イ ギリ スー9世紀中葉における 植民地政策の二側面について - 香川大学

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ー2β一
イギリス1.9世紀中葉におけ■る
植民地政策の二側面について
−スカイラーニポL−・デルセン説の検討を中心にして−
西 山 一
郎
1
さき紅私は19世紀中葉のイギリス議会の経費削減論議を検討し,自由主義
虎階の経費政策か通説の指摘しているようなマンチェスタ一派流の「安価な政
府」でほないことを実証した。すなわち,マンチェスタ一派は少数派であり,
同派の主張した「安価な政府」=経費の絶対水準の切下げは当時の多数派であ
り,政策担当者である歴代政府の採用するところとならなかったということを
(1)
述べた。
その際みたように,マンチェスター派と政府との問の軍事費の削減論争は陸軍
経費と海軍経費をめぐってたたかわされた。そして,前者における主要論点ほ,
陸軍経費のうちのかなりな比重をしめる植民地駐屯軍の削減の可否であった。
マンチェスター派は植民地経費の削減を重要視し,たとえばモ−ルズワL−ス議
員は1851年の植民地に.関する議会討論において「……もし帝国に害をおよばさ
ずにかなりな削減をおこなうことができる経費部分があるとすれば,そ・の部分
(2)
はわが植民地経費であります。」とのべている。マンチェスタ」一派の頭領たるコ
プデン議員は,1849年の議会において,軍隊の3分の2ほ植民地のために.働い
ている有様であるから,そのような植民地駐屯軍制度を全面的に改めれば,1835
JF・水準以下への国家産出の削減ほ可能であるとまで主張した。そして,その論
(1)西山−・郎‥「『自由貿易的経利別艮』政策(2。完)−19担紀中葉のイギリス議会
(下院)に.おける経農削減論議の検討…」,『香川大学経済論叢』箆39巻算4号,1966
年10月を参照。
(2)3肋形Sα′d,CXV..1401.ApIillO,1851.
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イギリス19世紀中葉における植民地政策の二側面に・ついて
拠として,コプデンほ,植民地駐屯軍を維持することによって利益をうる人は
どく少いこと,イギリスの大部分の人々は植民地との通商という手段によって
利益をえ.ているのであるが,植民地との通商ほ自由貿易体制の今日,軍隊を置か
なくても自由に.おこないうること,すなわち「私の考えでは自由貿易が1835年
(3)
水準以下への経費削減を諸君に可能にするのである」という。また1851年の陸
軍予算の討論において5,000人の植民地駐屯軍の即時撤退を要求したヒュ.−∴ム
議員は,その論拠として,植民地が自治制を採用しほ.じめてこいるという事実を
あげ,自治制を採用するからにほ植民地の防衛の1部分ほ植民地白身がおこな
(4)
うぺきであると主張した。
このようなセンチェスター派の要求にたいして,政府側(第1次ラッセル政
府)ほ断固反対する。ラッセル首相は,1848年の陸軍予算の討論紅おいて「イ
ギリスの植民地ほ,イギリスの力と窟の大きな源の1つとして.全ての党派転よ
って一考えられております。そしてわれわれが植民地をもってし、るかぎり,それ
い、 を保護しなけれほならない」とのべ,植底地駐屯軍の撤退を拒否する。また,
同じ討論において,陸軍大臣モクルは,「私は,世間で認められている皐う
に,わが植属地ほ維持する価値があると臆断しておりま’す。もしそれが正しけ
れば,この国はそれを維持しなければならず,従ってそれを保静す−る義務があ
ります。私の見解でほ,現在,全植民地における軍事定員は平和時の可能最低
(6) 水準でありす。」と反論する。
以上のような植民地経費削減論争の幣見からも明らかなように.,その論議の
一・歩奥に.ほイギリスの植民地体制をどのように・評価するかという植民地政策の
根本問題が横たわっている。したがって−,19世紀中葉における植民地経費論争
を充分に把握するためにほ,あらかじめ19世紀自由主義段階の植民地政策の特
質競走をおこなっておく必要がある。ところが,周知のように19世■紀自由主義
時代の植民地政策の特質については,第2次大戦後に.従来の80年ちかくにわた
(3)3Hansard,CII小1229,February26,1849
(4)3助乃Sαγd,CXV.758∼760,Mar・Ch28,1851
(5)西山岬・郎:前掲論文,62頁。
(6)3助乃ざαγd,ⅩCVII.1154 MaI■Cl131,1848
−29一
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第40巻 貸5号
る通説を全面的に.否定する見解が発表され,現在論争がおこなわれている最中
である。どころが,私はイギリス帝国史・植民地政策史に.ほ門外漢であり,残
念なこと紅積極的主張はなしえない。したがって,本稿ほ.今日までの欧米およ
びわが国の諸先学の業績を批判的紅整理検討しながら,19世紀中葉の植民地政
策の特質がなに.であるかを追求することを課題とする。
さて,19世紀中葉の植民地政策の特質規定紅ついてほ,今日はぼ3つの説が
あると思われる。第1は,30年らかく通説の地位を保持してせたものであり,
その主張を端的にいえば19世紀中葉を植民地放棄,反帝国主義の時代と考え,
その植民地政策を「小イギリス主義」と規定するものである。この立場の代表
(7) 的な論者は,1921年に論文「イギリスに.おける反帝国主義の最高潮」を,つづ
(8) いて翌年に論文「イギリスにおける反帝国主義の勃興」を発表したアメリカの
(9) スカイラ一教授と,1924年に.『中期ヴィクトリア帝国主義の研究』を刊行した
ポーデルセン氏であろう。したがって,19世紀中葉をⅢ\イギリス主義」と規
定する立場をスカイラ、−=ポーデルセン説と名称する。
「小イギリス主義」とは,わが国の神谷不二氏が簡潔かつ的確に定義してい
るように「その−・般的内容ほ,植民地領有の無用視と,英帝国の維持及び膨
(10)
脹阻朴する関心の減退乃至欠如である,」。スカイラL−=ポ、」デルセン説はかか
る植民地観が19世紀中葉を支配していたという。たとえば,スカイラー教授
は,1830年代に.おいて「植民地が必然的に母国から分離するであろうという想
(11)
定ほ,急進派および自由派に.おいてはとんど常識であった。」とする。そして
「1840年代になるとイギリスには反帝国主義の積極的で断固たる主張があっ
(7)Schuyler,R.L.,“TileClimax ofAnti−Imperialismin England”,The Politi−
¢αJ5c≠β乃CβQααγ才βγJ.γ,Vol… ⅩⅩⅩⅤⅠ一.Dec一.1921..Noい4.pp..537′}560
(8)Schuyler,R。L.,“The Rise of Anti−Imperialis皿in England”,The Poli’iical
Science QuaY・terl.y,Vol。ⅩⅩⅩⅤⅠⅠ.Sep.1922.No.3.pp.440∼471い これらの2論
文はともにSchuyler,R“L…,The Fallofihe Old ColonialSysiem,A Siud.y
βγ∠f∠5ゐダγββ7′・α♂βJ770∼ヱβ70,1945,New YoIk紅収錦されている。若干叙述のし
かたほこ.となるが,その主張は全く同じである。
(9)Bodelsen,C、A.,Studiesin Mid−VictoriaガZmPerialism,Copenhagen,1924
㈹ 神谷不ニ:「小英国主義(1)」『国際法外交雑誌』第53巻第5号,昭和30年4月,34貢。
仙 Schuyler,R.L.,Ob.cit小,pn 76.
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イギリス19世紀中葉における植民地政策の二側面について
−3J−
た。それがイギリスの全て−の大衆を転換させたとは↓、いえないが,しかしそれ
が帝国主義を守勢に.たたせたといって−も過言ではない。植民地の有用性を依然
(12)
として信ずる者たちは,彼らの信念を正当化する義務を感じた。」大衆は植民
地に関心を示さず,政治家や政府官僚もイギリス帝国の維持紅は情熱を全くと
いってよいはど示さなかった。このような風潮ほ1860年代軋最高潮に達し,
「1860∼71年の10年間ほ.,イギリス帝国史における危機の時代とよんでさしつ
かえないであろう。というのほ,その間に.イギリスにおける帝国解体の趨勢が
(ユ3)
最高潮紅達したからである。」スカイラ一教授ほ,このよう紅イギリス19世埠
中葉の反帝国主義の勃興と最高潮をとらえるのである。この点ほ.,のちに・みる
ようにポーデルセン氏に.おいても基本的にほ同様である。
スカイラー=ポ、−デルセン説とはとんど同時に登場し,スカイラー=ポーデ
ルセン説を1方紅.おいて認め他方紅おいて否認する立場にイギリスのノ−ルス
教授がいる。ノールス教授ほ,1924年に第1巻を刊行した『イギリス植民地
経済史』紅おいて,スカイラー=ポ−デルセン説と同様に.イギ、リス自由主義時
代の植民地政策を「自由放任の植民地政策」と規定する。すなわち「イギリス
は1822年から1860年に.かけて自由貿易に漸次移行していったのであり,もほや
植民地人乃至外国人の何れにも制限を課そうと望まなくなったのである。い
や,それどころか,イギリスは寧ろ反対に.『航索を切り放つ』こと,そして,
植民地を思うままの方向に.行かしめることを切望していた。……小この時期の植
レγセ●7エール
民地政策は,貿易政策と同様,可能な限り自由放任をなす政策であった。」
とする。ところが,ノ−ルス教授は,政策面では植民地分離主義が支配してい
たが,現実をみると逆に植民地帝国の膨脹がみられるという。すなわち,自由
放任が完全に遂行されたわけでほ決してなく「イギリスほいかなる新領土をも
獲得しない決意を固めていたのであるが,に.も拘らずイギリスほこの19世紀を
(12)∫∂紘,p‖ 78
(13)∫∂よLdい,p..245
(14)L..C.A‖ ノ−ルス著,岡倉古志郎訳:『イギリス植民地経済史』算1巻,栗田書店,
昭和18年,22責。原著β〃偶の循ぐか♂〝♂J〃♪瑠♂〃オ〃ノ■才力♂0ぴ♂′ざβα∫β彫〆γβ∫5タβ∼ブタJ4,
Vol山Ⅰ.ほ1924年の刊行である。
(14)
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通じて間断なく増加する責任を伴う領土を加え.ることを決してやめなかったム
r15)
(=;) かくして,ノ−ルス教授ほ.政策と現実との間に蘭鹿ありとする。このように.19
世紀中英の植民地政策の特質を規定する立場をノールス説と名称すれば,ここ
(17)
(18)
にほイギリス紅おけるプリッグズ教授,フイ−ルドハウス氏,わが国における
(】9)
(20) 矢内原忠雄教授,自杉庄一・郎教授らが含まれる。
ノールス説は,スカイラ−=ポーデルセン説が無視ないし等閑視していた現
実面をも注目したという点において優れてし、るが,現実と政策との矛眉を充分
説得的に解明していない。たとえば,わが国の矢内原教授は「この矛盾の観あ
るも,そはイデオロギーと事実との間に.存する矛眉にして,事実そのものに
ほ.矛盾しない。蓋し自由主義ほ産業資本の政治的表現なるがゆえに.,産業資本
の発展の初期に・おいてこそ重商主義的束縛を打破するための『小英国』的自由
主義であるが,産業資本そのものの発達進むや,産業革命及びこれに.続いて資
本主義の作用に.基き発生増大せる相対的過剰人口の排出に.おいても,その大患
舶)同上苔,134真二。
(摘 ノ・−ルス教授は,この組賠を「変則」(同上番,134頁)という言葉で表現している。
(17)プリッグズ教授ほ,「マンチエスター派のス掛−クスマンたらと同様紅たいていのヴ
ィクトリア期の政治家たちは『帝国』匹たいして嫌悪を表現し,植民地のことを『われ
われの首のまわりの石臼』として話しでいたけれども,彼らは積極的なイギリスの海外
利益の発展紅たいして,めったに無関心ではなかった。ある場合には,『公式の帝国』す
なわち国旗の帝国と称されるものの連続的な膨脹があった。更匿多くの場合に.おいて,
貿易,投資,および威光の『非公式の帝国』の拡大があった。」(BIiggs,A.,r如
Age o.fImProvement1783∼1867,London,1963<First ed…,1959”>p..385.)
とのぺ,政策と現実とのくいちがいを「帝国の現実と理想」と称している。
(18)Fieldhol】Se,D… K,“Imperialism:A HistoriographicalRevision”,TheEconomirc
mstor.y Review,2nd Series,Vol..XIVい Noり2…1961,p.201
仕g)矢内原教授は「小英国主義的イデカ・ロギ一に拘らず植民地の任意的放棄はかつて行は
れざりしのみならず,自由主義後期〔1823年のモソロ−宣言より1878年のベルリソ会議
まで〕においては更に大面積の土地が欧米資本主義の植民地として新た紅世界経済の体
系の中紅編入せられたのである。」(矢内原忠雄:『帝国主義研究』白日音院,昭和公年,
159∼160真。)とのぺ,小英国主義的イデオロギ−と現実の植民地の膨脹を「矛盾」と
して規定する。
鋤 白杉教授も,「イギリスにおいては,/トイギリス主義の流行にかかわらず,植民地の
放棄というようなこ・とは,か?ておこなわれなかった。政治家たらは,帝国のより以上
の膨脹を欲しなかったけれども,帝国そのものは彼等の意欲に.かかわりなく膨脹しつづ
けた0」(自杉庄一郎:『近世西洋経済史研究序説(重商主義政策史論)』有斐閣,昭和25
年,451京)といっている。
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イギリス19世紀中葉における植民地政策の二側面に・ついて
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鑓産物たる商品の市場拡張においても,又原料品の輸入においても植民地拡張
を遂行するの曙必然の勢である。而して■これらの経済的利益を実現するために
(21)
ほその地域の政治的支配を伴えることも必然であった。」という。しかし,こ
れでほ「小英国主嵐」というイデオロギ−と植民地膨脹という事実との間の矛
眉の解明を放棄したことに.なる。また,「小英国主義」を重商主義約束縛を打
破するためのイデオロギ−とするのは疑問である。というのほ,スカイラー=
ポ−デルセン説の指摘しているように,「小イギリス主義」は重商主義的束縛
たる穀物条例・航海条例が廃止された後の,自由貿易の最盛期である1850∼60
年代に.最高潮に達しているからである。
19世紀中葉の植民地政策の特質規定に関する第3の立場は∴通説たるスカイ
ラー・=ポ−デルセン説を全面的に.否定し,ノールス説の在日したイギリス帝国
の膨脹という商を強調するものである。この説ほ,1953年にイギリスのギャラ
ノ\−・,ロビンソン両教授によってとなえられたものである。それをギャラノ、−
=ロビンソン説と名称すれほ,ギャラハ−=ロビンソン説ほ「現実に・より一層
合致する仮説は,19世紀を通じてイギリスが基本的に連続して膨脹して∵いた
(22)
というそれであろう。」という。そして−,このような海外領土のたえざる膨脹
(2S) の原因ほ,産業革命隼よる「イギリスの工業化」紅ありとし,膨脹の型として
「自由貿易の帝国主義」という新しい概念を提示した。
ギャラハー=ロビンソン説ほ欧米およびわが国払おいて急速に支持者をえて
いるようにみうけられる。/たとえば,アメリカにおいてはガルブレイス教授が
(24)
「『小イギリス』時代の神話」という論文を1961年に発表している。ギャラハ
ー=ロビンソン論文が,主として現実の植民地膨脹のプロセスを解明したのに
たいして,ガルブレイス論文は植民地政策のイデオロギ一面の解明に.主力をそ
位1)矢内原:前掲沓,160貢。白杉教授も同様な見解をとる(白杉:前掲音,亜7京)。
(2認 Gallagher,J小and R.Robinsbn,“TheImpeIialism of Free Trade”,The Econo−
mic Histor.γReview,2nd Series,Volい ⅤⅠ.Noい1.1953い p”5
佃.抽dい,p.・5.
(24)Galbraith,Jい SL,“Myths of the‘Little England’Era”,The American m9・
紬㌢・れ協7月お肌¢紺,Vol‖ LXVII.No‖1‖ Oct..1961
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籍40巻 算5弓
そぎ,イデカ・ロギ一面に.おいても「小イギリス主義」ほなく,それほ.「神話」で
あったと主張する。また,ギャラハ」−ニロビンソン説を特殊具体的に.インド植
(25)
民地に適用する論文も欧米において発表されている。
わが国に.おいては,山田秀雄教授が1965年に.「19世紀中葉におけるイギリス
自由貿易体制の確立にとってほ,先進的な産業資本の生産力的優越一海軍・
海運力を含む−と,7っの海にまたがる独占的な植民地領有−一海峡ごしの
植民地アイルランドも重要・−とが歴史的前提であったことを考えると,『自
(26)
由貿易の帝国主義』という問題提起はむしろ妥当な着眼といってよい。」との
べ,ギャラハー=ロビンソン説を支持する立場をとっている。また,角山栄教
授もギャラハー=ロビンソン説の唱える「自由貿易の帝国主義」をプラ汐ル,
(27〉 インド,中国の植民地化に適用した論稿を最近発表した○
たしかに,自由主義段階に.おいてもイギリスは植民地を拡張しており,その
現象を説明する手段として−「自由貿易の帝国主義」なる概念はきわめて有力で
あると思う。しかし,それでは「小イギリス主義_Jなるものは「神話」であっ
たのであろうか。私に.ほ「小イギリス主義」の実体究明がまだ充分なされてい
ないように思う。そこで,スカイラ−=ボ−デルセソ説をもう−・度検討しなが
らイギリス植民地政策の実体を追求したい。
Il
スカイラ−=ポ・−デルセン説の検討に入る前に.,スカイラ・−=ボ−デル・セン
説の主要内容を概観しよう0なお,そのさい概観の中心となるめほ,内容的吟
C25)Moore,R..,.,“Imperialism and‘Free TIade’PolicyinIndia,1853∼4〃,The
Economic Histor.y Revieu,,2nd Seires,Voll・ⅩVIIL・No.1一・1964.;Harnetty,P…,
=ImpeIialism ofFreeTrade:Lancashire and
1862’’,TheEconomic Histor.y Review,2nd Series,Vol.XVIII.No.2.Aug..1965.
なお,ギャラハ−・=ロビンソン説をめぐる最近の欧米の論著については,宮崎犀★・:
「自由帝国主義一問題の開拓」,『思想』1967年5月,No..515,174∼175頁をみよ。
鍋 山田秀雄:「イギリスにおける帝国主義論の生成」,『経済学史講座』算3巻,有斐閣,
昭和40年,119頁。
但7)角山栄:「イギリス綿工業の発展と世界資本主義の成立」,河野・飯沼編『世界資本
主義の形成』岩波書店,昭和42年,112∼133頁。
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イギリス19髄紀中葉における植民地政策のこ側面について
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みです、ぐれているポーデルセン氏の『中期ヴィクトリア帝国主議の研究』であ
(28)
る◇
ポーデルセン氏は,1870年代以降の中期ヴィクトリア帝国主我が19世紀中葉
(29)
の「小イギリス主義」にたいする「反抗」として発生したと考え.る。したがっ
て,レJ\イギリス主義」ほ,中期ヴィクトリア帝国主義を説明するさいの「一層
セパラティズム
の序説」をなす。この「」\イギリス主義」論−ポ¶デルセン氏は植民地分離論
(30)
と名称する 【・が19世紀中葉を支配した。すなわち「全般的に.みて,植民地分
し3り 離論ほ1850年から約20年間着実にそのカを伸ばした。.」そして「’1869年まで植
(32)
民地分離論ほ勢力をふるい,その年以降帝国主義が着実に地歩をかためた。」
($3)
そして,植民地分離論と帝国主義との「転換点」が第1次グラッドストン内閣
であった。
「小イギリス主義.」の唱導者ほマンチェスター派であり,代表者は政界紅お
けるコプデン,ブライト両議員,言論界に.おけるスミス教授であった。とくに
(34)
コブデンは「文字どおりの植民地分離論者」であった。コプデンほ,1836年に
「植民地,陸軍,・海軍および教会は,穀物条例とともにわが凰族政府の単なる
アクセサリーにすぎない。ジ′ヨン・プルは,彼の家のこれらの不純物の清掃を
(28)らなみにガルブレイス教授は,ポーデルセソ氏の『中期ヴィクトリア帝国主義の研
究』をその方面の「権威ある文書」(Galbraith,J・・S.,Ob・・Cit.,p・34りfn・・21I)と
評している。
伽)BodeIsen,C。A.,0♪小 Citu,p・7・なお,念のため付言すれば,ポープルセン氏は
「帝国主義」を「イギリス帝国の統一・を保持し,強固にする特殊イギリス的運動」(′∂ダd・,
p“7ノ.)と理解している。
伽)∫∂摘・,p‖8.
尉)J勃d.,p.43ハ なお,「小英国主義」論の始期についてこほスカイラー・教授と若干こと
なる。スカイラー一教授はすで紅紹介したように1830年代を・その始期とするが,ポーデル
セソ氏は,1840年代の「植民地改革論」紅とって代って1850年代に.「小イギリ.ス主義」
が登場したとする(J∂紘,pp・16∼221)。
錮J∂摘.,p‖33..この点はスカイヲ1一教授も同じである。(SdmyleI■,R∴L,〃♪■ 由一f.,
p.276‖)。そして,教授は「1874年の総選挙に.おける保守党の勝利が植民地分離主義〔論、
文では「小イギリス主義」となっている.〕を現実政治の局面から安全に追放した。」
(∫∂摘.,p.278.)という。
C34)Bodelsen,C.A.,OP.cit.,p一・33・
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界40巻 難5号
ーβ6−
402
・:111
することをこれから先50年間の彼の仕事としてあてるのである。」と書き,1842
年の私信に.おいて「人々の情熱に.幻惑的なうったえをする植民地制度ほ,自由貿
易−・それは,私欲という誤った考え方によりわれわれを植民地に結びつけて
l
いるきずなを漸次的に,かつ知らず知らずのうちに.ゆるめるであろう 【 とい
(3¢)
う間接的プロセス以外には決し七除去されえないのです。」とのぺた。
このようにして植民地放棄をとなえるマンチェスター派の論拠はなに.であろ
うか。同派における第1の,そして基本的な論拠ほ自由貿易体制の発展に・よ
り,植民地の領有を特に必要としなくなったということである。すなわち,
旧植民地制定の下でほ,植民地ほ原材料の提供者,完成品の販売市場として本国
と密接な関係に.あった。イギリスは鳳民地市場と帝国内通商の独占を不可欠と
し,植民地はイギリス帝国の特恵制度の恩恵をうけていた○ ところが自由貿易
体制の発展によって,特恵制度が廃止され,本国は勿論,植民地においても世
界のどこの地域とも自由に㌧通商ができるように・なった。そこで,植民地が英帝
国の恩恵を感じなくなるとともに,イギリス本国も植民地保持中主たる誘因を
なくした。すなわち,ポーデルセン氏は「博志制度の撤廃が植民地維持の可能
(S7)
性と有用性の確信紅たいして痛撃をあたえたことほ否定しえない。.」という。
自由貿易体制が植民地の領有を必要としないとする説はスカイラ・−こポ−デ
ルセン説に.たつ論者に.よってひろく認められている。先駆的にほオ−ストリア
●
のレ斗ンぺ一夕一教授が1919年に「自由貿易が支配しているところでは,どの
階級も武力的領_士拡張そのものに.ほ.関心をもたないということほ議論の余地が
なさそうに思われる。なぜならこのほあいに.ほ,どの国の人間も商品も,あた
($8) かも外国が政治的に自国領ででもあるかのように,自由に外国に出入できるか
らだ。。」と指摘している。また,最近では1959年にイギリスのストレイチ・−・氏
が「この時期〔19世紀自由主義時代〕に発見された単純な事実ほ,もし諸君の
望みが,ある他国と貿易を行なうこと紅つきるならば,その場合にほその国を
郎)了凝d.,p.33.
㈱」恨ん p‖ 33.
(37)∫み∠dり,pい 35
朋 シュンぺ一夕ーー著,都留垂人訳:『帝国主義と社会階級』岩波書店,昭和31年,129頁:。
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ウ
イギリス19出紀中葉匿おける植民地政策のこ側面庭ついて
ヽ
−β7−
占領する必要ほないということであった。この事実の発見が背景となってほ
じめて−,自由貿易,反帝国主義というイデオロギ−,まだその一層面として
の自由主義というイデオロギーが台頭することができたし,また事実台頭し
(39)
た。..j とのべている。
マンチェスタ」一派の植民地放棄論の第2の論拠としてスカイラー=ボ・−デル
セン説のあげるものほ,国家経費の削減で奉る。当時イギリス軍隊が各植民地
に.駐屯し,その経費ほ.1年あたり約8,000,000ポンドに達した○マンチェスタ
一派は.,国家経費の削減のひとつの手段として植民地駐屯軍の撤退,植民地の
分離を要求したのである。ポープルセン氏は「マンチェ.スタ一派に・あって植民
地帝国維持に.反対してもっとも強く主張された論議ほ.,その経費,より一層特
(40)
殊的に.ほ帝国国庫に.よって負担されている植民地軍事費の分担金であった。」
とのべて−いる。そして,この点ほ.コプデソの場合に著しく,彼の植民地分離
(41)
論の「主な動機ほ国家経蛍削減の要求であった。.」という。
植民地放棄論の第3の論拠は,植民地をもつことに.よって無益な戦争にまき
こまれる虞があるというマンチェスター・泥流の・平和主義的配慮であった0 こ
のことは,強国アメリカと隣接して.−いて防衛の困難なカナダ植民地に・とくに
あてほまり,植民地の有用でないことを説明するのにカナダの政情がよく引合
いに.出された。すなわち「カナダは植民地分離論者の憎悪の的(似β㈲∠㌢■β)に
(42)
なった。。」
さらにり植民地領有の利点として−・般的に主張されること,すなわち移民先と
して有利であるこ.と,植民地が持っている軍隊はイギリス本国の軍事力の補強
に.なること,植民地ほイギリ大の威信を高めるというととなどほ認められなか
った。スミスは,イギリスからの移民の大部分は植民地にでほなくアメリカ合衆
餉 ストレイチ一着,開義彦他訳:『帝国主義の終末』東洋経済新報杜,昭和37年,95頁。
(40)1Bod91sen,C小A.iOPlCii”,pい8Q・スカイヲ」一教授も,「植民地がグL/イt・・プ
リテンに課する財政負担は,当然,反帝国主義者たちのお気に入りの論題であった0」
(Schuyler,R”L,,0♪・Cit。,p”210‖)とのぺている。
(411Bodelsen,CA,OPlCit,p」・58
(42)J∂左−dい,pい 37
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鰭40巻 箆5号
ー3β−・
404
(4め
国に行っているとのぺ,移民ほ過剰人口のほ.け口として疑問であるとした0 と
いうのほ,移民によって強壮者が国外に.出てゆき,国内に・は老人と無能者が残
るからであった。また,軍事力の面からみても植民地軍ほ頼りにならず,植民
地自身の防衛もおぼつかないとスミスほ判断してこいる。さらに・,植民地が本国
(44)
の権威を高めるという論議にたいしては,植民地が「木製の騎兵」であり,敵
がそれを発見した時に.は役に.たつ代物でほないと批判する。
(46)
以上のような論拠の他に.,ポーデルセン氏によると,そもそも「小イギリス
主義」が勃興した歴史的背景にアメリカ植民地の独立,スぺインおよびポルカ
ガル帝国の解体という現実が存在していた。そして−,そのような歴史上の事実
から帰納して「独立が植民地の窮局の,そして不可避の運命である」という確
(46)
信がうまれ,それが植民地放棄論を生む素地になったという。
ところで,このようなマンチェスター派の植民地放棄論の勢力ほどの位であ
ったであろうか。もちろん当時の有力者の全てが植民地放棄に賛成していたわ
けではない。たとえばカナダ総督のエルジン卿,ホイッグ=自由党の首相であ
ったラッセル卿,ラッセル政府の植民地相をつとめたグレイ卿,第1′次ディズレ
−リ一政府の植民地相をつとめたカナーグォン卿などは帝国の統一・が可能であ
り,望ましいと考えた。しかし,ポ−デルセン氏のみるところでほ「これらの唱導
者は比較的消極的であり,植民地分離論の盛りあがる潮隼たいして強い反対ほ
(47)
しなかった。」他方,植民地の放棄を慶賀すべきものと考え,その方向をめざ
して積極的紅活躍したのほ,スミスやマンチェスター・派のコプデソ,ブライト
(48) などの指導者たちであり,彼らほ「比較的少数派」であった。植民地放棄派の
大部分の者は「植民地分離の展望を実際に・ほ喜ばないが,しかし,植民地解放
を植民地の自然必然の運命であると考えた。1‥‥このグル−プが多分,中期グ
(43)∫∂∼d.,pい 54.
(44)∫∂≠d巾,pり 55
(45)〃舶.,p..36
(46)∫∂よd.,ppい 36∼37
√47)′∂∠♂小,p。.43
(48)∫∂紘,p.43
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405
イギリス19世紀中共における植民地政策の二側面について
−β9−
(49)
ィクトリア両党の政治家の大半を構成していた。一」したがって,スカイラー=
ボーデルセン説に.よると,数の上でほ少数派である積極的植民地放棄論者の影
響カが非常に強く,その考え方が世論をり−ドしたということになる。ポ−デ
(50)
(5り
ルセン氏ほ「その影響力ほ,メンバーにたいして釣合いがとれていなかった。」
といっている。
ⅠⅠⅠ
つぎに上述のようなスカイラー=ボ−デルセン説の問題点を検討しよう。
スカイラ−ニポ」岬デルセン説にたいする第1の,そして根本的批判ほそれが
19世紀中葉における植民地の由実の動向を説明しえないということである。ス
カイラ一教授にしてもボ−デルセン氏に.しても実に丹念に当時の政治家や学
者,ジャーナ・リズムの植民地に.関する言論を蒐集している。しかし,植民地の
現実に全く目をつむっている。この点がこの説の最大の欠格であろう。
スカイラーーニボ−デルセン説ほ,19世紀中葉に・おける植民地政策の基調を新
たな植民地の獲得は勿論のこと,既存の植民地の保持さえも必要とほ.しないと
いうように.規定した。したがβて−,この説に.たつならば現実に植民地帝国の膨
脹ほありえないのが当然であり,既存の植民地の放棄が実行されてしかるべき
であった。ところが,放棄された植民地はひとつも存在しないのみならず,
「小イギリス主義」の時代に.新た紅数多くの植民地が獲得されたのである。こ
の事実ほ先駆的にほ1906年に.ドイツのレユ.ルソェグーダニ.ルニッツ教授が指摘
している。すなわち,教授ほ.その著書『イギリスの帝国主義とイギリスの自由貿
易』において「イギリスほ,国家を経済生活から排除するどころか対外的には
けっして政治的権力手段の適用を断念しなかった。1840年から1842年までイギ
舶=≠撼一、,pい 43.
醐 もっとも,スカイラ・−=ポ一デルセソ説紅よると−・般大衆は植民地問題に無関心であ
った。そこでスカイラ一教授は「それ故イギリスの反帝国主義を論ずるさい匿は,われ
われは,『素人』でほなく,植民地政策問題について−・家言をもっている人々の限定され
た集団を問題にするのである。」(Schuyler,R・L・,OP・Cit.,p”254い)という。
61)Bodelsezl,C“A.,OP.cii.,p.43.
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ーー4り−
406
彿40巻 箆5弓
リスは支那紅対して悪評のたかい阿片戦争をおこなった。自由貿易時代に
イギリスほ,海軍費をいちじるしく高めた(人口1人あたりにつき1837年に.は
3レリング3ペンス,1890年に.ほ10レリング)。1866年から同世紀末までにイ
(52) ギリスほ・その植民地的支配地域の面碍を2倍以上に・した。」という。
このような事実ほ,ノ−ルス説常たつ論者の全てが指摘するところである。
(53)
とくにわが国の白杉教授ほ,自由主義時代のイギリス帝国の膨脹が「インドを
(銅)
中心としてはば論理的に−・賞した整然たる体系を香していた。」としている。
すなわち,1815年のウィ」−・ン会議に・率いてイギリスがオランダをして壱望峰を
割譲せしめ,フランスをしてセント・ヘレナを割譲せしめたのほインド航路確
保政策の第1歩であった。1838年のアデンの占領も同様の意図常.・もとづく。南
ア連邦の建設,ロ−デレア経略もインド政策の−・環であり,オ−ストラリアお
よびニュ.−・汐−・ランドの経営上ミ/ンガポールおよび香港の占領等もインド政
策圏の拡張とみなしうる。つまり,それらほインド洋をしてイギリス帝国の内
海たらしめんとするものであった。
(55)
ギャラノ\−・ニロビンソン説もノール云説と同様に優待された新たな植民地を
列挙して「いる。とくに,スカイラー=ポ−デルセン説が「小イギリス主義」の
威高潮期と称する第1次グラッドストン政府時代紅おいて南アフリカ植民地の
安全確保という名目で1868年にバストクランド,1871年に西グリクワランド
62卜Schultze■IGaeveTnitz,G・Vい,BY’itisherImpeYialismus und englischen Frei−
ゐα〝d♂J,Leipzig,1906,S.73.
(53)た、とえばノ−ルス教授は「19世紀及び20世紀を通じていかなる政党が政権を握ってい
たかに関することなく,イギリスの領土が領域,人口および富紅おいて拡大することを
やめなかった」(ノ・−ルス著,岡倉訳‥前掲書,148頁)とのぺ,つぎのような統計表を
かかげて−いる。
伽 白杉庄一・郎:前掲去㍉455東証(3)。傍点は原文通り。
(55)同上婁,455責,註(31。
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407
イギリス19世紀中共における植民地政策の二側面について
−4J・−
(56) の併合がおこなわれた事実を指摘する。しかし,ギャラノ\−一三==ロビンソン説の
最大の功績ほ,ノールス説がすでに.指摘していたいわゆる「公式の帝国」の膨
脹の他に,イギリス資本主義の経済力の優越を背景紅した通商条約,資本投
下,移民などによる「非公式の帝国」の拡大を指摘したこと,そして,公式・
非公式の帝国の膨脹をたくみ紅説明する「自由貿易の帝国主義」という新しい
(57)
概念を打出したことにある。
「自由貿易の帝国主義」とほ「出来るならば非公式の支配による通商を,し
(鯛)
かし必要な時紅ほ統治に.よる通商を」ということであり,武力に・よる占領と経
済力による支配をないまぜにしたやり方である。そ・して「最高権力の行使を貿
易のための安全を確保することにすすんで限定す∴ることが19世紀自由貿易の帝
国主義の蔵然たる特色であり,それほ重商主義者が政治的占領紅よっそ通商上
しこ191 め支配権と独占を獲得するために.権力を行使するのと対照的である。.」こ・の点
についてガルブレイス教授は,「商人が市場に容易に・出入りできるかぎりは,
経費のかかる征服戦争や堂々たる支配機構ほ必要でほなかった○利益のあがる
市場が秩序の乱れ又ほ政府の反抗によって粉砕された時にほ・,この表面だけの
無とん着ほ手のひらをかえすようにきえた。1839∼42年・の『阿片俄争』は,自
由貿易圏におけるイギリスが貿易を支援するため紅最後の手段としででほある
(¢0)
が武力を使う用意があることの証拠であった。」と的確にのぺて−いる0
66)Gallagher,J・and R”Robinson,Ob”Cii.,p・3・
(開 わが国め白杉教授が先駆的に1950年紅「自由主義的帝国主義」という概念を提示して
いる。すなわち「私は,重商主義的帝国主義匠対して自由主義的帝国主義なるものが存
在しうると考える。実際,イギノリスの自由主義時代を支配した現実の政策は,自由主義
的大イギリス主義として一層の帝国主義紅はかならなかったといってよい。旧い重商主
義的帝国主義が商業資本の帝国主義であったの紅対して,自由主義的帝国主義は産業資
本のそれであった。産業資本はけちして攣に平和主義的非膨脹主義的なものでほない。」
(白杉:前掲番,459頁。傍点ほ原文通り。)しかし,白杉教授は基本的紅はノーールス説
紅たち,植民地の膨脹を「無意識的な膨脹」(同上苔,459巽)と規定している点がギャ
ラノ、1−=ロビンソソ説と決定的にことなる。
68)Ga11agher,J.and R・Robinson,OP,CitりPl13”
(59)J∂よ♂い,p.6∩
60)Galbraith,J一 S。,OPしCit・・,p小40。またわが国の角山教授裸「片手紅自由貿易のコ
・−ラン,他方の手に武器,これが弱い後進国家に対するイギリ.ス式市場開拓のやり方であ
った。」(河野・飯沼編:前掲乱132頁。)と,同様な指摘をして−いる。
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−一ヱーー
寛40巻 弗5弓
408
要するに,19担紀自由主義時代は,スカイラ−ニポ−デルセン説のいうよう
な反帝国主義,植民地放棄の時代とほはど速く,「通商による侵透力と政治的
(61) 権力とを組み合せることによって」,つまり「自由貿易の帝国主義」によって公
式・非公式の帝国の膨脹が遂行されたのであった。
以上においてスカイラ−=ボーデルセン説が植民地の膨脹という現実を説明
できないこ.とを明らかにした。しかし,スカイラー・=ポ−デルセン説が現実を
説明しえないということで一億宅することはできない。更に」検討を加える余地が l
あると思われる。考えてみれば,スカイラー=ボ−・デルセン説ほすでに指摘し
たように植民地政策に関するイデオロギーの解明にカをそそいだの・であり,ノ
ールス説やギャラハーニロビンソン説のようにイデオロギ−を現実の動向に閑
(l;ご\
係させて理解することはしなかった。そこで,われわれがスカイラ−=ポ−デ
ルセン説を内在的に」検討するため紅ほ,その説の主張するように,19世紀中葉
に.ほたして真実,・反帝国主義,植民地放棄論が政策論,イデオロギーとして存
在していたかどうかを究明しなければならない。事実面の検討の外に.,イデオ
ロギー面の追求が必要である。
スカイラー=ポーデルセン説の列挙する,マンチェスター派の植民地放棄論
を注意ぶかく検討するとすぐに.気づくことがひとつある。それほ,放棄すべき
植民地として具体的に.列挙されている櫨民地が限定されているということであ
る。まず第1に,r■反帝国主義の最高潮」(スカイラー一教授)の第1次グラッドスト
y政府時代において問題となった植民地は,ニュ−・ジー・ランド
,カナダそし
61)Gal1agher,J。and R.Robinson,Ob・・eit.,p”11。
佑2)ただひとつの例外は,アメリカのム−ソ氏であろう。ム−ン氏は,19世紀中葉紅も帝
国の膨脹があったことはみとめ,インド植民地の拡大,バストクランド,グリクワラン
ドなどの併合の事実を列挙する。しかし,「1815年から1875年までの膨脹のこの記鱒
は,後年の尤大な痙得に.比較すると実匿わずかである。とくに,この期間中多くの場合
においてイギリス政府は植民地侵略を全く嫌悪していたということが強調されなけれぼ
ならない。」(Moon,P小 T。,′∽♪β′・≠αJ≠\s研α乃d肋㌢・JdタoJグ′jcざ,New YoIk,1928,
p.19。)という。しかし,とにかく植民地を獲得していったという現実は否定しえない。
19世紀末帝国主義時代との比較は,別の問題である。
63)Schuyler,RいL.,Ob。Cit.,,pp.263∼272;Bodelsen,C… A.,OPい Cii.,pp.9
94.
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イギリス19性紀中菓に.おける植民地政策のこ側面に∴ついて
409
−4β−
てオーストラリアであったということである。第2に個々の政治家,言論人の
発言をみると,マンチェスター派の指導者コプデンは,1865年の私信に・おいてカ
(¢4) ナ・ダの「友好的分離」について−の見解を披渥している。ブライトも,1865年の
(¢5)
下院に.おいて−カナダの「友好的分離」について演説をした。トロロープが,1862
(88)
年紅カナダ,1872年にオ−ストラリアの分離ないし独立に・言及して∴いる。その
他に.ペソ一子至凱 ダービー刺,寛1次グラッドストン内閣の植民地相グラン
(67)
ゲィル,外相のタラし/ンドン等もカナダの分離紅言及しているの魂である0さ
らに分離論者として言論界にきこえたスミスもカナダの分離について論陣をは
(6$)
いているのみである。
したがって,スカイラー教授やポーデルセン氏の詳細な実証を参照して.−も放
棄すべき対象の植民地は.カナ・ダ,オーストラリア,ニ.ユー・汐−ランド紅すぎ
ないのである。この点については,スカイラーニポL−デルセン説浸たつわが国
の矢口考次郎教授が1948年に.すでに指摘している。すなわち,「反帝国主義
者,分離論者乃至小英国主義者(LittleEnglander)
張に於て,植民地の放棄が主張される場合,それほ.主として本国の分身たる移
住植民地であった。また−・般的に.も19世紀中葉まで欧洲を風靡した『植民地ほ
吾々の首に縛りつけられた石臼である』という思想に於て,或は『植民地ほ恰
も果実の如きもので,熟すれば元の樹を離れて落つるものである』という言葉
(69)
に.於いて,植民地と考えられたものも専ら移住植民地であった。.」
さらに・,矢口教授ほ,自由主義時代における最大にして最重要な樟属地イン
(64)Bodelsen,C.A.,0♪い Cit.,pp.33∼34
鍋.撒d..,p34…
㈹.撒d。り p.37.
㈹ 〃記.,pp..40,46,47
帖8)J∂言d。,pp.52∼53
(6功 矢口考次郎:『■イギリス帝国主義史論』甲文堂書店,昭和18年,93貫。この点ほ,も
っぱらわが国の研究者による指摘如多い。近藤申一寸小イギリス主義−その実態と幻
影」『柘殖大学論集』寛37号,昭和39年2月,87貢;山田秀雄:「19世紀中英のイギリ
ス紅おける『反植民地主義』について」『経済研究』寛18巻葦2号,1967年4月,158京
を参照。
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ー4≠Ⅷ−
第40巻 辣5ぢ
410
(70)
ドも分離論の対象とほ撃っていないことを指摘している。インドの守護につい
ては,マンチェスタ一派のブライトも大いに興味をしめしたことがポーデルセ
(71)
ン既に.よって指摘されている。また,カナダの放棄を主張したというスミ.スにし
ても,わが国の神谷氏が引用してし、るように「植民地解放の原則(theprinciple
ofColonialEmancipation)ほインドに.(ま当てほまらない。何故ならば,そ
れは被征服国であって植民地でほないから。そして,われわれが居なくなった
,時の秩序維持のための何らの準備もしておかないでインド統治を放棄すること
ほ,従来なされてき・た意事に加えて住民に∴更に大なる悪事をなすことであろ
し丁=1
う。.」と主張して,インドを手離すことに反対してい為。
コプデンについてほ.,わが国において「彼ほ移住植民地の場合と同じくイン
(73)
ドの放棄を主張し,その改革にもはとん・ど熱意を示さなかった。」という評価
があたえられ,ブライト,スミスとほ見解をことにしたといわれる。この見解
ほ,1857年のセポイの反乱に・関するコプデンの,アッシュワ−ス,ブライト,フ
ィッツメイヤあての私信を基礎にして主張されている。しかし,私ほ,コブデン
がインド放棄を主張したと断定するのにほ反対である。たしかに,セポイの反
乱鎮圧のさいのイギリス軍による虐殺に心痛したコプデンは,今後イギリスが I
政治的に・インドを永久に統治するのほ不可能であろうと考えた。そして,自由貿
易体制にのっとり経済力に.よる支配がより効果的だとのべる。しかし,彼にはイ
ンドをいかにすれば手離しうるのかわからなかったのである。すなわち「最近
の事件ほ両民族〔イギリス人とインド人〕の間にこえがたい深渕をつくりつつあ
ります。征服者と被征服者ほ.信■頼と慰めにもとづいて−もう一度・−・緒に.生活るす
ことほけっして㌧できない。イギリスがアジア大陸に1.ェ−カ−の領土をももた
㈹ 矢口考次郎:前掲酋,176見。
け1)Bodelsen,C… Aい,0♪”Cit.,Pl・361近藤氏によればブライトは,インド統治を「わ
れわれの義務」と感じつつ,イギリスによる支配を通じて−のインド社会の改革を熱心紅
主張した(近藤中一・:前掲論文,82∼83頁)。
閥 神谷不ニ:「小英国主義論(2・完)」『周際法外交雑法』発54巻算6号,昭和30年1芦
月,63頁。Cf.,Bodelsen,CA.,Ob・Cit,p”55fn.,(11)。
(73)近藤申⊥・:前掲論文,84貢。山田教授も同様な見解である(山田秀雄:前掲論文,
158真)。
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411
イギリス19世紀中英における植民地政策のこ側面庭ついて
−−45−−
ない時こそが幸福なき≡卜でありましょう。しかし,そのような事態がいかにしてう
(74)
まれるのか私にほわかりません(ismore thanIcantell)。」また,たとえその
仕方がまずくてもインド人自らが統治するのがよりよいという見解をのべたす
ぐあとで「しかし,私も認めますがこれは若干抽象的な意見であり,今日の現
(75) 実的な仕事に.ほあてほまりません。」とのべる。以上のようなインドについて
の論調と,カナダの分離についての論乱 すなわち「−私の見解でほ,われわれ
が共同体として結び合されている政治的絆をできるだけ早急に・たち切るのが両
者にとって利益であり指‥…‥」とを比較すれほそのちがいが明らかであろう。
すなわち,・コプデンといえ.ども,インドの即時放棄を正面きって主張ほしてい
ないのである。
以上紅おいてどのような種類の植民地が放棄の対象となっているかを泉た。
つぎに問題となるのは,移住植民地を放棄せよとマンチェスター派がいう場合
の「放棄」の内容である。まず,コプデソからみよう。コプデンほ1865年のコ
−ルあての私イ言紅おいてカナ・ダとの「友好的分離」についてのべて−いる。コプ
デンのいう「友好的分離」とほな紅か。それは要するに政治的に独立させ,通
しrT)
南関係によって結びつきを維持することである。そのねらいほ.,イギリスが負
担するカナダ防衛費の軽減であった。そもそも彼ほ,植民地制度に・ほ反対しな
い。1843年の議会に.おいて「私ほ,イギリス民族が地球上に広がることを皆ん
なと同じよう紅熱望しています。そして,適当な運営制度の下における植民は
(7さ)
移民自身と同様に母国の利益に.もなると信じてこいます。」と発言している。彼
の強調した点ほ,財政的に負担のかかる現行の植民地体制を改善せよというこ
とであった。ポーデルセソ民がいうように「コプデソは植民地自体に・ほ.はとん
ど興味をもたなかった。彼ほ主として財政緊縮の唱導を通じてそれに到達した
(74)Morley,J,The LijわOfRichard Cobden,London,1896,Vol・ⅠIlp・213
(75)′み掃.,p‖ 207
㈹J賊d‖,p。.471
(77)J鋸d.,pい471り ブライトも1865年の議会においてコプデソと同様な「友好的分離」を
主張した(Bodelsen,C.A.,Obr・Ctt.,pL・34)。
U8)Galbraith,,..S.,0♪,Cit.,p・36・
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寛40巻 貨5弓
−46一−
412
とノ臥われる。そして彼ほ,同時代の他の多くの政治家と同様隼,自らの防衛の
(79)
経費を植民地に支払わせるのに熱心であった。、」そして,移住植民地に現在イ
ギリスが負担している位の経費を負担させても移住植民地ほイギリスより離れ
てゆかないとした。すなわちコプデンほ「より強い絆は,彼ら〔移住植民地〕
が共通の血統,一つの宗教,−・・つの民族∴一一つ.の言語,そしてわれわれと同じ
法律をもっていることであり,それらほ民事費と軍事費のささやかな賄賂がな
(80)
◇ても植民地をわれわれに結びつけるであろう。.」と,1851年の議会でのっ
(81)
たくしたがって,ガルブレイス教授がすでに指摘しているように,コブデンを
植民地放棄論者と規定するのは大いに凝問なのである。
つぎに,植民地放棄論者として言論界に∴おいて著名なスミスについてみれ
ば,彼もカナダ植民地を放棄せよとほいっでおらない。すなわち「私ほ太陽系
を否定しないと同様に・植民地を否定するものでほない。私ほ,国家が独立して
いる時に従属国として留っているの紅反対するのである。もしカナ・ダが独立国
家となったとして−も,彼女ほ依然としてイギリスの植民地であろう。そして,
イギ.リ・スほ・依然として…彼女の母国であるだろう。われわれの人種と言語お
よびわれわれの法律と自由は,彼女のものであろう。われわれの神ほ彼女の神
(82)
であろう。一」そして,カナダ植民地について−のスミスの提案ほ,スミス自身の
言葉を使うと「カナダがイギリスの植民地(colony)たることを止めさせよう
というのでほなく,彼女が従属地(dependency)たることを止めさせようと
しd:11
いうこと」であり,要するに.カナ・ダに自治政府を樹立して自治領に.しようとい
うことである。したがって,スミスほカナダを放棄すること,いいかえればイギ
リス帝国の構成メンバ−から追放することでほ.なく,逆に.現行制度の欠格を改
めてカナダをイギリス帝国の−・員としてとどめておくことを希求した。このこ
とは,上述の主張をのべた有名な書物のタイトルが『帝国(TheEmpi工1e)』であ
け9)Bodelsen,C.A.,OP。Cit.,P.,34
(80)3助〝ざグγd,CXV・1443・・ApIillO,1851
拙 Galbraith,J.S.,OP.ciri.,p..36.
(8訝 神谷不二:前掲論文,61∼62貢。
鵬)同上,61∼62克。
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イギリス19他紀中葉における植民地政策のこ側面について
姐3
−471−
(84)
り,そのなかで「伴大なアングロ・サク∴ソ連合」について指摘していること
からも明らかである。
さいごに,スカイラ−=ポーデルセン説に.よって反帝国主義,植民地放棄論
の最高潮を代表したとされる第1次グラッドストン政府の植民地政策に簡単に
ふれておこう。首相のグラッドストンについていえ.ば,ポーデルセン戌自ら
「彼〔グラッドストン〕ほ近い将来植民地は独立するであろうと考えて1、た0
しかし,彼がそれら〔植民地〕を除去するために実際的な手段をとりたい
と望んだという証拠ほない。」とグラッドストンが植民地放棄を実行したこと
ほないことを明確に指摘している。この点匿つい1ニほグラッドストンめ植民地
政策についての勝れた研究書である,アメリカのナッブランド戌の『グヲッ
ドストンとイギリスの帝国政策』(1927年)が余すところなく解明している0
ナッブランド氏は「■グヲッドストソほ,植民地の価値を十分に・評価していた0
彼ほ『小イギリス主義者』でもないし,アメリカ人が通常いう『領土強奪者』
(85)ドミニオン でもない。.」「彼ほ,イギリスと諸自治領との間の連合を間接的に・維持しよう
(86)
と希望し訟のである。」と指摘している。そして,ナッブランド民ほ,グラッ
ドストンをr、植民地改革論老」と規定する。私はこの規定が正しいと考える0
グラッドストンの植民地観は1840年代に.確立している。彼は,1849年の議会紅
おいて「健全な植民地政策はこの国から植民地を分離しようとする傾向をもた
ないものであるとかたく信じております。しかし,私は,帝国国庫より支出す
る多額の〔植民地〕経費がその結びつきを強化したり,永続化したりするのに
(87)
役だつとほ考えません。。一」という。つまり,グラッドストンほイギリス本国の
支出する植民地経費の軽減を目的として植民地制度の改革を提案したのであ
る。その方法は,自治政府の樹立で奉り,それにもとづく植属地駐屯軍の引あ
げであった。
剛 Bodelsen,C。Al.,0♪..citL,p.56
65)Ⅹnaplund,P.,GladstoneandBriiain(sImberialPoli’c.y,London,1927,p.82.
(姻 一抽玖,pp.15∼16
(抑 3助〝∫αグ・♂,CIV∴354‖ ApI・iユ16,1849Ⅳ
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−・ノざ一
彿40巻 策5号
414
その他の閣僚についてのべると,外相のクラし/ンドンが1870年に.リヨン姻あ
ての私信にお↓「て「われわれほそれら〔カナダ植民地〕を放棄することはせで
(88)
ません○友人として別れることが非常にのぞましいのです。.」と記している。
この文面からも,カナダをイギリス帝国の一層として−とどめたいと考えて小る
ことがうかがわれる。なお,多くの研究者がブライトの商務院総裁としての入
閣を重視し,グラッドストソ政府の植民地放棄主義が一段と強まったようにみ
てい卑。しかし,私のみるところ,入閣したブライトがどれ位植民地放棄の潅
あに運動したのか全く不明である。それ故,ブライトの影響力を蚤祝するのほ
危険であろう。要する紅,第1次グラッドストン政府を規定して植民地放棄を
(89) 主義とする政府とするのほ誤まりであろう。
以上の政策面紅ついての検討から判明したよう紅,マンチェスタ−派紅して
もグヲッドストン政府にしても移住植民地を帝国から追放す・るのではなく,自
治領としてあくまでも英帝国に.とどめておくことを考えていたのである。端的
紅いって,このような移住植民地政策が19世・紀中葉の歴代政府の植民地政策の
もう一つの特色をなしていたと考えられる。その結果近藤氏が指摘しているよ
コロエ一−
うにイ小イギリス主義時代といわれる50,60年代が植民地駐留軍引抜期と植民
〈90)
地自給政府の確立,強化期に・相当していた。」のであ挙。そして,陸続として移住
植民地からの駐留軍の引揚がおこなわれた。すなわち,オ−ストラリアからの
引揚開始(1846年),オーストラリア政府による本国駐留軍費の−・部負担制確立
(1863年),ニュ
軍の一部負担制確立(1869年),ニ.ユー・汐」・−ランドから,の引揚尭了(1869年),オ
(91)
ニストラリアからの引揚完了(1870年),カナ・ダからの引揚大略完了(1871年)。
(89)Bodelsen,Cい A.,OP..cii.r,p“47
(8功 ポーデルセン氏自身,「1869年におけるグラッドストン政府の想像上の植民地分離計
画」(J∂よ■d。pp・134∼135ハ)といったり「グヲッドストソ政府の想像上の植民地分離
主義」(∫∂jd.,ppい94,104い)といったりして,グラッドストン政府が現実には植民地
分離主義ではなかったことを暗示している。
(鋤 近藤申一・:「小イギリス主義(続)…その実体と幻影−−」『拓殖大学論集』第39号,
昭和39年6月,139頁。
飢)同上,139貫。
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イギリス19坦紀中糞における櫨属地政策のこ側面や・ついて
−4クー
駐留軍の引揚をおこなうと同時碇・イギリスほ.,移住植民地に自治政府を樹立
した。すなわち,カタ・ダに.おける責任内閣制の樹立て184昨う,か丁ストラリア,
ケ一山■」プ植民地に‥溶ける立法議会制の確立(1850年),か一ストラリーア;、ユユ−−●
(92)
ジーランドにおける景任内閣制の樹立(1郎6年),カナダ連邦の成立(1867年)こ
かくして,イギリスほ,移住植民埴をして自治政府を機宜せし吟自衛体制を
とらせながら,贋智軍を漸次撤退して植民地経費の軽減をはかること紅成功し
たのである。
ⅠV
19・杜絶中葉に・串ける植民地政策句特質について要約しよう0第1紅指摘すべ
き点略,スカイラー=ポーデルセン説なし〕レノ−ルス説のよう紅19世紀中葉を
反帝国主義,植民地放棄論の支配した「小イギ、リス主義」甲時代と規定するこ
と咋誤。りであるということである。そういう規定ほ19世紀中葉の植民地の実際
の動きにもあてはまらないし,マンチェスター・派ないしグラッドストン政府の
植民地政策の理解においても正しくないb
第2に.,マンチェスター派ないしグラッドストン政府によって主張されたと
スタイラー=ポーデルセソ説のいう「小イギリス主義」の実体は,カナダ,オ
一子トラジア,ニュL−・汐−ランドという移住植民地に自治政府を樹立し・イギ
リス駐屯軍を撤退して,東国の植民地経費を軽減しようとするものである0そ
れほ,イギリス植民地の無用視ないし放棄を意味する「小イギリス主義」とほ
はど速く,朗政の側面から名称すれば「安価な植民地政策」とでもよぶべき
ものである。そして,このような「安価な植民地政策」が1840∼60年代に・おい
て「着々と実行に.移されたことを指摘しなけれほならない○
第3に.指摘すべきことほ.,スカイラ−=ポーデルセン説のいうごとくイギリ
スほ19世紀中葉に.おいて反帝国主義政策をとり,帝国の膨脹紅反対であらたの
t
でほない。現実ほその逆であり,経済力と武ガとをないま蓮乾したギャラノ\十
(92)同上,139頁。
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驚40巻 策5号
ー5クー
=ロビンソン説のいう「自由貿易の帝国主義_lに・よって公式・非公式の帝国の
拡張をほかった。この方面の政策遂行者が,イギリス商工業者の利害を敏感に
(93)
感じとるパーーマストンであった。バー・マストシ外交の要諦は「●ゎれわれは永遠の
インタレスト 凍方も敵ももたない。われわれの 利 害こそ永遠なるものであり,それらの
インタレス†(94) 利害に.従うのがわれわれの義務であります。」というのであった。したがっ
てパL−マストンほ,イギリス資本主義のために必要とあれば多額の戦費を要し
(95)
ても植民地の獲得を辞さなかった。そ・こで,パー・小マストン流の植民地政策は上
言己の「倭価な植民地政策」に対比して「高価な植民地政策.」と名称されうるで
あろう。
要するに.,19世紀中葉における植民地政策の基本的特色ほ,−・方における
「自由貿易の帝国主義」による公式・非公式の帝国の膨脹=「高価な植民地政
策」と他方に.おける自治政府の樹立・駐留賓の撤退を主たる内容とする移住植民
地における「安価な植民地政策」とのこ側面をもっていたというこ二とである0
(1967.12.21)
付言。本稿の文献に.、ついては一層大学専任講師石弘光氏紅大変お牡詔紅なった◇
記して謝意を表したい。
醐 Briggs,A.,坤,C払,p…351;山田秀雄‥前掲論文,159貢。
醐 Briggs,ヰ.,〃♪・C払,p・352・
(95)この点卑マンチ∴ェスタ」一派のコプデン,ブライトらほはげしく糾凝した0しかしr’伝
説上のグール人のごとく自由貿易の.急進派は常紅戦い紅出,そして常紅敗北した0」
(Macdonagh,0.,“The Anti・Impe工ialistn of Free Trade”,The Economic
Hisior.yReview,2nd Series,Vol.XIV.No”3n1962,p・・495・)