oymt200412.pdf (912KB) - 大倭紫陽花邑

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法主 矢 追 日 聖
光明皇后の罪を反省する心
福祉 の施設 も、 光明 皇后さ んに 作って
欲 しい と言わ れた んで す。こ の人 も生き
てる時には、ライ病患者の世話をしたり、
い ろん な事し はっ た偉 い人ら しい けれど
も 、ま た反面 一つ の罪 を作っ てる 。それ
は 、藤 原一門 から 皇后 さんに なっ てるの
や から 、あの 時代 とし たらえ らい 権力者
ですわ。だから国分尼寺を造れと言えば、
全 国に 一斉に 造る んや もん。 その ために
ど れだ けの材 料と 、ど れだけ のお 金と、
今みたいに機械で簡単に出来へん時代
に 、ど れだけ の労 力と 、犠牲 をは ろうた
か 考え てみぃ 。
しか し結論 は、 お寺 を建て たか ら言う
て 、何 にもな らん とお っしゃ るん です。
社 会福 祉にな って ない わけな んで す。そ
も ら まあ 坊さん が今 日ま で守り して 文化財
に なっ て結構 やけ れど も、た だ文 化財と
し ての 効果だ けじ ゃ、 お寺自 身が 何にも
人 間を 幸せに して ないわ けや わね 。
光明 皇后さ んは 、自 分は罪 を犯 してい
る 、恥 ずかし いと おっ しゃる 。だ からも
う 一度 、千二 百年 後の 今の世 で、 自分の
ほ んと の心、 つま り現 在の言 葉で 言えば
社 会福 祉の心 で仕 事を してほ しい と。そ
れ が光 明皇后 さん の心な んで す。
まあ 、そう いう よう なこと を言 葉とか
話 とし てだけ やな しに 、心で 受け とめる
皆 さん 方にな って ほしい なと 私は 思う。
今月 号の﹃ おお やま と﹄は また 自分で
読 んで おいて 下さ い︵ 法主様 、孫 ‚曾孫
(1)
0 1 0 5 0‐6‐6 7 0 0 2
大 倭 出 版 局
URL http://www.ohyamato.jp
大倭出版局・大倭紫陽花邑
(題字 矢追日聖)
★振替口座
年間購読料3,000円
(送料共)
毎月23日発行
通巻 412 号
★発 行 日 平 成 16 年 12 月 23 日
★発 行 所 大 倭 出 版 局
631‐0042 奈良市大倭町の12
(0742)44‐0015
★印
刷 大 倭 印 刷 株式
会社
★定
価
部 2 5 0 円
平 成 16 年
,- 月 号
11月日、鎌倉にて 齋藤正宏さん撮影(一泊文化行事報告・頁)
平成
(1994)年11月23日月次祭法話より
宗教は社会福祉の心(下)
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世代に 語る ﹁子供 時代 おお やま と そ して これ
から﹂︶。
こ こで 生ま れて大 きく なって る子 供達が 、
大倭の こと を知ら ない ので、 法主 さんか ら昔 の話
やとか 、色 んなこ とを 聞かし たっ てほし いと 言わ
れてね 、こ れは子 供と の話し 合い ですね ん。 だか
ら今 日は 年 い っ て る 人 ば っ か り や か ら ︵ 笑 ︶、 こ
こに書 いて る程度 のこ とは必 要な いと思 うし 、そ
の代わ りに 、安宿 苑の 文化祭 やか ら、こ うい う話
をして おり ます。
お互いに幸せに暮らしていく心
皆さ ん方 には特 に、 神さん 祀っ て拝ん でそ して
ご り や く
御利益 があ るのが 宗教 だとい うよ うなこ とは ね、
忘れて ほし いと思 う。 病気に なっ た時に はお 医者
さんに 掛か っても らっ たら結 構な んです 。
そし てま た幸せ にな りたか った ら、人 間と 人間
がお互 いに 親しく 愛し 合う、 そう いうよ うな 心を
皆持っ てほ しいと 思う 。あの 人嫌 いや、 この 人好
きや、 そう いうよ うな 心をな くし てほし い。
人間 と人 間は、 みん な神さ んの 力で生 かさ れて
いると いう こと、 生き てるん じゃ ないん です 、そ
れをも っと 自覚し てほ しい。 世の 中は、 一人 で孤
立して は生 活でき ない んです 。み んなの 力。 私の
着てい るこ れ一つ でも 私が作 った のと違 うん です
よ。材 料作 っても ろて 、織っ ても ろて、 また 縫う
てもろ て、 幾多の 人の 手によ って 出来上 がっ てい
る。社 会で は、自 分だ け孤立 して は絶対 生活 でき
ない。 自分 達がこ うや ってお 互い に結構 に生 きて
いける とい うこと は、 社会み んな のお陰 なん です
ね。だ から 生かさ れて おるん や。
心臓 を動 かすの かて 自分で はで きへん 。心 臓を
動かし てく れるの は、 神さん の力 です。 自然 の力
と言う ても 同じや 。神 さんと いう 言葉を 使っ てる
平成16年12月
おおやまと
通巻412号
だ けで。 みん なが 平等に 空気 吸わし ても ろて、 平
等 に天地 自然 の力 によっ て生 かされ てい る、そ の
力 が神さ ん。 そう である 以上 は、み んな 神さん の
子 供なん や。
その時 に神 さん は人間 一人 一人み んな に、何 か
の 能力を 持っ て生 まれさ せて おるん やか ら、自 分
の 持って いる 能力 を発揮 して 、そし てお 互いに 助
け 合 っ て ︱︱ こ れ が 相 互 扶 助 で す ︱︱ み ん な が 幸
せ に暮ら して いく という よう な心に なる 、これ が
宗教心なんです。宗教の心というのは神さんの心、
自 然の心 とい うこ とにな るん です。
皆さん 方も 大倭 へお出 でに なった ら、 そうい う
よ うな心 にな って ほしい と思 います 。
光明皇 后さ んや とか聖 徳太 子さん が、 宗教で 行
け と言わ れた んで 、私も 大倭 教とい うよ うな宗 教
団 体の名 前を 使っ てます けれ ども、 何度 も言い ま
すが、御利益主義的な宗教ではないということは、
はら
皆 さん方 もよ く自 分の肚 に入 れてほ しい 。
その上 で大 倭に 来られ る皆 さんは 、共 に育っ て
き た兄弟 ‚家 族と いうぐ らい の気持 で、 お互い に
無 いとこ ろは 助け 合って 、み んなが 幸せ にいく よ
う にお付 き合 いを してほ しい と思う 。
幸せと いう こと はね、 言葉 で言う たら 、これ は
何 にでも 喜び を持 つとい うこ となん です よ。た と
え ば、う ちの 施設 の中に は、 身体障 害者 もおれ ば
心 身障害 者も おる 、ある いは 痴呆症 の老 人も入 っ
て ます、 色ん な人 がおり ます 。その 人達 の場合 で
も 、自分 で喜 びを 持つ、 その 時間、 これ が幸せ や
と 思う。
幸せと いう もの には永 続性 がない んで すよ。 全
部 瞬間的 なも のな んです 。け れども その 瞬間を 何
遍 でも繰 り返 して 持てる よう な人が 幸せ なの。 若
い 人なん か、 恋愛 時代は 天に 昇るほ ど幸 せやと 思
っ てる。 とこ ろが 結婚し てし まって みぃ 、だん だ
ん熱が冷めてくるわ︵笑︶。今度子供が出来たら、
うる さく なって くる わな。 そう なった らポ ンと離
婚す ると いうの がこ の頃流 行っ とる。 だか ら、こ
の人 と結 婚でき たら 幸せや なと 思って る、 その心
には 滅多 に永続 性が ない、 瞬間 的なも のや ねん。
だ から 本当の 幸せ とは何 ぞや という こと になる
んや けれ どもね 。今 が幸せ やと 思った かて 、そん
な心 はす ぐ変化 する 。
な
〆 縄と いうの は、 二本の 縄で 綯うと 、表 と裏の
目が 出来 るわな 。そ のよう に人 生には 、善 と悪と
か、 幸と 不幸と かい うもの が、 裏表に へば りつい
てい ると いうこ とな んです 、こ れ。
結 局、 幸福と いう のは喜 びの 時間を でき るだけ
こし らえ るとい うこ となん です 。永続 性が ないね
んか ら、 その日 その 日の自 分と して、 日々 何か喜
びを 持て るよう な心 になる こと が幸せ の連 続なん
です 。
だ から 私はね 、朝 、目を 開け たらね 、あ んたら
笑う か知 らんけ どね 、
一 番先 に小便 しに 行くね ん。
ああ 今日 も小便 出し てくれ る。 ほんで また すぐに
は大 便出 えへん けど 、今日 かて 十一時 頃、 ちゃん
と按 配出 て来て ん。 ああ大 便も 出して もろ た、あ
あ身 体の 中のパ イプ は健全 や、 ああ嬉 しい な。そ
ら幸せですわ、その瞬間は、ものすごう嬉しい
︵笑︶。
そして、今日は文化祭や。ああ今日も嬉しいな。
みん なの 顔見た ら、 私が施 設長 として 現役 でおっ
た時 分の 住苑者 が、 喜んで 話を 聞いて くれ てる。
もの も全 然言え ない ような やや こしい 、そ の子の
お母 ちゃ んも一 緒に 来てお って 、私の 挨拶 を聞い
て﹁ この 子涙こ ぼし てます ねん ﹂と言 うん や。ま
あ至 福の 喜びと 言う んかね 。そ ういう 喜び の連続
が幸 せに なって くる ねん。
だ から 皆さん 方も 、一日 の中 で必ず 、今 日は嬉
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しいな と喜 びを持 つよ うな時 間を 作って 下さ い。
朝目を 開い た時に 、あ あ生か され てるな 、あ りが
たいな と思 う、そ れで もいい んで す。そ れで また
お日さ んと か神さ んに 向かっ て手 を合わ せて 、朝
の礼拝 する 。それ がも う喜び の第 一歩や わね 。そ
ういう よう なもの が連 続して いっ てくれ た時 に、
お互い に幸 せな人 生が おくれ ると 思う。
それ で最 期のお 迎え の時に も喜 んで逝 ける よう
にとい うこ とやけ ど、 何かこ の頃 、臨死 体験 とか
テレビ でよ うやっ とる なあ。 けど 、あれ は殆 ど嘘
やで。 ほん まの臨 死体 験、ほ んま に死ん でし まっ
ている 霊の 世界と いう のは、 肉体 とはっ きり 切れ
てしまわなくては分からへんよ。また戻って来て、
もの言 える ように 記憶 してい るん やもの 、あ れは
ちょっ と変 わった 夢の 一部分 なん です。 だか らま
あ、あ の人 はそう いう 経験し ては るんや なと 、そ
の程度 で聞 いとい てほ しい。 本人 は何も 嘘言 うて
ない、 本当 のこと 言う てるん やろ から。 夢の 物語
やけど ね。
とに かく ね、ど うか 皆さん もお 互い仲 良う して
ほしい 。そ れで、 それ ぞれ喜 びの 時間を よう けい
持って ほし い。一 日一 日を、 何で も悪く 解釈 せん
と、善 意に 善意に 解釈 して喜 んで 暮らし ても らっ
たら、 人生 は幸せ に続 いてい くと 思いま す。 そう
いうふ うな つもり で皆 さんと 長く お付き 合い して
いきた いと 思って ます 。
私もね、今月の二十三日で満八十三歳になります。
︵鈴月母さんの声、﹁今月とちがうよ﹂︶
来月 、来 月、十 二月 の二十 三日 、これ はも う痴
呆や な︵ 笑 ︶。 生き てる こ と に は 大 分 も う 堪 能 し
てるけ ど、 生かさ れて るから 、す かたん も言 える
わけや。死んでたら言われへんわなあ︵笑︶。
︵鈴月母さんの声、﹁幸せ!﹂︶
そや そや 幸せや 。生 きてる から 言える 。こ れも
流れの淵にいて⋮
林
修
三
お付き合いしていきたい。もう先が短いだけにね、
よけ い皆 さんと 親し く遊び たい と思っ てお ります
ので ね、 今後も よろ しくお 願い します 。
時の波蕩(その十一)
それ は夢 のよう でも あった 。
澄み 切っ た青空 の下 の白色 に輝 く力強
き岩、 古代 の人々 は踊 り、そ して 唄って
いた。 まさ にこの 世の 平和境 。し かし、
そこに 一人 ウツウ ツと し、心 楽し まない
わず ら 私 が い た 。 私 は 私 に 問 う 、﹁ 戦 い 、 煩 う
心は、この私自身が望んでいるのか ﹂。
そ こに 私はハ ッキ リと見 たの だ。こ の世 の平和
を心 から は望ん でい ない正 に私 自身を 。
﹁ 私﹂ とは何 なの か?
移 ろい 、止む 事の ない大 きな 時の流 れの 淵にい
て、﹁私﹂が、
﹁ 私﹂ がと叫 び、 凡てを 自分 自身の
もの にし 、名誉 に、 財産に 、地 位に、 家族 にしが
みつ こう として いる 、底し れな い強い 欲求 の根元
であ るこ の﹁私 ﹂と は。
そ れは 決して その 川の如 き﹁ かんな がら ﹂の流
れの内には入ろうとせず、その側にいて、苦しみ、
りき
嘆き 、力 み切っ てい る。
気 がつ けば、 幾多 の同胞 も又 、その 岸に 立ち続
けて いる 。その 岸に は此岸 も彼 岸もな く、 今この
世を 生き るヒト も、 過去に 生き たヒト も共 に立ち
すべ
つく して いる。 数多 くの恐 怖を 胸に、 なす 術もな
く⋮ ⋮。
﹁ まつ ろえぬ 者達 よ。恐 れか ら逃げ ては いけな
い。 ただ 、それ を見 つめよ ﹂
我 等を はげま す声 がある 。
そ れは 夢⋮⋮ のよ うでも あっ た。
?!
ま た喜び と考 えた ら一番 ええ わな。 私も お陰さ ん
で 、来月 二十 三日 までは 健康 にいけ るや ろと思 い
ま す。皆 さん もお 暇があ った ら、遊 びに 来て下 さ
い 。何も 降誕 祭や からお 祝い に来よ うと か、神 さ
ん に参ろ うと かや なしに 、ま あ私の 顔で も見に 行
こ うやな いか とい う親し い気 持で遊 びに 来てほ し
い 。これ は遊 びで すから ね。
私の父 親が 八十 歳で死 んで ますね ん。 そやか ら
も う私、 父親 より も三年 長生 きさし ても ろてる ね
ん 。母親 は、 八十 五か六 まで 生きと った かな。 私
も まあ何 とか そこ までぐ らい は生き てる やろか な
あ と思っ てま す。
縁のある者同士
生きて る間 は皆 さんの 顔を 見られ ます しね。 と
い うこと は縁 のあ る方ば っか りなん です 。これ は
も う古い 縁。 たと えば、 ここ にお供 えし てある 大
根 一本見 たか て、 始め黒 い小 さな種 を土 の中に 埋
め て、芽 が出 て目 に見え てき て、形 がで きて大 根
に なって るん やろ 。今こ うし て皆さ ん方 と私が 親
し く会え るそ の前 には、 土の 中みた いな もので 霊
界 があん ねん 。だ から今 世だ けとい うよ うな、 そ
ん な縁が 浅い もの と違う ねん 。
誰とで もで すよ 。夫婦 にな るのも そう やで。 み
ん な前の 世か らの 宿縁と いう ものが あっ てね、 今
こ うして 出て くる んや。 だか ら昔か ら蒔 かぬ種 は
生 えぬと 言う ねん な。結 婚す るにし たか て、前 の
世 からの 何か の繋 がりが なか ったら でき へん。 そ
れ を縁と 言う ねん 。だか ら皆 さん方 とこ うして 一
堂 に座っ て話 がで きると いう ことも 、ま たこれ 前
の 世から の何 かの ご縁が ある と私は 思い ます。
だから 私の 生き ている 間は 変わり なく 、肉親 の
親 戚とか 家族 以上 に親し い気 持にお いて 皆さん と
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通巻412号
おおやまと
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杉本 順一
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今に残る武人、日 蓮
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影
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あじさ い 邑
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の
レ ﹂と北 条政 子か ら言わ れる 。
私には 鎌倉 は初 めて訪 ねる 場所で ある 。
今回の 文化 行事 をどう 考え ればい いの かと思 っ
ていると、和の光の意味、大きさを皆に伝えよ 
鎌倉に立つことが、法主の心、和の光を届ける
ことになる と法主さんは言われる。
月 日の 当日 になっ た。 天気予 報で は今日 、
明 日共に 傘を 離せ ないと のこ とであ る。
くしいなだ 出発前 の挨 拶に 行くと 、奇 稲田姫 さん 、法主 さ
んはじめ次々とご霊人達が 共に行く と、にぎ
や かであ った 。
そ ん な な か 、﹁ ワ レ ラ ノ サ ト ニ モ ド ウ カ ハ ヤ
ク ︵ 我 等 の 里 に も 、 ど う か 早 く ︶﹂ と ア テ ル イ さ
んからの挨拶もあった。︵私、忘れてはいません︶
時 分、 京都 駅に集 合、 新幹線 のホ ームへ 。
時 分 発車 。車 中での 昼食 となっ た。 小田原 に
着 いたの は 時 分。J R在 来線で 藤沢 駅に。
タクシ ーに 分乗 して龍 口寺 へ。こ の寺 は、法 主
さ んと縁 の深 い日 蓮上人 が斬 首の刑 を受 けんと し
40
10
心
15
今回 の文 化行事 で鎌 倉方面 へ行 くこと は、 昨年
平成 年 月に平 家滅 亡の地 ‚壇 ノ浦に 行っ た時
から、 みん なの声 にあ がって いた 。
壇 ノ 浦 に 行 く 前 の 9 月 日 、﹁ ヒ ト ニ イ キ ヒ
トニシ ナン ト ウ マレ シニ マコ トノミ チニ ワ
レワイ タラ ズ﹂と 懺悔 の心を 私に 伝えて きた のは
源頼朝 公で あった 。
あれ から 1年、 湯浅 芳郎氏 のお 陰で大 倭会 文化
行事で 鎌倉 行きが 決ま ったの であ る。
本 年 の 月 日 の こ と 、﹁ ミ ナ モ ト ト ナ ノ ル
モノミナ コゾッテオマチモウス ヨリトモ﹂
﹁ニチ レン カマ クラ ニテマ ツ﹂
﹁ニチ ロウ ︵日朗 ︶ヒ サシク オマ チモウ シマ ス﹂
と次々 に出 てこら れた 。
月 日 の 月 次 祭 の 時 に は 、﹁ キ ヨ メ テ ク ダ サ
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た 所 で あ る 。﹃ や わ ら ぎ の 黙 示 ﹄ 1 1 4 頁 で ﹁一
大事の因縁︱︱日蓮をめぐって﹂に、
文応元年︵ 一 二 六〇︶ 三十九歳の と き ﹁立正
さいみょうじにゅうどう
とき よ り
安国論 ﹂を 最明寺 入道 ︵北 条時 頼︶に献じた
ことにはじまり、文永八年︵一二七一︶
へ い の さ え も んの じ ょう よ り つ な
平 左衛門尉 頼綱 に文書を送り 再び﹁立正安国
論 ﹂の 大 義 を 高 調 さ れ た こ と で 龍 ノ 口 で の 死 罪
と な り 、 神 秘 出現 に よ っ て執 行 不 能 と な っ た た
め 、佐 渡 の 流 罪 と な っ た の で あ る 。
と 、 法 主さ ん は 記 さ れ て い る 。
私 達 が こ の 土 地 を お 訪 ね し た こ と を 、﹁ ウ レ シ
クオ モウ ﹂と言 われ る日蓮 上人 の心に ふれ て、私
はホ ッと した。
あ とは 早めに 江ノ 島岩本 楼に 着いた 。宴 会の始
まる 前に 、龍界 と現 界につ いて 、私の 感じ たこと
を少 し話 した。
宴 会で 笑い疲 れて 部屋に もど った。 風呂 に行っ
た人 も多 かった が、 私は中 村昇 次さん とテ レビを
見て いた 。いつ の間 にか4 人部 屋の私 達の 所にバ
ラバ ラと お人が 集ま りはじ め ∼ 人 にな った。
皆、 思い おもい の話 をして 、 時 分 頃各 部屋に
もど って 行かれ た。
5 時頃 、雷の 音で 目が覚 める 。台風 かと 思うほ
どの 大雨 と大風 であ る。こ りゃ 鎌倉入 りは 大変な
ことになるかもと、思いはめぐる。そんな時、
﹁リ ュウ カイヲ シ ンジヨ ﹂と 感じる もの があっ
た。どうなるか分からないが、考えるのをやめた。
朝 8時 分、 岩本 楼を出 て、 ジャン ボタ クシー
5台 とマ イカー 参加 の3台 で、 鎌倉に 出発 する。
大雨 、大 風はう その 様にお さま ってい た。
鶴 丘八 幡宮に 参拝 。すぐ 大銀 杏に目 がい った。
﹁イチョウノキニテ オマチモウス﹂︵サネトモ︶
と、 前も って言 われ ていた から だろう 。実 朝公の
名 ば か り が 我 々 の 口 に 上 っ て いた せ い か 、﹁ クギ
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ョ ウ モ コ コ ニ オ リ マ ス ﹂ と 一 言 苦 情 ︵?︶ も あ
った。 そう だ、私 達が ここに 集ま って来 たの は、
和の光 をとどけるためだから、実朝さんと公
暁さん 両方 を会わ せる 必要が あっ たわけ だ。
次い で源 頼朝公 の墓 に参る 。小 高い所 にあ るが
階段は 幅も 狭く、 タク シーも 待ち 時間 分な どと
言われ たの で、随 分と 気ぜわ しい ものだ った 。墓
の前で ゆっ くり心 を通 わす間 もな い。手 を合 わせ
て 去 る だ け か と 思 っ て い る と 、﹁ ド ウ ゾ サ ワ ッ
テクダ サレ ﹂と頼 朝公 の思い が伝 わって くる 。と
にかく 、皆 さんに 少し でも墓 石に 手をあ てて やっ
て下さ いと 話して 、順 次下り てい くこと とな る。
︵鎌倉 宮の ことは 、字 数の関 係で またの 機会 に︶
日蓮 上人 辻説法 の地 に参る 。こ の地の 日蓮 上人
の心境 は、 どんな もの かとお 尋ね する。
﹁ ワ ガ ミ チ ヲ ユ ク コ ト イ ク ヒ サ シ ﹂﹁ ワ ガ
ジンセ イノ タイ ハン ハ コ コニ アルト オモ ウベ
シ﹂と 言わ れた。 次い で﹁ニ チロ ウ マ イル ﹂と
日朗上 人の 声もあ った 。
川端 一弘
感謝と慰霊の旅を得て
奈良 市
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文化 行事 一泊旅 行は 満十年 目の 参加で あっ た。
個人的 なさ まざま な経 緯があ り、 参加で きな かっ
たと表 現す るのが あた ってい る。 文化行 事は 法主
さんが 常々 語って おら れたよ うに 単なる 観光 や学
習の行 事で なく、 過去 の人た ちと の現地 での 交流
の行事 でも ある。 交流 する機 縁を 持てな かっ たこ
とは、 私自 身に精 神的 な余裕 がな かった ため であ
ろうし 、ま た天の 計ら いでも あっ たのだ ろう 。そ
の意味 にお いて今 回の 参加は 、転 機を経 た自 身に
とって うれ しかっ た。
さて 当日 は未明 に目 が覚め 、子 供のよ うに ソワ
ソ ワして いる 自分 がおか しか った。 関東 地方の 天
気 予報は 雨模 様を 伝えて いた が、参 加で きるこ と
の みで満 足し 、雨 は全く 気に ならな かっ た。
定刻に 小田 原駅 に到着 し、 東海道 線を 経て藤 沢
駅 に出る 。藤 沢駅 からは 宿泊 地の江 ノ島 へ向か う
途上の龍口寺に寄る。龍口寺は日蓮が佐渡配流
︵ 実質は 鎌倉 を出 た地に て斬 首とい うも のだっ た
ら しい︶ に際 して 斬首の 法難 の地と され る場所 で
あ る。境 内に は土 牢跡が 残り 、その 前に は﹁文 永
八 年未辛 ︵一 二七 一︶九 月十 二日﹂ の日 時を刻 ん
だ 石 柱 が あ り 、﹁ 身 軽 法 重 、 死 身 弘 法 ﹂ の 文 字 が
刻 ま れ て い る 。﹁ 死 身 弘 法 ﹂ と は 身 を 捨 て て 法 を
広 めるこ とだ そう である 。佐 渡配流 とい う日蓮 の
人 生の転 機を 語る 句とし て相 応しい 。
旧暦の 九月 は新 暦では 十月 にあた る。 私たち が
訪 れた十 月三 十一 日、こ の日 江ノ島 では イソギ ク
やヨメナ︵カントウヨメナ?︶がさわやかに開花
し ていた 。七 百三 十余年 前こ れらの 花は 日蓮の 配
流 途上を 見送 った のであ ろう か。
翌日は 雷鳴 で目 が覚め た。 時計を 見る と五時 五
分 前であ った 。風 雨は次 第に 強くな り五 時十五 分
ご ろには 激し いも のとな った 。寝床 で昨 夜の中 西
会 長、杉 本順 一氏 の挨拶 での 自然災 害や 龍神顕 現
の 話を思 い出 した 。その 後ま どろん だの か気づ け
ば 時計は 六時 半を 指して いた 。雨は 止ん でいた 。
七里ガ 浜沿 いに 鎌倉市 へ向 かい稲 村ガ 崎を越 え
由 比ガ浜 に入 った ころに は雲 は薄く なっ ていた 。
海 岸より 鶴岡 八幡 宮の参 道に 入り参 拝し た。参 道
は 松や桜 の並 木が 美しい 道で ある。 春の 陽気に は
花 が美し い装 いを 加えて くれ るだろ う。
鶴岡八 幡宮 とい えば大 イチ ョウで ある 。実朝 が
暗 殺され た舞 台と して著 名な イチョ ウだ 。樹齢 は
優 に千年 を越 える ものだ そう だ。梢 の葉 が少な く
太 い枝が 伐採 され ている 姿が 気にな り通 りがか っ
た巫 女さ んに尋 ねた 。先月 の台 風で大 枝が 折れ潮
を含 んだ 強風で 梢の 葉が痛 んだ そうで 今年 はよい
黄葉 は見 られな いよ うだ。 銀杏 は実ら ない という
から 大イ チョウ は雄 木であ る。 大イチ ョウ を楽し
むと とも に実朝 を偲 び慰霊 した 。
宝 物館 の説明 によ ると鶴 岡八 幡宮は 前九 年の役
の後 、源 頼義が 康平 六年︵ 一〇 六三︶ に石 清水八
幡宮 を勧 請した 八幡 宮︵元 八幡 宮︶が 前身 で、頼
朝が 治承 四年︵ 一一 八〇︶ 鎌倉 入りし た後 に再度
遷宮 した のが現 宮の 基とあ る。 治承四 年は 頼朝が
平家 打倒 を開始 した 年でも ある 。
境内には大イチョウの他にビャクシン︵イブキ︶
とイ ヌマ キの大 木が 生育し てい る。ビ ャク シンは
鎌倉 市の 天然記 念物 に指定 され ていた 。
頼 朝の 墓、大 塔宮 ︵護良 親王 ︶へ参 拝し た。両
地は 八幡 宮より 東へ 僅かの 地に あった 。鎌 倉幕府
創始 と滅 亡の時 と時 代を隔 てる が両人 を偲 んだ。
親王 の悲 劇は義 経の 悲劇に 通じ るもの があ る。両
雄は 新し い時代 の創 設者に 貢献 したに も拘 わらず
創設 者に より死 に追 いつめ られ た英雄 であ る。新
時代 創設 時にお ける 歴史の 冷酷 な非情 さで ある。
頼 朝の 墓へは 皆手 ぶらで 石段 を登っ たた め供物
がな く、 昨日新 幹線 車内で いた だいた 飴玉 一つを
お供 えし 、中西 会長 夫妻と もど も参拝 した 。
日 蓮辻 説法の 跡地 を訪れ た。 勿論鎌 倉へ 上京し
た日 蓮が 日々こ の場 所のみ で説 法を行 った わけで
もな く、 その主 要な 場所と いう もので あろ う。案
内し てい ただい たジ ャンボ タク シーの 運転 手さん
の説 明に よると この 附近は 材木 座があ った 当時の
メインストリートにあたるという。鎌倉の名越
︵下 層民 の住居 する 地域だ った ︶に草 庵を 結んだ
日蓮 が当 時の繁 華街 である この 附近に 出て 辻説法
を行 った のであ る。 日蓮三 十五 歳の頃 とい う。
終 戦の 年より 大阪 に出て 、新 しい日 本の 宗教の
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夜明け を街 頭で呼 びか けられ た法 主さん はこ の地
を訪問 され 感慨深 いも のがお あり になっ たこ とと
思う。 私が 今回の 旅行 で一番 楽し みにし てい た場
所であ った 。その 後、 昼食し 鎌倉 大仏を 各自 散策
しそれ ぞれ の帰途 に就 いた。
小田 原へ 向かう 車中 まどろ み目 覚める と、 雲の
切れ目 より 秋の日 差し が帯を なし 相模の 海を 白く
輝かせ てい た。心 中黙 して天 に充 実した 旅を 終え
られた こと を感謝 した 。
桜井 誓子
自然現象に感じる警鐘
群 馬県 安中 市
木々 は実 を結び 、鮮 やかに 彩ら れた葉 の落 葉は
深まる 秋の 鼓動を 、再 び人の 耳に 届けて いる 。季
節は巡 り、 旅はま た新 たな場 所を 迎えた 。東 の古
都鎌倉 がそ の地で ある 。関東 人の 私でさ えも 、近
いよう で遠 い場所 にな ってお り、 特に江 ノ島 での
宿泊は 、小 学生の 修学 旅行以 来で もあっ て、 懐か
しさを 覚え た。今 回、 関東圏 の参 加者も 多か った
そうで 、そ の夜の 無礼 講も、 多才 な賑わ いで あっ
た。昇 ちゃ んの上 機嫌 そうな 笑顔 が、私 達の 顔を
一層綻 ばせ た。
翌、 十一 月一日 の明 け方、 外は 既に雷 雨で あっ
た。大 倭会 の旅行 に龍 神さん は付 きもの だと 聞い
ている が、 約束事 のよ うに出 発時 には雨 は上 がっ
ていた 。や はり、 龍神 からの 挨拶 は何か 嬉し く感
じる。 車は 相模湾 岸か ら、若 宮大 路を真 直ぐ に鶴
丘八幡 宮へ と向か った 。まさ に鎌 倉の顔 とい った
八幡宮 は、 往時、 武士 の都を 鎮守 する神 社と して
鎌倉武 士の 心に拠 り所 となっ てい たこと だろ う。
五年にも及ぶ源平の争乱は、一一八五︵文治元︶
年、壇 ノ浦 での平 氏滅 亡をも って 終息し た。 平治
の乱で 伊豆 へ流さ れて いた源 頼朝 だが、 長い 雌伏
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を 破り、 平氏 に替 わり源 氏中 心の武 家政 権の樹 立
を 果たす 。そ して 一一九 二︵ 建久三 ︶年 、鎌倉 に
都 が開か れた 。京 都‚奈 良を 模した 都市 計画や 幕
府 の支配 機構 の周 到さは 、東 国を中 心と した新 政
権 への気 概を 感じ る。八 幡宮 では、 そう した鎌 倉
の 永続を 祈願 した 頼朝や 武士 達の当 時の 思いを 間
近 に覚え るよ うだ った。
東国の 独立 心の 強い武 士団 を束ね て政 権の頂 を
な した陰 に、 一族 をも追 い込 む事態 をと った頼 朝
公 は、ど のよ うな 心境に ある のだろ うと 思いな が
ら 、八幡 宮に 程近 いその 墓前 に立つ 。訪 れる人 が
多 い 中 で 、﹁ 墓 石 に 触 れ て 欲 し い ﹂ と い う の が 霊
人 の思い だっ たこ とを聞 き、 人間味 を感 じなが ら
ど こか安 堵し た穏 やかな 気持 で墓石 に触 れた。
頼朝公 の鎌 倉は 移ろい を見 せる。 二代 将軍頼 家
は 謀殺さ れ、 その 弟で三 代将 軍実朝 も公 暁︵頼 家
の遺児︶により横死する。こうして首座の源氏は、
政 権をめ ぐる 陰謀 術策に より 滅びた 。近 親者に よ
る 功利争 奪の 状態 は、源 平の 争乱以 来、 鎌倉の 都
に も根底 に横 たわ ってい た。
政権は 北条 氏の 手に移 った 。一方 、後 鳥羽上 皇
に よる朝 廷勢 力挽 回を謀 った 承久の 乱も 起こり 、
幕 府内外 で事 件が 勃発す る。 参道で ある はずの 若
宮 大路も 戦場 と化 した。 現在 、人の 往来 で賑や か
な 通りに 、歴 史と なって いっ た古人 の魂 魄が偲 ば
れる。同時に、平和で賑やかな光景が貴く思えた。
実は、 鎌倉 行き の前に 気に なるこ とが あった 。
各 地の水 害に 加え 、十月 二十 三日に 起き た新潟 の
地 震だっ た。 新潟 は地震 地帯 と言わ れて いるが 、
こ れは何 かあ ると 感じて いた 。果た して 、杉本 さ
ん に よ る と 、﹁ 霊 界 を 忘 れ 、 人 間 中 心 の 人 の 心 に
対 する龍 神か らの 警鐘が 現象 となっ てい る﹂と い
う 。今回 の水 害や 地震の こと は、あ の時 代、鎌 倉
に 起こっ た洪 水や 地震を 想起 させた 。さ らにま た
元寇 のあ ること を予 知、指 摘し て、立 ち上 がった
日蓮 上人 のこと を思 わずに はい られな かっ た。
幕 政を 独占し て北 条時頼 の頃 、鎌倉 は最 高期に
あっ たが 、同時 に蒙 古の威 力を 新たな 外圧 として
感じていた。社会不安が増大した鎌倉の路の辻に、
正法 を説 く日蓮 の声 があっ た。 住宅の 家並 の中に
今も 残る 辻説法 跡は 、地上 の仏 国土を 目指 し獅子
吼す る日 蓮の在 りし 日の姿 が感 じられ るよ うだっ
た 。 次 々 と 起 こ る 災 難 に つ い て、﹁ 法 を 見 失 った
世と 人心 の腐敗 ‚堕 落、現 実逃 避へと 導く 指導者
の誤 った 考えが 、災 難へ繋 がる 。この 苦し みを克
服し て、 仏法の 教え ︵法華 経︶ を拠り 所と して、
平安 な国 土の実 現に 努める こと が、人 の進 むべき
方向 であ る﹂と 日蓮 は進言 する が、当 時の 為政者
や大方の人の心には届くことがないままに、文
永‚ 弘安 の蒙古 襲来 を受け るこ ととな った 。
し かし 元寇は 、奇 しくも 大風 が吹い たこ とによ
って 、回 避され 事な きを得 た。 法主様 は﹁ 元寇の
場合 は蒙 古が侵 略で あり日 本は 自衛上 の防 戦であ
っ た ﹂ か ら と 言 わ れ て い る ︵﹃ や わ ら ぎ の 黙 示﹄
頁 の﹁ 神慮に 国境 なし﹂ より ︶
。
人 への 軌道修 正の 警告が 、自 然現象 を通 して示
され るこ とを、 鎌倉 時代か ら改 めて確 認す る。
北 条氏 の鎌倉 幕府 も、足 利尊 氏、新 田義 貞等、
別系 統の 源氏の 手に よって 、百 四十一 年間 で幕を
閉じた。倒幕の功労者であった後醍醐天皇の皇子、
護良 親王 も一転 して 抹殺さ れる のだが 、そ の幽閉
の場 所が 鎌倉宮 とし てお祀 りさ れてい る。
古 人が 体験し 、示 してく れた 栄枯盛 衰の 悲しさ
厳し さを 心に刻 むこ とも、 現界 からの 鎮魂 とした
い。 また 、度重 なる 法難を 受け てなお 、日 本の羅
針盤として生きた日蓮上人を近く感じられたこ
と、 今、 法主様 を通 して示 され ている こと を深く
感じ た鎌 倉であ った 。
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ここ だ まま こ とと だ まま
奈良 市 庄
野
すさ
久
●﹁チッソ水俣病関西訴訟﹂と共に
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22
こ 子
るとね?﹂と田端さん︵原告︶は迫る。
公式な 水俣 病患 者発生 は1 956 年。 年も た
っ ている のに 、こ の判決 がど うして 画期 的なの ?
199 6年 の政 府解決 策で 水俣病 は終 わった ん
じ ゃなか った の? と思う 人も 多いだ ろう 。
しかし 、い まだ に被害 実態 の解明 の取 り組み は
な されて いな い。 特に、 メチ ル水銀 によ る健康 被
害 の解明 は急 がれ る。い まや 、この 微量 汚染被 害
対 策にお いて 、日 本は遅 れた 国にな って いる。
皆、ご 縁な のだ ろう。 つれ あいの 明博 と一緒 に
患 者や仲 間ら とお 付き合 いし てもう 年 になる 。
先のた れ幕 は勝 訴した 時に 何もな いの はダメ と
言 われて 、急 遽、 私がパ ソコ ンで字 を作 り、マ ジ
ッ クと墨 で塗 りつ ぶし作 成し たもの だっ た。ナ イ
ス 写り! と、 つい 岸野さ んに 電話し て原 稿依頼 さ
れ てしま った が、 この裁 判を 支えて きた 多くの 人
の 思いと 力に 心か ら感謝 して これを 書い ている 。
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●鎮魂にてはじまる
倉 敦
い気 がし て、願 いを 足下に 封じ 込めた 。
﹁ 能を 奉納し たい 、それ も水 銀ヘド ロの 埋め立
て地 で﹂ と漁師 の緒 方正人 さん に呼び かけ られた
昨年 のこ と、予 期せ ぬでき ごと に胸が 高鳴 った。
こ れ だ っ た か !﹁ 能 ﹂ の 力 を お 借 り し て み ん なで
同じ 場所 に立つ こと 、一瞬 の光 を信じ てみ ようと
動き 始め た途端 に思 わぬ加 勢が やって 来た 。まさ
し く こ れ は 龍 神 さ ん と の 共 同 作業 ?﹁ 魂 を 鎮 める
た め に 魂 を 振 る い 起 こ す ﹂。 水 俣 に そ ん な 流 れが
やっ て来 た。驚 いた のはみ んな で台本 の朗 読をは
じめ たこ とであ る。 声がほ とば しりは じめ た。
︱︱主人公の不知火は生類の輪廻を司る龍神の娘、
弟の常若とともに人間の垂れ流す毒を自らの身体を
もって浄化せんとし、死んでいく。その姿を哀れむ
菩薩がふたりの婚礼を許し、その再生を祝して音曲
の楽祖を呼び寄せ、犠牲になった猫や魚の霊ととも
に舞をまう。︱︱息も絶え絶えなその声と本気でひ
とつになろうとするその瞬間にこそ不知火も菩薩も
会いに来れる、そしていっしょに涙も流せるんだと、
石牟礼道子さんに寄りついた言葉たちが教えていた。
﹁ 能が 水俣病 の幕 引きに なる のでは ⋮⋮ ﹂と心
配 す る 声 に は こ う 答 え た い 。﹁ 鎮 ま っ て こ そ 動き
出せ るは ず、呪 縛か ら放た れて こそ活 き活 きと躍
動は はじ まるの では ないか ﹂と 。
そ の日 、何が あろ うと水 俣の 上にだ けは 太陽が
現れ ると 確信し た。 あとは みん なの心 だけ 。台風
のど 真ん 中にて 自然 と祈る 。奇 跡は起 こり 海は凪
ぎ、 赤い 雲、光 る水 、波の 音。 待って 待っ て待ち
続け、 夢ならぬうつつの渚に海底より参り候﹂。
と うと う不知 火は 会いに 来た 。嬉し くて 懐かし
くて 、沢 山の魂 が風 になっ て舞 い手の 衣を 揺らし
てい る。 願って いた のはこ んな 賑わい だっ た。昇
る月 が明 るく照 らし てくれ たこ の夜、 最後 まで見
守っ て下 さった 全て の存在 にあ りがと う!
(7)
熊本県水俣市 高
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20 04 年 月 日 、澄み わた った秋 晴れ の午
後、 最高 裁 判 所 の 南 門 で は 、﹁ チ ッ ソ 水 俣 病 関 西
訴訟﹂ の最 高裁勝 利判 決を勝 ち取 った、 川上 敏行
58
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水俣病 発生 から 年と いう 節目に あた るこの 夏
いしむ れ 8 月 日 、大 いな る加護 をい ただい て、 石牟礼 道
し ら ぬ い
子 による 新作 能﹁ 不知火 ﹂は 無事に 奉納 された 。
い つかこ んな 日が 来てほ しか った、 海に 向かっ て
捧 げたか った 、何 を?と 自分 に問う なら それは 、
た ったひ とこ と﹁ 互いを 思い やる心 ﹂だ った。
縁あっ て水 俣に 流れ着 いた 年前 、悲 しみが あ
まりにも渦巻いて、時々とてつもなく苦しかった。
も がけば 闇に 閉ざ され、 見え ないも のに つき動 か
さ れて狂 いた くな る。何 度か 脱出を 試み たが連 れ
戻 される 。そ んな 荒ぶる 心に いつし か生 まれた の
が ﹁この 場所 で、 魂の底 から 踊れる よう なまつ り
を したい ﹂と いう 思いだ った 。口に して はいけ な
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10
原告団長と永嶋里枝弁護士が満面の笑顔で、﹃国‚
熊本県 の責 任を認 める ﹄のた れ幕 を仲良 く持 って
記者た ちに 応えて いた 。
とう とう 、最高 裁が 原告ら はメ チル水 銀中 毒症
︵すな わち 水俣病 ︶で あり、 また 、水俣 病が 発生
し被害 が拡 大して いた のに国 と熊 本県が 何も しな
かった のは 違法で ある と、は っき りと行 政の 責任
を認め たの だ。
川上さんは これまで応援してくれた方々、署
名をし てく ださっ た全 国の皆 さん 、やっ と、 これ
で国に 一矢 報いる こと ができ まし た。責 任を 果た
すこ とができました。有難うございました と万
感の思 いで 報告し た。
ここ まで 来るの に 年かか った 。たっ た 人の
患者が 19 82年 に大 阪で始 めた 裁判。 原告 もす
でに 人が 亡くな って いる。
チッ ソ水 俣工場 の排 水中の メチ ル水銀 が不 知火
海を汚 染し たため に起 こった 水俣 病事件 の被 害者
で、生 活の 糧を求 めて 関西に 移り 住んだ 人々 が、
毎月1 回集 って水 俣病 のこと 裁判 のこと 等を 話し
合って きた 。今も 続い ている 。が 、高齢 化と 体調
悪化の ため 、
参 加出 来る患 者が 少なく なっ てきた 。
今後 は、 環境省 や熊 本県な どと の行政 交渉 が続
く。ど こま で続く のだ ろうか 。患 者は疲 れき って
いる 。﹁ 私 ら は 最高 裁で 国 に 勝 っ た の に 、 ど う し
て環境 省の 役人は 何も 変えな いっ て言う の? 言
えるの?﹂﹁あんたたちは私らが死ぬんを待って
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﹁若いうちはいいなあ﹂と社員
月
被害を受けた兵庫県のキャン
また大倭に戻って
なっていました。手塚さんだけ
に趣向をこらしました。
会。ホテルアジール奈良でカラ
月1日 開設9周年記念日の
︵八重垣園︶
Ā
月8日 俳句クラブ。 神事
行事が行われました。
お
了へライトに映ゆる紅葉かな
月
日 ︵ 祝 ︶ 午 後 0時 半 か
* 年 始 祭 ︵大 倭 神 宮 ︶
ら紫陽花邑内の諸霊へご挨拶し
て午後2時から大倭神宮にて。
月
日︵木︶ 午後2時より
* 月 次 祭 ︵大 倭 神 宮 ︶
大倭神宮にて。
1月9日︵日︶ 午後2時より
*大倭会主催第四三四回禊会
大倭大本宮拝殿にて。
1月
日 ︵成 人 の 日 ︶ 午 前
* 大と ん ど
時より大本宮西の斎庭にて。
月
日︵土︶ 午後2時より
* 月 次 祭 ︵大 倭 神 宮 ︶
大倭神宮にて。
月
日︵日︶ 午後2時より
* 月 次 祭 ︵大 本 宮 ︶
大倭大本宮拝殿にて。
10
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日 屋久島の手塚賢至さ
れた森と鹿害をテーマにするシ
んと4人の方が、奈良で開催さ
昇ちゃんは子供には優しく高
の方が若返った様子。
ンポジウムのパネラーとして来
日誌
校生には負け、中学生に一番対
られ、この機会に来邑、交流の
日 大倭神宮月次祭。七
抗意識を燃やすので、真先に友
家泊。大倭会館で本紙編集部や
月
五三で坂田洋美さんが孫のすず
日 夜、交流の家でFI
好の握手をしてもらいました。
奈良市千代ヶ丘の川端ハギノ
月
ちゃんとお参りされました。
パーの実家やその他、また新潟
WCの定例委員会。台風
号で
有志と夕食会をして、井手泉‚
川端一弘さんとは真剣な議論に
歳で帰幽されました。
紫陽花邑の草創の頃を知ってお
泊されました。
日にもう一
られる方でした。長男の一弘さ
中越地震地でのボランティア活
日 夜、大本宮拝殿にお
日 今年 最 後 の 宿泊
名 と ご 家 族が
倭印刷︵株︶を
日 青垣園と施設交流
オケやゲームを楽しみました。
月
とが多くなりま
日 伏見保育園から可愛
す。杉本さんの
月
︵長 曽根 寮 ︶
い訪問があり、涙される方もお
タホウ
トウ との答え
日 イトーヨーカドー奈
良店のご協力により4階フロア
月
られました。
で出張スーパーを開店、大好評
神宮において金
鵄祭。
月6日 大倭
夜、邑倭の会。
神宮月次祭。
を頂きました。
作っていきたい
月4日 大倭
と思います﹂
。
平成の多宝塔を
を頂きました。
は?
話﹁教務本庁と
務本庁に居るこ
︵須加宮寮︶
参加、ホテルを近場にして宴会
旅行に最重度の
∼
︵菅原園︶
家麻呂
月
大倭安宿苑では
日 午後2時から大倭病
松ノー尾さん が話し掛け、
追
﹃やわらぎの黙示﹄一七四頁より
矢
退職、今後は教
月1日 杉本順一さんは、大
院の中間決算報告役員会。
月
子供達が答えているところ。
が催されました。下段の写真は、
いて今年も賑やかに
﹁備中神楽﹂
月
んは最近、教務本庁によく顔を
さんを偲んで夕食会。
動について報告がありました。
日 大倭印刷︵株︶
命日の近い元管理人の飯河梨貴
∼
出して大倭の新聞類のバックナ
月
有志の皆さんのお世話で、馬場
ば ばん
日 大倭大本宮月次祭。
職場体験としてコンピュータの
田の神饌田で今年収穫された新
月
勉強をしました。朝9時から午
午後4時から大倭会役員会。
米の赤飯がふるまわれました。
で富雄南中学2年の男子2名が
後3時まで、挨拶もハニカミな
だ がらでしたが、覚えるのは早く
新年のご挨拶を申し上げます
元旦
代表
一
同
人
A
™
i
C
1
26
﹁戦争反対、平和建設﹂の声、現社会にあって耳にする言
葉の中でこれほど嬉しく響くものはないのである。もし社
会の人達が、真にこれを望むならば、現在人の多くの人々
が心の中にもっている﹁人を呪う心、怒る心、人に頼る心、
人と争う心﹂などを神ながらの法に基づいて錬磨修養し、
各自が放つ霊波長をまず第一に浄化することが基礎的条件
であると思う。
大倭六十一年
おおやまと あじさい むら
大 倭 紫陽花邑
29
1
11
ンバーを整理してくれてます。
さんが
20
23
6
85
11
11
18
27
30
10
15
23
16
A
W
T
C
15
16
1
1
15
30
19
25
1
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お願いとよびかけ
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法主様ご帰幽満10年を記念して大倭大本宮で
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計画しておられる法主様奥津城の整備造成に、
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何卒各人の分に応じご協力をお願いします。
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大倭会会長 中西 正和
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.奈良信用金庫 学園前支店 普通+.+-1.4
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口座名 大本宮特別整備基金
中西正和
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.郵便振替口座 ++4++$1$-/,3.1
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口座名 大倭奉賛会
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14
11
11
11
11
23
邑
12
12
12
12
11
11
11
11
12
平成16年12月
おおやまと
通巻412号
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