所得格差と貧困

【6】所得格差と貧困問題
JICA 西田幸次
1
1.はじめに
2001 年末に勃発した社会・経済危機から 4 年半が経過し、死者 25 人を出した一時の社会
暴動は既に収まり、アルゼンチン経済は危機以前の状態に戻りつつある。しかし、その一
方で所得配分の不均衡は存在し、最上位 10%の平均月収が 1,823 ペソであるのに対して、
最下位 10%の平均月収が 50 ペソで、その格差で 36 倍である。世界銀行の調べによると、
アルゼンチンのジニ係数(所得の不平等を表す指標)は 52.2%と世界中で 19 番目に高く、
所得の最上位層 10%が全体所得の 38.9%を所有していることになる。また、失業率は低下
しているものの、実際には“ネグロ”と呼ばれる不完全就労者が増加しており、何らかの
職には就いているが不安定な低賃金労働者がその多くを占めている。加えて、国が発表す
る就業率に関するデータの中には、政府が実施する失業世帯主プログラムや家族プログラ
ムの受給者が含まれおり、これら社会プログラムの受給者を就業者とみなさなければ、失
業率は 15.7%になると言われている。この様に、アルゼンチンの経済回復は順調に進んで
いるように見えるが、その実態としては、貧困者の生活は依然として改善されず、こうし
た問題の影響として、治安の悪化、不法就労や児童労働の増加、教育、医療、福祉の不備
といった様々な社会問題が露見している。
表1.2003 年から 2005 年の経済状況
2003 年
実質 GDP 成長率
2004 年
2005 年
8.8%
9.0%
9.2%
名目 GDP 総額(ペソ)
3,759 億ペソ
4,476 億ペソ
5,322 億ペソ
(US ドル)
1,295 億ドル
1,531 億ドル
1,833 億ドル
3.7%
6.1%
12.3%
失業率
14.5%
12.1%
10.1%
貧困率
50.9%
42.3%
36.4%
極貧率
24.1%
16%
13%
消費者物価上昇率
経済省HP
1
JICA アルゼンチン事務所
企画調査員。
63
2.貧困ラインと極貧ラインの定義
2006 年 6 月の貧困ライン(夫婦と 2 人の子供が最低限必要とする生活費)は 856.86 ペソ
/月で、極貧ライン(同 4 人家族が生存のために最低限必要な食費)は 391.26 ペソ/月であっ
た。平均所得は 1 年間で 10.6%上昇した。
表2.貧困ライン、極貧ライン2の推移
2003 年月
2004 年 6 月
2005 年 6 月
2006 年 6 月
貧困ライン
704.27
723.31
778.31
856.86
極貧ライン
318.67
330.26
353.77
391.26
(出典:INDEC)
3.地域間格差
依然として貧困率、極貧率の地域間格差は大きく、2005 年下半期における地区ごとの平
均では北東部が貧困率 54%、極貧率 22.7%と最も高い。都市別では、北東部のコリエンテ
ス州コリエンテス市の貧困率 56.1%、極貧率 24.6%と最も高く、その一方で、南部のパタ
ゴニア地方は貧困率 21.5%、極貧率 6.5%と低く、中でもサンタクルス州のリオ・ガジェー
ゴス市の貧困率 8.9%、極貧率 1.7%である。また、首都ブエノスアイレス市を含む都市近
郊の大ブエノスアイレス圏の貧困率 30.9%、極貧率 10.3%であるのに対して、富裕層が多
く暮すブエノスアイレス市だけでは、貧困率 11.5%、極
貧率 3.2%と低下する。
2
アルゼンチンの“極貧ライン”は食料基礎バスケット[成人 1 人が 1 ヶ月生活するのに必要な
食料品(パン 6060g、肉 6270g、ジャガイモ 7050g など)を積算したもの]から算出するが、消費
者物価の変動のため、地域ごとに毎月設定される。また、“貧困ライン”には、食料品とそれ以
外に生活のために最低限必要な経費を勘案した総合基礎バスケットを用いて算出される。
64
4.所得分配の不平等
INDEC の発表によると、2006 年第 1 四半期の所得最上位 10%の平均月収が 1,823 ペソで
あるのに対して、最下位 10%平均月収 50 ペソで、その格差は 36 倍であった。ただし、最
下位 10%の月収範囲が 0~86 ペソであるのに対して、最上位 10%の月収範囲は 1,000~
15,000 ペソと広く、最上位層の中にもかなりの格差が存在することが伺える。また、上級
階層 20%が全体所得の半数以上 53.8%を占めているのに対して、全人口の 40%を占める中
級階層が全体所得の 34.9%を占め、残り 40%の下級階層は所得全体のわずか 11.2%を占め
るに過ぎない。
表3.2006 年第 1 四半期の階層 10%ごとの月収格差
階層
月収規模
平均所得
全体所得に占める割合(%)
最下位層との
(ペソ)
(ペソ)
0 – 86
50
1.0
1倍
第 2 位階層 10%
86 – 140
114
2.3
2.3 倍
第 3 位階層 10%
140 – 200
167
3.4
3.3 倍
第 4 位階層 10%
200 – 250
223
4.5
4.5 倍
第 5 位階層 10%
250 – 329
289
5.9
5.8 倍
第 6 位階層 10%
329 – 403
369
7.5
7.4 倍
第 7 位階層 10%
403 – 517
460
9.4
9.2 倍
第 8 位階層 10%
517 – 680
594
12.1
11.9 倍
第 9 位階層 10%
680 – 1,000
822
16.7
16.4 倍
1,000 – 15,000
1,823
37.1
36.5 倍
最下位 10%
最上位 10%
格差
LaNacion2006/06/17
ブエノスアイレス市の都市貧困居住地(Villa20)
ブエノスアイレス市の繁華街
65
5.社会問題の具体例
こうした貧困格差が治安の悪化、不法就労や児童労働の増加、教育、医療、福祉サービスの
不備といった社会セクターにおける様々な問題をもたらしている。以下、新聞紙上に掲載
された代表的な問題を紹介する。
① 治安の悪化
貧困格差と治安悪化の直接的因果関係を示すものはないものの、2001 年の経済危機によ
り一時的に首都ブエノスアイレス市の犯罪件数は増加し、その後、徐々に減少傾向にあっ
たのが、2005 年になって再び増加している。犯罪の特徴としては、ブエノスアイレス市南
部地域の犯罪が増加している。また、近年、特に高齢者の年金やタンス貯金、電気製品な
どを狙った強盗が増加している。加えて、暴力犯罪では、その加害者の 7 割、被害者の 5
割が若者であるとも言われている。
表4.2004 年と 2005 年のブエノスアイレス市の犯罪状況
犯罪別
2004 年
2005 年
119,037 件
116,568 件
127 件
129 件
38 件
47 件
強盗
68,917 件
70,303 件
窃盗(スリ、置き引き)
47,651 件
48,734 件
犯罪件数
殺人
うち、中心市街地での殺人
Clarín 2006/07/17
②“ネグロ”
(不完全就労者)の存在
INDEC の 2005 年第 4 四半期のデータによると、
“ネグロ”と呼ばれる、所謂、不完全就
労者が 488 万人存在する。“ネグロ”は若年層ほど多い傾向にある。
66
表5. 年代別労働者人口に占める
“正規登録労働者”の割合
表6.職種別“ネグロ”の割合
職種
年代
15 歳~24 歳
25 歳~34 歳
35 歳~49 歳
50 歳~59 歳
60 歳以上
“正規”の割合
32.1%
54.6%
61.4%
61.0%
50.7%
家政婦
建設業
ホテル、レストラン業界
私立学校
公立学校
金融関連
工業
“ネグロ”の割
合
97.7%
69.5%
56.5%
13.1%
17.5%
32.5%
25.0%
“ネグロ”の平均月収は 323 ペソで、正規登録
労働者の 3 分の 1 である。全労働者に占める“ネ
グロ”の割合が増加している。また、“ネグロ”
が増加しただけではなく、正規登録労働者と“ネ
グロ”との所得格差も広まっている。2005 年第
4 四半期の平均月収は 649 ペソで、正規登録労働
者の平均月収は 932 ペソ、
“ネグロ”のそれは 323
ペソであった。中でも最も所得が低い、家政婦
の平均月収は 226 ペソである。
La Nacion 2006/07/16
③ 児童労働の増加
NGO 団体のセーブ・ザ・チルドレンは、アルゼンチンにおける児童労働者の数がここ 7 年
間で 6 倍に増加し、現在、アルゼンチンでは約 150 万人の子どもが何らかの仕事に従事し
ていると発表している。
「世界的には児童労働者の数は減少している」と ILO(国際労働機
関)は報告しているが、2001 年末の社会・経済危機によりアルゼンチンの首都ブエノスア
イレス市だけでも児童労働者の数が 1,600 人~4,000 人は増加している。また、彼らのうち
半数はドラッグを使用しているとも言われており、その他、売春や幼児ポルノの犠牲にな
るなど多くの問題を抱えている(La Nacion2006/06/28)。
67
④ 教師の所得補助
亜国政府は、教職員の所得補助を目的に 1 億 3,120 万ペソ/月を各州に支出している。ま
た、11 の州では教員の給料が最低賃金である 840 ペソに達するように、更なる給与補填を
行っている。ミシオネス州やフォリモサ州など教員の給料が低い州では 40%以上が国によ
る給与補填で賄われている。1992 年には学校に関する地方分権化が行われ、教員の給与は
各州の負担となったが、今日では所得の地域間格差が拡大し、中央政府の教員への所得補
助の額は年間で 15 億 7,400 万ペソになる。これらの予算は、本来ならば教員の給与補填の
ためではなく、教育の質向上のために使われるべきものである。(La Nacion 2006/06/13)
⑤ 看護士の不足
首都および地方において 5,500 人の看護士が不足し、また、その高齢化が進んでいる。そ
の理由として、手当の安さや重労働が挙げられる。その人の経験や技能によって異なるが、
首都の看護士の給料は 1,100 から 2,000 ペソ/月と決し安くはないが、仕事は激務である。看
護の仕事だけではなく、事務の仕事もこなさなくてはならない。多くの看護士が重労働や
長時間労働による疲労と体調不良を訴えている。看護士の労働条件と育成のための教育制
度の改善が必要である。
(Clarin2006/04/06)
6.アルゼンチン政府の取り組み
こうした問題に対して、2001 年末の経済危機以降、亜国政府は様々な貧困対策プログラ
ムを実施してきた。その代表的なものが以下の 3 つ、①食糧プログラム(Plan Nacional de
Seguridad Alimentaria)、②失業世帯主プログラム(Plan Jefes y Jejas de Hogar Desocupados)、③
家族プログラム(Plan Nacional Familia)である。
① 食糧プログラム(Plan Nacional de Seguridad Alimentaria):14 歳以下の子どものいる家族、
妊婦、栄養失調者、身体障害者、社会的に不利な環境に居住している栄養不良の高齢者
を対象とし、2003 年 7 月より各州政府に予算が充当されスタートした共同食堂への食料供給
プログラム。
② 失業世帯主プログラム(Plan Jefes y Jejas de Hogar Desocupados:本プログラムは、経済危
機が勃発した直後の 2002 年 1 月、
“失業緊急事態”に対処する解決策として、大統領令
により発足される。世帯主が失業中で貧困状況にありかつ 18 歳以下の子どもがいる者、
家長が病気の配偶者などに対して、一定期間の労働奉仕の臨時の雇用を提供することを
目的とする。
68
③ 家族プログラム(Plan Nacional Familia):18 歳未満の子どもが 3 人以上いて、世帯主が失
業中の家庭を対象に無償補助金を付与し、未成年の子どもたちを教育制度に参加させる、
健康サービスを受けるように促進する目的で、生活費の一部を補助する。
表6.社会プログラムの概要
食糧プログラム
失業世帯主プログラム
モニタリング・評価システムが
170 万人から 2006 年には 30
24 万人(2004 年)
なく、受益者数、食糧の受領回
万人に削減予定
55 万人(2005 年)
期間
数、内容を確認できない。
2007 年には終結をめざす。
期限なし
予算/年
US$2,000 万
US$7.8 億
US$6.8 億
(2005 年 ま
(世銀:US$870 万、その他の外
(世銀:US$6億、
(IDB:US$3.48、国庫:US$0.68
で)
国融資:US$1,100 万)
国庫:US$1.8 億)
億、その他、US$2.28 億)
プログラム名
対象人数
家族プログラム
予 算 (2006 年
IDB:US$7億
から 3 年間)
国庫:US$3 億
失業世帯主プログラムの不正受給が、今日、社会問題の一つ問題となり、2005 年の政府
方針では、これらのプログラムの中で危機後の緊急処置的色彩の強い失業世帯主プログラ
ムに対して、その受給者を失業している母親を対象とする家族プログラム、または雇用創
出を目的とした起業に必要な投入財および機材購入のための融資計画“Manos a la Obra”プ
ログラムに移行し、当プログラムを徐々に解体していくことを発表した。
7.アルゼンチン NGO の取り組み3
亜国の NGO に関する情報収集を行っている(CENOC):全国市民団体センターには、2005 年 7
月までに 12,824 の団体が登録されている。NGO 活動は都市に集中しており、全体の 25.2%
が大ブエノスアイレス圏にある。また、法人資格を取得している NGO は、全体の 64.3%で
しかない。活動分野別に見ると、社会開発分野における基礎支援(食料や衣類など最低生活
必需品の直接援助)が最も多く、全体の半数を占める。残りの半数は医療サービスと教育分野が
ほぼ同じである。この他、亜国の NGO 活動は国の経済活動や雇用の増大に重要な意味を持
っている。NGO 活動が創出した雇用者数は、2000 年の 7 月で 46 万人以上になる。
3
『アルゼンチン NGO セクターの概要』:NGO-JICA ジャパンデスク 2005 年
69
8.他ドナーの貧困問題に対する協力
(1) 米州開発銀行
貧困削減、人的資本構築および持続的かつ包括的な社会開発の促進を基本とした
①社会的セーフティネットの構築、②教育、③保健、④住居と基礎的な下水設備
へのアクセスに取り組んでいる。
(2) 世界銀行
社会緊急プログラムから雇用創出への移行とセーフティネットの形成
(3) EU
社会的結束と貧困の撲滅
① 保健:プライマリー・ヘルスケアの強化、母子保健、保健事業の地方分権化
② 教育:貧困地域の教育改善、未成年の職業訓練
③ 司法:人権、司法情報
(4) UNDP
①ガバナンス強化
②社会開発
③環境・持続的開発
④生産開発
9.JICA の協力
2006 年現在、JICA 国別事業実施計画では、「南南協力支援」
、「環境保全」、「社会開発」、
「経済開発」を重点分野としている。特に、中南米地域共通の課題でもある所得格差是正
に向けた取り組みとして、人間の安全保障を念頭に置き、貧困層を対象として活動してい
る NGO の CD(キャパシティ・ディベロプメント)支援、少数民族を対象とした生活向上支援、
保健衛生と生産活動を総合的に支援するもの、地方のみならず都市の貧困住民組織化支援
等の協力を展開している。具体的な協力は以下の通りである。
70
① 技術協力プロジェクト「草の根からの市民社会強化プロジェクト・フェーズⅠ
(PCM)」:2004~06 年
②
〃
「草の根からの市民社会強化プロジェクト・フェーズⅡ(マイクロ
ファイナンス)」:2005~07 年
③
〃
「トバ族共同体生産開発計画プロジェクト」:2002~05 年
④
〃
「先住民を通じた持続的森林資源利用プロジェクト」2006~09 年
⑤
〃
「地方貧困地域の住民組織化」
:2006~09 年
以
71
上