5月号(No.287) - 京都大学生活協同組合

ていよう
綴葉
'10
5
No.287
あなたが創る生協の書評誌
▶
話題の本棚
重松清著
『きみ去りしのち』
橘木俊詔、
森剛志著『新・日本のお金持ち研究』
特集/絵画・映画・映像
新刊コーナー/新書コーナー/最近読んだ本/批評理論への誘い
〒606-8317 京都市左京区吉田本町
京大生協綴葉編集委員会
Tel:771-6211 / E-mail:[email protected]
綴葉HP: http://www.s-coop.net/about_seikyo/public_relations/000696.php
話題の本棚
人、死との距離感
きみ去りしのち
洋子は再婚相手。十年も前に別れた妻、美恵子と儲けた子、明日香
との繋がりの中で話が展開される。
旅についてくるのは明日香。美恵子と明日香とは離婚以来、音信
不通であったが、息子を失ってから気まぐれに連絡を取ってしまう。
美恵子が癌に侵され余命幾許もないことを明日香から聞く。セキネ
さんは死んだ息子を思う悲しみとこれから逝く元妻を見送る悲しみ
の両方を同時に背負ってしまった。
重松清著
文藝春秋
人と出会うということは元来、厄介なことである。会者定離。ど
うやったって別れの日は来る。いなくなった、という現在は、いな
《もう死んじゃったひとを思う悲しみと、これから死んでいくひ
とを見送る悲しみって、どっちが深いんだろうね》
二つの悲しみを背負って旅をすることで、他人のことを少しは分
かるようになる。象徴的なのは奈良への旅。セキネさんが、親に捨
かった過去に戻ることを許してはくれない。心にポカンと開いてし
まった大きな空洞、それが出会いの代償である。人は皆、そういっ
たものを抱えて、歩き続けなければならない。
流する旅である。いじめや家庭崩壊のルポを扱ってきた重松の丹念
てられた子、若くして夫と子供を亡くした里親のおばあちゃんと交
な描写に心が和らいでいく。セキネさんは明日香や周辺の人に教え
歩き続けなければならない、などと簡単に言ったが、別れを受け
容れることは簡単ではない。
《どれだけ歩きつづければ、別れを受け容れられるのだろう》
が答えなのだろうと、今は思う。 (星の屑)
(三八四頁 税込一六〇〇円 月刊)
セキネさんが里親のおばあちゃんに言われた言葉だ。上手に喪失
感を育てていけばいい、自分をだましていると気付きながら。それ
《優しさって、よくわからないんだけど、悲しさや寂しさが、じ
ょうずに育っていったものかもしれないね》
られながらようやく自分の喪失感と向き合っていけるようになる。
この作品で描かれるのは別れて取り残される側の人である。
幼い息子を失った父親の巡礼の旅が始まる。一年間にわたる断続
的な旅。夜中に乳幼児突然死症候群で亡くなったのは不幸な事故で
ある。それ以上でも以下でもない。誰にも責任などない。けれど夫
婦は罪悪感に苛まされる。
息子のいた部屋に二人でいることで、息子がいなくなった、とい
う状態を認識してしまう。だから一緒にはいない方がいい。そうや
って逃げ出すように始まった旅であった。
物語中の人間関係は複雑だ。主人公「セキネさん」の現在の妻、
2
2
話題の本棚
「研究」の意味するところ
新・日本のお金持ち研究
橘木俊詔、森剛志著
日本経済新聞出版社
て強調されるのが「これらの地域が名門高校の所在地と一致してい
る」ではいささか拍子抜けである。特に、紹介される統計を逐一確
認しながら読み進めていく身としてはかなりつらい。
究書? 大衆向け?
研
学問分野での「研究」においては厳密さや正確さが強く要求され
る。その意味で、販売数やそれに繋がる親しみやすさに目的意識を
置く必要がある大衆的な書物に「研究」の役割を期待するのは酷で
極端に言い換えれば中身が面白ければそれで価値があると思うのだ。
コピーはあくまでも飾りなのであり、本格的な読者の期待は薄い。
ある。大衆書においては、「~研究」や「~史」、「~の哲学」等の
師・弁護士等の職業別の高所得者の数や、所得税等の税制の議論を
版した『日本のお金持ち研究』(
日本経済出版社)の続編。前著は
「お金持ち」とはどんな人々か、という非常に単純な関心から、医
その点、本書の場合は中途半端さが否めない。前著では、「お金
持ち」という斬新なテーマ設定の段階で、勢いだけで乗り切ってし
労働経済学者の橘木俊詔氏が二〇〇五年に、弟子の森剛志氏と出
中心にその実態に迫った画期的な一冊であった。
強烈な主張を展開した方が、読み物としては面白かったのではない
ない。「研究」の限界を認識し、「お金持ち」の存在に対する著者の
まえる条件が存在したと思うが、「二番煎じ」の本書はそうは行か
一方、本書は前著の問題意識を引き継ぎつつ、居住地域や学歴、
資産運用や格差意識という新たな観点が取り上げられている。中で
物足りない「研究」結果
も特長は紹介される膨大な統計データ。特に学歴を扱う章では二〇
非常に窮屈な印象を受けた。例えば居住地域に関する章での「お金
の段階で重要な分析やデータの多くが既出だったため、分析視点に
しかし、当然のことだが大衆向けであるという性格上、本書も前
著もその「研究」の方法と結果には不満が残る。特に本書は、前著
経済学の「研究」らしい体裁はなされている。
禁欲的(ぬるいとも言う)な姿勢がどうも歯がゆい。「お金持ち」
メリカのように年収何十億も稼ぐ姿を好ましいとは思わない…」。
一応結論の章で著者の「主張」が存在することは記しておこう。
中身の一部を要約すると「お金持ちが存在しても構わない。ただア
念のため記しておくと
頁弱の分量の中にアンケート調査を中心に一一もの図表が用いられ、 か。
持ち」は「田園調布や芦屋に多く住んでいる」といった結果に対し
シリーズが続くのであれば、今後の変化に期待したい。 (
もずく)
(二四〇頁 税込一七八五円 月刊)
3
てはさすがに著者自身も結論の章で「新しい発見ではない」とフォ
ローを入れてはいるものの、その後で「本書でわかったこと」とし
10
画
映像
映
〈特集〉
絵画
2010. 5. 10
綴 葉
私たちは毎日、何気なく色んなものを見ています。映像、画像、文字、などなど。
でも、「見る」こととはどういうことなのか、改めて考えてみたことはありますか?
今回は、映画・絵画・映像論のそれぞれについて『綴葉』委員が分野と書籍を紹
介しています。日差しが美しくなってきた今日この頃、色んなものを見て、それか
(大福)
ら見ることについて考えてみませんか?
絵画を読む―言語・シンボル・歴史
な、そういう色々なシンボルを知らなければ、
一般的に、絵画というものは「見る」もの
であって「読む」ものではないと言われてい
ならば解説本の出番です。最近は読みやすく
知るために時間を費やすわけにもいかない。
力半減、いや激減です。しかしそんなことを
ダ・ヴィンチだろうとデューラーだろうと魅
ます。くだらない知識など捨てて、虚心坦懐
言葉を聞く・シンボルを読む
に名作に向かい合えば自らその絵画が語りだ
前と後では西洋絵画の見方が変わるでしょう。
簡単な解説書が多く出回っています。
『 西洋
す、ということになっています。しかし本当
にそうでしょうか? そこに絵がある、見る、 絵画のひみつ 』(
朝日出版社)はその一つ。
ずっと見続ける、そうすればその絵の魅力な
二〇分で読み終わります。でもこの本を読む
りメッセージなりが自動的に我々の脳内に届
です。
あなたは絵画を「読む」ための言語を知るの
けられるのでしょうか? 逆に、眺めている
うちにさっぱり意味がわからなくなっていく
テムが出来上がっているわけではありません。
だし、こちらは西洋絵画ほど「絵解き」シス
「読」ま なければならないのは、別に西洋
絵画に限りません。東洋絵画もまた然り。た
そこで提案。絵画とは「読む」ものであっ
て「見る」ものではありません。いや、世の
色々解説本はありますが、大雑把に全体がわ
という経験はありませんか? 中の絵画の多くは読まれるために描かれたと
れば聖某、ソレを着て
等伯と杉本博司が、一本の糸で繋がります。
戦的な一冊です。土偶と太陽の塔が、長谷川
の日本美術を単純なキーワードで要約した挑
美術に限定されてはいるものの、『 比べてわ
かる ニッポン美術 入門 』(
平凡社)は古今
かるものは多くありません。その中で、日本
言っても良いでしょう。
その最たるものがヨーロッパの古典的な絵
画です。やや単純化して申し上げれば、西洋
絵画の多くは聖書の「絵解き」にほかなりま
いれば聖某、この絵は
せん。アレを持ってい
聖書の中のナニがドウ
現代美術は「読む」ことから自由になった
でしょうか? いやいやとんでもない。現代
してコウなった場面だ
4
代 世 界 と 同 様、 多 様 で 雑 多 で す。 そ れ を 変
という心意気は見事です。モダンアートは近
まで、現代美術を一冊にまとめて紹介しよう
ですが、絵画から写真、インスタレーション
不明です。『女の子のための現代アート入門』
(淡交社)は少し恥ずかしい色の表紙と文体
絵画こそ絵画史の集積。ただ眺めたって意味
をめくるごとに乱舞し、彼らの狂ったダンス
た、動物とも人ともつかぬ生き物たちが、頁
理を解明していきます。奇妙に体を捻じ曲げ
分析し、そして最後に化物たちの作られる原
者は執拗に眺め、デッサンをし、並べ挙げ、
マネスク 』(
講談社)はその好例。教会の壁
や聖堂の扉に刻まれた異形の化物たちを、著
「読」んでしまうこともあります。『異形
のロ
ましょう。
一枚の絵画はいくつもの世界に通じていま
す。絵画を見て、読んで、あなたも罠に落ち
めません。
も知れません。読めねば見えず、見えねば読
る」ことと「読む」ことは、実は同じことか
(大福)
代を読む・文化を読む
時
えば、世界に誇る小津、溝口、成瀬らのもの
えの俳優とスタッフによる映画を次々に送り
文化を読 むことでもあります。『 すぐわかる
出すいわゆる「撮影所システム」のもと、例
絵画を「読む」こと、それは絵画を知るの
みならず、その作品の作られた時代を読み、
すごい作品群が生み出されたのでした。
「日本映画」の全盛期は戦前の一九三〇年
代、戦後の五〇年代です。各映画会社がお抱
…立教、ヌーヴェル・ヴァーグ
…
れています。映画をダシにした文化・思想論
意識のきわめて尖鋭な監督たちによって担わ
時はうつって今日、撮影所以降の日本「映
画」は、黒沢清、万田邦敏、篠崎誠、塩田明
下さい。
映画を見る―いくたびも
「ヌーヴェル・ヴァーグ」
っすらと浮かび上がってくるようです。「見
の最後には、西欧中世という世界の輪郭がう
身・ストリート・消費・物語といった枠組み
で捉えて読者に提示するのは、主張の強い入
門書としては最良の姿勢と言えるかも知れま
イスラームの美術』(
東京美術)はイスラー
ム美術の概説書(これ自体、日本にはこれま
せん。反発するか、同調するかはあなた次第。
でほとんど無かったものです)ですが、極め
と は 違 い、 黒 沢(『 黒 沢 清 の 映 画 術 』(
新潮
社)等)、万田(『再履修 とっても恥ずかし
ム世界に、なぜあの華麗な細密画が生まれた
システム以降の日本「映画」に至る試行錯誤
本順治の登場を象徴的な転機として、撮影所
迎えます。その後、一九八九年の北野武と阪
七〇年代後半~八〇年代には著しい混迷期を
れた彼らの共通点は、淀川長治以降最大の批
んで「立教ヌーヴェル・ヴァーグ」とも呼ば
映画に向かわせるものです。出身大学にちな
ゼ ミ ナ ー ル 』(
港 の 人 ))、 青 山(『 シネ マ 』
(朝日新聞出版))の著作は、読者を他ならぬ
彦、 青 山 真 治 と い っ た、 そ れ ぞ れ に「 批 評 」
てわかりやすいイスラーム世界の歴史書でも
しかし、テレビその他の娯楽の多様化など
に よ り 撮 影 所 シ ス テ ム が 機 能 し な く な り、
か? 答えはこの本でお求めください。最近
の研究動向も何気な
あります。絵画が存在しにくかったイスラー
く反映されています。
評家・蓮實重彦(『映像の詩学』( ちくま学芸
文庫)他 多数)の薫陶によ る、「映画」への
い の よ い 批 評 家・ 山 根 貞 男 の 本(『 日本 映 画
時評』(
筑摩書房)他多数)を是非、ご一読
については、日本映画に対して世界一つきあ
ただ「見る」とい
う行為が、最後にと
んでもないものを
21
そうした原理主義的姿勢で、この意味で「ヌ
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綴 葉
No.287
2010. 5. 10
綴 葉
ーヴェル・ヴァーグ」という呼称は伊達では
マキノ正博(のち、
ル・ヴァーグ」の核心でした。アンドレ・バ
実に、批評を介した「映画」への原理主義
的姿勢こそ、五〇年代フランスの「ヌーヴェ
いはそれは、「撮影所システム」の外から出
画作家たちにも共通して認められます。ある
チ、ヴェンダース、アンゲロプロス等々の映
や、《元祖》の強い影響下にあるベルトルッ
ライシャー、シーゲル等々に与する《立教》
こ う し た「 映 画 」、 そ れ も と り わ け「 ア メ
リカ映画」の発見体験は、アルドリッチ、フ
条件とは、何より映画を見ることであったは
い っ た い、 彼 ら は 何 に よ っ て「 映 画 」 を
「発見」したのか? 脆弱な産業的基盤のも
とでなおすぐれた「映画」を作りうるための
言えます。
いても、同じことが
いった監督たちにつ
雅 弘 )、 山 中 貞 雄 と
ザンという批評家を母として、シャブロル、
発して映画に向かう人々の宿命なのかもしれ
まれます)。
ゴダール、ロメール、トリュフォーといった
ずですが、では、何を見たのか? ――もち
ありません。
錚々たる監督たちが、いずれも批評家として
ません。
元祖! ヌーヴェル・ヴァーグ
出発したことはご承知の通りです。
京都? ヌーヴェル・ヴァーグ
ろ ん、「 ア メ リ カ 映 画 」。 伊 藤(『 時代 劇 映 画
の詩と真実』( キネマ旬報社))の本など読ん
フリッツ・ラング、ニコラス・レイ、サミュ
は、 ダ グ ラ ス・ サ ー ク、( ア メ リ カ 時 代 の )
の強い影響下にあったことは、わずかながら
日の小津、溝口、成瀬が、欧米の諸々の作品
金期、つまり三〇年代の原点でしょう。若き
ところで、そうして映画を見るうちに改め
て気になってくるのは、日本映画の最初の黄
れば、それはほとんど確信に変わります。
サイレント末期、トーキー初期の作品群を見
でも、それは確かです。実際、二〇代後半の
エル・フラー等々、古典的にはハワード・ホ
し か し、 そ れ で は、 具 体 的 に ど れ が「 映
画 」 な の か。《 元 祖 》 の 答 え は、 同 時 代 的 に
ークスやヒッチコック等々というものでした
コック/トリュフォ
は聴覚と並び、対象が離れていても成立する
いう点で共通します。西洋思想において視覚
方、読み方を紹介
ここまで絵画、映画の見
ヴィジュアル してきましたが、両者は 視覚に基
づく芸術と
ちの視覚はどこまで確実なものなのでしょう
多いのですが、そもそも世界を認識する私た
的な感覚を失わせてきたと批判されることも
このような視覚中心主義は、触覚などの身体
らに関わる作品こそが芸術とされてきました。
視覚を考える―イメージと文化の問題
れる通り。またとりわけ、彼らと相前後して
は? 大きな謎が残りました。じっくりとっ
京都で若々しい時代劇を作っていた伊藤大輔、 くり、見てゆく必要がありそうです。
(韓
図)
残されている彼らの初期作品からもうかがわ
映画が映画を呼ぶ。どうもそういうことら
しい。しかし、ではそもそものアメリカ映画
( 例 え ば『 ゴダ ー ル 全 評 論・ 全 発 言〈 1〉』
(筑摩書 房)など見られたし)。つまり、「文
芸」にとらわれた「良質な」フランス映画を
斥 け、 彼 ら は と も す る と「 通 俗 」「 娯 楽 」 の
一言で消費されかねない数々のアメリカ映画
に 何 よ り「 映 画 」 を「 発 見 」 し た の で し た
ー『 定本 映 画 術 』
(晶文社)等の味わ
ため他の感覚よりも優れたものとされ、これ
(これによりヒッチ
い深い聞き書きが生
6
制の議論が白熱したのもイメージ喚起の力あ
にくい。先日の都議会で「非実在青少年」規
ように、そこから先の理解にはなかなか進み
以上のものになりにくいことから想像できる
ことは多いでしょう。しかしこれらが入門書
す。確かに『図解
雑学シリーズ』( ナツメ社)
のようにヴィジュアルを介した方が効率的な
例えば、「一見に如かず」というように視
覚は直接経験と等置され高い信頼を得ていま
と限界について考えてみましょう。
か。ここではヴィジュアルイメージの持つ力
いがゆえに広く受け入れられているというの
て言語―論理的理解ほどの修練を必要としな
く見られてきました。しかしその読解に際し
力を欠くものとされ学術資料としては一段低
をもつ特性を持ちますが、それゆえに論証能
アル表現は言語的コントロール下でのみ意味
ど知っていましたか?)このようにヴィジュ
写真が広島ではなく長崎のものであることな
を教えてくれます。(有名な原爆のキノコ雲
メージがいかに操作されやすいものであるか
新藤健一『 新版写真のワナ 』(
情報センター
出版局)ではヤラセ写真を事例に私たちのイ
形させられる可能性があることでもあります。
ラ・チャップリンの『ヴィジュアル・カルチ
入門書としてはジョン・A・ウォーカーとサ
もしこのような議論に関心がありましたら、
タディーズという分野でよく扱われています。
このような視覚文化をめぐる研究は現在の
人文社会科学の世界では、カルチュラル・ス
ェンダー論として「ジェンダー広告」(『ゴフ
マン世界の再構成』(
世界思想社)参照)の
写真広告におけるジ
ブルデュー、そして
て『 美術 愛 好 』(
木
鐸社)のピエール・
術=文化装置論とし
ヴィジュアルはわかりやすい?
ってのことですが、セックスシーンの含まれ
が現状です。
論』(
平凡社ライブラリー)などが参考にな
ります。また Stuart Hall
の『 Representation
:
ゴフマンなど様々な方向に展開されています。
る「有害」な作品を日常的に消費する人々が
ャー入門 』(
晃洋書 房)が最適です。理論的
アプローチでは、ハル・フォスター編『視覚
された映画の歴史や絵画を語る言語といった
それらをどれだけ注意して読みとっていたの
ヴィジュアル文化と社会 かは不明です。同じ図示から異なる意図が伝
さらに絵画や写真、マンガや映画のような
わってしまった経験は誰にでもあるでしょう。 芸術が「わかる」ようになるとは、背後に隠
このような解釈の多義性を考えるとヴィジュ
「わかる」ものとさ
ルは言語的線形構造の流れにはまることで
また写真が本文やキャプションによってそ
の意味が確定されるように、通常ヴィジュア
が明らかにしてきました。視覚の支配をめぐ
絶対的なものではないことを多くの学者たち
歴史的に形成された社会的なお約束であり、
した表現とその背後にある中身の対応関係が
キー構造を再生産することになります。こう
すすめです。
象文化の研究が手際よくまとめられておりお
物館、映画、広告、テレビドラマなど視覚表
ものであり、多くの図版とともに写真集、博
』( SAGE Publications
)は英書です
Practices
が、一・二回生向けの教科書として書かれた
Cultural Representations and Signifying
れます。同時にその
アルは実は「わかりづらい」ものでもあります。 制度を受容することです。視覚芸術を感受で
イメージがあてはめ
作品鑑賞だけでなく時に「見ること」自体
を考え直すのはいかがでしょう。 (
夏太
郎)
きるようになることは文化と社会のヒエラル
られる言葉の枠組み
る思想の挑戦は、監視社会論として『監獄の
誕 生 』(
新 潮 社 ) の ミ シ ェ ル・ フ ー コ ー、 美
によって恣意的に変
7
綴 葉
No.287
に後藤さんについて深く考えてみるのもいい
あなたのよく知っている後藤さんからは遠
くかけ離れているかもしれないが、これを機
だが。
近にこのような後藤さんがいれば話は別なの
はちゃんと会社を休む。もちろんあなたの身
源として注目されている。無口である。土日
パラダイムシフトを起こしたのでしょう(大
しているなら女性の方から行ってしまえ的な
換とは恐ろしいもので、理系男子がうじうじ
このブログ、理系男子の恋愛相談に乗りな
がら書いているらしく、著者はその辺で理系
な話がたくさん書いてあります。
われて読み始めたんですが…耳が痛くなる様
のは何か考えてみたまえ」みたいなことを言
だろう。後藤さんとの接し方で悩んでいる人
きは緊張した。僕、男ですからね。あっち系
にとっては本書は参考になるかもしれないし、 袈裟すぎるか)。いやしかしこの本を買うと
烈に回転運動をしている。次世代エネルギー
鈴木さんや佐藤さ
んほどにメジャーで
そうでない人にとっても後藤さんを知る良い
新刊コーナー
はないものの、この
の人と思われたかもしれないし。いやそっち
後藤さんのこと
国の人口のうちそれ
きっかけになるかもしれない。もちろん後藤
それでまあなんでこの本の書評を書いてい
るかと言うと、京大に沢山いる理系男子を手
い聞かせながら。
系に目覚める気はございませんよと自分に言
男子の生態に詳しくなられたよう。発想の転
なりの割合を占めて
円城塔著
早川書房
いて、クラスに一人や二人いてもおかしくは
‌夢中に
玉に取っていただくためのマニュアル書が出
ましたよと云う文系女子の方々への宣伝です。
なんで宣伝になりそうな文を一つ引用してお
きます。
の後藤さんに分けられる。他の後藤さんと殺
持つ。プリズムで分後藤さんすることで7人
なぜなら本書の後藤さんは粒子であり波で
あり、量子化されていてかつ偏後藤さん性を
トです。僕自身は工学研究科某研究室の助教
と理系男子に恋のアドバイスをしていくサイ
がブログ形式で延々
ょうか。本書の著者
サイトをご存知でし
酒井さん、これからも理系男子をよろしく
す。》
《 そ う、 理 系 男 子 は、 あ な た の 腕 次 第、 対 応
し合いを始める。不死性から縁起物として重
お願いします。 (星の屑)
(二二四頁 税込一三六五円 月刊)
12
れる。そんな大きな可能性を秘めているので
次第で、スピーディに「いい男」に育ってく
宝される。卵を産んで繁殖する。カンブリア
K氏に「まずはこれを読んで君に足りないも
「理系のための恋
愛論」というウェブ
酒井冬雪著 中経出版
理系男子を
させる本
さんにも読んで欲しい。 (蓋し)
(二〇六頁 税込一七八五円 月刊)
ない後藤さん。あなたの周りにも数多くの後
藤さんがいることだろう。もしかするとあな
たの大切な人が後藤さんであったり、あなた
自身が後藤さんであったりするのかもしれな
い。本書はあなたの周りにいるこのような後
藤さんのことについて書かれた本では決して
1
紀の化石の中から発見される。宇宙の中で猛
無い。
100
%
2010. 5. 10
綴 葉
8
物・経済の予測の最果てにある、地球規模の
れる。そして「未来」では、これら天候・生
つぶしになるであろう。できれば文庫化され
うになっている。手元に置いておけばいい暇
自然現象を説明で
きる理論を立て、さ
か、モデルの複雑性と予測精度の関係(のな
において「パラメーター」とはどういうもの
代科学における「モデル」とは何か、モデル
の全編にわたって解説している点にある。現
本書の肝は、複雑なシステムを理解する時
に 立 て ら れ る 方 程 式 の 組、「 モ デ ル 」 を、 そ
ルに留まらず、クレイ数学研究所のミレニア
ろうか。かといって単なる初歩的な数学パズ
養書としてよくまとまっているのではないだ
れており、古臭さを感じさせない。数学の教
の計算科学や複雑系に関する話もちりばめら
ケーニヒスベルクの橋や四色問題など、古
典的な数学パズルとその解説が多いが、近年
環境の行く末(の予測不可能性)が詳説される。 てから手にしたい本である。
らに、未来に何が起
さ)、その上でモデルはどのように役に立つ
デイヴィッド・オレル著
明日をどこまで計算できるか?
「予測する科学」の歴史と可能性
こるかをその理論か
のか。内容は平易でないが、カオスと複雑系、 ム懸賞金問題など、各種の未解決問題を取り
早川書房
ら予測する…これが
大田直子、鍛原多恵子、熊谷玲美、松井信彦訳
近代科学の営みであったはずだ。物理学、気
パズルの割合が非常に多いのが少し気になっ
筆者の専門に近い幾何学やトポロジー関係の
さを感じる事はないだろう。分野別に見ると、
そこそこ数学に詳しい人が読んでも物足りな
上げて分かり易く解説しているページもあり、
そのモデルの理解には絶好である。
(投稿・宵)
(四五六頁 税込二五二〇円 月刊)
数学の秘密の本棚
た。
数学が実生活の中で役に立つのか、という
批判に対して、真っ向から反論する必要があ
本書の全体は「過去」「現在」「未来」の三部
本書には章立てがな
と書いてある通り、
前書きに「どこか
ら読んでも大丈夫」
くれるだけの娯楽とロマンが本書には溢れて
で十分なのではないだろうか。そう思わせて
イアン・スチュアート著
水谷淳訳 ソフトバンククリエイティブ
に分けられ、まず「過去」では、古典的科学
く、トピックの掲載
象学、分子生物学といった科学の理論は、高
速計算機という後押しを頼りに、より正確な
予測を目指してきた。しかし、それは果たし
てどれほど成功してきたのか? 本書は「予
測」を切り口に、現代の、特に複雑な現象を
扱う科学を分析する。専門外の人も対象とし
た一般書だが、ただし理系向けだ。
における 予測(とくに天文学)、決定論的科
順にもほとんど関連性がない。無造作に開い
るのだろうか? 買い物のときに役に立つ、
などと無理矢理理由をひねり出さなくても、
学とカオスの登場が取り上げられる。「現在」
たどのページからも数学パズルやジョーク、
著者は数学者で、天気予報のモデルエラー
について博士論文研究を行った研究者である。
では、天候の予測、病気の予測、経済の予測
いる。 (蓋し)
(三一六頁 税込一九九五円 月刊)
新たな視点と思考回路を与えてくれる。それ
数学は面白いし、我々の知的好奇心を満たし、
が、それぞれ大気や遺伝子のデータからどう
数学に関するエピソードが飛び込んでくるよ
9
1
やって試みられているのかという実情が暴か
3
綴 葉
No.287
ていた場合もある。このように、このデータ
ものでなく、店舗ごとに異なる流行歌を流し
メラのメロディーは必ずしも今知られている
て蔑むまなざしが注がれていた。先のチャル
者の栄養源であり、そこには下層民の食とし
上夜食は、そもそも車夫など深夜・早朝労働
き 」 に あ る )。 だ が、 茶 道 を 知 り 尽 く し た
訳 出 に あ た っ て 訳 者 が 割 愛 し た と「 あ と が
しれない(もっとも「茶道」に関する数章は
世界に関する記述はちょっと物足りないかも
しまっている読者には、この本の、特に東洋
くさんあるし、そういった本をすでに読んで
「世界史」だから、もちろん日本の茶道に
ついても触れる。利休についての専門書はた
趣をそそる。例えば屋台の飲み屋のような路
からこんなことも分かるのかと驚かされる。
夜食の文化誌
夜食とは、夕食の
後に食べる食事のこ
「内部」の人間が書く視点とは当然やや異な
西村大志編著
青弓社
とを指す。深夜まで
「本書を読んだからといって、食欲をそそ
られたりはしないと思う」とあるが、料理本
いというものであった。その点に関しては若
んのことが語られて
茶の歴史について
はもうすでにたくさ
干拍子抜け。結局は「茶」にまつわる話を、
東西からかき集め、レジュメしたと言ってし
まっては、やや辛口になってしまうだろうか。
及し文化 として成熟したのか。「夜食」とい
お勉強につかれたとき、なんだか一息入れた
ビアトリス・ホーネガー著
平田紀之訳 白水社
中国の霊薬から世界の飲み物へ
茶の世界史
やダイエット本では満たされない知識欲を十
本書を手にとったときに期待したのは、副
分刺激してくれる一冊だ。 (夏太
郎) 題にあるように、茶がいかにして「東」から
(二四〇頁 税込一六八〇円 月刊) 「西」へ伝わったのか、そこを詳しく知りた
るその視線は、好意的に見れば楽しくもある。
続く受験勉強やバイ
トの途中で、コンビ
ニのおにぎりやおでんなどを摂った経験のあ
る人も多いだろう。夜型生活の人には今や欠
かせないものになったと思われる夜食だが、
その歴史的背景は案外知られていない。たと
えば、屋台のラーメンにつきものの哀愁漂う
チャルメラの響きはどこでいつごろ、どのよ
うに発生し広がっていったのか。
うなじみ深く当たり前に思えそうで、実はよ
きた。一体この本は
著者は研究者ではなく、参考文献表はつけ
られているものの註釈は本文中になく、本書
く分かってはいないテーマを取り上げる。文
これから何を語ろう
みてはいかがでしょう。 (投稿・きうり)
(二八三頁 税込三一五〇円 月刊)
いとき、あるいは暇な休日の午後。本書をラ
取り早く知りたい、という読者には有り難い。
のようなテーマがありうるのか、それを手っ
は「研究書」とは言い難い。茶に関して、ど
化史や歴史社会学ではときにこのような人々
ンダムに開き、雑学でほっこりあたたまって
ことである。
括的に、淡々とわかりやすく披露したまでの
の好奇心を満たしてくれる仕事が生まれる。
村フィールドワークと道具立てだけみても興
1
落語にみられる風俗描写、昔の新聞記事、
東京市の統計調査、高齢者アンケートに農漁
と い う の だ ろ う? 一 言 で 言 っ て 本 書 は、
「茶」という主題に関して言われたことを包
本書はこのような問いをトピックに日本の
夜食を探求する。夜食はどのように全国に普
1
2010. 5. 10
綴 葉
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神 の 極 意 」。 こ の 自
「 母 親 の 優 し さ に
包まれた、起業家精
本書の「啓発」という役割と、純粋な読み
応えはまた別の話。自己啓発本は傲慢で胡散
生をより豊かにする指針であるのが窺える。
神は彼女にとってはビジネスだけでなく、人
にためらうな、ということである。起業家精
和訳風だが、自分の夢、希望を達成するため
自身に許可を与える」こと。いかにも英語の
ることを説く。彼女の言葉を使えば「あなた
ャンスをよく見ること、不可能を可能に変え
いに対し、彼女はシンプルに、身近にあるチ
くロボットを「当初設計されたとおりのこと
表現がまさにそうであるように、我々はとか
書のテーマ、自律的に環境と相互作用するロ
との間にあった決定的な
実 際 の 犬 と AIBO
違いとは何だろうか。煎じ詰めればそれが本
という。悲しい話である。
と 人 は AIBO
を生きているかのように思うこ
とができなくなり、「飽きて」しまったのだ
すると同じことしかしなくなった。そうなる
された通りのものでしかなく、一定期間経過
歳のときに知っておきかったこと
己啓発本のポップを
臭いものも多い。しかし、彼女の息子への愛
阪急コミュニケーションズ
スタンフォード大学 集中講義
ティナ・シーリグ著 高遠裕子訳
書けと言われたら、
間違いなく前進を続けている。 (峰)
(二五八頁 税込二七三〇円 月刊)
長い道のりが横たわっているが、それでも、
号を自律生成しコミュニケーションするには
書はひとつの中間地点を示している。未だ記
れを設計に反映する緻密な作業によって、本
トにとって環境とは何か。透徹した考察とそ
ている。適応的とはどういうことか、ロボッ
し、適応的な行動を自ら獲得する能力を備え
な動作しかできないが、自律的に環境を認識
的な環境変化という条件の下で、極めて単純
だけのロボットである。彼らはあくまで限定
前面に赤外線センサを備えて車輪で自走する
本書に登場するロボット達は、対象の移動
に合わせて目を動かすだけの顔ロボットや、
しかできない」と考えてしまう。
ボットにつながっていく。「機械的」という
きっと私はこう書くだろう。
情が、本書を救っている。 (満潮
)
(二三一頁 税込一四七〇円 月刊)
コミュニケーションする
ロボットは創れるか
記号創発システムへの構成論的アプローチ
数年前大ブームを
巻き起こし、いつの
谷口忠大著 NTT出版
間にか私たちの身の
スタンフォードというネーム・バリュー、
二〇歳という、日本人に馴染みのある年齢。
目を引くタイトルである。著者の紹介を少し。
彼女は神経科学で博士号を取得、経営コンサ
ルタントを経て、現在はスタンフォード大学
工学部などで、起業家精神を教える、という
本書が書かれたきっかけは、まもなく二〇
を迎える彼女の息子にある。直に独立する彼
あるプログラムの責任者である。
に対し、彼女は自身が二〇歳の時に知ってお
しまった犬型家庭用
きたかったことを講義にまとめ、本に残した。 回りから姿を消して
言いかえれば、息子が二〇歳の時に知ってお
ロ ボ ッ ト「 AIBO
」 を 憶 え て い る だ ろ う か。
はある時点までは飼い主との相互作用
AIBO
によって新たな行動を習得し、「成長」して
く べ き こ と を、 本 を 通 し て 伝 え て い る。「 母
の優しさ」と最初に書いたのは、そのためだ。
いった。が、その「成長」は予めプログラム
11
3
20
とはいえ中身は大学の講義録と大きく変わ
ることはない。起業家精神とは何かという問
4
綴 葉
No.287
神話が考える
ネットワーク社会の文化論
ある。これらは特に、実際に東方をプレイし
が彼の精神を乱していく。最期の場面、甥に
不信仰による周囲からの孤立等の苛酷な状況
が、子供の事故死や放火被害による家庭崩壊、
特に印象的なのが、荒野の死闘を生き抜く
義賊コスマの人生哲学だ。
たりニコ動で休日をつぶしたりする読者には
神話が考える。この一見首を傾げたくなる
タイトルにまず評者の食指は動いた。読み進
人生を諭す一方、居合わせた知人に突如、凶
むと、そのちぐはぐさが意図している転倒が
強制されずに過ごした時間よ。自由な人間に
《「人の一生ってのは、生きた年の数じゃねえ。
強力な説得力を持つ細部となるだろう(あえ
近頃頻繁に「ゼロ
年代」という言い回
どんどん興味深く思えてくる。さしあたりの
暴な義賊だったコスマの伝説を語るよう要求
しを見かけるように
理解の起点をネットワーク社会の実感に求め
て略称で例示する。そのほうがきっと実感に
なった。二〇〇〇年
つつ、そこからじっくり論旨を追っていきた
近いと評者は信じる)。
代も一〇年経って、
福嶋亮大著 青土社
とりあえず一区切りという時期に来ているの
うな旅人だが―》
らゆる言葉で語りかけてくれる、目も眩むよ
《風は―自由な人間たちには、この地上のあ
言葉を補完する。
間像。そしてロマンチックな風景描写が彼の
怒り・嫉妬に任せての殺しや巧妙な騙し、
自由奔放な恋愛、極端に感情的なコスマの人
死ってことさ」》
すりゃあ、自由じゃねえってことはすべて、
するのだった。
だろう。時代性、現代性はとかくセンセーシ
パナイト・イストラティ著
田中良知訳 未知谷
アンゲル叔父
い一冊。 (峰)
(三三一頁 税込一九九五円 月刊)
ョナルであるべきで、そのセンセーションの
先陣を切る論客が必要とされる。帯文にもあ
るように、この著者はゼロ年代を総括する論
壇の旗手と呼んで差し支えあるまい。そう思
わせる気迫と、勢いだけに終わらない入念な
対象の観察と冷静な分析が読む者の思考を揺
ブカルの中でも象徴的ないくつかの事例に対
を試みる文化批評である。目を引くのは、サ
本書は様々なサブカルチャー的なものを軸
に据えつつ、理論的視点からそれらの再配置
に触れる機会もやはり少ない。
本人にとって親しみが薄い国の一つで、文学
いったところか。日
ドラキュラやロマと
と言えば、せいぜい
るのは都合が良すぎるけれども、それもまた
この国の空気こそ「ルーマニア的」と解釈す
がとても新鮮だった。自由と狂気が交錯する
当初は「ルーマニア的な何か」に触れたい
という軽い気持ちだったが、何よりも「バル
する透徹した観察と分析、さらにいえば、実
ルーマニアと聞い
て思い浮かべるもの
際にネットワークを利用し情報を得ている
3
カンのゴーリキー」とも評される著者の描写
(であろう)著者の実感から(おそらく)寸
「楽しむ」営みの一つであろう。 (もずく)
(二五四頁 税込二三一〇円 月刊)
分も離れることなく展開される緻密な論述で
本書はそんなルーマニア人小説家の一九二
四年の作品。田舎町で暮らすアンゲルだった
さぶる。
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2010. 5. 10
綴 葉
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アンドレ・コント=スポンヴィル著
哲学
秀吉を襲った大地震
錯覚であろうが、そう思わしめる何かがある
もカントもわれらの隣人……と言えばこれは
もちろん一方で、哲学は軽やかに時代や地
域をこえて輝く。アリストテレスもパスカル
ものである、という程度の意味である。
本書は現代フランスにおける「哲学」を扱う
的文脈を踏まえたもの(のはず)で、そして
く、啓蒙的な入門書とはその時代・地域の知
である。これは別に詭弁として言うのではな
門者には向かないかもしれない優れた入門書
のシリーズが全般的にそうであるように、入
白水社がひたすら翻訳出版を続けているシ
リーズ《文庫クセジュ》の一冊であるが、こ
跡の地震痕跡調査を中心とした、比較的新し
この「地震」を軸に、戦国時代を検証する
のが、著者の提唱する地震考古学である。遺
下。彼はこの、二つの地震の直撃を受けた。
戦国大名の運命をも変えた。当時は秀吉の天
先に挙げた天正と伏見地震の影響は大きく、
世は地震の連続した時代であった。とりわけ
ると言う。実は、現在と同じように、戦国の
〇年前の戦国時代、天正、伏見地震にまで遡
大震災と同じような大型の内陸地震は、四〇
い。例えば関西を襲った大地震。阪神・淡路
に起きる。ただ、地震のサイクルは非常に長
が頻発した後、東南海からの大地震が周期的
最近地震が多いなと思ったら、道理で今は
地震の活動期という。日本では、内陸型地震
それにしても、人体の器官について意外な
ことが解っていなかったり、逆に肺や細胞に
うガチガチの文系学生にとっては読みやすい。
知れないが、高校で生物を履修したきりとい
頭に入ってくるというお得な一冊。生物学を
な仕組みから生物の進化の過程まで何となく
うな文章を追いかけながら、遺伝子の基本的
の」と訊かれると困ってしまうが、流れるよ
ドで答えていく。「知ったところで何になる
次々と提出し、それに「複製」というキーワー
はこういった生物の姿形にまつわる疑問を
はなぜあんな形をしているのか。本書で作者
取るとなぜ傷が治りにくくなるのか。赤血球
気管と食道はなぜつながっているのか。年を
そういわれれば不思議だ。「おへそはなぜ
一生消えないか」。確かに、あれはいらない。
おへそはなぜ一生消えないか
人体の謎を解く
武村政春著 新潮新書
のは間違いない。ただ、哲学者の誰の何をど
い学問である。秀吉も恐れた天正、伏見地震
地震考古学で戦国史を読む
寒川旭著 平凡社新書
のように語るか(そして語らないか)は、ア
の痕跡は、様々な遺跡の断層の中に残ってい
文庫クセジュ
小須田健、
照屋裕美子、
コリーヌ・カンタン訳
カデミックにもジャーナリスティックにも、
勉強している人には当たり前の内容なのかも
時代と地域の問題であり、そのことに無自覚
な「哲学」は、むしろ唾棄すべきものとなる。 る。本書は調査結果と現存史料を重ね合わせ、 ついてそんなことまで明らかになっているの
とりあえず私のおへそに対しては、つつき過
ぎないようにして、こまめに腹筋運動をしよ
13
二つの地震と社会の実態を明らかにしている。 かと驚かされたり、生き物はやっぱり面白い。
史料分析はやや単調だが、実地調査報告と
のバランスは良い。歴史に学ぶことが多いの
2
「哲学」ズレを修正するには、良質の現代
フランス哲学者との視差はかなり有効。大胆
うと思った。 (大福)
(一九〇頁 税込七一四円 月刊)
は、地震についても同じである。 (満潮)
(二七七頁 税込九〇三円 月刊)
1
にも「哲学とは何か」という問いから始める
(一五二頁 税込一一〇三円 本書は、建付けの確認に好適である。
(韓
図)
月刊)
2
綴 葉
No.287
新書コーナー
最近読んだ本
ディストピア的近未来を通した社会批判の視点といった重厚な主題
物語を語るのだ。そして本書は、とおりいっぺんでない人間描写、
想像力も、ファンシーな想像力も、ここでは慎重に抑制して飛翔の
サイエンス・フィクションは歌の翼にのって文学の高みへと翔ぶ
歌の翼に
を陰に陽に孕むことになる。
ていうか、これ必要ねえよ
これはダニエルと、そしてわたしとの、共通の興味津々
る。飛翔することでどんなメルヘンでファンシーな世界にいけるの
飛翔がいかなるものか、知らない。わたしも知らない。そして憧れ
ニエル少年は禁じられた飛翔を実現しようと奮闘する。ダニエルは
近未来アメリカ、歌うことでうまくすると「飛翔」することがで
きる世界の話。SFだ。メルヘンすぎる設定だ。ファンシーだ。ダ
崩壊、ジム設備を盛大に破壊して拳銃で脳みそを吹き飛ばして自殺
るものの、頑として筋トレメニューを減らさず、ついには心身とも
ディ・ビルダーが紹介され、配給制のせいで筋肉を維持しがたくな
もなんでもないから困る。それはこんな話である。ハリーというボ
で書いたのだが、ここに全然必要ない挿話があって、それが伏線で
ダニエルが運命に翻弄されるくだりがある。今まさにわたしは一行
トマス・M・ディッシュ著
友枝康子訳 国書刊行会
だろう?
さて、ここまでかなりディッシュを持ち上げたのだけれども、い
い意味でアホすぎる点も満載である。食糧不足で配給制が敷かれ、
ポイントである。
それでもこの挿話の妙な滑稽さと哀しさが、要らないはずなのだ
けど要るように感じられてならない。いや、寄り道で楽しませると
する。要らないんですけど。いや、マジで要らないんですけど。
ころに、本書の文学としての底力があるということなのだろう。だ
話はダニエルの少年時代に始まり、その成長を追って展開する。
しかし、何ページ読んでもダニエルは飛翔できない。やがてわたし
はディッシュの狙いを思い知る。「メルヘンとかファンシーとか、
くたちは翔べるのか。結果を読め。そして泣け。 (
投稿・派生体)
(四二〇頁 税込二五二〇円 月刊)
不運なダニエルに人生の茶柱は立つのか。ダニエルは、そしてぼ
案外面白くなかったりすることに思いいたる。
である。無駄のない、すべてが物語展開にとって必然的な小説って、
は関係ないおしゃべりなのであって、しかもそれが面白かったはず
って、かのドストエフスキーの大長編だって、その九割五分くらい
早く翔んでくれ!
そんなお遊び、ありえません!」翔んでくれ!
アイデアか、厚みか
SFは何をすべきだろう。本書解説の若島正はディッシュとイア
ン・ワトスンの論争を取り上げる。ワトスンといえば問題作『オル
ガスマシン』(
コアマガジン)で女性が高性能ダッチワイフに加工
される世界を描いた、サイエンス・フィクションが止まらない作家
である。ワトスンがSFの使命をアイデアに見出すのに対し、ディ
ッシュは言語芸術としての完成を第一とする。だから、メルヘンな
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14
批評理論への誘い
に何が残ったのか。『現代批評理論のすべて』( 新書館)の「はじめ
に」にある、編者大橋洋一の言葉に耳を傾けたい。曰く「従来の神
「去った」という認識は重要である。対象把握に際して適切な距
離が取りやすくなる。「理論、理論!」というかつての大合唱の後
「 理論」の流行が去って後――今考えるべきこと
も知れない。けれど各理論の持つ「正しさ」が妙に気にかかる。
ポストセオリー時代の「理論」
とは?
文学部唯野教授
筒井康隆著
岩波現代文庫
秘化された得体の知れない文学研究や批評や教養主義の閉域に対し
アカデミズム風刺と「唯野教授」の文芸批評講義からなる本書は、
て、理論は風穴をあけ、誰にも理解できる共通言語(たとえ多くの
気軽に読めて大いに笑える、極めて良質の「文学」入門である。特
二〇年ほど前の本であるが、現在ある意味でアクチュアリティーを
と同時に、理論構築に付きまとう陥穽を鮮やかに描き出している。
にT・イーグルトン『文学
とは何か』( 岩波書店、現在「新版」)を
下敷きにした講義部分は、批評理論の概略をつかむのに便利である
る。何でも「文学」として捉えてみる。今そういう潮流がある。
続され、「読むことの理論」として各分野への適用を試みられてい
他性を打ち砕いた」。結果「文学」を語ることはその周辺領域と接
思想家や理論家たちの言語が難解であっても)によって、神秘と排
増しているように思われる。思い立って読み返してみた。
考えるべきは恐らく、どの分野にもつきまとう「自分」というも
のの見えにくさと、その状況への対処の仕方についてである。批評
是非とも主観が相対化される必要がある。この難題解決のために
多くの「理論」が立てられた。既存の価値観を揺さぶるような、そ
評を営むとなると話は別であろう。批評の本質は公共性にある。
読める人にしか読めない。そういうものは確かにあるが、しかし批
たさらに大手を振っている。これを「批評」と呼んではいけない。
読んで面白いかどうかこそ、文学を評価する上で決定的な基準で
ある。このような「批評」の仕方はかつて非常に盛んであり、今ま
であり、だから彼の講義もまた「文学」なのだが、その辺りの読込
そんな中、唯野教授は「虚構の、虚構による、虚構のためだけの
理論」構築の可能性を示唆する。そしてそれは本書の構成そのもの
しまうというアポリアを、多くの理論は超えられなかった。
へと通じる。打ち立てた理論が正しいほど方法論的な過誤を犯して
いが、他方理論構築を徹底して推し進めることは体系自体の絶対化
に他ならない。その狙いが自己の相対化にあることは言うまでもな
を理論化するということは、自らの外部に判断の基準を設けること
れぞれ魅力的な一面を持った「読み方」が、提示されては消えて行
「 理論」を検討する必要
った。着眼点と直接的な批判点については、その多くが恐らく「正
みは読者が各々加減するべきことである。 (一升瓶)
(三七三頁 税込八四〇円)
しい」。ブームは去り、今どき「理論」にこだわるのは時代遅れか
15
綴 葉
2010. 5. 10
当てよう!図書カード
編集後記
この 4 月から編集委員になりました(峰)
新緑の季節には京都観光などいかがでしょ
です。進学、引越しなど、今年度のはじめに
う。便利なのが市バス専用 1 日乗車券カード
は私の周りの多くの物事が変化しました。そ
ですが、均一運賃区間外では別途料金が必要
うした変化の一つとして新たに加わった「書
なので注意です。2010年現在、区間外の停留
評を書く」という活動は、これまでの散漫で
所は次のうちどれでしょう?
すぐ忘れてしまっていた私の読書にも変化を
1 . 金閣寺前
及ぼしているように思います。まぁ現段階で
2 . 銀閣寺前
は、能動的に読み、面白いと感じたプロセス
3 . 太秦広隆寺前
を具体的に表現する、なんてことが手際よく
4 . 嵐山天竜寺前
できるようになったらいいな、という期待ば
《応募方法》読者カードに答えを書き、生
かりが先行している感は否めませんが。
協のひとことポストに入れて下さい(または
自分で本を読んで書く以外にも、他の人が
e-mail:[email protected])。正解者の中から抽
書いた書評を間近で眺め、統合し 1 冊のリー
選で 5 名の方に図書カードを進呈いたします。
フレットにするという作業を介して、これま
締め切りは 6 月15日です。
(もずく)
ジャンルに対する態度も変化しつつあるよう
2月号の解答
に思います。ただ生活していると意外と難し
2 月号「 2 月の異称として適当でないもの
い、書物を介したコミュニケーションへのと
は?」の答えは 6 . 染色月(しめいろづき)で
であまり真剣に捉えてこなかった書評という
ば口が開かれつつあるのでは、と。書評に対
した。ちなみに 4 月は卯花月、鳥来/鳥待月、
する関心と、それを実際に手に取る機会。こ
花残月、5 月は菖蒲月、五色月など。今回は
れが今のところ、新たな生活で手にした大き
応募者 8 人と少なく、その全員が正解でした。
なものではないかなと思っております。
当選者は大江戸さん、だいこんさん、佐間瀬
今後とも、綴葉をどうぞお引き立てくださ
務さん、デジタル金魚さん、adbmalさんです。
いませ。
おめでとうございます。
(峰)
読者からひとこと
○(興味を持った書評に)「薬と植物」。また、
とくに毒についての話が面白かったです。薬
というテーマでここまで書評を組めるとは! と薬の開発のプロセスがよく判った。
面白かったです。 (理・
たすぜろ)
○(「 薬 の 化 学 」 に つ い て ) 薬 が 何 故 効 く
か?
(経・ぶんぶく)
月号では、興味を持った書評に「薬」の
(工・
ライフサイクル)
○(「毒を薬に」について)とても興味深い
内容でした。 (医・
たぬきのポンきち)
○毒の怖さ、毒の悪の深さに興味を持った。
―
特集を挙げてくださった読者の方が多数おら
れました。読者に理系の方が多いことを反映
したのでしょうか。それとも花粉症薬などで
身近な存在だからでしょうか。特集のテーマ
については編集委員一同いつも四苦八苦して
います。特集案についてもご希望がありまし
たら、読者カードや表紙に記載されたメール
アドレスまでご連絡ください。
―なお現在『綴葉』では書評の投稿原稿と編
(夏太
郎)
集委員を絶賛募集中です。関心のある方は、
こちらもメールや読者カードからお気軽にお
問い合わせください。
3
(一升瓶)
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