
あれ、包囲された時点で最早そちらには手出しできないのだ。
必死の阻止攻撃にも関わらず、この日、バイステリの堀の一部は
半ばまで埋め立てられた。
2
その日の夜、副将グライーは既にバイステリを離れ、馬上の人と
なってエルヴンの平野を疾駆していた。
付き従うのは何れも騎士。華麗な装飾を施した甲冑を纏う、騎士
道の華とも言える存在である。五百ほどもある彼らは、アルヴェリ
アが誇る大陸最強の重装騎兵隊であった。宵闇の中、月光を甲冑に
反射させながら大地を揺るがせて走る彼らは、やがて眼前に獲物を
見いだした。
﹁いい村だな。まるで嫁入り前の娘のようだ。着飾って寝床に転が
り、誘っているようだ﹂
グライーが凄絶な笑みを浮かべつつ呟く。視線の先でか細い光を
灯す村は、見たところ彼らの人数と同数程度の人口を擁している。
それなりの規模の村と言えた。
﹁行くぞ、皆殺しだ。食糧は奪え。金品は分捕り自由だ。死体は派
521
手に散らしておけ﹂
言うや否グライーは拍車を当てて馬を走らせる。その後に騎士達
が続いた。
殺戮が始まったのだ。
3
﹁我が軍は、城攻めが下手でおじゃる﹂
からからと笑いながら述べるル・ランに王太子ルイは唖然とした。
﹁オルランド侯、我が軍の勇士の働きにそのような⋮⋮﹂
騎士達とも親しく付き合い、積極的に士気を高揚させているルイ
は思わず騎士達を弁護する。戦局は膠着状態に陥ったとはいえ、徐
々に敵を追い詰めているとルイは信じているのだ。それを察したル・
ランは言葉を遮って訂正を加える。
﹁いやいや、語弊がおじゃったか。城攻めが下手なのは我ら将帥で
おじゃる。何せファーレンベルクでは余りにも殺しすぎた。アセリ
アの連中がここぞとばかりに宣伝を重ねたのもあって、あれ以来ど
うも城攻めに臆病になるのでおじゃるよ﹂
プロパガンダ
宣伝戦は重要な戦術である。負け戦すら勝ち戦に転換し、去就に
522
迷う中立勢力を引き込み、敵の残虐性をアピールして味方の結束を
強める。その顕著な例が五十年戦争終盤のファーレンベルクの戦い
で出ていた。戦闘には負けたものの、宣伝戦では圧勝したアセリア
は多くの離反者を獲得するのみならず、有力貴族であったファーレ
ンベルク攻略軍司令ダンジュー侯を失脚に追い込み、多くのアルヴ
ェリア貴族に城攻めに対する忌避感を植え付けた。以来、アルヴェ
リアの城攻めは大砲と大軍で威圧する脅しが中心となっている。死
守の決意を固めた敵にこれは通じない。
﹁しかし城を落とすのには色々と手があっておじゃる。ブーシェ伯
は今、野戦で城を落とそうとしているのでおじゃるよ﹂
﹁野戦で、城を?﹂
相反する概念に戸惑うルイにル・ランは教師の如く解説を続ける。
﹁左様左様。城兵が何を信じて戦うのか? 援軍でおじゃる。裏を
返せば援軍なき城に籠った兵は逃げることもできずに孤立している
だけ。然らば、その援軍を叩けば万事解決でおじゃる﹂
無論、最上はバイステリが早期に陥落し、速攻で北部エルヴンを
制圧することである。しかし容易ならざる覚悟を見せるバイステリ
を相手にアルヴェリアはやや食傷していた。本気でかかれば落とせ
ないこともないだろうし、力攻めも続行するが、もたもたしている
間に背後を衝かれては話にならない。
グライーは部隊の中から高速の騎士のみを選抜し、エルヴン中部
に踏み込んで騎行戦術を繰り返していた。この騎行にはアルビ越え
を終えた後続部隊も順次参加し、中部、南部から駆けつける敵の援
軍を誘引する予定であり、うまくいけば敵主力を得意とする野戦で
523
一網打尽にできる他、仮に敵が決戦を怖れて軍を保全しようと、騎
行によって補給の乏しいアルヴェリア軍の腹と懐を満たし、諸国の
寄せ集めであるエルヴン内に動揺と不和を生じせしめ、更に援軍そ
のものを遅らせることによってバイステリの士気を低下させる事が
できる。
中部、南部の国々が敗れればバイステリなど孤島も同然であり、
自動的に降伏する。いかにバイステリが気を吐こうとも、戦略的な
不利の前には戦術的な有利など消し飛ぶのだ。
﹁我々としてはこのまま攻撃を続行し、敵に強いてやれば宜しいと
いう寸法でおじゃる。日々激しくなる攻勢に、援軍は来ないという
噂。さて、どこまで耐えるか見物でおじゃるなぁ﹂
4
四日目。この日の攻撃は苛烈極まった。
まだ太陽が昇りきらない払暁より開始された攻撃は半ば奇襲とな
り、バイステリ側が守備の体制を固めた頃にはかなり城壁に近接さ
れ、数多の土嚢が堀に投げ込まれていた。徐々に疲労がバイステリ
の兵や騎士達にも蓄積してきていたのである。屋根つきの部屋で休
めるとはいえ、いつ、どこに攻撃するか決める権利は攻城側にある。
攻城側の一挙一投足に振り回され、夜襲を警戒して夜勤の比率もか
なり高い守備側の消耗は激しくなる。
524
カタパルト
バリスタ
﹁破城槌だ! 火矢を浴びせろ! 投石器、巨大弓、なんでもいい、
近付けさせるな!﹂
土嚢が埋め立てた道を破城槌がゆっくりと進む。エーリヒの号令
に従ってたちまち火矢が殺到するが、その屋根は水をたっぷりと吸
わせた動物の皮で覆われており、容易なことでは発火しない。鎧を
も貫く銃弾もこのような柔らかい素材を相手には寧ろ相性が悪いら
しく、まるで効果が上がらなかった。ならばと投石器が用意される
が、たちまち猛烈な砲撃が殺到する。大砲もかなり近接していた。
狙いは依然として粗いが、鈍重で巨大な投石器や巨大弓にはそれで
も脅威だ。
﹁くそっ、昨日とはえらい違いじゃねぇか、緩急つけて攻めてるの
か!? なぶり殺しかよ!﹂
ひたすらの力攻めは守備側から考える余地や一息つく自由を奪い、
疲労を蓄積させる一方で自らも消耗が激しい。対して苛烈な攻撃と
緩やかな攻撃を繰り返す手は、味方の損害を押さえて敵に恐怖を与
える。そうして厭戦気分を煽り、自発的な降伏を選ばせるか、士気
の低下を狙うのだ。
心を攻めるのが目的の攻撃とはいえアルヴェリア軍も手を抜かな
い。次々にかかる攻城梯子に城壁の上の兵達が忙殺される間に複数
の破城槌がついに城壁までたどり着き、太い杭を次々と城壁に突き
立てた。
﹁⋮⋮! まずい⋮⋮!﹂
補修を繰り返しているとはいえ、日々攻撃を受けた城壁はもろく
なっている。そこに使い捨ての強みで遠慮なく破城槌が叩きつけら
525
れるのだ。たまったものではない。足元から不気味な震動を感じつ
つも、エーリヒに出来るのは緊急事態を知らせる伝令を走らせるこ
とだけだった。何故ならば梯子から次から次へと騎士達が躍り出た
からである。
そして、その時はやってきた。
﹁まずい、城門がっ!﹂
不気味な高い音を立ててついに城門が破壊される。出入りを前提
とした門はどうしても壁に比べれば脆弱だ。当然、当初から最も砲
弾が集中し、損傷が蓄積されていた。城壁の上に出たアルヴェリア
騎士達から喚声があがる。エーリヒは顔面蒼白になった。
﹁アラエル⋮⋮!﹂
戦に負けた女は悲惨。そして自分がファーレンベルクで何をした
か。
助けは間に合うことがない。敵の数は依然として増加している。
エーリヒは、自分の罪業がそっくりそのまま自分に襲いかかってく
るのではないかと錯覚した。
526
バイステリの戦い 5
1
三日間に渡りアルヴェリアの攻撃に耐え抜いた城門が破れる。そ
れは防衛側にとって悪夢そのものであった。
そもそもバイステリは防御を重視した軍事拠点ではなく商業を重
視した都市だ。利便性を考えて平野の真ん中に位置しているために
大軍による攻撃を受けやすく、城壁は巨大とはいえただの一つきり
で、破れたからといって後退して立て直すための予備城壁が後方に
あるわけではない。敵の攻撃は一枚目の城壁で絶対に食い止めなけ
ればならないのだ。城門の被制圧は死活問題である。
﹁何としても食い止めろ! ここを突破されれば後がない!﹂
予備隊として配置されていた騎士達が兵を率いて直ちに城門に殺
到する。守備側も城門が持たないことは先刻承知の上だ。夜の間に
瓦礫や敷石を積み上げて城門の周囲を封鎖し、簡易の砦とする他、
予備隊を配置している。城門の破壊が即最悪の結果を招くわけでは
ないが、文字通りの最終防衛線そのものである。その上城壁に頼れ
ない五分の勝負をここでは展開しなければならないのだ。
﹁聖バイレステ、聖ルカ、我らにご加護を! かかれっ!﹂
予備隊の指揮を任されたロビン、ユーウェイン、アグラヴェイン
の三騎士が守護聖人の名を叫び、外套を翻して市内に乗り込む敵に
斬り込む。その背中に数多の騎士が従い、その更に後ろから兵達が
527
続いた。しかし対するアルヴェリア兵とて市内一番乗りを任された
精鋭である。まだ僅かな数しか揃わぬ不利な状況ながら、突撃する
騎士達に怯まず駆けて陣取り、円周の陣を組んで固守の構えを見せ
る。後続がやってくるまで小拠点を確保するのが彼らの役割であっ
た。小拠点の数が増加し、数において防衛側を圧倒するほどに増え
たとき、街の命脈は灯火と消える。守るアルヴェリア、攻めるバイ
ステリ。互いの立ち位置を逆転させつつ、両軍は矢戦もなしに剣を
交えた。
サングラール
﹁聖杯よ!﹂
両軍からこだます鬨の声は奇しくも同じ。バイステリの戦力の基
幹を成す騎士達はアルヴェリア出身が多く、自然とその掛け声は普
段からアルヴェリア伝統のものとなるのだ。突撃の威力を増すため、
そして突撃に対抗するため、両軍は極度に密集しており、接触して
からは手当たり次第の乱戦が展開された。
得物は剣に槍は元より、鎧徹し、ハンマー、棍棒、斧、矛槍と多
岐に渡る。接触の衝撃で槍を失えば直ちに剣を引き抜き、剣が折れ
ればナイフを抜き、それもなくなればいよいよ重量ある籠手を用い
た野人の戦いとなる。鎧の隙間を剣で狙う騎士もいれば、鎧ごとハ
ンマーで打ち砕く騎士もいる。だがなにを用いるにせよ乱戦に加え
て身動きを取るのも難しいとなれば、回避もままならぬ。正面に立
った者から順に疲労し、隙を衝かれ、倒れていく。勢いは攻め寄せ
たアルヴェリアにあり、防衛側は徐々に攻めあぐね、突撃は鈍った。
﹁怯むなぁっ! 俺達は騎士だろうがっ! 押し切れぇっ!﹂
アグラヴェインが絶叫する。疲労の極みにある状態では合理的な
戦術を一人の勇者の精神力が覆す場合がある。この時がそうだった。
528
膠着状態に陥りかけた戦況においてアグラヴェインは血刀を奮って
でたらめに正面の騎士に斬りつけ、剣が折れても構わず殴打を繰り
返して倒し、味方の援護もなしに敵陣の真ん中に斬り込んだ。その
姿は士気を高揚させる。
﹁なんて無茶を⋮⋮! アグラヴェイン卿を死なせるな、全員突撃
!﹂
甲冑の群れの中に僚友が消えていくのを見たユーウェインとロビ
ンは萎えかけた戦意を奮い立たせ、再度突撃を指示する。アグラヴ
ェインの開けた穴が蟻の一穴となったか、アルヴェリア兵の組む陣
は乱れ、防衛側の突撃の濁流に押されていった。
バリケード
﹁深追いはいい、追い出せれば十分です! 今のうちに阻塞で封鎖
し直しましょう!﹂
勢いに乗る防衛側に不利を悟ったか、アルヴェリア兵は長槍で牽
制しつつ整然と後退する。秩序を保ったままの撤収に、深入りすれ
ば却って城外に誘い出されると判断したロビンは逸る味方を剣で制
し、慎重に距離を取る。後方では兵達が馬車や瓦礫で破られた城門
を塞ぐ準備をしていた。見上げれば城壁の上の敵もあらかた撃退さ
れ、外では撤退を意味するラッパが響いていた。
﹁どうにか乗りきれましたが、今後はこの門が危うい⋮⋮!﹂
兵力において劣るバイステリは敵に対して有利な戦いをしなけれ
ばならない。相討ちではだめなのだ。しかし大きく開いた城門は敵
の纏まった部隊の突入を許してしまう。地の理は依然として守備側
にあるとはいえ、五分に近い勝負が展開されてしまうのだ。そうな
れば兵力の消耗を互いに続行した末、やがて単純な引き算でバイス
529
テリが敗北する。それでなくても新規の兵を次々とローテーション
で送れるアルヴェリアはバイステリに対して圧倒的優位である。
﹁援軍が来なければ、来週までもこれは持たないかも知れない⋮⋮
いや、その前に⋮⋮! アグラヴェイン卿は!?﹂
真っ先に敵陣に斬り込み、そして今日の勝利の立役者となった、
婚約者エルナの命の恩人をロビンは探す。歩くと石畳を浸す鮮血が
軍靴にまとわりついた。生者を恨む死者の手のごときそれを振り払
いつつ探していると、やがてロビンはアグラヴェインを見つける。
ロビンは思わず眼を見開いた。
﹁アグラヴェイン卿⋮⋮!﹂
血だまりの中に倒れ伏すアグラヴェインは、甲冑の継ぎ目に深々
と鎧徹しを突き込まれ、か細い呼吸をする程にまで弱り果てていた。
周囲には敵の騎士の死骸が二つ転がっており、その勇戦ぶりを如実
に語るものの、代償として失った血液の量は一見してあまりにも大
きく、ロビンの目には生きているのが不思議なぐらいに見えた。
﹁まずい、早く担架を⋮⋮!﹂
バリケード
慌てて指示を出すロビンだが、次の瞬間、城門の外から轟音が鳴
り響き、城壁が震動し、作りかけの阻塞が粉砕される。砲撃が再開
されたのだ。やむなくロビンは僚友を背に負う。
﹁お前は私達の騎士団長なのでしょう⋮⋮! 私は嫌ですからね。
わけのわからない空想の騎士団の団長になるなんて⋮⋮!﹂
砲撃はなお続く。当事者達には知るよしもないが、この日、バイ
530
ステリとアルヴェリアの死傷者の数はほぼ同数となった。
2
四日目の戦闘が終わる。城門を破ったにも関わらず無理押しをし
ないアルヴェリアは混乱なく撤退し、付け入る隙を見せない。もっ
とも隙だらけだったとしても問題はなかっただろう。多くの損害を
出し、城門を破られたバイステリにはそんな力はどこにもなかった。
バイステリにとって戦闘終了後のほうが寧ろ混乱した。続出する
負傷者に看護所はパンク寸前で、しかも死傷者の中にはかなりの比
率で都市の基幹戦力である騎士が含まれていた。勇敢な騎士達はそ
の勇敢さゆえに真っ先に死ぬのだ。彼ら死傷した騎士の穴は容易な
ことでは埋められない。指揮系統の再編成や守備位置の再検討など
で予備の人員の少ないバイステリは大騒ぎとなった。
そうした勇敢な負傷者の中に、アグラヴェインもいた。
﹁⋮⋮敵を、敵を倒さなければ⋮⋮! 剣をくれ。まだ俺はやれる
んだ⋮⋮﹂
アラエルはうわ言のように剣を、と繰り返すアグラヴェインの手
を握り、水を絞った布を額に載せる。握り返す感触はない。感覚が
失われているのだろう。刃は致命傷を避けていたものの、出血した
まま激しく動き回ったためなのか、出血が激しすぎた。目も見えて
いないのだろう。瞳は焦点が合っていない。
531
﹁剣をくれ。俺は騎士だから。騎士だから最後まで戦わないと⋮⋮
ベッドの上で死ぬなんて嫌だ。戦場で死なせてくれ⋮⋮!﹂
﹁大丈夫です。アグラヴェイン卿﹂
アラエルはアグラヴェインを撫でながら優しく囁いた。
﹁敵は撃退されました。卿の活躍のお陰です。今はゆっくり休んで、
明日に備えてください﹂
素人目に見てもアグラヴェインに明日などない事は明らかだ。仮
に生き延びても、恐らく二度と剣は持てないだろう。だがそう言わ
れてアグラヴェインは表情を緩めた。
﹁あぁ⋮⋮よかった。俺は夢を果たせました﹂
不意にそういうアグラヴェインにアラエルは首を傾げる。
﹁夢、ですか?﹂
会話を続けることが彼らの生きる希望を少しは繋ぐかも知れない。
医師にそう言われた事を思いだし、アラエルは平静を装って言葉を
交わした。この看護所には、医師が匙を投げた患者しかいないのだ。
﹁はい。俺が子供の頃読んだ騎士道物語では、騎士は必ず道ならぬ
恋をします﹂
道ならぬ恋とは、即ち不倫に繋がるもので、本来ならば不道徳そ
のものである。しかし騎士道では決して非難されず、奨励すらされ
532
る。
﹁そうして恋心を抱きつつも、ただひたすらに相手の幸せを願い、
無償の奉仕に勤める事こそが、真実の愛であり⋮⋮そういう騎士に
なるのが俺の夢でした﹂
相思相愛は理想の形である。だが、自分からの愛の見返りを求め
ることすら不実と切り捨て、一心不乱に相手に奉仕する一方的な愛。
道ならぬ恋をそこに昇華させる事こそが騎士道であった。
﹁俺が貴女を守るために少しでも役に立てたのなら⋮⋮俺も⋮⋮本
当の騎士になれたのかも知れない。偽物の傭兵騎士じゃなくて、本
当の騎士に⋮⋮﹂
フリーランサー
バイステリの騎士達は最早公的には騎士ではない。かつてロビン
が言ったように全員が領地も仕える主君もない、ただの黒騎士だ。
だが、そうして騎士から離れれば離れるほど、彼らは騎士道を追い
求める。手に入らないがゆえに彼らは焦がれるのだ。本物の騎士に。
﹁⋮⋮何か、私に出来ることはありますか?﹂
握る手は力なく、冷たくなる。見返りを求めないのが騎士道とは
いえ、アラエルはそう聞かざるを得なかった。
﹁⋮⋮では、曲を一つお願いします。エーリヒ卿にではなく、俺に
⋮⋮﹂
頷いたアラエルは常日頃携えるヴァイオリンを構える。どんどん
悪くなっていくアグラヴェインの顔色に、アラエルは調律を省略す
べきかとも思ったが、いい加減な演奏は聞かせられないと急ぎつつ
533
も十分に行った。
﹁では、子守唄を﹂
月光を浴びながらアラエルは舞うように奏でる。時刻は深夜近く、
花も草も夢を追う頃。慎ましやかなヴァイオリンの音が響き渡り明
日をも知れぬ者達の魂を安らげる。瀕死の重症に喘いでいた兵士は
安らいだ表情を見せ、母の名前を呼んでいた騎士は涙を浮かべて暫
しの休息に沈む。
声をば潜めて、枝はさやぐ。眠れ、眠れ、眠れ、我が子よ。
繰り返される音色に安心したようにアグラヴェインは微笑む。
﹁⋮⋮明日にはまた貴女を守って見せます。そうしたら、騎士道に
は反しますが、また曲を一つお願いします。エーリヒ卿には⋮⋮内
緒で⋮⋮﹂
眠るようにアグラヴェインは逝った。アラエルは暫く傍らで佇む。
﹁見事な死です﹂
僚友を見送りに来たのだろう。戸口の影からロビンが不意に現れ
る。気配に気付いていたアラエルは驚くこともなく迎えた。
﹁最期の時までアグラヴェイン卿は騎士でした。戦場に倒れずとも、
その生き様は騎士の名に相応しい。羨望を感じるほどです﹂
ゆっくりと歩みより、ロビンはアグラヴェインの剣をその傍らに
横たえた。
534
﹁騎士として生まれて、騎士道を全うして死ねる者は少ない。⋮⋮
私も、彼のように⋮⋮﹂
その瞬間、アラエルはロビンを平手で打った。
﹁エルナの分です。⋮⋮あの子はこういうことはできないでしょう
から﹂
打たれたロビンは暫く呆然とした後、罪悪感に沈んだ目をした。
﹁⋮⋮ご無礼を。自分の命を捨てたがっているわけではないのです。
⋮⋮ただ、この街の黒騎士で、騎士として騎士らしく死にたいと願
わない者はいないし、騎士を捨てるぐらいなら死んだ方がいいと思
わない人間はいないでしょう﹂
踵を返してロビンは去っていく。騎士と言うのは身分であり、軍
事的階級であると同時に生き方そのものである。生き方としての騎
士は誰かに頼まれてやっているわけではない。自らの誇りが騎士を
選ばせるのだ。その重さは、自らの命などまるで惜しくないと思わ
せるほどである。だが、アラエルにはアラエルの理屈がある。
﹁死ぬために、ここにいるわけではないだろうに⋮⋮﹂
騎士と言う社会から生まれながらに排除された黒騎士達は命と引
き換えにしてでも生き方としての騎士を貫く。だが、元より騎士社
会に触れもしない者からすればたとえ臆病で情けなくとも、騎士道
に反していても、名誉ある死よりは生きて欲しいと願うだろう。
﹁お役に立てず、申し訳ありません。私には、幸運がついていなか
535
ったようです﹂
アグラヴェインが握りしめていた銀色の髪を見つめてアラエルは
呟く。いつだっただろうか、戦争の予感を感じた頃に乞われて渡し
たものだ。
﹁出来るのは、精々が死神の真似事だなんて、笑えますね⋮⋮﹂
安らかな表情を僅かな慰めに、アラエルはヴァイオリンをしまっ
た。
536
バイステリの戦い 6
1
無名の騎士一人の死などお構い無しに戦いは続く。五日目の戦い
は本格的な攻撃は一切なく、遠方からの砲撃と矢戦が主であり、防
衛側が最も警戒した城門への攻撃はなされなかった。防衛側は安堵
したものの、状況は依然として悪い。城門の損壊が最も激しいもの
の、城壁そのものもまた打撃を受けており、各所で破孔が生じ始め
ている。突破口の増加は敵が一度に投入できる戦力の増加を意味し
ており、アルヴェリアが自らの損害を一切省みないのなら、現時点
でもただ一日で街を落とすことすら可能なのだ。それをやらないの
は単にアルヴェリアが兵士の暴走を恐れ、無駄な損害を嫌っている
からに過ぎない。城攻めにおける最上の結果は守備側の自発的な降
服なのである。
﹁既に我が軍の副将グライー殿はエルヴン中部にまで進出し、諸君
らの後詰めの軍を三度破っている。栄えあるアルヴェリア王国軍の
攻撃を前にここまで耐え抜いた底力は賛嘆に値するが、最早これま
で。援軍の望みが絶たれた今、これ以上の抵抗は無意味である。降
服せよ!﹂
アルヴェリアの陣より白旗を揚げた非武装の騎士が単騎で走り出
で、城壁の上に陣取る騎士達に降服勧告を行う。頼みとする援軍が
敗れたとの報に、バイステリの騎士達の間で動揺が広がった。その
ざわめきを見てとったアルヴェリアの騎士は間髪入れずに畳み掛け
る。
﹁諸君らの勇戦敢闘は真に以て勇者そのものであり、王太子殿下も
537
敵ながら天晴れと仰られている。その勇戦に敬意を表し、勿体なく
も殿下は寛大なご処分をお約束下さった。諸君らに万に一つも勝ち
目はない。これ以上の流血は無意味である。名誉ある降服を選択せ
よ! さもなくば容赦せん!﹂
開場交渉、或いは言葉合戦は武器を用いる事のない戦闘である。
口先一つで城が落ちるのならばこれほど容易い事はない。無駄な消
耗を怖れる攻城側は必ずこの手を試す。失敗したとしても兵の一人
も失うことのないリスクの低い戦術でありながら、心理的に大いに
敵を揺さぶれるのだ。
アルヴェリアの騎士が伝えた事は三点。即ち、頼みとする援軍に
は既に別動隊が向かって抑えとなっており、到着は当初の予定より
も大幅に遅れるか、最悪撃破されている可能性があること。次にこ
の場には王太子ルイがおり、攻城側の士気が低下する恐れはまずな
く、そして王太子と交わした約束は絶対に違えられる事がないため、
降服が必ずしも絶望的なものでない保証がなされていること。最後
に、それにも関わらず降服を拒絶するならば、略奪も虐殺も辞さな
いという事である。
ファーレンベルク虐殺の悪名はこういう場合にものを言った。勝
ち目が見えない戦いを最後まで戦い、結果として街の名前を地図か
ら消されるのと、早目に降服して命と財産を保持することの二つを
天秤に掛ければ、誰でも後者を選ぶ。何せアルヴェリアは前者に関
しても後者に関しても実績があるのだ。震えないわけもない。騎士
をはじめ、傭兵達はざわめき、不安げな表情を浮かべた。しかし、
反撃は思わぬところからなされた。
﹁失せろ、侵略者め!﹂
538
騎士達の列の中から文官の衣服を身に纏った初老の男が進み出て、
口角を飛ばしながら怒鳴る。バイステリの文官の長、書記長マキリ
である。
﹁勝手に攻め寄せてきて寛大な処置などと、笑わせる! ここは共
和国だ。王も王太子も要らない歴とした独立国だ! お前達に平伏
したいと思う者など一人もおらんわ! さっさと自分の国に帰るが
いい!﹂
言うや否マキリは隣の兵から弩を引ったくり、アルヴェリアの騎
士に向けて放つ。狙いを敢えて外したそれは命中することこそなか
ったものの、騎乗していた馬の鼻先を掠めた。驚いた馬が激しく動
揺し、騎士が放り出されて尻餅を着く。その姿に城壁の上から嘲笑
が浴びせられた。
﹁⋮⋮後悔するぞ!﹂
馬をどうにか落ち着かせた騎士は恨みの籠った捨て台詞を残して
逃げ去る。バイステリの傭兵達は一斉に歓声をあげた。だがマキリ
は逃げていく騎士の背後で今も整然と隊列を組んで街を威嚇するア
ルヴェリア軍一万を見て、紅潮した顔を即座に青くする。その圧力
に足元がふらつき、倒れそうになるが、不意に背後から支える腕が
差し出された。
﹁⋮⋮お見事です。城内の傭兵と市民が完全な共闘体制にあること
を敵に理解させられたでしょう。ですが、よかったのですか?﹂
精根尽き果てたかのようにふらつくマキリを背後から支えつつ、
アルフォンソが問う。マキリは疲労を表情に滲ませながらも笑顔で
答える。
539
ドゥーチェ
﹁構いません。統領の意思です。それに我々もあなた方を信頼して
います﹂
開城交渉のコツは、敵の軍民を切り離す事にある。今すぐ降服す
れば手荒な真似はしない。抵抗することが逆に命を縮めるのだ。こ
う言われてしまうと追い詰められた街の中では防衛の任に就く軍が
市民達から非難の眼差しで見つめられ、或いは外の敵よりも敵視さ
れる。こうして互いの信頼関係を失った街は、いとも容易く陥落す
る。だがバイステリにおいては普段反目しあっていた行政府と傭兵
隊に突如強い連帯が生まれ、少なくとも表面的には付け入る隙を与
えなかった。
﹁状況はかなり不利です。大陸最強のアルヴェリア軍の、それも近
衛を相手にかなり善戦していますが、客観的に見て最終的な落城は
どう足掻いても避けられません。あの開城交渉は正に敵が詰めの段
階に入ったものと言えるでしょう。それでもなお、私を信頼すると
?﹂
傭兵隊の仕事は戦うことだ。街が降服すれば即時解雇である。開
城交渉を妨害し、戦を続行して金をむしりとる傭兵隊長も珍しくな
い。だが、マキリは首を縦に振った。
﹁アルフォンソ隊長、あなたほどの人が何の勝機もなしにここに居
残るとは思えない。私には明かせない類いのものなのでしょうが、
何か逆転の策があるはずだ。私はそれを信じています﹂
政治的に敵対しているとすら言えるマキリからの信頼にアルフォ
ンソはやや面食らったような顔をした後、やがて微かな笑みを浮か
べた。
540
﹁⋮⋮傭兵ならば、給料分の働きはしないとなりませんからね。実
のところ策はありましたが、発動には幾つかの条件が必要でした。
そのために私も色々と根回しをしていたのですが、最後の一つの条
件が解消できたか否かが不明だったのです。ですが今の交渉で確信
が持てました﹂
アルフォンソはマキリに肩を貸しつつ、力強く宣言する。
﹁約束しましょう。勝って見せます﹂
2
﹁中部エルヴンの雄フィエンツァもこんなものか。呆気ないな﹂
小高い丘に陣取り、馬上で指揮を執るグライーは、今まさに崩壊
し、四分五裂となっていく敵軍を無感動に見下ろしていた。敵の数
は一万五千ほどに対し味方は一万二千と劣っていたが、この戦いも
アデルバードとの戦争と同様にほぼ無傷でグライーは完勝している。
数が少なかった事すらも敵を誘引するための罠に過ぎず、動員しよ
うと思えば更に動員できたのだ。野戦ではアルヴェリアは無敵。そ
れも自分が指揮を執るのならば尚更。グライーは固くそう信じてお
り、そしてそれは事実そのものでもあった。
レノス
﹁教皇領の連中を引きずり出せなかったのは残念だが、各個撃破に
成功したとも言える。どのみちバイステリへの援軍は抑えた。これ
541
で北部は制圧したも同然というところか﹂
エルヴン同盟の分裂を促すため、グライーは騎行の対象を中部エ
ルヴンに存在する二大勢力のうち、西部のフィエンツァに絞ってい
た。効果は劇的で、傘下の町や村を激しく略奪されたフィエンツァ
は激怒して決戦を主張する一方、未だ略奪に遭っていない東部のレ
ノスは回避を主張。両者の足並みはまるで揃わず、敢えて軍の合流
を遅らせたグライーの罠に乗せられる形でフィエンツァ軍が暴走。
準備万端整えた重騎兵と長槍兵を主力とするアルヴェリア軍と遮る
ものもない平原で決戦という暴挙に至り、開戦から僅か二時間で左
右の軍を騎士達に蹴散らされ、中央を串刺しにされ、逃げる場所す
らも塞がれた上で大陸最強の騎馬突撃を受けて壊滅した。
返す刀で救援に来ているであろうレノス軍を破る予定だったのだ
が、読みに反してレノスはフィエンツァを完全に見捨てて動かず、
中部を一挙に制圧する策は果たせずに終わったものの、続々とアル
ビ越えを成功させた軍が合流しており、今や数でもレノスや南部の
ディアスを凌駕する。中部制圧にグライーは王手をかけたも同然で
あった。
﹁バイステリの傭兵隊長アルフォンソか。なかなか見事な指揮をす
るようだが、残念ながら俺とお前とでは自由にできる兵にも、権限
にも大きな違いがあったな。いち都市の傭兵隊長ごときでは、どれ
だけ才能があろうと無意味だろうよ﹂
アルフォンソが責任を持ち、裁量権を持つのはあくまでバイステ
リひとつ。対してグライーは広大なエルヴン全てを見渡して戦争を
組み立てる力を持っている。バイステリで勝つのが難しければ、他
の戦域で勝利を重ねることでバイステリを敗北に導くこともグライ
ーには容易だ。戦術的な役割しか担えないアルフォンソと、戦略を
542
担当できるグライーでは、初めから勝負が成立しないのである。
﹁お前がエルヴン全体の軍師なら話は違ったのだろうがな。自分の
都市の政治力のなさを恨めよ﹂
それだけ呟くと、グライーは頭の中からバイステリとアルフォン
ソの事を綺麗に追い出した。最早援軍の見込みのない孤城など、持
ちこたえられるはずがないのだから。
二日後、グライーは二万五千の兵をかき集め、レノスに対する進
撃を開始する。
僅か数日で二つの国を滅ぼし、更に二つを滅亡の瀬戸際にまで追
い込むその手腕は、正しく電光石火というに相応しいものだった。
543
バイステリの戦い 6︵後書き︶
そろそろこの戦いも終わりそう。
544
バイステリの戦い 7
1
攻防戦六日目の攻撃は激しいものだった。
天地を揺るがす猛砲撃は損傷の目立つ城壁に次々と破孔を穿ち、
強度を失った城壁は自重で以て崩壊する。埋められた空堀からは功
城梯子が、破城槌が、完全武装の兵達が襲いかかって市内に踏み込
まんとした。総攻撃である。開城交渉を蹴られたアルヴェリアは決
着をつけに来たのだ。大規模な矢戦の後、城壁の上で、崩れた瓦礫
の間で、密かに掘削した地下トンネルと、それに対抗して作られた
トンネルの中で、それぞれ激しい戦いが展開された。
中でも焦点となったのは破壊された城門である。大部隊の投入に
適した広さを有し、設計上街の中心区画まで真っ直ぐに延びる道路
に繋がる城門は、アルヴェリアにとっては最重要にして最も戦力差
を活かしやすい地点であり、バイステリにとっては絶対に守らなけ
ればならない地点であった。
﹁攻めよ、攻めよ。全周囲から攻めよ。陽動とわかっても忙殺され
よう。敵から予備兵力が尽きれば我らが勝利は確定ぞ﹂
アルヴェリア軍司令ル・ランは自らも最前線に立ち、よく目立つ
白い甲冑を纏って全軍を督戦する。勝負をかけた力攻めはどうして
も甚大な被害が出るため、士気が低下しやすい。それを防ぐために
ル・ランは自ら前線に立っていた。
545
﹁王太子殿下も見ておじゃる。ここで手柄を挙げれば報酬は固いぞ。
者供、励めや励め﹂
騎士に名誉を、傭兵には金を。巧みに両者を操るル・ランによっ
て攻城側の指揮は最高潮に高まり、各所で防衛側を圧倒する。防衛
側も城壁の上から大石や矢の雨、銃弾を降らせ、城門前でも果敢に
突撃を繰り返すが、数が足りない。疲弊し、交代もままならないバ
イステリの兵士達は徐々に圧倒されつつあった。
マスケット
﹁火縄銃隊構えぇ! 射撃用意!﹂
瓦礫の合間から侵入し、市内に入り込もうとしたアルヴェリアの
兵士達に向けてトリスの号令一下、バイステリの銃兵達が一斉に地
面に支脚を突き立て、その上に銃を載せる。装填は済んでおり、火
縄に火も点いていた。照準を合わせられた兵士達は驚いて足を止め
た。数日間の攻防で銃の恐ろしさは彼らの身に叩き込まれている。
理屈では距離を詰めればいいとわかっていても、脚が動かないのだ。
﹁各個に、放てぇ!﹂
たちまち轟音が響き渡り、棒立ちになっていた兵士達が次々と倒
れ伏す。慌てて後に続く兵士達は身を隠し、或いはその場に伏せる
が突撃の勢いは削がれ、密集体形も解かれた。
用いるものが弓から銃に変わっても運用方法はほぼ変わらない。
直射兵器である銃はその特性から弩に近いものと見なされ、命中率
を度外視して数を放ち、矢の雨を以て敵を射つ長弓ではなく、弩同
様に狙い撃つ方法が取られている。精度こそ弩に劣るが、当たれば
体のどこに当たろうと戦闘不能に陥らせる銃弾は、アルヴェリアに
とっての恐怖であった。トリスの指揮する火縄銃隊は大陸で最もこ
546
の武器の扱いに熟達しており、これまでの攻防戦で最も多くの敵兵
を殺害してきていた。
﹁怯むな、損害に構わず前進しろ! 距離を詰めればあんな貧相な
集団一捻りだ!﹂
一時は足を止めたものの、アルヴェリアとて今日で戦を終わらせ
るつもりだ。勇敢にも身を曝しつつ、指揮官と思われる騎士が剣を
振り上げて士気を高揚させる。たちまち周囲から兵士達が集まって
集団を形成した。一見無謀なようだが、ばらばらに散っていた場合、
銃弾は避けられても密集した敵の近接突撃には好餌そのものである。
多少の損害は覚悟しても密集して早期に銃兵を排除するという考え
は正しい。トリスの頬に冷や汗が落ちた。
﹁弩隊、銃を援護しろ! 装填急げ!﹂
多大なショック効果を挙げた銃に代わって弩がその抜けた穴を補
う。トリスも自らの銃を誰よりも早く装填し、近接する敵の先頭に
立つ騎士を撃った。真正面から入った銃弾は鎧に弾かれることもな
く心臓を貫通し、瞬時に勇気ある騎士を絶命に導く。だが却って躁
状態に陥った兵達は勢いを失わないまま走る。その光景に銃兵達は
思わず装填の手を止め、後ずさる。
﹁逃げるな!﹂
その気配を察したトリスが正面を見据えたまま怒鳴る。表情は強
ばり、足は震えているものの、声に恐怖はなかった。
﹁ここで下がったら、僕たちに何が残るんだ! 惨めな生活に逆戻
りするか、勝って英雄になるか、二つに一つしかないんだ! 死に
547
物狂いで戦え!﹂
装填は間に合わないと見て抜刀しつつトリスが吼える。彼の隊は
騎士でも何でもない、ただの貧民の出が殆どで、隊長であるトリス
が貧窮していることから装備も大して支給されない。傭兵隊の装備
は自弁が基本なのである。だが、それだけに彼らは傭兵隊以外に身
の置場所がどこにもなかった。そしてそれは屈辱の中に騎士の夢を
棄てたトリスも同じである。
﹁勝って、騎士のやつらに思い知らせるんだ⋮⋮! ちやほやされ
ていい気になってるあの女にも⋮⋮!﹂
執念が伝染したか、兵士達は弾丸を放つとそれぞれ抜刀して敵に
備える。彼らは数ヵ月間銃の扱いにのみ特化して訓練を行っており、
近接戦闘には全く向いていない。だが、その目は爛々と輝き戦意は
決して萎えていない事を示す。持たざる者の半ば自棄じみた勇気が
彼らには備わっていた。
﹁とつげ⋮⋮﹂
トリスが突撃を指示しようとしたその瞬間、敵兵に向かって横合
いから矢の雨が殺到する。瞬間的に混乱状態に陥った敵に向かって、
今度は長槍の列が見事な連携で突き刺さった。横槍となったその一
撃に兵士達は耐えきれず、統率を失ってばらばらになる。後は集団
対個人の戦いとなり、一方的な虐殺が始まった。
﹁乱戦は怖いですねぇ。どこに敵が潜んでいるかわかりませんから。
こんな風に簡単に横槍をもらうこともある。まぁ、そういう風に瓦
礫を配置してもいるのですが﹂
548
鬱陶しげに金髪をかきあげつつ傭兵隊長アルフォンソはトリスの
もとに歩む。師とも言える男の来援にトリスは安心感からその場に
へたった。
﹁よく持ちこたえましたね。見事な指揮ぶりです。ここまで部下を
統率するなど思いもよりませんでした﹂
逃走する敵兵を見やりつつアルフォンソはトリスを称える。しか
し劣等感の強いトリスはそれを素直に受け取らず、手助けなければ
壊滅していた事への皮肉と判断したか、苛立った表情で立ち上がる。
﹁⋮⋮とはいえ、全体的に押されています。敵は勝負をかけてきて
いるのに、味方は疲労する一方です。城壁の上も下の援護をしてい
られる状態ではなくなってきました。このままだと負けます﹂
間断ない戦力の投入は単純かつ最も効果的な手だ。数で勝るのな
らばなおのことである。バイステリは今のところ城壁や阻塞をうま
く使って持ちこたえているが、それも時間の問題であり、どこか一
ヶ所の綻びが全体の崩壊を招きかねないほど追い詰められていた。
しかしアルフォンソは薄く笑む。
﹁そう、目下敵は総攻撃の真っ最中で、その目は全てバイステリに
向き、大半の軍はこちらに投入されている。おまけに司令官自ら督
戦のため前線に出ている。王太子を後方に残して﹂
いつの間にか正午になっていた。暖かな日差しだが、甲冑を着込
み、戦場に身をおけば地獄の太陽である。トリスは周囲の戦闘が徐
々に低調になっていくのに気付いた。戦場の無風状態。互いの疲労
がピークに達したため、ほんのわずかな時間だけ戦闘が中断される。
それが今だった。
549
﹁もう勝ったと思っている自称戦略家に、目にものを見せて差し上
げましょう﹂
2
﹁存外、崩れんでおじゃるな﹂
疲労した兵を下げ、後詰めの兵を編成しつつ、ル・ランは呟いた。
予想では正午までに決着がつき、今頃は市内を闊歩している予定だ
ったのだが、バイステリ側は巧みに防戦し、士気も衰えを見せてい
ない。とはいえ全体的に押していることに変わりはなく、城壁の上
も東側は制圧していた。そこを拠点として市内に兵を送れれば決定
打となりうるのだが、城壁から下りる階段というのは必ず右手が塞
がるようになっており、反対に登ってくる防衛側に有利なよう、右
手は明けられている。突破には時間がかかった。
﹁まぁいい。今日中には落ちるでおじゃろう。結局は力攻めになっ
たのが残念でおじゃるがな﹂
力攻めには略奪や虐殺が付き物だ。とはいえファーレンベルクほ
どに兵士達が興奮しているわけではない。多少は血を見ることにな
るだろうが、それぐらいはよくあることである。行きすぎを避ける
ため早期に手綱をとらなければならないが、三日程度は略奪を容認
しようとル・ランは考えていた。しかし、彼の思考は息せき切って
駆け付けた騎士によって中断される。
550
﹁で、伝令! て、敵が打って出ました! 無傷の東側の門より約
三百! こちらの不意を衝いて城壁に取りついたお味方を次々と⋮
⋮!﹂
﹁あぁ、やはりそう来たでおじゃるか。まぁ落ち着け落ち着け。危
険はないでおじゃるよ﹂
ル・ランは詰まらないことを聞いたとばかりに扇子を広げ、汗ま
みれの騎士を扇ぐ。
﹁一か八かの賭けでおじゃる。こうも戦力差があれば暗殺のような
手を取らねば勝てぬもの。恐らくは王太子殿下の陣まで突破を図っ
ているのでおじゃろうが、軽挙妄動せずにいれば所詮小勢でおじゃ
るよ﹂
とはいえ蝋燭の最後の一閃にも似た突撃が当たるべからざる勢い
なのは間違いがない。ル・ランは再突入を延期せざるを得なかった。
即座に伝令が各所に走り、現地点での固守を伝える。
﹁逆に言えばこれさえ凌げば敵の手札はもうないでおじゃる。勝手
にすり減ってくれるなら結構結構﹂
ル・ランは現在襲撃を受けている箇所に援軍を送ることすらせず、
飽くまで全軍に対し現地固守を命じた。長年戦場に身を置いた彼に
は、このような反撃を行う際、矢が一本だけで済ませるはずがない
という確信があったのだ。程なくしてそれは現実となる。
﹁伝令! 西側より敵が出撃! その数五百!﹂
﹁ここまで予想通りだと笑えるでおじゃるなぁ﹂
551
扇子で口許を隠し、ル・ランは笑う。最初の出撃は囮であり、そ
ちらに意識が集中した瞬間を狙って本命が王太子の陣まで駆ける予
定だったのだろうと彼は予想していた。実際にこの手で反撃に成功
した戦いもあり、実績のある戦術ではあるが、予想できたなら破る
のは容易い。ただその場で固守を命じればいいのだ。
﹁先に出た側に注意が向かんので、業を煮やして出たのでおじゃろ
うが⋮⋮無意味でおじゃるよ。青二才﹂
当初こそ強かったその勢いは、続報が届くたびに弱化している。
三度目の出撃を警戒してル・ランはなお反撃に出ないが、ただ防御
するだけでも敵は勝手に数を減らしていくものと思えた。
﹁最期は自滅か。若いのう﹂
だが、その瞬間。轟音が鳴り響き、凄まじい粉塵が舞い上がる。
視界を埋め尽くす埃と耳をつんざく音にル・ランは瞬間的にその場
に伏せた。
﹁何事か!? 砲撃は慎めと命令したはずでおじゃるぞ!﹂
嗅ぎ慣れた硝煙の臭いにル・ランは味方の大砲の誤射があったの
かと推察する。だが、視界がゆっくりと晴れるに従い、その認識は
誤りであった事を思い知った。
﹁⋮⋮自らの手で、城壁を⋮⋮﹂
朝からの攻撃で制圧していた東側城壁が、ない。基盤から崩れ去
ったのだろう。城壁の上に陣取っていたアルヴェリア兵は言うまで
552
もなく全滅だ。城壁付近で固守を命じられていた軍にも大きな損害
が出ているだろう。そして、崩れ去った城壁の跡から完全武装の騎
士達が現れた。
戦闘は最後の段階に入ったのである。
553
バイステリの戦い 8
1
城壁というものは、容易に崩れない反面、崩しかたさえ間違って
いなければいとも簡単に崩れる。巨大かつ頑強なものであればある
ほどその傾向は強い。
巨大な城壁というものは相当な重量があり、地盤さえ緩めば自ら
の重量を支えきれずに自壊するのである。強度が保てなくなれば崩
れたのは一ヶ所でも連鎖的に崩れることがあり、古来より使われる
古典的な城攻めの手法である坑道掘削戦術はそれを期待して行われ
ている。即ち、敵の城壁の真下まで掘り進んで坑道を支えるのに使
っていた木材に一斉に火を点けて燃やし、地盤沈下させて城壁を崩
すのだ。近年では更に大量の爆薬を仕掛けて崩す方法も取られてい
る。
とはいえ坑道掘削には問題も多い。何せ手間隙がかかる上、仮に
掘削したとしても敵地に向けて狭い坑道を掘る関係上、敵が対抗す
る坑道を掘った場合、局地的に数で圧倒される上、川の水を引き込
まれたり、未成の内に爆破されるなどして攻撃側に大きな損害が出
やすい。既に千年の長きに渡って行われてきた攻城術と守城術は、
奇策の余地が微塵もないほどに研究され尽くしている。
だが、防衛側が自ら城壁を崩すのは遥かに容易い。攻撃側には防
衛側の坑道掘削の状況などまるでわからないし、そもそもそんな事
をするとは夢にも思わないのだ。かくして東側城壁に取りついたア
ルヴェリア兵は軒並み崩れる城壁に巻き込まれ、城壁付近にいた軍
も大きな損害を受けて統制を失った。バイステリは、城壁を武器と
554
して用いたのだ。
﹁まずい、包囲に穴が⋮⋮!﹂
北の城門付近で指揮を執るル・ランは慌てて突入に備えていた部
隊を呼び戻す。アルヴェリアの固守の前に潰えかかってきていたバ
イステリの反撃は今や勢いを盛り返している。特に動きが激しいの
は無論のこと崩れた東側城壁付近であり、統制を失った味方を敵は
易々と槍にかけているのみならず、本命と見られる騎士隊が砂塵を
巻き上げて突撃の体勢を取っている。その進路が王太子ルイのいる
本陣を目指していると理解した瞬間、ル・ランの背筋に冷たいもの
が走った。
﹁近衛隊は麿に続け! もたもたするでない、騎士の名に賭けて殿
下に指一本触れさせてはならぬ!﹂
主君の危険に身を張るのは騎士の本能のようなものである。そこ
に計算や打算はなく、戦術も作戦もない。忠義と献身こそが騎士の
徳目である。混乱した東側が勝手に立ち直る事は期待できないと判
断したル・ランは自ら近衛を率いて突撃する敵の眼前に馬を飛ばし
た。
純戦術的に考えれば、バイステリの取った行動は愚策である。自
らを守る城壁を吹き飛ばすのは確かに完璧な奇襲にはなるが、少数
の部隊で挙げられる戦果などたかが知れている。そしてその効果が
切れてしまえば、最早持ちこたえる事は絶対に出来ない。
だが結果として得られる戦果の中に敵の総帥の首があるならば、
話は別である。そして今、バイステリにとって唯一の勝利条件が自
ら最強の部隊の前に馬を飛ばしてきていた。
555
2
﹁速度が鍵となります。全軍、道中の敵は無視してください﹂
自らも甲冑を身に纏い、崩れた城壁の裏側から混乱する敵を見据
え、アルフォンソは静かに兜のバイザーを下げた。彼の後ろにはバ
イステリの切り札である騎士隊が続く。その中にはエーリヒやカー
ルマンもいた。
﹁目指すは敵将ル・ランの首ひとつ。それさえ得られれば、この戦
争全体に勝利できます﹂
アルヴェリアは数的優位を頼みにバイステリを包囲するに留め、
南下してエルヴンの主要な戦力を撃破し、取り残されたバイステリ
に圧迫を加え続けている。だが、反面これは敵中奥深くまで進軍し
ているにも関わらず、後方が未だ未制圧であるということを意味す
る。
グライーはこの危険を承知しており、北部エルヴンの中心都市で
あるバイステリに三倍する勢力を残置し、万が一にも逆転がないよ
う無理な攻撃は避けるよう処置していた。グライーにとってバイス
テリ攻略は時間の経過によって自動的に成されるものであり、包囲
下におければそれで十分だったのである。王太子ルイに司令官ル・
リスク
ランと、重鎮二人を擁するバイステリ包囲軍は撃破されれば全軍総
崩れの可能性が高く、無駄な危険は冒せない。そのまま包囲を続け
556
ていたならば、いかにアルフォンソが卓越した指揮官であろうとバ
イステリに勝機は絶対に訪れなかったであろう。
しかし心情的に軍人であって騎士ではないグライーは騎士の心を
理解しなかった。騎士とは何より戦いを求める生物であり、眼前に
陥落しそうな城があれば、攻めない理由がない。武勇を示し、手柄
に与るのが彼らの存在意義である。陣中に司令官と王太子がいて手
柄の保障は十分になされ、或いは未来の国王に顔を覚えてもらう好
機であるにも関わらず、ただ遠巻きにして包囲に留めよと言うのは
無理があった。グライー自身落とせるならそれに越したことはない
と考え、その指示は﹃無理な攻撃は禁物﹄という曖昧なものであっ
た。指揮を執るル・ランがグライーより上位の貴族であり、自らの
後見人だということもあって強く命令できないという事も大きく作
用したのであろう。結果としてアルヴェリア軍は弱り果てているバ
イステリへの総攻撃を敢行する。そこにアルフォンソが付け入る隙
が生まれた。
﹁全軍⋮⋮﹂
アルフォンソは薄笑いを浮かべつつ片腕を大きく上げ、次の瞬間、
眼前の敵軍を両断するように真っ直ぐに振り下ろした。
﹁突撃﹂
りめん
馬蹄の音が大地を揺らし、馬の嘶きは天に響き渡る。崩壊した城
壁の裏面より土煙を巻き上げ、瓦礫を踏み砕いて現れる騎士の数は
五百。一本の矢の如く鋒矢に陣を組んで疾駆し、隣の者と肩触れ合
エンブレム
うほど密集して槍を構えるその様は勇壮。白銀の甲冑は陽光を受け
て燦然と、背に負う外套は風を受けてはためき、記された市紋は軍
旗の如く戦場に翻る。
557
サングラール
﹁聖杯よ!﹂
バトルクライ
はし
掛け声挙げつつ騎士は疾走る。城攻めに備えて敵に騎馬なく、味
方に騎馬あり。不意を衝かれて敵に牙なく、味方に牙あり。崩れて
惑うその喉笛に、槍の穂先は突き刺さる。
﹁吼えよ!﹂
いくさ
人を斬るなら掛け声も要らぬ。騎士道も戦場にあっては野蛮さこ
そ誇り。野人の絶叫が響き渡り、人とも獣ともつかぬ咆哮が敵軍の
動きを鈍らせて、槍の穂先に馬蹄の轟き、剣の煌めき斧の痛撃、当
たるを幸いに騎士達は敵を蹴散らした。
﹁見えました。敵近衛隊接近、騎馬です﹂
アルフォンソがバイザーを上げて確認する。策の的中にその表情
は薄笑いを形作っていた。
アルフォンソは元より王太子を討てるなどとは考えていない。万
が一討てたとしても、復讐に燃えた敵軍の手によってバイステリは
落城よりも無惨な事になるだろう。だが、万が一にでも討たれる可
能性があるのならば、アルヴェリアはこれを無視できない。必死で
これを守るだろう。それこそ司令官自らが前に出てでも。
王太子ルイは飾り物であり、実際に軍を統御しているのはル・ラ
ンなのである。だが政治的には守られるべき優先順位はルイのほう
が遥かに高く、バイステリ包囲軍そのものとすら比較にならない。
ここに司令官を撃破し、敵軍そのものを敗北に追い込む千載一遇の
機会がバイステリに舞い込んだ。
558
﹁と、ここまでお膳立ては整えましたが、結局はル・ラン将軍の直
率する近衛隊との真っ向勝負を制さなければ全ては水の泡というわ
けで。ここまでやっても結局は個人の武勇がまだまだ幅を利かせる
というのは、なかなか頭の痛い問題ですね﹂
いつかアラエルの前で試みた馬上槍試合を思い出し、アルフォン
ソはくすりと笑う。その時には戦術が個人の武勇の前に敗北したが、
今はそれが許されない。
﹁エーリヒ卿、カールマン卿、後は頼みました。駄目だったならば
傭兵らしく私は逃げさせてもらうので、悪しからず﹂
個人の武勇を競うのはアルフォンソの仕事ではない。馬上で弓を
扱い、敵の一人を射ち殺して進路を開けつつ、アルフォンソは後退
して突撃の指揮をエーリヒに委ねた。
3
高揚がエーリヒを満たしていた。
ギャロップ
突撃に移ってから数十分、駆け足で走る馬の振動は凄まじく、慣
れた乗り手でも疲労を感じるものだが、何の疲れも彼の体は感じて
いない。槍を奮う腕も同じで、どれほど敵を貫いても疲れるどころ
か新たな活力が湧いてくるようだった。
559
﹁エーリヒ! やっぱりお前は実戦向きだったか!﹂
傍らでカールマンが槍を奮い、向かってきた敵兵の頭を貫き抉り
取る。その表情は壮絶な笑顔を形作っていた。血塗れのぞっとする
ような笑顔に、エーリヒは自分もまたこのような顔をしているのだ
ろうと思う。
﹁どっちが敵将の首を挙げられるか、競争だな!﹂
戦いを楽しむ。それが騎士のどうしようもない業である。崇高な
目的を掲げて見ても、結局のところ根本では自分の強さを証明する
のが楽しくてしょうがない。敵に対して容赦がないのも騎士道の徳
目である。立ち向かう者には鉄槌を、降伏した者には寛容を。
﹁乗った! 騎兵隊の宴会一つ奢らせてやる!﹂
ランス
言いつつ騎槍ですれ違い様に敵騎士を貫き、愛馬の蹄で歩兵を踏
み潰す。重量にして大人十五人ぶんの重種馬に完全武装の騎士が乗
れば、馬体そのものが凶器である。下手に立ち塞がれば死あるのみ
だ。馬上にあって敵を思うがままに討つ騎士としての高揚に包まれ、
獰猛な笑みをエーリヒは浮かべる。しかし、
︱︱精一杯戦ってこい。絶対に負けるな。
そう言いながらも、目ではただ生き延びる事だけを祈り、殺し合
いを嫌う女の姿がふと浮かんで、熱くなった心に冷たいものが落ち
る。馬上槍試合とは違う。殺し合いだ。騎士の王道とも言える戦い
に興奮しているとはいえ、嬉々として人を殺す様を見てアラエルが
どんな顔をするか。それを思うと、槍を奮う腕から力が抜けそうに
なった。
560
﹁女々しいぞ、エーリヒ!﹂
カールマンが表情をしかめて叱咤する。エーリヒは我に返って槍
ランス
ランスレ
を取り直す。先端がだらりと垂れ下がっていた。用法上、重心の位
スト
置を取れない騎槍は重量以上の重量がある。慌ててエーリヒは槍置
きに柄を置く。
﹁一度戦場に出たなら戦闘あるのみだ! 女に振り回されるな! ここは男の領分だろうがっ!﹂
言ってカールマンは馬に拍車を当てて駆け出し、遮る騎士に槍を
モーニングスター
叩き込む。深く入った槍が敵の即死と引き換えに粉砕すると、カー
ルマンは星付棍棒を引き抜き、力任せに震って前面の敵を押し開く。
鎧も兜もおかまいなしに奮われる棍棒の痛打に、阿鼻叫喚の地獄が
局所的に現出する。
﹁男の領分か⋮⋮! 違いない! 悪いがこの期に及んで四の五の
言うのはやめだ! 勝ってから考える!﹂
ランス
算を乱して逃げ惑い、或いは散発的に攻撃してくる敵の列を抜け
ると、真正面から騎槍を倒して突っ込んでくる一団の騎兵達が現れ
た。その装備はすべて統一されており、この混乱の中にあって士気
も高い。目指す目標の近衛隊に相違なかった。
﹁密集体形用意っ!﹂
号令一下、騎士達が互いの距離を詰め、肩が触れ合うほどの密集
ランス
陣を形作る。重なりあった馬蹄の響きはさながら地響きであり、突
き出された騎槍の列は林の如く。鏡のように陽光を甲冑で反射しな
561
がら、真っ直ぐに騎士達は近衛隊目掛けて突進した。
密集陣は騎馬突撃の威力を何倍にも高める。天敵とも言われる長
槍の密集陣ですら、数百もの騎士が十分に速度をつけて行う突撃に
は抗しがたい。先頭を倒したとて後続は止まらないのだから。だが、
その強力さは弱点とも表裏一体である。密集すれば矢に弱く、また
一人の落馬が隊列そのものの崩壊を招きかねない。ただでさえ高速
で走る馬上にあって、肩が触れ合うほどの距離を維持しているのだ。
下手をすれば自滅する。ゆえに密集陣は切り札として直前まで用い
られることはなかった。
﹁天晴れ見事な馬術でおじゃる! 近衛とあってもこうはいかぬ。
褒めて遣わそう!﹂
敵陣の先頭を走る一際豪奢な甲冑をの騎士が吼える。密集したバ
イステリの騎兵隊を見てなお揺るがぬ自信に、エーリヒは戦慄した。
五百人分の殺気を受けてなお平然としているのだ。
﹁こちらも応じざるを得ぬでおじゃるな。密集体形!﹂
たちまちラッパが鳴り響き、アルヴェリア騎兵隊が互いの距離を
詰める。その密集度合いはバイステリと大差ない。避けるそぶりも
なくまっすぐ突っ込んでくるその様に、指揮を委ねられているエー
リヒはしばし迷った。
﹁⋮⋮かわすべきか⋮⋮?﹂
互いに全力で駆ける騎兵の集団が真正面から衝突すれば、その結
果は悲惨である。歩兵の衝突など比ではない。重量と速度が違うの
だ。結果は互いにとって破滅的だろう。だが、
562
さか
﹁馬鹿らしい、今更賢しくなれるかよ! 戦闘あるのみだ、真正面
から存分に殺し合うぞ!﹂
進路は変わらず、穂先も揺るがず。しかと敵将を見詰める獣のご
とき視線に、カールマンが笑う。
﹁そうとも、こんな面白い戦はそうそうないぜ!﹂
対するアルヴェリアも譲らず。背後に控えた王太子を守るため、
微塵も動揺せずにしかとバイステリに迫る。やがて指呼の間合いへ
と互いは進路を変えないまま近接した。
サングラール
﹁聖杯よ!﹂
掛け声と共に両者は接触する。たちまち地獄が各所で生まれた。
人馬の重量と速度を乗せた槍を受けたアルヴェリアの騎士が、体
の一部を抉りとられて絶命する。その死骸は直ちに後方からやって
くる味方に踏み潰され、人の形を失って戦場に打ち捨てられる。突
き刺したバイステリ騎士とて無事ではすまない。予想外の衝撃に槍
持つ腕は砕け、直後に体当たりを受けたその騎士は重量級の甲冑が
嘘のように宙を舞い、頭から地面に叩きつけられて頭を潰す。この
規模の騎兵同士の正面衝突など誰も経験がない。両軍ともに圧倒的
な速度と重量に踏みにじられ、特に先頭を走っていた集団はほぼ全
滅した。
﹁槍捨てろぉ! 斬れ、叩けぇ!﹂
辛うじて生き残ったエーリヒが叫ぶ。互いの速度は衝突のために
563
落ちていた。今や陣も崩れ、敵味方入り交じる乱戦の中を真っ直ぐ
に泳いでいるに等しい。長大な騎槍は役に立たない。剣の距離であ
る。自らも剣を引き抜いてエーリヒは周囲の敵とすれ違いながら刃
を交わし、幾人かに手傷を負わせながら真っ直ぐに馬を走らせる。
﹁ほほう、麿に剣を抜かせるとはな⋮⋮! 悪いがこの先には騎士
の名に賭けて行かせるわけには参らぬ﹂
﹁だったらどうするんだよ⋮⋮!﹂
乱戦のなか、敵先頭を走っていた豪奢な甲冑の男が真っ白な刀身
の剣を引き抜いてエーリヒに斬りかかる。すんでのところでエーリ
ヒは防いだが、自らの剣の半ばにまで男の剣がめり込んでいたのを
見て絶句する。
﹁我こそはオルランド侯ル・ラン家が当主アンリ。始祖シャルルよ
り数えて十二代。アルヴェリアの千年宝剣デュランダルの輝きを恐
れぬとあらば、かかって参られよ﹂
寒気を感じたエーリヒは剣を手放し、ル・ランとすれ違う。視線
の端で、手放した剣が真っ二つになっているのが見えた。
﹁ちっ﹂
無手となったエーリヒはそれ以上の交戦を避け、敵の群れを潜り
抜ける。すぐ後から味方も敵を潜り抜けた。数は七割ほどに減って
いる。もっともそれは敵も同じだった。
﹁抜けたぞエーリヒ、いっそ王太子を狙うか?﹂
564
首尾よく生き残っていたカールマンが問う。逃げ仕度をしている
王太子の陣まで最早遮るものはない。だが、
﹁ダメだ! 背後から襲われればひと溜まりもないぞ。ここで決着
をつける!﹂
真正面から衝突したからこそこの程度の損害で済んでいるのだ。
背後を狙われれば一方的な虐殺である。どのみち作戦目標は王太子
ではなくル・ランなのだ。人馬ともに流石に疲労が目立つ以上、無
駄なことはできない。
﹁じゃあもう一度やるか!﹂
リア
戦場の勇者カールマンは恐れを知らないかのように地獄の密集陣
へと組み直しを命じる。しかしエーリヒはそれを押し留めた。
センブリー
﹁いや、例の手でいく。左翼の指揮を任せた。正面は俺がやる。再
構成を!﹂
命じられたカールマンはにやりと笑い、腰から剣を鞘ごと引き抜
くとエーリヒに投げて渡す。
﹁使え。デュランダルほどではないが業物だ!﹂
3
565
リアセンブリー
﹁ラッパ吹け! 再構成でおじゃる﹂
ラッパと共に乱れたアルヴェリア騎兵隊の隊列が整えられ、隙間
ない密集陣が再び構成される。騎馬突撃はどうしても突撃のたびに
隊列が乱れるため、その都度陣を整え直さなければならない。密集
した敵にばらばらに向かうのは自殺に等しいのだ。敵より立て直し
が早ければ一方的に勝利できるが、この時は両軍ともほぼ同時に建
て直していた。
﹁ほう、向かってくるか。やるでおじゃるなぁ﹂
再度突撃の態勢に入るバイステリ騎兵に、ル・ランは薄く笑う。
正面衝突の恐怖を乗り越えてなお眼前の王太子に向かうと言う逃げ
を選択せず、もっとも困難な道である再突撃を選んだ胆力に、ル・
ランは敬意を表した。
﹁しかし、消耗戦は望むところでおじゃる。我が身に代えてでも麿
を討とうとするその心意気は天晴れ。しかし騎兵隊全滅と引き換え
に討てても無意味でおじゃるよ﹂
騎兵の本質は正面切っての戦いよりも追撃戦にある。戦意喪失し、
逃げる敵をどこまでも追い回して斬りかかり、戦果を拡大するのだ。
いわば勝利をより活かすのが騎兵の本質であり、全滅と引き換えの
勝利ではル・ランを討ったとしても痛み分けにしかならない。そし
て痛み分けなら仕切り直せばアルヴェリアが優勢である。ル・ラン
は今やバイステリの狙いが自身であることを承知していたが、ここ
で死のうとも構わないと考えていた。
﹁さぁ皆の者。王太子殿下を守って死ぬは騎士の誉れぞ。死ねや死
ねや。ここでの武功は末代までも語り継がれん﹂
566
再度の突撃に萎えかけていた戦意がル・ランの一言で持ち直す。
名誉こそは騎士にとって命よりも大事であり、ル・ランはその使い
どころをよく知っていた。
モンジョワ
﹁突撃!﹂
五百年前の騎士達が用いた掛け声を叫びつつ、ル・ランは先陣を
切る。その手には霊剣デュランダルが握られ、白い閃光が煌めき渡
った。大岩を両断して歯こぼれなしと言われるデュランダルは五百
年前より受け継がれるル・ラン家の宝剣であり、アルヴェリア王家
に対する守護の証しであった。
再び両軍が接近する。アルヴェリアの陣容は先と変わらず密集陣。
対するバイステリはやや散開しつつ距離を詰める。ル・ランはほく
そ笑んだ。
﹁臆病風に吹かれておじゃるか? 馬脚も奮わぬのう。デュランダ
ルに畏れをなしたかや?﹂
歩兵にせよ騎兵にせよ、密集した騎兵に対抗するには密集するし
かない。個別では各個に撃破されるだけだ。のみならずバイステリ
騎士の馬脚は最も激しい接触が予期される中央ほど遅く、ル・ラン
にはまるで怯えているように見えた。
モンジョワ
﹁中央突破は騎兵の華よ。腸を引きずり出してくれようぞ。全騎進
め、突撃!﹂
先導するル・ランに引きずられてアルヴェリア騎士達は自然と突
撃を最も活かせる陣、即ち矢の陣形を取る。鏃の先端たるル・ラン
567
はデュランダルを奮って正面の騎士に斬りかかった。
﹁くそがっ!﹂
振り下ろされたデュランダルを正面の騎士は短剣と長剣を交差し
て防ぐ。短剣は真っ二つに切り裂いたものの、長剣のほうは中々の
業物だったのだろう。勢いを殺されたデュランダルはこれを両断す
ることが叶わなかった。
﹁おお、先程の。うまくやるものよのう﹂
やむなしと諦めたル・ランは剣を引いてすれ違い、次の相手を探
そうとするが、正面の騎士は衝突の圧力に抗いながらル・ランに反
撃の太刀を見舞う。
﹁お前の相手は俺だ、馬鹿野郎⋮⋮!﹂
周囲では今も衝突が相次ぎ、敵味方の騎士が凄惨な最期を迎えて
いる。旗色が悪いのは当然バイステリだ。にもかかわらずバイステ
リ側は必死に食らいつき、持ちこたえている。挑戦されて逃げるの
は騎士ではない。ル・ランは横凪ぎに払われた敵騎士の刃をデュラ
ンダルで捌いた。
﹁ほうほう、今時珍しく男気があるのう。名を聞いておこうか﹂
﹁傭兵のエーリヒだ、一騎討ちに付き合ってもらうぞ!﹂
望むところ。と返してル・ランはデュランダルを奮う。国内最強
の魔力を持つとされる霊剣は老いたル・ランにも若年のごとき活力
を与え、その刃は並みの甲冑などチーズも同様に切り裂く。エーリ
568
ヒも技巧を尽くして戦い、真正面から刃を受けるのではなく、受け
流すことに専念するが、それでも武器の差は圧倒的だった。たちま
ちエーリヒの剣は歯こぼれが各所に生じ、急速に強度を失っていく。
﹁よく持たせたが、ここまででおじゃるな。正直なところ少しばか
り肝を冷やしたが、これまでよ!﹂
強度を失いなまくらと化した剣に向けてル・ランはデュランダル
を振り下ろす。エーリヒは間一髪で剣を手放して難を逃れたものの、
無手となった。好機を逃さずル・ランは剣を振り上げる。だが、エ
ーリヒは不敵に笑っていた。
﹁今回は戦術が勝ったか﹂
瞬間、全てが変わる。ル・ランの率いた近衛騎兵隊が両翼から押
し包まれるように圧迫され、崩壊したのである。縦方向からの衝撃
に備えた密集陣は横方向からの不意の圧力にバランスを崩し、騎士
達は密集が仇となって戦うこともできずに落馬し、或いは態勢を崩
したまま刃の餌食となった。
﹁⋮⋮衝突ではなく、包囲を最初から⋮⋮!﹂
バイステリの騎兵隊は重騎兵だけではない。比較的軽装の甲冑に
中量級の馬を用いた軽騎兵がいる。彼らは正面衝突に弱いが、一方
でその機動性は直進しかできない重騎兵の側面を衝くには適してい
た。
﹁悪いがこちとら傭兵だ。様式美に従ってちゃ勝てないんでな⋮⋮
! 真正面からじゃない。側面を衝かせてもらう!﹂
569
左右の騎士に押されてル・ランの姿勢が崩れる。その瞬間をエー
リヒは見逃さない。隣の騎士から剣を受けとると、ル・ラン目掛け
て一直線に振り下ろす。
死に至る直前、ル・ランは王太子の陣が視界から遠ざかっていく
のを目撃し、それを僅かな誇りと慰めとしながら、戦場に伏した。
570
バイステリの戦い 8︵後書き︶
つ、つかれました。
571
バイステリの戦い 9
1
﹁流れが変わった。やりましたか。エーリヒ卿﹂
市内に戻り、城門で防戦の指揮を執っていたアルフォンソは一際
大きな歓声があがるのを聞くと、胸を撫で下ろし、ため息をついた。
その頬には冷や汗が流れている。
﹁綱渡りの連続でしたが、何とか対岸まで行けたようですね﹂
アルヴェリア軍六万の軍師であるグライーに対してアルフォンソ
はバイステリの傭兵隊長であるにすぎず、持てる権限には大きな差
がある。グライーがいわばエルヴン全体を盤面として布石を打てる
のに対し、アルフォンソは北部エルヴン以上に手を伸ばせないのだ。
ゆえに、アルフォンソの戦略はグライーをしてバイステリへの正
面攻撃は割りに合わないと思わせ、南部エルヴンへの侵入を誘う事
でバイステリの戦いの重要性を引き上げ、ここでの勝利がエルヴン
戦全体の結果を変えてしまうようにすることにあった。南部にどれ
ほどの戦力が侵入し、どれほど戦に勝とうと、昨日まで安全地帯だ
った後背地が突如絶たれ、本国との連絡が切り離されてしまえば、
無敵のアルヴェリア軍もエルヴンに漂う小さな木の葉である。包囲
殲滅を受ける前に逃げ出さざるを得ない。
﹁では、この上は勝ちを確実なものとしますか﹂
572
司令官を討たれた事が伝わってきたのだろう。正面の敵軍に動揺
が広がる。ただの傭兵隊ならここで引くのだが、大陸最強を以て鳴
るアルヴェリア軍の士気に衰えはない。寧ろざわめきは怒号に取っ
て代わり、兵士や騎士一人ひとりの顔つきが変わっていく。
﹁オルランド侯の仇を討て!﹂
敵軍の怒りに方向性が与えられるや否、それまでよりも遥かに強
い勢いの攻撃が始まる。主を討たれた騎士は面目を失ったに等しい。
面目を失った騎士に存在価値はなく、そうであれば、自殺的な攻撃
は必然であった。命すら惜しくないと言わんばかりの猛攻は正面で
相対していたバイステリ軍をじりじりと押し下げ、疲労の極みにあ
った兵士達を壊走寸前にまで消耗させる。
﹁前列、左右に分かれ﹂
猛攻に耐えかねた味方が城門の内側まで下がるのを見たアルフォ
ンソが指示を出す。直ちにバイステリの兵士達は武器を離して左右
に逃げた。解放された城門までの道にたちまちアルヴェリア軍が殺
到する。そこへ、
﹁撃て﹂
城門の裏側に隠されていた二門の大砲が同時に火を噴いた。吐き
出されたのは無数の弾丸、瓦礫、釘。先込め式の大砲は口径さえ合
えばどんなものでも放てる。銃弾であれ、瓦礫であれ、釘であれ、
大量に押し込んで放てば近距離に恐るべき破壊の嵐を巻き起こせる
のだ。無論のこと火縄銃に詰めて撃つのに比べればその威力は乏し
く、甲冑も貫通できないし、隙間に当たっても即死させることはで
きない。だが、無数の瓦礫や釘に体を乱打されて無事でいられる人
573
間がいるはずもなかった。
﹁がぁぁっ!? た、助けてくれ⋮⋮!﹂
突撃を行っていた兵士達が一斉に倒れ、勢いが削がれる。死者は
少ない。だが、負傷者は多く、その殆どが激痛に苛まれて身動きも
とれず、呻き声をあげて後続の味方の士気を下げた。一箇所二箇所
の裂傷ならばそのまま突撃を続ける事もできたろう。だが、十数箇
所も傷を負い、しかも最も激痛を感じる顔面に深い傷を負えばそう
はいかない。先に突撃した者達の惨状は怒りに煮えたぎっていた後
続の兵に冷や水を浴びせるには十分であり、脚が一瞬止まる。そこ
へアルフォンソは次の指示を出した。
﹁かかれ﹂
左右に分かれて予め設置していた板塀に隠れていたバイステリ兵
が立ち上がり、城門のアルヴェリア兵に斬りかかる。混乱し、士気
も下がったアルヴェリア兵はまともな戦いができず、たちまち一方
的な殺戮が始まった。その間にも大砲には次々と釘や瓦礫がつぎ込
まれる。
﹁撤退しろ、撤退だ!﹂
交戦不能と判断した指揮官が撤退を指示する。しかし城門の内側
で何があったかわからないまま、怒りに任せて突撃する後続との間
でたちまち衝突が発生し、現場は混沌とした。そこへ再度鉄と石の
暴風雨がたたきつけられ、混乱は加速度的に増す。
﹁今です。全軍突撃、地平線のかなたまで押し返しますよ﹂
574
進退の判断を行い、怒りに任せて突撃する軍を統制する指揮官は
もういない。小部隊の指揮官達がそれぞれの判断で突撃と後退を指
揮する軍には数ほどの力はなく、となれば戦いは集団対個別のもの
となる。
勝敗は決した。
2
﹁全軍撤退だ﹂
中部エルヴン、レノス教皇領の傭兵隊と干戈を交えていたグライ
ーは、北部での敗報が伝わるや否、包囲を即座に解き、整然と撤退
を開始した。バイステリの傭兵隊が勝ったとはいえ著しく消耗し、
城壁すら既にない事も報告にはあったが、グライーは今更バイステ
リを攻める気はない。
﹁俺の軍権が最早保障されていないこんな状況では⋮⋮﹂
グライーがアルヴェリア全軍の軍師として腕を奮えたのは、名門
貴族ル・ランの後押しがあればこそである。そのル・ランが戦死し
た今、グライーの軍権を擁護する者はいない。それどころか敗戦の
責任を追及され、首を刎ねられるか、投獄されてもおかしくない立
場になってしまった。自らの才能を見出してくれたル・ランを死な
せた自責のため、グライー自身それを甘んじて受けるべきとすら思
ったが、今はまずかった。
575
﹁せめて軍だけでもまともに帰さなくては、オルランド侯に申し訳
が立たん⋮⋮!﹂
レノスからの追撃を警戒しつつ、グライーは急速に北部へと向か
う。その道中、後方の足が遅い荷駄隊を始めとして幾度もアルヴェ
リア軍は襲撃を受けた。日和見を決め込んだエルヴンの都市国家。
一度はアルヴェリアに降伏した諸邦が一斉に牙を剥いたのである。
追ってくる騎兵隊を掃討し、立ちふさがるエルヴン連合軍を撃破し、
四周すべてを敵としながら、グライー率いるアルヴェリア軍は一度
も敗北しないままに惨めに敗走した。
3
﹁追撃、なさらないのですか?﹂
去っていくアルヴェリア軍を見ながら、レノス傭兵隊の傭兵が傭
兵隊長たるジュリオ・ツェザーレ枢機卿に問う。ジュリオは聖典を
読みつつ興味なさげに視界の端でちらりとアルヴェリア軍を一瞥し
たのみで、すぐに銀髪をかき上げて読書に戻った。
﹁無用だ。アルフォンソが上手くやったなら、暫くは攻めてこれん﹂
盾と見せかけて矛、矛と見せかけて盾。攻撃を担当していたのは
中部、南部の諸国ではなく、アルヴェリアの急所を握ったバイステ
リであった。敵が引くということはその一撃が成功したという事で
576
あり、レノスは盾としての義務を果たしたのだ。
﹁とはいえ、ここで叩けば戦後の我が国の発言権も増します。この
ままではバイステリがエルヴンの主導権を握ることになりますよ﹂
勝ったとして、戦後処理は一大事であった。アルヴェリアという
不意の来訪者によってエルヴン内のパワーバランスは大いに崩れた。
北部でアデルバード、中部でフィエンツァが消滅している。勝利の
原動力となったバイステリはその権威を大いに高めるだろう。だが、
それでもジュリオは動かない。
﹁そう、戦後処理だ。今後エルヴンはバイステリ、レノス、ディス
の三国状態となる。そのうちバイステリは既にアセリアとの繋がり
が生じている。⋮⋮我々はどこと結ぶべきだろうな?﹂
冷徹な碧い瞳は既に聖典を見ていない。かといってアルヴェリア
軍を見ているわけでもない。その目は先を見ていた。
﹁放置していてもどうせ追撃はあちこちから来るだろう。無駄に恨
みを買って将来の同盟者候補に嫌われる必要もあるまい。我々はこ
れまでだ。戦力を大して削ることもなく、最小限の結果で連中を撃
退できたのだ。十分ではないか。⋮⋮しかし﹂
遥か北方を見ながらジュリオは呟く。
コンドッティエーレ
﹁傭兵隊長アルフォンソか。戦術的勝利をこうも上手く戦略的勝利
に結び付けるとは。なるほど、名を馳せるだけのことはある、か﹂
577
4
勝利を確実なものとするため、バイステリの騎士達は三日にわた
って追撃を加えていた。
対するアルヴェリアには最早士気などなく、次々と背後からの刃
の犠牲になって倒れる。指揮官を失っての退却は整然と行えるはず
もない。追撃の三日でエーリヒ達は攻防戦の六日に倍する数を討ち
取り、馬の疲労に従って帰還した。それでなくとも中部から泡を食
って北上するアルヴェリア軍に備えなければならないのである。
﹁英雄達の凱旋だ!﹂
朽ちた城門をくぐった瞬間、エーリヒ達は市民からの歓呼の声に
迎えられた。
﹁バイステリ騎士団だ! 俺達の騎士団が街を守ってくれたんだ!﹂
戦闘の決定的な一押しとなった騎兵隊の突撃は既に広く知れ渡っ
ていた。特に敵将と一騎討ちを繰り広げたエーリヒには万雷の拍手
と歓声が注がれる。生き残った二百人の騎士達は表情を緩めた。し
かしエーリヒは一人厳しい表情を崩さない。
﹁おいエーリヒ、どうしたんだ。手でも振ってやれよ﹂
疑問に思ったカールマンが馬を寄せる。だがエーリヒは頭を振っ
た。その目は細められ、何かを探すように群集の間をさまよう。カ
ールマンは察した。
578
﹁ぞっこん、⋮⋮ってね。お熱いこった﹂
カリヨン
組み鐘が鳴り響き、バイステリの楽団が勝利の行進曲を演奏する。
何の気なしにエーリヒはそこを通り過ぎようとしたが、楽団のヴァ
イオリンの末席に目をやった瞬間、慌てて馬から飛び降りる。乱暴
に扱われた愛馬が嘶いて不平の声をあげた。
﹁アラエル、お前いつから楽団に⋮⋮﹂
﹁騒ぐな、演奏中だ。おとなしく聞いておけ﹂
言われてエーリヒは口をつぐむ。アラエルの手に握られているの
は間違いなく自分が送ったヴァイオリンだ。後ろから同僚達の笑い
声が聞こえた。
﹁エーリヒ卿、我々は先に行っておきます。報告は済ませて起きま
すから、ご随意に﹂
ユーウェインが片目をつぶって気を利かせる。その後に含み笑い
を漏らすロビンが続いた。
﹁演奏が終わりましたら、抱きつくなり、結婚を申し込むなりどう
ぞ﹂
春風が吹き、アラエルの銀髪が舞う。ヴァイオリンを弾くその姿
を、エーリヒは心の底から美しいと思った。
半月後、アルヴェリア軍はその数を半数に減らした上で本国に撤
退する。敗戦の責任者であるル・ランが戦死していた事からその責
はグライーに求められ、その領地は全て没収され、命だけは助かっ
579
たものの、彼は獄に繋がれることになる。
エルヴンは多大な損害を出しつつも勝利した。しかし先が見える
者達の視線は既に遠くを見ている。崩れたエルヴンの勢力均衡、再
燃したアルヴェリアとアセリアの戦争。一戦を制したところで、戦
争が消えてうせるわけではない。
ただ、バイステリの人々は、今だけは平和がやってきた事を祝い、
楽の音に耳を澄ませ、踊りに明け暮れていた。
580
音比べ
1
五月は春の訪れを意味する。冬の峻厳な寒さを越えた人々はここ
カリヨン
に安らぎを見出し、その到来を総出で祝うのだ。バイステリにおい
てもそれは例外ではない。高らかに組み鐘が鳴らされ、街中が飾り
付けられる。冬の象徴である木製人形が燃やされ、象徴的に冬が追
い払われると、春の妖精に扮した少年少女達が和気藹々と喋りなが
ら街中を練り歩き、﹃春が来たよ!﹄と触れて回った。五月祭であ
る。戦争のために遅れていた祭りが、ぎりぎり六月にならない内に
実施された。
﹁⋮⋮で、なんで私がここにいるんだ﹂
その少年少女の列の最後尾をアラエルは歩く。特別誂えのフリル
とレースをふんだんにあしらった白いドレスに身を包み、花冠を被
ったその姿はなんとも映えるが、華々しい舞台には苦手意識がある
アラエルは居心地悪そうに周囲を見回し、ひしとエーリヒの袖を掴
んで半ば隠れている。掴まれた方のエーリヒは苦笑した。
﹁五月の花嫁だって言ったろ。街一番の美女が﹃春﹄の花嫁に選ば
れるんだ。戦勝気分もあって今年は派手にやるらしい。ほら、手を
振れって﹂
﹁いや、しかし他に適任者がいるだろう。何も私なんぞ選ばんでも﹂
まともな身でないという自覚がアラエルにはある。晴れがましい
581
場に立つのは好ましくないと思う心が臆病を生み、緊張を生む。借
りてきた猫のように大人しい五月の花嫁にエーリヒは肩を竦めた。
﹁相手が﹃春﹄じゃ勝ち目はなかったか。まぁ、一時貸してやるだ
けだ﹂
﹁なにか言ったか﹂
﹁何も﹂
とぼけたエーリヒは街の中央に立つ柱を見る。色とりどりのリボ
メイポール
ンが垂らされた柱の周囲では市民や兵士達が踊りを楽しんでいた。
五月の柱である。春の象徴である樹木を街の中心に立て、皆で踊っ
て病や飢えを踏み潰して追い払うのだ。ただしアラエルにだけは相
手がいない。彼女は春の花嫁なのだ。
﹁五月の花嫁様に、捧げものを!﹂
アラエルが抱えるバスケットにイチゴが放り込まれる。赤く熟し
たイチゴだ。春を象徴した果物である。アラエルは一礼して受け取
り、一粒口に運ぶ。
﹁甘い⋮⋮﹂
﹁そんな感動するなよ。俺がいいもの食わせてないみたいだろ﹂
﹁そうは言っても甘味など滅多と食えぬからな。感動もする。お前
もどうだ﹂
食べかけのイチゴをアラエルはエーリヒに差し出す。エーリヒは
582
う、と呻いた。
﹁⋮⋮お前はそういう不意打ちが上手いよな。計算しているんだと
したら相当あざといと﹂
﹁要らんのか、ならもらう﹂
エーリヒが思い悩む間にアラエルはイチゴを食べる。エーリヒは
失策に気付いて情けない顔をしたものの、幸運の女神には前髪しか
ないの格言通り、そんなエーリヒにアラエルが渡すのは食べかけで
はない方のイチゴに過ぎなかった。
甘味は、貴重品である。果物などは鮮度を維持するのが難しく、
乾燥させるよりない。生のままの甘い果実が手に入った特権にアラ
エルは若干機嫌を直した。
﹁五月の花嫁様に捧げものを!﹂
﹁うちからも、是非!﹂
それを皮切りに次々と果物やチーズ、牛乳などが放り込まれる。
たちまちバスケットはいっぱいになって重みを感じるほどになった。
五月の花嫁はいわば縁起物である。歩いているのはアラエルでも、
﹃春﹄とこの瞬間は結びついていると見なされ、彼女に捧げたもの
は間接的に﹃春﹄に届くとされているのだ。後ろから続く荷馬車に
いっぱいになったバスケットを預けてなお捧げものはとまらない。
殆どは祭りのためにこの後供される予定だが、ある程度は自由にす
る権利がアラエルには認められている。積み上げられる品物にアラ
エルはすっかり上機嫌になって群集に向かいたおやかに手を振って
みせる。
583
﹁色気より食い気かよ﹂
﹁なにか言ったか﹂
﹁何も﹂
傍らを歩くエーリヒは不貞腐れた。彼とて﹃春﹄に負けぬように
オーダーメイド
とめかしこんできている。ビロードとシルクをふんだんに使った衣
服は中古品であるはずもなく、一から仕立てた一点もの。帽子は上
等の毛皮を用いたベレーで、銀を用いた聖印が光る。ブーツもバイ
ステリの靴職人自慢の一品で、伊達ぶりが際立つ。だと言うのにア
ラエルは増えていく品物にばかり目が行くのだ。
﹁ま、いいけどな⋮⋮﹂
そうして呆れ果てたエーリヒは見逃してしまった。捧げられた品
物の中にワインが含まれている事を。そして、アラエルが目ざとく
それを発見し、鷹のような目をした事を。
この後、メイポールで誰もがダンスに興じる中、暇をもてあまし
たアラエルは﹃春﹄と共に陽気に酒を楽しみ、エーリヒが気付いた
頃には酔い潰れて目を回していた。
2
584
﹁誰だこいつに酒を教えたのは。エルナか、エルナだったな﹂
アラエルはワイン一本で完全に潰れていた。彼女が普段飲むのは
ビールか安ワインであり、何れもアルコール濃度はそれほど高くな
い。だというのに出来て間もない上等のワインをそれらと同じ感覚
で飲めば、それはこうなって当然である。エーリヒは寧ろ一本飲み
切ったところに並々ならぬ執念を感じていた。
﹁がっつくな恥ずかしい。俺が普段貧しい食生活を強いているみた
いだろうが﹂
﹁申し訳ない⋮⋮﹂
真っ青な顔でアラエルは担がれる。五月の花嫁が広場の真ん中で
嘔吐しては色々と台無しである。それでなくても泥酔は犯罪なのだ。
ここが教皇領レノスなら翌日にはアラエルは鉄かごに放り込まれて
一日中晒し刑である。かなり笑えない。ここが宗教問題や道義的問
題に緩い商業都市でよかったと本気でエーリヒは感謝しつつ、近場
の宿に急いだ。嘗て住んでいたアルフォンソの領地は当然のように
アルヴェリア軍に焼き払われている。傭兵隊も大量解雇を行い、今
やその数は騎歩併せて五百ほどだ。得るもののない戦いに勝っただ
けのバイステリには数千の傭兵を雇用する力がない。
﹁これからは復興か。俺も何か手伝えることがあればいいんだが⋮
⋮﹂
エーリヒは常備傭兵隊、即ち白衣団の一員であり、解雇の心配は
ない。だが数ヶ月アラエルと過ごし、困難な防衛戦を戦ったエーリ
ヒにはバイステリに対する愛着が生まれていた。戦うことしか知ら
ないまま生きてきたエーリヒだが、この街で一生を終えるのも悪く
585
ないと思うようになっていたのである。
﹁そういやこいつは代書人にヴァイオリン、仕出し女とまぁ、色々
とやっているのな。それに比べて俺ときたら剣を振り回すしか能が
ないか﹂
アラエルも必死で居場所を確保しようとしている。街で過ごすこ
とを思えば、エーリヒよりもアラエルの方が今やよっぽど有能だ。
騎士として戦場で剣を奮う。それこそが至高の価値観だと信じて疑
いと
わなかった過去をエーリヒは笑った。そんな輩ばかりだから戦争は
絶えないのだろう。アラエルのように防衛戦ですら厭う者が大多数
なら、とっくに世界は平和だ、と。
﹁俺も何れは剣を置くか⋮⋮﹂
無限に戦い続けられるわけではない。やがては戦士としてではな
く市民として街に溶け込まなければならない。そのために必要なの
は、アラエルのように手に職をつけることだ。背中で寝息をたてる
アラエルを見て、エーリヒは密かに騎士としての野心を捨てた。大
して心が痛まなかったのは、実はずっと前にもう捨てていたからな
のだろうとエーリヒは思う。平凡ないち市民として家庭を持つ。そ
の歴史にも残らないような未来像が今のエーリヒには心地よかった。
﹁お⋮⋮? なんだありゃ﹂
宿までもう少し、というところでエーリヒは辻に人だかりが出来
ているのに気付く。五月祭の最中とはいえ、中央広場から外れた場
所に人だかりができているのは妙だった。耳をすませてみると、ヴ
ァイオリンの音が二つ交代で響いており、片方の演奏が終わる度に
群衆からやんやの喝采が上がった。
586
﹁バイステリのヴァイオリン弾きはとんだへぼだな!﹂
一段高い壇上にのぼった男がヴァイオリンを片手に高らかに言い
放つ。相対するヴァイオリニストにエーリヒは見覚えがあった。バ
イステリ楽団のコンサートマスターだ。その表情は屈辱に歪んでい
る。
﹁文化先進国を自称してはいるが、こと音楽に関しては、ヴィエナ
でも十本の指に入ると言われた俺に勝てない。これが現実だ。悔し
かったらついてきてみろ!﹂
言うや否、ヴィエナからやってきたらしいそのヴァイオリニスト
はヴァイオリンを掻き鳴らす。バイステリのヴァイオリニストも追
随するが、男の早弾きについていけず、やがて演奏をやめてしまっ
た。
﹁音比べか﹂
エーリヒはその様を見てようやく得心した。音楽家というのは職
人と同じで、しばしば廻国修行を行う。いく先々で技能を磨いてこ
そ一人前の音楽家とされるのだ。そうして修行の旅に出た音楽家は
路銀を集め、名前を売るためにしばしば現地の音楽家に喧嘩を売る。
無論のこと音楽でだ。こうした音比べを通じて技量の交流が国家を
カ
越えて行われ、音楽家独自のネットワークが築かれるのである。ヴ
ストラート
ァイオリン対チェロ、ドラム対フルート、変わったところでは去勢
男性ソプラノ対トランペットなど、この手の対決はあちこちで見か
ける。
﹁流石に音楽の都を自称するだけの事はあるな。すげぇ技量だ﹂
587
ヴィエナ出身の男は勝敗が明らかになっても構わず早弾きを続け、
聴衆を魅了する。古くから芸術の庇護者を自認し、殊に音楽には力
を入れてきたファルケンブルクのお膝元たるヴィエナの技量はやは
りバイステリを上回っていた。とはいえ得意気な男の顔を見ている
と、エーリヒはなんとなく苛立った。バイステリに愛着を覚え始め
ているのだ。音比べとはいえ負けて気持ちがいいわけがない。と、
その時アラエルが目を覚ました。
﹁なんだこの雑な演奏は。自分に酔っている臭いがぷんぷんするぞ。
余りの不快さに叩き起こされたわ﹂
目はうろんで顔は赤い。依然酔っている。だが言葉は鋭かった。
﹁雑ったってお前、これだけの早弾きができるのはそうはいないぜ。
現にうちのコンマスはついていけなかった﹂
﹁早いだけで女が喜ぶか。早いだけならお前にもできる﹂
エーリヒは絶句した。そうして絶句している間にアラエルは背中
から降りる。その目は座っていた。
﹁技巧なぞどうでもいい。要は心だ。今それを教えてやる﹂
アラエルは言いつつ宿に入り、やがてヴァイオリンを片手に戻っ
てきた。
3
588
ヴィエナ出身の男が喝采を浴びているところにアラエルはゆっく
りとやってきた。当然手にはヴァイオリンが握られている。しかし
足取りは不確かだ。酔っている。
﹁随分とヴァイオリンに自信があるようですが、次は私と一戦お願
いできますか?﹂
女ヴァイオリニストは珍しい。いないわけではないが、そういっ
た舞台に立つのはやはり男の仕事と考えられているのだ。男尊女卑
の考えは根強い。従って不意に現れたアラエルに対する男の反応は
侮りであった。
﹁はん、女ごときが偉そうな口を⋮⋮﹂
﹁おお、傭兵隊の姫だ! エーリヒ卿もいるぞ!﹂
だが群衆の注意は完全にアラエルを向く。彼女は街の有名人なの
だ。まして今は五月の花嫁である。神がかった力を持つと思われて
いるのだろう。やんやの歓声が彼女に向かい、上機嫌のアラエルは
手を振り優雅に足を進めてそれに応える。朱のさす頬が魅力を引き
立てたか、それとも眠たげな瞳に色気を感じたか、男どころか女ま
で彼女から目を離さない。実際には酔っぱらっているだけだが、そ
んなことを知るのはエーリヒ一人だ。そしてそのエーリヒは諦めて
成り行き見守っていた。
﹁ちっ、ふざけやがって。ならこいつについてこれるか?﹂
589
言うや否、男はヴァイオリンを激しく掻き鳴らし、速度を上げて
いく。先程よりも早い。のみならず随所に技巧を凝らし、聴衆から
喝采を得られるように工夫した。だが、
﹁早いだけ、技巧だけというのは関心しませんね﹂
アラエルは完全に追随した。どころかその音量は男を完全に圧倒
している。聴衆から喝采が上がった。当人達は知らなかったが、二
アフェットゥオーゾ
グラツィア
人の間には数百年に及ぶ技巧的蓄積の差があったのだ。
カンタービレ
﹁歌うように、愛情をもって、優雅に。それぞれ意味があって付け
られています。それを無視して自分の思うままに弾いたところで、
独りよがりにすぎません﹂
男の演奏が滞り始めた辺りでアラエルは一転して攻勢に出る。そ
の表情は悪戯な形を作っていた。
﹁では、女郎蜘蛛の音楽をとくとご覧あれ﹂
危機感を覚えたらしい男は待て、と叫んだが群衆の声の方が大き
い。弓を一振りすると、アラエルはくるりと一つ回転してヴァイオ
リンを構え直す。銀髪がふわりと舞い、スカートが風を受けてふく
らんだ。
タランテラ
﹁毒蜘蛛の踊り﹂
そこからは独壇場だった。毒蜘蛛に刺された者は毒を抜くため、
狂ったように踊り続けなければならないという俗信を元にした音楽
は苛烈にして壮麗。緩急つけたリズムに突如狂ったように高らかに
響く音、聴衆の心うつヴィブラートと、技巧合戦の場だった辻は一
590
気に音楽会にその性質を変えた。ヴィエナ出身の男は全くついてこ
れずアラエルの演奏を前に弱々しい音を奏でるのみで、やがて彼が
ブラーヴァ
ブラビーッシモ
無茶な弓遣いをして弦を切ったとき、勝敗はついた。
ブラーヴァ
﹁お見事、お見事! 素晴らしい!﹂
バイステリに見事な戦勝をもたらしたアラエルに拍手が送られる。
当人はしゃっくりをしながらうろんげな目でそれに応えた。ご満悦
である。その目がエーリヒを捉えた時、あざといぐらいに色気を乗
せてアラエルは片目をつぶってみせた。視線の先でエーリヒがよろ
めいたのを見るとアラエルは満足そうに微笑む。
優しい春風が吹き抜ける。今や誰もが戦争を忘れていた。
4
ドゥーチェ
表で行われる五月祭を尻目に、バイステリの文武の代表である筆
頭書記長マキリと傭兵隊長アルフォンソ。それに統領ロレンソの三
人は丸いテーブルを囲んで意見を交換していた。議題は多岐に渡る。
即ち戦後復興、戦死した傭兵への補償金、商業問題、そして崩れた
戦力均衡と、他国への侵攻案である。
﹁まず誤解のないように言っておきますが、私は都市の復興と発展
を全面的に支持する者であり、あなた方の敵ではないと言うことで
す﹂
591
開口一番にアルフォンソはそう言った。防衛戦における獅子奮迅
の活躍は都市からの信頼を獲得するのに十分であり、マキリもロレ
ンソもわかっている、というように首を縦に振った。
﹁その上で申し上げます。市の財務状況が悪いのは承知しています
が、戦死した兵にも是非金を出して欲しい。彼らにも遺族がいます。
この街の傭兵隊が大陸最強のアルヴェリアと五分以上に戦えたのは、
給料が遅配なく分配された事が大きい。その上で死後も勇戦を評価
されるとあれば妙な話ですが彼らも安心して死ねます。騎士と異な
り、傭兵は名誉ではなくずばり金を欲するのです﹂
動員に用いた多額の資金、アセリアに払った巨額の同盟料、バイ
ステリの財政は火の車だが、そこを曲げてでもとアルフォンソは要
請する。都市側としても彼らの勇戦をむげにはできなかった。
﹁契約通りアルフォンソ隊長以下、残った傭兵隊は給料半減で我慢
してもらうよ。それで幾らかは余裕が出るだろう?﹂
ロレンソが問うと、マキリは苦い顔で頷いた。
﹁功のあった傭兵への一時金など他にもありますが⋮⋮まずは功労
賞などで誤魔化しましょう。補償金を優先します。それから簡素な
ものでも慰霊碑を建てましょう﹂
アルフォンソが結構です。と黙礼する。それでこの問題は片付い
た。これは最も解決が容易だったのだ。だが、次はそうはいかなか
った。
﹁次は私の方から⋮⋮復興ですが、城壁周辺の被害は甚大です。侵
入こそ水際で止めましたが、砲撃に備えてあの辺り一帯の家屋を自
592
発的に取り壊しましたから。それに何より城壁です﹂
マキリはアルフォンソに向け、批判する意図はないと目で告げた。
アルフォンソは頷いてそれに応える。
﹁東側城壁が完全に崩落し、北城壁もかなりの損害を負っています。
防衛に支障が出るのみならず、この無惨な状態は市民の市への不信
に転化したり、流通に問題を生じさせる可能性が大です。⋮⋮それ
に、大砲に対してあの城壁は半ば役に立たないことが証明されまし
た﹂
アルフォンソが手を挙げ、話を引き継いだ。
﹁我々としてもあの城壁の修理、いえ、再建造は最優先でお願いし
たい。それもできればヴィエナを参考にして。技師には幾つか伝も
ありますが⋮⋮﹂
とはいえ城壁の建造には莫大な費用を要する。それも最新式のも
のとなれば従来の壁など及びもつかないほどの費用が。ロレンソは
暫く考えた後、苦々しく口を開いた。
﹁増税で乗りきるしかない。崩れた城壁は幸いその必要性を雄弁に
語ってくれるだろう。アルフォンソ隊長は済まないが、嫌われてく
れ﹂
重い負担がのし掛かれば戦争の英雄などすぐに忘れられる。あい
つが城壁を吹き飛ばしたから、そのような話も出てくるだろう。ア
ルフォンソは事も無げに頷いた。
﹁嫌われるのは慣れています。早速設計技師を呼びにやりましょう。
593
⋮⋮それと、次の議題に関係しますが、ここのところアセリア人を
街中でよく見かけます。私は剣を奮うしか能がありませんが、これ
はやはり?﹂
水を向けられたマキリが首肯する。
﹁お察しの通り、現在街はアセリア商人からの経済的浸透を受けて
います。先の同盟料は実はまだ街にあり、それを高利で貸し付けて
この街で商売をするよう、皇帝は推奨しています。ギルドから苦情
が来ているのですが相手が相手だけに手を出しづらく、対応に苦慮
しています﹂
侵略は武力によってのみ行われるのではない。経済でも行える。
アセリア商人なしに街が回らないほどに浸透し、バイステリ商人を
駆逐してしまえば、事実上は制圧完了だ。
﹁圧迫された商人から、軍備増強して北部エルヴン一帯を占領すべ
きと言う案まで出ています。独占的販路を作り上げたいのでしょう
が、厄介な事に、これが市民の支持を受けている﹂
﹁軍拡に侵略かい? そんな話が支持を受けるとはにわかに信じが
たいね。同盟諸都市への裏切りじゃないか﹂
ロレンソが目を丸くする。だがマキリは頭を振った。
﹁事実です。先の戦でアルヴェリアの力を知った市民達は領域型国
家を目指すべきだと考えているのです﹂
バイステリは都市国家だ。だが、都市国家ではいくら街が発展し
ていても実力は伴わない。大国に対抗するにはこちらも広範な領土
594
を持つ領域型国家にならなければならない。
﹁傭兵隊としてはごめん被りたい話です。市の防衛も覚束ないのに
北部エルヴン全体を面倒など見れません。このような話が出ている
ことそのものが同盟諸都市に不安を感じさせる。可能なら弾圧すべ
きです﹂
アルフォンソがそう言った事でマキリはほっとため息を漏らす。
軍事の代表者たるアルフォンソがこれであ、どんなに声が強くなっ
ても絵に描いた餅だろう。
﹁やることは多いが、恐らく暫くは状況も動かない。各人はそれぞ
れの職責を全うするのに全力を挙げてくれ﹂
言われて文武の両官は立ち上がって一礼する。主力にアルヴェリ
アは打撃を受けており、守勢に回らざるを得ない。三年は無事だろ
うと彼らは思っていた。
しかし冷徹なアルフォンソや聡明なマキリですらこの時楽観論に
支配されていたのだ。あれほどの激戦を勝ち抜いたのだから、少し
は猶予が与えられるはずと。やがて彼らはその代償を払うことにな
る。
595
アデルバードへ︵前書き︶
今回はエーリヒ格好悪いけど、見捨てないでくださいね。
596
アデルバードへ
戦争が終わった。何処へ行こう?
戦争で稼ぐ傭兵達は戦争終了と共に解雇される。多数の兵を常時
抱える事など、よほど実力のある君侯でなければ難しい。彼らは必
要に応じて雇用され、不要となれば切り捨てられる。その後彼らが
どこでどう過ごすのかなど、雇う側は知ったことではない。さて、
彼らは何処へ行くのか。故郷に帰り静かに暮らすのか?
否である。次の戦場を探し、そしてまた次の戦場を探すのだ。元
々故郷に身の置き場がないから傭兵に身を落としたのだ。ただでえ
さえ厄介者の彼らが戦場経験を積み、殺し殺される世界で過ごせば
故郷は強く彼らを拒絶する。そして気付くのだ。もう軍隊以外に生
きる場所などないと。こうして日々戦場で無惨な屍を晒す傭兵が絶
えないにも関わらず、傭兵の数は一向に減らない。こうした傭兵達
はしばしば野盗化し、山賊化してそれ自体が社会の不安要素となり
果てる。そうでなくとも戦争を望む君侯達に多大な戦力を提供し、
戦場を悲惨なものとするのだ。
解雇された傭兵こそは、戦後復興の最大の妨げであった。
1
597
アルヴェリア撤退後のバイステリには幾つもの解決すべき問題が
あったが、中でも優先されるべきは勢力均衡の問題である。
五つの国によって均衡状態が成り、互いに牽制し合うことによっ
てそれまでのエルヴンは維持されていたが、突然の乱入者によりそ
の均衡は脆くも崩れる。北部でアデルバード、中部でフィエンツァ
が消滅したのだ。アルヴェリア撤退後、両国はその地位を回復した
ものの、主力たる軍を失い一敗地にまみれたとあっては戦力と威信
の低下は著しく、最早両国にエルヴンの雄を名乗る力はなかった。
中部エルヴンのフィエンツァには教皇領レノスの手が伸びる中、
北部エルヴンのアデルバード王国をどうすべきか。バイステリ内部
の意見は二つに分かれていた。そんな中である。エーリヒらにアデ
ルバードへの隊商護衛の任が下ったのは。
﹁隊商と、親善使節の護衛ね⋮⋮﹂
五月祭の余韻も冷めない頃、バイステリ常備傭兵隊である白衣団
は各地への隊商護衛を再開していた。それぞれに振り分けられる要
員の数や、臨時に募集される傭兵の数は戦前よりも多い。エルヴン
全土で解雇された傭兵による野盗山賊行為が問題になる前に先手を
打つ必要があるのだ。戦争で物流が一時的に阻害されたことはバイ
ステリにとって大きな痛手であり、多少の無茶はしてでも早急な流
通路の復活が望まれたのである。しかしエーリヒが向かうアデルバ
ード王国とはこれまで大した取引がなく、まして隊商護衛など前例
がなかった。
﹁嘗ての敵国に軍を率いて堂々進行とはな﹂
アデルバード王国の成立経緯はやや複雑である。元はエルヴン北
598
部の雑多な土豪の集合体であったものが、二百年ほど前にアルヴェ
リアの侵略を受けてフルールドゥリス家の王を戴いたのだ。ところ
が宗主国であるアルヴェリアが国内の不和やアセリアとの戦争で忙
殺されている間にアデルバード内の土豪達が巻き返しに成功し、エ
ルヴン系の王朝として再出発したのが現在の姿である。
アルヴェリア系の王朝であった頃のアデルバードは北部エルヴン
一帯を支配する一大勢力であったが、フルールドゥリス家追放に伴
う内乱に乗じる形でバイステリを始めとする北東部の諸都市が一斉
に反旗を翻し独立。以後、北部エルヴンの支配権を巡って両者は対
立を深めていた。先のアルヴェリア侵攻においてアデルバードがバ
イステリに救援を求めず、バイステリも救援を行う意思を一切見せ
なかったのにはそのような事情がある。
しかし状況は変わった。アデルバードは主力たる封建騎士軍を完
膚なきまでに粉砕され、エルヴン列強の座から脱落した。最早バイ
ステリと競う力のないアデルバードはバイステリと結び付きを強め
ようとしていた。
﹁参事会ではこの際アデルバードを軍事的に占領すべきという意見
ドゥーチェ
も出ていますが、非現実的です。それよりも経済的に浸透してお得
意様になってもらうのがいいというのが統領を始めとした重鎮達の
意見ですね。そのための第一歩として、エーリヒ卿にはバイステリ
から首都アーデルバーディアまでの街道が安全であることを証明し
て頂きます。この件は先方も承知済みなので問題ありません。﹂
これまで政治的事情から交流が活発でなかった国との間に交流が
生まれれば、莫大な資金と物が動く。特に新参の商人にとっては多
少の危険を冒してでも踏み込みたいだろう。だが、大きな戦争の後
ということもあって野盗や山賊の危険は既存の街道の比ではない。
599
隊商護衛による安全確保は必須であった。当然、一度や二度では終
わらない。幾度も行き来し、同時に山賊や野盗を根絶することで隊
商を組まない単独の行商人が馬車を走らせる事が可能になるまで続
けるのだ。
﹁臨時に百人、傭兵隊から六十人。支援要員が荷物運びや仕出し女
を合わせて百二十と、隊商二百四十。それに使節団が十人か。大所
帯だな﹂
エーリヒは手渡されたリストを片手に頭を掻く。隊商護衛は初め
てではないし、アセリア行きの際には要人護衛もやった。とはいえ
前者はアルフォンソ指揮下のいち騎士であり、後者は護衛対象が少
なく、道中の安全も確保されていた。危険性の高い街道を、多数の
護衛対象を抱えた隊を指揮して進むのとでは難易度に大きな違いが
ある。
﹁解雇された傭兵達の多くはアルビを越えてアセリアに向かってい
ます。とはいえこの辺りで野盗化したのもいるでしょうから、油断
のないように。まぁ、言われるまでもないでしょうが﹂
いつも通り柔和な笑みを浮かべるアルフォンソだが、託された役
割は重大である。半島全体の治安が悪化しつつある今、バイステリ
の力が健在であることを内外に示さなければ、外からはつけこまれ
る隙を与え、内部においては商業活動の低調を招き、商業で成り立
つバイステリは餓死するだろう。任務の意味を理解するエーリヒは
重々しく頷くが、アルフォンソは不意にくすりと笑う。
﹁そう構えずに。これはエーリヒ卿のための練習という側面も含ん
でいます。今後騎兵隊長として独立行動をすることもあるでしょう
から、一人で行動のできる騎兵戦に通じた将校が必要なのですよ。
600
ガウィーンをつけます。行軍の指揮については彼から教わってくだ
さい﹂
ひよこ扱いか、とエーリヒはやや顔をしかめるが、行軍の指揮に
不安があるのも事実だ。頬に傷のある中年の副官ガウィーンはアル
フォンソの下で長らく経験を積んでいる。言ってしまえばエーリヒ
より経験豊富で優秀な指揮官だろう。行軍指揮の負担が大幅に軽減
されてややエーリヒは安堵する。
﹁正直なところ将校格の育成を怠けすぎましたからね。一人でも多
く、単独で動けるだけの指揮官が欲しいのです。⋮⋮どうも思った
より余裕がなさそうなのですよ﹂
そう言うアルフォンソの目は眼前のエーリヒではなく、どこか遠
くを見ているようにエーリヒには見えた。
2
キャラバン
隊商が街を出る。その左右を傭兵隊が護衛し、後ろから仕出し女
と荷馬車が続いた。
﹁これはなんとも長大な列だな。守りきれるのか?﹂
騾馬に跨がって背後を見やったアラエルは隊の後方から遥か彼方
まで街道を埋め尽くす車列に呆れ返る。隊商護衛に参加した経験を
持つ彼女をして驚くような数の馬車が物資を満載していたのだ。守
601
りきれる気がしない。何せ隊商だけで傭兵隊の数を上回る。責任者
であるエーリヒも苦々しげな顔をした。
﹁遠隔地商売は儲かるからな。護衛にも金がかかる。一度になるた
け輸送しようって腹だろ﹂
商人は大きく分けて二種類に分類される。即ち、地域で売買を繰
り返す小売業か、彼方まで足を伸ばして売買を行う遠隔地商業であ
る。
小売業は自らの都市の勢力圏において小麦や日用雑貨などを扱う。
盗賊などの危険性は少なく、資本金もさして必要としないため手堅
く商売を行うことが可能で、大体の商人はこちらだ。
対して遠隔地商業とはその名の通り、地域の壁を越えた遠方の街
と取引をする商売だ。こちらの街と彼方の街の特産品の値段の差で
以て稼ぐこの方法は、しばしば莫大な利益を商人にもたらす。例え
ばバイステリの衣服や装飾品はアルヴェリアでは原価の五倍から十
倍、或いは二十倍で売れる。農作物のように嵩張らない上に単価の
高い加工製品を扱うバイステリの本領はここにあった。帰り道も当
然手ぶらでは帰らない。地元の製品を買い漁ってバイステリで高値
で売るのだ。バイステリの市政にはこういった遠隔地商業で儲けた
大商人が大きく関わっている。
だがリスクはつきものである。野盗、山賊、傭兵隊に強盗騎士団。
狼もいれば戦争もある。積み荷どころか命の心配をしなければなら
ないのが遠隔地商業だ。それゆえに彼らは市政を動かし、街道の安
全を確保するよう働きかける。しかし傭兵にも金がかかるのは当然
で、商売に一切関係しない彼らをなるべく削減したいと思うのは商
人として当然である。
602
結果、現場の指揮官であるエーリヒに過大な負担が押し付けられ
た。
﹁目を光らせるようにはするが、こうも数が多いと不心得者が紛れ
込んでいてもおかしくはない。お前も気を付けとけよ﹂
危険は外ばかりではない。金や高額な商品を満載した馬車は内部
の者にとっても魅力的なのだ。泥棒や強盗の危険も当然ある。アラ
エルは軽く頷く。
﹁ところでどんな物が積み込まれていたんだ?﹂
部隊編成を行っていたエーリヒは交易品を見ていない。アラエル
は市場のざわめきを思いだした。
﹁ちらと見たが、流石に見事な品々だったな。手鏡、宝石、硝子細
工か。見ているだけで何やら豊かな気分になったぞ﹂
何れも貴重品で、特に鏡は作成に手間隙がかかる。何の気なしに
感想を言うアラエルだが、エーリヒはにやりと笑う。
しゃし
﹁興味を引いたのは奢侈品ばかりか。なるほどなるほど。まぁ帰還
するまでは待ってくれ。最近は資金に余裕もできた﹂
失策に気付いたアラエルは思わず口許を押さえる。そしてどうや
ら嵌められた事を理解した。
﹁⋮⋮最近は小賢しくなったな。だが、別に変な気を回さなくとも
構わないぞ。洒落た格好も見事な宝石も、分不相応だろう﹂
603
そういうアラエルの頭を軽く撫でてエーリヒは快活に笑った。
﹁俺が贈りたいんだよ。まぁ帰ったら楽しみにしておけ。色々驚か
せてやるから﹂
なんだそれは。そう言おうとしたところでエーリヒは馬を飛ばし
て列の中に入り込む。指揮に向かったのだろう。アラエルは不満げ
に口を尖らせた。
へたれ
﹁お前から欲しいものなど、最早一つしかないぞ。この意気地無し。
機会を伺っているのか知らんが⋮⋮﹂
天を仰ぎつつ、アラエルはため息をつく。
ロマンチスト
﹁雰囲気だの、状況だのに拘るとは、案外、前時代的なのだな﹂
3
この規模の隊商が泊まれるほどの宿を村落で確保するのは難しい。
必然的に夜は野営となる。当然、襲撃を警戒して柵なども設けるが、
まだまだバイステリの勢力圏にあり、安全は半ば確保されている。
問題は主力を失い、国内治安に問題を抱えたアデルバードである。
この規模の隊商に仕掛ける単独の野盗などいないが、仕掛ける方も
徒党を組む。強盗騎士団による襲撃はまだ記憶に新しかった。
604
﹁この規模の隊ならば先頭と最後尾の距離はまだ大した問題には成
りませんが、千人を越えればそうもいきません。先頭は後方のペー
スを考えて野営の準備を早めにしなければなりません﹂
経験豊富なガウィーンが野営の指揮を執るエーリヒを補佐しつつ、
隊商護衛ではない行軍についても教育を施す。
﹁実際の戦争でも、行軍の際には兵と同数、或いは二倍の後方要員
を連れていくことは珍しくありません。数万の軍ともなれば地平線
の彼方まで車列が伸びます。ところがこの規模の軍は必然的に動き
が鈍くなり、食糧の確保も困難です。ゆえに運用可能な軍勢の上限
は二万程度、と言われていますね﹂
﹁数百率いて息も絶え絶えだってのに、そんなに率いる心配できる
かよ﹂
エーリヒは疲労困憊である。隊商の内部には今や当初の人員だけ
ではなく、多数の旅人達が混じっているのだ。街道を行けば行くほ
どその数は増えるだろう。治安が悪化しつつある半島である。まと
もな軍隊の庇護下で旅をしたいと思う旅人は多いし、それを無下に
するわけにもいかない。だがそうして受け入れていれば盗難の危険
も増える。当初こそアラエルと会話を楽しんでいたエーリヒだが、
やがてそれどころではなくなって忙しく隊列を行き来するようにな
った。実際に盗難の現場を押さえ、制圧もしている。
﹁もっと部下を活用すべきですね。些事にかまけていては大規模な
軍を率いることはできませんよ﹂
若い指揮官は何事も自分でやろうとして、結局失敗する。小部隊
605
ならそれでも目は行き届くが、大部隊を率いることは絶対にできな
い。ガウィーンはその意を込めて忠告するが、エーリヒはうんざり
したというように首を振る。
﹁大規模な軍、ね⋮⋮﹂
微妙な表情を浮かべたエーリヒを見てガウィーンは顔をしかめた。
覇気のなさを感じ取ったのである。常備傭兵隊は雇用と給料が保証
されているが、反面そこに安住してしまう人間もいる。しかしいち
兵卒ならともかく期待をかけた指揮官がそれでは溜まったものでは
ないのだ。
﹁⋮⋮失礼ですが戦争を経て腑抜けられましたか? これから先、
一人でも優秀な指揮官が欲しいと言うときにそれでは困ります。剣
を置くには貴方はまだ若すぎるはずだ﹂
騎士に向けて腑抜け、とは斬られても文句を言えないほどの暴言
だ。だが、エーリヒはその様子を見せない。ガウィーンは憤然と下
がった。一人残されたエーリヒは夜空を見る。
﹁実際、腑抜けたんだろうなぁ⋮⋮﹂
野心に蓋をして、家庭を築き街に埋没する。そう決めた時から、
自分のうちより荒々しさが抜け落ちた気がエーリヒはしていた。騎
馬突撃の爽快さ、人と戦い打ち勝つ達成感。それよりも美しい恋人
と築く家庭に価値観を感じてしまったのだ。この辺が俺の﹃分﹄か。
女一人で野心を諦めるなんて最低だと思いつつも、そう悪くはない
のではないかとエーリヒは思った。
空には月が昇っている。月に手が届かないと泣くのは大人のする
606
ことではないと思いつつ、エーリヒは洗濯をするアラエルに無性に
会いたくなった。
607
追いかけてくる過去︵前書き︶
こっそり再開します。腕が鈍っていないかな。
いえ元々たいしたレベルじゃないのですが。
608
追いかけてくる過去
1
警戒が杞憂のように、アーデルバーディアへと一行はあっさりと
たどり着いた。道中に野盗化した傭兵がいないでもないのだろうが、
この規模の隊商に仕掛ける規模のものではないらしく、二、三の盗
難騒ぎを除けば平穏無事に往きの護衛は終了する。アーデルバーデ
ィアの大きく口を開いた城門が一行を招き入れた。野戦で敗退した
アデルバードの街は決死の防衛戦を戦ったバイステリと異なり、皮
肉にも無傷を保っている。質実剛健な中にも壮麗さを感じさせるデ
ザインの町並みがアラエルの視界いっぱいに広がった。
アルヴェリア軍を撃退したバイステリ傭兵隊の名は今や広く知れ
渡っているのだろう。ことに、敵将ル・ランと一騎討ちを演じたエ
ーリヒの名声は若干の誇張混じりで伝わっているらしく、すれ違う
旅人や隊商、街や村の人々、特に婦人たちから歓声が上がった。そ
の都度傍らを行くアラエルはエーリヒの手をつねり、エーリヒに英
雄らしからぬ情けない表情を作らせた。
﹁アデルバードは王国らしいな。つまり貴婦人も不足はないと言う
ことだ。よかったな。きっと歓待されるぞ﹂
﹁いや、べつにそんなの興味ねぇって。護衛だけしたらまた帰るだ
けだよ﹂
﹁満更でもないくせによく言う。お前も出自定かならぬ娘よりは貴
609
種のほうがよかろう。かくして私は捨てられると言うわけだ。なん
と不実な事だ。我が身が哀れになる﹂
﹁そんなつもりはないって言ってるだろ。勘弁してくれ⋮⋮﹂
アーデルバーディアの城門を潜りつつ、アラエルは非難がましい
目でエーリヒを見つめる。舌戦の勝敗は誰の目にも明らかで、バイ
ステリの英雄は助けを求めて周囲を見渡す始末だ。
実のところアラエルもエーリヒにそんなつもりが微塵もないこと
は理解しているのだが、若い娘に黄色い声援を投げ掛けられてやや
頬を緩めているのを目撃したのも事実である。騎士だ戦士だと言っ
たところで、エーリヒは女など剣の邪魔と言うような武骨な求道者
ではなく、やや強いだけの男だ。騎士道で自らを律しても、やはり
讃えられれば悪い気はしないのだろう。しかし自分でも理不尽と思
いつつ、アラエルは不機嫌にならざるを得ない。
﹁あー⋮⋮俺にはお前しかいないんだから。機嫌を⋮⋮﹂
エーリヒが頭を撫でようと手を伸ばす。予想していたアラエルは
巧みに手綱を操って距離をとった。太い腕が虚しく空を切り、馬上
のエーリヒはぽかんと間抜け面を浮かべた。
﹁誤魔化し方が、不味い﹂
騾馬に跨がりつつぴしりとそう指摘すると、エーリヒは泣きそう
な表情になった。僅かにアラエルは溜飲を下げる。
﹁頭を撫でたり、微笑むだけで機嫌を直すほど安い女になったつも
りはないぞ。猛省しろ﹂
610
馬脚を僅かに上げ、手酷くやられて沈むエーリヒを背後にしつつ、
アラエルはそろそろ許してやるべきか、と理不尽を承知で散々に非
難した自分の事を棚の上に上げて微笑んだ。
城門を潜れば中央道が彼女を迎え、その先には王城が見える。目
的地はもうすぐだった。
2
使節が王城へ、商人が市場へ向かえば、アラエルら仕出し女は宿
泊の支度である。アーデルバーディアは人口三万を数える大都市で
あり、崩壊したとはいえそれなり以上の軍を保有している事から城
内への傭兵隊立ち入りも許可された。無論、武器は預けられている
が同時にそれは城内の治安には期待できることを示している。一行
はそれぞれ分かれて酒場と兼業の宿屋で部屋を幾つか借り、暖かい
毛布と屋根つきの寝床で寝られる事を喜んだ。日はまだ沈む様子が
ない。泊まり支度を一通り終えたアラエルは二階の窓から通りを見
下ろす。護衛隊長のエーリヒは使節に同行したまま帰ってきていな
い。暇を潰すのに買い物も悪くはないか。そう思ったところで、こ
ちらを見上げる男と目があった。
﹁こんにちは。こちらにエーリヒ卿はおられるでしょうか?﹂
年の頃は恐らく二十代半ばから後半、波打つ白髪に不健康そうな
青白い相貌はまるで幽霊のようだが、肩幅は広く、がっしりとした
体格は鍛え上げられた肉体を衣服の上からでも想像させる。武装こ
611
そしていないが自然なままに油断ない所作は男が鉄火場慣れしてい
る事を思わせた。傭兵か、と自らも大勢の傭兵を見てきたアラエル
は当たりをつける。
﹁高いところから失礼します。エーリヒの宿はここですが、今は使
節に同行しているため、帰ってくるのは少し後になると思います。
何か伝言があれば承りますが?﹂
傭兵をやっていてそれなりに長いエーリヒにはアラエルが知らな
いネットワークがある。恐らくは知り合いだろうと思ったアラエル
は当たり障りのないように対応する。問われた男は少し考えてから、
再びアラエルに声をかけた。
﹁待たせて頂いても宜しいですか? 五件目にしてやっと当たりを
引いたのですよ。﹂
軽い憐れみを誘うような表情でそう尋ねられれば、断る理由はア
ラエルにない。油断ならない時世ではあるが、階下には他の傭兵も
いるし、何かあれば逃げ出す自信もある。どうぞ、とアラエルは男
を促した。
*
アラエルが階下に来たとき、男は丁度入り口を潜ったところだっ
た。足取りはしっかりしており、寧ろ歩きながらも身体の上下が少
なく、いつ何があろうと即座に行動できるような訓練を受けた事を
思わせる。エーリヒ同様、正規の訓練を受けた使い手だろう、とア
ラエルは推察し、
612
︵剣は持っていないか︶
素早くその身に刀剣の類を隠し持っていないかを軽く確かめる。
短剣の類ならば別だが、長剣は目立ち、隠し持っても注意すればす
ぐにそれとわかる。それでアラエルは警戒を緩め、改めて目の前の
男が傭兵であろうと確信する。
アーデルバーディアほどの都市となれば、外来者は城門に入った
ところで武装を解除される。市内で武器を持つことが許されるのは
市中警備の衛兵か、街の正規軍しかない。市中で隠れて武装し、事
を起こしたならばただでは済まないのはバイステリもアーデルバー
ディアも変わらない。
とはいえ抜け道はいくらでもある。商業を重視するエルヴンの諸
都市で、荷馬車を一々改めていては話にならない。リストを信用し
て十把一絡げで通し、出入りを円滑にするのが例である。そうした
馬車の中に剣を忍び込ませれば、いとも簡単に市内に武器を持ち込
める。実際、バイステリでも刀剣を隠し持っている市民は少なくな
いし、市もそれを黙認している。自衛権は大陸全土において、人間
が生まれ持った当然の権利としてみなされており、剣はその象徴な
のである。弩や槍といった危険度の高いものは流石に厳格に統制さ
れているが、剣は珍しくもない。ゆえに安全な市内とはいえ、警戒
は当然である。ましてここはバイステリではないのだから。
﹁申し訳ありません。そちらもお忙しいでしょうに﹂
かぶり
観察するアラエルの視線を知ってか知らずしてか、男は軽く頭を
下げた。アラエルは慌てて頭を振る。
613
﹁丁度片付いたところで、暇をしていました。エーリヒのお知り合
いでしょうか? 直に帰ってくると思います。私は仕出し女のアラ
エルと申します。どうぞそちらへ、酒ぐらいは出しましょう﹂
せめてものもてなしと、ワインを水で薄め、ショウガと蜂蜜を入
れつつ、アラエルは男を席に促した。新酒は高い。そう出せるもの
でもない。そしてガラス瓶は高級品であり、大抵のワインは樽で保
管する。樽のワインはあっという間に酸化して味がおかしくなるた
め、誤魔化すためには色々と手が必要となる。とはいえ蜂蜜もそれ
なりに貴重だ。気遣い程度は伝わる。
﹁お気遣いなく、と言いたいところですが、今日は暑い。有難く頂
戴します。私はシャルル。ご推察のとおり、エーリヒ卿の傭兵仲間
です。この街には所要あって滞在していましたが、エーリヒ卿が来
ると聞いて、少々探していました﹂
出されたワインに口を付けつつ、シャルルは丁寧に話す。初見の
女相手にも礼儀を守ろうとする意思が感じられた。注意してみれば
ワインを口元に運ぶ動作や、座り方も通常の傭兵とは異なる。おや、
と観察するアラエルの目に気づいたシャルルは微笑を浮かべた。
﹁どうなされましたか?﹂
不躾な視線を向けてしまったと気づいたアラエルはやや慌てた。
﹁いえ、所作が違うな、と思いまして。失礼ですが、貴族の方です
か?﹂
傭兵は基本的に荒れている。当然だ。明日死ぬかも知れないのだ
から、刹那的になる者も多く、鉄火場に身を置けば人間性も荒む。
614
普段の所作にもそれは表れ、粗雑で品のない行動はアラエルも見慣
れていた。だがシャルルは品を維持している。傭兵なのは間違いな
いだろうが、傭兵生活でもその品を奪い去る事がないほどに徹底的
に仕込まれたということか、とアラエルは推察する。
﹁見事な観察眼をお持ちで。はい。一応はこれでも昔は貴族の末席
にいましたが、今は紹介したとおりの一介の傭兵ですね﹂
微笑を浮かべつつシャルルはアラエルを見る。視線からも無礼さ
をアラエルは感じなかったが、お返しに観察され返されているのか、
とアラエルは苦笑した。
﹁傭兵になった経緯は色々ありますが、半ばは自分の意思で選択し
ました。私のような貴族でも、傭兵を選ぶ人間は意外と、多いので
すよ。お金のため、生活のため、傭兵になる動機は人それぞれです
が、私の場合は、冒険のためですね﹂
﹁冒険ですか?﹂
二十代も半ばを超えているであろう男の口から出る言葉とも思え
ず、アラエルは思わず笑いかけたが、すんでのところで抑えた。と
はいえその反応はシャルルにとっては予想の範疇だったのだろう。
さして気にしてもいないようだった。
﹁そう、冒険です。何の変哲もない村に生まれ育った平民は、百人
程度の共同体からほぼ出ることなく人生を過ごし、死んでいきます。
これは実は貴族も変わりません。地方領主なら自分の領地、宮廷貴
族なら宮廷⋮⋮少しは世界が広がりますが、自分の生まれ育って世
界を超えることは、稀です。ですが﹂
615
シャルルは言葉を切り、アラエルを見つめつつ続けた。
﹁傭兵になれば、世界が開ける。剣でもって、牡蠣の殻を開けるよ
うに。私は冒険者になりたかった。貴族であるよりも﹂
旅行ひとつにしろ制限が課せられ、街道には強盗騎士団や盗賊が
跳梁跋扈する時世である。そんな中を堂々と歩き、普通の平民から
すればあり得ないほどの長距離を旅するのは、傭兵隊か遍歴の騎士
か、行商人ぐらいのものである。うち、騎士は各国で衰退するか、
さもなくば王権の統制下に置かれつつあり、冒険者としての性格を
失いつつあり、行商人は貴族の選択肢に上らない。であれば、冒険
を求める貴族の選択は傭兵隊しかなかった。
糊口を凌ぐために傭兵を志す者もいれば、戦士としての矜持のゆ
えに傭兵を志す者もいる。そしてシャルルは、スリルと冒険を求め
て傭兵を志したということなのだろう。だが、アラエルにとっては、
﹁失礼ながら、業が深いですね﹂
﹁ご尤も﹂
理屈では理解できても、感情ではいまひとつ理解できなかった。
激戦となったバイステリ攻防戦を経験したアラエルには戦場に何の
ロマンも見出せない。目の前で大勢を看取った。生き残っても何ら
かの障害を負い、二度と剣が握れなくなった者も大勢いる。彼らの
アンヴァリッド
前途は暗い。バイステリほどの大都市でも自己救済が基本である。
廃兵院を作るべきではないかという話も出ているが、予算はつくま
い。戦場とはそういうものであり、已む無く戦うならともかく、金
も地位もある者が冒険目当てにやるというのは、アラエルにはピン
と来なかった。
616
﹁多分、私のような者がいるから、戦争はなくならないのでしょう
ね。誰も彼もが分を弁え、冒険心を抑えれば戦争も起こらないので
しょうが、それはそれで人生が詰まらない。貴女も傭兵隊に付き添
って、多くの物を見たはずです。苦労もしたでしょうが、それはそ
れで楽しいものだったはずでしょう?﹂
む、とアラエルは唸る。エルナもそうだが、世界を広げてみたい。
多くの物を見たい、と思うのは極めて人間的な発想だ。シャルルも
そうなのだろう。
クルセイダー
﹁一昔前なら東方教化軍というのもあったのですが、そういうのは
もう流行りませんしね。領地を治める必要もない貴族は、貧窮して
いなくても傭兵隊に身を置くのですよ﹂
まだ自分は傭兵というものをよくわかっていなかったか、とアラ
エルは今更ながらに思った。志願理由は多種多様で、身分も多種多
様である。口ぶりや所作から、アラエルはシャルルを上流か、それ
に近い貴族であると見積もった。そんな生活に困らないような階層
からすら、敢えて危険に身を晒したいと思う者は出るのだ。
﹁失礼しました。少し語りすぎましたね。傭兵隊の、それもエーリ
ヒ卿と親しい女性ということで、興が乗りました。全くお恥ずかし
い﹂
微笑とともにそういうシャルルだが、アラエルは表情を大きく崩
した。
﹁いや、私はエーリヒとは親しいわけでは⋮⋮﹂
617
慌てて否定しにかかるアラエルだが、シャルルは微笑を崩さない。
﹁ほらまた。普通は卿、と呼びますよ。貴女は気軽に呼んでいる。
親しい証拠です﹂
初見の相手に見抜かれた事に軽く頭を抱えつつ、アラエルは今や
エーリヒが早く帰って来ないものかと視線を泳がせた。その思いが
通じたのだろうか。扉が開き、見知った顔が現れた。
﹁ようやく終わった。そっちはどうだ⋮⋮って、来客か﹂
貴族育ちのエーリヒだが、シャルルに比べると品がない。傭兵生
活の中でかつて培った作法を綺麗に洗い流したのだろう。わしわし
と頭を掻いてふけを撒き散らし、どすどすと大またに入ってくる。
その無作法さは常々アラエルが口喧しく注意するところだったが、
窮地にあっては何やら頼もしかった。
﹁遅いぞ馬鹿野朗。そう、来客だ。私は買出しに行ってくるが、く
れぐれも失礼のないようにな﹂
これ幸いとアラエルはシャルルに別れを告げた後、小声でエーリ
ヒにそう言い、そそくさと二階に向かう。バイステリに居残った女
達から頼まれた品もあった。銀貨を詰めた袋を手に取ると、アラエ
ルはシャルルの前に腰を下ろしたエーリヒの傍らをすり抜け、入り
口へと向かう。戸を開けるとき、エーリヒの声が聞こえた。
﹁あんた⋮⋮ダンジュー侯⋮⋮﹂
名前に聞き覚えがあるが、あれはいつだっただろう。そんな風に
思いつつ、アラエルは頼まれた品物を探しに市場に出て行った。 618
巡礼者
1
幽霊を見たとしてもこうは驚かなかっただろう。数万の軍に囲ま
れてすら、こうも怯えることはなかったろう。命の危機すら、目の
前の男一人から感じる恐れよりはまだましだ。
エーリヒにとって、ファーレンベルク攻囲軍司令、ダンジュー侯
シャルル・ドゥ・ラシーはそういう存在だった。
﹁お久しぶりです。エーリヒ卿。ご息災で何より﹂
エーリヒの動揺を知ってか知らずしてか、シャルルは親しげに語
りかけた。アルフォンソのような慇懃無礼さは感じられない。口調
はあくまでも柔和であり、相手を慮る意思に満ちている。表情は優
しげな微笑を形作り、所作は優雅。会話の相手としては完璧である。
宮廷の、それも上流貴族の高い教養と知性が伺えた。ただ、その瞳
の奥の奥、よほど注意して見なければわからぬ部分は、ただ虚ろで、
何者をも捉えていないように見えた。
空洞のようだ。底の見えないその闇にエーリヒは身震いする。
﹁ここには別件で参りましたが、一足遅く⋮⋮まぁ、それはそれで
興味深いものが見れましたが。結果的には無駄足となっていたので
す。ですが、丁度よくあなたが来られると言うことで、矢も盾も堪
らず、駆けつけてきた次第です。本来ならば手紙か何かを出してお
くべきところ、このように待ち伏せのような形でお会いしてしまっ
たことをお詫びします﹂
619
是非そうして欲しかった、とエーリヒは思った。そうして貰えれ
ば、なんのかんのと理由をつけて逃げることが出来たのだから。
﹁⋮⋮傭兵を、やってたんだな﹂
忘れかけていた嘗ての原罪、それをどうしても思い出してしまう
のだ。誰かが許してくれても、決して逃れられない罪の形が、エー
リヒの目の前にあった。
2
戦争末期、アルヴェリアとアセリアは国力の限界を超えて戦い、
疲れ果てていた。君主も、将兵も、終わりが近いことをどこか予感
していた。そんな中、戦争終結のきっかけとなったのが、ファーレ
ンベルク攻囲戦であった。
ファーレンベルク戦の意義は大きい。アセリア側にとって前線有
数の拠点であり、軍事物資の集結地と化していたファーレンベルク
を失った影響は大きく、以後アセリア軍は出撃するだけの体力を無
くしたことも手伝い、帝都ヴィエナを中心とした拠点防衛、決戦回
避戦略に移行。やがて事実上の敗北とも言える停戦を受け入れた。
ファーレンベルク陥落まではまだあったアセリアの勝利の目が、陥
落によって消滅したのである。以後の戦いはいわば条件闘争のため
の戦いであった。五十年戦争の掉尾を飾った戦いが、ファーレンベ
ルクの戦いなのである。
だが陥落後、暴徒と化したアルヴェリア軍による秩序なき虐殺は
620
大陸全土を震撼させた。人口三万を数えた街は僅か五百人程度を残
すのみとなり、街は事実上地図から消滅した。事件は直ちに衆目の
知るところとなり、今に至るまで両軍に大きな衝撃を与えている。
殺戮や略奪には慣れてしまったアセリア、アルヴェリアの人間にと
ってすら、異例としか言いようがないほどの惨劇だったのである。
自らの引き起こした惨劇に戸惑い、狼狽えて初動が遅れたアルヴ
ェリアに対し、最強の将軍であったフランベルク将軍の死とその傭
兵隊の反乱など、致命的な失敗を重ねていたアセリアは宣伝に躍起
になった。軍資金に余裕なく、名将も戦略拠点もない彼らに出せる
のは口だけだったのである。直ちにパンフレットが山と刷られ、虐
殺はアルヴェリアにとって消せない汚名となって付きまとう。
ファーレンベルク大虐殺は伝説となった。そしてその血塗られた
伝説の頂点に、ファーレンベルク攻囲の指揮を執ったシャルルは位
置している。虐殺者の異名と共に。
﹁そういえばエーリヒ卿はあの後、契約を更新せずに軍務から離れ
られたのですね。はい。お察しの通りあの後、宣伝戦で完敗した我
が軍、特に直接指揮を執った私の声望は地に落ちました。責任をと
ってありとあらゆる官職からラシー家は外され、領地も多くが召し
上げられました。見事な失脚です。怖いですね。最近の王権という
いえのころうとう
のは。アルヴェリア屈指の名門である我が家ですら、この様ですか
ら。妻も離縁させられましたし、家子郎党も離散しました。ラシー
家は終わりです﹂
言葉とは裏腹にシャルルの声は弾んでいる。貴族、それも伝統あ
る大貴族にとって政治的失脚や領地召し上げは死ぬより重大な恥辱
である。先祖代々受け継いだものが、自分の代で途絶える。それが
どれほどの屈辱か、傭兵騎士であるエーリヒにすら容易く理解でき
621
ることである。それをこうも軽々しく語り、柔和な笑顔まで浮かべ
て見せるシャルルは恥を知らないのか、それとも何か得体の知れな
い化け物か。直感的にエーリヒは後者だ、と判断した。
﹁⋮⋮それで、尾羽打ち枯らして傭兵ってわけか? お互い、あの
地獄を作ったものとしちゃ、似合いの末路だろ﹂
嘗ての身分差を忘れたとでもいうようにエーリヒは努めて粗暴に
振る舞い、荒々しい言動で威圧する。一秒たりともこれ以上顔を見
たくはなかった。だがシャルルはその敵意に気付いてなお、柔和な
表情と穏やかな態度を崩さない。エーリヒの知るシャルルと、目の
前のシャルルとのギャップが大きくなる。家柄だけで司令に任命さ
れた青瓢箪。それがエーリヒの知るシャルルだった。それが今は歴
戦のエーリヒの眼光にすらたじろがない。逆に瞳を見れば見るほど、
引きずりこまれそうな恐ろしさを感じる。
﹁⋮⋮つい先日、この町で一人の傭兵が逮捕され、処刑されました。
ヤーコプ・ロートというのがその名前ですが、まぁ名前はどうでも
いい。興味深いのはその陳述です﹂
シャルルは冷や汗をかくエーリヒを知ってか知らずしてか、ペー
スを崩さず悠々と話を進める。
﹁アセリアはシュッツブルクの生まれ。父親はなし。ひょっとした
アウトロー
ら傭兵かもしれませんね。そして母親を彼は生涯に二度しか見てい
ません。そして無宿人、疎外者として人生を歩み、当然のように盗
みや殺人を生業として生活を送り、足の向くまま、官憲に追いたて
られるままに方々旅をして、乞食、詐欺師、山師、放火人、殺人者、
盗賊、そして傭兵として日々を食いつないできました﹂
622
突如として転換した話をいぶかしむエーリヒに気付きながらもシ
ャルルは話を止めない。表情は変わらず、エーリヒと対照的な柔和
さを保っている。
﹁この陳述はかなりでたらめで、記述に当たった役人達はかなり正
確なところを知るのに苦労したようです。彼自身が嘘つきなのもあ
りますが、その人生そのものがでたらめで無軌道の極みだったのが
大きい。あやふやで支離滅裂な人生は他ならぬ彼自身ですら騙すほ
どのものだったのでしょう。聞く都度に彼の語ることは変化し、時
系列も無視し、起こったことも整頓されぬまま、彼の口は妄言だけ
を垂れ流しました。ーーある一点を除いて﹂
ここからが本題です、とその空洞のような目が語っていた。そし
て、エーリヒにはその本題に心当たりがあった。
﹁ファーレンベルクです。彼は私達の戦友だったのですよ。彼の陳
述は何度も何度もファーレンベルクに戻りました。そして語る内容
は恐ろしく正確だった。彼の語る世界の中で、ファーレンベルク戦
だけが色を持っていた。それだけが彼の人生の中で、唯一揺るがな
い不動の一点だったのでしょう﹂
くるくる、くるくると同じ場所で何度も指を回しながらシャルル
は微笑む。処刑された傭兵を語る口調は慈しむようであり、エーリ
ヒはシャルルが正気でないことを確信した。
﹁⋮⋮何が言いたい﹂
通用しないと知りつつエーリヒは怒気を込めて睨む。歴戦の戦士
ですら怯むその眼光に、やはりシャルルは耐えた。余裕の笑みで。
623
﹁私も同じです。エーリヒ卿。氷雨に打たれ、飢えに苦しみ、疫病
が忍び寄り、やってくるかもしれないアセリアの援軍に怯え、禁制
の薬物と破壊と犯罪が蔓延り、汚物と死体にまみれたこの世の地獄。
そして最後の瞬間、訪れた圧倒的な殺戮。その全てを私達は共有し
た。身分の高低も、生まれ育ちも関係がない。あの体験を通して、
我々は一つになっていた﹂
笑みの裏側にある狂気が滲み出る。高等教育で覆い隠した暴力性
がゆっくりと首をもたげる。失脚し、全てを失ってなお、一介の傭
兵に身をやつしてまで戦場に止まらんとする嘗ての大貴族の闇が、
エーリヒを見つめていた。
﹁エーリヒ卿。私はファーレンベルクを探しています。見つけるお
手伝いをしていただけませんか?﹂
3
巡礼という行為がある。聖地を巡り、救済を求めるのだ。
対象となる聖地はしばしば遠隔地が選ばれた。というより、遠隔
地でなければならない。近場で手軽に行ける聖地に価値はない。長
旅の中で襲い来る試練に打ち勝ち、苦難の末に目的を達成してこそ、
救済が得られるのである。盗賊に強盗騎士団、異教徒、疫病。旅は
危険と隣り合わせである。それでも巡礼の旅に挑む者は決して減ら
ない。それは、生まれてから死ぬまで村や町から一歩も出ることも
ない者達にとってとびきりの非日常なのだ。
単独で行う旅は危険が高く、費用もかさみすぎる。そこで目的地
624
を同じくする者達で集い、しばしば巡礼団が組まれた。こうなれば
旅の感動は更に増した。目的を同じくする集団が、見も知らぬ土地
で苦難に共に立ち向かい、克服し、崇高なる聖地へと向かう感動は、
たとえ大貴族であれ容易には得られない尊いものである。旅にはし
ばしば宗教的熱狂に身を捧げる騎士が無償で護衛につく。彼らもま
た騎士道物語を地で行く己の自己犠牲の精神の尊さに陶酔し、旅の
最中に巡礼者と交流を深め、一体感を増していく。
村に帰れば騎士は領主である。気軽に話せるはずもないし、その
見事な甲冑や軍馬は彼らの税によって賄われたものだ。だが旅をす
る限り、身分差すらも忘れられる。旅の魅力はその困難さそのもの
と、それがゆえに訪れる非日常的な一体感にあった。
では、巡礼に勝るとも劣らない非日常とは何か。明白である。戦
争であった。それも数万の軍勢が正面からぶつかり合う大会戦は数
が少ないが、その高揚、狂乱、一体感は勝ち負けに依らず異常な中
毒性がある。大会戦を経験した傭兵はその殆どが軍務を退くことな
く死ぬまで戦場をさ迷うという事実が、それを証明していた。
﹁あんたも、そうやって人生を無駄にした傭兵の一人だ﹂
エーリヒは両拳を握りしめ、強くそういい放った。
ファーレンベルク戦は包囲戦であり、長期に渡って相当な規模で
の対陣が続いた。数万の軍による長期包囲は五十年戦争全体でも数
が少ない。包囲側の体力が普通は持たないのだ。だが、結果として
包囲は成功し、伝説となるほど無惨な虐殺が反動として起こった。
その壮絶な経験が心の原風景となり、決して忘れられない原罪とし
てエーリヒの心には残っている。
625
だが誰も彼もが罪としてそれを認識するわけではない。エーリヒ
はファーレンベルクから逃げた。だがシャルルは依然としてファー
レンベルクを探し、そして人生を棒に振りつつある。付き合いきれ
なかった。
﹁世間知らずの坊っちゃんが、初陣で史上最大級の包囲戦に放り込
まれれば、なるほど忘れられねぇかもな。だが、俺は真っ平だ。軍
務は続ける。だが、あんな大虐殺はもうごめんだ。探すなら一人で
探していてくれ。俺は精々残りの人生を誠実に生きさせて貰う。何
れ神が俺やあんたを罰するまではな﹂
歪んだ巡礼者たるシャルルは表情を変えない。エーリヒの返答を
予想していたのだろう。人好きのする笑みに優雅な所作を崩すこと
はない。ただ瞳だけは不気味な空洞であった。
﹁残念です。ご活躍を聞いて、貴方こそが神が私にくださった案内
人と思いましたのに﹂
﹁血塗れの神か。ぞっとしないな﹂
ちっ、とわざとらしく舌を打ち、エーリヒは不快感を表明する。
とにかく早く帰って欲しかった。そしてアラエルを待ちたかった。
﹁左様、血塗れの。ですがエーリヒ卿。大貴族に生まれ、生きなが
ら死んでいたに等しい私は、正にあそこで初めて生を実感したので
す。ファーレンベルクに比べれば、ラシー家もアルヴェリアもどう
でもいい。私には寧ろ血塗れの神が尊いと﹂
﹁黙れよ﹂
626
怒気ではなく、殺気を込めて睨み付ける。他国領だが、傭兵同士
の乱闘の処罰などいい加減だ。これ以上妄言を吐けば首をへし折る、
そのような意を込めた視線は通じたらしく、シャルルは口を閉じた。
しかし表情には微塵の動揺もなく、微笑を依然として保っている。
狂人が、とエーリヒは胸のうちで毒づいた。
﹁また何れ会うことになるでしょう。ラシー家は滅びましたが、傭
兵隊を結成するだけの財力はある。将校も揃っています。貴方に野
心があれば、いつでもお声がけを。私はファーレンベルクの戦友で
ある貴方に是非指揮を任せたい﹂
スポンサー
傭兵なら誰もが夢見る、自分の傭兵隊。その出資者をやるだけの
財力の持ち主が、傭兵隊長としてエーリヒを誘っていた。北ではア
ルヴェリアとアセリアが全面対決まで秒読みといった段階であり、
傭兵の口はいくらでもある。傭兵業界は完璧な売り手市場だろう。
傭兵隊長ともなれば、莫大な収入が得られる他、うまくいったなら
ばいずれかの国の貴族に取り立てられ、領地を得る可能性すらある。
だが、
﹁買い被るな。俺は今のままが丁度いい。俺に干渉するな。度を過
ぎた金だの名誉だのはもう結構だ﹂
エーリヒはそんなものに今は価値を感じなかった。待っている女
がいる。帰るべき家もある。それで上等と思うことの何が悪いのか。
エーリヒは頑なにそう信じた。何より目の前の歪んだ巡礼者と自分
が同列だなどとは思いたくもなかった。
﹁歴史に埋没すると。なるほど、私に比べるといかにもいい選択だ。
エーリヒ卿は道を誤らなかったようで。それでは私は失礼しましょ
う。ですが﹂
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優雅に一礼した後、シャルルは立ち去り際にエーリヒを一瞥した。
﹁傭兵隊長の座は、まだ明けておきましょう﹂
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n4051br/
野心家と淫魔
2014年6月23日01時26分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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