1 『心的装置』としての脳?: Docteur Pierre-Henri Castel

第 12 回精神医学史学会 愛知医科大学 2008,10,25
『心的装置』としての脳?:
精神分析形成期におけるフロイトのエピステモロジー
――精神分析と神経科学の関係についての現在へのいくつかの提言とともに――
Docteur Pierre-Henri Castel
directeur de recherches au CNRS,
à l'université Paris-Descartes
フロイト流の心的装置の考え方は極端な理論的産物のひとつであって、ごく最近まで、神経科学は
それについて語られることに耳を傾けようとすらしませんでした。
とはいえ、心的装置は精神分析家の間でも、もはや決して評判のよいものとは言えません。精神療
法がメタサイコロジー的研究に歩を進めたその時から、心的装置という冷たい機構、「心的人格の分
解(フロイト)」は、転移・逆転移の学説の基軸となる間主観的関係に、さらには共感に関わる仕事
には向かないもの、それとは矛盾するものと考えられてきました。このことについてはコフートが、
実践の次元を越えたところで、概念的根拠を与えています。実践の次元を越えたというのは、彼の観
点は、以下のように完全に全体論的なものだからです。つまり、すべては患者から分析家への関係性
であり、その関係性は鏡の関係として理解されますが、しかしより一般的には、それは心的現象の内
部における関係でもあります。そこでは、自己とそのあらゆる対象(対象には自己、つまり自己対象
《selfobject》も含まれます)は、一方なしで他方を考えることができないような関係性の内にあり、
それらは相互に関わり合うものとされています。このような全体論は、因果的な相互作用を発見する
希望を失わせるものです。確かにひとは、心的現象があたかも歯車(フロイトが語ったような「審級」
とか「システム」)を持っているかのように考えてみることはできるだろうが、(そうしたところで)
そこにあるのは単なる言葉に過ぎないじゃあないか、と。心的装置という概念は、19世紀神経学の
時代遅れの残余物、あるいは、フロイトがまだその本当の基盤を手にしていなかった初期のある時代
の思考産物のように見えるのです。フロイトの本当の基盤は、治療であり、転移であるわけですから。
だから、フロイトは、その時代の科学主義の染みついた《暫定的》モデルに依拠しなければならなか
ったというわけです。さらには、心的装置「全体」が、精神分析的過程に本来そなわる間主観性に矛
盾する理解ということになるでしょう。実際、ユルゲン・ハーバーマスはこの矛盾する理解の特徴を、
精神分析自身による精神分析の《悪しき科学主義的誤解》としています。
しかし事態は動きます。1980 年頃より、アメリカの特定のサークルでは、フロイトの神経学に戻ろ
うとする試み、特に、この神経学と緊密に結びつく第一局所論へと戻ろうとする試みが始まりました。
こうした試みに総称的な名称を与えるとすれば「神経精神分析」ということになりますが、この「神
経精神分析」は、一方では最近の神経科学の進歩に対応するものに、もう一方では治療の実践の原理
に対応するものに、自らを仕立て上げようと企図しています。
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マーク・ソルムは、フロイトの神経学のテキストの編集に携わる中で、ニューロサイエンスの現在
の進歩の光のもとにそれを正すという条件つきで、これらのテキストに、精神分析に直接的に利用可
能と考えられる方法上の規定を見出しています。彼の試みは、ホブソンとの論争に見られるように、
単にフロイトの夢理論を救い出そうとするだけのものではなく、より包括的な試みなのです。
一方、アラン・ショールは、コフート、特に共感を強調するコフートと、感情についての新たなニ
ューロサイエンスとの間に共通点を見出そうと試みています(感情神経科学 Affective Neuroscience[シ
ョール])。実際、ショールにおいては、母との2者関係における子どもの成長の研究と脳の成熟の
研究は、少なくともボウルビーと同じ程度にウィニコットに依拠しています。ミラー・ニューロンに
よる感情と運動の同調、あるいは神経ホルモンによる感情の調節などが、ナルシシスムや転移の概念
に、神経的基礎を提供するかもしれないというわけです。
しかし、ここに以下のような3つの困難があります。
1.神経精神分析は、精神分析の分野でも神経科学の分野でも少数派の位置を占めているに過ぎませ
ん。どう見ても神経精神分析は、確かな結果の総体としてというより、より思弁的な形で神経科学の
中にあるものを認識論的に取り出すものとして価値をもつものです。実際は、ショールが語ったこと
と同じことを、フロイトを呼び出すことなく、ましてやメラニー・クライン、あるいはウィニコット
など呼び出すことなく、ボウルビーと伝統的な発達心理学に依拠するだけで、言うこともできるので
す。
2.フロイトはその存命中から、心的装置の神経学が説得力のあるものではないことをよく知ってい
ました。それでもなおフロイトは、メタサイコロジーの合理的一貫性にとって心的装置が重要である
ことを最後まで強調し続けました。そのためフロイトは、神経学に対し慎重な立場を取ってはいまし
たが、だからといって、転移と治療から推論される臨床的帰結にすべてを譲ってしまったわけではあ
りません。確かに、彼の解剖学に対する留保がどのようなものであれ、フロイトはつねに心的装置を
脳の中に、少なくとも有機体の中に位置づけていました。しかしそれは、いずれにせよ、とりわけ転
移の臨床にとって適切な間人間的関係をいかなる点においても妨げないという限りで、望まれる脳な
のです。
3.そして、二人の精神分析の巨人であるウィルフレッド・ビオンとジャック・ラカンが、第一局所
論、第二局所論に近縁のいくつかの心的装置の上に、彼らの理論を位置づけています。彼らがそこに
見だしたことを理解しようとしないままでいることはできないでしょう。これは、おそらく神経精神
分析とは根源的に異なるものなのでしょうが、いったいどういう点で異なっているのでしょうか。
そこで、私は、探索をふたつの方向に進めるつもりです。まず、フロイトの神経学の科学論的(エ
ピステモロジー的)、歴史的文脈を検討することによって、心的装置が概念上、あらゆる脳的装置に
対して自律的なものであることを明らかにしようと思います。次に、この装置の精神分析に固有な自
律性を示すことになるでしょう。なぜなら、我々は、その装置の客体化を精神分析的問題として構想
する能力をできる限り持たねばならないからです。つまり、心的現象をこのように考えるとき、われ
われは何を欲望し、何について夢見ているのかと、問うことです。こうして、この試みの焦点は、精
神分析的な思考の「形」を捉えることにあることになるでしょう。それは、心的装置を「モデルとし
て」ではなく、ビオンに倣って、「その思考を(精神分析的に)思考するための機械として」構想す
ることによって行われます。ここに、神経学者フロイト、精神分析以前のフロイトのテーゼの検討が、
現代の精神分析の諸困難を理解する上でどのように貢献し得るかが現れています。
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I リトル病::反‐局在主義者、機能主義者、ダーウィン主義者としてのフロイト
神経学者フロイトの初期のテキストについて、われわれはますます正確な知識を持つようになって
きていますが、それによれば、(心的である以前に脳的であるような)「装置」をそこに見ることは
許されなくなっています。(順番があるとすれば)むしろその逆でしょう。フロイトの神経学的研究
は、実際、マイネルト、フレヒジッヒ、ヴェルニッケなどの、歴史学者が解剖説明的と名付けるよう
な研究とは甚だ異なるものでした。これらの著者においては、「神経束」と「中枢」からなる網が脳
の諸部分を連結していて、神経学的病気は、症候学や行動から推論されるものというよりは、アプリ
オリにこの網から演繹されるものでした。切断された神経束、あるいは障害された中枢によって、そ
の人はかくかくしかじかの神経学的病気を持っているはずだというわけです。臨床では、それほど純
化された障害を見つけることはありませんし、モデルから演繹することのできない病気の例にも出会
うわけですが、そうした臨床は、このようにして構成された仮説に対する実証的反駁として考慮に値
するものとは見做されませんでした。一方、フロイトはむしろその逆で、症例から出発しました。(こ
の点では彼はシャルコーに近かったのです。)フロイトは鑑別比較から出発して障害の本質を推論し
ました。病気の成因を仮説的な「大脳の装置」と一致させるという考えは、まったく二次的なもの、
あるいはそうした考えをもつことすらありませんでした。
若きフロイトが対象としたのは、脳性小児麻痺(リトル病)でしたが、それはいずれにせよこの(マ
イネルト的)方法には適さない対象でした。脳性小児麻痺は実際、臨床家をジレンマに逢着させてい
ました。それは、末梢の障害の結果なのか、つまり脊髄の障害の結果、さらには運動神経の障害の結
果なのか、はたまた脳の中枢の障害の結果なのか。もしそれが中枢性のものだとするならば、脳のど
こに局在が求められるべきなのか。障害の解剖学的形態はどのようなものなのか。どうしてそれは、
四肢の両側痙性麻痺の原因となるのか…。
フロイトの回答はこれらのアポリアにエレガントに答えるものでした。フロイトは、実際には、小
児麻痺の脳障害の厳密な局在の探索という問題を、胎生期の脳の発達という力動的な見方に置き換え
たのです。この意味でリトル病は生理学的なものでした。つまり、運動機能がこの病気では異常なの
ですが、それは被ったある障害によるものではなく、症例ごとに異なる脳の形成自体の異常に関連し
たものでした。結局のところ、両側痙性麻痺の原因は、運動繊維にも骨髄にもなかったのです。後の
時代もまた、この点においてフロイトが正しかったことを認めています。この痙縮は、ヒューリング・
ジャクソンとシェリントンの眼鏡をかけて理解する必要のあるものでした。つまり、陽性症状ではな
く、脊髄の灰白質の中枢の自動化が上位の水準のコントロールが失われたために生じた結果だったの
です。したがって、関与している繊維の局在を決定するために細かくこの痙縮を記述することを執拗
に追い求めても、何ら益するところはありません。その神経支配は偶然的です。神経支配が、障害の
力動的、機能的、発達的な本質を覆い隠しているのです。
したがって、フロイトの神経学は局在主義と決別したところで形成されたものです。しかしまた、
神経学はフロイトに、脳は自動制御によって階層づけられた構造であるという観念を与えました。そ
れゆえ、発達理論に新たな階層、つまり生後の発達段階やさらには種の進化の段階を加えるだけで、
なぜフロイトが、皮質から始まってより下位の(運動や感情の)中枢に至る関係とこの階層構造とを
一致させて考えることをけっして放棄しなかったか理解できます。皮質、つまり進化の最後に遅れて
やってくるものが、「(晩年の)精神分析概説」に至るまで「自我」の生物学を思考する手段であり
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続けるでしょう。心的装置は、この点に関しては、徹頭徹尾、機能主義的方法論の反響、さらには、
あらゆる有機体にのしかかるダーウィニズムの束縛に従う神経システムの階層的構造構成の反響で
あり続けることになるのです。
II 神経学の基礎にある失語症
フロイトは、自分の神経学の研究が精神分析の著作集の中に組み込まれることに反対しました。しか
し、脳性麻痺についての研究を考慮に入れることによって、われわれはよりはっきりと、失語症の学
説において用いられている概念と、器質的麻痺とヒステリー性の麻痺の区別に関わるすでにきわめて
心理学的な研究との間にある、深いつながりに気づくことができるのではないでしょうか。というの
も、『Zur Auffassung der Aphasien(1891 失語症の理解に向けて)』においても、1897 年にそれより6
年遅れて出された小児脳性麻痺の失語についての断章においても、フロイトは、障害の、局所論的で
も局在論的もない、根本的に機能的な特徴を前面に押し出していたからです。
言語領野のいくつかの「中枢」と呼ばれるものは、その領野の「外角(angles externes)」にほかな
りません。マイネルトが考えていたような、これらの中枢を分かつ中間区域は存在しません。もし、
この区域として仮定された場所にかかわる障害がより明瞭な臨床的兆候を形成することがあるとす
れば、それは、脳の他の場所との隣接性とそれに由来する増幅効果のためです。中枢/神経束の対置は、
マイネルトの神経解剖では本質的でしたが、脳性麻痺においても失語症においても有効ではありませ
んでした。その結果、マイネルトの「geistiger Apparat(精神の装置)」の概念は、たとえそれを単純
な「言語装置」に還元するにしても、捨てられなければなりませんでした。このことの主要な帰結は、
フロイトの言語装置は「ヴァーチャル」なものであるということです。それは、話をするために必要
な抽象的能力のあいだの抽象的な結びつきが、保存されていたり切断されていたりするさまを頭に描
くためにつくられた教育的シェーマでもなければ、暗記用手引でもありません。なぜなら、フロイト
の言語装置は、実際の神経学的な関係を示しているからです。つまりそれは、その関係を反映してい
るのですが、その関係を概念化しているわけでも、それをアプリオリに演繹するのに役立つわけでも
ありません。しかし、だからといってそれは、言語の神経束と中枢の地図でもありません。なぜなら
それは、それらの局在を想定してもいないからです。したがって、この言語装置は固有の求心成分を
持ちません。それは、マルチモダールなやり方で感覚的相互結合や記憶的相互結合などをもたらしま
す。とはいっても、それは脳の中にあるのです。同様にして、それは、特別な遠心成分を持ちません。
この言語装置は、それが必要とするところのものを、話すために必要な運動装置のみならず、書くた
め、身振りによって伝達するためなどに必要な運動装置から借りてきます。言語は、(視覚や運動が
そうであるようには)明確な装置の中に錨を下ろしてはおらず、あたかも他のものに寄生した機能で
あるかのようです。それは確かに存在してはいますが、機能的なまとまりとして存在しているのです。
それゆえ失語症は、言語のみに特別にしつらえられたシステムの損傷によって生じるというよりは、
その機能のために用いられているシステムの損傷によって、言語装置を構成しているところの機能の
「連合」が切断されたり破壊されたりするときに生じるのです。
この推論は実に納得しうるものですが、1890 年代には、フロイトはそれを実証的に証明することか
らはまったく遠いところにいました! フロイトが正しかったのは、失語症そのものにおいてではな
く、失語症の哲学においてであったと言うべきでしょう。そして、この点こそまさに私が興味を持つ
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ところです。私の見るところ、その当時の失語症論には統合され得ず、しかし来るべき心理学には大
きな衝撃をもたらすようなふたつの要素が、そこにはすでに存在しているからです。
1.他者に向けられた自発的言語を強調することは、損傷されたシステムはどの失語症においても
前もって言語のパートナーへと方向づけられていなければならないということを際立たせます。純粋
に局在主義的な失語症のどのような理論もこのことを説明することはできません。そのような理論で
は、あたかも、話し相手であるところの他の人間存在がなくとも、失語症はありうるということにな
るでしょう。ここに、「Zielvorstellung(目的表象)」のための場所がすでに用意されています。目的
表象は、『夢判断』では、転移のもとでの自由連想や、他者の様々な心理状態間の交流を支配するこ
とになるものです。実際、自由連想のもとでは、人は必ず、その人が決して完全には意識することの
ない結びつきを言外に仄めかします。それは、「人が語ること」を「話が向けられる人」の(結局の
ところ無意識的な)イメージへとつなぐような結びつきです。
2.フロイトは、失語症の完成した学説はすべて、「語ろうとする動機」の理論を必要とすると考え
ていました。なぜならば、語るためには、目的を追い求める必要が、つまりなにかを話そうと欲望す
る必要があるからです。このように考察された場合、実際のところ、フロイトが《ヒステリー性》と
した失語症(われわれにとっての緘黙症)は、《器質的な》失語症と、「神経学的」能力の同じ領域
の支配下にあることになります。もし、語るという行為が、行為として差し向けられるものであり、
情動的動機がそれを麻痺させ得るという事実を考慮に入れないとするならば、われわれは、アンナ・
O がドイツ語においては失語状態に陥りながら英語の能力は保っていたということを理解できない
でしょう。語るという行為が、情動的拘束に「まるごと」従属しているのです。語るというその行為
の能力が、言語の機能の細部において、情動的拘束に従属しているではありません。
フロイトは、自分の機能主義が、失語症あるいは脳性麻痺だけでなくヒステリーをも射程に入れた
とき初めて意味を持つということを熟知していました。彼は、失語症、脳性麻痺、ヒステリーについ
ての研究を互いに参照させ続けました。しかし、実際、これらのばらばらの研究の間の移行は、いっ
たいどのようにして行われたのでしょうか。
それはおそらく、フロイトの神経学の基本的区別によってなされたものと思われます。フロイトの
神経学は、大胆にもルプレザンタシオン(représentation)という語のふたつの意味(代表と表象)を
重ねるに至っています。フロイトは実際、小児麻痺の末梢説を批判して以来、一方において、身体の
末梢から生じるプロジェクション(投射)、つまり脊髄の灰白質においてのみ完全な一対一対応を形
成しうるプロジェクションと、他方において、末梢で生じていることの中枢へのルプレザンタシオン
(représentation 代表象)、つまり、プロジェクションとは反対に(伝達路の狭小さによるものでしか
ないにしても)選択性という特徴を持つルプレザンタシオンとを区別していました。すべてを投射(プ
ロジェクト)することはできないこのルプレザンタシオンは、必然的に、ルプレザント(代表象)さ
れている諸帯域の脳内における完全なイメージよりも、それらの帯域の機能的役割の方を重視します。
その理由は単純です。それが、自然選択に従う有機体がその行動を導き、生き延びるために必要とす
る唯一のものだからです。しかし、このように述べることは、脳性麻痺において運動の障害が下位決
定を行っているという解釈の方向の逆転に他なりません。脳性麻痺では、皮質から何か特別のものが
脊髄の運動中継点へ向かうわけではありません。だからこそ痙縮が生じるのです。ヒステリー性の麻
痺では、皮質から運動装置へ向かうものは神経学的に規定されるいかなるものも神経的に伝えていま
せん。フロイトは、皮質から下降してきたものは「まとまりとして」、主体が持つルプレザンタシオ
ンにしたがって筋肉を麻痺させると述べています。だから、皮質と末梢の間には、どちらの方向にも
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「直接の道」はないとフロイトは強調します。この皮質のルプレザンタシオン(Vertretung 代理、代表)
は機能的代理物であり、進化の圧力に従うもの、有機体の発達に敏感に反応するものです。そして、
ここで、この選択性という性質が示唆しているもうひとつのことは、次のことに他なりません。つま
り、それを知性的な意味でルプレザンタシオン(つまり Vorstellung 表象)と呼ぶこと、さらにこうして
私が先を急ぐことが許されるならば、身体一般において生じていることに関する心的ルプレザンタシ
オン(表象)と呼ぶことです。(私は実際あえて、同じタイプの何かが、後に、諸欲動のルプレザン
タシオンにも当てはまることになると考えています。)
器質性とヒステリー性の麻痺の区別に関する論文は、ルプレザンタシオンのこの二つの次元間の結
びつきを保証するものです。それは、皮質における機能的代表と、通常の語の意味におけるルプレザ
ンタシオン(表象)の結びつきです。フロイトが使っているフランス語の「représentation」という語
によって促された Vertretung/Vorstellung 間の「滑り」のおかげで、ヒステリー性の運動障害は、解
剖学によって客観化される帯域にかかわるのではなく、普通の話し言葉がさし示すような身体の部分、
われわれが実際に使用しているような身体部分にかかわっているという奇妙な現象が説明されます。
ヒステリーでこうした現象が起こるのは、日常生活における感情的な危機において、この身体部分に
過剰備給するということが起こるためなのです。
しかし、こうしてわれわれはフロイトとともに、マイネルト風の静態的な版としては論駁された《言
語》からは確かに抜け出すのですが、結局、それを越えたところに、《言語「による」装置化》が描
出されるのを見ることになります。この《言語「による」装置化》は両側麻痺、失語症、ヒステリー
という一連の連鎖の消失点に姿を現します。機能、発達(したがってその行程上の障害)、進化(し
たがって退行)、階層的制御、そして最後に言語(したがって言葉とシンボルが容れる「集合的諸表
象」を介した対話化と社会化)、これらが、この後、心的装置が反映するところのものとなるでしょ
う。そして心的装置が神経学と関係を断つとすれば、それは、ダーウィン主義的生物学がアプリオリ
に心的装置に押しつけているものをよりうまく取り入れるためなのです。
III 『草稿』における心的装置から書簡85と112まで:思考のモデルから思考のための
モデルへ
1895 年から 1900 年は精神分析の創設の期間ですが、この期間を、心的装置のみを唯一の導きの糸
として横断するという試みは、確かにどこか奇妙です。それでは、あまりに多くのものを脇道に置く
ことになります! だからこそ、この試みが意味を持つためには、すでにはじめに告知しておいたよ
うに、フロイトが臨床的にも理論的にも獲得したことが、いかに第一局所論のシェーマに要約され、
頂点を向かえるかを示そうとしているわけではないことを忘れないようにしなくてはならないので
す。私は、心的装置という考え方が、精神分析的に思考するためにいかに不可欠かということに気づ
いていただきたいのです。つまり、精神分析が要請している基本的な知的跛行を絶えず刷新するため
に、この考え方が不可欠だということです。精神分析は、精神分析に興味を持つ人々に、そして自分
に対して意識が語ることだけから精神生活を考えないよう課された人々に、この知的跛行を要請して
います。
しかし、このような定式化をする場合には、心的装置はもはや明らかに精神機能の科学論的(エピ
ステモロジック)なモデルではありません。「psychischer Apparat(心的装置)」は、反省の慣習的な
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流れを変形させる機械であると同時に、逆説的に、まさにそれが引き起こした精神の捻じれに対し杖
として役立つものでもあります。それゆえ心的装置は、しばしば意識の不可思議な寄生物として生き
られている心的形成物との出会い(神経症的症状)、あるいはさらに、意識を超越する心理的経験(わ
れわれの性的選択、道徳への従い方、宗教への期待など、意識自身によって意識された単純な意識を
越え出ているとわれわれが感じ取るもの全て)との出会いを、大幅に早めてくれます。精神の病にお
いて、神経生物学的な不規則性にだけではなく、われわれに触れる何ものか、われわれに密接にかか
わる何ものかにわれわれが出会うことができているかもしれないのは、このような条件においてです。
こうして、心的装置は、われわれの「近く」にいる人「Nebenmench(隣人)」の「再評価」を内に包
みもっているのですが、この再評価は、われわれすべてはわれわれの心的生命において跛行している
という告白を経て行われます。
ここに、私の意見では、フロイトが読者をそこへと導こうとした円環があります。
それゆえ、もっとも驚くべきことから出発することにしましょう。マイネルトの、あるいはウェル
ニッケの神経学をアプリオリに演繹的なシェーマであるとして放棄した後、フロイトはさらにラディ
カルな企てに乗り出します。それは、それを前にしてマイネルト自身も手を引いたこと、すなわちこ
のようなシェーマを、神経学的症状ではなくて精神医学的症状に適用することです。実際それが、フ
ロイトが φψω システムで試みようとしたことです。これらのシステムのおかげで、『草稿』はフロイ
トの、またすべての精神分析の基礎にあるふたつの直感を明示的に定式化しています。
1.人は外界の刺激は避けることができるが、身体内部から来た刺激を避けることはできない。
2.意識と記憶は相互に排除し合う。
φψω 装置は、これらふたつの前提から出発した可能な演繹の総合です。
しかし私は、フロイトがそこから演繹したものを説明するつもりもありませんし、それを評価する
つもりもありません。というのは、こうした仕事はすでに何度となく見事になされてきたからです。
私はむしろ他の種類のひとつの推測をしてみたいのですが、それは、心的装置の科学論的(エピステ
モロジック)な理解を修正することを狙っているだけでなく、フロイトの理論づけ自体に関してわれ
われを別様に配置することを狙っており、最終的には、その理論づけがそこから成り立っているとこ
ろのある種の「心的」突然変異(mutation)を、われわれが垣間見ることができるようにしようとす
るものです。
なぜならば、意識に対する批判の試みを、フロイトが確立した用語で成し遂げることは、思考の中
に生き生きと存在している経験、それ自身への近さ、といった、意識に関する伝統的な観念(つまり
日常の様々な表現や、「意識」と呼ばれるものの様々な含意)に含まれる究極条件をその根源まで攻
撃しないことには、不可能であるからです。心的装置は、意識と、とりわけ神経症症状の中に明らか
に存在している意識の空隙を説明する必要があるのみならず、さらに、意識は自らがその一部分(そ
れも、それ自身がその全体であると考えているような一部分)であるような心的装置について何も知
らないという事情を説明しなければなりません。究極的には、この装置の本質に至る最良の導きは、
一歩一歩、われわれがそれを意識化することを不可能としているもののあとを追ってみることでしょ
う。それは、心的装置に、奇妙な場を、あるいは奇妙な形を与えます。結局のところ、意味と反省的
意識の円形をしたサークルの中心にある穴のようなものとして、心的装置を思い描かなければならな
いでしょう。それは、そのサークルの曲率も円周も制御するものでありながら、意識がその固有の円
環行程のどの地点でも出会うことがないもの、一周して自身に戻った――と意識が確信している――
時でさえ出会うことがないものです。
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しかしまずは、心的装置それ自身についてわれわれは何を知ることができるのかを問うてみること
にしましょう。と言いますのは、心的装置が定義され、作られているその方法自体が、われわれ自身
がその概念を思い描く上で根源的障害となっているからです。
この困難を見積もるために、ブレンターノの哲学の無視されてきた一側面へと、そして、ことによ
るとフロイトがそこから引き出したかもしれないことへと、迂回してみる必要があります。というの
もブレンターノにとっては、だれも「認識するために認識する」ことなどしないからです。精神の行
動の源泉は情動的性質のものです。信とか知という言葉で考えることはせずに、信じたいとか、知り
たいというタイプの態度を構想しなければならないというのがその立場です。ただ、感情と欲望のみ
が、認識への関心の鍵を保持しています。結局、この認識がおこなうのは、現実原則の快楽原則への
従属に表現を与えることでしかないでしょう。このことの証左は、われわれが信じたり認識したりす
ることが十分われわれを喜ばせるときに(あるいは、われわれが哲学のおかげで、そこに、苦いもの
ではあれ、間接的で昇華された満足を見出したときに)われわれはそこへと注意を向けるということ
です。そして、われわれは、われわれの通常の知的状態、つまり独断的な眠りへと戻るのです。
ここで、この結論をフロイト自身に応用してみましょう。われわれは心的装置をそれが存在してい
るままに見ているのか、それとも、むしろそれがそうあって欲しいとわれわれが「望むであろう」と
ころのものとして見ているのか、その点について問うてみないわけにはいかないでしょう。もしこの
装置が、われわれ自身についてのわれわれの知覚の中心にあるラディカルなズレを導入し、さらにそ
れを主張することをその心理学的機能、科学論的役割としているとすれば、この装置がひとつの意識
的表象という規準的な特性を決して持つはずがないことは、明らかではないでしょうか。それゆえ、
心的装置は決して、心的装置を成り立たせているものの、矛盾を免れた要約的な即席のヴィジョンを
提供することはないのではないしょうか。反対に、心的装置はそれ自身、その構成成分の効果的な「間
隔化 espacement(遅延 Verspätung)」の中に身を投じなくてはならないのではないでしょうか。この
「間隔化」においては、ある部分は、他の部分が抑圧され、後に回帰されるときにのみ、したがって、
意識化、あるいは理論的総合に、そのたびごとに延期され、部分的で、修正可能なものにとどまるよ
う強いる「事後性( Nachträglichkeit)」と関連する場合にのみ、出現することができます。結局のと
ころ、人はせいぜい、心的装置は何に似ているかを思い描く練習をすることしかできず、症状への、
さらには他者との関係への心的な効果として見積もる効果に照らすことでしか、自らが理解すること
になるであろうことの相対的正当性を見積もることができないわけです。
私はそれゆえ、『草稿』のレトリックに人は一貫した注意を払うべきだと考えています。フロイト
がそこで、実際、ヒステリー、夢、強迫神経症あるいはパラノイアが彼にもたらした臨床的問題に対
する解答を幻覚的に得ていることは明らかです。意識の間隙を埋める仲介的な表象を得ることが、い
かに「たやすい」と彼が述べているか、見なくてはなりません。同じ時代の症例の方はむしろ、フロ
イトがその推測を確かめるのに払うことになった労苦を伝えていますし、このことをもたらした僥倖
の発見の効果、さらには奇跡の効果を伝えています。わたくしはまた、同様に、このテキストの書か
れ方の階層構造、後戻りする構造、フロイトが自身との間で行ったごつごつした対話、テキストの矛
盾、袋小路に注意を向けるべきだと思います。これらの困惑を、妥協的解決によって、あるいは後年
のテキストを引き合いに出すことによってシステマティックに秩序立てて解決するべきではないと
思うのです。もし草稿がもはや神経学のテキストではないとしたならば、それは、心的装置がすでに
虚構的な空間の中で、何ら事実の支えなく、まったくそれそのもののため ad hoc のものとして構想さ
れているということです。それはまた、『草稿』が、あの二つの前提からの滑らかな演繹というよう
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なものではなく、眼の眩むような矛盾学であるということでもあります。このテキストは、二つの前
提のもつ「考えられない」断定の切れ味を保とうと追求しています。(というのは、意識がとりわけ
そのようなものに嫌悪を覚えるからです)。したがって、「行為として」『草稿』を書くということ
自体が、またフリースへの書簡を書くということ自体が、一頁ごとに、一書簡ごとに、心的装置に一
貫性を与えていきます。この書くことによってフロイトが浸ることになった心的興奮状態のみが、思
弁とオリジナルな理論的創造の特異な一様態を導き出しています。その様態は、科学のそれとも哲学
のそれとも、一般的にいって、全体論的で反省的なあらゆる意識による把握のそれとも異なるもので
す。その無秩序と閃光(la fulgurance)を評価する能力を要求する、そのような知のテキストがあるので
す。
というのも、自らの思想活動そのもののシェーマ化に直面するということは、思想の歴史において、
全く唯一の何かであったはずだからです。そのシェーマ化がもし正しいとされるようなシェーマ化で
あるとしたら、そのシェーマ化自体に欠落があるということになり、それはむしろ、そのシェーマ化
を生みだした人の抑圧や、誤謬可能性、神経症的脆弱性の一つの反映であって、彼に固有の心的・性
的過程を前にした無知や不安を決定的に理解して乗り越えることがうまくいったということではな
いということになります。この装置の発明や構成、こうしたものが患者とのやりとりという生きた経
験から栄養を得ている以上、この装置は、心的現象そのものを不気味な仕方で外在化します。「不気
味(unheimlich)」と言いましたが、それはロボットや生ける死者、人工的に生命を吹き込まれた物
質的な創造物などがもつ不気味さです。というのも、その装置が記述しているものが存在すると仮定
することで、『草稿』は、それについて我々が何も知りたいとは思わない(そして知り得ない)もの
のなかに、我々の精神が何に似ているかを示しているのです。その場合、我々は好奇心の興奮と恐怖
の戦慄の両者に、交互に身を浸していかなくてはならないことになるでしょう。
「君は『内心の神話』とは何か、想像することができますか。それは、僕の思考作業の最新の所
産〈Castel 強調〉です。自分自身の心的装置のぼんやりした内的知覚は幻想を刺激しますが、その
幻想は当然外界に投影されますし、特徴的な仕方で未来と彼岸に投影されます。不死、応報、あ
の世すべては、我々の精神内界のそのような表現です。狂った?精神神話学です」(書簡 150、誠
信書房版より)
フロイトはこうした表現を心的装置に適用するよう我々を誘います。
「seelischer Apparat(精神装置)」
は、この種の投影(内部へのであり、彼方へのではありません)から逃れえないのですが、それは、
精神分析が、あらゆる意識による把握やあらゆる完全な認識に対してこの種の投影が及ぼす根源的に
制限的な諸効果について考えるのに必要な何かをもっているために、精神分析はそれらの諸効果を全
体として乗り越えることはできないから、ということなのでしょう。その結果、精神分析は、現実を
前にした心理学的理論や心理学的態度としては、自身に関して自ら作り上げる幻想についての永続的
に継続させられる分析によってのみ進むことになるのです。フロイトはこのことを以下のように書い
ています。
「…漠然とした認識(いわば心理内的知覚-これは真の認識の特徴を全く示しません〈Castel 強調〉)
が超感覚的な現実を構成するという形で自らを映し出しているわけで、この超感覚的な現実を科学
によって、ふたたび無意識の心理学に転化しなければならないのである。我々は…形而上学をメタ
心理学に置きかえることもできるのである」(「日常生活の精神病理学」人文書院版より)
ですから、メタ心理学は形而上学を受け継いでいます。しかも、メタ心理学は確実に形而上学を修
正しているのです。しかし、メタ心理学は形而上学から、形而上学に内在的で、自ずと存続する定め
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にある漠然さという側面を、受け継いでいます。科学は理想上の目的を提示しますが、しかし、
「seelischer Apparat(精神装置)」自体の中で、生の欲動や切迫が科学―ここで言う科学には、無意識
の心理学もそれが科学である限り含まれます―とは対立しています。
(そして、科学の根拠である「現
実検討」とも対立します)。ここにこそ、私の意図のうちでも最も鋭い点があり、ここでこそ、私は
自身の非常な困惑について証言しておきたいのです。なぜなら、もし、私が正しいなら、精神分析に
は、解釈学とは異なるものが、さらには、エピステモロジー以上のものが必要になるからです。
私はここで「心的装置(psychischer Apparat)」とマイネルトの「精神の装置(geistiger Apparat)」
とを対置するだけにはとどまらないつもりでいます。マイネルトの「精神の装置(geistiger Apparat)」
には、今日の神経科学において、客観的という同じ精神をもつ、さらに厳密なヴァージョンがいくつ
かみつかるでしょう。私が示したいのは、心的装置は、「思考の別のモデル」ではなく、「思考のた
めの別のモデル」だということです。それは、別様に考えるための一つの道具であり、すでに触れた
ように―今後より明確に示したいとおもいますが―思考の通常の活動の「バランスを崩す」機械(ひ
とは何を信じ、判断し、評価しているのかと考える代わりに、ひとは何を信じようと欲するのか、ひ
とはあれこれを判断しているときに何を得ようとしているのか、ひとはどのような情動から防衛しよ
うとしているのか、あるいはどのような別の情動を享楽しようとしているのか、などと考えるとすれ
ば、どのような事態が起こってくるのか、考えてみてください)であると同時に、我々の思考を「支
え」、意識の外に突き出させ、ついには思考に投げかけられた挑戦の高みにのぼる一つの機械なので
す。というのも、次のように《思考する》ことは確かに一つの挑戦だからです。つまり――神経学的、
性科学的ダーウィン主義によって強いられる考え方ですが――我々自身が、自然の普遍的な流れにお
けるニューロン物質の断片にすぎず、その個別の生存も「最終的には」種に盲目的に奉仕する性化さ
れた有機体にすぎないと――もしこれが受け入れられるならば――考えることです。
IV. 語はどこから力を得るのか
しかし、心的装置とともにフロイトの進展を《文字通り》跡づけていくのはとても難しい試みです。
というのも、「エクリチュールの」経験(これは、登録であると同時に通道であり、また、記憶であ
り直接的知覚でもあるものの経験を超えて、そこから帰結を引き出す技術でもあります)が問題にな
っているときには、いくつものシェーマの連続的な修正を追い続けていくことが最低限必要だからで
す。その際、それらのシェーマを、一方では、それが示しているとみなされている臨床経験の類型と
絶えず対照しながら、他方ではそれが(過去から現在への方向で)痕跡をなしているだけではなく(現
在から未来への方向で)行動の潜在的素描ともなっている心的変化と絶えず対照しながら、追い続け
ていくことが求められます。そのとき驚かされるのは、フロイトの科学主義が、彼の思考様式の展開
において障害となっていないということです。科学主義はむしろ彼の思考様式の展開に必要不可欠な
手段です。というのも、フロイトがその奇妙な「seelischer Apparat(精神装置)」という見地をもつこ
とによって専心していたのは、科学が我々の目の前に突きつける「現実的なもの réel」と我々との心
的関係を再編することだからです。科学主義を捨ててしまうと、この現実的なものがもはや牙をもた
ないということになります。その場合、現実的なものは、もはや、我々の空想を否定することもあり
ませんし、我々も生の厳しさとの接点を失うことになります。
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フロイトによって装置にもたらされた修正を文字通りたどりながら、書簡 85 における改変点につい
て言及していきましょう。というのも、『草稿」は、他の多くの難点とともに、とりわけやっかいな
ひとつの難点を残しているからです。意識を、意識の間隙を、さらには意識の心的装置に関する無知
を説明するはずの心的装置の理論が、意識を無益なものとし、その存在を謎にしてしまいます。もし、
全てが自動的に作動し、また意識が空間を、つまり通道や諸々のシステムといった一般的メカニズム
の内部に割り当てられた空間を持っているとしたら、なぜ、何か(誰か)が《意識を持つ》必要など
あるのでしょうか。意識を位置づけその境界を定めようとする機械論的説明は成功こそしているもの
の、意識には如何なる明瞭な必要性もないというパラドックスへ行きついてしてしまいました。そう
したものは、意識なしでも、同じようにうまく機能するでしょう。それが機能しさえすれば、意識が
部分的でもいいのです。もっとまずいことに、こうした意識はその理論の本性上一貫して部分的なも
のでしかないわけですが、このことによって事態はさらに悪化してしまいます。意識は何の役に立つ
というのでしょうか。実際、ニューロン ω が生物学的なものである理由は誰にも分かりません。
この疑問に書簡 85 が答えています。フロイトは、この点について『草稿』を改変し、φψω 装置は φωψ
装置とすればより良く記述されると仮定しています。
システム ωは、
システム φと ψ の間に挿入され、
ψ 由来の流入の放散を「統率」するという任を帯びています。ω は、《自由な ψ の注意》のガイドや
意志の操縦者となって新たな役割を見出すのです。つまりニューロン「放出」の場で、装置が要請す
る「行動」に「志向性」を与える役割です。フロイトは、ブロイアーとともに練り上げた、病因的表
象への情動の過重負荷を除反応するという理論を臨床において放棄しましたが、この放棄をモデルに、
こうしてその効果を登録しているのです。フロイトはこの理論を捨て、症状の意味の探究に置き換え
るのですが、それは、自身の無意識から発して自身へと課せられたものを、別様に、あるいはよりよ
い方向へと、操縦するためのものを自我に取り戻す手段とするためでした。意識はもはや無益なもの
ではありません。意識は行動を「特定」行動に変える作用に与しています。ところで、書簡 85 は φ
と ψ の間に意識を位置づけることで、新たな困難を生みだしています。
この困難は非常に手ごわいもので、精神分析がいつかそこから抜け出すことができるのか、それさ
え定かではありません。私はむしろ、フロイトがここで仮定したことによって、精神分析には常に二
つのタイプの心的装置がでてくることになるだろうと考えています。一つ目のタイプは、何らかの仕
方で個人に《内在する》装置であり、ある種の想像的な脳です。すなわち、その感情や記憶の中枢か
ら情動や欲動が発せられ、またその皮質部分は現実検討の要請を満足させようとするとされる、想
像的な脳のことです。二つ目のタイプは、むしろ個人に《外在する》装置、さらに言えば、個人の「間」
にある装置です。この装置は、内部に生じるもの、つまり感情や欲動を、「Nebenmensch(隣人)」(ま
ずは母、続いてエディプス的父)と主体との創設的関係からくる諸々の強制に従属させるものです。
あきらかに第一の装置のほうが、神経精神分析的な読み方に対応しています。一方で第二の装置は
もちろん転移や逆転移を定式化してくれます。だからこそ、生じうる二つのタイプの心的装置を分か
つことが、フロイト以降(ビオンやラカンに至るまで)の精神分析の一つの歴史的エピステモロジー
への導きの糸として役に立つわけです。
これ以降、ω における意識は二つの意味を持つことになります。第一の意味においては、意識は、
単なる注意と呼ばれるもの、質への《覚知 awareness》、それ以上細かく分解することが難しいひとつ
の精神状態でしかありません。しかし、同じこの ω における意識に、ψ の量の放散を操る特権性を与
えることには、支障がないわけではありません。というのも、こうした見方によって、意識を、ψ の
量を動かす志向性、意志を操縦する志向性の責任審級にしてしまうからです。その結果、書簡 85 では、
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フロイトは意志を外部の量(Q)に従属させることをやめてしまいます。フロイトはより直感的に、
意志を器官に由来する放散へと変えました。フロイトは、語る動機は内部に由来するという、失語理
論以来潜在していた主題に再び立ち戻っています。しかしフロイトはその後、動機のこの起源を無意
識的 ψ へと位置づけます。もしことがそのようになっているなら、そして ω が有機体の究極の動機的
起源を操っているなら、「あれ」ではなく「これ」をするとか、他のようにではなくこうするとか《se
dire=自身に言う》ことができなくてはなりません。言い換えると、「言語」表象へと密に従属する《意
識》に一つの方向を与える必要があります。この意識は、「awareness(覚知)」とは異なり、むしろ
「self report(セルフ・レポート)」に属するものです(私は認知科学の最近の用語法を用いています)。
ω によって ψ を操縦することが起こるためには高次の表象的コード化が必要なのです。
さて、それはどこに由来するのでしょうか。答えは 1891 年の「失語症論」において既に与えられて
います。つまり個人の周囲で話される日常言語に由来するのです。しかもそれはとりわけ
「Nebenmensch(隣人)」により選択的に語られるものです。この隣人は、幼児の寄る辺なさの叫びに
答え、また寄る辺なさの中心にあって名づけられない《もの》(「Ding」)にまといつく語を与える
ことで、この叫びを超コード化し、再コード化します。これらの語は、最終的に寄る辺なさを軽減す
る適切な特定行動の可能性を少しずつ構造化していく《述定 prédicats》に他なりません。欲するもの
を《se dire=自身に言う》ようになることにはじまって、フロイトにとって言語記号は、意識の中で ψ
由来の量を《表象する représenter》ための媒介として役立ちます。そうすることによって、ψ 由来の量
は方向づけられます。しかしながら、この量が対象という照準へ、また「志向的な」照準へと変わる
のは、満足の鍵を握っている「Nebenmensch(隣人)」のもとで、同時にそれが「表象可能」になると
きのみです。まさしく「Nebenmensch(隣人)」そのひと(母)が、「話すことによって」幼児の欲望
という名づけられないものの周囲で述定的構造化に本質的に寄与しているのです。手短にいうと、こ
のような力を ω に与えるとすれば、その力を決定的するものが言語にあると認め、量の志向的操縦の
背後で、また、特定行動における欲望の対象というし照準の背後で、ψ を言語法則に従わせなければ
ならないように思われます。言語において、欲望されるものは、「Nebenmensch(隣人)」に対して「要
求され」うる(また反対に、そのような要求として「Nebenmensch(隣人)」に理解されうる)もので
す。ここまでくれば、あとはほんの一歩踏み出すだけで、ψ から《内的な》心的自律性を取り除くこ
とができ、また、欲動や情動の全てを「Nebenmensch(隣人)」にさし向けられた要求の《反響効果》
と考えることができます。こうした要求は、主体を、現実的に隣人であるもの(母、乳房など)に従
わせるだけではなく、母が語る言語にも従わせます。
心的装置はこうして、もはや、個々人の頭の中で、奇妙な心理学的歯車で動いている脳もどきでは
なくなります。「psychischer Apparat(心的装置)」、それは、それによって私が、「私」と隣-人-存在
(être-humain-proche)との間を「繕う m’appareiller」ものであり、それゆえ、私の「なか」でも彼の「な
か」でもない、彼と私との「間」にあるものということになります。それはもはや、物理学的あるい
は生理学的意味での通道でもなければ、ニューロンの仮説的な複合体でもありません。むしろ、情動
や欲動から噴出する、苦痛や寄る辺なさについての声にならない叫びと、どんどん複雑化する隣-人存在に差し向けられた要求を言表する言語の諸記号とを媒介する《代表象 représentations》なのです。
この装置の諸々の構成要素を、神経科学のふところの中に回復させようとすることなど、全く絶望的
です。心的装置は一つの関係であり、超生理学的な実体ではありません。
1896 年の末に書かれた書簡 112 は書簡 85 によって提起された修正を再検討して、『夢判断』の第7
章を準備しています。フロイトはそこで、失語理論から得た知識についても言及しています。さらに、
12
意識と記憶との排他性や、「Nebenmensch(隣人)」つまり《後からやってきた誰とも比べようのない
前歴史的で忘却不能な他者》についての、基礎的直感を再び定式化しています。以下がフロイトの有
名なシェーマです。
W
Wz (I)
Ub (II)
Vb (III)
Bw
xx —— xx —— xx —— xx —— xx
x
xx
xx
x
x
フロイトは、知覚(W;「Wahrnehmung」、かつての φ)ニューロンから無意識(Ub;「Unbewusstsein」
かつての ψ)を経由し、意識(Bw;「Bewusstsein」かつての ω)へと至る行程の四つの段階を区別して
いますが、これに付加されたひとつの中継があって、この中継に、その後の精神分析家の注釈的創意
や理論的独創が繰り返し立ち戻ることになります。それは《知覚記号》(Wz;「Wahrnehmungszeichen」)
で、これが、知覚的所与を最小限に前-構造化している《同時性による》連合に従って知覚的所与を
登録/翻訳します。例えば、乳房《と》、授乳しながら鼻歌を歌う母の声との連合です。はじめのこ
の登録/翻訳(Ⅰ)の後に、続いて、他の連合的関係、おそらく原因結果という性質を持もつ連合関
係に支配された再登録がやってきます。この際登録は意識に対し接近不能です。これが(フロイトは
この点でかなり曖昧ですが)《概念的》記憶の段階(Ⅱ)ということになるでしょう。例えば、乳房
が与えられ《それゆえ》飢えは和らぎますが、その結果として、未だ名前をもたない様々な《もの》
のある種のネットワーク化がもたらされます。しかし、これらは、ただ快原理によって特権化された
畝のようなふくらみとして体験されます。ところが、我々の意識はそのような《もの》を思い描くこ
とができません。これら《もの》についての同定は、それを名づける能力の相関物ではない―あるい
はまだそうなっていない―からです。つまり、それらは名という同一性を持たないまとまりであって、
その輪郭は、それらを標的としそこで完遂する欲動の躍動が捉えているものによって、あるいは、そ
れらの《もの》が欲望を逃れるときに感じられる苦痛の閾値によって、なんとか固定されるのでしょ
う。いずれにせよ、《語表象》へとつながる以前の純粋な《もの表象》がどんなものであるかは、い
かにして表現すればいいのでしょうか。最後の登録/翻訳は、「公的な」自我の意識や語を動員しま
す。これが前意識(Vb,「 Vorbewusstsein」)(Ⅲ)です。この水準でついに、それ以前の段階の不明瞭
さの一部が解消されます。というのも、《もの》はそれ以降判断行為によって捉えられ、この判断行
為が《もの》を参照する述定を安定化するからです。このように、フロイトにとってこの参照は、記
憶の中で記憶痕跡となった《もの表象》を心的に制御する一つの形式です。この瞬間から、人は自分
が「何を」表象し、「何について」語り、「何を」欲望しているか、話すことができるようになりま
す。つまり、それは《もの》を「参照する」ことができる、言い換えるとそれを同定できるというこ
とです。しかし、これは決して、もの表象という過去の連合的歴史を消し去ることによってなされる
わけではありません。「psychischer Apparat(心的装置)」は、《もの》を同定し、《もの》が何であ
るかを判断することによって、同時に、《もの》を語表象の射程に導いた通道によって《もの》と連
合している全てのものを捉えます。このことは、Wz における同時性によって、さらに、Ub において
「もの」についての所与を記憶の中で再形象化する因果的再改変に従うことによって起こります。例
えば、これ以降は、ある女性が男性の視線のもとに乳房を曝すということが、その彼(彼女)をまる
ごと捉える性的な熱情の、意識的にも感知しうる原因として働く可能性があるということです。しか
も、彼(彼女)がこの情動的なとらわれの源泉について十分に意識することができないとしてもそれ
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は起こります。というのも、その源泉は、無意識的で抑圧された乳児の満足との一次的連合を「経由
して」、母の乳房だからです。だからこそ、言いたいことを意識的に語ることができ、かつそれとは
別のことを漏らし伝えることができるのです。別のもの、つまり無意識的な動機、無意識的な意味作
用です。
ところで、これもまたフロイトが言っていることですが、自我は質に注意を向けているだけではあ
りません。自我は、『草稿』において ω が一般的に指し示していたものを越えています。自我は《考
えているという意識》を持っています。このことが新たな問題を提起します。これはもちろん《二次
的な》意識ですが、しかし、どのようにしてこのような意識が可能となるのでしょうか。
フロイトの解は以下の通りです。自我は、考える際、幻覚的な様式で言語表象を《活性化》します。
これこそ、あれやこれを考えていると、あるいはしていると《私が自身に言う》とき起こっているこ
とです。つまり、私は、あたかも、だんだんと私自身の思考を作っているかのように、あるいは、ま
さにいま「折よく」語がぴったりはまり、物事を指し示しているかのように、現在において、自らが
習得した語の記憶痕跡を体験しているのです。
しかし、この解によってフロイトは、自分のシェーマの端と端とをつないでみるということを考え
るようになりました。実際には、Bw における語の幻覚的活性化には、別の《知覚ニューロン》が必
要です。何故、W のニューロンとは別のニューロンということになるのでしょうか。明確なのは、も
し Bw から W へと折り返すとすれば、Wz が今度はサイクルのなかに捉えられるということです(シ
ェーマ1)。その場合、次のように考えることに抵抗するのは容易ではありません。つまり、心的装
置の段階的な発展の際に、語表象は、はじめに記憶に知覚を書き込んだ同時的連想に対して、強い影
響力を持つだろうということです。要するに、我々は純粋に自然な世界の中で世界に到来するのでは
なく、語と意味作用と象徴の世界の中で世界に到来するのです。単に、これらの語や意味作用や象徴
が知覚すべき対象として他の対象に加わるというだけではありません。人間の知覚としての我々の知
覚の全経済が、語が我々に強要してくるところの「前提的な」同時性による連合のなごりを留めてい
るのです。例えば、いくつもの《もの》をひとつの情動的価値で、つまり、その情動的価値が、我々
の周りでこれらの《もの》について語られているという事実に由来しているということが、我々には
はじめはわからないようなひとつの情緒的価値で彩る連合です。
書簡 112 の「psychischer Apparat(心的装置)」は、その両端を結ぶことができない可能性がありま
す。フロイトはあまりはっきりと言っていません。しかし、もしそうではないとしたら、まさに抑圧
の治療的解釈の効果についてメタ心理学的な説明をすることが全く難しくなってしまいます。という
のも、治療的解釈は、無意識に基づくと同時に無意識において、語そのものや語の記憶イメージを
働かせる可能性に根拠をおいているからです。しかし、もし、前意識と意識から出発するとしたら、
無意識に触れることが不可能になりますし、反対に、無意識が漏らし伝えることを許すものしか前意
識と意識の中にはないとしたら、無意識に対する影響力は理解できないものになります。
シェーマの端と端を語の幻覚的知覚意識において結ぶことは、こうして、フロイトにおけるランガ
ージュの地位の恒常的な多義性を更新し、濃縮します。意味作用を負わされた内容を、記憶の層から
層へと転写する(そのとき再記載/再翻訳がなされます)ために、この多義性が必要とされます。し
かし、フロイトは決して「心的装置(l’appareil psychique)」を「人間存在間の相互的な装置がけ
(l’appareillage)がもたらす《心理学的効果》と考える」ことまではしていません。つまり、人間存在
が誕生のときから彼の世話をしている近親者たちによって投げ入れられる言語活動のおかげでもた
らされる効果のようなものとは考えていません。フロイトはここで心的装置の内的な(ほぼ脳的な)
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ヴァージョンを重視していますし、その後も決してそれをやめようとはしませんでした。そのため
にフロイトが払う代償は単純なものです。ランガージュを、語る「Nebenmensch(隣人)」としての
他人との関係において心的生活を究極的に制御するものとみなすことを拒絶すれば、その帰結とし
て、心的装置の《内的》機能が言語学的概念によって徐々に浸食されることになるのです。そうした
言語学的概念はメタファーではありません。というのも、それらは、この心的装置の中にあるもの
のなかで最も操作的なものだからです。とはいっても、それは言語の操作のカリカチュアです。記
載、翻訳、転写、そしてエクリチュール、語呂合わせ等など。
ここで、抑圧されたものの(理論的)回帰について語っても、さして行きすぎではないと思います。
その理由については、私が特別なことを言わなくとも容易にお示しすることができます。つまり、精
神分析の創造におけるフロイトの究極的な発見は転移の発見だということです。確かに、転移のみが、
「Nebenmensch(隣人)」に対してなされる寄る辺なさの訴えを構造化すると同時に、その訴えに由
来する反復という考想をもたらしています。ただ転移のみが、心的装置がこの《前歴史的で忘却不能
な他者》への「装置がけ appareillage」、さらに彼が話すという謎への「装置がけ appareillage」である
ことを証明しています。隣人が語るとき、隣人は生命の欲求の対象以上のものをもたらします。隣人
は、あれとかこれを欲望しているあるいは標的にしていると《自身に言う》のに必要なものをもたら
してくれます。そして、転移のみが、反省的意識や意味に無意識が穿つ穴という考想をもたらします。
穴とは、人が話しながらも自分で解っていないこと、行動しながらも自分で分かっていないこと、し
かしながら、我々を動かす欲望や動機を漏らし伝えるもののことです。言わば、転移のみが、分析的
経験から脳を取り去ります。ですから、「Nebenmensch(隣人)」との、続いて第二局所論において
は両親の
「imagos イマーゴ」
との、
最初の関係について転移が反復するもの全ては、
「psychischer Apparat
(心的装置)」の外部にとどまる危険をはらんでいるのです。
こうして、『草稿』の心的装置も、そして『夢判断』の心的装置も、患者たちの転移に対する分析
家フロイトの「抵抗」の記録なのではないか、という考が導かれます。この点についてはすぐにお話
しますが、これこそ、心的装置のパラドックスについて言及しながら私がここまで示唆してきたこ
との、ひとつの(主要な)解釈です。心的装置のパラドックスは、その形状そのものにおいて、それ
についてひとが抱く考想の限界を暴き、それを想像する人の神経症的固着点すらも漏らし伝えるも
のです。しかしながら、ここには次のような大事なただし書きがつきます。つまりフロイトが心的
装置なしですませようとしていたら、彼はもはや全く前進しなかっただろうということです。実際、
フロイトはこのように患者たちを、彼らの精神-脳的個別性へと、言い換えれば《ニューロン装置》
へと(理論の上で)閉じこめます。というのも、転移はまだ、分析経験がそれによって意味をもつ形
式的枠組みではありえず、せいぜいのところ神経症治療の原因となる成分にすぎないからです。
そのことの帰結は直接的に、精神分析家たちの諸理論における心的装置の運命の中に現れています。
無意識から流れ出る量(情動)と言語記号とが結びついているからこそ存在しうる意識、そういう意
識をどこに位置づけたらいいのか、もはやわからないのです。フロイト自身が書簡 85 以降、量に服
する《言語的連合》を《二次的》と形容したり、無くてもかまわないものと形容したりすることで示
唆しているように、その意識は ω と ψ との間に置かれることになるのでしょうか。その場合、語る他
者つまり「Nebenmensch(隣人)」との関係の絶対的力を説明することは非常に難しくなります。隣
人、つまり、人間の「infans(子供=まだ言葉のないもの)」の狼狽の叫びを、彼に想定されるところ
の一つの要求、言行為の主体によって担われた要求の尊厳へと高める者です。では、言葉による症状
解釈がもつ因果的効果をどう説明したらよいでしょうか。それでもひとは、フロイトの選択に反して、
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語による質的意識に決定的機能を与え、その質的意識を、我々が言語と表象(そして象徴)の次元―
そのただなかで各人が世界に到来するのです―に根源的に属していることの表現と考えることを選
ぶのでしょうか。これでは、言語記号の知覚を体系の頂点に置き、それを無意識的《知》の形式その
ものと考える考え方に戻ることです。そこには逆のアポリアがあります。個々の有機体による現実検
討がどうなるか、もはやわかりません。《現実》という問題は言語と文化によって予め制御されてい
ます。全ての人が話し考えるということが世界をアプリオリに構造化しているのです。さらに、より
深刻なことですが、なぜψ つまり無意識が、生に不可欠な最小限の心的一貫性すら持たないのかとい
うこともわからないのです。なぜなら、無意識的《知》に還元され、ラカンが定式を打ち立てる前か
らすでに《言語として構造化され》ているため、ψ つまり無意識はもはや、欲動の貯水池としても、
もの表象の記憶の場としても、さらには、生の切迫状態において処理すべき量の情動が湧き出す源泉
としても、実在することはありません。それはディスクールへと消散します。我々が幻覚するものは
みな、まさに語表象の感覚的質であり、要するに、我々に最も近い近親者たちが我々にかつて語った
ことがらの遠い反響なのです。
我々はまだ、脳性麻痺の神経学についての機能的、発達的、進化論的な視点も、大脳皮質と末梢と
の間の「非直接的な」経路に《représentations(代表象)》を差し込む失語症理論の大胆さも、見失っ
ていないことに留意してください。たとえそれらが「心的装置」についての思索の前提であったとし
ても、我々はそれを緊張状態に置かないわけにはいかないということを、我々はまさに確認したので
す。というのも、その出発点から曖昧な(多義的な)この《représentations(代表象)》は、我々に次
の二つの間で選択することを強いることになるからです。つまり、一方においては、ダーウィンの枠
内でのその生物学的役割、さらに末梢部位の《機能》の皮質における代表という選択的操作器として
の神経システム内でのその存在様式において、他方においては、もし隣-人-存在、つまり我々の原
初的対象が、我々に話しかけるなどということがあるとしたら、その(《集合的代表象》において秩
序づけられた)社会的定義においてです。
Ⅴ.『夢判断』第 7 章と第一局所論
この点からみて、『夢判断』の最終章の心的装置(シェーマ)について通常行われているさまざま
な紹介は、私の考えでは、はなはだしい誤魔化しにすぎないと思います。実際、そうした紹介は、『夢
判断』よりもかなり後になってフロイト自身が与えたこの装置の解釈を好んで取り上げるばかりで、
この書物の説明においてこの装置が果している役割の検討を怠っています。さらに、こうした注解は
『夢判断』が示しているある討論を無視するものです。それはドイツ語で書かれた神経学のさまざま
な臨床解剖学的装置との討論ではなく、むしろ当時のフランス心理哲学(ジャネ)によるこれもまた
きわめて思弁的なシェーマとの討論です。かつて私は『夢判断』について極めて詳細に論じたことが
あります(1998)。ですから、私としては、フロイトの論拠を正確に検証することによってこの点につ
いて立証しえたことを、以下にもう一度列挙することで、満足することにしましょう。
1.第 7 章の心的装置は、それより前の章で使われている夢解釈のさまざまな技法と切り離すことは
できません。心的装置は、夢を見た人が夢について行う連想作業を基にした臨床的分析を、さらに上
位の価値を持つ病因的説明に置き換えているわけではありません。むしろ、この心的装置は、夢内容
の因果的説明がいかにこの書の最初から最後まで欲望の意味論に(つまり夢は抑圧された内容の意味
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作用と情動表現であるとする定義に)従い続けているかを端的に示すことによって、夢理論の仕上げ
となっているのです。
2.第 7 章の心的装置が与えてくれるのは夢一般の生成についての鍵ではなく、イマージュ[映像]
を幻覚するような夢のみについての鍵です。第 7 章の心的装置がなくても、フロイトの意味において
完璧な夢を見る(幼児的で性的で利己的な起源を持つ抑圧された願望を成就する)ことができます。
3.『夢判断』の光学装置ははっきりと一つのフィクションとして構想されています。夢の活動につ
いての神経学を擬したモデルとして考えられたものではありません。さらに、後にフロイト自身主張
することとは逆に、フロイトが本来『夢判断』で説明しようとしているのは、夢とは何かということ
でもなければ、脳あるいは精神が夢をいかに作り上げるかということでもありません。ここでフロイ
トが説明しようとしているのは、いかにして夢が、人間の心的生活に不合理な異物をもたらすことな
く、その連続性のなかに組み込まれているのかということです。夢は、無意識と意識の間の欠けたリ
ンク、失われた欲望の倉庫を捜索することで掘り出される、意味いっぱいの、さらには何らかの防衛
的機能に完璧に適合する、欠けたリンクなのです。
4.『夢判断』の「seelischer Apparat(精神装置)」はニューロン放出の理論(臨床的には、除反応の
理論)を行動の理論で置き換えることを前提としています。しかし、フロイトは、より断定的になっ
ています。つまり、夢は禁止されているが願望されている行動に置き換わる、と。ですから、ここで
言う行動は志向的なものだったのであり、夢はこの志向性の幻影を引き継いでいます。夢は志向性を
表象し、ときにはそれをイメージ化しさえします。しかもこの志向性は「能動的 conative」です。そ
れは(失われた)対象を標的とする欲望の志向性です。志向性についてのこの正確な意味において、
夢は、禁止された行動の意志を、行動としてではなく、「志向性として」現前化させます。これが夢
の意味の原理です。
5.心的装置が反射弓のモデルにもとづいて構築されるとき、それはフィクションではありません。
この心的装置は、目的論的に方向づけられていますから、同時代の反射学による唯物論的理論とは区
別されるものです。心的装置の合目的性とは、実際、心的装置が《目的表象》(「Zielvorstellungen」)
によって支配されているということです。1.患者の言語的連想は精神分析家にさし向けられ、患者
は、自分が分析家という人物の向こう側に誰を標的としているのか知りません(これが転移です)。
2.心的苦痛とその苦痛を軽減してほしいという要求とが連想を動かします。すなわち心的装置の最
も奥深い層から発せられる寄る辺なさの叫びが連想を動かすのです。そういった層で問題となる(ゆ
えに転移に再び持ち込まれる)のは、「Nebenmensch(隣人)」に向かって投げかけられた叫びです。
6.反射弓という形式のもとでの心的装置は、書簡 112 のシェーマを感覚の入力と運動の出力を持つ
装置に統合することによって、このシェーマを閉じます。この入力と出力の間には、記憶
(「Ernnerung」;Er)の記載と継起的再記載/翻訳が見出されます。しかし、この運動出力は行動を
産み、その行動の志向性は、まず欲望と記憶によって支配され、そして次に、現実検討によって支配
されます。
7.こうして、脳の構造が神経インパルスに課す、当時の反射学的モデルに適合した、超・複合的経
路を持つ反射弓は、従順に、解釈技法や転移などによって要請される目的論に奉仕しています。フロ
イトは『夢判断』以降、心的装置に影響を及ぼしうるような物理学的あるいは生物学的に前提とされ
るいかなる縛りを参照することもなくなっていきます。反対にフロイトは、治療における転移や解釈
から完全に理解できる心的装置を構想するための、できるかぎり一般的でかつ制約のないやり方を探
求します。そして、フロイトは反射という抽象的なモデルを選択します。なぜなら、それが、神経シ
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ステムを持ち自然選択に従う生きた有機体の所与と両立しうるモデルであるからです。しかし、この
反射は、心的現象と有機体の極めて一般的な諸特性の両端を結んでいます。それ以上の何も拘束しま
せん。
8.言語表象の Vbw[前意識]システムは、自動症や下位意識に関するジャネの仮説やフランスの心
理哲学を乗り越えることによって、それらを統合するために練りあげられたものです。そのため、心
的力動は、それらの理論に固有な考え方を踏まえて構想されています。つまり、《対照による》連合、
(「konstrastierenden Vorstellungen」,「Kontrastgedanken」)、《反対意志》(「Gegenwillen」)などの
用語です。こうした点が『夢判断』の連合主義をニューロンの連合主義ではなく、テーヌやその後継
者と結びつけています。精神内の葛藤の力動だけが、精神分析的に実りのあるものであって、下位意
識的な自動症を取り込むことは役に立ちません。だからこそフロイトは前意識の体系的理論化を断念
することになるのです。『夢判断』は哲学者や心理学者の言う下位意識に別れを告げ、また同様に、
厳密な神経学仮説にも別れを告げているのです。
この要約で十分でしょう。私の目的は精神分析を説明することにあるわけではなく、ただ、精神分
析が心的装置を構築することによって、いったい何を探求しているのかを理解することにあるのです。
むしろ、『夢判断』に関するこの指摘の最後に、第二局所論との比較を行っておきましょう。この比
較は、心的現象に対するフロイトの「姿勢」が 1900 年と 1920 年以降の間でどのように変わったか、
その違いに対する注意を喚起してくれるでしょう。この間の期間とは、別の言い方をすれば、神経症
は《簡単に》治せるという希望がしぼみ、歴史上の動乱が、ヨーロッパの他の多くの知識人たちと同
様、フロイトからも、進歩や人間に対する信頼をはぎ取るにつれて、ということです。
第二局所論(超自我、自我、エス)は第一局所論の単なる拡張でもなければ、定義のやり直しなお
しでもありません。しかし、第二局所論の中には第一局所論が包含されています。第二局所論は第一
局所論を、理論とは異なる次元で批判するものです。私の考えでは、この批判の射程の長さをしっか
りと見ておかなくてはなりません。この批判は、要するに、意識と無意識は、心的装置の二つの《審
級》といったものではなく、心的な二つの過程の特異な《質》であるということを言っているのです。
確かに、自我にも超自我にも無意識の部分があります。しかし、それは、自我の最初の理論、例えば
「草稿」の理論から、容易に派生させうる帰結だったのではないでしょうか。
より根源的なことは、生きのびるという心的有機体の《自然な》目標についてもう一度問い直して
みることです。なぜなら、フロイトはここで、心的装置が従わなくてはならない三つの任務を同時に
果たすことの「不可能性」という点から、この心的装置という問題にアプローチしているからです。
三つの任務とは、①現実検討を是が非でも保証すること、②罪悪感と不安とを最小にすることによっ
て、しばしばグロテスクで矛盾する、超自我の道徳的理想と命令を満足させること、③そして、最後
に、決して止むことのない内的欲動的強制に従うこと、この三つです。ここで自我は《三人の主人に
仕える道化だ》と言ったらあまりに軽率でしょうか。おそらく、このような道化役が存在すると想定
することで、人は[道徳的]幻想に、いやむしろ根本的な「道徳的幻覚」に従うことになるのだと思
います。この幻覚とは、《我々が実在している》のだから、自我のような何かが実在しているに違い
ない、そして、そうだとすれば、我々は、神経症であろうと、精神病であろうと、この三つの主人を
満足させることにほぼ成功するに違いない、という考えです。このことを信ずることは、《正常》な
自我があると幻覚することであり、また、神経症者や精神病者を、正常な自我に近づけることが、ば
かげた任務でも、あらかじめ失敗に終わるべき任務でもないと幻覚することです。むしろ視点を逆転
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させるべきでしょう。《seelischer Apparat(精神装置)》が、無意識が意識に対してどのように《機能
している》かを示すためのものではなく、むしろ、なぜそれは、何をしても常に《うまく機能しない》
かを示すためのものだとしたら、どうでしょう。そして、それが結局第一局所論の楽観主義と理論化
幻想に対するフロイトの最も根源的な批判であったとしたら…。第一局所論は、自我については次の
ような考えを当然のこととしていました。つまり:神経症?確かにそうだ。たいしたことじゃない。
何がどうなっているかは分かるし、治せるのだから。
後期フロイトの心的装置には、理解に対する独特の挑戦を見て取ることができます。つまり、そ
れは「うまく機能しない」ためにのみ存在しているという、極めて特殊な「機械」なのです。この機
械が、単に故障しているだけでなく、自己破壊するような方向の機能を全て我々に示すという限り
においてのみ、この機械は完全なものとなり、逆説的に機能するのです。結果として、自我/超自我
/エスという三分割は、心的に存在するということに内在する「ある不治性のもの」を露わにしてい
るのです。だからこそ、死の欲動はまさしく現実的なのです。そしてまた、以上の点こそが、なぜ第
二局所論の「seelischer Apparat(精神装置)」に、心的現象についての新たな認識論的モデルの役割を
果させる、あるいは実践的には、自我を圧倒している諸制約のなかで自我が切り抜けるための実践的
な地図の役割を果させようとする試みが、全くの誤解であるかということを示しているのです。とい
うのは、誰も、そして(心的であるような)何ものも、正常に機能などしていないのだから、切り抜
ける手段などないからです。ですから、ケース・バイ・ケース、人それぞれでしかないのです。
第二局所論のこの読み方が唯一の読み方か、あるいは良い読み方か、という点については、はっ
きりと留保を置いておきたいと思います。しかし、この読み方によって私は、心的装置を創出する
ということが、精神分析においては、決して中立的で無垢な心的活動ではないということを強調す
ることができたと思います。この読み方を臨床的な所与とつき合わせてみるというだけでは十分で
はありません(第二局所論では、臨床的所与とは、フロイトのつまずき、特に《陰性治療反応》の謎
であり、さらには原初的マゾヒズムです)。心的装置は、精神分析においては、ただ心的装置それ自
身に欠陥があるということを示すだけにとどまっていてはなりません。あるいは、心的装置が、神経
症者(第二局所論においては精神病者)に対応するために必要なものを次第に身に付けていく―しか
し完全にとか理想的にということはありませんが―精神分析家の精神形成における一契機にすぎな
いということを示すだけでもいけません。実際、もし、第二局所論の私の読みを受け入れるならば、
我々の心的な可能性についての根源的な脱幻想を、さらには「seelischer Apparat(精神装置)」という
考え方でものを考えることによって我々が陥る絶望を、まさに、「現実的なもの」に触れたというこ
と、つまり我々がそれであるところのものの現実に触れたということの、唯一の指標として同定する
というところまでいかなくてはなりません。 第二局所論の装置は、精神分析の限界に関するフロイト
のひとつの姿勢を明かしています。その姿勢は第一局所論を導いていた姿勢に比べればより筋の通っ
た一貫した姿勢です。ところで、こうした視点は明らかに、二つの局所論を理論的にも臨床的にも相
互に互換可能なものにしようとする、あるいは、もっと悪い場合には、より統合的で力があり、より
科学的なモデルをもってそれらを越えようとする、解釈学的接近からは遠いものです。この視点はむ
しろ、心的装置を創出するということは、何を問題にすることなのかを示すものです。つまり、我々
がどのような主観的変異を通過すれば、そしてどのような努力を払えば、全ての視線の源に向かって
より明晰な視線を向けることができるかを示すものなのです。
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Ⅵ.ビオン・・・
ビオンのグリッド(シェーマ)は、彼の「エピステモロジー」期の到達点ですが、それは、フロイ
トが 1911 年に素描したメタサイコロジー、すなわち「精神現象の二原則に関する定式」の基盤とな
っている様々なものを広く統合したものをもとにしています。私がすでに他の著作で明らかにした、
このグリッドに関する主要な結論をもう一度取り上げ、グリッドとは実際心的装置であるということ
を強調し、フロイトからこのグリッドが何を受け継いでいるかを検討しようと思います。
グリッドの水平軸は、書簡 112 以来、また最初の局所論で、心的装置を現実に適応させるために持
ち込まれたフロイトの概念を一つ一つ取り上げたものです。つまり、表記/記載、注意、探求(すな
わち、無意識に由来する探索の通道で、それは、注意によって開かれた道をたどります)、特定行動
などです。縦軸は、心的内容物が統合と象徴化によって徐々に豊かになっていく過程を描いています。
その過程においては、『二原則』におけるのと同様に、神話、理性、そして科学という段階を通過し
ます。これらの軸の発達を規定する二つの論理については、ここでは脇に置いておかなくてはなりま
せん。すなわち、水平の軸にとっては、コンテイナー(包むもの)とコンテインド(内容)の軸であ
り、垂直の軸にとっては、メラニー・クラインの意味での妄想分裂ポジションと抑うつポジションの
軸ということです。このグリッドの根本的利点は、フロイトによって第 31 講で放置されたままにな
っている二つの局所論の統合の問題を解決するという点です。このあとすぐに見るように、ラカンは
彼のシェーマ R で、同じ種類の目標を追求していました。しかし、ラカンの場合は、第二局所論に関
するクラインの解釈にどれほど依拠しているかそれほど明白ではありません。それがビオンでははっ
きりしています。
ビオンの心的装置は、精神分析の歩みを基本的《要素》に分解します。彼の思考や、解釈や、行為
をグリッド上に位置づけようとすることは、まさにそれらがフロイトとメラニー・クラインのメタサ
イコロジーに厳密に一致することを確認することです。精神分析家であろうとする限り、どんな分析
家もこの座標に書き込めないようなことは一切考えることも、言うことも、することもできないはず
であるかのようです。しかし、あらゆる心的装置と同様に、ビオンの心的装置も、単に分析経験につ
いて考えるためだけの道具ではありません。それは、また思考のための経験でもあります。ビオンが
有名な定式に従って、治療が目指すのは《それ自身の思考を考える》装置を作り出すことだと述べる
とき、彼は、単に通常の順序を逆にしただけではありません。通常は、人はまず思考の装置を持って、
そのあとで思考を持つことになるでしょう。ビオンにとっては、実際それは逆なのです。すなわち、
(すでに他者のものである)思考が、我々に圧力を及ぼし、我々はどうにかこうにかその思考を考え
るに「到達する」ための装置を、自ら作り出すのです。ビオンは、またその都度、個人版のグリッド
という呼び方もしています。別の言い方をすれば、グリッドは、ビオンが「それによって」彼の精神
分析的思考を考えるもの、と言えるのではないでしょうか。
それは、二つのことを意味しています。
1.第一に、それは、ビオンはグリッドへと到達することで、我々に以下のような手がかりを与えて
いるということです。すなわち、どの被分析者も、またどの分析家も、思考や、夢の断片や、解釈や、
詩や、いつも犯す論理の間違いや、つきまといあるいは魅惑するイメージを自分自身のものとして「引
き受ける」ということを勧めているのです。要するに、ビオンは知覚記号や想起の表記や記憶におけ
る書き直しや書き換えや意識的言語表象や最後には象徴化といったものについての概念を全く真剣
に取ります。つまり《文字通りに》取るようにと勧めているのです。この(自己分析の)実践におい
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て、彼の治療と彼の性的生活が彼に対して明らかにするように、彼個人の場合にそういったものが何
であるか、またそれらがどのように組織化されているかを発見しなければなりません。こうして、フ
ロイトの心的装置はもはや抽象的なモデルではなく、それゆえそれぞれの構成要素を位置づけること
はビオンでは日常的実践の詳細な規定ということになりますし、分析家の《思索 cogitation》の個人的
技芸ということになります。それは、理論的絶対というものではありえません。ビオンは逆に、《自
身の思考を考える「己の」装置》を一人一人が創り出すということを下支えしている心的作業は、「彼
にとって」かつて非常な価値のあったもの(優格観念、繰り返す夢、解釈)よりむしろ、彼自身を検
討しなくてはならないだろうということを主張しています。要するに、《自身の思考を考える》ビオ
ンの装置は、我々自身の「変形」に我々が馴染むのに役立つのです。これは、反省的意識化というこ
とではありません。それは、我々が意識可能な全てのものを超えて遥かに豊かな《心的テキスト》の
一種を展開することなのです。
2.次に、グリッドを臨床的に使用することから分かるのは、それは、精神分析的経験の単なる要約
ではなく、他の仕方で考えるための実験的な手段を提供することができるということです。ビオンは
こうして、精神病は「陰画としての」心的装置に他ならないということを示唆しました。精神病にお
いては、心的世界の装置によってコンテインされているすべてのものが、投影され排除されています。
妄想病(délire)の古典的症状(迫害的な他者たちの眼差し、声、自らの身体が性的に悪用されるとい
う感覚)は、心的装置の歯車やメカニズムが(その性的欲望やその沈黙した言語的思考やその意図と
ともに)バラバラにされて、究極のコンテイナーを欠いて破裂した形で投影されたものに他なりませ
ん。これらの排除されたメカニズムは、太古的超自我の残虐性を伴って回帰してきます。そうなると
患者は、あらたにまた否定と投影を強いられ、そのためやむなく、自身の心的装置を再び排除するこ
とを強いられ、こうして終わりのない自己破壊のスパイラルに陥っていくのです。
こうして、精神病の精神分析的治療は、分析家自身の心的装置を補填として精神病者が成し遂げる
ことの出来ないすべての心的機能に提供するということになるでしょう。ここでは、まさにある装置
が別の心的装置を転移的に《繕う》という考想が実現しているのを見ることができます。それは、逆
転移は、補綴として作用しうるという考えです。つまり、精神病者によって排除されている心的装置
――精神病者は自らを迫害する思考にそれほどまでに苦しんでいます――の再統合と再象徴化を何
らかの仕方で可能にする補綴です。ビオンは、驚くべき仕方で、精神分析が精神病者達にもたらしう
る困難で遅々としたこの改善の契機のいくつかを描いています。それは例えば、錯乱(délirer)させ
ようとする耐え難い圧力を、夢を見る能力で置き換えていくといった契機です。
こういった考それについて、ここでもまた私は、それが適切か、あるいは信憑性があるかというこ
とを追及しませんが、こういった考えは、無意識の旗の下にある思考や行為についての分析的経験に、
徹底的な仕方で関わらない限り生まれ得ないものです。ビオンの《思考を考える》装置の理論が洗練
されていて、密度が高いために、これらの仮説が、フロイトとクラインに忠実でありつつ可能になっ
ているのです。ビオンの装置は実際、二つの局所論のシェーマの発展であり、かつ刷新として提出さ
れています。しかしながら、何らかの《神経装置》への参照は消え去っていることが分かります。
分析経験の真実性と正統性は、ビオンが創り出した転移、逆転移概念や、精神病や正常の心的生活
における投影性や同一化についての彼の理論に完全に依存しています。逆に、ビオンはある意味で、
適応すなわち現実原則に対して、それゆえまたダーウィン進化に対してフロイトが行う参照の形式的
枠組みを残しています。この点で、ビオンは「二原則に関する定式」に文字通り従っています。とい
っても、そのニュアンスの違いは極めて大きい、ビオンは、子どもの発達を成人や性的成熟までとは
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限定していません。《思考を考える》装置が、エディプスの解消をはるかに超えて展開され始めたと
きから、この装置と個人の《成長》(「growth」)の問題が生じてきました。ビオンにとっては、心理
的に正常というだけでは十分ではありません。彼が目指しているのは、集団行動や協力です。つまり、
ただ一人の人の心的装置が作り出しうるものではなく、グループの、そして究極的には人類の心的装
置が作り出しうるもの、つまり宗教や芸術、科学を問いたいのです。常に強いられる適応の課題のあ
とに、結局個人の創造性という課題が続き、さらには、社会全体の中での個人の正当な場所の探求と
いう課題がやってくるのです。
Ⅶ.そして、ラカン
ラカンの《主体のトポロジー》の基本となるシェーマ、シェーマ R は、手紙 112 の装置をトポロジ
ー的、理論的に洗練させて書き直したものと理解することができます。フロイトは繰り返し、最も重
要なことは、記憶の継時的書き込みの《中で》ではなく、その《間で》起きている、W、Bw などの
審級の関係を示す線をこれらの「用語」で置き換えても問題はないと書いているからです。ですから、
ここで間の空間を審級化し( )と置くことができます。こうして、三つの記憶と四つの何も入って
いない間隔があることになります。この四つの空の間隔は、新しい心的審級を統合する位置を取り出
してくれます。ラカンがこれをどう活用したか推測することができます。おそらく、これによって第
一局所論と第二局所論とを統合したのでしょう。こうして、このシェーマにベクトルを与え、とりわ
けこのベクトルによる方向化を与え、両端を結ぶと決めることができます。
実際、繰り返しになりますが、フロイトは、第二の「意識」、言い換えれば、あれとかこれとか考
えていると《言葉で考えている》時にもっている意識が、語表象を幻覚の様式で知覚するためには、
知覚ニューロンが必要であると想定しているように思われます。ですから、Bwが W と結びつくこと
によって初めて、Bw に意識が立ち上がるということになります。
ところで、このシェーマを(フロイトによって示唆されたやり方で)このように両端を結ぶことに、
ラカンは構成的射程を認め、自身の理論にとって構築的な価値があると認めただろうと思われます。
このやり方には、大きな結果が伴います。知覚と意識の間で我々が《体験》する《現実》の領野は、
全く非-自然的で深く異なる登録域、つまり言語という登録域の知覚記号を常に機能させている語表象
によって、壊乱されていることになります。たとえ誰も我々に話しかけなかったとしても、いわば、
これは現実そのものであり、我々が我々の知覚を全く異なるものである記憶に刻印する方法です。
(対
象、あるいは語の)知覚のある部分は、もしその知覚が、「Nebenmensch(隣人)」(母)へと向け
られた悲嘆の呼び声に由来する原初的意味作用の網の中へともたらされ、対人的循環の中へともたら
されなければ、実際この時点で情動を備給されることもなく、《シニフィアン化》することもありま
せん。これがラカンによれば、一方は、乳房と母の声を、乳房を吸い空腹を癒すことに結びつけるこ
とと、他方、それと全く同じシーンをそれにもうひとつの層を被せて体験することとの間にある相違
ということになります。その層とは、つまり、悲嘆と空腹の叫びを母が要求として聴き、たとえ乳児
が上げる叫び以外に語と言えるものはなくとも、乳児が《話す》対話者として扱われる、そういう層
です。そのために、乳房を示すことは、乳児へと向けられた感情を伴う贈り物となり、ただ乳児の欲
求を鎮める対象をもたらすだけでなく、乳児が愛されているという証拠をもたらします。乳児の一重
の現実の感覚的・感情的操作を条件づけている《同時性による》連合は、言語的な(ラカンは《象徴
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的な》と言っています)網によって裏打ちされ、二重化されます。この網は、一方は乳を与え他方は
それを吸うという協力的な活動をする一対のパートナーを設立します。同じ場面の最初のヴァージ
ョンにおいては、ただ突出する像と盲目の欲求があり、その幸運な出会いは生き延びるための相互
の適合をもたらしただけなのです。
しかし、ここでラカンが言わんとしていること(つまり、いかなる点で Wzは諸語の表象によって
壊乱され二重化されるのかという点)は、容易に頭に浮かべることができます。ラカンがそれを書い
ているからです。彼が彼の心的装置を作る際のやり方にそれを見ることができます。彼は、書簡 112
の図の矢印を、メビウスの帯の両端をつなぐやり方で結んでいます(シェーマ2)。実際には、区分
Bw の端が紙の裏側で区分 W の端と結ばれることを想像するには、ちょっと努力が必要です。ご覧の
ように、現実の領野(斜線を引かれた帯域)は、一方は Bw に、他方は W に接しています(シェーマ
3)。
この図はもうひとつのことを明確にするのに役立っています。二つの三角形(ひとつは左上の小さ
な三角形、もうひとつは右下の大きな三角形)の対称性と、そうしてみることで Wz と Vbの間に生
じる対応です。この対称性は、ラカンの目には、主体の自我とそれを性格づけている投影的なすべて
の想像的なものとを向き合わせるものです。つまり、Iの領域と象徴界のSの領域です。Sの領域は、
大文字の他者(「Nevenmensch(隣人)」)、つまり人間存在の原初的対象でもある大文字の他者のパ
ロールから生まれる領域です(シェーマ4)。
この二つの三角が、ラカンが選んだ奇妙な表面、表象するのが難しい表面(それはつまり射影面《la
plan projectif》ですが)の上で重なるのは、大文字の他者のディスクールを出発点に原初的な自我mが
主体 S として呼びかけられることになるからです。
こうして、母Mは、
乳児の原初的対象となります。
そして、その結果、母Mは乳児の最初の投影の呼びかけ点となります。言ってみれば、乳児は《自身
の胸の内に》理想の対象として i を見るということです。しかし、母が話すということが、乳児を一
気に別の次元へと導きます。この《象徴的な》次元は、ラカンによれば、その母子が登録されている
文化によって理想の典型的な像が先験的に規定されているということを示しています。ヨーロッパの
文化においては、I にある理想の像は大文字の他者のディスクールによって推進され、父親の諸特徴
をもっています。しかし、このことを子供は母親を通してしか知りえないと、ラカンは推論していま
す。確かに、子供は《自身の胸の内に》理想の対象として i を見ます。しかし、子供は、母親が彼に
求める理想であろうとして、母の視線を追い、母が目をつけているものを追い、ファルスと、つまり
母にとって父を欲望すべきものとしている対象と出会うことになります。その結果、見返りに子供が
受け取る同一化、連動するあらゆるエディプス的嫉妬を伴った同一化が帰結します。これが、つま
りファルスへの同一化です。
こうして私が再構成したことで、我々はシェーマR上に見るものほとんどを頭に浮かべることがで
きます。ただ、少しこれを補うために、ラカンに特異的な線、フロイトにはない線をいくつか付け加
えなければなりません。想像的なもの、現実的なもの、象徴的なものを分ける線です。実際、ラカン
にとって、知覚は感覚器官の自我への素朴な与件ではありません。我々は、何らかの仕方で我々の想
像的な形の外界への投影でないようなものは何も知覚しません。例えば、我々は事物を知覚するのに、
特に我々が感情的に備給しているものを知覚するのに、それに《外皮》と《内容》、そして多分《魂》
を付与せずに知覚することはできません。フロイトにおいても、やはり、このような投影操作は存在
していますが、フロイトの場合、それは人間間において起こることです。どのような《もの》が我々
の「Nebenmensch(隣人)」であるのか我々にわからしめる述定は、実際、我々の体を出発点に現れ
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るものです。この鏡像性―これはラカンが名づけたものですが―つまり、我々の《鏡による》世界の
知覚、これをラカンは a/a’と記しています。この鏡像性は、斜線を引かれたRの領域、《現実の領
野》、つまり鏡像性が我々の反映で満ちさせている《現実の領野》を、また、MとI、つまり最初の
「Nebenmensch(隣人)」である父と母の間の関係を制御しています。彼らの理想の対象であること、
そして同時に彼らに同一化することが、ラカンによれば、特権的なこととして課せられるのです。現
実検討というフロイトにとって極めて重要であった概念、ダーウィン的な意味での適応的な目標を持
ち、とりわけ認知的な内容を持っていた概念が、ラカンにおいては、感情的な賭け金へと格下げされ
ることになるのです。優先的に獲得しようとされるもの、それはラカンによれば、認知ではありませ
ん。再認です。フロイトもそのことは否定しないでしょう。しかし、ラカンは第一局所論を押しつぶ
して第二局所論の下に入れてしまいました。超自我は最も優格な理想です。(シェーマ5)
これで終りではありません。ラカンによる心的装置の一貫性は、もはや適応を求める有機体の一貫
性ではなく、言語と文化によってそれにもたらされる一貫性ですので、大文字の他者、つまりAの向
こう側に、すべてがそこで正しく結ばれ、エディプス的同一化が適正に治まるひとつの保証がなくて
はなりません。それこそ、ラカンが「父の名」と呼ぶPです。それはつまり言語のひとつの欠如であ
り、それが主体の可能性にひとつの場を与えます。あるいは、主体の自由になるようにひとつの空
を残します。ラカンが拡張されたダーウィニズム(フロイトにおいては文化を自然の延長線上にある
ものとして説明しようとするところまで拡張されていました)にもはや依拠することなく、逆に、言
語から、文化から、象徴から出発するとしたら、個人的生存と種としての生殖という基盤以外の基盤
の上に立つ人間存在の個体化をどのように考えるか、明確にする必要があります。ある人が実際に「固
有名」を持ち、「Je(私)と言う」ことができるということ、言葉を換えれば、話をする大文字の他
者が、小さな人間主体を、その人が「Je(私)と言う」ことができないほどに飽和させてしまわない
こと、これこそラカンが照準を定めている点です。
手紙 112 の装置の公理を徹底的に推進するこの極めて複雑な構築物を前に、しかも、すべての生物
学的、ダーウィニズム的説明を排して、まず我々はこう考えなければなりません。後戻りすること
はできないと。ビオンにおいては、すでに、分析の形式的枠組みとして転移と逆転移を推奨するこ
とで、我々は、心的装置を意味ある仕方でもう一度脳へと結びつける可能性については諦めました。
しかしながら、適応への参照も、現実検討への参照も維持されています。ラカンにおいても、「心的
装置(psychischer Apparat)」は個人の脳を離れています。しかし、それはさらに自然をも離れていま
す。話すこと、それは、しばしばラカンが強調しているように、動物なら維持している相互適応の関
係を、我々の「Umwelt (環界)」との間で失うことです。それは人間の術策の中に入ることであり、も
はやそこから抜けられなくなることです。それ以降は、言語と文化(シンボルと集合表象)が我々自
身の身体と我々自身を仲介することになります。我々が欲望しつつ求める対象、そして、我々の心の
中で言われ、他者の前で言葉にされる志向性の的、それはもはや生物的な欲求の対象ではありませ
ん。
こうして、我々は「seelischer Apparat(精神装置)」の脱‐神経学化の最終段階へとやってきました。
ここで、ビオンは、そしてラカンもまた、精神分析家なのかと問うてみることは正当でしょう。二つ
の局所論において宣言されている意図と彼らの心的装置との間の隔たりはこれほどに大きいのです
から。彼らはフロイディアンでしょうか。おそらく違うでしょう。しかし、同時に、彼らはそれぞれ、
フロイトが示した行き詰まりと方向性を跡付け、それを追求することだけをしてきたのです。精神分
析はフロイトのエピステモロジー上の選択に忠実であるべきなのか、それとも、フロイトの立てた問
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いに忠実であるべきなのかということが問題にされなければなりません。フロイトが、いまもし生き
ていたら、今日の神経科学の成果を興味深く追い、彼の直感が確証されるか否か追求するということ
は、大いにありうることです。フロイトは、ショール もソルムも、興味を持って読むでしょう。そ
して、同時に間違いなく、転移が我々に教えていることが神経科学の埒外にあると判断したでしょ
う。脳、想像的な意味での脳でも同じことですが、ともかく脳と転移の間で選択をしなければなりま
せん。
しかし、慎重に留まるのがいいでしょう。すべての神経科学的な読解が不可能となる方向へとラ
カンのシェーマを推し進めることは大きな魅惑です。しかし、それはたとえば次のように言うこと
を意味するでしょう。人間の脳は言語向きには作られていない。そして、言語は脳を反自然的な仕方
で機能させている。人間存在はまさにこの点で、ルソーの定式化に従えば、『自然を欠いた動物』な
のである、と。
次のような試みがあります。手紙 112 にあるシェーマとシェーマRとを重ねてみることに依拠した
試みです。シェーマRからシェーマLへと先祖をたどり、手紙 112 のシェーマをシェーマLに重ねる
こともできます。シェーマRがシェーマLの諸性質をすべて維持していると考えるなら、シェーマ
Lにおける大文字の他者から自我への矢印にあわせて、IからAへの矢印はAからIへと反転させ
なければならないことになるでしょう。手紙 112 におけるフロイトのシェーマの構成における時間的
方向を反転することの効果は、大文字の他者のディスクールに対する知覚記号(Wz)の依存を、ラデ
ィカルに推し進めることになります。大文字の他者のディスクールは全ての個人的な発達に対し絶対
的に先行しているものであり、この大文字の他者のディスクールが共時的に与えられるということを
強調することは、ラカンにとって重要なことでした。ジャン=ミシェル・ヴァップローがはっきりと
推論しているように、シェーマlがこのような仕方で構成されているとしたら、我々の現実への関係
は、言語の秩序、そして我々が浸かっている文化的シンボルによって転覆されているのではなく、制
御されているということになるでしょう。構成主義のセイレーンに心を動かされていた時代には、こ
うした読みは誘惑的でした。しかし、これはフロイトが「seelischer Apparat (精神装置)」を見る見方で
はありません。ラカンにおいて発展させられた形でも、こうした見方はされていません。この論理を
進めようとするなら、手紙 112 のシェーマを次のように書き換えなければならないでしょう。
W
Wz
Ub
Vb
Bw
(M)→ (I)← (A)→ (S)→( i )→ ( m )
フロイトにおけるWzの矢印を逆転することを正当化するものを何も見出すことはできませんで
した。手紙 112 は、方向性のようなものはなにも含んでいませんし、両端を結び付けて閉じることが
機能するという考えを見出すこともできません。むしろ『夢判断』の中で、心的装置の《運動》側の
出口という形で、この左右をつなげるということが行われています。(すなわち、この理念化された
感覚運動反射装置がもたらす特殊な活動、志向的な活動について)。厳密には、装置の左右をつなぐ
ことによって、フロイトがWzのところで流れを反対にしたということを示唆するものは何もありま
せん。
しかし、ラカンはシェーマRにおいてはシェーマLに与えていたような方向性をもはや与えていま
せん。矢印は消えています。これは、シェーマRが、想像的なものは他者の場における秩序へと従属
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していることを強調しているということです。他者の場は、私の身体の反映のすべて、そしてすべ
ての像の彼方にあります。
シェーマRの稜線に方向性がないということはひとつの違いをもたらしています。もし、A→Iと
いう反転が行われないで、I→Aという方向性を維持するとすれば――私はそうすべきだと考えてい
るのですが――心的装置は、知覚の登録の原始的様態、つまり、W の Wz における記憶痕跡と、他方、
言語学的記号と文化的象徴、この二つの間の一種の前提的な調和に大脳が従うことを排斥しません。
(たとえ、ラカンはこの選択に与しないとしても)。これは常識的なことです。つまり、大脳は、要
素的知覚の言語的再登録にとって、最低限、使えるものでなければなりませんし、これらの知覚は、
分節化された言語の水準における反復/再翻訳を排斥するような仕方でコード化されていないとい
うことが必要なのです。こうして、Wz の(場合によって)言語への、そして文化への依存は、いず
れにせよ、相対的な依存であり、ラカンが好んで言うように《弁証法的な》依存であることが分かり
ます。知覚しながら、我々が何ら《自身に言う》(ω ニューロンの惹起という意味で)ことなく、適
切に反応していることがたくさんあるからです。語による表象なしには《思考の意識》を持つことが
できないということはやはりありえます。しかし、だからと言って、語しかないということも起こ
りえないし、我々の知覚や運動指向性が自身のことを知らない意味内容のままでいる、ラカン的な
言葉を使うなら、シニフィエがシニフィアンを求めている、ということも起こりえません。
この指摘をもう少し進めるなら、次のような考えに至ります。フロイトは恐らく、テレンス・ディ
ーコンが主張する言語の起源と発達に関する仮説に魅了されていたのです。それは、神経線維のある
群が(ここでもダーウィン的な原則に従うのですが)選択される、より正確には、我々の仲間の意図
に対する最大限の微細な――感情的であると同時に意味的な――適応がもたらす大きな適応優位性
のために神経線維のある群が選択されるということです。言語の使用がもたらすのは、まずは生物学
的な優位性であり、その次に社会的な優位性です。我々は自然から外れた動物ではありません。こ
の論の上に進化論的人間学を打ち立てたディーコンによれば、我々は《象徴的な種》であり、その種
においては言語と脳は《共に発達》してきたのです。
私は、それが一般的に普及するということはほとんどないにしても、ラカン的な神経精神分析は、
本質的に不可能というわけではないと結論いたします。
しかしながら、神経科学の将来の発展がいくつかの視点を近づけることを可能にするとしても、
心的装置が、精神分析において、決して単なる精神のモデルではないということは残るでしょう。
それは、我々の我々自身に対する関係、そして他者に対する関係を異なる仕方で考え、そうした関係
に関するある痕跡、つまり、我々が全体的で反省的な意識を持ちうるものを越える痕跡を、守る道具
でもあるのです。心的装置というこの概念のために、精神分析は、科学と哲学の手法を真似ながら、
科学の外に、また哲学の外に出ているのです。精神分析は、科学と哲学を我々が《考える》と呼んで
いることとは全く異なる仕方で利用します。こうして心的装置は、本質的に精神分析を他のものか
ら区別します。心的装置に関する私のこの注解が、科学史家にとって、心的装置は心的生活の異端
的なモデル化と同時に、少なくともそれと同じくらいの主観的で、心的で、テキスチュアルな(そし
てここでは他者は性的現実として現れますので、セクシュアルでもある)経験をもたらすものである
ことを見抜く一助となれば、私の目的は達成されたことになります。
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