文学碑 (3)瀬戸内水軍関係観光資源 - 広島県

2 文 化 財 ・ 史 跡
(1) 文 化 財
国
指
定
文
化
財
県
指
定
文
化
財
国
宝
建 絵 工 書
跡
・ 小
典
造
芸 籍
・
古 計
文
物 画 品 書
7 2 9 1 19
重 要 文 化 財
建 絵 彫 工 書 考 歴
跡
・ 古 史
典
造
芸 籍
・ 資 資
古
文
物 画 刻 品 書 料 料
56 12 43 55 18 4 2
重 要 文 化 財
建 絵 彫 工 書 考 歴
跡
・ 古 史
典
造
芸 籍
・ 資 資
古
文
物 画 刻 品 書 料 料
45 49 90 53 51 16 3
7 2 9 1 19 101 61 133 108 69 20 5
小
計
190
小
計
307
497
記
念
物
その他
重 重 重
重
合
要
要
要
史
名
特
特
特
特
天
要 有 無 別
伝
記
無 形 形 史 別 別 別
然
小 統
録
天
作 登
的
形 民 民 跡
・
然
記
成
俗
俗
建
文 文 文 特 史 名 記
等 録
計 造
念
化 化 化 別
念
物 計 の
名
措 有
置
群
財 財 財 勝 跡 勝 物 跡 勝 物
0 7 4 1 1 1 1 23 7 15
49 2 271 を
講 形
ず 文
記 念 物
無 有 無
べ
合
天
史
名
名
形
き
形 形
無 化
民 民
然 勝
小
形
天
の 財
文 俗 俗
記 然
民
文
文
記
俗 計
化 化 化
念 念 計
文
計 化
跡 勝 物 物
財 財 財
財
4 5 65
125 6 121 1 253 634
4 12 69 1 1 1 1 148 13 136 1 302 2 905 11 115
広島県教育委員会文化財課「広島県の文化財ホームページ」から抜粋
(082)513‐5021
(主 要 文 化 財 案 内)
市町名 種 別
名
称
数 量 所 在 地 管理者
概
要
広 島 市 世界文 原 爆 ド ー ム
中区
広 島 市 原爆ドームは,第二次大戦末期に投下された原子爆弾によっ
て破壊された広島県産業奨励館の残骸である。
化遺産
平成8年12月5日 世界文化遺産登録
国 宝 不 動 院 金 堂 1棟 東区牛田新 不 動 院 大内義隆が周防山口に建てたものを安国寺恵瓊が移築し,仏
町
殿としたと伝えられる。けた行3間,はり間4間,1重,も
こし付いりもや造り,こけらぶき。現存する唐様の建築とし
ては最大規模の遺構であり,中世の本格的な仏殿の規模をう
かがうことができる。
重 文 広 島 平 和 記 念 資 料 館 1棟 中区中島町 広 島 市 広島平和記念都市建設法に基づき最初に着手された平和記
念施設で,ピロティの造形やルーパーの意匠などに建築的特
徴がよく示されている。国際的に高い評価を受けた最初の戦
後建築であり,丹下健三の出発点となる建築として重要であ
る。
重 文 世 界 平 和 記 念 聖 堂 1棟 中区幟町 カトリッ 原爆犠牲者を弔い,世界平和を祈念する場として昭和29年に
ク広島司 献堂された,全長57mの三廊式バシリカ様式の会堂と,高さ
教 区 45mの鐘塔とで構成された教会堂である。
日本的性格と記念建築の荘厳さを備えた新たな宗教建築と
して,戦後建築家村野藤吾の原点となる作品である。
重 文 不 動 院 鐘 楼 1棟 東区牛田新 不 動 院 けた行3間,はり間3間,白壁塗りの袴腰付鐘楼で,いりも
町
や造り,こけらぶき,外観は各部の均整のよくとれた建築で,
細部は和様三手先の組物を用いているが,軒は2軒扇たる木
で,すみ木も唐様の手法をとっているものは珍しい意匠で
ある。創建は永亨5年(1433)である。
重 文 不 動 院 楼 門 1棟 東区牛田新 不 動 院 3間1戸,2階二重門,いりもや造り,本かわらぶき。禅寺
町
の山門に一般的だった唐様の二重門で,寺伝では,安国寺恵
瓊が朝鮮から持ち帰った材木で建てたという。上層の尾だる
木に「朝鮮木文禄三」の刻銘がある。
重 文 國 前 寺 本 堂 庫 裏 2棟 東区山根町 國 前 寺 浅野光晟の妻満姫の菩提寺として整備された。本堂は,けた
行24.0m,はり間14.0m寄棟造り,二重本瓦葺背面仏間突出,
庫裏は,けた行17.7mはり間13.2m,切妻造り,本瓦葺。同
時期に建築された大規模な両者がそろって残っている点が
貴重であり,広島藩内を代表する近世寺院建築である。本堂
は,棟札から寛文11年(1671)の建立であることがわかって
いる。
県重文 三 瀧 寺 多 宝 塔
西区三滝山 三 瀧 寺 もと和歌山県の広八幡神社境内に建立されていたが,原爆犠
牲者の供養のため,昭和26年に現在地へ移築された。和様,
禅宗様の折衷様式の塔で,心柱に「法界衆生建之大永6年
(1526)霜月」墨書名がある。内陣には,像高87㎝,寄木造
の定朝様の重文木造阿弥陀如来坐像が安置されている。
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市町名 種 別
名
広 島 市 史 跡 広 島
史 跡
史 跡
名 勝
重要有
形民俗
文化財
呉
市 重 文
重 文
重 文
重 文
称
数 量 所 在 地 管理者
概
要
城 跡
中区基町 広 島 市 天正17年(1589)毛利輝元が築城した。本丸の上段に日清戦
争の際に置かれた大本営跡もある。
頼 山 陽 居 室
中区袋町 広 島 県 頼山陽は安永9年(1780)の生まれで,頼春水の子として袋
町の邸宅に育った。21才の時志を立てて脱藩の重罪を犯し上
方に出奔したが連れもどされ邸内の一室に監禁された。名著
日本外史を草したのは5年に及ぶ幽閉の間である。その後京
都で半生を送り多くの著述をした。天保3年
(1832)53才で没した。
中 小 田 古 墳 群
安佐北区口 広 島 市 口田南町の丘陵上に位置する4世紀から6世紀初頭に造営
田南町
された12基からなる古墳群で,調査により三角縁神獣鏡
や鉄器等が多数出土している。
縮
景
園
中区上幟町 広 島 県 もと浅野家の別邸の庭で,泉邸お泉水と称せられてきた。元
和6年(1620),広島藩初代藩主,浅野長晟が紀州から広島
に移封された翌年,上田宗箇をして作庭させたもので,山川
の景,京洛の態,深山の地を園の中に縮景したと
ころからこの名がつけられた。
湯 の 山 明 神 旧 湯治 場 3棟 佐伯区湯来 (宗)湯の山 江戸時代には広島藩主浅野公の湯治場として栄えた湯の山
( 内 訳 )
町和田湯の 神社
温泉。崖の岩盤を堀り抜いた素朴な湯坪と湯屋の板壁には,
湯の山明神本殿 1棟
山
広島市教 入湯者の墨書きも残されており江戸時代の医療とそれにま
〃 拝殿 1棟
育委員会 つわる信仰の姿をよく伝えている。
旧湯治場遺構 1棟
桂 濱 神 社 本 殿 1棟 倉橋町字前 桂濱神社 文明12年(1480)建立。構造型式は,前室付の三間社流造,
宮ノ浦
柿葺で,庇(前室)の三方に縁を巡らし,石階5段をつけて
いる。庇側柱に円柱を用い,すべての柱に当初からと思われ
る沓をはかせるなど地方色が濃厚な建物で,全体に木細く,
簡素な作りではあるが,意匠的にも優れた建物である。
旧 呉 鎮 守 府 1棟 幸町
呉 市 明治22年,亀山神社の跡地に建設された洋風2階建の軍政会
司 令 長 官 官 舎
議所兼水交社は,25年から呉鎮守府司令長官官舎として使用
された。38年の芸予地震で倒壊し,同年11月に一部廃材を使
用して平屋建で再建。洋館部と和館部からなり,洋館部は外
観に英国風ハーフティンバー様式を取入れ,屋根は天然スト
レートの魚麟葺,壁・天井には全国でも珍しい金唐紙が貼ら
れている。
本 庄 水 源 地
焼山北三丁 呉 市 旧海軍が用水不足に対処するため,約5年半の歳月をかけて
堰 堤 水 道 施 設
目
水 道 局 大正7年に完成した水道施設。今日でも現役施設として稼働
している。花崗岩の切石が丹念に築かれた美しい外観で,関
連施設も含めてすべて築造当初のまま残っている。
なお,現役の水道施設としては全国ではじめて重文に指定さ
れている。
旧 澤 原 家 住 宅 9棟 長ノ木町 呉 市 旧澤原家住宅は,明治中頃まで呉と広島を結ぶ唯一の道であ
った長ノ木街道沿いに建っている。ほとんどの建物が江戸時
代後期から幕末までに建設され,藩主滞在のために建設され
た「表門」と「前座敷」,3棟の蔵が並んで建っている「三
ツ蔵」などは,明治時代に鎮守府が開設されて以来,急速に
発展した呉にとって,江戸時代の呉の姿を垣間見ることがで
きる貴重な文化財として,広く市民に親しまれている。
天 然 アビ渡来群游海面
記念物
県史跡 石 泉 文 庫 及 塾 ・
僧 叡 之 墓
県名勝 二
天 然
記念物
級
峡
豊浜町
アビは冬に南下する渡鳥で広島県の県鳥。豊浜町周辺海域で
毎年1月~4月にかけてみられ,特に斎島周辺に多く見られ
る。
長浜三丁目 専 徳 寺 叡は,未晦庵と号し,また鷹城とも号し,一般に石泉の名で
知られる,書庫を石泉文庫という。蔵書は約2万冊,大蔵経
をはじめ各宗派高僧の書物,石泉直筆の経文の注,解釈書等
がある。蔵書は,土蔵の2階に湿気を避け,外気をしゃ断し
て暗所に保存してある。文庫と共に石泉塾の建物及び墓も地
元の専徳寺と地元民によって保存されている。墓は文庫のそ
ばにある
広町
国 広大川の上流にある奇岩,怪石に富む名勝地で,大小の滝
郷原町
と渓谷の美しさに恵まれ,特に無数のおう穴群は天然の造
形美である。
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呉
市町名
名
種 別
市 県史跡 伝 清
県史跡
県史跡
県重文
県重文
県重文
県
天 然
記念物
県重文
称
数 量 所 在 地 管理者
概
要
盛 塚
音戸町鰯浜 呉 市 音戸の瀬戸を切り開いたといわれる平清盛公が,人柱の代わ
りに一字一石の経石を海底に沈め,難工事を完成した。元暦
元年(1184)その功徳をたたえ,清盛塚が建立された。
万葉集遺跡長門島松原
倉橋町字前 桂濱神社 倉橋の本浦は船泊に適し,推古天皇の代から奈良時代(710
(桂濱神社境内)
宮ノ浦
呉 市 ~793)にかけて幾たびとなく外国に使する船を造った所と
伝え,江戸時代に至るまで造船で聞こえた。松原がつづく
桂濱(かつらはま)神社の境内は歌意にかなう景勝の地で,
今も昔ながらの風趣を保っている。
丸 子 山 城 跡
倉橋町城之 個 人 南北朝期,倉橋島は倉橋多賀谷氏により,領有されていた。
倉橋湾を見下ろす本浦中央の丸子山に城を構え本拠にして
岸
いたが,弘治元年(1555)の厳島合戦を前に毛利元就
側に攻められ,城も落ちて滅んだ。
も く ぞ う や く し に ょ ら い り ゅ う ぞ う 15躯 川尻町久俊 真 福 寺 像高67㎝,肩幅21㎝,1木造りのつや消金色仕上げ臼型台座
木造薬師如来立像
26㎝で足柄差込式。日光,月光菩薩は像高31㎝,十二神将は
31.5~35.5㎝の1木造りで頭上に12支を頂いている。
いずれも室町中期の作品。
け ん ほ ん ち ゃ く し ょ く 4幅 川尻町東
光 明 寺 出家から入寂までの繊細華麗な画法による優れた御絵伝で,
絹し ん ら ん本し ょ う 著に ん え で色ん
寛文3年8月,本願寺14世寂如上人より本願寺重臣下間少進
親 鸞 上 人 絵 伝
法印の取次ぎにて光明寺7世正道師に授与されたものであ
る。
も く ぞ う あ み だ に ょ ら い り ゅ う ぞ う 1躯 川尻町久俊 真 福 寺 像高62㎝,肩幅20㎝,蓮台43㎝の寄木造りの黒色仕上げで光
木 造 阿 弥 陀 如 来立 像
背は中心部が木彫で金箔を施しその外周は金銅板を透刻し
た舟型光背で室町中期の作品。
川 尻 の ソ テ ツ 1本 川尻町東 個 人 樹齢約400年といわれ,高さ約7m,東西及南北に各10m,
根廻り6.1m,7本の支幹が伸び周囲に約70個の小枝の頭
部が重なり合って錨型の様相を呈している。
木 造 観 音 菩 薩 立 像 1躯 安浦町内海 観世音菩 観音像の衣文の表現の刀法は概して浅く,背部の衣文を彫線
及び胎内納入品
北
薩及保存 で表す手法が見られ,前部の衣文には徴かに翻波(ほんぱ)
式の刀法が見える。この像には背刳り(せぐり)があり,胎
内には印仏した紙葉をこよりで束ねて3段に安置している。
県 史 跡 大 浜 の 社 倉 1棟 豊浜町大字 呉
大浜字牛原
県 大 岐 神 社 の ム ク 1本 豊浜町大字
大浜字南立
天 然
記念物
花
県史跡 若 胡 子 屋 跡
豊町御手洗
県 史 跡 御 手 洗 七 卿 落 遺 跡 1棟 豊町御手洗
県重文 住 吉 神 社 本 殿 ・
瑞 垣 及 び 門
豊町御手洗
市 安永8年(1779)広島藩は飢餓に備えて社倉法を実施させた
が,この社倉蔵は豊田郡大浜村の社倉法の実施に伴い設置
されたものである。柱材はクリの木,梁材はクスの木を使用
した本瓦葺である。
大岐神社 本樹は全国有数の巨樹で,よく発達した4条の板根(最大の
ものは長さ5.0m,厚さ0.9m)は熱帯樹のような景観を呈す
る。
呉 市 江戸時代,御手洗で最も栄えたお茶屋の跡で,明治時代には
お寺に,昭和には地区の公民館として改築,利用されてきた。
奥座敷の天井板や障子の腰板,雨戸には屋久杉が使われてい
る。
呉 市 幕末の頃,町庄屋を勤めていた竹原屋の屋敷跡で,討幕派の
公卿であった三条実美らが立ち寄った史実がある。
住吉神社 文政13年(1830)の建築。その前年に広島藩によって築かれ
た千砂子波止(大防波堤)の鎮守として,大阪の豪商鴻池が
堺の住吉神社の社殿と同じ形式(住吉造)のものを寄進した。
県重文 恵 美 須 神 社
本 殿 ・ 拝 殿
豊町御手洗 恵 美 須 本殿は享保8年(1723),拝殿は明和元年(1764)に建設さ
神 社 れた。伝承によると,昔,近くの磯に夜な夜な光るものがあ
り,漁夫が引き上げてみると蛭子の御神像であったのでこれ
を持ち帰り祀ったとのことである。
竹 原 市 重 文 銅
鐘 1 本町三丁目 照 蓮 寺 小早川隆景が朝鮮の役に参加して持ち帰り,幼時の学問所で
あった照蓮寺に寄進したものといわれる。高さ68.3㎝口径40
㎝,峻豊4年(963)の銘がある。
重 文 春 風 館 頼 家 住 宅 5棟 本町三丁目 個 人 山陽の叔父,頼春風の家。春風はこの家で医者を開業し,町
の子弟を教育し,塩田経営にも参加した。甥の山陽のよき理
解者であった。長屋門と玄関構えをもつ武家屋敷風の建物
は,安政2年の建築で,祠堂と茶室をもち茶人不二庵設計によ
ると伝えられる数奇屋建築
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名
称
数 量 所 在 地 管理者
概
要
市町名 種 別
竹 原 市 重 文 復 古 館 頼 家 住 宅 4棟 本町三丁目 個 人 頼春風の養子である小園は,春風館の西側に隣接して,「兼
屋」と称し,安政6年に三男の三郎を分家独立させた。これ
が復古館の主屋の建物で,春風館と同じく,茶人不二庵の設
計によると伝えられる木造切妻造二階建,本瓦葺の数寄屋建
築。
天 然 忠海八幡神社社叢
忠海中町三 忠 海 この境内には総数約30本のモッコクが群叢し,そのうち目
記念物
丁目
八幡神社 通り周囲1.2mをこえるものが10本以上もあり,高さ
20m~30mに達し,群落生態学上一つの単位として貴重な
モッコクの群叢を形成する。
天 然 スナメリクジラ
阿波島南端,
スナメリクジラは,イルカの一種であるが,体長1.5mぐら
記念物 廻 遊 海 面
白鼻岩を中
いで,くちばしは丸く,背にひれがない。アフリカの南岸か
心とする半
ら広くインド洋,太平洋に分布し冬になると内海に入ってく
径1,500 m
る。指定当時は30~50頭郡遊していたが,現在はまれにしか
の円内海面
見ることができない。
県 史 跡 頼 惟 清 邸 宅 1棟 本町三丁目 竹 原 市 頼山陽の祖父にあたる,頼惟清が紺屋を営んでいた家。惟清
の子である春水(山陽の父),春風,杏坪は3頼と呼ばれい
ずれも学者として名高かった。安永4年(1775)頃の建築。
県史跡 木
村
城
跡
三 原 市 国史跡 小 早 川 氏 城 跡
( 三 原 城 跡 )
国史跡 小 早 川 氏 城 跡
( 高 山 城 跡 )
国登録 南 山 資 料 館
有形文
化 財
国重文 木
国重文
国重文
国重文
国重文
国重文
国重文
国重文
造
新庄町
和賀神社 竹原小早川氏はこの木村城を本拠として14代約300年間,戦
外 国大名として発展していった。1544年毛利元就の第3子隆景
が養子となり,1550年隆景が沼田小早川家も相続して新高山
城に移ったため,廃城となった。
城町
三原市教 永禄10年(1567),戦国大名毛利家の一門,小早川隆景により
育委員会 築城された。海に向かって舟入りを開き城郭兼軍港としての
機能をそなえた名城で,一国一城令のあった江戸期も福島
氏,浅野氏の支城となっていた。今は天主台とそれをめぐる
濠及び本丸中門跡と船入櫓跡が残っている。
高坂町真良 三原市教 高山城跡は,鎌倉時代初期に関東から来住した小早川茂平が
育委員会 築城したといわれ,沼田小早川氏代々の居城であった。標高
190mの山頂に平行に延びた2つの尾根に築城されており,
北の尾根に北の丸・二の丸・本丸,南の尾根に出丸・権現丸・
イワヲ丸・南丸などの曲輪が残っている。
1棟 幸崎能地 個 人 当初,診療所として建築されたもので,木造2階建,寄棟造
桟瓦葺の洋風建築。外観は1・2階とも整然と位置を揃えた
窓が並び,中央には上部に石積風のアーチ窓を備えた玄関が
付けられている。現在では,幸崎町出身で大正から昭和にか
けて活躍した日本を代表する彫金家清水南山(亀蔵)の資料
館として使用され,南山ゆかりの品々が展示されている。
狛
犬 1対 八幡町宮内 御調八幡宮 室町幕府8代将軍,足利義政の寄進と言われ,豊富なたてが
みがあり,四肢は太くて短く全身に力強さがみなぎってい
る。
阿 弥 陀 経 版 木 2枚 八幡町宮内 御調八幡宮 嘉禎2年(1236)備後地方の有力豪族の安那定親が願主とな
り作製した版木で,地方版最古の版木として貴重である。
法 華 経 普 門 品 版 木 2枚
金剛寿命陀羅尼経版木 1枚
石 造 宝 篋 印 塔 1基 高坂町許山 佛 通 寺 佛通寺を建立した小早川春平の妻,松岩尼の墓といわれてい
る。含暉院地蔵堂内にあり保存状態が良好である。
紙 本 墨 書 大 般 若 経 600巻 本町
正 法 寺 宋人の謝復生が弘安7年(1284)から10年の間に周防国柳井
荘の上品寺において書写した大般若経で,現存する600巻の
うち6巻が補写されている。
宗 光 寺 山 門 1棟 本町
宗 光 寺 四脚門としては最大級の規模をもち,木割が太く,蟇股など
の装飾に桃山時代をしのばせる豪快な手法が見られる。この
山門は,新高山城門を移して建立したものと伝えられてきた
が,近年の研究では,規模や形式から江戸初期に建築された
ものとの説もある。
絹 本 著 色 大 通 禅 師 像 1幅 高坂町許山 佛 通 寺 小早川春平に請われて佛通寺を開山した大通禅師(愚中周
及)を描いた画像(頂相)で,春平が描いた像に周及が賛
を書いたものである。
ぬ た
絹本著色小早川隆景像 1幅 沼田東町
米 山 寺 小早川隆景が朝鮮出兵して帰還した翌年の文禄3年(1594),
京都大徳寺黄梅院の玉仲宗琇が寿像に賛をしたもので,中啓
を持ち,黒の袍をつけて座した,衣冠の像である。春の法要
時(3月末)に一般公開される。
ぬ た
米 山 寺 宝 篋 印 塔 1基 沼田東町 米 山 寺 小早川氏歴代の墓(石造宝篋印塔20基)の1基で高さ2.5m。
石工念心の作で,元応元年(1319)の紀年銘がある。
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市町名 種 別
名
称
数 量 所 在 地 管理者
概
要
三 原 市 重 文 佛 通 寺 含 暉 院 地 蔵 堂 1棟 高坂町
沸 通 寺 応永13年(1406)の建築,桁行3間,梁間3間,一重,宝形
造り,本瓦葺の小規模な折衷様の建物である。
国 天 然 沼田西のエヒメアヤメ
沼田西町松 三原市教 エヒメアヤメは高さ15㎝~25㎝,毎年4月中~下旬にスミレ
記念物 自 生 南 限 地 帯
江
育委員会 色の花を開く。元来は朝鮮系植物で,日本では愛媛県腰折山
で最初発見されたのでこの名がつけられたが,沼田西の自生
地はこの自生南限地帯の東部に位置し,植物分布上注目され
ている。
国天然 ナメクジウオ生息地
幸崎能地 三原市教 ナメクジウオは体長さ約5㎝で,魚類よりはるかに原始的な
記念物
育委員会 頭索類という特別な部類に属しており,脊椎動物の原始形態
をなすため,動物進化史上貴重な研究資料となっている。幸
崎町沖合の有龍島南西の能地堆はナメクジウオの生息地と
して知られている。
せい
しん
じ
県重文 棲 真 寺 木 造 13躯 大和町平坂 棲 真 寺 棲真寺観音堂に安置されてある本尊干手大悲観音像及びそ
の眷族28部衆は鎌倉時代,雲慶作の仏像と伝えられている。
二十八部衆立像
像高50㎝前後,寄木造り,玉眼入り,桧材彩色のもので,
現在28躯存在しないことは惜しまれるが,現存する立像13
躯をみると,入念に木目を生かし,力強く写実的に彫刻さ
れている点が注目される。
県 史 跡 棲 真 寺 定 ケ 原 石 塔 1基 大和町平坂 棲 真 寺 古文書によると,源頼朝の子女は土肥実平の息弥太郎遠平の
夫人となり,不幸にして早世した。生母たる源頼朝の側室妻
木姫は,子女の早世を痛惜すること限りなく落髪受戒して,
棲真寺にて追善供養につとめ,子女の13回の念仏忌に他界し
た。
この石塔は妻木姫(長源院殿梅岳寿庵尼大姉)の供養塔と伝
えられ,高さ1.5 mにおよぶ石造四段の堂々たる基壇,側面
の格狭間,複并の反花,壇上積み,刻み出しの彫刻等,その
規模の雄大なこと,美術的価値においても,全国に比例のな
い稀有のものである。
県 史 跡 黒 谷 古 墳 1基 大和町下草 三原市教 山林中腹西南に面して,石室は奥行約4m,幅約2mあり,
井
育委員会 底面より約0.7 mの高さに奥側より約1.1 mの所まで厚さ
0.25m位の一枚石で棚がつくられている。こうした型式の
石室は,山陽地方では初めてのもので,山陰側では3件のみ
の例がある大変珍しいものである。
7世紀初頭の古墳で,この地方の豪族の墓と思われる。また,
棚の上に遺体を安置したものと想像される。
史 跡 椋 梨 城 址
大和町椋梨 三原市教 椋梨城は堀城ともいわれ,後方にある野呂山の山麓に突出し
育委員会 た小高い丘を切り抜いて独立させたものと思われ,前面に空
濠を作り恰好の整った方形の低い城である。
城主椋梨氏は沼田小早川家の支族で,小早川景平の二男季平
が祖であり,その子,国平のころからこの地に居住して椋梨
氏を称した。その後,毛利氏に属して,防長(萩)に転封さ
れるまで350数年間この地を治めていた。
また,椋梨城址の東南約200mのところに,椋梨氏の菩堤寺
学応寺跡があり,附近には一族のものと思われる墳墓地(宝
篋印塔,五輪塔が約60基)がある。
県 史 跡 梅 木 平 古 墳 1基 本郷町下北 三原市教 広島県最大の横穴式石室で奥行13.1mもあり,奥壁の高さは
方
育委員会 4.2mもある。
6世紀末の築造と考えられ,東に向けて開口しており,その
規模から当時の有力支配者の家族墓と考えられている。
県 史 跡 貞 丸 古 墳 1基 本郷町南方 三原市教 貞丸古墳は,山裾をうがち石室を築いた横穴式石室である。
貞 丸 第 2 号 古 墳 1基 〃
育委員会 7世紀前半の築造と考えられ,家型石棺の身だけが残ってい
る。石材は流紋岩質凝灰岩で兵庫県高砂市産の竜山石であ
る。
第2号墳は貞丸古墳の北上手約20mの位置にあり,封土もな
く,天井岩も露出している。7世紀前半の築造と考えられ,
組合式石棺が置かれていたが,今は大日堂の境内や,近隣の
墓地等に分散している。やはり石材は竜山石である。
史 跡 二 本 松 古 墳 1基 本郷町南方 三原市教 この石棺は,長年組合式石棺のふた石や側石を分解して南方
組 合 式 石 棺
育委員会 神社拝殿の踏石や手水鉢に使用されていたものを,昭和58年
に復元したものである。
石材は流紋岩質凝灰岩で,兵庫県高砂市の竜山石である。
- 41 -
名
称
市町名 種 別
三 原 市 県重文 楽 音 寺 本 堂
付(宥文墓碑銘石)
紙本著色仏涅槃図
紙本著色楽音寺
縁 起 絵 巻
楽 音 寺 古 文 書
数 量 所 在 地 管理者
1棟 本郷町南方 楽 音 寺
1幅
1巻
6巻
県 重 文 木 造 四 天 王 立 像 4躯 本郷町南方 東 禅 寺
国 史 小 早 川 氏 城 跡
跡 新 高 山 城 跡
本郷町本郷 三原市教
育委員会
国 史 御 年 代 古 墳 1基 本郷町南方 三原市教
跡
育委員会
県有形 節 句 ど ろ 人 形
民 俗
文化財
県史跡 杭 の 牛 市 跡
久井町江木 三原市教
育委員会
久井町江木 三原市教
育委員会
県 重 文 紙 本 墨 書 大 般 若 経 570巻 久井町江木 久井稲生
付11巻
神 社
人 オガタマノキは,四国,九州や和歌山県などの暖地に分布
するモクレン科の常緑高木。本種の自然分布の北限線上に
あり,しかも県下第一の巨樹(推定樹齢約300 年,根回り2.2
m)である。
吉田のギンモクセイ
久井町吉田 個 人 本種では日本最大の巨樹にあげられている名木。根回り3.2
m,樹高12m,推定樹齢400 年以上。9月中旬頃に白色の花
を開花し,芳香を放つ。1990年には新日本名木百選に選ば
れた。
久井・矢野の岩海
久井町吉田 三原市教 久井の岩海は宇根山山塊の南側の山腹にある。傾斜の緩い
育委員会 谷間に沿い花崗閃緑岩の巨大な岩礫が長く帯状に連続累積
した景観は見事である。
絹 本 著 色 普 賢 延 命 像 1幅 西土堂町 持 光 寺 普賢延命像には二臂像と二十臂像の二種類あるが,本図は
二十臂像で四白象にのり各象首には四天王を頂く形式のも
のである。面相の大らかな表現など古式を示し,「延命仏
仁平3年(1153年)4月21日供養」の墨書銘が昭和42年の
修理の際発見された。
浄 土 寺 本 堂 1棟 東久保町 浄 土 寺 浄土寺は真言宗広島県教団の大本山である。古くは奈良西
大寺叡尊門流の律宗寺院で鎌倉末期定証が住職となり,堂
塔の再興に努めた。
その後正中2年(1325)火災にあったが,ふたたび再建さ
れた。今日の本堂は尾道の人沙弥道蓮,比丘尼道性が発願
して嘉暦2年(1327)に大工藤原友国,同国貞により建築
されたもの。けた行5間,はり間5間一重いりもや造り,
向拝一間,本がわらぶき。前面二間通りを外陣とし,うし
ろを内陣とする密教式平面である。
浄 土 寺 多 宝 塔 1基 東久保町 浄土寺 三間多宝塔,本がわらぶき,嘉暦3年(1328)の再建で,
多宝塔としては規模が大きいうえに全体のつりあいが
よく,高野山金剛三昧院や石山寺の多宝塔とならぶすぐ
れた塔である。鎌倉時代末期の代表的な建築とされてい
る。
県 天 然 あぞうばら
莇原のオガタマノキ
記念物
県天然
記念物
国天然
記念物
尾 道 市 国 宝
国 宝
国宝
久井町莇原 個
概
要
縁起によると楽音寺は,天慶年間(938~947)におこった藤
原紀友の乱を平定した藤原倫寒が創建したと伝えられる。鎌
倉時代には,小早川氏の氏寺となり2院18坊を数える大寺で
あった。
本堂は,宥文の墓碑銘より小早川隆景の命を受けて建てられ
たと考えられる戦国時代の建物で,涅槃図1幅,縁起絵巻1
巻,古文書6巻と,県重文を多く所蔵する。
東禅寺は墓沼寺とも称し,小早川氏の氏寺であった。
脇仏の四天王像は榛の寄木造りで雄渾な顔面の表情や量感
の豊かな鎌倉彫刻の特色をよく表わしている。
胎内より元徳2年(1330)の書銘が発見され沼田荘梨子羽郷
弁海名の名主であった源信成が寄進したものと考えられて
いる。
新高山城は沼田川の西岸に位置し,東岸に並ぶ沼田小早川氏
の本拠高山城の副塁としての役割を果していたが,小早川隆
景が天文末年にこの城の大修築を行い,以来天正年間に三原
城を築いて移るまで本拠とした。安土城などとともに近世城
郭への移行期における典型的な城郭である。
御年代古墳は古墳時代終末期の築造と考えられ,巨大な花
崗岩の切石で築かれた横穴式石室には大陸伝来の新技術が
見られる。前後2室の玄室それぞれには家型石棺が安置さ
れており,石棺から発見された副葬品は東京国立博物館に
収められている。
久井歴史民俗資料館に約300 体を所蔵。初節句を迎える子
どもの将来を祝福するため贈られた。明治30~40年代のも
のが最も多く,三次人形・三原人形が7割を占める。
西日本三大牛馬市のひとつ「杭(久井)の牛市」は天暦5
年(951)の創設と伝わる。最盛期には年間約1万頭が売買
された。現在は丘陵上に大仙神社が祀られ,記念碑が建立
されている。
1406~1410年に伊予国にて書写され,1585年に伊予領主と
なった小早川隆景により久井稲生神社に奉納された経巻。
- 42 -
名
市町名 種 別
尾 道 市 重 文 浄土寺阿
重 文 浄 土 寺
重 文 西 郷 寺
称
数 量 所 在 地
弥 陀 堂 1棟 東久保町
山 門 1棟 東久保町
本 堂 1棟 東久保町
管理者
浄土寺
浄土寺
西郷寺
概
要
けた行5間,はり間4間,寄棟造り,本がわらぶき康永4
年(1345)の再建といわれる。
室町時代初期をくだらぬすぐれた建築である。
時宗に属し,正慶年間に遊行六代一鎮によって創始された
と伝えられる。時宗本堂の最古の遺構として極めて価値が
高い。
貞治年間(1362~1368)の建築で室町時代の様式がよくみ
られる。
真言宗の古刹,至徳3年(1386)の建立である。
社殿の東方の1株と,南側の3株の計4株からなる。
特に東方のクスノキは根回り周囲 8.6m,目通り幹囲7.6m
で県下第四の巨樹。いずれも樹勢旺盛で,大きい樹冠を広げ,
学術上貴重である。
ニレ科の落葉広葉樹で,大きさは根回り5.23m,胸高幹囲
4.68m,樹高24.38 mもある大木で県下第九の大きさ。
モチノキ科の常緑広葉樹で,大きさは根回り4.6 m胸高幹囲
2.64m,樹高17.71 mもある大木で県下最大である。
像の長さ150㎝寄木造り,漆箔玉眼嵌入り,木彫等身大で鎌
倉期の作である。彫刻で等身大は非常にめずらしい。
像高41㎝,膝張34㎝木彫寄木造りで円光背の径29.1㎝台座高
23㎝円頂に造り白亳をはめ木眼造り耳朶孔あり,法衣は金色
に塗り唐草文或は定紋を表わす優美な作品である。室町期の
作。
像高40.5㎝台座(天邪鬼)高さ11㎝木彫寄木造りで天邪鬼の
背に立つ立像で頭部と胴体は一木で作られている。腕紬は寄
木,玉眼を入れ木目を巧みに生かした彫法である。室町時代
の作
寛永12年(1635)の建築で,貴重な民家であり,東側石垣上
に長屋門形式の表門を構え,敷地中央に主屋があり,主屋の
北に納屋・便所を配し,敷地の西に鎮守社を祀る。
高さ73㎝・奥行17㎝の木造漆塗り。正面は,浅唐戸で室町時
代の唐様仏殿建築の様式をあらわしている。
重 文 西 郷 寺 山 門 1棟 東久保町
西郷寺
重 文 西 國 寺 金 堂 1棟 西久保町
県天然 うしとら
長江
記念物 艮 神 社 の ク ス ノ キ 群
西國寺
艮神社
県天然 菅 の ム ク ノ キ 1本 御調町
記念物
菅
県天然 仁 野 の ナ ナ ミ ノ キ 1本 御調町
仁野
記念物
重 文 木 造 仏 涅 槃 像 1躯 御調町
市
県重文 木 造 地 蔵 菩 薩 坐 像 1躯 御調町
今田
内海陽平
宇仁野
共有地
照源寺
県重文 木 造 持 国 天 立 像 1躯 御調町
下山田
北之坊
国指定
重 要
文化財
県指定
重 要
文化財
県指定
天 然
記念物
国 宝
吉 原 家 住 宅 2棟 向島町
主 屋 . 納 屋
江奥
吉原久司
木 造 仏 殿 様 厨 子 1基 向島町
江奥
吉原久司
阿弥陀寺のビャクシン 1本 向島町
岩子島
向 上 寺 三 重 塔 1基 瀬戸田
松田謙道 巨木(樹高16m)である上,本種の成育形の一つを代表する
ものとして,植物学的にも価値が高いものである。
向 上 寺 応永10年(1403)生口島地頭生口守平が大通禅師を開基とし
て建立した禅寺,三重塔は信元,信昌を壇那として永亨4年
(1432)正月13日起工し,6月3日に上棟式を行った。
三間三重塔婆,本かわらぶき,高さ19m禅宗寺院の塔として
建築史上貴重である。
光 明 坊 永仁2年(1294)忍性が造立した高さ8.5m花崗岩の十三重
の石塔婆。光明坊は聖武天皇の勅願により,行基大師が開基
したと伝わる。
光 明 坊 主幹は地ぎわで東西の二大支幹にわかれ,植物形態学上にも
価値の高いもの。
明 王 院 元応3年(1321)の建立で,密教本堂の正規な形式をとり,
尾道の浄土寺本堂と並んで瀬戸内海地方の折衷様式の最古
の建築として貴重な遺構である。
明 王 院 三間五重塔婆,本瓦葺,高さ29.14 m,貞和4年(1348)多
くの人達の出資によって造られたもの,南北朝時代を代表す
る建築である。
福 山 市 三重三階,すみ櫓,本瓦葺,伏見城から移建したもので,伏
見城の城郭建築の遺構としては唯一のものである。
福 山 市 わき戸付やぐら門,入母屋造り,本瓦葺,福山城本丸の正門
で伏見城から移建した。
安国寺 暦応2年(1339)足利尊氏が国ごとに建立した備後安国寺の
仏殿,唐様の形式手法を比較的よく残した禅宗仏殿の好標本
である。
円光寺
重 文 光 明 坊 十 三 重 塔 1基 御寺
(石造十三重塔)
県天然 御 寺 の イ ブ キ 1本 御寺
記念物 ビ ャ ク シ ン
福 山 市 国 宝 明 王 院 本 堂 1棟 草戸町
国 宝 明 王 院 五 重 塔 1基 草戸町
重 文 福 山 城 伏 見 櫓 1棟 丸之内
重 文 福 山 城 筋 鉄 御 門 1棟 丸之内
重 文 安 国 寺 釈 迦 堂 1 棟
靹町
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名
称
数 量 所 在 地 管理者
市町名 種 別
福 山 市 重 文 沼 名 前 神 社 能 舞 台 1棟 靹町
沼名前
神 社
重 文 吉 備 津 神 社 本 殿 1棟 新市町宮内 吉 備 津
神 社
重 文 毛 抜 形 太 刀 4 口 新市町宮内 吉 備 津
神 社
史 跡 福
丸之内
福山市
史 跡 朝鮮通信使遺跡・
鞆 福 禅 寺 境 内
鞆町
福禅寺
史 跡 宮 の 前 廃 寺 跡
蔵王町
福山市
史 跡 一
宮
(桜山慈俊挙兵伝説地)
名 勝 鞆
公
園
新市町宮内 吉 備 津
神 社
鞆町
広島県
沼隈町
重 文 木
県史跡
県史跡
県史跡
県重文
県重文
県重文
県重文
山
造
城
跡
狛
概
要
けた行1間,はり間1間,一重切妻造り,妻入り,こけらぶ
き,仮設的な初期能舞台の形をとどめた珍しいもの。
社殿の形式は入母屋造り,平入りで,江戸初期の建築であり
ながら室町の風格と桃山彫刻を具備した優美なもの。
四口ともに鎬造,庵棟,腰反りで鍛えは板目,刃文は直刃で
ある。茎に毛抜形の透かしをした平安時代に盛行したこの種
の太刀の模古作である。四口とも郷土の刀工の手によるの
で,二口づつ尾道の刀工五阿弥長行と三原の刀工正光の銘が
あり,いずれも室町時代後期の作である。
水野勝成の築城によるもの。築城に当たっては,豊臣秀吉が
築いた伏見城から伏見櫓をはじめ筋鉄御門,御湯殿を拝領し
たと伝えられる。
海岸山千手院福禅寺は,平安時代の天暦年間(950年頃)の創建
と伝えられる真言宗の寺院。本堂に隣接する対潮楼は,江戸
時代の元禄年間(1690)年頃に創建された客殿で,ここの座敷
からの眺めがすばらしい。
奈良時代に栄えた深津の市のあたりに建てられた奈良時代
の寺院の跡で,海蔵寺の名を伝えている。東方に塔の跡,
西方に金堂跡がある。
元弘元年(1331)備後の豪族宮氏の一族桜山慈俊は,楠木正成
に呼応して挙兵し,一宮南側の桜山城に拠り,気勢をあげた
が翌年自害した。
沼隈半島の南東端,仙酔島を中心に大小の島々が点在し,朝
鮮の国使李邦彦が「日東第一形勝」と賞賛している。また半
島の南端には阿伏兎岬の奇勝がある。
寄木造り,平安時代の作と伝えられる。
犬 3躯 新市町宮内 吉 備 津
神 社
相 方 城 跡
新市町相方 福 山 市 城跡は標高191mの山頂に築かれた戦国時代の山城跡で石塁
(石垣)や横矢,石段は残存し,城門二棟が素盞嗚神社に保
存されている。
宮脇石器時代遺跡
新市町常 品 治 別 縄文時代早期の遺跡として押型文土器,打製の細石器,石斧
神 社 等が発見されている。
大佐山白塚古墳
新市町戸手 戸手共有 標高188mの大佐山山頂より南に下がった高所にあり眺望は
地 ほ か 格別である。
墳丘は方墳で内部は花崗岩の切石を用いた奥行7.8m,幅1.8
m,高さ1.9mの横穴式石室で中央に間仕切りがあり二室に
分かれている。石と石との間に漆喰がつめられた痕跡が見ら
れる7世紀中頃の古墳である。
銅 製 錫 杖 頭 1柄 新市町宮内 吉 備 津 長さ31㎝,「備後国一宮吉備津彦大明神願主○○応仁3年己
神 社 丑」の銘入り。
宝 篋 印 塔 1基 新市町
個 人 康暦2年(1380)の銘入り。
金丸厚山
金 銅 製 独 鈷 杵 1口 内海町
西 音 寺 独鈷杵は密教法具の一種。金銅で,鈷の先四方に鎬を入れて
握部の猪目・連弁のしぼり強く,全体の仕上げはよくまとま
っている。室町時代初期の作である。
金 銅 製 三 鈷 杵 1口 内海町
西 音 寺 密教法具の三鈷杵は握部が偏平形となる。猪目の突起もいち
じるしく,連弁のしぼりも強く,両端の跨の張りもいちじる
しく時代の特徴をあらわしている。室町時代初期の作。
県重文 木 造 阿 弥 陀 如 来 立 像 1躯 内海町
県重文 絹 本 著 色 釈 迦 涅 槃 図 1幅 内海町
重 文 磐 台 寺 観 音 堂 1棟 沼隈町
能登原
県重文 磐 台 寺 客 殿 1 棟 沼隈町
能登原
西 音 寺 頭部胴部を一木をもってよく応用して,木目を左右均等に衣
文にまで応用するなど,巧みな彫法を施している。室町時代
中期の作である。
奥 之 坊 豊臣秀吉が朝鮮出征の時,田島の住民が毛利候の水主(水先
案内人)に徴されて,持ち帰ったと伝えられている。
室町時代末期の作。 縦188㎝,横156㎝
磐 台 寺 阿伏兎岬の岩頭に立つ。建築は和様で,内部格天井には幕末
の画家藤井松林の極彩色で百花図がえがかれている。
磐 台 寺 桃山時代の客殿造り,花菱破れ欄間などが有名である。
- 44 -
市町名 種 別
名
称
数 量 所 在 地 管理者
福 山 市 県重文 磐 台 寺 客 殿 1棟 沼隈町
磐台寺
能登原
県重文 葛 原 勾 当 日 記 3帖 神辺町
神辺町
11冊 川北
(菅茶山
新湯野
記念館)
県史跡 亀 山 弥 生 式 遺 跡
県史跡 大
坊
古
墳
神辺町道上 岡山神社
亀山公園
管 理
委員会
神辺町
個 人
西中条
県史跡 迫 山 第 一 号 古 墳
神辺町湯野 上持神社
特 別 廉 塾 な ら び に
史 跡 菅 茶 山 旧 宅
神辺町川北 個
県重文 神 辺 本 陣
(県史 ( 神 辺 本 陣 跡 )
跡 )
銅
5種鈴
輪 宝
輪 台
羯 磨
羯磨台
6器
一口
県重文 版 本 大
仏
5
1
1
4
4
7
具 1具 元町
般 若 経 600巻 栗柄町
県重文 絹 本 著 色 1幅 栗柄町
釈迦十六善神像
県重文 五
輪
塔 1面 本山町
形曳覆曼荼羅版木
県重文 木 造 聖 観 音 立 像 1身 本山町
県重文 木 造 天 部 立 像 2身 本山町
県重文 木 造 阿 弥 陀 如 来 坐 像 1身 元町
県史跡 伝 吉 田 寺 跡
眼に障がいをもつ筝曲家音楽家葛原勾当(1812~1882)が天
保8年(1837)から明治15年(1882)までの46年間に自ら考
案した木活字や印刷道具を使って記した日記。琴・三味線を
教授するための備忘録で,簡潔に記され折々の和歌・狂歌・
俳句も記されている。
弥生時代前期~中期の初期農耕生活を示す遺跡。丘陵を囲む
3重の環濠と土塁が発見されている。また,丘陵上の亀山第
1号古墳は5世紀前半の古墳で,短甲をはじめとする武器な
どの副葬品が多数出土した。
7世紀前半の横穴式石室をもつ古墳で,巨石を使い入り口
と玄室を同規模に作る構造から畿内勢力との関係の深さを
示している。
国分寺西の丘陵に広がる迫山古墳群は12基の古墳が確認さ
れ,第1号古墳は山頂近くにある最大規模の古墳で,銀象が
んの施された大刀や金銅製の環頭柄頭などが出土している。
人 朱子学者で教育者であった菅茶山(1748~1827)が天明元
年(1781)頃開いた塾で,当初「黄葉夕陽村舎」と呼ばれた。
1796年に福山藩の郷校となり廉塾と雅称した。全国各地から
塾生が集まり,広く茶山の学風が伝わった。現在,講堂・
寮舎・居宅などが残っている
神辺町川北 個 人 江戸時代,山陽道の宿場町として福山藩で最も参勤交代大名
の宿泊の多かった神辺に残る本陣施設で,寛文年間(1660
年代)から使われた。現在の建物は,1746年の建築当初の面
影を残している。
1 本山町
青 目 寺 2躯の仏像は本尊11面観音の脇侍で像高88㎝,一木造り,平
1
安時代初期の作である。
1基 本山町
青 目 寺 高さ2.09m,基礎に「正応5年2月28日座主」の刻銘がある。
府 中 市 県重文 木 造 日 光 菩 薩 立 像
木造月光菩薩立像
県重文 青 目 寺 塔 婆
(五層石塔婆)
県重文 日 吉 神 社 宝 塔 1基 本山町
県重文 金
概
要
桃山時代の客殿造り,花菱破れ欄間などが有名である。
元町
日吉神社 宝塔は神社の背後にあり,高さ1.5m,石造。基礎に「正和
4年5月8日」の刻名がある。基礎の下には備前焼のかめが
うずめられていた。
栄 明 寺 金銅仏具は密教大壇の法具で室町時代の作。一括具備してい
ることは珍しい。
神 宮 寺 経巻は応永29年(1422)12月に奉納されたもの(経びつの銘)
で,かすが版。600巻完存する。
神 宮 寺 大般若経を転読する大般若会の時の本尊として懸用された
ものである。
青 目 寺 軟質の版材の一面に高さ90.5㎝の五輪塔形を陽刻している。
青 目 寺 一木造りで背りが施され,像高117㎝,平安時代初期の作で
ある。
青 目 寺 一木造りで像高117㎝(持国天),118㎝(多聞天)でともに
平安時代初期の作である。
栄 明 寺 像高71.7㎝,像の各部が彫刻的均合を保ち勇健な表現をして
いる。
金 龍 寺 吉田寺は白鳳時代に創建された寺で,いま塔の中心礎石とい
われる石が現存し,人物の顔をへらがきした丸がわらも出土
している。
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市町名 種 別
名
府 中 市 県史跡 青 目
称
数 量 所 在 地 管理者
概
要
寺 跡
本山町
本山生産 府中市の北東,亀が岳(539m)は神辺平野を眼下におさめ,
森林組合 内海の島々をへだてて四国屋島寺の青目上人がやってきて
寺を開き,延喜のころは山上に12坊を数えるまでに至ったと
いうが,天慶7年(944)火災にあい,建仁年間に守護杉原
氏が再興につとめたと伝える。南北朝の戦乱には,別当弁
房が南朝方にくみし,僧兵をひきいて津口荘,大田荘を転戦
力闘したほど勢力を持っていたが,その後衰微し,寛保3年
(1743)には山上の諸坊の仏像を山の中腹の一堂に集めた。
今日,山上には西み堂・北み堂・東み堂の跡を残すのみであ
る。
県無民 備 後 府 中 荒 神 神 楽
鵜飼町
備 後 神 楽 荒神神楽は府中市近郊の社家に伝承されてきたものを明治
府中保存会 初年に若連中が神楽人として伝授したものである。
行 縢 社殿の周辺にツガ・カヤ・アラガシなどが大木となって成
県天然 行縢八幡神社の大木群
行縢町
記念物
八幡神社 育しており学術的に価値が高い。
県重文 木 造 薬 師 如 来 坐 像 1躯 上下
吉 井 寺 木造寄木造,像高149 ㎝,いわゆる丈六の巨仏。鎌倉時代後
期の優作。
県重文 石 造 宝 篋 印 塔 1基 矢野
安 福 寺 花崗岩質で高さ1.16m。塔身には,金剛界四仏の種子が刻ま
れ,小型ではあるが古さと形状の点で県内でも数少ない石造
物。裏面に正平10年(1355)の南朝の年号がある。
天 然 矢 野 の 岩 海 1.4ha 矢野
府中市教 矢野温泉の南方約1㎞のところにある。閃雲花崗岩の巨大岩
記念物
育委員会 礫が累々と重なり,その厚さは7m以上,延長100mに及
んでいる。
県史跡 南 山 古 墳 1基 水永
府中市教 横穴式石室を持つ帆立貝式前方後円墳,年代は6世紀後半,
育委員会 全長24m,後円部の直径約16m,石室の平面が羽子板状を
なしているのが特徴。
登 録 恋
し
き
府中町
㈱恋しき かつて割烹旅館として賑わった「恋しき」。吉川英治,井状
有 形
鱒二ほか多くの文人・著名人が訪れた。江戸時代以降の登
文化財
録文化財としての建物の風合い、季節を感じられる日本庭
園を楽める。
三 次 市 重 文 広島県矢谷古墳出土品
小田幸町 広島県教 三次工業団地内の史跡矢谷古墳から出土し,玉類・鉄 ・ガ
(特殊壺・特殊器台)
(県立歴史 育委員会 ラス小玉・碧玉管玉などの遺物とともに,弥生時代の墳墓か
民俗資料館)
ら古墳に移り変わる時期における死者の葬送儀礼に使われ
た道具の一例として学術的な価値が高い。
重 文 旧 真 野 家 住 宅
小田幸町 広島県教 17世紀の中頃の建築で,間取りや柱間隔,梁組みなどに古い
(県立みよし
育委員会 農家建築の姿をよくとどめている。建物は,世羅郡世羅町に
風土記の丘内)
あったものを,移築復元したもの。
史 跡 浄楽寺・七ツ塚古墳群
高杉町,江 広島県教 前方後円墳1基,帆立貝形式方墳3基,方墳20基,円墳152
(県立みよし
田川之内町 育委員会 基があり,中国山地に数多く分布する群集墳の典型的なもの
風土記の丘内)
大田幸町,
である。現在,県立みよし風土記の丘として整備されている。
小田幸町
史 跡 花 園 遺 跡
十日市南 三次市教 弥生時代中期から後期にできたもので農業共同体の共同墓
育委員会 地の性格があり,方形台状墓からは200をこえる石棺,土壙
墓などの埋葬施設が発見された。
史 跡 矢 谷 古 墳
東酒屋町 三次市教 四隅突出型前方後方形墓という形態で,主軸長18.5m(前方
育委員会 部6m,後方部12.5m),四隅に突出部分があり,山陰
地方の影響を受けている。また,周溝からは吉備文化の特色
を示す大型特殊器台や壺が出土した。
史 跡 寺 町 廃 寺 跡
向江田町 三次市教 飛鳥時代のものと思われる寺院跡が発見され,この寺院は日
育委員会 本最古の仏教説話集「日本霊異記」に記されている三谷寺の
跡と推定されている。三谷寺はその後興法寺と称し,この
地の豪族江田氏の祈願所として,天文年間同氏が滅亡
するまで存続したといわれている。
史 跡 陣 山 墳 墓 群
四拾貫町・ 三次市教 弥生時代中期後葉に築造された四隅突出型墳丘墓という形
向江田町 育委員会 態で,形状の異なる5基の墳墓からなる。同一区画内に規則
正しく配列されているとともに,どの墳墓からも塩町式土器
とよばれる三次地方のこの時代を代表する弥生土器が出土
している。
むか ばき
- 46 -
市町名 種 別
名
称
数 量 所 在 地 管理者
三 次 市 重 要 江の川流域の漁撈用具
小 田 幸 町 広島県教
有 形
( 県 立 歴 育委員会
民 俗
史民俗資
文化財
料館)
天 然 船佐・山内逆断層帯
記念物
畠敷町・和知
町
文化庁 三次市歴史民俗資料館 1棟 三次町1236 三次市教
登 録
育委員会
文化財
(建造物)
県重文 神
輿 1基 甲奴町小童 須佐神社
県 天 然 須 佐 神 社 の フ ジ 1本 甲奴町小童 須佐神社
記念物
県天然 吉 備 津 神 社 の サ ク ラ 1本 甲奴町宇賀 吉 備 津
記念物
神 社
重 文 奥
家
住
宅 1棟 吉舎町敷地 奥 博 光
こうぞのり
県無形 辻 八 幡 の 神殿入
民 俗
文化財
吉舎町辻
県史跡 三 玉 大 塚 古 墳
吉舎町三玉 宝 寿 寺
文化庁 田 中 写 真 館 1棟 吉舎町吉舎
登 録
文化財
辻八幡
神 社
神殿入
保存会
田中サダ子
(建造物)
重 文 旧 旙 山 家 住 宅 1棟 三良坂町灰 三次市教
塚
育委員会
- 47 -
概
要
江の川全流域を対象に収集された川漁用具のコレクショ
ンで広島県立歴史民俗資料館が,1979年の開館以来,漁撈
民俗調査を継続的に実施するなかで,地元の川漁師や研究
者の組織する江の川水系資料漁撈文化研究会の全面的な協
力を得て収集した1,800点余に及ぶ資料の中から体系化し
たもの。
断層線は,西は作木町宮谷から始まり,三次町板崎から畠
敷町を経て和知町にいたり,方向を北東から南西にかえて
庄原市山内町に達している。
この断層帯が示す衝上運動によって三次盆地北部の山地が
形成され,三次盆地を誕生させる働きの一つになった。
この建造物は1927年三次銀行本店として建築され,その後
三次郵便局庁舎となる等の変遷の末,1979年三次市に払下
げを受け,市歴史民俗資料館として生まれ変わった。
そして1997年に県内で7番目の国の文化財建造物として登
録された。年数回の企画展を開催するほか,三次に伝わる
妖怪伝説「稲生物怪(いのうもののけ)物語」常設展示コ
ーナーがある。
八角長柄構,台車つき,反転屋根高さ3.4m,幅2.1m,重
さ1.5tの大神輿で地元では「おごっさん」と称され親しま
れている。櫛稲田姫命をまつった社であることや内部に心
柱をもつことで,他に例のない貴重な文化財である。
根回り3.5m,高さ25mで県内有数の巨木である。戦国時代
に小童麓山城主であった長綱時が植えたと伝えられ,樹齢
約500年と推定される。幹は4本に分岐して杉の古木にから
んで伸び上がり,上部で左右に広がっている。開花期は5
月上中旬である。
樹種はエドヒガン,指定された当時の記録によると幹囲7.6
m,樹高15mとある。昭和60(1985)年6月30日の暴風雨で
主幹が倒伏したが残った幹から出ている枝は旺盛な樹勢を
保っている。開花は4月上中旬で地元は古くからこのサク
ラを「苗代ザクラ」と呼んで開花を農作業の目安にした。
天明8年(1788)の普請帖が残されており,建築年代の明
確な民家としては数少ないものの一つである。間取りは6
間取りに台所のあるつの屋がついた形で,規模の大きい当
初の形をよく残している。構造は,内法をすべて差鴨居で
かため柱数も少ない上等な構えである。この地方の18世紀
後期の代表的な民家として貴重である。桁行16.1m,梁間
9.2m,入母屋造り,茅葺。
神殿入は,200年以上の歴史を持つ神迎えの行事午後9時の
花火を合図に氏子が各家から一斉に灯ろうを竹笹に5~10
個つけ太鼓や鐘を打ち鳴らし,笛を吹き,神社へ参拝する。
参道にそって火の帯のようになった灯ろうが,幻想の世界
へ導く。
全長46mの帆立貝式古墳で,三次盆地有数の規模をもつ。
短甲や鏡,玉類,鉄斧,鉄鍬,筒型銅器,兜等出土した遺
物の多種多様さが全国的に注目された。出土品より5世紀
後半に築かれたと考えられる。
昭和3年に建築。木造モルタル3階建の写真館。
玄関の屋根はむくりのついた急勾配の切妻屋根でそのペデ
ィメント(妻・破風)にはカイゼル髭を型取ったユニーク
な2連の窓が付いている。破風尻は渦巻模様となり,屋根
を支える円柱の柱頭はギリシャ建築のイオニア式オーダー
の柱頭を真似ようとしたのか,葉のような装飾を施してい
る。近代吉舎町のシンボル。
江戸時代中期の民家で,屋根は茅葺の入母屋造り。室内の
広さは135平方メートル。江戸時代の特徴的な間取りで,土
間の横に板間4室が田の字型に並ぶ。当時の建築様式や
人々の暮らしを今に伝えている。灰塚ダム建設のため現在
の場所に移築。
市町名 種 別
名
称
数 量 所 在 地 管理者
概
要
三 次 市 県重文 旧 佐 々 木 家 住 宅 1棟 三和町敷名 三次市教 約220 年前の江戸中期の建物で,間口7間半,梁行4間半,
育委員会 約35坪の茅葺平家建農家であり,江戸中期の農家の代表的
建築物で文化財として貴重である。
庄 原 市 重 文 円 通 寺 本 堂 1棟 本郷町233 円 通 寺 桁行3間,梁間3間,一重,入母屋造,銅板葺,地毘庄の
附
厨
子 1基
地頭山内氏の菩提寺である円通寺の本堂。天文年中山内直
通がたてた唐様の仏殿。
重 文 赤 糸 威 鎧 1領 山内町1046 日吉神社 この大鎧は日本工芸品のすべての粋を駆使しており特に染
色は燃え立つような赤色である。威糸(おどしいと)は天
(兜・大袖付)
然染料の茜染(あかねぞめ)で現在の技術をもってしても
四百年変色させないで保存することは不可能である。兜鉢
は室町時代初期で,他は中期の作室町時代大鎧の優秀品で
他に類を見ない。
天 然 船佐・山内逆断層帯
山内町
三次盆地北辺を東西に走り,三次市和知より北東に転じ,
記念物
庄原市山内町まで16㎞にわたって山麓に連続追跡されるも
のである。山内深田谷の指定地域は最もすぐれた露出地で
古い基盤の分岩とその上に堆積した第三紀礫石の境が直立
し,礫石自体も直立に近い姿勢で基礎とともに断層下の砂
岩層上に押し上げられ,砂岩層はあぶみのように押し曲げ
られている。
(神石高原町) 名 勝 帝 釈 川 の 谷
東城町
広 島 県 高梁川の上流にある石灰岩峡谷で侵触によって諸所に天然
橋や洞窟が形成され,周辺の台地上にはドリーネ,ウバー
(帝 釈 峡)
レが数多く存在する。わけても峡谷に架せられた雄橋(天
然記念物)は長さ90m,幅18m,高さ40m,天然橋として
は世界有数のものである。
天 然 熊 野 の 大 ト チ
西城町熊野 庄原市教 根回り周囲12.2m基幹にほら穴がある。トチでは日本有数
記念物
育委員会 の巨樹である。
史 跡 寄 倉 岩 陰 遺 跡
東城町帝釈 庄原市教 縄文時代から鎌倉時代の多量の遺物が発掘された。
未渡
育委員会 とくに縄文時代の遺物包含層は厚く順次堆積されている。
県天然 東 城 川 の 甌 穴
東城町
第三中新世(2300万~500万年前)の泥岩・砂岩・礫岩など
記念物
の層からなる河底に,約3.5kmにわたって直径20cmから2m
に及ぶ30個以上の甌穴群が8群あり,他地域に比べ広域で,
量・質ともに豊富である。
重 文 堀 江 家 住 宅 1棟 高野町中門 庄原市教 1590年頃の創建で古い農家の形態をよく保存した数少ない
田
育委員会 例である。
釘を使っていないこと等民俗資料的にみても貴重な資料。
天 然 比 婆 山 の ブ ナ 純 林 100ha 比婆山
庄 原 市 山頂部約100haにわたって極盛相に達してブナの大群落で
記念物
(県民の森)
おおわれている。我が国のブナ林は南北二系に大別されて
いるが,中国山地西部のブナ林は,両者の要素を兼ねそな
えた遷移的な性格をもっている。その北方系の南限地とし
て注目されており,胸高周囲3.6 mに達するものもある。
重 文 荒 木 家 住 宅 1棟 比和町森脇 庄原市教 作者不詳,江戸初期の建築と推定せられ,代々神官が居住
育委員会 した住宅であり,高間がある。
大 竹 市 県天然 蛇
喰
磐
栗谷町
蛇喰磐は小瀬川とその支流の玖島川との合流点にありま
記念物
す。この一帯は,長さ80m,幅30m前後にわたって河床の
岩磐が長年の水の浸蝕で大小多数のおう穴を形造られ珍し
い景観を呈しています。
東 広 島 市 重 文 旧 木 原 家 住 宅 1棟 高屋町白市 東広島市 白市の豪商木原氏の住宅で,寛文5年に建てられたわが国
で最も古い町家の一つである。
重 文 福 成 寺 本 堂 内 1基 西条町
福 成 寺 厨子及び須弥壇は15世紀初期に山口の大内氏が強く関与し
厨子及び須弥壇
下三永
て造立されたもので,16世紀に瀬戸内地方で多く見られる
妻入宮殿系厨子の先駆けとなるもので建築史上価値が高
く,また中国地方における大内氏の支配や文化の展開を考
える上でも大変重要である。
史 跡 安 芸 国 分 寺 跡
西条町吉行 東広島市 奈良時代に聖武天皇の勅願によって全国に建立された寺院
の一つ。金堂,講堂,僧房などが南北に縦に並び,西に塔
が建つ伽藍配置,塔跡には十数個の礎石が残る。
史 跡 三 ッ 城 古 墳
西 条 中 央 東広島市 412年頃に造られたと推定される県内最大の前方後円墳であ
る。全長は92m,前方部は幅66m,前方水田面からの高さ13
七丁目
m,後円部は直径62m,前方部との比高2mである。
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名
市町名 種 別
東広島市 史 跡 鏡 山
登 録
有 形
文化財
登 録
有 形
文化財
登 録
有 形
文化財
登 録
有 形
文化財
登 録
有 形
文化財
登 録
有 形
文化財
県重文
重 文
県重文
称
数 量 所 在 地 管理者
概
要
城 跡
鏡山
東広島市 西条盆地のほぼ中央,標高250m~340mにある城は,山頂
に御殿場をおき,中のダバ,下のダバ,馬のダバ,北部群,
南部群などを配する大規模な中世山城。この城は,出雲の
尼子氏が毛利氏などを味方に,大永3年(1523),周防
大内氏が支配していたものを謀略で落城させたことで有名。
三 永 の 石 門 1基 西条町
国土交通省 明治初年,西国街道を国道2号線とするための工事にあた
上三永
り,農業用水路確保のため,国道を跨いで架けられた石造
アーチ型水路橋。明治15年完成以来「三永の石門」として
親しまれる。
時
報
塔 1基 志和町
東広島市 大正11年,志和堀村の在郷軍人会が時間励行を主唱してい
志和堀
ることを聞き,同村出身の米国在住者15名が米国製の鐘を
寄贈し,これを受けて旧志和堀村が建設した,切石積の基
壇上に建つ高さ7.8mの鐘楼。現在でも時を告げる塔として
機能しており,地域の人たちに広く親しまれている。
呉 市 水 道 局 1基 西条町
呉 市 この堰堤は,呉市の上水道への水源確保を目的として,黒
下三永
瀬川の支流である下三永川に築かれた,長さ100.4m,高
三永水源地堰堤
さ18.7mの重力式コンクリート造りである。昭和29年頃,
呉市水道局職員が水源地内に植えた藤棚もある。例年3月下
旬から5月上旬に一般開放される。
中 の 峠 隧 道 1基 西条町郷曽 柏原水利 隧道は,全長327m,幅員0.9m,高さ1~1.2mを測る素堀
組 合 りのもので,柏原地区の村人であった沖田嘉市が計画し,
昭和5年に完成した農業用水路の一部。昭和18年に改修さ
れた南側坑口は,当時は石積みやレンガ積みで行ったもの
が多い中で,戦後に普及するコンクリート工法を早くから
採用しており,意匠的にも珍しい。
中 国 電 力 株 式 会 社 1棟 河内町中河 中国電力㈱ 旧広島電灯株式会社椋梨川発電所本館として大正7年に建
深山変電所本館
内
設された。石造平屋建の重厚なつくりの洋風建築で,山間
部の近代化を象徴する貴重な建築物として評価が高い。
明 眼 寺 本 堂 1棟 福富町下竹 明 眼 寺 現在の安芸高田市吉田町の宮大工,西谷庄一氏によって昭
仁
和13年に建てられた木造入母屋造の建物。使用した材木の
白木の肌を見せた清楚な建築美が特徴だが,各所に西谷氏
特有の優れた細部意匠も見られる。
大 般 若 波 羅 密 多 経 六百巻 豊栄町乃美 乃美本宮
八 幡
神社蔵
竹 林 寺 本 堂 1棟 河内町入野 竹 林 寺 永正8年(1511)建立。構造型式は,方三間の柿葺・寄棟
造で,前方一間通を外陣,後方二間を内陣とする。木割が
比較的太くがっしりとした建築であって,木鼻などの細部
も優れた形をしており,室町時代末期の優秀な建築である。
木 造 釈 迦 如 来 坐 像 1体 安芸津町三 東広島市 室町時代中期の作で木彫寄木造り。
津
安芸津支所
県天然 祝 詞 山 八 幡 神 社 の
記念物 コ バ ン モ チ 群 落
地域教育課
安芸津町風 祝 詞 山 亜熱帯の常緑樹で西日本が北限である。
早
八幡神社 紅葉した葉が緑の葉の間に小判のような色形に見える縁起
のよい木である。
廿 日 市 市 県無形 説 教 源 氏 節
原
眺 楽 座 江戸時代天保の頃,名古屋の新内語り岡本美根太夫によっ
民 俗
て創始された音曲。この音曲を伝承した藤原イワ氏と夫の
淳一郎氏によって考案された人形芝居を加えた。この座が
誇る「八反返し」は狭い舞台に豪華壮麗な座敷を幾つも演
出し,見物人をアッと驚かすものである。
県重文 極 楽 寺 本 堂 1棟 原
極 楽 寺 極楽寺は,高野山真言宗の寺で,天平3年(731)に行基が
この地に一堂を建てたのが始まり。永禄5年(1562)に毛
利元就が再建した。本堂は方三間の母屋に四方に一間の裳
階をつけた柿葺きの二重屋根の方形造りで,正面は上の屋
根が前に長くのびて軒唐破風の向拝を形成している。
世界文 嚴 島 神 社
宮島町
嚴島神社 社殿を中心とする嚴島神社と,それと一体となって価値を
化遺産
形成している前面の海及び背後の弥山を含む森林の区域.
平成8年12月 世界文化遺産登録
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名
称
数 量 所 在 地 管理者
概
要
市町名 種 別
廿 日 市 市 国 宝 嚴島神社
6棟 宮島町
嚴島神社 祭神は市杵島姫命,田心姫命,湍津姫命。創建は推古天皇
本社(本殿,幣殿,拝殿)
元年(593)というが,現在のような規模が定まったのは
(祓殿)
平安時代の末期,平清盛によって造営された時であると考
摂社客神社(本殿,幣殿,
えられ,当時貴族の住宅であった寝殿造りを神社建築に移
拝殿)(祓殿)
したものとされている。
廻廊(東廻廊)(西廻廊)
国 宝 平 家 納 経 1具 宮島町
嚴島神社 法華経28卷,開結の無量寿経,観普賢経の2巻及び法華三
部経として法華経とともに読まれる阿弥陀経1巻,船若心
経1巻と平清盛の奉納願文1巻,計33巻からなる。願文に
よれば,長寛2年(1164)9月清盛をはじめ子の重盛、弟
経盛,教盛,頼盛など平家一門の人々が各1巻ずつ結縁書写
して奉納したものといわれる。
国 宝 嚴島神社古神宝類
宮島町
嚴島神社 飾太刀,半臂,内衣,石帯,笏,桧扇などの小形調度類で
承安,安元,治承のころたびたび御幸された後白河法皇や
高倉上皇が本社及び客神社の神物として奉献したものの一
部と考えられる。
国 宝 彩 絵 桧 扇 1柄 宮島町
嚴島神社 縦29㎝,横48㎝,平安時代の桧扇としてはまれな遺例で芦
手歌絵の資料としても貴重なものである。
国 宝 金 銅 密 教 法 具 1具 宮島町
嚴島神社 密教大壇で仏具として,杵,鈴,盤と当初のものを完存し
た点で珍しく,和様密教具の最高峰をなす。
国 宝 梨 子 地 桐 文 螺 鈿 腰 刀 1口 宮島町
嚴島神社 総長37.5㎝,刃長20.9㎝,南北朝時代の合口こしらえ腰刀
の
国 宝 太
刀 1口 宮島町
嚴島神社 刃長79.5㎝,反3.1㎝,鎬造,庵棟,鍛えは小板目肌,古備
( 銘 友 成 作 )
前友成の作,平宗盛所用と伝えられる。
国 宝 小 桜 韋 黄 返 威 鎧 1領 宮島町
嚴島神社 源為朝の所有と伝えられる。
国 宝 紺 糸 威 鎧 1領 宮島町
嚴島神社 平重盛の寄進と伝えられる。
国 宝 浅 黄 綾 威 鎧 1領 宮島町
嚴島神社 鎌倉時代中期の大鎧の典型的な遺品。
く
ろ
か
わ
お
ど
し
ど
う
ま
る
国 宝 黒 韋 威 胴 丸 1領 宮島町
嚴島神社 現存する胴丸の中では,最も古い形式のもので原形を完備
し,仕立が精巧で雄大なすぐれた作である。
国 宝 紺 紙 金 字 法 華 経 8巻 宮島町
嚴島神社 嘉応2年(1170)9月から承安2年(1172)4月まで2年
・観 普 賢 経
余を費し,平頼盛が兄清盛と結縁合志のもとに書写供養し
たもので,各巻のはじめ何行かを清盛が書き,後を弟頼盛
が書きついだ。いわゆる両筆経である。
重 文 嚴 島 神 社 5棟 宮島町
嚴島神社 朝座屋 もともと勤番神職の参集したところである
能舞台 永禄年間,毛利氏によって寄進
平成3年 台風により崩壊,平成6年復元
揚水橋 神前に供える水をあげてくる橋である。桃山時代
の建築
長 橋 長さ18間,幅1間4尺の橋で桃山時代の建築
反 橋 弘治3年(1557),毛利元就,隆元父子が再建
別名勅使橋
重 文 嚴 島 神 社 大 鳥 居 1基 宮島町
嚴島神社 木造両部鳥居,桧皮葺,丹塗,本社拝殿から108間はなれた
海中に立つ。高さ16m
重 文 嚴 島 神 社 摂 社 1棟 宮島町
嚴島神社 大国主命を祭神とする元亀2年(1571)の建築と伝えられ
大 国 神 社 本 殿
る。
重 文 嚴 島 神 社 摂 社 1棟 宮島町
嚴島神社 別名を連歌堂といい明治のころまで連歌が催されていた。
天 神 社 本 殿
弘治2年(1556)毛利隆元が建立。
重 文 嚴 島 神 社 宝 蔵 1棟 宮島町
嚴島神社 けた行2間,はり間1間,校倉,寄棟造り,桧皮葺,現在
のものは室町時代中頃の造営,天正16年(1588),慶長13
年(1608)に毛利輝元によって修理がなされている。昭和
9年に現在の宝物館ができるまで,平家納経をはじめとす
る神社の宝物を収蔵してあった。
重 文 嚴 島 神 社 摂 社 1棟 宮島町
嚴島神社 三間社流造りで六枚重三段ぶきの板ぶき,屋根は極めて珍
大 元 神 社 本 殿
しく,中世の絵巻物には見うけられるが,他に例をみない
ものである。
重 文 嚴 島 神 社 多 宝 塔 1棟 宮島町
嚴島神社 大永3年(1523)僧周歓によって建立されたもので通称二
重塔と呼ばれている。高さ15.6m
重 文 嚴 島 神 社 五 重 塔 1棟 宮島町
嚴島神社 応永14年(1407)の創建と伝えられ,和様と唐様とを巧み
に調和させている。高さ27m
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名
称
数 量 所 在 地 管理者
概
要
市町名 種 別
廿 日 市 市 重 文 嚴 島 神 社 末 社 1棟 宮島町
嚴島神社 一間社流造,嘉吉元年(1441)の建築
荒胡子神社本殿
重 文 嚴 島 神 社 末 社 豊 国 1棟 宮島町
嚴島神社 けた行正面13間,背面15間,はり間8間,素木単層で本瓦葺
の入母屋造りの大伽藍。豊臣秀吉が毎月12度千部経の転読供
神社本殿(千畳閣)
養をするため,天正15年(1587)発願,安国寺恵瓊を造営奉
行として着手させたが,秀吉の死去などの理由により天井板
もはらず,正面の階段もなく未完成の建物といわれている。
特 別 厳
島
宮島町
厳島は周囲30㎞,全島花崗岩からなる。島の最高峰弥山は,
史 跡
高さ535m,頂上から瀬戸内海のながめをほしいままにする。
島の北側は,わが国西南部系の植物要素に富む代表的な原始
特 別
林でおおわれ,大元谷や紅葉谷の景勝地がひらけている。
名 勝
厳島が今日のように有名になったのは,平清盛の厳島信仰
以来で,島の北側海上に建てられた嚴島神社社殿(国宝,重
要文化財)の配置の妙も清盛の構想によったという。
宮島町
この原始林は,わが国の暖帯標準林として代表的なもので,
天 然 弥 山 原 始 林
記念 物
厳島の景観にとって重要な要素となっている。
安芸高田市 史 跡 毛 利 氏 城 跡
吉田町吉田 安芸高田市 毛利氏が南北朝時代の延元元年(1336)に築城したが,その
( 郡 山 城 跡 )
教育委員会 後猿掛城に父の弘元と一緒に居た2男元就が毛利宗家を相
続することになり,元就が郡山城に入城し全山を城郭化し
た。他の城に比較し郭の数が非常に多く,山頂に本丸・南方
史 跡 毛 利 氏 城 跡
吉田町
安芸高田市 に二の丸,三の丸をかまえ,郭は150 以上になる。郡山城跡
多治比
教育委員会 も猿掛城跡もいずれも中世山城の特徴を持っている。
(多治比猿掛城跡)
県重 文 佐 々 井 厳 島 神 社 5基 八千代町 個 人 本殿には5基の玉殿が安置されており,正面中央の1基は14
本 殿 内 玉 殿
佐々井
世紀前期の造立と考えられ,わが国最古のもの。残る4基も
14~15世紀の造立で,造立年代,細部意匠や技法,保存状態
からみて,神社建築史上極めて貴重なものである。
県重 文 常 磐 神 社 本 殿 内 玉 殿
八千代町 個 人 4基の玉殿のうち3基は旧八幡神社のもので,天文年間
勝田
(1532~1555)の造立と考えられ,1基は旧新宮神社の玉
殿であったと推定される。中央向かって右の第一殿は長簿板
を2段に葺いた板葺きで,宮島大元神社本殿の屋根のルーツ
ともいわれている。
県史 跡 土 師 大 迫 古 墳
八千代町 安芸高田市 直径12m,高さ3mの古墳時代後期の円墳で,横穴式石室の
土師
教育委員会 壁面全面にわたり県内では珍しい赤色顔料による彩色があ
り,床面には敷石がされていた。石室からは勾玉やガラス小
玉,須恵器など多くの遺物が出土している。
県 出 店 権 現 の 1 美土里町 三上宮司 胸高幹囲7.4 mの巨木。
文化 財 ウ ラ ジ ロ ガ シ
生田
ほか氏子 ウラジロガシとしては,県下の名木。
・天 然
伊勢神社
6本の寄せ植えが1本となったもの。
記念 物
天 然 船佐・山内逆断層帯
高宮町
佐々部植谷を中心とし,東西2㎞にわたって点々と露出する
記念 物
佐々部
もので,第三紀層が新しい礫層でおおわれ,両者の上へ基礎
の花崗岩が逆断層によって押し上げられている。
県 高 林 坊 銅 鐘 1 甲田町
高 林 坊 明徳2年(1391)の作で,吉舎の和智兄弟が永禄12年1月24
文化 財
高田原
日に毛利元就の手によって殺害されたことが鐘銘に印され
ている。
県 児 玉 家 住 宅
甲田町浅塚 児玉慶荘 江戸時代の豪農であった浅塚屋号住屋児玉家の居宅は特異
文化 財
な趣の造りになっている。家は台所と上下の3通りに分かれ
ており,中通の間の天井に隠れ間を配し,その屋根裏には太
鼓を吊し,危急の際にはそれを打ち鳴らした。
県史 跡 五 龍 城 跡
甲田町
安芸高田市 14世紀頃宍戸朝家が五龍山に城を築く。以来,慶長5年
上甲立
教育委員会 (1600)関が原合戦で西方に味方し敗れるまで在城した。
県史 跡 戸 島 大 塚 古 墳 1基 向原町
安芸高田市 戸島川東岸一体にある古墳群の中で最大の古墳で一辺18m,
戸島字立岩 教育委員会 高さ4.5mの方墳の内部は長さ10.7m,幅1.8m,高さ2.3m
の大型横穴式石室で,安芸地域の終末古墳の代表的なもの。
方墳に横穴式というのは県内でもめずらしい。
市指 定 か た く り の 花 群生 向原町
個 人 ユリ科の植物で四月初旬に咲き,花は一茎の先に一つつき紫
天然 記
長田字川之
色。
念 物
内
向原町はほぼ南限にあたり群生はめずらしい。
江 田 島 市 県天 然 阿 彌 陀 堂 の 1本 大原
青井孝男 阿彌陀堂の境内にある巨木(根回り周囲8m,樹高17m)
記念 物 ク ロ ガ ネ モ チ
- 51 -
名
称
数 量 所 在 地 管理者
概
要
市町名 種 別
江 田 島 市 県天 然 鹿 川 の ソ テ ツ
鹿川
徳 勢 家 屋久島から持ち帰って植樹されたと伝えられており,根元
から大小6つの支幹に分かれ,独特の姿をしています。(根
記念 物
回り周囲5.1m 樹高5.4m)
安 芸 郡 県重 文 千 葉 家 書 院
中店
海田町教 千葉家は,元禄8年(1695)から幕府の公用文書や荷物等
海 田 町 県名 勝
育委員会 を継ぎ送る天下送り役と,参勤交代等の時に大名などが泊
まる宿である脇本陣を務めた。現在まで江戸時代中期から
後期建築様式を残している数少ないもので,本座敷は茶室
のようなつくりの数寄屋風で武家屋敷の構えである。
また,風呂場,厠も濡縁でつないであり,総体的に書院造
りである。当家には,毛利氏などの書状や天下送り・宿送
りの業務に関する史料が多く残っている。(見学には事前
の申請が必要)
山 県 郡 県天 然 吉 水 園 の
加計
加計正弘 名勝吉水園に生息するカエルで,森林の樹上に棲んでいる
安 芸 太 田 町 記念 物 モ リ ア オ ガ エ ル
のでこの名で呼ばれている。モリアオガエルは木の枝に泡
状の分泌物をつけ,その中に産卵する。孵化したオタマジ
ャクシはその分泌物の中で発育し,やがて水中に落下する
が,吉水園の池のまわりでは,5月下旬から7月上旬にか
けて,この珍しい生態がまのあたりに観察できる。
だい えい わ じょう
中筒賀市下 安芸太田町 浄土真宗中興の祖(1760~1804没)
大 瀛 和 上 の 墓
教育委員会
特 別 三
段
峡
柴木
広 島 県 太田川の上流にある長さ13㎞の長大な峡谷で,その源頭は
名 勝
(芸北八幡)
八幡高原に接している。石英斑岩や花崗岩の基盤が深く侵
蝕され,数か所で高さ40mに及ぶ大岩壁や幾多の滝,急流,
深渕を形成,豪壮な回春谷の様相を呈し圧巻である。また
日本西西部の暖帯要素と東北部の亜寒帯要素とが混生した
植物相を示し,春の若葉,秋の紅葉の美しさは他に比類が
ない。
天 然 押 ケ 垰 断 層 帯
打梨
安芸西部山地に発達している北東~南西方面の直線状河谷
記念 物
廿日市市吉
が断層谷であることを証する記念物。太田川の本流左岸に
和下山大畑
数個の断層丘陵が点列する。
県重 文 黒 韋 威 胴 丸 1領 上本郷
大歳神社 1300年代後半の南北朝時代の作。
一の宮
草擢裾の朱漆書は南北朝時代の特徴で,この時期のものは
大蔵神社
厳島神社に国宝の一領があるのみ。
県重 文 願 福 寺 薬 師 堂 1棟 戸河内
願 福 寺 曹洞宗派の流れをくむ禅寺で大同元年(806)の開基を伝え
上本郷
薬 師 堂 られる。現在の薬師堂は17世紀半ばに建立され建立当時の
保 存 会 ままの姿を残す県下唯一の貴重なものである。
県天 然 梶 ノ 木 の 大 ス ギ 1本 梶の木
梶 木 家 安芸太田町梶の木の梶木家の墓地にある大杉(目通り10m,
記念 物
樹高36m,枝張20×18m)。県下,台杉型の老杉では最大。
県天 然 洗 川 の 谷 渡 り 台 杉 1本 梶の木
上 野 家 倒れた杉から枝が大きく成長し橋状となった杉。巾10.9m,
記念 物
高さ25m
山 県 郡 重要 有 樽 床 ・ 八 幡 山 村 479点 西八幡原 北広島町 特別名勝三段峡の源頭に設けられたダムの底に没した樽床
北 広 島 町 形民 俗 生 活 用 具 及 び 民 家
教 育 地区で,昭和32年に収集された民具をさらに本郷八幡地区
文化 財 生活に関するもの 247点
委 員 会 で補ったもの。中国山地の特色を示すものとして重要民俗
生産に関するもの 185点
文化財に指定された。町では,その保存のために収蔵庫を
その他のもの
47点
建て,この地方在来の中門造り住宅を移築して町立民俗博
物館としている。
重 文 龍 山 八 幡 神 社 本 殿 1棟 新庄
龍山八幡 鎌倉時代末期に吉川氏が大朝庄地頭として入封のおり駿河
神 社 から勧請したといわれている。建築の形式手法も時代相応
のもので地方色が濃厚である。
県重 文 枝 宮 八 幡 神 社 本 殿 1棟 大朝
枝宮八幡 鎌倉時代末期,龍山山八幡神社建築から17年後建築された。
神社本殿 特に地方工匠の手になり,その程度を知る上に価値が高い
といわれる。
県重 文 木 造 狛 犬 4体 大朝
富士神社 両神社の木造狛犬は,ほぼ同寸法の小ぶりのものである。
枝宮八幡 いずれも肢体が直立気味で,胸に張りが見られるなど,前
神 社 代の様式をひいている。両狛犬とも足裏に安応7(1374)
年の同筆による墨書銘がある。
国天 然 大朝のテングシデ群落 100数本 田原
北広島町 熊城山(998m)の東斜面標高約640mの広さ30アールのゆ
記念 物
教 育 るやかな谷間に大小100数本が群生する。イヌシデの一変種
委 員 会 であり,世界でこの地だけに自生する。
県天 然 八 栄 神 社 の 大 ヒ ノ キ 2本 岩戸
北広島町 大きいヒノキは胸高周囲6.15m,樹高約25mで県下第一の
記念 物
教 育 巨木。小さいヒノキは胸高周囲4.40m,樹高約29mで県下
委 員 会 第二の巨木。
- 52 -
名
称
数 量 所 在 地 管理者
市町名 種 別
北広島町
山 県 郡 県天 然 大 朝 町 の 大 ア ベ マ キ 1本 大塚
教 育
北 広 島 町 記念 物
委員会
北広島町
県史 跡 横 路 遺 跡
新庄
教 育
委員会
北広島町
史 跡 吉 川 氏 城 館 跡
大朝
教 育
駿 河 丸 城 跡
委員会
北広島町
史 跡 小 倉 山 城 跡
新庄
教 育
委員会
北広島町
史 跡 日 山 城 跡
新庄
教 育
委員会
北広島町
史 跡 西 禅 寺 跡
新庄
教 育
委員会
史 跡 洞 仙 寺 跡
岩戸
北広島町
教 育
委員会
重要 有 川 東 の は や し 田 用 具 313点 川東
北広島町
形民 俗
教 育
文化 財
委員会
重要 有 芸北の染織用具および 179点 有田
形民 俗 草木染めコレクション
文化 財
重 文 古保利薬師仏像群
古保利
重 文 吉 川 氏 城 館 跡
( 万 徳 院 跡 )
舞綱
国史 跡 常
仙
寺
跡
中山
県史 跡 与
谷
城
跡
寺原
県史 跡 寺
原
城
跡
寺原
県史 跡 猿
喰
城
跡
本地
県史 跡 今 田 氏 城 館 跡
今田
史 跡 吉 川 氏 城 館 跡
(吉川元春館跡)
海応寺
史 跡 吉 川 氏 城 館 跡
(吉川元春・元長父子
の墓所)
史 跡 松 本 屋 敷
海応寺
海応寺
概
要
根周り周囲3.15m,目通り幹周り 2.6m,樹高約30m。
弥生時代前期(2千数百年前)の集落跡・貯蔵穴がまとま
って発見され,当地方で「米作り」が行われたことが出土
した土器底部の米の圧痕から確証された。
安芸吉川氏初代経高が14世紀初頭に築城。低丘陵地を利用
し掘切と土塁をめぐらした初期の丘城。
吉川氏四代経見が15世紀中頃に築城。切土・盛土による典
型的な中世山城。大手に館跡がある。
毛利元就の二男元春が天文19(1550)年,吉川氏を相続し
て築城。高所山頂にあり,石垣や築城を持つ近世的山城。
吉川氏の菩提寺跡。大内義隆も宿陣。小倉山城跡の前面に
あり,池や庭もあったと思われる。15~16世紀。
小倉山時代の吉川氏の菩堤寺跡。吉川氏関係の墓所もある。
15~16世紀。
中国山地盆地特有の田楽ばやしを奏しながら田植する「は
やし田」の楽器,服装品,飲食器ならびにこの地の水田農
業に関する一連の農具を集大成したもので農耕儀礼や技術
の特色を示すコレクションとして価値がある。
北広島町 染色用具111点と草木染め68点。
教 育
委員会
北広島町 古保利薬師如来像,日光・月光菩薩など国指定重文12体,
教 育 ほか仁王2体,12神将,古保利薬師収蔵庫等に収蔵。
委員会
北広島町 吉川氏関係の遺跡。
教 育
委員会
北広島町 毛利元就によって謀殺された吉川興経の菩提所と伝えられ
教 育 境内には墓所がある。
委員会
北広島町 与谷城跡は,毛利親衡が寺原城の時親等とともに観応元年
教 育 (1350)と正平22年(1367)に拠った城で,最後に吉川実
委 員 会 経に攻略された。城跡には,釣井の段,馬屋の段,御部屋
の段,やぐらまち等が地名として残っている。
北広島町 寺原城跡は,1341年及び1367年の再度に渡って毛利親衡が
教 育 拠った所で,大朝庄の地頭吉川実経等に攻略された。
委員会
北広島町 猿喰城は,観応元年毛利親衡に呼応した山形為継,壬生道
教 育 忠が拠った所で,安芸国守護武田氏信によって攻略された。
委員会
北広島町 今田氏は,戦国期の吉川氏の家臣であった。その今田氏の
教 育 居館跡と城跡が残っている。居館跡は,現在田んぼになっ
委 員 会 ているが,その館跡の石垣は,当時のままの姿を残し,当
時の石積の様子をうかがうことが出来る。城跡は,土塁巾
1m~1.5 mのものが40mにわたって残り郭も残っている。
北広島町 吉川元春が天文19年(1550)に築いた。屋敷跡は東西120 m
教 育 南北約80mの規模をしている。現在は正面に巨石による長
委 員 会 さ約80m高さ3mの石垣がある。この石垣は,10m間隔で
石を縦に用い,他は横積みするなどの特徴があり全国的に
はあまり例がない。
北広島町 吉川元春の館跡後方の丘に三基の墓がある。中央が吉川元
教 育 春の御塔で,高さ5mの五葉松が中央に植えられている。
委員会
北広島町 吉川元春の3男広家の夫人が住んでいた屋敷跡(御姫屋敷)
教 育 と伝えられている。東西70m,南北45mの石垣が残ってい
委 員 会 る。
- 53 -
名
称
数 量 所 在 地 管理者
概
要
市町名 種 別
山 県 郡 県史跡 豊平町中世製鉄遺跡群
今吉田阿坂
北広島町
町内には200余の製鉄遺跡が良好な状態で確認されている。
まきがはら やぐり こんそく
北広島町
教 育 古代から中世の時代の遺跡がほとんどで製鉄の歴史には大
(槙ヶ原,矢栗,坤束
委 員 会 変貴重な資料となっている。坤束製鉄遺跡は復元展示し近く
製鉄遺跡)
には資料館もある。
世 羅 郡 県史跡 今 高 野 山
甲山
龍 華 寺 甲山を中心とする世羅郡の東半一帯は,鎌倉時代以来高野山
世 羅 町
領大田庄であった。この庄園は,もと地方豪族橘氏によって
開発されたがやがて平重衡の所領となり,文治二年(1186)
後白河院から高野山大塔維持のため,金剛峰寺に寄付され
た。今高野山龍華寺は,大田庄経営の中心であり,弘法大師
の御影堂が設けられ,高野,丹生名神も勧請され,十二院が
一山をなしていた。現在は福智院,安楽院と龍華寺の一部が
残り,本尊十一面観音(重文)をはじめ,往時を偲ぶ逸品が
少なくない。
重 文 木 造 十 一 面 観 音 立 像 2躯 甲山
龍 華 寺 今高野山観音堂の本尊で,像高1.9 mサクラ材の一木造りで
ある。面相姿態がすこぶる端正優麗で彩色も美しい平安時代
の秀作である。背面に3か所背ぐりがあり,昭和12年に修理
の際,中央の背ぐりの部分から麻布及び紙に包んだ延喜通宝
10文が発見されたが造像の年時をものがたるものであろう。
重 文 木 造 獅 子 頭 1面 甲山
丹生神社 今高野山の鎮守,丹生神社の獅子頭で,吽(うん)の方の顎
裏に「正安3年無射中旬(1301)今八幡之宮随分丹誠神明納
受矣,左兵衛尉藤原重幸」と刻銘がある。阿の方は時代がや
や下る。いずれも黒漆塗りに金泥や朱で彩色されている。刃
法はおだやかで鎌倉時代の獅子頭の代表的なものである。
重 文 木 造 十 一 面 観 音 立 像 1躯 赤屋
文 裁 寺 赤屋報恩寺は現在廃寺となり,文裁寺の管理するところとな
っているが正安3年頃の高野山文書に既に名があげられて
おり,大田庄桑原方の一寺院であったと思われる。像高1.47
m,かや材の一木造りで蓮肉まで共木で彫り出されている。
彩色は殆んど剥脱しているが重厚で,裳に飜波式衣文が残
り,天衣に施転文が彫り出された県下でも古い貞観彫刻であ
る。
重 文 木 造 聖 観 音 立 像 1躯 赤屋
文 裁 寺 像高1.36m桧材の寄木造り,切り付け蓮座で優麗温雅な平安
時代の作品である。
県史跡 康 徳 寺 古 墳
寺町
康 徳 寺 直径17m,高さ5mの円墳,横穴式石室で奥行 9.5m,羨道
の長さ2.4m,幅1.8m,世羅郡では最大規模の
横穴式石室で,東側に接して白鳳時代の寺跡があり,その寺
院建立に関係があった豪族の墳墓と考えられ注目されてい
る。
県史跡 万 福 寺 跡
堀越
世 羅 町 応安3年(1370)銘の石造七層塔(県重文)や,正平12年
教 育 (1357)銘の宝篋印塔などが遺存する中世の寺院跡である。
委 員 会 周辺には五輪塔・板碑・地蔵など石造遺品が多い。
県重文 万 福 寺 塔 婆
堀越
世 羅 町 応安3年(1370)の刻名があり,現高 4.19mの七重の塔で
教 育 ある。
委 員 会 基壇の地下に室があり,一字一石の経を納めている
県重文 木 造 十 一 面 観 音 立 像 1躯 西神崎
世 羅 町 平安時代後期の作で,一木造,高さ1m。頭の化仏は,失わ
教 育 れているが,顔面の一部には,造立当初の色彩を残している。
委員会
県重文 木 像 阿 弥 陀 如 来 坐 像 1躯 賀茂
善 法 寺 平安時代の作で,寄木造り高さ64㎝。
応永7年(1400)10月に,沙弥知賢(山内氏)が阿弥陀堂免
として田畑を寄進しているのはこの仏様に寄進したものと
思われる。
県重文 木造薬師如来立像残欠 1躯 賀茂
善 法 寺 平安時代の作,現在の高さ70㎝。腰から下は切り落され現存
しない。
衣のえりが高くなっているのは出雲系の特色である。
県重文 木 造 阿 弥 陀 如 来 座 像 1躯 田打
永 寿 寺 承元4年(1210)の作で,高さ85㎝,蓮台47㎝寄木造,漆
塗に金箔が施してある。
し ほん ぼく しょ だい はん にゃきょう
田打
永
寿
寺
三原金剛寺の開山源恵が結縁者を募り,諸方の僧を勧進し
県重文 紙 本 墨 書 大 般 若 経
て,書写(永和2年(1376)から永和5年(1379))が行
われた。
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市町名 種 別
名
称
数 量 所 在 地 管理者
概
要
神 石 郡 県天然 下 豊 松 鶴 岡
下豊松
鶴岡八幡 本社叢は,スギの大木と近郷には珍しい原始性を有した神
神 石 高 原 町 記念物 八 幡 神 社 社 叢
神 社 石高原の代表的なシラカシ林が特長である。社殿周辺に9
四日市
本の巨樹があり,最大のスギは樹高約30m,胸高幹囲5.95
mで,スギとして県内有数の巨樹である。
神石高原町 祭祀用具206点,祈祷用具 40点,神楽用具110点,燈火用
重 文 豊 松 の 信 仰 用 具 881点 下豊松
教育委員会 具 30点,直会用具488点,大田植用具 7点,これらの用具
四日市
は,地域的特色を示す典型的なもので,備中,備後におけ
る民間信仰の推移を知る貴重な資料である。
神石高原町 昭和4年(1929)建築の木造校舎。平屋建で,東西に長い
有 形 小野公民館(旧小野尋常 1棟 小野
文化財 小 学 校 舎 )
長方形平面を持つ。戦前の木造校舎は県内でも数少なく,
昭和時代初期の学校建築の有様を伝える建築である。
有 形 神 龍 橋 ( 旧 紅 葉 橋 ) 1基 永野
広 島 県 神龍湖に架かる,橋長84m,幅員4.6mの鋼製,下路式(か
文化財
ろしき)の道路橋で建設当時,単純トラスの道路橋として
我が国最大の径間を実現した大型橋梁である。
地 域 を 特 別 オオサンショウウオ
本県では太田川水系,江の川水系,高梁川水系に生息して
限 ら ず 天 然
いる。
記念物
(2) 文 学 碑
市町名
名
称
所 在 地
広 島 市 原 民 喜 詩 碑 中区平和記念公
園内
鈴木三重吉文学碑 中区平和記念公
園内
峠 三 吉 詩 碑 中区平和記念公
園内
交
通
広島駅から電車で
15分,「原爆ドーム
前」下車
広島駅から電車で
15分,「原爆ドーム
前」下車
広島駅から電車で
15分,「原爆ドーム
前」下車
碑 銘 ・ 碑 文
遠き日の石に刻み砂に影
おち崩れ墜つ天地のまな
か一輪の花の幻
私は永久に夢を持つただ
年少時のごとくために悩
むこと浅きのみ
ちちをかえせははをかえ
せとしよりをかえせこど
もをかえせわたしをかえ
せわたしにつながるにん
げんをかえせにんげんの
にんげんのよのあるかぎ
りくずれぬへいわをへい
わをかえせ
祈 り の 像 中区平和記念公 広島駅から電車で み霊よ,地下に哭くなかれ
(大木惇夫の碑文) 園内
15分,「原爆ドーム
前」下車
原爆犠牲国民学校 中区平和大通 広島駅から電車で 太き骨は先生ならむその
教師と子どもの碑
15分,「原爆ドーム そばに小さきあたまの骨
(正田篠枝の碑文)
前」下車
あつまれり
大 田 洋 子 文 学 碑 中区中央公園内 広島バスセンター
から徒歩10分
梶 山 季 之 文 学 碑 河川遊覧船乗船 広島駅からバス20
場
分,「厚生年金会館
(アステールプ 前」下車
ラザ裏)
建立年代
昭和42年
7月
昭和39年
6月
昭和38年
8月
そ の 他
原民喜は原爆への悲しい
憤りをうたい続けた詩人
三重吉の遺徳をしのんで
彼の生家跡に建てられた。
峠三吉は自宅で被爆し焦
土の中で青年運動を通じ
て文学活動を行った。
昭和35年 平和祈念慰霊国民大祭を
8月
記念して,同祭実行委員会
が建立した。
昭和46年 広島県原爆被爆教師の会
8月
が建立した原爆犠牲国民
学校教師と子どもの碑が
刻まれている。
少女たちは天に焼かれる 昭和53年 被爆直後から廃墟のヒロ
天に焼かれると歌のやう 7月
シマを描き続けた大田洋
に叫びなから歩いて行っ
子を偲んで建立した。
た。
大田洋子「屍の街」より
花 不 語
平成3年 昭和20年代の広島の文学
(はなはかたらず)
5月
界の活動全般にわたって
主導的な役割を担った梶
山季之の文業を偲んで建
立した。
焦土かく風たちまちにか 昭和33年 多宝塔落慶7周年記念と
をりたる
5月1日 して建立した。
久保田万太郎句碑 西区三滝山多宝 横川駅からバスで
塔横
20分,「三滝観音入
口」下車
正 岡 子 規 句 碑 南区比治山公園 広島駅からバス電 鴬の口のさきなり三万戸 昭和33年 明治28年4月7日広島に
内(富士見台) 車で20分,「比治山
3月20日 立ち寄り1か月余りを広
下」下車
島で過ごし詩作した。
正 岡 子 規 句 碑 南区千田廟公園 広島駅から電車で 行かば我 筆の花散る 虚 不明
明治28年4月7日広島に
25分,「県病院前」 まで
立ち寄り1か月余りを広
下車
島で過ごし詩作した。
- 55 -
呉
市町名
名
称
所 在 地
交
通
碑 銘 ・ 碑 文
市 吉 川 英 治 文 学 碑 警固屋八丁目 呉駅から見晴町行 君よ今昔之感如何
音戸の瀬戸公園 きバスで25分「音戸
大橋」下車徒歩5分
建立年代
昭和38年
5月
そ
の
他
山 口 誓 子 碑 警固屋八丁目 呉駅から見晴町行 天耕の峰に達して峰を越 昭和38年
音戸の瀬戸公園 きバスで25分「音戸 す
11月
大橋」下車徒歩5分
葛 原 繁 歌 碑 警固屋八丁目 呉駅から見晴町行 夕空のもともろともにし
音戸の瀬戸公園 きバスで25分「音戸 づまれり瀬戸に見さくる
大橋」下車徒歩5分 にし東の海
瀬戸いでて落ちあふ潮は
夕凪の海にうごきて渦ひ
ろげゆく
正 岡 子 規 の 句 碑 宮原五丁目
呉駅から音戸・倉橋 呉かあらむ春の裾山灯を
歴史の見える丘 阿賀駅前方面行き ともす
バスで10分「子規句
碑前」下車
正 岡 子 規 の 句 碑 幸町美術館前 呉駅から徒歩10分 大船や波あたたかく鷗浮
く
藤 井 清 水 碑 中央公園内
呉駅から徒歩10分 はひがみねさえあめふ
りゃくもるヨ
トコドッコイショ
松 野 自 得 句 碑 二級峡公園内 呉駅から郷原黒瀬 岩に立てば我も巨人ぞ秋
行バスで35分「二 の風
級峡公園」下車
渡 辺 直 己 歌 碑 宮原五丁目
呉駅から音戸・倉橋 ほそぼそと虧けたる月に
歴史の見える丘 阿賀駅前方面行き 対ひつつ
バスで10分「子規句 戦は竟に寂しきものか
碑前」下車
香 川 進 氏 歌 碑 倉橋町本浦
呉駅から桂浜・温泉 香川氏 揮亳
(桂浜地内) 館又は室尾行きバ いにしへは なつかしき
万葉植物公園内 スで1時間「桂浜・ かな わだつみに
温泉館」下車,徒歩 浮寝したのし ふたひと
3分
ありぬ
香川 進
犬 養 孝 氏 歌 碑 倉橋町本浦
呉駅から桂浜・温泉 犬養氏揮亳
(桂浜地内) 館又は室尾行きバ 我が命を 長門の島の
万葉植物公園内 スで1時間「桂浜・ 小松原
温泉館」下車,徒歩 幾代を経てか 神さび渡
1分
る
万葉集巻より
万 葉 集 遺 跡 倉橋町本浦桂浜 呉駅から桂浜・温泉 石走る滝もとどろに鳴蝉
長 門 島 之 碑
館又は室尾行きバ の声をし聞けば都し思ほ
スで1時間「桂浜・ ゆ
温泉館」下車,徒歩
一首大石蓑磨
1分
平成3年
4月
昭和33年
12月
昭和43年
9月
昭和36年
9月
昭和37年
5月
平成2年
4月22日
平成4年
平成4年
昭和19年 万葉集巻第十五天平八丙
子夏六日遣使新羅国之時
使人等各 別贈答及海
路々上働旅陳思作歌
当所誦詠右歌八集
安芸国長門島船舶
野 口 雨 情 の 詩 碑 安 浦 町 内 海 安浦駅から徒歩25 姿お姿観音様は
分
刻む桜の御本尊
前 田 曙 山 の 句 碑 川尻町小仁方
春の虹女猫の瀬戸に消え
残る
水 原 秋 桜 子 句 碑 豊町大長平羅橋 広駅からバス1時間 冬紅葉海の十六夜照りに 昭和48年 近世俳壇の第一人者・水原
たもと付近
30分「大長港」下車 けり
5月
秋桜子は,愛弟子で「馬酔
徒歩15分
木」の同人でもあった豊町
又はレンタサイク
のの俳人秋光泉児に招か
ル7分
れ,幾度となく豊町を訪れ
ている。
句碑にある俳句は豊町で
詠まれたもの。
- 56 -
呉
市町名
名
称
所 在 地
交
通
碑 銘 ・ 碑 文
市 芭 蕉 の たそ誰 がれ彼つか塚 豊町御手洗満舟 広駅からバス1時間 海くれて鴨のこゑほのか
30分「大長港」下車 に白し
寺境内
徒歩10分
又はレンタサイク
ル5分
野 口 雨 情 歌 碑 広警察署
広駅からバス1時間 来いといふなら観音崎の
豊警察官駐在所 30分「大長港」下車 汐は荒くも越してゆく
横
徒歩10分
又はレンタサイク
ル5分
町 田 嘉 章 歌 碑 豊町御手洗恵美
須神社横
竹 原 市 頼 山 陽 詩 碑 本町三丁目頼旧
宅庭
頼 山 陽 詩 碑 本町一丁目賴山
陽銅像台座
道 工 彦 文 句 碑 本町三丁目西方
寺境内
山 頭 火 句 碑 新庄町
三 原 市 高 楠 順 次 郎 歌 碑 八幡町
万 葉 歌 碑 糸崎町糸碕神社
内
梁 川 星 巌 碑 糸崎町糸碕神社
内
山 頭 火 句 碑 高坂町許山佛通
寺
武者小路実篤歌碑 東町 松寿寺
岸 本 水 府 川 柳 碑 東町 松寿寺
杏 花 園 歌 碑 本町 妙正寺
建立年代
そ の 他
寛政5年 芭蕉の百回忌の年に町内
(1793) の俳人たちが建立したも
10月
の
平成9年 童謡・民謡の普及のため全
6月
国を行脚していた野口雨
情は,昭和11年8月に御手
洗を訪れ,御手洗の情景を
折り込んだ「御手洗節」を
作詞した。そして,同伴し
ていた呉市出身の作曲家
藤井清水がその詞に節を
つけた。
広駅からバス1時間 御手洗港は居続けどころ 平成9年 民謡研究科の町田嘉章が
30分「大長港」下車 そして神輿の据えどころ 6月
御手洗を訪れたとき作詞
徒歩10分
したもの。
又はレンタサイク
ル5分
竹原駅から徒歩15 吾家昔日読書山紫翠依然 昭和8年
分
窓几間愧使京塵染鬚面帰 12月
来却対旧孱顔
竹原駅から徒歩10 上朝日山去手欲摩蒼穹 昭和55年
山路宜葡匐恐衝廣寒宮
分
竹原駅から徒歩12 月にうき雲はたえまも有 昭和36年
分
明のかすみ吹きとけ峰の 2月
春かぜ
国道2号線新庄交 かたまって曼珠沙華の 平成17年
差点
いよいよ赤く
9月
三原駅からバス八 あさな夕なに
昭和45年 三原市八幡町出身
幡行き「沖田橋」 仰ぎても見む
11月
文化勲章受賞
下車,徒歩30分 里の子ら 他山にほこれ
(昭和19年)
このいしふみを
三原駅からバスで 還るさに妹に見せむにわ 昭和48年
10分「糸碕神社前」 たつみの沖つ白玉拾いて 7月
下車
行かな
三原駅からバスで 詩酒還成半日遊
江戸末期
10分「糸碕神社前」 此生随処送悠々
下車
他年夢裡求陳跡
細雨春帆雙鷺洲
三原駅からバスで あけはなつや
40分
満山のみどり
三原駅から徒歩10 私は松である
分
雨がふっても
風がふいても
松である一本の松である
松である間松である事に
誇りを感じて最も松らし
く生きようと思う私は
松である
三原駅から徒歩10 仕込み桶
分
三原よいとこ冷でよし
三原駅から徒歩10 海山も
大田南畝 作
分
小春の空の
大田南畝は江戸時代後期
色添えて
の文人・狂歌師。唐衣橘洲
たへなるのりの
と朱楽菅江とともに狂歌
花ふる里
三大家といわれている。
- 57 -
市町名
名
称
所 在 地
交
通
碑 銘 ・ 碑 文
三 原 市 武 内 俊 子 歌 碑 宮浦1丁目
三原駅からバス福 かもめの水兵さん
(かもめの水兵さ
宮浦公園 祉大学行き「宮浦公 ならんだ水兵さん
ん
)
園入口」下車
白いぼうし
白いシャツ
白いふく
波にちゃっぷ
ちゃっぷ
うかんでる・・・
武 内 俊 子 歌 碑 宮浦1丁目
三原駅からバス福 リンゴのひとりごと わ
(リンゴのひとり
宮浦公園 祉大学行き「宮浦公 たしはまっかなリンゴで
ご と )
園入口」下車
す お国は寒い 北の国
リンゴ畑で 晴れた日に
箱につめられ 汽車ポッ
ポ リンゴ リンゴ リ
ンゴ リンゴ かわいい
ひとりごと 作詞 武内
俊子
尾 道 市 徳 富 蘇 峰 の 碑 千光寺公園内 新尾道駅からバス 海色山光信に美なるかな
10分もしくは尾道 更に懐う頼子の出群の才
駅からバス3分さ を淋漓たる大筆精忠の気
らにロープウェイ 維新の偉業を振起して来
3分
たる
正 岡 子 規 句 碑 千光寺公園内
〃
のどかさや小山つづきに
塔二つ
物 外 句 碑 千光寺公園内
〃
あれは伊豫こちらは備後
春の風
十 返 舎 一 九 の 碑 千光寺公園内
〃
日のかげは青海原を照しつ
つ 光る孔雀の尾の道の沖
金 田 一 京 助 の 碑 千光寺公園内
〃
かげとものをのみちのや
どのこよなきにたびのつ
かれをわすれていこへり
志 賀 直 哉 碑 千光寺公園内
林 芙 美 子 碑 千光寺公園内
林 芙 美 子 碑 東久保町東高校
内
厳 谷 小 波 句 碑 千光寺公園内
山 口 玄 洞 碑 千光寺公園内
柳 原 白 蓮 碑 千光寺公園内
河 東 碧 梧 桐 句 碑 千光寺公園内
六時になると上の千光寺
で刻の鐘をつく。ごーんと
なると直ぐゴーンと反響
が一つ,又一つ…頭を見せ
ている百貫島の燈台が光
り出す………
(暗夜行路より)
〃
海が見えた。海が見える。
五年振りに見る尾道の海
はなつかしい……………
(放浪記より)
新尾道駅からバス 巷に来れば憩ひあり人間
15分もしくは尾道 みな吾を慰めて煩脳滅除
駅 か ら バ ス 10分 を歌ふなり
「防地口」下車
新尾道駅からバス 大屋根はみな寺にして風
10分もしくは尾道 薫る
駅からバス3分さ
らにロープウェイ
3分
〃
明徳を明らかにす
〃
ちち母の声かときこゆ瀬
戸海にみ寺の鐘のなりひ
びくとき
〃
痙紅の碑あるあり四山眠
れるに
そ の 他
建立年代
昭和53年 作詞の武内俊子は三原市
10月
浄念寺の生まれで,童謡童
話作家として活躍
平成19
年9月吉
日
昭和40年
5月
昭和40年
5月
昭和40年
5月
昭和40年
5月
昭和40年 昭和30年尾道に来遊の際
5月
の作品である。
〃
- 58 -
この碑は小林和作画伯が
特に筆をとられたもので
ある。
昭和40年
昭和40年
昭和40年
昭和40年 正岡子規門下の二俊秀と
いわれた人。
市町名
名
称
所 在 地
尾 道 市 中 村 憲 吉 碑 千光寺公園内
吉 井 勇 碑 千光寺公園内
小 杉 放 庵 碑 千光寺公園内
菅 茶 山 碑 千光寺公園内
陣 幕 久 五 郎 碑 千光寺公園内
頼 山 陽 碑 千光寺公園内
前 田 曙 山 碑 千光寺公園内
江 見 水 蔭 碑 千光寺公園内
緒 方 洪 庵 碑 千光寺公園内
山 口 誓 子 碑 千光寺公園内
俚
謡
碑 千光寺公園内
古
歌
碑 千光寺公園内
倉 田 百 三 碑 文学公園内
村 上 元 三 碑 中庄町史料館前
交
〃
通
碑 銘 ・ 碑 文
千光寺に夜もすがらなる
時の鐘耳にまぢかく寝ね
がてにける
〃
千光寺の御堂へのぼる石
段はわが旅よりも長かり
しかな
新尾道駅からバス 岩のまに古きほとけのす
10分もしくは尾道 みたまふ千光寺山かすみ
駅からバス3分さ たりける
らにロープウェイ
3分
〃
鳴椰漸く遠く
夕陽沈む水波……
始めて恬にして
〃
うけながら風の押す手を
柳かな
〃
盤石坐す可く松拠る可し松翠
欠くる処海光露わる……
〃
浜焼きをむしりつつ春惜
しむな里
〃
覚えきれぬ島々の名や夏
がすみ
〃
軒しげくたてる家居よあ
しびきの山のおのみち道
せまきまで
〃
寒暁に鳴る指弾せしかの
鐘か
〃
音に名高い千光寺の鐘は
一里聞えて二里ひびく
〃
ぬばたまの夜は明ぬら玉
の浦にあさりする鶴
鳴き渡るなり
尾道駅から徒歩10 香り高い柑橘類,
分
燃えるような丹椿
土生港からバスで みなみ吹く村上水軍ぞあ
大浜行15分
の歌は
建立年代
昭和40年
そ
の
他
昭和40年
昭和40年
昭和40年
昭和40年
昭和40年
昭和40年
昭和40年
昭和40年
昭和40年
昭和40年
昭和40年
昭和61年
昭和44年 13世紀頃海上武士団とし
て因島に本拠を置き活躍
した村上水軍をしのんだ
もの
つれしおの石ぶみ 因 島 公 園 内 土生港から車5分 きぬぎぬやかすむ迄見る 昭和56年 因島公園内,鯖大師の裏
妹が家 (小林一茶)
手から,天狗山頂上に伸
短夜やうそと知りつつ
びる文学の遊歩道。入口
聞く話 (川口松太郎)
には村上水軍ゆかりの倭
一眼あり海上王国
寇船の大きな石碑がある。
(司馬遼太郎)
ひろくひろく
心もっとひろく
(高田好胤)
等19碑
瀬 戸 の う た み ち 高見山公園展望 尾道大橋より車で 郭公 ほととぎす高見青 昭和54年
台南側から立花 20分
蔭なきわかれうたしま人
の麓まで約1㎞
のききあかんまで
(千種有功)
しづけしや春を三島の帆
かけ舟 (小林一茶)
いにしへの海賊島の夜の
灯を遠く眺めてなつかし
み居り (吉井 勇)
歌の島軒の下にはおとづ
れてふねにはのりの声ぞ
きこゆる (今川貞世)
等22碑
福 山 市 大 伴 旅 人 歌 碑 鞆町道越
福山駅からバス30 わぎもこが見し鞆の浦の 昭和39年 通称むろの木歌碑
分
むろの木は常世にあれど
見し人ぞなき
- 59 -
市町名
名
称
所 在 地
交
通
碑 銘 ・ 碑 文 建立年代
福 山 市 木 下 夕 爾 句 碑 御幸町上岩成 福塩線「万能倉駅」 家々や菜の花いろの燈を 昭和41年
から徒歩5分
ともし
そ
の
他
木 下 夕 爾 句 碑 沼隈町中山南横 福山駅からバス横 入日いま大きく赤し山つ 昭和37年
倉福泉坊境内 倉行終点下車,徒 つじ
歩10分
山 本 瀧 之 助 句 碑 沼隈町大字常石 福山駅からバスで 退一歩而待人 進一歩以 平成3年 山本瀧之助=沼隈町出身
福山地区消防組 「役場西」下車 当事
の社会教育家で,教師生活
3月
合,沼隈内海出
のかたわら青年修養の重
張所横
要性と青年会の結成を呼
びかけた。その足跡は全国
に及び「青年の父」といわ
れるとともに『田舎青年』
『一日一善』など多数の著
作がある。
菅 茶 山 七 言 絶 句 沼隈町大字常石 福山駅から鞆鉄バ 荒山何處舊行宮嶋寺沙村 平成3年 菅茶山(1748~1827)
「 梔 子 湾 」 敷石内海大橋の スで「敷名」バス 煙靄中一去龍丹春幾度紫 3月
福山藩の朱子学者であり
下
停下車(乗り継ぎ 藤花落暮湾風
漢詩人。神辺町の出身。
必要)
梔子湾 茶山
千 年 藤 の 歌 沼隈町大字常石 福山駅から鞆鉄バ 千年編ん君可よ者ひ二藤 平成4年
敷石
スで「敷名」バス な三の松の盈多耳も可ヽ 3月
(内海大橋手前 停下車(乗り継ぎ りぬる可那研山可く
駐車場内) 必要)
福
[
広
日
世
よ
花と み
にた島年名 [
し
可
か 藤 千 [
山
書
島
展
う
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岡
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を
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に
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平
名 松 季 松 千 た し 詣 藤 藤 友 美 柳 研けん ] ぬ 三
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くこの一の家の
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と け納だ へ時いでり○語語] 十山身
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ばこ差がも 君 い。藪高あ
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れのし歌か が る上名倉り巻
展
審
、故上をか よ 藤皇の上ま四
査
広事げ作り は のは沖皇すに
員
。
く
、 一 、
知にまりぬ ひ 花藪に行。沼
らよし、る に を名停が治隈
れりた藤か 藤 賞の泊、承町
る後。のな な 賛浜し厳四藪
宮 城 道 雄 随 筆 沼隈町大字能登 福山駅から鞆鉄バ
平成5年
原阿伏兎
スで「阿伏兎口」
3月
(阿伏兎駐車内) 下車15分。
平
成
五
年
三
月
沼
隈
町
感
覚
で
あ
ら
わ
さ
れ
て
い
ま
す
。
様
に
参
っ
た
一
節
が
、
独
特
の
鋭
い
- 60 -
へ
舟
で
渡
る
途
中
、
阿
伏
兎
の
観
音
書
か
れ
、
そ
の
中
に
は
、
尾
道
か
ら
鞆
で
始
め
て
鞆
に
帰
っ
た
時
の
こ
と
が
深
い
故
郷
の
日
」
と
し
て
、
演
奏
旅
行
る
随
筆
『
鞆
の
津
』
に
は
、
「
思
い
出
鞆
で
あ
っ
た
」
の
書
き
だ
し
で
始
ま
「
私
の
家
は
先
祖
か
ら
広
島
県
の
発
揮
し
ま
し
た
。
は
、
随
筆
家
と
し
て
も
そ
の
才
能
を
城
道
雄
(
一
八
九
四
~
一
九
五
六
)
と
し
て
も
大
き
な
功
績
を
残
し
た
宮
り
、
筝
曲
家
と
し
て
、
ま
た
、
教
育
者
名
曲
『
春
の
海
』
の
作
曲
者
で
あ
宮
城
道
雄
と
阿
伏
兎
観
音
市町名
名
称
所 在 地
交
通
碑 銘 ・ 碑 文 建立年代
そ の 他
福 山 市 厳 島 参 詣 膝 栗 毛 沼隈町大字能 福山駅から鞆鉄バ 絵と文からなる。
平成6年
(次の通り)
十 返 舎 一 九 作 登原阿伏兎
スで「阿伏兎口」
3月
(阿伏兎観音側 下車15分。
駐車場内)
古
るバりる―
光
朱
感
十 出
者 へ り 尓 山
親
私
聞
下
登り 観
さ
足
傾
び
返
典
明 石い 者 り 。 。 の
ぐ
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じ
の
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の
音
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い
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し
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の 垣が か て 見 常じ 尾
の
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『
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観
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詰
の
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り
阿
き
お
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と
ょ
て
感
さ ハ り 。 お 夜う 崎
一 厳
手
が
悲
音
て
か
める 様
の
廊
宮
い
岸庭尓伏
も
や ざき に 。 の よ 海 兎ぶ
み
春 さ 尓 目め ろ
じ
摺
ら
九 島
と
様
来
ら
楼
下
城
た
か
と
の 海か 尓 弥
い
も
阿あ な
た
作 参
や
い
の
た
微
と
の
で
が
道
い
う
り
潮
せ
て
い
燈
と 底て こ 二
くる
い
伏ぶ が
が
ぎ
詣
外
う
慈
か
段
あ
少
雄
呟
う い
へ
廊
山
バ
ろ
ざ
籠
ろ
め
兎と ら
ぼ
へ
よ
悲
な
々
っ
し
随
う 尓 ゝ 郎 尓 下う 盤んば ふ
き 。
か
尓
「
膝栗 観
出
う
や 波
を
た し
筆 海
く
んと
北
。 白し あ の
わ
観
臺
の
だ
参
さ
鞆
な
て
音んお 蜂はち
な
の
の
足あし ろ り ぞ
い
ん八
ん の
の
毛』
ど
も
音
方
の 浪なみ 。 ミ 詣けい ハ 音 磴いし 寺じ こ
巣酢 骨ほね 足あし 観く た し 乗の の 道だん と ろ
津
を の
が
へ
尓
」
見
を
も 元もと わん
り 堂 を い 尓に
音
あ
合
る
尓
も
よ
いの の ふ
似尓 か
涌わき 堂おんどう う る
り
尓 の た 本 寺 い
ゆ
て
起かよへ。人て連あた
葛 原 し げ る 先 生 八尋
福塩線・井原線 ぎんぎんぎらぎら
昭和39年 童謡作歌の葛原しげるは
童 謡 碑
3月
作詞家生活45年の間に全
「神辺駅」から車15 夕日がしずむ
分
国の学校約400校の校歌
井原線「御領駅」
を作詞した。
から徒歩20分
木 下 夕 爾 句 碑 丸之内
福山駅から徒歩8 遠雷やはづして光る
平成10年
(ふくやま
分
耳かざり
11月に現
文学館敷地内)
在の地に
移設
か
い
が
ん
そ
の
に
ハ
こ
こ
く
わ
ん
お
ん
て
ら
井 伏 鱒 二 文 学 碑 加茂町粟根四川 福山駅からバス
公園
65分
平成7年
井 伏 鱒 二 文 学 碑 加茂町粟根四川
公園
平成15年
三 次 市 中 村 憲 吉 の 歌 碑 南畑敷町三次高
校内
三次町尾関山公
園山頂
三次町鳳源寺境
内
倉 田 百 三 南畑敷町三次高
校内
中 村 憲 吉 歌 碑 布野町上布野
岡部台
中 村 憲 吉 歌 碑 布野町戸河内真
光寺境内
中 村 憲 吉 歌 碑 布野町下布野
入会林内
このさかづきを
うけてくれ
どうぞなみなみ
つがしておくれ
はなにあらしのたとへも
あるぞ
さよならだけが人生だ
勧君金屈巵満酌不須辞
花発多風雨人生足別離
井伏鱒二
福山駅からバス のきばの月をみるにつけ
65分
ざいしよのことが
気にかかる
挙頭望山月低頭思故郷
井伏鱒二
三次駅からバス5 少年のわれ山河に親しみて
分
此処に学べり二十年まへは
三江線「尾関山駅」 この山の桜にむかひ
から徒歩10分
流れくる
河ひろくして水のひかれる
三江線「尾関山駅」 古りのこる枝垂桜や血統は
から徒歩10分
やく絶えし国守の菩堤寺の
庭憲吉
三次駅からバス5 青春は短い宝石の如くにし
分
てそれを惜しめ
三次駅から備北交 満月は暮るる空より
通バスで25分
須臾に出でて
向ひの山を照りて明るし
三次駅から備北交 山こえて雨に来れる
通バスで「下布野」 檀那でら
下車,徒歩15分 昔の塀の百日紅のはな
三次駅から備北交 造林の山を廣けみ
通バスで「下布野」 日照りつか
下車
天のしぐれの降りす
ぐるみゆ
- 61 -
昭和28年 三次高校(旧三次中学)
は母校
昭和54年
平成11年
昭和30年 三次高校(旧制三次中学)
は母校
昭和19年 中村憲吉は布野町の出身
昭和45年
昭和43年 下布野生産森林組合が入
会林整備を記念し建立
市町名
名
称
所 在 地
交
通
碑 銘 ・ 碑 文
庄 原 市 倉 田 百 三 文 学 碑 東本町二丁目上 備後庄原駅下車, 「森の沼」藍色の水の面に
野公園
徒歩10分
銀色の跡を劃してかいつぶ
りの真一文字に泳ぐを見よ
……
百三
西本町二丁目倉 備後庄原駅下車, 青春は短い宝石の如くにし
てそれを惜しめ
田百三ひろば 徒歩15分
百三
文
塚 稲
草 備後庄原駅からバ 「文塚」近くに芭蕉の句碑
ス20分「上市」下車 「山里は萬歳おそし梅の
花」もあり
徳富蘇峰翁筆碑石 比 婆 山 芸備線「西城駅」 神聖之宿処
(県民の森) 下車
(バス)
尺田線(1時間)
(車)
県民の森(30分)
徒歩2~3時間
若山牧水歌碑 福
代 芸備線「東城駅」 幾山河こえさりゆかば
からバス10分
さびしさのはてなむ国ぞ
けふも旅ゆく
大 竹 市 詩 の 坂 道 小 方 2 丁 目 山陽道大竹ICか ある時は笑顔で登り
ら車で3分
ある時は涙で下り
生きて来た遠い坂道
歳月の旅に咲かそう
かずかずの詩の花びら
石本美由起
東 広 島 市 島 津 鼎 歌 碑 豊栄町安宿善性 西条駅からバス40 春雷の鳴りはためきて
寺
分
通り雨
寒むく降りすぐ山から山に
万 葉 の 歌 碑 風
早 呉線「風早駅」か 「わが故に妹なげくらし風
ら徒歩20分
早の浦の沖辺に霧たなびけ
り」
「沖つ風いたく吹きせば吾
妹子がなげきの霧にあかま
しものを」
万 葉 陶 壁 安芸津町風早 呉線「風早駅」か 万葉歌碑の歌をイメージ
祝詞山八幡神社 ら徒歩20分
した高さ3.6 横5.4 の陶
内
壁。
廿 日 市 市 大 田 洋 子 の 碑 廿日市市玖島 広島電鉄佐伯線玖 「近くの小学校から帰って
廿日市市立玖島 島行き,「玖島」バ きた小さな少女の一群が…
小学校庭内
ス停より5分
…」(屍の街より)
エ ド マ ン ド ・ 廿日市市宮島町 山陽本線「宮島口 「WiLLiam CoLLins,
ブ ラ ン デ ン の 碑 平松公園
駅」から船で10分 the English poet,
宮島桟橋から徒歩 died in 1759……」
15分
建立年代
そ の
昭和32年 自筆
庄原市出身
他
昭和60年
江戸末期 江戸末期の郷土の俳人
越智古声と京都の俳人と
の書簡塚
昭和15年 自筆
門梅の傍に「神聖之宿処
と刻んだ碑石が建ち,神
々しさがただよっている
昭和39年 妻,長男の歌碑もある。
近くに備中備後国境碑が
ある。
昭和62年 作詞家 故石本美由起氏
の作詞家生活40年を記念
して亀居公園に作られた
「柿の木坂の家」「ああ征
長隊など7つの歌碑と記
念碑で結ばれた遊歩道
昭和38年 地方歌人島津鼎の作歌生
活40年を記念して同好の
グループが建てたもの
昭和47年
平成2年
10月
昭和53年
8月6日
昭和50年 (福田陸太郎訳)
〔英国の詩人ウイリアム
・コリンズは1759年に死
んだ。この詩は彼の有名
な「夕べに寄せる歌」を
模して書いた。〕
安 芸 高 田 市 種 田 山 頭 火 句 碑 八千代町向山 広島バスセンター 「へうへうとして 水を 平成8年
潜龍峡ふれあい からバス60分。
味ふ」
6月
の里「里豊夢」内 「根の谷」停留所
下車,徒歩5分
中 村 憲 吉 歌 碑 八千代町向山 広島バスセンター 「なづみのぼる上根のさか 平成8年
潜龍峡ふれあい からバス60分。 のつづらおりくるまにさや 6月
の里「里豊夢」内 「根の谷」停留所 る木の葉は折らず」
下車,徒歩5分
和 泉 式 部 歌 碑 美土里町横田 中国道高田ICか はるばると 聞きに北野の 昭和60年 平安の女流歌人「和泉式
ほととぎす遊園 ら車で10分
ほととぎす
部」が石見の国への旅の
ただ一声を 国のみやげに
途中この地で休息したと
き,聞こえてきた時鳥の
声に感動して,この歌を
詠んだと伝えられている。
- 62 -
市町名
名
称
所 在 地
交
通
碑 銘 ・ 碑 文 建立年代
江 田 島 市 鈴木三重吉文学碑 中
町 高速艇25分,中町港 親のそばでは泣くにも泣け
下船徒歩5分
ぬ沖の小島へ行って泣く
山 県 郡 鈴木三重吉文学碑 吉 水 園 前 加計市街から
徒歩5分
安芸太田町
広島バスセンター
から1時間30分
「加計」下車,徒
歩5分
山 口 誓 子 碑 吉 水 園 前 加計市街から
徒歩5分
広島バスセンター
から1時間30分
「加計」下車,徒
歩5分
鳴呼非命29人碑 松
原 中国自動車道
戸河内ICから車
で30分
豊 田 郡 松 野 自 得 翁 碑 天 満 港 竹原港より高速艇
大崎上島町
20分,天満港
種 田 山 頭 火 句 碑 正光坊境内
竹原港より船で30
分,白水港から徒
歩5分
水 原 秋 桜 子 句 碑 白水・福祉センタ
ー海側
神 石 郡 豊 田 清 史 の 歌 碑 帝釈峡神龍湖畔
神石高原町
(ホテル紅葉館
前)
井 伏 鱒 二 文 学 碑 神石高原町小畠
「 黒 い 雨 」 (つつじが丘公
園内)
城下見にゆこ十三里炭積ん
で行こ十三里と小唄に謡ふ
といふ十三里を城下の泊り
からとぼとぼ三里は雨にぬ
れて来た。
三重吉
(下に小宮豊隆の
解説文あり)
藻の畳もりあをがえる落ち
てよし
そ
の
他
昭和32年
9月
昭和63年
6月
明治2年 碑文の作者は浅野藩家老
(1765) 上田家の儒学者福山貞儀
人の一生,いつも木の芽の 昭和47年
2月
ふくように
「こんなにうまい水があふ 平成13年
れている」
「ほろほろ酔うて木の葉ふ
る」等3碑
竹原港より船で30 「密柑島めぐる潮の瀬激ち 平成19年
分,白水港
合ふ」
フェリー着場横
芸備線「東城駅」 「幽谷は蛟竜を生む幼より 昭和62年
よりバス20分
蒼き湖面の迫りくる見 4月
つ」
福山駅より中国バ 文学碑
平成4年 旧三和町に生まれ育った
ス西廻り油木行で 戦争はいやだ
10月
重松静馬さんの被爆日記
「小畠局前」下車, 勝敗はどちらでもいい
や,体験談をもとにえがか
徒歩5分
早く済みさえすればいい
れた井伏鱒二の代表作
いわゆる正義の戦争より
も
不正義の平和の方がいい
(3) 瀬戸内水軍関係観光資源
① 水軍関係遺跡
「鳴呼非命29人碑」
名
称
市町名
概
要
(所 在 地)
広 島 市 仁
保
城 広島市南東部にある黄金山は,かつては海に浮かぶ島で,広島港のほぼ全域を見渡せる海上交通の要
( 南 区 黄 金 山 町 ) 衝であった。室町時代この島の最高部に仁保城がありかつて郭・石垣が残存していたが,テレビ送信
所建設に伴い現在はほとんど原形をとどめていない。城跡の北麓本浦町にある観音堂は毛利氏家臣,
仁保城主三浦兵庫頭元忠の菩提寺。
小 茶 臼 山 城 広島市の西郊丘陵上にあり旧山陽道をおさえ,広島湾西部及び太田川河口を扼する地にあった郭は本
( 西 区 己 斐 上 町 ) 丸を中心に数段をよく残している。
草
津
城 広島市の西郊に位置し中世から近世にかけて,海運の拠点として,重要な位置をしめていた。
(西 区 草 津 町) 山陽・宮島両線にはさまれた標高20mの小丸とよばれる望楼の役目をもった郭は,よく原形を保って
いる。
保
木
城 広島湾の東岸の標高420mの険阻な山頂に本城をかまえ,南北に細く連なる形の城で,東西は急傾斜を
( 安 芸 区 矢 野 町 ) なしており,各々数段の郭・石垣を残している。
呉
市 竜 王 山 城 休山の東尾根標高50mの丘に築かれた単郭の城。呉衆と称される海賊衆の一人,桧垣肥前の居城。
(阿賀中央8丁目)
堀
城 広島湾の東岸吉浦湾に位置した城で,矢野保木城に拠点をおく野間氏の城塞網の一つ。城は茶臼山の
(吉 浦 松 葉 町) 尾根が湾に突出した部分を利用し,現在は住宅地に囲まれ方形の郭2段を残すのみ。
周辺は住宅化がすすみ,城跡から出土した木像,土器,宋銭が城とのかかわりを示すのみ。
- 63 -
呉
市町名
竹 原
三 原
尾 道
福 山
名 称(所 在 地)
概
要
市 丸
屋
城 瀬戸内海交通の要跡下蒲刈島三ノ瀬の北。天神鼻に連なる標高40m余の小丘上にある。城の北は,中
(下 島 字 丸 谷) 世には深い入江で軍船の停泊地であったと思える。郭はみかん畑となり旧状を知ることは難しいが,
丘頂部を中心に数段の郭と思える段が残る。
土
居
城 大崎下島の東にある大長地区を取り囲む南の丘陵にあり,標高130m余の屋根上からは,本土の安芸津
( 豊 町 大 長 ) 周辺,四国の高縄半島がのぞめ,水上交通の要地であったことを窺わせるが,城跡はかなり前から畑
地化され,かつての面影は残っていない。
城 の 岸 城 御手洗港の背後にある小丘上にある。芸藩通志によると四国の役の際加藤清正が築いたと伝えられる
( 豊 町 御 手 洗 ) が,城跡は畑地化され,かつての状況は分からない。
市 的 場 山 城 竹原港の入口,標高53mの岬を利用し,郭5段を比較的よく残す。現在公園地として整備されている。
(竹 原 町)
鎮 海 山 城 現在は市街地につき出した小丘上にあるが,かつては深い湾につき出た岬にあった。郭は標高約90m
(竹 原 町) の本丸を中心に残るが崩壊し明確でない。城の西麓に城主村上元吉の墓がある。城の西北に小早川隆
景が建立した長生寺があり河野通直の墓と位牌,元吉の位牌を蔵す。
賀
儀
城 沼田小早川氏の一族は海へその活路を求めたものが多く,その一つ浦氏の城で,交通上の要地にある
(忠 海 町) 海上につき出した標高25mの小丘上にある。城の北方勝運寺に浦宗勝の画像及び墓等城主浦氏ゆかり
の物を蔵す。城跡の西は深い湾となり船溜であったと思われる。
木 村 城 跡 新庄町城ノ本にあり,北方に突出した半島状の標高150mの丘陵にある。竹原小早川家の本拠城。
(新庄町城ノ本)
市 上
野
城 沼田小早川氏の庶流小泉氏平が築いたといわれる。沼田川支流天井川北岸の小丘に,高さ15m東西30
(小 泉 町) m,南北26mほどの広さの土居形式の城で東端には,土塁跡と思われる遺構があり,北隅には,高さ
1.5 mの高台がある。
丸
山
城 能地の谷奥をふさぐ位置にある標高135 mの丘上に築かれ5段の郭が一列に並ぶ。浦善行の築城。
(幸 崎 町)
三
原
城 海城で大島におかれた本丸を中心に,西に二の丸,東に三の丸と郭は東西に連なっていた。船入り設
(館
町 ) 備,造船設備等海城としての特色を持ち,海賊城として出発し,三原城と称するに及び洗練した城に
造りかえたと思われる。
稲 村 山 城 現在城跡は,二段の郭を残すのみ。城主であった田坂氏の庇護を代々受けたといわれる城麓の善根寺
(小 坂 町) には,平安期の仏像群が残っている。
市 鷲 尾 山 城 跡 建武3年(1336年),足利尊氏に従い九州の戦いで戦功を立てた杉原氏が築いた山城で,標高320mの
( 木 ノ 庄 町 ) 険しい山を利用した城である。城跡はよく保存されている。
青
陰
城 因島のほぼ中央標高275.7 mの青影山頂にあり眺望のきく場所に位置する。城は海賊城でなく戦国山
( 因 島 田 熊 町 , 城で長崎,青木,余崎などの連絡場所で,のち因島村上氏が戦国大名の性格を持つと本城の役割を果
因 島 中 庄 町 ) すようになった。
青
木
城 城は現在の重井東港にのぞむ50.6mの小丘陵上にあり,比較的旧状をよく保つ郭が5段連なり武者走
( 因 島 重 井 町 ) りも残る。城の本丸と思える丘頂部に水軍の城らしく竜王社を祭り,城の西南に鬼門鎮守として八幡
社を祭っている。
長
崎
城 因島の南部,かつて海中の一小島であり,現在城山は日立造船内にあり本丸と思われる跡は旧状をと
( 因 島 土 生 町 ) どめず。本丸から南西に3段の郭がのび船隠しにつながる。北上する村上氏が因島に構えた最初の拠
点かと思われる。
美 可 崎 城 三庄湾の南の岬にあり鞆,尾道に出入りする船舶を望見できる。郭は56.7mの岬の最高所を中心に南
( 因 島 三 庄 町 ) 北へ二段の削平地,南東へ帯郭がのびている。岬の南にある入江は船隠しと言われ,この城は燧灘を
行く船舶から帆別銭,駄別銭等の通行税を徴収する役目を負っていた。
千
守
城 三庄湾の最奥部標高79.2mの丘にあり郭は広い削平地の本丸を中心に円状に4段築かれ,その北西に
( 因 島 三 庄 町 ) 出丸が構えられ,本丸には石垣,井戸等が現存し城跡全体も旧状をよく保っている。城麓に公文明神
があり,その西方に妙法寺跡と伝える場所がある。
俵
崎
城 向上寺の建つ丘に相対する南側の丘陵先端部にあり,かつては海中につき出た岬,現在の瀬戸田の町
(瀬戸田町鹿田原) 並は潮入り地で,中世に活躍した生口船,生口水軍の船溜と思える。城は40m余の丘陵を中心に北へ
1段,東へ郭3段を連ね南へ帯郭を配す。
茶 臼 山 城 生口島の中央標高187 mに築かれた生口景守の城。海浜の俵崎城の本城又は見張所的役割を果す。
(瀬戸田町中野)
岡 島 城 跡 尾道水道が狭くなる向島の西北,かつての小島に城跡があり,海抜26.4mの最高所を中心に数段の郭
( 向 島 町 小 歌 島 ) 城がある。瀬戸内交通の要港尾道を望む向島を得た因島村上氏は,商業資本家的性格をのばす好機と
して余崎城と共に築き,村上尚吉,吉充父子が居城した。
余 崎 城 跡 向島の南につき出た標高56mの観音崎に築かれた海賊城。因島の幸崎城と共に布刈瀬戸をおさえ備後
( 向 島 町 立 花 ) の海上交通の要地で,石垣はほぼ完存し,郭等もよく旧状を保つ。城の東の深い湾は船隠しと言われ
城の南側には岩をえぐり東西の湾を結ぶ水路様のものがある。
市 手 城 山 城 福山市の東南,標高13m余のかつて島であった丘にあり,郭の過半は壊されたが丘の南には郭が比較
(東 手 城 町) 的よく残る。現在は,天当神社が境内の中にある。
大 可 島 城 鞆港の東に突出した標高10m余の小さな陸繋島にあり,現在は真言宗円福寺の境内。円福寺本堂をと
(鞆
町 ) りまく一段低い各平坦地は当時の郭の名残り。備後服部の豪族桑原一族の墓と伝える五輪塔数基が円
福寺本堂前の一段低くなった所にある。
- 64 -
市町名
名 称(所 在 地)
概
要
福 山 市 鞆
城 鞆町のほぼ真中,標高24.5mの小丘上にある。村上水軍が城を築いたと考えられており,足利義昭を
(鞆
町 ) 鞆に迎えた時には城が存在していたと考えられる。中心部はほぼ旧状に近い状態で残り石垣も当時の
ままと思われる。三の丸や他の郭は宅地化が進み旧状不詳。
現在は,城跡に鞆の浦歴史民俗資料館がある。
天 神 山 城 跡 横島と田島の間,坊地瀬戸に突出する田島側の標高25mの岬にある。丘から眺めると横島の北側の海,
(田
島 ) 百島の東の海,口無しの瀬戸を一望でき,尾道と鞆の航路を監視していた所と伝えられている。
草 深 城 跡 沼隈半島の南端,草深の東標高30mの南北に長い小丘上にあり,現在は寄の宮八幡宮が勧請されてい
( 沼 隈 町 草 深 ) る。
大 竹 市 亀
居
城 福島正則により築城されたこの城は,地形が亀の伏した形に似ていたので亀居城と称されたが完成ま
(小
方 ) もなく幕府の圧力で破却された。現在は石垣のみ修復されている。
城 瀬戸内海沿岸航路の要港,三津・風早などの泊のあった地に築かれ,現在は畑地化しているが,郭は
東広島市 東
( 安 芸 津 町 風 早 ) 標高40m余の微高地を中心に南北4段を配す。風早の観音寺は城主林氏の菩提寺と伝えられ,林氏ゆ
かりの五輪塔数基を残す。
廿 日 市 市 桜 尾 城 跡 鎌倉時代以来の厳島神主家の居城。桜の名所であったが,昭和の桂公園の造成により,わずかに郭跡
(廿 日 市) と思われるものが認められる。城の北方にある洞雲寺には,桜尾城ゆかりの藤原興藤,桂元澄,毛利
元清,陶晴賢等の墓がある。
門 山 城 跡 山陽本線「大野浦」駅北の標高255.6 mの山頂を中心に築かれた大内氏の安芸経略のための陸の拠点。
(大
野 ) そこからは広島湾一帯が見わたせ,海の拠点の厳島と相呼応する位置にある。山頂の岩を利用し諸施
設をもうけていたと思われ,石に刻んだ階段,柱穴,水ためを残す。
宮 尾 城 趾 毛利元就が陶氏との合戦にそなえ築城したもので小丘の最高部(27.1m)に本丸,東に二の丸西北・
( 宮 島 町 ) 西南の尾根に出丸を持つ。厳島合戦の前哨戦で陶軍の攻撃にたえ毛利軍圧勝の要因を作った城。島内
にはこの合戦関係の遺跡が各所にある。
江田島市 亀
山
城 江田島湾の東,海に面し標高70mの丘に築かれ長屋門や石垣等を残す。
(鷲
部)
堀
越
城 江田島湾を北にのぞむ標高48.5mの丘にあり郭3段を残す。一部は畑地・宅地化し旧状とは異なる。
(中
町)
尾
首
城 三高港から南に深くはいった入江の標高30mの丘にあり,郭4段は旧伏に近く,当時のものと思える
(古
戸 ) 石垣10余mを残す。
安 芸 郡 日 浦 山 城 海田湾の西,標高345.9mの南北に細長い尾根に阿曽沼氏が築く,暦応元年南朝勢が武田勢に攻め陥さ
海 田 町 (海田町,広島市) れた城。
② 水軍関係石造物
所 在 地
名
称
概
要
広島市安佐南区八木 香 川 氏 関 係 五 輪 塔 八木城南麓に数基と土居の地名をもつ田圃の中に1基の五輪塔があり,香川氏ゆかりの者
の墓と伝えるが詳細不詳。
呉市下蒲刈町下島字 蒲 刈 多 賀 谷 氏 五 輪 塔 群 かつては丸屋城内にあったというが,現在は城南の丘に移されており,ほとんど五輪塔の
丸谷
残欠でそれらは型式どおり積まれていない。
呉市安浦町内海北五 西
福
寺 本尊の観世音菩薩は,鎌倉末期の作といわれ,桜の木彫一本造りで像高107 ㎝胎内に印仏
丁目
1,840 枚ほかを蔵すといわれる。雨情の詩に「姿御姿観音様は,刻む桜の御本尊」「子安
観音向うに沖の柏島さえひとながめ」とうたわれている。
呉市川尻町森
宝 積 寺 宝 篋 印 塔 残 欠 この宝篋印塔残欠は,他の五輪塔群と共に本来は宝積寺にあったものというが現在は小堂
に安置されている。川尻町内にはその他多くの五輪塔,宝篋印塔及びその残欠が散在する。
呉市豊浜町小野浦 高 橋 家 五 輪 塔 及 び 南北朝期に伊予より北上し土着したと思える高橋家の墓地にある。墓地には比較的小型の
宝 篋 印 塔 の 相 輪 五輪塔及び残欠が多数ある。
呉市豊町沖友
大 門 の 宝 篋 印 塔 大崎下島の南,沖友地区の西側の尾根に,大門寺跡と伝えられる場所にあり,伝説による
と平家の武者の墓ともいわれている。やや小型ながら彫りのよい整った形をしており,室
町時代中期に作られたと推測される。
竹原市竹原町
村 上 元 吉 宝 篋 印 塔 天正10年(1582)沖家騒動と言われる豊臣秀吉の三島村上氏切崩し策において,因島村上
氏と共に毛利氏のもとを離れなかった能島村上元吉の墓。
竹原市本町
河 野 通 直 墓 長生寺の墓地にある。河野氏57代と言われる河野通直は,天正13年(1585)豊臣秀吉の四
国の役によって伊予を追われ,竹原に身を寄せたが天正15年24才で没した。
竹原市忠海
浦 宗 勝 宝 篋 印 塔 沼田小早川氏の庶流で小早川水軍を率いていた浦宗勝の菩提寺である勝運寺にある
竹原市高崎町
薬師寺宝篋印塔・五輪塔群 高崎城の西麓にある薬師寺境内に室町中期以後のものと思える五輪塔・宝篋印塔・角塔・
石造地蔵尊等多数が千手観音を中心に数段並べられている。
尾道市百島町
百 島 村 上 高 吉 宝 篋 印 塔 福田にある百島村上氏の菩提寺西林寺に立つ。室町末期のもの。
尾道市因島中庄町 因 島 村 上 氏 宝 篋 印 塔 群 因島村上氏の菩提寺金蓮寺墓地にある。宝篋印塔18基のほか五輪塔が多数ある。因島村上
氏の一族及びその家臣の墓地群。
- 65 -
所 在 地
尾道市因島椋浦町
尾道市瀬戸田町中野
尾道市瀬戸田町福田
福山市内海町田島
大竹市小方
大竹市阿多田
東広島市安芸津町木
谷
廿日市市佐方
名
称
蒲刈小早川氏五輪塔群
生口氏五輪塔・宝篋印塔
葛西氏先祖舟形碑板
田島村上氏五輪塔・
宝 篋 印 塔
伝亀居城関係五輪塔群
日下部左善之輔五輪塔
慶寿院木谷氏五輪塔宝篋印
塔
群
陶晴賢首塚及び毛利元清・
藤原興藤・桂元澄墓
概
要
椋浦の谷にあり,かつて一の城の土居屋敷があった所と伝える。いずれも小型で室町後期
に建てられたもの。
光明寺墓地にある五輪塔4基,宝篋印塔2基で室町後半期のものと思える。
福田の広徳寺には塩田を経営した葛西氏の先祖,根羽左衛門夫妻の墓などがある。
中世に田島村上氏が居城していた天神山南麓の常楽院墓地にあり,五輪塔5基宝印塔1基
からなる。室町後期のもの。
亀居城の東南麓にあり,かつて数ケ所にあったものを現形地に移したもの。
阿多田島本浦の丘にあり伝承では日下部左善之輔という武士の墓というが詳細は不明。
慶寿院墓地にある五輪塔及び宝篋印塔の残欠20余基で,木谷氏の菩提寺慶寿院が今の地へ
移転後,寺跡に散在したままの墓石を現在地へ移したものである。
陶晴賢(全姜)の首塚は厳島合戦後その首級を得た毛利氏がこの地に葬ったと言われる。
一時期桜尾城主であった藤原興藤・毛利元清の墓は安土桃山又は江戸初期の建立と思われ
る。この時代としては大型の宝篋印塔である。桂元澄は一時桜尾城に在城し厳島合戦に活
躍した人物であるが小型の宝篋印塔で墓は著しく破損している。
(4) 古い町並み
町並みの名称
所 在 地
呉市豊町御手洗重 呉市豊町御手洗
要伝統的建造物群
保 存 地 区
町並みの特徴,見どころ
交通の便
江戸時代に開かれた風待ち,潮待ちの港町で,北前船や 広駅からバス1時間
諸大名の交易船の寄港地として栄え,18世紀前半の町家 30分「御手洗港」下
から,昭和初期の洋館まで,多種多様な建物が並んでい 車
る。
○町並の中の見どころ
若胡子屋跡(県史跡,茶屋跡),御手洗七卿落遺跡 (県
史跡),高燈籠,住吉神社(鴻池寄進),千砂子波止
(文政年間築),金子邸(御手洗条約締結の場),菅
公の井戸,満舟寺(真言宗),満舟寺の石垣(戦国時
代築),乙女座(元映画館の復元施設)
竹原地区重要伝統 竹原市竹原町,
武家屋敷を今に伝える土地は多いが,ここは商家の町並 竹原駅から徒歩15
的 建 造 物 群 本町一丁目,
みが古図通りに完全な姿で残っており,民俗学的にも重 分
保 存 地 区 三丁目,
要なものである。
広島バスセンター
四丁目の一部 本町通りに沿った建物は,二階建切妻造,本瓦茸,大壁 から竹原行バスで
造の町家で江戸中期から明治までの建築が多く残ってい 1時間20分「新港
る。
橋」下車
町家の正面の意匠は出格子や平格子などの多様な格子で
構成されている。
○町並みの中の見どころ
頼惟清旧宅(県史跡),春風館(国重文頼山陽の叔父
の家),吉井邸(本陣跡),二宮宅,松阪邸,竹鶴邸,
亀田邸,大瀬邸等。その他照蓮寺,西方寺,普明閣,
長生寺,町並み保存センター,歴史民俗資料館,まち
なみ竹工房。
中 野 集 落 尾道市瀬戸田町中野 白壁と黒い腰板で大きな門構えの屋敷があちこちに見ら 瀬戸田港から車で
れる。ほとんどは江戸時代末期から明治・大正時代に 5分
かけて建てられたものでとても風情のある家並みであ しまなみ海道生口
る。
島北IC・南IC
より車で10分
鞆 の 町 並 み 福山市鞆町
鞆の浦は,古くから「潮待ちの港」として栄えたところ 福山駅前からバス
で,古い土壁のつづく路地や情緒ある家並,昔の土蔵な 30分「鞆の浦」下
どがそのまま残っており,町の雰囲気は,京都奈良にも 車
匹敵するほど。
○町並みの中の見どころ
鞆七卿落遺跡,常夜燈,太田家住宅,対潮楼,医王寺,
安国寺,鞆の浦歴史民俗資料館,山中鹿介首塚,ささ
やき橋,沼名前神社
神 辺 の ま ち 福山市神辺町川南, 江戸時代,山陽道の宿場町として栄えた神辺の町並みに 福塩線・井原線
川北
は本陣・廉塾のほか学者や歌人の旧宅跡が残り,江戸時 「神辺駅」すぐ
代から現代に至る代表的な家屋が連なっている。
(鈴鹿秀満・小早川文吾・北條霞亭旧宅跡,神辺本陣
御茶屋屋敷跡,東本陣跡,廉塾,菅茶山旧宅)
- 66 -
摘
要
問い合せ先
潮待ち館・観光交
流センター
(0823)67-2278
又は
呉市御手洗地区
文化施設
(0823)67-2111
問い合せ先
竹原市観光協会
(0846)22-4331
問い合せ先
瀬戸田町観光案内
所
(0845)27-0051
問い合せ先
福山市文化課
(084)928-1117
問い合せ先
神辺町観光協会
(084)963-2230
町並みの名称
所 在 地
石州街道出口通り 府中市出口町
白 壁 の 町 並 み 府中市上下町上下
旧三次町,太才町 三次市三次町
栄町,本通り筋
(古街)
み よ し 物怪
で こ 街 道
も ののけ
吉 舎 の 町 並 み 三次市吉舎町
玖波卯建の町並み 大竹市玖波
町並みの特徴,見どころ
交通の便
摘
要
出口通りは石見銀山から銀を運んだと言われる銀山街道 福塩線「府中駅」 問い合せ先
府中市観光協会
の一つである。石見からの「出口」ということで出口町 から徒歩15分
(0847)43-7135
と呼ばれた。通りを歩くと古い町家の黒壁やなまこ壁,
格子戸などが銀山街道の面影を残している。
近くには触れれば何でも願いが叶うと評判の「首無地蔵」
がある。
かつて山陰・山陽を結ぶ宿場町として栄えた上下は,備 福塩線「上下駅」よ 問い合せ先
後・備中五万石を支配する代官所が置かれ,いち早く中 り徒歩1分
府中市観光協会
央の文化が伝わった歴史と文化の薫る町。
(0847)43-7135
当時を偲ばせる白壁やなまこ壁が,訪れる人々をロマン
又は上下観光案内
へと誘う。
所
○町並みの見どころ
(0847)62-3999
翁座,上下キリスト教会,旧田辺邸,上下歴史文化資
料館(旧岡田邸),旧警察署,上下代官所跡,吉井寺,
善昌寺
古くから武家商家が集まって栄えた町である。本通りと 三次駅から徒歩15 問い合せ先
三次市地域振興部
呼ばれる目抜き通りに面したところや,細い路地に入る 分,バス5分
と,格子や欄干,白壁の土蔵や,どっしりとした昔風の
観光交流課
(0824)64-0066
家々など面影を忍ぶことができる。
戦国時代の末期(1596~1615年)に築かれた石堤,旭堤
(社)三次市観光協会
(0824)63-9268
が1991年に発見され,その一部が保存されている。
足元に続く石畳と電柱電線のない景色は,まるで昔にタ
イムスリップをしたみたい。
吉舎は石見街道の宿場として栄えたが,その面影を残す 中国道三次ICから 問い合せ先
車で25分
三次市吉舎支所
町並みが吉舎町市街の各所に残っている。
福塩線「吉舎駅」 (0824)43-3112
から徒歩10分
「卯建」は独立家屋の区切りとも考えられるが,防火用 山陽本線「玖波駅」 問い合せ先
の袖壁とも言われる。この白壁は構造的な美しさを併せ から徒歩3分
大竹市教育委員会
持っている。
(0827)53-5800
酒 蔵 通 り 東広島市西条町
安芸西条は灘・伏見と並び称される銘醸地として全国的 西条駅から徒歩3 問い合せ先
に知られている。JR西条駅周辺の酒蔵通りには、いず 分
東広島市商業観光
れも国の近代産業遺産群に認定されている8つの蔵元が
課
あり、酒蔵の白壁・なまこ壁や赤レンガの煙突が建ち並
(082)420-0941
ぶ独特な景観が残っている。大名や長崎奉行その他幕府
(社)東広島市観光
高官の宿泊又は休憩のための御茶屋(本陣)跡がある。
協会
(082)420-0310
白 市 の 町 並 み 東広島市高屋町
白市は文亀3年(1503)、平賀弘保が白山に築城以来、 山陽本線「白市駅」 問い合せ先
城下町として開け、鉄道開通までは人馬の往来も多く、 から徒歩30分
東広島市商業観光
この地方の経済の中心であった。元和3年(1617)から 山陽本線「西高屋 課
春秋には牛馬市が開かれ,現在の町並から往時をしのぶ 駅」から白市行バス (082)420-0941
ことができる。
終点下車
○町並みの見どころ
西福寺,旧木原家住宅(重文),養国寺,光政寺
近くに白糸の滝があるところから滝小路(たきのこうじ) 山陽本線「宮島口 問い合せ先
と呼ばれる
駅」から船で10分 (社)宮島観光協会
ここには,みごとなコケむした石垣が続いている。
桟橋から徒歩15分 (0829)44-2011
滝 町 ( 滝 小 路 ) 廿日市市宮島町
町 家 通 り 廿日市市宮島町
木江の古い街並み 豊田郡大崎上島町
伝統的な町家建築に現代的な感覚をプラスしたレトロモ
ダンな宿や商店・ギャラリーなどがあり,まるで昭和30
年代にタイムスリップしたよう。夜間には軒先にかかる
行灯に明かりがともされ,昼間とはまた違ったしっとり
した情緒をプラス。歴史を感じさせる町並み,そしてそ
こに暮らす人々の息づかいや体温が伝わってくる。
左右に建ち並ぶ2階建・3階建の木造建築の家並みは,
明治・大正にかけて,九州・京阪神間の航路の風待ち,
潮待ちの停泊地として栄えてきた当時の面影をそのまま
残す。中でも2階・3階の手すり,3階の軒下の笠のつ
いた外燈,又室内には凝った建築模様が施され,往時の
歓楽がしのばれる。
- 67 -
山陽本線「宮島口 問い合せ先
駅」から船で10分 (社)宮島観光協
桟橋から徒歩5分 会
(0829) 44-2011
竹原港より高速船
で20分
木江天満港より徒
歩1分
問い合せ先
大崎上島町観光協
会
(0846)65-3120
(5) 神社・仏閣
名 称 所 在 地
護 国 神 社 広島市中区
基町
不 動 院 広島市東区
牛田新町
明 星 院 広島市東区
二葉の里
東 照 宮 広島市東区
二葉の里
国 泰 寺 広島市西区
己斐上町
三 瀧 寺 広島市西区
三滝
海 蔵 寺 広島市西区
田方
毘 沙 門 堂 広島市安佐南区
緑井町
福 王 寺 広島市安佐北区
可部町
尾 崎 神 社 広島市安芸区
矢野西5丁目
岩 滝 神 社 広島市安芸区
船越町
塩 屋 神 社 広島市佐伯区
海老山町
亀 山 神 社 呉市清水
1丁目
梵 潮 寺 呉市音戸町
南隠渡
波 多 見 八 幡 山 呉市音戸町
神
社 波多見
交
通 創 建 時 代 所要時間
概
要
(分)
広島駅 バス10分 昭 和 3 1 年 10 明治元年の戌辰戦争で戦没した浅野藩士をまつることで水
草霊社が建立されたのが起源。
アストラムライン 平安時代
30 足利尊氏建立の安国寺の一つ。唐様建築では,我が国最大
「不動院前」下車すぐ
級の遺構である国宝の金堂などがある。
広島駅 徒歩10分 安土桃山
10 浅野家と関係のあった赤穂義士,四十七士の木像が安置さ
後期
れている。
広島駅 徒歩10分 天 保 年 間 10 浅野光晟が徳川家康をまつるために建立した。
西広島駅 バス15分 不
宮島線電車「草津駅」 応 永 年 間
徒歩6分
緑井駅 徒歩50分 平 安 中 期
10
浅野家菩提寺。成晟墓。秀吉遺髪塚。大石内蔵助妻りく,
三男大三郎墓。
広大な境内は樹林で覆われ,白糸滝や朱の多宝塔が散在す
る。
中国の僧,慈眼が創建した。
10
僧行墓の作といわれる毘沙門天像が安置されている。
可部駅 バス15分
徒歩90分
矢野駅 徒歩5分
828
30
金亀山頂の名刹。松,杉,檜,樅の間に堂宇が並ぶ。
1614
10
代々野間氏の産土神として崇拝されている。
菅原道真公が船を寄せて休息したとき,岩滝山を見て心を
うたれ,自らのご持仏を山に安置したと言われる。
旧村社。海上守護,漁業の神として信仰を集めている。
三滝駅 徒歩15分
詳
809
30
30
海田市駅 徒歩30分 不
詳
10
五日市駅 徒歩10分 不
詳
10
呉駅
呉駅
徒歩10分
バス30分
701 ~
704
907
10
10
呉駅 バス40分
倉橋行「波多見」下車
1191
30
法
専
寺 呉市音戸町引地 呉駅 バス25分
倉橋行「清盛塚」下車
早瀬行「音戸」下車,
徒歩5分
1547
10
善
行
寺 呉市音戸町
波多見
1533
10
呉駅 バス40分
倉橋行「波多見」下
車,徒歩3分
毘 沙 門 堂 呉市音戸町早瀬 呉駅 呉市営バス 南 北 朝
「明徳中学校前」バ
ス停,徒歩40分(林
道藤脇線)
桂 濱 神 社 呉市倉橋町本浦 呉駅 バス1時間 不
詳
はっ か じ
バス1時間
志 水 山 白 華 寺 呉市倉橋町本浦 呉駅
徒歩10分
弘 法 寺 呉市安浦町 安登駅 徒歩2時間
中切野呂山頂上 安芸川尻駅
バス30分
光
明
寺 呉市川尻町
安芸川尻駅
徒歩10分
10
10
創建当初は海の神だったが,のちに多賀谷氏によって宇佐
八幡宮から三神が勧請されてからは武将の神。本殿は国の
重要文化財。
真言宗御室派の寺。行基の作と伝えられる木造十一面観音
立像は県重文。
弘法大師空海が2度参篭したと伝えられる堂牢は巨岩をく
り抜かれている。
10
浄土真宗,京都西本願寺直末の寺,運慶の作といわれる「阿
弥陀如来像」や「親鸞上人七三歳御自像御木一躯」を所持。
1059
1492 ~
1500
1495
- 68 -
呉市の鎮守社として市民の崇敬を集める。
(0823)21-2508
別名「観音さん」と呼ばれ本尊は僧行基(奈良時代)の作
といわれる十一面観世菩薩が安置されている。
本神は今より1200余年前の天平宝年間に勧請,祭神は応神
天皇を主神とし神功皇后,玉依姫命の二柱を合祀している。
中世戦乱により神社は一時矢野に還されたが永禄三年
(1560)矢野の尾崎神社より渡子に遷座し,その後当神社
に移される。天正四年(1576)小早川隆景が再建,以後二,
三回改修され,音戸町の氏神として祀られている。
毛利元就の末子,元為(後に出家して僧法専)が天台宗の
寺を開き,後に浄土真宗に改宗される。天正4年(1576)
石山の合戦で,毛利軍の船に幟を立て食料を運んだ際の幟
に下げた錘が保存されている。
石垣は,「武者返し」がついており,いざという時,城と
して使おうとしたのではないかといわれている。
天文2年(1533)僧天海が真言宗の開蔵寺を建て,その後,
善行寺初代住職徳善が真宗に帰依し,天正11年(1583)浄
土真宗に改宗している。
庭は一見の価値あり。
約600年前の南北朝時代に建立された毘沙門天を祀ってい
る。六十年に一度,開扉が行われ,以前は遠く九州や四国
方面からの参拝客で賑わっていた。
概
要
名 称 所 在 地 交
通 創 建 時 代 所要時間
(分)
宝 積 寺 呉市川尻町 安芸川尻駅
937
10 浄土宗,行基の作といわれる「十一面観世音菩薩」や平清
徒歩15分
盛直筆といわれる額などを所持。
長 福 寺 呉市豊浜町大浜 仁方港 船30分 不
詳 20 境内には樹令が1000年を越える楠木が数本ある。毎年4月
大浦港 船20分
29日に御釈迦祭が行われ寺所蔵のめずらしい地獄絵図が公
開され,また甘茶もふるまわれ多くの来訪客でにぎわう。
蛭 児 神 社 呉市豊浜町斎島 仁方港 船30分 明治33年
30 古くから神霊の宿る島として人々の信仰を集める斎島の
大浦港 船20分
再建
丘にありかつて斎内親王を祀る社であった。海上の守護諸
+豊島港より船25分
願成就の祈所として知られ,一間社流造り。再建する時,
伊勢神宮の宮大工に造営を依頼し宮大工が泊まりこみで年
月をかけて釘を使わず組木で建立したと伝えられ立派な木
組みが当時の威容をしのばせる。
あ び 神 社 呉市豊浜町斎島 仁方港 船30分 不
詳 10 広島の県鳥であるあび鳥の習性を利用したあび漁場に7
大浦港 船20分
ケ所点在するうちの1つ。室原神社の境外社である恵比須
神社の分社として古くからあり元禄の頃から共存共栄して
+豊島港より船30分
きたあび鳥を祀っている。
宇 津 神 社 呉市豊町大長 広駅からバス1時間30 不
詳 10 社伝によると考霊天皇の御代(BC115)に創建されたと言
分「大長港」下車
われ,この地方では最も古い歴史を持つ神社。昔から海難
徒歩7分
除けの神として,多くの参拝者が訪れており,刀剣,絵馬,
ナウマン象の化石など多くの奉納品が納められた。
み た ら い 広駅からバス1時間30 享保2 0 年
大 東 寺 呉市豊町御手洗
15 江戸時代には,登光寺というお寺だったが,昭和16年に隆
分「御手洗港」下車徒 (1735)
法寺と合併して,大東寺と改名した。本堂には,京都の彫
歩5分
刻師が彫った迦陵頻伽(かりょうびんが)と竜の見事なケ
ヤキの欄間がある。また境内には樹齢300年以上の大きなク
スノキがある。
礒 宮 八 幡 神 社 竹原市田ノ浦 竹原駅 徒歩5分
1194
20 鳳伏山麗から移社。尊王の神宮唐崎赤斉の忠孝岩あり。
1丁目
県史跡
照 蓮 寺 竹原市本町 竹原駅 徒歩15分 安 土 桃 山 30 庭園は小祇園と称され県下屈指の名園。
3丁目
西 方 寺 竹原市本町 竹原駅 徒歩15分 1702(再建) 20 慶長年間に建てられた普明閣は複雑な構造の建物。
3丁目
長 生 寺 竹原市本町 竹原駅 徒歩20分
1586
30 小早川隆景寄進の真言宗の寺。裏山にミニ八十八カ所霊場
1丁目
があり,20分足らずで一巡できる。
長 善 寺 竹原市東野町 竹原駅 バス10分 鎌
倉 20 一向宗軍旗。法名帖など石山合戦資料蔵。
光 海 神 社 竹原市吉名町 吉名駅 徒歩5分 不
詳 10 吉名地区の産土神。小早川隆景の尊崇も厚かった。
勝 運 寺 竹原市忠海床浦 忠海駅 徒歩10分
1581
10 境内に浦宗勝の遺髪を収めた供養塔がある。
二丁目
宗 光 寺 三原市本町 三原駅 徒歩10分
1577
15 広い境内に本堂,庫裏のほか,国指定重文の山門がある
正 法 寺 三原市本町 三原駅 徒歩5分 不
詳 10 堂宇は本堂,庫裏,護摩堂,山門などを備える。
妙 正 寺 三原市本町 三原駅 徒歩10分 1673 ~
10 浅野氏歴代の菩堤所で五輪石塔型の墓が並んでいる。
1681
大 善 寺 三原市西町 三原駅 徒歩20分 不
詳 10 境内に江戸前期の儒者で,須波の波止場を築いた楢崎忠右
衛門正員の墓がある。
米 山 寺 三原市
三原駅 バス15分
1235
10 小早川茂平が創建。境内に小早川氏歴代の墓が現存。
沼田東町
徒歩30分
龍 泉 寺 三原市小泉町 三原駅 バス30分 不
詳 20 本堂背後の八畳岩の壁面に,十数体の磨崖仏群がある。
徒歩40分
糸 碕 神 社 三原市糸崎町 三原駅 バス10分
729
10 宇佐神宮(宇佐八幡)の祭神を祀った古い神社。境内に
糸崎駅 バス5分
万葉の歌碑や梁川星巌の「糸碕に遊ぶ」などの石碑や樹
齢500年の市天然記念物のクスノキがある。
佛 通 寺 三原市高坂町 三原駅 バス40分
1397
60 小早川氏寄進の禅宗の名刹。渓流沿いにあり紅葉名所。
許山
御 調 八 幡 宮 三原市八幡町 三原駅 バス40分
769
15 旧県社。広大な社域はシイの天然林におおわれる。神社
宮内
に伝承される花おどりは県指定の無形文化財。
松 寿 寺 三原市東町 三原駅 徒歩10分
1365
10 三原一古い寺と伝えられ,3重塔がそびえ立ち,武者小路
実篤の歌碑「私は松である雨が降っても風が吹いても一本
の松である・・・」等がある。
極 楽 寺 三原市東町 三原駅 徒歩10分
1661
10 日本48極楽寺の一つで,江戸時代中期に建立された本堂は
県の重要文化財に指定されている。
- 69 -
概
要
名 称
所 在 地 交
通 創 建 時 代 所要時間
(分)
順 勝 寺 三原市西町 三原駅 徒歩15分
1471
10 頼山陽の父,春水が3年間勉学した寺で,詩歌を多数残し
ている。
棲 真 寺 三原市大和町 三原駅 車30分
1219
20 臨済宗妙心寺派。鎌倉時代作とみられる木造二十八部衆立
平坂
河内駅 車30分
像13躯は県重文。
宝 生 寺 三原市大和町 河内駅 バス35分
1615
上徳良
亀 山 神 社 三原市大和町 河内駅 バス35分
1189
下徳良
薬 師 堂 三原市大和町 河内駅 バス20分 鎌
倉
和木
専 徳 寺 三原市大和町 河内駅 バス20分
1575
和木
氏 八 幡 神 社 三原市大和町 河内駅 バス20分
1577
和木
楽 音 寺 三原市本郷町 本郷駅 徒歩20分 938 ~
10 藤原倫実の創建,寛延の開山と伝える。古文書を多く所蔵
947
する。
永 福 禅 寺 三原市本郷町 本郷駅 車10分
1256
永福禅寺は小早川氏の祖,小早川茂平が康元の頃(1256
船水
山陽道本郷IC
~)威徳上人を招き創建菩堤寺とした。
車5分
県重文の絹本著色釈迦涅槃図は,永禄4(1561)年毛利元
就が,その子小早川隆景を新高山城に訪ねた時,その宴に
侍した蓮花尼に与えたものであると伝えられる。
東 禅 寺 三原市本郷町 本郷駅 徒歩50分 奈
良
木造四天王立像は,各々玉眼入,多聞天の首の柄と玉眼の
押え木の墨書銘により,元徳2年,源言成が寄進したこと
が知られている。
稲 生 神 社 三原市久井町 三原駅中国バス30分
938
10 天慶元年(938)の創建で,伏見稲荷大社の分霊としては日
江木
江木下車
本最古。2月の第3土曜日には御福開祭(はだか祭り),
7月15日に近い日曜日には祇園祭,10月19日に近い日曜日
には例祭「場の魚」が行われ,多くの参詣者で賑わう。
浄 土 寺 尾道市
尾道駅 バス5分
616
60 浄土寺山中腹。伝聖徳太子創建の古刹。現在の堂宇は鎌倉
東久保町
末~南北朝時代の再建の国宝重要文化財。山腹は自然公園。
西 郷 寺 尾道市
尾道駅 バス7分 1332 ~
20 浄土寺山麓。本堂は時宗最古の遺構で山門と共に重文。
東久保町
1334
海 龍 寺 尾道市
尾道駅 バス5分 不
詳 10 3基の「文楽」の供養塔がある。
東久保町
西 國 寺 尾道市
尾道駅 バス7分 729 ~
30 伝行基開基の名刹。愛宕山腹,足利代、山名氏再建の堂宇
西久保町
749
が広大な境内に並び,金堂,三重塔は重要文化財。
千 光 寺 尾道市
尾道駅 バス5分
806
30 大宝山中腹。朱色の本堂が緑に映え,巨岩奇岩が多い。
東土堂町
ロープウェイ3分
天 寧 寺 尾道市
尾道駅 バス5分
1367
20 大宝山麓。足利義詮建立。海雲塔は重文。
東土堂町
持 光 寺 尾道市
尾道駅 徒歩5分 不
詳 10 石の町にふさわしく,堂々たる石作りの山門(延命門)が
西土堂町
あり,国宝の仏画「絹本著色普賢延命像」を所蔵。
光 明 寺 尾道市
尾道駅 徒歩10分 834 ~
30 800年代慈覚大師円仁の開基。収蔵庫には文化財が多い。
東土堂町
849
福 善 寺 尾道市長江 尾道駅 バス5分
1573
10 見事な龍の彫り物が施された山門がある。
栗 原 八 幡 宮 尾道市栗原町 尾道駅 バス10分 不
詳 10 栗原地区の産土神として地元民の崇敬を集めてきた。
圓 廣 寺 尾道市美ノ郷 尾道駅 バス15分 不
詳 10 真言宗西国寺派の寺。
町
摩 訶 衍 寺 尾道市原田町 尾道駅 バス25分 不
詳 10 本尊の木造十一面観音立像は国の重文。平安後期の作。
金 蓮 寺 尾道市因島中 土生港 バス20分
1449
20 青影城跡を望む中庄にあり村上水軍の菩提寺。
庄町
向 上 寺 尾道市
三原港船25分
1403
20 大通禅師開基。瓦葦き三重塔は建築史上貴重で国宝。
瀬戸田町
徒歩15分
光 明 坊 尾道市
三原港船25分
724 ~
10 聖武天皇の勅願により創建されたと伝えられる。
瀬戸田町
バス20分
744
耕 三 寺 尾道市
三原港船25分
1966
120 耕三和尚が母の菩提のため飛鳥~江戸各期様を再現。
瀬戸田町
徒歩7分
照 源 寺 尾道市
尾道駅 バス40分
1229
10 備後真宗3ケ寺の一つ。
御調町市
鎌倉時代の作,木造仏涅槃像は国の重文。
西 八 幡 神 社 尾道市向島町 尾道駅 車15分
770
10 1185(文治1)年,兼吉龍王山より現地に遷座。
- 70 -
概
要
名 称
所 在 地 交
通 創 建 時 代 所要時間
(分)
明 王 院 福山市草戸町 福山駅 バス10分
807
60 大同2年弘法大師創建。鎌倉時代再建の本堂は密教の正規
な姿で和様唐様折衷様式最古の建築で,南北朝時代の純和
洋建築の五重塔と共に国宝。草戸千軒遺跡はその門前町で
あった。
安 国 寺 福山市鞆町 福山駅 バス30分
1273
20 安国寺の前身である金宝寺が鎌倉時代創建される。その後
足利尊氏が国ごとに建立した備後の国の安国寺となる。釈
迦堂や仏像などが重要文化財に指定されている。
福 禅 寺 福山市鞆町 福山駅 バス30分
952
20 境内の対潮楼には,ここから眺める鞆の浦の眺望を讃えた
「日東第一形勝」の額がある。
沼 名 前 神 社 福山市鞆町 福山駅 バス30分 不
詳 20 平安時代の法令「延喜式」に出てくる古い神社で,大綿津
見命と須佐之男命を祀った神社。
医 王 寺 福山市鞆町 福山駅 バス30分
826
20 弘法大師が開いたと伝えられ鞆の街並や海が一望できる。
円 福 寺 福山市鞆町 福山駅 バス30分 1596 ~
20 境内には,芭蕉句碑と大可島城跡がある。
1615
賢 忠 寺 福山市寺町 福山駅 徒歩15分
1626
10 水野勝成が父の菩提を弔って建てた曹洞宗の寺。
承 天 寺 福山市松永町 松永駅 徒歩10分
1668
20 臨済宗妙心寺派。境内に本庄重政の墓があり,県の指定史
跡になっている。
蓮 華 寺 福山市今津町 松永駅 徒歩10分 不
詳 10 平安期作の木造毘沙門天立像は県の重文。
常 國 寺 福山市熊野町 福山駅 バス25分
1486
30 唐門,鐘楼,番神社本殿(市重文),ケヤキ,モッコク
(市天然記念物)
明 泉 寺 福山市駅家町 駅家駅 徒歩10分 592 ~628 20 絹本着色浄土真宗明光派先徳像
福 盛 寺 福山市駅家町 駅家駅 車15分
802
30 日大上人開基,備後随一の古刹で蛇円山のほとりに寺があ
新山
る。
馬 乗 観 音 福山市山野町 駅家駅 車30分
1041
10 標高500 mの馬乗山の頂上にあり,十一面千手観音を祀る。
福 泉 寺 福山市山野町 福山駅 バス30分
1631
10 寛永年間に再興され,この時植えられたカヤの大木がある。
徒歩30分
善 正 寺 福山市内海町 福山駅 バス40分
809
10 長さ1寸八分の地蔵菩薩は那須与一の守本尊である。
光 音 寺 福山市内海町 福山駅 バス40分
1055
10
常 楽 院 福山市内海町 福山駅 バス40分
737
10 因島村上氏五輪塔・宝篋印塔がある。
奥 之 坊 福山市内海町 福山駅から内海農協
954
10 高倉天皇が厳島神社に行幸された時に風光明媚な藤の花咲
行きバス「内海町」
く田島に上陸し,奥之坊如意輪寺と賜る。高倉天皇が寺門
下車,徒歩5分
の興隆とその繁栄を願って松樹をお植えになった影向の松
がある。同寺に絹本著色釈迦涅槃図の県重要文化財がある。
西 音 寺 福山市内海町 福山駅から内海農協 不
詳 10 同寺に木造阿弥陀如来立像,金銅製の独鈷杵と三鈷杵の県
行きバス「内海農協
重要文化財がある。
前」下車,徒歩5分
田島宮脇山八幡 福山市内海町 福山駅から内海農協
892
10 伝統行事,百手神事が1月上旬に行われる。
神
社
行きバスで40分「内
海中学校」下車,徒
歩2分
横 島 八 幡 神 社 福山市内海町 福山駅から内海農協
1580
10 うつみの秋まつり 10月第1土・日曜日
行きバス40分「内海
昔ながらの,だんじり・チョーサ・みこしがでる。
農協」下車,徒歩5分
吉 備 津 神 社 福山市新市町 福塩線「新市駅」から 806
30 江戸初期社殿ながら室町の風格と桃山彫刻を誇る重文。
宮内
徒歩20分
素 盞 嗚 神 社 福山市新市町 上戸手駅 徒歩10分 醍醐天皇
10 備後の国の三大祇園社の一つで,延喜式内社でもある。
( 天 王 社 ) 戸手
(897~930)
古い神社である。祭事は祇園祭茅の輪くぐりなどがある。
御代創建
また「蘇民将来」伝説の地と伝えられている。
磐 台 寺 福山市沼隈町 福山駅 バス55分
992
15 磐台寺客殿は,桃山様式の代表的禅宗方丈建築。欄間の意
匠も優美。
悟 真 寺 福山市沼隈町 福山駅 バス33分
1237
10 僧記主の開山で浄土宗の寺。
光 照 寺 福山市沼隈町 福山駅 バス35分
1216
10 浄土宗本願寺派の寺,中国地方真宗流布の拠点として寺
運は隆盛した。
西 光 寺 福山市沼隈町 福山駅 バス40分
1388
5
宝 田 院 福山市沼隈町 福山駅 バス50分 鎌 倉 末 期 10
国 分 寺 福山市神辺町 井原線「御領駅」
741
15 全国66ケ国に建立された国分寺のひとつ。戦国時代の火災
徒歩10分
や江戸時代の洪水で奈良期の国分寺は消滅した。現在の寺
は江戸時代に再興されたもの。地中に遺構も残る。
- 71 -
概
要
名 称
所 在 地 交
通 創 建 時 代 所要時間
(分)
天 別 豊 姫 神 社 福山市神辺町 神辺駅 徒歩5分
878
10 元慶2年(878)の創建と伝えられる式内社で,備南地方で
もっとも古い神社の1つといわれている。
甘 南 備 神 社 府中市出口町 府中駅 徒歩20分
708
青 目 寺 府中市本山町 府中駅 車10分
813
四国(屋島寺)の青目上人が開基したと伝える天台宗の寺。
藤原時代初期の古仏像群は県重文。
首 無 地 蔵 府中市出口町 府中駅 徒歩15分
大祭日 5月18日,11月18日,例祭日毎月18日
上 下 八 幡 神 社 府中市上下町 上下駅 車3分
1325
上下
東 照 宮 本 殿 府中市上下町 上下駅 車3分 1688 ~
上下
1704
善 昌 寺 府中市上下町 上下駅 車3分
1325
10 鶯張り廊下,座禅堂あり
上下
玉 泉 寺 府中市上下町 上下駅 車3分
1627
上下
吉 井 寺 府中市上下町 上下駅 車5分 鎌 倉 初 期 10 鎌倉時代初期作の木造薬師如来坐像あり。
上下
安 福 寺 府中市上下町 備後矢野駅 車5分 1532 ~
10 県重文,石造宝,印塔あり。
矢野
1555
妙 栄 寺 三次市三次町 三次駅 車5分
1650
15 寿正寺と号し日蓮宗国前寺末で本尊は釈迦如来。
鳳 源 寺 三次市三次町 三次駅 バス10分
1633
15 臨済宗妙心寺派。忠臣蔵で知られる瑶泉院の遺品を伝える。
太 歳 神 社 三次市三次町 三次駅 車5分
808
15 祭神は木花佐久夜毘売命。
三 勝 寺 三次市三次町 尾関山駅 徒歩15分 1532 ~
15 浄土宗の寺。旗坂城主松尾長門守三勝が建立。
1554
照 林 坊 三次市三次町 三次駅 車5分
1602
15 真言宗本願寺派に属し,本尊は阿弥陀如来。。
西 江 寺 三次市三次町 三次駅 バス10分 757 ~
15 臨済宗妙心寺派。境内に三吉広高と尾関正勝の墓がある
764
吉 祥 院 三次市三次町 三次駅 車10分 大
同 15 結城山蜜厳寺。真言宗仁和寺派に属し本尊は千手観音。
十 林 寺 三次市
塩町駅 徒歩15分
1616
15 日蓮宗樹王山ともいい,本尊は釈迦如来。
向江田町
八 幡 神 社 三次市
三次駅 車5分
1157
15 比叡尾山城主三吉隆亮の寄進した鉄灯篭と1対の木製狛
十日市南
犬が宝物として秘蔵されている。
熊 野 神 社 三次市畠敷町 三次駅 徒歩30分 室 町 15 中世には三吉氏の崇敬社として栄えた。境内にある宝蔵は
県重文
岩 屋 寺 三次市畠敷町 三次駅 徒歩50分
806
15 真言宗仁和寺派多聞院ともいう。
知波夜比古神社 三次市高杉町 神杉駅 徒歩5分 不
詳 15 田郷社,「二宮さん」の呼び名で知られる。
帰 海 寺 三次市海渡町 三次駅 バス15分
1275
15 臨済宗妙心寺派。寺宝の木造薬師如来坐像は県重文。
須 佐 神 社 三次市甲奴町 甲奴駅 車5分
774
10 旧郷社で小童の祇園社と呼ばれる。社宝の神興は県の重文。
小童
正 願 寺 三次市甲奴町 甲奴駅 車5分 1658 ~
梵鐘は,第2次世界大戦末期に砲弾の資材として,呉海軍
小童
1660
工廠に供出。戦後英国から米国へ渡った。現在は,平和の
シンボル「広島の鐘」として,アメリカ第39代大統領ジミ
ー・カーター夫妻に寄贈され,アトランタ・カーターセン
ターに展示されている。これが縁で,1990年カーター氏が
寺を訪れ,鐘の思いをつづった直筆のメッセージが記念碑
に刻まれている。
知波夜比売神社 三次市布野町 三次駅 バス20分 不
詳 10 天保年間に始まるといわれる神代神楽が伝承される。
下布野
銅製鰐口は県重文。
善 逝 寺 三次市吉舎町 吉舎駅 徒歩15分 室
町 10 臨済宗仏通寺派の寺。本尊の木造釈迦如来坐像は県重文。
吉舎
大 慈 寺 三次市吉舎町 吉舎駅 車10分
1421
10 臨済宗仏通寺派の寺。紙本墨書大般若経,絹本著色観音三
吉舎
十三身像観音堂(円通閣)は県重文。
西 光 寺 三次市吉舎町 吉舎駅 車10分
1469
10 臨済宗妙心寺派の寺。本尊の木造阿弥陀如来坐像は県重文
敷地
浄 土 寺 三次市吉舎町 吉舎駅 バス10分
1407
10 浄土宗鎮西派の寺。本尊の木造阿弥陀如来坐像は県重文
(2躯)で,他に1躯県重文の木造阿弥陀如来坐像がある。
清綱
- 72 -
概
要
名 称
所 在 地 交
通 創 建 時 代 所要時間
(分)
出 雲 大 社 三次市
三良坂駅 徒歩6分
島根県出雲大社の分院
備 後 分 院 三良坂町
大国主大神を泰祭し,五穀豊穣,縁結びの神,交通安全祈
三良坂
願など,地元はもとより広く近郷より参拝者が訪れる。
TEL(0824)44‐2007,FAX(0824)44‐3705
田 利 八 幡 神 社 三次市
三良坂駅 徒歩40分 鎌
倉
宝物,広島県重要文化財
三良坂町田利
中国宋代の建築様式
宝 蔵 寺 庄原市東本町 備後庄原駅徒歩10分
733
15 行基の開創。真言宗御室派の寺。
二丁目
円 通 寺 庄原市本郷町 山ノ内駅 徒歩25分 729 ~
15 山内通資が甲山中服に建立した菩提寺。本堂は鎌倉末期の
749
建築。本堂の天井には雪舟が描いたと伝えられる滝の絵が
ある。
日 吉 神 社 庄原市山内町 山ノ内駅 徒歩15分 1326 ~
15 室町時代の製作と思われる赤糸縅鎧兎を所蔵。
1329
文 覚 堂 庄原市高門町 備後庄原駅 車20分 鎌
倉 20 文覚上人(遠藤盛遠)入定の地。錫杖など保存。
蘇 羅 比 古 神 社 庄原市本村町 備後庄原駅 車20分 507 ~
20 本村町の鎮守社。境内のスギの巨樹叢は県指定天然記念物。
531
浄 久 寺 庄原市西城町 備後西城駅
1558 ~
15 境内に宮氏一門の五輪石塔や宝篋印石塔型の墓碑32基が現
粟
徒歩30分
1570
存。県重文直像3幅,県天然記念物カヤなど。
神 宮 寺 庄原市西城町 備後西城駅
桃
山
88カ所ミニ霊場,ぽっくり地蔵
中野
徒歩30分
多加意加美神社 庄原市口和町 三次駅 車30分
1525
5 灌漑農耕の守護神,タカオ神が祀られている。延喜式内社
向泉
でもある。
功 徳 寺 庄原市高野町 高野町新市より徒歩
1186
20 後鳥羽上皇が承久の乱により隠岐国へ御遷幸の途次,この
新市
5分
寺で9月~3月まで御在所とされた。
勅額・御硯等下賜されたものが寺宝とされている。
天 満 神 社 庄原市高野町 高野町新市より徒歩
729
20 境内の「乳下り大銀杏樹」は,729年別電神を此の地に勧請
新市
20分
のみぎり,奉祀者によって神木として植栽され,樹齢千年
余に及び県の天然記念物に指定。
蔀 山 神 社 庄原市高野町 高野町新市より徒歩 不
詳 20 城主首藤通資が,牛馬守護の総守護神と定めた。
新市
20分
大 宮 八 幡 神 社 庄原市高野町 高野町新市より徒歩
1136
10 地頭職首藤通資が此の地に城を築き,入部するにあたり,
南
20分
鎌倉鶴ヶ岡大幡宮を勧請する。
比 婆 山 神 社 庄原市比和町 中国道庄原IC
不
詳 5 古事記に記す伊邪那美命の葬所と伝えられている。もとも
三河内越原
車40分
とは比婆山の比和側に鎮座していた二千年以前の古社。
称 名 寺 大竹市玖波 玖波駅 徒歩10分
1538
10 境内西側の山裾にある三十三観音はかつて寺院裏山の洞窟
の中に祀られていましたが、岩穴が崩れたため江戸末期頃
か明治初め頃に、現在地へ移転しました。
福 成 寺 東広島市
西条駅 バス15分 奈
良 10 後醍醐並びに後村上両天皇の綸旨をはじめ毛利弘元・輝元
西条町下三永
徒歩50分
また小早川隆景の書状など9通の文書と福成寺縁起文1巻
などが所蔵されている。厨子及び須弥壇は重文。
並 滝 寺 東広島市
八本松駅 バス20分
753
10 聖武天皇の勅願により行基菩薩の開基であるといわれてい
志和町志和東
る。昔は七堂伽藍と末寺48坊があったが,天災地変により
12坊のみとなったと伝えられる。
大 宮 神 社 東広島市志和町 山陽道志和IC
802
15 征夷大将軍坂上田村麻呂の勅願によって創建されたと伝え
志和堀
車15分
られる。大般若波羅蜜多経や,現在8体残っている懸仏は,
八本松駅 車25分
市重文。
本 宮 八 幡 神 社 東広島市
豊栄町乃美
西条駅 バス40分
竹
河内駅
林
寺 東広島市
河内町入野
榊 山 八 幡 神 社 東広島市
安芸津町三津
祝詞山八幡神社 東広島市
安芸津町風早
松 尾 神 社 東広島市
西条町西条
徒歩60分
不
詳
730
10
20
安芸津駅 徒歩10分
風早駅 徒歩20分
西条駅 徒歩5分
乃美の鎮守社。社殿は明治以後に修改築された。大般若波
羅密多経六百巻(県重要文化財)がおさめられている。社
叢は県天然記念物。
老樹が生い茂る中に,本堂,護摩堂,鐘楼堂などが建つ寺
の周辺は新緑・紅葉が美しい。
境内には広島杜氏生みの親,軟水醸造法を大成した三浦仙
三郎翁の銅像がある。
境内には,万葉歌碑,万葉陶壁がある。
酒造りの神として崇められている「大山咋神」を祀り,隣
接する御建神社には西条の酒造会社の酒樽が奉納されてい
る。
- 73 -
名 称
所 在 地 交
通 創 建 時 代 所要時間
概
要
(分)
安 芸 国 分 寺 東広島市西条 西条駅 徒歩10分 奈良
20 聖武天皇の勅願によって全国に建立された国立寺院の1
町吉行
山陽道西条IC
つ。本尊薬師如来坐像,仁王門,護摩堂(いずれも市重文)
車5分
や県重文の木造薬師如来坐像など多くの文化財が伝わって
いる。
じ ご ぜん
広電地御前駅
593
10 嚴島神社の摂社。祭神および創建年代はいずれも厳島神社
地 御 前 神 社 廿日市市
地御前五丁目
徒歩10分
と同じである。
とう
うん
廿日市市佐方
廿日市駅
徒歩10分
1487
15
桜尾城主藤原氏歴代の菩提寺。
洞 雲 寺
極
楽
寺 廿日市市原
2180
速 谷 神 社 廿日市市
上平良
廿 日 市 天 満 宮 廿日市市
天神3‐2
大 頭 神 社 廿日市市大野
廿日市駅 車30分
731
または徒歩150分
廿日市市役所
1700有余の
バス10分 歴史を持つ
廿日市駅 徒歩10分
1233
10
大野浦駅 徒歩25分
603
20
嚴 島 神 社 廿日市市
宮島町
千 畳 閣 廿日市市
宮島町
荒 胡 子 神 社 廿日市市
宮島町
光 明 院 廿日市市
宮島町
大 願 寺 廿日市市
宮島町
大 聖 院 廿日市市
宮島町
大 元 神 社 廿日市市
宮島町
清 神 社 安芸高田市
吉田町吉田
高 林 坊 安芸高田市
甲田町高田原
常 磐 神 社 安芸高田市
八千代町勝田
宮島桟橋 徒歩12分
593
60
宮島桟橋 徒歩10分
1587
20
宮島桟橋 徒歩12分
1441
5
宮島桟橋 徒歩10分
20
30
高野山真言宗の寺。本堂は県の重文。
頂上付近に駐車場あり(100台駐車可)
延喜式に記録される由緒のある神社。交通安全の神様。
勉学の神として知られる。小高い山頂にあり見晴らしも良
い。
厳島神社の摂社として建てられ,国常立尊大山祇尊,厳島
神社の最初の神職佐伯鞍職を祀り,10月第4土,日に行な
われる祭りに「お烏鳴祭」から創作された烏神太鼓が奉納
される。
宗像三女神を祀る。平家一門の信仰を集めた。平安朝の神
殿造りを神社建築に応用し長い回廊が特徴的である。
豊臣秀吉が毎月一度千部経の経読供養に建立したというが
未完のまま残された。桃山建築様式を今に伝える。
田畑の豊穣収穫や漁猟大漁の祈願。
1532 ~
1554
宮島桟橋 徒歩15分 不
詳
10
30
宮島杓子の考案者・誓真が修行した寺。眺めのよい小高い
丘にある。
亀居山放光院。鎌倉時代の仏像を多数所蔵している。
宮島桟橋 徒歩20分
30
大同元年創建。勅使門をくぐれば閑寂の地。
806
宮島桟橋 徒歩20分 不
詳
10
厳島神社の摂社
吉田口駅 バス15分 不
詳
10
甲立駅 徒歩10分 1482 ~
1501
広島バスセンター 明治1 6 年
バス60分 (1883)
「勝田」停留所下車
10
10
旧郷社。5月5日が例祭で吉田の“市入り”と呼ばれ賑わ
う。
浄土真宗本願寺派の寺。寺宝の銅鐘は県の重文
天文年間(1532~55),桂城主の桂元澄が再建し祈願所と
したと伝える八幡神社と,天文10年(1541)吉川元春が再
建し祈願所と定めた新宮神社が明治16年(1883)に合併し,
常磐神社と改称して現在地に遷宮した。
正平2年(1347)周防国より勧請されたといい,のち天文
元年(1532)阿賀城主井上就が再建した棟札があるほか,
天正11年(1583)9月,毛利輝元が屋根葺替え,天和2年
(1682),宝歴9年(1759)各再建の棟札を蔵する。
下土師にあり,通称「八幡さま」で,元亀2年(1571)国
司元氏が願主となり,毛利輝元造営の棟札がある。本殿は
今なお,往時の元亀材を多く残し,中世の建築様式を伝え
ている。なお,拝殿前には県下でも珍しい力石が残ってい
る。
佐々井厳島神社は正治元年(1199)の勧請にかかり,その
後毛利輝元は高田郡内四ケ村に新しく厳島神社と勧請して
五社明神とし,佐々井をその総社とした。天正2年(1574)
11月輝元の再建の棟札がある。
自休は,室町時代の人で,京都大徳寺の僧であったといわ
れているが,後当地に住み,品慶寺を開山した。
祭神は応神天皇,神功皇后他7柱神で,『神社明細帳』に
よると,「神亀年中(724~729)神託により一宇建立。豊
前国(大分)宇佐神宮より別祀す」とある。
永禄2年(1560)毛利元就が厳島神社を改修した時,大鳥
居の東の柱は中村の八幡神社の森から供出し,その代賞と
して神興2丁を拝領している。
亀 山 神 社 安芸高田市 広島バスセンター
八千代町下根
バス60分
「下根宮の上」停留所
下車,徒歩5分
日 高 山 神 社 安芸高田市 中国道千代田IC
八千代町土師
車15分
正平2年
(1347)
10
元亀2年
(1571)
10
厳 島 神 社 安芸高田市
八千代町
佐々井
正治元年
(1199)
10
広島バスセンター
バス60分
「八千代支所前」停留
所下車,徒歩5分
自 休 堂 安芸高田市 広島バスセンター
八千代町下根
バス60分
八 幡 神 社 江田島市
中町港 バス5分
能美町中町
徒歩15分
10
神亀年間
724 ~
729
- 74 -
20
通 創 建 時 代 所要時間
概
要
(分)
バス3分 文 治 元 年 20 文治元年(1185)平氏の一族伊地宗顕が,一門の菩提のた
徒歩6分 (1185)
め,草庵を結び禅門道場とし,光泉寺と称した。後,天正
13年(1585)僧善了が開基,その後,寛文元年(1661)僧受玄
が真宗に帰依改宗し,海谷山光源寺としたといわれている。
本堂軒下にある喚鐘は,元禄11年(1698)に市良右衛門が
寄進したと彫られている。
中町港 バス7分 寛 永 6 年 20 同寺は,もともと佐伯郡玖島村(現,廿日市市玖島)にあ
徒歩13分 (1629)
り,慈恩寺と称す禅寺であったが,寛永3年(1629)今の
寺号である勝善寺と改められたものである。鹿川へは明治
12年(1879)3月に移転された。
中町港 徒歩13分 文 禄 4 年 20 現存する阿弥陀如来像は,神亀年間(724~729)創建の八幡神
(1595)
社に祭られていたという。文禄4年(1595)僧長雲が,浄
土真宗に改宗,山号を擁護山徳正寺と改め,周辺に点在し
ていた禅宗道場を合併して開基したと伝えられる。
文化2年(1805)建立の鐘楼は,基礎の石組みに特徴があ
り,石土技術としては優れたものと言われる。
三高港 バス25分
1594
20 安芸国有数の規模を誇る聞法の大道場
名 称
所 在 地 交
光 源 寺 江田島市
高田港
能美町高田
勝
善
寺 江田島市
能美町鹿川
徳
正
寺 江田島市
能美町中町
専
念
長
徳
光
た
多
道
寺 江田島市
沖美町岡大王
徳 寺 江田島市
沖美町是長
正 寺 江田島市
沖美町三吉
照 寺 江田島市
沖美町高祖
け
家 神 社 府中町宮の町
三丁目
隆
大 師
みょう
けん
明 顕
三高港 バス20分
三高港 徒歩10分
1562
1574
20
20
天保年間作の鐘楼門,常夜灯あり
姫路城天守閣の建築様式の総ツガ造の鐘楼門
三高港 バス5分
1889
20
10
阿弥陀堂からの始まりといわれ,境内に釈迦如来像を安置
した釈迦堂があり起源は南北朝時代にさかのぼる。
校倉造りの宝蔵は,四角の校子を使った珍しいもので,県
の重文。
20
寺の付近から古瓦や骨壺,古仏像の破片が出土し,寺歴の
古さを物語っている。薬師如来坐像は県の重文。
10
10
海田のお大師さんとして親しまれる厄除大師。
ぼんしょう
同寺のかなやげんべえ
梵鐘 は1752年に芸州鋳物師筆頭総代で名工といわ
れた金屋源兵衛の作である。また,第二次長州戦争で敗れ
た越後高田藩士34名を葬った墓がある。
紀州熊野神社より勧請されたと伝えられる。拝殿には日本
で3番目に古い和船模型と,鎌倉期に作られた三十六歌仙
絵馬が奉納されている。
神殿は,享保9年に再建(安芸国の近世社寺建築の貴重な
初期例)境内には,「筆まつり唄」に歌われている99段の
石段や大杉の古木がある。
広島駅 府中山田行 不
詳
バス20分
えのみや下車
徒歩1分
寺 府中町みくま 広島駅 府中山田行
806
り三丁目
バス20分
みくまり峡入口下車
徒歩10分
寺 海田町稲荷町 海田市駅 徒歩10分
1840
海田町稲荷町
海田市駅
徒歩5分
安
土
桃山
寺
熊 野 神 社 海田町上市
海田市 徒歩 7,8分
1026
10
榊 山 神 社 熊野町中溝
広島駅 バス約50分
「中溝」バス停または
「役場前」バス停下
車,徒歩10分
坂駅 徒歩15分
1721
20
八幡山八幡神社 坂町板東
1260
二丁目
宮 瀬 神 社 北広島町小原 広島駅 バス120分 南北朝以前
徒歩5分 と伝えられ
ている
亀 山 八 幡 神 社 北広島町宮地 広島駅 バス120分 天喜元年と
徒歩5分 されている
龍 山 八 幡 神 社 北広島町新庄 広島駅 バス80分 鎌 倉 末 期
徒歩5分
枝 宮 八 幡 神 社 北広島町大朝 広島駅 バス90分 鎌 倉 末 期
徒歩20分
阿 弥 陀 寺 大崎上島町 竹原港 船30分 室
町
東野
白水港 徒歩15分 (1422)
- 75 -
15
15
古い時代から,五穀豊穣,家内安全,武運長久の守り神と
して崇められてきた氏神様である。
町内では,亀山八幡神社とともに古い歴史をもつ神社。
応永年間に奉納れた獅子の彫刻が所蔵されている。
境内には,樹鈴600年以上の大絵がある。
例祭を乙九日(おとくんち)と称し,毎年9月23日~24日
にかけて,神楽,みこし行列がおこなわれる。
また,雅楽(越天楽)により巫女の舞が奉納される。
中世を通じ吉川氏累代の崇敬社。本殿は国の重文。
10
中世吉川氏累代の崇敬社。本殿は県の重文。
20
20
1422年(応永29年)真言宗法呑律師が開創し,後に曹洞宗
に改宗された。
寺には金毘羅堂経机五鈷鈴などの町の重要文化財がたくさ
んある。
境内の座禅堂には参禅者も多く静寂な空気の中にときおり
警策の音が響きわたり身の引きしまる思いがする。
名 称
所 在 地 交
通
文 裁 寺 世羅町赤屋 尾道松江線世羅ICより
車で10分
龍 華 寺 世羅町甲山 尾道松江線世羅ICよ
り車で5分
(今高野山)
中国バス「甲山営業
所」より 徒歩5分
上 原 八 幡 神 社 世羅町東上原 尾道松江線世羅ICよ
り車で5分
鳳 林 寺 世羅町伊尾 尾道松江線世羅ICより
車で10分
赤 屋 八 幡 神 社 世羅町赤屋 尾道松江線世羅ICより
車で10分
世良彦八幡神社 世羅町小世良 尾道松江線世羅ICよ
り車で5分
領 家 八 幡 神 社 世羅町宇津戸 尾道松江線世羅ICよ
り車で15分
地 頭 八 幡 神 社 世羅町宇津戸 尾道松江線世羅ICよ
り車で15分
善 法 寺 世羅町賀茂 尾道松江線世羅ICよ
り車で15分
康 徳 寺 世羅町寺町 尾道松江線世羅ICよ
り車で5分
山 中 福 田 世羅町山中福 尾道松江線世羅ICより
八 幡 神 社 田
車で20分
油 木 亀 鶴 山 神石高原町 福山駅 バス70分
八 幡 神 社 油木
鶴 岡 八 幡 神 社 神石高原町 山陽道福山東IC
下豊松
車40分
中国道東城IC
車30分
光 末 清 瀧 神 社 神石高原町 福山駅より中国バス
光末
西廻り油木行
「光末入口」下車,
徒歩10分
岩 屋 寺 の 山 門 神石高原町 福山駅より中国バス
小畠
西廻り油木行
「岩屋」下車,
徒歩10分
概
要
創 建 時 代 所要時間
(分)
不
詳 20 報恩寺観音堂安置の貞観彫刻,木造十一面観音像所蔵。
伝
822
30
弘仁13年弘法大師開基と伝えられる。収蔵庫に多数の寺宝
(国・県重文)を所蔵。
不
詳
10
社宝の戸張と太鼓は県の重文。
不
詳
20
古代人骨,古石塔
南 北 朝
10
県の天然記念物の社叢・懸仏
鎌
倉
10
南北朝時代の狛犬他
鎌
倉
10
県天然記念物の社叢
鎌
倉
10
室町時代の棟礼。
990 ~ 995
15
平安期作の阿弥陀如来坐像と薬師如来立像は県重文
1368
20
大田庄の遠望と県史跡の康徳古墳。
20
古くから土地の人々の崇敬を集める鎮守社。境内に県指定
天然物ウラジロガシの大木がある。
旧村社で,土地の人々の崇敬を集めている。
不
詳
902
10
延喜2年
(1058)
康平年中,相州鶴ケ岡八幡宮の分霊を米見山に奉斉。
治歴元年(1065)今の和部山に還座,元永(1118)再建八
ケ庄総鎮守で宝物亀甲石。
安土桃山
10
亨保2年
(1717)
10
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安土桃山時代に建立。
名工左甚五郎の高弟の作と伝えられる龍の突出彫刻があ
る。
小畠代官所が明治4年に廃止。その門が岩屋寺に寄進され
た。