魔法少女、辞めます - タテ書き小説ネット

魔法少女、辞めます
萩鵜アキ
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
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︻小説タイトル︼
魔法少女、辞めます
︻Nコード︼
N8409BZ
︻作者名︼
萩鵜アキ
︻あらすじ︼
主人公紅彩芽は、魔法少女を辞めたい三十歳独身女性。
燃えよ鉄拳! 砕けろリア充!!
結婚したい魔法少女少女、紅彩芽が立ち向かう。
酒と魔法と結婚願望。
1
プロローグ
﹁あたし、普通の女の子になる﹂
彩芽の言葉で、事務所の中が静まりかえった。
彩芽のマネージャーである鈴木が短く咳払いをして、口を開く。
﹁⋮⋮と、言いますと?﹂
﹁普通の女の子よ﹂
だって言ってんだろうが! という言葉を飲み込む。女の子にな
ると決めた以上言葉使いには気をつけなければいけない。
﹁つまり、この事務所を辞めると?﹂
彩芽は無言で頷く。彩芽は普通の女の子に戻ることを決意した。
いろ
この結論を出すまでには長い年月が必要だった。花の十代を素通り
し、大人としての艶を帯びる二十代を費やした、それは決意である。
普通の女の子になるための道筋だって、彩芽は諳んじられる。魔法
は使わないであるとか悪魔とは戦わないであるとか、脅されたら怖
がること︵ここ数ヶ月悲鳴の練習もした︶。それに、清く正しい言
葉使いも大切だ。
中でも一番重要なのが、結婚をすることだ。
恋愛結婚がベストだが、円満な家庭を築けるならば、多少譲歩し
ても良いと思っている。
﹁女の子っていっても⋮⋮﹂
﹁ご不満がおありのようで﹂
鈴木がこめかみに脂汗を浮かべていた。あたしが女の子だと口に
してはいけないと? 喧嘩を売っているのか? ︱︱といけないい
けない。ここは自分を抑えなければ。
﹁女の子という言葉に引っかかりを覚えるなら、あたしが魔法少女
と呼ばれ続けているのもおかしな話しじゃない?﹂
斬り返すと、鈴木が苦笑を浮かべた。その反応も彩芽は腹立たし
い。どうせあたしは今年で三十路ですよ。三十路のババアなのに魔
2
法少女とか呼ばれてますよ。だからそれを良い加減辞めましょうっ
て話してんじゃん。あー、思い切り机に拳を叩き付けたい。けど、
それはNGだ。女の子は暴力を振るわない。
﹁しかし、それだと困るんですよ﹂鈴木が言う。﹁いま、一番重要
な時期でして﹂
重要? ⋮⋮って危ない危ない。聞いたら間違いなく戻れない。
気付いたら悪魔討伐隊の陣頭指揮を執ってるはめになる。目の前に
いるこのがりがりメガネは、頼りなさそうに見えるが彩芽に付いて
るだけあってマネージャとしてはかなりの腕を持っている。何度彩
芽は彼の口車に乗せられて、悪魔討伐に向かわせられたことか。
﹁こんにちわぁ﹂
事務所の扉が開いて、ドロドロに溶けた甘々の脳味噌ごとゲロゲ
ロ吐き出すような声が聞こえた。事務所に現れたのは見覚えのない
少女だった。彩芽は初めて顔を見るから、おそらく新人だろう。年
齢は、中学生くらいか? ずいぶん若く見える。
少女はノーメイク風メイクをした黒髪ロングで、パステルのワン
ピースを着ている。スカート丈は膝下十センチ。いかにも清楚に見
ビツチ
えるが、胸のボリュームはあるのに胸元が緩いワンピを選んでいる
あたり、無垢な少年を飼い殺す操作系女子だろう。出雲大社に飾ら
れる特大の注連縄みたいに、性根はねじ曲がっているに違いない。
理不尽な嫉妬に燃える彩芽の真っ黒い色眼鏡を通した見解はさて、
何パーセント正しいものか。
その少女が彩芽の顔を見るなり、目を見開いて背筋をびしっと伸
ばした。彩芽の座るソファまで小走りで近寄り、深々と頭を下げる。
﹁も、もしかして紅彩芽さんですか?﹂
﹁ええ、そうだけど﹂
﹁初めまして! わたし、先月から事務所に所属しました、如月雫
と申します。十五歳です!﹂
⋮⋮⋮⋮。
﹁紅さん?﹂
3
鈴木の声に彩芽が我を取り戻した。
十五歳と聞いて、反射的に事務所を吹き飛ばすところだった。
如月と名乗る少女が彩芽に手を伸ばす。差し出された手を彩芽は
軽く握る、
手は小さくてすべすべとしていて、柔らかくて、可愛らしい。
いかにも握り潰しやすい手だ、という彩芽の感想はもはや嫉妬一
色に染まっている。
﹁はぁぁぁ!﹂如月が吐き出した息は頭のてっぺんで悲鳴のように
掠れた。﹁あの大魔法使いの紅さんとこんなにも早く出会えるなん
て、わたし、感激です!﹂
﹁そ、それはどうも﹂
間違いない。この子は素直で良い子だ!
彩芽の評価が百八十度回転した。
そらなき
﹁わたし、先輩に憧れてこの事務所に入ったんです﹂如月は胸に手
を当てて続ける。﹁十年前の空亡との空中戦。いまでも思い出すだ
けで痺れます!﹂
空亡という言葉に、彩芽の表情が如実に反応した。
あれは二度と経験したくない戦いだった。破壊するたびに増殖す
る無など、思い出すだけでも恐ろしい。
﹁よくあれを見られたわね﹂
参戦していなくても、素人が見れば卒倒しそうなほど苛烈極まる
戦いだったはずである。十人居た攻撃部隊は壊滅。空亡との戦いで
攻撃役を務めて生き延びたのは、彩芽だけだった。それに、一般人
は悪魔と対戦している場所︱︱結界の内部には足を踏み入れられな
い。この子はどうやってあの戦いを見られたのだろう?
彩芽の言葉を勘違いした如月は﹁そのころから、魔法少女の素養
はあったみたいなんです﹂とはにかんだ。
素養があるだけでは、結界の中に足を踏み入れることは不可能で
ある。能力の一部が発現し、なおかつそれをある程度コントロール
できるようでなければ、魔法少女の戦いは見られない。つまり、こ
4
の子は十年前から、魔法少女の力を有していたということか。
﹁五才の頃の記憶なんで、ところどころあやふやなんですけどね﹂
⋮⋮⋮⋮。
彩芽の評価が音を立てて回転を始めた。
﹁ねえ鈴木。重要な時期って、どうせ悪魔のことでしょう? それ
ならこの子に頼めばいいんじゃない?﹂
﹁またまた、冗談を︱︱﹂
鈴木は口を斜めにした。それに対して彩芽は首を振る。
﹁冗談じゃないって﹂
﹁え? 本気なんですか?﹂
﹁悪魔のことって、なんのお話しですか?﹂
﹁そろそろ悪魔が現れるらしいのよ﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁おそらく。鈴木が前もって準備を始めてるくらいだから、強い悪
魔なんでしょうね﹂
﹁強い、悪魔⋮⋮。それを、わたしが担当するんですか?﹂
﹁そうよ。詳しくは鈴木マネージャーから聞いて﹂
﹁は、はひ! がんばいましゅ!﹂
本当に彩芽に憧れているのだろう。彩芽から仕事を︵なかば強引
に︶依頼された如月の勢いが、壊滅的な呂律となって現れた。
﹁ちょ、ちょっと待って下さい、紅さん﹂
﹁いいじゃない。エリート少女なんでしょう?﹂
十年も前から力をもっていたということは、潜在能力が高く、ま
たそれを自在に操る器用さも兼ね備えた、エリート少女だというこ
とだ。
エリートという彩芽の発言に、鈴木と如月が二者二様の表情を浮
かべる。
﹁とにかく、その子を鍛える意味でも、参戦させたほうが良いと思
う。簡単な仕事ばかりをこなしているようでは、いつまでも力はつ
けられないわ﹂
5
死にそうになるような戦いを経験して、死にたくなるような失敗
をして、酒を煽って過去を忘れて明日に臨むことだけが、魔法少女
として強くなる近道だ︱︱と、彩芽は考える。
﹁ですが、いくらなんでもそれはスパルタではないでしょうか?﹂
﹁スパルタにする必要はある。そうでしょう?﹂
彩芽が抜けた穴はなにかによって埋められなければいけない。こ
れが巨大な事務所であれば、時間をかけて新人を育成することがで
きるが、この事務所︿ティーンズ・マジック﹀は違う。在籍四十名
しかいない弱小企業だ。その中で魔法少女は五人。彩芽が抜ければ
四人だ。能力的な評価はさておき、彩芽が抜ければ単純計算で戦力
が八十パーセントに縮小されるのだから、新人の育成は喫緊の課題
であることに間違いはない。
﹁あの、紅さんはその戦いに参加されないんですか?﹂
大きな歓びと、ほんの僅かな不安を抱くような表情で、如月が彩
芽の顔をのぞき込んだ。
﹁うん、あたし、それには参加できないの﹂
家から遊具を持って現れる主人を待つ子犬のような、強力な誘引
力を秘めた視線を振り払って、彩芽はソファから立ち上がる。
﹁あたし、魔法少女辞めるから﹂
6
第一章 魔法少女、育てます 1
事務所からの帰り道に、彩芽はスーパーに立ち寄った。自分の思
いを伝えることは、想像していたよりストレスが溜まる。十年以上
も一緒に悪魔と戦い、死線を乗り越えてきた鈴木を相手に離別の言
葉を伝えたのだ。ストレスにならないわけがない。
魔法少女を引退するという行動が﹃逃げ﹄と捕らえられてしまう
んじゃないか。そんな後ろめたい気持ちもある。
もちろん、普通に考えればそれは逃げではなく限りなくポジティ
ブな選択だ。しかし、そうは思わない心の狭い奴も、中にはいるか
もしれない。
﹁はぁ﹂
彩芽は深いため息をつきながら、スーパーのとある棚の前に立ち
尽くす。
﹁今日はなにを飲もうか⋮⋮﹂
棚に並んでいるのは、四合から一升までの酒瓶︱︱日本酒である。
そのラベルのいずれも、一般人が読むには苦労する漢字ばかりが印
字されている。
﹃夢滴﹄、﹃旭扇﹄、﹃浦霞﹄、﹃上喜元﹄、﹃當選﹄、﹃〆張鶴﹄
。
どの酒にするか。先ほどまで頭の中を埋め尽くしていた事務所で
の出来事は、綺麗さっぱりかき消えて、いまは日本酒のことしか考
えていなかった。
辛口か、甘口か、山廃か、原酒か、吟醸か、大吟醸か。
三十分悩んだ挙げ句、彩芽は北秋田の四合瓶をセレクトした。当
然、お酒には肴がつきものである。おまけに七色納豆を籠に入れて、
彩芽はレジに向かう。
﹁年齢確認のできる証明書の提示をお願いします﹂
ここのスーパーでは毎回、必ずといっていいほど身分証を求めら
7
れる。いや、ここのスーパーだけではない。どのお店にいっても彩
芽は、何故か二十歳未満だと間違われる。たしかに、体のラインは
中学生から変化せず、身長はといえば小学六年生から無変動だ。圧
倒的年下である如月のほうが背が高い始末。セーラー服を着れば中
学生に間違われるほど童顔でもある。
しかし、しかしだ。三十にもなってお酒を買うのに毎回身分証を
求められたら、さすがに呆れてしまう。顔を覚えてくれれば、いつ
かパスしてくれるだろう。そういう思いから、彩芽は毎回このスー
パーで酒を購入しているのだが、いまのところ効果はない。
嬉しいやら哀しいやら、心の中で涙を流しながら、彩芽はマイバ
ッグに今夜の酒と肴を放り込むのだった。
店を出てすぐ、彩芽の鋭敏な感覚がかすかな違和感を察知した。
敵?と考えて、打ち消す。あたしはもう関係ない。普通の女の子に
なるって決めたんだ。関わらないぞぉ!
マイバッグに入れた日本酒と酒の肴を胸に抱え、道路に視線を落
す。関わらないぞという思いが、彩芽の足を早回しにする。
突如、なにかが彩芽に飛来した。
︱︱魔弾!?
彩芽の体に刻み込まれた戦闘の記憶が、無意識のうちに魔力の衝
撃を寸前のところで分散させる。しかし、不戦の決意が仇となった。
体は無傷だったが、その胸に抱えた北秋田と七色納豆が、マイバ
ッグとともに、無残な姿となって道路に飛び散った。
﹁ギ、ギィ﹂
電信柱の影から、すっと黒い気が膨れあがる。それは風船のよう
に膨らみ、ある一定の大きさで停止した。人間の子どもと同じくら
いの背丈で、やや猫背ぎみの黒い塊。それは悪魔や使い魔が偵察の
ために生み出す魔塊だった。
目の前の魔塊からは大きな力が感じられない。おそらく、あの如
月でも、目を閉じたまま消し去ることができるだろう。しかし、そ
の放たれた魔弾からは、そこそこの魔力が感じられた。おそらく普
8
通の人間を気絶させるだけの威力があるはずだ。
人間が沢山いる場所に現れれば、被害者が出るかも知れない。と
はいえ、無視できないこともない。周りに人間の姿はないし、重要
な建物が近くにあるわけでもない。
放置はできる。
︱︱しかし。
﹁あ、あたしの⋮⋮﹂
彩芽は地面に膝を突いたまま、呻いた。その目から、止めどなく
涙があふれ出る。
酷い。こんなのって、ないよ。
あたし、頑張ったよね? 今日、頑張ってたよね? だから、自
分へのご褒美を、楽しみにしてたのに⋮⋮。
﹁う、うう⋮⋮ぐずっ﹂
揮発を続けるアルコールの香り漂う公道の隅で一人、彩芽は涙を
こぼし続けた。
﹁ギ、ギギ?﹂
彩芽には背後に忍び寄る黒い影のことなど、一ミリも頭の中にな
かった。
そのときまでは⋮⋮。
これを、壊した奴は、誰だ?
﹁ギ!?﹂
二つのボンボンを頭のてっぺんから垂らした、まるで子どもが道
化を真似た衣装を着ているようなかわいらしさのある魔塊が、止ま
った。
道ばたから突如吹き上がる獰猛な魔力に、一匹の魔塊が耐えきれ
ず飛ばされる。
今日出会い、夜をともに過ごそうと決意した相方を、こんなとこ
ろで失うなんて。
絶対に、許せない。
彩芽は止まらなかった。
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止められなかった。
己の力を。
﹁精米歩合五十%。大吟醸。辛口﹂
宴を夢見た友人を、目蓋の裏に思い出し、彩芽は低く呟いた。
﹁ギギィッ!︵こいつやべぇよ!︶﹂
﹁ギ、ギギ?︵こいつ、なにものなんだ?︶﹂
﹃ギ﹄としか発音されない彼らの言葉が、彩芽の脳内で言葉として
変換される。
魔塊の言葉を理解できる。それは十数年の魔法少女生活により、
身についた特技。あるときはそこから、悪魔の計画の糸口を掴み、
またあるときは敵の布陣を掴んだ。そして今回、それらが仇となる。
﹁ギィィギィ!︵ビビってんじゃねぇよ!︶﹂魔塊が叫ぶ。﹁ギギ
ギ︵みんなでかかれば一発だ︶﹂
﹁ギィ?︵できるのかよ?︶﹂
﹁ギッギギ︵できればご褒美もらえるかも︶﹂
﹁ギイィィ!︵マジッスカ!︶﹂
魔塊が手を伸ばし、その先から魔力を放出した。
体が逃げだそうとする。しかしそれを意識的に拒否した。
戦っちゃだめだ。戦っちゃだめだ。戦っちゃだめだ。
あたしは、普通の女の子に戻るんだから。
隣で友が砕け散ろうとも、女の子はこういうとき、やられなきゃ
だめなんだ!
血の涙を流す彩芽の肩口に、魔弾がぶつかった。
﹁⋮⋮﹂
魔弾がぶつかった。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
魔弾がぶつかりましたよ?
﹁きゃ、きゃぁ﹂
悲鳴は衝撃から三秒遅れた。やや棒読みになってしまったのは、
衝撃がまるでなかったからだ。驚くほど痛くない。あ、そうか。魔
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力を出しっぱなしにしてたんだっけ。
﹁ギ?︵なんだ、こいつ?︶﹂
﹁ギィィ⋮⋮︵キャアって⋮⋮︶﹂
﹁ギギ︵まじキメェ︶﹂
﹁ギィギィ︵年考えろよ︶﹂
﹁殺す!!﹂
どす黒い魔力が彩芽の体から迸る。消火栓を吹き飛ばしたかのよ
うな魔力の本流に、また一匹、耐えきれぬ魔塊が吹き飛ばされた。
﹁友人を破壊し、あまつさえ、女の子に言ってはいけない言葉を口
にした⋮⋮。あんたらに、今日を生きる資格はない!﹂
右手を伸ばし、力を集め、法を編み、術を形成する。
黒光る先端が空中に出現し、空の右手に向かって黒の凶器が伸び
ていく。
具現させたのはガトリング。モデルはGAU−17/A。ミニガ
ンと呼ばれるそれは、手で持つにはあまりに大きすぎる。しかし、
彩芽はそれを右手だけで抱える。
魔術で生み出したガトリングに、重みなどない。
あるのは相手を屈服させる、純粋な力だけだ。
彩芽がガトリングに、左手を添えた。
その瞬間、爆音が茜色に染まる街の空気を引き裂いた。
﹁死ね死ね死ね死ね死ねぇぇぇ!﹂
女の子ならば決して口にしない言葉を、いきり立った彩芽は叫び
続けた。
彩芽の脳内にはもはや、普通の女の子に戻るなどという言葉や意
志は微塵も残っていなかった。あるのは親友︵酒︶を失った瞬間の
喪失感と、それを満たす爆発的の敵意だけである。
逃げ惑う魔塊が一つ、また一つと彩芽の魔弾によりかき消されて
いく。
魔力でモデリングされたガトリング、そこに込められる魔弾。そ
れらが生み出す豪雨の如き苛烈な暴力が魔塊を追い詰める。
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魔法少女界において彩芽の名が知れ渡っているのは、このモデリ
ング発想によるところが大きい。人間の火器をモデルにした魔術が、
﹃魔法は連射できない﹄﹃攻撃魔法は魔力の消費が大きい﹄という
魔法の常識を覆したのだ。
ガトリングの速射性と、そのものの持つ火力をイメージに上乗せ
することで生まれる破壊力。力を一極集中して放つため、用いる魔
力も最小限に抑えられる。まさに雑魚を蹴散らすにはもってこいの
優れものである。
﹁ギィ︵マジヤベェよ︶﹂
魔塊が一匹、彩芽の魔法効果範囲の外に逃れた。他魔塊の殲滅は
攻撃開始から一秒以内に終わっている。敵の残数を確認して、彩芽
はガトリングを消した。
彩芽は静かに、舌なめずりをする。ここまでは想定内。魔塊は必
ず、それを生んだ親の元に戻るだろう。そこを捕らえてやる。
彩芽は忍び足で魔塊の後を追う。同時に空間に魔力を溶け込ませ
る。魔力は空気に混じり、薄まり、姿を消す。よほど強い悪魔が相
さけ
手でない限り、この魔力は察知されないだろう。
彩芽はいま、全力だった。全力で、自らの友を殺した犯人を追跡
する、女の子でも女性でもなく、破壊に飢えたハンターだった。
魔塊を追ってたどり着いたのは、一件の酒蔵だった。
さすがに酒蔵の敷地内に足を踏み入れるのには勇気が要る。だが、
相手は彩芽の日本酒を破壊するという、重罪を犯している。このま
ま見逃す義理はない。
彩芽は恐る恐る酒蔵の中をのぞき込む。
酒蔵の内部はその温度に同調するように、しんと静まりかえって
いた。冷たい空気に混じって、甘い酒粕の匂いが鼻孔を潜る。その
匂いにより、失った友の無念が増長していく。
︵早く犯人を見つけて、殺さなくっちゃ♪︶
新作のコートを購入した帰り道、家での試着を楽しみにする女性
のような可愛らしい願望の如く、彩芽は胸中で殺意を呟く。
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ステンレス製の大きな樽の近く。彩芽が張った網に、別の魔力が
触れる。見つけた。魔塊の親だ。
この魔力の波形。覚えがあるような気がする⋮⋮。彩芽は首を捻
る。
魔力の波形には人それぞれ個性がある。悪魔にももちろんある。
視界不良の戦地での対戦の場合、この波形が敵と味方を認識する大
切な指標となる。また、逃した敵を追跡するためにも波形は重要で
ある。
彩芽が察知した先にあるその波形は、たしかに身に覚えのあるも
のだった。魔力の弱さからいって、強い悪魔ではないが⋮⋮、さて、
誰のものだったか? 過去の悪魔との記憶を掘り起こすが、一向に
思い出せない。
しかし、とりあえず仇は見つけた。この無念を全力でぶつけるべ
き相手がそこにいる。歩みを止める理由は他にない。
彩芽はゆっくりと、それでいてしっかりとした足取りでその場所
へと向かった。
﹁だぁれ?﹂
酒蔵の、米麹を発酵させる部屋に近づいたとき、向こう側から声
がかかった。気付かれた? 彩芽は内心驚いた。まさか、隠蔽した
魔力の網を感じ取ったのか?
﹁殺気が漏れてるよ﹂
魔力の操作は一流だが、殺気の抑えは利かなかった。ふぅ、と息
を吐き出して、彩芽が部屋に踏み入る。
﹁あんたがあたしの酒を壊した魔塊の親玉ね﹂
酒蔵の薄暗がりの中から浮かび上がった使い魔の姿に、彩芽は息
を呑んだ。
そこには、少年が居た。少年がクレヨンで描いたような少年の絵
をそのまま空間に落とし込んだような姿の、使い魔だった。完全で
はない、不完全な使い魔。レベルは低級だ。彩芽ならば居眠りをし
ていても浄化させられるだろう。しかし、この親は、誰だ? 相手
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が使い魔であれば、そいつを生み出した親は必ずどこかに居る。使
い魔が魔塊を生み出したように。だが、彩芽の鋭く研ぎ澄まされた
感覚に、その親らしき存在はヒットしない。
﹃いま、一番重要な時期でして﹄
もしかして、原因はそれ? 鈴木の言葉が頭の中をよぎり、すぐ
さま頭を振る。あたしには関係ない。それよりいまは、仇を討たな
ければ。
﹁お酒って、なんのお話? 楽しいお話し?﹂
知能は少年と同等なんだろう。目を瞑ると人なつこい人間の少年
が脳内で連想される。しかし、目の前に居るのはクレヨンの落書き
︱︱己の存在を現実に定着させられなかった低級の使い魔だ。
﹁楽しい話しではないわね﹂
﹁なぁんだ。でも、いいよ。ぼく、おばさんの話を聞きたいな﹂
頭の中でなにかが弾ける。
静かで、淀み一つない笑顔。絢音の表情に、少年は後ずさる。
﹁お、おばさん、なに?﹂
﹁そこから動かないで。じっとしていてね﹂
﹁ちょ、ちょっと来ないでよ!﹂
少年の体から紫色の光が浮かび上がり、弾けた。光の飛沫が数十
の弾となり、彩芽に接近。炸裂した。
だが、彩芽は歩みを止めない。生み出された魔弾のエネルギーよ
りも強大な魔力を纏った彩芽には、ダメージなど通らない。少年の
攻撃は、辛うじて彩芽の魔力の一片を抉っただけ。しかしその程度
の欠落はすぐに再生される。
﹁お姉さんの言うとおり、じっとしていてね﹂
お姉さん、という部分だけかなり強調した彩芽が、ついに少年の
目の前に立った。少年はすでに動きを封じられている。彼が魔弾を
放った瞬間から彩芽は、圧縮した魔力を彼の周りの空間に常駐させ
ている。いうなれば、使い魔はいま目に見えない壁に挿まれている
のと同じ状態になっている。
14
彩芽は右手を堅く握り、体内で生み出した魔力を拳に集中させる。
﹁お米生産農家と、大自然の天然水と、酒を仕込んだ職人に︱︱﹂
ィィィィィン。
極限まで圧縮された魔力が彩芽の右拳で高音を響かせる。
﹁︱︱土下座して詫びな﹂
少年の襟と思しき場所を、彩芽は左手でがっちりと掴んだ。少年
は藻掻くが、大量の魔力を込めた左手からは逃れられない。
かなる
彩芽は、全力で右拳を付きだした。
﹁︿鹿鳴﹀!!﹂
少年に、魔法の帯びた拳が当たる。
︱︱刹那。
音が死んだ。
数万人が住む街の一番端で生じたこの魔力爆発を、おそらく日本
中の魔法少女が大気の震えとして体感したに違いない。
低級の使い魔を殺すにはオーバーすぎる魔力が、小さな酒蔵から
消滅したころ、何者かにより彩芽は肩を思い切り掴まれた。
﹁︱︱っ!?﹂
突然の出来事に、彩芽は体を強ばらせる。攻撃に備えて障壁を張
るが⋮⋮。
﹁おめぇ、ここでなにしてんだ?﹂
肩を掴んだのは、帽子を深々と被ったおじさんだった。紺色の繋
ぎを来て、長靴を履いている。腰にかけられた手ぬぐいには、この
酒蔵の名前がプリントされている。おそらく︱︱いや、間違いなく、
このおじさんはこの酒蔵の従業員だ。
おじさんから魔力の欠片も感じないことに、彩芽は大いに安堵す
る。敵じゃなくてよかった。
﹁ほら、答えろ。酒蔵んなかでなにしてんだ?﹂
酒泥棒だと思われたのか、おじさんの声には怒気が孕んでいる。
﹁いえ、あたしは⋮⋮﹂なんて答えればいいんだ?﹁ちょっと道に
15
迷ってしまって﹂
﹁道に迷ったからって、酒蔵に入るってか?﹂
﹁いえ、それは⋮⋮﹂
悪魔を退治していまして、なんて言えない。というか、言っても
信じてもらえない。警察の厄介にはなりたくないなぁ。そう考えて
いると、おじさんの背後から見慣れた痩せた男性が現れた。
﹁すみません。僕と待ち合わせをしていたんですよ﹂
突如現れたがりがりメガネは、マネージャーの鈴木だった。
﹁すぐに出て行きますので。お騒がせして、申し訳ありませんでし
た﹂
鈴木が人差し指を立てる。その先端から弱い魔力が、おじさんめ
がけて放出される。おじさんは魔力に当てられ、目の焦点がずれた。
おそらくおじさんは夜眠り、朝目覚めると、今日のこの出来事は
夢になっているだろう。こういう様にして、魔法少女は現実から隠
蔽される。
﹁お疲れ様です﹂
がりがりメガネがにっこりと微笑んだ。この笑顔で、この言葉を
聞かされると、どうしようもなく安堵してしまう。それはおそらく、
苛烈な戦いの後でも同じように、こうして向かえてくれた経験があ
るからだろう。
同じ経験は安心をもたらすもの。決してこの男に安心しているわ
けじゃない。彩芽はそう言い訳をする。
﹁魔法少女はやめるんじゃなかったんですか?﹂
﹁やらないつもりだったわ﹂
﹁普通の女の子に戻るって﹂
﹁そうよ。けど、暴漢に襲われて⋮⋮﹂
﹁暴漢?﹂
﹁ま、魔塊にね﹂
﹁なるほど。だから仕方なく、使い魔を消したと﹂
﹁ええ﹂
16
﹁戦艦大和も青ざめるような魔法で?﹂
﹁う⋮⋮﹂
普通の女の子はそんな力をもってません、みたいな目つきで見ら
れると、臆病な言葉が喉の奥に引っ込んでしまう。というかこの男、
なんで使い魔が低級だったってわかってるんだろう? 見ていたの
か?
﹁ひとまず、今日のところはこれで。本当なら家まで送っていかな
きゃいけないんでしょうけど。まだ仕事が残っていますので﹂
別にお前に送ってもらいたいとは思ってない。その言葉を出す前
に疑問が口を突く。
﹁仕事?﹂
﹁さるお方が、新人魔法少女を使えって言うものですから、今後の
方針の作成し直しを余儀なくされまして﹂
﹁ああ。あたしの一言であの新人⋮⋮如月雫っていったっけ? を、
編入させるつもりなの? 本当に?﹂
﹁本当ですよ。紅さんの言葉ですから﹂
あたしの言葉をそこまで重く受け取らないでほしい。彩芽は内心
ため息をつく。
﹁紅さんが戻って来てくれれば、楽なんですけどねぇ﹂
﹁あたしはやりませんからね。あなたはお猿さんの言うことを信じ
て、せいぜい仕事に励みなさい﹂
﹁紅さんは、本当に辞められるのですか?﹂
﹁ええ。妹の言葉も⋮⋮あるし。これからは普通の女の子として生
きて、普通に結婚します﹂
﹁相手は居るんですか?﹂
﹁死にたいの?﹂
彩芽の言葉で、鈴木は額に脂汗を浮かべた。
﹁いや⋮⋮。結婚の心配なんてしなくても、僕が貰ってあげるのに﹂
﹁それは絶対に嫌﹂
友達と呼べる人間は何人かいるが、それは決して同じ職業の人間
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ではない。同じ職場では友達なんて作れないし、友達と呼べない。
それと同じ理屈で、職場恋愛だって、無理だ。誰しも自分とは友達
になれないし、結婚できるものではないのである。
拒絶を示すと、﹁それは残念﹂と残念だとは微塵も思っていない
口調で鈴木は言い、闇の中に姿を消した。
いつも思うけど、どうやって空間を移動しているのか? 魔法で
はあるんだろうけど、彩芽にも鈴木の魔法の理論がわからない。教
えてもらえたとしても転移魔法は使えないだろう。彩芽の魔法が彩
芽にしか使えないのと同じように。
18
第一章 魔法少女、育てます 2
携帯が鳴ったのは、家に帰ってシャワーを浴びてからだった。
﹃こんばんは。彩芽、またなんかやったでしょ?﹄
﹁う、うん﹂
素直に答える。電話の相手、聡美は元魔法少女で、昔はともに戦
った経験もある。いまでは仲の良い友人だ。
聡美は結婚を理由に、十年前に魔法少女を引退した。いまでは一
児の母である。
﹁大丈夫だったの?﹂
心配したんだよ、みたいな言葉をかけられるが、本心かどうかは
怪しい。どうせまた、ここから自分の幸せ自慢が始まるのだ。あー
あ。嫌になる。世界の終わりというものがあるなら、この女の頭上
から始まればいいのに。
﹁別にたいしたことなかったよ﹂
﹁噂で聞いたんだけど、魔法少女辞めるんだって?﹂
どこからその情報を得たのか? ずいぶんと耳が早い。
﹁うん。一応、ね。普通の女の子に戻りたくて﹂
﹃その発言、通用するのは十代までだよ﹄
﹁うるさいな、殺すよ?﹂
﹃殺せるもんならね﹄
﹁電話越しに呪いをかける魔法とか調べておくね﹂
﹃調べるな﹄
﹁なんでぇ?﹂
﹃あなたなら本当にやりかねない﹄
馬鹿話をして、聡美が本題を切り出す。
﹃怪しい動きがあるんだって?﹄
﹁あるみたいだね﹂
﹃彩芽、魔法少女辞めるんでしょ?﹄
19
﹁そうだけど﹂
﹃大丈夫なの?﹄
﹁大丈夫じゃない?﹂
﹃﹃二つの体を求めたネヴァン﹄みたいな奴が来たらどうするのよ
?﹄
ネヴァンは最大級の災害を日本にもたらした、彩芽と聡美が共同
で戦った最後の悪魔である。その戦いで聡美は大怪我をし、長期間
病院に入院することとなった。そこで医者を毒牙にかけ、専業主婦
を勝ち取ったのである。許せない。
﹁あんなのは、もうしばらく来ないでしょ﹂
神話クラスの悪魔など、そうそう出てきてほしくはない。
﹃だからもし、出てきたらの話しよ﹄
﹁そうなっても、なんとかするんじゃない? 他の魔法少女がさ﹂
﹃手遅れになるかもしれないじゃない﹄
﹁そんなに言うなら、聡美が復帰したらいいじゃない﹂
子持ちの魔法少女⋮⋮。これは、かなり良いかもしれない。
﹃彩芽が私を笑いたいことだけはわかったわ﹄
﹁そんなことないよ﹂
言いつつ、鼻から息が漏れる。
﹃まったく。そういう部分がなくならないと、結婚なんてできない
わよ﹄
﹁う、うるさいなぁ﹂
﹃相手を思いやることが、結婚への第一歩なんだから﹄
非常に耳が痛い。もし聡美の言葉が真実なら、魔法少女生活を続
けていては永遠に結婚にはたどり着けないだろう。思いやりで世界
は守れない。
﹁だからこそ、魔法少女は引退するの﹂
﹃そう。ま、彩芽が決めたことなら仕方ないけどさ。でも、不安に
はなるんだよね﹄
携帯のスピーカーから大きなため息が聞こえた。
20
﹃ほら、いまは子どもが小学校受験で大切な時期だからさぁ。そう、
私の子ども、受験するのよ! 小・中・高とエスカレーター式の︱
︱﹄
彩芽は終話ボタンを押した。危うく携帯を壊すところだった。結
局聡美が心配なのは家族であり、子どもなのだ。決して世界などで
はない。それが非常に腹立たしい。あたしも世界じゃなく、大切な
家族を守りたい。それを判っているからこそ、聡美は彩芽にいつも
家族自慢をするのだ。そして内心高笑いするのだ。まったく、こん
な性格の悪い女が、どうして医者なんかを旦那にできたんだ? き
っと人の心を操る邪悪な魔法が使ったに違いない。絶対にそうだ。
本当ならここから北秋田で晩酌が始まる予定だったが、彼は死ん
だ。仕方なくンビニで購入したワンカップを傾けるが、なんとも味
気ない。
彩芽は酒を一気に飲み干し、布団に入る。どうか、明日はあたし
にとって最良の一日となりますように。お金持ちで背が高くて頭の
良い男性があたしの目の前に現れますように。
彩芽の願いは︱︱当然、未来永劫実現しない。しかし、夢を見る
のは自由である。そして、夢が見えなくなったとき、彼女から魔法
は消えるだろう。
三度呼吸をすると、彩芽の意識は現実から音もなく遠のいた。
アルコールの匂いだけを現実に残して⋮⋮。
紅先輩。昨日はありがとうございました。わたしみたいな新人を
討伐戦に推薦していただけるなんて。こう言うとおこがましいです
が、先輩に見初められたみたいで、なんか、とても感激してます。
ねえ先輩?聞いてますか?
朝一から携帯に入電。相手は如月雫。電話番号を教えたのはあの
がりがりメガネだろう。今度会ったら殺す。
歯を磨きながら寝ぼけ眼で生返事を返していたら、何故か如月に
怒られた。先輩であろうとも生返事はやはり良くないらしい。﹁い
21
ま歯を磨いてて、ごめんね﹂そう取り繕いながら、コーヒーメーカ
ーを起動する。
﹃先輩は昨日魔法少女を辞めるなんて言ってましたけど、あれ、嘘
ですよね? 昨日、感じましたよ。すっごい魔力。あれ、先輩です
よね? 先輩はすっごい人ですから、今回の討伐戦に関われないく
らい忙しいんですよね。それも、超ド級のすっごい敵が相手なんで
すよね?﹄
﹁まあねぇ﹂
如月の解釈は間違いではない。ある意味では彩芽にとって結婚は、
いままで戦ってきた悪魔より遥かに格上の強敵だ。
子どものころの夢はお嫁さんだった。それは女の子の誰もが抱く
夢だろう。白いヴェールを被り、純白の衣装を纏った花嫁。あれに
憧れない女の子は女ではない。
年齢を重ねるごとに、夢は形を変化させる。パン屋になり、お菓
子屋さんになり、なにがあったのか最強の魔法少女となり、現在に
至る。最強の魔法少女という夢はある部分においては叶えられたと
いっていいだろう。その分、花嫁が遠ざかったわけだが⋮⋮。
子どものころは、大人になったら無条件に結婚できると思ってた
んだけどなぁ。大人になって初めて実感する。結婚することの難し
さと、﹃普通﹄のハードルの高さを。
無意味で無意義で無内容の如月の︱︱﹁すっごい﹂という言葉だ
けが妙に頭に残る話を聞いているあいだにコーヒーができあがった。
そのコーヒーが半分になり、冷たくなっても、如月は話をやめよう
とはしない。
﹁ねえ如月さん﹂
﹃あ、はい。すみません、わたしばっかりしゃべっちゃって﹄
﹁ううん。いいんだよ。それよりも、あたしそろそろ時間だから﹂
時計を見ると八時をまわったところである。
﹃ああ、ごめんなさい﹄
電話口で謝る少女も、そろそろ学校の時間である。魔法少女だか
22
らといって。学校生活をおろそかにしてはいけない。
如月の通話による襲撃が終わり、彩芽はやっと朝支度に本腰を入
れる。顔を洗って着替えて、化粧をする。深酒をした翌日は、ファ
ンデのノリが悪くなる。それに比例して機嫌が悪化する。今日は上
々。ファンデのノリが正数時に限ってのみ、機嫌が比例しないのは
何故か? ⋮⋮それは深く考えないでおこう。
冷蔵庫脇に置いている厚紙のケースから栄養ドリンクを取り出し
て、一気に煽る。苦いような甘い味が喉の奥を駆け抜けた。
これで今日もがんばれる。
彩芽はバッグを肩にかけて、家を出た。
彩芽は現在仕事を辞めたばかりだ。正確に言えば、仕事を辞める
と宣言したばかりである。高校を卒業してから︵正確には中学校在
学中から︶彩芽は魔法少女として、いまの事務所に所属していた。
魔法少女の事務所﹃ティーンズ・マジック﹄は表向きアイドル事
務所である。彩芽はもちろん、如月もアイドルとして事務所に所属
している。一般人であれば、アイドル事務所然とした名前だと感じ
るだろう。魔法少女からすれば、こんなに馬鹿馬鹿しい名前はない。
十代でなく、二十代でさえない彩芽にとっては、腹立たしいことこ
の上ない名称である。
事務所の活動は実に細々としたものだ。アイドル活動がメインで
はないからである。半年以上は優にメディアに顔を出さない時期も
あるくらいだ。しかし、その割りに給料は破格だ。なぜそこまでの
給料が支払えるのか? 仕掛けは簡単だ。大企業からスポンサード
料金として、警備費用を頂いているからだ。一定の料金を支払えば、
その会社は悪魔の襲撃から守られる。支払う額により、監視・警備・
通報・出張・常駐とサービスが強化されていく。﹃ティーンズ・マ
ジック﹄はそのように企業に安全を販売している。
しかし、彩芽は昨日魔法少女を辞めると鈴木に伝えた。つまり、
これからは無職であり、今日の仕事は就職先を探すことだった。
23
彩芽はハローワークに赴き、求人リストを手当たり次第にピック
アップした。その次に駅で無料の求人誌を漁る。本屋に立ち寄って
有料の求人誌と、履歴書を購入した。その後、最寄りのカフェに立
ち寄って、いままで集めた書類をテーブルに広げ、一つ一つじっく
りと観察していく。
︱︱が、彩芽は気付いた。自分にできることが何一つないことに。
気付くのが遅すぎたというべきか。少し考えればわかりそうなも
のだが、実際に目の当たりにするまで、それが正しく理解できてい
なかった。
求人のどれもが、資格が必要であったり、技術が必要であったり
が条件に付記されているのだ。なかでも酷いのが実務経験だ。
実務経験がなければ門前払いってことか? では、実務経験はど
こで積むんだ? 見る求人見る求人、すべてに﹃実務﹄の文字。学
生は実務経験のない状態で就職活動をするが、ではこのような求人
しかない現状で、どう内定を取れば良いというのだろう? それで
いて求める年齢層は十八歳からときた。
企業はスタート地点から道のない崖を飛び越えてゴールにたどり
着ける人材でも探しているのか?
ばっかみたい!
憤るまま、彩芽は一枚の求人票を破り捨てた。周りの客が、びり
びりと破ける紙の音に、驚きの視線を向けた。
技術も資格も必要じゃない職種もあった。たとえばそれは﹃在宅
でできる簡単なお仕事﹄というキャッチから始まる。
造花作成。一本二十銭。出来高払い。
内職じゃん! 危うくテーブルに拳を叩き付けてまだ口をつけて
いないコーヒーをひっくり返してしまうところだった。
とにかく、職はこれからゆっくり探すことにして、先に履歴書だ
けでも書いてしまおう。
彩芽は鞄からペンを取り出して、一コマ一コマ空欄を埋めていく。
氏名、年齢、電話番号、学歴。ここまではスムーズだった。
24
職歴は⋮⋮アイドル事務所と書けばいいのかな? ﹃ティーンズ・
マジックにてタレント業務﹄と。
次に、免許資格。あたしが持ってる資格は、放射型魔術技能一級
に、投影幻惑魔法技能準二級、安定的魔力拡散能力一級。こんなも
の書けるわけがない! ﹃なし﹄と。
特技。大規模戦闘における、広範囲殲滅型拡散性大火力魔法の即
時展開および一点集中型瞬発性極火力魔法の行使。⋮⋮と。
突然、彩芽はいきり立って履歴書を引き裂いた。
ダメだあたし、死んだ方が良い。
テーブルに突っ伏して、彩芽は涙を流す。
あたしって、もしかして普通のことがなにもできないの?
⋮⋮いやそんなことはない。洗濯機は使えるし、掃除だってでき
る。料理はまずまずおいしく作れる。お嫁さんにはなれる! その
相手がいればの話だけど⋮⋮。
気分が浮いたり沈んだり、激しい変動を繰り返した挙げ句に沈み
きった彩芽は、冷え切ったコーヒーを飲み干すのだった。
履歴書の作成に見切りをつけて、彩芽はカフェを出た。こんな調
子で、本当に就職なんて︱︱普通の女の子に戻ることなんてできる
んだろうか? 空気に吐き出した疑問は回答が得られぬまま、涙と
ともに宙に溶けて消えた。
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第一章 魔法少女、育てます 3
携帯で彩芽を呼び出す相手は、九割が鈴木で、残り一割が聡美だ
ったが本日、その中に如月が加入した。
如月から電話でショッピングのお誘いが来たとき、気分が悪いか
らと突っぱねることはできた。しかし彩芽は最終的に、如月の熱烈
な誘いを受け、呼び出しに応じることとなった。それはなにも、無
碍に断ると如月が可哀想だという情からではない︵そんな情は彩芽
にはない︶。就職活動で落ち込んだ気分をショッピングで転換する
のも良いという思いが働いたためである。
如月は学生服姿のまま、待ち合わせ場所に姿を現した。セーラー
服姿を見ると、羨望が胸中からため息となってあふれ出る。彩芽は
当然、こういう服はもう着ない。体型が変化していないから着られ
ないわけではないが、着てしまっては己の中にある大切ななにかが、
取り返しが付かないほど穢れてしまう気がするのだ。
彩芽はセーラー服に憧れはなかったが、着て許される時代への憧
れは感じている。
﹁お待たせしてしまったみたいで、すみません﹂
息を切らせて、如月は膝に手を突いた。見える場所から走ったの
ではなく、本当に学校から走ってきたのかもしれない。汗ばんだ頬
に髪の毛が柔らかく張り付いている。
今日の如月の髪型はツーテールだった。学校用の髪型なのだろう。
事務所に現れたときとは雰囲気が全然違う。いかにも男子ウケしそ
うな髪型だ。脱色をしていない若々しい髪の毛は水分をたっぷりと
含み、それでいてしなやかさを保持している。セーラー服の上に羽
織っている夏用の薄手のニットは、手の部分が少し丈があまってい
る。手の平全体を隠すことで、腕の短さ︱︱背の低さを暗示し、手
そのものが小さく見えて、かわいらしさが強調される。如月は元々
手が小さいから、余計可愛らしく見えて、それが腹立た︱︱いやい
26
や、羨ましい。
﹁なにか予定とかあるの?﹂
﹁予定ですか?﹂
﹁どこへ行きたいとか﹂
﹁は、はい。この辺りをぶらぶらしようとは、考えてましたけど。
⋮⋮先輩はなにか行きたいところはありますか?﹂
セーラー服姿の女子中学生から先輩と呼ばれると、どうにもくす
ぐったい気持ちになる。身長がほぼ同じだから、本当に中学校の先
輩になったように錯覚するが、それはあくまで錯覚で⋮⋮いや、深
く考えるのはよそう。
﹁特にはないよ﹂
その辺をぶらぶらと言っているということは、行くべき場所は決
まっているのだろう。女性がこの言葉を用いるときは決まって﹃私
が普段回っている良いお店を紹介します﹄という意味だ。自信のあ
るお店を、さも適当にチョイスしているように見せることが、女子
力の高さに繋がるのである。
可愛らしく見える子は決まって﹃狙い﹄で動いている、というの
が彩芽の持論だ。﹃狙う﹄からこそ、可愛らしく輝けるのである。
それをあざといと取るか取らないかは、人によるのだろう。彩芽は
如月を特にあざといとは思わなかった。逆に、︵一応︶先輩である
彩芽を呼び出した手前、しっかりもてなそうとしてくれている姿勢
が見えるから、好感が持てる。
如月が彩芽に紹介したお店は、予想通り間違いのないお店ばかり
だった。ハンドメイドのぬいぐるみ店は、フェルト地を主に使用し
ているため手触りが良く、一緒に寝ると気持ちが良さそうだった。
またキャンディショップでは、色とりどりの飴が量り売りされてい
る。透明の筒に詰まった沢山の飴は、頬張らずとも、見ているだけ
で幸せな気分になれた。
休憩で立ち寄ったカフェは、照明が暗く抑えられた落ち着ける空
間だった。店内BGMはジャズだろう。彩芽の好みは演歌だったが、
27
まあジャズも嫌いではない。
飲み物を注文して空いた間に、如月がすかさず言葉を投じる。
﹁先輩は、どうやっていまの能力を編み出したんですか?﹂
﹁どうやって⋮⋮﹂どうやったんだろう?﹁気付いたら、できあが
っていた、かな﹂
﹁現代だと、先輩の魔法が日本の魔法少女の基礎になってるくらい、
すごいものなのにですか?﹂
﹁すごいかどうかは、正直自分じゃわからないんだよね。ああでも、
影響を受けた人はいたかな﹂
﹁先輩に影響を与えた人って、どんな魔法を使ったんですか?﹂
﹁体内治療が主だった﹂
﹁医療班ですか﹂
﹁そう﹂
彩芽は頷いた。悪魔と戦った魔法少女は、時として大きな怪我を
負うことがある。そのためにティーンズ・マジックでは魔法少女専
門の医療班を用意している。もちろん皆、治療魔法が使える。
彩芽がティーンズ・マジックに所属したばかりのころは、怪我が
耐えなかった。そのとき知った女性に、彩芽は強く心を引かれたの
だ。
﹁治療って、いいなって。魔法でドンパチやらなくても、大切な人
を守ることができるんじゃないかって、思ったんだよね﹂
彩芽の言葉に、如月が困惑の表情を浮かべる。その反応は当然だ
ろう。医療班の魔法使いに影響を受けた彩芽が、いまでは極大魔法
をぶっ放す魔法少女界最強の対悪魔兵器なのである。
﹁どこでどう間違ったんだろうねぇ?﹂
﹁ある意味では、正しかったんじゃないですか?﹂
飲み物を運んできた店員が席を離れるのを待って、彩芽は口を開
いた。
﹁どういう意味?﹂
﹁自分にできることって、憧れてることとは違うんですよね。実は
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わたし、本当は男の子になりたかったんです。小さいころは男の子
とよく遊んでて、小学校中学年のころから、あれなんか違うなぁっ
て思い始めて。だんだんとわたしの理想から現実が遠ざかっていっ
たんです。理想っていうか⋮⋮、単純に、好きな友達と自由に遊ん
でいられる世界が続いてほしいっていう願望だったんだと思います
けど﹂
如月は手に比べるとかなり大きなマグカップを両手で挟み込み、
口笛を吹くみたいに口をすぼめて、カフェモカの泡を小さく揺らし
た。
﹁楽しいだけの世界って、人生において、すごく早い段階で終わっ
ちゃうんですよね。後の世界は、楽しいこととその真逆のことがぐ
ちゃぐちゃになった世界です。どうして、これが逆じゃなかったん
でしょうね? もし楽しいことだけの人生が後々待っているとする
なら、わたしたちはもっと、生きていようって、考えるんじゃない
でしょうか?﹂
彼女の疑問は彩芽にとって、心臓を鷲づかみにされるような思い
だった。
彩芽はまだ熱いコーヒーの上澄みを、ゆっくりとすすった。
﹁あたしたちは、悪魔を退治しているじゃない? 誰にも知られず
に﹂
﹁それも、おかしな話しですよね。どうして、みんなを助けている
ことを、みんなが知っちゃいけないんですかね?﹂
﹁それは人間が強くないからよ﹂
自分が勝てない、敵わない相手の名前を挙げろ。その答えに人間
は、十中八九人間の名前を挙げるだろう。自分より強いものは、人
間にしかいないという思い上がり。それこそが、人間の弱みである。
個体性能が高い動物が現れても、拳銃が、爆弾が、ミサイルがあれ
ば倒せる。けれどもし、それでも倒せない相手がいるとすれば? 御船千鶴子が自殺へと追い込まれたように、世界はそれを否定する
だろう。
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﹁あたしたちは人間と戦いたいわけじゃない。みんなに触れまわっ
て目をつけられて邪魔されたり、政治利用されたりしていたら、救
いたい人が救えなくなる﹂
﹁⋮⋮そうですけど﹂
﹁とにかく﹂彩芽はひとつ咳払いをした。﹁あたしたちが人知れず
悪魔を殺し︱︱浄化しているように、幸せな世界は無条件に作られ
ているわけじゃないのよ。もし如月さんの子ども時代に幸せな出来
事がいっぱいあったなら、魔法少女みたいに、見えない場所であな
たに降りかかる辛さを引き受ける存在がいたっていうことなの﹂
それは﹃後の世界﹄に自ら進んで飛び込んだ彩芽だからこその言
葉だった。
誰かのために世界を守っている、という思いは最終的に、相手に
幸せを要求することとなる。それではただの偽善だ。
誰かのためではなく、自分のために。害悪を生み出さない純粋な
正義は、最も利己的で自己完結した行動から生まれる。
﹁求めるところ少なく、林の中の像のように﹂
﹁それ! 魔法少女の理念にありましたね。どういう意味なんです
か?﹂
彩芽の言葉に、如月が身を乗り出した。その如月の勢いに彩芽が
圧される。
﹁き、如月さん、よく理念なんて覚えてたわね﹂
﹁ええ。ほら、学校の校則とかって、難しい言葉とか難しい漢字で
書いてあって判らないじゃないですか? けど、これは違ってて、
簡単な言葉なのに意味が全然わからなかったんで﹂
﹁なるほどね﹂彩芽は頷いた。﹁理念に込められた意味は﹃余計な
ものは全て捨ててしまえ﹄ということ。誰かを助けるっていう考え
も、余計なもの。誰かを助けているということを判ってもらうこと
も、もちろん余計。たとえ話だけど、森の中で木が倒れればその分
光が差し込んで、木が朽ちれば養分になる。けど、枯れていく草を
助けようと思って、自ら倒れていく木はないでしょ? それは、な
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にかを助けるっていうことじゃない。木が自然に倒れて、朽ちた木
が養分になって草を育てる。他人の幸せって、そういうふうに自然
に分け与えられるべきものなの。それ以外の考えは余計だから、捨
てましょうっていうこと。言葉が持つ本来の意味とは違うみたいだ
けど、理念にはそういう意味が込められている﹂
彩芽のそれは、ほとんど鈴木の受け売りだった。たまには役に立
つじゃない。たまにだけど。
﹁へぇ∼﹂
大きな目をさらに大きく見開いて、如月は息を吐いた。濃い茶色
の瞳が、店内の照明なのか魔法なのかによってキラキラと輝いて見
える。
﹁⋮⋮なんか、先輩って、お母さんみたいですね﹂
﹁は、は、は﹂
乾いた笑いが漏れる。全然お母さんになれそうにないんですけど
ね。はやくお母さんになりたい!
一時間ほどとりとめもない会話を続け、二人はカフェを出た。
﹁この後は、ちょっと服を見ようと思ってます﹂
問う前に、如月は今後の予定を説明した。時計を見るともう夕方
の五時。おそらく次で最後だろう。女子中学生の自由時間は、彩芽
のそれより早く終わるのだ。
カフェから歩いてすぐの場所に、大きな複合施設がある。一階か
ら六階までショッピングモールとなっていて、その上の階は造りが
代わり、商業ビルとして利用されている。そこそこ有名な企業が入
居しているが、彩芽には縁遠い会社ばかりだ。
ショッピングモールの四階、一階から吹き抜けの通路を歩いた先
に、如月の目指すアパレルショップがあるようだった。
﹁先輩、あそこに︱︱﹂
行きましょう。その言葉は、口を通過しなかった。
彩芽は瞬間的に身構える。同じタイミングで、如月も勘づいたよ
うだった。
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ここに、敵がいる。
悪魔か、使い魔か。おそらく、魔力の強さからいって悪魔だろう。
﹁先輩﹂緊張した声が響いた。﹁どうしましょう?﹂
彩芽は少し考えてから、施設全体に自らの魔力を展開させる。
蛍光灯の明かりが、魔力に反応するように僅かに揺らいだ。
空間に魔力が飽和したとき、それは魔法に、そして魔術に変化す
る。いままで辺りを賑わせていた一般客の姿は消え、店員も同時に
消える。残ったのは彩芽ら二人と、ショッピングモールの静寂だけ
だった。
﹁如月は攻撃魔法はできるの?﹂
突然、いままで優しいものだった彩芽の口調が変わった。鋭いト
ゲを感じさせる口ぶりに、如月は息を呑む。
﹁⋮⋮どっちよ!﹂
﹁で、できます﹂
﹁じゃあ、行きな﹂
﹁⋮⋮はい﹂
少ない言葉で、十全に思いをくみ取ったのだろう如月が頷いた。
彼女はポケットから携帯電話を取り出して、天に翳す。
瞬間、彼女の全身から魔力が溢れた。魔力はみるみる色を成し、
形を変えていく。
白のレースが編み込まれた手袋に、白いハイヒール。二つに纏め
られた髪の毛は一度解れ、一本になって後頭部に捻り留められた。
体を包むピンク色の光が、如月の体のラインを強調し、弾ける。
そこに現れたのは純白のフリルがついた、ところどころに魔力と
同じピンク色のラインの入った、ウエディングドレスだった。
それは体に魔力を纏わせることで、物理と魔法の両方のダメージ
を軽減させ、用いる魔法や魔術の構築を最適化する。魔法少女戦闘
用の法衣だ。
法衣は魔法少女の好みにより姿を変える。如月の法衣はウェディ
ングドレスだが、彩芽は当然それではない。また、法衣は見ただけ
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で好みがばれる、恐ろしい衣装でもある。
﹁先輩は着替えないんですか?﹂
﹁あ、あたし!?﹂
恥ずかしいので見せたくありません。というのが本音だが、それ
は口にしない。
魔法少女のなかで法衣姿を恥ずかしがるのは、彩芽くらいしかい
ない。恥ずかしさを感じる理由が年齢によるものだと考えたくはな
いが、﹃自分の好きな衣装なのに恥ずかしいの?﹄と指摘されたら
答えられない。本音は悔し涙とともにそっと、思いを胸に秘めるの
だった。
﹁あたしは、いいのよ。結界張ってるだけだし﹂
悪魔の攻撃から被害をなくすために張る結界は、展開すれば攻撃
アタツカー
サポーター
ができなくなる。それは非常に多くの魔力を消耗するからだ。だか
ら通常、悪魔と戦う場合は攻撃役と結界役がペアを組む。昔はよく
彩芽が攻撃役、聡美が結界役でペアを組んでいた。
結界役の役割は久しぶりだったため、うまく結界を張れるか少々
不安ではあったが、結界は彩芽の思う通りの状態で発動してくれた。
﹁がんばっといで﹂
﹁⋮⋮はい﹂如月は小さく頷いた。﹁どうか、お気をつけて﹂
そう言い残して、如月は敵の魔力を強く感じる六階へと飛んで消
えた。
本来であれば、彩芽が一番危険だろう攻撃役として動くべきでは
ある。しかし、相手の魔力から察するに、如月が攻撃役でも勝てな
い相手ではない。そう、彩芽は予想している。それに︱︱、
﹁いるんでしょ?﹂
彩芽は通路の先を睨む。誰もいない空間に、忽然と魔力のもやが
出現した。それはみるみる姿を変えて、細い男性のラインで結像し
た。
﹁知覚魔法でも使用していたんですか?﹂
現れたのは事務所のマージャー、鈴木である。彼は苦笑いを浮か
33
べて彩芽に歩み寄る。
﹁そんなもの使わなくてもだいたい判るでしょ。この上のビルにい
るんでしょ? スポンサーが﹂
﹁ご名答﹂
この上の施設には、有名企業が入居している。当然、ティーンズ・
マジックにお金を払っている企業もいるだろう。大手であれば確実
だ。その場所に悪魔が現れたとなれば、マネージャーが現れないは
ずがない。数名いるマネージャーのうち、鈴木が出向くということ
は、かなりの上客が上にいるんだろう。鈴木が連れてきた結界師も
十名と、人数だけをみれば万全の体勢である。
﹁紅さんは、行かなくて良いんですか?﹂
﹁べつに。あたしが行かなくても、あの子なら悪魔を浄化できるで
しょ﹂
﹁そうでしょうか? 出現したのは結構強い悪魔ですよ﹂
相手の情報を、もう掴んでるのか。彩芽は口を閉じたまま舌打ち
をした。
﹁名前は?﹂
﹁黄泉の翼イーリス﹂
﹁二つ名持ちか﹂
彩芽の表情が曇る。二つ名は悪魔を分析した結果、危険なものに
のみ付与される称号で、それそのものが悪魔の状態を表わしたりも
する。
その話を鈴木から聞いたとき、彩芽は﹃平成の股旅野郎﹄みたい
なものだねと喩えた。鈴木が何故その喩えを理解できなかったのか、
彩芽は未だに判らずにいる。
﹁イーリスは一応、女神と呼ばれているみたいですね。紅さん向き
の相手だと思うんですが﹂
﹁それどういう意味?﹂
まるであたしが、女神をこの世から殲滅するのが趣味みたいな言
い方じゃない。
34
彩芽の睨みを、鈴木は肩をすくめて躱す。
﹁あの子にとって倒せない相手じゃない。これは事実よ。もし死ん
だら、それまでの子だったっていうことで諦めて﹂
﹁ずいぶん、スパルタですね﹂
鈴木が小さくため息を吐き出した。厳しいようだが、この敵を倒
せないようでは、うちの事務所のエースはつとまらない。彼女にと
ってこの相手は、必ず乗り越えなければいけないハードルだと彩芽
は考えている。苦戦したとしても、一人で倒せなければ意味がない。
﹁それに﹂と彩芽は眉根を寄せた。﹁あの子、戦う理由がまだ見つ
かっていないみたいなのよ。早いところ見つけないと、潰れるわよ﹂
﹁なるほど﹂鈴木は口の端を斜めにした。﹁やっぱり、紅さんは優
しいですね﹂
反射的に、彩芽は鈴木の足を踏みつける。鈴木はひらり足を躱す。
踏みつけられた無人の床は鈍い音を立てて、二メートル程のヒビが
入った。
﹁次変なこと言ったら足潰すよ?﹂
﹁恐い恐い﹂
鈴木は肩をすくめた。
﹁ま、どうしても気になるなら、行ってあげなくもないけど﹂
﹁おお?﹂
歓喜の息を吐いた鈴木を見て、彩芽は悪い顔をした。
﹁三次元以下切断安定維持、四次元以下接続連続一致、一キロ四方
上空二百メートル。この結界を、あんたが連れてきたサポーター十
人で引き継げるならね﹂
彩芽の言葉で鈴木が青ざめる。
攻撃役に適正があるとはいえ、結界役ができないわけではない。
一流の百メートル走の選手が、走り幅跳びをしてもそこそこの記録
が出せるのと同じ原理で、一流の攻撃役である彩芽が張る結界は一
流レベルであり、張った結界には尋常でない魔力が使用されている。
鈴木が連れてきた結界役十名は、おそらく事務所の中堅クラスだ
35
ろう。しかし、その十人の魔力を持ってしても、彩芽一人の結界を
維持することはできない。それこそが、魔法少女と魔法使いの大き
な違いに繋がっている。
﹁け、結界のレベルを落してはいけませんかね?﹂
﹁下位互換がないから無理﹂
﹁ですよね﹂鈴木は泣きそうな表情になる。﹁魔法使いの魔力総量
を考えたら、紅さんの結界は十分も維持できませんし。もしかして、
僕が結界役を連れてくることを読んで、結界を展開されたんですか
?﹂
さすがに、そこまで先を読む力はない。彩芽は静かに首を振った。
﹁紅さんは、戦いたくないんですか?﹂
﹁当然。戦いたくないに決まってるじゃない﹂彩芽は胸を張る。﹁
だってあたし、もう、魔法少女じゃないんだから﹂
不意に、通路の奥から足音が聞こえてきた。堅い足音だった。彩
芽と鈴木は同時に、通路の奥を見た。
﹁やってるみたいだな﹂
通路の向こうから姿を現したのは、ダブルのスーツに身を包み、
先の尖った皮靴を履いた、ティーンズ・マジックの社長である、高
瀬川だった。高瀬川は重そうな下腹を揺らしながら、花見でもする
ような足取りで彩芽たちに近づく。
﹁社長? どうなさったんですか﹂
高瀬川の出現が予想外だったのだろう、鈴木は眼鏡の奥の瞳を丸
くした。
﹁客が客だからな﹂
高瀬川は短く答えた。社長自らが現れるということは、やはりか
なりの上客が入居しているのだろう。
﹁ん? 戦っているのは紅くんじゃないのか?﹂
﹁はい﹂
名前を呼ばれて、彩芽は身を固くした。
36
高瀬川は、魔法少女を抑制する魔術を保持している。それが大き
な力を持つ魔法少女の抑止力として作用し、魔法少女事務所として
まとめ上げる力となっている。それが、彩芽にとってある種の恐怖
として感じらる。人間として好き嫌いの問題以前に、社長の前だと
どうしても身構えてしまう。
﹁あたしは、戦いません﹂
﹁何故?﹂
﹁魔法少女を、辞めましたから﹂
彩芽の唇が震えた。それを告げた途端に、社長が彩芽に首輪を嵌
めるのではないか。そんな恐怖がせり上がる。しかし、社長はそん
な素振りを一切見せずに、天井を見上げた。
﹁上で戦っているのは?﹂
﹁新人の、如月です﹂
﹁⋮⋮ああ、先月入社したばかりの。実戦投入がいささか早すぎな
いか?﹂
﹁いえ。あたしが辞めますので、レベルアップのためにと︱︱﹂
﹁それで紅くんが結界を張っていると﹂
強い口調で言葉を被せられ、彩芽は僅かに怯えた。
﹁⋮⋮はい﹂
﹁鈴木。投入した結界師はどうした﹂
﹁紅さんの結界レベルが高すぎて、引き継げませんでした﹂
﹁そうか﹂高瀬川は僅かに顎を引く。﹁紅くん。少し、結界のレベ
ルを下げられないか?﹂
﹁無理です﹂
﹁何故?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
彩芽には答えられなかった。戦場に出たくないから、という本音
を口にすれば、どう斬り返されるものか。わからないが、どう見積
もっても彩芽は部が悪い。
﹁結界の範囲を狭めれば、鈴木が連れてきた結界師は引き継げるの
37
か?﹂
﹁⋮⋮おそらく、可能だと思います﹂
﹁なら、そうしろ。結界はこのビルだけでいい﹂
﹁しかし、それをやると、もし万が一悪魔が極大火力魔法を放った
場合、威力を緩和できる空間がなくなります﹂
﹁その心配はない﹂
﹁しかし︱︱﹂
﹁俺はやれと言っているんだ﹂
彩芽の提言が社長の前に打ち砕かれる。イーリスがビル全体を巻
き込む極大火力魔法を使用できるとは、彩芽も思わない。しかし、
もしもの場合を想定するのが結界役である後衛の努めである。絶対
など絶対にあり得ない。矛盾した言葉だが、戦いの場においてそれ
が条理である。
しかし、戦場で指揮官の言葉が絶対であるように、社長のそれは
従わなければいけない命令だ。従わなければ指揮系統は乱れ、魔法
少女は魂魄を抜かれる。
社長の命令に打ち勝つ、もっともな理由がない彩芽に、拒否権は
なかった。
﹁⋮⋮わかりました﹂
しぶしぶ頷き、彩芽は結界の規模を収縮させる。
範囲が狭まったことを知覚したのか、高瀬川は満足げに頷いた。
﹁鈴木、あとはしっかりやってくれ﹂
﹁わかりました﹂
鈴木に睨みを利かせて、高瀬川は結界の外に姿を消した。
高瀬川の姿が消えて十秒、彩芽は息を止めたまま、じっとなにも
ない通路の奥を見つめていた。
高瀬川は鈴木とは違った意味で、内心が計れない人間だ。彼は彩
芽が攻撃役として如月をサポートしろという命令を下さなかったが、
そう仕向けることだって出来たはずだ。なぜ、含みを持たせるよう
な︱︱中途半端な命令だけに留めたのか。まるで理解できない。
38
﹁紅さん。結界を引き継ぎましょうか?﹂
﹁⋮⋮いや、いいわ。このままいきましょう﹂
ここから結界を譲渡しては高瀬川の思惑通りみたいで嫌だ。そん
な反発心から、彩芽は結界の維持を堅持する。
﹁ですが社長は︱︱﹂
﹁結界を引き継げとは言わなかったわよね?﹂
ニュアンスは多分に含まれていたが、明言されたわけではない。
﹁そうですね﹂
彩芽の言葉に反論するでもなく、鈴木はすっと身を引く。その説
妙なタイミングが、彩芽のささくれ立った心を沈めるのだった。
鈴木が隣にいると冷静になれる。その理由は、わからない。深く
詮索したこともない。きっとこれは鈴木の魔法なんだ。そういう理
屈で、彩芽は自分を納得させるのであった。
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第一章 魔法少女、育てます 4
如月には才能があると、彩芽は評価している。彩芽は才能ある如
月を︵それが天賦の才かどうかまでは不明だが︶決して考え無しに
戦場に送り込んだわけではない。
彩芽が想像する通りの才能があれば、おそらくイーリスは打ち倒
せるだろう。しかし、万が一がある。念のために彩芽は、如月とイ
ーリスの戦闘状況の把握を試みる。膨大な魔力で結界を維持しつつ、
彩芽はさらに拡散性知覚魔法を発動させた。
﹁それで﹂と彩芽は口を開いた。﹁昨日の使い魔のことだけど。推
測はできてるんでしょ?﹂
﹁さて、どうでしょうね﹂
半分惚けたような声で鈴木が答えた。
﹁妙だと思うんだけど﹂
﹁妙とは?﹂
﹁あの使い魔に、覚えがあるのよ。見覚えというか、感じ覚えとい
うか。具体的になにってわからないんだけど、かなりやばい相手の
使い魔じゃないかって想像したんだけど、どうなの?﹂
﹁紅さんのことだから、聞かなくても想像が付いているんじゃない
ですか?﹂
﹁聞かなきゃ確信できないことは山ほどある﹂
彩芽は横目で睨んだ。その視線を受けて、鈴木はしばし閉口した。
﹁あの場所にあの使い魔が出現した理由は、どうでしょうね。たま
たまかもしれませんし。ただ、あの使い魔を、紅さんが発見した意
味合いは大きいかと思います﹂
﹁つまり?﹂
﹁聞きますか?﹂
鈴木が意味ありげな表情を浮かべた。
﹁⋮⋮やめとく﹂
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これ以上聞いたら引き返せない。悪魔討伐の際、鈴木から討伐戦
についての情報を聞かされた段階で、彩芽の出陣が決まる。それは
昔から二人のあいだにある暗黙の了解だった。討伐戦に出征したく
ないと彩芽が感じたら、話を聞かない。それで一応の意志は示せる。
とはいえ最終的に鈴木の手の平で転がされ、出征してしまうはめに
陥るのだが⋮⋮。その上、結果的に戦闘に参加して良かったと思っ
てしまう自分がいることも、非常に腹立たしい。
とにかく、魔法少女を辞めると決めたのだ。こいつの話しは、絶
対に聞いちゃいけない。
彩芽が拡大した感覚の先で、大きな力が衝突した。それと同時に
上階からコンクリートを粉砕する鈍い音がこだました。
﹁始まったみたいですね﹂
鈴木が確認するように呟く。それに彩芽は律儀に反応し、小さく
頷いた。
﹁あの子の携帯電話だけど、あれ教えた人っているの?﹂
﹁僕はてっきり紅さんが教えたんだとばかり思っていたんですけど、
違うんですか?﹂
﹁違うわよ。昨日顔を合わせたばっかりの相手に、魔法を教えられ
るわけないでしょ﹂
如月の魔法は、おそらく彩芽の模倣に違いない。
体内魔力のシームレスな具現化。魔法発動までの時間短縮。現代
機器を利用した、イメージの増幅は様々な恩恵が得られる技術だ。
体内に眠る魔力は、初めから大量に放出できるわけではない。ど
んな魔法少女であっても、初めのうちは出力系統が貧弱で、膨大な
魔力が体内に眠っていたとしても大魔法は使えない。
出力するための感覚を日々強化し、洗練し、体系化して初めて大
魔法を使用できるようになる。
如月の場合はまだ新人ということで、出力系統がやはり貧弱なの
だろう。イメージを増幅しやすい携帯電話を使用することで、未熟
な出力器官をサポートしているのだ。
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あの携帯電話から繰り出される魔法がどのようなものなのか。攻
撃をどうイメージし、具現させているのか気になる所ではある。が、
彩芽は出撃しないと決めている。それに、いま彼女の元へ向かえば、
イーリスの攻撃の矛先は彩芽に向くだろう。膨大な魔力は存在して
いるだけで敵の憎悪を稼いでしまう。
憎悪を受けないように魔力を隠蔽するのだって一苦労なんだから。
彩芽は心の中でため息をつく。
彩芽の苦労を知っているのやらいないのやら。隣にいる鈴木は涼
しげな表情で上階を見つめている。そこで見つめてもなにかが見え
るわけではないというのに。
﹁昔から不思議に思ってるんだけどさ﹂
無言の空気に耐えかねて、彩芽は口を開いた。
﹁あんた、どうしてあたしの近くに居て平気なの?﹂
﹁⋮⋮どういう意味ですか?﹂
﹁こうしているあいだも、あたし結構全力で魔力放出してるんだけ
ど。中心から外側に向かうに随って隠蔽精度は高まるから、敵には
気取られないけどさ。近くにいるあんたは、感じてるでしょ?﹂
触れれば、絶命しかねないほどの、魔力の本流を。
﹁恐くないの?﹂
﹁もう慣れましたよ﹂
鈴木の答えは一言だった。彼の解答は少し物足りない気がするが、
それはただ、空白を埋めるためだけの無意味な会話である。突っ込
むほど興味もない。﹁あ、そ﹂と彩芽は鼻息を漏らし、会話を打ち
切った。
しかし、何故か無言の刻が落ち着かない。感覚の先端では如月が
激しい戦闘を繰り広げているのがわかる。なにかあったときのため
に、そこに集中するべきである。なのに、どうも集中が乱れてしま
う。気付くと、いつのまにか彩芽は奥歯を強く噛みしめていた。歯
医者に行ったらまた文句を言われそうだ。
﹃紅さぁん。奥歯、すり減ってますねぇ。歯ぎしりはほどほどにし
42
てくださいねぇ﹄
埋らない時間が記憶から行きつけの歯科医を引っ張り上げ、現れ
た歯科医は彩芽の思考を占領する。歯科医が脳内で手にしたドリル
を回転させながらダンスを始めた。
たまらず、彩芽は再び口を開いた。
﹁甕とか瓶とかって文字の入った名前の人に合うと、決まって胸が
どきどきするんだけど、これって恋かな?﹂
﹁酒じゃないですか?﹂
鈴木の言葉に、彩芽は思い切り舌打ちをする。別に答えが聞きた
いわけじゃないのに。なんでわかってくれないかな、このがりがり
メガネは。
﹁それで? それがどうかしましたか?﹂
﹁別に、意味はない。ただ口にしたかっただけ﹂
不思議そうな表情で鈴木が彩芽の瞳をのぞき込んだ。
﹁素数でも数えましょうか?﹂
﹁ぶっ飛ばすよ﹂
心理を見抜かれた彩芽が、耐えきれずに顔を背けた。
この上の階で戦闘が行われている。おそらく、如月にとっては初
めての死闘となっていることだろう。それが、どうにももどかしい
のだ。自分が行けば一瞬で終わるのに︱︱行かないことを決めたの
は自分なのに︱︱なんてついつい思ってしまう。
上階で再び粉砕音が響いた。建物全体が揺れるほどの爆音だった。
ぱらぱらと、目の前の吹き抜けをコンクリートの破片が落ちてく
る。それに混じってピンク色の﹃プ﹄が落ちてきた。
﹁⋮⋮?﹂
カタカナの、プ? 結構大きかった。おそらく一メートルくらい
あるだろう。ピンク色の﹃プ﹄。
﹁なに、あれ?﹂
﹁プ、ですね﹂
だから、そういう言葉を聞きたいんじゃないっての。彩芽は半ば
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本気で鈴木を殴りつけようかと思った。
床が僅かに揺れ、吹き抜け下から天空に爆音が突き抜けた。おそ
らく、あのプが床に接触したに違いない。
不意に、彩芽の結界が解れた。結界の解れは一瞬で消える。妙な
タイミングの解れだった。結界は、悪魔の全力攻撃を食らっても解
れることはない。悪魔の攻撃を受ける段階で、少量魔力の流出はあ
るにせよ、それを守りきるからこその結界である。
なんで解れたんだろう? 久しぶりだったから、結界の術式を組
み間違えたかな?
いずれにせよ、結界は破れなかった。問題はないだろう。彩芽は
結界の解れを忘れることにした。
﹁あの、ひらがなの﹃プ﹄って、なに? なんでカタカナが上から
落ちてくるの?﹂
﹁んん、気になりますね。少し調べましょうか?﹂
﹁いや、調べなくても︱︱﹂
彩芽が言葉を言い切るまえに、鈴木が手の平で魔法を発動させ、
姿を消した。再び戻って来るまでに一秒はかからなかっただろう。
﹁⋮⋮あれ?﹂
戻って来た鈴木はしかし、彩芽が予想していた﹃プ﹄は持ってい
なかった。
﹁拾いに行ったんじゃないの?﹂
﹁拾ってきましたよ﹂鈴木は手を開いて見せる。﹁おそらくこれが
そうでしょう﹂
鈴木の手の平に、ピンク色のブロックがあった。空から振ってき
たときとは比べものにならないほど小さいそれは、たしかに﹃プ﹄
だった。
﹁なんで小さくなったの?﹂
﹁落下したときの衝撃で内部の魔力が消散したのかもしれません﹂
﹁ちょっと貸して﹂
鈴木から﹃プ﹄を受け取って、彩芽はマジマジと眺める。ものを
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具現化して相手にぶつけるタイプの︱︱おそらく、彩芽のガトリン
グと同じタイプの魔法だろう。それであれば、鈴木の説明も頷ける。
そして、おそらくこれは単一の魔法ではなく、魔法を有機的に接
合させた魔術のはずだ。そうでなければ、悪魔は倒せない。
悪魔は物理的な攻撃によるダメージが一切通らない。彩芽のガト
リングであれば、ガトリングを具現化させる魔法と、弾丸が対象物
に被弾したときに発生する爆発魔法が重ねあわされている。﹃プ﹄
もまた、なにかしらの効力があるはずだ。そしてそれが、人間に危
害を加えないとは限らない。
リミットになれば爆発したり、しないよね?
﹁これ、消していい?﹂
不発弾を手にしたような気分で彩芽は鈴木に訊く。
﹁いえ、僕が預かろうと思います﹂
﹁なんで?﹂
﹁後学のために﹂
魔術を解体して分析でもするのかもしれない。そうして鈴木は、
担当の魔法少女を分析するのだ。
いまの彩芽の魔法があるのは、そうした鈴木の分析とプロデュー
スによるところが大きい。如月の魔法も鈴木により分析されれば、
新しい、如月自身の手がかりになるかもしれない。
﹁これを使う日が、いつか来るかも知れません﹂
﹁なにに使うっていうのよ﹂
﹁⋮⋮話して良いですか?﹂
鈴木はカンボジアの地雷原みたいな顔をした。
﹁勘弁してよ﹂
彩芽はうんざりして息を吐いた。まったく。なにを、どこまで考
えているのやら。鈴木の思考の消失点が望めない彩芽は、ただ話を
打ち切る他なかった。鼻を鳴らして、そんな鈴木への苛立ちを誤魔
化す。
彩芽は上を眺め続けるが、再び﹃プ﹄が落下してくることはなか
45
った。
46
第一章 魔法少女、育てます 5
空から降り注ぐコンクリート片が次第に減少していく。彩芽の感
覚の先でも、二つの魔力の一方が、みるみると弱っていくのがわか
った。それがどちらのものか、彩芽ははっきりと理解している。も
う、終わりは近いだろう。
もうすぐ如月はイーリスを浄化する。
ここまで順調に的中してきた彩芽の予測はしかし、ここから大き
く外れてしまうこととなる。
展開した魔力の間隔の先から、突如イーリスの反応が消えた。は
じめは如月が浄化したのかと思い身構えるが、次に起るべき反応が
起らない。
悪魔を浄化すると必ず慟哭が発生する。それが起らない。十秒、
二十秒経っても、それは発生しなかった。
﹁⋮⋮おかしい﹂
そう呟いたのは、三十秒を過ぎたころだった。上階にいる如月に
も動きはない。なにもないことが、逆に奇妙だ。
﹁紅さん。結界は引き受けます﹂
彩芽の微妙な変化を察知した鈴木が鋭く言い放つ。
﹁⋮⋮けど﹂
彩芽は戦わないと決めた。とはいえ、なにが起っているのか判断
ができない。何度か口を開閉し、自分は魔法少女を辞めた、もう戦
わないという反論がのど元までせり上がって、けれどそれは唇の先
から出ることはなかった。
﹁わかった。結界はお願い﹂
鈴木が用意した結界師十名が、彩芽の言葉に反応して素早く魔力
を展開した。それはゆっくり彩芽の結界のすぐ内側で膜となる。結
界の内側に結界が展開した。それを確認して、彩芽は結界を手放し
47
た。
﹁行ってくる﹂
短く呟いて、彩芽は走り出した。
いままでの経験上、悪魔が突然消えるなんていうことはなかった。
そんなこと、あるんだろうか?
上階で一体、なにが起ったんだろうか。
一抹の不安を抱えて、彩芽は階段を全力で上る。
六階に着いたとき、壁や床や天井に穿たれた、人間が通り抜けで
きそうなくらいの大きな穴が彩芽の目に飛び込んできた。それは少
量の爆薬を壁に埋め込んで爆発させたような穴だった。これがどち
らの攻撃によるものかはわからないが、苛烈な戦闘が繰り広げられ
たことだけはわかる。
﹁如月?﹂
彩芽が声を発すると、それに反応するようにぴょこんと、穴から
如月が飛び出した。全身煤や埃で汚れてはいるが、大きな怪我はし
ていないらしい。そのことに、彩芽は胸をなで下ろした。
﹁せ、先輩? どうしたんですか?﹂
如月は目を丸くして、小走りで彩芽に駆け寄る。表情と下半身の
動きの不一致具合に、彩芽は思わず苦笑する。なんだか﹃待て﹄を
された︱︱すまし顔をしているのに、尻尾は全力で横に揺れる︱︱
犬みたいな反応だ。
﹁イーリスはどうしたの?﹂
﹁イーリス?﹂
如月は首を傾げた。
﹁さっき、如月が戦ってた悪魔よ﹂
﹁ああ。なんかわからないんですけど、突然消えちゃいました﹂
﹁消えた?﹂
今度は彩芽は首を傾げた。彩芽の魔力で感じ取ったものと如月の
情報は相違ない。しかし、それだとますます奇妙だ。悪魔が突然消
えるなんていうことは、彩芽の魔法少女生活で一度もなかった。帰
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納的に、悪魔は突然消えることはあり得ない。
﹁なにが起ったのか、詳しく教えて﹂
﹁ええと⋮⋮、ばーんってやったら、悪魔にぼーんて当たって、そ
したらしゅっとなって、なんでか消えちゃったので、どうしたらい
いか判らなくなったんです﹂
如月は両手を大きく上げたり下げたり、広げたりする。
なにを言ってるのか、さっぱり理解できない。どうしたらいいの
か判らないのはこっちの台詞だ、という言葉を彩芽はぐっと堪える。
﹁⋮⋮混乱してるのはわかるけど、もっとわかりやすく説明してく
れるかな﹂
僅かな頭痛を感じて彩芽はこめかみに人差し指を当てる。
﹁あ、はいすみません。ええとですね︱︱﹂
如月が何事かを呟こうとしたとき、突如背後から薄気味悪い魔力
を感じた。
彩芽と如月が同時に振り返る。
そこには、黒い球があった。バランスボールくらいのサイズの、
黒い球が、宙に浮かんでいた。球は時々、帯電した金属球のように、
漆黒の触手を宙に伸ばした。
﹁あれが、イーリス?﹂
﹁⋮⋮いいえ、違います。先輩、あれは先輩の魔法ですか?﹂
﹁なわけないでしょ!﹂
あんな禍々しい魔法が使えてたまるか。
彩芽は体勢を整えながら、体内で魔力を練り込む。
﹁あれも悪魔なんですか?﹂
﹁いや。悪魔じゃないだろうね﹂
悪魔は必ず、動物であったり植物であったり、なんらかの形を成
す。しかし目の前にいるそれは、ただの球形である。悪魔ではない
だろう。だとすると︱︱、
﹁逢魔かな﹂
﹁おうま?﹂如月が首を傾げた。﹁なんですかそれは?﹂
49
﹁神隠しといえばわかる?﹂
過去に何度か人間界に現れて、現在の都市伝説と生み出している
根源である。現在では情報共有しシステム化された封印により逢魔
はほとんど発生しない。発生するまえに、大抵が封印される。
﹁っていうことは、あれに触れると消えちゃうんですか?﹂
かくりよ
﹁いい勘してるじゃない。その通りよ。消える先は常世か現世か、
ほとんどが隠世でしょうね﹂
逢魔の正式名称は、天然性転送型魔力廻路。どこかに相手を飛ば
す魔法とほぼ同じ性質を宿している。その転移する場所がどこかは
わからないが、だいたいの場合は現世ではない。なぜなら、中に入
った者が戻ってきた報告例があまりに少ないからだ。
彩芽は手始めに、空中に小さな魔弾を生み出した。魔法でも魔術
でもなく、純粋な力の塊。
﹁よく見てて﹂
魔弾が安定したところで、それを逢魔に飛ばした。
小学生球児ほどしか速度のない魔弾だったが、動きの鈍重な逢魔
にはそれで十分だった。
逢魔の体に魔弾がぶつかり、停止。
逢魔の表面で止まった魔弾が、じわじわ逢魔に吸収され、消えた。
﹁いい? あれに触れちゃだめよ﹂
﹁⋮⋮はい﹂
触れたら魔力弾と同じ結果になる。そのことが理解できたのだろ
う、如月の声がにわかに緊張した。
﹁それで、先輩。あれはどうやって倒すんですか?﹂
﹁それは⋮⋮﹂彩芽は目だけで天井を見た。﹁⋮⋮気合い﹂
﹁は?﹂
﹁気合いよ﹂
﹁ええと﹂
﹁わからないって言ってるの!﹂
半ば切れ気味に彩芽は答えた。うう、先輩恐い⋮⋮と如月が目を
50
潤ませる。先輩としてちゃんとした答えを聞かせてやりたいところ
なのだが、彩芽も未だ遭遇したことのない敵なのだ。倒し方など答
えようがない。
﹁とりあえず、如月は後ろにさがってて。あたしが糸口を見つける
から﹂
﹁はいっ﹂
元気よく返事をして、如月が物陰に隠れた。その姿はまるで、ペ
ットボトルロケットの発射を待ちわびる小学生のようだった。実際
に発射されるのは魔弾なのだが、如月は実に楽しげである。
ったく。彩芽は内心呆れるような舌打ちをして、逢魔に向き合う。
空中に三つ、魔弾を瞬時に形成して、逢魔に飛ばす。
逢魔はそれを避けずに、再度体で吸収した。
吸収のとき、
輪郭に僅かなノイズ。
逢魔の体がぶれた。
もしかして⋮⋮。彩芽は瞬時に魔力隠蔽の魔法を解き放ち、勢い
に任せて魔弾を五十発形成した。
﹁ほわぁ∼﹂
背後から気の抜けるような如月の吐息が聞こえた。魔力回路を補
強する法衣を展開させているならばいざ知らず、生身の姿で彩芽は
五十という魔弾を一瞬で形成してみせたのだ。それがどれだけ人間
離れした行為であるか、同じく魔力を操る如月はよく理解できたこ
とだろう。先ほどのような浮かれた雰囲気が霧散している。
﹁それじゃ、いきますか﹂
自身に気合いを入れて、彩芽は五十もの魔弾を飛ばした。
魔弾のすべてが逢魔の体に衝突するまでに、コンマ二秒もかから
なかった。中級クラスの悪魔が相手ならば、それだけで絶命したこ
とだろう。しかし逢魔は苦痛を感じた様子もなく、その五十の魔弾
を吸収してみせた。
﹁⋮⋮マジ?﹂
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多少は変化があるだろうと見込んでいた彩芽は、そのあまりの無
反応さに愕然とした。いまの魔力の衝撃でも、体を散らせるどころ
か一ミリたりとも後退させることができなかったのだ。それ以上強
力な魔法を使っても、倒せるかどうかは怪しい。
これ、どうやって倒せばいいのよ。
﹁せ、先輩! 後ろ﹂
如月の悲鳴を聞いて、彩芽は床を転がった。
刹那、彩芽のうなじのすぐ上を、殺意が通り抜けた。
床を転がって見上げた先に、大きな鎌を掲げた女性がいた。腰の
あたりまであるウェーブがかった金色の髪の毛に、紅色のドレス。
上流階級のパーティにいそうな風貌の女性だったが、その手に握ら
れた大鎌がその可能性を否定する。
これが、イーリスか。
敵を察知すると同時に、彩芽の体が自然と動いた。
なぜこのタイミングでイーリスが現れたのか、いままでイーリス
はどこへ行っていたのか。疑問はあるがしかし、それを考えていた
のでは殺される。
彩芽は本能のままにフロアを駆け抜ける。イーリスの背後から如
月が攻撃を開始した音が響いた。しかし、イーリスはその攻撃に反
応せず、彩芽だけを追撃する。彩芽の魔力にイーリスが憎悪を向け
ているのだ。逢魔だけだと思って油断したか。魔力の隠蔽を解かな
ければよかった。彩芽は内心で自身の軽率さを罵倒する。
こうなってから魔力を隠蔽したのでは遅い。彩芽は時々襲いかか
る死の刃を躱しながら、次の一手を模索する。
法衣を展開しなきゃ、乗り切れないだろうか?
戦況を確認し打開策を練る彩芽の目の前に、突如漆黒の塊が現れ
た。
︱︱逢魔!
衝突寸前のところでブレーキ。
わざと転び、宙に浮かんだ逢魔の真下をくぐり抜ける。
52
⋮⋮死ぬかと思った。
彩芽の背筋が遅れて凍り付いた。
ちらり見えたストッキングは、伝染してボロボロになっている。
膝も僅かにすりむいて、血がしみ出している。地面を転がったせい
でスーツもダメになっているかもしれない。このスーツ、お気に入
りだったのに⋮⋮。まったく。今日は最悪の一日だ。
﹁せ、せんぱぁい﹂
通路の向こう側で涙目になっている如月を見つけ、彩芽は全力で
地面を蹴った。
﹁先輩、死んじゃったかと思いましたよぉ﹂
何年もご主人の帰りを待ち続けた犬のように、如月が彩芽に抱き
ついた。
﹁いまは戦闘中だっての。抱きつくな!﹂
﹁⋮⋮うう、先輩恐い﹂
口調を指摘されて、彩芽はいまさらながらに気付いた。あっ、女
性らしい言葉使いを忘れてた⋮⋮。しかも、攻撃されたときの悲鳴
まで忘れてる! 普通の女の子って、難しいなぁ。
泣き崩れそうになるのを、彩芽は気力で持ちこたえる。
﹁如月、ちょっとごめん﹂
そう断って、彩芽は如月から一本髪の毛を抜いた。
﹁あでっ! せ、せんぱぁい。髪の毛を抜くなんて、酷いです。こ
れじゃハゲちゃいますよぉ﹂
﹁髪の毛は毎日何十本も抜けるんだから、そんくらいでハゲないっ
ての﹂
﹁でもぉ︱︱﹂
﹁いいじゃない、一本くらい﹂
いまがピンチだっていうことを理解していないのだろうか。緩い
如月の言葉に苛つきながら、彩芽は如月の髪の毛を手に巻き付ける。
﹁︱︱ォォォォン﹂
突如、背後からイーリスが姿を現した。
53
﹁ひぃ﹂
突然の出現に、如月が腕の中で小さく悲鳴を上げた。
イーリスは手にした鎌を振り上げ、下ろす。
身の自由を奪う如月を突き飛ばし、彩芽は拳に力を入れた。
﹁あんたは、邪魔だっての!﹂
彩芽は瞬時に魔力を右手に集めた。
﹁︿あらばしり﹀!!﹂
放出された魔術がイーリスを包み、氷結へと導く。
彩芽の目前、つま先数センチ先にイーリスの鎌が突き刺さる。
その僅かな衝撃により、完全氷結したイーリスが粉々に砕けた。
その瞬間、魔力爆発が生じた。
イーリスの、悪魔の咆哮だ。
しかしそれを予期していた彩芽は、放出された魔力と同等の魔力
をイーリスに向けて放出した。
魔力が彩芽とイーリスのあいだで衝突。
互いの魔力が同調し、対消滅した。
とはいえ余波は残った。その衝撃に巻き込まれる形で、如月が床
をごろごろと転がった。
﹁は、はじゃぁ∼﹂
勢いのまま壁に激突した如月が、何語かよくわからない言葉を口
にした。頭でもぶつけただろうか? まあ、息はしてるし大丈夫だ
ろう。
それよりも︱︱。
彩芽は逢魔を見据える。
こちらの方が問題だ。
イーリスの消失をうけても、逢魔は動じなかった。感情はもとよ
り、闘争本能さえもないのかもしれない。
彩芽はゆっくりと近づく逢魔に向けて、右手を翳す。すると、彩
芽を取り巻くように十の魔弾が出現する。
﹁先輩。それはさっきもやりましたよね﹂
54
意識がこちら側に戻ってきたのだろう。彩芽の魔弾を見て如月が
疑問を呈した。
﹁さっきより数が少ないみたいですけど。もしかして、魔力が足り
なくなっちゃいました?﹂
﹁いや、そういうわけじゃないよ﹂
彩芽は首を振る。
﹁それじゃあ、その魔弾にはすごい魔術が?﹂
﹁それも違う﹂
出現させたのは、さっきと同じ。なんの変哲もない魔力の塊だ。
しかし彩芽は、それで逢魔を消す。消せる自身があった。
右手に巻き付けた如月の髪の毛の、生きた回路に魔力を流す。魔
力が常に巡っている人体︱︱髪の毛は、存在そのものが魔力回路と
なっている。
髪の毛は魔力回路︱︱すなわち、法衣と同じ性質を帯びている。
ひと
ふた
彩芽は天地を紡ぎ、諳んじる。
﹁日つ、風つ﹂
みつ
よつ
魔力の弾が逢魔に向かう。
﹁水つ、世つ﹂
いつ
むつ
魔力弾が当たる度に、逢魔の体が変化する。
﹁出つ、虫つ﹂
なな
やつ
逢魔の体に円系に、魔力の弾が埋められる。
﹁魚つ、鳥つ﹂
ここの
とお
魔力の弾は強引に、体の形を変えていく。
﹁獣つ、人︱︱完了﹂
逢魔の体が大きく歪んだ。
あまうた
﹁夢幻の彼方に消えなさい﹂
瞬間︱︱︿天地数歌﹀が、逢魔の体内で発動した。
それは数ある彩芽の魔法の中で、唯一増幅を司る︱︱魔力を異常
に増殖させ、増殖した魔力が魔力を食い尽くす魔法である。
発動した︿天地数歌﹀により、逢魔の体がみるみる膨らんだ。彩
55
芽は如月を抱えて退避する。
逢魔の体がある一定のラインまで膨張したところで、突然その体
が急激にしぼみ始めた。増殖した魔力が、己を喰い殺しているのだ。
やがて逢魔は手の平よりも小さくしぼみ、炭酸が空気に溶けるよ
うな音とともに消滅した。
﹁勝っちゃいました?﹂
如月の言葉を受けて、やっと彩芽は緊張を解いた。ふぅ、と長い
ため息を吐き出して、抱えた如月の体を離した。
﹁みたいだね﹂
﹁すごい。でも、なんで逢魔は消えちゃったんですか?﹂
﹁おそらく、逢魔は魔力の集合体だ。そう思って、魔法で魔力を抜
いたんだ﹂
魔弾をぶつけたときの僅かな体のブレ。そこから彩芽は、逢魔が
魔力だけの集合体であることを見抜いていた。
﹁えと、じゃあ魔力を抜かなきゃ倒せなかったっていうことですか
?﹂
﹁それは、どうだろう? 魔力を消す魔法ってあたしの魔法以外訊
いたことないから、別の方法があるんじゃない?﹂
過去に何度も、逢魔は現世に出現している。それを鑑みれば、魔
力を消さずとも逢魔を消せる魔法があるのだとわかる。とはいえ、
消えたいまでは考えても意味はないのだが。
﹁先輩。すごいですね。法衣も展開してないのに、一人で全部片付
けちゃうなんて。わたし、結局なにもできませんでした﹂
﹁そんなことはないよ。如月も、ちゃんと手伝ってくれた﹂
如月の髪の毛があったからこそ、天地数歌が発動できた。とはい
え、それは如月の髪の毛でなければいけなかったかというと、そう
でもなく、また髪の毛でなければいけない理由もない。彩芽が法衣
を展開していれば髪の毛はいらなかったし、自分の髪の毛を用いれ
ば、如月の必要性は完全に消失する。
56
だから彩芽のそれは、すべて自分の力で解決したのではないとい
う、言い訳でしかない。
しかしそれでも、如月にとって彩芽の言葉は意味のあるものだっ
たようで、疑わしげな視線を向けながらも、口元だけはほころんで
いるのであった。
﹁いかがですか? うちの魔法少女は﹂
かすかに聞こえてきた高瀬川の声に、彩芽は息を呑んだ。
吹き抜けの向こう側に高瀬川と、スーツを着た男性三人がいる。
その三人は三様の表情を浮かべている。
﹁たしかに、こんなものが暴れられてはたまったものではない﹂
﹁とはいえ、これがそうそう起るとも限らないわけですよね? な
らばそこまで高額の料金を支払うわけには︱︱﹂
﹁しかし、起るかも知れない危機に備えるのは当たり前で︱︱﹂
﹁その料金にも限度があるでしょう﹂
﹁ちなみにこれは、本当に外敵なのか?﹂
高瀬川に一番近い男性の発言で、他の男性二人が口を閉ざした。
おそらくその男が、三人の中で一番偉いのだろう。
﹁⋮⋮といいますと?﹂
﹁マッチポンプじゃないのか?﹂
﹁それはありません﹂
﹁証拠はあるのか?﹂
﹁悪魔のみに﹂
﹁ふん﹂男は面白く成さそうな顔をした。﹁それで、その悪魔を殺
せる魔法少女はどうやって制御するんだ? まさか善意などという
言葉を使うわけではないだろうな?﹂
﹁もちろんです。対策は万全でございます。まかり間違えて、魔法
少女が人間に危害を加える、などということはございません﹂
高瀬川は恭しく頭を下げた。
﹁どこまで信じていいのやら⋮⋮﹂
57
﹁信じる必要はないんじゃないですか?﹂
﹁そうです。悪魔は危険かもしれませんけど、危険な悪魔を倒せる
力のある奴も危険。そんな奴らに守ってもらわずとも、立てられる
対策はいくつもありますよ﹂
彩芽の隣で、如月が唾を呑んだ。
﹁⋮⋮なんですか? あれは﹂
﹁社長が営業してるんでしょう?﹂
悪魔を直接見せて、危険性を教えて、防衛の必要性を説く。そし
て、契約を結ばせるのだ。
﹁あの⋮⋮﹂
向けられた視線で、彩芽は如月がなにを言いたいのか理解した。
それを受けて、彩芽は首を振る。言わなくてもいい、と。
過去に、こうしたデモンストレーションを行った経験が彩芽には
ある。しかし、如月は初めての経験であるはずだ。人間から向けら
れる奇異の視線と、言外に化け物と罵る蔑みの言葉。抵抗力のない
如月にとって、そのような悪意は、どれほど心に突き刺さったこと
か。
新人が大切な時期だっていうのに、どうして社長はこんなことを
したんだ?
不満を抱きつつも、彩芽は表情を和らげて口を開いた。
﹁あんなのも、命をかけて守るのが、あたしたちの仕事だ、てね﹂
﹁そうです︱︱﹂
そうですか。そう口にする前に、如月は突如力を失った。床に落
ちる危ういところで、彩芽はその体を抱きしめる。
体を抱きしめて、初めて気付く。如月の背中から大量の血液が流
出していることに。
いったいいつ? 逢魔から逃げるときは、こんな傷はなかったは
ずなのに。
考えて、はっと思い至る。イーリスが魔法で砕けたとき、大釜は
砕けなかった。それが慟哭の余波で飛ばされて如月に突き刺さった
58
のか。
深く、深くため息をついて、彩芽はすぐさま気持ちを切替える。
﹁鈴木!﹂
声を張り上げる。目の前の空間に、鈴木が姿を現した。
﹁どうしました?﹂
﹁如月が怪我をした。医療班。来てるんでしょ?﹂
﹁いま呼びます﹂
彩芽の声に即座に反応した鈴木が、一瞬で姿を消した。
彩芽は如月の背中の傷を左手で押えながら、頬に張り付いた髪の
毛を右手で払った。
︵守れなくて⋮⋮ごめん︶
法衣の魔力が消散していくのを見るや否や、彩芽は如月の法衣の
維持に魔力を注ぐ。このまま制服姿に戻ったら、血液で夏用の白い
セーラーが台無しだ。
治療班が来るまで、さほど時間はかからなかった。鈴木が運んで
きたヒーラーが、すぐさま如月の治療に当たる。手に集約された大
量の魔力が、柔らかい光と温度を帯びながら、如月の全身にゆっく
りと広がってく。一番大きな外傷である背中の傷も、塞がるまでに
それほど時間はかからなかった。若い女子の大切な肌は、これで守
られた。
﹁傷は修復できましたが、失血量が多すぎます﹂如月の治療にあた
った男性が口を開いた。﹁すぐに病院に運んでください﹂
ヒーラーが傷を修復するのは、医者が傷口を縫うのと同じ程度で
しかない。違いは魔力を使うか、糸を使うかだけだ。
医者が欠落した臓器を復活させられないように、魔法は欠落には
無効である。骨髄で生み出される血液は臓器であり、ゆえに失血に
対して回復魔法は効果がない。
﹁オーケィ。じゃ、さがっていいよ﹂
﹁了解しました﹂
鈴木の魔法で、治療師が一瞬で姿をけした。
59
﹁紅さんは、どうしますか? 場の修復は僕に任せていただいても、
構いませんが﹂
﹁うーん﹂
彩芽は長めに唸った。たしかに場の修復は、結界内に残留する魔
力を用いれば簡単である。しかし︱︱、
﹁あたしは、残るよ。如月を病院に送るのは、鈴木がやって﹂
﹁紅さんは修復ができないのでは?﹂
﹁場の修復ならあんたが連れてきたサポーターを使えばいいじゃな
い。それにほら、その子を病院に連れて行っても説明が面倒﹂
昔から嘘の積み重ねは苦手だ。如月がどうして気絶しているのか、
聞かれてもうまくごまかせる自信はない。
﹁その手の嘘はあんたが得意でしょ? だからあんたがやって﹂
﹁なるほど。わかりました﹂
鈴木は苦笑して、如月を両手で抱きかかえた。彩芽が手を離した
瞬間に、辛うじて維持していた法衣が霧散し、如月は元の制服姿に
戻った。
﹁妙なことしたら殺すから﹂
﹁しませんって。僕、そういう異常な趣味ありませんし﹂
﹁昔は子どもが産めるようになったら、女の子は他の家に嫁いでい
たものよ。十五歳の女の子に欲情するのは、歴史的に見て正常よ﹂
﹁それ、四十歳で老人と呼ばれる時代の話しじゃありませんか?﹂
﹁そうよ﹂
﹁⋮⋮笑っていいんですか?﹂
﹁ん?笑ってごらん?﹂
彩芽は満面の笑みを浮かべて右手を握りしめた。込めすぎた魔力
がスパークし、床の一部を削り取る。
﹁き、如月さんが心配なので、そろそろ移動しますね!﹂
振り切った右手が、鈴木の顔面に届くより一瞬早く、鈴木は迫る
死より離脱した。
振り抜いた拳が、空気を殺した音が空しく響いた。
60
まったく。彩芽は髪の毛をかき上げる。
その場に残ったサポーター部隊が、宙に残留する魔力を集めて場
の修復を始めた。
修復は、すぐに終わるだろう。
彩芽は堅く目を閉じて、場が修復されるまで、じっとその場に立
ち尽くしていた。
﹃今日も妙なことあったんでしょ﹄
このごろ、聡美から毎日のように電話が掛かってくる。彩芽のこ
とを心配しているのかそれとも暇なのか。まあ、後者だろう。
﹃彩芽、戦ったの?﹄
﹁まあ⋮⋮﹂
﹃魔法少女辞めるって言ったばっかりなのに?﹄
﹁いや、あたしだけじゃないよ? ほとんど新人が戦ったわ﹂
﹃新人?﹄
﹁所属してから一ヶ月の子﹂
﹃うっそ。マジで?﹄
﹁マジマジ﹂
﹃慟哭の魔力を私でも感じたから、そこそこ強い悪魔だったんでし
ょ?﹄
おそらく、彩芽の魔力もそこに含まれているはずだ。彩芽の顔が
僅かに引きつった。
﹁まあ、そこそこ、強かったのかなぁ?﹂
﹃担当のマネージャーがよく許したね﹄
﹁マネージャーはあたしと同じ鈴木だから。その子を攻撃役にって、
あたしが押しきった﹂
﹃へぇ﹄聡美は息を吐いた。﹃じゃ、その子は天才だ﹄
﹁天才かどうかまでは、まだわからないなぁ。けど、才能はあるよ﹂
﹃彩芽がそこまで言うなんて、珍しいね﹄ブランデーが入ったグラ
スを傾けるような間が空いて、聡美が言った。﹃⋮⋮ただ、なにか
61
気になるところがある?﹄
﹁うん。なんていうか、まだ戦う理由が定まってないみたいなんだ
よね。その子﹂
﹃なにそれ。ちょー危ういじゃん﹄
﹁まあね﹂彩芽は頷いた。
﹃戦う理由がなきゃ魔力が維持できない。疑問を抱けば、夢は簡単
に消える。そんなんでよく最後まで戦えたね﹄
正確には、最後まで戦ったわけではないのだが⋮⋮。その事実を
伏せて彩芽は言う。
﹁戦う自分への憧れだけで、魔力を維持してるんじゃないかな﹂
現実と認識にあるギャップによる、テレビの前で自分と同姓同名
のアイドルを見ているような感覚。如月はそれに浸っているだけだ
と、彩芽は分析している。その乖離はかならず現実へと集束する。
そうなってしまえば、テレビの前のアイドルが自分となり、憧れは
消え、夢は色を失い、熱が冷める。
﹃戦う理由を探している最中とか?﹄
﹁だと思う﹂彩芽は顎を引いた。﹁ただ、なんのために戦うかなん
て絶対に見つからないし、見つかってもいずれ失われるものなんだ
よね。できれば、なんのために戦うかじゃなくて、なにをどれだけ
守れるのかを考えてもらいたいものだけど﹂
﹃そりゃ、無理でしょ。彩芽と違って女の子はみんなアイドルにな
りたいんだから﹄
﹁それ、どういう意味よ﹂
﹃誰かに見られたい願望が強いっていうことよ﹄
﹁あたしだってあるわよ、それくらい﹂
多少は、と心の中で付け足した。
﹃どうかしら? 悪魔と戦闘したあと、どうせぼろぼろの格好で街
中を歩いてもなんともなかったんでしょう?﹄
﹁う⋮⋮﹂
聡美に指摘されたとおり、彩芽は今日ボロボロの格好のまま家路
62
についた。気になっていたのは他人の目ではなく、だめになったス
ーツとストッキングの補填を事務所はしてくれるのかどうかだけだ
った。
﹃彩芽は図太いからね。女の子の繊細さがわからないのよ﹄
﹁自分はわかってるみたいに言ってるけど、あんただって十分図太
いわよ﹂彩芽はカップなみなみまで注いだ剣菱をぐいっと煽る。﹁
おまけに性格もねじ曲がってる﹂
﹁性格のことは彩芽にはいわれたくないっての﹂
﹁そう? あたしはあんたよりマシだと思うけど? あたしはあん
たみたいに、﹃女性サスペンス∼ブリッコ女は砕け散れ∼﹄とか言
うコミックは本棚にならんでませんけどねー﹂
﹁な、なんで知ってるのよ!﹂電話口で聡美が動揺した。﹁彩芽、
私の家に来たとき、本棚を勝手に見たの?﹂
﹁勝手にもなにも、堂々と見たわよ﹂
﹁本棚は押し入れの中よ!? そんなもの、堂々と見ないでよ!﹂
相手の吃驚が心地よく耳朶に響く。今日背負った重みが、聡美の
声で軽くなったように錯覚する。
﹁あああ、彩芽だってそうじゃない!﹂
ラブパラ
うばいあい
﹁そうってなにがよ。あたしはそんな本持ってませんからね?﹂
﹁恋色天国、恋々︵メロメロ︶スイーツ、恋愛奪取、他にも色々︱
︱﹂
﹁わーわー!﹂
今度は彩芽が慌てる番だった。床に置いた剣菱の瓶を、危うくひ
っくり返してしまうところだった。
﹁彩芽の部屋の本棚には、気持ち悪いくらい恋愛漫画が収まってい
たわね。本棚には持ち主の性格が出るっていうけど、あそこまで醸
し出してる本棚は初めて見たわ﹂
﹁い、いつ見たのよ﹂
﹁この前、彩芽の家に行って朝まで飲んだときよ﹂
三ヶ月前か。あのとき最初に酔っ払ったのはあたしだったな。そ
63
のときに見られたのか!
﹁恋愛を夢見るのはわからなくもないけどさ﹂と聡美が深刻そうな
口ぶりで言った。﹁だからって、あんなエロ本夢見ちゃだめよ? 本番はかなりエグいんだから﹂
﹁∼∼∼っ!﹂
処女である事実を言外に指摘されて、彩芽の顔がかっと熱くなる。
もうやだ死にたい!
カップに残った剣菱を、彩芽は自棄的に飲み干した。三十路にな
ってもいまだに男ッ気のないあたしなんて、アル中になって死んで
しまえ!!
﹁なにはともあれ、今回はうまく行ったようだけどさ。次はどうか
わからない。今回は、どうだったの? その如月って子。怪我くら
いはしたんでしょ?﹂
﹁したね。背中がぱっくり割れてた﹂
﹁ったく⋮⋮﹂
聡美の舌打ちが、彩芽の耳に暖かく届く。たとえ小さい怪我だと
しても、その責任を背負ってしまう。そんな彩芽の性格を判ってい
るからこその舌打ちだった。
﹁彩芽さ、修復系全般の魔術ができないんだし、戦いに夢中になる
と周りが見えなくなるんだから。魔法少女を辞めるっていう信念も
いいけど、手遅れになるまえに信念を曲げないと、妹のときみたい
に︱︱﹂
﹁わかってるっ!﹂
聡美の言葉を、彩芽は怒声で塞いだ。その言葉は、いまは、訊き
たくない。
﹁怒鳴って、ごめん。聡美が言いたいことは、うん⋮⋮わかってる。
今度は、間違えないようにしようって、思ってるから﹂
聡美の言葉で、記憶の中にある嫌な思い出が顔を覗かせた。それ
を力尽くで押さえ込み、彩芽は堅く再封印する。
いまそれが現れたら、しばらく夜が恐くなる。
64
﹁なにかあったら、連絡するんだよ。私はもう魔法少女はやらない
けど、彩芽の応援くらいなら、できるんだから﹂
﹁わかってるって。だからこうして⋮⋮﹂いや、電話は聡美からだ
ったか。﹁話ができるだけ、ありがたいと思ってる。ほんと、あり
がとう﹂
﹁どういたしまして。さて、明日も早いし、私はそろそろ寝るね﹂
﹁うん﹂
﹁あーあ。明日も朝五時に起きて、旦那と子どものお弁当作らなく
っちゃだぁ!﹂
﹁あんたなんて地獄に落ちてしまえ!﹂
彩芽は思い切り終話ボタンを押した。怒りが籠もりすぎて危うく、
指先一つで携帯を破裂させてしまうところだった。
最後の一言は聡美なりの感情への発破なのだろう。それは彩芽も
理解している。しかし、貧乏人の目の前で足下が暗いと札束を燃や
すかの如き台詞を吐くのは、さすがに許せない。まったく、どこま
で性格の悪い奴なんだ、聡美は⋮⋮。
彩芽はマグカップに、濁り剣菱をなみなみ注ぎ、一瞬で飲み干し
た。
今日を忘れ、明日を乗り切る。そのために。
山かけ豆腐をつまみながら、今宵も独り、彩芽は晩酌を続ける。
65
第二章 魔法少女、夢を叶えます。
履歴書の書き方はネットにいくらでもアップされているが、自分
に合った履歴書の書き方がアップされているとは限らない。経験の
ないことに着手するとき︱︱そしてそれが失敗の許されない性質を
帯びている場合は特に︱︱人間は自分と限りなく同じ実例を見つけ、
真似ようとするものだ。
魔法少女だった彩芽にとってしかし、自分の素性と合致する履歴
書の書き方など見つかるはずがなかった。
履歴書を書くだけで三日もかかった。正確にはまだ履歴書は書き
切れていない。やはり、自分にはなにができるか? そこで躓いて
しまう。
ネットが駄目なら、魔法少女を辞めたあとで、社会に出た魔法少
女に直接聞けばいいんじゃないか? その思いは即座に脳内で却下
される。
過去に魔法少女を辞めた女性は、主婦になったか、あるいは墓の
下か。その二パターンしか存在していない。
結局三日かけても、彩芽はまともな就職活動のスタートラインに
立てずに苦しんでいた。
彩芽は昼になると、如月が入院した病院に訪れる。気晴らしのつ
もりだが、暇つぶしにしかなっていないのが実情である。
入院当初は、まともにベッドから起き上がることもできなかった
如月だが、いまではベッドを降りて売店まで一人で歩いていけるま
で回復した。
﹁あ、こんにちは!﹂
彩芽が扉を開くと、如月が即座に反応した。打ち上げ花火のよう
に快活に片手を挙げる。病室に籠もりきりで元気が有り余っている
のだろう。︵若いから、という文頭は彩芽の脳内から削除済みだ︶
66
如月に用意された病室は個室で、一人で寝るには寂しさを感じる
ほどに広い。おそらくここは病院の特患用の病室だろう。
どんなに重病でも、一般人は特患用の部屋は使えない。つまりこ
の病院は、ティーンズ・マジックと政治的な繋がりがあるというこ
と。鈴木がここを選んだのには、そういう理由があるのだろう。病
院への搬送を鈴木に任せたのは、やはり正解だったといえる。
ベッドの脇にある丸椅子に腰を下ろして、彩芽は口を開いた。
﹁体調はどう?﹂
﹁明日にでも退院できるんじゃないかって。お医者さんは言ってま
した﹂
﹁それはよかった﹂
医者からすると、驚くべき回復力だろう。如月の回復は体内の魔
力循環による影響が大きい。
どうやら如月は今回の戦いで、魔法少女として一段階ステップを
上ったようだ。体内の魔力を外に放出するコツを掴んだのかもしれ
ない。
﹁今日は、渡したいものがあって、持ってきたんだけど﹂
そういうと、彩芽は如月の目からなるべく隠すように持っていた
包みを、ぶっきらぼうに付きだした。
﹁あの、これは?﹂
﹁ど、どうぞ。開けてみて﹂
質問への回答になっていない言葉を、しかし如月は受け止めたよ
うだった。プレゼントを手にして、包みを開く。
﹁わぁ⋮⋮﹂
中から、フェルト地のクマのぬいぐるみが姿を現した。そのぬい
ぐるみを見た如月が、目を丸くし、うっとりと細める。
﹁それ、イーリスと逢魔を討伐したご褒美。イーリスは、一応強い
悪魔だったし、逢魔はあたしも初めて戦った相手だったわけだし。
あたしが手伝ったとはいっても、一度は一人でイーリスに立ち向か
ったわけだから﹂
67
ご褒美、などという言葉を使ってはいるが、それは彩芽にとって
の罪滅ぼしだった。おそらく、彩芽の不注意で怪我をしてしまった
ことに対して、如月はなんの思いも抱いてはいないだろう。だとし
ても、彩芽は負い目を感じてしまう。ぬいぐるみをプレゼントした
のは、その何分の一かだけでも、重みを取り除きたかったからだ。
それを気取られぬよう、彩芽は天井の隅を睨み続けた。いまは如
月とは目を合わせられない。
﹁ほんとに、いいんですか?﹂
﹁うん﹂
﹁ありがとうございます!﹂
突然、如月が彩芽に飛びついた。勢いよく飛びつかれたせいで、
危うく転んでしまうところだった。彩芽と如月の間で潰されたクマ
が、不満なのか至福なのか、歪んだ瞳で二人を睨む。
如月の抱擁が終わってから、彩芽は冷蔵庫から水を出して、如月
のカップに注いだ。それから窓を開け、テーブルを拭き、ゴミ箱に
いらないものを放り込んでいく。自分は如月の母親か、と内心突っ
込むが、そう悪い気持ちにはならない。
昔であれば、母親という言葉に抵抗を感じていたはずなんだけど
︱︱それだけ、年喰ったってことなのか⋮⋮。
自分で思い至った事実に一哀一憂する彩芽の横で、如月はクマの
手を弄っていろいろとポーズを取らせ、フェルト地の具合を確かめ
るみたいに手の平で撫で、クマの腹に頬を寄せる。太陽の光をいっ
ぱいに浴びた布団の上で眠る子どものように、如月は安らかな笑顔
を湛えるのだった。
如月のこの表情を見られただけでも、クマを買った甲斐があった
かな。ぬいぐるみのクマを弄ぶ如月を横目に、野生のクマを弄べる
彩芽はゴミ箱を片手に一旦病室を出た。
ゴミを捨てて病室に戻ると、病室の中に一人の少年が居た。
﹁こんにちは?﹂
彩芽は伺うように挨拶をした。
68
﹁こ、こんにちは!﹂
少年は背筋を伸ばして挨拶をした。恋をした少年みたいな反応で、
可愛らしい。
﹁ええと、如月のおばさん?﹂
訂正。こいつはクズだ。
﹁倉田くん、違う違う。この人は私の先輩の、紅さん﹂
﹁⋮⋮どうも、紅です﹂
相手を威嚇しないよう営業スマイルを浮かべるが、表情筋は彩芽
の意志に反してアルカイックに変化した。
﹁先輩、ということはティーンズ・マジックの?﹂
﹁うんうん。そうだよ﹂
彩芽の雰囲気に気圧されたのは如月だけ。倉田という少年は彩芽
の内心にまるで気付いていないふうに、表情を和らげた。図太いの
か無頓着なのか。少年の無邪気さに、彩芽は毒気を抜かれた。
﹁紅さんはすごいアイドルなんだよ﹂
﹁へぇ。CDとか結構売れてるんですか?﹂
﹁ううん。CDは、出してないよ﹂
アイドルはCDを売る仕事じゃないぞ、少年よ。
﹁お時間は大丈夫なんですか? 撮影とか忙しいんじゃ⋮⋮﹂
﹁最近は撮影はしてないかな﹂
﹁えっと⋮⋮、紅さんは、なにが専門なんですか?﹂
悪魔退治。口をついて出そうになったそれを、寸前のところで押
し込める。
﹁あたしは、メディアに露出するタイプじゃないんだ﹂
﹁そう、なんですね﹂
倉田は明らかにがっかりした表情を浮かべる。如月が﹃すごいア
イドル﹄などと言うから、有名人だと勘違いしたのかもしれない。
少年のそれは当然の反応である。有名じゃないアイドルを長年演じ
た彩芽にとって、少年のそれは見慣れた反応だった。
﹁それで倉田くん。今日はどうしたの?﹂
69
﹁あ、そうだった﹂倉田が鞄を開いて紙を取り出した。﹁進路相談
のプリント、先生から渡してって言われて、持ってきたんだよ﹂
﹁そっか。ありがとう﹂
如月の表情が僅かに沈んだ。
プリントを渡し、やることが無くなった倉田はすぐに病室を後に
した。彩芽がいなければ、もしかしたら学校の話しなんかをして盛
り上がったのかもしれない。気を利かせて出て行けばよかったか。
いや、さすがに病室に異性が入っていることには抵抗がある。特に、
敏感な年頃の如月は彩芽よりも強い抵抗があるだろう。お風呂に自
由に入れないし、メイクもしていない、髪の毛も整えていないとな
れば、女の子であれば誰だって嫌に思う。
それならいっそ裸でいるほうが楽だ! と思う彩芽に同意する女
性は、どこにもいないだろう。
﹁あの男の子だけど、クラスの委員なの?﹂
﹁え? いえ、違いますけど﹂
﹁ふぅん﹂彩芽は意味深に鼻を鳴らした。﹁倉田くんって言ったっ
け? どうしてあの男の子が来たんだろう?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
彩芽は顔を伏せた。それは嫌がるというよりも、恥ずかしがる素
振りだ。
﹁昔から、友達なんです﹂
﹁へぇ。幼なじみなんだ﹂
でも、あれ? じゃあどうして、如月は倉田くんって呼んでいた
んだ? ま、あたしには関係ないことだし、どうでもいいか。
会話がなくなったところで、彩芽は窓を閉め、バッグを肩にかけ
た。
﹁それじゃ、あたしはこれで⋮⋮﹂一度、彩芽は言葉を切った。﹁
帰ろうと思ったけど、どうやらまだ、帰れなさそうだね﹂
﹁⋮⋮すみません﹂
何故か如月が謝った。ものの弾みかもしれない。
70
病院の内部に魔力を感じる。これは、使い間のものだろうか。
﹁なんか、最近多いな﹂
﹁多いんですか?﹂
﹁うん﹂
彩芽は頷く。彩芽の経験上、悪魔を浄化した後、最低でも一ヶ月
間は悪魔は現れない。どういう仕組みでそうなっているのかはわか
らないが、少なくともいままで間断を置かずに現れた試しはない。
鈴木が﹃やばいことになっている﹄といった問題が、かなり悪化
しているのかもしれない。
感じ取った魔力は、院内をゆっくりと移動している。
﹁如月は結界張れる?﹂
﹁わ、わたしはまだ、結界の勉強はしてないです。すみません﹂
﹁謝ることじゃないよ。聞いてみただけだから﹂
結界は攻撃魔法より難易度が高い。低級の、たとえば人間が異世
界に踏み込まないための、単一次元に限定した結界ならば練習はい
らないだろう。だが、対悪魔戦で使用する、多次元にわたる結界は、
かなりのテクニックが必要になる。とはいえ魔法少女になる前から
結界を習得している人間も、いないわけではない。彩芽が知る中で
は、聡美がそうだが、彼女はあくまで特例である。普通の新人は結
界が張れなくて当然である。
この前と同じ戦術で。そう口にする前に、如月は携帯を天井に向
けた。
﹁ちょ、早い早い﹂
慌てて彩芽が結界を展開する。それとほぼ同時に、如月は魔法少
女の衣を纏った。
せっかちだな。もし誰かに変身シーンを見られたら、面倒なこと
になるんだぞ?
一つ、文句を口にしようとした、次の瞬間、病院の天井が消えた。
﹁まじ?﹂
﹁うそ﹂
71
彩芽と如月が同時に呟く。
いままで上に存在していた病院の天井そのものが、きれいさっぱ
り無くなっている。病院は六階立てだった。彩芽のいるここは五階
だから、病院一階分がまるまる消えたことになる。
﹁これは魔法、なんですか?﹂
﹁んー﹂
使い魔? にはこんな芸当は無理だろう。とはいえ悪魔と呼ぶに
は反応が希薄だ。
いったい、相手はどんな奴なんだ?
黙考する彩芽の耳朶に、如月の上ずった声が届いた。
﹁来ます﹂
如月の忠告と同時に、病室の扉が消えた。
そこには、黒い影があった。すべてを飲み込む、丸い影。彩芽の
頭一つ分背は低いが、円系なので体積は相手のほうが勝っている。
まさか、あれは⋮⋮。
﹁逢魔⋮⋮ですか?﹂
﹁逢魔だね﹂
現れたのは、この前に浄化したはずの、逢魔だった。
目の前から奇麗さっぱり消えたはずだ。なのに、どうしてこいつ
はここにいるんだ?
いや、考えても無駄だ。ここはまた︿天地数歌﹀で︱︱って、結
界はどうしよう⋮⋮。
﹁先輩。ここは、任せてください﹂
﹁え?いや︱︱﹂
彩芽の返答を待たず、如月が携帯電話を操作して、魔力を高めて
いく。
如月が任せてくれと言っているわけだし、ここは任せてみるか。
彩芽は吸い込んだ息を、声に変換できないまま吐き出した。
それにしても、と彩芽は気付く。如月は悪魔の動きを察知する魔
法は展開していなかった。それなのに、逢魔の接近を感じ取ってい
72
た素振りがある。それに、早すぎる変身のタイミング。あれが少し
遅れていれば、結界を張るタイミングはズレていただろう。屋上が
消えたあとで、展開していた可能性がある。
もしかして、この子⋮⋮。
彩芽は体のどこかが、みるみる昂ぶるのを感じた。
本当の、天才なのかもしれない。
﹁受けて、わたしの旋律。感じて、鼓動を、律動を!﹂
如月が声高く言い放つ。
次の瞬間、如月の体から、淡いピンク色の魔力が噴出した。
それが徐々に形を成して、文字に成る。
﹃いつかの君は もういない
校舎の裏に プールの脇に
甘い砂糖のお菓子みたいな
君の笑顔に 会いたいよ﹄
病室の、有り余る空間をピンク色の文字が埋め尽くした。
なんだこれは? ⋮⋮ポエムか?
︱︱あ!﹃プ﹄だ!
彩芽は﹃プ﹄を発見した。なるほど、あそこで落ちてきた﹃プ﹄
はこれだったのか。
しかし、これはあまりに⋮⋮。
酷い!
こんな魔法有りなの? いや、拳銃を魔法にしたあたしが思うの
もなんだけど、でも、これはさすがに⋮⋮痛い。痛すぎる!
身もだえる彩芽に気付いていない如月が、体を捻った。
一発。
﹃い﹄に拳を叩き付けた。
その刹那、﹃い﹄が拳の先から消失し、逢魔の体にめり込んでい
た。間断を置かず、如月は次々と文字を殴り、蹴り、逢魔にぶつけ
ていく。
なるほど。出現させた魔塊を敵にぶつける魔法なのか。ポエムを
73
使ったのは、携帯と同じ理由だろう。如月は日常的に、携帯でツイ
ッターかブログかにポエムでもアップしているのかもしれない。
イメージしやすいものであればあるほど、たしかに魔法の完成度
は上がる。でも、だからってポエムにするとは⋮⋮。
可哀想に。これ絶対、何年か後には黒歴史だ。
ああ⋮⋮、心臓が痛い。
﹁先輩、どうしたんですか?﹂手を休めずに如月は言った。﹁もし
かして、相手の攻撃かなにか、食らいましたか?﹂
﹁い、いや、大丈夫。なにも食らってないよ﹂
食らったのは、如月の攻撃で、ダメージは主にメンタルだ。しか
しそれを言ったところで仕方がない。心の痛みを力説したところで、
如月に伝わるとは思えないし。第一、如月が攻撃の手を休めれば、
逢魔に消されてしまうかもしれないのだ。ここは、そっとしておく
のがベストだろう。
﹁如月。あいつをただ攻撃しても吸い取られるだけで意味はないよ﹂
﹁はい、わかってます。けど、もしめいっぱい吸わせたらどうなる
んでしょうね?﹂
﹁ん? んん﹂彩芽は唸る。﹁⋮⋮やってみる価値はあるな﹂
おそらく、彩芽と逢魔の戦いを如月なりに分析していたのだろう。
魔力弾をぶつけられたとき、逢魔の体が若干ぶれたのは、逢魔が体
を維持できる魔力総量に限度があるからではないか? それを超え
るように魔力を与え続ければ、いずれ自壊するのではないか? 如
月がそう考えたかどうかは定かではないが、彼女が取った行動は決
して間違いではない。
頭はまわるし、センスも存分にある。このまま自分の魔法を見つ
け出せれば、本当に、あたしをを抜く魔法少女になれるかもしれな
い。
ただ⋮⋮。
この魔法だけは、すぐに辞めさせよう。
彩芽はそう、心に堅く誓った。
74
ピンク色のポエムが次々と現れては敵の体の中に消えていく。苦
しさを感じさせない敵とは対照的に、彩芽はだんだん草臥れていく。
﹁私の文字、どこまで食べられるかな?﹂
彩芽はさらに、携帯を操作して周りに文字を具現化させる。
﹃レ丶⊃ヵゝ君︵£ 言ッナ=∋йё
ァσ日σ言葉 忘яё〒十ょレヽ∋
ζяёε思レヽ出フ、ナ=ヒ〃 私
+=〃ω+=〃ω君ヵゞ フ、‡?ニ十ょ﹂レω+=〃﹄
何語なのよこれは!?
彩芽は内心絶叫した。
なんとなく日本語なのは判るが、さてどう読むものか⋮⋮。ここ
まで気にならないし、知りたいと思わない記号も珍しい。逆に、判
らなくて良かったと思えるほどである。
文字が分解されたからか、如月の攻撃速度が上がった。初めはま
るで変化しなかった逢魔が、次第に輪郭を歪め、膨張していく。攻
撃から逃れようと藻掻いているのか、逢魔は後ろへさがっていく。
しかしその速度は鈍重で、如月の攻撃から逃れられるものではなか
った。
﹃手遅れになるまえに、信念を曲げないと﹄
聡美の言葉が脳内でリフレインする。もし、万が一如月がこいつ
に殺されそうになったら。如月が殺される前に、あたしは魔法少女
として如月を助けられるだろうか?
結界を捨てて? 上の階に居た人達すべての命と、如月を天秤に
かけて、でもやっぱりそんなものは問うまでもない。あたしは迷わ
ず結界の維持を選ぶ。救える命は多い方がベターだから。けれどそ
れを納得できるかどうかは別だ。
最強の魔法少女などと彩芽は呼ばれているが、救えない命が救え
た命を下回る気配は、いまのところない。
彩芽の不安とは裏腹に、如月は逢魔をまるで寄せ付けなかった。
触れればどこかに飛ばされる魔法を帯びていようとも、しょせんは
75
逢魔である。魔法少女とは基本性能が違いすぎる。
如月の膨大な魔力の圧を蓄積していった逢魔は、やがて音もなく
消滅した。如月の魔力に、実体が喰われたのだ。
﹁やった﹂如月は囁いた。﹁や、やったぁ!﹂
突如、彩芽の胸に如月が飛び込んできた。魔法少女の法衣もその
ままに、如月がはしゃぐ。
﹁先輩、うまくいきましたよね? ね?﹂
﹁うんうん。よくやったよ﹂
彩芽の胸に顔を埋める如月の体が、小刻みに震えているのがわか
った。やっぱり、才能があってもまだ心が戦い慣れていない新人。
恐かったのだろう。彩芽はそんな如月を慈しむように、頭をそっと
撫でた。
﹁遅れてすまない﹂
元々は扉のあった方向から男性の声が聞こえた。遅いぞがりがり
メガネ。さっそく文句を言おうと口を開く彩芽だったが、そこにい
る姿を見るなり口を閉ざした。﹂
﹁どうも、社長﹂
病室に現れた男は鈴木ではなく、高瀬川だった。
﹁鈴木マネージャはどうしたんですか?﹂
﹁鈴木はいま、手が離せないんだ﹂
﹁そうでしたか﹂
社長がわざわざ現場に出向かなければいけないほど、うちの事務
所は忙しかったのだろうか?
その彩芽の疑問を十全に読み取ったのか、高瀬川が営業スマイル
を浮かべて口を開いた。
﹁うちのトップの仕事に、下っ端を向かわせるわけにはいかないだ
ろ﹂
﹁あたしは仕事をした覚えはないですけど?﹂
﹁結界を張っているだろ?﹂
彩芽の中でそれは、魔法少女の仕事ではない。しかし、事務所の
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仕事ではある。彩芽は﹁たしかに﹂と頷く他なかった。
高瀬川に会話のアドバンテージを奪われた気分だ。
﹁そう身構えるな。ただのジョークだよ。この病院はうちにとって
重要な客だからな。それなりの人間が出向くのが筋だ。そしてそれ
なりの人物の手がいまは空いてなかった。それだけのことだ﹂
﹁もしかして、社長直々に場の修復を行っていただけるんですか?﹂
﹁ああ。そのつもりだ﹂
高瀬川は両手を前に差し出し、手の平のに魔力を集中させた。彩
芽と対を張るほどの魔力が、その両手に集結していく。
悪魔の知識と魔力のコントロールについては、彩芽も認めるほど
だが高瀬川自身、大量の魔力は生み出せない。
高瀬川は罪を犯す魔法少女に首輪をかけ、魔力を奪う。首輪を嵌
められた魔法少女は魔力を吸い取られ続け、吸い取られた魔力は高
瀬川の︱︱ティーンズ・マジックの魔力として活用される。
高瀬川の魔法により、破壊された場がみるみる修復されていく。
﹁紅くん﹂
﹁はい?﹂
﹁魔法少女を、本当に辞めるのか?﹂
﹁⋮⋮はい﹂彩芽は頷く。
﹁俺としては、まだ辞めてほしくない。紅くんは、まだまだ現役だ
ろう﹂
﹁力は、ええ、衰えていると言えるほどでもないですが﹂
しかし、実際的に体は二十代のときほど動かなくなってきている。
事実、極大魔法を使った翌日は、体のどこかが不全状態となる。夢
に体が喰われいるのだ。
動物は通常、老いて動きが鈍くなった途端に他の動物に捕食され
る。それと同じ理屈で魔法少女にも年寄りはいない。︵だから魔法
少女と呼ばれるのだが︶少女を超える年齢になるころには魔法が弱
体化し、身体機能が低下する。そして少女は悪魔に殺される。
身体の不全を知られたら、途端に魔法少女紅彩芽は人々の心の中
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で死に始めるだろう。それがたまらなく嫌なのだ。
﹁じゃあ、結婚か﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁紅くんも女だからな。理由はわかる。だが、いま抜けられると大
変なんだ。新人が育ってないし、なにより、大規模戦闘が控えてる﹂
﹁あたしは、大規模戦闘には出ません。鈴木マネージャにも、それ
は伝えてあります﹂
高瀬川の瞳の光が僅かに揺らいだ。
﹁それじゃ困るんだ﹂
﹁ええ。それは、申し訳ないと思っていますが、もう決めたことで
すので﹂
﹁しかし紅くんがいないと、勝てないかもしれない﹂
﹁大丈夫ですよ。ここに、最強の魔法少女候補がいます﹂
そう言って、彩芽は如月の背中を押した。
﹁え? え?﹂
彩芽の言葉の意味を理解できない如月が、丸い瞳を高瀬川と彩芽
に交互に向ける。
﹁ええと⋮⋮ああ、鈴木の担当の。本当に大丈夫なのか?﹂
﹁行けますよ。今回の逢魔は、如月が倒したんです。一人で、それ
も入って間もない新人がですよ?﹂
﹁ん、んん﹂高瀬川は鼻を鳴らす。﹁紅くんが手を貸したんじゃな
いのか?﹂
﹁あたしは、結界を張っただけです﹂
﹁なるほど﹂
長い、長いため息の終わりと、場の修復の終わりが重なった。室
内はすっかり日の光が半分以下になった。高瀬川が腕を下ろすのを
確認して、彩芽は結界を解いた。
﹁重要なのは、やはりそこか﹂
﹁え?﹂彩芽は眉を寄せて聞き返す。
﹁いや。⋮⋮まあ、今回は大事に至らなくてよかった。紅くん、サ
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ポートありがとう。君もだ﹂高瀬川が如月を目だけで見た。﹁ただ、
まだ君は病人だ。あまり無理はしないように﹂
そう言い残して、高瀬川は病室を出て行った。
79
第二章 魔法少女、夢を叶えます。2
高瀬川が去ったあとの壊滅的な雰囲気のせいで、二人の言葉は失
われ続けた。どうしようもない空気に耐えかねて、彩芽はポシェッ
トを掴み立ち上がる。
﹁今日は、帰るね﹂
﹁あ、はい。あの、クマちゃん、本当にありがとうございました﹂
﹁気にしないで。次も、なにかあったら頑張ってね。そのとき、あ
たしはいないかもしれないけど﹂
﹁⋮⋮はい﹂
病院を出たあと、彩芽は携帯を取り出した。短い操作で、鈴木の
番号に発信する。
﹃はい、鈴木です﹄
﹁いったい、どうなってんのよ?﹂
﹃一言目で既に意味が行方不明ですが﹄電話の向こうで鈴木が苦笑
するのがわかった。﹃どうなってるって、なんのお話ですか?﹄
﹁どうしてまた逢魔が現れるのよ?﹂
﹃逢魔が出現? イーリス戦のお話しですか?﹄
﹁いま出たのよ!﹂
﹃いま? いまですか!?﹄
彩芽の怒声に、鈴木が動揺を見せた。鈴木がこんなふうに驚いた
ことは、あまり記憶にない。本当に予想外のことだったんだろう。
﹃それは、新種の逢魔ですか?﹄
﹁イーリス戦のときとまったく同じだったわ。いったい、どうなっ
てるのよ?﹂
十秒ほど待つが、鈴木は返答しない。
彩芽は待つことに苛ついて口を開く。
﹁どうしたのよ﹂
﹃すみません。ちょっと気になることがあって、それを分析してま
80
した﹄
﹁気になることってなによ﹂
﹃いまはちょっと︱︱﹄
﹁もったいぶらないで﹂
﹃もったいぶってはいませんよ。ただ、うまく言葉にならないんで
す。なんというか、よりにもよってこの時期に、二度も同じ逢魔が
現れたことについて、なにかしらの意図を感じたものですから﹄
彼の言う﹃この時期﹄とは、おそらく大規模戦闘のことだろう。
﹁それと、社長が来たわ﹂
﹃社長はお嫌いですか?﹄
﹁もちろん﹂彩芽は大様に頷く。﹁あたしは、あたしより偉い人が、
昔から嫌いなのよ﹂
もちろん、彩芽の言葉の半分は冗談である。だが、もう半分は本
心でもあった。魔法少女の魔法を封じられる存在を嫌いにならない
魔法少女などいない。それはある種の恐怖として、彩芽の隣に常に
寄り添っている。
電話の向こうで、くつくつという笑い声が聞こえた。
﹃相変わらず素直じゃないですね﹄
﹁うるさい﹂
彩芽は本音を悟られた気がして、彩芽は顔が熱くなった。小学校
時代の卒業文集を見られた気分だ。
﹁それと、どうして今日あんたがいないのよ﹂
﹃いつも紅さんと一緒に居ていいんですか?﹄
﹁あんたって、死にたいからそういう言い方をするの?﹂
﹃冗談です。僕も僕で、今日は都合が悪かったんですよ。情報収集
をしなきゃいけませんでしたから﹄
鈴木の声色に妙なものは感じられない。作為的な不在ではないと
いうことか。たとえ作為的であっても、鈴木は無関係だろう。
﹁なにがあるんだか知らないけど、あたしにだけは火の粉が降りか
からないように。しっかりしてよ?﹂
81
電話を切って、彩芽は空を睨んだ。
履歴書は書けないし、魔法少女を辞めるって言ったのにまだ関わ
り続けてる。病院には社長が現れるし鈴木は来ないし逢魔は再発生
するし。まったく。踏んだり蹴ったりだ。
さて、このストレスはどこに捨てれば良いのだろう?
そんなものは、考えなくても決まっている。
携帯をしまい、彩芽はいつものスーパーに向けて歩き出した。
日が落ちる前、一本の電話が掛かってきた。相手は聡美だった。
﹃今日これからそっちに行くけどいい?﹄
嫌なことがあったのか、直接喋りたいことがあるんだろう。彩芽
としても久しぶりに二人きりで、時間も気にせず話したい。彩芽は
二つ返事で了承した。
聡美が家に来たのは日が暮れてからだった。彼女は使い古した酒
瓶を片手に家に上がり込む。軽い生地のブラウスにホットパンツ。
人妻で子持ちの女の格好じゃないな、というのが彩芽の第一印象だ
った。彼女が人妻であることが辛うじてわかるのが、左手薬指に嵌
められたエンゲージリングだけ。子持ちかどうか判断できるのは唯
一、髪の毛の長さくらいか。昔は背中まであった髪の毛は、いまや
ショートボブまで短くなってしまった。これが確実に子持ちである
印かといえば否であるが、魔法少女という職業柄を考えると、限り
なく肯に近づく。
子どもができれば髪の毛を切る。それが本当の意味で理解できる
のは、子持ちだけだろう。もちろん、彩芽は理解できていない側の
人間だ。
予想通り相当なストレスが溜まっていたのだろう。酒瓶を傾けな
がら、聡美はぽつぽつと日常の不満を話し始めた。
医者と結婚生活をするのは、並大抵のことではない。二人きりで
生きる分には、そう難しい問題ではないかもしれないが、結婚とは
家族同士が繋がることである。聡美側の両親は平均的な家庭だった
82
ため問題は無かったが、相手側の両親は所謂良家だった。医者を育
てるのにかかるお金を考えると、当然といえば当然である。良家と
繋がるということは、当然それ相応のものが求められる。客人のも
てなし方から始まり、着物の着付け方、お茶の入れ方、家と関わり
のある何百人という人名の記憶。聡美の苦労話しは枚挙に暇がない。
結婚して数年経ったとはいえ、口を開けば辛い、苦しい、もう辞め
たい。そんな話しばかりだ。
それでも最近はその程度も徐々に和らいできてはいた。結婚当初、
彩芽が心底不安になるような声色をしていたことを思えば、現在の
聡美の愚痴はただの惚気にしか聞こえない。
夫の帰りが遅いとか育児を手伝わないとか足がクサイとか食事時
に手術の話をするとか、自分が眠ってからセックスする確率が妙に
高いとか、正直どうでもいい話しばかり。
そのうちセックスする前に眠剤を飲まされるようになるんじゃな
い?とシャレを言おうか考えたが、冗談にならないのでやめておい
た。
それよりも酒である。聡美が持参した酒は、銘柄がわからないが
とにかく美味い。リンゴの皮のような香りに、金色の液体。すっと
透き通るのど越し。口当たりは軽いのに、アルコール度は高く辛い。
酒瓶の下には、白いもやが澱にになっている。この酒はなんていう
銘柄なんだろう? すごく気になる。
夜が更けるころには、聡美が持ち込んだ日本酒は空っぽになった。
彩芽は押し入れから龍の図柄が浮き彫りにされた泡盛の五升瓶を取
り出し、宴会を加速させる。
間接照明の灯された部屋では、二つの赤い顔が二様の表情を浮か
べていた。
﹁だぁかあね、あた、そんなんだから、結婚できあいのよ﹂
﹁するもん。これから結婚するもん!﹂
涙を流しながら、彩芽が聡美に抗議した。
聡美は説教をし、彩芽は泣き続ける。二人が酔うと必ずこの図式
83
になる。
﹁結婚、すうならさ、じゃあ、どこで出会うのよ﹂
﹁出会い⋮⋮ない。ないから、就職するんだもん!﹂
出会いがない。それが他の企業に就職してもそうであるとは、彩
芽にはおそらく想像だにしないだろう。しかし彩芽は力説する。ど
こかの企業に就職すれば、出会いがある。そこで男に出会えれば、
結婚できるのだと。
﹁ばからね、あた。んなので結婚できるわけないでしょ。いい? 結婚できる女ってのあね、出会いがなくても結婚できるのよ。そう、
私みたいにね! ははははは!﹂
﹁うううう⋮⋮﹂
聡美の笑いで、彩芽は堰を切ったように号泣した。
酔っ払いは圧迫感を嫌う。当初はきっちり着込んでいた衣服も、
いまでは激しく乱れている。ブラウスは胸元がはだけ、ジーンズや
ホットパンツのボタンも外れ、ファスナは全開だ。
この姿を誰かに見られればどうなるか? 女というか、人間とい
う以前に、関わってはいけない危うい生き物だと人は思うだろう。
絶対に他人には見せてはいけない姿である。故に二人は、宅呑みを
好んだ。二人で酒を飲んだ経験は約十年間で何度となくあるが、そ
の中で外で飲んだ経験は一度きり。その一度で瀕死の重傷を︵心に︶
負ったため、いまでは宅呑みしか行わない。
今日が終わり、明日がやってくる時間になるころには、彩芽が秘
蔵していた十年古酒は、からっぽになっていた。聡美は笑い、彩芽
は泣いたまま、電池の切れかけたテープレコーダのように鈍化し、
二人はついに意識を消失させた。
翌日になって目の覚めた彩芽は、酷い臭いと、横で眠る死体を見
た。
死体︱︱だと思った。白目を剥いて口を開き、俯せに眠る聡美は
じっくり見なければ、誰しもが死んでいると判断しただろう。握っ
84
た右手の人差し指だけが立てられているところなど、ミステリ番組
に出てくるダイイングメッセージを残す死体の図式そのままである。
﹃犯人は彩芽﹄
この女ならば人生最後のジョークにそれくらいのメッセージは残
しそうである。ジョークになる確率は五割程度かもしれないが⋮⋮。
それはさておき。彩芽は聡美の頬をビンタして意識を覚醒させる。
ビンタは女がそんな顔をするな、という女性としての憂慮からでは
ない。純粋に気持ち悪いものを見せるな、という怒りによるもので
ある。
意識が覚醒した聡美は一度黒目を戻して上を見上げ、目を瞑って
眉間に皺を寄せた。
﹁うう⋮⋮、あったま痛い⋮⋮﹂
聡美は二日酔いらしい。同じくらいの量の酒を飲んだ彩芽はとい
うと、多少体が重いかな? という程度で、頭はまったく痛くない。
そもそも彩芽は二日酔いの経験がない。
﹁もうこんな時間じゃない﹂
時計を見ると、時針が十を差していた。もうハローワークは開い
ている。さっさとハロワに行って、職業検索用のパソコンを借りな
ければ。
﹁ほら、さっさと起きる﹂
体を揺すると、聡美はえぐえぐと嘔吐いた。仕方なく、彩芽はコ
ップに水を入れて聡美に差し出す。悪戯心で焼酎でも入れてみよう
かと思ったが、透明な酒が在庫切れのため諦める。
﹁いま何時?﹂
﹁十時まわってる﹂
﹁うっそ。⋮⋮やば。旦那に怒られるぅ﹂
﹁こうなること、言ってこなかったの?﹂
二人が揃って飲んで、その日に解散した試しはない。必ず朝帰り
である。
﹁彩芽と飲むの久しぶりだったから。言い忘れてた﹂
85
﹁そういえば、そうだったね﹂
考えてみれば、たしかに久しぶりだ。結婚に出産にと、聡美はこ
の数年、いろいろと忙しく、二人で飲むことはなかった。
﹁電話してあげな﹂
彩芽の言葉で聡美は携帯を取り出した、が、その画面を見て固ま
った。
﹁どうしたの?﹂
﹁ん? いや、鈴木から電話が入ってたからさ﹂
﹁え?﹂
僅かに動揺した。既に魔法少女を辞めた聡美に、鈴木が電話をす
ることなどあり得るだろうか?
もしかしたら自分のところにもかかってきてるかもしれない。そ
う思い、彩芽は携帯を取り出した。
予想通り、彩芽の携帯にも鈴木から着信が入っていた。そして、
彩芽の予想以上に、事態は深刻であるようだ。
着信履歴︱︱二十四件。
﹁あたしにも入ってた﹂
﹁時間は? 私は二時に一回あるだけだけど﹂
﹁あたしは一時から二時まで、二十四件﹂
聡美の顔が僅かに引きつった。それは着信回数を気持ち悪く思っ
たからではなく、おそらく聡美も、鈴木がこちらに伝えようとして
いた状況の深刻さが理解できたのだ。
履歴にある着信の一件をタップし、彩芽は鈴木の携帯をコールす
る。
一度、二度。コールが酷く長く感じられた。
﹃もしもし? 紅さん?﹄
鈴木の声が聞こえたとき、彩芽は僅かに安堵の息を吐き出した。
これがどのような意味なのか考えることなく、彩芽は口を開く。
﹁なにがあったの?﹂
一秒ほど間が空いて、鈴木が答えた。
86
﹃如月さんが、消えました﹄
87
第二章 魔法少女、夢を叶えます。3
準備を手早く終わらせ︵二日酔いにのたうちまわる聡美は見捨て
て︶彩芽は自宅を出た。
待ち合わせ場所の駅前に着いたと同時に、鈴木が姿を現した。
﹁早かったですね﹂
﹁急いだからね﹂
鈴木の驚きの声を一蹴する。伊達に何十年と化粧をしていない。
いくつかの手順を端折り、手抜きをすることで速度を上げる方法は
とうの昔に身につけている。その分仕上がりが悪くなるのだが、こ
の顔を見るのは鈴木だけ。極度に気にする必要は⋮⋮ないない。
﹁昨日のことですが﹂催促するまでもなく、鈴木が事情を打ち明け
始めた。﹁僕の仕事が終わってから、如月さんに会いに行きました。
如月さんの病室にたどり着いたのは、午後八時でしたか。そのとき
にはすでに、如月さんのベッドは空になっていました﹂
﹁じゃあ、消えたってわかったのは夜の八時だったってわけね﹂
﹁ええ、そうです﹂
鈴木はメガネを押し上げながら、頷いた。
﹁どうしてそのときに、あたしに教えてくれなかったのよ﹂
その時点であれば、まだ酔いは浅かっただろう。電話が鳴れば気
づけただろうし、もし如月が消えたのだと判れば、すぐに家を飛び
出すこともできた。
﹁携帯電話が残されていたので、単純に病室を出ているだけだろう
と想像したんです。僕は病室で小さな仕事を片付けながら、如月さ
んの帰りを待ちました。けれど、一向に戻って来なかったんです。
おかしいと思ったのは、三〇分ほど経ってからです。僕は電話で、
早急に情報の収集をするように事務所に申し入れました。ですが⋮
⋮﹂
鈴木が一旦言葉を切った。そのときを思い出したのか、苦悩の表
88
情を浮かべる。
﹁昨日は情報部全員が、外に出ていたんです﹂
﹁社長は?﹂
﹁帰宅済みでした﹂
彩芽は大きく舌打ちをした。偉い奴はいつだって要らないときに
現れて、必要なときにいない。
﹁ひとまず、僕一人で如月さんの捜索に乗り出しました。まあ、情
報収集に関しては、僕一人いれば十分ですからね﹂
その自画自賛はなんだ? 殴れってことか?
﹁なら、どうしてあんたは如月を見つけられなかったのよ﹂
﹁見つけましたよ﹂
﹁え?﹂
﹁見つけたんですが、僕一人じゃ助けられそうになかったので、紅
さんに電話をかけたんです。遅い時間でしたけれど、事情が事情だ
ったので⋮⋮。しかし、紅さんに電話が繋がりませんでしたので、
悪いとは思いましたが冬凪さんに︱︱いまは苗字が変わったんでし
たね。聡美さんに連絡を入れました。おそらく二人で呑んでるんじ
ゃないかと考えたんです﹂
鈴木の予想はまさに的中だった。二人で呑んで潰れて、大切な電
話に出られなかったことは⋮⋮まあ、悟ってはいるだろうなぁ。
﹁こっちも、電話に出られなくて悪いと思うけど。急ぎの用件なら、
あ、会いにくればよかったじゃない﹂
何故そこで緊張するんだ紅彩芽! 声が上ずって、彩芽は内心で
自らをどやしつけた。
﹁昔、それをやって死にそうになった経験があるので、レディの部
屋には飛んでいかないよう、心がけているんですよ﹂
殺そうとしたのは誰とは言いませんが、と鈴木は言う。もちろん
相手は決まっている。
彩芽は鼻から息を吐き出した。
﹁あたしと連絡が繋がらなかった経緯はわかった。でも、もしそう
89
ならなんで他の魔法少女に仕事を振らなかったのよ?﹂
﹁他のマネージャに無断で、担当以外の子を使うわけにはいかない
んですよ。ですが、事は緊急事態ですから、事後報告でも可かと考
えたんですが。あれの相手をするには︱︱﹂鈴木は声のトーンを落
した。﹁他の子じゃ力不足です﹂
他の手が使えないわけでない状況であるにも関わらず、彩芽に拘
ったのはそういう理由らしい。
彩芽以外では力不足というと、上位悪魔が相手か?
﹁相手は誰よ﹂
﹁逢魔です﹂
﹁⋮⋮は?﹂彩芽は両眉を段違いにする。
﹁正確には天然性転送型魔力廻路。紅さんがここ数日で、二度戦っ
たと思われる相手です﹂
けど、あれは昨日離散させたはず。彩芽もそれの最後はしかと見
届けた。
﹁倒せてなかったの?﹂
﹁いえ、おそらく倒したと思います。けれどその後、紅さんはそれ
を封印しましたか?﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
そうか。彩芽は天を仰いだ。
逢魔は﹃天然性﹄だ。自然に魔力が集まって形成される性質があ
る以上、散らしたあとで再集結しないよう封印を施さなきゃいけな
い。
﹁如月さんは、その逢魔の中にいます﹂
鈴木の一言は残酷だった。それは救急車に乗せられて医者に死亡
と診断されるまで生存している死体と同じ。逢魔の中に入って、生
きていられるとは思えない。
いや、生きてはいるのかもしれない。
生きて出られないだけかもしれないのだから。
﹁ということで紅さん。逢魔の中に入ってください﹂
90
﹁死ねと?﹂
そういうことを平然と言ってのけるこのがりがりメガネは、まさ
に鬼畜だ。
﹁いえ、見込みはあると思いますよ﹂
﹁どんな見込みがあるっていうのよ﹂
﹁今回は僕がサポートをします﹂
﹁⋮⋮まずいんじゃないの?﹂
会社の規則で、マネージャは魔法少女の仕事に直接手を出しては
いけない。マネージャは、魔法少女を戦わせることが仕事だからだ。
鈴木がニヒルに笑ってメガネを押し上げる。
﹁呑まれたのは、僕の担当ですよ? 救出できるなら、あらゆる手
段は講じます﹂
鈴木が彩芽の忠告に耳を貸した様子はない。むしろそれは、逆に
作用してしまったかもしれない。
まったく。彩芽は気付かれぬよう、そっと息を吐き出した。こい
つは昔から、自分の担当相手に熱くなる。もし担当の子の命に危険
が迫った場合は、全力で助け出す。過去に何度、そんな鈴木に彩芽
は助けられたことか。自分の手の届く範囲であれば、常識やルール
や世間体や社内事情や、ありとあらゆるしがらみの一切を無視して、
なんとしてでも助け出す。邪魔であれば世界遺産であっても即決で
無慈悲に破壊する。鈴木は、そういう男だ。
こういうところがあるから、彩芽は鈴木を、嫌いになれない。
鈴木に肩を触られたことに意識が行った、次の瞬間、彩芽はどこ
かのビルの内部に居た。ビルの内部は閑散としていて、コンクリー
トの柱がむき出しになっている。このビルが住居用なのか商業用な
のか、壁も扉もないためまるでわからない。フロアすべてが吹き抜
けになっている。あるのは柱と、遠くに見える窓からの光。その窓
にはガラスがはまっていない。夏だというのに、少し涼しいのは、
なにもないせいだろうか。
91
﹁しっかし、あんたの魔法って気持ち悪いわね﹂
鈴木に触れられた肩を、これ見よがしに手で拭う。異性に肩を触
れられることなど、ここ最近あっただろうか?
ミニスカートを履いて満員電車に乗っても、男は何故か彩芽の傍
から離れていく。それは何故だ? 年齢か? 三十路のミニはいけ
ないのか?
⋮⋮あー、なんか腹立ってきた。
彩芽の意味不明な思考が︵何故か︶怒りの導火線に火をつける。
己の思考と独り相撲を続ける彩芽を尻目に、鈴木が手で中に模様を
描いた。
その手の平から魔力の残滓がこぼれ落ちる。
封印か。彩芽は即座にその行動の意味を理解する。
どうやら鈴木は封印していた逢魔を、解き放つつもりらしい。な
んのために? とはさすがに思わない。それよりも、本当にうまく
いくだろうか?という疑念が強い。
鈴木が手を止めると同時に、なにもない空間からゆっくりと濃紫
の霞が溢れてきた。それは徐々に姿を形成し、球体となり安定した。
﹁紅さん。その姿でいいんですか?﹂
法衣を纏わないのか? と鈴木が問う。おそらくその方が、不慮
の事故は避けられるだろう。しかし彩芽は首を横に振った。
﹁あたしはもう魔法少女は辞めてるの。小夜衣は纏わない﹂
彩芽の言葉を受けた鈴木の表情に、不安が混じる。
死ぬつもりか?とでも思われているかもしれない。たしかに、死
んでしまった方が楽だと思うことはある。これからのことをなにも
考えなくていいし、憂慮しなくていい。心が折られることがない。
でも︱︱、
﹁大丈夫よ。あたし、結婚するまで死ぬつもりないから﹂
﹁それがフラグにならないように、祈ってます﹂
﹁殴るよ?﹂
﹁殴られたらサポートできなくなります﹂
92
彩芽と鈴木は互いのジョークに苦笑する。二人にとってそれは、
無意味な罵倒ではなく、大戦前の緊張をほぐす儀式だった。
気合いに満ちた彩芽は、場を固定さて身動きの取れない逢魔を直
視する。その背中に暖かいなにかがまとわりついた。おそらく、こ
れは鈴木の魔力だろう。彩芽のそれなんかより、ちっぽけな存在だ。
けれど、これがいまは心強い。なにかあればこれが自分を助けてく
れる。その確信が、ある。
﹁向こうについて、如月さんを見つけたら携帯を鳴らしてください。
僕の魔法で引っ張り上げますから﹂
﹁おっけ。了解﹂
彩芽は小さく頷いた。
﹁じゃ、行ってくる﹂
﹁いってらっしゃい﹂
鈴木に見送られて、彩芽は逢魔に飛び込んだ。
魔法少女を辞めるって言ったんだけど、と彩芽は考える。鈴木の
口車に乗せられて来たけれど、他の魔法少女だって、如月を救える
かもしれないっていうのに。こっちは就職活動の大事な時期なんだ
から︱︱って履歴書はまだ書けてないけど⋮⋮。この埋め合わせを
どうさせるべきか?
﹁そうだ、今度合コン開いてよね!﹂
言うのが遅し。彩芽の後ろに控えていた鈴木の姿は、逢魔の霞に
包まれ完全に消失していた。聞こえなかったかな? ま、いいや。
戻ったら直接伝えよう。
逢魔に吸い込まれる中で彩芽は無意識のうちに、死地へ赴く己の
精神を前向きなものにする。負の要素を消失させ、精神を高揚させ
る。それが第一線で戦い続けた魔法少女と呼ばれる女性の、屈強な
精神力だからこそなせる業である。
揺れ動き惑う空間が、徐々に安定を始める。彩芽の視界はコンク
リート製のビルの中から、薄暗い無人の木造駅舎へと変わっていた。
無人だとすぐに判断できるほど、駅舎は狭いものだった。おおよそ
93
五畳ほどの部屋があり、その前後はすでに外への扉になっている。
扉に付いた窓の外には、紫がかった闇が広がっている。目を懲らす
がなにも見えない。
駅員室も改札口もない。田舎にはよくある駅舎なのだろう、都会
にはまずない。
彩芽はその駅舎をじっくり観察する。時刻表や案内掲示板はある
が、なにが書かれているのか読めない。日本語?のようで日本語じ
ゃない。いや、日本語ではあるのだろう。しかし、文字を見ても彩
芽の頭は真っ白いまま。意味や音が出てこない。頭を強く打ったあ
との感覚に似ている。
文字の解読を諦め、彩芽は外に通じる扉に手をかける。
しかし、開かない。
木枠が歪んでいるのかと思い、力いっぱい扉を横に引くが扉はミ
シリと音も立てなかった。
試しに彩芽は後ろの扉に触れてみた。その扉は、なんの抵抗もな
くすぅっと開いた。
﹁ありゃま﹂
無意識に声が出た。小さな声は闇の中を進み、どこかでぷつりと
消息を失った。
駅舎の外は、駅のホームだった。ホームは幾つも積み重ねられた
石でできている。城の基礎より大ざっぱだが、足が取られない程度
には奇麗に組み合わせられている。
線路は二本だけしかない。駅のホームに駅名の看板があったが、
これもまた読めなかった。
遠くで、太鼓の音が聞こえた。小さい音だった。
心臓が薄い胸の内側から叩く。
いまのは、なんの音だ?
反射的に小夜衣を展開しそうになるのを、ぐっと堪える。これは
自分が魔法少女をやめた証。普通の女の子として生きる決心である。
清い言葉使いや非戦闘や悲鳴など、普通の女の子として守るべき作
94
法を既に守れていない手前、容易く展開するわけにはいかない。
法衣の代わりに、彩芽は体の周りに薄く魔力を展開させる。それ
で不意打ちでの即死は避けられるだろう。
再び、遠くから太鼓の音が聞こえた。今度は、さっきより近い。
この音はなんなんだ? 彩芽は身構える。どこからか、魔力を感
じた。彩芽の視線の先のようで、背後のようでもある。この空間が
魔力を乱反射して、うまく魔力の根源を探れない。
無意識に、耳が太古の音を探る。出力を上げた鼓膜が、ホワイト
ノイズをキャッチする。胸を押し上げる心臓がうるさい。
彩芽の視線の向こう。紫色の闇の中にうっすらと、淡い光が見え
た気がした。
⋮⋮なにか、居る?
彩芽は腰を落して半身になる。もし相手が悪魔であれば、迷わず
に消し去る。そのつもりで、魔力を拳に蓄えていく。
﹁⋮⋮ぱい?﹂
闇の向こうから声が聞こえた。
その声には、覚えがある。
﹁⋮⋮如月?﹂
﹁先輩!﹂
闇の中から、法衣を纏った如月が姿を現した。真っ白いはずの衣
はところどころ煤けていて、安定感が損なわれている。
この先で戦闘でもあったのか?
﹁なにがあったの?﹂
如月の元に走り寄った彩芽は、その背中に抱えられたものを見て
足を止めた。
如月の背中に、少年がいた。少年は、如月の病室に訪れた倉田だ
った。意識を失っているのだろう、倉田は如月の背中で力を失って
いる。
﹁どうして、倉田くんがここに?﹂
﹁それも含めて、お話します﹂
95
背負った倉田を駅舎の壁に預けて、如月は裾を軽く払った。
﹁どうやらここは、直接あの世と繋がっているみたいです﹂
﹁ってことは隠世か、ここは﹂
﹁たぶん﹂如月は頷いた。﹁線路の向こうに行けば行くほど、薄黒
い魔力が濃くなっていきます。だから、きっとそのまま進めば死ん
じゃうんじゃないかなぁって。太鼓の音も大きくなっていきますし﹂
﹁この太鼓の音って、なんの意味があるの?﹂
﹁なんでしょう? いい匂いのするケーキ屋さんみたいなものでし
ょうか﹂
﹁⋮⋮は?﹂
つい、彩芽は素で聞き返した。
﹁ええと、人間をおびき寄せる囮なんじゃないかなぁって。ごめん
なさい﹂
彩芽が睨んだからか、如月が素早い動作で頭を下げた。
アンコウの提灯みたいなものか。如月の例えを彩芽は即座に修正
する。たしかに、明かりも名にもない状況であれば、音に導かれて
進んでしまうかもしれない。
﹁それで、その倉田くんはどうしたの?﹂
﹁ええと、実は今日、先輩が帰った後にもう一度病室に来たんです。
その、渡し忘れたものがあったって⋮⋮﹂
目が僅かに泳いだ。なんだ、嘘か。どうせ倉田と病室で逢引きで
もしたんだろ? いいね、若い子は、積極的で。
羨ましくなんてないもんね!
﹁そこで逢魔に呑まれてしまったんです。⋮⋮あの、もしかしてわ
たし、浄化し損なったんでしょうか?﹂
如月が上目遣いになった。それは媚びではなく、本心だろう。仕
事の失敗を彩芽にどう思われているのか。見損なわれていないか、
気にしているのかもしれない。
﹁如月はしっかりやったよ。逆に、間違えたのはあたしのほう。逢
魔はね、散らしたあとは封印しなきゃいけないんだ﹂
96
﹁封印?﹂
﹁自然にエネルギィが集まってできた存在だからね。そういうエネ
ルギィが集まらないように施術しなきゃ、再発する﹂
﹁そう、でしたか﹂
如月が小さくため息をついた。小動物の欠伸のようなため息だっ
た。
﹁如月と倉田くん以外に、呑まれた人はいないのかな?﹂
﹁はい。いないと思います。先輩は、どうしてここへ? もしかし
て先輩は、ここから脱出できるんですか!?﹂
如月はまるで五歳児がヒーローショウでヒーローを間近で見たと
きのような、キラキラとした瞳で彩芽を見た。
﹁⋮⋮い、いや、あたしも、それができないんだよね﹂
﹁え? じゃあ、どうするんですか?﹂
﹁さてね﹂
如月のまぶしい視線から逃れるように、彩芽は携帯を取り出した。
アンテナは二本立っている。しかし、このアンテの色は、なんだ?
いつもは白いはずのアンテナが、青色になっている。ま、いいか。
彩芽はさして気にせずにマネージャの番号をコールする。
しかし︱︱おかけになった番号は、電波の届かないところにある
か︱︱繋がらない。
﹁おかしいなぁ﹂
彩芽は首を捻る。ここに来る前、如月を見つけたらマネージャに
電話をして、引っ張り出してもらう約束だったんだけど。電話が繋
がらないのは予想外だった。いや、予測していたからこそ、マネー
ジャは彩芽の背中に、微力ながらも魔力を付与したのだ。その魔力
が、彩芽と現実世界を繋いでいるのだと彩芽は推測していたのだが。
⋮⋮ん?
﹁ねえ、如月﹂
﹁はいなんでしょう?﹂
彩芽は、切羽詰まったような表情になり、口を開く。
97
﹁あんた、自分のマネージャの名前、覚えてる?﹂
﹁え?﹂
問われた如月は数秒、呆けた表情をし、そして曇った。
﹁⋮⋮わかりません﹂
如月もか。自分も、あのがりがりメガネの名前を思い出せない。
まさかこの場の影響によるものなのか? ここにいるから、あいつ
の名前を思い出せなくなっているのか?
いったい、なんなんだここは? 現実世界との繋がりが希薄なだ
けじゃなく、記憶も希薄になるっているのか? だとするなら、こ
こにいるだけで、消えてしまうんじゃないか。
彩芽の心臓が温度を下げる。嫌な汗が背中を伝って落ちた。こん
な得体の知れない状況に陥ったのは、久しぶりだった。まず、どう
すれば良いか。彩芽は混乱した頭に平静を呼び戻す。
そのとき、闇の向こう側に気配を感じた。
彩芽と如月が同時に反応する。
﹁⋮⋮先輩﹂
﹁十⋮⋮かな?﹂
彩芽が言った通り、十匹の魔塊が姿を現した。それも、いままで
現実世界で見た魔塊より潜在した魔力は数段上だ。
﹁なんで、こんなに強い魔塊が、ここにいるんでしょう?﹂
﹁うーん﹂彩芽は一度唸り、口を開く。﹁もしかするとあたしたち
が逢魔にぶつけて、ここに飛ばした魔力を、こいつらが喰ったのか
もしれないね﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂
彩芽の説得力のある推測に、如月は関心しながら頷いた。
彩芽と如月の強い魔力に惹かれたのだろう、魔塊は既に、暗闇に
乗じて駅舎を包囲していた。如月は守るように倉田に寄り添う。
彩芽は状況を精査し、思いつく。
﹁如月。倉田くんはあたしが守るから、こいつら全員倒して﹂
﹁え? 先輩が倒すんじゃないんですか?﹂
98
﹁いいから﹂
先輩に言われたのでは仕方がない。渋々といったように、如月が
前に出る。如月の場所を引き受けた彩芽は、周囲一メートルに高圧
ひせつ
の魔力を張った。
︱︱︿飛切﹀。圧縮された魔力の防壁が音もなく、彩芽と倉田の
周囲に張り巡らされた。
﹁それじゃ、いきます﹂
如月はポケットに手を入れ、固まった。ポケットから手を取り、
一度法衣を解いてパジャマ姿になり、全身をまさぐって、如月は最
後には青ざめた顔で彩芽を見た。
﹁先輩。どうしましょう!﹂
﹁なにが?﹂
﹁携帯、忘れて来ちゃいました﹂
99
第二章 魔法少女、夢を叶えます。4
やはりそうか、と彩芽は思った。マネージャからの説明で、如月
の携帯電話が病室にあることを、彩芽は知っている。
携帯がなければ、如月はあのポエム魔法は使えないはずだ。だか
らといって、後ろに下がらせるわけにはいかない。
これは、チャンスなのだ。
﹁ほら如月、法衣くらいは展開しておけ﹂
﹁あ、は、はい﹂
病室で彩芽が見立てたとおり、一段階魔法少女としてのステップ
を上った如月は、携帯はなくとも法衣を展開させられた。しかし、
おそらくいまの如月はそこまでだ。携帯がなければポエム魔法は︱
︱攻撃魔法は使えない。
さて、ここからどうするか⋮⋮。
﹁ギギィ!︵隙あり!︶﹂
彩芽が考えごとをしていると、視界の端で魔力が爆ぜた。死角か
ら飛び込んできた魔塊が高圧縮の魔力障壁︿飛切﹀の餌食になった
のだ。体半分を失った悪塊が、ぎこちなく体を動かして死線からの
脱出を計る。
﹁ギィ、ギィィ︵やべぇ、これやべぇよ︶﹂
﹁ギッギッギ︵クックック︶﹂
﹁ギィィギィ。ギィ︵奴は我らの中でも最弱︶﹂
﹁ギィィィギ、ギギィ!︵魔法少女の結界如きに後れを取るとは、
我らの面汚しよ!︶﹂
﹁ギ、ギィイギィ?︵おい、少女じゃねぇやつが混じってるって︶﹂
﹁ギィ?︵男か︶﹂
﹁ギィ︵女だよ︶﹂
﹁ギッ、ギギィ︵あ、ほんとだ︶﹂
死にたいのかあんたら⋮⋮。青筋をこめかみに浮かばせた彩芽は
100
一瞬、魔塊を蒸発させようかと考えた。が、きわどいところで自ら
にブレーキをかける。これは、如月にとってもっとも大切な戦いと
なる。それを邪魔してはいけない。
﹁せんぱぁい﹂半分泣き声如月が彩芽を見た。﹁どういすればいい
ですか?﹂
﹁ご自由にどうぞ﹂
情け容赦ない言葉に、如月の目の潤みが加速する。攻撃に使用す
る携帯電話がない如月に、彩芽はどう戦えと言うのか。
彩芽への接近を諦めた魔塊が、如月を次の標的と決めたらしい。
如月の周りに、六匹の魔塊が接近する。
﹁ギィイ!︵弱そうな奴ハケーン!︶
﹁ギィギー︵ヒャッハー︶﹂
﹁ギィィ︵喰っちまおうぜ︶﹂
三、二、一。ゼロで魔塊が飛び出した。
魔塊の物理攻撃を、彩芽は身体能力だけで躱す。しかし、四匹、
五匹と魔塊が参戦するにしたがい、如月は攻撃を躱しきれなくなっ
ていく。
魔塊の体当たりをまともに食らった如月が、五メートル吹き飛ば
されて地面を転がった。
ダメージはそれほどなかったのか、如月はすぐに立ち上がる。し
かしそこに追い打ちをかけるように魔塊が飛び込んできた。
危ういところで、魔塊のタックルを躱す。
寸前まで如月が転がっていた地面に、大きな穴が穿たれた。
﹁手を出せ、如月! このままじゃやられるよ!﹂
﹁でも、先輩。私、携帯がないんです﹂
そんなのはわかってる。しかし、携帯がないから攻撃ができない
というのは、違う。携帯はただの増幅器。イメージの固定を促すア
イテムなのだ。それがなくても、攻撃はできる。しかし、それに思
い至らないくらい、如月はパニックになっているようだった。
魔法の発動を試みているのか、如月の体から大量の魔力が放出さ
101
れる。だがそれらは魔法へと結っすることなく空中に消える。
再び、如月の体に魔塊の頭がヒットした。
如月が地面に膝を付く。
動きを失った如月に、魔塊がじわじわ近づいていく。
﹁どうした如月!﹂
﹁先輩。あたし、戦えないんですって﹂
﹁携帯がなければ攻撃できないなんて間違いだ。その気になればな
にがなくても、魔法は使える。その気になればな﹂
﹁その気になってます! なっても、使えないんです﹂
たしかに、如月は全身から魔力を放出し続けている。しかし、そ
れが形になる様子は一向に感じられない。
﹁あんた⋮⋮。いったいなんのために戦ってるのさ!?﹂
頭に上った血が、温度を失い落下した。つい、口を突いて出た言
葉は、伝えるべきかどうか悩んだ言葉だった。そして、いま言うべ
き言葉では、決してない。まかり間違えば、戦意を喪失させるだけ
だからだ。
魔塊は既に如月を包囲し終えている。しかし、魔塊は攻撃を繰り
出す気配がない。それはおそらく如月が大量の魔力を放出しつづけ
ているからだろう。放出される魔力の量に、魔塊は警戒しているの
だ。
彩芽の言葉に目を丸くして一秒。如月は、口を開いた。
﹁⋮⋮わかりません﹂
やっぱりだ。予想通りの解答に、彩芽は腰を浮かせる。このまま
だと、本当にやられかねない。
﹁先輩は、なんのために戦ってるんですか?﹂
如月を包囲していない三匹の魔塊は、依然として彩芽をいつでも
攻撃できる位置に座している。
⋮⋮さて、どうする?
﹁わたしは、なんのために戦うか、わからないんです。だって、魔
法少女って、世間に公表しないじゃないですか。わたしたちがみん
102
なを救ってるんですよって、教えられないじゃないですか。みんな
はわたしたちのことを知らない。たぶんそれは、知らないほうがい
いのかもしれませんけど⋮⋮。一部知っている人は、わたしたちの
ことを悪魔みたいに見ていましたから。
もしかしたらこの先、救った人に汚い言葉で罵られるかもしれま
せん。その人は私が救ったっていうことを知りませんから。知って
いたとしても、やっぱり、罵るかもしれません。おまえになんて助
けられたくなかった、とか。そう考えると、なんのために魔法少女
をやってるんだろうって、考えちゃうんです。⋮⋮先輩は、どうな
んですか? なんのために戦ってるんですか?﹂
体内で爆発的な魔力を生成しつつ、彩芽は口を開く。
﹁あたしは、なんのために魔法少女やってるかなんて、考えたこと
はこれっぽっちもない﹂
﹁⋮⋮え?﹂
﹁なんのために、なんて最終的に自分のためでしかないんだよ﹂
﹁いや、でも︱︱﹂
﹁救う相手が笑顔になって欲しいから戦うとする。じゃあ、相手が
笑顔になったら、自分はどう思う? 嬉しいだろ? 逆にいえば自
分が嬉しくなりたいから、相手を笑顔にしたいといえる。どう理屈
を重ねたところで結局、なにもかも自分のため。人助けっていうの
は、究極的には自己満足なんだよ。誰がなんと言おうとね。だった
ら、﹃なんのために﹄なんて考えるだけ無駄だろ? 自分のためで
しかないんだから。それよりもあたしはね、自分はなにを救えるか、
どれだけ救えるかだけを考えてきた﹂
飛切を解いて如月を援護するのは簡単だが、それでは近くに居る
三匹の魔塊に倉田が攻撃されるかもしれない。手順としては近くに
いる三匹を瞬殺して如月を救いに行くのが正解だが、それで間に合
うだろうか?
如月は、体内の魔力を外へ放出し、魔塊を威嚇する。如何に強力
になったとはいえ、如月の魔力は彩芽の眼から見てもかなり高い。
103
それに畏れをなした魔塊は、未だ攻撃のきっかけを掴めないでいる。
﹁なにを、救えるか⋮⋮﹂
﹁救いたければ救えばいい。救いたくなければ、救わなければいい。
もし救わなかったとしても、誰も知らないんだから、誰かに助けて
くれって言われたわけじゃないんだから、咎められないし、恨まれ
ない。そうだろ? だから、一番大切なのは誰かにどう思われるか
じゃなくて、行動した結果自分がどう思うかだけなんだ﹂
人を救えなかった結果、救わなかった結果、自分がどれほどどん
底まで墜ちるかを、彩芽は知っている。ゆえに彩芽は誰かのためで
はなく自分のためだけに、賞賛などとは別次元の世界で粛々と、己
が救えたものと、救えなかったものだけを数え、自らを研鑽しつづ
けてきた。
﹁自分がやりたいことをやればいい。自分のやりたいことを叶える
のが魔法なんだよ﹂
彩芽の言葉で、如月の魔力が僅かに揺らいだ。
その隙を突いて、魔塊六匹が一斉に飛びかかった。
考えるより早く、彩芽は︿飛切﹀を解き、ガトリングを具現化し、
近くの魔塊に魔弾をたたき込んでいた。
初めの一秒で、七十発。二秒間で計三百発が三匹魔塊の中に消え
た。スピンアップに時間のかかるガトリングにしたのは失敗だった
か。彩芽は小さく舌打ちをする。
﹁ギギギギィギ!?︵おばさんの魔法少女は化け物か!?︶﹂
上半身だけ残った魔塊が、言ってはいけない言葉を口にした。寸
隙置かず、上半身に五百発の魔弾が埋め込まれた。
魔塊がすべて霧散するのを確認してから、彩芽は如月に視線を向
ける。しかし、そこには如月はいない。あるのは、黒々とした蠢く
山だけである。背丈ほどになったそれは、如月がいた場所でもぞも
ぞと動いている。
中に如月がいて、まだ生きているなら、安易に攻撃はできない。
ガトリングで吹き飛ばすかどうか、彩芽はすぐには決断できなかっ
104
た。
不意にどこからか、オルゴールの音色が聞こえてきた。懐かしく
て、楽しいような、ふとした拍子に泣き出してしまいそうな、そん
な音色。
彩芽の感覚が、上空にある強大な魔力を捕らえた。反射的に彩芽
は身構え、宙を見上げる。
そこには、黄色に輝く魔力に包まれた、如月が居た。如月は地上
から五メートル付近に、浮かんでいた。
﹁そっか。魔法って、戦ったり救ったりするためのものじゃなくて、
夢を叶えるものでしたね⋮⋮﹂
しみじみと、感慨深い口調で、如月は言った。如月はゆっくりと
降下して、彩芽の横に着地した。
その如月の足から、こっそりとなにかが顔を覗かせる。
﹁クマ?﹂
それは、彩芽が如月にプレゼントしたクマ。クマのぬいぐるみを
具現化した魔法だった。
彩芽の視線に照れたように顔を隠すクマはやがて、如月に促され
て前に出る。
こんにちわ、とお辞儀をしたそれは、初めて具現化されたとは思
えないほど流れるように動いた。そのクマの後ろから、ラッパやシ
ンバルを持った同じクマが現れた。最後に登場したクマは、小さな
箱についたレバーをきこきことまわしている。おそらくそれが、こ
の音色の出所だろう。
クマの群れは如月の周りを、音楽に合わせてくるくるとまわる。
時々思い出したように、クマたちは手にした楽器を鳴らすが、音は
出なかった。きっと、その音まではまだ魔法で再現しきれていない
のだろう。
﹁えへへぇ﹂と如月がはにかんだ。﹁わたしの夢、一番最初に、先
輩に見せちゃいました﹂
自立的に動くぬいぐるみのパレード。こんなものが夢か?と馬鹿
105
にはできない。なぜならばそれは、意識的願望の束縛から離れた、
より強い無意識的欲求の現れだからである。
損得を抜きにした︱︱見栄えと出来の良い外面に繕われた夢は。
求められない状況下においては非常に脆く、消えてしまう。自己の
ものでしかない夢こそが、このような場面においては最も強く、消
えることのない魔法なのである。
如月は顔を赤らめて、上目遣いになる。その表情を見ているだけ
で、彩芽は無性に如月を抱きしめて何度も頭を撫でてやりたくなる。
しかし、いまはまだ戦闘中である。如月を捕食しようとして失敗
し、仲間を食らっている魔塊は、まだ目と鼻の先にいる。
彩芽は気を引き締めて、口を開く。
﹁如月、いける?﹂
﹁はい!﹂
如月は力強く頷いた。
仲間の肉体を貪りつくした一匹の魔塊が、ゆっくりと面を上げる。
その体内には五匹分の魔力が蓄えられている。身体能力はずば抜け
て高くなっているはずだ。
瞬間、魔塊が動いた。
魔塊が蹴った石畳が、粉々に粉砕された。
常人ならば意識することが叶わぬほどの速度で、魔塊が如月に突
撃する。
コンマ一秒にも満たないその刹那。如月が、ぬいぐるみを動かし
た。
四匹のクマのぬいぐるみが魔塊の行く手を遮る。たったそれだけ
で、魔塊が停止した。
﹁ギ?︵あれ?︶︸
魔塊はなにが起こったのは理解できたいというふうに、呆然と立
ち尽くしている。そのあいだにぬいぐるみが魔塊を取り囲む。
一匹は後ろ向きで進み。
一匹は軽やかなステップを踏んで。
106
一匹はきょろきょろ辺りを見まわし。
一匹はことんと前に転んだ。
四匹は次第に互いを意識し、動きが重なる。オルゴールの音がス
テップと交わり、楽器が無音の曲を奏でる。
﹁ギ、ギギィ?︵あ、あれれ?︶﹂
魔塊は混乱したように、周りをまわるぬいぐるみを見つめる。先
ほどまであった闘志は見る影もない。
ぬいぐるみは次第に輪を狭め、大きく手足を振りながら、魔塊の
体に身を寄せる。
ぬいぐるみが魔塊の体に触れた瞬間、魔塊が消失した。
﹁︱︱っ!?﹂
彩芽も己の目を疑う程、素早い術式展開だった。
ぬいぐるみが魔塊に触れたそのとき、ぬいぐるみが手にしたオル
ゴールの箱が開き、内側を構成していた術式が飛び出した。術式の
先端が他の三匹のぬいぐるみに引き寄せられ、直上から網状の消滅
魔法が魔塊を襲った。魔塊が消滅すると同時に網の中心が裂け、術
式の魔力がぬいぐるみに回収される。
魔塊を停止させたのは、おそらく幻惑魔法だ。そして魔塊を消し
たのは消滅魔法。魔法は単体一系統が基本で、二つ以上の効果を発
生させたい場合は二つの魔法を複合させた魔術として成立させなけ
ればいけない。つまりあのぬいぐるみは、単一の魔法でくみ上げら
れたものではないということ。
彩芽が対悪魔専用の攻撃魔術を完成させたのは、何歳のころだっ
たか。少なくとも、如月の年にはまともな魔術は習得していなかっ
た。
末恐ろしい子だなぁ。
彩芽は笑顔を湛えつつ、内心安堵の息を吐き出す。次世代の明る
い未来が見えたし、これでやっと、強敵が出たからと無理矢理狩り
出される心配はなくなるだろう。
勝利に喜ぶ如月を眺める彩芽が、ポケットの震えに気付いたのは
107
そのときだった。
携帯電話が反応してる?
携帯を取り出したところで、バイブレーションが途切れた。画面
を確認すると、着信履歴が百件。こんな状況でなければ迷わず通報
しただろう着信履歴の数に、彩芽は顔を青くした。
﹁先輩、どうしたんですか?﹂
﹁え、ああ。鈴木から電話が⋮⋮あっ﹂
鈴木だ! マネージャの名前は、鈴木だった。やっと思い出せた。
いままで忘れてたのが不思議なくらい、いまではその名前を鮮明に
思い出せる。彩芽の言葉を聞いて、如月も目を丸くする。おそらく
彼女も彩芽と同じ気分になっていることだろう。
鈴木の番号をタップすると、耳元でコール音が鳴り響いた。その
携帯電話としての正常な動作に、彩芽は小さい胸をなで下ろす。
﹃もしもし? 紅さん?﹄
鈴木の声は幾分説破詰まっているように感じられる。
﹁はいはい。こっちはいま終わったところ﹂
﹃終わった? 如月さんを見つけられたってことですか?﹄
﹁まあ、そんなとこ。それで? あたしたちはどうやって帰ればい
いの?﹂
﹃ええと。紅さんは如月さんと接触しながら魔力を高めてください。
接触していないと、僕の魔法は紅さんにしか届きませんから﹄
﹁了解﹂
接触、ね。彩芽は如月を見て、まだ意識のない倉田を見た。あれ
とも接触していなきゃいけないのか。
﹁如月﹂と彩芽は如月を呼びつける。﹁こっちに来て、手を握って﹂
﹁あ、はい﹂
疑問を口にすることなく、如月は従順に彩芽の空いた手を握る。
﹁もう片方の手を、倉田くんに﹂
﹁え?﹂
如月の相好が僅かに崩れた。⋮⋮ったく、わかりやすいんだから。
108
﹁現実世界に戻るためだから、我慢して﹂
﹁が、我慢なんて、そんな﹂
ごにょごにょと何事かを呟きながら、おっかなびっくりという風
に如月は倉田の手を掴む。さっきはこいつを抱えていたっていうの
に。そのことは覚えていないんだろうか? いや、覚えているから
こそ、恥ずかしいのかもしれない。
如月が倉田の手を掴んだのを確認して、彩芽は全力で体内の魔力
を高めた。
高い魔力を秘めた如月でさえ、彩芽の魔力は驚嘆に値するらしい。
隣で小さく、如月が悲鳴を上げた。
﹁こっちはオーケイ﹂
彩芽は鈴木に伝える。
﹃小夜衣を展開していただくと、成功率が上がるんですが﹄
﹁それは無理。小夜衣の分はあんたがなんとかして﹂
﹃無茶ばかり言いますね﹄
﹁無茶してやったんだから当然でしょ﹂
﹃そうですね﹄電話の先で鈴木が鼻を鳴らした﹃では、引き戻しま
すね﹄
鈴木が言い終えると同時に、目の前の真っ暗な景色が消え、まだ
昼間の光が目の奥に突き刺さる。思わず彩芽は目を瞑る。
﹁お帰りなさい﹂
電話越しじゃない、鈴木の肉声が二メートル先から聞こえた。
光に視界が潰されぬよう、彩芽はゆっくりと目を開く。
そこは、逢魔に入る前と同じビルの中だった。
⋮⋮戻って来た。
彩芽は大きくため息を吐き出した。
﹁如月さんも無事なようで⋮⋮、ん?﹂鈴木は首を傾げた。﹁この
少年は?﹂
﹁逢魔の犠牲者﹂
﹁なるほど﹂
109
短い説明だったが、鈴木はそれで十全に事態を飲み込んだようだ
った。鈴木は手早く倉田の意識レベルを確認をする。
﹁⋮⋮気を失っているだけのようですね﹂
﹁そ、ならよかった﹂
後ろで如月が息を吐いたことに、彩芽は気付いた。
﹁それより、どうしてもっと早くに助けてくれなかったのよ﹂
﹁助けようとしていましたよ? けど、紅さん、いつまでも魔力を
展開しなかったじゃないですか﹂
﹁は? 移転魔法ってそういう仕組みなわけ?﹂
﹁現世以外へ飛んでしまった場合は、そうですね﹂
﹁なら、はじめっからそう言いなさいよ﹂
鈴木の肩めがけて拳を振るうが、寸前のところで躱されてしまっ
た。
﹁そうだとわかっていれば、初めから伝えますよ。僕と紅さんの両
方が同時に魔力を放出しないと、繋がらないくらい遠くまで行って
いたんです。常世か隠世か。どこであるかまでは、判りかねますが。
⋮⋮いやいや、二人とも無事で良かった﹂
なにから突っ込めばいいだろう? まず、成功確率の読めない任
務に平気で送り出したことか。それとも、鈴木が倉田の存在を除外
していることか。言葉を探しあぐねているうちに、彩芽は突っ込む
タイミングを失ってしまった。
﹁さて、それじゃあ後始末をしますか﹂
おそらく、これから鈴木は倉田と、倉田の家族の記憶の一部を操
作しにいくのだろう。倉田がどこで気を失ったのかはわからないが、
次に目を覚ましたときはきっと、恐い夢を見た程度の記憶しか残っ
ていないだろう。倉田の家族もそうだ。それらの小さな魔法は倉田
と、その家族を媒介とし、波紋状に広がり、いつしか偽の情報が真
実に変わる。明日にはそれが学校まで波及し、今日の倉田が欠席が
風邪によるものになっているかもしれない。どう変化するかはわか
らないが、情報が一番固定されやすい形で、その魔法は定着する。
110
労力は小さいながらも、人間の意識に直接作用する。情報操作は非
常に強力な魔法だ。
111
第二章 魔法少女、夢を叶えます。5
予想に反して鈴木は先に、如月を病院に移送して戻って来た。
﹁それで?﹂
腕組みをした彩芽が訊く。
﹁それで、とは?﹂
﹁あたしがなにを訊きたいか、わかってるんでしょ?﹂
﹁さあ。情報を指定していただかないと、答えられません﹂
﹁じゃあ訊くけど、なんで如月を先に病院に戻したのよ。なにか伝
えたいことがあるから、倉田くんより先に如月を戻したんでしょ?﹂
彩芽の問いかけで、鈴木のメガネの奥が冷たく輝いた。
呼吸十回分という、問う側の彩芽にとって途方もなく長い間が空
いた。
﹁倉田くんは、ダメですね﹂
﹁⋮⋮は?﹂
言葉の意味が理解できず、彩芽は首を傾げた。
ダメ? ダメってなんだ? どういう意味だ?
﹁彼はもう、この世に魂がありません﹂
背筋が一気に凍り付いた。鈴木の発言の衝撃に、彩芽の膝が崩れ
落ちそうになる。
﹁魂がないって、それ、どういうことよ﹂
﹁語弊を恐れずに言うなら、彼は、死んでます﹂
ビルの外から聞こえる車のエンジン音。時々鳴らされるクラクシ
ョン。電車が線路を蹴る音。排ガスの匂い。差し込む昼の日差し。
冷たい床の硬さ。すべてが、一気に遠のいた。
﹁いや、でもまだ、心臓は動いてるでしょ?﹂
確認はしていない。だが、心臓の止まった人と動いている人の顔
色くらいは、彩芽は判別できる。
倉田はまだ、血の通った顔をしている。唇も生きたピンク色だ。
112
この少年が、死んでいるはずがない。
﹁この世界ではまだ、ということです。いずれ、あちらの世界に魂
を置き去りにした代償が、この体に訪れるでしょう。彼はもう、生
きていません。いずれ︱︱近いか遠いかはわかりませんが︱︱彼の
心臓は停止します﹂
名状しがたい感情が、胸の中を渦巻く。
おそらく、如月は倉田の事が好きだ。あの精神が削られるような
魔法の詩に綴られていた気持ちの先にいる相手は、倉田で間違いな
いだろう。今回携帯がない状態で倉田を救おうとしたのも、そうい
う気持ちがあったからだろう。なのに⋮⋮。
﹁如月は、どうするの?﹂
﹁どうするとは?﹂
﹁あの子、きっと倉田くんが好きよ﹂
﹁ああ、そうなんですね﹂
簡単な手品の種明かしを説明されたみたいに、鈴木は小さく驚い
た。
﹁その倉田くんを救うために、今回あの子は頑張れたんだと思う。
もし、倉田くんを助けられなかったと知ったら、あの子はどうなる
かしら﹂
﹁どうなると思いますか?﹂
鈴木のそれは、どうなるのかまるで予測できていないというもの
ではない。どこまで予測を超えるか、という質問である。
﹁わからない﹂彩芽は首を振る。﹁暴走するかもしれないし。そう
なったら、あたしが止められるかどうか⋮⋮﹂
﹁紅さんが? そんなまさか﹂
彩芽でも止められない状況などあるのか? 鈴木は以前感じた彼
女の魔力から、そんな状況を想像だにしないだろう。しかし、彼女
は異世界で変わった。あの魔法、あの魔術。夢を知った彼女は、強
かった。もし、本当に助けたかったもの︵もしかしたらそれが彼女
の夢の正体なのかもしれないが︶をとうに失っていたのだと知った
113
ら。彼女は、どこまで墜ちるか。彩芽にさえ、想像がつかない。高
瀬川が首輪を嵌めるだけで済めば良いのだが。
﹁記憶を消したほうが、良いでしょうか?﹂
鈴木は、如月から倉田そのものを消しさろうというのか?
﹁それは⋮⋮﹂
答えられない。必ずしもそれが悪手だと、彩芽には思えない。逆
に、倉田の記憶を消してしまったほうが、彼女の精神は安定を維持
するだろう。倉田が消えても暴走はしない。しかし、だからといっ
て大切な記憶を、彩芽の一存で消してしまって良いのだろうか?
でも。しかし。けれど。
否定を否定し続ける彩芽は、答えが出せずにいた。
不意に、肩に軽い重みが加わった。
﹁じゃあ、どうするかは僕が引き受けます﹂
彩芽の膝からすっと力が抜けた。彩芽はぺたん、と尻餅をつく。
鈴木に任せていいのか? 自分が選ばなくていいのか? 責任を、
彼一人に背負わせていいのか? 彩芽の責任感が心を揺さぶる。し
かし、彩芽にはその結論が永遠に導き出せない。
﹁⋮⋮ごめん﹂
鈴木に任せるしかない自らの不甲斐なさに、彩芽は奥歯をかみし
める。結局、自分はこんなとき、誰も助けられないし、誰も救えな
い。最強の魔法少女は跡形も無く消え、無力な人間が後に残る。
ミスを犯し、誰かの未来が消えても、己の心臓はいまも無様に動
き続ける。
現実っていうものは、どうしようもなく、腹立たしい。
鈴木が倉田とともに消えて、彩芽はしばらく一人でビルの床に座
り続けた。
床に腰を落した彩芽は、膝を抱えて顔を埋める。
彩芽が再び顔を上げるまでには、かなりの時間が必要だった。
彩芽が顔を上げると、外の光がやや茜に変化していた。外気に触
114
れた頬が冷たい。
マスカラ、してこなくてよかった。自らの膝を見た彩芽は、化粧
の手を抜いた朝の自分を心内で褒めた。
感情の波が収まるのとほぼ同時に、鈴木が姿を現した。こいつ、
どっかで見てたんじゃないだろうな。そう思うほど絶妙なタイミン
グだった。
﹁あんた、見てたわね?﹂
﹁いえ? いま戻ってきたばっかりです﹂
嘘だとは思うが、それを白状させる方法はない。ため息をひとつ
ついて彩芽は頭を切り換える。
﹁それで、うまくいったの?﹂
﹁うまくいくとは?﹂
﹁情報操作。してきたんでしょ?﹂
﹁ええ、してきました。おそらくどちらとも、うまくいったと思い
ます﹂
どちらともという発言で、彩芽は事態が分水嶺を超えたことを悟
った。心が静かに冷えていく。
如月は今回の一件を、忘れてしまった。決断できなかった自分の
せいで、如月は大切な記憶を失ってしまった。
罪の意識は心内で肥大化していく。唯一罪を洗い流す方法は引き
返すことで、けれどそれはもうできない。
﹁戻りましょうか、紅さん﹂
声をかけられた彩芽は目だけで頷いた。
彼の手が肩に触れた瞬間、ビルは視界の向こうへ消失し、空高く
突き抜けるビル群が出現した。ビルの中とはちがう、じっとりと汗
ばむ夏の気温が彩芽の肌に容赦なくまとわりつく。ここが朝に鈴木
と合流した駅前だと気付くのに、そう時間はかからなかった。
﹁それでは、僕はまだ仕事が残っていますので﹂
隣で鈴木が、上を見上げて呟いた。彼が見ているのは空ではなく、
ビルのてっぺんなのだと、何故か彩芽は悟ることができた。
115
﹁無茶は、しないように﹂
その言葉を残して、鈴木は人目も憚らず転移し消えた。鈴木が消
えたことに驚く人間は誰一人いなかった。
山を見て木の葉一枚落した木の存在に気付くことができないのと
同じ。ここでは人やビルや車や電車や駅は一つの集合体でしかなく、
彼らにそれらを個別にとらえる意識はない。だから、人一人が突然
消えても、この場にいる人間は気付かない。
如月から大切な記憶が消えたことも、大切な人の命が消えたこと
も、ここにいる人間達は知らずに一生を終えるだろう。
家の扉を開けた彩芽は、酷い臭いに顔を歪めた。玄関から既に昨
晩の酒盛りの臭気が充ち満ちている。封を切った酒の香りは素敵な
のに、人間が酔っ払ったときの酒の匂いはクサいと思うのはなぜだ
ろう? そんなくだらないことを考えながら彩芽は靴を脱ぎ、家に
上がる。
リビングの扉を開いた彩芽は、再び顔をしかめることとなった。
そこには、不乱した死体があった。
いや、その表現は不正確か。正確に言えば、腐乱した死体のよう
な人間が倒れていた。
顔を確認するまでもなく、それが聡美であることは、十年以上友
人である彩芽には理解できた。
﹁なにやってんのよ⋮⋮﹂うんざりして彩芽は口を開いた。﹁帰っ
たんじゃないの?﹂
﹁うう⋮⋮、頭痛い。具合悪い。死ぬ﹂
瀕死の重傷を負っているかのような青白い顔をした聡美は、涙を
流しながら聡美を見上げた。たった少し、顔を動かすだけでも命が
消えかねない心境なのかもしれないが、彼女は怪我で苦しんでいる
のではない。酒の持続性ダメージに苦しみ続けているのである。自
業自得とはまさにこのことだろう。
﹁家に戻らなくて大丈夫なの?﹂
116
﹁まぢ、もぅ、無理﹂
のそのそ体を動かしていた彩芽が突然停止し、両手で口を押えた。
顔がみるみる青ざめ、脂汗さえ浮かんでくる。
次の瞬間、彼女は目にも留まらぬ速度で部屋を出て行った。遠く
︱︱トイレ方面︱︱から、あ゛あ゛お゛お゛お゛お゛∼∼﹂とこぶ
しの練習をする男性演歌歌手の如き声が聞こえてきた。
そこまで具合が悪いなら、アセトアルデヒドを魔力で飛ばせばい
いのに。彩芽は深いため息をついた。
再びスローに憑依された聡美が戻ってきたとき、彩芽は夕飯の支
度を始めていた。
﹁晩御飯は、いらないよ﹂
﹁あんたにご飯があたるわけないでしょ﹂
リビングに汚物をまき散らさなかったことだけは僥倖だが、二日
酔いに苦しんでいる人間にはこれ以上長居してもらいたくはない。
ご飯ができるときにまだ居たら、強制追放しよう。
彩芽は炊飯器のスイッチを入れ、水と昆布を入れた鍋を火にかけ
る。沸騰したところで鰹を放り込み、火を止める。味噌汁一人前の
分量だけだし汁を掬い、残りのだし汁に醤油と砂糖とみりんを加え、
沸騰したところで赤魚を放り込んだ。
今日の夕食は、赤魚の煮付けと味噌汁だ。ほぼ毎日といっていい
ほど、彩芽はスーパーのお総菜のお世話になっている。だが、たま
にこうして本当の料理というものを行う。以前は花嫁修行のために
料理を行っていたが、最近ではストレスを発散させるためのものと
なっている。
料理はなにも考えずに作ることはできないが、考えすぎても先に
進まない。
空っぽになった頭の中で唯一、料理についての思考だけが簡易的
に働く。それが彩芽にとって、気持ちに整理をつけるためのプロセ
スになっていた。
ご飯が炊きあがる時刻になり、彩芽はのっそり腰を上げる。そろ
117
そろ聡美を家から放り出す時間だ。
﹁あたし、ご飯食べたいからそろそろ出ていって﹂
﹁友達がこんなに苦しんでるのに、出て行けって⋮⋮酷い﹂
聡美が恨みがましい視線を彩芽に向ける。瞳は幾分潤んでいたが、
その理由は哀しみではなく苦しみである。もちろん、彩芽は容赦し
ない。
﹁ほら、ちゃんと鞄持って﹂
﹁私たち、友達でしょ? 酷いよ﹂
﹁うるさい。出てけ﹂
聡美のポシェットをひっつかみ、聡美を立ち上がらせる。えぐえ
ぐと嘔吐く聡美に構わず、彩芽は玄関まで彼女を引きずった。
そのとき、リビングにある携帯が鳴動した。それがメールではな
く電話だと音から判断する。
﹁ちょいごめん。電話﹂
昨晩の件のせいで、彩芽は電話に対し過剰に反応した。彩芽は聡
美から手を離して︱︱後方からドシャッと嫌な音が聞こえたが、気
にせず携帯電話へと走った。
﹁漏れるぅ﹂
玄関から聡美の声が聞こえた。漏れるものはなにか。想像に易い。
恐ろしい呟きを意識から切り離し、彩芽は通話ボタンをタッチする。
﹁もしもし?﹂
﹁今回はちゃんと一回で繋がりましたね﹂
鈴木の余計な言葉を無視して彩芽は口を開く。
﹁なんの用?﹂
﹁実は、また如月さんが︱︱﹂
その瞬間、彩芽は彼方で魔力の爆発︱︱魔力衝波を感じ取った。
爆発した魔力の雰囲気は間違いない。如月のものだ。
﹁紅さん。感じましたか?﹂
﹁⋮⋮うん﹂
﹁おそらく、いまのは如月さんのものだと思います﹂
118
﹁なにがあったのよ?﹂
﹁僕が病院に戻ったとき、如月さんの姿がありませんでした﹂
どこかで聞いた言葉だ、と彩芽は思った。
﹁あんた。どうして同じヘマしてるのよ!﹂
﹁返す言葉もありません。こちらも部屋を出ないように厳重に警備
をしていたんですが、その上を行かれまして。⋮⋮紅さん。どうし
て如月さんが新しい力を身につけたんだって、教えてくれなかった
んですか﹂
﹁⋮⋮あ﹂
新しい力を教えてどうなるのか?って考えた彩芽は、すぐにその
能力に秘められた付加効果を思い出した。
彩芽は項垂れる。如月が新たに身につけた力︱︱ぬいぐるみで敵
を幻惑する魔法を鈴木に伝えなかったのは、明らかに彩芽の失態で
ある。
﹁ごめん﹂
﹁⋮⋮ひとまず、出動していただけますね?﹂
﹁うん﹂彩芽は小さく頷いた。
﹁状況が状況ですから、最悪の事態に対処できるようにしてくださ
い﹂
いままでに片手ほども聞いたことのない鈴木の声色に、彩芽は身
を強ばらせる。
最悪の事態︱︱それは鈴木の情報操作がうまくいかなかった場合
の、如月の反発だ。
﹁⋮⋮社長は?﹂
恐る恐る彩芽は尋ねた。
﹁僕は社長のスケジュールを知りません。いまは食事時ですから、
大企業の重役とステーキ接待しているかもしれませんし、あるいは
︱︱﹂
既に、如月に首輪を嵌めにいったか。
もしそうなれば、彩芽が想像している最悪の事態が完成する。
119
﹁位置情報をお伝えしましょうか?﹂
さきほどの魔力爆発の位置は正確に把握している。
﹁大丈夫﹂
﹁それでは、現地で﹂
電話を切ってしばし、彩芽は呆然として天井を眺める。
この状況を想定していなかったわけじゃない。しかし、想定より
展開があまりに早い。それこそ、なにかしらの作為が働いているよ
うに感じられる。とはいえ、その作為がなんなのか、まるで見当が
付かない。如月から理性を奪うことで利益を得られる人が、どこか
にいるとは思えない。では、部外者か? ⋮⋮いや、いまはそれよ
りも、如月を止めるのが先決だ。
﹁お出かけ?﹂
聡美がのっそりとリと扉の影から顔だけを覗かせた
﹁うん﹂
﹁さっき魔力衝波を感じたけど、それ?﹂
﹁うん﹂
﹁じゃ、彩芽の帰りを待っててあげる﹂
床の冷たさを気に入ったのか、聡美はごろんと床に仰向けに転が
った。
あんたは具合が悪くて帰りたくないだけでしょ。まったく、恩着
せがましい。そう思うがしかし、自分がどういう状態でここに戻っ
てくるか判らないいま、聡美の申し入れはありがたい。
﹁お願い﹂
携帯を握りしめ、彩芽は家を飛び出した。
120
第二章 魔法少女、夢を叶えます。6
彩芽が現地に到着したころには既に、鈴木が集めたのだろう、結
界師が結界を張り巡らせていた。結界は三次元以下の限定遮断で、
完璧とはほど遠い精度だ。しかし効果範囲はかなり広く、二キロ四
リソース
方はあるだろう。
魔力が限られている以上、状況により完璧な結界を張れない場合
が出てくる。そういう場合に結界をどう特化させるかは、指揮官や
事態によって変化する。この場合は精度を捨て、範囲を取ったのだ
ろう。しかし、なぜ二キロも必要なのか?
﹁鈴木、いるんでしょ?﹂
﹁はい﹂
呼びかけるとすぐさま、鈴木が彩芽の目の前に姿を現した。鈴木
とは何年もの付き合いになるが、やはりこればっかりは慣れない。
心臓の鼓動を誤魔化すように、彩芽は口を開く。
﹁それで、状況は?﹂
﹁⋮⋮想定外です﹂
﹁想定外?﹂
まさか、鈴木の口からそんな言葉が出てくるとは重いもよらなか
った。いつだって鈴木は、想定されるすべての事象に対し、リスク
マネジメントを施してきた。そう、彩芽は彼を評価している。
想定外とは、現時点で想定出来うる状況すべてを吟味し尽くした
結果、その想定を外れた事象が起った場合にのみ使える言葉である。
もし想定外と言った相手が一般人なら︵想定の精度が甘いため︶驚
嘆に値しなかっただろう。だが相手は鈴木である。事態の想定に関
して彩芽は、鈴木にかなりの信頼を寄せていただけに、﹃想定外﹄
の一言が心に重くのしかかる。
しかし、長年の魔法少女生活で培われた戦いの勘は無条件に彩芽
を動かした。
121
﹁状況の報告を﹂
﹁こちらで用意した結界役は全部で十。全員が持続性の高い水準に
て結界を展開中。持続時間はおおよそ十二時間﹂
﹁十二時間!?﹂
彩芽は声を裏返した。如月を止めるだけなら、一時間で十分だ。
確かに如月は前に比べて強くなった。魔力だけなら彩芽をも圧倒で
きるかもしれない。しかし、経験の差が大きすぎる。おそらく、本
気の彩芽と如月がぶつかれば、雌雄は一瞬で決するだろう。それは、
おそらく鈴木も判っているはずだ。
﹁指揮官は誰?﹂
﹁僕です。状況を確認した僕が、必要だと判断しました﹂
﹁⋮⋮どういう意味?﹂
﹁それを、いまから説明します。この結界のなかに、如月さんが居
ます。僕が紅さんにお願いしたいのは一つ。如月さんをこの中から
無事に救出してください﹂
﹁救出? 止めるじゃないの?﹂
﹁いいえ。救出で合っています﹂
そう言うと、鈴木は結界の先を見つめて、メガネを押し上げた。
﹁この中には如月さんと、悪魔がいます﹂
︱︱想定外。
たしかに、想定外だ。まさか悪魔が結界の中にいるとは。しかし、
そうとはいえ彩芽にとって悪魔との出会いは日常的だ。衝撃的な事
実だとは言いがたい。しかし、鈴木の声色から想像するに、ただの
悪魔じゃないんだろう。そんな予感を覚える。
﹁なかにいる悪魔って、なにものなの?﹂
﹁それは⋮⋮見ていただければわかります﹂
﹁わからないわけじゃないんでしょ? ここで伝えてもらったほう
が、対策が立てやすいんだけど﹂
﹁それは⋮⋮、僕からは恐ろしくて言えません﹂
鈴木は子どもみたいにふるふると首を振った。相手は、名前を口
122
にしてはいけない魔法使いかなにかか? そんな奴、いたかな?
﹁ま、いいわ。ひとまず大切なのは如月よね。如月は、暴走してる
の?﹂
﹁いいえ、していません。逆に、勇猛果敢にも悪魔と戦っていまし
たよ﹂
﹁ん? 暴走してないなら、如月に命令すれば戻って来るんじゃな
いの? もしあいつが言うことを聞かなかったら、無理矢理あんた
の魔法で転移させて連れ戻せばいいだけじゃない﹂
﹁僕の魔法が万能であれば、それも可能だったのかもしれませんけ
ど﹂と鈴木は苦笑する。﹁今日、紅さんにやったみたいに、転移さ
せる対象に触れているか、転移させる対象に印をつけないと、飛ば
せないんですよ﹂
﹁それはわかってるっての﹂
彩芽は少し語気を強める。いったい、何年一緒に戦ってきたと思
っているんだ、こいつは。
﹁そうじゃなくて、如月がムキになってんなら、触れて印つけて引
っ張って来いって言ってるの﹂
﹁それが出来ればよかったんですけど。僕じゃ、あれには近づけま
せん﹂
鈴木は結界の中で、いったいなにを見たんだ? 鈴木が近寄るこ
とを拒絶するなんて。相手は上位の悪魔なのか?
﹁ま、いいわ。とりあえず記憶のことで如月が暴走してないってい
うなら、あたしが想定した最悪の事態は免れたわけだし﹂
鈴木が近づきたくないと言うほどの相手だ。念のため彩芽は、準
備運動で体をほぐしにかかる。
昔はアキレス腱を伸ばすだけで十分だったのに。いまではきちん
とほぐさないと、軽く動いただけで簡単に怪我をしてしまう。これ
も年か⋮⋮。ただ体操をしているだけなのに、何故だろう? 心が
傷付いていく。
如月が倉田を失ったことで暴走したいたのかと心配したけど、そ
123
うならなくて、本当に良かった。暴走していないという情報を聞い
ただけで、先ほどよりも体が何倍も軽くなった気がする。
﹁それじゃ、行ってくるわ﹂
軽く手を上げて、彩芽は三次元以下遮断中の空間をこじ開けた。
﹁どうか、気を確かに﹂
鈴木の声は、彩芽に届かず次元隔絶の魔力障壁にぶつかり消える。
しかし事態は、彩芽の予想を遥かに上回ることとなる。
結界の中に入り込んだ彩芽は、一歩も前に踏み出すことができな
かった。
圧倒的な破壊の圧力。魔に充ち満ちた世界。空間。それらを敏感
に感じ取った肌が、ぶつぶつと鳥肌を立てる。
相手は上位悪魔なんてもんじゃない。神話クラスだ。
しかし、もしそうだとするなら、一刻も早く如月を助け出さなけ
れば危ない。彩芽は魔力を体内に急速に充填させる。
足に集めた魔力を、思い切り噴射。彩芽は亜音速で道路の消失点
に向かう。彩芽が通り抜けた道に隣接する住宅の窓ガラスが次々と
割れていく。もし結界がなければ怪我をする人が何人出たかわから
ない。
久しぶりに全力で跳躍してみたが、速度は全盛期ほどもない。と
はいえ彩芽はまだ小夜衣を展開していない。魔力を纏っているとは
いえこれ以上速度を上げると空気抵抗による肉体へのダメージが凄
まじい。ついうっかり空中分解してしまわなかっただけよしとしよ
う。
彩芽が魔力衝波の発生源と思しき地点に到達するまで、十秒とか
からなかった。
結界の中心部で地面に足をつけた彩芽は身を強ばらせた。心の内
側で独りでに、封印したはずの記憶の扉が開かれる。
結界の中心部、民家の屋根の上に如月はいた。如月と、如月が具
124
現化させたぬいぐるみ達が。そして、悪魔もいた。
悪魔は体長が約三メートルほどの、白と黒の解け合いまだらとな
った人型。そこから生み出される獰猛な魔力は体を覆い尽くし、重
いものが足下に流れ落ちる。地面に落ちた魔力が道ばたの雑草に触
れた瞬間、雑草は茶に変色し、風で砕けて崩壊した。あらゆるもの
を飲み込み、あらゆるものを生み出すそれは、間違いない。彩芽が
過去に一度戦い、もう二度と戦いたくないと思わせた相手︱︱空亡
と瓜二つだった。
なんで、ここに。たしかにあれは、浄化したはず⋮⋮。だから、
もしかしたらあれは、空亡の姿に近いなにかではないだろうか?
混乱する彩芽の視線の先で、如月のぬいぐるみが一体、悪魔に呑
まれて消えた。
能力も、空亡に似ている。
空亡は彩芽が消滅させた。新月の夜。彩芽は全身の魔力をすべて
空亡にたたき込んだ。そうして夜が明けるころ、空亡は︿悪魔の咆
哮﹀を上げ、十キロ四方の街並みを平地にして、綺麗さっぱり姿を
消した。消えたと思っていた。
じゃあ、目の前にいるこいつは、なにものだ?
悪魔は音もなく、右手を振り上げた。
﹁如月、避けろ!﹂
彩芽は反射的に叫んだ。
次の瞬間、空が割れた。
凄まじい地響きともに、振り下ろされた拳は、次元を切断して如
月に襲いかかった。
屋根の上で如月は多々良を踏む。うっすら見える次元の断裂が如
月に迫り、如月はそれを、寸前のところで躱す。しかし、それをも
ろに受けた民家は内部から外側に向かって爆ぜた。
力任せに行われた次元の断裂によるエネルギィが、強制的な次元
の再生・圧着により三次元空間に放出されたのだ。
爆風が如月の体をいとも容易く吹き飛ばす。
125
空中に飛ばされた如月を、彩芽は飛翔して捕らえた。
いつまでたっても落下しないことを不思議に思ったのか、如月は
おそるおそる目を開いた。
﹁く、紅さん? あ、わわ、わ! 飛んでる!﹂
如月が驚くのも仕方がない。彩芽は実際的に地面から数十メート
ル離れた場所を飛んでいた。如月が高所恐怖症ならば悲鳴くらい上
げたかもしれない。
﹁助けてくれたんですか。でも、どうしてここに︱︱﹂
﹁話はあと。逃げるよ﹂
言うなり、彩芽は速度を上げた。小夜衣を展開していないから、
体がばらばらにならない速度ではあるが、如月にしてみればかなり
のものだったかもしれない。目を堅く瞑って、息も苦しそうだ。
こういうシーン。相手は女の子でもいいから、こういうふうに助
け出してもらいたいなぁ。うらやましい。あたしなんて、はなから
助ける側だったからなぁ。ほほえましく思うと同時に、彩芽は如月
への嫉妬を禁じ得なかった。
彩芽は空を飛翔し、空亡から毎秒五十メートルで離脱する。
結界の終わりはもうすぐ。しかし、
﹁あ、やば⋮⋮、燃料切れだ﹂
呟くなり、彩芽は失速した。
空を飛ぶ技術は二種類ある。一つ目は魔法で翼を具現化させる方
法だ。これは魔力で翼を編み込む膨大な手間を度外視すれば、低出
力で長時間の飛行が可能になる。しかし、難点として速度が上がら
ない。
もう一つは彩芽が用いた方法で、体内の魔力を一気に外に放出す
る方法だ。膨大な魔力を捻出し放出し続けなければいけないため、
燃費は最悪だ。しかし、非常に早く移動できる利点もある。
後者の方法で空を飛んだ彩芽は、久しぶりのことで体内で魔力を
捻出する技術が思いの外さび付いてしまっていたらしい。あっさり
体内の魔力が枯渇してしまった。
126
地面に落下する時点での速度は毎秒十メートルほどまで抑えられ
ていたが、しかしそれでも全力で走る陸上選手と同じ速度である。
墜落した衝撃で彩芽は如月を取り落とした。法衣を展開していた如
月は落下によるダメージはなさそうだが、彩芽は酷い。手足を酷く
すりむき、一部めくれ上がった皮が肉を伴っている。真っ白くなっ
た傷跡に、やがて赤みが戻り、同時に血がわき上がる。
﹁⋮⋮ってて。やっぱ、久しぶりだとうまくいかないもんだねぇ。
如月、大丈夫?﹂
自らの怪我の酷さに顔をしかめ、彩芽は如月を見る。途端に、彩
芽の体から痛みが消えた。
彩芽の腹部に、一本大きな木片が突き刺さっていた。落下のとき
に突き刺さったのか、あるいは民家が爆発したときに刺さっていた
のか。腹部から流れ出した血液が、地面に溜りを作っている。
ただ、酷い出血ではあるが、きっとすぐに死ぬほどの怪我ではな
いだろう。
彩芽は過去に何度も大けがをしてきた。その経験からある程度致
命傷の見分けが付くようになっている。彩芽の見立てでは、如月は
すぐには死なない。だが、余談を許さぬ怪我ではある。足を引きず
りながら彩芽は如月に近づいた。
﹁如月、大丈夫か?﹂
彩芽が呼びかけると、如月は呻いた。傷が痛むのだろう、眉間に
深い皺を寄せ、体を丸めようとする。しかし、腹部に突き刺さった
木片がそれを許さない。ある一定のところで、如月は前にもいけず、
かといって後ろにも反れなくなってしまった。
﹁せ、先輩⋮⋮﹂
掠れ声が聞こえ彩芽は如月をのぞき込む。如月が息を吹きかける
ような口の形をした。耳を寄せろ、ということらしい。ぐっと身を
乗り出して、彩芽は耳を近づける。
﹁ありがとう、ございました﹂
﹁⋮⋮なにが?﹂
127
﹁先輩、わたしのこと、助けてくれた、じゃないですか﹂
﹁当たり前のことでしょ。それより、いまからあんたを外に運ぶか
ら。ちょっと痛いかもしれないけど我慢してね﹂
身を引く彩芽の胸ぐらを、如月が掴んで寄せた。
﹁ちょ、な、なにするのよ﹂
如月の手に付着した血液が白いブラウスを汚した。
このブラウス、気に入ってたのに⋮⋮。涙を流す内心を努めて隠
す。
﹁どうしたのよ、いきなり﹂
﹁病院に戻されたとき、なにか、大切なものがなくなったような、
そんな気がしたんです、わたし。気になって、病院を抜け出して⋮
⋮。監視の人、眠らせちゃいました。きっと、すっごく、怒られち
ゃいますね、わたし﹂
えへ、と笑うあいだも、腹部から血液が流れ落ちている。彩芽は
焦る気持ちを抑えて、如月の話の終わりを待つ。
﹁無意識に歩いていたら、倉田っていう人の家に、たどり着いたん
です。わたし、どうしてか、その家が気になったんです。きっと、
家の誰かが、亡くなったんですね。家の入口に﹃忌中﹄の札が、張
られてました。その家から、あの悪魔が、現れました﹂
倉田の家から? 驚きつつ、彩芽は頷く。
﹁もしかしたら、あれが出てくるって、わかったから、わたし、あ
の家に違和感を感じたのかも、しれません﹂
﹁そうだな。そうかもしれない﹂
﹁倉田さんの家から、あれが出てきて、そこで、わたしは魔法少女
として、戦って⋮⋮、ねえ、先輩。わたし、おかしいんですよ﹂
﹁⋮⋮なにがだ?﹂
﹁だってわたし、見ず知らずの人の家が壊されたとき、頭に血が上
っちゃいましたし、忌中の文字を見てからずっと、涙が止まらなか
ったんです。もしかしてわたし、変になっちゃったんですか?﹂
﹁なってない。如月は、普通だ。じゃ、如月、運ぶからな?﹂
128
﹁先輩﹂如月が掴む力を強めた。﹁大切なものがある気がしたんで
す。わたし、あの家に、大切なものが﹂
﹁気のせいだ﹂
﹁違います! たぶん、わたしにとって、大切なものだったんです。
ねえ、先輩なら、わかりますか?﹂
﹁あたしがわかるわけ、ない﹂彩芽は強く唇を噛んだ。
﹁そう、ですよね。けど⋮⋮﹂
そこから、言葉はほとんど聞き取れなかった。血を流しすぎた如
月は意識を混濁させ、何事かを呟きながら、それでも、彩芽の胸を
掴み続けた。
彩芽はなるべく如月に負担をかけぬよう、そっと持ち上げて︵微
力ではあるが魔力によるサポートがなければ持ち上げられなかった
だろう︶結界を飛び出した。
129
第二章 魔法少女、夢を叶えます。7
﹁如月さん!﹂
如月の姿を見た鈴木が血相を変えた。彩芽の元に走り寄り、彩芽
の顔をのぞき見る。
﹁女の子の寝顔を見るなんて、褒められる行為じゃないと思うけど﹂
﹁寝てはいないと思いますよ﹂
寝てはいないが、意識もない。いずれにせよこの男が如月に必要
以上に近づくと、なぜだか腹が立つ。近寄るな、と彩芽は鈴木の臑
を蹴った。
﹁医療班は?﹂
﹁いま呼び寄せます﹂
彩芽が如月を地面に置くと同時に、鈴木が姿を消した。携帯の時
刻を見ると既に夜の十二時。彩芽が結界の中に入った時刻はおおよ
そ夜の七時くらいか。そこから結界を出るまで五分とかからなかっ
たはずである。
まったく、これだから低級結界は好きじゃない。四次元接続くら
いしろっての。
医療班を待つ他にやることがない彩芽は、如月の様子を具に観察
する。呼吸は正常とは言いがたく、顔色も悪い。脈拍は薄弱だが、
辛うじて一定のリズムを刻んでいた。そこでふと、彩芽の視界の端
で、光がきらめいた。
如月の体から奇妙な光が飛び出している。これは、なんだ? 光
のラインを辿ると、結界の境目でそれが消えていた。
これって、まさか︱︱。
はっとして彩芽は振り返る。
如月の、新しい能力。あのぬいぐるみは、遠隔型ではなく直結型
なのか。気付くと同時に、あることに思い至る。そういえば一匹、
空亡らしき悪魔に呑まれたな。もしあの悪魔が空亡と同じタイプだ
130
としたら。
イーリスとの戦いで如月が大けがをしたとき、意識を失うと同時
に法衣が消えた。︵正確には消えかけたが、彩芽がそれを維持させ
た︶しかし、なぜいまは意識を失っているのに、法衣が展開されて
いるんだ?
彩芽から余裕の色が消えた。
﹁如月、起きろ!﹂
彩芽は軽く如月の頬を張る。しかし、反応がない。呼びかけなが
ら二度、三度と頬を張ると、やがて如月が目蓋を開いた。
﹁せ、先輩?﹂
﹁如月、いますぐ能力を解除しろ!﹂
いますぐ接続を切らないと、大変なことに︱︱。
﹁あ、先輩。思い出しましたよ﹂如月が力なく笑った。﹁あの家に
住む、倉田、くんって。わたしの、大切な、初恋の相手だったんで
す。なんで、忘れちゃってたんでしょうね。はは⋮⋮。こんなに、
大切なことなのに。なんで、忘れたんだろう。ねえ、先輩。わたし、
どうして、大切な事を、忘れちゃったんですか?﹂
震える唇で呟いた言葉が、彩芽の心を深く抉った。
再び、如月の瞳が混濁たる闇の中に埋没していこうとしている。
怪我に障らぬよう揺さぶるが、意識消失への速度は緩まらない。
﹁如月。とにかく、ぬいぐるみとの接続を解除しろ!﹂
いまだに法衣が展開されている理由。それは悪魔を封じた結界の
外側に来てもなお、無意識に防衛本能が働いているからに他ならな
い。その無意識に危機感を抱かせているのは、間違いない。この光
のラインだ。結界側から光のラインに如月のものとは別の魔力を感
じる。それがみるみる如月に迫る。あの空亡らしき悪魔に呑まれた
ぬいぐるみから、如月に直接入り込もうとしているのかもしれない。
どうにかしてこれを切断できる方法はないか? 彩芽は考えるが、
いくつかの魔術が有機的に接合したぬいぐるみは、それ相応の能力
があれど外部干渉するためには、かなりの時間が必要となる。それ
131
は幾重にもセキュリティが施された銀行の金庫に忍び込むことに等
しい。如月に魔法を解除させるのが一番手っ取り早いか。
﹁起きろ、如月!﹂
﹁先輩﹂虚ろな目で、如月は言う。﹁わたし、一度、倉田くんに振
られちゃってるんです。小さいときに。まだ、小学三年生のころで
した。幼なじみだったのに、近づくなって、言われちゃいました。
拒否されちゃいました。くん付けしてるのは、だから、なんです。
でも、やっと、倉田くんが、わたしに、話しかけてくれるように、
なったんです。わたし、うれしくて。⋮⋮けど、なんで、このこと
を、忘れていたんでしょうね。なんでいま、思い出せたんでしょう
ね﹂
如月が︱︱この瞬間だけ、瞳の焦点を合わせて、彩芽を見た。
﹁わたしは倉田くんを、助けられましたか?﹂
如月の問いに、彩芽は即答することができなかった。本当は、如
月は倉田を助けられなかった。病院で異空間に転送されたあの一件
で、倉田は永遠に失われてしまった。だが、それを素直に口にして
も、誰も特をしない。
呼吸二つ分時間をかけて、彩芽は笑顔を作った。
﹁助けられたよ。倉田くんは、ちゃんと生きてる﹂
﹁そう、ですか。よかった⋮⋮﹂
このときの如月の、男女問わずに見とれてしまう最高の笑顔を、
彩芽は、直視することができなかった。
そのとき、空間が割れた。
結界役が張り巡らせた結界が、
絶対に割れない結界が、菱形に裂けた。
その先に、彩芽が見たのは、無だった。
はっと息を呑む間隙。
その刹那。
無が、笑った。
空間が開いていたのは一瞬だった。しかし、その一瞬だけで、事
132
態は大きく変化した。
手で支えていた如月が、パジャマ姿に戻っていた。魔法少女の法
衣が解けたのだ。その体から伸びる光のラインも消えている。
﹁如月?﹂
言葉にならないほど、彩芽の声が掠れた。
﹁如月!?﹂
もう一度、名前を呼ぶ。しかし、如月は反応しない。すぐさま彩
芽は、血液に濡れる胸元に耳を押し当てた。
鼓動は、聞こえない。
耳に伝わる如月の温もりが、急速に失われていく。
﹁お待たせしました! 遅くなって済みません。事務所に治療班が
誰も残っていなくて、捕まえるのに時間がかかっ⋮⋮⋮⋮紅さん?﹂
誰もいない空間から溶け出した鈴木が、異様に低い温度と場の停
滞感に顔を強ばらせた。
﹁まさか⋮⋮﹂
目の前の状況を察知しただろう鈴木は、それ以上言葉を続けなか
った。
周囲の空気が、急速に低下した。夜とはいえいまは真夏。気温は
毎晩二十度を下回る日はない。しかし今晩、この住宅街の一角だけ
は、吐く息が白くなるほど異常に低下してしまっている。
﹁如月は⋮⋮死んだよ﹂
如月の胸に耳を当てながら、彩芽は呟く。あたかも、鼓動の再会
を待ちわびているかのように。あるいは、耳を離せば鼓動は二度と
戻らないとでも思っているかのように⋮⋮。
如月は、倉田を守ろうとして死んだ。彩芽の嘘で、倉田を守りき
ったことを誇りに思い、夢が、消えた。
﹁紅さん!﹂突然鈴木が大声を発した。﹁それだけは、ダメです!﹂
それ? 彩芽は首を捻り、思い浮かぶ。
そうだった。自分があれを生み出したとき、治癒魔法を使ったん
だ。
133
彩芽は治癒魔法を使えない。だが過去に彩芽は、治癒魔法だと思
い込み︿天地数歌﹀を初めて行使した。魔力を抜かれた人間の魔力
を増やせば生き返ると、彩芽は本気で考えていた。しかし結果は最
悪を通り越した。
彩芽が使った︿天地数歌﹀は治癒魔法などでは決してなく、無限
増殖と無限消滅を司る魔術だった。それをゼロの魔力に重ね合わせ
たとき、現れたのは正と負が両立した無限︱︱空亡であった。
救いたかったものが悪魔に変貌した絶望。
鈴木はおそらく、そのことを恐れている。
﹁やらないよ。大丈夫﹂
自らに言い聞かせるように、彩芽は呟いた。
﹁如月は最後に、倉田くんの名前を思い出したよ。なにもかも思い
出して、倉田くんを守れたかどうかだけ聞いて、死んだ﹂
﹁⋮⋮治療を施せばもしかしたら︱︱﹂
﹁無理よ﹂
力ない声とは裏腹なまでの頑なな彩芽の物言いに、鈴木が言葉を
失った。
﹁如月は悪魔に、魔力を抜かれた。この意味が、わかるでしょう?﹂
魔力は魔法少女ならずとも持っている生命の源だ。魔法少女は内
在する生命力を夢で増殖させ魔力にする。そのシステムは造血を司
る骨髄に類似している。魔力が少量でもあれば再生できるが、完全
に抜かれてしまえば再生は不可能。治療も無意味になる。輸血のよ
うに、永遠に魔力を注ぎ続ければあるいは蘇生も可能かも知れない
が、そんな魔術は、彩芽でさえ使えない。
﹁ねえ、鈴木。あんた、あの悪魔が何者か、知ってるの?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁あいつは何者?﹂
﹁あれは、空亡です﹂
鈴木の言葉に多少驚愕するが、それよりも﹁やはり﹂という思い
が勝る。あんなことができるのは、空亡くらいなものだろう。あい
134
つは、そういう奴だった。
﹁紅さんが以前空亡を撃破したとき、本当に空亡は消えたのか? 疑問に思い僕は独自に調査を進めていました。空亡の波動はあのと
き、完全に消失していました。その報告は情報部お墨付きでしたか
ら、僕も消えたものだと思っていました。しかし今年に入って、空
亡の波動のようなものを情報部が観測したんです。一度浄化した悪
魔は復活しません。おそらく空亡とは別の悪魔だろうと思い、準備
を進めていたのですが⋮⋮。一週間前に僕は、一度消えた悪魔が再
び現れる現象を確認しました﹂
﹁⋮⋮イーリスか﹂
﹁はい﹂
鈴木は顎を引いた。
﹁一度消えた悪魔が再び現れるかもしれない。そう、予想を新たに
することができました。もしかしたら、近々空亡が復活するかもし
れない。そのときに備えて、僕は情報を集め、準備を進めていまし
た﹂
﹁空亡は、どこにいたの?﹂
底冷えする彩芽の声に、鈴木は息を呑んだ。
﹁空亡は、あの、逢魔の異世界の中に逃げ込んでいました。如月さ
んに封殺されそうになったイーリスも空亡と同じ理由で、近くに出
現していた逢魔の中に逃れたのかもしれません﹂
﹁どうやって、こっちの世界に?﹂
﹁イーリスの二つ名は黄泉の翼。黄泉の国で羽ばたける翼を持つと
いう意味で、黄泉の世界︱︱すなわち隠世の中では、次元を飛翔す
る魔法が使えます。イーリスが隠世に戻ったのは傷の治癒と魔力の
増幅が目的で︱︱﹂
﹁イーリスの話は聞いてない!﹂
鈴木の言葉を、彩芽が大声で遮った。
﹁空亡がどうやってこっちに戻ってきたのか。あたしはそれを聞い
てるのよ﹂
135
﹁それは︱︱﹂一度言葉を切って、鈴木は震える声で続けた。﹁あ
の倉田という少年の中に、乗りうつっていたようです﹂
倉田に乗りうつることで空亡がこちら側の世界に戻ろうとしたの
か定かではないが、結果として、空亡はこちら側の世界に戻ってき
た。
﹁そのことに、どうして気づけなかったのよ﹂
﹁気付いたのは如月さんが行方不明になったころとほぼ同時でした。
紅さんに連絡したのも、空亡の復活が退き引きならない状況だった
からです。しかしまさか如月さんが空亡に接触するとは夢にも︱︱﹂
﹁想像出来ていたから、あんたはあたしに連絡を入れたんでしょ﹂
﹁それは⋮⋮。たしかに、そうですが。しかし︱︱﹂
ほとんど、刹那の出来事だった。
拳を握りしめた彩芽が、鈴木の顔面を打ち抜いた。
彩芽に殴られた鈴木は後方に吹き飛び、ブロック塀に激突して止
まる。
躱されるものだと思っていた彩芽は、僅かに動揺した。彩芽が全
身全霊を込めて打ち抜いた拳だったからだ。
﹁ちょ、ちょっと、大丈夫!?﹂
﹁ええ。⋮⋮っつつ。さすが、紅さんですね。先ほどまで魔力が低
下していたとはいえ、全力で防御にまわった僕を吹き飛ばせるんで
すから﹂
防御にまわった。たしかに、拳には魔力障壁を打ち砕く感触が残
っている。だから鈴木の頭はビルから落下したスイカのようになら
なかったのか。
﹁なんで魔力が低下してるのがわかったのよ﹂
﹁んー。勘ですかね。長年の﹂
鈴木は無垢な笑顔を浮かべた。初めて鈴木に出会ったとき、彼は
まだ九歳だった。その当時となんらかわりのない笑顔に、彩芽は僅
かに胸を熱くする。
﹁あ、そ﹂内心を誤魔化すように、彩芽は鼻を鳴らした﹁だからっ
136
て、あたしに殴られたらどうなるか、理解してるでしょ? どうし
てあっさり殴られたのよ﹂
﹁僕を殴った人の言葉とは思えませんね﹂鈴木は言葉とは逆の意味
で鼻を鳴らした。﹁僕も、今回の件には少々腹が立っていまして。
ええ。率直に言いますと、妨害されていたんですよ。
まず情報開示のタイミングが遅れていたこと。具体的には紅さん
が病院で出くわしたあの逢魔ですね。本来であれば戦闘時あるいは
直後に報告があるはずなんですが、紅さんが僕に電話をかけてくる
まで、僕はその件を知りませんでした。
次にリソースに関してです。このごろ貸与されるリソースが、縮
小され続けました。具体的には今日、かき集めた結界師十名です。
本来であれば四次元の持続接続を行いたかったのですが、それがで
きませんでした。内部と外部の時間がずれことは致命的です。内部
での十分の戦闘が、外部では十時間に相当していては、結界師が何
人いようと戦闘が終わるまで結界を維持できません。今回の場合は
特に精鋭部隊を要求したのですが、僕が提示した条件に見合うリソ
ースは得られませんでした。
それだけではありません。今回医療班と連絡を取るのも一苦労で
した。意図的にリソースを縮小し、必要最低限の結界を張ることで、
結界内部と外部の時間の流れを歪ませる。内部で誰かが大けがをし、
外部に出てきたときには、既に人が捕まりにくい状況となっている。
非常に、やり口が汚い﹂
﹁たしかに汚いけど﹂彩芽はうんざりして言う。﹁誰が狙ってやっ
てんのかは、はっきりしてる﹂
﹁ええ。巧妙な手口であれば、その手法を用いる人間を特定させま
せん。しかし今回の手口は、巧妙とは決して言いがたい﹂
﹁姿を晒しても痛くない、ってことなんでしょうね、きっと﹂
﹁そうかもしれません﹂
彩芽の言葉に、鈴木は深く頷いた。
﹁それで? 対策は立てたの?﹂
137
﹁⋮⋮いえ、それが実はまだ﹂
﹁ったく、情けない。それでもあんたはあたしのマネージャなの?﹂
鈴木の返答に彩芽は舌打ちをした。こういうとき、小回りが利か
ないのが鈴木の悪い所だ。
﹁打てる手がないわけではありません。しかし、それをやるために
は少々人材不足でして﹂
﹁具体的には?﹂
﹁優秀な攻撃役と結界師がいれば、あるいは。しかし攻撃役は︱︱﹂
彩芽は鈴木の言葉を右手で制した。背筋をしゃんと張り、瞳を閉
じて小さく首を振る。彩芽の挙動一つで、周りの空気が引き締まる。
﹁己の保身に走った挙げ句、大切な後輩を失った。それでも不戦を
貫くのなら、魔法少女の名が廃る。⋮⋮出るよ、あたしが﹂
過去の彩芽が姿を覗かせる。
それも一瞬。彩芽は再び、現在の顔を取り戻す。
﹁もう一つ。あたしは優秀な結界師を、一人知ってる﹂
﹁誰ですか?﹂
﹁昔は凄腕の結界師で、いまは一児のママになってる、飲んだくれ
の二日酔い女よ﹂
彩芽が知る、優秀な結界師が誰か? 鈴木はその存在に思い当た
ったのだろう、首を横に振る。
﹁助力していただけるとは思えません﹂
﹁協力してもらえないなら、無理矢理連れてくればいいじゃない﹂
彩芽の凄まじい殺気に、鈴木は顔を青くして後ずさった。
家の扉を開いた彩芽は、まず部屋から酒臭さが消えていることに
気がついた。家で待ってるって言ったのに、まさかなにも言わず帰
ったんだろうか? その憂慮はリビングに入ると同時に消える。
大金持ちの家にある毛皮の絨毯みたいに、聡美はリビングの中央
で大の字になって眠っていた。視線の端に見える流し台の水切りザ
ルの中に、洗いたての茶碗や箸が並んでいる。そういえば、ご飯と
138
味噌汁の香りがない。
⋮⋮なるほど。
悟るなり彩芽は、拳に魔力を込めた。
こいつ、助走をつけて全力でぶん殴ってやろうか?
﹁おかえり、彩芽﹂
﹁おかえりじゃない!﹂彩芽は叫んだ。﹁あんた。具合が悪いんじ
ゃなかったの?﹂
﹁うう⋮⋮悪いよぅ﹂
﹁嘘言うな! じゃあなんで人の夕食喰ってるのよ! せっかくあ
たしが作ったのに﹂
﹁あれ、私のじゃなかったの?﹂
﹁あんたいらないって言ったじゃない。殴るよ?﹂
足を踏みならすと床が断末魔を上げた。
﹁すぐ暴力を振るおうとするとこ、良くないと思うよ。だから結婚
︱︱﹂
﹁いますぐ死ぬ?﹂
にこっと微笑む彩芽に、さすがの聡美も絶句した。素早く起き上
がり、正座して背筋を伸ばした。
﹁それで、なにがあったのよ? さっき、すごい魔力を感じた気が
したけど﹂
﹁空亡が復活した﹂
﹁︱︱っ﹂
聡美の顔が一瞬で青ざめた。
﹁そんな。だってあいつは︱︱﹂
﹁倒せてなかったみたい。うまく、隠世に逃げ込んだんだって。そ
れが今日、復活した﹂
聡美は静かに、一連の話を聡美に語った。如月が死んだと伝える、
その言葉だけはどうしても、声が震えてしまった。
﹁⋮⋮﹂
こんな状況になっているとは予想だにしていなかったのだろう、
139
聡美から彩芽をちゃかそうとする気配が綺麗に消散した。
﹁まずあたしたちは、空亡を倒さなきゃいけない﹂
﹁空亡を倒すってあなた、どうやるのよ﹂
﹁一度戦って勝った相手よ。どう戦えば勝てるかくらいあたしは判
ってる﹂
﹁でも、結界師が足りてないんでしょ? そんななかで彩芽が満足
に戦えるわけないじゃない﹂
﹁だから聡美、あんたも手伝うのよ﹂
﹁は?﹂聡美は目を点にした。﹁私はもう魔法少女じゃないのよ?
絶対に手伝わない︱︱﹂
﹁聡美。こう見えてもあたし、今回の件はかなり頭に来てるんだ。
如月を殺した空亡に対してもそうだし、如月を亡き者にしようとし
た奴に対しても﹂
﹁あなたが怒ってるのは私が一番理解してる。けどねぇ。私にも私
の事情というものが︱︱﹂
﹁酒について知ってることがあるんだけどなぁ﹂
彩芽の言葉で、聡美が動きを停止した。段々と、無表情だった顔
が引きつっていく。
﹁あなた⋮⋮それ、どういう意味よ﹂
﹁おかしいと思ったのよ。なんの変哲もない酒蔵に使い魔が現れる
なんて。使い魔はだいたい悪魔の傍にいる。悪魔の傍を離れるとき
は、なにか指令を与えられたときだけ。酒蔵に現れた使い魔の傍に
は、悪魔はいなかった。ということは、なにか悪魔に指令を出され
たから、使い魔は酒蔵にいたってわけよ﹂
﹁だから、なによ?﹂
﹁昨日、あんたが持ってきたお酒、すごくおいしかったけど、どこ
の酒蔵のもの?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
﹁ラベルのない瓶に入った酒なんて、あたし知らないのよね﹂
東西南北、各地域の酒を飲み尽くした彩芽だからこそ、気になる
140
点があった。
﹁な、なにが言いたいのよ?﹂
﹁あのフルーティーな香りは、﹃しぼりたて生貯蔵﹄。瓶底に溜ま
った酒粕は﹃おりがらみ﹄。黄金色の液体につんとする辛口は﹃原
酒無濾過﹄。真夏に酒を搾ると鮮度が落ちる。だからこの時期に﹃
しぼりたて生貯蔵﹄はあまり出回らない。そのうえ﹃おりがらみ﹄、
﹃原酒無濾過﹄となると市販される酒ではまずない。そうなると、
あの酒の可能性は一つ。あれは、酒蔵から盗まれた酒だということ﹂
日本酒通だからこそわかる味の違い。彩芽はあのラベルのない瓶
に入った酒から、すべてを読み解いていた。
﹁使い魔は、悪魔にしか生み出せないものじゃない。人間だって魔
法が使えれば、使い魔を生み出せる﹂
如月がぬいぐるみを魔法で生み出したように。もちろん程度は違
うが、ぬいぐるみと使い魔の魔術構造の基本は同じだ。
﹁あんたは自分の魔力で使い魔を作り出して、酒を盗ませていた。
酒を盗ませたのは︱︱旦那が医者だから、金がなかったからじゃな
い。日々のストレスの発散だったとか、そんなところかしら。
使い魔に酒を盗ませているところを、運悪くあたしに見破られた。
あたしはずっと聡美の波紋を感じてなかったから忘れていたけど、
使い魔と戦った後のあたしは、使い魔の波紋を覚えている。二日酔
いになってもあんたはあたしの目の前でアセトアルデヒドを魔力分
解しなかったのは、不用意に魔力を放出して魔力の波紋を悟られな
いようにするためだった。以上。なにか異論はある?﹂
聡美は力なく、首を横に振った。
﹁酒の味だけで判るなんて。あなた、ほんとうに、おかしいわ﹂
﹁褒め言葉と受け取っておくわ﹂聡美の嫌味を彩芽は聞き流す。﹁
さて聡美。あなたには二つ選択肢がある。あたしに従うか、それと
も、従わず社長に首輪をつけられるか。どっちが好み?﹂
彩芽の完璧な笑顔に、聡美は涙目になって震えるのであった。
141
もう、魔法少女を辞めると決めたのに⋮⋮。
書きかけの履歴書を見て、彩芽は大きくため息をついた。今回だ
け、今回だけと続けて来た結果、この年まで彩芽は魔法少女をやっ
ている。やはり今回も、今回だけと自分の決心に言い訳をして、引
退時期を先延ばしにしている。まるでダイエットを実行するまでの
言い訳みたいだ。﹃ダイエットは明日から﹄。そう言うと、ダイエ
ットする日は絶対にやってこない。魔法少女を引退する日も、そう
だろうか? 彩芽は手を開いて、握り、力を込める。この体が動か
なくなるまでは、きっと、そうかもしれない。
これで本当に良いのだろうか? と思うが、これで良いのだと思
う自分もいる。
彩芽は書きかけの履歴書を、思い切り破り裂いた。
それは彩芽が出した、答えだった。
142
三章 魔法少女、紅彩芽1
彩芽と聡美、それに鈴木の三人は、二キロ四方に広がる結界の全
体を見下ろせるビルの屋上に待機する。
結界の向こうに巨大なうごめきを感じる。そろそろ、十人いる過
給結界師の魔力では押さえ込めなくなるかもしれない。
﹁結界がなくなったらどうなるのかしら?﹂
﹁まずは、巨大な地震が引き起こされるでしょう。そこからなにが
起きるかは予想できません。空亡とは、そういう悪魔ですから﹂
半ばぼやきに近い聡美の疑問に、鈴木が丁寧に答える。
﹁あんた。まさかまだ自分がやらなくてもいいんじゃないかって考
えてるわけ?﹂
﹁彩芽には従うよ? 従いますよ。ええ。けど、私は魔法少女を辞
めて平凡な主婦になってるのよ? もう、少女なんていう時期は過
ぎてるんだから。今更魔法少女とか、恥ずかしいじゃない﹂
﹁それはあたしも同じよ﹂
三十路間近の二人の魔法少女は、互いに顔を見合わせて、彼女た
ちでしか本質的にわかり合えない類いのため息を吐き合った。
﹁作戦は?﹂
﹁とにかくありったけ魔力をぶち込む﹂
﹁途中で魔力切れ起こさないでよね?﹂
﹁だからあんたがいるわけでしょ。あんたは大丈夫なの?﹂
﹁さあ? 久しぶりだから失敗するかも﹂
﹁失敗したら殴る﹂
﹁失敗したらあんたこの世にいないっての﹂
﹁それでも殴る。いい? これは、絶対に失敗できないのよ?﹂
﹁いままで失敗して良かった戦いなんてあったの?﹂
﹁ないわよ、そんなの﹂
喧嘩しているような言葉使いだが、二人の口調は至って穏やかだ
143
った。
﹁方針はお決まりですか?﹂
﹁前回と同じ方法で叩く﹂
﹁微力ですが、僕は今回も参戦させていただきます﹂
﹁⋮⋮ん?﹂彩芽は眉根を寄せた。﹁参戦って、あんた戦えたっけ
?﹂
﹁戦えません。ですが、できることはあります﹂
﹁できることがあるなら、前回も手を貸して欲しかったんだけど﹂
﹁前回とはまた状況が違いますから。それに、今回はそれくらい、
僕も頭に来ているので﹂
担当の魔法少女を失うというのは、マネージャにとって最高に不
名誉なことだ。作戦の成功、失敗は二の次三の次。マネージャにと
って一番大切なことは担当の魔法少女の命は守ることだ。それを今
日、彼は守れなかった。鈴木がどれほど無念に思っているか、彩芽
にはまるで理解できないが、戦闘への助力を申し出たのは魔法少女
になってからは初めてのことである。それだけで、彼がどのくらい
感情的になっているのかがわかる。
﹁こちらを早急に終わらせて、本丸に乗り込みましょう﹂
﹁そうね。ただ、手を貸すっていうのは、ありがたいけど⋮⋮﹂
鈴木は魔法少女ではない。いくら手を貸すとはいっても、超えら
れない魔力総量の壁がある。たとえば低級悪魔が相手で、かつ魔法
少女が戦い慣れしていない新人ならば、鈴木の転移魔法は最高の力
を発揮するだろう。しかし、今回の悪魔は強大である。倒すのにど
れほど時間がかかるかはわからないが、鈴木の魔力が最後まで持つ
とは限らない。おまけに戦うのは悪魔戦のエキスパートである彩芽
である。いくらユニークな転移魔法が使えるとはいっても、お荷物
になる可能性は高い。
不安は打ち消されることなく心うちに沈殿していく。彩芽の内心
とは裏腹に、鈴木は自信ありげな表情を浮かべている。
まあ、いいか。いずれにせよ、人手は初めから足りないのだ。こ
144
ちらが不利になるような場所で待機しなければ問題はない。
常に安定してきた結界の一部が徐々に歪んでいく。それを見た聡
美が﹁よっこいしょ﹂と年寄り臭い言葉を吐きながら立ち上がった。
﹁どれくらいの規模の結界を張ればいいのよ?﹂
﹁パフォーマンス重視なら、どれくらいいける?﹂
彩芽が尋ねると、聡美は難しい顔になった。
﹁しばらく実戦を離れちゃったからなぁ。三次元以下切断安定維持、
四次元以上接続連続一致、特殊バックアップ込みで、四キロ十時間。
そんなところかなぁ﹂
﹁重畳だね。逆に、それくらいできなきゃ困る。なんたって、世界
最高の結界師なんだから﹂
﹁やめてよ﹂
聡美は顔をしかめて吐き捨てた。
眼下にある歪んだ結界が不吉な盛り上がりを見せた瞬間、聡美は
結界を展開した。結界はコンマ一秒で、十人の結界師が織り上げた
結界をあっさり凌駕する。結界の水準としては彩芽が以前展開した
ものと同じだ。しかし、その規模も効果も、まるで違う。
聡美は現在でも最高ランクの結界師だ。おそらく、彼女の右に出
る結界師は他に居ないだろう。その化け物じみた膨大な魔力と、魔
術を編み上げる器用さは彩芽も認めるところである。そしてなによ
り、結界内部に特殊な環境をセッティング出来るところが、彼女を
唯一無二の存在たらしめている。
⋮⋮とはいえ、結界師は結界が張れれば十分である。砂場の山を
崩すのにダイナマイトがいらないように、悪魔戦で彼女が必要な局
面はほとんどない。故に、彼女は彩芽とは違い、ティーンズ・マジ
ックに強く引き留められることはなかった。
しかし今日、この人数、この局面だけは、彼女でなければいけな
い理由があった。
三人はそれぞれ携帯にイヤホンを取り付け、アプリを起動した。
﹁通話チャットで通信する魔法少女ってどうなのさ﹂
145
﹁いいじゃない、楽で﹂
﹁僕もいいと思います。念話部隊が要りませんし。大規模戦闘時に
は重宝しますよ、これ﹂
﹁それだと念話部隊が規模縮小されるんじゃない? いいの?﹂
﹁あんた、なんて心配してんのよ﹂
元魔法少女の社内政治的言葉に彩芽は目を白くした。
﹁いいんじゃないでしょうか? 必要なものは時々刻々と変わって
行きます。洗濯機が登場して洗濯板が姿を消したように。それを食
い止めるのは大いなる無駄です。守ることは素敵ですが、本当に守
ることとは、新しいものを受け入れた上で古いものをどう生かして
いくか、考えることですから﹂
﹁でもさ、洗濯板ってかなり便利なのよね。子どもがどろどろにし
た靴下の汚れとか、洗濯板のほうが落ちやすいし﹂
唯一子持ちの聡美が鈴木のたとえ話に乗っかった。
﹁液体洗剤より、固形石けんのほうがなお良いですよね。僕もワイ
シャツ汚れによく使ってます﹂
﹁そうそう﹂
﹁その話はもういいから﹂
彩芽はうんざりして言った。まったく、もっとマシな喩えはなか
ったのか。いまから悪魔と戦うって人たちが、洗濯機について話し
合うなんて。
装甲しているうちに、アプリのチャットルームが繋がった。あー
あー、とマイクのテストをして、彩芽は立ち上がる。
﹁それじゃ、いっちょ行きますか﹂
軽い言葉とは真逆の、冷たい瞳。既に肥大を始めたそれを、彩芽
は睥睨する。
彩芽は右手を前に突きだして、一本のかんざしを生み出した。
そのかんざしを、ほどいた髪に巻き付け、後頭部で留める。
ひとりむすめ
ゆめごころ
十年前から背負い、現在もまた一つ増えた、罪を滅ぼす。
﹁日つ、一人娘の夢心﹂
146
紡いだ言葉は魔力に代わり、
ふたりしずか
べんせいしゆくしゆく
艶なる色へと変化する。
﹁風つ、二人静に鞭聲粛粛﹂
白の光は足袋となり、
さんすい
めいきようしすい
漆の下駄の音響く。
﹁水つ、三酔、明鏡止水﹂
韻が織り成す絹纏い、
小夜の衣の帯締まる。
﹁︱︱紅彩芽、参ります﹂
小夜衣が完成した瞬間、大気がざわめいた。後ろに控えた鈴木の
体が、彩芽の圧倒的な魔力の本流に押されて傾いだ。
法衣は魔法少女本人のイメージにより完成されるが、イメージさ
れる法衣が複雑であればあるほど、体内の魔力をより滑らかに外部
へと送り出し、魔法の使用から発動までの時間が短縮され、魔法の
効果も向上する。
彩芽が織りなす小夜衣は、大きな満月と夕暮れのなか乱れ咲く華
の描かれた﹃辻が花﹄。着物界の巨匠﹃久保田一竹﹄の作品をモデ
ルに編み出した法衣である。おそらく、魔法少女界でこれ以上複雑
な法衣を纏うものは居ないだろう。理由は単純で、それを編み出す
までに途方もない歳月がかかるが、途方もない歳月を他の魔法少女
は現役で生き抜くことができないからだ。
﹁よっ! 日本一!﹂
﹁うるさい!﹂
鈴木のかけ声に彩芽は顔を赤くした。
﹁そのかけ声、辞めてって何回も言ってるでしょ!﹂
﹁いや、つい出ちゃうんですよね﹂
﹁わかるわぁ﹂
鈴木の言葉に聡美が同意した。
﹁日本酒が飲みたくなるような演歌歌い出しそうだもん﹂
﹁歌っていいの?﹂
147
﹁やめてっ﹂
命の危険を感じたように、聡美は青ざめる。
﹁歌うとイメージ崩れるからやめて﹂
﹁どういう意味よ、それ﹂
どういう意味か、本当にわからないのはこの場では彩芽だけであ
る。自らの歌声が聞けないのは幸いだ。
﹁にしても、いまは落ち着いてるけどさぁ。彩芽は昔は義侠心だけ
の尖った性格してたよねぇ﹂
﹁あたしの法衣をみてへんなことを思い出さないでよ﹂
﹁どうしてこんなに落ち着いちゃったのかしら?﹂
﹁さきほど、一瞬ですが昔の紅さんに戻ってましたよ﹂
鈴木の言葉に聡美が目を輝かせた。
﹁ええ、なにそれ? ちょー見たかった﹂
﹁そ、その話はもういいから!﹂
格好良く生きるために格好の良いものを真似る若気の至り。中二
病と呼ばれるそれは、男の子だけの流行病ではない。彩芽もまた、
中二病という流行病にかかった時期があった。
﹁落ち着いちゃったのは、年のせいかしら?﹂
﹁ぶっとばすよ?﹂
彩芽がそれを辞めたのは、もちろん年齢のせいではない。単純に、
格好を付けるだけでは、人が救えないと実感したからだ。
﹁味方をぶっ飛ばしてどうするのよ﹂聡美は肩をすくめて言う。﹁
ぶっとばす相手は、私たちじゃないでしょ。ほら、行っといで﹂
﹁はいはい﹂
けだるそうに頷きながら、彩芽はかんざしの先端に付いた紅ガラ
スに小指で触れる。触れた小指にガラスの紅が移る。
彩芽は小指でそっと唇を撫で、薄く紅を引いた。
﹁それじゃ、いっちょ派手に行きますか﹂
僅かに体を揺らした、次の瞬間︱︱、
彩芽は既にビルから二百メートル離れた先まで跳躍していた。
148
後方で、派手な粉剤音が響く。
﹃ば、ばかもの!﹄
イヤホンから聡美のがなり声が聞こえた。
﹃彩芽、味方を殺す気!?﹄
ちらり後ろを振り返ると、先ほどまで待機していたビルが屋上か
ら下十階分が消滅していた。
﹁あ、ごめんごめん。やりすぎた﹂
﹃私が死んだらどうするのよ!﹄
﹁そのくらいで死なないでしょ﹂
﹃反省しろ!﹄
﹁はいはい﹂
適当に答えながら、彩芽は目標に集中する。
彩芽の接近に気付いたのだろう。空亡が彩芽を見上げた。
空亡はすでに十メートルほどまでその体を急速に肥大させている。
これは、如月の魔力を呑んだことが原因だろう。前回の大戦では百
メートルまで大きくなった。今回はどこまで大きくなるやら。
接触まであとコンマ五秒。
そこで彩芽は、抑えた魔力を爆発させた。
︱︱︿あらばしり﹀。
放出された魔力が空亡に絡みつき氷結する。
彩芽は氷結した部分めがけて、拳を振り下ろす。
﹁︿鹿鳴﹀!﹂
拳に集中した膨大な魔力が、接触時に爆発し、凍り付いた空亡の
体を粉砕、飛散させる。
爆発の勢いで彩芽は後方に離脱。
︱︱しかし、その彩芽を上回る速度で飛散した空亡の体組織が︿
無﹀となり彩芽に迫る。
水滴が落ちた水面のように、彩芽は空亡に包まれ、消えた。
次の瞬間。
彩芽は空亡の後方に出現した。
149
ほうらん
﹁︿鳳鸞﹀﹂
手の平から噴出する業火が十メートルもある空亡を飲み込む。す
ひふうほうらい
かさず彩芽は開いた手の平を閉じる。
︱︱︿秘封蓬莱﹀。
業火が一瞬で縮小し、極点となったところで、轟音と熱風を巻き
上げながら爆散する。
爆心地から百メートル離れ、彩芽は一息ついた。
﹃紅さん、大丈夫でしたか?﹄
﹁うん、助かった。ありがとう﹂
彩芽が︿無﹀に呑まれる瞬間、鈴木が魔法を発動させ、彩芽を転
移させていた。その手際は鮮やかで、彩芽自信も転移魔法を受けた
と感じられないほどだった。
空亡が生み出す︿無﹀は消滅魔法と効果はほぼ同じ。もし僅かに
でも触れていれば、彩芽はこの世から消えていただろう。︿無﹀が
消滅魔法と違うのは、それが魔法ではなく空亡そのものだというこ
と。叩けば叩くほどに、︿無﹀は生じ、飛び散り、消滅する可能性
が高くなる。
﹃あなたたち、ずいぶん息合ってるじゃない﹄
聡美は笑うように呟いた。
﹃それは、まあ長い付き合いですから﹄
﹃もう結婚しちゃえば?﹄
﹁死んだ方がマシよ﹂
冗談を呟いて、すぐに気持ちを切替える。先ほどまでの連撃で彩
芽は魔力は三分の一まで低下した。しかし、現在の魔力はほぼ満タ
ンである。今回の作戦に、聡美が必要だった理由は、ここだ。
聡美が施した結界内部の特殊バックアップとは、結界内部に聡美
の魔力を充填させておくことである。限られた人間がそれを摂取で
きるようフィルタリングすることで、攻撃役はガス欠を気にせず攻
撃に専念できる。極大魔法を専門とする︵聡美曰く高燃費の︶彩芽
にとって、それはこの上ないサポートになる。鬼に金棒とはまさに
150
このことだ。
彩芽の魔力が全回復したころ、飛散していた空亡が空中に再結集
し始めた。本体は先ほどと同じ大きさだが、それとは別に中級悪魔
レベルの分体が二つ出現した。本体を攻撃すればするほど、このよ
うな雑魚は増えていく。しかし、この数はまだ序の口だ。
﹁よしっ﹂
気合いの声を口に出して、彩芽は空を飛翔する。先ほどまで精神
を削るような感覚を覚えた飛翔も、この結界の内部では消費と同時
に補填されるため、まったく苦痛は感じない。
彩芽は指先から二つの黄色い光を出現させた。それらはゆっくり
と二つの分体に近づく。魔法の接近に気付いた分体の一つが、魔法
を打ち落とすべく拳を振り上げる。その分体の拳が光に触れた次の
ひげん
瞬間、分体は音もなく消滅した。
分解消去の︿秘幻﹀。彩芽の魔法の中ではトップクラスの威力だ
が、彩芽は好んで使わない。理由は単純。地味だからだ。
もう片方の分体は、その魔法の性能に気付いたのか回避を試みる。
しかし、一度放ったが最後、︿秘幻﹀は地の果てまで標的を追いま
わす。いまは逃げまわっているが、そのうち勝手に消えるだろう。
彩芽は意識を本体に戻す。
そこで彩芽は、気を抜けば一瞬で命を失う戦場に居るのにもかか
わらず、?然としてしまった。
151
第三章 魔法少女、紅彩芽2
先ほどまでガスのように不安定だった空亡が、いまは安定的な輪
郭を得ている。それに大きさも、彩芽と同じくらいまで小さくなっ
ている。
その輪郭には、見覚えがあった。
﹁⋮⋮姉さん?﹂
線香花火みたいに弱々しく、儚げで、だからこそ夢中になってし
まう声色。三つ編みにされた長い髪の毛。紺色のセーラー服。彩芽
が冗談めかしてダメガネと呼んでいた大きくて丸いレンズの眼鏡。
あのときのままだ。あのときと、まったく変わっていない。
﹁姉さん、ですよね?﹂
﹁⋮⋮﹂
彩芽の喉から、掠れた息が出た。
空亡は、彩芽の妹に、変形した。⋮⋮いや、変形ではない。空亡
は、彩芽の妹そのものだった。
﹁姉さん﹂
﹁こっちに来ないでっ﹂
一歩こちらに踏み込んだ瞬間、彩芽は声を荒げた。
かおる
﹁あんたはあたしの妹じゃない﹂
﹁姉さん。私は香ですよ﹂
相手は間違いなく彩芽の妹の、香だ。それは、彩芽もわかってい
る。だが、彩芽は否定する。もう、香ではない。
﹁姉さんが、生き返らせてくれたじゃないですか﹂
﹁あんたを生き返らせた覚えはない﹂
﹁それは酷いです。ちゃんと、こうして生き返らせてくれたのは、
姉さんじゃないですか﹂
香は昔、悪魔との戦い巻き込まれ大けがをして命を落した。その
とき彩芽は、香に︿天地数歌﹀を使った。それが香を蘇生させるも
152
のと信じて。
しかし、香は生き返らず、空亡が生まれた。
﹁そんな覚えはないね﹂彩芽は吐き捨てた。﹁それより、大切な後
輩の魔力を返してもらおうか﹂
﹁後輩さん? ええと⋮⋮あー、この子のことですか?﹂
香の肩が歪に歪み、そこから如月の顔が出現した。
﹁返してもいいですけど、この子。もう生きてませんよ?﹂
﹁︱︱っ﹂
彩芽の中でなにかが切れる音が聞こえた。
﹃落ち着きなさい彩芽!﹄
耳元で聡美の叫び声が響いた。しかし、詠唱を終えた極大魔法は
ここのえざくら
もう止まらない。
﹁︿九重桜﹀!﹂
九つの魔術が体内で開き、桜の花びらが舞う様に相手を内部から
破壊する。飛び散った香の︱︱空亡の破片が空中で霧状に変化して、
広がる。
魔術が発動した直後、空亡の体から数本の触手が伸びた。その鋭
い先端が彩芽に突き刺さる︱︱その前に、目の前に見えない壁が出
現し、触手の攻撃を食い止めた。
﹃落ち着きなさいって言ってるでしょ、彩芽!﹄
﹁⋮⋮ごめん。ありがとう﹂
出現したのは、魔力による障壁。これも聡美の能力の一つだ。聡
美の魔力が充填された場の中では、どこにでも自由に魔力障壁を生
み出せる。便利なようだが、聡美がすべてを意識的にコントロール
しなければいけないため、乱戦時にはほぼ使用できなくなる。また、
聡美の反応が遅れれば障壁は機能しない。使える局面がかなり限ら
れた能力だが、今回はそれに助けられた。
﹁いきなり攻撃するなんて、姉さん。酷いです﹂
相手を批難する口調なのに、口元はどこまでも艶美に歪む。
いまの攻撃に魔力のほとんどをつぎ込んだ彩芽は、空から転落し
153
た。魔力の回復が追いつかない。空がみるみる遠ざかる。
虚脱。
浮遊感。
視界の端で、
黒色が滲む。
地面に激突した彩芽は、その衝撃に悶絶した。落下地点は下降し
た場所から数メートル離れた場所だった。視界の先で︿無﹀が円を
作り、少し前まで彩芽が居ただろう空間に群がっていた。
﹃紅さん。意識はありますか?﹄
僅かに熱を帯びた鈴木の声が耳朶に届いた。また、転移魔法に助
けられたか。もしそれがなければ、いまごろ彩芽は空亡の攻撃の餌
食になり、完全にこの世から消失していたことだろう。
﹃香さんの話しに耳を傾けてはいけません。それは紅さんを動揺さ
せるための空亡の作戦です。香さんは、もう、この世にはいないん
です﹄
いないのは、香だけじゃない。彩芽は、掠れた声で呟いた。
﹃クールにいきましょう﹄
それができれば、苦労はしない。
彩芽は直情型だが、激高しても決して理性は失わない。直情型だ
と認識しているからこそ、自らを抑える術も理解しているのだ。
しかし、これだけはどうにもならなかった。
なぜなら香は、魔法少女になった彩芽が、最も救いたかった人物
だったから。いくら高みに上り詰めても、自分の力のなさを嘆くの
は、彼女を救えなかったからだ。
目の前に香が現れて、死んだ妹が現れて、冷静で居られる奴なん
ているだろうか? と思う傍ら、あと何秒で魔力が満タンになるか
計算し、空亡を倒す算段を立てている自分がいることに気がつき、
彩芽は愕然とした。
﹁⋮⋮﹂
なんだ、そうだったのか。
154
彩芽の口元が自然と斜めになった。
本当は、哀しくなかったんだ。もう痛くないのに、痛みを思い出
して泣き出す子どものように、哀しい振りを、してただけだったん
だ。
﹁なにを笑っているんですか?﹂
彩芽が笑みを湛えているのが面白くなかったのか、香は如実にむ
っつり顔を作った。
﹁別に、なんでもないよ。それより香。あんた、自分の最後の言葉、
覚えてる?﹂
﹁最後の言葉、ですか? ええ、覚えていますよ。たしか︱︱﹂
﹁﹃結婚したかった﹄。心配するな。あんたの願い、あたしが引き
受けたから﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
十秒、二十秒と、香はキュビズムの如き表情のまま固まった。
﹁なによ? 文句あんの?﹂
﹁ええと、姉さん。一つ聞きますけど﹂香がこめかみに人差し指を
当てて、言う。﹁姉さんは、今年で何歳ですか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮じゅう﹂
﹁は?﹂
﹁だから⋮⋮じゅう﹂
﹁ちゃんと大声でおっしゃってください﹂
﹁だから、三〇だっての!﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
グププフフと香の口から大量の息が漏れた。
﹁笑うな!﹂
﹁笑ってませんよ。ただ、三十なのに結婚してないって⋮⋮。もう
望み薄じゃないですか﹂
﹁そんなことないんだから!﹂
充填された魔力が彩芽の外側でバチバチと炸裂した。
155
﹁ぶっ飛ばす!﹂
刹那、彩芽は跳躍。
ありったけの魔力を拳に溜め、打ち抜く。
体内の魔力のすべてを一度に空亡に叩き付けた。
それが合図だったように、二人は無言で互いを攻撃し続けた。攻
撃する度に生み出される低級悪魔は百を数え、香の体躯が膨張し、
三メートルを超える。ときどき思い出したように低級悪魔を浄化す
ると、悪魔の消えた空間から空亡の︿無﹀が出現して彩芽に飛びか
かる。それを寸前のところで躱し、時々躱しきれない攻撃は鈴木の
転移で脱出する。無限に続くかのように思えた戦いは、空亡の体躯
が五メートルを超えた段階で一度途切れた。
彩芽は息を一つ吐き出して、新たな魔法を生み出す。無形の魔力
が空中で実体化し、徐々に輪郭を安定させる。
ファンタジー
一つ、二つ、三つ。どんどん増える茶色いそれは、如月が最後に
編み出した魔法︱︱ぬいぐるみだ。一つ、また一つと、結界内の魔
力をすべて使い切る勢いでぬいぐるみを量産しつづける。如月のタ
イプと違うのは、それが有線ではなく無線コントロールだというこ
と。もし空亡に呑まれても、魔力を抜かれる心配はない。
﹁かわいらしいぬいぐるみですね。私も混ぜてもらっていいですか
?﹂
遊びに加わる子どものような発言だったが、行動は相手を蹂躙す
るものだった。香は体から漆黒の霧を噴射し、そこから無数の玉を
作り出した。手の平に収まるほどの大きさしかないが、人一人の命
を奪うには十分すぎる威力が込められている。
香はそれを、彩芽に向けて一斉に放った。
彩芽と香の距離はおおよそ十メートル。消滅する塊が届くまでコ
ンマ二秒もなかった。
しかし彩芽は、それらを丁寧に、大量の魔力で覆った拳ではじき
飛ばした。
後方で幾つもの家が高温の鉄に水滴が落ちたような音を立てて消
156
えていく。その中に混じって、尻尾を踏んづけられた犬の如き断末
魔が響いた。
なにか聞こえたか? 彩芽は振り返る。そのすぐ後ろに、苦笑す
る鈴木と、膝をついて涙を流す聡美が現れた。
﹁死んだ。死んだと思った。今度こそ死んだと思った⋮⋮﹂
ぶつぶつと、辛うじて聞き取れる音量で聡美が呟く。
﹁⋮⋮あんたたち、なにやってんの?﹂
﹁察してよ! 判るでしょ!?﹂
さっぱりわからない。彩芽は首を傾げた。
﹁紅さんが弾いたあの攻撃に、巻き込まれそうになったんですよ﹂
足りない聡美の言葉を、鈴木がフォローした。
﹁ああ、なるほど﹂
﹁なるほどじゃないよ! ほんと、死ぬかと思ったんだから。うう。
これだからあんたと戦うのは嫌なのよ。いままで何度死にそうにな
ったことか⋮⋮﹂
﹁まあまあ。死ななかったんだから結果オーライっ﹂
びしっと彩芽は親指を立てる。
その親指をへし折ってやろうか? とでも言いたげに聡美はにら
み付けるが、突っ込むと面倒だから無視をしよう。
﹁さて﹂
彩芽は振り返る。準備は整った。地面に溢れかえるぬいぐるみ達
は、既にパレードを開始している。相変わらず楽器に音はない。け
れど、ぬいぐるみ達は音が聞こえているかのように、楽しげにスキ
ップをして香を取り囲んでいく。
﹁な、なんですか?これは﹂
ぬいぐるみの包囲網に、香は一瞬目を白黒させる。しかし、すぐ
に気を持ち直して体型を変化させる。香は香を辞めて空亡に戻る。
体躯がみるみる膨張する。その肥大化にパレード中のぬいぐるみが
二体巻き込まれて消えた。
空亡は本能で感じ取ったのかもしれない。このぬいぐるみに囲ま
157
れてはいけないと。体を膨張させることで、包囲の密度を下げにか
かったのだ。それで失敗したのが如月である。如月は最大五つしか
ぬいぐるみを具現化できなかった。しかし、いま彩芽は百体以上ぬ
いぐるみを生み出している。彩芽が不得意な幻惑魔術は付与できな
かったが、しかしそれがなくても十分だ。
空亡の体が百メートルほどまで膨張し、停止した。
﹁そろそろ、お開きにしましょうか﹂
拳を高く突き上げて、彩芽は宣言する。
﹁あんたの分まで、幸せな結婚生活を送ってあげるから、安心して
眠りな﹂
腕を振り下ろすと、ぬいぐるみのオルゴールから黄色い紐が発射
された。直上で広がって網になり、空亡に降りかかる。
ただ網が絡まっただけなのにもかかわらず、空亡は動くことがで
きなくなった。ただの網であれば空亡の能力で解けて消えるだろう。
しかし、そこに付与された魔力が溶融を阻害している。
ぬいぐるみ側からは分解魔法が発動してはいるが、空亡にダメー
ジを与えるほどの効果は見られない。しかし、その体から吹き上が
る黒い霧が、分解魔法により綺麗に消えた。
その瞬間、彩芽は動いた。
髪に巻いたかんざしを引き抜き、逆手で構える。
蓄えた魔力を増幅させ、ありったけをかんざしに込める。
かんざしが紅く、激しく輝き始める。
先端から光が伸びた。
予備動作なしで彩芽は跳躍する。
上空千メートルまで上昇し、反転。
空に向かい魔力を噴射。
速度を上げて、空亡に迫る。
⋮⋮さようなら、香。
光の伸びたかんざしを、彩芽は前に付きだした。
コンマ一秒の出来事だった。
158
おうかぎんじようでわざくら
彩芽は着地した姿勢で硬直する。
﹁︿桜花吟醸出羽桜﹀﹂
空亡の頭頂部に、かんざしと同じ紅の光が現れ、瞬く間に光は全
身に及ぶ。その変化が一定のラインを超えたとき、光が瞬き、ガラ
スが砕けるような音とともに、空亡が分解する。
︱︱刹那。
血液が一瞬で蒸発するほどの凄まじい魔力が爆発した。
神話クラスの悪魔が放つ壮絶な︿悪魔の慟哭﹀が、空気を細かく
振動させる。振動した空気が熱を帯びる。それらは近隣の建物を、
地面を溶かし、蒸発させる。
ほんの一秒。
たった一秒で、結界内のあらゆる建物が消えた。
空亡の真下にいた彩芽は、悪魔の慟哭を、魔力の噴射により耐え
きった。空亡の慟哭は前回も経験している。耐えられることは判っ
ていたが、しかし耐えられることと無事であることは、意味合いが
まるで違う。
鈴木も自分の身を守るので精一杯だったのだろう。彩芽が転移魔
法で安全圏まで移動することはなかった。
慟哭による空間の影響が完全に消えたと同時に、彩芽の小夜衣も
消失した。慟哭には耐えられたが、命は縮まった気がする。それほ
どまで酷いダメージが、彩芽の体内に蓄積していた。
しかし、彩芽はその瞳から闘志を失うことなく立ち上がる。
右手を、開いて、握る。手がちゃんと動くことが、こんなにも安
堵することだとは。
しかし︱︱いや、そのことについてはまだ考えるのはよそう。
﹁⋮⋮鈴木﹂
﹁はい?﹂
﹁空亡は?﹂
﹁おそらく、完全に消失しました。念のために、空亡の魔力波動を
159
追跡しています。生きていても、おそらくかなり弱っているでしょ
うから、見つけ次第封印します﹂
﹁そう。街の修復は?﹂
彩芽は遠くを見ながら尋ねた。
﹁僕が連れてきた結界師が進めています﹂
さきほどまで結界の外側に退避していた結界師達が結界の内部に
入り込み、悪魔の慟哭の残滓をくみ上げて、平地になった街を徐々
に復元していっている。
﹁それじゃあ、移動しようか﹂
﹁はい﹂
﹁移動?﹂
一人経緯の知らない聡美が首を捻った。
﹁まだやることがある﹂
﹁やることって、他にも悪魔がいるの?﹂
﹁悪魔とは戦わないから、大丈夫﹂
戦うのはもっと別のものだ。
﹁あ、そ。じゃあ、行ってらっしゃい﹂
﹁あんたも来るのよ﹂
﹁どうしてよ﹂聡美は眉をハの字にした。﹁街を修復し終えるまで
結界は維持しなきゃいけないから、私は行けないわよ﹂
もっともな理由を口にするが、その心は﹃これ以上巻き込むな﹄
だ。しかしそんな願いを彩芽が受け入れるはずがない。
彩芽は悪魔の如く口元を歪めて、聡美の首根っこを掴んだ。
﹁鈴木。結界師に低級でもいいから結界を張るように伝えて﹂
﹁了解しました﹂
鈴木は部下に、短く指示を伝える。
﹁あ、あんた。今度はなにするつもりなのよ﹂
﹁なにって、戦うのよ﹂
﹁さっき悪魔は居ないって言ったじゃない﹂
﹁戦うのは悪魔じゃない。社長よ﹂
160
﹁な、なにがあったのよ⋮⋮って、ダメダメ。言わないで。私は関
係ないから! 社長と戦うとか、死ににいくようなものじゃない。
首輪をかけられたらどうするのよ?﹂
﹁かけられたら、それまでよ﹂
﹁⋮⋮死ぬ気?﹂
﹁いつだってあたしは、死ぬ気で生きてきたわ﹂
﹁あ、そ。じゃあ、行ってらっしゃい。私はまだ魔力を抜かれたく
ないから︱︱﹂
﹁うるさい、行くよ﹂
彩芽が底意地悪い笑みを浮かべて聡美の首を腕でロックした。
﹁いぃやあああああ!!﹂
月だけが明るい結界の中に、聡美の絶叫が響いた。その声に耳を
傾ける人間は、残念ながらここには居なかった。
161
第三章 魔法少女、紅彩芽3
ティーンズ・マジックまで一瞬で移動してきた三人は、三様の表
情を浮かべる。一人は二階建ての事務所ではないどこかを見つめ、
一人は祈るように目を伏せ、一人は顔を真っ青にして蹲る。
﹁あんた、いつまで落ち込んでる気よ﹂
﹁彩芽はどうして、私をこんなに酷い目に遭わせるの?﹂
鼻水をすすりながら聡美が訴える。
﹁そりゃ、あんたが私の友達だからでしょ﹂
﹁友達だったらこんな目に遭わせないでよぅ!﹂
﹁あれ? あたしは聡美と友達じゃないのかな? じゃあ、仕方な
いね。酒蔵の件も︱︱﹂
﹁わーっ! わーっ!﹂
ヒーローが変身するときのような勢いで聡美が飛び上がった。
﹁いい?聡美。あんたはもう半分死んでるようなものなのよ。それ
なのにまだ首輪とは無関係に生きていたいって言うの?﹂
﹁ぐぐ⋮⋮﹂
魔法を犯罪に使用したことが明るみに出れば、首輪をされるのは
目に見えている。いずれにせよ同じことだという彩芽の言葉は、ま
ったくの正論で、聡美はただ歯ぎしりしかできなかった。
﹁そ、それじゃあ、なにをするのかだけ説明してよ﹂
﹁ん? そんなの決まってんじゃない﹂彩芽が両手を腰に当てた。
﹁魔法少女を辞めにいくのよ﹂
社長室の扉を開いた彩芽は、その向こうに人の気配を察知して気
を引き締める。
﹁こんな夜遅くにいらっしゃるとは思ってもいませんでした﹂
﹁⋮⋮思っていたから、ここに来たんじゃないのか?﹂
社長椅子に座って両肘を机につけた姿勢で、高瀬川が厳かに言う。
162
その体から、彩芽以上の魔力が放出されている。
既に、臨戦態勢ってわけね。彩芽は膨大な魔力を敏感に感じ取る。
社長室に一歩踏み込んだ、その瞬間。彩芽は首に違和感を覚えた。
首に手で触れてみるが、違和感はない。しかし、体内の魔力が完
全に沈静化してしまっている。呼びかけても、反応はしない。
﹁は、はひぃん﹂
遅れて社長室に入った聡美が奇声を発した。おそらく社長は聡美
にも首輪をかけたのだろう。聡美とは反対に、鈴木は無反応だ。戦
闘力のない鈴木は、まだ首輪をされていないのかもしれない。
﹁いきなり首輪ですか。ずいぶんですね、社長﹂
﹁会話をするのに魔力が必要か?﹂
﹁⋮⋮いいえ﹂
彩芽は小さく首を振った。
おそらく、社長は保険で彩芽と聡美に首輪をかけたのだろう。い
まのところ魔力を奪われる様子はない。
﹁はふぅ、もう、らめぇ⋮⋮﹂
後ろでがたがたと震え鼻水をすする聡美を無視し、彩芽は口を開
いた。
﹁最近、ティーンズ・マジックに妙な動きがあったのはご存じです
か?﹂
﹁妙な動きとは? 具体的に聞こう﹂
﹁一つは、悪魔が出現するタイミングが良すぎること。ここ最近、
何故かあたしの近くに悪魔がよく現れました。それも、いままでに
ない間隔でです。通常であれば一ヶ月現れないのが普通である悪魔
が、一週間のうちに二度も出現しています﹂
﹁さきほど空亡が出現したらしいな。その空亡の膨大な魔力に惹か
れて出現しやすくなっていただけじゃないのか?﹂
﹁そうとも言えますが、空亡が出現したのはいまから半日ほど前の
ことです。それまでは隠世に隔離されていました。社長の理屈だと
こちら側の世界ではなく、隠世に現れなければおかしいですよね﹂
163
﹁僕からも一つ﹂横に控えていた鈴木が口を開いた。﹁逢魔が出現
したことも妙なんです。僕が調べたところ、一週間前から合わせて
三度現れた逢魔は、過去にティーンズ・マジックの社員が封印して
いたものでした。その封印を調べたところ、何者かによって解除さ
れた形跡がありました。これは施した封印が甘く、逢魔が自力で解
除したことを否定します。一度その逢魔は紅さんが浄化し、二度目
は如月さんにより浄化されます。浄化したときにすぐ封印を施さな
かったため、逢魔は再結合しますが、ここで妙なことが起ります。
一度目の逢魔はなにも破壊しませんでした。二度目に現れた逢魔は
病院の上階を飲み込みましたが、何故かその後に出現した逢魔は病
院施設を破壊せず、如月さんだけを別世界に飲み込みました。如月
さんを飲み込んだ後も、病院施設は攻撃せず、ただ漂っていました。
これについて、社長はどうお考えでしょうか?﹂
﹁逢魔がなにを考えて病院を破壊しなかったかについて、お前は人
間の俺に聞くのか? そんなもの、わかるわけないだろ!﹂
﹁そうですか、それでは別の話に移りましょう。これは非常に口に
しにくいことなのですが、最近僕の仕事が、どうやら何者かによっ
て阻害されているようなのです。情報の遅延や、リソースの縮小が
例に挙げられます﹂
﹁自分の無能を棚に上げて責任転嫁か? 情報が遅延することなど
希にあるだろう。与えられたリソースの中で工夫して状況をクリア
するのが仕事だ! 情報が遅い、リソースが足りない。そんなもの
は言い訳だ!﹂
社長が画なり声を上げて、拳を机に叩き付けた。その音に、彩芽
は敏感に反応し肩を振るわせる。
﹁重なった偶然が三つまでなら、偶然と割り切ることができます。
しかし、四つ以上が重なっているとなると、偶然ではなく作為と取
る方が自然です﹂
﹁お前はなにが言いたいんだ?﹂
﹁リスクマネジメントの話しです。もしこれが、外部からの意図的
164
な攻撃であれば、我々はそれに対して、対応しなければいけません。
相手が悪魔であれば、即刻世界から消えていただきます。しかし、
もしこれが内部からの攻撃であれば︱︱﹂
そこで鈴木は一度言葉を切り、眼鏡を押し上げた。
﹁奪われた如月さんの命の責任は、取っていただきます﹂
﹁如月が死んだのはマネージャである貴様の責任だろ! 恥を知れ
!﹂
激高した高瀬川が、机の上にあった文鎮を鈴木めがけて投げつけ
た。鈴木はそれを、転移魔法で移動させる。瞬間的に移動した文鎮
が、部屋の壁に激突して落下した。
﹁今回の件には、ある思惑が絡んでいます。おそらくそれは、紅さ
んの引退に関係しているのではないか、と僕は考えました。日本だ
けでなく世界の悪魔と渡り合えるほど強大な力を持つ紅さんを、手
放したくない。引退を表明した紅さんを、どう事務所にしばりつけ
るか? それが目的だと考えると、今回の出来事は筋が通ります。
まず、意図的なリソースの縮小です。リソースを縮小すると、現
場にいる人間がそれに合わせて対応しなければいけなくなります。
今回現れた悪魔の近くには、何故かいつも紅さんがいらっしゃいま
した。そこでリソースを縮小させ、紅さんが自ら戦わなければいけ
ない状況を何者かが作り上げようとした。
逢魔の不審な挙動ですが、悪魔も逢魔も︿魔﹀的存在には代わり
ありません。悪魔に幻惑魔法が通じれば、逢魔にも幻惑魔法が通じ
ます。動きを操ることは︱︱危険ですが、できないことはありませ
ん。何者かが危険を冒して逢魔を操った狙いですが、紅さんの攻撃
役としての参戦と、如月さんの排除にあると考えられます。
一度目に逢魔が現れたとき、既に紅さんは補佐でした。しかし、
イーリスが不自然な消え方をしたため、紅さんは現場入りすること
となります。この場では、イーリスは紅さんに浄化されなければい
けない理由が何者かにはあった。如月さんに浄化されそうになった
ところで逢魔を送り込み、イーリスを隠世に送り込んだ。イーリス
165
の二つ名は黄泉の翼。それを知っている人物ならば、隠世に飛ばさ
れた逢魔がどうなるか、予想がつきます。結果として、何者かの思
惑通りイーリスは紅さんに浄化されることとなりました。
次に、二度目に現れたときですが、出現した時点ではどちらが攻
撃役になるかまだ決まっていませんでした。なので、何者かは事態
を悪化させることで紅さんを攻撃役に仕向ける狙いがあったのでは
ないかと考えられます。
そして、三度目に出現したとき、狙いは如月さんだけでしたから、
彼女さえ飲み込めれば、施設を破壊する必要はありません。
逢魔に如月さんが飲み込まれ消えてしまえば、結果的に︱︱紅さ
んが戦わなければいけない場面が増えますから︱︱引退は先送りに
なるでしょう。
最後に、空亡の件です。空亡の復活は、意図ではなかったかもし
れません。ですが、空亡の波動をいち早く察知したある人物は、僕
が如月さんにかけた情報操作の魔法の一部を解除しました。それに
より、如月さんが思いを寄せていた人物の記憶を辿り、空亡が入り
込んだ倉田くんの家に向かわせたのです。実際に、如月さんが倉田
くんの家に行くかどうかは、賭のような確率だったかもしれません。
ですがもし向かわなかったとしても、最悪、そこに向かうよう仕向
けることが、その人物にはできました。
如月さんが空亡と単独で戦った結果、残念ながら、我々は如月さ
んを失うこととなってしまい、何者かの目論見通り、紅さんが空亡
を討伐する結果となってしまいました。まさに我々は、その人物の
手の上で転がされていたんです﹂
﹁転がされていたのは、あたしだけどね﹂
鈴木の言葉に、彩芽が反応した。
﹁結局、最後まであたしはそれがわかんなかった。如月にあたしは、
なにもしてやれなかった。もし完璧な状態で結界が張られていて、
初めからあたしが横で如月をサポートしていたら、如月は単独で空
亡に勝てたかもしれないのに。
166
ねえ、鈴木。あんた、どうして如月を一人で戦わせたりなんかし
たのよ﹂
背後で聡美が息を呑んだ音が響いた。
﹁⋮⋮それは。僕の、判断ミスです﹂
﹁だから、ミスをした原因はなんだってあたしは聞いてるの﹂
有無を言わさぬ口調で彩芽が問い詰める。
﹁いまの如月さんなら、もしかしたら、と期待したからでしょうか。
あと、これは責任転嫁ではないと断っておきますが、紅さんが事務
所を辞めると言った手前、僕は如月さんを早く一人前の魔法少女に
成長させなければいけませんでした。横で紅さんが指示した甲斐が
あり、如月さんはみるみる成長して、もし、空亡が一人で倒せたな
ら、僕は如月さんと一緒に胸を張って、紅さんを送り出すことがで
きると、そう、思っていたんです⋮⋮﹂
それは、ただの思い上がりだ。二十歳のときに既に最強の魔法少
女と謳われた彩芽でさえ、空亡との一度目の対戦時は、複数の魔法
少女と共闘し、死闘の末に勝利を勝ち取ったのだ。いくら彩芽も認
める才能がある如月とはいっても、初見で空亡を倒せるわけがない。
﹁まあ、その件については力を出し惜しみしたあたしにも責任はあ
るから、強くは言わないけど﹂
あのとき、すぐに小夜衣を展開していれば、こういう結果にはな
らなかったのかもしれない。そう、彩芽も深く反省している。
﹁あたしが許せないのは、せっかく生き延びた如月を、意図的に殺
した︱︱空亡に魔力を奪わせた奴がいるってこと﹂
彩芽は体内の魔力を高めて、問う。
﹁結界は、張った人間が展開を辞めるか、魔力が尽きるか、その結
界を意識できる人間でなければ絶対に破れない。けど空亡から逃げ
伸びたとき、あたしの目の前で結界がなんの前触れもなく突然割れ
た。これはもう、誰かがそう仕向けなければあり得ないことなのよ。
一体、どうして如月を殺したのよ。高瀬川!﹂
高瀬川の活性化されていた魔力が消える。しかし、内在された高
167
圧的な雰囲気は逆に社長室に充ち満ちていく。
﹁なんで? なにを馬鹿なことを。紅くんが必要だからに決まって
いるじゃないか。君が事務所に居てくれるなら、誰が死のうが安い
ものだ﹂
﹁あんた⋮⋮、人の命をなんだと思ってるのよ!﹂
﹁君こそ、人間の命をどう考えている。如月くんが空亡を倒せない
ことは、今回証明されただろう。もし君が言うように、如月くんを
攻撃部隊の中心に据えて空亡との大規模戦闘を行った場合、どれほ
ど壊滅的な状況になっていたことか。それで作戦が失敗し、結界が
破れて空亡が現実に影響を及ぼした場合、何人の一般人が犠牲にな
るか。それを考えると、如月くん一人の命で、何人もの人間の命が
救われたといえる﹂
﹁それは詭弁よ。如月を殺さなくても、空亡を倒すことくらいでき
た︱︱﹂
﹁そんなのは遣ってみなければわからない。わからないことを、君
はどうして出来たと言える?﹂
﹁それはあたしの経験よ﹂
﹁経験は推測であり理論ではない﹂
﹁けど︱︱﹂
﹁それに、君は知っているか? この事務所がどう運営しているの
かを。金は空から振ってくるわけじゃない。我々が営業をし、企業
に安全を売り出すことで収益を得ている。その収益を得られる理由
の多くは君のネームバリュだ。何度も日本の危機を救ってきた紅彩
芽という存在。それがうちの事務所に居るということこそが、信頼
に繋がり、企業が高額のギャランティを支払う理由になっている。
﹃紅彩芽は引退しますので、これからは新人の魔法少女が世界を救
います﹄といって、金を払う企業がどれだけ残ると思う? 紅くん
の言いたいことはわかるが、これは経営的判断なんだ﹂
経営するためにはお金が必要で、企業に安全を売るためには信頼
が必要。高瀬川の理屈は理解できる。だが、それが正しいとは彩芽
168
には決して思えなかった。
﹁なんか、経営的判断なんて高尚なこと言ってるけどさ、現状は沢
山の管が繋がれた患者と同じじゃない﹂
それまで高瀬川の首輪と、事態の行く末に怯え泣いていた聡美が
口を開いた。
﹁なに?﹂
﹁彩芽さえいればお金が入ってくる? 管が繋がれていれば心臓が
動く患者と同じじゃない。それが正常だと、本気で考えてるの?﹂
﹁正常に決まってる。なぜなら会社は収益を︱︱﹂
﹁社長はいまだけお金が入ればいいんでしょう? けど、彩芽が居
なくなったらどうするつもりなの? まさか彩芽が永遠に生きられ
ると思ってるわけ?﹂
﹁そんなわけないだろう﹂
﹁じゃあ彩芽が居なくなったその後はどうするのよ﹂
﹁使える新人をスカウトする﹂
﹁それが如月だったって言ってるのよ﹂聡美はあきれ果てるような、
擦過音混じりの声を発した。﹁後続を育成せずにスター選手ばかり
使い続けたら、そのスター選手が居なくなったとき、バランスが大
きく崩れるに決まってるじゃない。私は経営に詳しいわけじゃない
けど、経営に詳しくなくてもその程度のことは簡単に判るわ﹂
﹁経営的判断はそんなに簡単なものではない!﹂
﹁その割りに、彩芽の次の世代が育っていないようだけど?﹂
聡美が言うことは最もだ。彩芽の次を担う魔法少女は、この事務
所にいない。少なくとも、中級レベルの悪魔を一人で撃退できる程
度の力がある魔法少女はいる。しかし、上級以上の悪魔が出現した
ら、彩芽以外には手に負えなくなってしまう。
新人で︵しかも初戦で︶上級悪魔相手をあと一歩まで追い詰めた
如月が、中級悪魔に手一杯になってしまう魔法少女しかいない事務
所にとってどれほどの逸材だったことか⋮⋮。もし彼女にそれほど
の才能がなければ、彩芽は育成を担当のマネージャ任せにしていた
169
だろう。厳しい状況に無理矢理送り込みはしたが、彼女の才能に薄
々気がついていたからこそ、彩芽は自らが傍につき、戦闘を見守っ
ていたのだ。
﹁だからこそ、紅くんにはいま辞めないでもらいたいんだ!﹂
﹁じゃあ、どうして世代交代を進めないのよ?﹂
﹁それは会社の信頼の問題だ﹂
﹁身内を進んで殺すような会社が、信頼を得られると思ってるの?﹂
﹁そんなものは、他社にはわかるわけないだろう﹂
﹁誰かがばらしたらどうするのよ﹂
﹁それを誰が信じる?﹂
﹁彩芽の言葉でも疑うと思う?﹂
﹁⋮⋮﹂高瀬川が押し黙った。
﹁社長っていう職にあぐらを掻いて、穴だらけの理論でも一喝すれ
ばみんな黙るって思っていたら大間違いよ? 人間に貴賤はない。
社長だから偉いというわけでもなければ、正しい判断ができるとい
うわけでもない。社長の指示でも、誤りがあれば人は従わない。そ
れを、私は子育てで知ったわ。子どもが生まれて、私は大人なのに
いっつも子どもに教えられてばっかりいる。間違った対応をしたと
きは凹むし、子どもはそれを敏感に感じ取って言うことを聞いてく
れないし、間違ったら次には改めようって決意する。大人になった
って、間違えることはある。その間違いの指摘を、子どもや、部下
にされたから、相手がいうことを聞かない性質の人間だって言い訳
をしてはねのけてばかりいたら、成長なんてできない。そして、誤
りを受け入れなければ、いずれ指揮系統は崩壊する。自らの間違い
を認めること、その間違いを次に生かすことで、会社というものは
人間と同じように成長し、健全さを保てるんじゃないかしら?﹂
口を堅く結んだ高瀬川からの無言の圧力が強まる。もの言わぬ高
瀬川にさらに言葉を続けようとした聡美を、彩芽は手を翳して押し
止める。
﹁三人とも、同意見なのか?﹂
170
﹁⋮⋮ええ、そうね﹂
高瀬川の言葉に、彩芽が代表して答えた。
﹁っふ⋮⋮。最近の若者は目上の人間に対して礼儀がなってない。
まったく、困ったもんだ﹂
﹁礼儀の本質を忘れた年寄りが多くなって、若者も困ってるのよ﹂
聡美の言葉に彩芽が続ける。
﹁まったくね。礼儀を知らない人間に、尽くす礼儀はないわ﹂
﹁いままで自由に働かせて、金までくれてやってたのに。生意気を
言うな!﹂
﹁上の人間は金を使って人が動かせるってだけ。無条件に敬われる
と思ったら大間違いよ﹂
﹁貴様を育てたのはこの会社だ!﹂
﹁育ててやったから感謝しろって? 感謝は求めるものじゃない。
示すものよ。求めた時点で感謝は作法に成り下がる。感謝に心はあ
るけど、作法に心はないわ。あたしよりも年上で、社長ができるほ
ど横の繋がりがあるのに、そんなことも知らないの?﹂
高瀬川が顔を赤く染めて机に拳を振り下ろした。魔力の籠もった
拳が机を粉々に砕いた。
﹁じゃあなにか? お前は空亡がこの世界で暴れても良かったって
いうのか?﹂
﹁誰がそんなことを言ったのよ? あたしはあんたが如月を殺した
ことについて話してるのよ﹂
﹁如月はあのとき空亡を倒せなかった。結局空亡を倒したのはお前
だろう?﹂
﹁そうだけど﹂
﹁如月が死んだおかげでお前が戦ったんだ。如月を殺してなにが悪
い?﹂
﹁悪いに決まってるでしょ!﹂
﹁じゃあ如月は空亡を倒せたのか?﹂
﹁倒せた可能性はあるっての﹂
171
﹁あのとき如月は空亡と戦って負けただろう!﹂
ダメだ。なにを言っても聞く耳を持たない。おまけに論点がズレ
ている。
鈴木が涼しい顔をして手を叩いた。
﹁まあまあ、紅さん。ムキになっても仕方ありません﹂鈴木は高瀬
川に振り返る。﹁社長、これは如月さんの遺品です。ご存じありま
すか?﹂
鈴木が胸ポケットから出したものは、カタカナの﹃プ﹄。それは
あの、ショッピングモールで落ちたものと同じ。内包されている魔
力の低減により状態が変化しているが、紛れもなくあのときと同じ
﹃プ﹄だった。
﹁そんなものは知らん﹂
﹁そうですか。では説明いたします。こちらは如月さんの初期の魔
法の残骸です。自分がネットにアップしたポエムに魔力を送ること
で、それを具現化します。それを相手にぶつける攻撃魔法でした。
子どもというものは、実に気恥ずかしいことを平気でするものです。
僕も昔はそうでした。いまは昔と違って、そういう恥ずかしい記録
が簡単に消去できます。ポエムも、ボタン一つで消えてなくなりま
す。羨ましい限りです。ただ、リセット症候群というものを煩って
いる子どもも多いようです。人間関係がうまくいかなかったら、一
度消去して、初めからやり直せばいいという考え方ですね。良いか
悪いかは別として、思い出したくない記憶が残らないという部分は
素敵だと、僕は考えています﹂
鈴木がなんの話をしているのか、彩芽にも見当が付かなかった。
しかし、その鈴木の内部から感じられるのは、抑揚の乏しい声とは
裏腹な、煮えたぎるような魔力。
鈴木が小さな﹃プ﹄を乗せた手の平を前に翳す。その瞬間、﹃プ﹄
は音もなく消えた。
﹁悪魔には昔から、通常の物理攻撃は効きません。拳銃で撃っても
爆弾を落しても、悪魔には一切ダメージが通りません。紅さんは重
172
火器でよく悪魔を打ち抜いていますが、あれは具現化した弾丸に魔
力を込めていますので、悪魔にダメージを与えられます。如月さん
のそれも、ただ文字を具現化しただけでは、結局のところ物理攻撃
となるためダメージは通りません。しかし、上級悪魔であるイーリ
スに、その魔法でダメージを与えました。⋮⋮どうやら、もうお気
づきのようですね﹂
突然、高瀬川の顔が青ざめた。口を何度も開閉させ、しかし言葉
は出てこない。
ふと、彩芽も自分の首にあった違和感が消失していることに気が
ついた。
﹁如月さんが具現化した文字には、ある魔法が組み込まれていまし
た。それは、分解消去です﹂
分解消去。魔法の中では比較的難しい部類に入るが、かといって
特別難易度が高いわけでもない。相性が合えばすぐにでも習得でき
る魔法だ。
﹁さてここで問題です。僕が先ほど手にしていた﹃プ﹄ですが、ど
こへ消えたでしょう?﹂
﹁き、貴様⋮⋮﹂
その行く末に気付いているのだろう、高瀬川が歯ぎしりする。
﹁聡美さん﹂鈴木が鋭く言い放つ。﹁結界形成を。範囲はこの事務
所だけで良いです。ただし、精度は最高を維持してください﹂
﹁だ、だけど︱︱﹂
﹁いえ。もう、出来るはずですよ﹂
﹁え? ⋮⋮あっ!﹂
首を傾げ、それでも鈴木の言葉に従った聡美は、自分から広がっ
た結界に目を丸くした。つまり、それがどういうことを意味してい
るか? 聡美は完全に気付いたようだった。
聡美が展開した結界は空亡のときよりも範囲が狭い分、内包する
魔力の密度が高められている。
大量の魔力が体に流れ込み、彩芽の体を熱くする。
173
﹁紅さん。あとはお願いします﹂鈴木が彩芽に近づき、耳元で囁い
た。﹁どうか、お気をつけて﹂
言葉とは別の意味合いを含めたその口ぶりに、彩芽ははっとした。
鈴木は、気付いていたのか⋮⋮。
鈴木と聡美が同時に消えたことを認識し、彩芽は前に進み出る。
先ほどまでは過去に罪を犯した魔法少女から奪った魔力を、威圧
的に放出していた高瀬川が、いまでは暖炉の前の猫のようにおとな
しい。おそらく鈴木は既に、ティーンズ・マジック内の魔術回路を
掌握したのだろう。空亡との戦闘のとき、魔法少女より内在する魔
力の総量の低い男性が、何度も転移魔法を使えていたのは、このテ
ィーンズ・マジックの魔力回路から魔力供給を得ていたからに違い
ない。そして﹃プ﹄は高瀬川の魔法を掌握するための、最後の一手
だったのだろう。聡美が結界を展開できたことが、鈴木の作戦が成
功したなによりの証左である。
握った拳をボキボキと鳴らしながら、彩芽は口を開く。
﹁さて、最後に言うことはある?﹂
﹁ちょ、ちょっと待ってくれ! 話し、話し合おうじゃないか﹂
先ほどの魔力は見る影もない。身に余るほどの魔力を帯びた高瀬
川は、その魔力の拡散を防ぐので精一杯なのだろう。額に脂汗を浮
かべ、己のさらに何倍も多く魔力を保有している彩芽から必至に遠
ざかろうと背中で壁を押す。
﹁話し合えばわかる? そう。そうかもしれなかった。あんたが一
言相談してくれていれば、いまごろ如月は死なずに、あたしと一緒
に空亡を倒していたかもしれない。あたしはティーンズ・マジック
に在籍しつつ、新人育成に携わっていたかもしれないし、如月はあ
たしの代わりにスタープレイヤになっていたかもしれない。そのチ
ャンスを、あんたは永遠に失っているんだよ﹂
そのとき、足下に転がっていた文鎮に彩芽が躓いた。先ほど高瀬
川が投げつけて、鈴木が躱した文鎮だ。
彩芽は僅かに体勢を崩した。
174
その瞬間、高瀬川が動いた。
高瀬川の手の平から高圧の魔力が吹き出した。
おそらく己の持てる最高の魔法での攻撃だ。
彩芽は彼の魔法の威力も効力も知らない。
効力のわからない魔法は避けるのが鉄則だが、彩芽は避けられな
かった。なぜならば彩芽は空亡を倒して以来、その目に光が届かな
くなっていたから⋮⋮。
目が見えないのは、空亡の攻撃のせいじゃない。夢を、その身に
宿し続けたからだ。
兆候は昔からあった。若いころは、対戦での疲れだと、さほど深
刻に考えていなかった。事実、眠れば体は回復する。しかし年を取
るに従って、体の異常は彩芽を深刻にさせていった。おそらく視力
の喪失は一時的なもので、二・三日もすれば視力は完全に戻るだろ
う。しかし、今後はわからない。もしかしたら今回は、元に戻らな
いかもしれない。そういう不安を、彩芽は常に抱え、戦っていた。
社長の魔力が赤黒く変色し、社長室全体を覆い尽くした。
﹁これでおしまいだ。全部おしまいだぁぁぁ!﹂
おしまいとは、彩芽の命か己の命か、はたまた事務所の未来か。
そのいずれもだろう。まったく、世迷い言を。彩芽は激しい魔力の
本流の中で、小さく息を吐いた。
﹁誤った判断に異を唱える者は、たとえ人でも殺してしまえ。なる
ほど。社長のお考えは、よく判りました﹂
高瀬川の魔法の本流の中で、さもなく彩芽は呟いた。
魔法は長くは続かなかった。全力を投じた魔法に晒されたにもか
かわらず傷一つ負っていない彩芽を見るなり、高瀬川は腰を抜かし
た。
﹁ど、どうして⋮⋮﹂
﹁聞かなきゃわからないの?﹂彩芽は深いため息をついた。﹁あん
た、目が見えるんでしょ? まわりを見てみなよ。傷一つついてな
いのは、あたしだけじゃないでしょ﹂
175
高瀬川の魔法に晒されたのは、彩芽だけではない。社長室全体が
魔法の影響かであり、その勢いは事務所全体に及んでいただろう。
その効果が現れていれば、の話しだが⋮⋮。
﹁さっき、鈴木が如月の遺品をどっかに飛ばしたでしょ。それ、い
まあんたの中にあるんだよ﹂
﹁︱︱っ!﹂
高瀬川が声にならぬ声を上げ、自らの胸元に視線を落した。
﹁如月のポエムの魔法には重要な効果があった﹂
そのことに思い至ったのは、鈴木の分解消去って言葉だった。
﹁思い返してみると、如月がイーリスと戦っているとき、あたしの
結界が妙なほつれ方をしたのよ。あれは丁度、上から﹃プ﹄が落ち
てきたときだった。そのときは気付かなかったけど、よくよく考え
てみると、あの文字には触れたものの魔法を分解する効果があった
のかもしれない。そう仮定すると、今回あんたの魔法が効果を発揮
しなかったことに説明がつく。あんたの中に埋め込まれた﹃プ﹄が、
あんたの魔法の一切を分解したのよ。ほとんど魔力の籠もっていな
い文字だったから、効果は限定的だったみたいだけどね﹂
﹁俺の、魔法が⋮⋮俺の、魔力が⋮⋮﹂
高瀬川は絶句する。それも、仕方のないことだろう。膨大な魔力
を用いて放った魔法が、相手にダメージを与えることがなく、あま
つさえ効力を発揮していなかったのだから。
気の抜けた高瀬川を前にして、彩芽は体内の魔力を、全身全霊を
込めて高めた。
出し惜しみはしない。
この一撃で、すべてを終わらせる。
彩芽が背筋をしゃんと伸ばすと、部屋の雰囲気が張り詰めた。
﹁魔法少女が守るのは、あんたのプライドなんかじゃない。あたし
が守りたいものは、会社の信用なんかじゃない。一人の命を贄にし
て、多くの人の命を救う。それが最善だなんて言っちゃ、魔法少女
の名が廃る。誰も見捨てず、どんな人間でも救い、悪魔を倒す。そ
176
れが魔法少女の真の生き様。それこそが、あたしの願い。夢だった
⋮⋮﹂
全身に魔力を通わせて、祈るように、目を瞑る。
﹁人を救うために、人を殺しても良い。そんなことを言う事務所に
仁義はない!﹂
一歩前に踏み出して、彩芽は軽く顎を引いた。
﹁社長、あたし事務所を︱︱魔法少女を辞めます﹂
﹁は⋮⋮﹂
高瀬川は、いきなりなにを言い出すのだ?とでも言いたげな表情
になった。
﹁す、好きにしろ。もう、お前みたいな奴は事務所にいらん!﹂
﹁そうですか。それでは、これはいままでのお礼です﹂
彩芽は体内の魔力を高めて、謳う。
日つ、風つ︱︱。
彩芽の言葉で、高瀬川の顔が蒼白に変化した。
﹁やめろ、それだけは辞めてくれ!﹂
人にて結した︿天地数歌﹀は、高瀬川の声ではもう止らない。
﹁思い人を失い、記憶を失い、再び記憶が戻ったときにはすべてが
消え失せ、捨てるために使われ、殺された少女の、夢の重みを知り
なさい!﹂
発動した︿天地数歌﹀が、事務所内部を白く染め上げた。
その白さだけがやっと、暗闇に閉ざされた彩芽の網膜に届いた。
その中に、彩芽は一人の少女を見た。
少女は漆黒の空を見上げていた
少女は、空を舞いながら戦う女性を見つめていた。
女性が地面を見下ろしたとき、
少女は、笑顔で手を振った。
177
終章
ちゃちなプレハブ小屋のような一階建ての建物に、彩芽は足を踏
み入れる。内部はまだ閑散としていて、備品は限りなく少ない。あ
るのはテーブルと椅子。それに、近所の家電量販店で購入した激安
のコーヒーメーカーだけである。
﹁おはようございます﹂
建物に入ってすぐ鈴木が彩芽に挨拶をした。平面的な広さはそこ
そこあるが、壁もパーテションがないため、ちょっとしたダンスホ
ールのようでもあるそこは、彩芽の新しい仕事先だった。
空亡を浄化したその日、彩芽はティーンズ・マジックの事務所を
破壊した。ティーンズ・マジックの社長である高瀬川には結局、彩
芽は指一本触れることができなかった。
彩芽はあのとき、高瀬川を殺すつもりで︿天地数歌﹀を放った。
しかし、目が見えなかった彩芽は狙いを違えて、事務所の床にそれ
をぶつけてしまったのだ。
︿天地数歌﹀は通常、魔法の素養のある人間かあるいは悪魔にしか
効果はない。だが、事務所の床に叩き付けられた︿天地数歌﹀は、
無機質なコンクリートに当たり、術式を展開させ、事務所を一瞬に
て消し去ってしまった。おそらく、事務所全体が魔術的性質を帯び
ていたため、︿天地数歌﹀がそのように反応したのだろう。強力な
魔法少女を抑えるための魔術を身につけるために、非力な魔法使い
の高瀬川は、事務所全体を巨大な魔術回路にしたてあげたのだ。
その後、高瀬川がどこに行ったのかは、彩芽は知らない。彩芽の
︿天地数歌﹀に巻き込まれて崩壊してしまったのかもしれないし、
あるいはその前に、鈴木が高瀬川をどこか遠くに転移させたのかも
しれない。
いずれにせよ、高瀬川の行く末を彩芽は知らない。知るつもりも
ない。どうせ、高瀬川の最大の武器たる魔術回路は消滅した。首輪
178
の魔術も、もう二度と使えないはずだ。彼に残されたのはおそらく
自らの家と預金通帳の残高だけだろう。実質、彩芽らに手出しでき
ないに等しい。
彩芽らは高瀬川を事務所から追い出し、事務所を継ぐような形で、
彩芽らは新しい事務所を立ち上げた。
﹁もしこのまま同じ仕事を続けたいなら、残って欲しい﹂
事務所の解散を宣言したあと、集まった社員に彩芽はそう告げた。
社長に対して反旗を翻した彩芽は、いわば戦犯のようなものだ。
付いてくる人間が半分もいるとは考えていなかった。しかし彩芽の
予想に反して、ティーンズ・マジックの社員のほとんど︱︱念話班、
結界班、諜報部、営業部、経理部、そして魔法少女の計三十九名中、
三十四名が、彩芽らに付いてきた。彼らは必ずしも彩芽らの行動に
納得したわけではない。単純に、いま仕事を失いたくないという考
えによるものだろう。そう彩芽は予想する。とはいえ、もしこれが
ただの人間であれば、乗るのは泥舟であり、これほどの人数は集ま
らなかっただろう。新しい事務所の先頭に立っているのが紅彩芽だ
ったからこそだ。そういう意味では、彩芽は信頼されているのかも
しれない。
とはいえ現状は、かなり切迫している。彩芽が会社を吹き飛ばし
たとき、会社にある書類がすべて消えてしまったせいで経理面︱︱
主に運営資金に苦しんでいた。帳簿がないことも頭痛の種だ。新し
く立ち上げた会社のように世間には振る舞っているが、監査が入れ
ば元々の会社から屋号を変えただけだとばれてしまう。
まったく。自分が税務監査に怯える日が来るとは⋮⋮。社長室︵
正確には部屋ではない︶を抜けて、彩芽は小さくため息をついた。
事務所の一番奥までやってきた彩芽は脱いだジャケットをハンガ
ーにかけて、座席に腰を下ろした。昨日までは更地だったはずの机
に、新たな書類の山が生まれていてうんざりする。
如月を救出しに行くあのとき、履歴書を破った信念は、こうして
貫くことができた。だが、こうも毎日事務処理︱︱それもいままで
179
経験したことのない確認作業ばかりさせられると、貫いた信念が溶
けて無くなりそうだ。
去年の帳簿を復元した書類に目を通しながら、判を押す。その作
業がどれほど続いたことか。いま何月まで来たのだろう? あと何
年分やればいい? 想像するだけでうんざりする。
﹁おはようございまぁす﹂
事務所の入口から、あまったるい声が聞こえて目を遣る。そこに
は最近入所したばかりの新人魔法少女が立っていた。黒い髪の毛を
後ろで縛り、入念にクシ仕入れしたサイドテールが耳の傍で揺れる。
セーラー服姿の彼女に、一瞬男性社員のほとんどが見とれた。
そのとき︱︱エースピッチャーのストレートがキャッチャーミッ
トに吸い込まれるときのような、承認判を押す音が緩んだ空気を引
き裂いた。
﹁おはよう﹂
一声、彩芽は少女に挨拶をして、粛々と書類に判を押す。体から
にじみ出る赤いオーラに、男性社員はみるみる青ざめ、仕事を再会
する。
彩芽の怒りの判押しに、女性社員全員が無言で頷きあった。
﹁今日も元気ですね﹂
椅子を動かして、鈴木は彩芽に声をかけた。
﹁うるさい。仕事しなさい﹂
鈴木と彩芽はほとんど隣同士のような位置関係になっている。事
務所を立ち上げたばかりのころは、自腹でパーテションを立てよう
と半ば本気で考えていたが、事務所の扉を開く社員を見ているうち
に、その考えもなくなった。
自分の事務所、自分の社員。そこにおごりはなく、誇りとして、
この人達を守っていきたい。そういう思いに、一人一人の顔が厚み
を持たせている。
鈴木の顔はあまり見たくないが、しばらくはこのままでいいだろ
う。
180
鈴木の仕事は新人の確保と営業部のサポートを行っている。彩芽
は魔法少女の人材確保はできないし、営業などやったこともない。
鈴木がそのポジションに収まるのは自然な成り行きだった。
半ば道連れにした聡美も、事務所の重役としての席に座っている。
とはいえ事務所に居る時間は彩芽ほど長くない。ほとんどの時間を
彼女は新人育成のために使用している。今日もいまごろどこかで結
界を張り、新人に魔法の訓練をさせていることだろう。
突然、情報部の動きが慌ただしくなった。
﹁どうしたの?﹂
声を張って尋ねると、情報部のリーダーが彩芽を振り返った。
﹁製薬会社の敷地内に悪魔出現の兆候を確認いたしました﹂
﹁オーケィ﹂
彩芽は立ち上がり、ハンガーにかけたジャケットを手にした。
﹁紅さん。どこへ行くんですか﹂
どこへ行くのか? わかりきった質問をあえてぶつけてくるとこ
ろに、鈴木の批難が現れている。そんなことよりも、仕事をしろと
言いたいのだろう。しかし彩芽は彼の批難を鼻息で吹き飛ばす。
﹁結界師の準備はできてるの?﹂
﹁できてますけど⋮⋮﹂
﹁それじゃあ、行きますか﹂
ジャケットを羽織って彩芽は、先ほど姿を見せた新人魔法少女を
手で呼び寄せる。
﹁あなた。戦闘経験はあるの?﹂
﹁ひ、い、いえ。ありません﹂
彩芽に声をかけられた少女が、身を縮こまらせた。
いきなりプレッシャーかけないで。かわいそうだ! という男性
社員たちを殺意の視線で黙らせる。
﹁今回が初めてってわけね。それじゃあ、付いてきて。悪魔との戦
い方を教えてあげるから﹂
どこまでも苛烈に、それでいて淫靡に微笑する。彩芽の笑みを受
181
けて、少女が顔を引きつらせた。
﹁それじゃ一発。ぶちかましにいきますか!﹂
事務処理への鬱憤を晴らすよう、彩芽は高らかに宣言した。
新事務所﹃ティーンズ☆マジック﹄会長。
紅彩芽は本日も、なんだかんだで魔法少女を続けている。
182
序章
初体験はなんだって特別である。
彩芽はその日のためにいくつもの情報誌を読みあさり、ネットで
体験談を収集し続けたのは、初めての体験に向けての並々ならぬ意
気込みがあったからである。
一回目は決して失敗できない。
彩芽の誕生日から五ヶ月遅れ、聡美の年齢が一つ加算されると同
時に、彩芽は作戦を実行に移した。
紅彩芽。
袰月聡美。
互いに二十歳を超えたとき、二人は時間をかけて選び抜いた一件
のお店に踏み込んだ。
︿居酒屋・昼行灯﹀
豊富な品揃え︱︱特に酒の種類が他の店舗よりも何倍も多いこと
を決め手に選んだお店は、店内に足を踏み入れた瞬間から、二人の
心を鷲づかみにした。
鼻孔をくぐり抜ける香ばしい焼き鳥の香りと、それに僅かに混じ
る酒の香り。店内の照明は暖かみのあるオレンジで、若干薄暗い。
なかでも古民家風の内装に、彩芽は心を惹かれた。梁や手すりが自
然の樹木を成形せずに用いた若干曲がったもので、そこからは人工
的直線木からは決して得られない、自然の優しい温もりが感じられ
る。
ボックス席に通された二人は、互いに視線を合わせ、頷きあった。
ここは、当たりだ。
その予感は外れることなく、初めて口にした酒は驚くほど美味か
ろくめいのうたげ
った。日本酒の芳醇な香りとのど越しに、彩芽は酔いしれる。
特に彩芽が気に入ったのは日本酒の﹃鹿鳴之宴﹄だった。メニュ
ー表に﹃幻﹄と書いてあるだけあり、値段は目が飛び出るくらいに
183
高い。しかし、金はある。今日、この日のためだけにお金をずっと
蓄えてきたのだ。値段にビビっていてはもったいない。
﹁すみません、これ下さい﹂
彩芽は気前よく、その理性が許す限り﹃鹿鳴之宴﹄を注文し続け
た。
いくつかの酒を飲み比べた聡美は、最終的に﹃久保田萬壽﹄を繰
り返し注文するようになった。どうやらその酒が気に入ったらしい。
砂漠を幾日も彷徨いやっとの思いでオアシスを見つけた冒険者の
如く、彩芽と聡美はお気に入りの日本酒を勢いよく飲み続け、そし
て、あっさり潰れた。
男性の店員が注文を取りに来るとき、決まって視線が明後日の方
へ泳ぐ。それはブラウスのボタンを三つも外し、完全に露出したブ
ラを見ないようにとの配慮ではない。ぐでんぐでんに酔っ払った二
人の獣を見たくないだけである。
十の徳利が割れ、二十の箸が折れたとき、頭の座らぬ二人が同時
に、マーライオンへと変貌し、宴は終焉を迎えた。
その日の出来事を振り返るとき、彩芽はきまって自殺したくなる
衝動に駆られてしまう。どうしてその日の出来事を綺麗さっぱり忘
れられなかったのだろう? これもすべて、身に余るほどの魔力の
影響だ。こんなもの、なければいまごろすべてを忘れて、取調室で
すべてを自白した容疑者の如く、楽になることができたのに。
そのお店からどうやって自宅に戻ったか? 彩芽も聡美も記憶が
定かではない。気付いたときには二人とも、一糸纏わぬ姿で彩芽の
部屋の床に寝そべっていた。その日着ていた服は、未だに見つかっ
ていない。
いったいどこで服を失ったんだ? 初体験のためにあつらえた、
割と値の張る服ではあったが、探す気がまったく起こらない。
彩芽と聡美の二十歳の宴は、こうして厄災へと代わり、死ぬまで
彼女らを苦しめる記憶となった。
184
第1章 紅彩芽、夢を見失います。
致命傷を負った彩芽が、心を蘇生させるためには一ヶ月という時
間が必要だった。ときおり思い出したように近所のスーパーに買い
物に行く以外、彩芽は一歩も外へは出なかった。
人の噂も七十九日。それだけの時が過ぎれば、裸で外を歩き回っ
ていた二人の女性の噂が︵噂が流れているという可能性が彩芽の中
で、事実として一人歩きをしていた︶囁かれなくなる。そう本気で
考えていたのかもしれない。彩芽はひたすら自室に籠もり、過去の
自分を消しにかかる。
しかし、彩芽の元にかかってきた一本の電話が、彼女の必死の過
去消去作戦を中断させてしまう。
一ヶ月ぶりに顔を出した事務所は、以前となにも変ってはいなか
った。そもそも一ヶ月でなにかが変るわけではないのだが、誰かが
彩芽の所行を噂として入手しているかもしれない︱︱と考えると、
どうにもおっかなびっくりの入室となってしまった。
﹁お久しぶりです、紅さん﹂
一番に声をかけてきたのは、がりがりメガネの鈴木だった。紺色
のスーツに髪の毛を軽く後ろに流している。メガネの形もなにもか
も、変ったところはない。だが、彩芽の目には彼のどこかが変った
ように見える。
﹁久しぶり。それで、用ってなによ?﹂
変った箇所がどこなのか考えながら、彩芽はぶっきらぼうな口調
で聞いた。
﹁実は、そろそろ大規模戦闘が起りそうなんです﹂
﹁ふぅん。それで?﹂
﹁その陣頭指揮を、紅さんに頼みたいのですが﹂
﹁今回はパス﹂
185
彩芽の、あまりに早い解答に鈴木は目を丸くした。
﹁ええと⋮⋮どうしてでしょう?﹂
﹁いっつもあたしが指揮してるじゃない﹂彩芽は革張りのソファに
腰を下ろし、鈴木の瞳をまっすぐに見つめた。﹁あたしはべつに指
揮してもいいけど、それで他の魔法少女が育つの? まだあたしは
現役のつもりだけど、いつ死んでもおかしくない年齢になってるの
よ﹂
結婚か死か。約九十五パーセントの魔法少女が、そのいずれかの
イベントを、二十歳前に経験する。
彩芽はいつ死んでもおかしくない状況に身を投じている。自分以
外の替えがないことは誇りに思うが、彩芽が倒れれば事務所が潰れ
るような状況は、絶対に避けるべきである。
﹁ただの前衛攻撃役じゃだめなの?﹂
﹁今回の相手は神話級ですので、一攻撃役より指揮官のほうが相応
しいかと思いまして﹂
﹁神話級⋮⋮﹂
彩芽の口から水分が逃げ出した。
彩芽は過去に一度、神話級の悪魔と対戦しているが、その記憶を
呼び覚ますと、いま自分が生きているのが不思議で仕方がない。
神話級の悪魔と対戦に比べると、ゴキブリが自分の顔めがけて飛
んでくる状況など恐れるに足らない。可愛らしいとさえ思えるほど
あかつき
だ。
﹁暁鬼以来の大物ね﹂
たしかにそれならば、事務所としては是が非でも彩芽に陣頭指揮
を願いたいところだろう。
不意に、彩芽は僅かな振動を感じた。
それはにわかに大きくなり、百人の力士がバラバラに四股を踏む
ような音とともに事務所全体が横に揺れた。
揺れはさほど大きくならず、十秒ほどで集束した。
﹁震度二っていうところかしら﹂
186
彩芽の言葉に、しかし鈴木は反応しない。手を組み、その上に顎
をのせた体勢のまま、鈴木はテーブルと自分のあいだのどこか一点
を睨んでいる。
﹁⋮⋮どうしたのよ、恐い顔をして﹂
﹁陣頭指揮を、引き受けていただけませんか? 紅さん﹂
かすかに緊張を孕んだ声に、彩芽は背筋が強ばった。反射的に引
き受けてしまいそうになるのを、ぐっと堪えて口を開く。
﹁その悪魔って、いつごろ現れる予定なの?﹂
﹁具体的には︱︱﹂
﹁まった!﹂彩芽は素早く鈴木の言葉を遮る。﹁詳しく説明しない
で。悪魔の出現が近いか遅いかだけ、答えて﹂
﹁そう遠くない未来に﹂
﹁じゃあ、あたしが指揮を執らなくてもいい形を、ぎりぎりまで考
えて﹂
﹁一応、これでも考えたんですが﹂
鈴木はあらゆる状況を考え、その上でリスクマネジメントを行う。
鈴木の言葉は、おそらく本当だろう。
﹁作戦を遂行する中で、あたしが死ぬかもしれない。そうなればど
うするのよ?﹂
﹁事務所は手痛い打撃を被るでしょうね﹂
﹁そうじゃなく﹂
﹁一応この地区はティーンズ・マジックが引き受けていますが、も
し紅さんが倒れれば、他の事務所に事態を委ねるしかありません﹂
﹁⋮⋮それでいいの?﹂
魔法少女は大企業に安全を販売している。喩えるならば警備会社
だ。他の事務所に委ねるとなると、大企業からの信頼を大きく失う
ことになるだろう。他事務所への政治的不利も予想される。
﹁これが手一杯なんです﹂
鈴木は手を広げて苦笑を浮かべた。
﹁なんとか、作戦にご協力いただけませんか?﹂
187
﹁⋮⋮できるだけ協力はする。けど、指揮は執らない﹂
鈴木の説得も空しく、彩芽は口を横に振った。彩芽の判断には鈴
木ほどの理屈はない。しかし、そう簡単に頷くことはできなかった。
彩芽が抱くかすかな不安が、彼の作戦への参加を拒否しているのだ。
﹁ごめん。指揮官には、他の子を当てて﹂
彩芽はソファから立ち上がり、鈴木を見ずに事務所を出て行った。
日常的に悪魔と戦い、大けがをし、血みどろになって勝利を勝ち
取る。このままでいいのか?と彩芽は考える。
自分は二十歳になったのだ。二十歳になっているのに、未だに後
輩がまるで育っていないのは、問題だ。
人間は不死身でない。当然、現在は最盛期といっていい能力も、
年齢とともに減衰するし、いつかは悪魔に喰い殺される。そうなっ
たとき、誰がティーンズ・マジックを引っ張っていくか?
誰が世界を︵といえば烏滸がましいが︶守っていけるだろう?
死へのかすかな不安と、その後に待つ事務所の未来を考えると、
彩芽は素直に鈴木の言葉に頷くことはできなかった。
事務所からの帰り道、彩芽は一組の男女を発見した。女性は彩芽
より年下だろう、まだ幼さの感じられる少女で、男性は三十は超え
ているように見える。
少女は怯えるように体を小さくする。その少女の手を、男性が掴
みとった。
その瞬間、彩芽は動いた。
心の臓が燃えるは一片の正義。
燃焼する感情は大量のストレス。
﹁ちょっと待ちな!﹂
男女まで三メートルと近づいたとき、彩芽は声を張り上げた。そ
の声に反応した男性が、彩芽を睨む。
﹁誰?﹂
﹁あたしが誰かは、関係ない。それよりあんたは、いま、なにをし
188
ているの?﹂
﹁なにしてるって、お前に関係ないだろ﹂
﹁か弱い少女の手を掴み、ナニをしようとしてるのか。力の劣る少
女に乱暴を働くあんたに、男として生きる資格はない!﹂
彩芽は足を踏みならし、男に鋭く睨みを利かせた。
﹁⋮⋮は?﹂
彩芽の言葉に男性は首を傾げるが、しかし彩芽はそれを無視して
近づいた。
男性は身の危険を感じたのか、少女の手を離し彩芽に向き合う。
頭一つ以上も背の高い男性の威圧感が霞むほどに、彩芽は男性を睨
み上げ、手を伸ばす。
次の瞬間。
彩芽は右手一本だけで、男性を投げ飛ばした。
日本海の荒波が浜辺に押し寄せるような音を立てて、男性は地面
を五メートルほど滑り、停止。痛みなのか驚きなのか、男性は悶絶
したまま、地面に蹲る。
﹁いまだ、逃げるよ!﹂
彩芽は少女の手を取って、来た道を走って戻った。
角を何度か折れ、息が僅かに上がったとき、彩芽はやっと足を止
めた。
﹁あなた、大丈夫だった?﹂
少女に怪我はないか。気になって振り返った彩芽は、目の前にい
る少女の顔を見るやいなや頭の中が真っ白になってしまった。
﹁⋮⋮あ、あんた﹂
二本のお下げに丸く大きなメガネ。身長は彩芽よりも高く、体は
細い。にもかかわらず、胸と腰のラインだけは彩芽よりも豊かだ。
助けた少女は、彩芽がよく知る人物だった。
くれか
なお
いる
よく知る、なんていうものじゃない。
少女は、彩芽の妹︱︱紅香だった。
﹁お久しぶりです、姉さん﹂
189
香は目を細めて口角を上げる。
彩芽が香と顔を合わせるのは、実に五年ぶりだ。最後に出会った
ときとは身長も体格も別人のようではあったが、その顔だけは昔と
ほとんど変っていない。
﹁あ、あんたなんでここにいるのよ!?﹂
﹁夏休み中ですので、姉さんに会いに来ました﹂
﹁あ、あたしに?﹂彩芽は目を丸くした。﹁会いに来てくれたのは
嬉しいけど、実家は大丈夫なの?﹂
彩芽の実家は地方のド田舎にある。徳川家より領地を頂戴して以
来、代々その土地を守り続けた︱︱所謂名家である。彩芽が家から
追放されてからは、香が唯一の紅家相続人︱︱すなわち、次期当主
となっている。
香は今年で十八歳だが、十八ともなると村の寄り合いや有力家で
の食事会などに、次期当主として積極的に参加させられるはずであ
る。夏休みとはいえ、暇ではないはずだが。
﹁大丈夫じゃありません。サボタージュです﹂
﹁サボっちゃだめでしょ⋮⋮﹂
﹁一番初めにしきたりを破った人が言っても、説得力ありませんよ﹂
過去の出来事がフラッシュバックし、彩芽の顔が苦く歪んだ。
﹁あれとサボりは別次元じゃない﹂
﹁約束を守らないという点では同じですよ﹂
たしかにその通りであるが⋮⋮。
妹の言葉に反論できない彩芽は小さく舌打ちをするしかなかった。
柔らかい相好を崩した香が、腰に手を当てて上目遣いで彩芽を睨
んだ。
﹁それよりも姉さん。その口調はどうしたんですか?﹂
﹁口調って?﹂
﹁綺麗な言葉使いにするって、以前に私と約束したはずですが﹂
ああー。彩芽の口から欠伸のような声が漏れた。たしかに、香と
そんな約束をした覚えはある。だがいまのいままで、そのことをす
190
っかり忘れてしまっていた。
﹁⋮⋮なんのことかな?﹂
この際だから忘れた振りをしよう。苦し紛れの一手は、香の指に
あっさり打ち砕かれる。
﹁姉さん。惚けないでください﹂
香は彩芽の二の腕に指を当て、強くつまみ上げた。
﹁い、痛い痛い痛い!﹂
彩芽は香の攻撃から涙目で逃れた。
﹁嘘を簡単に口にしてしまうなんて。都会での生活が姉さんを汚し
てしまったんですね。嘆かわしい限りです﹂
嘘か誠か。香は大げさに涙を拭った。
﹁そ、それより、どうしてサボってまであたしに会いに来たの?﹂
妙な雰囲気を醸しだし始めた香を現実に戻すため、彩芽は話を切
替えた。
﹁ええと、成り行きで﹂
﹁なによそれ﹂
香の解答に、彩芽は半ば本気で呆れた。
﹁冗談です。⋮⋮姉さんもおわかりでしょうけれど、村の事情に少
々疲れてしまったんです﹂
なるほど、と彩芽は内心相づちを打つ。村での生活は都会では考
えられないほど常識を逸脱する面が多々ある。
たとえ法律的人道的に正しい行動であっても、輪を外れた人間は
徹底的に排除し、家も畑も破壊する。田舎での年寄りは神であり、
神の一言が村を動かす。若者は人ではなく、純粋な労働力であり、
田畑を守るための生け贄でしかない。犬猫同然の扱いを受けた子ど
もが大人になり、老人になるころには子どもを犬猫同然に扱うよう
になる。世界が終わるまで、延々とその繰事が続くのである。
﹁それが嫌なら、あんたが変えればいいでしょうに﹂
﹁私が動いて変るのは、村の地主だけかと﹂
﹁そりゃそうか﹂
191
紅家は村の中で特別な地位を与えられてはいる。しかし、地位と
は人を動かす権利に過ぎず、人を納得させる紋所では決してない。
﹁それで、これからどうするのよ﹂
﹁姉さんの家を間借して、しばらくのあいだ羽を伸ばそうと考えて
います﹂
﹁ふぅん﹂彩芽は面白くなさそうに鼻を鳴らす。﹁もしあたしがダ
メだって言ったらどうするつもりなのよ﹂
﹁姉さんはダメなんて言わないですよ﹂
﹁なんでそう言い切れるのよ
﹁性格は昔とちっとも変っていないですもの﹂クスクスと香は鼻を
鳴らした。﹁もし私が姉さんの家を間借できなかったら、しばらく
路頭に迷うことになるでしょうね。私はあまりお金を持っていませ
んから、野宿になるかもしれません。十八歳の少女が道ばたで眠っ
ていたら、どうなることか⋮⋮。その状況を考えた姉さんが、私を
追い出すはずがありません﹂
﹁う⋮⋮﹂
たしかに、その通りである。少女が都会で野宿など、なにが起る
か想像に易い。妹をみすみす腹ぺこ狼の巣に放り出すような真似は
はできない。
﹁姉さんがいれば、私がどうなるというより、私に触れそうな男性
をどうにかしてしまいそうですけど﹂
﹁うるさい﹂
顔を赤らめて、彩芽はそっぽを向いた。隣で再び、香がクスクス
と鼻を鳴らす。
﹁それにしても、本当に姉さんは昔と変りありませんね。私が男性
に絡まれていると勘違いして、男性を投げ飛ばすところなんて特に﹂
﹁⋮⋮ん? どういうことよ﹂
一瞬にして、彩芽の血液が温度を下げた。
﹁私、あの男性に道を聞いたんですが、そのとき男性が、私の右手
の怪我に気付かれて﹂
192
そう言って、香は右手を持ち上げた。手の甲に、爪で引っ掻いた
ような痕があり、そこから僅かに血が流れ出していた。
﹁それで手を取られたんですが、そこに丁度良く姉さんが現れて⋮
⋮クスクス。本当に、姉さんはせっかちですね﹂
男性一人が無残に放り投げられてしまったことは、香はとくに気
にしていないようだったが、彩芽はそれどころではなかった。
魔力を体に通わせた彩芽にとって、それは赤子の手を捻る程度の
攻撃ではあった。しかし相手はそれだけでかなりのダメージを負っ
たはずである。
現場に戻って謝るべきか? 相手は許してくれるだろうか? 怒
られて警察に突き出されるだろうか? おろおろとする彩芽の腕を、
香が抱きかかえる。豊満な胸の谷間に腕がすっぽり包まれて、彩芽
は︵若干の羨望と嫉妬と憎しみとともに︶冷静さを取り戻した。
﹁姉さんに偶然出会えたのは幸運でした。さ、姉さん。家に案内し
てください﹂
﹁⋮⋮仕方ない﹂
彩芽は男性への謝罪を諦めて、香を家に案内することにした。
この件が、噂にならぬことを願って⋮⋮。
193
第一章 紅彩芽、夢を見失います。2
﹁都会とは、恐ろしい場所なのですね﹂
夕方になり、彩芽が作った夕食を囲んで、香が口を開いた。
﹁恐いって、なによ﹂
しっかりダシをとった味噌汁を彩芽はすする。今回作った味噌汁
は若干塩辛い部分はあるものの、満足のゆく仕上がりになっている。
花嫁修業の効果が現れて、実に嬉しい限りである。
﹁夜な夜な放浪する、悪魔のような裸の女性二人組の噂です﹂
﹁ぼふっ!﹂
彩芽は盛大に味噌汁を吹き出してしまった。
﹁姉さん、どうしたんですか?﹂
﹁い、いや。味噌汁が器官に入って﹂
けほけほとせき込む振りをして、彩芽は表情を努めて平静に保つ。
落ち着け。落ち着くんだ紅彩芽。その二人組があたしたちのこと
だって気付かれたらおしまいだぞ。
﹁そ、その噂って、どこで聞いたの?﹂
﹁交番で道を聞くときに、警察官が教えてくれました。こういう人
がいるから気をつけろって﹂
﹁そ、そう⋮⋮﹂
ただの噂ではなく、警察沙汰になってしまうとは。一生の不覚。
﹁どうして姉さんが落ち込んでいるんですか?﹂
﹁いや、落ち込んでないよ。全然落ち込んでないから!﹂
心の中で血涙を流しつつ、彩芽は首を横に振った。
﹁最近実家はどう?﹂彩芽は飛び散った味噌汁の処理をしながら尋
ねた。﹁面倒なこととか起ってない?﹂
﹁家に限っていえば、面倒事は一つもありませんね。ただ、村の纏
まりが希薄になってきてはいます﹂
﹁纏まり?﹂
194
﹁ええ﹂香は顎を引いた。﹁あれ以来、紅家への不満がいたる場所
で囁かれるようになったようです﹂
﹁あれ以来。⋮⋮あたしのせいだよね﹂
﹁姉さんのせいにしているわけではありませんよ?﹂香は慌てて言
った。﹁姉さんの責任ではありません。紅家として実力を示せてい
ないところが問題なんです。村の寄り合いなどでは、紅家の方針に
疑問を呈す家も多くなりました﹂
﹁うちの従わなくなったと。なるほどね﹂
村では地水や墾田など、紅家の許可がなければ行えない。それは
紅家が土地の管理者だから、当然のことだった。しかし現在は、ど
うやら違うらしい。
もし紅家から村人が離反するとなれば、地主としての紅家の立場
が危うい。
﹁大丈夫なの?﹂
﹁お父様が事態の収拾に努めています。ただ、状態は思わしくない
ようですね﹂
きっと、香に対する風当たりも強くなっているはずだ。
そんな状況をどう思っているか? 香は心内を口にはしない。だ
が、その表情を見れば、血の繋がった姉妹の彩芽には彼女の心が手
に取るように理解できた。
突然石を投げつけられたり、誰も口をきいてくれなくなったり。
そういう直接的な疎外には至ってないだろう。しかし、情報を遅れ
て伝えたり、伝えなかったり、姑息な手口の嫌がらせはされている
に違いない。他人を排除するという一点において、村は都会を凌駕
するものなのだ。
そういう部分に疲れたから、香はここに来たのかもしれない。
﹁香は、いまは幸せ?﹂
ワンテンポ遅れて﹁はい﹂と頷き、香は柔らかく微笑んだ。
﹁⋮⋮そう﹂
彩芽は香の内心を推し量り、口を開く。
195
﹁香は、何日くらい滞在するつもり? まさか、あたしの家にずっ
と泊まり込むわけではないんでしょ?﹂
ご飯の器を音もなくテーブルに置き、香は背筋をすっと伸ばした。
﹁夏休みが終わるまでには帰ろうとは思っていますが、何日とは、
まだ決めていません﹂
﹁早く帰らないと、父さん激怒しそうだけど﹂
﹁激怒するのは、何れにせよ同じかと﹂
﹁そりゃそうか﹂
彩芽はご飯を口に含みながら、激怒する父親を想像した。しかし
その父親の姿を、彩芽はもううまく想像することができなくなって
いた。
生まれてから十二歳になるまで、彩芽は父親に躾けられてきた。
礼儀に厳しい父親に、彩芽は何度となく叱られ、摂関を受けた。に
も関わらず、実家を離れて六年経ったいま、その記憶は既に霧状に
霞んでしまっている。あのとき感じた絶対的な恐怖さえ完全な形で
思い起こせない。
それを成長と呼ぶのか、忘却と呼ぶのか。彩芽には判断が付かな
かった。
﹁ということで姉さん。しばらくお世話になります﹂
﹁ん。わかった。ただこの部屋、一人暮らし用だから。狭いって文
句は言わないでよね?﹂
﹁たしかに、少し狭いですよね﹂
狭いという言葉で彩芽は、この部屋に通したときの香の反応を思
い出した。
﹃ここは物置ですか?﹄
いいえ。あたしの住まいです⋮⋮。
現時点での彩芽にとって、この一LDKの部屋は丁度良い広さだ
ったのだが、どうやら香にとってはそうではないらしい。実家の間
取りを考えると、たしかに都会の一LDKなど物置小屋程度の広さ
しかないに等しい。数年前に彩芽が初めて部屋を借りるとき、香と
196
同じ感想を抱いたのも確かだ。だが︱︱、
﹃姉さんがこんな場所に住んでいるなんて⋮⋮。信じられません﹄
青ざめた顔でふるふると首を横に振られては、さすがの彩芽も?
然としてしまう。広い視野を持たず、村の中の一番の豪邸で過ごし
ていたからこうなった⋮⋮というわけではないのだろう。おそらく
これは、香の性分だ。
﹁せっかくですし、広い部屋に移りませんか?﹂
だから香の性格を知っている彩芽にとって、その言葉は予想の範
疇だった。
﹁この部屋だって、家賃は馬鹿にならないほど高いのよ? これ以
上広い部屋になんて移ったら暮らせなくなる。別に、人としての最
低限度の生活ができないほど狭いわけじゃないんだから。我慢しな
さい﹂
﹁えー﹂
不満を口に溜めて、香はぷっくりと頬を膨らませた。彩芽は素早
く手を動かし、指先で頬の膨らみを突っついた。ぶふぅ、と香の唇
が震えた。
﹁あんまり贅沢言わないの。それより、当面の服は用意してるの?﹂
﹁それが。実はないんです﹂
香の発言に、彩芽はしばし呆然とした。
手荷物がないことから、そうなんじゃないかと薄々勘づいてはい
た。けど、数日宿泊する予定なのに、まさか本当になにも持ってき
ていないとは⋮⋮。
﹁姉さんに服を借りようと思ってはいたんですが⋮⋮﹂
香が意味ありげに彩芽の体を見た。
なんだ?喧嘩か?
﹁六年経ったんですから、もう少し成長していると思っていたんで
すが﹂
﹁ほっといてよ! どうせ、小六で成長止ったわよ!﹂
﹁そうでしたね。ごめんなさい。すっかり忘れていました﹂香は眉
197
をハの字にした。﹁でも、そうなると着るものがりませんね。明日、
買い物に行こうと思うんですが、姉さんは予定は相手いますか?﹂
﹁ん⋮⋮? んー﹂
魔法少女の業務は突発的に発生する。予定が立つのは上級以上の
悪魔の出現を探知できたときだけ。いまのところ、明日になにが現
れるという情報は入っていない。
﹁空いてるっちゃ、空いてるのかな﹂
﹁じゃあ姉さん。街を案内してください﹂
﹁オーケイ﹂
愛しい妹の頼みである。引き受けないわけがない。彩芽は二つ返
事で承諾した。
一時間前に夕食を終えた彩芽は、水浸しになった脱衣所を見て呆
然と立ち尽くしていた。
事の発端は香の怒りから始まった。
﹁姉さんは都会に来てからだらしなくなりましたね﹂
ふんすと頬を膨らませた香が、仁王立ちで彩芽の前に立つ。
﹁だらしないって、なによ?﹂
ソファから体を起こして、彩芽は香の顔を見上げる。
﹁どうして使用した衣類をすぐに洗わないんですか?﹂
﹁二・三日毎に洗ってるわよ﹂
﹁二・三日⋮⋮﹂
信じられない、という風に香は顔を振った。
﹁衣類は脱いだらすぐに洗わないと、雑菌が繁殖して不潔になるん
です。それに、臭いも衣類に付着するんですよ﹂
﹁あ、ああそう、だね。けど、一人暮らしで毎日洗濯するとなると
電気代と水道料がかさむの。二・三日に一回がベストなのよ﹂
﹁それが汚れた衣類を身に纏う理由ですか?﹂
﹁うぐ⋮⋮﹂
そういう言い方をされては頷き難い。だが、水道料金と電気料金
198
を気にするのは、一人暮らしの身としては当然である。それに一人
暮らしで出る一日分の洗濯物は少量だ。少量の洗濯物で洗濯機を回
すのはもったいない。
﹁せめて私がいるまでは、紅家の娘として恥ずかしくない生活を送
っていただきます。さ、姉さん。洗濯物を下さい﹂
﹁せ、洗濯物って、とくにないよ?﹂
﹁あるじゃないですか﹂
香が彩芽の体を粘っこい視線で眺めた。
まさか⋮⋮。
彩芽の嫌な予感は的中した。香が彩芽の下着を奪った。身長差を
フルに生かした力任せな戦法に、彩芽はなすすべ無く、パジャマと
下着を脱がされるままに脱がされた。
﹁⋮⋮穢された。香に、穢された﹂
彩芽は素っ裸でふるふると震える。そんな彩芽を放置して、香は
洗濯機のある脱衣所へと向かった。
彩芽は泣きながら箪笥から下着を取り出した。
﹁姉さん?﹂
彩芽がパジャマを着たところで、香が寝室に現れた。
﹁なに?﹂
﹁あの、洗濯板はどこですか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂彩芽の時が止った。﹁は?﹂
﹁洗濯板です。知らないんですか?﹂
﹁知ってるわよ!それくらい。そうじゃなくて、なんで洗濯板の在
処を聞いてるのよ?﹂
﹁洗濯するからに決まってるじゃないですか﹂
バカなの?死ぬの?とでも言わんばかりに香は彩芽を睨んだ。
﹁ええとね﹂彩芽はこめかみを人差し指で押えながら口を開く。﹁
洗濯って、洗濯機を使うのよ﹂
﹁せんたくき?﹂香は首を傾げる。
﹁なんで洗濯機を知らないのよあんたは﹂
199
﹁しし、知ってますよそれくらい! せんたっきーですよね﹂
発音が微妙にフライドチキン⋮⋮。洗濯機を知らないな?こいつ。
まあ、たしかにあたしもここに来るまで洗濯機を知らなかったけど
さ⋮⋮。
﹁実家では洗濯板を使っていたのかもしれないけど、ここだと洗濯
機を使うのよ。ほら、そこにあるでしょ﹂
彩芽は脱衣所にある洗濯機を指さした。白い筐体のそれは一人暮
らしには少し大きすぎる、一〇二リットルタイプ︱︱四人家族用だ。
性能に拘って選んだ結果、この大きさとなってしまった。いまでは
もう少し小型のものにしておけばよかったと、少し後悔している。
﹁これがせんたっきー﹂
香は小声で呟いた。
﹁洗剤入れて、電源を起動してボタン押せばいいだけだから﹂
﹁はい? ⋮⋮あ、はい。わかってますよそれくらい﹂
香は胸を張って答えるが、彩芽と視線を合わせようとしない。大
丈夫かな⋮⋮。少し不安ではあるが、洗濯機は洗濯板と違いボタン
一つですべてをこなしてくれる優れものである。ボタンさえ押せれ
ば良いのだから、妙なことにはならないだろう。
脱衣所から出て、彩芽は台所に立った。冷蔵庫から牛乳を取り出
し、鍋に二人分の牛乳を注ぐ。予定外で少々お節介ではあるが、香
は彩芽のために洗濯を行ってくれている。ご褒美はあってしかるべ
しだろう。
鍋に火を点し、砂糖をたっぷり濯いで彩芽は牛乳が温まるのを待
つ。
その時。脱衣所からチャンネルの合わないラジオのノイズのよう
な音が聞こえてきた。彩芽は慌てて脱衣所へ向かう。
そこは︱︱既に水浸しだった。
洗濯機に注水するためのホースが外れ、蛇口から大量に水が流れ
出してきている。香は真っ青な顔で﹁姉さん、大丈夫ですから。な
んでもないですから﹂と蛇口に手を当て、水を止めようとしている。
200
水を止めるには蛇口を捻れば良いということさえ思い至らないくら
い、パニックに陥っているようだ。
彩芽は素早く蛇口を捻り、水を止める。しかし、脱衣所はすでに
水浸しになってしまっている。このあとの雑巾がけを思うと、彩芽
の心が重くなった。
﹁あんたねぇ﹂
﹁⋮⋮ごめんなさい﹂
俯いて、いまにも泣き出してしまいそうな香を見て、彩芽の中の
怒気がだんだんとかき消えていく。
﹁ま、洗濯機の使い方をちゃんと教えなかったあたしにも責任はあ
る。あんまり気にしないで﹂
﹁洗濯は、家でも毎日行っていたんです。洗濯は、できないわけじ
ゃないんです。洗濯板さえあれば、できるんです﹂
﹁わかったわかった﹂
ぽんぽん、と彩芽は香の肩を叩いた。
﹁洗濯機の使い方はちゃんと教えるから。とりあえず、ここを掃除
しよう?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
落ち込んでしょぼくれた香とともに、彩芽は脱衣所の床の掃除を
始めた。作業を行っているうちに、言葉になる前の柔らかいなにか
が彩芽の心に芽生えた。それは徐々に心の隅々まで行き渡り、仄か
に暖めていく気がした。
思えば、香とともに同じ作業をしたのはこれが初めてかもしれな
い。
だからだろうか? 彩芽は考える。
これを幸せと呼ぶのだろうか、とも。
幸せと呼ぶには薄っぺらい出来事で、やっていることはただの掃
除である。けれどもしこの感覚に名前を付けるなら、幸せの二文字
以外にあり得ないのかもしれない。
彩芽は耐えきれず、香の体を抱き寄せた。
201
﹁苦しいです﹂と香は不平を垂れ零す。
こんな、どうでもいい出来事が毎日続けば良い。
こんなくだらないことが起こる今日が、いまの彩芽にはとても、
愛おしく思えた。
202
第一章 紅彩芽、夢を見失います。3
翌日に、彩芽は香とともに近隣のショッピングモールに出かけた。
﹁街に出るのは初めてです﹂
﹁街ってなによ﹂
﹁街は街です。栄えている場所﹂
﹁地元に比べれば、ここはどこだって栄えてるじゃない﹂
はしゃぐ香をなだめつつ、彩芽はお気に煎りのアパレルショップ
に向かった。いくつかの洋服と、いくつかの下着を購入し︵ブラの
サイズが彩芽より二カップ以上大きいことに愕然とした︶二人は大
きくなったマイバッグを重そうに抱えて、ショッピングモールを出
た。
﹁それにしても、姉さんは律儀ですね。いつも、マイバッグを持っ
って洋服を買いにくるんですか?﹂
﹁まあね﹂
﹁お店の紙袋を貰えば良いのに﹂
﹁紙袋はかさばるでしょう?﹂
﹁使い道は沢山あるじゃないですか。友達にプレゼントを渡すとき
とか、お裾分けのときとか﹂
﹁前者はわかるけど⋮⋮。お裾分けなんて風呂敷で十分じゃない﹂
そういえば、こっちに来てからお裾分けなんてしたことがないな。
実家にいるときは、しょっちゅうお裾分けのお使いに行かされてい
たのに。過去を振り返りながら彩芽は、ショルダーバッグから財布
を取り出した。中身を確認して、彩芽は空を仰ぐ。日はまだ高い。
もう一件お店に寄ってから、ご飯にでもしようか。
これからまわるルートを考えていた矢先、彩芽の感覚が奇妙な魔
力を察知した。
﹁!?﹂
僅かに息を呑み、足を止める。彩芽は足下を見つめ、耳に神経を
203
集中する。人々の足音︱︱皮靴、スニーカー、ハイヒール。車のエ
ンジン音。様々な音のメロディに混じる、僅かなノイズ。
﹁ごめん香。ちょっとだけ待ってて﹂
荷物をすべて香に預けて、彩芽はその場から走り出した。
﹁ちょ、ちょっと姉さん!﹂
﹁香。その場で待ってて! すぐに戻ってくるから﹂
香に荷物を押し付けて、彩芽は魔力を感じた方向へ全力で走った。
薄気味悪い魔力を感じた先では、すでに結界が展開されていた。
ティーンズ・マジックの誰かが、すでに悪魔の襲来を察知して展開
させたのだろう。そう予測し、彩芽は結界の中に足を踏み入れる。
結界の中には、外側とは比べものにならないほど濃度の高い魔力
に満ちていた。
相手は中級から上級の悪魔か。過去の経験から彩芽は素早く相手
の力を推測する。
すぐさま手に魔力を集め、彩芽は一本のかんざしを生み出した。
﹁ねえ、そこのきみ﹂
背後から声が聞こえ、彩芽は僅かに飛び上がった。
一体いつのまに!?
前に跳躍し、振り返る。油断せずに身構えて⋮⋮目に入った人物
を見て、僅かに緊張感が緩んだ。
﹁うぅん。素敵な反応﹂
目の前にいるのは、中学生くらいの少女だった。ウェーブがかっ
た金髪に深い碧色の瞳。外国人だろうか? 青いスカジャンにホッ
トパンツ、黒タイツに星の模様が入ったスニーカーという出で立ち
が、その非日本人的風貌を魅力的に引き立てている。
彩芽は少女を眺め、その視線が胸のところで停止した。
︵⋮⋮よし、勝った!︶
﹁あんたは誰?﹂
﹁ぼくはきみと同じ。魔法少女の天道沙羅だよん﹂
紗良と名乗った少女は、溶けたアイスクリームが滴るような声を
204
発して、気さくな笑顔を浮かべた。高めの声に舌足らずな口調は可
愛らしいが、刃を首に突きつけるが如き緊張感が含まれている。彩
芽は気を引き締めて、問う。
﹁あたしは、あんたのことを知らないんだけど。ティーンズ・マジ
ックに所属してるの?﹂
﹁んにゃ、違うよん。ぼくはMSJの所属﹂
MSJ︱︱ミーツ・ソング・ジャパンは隣の市を拠点に構える魔
法少女事務所でる。歌って踊れるアイドル専門の事務所として活動
しているが、ティーンズ・マジックと同様に世間一般の認知度は低
い。
しま
﹁MSJのあんたが、どうしてここにいるのよ? ここはあたした
ちの縄張よ﹂
魔法少女事務事務所はそれぞれの地域を担当している。担当以外
の地域に援軍を送ることはあれど、勝手に別管轄の地域に魔法少女
として足を踏み入れることはない。
事務所は担当する地域の会社から信頼を受け、警備を行っている。
もし別の事務所の魔法少女が別地域の会社を守りましたとなれば、
会社と事務所間で交わされている契約の反故に該当してしまうため、
大きな問題に発展する可能性がある。
そうならないために、魔法少女の事務所には暗黙のルールがある。
その1.魔法少女は別地域では勝手に戦わない。
その2.別地域での戦いに、勝手に首を突っ込まない。
﹁それはわかってるってぇ﹂と沙羅は言う。﹁あ! もしかして、
きみが紅彩芽?﹂
﹁そうだけど、それがどうしたのよ﹂
﹁ふぅん。なるほどなるほどぉ。噂通り、たしかに強そう。けど、
まだまだかなぁ﹂
いきなり喧嘩か? 喧嘩なのか?
彩芽は胸にせり上がる怒気をぐっと飲み込んで、口を開く。
﹁あんたがなんのために現れたのかは知らないけど、この戦いに手
205
出しするようなら事務所を通して抗議するけど﹂
﹁そんなことよりも、いまは敵の浄化が先決だよん﹂
そんなことよりも⋮⋮。相手の口ぶりに、彩芽は思わず絶句して
しまう。
﹁ねえねえ。現れたのはどんな敵だと思う?﹂
﹁⋮⋮さあ。中級から上級の悪魔じゃない?﹂
﹁ぶぶー﹂紗良は唇を尖らせた。﹁相手は使い魔でした♪﹂
﹁はあ? こんなにも魔力が強い使い魔なんているわけないでしょ﹂
相手は中級か、上級の悪魔に決まっている。その予想はしかし、
沙羅が指で指し示した先を見て、崩壊する。
彩芽より一キロ以上離れた結界の中心部。そこには、パースも造
形もなにもかもが歪んだ、十メートルほどもある出来損ないの人間
が佇んでいた。ここまで造形が不安定な存在は、贔屓目に見ても悪
魔とは呼べない。
﹁こういう使い魔も、たまぁに現れるんだよ。勉強になった?﹂
やはり、こいつの口ぶりは気にくわない。
腹の底に溜まった鬱憤を、さてどうするか。
答えは簡単だ。使い魔にすべてぶつければ良い。
沙羅の存在を意識から切り離して、手に出現させたかんざしを前
に掲げる。しかし、彩芽が法衣を具現させるより早く、沙羅から獰
猛な魔力が噴出する。その強烈な波動に彩芽は、変身を中断せざる
を得なかった。
﹁響け、空に。奏で、舞え﹂微笑みながら、紗良は言う。﹁魔法少
女は、心だよ♪﹂
⋮⋮酷い台詞だ。彩芽の背中を強烈な寒気が駆け抜けた。
ゆったりとした動作で、沙羅は右手を前に掲げる。
瞬間、沙羅を覆っていた魔力が結実し、色を成し、一枚の衣に変
化した。
激しく吹き上がる魔力に靡く、藍色のマフラー。たった一枚。そ
れだけで、沙羅の法衣は完成した。
206
そんな装備で大丈夫か? 疑問が思わず口をついて出そうになる。
その考えを悟ったのか、紗良は彩芽に軽くウインクをしてみせた。
﹁法衣の出来は、魔法の出来とは関係ないんだなぁ﹂紗良は人差し
指を横に振った。﹁さ、魔法魔法っと♪﹂
沙羅が手の平から発した魔力が、一メートル先で魔方陣を生成す
る。完成した魔方陣は回転を初め、魔力のラインが紗良の手に結び
つく。
それが繋がった瞬間。彩芽の耳から音が消えた。
天空より飛来した金色の稲妻が、
一瞬で歪な人間を粉砕した。
﹁⋮⋮っ﹂
刹那の出来事に、さすがの彩芽も言葉を失った。
放たれた魔法は雷だった。それを沙羅は、一キロ以上離れた相手
に、ピンポイントで照射してみせた。
驚くべき点は、手元から一キロ以上離れた地点で、魔法が発動し
たところである。いまのいままで拳一つで戦ってきた彩芽にとって、
それは十分に驚嘆に値する所行であった。
﹁もっともぉっと強くならないとね♪ 紅彩芽﹂
魔力で高めた身体能力を生かし、紗良は素早く使い魔が居た地点
まで移動した。その地点で彼女は、己の魔力を用いて使い魔が破壊
した街の修復を始める。
もっと、強く?
現状の力で、上級悪魔は一捻りにできる。神話級だって、倒した
ことがある。これ以上力を求めて、なんになる? なにができる?
これ以上強くなった先になにがあるのか。彩芽は、具体的に思い
描くことができなかった。
でも︱︱と彩芽は思う。
言われっぱなしでは、引き下がれない。
彼女が街を修復しおえるまで、彩芽は立ったまま、なにもするこ
とができなかった。
207
ショッピングモール前のロータリィに戻った彩芽を待っていたの
は、眉を不機嫌に歪めた香だった。
﹁姉さん!﹂
彩芽が香に近寄るや否や、香は体全体を使って怒鳴り声を上げた。
﹁姉さんがいないせいで知らない男性に何度も言い寄られて、大変
でした﹂
冗談か? と彩芽は思ったが、しかし辺りをちらり眺めると、た
しかに香に視線を向ける男性は多い。彼らの目は大声を上げた香を
不審に思っているものではなく、明らかに見とれているものだった。
﹁体格の勝る殿方に、強引に連れ去られたらどうしようかと、本当
に不安だったんですからね!﹂
﹁ご、ごめん﹂
﹁いったい、何をしていたんですか?﹂
なにをしていたのか? 真実を言えるはずがない。咄嗟に彩芽は
﹁急にもよおして⋮⋮﹂と嘘を口にする。嘘に感づくこともなく︵
勘づいたところで真実を見抜けるはずがないのだが︶香はぷりぷり
と頬を膨らませながらも、彩芽の離脱の理由に納得してくれた。
翌日、彩芽は聡美を近くの河川敷まで呼び出した。
﹁いったいなんの用なのよ? 私、こう見えても暇じゃないんだけ
ど﹂
聡美の言葉が嘘であることが彩芽にはすぐ理解できたが、突っ込
むのも面倒だ。
﹁結界を展開して﹂
彩芽はそうそうに本題を切り出した。
﹁なにするつもりなのよ?﹂
﹁広さは一キロ程度でいい﹂
﹁いや、だから︱︱﹂
﹁はやく!﹂
208
彩芽の気迫に気圧されて、聡美はしぶしぶ結界を展開する。
結界は三次元以下切断。四次元以上接続。特殊バックアップ込み
のフルスペック。どういう結界が欲しいのか、言葉がなくても理解
してくれるあたりは、さすがは長い間パートナを努めるだけはある。
﹁まさかあなた、ここで私たちが殴り合って夕日に向かって走り出
すとか、そんなことしようと考えてるんじゃないでしょうね!?﹂
﹁誰が考えるのよ! そんなこと﹂
どこのスクールウォーズだ。馬鹿馬鹿しい。
聡美の推測に辟易しながら、彩芽は精神を集中させる。
イメージするのは雷。
堅くて、力強い。
刹那的に発光し、すべてを打ち砕く。
ぴりっと、指先で火花が弾けた。
⋮⋮この感覚だ。
彩芽は何度か指先から火花を飛ばす。次第に火花は色を黄に変え、
明確なラインを形作る。
四度ほどのチャレンジで、彩芽は規模の小さい雷を生成できるま
でに至った。
﹁⋮⋮あんた。そんな魔法、どこで覚えたのよ﹂
﹁ん? いま覚えた﹂
﹁は? 練習なしで﹂
﹁練習ならいましたじゃない﹂
﹁うわぁ⋮⋮﹂聡美が顔を引きつらせた。﹁五行鍛錬に一生をつぎ
込んだ魔法使いが聞いたら激怒しそうね﹂
﹁五行ってなによ?﹂
﹁なんであなたが知らないのよ?﹂聡美はこめかみに人差し指を当
てた。﹁木火土金水。自然界の元素の象徴。昔からある魔法の基本
属性の一つよ﹂
﹁木火土金水⋮⋮。雷は?﹂
﹁木行が司る風に属する魔法よ﹂
209
﹁なるほど﹂
﹁五行の他に四大元素もあるけど、これは日本ではあまり使われな
いわね﹂
﹁なんで?﹂
﹁日本は五行との相性が良いのよ。魔法使いが昔から五行を盛んに
使ってきたから日本人の体質がそうなっているのか、土地の魔力構
造が五行に最適化されているのかはわからないけど﹂
﹁ふぅん。聡美は魔法のことよく知ってるんだね﹂
彩芽は聡美が口にしたことの半分も知らなかった。
﹁あなたが知らなさすぎなのよ﹂
﹁教えてもらえなかったんだから仕方ないじゃない。重要なのは知
識じゃなくて、使えるかどうかでしょ?﹂
﹁そういう考え、ほんと彩芽らしい⋮⋮。五行って他の雑多な魔法
に比べて、会得がすごく難しいはずなのよ。それなのに、どうして
そんなに簡単に魔法を使えるのよ?﹂
﹁さぁ?﹂
どうして右手は動くんだ? と聞かれても、動かし方の説明が難
しいのと同じで、どうして魔法が使えるんだと聞かれても答えよう
がない。
話を打ち切り、彩芽は魔力の流れに意識を傾ける。
雷の威力を拡大。
手に集中させた魔力を、一瞬で放出するイメージ。
魔力が充填された段階で、一気にに放出!
瞬間、彩芽の手から雷が放出された。
三〇メートル先までの地面が、大きくえぐれる。
そのあまりの威力に、横で見守る聡美は口を大きく広げ、絶句し
た。
﹁ん、んん?﹂
しかし、納得がいかない。沙羅が使ったのは、手元から遠く離れ
た位置で発動した魔法だった。
210
三度、四度と雷の魔法を試すが、彩芽の雷は彩芽の手を離れる気
配がない。
﹁⋮⋮ねえ、なにがしたいの? もう、上級悪魔だって一発で浄化
できそうなくらいの威力があるけど﹂
﹁ん? んー。正直威力はどうでもいいのよ。それよりも、魔法を
遠くで発動させるにはどうすればいいかなって﹂
﹁遠くで発動って?﹂
﹁手元に魔力を集めるんだけど、発動点が一キロ先にあるの﹂
﹁そんな魔法あるわけないじゃない﹂
聡美は心底疑わしげな視線を彩芽に向ける。
魔法は必ず手元から発動する。それに例外はない。聡美が生み出
す結界は自己を中心として放出されるし、彩芽の魔法はもっとわか
りやすい︱︱拳が発動点である。しかし、前日に見た沙羅の魔法は、
発動点が一キロ先にあった。それが彩芽には不思議でならなかった。
故に、彩芽は聡美を呼び出し、こうして結界を張って魔法の検証を
試みているのだが、いまのところあの現象の糸口がまるで掴めない。
﹁あるとすれば、どんな魔法だと思う?﹂
﹁発動点が移動する魔法? 考えたことないけど﹂
聡美は目蓋を閉じて、腕を組んだ。
﹁たとえばだけど﹂と彩芽は昨日から考えていた案を口にする。﹁
手に集めた魔力を一キロ先まで移動させて、そこで発動させるって
いうのはどう思う?﹂
﹁遠隔型っていうこと? それならできるでしょうね。魔力を集め
て、それを遠くに飛ばして魔法を発動させる。彩芽が発動点を変え
たい魔法って、さっきの雷の魔法?﹂
﹁そう﹂
﹁魔力を飛ばすと悪魔に察知されて避けられる可能性があるから、
命中精度はかなり低くなると思う。たぶん、彩芽が悪魔に近づいて
発動させたほうが、命中精度は高くなるし、時間もかからないとも
うけど﹂
211
たしかに、聡美の言う通りだ。おそらく、彩芽が全力で魔力を飛
ばせば、一キロ先に魔力が到達するまでに十秒とかからないだろう。
しかしそれは最低限、魔力を全速力で飛ばすことだけに専念した場
合である。
魔力を飛ばすと悪魔に、その魔力を察知される。察知されないよ
うに隠蔽魔法を付与しなければいけない。その上、悪魔に魔法を命
中させるとなると、魔法による照準の補正も必要となる。
魔法により命中精度を高め、悪魔に気付かれないように隠匿した
複合魔法となると、加速させる魔法の比率が大きく下がる。全体的
な魔術バランスを考慮すると、一キロ先に魔術が到達するまでに三
〇秒はくだらない時間がかかってしまう。
その三十秒間、悪魔が動かなければ見事魔術は命中するだろう。
しかしそんなことはありえない。
プランとしては可能であっても、実践に耐えうる魔法にはならな
いだろう。
﹁⋮⋮っあ!﹂突如聡美が声を上げた。﹁鈴木よ鈴木﹂
﹁え? 鈴木?﹂
﹁鈴木の魔法を使えば一発で解決じゃない﹂
聡美に言われて彩芽も気が付いた。手元で発動した魔法を転移魔
法で一キロ先まで転移させれば、たしかに敵の上空から雷を落すこ
とができる。それには時間もかからないし、なにもり命中精度もか
なり上がる。
しかし、そうなると⋮⋮。
﹁それならいけるけど。やっぱり、魔法じゃ無理か﹂
単体だけで成立する魔法を組み合わせた魔法となると、それはも
はや魔法ではない。魔法を複合させた、魔術である。もしいまの推
測通りであるならば、沙羅が用いたのは魔術ということになる。
﹃まだまだかなぁ﹄
沙羅の言葉が脳内でリフレインする。
まだまだだって、言うだけのことはある。だとするとあのとき、
212
沙羅は見抜いていたのかもしれない。彩芽がまだ、魔術を習得して
いないことに⋮⋮。
﹁ちょっと、どうしたのよ?﹂
黙り込んだ彩芽に、聡美が声をかける。だが、その言葉に彩芽は
反応できなかった。
いままで、どんな過酷で凄惨な戦いも、彩芽は魔法一つで乗り越
えてきた。魔術は魔法に比べて難易度が高いが、だからといって火
力が上がるわけではない。過去の経験から彩芽は、魔術はさほど必
要ではないと判断し、故にいままで身につけようとしてこなかった。
だがここへきて、その考えが百八十度変化した。
︵絶対に、負けたくない︶
その思いはまだ、明確な言語として表現されてはいない。しかし
彩芽の中で、言葉にならない混沌とした思いは、確実にその方向に
むかって動き出していた。
213
第一章 紅彩芽、夢を見失います4
﹁彩芽はこれからどうするのよ?﹂
しばらく魔法を発動しなかった彩芽に聡美は聞いた。一見すると
けだるそうな口調ではあったが、その内面からにじみ出す生ぬるい
欲望を彩芽は敏感に感じ取る。
﹁これからって。とくになにも予定はないけど?﹂
﹁もう魔法の練習はもう終わりでしょ?﹂
﹁れ、練習じゃないから!﹂
﹁はいはいそうだね﹂
顔を赤らめて否定した彩芽を見て、聡美は苦笑を浮かべて肩をす
くめる。
﹁それでさ、これからなんだけど、呑みにでもいかない?﹂
﹁呑みって⋮⋮居酒屋?﹂
﹁いや、あれはもう⋮⋮ほら、だめでしょう?﹂
聡美にもうっすら記憶が残っているんだろう。女性として⋮⋮い
や、人間として決して踏み越えてはいけないが、世の中にはある。
︵居酒屋には二度と行かないようにしよう︶。
二人はそのラインを超えないために、視線だけで堅く誓い合った。
﹁家で呑む分にはいいかと思って。近くのスーパーでお酒でも買っ
てさ﹂
﹁あ、いいね﹂
聡美の提案に、彩芽は顔をほころばせた。
﹁場所は彩芽の家でいい?﹂
﹁え? ああ、いや、いまはちょっと﹂
いまは家に香がいる。聡美も香も、互いのことを良く知った仲だ
が、飲んだくれて酔いつぶれた自分たちの姿を香には見せたくはな
い。
﹁聡美の家じゃだめ?﹂
214
﹁んん? いいけど、なにかあるの?﹂
﹁ちょっと⋮⋮ね﹂
﹁ま、まさか!?﹂
聡美は、ゴムを付け忘れたことに飛んでから気付いたバンジージ
ャンパーのような表情を作った。
﹁男?男なの?同棲してるの!?﹂
﹁男じゃないって﹂聡美の食いつきにうんざりしつつ、彩芽は答え
る。﹁いま家に香が来てるのよ﹂
﹁ああ、なるほど。よかったぁ⋮⋮﹂
なんだその命拾いでもしたかのような安堵の表情は。
殴れってことか?
﹁ええと、香ちゃん。元気してる?﹂
﹁まあね。元気に育ってるよ﹂
主に体が⋮⋮。
﹁じゃ、仕方ないね﹂と聡美は言った。﹁今日は私の家で呑みます
か﹂
﹁うん。悪いね﹂
聡美は結界内の空間の修復にとりかかる。彼女の動作一つ一つが
浮き足だって見えるのは、彩芽だからか。そんな様子を見ていると、
悪戯心がくすぐられる。空間修復をする聡美の横で空間破壊のいた
ちごっこをしたくなる。聡美はどんなリアクションをとるだろう?
それを考えると、笑いがこみ上げてくる。しかし、泣いてへそを
曲げられてはかなわない。彩芽は悪戯心を押さえ込み、聡美が結界
を特のをじっと待った。
スーパーで買い出しをして聡美の家に着いたのは午後五時だった。
彩芽は香に﹃遅くなる﹄と短いメールを入れる。香からの﹃わかり
ました﹄という返信を確認して、彩芽は日本酒に口を付けた。
一度目の泥水の恐怖心から二人は、マグカップの縁を舐めるよう
に日本酒を飲む。
215
一DKの聡美の部屋は多少窮屈で、だけど何故か少し落ち着く。
八畳の部屋に、生活に必要なあらゆるものが詰め込まれている。
もし香がこの部屋を見たら、こう言うかもしれない。
﹃お食事はどこでとられるんですか?﹄。
寝室とダイニングが一つとして重なることなど、おそらくいまの
香には考えられないだろう。彩芽もこの土地で暮すまでは、リビン
グ・ダイニングの存在を知らなかった。
聡美の部屋で特質すべきは、八畳の部屋の三分の一を占領してい
るクローゼットだろう。聡美は彩芽に比べて多彩な洋服を着こなす。
スタイルの良さ︵彩芽曰くハレンチボディ︶と顔立ちの明るさが、
洋服に好かれるのだろう︱︱もし彩芽が聡美の洋服を着ても、チン
チクリンに見えるはずだ。流行のかわいい服を、なに不自由なく着
られる聡美が羨ましい。
クローゼットの中には服飾類が多数詰め込まれているに違いない。
﹁私、最近思うんだけどさ﹂
四合瓶を一本開けたところで、聡美は深刻そうな口ぶりで言った。
﹁昔に比べて、想像力が落ちた気がするんだよね﹂
﹁そう?﹂
﹁うん。昔はさ、いろいろ想像して、いろいろ想像しすぎて、楽し
くて眠れなくなることがあってさ。想像する内容も、突飛もないこ
とばっかりだったし。そこには色だってあった。けど、最近は突飛
もないことはまず思い浮かばない。色もない。なんだかさ、いまま
で経験したことを、なぞり返してるだけのような気がするんだよね﹂
﹁ふぅん﹂
鼻を鳴らしながらも、彩芽は考える。自分は、どうだろうか?
﹁魔法少女になりたての頃だったかな。私はさ、どうしても攻撃魔
法が使いたかったのよ﹂
﹁ああ、あったね、そんな時期も﹂
ティーンズ・マジックに所属したての頃、彩芽は聡美にかなりの
時間をかけて攻撃魔法の基礎を教えた。しかし、聡美は攻撃魔法を
216
会得できなかった。攻撃魔法らしきものですら、訓練を諦めるまで
聡美は一度たりとも形成することができなかった。
﹁攻撃魔法を使えたら、どれだけ楽しいかなって毎日考えててさ。
ほら、あたしって魔力だけは凄いじゃない?﹂
﹁うん﹂
聡美の口ぶりがおかしくて、彩芽の鼻が思わず鳴った。
﹁だからさ。攻撃魔法を覚えたら、彩芽なんかよりもすごい悪魔を
ばっしばしなぎ倒せるなぁって、毎晩のように考えた。そういうの、
彩芽にもない?﹂
﹁あるね。あたしにも﹂
構想は、ある。他人にはどうでも良い魔法かもしれない。だが、
彩芽にとってそれは、究極の魔法︱︱その形を、彩芽は既に持って
いる。とはいえ未だにその魔法が実現しそうな気配はない。その魔
法を実現させることは、それこそ聡美が攻撃魔法を会得するくらい
に難しいことだと、彩芽は考えている。
﹁まだ二十﹂と聡美は言った。
﹁もう二十﹂と彩芽は返す。
﹁うるさい﹂聡美が呻いた。﹁私たちは二十歳になった。だいたい
いまって、百歳まで生きられる時代じゃない? この先はわからな
いけどさ、人生は百年だとすると、私たちはまだその五分の一しか
生きてないってことになる。けど、それなのに、限界みたいなもの
が見えて来ちゃってるのよ。たった二十年なのにだよ?﹂
聡美の思いを、彩芽は薄らとではあるが理解できた。二十年間生
きてきた経験が、早くも自らを縛り始めているのだ。
昔は空を飛ぶ夢で無条件に笑えた。けど、いまはそれだけでは笑
えない。箸が転がるだけで笑う時期はもうとっくの昔に過ぎ去って
いるのだ。
やらなくても、にわかに結果がわかってしまうからこそ、夢は色
あせ、少女は地面に縛り付けられる。
﹁そろそろ、潮時かな⋮⋮﹂
217
潮時︱︱魔法少女の引退か、はたまた墓の下か? そのどちらを
指し示しているのか、彩芽には判断がつかなかった。あるいはその
どちらもかもしれない。
﹁魔法って、夢を叶えるもののはずなんだけどねぇ﹂
しみじみと語り、聡美は日本酒を一気に飲み干した。
夢を叶えるために魔法がある。なのに、叶わない夢があるのは何
故だろう?
彩芽を凌ぐ魔力を保持する聡美ですら、叶えられない夢があるの
は何故だろう?
初歩的な魔法が使えないのはなぜだろう?
魔法は⋮⋮夢を叶えるものじゃないのか?
﹁⋮⋮なんか、しんみりしちゃったね。ここはさ、ぐいっといこう
よ、ぐいっと!﹂
聡美の音頭で、彩芽も日本酒をあおる。ちびちび呑んでいたのが
寂しい会話の原因だったのか。呑む勢いの変化によって、二人の話
題は明るいものへと変化していく。彼氏を作る方法だとか、結婚す
る方法だとか。︵恋愛の妄想で二人が黄色い悲鳴を上げるたびに、
何故か隣の壁がドンッと大きな音を立てた︶。
月が夜空の頂点に君臨するころには、二人は平衡感覚を失ってい
た。
﹁もうだめ﹂という一言を残して、聡美が床に倒れた。聡美の死亡
を確認し、彩芽はトイレに向かおうと立ち上がる。うまく立ち上が
れずに、危うくちゃぶ台を蹴飛ばしてしまうところだった。
景色がぐるぐるまわる。魔力で酔いの原因を一気に消してしまえ
るけれど、この至福感が損なわれるのはもったいない。もう少し、
あと少しの間だけは、この浮遊感に身を委ねていたい。
酒の影響で視力が極端に落ちている彩芽は、トイレに向かう扉を
探すために目を細め、じっとあたりを見まわす。やっとトイレに向
かう扉を発見したかに思えた彩芽だったが、扉を引くとそこは、特
大のクローゼットの中だった︱︱クローゼットであることに、ジー
218
ンズのボタンを外して気がついた。
⋮⋮危ないところだった。
クローゼットの中は、彩芽が想像したとおり沢山の衣類が詰まっ
ていた。ブランドや季節や色や種類に関係なく、洋服がぐちゃぐち
ゃに詰め込まれている。
こういうところに性格って出るよね。ま、イメージ通りってとこ
ろだけど。
苦笑しつつ、彩芽はクローゼットの扉に手をかけて半分ほど締め
︱︱そこで、それを見た。
翌日、目を覚ました聡美に彩芽は、生暖かい視線を向ける。
﹁な、なによ?﹂
魔力でアセトアルデヒドを飛ばした聡美が、土を出た瞬間に鳥の
餌食となった蝉の幼虫を見るかの如き彩芽の視線に眉をひそめる。
﹁⋮⋮いや。まあ、なんていうか。あんたって、ホント予想を裏切
らないわ﹂
﹁⋮⋮は?﹂
彩芽の言葉に聡美は首を傾げる。聡美の無言の問いかけに、しか
し彩芽はなにも答えずに、ただ首を横に振った。
彩芽がこのときなにを見たのか? 聡美は十年後に知ることにな
る。
香に遅くなるとメールを送ってはいたが、一泊するとは伝えてい
ない。彩芽は手早く準備を済ませて、聡美の家を出た。
お腹を空かしていないだろうか? 無断で外泊したことを怒って
いないだろうか? 眠れているだろうか? なにか問題が起きてお
ろおろしていないだろうか? 香はもう子どもではないのだと判っ
てはいるが、胸の中で不安が広がっていく。
自室の扉に鍵を差し込んだ瞬間、彩芽の緊張感が一気に高まった。
鍵が、開いている。
219
音を立てないよう、彩芽はゆっくりと扉を開く。同時に、どのよ
うな事態に陥っても対処できるよう、体内の魔力を高めていく。
忍び足でリビングにたどり着いた彩芽は、テーブルの上に置かれ
たメモ用紙を発見した。
まさか。人質に取られたんじゃ!?
危機感がこめかみを叩き、心臓が胸を打つ。
忍び足も忘れて彩芽は手紙に飛びついた。
しかし︱︱。
﹃少し出かけてきます。香﹄
それは、ただの香の置き手紙だった。念のためにじっくりと文字
を観察するが、名の在る書家が書いたような達筆な筆ペンの文字は、
まごうことなく香のそれである。香を攫った犯人が書いたわけでは
なさそうだ。︵犯人が書家であれば別だろうが、その確率は低いだ
ろう︶。
高まった緊張感を、彩芽はため息で吹き消した。
まったく。出かけるなら鍵くらいかけて⋮⋮ああ、そうか。合い
鍵、作ってなかったな。
しばらく香が家に泊るんだったら、合い鍵は必要だろう。彩芽は
メモ用紙をポケットに突っ込んで、思い立った勢いそのままに彩芽
は部屋を飛び出した。
部屋を出たは良いが、合い鍵はどこで作ればいいのだろう? い
ままで一度も合い鍵を作ったことのない彩芽は、デパートに行けば
合い鍵が作れるだろうという安直な考えのまま、人通りの多い繁華
街を目指す。
デパートを目指して歩いていた彩芽の目に、覚えのある金髪が飛
び込んできた。
︱︱たしか、沙羅といったか。
繁華街のゲームセンター前に設置された休憩椅子に、沙羅が座っ
ていた。沙羅は足をぶらぶらと振りながら、手にしたクレープにか
ぶりつく。足下にはクレープを包んでいた紙が、大量に散らばって
220
いる。あれはすべて、沙羅が捨てたものだろうか?
はぁ、とため息をついて彩芽は沙羅に近づいた。
﹁あんたね。ゴミはちゃんとゴミ箱に捨てなさいよ﹂
彩芽は目だけで空を見て、深いため息を吐き出した。
﹁むゅ?﹂
リスの如く、口いっぱいクレープを頬張った沙羅が、言葉になら
ない。沙羅の頬についた生クリームを見て、彩芽はポケットからハ
ンカチを取り出した。
﹁⋮⋮ったく。あんた女の子なんだよ? もう少し可愛らしく食べ
なさいよ﹂
憎まれ口を叩きながら、彩芽は沙羅の頬をハンカチで拭った。そ
の行為がなにを意味しているのか判らなかったのか、沙羅は首を傾
げる。青く大きな瞳で彩芽をのぞき込んだ。
こうして見ると、西洋人形みたいな顔をしてるなぁ。戦場で逢っ
たときとは違う。緊張感がなく緩みきった表情に、彩芽はしばし見
とれた。
﹁紅彩芽!﹂
﹁な、なによ﹂
突然大声で名前を呼ばれ、彩芽の心臓が飛び跳ねた。
﹁えへへぇ﹂
にまぁと至福を最高に表現した笑顔を見せ、紗良はクレープにか
ぶりついた。
彩芽は彼女の隣に腰を下ろす。
﹁あんた、クレープが好きなの?﹂
彩芽の問いかけに、沙羅はふるふると首を横に振った。
﹁甘いもの、全部好き﹂
﹁なるほどね﹂
彩芽から視線を外した沙羅は、なにかに取憑かれたかのように再
びクレープを頬張りはじめた。
話し、続かないなぁ。彩芽はこっそり苦笑する。
221
彩芽は沙羅を気に入って話しかけているわけではない。話をする
ことで相手がなにを考え、この地域で魔法少女となり、使い魔を撃
破したのか? それを知りたいだけである。事務所を通じて抗議す
るなどと口にはしたが、話し合うことで事態を穏便に済ませられれ
ばそれに越したことはない。
手にしたクレープをぺろりと平らげた沙羅は、ゲームセンターの
前に止めてある移動販売式のクレープ店へと向かった。
クレープ店はバックドアを開いてお店にするタイプのバンだ。パ
ステルカラーをふんだんに使った外装は、いかにも中高生の女の子
に受けそうなデザインである。
彩芽は自分がそのバンの後ろに立つところをイメージする。想像
できたのは何故かクレープを購入するシーンではなく、クレープ店
を攻撃するシーンだった。
あたしには無理だな、ああいう店は⋮⋮。
バンの後ろ。丁度お店のカウンター位置に立った沙羅はなにかを
考え込みながら店員に注文していく。空気に溶けるような金髪に、
ビスクドールめいた顔立ちのおかげで、その位置が世界中の誰より
も似合って見える。
再び椅子まで戻ってきた沙羅は、クレープを両手に一つずつ携え
ていた。
﹁⋮⋮そ、そんなに食べるの?﹂
こくん、と沙羅は小さく顎を引いた。
彩芽は沙羅と話をしたくて、いくつか話題を振ってみる。しかし
いくら打っても沙羅は響かない。首を傾げるか、振るかのいずれか
であればまだ良いほう。ほとんどが無反応だった。それほどまでに、
バカ
紗良はクレープにご執心なのだろう。会話を続けようと話しかける
彩芽は、自分が可能性ゼロの相手にナンパを仕掛けるチャラ男のよ
うに思えてくる。
とはいえ無言も良くない。無言により生まれるプレッシャが、彩
芽の居心地を悪くする。椅子までもが、彩芽を追いだそうとお尻に
222
厳しい。
﹁紅⋮⋮﹂
突然、沙羅が声を発した。呼びかけられたのはここへきて初めて
のことだった。
﹁なに?﹂
﹁どうして、ぼくに話しかけているの?﹂
﹁なんでって⋮⋮﹂
﹁そんなに見つめられたら、きゅんきゅんしちゃう♪﹂
帰ろうかな。彩芽は本気でそう思った。
﹁ええと、ね。仲良くなれればいいなぁと思って﹂
﹁仲良くなる? ふふふ。そうだね。そうなれればいいね﹂
紗良は意味ありげに言った。意味がありそうだけど、まったく無
いようにも聞こえる。紗良はこんな思わせぶりな言い方が好きなの
かも知れない。
﹁ところで紅彩芽は、クレープも食べないでなにをしているの?﹂
﹁いや、クレープを食べに来たわけじゃないんだ、あたしは﹂
﹁え? クレープ食べないの? それ、人生損してるよぉ。損だら
けの人生だよ﹂
﹁人生のことはほっといて﹂彩芽は吐き捨てる。﹁あたしがここに
来たのは︱︱﹂
彩芽が説明しようとした、そのとき︱︱。
地面が、僅かに揺れた。
喧噪が通りから徐々に逃げ出していく。地震の音が、喧噪を打ち
消しているのだ。
揺れは前回よりも控えめだった。歩いている人はほとんど地震に
気付いた様子はない。ほんの一部の人間が揺れに気付き、空を見上
げる。
十秒ほどで、揺れは集束した。大きくなるかと思い身構えた彩芽
が、体から力を抜く。
﹁なるほどねぇ﹂と沙羅は言った。﹁ここって、紅彩芽だけじゃな
223
いのかぁ﹂
﹁あたしだけって。なにが?﹂
﹁⋮⋮気付いてない? それとも演技?﹂
それは彩芽への問いかけというより自問に近い言葉だった。彩芽
は相手の真意が読めずきょとんとする。そんな彩芽に構わず、沙羅
は手にしたクレープを一気に口の中に詰め込んだ。
沙羅は椅子から立ち上がり、彩芽を振り返る。
﹁ははふぃいあわはまひへ﹂
沙羅は毅然とした様子でもごもごと、クレープを口から零さぬよ
うに喋り、その場から立ち去った。
最後に彩芽を見た時の瞳には、純然たる敵意が宿っていた。その
ことに、彩芽は遅れて気がついた。
﹁あの子、いったい︱︱﹂
なんて言いったのよ!?
224
第一章 紅彩芽、夢を見失います5
紗良が立ち去ったあとに残ったものは、微妙な軋轢と、クレープ
の紙くずだけ。話し合えば、紗良がどういう人物なのか、なにを考
えているのか掴める気がしたんだけど⋮⋮。そんな彩芽の目論見は
泡となって消えた。
それにしても、と彩芽は思う。
ゴミくらい片付けなさいよ!
ふん、と鼻息荒く彩芽はクレープの紙くずを拾いあげる。
不意に、彩芽の携帯が鳴動した。彩芽はポケットにクレープの紙
くずを入れて、ポシェットから携帯を取り出す。
背面液晶に表示された鈴木の二文字を確認し、彩芽は携帯を開い
た。
﹁はいはい?﹂
﹃もしもし、鈴木です﹄
鈴木の声に安堵に似たなにかが混じっていることに、彩芽は気付
いた。
﹃いま大丈夫ですか?﹄
﹁うん。なにかあったの?﹂
﹃︱︱い。実は︱︱ど使い︱︱たんですが、︱︱は気︱︱りまし︱
︱か?﹄
通話にノイズが混じり、鈴木の言葉のほとんどが聞き取れない。
﹁え? なに?﹂
口に手を当てて、彩芽は聞き返す。
﹃電波の︱︱定ですね。⋮⋮少し︱︱。︱︱紅さん︱︱にいらっし
ゃ︱︱? 直接︱︱お話さ︱︱きた︱︱﹄
ノイズに邪魔をされて、鈴木がなにを言いたいのかさっぱりわか
らない。だがその言の端の羅列を、彩芽は勘で補完する。
どうやら鈴木は自分に直接会って話をしたいらしい。
225
彩芽は手早く自らの居場所を鈴木に伝える。
伝え終わると同時に、携帯の通話が途切れた。画面を見ると、電
波の状態が﹃圏外﹄に切り替わっていた。
ここって、こんなに電波悪かったかな?
天井を見上げると、青と白のコントラストがビルの向こうに広が
っている。モールではなく、施設の内部でもないここで、携帯が圏
外になるなんてことは考えられない。
だとすると、携帯会社に使用差し止めでもされたか?
一瞬、彩芽の背筋が冷たくなって、すぐに元の音頭を取り戻す。
毎月きちんと料金を支払っているし、それはないか。
﹁お待たせしました﹂
﹁ひゃうっ!﹂
背後から声が聞こえて、彩芽は膝を伸ばしたまま僅かに飛び上が
った。
背後を振り返ると、先ほどまで電話をしていた相手︱︱鈴木が、
苦笑を浮かべて片手を軽く上げた。
﹁あんたね⋮⋮﹂と彩芽はため息混じりに言う。﹁もう少し驚かな
いように声をかけられないの?﹂
﹁お、驚かない方法があれば、僕が教えていただきたいのですが﹂
彩芽の内部で渦巻く魔力が、鈴木の額に汗を招いた。彩芽の魔力
に怯えたものか、烏が天空に飛び上がり、喧しいほどに喚き鳴く。
﹁それで? あんたが魔法でここまで飛んできたってことは、どう
せ困った事態に陥ってるんでしょ? なにがあったのよ﹂
﹁あ、いえ。切迫しているわけではないんですが﹂と鈴木は首を軽
く振った。﹁少々妙なところがありまして﹂
﹁妙って?﹂
﹁聞きますか?﹂
こう口にするときの鈴木は、タイマーのない時限爆弾のように薄
気味悪い。
しかし︱︱と彩芽は考える。さっきの電話のノイズ。ここ最近頻
226
発している地震。沙羅の存在。普段なら無関係だと思う事象がここ
へきて、無視できない存在感を放ち始めているのは確かだ。
﹁少し、気になる﹂
彩芽は正直に答えた。
﹁では、お話しますよ?﹂
念を押すような口ぶりに、彩芽は生唾を飲み込んで頷いた。
﹁僕も、全容を把握しているわけではないんですが︱︱﹂
そこで、鈴木は言葉を切った。空を見上げて、目を細める。実際
に見ているのは空ではない。それは、すぐに彩芽も理解する。
弱いけど、魔力を感じる。
いったい、どこから⋮⋮。
自然と、彩芽も鈴木と同じように空を仰いだ。
次の瞬間︱︱。
目の前から空が消えた。
﹁︱︱ッ!?﹂
瞬きは、していなかった。状態が変化したのは一瞬のことで、変
化を感じ取ることすらできなかった。まるで、テレビ映像のカット
インのように空は消え、灰色の天井が現れた。
灰色の天井が、手を伸ばせば届きそうな距離に出現した。横も、
下も、同じように変化している。部屋は比較的明るい。だが、天井
には光源がない。足下を見ると、足下に現れるはずの影がない。お
そらく、魔法で空間に光を生み出しているのだろう。でなければ、
手術室にある無影灯のように、光はあっても影がないことへの説明
がつかない。
影がないせいだろう。意識しなければ、床から天井が繋がって一
枚の大きな壁のように見えてしまう。
﹁箱?﹂
﹁部屋じゃないでしょうか﹂
先ほどまでゲームセンター前にいたはずの二人が、いまは灰色の
部屋の中にいた。
227
﹁出入り口はないようだけど﹂
窮地に陥っていることを敏感に察知した彩芽は、すぐさま体内の
魔力を活性化させる。
﹁閉じ込められたんでしょうか?﹂
﹁当たり前でしょ!﹂
冗談ともつかない鈴木の言葉に、彩芽は声を荒げた。
﹁ここがどこだかわかる?﹂
彩芽の問いかけで、鈴木は行動を起こす。床と壁に手を触れて、
鈴木は僅かではあるが魔力を放った。その後は部屋の寸法でも測る
ように、同じ歩幅で部屋の端から端まで歩いた。
再び彩芽の元に戻ってきた鈴木は、満面の笑みで口を開いた。
﹁⋮⋮どこでしょうね?ここは﹂
﹁わからないの!?﹂
彩芽の声が大きく上ずった。
彩芽はマネージャとしての鈴木を大きく評価している。その一番
の要因はなんといっても、魔法の知識だ。いままで何度も悪魔と戦
い、何度も訪れたピンチを打開できたのは、それを乗り越えられる
ほど彩芽が強かったからではない。鈴木が状況を分析し、適切な知
恵を彩芽に与えたからである。
鈴木がいままで目の前の状況が判らないと口にしたことは、彩芽
の記憶にはない。だからこそ、彩芽は酷く困惑した。
﹁なんにもわからないの?﹂
﹁⋮⋮いえ、仮説ならあります。ただ、その仮説がボク自身でもに
わかには信じられないので﹂
﹁いいから話してみて﹂
﹁しかし︱︱﹂
﹁口にすることで思考が整理されることだってあるでしょ﹂
﹁⋮⋮たしかに、そうかもしれません﹂
観念するようにため息を吐き出し、鈴木は床に腰を下ろした。
﹁五分ほどお待ちしていただいてよろしいですか?﹂
228
こくん、と彩芽は頷いた。鈴木と同じく、彩芽も床に腰を下ろす。
膝を抱えて、じっと一メートルほど先の灰色を睨む。
五分と指定したが、その間なにか調べるでもなく、鈴木は黙って
座り続けている。彩芽に話しかけてくることもない。部屋に音源は
一切なく、窓も扉もない。自分の立てる布ズレの音だったり唾を呑
む音だったり、息の音だったりが、相手にどう聞こえているのか?
彩芽は段々と気になり始めた。そうなると、自分の臭いまでが気
になり始める。鈴木とはだいたい三メートル離れているが、換気口
もないここでは自分の臭いがダイレクトに伝わってしまうのではな
いだろうか?
シャワーくらい浴びてくればよかった⋮⋮。まさか、酒の臭いが
残ってないだろうな?
鈴木に気付かれないよう、彩芽はそっと自らの衣服の臭いを嗅ぐ。
酒の臭いは、まるで感じられない。しかし、逆に自分だけは感じ
ないんじゃないかと不信感を煽る結果となった。
まったく。どうして鈴木と一緒にいるってだけなのにこんなに慌
てなくちゃいけないんだ? 自らの狼狽に気付いた彩芽は、段々と
腹が立ってきた。異性とはいえ鈴木は彩芽の好みとはかけ離れた男
性だ。敏感になる必要はないはずである。なのに、何故か狼狽して
しまう。逆に鈴木は、彩芽と二人きりという状況下にあっても、な
んら普段と違う素振りを見せない。それがまた、彩芽の怒りに火を
付ける。
あたしがこんなに焦ってるのに、どうしてあんたは冷静なのよ!
無言の時間に耐えきれず、彩芽は口を開く。
﹁ねえ鈴木。天道沙羅って子、知ってる?﹂
自らのデータベースと言葉の羅列を称号しているのだろう。鈴木
が返答するまでに、しばし間が空いた。
﹁MSJの魔法少女ですか?﹂
﹁ええ、そう﹂彩芽は頷く。
﹁現代の魔法少女の中で随一との呼び声の高い方ですね。しかし、
229
紅さんが天道さんの名を知っていたのは意外でした﹂
﹁それどういう意味よ﹂
﹁他の魔法少女に興味があるように見えませんでしたので﹂
たしかに、別事務所の魔法少女について鈴木に聞いたのはこれが
初めてだ。
彩芽は他の事務所の魔法少女になんて興味はないし、魔法少女界
のパワーバランスなど、もっと興味がない。
しかし、沙羅は違う。
紗良だけは、違った。
ティーンズ・マジックだけで完結していた彩芽の世界を︱︱平穏
で静寂な世界を、紗良が引き裂いたのだ。
﹁実は最近、この街で会ったのよ。会って、紗良の魔法を見た﹂
﹁⋮⋮そうでしたか﹂
そこまで口にして、その先の言葉がないことに彩芽は気付いた。
率直な言葉で表現するなら、彩芽は初めて、他人の攻撃魔法に感激
をした。過去に出会った回復役の魔法に比べれば、魅力的とはほど
遠い感情ではある。しかし、これほど長期にわたり、彩芽の胸の中
に閊えた出来事は、回復魔法以外にはなかった。
︱︱しかし、それを口にして、どうする?
﹃紗良の魔法、すごかったんだよね﹄
﹃紅さんの魔法も凄いですよ。落ち込む必要はありません﹄
まさか。あたしは鈴木に、慰めの言葉でもかけてほしいのか?
気にするなと言ってもらいたいのか?
まったく。あたしは鈴木になにを期待しているんだ⋮⋮。
﹁一つ疑問に思うことがあるんだけど﹂
﹁なんでしょうか?﹂
﹁あたしって、何歳まで魔法少女って呼ばれるんだろう?﹂
﹁何歳になっても、魔法少女ですよ。魔法少女は、固有名詞ですか
ら﹂
﹁そう? 八十歳のおばあちゃんになっても﹃魔法少女です﹄とは
230
言えないんじゃない? せめて、魔女とか﹂
﹁魔女では、意味合いが違いますから﹂
彩芽の﹁おばあちゃん﹂という発言で、鈴木が僅かに表情を崩し
た。その変化に、彩芽は安堵する。
﹁まあ、実際的に八十まで戦える魔法少女はいないと思いますけれ
ど﹂
﹁身体能力も魔力も弱まるからね﹂彩芽は顎を引いた。﹁あたしは
何歳まで戦うのかなぁ。なんとなく、十年後に限界が来そうだけど﹂
﹁死ぬまで、じゃないでしょうか?﹂
﹁なんでよ﹂
﹁紅さんほどの魔法少女は、うちの事務所にはいませんし。次を担
う人材を確保するにも、かなりの時間がかかると思います。もしか
したら、次の人材が見つからない可能性もあります。それまでは、
うちの会社としては紅さんを手放したくはありません﹂
﹁それ、魔法少女を辞めたいなら戦って死ねってこと?﹂
それはなんの呪いだ? 思わず彩芽は鼻で笑った。
﹁あるいは﹂と鈴木は口を開く。﹁結婚するまで、でしょうね﹂
﹁結婚? どうして結婚が引退に繋がるのよ﹂
﹁女性の夢ですから﹂
﹁ああ、なるほど﹂
その言葉が、彩芽の心の溝にすとんと収まった。
結婚は女の夢である︱︱と万人が有する夢だとは彩芽は決して断
言しない。それは夢と呼ぶには、あまりに近すぎるからだ。それに、
近年では家庭に入らない女性が、社会的に許容されつつある。しか
しそれでも結婚は、女性の無意識に存在する願望であることは、間
違いない。
無意識的願望は、魔法少女にとって最も強い夢となる。
そして、夢は魔力を増幅させる。
最も強い夢が消えたとき、魔法少女は戦えないだろう。
故に、結婚は引退へと直結する。
231
﹁結婚っていう手もあるのか﹂
﹁紅さんは、結婚を考えていらっしゃるんですか?﹂
﹁え? いや、まだぜんぜん﹂
二十歳だしね。いつの時代もそのような言い訳をしながら、彩芽
は恋愛を遠ざけてきた。まだ小学生だから、まだ中学生だから、ま
だ高校生だから︱︱いつかきっと、結婚するだろう。そのときを、
じっくり待てばいい。
﹁ただまあ、三十歳までにはなんとかしないとねぇ。あたし、三十
歳で死にたいとは思わないし﹂
﹁死ぬと決まったわけじゃありませんよ?﹂
﹁体力と魔力が衰えれば死ぬに決まってるでしょ? 体力と魔力の
限界は、きっと三十歳にやってくる。あたしは、そう思う﹂
﹁それは、紅さんの勘ですか?﹂
﹁そう﹂
彩芽は大きく頷いた。十二の頃より自らの肉体を限界まで酷使し、
戦ってきた彩芽だからこそ、終わりが見えて来る。もし排除に苦労
しない悪魔だけを選定して戦えるならば、魔法少女としてもう何年
かは現役で居られるだろう。しかし、そうも言っていられない。上
級以上の悪魔は空気を読まずに現れる。そのとき、後輩が育ってい
なければ、彩芽が出るしかなくなってしまう。
﹁三十歳まで戦って、それから結婚ってなっても⋮⋮うーん、相手
っているのかな﹂
それは、切実な問題だ。魔法少女であるということは、熊を片手
一本で絞め殺すことができるということ。そんな相手を嫁に娶ろう
と考える男性はいない。もしいたとしても、非常に希有であり、そ
の希有な相手に、現状の出会いなどほぼ皆無な環境で出会えるとは、
彩芽には思えない。
﹁それなら、僕が相手になりますよ﹂
﹁⋮⋮は?﹂
﹁三十歳までに結婚できなければ、僕が相手になります﹂
232
﹁な⋮⋮ば⋮⋮﹂
なにを馬鹿なことを言っているの? そう口にすることができな
かった。冗談なのか本気なのかわからない発言に、彩芽の顔がかぁ
っと熱くなった。
﹁じょ、冗談はやめてよ﹂
﹁冗談じゃないんですけどね。紅さんを魔法少女の世界に引き入れ
たのは僕ですから。僕がきちんと責任をとります﹂
﹁⋮⋮はぁ。あんたね。そんなこと言ってたら、担当する女の子全
員と結婚しなくちゃいけなくなるでしょ﹂
﹁そんなことありませんよ。僕が担当する魔法少女はみなさん魅力
的ですから。時期が来れば結婚できると信じています。もちろん、
紅さんもですよ﹂
言外に褒められ、彩芽は顔から火がでそうになる。いま顔に水を
垂らせば、一瞬で蒸発するだろう。それくらい熱い。
場に沈黙が戻り、しばしして鈴木は腕時計を見て、立ち上がった。
どうやら、やっと五分が経過したらしい。地獄のような五分間だっ
た。
鈴木は部屋の端まで歩き、そこから逆側の壁まで先ほどと同じよ
うに歩幅を合わせて歩いた。
﹁⋮⋮やはり。そうでしたか﹂
﹁なにかわかったの?﹂
にわかに緊張した鈴木の言葉に、彩芽は腰を浮かせた。
﹁先ほどは、壁の端から端まで、十歩ありました。いまは、七歩し
かありません﹂
﹁うそ⋮⋮﹂
鈴木の言葉が信じられず、彩芽は新調に部屋を観察した。おかし
な点は何一つない。先ほどと違う部分は、見当たらない。
⋮⋮いや、そうか。彩芽は錯覚の絡繰りに気がつき、小さく舌打
ちをした。
通常、対象物との距離は視界に入る様々な目印を頼りに間隔を掴
233
む。しかし、この部屋には窓や扉、影さえもない。故に彩芽は部屋
の距離感があやふやになり、徐々に空間が狭まっていることに気づ
けなかった。
﹁⋮⋮このままだと、どうなるのかしら﹂
﹁紅さんもわかっているんじゃないですか?﹂
﹁聞かなきゃわからないことは山ほどある﹂
彩芽は上目遣いで鈴木を睨んだ。
﹁一言で表すなら、圧死でしょうか﹂
やはりそうか。
短く鼻から息を吐き出して、彩芽は動く。
体の魔力を最高まで高め、拳に集中させる。
みずのごとし
イメージするのは、僅かに金色がかった透き通る液体。
最上の善は如水。それは、魔法も同様だ。攻撃対象物以外にダメ
ージを与えない攻撃︱︱一極に力のすべてを集約させる。そうする
ことで、エネルギィの分散を防ぐ。音も、余波も、反動もない。攻
撃された対象以外は、なにが起ったのかわからない。それこそが、
最高の攻撃である。
彩芽が想像したイメージが、拳に集結する。
それが極限まで圧縮され、拳の僅か先にて結集する。
肉眼で捕らえるのがやっとの小さい魔弾。そこに、彩芽の渾身の
魔力が込められている。
﹁下がって﹂
短く彩芽は鈴木に伝えた。
鈴木は彩芽がなにをするのか、それだけで察知したのだろう。い
そいで彩芽の後方へ移動した。
鈴木の移動を確認して、彩芽は前方に跳躍。
目の前の壁に向かって、思い切り拳を振り抜いた。
﹁︿鹿鳴﹀!!﹂
壁に拳が触れた瞬間、部屋の光が僅かに揺らいだ。
音はない。揺れもない。一般人が彩芽の攻撃の威力を計れる見た
234
目上の変化は何一つない。しかし、魔力を感知できる人間は、それ
がどのような攻撃であったのか、瞬時に理解できただろう。その証
拠に、普段はあまり変化を見せない鈴木の表情が凍り付き、青ざめ
ている。
それは対象物のただ一点だけを粉砕し、破壊し、破滅させるため
だけに特化した究極の火力魔法。先端から放出された魔力量は、五
十の人間を破滅に導いてあまりある膨大なものだった。
﹁⋮⋮うーん。まだまだだね﹂
上級悪魔ならば一発で浄化させられるだろう威力の魔法だったが、
それに彩芽は満足することはなかった。
﹁︿鹿鳴﹀とは初めて耳にしましたが。新しい魔法ですか?﹂
﹁そう。試しに使ってみたんだけど、やっぱり初めてじゃ上手くい
かないなぁ。まだ、微妙に魔力が分散してる﹂
﹁⋮⋮そうでしたか﹂鈴木は苦笑しながらメガネを押し上げる。﹁
いままで僕は何度となく紅さんの魔法を見てきましたけれど、いつ
になっても驚かされます﹂
﹁それ、どういう意味よ﹂
悪い意味だと勘違いした彩芽は鈴木を横目で睨んだ。
﹁新しい魔法を一回で完成形まで持って行ける方を、僕は知りませ
ん。普通の魔法少女なら、何日も魔法を練習しなければ実践に耐え
うる魔法にならないんです。⋮⋮ただ、今回は相手が悪かったみた
いですね﹂
彩芽が悪い意味だと勘違いした理由。鈴木の指摘は、彩芽の拳の
先にある。
尋常でない攻撃魔法を受けても、ねずみ色の壁は微塵も変化して
いなかった。
﹁魔法の発動時に若干のロスがあったから。それをなくせば行ける
気がするんだけど、どうだろう?﹂
首を傾げる彩芽に、鈴木は首を振った。
﹁おそらくそれではダメでしょう。もしここが普通の場であるなら、
235
紅さんが打ち出した魔力は前方に抜けるはずです。しかし、その魔
力は壁で跳ね返って分散しました。紅さんが魔法を発動したとき、
若干の場の揺らぎは、その影響によるものです。つまり、ここは通
常ではない場︱︱結界の類いだと推測されます﹂
﹁結界、ね。たしかに、それなら納得﹂
彩芽は小さく顎を引いた。
結界は基本的に、敵の攻撃によって解れることはない。術者が結
界を解くか、術者の魔力が消えない限りは解れない。
彩芽の魔法で壁に傷一つ与えられなかったことと、魔力の反射に
より一瞬場が不安定になったことから、鈴木はここが結界系魔法の
中だと推測したのだろう。おそらくその推測は間違いではないと彩
芽も考える。
﹁だとするなら、結界が解れるまで攻撃し続けるっていう手はどう
かな?﹂
﹁それも、無理でしょう。攻撃をすると結界は当然ダメージを負い
ます。結界の魔力を損耗させることはできるでしょうけれど、如何
せん効率が悪すぎます﹂
﹁それもそうね﹂
結界は防衛に長けた魔法である。最強の矛と最強の盾の話しとは
違い、結界は攻撃魔法を緩和する術に長けている。でなければ、悪
魔を長時間閉じ込められない。
結界の耐久力を十と仮定すると、彩芽一人で損耗させられる数値
はせいぜい一削れるかどうかだろう。彩芽が十人かそれ以上いなけ
れば破れないのでは、損耗を目的とした結界の攻撃はほとんど無意
味である。
﹁じゃあ、あんたの転移魔法はどう?﹂
﹁先ほどから試しているのですが⋮⋮すみません。座標が掴めない
ので、転移魔法は使えません﹂
使えるなら、最初の段階で使ってるか。
﹁ま、そうだよね﹂
236
彩芽は落胆することなく頷いた。この状況下で脱出できる可能性
が高いのは鈴木の転移魔法だったが、使えないのでは仕方がない。
﹁せめて、なにで結界を維持している対象物を見つけ出せれば良い
のですが﹂
﹁対象物? 術者ってこと?﹂
﹁術者も、その一つですね﹂
鈴木の意味ありげな答えに、彩芽は首を傾げる。
﹁他にもなにかあるの?﹂
﹁そうですね。たとえば小石とか﹂
﹁小石? あんた、ほんと小石が好きだね﹂
初めて彩芽が鈴木に出会ったときも、鈴木は小石を弄っていた。
小石広いのなにがそんなに楽しいのか? 彩芽にはさっぱり理解で
きない。
﹁別に僕は小石が好きなわけじゃないんですよ﹂と鈴木は苦笑した。
﹁あれは僕が魔法を使う上で一番重要なものなんです﹂
﹁ん? どういう意味よ﹂
鈴木は辺りを注意深く見まわし、彩芽に一歩近づいた。
﹁あれが僕の転移魔法なんです﹂声を潜めて、鈴木は言った。﹁過
去から現代にいたるまで、実に様々な魔法が人間の手により生み出
されています。現代は主に、術者から直接発動するタイプが主流で
すが、一昔前は発動するための装置を用いていました。英雄伝説に
出てくる武器ですとか、神社にあるご神木ですとか。曰くのあるも
ののほとんどが、魔法を発動するための装置といってもいいでしょ
う﹂
﹁たとえば草薙の剣とか?﹂
﹁それは古すぎてよくわかりませんが﹂と鈴木は苦笑する。﹁そう
だったのかもしれませんね。装置を魔術回路として用いることで、
過去の偉人達は、大規模な魔法を実現させていました。おそらくこ
の空間も、そういう装置が用いられていると思います。神話的強度
は、さすがにないでしょうけれどね﹂
237
﹁この中に?﹂彩芽は首を傾げる。﹁中っていったって、なにもな
いけど﹂
見渡す限りねずみ色。壁と天井と床に、彩芽と鈴木の二人。他に
はなにもない。彩芽にはどう見ても、ここにその魔術的な装置があ
るようには思えなかった。
﹁本当にあるの?﹂
﹁それは間違いありません。初めに探知魔法で、部屋の構成を︱︱
大ざっぱにですが調べましたから﹂
﹁なるほど﹂と彩芽は頷いた。
﹁見つかりやすい場所にあれば簡単に破壊されますから。巧妙に隠
されているのだと思います﹂
部屋全体を眺めながら、彩芽は口を開く。
﹁手探りで地道に探すしかないってこと?﹂
﹁おそらく。それが確実かと思います﹂
彩芽と鈴木はすぐさま、部屋の壁や床に手を伸ばした。床を手で
探りながら、彩芽は口を開く。
﹁その⋮⋮昔は装置を用いて魔法を使ってたんだよね?﹂
﹁はい、そうです﹂
﹁どうして、装置は使われなくなったの?﹂
﹁そうですね。理由の一つは、昔に比べて人間の寿命が伸びたこと
でしょうか。魔法少女として生きられる時間が長くなると、魔法が
練達していきますから自然と、装置がなくても確度の高い魔法が使
用できるようになります。もう一つは、装置の不便さ故でしょう。
装置は魔術回路としては非常に優秀でしたが、それがなければ魔法
が発動できない事態に陥ってしまいます。損耗も消失もする法衣だ
と喩えれば、判っていただけますか?﹂
﹁なるほどね﹂
悪魔との戦闘中に傷み、破壊されてしまった場合、致命的な事態
に陥ってしまう。たしかにそれは不便だ、と彩芽は思った。
﹁装置による魔術回路。良さそうだと思ったんだけどなぁ﹂
238
﹁良さそう、とは?﹂
﹁んー﹂彩芽は鼻を鳴らす。話すべきかどうか迷い、しかし結局彩
芽は素直に口を開いた。﹁実はさ、そろそろ魔術を覚えようと思っ
てたんだ、あたし﹂
﹁魔術、ですか。⋮⋮なるほど。たしかに魔術を使えるにこしたこ
とはありませんが、紅さんの場合は無理に魔術を習得せずとも、魔
法だけでも十分戦えると思いますよ﹂
﹁それじゃ、足りないのよ﹂
全然、足りない。沙羅の魔術を見たとき、彩芽は強い敗北感を覚
えた。魔力も、技術も、彩芽のほうが何倍も高い。しかし、沙羅は
魔術が使えて、彩芽は未だに魔術が使えない。
﹁覚えておきたいのよ。今後のために﹂
﹁今後、ですか⋮⋮﹂鈴木は一度言葉を切った。﹁装置を用いた魔
術は、比較的簡単に行使できます。たとえば過去の魔法少女はご神
木に拡散型の魔法を組み込みました。そこに防御型の魔法を流し込
むことで、拡散と防御の両方が有機的に結合して、広い結界を生み
出したんです。魔法装置は万能ではありませんが、一つか二つは作
成しておくと良いかもしれませんね﹂
﹁それじゃ、ダメなのよ﹂
彩芽は吐き捨てるように呟いた。
そんなものだと、沙羅と同じか、低レベルの魔術にしかならない。
もっと強い魔術でなければ、沙羅の鼻の穴をあかせない。
﹁それでは髪の毛を用いてはいかがですか? 髪の毛はなにもせず
とも、優秀な魔術回路ですから﹂
﹁いいかもしれないけどさ、でも魔術を使う度に、髪の毛を抜けっ
てことでしょ? いったい、一回の戦闘で何本抜くことになるのよ﹂
﹁紅さんの一回の戦闘での魔法使用回数ですが、一番多いものだと
千回ですね﹂
﹁せ︱︱﹂
﹁人間の髪の毛の本数は十万本ですから⋮⋮﹂
239
﹁あたしが死ぬより禿げるほうが早そうね。髪の毛は却下﹂
彩芽は首を振った。魔法少女ツルツルは絶対に嫌だ。
﹁では、法衣を二つ生み出してみてはいかがですか?﹂
﹁⋮⋮は? そんなこと︱︱﹂
できるのか? 考えたこともなかった。
法衣は基本的に一人一着、魔法少女は法衣を生み出す。過去の魔
法少女は︱︱彩芽が知る限り、法衣は魔法少女一人につき一着だけ
である。
それを、二着具現化させる? ⋮⋮できるのか?
﹃二つ生み出してはいかがですか?﹄
いや、鈴木は当て推量を口にしない。
⋮⋮考えてみる余地は、ありそうだ。
﹁⋮⋮わかった。考えてみる﹂
彩芽は鈴木の言葉を胸に刻んだ。
探索を初めて、終わるまでには五分とかからなかった。しかしそ
の間にも縮小を続けた部屋は、大人が五人と立っているのがやっと
の空間まで狭まっていた。
手がかりは、なにも見つかっていない。
﹁⋮⋮どうするのよ﹂
部屋は狭いし、狭いせいで鈴木とは触れあわんばかりに近い。
このままいけばぺしゃんこだ。
酒臭くないだろうか? メイクは落ちてないだろうか? 考え始
めると、彩芽は段々と自分のことが嫌いになっていく。なんでこん
な奴とこんなに狭い部屋でこんなに近くに居なきゃいけないのよ。
しかも、この状況で、妙なことばかり意識しなきゃいけないのよ!
彩芽は自らの頭を掻きむしり、冷静さを保とうとする。
﹁大丈夫ですよ、紅さん。きっと、助かる方法はありますよ﹂
彩芽が冷静でいられなくなったのはもちろん、自分のせいなのだ
が︱︱それを知るよしもない鈴木は勘違いし、優しく声をかけた。
鈴木と彩芽のあいだはもう人一人分しかない。その距離になって、
240
実感する。
︵鈴木って、こんなに背が高いんだ⋮⋮︶
鈴木の身長は男性の中では実に平均的で、高いというほど高くは
ない。だが、小学校で生育がストップした彩芽には、鈴木の身長が
とても高く感じられる。
﹁ち、近寄らないで!﹂
顔から飛び出す炎を声にし彩芽は叫んだ。
﹁すみません。これ以上は下がれません﹂
﹁あたし、ダメ。死ぬ。酒!﹂
﹁く、紅さん? 落ち着いてください﹂
彩芽が動転を続けている間に、縮小した部屋はついに二人の距離
を奪った。嫌がる彩芽に鈴木の胸が迫る。必死に抵抗するも、抗い
がたい力により背中を押され、ついには彩芽は鈴木に接触してしま
った。
﹁⋮⋮っ!﹂
ぞわぞわっ!と寒気がする︱︱するものだと思った。だが、予想
に反して、寒気はいつまでたっても訪れなかった。顔を背けたせい
で、鈴木の胸に耳が接触した。正常な彼の鼓動が、彩芽の鼓膜を叩
く。
﹁⋮⋮っ﹂
彩芽はある事実に思い当たり、はっと息を呑んだ。
ほんと、あたしって馬鹿じゃないか? 二十にもなって、当たり
前の事実に気がついて、彩芽は自分が情けなくなった。
鈴木の鼓動を聞いて、そこで初めて、彩芽は鈴木も生きているの
だと理解した。
恥ずかしくて絶対に口にはできない。馬鹿みたいな話だ。実際、
馬鹿だったのかもしれない。﹃人間は生きている﹄という言葉を、
人は何度となく用い、沢山の手垢を言葉に付けてきた。けれど、そ
の本質を本当の意味で理解するにはやはり、言葉だけでは足りない。
人間は絶対に他人を理解できない。他人の思考は見えないし、痛
241
みも共有できない。それらがわかるという人は、それらしいものを
単に想像しているに過ぎない。自分は他人ではないのだから、理解
することはできない。
だからこそ、人が生きているかどうかさえ霞がかかったようにう
やむやなまま、﹃人は生きている﹄という言葉だけを妄信してしま
う。
しかし、二十年生きた彩芽はここへ来て、鈴木の鼓動を聞くこと
で、他人の﹃生﹄の欠片のようなものを、見つけた気がした。
もしかしたらそれは今日妙に再現された虚像かもしれない。けれ
どそれでも彩芽は、それが自分にとって、とてつもない意味を持っ
ているように思えた。
﹁困りました。このままだと、部屋に潰されて、死んでしまいます﹂
冗談なのか挑発なのか。鈴木の言葉に、彩芽は僅かに頭に血が上
った。
﹁死なないよ。絶対に、死なない。死なせない﹂
その言葉は、五分前の彩芽ならば絶対に口にしなかった。拳を堅
く握り、破壊するつもりで後方に叩き付ける。しかし、壁はまるで
びくともしない。堅い壁の感触が、彩芽の手の皮をすり減らした。
そのとき、彩芽のポケットからなにかがこぼれ落ちた。
﹁⋮⋮ん? なにか落ちましたよ﹂
落下したものを見ようと、鈴木は顔を下に向ける。鈴木の声に反
応した彩芽は逆に、上を見た。
鈴木との顔の距離は、二十センチもない。
鈴木の瞳に、彩芽の顔が映り込む。普段彩芽が見たことがない距
離で見る鈴木の瞳は、見ているだけで思考が吸い込まれてしまいそ
うなほど深い黒色をしていた。それなのに、誰も触れたことのない
名も無い森の奥の泉のように、どこまでも透き通っている。
彩芽の時間が、停止した。
ほんの少し踵を浮かせれば、そのまま⋮⋮ってなにを考えてるん
だあたしは!
242
﹁紅さん? 足下にあるそれは、なんですか?﹂
鈴木の言葉でやっと我を取り戻した彩芽は、顔を下げて床を見た。
そこには、淡いピンクの模様がついた紙くずが落ちていた。。
﹁あ、そういえば﹂と彩芽は思い出す。﹁沙羅が食べたクレープの
︱︱﹂
﹁それです!﹂
﹁それ?﹂
彩芽は首を傾げ、そっと上目遣いで鈴木を見た。
﹁それが、結界の元です。紅さん。破壊できますか?﹂
鈴木は、床に落ちたゴミだけを見ている。
⋮⋮。
彩芽など、鈴木の眼中になかった。
⋮⋮⋮⋮。
﹁これを破壊すればいいのね?﹂
﹁はい。お願いし︱︱紅さん?﹂
﹁フ、フフフ⋮⋮﹂
鈴木の言葉が終わる前に、彩芽は魔力を活性化した。
燃え上がるほどの熱を帯びた魔力を右足に集約し、彩芽はそれを
一気に床に振り下ろす。
﹁鈴木のバカッ!﹂
一瞬にしてねずみ色の視界が白に染まった。
243
第一章 紅彩芽、夢を見失います6
確実に鈴木の足を砕いたと思った一撃は、残念ながらねずみ色の
床を砕いただけに終わった。天性の感覚なのか。まったく。鈴木の
回避能力は計り知れない。
ねずみ色の部屋に隔離されていた二人は、部屋を構築する媒体の
破壊により脱出に成功した。脱出した先は、先ほどと同じゲームセ
ンター前だった。
﹁一時はどうなることかと思いました﹂
鈴木の至って平静な口調に、彩芽は眉を寄せる。本当にそう思っ
てるのかこいつは?
﹁紅さんは結界の媒体をお持ちでしたが、まさか、紅さんがいまの
出来事の実行者というわけでは、ありませんよね?﹂
﹁あたりまえでしょ! なにが楽しくてあんたと二人きり、狭い部
屋に閉じ込められなきゃいけないのよ﹂
﹁そうですか? 僕はわりと楽しめましたけど﹂
﹁バカ言わないで﹂
こいつの言葉は嘘嘘。そう念じながら、彩芽は小さく吐き捨てる。
﹁⋮⋮とすると、犯人はどなたなんでしょうね?﹂
それが全体的で曖昧は問いかけではない。鈴木は、彩芽が犯人に
心当たりがあることを確信して問うている。
﹁きっと、沙羅って子よ﹂
﹁天道さん、ですか?﹂
﹁ええ。さっきの結界の媒体だけど、そこのクレープ屋の包み紙な
のよ﹂彩芽は目だけで鈴木にお店の所在を伝える。﹁沙羅がクレー
プを食べて、そのままゴミを地面に捨ててたのよ﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂
ふぅ、と鈴木はゆっくりと鼻から息を吐き出して、黙った。
クレープの紙ゴミがあの部屋を構築していた媒体だったことから、
244
彩芽はそれを捨てた沙羅が犯人だと考えている。クレープを食べな
がら、沙羅は紙に魔力を込め、その場に捨てた。彩芽は半ば条件反
射的に拾ってしまったが、本来彩芽が拾うべきものではない。結界
の中には、結界を形作る要素は入れないのが基本である。
悪魔との戦闘時、︵一部、聡美という例外を除き︶結界師は結界
の中に入らないのが基本である。結界の中に入り、悪魔の攻撃で死
亡してしまっては結界が消えてしまうからだ。
結界を形作っていた媒体もまた同じ。
もし基本が忠実に守られていれば、彩芽らはあの部屋に飛ばされ
たまま、脱出することができずに圧死していただろう。
﹁すみません。僕には天道さんが犯人のようには思えません﹂
﹁なにを言ってるのよ。どう考えたってあの子が犯人じゃない﹂
﹁状況的には、そうですね。しかし、僕はあの包み紙をじっくり観
察したわけではありません。もしあの包み紙が手元にあり、結界を
構築していた魔法の断片でも残されていることが確認できれば、天
道さんが犯人と断定することができるのですが﹂
﹁状況証拠は揃ってるのに。ずいぶん弱腰ね﹂
﹁相手は、天道さんですから﹂
鈴木が困ったような顔をした。
﹁それ、どういう意味よ?﹂
﹁ええと⋮⋮、秘密です﹂
マネージャーとしての力はあるくせに、嘘をつくのが下手なのは
どうしただろう? 適当に嘘をでっち上げて、煙に巻いてしまえば
いいのに。これじゃ、鈴木になにかあると勘ぐっちゃうじゃない。
彩芽は腕組みをしながら鈴木を睨んだ。鈴木は彩芽に睨まれても
平然とした、涼しげな表情を崩さない。こういう部分の図太さは、
たいした物だと彩芽は思う。
﹁じゃあ聞くけど﹂と彩芽は口を開いた。﹁沙羅が犯人じゃないな
ら、誰が犯人なのよ﹂
﹁悪魔かもしれません﹂
245
﹁クレープの包み紙を使う悪魔なんてどこにいるのよ﹂
﹁人間界に適応した悪魔は、もしかしたらいるかもしれませんよ?﹂
人間界に、適応⋮⋮。
自宅近くの銭湯で入浴したあと、腰に手を当てて牛乳を飲み干す
悪魔とか? 近頃は銭湯の値段も高くなったもんだとかなんとか。
五十年前は格安だったのになぁ。なのに労働賃金は上がらないし。
日銭稼ぐのも大変だ。あ、今日生ゴミの日じゃん! ふえぇ。ゴミ
出すの忘れてたよぉ。
⋮⋮そんな悪魔、絶対に嫌だ。
﹁ばっかじゃないの?﹂という一言で、彩芽は自らの妄想を吹き飛
ばした。﹁結界を生み出せるのは人間だけでしょ?﹂
﹁ええ、その通りですね﹂
﹁じゃあ人間の中で犯人を考えなさいよ﹂彩芽は足を鳴らした。
﹁考えてはいますよ。ただ、僕の場所からでは犯人の顔がよく見え
ないんです﹂
﹁あんたくらい背が高くても見えないものがあるのね﹂
﹁身長は関係ありませんよ﹂
﹁ただの冗談よ﹂
﹁僻みとも言いますか?﹂
﹁喧嘩売ってるの?﹂
﹁冗談です﹂鈴木は口を斜めにした。﹁関係あるのは立ち位置です。
ひとまず、この件に関しては、僕が預かります。もしなにかがわか
れば、紅さんにきちんと報告します。それで、よろしいですか?﹂
﹁⋮⋮たとえ沙羅が犯人だったとしても、嘘つかないで教えなさい
よ﹂
﹁はい。ありがとうございます﹂
目を細めて、鈴木は軽く微笑んだ。
﹁それで? あんたはなにを伝えたくてあたしのところに来たのよ﹂
﹁ああ、すっかり忘れていましたね﹂
忘れるなよ、と思うがあんな出来事があった以上、頭の中から抜
246
け落ちていても仕方がない。
﹁実は、うちの事務所が何者かにより、攻撃を受けている可能性が
あります﹂
自宅の扉を開いた瞬間から、彩芽は一種異様な香りを感じ取った。
髪の毛を燃やした臭いと、排水溝のヌメリの臭いと、牛乳を沢山含
んだ雑巾を夏場に放置したときのような臭いがミックスされたよう
な︱︱ひとたび鼻をくぐり抜ければ嘔吐いてしまうほどの激臭が、
家の中に立ちこめている。
﹁姉さん。お帰りなさい﹂
現れた妹の姿に、彩芽はしばし大量殺戮激臭のことを忘れてしま
った。
妹は、エプロン姿だった。いったいどこで購入してきたのか白い、
ふりふりのついたエプロンに、自分のものだろう高校の制服。髪の
毛は一本に縛り上げられ、前髪がピンクのラメの入ったヘアバレッ
タで止められている。
︵うちの妹がこんなに可愛いなんて⋮⋮︶
﹁姉さん?﹂
魂がうっかり口から離脱しそうになったところで声がかかり、彩
芽は意識を取り戻した。
﹁ああ、ごめんごめん。で、どうしたの? その格好﹂
﹁どうですか?﹂
エプロンの裾を少し広げて見せて、香は靴下を滑らせて、くるっ
と一回転した。
﹁か、可愛いね﹂
やばっ。鼻血出そう。
﹁そうでしょう? えへぇ。可愛いエプロンを見つけたから、つい
買っちゃいました﹂
﹁ふぅん。どこで?﹂
﹁ドンキ⋮⋮なんとかというデパートでした﹂
247
﹁⋮⋮それ、デパートじゃないからね﹂
てか、ドンキで買ったのか。
だとするとこのエプロンは⋮⋮。いや、考えるのはよそう。香に
似合っているのだから、それでいいじゃないか。
リビングに入ると、お皿に盛りつけられた料理が彩芽の目に飛び
込んできた。
ご飯にお味噌汁。ドリアにチキンローストレッグにポテトサラダ。
厚焼き卵に麻婆豆腐に手の平サイズのピザと、テーブルの上がちょ
っとしたバイキングのようだ。
﹁まさか、一人で作ったの?﹂
﹁ええ。姉さんに食べていただきたくて﹂
えっへん、とでも言うみたいに香は胸を反らせた。その仕草に彩
芽は僅かに瞳を潤ませる。もちろんその理由は、香が自分の為に手
料理を用意してくれたから︱︱ではない。
椅子に座り、手を合わせてから彩芽はまず、味噌汁に口をつけた。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁どうですか?﹂
香が不安げに彩芽の顔をのぞき込んだ。
﹁⋮⋮おいしいね﹂
長い沈黙のあと、彩芽は曖昧に答えた。
次に、彩芽はスプーンでドリアを掬う。そのドリアのホワイトソ
ースの端から、なにか、細い物体が飛び出した。細いそれは﹁く﹂
の字型に折れ、その先端が三本に分かれている。
これは⋮⋮!?
﹁わぁ、こっちもおいしそう﹂
震える声で呟いて、彩芽はそっとスプーンで掬ったドリアを元の
穴に収める。
彩芽は、なにも見なかったことにした。
金色の厚焼き卵に箸を通す。厚焼き卵の造形は、もしかしたら彩
芽より上手かもしれない。均一の厚さで巻かれた、ミルフィーユ状
248
の卵に箸を通すと、その隙間から固まりきらなかった卵がとろっと
溢れ出す。
これはおいしそうだ。
いや、おいしいはずだ。
神に祈る気持ちで彩芽は厚焼き卵を口に放り込み︱︱、
﹁︱︱ブボッ!﹂
吹き出した。
彩芽はいそいで台所に走り、コップになみなみ注いだ水を煽る。
﹁あんた、卵になに入れたのよ!?﹂
﹁ドンキなんとかで買った調味料で、こーれーぐーすという名前で
した﹂
﹁島唐辛子か⋮⋮﹂
口の中が焼けるように痛いのは、そのせいか。そんな危険なもの
を、どうして卵に入れるんだ。
﹁味噌汁はなにで味付けしたの?﹂
﹁お味噌ですけれど﹂
﹁その他にもあるでしょ?﹂
﹁ええと、お出汁を沢山入れました﹂
﹁ダシ?﹂
台所を見まわすと、すぐのそのダシの正体が判明した。赤いパン
ダの顔が描かれた小瓶︱︱味の素だ。
﹁もしかして、味の素を全部入れたの?﹂
﹁ええ。お出汁が利いていますでしょう?﹂
感じたのはダシではなく塩分で、なのに甘くてくどい。調味料の
加減を間違えると劇物になるという、お手本のようだ。
﹁⋮⋮あんた、味見した?﹂
﹁いえ?﹂
いえ、じゃないだろ! と罵りたい気持ちをぐっと堪える。
﹁料理をするときは、味見くらいはしなさい。相手に料理を振る舞
うときの、最低限の礼儀よ﹂
249
﹁おいしくなかったんですか?﹂
﹁食べて、確かめてみなさい﹂
彩芽に促されて、香は厚焼き卵を口に放り込んだ。よりにもよっ
て、それを食べるとは。彩芽の不安は的中し、香は目を見開いて口
に手を当てた。しばらく、ふるふると肩を振るわせたが、吹き出す
ことなく飲み込んだ。
﹁姉さん。こんなものをおいしいと本気でおっしゃってるんですか
!?﹂
﹁思ってるわけないでしょ!﹂
﹁姉さんの嘘つき!﹂
﹁じゃあ不味いって言えばよかったの?﹂
﹁そこは、良い言い方があるじゃないですか﹂
﹁次、ガンバロウね。とか?﹂
﹁遠回しに不味いって言ってるのがバレバレです﹂
﹁なるほど。じゃあ、個性的な味だね。とか?﹂
﹁嫌味にしか聞こえません﹂
﹁じゃあ︱︱﹂
って、何の話をしてるんだ。これじゃ、新婚夫婦の会話みたいじ
ゃないか。なにが哀しくて妹と夫婦生活の真似事をしなければいけ
ないんだ⋮⋮。
﹁まあ、いいわ。あたしが代わりに作るから。作り方をよく見てお
いて﹂
﹁⋮⋮すみません﹂
しおらしく、香は目を伏せる。香の両手には、いくつもの絆創膏
が貼られている。本当は、料理が苦手なんだろう。それもそうだ。
実家にいれば、料理人が料理を作ってくれるのだから。
苦手だけれど、頑張って料理を作った。その心意気は、料理こそ
不味かったが彩芽の心を暖める。
彩芽は香に料理の手ほどきをし、一時間後に夕食再会の運びとな
った。
250
香が作った料理は、すべてビニール袋に放り込んだ。
非常に残念でもったいないことではあったが、内部分析など行わ
ずに一気に捨てた方が良い︱︱そう彩芽の高レベルな危機察知能力
が告げていた。
食事が終わって一段落付いたとき、彩芽は携帯で聡美に電話をか
けた。
﹃おかけになられた番号は、現在使われていないか︱︱﹄
時間を空けて何度かかけてみたが、聡美の携帯に電話が繋がらな
い。
いつもならそう気にするようなことではなかった。けれど、鈴木
の言葉の後では、聡美に電話が繋がらないことの意味合いが変って
くる。
聡美に電話をかければかけるほど、彩芽はずぶずぶと底のない、
冷たい沼に埋もれていく気がした。
聡美との通信を諦めて彩芽は布団に入った。意識がとろんと睡眠
の世界に足を踏み入れたとき、部屋の扉が静かに開いた。彩芽の意
識がすぐさま現実に引き返す。
布団の中に、こっそりと何者かが侵入してくる。
﹁香?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁どうしたの?﹂
﹁姉さん。一緒に寝て、いいですか?﹂
一緒に寝るような年齢ではないが、悪い気にはならない。彩芽は
ぬゴンで頷いた。
﹁姉さん。⋮⋮お話したいことがあるんですが﹂
来たか、と彩芽は思った。
いままでなんのために、香がここに来たのかを、彩芽はまだ聞か
されていなかった。問いただすことはできた。しかし、香と離れて
暮した歳月が、強引な手法を拒絶していた。
251
﹁実は私、結婚するんです﹂
﹁け︱︱っ!?﹂
唾液が器官に入り込んだ。彩芽はしばらく息ができないくらい、
激しくせき込んだ。
﹁結婚って⋮⋮。それは、紅家として?﹂
﹁はい。婿取りです﹂
﹁なるほどね﹂
紅家は代々、その土地を守ってきた。その家が潰えることは先祖
に対しての恥である。彩芽はそう、父親から口酸っぱく教えられて
きた。
紅家を存続させるためならば、なにをしても良い。彩芽の父親は、
そういう人物だった。
﹁あ、相手は?﹂
﹁地元の名士、でしょうか。私は、写真でしか見たことがありませ
んが。知らない方です﹂
﹁ふぅん。かっこいい人?﹂
﹁お世辞にも⋮⋮﹂
そうとは言えない。香は彩芽の背中に顔を埋めて首を振った。
﹁髪の毛は薄く、背は私よりも低く、横幅は私より二倍ほど大きい
そうです﹂
﹁それはまた⋮⋮﹂
チビ・デブ・ハゲ。
なるほど、最低だ。
﹁相手は人間?﹂
﹁一応﹂
香の返答に、若干の悪意が混在していたのは、この結婚に対して
少なからずの不満があるからだろう。
﹁嫌なの?﹂
﹁口にはできませんが﹂
嫌だったとしても、香は父親の言いなりになるしかない。
252
結局のところ、彩芽も香も、父親の道具でしかなかった。紅家と
いう名を守るためだけに存在する、未来への繋がり、媒体であって、
人間ではない。ただ、その扱いに対して彩芽が不快感を覚えたこと
は、一度もない。
ひとは生まれ出た場所が普通となり、正常となる。たとえ歪であ
ったとしても。子育てとは、そういうものなのだ。
﹁それが嫌だから、ここに来たのね?﹂
﹁⋮⋮いえ。それだけでは、ありません。嫌、といえば嫌ですが、
そこから逃げだそうなどとは、考えていませんよ﹂
﹁じゃあ、なんで?﹂
﹁少し⋮⋮姉さんの顔を、見たかったんです﹂
そう言って、香は彩芽をきつく抱きしめた。
その背中で震える香は、世界が求める柔らかく暖かい中心のよう
に思えた。手を伸ばさなくても触れられている距離にあるのに、温
もりを感じられているのに、その存在は手を伸ばしても届かない消
失点の向こう側に位置している。
おそらく、彩芽がなにを言っても、香には届かないだろう。そう
確信する。だからこそ、胸が、苦しくなる。
彩芽が冷静さを取り戻したころ、背中から小さい寝息が憩えてき
た。彩芽は後ろを振り返って、そっと、香に布団をかけ直す。
香を追い詰めているのは、あたしだ。もしあたしが家を出なけれ
ば、香は酷い相手と結婚をせずにすんでいたのかもしれない。けれ
ど、もしそうしなければ、香はいまごろ墓の下︱︱いや、墓さえ無
く、土に還っていただろう。
あのとき、香を見殺しにすればよかったのか?
⋮⋮いや、その結論はもう、あのときに出したはずだ。あのとき
がすべてであって、いまの自分にも繋がっている。
蘇る罪悪感を沈めながら、彩芽もまた、睡魔の糸をたぐり寄せる。
彩芽が最後に意識したのは、背中の香の温もりと、金髪の少女だ
った。
253
二章 紅彩芽、夢を思い出します。1
翌日の早朝。不穏な空気を感じ取り、彩芽は目蓋を開いた。
朝の静謐な空気に混じって、魔力を感じる。この根源は、どこだ?
彩芽はすぐさま、魔力で察知能力を高めた。
場所は、かなり近い。
ベッドから跳ね起きて、彩芽はパジャマを脱いだ。
﹁⋮⋮ううん。姉さん。どこへ行くんですか?﹂
彩芽が飛び起きた拍子に、香が目覚めたらしい。彼女は重たい目
蓋をやっと持ち上げて、彩芽を見る。
﹁ちょっと、コンビニに行ってくる﹂
香の、重力に逆らう髪の毛の房を撫でながら、彩芽は嘘をつく。
﹁そうですか﹂ふわぁ、と欠伸をして、香は体を横たえる。﹁いっ
てらっしゃい﹂
﹁⋮⋮いってきます﹂
行って来ます、というのはいつぶりだろう? そんなことを考え
ながら、彩芽は部屋を飛び出した。
魔力の根源たる場所にはすでに、結界が張り巡らされていた。辺
りを見まわしても、結界師の姿がない。ティーンズ・マジックの結
界役が出張って来ているんじゃないのか?
彩芽は警戒しながら、結界の中に足を踏み入れる。
そこには、先日に目撃したよりも遥かに巨大な使い魔がいた。体
調は十メートルほどだろうか。不安定な体が、伸びたり縮んだりし
ている。使い魔の内部から感じられる魔力も、相当だ。魔力総量だ
けならば、上級悪魔にも引けを取らない。
﹁おっはよぉ!﹂
さわやかな朝というものを完璧に表現した声が空から聞こえ、彩
芽は上を仰ぐ。
254
二階建ての家屋の屋根の上に、金髪の少女が居た。
﹁⋮⋮沙羅﹂彩芽は呻くように呟く。﹁結界を張ってるのはあんた
なの?﹂
﹁なんのお話?﹂
﹁前にも伝えたはずだけど、あたしたちの縄張りで勝手に戦われち
ゃ困るんだって﹂
﹁ま、いいじゃない。そんな細かいこと﹂
﹁細かいって、あんたね﹂
﹁ぼくが戦ったらさ、きみが負ける心配が無くなるから、いいじゃ
ん﹂
﹁なん︱︱っ﹂
沙羅の言葉に、彩芽は絶句した。
負ける? あたしが、負ける?
⋮⋮舐めてるのか、こいつは!
怒りに震える彩芽の全身を眺め、紗良は顎に手を当てた。
﹁うーん。もう少しってところかな?﹂
﹁なにがよ!?﹂
﹁さぁね♪﹂
金髪をかき上げ、沙羅は体内の魔力を高めた。
魔力の増幅。
圧縮。
充填。
﹁ちょ、ちょっと待って。これは、あたしの獲物よ! 勝手に手を
︱︱﹂
天駆ける雷鳴。鳴動。
彩芽の言葉が、途中でかき消された。
使い魔の直上に出現した稲妻が、使い魔を打ち砕いた。
﹁⋮⋮っ!﹂
たった一撃で、上級悪魔と同等の魔力を保持する使い魔を、浄化
してみせた。沙羅の魔術の腕は、確かだ。そこは、認める。しかし、
255
同じく一撃で使い魔を倒せたのはこちらも同じだ。
﹁⋮⋮あんた﹂
彩芽は体内の魔力を増幅させ、臨戦態勢となる。
﹁いったい、ここに、なにをしにきたの?﹂
﹁なにを? 不思議なことを聞くんだねぇ。魔法少女がやることと
いえば、悪魔の浄化に決まってるじゃない﹂
﹁そうじゃない! あんた⋮⋮、ティーンズ・マジックに、なにを
しかけてるのよ!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮?﹂沙羅は首を傾げた。﹁しかける?﹂
﹁惚けないで。あんたがあたしと鈴木を結界内に閉じ込めたんでし
ょ? あんたがいま保持してる結界。これがなによりの証拠よ。あ
んたは結界の触媒にクレープの包み紙を用いた。それをあたしの知
覚で発動させることで、あたしたちを閉じ込めようとした﹂
﹁ふえ?﹂沙羅は傾げた首をさらに傾げる。
﹁結局、あたしと鈴木は難を逃れて脱出できたんだけど。⋮⋮あん
た、まさかティーンズ・マジックに喧嘩でも売りにきたの?﹂
﹁えっとぉ、誤解があるみたいだけど︱︱﹂
﹁問答無用!﹂
彩芽の足下が爆発した。
彩芽は空を飛び、沙羅に迫る。
﹁︿鹿鳴﹀!﹂
拳に集約した魔力を、彩芽は思い切り振り抜いた。
沙羅に拳が触れる、その刹那。沙羅が僅かに動いた。
たったそれだけで、彩芽の渾身の攻撃が、躱された。
勢いを止められず、彩芽は民家に腕から突っ込んだ。拳が触れた
途端、民家の屋根が一瞬にして蒸発した。しかし、与えた破壊はそ
こまで。屋根の消えた民家の中に、凄まじい勢いそのままに突っ込
んでいった。
﹁ふんふん。対悪魔特化の極火力魔法だね。触れた対象だけを破壊
する魔法なんて、初めて見たよぉ。すっごいね!﹂
256
彩芽は、勢いを殺せぬまま壁に激突した。
﹁∼∼∼っ﹂
壁に激突した彩芽は、その衝撃に悶絶する。体を返すと、右腕の
激痛により意識が僅かに霞んだ。
付きだした腕が、歪に折れ曲がっている。おそらく︱︱いや、間
違いなく、骨折している。
糸できりきりと神経をこするような痛みが、腕を駆け抜け脳天へ
と突き抜ける。あまりの激痛に彩芽は立ち上がることができなかっ
た。
﹁全力で戦うときは、法衣は展開しないと危ないよぉ?﹂
余計なお世話だ! 沙羅に浴びせたい罵倒が、激痛により喉の奥
に埋没していく。
﹁それにしても、予想以上だよぉ﹂
﹁な、なにが⋮⋮﹂
﹁きみの弱さだが。正直、ガッカリしたよぉ。きみ、もう、魔法少
女辞めたほうがいいんじゃない?﹂
﹁あ、あんたに、そんなこと⋮⋮言われる筋合い、ない﹂
﹁仲間を攻撃するような魔法少女は、ぼくは認められないよぉ。そ
れとも、きみは喧嘩が好きなのかな? 悪魔の浄化も、趣味の延長
なのかな﹂
﹁そ、そんなわけ、ないでしょ!﹂
自分の声が腕に伝わり、刺痛に変化した。その酷い痛みに、彩芽
は悶絶する。
﹁じゃあきみは、どうして戦ってるの?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
どうして?
あたしは⋮⋮どうして戦ってるんだ?
﹁即答できないなんて、呆れちゃう。これが、東京最強の魔法少女
なんてねぇ﹂
﹁⋮⋮っく﹂
257
彩芽は気合いを入れて、折れ曲がった腕を強制する。そのあまり
の激痛に、意識が吹き飛びそうになる。しかし、それでも歯を食い
しばり、唇をかみしめて、彩芽は、立ち上がる。
﹁うわぁ﹂
痛みを想像するだけでも、体がよじれてしまう。そんな光景に、
沙羅は顔をしかめる。
﹁⋮⋮あたしを、舐めるな﹂
﹁すごいすごぉい﹂笑みを浮かべて沙羅は言う。﹁気合いは凄いけ
ど、それだけじゃあきみは、ぼくには勝てないよ。だって、きみの
攻撃にはもう、夢は宿ってないからね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮は?﹂
沙羅の一言で、彩芽の時が止った。
夢が、宿っていない?
あたしの魔法に、夢がない?
﹁そんな野蛮な攻撃じゃ、ぼくは超えられないし、強い悪魔は浄化
できない。きみ、すぐに死ぬよ﹂
笑みを消しただけの紗良の表情が、何故か彩芽には死を宣告する
医者のような、残酷さを伴っているように感じられた。
﹁ば、ばかを言わない︱︱﹂
突如、直上より現れた雷に、彩芽は打ち抜かれた。
電流が全身を駆け抜ける。そのショックに歯を食いしばって耐え
るが、彩芽の視界が欠落していく。
﹁その状態だったら、すべてが終わるまで眠っていたほうがいいよ。
せめて、きみがもっと︱︱﹂
沙羅の言葉のすべてを聞き取る前に、彩芽の意識は混濁たる茫洋
の彼方に消えていった。
目を覚ましたとき、彩芽の目の前には真っ白い天井が広がってい
た。鼻孔をくぐり抜ける、ツンとする香り。この臭いは、消毒薬か。
﹁目が覚めましたか?﹂
258
彩芽は起き上がり、声の主に顔を向ける。
﹁どうして、あんたが﹂
ベッド脇の椅子に腰を下ろし、文庫本を片手で広げた鈴木は、ペ
ージをめくるときにちらり彩芽を見た。
﹁紅さんの担当は、僕ですから。なにが起ったのか、僕が知らない
わけありません﹂
﹁にしては、登場が遅かったようだけど﹂
嫌味たっぷりに彩芽は言い放つ。
﹁遅れたことは、お詫びします。しかし、紅さんも自重してくださ
い﹂
﹁自重?﹂
﹁他の事務所の魔法少女に、どうして攻撃を仕掛けたんですか﹂
﹁それは、あいつが犯人だから﹂
﹁犯人? ⋮⋮ああ、僕たちが閉じ込められたあの、結界の。あれ
は、天道さんじゃありませんよ﹂
﹁じゃあ誰が犯人なのよ? 他にいないでしょ﹂
﹁天道さんじゃありません﹂
鈴木はきっぱりと言い切った。
﹁けど、状況証拠は︱︱﹂
﹁おそらく、僕らが見落としているなにかがあるはずなんです﹂
﹁あのねぇ⋮⋮⋮⋮いや、いいや﹂
彩芽は言葉を返す気が失せた。
一から十まで理論を積み重ね丁寧に説明したところで、現実を直
視できない人間が世の中には沢山いる。多くの人間はそのような場
合、決まって返す言葉を失い、﹁理屈っぽい﹂と人格攻撃に走る。
だが鈴木は違う。おそらく、彩芽は知らないなにかを掴んでいるは
ずだ。でなければ、彩芽の理屈を感覚で否定しない。
﹁他の事務所の魔法少女が僕らの土地で営業活動を行っていたとし
ても、紅さんが手を出してはいけません。それでは、対話もなく戦
闘へと発展してしまいます。もし、どうしても戦わなければいけな
259
くなった場合は、僕が始末しますので﹂
﹁始末って、なにするのよ﹂
﹁丁重にお引き取り願うだけです﹂
鈴木がニヒルな笑みを浮かべ、メガネを押し上げた。
﹁丁重って⋮⋮﹂
攻撃はしないが、転移はさせると。それって、敵対行為にならな
いのか? ま、どうでもいいか。
彩芽は体を横たえて、右手を持ち上げる。
手を握って、開く。痛みはまるでない。どうやら完璧に接骨して
いるらしい。医療班が怪我を治癒したのか。
﹁ヘモグロビンと白血球が異常値ですので、しばらくは安静にして
いて下さいね﹂
﹁しばらくって、どれくらい?﹂
﹁一日は絶対安静と言われています﹂
﹁⋮⋮そう﹂
彩芽は、低い声で呟いた。
あのとき、自分が突っ走ったせいで大けがをしてしまった。突っ
走って大けがをしたせいで、こうして一日の足止めを余儀なくされ
た。もしこの瞬間に、使い魔が︱︱悪魔が現れたら。それを考える
と、居ても立ってもいられない気分になる。
﹁ここに閉じこもっていても暇でしょうから、プレゼントを用意い
たしました﹂
鈴木はポケットから、手の平サイズの小箱を取り出した。銀色に
塗装された以外飾り気のないそれを、彩芽は受け取る。小箱は、予
想していた以上に重かった。真鍮製だろうか? ちょうど、結婚指
輪を入れる箱のようなサイズで、箱の横に小さく折りたたまれたレ
バーが付いている。
開けてみて下さいと、鈴木は目線だけで訴える。
結婚指輪か? いや、それはないか。ロマンティックの最上級を
突っ走り、やや前衛的になりつつあるトレンディドラマにさえ、負
260
けた直後に指輪を渡す男は出てこない。ナットを指輪に見立てた連
敗男ならいたが⋮⋮。︵あの男は何回負け続けたんだったか?︶
彩芽は小箱を、そっと開く。
箱を開いてすぐ、透明な仕切り板が箱にはめ込まれていた。その
先には、ピンの付いた円筒と櫛歯が収められている。
﹁⋮⋮オルゴール?﹂
聞くまでもなく、オルゴールだ。彩芽は箱の横についたレバーを
くるくると回す。ゼンマイ式ではないらしく、彩芽が回した分だけ、
櫛歯が弾かれ、音色が響く仕組みだった。
﹁これ、なに?﹂
﹁オルゴールです﹂
﹁いや、判ってるから﹂
殴るよ?
目で訴えると、鈴木は両手を軽く上げた。
﹁そのオルゴールが、紅さんに必要な機構だと思ったのですが。い
かがですか?﹂
﹁いかがですかって聞かれても﹂
どう答えたら良いのかわからない。そもそも、このオルゴールで
鈴木はなにを伝えたいのか︱︱、
﹁あっ!﹂
彩芽は口を開いた。なるほど。鈴木はこれで魔術をイメージしろ
って言っているのか。
﹁それじゃあ、僕は仕事に戻ります﹂
オルゴールの意図に気付いたことを悟ったように、鈴木は微笑を
湛えて病室を出て行った。
扉がきちんと閉まるのを確認してから、彩芽は手元のオルゴール
に視線を落した。
レバーを回すと、ピンのついた円筒が動く。円筒が動くと、ピン
が櫛歯を弾く。櫛歯が弾かれると、音が響く。
レバーを魔力に置き換えると、じゃあ、他の部品はなにになる?
261
くるくる、くるくると延々レバーを廻しながら、彩芽は魔術をイ
メージする。なによりも強く、なによりも圧倒的な魔術を。
しかし、その動きはすぐに停止した。
﹃きみの攻撃にはもう、夢は宿ってないよ﹄
夢。
夢って、なんだろう。
なにかになりたい。叶えたい。それを、強く、願うこと。思い描
くこと。最近、なにかを強く願っただろうか? なにかを叶えたい
と思っただろうか? 考えて、すぐに思い至る。
二十歳になったときだ。あたしは、大人になった証として、酒を
飲みたかった。聡美と一緒に、うまい酒を飲みたかった。子どもの
終わりを祝いたかった。
⋮⋮けど、その夢は叶えてしまった。
おそらくそれが、ここ最近の中で一番強い表層上の夢だったに違
いない。では、その夢を叶えたあとは⋮⋮なにを願えばいい?
どうやって、夢を、維持していけばいいんだ?
魔力だけなら、無意識的欲求がすべてをまかなってくれる。けど、
夢を意識しなければ、イメージできなければ、新しい魔法は生み出
せない。
夢を叶えたあと、新しい夢を願うのか。それとも、継続して夢を
発展させ続けるのか。
﹁⋮⋮うーあぁ﹂
声にならないうめき声が、彩芽の喉から止めどなくわき上がる。
夢が魔法になる。それは、魔法少女の基本である。しかし︱︱近
くにあるものは見えにくい。基本であるが故に、意識した途端に見
失ってしまいやすい。
他の魔法少女はどうやって、それを意識に留めておくのだろう?
それとも、そんなものを意識することなく、引退あるいは絶命し
てしまうのだろうか?
あたしはいままで、どうやって魔法に夢を通わせていたんだろう?
262
オルゴールを抱えたまま、彩芽は何時間も停止した。再び動き出
したのは、夕食が部屋に運び込まれたときだった。彩芽はテーブル
にオルゴールを置き、食事に手を付ける。ご飯後口に含んだところ
で、脳裏に香の顔が浮かび上がった。あの子は、きちんとご飯を食
べられているだろうか? 考え出すと不安になって彩芽は携帯電話
を取りだした。しかし、ボタンをいくら押しても携帯は反応しない。
そうか。落雷を受けて壊れたのか。
死亡した携帯をベッド脇の棚に放り投げる。
この携帯の修理費って、経費で落ちるんだろうか?
新しい携帯は、なににしようかな。
それを夢にするのも、手かもしれない。
そんなことを考えんがら、彩芽は夕食を口に運んだ。
263
二章 紅彩芽、夢を思い出します。2
翌日、病院を退院した彩芽は急いで帰宅した。香がお腹を空かせ
ているんじゃないか? 変な物を作って食べて、逆にお腹を壊して
いるんじゃないか? 彩芽の不安はしかし、的中することはなかっ
た。
部屋に、香の姿がない。
また、外に遊びに出たんだろうか。そう思いテーブルを見ると、
予想通り置き手紙を発見した。
﹃外出します﹄
いったいどこに遊びに行っているのやら。まあ、田舎暮らしの女
子にとっては、都会は遊園地みたいなものだ。見て回る場所は沢山
ある。考えるだけ野暮か。香が無事に生きているならそれでいい。
がらんとした部屋のなか、彩芽はソファに座り天井を仰ぐ。
このままダラダラしているのはもったいない。せっかくだから、
携帯を買い換えに行くか。
即断即時行動。シャワーを浴びて衣類を取り替えて、彩芽は再び
家を出た。
携帯ショップをいくつか周り、パンフレットを収集した彩芽は、
最寄りの喫茶店に足を踏み入れた。ホットコーヒーを注文し、座席
に座ってパンフレットを広げる。赤青ピンク。最新の機種は、色が
なんでも揃っている。どの機種を選んでも好みの色は得られそうだ。
とすると、重要になってくるのは機能か。
着メロ十六和音。着メロ自作ソフト入り。カメラ付き。写真メー
ル転送サービス可能。どうやら小型で、機能性が高く、より軽いも
のが現在の主流らしい。女性の手の平に携帯を乗せて携帯の小ささ
を表現した写真が、パンフレットのいたる箇所に見られる。
どれにしようか。彩芽はコーヒーを飲みながら、じっくりとパン
フレットを睨む。
264
三十分ほど、穴が空くほどパンフレットを眺めて、彩芽は購入す
る携帯を決めた。
カップの底に溜まった、冷えたコーヒーを飲み干して、彩芽は喫
茶店を出る。その足でまっすぐ携帯ショップへと向かった。
機種変更を終えて帰宅する途中、空気が微妙に変化した。それを
敏感に察知した彩芽は、足を止める。
じっくりと辺りに目を配る。
道の上に、同じ方向に並ぶ影とは逆に伸びる影がある。その影は
膨らみ、徐々に路面より這い出てくる。
﹁ギ⋮⋮﹂
ピエロのような格好をした、小さな子ども。体はくまなく真っ黒
のそれは、使い魔が生み出す魔塊だ。
﹁こんなところに⋮⋮、どうして?﹂
過去の戦闘経験が、彩芽の体を戦闘態勢へと導いた。体が魔力を
生成し、それを体表面に放出し、安定させる。
彩芽が臨戦態勢になるのとほぼ同時に、空を魔力が駆け抜けた。
それは即座に広がり、辺りを覆い尽くした。上空より降り地面に接
触した途端、内部と外部の空間が切り離された。
﹁あれ? なんで彩芽がここにいるのよ﹂
覚えのある声が聞こえ、彩芽は振り返る。そこには、先日から連
絡が取れなくなっていた聡美がいた。どうやら、この魔力は聡美の
もの︱︱結界らしい。
﹁聡美こそ、どうして﹂
﹁私は呼び出しを受けてね。それより、彩芽こそどうしたのよ。昨
日からずっと連絡取れなかったけど。携帯に電話しても﹃ただいま
電波の届かないところにあるか∼﹄って。はっ! まさかあなた、
私の携帯を着拒してるんじゃないでしょうね!?﹂
ぎりぎりと聡美は歯をかみしめた。
﹁んなことするわけないでしょ。繋がらなかったのはこっちも同じ
⋮⋮っと、それよりも﹂
265
彩芽は魔塊を見据える。先ほどは一匹しかいなかったそれが、い
までは三十にまで増殖している。魔塊が溢れかえった道路は、光を
すべて吸収して黒々と蠢いている。
﹁ま、まだ増えてる?﹂
聡美が後ろで、声を震わせた。目の前では微生物が分裂するよう
に、魔塊がねずみ算的に増えていく。
﹁いったい、何匹いるのよ﹂
﹁さあ。ここまで増えると、さすがに数える気にもならない﹂
道ばたを、魔塊が埋め尽くす。一見すると、大きな影に覆われた
かのように見えるが、違う。すべて、絨毯のように密集した魔塊で
ある。
﹁ここまで増えられると、さすがに気持ち悪いな⋮⋮﹂
うんざりするように、彩芽は呟いた。
﹁彩芽。あれ、全部いけるの?﹂
﹁さあ。でも、やるしかないでしょ﹂
全身に魔力をみなぎらせ、彩芽はかんざしを生み出した。
そのとき、上空からなにかが飛来した。
青い光。
轟く鳴動。
雷鳴の直撃を受けた地点の魔塊が、一気に消散する。生まれた空
間は、再び魔塊で埋め尽くされる。
﹁おもしろそうなことになってるじゃない﹂
いつの間にか民家の屋根の上に出現していた沙羅が、歌うように
言った。
﹁沙羅⋮⋮﹂彩芽は呻く。﹁あんたはお呼びじゃない﹂
﹁えー? ぼくも呼ばれてるんだけど﹂
﹁あんたなんかを、誰が呼ぶって?﹂
﹁信じてもらえないんだね。まあ、いいけどさぁ﹂沙羅は踊るよう
に体を揺らした。﹁きみは、どうするのかな? いくら弱い魔塊と
はいっても、この数。きみじゃあ、倒しきれないんじゃないかな﹂
266
紗良は振り付けの決めポーズの如く、人差し指を前に突きだした。
その先、紗良の魔法が穿ったはずの空間が、増殖を続ける魔塊に
より塞がれていく。
﹁⋮⋮﹂
彩芽は歯を食いしばる。たしかに、紗良の指摘通りだ。この増殖
を続ける魔塊を倒すには、増殖の速度を上回る殲滅をしなければい
けない。彩芽の魔法は、極火力型であり、広範囲型ではない。十匹
を一瞬で浄化できても、百匹を同時に倒せはしない。
﹁中途半端な加勢はいらないからね。紅彩芽。きみはそこでおとな
しくしていてね﹂
タクトを振るように、沙羅は指を動かした。
﹁ギギ?︵なんだあいつ?︶﹂
﹁ギィ。ギギィ!︵おお。かわいい!︶﹂
魔塊が沙羅を見上げ、口々に呟いた。沙羅を見上げるその瞳は︵
魔塊の癖に︶恍惚としてみえる。
﹁ぼく、みんなに見られてる﹂譫言の如く沙羅は呟いた。﹁もっと、
ぼくを見て。もっとぼくに、夢中になって!﹂
揺れる指先から、魔力が放出される。その輝きが、赤青黄と色づ
いて、交わり一つに重なって、巨大な音色に変化する。
﹁調べよ轟け!︿破壊の音﹀﹂
瞬間。膨張した魔力が破滅の色を帯びた。
魔力の音色が波紋状に広がり、膨らむ。膨張した魔力が次々と魔
塊を飲み込んでいく。波紋が通り過ぎたあとは、破壊しつくされた
家々の残骸だけが残った。
沙羅の魔法は音? じゃあ、あの雷は一体⋮⋮。
﹁別に不思議なことじゃないじゃない﹂彩芽の思考を読み取ったよ
うに、沙羅が言う。﹁音は大気を振るわせる。大気が震えると、静
電気が生まれる。それが集まって雷になる。自然界の雷も、そうい
う仕組みでしょう?﹂
﹁あー、なるほど﹂
267
紗良は耳に聞こえない音で大気を振動させ、雷を発生させていた
のか。雷魔法の発生が遅かったのも、静電気を空間に充填するため
だろう。そして、魔力を音として飛ばすなら、彩芽の魔力の移動速
度を上回る。
音を用いて大気中に雷を発生させる。雷は魔法の副産物で、自然
的なものだ。それを、放出した音の魔力で位置を矯正し、照準を合
わせる。
これで、沙羅の魔術に説明がつく。しかし︱︱、
﹁なぁんだ。そういうことか﹂
﹁なにが不満なのぉ?﹂
彩芽の反応がつまらなかったのか、紗良は頬を膨らませた。
﹁雷なんて見せられたから、てっきりあたしは雷の魔法を転移させ
てるのかと思ってたんだけど﹂
﹁雷の魔法なんて、使えないわよ。使えても意味ないじゃない。雷
の魔法を使えるようになって、どんな夢を叶えるっていうの? 携
帯でも充電するの?﹂
﹁喧嘩売ってんの!?﹂彩芽のこめかみがひくついた。﹁あたしは、
もっとすごい魔術かと思ってたのよ。でも、そんなことなかったの
ね﹂
﹁そんなこと? うんうん。やっぱりきみは勘違いしてるね﹂
﹁勘違い?﹂
僅かに頭に血が上り、彩芽は前のめりになった。
﹁魔法のすごいところは、技術じゃない。夢の大きさなんだよ﹂
﹁夢だって?﹂
はんっ、と彩芽は鼻を鳴らす。
﹁ならその大きな夢とやらは、魔塊をきちんと駆逐できたのかしら
?﹂
挑戦的で挑発的な彩芽の言葉はただの虚勢ではない。近隣の住宅
街をすべて平地にした沙羅の魔法だったが、魔塊のすべてを浄化し
きれてはいなかった。その残骸の影から魔塊が一匹、また一匹と現
268
れる。
﹁ギギィ︵あの女の子やべぇよ︶﹂
﹁ギギ!?︵う、腕がない!?︶﹂
﹁ギィギィ!︵イデーヨー!︶﹂
⋮⋮どうやら五体満足な魔塊は、少ないようだ。しかし、たとえ
怪我を負っていても増殖は止らない。数匹まで減っていた魔塊が、
再び分裂を開始する。
﹁なるほどねー。でも、だったら全部消えちゃうまで攻撃し続けれ
ばいいじゃない﹂
にこっと紗良は微笑んだ。その魔性の微笑みに、魔塊が背筋を振
るわせた。
﹁ギィ⋮⋮︵なにあいつ⋮⋮︶﹂
﹁ギギィ︵おっかねぇ︶﹂
﹁いやん。そんなに見つめられたらぼく、ゾクゾクしちゃう♪﹂
沙羅は満面の笑みを浮かべて体をくねくねと揺らす。この子、ち
ょっと危ないんじゃないだろうか。彩芽は顔を引きつらせた。
﹁ちょっと彩芽。あなたはなんで攻撃しないのよ?﹂
聡美の突っ込みに、彩芽は口を尖らせた。
﹁あたしは単体魔法専門なの。広範囲を一斉にたたきつぶせる魔法
はないのよ﹂
﹁知ってるわよ、そんなの。でも、ないなら作ればいいじゃない﹂
﹁作るって、あんたね。簡単に言わないでくれる?﹂
﹁できないの?﹂聡美が目で彩芽を挑発する。﹁雷の魔法を簡単に
成功させたあなたが?﹂
﹁できないとはいってない!﹂
売り言葉に買い言葉。彩芽は体内の魔力を高めつつ、目蓋を閉じ
た。
イメージするのは、広範囲を吹き飛ばす魔法。できるだけ、高火
力のものがいい。一発で沙羅をぎゃふんと言わせる、そんなものが
いい。上級悪魔も浄化できるほどのものがいい。
269
生み出すのは、もう一つの法衣︱︱小夜衣。
想像した魔術にそって魔力回路をくみ上げる。
彩芽のイメージはしかし、具体的なものに結実しない。いままで
通り、拳に魔力を蓄えた魔法しか思い浮かばない。けど、それでは
だめだ。自分中心の範囲魔法は、敵の群れのど真ん中にいかなけれ
ば威力が落ちる。どこにいても、どんな場所でも、同じ威力を⋮⋮。
彩芽の願いが、深層に埋もれた彩芽の記憶に結びつく。
再び彩芽が目蓋を開いたとき、目の前には先ほどと同じかそれ以
上の魔塊の群れが出現していた。一瞬で、こんなに増えるなんて。
ひどい繁殖力だ。
﹁あ⋮⋮彩芽さ。それ、なによ﹂
怯える聡美の声に気付いて、彩芽は自らの手元に視線を落す。
そこには、黒光る物体があった。筐体は長く、硬質の素材でくみ
上げられている。中央と後ろに取っ手が二つあり、後ろの取っ手に
のみスイッチが付けられている。中央から先端まで六本の円筒が円
系に取り付けられて、いかにも回転しそうである︱︱というか回転
する。
﹁なんじゃこりゃぁ!!﹂
彩芽はそれから手を離して頭を抑えた。
﹁なんでガトリングが⋮⋮﹂
﹁あ、彩芽。あんたやっぱりそういう人だったんだね﹂
少し距離を置いた生暖かい視線が彩芽の心に突き刺さる。
﹁違う違う。これは、違うのよ!﹂
﹁魔法って、夢を叶えるものだよね。うん。⋮⋮私はあなたの夢を
否定しないよ!﹂
﹁否定しないのならなぜ下がる﹂
いまや聡美は彩芽から十メートルほど下がっている。その距離が
彩芽には、聡美との心の距離のように感じられた。
﹁ふぅん﹂屋根の上で沙羅が鼻を鳴らす。﹁いったい、きみはどん
な夢を願ったの? 紅彩芽﹂
270
﹁いや、願ったっていうか、勝手に出てきたっていうか﹂
﹁魔法少女が、ガトリングって。クスクス。セーラー服と機関銃じ
ゃないんだからさぁ﹂
﹁あんた何歳よ!﹂
茶化す紗良に鋭く彩芽が突っ込んだ。
﹁そのネタが判るって時点であんたも年よ﹂
背後の聡美の鋭い突っ込みが、彩芽の心臓にめり込んだ。
ざーんねーん。バーカバーカ。
凹んだ彩芽をみて、けらけらと聡美が笑う。
こいつ、いつかぶっ飛ばす⋮⋮。
﹁紅彩芽﹂
沙羅に呼ばれ、彩芽は顔を上げる。
﹁ぼくは魔力の充填に少し時間がかかる。それまで、その玩具で遊
んでていいよ﹂
﹁玩具?﹂
﹁どんな魔法が出るのかはわからないけどさぁ。魔塊を浄化できな
きゃ、玩具でしょう?﹂
沙羅の言葉で、彩芽の頭のどこかがぷちんと音を立てて切れた。
﹁いいわよ。やってやろうじゃん﹂
彩芽は足下に落ちたガトリングを拾い上げて、抱えた。本来なら
この手のガトリングは五十キロ以上あり、彩芽の腕ではまず持ち上
がらないだろう。それが、ほとんど重さを感じないのだからやはり、
魔法で生み出されたもので間違いない。
彩芽は僅かに腰を落す。
息を吸い込み、止める。
全身の魔力を高め、手元のスイッチを押し込んだ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
しかし、ガトリングはうんともすんとも言わない。動かない。
﹁は、あははははははは! ︱︱あ﹂
屋根の上で抱腹絶倒し転げ回った沙羅が、その弾みで屋根から落
271
ちた。地面に頭から突っ込み、頭の半分が庭先に埋った。
﹁ふぃぃ。危なく首の骨を折るところだった﹂
ひょこっと頭を土から持ち上げる。
﹁なんで生きてるのよ⋮⋮﹂
そのまま死ねばよかったのに。
﹁やっぱり、それ、玩具だったね﹂
﹁玩具じゃない!﹂
﹁じゃあ、どうして動かないのかなぁ?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
彩芽は、考える。動かないのは、どうしてだ? 魔力を注ぎ込ん
でいるのに、銃身が回転しないのは、何故だ?
﹁ほらほら、どうするの? もうすぐ魔塊に襲われちゃうよぉ。イ
ヤーン♪﹂
沙羅の野次を無視して、精神を集中させる。
こういうものを動かすときは、なにが必要だったか、考える。
屋敷にいた守衛は、これをどう扱っていた?
深い、深い記憶の底を掘り起こし、彩芽はやっとその答えを見い
だした。
パチン、と彩芽の中でスイッチが切り替わる。
迷いは消えた。
あとは、すべてを注ぎ込む。
触れた人間を吹き飛ばせるほどの殺人的魔力を生みだし、一気に
ガトリングに注ぎ込む。
﹁うわぁ。すごい魔力。でも、それが魔法にならなきゃ意味がない
よねぇ﹂
﹁黙ってなさい! じゃないとあんたの口に、鉛弾をぶち込むわよ﹂
叫んで、彩芽は魔法を発動する。
指先で、青い火花が散った。
その瞬間、彩芽はスイッチを押し込んだ。
272
二章 紅彩芽、夢を思い出します。3
大気を劈く爆裂音とともにガトリングの銃身が回転し、火花が盛
大に散った。
普通の銃とは違い、ガトリングは電気が必要だ。それを与えなけ
れば、動くはずがない。そのことに、彩芽はやっと気がついた。
彩芽が生み出した電気を送り込まれたガトリングは、不具なくそ
の性能を発揮する。毎秒百発という速度で銃弾を吐き出し、魔塊に
鉛を埋めていく。
﹁す、すごいじゃない。けど、銃弾がただ具現化した銃弾じゃ、や
っぱり派手な玩具よ﹂
﹁それはどうかな?﹂
彩芽が弾丸を埋め込んだ魔塊が、次々と砕け散っていく。
﹁⋮⋮うそ﹂
このとき、初めて彩芽は沙羅の驚愕の表情を見た。
具現したガトリングから発射されているのは、具現された鉛であ
る。人や物に対していくら脅威的な威力を発揮しても、物理攻撃で
は悪魔はおろか魔塊に傷一つつけることはできない。しかし、彩芽
が放った弾丸は、魔塊を打ち砕いている。
﹁なんで魔塊を倒せるの?﹂
﹁⋮⋮さあ?﹂
それは、彩芽にもまだ分析できていない。そもそもこの魔法を⋮
⋮いや、魔術を使用したのはこれが初めてなのだ。どうして最強の
矛をイメージして出てきたのがガトリングなのかもわかっていない
以上、機構がわかるはずがない。
ただ、一つだけ確実なのは、発射されたそれがただの鉛ではない
ということだ。
﹁うひゅふうへいひいいい﹂
背後で音に怯えた聡美が鼻水を垂らしながら奇声を発している。
273
ガクガクと身を震わせて跪き、必死の形相で耳を両手で塞いでいる。
﹁死ぬ! 死ぬぅ!﹂
﹁死なないって⋮⋮﹂
﹁うぎょうえぁ!﹂
彩芽の声に敏感に反応し、聡美は涙を噴射しながら飛び上がった。
⋮⋮だめだこいつ。誰かなんとかしてくれ。
何秒、何十秒。何百発もの鉛弾を放出しているが、体内の魔力が
異様に減退する感覚はない。意図せずに生まれ出た魔術の魔力効率
が良いからだろう。おそらくそれは、鈴木の言葉のおかげだ。法衣
をもう一つ作る。魔術回路として生み出したからこそ、魔力を効率
良く攻撃に変換できているのだ。
しかし。いくらなんでもガトリングって⋮⋮。
きっとこれは、育った環境のせいだろう。
そのことを容易に想像できた彩芽の心はずぶずぶと、悲嘆の闇に
埋もれていく。
﹁ギギィ。ギーィ!︵おいおい。もっとやべぇのいるぞ!︶﹂
﹁ギギギ︵あの女か︶﹂
﹁ギィィィィ︵死ぬぅぅ︶﹂
鉛弾に怯えた魔塊が目の前で逃げ惑う。一匹、また一匹と、分裂
を許さぬ速度で彩芽は魔塊を浄化していく。
﹁ぶーぶー。紅彩芽ばっかり見てるぅ。ぼくのことも、ちゃんとみ
てよね!﹂
頬を膨らませた沙羅が、指先に魔力を集中させた。
﹁涙に濡れて!︿離別の音﹀﹂
沙羅の魔法で、結界内の空気が揺れた。
沙羅の指先から発生した光が、一瞬で横に広がり、消失点へと消
えた。
次の瞬間︱︱空が落ちた。
空が落ちたと、彩芽は思った。
魔塊がひしめく前方の空間が、一瞬にして一メートルほど沈み込
274
んだ。
彩芽は注意深く落ち込んだ空間をのぞき込んだ。
瓦礫による多少の隆起はあるにせよ、ほとんど平坦な地形となっ
ている。
﹁ギ⋮⋮ギィ︵もう⋮⋮少しだってのに︶﹂
彩芽の耳に、かすかに魔塊の声が届いた。
﹁ギギ、ギィギギ⋮⋮︵あの方の、復活まで⋮⋮︶﹂
魔塊の黒い手が見えて、彩芽は即座に発砲。一瞬で魔塊を粉砕し
た。
あの方の復活?
あの方って、誰だ?
﹁どう? 紅彩芽。ぼくに見とれちゃったかな?﹂
﹁⋮⋮﹂
彩芽の表情が固まった。
こいつ、なに言ってんだ?
﹁む? そんなに熱い視線を向けられても、攻撃魔法しか出てこな
いぞ♪﹂
﹁向けてないから!﹂
彩芽は足を踏みならす。ばりばりと音を立ててアスファルトが割
れた。
﹁いやん、こわーい﹂
紗良は黄色い悲鳴を上げた。
恐いと言いながら楽しげなところがムカツク。
﹁さて、紅彩芽﹂
表情を険しくした沙羅が、指を動かす。
次の瞬間、彩芽のポケットに雷が直撃した。
﹁︱︱っ!?﹂
直撃から遅れて彩芽は地面を転がる。
ダメージは、ない?
起き上がり、体をチェックするが、どこかが怪我したということ
275
はなさそうだ。
﹁⋮⋮いきなり攻撃とは。とうとう本性を現したね﹂
﹁本性? なんのお話?﹂
﹁あんたがうちの事務所を狙ってる犯人なんでしょ!?﹂
﹁ううん。違う違う。それはぜーんぜん違うから。そんなことより
も、きみ、いったいどういうつもり?﹂
﹁は?﹂
彩芽は首を傾げた。
﹁ポケットに、封魔の印なんて入れちゃって。もしかして、自爆趣
味?﹂
﹁封魔の印⋮⋮ってなに?﹂
﹁なんで彩芽が知らないのよ﹂
恐慌状態から立ち直った聡美が、沙羅と彩芽の間に割って入った。
子どもをしかりつける親のように、腰に手を当てて前屈みになる。
﹁封魔の印ってのはその名の通り、魔封じの結界を生成するための
印よ。手に負えない悪魔を封じ込めるために用いる、昔気質の魔法
の札ね﹂
﹁なるほど。説明はありがたいんだけど⋮⋮その顔どうにかしたら
?﹂
涙と鼻水でぐちゃぐちゃな顔で言われても、緊張感がまるでない。
聡美は思い出したように袖口で顔をごしごしとこすった。
﹁封魔の印の良いところは、強い悪魔でも封印できるところ。けど、
使い方によっては、人間も封印することができる﹂
﹁人間も⋮⋮﹂
彩芽は慌ててポケットを見る。雷の直撃を受けたポケットは、予
想通り穴が空いていた。ポケットに手を入れると、横に空いた焦げ
穴からひらひらと、細かい紙くずが落ちてきた。それと一緒に、真
っ黒になった固形物も︱︱。
﹁ああああああああ!!﹂
彩芽は悲鳴を上げた。
276
﹁あ⋮⋮あたしの、携帯が⋮⋮。最新の、変えたばっかりの、携帯
が⋮⋮﹂
がくっと彩芽は膝をつき、四つん這いになって地面に落ちた焦げ
た携帯を眺める。それはもう、原型を止めてはいなかった。雷の電
圧で沸騰したプラスチックは泡立ち、焦げ、膨張して、醜い姿にな
っている。画面を開こうにも、折りたたみ部分が接着されてしまっ
ていて開かない。こうなってはもう、携帯は生きてはいないだろう。
﹁ううう⋮⋮あたしの、携帯が⋮⋮﹂
彩芽は涙を流しながら、恨みの籠もった視線を沙羅に向ける。
﹁ちゃんと、弁償してくれるんでしょうねぇ?﹂
﹁ええと、紅彩芽。大事なのはそこじゃないと思うんだけど﹂
﹁大事に決まってるじゃない! 最新機種よ最新機種! せっかく
三十二和音でメールで写真を送れる携帯にしたのに!﹂
﹁え、三十二和音?﹂彩芽の言葉に聡美が食いついた。﹁彩芽、そ
んなの買ったんだ。いいなーいいなー。三十二和音。私も欲しかっ
たんだよなぁ﹂
﹁しかも、作曲機能付きだったのよ﹂
﹁作曲!? じゃあ、好きな音楽を手打ちで着メロにできちゃうじ
ゃない! 素敵っ!﹂
﹁き、きみたち、緊張感なさすぎ﹂
馬鹿じゃないの? とでも言うみたいに沙羅は肩を落した。
﹁封魔の印をどうして持ち歩いていたのかは知らないけど、きみ、
もう少しで封印されちゃうところだったんだよぉ?﹂
﹁封印⋮⋮﹂
その言葉に、彩芽はぴくり反応した。
﹁この前、そういえば結界内に閉じ込められて危うく死にかけたわ。
もしかしてそれが封魔の印だったの?﹂
﹁ぼくは封印されたことがないから、中のことはよくわからないけ
どねぇ﹂
﹁なんであんた生きてるのよ。ゾンビかなにかなの?﹂
277
聡美が呆れたような顔をした。
﹁ゾンビは死んでるっての﹂
彩芽は軽く聡美を小突く。
﹁その封魔の印とやら、あんたが生み出したんじゃないでしょうね﹂
﹁そんなの無理だよ。だって、ぼくは結界を作れないもん﹂
﹁⋮⋮はぁ?﹂彩芽は素っ頓狂な声を発した。
﹁封魔の印は結界の一種だから、結界が作れないと、封魔の印も作
れないのよ﹂
﹁いや、でも、あんたはいつも結界を張って使い魔に攻撃してたで
しょ﹂
﹁結界を張りながら、攻撃できるわけないじゃない﹂
沙羅は哀れむような表情で彩芽を見る。
﹁それは知ってるけど。結界を展開しながら攻撃できる魔術がある
のかなって思って﹂
﹁彩芽、あなたバカでしょ? そんなの、息を吸いながら吐き出す
くらい、無理なことなのよ﹂
﹁それなら循環呼吸っていうのが︱︱﹂
﹁うるさい﹂
聡美に睨まれて、彩芽は頬を膨らませた。突っ込まれたくないな
らもっと上手い表現にしてくれればいいのに。
﹁とにかく、攻撃魔法と結界の両立は、性質が違いすぎるから、魔
術であっても絶対に不可能なの﹂
﹁りょ、了解﹂
聡美の気迫に圧され、彩芽は頷いた。
﹁ということで、ぼくが結界を展開できないことはわかってもらえ
たかな?﹂
﹁いや。攻撃魔法と結界を両立できないってことはわかったけど、
あんたが結界を展開できないことについては、まだ照明されてない﹂
﹁うーん。しつこいなぁ。しつこい人は嫌いだけど、シツコイ視線
はスキだよ♪﹂
278
﹁うざい﹂
彩芽は紗良の言葉を打ち落とした。
﹁ぼくの言葉が信用できないなら、その封魔の印を作った人に聞い
てみるのが一番早いのかな?﹂
﹁作った人?﹂彩芽は首を傾げる。
﹁うんうん。ねえ、そこにいるんでしょう?﹂
沙羅は、攻撃を受けずに無傷のまま残っている建物の影を見た。
いったい誰がいるんだ? 彩芽は沙羅の視線の先を眺める。
その先︱︱民家の影から、見覚えのある少女が現れた。
﹁⋮⋮か、香!?﹂
三つ編みにされた黒い髪の毛に、紺色のセーラー服。せっかくの
綺麗な顔立ちを台無しにするメガネをかけた少女。見間違えようが
ない。その少女は、香だった。
﹁いったい、どうやって結界の中に?﹂
結界の中には普通の人間は自由に立ち入ることができない。
﹁どうやってもなにも、私は姉さんの妹ですよ?﹂
彩芽が魔法少女である以上、血のつながりのある妹が魔法少女の
素養を持ち合わせていないわけがない。
しかし、いくら素養があるとはいえ、それだけで結界内に侵入は
できない。
﹁すごく強そうな魔法少女ね。きみたちのお知り合い?﹂
沙羅に向けて、彩芽は曖昧な表情を作って見せた。
﹁知り合いっていうか、妹よ。ただ、魔法少女ではない﹂
﹁ありゃま。まだ魔法少女じゃないの? どこの事務所にも所属し
てないってことだよね? んじゃ、ぼくが勧誘してもいいのかな?﹂
﹁やめて。妹はこの世界とはなんの関係もないの﹂
﹁関係はあります﹂
彩芽の言葉を香は静かに、しかし強く否定した。
﹁紅家は代々、呪術で村を守っていました。私も時期当主として、
お父様に呪術を伝授されて久しい身。関係ないことはありません﹂
279
ぎりっ、と彩芽は奥歯をかみしめる。まさか、香が魔法を覚えさ
せられるとは。
﹁それで、ええと紅香でいいのかな? きみはどうして封魔の印な
んて作り出したのかな?﹂
﹁か、香は魔法に全然関係ない︱︱﹂
﹁関係ない? ある子だよぉ。その手の傷、悪魔に付けられたもの
でしょ?﹂
彩芽は紗良の指摘に息を呑んだ。香の手には確かに無数の傷が付
いている。
﹁あれはあたしに手料理を食べさせようとしてついた傷で︱︱﹂
﹁じゃあどうして両手に傷が付いてるのかなぁ?﹂
﹁⋮⋮え?﹂
﹁料理をするときの怪我って、包丁で手を切るとかでしょう? な
ら、包丁を持つ手は怪我をしないはずだよねー﹂
﹁あ︱︱﹂たしかにそうだ。けど、﹁あれが包丁での怪我って決ま
ったわけじゃない﹂
﹁最近現れた使い魔の撃退もさー。結界が展開されてない状況が二
回くらいあったんだよねぇ。紅彩芽は覚えてるかな? 最近、小さ
い地震が二回ほどあったのを﹂
﹁う、うん。覚えてるけど。それが香と関係あるって決まったわけ
じゃないし﹂
﹁じゃあさ。紅香はいつ怪我をしたの?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
そこで、彩芽は言葉に詰まった。香が手に怪我をした日に、地震
が起こった。
﹁でも、それはたまたまかもしれないし﹂
﹁きみの事務所、最近攻撃を受けてるんだって? その原因は、き
みの妹なんじゃない?﹂
﹁香に攻撃する理由がないじゃないからありえない﹂
﹁理由ならありますよ﹂
280
突然、香が二人の会話に割って入った。
﹁なんで﹂
﹁姉さんを殺すために決まっているじゃないですか﹂
香の言葉に、彩芽は凍り付いた。
殺す? あたしを、殺す?
﹁姉さんのお仲間との連絡手段を断ち、姉さんを孤立させようと思
ったのですが﹂香は紗良を見た。﹁なかなかうまくいかないもので
すね﹂
﹁⋮⋮どうして﹂
﹁おわかりになりませんか? 姉さんが、代々村を守ってきた神を
殺し、紅の家に泥を塗ったからですよ﹂
﹁いや、でもそれは︱︱﹂
﹁私のためとは、言わせませんよ?﹂香が彩芽の言葉を遮った。﹁
ギ
姉さんと私は、紅家のために産まれたのです。姉さんもそれを受け
入れ、婚姻の祁を全うしようとしていたではありませんか。それな
のに、私の婚姻の祁はどうして認められなかったのですか?﹂
﹁あれはあたしの祁だった﹂
﹁私の祁でもありました。それを、姉さんはぶちこわした﹂
香は下腹部で手を組み、背筋を伸ばしてにこり微笑んだ。
﹁私は紅家の次期当主として命じます。姉さん。紅家のために、死
んで下さい﹂
281
二章 紅彩芽、夢を思い出します。4
聡美がくしゃっと顔を歪め、沙羅は口笛を吹くみたいに口を尖ら
せた。彩芽は、黙って香の言葉を受け入れる。
いつか香が紅家の当主として、あたしを粛正にくることは判って
いた。あたしは、紅家の人間として、それだけの罪を犯した。何年
も続く、村を守る為のしきたりを、我欲のためにぶちこわした。そ
の後、いったい何人の人が犠牲になったことか⋮⋮。
﹁償いは受ける﹂
﹁紅家の娘として、当然です﹂
香の表情が僅かに曇った。それは、血の繋がった姉を失う未来を
予測したためか。あるいは、紅家の呪縛を破れない己の弱さに対し
てか。
香はスカートのポケットから、数枚の紙を取り出した。
彩芽はそれが、ただの紙でないことを一瞬で見抜く。
﹁それに、封魔の印を刻んでいたのね⋮⋮﹂
﹁ええ。その通りです﹂
あのねずみ色の空間を生み出したのは、クレープの紙くずではく、
香が残したメモ用紙だったのか⋮⋮。
あの日、香のメモを彩芽は無意識に自らのポケットに収めていた。
まさか、香が残したメモが結界を生み出すとは、彩芽は予想だにし
ていなかった。あのときもし、クレープの紙くずと一緒にメモ用紙
が落下していなければ、彩芽はいまごろ鈴木と仲良く圧死していた
ことだろう。冗談じゃない。
﹁姉さんに勘づかれないように、呪印の魔力を隠蔽するのは大変で
した﹂
﹁おかげで、あたしはいまのいままであんたが犯人だって気付くこ
とすらできなかった﹂
﹁お褒めにあずかり光栄です﹂
282
香はスカートの裾を軽く摘んだ。
﹁それでは姉さん。さようなら﹂
香は無造作に手にした紙を地面に落した。
ひらひらと宙を舞う。
落下した紙が地面に接触したとき、結界内の空間が歪んだ。
﹁聡美! 結界を広げて!!﹂
﹁ひょえ!﹂
彩芽の怒声に奇声で返した聡美は結界を拡大させる。
結界の距離が直径十キロに拡大するまで十秒。そのたった十秒で、
結界内部の世界が大きく変貌した。
﹁⋮⋮まじ?﹂
呟いたのは聡美か、彩芽か。
彼女らの目の前に現れたのは、大人二人分ほどの背丈の高い、首
のない鎧だった。鎧の背中には漆黒の翼がある。
﹁⋮⋮デュラハン?﹂
﹁んにゃ、これは違うぽい﹂彩芽の問いに沙羅が答えた。﹁デュラ
ハンなら、馬に乗ってるはず。翼もないしねぇ。これはデュラハン
なんて生半可な悪魔じゃないでしょう? 紅香﹂
﹁おっしゃるとおり﹂
香は静かに頷いた。
彩芽のこめかみに冷たい汗が伝う。
彩芽らから十メートルは離れているだろう、その悪魔から発せら
れる魔力は、悪魔というレベルを逸脱している。
間違いなく、この悪魔は神話級だ。
﹁⋮⋮さて、私はこれで﹂
こっそり逃げだそうとする聡美の首を、彩芽はがっちりロックし
た。
﹁逃げるな﹂
﹁逃してよぉ! 私、まだ死にたくないよぉ!﹂
﹁あんたが結界を維持しないでどうするのよ。あんなのが外に漏れ
283
たら日本終わるよ﹂
﹁私、結界師らしく外でまっちぇる﹂
﹁可愛らしい口調を使っても可愛くないから辞めて﹂彩芽はため息
をついた。﹁あんたが外に出たら、バックアップが消えるでしょ﹂
﹁う、うん。まあ、そうだね。⋮⋮がんば!﹂
どう動いたのか。彩芽の腕をすり抜けた聡美が結界の外に向けて
走り出した。その瞬間、彩芽は素早く聡美の首根っこを掴んで引き
寄せる。
﹁ぐえっ!﹂
﹁逃げるな。あんたも一緒にここで戦うのよ﹂
﹁無理無理。私には無理だから﹂
﹁あんた、一蓮托生って言ったじゃない﹂
﹁いつの話を持ち出してるのよ!﹂
﹁それが嘘だって言うの?﹂
﹁うう、それは⋮⋮﹂
﹁ふぅん。聡美ってそういう人だったんだね﹂
﹁⋮⋮ぐじゅじゅ﹂
﹁泣くな鼻を垂らすな﹂
彩芽は聡美の襟から手を外し、突き放す。
﹁あんたは後ろで、あたしが死ぬ所をきちんと見てなさい﹂
﹁⋮⋮は?﹂
聡美は呆然とした表情となった。
﹁なんで彩芽が死ぬのよ﹂
﹁これは、償いだから﹂
﹁いや、わけわかんないし﹂
﹁いいから。黙って後ろに下がって!﹂
彩芽は思い切り聡美を押した。
その動きで、眼前の悪魔が彩芽を標的と定めたらしい。
顔はなくとも、敵意が向けられた感覚が、はっきりとわかった。
彩芽の肌がぶつぶつと粟立つ。
284
﹁ちょ、ちょっと待ってって彩芽! あなたが死んだら、あれを誰
が倒すのよ!﹂
﹁ここにいるでしょう? 現魔法少女界最強の魔法少女が﹂
﹁ふえ?﹂
彩芽は沙羅を見た。突然話を振られた沙羅は、きょとんとした表
情となる。
﹁なんのお話?﹂
﹁神話級悪魔を倒す魔法少女のお話。あんたならできるんでしょ?﹂
沙羅は口を堅く閉ざした。
それを、彩芽は肯と受け取る。
﹁んじゃ。過去の罪を贖いますか﹂
一歩、また一歩と、彩芽は悪魔に近づいていく。その一歩が、酷
く重い。本能があれには近づくのを嫌がっているようだ。その圧倒
的な存在感が、一歩毎に強さを増していく。
膝がふるふると震えて、言うことを聞かない。こんなのは、本当
に久しぶりだ。それこそ、暁鬼以来かもしれない。
殺されるなら、一瞬だろう。痛みもなにもないはずだ。
悪魔の射程圏内に足を踏み入れた。
彩芽は、空を仰ぐほど大きなその筐体を見据える。
﹁これで、いいんでしょ? 香﹂
﹁⋮⋮ええ。おとなしく殺されることに、感謝します﹂
目の前で、悪魔が腕を振り上げた。
﹁これで、あんたは過去の呪縛から解放される﹂
﹁⋮⋮いいえ。再び呪縛を施すのです。村に、そして、紅家に﹂
﹁それは、残念。ま、なんでもいいや。あたしは、あんたが生きて、
好きな男と結婚してくれるならさ﹂
﹁それは浅はかな夢。そんなもので、紅家は続きません﹂
﹁そうか﹂
﹁そうです﹂
悪魔が拳を振り下ろす。
285
﹁さようなら、姉さん﹂
目を瞑って、最後の時を待つ。
しかし、それはいつまで経っても訪れない。
恐る恐る、彩芽は目蓋を開いた。
目の前に、悪魔の腕がある。しかし、それは彩芽に接触する寸前
で停止していた。悪魔の翼が、ゆらゆらと風に揺れている。どうや
ら、時間が止っているわけではないらしい。
﹁あ⋮⋮彩芽!﹂
背後から、聡美の叫び声が聞こえた。
﹁あんた。なに勝手に死のうとしてんのよ!﹂聡美が前に手を翳し、
歯を食いしばる。﹁あの日、あんたが罪を犯したっていうなら、あ
たしも同罪よ!﹂
﹁いや、でも聡美は無関係︱︱﹂
﹁無関係なわけないでしょ。あの暁鬼を倒したのは、あんただけじ
ゃない。私もなんだから﹂
﹁けど︱︱﹂
﹁あなた、一蓮托生って言ったじゃない!﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁いいから下がって! もう、限界⋮⋮﹂
不意に、彩芽の体が後方に引っ張られた。
空気が柔らかく振動している。
引きずり戻された彩芽は沙羅の隣でやっと停止した。
﹁下がりなさいってさ﹂
沙羅が口を斜めにした。
次の瞬間、目前で停止していた悪魔の腕が、地面に叩き付けられ
た。
凄まじい破砕音とともに、地面が振動する。粉じんが舞い、人の
手では持ち上がらないほど巨大な道路の破片が空を飛ぶ。
彩芽らに向かって飛来する殺傷力のある破片が、目の前のなにも
ない空間で停止し、あるものは地面に落ち、あるものは砕けて後方
286
に跳ね返った。
﹁彩芽、勝手に死ぬんじゃないよ﹂
息を荒くした聡美が言い放つ。
先ほど彩芽を救ったのも、いま目の前に透明の障壁を生み出して
いるのも、結界内に特殊な環境をセットできる聡美の力だ。
﹁勝手に死んだら、私、あなたのこと絶対に許さないから﹂
﹁いいよ。許さなくても。死んだら関係ないし﹂
﹁彩芽⋮⋮あんたねぇ﹂
﹁聡美。これは紅家の問題なの。口を出さないで﹂
彩芽は聡美に近づく。
﹁いい、聡美。これは香のためなの﹂彩芽は声を顰めていう。﹁も
しあたしが生きていれば、香はずっと村の人達に謗られる。当主に
なったとしても、当主として認められない。村を統治できない。あ
たしの存在が、香に悪影響を与え続ける。紅家を出奔したあたしを
倒せない当主は力がないとみなされて、紅家の存続そのものを揺る
がしかねない。暁鬼を倒したのも、香が幸せになってほしいから。
その思いは、いまも変ってない。揺るがない。あたしが家を出たせ
いで嫌な男と婚約させられて嫌な魔法を覚えさせられてなりたくも
ないのに次期当主になった。もしあのとき、無理矢理にでもあたし
が留まっていれば、香は全部、やらなくてよかったのに。⋮⋮聡美。
あたしがいなくなれば、香は少しは幸せになれるの。あたしはその
少しを、香に与えたい。あたしたちはいつ悪魔に殺されるかわから
ない。もしあたしが勝手に悪魔に殺されれば、香は一生罪人を罰せ
なかった責任がつきまとう。それじゃあ、可哀想じゃない。だから
あたしは、ここで死ぬの。香のために﹂
すべてを言い終えて、彩芽は跳躍した。
足下から魔力を噴射した、素早い跳躍だった。
誰も止められるほどの速度で彩芽は悪魔に突っ込む。
︱︱しかし、
﹁うぐっ!﹂
287
彩芽は停止した。
突如目の前に現れた見えない壁に、彩芽は遮られた。
見えない壁に顔面を強打し、ずるずると鼻血を空間になすりつけ
ながら落下した。
﹁⋮⋮つつ。さ、聡美。あたしの邪魔をしないで!﹂
﹁するわよ! あなたが死ぬっていうなら、邪魔くらいいくらでも
してやるわよ!﹂
聡美は頭のてっぺんから金切り声を発した。
﹁香の幸せのために死ぬですって? 馬鹿いわないで。あんたが死
んだら、たしかに香は幸せになるかもしれないわ。でもね、私はど
うするのよ? あなたが死んだら、私は誰に悪態をつけばいいのよ
! 誰と口げんかすればいいのよ! 誰と酒を飲めばいいのよ!﹂
不意に、彩芽の背後で悪魔が動いた。
腕を振り上げ、彩芽に叩き付ける。
しかし、その攻撃を見えない壁が阻んだ。
﹁あんたは少し黙ってなさい!﹂聡美が悪魔のような形相で悪魔に
咆えた。﹁彩芽はね、これからまだまだ私の悪態を聞くの。私と口
げんかするの。私と酒を飲むの。あなたが死んだら、その未来がな
くなるの︱︱私のこれからの幸せがなくなるのよ!﹂
﹁むちゃくちゃね⋮⋮あんた。あたしをなんだと思ってるのよ﹂
﹁知らないわよそんなの!﹂
﹁聡美の言い分はわかった。けどね、これはあたしと妹の、家族の
問題なのよ﹂
﹁知らないわよそんなの!﹂
﹁⋮⋮逆ギレかい﹂
﹁マジギレよ! あなたが無抵抗のまま死ぬなんて、私は絶対に⋮
⋮認めないから﹂
悪魔の攻撃を阻む聡美に限界が訪れた。苦悶の表情を浮かべて地
面に膝をつく。
﹁あ︱︱﹂
288
聡美が息を吐いたそのとき、見えない壁が霧散した。
悪魔が腕を振り抜き、地面を抉る。
しかし、そこには彩芽の姿はなかった。
﹁僕も、同じ意見です。紅さん﹂
悪魔の遥か後方に、彩芽は無傷で移動していた。
その背中に触れているのは、マネージャーの鈴木。
﹁鈴木⋮⋮﹂
﹁遅れて済みません。少々事務処理が長引きまして﹂
いつもと同じ涼しげな表情で、鈴木はメガネを押し上げた。
﹁一蓮托生。良い言葉ですね。僕も、そして袰月さんも、紅さんと
同罪です。僕らは三人で、暁鬼を倒したじゃありませんか。その責
任を、紅さん一人だけに押し付けるわけにはいきません﹂
﹁放っといてって、言ってるでしょ!﹂
﹁そう言われても困ります。紅さんにはこれから、じゃんじゃん働
いて悪魔を浄化していただかなければいけませんから﹂
﹁っふん。マネージャーらしい言葉ね。けどね、あたしには事務所
の都合なんて知ったことじゃないのよ﹂
﹁そうでしょうか? これから紅さんが生きて悪魔を倒すことで、
何人もの人達を救うことができます。それはつまり、何人もの幸せ
を、守るれるということです。香さんがあのとき失った幸せのよう
なものを、決して軽んじているわけではありません。ですが、僕は
それを別の方法で解決できるのではないかと、そう考えています﹂
﹁別の方法﹂
﹁紅さんらしい方法ですよ﹂
﹁⋮⋮は?﹂
﹁壊せばいいじゃないですか。なにもかも﹂
﹁ば︱︱﹂
馬鹿だ。こいつは、絶対に馬鹿だ。
紅家と、村のしきたりを破壊しろと、鈴木は言っている。そんな
ことは、絶対にできない。なぜなら、それがあるからこそ村は生き
289
延びているからだ。
﹁破壊したら、村が存続できない﹂
﹁それがなければ存続できないような村は、さて生きていると言え
るのでしょうか? 僕には、生きているとは思えません。意識を失
い、心臓が停止した人間を、人工心肺でこの世につなぎ止めている
ようなものです。生かされている⋮⋮いや、生きてさえいない。生
きるとは、心臓が動くことじゃない。自分が生きることを選び続け
られることなんです﹂
﹁じゃああんたは、意識が戻るかもしれないと生かしている人間は
殺せっていうのか﹂
﹁それは詭弁です。たとえ話を本筋と混同しないで下さい。これは
あくまで村の話しです。そして、村が死んでも、人間は生き続けら
れます。人間が生きている限り、村はまた、作り直せます﹂
彩芽は立ち上がり、鈴木を振り返る。
﹁⋮⋮方法は、考えてるの?﹂
﹁もちろん﹂鈴木は屈託なく微笑んだ。﹁それを実行するには、少
々大きな障害が立ちふさがっておりまして﹂
﹁障害ね。それを消せば、打てる手があると﹂
﹁はい﹂
﹁ちなみに、その障害は?﹂
﹁﹃二つの体を求めたネヴァン﹄。神話級悪魔です。紅さん、戦え
ますか?﹂
﹁⋮⋮まったく。結局はこうなるのか﹂
彩芽は大きなため息を吐き出しながら、それでも口角が緩むのを
隠しきれなかった。
﹁あんたがあたしに戦わせたかった悪魔って、こいつのこと?﹂
﹁さて、なんのことでしょうか﹂
白を切るが切りきれていない。間違いなく、鈴木は彩芽をネヴァ
ンにぶつけたがっていた。やはり、いままで通り自分は鈴木の手の
平で転がされている、と彩芽は嘆息する。しかし、不思議と悪い気
290
分にならないのは、何故だろう? 不思議と、戦いたくなるのは、
何故だろう?
きっと、それがこいつの魔法なんだ。
﹁聡美!﹂彩芽は叫んだ。﹁全力で支援して﹂
﹁⋮⋮うう。いつもの彩芽に戻ったはいいけど、人使い荒いなぁ﹂
﹁うるさい。それと、沙羅﹂
﹁ほえ!?﹂
いままで静観していた沙羅は、突然名前を呼ばれて肩を振るわせ
た。
﹁あんたも戦えるんでしょ﹂
﹁戦っていいのぉ?﹂
なぜここで問う。いままでずっと自分勝手に戦ってきただろうに。
﹁ええ、いいですよ﹂
沙羅の問いに答えたのは彩芽ではなく、鈴木だった。
﹁⋮⋮ん?﹂
彩芽は沙羅を見て、鈴木を見る。
﹁紅さんには、まだ伝えていませんでしたね。実は、天道さんは僕
が呼び寄せた助っ人なんです﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
いままで鈴木が沙羅を疑わなかったのは。そして使い魔を自由に
攻撃できていたのは。攻撃するときいつも結界が張られていたのは。
鈴木と示し合わせていたからなのか⋮⋮。
﹁あんたが紗良を疑わなかったのは、だからなのねぇ﹂
なるほど、なるほど。
﹁︱︱ッ!!﹂
有無も言わさず、電光石火の速度で彩芽は鈴木の顔面を打ち抜い
た。
しかし︱︱、
﹁やめてください、死んでしまいます﹂
鈴木への攻撃は転移魔法により躱された。
291
﹁鈴木﹂彩芽は冷たく呟いた。﹁あとで覚えておけ﹂
﹁ほ、ほどほどにお願いしますね﹂
鈴木の顔色が真っ青に変化した。
﹁ネヴァンとか言った? あの悪魔の詳細な情報はあるの?﹂
﹁いいえ。前回現世に現れたのは数百年前のことですから、どのよ
うな悪魔なのかは予測できません﹂
﹁二つの体を求めたって二つ名の意味は?﹂
﹁体を求める修正があるようです。人間の魂を吸収することで、ネ
ヴァンの神話性が強化されるようです﹂
﹁つまり、魂を吸わせなきゃいいのね?﹂
﹁おそらく﹂
﹁了解﹂
彩芽は短く息を吐いて、前に一歩踏み出した。
﹁過去の罪を償うためとはいえ、無抵抗に殺されたんじゃあ、紅彩
芽の名が廃る。たとえ神話級の悪魔が相手でも、容易く殺せるあた
しじゃない﹂
ひとりむすめ
ゆめごころ
手の平に、茜のかんざしを具現化し、彩芽は魔力を注ぎ込む。
﹁日つ、一人娘の夢心﹂
紡いだ言葉は魔力に代わり、
ふたりしずか
べんせいしゆくしゆく
艶なる色へと変化する。
﹁風つ、二人静に鞭聲粛粛﹂
白の光は足袋となり、
さんすい
めいきようしすい
漆の下駄の音響く。
﹁水つ、三酔、明鏡止水﹂
韻が織り成す絹纏い、
小夜の衣の帯締まる。
﹁︱︱紅彩芽、参ります﹂
292
二章 紅彩芽、夢を思い出します。5
小夜衣を纏った彩芽から、圧倒的な魔力が放出される。
﹁ふゅぅ﹂
沙羅が口を尖らせて息を吐いた。口笛を吹くつもりだったのだろ
うが、失敗している。
﹁よっ! 日本一!﹂
﹁そのかけ声はやめてって言ってるでしょ⋮⋮﹂
はしゃぐ聡美を見て、彩芽は額に手を当てた。いままで何度辞め
たま
てくれと伝えたか。それなのに、聡美はことごとく恥ずかしいかけ
声をかけてくる。
﹁香﹂彩芽は香に向き直る。﹁あたしの命、そう簡単には取らせな
いよ﹂
おそらく、ネヴァンを操っているのは香だろう。こうしているあ
いだ、攻撃を仕掛けてこないことから、そう推測できる。
彩芽は右手に魔力を充填。
魔法の準備が完了するとともに、跳躍した、
一瞬でネヴァンの目の前に到達。
拳を突き出し、鎧を打つ。
﹁︿鹿鳴﹀!﹂
極火力魔法が、ネヴァンの鎧を貫いた。
彩芽はその反動で後ろへ離脱。すぐさま後ろにまわりこみ、再び
︿鹿鳴﹀でネヴァンを攻撃する。
﹁⋮⋮ふふ。私を攻撃すればすぐに決着がつくというのに﹂
物陰に退避している香が、心底楽しそうに微笑んだ。
﹁それじゃあ、あんたを倒したって言えないでしょ。逃げない引か
ない真っ向勝負。それがあたしの性分よ﹂
﹁姉さんは甘いですね⋮⋮﹂
︿鹿鳴﹀を連打した彩芽は、魔力が底を突いて一度ネヴァンから距
293
離をとった。聡美の魔力が充填されるとはいえ、素早く完璧に回復
するわけではない。魔力が回復するあいだ、彩芽はネヴァンの動向
を探る。
彩芽が持ちうる最高の火力魔法を数発打ち込んだが、ネヴァンは
まるでダメージを負ったように見えない。鎧があまりに堅すぎるの
だ。しかし、だからといって通常弱点である生身を狙うことはでき
ない。ネヴァンは鎧だけの存在だ。ないものは狙いようがない。
ったく、なんて硬さなの。彩芽は右の拳を軽くさすり、舌打ちを
した。
﹁姉さん。それで終わりですか?﹂
﹁⋮⋮まだまだ、これからでしょ﹂
魔力はまだ五割ほどしか回復していなかったが、香に挑発されて
彩芽は前に飛び出した。
彩芽がネヴァンの懐に飛び込んだ、その瞬間。
ネヴァンが腕を横に薙いだ。
彩芽は仰け反り、危ういところでその攻撃を躱す。
攻撃は、完全に躱した。
しかし、その攻撃がもたらした風圧が彩芽を吹き飛ばした。
﹁︱︱っ!﹂
彩芽は十メートル後方のビル、五階部分に背中からぶつかった。
彩芽が苦悶のため動きを停止したのは、コンマ二秒だった。
その僅かな間隙のうちに、ネヴァンは彩芽の目前まで移動してい
た。
﹁やばっ﹂
退避行動を起こすが、もう遅い。
振りかぶったネヴァンの攻撃を避けられない。そう悟った瞬間に
彩芽は全力で防御にまわった。
腕を交差し、高めた魔力のすべてを前方に注ぎ込む。
ネヴァンの拳が、彩芽が生み出した魔力障壁にぶつかる。
接触した途端に、五枚生み出した障壁の三枚までが割られた。
294
ぎりぎりと、ネヴァンは残った障壁を力で押し込む。
ネヴァンの力が凄まじく、彩芽は横に逃れることができない。
ネヴァンの攻撃の風圧だけで十メートル以上も吹き飛ばされたの
だ。このまま突き破られれば、どうなるか。
彩芽が、バラバラになる自らの姿を想像したとき、突如ネヴァン
が目の前から消えた。
﹁え?﹂
押し込められる力が消え、彩芽はコンクリートから体を引きはが
す。
ネヴァンは?
辺りを見まわすと、横方向のビルに完璧にその姿を埋没させたネ
ヴァンを発見した。
﹁ぼくもいるっていうことを、忘れてもらっちゃやだやだやーだ!﹂
沙羅が軽く握った拳を頬に当てて体を横に振る。
これは、沙羅がやったのか。なんとも腹立たしいポーズだったが、
いまは彼女の助力が心強い。
﹁ぼくのこと、ちゃんと見てくれないと、怒っちゃうぞ♪﹂
沙羅はいままで首に巻いていた法衣のスカーフを、髪の毛に巻き
付けた。紗良は自らの頭よりも大きく、スカーフを蝶々結びする。
﹁それ、スカーフじゃなかったの?﹂
﹁ううん。おっきなリボン。かわいいでしょ?﹂
可愛いと言え、という無言の圧力が加わる。明後日の方向にテン
ションが全力な紗良に辟易しながら、彩芽は﹁はいはい、かわいい
ねー﹂と抑揚のない声で答えてあげた。
髪の毛に法衣を巻き付けるということは︱︱彩芽は体勢を立て直
しながら思う。髪の毛は魔法少女にとって最も身近にある魔力回路
の一つだ。それに魔力回路の法衣を巻き付けるということは、それ
だけで魔術的様式を持つことになる。
刹那、ネヴァンが埋っていたビルが爆発した。
ビルをネヴァンが砕き、飛び上がる瞬間を辛うじて確認できた彩
295
芽は、目を細めて上空を見る。
青い空の中心に、ネヴァンを姿を確認する。それは徐々に降下を
初め、みるみる彩芽に近づいて来る。
﹁紅彩芽。きみは悪魔を引き寄せ続けて﹂
﹁わかってるよ!﹂
彩芽は魔力を高め、ネヴァンの攻撃に備える。
綺麗に列べた爆弾がドミノ状に爆発していくかのような音を上げ
て、ネヴァンが彩芽に迫る。
その距離、五メートルと迫った瞬間、彩芽は動いた。
ネヴァンが巻き起こす風に体を任せ横へ飛び、上方へ飛翔。すぐ
さま勢いを反転させ、ネヴァンを追う風に乗る。
ネヴァンが地面に衝突。
半径百メートルがその攻撃の威力と風圧により壊滅する。
背後から迫った彩芽が、ネヴァンに拳を突き出した。
﹁︿鹿鳴﹀!﹂
背中から打ち抜いた拳は鎧で停止。
再び鎧の防御力のまえに弾かれるものと予測していた彩芽は、突
如起こった変化に目を疑った。
拳が、打ち当てた鎧の一部を砕いたのだ。
すぐさま我を取り戻し、彩芽は全力で後方に跳躍した。
﹁んふふ。効果覿面ね﹂
いつの間にか、ネヴァンの攻撃に耐え抜いたビルの屋上に移動し
スピーカー
ていた紗良が鼻で笑った。
﹁︿集約音波﹀。極火力魔法は、きみの専売特許じゃないんだよん﹂
﹁すぴーかー?﹂彩芽は首を傾げる。
﹁指向性のある音波です﹂突如、彩芽の隣に鈴木が現れた。﹁それ
をいくつもの方向から一点に照射すると、その部分の音量が大きく
なります。それをさらに大きくしていけば、物体は振動を始めます。
振動は疲労となり、ダメージに繋がるんです。天道さんと紅さんの
極火力魔法、二つの魔法が同時に打ち込まれたため、ネヴァンの鎧
296
が砕けたんですよ﹂
﹁極火力魔法二つ合わせないとダメージを与えられないって、なん
て規格外なの﹂
﹁だからこその神話級悪魔です﹂
﹁それもそうね。⋮⋮それより、どうしてあんたがここにいるのよ﹂
﹁念話班を用意いたしましたので、接続に来たんです﹂
﹁あ、そう。じゃあ繋げて﹂
彩芽の指示で、鈴木は彼女の背中に触れた。その手の平から、僅
かに魔力が放出される。
彩芽は耳の奥に、かすかなハウリングノイズを感じた。それは徐
々に大きくなり、不意に途切れた。
﹃彩芽! 少しは結界師の位置を考えて攻撃しなさいよ!﹄
突然耳に飛び込んだ聡美の画なり声に、彩芽は顔をしかめた。
﹁そんなに咆えなくても聞こえてるから﹂
﹃こっちは死にかけたのよ! 少しは反省しなさいよ!﹄
﹁死にかけた?﹂
﹁先ほどのネヴァンの攻撃に、袰月さんが巻き込まれそうになった
んですよ﹂
﹁ああ、そういうことか﹂
鈴木の捕捉に、彩芽は手を打ち鳴らした。
﹁それ、あたしだけの問題じゃないでしょ。聡美もきちんと戦況く
らい把握しなさい﹂
﹃私はあんたと違って戦闘力皆無なの。悪魔の攻撃なんてほとんど
目に見えないの。か弱い乙女なの﹄
﹁最後は違う﹂
﹃うるさい! とにかく、こっちに近づけないで﹄
﹁はいはい﹂
適当に返事を返して、彩芽は念話から集中を切った。
⋮⋮こっちって、どっちだ?
ま、いいか。
297
とりあえず︱︱彩芽は拳を握り、気合いを入れ直す。時間はかか
るが、紗良と協力してあの鎧を少しずつ砕いていけば勝機はある。
﹃紅彩芽﹄
彩芽の耳に、紗良の強ばった声が届いた。彼女がこんな声を聞い
たのは、出会ってから初めてのことだ。
﹁なによ?﹂
﹃気をつけて。様子がおかしいよ﹄
言われて、気がつく。
たしかに、先ほどからネヴァンがまるで動いていない。先ほどは
香が手心を加えていたから動いていなかったと説明できるが、いま
は違う。動かない理由に、説明が付けられない。
それに︱︱、
﹁魔力が、増えてる?﹂
ネヴァンに内在する魔力が、みるみる高まっていく。これは、ど
ういうことなんだ?
彩芽はネヴァンから香に視線を移し、呼吸が止った。
香が、地面に倒れている。彩芽からは離れすぎていて表情まで観
察できないが、体を﹁く﹂の字に折り曲げて、苦しげに見える。
﹁香!﹂
我を忘れ、彩芽は足下から魔力を噴射した。
二百メートル以上も離れた香の元までたどり着くのに、二秒とか
からなかった。そのたった二秒が、彩芽には永遠のように感じられ
た。
香に近づいた彩芽は速度を殺し、それでも抑えきれない勢いを地
面に体を転がして相殺する。
﹁香⋮⋮香!﹂
四つん這いになって、彩芽は香に近づいた。
顔面蒼白となった香が、浅い息を繰り返している。
﹁ねえ⋮⋮さん﹂
﹁香。ねえ、ちょっとどうしたのよ!﹂
298
﹃落ち着いてください、紅さん﹄耳に鈴木の声が飛んできた。﹃香
さんは呪印を用いてネヴァンを召喚しました。その術は、さすがは
紅家といっていいほどの高等なもので︱︱﹄
﹁能書きはいいからさっさと状況を説明して!﹂
﹃香さんは、召喚したネヴァンに魔力を喰われています。このまま
だと、ネヴァンに魔力を抜かれてしまうでしょう﹄
﹁⋮⋮魔力を抜かれる?﹂
﹃一言で表すなら、死にます﹄
﹁そ⋮⋮﹂
そんな馬鹿な。鈴木の言葉が持つ意味に、彩芽は絶句した。
﹃数分とはいえ、神話級悪魔を無対価で召喚し、使役していたこと
そのものが驚異的なことだったんです。通常であれば、何百もの魔
法使いの魔力を捧げて召喚の儀を行い、それでも失敗するものです
から。たとえ儀式が成功しても、使役するなど到底不可能です﹄
﹁⋮⋮ネヴァンを殺せば、香は救えるのね?﹂
﹃おそらく﹄
念話の向こう側で、鈴木が頷くのが判った。
﹁香。いま助けるから﹂
﹁ねえ、さん﹂
香が彩芽の法衣の袖に、すがるように手をかけた。
﹁私、姉さんが、嫌い。大嫌い。私の、婚姻の祁を、めちゃくちゃ
にして、私の人生を、狂わせて、酷い男を押し付けて。次期当主を、
押し付けて。私はあのとき、死んだほうが、よかった﹂
﹁ごめん、香。全部、あたしのせいだ。それは認めるし、償えると
は⋮⋮思ってない﹂
﹁それに、姉さんは嘘つきです。姉さんあのとき、生きていれば、
幸せになれるって、おっしゃいましたよね。あれから、六年間。私
は、ひたすら待ちました。けど、生きていたって、頑張ったって、
苦痛に耐え続けたって、与えられるのは批難と誹りのみ。ちっとも
幸せになんて、ならないじゃないですか﹂
299
﹁本当に、ごめん。けどね、これからだよ。面白くなるのは。あた
しね、あの村を、紅家を、ぶっこわすから。ぶっこわして、全部真
っ白にするから。そうすればあんたも、自由になる。自由にオシャ
レして、自由に振る舞って、自由に恋愛して、自由に結婚できる﹂
﹁け⋮⋮っこん﹂香は、目の端から一筋の涙を流した。﹁姉さん。
私⋮⋮。私、好きになった男性と、結婚したい﹂
﹁うん。姉ちゃんが叶えてやるから! 香は、もう少しだけ我慢し
ててね﹂
﹁⋮⋮はい﹂
息も絶え絶えに、それでも瞳の奥に光を輝かせ、香は小さく頷い
た。
香の手をその体に優しく乗せて、彩芽は立ち上がる。
﹁聡美﹂彩芽は短く、鋭く言い放つ。﹁魔力の充填速度を上げて﹂
﹃え、ええ!?﹄
耳の置くに、聡美の困惑の声が響いた。それを無視して、彩芽は
言う。
﹁全力で行くから﹂
体が熱い。それなのに、辺りの温度がみるみる冷えていく。
この感覚、婚姻の祁をぶちこわしたときに似ている。あのときも、
自分は香を助けようとして、熱くなった。我を忘れ、命を捨てた。
あのとき、あたしは香が暁鬼の花嫁にされたことが、許せなかっ
た。それで、熱くなったんだとばかり思ってた。けど、違う。
あたしは、香を守りたかったんだ。命令も、作法も、掟も、しき
たりも、一人の妹の人生を狂わせるなら、そのすべてを消し去りた
いと思った。
いまは、どうだ? と彩芽は自問する。
そんなものは、愚問だ。
昔と同じ。香を守りたい気持ちしかない。
たとえ憎まれても、褒められなくても、貶されても、無視されて
も。あたしは、香を守りたい。
300
⋮⋮そう。なんだ。
彩芽は軽く、息を吐いた。
こんなに、簡単なことだったんだ。
﹁ふふふ﹂
吐息が笑いに変化する。
夢っていうのは本当に単純で、簡単で、こんなにも口にするのが
恥ずかしいようなものだったんだ。
恥ずかしいから、恥ずかしいものだって判ったから、いつしか夢
は口にしなくなった。胸に秘めているだけの、語られない信条さえ
も恥と感じるようになって、否定して、消していった。
彩芽は周りから急速に充填される魔力と、それ以上に生み出され
る魔力の、すべてを魔術に変換する。
大人になるって、そういうことなんだろうか?と彩芽は自問する。
そうだと二十歳の彩芽は肯定する。
違うと少女の彩芽は否定する。
どちらを採るか?
そんなの、決まってる。
彩芽は地面を蹴り、前に飛び出した。
301
二章 紅彩芽、夢を思い出します。6
僅かな予備動作だけで、彩芽はネヴァンまで三十メートルある距
離を五メートルまで詰めた。
﹁︿あらばしり﹀﹂
周囲の空気が凍り付き、ネヴァンに向かって走り出す。
ネヴァンは魔法を振り払うが、氷結は食い止められない。
ほうらん
動きが止ったネヴァンに向けて、彩芽は手の平を向けた。
﹁︿鳳鸞﹀﹂
手の平から激しく炎が吹き出した。業火はたちまちネヴァンを飲
み込み、天空高く燃えさかる。
ひふうほうらい
すかさず彩芽は手を握る。
﹁︿秘封蓬莱﹀﹂
突如業火が縮小を始めた。極点まで圧縮されたところで轟音と熱
風を巻き上げながら爆散する。
︱︱まだいける。
﹁︿鹿鳴九連﹀﹂
彩芽はコンマ一秒のあいだに、九つの︿鹿鳴﹀を打ち抜いた。
魔力が欠如する虚脱感が彩芽を支配する。
途切れそうになる意識を、彩芽は奥歯をかみしめて食い止める。
︱︱まだまだ!
魔力を拳に充填した矢先、目の前のネヴァンが突如地面に落ち込
んだ。
ツーバス
﹁紅彩芽! きみ、ぼくのことを無視しすぎぃ!﹂
空から、紗良の声が響いた。
﹁ぼくの魅力にひれ伏して♪︿二重爆奏﹀﹂
音がネヴァンにのみ向けられているため、どのような音が奏でら
れているのかは定かではない。しかし、その威力は彩芽の目にもは
っきりと視認できる。
302
魔術が発動する度に、まるでガラスが砕けるように目の前で空気
が割れる。
ティストーシヨン
その発破に合わせて、空中でネヴァンが踊る。
﹁まだまだいくよぉ! ︿弦早歪音﹀﹂
次の魔法は、威力が大気を振動し、びりびり都彩芽の肌にも伝わ
った。ネヴァンの鎧が次第に悲鳴を上げ始める。
﹁紅彩芽!﹂
﹁おっけぇ!﹂
彩芽は全身から魔力を放出し、新たな魔術をくみ上げる。
一つは炎を宿し、一つは氷を宿す。
雷は大地を生み、水は大海を育む。
風は空を揺らし、無数の命が生まれ出る。
九つの世界が重なったとき、魔術で桜が咲き乱れる。
﹁これで終わりよ。︿九重桜﹀!!﹂
彩芽から放出された九つの魔弾は花びらの様に舞い、ネヴァンの
体内に侵入。そこで魔術が発動。
ネヴァンは内部から爆発した。
彩芽は後方に跳躍し、息を整える。
隣に、いままで浮遊していた紗良が降り立った。
﹁おつかれさま。紅彩芽﹂
﹁紗良も。あんたがいて助かったよ﹂
﹁それはどうも﹂
視線を合わせると、紗良は恥ずかしげに目をそらした。人に見ら
れるのは好きなのに、目を合わせるのは苦手なのか。
未だネヴァンを中心に燃えさかる炎を眺めながら、彩芽は長く深
い息を吐き出した。
これで、香も無事に︱︱。
ぞくっと、背筋が凍り付いた。
﹁な、なに!?﹂
紗良も気付いたのだろう。その異様で、歪な魔力の本流に。
303
﹁⋮⋮ああ、ってぇなぁ。ったく、縛られたまま、がっつりぶっ飛
ばされるなんざ初めてだぜ﹂
炎の中に、一つの影が浮かび上がった。
彩芽も、そして、紗良も、呼吸を忘れた。
﹁⋮⋮てめぇらか? 俺様をいいだけぶっ飛ばしたのは﹂
ネヴァンが彩芽を見た。ネヴァンにはもともと顔はない。首がな
いのに、彩芽はネヴァンに見られたと思った。背筋がぶつぶつと粟
立ち、針を刺されたように鋭く痛む。まるで尖塔の頂上に安全装置
無しで立たされたような気分だった。
なにかあれば落ちる︱︱死ぬ。それを、強く実感する。
﹁あ⋮⋮あ⋮⋮﹂
紗良が震える唇をぎこちなく動かした。
﹁悪魔が喋った!﹂
﹁⋮⋮喋るわよ﹂
﹁そうなの?﹂
﹁神話級悪魔なら⋮⋮え?﹂
﹁え?﹂
彩芽と紗良は見合った。
﹁あんた、神話級悪魔と戦ったことないの?﹂
﹁あるわけないでしょう。こんなに危ない悪魔となんて﹂
﹁そ⋮⋮﹂
そんな。彩芽は膝が崩れる思いがした。
﹁現役最強の魔法少女と言われているあんたが、どうして神話級悪
魔と戦ったことがないのよ!﹂
﹁経験できなかったんだから、仕方ないじゃない﹂
﹁なんでしてないのよ!﹂
﹁あ、そういう質問、事務所的にNGなんで﹂
﹁どういう意味よ!?﹂
﹁うるさいっ!﹂
ネヴァンが咆えた。
304
彩芽はネヴァンに振り返る。
目前。三メートル。
巨大な火球が彩芽に迫る。
いまからでは、避けられない。
彩芽はすぐさま魔力を拳に濯ぎ、火球を思い切り振り払った。
﹁⋮⋮くっ!﹂
ただの火の球とは思えないほど、重たい。
奥歯をかみしめて、彩芽は思い切り腕を振り抜く。
ぎりぎりの所で火球は彩芽を反れた。
空に向かって飛ばした火球は弧を描き、遥か後方に着弾。爆発し
た。
﹃あんぎゃぁぁぁぁぁぁ!!﹄
耳元で、悲鳴が響いた。遅れて、後方から念話で届いたものと同
じ悲鳴が、山彦のようにこだました。
﹁⋮⋮⋮⋮聡美?﹂
あの悲鳴︱︱模型作りが生き甲斐の中年の男性が、精魂込めて作
り上げた模型を完成と同時に子どもに踏みつぶされたかのような酷
い悲鳴だった︱︱はおそらく、聡美のものだろう。
﹁い、生きてる? 聡美﹂
﹃⋮⋮死んだ﹄
﹁え?﹂
﹃死んだと思ったわよ! 馬鹿じゃないの! あなた私を殺す気?
殺すつもりなんでしょ? そうなんでしょ? いっつも私に愚痴
聞かされて鬱憤でも溜まってたんでしょ? この際だから亡きもの
にしようとしたんでしょ? そうなんでしょ!?﹄
﹁さ、聡美。おちついて⋮⋮﹂
﹃ふえぇ⋮⋮。死ぬかと思ったよぉ﹄
﹁し、死ななくてよかったね﹂
彩芽は後ろを振り返る。平屋が建ち並ぶ住宅街に、ぽっかりと大
きな穴が穿たれている。そこが、聡美が言っていた﹃こっち﹄だっ
305
たんだろう。ちゃんと教えてくれれば、少しは注意したのに。
聡美との会話が途切れると、遅れて拳に鈍い痛みがやってきた。
拳は︱︱それこそ極火力魔法を放てるほど強化したはずだった。そ
れなのに、その魔力の塊をダメージが抜けてくるなんて。
これからはあれは、打ち返さずに避けたほうが良さそうだ。
﹃紅さん、聞こえますか?﹄
僅かに慌てたような鈴木の声が聞こえた。
﹁うん、聞こえてるけどなに?﹂
﹃⋮⋮気をつけてください﹄
﹁ネヴァンでしょ? 知ってるわよ﹂
﹃あ、いえ。束縛を離れたネヴァンも危険ですけど、それ以上に危
険なのが︱︱﹄
﹁いい、わかった﹂
彩芽は鈴木の言葉を遮った。
彩芽のすぐ横から、地獄の空気でも流れ出したんじゃないかとい
うほどの邪悪な魔力が、じわじわ広がり始めた。
﹁ふ⋮⋮ふふ⋮⋮ふ﹂
ドールの壊れた関節を無理矢理捻り動かすかのような、不気味な
挙動で、紗良が地面から起き上がる。
ネヴァンの攻撃は彩芽に向けられたものだったが、どうやら紗良
はその余波を受けたらしい。頬に、うっすら傷が付いている。
﹁ぼくの顔に、傷が、傷が⋮⋮ふふふ﹂
﹁おいそこの女﹂
ネヴァンの声が紗良ではなく、自分に向けられたのだと彩芽は何
故か察することができた。
﹁なによ﹂
﹁その隣の女は、悪魔か?﹂
悪魔が悪魔か?と尋ねるなんて。彩芽は思わず笑ってしまいそう
になる。
﹁一応人間のはずだけど⋮⋮﹂
306
人間、だよね? 彩芽は自問する。
隣で起き上がったこいつは、本当に紗良なのか?
見た目は、いままでと同じだ。金髪に大きなリボンを付けて、碧
眼で、あたしよりも背丈も︵胸も︶小さい。何一つ変化はないよう
み見える。
けど、その魔力の本質は、完全に別人だった。
﹁邪神かなにかじゃないのか?﹂
﹁あんた。神話級悪魔のくせに、人間に怯えてるの?﹂
﹁ばば、ばっかじゃねぇの!? 怯えてねぇし!﹂
怯えてる⋮⋮。絶対怯えてる。
しかし実際問題。紗良の魔法でネヴァンを倒せるとは思えない。
ネヴァンが怯えているのは紗良の魔法ではなく、紗良の魔力だろう。
さすがにこの雰囲気は、仲間の彩芽でさえ薄ら寒い気持ちにさせら
れる。
﹁ぼくの顔に傷を付けたのは、きみ?﹂
深夜のショウウインドウの中にあるバラバラのマネキンの首が、
一斉にこちらを向いたような、怖気の走る表情で紗良は呟いた。
﹁ぼくの顔に傷を付けた責任は、取ってもらわなくっちゃ♪﹂
刹那、彩芽の視界から紗良が消えた。
過去幾つもの戦闘で前衛を務めていた彩芽は、動体視力にはそこ
そこ自信があった。いまはそれを魔力で強化さえしている。それな
のに、彩芽はその肉眼で、紗良の動きを捕らえることさえできなか
った。
彩芽がネヴァンに視線を向けたときにはもう、紗良がネヴァンに
接触した後だった。
紗良は大きなリボンをほどき、その手に握りしめている。
それともう一つ︱︱。
﹁⋮⋮っ!?﹂
彩芽は、声を詰まらせた。
彩芽と紗良の極火力魔法でやっと一欠片を削れた鎧の腕部を、紗
307
良は手にしていた。
いったい、なにが起ったのか、彩芽は想像さえできない。
﹁んん? やはり貴様、人間じゃないな?﹂
﹁なんのことぉ? アイドルって、難しいことはわからいんだよぉ﹂
歌うように、紗良はリボンを振りかざす。
リボンは瞬間的に直立し、硬化した。
その先端が、ネヴァンの鎧に深々と突き刺さる。
そんな⋮⋮。
彩芽は、目の前の光景を受け入れられなかった。
これほどまでの力が、あの紗良のどこに眠っていたんだ?
﹁オラオラオラオラオラァ!! こんなんじゃ足りねぇんだよ! アイドルの顔は、高いんだからね♪﹂
紗良の後ろに別の人物がいるのではないかと思えるほど、ころこ
ろと表情と声質を変えた。
右に左に、加速していくリボンの刃を、彩芽は初めのうちしか捕
らえきれなかった。ほとんど透明に近づいた刃の残映が、みるみる
ネヴァンの体を削っていく。
彩芽が全力を賭しても貫けなかった鎧が、あっさりと欠片になり、
地面に降り積もった。
﹁こんなんで終わりか!? えぇ!? なんとか言って見ろよこの
豚野郎が!!﹂ギギ、と首を回し紗良が彩芽を見た。﹁あ、そうそ
う♪ 紅彩芽。ここはぼくに任せて、きみは妹さんを助けてあげな
よ﹂
﹁え、あ、うん、うんうん﹂
任せろと言われたのだから、任せよう。そうしよう。
そう言い訳をし、彩芽は歪んだ魔法少女から逃げ出した。
金髪の悪魔から逃れた彩芽は、全力で香の元に駆け寄った。
﹁大丈夫? 香﹂
香の体を揺すり、手を取る。
308
その手のあまりの冷たさに、彩芽はしばし呼吸を忘れた。
手首に指を乗せ、鼓動を待つ。
しかしそれは、いつまで経っても、指で触れることは叶わなかっ
た。
﹁⋮⋮鈴木﹂
﹁はい﹂
背後から鈴木の肉声が聞こえた。
ここに彼が駆けつけることを想定していた彩芽は、彼の突然の肉
声に、驚くことはなかった。
﹁医療班は?﹂
﹁用意しました。⋮⋮治療を開始して﹂
鈴木が隣に連れてきた医療班の男性に指示を飛ばした。男性は手
を首に添える。しかし、そこから、なにも行動を起こさなかった。
﹁あんた、なにしてるのよ? さっさと治療しなさいよ﹂
﹁⋮⋮無理です。既に、この方は亡くなられています﹂
﹁いいから治療しなさいって、言ってるのよ﹂
﹁紅さん。落ち着いてください。治療魔法は生命の活動がなければ
発動しないもので︱︱﹂
﹁いいからやれって言ってるのよ!﹂
彩芽の怒声に、男性が怯え尻餅をついた。男性は彩芽を見て、困
惑したように鈴木に視線を送る。鈴木は無言で、男性に頷いた。
﹁⋮⋮わかりました。一応、やれるだけはやってみます﹂
男性が治療魔法を発動すると同時に、彩芽は香の胸に耳を当てた。
戻ってきて、香。
お願いだから、戻ってきて。
彩芽は魔法の奇跡に、香の生命力に、見たことも信じたこともな
い神様に、全身全霊で祈る。
しかし︱︱。
﹁申し訳ありません﹂
何分⋮⋮いや、何十分たったか。医療班の男性の魔力が尽きたと
309
ころで、彩芽は香の胸から耳を離した。
﹁あんた、ちゃんと治療してるの?﹂
言葉を発する度に、彩芽の理性がひと欠片、またひと欠片と暗い
闇の底にこぼれ落ちていく。
﹁それでも、医療班なの!?﹂
﹁紅さん、落ち着いて下さい!﹂
鈴木が声を張った。鈴木の声で、暴走しかけた彩芽の理性が正常
さを取り戻した。
﹁治癒魔法は、完璧でした。怪我で心停止した人だったら、あるい
は蘇生も可能だったかもしれません。ですが、香さんの場合は、魔
法では蘇生できないんです。紅さん。これが、魔力を抜かれるって
いうことなんです﹂
﹁そんな⋮⋮﹂
そんなことは、認められない。
だって、これから香は自由になるはずだったのに。
男を好きになって、好きな人と結婚をするはずだったのに。
紅家の呪縛から、抜け出せるはずだったのに。
死んだら、なんにも叶わない⋮⋮。
叶えて、上げられない。
﹁くすくす。どうしたの? 紅彩芽﹂
彩芽の隣に、紗良がいた。紗良は片方の手にリボンを持ち、もう
片方の手に細切れになった鎧の欠片を携えている。
﹁⋮⋮ネヴァンは?﹂
﹁まだ生きてるみたいだけど、これくらい細かくしたら動けないよ
ね♪ それより紅彩芽。その子、魔力を抜かれちゃったの?﹂
﹁⋮⋮ええ、そう﹂
﹁じゃあ、治癒魔法も意味ないね﹂
﹁そうね﹂
﹁それでも、できることがある。そうでしょう?﹂
﹁⋮⋮どういう意味?﹂
310
﹁紅彩芽。きみは、考えていたんでしょう? ずっと前から。人を
助けるっていうことを。攻撃じゃなく、治癒を。治癒魔法じゃなく、
治癒魔術を。ねえ、その夢。ここで叶えるべきだと思わない?﹂
彩芽は紗良を見上げる。紗良の瞳の奥の灰色を凝視して、けれど
その奥に潜む感情を、彩芽は読み取ることができなかった。
﹁どうしてあんたが、あたしの魔術の構想を知ってるのよ?﹂
﹁ひ・み・つ♪﹂
﹁あんたねぇ⋮⋮﹂
﹁アイドルは秘密を持っているものなんだよぉ。その秘密を無理矢
理詮索しちゃだめだめ﹂
紗良が指摘したとおり、彩芽は以前より治癒魔術の術式を考えて
来た。しかし、それが実践に耐えうるものかは不明だ。
しかし、一度で成功しなくても、二度、三度と試せばいい。
﹁紅さん? 治癒魔術って、いったいなんのお話ですか?﹂
﹁あたし、前々から考えてたのよ。ひとを、どうやって救えばいい
のかを。新しい魔法を、ずっと、考えて、術式を開発してきた。魔
術が使えるようになったいまなら、その魔術も成功する可能性はあ
る﹂
﹁可能性、ですか⋮⋮﹂
﹁手からこぼれ落ちそうになっている大切なものを、黙っては見過
ごせない。それを見過ごしたとあっちゃ、紅彩芽の名が廃る。たと
え失敗したとしても、全力を尽くす。それが、あたしの生き方よ﹂
かみふみのこととぎ
彩芽は立ち上がり、体内の魔力を活性化した。
︿神文傳﹀
神が伝えし文。
日本古来の言葉と数え歌。そこには宇宙のすべてが記されている
と言われている。言葉と数え歌を数値に置き換えると、太極図が現
れる。
両義。
四象。
311
循環。
カムナガラ。
あらゆる言の葉を数値に置き換えたとき、そこに真理に現れる。
彩芽は神文傳の一パーセントも、理解してはいない。しかし、ほ
んの一部でも神文傳を用いれば、魔術が真理に近づき、夢が現実に
変る。そう、彩芽は予測している。
﹁日つ、風つ、水つ⋮⋮﹂
彩芽は数で世界を紡ぐ。
魔法で世界を折り、
世界で魔術を構築する。
彩芽の言葉とともに、空中に一つずつ魔力の球が出現する。
それぞれの位置が両義を表し、四象に分化。陰と陽の性質を帯び、
循環してゼロを示す。
それらは宙で沈黙を守り、彩芽の号令を待つ。
﹁響け︿天地数歌﹀﹂
空中に出現した十の魔力玉を、彩芽は香にゆっくりと埋めた。
魔法は、夢を叶えるもの。
お願い。香、戻って来て!
彩芽は香の胸に耳をつけ、鼓動の再開を心待つ。
﹁︱︱ッ紅さん!﹂
突如、彩芽の耳から香の感触が消えた。
彩芽は驚き、目を開く。
先ほどまで触れていた香の体が、いまは三十メートルほど先にあ
る。
彩芽の肩を、鈴木が強く掴んでいて、その感覚だけが、現実とい
うものを強く感じさせられる。
﹁⋮⋮なにするのよ、鈴木﹂
﹁紅さん、あれを﹂
香を見ろと促され、彩芽は目を凝らす。
先ほどまで、ただ冷たく横たわっていただけの香の体から、奇妙
312
な黒いモヤが出現を始めた。
﹁⋮⋮あれは?﹂
﹁不明です。原因も。ただ、判ることが一つだけあります。あれに
触れると、おそらく、絶命します﹂
絶命とは大仰な。普段の彩芽ならばそう思ったかもしれない。し
かし、あの黒いモヤを魔法少女として精察しては、鈴木の言葉に真
実みが出てくる。
あのモヤに、死者の怨嗟のような薄気味悪い魔力を感じる。あれ
に触れれば、もしかしたら異世界に引きずり込まれるかもしれない
し、あるいは香と同じように、魔力が抜かれてしまうかもしれない。
そんな予感を、ひしひしと感じる。
﹁あ⋮⋮あ⋮⋮﹂
彩芽は、自らの思考を言葉にできなかった。その言葉を口にする
ことは、自らの喉を掻ききるのと同じだから。
︱︱あれは、あたしが生み出したのか?
頭が真っ白になった彩芽を無視し、紗良が動いた。
立ち上るモヤに、紗良が近づく。
一体なにをするつもりなんだ?
﹃あーあー。まだ通じてるのかな?﹄
念話で、紗良の声が飛んだ。
﹃ネヴァンっていったっけ? この悪魔。いくら切り刻んでも死な
ないみたいなの。面倒だから、ぽいしちゃっていいかな?﹄
ぽい? 彩芽がその言葉を理解するより早く、紗良はネヴァンの
欠片をすべて香に注ぎ込んだ。
﹁︱︱ッ!?﹂
彩芽の血液が、一瞬で沸騰した。
﹁香!!﹂
前に飛び出した彩芽を、鈴木が魔法で押しとどめる。
﹁お、落ち着いて下さい、紅さん。あれはダメです。近寄ってはい
けません!﹂
313
﹁なんでよ!? あいつ、香に酷いことを︱︱﹂
﹁よく見てください紅さん。香さんには、なにも降りかかっていま
せん﹂
﹁⋮⋮え?﹂
指摘されて、彩芽は再び香を見る。
たしかに、鈴木が言ったとおり、振りかけられたネヴァンの破片
は、香にはひとつも届いていない。そればかりか、ネヴァンの欠片
のすべてが、完全に消失してしまっている。
﹁⋮⋮どうやら、あのモヤは分解消去を司る魔法のようですね﹂
﹁分解? いや、でも香はそんなものは使えないはず﹂
﹁紅さん。僕はいま、すごく残酷なことを言います。よろしいです
か?﹂
背筋を伸ばして、鈴木はメガネを押し上げた。彩芽は唾を飲み込
み、ゆっくりと頷く。
﹁香さんは、もうどこにも居ません。あれは、人間じゃありません﹂
﹁⋮⋮そんな﹂
そんなことはない。だってさっきまで香は、笑っていたじゃない
か。喋っていたじゃないか。人間として、紅香として、生きていた
じゃないか。
彩芽の感情はしかし、肉眼で捕らえた悪魔の魔力により、否定さ
れる。
鈴木は痛みを堪えるような顔つきになった。
やめて。
﹁あれは︱︱﹂
それ以上は、なにも言わないで!
﹁︱︱悪魔です﹂
彩芽の絶叫が、晴天の空に響いた。
彩芽は、喉が張り裂けるほど叫んだ。
彩芽は、胸の息と全身の魔力のすべてを声に変え、全力で叫んだ。
けれどその声は、地球の裏側どころか、十センチ先の現実にさえ、
314
ここでは届かない。
﹃鈴木の言ったとおりだったね。やっぱり、紅彩芽は素敵だったよ。
うんうん。最高のショウを見せてもらったよ。ぼく、もうお腹いっ
ぱいだなぁ﹄
﹁天道さん。この結果を存じていて、紅さんを焚きつけたんですか
?﹂
﹃んー? それは、ひみつだよん﹄
﹁⋮⋮このことは、ティーンズ・マジックとしてMSJに抗議いた
しますので﹂
﹃いいよいいよ。抗議したって、もうぼくはいないだろうからねぇ﹄
﹁出奔すると?﹂
﹃違うよ。戻るんだよ。世界を記す魔術を︱︱循環を断ち切るカル
マを、この目で見られたことだしねぇ。ぼく大満足♪﹄
﹁そうですか。では、これは元マネージャーの鈴木ではなく、個人
としてお願い申し上げます。僕らの前に、二度と顔を見せないでく
ださい﹂
﹃うふふん。それはどうかなぁ。気が乗ったらまた来るかも?﹄
﹁そのときは︱︱﹂
﹃そのときはなに? ぼくを殺す? 鈴木が? 殺せるのぉ?﹄
﹁⋮⋮﹂
﹃ふふふ。そんなに恐い顔しないでよぉ。冗談なんだからさぁ。そ
れじゃ帰るねー。ばいびー♪﹄
バツン、と電源を入れたアンプからコードを抜き取ったような音
が耳に響いた。しかしそれが彩芽の意識を掠めることはなかった。
この日、紅彩芽は、死んだ。
315
間章
夕焼け色に染まった校舎の裏側で、少年が倒れていた。
少年は目に涙を溜め、唇をかみしめる。
その唇の端から、小さく喘ぎ声が漏れた。
﹁なんで⋮⋮﹂少年は地面に拳を叩き付ける。﹁なんで、勝てない
んだ!!﹂
掠れ声は木々の葉の音に、すぐさまかき消された。その少年を見
守る少女が、目だけで空を見てぽつりと呟いた。
﹁どうでもいいけどさ。もうくだらないことするの辞めようよ﹂
﹁くだらなくなんてない!﹂少年は咆えた。﹁どうして、お前には
わからないんだ! 雷剣ハーターのすばらしさをっ!﹂
﹁雷剣ハーター⋮⋮﹂少女は呆れてため息をついた。﹁横断歩道の
手旗に変な名前つけないでよ﹂
﹁いや︱︱﹂
﹁いやじゃない。それ、みんなが使うものなの。あんた、もう高学
年でしょう? みんなに迷惑かけるようなことしないで﹂
ぴしゃりと言い放つ。足下に落ちた﹃雷剣ハーター﹄もとい黄色
い手旗を、少女は拾い上げた。
﹁これ、戻しておくから﹂
﹁くくく⋮⋮。この借りは、いつかこの返すしてやるぞ、最強の盾、
紅香よ! この最強の矛、山南達也がな!﹂
﹁煩いっての﹂
紅香と呼ばれた少女は反射的に、手にした手旗を少年の頭に叩き
付けた。
小学六年生になったっていうのに、男子はいつまでたっても馬鹿
ばっかりやっている。今日は、村の横断歩道に設置された手旗を剣
に見立ててチャンバラごっこ。その前は山に入って冒険ごっこ。手
316
にした棒で植えられた花をぐちゃぐちゃにしてまわったこともあっ
た︱︱あれはたしかモンスター討伐ごっこといったか。そのごっこ
遊びを行う男子たちのリーダーがあの少年、山南達也だった。
香は毎回男子たちのごっこ遊びの企てを嗅ぎつけ、そのお馬鹿集
団を鎮圧してきた。そのせいで山南に目をつけられ、最強の盾など
という恥ずかしい二つ名をつけられてしまった。いい迷惑である。
手旗を元の位置に戻し、香は二時間遅れの家路についた。
﹁こんにちは﹂
道路をはさんだ向こう側の女性に声をかけられ、香は足を止める。
女性は、初めて見る顔だった。紅家の次女という立場上、香はこの
村に住む人の顔はすべて知っているといっていい。しかし、香はそ
の女性の顔にまるで見覚えがなかった。
﹁こんにちは﹂と香は軽く会釈をする。
女性は柔らかい笑みを浮かべる。まるで昔からの友人に久しぶり
に会ったような笑顔だった。
彼女の表情には、初めて出会う人間に対する取り繕いのようなも
のが微塵もない。どこかで顔を合わせたことがあっただろうか?
立ち止まっていると、女性は香の進行方向とは逆に歩き出した。
挨拶をしただけで、得になにかを話すつもりはなかったようだ。香
は軽く首を傾げ、再び家に向かって歩き出す。
猿のような男子を追いまわして、ごっこ遊びを鎮圧するのにずい
ぶんと時間がかかってしまった。太陽はもう地平線にかなり近い。
急いで帰らなければ、父親に叱られてしまう。怒った父親を想像し
た香の足は、自然と速くなった。
その道中、香は少年を見つけた。
この辺りでは見たことのない少年だった。
また知らない顔。今日は村の外からの訪問者が多いなぁ。
まさか、この村に引っ越してきたんだろうか? さっきの女性が
この子の母親という可能性はあるな⋮⋮。
少年はおそらく香よりも年下だろう。小学校中学年あたりだろう
317
か。耳元が隠れるくらいの髪の毛に、女の子のような長いまつげ。
綿の半ズボンに、ポロシャツを着ている。服装だけを見れば、良い
ところの子どものようだ。
少年は道ばたに座り込み、地面に無数落ちている石を、一つ一つ
選定していた。
石が好きな子なんだろうか?
早く家に帰らなければいけないのに。香の足は、少年の前で止っ
てしまっていた。
不意に、少年が顔を上げた。
まん丸い、この世にある﹃穢れ﹄に分類されるありとあらゆる事
象をまるで感じさせないその瞳に、香はしばし我を忘れた。
見ているだけで、意識が吸い込まれてしまいそうな瞳だった。
少年は立ち上がり、
そして︱︱
﹁こんにちは。紅さん﹂
香のすべてを知り、その上ですべてを包み、受け入れる。類い希
なる笑みを受け、香は、しばし呼吸さえ忘れて立ち尽くした。
318
一章 魔法少女、立ち向かいます。
日が落ちる前に帰宅できた香は、なんとか父親の叱責を逃れるこ
とができた。ほっと一息ついて、香は自室に向かう。
﹁ふぉふぁえふぃ、ふぁおる﹂
部屋の扉を開いた香の目に、半裸の少女が映り込んだ。
﹁⋮⋮﹂
香は迷わず扉を閉めた。
木造の廊下を左右見まわし、ここが自分の部屋であることを確認
し、香は再び扉を開いた。
﹁ふぁんふぁのよ?﹂
下着姿でベッドに横たわり、片手で漫画本を開き、もう片手でポ
テチを貪る少女が、香に訝しげな視線を寄せた。
﹁あんた、人の部屋でなにしてんのよ﹂
地球上の空気はここから生み出されているんじゃないか、と思え
るほどの長い長いため息を香は吐き出した。
﹁うぐん⋮⋮。なにしてるって。休憩してるに決まってるじゃない﹂
﹁決まってるじゃない。じゃないっての。休憩するなら自分の部屋
に行けばいいでしょ?﹂
﹁やーだー。だってあそこ寒いんだもん﹂
一つ屋根の下に住む少女︱︱袰月聡美はベッドの上で駄々をこね
た。その動きに合わせて、袋から細かいポテチがこぼれ落ちる。
聡美との間合いを一瞬で詰め、その頭頂部に平手を見舞う。
スパァン! と部屋の中に乾いた音が響いた。
﹁∼∼∼ったぁ! なにするのよ!﹂
﹁あんまり動くな。ベッドが汚れる﹂
平手を受けて悶える聡美を、ベッドの上から引きずり下ろす。布
団の上にこぼれたポテチカスを拾い集めながら、香は口を開いた。
﹁あたしの部屋で休憩するのは、百歩譲って許す。けど、ポテチだ
319
けは許さん!﹂
﹁それくらい許してよぉ﹂
聡美は目に涙を溜め、両手で頭を抑える。
﹁自分のベッドを汚されて許せる人が居ると思ってるの?﹂
ポテチと添い寝したい人は別だろうが⋮⋮。
﹁それに、聡美は一度許すと調子に乗るじゃない﹂
﹁調子になんて乗ってないわよ?﹂
﹁じゃあどうしてあたしの部屋にいるのよ? ほんとはあたしの部
屋に入っちゃだめでしょ﹂
﹁あーあ。またそうやって召使いを虐めるぅ﹂
﹁虐めじゃないってば﹂
これは、ルールだ。
紅家が聡美を引き受けたときから、聡美は召使いとしてこの家で
働く責務を負っている。もちろんそこには多少の給金が発生してい
る。ベッドの上にあるポテチは、彼女が月に一度得ている給金から
購入したものだろう。具体的な金額は知らないが、香の小遣いより
多いことは間違いない。でなければ、聡美はこの家で生きていけな
いだろう。服も食も授業料も教科書代も、すべて聡美が支払ってい
る。同じ屋敷に暮していても、聡美は家族ではないのだ。
彼女にあてがわれた部屋は、屋敷の中で一番端に位置した︱︱彼
女が来るまで物置として使われていた部屋である。一人で暮すには
十分すぎるほど広いが、冬は寒く、夏はことさら暑い。
﹁てか、なんであんた下着なのよ⋮⋮﹂
﹁楽だからに決まってんじゃん﹂
黒いハーフカップブラに黒のボーイレッグショーツ。どちらもト
リンプだ。香はといえば白のハーフブラに白のフルバッグショーツ。
ええ。どうせニッセンですよ。
﹁あんた、また下着買ったの?﹂
﹁わかるぅ?﹂
聡美は口角を上げて目を細めた。なるほど、下着姿でいたのは下
320
着自慢をしたかったからか。
﹁いったい何枚下着買えば気が済むのよ﹂
﹁ブラとショーツって二枚一セットじゃない?﹂
﹁ん?うん﹂
﹁最近ブラが合わなくなってさぁ﹂
聡美は腕を組み、わざとらしく胸を寄せた。
この女。あたしが胸のサイズを気にしてることを知っててやって
るな。
﹁香も⋮⋮あ、いや、なんでもない﹂
﹁おーけい、殴って欲しいのね?﹂
なるほど。新しい下着を自慢したいからではなく、それが言いた
いがために下着になってたのか。
⋮⋮本当に殴ってやろうか? この女。
拳を握りしめた香を見て、聡美がしてやったりという顔をした。
﹁てかさ。香も子どもっぽい下着やめて、女の子っぽい下着を買え
ばいいのに﹂
﹁なによ、女の子っぽい下着って﹂
﹁可愛らしいやつってことよ。あー、そのへん、女子としての力の
ない香にはわからないかぁ﹂
﹁なによ女子としての力って﹂
﹁名付けて女子力。かわいい下着を着けて、女の魅力をアップさせ
るの﹂
﹁下着で魅力がアップするわけないじゃない。見えるもんじゃない
んだから。それとも聡美はみんなに下着を見せびらかすの?﹂
﹁んなわけないでしょ!﹂聡美は顔を赤くした。﹁んじゃ聞くけど、
香が思う女子力ってなによ﹂
﹁うーん。長刀とか?﹂
﹁⋮⋮は?﹂
聡美は目を丸くした。
﹁ほら、長刀って女子っぽいじゃん? あれできると、女の子だな
321
ぁってあたしは思うけど﹂
聡美は遠い目をしたまま、床に落ちていた制服を着始める。
﹁あなたって、達也と同レベルだったのね﹂
﹁あいつと一緒にしないでよ⋮⋮﹂
聡美の言葉に、彩芽は肩をがくりと落した。
聡美が家に来たのは、香が小学一年生のころだった。聡美が元々
どこに住んでいたのか?香は知らない。少なくとも、見覚えのない
顔だったから、この村の住人ではないはずだ。
はじめ、聡美は香と会話をほとんどしなかった。学校へ行き、家
に戻って来ると与えられた仕事をこなし、寝る。聡美はそんな生活
を繰り返していた。聡美は完全に、塞ぎ込んでいた。
香は家の縁側に座り、月を眺める。風呂上がりの火照った体を、
春の冷たい風が冷ましていく。
家に来た当初に比べれば、聡美は人間らしい表情ができるように
なった。喜怒哀楽が豊で、調子に乗りやすくて、少しウザイ。二つ
年上なのに、何故か同い年のように感じる。姉の彩芽とは全然違っ
て、子どもっぽい。だから、聡美は香と意気投合するのかもしれな
い。
学校が同じなんだから、姉さんと仲良くすればいいのに。
ふと、香の視界の端で、なにかが動いた。
香は僅かに体を強ばらせて、なにかが動いた先を見る。
じっと息を凝らし、物陰を見続ける。目が、徐々に暗闇になれて
いく。
生け垣の小さい穴の向こう側から、石がこちらに飛んできている。
飛んでいるのは、小さい石。小さな石が、宙に浮かんでいた。
石は向こう側からこちらに飛び込み、途中でぴたりと動きを停止
させる。宙に浮いたまま、二秒ほどするとふっと音もなく小石が消
える。また小石が向こう側から飛び込んでくる。今度は、先ほどの
小石が停止した位置より少しこちら側で停止した。
322
その小石のダンスが、しばらく続いた。いったいなにが起こって
いるのか。小石が宙に浮くなんて、これは夢なのか?それとも幻覚
か? どちらとも判断できないし、それを確かめにいく勇気もない
香は、しばし小石の動きを見つめる他なかった。
ある一点を超えたとき、小石は普通に地面に落下した。小石が庭
の芝を倒す小さな音で、香は立ち上がった。
香は軽く警戒しつつ、芝に落ちた小石に近づく。
瞬きをした瞬間、目の前に小さな人影が現れた。
ほんの一瞬前までは、誰もいなかったはずなのに。香は腕の良い
手品師の手品を見たような気分だった。
﹁紅家の結界は、やっぱり堅いなぁ﹂
人影から、聞き覚えのある声が聞こえた。
﹁誰?﹂
誰かはわかっている。この声の持ち主は、間違いなく夕方に初め
て出会った男の子の声だ。けれど香には﹁誰?﹂という問い以外の
言葉が思い浮かばなかった。
蹲るような人影が、すぅっと上に伸びる。その頭部が彩芽の顎の
辺りで停止した。
﹁⋮⋮ああ、良かった。紅さんでしたか﹂
少年は困ったような、それでいて納得したような表情を浮かべた。
薄暗がりのなかで見る少年のそれに、僅かながら感情の高ぶりがう
かがえる。
﹁僕は、鈴木と申します﹂
鈴木と名乗った少年が軽く頭を下げた。
﹁鈴木くんね。あんた、なにか用があるの? ここ、あたしの家な
んだけど﹂
﹁うーん。個人的な事情がありまして﹂鈴木は目を細めて彩芽の後
ろを見る。﹁今日はこの辺で﹂
その言葉を最後に、鈴木は香の目の前から忽然と姿を消した。
﹁お嬢!﹂
323
次の瞬間、背後からかけられた野太い声に、香は肩を振るわせる。
﹁なによ?﹂
香は振り返って声の主を見る。
全身黒いスーツに身を包んだ、スキンヘッドの大男︱︱太田は警
戒感を滲ませながら香の傍に近づいてきた。
﹁お怪我はありませんか?﹂
﹁怪我って。あたし、なにもしてないけど?﹂
﹁そうでしたか。それは失礼しました﹂太田は彩芽に軽く頭を下げ
た。﹁お嬢。このあたりでなにか不審な人影を見てはいませんか?﹂
太田が言う不審な人影が、鈴木なのだろうことを香はすぐに察知
する。しかし、香はそれをあえて否定した。
﹁なにも見てないわ﹂
﹁そうでしたか。⋮⋮お嬢。春とはいえ、夜は冷えます。そろそろ
お部屋にお戻りください﹂
﹁ええ。わかった﹂
疑われては、いないだろう。おそらく、誤魔化し通せたはずだ。
背中に感じる太田の視線から、香はそう推測した。
人の家の敷地に勝手に足を踏み入れることは、決して褒められる
ことではない。とはいえここは田舎である。小さないざこざはあれ
ど、大きな犯罪は香が知りうる限り起こった例しがない。人の家に
勝手に入る人間は不作法ではあるが、太田が出張るほどの事態でも
ない。
⋮⋮いや、そちらではないのか? 自室に入った香は、腕を組ん
で考える。太田は、紅家の若頭で警備や警護などを統括している。
不法侵入者を排除するだけならば、彼ではなくもっと若い衆が出張
ってくるはずである。鈴木が敷地に入り込んだことと、太田が出張
ったことは無関係なのかもしれない。
とすると、単純に若い衆がいないだけなのか?
少し考えて、けれどすぐに思索を放棄する。これは自分が考える
ことではない。太田が考えるべきことである。おそらく彼ならばす
324
ぐに問題を解決するだろう。それくらいの経験はあるし力もある。
武器だってある。
目の前で停止した小石と、突如現れ消えた少年の姿を、香は頭の
中から消し去り、机に向かった。
いま解決すべき問題は、こっちだ。香は鞄から問題用紙を取り出
して、今日出された宿題を片付けにかかった。
翌日、小学校に向かった香は教室に入るなり絶句した。教室に設
置されたカーテンやテレビ。机や椅子が、ズタズタに切り裂かれて
いた。カーテンが切り裂かれる状況はわかる。しかし、固いテレビ
や机、椅子をどうやって切り裂いたのか。さっぱり想像できない。
よほど切れ味の良い真剣を、腕の良い剣客が振るったならば、もし
かしたら可能かも知れない。しかし、断裂したテレビに机に椅子の
数は優に十を超えている。武術を学ぶ彩芽は、真剣の特性を心得て
いる。真剣は、固いものを何度も綺麗に切れるものではない。鋭利
な刃物で切られたというより、これは鎌鼬にあった、というほうが
しっくりくる。
香は教室の中を見まわし、ある男子に目が留まる。
﹁達也!﹂ずかずかと香は達也に近づいた。﹁あんたの仕業じゃな
いでしょうね?﹂
﹁お、俺じゃねぇよ!﹂
香の勢いに押され、達也は切られずに残った椅子に腰を落した。
﹁てか、俺がこんなことできるわけないだろ﹂
﹁だと思った﹂
﹁ならなんで俺に聞いたんだよ﹂
﹁こういうときに、真っ先に疑われるようなことしてるからよ﹂
反論できないのか、達也はむすっと口を尖らせて横を向いた。
﹁これじゃ、今日はまともに授業できそうにないな﹂
達也の口から漏れた言葉から、高揚感がにじみ出している。教室
がこんな状況だと休校になるかもしれない。であれば今日は一日中
325
遊び放題だ。とか考えているに違いない。
﹁あんた、どうせ宿題やってないんでしょ?﹂
﹁うん﹂
﹁やっぱり﹂
どうせそんなことだろうと思った。香はため息を吐き出した。
﹁それで、紅。これはお前のところの仕業か?﹂
﹁あたしのところって、どういう意味よ﹂
﹁ほら。お前の家の武器を使えばできそうじゃん。チェーンソーと
かさ﹂
﹁できないわよ。チェーンソーで切ったら、大鋸屑が出る。けどこ
こにはそれがないじゃない?﹂
﹁ああ、そうだな﹂
それじゃ、どうやって? 香の心の中にその疑問が浮かび上がる。
おそらく達也もそう思っているに違いない。いつになく神妙な面持
ちで、切り刻まれた机や椅子を見つめていた。
今日の授業は達也が言ったとおり、中止となった。小学校全生徒
が体育館に集まり、集団下校と相成った。
香は同じ方向に家のある生徒六名とともに学校を出た。途中、一
人、また一人と生徒は離脱し、あっという間に香一人きりとなった。
一人になった香は立ち止まり、辺りを見まわた。ここに、自分以
外の誰もいない。
再度周囲を用心深く確認し、香は家路を離れ、学校に引き返した。
326
一章 魔法少女、立ち向かいます。2
紅家は城主よりこの地を賜った名家である。土地を管理し、民に
貸し与え、年貢を徴収する。また、外敵からこの土地を守る守護と
しての役割も与えられていた。幼いころより香は父親から、紅家の
成り立ちと役割を、繰り返し教えられてきた。この村を守るのは、
紅家に生まれたものの宿命であると。
故に、香は学校に引き返した。この地を守護する紅の名において、
学校の備品を破壊した人物を捕縛するために。
香が学校に到着したとき、既に学校の中からひと気が消え失せて
いた。おそらく、学校側が紅家に状況の引き渡しをしたのだろう。
もう少しすると、太田あたりが学校に訪れるかもしれない。
解放された門を素通りし、香は校舎入り口に立つ。人が居るとき
にはまるで感じない一種異様な雰囲気が、香の背中を冷たくする。
太田が来る前に解決しよう。そして太田の驚く顔を見てやろう。
僅かな功名心と、溢れる好奇心で己を奮い立たせて香は、学校の
中に踏み入った。
校舎の中は、人がいないことを覗いては朝とほとんど変らない。
黒ずみで木目が消えた床に、所々フシが外れた穴だらけの壁。息を
大きく吸い込むと、木と埃とゴムが焦げたような匂いがした。天井
の蛍光灯はすべて消されている。そのため日が入っているにもかか
わらず、校舎内部は普段より薄暗い。
よし、と一言気合いを入れて、香は六年生の教室に向かった。
鎌鼬が出現したような惨状となったのは、六年生の教室だけ。一
年生から五年生までの教室では、まるで異変がなかったようだ。何
故六年生の教室だけが鎌鼬に出会ってしまったのだろう?
子どもの人数の少ない村の校舎は、それほど広くはない。問題を
頭の中に軽く巡らせただけで、香はあっさり六年生の教室に到着し
た。
327
ふと、六年生の教室の中から吐息のようなものが聞こえた。
香は壁に背中をつけて目を閉じ、耳を澄ませる。耳の出力が自動
的に上がり、ホワイトノイズのような血液の音さえ敏感に感じ取る。
遠くで正体不明の鳥の﹁ぐぎゃぁ!﹂という鳴き声が聞こえた。そ
の声が香の脳内で、見たこともない巨大な怪鳥に変化した。くちば
しはねじれ、目玉は大きい。頭頂部の真っ赤な毛が逆立ち、﹁ぐぎ
ゃぁ﹂と鳴く度に振動して⋮⋮とそんなトリのことなどどうでもい
い。香はトリの幻を脳内から追いだした。
香は目を開き、呼吸を止める。
瞬間、香は教室に飛び込んだ。
﹁動くな!﹂
大声は校舎全体に響いた。
その声が怪鳥の鳴き声のような形になって戻って来るころ、香は
飛び込んだときの勢いを完全に失ってしまっていた。
教室の中にいたのは、達也だった。
なんで、達也が?
まさか︱︱、
﹁あんたが犯人だったの?﹂
﹁違う違う﹂
手近な所にあった椅子を掴み上げると、達也は床に尻餅をついた。
﹁じゃあなんであんたがここにいるのよ?﹂
﹁それは⋮⋮ええと。お、お前だってそうだろ。なんでお前がここ
にいるんだよ﹂
﹁あたしは紅香よ? 犯人を捕まえるために決まってるじゃない﹂
﹁ああ、そういえばそうだったな⋮⋮。ククク。まさしく最強の盾
の名にふさわしい行動だ﹂
﹁その、最強の盾っていうの、やめてってば﹂香は呆れて目だけで
天井を見た。﹁で、あんたはどうしてここにいるのよ?﹂
﹁まあ、お前と似たようなもんだな。俺も、どうして机とか椅子と
かが、こんなふうになったのか知りたくて。⋮⋮いや、もしかした
328
ら最強の矛としての俺の力が暴発したんじゃないかって︱︱﹂
﹁はいはい、わかったわかった﹂
﹁っんだよ。ところでお前はどうしてこうなったか考えたか?﹂
﹁考えたけど、全然わかんない﹂
﹁俺は一応考えたんだけどよ。人間じゃこうはうまくいかないだろ
?﹂
﹁うん﹂
達也の神妙な表情に、香は表情を引き締めて頷いた。
﹁もしかしたら、犯人は人間じゃないのかもしれない﹂
﹁⋮⋮ん?﹂
﹁犯人はこの世鳴らざる者︱︱お化けに違いない!﹂
﹁馬鹿だこいつ﹂
つい、香の内心が口から漏れた。
﹁馬鹿っていうなよ! これでも本気で考えたんだぞ!?﹂
﹁あのねぇ。この世にお化けなんているわけ⋮⋮﹂
不意に香の言葉が止った。それを不審に思ったのか、達也は香の
顔を見た。香は天井を見て、口を広げた状態で止っていた。次の言
葉を口にしようとしているのか、小刻みに唇が震えている。
﹁おい、なんだよ急に⋮⋮﹂
香の視線を辿った達也もまた、香と同様に停止した。
二人の視線の先︱︱六年生の教室の天井に、骸骨がいた。
骸骨が、天井にへばり付いていた。
骸骨は首をくるくると回し、空虚な瞳を、二人の間で停止させる。
その両手を大きく横に広げる。その手には、香と達也の二人がか
りでやっと持ち上がるだろう、大きな鉈が携えられている。
﹁いたぁぁぁぁぁぁ!!﹂
二人が動き出したのはほぼ同時だった。香と達也は教室の出口か
ら飛び出し、校舎の廊下を思い切り駆け抜ける。
﹁なんだよあれ?なんだよあれ?なんだよあれ!?﹂
﹁あたしに聞かないでよ!﹂
329
﹁てかほら居ただろ?お化け!﹂
﹁あああああれがお化けなわけないでしょ!﹂
﹁じゃあなんだよ?﹂
﹁知らないわよ!﹂
全力で走りつつ、香はちらり後ろを伺う。鉈を持った骸骨が自分
たちを追いかけてきている︱︱と想像していたが、実際には後ろに
骸骨はいなかった。
⋮⋮まだ教室にいるんだろうか? 香は足を止めて、振り返る。
香の停止に気付き、達也も少しして止った。
﹁おま⋮⋮早く逃げないとやばいって!﹂
﹁あれ、追ってきてないから﹂
﹁いやいや。来たら終わるって﹂
何が終わるのか? 聞くまでもない。
命。人生だ。
﹁早く逃げようって﹂
﹁逃げたいなら、逃げて。あたしは、少しだけ気になることがある
の﹂
﹁もしかしてお前、お化け好きなの?﹂
﹁は? なんでよ?﹂
香は顔をしかめた。
﹁だってあれ、完全にお化けじゃん﹂
﹁だから。それも含めて確かめるのよ﹂
﹁確かめなくったってわかるって!お化けだって!やばいって!﹂
﹁もう、煩い!﹂
香は達也の声から逃げるように、六年生に教室に向かって歩き出
した。
力が無ければ自分さえ守れない。紅家の性質上、香は村にいる武
術に心得のある老人から、一通り格闘術を学んでいる。まだまだ未
熟ではあるが、戦闘時の感覚の研ぎ澄ませ方くらいはわかる。香は
神経を集中させて、相手の敵意を探る。
330
六年生の教室の中に⋮⋮しかし、その存在は感じられない。
敵意がないのか? 骸骨だから、存在が希薄なんだろうか。
香は意を決して、六年生の教室をのぞき見る。
そこには、誰も居なかった。床にも壁にも、天井にも。骸骨の姿
は見当たらない。
あれは⋮⋮幻だったのか?
﹁お、おい。紅。マジでやばいって﹂
達也に肩を叩かれ、振り返る。
達也は恐怖に侵されたのか、顔面蒼白となっている。
その後ろ︱︱。
一メートル先に、骸骨がいた。
骸骨が鉈を振り上げる。
﹁あ︱︱﹂
危ない。
そう口にすることさえできない刹那。
香は達也と体を入れ替えた。
反射的に左腕を上へ。
骸骨の大鉈が振り下ろされた。
重心をずらして、回避を試みる。
︱︱が、既に遅い。
骸骨の鉈が、香の肘を切断した。
﹁っ︱︱!?﹂
香が我を忘れたのは呼吸も、瞬きもない一瞬。
すぐに我を取り戻し、香は空中で回転する自らの左腕をキャッチ
する。
骸骨の鉈は床に深々と突き刺さっている。この状態だとすぐには
動けないだろう。
﹁達也! 逃げて!﹂
背後に居た達也の姿が、もうない。どうやら指示するまでもなく
逃げ出していたようだ。
331
まったく、逃げ足だけは速い奴だ。この逃げ足のせいでいままで
どれほど苦労したことか。
過去の達也との鬼ごっこを思い出しながら、香は左脇に自らの左
腕を抱えた。脇で腕を思い切り押さえつけて、動脈を圧迫する。
不思議と、痛みは感じない。体が危険を感じ取って、痛覚をシャ
ットアウトしているのかもしれない。そういう状況のことを、香は
先生から聞いたことがあった。致命的な状況に陥った場合、痛みを
感じていては動きが鈍り、死んでしまう。故に、脳が痛みを消すの
だと。
大鉈が床から引き抜かれ、再度振り上げられる。
その隙に、香は脱兎の如く駆け出した。
いまいる後ろの出入り口から離れ、黒板横の出入り口から教室を
出る。後ろを気にしている暇はない。香は全速力で廊下を駆け抜け
る。廊下を折れて階段を上り、二階を突っ切って一階に戻る。背後
は一度も見ない。
止血しないと、すぐに動けなくなる。ひとまず、治療をしなけれ
ば⋮⋮。香は最高速度を維持したまま、保健室を目指した。
一階にある保健室の扉を開き、全力で閉める。鍵を閉めて、扉か
ら体を離した。あの鉈だったら、扉は簡単に破られるかもしれない。
けど、扉を破る時間で、窓の外に逃げることはできる。
香は昂ぶった意識を、深呼吸で沈めていく。
﹁あれぇ? みんな学校の外に出たんじゃなかったかしら?﹂
保健室の中から声が聞こえて、香の体が硬くなった。しかしそれ
もすぐに解れる。その声を、香は聞いたことがあった。
もぞもぞとベッドの布団が動き、そこから女性の顔が現れた。
目の前の顔に焦点が合うに従い、香の記憶にそれが結びつく。
﹁先生!﹂
どうやら学校にはまだ、保健の先生⋮⋮名前は、そう︱︱椎名が
残っていたらしい。これは僥倖だ、と香は思った。
﹁あら、香ちゃんじゃない。どうしたのぉ?﹂
332
椎名は長い髪の毛をかき上げて体を起こし、ふわぁ、と大きな欠
伸をした。
﹁すみません、先生、怪我しちゃいました﹂
﹁どこを怪我したのぉ?﹂
﹁腕、取れちゃいました!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮は?﹂
椎名は目を点にして、香を見る。
十秒ほど、彼女は時間を停止させた。
﹁⋮⋮ぷっ﹂
唇が僅かに震え、それに連動して肩を振るわせる。
﹁ふふふ。香ちゃんて、ほんとおかしい。怪我で⋮⋮ひぃ⋮⋮け、
怪我で、腕⋮⋮腕取れたって⋮⋮ふぅふぅ﹂
椎名はしばしベッドの上で悶え苦しんだ。香の左腕はいまもなお
流血している。笑うのは良いが、早く手当をしてもらいたい。
﹁先生。あの、止血してもらっていいですか?﹂
﹁ええ、いいわよぉ﹂
相当眠いのか、椎名の呂律のまわらない口調のせいで、香が醸し
出す緊張感ががらがらと音を立てて崩れ落ちる。
緊張感が消し飛び、代わりに痛みがにじり寄ってきた。
﹁⋮⋮っぅ﹂
あまりの激痛に立つことすら叶わず、香は床に腰を落した。左腕
を右手で強烈に圧迫する。切断された痛みを、圧迫の痛みで覆い隠
そうとするが、あまり効果はない。
﹁香ちゃん。ちょっと左手を貸して﹂
言われて、香は脇にはさんだ左手を差し出した。圧迫を解いた瞬
間、動脈から大量の血液が飛び散った。血しぶきがかかることも厭
わず、椎名は香の傷跡を具に観察する。
﹁香ちゃん、ちょっと目を閉じてて﹂
﹁⋮⋮はい﹂
言われるがまま、香は目蓋を閉じる。
333
﹁どこで怪我をしたの?﹂
目蓋の向こう側から、声が聞こえる。痛みに耐える眉間が引きつ
る。目を強く瞑りすぎて、こめかみが痛い。
﹁学校の、中です﹂
﹁学校で? どうやって腕が落ちたの?﹂
﹁ええと⋮⋮﹂なんて説明したら良いんだろう?﹁骸骨が、鉈を振
るって。それに、切られました﹂
おそらく香が椎名の立場でこんな話を聞かされたら、嘘を言われ
ていると思うだろう。けど、嘘を付くくらいなら、嘘だと笑われた
ほうがましだ。香は自分の身に起きた出来事を、正直に椎名に話し
て聞かせた。
﹁なるほどねぇ。骸骨さんって鉈が使えたのねぇ﹂
信じてもらえるとは、思っていなかった。けれど、椎名の言葉に
はどこか、香の言葉を信じたような響きが含まれている。それは大
人が、子どもを傷つけないための配慮︱︱演技なのかもしれないが。
﹁もう、目を開けてもいいわよ﹂
言われて、目蓋を開く。
﹁⋮⋮え?あれ?﹂
その目に映った光景に、香はしばし我を忘れた。
いままで左腕は、完璧に切断されていた。皮一枚さえ残っていな
かった。そのはずなのに、香の左腕は、元通り再生されていた。
試しに動かしてみると、自分の思うとおりに左腕が動いた。動か
すときに痛みもない。目を懲らしても、切断面は見当たらない。接
着剤でくっつけたというわけでは、どうやらなさそうだ。
﹁⋮⋮治った?﹂
香が自分の腕をマジマジ見つめる。
椎名が自らの唇に指を当てた。
﹁誰にも言っちゃだめよ? これは、二人だけの秘密﹂
﹁⋮⋮はい﹂
腕がくっついた理由はわからない。しかし理由はどうあれ、間違
334
いなく香の左腕は修復されている。神がかり的な現象と言っていい
だろう。きっと達也ならば、﹁すげぇ﹂と連呼して誰彼構わず言い
ふらしたかもしれない。しかし、それを素直に喜べるほど香は子ど
もではなかった。この事象がもたらす幸福と、それを上回る不幸を、
香は敏感に感じ取った。
﹁あの⋮⋮﹂
なにか言おうとして、けれど香の胸の中に、その感情を言い表す
言葉がないことに気がついた。
﹁⋮⋮ありがとうございます﹂
結局それだけを言って、香は椎名に頭を下げた。
﹁うんうん、殊勝なことは良いことよぉ。今回は、命があったから
良かったけど。次は、死んじゃうかもしれない。そのことを、香ち
ゃんはきちんと判ってるかなぁ?﹂
優しい口調なのに、厳しさを伴っている。香は椎名の瞳を見つめ
て、小さく頷いた。
﹁はい﹂
﹁授かった命は大切にね。あなたが死ぬと、悲しむ人がいるんだか
ら⋮⋮。今後は、無茶をしないこと。死んじゃったら、ジキル博士
じゃない私は治せないからぁ﹂
うふふ、と椎名は意味ありげに微笑した。おそらくそれはジョー
クだったのだろう。しかし、腕が切り落とされた香には、それがジ
ョークにはまるで聞こえなかった。
﹁先生。あたしは︱︱﹂
そっと、香の唇に椎名の指先が触れた。
﹁わかってる。香ちゃんも、紅だからねぇ。でも、今日は帰ろうか
?﹂
﹁でも﹂
立ち上がると、頭のてっぺんから下に向かって、景色が白く塗り
つぶされた。頭がふらついて、倒れこみそうになる。
﹁香ちゃん、血を流しすぎて貧血気味だろうし。それに、今日はも
335
うお化けは出てこないからね﹂
貧血は、たしかにその通りだ。しかし、何故椎名はあの骸骨に今
日は出会えないと言えるのだろう?
その疑問をくみ取ったのか、椎名は口を開いた。
﹁香ちゃんの血液を摂取したから、お化けは満足して帰っちゃった
んだよ﹂
﹁あたしの血が?﹂
﹁紅の血は格別だからね﹂
あの骸骨は、血液が好きなのか? 吸血鬼じゃあるまいし。そう
思うが、椎名は香の腕を修復してみせた。それは、人知を越えた、
魔法のような出来事だった。その人の言葉である。たとえ口にした
言葉のほとんどが冗談だとしても、﹃出ない﹄というには彼女しか
しらないなにかしら理由があるのだろう。
香は反論の言葉を飲み込んで、椎名の指示に従った。
保健室の鍵を開け、扉を開く。香はゆっくりと廊下をのぞき込む。
そこには、誰も居なかった。骸骨とか腕の切断とか、そういう日常
生活からかけ離れた雰囲気は一切ない。学校の七不思議と生徒たち
が怯えるただの静寂が、立ちこめているだけだった。
﹁⋮⋮聞かないのね﹂
香の背中にかけられた椎名の声は、褒めるような、それでいて少
し寂しがるような響きがあった。それがどのような感情によるもの
なのか、小学六年生の香には測りかねる。結局香は椎名の言葉に返
さず、頷きもせずに、保健室を後にした。
336
一章 魔法少女、立ち向かいます。3
翌日。香は家中に響く黒電話の音で目を覚ました。ベッドから起
き上がると目眩がした。まだ血液が足りていないらしい。歯を食い
しばって目眩に耐え、香は部屋を出る。
ひんやりとした長い廊下を居間に向かって歩いている途中で、香
は彩芽の姿を発見した。彩芽は水色の生地に熊のプリントがされた
パジャマを着、胸元は︵ブラジャーを着けていないのだろう︶たゆ
んたゆんと揺れている︵羨ましい︶。スリッパの踵をパタパタとな
らしながらこちらに向かって歩いていた。
﹁香。おはよう﹂
﹁おはよう。姉さん﹂
﹁さっき電話があったんだけど、今日、学校お休みみたいよ﹂
大きくて分厚いレンズのついたメガネを、彩芽はぐっと押し上げ
た。そのメガネの重みで、頻繁にずり落ちてしまうらしい。そのせ
いで、メガネがズレていなくても、メガネを押し上げる行為が癖に
なってしまっている。逆に何事かに集中したときは、メガネを押し
上げる所作を忘れ、老眼鏡のような位置まで下がることがある。
外気温が低い日に、家に入って曇ったメガネを外す仕草や、冷た
いメガネを吐息で暖める所作。
香は彼女のメガネをダメガネと称しているが、ダメなメガネをか
けた彩芽の魅力を真に理解できるのは自分だけだろう、という謎の
自負がある。いや、それはただの姉への愛情なだけかもしれない。
﹁休校っていうこと?﹂
﹁そうみたい。ほら、小学校で物損事故があったらしいじゃない﹂
﹁うん。あ、姉さんはそのことで太田からなにか聞いてる?﹂
﹁いいえ。まだなにも。それより、香。あなたは危ないことに首を
突っ込まないこと。いいわね?﹂
﹁うぅ﹂
337
嘘は付かない。けれど、真実も言わない。こういう場合の香の言
葉はうなり声と決まっている。そのことを姉である彩芽は十分に理
解しているのであろう。メガネの奥で鋭い目つきを作り出す。しか
しそれは子猫が猫じゃらしをパンチするような、本人にとっては厳
しい顔つきになっているつもりなのに、見ている香からすると心が
暖かくなる類いの表情でしかなかった。
﹁香? 言いつけを守らないと、私、怒るからね?﹂
姉さんに怒られても恐くないし。逆に、怒られたいかも? いや
いや。そんなことを口にすれば、三日間くらい彩芽は寝込んでしま
うかもしれない。香とは違い、彩芽は繊細な子なのだ︱︱と香は勝
手に推測しているが⋮⋮当たらずとも遠からずではあるだろう。
﹁はいはい。わかりましたよぉ﹂
﹁返事は一回でしょう?﹂
﹁はーい﹂
手を上げて、回れ右。無駄話を続けていたい気持ちもあるが、中
学校は休校ではない。これ以上姉の手を煩わせて、朝の支度を妨げ
ないよう、香は足早に自室へと戻った。
時計が七時半をまわったころ、彩芽が自宅を出た音が聞こえた。
三十分遅れで家を飛び出した聡美の姿を見て、香はパジャマを脱ぎ
捨てた。
赤いジャージに袖を通し、頬を軽く張る。今日は決着をつけよう。
決着をつける⋮⋮とはいえ、相手は骸骨のお化けである。人間な
らばまだ、武器を使った脅しも通用しただろう。武器を使ってもな
にをしても、相手が怯むとは思えない。
勝算はない。しかし、それでも香は小学校に向かった。
香は人気のない校舎に忍び込む。当たりを見まわし、気配を探る。
昨日は気配だけで相手を探ろうとしていた。それが良くなかった。
目で感じ、体で感じなければ、相手を見つけられない。香は神経を
研ぎ澄ませながら、慎重に廊下を進む。
338
六年生の教室は、昨日とほとんど同じ状況が広がっていた。破壊
されたカーテンやテレビ、机に椅子などは散らかったまま。さらに
破壊されたものは、どうやらないようだ。椎名が言ったとおり、あ
のあと骸骨はここに現れていないのかもしれない。
背中を常に壁で守りながら、香は教室の中を具に観察する。ここ
には骸骨はいないらしい。
教室から出ようと思った矢先、香の感覚がなにかの気配を感じ取
った。それは、教室の外。廊下からゆっくりとした速度でこちらに
向かってきている。香はどのようにでも動けるよう、体を丸くする。
重心を下げ、二つある教室の扉を交互に見る。
気配が教室の前で、停止。
次の瞬間、大きな音を立てて教室の扉が開かれた。
﹁出てこいっ!﹂
黄色い棒を手にした達也が、ひっくり返った大声を発した。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
お前かよ。
体のどこかで緊張の糸がぶつりと音を立てて切れた。緊張の糸が
切れると、妙な倦怠感とやるせなさがこみ上げる。
﹁なんであんたがここに居るのよ﹂
香は倒れ込みそうになる体を気力で支える。
﹁あ、最強の盾。居たのか﹂
﹁最強の盾って言うのはやめてってば!﹂
黄色い棒の先を下げ、達也が香に近づいた。その隙を狙い、香は
達也の頭を平手で叩く。
﹁って! なにすんだよ!﹂
﹁手旗を玩具にするなって言ったでしょ? なんで持ってきてんの
よ﹂
達也が手にした棒は、横断歩道を渡るときに翳す手旗である。達
也はその旗を棒に巻き付け、手で押えている。
﹁聖剣イグナティスがなければ、あの骸骨を倒せないだろ?﹂
339
﹁それ持ってもあれは倒せないから⋮⋮ってか、前と名前違わない
?﹂
﹁細かいことは気にするなって﹂
﹁⋮⋮そういえばあんた、昨日あたしを見捨てて逃げたよね﹂
じとり。香は批難する視線を達也に向けた。達也は明後日のほう
を見ながら口を開く。
﹁あー。ほら、聖剣がないと、俺、最弱だから。足手まといになる
くらいなら、いないほうがいいだろ?﹂
言っていることはもっともだ。しかし、だからといって薄情で良
いという意味にはならない。
﹁それで、その聖剣を持ってあんたはここに現れたと﹂
﹁おうよ﹂
﹁いますぐ帰れ﹂
香は校舎の外を指刺した。
﹁なんでだよ!﹂
﹁あんたがあの骸骨相手に、なにができるのよ⋮⋮﹂
﹁諦めたらそこで試合終了なんだよ!﹂
﹁おねがい諦めて﹂
香は額に手を当てる。なんだか頭が痛くなってきた。
﹁お前には愛しさと切なさはないのかよ? 俺が居て心強くないの
かよ!?﹂
﹁一つもないから。あんたは少し過ちを怖れなさい﹂
一度言い出すとなにを言っても諦めない。達也は昔からこうだ。
達也とは村の小さな武術道場に入門したときからの付き合いだが、
昔からなにに対しても達也はしつこいのだ。達也を試合で打ち負か
してからずっと道場では決闘を申し込まれ続けたし、なにかにつけ
て目の敵にされている。目の敵、とは微妙に表現が違うか。達也の
中で、香は一種のハードルのような存在になってしまっているのだ
ろう。達也は常に香と比べ、香を超えるなにかを必死に見つけ出そ
うとしている。だから粘着質だし、香の言うことは聞かない。
340
負けた相手が女だから、という理由ではおそらくないだろう。少
なくとも達也は香に対して性別を持ち出すことはほとんどない。一
人の人間として、常に対立し、敵対している。
ふぅ、と香は短くため息を吐き出した。
﹁付いてくるのはいいけど、お願いだから邪魔だけはしないでね﹂
﹁なんだよその言い方は。聖剣を持った俺は最強の矛なんだぞ?﹂
最高の矛など、馬鹿馬鹿しい二つ名だ。けれど、得物を持った達
也を馬鹿にすることはできない。あらゆる武術を会得させられる村
の道場において唯一、香が達也に叶わない武術がある。
それが、剣術だ。
剣術においてのみ、いずれは師匠の上を行く存在だと香は考えて
いる。だが、それがはたしてあの骸骨に通用するのだろうか?
手にしてるのは剣ではなく、プラスチックの棒だということも、
不安要素の一つである。
骸骨が出て来たら後ろに下がらせよう。香はそう、心に決める。
一階を歩き、二階を捜索し終えたころ、太陽は空を昇りきって下
降を始めた。
いつ骸骨に出くわすかわからない校舎の中では心休まる場所がな
い。精神が摩耗し、肉体も疲弊していく。時間が経つにつれて、二
人が立ち止まって休憩を入れる間隔が短くなってきた。
一度外に出て休憩をしたほうがいいだろうか?
﹁ねえ達也。一回外に出て︱︱﹂
﹁しっ!﹂
達也が口の先で指を立てた。その真剣な横顔に、香の神経が一気
に張詰める。
﹁なんか聞こえないか?﹂
言われて、気付く。ガラガラと、なにかが引きずられるようなか
すかに音が聞こえる。
少しずつ場所を変えながら、香はその音の位置を探る。
どうやら音は、体育館の方向から聞こえてくるらしい。もしかし
341
たら体育館に、あの骸骨がいるのかもしれない。しかし、精神と体
力が万全ではない。ここは一度外に出て、体勢を立て直すべきか?
どうしよう?
香は達也を見た。達也は、一度頷いた。
その頷きは、行こうの合図。
達也なら、そう答えるだろうことは予測済みだったはずだ。なん
でこいつに聞いたんだろう? あたしは馬鹿じゃないだろうか?と
思うけれど、あえて達也からGOサインを貰いたかったのではない
か? という疑惑が浮上する。簡便してよ⋮⋮。
体育館に近づくに従って、引きずられる音は大きくなっていた。
音だけを聞いていると骸骨が大鉈を研いでいるように思えてくる。
昔聞いた、子どもを食らう鬼の昔話をふと思い出す。あの話しに
は、老婆が毎晩包丁を研いでいるシーンがあった。子どもを食べる
日を心待ちにするように、老婆は包丁を研ぐのだ。あれは、なんて
いう昔話だっただろう? 老婆に食べられそうになった子どもは、
その場から逃げ出したのだろうか? 老婆はその後、どうなってし
まったんだったか⋮⋮。
そんなことを考えているうちに、香は体育館の前にたどり着いた。
体育館の向こう側からで、ずるずると引きずる音がひときわ大き
く響いている。
隣にいる達也が表情を引き締める。
この先に、あの骸骨がいる。おそらく達也も、そう思っているは
ずだ。
﹁準備は良い?﹂
﹁おうよ﹂
達也の声は、まるで震えていなかった。手旗︵本人曰く聖剣︶を
手にしているからだろうか。その声からは、僅かな恐怖と、それを
包み隠す自信と気力が溢れていた。
﹁じゃ、いくよ﹂
いち、にの、さんで扉を大きく開け放つ。
342
体育館の向こうには︱︱、しかし、誰もいなかった。
人っ子一人いない体育館がただ、目の前に広がっていた。
僅かに傾いた太陽が体育館のキャットウォークにある窓ガラスか
ら入り込み、木のフロアに窓枠の影で直線を引く。所々途切れたバ
スケットコートの白線。天井に格納されたバスケットゴール。緞帳
の下りたステージ。劣化により剥落した箇所だけが白々と浮かび上
がる木の壁。どこかが破壊されている様子はない。どこも、破壊さ
れていない。すべてが、いつも通りの体育館だった。
﹁⋮⋮あれ?﹂
扉を開いて十秒。香はやっと、異変に気がついた。
﹁音がない﹂
先ほどまでずっと聞こえていた、なにかを引きずる音が、消えて
いる。
その理由を考える前に、香は動いた。
達也の体を思い切り押し、その反動で壁に背をつける。
遅れて、二人のいた空間を二本の鉈が通り過ぎた。
﹁上よ!﹂
香は声を張り上げた。
体育館の入口の上から、骸骨がこちらをのぞき込んでいる。体育
館と通路の天井の境目には僅かな段差がある。だからすぐにはこち
らに来られないだろう。僅かな隙を見て香は目だけで達也を見た。
達也は突如現れた骸骨に動転しているのか、口をあんぐり大きく
開いたまま、完全に動きを停止させてしまっている。
﹁達也、下がって!﹂
張り上げた声に反応した達也が、呆然とした表情のまま参メート
ルほど通路を下がった。それを確認し、香は骸骨に意識を集中する。
﹁昨日はよくもやってくれたわね﹂
腰を落し、半身になる。
骸骨が天井から廊下に降り立つ。
落下の衝撃に耐える、僅かな間隙。
343
直後、骸骨は香に飛び込んだ。
鉈が上がる。
その頂点で、香は前に踏み込む。
骸骨の懐に入り込み、
振り下ろされた腕を取る。
その勢いを生かし、
骸骨の腕を捻り下ろす。
相手の力を生かし、それを僅かに歪めることで最大の力を発揮す
る護身術。合気道という言葉が一般的だろう。しかし、香が習った
のは合気ではない。ただの柔術だ。
武術には流派があり、いくつもの名前がある。しかしそれを辿っ
ていくと、最終的に名前は一つになる。
香が習った柔術が、体術の根源であるとは言いがたい。しかし根
源に限りなく近いからこそ、技は派生した流派を模しやすい。
床に落ちた骸骨は、二秒ほど停止した。その間に香は骸骨との距
離を取る。
骸骨は、想像していた以上に重かった。大人相手に投げ技をした
ことがあるが、その大人よりも重いかもしれない。痺れるつま先と
指先に、気合いを入れ直す。
骸骨が立ち上がると同時に、香は相手を煽るように動いた。
骸骨のすぐ後ろに、達也がいる。達也はまだ、自らの意志では動
けないようだった。だからといって声をかければ達也が狙われる。
ならば、香は無言で骸骨の注意を引きつける他ない。
骸骨は狙い通り、香を獲物として定めたようだった。再び鉈を持
ち上げる。その隙に香は体を滑り込ませる。
大きな力をもっているとはいえ、知能は低いのかもしれない。骸
骨は毎回同じ動きで同じ攻撃を繰り出す。それに合わせて、香は骸
骨を放り投げる。そのパターンを、何度も繰り返す。
骸骨を投げた回数が十をまわったころ、香は不安とともに少々感
がこみ上げた来た。普通の人間なら、三回投げ飛ばすと体が痛み、
344
動きが鈍くなる。しかしこの骸骨は何度投げても動きが鈍らない。
おまけに表情がないから、痛みを感じているのかすらわからない。
こめかみから、冷たい汗が伝う。
熱い息が、香の呼吸を速くする。
体力比べじゃ、勝ち目がない。だからといって、なにか手がある
わけでもない。骸骨の骨を折るほどの技を、香はまだ身につけてい
ないし、そもそもそういう技で骨が折れるならば、十度投げ飛ばし
ている間にどこかしらの骨が折れるはずである。骸骨はまだ出会っ
たときと同じ。どこかの骨が折れた様子はない。
さて、どうする。
再び、骸骨が鉈を振り上げる。
焦りが、香の反応を鈍らせる。
骸骨は、いままでとは違う軌道で鉈を振り下ろした。
︱︱まずい。
横薙ぎに振られた鉈を見て、香は回避行動に移る。だが既に遅い。
鉈が凄まじい速度で香の肉体に迫る。これは、避けられない。防御
にまわっても無意味。
⋮⋮これまでか。
香は腕を交差させ、体を丸めた。
命尽きるその瞬間だけは、絶対に目を閉じない。固い決意の元、
香は骸骨を凝視し続ける。
骸骨の鉈がゆっくりと迫る。
一瞬が、永遠に引き延ばされる。
にたり。硬質な骨格が、歪んだ気がした。
この笑み。腹が立つ。
あたしに大人と同じ力があれば、こんなやつ⋮⋮いや、大人と同
じ力があっても、ダメか。大人だってきっと、こいつは倒せない。
それこそ、太田が使うガトリングあたりを一斉掃射しなきゃ、倒せ
ないかもしれない。
だから、なおさら、腹が立つ。
345
その怒りは骸骨にではない。
骸骨と同じ土俵に立てない、自分に対してだった。
弱い自分が、腹立たしい。こんなことで負ける自分に腹が立つ。
こんなことでは、この村を守れない。村の守人として、失格だ。
ああ、だから︱︱失格だから、ここで死ぬのか。
自嘲の笑みが香の口に現れ、消えた。
骸骨の鉈が香の腕に食い込む。
346
一章 魔法少女、立ち向かいます。4
骸骨の鉈が香の腕に食い込む。
︱︱その寸前。
鉈が僅かに軌道を変えた。
鉈は香の耳元を掠め、頭を掠めた。
香に訪れた絶対的な死が、右方向へと離脱して消えた。
⋮⋮いったい、何故?
見ると、香の懐に達也の姿があった。
達也は手旗を横に構えた状態で停止していた。
﹁おい、生きてるか?﹂
﹁⋮⋮うん﹂
頷きつつ、香は達也がなにをしたのか理解した。
振るわれた大鉈の横から手旗を当てることで、鉈の軌道を変化さ
せたのだ。達也の手旗がどういう軌道で鉈に当てられたのかを思い
描くことは簡単だ。しかし、それで軌道の変更が可能になるタイミ
ングはまさに刹那である。相手の鉈の速度と、己の手旗の速度。攻
撃の重み、勢い。それらがすべて絶妙なタイミングで一致しなけれ
ば、このような神業は成功しない。これはそれこそ、十メートル先
の針の穴に糸を投げて通すような行為だ。こんな芸当は、香にはで
きない。だからこそ、剣術で香は達也には叶わない。
︱︱とはいえ、この技が何度も行使かのうかといえば、そうでは
ない。見れば達也が持つ手旗の先端が折れ、半ばまでが鉈に削られ
ている。もう一度同じ技は、おそらくできないだろう。
﹁どうやって勝つか、考えはあるのか?﹂
﹁⋮⋮ううん。さっぱり﹂
﹁だろうな﹂
達也が背中で笑った。きっと達也も、この骸骨相手に勝てる手立
てを思い浮かべられないだろう。もし真剣を手にしていれば、ある
347
いは勝算もあったかもしれない。しかし、手にしているのは手旗で
ある。それで車は止められるが、骸骨の大鉈は止められない。
﹁達也、逃げるよ﹂
﹁阿保か!﹂
香の提案に、頑とした答えが返ってきた。
﹁このまま負けっ放しでいいのか? 俺は嫌だね。こんな理科室の
骨格模型みたいなやつに負けるなんて、我慢ならない﹂
﹁そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!﹂
﹁お前はそれでいいのか?﹂達也が強い口調で言った。﹁お前、そ
れでも紅家なのか? この村の守人なのか? 誰一人守れないで、
化け物を退治できないで、なにが守人だ。お前がこの骸骨の討伐を
諦めるってんなら、俺は止めない。その代わり、俺がこいつを討伐
して、紅の名前を貰ってやる!﹂
先ほどの技の負担によるものか、それとも強敵を目の前にしたた
めか。達也の足がガクガクと震える。肩は大きく上下し、呼吸を聞
くとこちらまで苦しくなる。なのに、口にした言葉は香をどこまで
も挑発する。
お前はそれでいいのか?
誰一人守れないで、化け物を退治できないで、なにが守人だ。
道場に通って、香は間違いなく強くなった。しかし、強くなって
いるはずなのに、師匠はもとい、太田にさえ、どんどん勝てる気が
しなくなっていく。強くなれば手が届くと思っていたのに、どんど
んと目標が遠のいていく焦燥感。それでも自分は紅家。誰かを守ら
なければいけない立場だ。こんな力で、ちっぽけな力で、誰を救え
るというのだろう? そんなことばかり考えていた。それ故に、こ
の骸骨の一件を自らの力で解決したかった。軍人の胸に輝く勲章の
ように、それが守人としての証になると信じて⋮⋮。
﹁馬鹿じゃないの? そんなもので、紅の名を語れるわけがないで
しょう?﹂
香は力んだ方から力を抜いて苦笑した。
348
達也の行動で標的を切替えたのだろう。骸骨は達也に向き直り、
大鉈を振り上げた。
﹁達也、下がって!﹂
﹁嫌だね!﹂
達也は手旗を中断に構えて叫んだ。
﹁ここで引けば、俺はこの先ずっとなにかがあったら逃げる奴にな
る。それじゃ、ダメなんだ﹂
﹁意地を張っても勝てないって!﹂
﹁うるせぇ! ここで逃げるくらいなら、死んだほうがマシだ﹂
もしかしたら。達也は昨日香を置いて逃げたことを、悔やんでい
るんじゃないだろうか? それを悔いているから、こんなふうに意
地を通しているんじゃないか。だとするなら、説得する言葉はある。
けれど時間が、圧倒的に足りない。
骸骨の鉈はすでに振り下ろされている。達也はそれをいなそうと
棒の先を僅かに揺らした。
タイミングは、完璧だ。
もし達也が手にしているのが真剣ならば、鉈は達也の横をすり抜
けただろう。あるいは鉈を絡めて巻き下ろしくらいしてみせたかも
しれない。
だが、達也が持っているのは真剣ではない。
手旗の、プラスチックの棒だ。
鉈に振れた先から、棒は変形し、切断されていく。
鉈の勢いは反れず、まっすぐ達也へと向かった。
﹁達也!!﹂
死んだ。
達也が、死んだと思った。
しかし、達也は中段を少し崩した姿勢で固まっている。
逆に骸骨が、何故か三メートルほど後ろに吹き飛んだ。
﹁さすが、天然理心流の門下生は、肝が据わっていますね﹂
突如、背後から声が聞こえた。その声に驚き、香は︱︱骸骨がい
349
ることも忘れて︱︱振り返った。
体育館の中央に、少年が居た。少年は聞き分けのない幼子をどう
叱っていいか困っている父親のような表情を浮かべた。
少年は、鈴木だ。あの日道ばたで出会った、そして家に侵入した、
鈴木だった。
﹁どうして、あんたがここに﹂
というか、どうやって体育館に入り込んだんだ?
体育館に入る方法は二つ。後者とを繋ぐ廊下を通るか、体育館横
にある扉を使うか。前者はありえない。香と達也と骸骨が戦闘を行
っていたのだ。戦闘中ではあるが、廊下を通ればさすがに気付く。
可能性があるのは後者だろう。しかし体育館と外とを繋ぐ扉は、必
要時以外は鍵が閉められている。たまたま鍵が開いていたんだろう
か⋮⋮。
それに、なんで天然理心流を知っているんだろう?
香の疑問を表情だけで読み取ったのか、鈴木は目を細めて微笑ん
だ。
﹁型を見ればわかります。それより、いまはそこの低級悪魔をなん
とかしましょう﹂
はっと息を吸い込み、香は振り返る。
骸骨は吹き飛ばされた地点で尻餅をついたまま動いていない。香
が投げ飛ばしたときは、すぐに起き上がったのに。もしかして、先
ほど吹き飛んだ衝撃で痛手を受けたのか?
さっきのあれは、いったい⋮⋮。
﹁あんた、いったいなにをしたの?﹂
骸骨から視線を外さずに、香は鈴木に訊いた。
﹁一言でいえば、魔法です﹂
﹁⋮⋮⋮⋮はぁ?﹂
香の喉で声がひっくり返った。
マホウ? マホウって、魔法?
⋮⋮なにを馬鹿なことを言っているんだ。この世に魔法なんても
350
のがあるわけがない。魔法の存在を受け入れられるほど、香は子ど
もではなかった。
﹁魔法の弾丸を用いて吹き飛ばしたんです﹂
﹁ふぅん。へぇ。魔弾ねぇ⋮⋮﹂
鈴木はあれなの? 一度死んで、霊界からのミッションをクリア
して蘇生した探偵かなにかなの?
疑惑のオーラを醸し出す香とは対照的に、達也が目を輝かせる。
﹁す⋮⋮すっげぇ! やっぱ、魔法はあったんだ!﹂
こいつ、阿保だ⋮⋮。
﹁魔法なんて、あるわけないでしょ﹂
﹁そういう反応が一般的だと思っていました﹂
達也の反応は予想外だったのか、鈴木が苦笑する。二人の反応に
達也が心外だと声を荒げる。
﹁魔法がないってなら、じゃあどうしてあの骸骨は吹っ飛んだんだ
よ?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
香は言いかけて、けど説明できないことに気がついた。
﹁⋮⋮骸骨がたまたま足を滑らせたんでしょ?﹂
﹁足滑らせてどうやって後ろに吹き飛ぶんだよ﹂
﹁煩いわね、それくらい知ってるわよ。言ってみただけ﹂
指摘されると、否応なくそのものの存在を感じてしまう。
﹁あのぅ。そろそろいいでしょうか?﹂鈴木が控えめな声で言った。
﹁紅さんにお願いがあるのですが﹂
﹁なによ?﹂
﹁血を、分けていただけませんか?﹂
﹁⋮⋮は?なに?変態?﹂
香は三歩、鈴木から遠ざかる。
﹁いえ。より強力な魔法を生成するために、紅さんの血液が必要な
んです。ほんの一滴でいいんですが、いかがでしょう?﹂
ふと、椎名の言葉が脳裏を掠める。
351
自分の血液は、なにか特別なんだろうか? 香は自らの手を眺め
た。
﹁達也のじゃだめなの?﹂
﹁はい。山南さんの血液ではうまくいきません﹂
やはり自分の︱︱紅香の血液でなければいけないということか。
﹁どうしてもあたしの血が必要なの?﹂
﹁はい﹂
﹁血を使わないであいつを倒す方法はないの?﹂
﹁ありません﹂
﹁う∼∼∼﹂香はうなり声を上げた。﹁⋮⋮痛くしない?﹂
﹁はい。そこは安心してください﹂
血液を与えるなんて、吸血鬼にでも会った気分だ。香はおっかな
びっくり、右手を鈴木に差し出した。
鈴木の人差し指が、香の人差し指の先端に触れる。
僅かにちくりとした痛みを感じた気がした。けれどその痛みはす
ぐに消える。指先にはもう、痛みの残滓さえない。
鈴木が右手を引く。かすかな赤の残光を、香の目が捕らえた。
﹁それじゃあ二人とも、少し下がってください﹂
あまね
ぎ
香は半ば反射的に鈴木の後ろまで下がる。同じように達也も、香
ながれいづるとき
の横に並んだ。
﹁流出刻。汝に普く消韻は、滅裂の祁へと誘うだろう﹂
鈴木の言葉に呼応して、指先の赤が光放つ。
それが目前に広がり、円を描き、文様となる。
魔法というものを知らない香でさえ、その光が持つ威圧感を十二
分に感じ取ることができる。自分に向けられていないとわかってい
るのに、それこそ額に当てられた拳銃の引き金が引かれる瞬間のよ
うな、逃れようのない絶望が感じられる。
その精神的圧力が極限まで高まった、その瞬間。
鈴木の手の平から、真っ赤な光が放出された。
目を背けたくなるほどの赤が、視界を埋め尽くす。
352
光は瞬く間に骸骨に到達。
お湯をかけられた氷の如く、光が骸骨の輪郭を溶かしていく。
骸骨の体が消散するとほぼ同時に、赤い光が薄まり、消えた。
こんな⋮⋮。香は呼吸を忘れて立ち尽くす。
こんな簡単に倒してしまうなんて。信じられない。
﹁⋮⋮⋮⋮すげぇ﹂
達也の声が、やけに大きく耳朶に響いた。
﹁二人とも、衝撃に備えてください﹂
鈴木の緊迫した声が耳朶に響いた。
衝撃?
鈴木の言葉に疑問を持つが、すぐに問いかけて良いような声色で
はなかった。香は腰を落し、腕を前に掲げる。
︱︱転瞬。
香の体を空気の塊がぶつかった。
その塊には予想外の重みがあった。
ガタガタと体育館の窓ガラスが一斉に音を立てる。天井から正体
不明の不気味な音が響く。それは大きな地震が起ったとき、山の向
こうから聞こえてくる地鳴りに似ていた。
吹き飛ばされないためには膝を床につけ、かなりの前傾姿勢をと
らなければいけなかった。香の横を、後転する達也が横切った。背
後から、重い者と堅い者がぶつかる音が響く。風が強すぎてなにが
起ったのか確認できないが、なんとなく想像が付く。きっと達也が
壁にでもぶつかったのだろう。もし頭がぶつかっていれば、達也は
真人間になるだろうか? 香は達也の頭の痛打を心の片隅で切に願
った。
その風の塊は、体感十秒ほどで消失した。
それと同時に体育館に静寂が戻る。僅かに残った騒々しさの余韻
が、体育館の隅っこで大人しい。
﹁⋮⋮なに?いまの?﹂
風が完璧に消失したことを確認し、香はゆっくりと立ち上がる。
353
﹁っふぅ⋮⋮﹂
隣にいた鈴木が息を吐くと、ぺたんと床に腰を落した。体を落ち
着けるために腰を下ろしたというより、力を使い果たして腰が砕け
たような動きだった。
﹁すげぇすげぇすげぇすげぇ!﹂
どだどだどだ、と背後からこちらに向かって足音が鳴り響いた。
﹁まじすげぇ!﹂
興奮した達也が、片手で後頭部をさすりながら鈴木に近寄る。
﹁あ、生きてたんだ﹂
﹁は? 生きてたって、なにが?﹂
﹁なんでも。こっちの話し﹂
香は表情を繕い︱︱、
﹁魔法ってほんとにあるんだな!﹂
達也の言葉で内心舌打ちをした。残念。打ち所が悪かったか。
﹁はい﹂と鈴木が頷いた。
﹁でも、技名を叫ばなかったな。名前、あるんだろ?﹂
﹁いえ、いまのは即興の魔法なので、名前はありません。というか、
呪文の詠唱も、本当は必要ないんです﹂
﹁え? じゃあさっきの魔法の詠唱はなんだったんだよ?﹂
﹁こうしたほうが信じてくれるかなと思いまして。それっぽく聞こ
えましたよね?﹂
﹁んだよ﹂
達也はがくりと肩を落す。
﹁なんで落ち込んでんのよ﹂
﹁いやさ。やっぱ、技の名前を叫んで攻撃したほうが格好いいじゃ
ん?﹂
﹁言ってる意味がわからないんだけど﹂
﹁名前をガツンと叫んで攻撃するのが男のロマンなんだよ!﹂
達也は鼻息荒くにじり寄る。まったくもって暑苦しい。男のロマ
ンを説かれても、香は女である。理解できるわけがない。
354
﹁スターバーストトーネード!とか。レイジングビーム!とか。フ
ォトンエンド!とか。そっちのほうが痺れるだろ?﹂
﹁ねえ鈴木。もう一回いまの魔法使える?﹂
﹁今日は無理ですね。⋮⋮どうしてですか?﹂
﹁いや、鬱陶しい奴いるから消してくれないかなぁって﹂
﹁お前酷くね!?﹂
達也が泣き顔で香を批難する。
﹁はしゃぎすぎなのよ。子どもじゃあるまいし﹂
﹁こーどーもーでーすぅー!﹂
達也がぶーぶーと口を尖らせる。ヤバイ。ウザイ。殴りたい。
その様子を見ていた鈴木が、ぶふぅと口を鳴らした。
﹁お二人とも、仲が良いんですね﹂
﹁こんな奴と仲が良いわけないでしょ﹂
香は反射的に否定する。その否定を受けて、何故か鈴木は笑みを
深くした。しかしすぐに鈴木は緩んだ表情を引き締める。
﹁お二人とも。今日ここで起こった出来事は、絶対に誰にも伝えな
いでください﹂
﹁え? どうしてだよ?﹂達也が不平の声を上げた。﹁魔法で骸骨
をやっつけたんだぜ? 一生自慢できる話だろ﹂
﹁なにもやってないあんたが自慢することじゃないでしょ﹂
重い頭を抑えながら、冷めた香が突っ込んだ。
﹁ま、俺らの道場みたいなもんか。なにか、事情があるんだろ?﹂
﹁⋮⋮そうですね﹂
その言葉を十全に受け取ったのだろう。鈴木は深刻な表情で頷い
た。
東京と京都にしかない、天然理心流がこの村でひっそりと道場を
開いている理由。それを、鈴木は知っているのだろうか? いや、
並波ならぬ理由がある、という雰囲気だけを感じ取っているのかも
しれない。
﹁骸骨と魔法のことは秘密ということで、よろしいですね?﹂
355
香と達也は、無言で頷いた。
体育館の外側から物音が聞こえ、三人は口を閉ざした。
﹁なんだ?﹂
達也が目を細めて校舎側の廊下を眺めた。
356
一章 魔法少女、立ち向かいます。5
達也が目を細めて校舎側の廊下を眺めた。
体育館の時計を見ると午前十時を指している。
﹁たぶん、太田たちだと思う﹂
﹁あ、そっか。じゃあバレないうちに逃げるぞ﹂
﹁そうね﹂
香は達也を見て、鈴木を見た。鈴木は難しい表情をしている。な
んだかそれが財布から生活費を抜かれたときの聡美のような顔だと
香は思った。
﹁達也。あんたは先に外に出て。あたしはあたしで家に帰る﹂
﹁おっけ。二手に分かれるんだな﹂
香の提案を、達也はあっさり承諾した。達也は先に、体育館を出
た。残る香は、未だに足腰が立たない鈴木を担ぎ、体育館の物置に
入る。
﹁⋮⋮それで﹂
鈴木をマットに下ろして、香は口を開いた。
﹁なにか言いたいことがあるんでしょ?﹂
﹁よく、わかりましたね﹂
鈴木は眉をハの字にした。
﹁山南くんには、今回の出来事を魔法で忘れて貰おうとおもってい
ます﹂
﹁え? なんで?﹂
﹁というより、紅さんには覚えておいて貰います、というほうが正
しいでしょうか﹂
﹁なによそれ。言い方を変えただけじゃない﹂
﹁いいえ。違います。本来であれば、魔法は一般人の目には触れて
はいけないものです。それをもし目撃されれば、その記憶を消去し
なければいけません﹂
357
﹁なんで? 黙ってればいいだけじゃない﹂
﹁人の口に蓋はできません。隠し事は、必ず発覚するものです。そ
れに、人間に過ぎたる力は争いを生みます。僕みたいな魔法使いが、
戦争の道具にされないように⋮⋮といえば、わかりやすいでしょう
か﹂
なるほど、と香は思った。
﹁でも、それならどうしてあたしは覚えてていいの?﹂
﹁紅さんは、紅家の一族ですから。守人として、このような力を会
得する日が、いずれやってきます。ですから、記憶を消去する必要
はありません。⋮⋮⋮⋮いえ、覚えていて貰いたいのかも、しれま
せんね﹂
ふと、鈴木の表情が曇った。砂漠を彷徨いやっとの思いで見つけ
たオアシスが蜃気楼だったと判ったときのような、悲痛な表情だっ
た。
﹁あたしのことは、うん、わかった。けど、達也の記憶はどうして
消すの?﹂
﹁山南くんは、部外者ですから﹂
その物言いに、香は僅かに頭に血が上った。
﹁一緒に命を賭けて戦ったのに、その言い方はないんじゃない?﹂
﹁命を賭けて戦ったとはいいますけど、あれは自殺行為です。それ
とも、天然理心流では、あれを戦闘と呼んでいるのですか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮っ﹂
完璧に言いくるめられた香はほぞをかんだ。たしかに鈴木の言っ
ていることは理に適っている。自分の言いたいことが、ただの感情
論だっていうことも、わかる。だけど、勝手に達也の記憶を消すな
んて、酷すぎる。
︱︱いや、違う。
ふと思い浮かんだ答えに、香は絶句した。
自分は、この記憶を、命を賭けた戦いを、達也を共有したいだけ
なんだ。
358
香の頬が、徐々に熱くなる。鈴木に表情を見られぬよう、香はさ
っと後ろを向いた。
﹁⋮⋮記憶って、そんなに簡単に消せるの?﹂
﹁簡単ではありません。記憶を消す魔法は、意識に徐々に浸透して
いくものですから。それに、記憶消去の魔法が簡単なら、いろんな
人が使いこなせてしまいます。そうなると当然、悪用されやすくな
るでしょう﹂
﹁鈴木がその気になれば、悪用もできる﹂
﹁その通りです﹂鈴木が苦笑する。﹁けど、僕はそんなことはしま
せん﹂
﹁どうして?﹂
﹁無意味だからです。それをしても、僕はなにも得られない。そう
いう意味のないことに、僕はとことん興味がないんです﹂
鈴木はどこまでも無垢で、だからこそ残酷な笑みを浮かべた。鈴
木はおそらく、記憶を消す魔法を悪用しないだろう。ただの直感で
はある。しかし、それが真理であるように思えた。
校舎側から、沢山の人の気配を感じる。おそらく校舎に太田とそ
の部下が踏み込んだのだろう。いまごろ、校舎内にいるだろう骸骨
を必死になって探しているはずだ。
﹁これからどうするの?﹂
﹁いずれ、ここにも人が来るでしょう。そうなるまえに、脱出しま
す﹂
﹁脱出っていっても、太田たちに見つからない方法は?﹂
﹁こうするんです﹂
ゆっくりとした所作で鈴木が香の手首に触れた。その途端、香は
浮遊感を感じた。その感覚は次の瞬間には消えている。空を飛ぶ夢
を見たときみたいな、体が思わず反応してしまう類いの浮遊感だっ
た。
マットや跳び箱のすえた匂いは消え、太陽の光が目の奥を突き指
す。先ほどまで体育館の物置に居たはず。なのにいまは、視線の先
359
に校舎があった。
ここは、グラウンドの横にある丘陵か。
﹁⋮⋮これは、魔法?﹂
﹁魔法です﹂
﹁あ、いや、ええと﹂香は正しい言葉を探す。﹁どういう魔法なの
?﹂
﹁体ごと場所を転移させる魔法です﹂
﹁⋮⋮ほんと、魔法って便利なのね﹂
﹁便利そうに見えるだけです。実際はそう便利なものでもありませ
ん。手足が他人より若干長いとか、他人より速く走れるとか、その
程度の違いしかありません﹂
そんなことは、ないだろう。少なくとも、瞬間移動できる魔法が
あれば、どこへでも行ける。地球の裏側にだって一瞬だ。一日で世
界一周だって可能かもしれない。それを便利ではないという鈴木に、
香は疑いの視線を向けた。
﹁たとえばですけど﹂鈴木は地面に落ちた石を拾い上げる。﹁この
石をここに落します。さて、この石はいつまで動かないと思います
か?﹂
﹁ん?﹂香は首を傾げる。﹁ずっと動かないんじゃないの?﹂
﹁雨が降れば土が動きます。土が動くと、当然石は動くでしょう。
土に埋っていったり、水に攫われて下に移動したり。ではこれがア
スファルトで舗装された道ばただとどうでしょう?﹂
﹁道ばたなら蹴られたりするんじゃない?﹂
﹁その通り。車のタイヤに弾かれたり、人に蹴られたりして移動す
るでしょう。ではもし、道路にある、百年経っても一度も人の足に
踏まれない路面があるとするなら? そこに、小石を落したらどう
なるでしょう?﹂
﹁ええと⋮⋮。って、それがこの魔法に関係あるの?﹂
﹁大いに。誰の目にも触れず、誰の手も届かない、絶対触れられな
い空間こそが、魔法の正体なんです。僕はそれを用いて、移動先の
360
扉にします。何故かは、わかりますか?﹂
ここまで鈴木がなにを言いたいのかわからない香は、ただ首を傾
げるしかなかった。
﹁もし転移した先になにか障害物があったら、どうなるでしょう?﹂
﹁︱︱ああ﹂邪魔になる。
﹁万が一そこに人がいれば、その人と融合したキメラになってしま
うかもしれません。もし壁が出来ていれば、壁の中に埋ってしまう
かもしれない。一度も試したことがないから、実際にどうなるかは
わかりませんけれど。便利そうに見える魔法ですけれど、扉を設置
する労力と、ミスをしたときの対価を考えると、そう便利なもので
もないんです﹂
なるほど、と香は思った。しかし、やはり魔法の使えない香から
すると、魔法は便利な技のようにしか思えない。
生まれたときから足の不自由な人が、自由に走りまわれる香を見
ると、魔法を使っているように思えるんだろうか? 正確に、どう
思うかはわからない。けれどきっと魔法は、それと似たようなもの
なのかもしれない。
﹁僕は家に帰ります。紅さんも、家に戻られたほうが良いと思いま
す﹂
﹁え、うん。そうね﹂
香は反射的に鈴木の言葉に頷いた。
﹁今日は、魔力がカラカラで、少々草臥れました。紅さん、どうか
お気を付けて⋮⋮﹂
そう言い残し、鈴木は丘陵を山の方向へ降りていった。
鈴木の背中が見えなくなると、それこそ呪縛から解き放たれたよ
うに香の脳は動きを再開した。
家に帰る?
鈴木の家って、どこにあるんだ?
その疑問は、行く先のないまま宙を舞った。
361
二章 魔法少女、笑動︵しどう︶。
香はまだ化粧品をしない。にも関わらず、自分の部屋が化粧臭く
なることがままある。
原因は、聡美だ。
何故か聡美は香の部屋で化粧をする。自分の部屋ですればいいの
に。そう言うと、聡美は決まってこう返す。
﹃鏡がないから仕方ないじゃない﹄
お金なら持っているはずである。鏡くらい買えば良い。しかし聡
美はいつまで経っても鏡を購入しない。
もしかしたら聡美は夜に見る鏡が苦手なんじゃないだろうか?と
香は推測している。香の部屋にあるのだから、鏡を購入するのはも
ったいない。使えるものは他人のものであろうが使ってやろう︱︱
というわけではないのだと⋮⋮思いたい。
部屋では今日も、聡美が化粧の練習をしていた。
﹁あんたねぇ﹂
部屋に入った香は、その酷い臭気に顔をしかめる。どこの化粧品
を使っているのかは定かではないが、もう少し匂いをなんとかでき
ないものだろうか? 折角綺麗に化粧が出来ても、匂いで台無しに
なると思うのだが⋮⋮。
﹁どうしていつもあたしの部屋を勝手に使うのよ﹂
﹁鍵が開いてるから﹂
﹁扉に鍵なんてついてないでしょ?﹂
﹁じゃあつければいいじゃない﹂
ファンデを肌に落す指先がぶれないように聡美は小声で呟いた。
それはあれですか。鍵がついていなかったら泥棒に入っても良いよ
ねって理屈ですか?
香はため息を吐き出して、ランドセルをベッドに放り投げる。
﹁前から疑問だったんだけど。聡美って肌汚いの?﹂
362
﹁ぶっ飛ばすよ?﹂
聡美が横目で睨んだ。その怒気を受け流して香は口を開く。
﹁だって、化粧って顔を誤魔化すためのものでしょ?﹂
﹁まったく。そんなこと言ってるから、いつまで経っても香はおこ
ちゃまなのよ﹂
ふふん、と聡美は勝ち誇るように鼻を鳴らす。
﹁なにそれ。どういう意味よ﹂
﹁化粧はね、オシャレなのよ﹂
﹁⋮⋮は? どこが?﹂
﹁あんた、服を着てるけど、体汚いの?﹂
﹁ば︱︱﹂
馬鹿じゃないのか? そういいかけて止る。服は体を隠すための
ものじゃない。体が綺麗とか汚いとか、そういうことは関係ない。
理屈としては、間違っているようには思えない。だが、
﹁じゃあ訊くけど、あんたは顔を守るために化粧してるの?﹂
﹁はぁ? どういう意味よ﹂
﹁服ってもともとは体を守る為のものじゃない﹂
﹁ああ、なるほどね。化粧は肌を守ってもいるわよ﹂
聡美は机に置かれた小瓶を持ち上げ、香に見せつける。
﹁これ、直射日光から肌を守る下地よ。守ってるといえば、守って
るのかもしれない。けど香。あなたは体を守るために服を着てるの
?﹂
﹁ええと⋮⋮、そう、かな?﹂
﹁じゃあ鎧でも着れば?﹂
﹁嫌よそんなの﹂
プレートメイルを装着して学校に行く小学生など想像したくもな
い。試みとして面白いとは思うが、現実としてそれをしてしまうと
授業どころではなくなるだろう。
﹁あ、でも甲冑はちょっと着てみたいかも﹂
﹁どういうセンスしてるのよ⋮⋮﹂聡美はがくりと肩を落した。﹁
363
もっと単純に考えなさい。服はなんで着るの? 裸が恥ずかしいか
らに決まってるじゃない? だから、化粧をするのよ﹂
﹁なるほどね﹂
現状すっぴんでいるあたしは、恥ずかしい顔をして街中を歩いて
るってことか。
⋮⋮⋮⋮。
喧嘩か?
﹁恥ずかしいはジョークとして。服でオシャレをするように、メイ
クも女としてのオシャレの一つなの。それがわからないうちは、あ
なたはいつまでもおこちゃまだってことよ﹂
腑に落ちないが、それとなく言いたいことはわかる。体を守った
り隠したりするだけならブランド服は必要ないし、髪の毛を止める
だけなら様々な形で縛る必要はない。シュシュもいらない。輪ゴム
さえあれば、機能的には十分だ。
﹁試しに、化粧してみる?﹂
聡美の申し入れを断ろうとして、けれど香は受け入れる。香は一
年先には中学生である。中学生になれば、体のラインが大きく変化
するだろう︵その予定だ︶。体のラインが変れば、それに見合った
オシャレが求められるだろうし、自分からも求めるかもしれない。
自分の顔は化粧をすると、どんな風にオシャレになるのだろう?
小学生最高学年女子としての興味に、香の理性はあらがえなかっ
た。
香は小さく頷くと、聡美は軽く手招きをした。香が椅子に座ると、
さっそく聡美は化粧の下地を手早く香の顔に塗りたくった。
目蓋を閉じたり、瞳だけを上に向けたり。目蓋がこちょこちょと
こそばゆくなったり。普段慣れない顔への刺激に、香は何度も腹が
よじれ、顔面をかきむしりたくなった。けれどそれをぐっと我慢し
て、聡美がメイクを完成させるのを待つ。
色付きグロスを塗りおえたあと、聡美は少し下がって香の顔をの
ぞき込んだ。
364
そして︱︱、
﹁ぶふぅ!﹂
吹き出した。
﹁なんで笑うのよ!﹂
﹁だ、だって⋮⋮くく⋮⋮ぐふ。あ、あなた、ほんと、化粧似合わ
ないわね﹂
似合わないと言われ、香は急ぎ鏡をのぞき込んだ。
鏡に映ったのは、自分の顔じゃなかった。いや、自分の顔ではあ
るのだが、自分の顔だと思いたくなかった。
化粧が濃く、ケバケバしい子どもの顔が、鏡に映っている。それ
は七五三などで化粧をした子どもというレベルではない。これで夜
道を歩けば化け物と怖れられるかもしれない︱︱そういう顔面状況
だった。
﹁顔が幼いから、化粧が似合わないのね、きっと﹂
おそらく聡美の分析通りで、間違いないだろう。聡美が持ってい
る化粧道具では、香の顔には濃すぎるのだ。しかし、その化粧道具
を使っている聡美はというと、ケバケバしい印象にはまるでなって
いない。香とは違い、聡美は化粧映えする華やかな顔立ちをしてい
るからか。
聡美は似合っていて、自分は似合わない。理不尽な現実に腹が立
つ。
﹁いいもん。肌綺麗だから、化粧しなくても平気だもん!﹂
﹁それが通用するのは中学生までよ。社会に出たら、礼儀として紅
の一本も引かなきゃいけないんだから﹂
﹁どこの世界の礼儀よ、それ﹂
﹁女の社会ってのはね、そういうものなのよ。どれだけオシャレか
? それで女性の地位が決まるのよ﹂
小学生の香にはさっぱり理解できない話しだ。中学生ならば、少
しは実感できるかもしれない。
本来なら、そういうことは母親から聞くべきものなのかもしれな
365
い。だが香には︱︱、
﹁なんか、聡美ってお母さんみたいね﹂
母がいなかった。
﹁私まだ十四よ十四! まだまだコギャルなんだから。お母さんと
かやめてよ﹂
本当に怒ってしまったのか、聡美はがちゃがちゃと音を立てなが
らメイク道具を締まっていく。そんな聡美を見ながら、香は口を開
く。
﹁ねえ、聡美はどうしてあたしに部屋に来るの?﹂
﹁は? だから、鏡があるからだって︱︱﹂
﹁いや、そうじゃなくてさ。あたしたち、学校一緒じゃないじゃん。
どうして姉さんの部屋に行かないの? 姉さんの部屋にもたしか、
鏡はあったと思うけど。もしかして、姉さんとあんまり仲良くない
の?﹂
それは、ただの疑問だった。年齢が離れている者よりも、近しい
もののほうが話題がかみ合う。少なくとも、化粧のことで言い合う
ことはないはずだ。それに、同じ学校に行っている者同士のほうが、
なにかと話題に困らない。
あの男子うざいよねーとか、今日の担任なんかキモイとか。⃝⃝
ちゃんって変なこと言うよねー、だからみんなからはぶられるんだ
よーとか。
いままで散々話題を聡美から振られて、けれど香は話しに乗るこ
とができなかった。担任の名を言われてもその顔を想像できないし、
クラスメイトの態度を言われても、その生徒の素性がわからないか
ら答えようがない。
姉の彩芽ならば、その手の話題も理解して、うまく返答できるは
ずである。であれば彩芽にその話を振れば、﹃会話﹄として成立す
るし盛り上がりの余地がある。
聡美は自分と話していて、面白いと思うことがあるのだろうか?
そんな、一抹の不安を、香は視線で投げかける。
366
﹁香のほうが扱いやすいからに決まってるじゃない﹂
何年前のことだったかは忘れたが、香は同じ質問を聡美にしたこ
とがある。そのときといまと、ほぼ同じ答えが返って来た。
﹁でも⋮⋮﹂
しかし、以前とは違い、聡美は言葉を続けた。
﹁いずれ離れるって、わかってると。なんか、寂しいじゃん﹂
それは、卒業後の話をしているのだろうか? であれば、聡美と
自分との関係だってそうであるはずだ。
口を開きかけると、聡美は首を横に振った。それ以上、なにも言
うなという様に。
﹁部屋に戻るね﹂
化粧ポーチを抱えて部屋を出る聡美の背中が香には、どうしよう
もなく寂しげに見えた。まるで、二度と帰ることのない主人の帰り
を待つ忠犬のように。
さとし
その日の晩。香は父に呼び出された。
父親︱︱紅慧の書斎に入るのは久しぶりだった。天井まである本
棚が壁二面を占領している。本は古今東西様々で、文庫本から図鑑
まで多岐にわたる。達也が見れば﹃魔導書だ﹄とかなんとか言って
目を輝かせそうな見た目のハードカバーまである。
父は椅子に座り、大きな机に広げた紙を眺めていた。
﹁失礼します﹂
香の声で、父はやっと香の存在に気がついたようだった。
﹁そこに座りなさい﹂
促されて、香は部屋の中心にある一人掛け用のソファに座った。
籐で編まれたソファは、香の体重をほどよく吸収して沈んだ。
父は白髪の交じるオールバックの髪の毛を軽く撫でてから、ゆっ
くりと口を開いた。
﹁最近、この村では物騒な事件が起っているようだ。そのことで、
太田が色々と動いている﹂
367
小さく、低い声に香は耳を澄ませる。油断すると父がなにを言っ
ているのか、聞き逃してしまいそうになる。無条件に安心させられ
る類いの声色だったが、このような状況では︱︱なにを言い出すか
わからない︱︱警戒感を沸き立たせる。
自分は、なにか悪いことをしただろうか? 香は必死に最近の出
来事を思い返す。
﹁小学校で、物損事故があったみたいだね。それについて、香はな
にか知っているかい?﹂
﹁⋮⋮いいえ﹂
香は首を横に振った。父が訊きたいことを、香は知っている。け
れど、それは知られてはいけない秘密である。香は内心を読み取ら
れないよう、必死に表情を隠す。
﹁そうか。太田から聞いた話しだと、その事件は捜査に乗り出した
途端に解決されていたようだ。もしかしたら香がやったんじゃない
かと思ったんだけれど﹂
もし自分が解決したと言えば、父は自分を褒めてくれるだろうか
? 守人として、認めてくれるだろうか? 時折与えられる父の愛
情を夢見て、けれど香は唇を噛む。
あれは、あたしがやったことじゃない。
あたしはただ、そこに居ただけだ。
﹁あたしじゃ、ありません﹂
自分が解決したことではない。その事実に、香の中で膨らんだ暖
かな感情が休息にしぼんでいく。
﹁そうか。それは、残念だ﹂
残念だと言われ、香ははっと顔を上げた。香はそれが﹃娘が事件
を解決していないこと﹄に対してではないのだとすぐに気付いた。
父は、そんな人間ではない。ただ香から真実が聞き出せなかったこ
とを、残念に思っているだけだ。
﹁香は来年から、中学生だね﹂
﹁はい﹂
368
﹁最近は道場に通っていないのかい?﹂
﹁はい﹂
しま
﹁それでいい﹂父は目を細める。﹁あそこは山南家の縄張。紅家は、
あまり関わらないほうが良い﹂
父は闇に、﹃道場に通うな﹄と言っているわけではない。﹃山南
家と関わるな﹄と言っているのだ。その言外の指摘に、香は僅かに
熱くなった。けれど、それを口にしたところで、父に言いくるめら
れてしまうに違いない。
紅家と山南家は違う。香は守人として、この村では振る舞わなけ
ればいけない。誰かを頼る存在ではなく、誰にも頼られる存在でな
ければいけないのだ。
﹁来年から、表入りしてもらうだろう。いまから心の準備をしてお
きなさい﹂
表︱︱村の長老や村長、有力者との寄り合いや食事会のことだ︱
︱そこに、来年から参加入りする。しかし、現役中学生の彩芽は、
未だ表入りしていない。
﹁⋮⋮姉さんは﹂
﹁それは関係ない﹂
ぴしゃりと一言で切り捨てられた。彩芽をそれと呼ぶ父の言葉に、
香の横隔膜が震える。
﹁彩芽は彩芽の役割がある。表入りはお前の役割だ。いいな?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
父が香から視線を外した。それは、出て行けという合図。香はソ
ファから立ち上がり、書斎を後にした。
書斎を出る前に、僅かに背中に感じた父の視線。それが、どうい
う意味合いのものなのか。香には確認する術はなかった。
翌日の放課後、一度帰宅した香の元に一本の電話がかかってきた。
﹃部活道具忘れた持ってきて﹄
それだけを早口にまくし立てると、電話が切れた。
369
相手は聡美だ。
あたしは小間使いかい。
回線が切れると同時に、香の頭の中でもなにかが切れる音がした。
受話器に恨みはないが、受話器を思い切り本体に叩き付けずにはい
られなかった。
床の調子を確かめるように足を踏みならし、香は聡美の部屋に向
かった。知らない人が見れば物置部屋のように思える扉を力いっぱ
い開く。
部屋の様子を見た香は息を呑んだ。⋮⋮酷い。酷すぎる。洋服が
部屋の床を埋め尽くしている。おまけに⋮⋮なんだこれは? 妙な
本がいくつも服に紛れて落ちている。気をつけて進まなければ、本
の角を踏んづけて痛い目を見そうだ。
ぐちゃぐちゃに散らかった部屋の中から、時間をかけて聡美の部
活道具を探し出す。あいつ、なんの部活やってたんだっけ? ⋮⋮
ああ、陸上部だったか。散らかった部屋からジャージとスパイクを
掘り起こし、香は家を出る。
中学校に向かう途中で、香は達也の姿を発見した。達也は片手に
見慣れぬ刀を携え、山の中に入っていった。いったいなにをしてる
んだろう? 声をかけようと思ったときには既に、達也の背中が木
々の中に隠れて消えてしまった。
⋮⋮また妙な気を起こしたな?
後を追おうか考えて、辞める。きっと達也もそこまで馬鹿じゃな
い。人に迷惑をかけても事件を引き起こすようなことはしないだろ
う。頭に達也の刀が引っかかりつつも、香は中学校に向けて足を進
めた。
370
二章 魔法少女、笑動︵しどう︶。2
中学校にたどり着いたころ、丁度中学生の授業が終わったらしい。
生徒が学校の外にぱらぱらと姿を現している。
香は陸上部の部室に顔を出し聡美の姿を探した。しかし、どうや
ら聡美はまだ部活に顔を出していないようだった。掃除当番かなに
かで遅れているのだろうか。香は部室を出て、校舎に向かう。
紅家ということで顔が知れ渡っているのか、はたまた香が達也を
追いかまわして村中を駆け巡っているためか。すれ違う中学生が香
の顔を見て、頭を下げてくる。年上の人に頭を下げられるのは、ど
うにも恥ずかしい。香は小さい体をさらに小さくして廊下を進んだ。
中学校も、小学校と同じく一クラスしかない。おかげで香はすぐ
に聡美の教室を見つけることができた。
教室をのぞき込むと、クラスメイトと談笑する聡美を発見した。
﹁聡美﹂
声をかけられ振り向いた聡美が、笑顔から急転直下の青ざめた表
情となった。
だだだ、と足音を立てて香に駆け寄り顔を寄せる。
﹁あ、あなた、なにしにきたのよ!﹂
聡美が小声で叫んだ。
﹁そんなことも忘れたの? 電話で部活道具を持ってきてって言っ
たでしょ﹂
﹁⋮⋮え? あれ、香だったの? ええぇー?﹂
心底嫌そうな顔をする。
﹁てかあんた、一体誰が電話を取ったと思ってるのよ﹂
﹁太田﹂
﹁あんたね⋮⋮﹂香はため息を吐き出した。﹁太田は若頭よ? い
ち使用人のあんたが小間使いにするような相手じゃないっての﹂
﹁いいのよ。私は特別なんだから﹂
371
その自信は一体どこから来るのだろう?
﹁とにかく香、いますぐ外に出て﹂
﹁折角届けにきた人にむかって言う台詞じゃないね﹂
﹁ここは私の縄張よ? 人の縄張を荒らさないで﹂
﹁荒らしてない⋮⋮っていうか、縄張ってなによ?﹂
瞬間、香の横を男子生徒が横切った。香の顔を見て、男子生徒が
社交的な笑みを浮かべ頭を下げた。それを見て、香も会釈をする。
その横で聡美が、家の中では決して見せたことのないうわべだけの
笑みを浮かべて、ひらひらと手を振った。遠くを見るような、それ
でいて相手をきちんと捕らえる、いわゆる流し目というやつを使っ
て、相手を見送る。
﹁⋮⋮聡美キモイ﹂
気持ち悪かった。聡美に幾度もキモイと言った経験のある香だが、
いまのは最上級に酷い。なんだこいつ?
﹁キモイ言うな﹂
﹁なんでそんなキモイ顔してんのよ﹂
﹁だからここは私の縄張だって言ってるじゃない﹂
ようは、男子に媚を売って好かれようとしているのだろう。馬鹿
馬鹿しいと思う。しかし香の気持ちとは裏腹に、先ほど挨拶した男
子はそうまんざらでもない顔をしていた。
どうも釈然としない。中学生男子って、そんなにちょろいのか?
﹁ほら、さっさと出て行って﹂
﹁ふぅん﹂
なるほど、と香は思った。香がここにいると、折角作り上げたメ
ッキが剥がれ落ちてしまう。おそらくそれが嫌だから聡美は香を追
い出そうとしているのだ。間違いない。
だとすると、絶対に聡美の傍を離れるわけにはいかない。
悪戯心をくすぐられ、香は聡美に抱きついた。
﹁な、あなた、なにしてんのよ﹂
聡美は家で香によく見せるくしゃっと顔を潰した表情となった。
372
﹁聡美、素が出てるよ﹂
﹁げ﹂
聡美は当たりを見まわして、いまの表情がみんなにバレてないか
を確認している。
しめしめ。香は笑みを殺し、聡美に話しかける。
﹁聡美は掃除当番なんでしょ? あたし、ここで待ってるから﹂
﹁いいって︱︱いいです。香ちゃん、部活道具を届けてくれてあり
がとう﹂
だからそれをさっさと渡せばーか! という表情を聡美が香にだ
けわかるように浮かべた。
しかし、それに応じるわけにはいかない。香は部活道具を背中に
まわした。
﹁掃除はきちんとしないと、先生に怒られちゃうよ? 聡美︱︱お
ねえちゃん♪﹂
その言葉を口にした瞬間、聡美は口から不快な感情をゲロゲロ吐
き出すような表情になった。
﹁あなた︱︱﹂
反論しかけた聡美だったが、掃除を続けていた生徒達全員に視線
を向けられ、言葉を飲み込んだ。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮ッチ!﹂
香の耳にだけ届く程度の小さな音量で、聡美は舌打ちをした。
勝った。香は内心ガッツポーズを取る。
掃除が終わり、生徒たちがそれぞれの部活に向かう。全員が教室
から出て行ってからやっと、聡美が香に話しかけてきた。
﹁ほんと。最悪。なんで香がここに来ちゃうかなぁ﹂
﹁人を小間使いにする罰よ﹂
遠目で見た聡美は、男子女子にかかわらず媚を売り歩いていた。
⃝⃝ちゃん助かるぅ♪ありがとぉ。机重ーい。あ、⃝⃝くんありが
とう。力もちだねぇ♪︵二の腕にソフトタッチ︶
373
思い返すだけで嫌悪感により背筋がゾクゾクと震える。
今日のこの一件のおかげで、家で聡美を貶すレパートリィが増え
た。これは大きな戦果だ。弱みを握ったといっても過言ではない。
さてこの情報を、どう使ってやろうか。香はにやにやと下卑た笑み
を浮かべた。
﹁なににやついてんのよ﹂
涙目になった聡美がきっと香を睨んだ。
﹁それ、さっさとよこしなさいよ!﹂
弱々しい声だったけれど、思いの外強くひったくられて、香はあ
えなく部活道具を奪われた。
聡美は袋を開き、中身をチェックする。
﹁うん。ちゃんと全部入ってるね﹂
﹁当然でしょ? てか聡美、あんたもう少し部屋を片付けなさいよ。
どこになにがあるのかさっぱりわからなかったじゃない﹂
﹁片付けたいんだけど、押し入れがいっぱいなのよ﹂
﹁どうせ変な本で埋め尽くされてるんでしょ?﹂
﹁な、なによ? 変な本って﹂
﹁モテ女はこうしてハートをゲットする! カレの家におしかけち
ジヨ
ゃえ♪ 勉強を教わるその隙に、カレの太ももにソフトタッチ! これがデキ女の必勝方♪ ⋮⋮⋮⋮って、なによこれ﹂
それは聡美の部屋にあった雑誌の特集記事の名だ。ただのファッ
ション雑誌かと思い開いてみると、危険な病気を極限まで濃縮した
記事ばかりだった。デキ女ってなんだ、デキ女って⋮⋮。
﹁なんで人の部屋に入って勝手に本読んでるのよ!﹂
﹁あんだけ床に本ばらまいてる人が悪いでしょ?﹂
﹁ばらまいてるからって読まないでよえっち!﹂
なにがえっちだ。えっちなのは、そんな本を読むお前だろう。
﹁とにかく、本を捨ててでも部屋は片付けなさい。あれじゃ汚れが
溜まって不潔よ﹂
﹁本は捨てられないわ。この村での貴重な都会の情報源なんだから﹂
374
﹁じゃあ無駄にある服を捨てれば片付くでしょ﹂
﹁無駄じゃ︱︱﹂
聡美の反論が、途中で途切れた。聡美は天井を見上げて、呼吸を
止める。
﹁⋮⋮なに?﹂
不審に思い、香は聡美の視線の先を見上げる。
そこには、木目が綺麗な天井があるだけだった。
⋮⋮いや、違う。その先。校舎の二階に、なにかいる。
香の感覚が、以前体感したものと同じ気配を探り当てた。
﹁香。学校の用務員室に電話があるから、そこで家に電話をかけて、
太田に緊急事態だって伝えて﹂
﹁うん、え?なに?なんで?﹂
香が動転するなか、聡美が両手を真上に伸ばす。
聡美の体から風のようで、なのに感触のないなにかが放出された。
その瞬間、学校からありとあらゆる気配が消えた。無音の気配は瞬
く間に広がる。それは校舎だけでなく、遠くの山まで到達したよう
だった。香の感覚では村全体を覆ったように感じられたが、はたし
てそれが正しい認識であるかは︵このような経験は初めてだから︶
疑わしい。
爆音を聞いた直後のような、無音の中にあるかすかな耳鳴りに香
は顔をしかめる。
場所はさきほどと同じ校舎の中。けれど、その空間はいままでと
はまるっきり変ってしまっているように感じられる。
﹁⋮⋮なにこれ?﹂
呟きが校舎に大きく響き、香はぞっとした。
﹁な、なんであなたがいるのよ!?﹂
聡美が香を見て目を丸くした。
﹁は? あんた記憶喪失かなにかなの? それとも痴呆? あたし
はあんたの部活道具を持ってここに来たじゃない﹂
﹁それは知ってるわよ! そうじゃなくて、どうしてこの中に入れ
375
るのか訊いてるの!﹂
﹁学校の中には誰だって入れるじゃない。馬鹿なの?﹂
﹁馬鹿っていうな馬鹿! そうじゃなくてっ、⋮⋮そっか、香も紅
だもんね。いずれはこうなるのよね。ま、いいわ﹂
聡美は半ば諦めのようなため息を吐き出す。いったい聡美がなに
に気づき、なにを納得し、なにを諦めたのか? その表情だけでは、
香にはなにもわからなかった。
﹁とりあえず、香は安全なところにいて﹂
﹁うん﹂
⋮⋮うん?
﹁そこから動くんじゃないよ?﹂
早口にまくし立てると、聡美は香の元から走り去っていった。向
かった先は、おそらく上階だろう。階段を上るリズミカルな音とと
もに﹁うっしょ、っこらしょ﹂と年寄り臭いかけ声が聞こえてきた。
さて、と香は考える。
安全な所って⋮⋮どこだ?
一階の用務員室にある公衆電話を持ち上げる。受話器に耳をつけ
て、けれどその受話器をすぐに置いた。
天井を仰ぎ、香は途方に暮れる。
⋮⋮財布がない。
十円玉もテレフォンカードも、全部財布の中。そしてその財布は
いま、香の部屋の机の上だった。
電話を使うなんて、家を出るときには思いも寄らなかった。ここ
は田舎で、村全体が自分の庭のようなものである。その環境に生き
る香は、財布を持ち歩くという週間が身についていない。そもそも
学校じゃ財布を持ち歩くなって先生に教えられてたし。心の中で言
い訳を呟く。
ふと、香は奇妙な引っかかりを感じた。
なにか忘れているような気がする。なにを忘却しているのか思い
376
出すため、香は用務員室に入るところからの記憶に残る動きをなぞ
る。
用務員室に入り、公衆電話を見つける。受話器を取って、耳に当
て︱︱、
﹁あっ﹂
香は小さく声を発した。その声は無音の空間の中ではやけに大き
く響いた。
受話器から音が聞こえない。通常、公衆電話を耳に当てると、中
音域の電子音が必ず聞こえてくるはずである。なのに、聞こえない。
ということは、もしかすると⋮⋮。
香は思いきって、下にある赤いボタンを押し込んだ。
それは緊急の場合に、警察か消防に無料で電話できるボタンだ。
それをきっちり押し込まれたことを確認し、香は一一〇を押す。し
かし、電話が繋がりそうな音が聞こえない。
その状態で呼吸十回分待って、香は受話器を置いた。
電話が出来ない。ならば、ここにいても仕方がない。
じゃあどうするか?
答えは決まっている。
香は足早に用務員室を出た。
青い影が空中に浮かんでいた。浮いているから、影よりもモヤの
ほうが近いだろうか。青いモヤ。それは窓から入り込む光の悪戯な
んかじゃなく、懐中電灯の仕業でもない。ましてや、目の錯覚なん
かでもない。
楕円形で、垂直に伸びる。長さはおおよそ壱メートルくらい。幅
は三十センチくらいか。青いモヤの体を通して、廊下の奥がうっす
ら見える。
青いモヤは、青いモヤとして、間違いなくそこにある。
﹁なにあれ?﹂
呟くと、青いモヤと香のあいだに立った聡美が肩を振るわせた。
377
﹁な、なんで香がここにいるのよ?﹂
﹁あんたに部活道具を︱︱﹂
﹁もうその話はいいから⋮⋮﹂
聡美がうんざりしたように項垂れた。
﹁⋮⋮電話が通じなかったって伝えに来たのよ﹂
﹁いいわよそんなのわざわざ伝えに来なくても。てか、私さっき安
全なところに居てって伝えたじゃない! どうして安全なところに
いないのよ?﹂
﹁安全なところってどこよ?﹂
﹁知らないわよそんなの!﹂
ぐわぁ、と目を開いて聡美は逆ギレした。
﹁こういう状況だと、聡美の近くが一番安全だと思ったんだけど。
違うの?﹂
﹁それは⋮⋮﹂聡美は言葉に詰まった。
﹁聡美は知ってるんでしょ? これが、どういうことなのか﹂
﹁⋮⋮﹂
聡美の沈黙は限りなく肯定に近い。
外敵が近くに存在する場合、それに対処できる人間の近くにいる
か、そこから遠くへ逃げ出すことが安全策である。どこかに身を隠
すという手段もあるが、相手に単独で見つかった場合の生存率は最
悪。善策とは決して呼べない、悪手である。
﹁学校の外に出れば良かったじゃない﹂
﹁外に出ても中でしょ? どこまで行けば外に出られるかわからな
いじゃない﹂
この無音の雰囲気の外に出られないのであれば、どこにいても危
険地帯に他ならない。故に、香が選択した善策は、聡美の傍にいる
こととなった。
﹁⋮⋮そこまで判るのね﹂
はぁ、と聡美がため息を吐き出した。
﹁あなた、そういうことどこで習うのよ?﹂
378
﹁そういうことって、戦闘方法のこと? 知ってるのが普通でしょ
?﹂
﹁普通の小学生は知らないっての﹂
﹁達也は知ってるよ﹂
﹁達也も香も道場に通ってるから知ってるだけでしょ? 一般知識
化しないでちょうだい﹂
香と聡美が会話を交すあいだ、青いモヤはぴくりとも動かなかっ
た。天井から青いフィルムを垂らしたって、もう少し変化はある。
﹁それで聡美。あれはなんなの?﹂
﹁⋮⋮悪魔よ﹂
諦めたように聡美は呟いた。
悪魔。その言葉は一度、鈴木も口にしていた。
﹁悪魔って、なに?﹂
﹁悪を成す魔法の存在﹂
﹁魔法、ね。さっきからあれが動かないのはなにかの魔法なの?﹂
﹁⋮⋮よく、わかったわね﹂
聡美は僅かに目を見開いた。
﹁だっておかしいじゃない。さっきからまったく動かないなんて﹂
﹁動かない、ただの光の可能性だってあるでしょ?﹂
あんた馬鹿?と聡美が冷たく言い放つ。その言葉に、香は言い返
せずに口を噤んだ。こういう切り返しのおかげで、香はどのような
状況にあっても聡美に対して優位に立てない。大人であればもしか
したら二歳の年の差などごくごく小さいものなのかもしれない。だ
が小中学生の二歳差は、大人と子どもの差ほどの距離がある。それ
ほどまでに、圧倒的な違いが生まれるものなのだ。
しかし、だからこそ腑に落ちない。
これくらい差が開いていれば、香のことなど子どもっぽく思えて
ウマが会わなくなるはずである。なのに、聡美が彩芽と仲良くして
いるところをほとんど見かけない。
﹁ところで﹂
379
香が無言のままいると、聡美が間を埋めるように口を開いた。
﹁あんた、どうして悪魔と魔法のことを知ってるの? もしかして、
父親から聞いてるの?﹂
﹁ううん? なにも聞いてないけど﹂
﹁まさかあんたまだ、魔法少女に憧れてるの? あぁ⋮⋮。そうだ
よね。まだ香は小学生だもんねぇ﹂
﹁なんか、よくわかんないけど、馬鹿にされてることだけはわかる
わ﹂
ぐっと拳を握りしめると、聡美がニヤリと下卑た笑いを浮かべた。
﹁きゃー月に変ってお仕置きされちゃうー﹂なんて馬鹿にするもの
だから危うく全力で殴りそうになった。まったく、どの世界の魔法
少女が拳でお仕置きをするのだ。
﹁で、誰から聞いたの?﹂
﹁ええと⋮⋮、変な小学生﹂
﹁誰よそれ﹂
﹁よくわからないんだけど﹂香は顎に手を当てた。﹁背はあたしよ
り小さくて、ちんちくりんで、地味で根暗っぽい。この辺じゃ見な
い顔の子どもよ﹂
﹁なにそれ、幽霊じゃないの?﹂
﹁幽霊とは失礼ですね﹂
突如背後から声が聞こえて、香と聡美が声にならない悲鳴を上げ
た。
380
二章 魔法少女、笑動︵しどう︶。3
振り返るとそこに、あの少年︱︱鈴木が居た。鈴木は苦笑いを浮
かべつつ、挨拶のつもりだろう、片手を僅かに上げた。
﹁それに、ちんちくりんって⋮⋮。酷い言いようですね﹂
﹁いきなり話しかけないでよ心臓が飛び出ると思ったじゃない!﹂
﹁それは失礼しました﹂
さして失礼と思っていなさそうな口調で鈴木は言った。
﹁あなた、どうやってここに?﹂
香とは対照的に、聡美の声色は緊張していた。
﹁結界が展開されていたましたので、気になって覗きに来てみまし
た。紅家の御家人だけであればそっと立ち去るつもりだったんです
が。見知った顔がありましたので﹂
そう言って、鈴木は香に僅かに視線を向けた。
﹁あなたも、魔法使いなの?﹂
﹁そう、ですね。そんなようなものです﹂
鈴木は曖昧に頷く。
﹁見知った? 香のこと?﹂
﹁はい。あと、この結界を展開している方の素性も、少し気になり
ました。あなたが結界師ですね?﹂
視線を向けられて、聡美は体を固くした。
﹁だったらなによ?﹂
﹁少し、特殊な結界だなと思いまして﹂
特殊な結界?
そもそも結界の存在そのものが特殊に思える香は、鈴木がなにを
特殊だと言っているのか、想像さえできなかった。
﹁香。こいつなんなの?﹂
﹁緊張しなくてもいいよ、聡美。あいつは、一応敵じゃないから﹂
﹁いや、敵か味方かで聞いてないから。なんでそう物騒な物言いを
381
するのよ。もっと他にあるでしょ﹂
﹁ん?そう?たとえば?﹂
﹁怪しい奴かどうかとか﹂
﹁怪しくないように見えるなら、あんたの目はどうかしてるわ﹂
﹁ぶっとばすよ?﹂
聡美に戯けて見せてから、香は先日の出来事を聡美に語って聞か
せた。はじめのうちはずいぶんと力が入っていた肩が、骸骨を打ち
砕いたという下りで大きく緩んだ。
﹁なるほど。だから敵じゃない、ね。けど、私は鈴木くんのすべて
を信用したわけじゃないから。どういう目的で私たちに近づいたの
かわからない以上、気付いたら敵になる可能性だってある﹂
何処までも頑なな聡美に、香は内心ため息を吐き出した。
﹁あんたそれ、ドラマなら最終回前に恋に落ちるパターンの台詞よ﹂
﹁喧嘩売ってんの!?﹂聡美はいきり立った。﹁こんなチンチクリ
ンな奴と恋に落ちるわけないじゃない!﹂
﹁どうしてそう言い切れるの? 聡美の部屋にはあんなに恋愛小説
が転がってるのに﹂
﹁なっ﹂聡美の顔が青ざめた。﹁何故それを⋮⋮!?﹂
﹁部活道具﹂
たった一言。それだけで、聡美が膝を地に付けた。
﹁⋮⋮まさか、部活道具を持ってこさせたことが、ここまでの仇に
なるとは⋮⋮。そういえば今日の占い、最下位だったなぁ。そうか、
これが最低の一日って奴なのね⋮⋮﹂
ぐじゅぐじゅと、聡美は鼻を鳴らす。
﹁そんなことどうだっていいわ。それよりも︱︱﹂
﹁どうでもよくないわよ!! 年下に自分の趣味がバレて、弱み握
られるなんて、死活問題!自殺ものよ!!﹂
﹁煩いって⋮⋮﹂
香はうんざりとして吐き捨てる。
﹁話を戻すけど。聡美、誰彼構わず疑うのは悪い癖だよ﹂
382
﹁あんたはもう少し人を疑いなさいって。ほんと、田舎ってほんと
人を疑わないわよね。そんなんじゃ都会に言ったら一発でダマされ
て借金背負う嵌めになるわよ?﹂
﹁ずいぶん都会を知った気になってるみたいだけど、じゃああんた
はどれだけ都会人なのよ?﹂
﹁あのぅ﹂背後から控えめな声が聞こえた。﹁もう少し、緊張感を
持ちませんか? 一応、悪魔の前ですし⋮⋮﹂
あ。そういえばそうだった。
馬鹿な聡美と馬鹿話しをしてたせいで、悪魔の存在をすっかり忘
れてた。
鈴木の一言で現実に復帰した聡美が、目を袖で拭って立ち上がる。
﹁⋮⋮で、魔法と悪魔のことを知ってたのは鈴木くんのせいだった
と﹂
﹁はい﹂
鈴木は笑いをかみ殺すように頷いた。聡美の立ち直りの速さが、
彼のどこかのツボに填まったのかもしれない。
﹁先日倒した骸骨は、ガシャドクロと言います。非常に弱い悪魔で、
ランクは低級。そこに存在している悪魔はテンソウメツ。ランクは
中級といったところでしょうか。ガシャドクロに比べて攻撃性は低
いですが、攻撃力は非常に高いので危険です﹂
﹁なんでそこまで知ってるのよ?﹂
﹁少し、悪魔についての知識が豊富なんです﹂
聡美の詰問を、鈴木は笑って躱した。
本当にこいつを信用していいの? と聡美は香に視線を投げる。
たしかに、少し怪しい気はする。けれど、味方であるうちは非常に
心強い存在だ。魔法による転移に、ガシャドクロを討ち取った魔法。
不足の事態を考えるならば、鈴木の助力は願ってでも得るべきであ
る。
﹁それで鈴木。どうやって倒すの? この前みたいに、あたしが血
を貸せばいい?﹂
383
このまま黙っていても現状は改善されない。硬直した時を、香の
声が動かした。
﹁いえ、僕の攻撃では低級悪魔の浄化が精一杯です。男は魔法に不
向きですから﹂
﹁え? じゃあどうやって倒すのよ?﹂
﹁それは紅さんが︱︱﹂
﹁だめよ!﹂
鈴木の言葉を、聡美の大声が遮った。
﹁⋮⋮な、なによ急に。びっくりするじゃない﹂
聡美の声で、香の心臓が薄い胸に叩き付けられる。
﹁だめよ。それだけは、絶対にダメなんだから﹂
唇をかみしめて、目を伏せる。聡美のそんな表情を、香は過去に
一度見たことがある。
紅家を初めて訪れたときの、所々焦げた洋服をぎゅっと握りしめ、
いまにも泣き出しそうな表情で俯く。そんな彼女に父が﹃今日から
お前は使用人だ﹄と言った。その瞬間の、聡美の表情といまの表情
が、香の記憶の中でダブって見えた。
怖れていた絶望がやってきた瞬間のような、そんな表情。
﹁聡美は、なにを怯えてるの? ただ悪魔を倒すってだけのことじ
ゃない﹂
﹁それだけのことじゃない。香が魔法を使うっていうことは⋮⋮つ
まり、その⋮⋮﹂
その次が言葉にならない。掠れた息が廊下に響いて消える。
﹁僕が説明しても︱︱﹂
﹁だめよ。絶対にダメ!﹂
再び、聡美が鈴木の言葉を遮った。聡美は年上ではなく、鈴木よ
りも年下の子どものようだった。こうなると、どれほど鈍い人間で
あろうともなにかあることに気付けるだろう。
香が魔法を使ってはいけない理由。それに、聡美は怯えている。
まさか、魔法で力を付けたあたしがいままでの復讐と称して聡美
384
を襲撃すると思っているのか? ⋮⋮なわけないか。くだらない妄
想を即座に履いて捨てる。
﹁僕は、他人ごとに口を出すことは滅多にありませんけれど﹂と鈴
木は口を開いた。﹁これは僕の性分なんですが︱︱事件の中心人物
が、自分は事件の中心にいると知らず、情報を与えられず、時を過
ごしていく。もしそのときに情報が与えられていれば、誰かが傷付
くことはなく、傷つけられることもなかった。あとになって、当事
者がそう後悔するかもしれません。情報を持っている人間が、自分
の私利私福のために情報を封鎖する︱︱そのことが、あらゆる物事
は大抵見過ごして無関係を装う、事なかれ主義の僕が、唯一許せな
いことです﹂
言葉にジョークが含まれているということを示唆するように、鈴
木は肩をすくめた。
﹁袰月、聡美さんでしたか?﹂
鈴木の確定的な問いに、聡美は目だけで頷いた。
﹁袰月さんは、紅家の出自ではありませんよね? そもそも苗字が
違いますから。紅家のことに、袰月さんは意見できるんでしょうか
? あなたは、そういう立場に、あるんですか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂聡美が唇を強くかみしめる。
﹁紅さんが知りたいと思うならば、それを僕は教えてあげられます。
紅さんは自分の問題ですから、情報を聞くかどうかを、決める権利
があると僕は思います。後悔するのは紅さんで、僕や、袰月さんや、
紅家の方々ではありません。いずれにせよ、その引き金を引く権利
があるのも、紅さんなんです﹂
﹁あなたは、何様のつもりよ?﹂
﹁何様でもありません。ただ、このままでは紅さんがいずれ、哀し
い思いをされるのではないかと、危惧しているだけです﹂
なんの話をしているのかさっぱりわからない香は、二人の会話に
割って入ることができなかった。話の当事者だろうことはわかる。
けれどその当事者なのに、完全に置いてけぼりというのは居心地が
385
悪い。
﹁なんだかよくわからないけど。聡美、あんたは少し心配しすぎな
のよ。それとも、あたしのことがそんなに心配?﹂
﹁いやそれはないから﹂
﹁即答かい﹂
聡美の解答はあまりに速かった。その速さとは裏腹に声色に心が
ない。それが言葉とは裏腹な内心を表しているのだと、香は思った。
﹁鈴木。いまの話はあたしのことについてなんでしょ?﹂
﹁はい、そうです﹂鈴木は顎を引いた。
﹁じゃあ、教えて﹂
﹁香!!﹂聡美が悲鳴を上げる。
﹁ただし﹂香は聡美を抑えて、目だけで鈴木を見た。﹁深いところ
まで話さなくていい。一言でおねがい﹂
こんな状況で長話をしたって、きっと一個も頭に入ってこないだ
ろう。それにもし理解できたとしても︱︱聡美の拒否反応から察す
るに︱︱平静でいられないかもしれない。
ならば、一言で言い表してはどうか?
短絡的のようでいて事態の収拾を図る。その際に負う関係の亀裂
を最小限に留めるための、それは香の策だった。
﹁では﹂と鈴木が口を開く。﹁紅さんには、魔法少女の才能があり
ます﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
場に、沈黙が降りた。
魔法少女?
魔法使いじゃなくて?
少女?
ぐぷ、と口から息が漏れた。
漏れた瞬間から、決壊したダムから漏れ出る水の如き勢いで、笑
いがあふれ出る。
386
﹁ま⋮⋮まほう⋮⋮しょ⋮⋮ぐふぅ﹂
﹁や、やめてよちょっと⋮⋮ぐぷぷ﹂
香も聡美も、腹を抱えて床を転げ回る。
真面目に口にしたのだろう。鈴木は目を点にして笑い狂う二人を
呆然と見守っている。
﹁なに? じゃああたしは、カードの魔力で悪魔を月に変ってお仕
置きするの?﹂
﹁香それ、混ざってるか︱︱ぶふぅ!﹂
﹁魔法のコンパクトはどこよ?﹂
﹁念じるだけと言われただけなのに、変身シーンで突然変身台詞を
口にして踊り出すんでしょう? やめてよちょっとぉ﹂
ふひひ、と香は笑いを口の中で転がす。しかし、香のその一言で
聡美の笑いがぴたりと停止した。
﹁で、香がどうして魔法少︱︱ぶっ!﹂
︱︱が、また吹き出す。魔法少女という言葉を現実で︱︱それも
大まじめに聞かされると、どうしても笑ってしまう。
﹃君は魔法少女だ﹄
まったく馬鹿馬鹿しい。
その言葉を笑わずに信じるのはファンタジーの中の頭の弱い主人
公か、達也だけだ。
しかし︱︱。
香は床から起き上がり、青い光を見据えた。
あれが目の前に居る以上。目の前にいて存在する以上。笑って終
わらせるわけにはいかない。
﹁それで? これからどうするのよ﹂
﹁魔法少女の紅香さんがなんとかするんでしょう? ぐぷ︱︱いで
!﹂
口から息を吹き出した聡美の頭に、香は平手を振り下ろした。
﹁なにすんのよ!﹂
﹁いつまでも笑ってんじゃないわよ。あれどうするのか真面目に考
387
えなさいよ。このままじゃどうしようもないんでしょう? どうし
ようもないから、あんたはずっと結界?を展開し続けてるんでしょ
う? それとも、あんたはこのままずっとアレと暮すつもり?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
﹁だったら、そろそろ笑ってないで考えなさい﹂
香は笑った。笑っていた。笑っていただけじゃなく、考えてもい
た。どうして聡美がいの一番に結界を展開したのか。それを展開し
続けているのか。展開し続けて、それからどうするのか? あれは
消えるのか? 消えるまでどれくらいかかるのか? 消えなければ
どうするのか? 誰かが助けにくるのか? 考えれば、疑問は沢山
浮かんでくる。この世界のことを知らない香にはなにもわからない。
答えが導き出せない。けれど、わからないだけじゃ、ダメだった。
なぜなら香も、この世界に足を踏み入れているのだから。
﹁そういえば太田に電話をしてって言ってたけど、太田ならなんと
かできるの?﹂
﹁たぶん。できると思う﹂聡美は小さく頷いた。﹁太田は、魔法少
女だから﹂
﹁やめてっ!﹂
聡美の一撃に香はあえなく撃沈する。背が高くがっちりとした体
格の、強面の男が魔法少女? ピンクのフリルスカートを身に纏っ
て杖を振りかざす。その姿を考えるだけで腹が痛い。
﹁魔法少女はジョークよ﹂
﹁知ってるって。馬鹿﹂
﹁馬鹿は余計よ馬鹿﹂
﹁あのぅ﹂控えめな声で鈴木が割って入る。﹁そろそろ、真面目に
悪魔を退治しませんか?﹂
﹁ええ。そのつもり。まずは太田を呼んで︱︱﹂
﹁おそらく、太田さんはあの悪魔を倒せません﹂
﹁え?﹂
予想外の鈴木の言葉に、香は体を硬直させた。
388
﹁基本的に、男性は強い魔力を持てません。僕も、紅さんの血液を
用いたから低級悪魔を浄化できましたが、もしそれがなければ太刀
打ちできませんでした。太田さんも、もしかしたら低級悪魔くらい
ならば浄化できるのかもしれません。ですが、中級は低級とは次元
が違います。男性がどうにかできる相手ではありません﹂
唯一見えてきた光明が、瞬く間に消え去った。
﹁⋮⋮どうして、男の人は魔力?を持てないって決めつけるの? もしかしたら太田は他の人とは違って特別で、強い魔力を持ってる
かもしれないじゃない﹂
﹁太田さんはただの一般的な魔法使いです。特別な力は一切ありま
せん﹂
﹁だからそれはどうしてよ?﹂
香は少し苛立って尋ねる。何故違うのか、納得できなければ諦め
が付かない。
﹁香、それはね︱︱﹂
389
二章 魔法少女、笑動︵しどう︶。4
聡美が床から立ち上がり、胸を反らせて口を開いた。
﹁胸よ﹂
﹁は?﹂
﹁え?﹂
香と鈴木の声がハモった。
﹁胸があるかないか。そこで、魔力の総量が決まるのよ!﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ほら、太田にはないでしょう? けど、私にはあるじゃない? あ、香は女子だけど魔力は小粒ね﹂
﹁ぶっとばすよ!?﹂
この女。最後の一言が言いたかっただけだな。
﹁ええと、そこの馬鹿は気にしないで、話を進めましょう﹂
﹁馬鹿って言うな馬鹿って!ばーかばーか﹂
聡美の抗議を無視して、香は鈴木に向き直る。
﹁鈴木はなにか作戦があるの?﹂
﹁僕は⋮⋮ええと﹂鈴木が無視されて駄々をこねる聡美をチラり見
る。﹁紅さん。袰月さんは︱︱﹂
﹁いいの、放っておいて﹂
ウワァァァン、と床をごろごろ転がる聡美を、香は生暖かい目で
流し見た。本当に馬鹿じゃないだろうか?と思える行動だが、深刻
な顔つきのときと比べると、いつもの聡美らしい行動だといえる。
逆に、いつも通りの馬鹿っぽい行動を取ることで、聡美は自分の気
持ちに整理をつけているのかもしれない。が⋮⋮問題は、香と聡美
のあいだだけの行動を、鈴木の前で見せていることだろう。
﹁聡美、パンツ見えてるから﹂
﹁ひぃっ﹂
390
目に涙を浮かべて聡美はお尻を押えた。
見えてるのはそっちじゃない。前だ前。
﹁汚いもん見せるな﹂
﹁ぶっとばすよ!?﹂
﹁くっ⋮⋮ぷふ﹂
二人の様子を見ていた鈴木が、笑いをかみ殺す。
﹁なによ?﹂聡美が不機嫌な顔をした。
﹁いえ、すみません。お二人は姉妹ではないのに、良く似ているな
と思いまして﹂
﹁⋮⋮そうね﹂と香は頷いた。﹁聡美が家に来たときから、ずっと
あたしは聡美と一緒みたいなもんだったから﹂
﹁うん﹂
いつもは憎まれ口を叩く聡美が、めずらしく素直に香の言葉に相
づちを打った。
﹁この馬鹿、心配性だから﹂
昔の聡美を見れば誰だって心配する。それを心配性とは呼ばない。
そう香は考える。
紅家に来たときの聡美の状態は、いまとは真逆と言っていい。完
全に塞ぎ込み、食事さえ口にしようとしなかった。体はみるみるや
せ細り極端に免疫が落ちていった。免疫が落ちたことで、皮膚を守
っている細菌が暴れ、酷い皮膚炎を患ったこともあったし、通常二・
三日で治る軽い風邪で、一ヶ月寝込んだこともあった。それでも聡
美は与えられた仕事をこなそうとした。それだけが、自らの悪い記
憶を一瞬でも消し去ってくれると信じているかのように。
そのたびに香は、聡美はこのまま死ぬんじゃないだろうか?と思
った。このまま死のうとしているんじゃないだろうか? とも。
時間はかかったが、聡美は少しずつ紅家での暮らしになれていっ
た。もしかしたら、そのときの事を考えても仕方がないから、すべ
てに対して考えること、悩むことを、辞めたのかもしれない。
いまではすっかり丈夫な体である。
391
馬鹿は風邪をひかないのだ。
﹁僕の案は一つ。紅さんが浄化します﹂
﹁あ、あたしが!?﹂香の声がひっくり返った。﹁でもあたし、魔
法なんて使えないよ?﹂
﹁魔法を使える下地は、もうできあがっています。結界の中に入れ
ていることが、その証拠です﹂
そうなのか? 目だけで聡美に尋ねると、彼女は小さく頷いた。
﹁でも、だからって攻撃魔法が使えるわけじゃないでしょ? 私は
結界は得意だけど、攻撃魔法はまだ使えないし﹂
聡美の口調はやや挑発的だった。自分ができない魔法を、初心者
未満の香ができるわけないだろう、ということだろう。
﹁僕は、できると思います。そのためのサポートもきちんとできそ
うですし。ね? 袰月さん﹂
﹁⋮⋮⋮⋮まあ、そうだけど﹂
聡美は憎々しげに答えた。
﹁どういうこと?﹂
﹁袰月さんは結界の中に、特殊な環境をセッティングできます。た
とえばあの悪魔は先ほどからずっと動きませんよね? あれは、袰
月さんの結界魔法の一つです﹂
なるほど、と香は思った。
﹁この際ですし、袰月さんが悪魔を固めているあいだに魔法の練習
をしてはいかがかと﹂
﹁オーケィ。サンドバックにするってことね?﹂
﹁その通りだけど、あなたその喩えはどうかと思う。女子として﹂
﹁そう?﹂香は首を傾けた。
﹁それに、鈴木くんって勝手よね。この村の人間じゃないんでしょ
う? それなのにいきなり私たちの事情に土足で踏み込んで勝手に
香に魔法を覚えさせようなんて﹂
﹁これからのことを思うと、自分の身は自分で守れるようにしてお
くのが良いかと思いますが﹂
392
﹁ま、そうね﹂
文句を言い足りないのかいかめしい顔をしつつも、渋々という具
合に聡美は了承する。
悪魔から自分の身を守れなければいけない。それはこの結界の中
に入り込めるようになった時点で、最重要課題となっている。それ
は聡美もきっと、判っているはずだ。
﹁袰月さんは、おおよそ何分くらい結界を維持できますか?﹂
﹁うーん。三日くらいかな?﹂
﹁み︱︱!?﹂
このとき初めて香は、鈴木の驚愕した表情を見た。目を大きく見
開き、徐々に白い頬へと朱が差していく。
﹁それは⋮⋮なんというか、すばらしいですね﹂
﹁でしょう?﹂自信満々に聡美は鼻を鳴らす。
﹁まさか、紅さん以外にそのような人材がいらっしゃるとは⋮⋮。
予想外でした﹂
予想外? 香と聡美は目を見合わせる。
﹁とりあえず、香があいつを倒せるようになるまで悪魔を固定して
おけばいいのね?﹂
﹁はい。よろしくお願いします﹂
﹁んじゃ、時間だけは止めとくね﹂
﹁はい⋮⋮⋮⋮はい?﹂再び、鈴木が目を丸くする。﹁⋮⋮四次元
切断ができるんですか?﹂
﹁は? 言ってる意味わからないんだけど。香が何時間で魔法を使
えるようになるかわからないから、時間止めておくに越したことな
いでしょ?﹂
﹁え、ええ。はい。そうですね。宜しくお願いいたします﹂
んじゃ、と香は前に出た。全身にくまなく力を込める。相手がい
つどのようなタイミングで襲ってきても逃れられるように⋮⋮。
﹁で、どうやって殴ればいいの?﹂
﹁殴るな。魔法を使え﹂
393
﹁へ?﹂
聡美の叱責に、香は目を丸くした。
﹁悪魔を倒すんでしょ? なら悪魔を攻撃すればいいじゃない﹂
﹁あなたってほんと馬鹿ね。魔力を纏わずに悪魔を攻撃したら、手
がもげるわよ﹂
﹁もげるって⋮⋮﹂
嘘ばっかり、と否定しようとしてすぐに思い直す。あの骸骨と戦
ったとき、香は腕を切断されている。あれは単純に、鉈で腕を切ら
れただけだった。だが、悪魔相手の攻撃をしてああならないとはか
ぎらない。香は記憶に残る腕の激痛を思い出し、顔をしかめた。
﹁じゃあどうすればいいのよ﹂
﹁壁に向かって魔法を出す練習をしなさい。まずはそこからよ﹂
﹁ふぅん? なんで壁?﹂
﹁結界の中は建物全体が魔法になってるの。魔法で攻撃をすると簡
単に壊れる。逆に魔法を使わずに攻撃しても、壊せない。簡単でし
ょう?﹂
簡単だといいつつ、聡美はかなり挑戦的な目をしている。きっと、
難しいことなんだろう。
香は試しに窓ガラスをノックした。窓ガラスは普段と同じように、
ゴン、と鈍い音を立てて震えた。固いものは無理だけど、これくら
いならいけるかもしれない。そう思い、香は窓ガラスめがけて拳を
思い切り振りかぶる。
﹁︱︱ちょっと待った!﹂
聡美の大声が耳に入り、香は慌てて勢いを止める。けれど体はす
でに動いてしまっている。
勢いを止められない香はバランスを崩し、それでも拳を振り抜い
た。
体勢が乱れたため、拳は窓ガラスではなく、横の柱に激突した。
﹁ったく、あんたね。すぐに魔力を扱えるとは思ってないけど、も
しそれでうまくいってガラスが割れたらどうするのよ? 手がズタ
394
ズタになるじゃない!﹂
﹁あ、それは現実と同じなのね﹂
失敗失敗、と香は照れ隠しするように後頭部に手を当てる。
︱︱そのとき。
タマゴの殻を潰すような、乾いた音が聞こえた。
瞬間、香の横にある壁が、五メートルほどほ範囲にわたり欠落し
た。
それは、完璧な粉砕だった。
廊下の壁がまるごと、ごっそり、跡形もなく消え去った。
﹁壁が壊れた!?﹂
﹁うっそぉ⋮⋮﹂
聡美は引きつった笑いを浮かべる。
﹁いまのが、攻撃魔法? いや︱︱﹂
﹁袰月さん﹂鈴木が彩芽に呼びかける。
﹁攻撃魔法には、なってなかったかな? でも、もう少しってとこ
ろかしら。いやでも、香。あんたなによ。ほんと信じらんない﹂
﹁あの、袰月さん?﹂
﹁なによ煩いわね!﹂
﹁悪魔、動いてますよ﹂
言われて聡美はようやっと悪魔に向き直る。
悪魔は聡美の魔法による固定を離脱して、聡美の目と鼻の先まで
到達していた。
﹁んぎゃぁぁぁぁ!﹂
聡美は汚い悲鳴を上げて尻餅をついた。
﹁馬鹿、聡美! もう一度悪魔を固定しなさいよ!﹂
﹁あ、うん。そうだね﹂
再度、聡美の体から魔力が展開し、悪魔を包み込む。
おそらく、壁を破壊したことで、魔力を感知するためのなにかが
目覚めたのだろう。そのときはじめて香は聡美の、鈍色がかった桃
色の魔力を目で捕らえることができた。直接目で捕らえ続けるには
395
辛いほど、聡美から放出された魔力がうねる。
だが︱︱間に合わない。
発動するタイミングが、完全に遅れてしまっている。
香はそう、聡美の魔力から僅か先の未来を察知する。
﹁聡美!﹂
聡美は腰を落しているから、悪魔の接近を回避できない。
香は反射的に悪魔と聡美のあいだに割って入った。
﹁ちょ︱︱かお︱︱﹂
聡美の声が、途中で途切れた。
腕をクロスして目蓋を閉じ、衝撃に備える。
いったい、悪魔の攻撃でどれほどの衝撃を受けるだろうか。香に
はまるで予測がつかない。それこそ、骸骨の攻撃みたいに体がすっ
ぱり切られてしまうかもしれない。
無事でいられるだろうか? それを考えると、体がみるみる強ば
っていく。
まさか、いきなり粉々にされるとかはないよね?
あーあ。あたしの人生、ここで終わりかぁ。
⋮⋮にしても、攻撃遅いなぁ。
まさか、あれだけ接近してるのに攻撃してこないとかはないよね?
恐る恐る、香は目蓋を開く。
香と僅か三十センチしか離れていない場所に、悪魔の光が停滞し
ていた。光は、まだ自由なのだろう。僅かに揺らめいている。けれ
ど、こちらを攻撃してくる様子はない。
⋮⋮攻撃、しないのかな?
﹁香。私、帰るね﹂
﹁はぁ!?﹂
突拍子もない聡美の言葉に、香は思わず振り向いてしまった。
そこには、先ほどまで悪魔の攻撃に怯えていた聡美の姿はなかっ
た。どういうわけか聡美は、白い目で香を見つめている。
﹁⋮⋮⋮⋮なによ?﹂
396
﹁いえ、なんでも。私、部活があるんだから、ちゃっちゃと殺っち
ゃってよ﹂
﹁どうやってよ? っていうか、なんでそんな呆れてるのよ?﹂
聡美の態度の意味がわからず、香は鈴木に視線を投げる。
﹁紅さん。体はなんともありませんか?﹂
﹁え? うん。痛くも痒くも。なんで? 悪魔は攻撃してないんで
しょ?﹂
﹁しましたよ﹂
﹁は?いつ!?﹂
﹁⋮⋮気付かれなかったんですか?﹂
﹁え?え?どういうこと?﹂
﹁これはまた、予想以上の⋮⋮﹂
予想以上の、なんだっていうんだ? その続きを待つが、鈴木は
なにも口にしない。鈴木に聞けば状況を説明してもらえると思った
が、疑問はますます深まっていく。
﹁鈴木くん。あなたきちんと責任とりなさいよ? こんな化け物を
目覚めさせちゃったんだから﹂聡美が鈴木の脇腹を肘で突く。﹁そ
れにしても、鈴木くんって何者なのよ? みたところ小学生にしか
見えないけど。まさか、人間みたいな悪魔なんじゃないでしょうね
?﹂
聡美に小突かれた鈴木が苦笑を浮かべた。一人だけのけ者にされ
た香が不服そうに口を開いた。
﹁ちょっと。ちゃんと説明してよ﹂
﹁その悪魔。⋮⋮ええと、テンソウメツだっけ? それはもう半分
死んだわ﹂
﹁⋮⋮は?﹂
聡美の言葉に香は目を丸くする。
﹁詳しく説明しますと﹂鈴木が口を開いた。﹁先ほど、袰月さんに
接近したテンソウメツとのあいだに、紅さんが割ってはいりました
よね。そのとき、紅さんは身を守るために魔力を展開しました。通
397
常、緊急時の肉体反射で展開される体内魔力は自らの肉体防護にま
わります。しかし、紅さんの場合は違っていて、相手の攻撃を魔力
で受け止めて、さらにそれを力で押し返して噴射さたんです﹂
﹁ええと⋮⋮?﹂
鈴木の言葉がまったくわからない。香はぱちりと目蓋を開閉する。
﹁防御すると思いきや、相手のパンチに合わせてカウンターしたっ
てこと。それでわかるでしょ?﹂
﹁なるほど!﹂
聡美の喩えで、香はやっと理解できた。
﹁でも、あたしそんなことしようと思ってないけど?﹂
﹁普通はやろうと思ってもできません﹂
﹁っていうかやらないから。危ないし、そんな器用な真似できない
でしょ普通﹂
﹁そうですね﹂
聡美と鈴木のあいだでなにかしら一致する意見があるのだろう。
意気投合しているように見える。それが少しだけ気にくわない。お
そらくそれは単に、香が二人の話の輪に入れないからだ。
﹁もっとわかりやすく説明してよ。防御した瞬間、目瞑っちゃって
見てなかったんだから!﹂
﹁それは後。さっさとそこの死にかけの悪魔を倒してちょうだい﹂
﹁むぅ﹂
頬を膨らませて抗議する。しかし聡美の言うことはもっともだ。
香は全身にくまなく力を込めて⋮⋮。
﹁⋮⋮倒すって、どうやるのさ?﹂
﹁適当にやれば?﹂
﹁お好きなように﹂
聡美と鈴木の声がダブった。
その二人の様子に、香の血液が徐々に温まる。
なーんか。二人仲良くなっちゃってさ。あたしだけ仲間はずれみ
たいでさ。あたしは、魔法初心者だからしかたないのかもしれない
398
けどさ。
一言で表すならば﹃怒り﹄の感情なのだが、言葉になるほど強烈
でもない。微妙な感情にストレスが溜まる。
⋮⋮ふむ。丁度良い。
香はテンソウメツに向き直る。
この鬱憤は、こいつで晴らすことにしよう。
﹁好きにするっていっても、ただ殴るだけじゃダメなんでしょう?﹂
﹁はい。魔法でなければ攻撃は当たりません﹂
﹁じゃあどうすんのよ?﹂
﹁なんでもいいです。頭の中で魔法をイメージしてください。それ
をこの世界で実現させようとする力が、魔法に変ります﹂
﹁イメージね。おーけぃ﹂
香は軽く頷いた。
﹁︱︱あ、悪魔の咆哮には気をつけてくださいね。一応、中級悪魔
なので、ガシャドクロよりも強い咆哮になると思います﹂
鈴木の言葉を聞き流し、香は拳を腰だめに構える。
魔法をイメージするけれど、曖昧なまま形にならない。
だったら、一番思い浮かべやすい形で。
魔力は、筋肉から出るものではない。その骨は、先ほど掴んだ。
香は筋肉に力を加えずに、内なる感覚に力を加える。
皮膚の表面を暖かいなにかが流れる。
その感覚はみるみる強くなり、次第に皮膚がぴりぴりと痛み始め
る。
それを、香はすべて拳に集約する。
香ができること。
香が、一番得意なことは、天然理心流。
その、拳撃だ。
香は目を開き、
﹁ぶっとべぇぇぇ!﹂
青い光に向けて、拳を打ち抜いた。
399
ピンク色の光りに包まれた拳が、
テンソウメツに到達する。
瞬間。
蒸発。
振り抜いた拳の先端から放出されたピンク色の魔力が、
目の前の校舎すべてを、
破壊した。
まがいろ
刹那。
凶色の波動が広がり、校舎すべてを吹き飛ばした。
400
二章 魔法少女、笑動︵しどう︶。5
﹁生きてる?﹂
頭から突き刺さり、下半身だけ露出した聡美に香は尋ねる。
﹁⋮⋮⋮⋮死んだかも﹂
下半身が短く答えた。下半身の大切な部分を覆う黒いショーツが
日光に惜しげもなく照らされている。こうなると、色気もなにもな
い。折角の可愛らしいショーツが台無しである。
先ほどまで校舎が建っていた場所に、いまは瓦礫しか残っていな
い。香の位置からもとテンソウメツのいた方向の先。山の向こう。
視界の消失点まで、なにかが駆け抜けて大地を抉り削った痕が残っ
ている。まるで山よりも大きなドラゴンがその爪を振りかざしたよ
うな痕だった。
聡美は、簡単に発見することができた。それは聡美が崩落する校
舎の中、一人だけ防護魔法のようなものを発動し、その地点から動
かずに埋もれていったからである。︵一人だけ助かろうという根性
は許せないが、酷い体勢で埋もれていたから不問としよう︶
香は聡美を引き抜いて、鈴木の姿を探す。
辺りを見まわすが、鈴木らしい少年の姿は見当たらない。
まさか、あの崩落に巻き込まれてしまったんじゃないだろうか?
香が不安に思っていると、鈴木は瓦礫をよじ登って現れた。
﹁すみません。現場がめちゃくちゃなので。転移魔法が使えません
でした﹂
﹁ふぅん。そう。あんたも一人で逃げた口なのね﹂
じとりと香は鈴木を睨んだ。
﹁ぼ、僕はあの咆哮には耐えられないので﹂
﹁ま、そうね﹂
ガシャドクロを倒し、咆哮に耐えるだけで精一杯だった鈴木に、
あの場に残れというのは酷だろう。香を見捨てたとしても、聡美の
401
それとは意味合いがまるで違う。
﹁それにしても、悪魔の咆哮?って中級になるとずいぶん強くなる
のね。まさか学校が崩れるとは思わなかった﹂
﹁それ、あんたのせいだから⋮⋮﹂
聡美が横目で香を睨んだ。
﹁あたしの?﹂
﹁そ。いくら相手が中級悪魔だっていっても、少しは手加減しなさ
いよ。おかげで死にそうになったじゃない﹂
本当に自分のせいなのか? たった一発の拳で、学校が破壊し尽
くされてしまったのか? にわかには信じられない。
﹁まったく。おかげで修復に手間取っちゃうじゃない。中級悪魔の
魔力の残滓も少ないし。あーあ。これから部活だっていうのに。修
復終わったらもうくたくたになりそ﹂
ぶつぶつと文句を呟きながら、聡美は両手を前に翳す。
手の平から、鈍桃色の聡美の魔力が空間全体に薄く引き延ばされ
ていく。それらは一度離散して、再び聡美の手の平に集束する。戻
って来た魔力は先ほどよりも密度が濃い。それは再び聡美の手の平
から、今度は学校に向けて放たれる。
学校は、足下から空に向かって、鈍桃色に光りながらみるみる修
復されていく。
﹁⋮⋮これって、結界の中の学校が壊れたってことだよね?﹂
﹁そう。現実の学校はそのままよ﹂聡美は香を見ずに応える。
﹁じゃあ、もしこの状態で結界を解いたら? 学校壊れるの?﹂
﹁それは⋮⋮⋮⋮どうなんだろ?﹂
聡美は修復されつつある学校に目を向けながら首を捻った。
﹁学校は壊れませんよ﹂聡美の代わりに鈴木が口を開いた。﹁結界
内の風景は、現界の風景を魔力で転写しているものです。破壊され
た状態で結界を解いたからといって、それが直接現界に影響を及ぼ
すことはありません。ですが、結界内が破壊された分だけ、現実世
界に違う形で影響が現れます。そうですね⋮⋮、もし学校が破壊さ
402
れたまま結界を解いたら、学校の実験室あたりで爆発事故が起るか
もしれません﹂
﹁なるほどね﹂
実験室で爆発と言われると、非常に生々しい。たしかに、あり得
ないことではない。良い喩えだと香は思った。
﹁広範囲が破壊された状態で結界が解かれると、地震が引き起こさ
れる可能性もあります。結界は、展開時よりも事後処理のほうが重
要なんです﹂
﹁ふぅん﹂
香は鼻を鳴らした。じゃあ、いままで起きた地震のうち、どれく
らいが、悪魔との戦いによるものなんだろう? 香の脳裏を疑問が
横切った。けれどそれを口にはしない。知ったところで、香にとっ
て意味の無い情報だから。
聡美が校舎の修復を完了するまでに、さして時間はかからなかっ
た。
聡美が校舎全体を眺めてから、結界を解く。いままで静寂に飲み
込まれていた香を、一気に現界の音が包みこんだ。
風が揺らす木々の葉の音。校舎から聞こえてくる管楽器の長音。
グラウンドで弾ける雷管の音。人々の声、声、声。すべての音が渾
然一体となり、噪音として香の耳に滑り込む。
思わず香は顔をしかめる。
﹁それじゃ、私は部活に行ってくるから﹂
﹁うん? うん。わかった。んじゃ、あたし帰るね﹂
﹁寄り道しないで、まっすぐ帰りなさいよ。車には気をつけてね﹂
﹁子どもじゃないんだから﹂
﹁子どもでしょ﹂
﹁うるさい﹂
丁々発止。互いに睨みを利かせ、視線を切る。その様子を見て、
鈴木がくぐもって笑った。
﹁本当に、仲が良いんですね﹂
403
﹁そうでもない﹂
仲が良いと思ってはいるが、それを公然と認めることはできない。
それは単純に、恥ずかしいから。ただそれだけだ。
香は鈴木の言葉から逃げるように校舎を後にする。彩芽と仲が良
いと言われると、純粋に嬉しい。しかし、聡美と仲が良いと言われ
ると恥ずかくなる。それは、どうしてだろう? それを、認めたく
ないからか。それとも、事実だからか。考えたこともなかった。
校舎から出て畑を進み、家がある山の麓が見えてきたとき、香は
ふと気付いた。
そうか。
それを簡単に認められないのは、
聡美が、紅じゃないからだ⋮⋮。
気付いてしまうと、途端に香の足が重くなった。少しは前に進も
うとするけれど、結局はぴたりと足が止ってしまう。所々ヒビが入
って、そこから緑色の草が伸びているアスファルト。そこに足の裏
が、密着してしまった気分だった。
﹁あら、香ちゃん?﹂
横方向から声が聞こえて、香は顔を上げた。
道路の反対車線に、椎名が居た。
椎名は学校帰りなのだろうか。茶色いショルダーポーチを手に下
げている。ぼぅっとして椎名を見ていると、彼女は左右を二度確認
してから、道路を横断した。
﹁こんにちは。これから家に帰るところ?﹂
﹁はい﹂香は頷いた。﹁先生。横断歩道のない場所で道路を渡るの
は良くないと思います﹂
﹁あぁ、そうねぇ。失敗失敗﹂
悪びれたふうもなく、椎名は舌をちょこんと出した。
ふと、それまで柔らかい笑みを浮かべていた椎名の表情が曇った。
﹁⋮⋮先生?﹂
不安になって、香は椎名に呼びかける。
404
﹁香ちゃん。またなにかしたでしょう?﹂
椎名が顔を寄せる。ふわり、女性らしいやわらかい香りが漂って
くる。それは聡美のものとは違う、化粧品の香り。ほんのり香る程
度のそれは、香水みたいだ。
これが大人の化粧なんだなぁ。
﹁なにかって?﹂
﹁さぁー。なんでしょう?﹂椎名は困ったように苦笑する。﹁そこ
までは、先生にもわからないなぁ。けどね、香ちゃん﹂
椎名は香の手を取って、両手で握った。突然の行動に、香は手を
引っ込めることもできなかった。
﹁体が、傷付いていたら、わかるんだよ? 私は、保健の先生だか
ら﹂
椎名の手の平からなにかが流れ込む。それは前回にはまるで感じ
られなかった感覚。魔力を操れるようになった今だからこそ気づけ
る、椎名の魔力だった。
﹁⋮⋮先生﹂
先生は、魔法使いだったのか。
驚いた、と香は思った。けれどその実、そこまで驚いていない自
分がいる。きっと、あんなふうに腕をくっつけられたから、無意識
のうちに椎名が魔法を使ったんだろうって、予測できていたんだろ
う。
﹁なぁに?﹂
椎名は香の考えに気付いた素振りもなく笑った。それが香にはた
だの笑いじゃなくて、香の手を握っていることを喜んでいるような
表情だと思えた。理由はない。もしかしたら、勘違いかもしれない。
雛を返すかのように手を温める椎名に香はしびれを切らせた。
﹁⋮⋮あの、先生。帰っていいですか?﹂
﹁ああ。そうね。そうよねぇ。私も、家に帰る途中だったわ﹂
うふふ、と口に手を当てて上品に微笑んだ。この人は、本当につ
かみ所がない。
405
﹁じゃあ、香ちゃん。また明日ね﹂
手を軽く振って、椎名は香が進む方向とは逆に歩き出した。
香も手を振り、自宅方向に向かって歩き出した。
⋮⋮⋮⋮ん?
椎名は一体、どこに行ってたんだ?
小学校は中学校の近くにある。なのに、どうして山の方向から歩
いて来ていたんだろう?
気になって、後ろを振り返る。
しかし、後方にはもう椎名の姿はなかった。
どこまでの一本で、どこまでもまっすぐな道。姿を隠せる物陰も
なければ、立ち寄れるお店もない。唯一あるのは錆びたバス停の看
板だけ。
先生は、どこにいったんだろう?
遠くから自動車の音が聞こえた。
それは瞬く間にこちらに近づいて来る。
香は音のする方向を反射的に振り返る。
ガラスも車体も、すべてが黒塗りのクラウンが、紅家の方向から
猛スピードでこちらに近づいて来る。
その黒塗りのクラウンが、香に接近するに従って速度を落し、香
の隣で完全に停車した。
﹁お嬢﹂
曇りガラスが開き、中から太田の顔が洗われた。太田は黒いスー
ツに身を包み、黒のサングラスをしている。あまり日光はきつくな
い。サングラスの必要性はないのだが、それに突っ込むことはない。
香はそれが太田の作業用具であることを知っているから。
﹁太田。これからどこかに行くんですか?﹂
﹁はい。ちょいと野暮用が⋮⋮。お嬢? どこかで遊ばれていたん
ですか﹂
﹁え?﹂
﹁いえ。学校はかなり前に終わっていますし、ランドセルを背負っ
406
ていないので﹂
﹁ああ。はい。聡美が忘れものをしたので。部活道具を届けにいっ
てました﹂
﹁そうですか。ああ、その⋮⋮﹂
太田は言いにくそうに口をもごもごと動かす。
﹁なにか、変な事はありませんでしたか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮いいえ、なにも﹂
﹁そうですか﹂
表情をうまく、隠せただろうか? 香は心臓の高鳴りを抑えて、
平静を保つ。
中学校での出来事を、太田には話してはいけない。香はそう、直
感していた。
﹁それと、お嬢。この近くで、ご学友に会われておりましたか?﹂
﹁ええと﹂達也のことか?﹁いいえ。誰にも﹂
﹁⋮⋮そうですか﹂
太田は香の前身を眺め、なにかに気付いたみたいに前方を見た。
そこで太田は軽く息を呑み、そして頭を僅かに下げた。
いったい、誰に? 香もその方向を見るけれど、そこには誰もい
ない。太田が頭を下げたのは、気のせいだろうか。
﹁それじゃ、自分はこれにて﹂
﹁はい。お気を付けて﹂
曇りガラスが締まり、クラウンが急速に発進した。クラウンの後
方の車体がやけに低く沈んでいる。後ろが沈むほど人間が乗ってい
るわけではなかった。さて、なにを詰んでいるのか。物騒なもので
あることに間違いはないだろう。
翌日。太田が遺体で発見された。
407
第三章 魔法少女は、夢を生む。
香は父慧と、若い衆とともに達也の家を訪れた。
家は酷くみすぼらしいものだった。道場がついた平屋の家屋。冬
期の積雪の痛みで木の柱や壁が所々ヒビ入っている。それに、木が
生きていない。手入れを怠り木が死ぬと湿ったような鈍い色に変色
する。腐食して脆くなり、折れてしまう。この家の木は、香の家と
は大違いだ。
死んだ木に囲われた家の中、畳みまでも生気が乏しいように感じ
られる。
八畳の、石炭ストーブのある居間に通された香は、父の隣に腰を
下ろした。父の後ろには若い衆の一人︱︱今井が背筋を伸ばして立
っている。今井は太田の弟だった。とはいえ実際の兄弟ではない。
一緒に酒を飲むと、兄弟になる。そんなシステムが紅家にはあるら
しい。具体的にどのようなものなのか、香は知らない。けれど今井
は太田のことを本当の兄のように慕っていた。
居間の扉が開かれて、そこから老年のお琴が現れた。ソフトオー
ルバックの白い髪の毛。藍染めの着物に黒い長羽織を身につけたそ
の男のことを、香はよく知っている。この道場の師範で、香の師匠
で、達也の祖父︱︱山南鉄山だ。
﹁これはこれは、紅さん。今日はなに用でしょうか?﹂
足を折って畳みに座る。その僅かな仕草にも、まるで隙が見当た
らない。背筋をしゃんと伸ばして、鉄山は香の父を見据える。
香は鉄山の年齢を知らない。見た目は六〇を超えていそうだが、
立ち振る舞いは決して六〇のそれではない。きっと、香と父と若い
衆が一斉にかかっても、手傷一つ負わせられないだろう。
何故父らと一緒にここに来たのか。香はよく覚えていない。会話
の流れで、いつの間にかそうなっていた。
会話の流れ。それは︱︱、
408
﹁単刀直入に言おう﹂父が口を開いた。﹁あんたんとこのガキがう
ちの太田を殺したのか?﹂
太田の葬儀の日。香が聡美との会話の中で、﹃達也が刀を持って
山の中に入っていった﹄と口にしたことがきっかけだった。もちろ
ん香は、いくら刀を持っているとはいえ達也が太田を殺せるとは思
ってもいない。しかし、紅家の若い衆たちはそうではなかった。達
也が刀を持っていた。たったそれだけの情報で︱︱兄貴が達也に殺
されたんじゃないか?︱︱血が上った若い衆たちは、山南家にカチ
込みに行こうとした。ゴムが弾けるように、一気に若い衆が倉庫に
群がり、大小様々な火器を手にして家を飛び出そうとした。
そこを止めたのが香であり、香の父だった。
っまり。余計なことを口にした責任はとれってことね。香は内心
でそう納得する。
﹁達也が太田さんを殺せるとは思いませんが?﹂
﹁うちの若い衆は違ってな。達也が殺したんだと喚いて聞かない。
さて鉄山。どうする?﹂
三秒。鉄山は目を瞑り、息を止めた。再び目を開いたとき、鉄山
は諦めのようなものをジジませて言った。
﹁太田さんはどちらで見つかったのですか?﹂
﹁山を流れる小川の近くだ﹂
﹁それを見つけられた方は?﹂
﹁俺だ﹂
﹁太田さんを発見されるまでの時間が、少々早すぎるように感じら
れますが﹂
﹁なにが言いたい?﹂
﹁山の小川は、山のかなり奥深くに存在しています。太田さんの捜
索がどの段階で始まったのかは知りませんが、山の中となると一日
で発見できるような場所ではありません。太田さんが倒れた場所を
知らない限りは﹂
﹁ほう。ではお前はなにか? 俺が殺したと言いたいのか?﹂
409
﹁そのようなことは申しておりません。ただ、いささか発見が早す
ぎると、申しているのです﹂
﹁いいか鉄山。俺は達也が犯人かと聞いているんだ。お前はそれだ
けに答えればいい﹂
﹁⋮⋮わかりました。刀を見ましょう﹂
鉄山はふすまを開けて部屋を出て行った。彼の退出に遅れること
一秒。後ろに控えた今井が息を吸い込む。口を開いて声を発するそ
の前に、父が彼を手で征した。
﹁待て﹂
﹁しかしおやっさん!﹂
﹁いい。今井は黙ってろ﹂
今井は父に睨まれて萎縮し、二歩後ろに下がった。
香は︱︱おそらく父もそうだろう︱︱鉄山が立ち上がったことを
まるで認識できなかった。目の前にいた鉄山が、気づいた時にはも
うふすままで移動していた。思い返すと、たしかに香は彼が立ち上
がるところを見てはいた。だが、それを情報として認識できなかっ
た。鉄山は特別速く動いたわけではない。彼が動いたことを意識で
きないほど、彼の動きは余に自然で、会話をしているときの瞬きの
ように、見えていても意識しない動きだったのだ。こちらの隙につ
け込まれたのだろう。
迂闊に手を出せば殺られる。それが如実に理解できたからこそ、
父は今井を止めたのだ。
ちよつけい
しかしそれを今井が理解できたかどうか。本来ならば今井はこの
席に同行できるような立場にない。殺されたのが直兄の大山でなけ
れば、今井はここにはいない。今井はただの下っ端だ。いままで太
田の指示を受け、それに疑問を持たず、太田が口にしたことだけを
こなしてきた、︵父から言わせると︶退屈な男だ。己だけで正しい
判断ができるとは思えない。つまりこの状況で最も怖れるべきこと
は、今井の暴走といえる。勝手なことをしてめちゃくちゃにならな
ければいいが⋮⋮。香は今井の行動に目を光らせる。
410
鉄山は一分もせずに戻ってきた。再び部屋に入った彼の手には、
漆塗りの鞘に収められた刀が携えられていた。それは以前に達也が
手にしていたものと同じだと、香はすぐに判断できた。
父が香の目を見た。達也が持っていたものか?と聞きたいのだろ
う。香は無言で頷いた。
﹁もしこの刀が人間を切っていたならば、必ず人間の脂肪の痕跡が
残っております。⋮⋮抜いてもよろしいかな?﹂
﹁こちらに渡せ﹂
父が鋭く言い放つ。鉄山は父の物言いに臆した様子もなく、テー
ブルの上に刀を置いた。父はそれを手に取り、刀を抜いた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
刀を抜いた途端に、父が深い沈黙に飲み込まれた。
刀は綺麗な白銀で、汚れが一切ない。しかしその刃は激しく刃こ
ぼれしている。おまけに切っ先がない。刀が途中で折れている。残
った刃部分は五十センチほどしかない。これでは力任せに人の肉を
叩きつぶすことはできても、切り裂くことは不可能だ。
父は幾度か刀を見る角度を変えた。香が見る限り、刀の何処にも
不審な痕は残っていない。しかし、異様は雰囲気をその刀から感じ
る。手に取りたいが、決して触りたくないと思わせる、そんな刀だ。
﹁なるほど﹂刀を仕舞い、父は言った。﹁太田を切ったのは、この
刀ではないな﹂
﹁わかっていただけましたか﹂
﹁だが、他の刀ならどうだ?﹂
﹁うちには、それ以外の刀はありません﹂
﹁嘘を言うな﹂
﹁嘘ではございません。これは代々受け継いできた刀ですから。例
外的に所持しているのです﹂鉄山は柔和な笑みを浮かべ、手の平を
見せる。﹁疑うのであれば、家の中を満足行くまで探しても結構で
す﹂
﹁ガサ入れはしない。もしお前のところのガキが犯人なら、太田を
411
殺すのに使ったポン刀くらい、既に捨ててるだろうしな﹂
﹁それはそれは﹂鉄山は目を細める。﹁しかし、何故太田様は日本
刀で斬り殺されたとおっしゃっているのですか? 絶命に至った傷
は、本当に日本刀によるものだったのでしょうか?﹂
﹁てめぇ言い逃れするつもりか!﹂
﹁今井。黙ってろ﹂
日本刀に手をかけた今井を、父が目で制した。
﹁傷は腹を横に二十センチ。かなり深い斬り傷だった。包丁じゃこ
うはいかないだろう。鉈でも無理だな。ああ綺麗には斬れない。と
なると、ポン刀しかねぇ。そうだろう?﹂
父が静かに凄んだ。香ならばあっさり萎縮してしまうその雰囲気
を、鉄山はさらりと躱した。
﹁太田様が見つかったのは︱︱﹂
﹁山ん中の小川だ﹂
﹁そう。小川の、どのあたりでしたか?﹂
﹁⋮⋮﹂
さん
鉄山の質問で、父の扁桃が僅かに遅れた。
﹁キズミ山の頂上付近﹂
﹁なるほど。紅さんはお気づきになられたということですね?﹂
気付く? いったいなにに? 香は鉄山を見て、父を見た。父は
口を堅く閉ざしたまま、鉄山を睨んでいる。頬の筋肉が隆起してい
ることから、奥歯を強くかみしめていることが判る。
﹁うちの達也は、犯人ではありません﹂
﹁直接は、そうかもしれないな﹂
﹁おやっさん!﹂
相手の言い分を認めるような父の発言に、今井が顔色を変えた。
﹁こんな奴の言うことを信じるんですか!? これじゃあ、兄貴が
うかばれねぇ⋮⋮﹂
﹁てめぇに太田の何がわかるってんだ! 黙ってろ!﹂
父は片膝を立てて怒鳴った。頭に血が上った、力任せの怒鳴り声
412
だった。けれどその中に、僅かな憐憫が含まれているように感じら
れる。
﹁わりぃな、鉄山。これでも俺は紅一族の当主だ。落とし前を付け
ないわけにはいかねぇ﹂
顔を一度伏せて、再び上げる。そのときには既にそぼ濡れたよう
な雰囲気はかき消え、凜とした紅家当主としての顔となっていた。
﹁てめぇのところのガキがなにをしたのかは知らねぇ。が、てめぇ
のとこのガキがポン刀を持ってキズミ山に入ったのを見られてる。
その後、刀傷のある太田の死体がキズミ山から出て来た。俺んとこ
はな、てめぇんとこのガキが落とし前つけねぇと、収まんねぇんだ
よ。理由は⋮⋮わかるだろ?﹂
もしかしたら、達也は犯人じゃないかもしれない。それがわかっ
ているのに、達也に死ねと言っているのか?
体の芯が熱くなるのを感じる。香は無意識のうちに、僅かに腰を
浮かせた。その香の肩に、父の手が乗った。
﹁座ってろ﹂
﹁香ちゃん。大丈夫だから﹂
父と師匠の言葉で、頭の中が一気に冷却された。それなのに体の
芯は依然として熱い。どうしていいのか、どうすれば楽になれるの
か、わからない。
様々な言葉が頭の中を去来し、それらが表へ出ずに消えていく。
永遠のように感じられる三秒の後、香は腰を下ろした。
﹁紅さんがおっしゃるとおり、達也がキズミ山に入ったことに問題
があります。しかし達也はキズミ山のことを知らない。それを知ら
ないのは、私の責任です。どうか、私に免じて達也を見逃してはい
ただけないでしょうか?﹂
﹁覚悟は出来てるんだな?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
たった一呼吸。
たった一言。
413
唇の開閉一つ。
なのに、過去と未来を予感させるその言葉に、香は全身の鳥肌を
立てた。
これが、覚悟。
抜き身の刀を首筋に当て横に引くような、緊張感。
鉄山は刀を腰に差し、左手を鞘に当てた。
﹁それでいいのか?﹂父が訊く。
﹁無論﹂
鉄山が僅かに動いた。
その次の瞬間にはもう、刃のかけた切っ先が、目の前に掲げられ
ていた。
香は、鉄山が刀を抜いたことさえ気づけなかった。
先ほど立ち上がったときとは違う。完全なる刹那の技。
かこん、と乾いた音を響かせて、テーブルの上に置かれた茶飲み
せきしんおきみつ
が二つに割れて転がった。
﹁赤心沖光。刀身折れても未だ心は折れず。貴殿らが血に濡れるこ
と、ご容赦願う﹂
香の師匠︱︱山南鉄山は、刃こぼれした刀をのど元にあてがう。
目蓋を閉じ、唇をかみしめて、
刀を素早く滑らせた。
414
第三章 魔法少女は、夢を生む。2
キズミ山のこととは、なんだろう? 自室に籠もった香は、脳裏
に焼き付いた鉄山の最後を忘れようとひたすら考える。
キズミ山の噂は、この村に生まれてから一つも聞いたことがない。
希に達也を追いかけるときに入ることはあったけれど、奥深くまで
入ったことは一度もない。そもそも、奥深くまで入れば無事に帰れ
ない︱︱そう予感させる山なのだ。木々が密集し辺りが見通せない。
まっすぐ歩いているつもりなのに、いつの間にか進んできた道が婉
曲している。山を下りているのか、上っているのかさえわからなく
なる。
香が訊いた話しでは山で遭難し、死亡した事件は過去にあるらし
い。ただ、それは村の外からの人間だけだ。村の人間は、キズミ山
の恐ろしさを知っている。だから、誰一人として山の奥へ踏み入ら
ない。
キズミ山のこととはつまり、山の奥に秘密があるということか。
とすると、問題は達也のことだ。
達也にも責任があると鉄山は言っていた。香には正直、達也にそ
こまでの責任はないように思える。むしろ、達也が山に入ったこと
を口にして騒ぎを大きくした香のほうが、達也よりも何倍も責任が
あると思える。香が達也のことを口にしなければ鉄山が、自刃する
必要はなくなったのだ。
やはり、口にしなければよかった。
机に頬杖を突いて、香はため息を吐き出した。息を吐き出すと、
心の枷が外れてしまったみたいに、目頭が熱くなった。
﹁今日は元気がありませんね﹂
背後から聞こえた声に、香は思わず悲鳴を上げそうになった。
喉がひっくり返って口から飛び出そうになるのをぐっと堪え、香
は後ろを振り返る。
415
いつの間に入ったのか、香の部屋に鈴木の姿があった。
﹁なんであんたがいるのよ﹂
﹁すみません。ノックをしたんですけれど、なかなか返事がないも
のですから﹂
﹁そういうことじゃなくて⋮⋮はぁ、まあいいわ﹂
文句を言うのも疲れる。香は鈴木から視線を外し、浮いた腰を椅
子に下ろした。
﹁どうされたんですか?﹂
鈴木が香の瞳を直視する。
﹁べ、別になんでもない﹂
香は慌てて目を拭った。
﹁山南くんが山に入られたことを考えていらっしゃるんですか? それとも、鉄山さんのことでしょうか﹂
﹁なんで︱︱﹂
なんでそれを知っているんだ? そう言おうとし、吸い込んだ息
でむせかえる。席が落ち着き、香はふぅ、と息を吐き出す。
﹁あんた。本当に何者なの? あたしより年下に見えるけど﹂
﹁一応、九歳です﹂
﹁嘘でしょ、それ﹂
自分が九歳のときは、もっと馬鹿っぽかった。実際馬鹿だったし、
いまでも馬鹿だと思っている。しかし、現在十二歳の香よりも、鈴
木の知性は遥かに上を行っているように思える。ここまで九歳らし
からぬ少年はいないのではないだろうか。
﹁では、二百三十一歳と言ったら信じていただけますか?﹂
﹁信じるわけないでしょう﹂
ずいぶんとリアルな数字に、香は僅かに驚いた。が、やはり子ど
もの嘘である。人間はそんなに生きられない。
﹁嘘で笑いを取りたいなら、十万二十四歳くらい言いなさいよ﹂
﹁紅さんは、笑いたいんですか?﹂
﹁殴るよ?﹂
416
こいつの言葉はときどきイライラする。香は軽く足を揺すりなが
ら、鈴木を睨んだ。
﹁で、なんなのよ?﹂
﹁少し⋮⋮というか、かなり大きな問題が起りました。紅さん、い
ますぐ僕と一緒に村の外へ出ませんか?﹂
﹁はぁ? なに馬鹿なことを言ってるのよ﹂
鈴木の狙いはなんだ? あきれ顔を作りつつ、香は必死に頭を働
かせる。自分よりも年齢が低い、けれどその口調や知性は自分より
も高いように見える。その相手が、今度はかなり幼稚は発言をして
いる。その真意はなにか? 村の外に出てどうなるというのか。い
や、ここにいて不味いこととはなんなのだろう?
﹁できれば、袰月さんも一緒が良いのですが﹂
﹁なにが狙いなの?﹂
﹁お話したら、付いてきていただけますか?﹂
﹁行くわけないでしょう? そんな口説き文句じゃ、誰も相手にし
ないわよ﹂
香は鈴木から視線を外し、出て行けと手をひらひら振った。
そもそも子どもが家を離れることは不可能である。親の目を盗ん
で村の外に出ても、いずれ警察に見つかり、村に引き戻されるのが
関の山だ。それに、外に出てどうやって生きて行く? お金がない。
稼ぎがない。食べていくことができない。いずれのたれ死ぬのが関
の山だ。
﹁紅さん⋮⋮一つ伺いたいのですが﹂
﹁なによ?まだ居たの?﹂
香は顔をしかめた。
﹁少し前より気になっていたのですが。何故、幻惑魔法にかけられ
ているんですか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮は?﹂
香の思考が、一時停止した。
幻惑魔法?
417
﹁なにそれ?﹂
﹁視界や、認識を惑わせる魔法です。いつからかけられているか⋮
⋮はさすがに判りませんよね。誰にかけられたのかも﹂
﹁⋮⋮うん﹂
﹁僕が解除します。すみません、少しだけ接触させてください﹂
﹁接触って﹂
言い方が嫌らしい。そう思ったときにはもう、鈴木は香の手を取
っていた。
手を取って⋮⋮どうするんだ?
香は鈴木の顔をじっと見上げる。
鈴木は真剣な顔をして、香の目をのぞき込んできた。
接触?
接触って、どこに?
なにとなにが接触するの!?
その言葉が、香の脳内でにわかに艶めかしい色を帯び始めた。
﹁ちょ、ちょっと待って!あたしまだ︱︱﹂
瞬間、世界が点滅した。
再び香が世界を認識する。部屋の明かりが若干明るく感じる以外
は、なにも変化がない。
明かり? ⋮⋮いや、違う。
窓の外が明るいんだ。
香は胸のざわめきを感じつつ、カーテンを開く。
そこには、赤があった。
窓の外、遠くの空。
地平線に、赤が点在し、
煌々と揺らめいている。
これは、なんだ?
いったい、なにが起っているんだ?
﹁すず︱︱っ!?﹂
418
振り返るが、そこには鈴木がいない。
香は息を止めて、じっと部屋の中を見る。が、やはりどこかに鈴
木が潜んでいる気配は感じられない。
鈴木がいないと判るとすぐに、香は部屋を飛び出した。
﹁誰か! 聡美! 姉ちゃん! いるー?﹂
香は大声を出し、屋敷の廊下を走る。しかし、大声と自分の足音
が屋敷の中で跳ね返り、融合し、奇妙な音になって戻って来るだけ
だった。誰かが返事をすることもない。誰かの気配さえない。
香の中の肖像感がみるみる肥大していく。
香は靴を履き、玄関を出る。
外に出てすぐに、喉が煤塗れになるような煙の臭いが鼻孔をくぐ
り抜ける。喉の痛みに軽くせき込み、涙が僅かに溢れ出す。
火事が起きているのか?
香は遠くの焔を眺める。
もしかしたら、みんなそっちに行っているのかもしれない。
香は炎の光の見える方向に走り出した。
村の中心部に近づくに従って、煙の臭いは濃くなっていった。焔
の中にやがて建物の姿が浮かんでくる。一階建ての民家に、古びた
売店に、学校。村の建物の、ほとんどすべてが焼けている。
大変なこと⋮⋮。
これが、鈴木が言っていた、大変なことなのか?
焦げた家が崩れ落ちる。
その音に驚き、香は腰を抜かした。
燃え崩れた家屋の中から、黒いなにかが浮かび上がる。それはみ
るみる像を結ぶ。
中から、人間が出て来た。
燃えて、黒焦げになって、それでも足掻く人間が。
香は尻を地面にこすりながら、後ろに下がる。
﹁あ⋮⋮ああう⋮⋮うあ﹂
419
黒い人間が、両手を前に差し出して、あえぐ。その人間が誰かは
わからない。黒焦げで、判別できない。
﹁たす⋮⋮けて﹂
﹁ひっ﹂
しがみつかれそうになり、香は地面を転がって逃げた。
香に抱きつきそびれた黒い人間は、白く濁った瞳を香に向けた。
黒と赤だけの世界に、小さな二つの強烈な白。
⋮⋮助けられない。助けることができない。一気に息の根を止め
ることもできない。苦しい中で死ぬ所を、見守ることしかできない。
香は目を背け、立ち上がる。
絶望と恐怖と激痛が混沌として一体となったその場から逃げ出す。
﹁誰か⋮⋮﹂
息を吸う度に言葉が漏れる。村の中はまるで深夜の森の中のよう
に静まりかえっている。聞こえてくるのは炎の爆ぜる音だけ。
誰も、いないのか?
みんな、炎に包まれて、死んでしまったのか?
気付けば、香はいままさに燃えさかる小学校の校門にたどり着い
ていた。ここに来れば、誰かがいると思ったわけじゃない。ただ、
六年間の習性が、無意識に現れただけだった。
しかし、香はそこで人影を発見する。
人の影は、まだ生きている。
燃えていない。
歩いている。
動いている。
﹁そこの人!﹂
香はめいっぱいの大声で叫んだ。
人影が、香の声に気がつき振り返る。
やっと人間に出会えた。香はそのうれしさから駆け出した。これ
で、事情がやっとわかる。この村に何が起ったのか、ようやっと聞
き出せる。
420
そう、思った。
しかし︱︱、
﹁お前は⋮⋮﹂
そこに居たのは、
﹁人間だな﹂
鬼だった。
目の前の、筆舌に尽くしがたい景色が一瞬にしてかき消える。
香は自分の部屋にいて、窓の外は暗くて、すぐ傍に鈴木がいる。
体の芯が凍り付くような雰囲気はもうそこにはない。
いったい、あれはなんだったんだ? 香は記憶の中の風景と、居
間の光景を重ね合わせる。どちらが本当なのか。あれは夢だったの
か。こちらは、現実なのか。
自分の部屋の温もりと、鈴木の手の平の感触だけが、香の精神を
ギリギリのところで現在に定着させる。
﹁紅さん? いかがされましたか?﹂
﹁⋮⋮いまのは、なに?﹂
﹁いまの?﹂鈴木は首を傾げる。﹁幻惑魔法の解除に痛みは感じな
いはずだけど⋮⋮。痛むところがありましたか?﹂
﹁幻惑魔法﹂香は目を大きく開く。﹁あんた。まさかいま、幻惑魔
法を使ったんじゃないでしょうね?﹂
﹁どうして僕が紅さんを幻惑しなければいけないんですか?﹂
﹁嫌な風景を見させて、危機感を煽ろうとしてるんでしょ?﹂
﹁危機感⋮⋮。紅さん。いったい、なにをごらんになられたんです
か?﹂
鈴木は惚けているわけではなさそうだった。少なくとも、香には
鈴木がなにかを隠しているようには見えない。至って真面目で、僅
かに憂いを帯びたような、それなのに優しさを感じる柔らかい表情。
香は疑いながらも鈴木に、先ほどの光景を語って聞かせる。とはい
えどう伝えたら良いのかわからない。ゆっくりと、詳細な説明を心
421
がける。しかし目で捕らえた光景の半分も説明できたかどうか。
拙い言葉をなんとか組み合わせる香の言葉に、鈴木は終始無言で、
時折思い出したように頷いて耳を傾けていた。
﹁⋮⋮紅さん﹂すべてを語り終えたとき、鈴木が口を開いた。﹁い
ま目にしたのは幻ではありません。おそらく、紅さんに幻惑魔法を
かけた何者かが仕込んだ、予知魔法なのではないかと、僕は考えま
す﹂
﹁予知?﹂香は首を傾げる。
﹁何故予知かというところを説明するには、いろいろと伝えなけれ
ばいけないことがあります。少し時間がかかりますが、よろしいで
しょうか?﹂
香は一秒、目だけで天井を見て、小さく頷いた。
﹁はじめに、キヅミ山のことから話しましょう。
キズミ山は過去に、鬼が山に住んでいたというところから名前が
付けられました。鬼が住む山で、鬼住山。現在その鬼は、山の最も
奥に封印されています。
さて、その鬼︱︱悪魔が封印された経緯ですが、表向きは紅家が
封印したことになっております。故に、守手と呼ばれるようになっ
たのです。しかし実のところ、紅家だけでは鬼を封印することがで
きませんでした。悪魔が現れた当時の当主に、そこまでの力がなか
ったんです。
そこに偶然現れたのが、山南氏です。達也くんのご先祖の山南氏
は剣豪と呼ばれた方でした。また、彼が持っていた刀も邪を払うの
に適した名刀だったのです。山南氏と紅家当主が力を合わせ、悪魔
を封印することに成功しました。
その折、山南氏は酷い怪我を負ってしまい、刀を振るうことがで
きなくなりました。その怪我が、後の彼の人生を大きく狂わせるこ
とに︱︱と、これはまた別の話ですね﹂
﹁っていうことは﹂香は思わず口をはさんだ。﹁達也の家にあった
折れた刀って︱︱﹂
422
﹁おそらくその戦いの時に折れてしまったのでしょう﹂鈴木は頷い
た。﹁次に︱︱ここからが重要なのですが、現在鬼を封印した結界
が消滅しかかっています。それはおそらく山南くんに原因があるの
ではないかと僕は推測しています﹂
﹁どうしてよ?﹂
﹁先日、山南くんがキズミ山へ入られましたね。その時に、たまた
ま鬼の結界の一部︱︱正確には装置を破壊してしまったのではない
かと。もちろん、彼の力では結界は破壊できません。しかし彼は、
鬼を封印したときに使った刀を所持していました。あの刀は特殊で
すから、封印に用いた装置を壊すことが可能なのです。もしかした
らもう、鬼は隔離結界から解放されているかもしれません。その結
界の消滅を察知した太田さんがキズミ山に入り、鬼に殺された。そ
の可能性は十分にあり得ます﹂
そうか、と香は思った。
達也にも責任があるといった鉄山の言葉は、非常に正しかったの
だ。達也は太田を殺してはいない。けれど、太田を殺す原因となっ
た鬼を解放してしまった。
刀とキズミ山。そこで死んだ太田。その組み合わせだけで、達也
がなにをしたのかを認識できた鉄山は、非常に鋭い洞察力を持って
いたといえる。
何故鉄山が自刃しなければいけなかったかにも、説明がつく。と
はいえ、鉄山が自刃したことについて、とうてい納得はできそうに
ない。
﹁もし鬼が現在隔離結界から解放されているのであれば、すぐにで
も活動を始めるでしょう。封印が解けた鬼は手が付けられません。
鬼は、魔法界のランクでは神話級。おそらく、魔法少女界の精鋭を
集結させてやっと、再封印できる可能性が生まれる。そのレベルの、
強力な悪魔です﹂
﹁だから逃げろって?﹂
﹁その通りです﹂
423
挑発的な香の物言いを、鈴木は真顔で受け止める。
﹁鬼が復活すれば、紅さんが幻視されたような災いがこの村に降り
かかります。おそらく、この村の中にいる誰も、鬼を止めることは
できないでしょう。そうなる前に、一度村を脱出するべきです﹂
﹁あんたはどうして、あたしと聡美を逃そうとするのよ。こんな時
間があるなら、村人全員を村の外に退避させようと動けばいいじゃ
ない﹂
﹁紅さんは、何故僕の話を信用したのでしょう?﹂
﹁別に、信じたわけじゃないし﹂
﹁では、村の人は僕を信用してくれると思いますか?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
不可能だ。こんな話をしたところで、真に受ける人間などこの村
にはいない。
﹁説得しても、時間が無駄になるだけでしょう。ですから僕は、僕
の話を信じてくれそうな人だけを当たることにしました。現時点で
は紅さんと袰月さん。それに、山南くんだけはなんとか退避させら
れそうですけれど﹂
﹁ちょっとまって。姉さんは?﹂
﹁姉さん⋮⋮ええと、彩芽さんのことでしょうか。彼女は⋮⋮﹂
鈴木は言葉を切った。それは、彩芽が鈴木を信用するかどうかを、
考えたためか? いや、おそらく違う。
鈴木はまだ、なにかを隠している。
﹁あたしはいいわ。聡美と達也だけ逃して﹂
﹁それはできません。紅さんは是非、村の外に︱︱﹂
﹁無理よ。言っとくけど、あたしはあんたの話を完全に信用したわ
けじゃない。ただもし今後、鬼がこの村を襲っても襲わなくても、
あたしは逃げない。あたしは紅家の次女よ。村を救うのが使命なの。
それにね︱︱﹂
香は鈴木を睨むように笑う。
﹁あたしは、姉さんのことは好きなの。一番大切に思ってる。姉さ
424
んが死ぬかもしれないっていうなら、逃げることなんてできない﹂
﹁しかし︱︱﹂
鈴木が言葉を発する直前、香の視界が真っ白に染まった。
爆音が耳を殴り、なにかが顔に降りかかる。
軽く息を吸うと、埃と木の香りが胸に刺さった。香はせき込みな
がら、口に手を当てる。
目の前の景色は白からやがて黒に落ち、音の直撃を受けた耳が甲
高い幻聴を脳に伝える。
電気が消えた室内。どこかから入り込んだ風が、香の頬を撫でた。
﹁香﹂
父の声が遠くから聞こえた。耳の感覚が狂っているため、わりと
近い位置にいるかもしれない。
暗い室内に、徐々に目が慣れていく。
暗闇の中に、ぼぅっと黒い影が浮かび上がる。香はその影が父で
あることを直感した。
﹁父さん。これは一体﹂
﹁香。何故お前は家の人間じゃない奴を家に入れてんだ?﹂
家の人間じゃない奴︱︱鈴木のことか。
﹁鈴木は別に、あたしが招いたわけじゃありません。勝手に入って
きたんです﹂
﹁鈴木。それが侵入者の名前か﹂
父の殺気を、香は肌で感じ取る。口の中の唾液が一気に消えた。
喉が夏場のダム底のようにカラカラだ。
目が少ない光に慣れていく。闇の中に浮かび上がった父は、肩に
大きな火器を担いでいた。あれは、ランチャだろう。父はおそらく
それを発射して鈴木を消し去った。もしもう数センチ鈴木に近づい
ていれば、香は鈴木もろとも打ち抜かれていたかもしれない。
なんてめちゃくちゃなんだ⋮⋮。少し手元が狂えば、実の娘が死
んでいたかもしれないのに、父の様子は至って平然としている。そ
れは自分の腕を信じているというより、娘は生きていても死んでい
425
てもどちらでもよかった、という風に感じられる。
﹁なにもここまで﹂
やらなくてもいいじゃないか。その言葉が、喉の奥に埋没してい
く。
父は肩に乗せたランチャーを下ろし、首をまわした。
﹁ずいぶんと仲が良さそうだったじゃねぇか。ん?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮盗み聞きしていたんですか?﹂
﹁家の中に妙な気配があったら、調べるのが当たり前だろう。俺の
言っていることは間違っているか?﹂
その問いは、問いではない。間違っていないと香に言わせるだけ
の、相手の服従心を探るためだけの言葉。
香はその問いを、反発と捉えられないぎりぎりの線で躱す。
﹁しかし、まさか香が魔法を使えたとはな。まあ、魔法を教える手
間が省けたから良しとしよう。さて﹂父は手にしたランチャを一度
地面に叩き付けた。﹁話しはその鈴木とやらに聞いただろう。紅家
としての使命が訪れた。香にも、手伝ってもらうぞ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮はい﹂
もちろん、そのつもりだ。そのつもりだった。香は紅家の次女で、
紅家は村の守人である。香は守人としての責務を全うするつもりだ
った。
けれど、何故だろう。
前までは、そんなことはなかったのに。
いまは父の言葉に、素直に頷けなかった。
426
第三章 魔法少女は、夢を生む。3
部屋がランチャで破壊されたおかげで、香は客間の使用を余儀な
くされた。
天井が綺麗に抜けた部屋から、生き残った衣服や布団を救出する。
そのとき、それとなく鈴木の安否を確認した。本当は、鈴木をちゃ
んと探したかった。けれど、妙な動きを見せると父に察知される可
能性がある。紅家の当主である父は、まず間違いなく魔法使いだろ
う。香は魔法のことをよく知らないが、人の動きを察知する魔法く
らいあってもおかしくはない。目だけで鈴木の姿を探すが、見つか
らない。布団と衣服をかき集めた香は、後ろ髪を引かれる思いで部
屋を後にした。
客間に戻ると、父が部屋の中央に座ってこちらを見ていた。
﹁そこに座りなさい﹂
促されるまま、香は布団と衣類を置き、父の真正面に腰を下ろす。
いつもは気にならない、畳の細かい編み目が皮膚に食い込んで痛
い。
﹁鬼を封印する方法は二つあると、この家に伝えられている﹂父は
厳かに言った。﹁一つは、鬼を弱らせた上で代々伝わる結界魔法を
発動させる方法。こっちは、まあ無理だな。この村の中に、鬼と対
等に渡り合える奴はいない﹂
﹁師匠なら渡り合えたんじゃないかと﹂
﹁だろうな﹂
危機に瀕した状況下で、鉄山をみすみす殺したのは悪手じゃない
のか。そんな思いを遠回しに伝えたのだが、予期せぬ同意に香は目
を丸くした。怒られるかと思っていたんだけど⋮⋮。
﹁それこそが、あいつの反撃だったんだよ。⋮⋮わかるか?﹂
﹁打つ手を奪うことで、紅家を窮地に立たせる?﹂
﹁違うな。あいつは、達也の命を差し出せと言われた親の気持ちと
427
やらを、俺に味合わせたかったんだろうな。くくく。面白い奴だっ
た﹂
父は、言うほど面白くもなさそうに笑い、膝を打った。
﹁二つ目の方法だが、これは紅家だけが行える儀式だ。悪魔と契約
を交し、相手の行動を封じる。これを婚姻の祁と読んでいる。これ
を行うと、当然、儀式を行った者は死ぬ。死ぬと云われている。鬼
と戦った先祖にはその当時、まだ子がいなかった。子がいなければ
紅家を存続させられない。守人として村を守る役目を担っている以
上、紅家は存続させなければいけない。この儀式が何故婚姻の祁と
呼ばれているのか、わかるか?﹂
香は無言で頷いた。
婚姻の祁は、単純に結婚式のことだろう。鬼が男である以上、婚
姻の祁を行うにはこちらは女性でなければいけないということだ。
﹁鬼と戦った先祖は男だった。だから、婚姻の祁を考える予知がな
かった。しかし、いまは違う。俺は二人の娘に恵まれている。婚姻
の祁を行える。香。紅家の娘として、この村の守人として、婚姻の
祁を行ってくれるか?﹂
仁座に乗せた手を軽く握り、父は香の瞳を見据えた。いつになく
真摯な父の表情に香は息を呑んだ。父は婚姻の祁ができない。だか
ら婚姻の祁を行える香に、思いを託しているのかもしれない。
しかし、僅かな疑問が浮上する。
﹁姉さんは?﹂
彩芽は長女である。婚姻の祁がこの村の存続を脅かすほどの厄災
であれば、まず長女の彩芽が先頭に立つべきである。
﹁彩芽か⋮⋮﹂
呟き、父は顔を上に向ける。その姿勢のまま、五秒が経過した。
たった五秒の間。なのに、永遠に感じられる空白。
再び顔を下ろした父の表情は、酷く険しいものに変っていた。そ
こには先ほどまであった真摯な雰囲気は消え去っている。
﹁家を継ぐのは長女である彩芽だ。次女では家を継がせられない。
428
うちの先祖も、代々長男、あるいは長女に家を継がせてきた。それ
は昔からの決まりだ。それを変える道理はない﹂
一度言葉を切り、父は息を吸い込んだ。
﹁婚姻の祁は、鬼が完全に復活する直前に行う予定だ﹂父は一度奥
歯を噛んだ。﹁香。村人の命を救うために、鬼の元へ行け﹂
父が口にしたのは綺麗な言葉だった。
けれどその実、父は香に﹁死ね﹂と言っている。
鬼の元へ行けとは、つまり、そういうことである。
しかし香は、それが判っていたけれど、父の言葉に僅かに感化さ
れた。
天然理心流を習っていたときから、香は常々考えていた。もし目
の前に脅威が現れたら︱︱たとえばそれは小学校低学年の頃は宇宙
人だったし、いまは包丁を持った男だ︱︱みんなが危険に怯えるな
か、香はそれを習った柔術で退ける。そんな光景を、よく想像した。
賞賛が欲しかったわけではない。ただ、守人として、一人前だと
認められたかっただけだ。
一生に一度あるかないかの村の危機。それを、香が退けられる。
そのチャンスを︱︱たとえ命を落そうとも︱︱みすみす逃す手はな
い。
香は父の瞳を見たまま、ゆっくりと頷いた。
こうして婚姻の祁が、執り行われることになった。
婚姻の祁で、香がなにをしなければいけないのか、わからないま
まに⋮⋮。
香は着物に身を包み、じっとその時を待つ。
香が身につけている着物は、﹃久保田一竹﹄の作品で紅家の家宝
といっていい代物である。もしこれを世に出せば一千万はくだらな
いだろう。文字通りの意味でも身の丈にあまる着物を着付けさせて
もらえた感動を、香は静かにかみしめる。
着付けは万事滞りなく終わった。
429
あとは化粧をするだけだ。
客間で正座をし、香は目を瞑る。
ふと、背後から人の気配を感じた。
﹁紅さん﹂
香はその一声だけで、背後にいる者が鈴木なのだと判った。
﹁生きていたのね﹂
﹁ぎりぎりでしたけれど﹂
心臓が僅かに鼓動を早める。それとほぼ同時に、体が僅かに熱く
なる。
首をまわして鈴木を見る。そこには数日前とほとんど変らない鈴
木の姿があった。変化があるのは服装と、新たにメガネをかけてい
ることくらいか。怪我をしているようにはまるで見えないが。
﹁ぎりぎりって、ぴんぴんしてるじゃない﹂
﹁そうでもありません。こう見えても死にかけたんですよ。おかげ
で、視力が落ちてしまいました﹂
苦笑するとメガネが僅かにずり落ちた。鈴木はそれを指先でなお
す。
﹁元々目が悪かったわけじゃないのね﹂
﹁ええ。治癒魔法でなんとか回復はしましたけど、目だけはだめで
した。まったく。あなたの父は子どもを殺すのにも全力を尽くすん
ですね。いやはや、驚きましたよ﹂
なるほど、と香は頷いた。鈴木の言う治癒魔法とはおそらく、香
の腕が繋がったあれだろう。ということは、椎名はやはり魔法使い
なのか。
落ちた腕を元に戻すほどの魔法を用いても、回復できないほどの
傷を負ったということか。まあ、鈴木はランチャの直撃を受けたの
だ。生きていることが奇跡である。
﹁それで紅さんは、なにをされているんですか?﹂
﹁なにって。ああ、そういえば鈴木は知らなかったね。これからあ
たしは鬼を封印するために婚姻の祁を行うの。これは、その衣装よ﹂
430
香ははにかんで、袖を振り上げる。
﹁婚姻の祁。なるほど。婚姻の呪術を用いるなんて、古来から結界
師だった紅家らしいやりかたですね。スタンダードだけれど、だか
らこそ強力な封印術と言えます﹂
﹁なにを言ってるのかわからなないけど﹂
﹁婚姻には元々、相手の家の力を手に入れて征するという意味合い
があるんです。戦国時代では政略結婚などが盛んでしたが、たとえ
敵対している相手であっても婚姻を用いれば親族となり、そこに協
力関係が生じるという意味で︱︱﹂
﹁そんなこと聞いてないから⋮⋮﹂
香は頬を膨らませる。それは鈴木が意味不明な言葉を口にしたか
らではない。
世辞くらい言えないのかこの男は⋮⋮。
香はむすっとした顔をして、袖を下ろした。
﹁一度死にかけた場所にもう一回来るなんて、あんたちょっとおか
しいんじゃない? で、今度はなによ。用がないなら出て行って。
じゃないとまたランチャをぶちかまされるわよ﹂
﹁用というか、情報をお伝えに上がったのですが。⋮⋮紅さんが、
婚姻の祁を行うんですか?﹂
鈴木は訝しげに首を捻る。
﹁なによ。文句あるの?﹂
﹁文句はありませんよ。ただその、婚姻の祁はどうやら既に始まっ
ているようでしたので⋮⋮﹂
﹁ん?﹂香は眉を寄せた。﹁婚姻の祁は先遣が出るのよ。いきなり
鬼の所へあたしが行ったら失礼でしょう? まずお伺いを立てて、
鬼の嫁が向かうことを伝えるの﹂
﹁そうじゃありません、紅さん。もう、婚姻の祁が始まっているん
です︱︱別の人間で﹂
﹁⋮⋮⋮⋮は?﹂
香の顔から血液が落ちた。
431
別の人間で、婚姻の祁が行われる?
そんな話は聞いていない。
﹁あれはおそらく⋮⋮紅彩芽さんではないでしょうか﹂
﹁姉さん!?﹂
香は反射的に立ち上がる。
彩芽の言葉を聞いた瞬間に、香の脳内で父の表情が瞬時に事実へ
と直結した。
真摯な雰囲気の消えた父の顔。あれは、嘘をついていた表情だっ
たんだ!
﹁このままじゃ、姉さんが死んじゃう!﹂
香は裾を掴み、外へのふすまを開いた。
﹁紅さん!﹂
鈴木の大声に、香は足を止める。
﹁なによ?﹂
﹁婚姻の祁はもう始まっています。このままいけば、鬼は間違いな
く再封印されるでしょう。鬼は消え、村への脅威が無くなります。
それではいけないのですか?﹂
﹁決まってるじゃない﹂
香は腰に手を当てて鈴木を睨んだ。
﹁他人の命を犠牲にし、自分の命を望むとあっちゃ、紅香の名が廃
る。あたしはね、姉さんが好きなの。姉さんが大好きなの。その人
が死ぬってくらいなら、あたしはあたしの命を賭ける。あたしの命
を差し出して、姉さんに生きていてもらう。姉さんに幸せになって
もらう。婚姻の祁は、あたしの命じゃ不足?﹂
﹁⋮⋮いいえ、そんなことはありませんが﹂
﹁じゃあ問題ないでしょう? 人に犠牲を強いるなんざ、屑のやる
ことさ﹂
﹁けれどそれでは、紅さんが︱︱﹂
﹁知ってる。けどね、誰かを守って死ねるなんて、守人として本望
じゃない。あたしは欲張りだから、村人だけじゃなくて、同じ守人
432
の姉さんも守りたいの。⋮⋮それじゃ、あたしは行くよ﹂
香は縁側に置いてあった下駄を履いた。
カラン、と一歩前に足を踏み出したとき、突如目の前に鈴木が現
れた。鈴木の足下には小石があった。この石は、いつだったかに鈴
木が投げ入れた石だ。あれから、場所は動いていない。小石はいま
も、あの日のまま。けれどあの日とは、状況が完全に変ってしまっ
ている。
鈴木が右手を持ち上げ、香の前に差し出した。
﹁僕は、僕が探し求めていたものを、みすみす手放すほど諦めの良
い性格をしているわけじゃありません﹂鈴木は口を斜めにする。﹁
紅さんの潜在能力だけでなく、その性格、心意気。気に入りました。
一緒に行きましょう﹂
﹁え?どこに?﹂
﹁鬼の元へ。⋮⋮僕が手伝えば、もしかしたら鬼を封印し、紅さん
が生き延びられる道が見つかるかもしれません。お願いです、手伝
わせてください﹂
ありがたい申し入れではある。けれど、香は生き延びることなど
考えていない。とにかく婚姻の祁を成功させること、そして姉を助
け出すこと。それだけできれば良い。
﹁これは紅家の問題。鈴木には関係ない︱︱﹂
﹁婚姻の祁の場所近くまで、飛びますよ﹂
鈴木が手を伸ばして香の手を取った。
反論空しく、香は鈴木に転移させられた。
433
第三章 魔法少女は、夢を生む。4
山頂に近づいたとき、先ほどまでにじみ出していただけの魔力が、
一気に山全体に広がった。どす黒い輝きに飲み込まれ、香は咄嗟に
腕を交差させる。黒い魔力は皮膚にまとわりつき、溶かすように熱
を発する。
呼吸が苦しい。目をうっすら開けるが、先がほとんど見えない。
僅かに見える腕を、自らの魔力が僅かに覆っている。魔力は本当に
物体と溶かしているのか、着物の袖が徐々に欠落している。香は慌
てて魔力を活性化させる。
方法は、よくわからない。とにかく気合いの所行だった。咄嗟の
こととはいえ、香は魔力を体の外に放出することに成功した。その
おかげか、皮膚から黒い魔力の熱が引いていく。それと同時に、息
苦しさもなくなった。
山頂から放出された魔力が、徐々に集束していく。黒い霧が薄ま
り、視界が広がっていく。
おおよそ拾メートル先から人の気配を感じ、香は木の陰に姿を隠
す。そっと木の陰から顔を覗かせて向こう側を伺う。
そこには、着物を着た彩芽と、父の姿と、そしてもう一人。
﹁︱︱っ!﹂
あの幻の夢に出て来た鬼が居た。鬼は、元来の言い伝え通り頭に
小さな角を生やしている。だが、身なりは桃太郎に討伐されるそれ
とは違い、パンツ一丁ではないし、体は赤だったり青だったりでも
ない。角さえ見なければ、鬼は人間のように見える。
鬼は昔風の着物を着て、彩芽と父と対峙している。
﹁⋮⋮やっと解けたか﹂
鬼の声は太田のそれより太く低い。一番高いところで掠れ、危う
いところで戻って来るその声には、力強さとともに言いしれぬ魅力
が秘められている。
434
﹁貴様らは、紅家の子孫か﹂と鬼は言った。﹁我に喰われるために
来た、というわけでは、なさそうだな﹂
﹁もちろん﹂
父は大様に頷く。僅かに機嫌を損なえば殺しに来るだろう相手に
も、父は臆することなく口を開く。
﹁貴殿には、紅の娘との婚姻の祁を要求する﹂
﹁⋮⋮ほう? それがなにを意味しているのか、貴様は判っている
のか?﹂
﹁もちろん。存じております。こうしなければ、貴殿が子孫を残せ
ないだろうことも﹂
﹁っふん﹂鬼は面白くなさそうに鼻を鳴らす。﹁紅の者だけあって
こざかしいことこの上ない。それで、貴様は我の手綱を取ったつも
りか?﹂
﹁いいえ、とんでもない。これは取引でございます。こちらは村を
守るために娘を差し出します。娘を娶る条件は一つだけ。村には一
切手を出さないことであります。こちらは村を守れれば良し。貴殿
に一切関与しないことをお約束いたします。良い条件かと思います
が﹂
再び鬼は鼻を鳴らす。格下の、それこそ触れれば肉塊さえ残らな
いだろう相手に、会話を進められていることが面白くないのかもし
れない。
﹁悪くはない﹂
﹁では、婚姻の祁を︱︱﹂
﹁ちょっと待った!﹂
婚姻の祁が進められそうになった香は、慌てて三人のいる場所に
飛び出していった。
﹁な︱︱!?﹂
まさか、ここに現れるとは思ってもみなかったのだろう。香がい
ままで見たことがないくらい、父は同様した。
﹁何故香がここに﹂
435
﹁婚姻の祁はあたしがやるんじゃなかったんですか? なんで婚姻
の祁を、姉さんで行おうとしているんですか。婚姻の祁を引き受け
たのは、あたしです!﹂
﹁それは違うわ、香﹂
いままで一言も発していなかった彩芽が口を開いた。
﹁私が志願したんです。私は紅家の長女で、守人ですから﹂
﹁どうして⋮⋮﹂
香はキッと父を睨む。どうして自分だけでなく、彩芽にも誘いを
入れたんだ? 自分が承諾すれば、彩芽を誘う必要はないのに。
まるで好きな男に二股をかけられた気分だ。香はまだ恋愛も二股
も経験したことがない。けれど、この気持ちが嫉妬なんだと、香は
断定できた。
﹁何故自分が選ばれると思った?香﹂
父の言葉に、香は僅かに息を呑んだ。取り込んだ空気の冷たさが、
背筋を駆け抜ける。
﹁大切な儀式に、どうして次女が選ばれると思った?﹂
﹁それは⋮⋮。でも、父さんがあたしを誘ったじゃないですか!﹂
﹁そうでもしないと、お前は家を飛び出しただろう。彩芽を婚姻の
祁に出すくらいなら、私が婚姻の祁を行うとか言って﹂
﹁それは︱︱﹂
﹁結果、どうだ? お前はここに居る。俺は嘘をついたが、それは
お前が無理矢理に儀式に割って入らせないための嘘だった。いまと
なってはもう意味はないが。しかし、既に婚姻の祁は進行している。
香の出る幕はない。さっさと家に帰れ﹂
そんな⋮⋮。香の体から力が抜ける。
﹁紅の﹂鬼が父を見た。﹁誰が進行して良いと言った? 我はまだ
了承していないぞ﹂
﹁貴殿は悪魔︱︱暁鬼。この世にたった一人しかおらず、子を残す
術もない。了承するもなにもないだろう?﹂
父の口調が僅かに威圧的に変化した。香はそれが、焦りなのだと
436
推測する。
﹁この場に娘が二人いるが、どちらを選ぶかは我次第。違うか?﹂
鬼は口を曲げて父を睨んだ。睨まれた本人でないというのに、香
はその凄みに気圧され腰が砕けそうになった。
﹁久々のことで女を見る目が鈍っていたようだ。あちらの娘を見る
まで、まるで気付かなかったが。貴様。俺に不具を押し付けようと
したな?﹂
﹁な︱︱なんのことだ?﹂
﹁初めの、その女﹂鬼が彩芽を見た。﹁子を成せないのだろう? それを知って知りながら、俺にその娘を引き渡すのか﹂
鬼の体から、膨大な魔力が放出された。魔力に抵抗力のある香は
それをぎりぎりのところで堪え忍ぶ。しかし、魔力に抵抗がないの
だろう父と彩芽は、その圧力に吹き飛ばされて三メートルほど後方
に転がった。
﹁は⋮⋮話を聞いてくれ! 俺は、彩芽が子を成せないとは知らな
かった!﹂
﹁知らなかった⋮⋮? ずいぶん素直に我の言葉を受け入れるのだ
な。親ならば、まずは我の言葉を否定するのが人間というものでは
ないのか?﹂
﹁鬼の貴殿が人間を語るか。面白い﹂
﹁我の判断が間違えていると? っふん。ならば調べようではない
か。その娘に、処女膜があるかどうかを﹂
﹁な︱︱﹂
その声は彩芽のものか父のものか。あるいは香のものだったかも
しれない。
こちらの返答を待たずに、鬼は彩芽に迫る。
鬼が腕を軽く振った。
刹那。
彩芽の着物が無残に引き裂かれた。
﹁︱︱っ﹂
437
僅かにズレていれば命が落ちただろう攻撃に、彩芽が息を呑んだ。
彼女の豊満な乳房が、着物を引き裂かれた反動で上下に揺れる。お
椀型の乳房は香の手では収まりきらないだろう。過去、香が彩芽と
一緒にお風呂に入ったこととは比べものにならないほど乳房が成長
している。しかし以前のものとはなにかが、決定的に違っているよ
うに見える。それは成長によるものか、はたまた穢れによるものか。
香には判断がつかない。しかし、その乳房を見た鬼は、確固たる証
拠を突きつける検察官のような眼差しで父を見下ろした。
﹁この娘は手つきだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
父は地面に手を付けたまま口を開閉する。しかし、言葉は出ない。
すきま風のような音の吐息だけが、その口からかすかに漏れている。
﹁子を残せぬのは、どうやら貴様も同じだったようだな。紅の﹂
﹁い、いや⋮⋮﹂父は彩芽を見て、香を見た。﹁違う!﹂
何故、こちらを見る?
こちらを見て、言い訳めいた否定を口にする?
いったい父はなにを、否定している?
香の腹の底の、どこかわからない臓器が、粘度の高い真っ黒なな
にかを生成する。
乳房を晒された羞恥か、はたまた父との関係を晒された恥辱か、
それによる罪悪感か。彩芽は顔を押えて地面にへたり込んだ。
﹁不具だとわかった以上、その娘で祁は行えん。あちらの娘ならば、
祁を行って良いが、いかがか﹂
鬼は挑発的に言い放つ。
﹁す、少し待ってくれないか﹂
﹁待つ?﹂
﹁ぎ、儀式の仕切り直しを要求する!﹂
﹁仕切り直しが出来ると、何故思う﹂
﹁それは︱︱﹂
﹁我は鬼ぞ。祁に添わぬ、人間の乞いなど能わぬわ!﹂
438
﹁⋮⋮っく。本性を現したな悪魔め﹂
﹁なるほど、それが貴様の応えか﹂
鬼が纏う魔力が、著しく増大した。
決着が付いた、と香は思った。
契約は決裂。婚姻の祁は失敗だ。
ならば、やるべきことは一つ。
香は、押し流されそうな魔力の嵐の中、彩芽に向かって走り出し
た。
魔力を纏っているからか、体が軽い。鬼の魔力に押されていると
いうのに、いつもより速く走れている。
香は彩芽の元にたどり着き、彼女の体を抱きしめた。その瞬間、
彩芽は全身を強ばらせた。体が強ばっているのに、震えは止らない。
耳元に、彩芽の熱い吐息が聞こえてくる。
﹁姉さん。あたしだよ。もう大丈夫。安全なところに行こうね﹂
そう囁いて、香は彩芽を抱え上げる。
彩芽の体重は、想像以上に軽かった。これも自分の魔力の影響だ
ろうか。それを深く追及せずに、香は魔力の爆心地から遠ざかる。
後ろを振り返らずに、香は必死に山を下った。どこまで来たのか、
鬼からどれだけ離れているのか、まるでわからない。木々が同じよ
うにねじ曲がり、上っているのか下っているのか、前に進んでいる
のかさえわからない。もしかしたら、道を間違えて山頂に戻ってい
るかもしれない。考えると、足を止めて道を確認したくなる。けれ
ど、香は決して足を止めなかった。足を止めた瞬間に、鬼に殺され
るかもしれないから。
どれくらい走っただろう。香は突然立ち止まった。
足を止めたのは、鬼の脅威から逃れられたことを確認できたから
ではない。抱きかかえた彩芽が、暴れ始めたからだ。
﹁下ろしてください﹂
﹁いや、でも︱︱﹂
﹁香。下ろして﹂
439
何年ぶりか。香は彩芽の強い言葉を久しぶりに聞いた。
背後を振り返り、鬼がすぐ傍にいないことを確認して、香は彩芽
を解放した。
﹁姉さん。怪我はない?﹂
﹁ありません﹂
乳房を隠すよう、彩芽は破れた着物を前に寄せて握る。
﹁はやくここから逃げないと、あの鬼が姉さんを殺すかもしれない﹂
﹁どこへ逃げたら、殺されないの?﹂
﹁ええと⋮⋮﹂どこだろう?﹁村の外、とか﹂
﹁鬼が村の外に出られないなにかがある。そう、香は言いたいので
すか?﹂
﹁⋮⋮ううん。たぶん、それはない、と思う﹂
﹁では、ここから逃げ出しても、いずれ鬼は村を出て、他の村や町
を遅うのではないかしら?﹂
﹁そう⋮⋮。ううん。きっと、魔法使いがいっぱい集まって、鬼を
封印すると思う﹂
﹁魔法使い?﹂
﹁聞いた話だけど⋮⋮。この世界には、魔法使いがいて、力のある
人を集めたら、鬼を封印できるんじゃないかって﹂
彩芽は香をじっと見据える。
十秒か、それ以上。彩芽は無言で香の瞳を見続け、そして、視線
を外してため息を吐き出した。
﹁香は、現実と空想の区別が付かなくなったの?﹂
﹁空想じゃないよ。だって、もし魔法が空想なら、あの鬼も、鬼が
放出していたものも、鬼を封印していたものも、説明できなくなる
でしょ?﹂
香は必死に説明する。すぐに信じてもらうのは難しいだろう。香
もそうだったから。
﹁魔法は知っています﹂
しかし、彩芽は既に魔法の存在を知っていたらしい。予想外の言
440
葉に香はまごついた。
﹁紅家に生まれた以上、魔法は知らなければならないものですから。
そういうことではなくて、香。暁鬼を封印できるという魔法使いが
外の世界にいると信じているんですか?﹂
﹁あ⋮⋮。それは﹂
たしかに、考えたことがなかった。あの、凶悪な魔力を持つ鬼を
封印できる魔法使いは、果たして他にいるのだろうか?
﹁たぶん。いると思う。だって世界はこの村なんかよりずっと広い
から。それくらい強い魔法使いがいてもおかしく︱︱﹂
﹁考え違いを起こしてはいけませんよ、香﹂彩芽がメガネを押し上
げた。﹁そういう魔法使いは、もしかしたらいるかもしれません。
ですが、私たちは紅の名を背負っています。そういう魔法使いがい
ると信じ、そういう魔法使いに暁鬼の再封印を任せ、村の命運をそ
の魔法使いに託して良いと、思っているんですか?﹂
﹁思わない﹂
この彩芽の質問に、香は即答できた。悩むほどの質問ではなかっ
た。そんなの、当たり前のことだった。
﹁村の外の人間に、村の命運を任せたとあれば紅家の名が廃ります。
いいですか、香。あなたは村に戻って、避難指示をしてください。
もし村に暁鬼が降りた場合、香が命を賭けて、暁鬼を封印させるの
です﹂
﹁⋮⋮⋮⋮姉さんは?﹂
﹁私は、もう一度、契約を行いにいきます﹂
﹁無理だよ。だって、姉さんは⋮⋮﹂
香の言葉で、彩芽の表情が曇った。
﹁香。魔法使いは、悪魔を倒したり封印したりする役目を担ってい
る。なぜなら魔法は、悪魔に対して特に有効なものだから。そう、
紅家の古い文献に書かれてあったわ。魔力を持つものは悪魔を追い
払い、人間の安寧を守る。古くは陰陽道であったり神道であったり、
いろいろな祓魔道が日本に存在している。現代に居たるまでに祓魔
441
道がどれほど分化しても、根本にある悪魔を祓うという目的は、い
まも変っていないはず。
けれど私は、魔法使いはもうこの村にしか︱︱私たちだけしかい
ないんじゃないかって思ってる。もし他に魔法使いが居たら、きっ
と、私を助けに来てくれていたから。あの悪魔を、悪魔みたいな父
を、放っておくはずないもの!﹂
彩芽は感情を高ぶらせて叫んだ。声が森の奥に消えると、彩芽の
目に涙が溜り、一滴端からこぼれ落ちた。
﹁だからきっと、私たちしか、魔法使いはいない。私たちで、やら
なきゃいけない。私は、子どもができない、体だから。それがどう
いう意味か、判るでしょう? 私は紅家を継ぐに、相応しくないの。
だから、香。私は鬼の元に行くわ﹂
完全な拒絶。彩芽はなにもかもを断ち切るように香の横を通り過
ぎる。彩芽が横を過ぎる瞬間、香と彩芽とのあいだにあった、確固
たる絆のようなものが、一瞬にしてかき消えるのを感じた。
﹁ごめんね﹂
僅かに聞こえた言葉は、最後の、姉としての温かみを伴っていた
ように、香には感じられた。
442
第三章 魔法少女は、夢を生む。5
彩芽が立ち去って、どれくらい経っただろう。一分か、十分か。
香は時間を忘れ、呆然とその場に立ち尽くしていた。
辺りに人の気配を感じ、香は我を取り戻した。
﹁⋮⋮鈴木?﹂
﹁よくわかりましたね﹂
木々のあいだから、鈴木が姿を現した。
﹁あんた、どこに行ってたのよ﹂
﹁ええと。あまりにすごい魔力だったもので、退避させていただき
ました﹂
鈴木は僅かに目だけで右上を見た。
嘘だな。香はそう直感する。けれど、それを追及する気力が湧か
ない。もう、どうでもいい。
﹁元気がありませんね﹂
﹁そうね﹂香は素直に認めた。﹁あたし、この村についてなんにも
知らないんだなぁって。村だけじゃない。家のこともだし、姉さん
のことも、知らなかった﹂
香の脳裏に、横を過ぎる彩芽の表情が思い浮かんだ。
あんなに冷たい顔をした姉さんの顔なんて、見たことがない。起
ったときも、泣いているときも、どこか姉さんの温もりみたいなも
のが顔ににじみ出ていた。それが、まるでなかった。
あれは、他人の顔だ。自分はその辺に転がっている小石の仲間入
りをしてしまったのだ。小石は感情がない。笑わない、泣かない、
怒らない、喜ばない。だから、取り繕う必要がない。同一の人間と
して関わる必要性がない。
﹁なにも知らないから、あたしは、なにも言えなかった。姉さんに
対して、あたしはきっとなにもできない﹂
﹁彩芽さん、ですか。⋮⋮そうですね、たしかに少し難しい方では
443
あります﹂
﹁あんたになにがわかるのよ!﹂
香の怒声が静かな森にこだました。
﹁紅家は古来より長男がその家を継ぐしきたりがあります。しかし、
現在紅家には女性しかいない。子を授かるにも母がいない。そんな
状況で父慧さんは、子を成せるようになった彩芽さんを用いて、長
男をもうけようとしましたが、彩芽さんには子の命が宿らなかった。
このことを知っていれば、彩芽さんを救えるのですか?﹂
﹁そういうことを言ってるんじゃない!﹂香は強く首を振った。﹁
あたしは、強くなった。道場で色々教えてもらって、強くなったつ
もりだった。きっとあたしは姉さんより強いと思う。けど、強くな
ったのに、姉さんが助けてって願ってるのを、全然気付いてあげら
れなかった。姉さんがあたしを頼ることさえなかった﹂
ごめんねの言葉。そこに含まれた意味合いを、香は十全に読み取
っていた。
﹃私はこうする他ない﹄
死ぬしかない。そうするしか、幸せになれないと、彩芽は思って
いる。そう思わせた根源は父かもしれない。けれど、そんな状況に
陥った彩芽に手をさしのべられなかった香も同罪だ。もし救えてい
たなら、彩芽は死がこの世にある最大の救いだと、思うようなこと
はなかっただろう⋮⋮。
奥歯をすりつぶす香を見て、鈴木はメガネを指先で押し上げる。
﹁情報を知っていれば人を救えるとお思いなら、それは間違いです。
たとえ彩芽さんのことを知っていたとしても、彩芽さんは救えなか
ったと思います﹂
﹁やってみないとわからないでしょ!﹂
﹁では紅さんは、救いを求めていないものの手を引っ張ることがで
きたのですか?﹂
鈴木の言葉で香は黙り込んだ。あのときもし彩芽の手を取ってい
れば、もしかしたら彩芽を一瞬止めることはできたかもしれない。
444
けれど、それは彩芽は望んでいなかったはず。一時的にその場に止
めて置いても、いずれ彩芽はこの場を去っただろう。香を徹底的に
拒絶し、無視し、最終的に鬼の元へと向かったはずだ。
そもそも救いは鬼の元であって、香の手ではない。
﹁手を掴もうとしないものを救うことは、大変困難なことです。お
そらく数万回チャレンジしても、紅さんが発した言葉に感化される
人間は一人いるかいないかでしょう。この僕の言葉を信じられない、
あるいは自分は違う、力があればうまくいくとお思いならば︱︱そ
れはただの思い上がりです。力があっても救えない人間はいます。
それは、絶対です﹂
﹁あんた⋮⋮、なにもかも見てきたように言ってんじゃないわよ﹂
香の瞳に、みるみる生気が溢れ出す。﹁そんなの、やってみなきゃ
わからないでしょ﹂
﹁挑戦したからこそ、僕はそう言っているんです﹂
﹁あんたが挑戦したからダメなんでしょ? いい? あたしは紅香。
紅家の次女にして、村の守人よ。あんたがショボイからそんな結果
になるんでしょ。あんたが出した結末を、あたしが出せる結末と一
緒にしないで!﹂
先ほどとはまるで別人のようになった香が、高らかに言い放った。
そんな香の様子を見て、鈴木はかすかに満足そうな表情を浮かべ
メガネを押し上げた。
﹁どうするつもりですか?﹂
﹁決まってるじゃない﹂
香は口角を上げた。
まったく。ごちゃごちゃ悩んでいたのが馬鹿らしい。元々問題は
一つしかない。それに対する答えはもっとも単純だ。それさえ解決
できればどうにでもできる。
﹁鬼を封印する﹂
﹁どうやって?﹂
﹁もともとどうやってここの鬼は封印されたのよ?﹂
445
﹁紅式封印術を用いた方法ですが、しかし︱︱﹂
﹁弱らせればいいのよね?﹂
﹁簡単に言いますけど、相手は神話級の悪魔です。歴戦の魔法少女
でも迂闊に手を出せば簡単に命を落します。その相手を弱らせるこ
とは、容易なことではありませんよ﹂
﹁やらなきゃわからない﹂香は毅然として言い放つ。﹁前にも言っ
たけど、あたしは姉さんが大好きなの。姉さんが死ぬくらいなら自
分も死んだ方がマシだって思ってる。それは姉さんだけじゃない。
村人だってそうよ。誰かが犠牲になるかもしれないときに、あたし
がぬくぬくと安全な場所にいられるわけない。ここで逃げたら、死
んでも死にきれない。ここから逃げたら、姉さんをこの世につなぎ
止めるチャンスも失っちゃう。やらないで後悔して自殺するくらい
なら、あたしはやって殺される道を選ぶわ﹂
香は腕組みをして胸を反らせる。薄い胸が僅かに腕を押し上げた。
﹁止めたらぶっ飛ばすから﹂
﹁⋮⋮いいえ、止めませんよ﹂鈴木は苦笑した。﹁ただ、最低限度
の保険だけはかけさせていただきますので﹂
﹁保険ってなによ?﹂
﹁なにも紅さんを縛り付ける誓約ではありません。紅さんはなにも
せずに、ただ鬼と対峙していただければ結構ですので﹂
﹁勝手にあたしを遠くに飛ばしたら、ぶっ飛ばすからね﹂
﹁ええ。それもなるべくしないよう心がけます﹂
﹁絶対にしないで﹂
鈴木に顔を寄せて思い切り睨む。鈴木は困ったような顔をして、
一歩後ろに下がった。
﹁勝機はおありなんですか?﹂
﹁あるわけないでしょう?﹂
﹁あの⋮⋮なんでそんなに得意げなんでしょうか﹂
香の表情を見て鈴木が苦笑した。
﹁あたしには師匠と組み手をした経験がある﹂
446
﹁はい。⋮⋮ええと、それだけですか?﹂
﹁あたしは子ども。相手が圧倒的に強くて、理性的であれば、勝ち
目はゼロじゃない﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂鈴木は感心するように唇を丸くした。﹁きちんと
考えられてはいるんですね﹂
﹁戦い方だけは、師匠にたっぷり教わったからね﹂
香はゆっくりと大きく、首を縦に振った。
﹁それでは紅さん。鬼の元へお連れいたします。チャンスは一度き
り。失敗したらそれまでです。よろしいですね?﹂
﹁死ねば一瞬、生きれば一生。あたりまえのことを言わないで﹂
香は頬を膨らませて頷いた。
﹁では、行きましょう﹂
鈴木が香の手を取って、僅かに魔力を通わせた。
その瞬間。
香と鈴木の姿が、その場から消失した。
山頂に戻ったとき、香は目の前に光景を見て頭が真っ白になった。
一足先に戻って来ていた彩芽が、鬼の前で膝と手を付き、首を垂
れていた。彼女の居たる箇所に切り傷が膿まれて、そこから血液が
したたり落ちている。鬼にいたぶられたのだろうか。切り刻まれた
衣服はほとんど体を隠していない。
﹁お願いします﹂顔を伏せた彩芽が言った。﹁どうか。私と契約し
ていただけないでしょうか﹂
﹁ならん﹂
鬼がつまらなさそうに呟いた。そこには相手を拒絶する感情は込
い
められていない。それは相手の言葉に反射的に呟いただけの、無感
情な言葉だった。
﹁どうか︱︱﹂
﹁しつこい。貴様は子を産めん体だ。そんな者に用はない。去ね﹂
﹁どうか!﹂
447
彩芽が鬼の足にすがりつく。足を抱えられた鬼が、僅かに眉を動
かした。
その瞬間。彩芽が吹き飛んだ。
彩芽が吹き飛んだのを見て、香は飛び出した。
運良く、彩芽は香が隠れていた草むらに向かって飛んできた。
空中をきりもみしている彩芽を、香は全力で抱え込む。
反射的に、香は魔力を放出。
魔力は全身を駆け巡り、香の筋力を補強した。
強い衝撃を予想した香は目蓋を閉じ、しかしほとんど無衝撃だっ
たことに驚き目を開く。
彩芽は無事か? すぐさま彩芽の顔をのぞき込む。ダメガネは割
れ、下唇が割れて血液が溢れ出している。唇だけじゃない。全身の
傷も酷い。致命傷ではないだろう。けれど、一生痕が残りそうなほ
ど深いものもある。
香は彩芽の乱れた衣服を直し、鈴木を見る。
﹁姉さんを、安全な所まで﹂
﹁僕はタクシーじゃないんですけど﹂
鈴木は肩をすくめ、しかし律儀に小走りで近づいて彩芽の肩に触
れた。
﹁紅さん。どうか、魔力の放出だけは止めないように﹂
﹁わかった﹂
鈴木の忠言をしかと聞き、香は首を縦に振る。
瞬き一つすると、鈴木の姿が消えた。それと同時に、彩芽の重み
も消失する。
彩芽が居なくなったことをきっちり確認してから、香は立ち上が
った。
﹁⋮⋮⋮⋮やってくれたわね﹂
香の声は震えていた。
恐怖で? いや違う。
怒りで? それも、違う。
448
香を支配していたのは、圧倒的な哀しみだった。彩芽を助けると
息巻きながら、結局彩芽を危険に晒してしまった。
おそらく、鬼に嬲られたのだろう。全身が傷だらけになっても、
彩芽は懇願を辞めなかった。そこに、救いがあると、きっと信じて
いたんだろう。香をじゃない。鬼を、信じていたのだ。鬼が自分を
救ってくれると。
それが、香は哀しかった。
自分を頼ってくれない。頼っても無意味だと判断された、己の無
力さが、哀しかった。
﹁今度は貴様が相手か? ⋮⋮ふむ。貴様は子が成せそうだな。貴
様となら、婚姻の祁を行っても良いぞ﹂
﹁ええ。それでもいいかもね﹂
半分は、そう考えていた。けれど、もし婚姻の祁を香が行えば、
彩芽はどう思うだろう? どう感じるだろう? そんなもの、考え
たってわからない。考え続けたって、そこに生まれる感情に、名前
なんてつけようがない。それがあることだは、香は、漠然と理解で
きる。
そうならないために。
香は全身で魔力を練り上げる。
魔力を練るコツは、大体掴んだ。
それを体に止めておく方法も、大凡理解している。
あとは、自分がこれをどう使えるかだけだ。
﹁覚悟してね﹂香は鬼を睨んだ。﹁いまのあたしは、手加減なんて
できないから﹂
449
第三章 魔法少女は、夢を生む。6
﹁ふむ。気が強いことは誉なり。良い子を成すための条件なり。気
を張らしたいのならば、全力で来い。死なない程度にかわいがって
やろう﹂
﹁⋮⋮っ﹂
香は奥歯を噛んだ。鬼が口にしているのは、虚勢でもなんでもな
い。力の差がありすぎるから、きっと鬼は香を、ダダをこねる子ど
ものようにしか見えてないのだろう。自分のものとは比べものにな
らないほど圧倒的な鬼の魔力を前にして、香はそう感じた。
結果がどうなるか目に見えている。けれど、なりふり構ってはい
らなれない。これが香に残された、意地とプライドを守る、最後の
チャンスなのだから。
全身の魔力を放出して、香は地面を蹴った。
ほぼ、全力で蹴り出した足が、後方で大きく地面を抉った。
瞬間。
転んだ。
香は顔面から地面に激突して、苦悶の声を上げる。
﹁∼∼∼∼∼っ!?﹂
なんでこんなに滑るのよ! 足下は濡れてないし、ぬかるんでい
るわけでもないはずなのに。僅かに腹を立てて後方を振り返る。そ
こには︱︱、
﹁な⋮⋮﹂
地面に直径五メートル、深さ二メートルほどの穴が空いていた。
﹁なに、この穴。⋮⋮落とし穴なんてあったの?﹂
﹁くくくく⋮⋮﹂鬼がくぐもって笑った。﹁人間にしては上等な魔
力を持っているようだが、どうやらまだ魔力に目覚めたばかりのよ
うだな。使い方をまだ知らないらしい。全力で魔力を放出すれば、
地面など消し飛ぶに決まっているだろう﹂
450
﹁⋮⋮そう、なの?﹂
﹁どの程度魔力で筋力を補強するかにも寄るが。貴様の全力の魔力
を足に集約させれば、そのくらいの穴が空いて当然だ。⋮⋮ふむ。
なかなか面白い娘がいたものだ。これはしばし、退屈せずにすみそ
うだ﹂
余裕の表情で鬼が香を見下した。おそらく本当に、退屈しのぎに
しか思っていないのかもしれない。
その表情を、力尽くでも変えてやる。
香は立ち上がって、再び前に飛び出した。
今度は魔力をあまり込めなかった。自分の筋力だけで出せる最大
速度をもって、香は鬼に突進する。
間合いを見計らい、香は拳を振り抜いた。
﹁え?﹂
しかし、拳の先に鬼はいなかった。数瞬前には、たしかに鬼がそ
こにいた。けれど、いま鬼は拳の一メートル横にいる。
﹁魔力の使い方は様々ある。たとえば魔力をうまく調節し操れば、
素早く動くことができる﹂
鬼が語っているあいだに、香は再び拳を突き出した。
今度は、狙い違わず鬼の腹部に拳が命中した。
だが鬼の腹部は、鉄のように硬かった。殴った彩芽の拳が、割れ
るように痛む。
﹁たとえばこのように、魔力を肉体を硬化させることができる。こ
れを用いて地面を硬化させることで、はじめて魔力を通わせた素早
い移動が可能となる。さて、貴様はどこまで魔力を扱える?﹂
まるで教師か師匠のように鬼は言った。これじゃ、鬼に弟子入り
したみたいじゃないか。香は渋面になりほぞをかんだ。
﹁そしてこうすると︱︱﹂
鬼は拳を前に出し、親指に中指を引っかける。
﹁攻撃にもなる﹂
中指が弾かれた。
451
瞬間。
香の額になにかが衝突。
その勢いで香は後方に吹き飛んだ。
背中から地面に激突し、それでも勢いが止らずに五度ほど後転し
た。背中から木に激突し、やっと香の勢いが止った。
強かに打った背中が酷く痛い。肺が強ばって、うまく息が吸えな
い。地面に手をつき、香はあえぐように空気を胸に取り込む。
あれはなんだ?
鬼が指を弾いた瞬間、黒いなにかが飛んできたように見えた。あ
れはおそらく、指先から放出した鬼の魔力だろう。たったあれだけ
の指の動きで、これほどの衝撃が生まれるのか。
ふと香は、聡美が展開した結界を思い出した。あのなかで香は、
中学校を破壊した。鬼の魔力がこれくらいの衝撃を生むのなら、た
しかに香の全力の魔力で校舎を破壊できたことに説明がつく。
ならば︱︱。
呼吸が落ち着いたところで、香はゆっくり立ち上がる。
なにをすべきか。どうやって鬼に一泡吹かせるか。だいたい理解
できた。
たしか、思い切り蹴り出すと地面が削れたな。だから地面をまず
魔力で固定させる必要がある。香は僅かに地面に魔力を流し込み、
固定をイメージする。すると地面の柔らかい感触が急速に失われ、
アスファルトのようになり、最後にはコンクリートのような感触に
変った。
香は地面の固さを確かめるよう、二度足を踏みならした。
これで、よし。
香は練り上げた魔力を拳に集束させる。
つぎこそ、全力で。
香は腰を沈め、体を捻る。
息を深く吸い、止める。
転瞬。
452
跳躍した香は、コンマ一秒で鬼の懐に飛び込んでいた。
左足でブレーキ。
腰を捻り、拳を突き出す。
﹁さすがに勘が良い﹂
目の前に居た鬼が、笑った。
刹那。
鬼が僅かに動いた。
香の拳が鬼の脇腹横を、素通りした。
﹁︱︱な﹂
完全に決まると思った。決まると思っていた。しかし、鬼に攻撃
が当たらなかった。まさか躱されるとは、微塵も思っていなかった。
体勢が崩れたところで、鬼が両手を振り上げる。
﹁この程度の攻撃、耐えて見せよ﹂
頭上で拳を握り、一気に振り下ろす。
動け、動け、動け、動け、動け。香は体に念じる。しかし、香が
生み出した隙は完璧だった。意識だけで動くはずもなく、香の顔面
に鬼の二つの拳が叩き付けられた。
香の意識が飛んだ。
香が目蓋を開いたとき、あたりには土煙が舞っていた。おそらく
攻撃を受けて、香が地面を転がったか跳ねたかなにかして、土煙を
巻き上げたのだろう。おそらく、意識が飛んでいたのは一瞬だった
はずだ。
痛みはない。
体は動く。
香は手早く身体を確認して立ち上がる。
ふと、目の前の景色が揺れた。
立ちくらみか。
香は頭を抑え、砕けそうになる腰に喝を入れる。
手が額の上で滑った。額に、なにかが付着している。⋮⋮いや、
どんどん溢れ出している?
453
奇妙に思い、香は額についた手を見る。
血だ。血が、付いている。香の手の平がすべて赤に染まっている。
まさかと思い、香は再び額に触れる。どうやら左眉の直上に、傷
跡が付いているようだった。そこから血液が大量に溢れ出している。
幸いにも、頭は割れていない。
まだ戦える、と香は思った。
しかし︱︱もう戦えない、と香の理性が拒絶する。
あのときの鬼の動き。あれは、師匠のように一切の無駄がない動
きだった。香は少なくとも六年は、鉄山の道場に通っている。六年
も通えば、おおよそ自分の力量がわかり、相手の力量を測ることが
できる。そして両者の距離を、遠くから眺めることができる。
いまの香の力では、鬼にまるで通用しない。
体が小刻みに震え出す。
香と鬼の間合いは約十メートル。その距離で、香の体の震えに気
付いたのだろう、鬼が余裕を浮かべて口を開く。
﹁いまの一発で、俺と貴様の力の差を理解できたか﹂
﹁さて、ね﹂
﹁体が震えているぞ?﹂
﹁これは⋮⋮そう、血が出たから、体がビックリしてるのよ﹂
まだだ。まだあたしはなにもしていない。鬼に一泡吹かせていな
い。どうにかして、あの余裕のある顔を変えてやりたい。
香は背筋を伸ばし、呼吸を整える。
相手は、鬼じゃない。師匠だと思え。香は自分に言い聞かせる。
師匠と組み手をする場合に気をつけること。それは、隙を作らな
いこと。
目蓋を閉じて、動きをイメージする。
再び目蓋を開いたとき、香の全身に魔力が漲っていた。
︱︱とにかく、速く。
香は全力で鬼に向けて跳躍した。
︱︱隙を作らないよう、動きは小刻みに。
454
打ち抜いた拳を引き戻し、体勢を整える。
︱︱相手の死角に入り込む。
香は鬼の背後に回り込むように動く。
一つ、一つ。丁寧に拳を振り抜く。隙を見せず、相手の行動を鼓
舞しで封じていく。相手が反撃に出た瞬間、香はその後に生じる死
角に向けて体を動かした。
一歩ずつ、鬼の体に拳が近づいていく。
もう少しで届く!
予感した、その時︱︱。
突如、香の体が後方に吹き飛んだ。
今度は、意識は飛ばなかった。
鬼は、攻撃が当たりそうになった瞬間、体から魔力を放出して香
の体を吹き飛ばした。痛みも衝撃もない。けれど、絶大な魔力の塊
が香の体を押し流した。
もう少しだと思ったのに。
渋面となった香は空中で体勢を整えて地面に着地する。
着地したと同時に、香は息を呑んだ。
目の前に、鬼がいた。
﹁なっ︱︱﹂
香は驚愕と同時に、己の浅はかさを呪った。魔力を帯びて肉体を
増強した香は、鬼と刹那の戦闘を繰り広げていたのだ。空中を押し
流され着地するまでの時間があれば、いまの香ならば相手に三度は
攻撃を当てられる。おそらく鬼もそうだろう。だからこうして、香
の目の前に立っている。認めたくないことだが、いまこうして香が
立っていられるのは、鬼が空中にいる香に追い打ちをかけなかった
からだ。おそらく鬼ならば、追い打ちくらいできたはずだ。
情けを、かけられたのか。
香は悔しさのあまり目頭が熱くなった。
﹁まだやるか?﹂
﹁ったり前でしょ!﹂
455
そこから香は無我夢中で、己の持てるすべての技を惜しみなく繰
り出した。拳と足を使い、時折フェイントを持ち出して鬼を翻弄す
る。
鬼は時々、香の動きについてこれなかった。いける。攻撃を、当
てられる。そう確信するが、鬼は魔力を巧みに使い香の攻撃を難な
く避けた。魔力を放出し、空を飛翔し、あるいは体を硬化させ、反
撃に転じる。香と鬼の体術の技量は、さほど開いてはいない。むし
ろ、純粋に肉体の動きだけならば、香の方が一枚上手かもしれない。
だが、魔力を扱う能力が、圧倒的に違いすぎて話しにならない。
香は手ひどく殴られ、蹴られ、地面を何度も転がされた。時々意
識を失いもした。それでも香は、無我夢中で鬼を攻め続ける。
香が攻撃の手を休めるまでに、どれほどの時間がかかっただろう。
香の意識は途中途中が途切れていて、正確な時間がわからない。
肩で呼吸をしながら、香は目に入りそうになった血液を腕で拭っ
た。体のいたる箇所から血が滲み、溢れている。先ほどから鼻血が
止る気配がない。呼吸が苦しくて、口に入ると鉄さびの味がする。
鬱陶しいことこの上ない。
﹁貴様は死にたいのか?﹂
鬼が眉間に皺を寄せながら口を開いた。鬼との距離は五メートル
ほどある。対人間ならば安全な距離ではあるが、相手は鬼である。
いつ突っ込んで来てもいいように、香は臨戦態勢を崩さない。
﹁あたしが、死にたいように、見える?﹂
気管が熱い。香は途切れ途切れ、言葉を吐き出した。
﹁ならば、何故攻撃を辞めぬ?﹂
﹁そんなの、決まってるじゃない。あたしは、姉さんのために⋮⋮
ううん、違う。あたしは、あたしのために、攻撃してんの。あんた
を、倒せば、それですべてが、うまくいく。失敗するかもしれない
けど⋮⋮うまくいくかもしれない。うまくいく、可能性があるなら、
あたしは、それにすべてを賭けるのよ﹂
とはいえ、現時点で鬼を倒せる確率など一パーセントもない。香
456
が言うように、可能性はゼロではないかもしれない。だがその程度
の確率など、ゼロに還元されてしまうものである。
勝てる見込みはゼロである。それは、香も判っている。けれど、
絶対に、引けない。ここを引いてしまえば香は、おそらく香として
の自己を保てない。
十二年生きてきた人生で培われた、十二年分のアイデンティティ。
しかしそれを極微と侮れる人間が、はたしているだろうか? 十二
年であろうと百年であろうと無関係である。生きていればそれが﹃
全﹄なのだから。
関係あるのは、人格を形成する要素が多いか少ないかだけ。香は
十二年で、当然人格を形成する要素は少ない。
︱︱だからこそ、自己を形成する要素の一つが消失することを怖
れるのだ。それこそ、世界の終わりの到来よりも。
香は、ふらふらとした足取りで、無造作に鬼に近づいた。
鬼は香を見ることもしない。近づいたという気配だを感じ取り、
長いため息を吐き出した。
香が鬼の間合いに入り込むと同時に、鬼が左腕を払った。それは
小蠅を追い払うような手つきだった。
だが︱︱。
﹁む?﹂
鬼の拳が香の頬で止った。拳の、物理的エネルギィが僅かに香の
体を動かした。しかし、それ以上は変かが無い。鬼の拳には、コレ
まで通り魔力が込められている。だが、香は吹き飛ばなかった。
﹁なるほど。自らを硬化させたのか﹂
すぐさま鬼は、香の変化に気がついた。
香は僅かに口を斜めにする。
﹁これ以上は身に触ると思って手加減をしていたが。なるほど、心
はまだ折れぬか。ならば仕方ない。このまま延々と嬲り、折角の母
胎が壊れては叶わない。抵抗出来ぬよう一息に意識を刈り取ろう。
多少の後遺症は覚悟してもらうぞ﹂
457
そう言うと、鬼は右拳を後ろに引っ張った。
その拳が最後方に到達した瞬間、鬼は驚異的な速度で拳を打ち抜
いた。
避けられない。香の意識が諦める。
まだだと、香の無意識が叫ぶ。
まだ、やれる!!
刹那︱︱、香の魔力が頂上を覆い尽くした。
鬼が振り抜いた拳が、香の眼前で停止。
しばし停止した後で、急速に拳は鬼の体ごと後方に離脱した。
﹁︱︱くっ!﹂
魔力の塊に飛ばされる鬼が、空中で苦悶の声を上げる。
いまだ!
香は打撲や流血のために鈍くなった体に喝を入れ、前方に跳躍し
た。後方に吹き飛ばされる鬼の体に、香がぐんぐん迫る。
その距離、壱メートル。
香は鬼の直上から、
落下に合わせて拳を振り抜く。
だが︱︱。
﹁甘い!﹂
鬼は空中で反転。
香の拳を躱す。
さらに鬼は魔力で体勢を整え、香の腹部に膝を突き出した。
膝が腹部に接触する、その前。
コンマ一秒の刹那。
香は、空を飛翔した。
鬼の膝が接触するより早く、香の体が地面より拾メートルの位置
まで浮かび上がった。
﹁ばかな⋮⋮﹂
ここへきて初めて、鬼の表情が変化した。
おそらく鬼は、魔力の扱いが未熟な香では、自分の魔力技能には
458
決して勝てないと思っていたのだろう。だが、それは見通しが甘か
った。
香は、技を盗むセンスがずば抜けて高い。それは、師匠にも賞賛
された、客観的事実である。
道場で師匠と組み手をしたとき、師匠が新しい技を使えば、その
後、組み手三回以内には香はその技が使えるようになる。使えるよ
うになるとはいっても、体に染みつくわけではない。技の動きだけ
では、本当の意味で会得したとはいえないからだ。
香が繰り出した魔法の業は、この戦いの中で鬼が用いたものであ
る。香はそれを目で見、体で覚え、そして実践した。
鬼が使っていた魔法は、香には難易度が高いようには思えなかっ
た。おそらく、これは魔法の初歩的な業なのだろう。天然理心流で
いえば、柔術や剣術の型と同じ程度かもしれない。
もし、上級業が繰り出されれば、香に勝機はない。
ならばこの瞬間。香の吸収速度に驚いているいまがチャンスだ。
香は飛翔の逆の手順で、鬼に向けて空を下った。
拳を突き出して、その先端にありったけの魔力を集束させる。
﹁っりゃぁぁああああああああ!﹂
香が地に落ちると同時に、山全体が振動した。
459
第三章 魔法少女は、夢を生む。7
山の頂上は、香が巻き上げた土煙に包まれた。しばし、香は土煙
の揺れと物音に警戒する。
一陣の風が、土煙を流し去る。
視界が開け、すぐさま香は鬼の姿を探す。
鬼は、すぐに見つかった。
先ほどまでの絶対的な余裕の表情を消し、無の形相で左下を眺め
ている。視線の先︱︱鬼の左手が、一メートル前方の地面に落ちて
いた。左手の指が小刻みに震える。その震えに合わせて、断面から
血液が溢れ出す。
やった⋮⋮。
香の心の中を、甘美な充足感が満たす。香は大きく息を吸い、吐
き出す。そのとき、一センチほど鬼から焦点が外れた。
目の前に鬼が立っていることに気付いたのは、呼吸を吐ききった
状態のときだった。
そんな⋮⋮。香は驚愕のために体が強ばった。
そこを、鬼の拳に打ち抜かれた。
全身を魔力で強化していたにも関わらず、香は五メート吹き飛び、
さらに三メートル地面を転がった。
痛みはほとんど感じなかった。おそらくそれは興奮状態のせいで
痛みが消えているだけだろう。きっと、打ち身や捻挫だけじゃない。
骨折くらいはしているはずだ。最悪内臓が痛んでいるかもしれない。
それでも香は立ち上がろうとする。
だが既に、香の真正面に鬼の体があった。無理に起き上がれば必
ず攻撃を受ける位置。かといって後ろに下がっても攻撃される。横
もダメ。逃げ場が、ない。
しとしとと、小雨のときに屋根から落下する雨水ように、鬼の左
手首から血液が流れ落ちる。
460
鬼は、相変わらず無表情だった。その無表情の中に、音のない、
色もない、肌だけで感じられる強い怒気が感じられた。その表情の
恐怖から、香は反射的に魔力を高めた。
その瞬間、香は不意に悟った。
次の、鬼の攻撃には耐えられない。それは、鬼が本気を出して魔
力が高まっているからではない。鬼の魔力は先ほどから圧倒的で、
まるで変化はない。
変化したのは、自分だ。
鬼と事を構える前に比べ、香の体を覆う魔力の量が十分の一以下
にまで減少していた。
魔力は、無尽蔵じゃないのか。魔力も体力と同じで限界があるん
だ。香は眉根を寄せてほぞを噛む。
鬼の瞳に、初めて殺意が生じた。
きっとこれが、最後だろう。
鬼は、強かった。香の全力でもってしても、左手を落す程度しか
ダメージを与えられなかった。とはいえそれは、香と鬼との実力差
を考えれば僥倖といえる結果である。香の当初抱いた夢に比べれば、
ちっぽけな結果だったかもしれないが⋮⋮。
鬼は右拳を振り上げ、手を開く。
指の先端の爪が二センチほど伸び、そこに魔力が集結する。
あれで突かれたら一発だ。
爪の潜在火力を素早く察知した香は、そっと目蓋を閉じた。
これが最後。そう思っているのに、不思議と走馬燈は流れない。
誰の顔も浮かんでこない。たぶん、走馬燈ってものは、本当に死ぬ
人間が見るものじゃないんだろう。走馬燈を語るものはすべからく、
生きている人間だから。
鬼の殺意が頂点まで高まる。
不意に、香の前身を暖かいなにかが包み混んだ。
﹁なに死のうとしてんのよ!﹂
背後から聞き覚えのある怒声が飛び、香は驚いて僅かに飛び上が
461
った。地面に尻を打ち、その衝撃により目蓋を開く。
目の前に、鬼の爪があった。鬼の爪は香の三十センチ前で停止し
ている。鬼が、手心を加えているわけでは、なさそうだ。
鼻の先に暖炉の前のような温もりが停滞している。きっと、これ
が原因だろう。
香は後ろを振り返り、怒声の主を見る。
﹁なんで聡美がいるのよ﹂
予測したとおり、背後には聡美の姿があった。
﹁あなたが死にそうだったから。助けてやったんじゃない﹂
﹁別に、助けてなんて言ってないんだけど﹂
﹁言われなくても助けるわよ! それとも、助けてって言われなき
ゃ助けちゃいけないわけ!?﹂
香の脳裏に、彩芽の姿が思い浮かんだ。
﹁それは⋮⋮違うけど﹂
﹁でしょ? 私はね、香を助けたいから助けるのよ!﹂
﹁聡美﹂香の目尻に熱いものがこみ上げる。それを隠すように香は
意地の悪い表情を浮かべた。﹁さっきは絶交だーとか言ってたのに、
どういうつもりよ⋮⋮﹂
﹁うるさいわね! そんなのどうだっていいでしょ!? そんなち
っぽけなこと持ち出して、香が死にそうになってるところを、見過
ごせるわけないじゃない!!﹂
﹁聡美⋮⋮あんた、そこまであたしを︱︱﹂
﹁香が死んだら、私はどうするのよ。紅家で喋り相手が一人もいな
くなるのよ!? しゃべり相手の居ない寂しい人生なんてまっぴら
ごめんよ!!﹂
目に集まった熱いものが、一瞬でかき消えた。
感動を返せ。がっくりと肩を落して香は口を開く。
﹁あんた⋮⋮、しゃべり相手が居ないって、自分で言ってて恥ずか
しくならないの?﹂
﹁いいからさっさとそこを退きなさいよ! もう、持たないから﹂
462
切羽詰まった聡美の声に、香は反論せずに立ち上がる。目の前で
停止する爪を眺めながら、香は後方に退避する。
香が聡美の隣に着いたとき、鬼はおもむろに右腕をまわした。
﹁⋮⋮いまのは、結界の一種か? 見たところ結界師のようだが﹂
﹁まま、ま、まあ。そ、そんなところね﹂
鬼に問われた聡美が足をガクンガクン振るわせながら答えた。聡
美は香ほど暴力沙汰に耐性はない。魔力を直に感じながら睨まれれ
ば、怯えてしまうのも仕方がない。
ただ、それにしても怯えすぎである。
﹁ところで聡美。あんたどうしてここにいるのよ﹂
﹁だからそれはさっき言ったでしょ? 香が︱︱﹂
﹁じゃなくて﹂香は強い口調で遮った。﹁あんた、紅家に雇われて
るからとかなんとか言ってたじゃない。それはどうしたのよ?﹂
﹁そ、そんなのどうでもいいじゃない﹂
﹁どうでも良くないわよ﹂
﹁じゃあ私が助けに来なくても良かったの!?﹂
﹁そんなこと一言も言ってないじゃない!!﹂
ガルル、と二人は牙を向き出しにする。
﹁旦那様のことは、一応ごまかせそう。だから来たのよ﹂
﹁ふうん⋮⋮⋮⋮⋮⋮あっ!﹂
旦那様と言われて、香は初めて父の存在を意識した。そういえば、
先ほどまではここに父の姿があったはずなのだが。いまはどこを見
ても父の姿が見当たらない。
﹁そういえば、父さんってどこにいるんだろう?﹂
﹁そういえばってなによ? いままで気付いてなかったの?﹂
﹁う⋮⋮﹂図星を指摘された香が言葉に詰まった。﹁し、仕方ない
じゃない。姉さんのことが心配だったわけだし。次には鬼と戦わな
きゃいけなかったんだから﹂
﹁戦う? はぁ⋮⋮。ほんと、香って馬鹿ね。あなたね、あれは暁
鬼っていって、この村の厄災を司る神様みたいなものなのよ? そ
463
れと戦うって⋮⋮あなた、どうかしてるわ﹂
﹁仕方ないじゃない。それしか方法がなさそうだったんだから﹂
﹁封印って手があるじゃない﹂
﹁封印するにも少し弱らせなきゃいけないじゃない﹂
香は僅かに頬を膨らませた。
﹁ところで﹂と香と聡美の言葉がハモった。
﹁聡美は封印の方法知ってるの?﹂﹁香は封印の方法知ってるの?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂﹁⋮⋮⋮⋮﹂
香と聡美が無表情のまま見つめ合う。
﹁あんたそれでも紅なの!?﹂
聡美が両手で頭を抑えて嘆いた。
﹁だって、あたしは最近魔法のことを知ったのよ? 封印なんて知
るわけないじゃない﹂
﹁じゃあなんで知らないまま戦ってんのよ!﹂
﹁いや、それは⋮⋮⋮⋮なんとなく﹂
﹁やっぱあなた、馬鹿だわ﹂
はぁ⋮⋮と聡美は香へと突き指すようなため息を吐き出した。
﹁貴様らはなんなんだ﹂
敵がいることも完全に忘れて口論を続ける二人に、鬼が呆れたよ
うに言った。鬼の声を聞き、香は切れた集中の糸を張り直す。
﹁そこの娘。先ほどの術はなんだ?﹂
﹁はひ!? 私?﹂
鬼に見つめられた聡美が体を強ばらせた。
﹁娘。我は貴様に興味がある。我と婚姻の祁を行わないか?﹂
それは、なにか? あたしを捨てて聡美と取るってことか?
﹁⋮⋮っふ﹂
隣で聡美の勝ち誇る鼻息が聞こえた。やっぱり香より私のほうが
女として魅力があるようね︱︱そんな聡美の高笑いが聞こえるよう
な鼻息だった。鼻を綿で詰まらせてやろうか。そんな想像が一瞬だ
け香の脳裏を流れて消えた。
464
﹁あんたね。あたしに求婚して、あたしが手なずけられないからっ
て、今度は聡美に求婚? ったく、これだから男は⋮⋮﹂
﹁まさに鬼よね﹂
﹁悪魔よ﹂
香と聡美は底冷えするような瞳で鬼を見下した。
鬼はその視線に耐えきれなくなったのか、右足で地面を踏み抜い
た。
ずんっ、という鈍い音とともに鬼の足下が割れた。
あわわわわ、と聡美が唇を振るわせる。
﹁あああああ、あなた。なんとかしなさいよ!﹂
﹁あたしもう魔力空っぽなのよ。無茶言わないで﹂
﹁無茶かどうか、試してみたら?﹂
ほら、魔力を練ってみなさいよ、とでも言うような目つきで聡美
に見られ、香は半信半疑体内で魔力を練り上げる。
︱︱すると。
﹁あれ?﹂
魔力が、満ちてくる。先ほどのすっからかんの状態とは比べもの
にならないほど、香の全身を桃色の魔力が覆い尽くしている。
﹁なんで⋮⋮﹂
﹁それが私の結界の特性なの。魔力の壁と同じよ﹂
なるほど。たしかに魔力を放出しても、すぐに充填されている気
がする。
これなら鬼を⋮⋮いや、それは難しいか。先ほどは鬼が香の成長
速度についてこれず、奇襲のような形で攻撃に成功した。だが、も
う二度と同じ手は通じないだろう。それどころか、鬼は警戒を深め、
二度と接近できないかもしれない。
﹁香。逝っといで﹂
﹁うん。⋮⋮⋮⋮うん?﹂
なんか妙な意味が含まれている気がしたけど。気のせいだろうか。
香は鬼に向き直り、飛んだ。
465
聡美に言われたとおり、素直に、愚直に鬼に接近する。
なぜ聡美に言われただけなのに、なんの保証もないのに、作戦だ
って考えてないのに、自分は突っ込めるのだろう?
答えが見つかるまえに、香は鬼の間合いに入り込んだ。
そこで、思考が消える。
体は無意識に、過去の修練の道筋を辿る。
しゅっ、と拳が空気を切り裂いた。
香の拳は鬼に迫り、
しかし途中で鬼の魔力に攻撃がいなされる。
攻撃が当たらないことは織り込み済みだった。
香は即座に後方に退避。鬼との間合いに五メートルにまで広げた。
追撃を待つが、鬼はその場から動かない。
⋮⋮いや、動けないのか。一歩前に足を生み出した体勢で、鬼は
僅かなあいだ硬直していた。
﹁ふむ﹂硬直が解けた鬼が、右手を開閉しながら鼻を鳴らした。﹁
やはり、結界師の魔法か。これは、束縛型からの派生魔法か。非常
に興味深い﹂
ぼそぼそと呟いた鬼の言葉の意味が、香はさっぱりわからなかっ
た。ただ、おそらく魔法の種類のことを言っているのだろうことだ
けは理解できた。
﹁なるほどね﹂
後方で腕組みした聡美がふむぅ、と唸った。
﹁やっぱ香じゃ鬼は倒せないわ﹂
﹁どうしてよ?﹂
﹁実力が違いすぎるわ﹂
聡美の指摘はもっともで、香はそれに反論することができなかっ
た。
﹁⋮⋮じゃあどうすればいいのよ?﹂
﹁さあ?﹂
聡美の返答を受けて、香は拳に力を溜める。
466
﹁ところで、ねえ聡美? あんたさっき、どうしてあたしを鬼に突
っ込ませたの?﹂
﹁ええとそれは、その⋮⋮なんとなく⋮⋮勢いっていうか⋮⋮﹂
﹁ん?ちゃんと言ってごらん?怒らないから﹂
怒らないが殴りはするかもしれない。香の魔力がそう言外に伝え
る。聡美はふるふると震え始める。
﹁じょ、冗談よ。あ、あなたの魔力の使い方を見てたんだから﹂
﹁ふぅん﹂香はしらけた目で聡美を凝視する。
﹁香は⋮⋮そう!香は魔力を放出しすぎるのよ。無駄がありすぎる。
魔力はもっと放出しないように、体に止めておくように心がけなさ
い﹂
﹁うん﹂
香は殊勝に頷いた。一瞬、適当なことを言われるのかと思ってい
たが、存外的確な指摘ではあった。
﹁で、それで鬼が倒せるようになると?﹂
﹁さあ? どうだろうね﹂
﹁あんた、少しは真面目に考えなさいよ!﹂
あなたが魔力を使いすぎて結界が解けたら
﹁真面目に考えてるわよ! 結界内の魔力を無駄に使われると、こ
っちも大変なのよ!
どうしてくれるよの!﹂
たしかに、言われていることはもっともだが、何故だろう? 素
直に納得できない。相手が聡美だからだろうか? たぶんそうだろ
う。
﹁聡美は、どうすれば鬼に勝てると思う?﹂
﹁どうやっても勝てないと思う﹂
﹁聞いたあたしが馬鹿だった﹂
﹁ばーかばーか!﹂
﹁ぶっとばすよ!﹂
香は思いきり足を踏みならす。地面が揺れ、聡美が震える。
﹁そうやってすぐ暴力を振るうのはイクナイと思います!﹂
467
﹁振るってないから⋮⋮﹂
はぁ、と息を吐き出して香は聡美との会話を打ち切った。鬼を見
据え、臨戦態勢となる。すぐに戦闘が再開される。それを鬼が察知
したのだろう。鬼の体から放出される魔力がにわかに増加した。
攻撃を再開した香は、自らの魔力の好調さに驚いた。これもすべ
て聡美が魔力を供給してくれているからだろう。先ほどの妙な体の
だるさがほとんど感じられない。とはいえ、体力は確実に消耗して
いる。初めの機敏な動きはもう見る影もない。しかし、そのデメリ
ットが香にとって逆に作用した。
香は体の動きの悪さを、無意識に魔力でサポートする。
そのサポートは初めのころに比べると、圧倒的に自然で、スムー
ズだった。
とはいえ魔力での筋力サポートは、鬼との戦闘を確実に有利に進
められるほどのものではない。筋力サポートは魔法の基本中の基本
だからだ。
それを理解している香は、筋力サポートに頼り切りにならなかっ
た。あくまでそれは、動かない体を支えるためのものにすぎない。
香は体に染みついた道場での型をなぞり、鬼を翻弄しにかかる。
時折、香が手を間違えて隙が生まれた。しかしそこを、聡美が見
えない障壁のようなもので鬼の動きを封じた。鬼の反撃は失敗し、
香は辛うじて間合いを取ることに成功する。
中学校に現れたテンソウメツのときのように、がっちり体を固定
させれば、香にも勝機が生まれたかもしれない。だが鬼の力は、テ
ンソウメツとは比べものにならない。きっと、ほんの一瞬反撃の手
を遅らせるだけで精一杯なのだろう。
香は十度拳を打ち込み、五度反撃を回避した。
攻撃は、すべて当たっていないし、当てられてもいない。
だが香は膝をつき、肩で息をする。喉の奥で掠れた音がひゅーひ
ゅーと鳴った。対して鬼は、いまだに鼻で息をしている。おそらく
魔力で蓋をしているのだろう。手首からの出血はほとんど止ってい
468
る。
いまは片手がないからこの程度だが、もし鬼が両手を使えたら、
とっくの昔に戦いは終わっていたかもしれない。考え始めると、香
の背筋が冷たくなる。
﹁どうした? もう終わりか﹂
﹁ま⋮⋮まだ、まだ﹂
強気に答えるが、言葉は途切れ途切れだった。口の中がからから
で、唾を飲み込むと喉の奥がへばり付く。飲み込む唾もなく、へば
りついた喉がひりひりと痛んで、香はたびたびせき込んだ。
強がってはいるが、誰がどう見ても香は限界だった。普段まった
く走らない人がフルマラソンを走り終え、もう一度すぐにフルマラ
ソンを走らなければいけない︱︱そんな不可能感が、香の全身を支
配していた。
香は立ち上がり、両手で頬を張った。
乾いた音が、頂上に鳴り響く。
深く息を吸い込んで、停止。
香は再び全力で鬼に向かう。
一瞬で鬼の懐に飛び込み、
左拳で牽制。
鬼はそれを律儀に払う。
次の瞬間、
香の右拳が地面から持ち上がる。
左手で作り出した死角からの攻撃だった。
鬼がその攻撃に気付いたのは、顎の先二十センチ手前だった。接
触までコンマ一秒もない。
鬼は全身の魔力を放出し、しかしそれが見えない壁に阻まれる。
香は、飛ばされない。
当たれ!
香は奥歯をかみしめて、拳を振り抜く。
だが︱︱、
469
﹁⋮⋮あれ?﹂
香の視界が、下に沈んだ。
拳が、哀しげな音を立てて空を切る。
なにが起ったのか、わからなかった。踏み抜く足下は魔力で硬化
させていた。だから地面が沈んだわけじゃない。であれば、鬼が地
面の下に罠を張っていたのか。
ふと、香の視界が白んだ。
それとほぼ同時に、香の耳から音が消えた。
体の変化は一瞬で元通りに戻った。だが、香は体勢を維持できず、
地面に倒れ込んだ。
470
第三章 魔法少女は、夢を生む。8
﹁香!﹂
後ろから、聡美の声が聞こえた。
それに応えようとするが、声が出ない。声が出せないくらい、香
の体は呼吸を欲していた。
息が苦しい。体が熱い。血が⋮⋮足りない。
﹁いったい⋮⋮なにを、したの﹂
これは鬼の魔法かなにかだ。そう判断した香は僅かに動く首を持
ち上げ、鬼を睨んだ。
﹁自分では気付いていないのか。ならば教えてやろう。貴様の体は
既に限界だ。いや、限界を超えている。並の人間ならば、意識が消
失していることだろう。しかし、貴様の精神力は意識の消失を許さ
なかった。故にいま、貴様は意識を残している。だが体はしばらく
動かせまい﹂
﹁ど︱︱﹂
どいういうことだ? 体が、限界? そんなことはない。体は動
く。動いていた。信じられず、香は体を立て直そうとする。だが、
まったく動かない。魔力で体をサポートしても、うんともすんとも
言わなかった。
﹁なまじ、魔力を使えるからそうなるのだ。魔力は筋力をサポート
するが、筋肉の代わりにはならん。体力が尽きても魔力で無理に動
かし続ければ、動けなくなるのは必至﹂
﹁⋮⋮っ!﹂
これが、あたしの限界?
こんなのが、限界なのか?
﹁そこの娘﹂鬼は聡美を見た。﹁この娘はもう我とは戦えない。さ
て、貴様はどうする? 我と戦うか? 見たところ、魔力総量だけ
はかなりのものだが﹂
471
﹁いいいいい、い、いえ! めっそうもございません! なにとぞ
ご容赦を!﹂
平に平に。聡美は土下座をして許しを請う。
﹁あんたには、プライドってもんはないの!?﹂
﹁プライドだけで生きて行けるわけじゃないのよ!﹂
命が大切。たしかに聡美の言う通りかもしれない。香は己の思い
上がりと、あまりの無力さに泣きたい気分になる。
﹁貴様が婚姻の祁を引き受けるならば、紅の娘の命は見逃してやろ
う﹂
﹁私、悪魔と結婚とか無理だし﹂
即答だった。
﹁ちょっと聡美!﹂
聡美の返答の速さに香がいきり立つ。
﹁あんた、あたしの命とかどうでもいいの!?﹂
﹁うーん﹂
﹁悩むな!鬼!悪魔!﹂
﹁鬼も悪魔もアッチでしょ! 馬鹿なこと言わないで!﹂
鬼の魔力が不気味に揺れ動き、香と聡美は口を閉じた。
﹁もう良い。遊びはこれまで。我はそちらの娘で子を成すことに決
めた﹂
鬼は足を上げ、地面に這いつくばる香めがけて振り下ろした。
香は地面を転がり、寸前のところで鬼の攻撃を回避する。
﹁諦めが悪いな、紅の﹂
﹁諦めたら、あんたは引くの? 違うでしょ?﹂
﹁いかにも﹂
﹁なら諦めらんないね﹂
﹁ならば死ね﹂
鬼は右手を持ち上げる。
指の先の爪に魔力が集結、
香に突き立てる。
472
香は体を回転させる。
しかし、体は想像以上に重かった。
回転の途中、
仰向けになった香の腹部に、
鬼の手刀が滑り込む。
︱︱その寸前、
鬼の手が僅かに停止した。
香の体が回転し、死線を超えたところで、
鬼の手が再び動き出す。
紙一重だった。
香の着物を僅かに裂いて、鬼の爪が地面に突き刺さった。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
鬼がもたらした殺意に飲まれ、香の背筋が冷たくなる。
﹁⋮⋮ふむ﹂
鬼は地面に突き刺さった手刀を眺めながら鼻を鳴らした。
﹁その束縛型の魔法。先ほどから気になってはいたが、こうも邪魔
をされると少々気に障る﹂鬼が聡美を睨む。﹁紅の娘を殺し終える
までは、眠っていてもらおうか﹂
そう言うと、鬼は一瞬で聡美との距離を詰めた。実に刹那の出来
事だった。
鬼は聡美で婚姻の祁を行うつもりだから、殺しはしないだろう。
おそらく気絶させるだけのはずだ。
そうは思っているけれど、香は無意識に上体を持ち上げた。
誰も、傷つけない。誰をも守り抜く。
傷付くのは、自分だけでいい。
香は食いしばり、必死に体を動かそうとする。しかし、腕を突い
て上体が僅かに浮いただけ。それ以上、体はうんともすんとも言わ
ない。
鬼が腕を振り上げ、爪を立てる。
聡美はいままさに、鬼に爪を突き立てられようとしている。
473
なのに、何故だ。
なんで体が動かないんだ!
﹁さ︱︱﹂
聡美。その言葉を言い終える前に、
鬼の腕が振り下ろされた。
⋮⋮間に合わない。
香が絶望し、目をそらしたその時、
キズミ山の山頂にひときわ甲高い音が鳴り響いた。
﹁おいおい、紅香。なにやってんだよ。それでもお前は俺が認めた
最強の盾か?﹂
背けた目を戻すと、鬼の影に隠れて小さな光が瞬いた。
それは、白銀の輝き。
折れた日本刀の光だった。
声の主が誰か、香はすぐにピンときた。
﹁達也!?﹂
﹁おうよ!﹂
達也は威勢良く答えた。香は僅かに体をずらし、達也の姿を確認
する。達也は、いつも通りのジャージ姿だった。その手には折れた
日本刀が握られている。折れた日本刀が、鬼の爪を受け止めている。
﹁どうしてあんたがここにいるのよ﹂
﹁どうして? それは愚問だな。俺は最強の矛だぜ? 最強の敵が
現れたとき、最強の矛が居なくちゃ話しにならないだろ﹂
話しって、なんの話だ。香は呆れてため息をつく。
﹁達也、足震えてるよ﹂
﹁う、うっせ!﹂
達也の足は遠目でもわかるくらい小刻みに震えている。
﹁こ、これは鬼の攻撃の重みに肉体が耐えてる証拠だ!﹂
﹁既に力は抜いているが?﹂
﹁ぐ⋮⋮﹂
鬼の指摘に達也が言葉を詰まらせた。
474
﹁いいから達也は帰んなさい。これは紅家の事情。達也が出る幕は
ないわ﹂
﹁俺の先祖は昔、鬼退治に参加してたんだぜ?﹂
﹁そうかもしれないけど︱︱﹂
﹁それに!﹂達也は強い口調で香の言葉を遮った。﹁俺のじいちゃ
んが死んだ。じいちゃんが死んだのは、俺が、ここの結界に傷を入
れたからだ。俺は、許せないんだ。俺がやったことなのに、俺の知
らないところで、全部終わってたことが! 結界に傷を入れたのは
俺なんだぜ? その責任を、どうして俺に取らせてくれない?俺が
なにも知らないまま、じいちゃんが責任をとらなきゃいけない?俺
の知らないところで、どうして勝手に決着がついてんだ?﹂
達也は一度、唇を噛んだ。
﹁俺が許せないのは、責任が取れない俺自身だ。責任を取らせても
らえない、無力な俺自身だ。だから俺はこうやって、責任を果たす。
結界を解いたことと、じいちゃんがそれで死んだことと。チャラに
はできそうにねーけどな。でもよ、それでもよ紅香。男には、やら
なきゃならねーときがあんだよ! っぅら!﹂
気合いの声とともに、達也は鬼の腕を押し返した。力を抜いてい
ると言っていたから、そう力む必要はなかっただろう。しかし、そ
れはきっと達也に必要な気合いだったはずだ。達也を束縛していた
負の感情を払うために。
﹁む?﹂
鬼が僅かに首を傾げる。原因はおそらく達也が持っている刀だろ
う。先が折れ、刃こぼれしているはずのそれが、ぼんやりとした光
を帯びている。
﹁俺が山に入った理由はな、紅香。これなんだよ。骸骨を倒した日
から、なんとなくこの刀が気になったんだ。気になって持ってみた
ら、こんなふうに光り始めた﹂
それは、間違いなく達也の魔力だった。達也の魔力が刀に流れ込
み、ぼぅと発光しているのだ。
475
その刀はおそらく、正常な刀と同じか、あるいはそれ以上の潜在
能力を秘めているに違いない。刀を見た香はそう推察した。
﹁いろいろ使い方も調べてみた。たとえばこんなふうに﹂
おもむろに達也は刀を振った。
するとその先端から光の刃が飛び出し、鬼に迫る。鬼はそれを腕
でガードする。
鬼の腕には多くの魔力が籠もっていた。おそらく硬化の業を用い
ていただろう。しかし、その腕にうっすらと赤い線が現れた。
﹁なるほどな﹂と鬼は言った。﹁年端も行かぬただの小僧と思いき
や、さすがは山南の子孫といったところか﹂
自らの腕にできた傷を確認し、鬼は達也を睨んだ。その眼光には
凄まじい殺気が込められている。
睨まれた達也の足が、がくがくとさらに大きく震えだす。
﹁どうだ紅香! こ、これが最強の矛の実力だ!﹂
﹁最強の矛さんのキモがやたら小さいことだけはわかったわ﹂
あきれ果てて、頭痛がしてきた。
﹁あんたってどうして人の言うことを聞かないのよ。そこの鬼は、
あんたが敵うような相手じゃないのよ?﹂
﹁じゃあなんでお前は挑んだんだよ?﹂
﹁あ、あたしは⋮⋮﹂痛いところを突かれ、香は口を噤んだ。
﹁いいか紅香。白帯が黒帯を倒すってのは、最高に格好いいことだ
ろ? だから俺は、挑むんだよ﹂
﹁判るけど⋮⋮。でも、あんたも鬼も帯してないよ?﹂
﹁全然判ってねぇ!﹂達也は肩を振るわせた。﹁とにかく、お前は
そこで見てろ。俺が、終わらせてやっからよ!﹂
どうやら刀は魔力との親和性が高いのだろう。刀をうまく用いれ
ば、たしかに鬼に手傷を負わせられるかもしれない。だが、使い手
は達也である。
達也は香よりも刀の扱いが上手い。だが、それでも鬼との実力差
が拮抗しているわけではない。ひいき目に見ても、圧倒的に不利で
476
ある。
さっさと逃せば良かった⋮⋮。今更ながらに香は後悔する。少し
前に、怒鳴り散らしてでも追い返せば、もしかしたら達也を家に帰
すことができたかもしれない。だが、達也は鬼に攻撃をしてしまっ
た。その攻撃で、鬼の腕に僅かではあるが傷を作ってしまった。い
ま逃そうとしても、時既に遅し。
鬼は聡美から標的を達也に切替えた。たとえ聡美の邪魔がはいっ
たとしても倒せるという算段なのかもしれない。そう思われても、
仕方がないだろう。なぜなら達也の魔力量は、消耗した香の十分の
一にも満たないからだ。あれでは鬼が魔力を噴射するだけでも粉々
に砕けてしまいそうだ。
﹁達也、逃げて!﹂
﹁逃げろって? 馬鹿を言うな俺はな︱︱﹂
﹁馬鹿はどっちよ!﹂
香はいきり立った。目の前に鬼が居て、少し腕を振るえば殺され
るかもしれない状況である。達也はそれがわかっていないのか?
体を動かして達也を強引に押し返すことができないから、さらに
頭に血が上る。
﹁俺はな、紅香。最強の矛なんだ﹂
﹁それは知ってるから早く︱︱﹂
﹁いいから聞け!﹂達也が大声を発した。﹁俺はお前の事が好きだ
! 好きな奴が死にそうになってんのに、危ないからってそいつを
置いて逃げ出す男なんて、男じゃねぇ。そうだろ?﹂
達也は不器用に、ぎこちなく笑った。
﹁⋮⋮ええと﹂
顔は目を何度も瞬かせる。
﹁くくく⋮⋮﹂
聡美が顔をそらして腹を抱えた。
﹁こらそこ、なんで笑う?﹂
後ろで笑い声が聞こえ、達也が不満そうに眉根を寄せる。
477
﹁だって⋮⋮この、状況で、告白とか⋮⋮⋮⋮ベタすぎる﹂
ぐぷぅ、と聡美の唇が震えた。
﹁く⋮⋮⋮⋮紅香はどうなんだ?﹂
﹁あ、あたし? ⋮⋮どうって?﹂
﹁俺のことを、どう思ってる? も、もしあれなら、その、付き合
ってくれ︱︱﹂
﹁ごめん無理﹂
香の返答で達也が凍り付いた。
ぐぶはぁつと聡美が唾を飛ばした。
﹁しかも⋮⋮即答で。ぐぶ。振られ⋮⋮ハフッ﹂
馬鹿にされているのは達也であり、香ではないのだが、何故か聡
美のそんな姿を見ているだけで腹が立つ。
いつか絶対ぶっ飛ばす⋮⋮。
﹁おい山南の﹂
﹁おうよ?﹂
振られたショックから立ち直れないのか、達也は胡乱げな瞳で鬼
を見た。
﹁我は男が嫌いだ。故に我は他の男をすべて滅ぼす﹂
﹁なんでそこまで、男が嫌いなんだよ⋮⋮﹂
﹁この世に我以外の男がいなければ、世界の女のすべてが我のもの
になるだろう?﹂
﹁最低ね﹂
﹁最低だ﹂
﹁最低だわ﹂
香と達也と聡美の声がハモった。
﹁鬼かと思ったら、鬼畜だったとは﹂
﹁だから悪魔だってば﹂
﹁うるさいっ!﹂
香と聡美の罵声に鬼は声を荒げた。
﹁すまないな山南の。相手が男であれば容赦はしない﹂
478
鬼の全身から殺意がわき上がる。同時に周囲へと魔力が飛んだ。
鬼の魔力からの逃げ場は、ない。
﹁達也!﹂
逃げ場がないと判っていたが香は声を止められなかった。その香
の声に、達也は顎を引く。
﹁︽天然理心流一ノ技︱︱滅思︾﹂
達也の心が消え、刀が自立的に動く。
刀の切っ先が、達也に迫る魔力に触れた。
音はなく、光もない。魔力はなんの前触れもなく、達也を綺麗に
避けて横を通り過ぎた。
その所業に、鬼は唇を僅かに突きだした。
あの刀は魔力も切れるのか。香は刀と、そして達也の業に心の底
から関心した。
︽滅思︾は単純に心を消す技能だ。心を消すだけなら誰にでもでき
る。だが心を消し、体を動かすことは誰にでもできるわけじゃない。
それができるのは、鍛錬で体に刀の動きを覚えさせたもののみであ
る。思考に寄らない、自然な動きを行う。それが︽滅思︾である。
鉄山が香の目の前からふすままで移動したのも、この技である。
とはいえ鉄山の場合、体に動きを刻み込まなくとも︽滅思︾を行う
ことができる︵ふすままで移動する動きを反復練習する者はいない︶
。それこそが境地であり、達也も香も未だにたどり着けない極地で
ある。
達也が振るった刀は魔力を切り裂いた。その瞬間、達也は手首を
捻った。手首を捻ることで魔力の軌道を変更させたのだ。タイミン
ながれ
グは刹那。達也ほど器用でない香は︽滅思︾を用いても、そのよう
な真似はできないだろう。
﹁︽天然理心流二の技︱︱流刀︾﹂
不意に達也は刀の先を落した。
瞬間、鬼が大きく後退した。
ただ刀を下ろすだけの動き。たったそれだけで鬼が数瞬前まで立
479
っていた地面に、大きな亀裂を穿った。
鬼の回避が僅かにでも遅れていれば、鬼の胴体にあの地面と同じ
ような傷が生まれていただろう。
︽流刀︾は相手の小手を切るだけの技で、高い威力はない。しかし、
実際にその技は恐るべき威力を秘めていた。おそらくそれは達也の
持つ刀のおかげだろう。あの刀に魔力を込めた攻撃だからこそ、こ
こまで凄まじい威力の技に変化したのだ。
鬼が攻撃を繰り出し、達也はそれを刀で捌く。二度、三度と刀を
交えるが、魔力も体力も圧倒的に不利に見える達也が、鬼に押され
る様子が微塵も感じられない。
おそらく達也はキズミ山に入ったあの日、魔力が乗った日本刀で
色々と技を試したのだろう。技の使い方を学び、体に染みつくまで
練習したに違いない。でなければ、圧倒的な鬼の攻撃を危うげなく
裁くことなど不可能だ。
更に十度切り結んだところで、達也が口を開いた。
﹁どうだ最強の盾! 俺が最強の矛だということがわかったか!﹂
なにを言い出すのかと思えば、そんなことか。香はこめかみを強
く押える。
﹁どうでもいいから集中しなさい﹂
集中していても殺される相手である。目の前で気を抜くなどもっ
てのほかだ。
十度ほど鬼の攻撃をいなした達也にはまだ余裕が感じられる。天
然理心流の技を使ったところで、足の震えも収まっていた。この状
態なら、もしかしたら︱︱。そのような思いが胸中を駆け抜ける。
だが、これだけではないと、香の理性が告げる。
鬼はまだ、遊んでいるだけだ。なぜなら鬼はまだ、基本業しか使
っていないからだ。これで手の内をすべて明かしているのであれば、
鈴木が神話級と言って危機感を煽らないだろう。
香の予感は、すぐに的中する。
480
第三章 魔法少女は、夢を生む。9
鬼が右手を前に出し、手の平を上に向けた。
その手の平の上に、漆黒の球が現れた。
二十センチくらいあるそれの表面が、時折脈動する。
﹁山南の﹂と鬼は言った。﹁なにか言い残すことはないか?﹂
﹁︱︱︱︱っ﹂
達也はその黒い球が持つ威力を肌で感じ取ったのだろう。口を僅
かに開いたまま、声を出せずにいる。
﹁なにもないか。では、これで終わりだ﹂
鬼が手にした球を達也に放り投げる。
次の瞬間、
放つ腕の勢いとは比べものにならないほどの速度で球が達也に迫
った。
達也はそれを、ぎりぎりのところで躱した。
擦った様子はなかったが、ジャージの二の腕の辺りが音もなく消
し飛んだ。
﹁っへ⋮⋮それだけかよ﹂
恐ろしい攻撃を躱し、達也は余裕の笑みを浮かべる。
﹁まだよ!﹂
背後の聡美が叫んだ。
それを聞き、達也は首だけで振り返る。
躱したはずの魔力の球が、後方で軌道を変え、再び達也に迫って
きている。
今度は、躱せない。
﹁達也!﹂
反射的に香は叫んだ。その声でどうにかなるわけではない。達也
を回避に導けるわけではない。完璧に、無力な声だ。けれど香は叫
ばずにはいられなかった。香は、そうすることしか、できないから。
481
﹁うおおおお!﹂
達也は刀を正面に据え、球を受け止める。
硬質な音を響かせて球と刀が衝突。
球は切れなかった。
ぴたりと日本刀に食いついた球が、徐々に達也を押し込んでいく。
﹁くっ﹂
顔を歪め、球の押し込みに耐える。球の力が圧倒的すぎて、払い
のけることができないのだろう。そして達也はそれを体の中心で捕
らえたため、いなして避けることもできなくなってしまったようだ。
ぎりぎりと、球が刀を押す音が山頂に響く。
達也は一ミリずつ重心を動かし、そして、
﹁︱︱っらぁ!﹂
気合いの声とともに球を力ずくで横へといなし、地面を転がった。
まさに、ギリギリだった。達也は重心を動かしながら、球を反対
側に押したのだろう。まるで、磁石の同極を無理矢理近づけたとき
のような動きで、両者は別方向に反れていった。
おそらく香ではこうはいかない。重心を動かした途端に押し込ま
れ、球の餌食になっていたはずだ。
すごい⋮⋮。
香が賞賛の声を上げようとした、そのとき、
﹁さらばだ、山南の﹂
体勢を崩した達也の直上から、鬼が手刀を振り下ろした。
﹁なっ︱︱!?﹂
その手刀を躱すことなど、できなかった。
達也は目を大きく開き、
手刀が自らの腹部を切り裂く瞬間を、達也はただ凝視していた。
ずんっ、と地面が震動した。
遠くで木々が揺れ、葉が動き、鳥たちの逃げる声が聞こえた。
鬼はすぐに手刀を引き抜き、達也から距離を取った。
腕を振り、手に付着した血液を振り払う。
482
﹁殺すには惜しい逸材であった。もし貴様がもう少し齢を重ねてい
れば、過去の激戦の再来のような戦いとなったことだろう。だが、
男は子どもとて皆殺し。男に生まれた己の運命を恨むことだな﹂
鬼は達也に、背中を向けて語った。死に行く敵は、目に入れる必
要がないというように。
﹁⋮⋮達也﹂
香は、半開きになった口から達也の名前を呼んだ。けれど、達也
はその声に反応しない。
達也の腹部は裂け、そこから血液が大量に溢れ出している。背中
まで貫通したのだろう。地面に血液の溜りが広がっていく。
﹁達也、起きて、達也﹂
香は体を揺らす。けれど、達也の目蓋は開かない。達也の体が、
急速に軽くなっていくように感じられる。熱も、どんどん失われて
いく。
﹁紅の。貴様、いつの間に動いた?﹂
鬼が何事かを言うが、香の耳には雑音としてしか入ってこない。
︱︱魔法。そうだ魔法だ。
椎名が香の腕を接着したのは、おそらく魔法だ。それができれば
もしかしたら、達也は助かるかもしれない。
でも、椎名はここにはいない。
ならばと香は魔力を練り上げて、達也の体に流し込む。しかし、
なんの変化も訪れない。
こう、じゃないのか。体を治すイメージを頭の中できっちり構成
し、香は再度魔力を流し込む。しかし、変化がない。
もう一度、もう一度。変化がない度に、香は奥歯をかみしめて達
也に魔力を流し込む。それが、十度を過ぎたあたりで、達也が目蓋
を開いた。
﹁⋮⋮はっ、く⋮⋮﹂
達也の声が掠れて聞き取れない。香は達也の口元に、耳を近づけ
た。
483
﹁なに?﹂
﹁紅、香。最強の、盾﹂
﹁⋮⋮ううん。違う﹂
最強の盾なんかじゃ、ない。香は首を振る。
﹁お前は、最強の、盾だ。この、村を、守るんだろ?﹂
﹁うん。でも、違う。あたし、達也を、こんな目に⋮⋮﹂
﹁そりゃ、俺が、盾じゃない、からだ。俺は、最強の、矛。攻撃が、
専門だ﹂
へへへ、と達也は掠れて笑う。その表情が、香の心に突き刺さる。
﹁紅、香。お前の目、から、みて、俺は、最強の、矛⋮⋮だっただ
か?﹂
﹁⋮⋮うん﹂
﹁へへ⋮⋮。なら、いいや﹂
達也がなにかを諦め、なにかを受け入れるように呟いた。距離を
置かれたような︱︱あるいはそれは開いた距離をいま実感したのか
もしれない︱︱そんな響きに、香の心が引き裂かれる。
﹁悪いな、紅、香。俺は、お前を、助けた、かったんだけど⋮⋮﹂
﹁いいよ。もう、喋らなくていいから。いま、あたしがあんたを助
けるから﹂
﹁いい、んだ。紅香﹂達也が首を振った。﹁これで、いいんだ。こ
れでやっと、あの世のじいちゃんに、謝れる。⋮⋮いや、俺は、じ
いちゃんのとこに、いけない、かな。きっと、俺は、地獄に、落ち
るだろうな⋮⋮。結界を壊して、じいちゃんを、殺しちゃったから。
⋮⋮はぁ。じいちゃんに、会いたいな⋮⋮﹂
そう呟いて、達也の体から力が抜けた。
ふぅ、と達也の体からなにかが抜け落ちた。それは、魂なのか生
気なのか。香には判別がつかない。けれど、これだけはわかる。
達也はもう、なにも呟かない。
馬鹿なことを言わないし、
おちゃらけないし、
484
ふざけて手旗を聖剣だと言って振りまわさない。
脳天気な達也はもう、ここにはいないのだ。
﹁紅の。貴様、動けなかったのではないのか?﹂
香が地面に倒れていた地点と達也が倒れた地点とは、かなりの距
離があった。にもかかわらず、香は達也の元へと、一瞬で移動して
いた。
﹁動けないから、こんなふうに、死ななくていい人が、死んじゃっ
た。あたしが、動けないからっ!﹂
香のなかで、なにかが弾けた。
瞬間、体内の魔力が爆発する。
﹁紅さ︱︱﹂
隣で鈴木の声がした。香は横を見ずに、それが鈴木だとその者の
魔力で判断した。
﹁⋮⋮すみません。少し、遅れました﹂
﹁遅れた? なにが遅れたの?﹂香は歯を食いしばるように言う。
﹁あんたがいたらなにかが変ったの?達也が死ななかったの?﹂
﹁いえ、そんな。⋮⋮ですが、もしかしたら、あるいは﹂
﹁そう﹂
香は寂しげに目を伏せる。鈴木の話を想像してしまえば、きっと
香は鈴木を責めてしまう。けど、﹃もし﹄の話をするなら、自分に
だって責任はある。もし達也とともに戦えていたなら⋮⋮。その可
能性は、永遠に叶わない。
永遠に、叶えられなかった。己の不甲斐なさに、香は唇をきつく
かみしめる。
せきしんおきみつ
達也の横に転がった刀を、香は手に取った。
赤心沖光。
先端が折れ、刃先がこぼれたそれは、香の手に不思議とぴったり
収まった。
﹁武士の真似事か、紅の。貴様がその刀を使ったところで︱︱﹂
しゅっ、と空気をなにかが切り裂いた。
485
瞬間、鬼の頬に赤い筋が走る。
﹁この刀を使ったら、なんだって?﹂
︽滅思︾。
香は感情のない瞳で鬼を見据えた。
﹁鈴木。結界は、壊れないの?﹂
﹁結界師が生きていれば、解れる確率は限りなくゼロです﹂
﹁そう。じゃああなたは、聡美を守って﹂
﹁はい。⋮⋮え?﹂
鈴木の問いを待たず、香は鬼の懐に踏み込んだ。
︽流刀︾
無造作に振り下ろした刀が、山頂を削った。
刀圧と魔力の爆風により、山頂の木々が一瞬にして消し飛ぶ。
鬼は︱︱無事だった。
刀線を逃れ、爆風を堪え忍んだ。
﹁紅の⋮⋮。貴様、どこにそんな力が﹂
﹁あたしに力なんて、ない。全部、この刀のおかげよ﹂
赤心沖光は魔力を増強する。達也程度の魔力が籠もった攻撃で、
あれだけの威力が出たのだ。香が全力で魔力を込めればどうなるか。
想像に易い。
ただ、それだけではない。
香は、村の守人で、村を守らなければいけない。たとえ敵が強大
であっても、自らの力で村を破壊してはいけない。もしかしたら香
は無意識に、村を守るために自らの力をセーブしていたのか︱︱結
界を張り、村に被害が及ばないと知り、香の無意識の安全装置が外
れたのかもしれない。けれどそんなものはなんでもいい。鬼を消し
うらかすみ
去る力さえ、あればいいのだ。
りつか
︽浦霞︾
さんせん
︽立華︾
︽山川︾
達也が見せなかった天然理心流刀技を、香は次々と繰り出した。
486
当てる刀を翻し霞を見せて敵を斬る。立てた刀を振り下ろし下段
で止めて喉を突く。鬼の拳を躱し、柳の枝のようにしなりを加えた
反撃を繰り出す。
これらはすべて、達也にも使えた技だった。
香は、達也よりも刀の扱いが下手だった。だから達也ならもっと
上手くできるだろう。道場で打ち合いをしたときの、達也の動きを
目蓋の裏に思い起こす。
一つ一つ、刀の動きを達也のそれに重ねてく。
香の目の前に鬼がいる。けれど香が見ているのは、鬼ではなかっ
た。香は、達也と戦っている。
香は達也と、目蓋の裏で、刀を合わせていた。
﹁貴様、本当に人間なのか?﹂
間合いを開けたとき、鬼が僅かに表情を曇らせて言った。
﹁当たり前でしょ﹂香はつまらなさそうに答える。﹁姓は紅、名は
香。村の守人で、最強の盾﹂
そしていまは、最強の矛を持つ。大いなる矛盾を抱え、香は刀を
中段に構えた。
手にべったり付着した血液が、刀との密着を強くする。香の血が
自立的に動き、刀の刃を上っていく。それが刀に送り込んだ魔力を
増強する。
香は不意に、ガシャドクロに腕を切り落とされたときの、椎名の
言葉を思い出した。
﹃香ちゃんの血液を摂取したから、お化けは満足して帰っちゃった
んだよ﹄
つまり、香の血液には悪魔を満足させるなにかが︱︱たとえば大
量の魔力が、込められているのではないか。あるいはそれは魔力で
はなく、魔術的な存在なのかもしれない。それを解明することは、
現状では不可能だ。香は魔法に対してなにも知らなさすぎる。
﹁もう、終わりにしましょう﹂
香はそう呟いた。
487
左膝が先ほどから動かないし、足に力を込めると右の太ももが不
気味にズレる。右手の小指は真逆に曲がったままだし、さっきから
口の中の血が止らない。
次にぶつかれば、きっともう、体は動かなくなる。そのまま死ん
でしまうかもしれない。だから、これが最後だ。
最後だから、すべてを込める。
香はありったけの魔力を刀に込める。
白銀の刀が、徐々に桃色に染まり、そして、紅に変った。
香が動くと、鬼も動いた。
鬼は周囲に、漆黒の球を一瞬で十数個生み出した。
﹁ならばこちらも、全力で受けて立とう﹂
あの球は、追尾する。避けてもいずれ追い詰められて被弾する。
いまの刀のポテンシャルがあれば、球を切り裂いて破壊することく
らいはできるはずだ。だが一つ一つ破壊しても、鬼は新たに球を生
み出すだろう。消耗戦になれば、間違いなくこちらが負ける。
圧倒的に不利なこの状況で、しかし香は一つも臆することはなか
った。
勝てると思っているわけではない。もちろん、負けることも考え
ていない。香はただ鬼と同じ位置で、対等に、全力でぶつかれる。
それを喜んでいるだけだった。
﹁天代魔討。紅香、参ります!﹂
刀を垂直に固定し、香が飛んだ。
同時に、鬼が産みだしたすべての球が香めがけて飛来した。
香は僅かに体を折り曲げ、
そして︱︱、
すべてを魔力で吹き飛ばした。
﹁な︱︱﹂
この状況をまるで想像していなかったのだろう。十数個の魔力の
球が香の魔力で弾かれるのを目の当たりにし、鬼は驚愕の表情を作
った。
488
魔力の球が飛んできたとき、香は刀に込めた魔力を爆発させた。
香の魔力のすべてを込めた刀が、魔力を増強し、放出された。それ
は香の体から直接放出したときに比べ、何倍もの威力を持った爆風
となった。故に、魔力の球はすべてはじき飛ばされ、その魔力の威
力により次々と爆散した。
だがその一手で、香は魔力のほとんどを失ってしまった。なぜな
ら香は刀に、己のすべての魔力を込めていたから。
しかし、香は止らなかった。
刀を左の腰に据え、鬼の懐に飛び込む。
香の瞳と鬼の瞳が宙で交わった。
﹁甘い!﹂
鬼はすぐさま己の肉体を魔力で強化する。
﹁魔力のない刀で俺を切れると思ったか!﹂
﹁甘いのは﹂香が口を開いた。﹁そっちよ﹂
香は最も自然な動きで、刀を抜いた。
軌道の限界点で、刀がぴたり停止する。
︱︱名前をガツンと叫んで攻撃するのが男のロマンなんだよ!
馬鹿馬鹿しい言葉が、耳朶に蘇る。
なにが男のロマンだ。
おうかいつせん
けれどそれは達也を葬る、どんな言葉よりも、相応しいだろう。
﹁紅式抜刀術︱︱︽桜花一閃︾﹂
香が技の名を呟いた、
次の瞬間︱︱、
自然の息吹が山頂から消滅した。
489
第三章 魔法少女は、夢を生む。10
真っ白に染まった視界が、徐々に元の色を取り戻し始める。
香は片膝を突いた姿勢で、浅い呼吸を繰り返す。もう、臨戦態勢
になれるほどの気力はない。鬼の攻撃を躱す余力もない。
土煙が収まるまで、大凡一分ほどの間が空いた。土埃が地面に落
ちる音と、香の掠れた息の音以外、完全になにもない間だった。
視界が戻る直前、香は耐えきれずに地面に倒れ込んだ。もう、片
膝立ちの姿勢も維持できない。折れた骨が肉を突き破ったのだろう。
右の太ももから血が滲んでいる。左膝の関節がズレて、膝の下が横
を向いている。もう、なにがあっても立てない。
不意に、香が手にしていた刀が、一瞬にして砕け散った。おそら
く、香の魔力に耐えられなかったのだろう。刀身から束にいたるま
で、粉砕器にでもかけられたかのように砕けてしまっている。
地面に頬を付けた状態で、香は鬼の姿を探す。
鬼の姿はすぐに見つかった。鬼は、香と衝突した場所から一歩も
動いていなかった。その場所で仁王立ちをしたまま、香を横目で睨
んでいる。
だめだったか。
鬼の姿を確認した香は、しかし落ち込むことはなかった。香が持
てる全てを出し切ったのだ。もし仮に香が無傷で無疲労であれば違
ったのだろう︱︱しかし、命さえも賭して。ここまで死ぬ間際まで
一心不乱に戦えたのだ。落ち込むことなど、一つもない。
﹁⋮⋮ぐ﹂
不意に、鬼の上体がぐらついた。
何事だ? 香は鬼の背中をじっと見つめる。背中に、一筋の赤が
現れた次の瞬間、鬼の上体が横にズレた。
鬼が崩れ落ちるのは、一瞬だった。
鬼の上体が地面に落ち、残された下半身が起立を持続する。名も
490
無い芸術家が作った奇抜な噴水の如く、下半身から鬼の血が溢れ出
した。それとほぼ同時に、鬼の上半身からも勢いよく血液が噴出し
た。
﹁⋮⋮ぐっ。何故。貴様は、魔力弾をはじき返したとき、魔力が空
になったはずではなかったのか﹂
鬼が地面に頬を擦りつけた状態で、香を睨んだ。
﹁空になったわよ。だけどね、忘れてない? うちの結界師は最高
なのよ﹂
香が口を開いているあいだにも、みるみる自然回復を上回る速度
で魔力が体に補填されていく。その様子を見た鬼が、なるほどと納
得の表情を浮かべた。
﹁あの一瞬で僅かに魔力を回復し、それを刀に送り込んでいたか。
通常であればさして痛手を負うほどの魔力ではなかったが、その刀。
誠に強い魔術回路を備えているようだな。僅かな魔力を流し込むだ
けで、切れ味を増す魔術道具だということを、失念していたわ﹂
鬼が乾いた咳をすると、その口元から血液が飛び出した。
﹁あんたがもし、小学校に現れた骸骨みたいな相手だったら、あた
しは勝ち目がなかったでしょうね。骸骨は最初から最後まで、全力
であたしを叩きつぶしにきていたわ。もしあんたが最初から全力で
あたしを叩きつぶせば、あんたの胴体は切り離されることはなかっ
たはずよ﹂
﹁⋮⋮っふ﹂
香の言葉に、鬼は柔らかい笑みを浮かべて瞳を閉じた。
香はこの戦いを、決して無謀だと捉えなかった。過去に香は師匠
との組み手で、何度か勝利を挙げていた。それは香が師匠よりも勝
った故に付いた白星ではない。香が子どもで、師匠が圧倒的に強い
存在の大人だったからだ。
つまり︱︱、
﹁相手を侮り過ぎたということか﹂
油断こそがこの勝負の行方を左右すると、香は確信していた。
491
相手が理性的であり、かつ相手よりも圧倒的に強者である場合、
そこに必ずおごりが生まれる。鬼の腕を、そして胴を切断できたの
は、鬼に勝るなにかが香にあったからではない。鬼が香を侮ってい
たからだ。
再び鬼が目蓋を開いたとき、激しい感情の高ぶりが瞳に現れてい
た。それを見た香の背中が、急速に温度を下げた。
﹁よろしい。ならば婚姻は貴様にて結ぶとしよう﹂
﹁はぁ? なにを言ってるのよ? 婚姻って、あんた儀式はもうで
きないでしょ?﹂
﹁婚姻の祁がどのようなものか、貴様は知っているのか?﹂
鬼の言葉に、香は僅かに言葉を詰まらせた。
﹁⋮⋮し、知らないけど﹂
﹁ならば身を以て教えてやろう﹂
突如、大きく開かれた鬼の口から、拳大の魔力が放出された。速
度はそれほど速くはない。だが、香はそれを避けられない。体が、
動かない。
アッという間に、真っ黒な魔力が香の体を直撃した。
目を堅く瞑るが、痛みはない。恐る恐る目蓋を開く。香の体には、
しかし異常は見当たらなかった。魔力がぶつけられたはずなのに。
しゆし
﹁⋮⋮⋮⋮どういうこと?﹂
﹁鬼は娘に呪子を授ける。それが、婚姻の祁。呪子を宿した貴様は、
いずれ子を成す。貴様は、我の子を、必ず生む。貴様は死ぬまで、
力を子に送り、子を成長させ続けるだろう。力は魔力。そして、成
長力。貴様はもう二度と、肉体的に成長することはない﹂
﹁なんて⋮⋮﹂
なんということだ。香は自らの下腹部に手を当てた。じっと気配
を探るが、全然身ごもった雰囲気は感じられない。鬼の子どもは人
間と同じ生まれ方をするのか? ⋮⋮いや、違うかもしれない。そ
もそも受精のプロセスそのものが違う。おそらく、香では予想も付
かない生まれ方をするはずだ。もしかしたら鬼の子の命は、子宮で
492
はなく他の違う箇所に宿っているのかもしれない。
いやいや、問題はそこじゃない。香の前身の毛が逆立った。
﹁肉体的に成長しないってどういうことよ!!﹂
﹁これは呪いだ。子を成長させるために、貴様の成長エネルギィを
い吸い上げる。良かったな。貴様は死ぬまでその姿のままだ﹂
﹁ちっとも良くないわよ! なんということを⋮⋮。これから胸が
大きくなって聡美もビックリの体になる予定だったのに! あんた、
なんてことしてくれてんのよ!!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
鬼は呆然として香を見つめる。なにか言いたげだが、あえてそれ
は問わないでおこう。言いたいことは大体わかる。だが香は、この
怒りの迸りを抑えきれなかった。
﹁おほん、とにかく﹂怒りを放出しきった香が、やや熱が残る声で
言う。﹁あたしは、生まれたばっかりの子を倒せばいいわけね﹂
﹁な︱︱﹂鬼は目蓋を大きく開いた。﹁き、貴様。自らの子を殺す
だと? 貴様はそれでも人間か?﹂
失敬な。香は頬を膨らませる。
﹁そもそもあたしの子なんて認識ないし﹂
﹁自らの子を認知さえしないとは。貴様は鬼か悪魔か?﹂
﹁鬼も悪魔もあんたでしょ!!﹂
あんたに言われたくはない。
﹁まあ、良い。鬼の子を産み落とし、それを倒すつもりならばそう
するが良い。鬼の子を、貴様が判断できるならばな﹂
﹁あたしが判断?﹂
﹁生まれた子を殺さぬための仕掛けだ。子を守るためには、当然で
あろう﹂
﹁どういう意味? 仕掛けってなによ?﹂
香は詰問するが、鬼は目蓋を閉じて、深く息を吐き出し、鬼は再
び息を吸い込むことはなかった。
そして︱︱、
493
鬼から生じた悪魔の咆哮が、
キズミ山を消した。
494
第三章 魔法少女は、夢を生む。11
体内に充填された魔力により、香はぎりぎりのところで悪魔の咆
哮の難を逃れた。もし聡美が結界を張っていなければ︱︱あるいは
香が地面に倒れていなければ、悪魔の咆哮の本流に巻き込まれて命
を落していたかもしれない。
鬼が消滅してしばらくたったとき、突然香の体に激痛が走った。
それははじめ、薄ぼんやりとした痺れだった。足や腕など局所的だ
ったしびれが、じわじわ全身に広がり、急激にそれが痛みに変化し
た。香は呼吸さえできないほどの、焼け付く痛みに香の目の奥にチ
カチカと白い光が飛ぶ。
足と、腕と、胸が痛い。ほんの少し動かすだけで、脳にナイフを
突き立てられてぐりぐり回されているような激痛が走り、体の芯で
ドラを打ち鳴らすように激痛が響いた。
故に、香の意識が消失するのは一瞬のことだった。
香が再び目を覚ましたとき、体に柔らかい空気が流れ込んでいた。
その空気には、覚えがある。
﹁⋮⋮しいな、せんせい?﹂
焦点の定まらない目で見上げると、たしかにそこには椎名がいた。
椎名はニガウリに噛みついたような、それでもほんのわずかな水分
にすがりつくような、そんな表情で香を見下ろしていた。
﹁香ちゃん。生きてるのね?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
香は再び目を閉じて、椎名の魔法の息吹に体を委ねる。体にはも
う、痛みはない。酷い痛みが走っていた痕跡が、僅かに神経に残っ
ているだけだった。
魔力の温もりを感じながら香は、まだ生きていることに安堵する。
そして失われてしまった命を思い、深いため息を吐き出した。
もしこの力が自分にもあれば、達也は失われずに済んだかもしれ
495
ない。いま考えても、もう遅い。それに無駄だ。けれど、考えずに
はいられなかった。
達也は自分のことを最強の盾だと言っていたが、結局、香は救い
たいものを、肉体的にも精神的にも、救えずにいる。
香は自らの手を見つめ、己の肉体に戻りつつある魔力を凝視する。
この力があっても、これほどの力があっても、あたしはなにも救え
ないのか。
香は椎名を見上げる。椎名の魔力はお世辞にも多いとは言えない。
けれど、香のものとは違って、誰かを傷つけるものでは決してない。
守りたいものを守ることができる。
﹁いいなぁ﹂
香は無意識にそう呟いた。
これが、守るってことなんじゃないだろうか。この人こそ、最強
の盾なんじゃないだろうか。自分は守人だけれど、この人こそ、こ
の力こそ、守人に相応しいんじゃないだろうか。
椎名が手を外したとき、香の体はぎこちなくはあるが動くように
なっていた。
香は椎名の手に触れながら立ち上がる。
﹁⋮⋮ありがとうございました﹂
﹁どういたしまして﹂
そういえば、先生はどうしてここにいるんだろう? 結界の中に
入ったことは、達也の例にもあるように、魔力を扱えるものならば
入ることができるのかもしれない。ただ、椎名は何故ここに来たの
だろう? 達也とは違って、先生にはなにも︱︱本当になんにも関
係ないはずなのに。
﹁︱︱っ?﹂
口を開くと、椎名が人差し指を立てた。
﹁香ちゃん。もう、こんなに怪我をしちゃだめよ?﹂
それは、子どもの小さな悪巧みを見つけた母親のような表情だっ
た。
496
たったそれだけの所作で、香は椎名に問いかけるタイミングを失
ってしまった。
﹁あの、先生﹂
﹁なぁに?﹂
椎名の声が甘く掠れた。
﹁先生に、どうしてもお願いしたいことがあるんです﹂
香は意を決した表情で、椎名をまっすぐ見つめた。
丘のようになだらかになった山を下り始めてすぐ、香は地面から
生えた下半身を見つけた。
これは生きているのか? それとも、ただのオブジェなのか?
僅かに痙攣していることから、おそらく生きているのだろう。そ
の足を、香はどこかで見たことがある気がした。
香は時間をかけて記憶の糸をたぐり寄せる。
﹁︱︱あっ﹂
このパンプスと靴下、足のラインに、レースの黒のショーツ。間
違いない。聡美のものだ。
まさか聡美も上半身と下半身の緊密な関係を引き裂かれてしまっ
たのか?
香はおそるおそるその足に近づく。
﹁聡美? 生きてる?﹂
香が問うと、足が一度大きく痙攣し、停止した。
﹁⋮⋮死んだかも﹂
地面の中からくぐもった聡美の声が聞こえた。よかった、生きて
たか。香は安堵の息を吐き出して聡美の力尽くで引っこ抜く。引っ
こ抜くときに、地面から悲鳴が聞こえた。まるでマンドレイクでも
引き抜いたような気分だ。
地面から上半身を表した聡美は、真っ黒い顔を何度もしかめて口
から土を吐き出していた。
﹁聡美。気分は?﹂
497
﹁ちょー、べりーばっどよ﹂
三日間くらい眠らなかった人間のような声で聡美は言った。目に
うるうると涙が溜まっていく。
﹁香。あなたね⋮⋮。もう少し周りのことを考えて攻撃しなさいよ
ぉ﹂
﹁どういうこと?﹂香は首を傾げた。﹁聡美が埋ってたのって、悪
魔の咆哮?のせいでしょ? あれ、すごかったね。すっかり山が山
じゃなくなっちゃって。あたしももう少しで死ぬ︱︱﹂
﹁あなたのせいよ!﹂聡美が牙を剥いた。﹁あなたが刀に込めた魔
力を放出したから、私が吹き飛んだんじゃない!!﹂
﹁えー?あー、そう、なんだ?﹂
﹁なによその反応。私、本当に死ぬかと思ったんだから﹂
聡美の目から涙が噴出した。涙が土で汚れた頬を洗い流す。黒い
顔に涙の筋がくっきりと浮かび上がった。
あたしの攻撃よりも悪魔の咆哮のほうが強かったと思うんだけど
⋮⋮。
どうにも釈然としないが、自分の攻撃で聡美が吹き飛んだのなら
ば仕方がない。しぶしぶ納得し、香は聡美が泣き止むまで平謝りす
る。
﹁それで、その人は?﹂
目からの涙が涸れたとき、聡美はけろっとした表情で切り出した。
﹁初めまして、かしら。私は椎名と申します。小学校で保健の先生
をやってます﹂
﹁ふぅん﹂聡美は腕を組み目を細めた。﹁それ、嘘でしょ?﹂
﹁え?﹂
聡美の言葉に香は目を丸くする。
﹁だって、小学校に保健の先生なんていないじゃない。誰かが怪我
をしたら担任の先生が保健室に連れてって処置してたわ﹂
﹁いやいや。それは聡美の時代でしょう?﹂
﹁私の時代ってなによ!? そんな年が離れてるみたいな言い方し
498
ないでちょうだい。香がなんの魔法にかかったのかは知らないけど、
ちゃんと思い出しなさい﹂
言われて、香は考える。自分の学校に、本当に保健の先生などい
たのかを。考え始めると、香が抱いていた事実はあっさり消え失せ、
その向こう側から新しい真実が現れる。
聡美の言う通りだ。保健の先生は元から居なかった。じゃあ、ど
うしてあのとき、自分は椎名のことを保健の先生だなんて思ったん
だ?
⋮⋮そうか。幻惑魔法か。
﹁少し前に鈴木が、あたしに幻惑魔法がかけられてるって言ってき
たわ。それはすぐに解いてもらったんだけど。どこで魔法をかけら
れたのか、さっぱりわからなかった。⋮⋮そう、あんたが犯人だっ
たの。おおかた、初めてあたしに会ったときにあんたは幻惑魔法を
使ったんでしょ?﹂
その魔法により、香は椎名のことを﹃保健の先生﹄だと勘違いさ
せられていたのだ。
﹁どうして、そんなことをしたの?﹂
香は横目で椎名を睨んだ。椎名はちょこんと舌を出して目を細め
る。
﹁ごめんなさいね。でも、あのときには必要なことだったのよ。大
丈夫。このまま学校に居座ろうなんて思っていないから。もちろん、
この村をどうにかしようとも考えてないわ。私は、今日が終わった
らすぐに消えるから。安心してね﹂
困ったような、少し寂しそうな表情を浮かべる。それがどんな感
情によるものなのか、香には判断が付かない。だが、椎名が嘘をつ
いていないことだけは、なんとなく理解できた。
﹁本当はどこの誰なのかは知らないけど、わかった。あんたの言う
ことは信じるわ﹂
﹁そう。よかった﹂
椎名は口角を緩めて柔らかく微笑んだ。
499
﹁それより香ちゃんは、やりたいことがあるんでしょう? 急いだ
ほうが良いんじゃないかしら?﹂
﹁そう、ね。そうしましょう﹂
香は僅かに顎を引いた。
﹁やりたいことってなによ? 香、あなたまだなにかやるつもりな
の?﹂
﹁うん。ちょっとね﹂
意味ありげに微笑を浮かべると、聡美が青ざめた。回れ右をし逃
げだそうとした聡美の腕を香が掴んだ。
﹁いーやーだー! 私はもうなんにも関わり合いたくなーいー!!﹂
香の耳には決して入らない聡美の悲鳴が、なだらかな丘全体にこ
だました。
500
第三章 魔法少女は、夢を生む。12
聡美を無理矢理引きずって歩いていた香が、不意に足を止める。
香は地面に体を横たえた彩芽の姿を発見した。
﹁姉さん!﹂
香は聡美の手を離して彩芽に駆け寄る。
まさか死んだんじゃないか? 不気味な憶測に青ざめた香は、綾
彩芽の呼吸を確認して小さな胸をなで下ろす。
﹁ふぅ⋮⋮。まったく。無理矢理引っ張るから腕がもげるかと思っ
たじゃない。私の柔肌に青アザがついたらどうしてくれるつもりよ﹂
聡美が後ろでぶーぶーと不満を垂れる。聡美の腕をまじまじと眺
めて椎名が口を開く。
﹁大丈夫よ。少し赤くはなってるけど、あざにはならないわ﹂
﹁なんともないってさ﹂
﹁なんともないとは言ってないじゃない!﹂
﹁聡美煩い﹂
香は顔を潰して聡美を睨んだ。すぐに視線を彩芽に向ける。彩芽
は、呼吸をしている。目を瞑ってはいるが、意識を失っているわけ
ではなさそうだ。その目からしとしとと、涙が溢れ出している。
﹁姉さん?﹂
香がささやきかけると、彩芽がゆっくりと目蓋を開いた。
﹁⋮⋮香﹂
彩芽に名前を呼ばれ、香の背筋に鳥肌が立った。その声から、香
と彩芽を訳隔てる堅く高い壁と、底のない大きな溝が感じられた。
彩芽は香を、拒絶している。
﹁あなた、まさか暁鬼を、倒してしまったの?﹂
﹁⋮⋮う、うん﹂香は素直に頷いた。
﹁なんてこと⋮⋮﹂
彩芽が香の腕を押し返した。さして強い力ではなかった。だが、
501
香はその腕を押し返すことができなかった。
﹁私の、婚姻の祁を、どうしてあなたは踏みにじってしまうの。婚
姻の祁を行えば、私は、家の役に、村の役に立って死ねたというの
に⋮⋮﹂
彩芽の目から、涙が一滴流れ落ちた。それから、彩芽の目から涙
の気配が消失した。
﹁死ぬなんて言わないで、姉さん。鬼は消えた。もう死ぬことはな
い。村を救えたのよ。これから生きていればきっと︱︱﹂
﹁生きていれば? ⋮⋮なにがあるの?﹂彩芽の瞳が暗く沈んだ。
﹁私は私を救うために婚姻の祁を行いたかったのよ。私は、父にい
ろんなことをされたわ。口では言えないことを、沢山。父の命令に
従わなければ、銃を向けられたし、子どもができないと知ると、夜
通し乱暴された﹂
﹁乱暴? ⋮⋮けどそんな傷は︱︱﹂
﹁知ってる?香。傷は魔法で消えるのよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂香は唇を強く噛んだ。
﹁どこへ逃げても父は私を見つけ出した。私は、父を殺したかった。
けど私は無力で、父は強かった。隙を見て拳銃で父を撃ち殺そうと
思ったことも、何度もあったわ。結局、失敗に終わってしまったけ
れど。泣いても、懇願しても、父は乱暴を辞めなかった。そこから
逃げるためには、自分を救うためには、私には、婚姻の祁しかなか
ったのよ⋮⋮﹂
ここまで来たは良い。けれど、この先彩芽にどんな言葉をかけた
らいいかまでは、香は考えていなかった。どんな言葉を口にしても、
きっと彩芽にはねのけられてしまうだろう。
香は村を救った。けれどそれと同時に、彩芽が救われる可能性を
潰してしまった。もちろんそれは、彩芽が思い描く救いではあった
が⋮⋮。その可能性を潰した罪悪感と、そうではないと否定する重
いが、香の胸中で混ざり合い、言葉にならずに埋もれていく。
香は首をまわし椎名を見た。椎名は無言で頷いて、ゆっくりと彩
502
芽に近づく。
﹁彩芽ちゃん﹂
瞬間、辺りに乾いた破裂音が響いた。
椎名が、彩芽の頬を叩いたのだ。
なんてことを⋮⋮。香は驚き目を見開く。
﹁死ぬなんて、簡単に口にしてはいけません﹂
頬を打たれたことを実感したのだろう。呆けた表情だった彩芽の
瞳に憎悪が宿る。
﹁あなたに⋮⋮なにが判るっていうんですか? 私は村の守人。紅
彩芽です。村の守人として生を受け、村を守る為に死ぬのが役目な
んです。まるで役に立てず、生きることの屈辱を、あなたは理解で
きるとおっしゃるんですか!﹂
﹁彩芽ちゃんは守人としての使命を言い訳にしてはいけないわ﹂
﹁言い訳になんて︱︱﹂
﹁村の為に死ぬなんて格好良いわね。けれど、彩芽ちゃんはただ死
にたいだけでしょう? 辛い場所から逃げ出したい。楽になりたい。
楽になるには、死ぬしかない。彩芽ちゃんは、死ぬための大義名分
が欲しいだけじゃない?﹂
﹁ちが︱︱﹂
﹁父から逃げる方法が、死である必要はどこにあるの?﹂
﹁それしか方法がないのよ!﹂
﹁自分の力だけでは、でしょう? どうして、助けてって一言、言
えないの? たった一言口にするだけで、彩芽ちゃんは大きく変る
ことができるのに﹂
憎悪に燃える彩芽の瞳を、椎名は受け流して言う。
﹁何故生きていることで、誰の役にも立てないと思うのかしら? 生きているだけで、人の役に立つこともあるわ﹂
﹁それはきれい事です。生きていても、役に立たない人間がいる。
たとえば私みたいに、子が成せないならば、女として、生きている
意味はない。私は香みたいに体が強いわけではありません。ですか
503
ら、村を守る為に戦うことができません。ならば子を成す他ない。
しかし私は子が成せない。戦えず、子も成せない私は、役立たずな
んです﹂
彩芽が哀しげに目を伏せる。その言葉は彩芽の心の壁を一枚一枚
引きはがし、最も柔らかい部分を露出させてじわじわえぐり出すよ
うな、痛々しいものだった。
﹁子どもができないって、本当なの?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
彩芽は無言で頷いた。その無言に、椎名が引きずられる。口を噤
んだ椎名の背後に数秒、怒りの炎が揺らめいた。しかしそれはすぐ
に消え、椎名は再び柔らかい笑みを湛える。
﹁彩芽ちゃん。少しいいかしら﹂
彩芽の返答を待たず、椎名は彩芽の手を取った。
椎名は目を閉じて魔力を活性化させた。途端に椎名の体から淡い
黄色の魔力が溢れ出す。それは瞬く間に彩芽の全身を覆う。
彩芽の体についた無数の傷跡が、魔力により塞がれていく。
すべての傷跡が目で捕らえられなくなるまでに、十秒とかからな
かった。そのあともしばらく椎名は目を閉じたまま、彩芽の手を握
り続けた。
椎名が目蓋を開いたのは、彩芽の怪我が塞がってからさらに十秒
ほど経ったときだった。
﹁彩芽ちゃんの体には、とくに、異常は見当たらないけれど⋮⋮﹂
椎名が首を傾げる。﹁子どもも、できるはずよ?﹂
﹁そんなっ! だって私は、父と⋮⋮⋮⋮っ?﹂
彩芽が事実を言いあぐねていると、椎名がその唇を人差し指で塞
いだ。
﹁わかったから﹂
わかったからと、椎名は言った。それ以上、自分の傷を抉らなく
ていいからと⋮⋮。
﹁彩芽ちゃん、もう立てるかしら?﹂
504
﹁え? ⋮⋮ええ﹂
頷き、彩芽は素直に立ち上がる。その彩芽の手を引き、椎名は香
と聡美の二人から距離を取った。
椎名と彩芽がなにやら小声でぼそぼそと話をしている。なにを話
しているのか? 気になって耳を傾けるけど、ぎりぎりのところで
聞こえない。なんとか言葉を聞き出そうとしているうちに、椎名と
彩芽の密談が終了した。
椎名はスッキリしたような表情を浮かべ、隣の彩芽は顔を赤らめ
てもじもじと和服の袖をこねくり回している。
﹁これで、一件落着よ﹂
﹁⋮⋮ええと?﹂
椎名の言葉に香は首を傾ける。
﹁どういうことですか?﹂
﹁彩芽ちゃんはきちんと子どもが産める体です。もう、心配しなく
てもいいからね﹂
椎名が愛おしげに彩芽の背中をさする。彩芽は、先ほどまでの憎
悪や哀しみや痛みを感じさせる雰囲気をすべて消し去り、ただ赤面
して俯いている。
﹁⋮⋮え!? そんな、っていうか、嘘でしょ?彩芽﹂
なにかに気付いたのか、聡美が声を裏返した。その問いかけに、
彩芽が俯いたまま頷いた。
﹁うっそ。彩芽、まだだったんだ⋮⋮﹂
﹁まだって、なによ?﹂
﹁そりゃできないはずだよねぇ﹂
﹁だからなんの話しよ?﹂
﹁香ちゃんもまだなのかしら?﹂
﹁香は来てるわ﹂
﹁そう。それはよかったわね﹂
﹁まだ?来てる?よかった?﹂香は目を丸くして首を傾げた。
﹁じゃあ、この話しに立ち入っちゃ野暮よ?﹂
505
どういうことなのかどうしても聞き出したい香を、椎名が窘める。
なんの説明もなしじゃ納得がいかない。けれど、先ほどとはうっ
て変わって憑きものが落ちたような彩芽の顔を見ていると、別にい
いじゃないか、と思えてきて、香の問いただそうとする気持ちが消
散する。
治癒魔法の使い手って、凄いなぁ⋮⋮。
香は椎名を尊敬の眼差しで見つめる。香が一番助けたかった人を
︱︱手をさしのべても、決してその手を取ろうとしなかった相手を
︱︱肉体的にも精神的にも、助けてしまった。自分にはできないこ
とを、顔色一つ変えずに平然とやってのけた。そこが純粋に、憧れ
る。
人を救うって、こういうことを言うんじゃないだろうか。守るっ
てこういうことなんじゃないか。
︱︱自分がもし魔法使いになるとするなら、こういう人になりた
い。人の傷を癒やす魔法を覚えて、心の底から相手を癒やして守り
たい。人の心を救い、さしのべる手を握ってもらえる人になりたい。
人間の心に寄り添う、守人でありたい。
﹁こちらにいらっしゃいましたか﹂
香が一つの夢を胸に抱いたとき、倒れた木々の向こう側から鈴木
の声がした。
﹁鈴木? いままでどこでなにしてたのよ? 姉さんを頼むって言
ったじゃない﹂
﹁ええ。それは、すみません。罠に嵌めたはずの敵が逃げ出してし
まったものですから﹂
﹁敵って﹂
︱︱誰だ?
506
第三章 魔法少女は、夢を生む。13
香が首を捻ると同時に、鈴木の居る場所とは真逆の方向で小枝の
折れる乾いた音が響いた。音に反応し、咄嗟に香は体を回転させる。
﹁彩芽、香。⋮⋮無事だったのか﹂
幾分草臥れた様子の父が居た。父の衣服はぼろぼろに破けている。
白い足袋は泥に塗れ、オールバックだった髪の毛は乱れてぐしゃぐ
しゃだ。数年ほど年を取ったみたいに、目が落ちくぼんでいる。
﹁無事でしたよ﹂
彩芽が静かに答えた。静かだったけれど、その奥に僅かな怒りの
予兆を、香は敏感に感じ取る。それは香も、おそらく彩芽と同じ気
持ちだったからに違いない。
父の口調には、まるで二人のどちらかが死んでいればよかった、
というような響きがあった。あるいはどちらともが、かもしれない。
父が辺りを見まわし、聡美を見るなり顔を歪めた。
﹁聡美。何故ここにいる!﹂
ひぃ、と聡美が父の怒声に怯えた。聡美は父が雇っている使用人
だ。父の存在は聡美にとって絶対である。逆らえば家を追い出され
るかも知れないのだから。
﹁貴様。何故言いつけ通り持ち場に待機しなかったんだ!?﹂
﹁す、すびばぜん⋮⋮﹂
父の怒りを真正面から受け、聡美は既に泣き顔である。涙より先
に鼻水がしたたり落ちる。これで顔のラインが四つになってしまっ
た⋮⋮。
﹁おまけに勝手に結界を展開まで。貴様、どうなるかわかってんだ
ろうな!?﹂
いつもの父とは違う、この村を統括する絶対的な地主としての態
度に、香は僅かに息を呑んだ。恐ろしさより、触れたくないという
思いが勝る。早くその場を収めるために、こちらがどれだけ折れて
507
もいいと思える。もし折れなければ、肉体的にも精神的にも追い詰
められる気がしてくる。追い詰められ、自己を構築するすべてを奪
われてしまう。そんな予感が脳裏を掠める。
﹁まさか、この村を守護する者の発言とは思えませんね﹂
さとし
いつの間にか香の隣まで進み出ていた鈴木が、挑発的に口を開い
た。
﹁貴様は⋮⋮﹂
﹁初めまして、紅慧さん。鈴木と申します。あなたがこの村の守護
者ならば、鬼が出現した段階でまず結界の展開を命じるべきではな
いでしょうか?﹂
﹁貴様にそんなことを言われる筋合いはない!﹂
﹁鬼が出現した場合、村の被害を最小限に食い止めるには、まず結
界の展開が必要です。でなければ、鬼が魔力を放出した途端に、崖
崩れや土石流、地震などの天災により村が崩壊する危険があります。
僕にはもちろん、アナタとの筋合いは一切ありません。ですが、理
屈はあります。この場合、理屈のほうが優先されるべきだと思いま
すが、いかがでしょうか?﹂
﹁貴様には関係ないことだと言っている!﹂
父が牙を剥いて鈴木に咆えた。もしこれが香を向いていたならば、
間違いなく香は萎縮してしまっただろう。しかし、そんな圧倒的な
威圧を受けても、鈴木は涼しい顔を崩さない。
﹁たとえ理に適った指摘であれ、他者の指摘は受けないと。さすが
は紅家当主。自分の利益のために身内を殺すほどのお方だけはあり
ますね﹂
﹁え?﹂香は無意識に喉の奥から声を漏らした。﹁身内って、姉さ
んのこと?﹂
﹁いいえ違います。この場に居る方々のほとんどがご存じないよう
なので説明いたしますね﹂鈴木は飄々として口を開く。﹁山南くん
は先日のガシャドクロの悪魔の咆哮により、体内の魔力の一部を扱
えるようになりました。それはご存じですよね?﹂
508
香は僅かに顎を引いた。
﹁それにより、山南くんは赤心沖光の魔力回路を扱えるようになり
ました。その力を試してみたかったのでしょう。山へ入り、達也く
んは刀を振るった﹂
﹁そして結界に傷が付いた﹂
香が言うと、鈴木は首を横に振った。
﹁僕もその可能性が高いと思っていました。しかし、実際は違いま
した。山南くんが結界を傷つけることはありませんでした。なぜな
らば結界は、その程度の攻撃で解けるほど弱いものじゃないからで
す。袰月さんはご存じかと思います。結界はどの程度攻撃を受けれ
ば解けますか?﹂
級に話を振られて、聡美は泡を食ったように目を泳がせる。
﹁ええと⋮⋮。鬼が本気で結界を壊しにかかったとして。たぶん結
界は三日間は壊れないと思う﹂
聡美の答えに納得したのか、鈴木は大様に頷いた。
三日間⋮⋮。鬼の攻撃を直接受けた香は、想像を超えた結界の耐
久力に卒倒しそうになる。あの攻撃を、三日間暗い続けて壊れない
なんて、どういう構造をしているんだ。
香の僅かな疑問をくみ取ったように、鈴木は﹁結界とはそういう
ものなんです﹂と呟いた。
﹁結界の大元、キズミ山の頂上にあった魔力を供給する道具を破壊
すれば、おそらく結界は壊れるでしょう。そちらならば、単純な攻
撃で壊れますし、壊れれば結界が維持出来ずに解けてしまいます。
しかし、山南くんはそこまで足を踏み入れなかった。何故か? 答
えは簡単です。この森は指標がなければ迷ってしまうからです。で
すから村の多くの人達はこの山の奥に足を踏み入れませんし、そう
いう地形だからこそ、ここに暁鬼を封印する装置を仕込んだのです。
つまり、山南くんは結界を破壊していなかった﹂
﹁じゃあ﹂香は思わず口を開く。﹁どうして太田は死んだのよ? あれは鬼の攻撃を受けたから、死んだんじゃないの?﹂
509
﹁紅さん。暁鬼の攻撃を思い出してください。鬼は刀を持っていま
したか? 鬼の攻撃で、刀傷のような跡は残りましたか?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
少し考えるだけで、否だとわかる。香が散々受けた鬼の攻撃も、
達也を殺したときの攻撃も、刀で斬られたような傷ができるもので
はなかった。
じゃあ、どうして太田は死んだんだ? 香は首を捻る。
﹁そのとき暁鬼はまだ復活していなかったということですよ﹂鈴木
は父を見据えて言った。﹁そもそも鬼の復活と、太田さんの死亡と
は、時系列がかみ合いません。暁鬼が復活しそうになっていたとし
ても、暁鬼は太田さんに攻撃を加えることは不可能です。故に太田
さんは、暁鬼に殺されたわけではないと言えます。では誰が殺した
のか? 答えは簡単です。太田さんが外出する先を知っている人物
が殺した︱︱つまり、あなたです﹂
鈴木は穏やかな表情を保ったまま、目だけで父をにらみ付ける。
﹁父さんは太田を恨んでることは、なかったと思うけど?﹂
﹁恨みが必ずしも殺人に繋がるわけではありません。たとえば太田
さんを殺すことで、あのときの状況がどう動くのかを考えれば、そ
れが太田さんを殺す理由になるんです。あのとき、鬼の封印は自然
と弱まっていました。結界を張ってから数百年が経過していますか
ら当然といえます。もう少しで暁鬼が復活する。しかしいまの紅家
が単独で暁鬼を撃破することはできない。ただ、山南鉄山がいれば
鬼を弱らせて再度封印できる可能性が生まれる。そうすると山南家
に再び借りを作ることになる。村の守人として、村の主として、そ
れは面白くない。そこで慧さんは太田さんを殺し、それを鬼に殺さ
れたことにして、当日山に踏み込んだ山南くんに責任を負わせ、山
南鉄山に責任を取らせる︱︱自刃させることにしました。山南鉄山
がいなければ、鬼を過去と同じ方法で再封印することができない。
村を守る為に残された方法は、婚姻の祁しかなくなります。それこ
そが︱︱婚姻の祁を用いて彩芽さんを最も役に立つ形で家から放逐
510
することこそが、紅慧さんの当初の狙いだったんです。理由は⋮⋮
既におわかりですね?﹂
香は無言で頷いた。たしかに、鈴木の言っていることは筋が通っ
ている。
﹁けど、彩芽に婚姻の祁をやらせるだけならさ、それなら太田も鉄
山さんも死ななくてもよかったんじゃないの?﹂
聡美が恐る恐る口を開いた。聡美の言っていることはもっともだ
と、香は思った。しかし鈴木は再び首を振る。
﹁もし山南鉄山が生きていれば、婚姻の祁に反対したでしょう。悪
魔はどこからやってくるのか? 彼は知っていましたから。悪魔は
おおよその場合、その存在を産み落とす親がいます。低級悪魔なら
ば中級悪魔が産み落とし、中級悪魔ならば上級悪魔が産み落としま
す。上級悪魔は、神話級悪魔に産み落とされます。では神話級悪魔
は誰が生むのか? 神話級悪魔は︱︱誰も生めません。現代におい
て神話級悪魔を生み出す存在はありません。しかし、ただ一つだけ
神話級悪魔が生まれる方法があります。それは、儀式によって人間
が神話級悪魔の呪子を妊んだ場合です。つまり、婚姻の祁は神話級
悪魔が子を成せる唯一の方法なんです。山南鉄山が婚姻の祁を反対
する理由は、そこにあります。もちろん、それだけではありません
が﹂
鈴木は体を軽くまわし、彩芽と香を見た。
﹁子どもは、大人の道具じゃありません。自分の見栄えを良くする
飾りでもなければ、愛でるだけの人形でもない。思い通りに動かせ
るラジコンでもありません。子どもに与えるべきは負の連鎖ではな
く、愛情であり、夢である。山南鉄山は、そういうお方でした﹂
﹁鈴木は、師匠のことを知ってるの?﹂
﹁ええ。以前にお会いしてお話したことがあります﹂
以前って、いつのことだろう。鈴木はどう見ても自分よりも年下
に見えるが⋮⋮。
﹁慧さんはそのような理由から、太田さんを殺し、山南鉄山を自刃
511
に追いやり、彩芽さんを捨てようとしました。そのような方が村の
守人とは﹂
鈴木は軽く喉を鳴らした。
﹁なにがおかしい!?﹂父が声を荒げる。
﹁守人ではなく、悪魔と名乗られたほうが良いのではないでしょう
か?﹂
﹁貴様が言うか。悪魔の落とし子よ﹂
父の言葉に、香は首を傾げる。その言葉の持つ意味を理解したと
き、香は息を吸い込んだ。
﹁さすがは紅家の当主といったところでしょうか﹂
鈴木はメガネを人差し指で持ち上げた。
﹁魔法と悪魔についての文献は、家に腐るほどあんだ。貴様のこと
も、見ただけでわかったぜ?﹂
﹁⋮⋮なるほど。それで? 人間のことは悪魔にはなにも言われた
くはないと?﹂
﹁よくわかってるじゃねぇか。だったら︱︱﹂
﹁だったらなんですか? 自分が悪いことをしていても咎められる
筋合いはないと? では僕じゃない、人間で、身内の方であればそ
れを受け入れるんですか?﹂
鈴木は当たりを見まわした。いまやここには、父の肩を持つ人間
はいない。香も彩芽も聡美も、距離を取るように父を見つめている。
﹁⋮⋮ふん。ガキになにができるっていうんだ? 誰がガキの話し
を真に受けると思ってる?﹂
﹁なかったことにすると?﹂
鈴木はメガネを押し上げながら凄んだ。
﹁それを言う義理はねぇ﹂
﹁そうですか﹂
鈴木の体で父への敵意が膨れあがる。しかしそれは臨界点を超え
る前に、一瞬にしてしぼんで消えた。
鈴木は右手を前に掲げる。
512
鈴木の挙動に怯えた父が、僅かに体をのけぞらせた。
513
第三章 魔法少女は、夢を生む。14
瞬間、香が鈴木の手を掴んだ。
﹁⋮⋮なにをするつもり?﹂
﹁殺しはしませんよ。僕には人を殺せるほどの魔力はありませんか
ら。ここではないどこか、誰にも迷惑のかからない場所での、幸せ
な後生を提供するだけです﹂
﹁だめよ﹂香は首を振った。﹁それだけはやらないで﹂
﹁紅さんは、それに彩芽さんは、それでいいんですか?﹂
鈴木は香を、そして彩芽を見た。彩芽は答えあぐねているふうに
見える。もしかしたら、このまま殺してしまったほうが良いと考え
ているかもしれない。
﹁あたしはね、やり直したいのよ。失われたものが、ちゃんと戻っ
てくるように﹂
彩芽が失った幸せを、香が与えてあげることは不可能だ。それは、
彩芽に拒絶されたときにはっきりと理解できた。であれば、彩芽自
らが傷を癒せる環境を作ってみてはどうか。父に迫害されず、犯さ
れず、多くを求められず、小さい夢を抱ける、そんな環境を⋮⋮。
香は、そう考えていた。
﹁やり直す? それは無理だ香﹂父が口をはさんだ。﹁主人の命令
を無視する使用人は首だ。すぐにでも家を出て行ってもらう。それ
に彩芽。お前は紅家の恥さらしだ。年下の香は暁鬼を倒すほど成長
しているというのに、お前は魔法一つ使えん。長女のくせに跡継ぎ
が産めないお前は︱︱﹂
﹁お父様! 私は︱︱﹂
﹁煩い!﹂
彩芽の弁明が父の怒声に遮られた。
﹁金ならたんまりくれてやる。聡美とともにいますぐ家を出ろ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
514
言葉を聞いてすらもらえない彩芽は、きつく唇を噛んで目を伏せ
る。その様子を見ていた鈴木が、首を横に振った。
﹁ねえ鈴木﹂香が鈴木の耳元に口を寄せた。﹁幻惑魔法って、どれ
くらいの効果があるの?﹂
﹁といいますと?﹂
﹁たとえば、この状況がなかったことにならないかなあって﹂
﹁それは、無理ですね。情報を操作する魔法は、強い感情や事実に
対する効果は薄くなります。一日程度ならば機能するでしょうけれ
ど、永続は不可能です﹂
﹁強い感情や事実⋮⋮﹂
鈴木の言葉を、香は反復した。
聡美と彩芽を放逐しようとする父が抱いているものが、強い感情
で、暁鬼を倒したということが強い事実だろうか。
﹁じゃあ、その強い感情や事実を使いつつちょっと捻ったら、幻惑
魔法がかかりやすいってこと?﹂
﹁ええ、そうですね。強い感情や事実を用いたやり方であれば、魔
法は強固にかかります。解除しようとさえしなければ、何年でも持
続するでしょう﹂
﹁そう⋮⋮﹂と香は頷いた。﹁じゃあ鈴木、あたしの言う通りに魔
法を使って﹂
香は鈴木に、どういう幻惑魔法にするか、簡潔に説明した。その
言葉を聞いた鈴木の瞳が、大きく見開かれる。
﹁それでは、紅さんは︱︱﹂
﹁いいのよ﹂
香は首を振る。
﹁しかしそれだけでは慧さんが再び暴走する可能性もありますが?﹂
﹁⋮⋮そうね﹂
たしかにそうかもしれない、と香は思った。
﹁では、追加でこういうのはいかがでしょう?﹂
鈴木が耳打ちした提案を聞き終えた香は、僅かに顔を歪めた。そ
515
れで上手くいくんだろうか? ⋮⋮いや、やらないよりはマシか。
﹁わかった。それでお願い﹂
顔を上げ、香はゆっくりとそれぞれの顔を眺めていく。彩芽に聡
美に父に。自分も含め、四人が揃うことは、おそらくもうないだろ
う。その姿を、この状況を、香は胸に刻む。
鈴木の顔を見て、再度辺りを見渡した。
辺りは木々の倒れたなだらかな丘で、その前の山の風景を思い出
すことが困難だった。
⋮⋮?
ふと香は頭の中に、なにか引っかかりのようなものを感じた。
他に誰か、居たような気がしたけれど。
もう一度香は辺りを見まわす。鈴木に彩芽に聡美に父に、そして
自分。これで、すべてだ。けれど、なにかが足りない。それがなん
なのかわからない。とても重要な気がするし、けれど関わりはとて
も希薄だった気もする。なんだったか、思い出せないうちに香は詮
索を打ち切った。
﹁姉さん﹂
香は彩芽に語りかける。彩芽は伏せた顔を上げて香を見た。
﹁これから、姉さんは幸せになれる。そんなことないなんて言わな
いでね? 生きていれば、普通の生活をしていれば、普通に学校に
行けば、きっといつかは好きな人が出来て、その人と結婚をして、
子どもを産んで。きっと、幸せになれる。そんな夢も、抱けるよう
になる。だから、姉さん。あたしの、最後のお願い。姉さんは、姉
さんだけは、幸せになってね﹂
﹁香、それは⋮⋮どういう意味?﹂
﹁すぐにわかるよ﹂
香は彩芽から視線を外して鈴木を見る。
﹁それじゃ、お願い﹂
香は鈴木に合図をした。
鈴木は両手を広げ、空間に滞在している聡美の魔力を僅かに用い
516
て、その魔法を発動させた。
517
終章
未来に向かって
大都市に向かう電車の中、香は目の前に並んだ駅弁に目を輝かせ
る。
﹁どれから食べようかなぁ﹂
生まれて初めて駅弁を見た香は、つい衝動的に五種類もの駅弁を
購入してしまった。
﹁あなたねぇ。食べきれなかったらどうするのよ?﹂
﹁そんなのどうでもいいでしょう?﹂
食べきれるかどうかなんて関係ない。それよりも大切なのは、弁
当がどんな味なのかだ。
﹁お金の無駄遣いだと思うけど﹂
﹁いいじゃない。だって、初めてなんだもん!﹂
ぷくぅと香は頬を膨らませた。初体験といえば電車もそうだ。ず
っと田舎の中だけで育った香は、電車の一番前には牽引する車がつ
いているものだと想像していた。だが、実際にはそんなものはつい
ていなかった。それに、電車が電気で動いているということも、に
わかには信じられなかった。︵電気は光るだけじゃなかったんだ!︶
中に入り、電車の揺れを体感しながら香は、小一時間ほど胸を高
鳴らせて目の前を高速で過ぎていく田舎風景を眺めていた。
﹁それに、今日くらいは奮発してもいいじゃない? あたしたちの
旅立ちの日なんだから﹂
﹁ま、そうね﹂
香の言葉で、聡美のトゲトゲした雰囲気が幾分和らいだ。
暁鬼を倒したあと。香は鈴木に幻惑魔法を使用させた。魔法がか
かり終えるまえに聡美が山を修復し、結界を解いた。魔法がかけら
れたばかりの、胡乱げな父と彩芽に挨拶を家に運び、下着や衣類を
鞄に詰め込んですぐに二人は家を出た。
父と彩芽の顔を見ないで家を出るつもりだった。しかし、家の玄
518
関で香は彩芽とばったり顔を合わせた。
﹁紅家の者が外に出るのですから、言葉使いだけは治してください
ね﹂
彩芽はそれだけを口にし、頭を下げて背中を向けた。もう二度と
戻らないつもりでいた香の信念が、その瞬間だけ大きく揺らいだ。
鈴木の魔法の効果は、香の予想を超えて村中を覆い尽くした。そ
れは、考えてみればさして不思議なことではない。
父は二人の娘を彩芽と香ではなく﹃娘﹄として認識していたし、
彩芽はもとより、自分が村になにをできるかしか考えていなかった。
それは村人も同じだったようで、香が関わったことのある村人は香
を﹃香﹄ではなく﹃紅家の娘﹄としてしか認識していなかったのだ。
そのような状況で鈴木の魔法をかければ、当然効果は村全体に波及
し、事実が幻惑に置き換えられる。
﹁父親をそのままにしてきてよかったの?﹂
聡美が窓を長めながら尋ねた。
﹁それは、わからない。けど、大丈夫な気もする﹂
﹁大丈夫って、どうして言えるのよ?﹂
﹁父さんには、虚勢してもらったから﹂
﹁きょ︱︱﹂
あまりの言葉に、聡美が息を呑んだ。
﹁人に暴力を振るわないようにね﹂
﹁⋮⋮ああ、なるほど。そっちの意味か﹂
﹁そっち? 他になにがあるのよ?﹂
﹁さあね﹂
聡美がぐいっと首を回しながら香の追及を逃れる。
﹁それで、これからどうするの?﹂
聡美は隣に腰を下ろす鈴木を見下ろした。鈴木と聡美は身長差が
かなりあるから、どうしても見下ろす格好となってしまう。
﹁ひとまず、これからいく街で暮していただきます。その際のバッ
クアップは、僕が関係している事務所が行います。当然、学校にも
519
通えます﹂
﹁ふぅん。ま、私は食いっぱぐれなければそれでいいんだけど。か
⋮⋮﹂
聡美は口を開いた状態で、しまったという顔をした、
﹁⋮⋮あんたは大丈夫なの?﹂
﹁ちょっと。人の名前を間違えないでよね﹂
﹁うっさいわね。長年あんたのことを、あの名前で呼んできたのよ
?そうおいそれと変えられるものじゃないんだから﹂
聡美は不服の様子で頬を膨らませる。
﹁それで彩芽。学校の勉強は大丈夫なの? 二年分あるけど﹂
﹁ん∼。なんとか頑張るよ﹂
彩芽と呼ばれた香は恥ずかしそうに顔を緩め、体を揺らした。
香が鈴木に指示した魔法はたった一つ。
︱︱香と彩芽を入れ替えて。
たったそれだけで、すべてがうまくいく。彩芽と聡美が村を出て
行かなければいけない事実は変えがたい。であれば、出て行く人物
の名は変えずに、中身を変えてしまえば良いんじゃないか。香はそ
う考えた。
結果、あっさり上手くいった。上手くいきすぎて、拍子抜けした
くらいだ。
魔法がうまくかからなかったのは、村の中では聡美だけだった。
聡美は香との繋がりが強い。幻惑魔法で香と彩芽を入れ替えられる
ような関係じゃ、なかったのだ。
﹁勉強くらいなんとかできないようじゃ、紅彩芽の名が廃るわ﹂香
は呟やいた。﹁彩芽として、恥はかけない。だから、やるよ、あた
しは﹂
﹁そう。ならいいんだけど﹂
聡美が背中を席に押し付ける。
﹁私も追い出された身だし、これから一緒にがんばりましょう﹂
﹁あたし、聡美には勉強は教わらないからね?﹂
520
﹁なんでよ!?﹂
がたっと聡美が腰を浮かせた。
﹁あんたの学校の成績くらい知ってるわよ?﹂
﹁何故それを⋮⋮﹂
﹁変な本ばっかり読んでるから頭が弱くなったんじゃない?﹂
﹁それは関係ないでしょう!?﹂
聡美は、はぁ⋮⋮と長いため息を吐き出した。
﹁なんで私はこんな奴を助けちゃったのかしら。こうなることはわ
かってたのに⋮⋮﹂
﹁馬鹿だからよ﹂
﹁煩い馬鹿﹂聡美はぴしゃりと言う。﹁ま、暁鬼と戦ってるあんた
を見たときに思ったのよ。私も、守りたいって。私は、守れなかっ
たから。けど、そのまま見過ごしたら、また、昔に戻っちゃいそう
だったし。だから⋮⋮﹂
聡美は嫌な記憶を振り払うように頭を振った。
﹁とにかく、戦いたいと思ったわけ﹂
﹁痛いよ﹂
﹁痛いのは嫌。私が戦うなら指一本触れられずに圧勝するわ﹂
﹁最低の発想ね﹂香は顔をしかめた。
﹁とにかく。私はこうなることを知ってて手を出した。あんたはこ
うするための道を作った。であれば一蓮托生よ﹂
﹁そうね﹂香は頷いた。
電車が目的地への中継地点に到着するまでに、結局弁当をすべて
平らげることはできなかった。残った駅弁が腐らないように祈りつ
つ、香は手持ちのバッグに駅弁を詰め込む。
﹁次の電車はすぐに出発します。急いで下さいね﹂
﹁おーけい﹂
香は席を立ち、駅のホームに降り立った。
そこは、まだまだ緑の香りのする町の駅だった。深呼吸をすると、
僅かに排ガスの臭いを感じた。
521
﹁紅さんはこれから、どのような魔法少女になりたいとお考えです
か?﹂
﹁魔法少女になること前提なのね﹂香は苦笑する。﹁あたしは、そ
うだなぁ。治癒魔法が使いたい﹂
﹁治癒魔法ですか? どうして?﹂
﹁そういう人が居たのよ。怪我を治して、人を救う人が。⋮⋮誰だ
ったかな? うまく思い出せないけど。そういう人が居るのを見て、
いいなって思って﹂
﹁そうでしたか。その魔法使いをごらんになったのは、あの村でで
すか?﹂
﹁そう⋮⋮だと思う﹂香は自信なく頷いた。
﹁覚えていらっしゃるんですね⋮⋮。おそらく繋がりの強さに邪魔
をされたのでしょう。アヤカさんも手を抜かりましたね。いや、こ
れがアヤカさんの狙いなのでしょうか? 今度確認してみましょう
か﹂
鈴木は香に若干聞こえるくらいの声量で独り言を呟いた。
﹁なにをぶつぶつ言ってるのよ﹂
﹁いえ。なんでもありません。そういう方も、魔法界にはいらっし
ゃいます。訓練されれば、いずれは治癒魔法を取得できるかもしれ
ません﹂
﹁そう。ならよかった﹂
理想の守人になれるかもしれない。香は満面の笑みで頷いた。
二階建ての駅舎の階段を上り、もう一つあるホームを目指す。香
は、二階建ての駅舎なんて初めて見た。その中から見えた遠くの風
景は、どこまでも民家が広がり、駅舎よりも高い建物が沢山建って
いた。香の村から比べると都会と呼んでもいいほどだった。この先
に行けばもっと町が栄えていくのだろう。
都会とはどんな風景なんだろうか。香は目にした町の風景から、
都会の様子を思い描く。
﹁なにやってるのよ。か⋮⋮⋮⋮彩芽。置いていくわよ﹂
522
聡美が香を呼びつける。香は慌てて鞄を背負いなおし、聡美の元
に小走りで駆け寄った。
﹁都会に行くのが初めてだからって、はぐれないでよね。ポケベル
があれば別だけど、はぐれたら探しようがないんだから﹂
﹁うん。⋮⋮ん?ポケベル?﹂
﹁そういう道具があるのよ。とりあえず、鈴木の後を追うわよ﹂
﹁はいはい﹂
頷いて、香は一歩前に踏み出す。
その後ろにある電車に、香を残して。
これからは、紅彩芽だ。
彩芽として、生きて行く。
絶対に負けられないし、負けてはいけない。
別の電車に乗り込むと、少しだけ気配が変化した。
スーツ姿の男性は疲れた表情を浮かべてつり革を掴んでいる。ミ
ニスカートの女子校生がブルドックの頬のようなソックスを履いて
いる。女子高生から嫌な臭いがした。聡美の化粧品みたいな臭いだ。
都会にはこんな人達がいっぱいいるんだろうか?
おそらく、そうなのだろう。これからこの中に、彩芽は溶け込ま
なければいけない。溶け込んで、生きて行かなければいけない。
できるだろうか? 不安がせり上がる。
でも、やらなければいけない。
生きなければいけない。
せめて彩芽が︱︱香が幸せを手にし、死ぬまで生き、かけられた
魔法が意味をなさなくなる、その日までは⋮⋮。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n8409bz/
魔法少女、辞めます
2014年10月20日03時21分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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