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我国に於ける西洋史研究の態度について
村松, 恒一郎
東京商科大學研究年報. 經濟學研究, 2: 91-107
1933-05-25
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/10086/7267
Right
Hitotsubashi University Repository
恒
郎
我図に於はる西洋史研究の態度について
松
我図に於ける丙洋史研究の態度について
(村松)
3
同洋史
Kのもつ文明につい
九
って以て直ちに賓地に臆用すべきゃうの千本であった。このやうな事情の下にあっては、西洋史事に封する皐者の内
J
ての知識を必要ならしめる、 のみたらや 、それ等の図々のもつ諸文化は、我園にとって先進の文化であり、我岡が持
従来知られなかった諸外岡との接燭交通は、必然にそれ等の岡々の過去現在の事情、それ等の闘
の移植せられた昔初にあっては、このやうな問題は狛これを提出する必要がなかったであらう。新しい文化の轍入、
f 理解との訣けたる恨みがなくもないのである
乏しく、事責この問題に闘しては、思ナ者の聞に狛宏分の考察 3﹂
は い で し か も 五 H Kの同洋史壊に封する立場如何の問題については、従来先進の事者のこれについて教へる所は英だ
我闘に西洋史壊が移植せられてから既に教批代を経て、その聞に於ける斯阜の進歩には大に見るべきものがあると
村
東京商科大事研究年報
相開済拳研究
第二貌
られて、仰れも圏内に於て満自の研究を遂行せしむるに充分な基盤をこれに提供してをる。それ等の諸事問はいは Y、
は移植せられて後、久しきを艇で既に大いに内園化し、或は土日からや代った研究領野が師に千を著け作るまでに開拓せ
然外国皐者の指導に依摸した時代をもってをった。しかし今日に於ては、それ等の科阜の封象とする所の事象は、或
うた外面的た研究時代を遁去にもってをった。それ等も亦酬明詩書や醜案書の時代、或は研究の方法や概念に於て、全
た、特別の困難を有する事に注意を惹きたいと忠ふ。他の諸科事と蹴も勿論、先に西洋史壊について地べたと同じゃ
るやうな諸鈷を項目的に拳げるに止める。第一には自分は我闘に於ける西洋史の研究が、他の科壊のそれとは具なっ
勿論ここではこのやうた問題を、すべての方向に丸って充分に論 47る暇はない。自分は唯芸賞って特に考慮を一安す
しむに足らないのである。それは今日の五口々に改めて課せられた問題であるからである。
かを反省すべく蝕儀たくせられてをる。従来の撃者がこの黙について吾々に教ふる慮の之しいのは、それ故に敢て怪
思ふ。ヘーや吾々は、以上のやうな外面的な意味からではなしに、内面的に西洋史の研究が苦々にとって何を意味する
はないであらう。しかし乍ら今日に於ては、このやうな西洋史阜の外面的た任務は殆ぼ完了せられたといってよいと
究が必要不可般の前提要件であった、それは否々の何人もが周知のことであり、改めて例を以てこれを詩明する必姿
と概念とを提供する意味に於て。この意味に於て、東洋の諸文化を研究するものにとっても、西洋史壌の一通りの研
重要な意義をもってをった、即それが西洋文化以外の文化を封象とする史事に劃しでも、既に大に完成せられた方法
に師に充分であった。このやうな任務が大障に於て一段絡った後に於ても、西洋史壌の功利性は吏に別の意味に於て
面的な立場の如きは勿論問題ではない、外面的た西洋史的知識の功利性が、我闘に於ける西洋史研究を意義づけるの
ブL
自家の畑を既に備へてをる。しかるに、西洋史事者のみは、その利率の性質上、猶常に他家の畑の上に附労働すべく飴
儀なくせられてをる。そこに自分は、他の諸科撃にとってとは異たる、同洋史患にとっての根本的な困難が横ってを
ると思はざるを得たいのである。
Kは撮るべき事責、用ふべき史科の不足に苦しまねばたらぬ。もとよりこのやうな唯々一外面的た事情に基く困
我刷聞に於ける西洋史研究の態度について
︹村松)
九
第二に、我固に於て西洋史の研究を行ふ者は、菅に史料の利用に於てのみなら歩、更にそれらの史料に封する理解力
我闘の西洋史研究者が最も直接且切置に蛍面したければたらぬ国難が、恰もこの賄に存する事もこれを否み得ない。
あり、我聞に於ける西洋史研究を本質的に俊件づける程のものではない、とも一式ひ得る。併し通常の場合としては、
却て、西肱皐者の見る可らざる史料を見出し得る場合もある、然らざる場合に於ても、それは要するに程度の問題で
難は、特に有利た機舎と境遇とを恵まれた者に於ては、大たる程度までこれを除き得る、問題によっては我園に於て
一に吾
相隔るこ主遠い西欧の史賓を研究するといふ事態自身の無理が著しくこの立場を制限する事はこれを斉み得たい。第
の住人として、共同の研究に従事するといふ立場は確かに可能である。似し事責上の問題としては、我闘にあって、
最初から存在し友い。そのやうな人々が、東洋・丙洋、内閣・外閣の直別を越へて、等しく西洋史聞学界たる第三帝岡
勿論問洋史壌の封象を以て、他家の畑とは考へや、等しくこれを自家の畑脱する人々にとっては、この程の困難は
ー
・
・
・
圃
.
東京商科大接研究年報
経済泉町附究
~
凶
九
一種の自然的な理解力を備へ、恰も苦々が自己の過去に於ける経歴・行認を反省する際に、過去の
ばならぬ。換号一目すれば悟史家は思に事買を一手賓として確定する丈では狛その任務を完了しない、寧ろ彼の注意をそれ
或は悶果的閥聯を確定し理解する以上に、更に彼はそれらの事賓が彼に封しでもつ特殊た歴史的意味を理解したけれ
一一一の事賃上の困難を我闘に於ける西欧史研究者の前に提出する。茸し歴史家は骨に純粋客観的に、ある宮市賓の構成的、
この彼殺の問に存する理解力の相違の問題は、しかし乍ら、五日々が更に第一一一の観貼を導き入れるに従って、更に第
疑ひ得たい。
る。但し通常の場合にあっては、この種の困難が我岡に於ける同洋史研究を事貰上大に制限する事は等しく亦これを
も亦獲ち得ベきはやのものであり、以上のやうな第二の困難も結局は程度の問題に蹄し得るとも一疋び得られるのであ
Y 雌も、同陥の文化、西欧の生活事賓に親しむ事深きを加ふるに従て、彼等西欧人のそれと同じところの到解力を
者 3﹂
感情、無意識の中に行はれる理解作用に伴ふあの感情をも生み川すのであらう。従て民族を具にし、生岡を町内にする
の父組の日の事賓との聞に存する事賓上の親和閥係が、それらの事官に封する彼等の理解を大に助け、所謂自明的な
に、彼等の文化の各般の事質、限りたく多様微細た諸事買について不知不識の聞に得た知識や、それらの事賓と彼等
てをるものは、そのやうな自然的た能力とか感情とかいふものではない、寧ろ彼等西欧人が日常その中に生活する問
史関学者にとっては、こ ωゃうた理解力はや同然に始めから欣けてをるのである。勿論巌密にいへば彼にあって吾に扶け
口の自己に封して感ヂるのと同じ一一極の自明的た感情を以て、彼等自身の文化を理解し得るのに反して、我園の西洋
文化に針しては、
の黙に於て重要た不足を感ホノる。荒し西欧文化の中に生ひ育った者は、彼等の父岨或は彼等自身が生み川した過去の
f
存
らの事賓の上に注がしむる動機を彼自身のため、叉彼の読者のために明にせねばならぬ。このやうな動機は、彼がそ
Lる歴史的世界を
れらの事貰を含む過去の歴史的文化、否、終局に於てはこのやうた過去の歴史的文化の蓮積である彼の現在の歴史的
世界に封レて直接間接に一定の憤値意識を有し、それらの事責が直接間接に彼にとって慣値あるか
支ふるものとして、彼にとって特殊の意義を有する所に存するのである。事貨は事賓間関としてではなく、寧ろそれ
が一定の歴史的意味を以て、その歴史家の歴史的世界の閥聯の中に組入れらるべき事によって、知るに似ひするもの
とたるのである。彼は一つの事貫の事質的閥聯以上に、その事賓の意味閥聯を理解したければたらぬ。さて、ここに
提出せられた新しい理解の領野に於ても、先に自分が述べた所謂自然の理解力、自明の感情の閥係は同様に遁用せら
れる。我闘に於ける西洋奥研究者が事責上、西欧の事者に比してこの知大たる遜色を一不す事は、これを否むべくもな
ぃ。しかもこの第三の闘係に於ては、彼等の捨ふべき困難は決して単に程度上の秀別丈に止まってゐない。寧ろそこ
ではより本質的た困難が彼等を待ち設けてゐる。
科事としての歴史壊は何よりも先づ忠賞た事貫研究から出殻せねばたらぬ、正確た事賓の批判確定がそれ以上のあ
らゆる歴史研究の不可般の基礎でたければならぬ、これらの賭を認容するに於て、自分は何人の背後にも落ちぬ者で
ある。しかもこのやうな事賓研究の段階は、それ自らとしては、本来の歴史壊に素材を提供するかへの意味を有するも
のであり、歴史研究の準備的た第一歩をしか意味せぬといふ事も、我々は決して忘れてはならぬ。それ等の事賓が一
つの歴史的事賓とたるためには、常にその歴史家の歴史的王観に結びつけられ、彼にとって一定の意味をもっ歴史的
(村松)
開聯の中に組入れられねばならぬ。歴史的概念のこの意味に於ける主観性は、何人もこれを否定することは出来たい。
我図に於ける西洋史研究の態度について
九
五
東京商科大酎学研究年報
終済拳研究
、
第二競
九六
但しこのやうた歴史的概念の主観性は、決して、そ心歴史家が任意にその好む庭にまかせて彼の歴史的立場をとり得
るといふことを意味するものではない。彼が科墜者として、彼の業蹟に科事的安首位を要求する限り、彼がある事賓
に封して輿へる塵史的意味は、その事賓の事貫性に誼人口せねばなら歩、彼が結局に於てそこから各個事責に封する意
味を導き来る彼の過去並びに現在の文化に封する慣値意識は、それらの文化に封して何人もが認める所のもの、若く
は結局に於て何人にもこれを認めしめ得る民のものでたければたらぬ。具睦的にいへば、謬者はその研究に於て常に
一方には事賓が事買として教へる所により、他方に於ては彼が属する枇舎の共通た文化意識、或は伎が属する事界の
共通な問題の脱貼によって支配せられてをるのである。従て一つの枇舎が安定し、何人もがその祉舎の戴く文化の一償
値について共通の信頼を有するやうな時代、間学界についていへば、そのやうた世曾的安定に幸せられて、聞学者が安ん
じて開学術の株界に専心し得るといふやうな時代にあっては、終局に於て事者を導く文化意識、彼等の問題の同黙はい
はピ何人にも自明な事として前提せられ、精紳的に素朴た事者にあっては屡JF﹂のやうな前提すらも忘れられて、事
賓の故に事貫を遁ふことが唯一の任務として考へられるのである。しかも事態は決してそうではない事、準点。がその
事術世界に専念し、専ら一事貫の上に彼の聞申詑を打立てるといふやうな場合にも、彼が意識的無意識的に彼をめぐる祉
舎の響導的思潮によって支配され指導されてをるとと、これらのことは、感詑と駐曾思潮との問の閥聯を一度研究し
た程の何人もが直ちに首肯し得るところのものである。そのやう友場合には事者は彼等のとるべき立場、彼等の問題
の蹴黙を無意識的に理解してをるのである、そしてこの限りに於ては、先にも詰ペたやうに、民族を異にする他国の
皐者と蹴も.仮令程度の品品川こそあれ、努めて止まぬならば、そのやうな理解に近づき得るといふ事は疑ひがない。
しかるに一つの枇舎が精神的不安定の時代にある場合、その中のある人
kが彼等の現夜の文化に封し、遡つてはそ
kのそのやうな慣値意識との聞に重大な相還が存
一言でいへば、同一の祉舎内に、数多くの異なった歴史的世界観が相並むで、瓦に相争ふといふやうな時
の前段階である過去の文化に封して懐く慣値意識と、他の一群の人
する場合、
代に於ては、問題はしかく簡車ではない。そのやうな時代には、精神的に素朴な事者にも自ら研究指針を興へてくれ
るやうな、事界共通の問題の閥黙といふものはない。事宥は各々自ら自己の力により、調立の信念によって、彼自身
の歴史的立場を定めねばならない。挙者は従来住みなれた、ある桂度まで現貫生活から遊離した第三帝図的な皐界か
ら出でて、今一度現貫生活の中に行ばれる償値闘争の巷に立ち、そこから彼の現賓の生活仁封する態度、若いてはそ
のやうた生活を支へる歴史的文化の全閥聯に封する態度を定めねばたらぬ。彼はん γや航路の定まった大舶に安廃して
をるのではない、自ら舵を操って自己の行く手を定めねばならないのである。
このやうな歴史的文化に封する異なった慣値意識の封立、闘争といふ現象は、恰も西陣文化の一つの特性をたすも
のである。それはその中に起源を異にし性格を異にする数k
ω 文化要素を令むでをる、時間言者の時代更には新約の時
代に最後の形睦をとって来る古代へプライの文化、古典的希臨文化、羅馬的へレニズふス的た古代帝闘の文化、更に
は近代西欧文化の直接の母胎であるグルマン的中社の文化、・それらのものは何れもその特有な文化遺売と特性的な
FS とを以て、相合して一つの問駄文化、欧州的たるものの基柱をたしてをる。それらの何れの二つも決じて同じ
国
やうな方向、同じやうな性格を有するものではたい、むしろそれらのものは多くの駐に於之、相互に恰も正反封の方
(村松)
七
向を内に包賦する。それらの中の一つが、非合理的な、しかも唯一の慣値として結封の信仰と服従とを要求するとこ
我図に於ける西洋史研究の態皮にワいて
九
東京商科大挙研究年報
向腕済血中研究
f
虎
九
ノ1
一つの綜合によって前の綜合が克服され、より高い弐元に迄持ち来され、所
一つの文化時代を形づくるのであるが、中世末期から近代初頭
れてゐた諸要素が夫々の力とそれ/¥の形をもって、そのやうた束捕を破って自己を主張して来る。十五世紀並びに
にかけて、諸園民の内部的力が漸く成熟すると共に、従来賓質的にではなく寧ろ外部的に、躍に教への上で結合せら
たにしても、とにかく一つの綜合的形態を輿へられ、
共時的にいへば、それらの諸要素は、中世の敬合文明に於て、仮令内部的には極めて非統一的、非緊密的ではあっ
の特性的産物である。
謂歴史が護展する。展突の瑳展的た進行、従って亦残展史的た歴史観は確かにこのやうな内面的保件をもっ西欧文化
裂する。歴史が反封と綜合の波をうつ、
種子を含むでをる。そこではそれらの諸要素は常に新に綜合せられねばたらぬ、しかも亦それらは常に新たた形で分
てそれらのことを規定する根本的たるものである。西欧文化はその中に互に相闘ふべき力、互に反捜すべき仕界観の
界観の反封封立とこれを克服綜合しゃうとする努力、そこから止むに止まれぬ力で起ってくるあの内面的賞展、すベ
られ、互に他を批判し相争ふといふ特殊の閥係こそ、確かに、四駄文化のみに特有なあの生活の複雑性と緊張性、世
よって、同じゃうに緊密た批合的建築が築かるべき事を教へる。このやうた異種の諸文化、異種の生活精紳が結合せ
力とによって大いなる吐舎的建築を築き上ぐる術を敦ふる時、第四の者は反封により内面的た自由と園開的精神とに
き一挙を教へて、同様に亦限りたく高い普遍的人道的た倫理的感情を生み出す。第三の者が、より外面的た、組織と椎
を生み出す時、それらの他の一つは、各人各?ぐの理性によって閑満兵徳の償値世界に参輿し得ベく、また参興すベ
ろの、大なる意思の前に各側の倒人性を否定し波却することによって、却て普遍的人道的な限りなく深い倫理的感情
第
十六世紀初葉に亙る近世初顕の猫創と混乱の時代がこれに官る。停統的権威に反抗する自由な自然科翠的研究の先駆
者、人間理性の唯一の基礎の上に夫々濁創的樫系を組立てる近代的背壊の先駆者、個々人の魂の-ほから湧く宗教的熱
情の解放と現欣打破の運動、新しい美術、新しい岡家治道、すべてそれらのものが濁創的たものの力強さと革命的熱
情とを以て舞萎に飛び出て来る。しかるに早くも十六株紀の二十年代 111三十年代に時代の趨勢は再び大なる梓向を
示して来る。それらの新しく生れた理念が今一度現貨の柑禍に投入れられる、新しい理念がよき果貰を結ぶためには、
それらは今一度現賓の勢力、印過去の時代から悼統せられた要素と結びつけられ、それらに打克ち、或はそれらの中
に揖取されねばならぬ、奔放と混乱の中から生れた新しいものが漸く冷静に現賓の事情を反省し、賞践的に自己を建
設しゃうとし始める。ある意味に於て反動的であり、しかもよりえな意味に於て極めて建設的た時代が始まる、十六
世紀後学から十七社紀にかけての反宗教改革の時代、或は諸宗派の時代がそれである。近代的諸岡家が内乱或は革命
一日一戦総から打退けられたか
を経て、最後的に確立した形態をとる時代、諸汲の背壌が漸く樫系を形づくる時代、近時に至ってその建設的意味が
弐第に認存されるに至ったバロック事術の時代がそれである。そこでは周知のやうに、
に見へた中世的要素、殊にはすべてを超越的宗教的た慣値にかけて、そこからあらゆる現味的事賓を判断しゃうとい
ふあの中陀文化の中心的精神が、再び力強く復活する、しかもそれは従来のやうに皐に外面的に敬舎の敬へによって
教へられたものとしてではなく、今や内面から説く伝念として側々人の生活を力強く支配する、 いは刊誌それはよへに似
一つの世界
人化され内面化され、従て各個人或は個人の園樫が何をそのやうな窮極の慣値として認めるかに従って、それらの問
(村松)
7
L
に一真飢た生活目標に闘する闘争、品作界観の争ひが惹き起される。他方そのやうな争びの結果一つの生活、
我闘に於ける西洋史研究の態度にフいて
7
し
東京商科大事研究年報
抑制確何事研究
第二貌
一O O
AI
やその綜合は中世の歌合文化に於てのや
観が確立せられた場合には、それは中世のそれに比して遁かに大きな内面的緊密性と統一性を具有するに至る。郎前
の時代に分裂崩壊した諸文化要素はこの時代に再び綜合統一せられるが、
うた皐一的統一ではあり得歩、少くとも前越の意味の生活闘争、世界観の闘争が吐舎的現象としてその中で闘はれ、
やがて解決せられた諸国民毎にその綜合の課程、従て出来上った新しい綜合文化が異なって来る。印夫々他と異なっ
た特性をもっ諸園民の文化がそこに成立する。従来殆ぽ同一類型に属した英仰の二間家は十七甘い紀の聞に全く異った
型の.一つの園家とたる、清敬涯の運動は従来の﹁朗らかな英園﹂の中から今日の厳粛主義的な英園民気質を生み出し、
K作り上げる。新らしい綜合は中世的、外面的、思一的の代りに、
同様にル l タ l況の宗教運動が今日の一調逸人気質近代的、内面的、多元的とたず Q。
十八世紀は前時代の建設作業が一段落を台げた安定的時代である。 一方には従来具樫的な生活の背景の上に建設せ
られた諸問民文化が、兵開的生活の安定と共に、共第にこのやうな具躍的関心から切り離され、 いはど精紳的文化と
して抽象されてくる、殊には西欧文化の最も有力た一要素である A口珂主義的思考がこの趨勢をえに促進L て、諸園民
に共通な一つの精紳的た商駄文化を形成する。所謂砕蒙文化たるものこれである。他方前時代に異種の文化要素が、
勿論決して矛盾たしにではたしに、結合され統一さる与に至った際に、決定的動機をたした共酷的事情の必然性、兵
躍的生活の必要に劃する関心が漸く薄れて、事態を事態自身として親察するに至れば、自ら矛盾が矛盾として眼につ
いてくる、合理主義的思考や批判を重んやノる時代の精神がこれに拍車をかける。その結巣は各人の聞に既成文化に封
する不満不足の念が自ら生み出され、侍統を値一蹴する潤創的思想、倖統に封する反抗が醸成され、やがては再び侍統
文化の崩袋、 諸要素の分裂、 調創と混乱の時代へと梓向する、 十八世紀の米葉、悌岡革命を中心とする時代が印それ
である。これにつづいて十九吠紀の初頭三十年に亙る反動的建設的時代、殆ぽ千八百七十年を境とする比較的安定的
た時代、そしてそれに績き最後に世凶作戦争を契機として十九世紀文化の崩壊する時代、それらの事象、それ等の経過
は今日何人もが承知の事である。このやうな歴史的同融は、主口々が前に述べた安定的時代なるものが極めて短かいこ
と、その他の時代に於ては西欧文化を内面的に規定する異種の文化要素が、近代に於てはその上に更に、互に異なっ
た各園民の文化の倖統、或はその性格とも呼ばるべきものが、互に封立し、夫々自己の世界観のために争ふのが現寅
。事態であること、殊にそれは停統的文化が崩壊し、新らしい文化時代が特に誕生しゃうとする濁創と混乱の時代に
k、彼等に
於て特に著しいこと、それらの事を五口々に敬へるに充分である。そして五日々が現在その最後に挙げた時代の員唯中に
在ること、これについては何人と離も異論のあるはやはない。今日に於てはあらゆる具たった世界観が犬
とってはそうであって、それ以外ではあり得たい形ちに於て過去の歴史的文化を理解し、その上に現在の彼等の立場
をとり、それに従って明日のプログラムを定め、各々が何れも明日の勝利を目指して相争ってをる。このやうな時代
d とり事賓のための事賓の歴史、所謂純客観的な歴史の世界に安んじゃうとしても、そ
にあっては、所謂事者のみが
れは事責上不可能である、査しそのやうな場合賞は彼等が暗献の中に前提してをる壊国外共同の問題指針たどはか Lる
時代にはあり得ないからである。事者は自ら現貧に反臨し、そこから彼の歴史的立場を定め、問題を自ら作らねばな
らたい。勿論ここにいふ現貰反臨の要求は決して事者に互に相争ふ諸黛派の何れかに濫りに味方し、現質的意思の前
(村松)
には科事的客観性をも犠牲に‘すべき事を求むる-ものではたい。寧ろ科壊が持率として現寅に貢献し得る唯一の道は、
我刷聞に於ける西洋史研究の態ぃ院について
O
東京商科大皐研究年報
終済拳研究
波
O
率者が、多くの顧慮を彼等の内面的壌間的立場について費さ歩、彼等の業績がもっ事責上外面上の放用性の背景の前
者の立場と、これに伴ふ制限とを殆ぽ諭じ得たと忠ふものである。それらの事者が明治初年以来の奮き我囲の西洋史
以上自分は自閤他闘の匝別を超越して、等しく西洋史事界の一員として、我聞に於て西洋史研究を鋒まんとする皐
て自ら任十ることの困難は恰もこの出張貼にか与ってをるのである。それは科壌の客観性の問題とは別の問題である。
遊離し、その主観性に於て西欧の事者と甚だしく性絡を具にする我閣の事者が、彼等と等しく西洋史態一阜の住民を以
む現貫的園氏、彼が属する現賞枇舎の閥心が決定的に彼の立場の上に働きかける。このやうた具瞳的生活の要求から
直接な各倒壊者の主観性、或は紋をめぐる具瞳的生活の必要が彼に山内務賠を興へるのである、そこではその事者を合
が成長と混乱との唯中にある時期に於て然りである。そこでは事界の共通な興味といふやうなものではたしに、より
たくてはならぬ、しかし問題の提出向樫は常に必歩しもしかく客観的に行はれるのではない。殊に現在のやうに時代
の主観性にか与ってをる。問題の解決、これが前提をたす事宜研究に於ては事者は何底までも科接的客観性を同持し
様の意味をとり来るやうた狛かくれた歴史的要素を見出し、そこに問題を正り上げる鈷に於ては、それは多分に事者
のもつ意味、それらが官然手くべき制限をこれに知らしめねばならぬ。しかもそれらの諸世界観、或は明日これと同
方向を教へねばならぬ。それは互に相争ふ現在の諸世界観の本質をば、その由来にかけて殿密正確に確定し、それら
現在の文化の立脚黙を定め、よって又明日に於けるこの文化の進むべき行手の見通し、この文化の裂展し件ペき可能
としての回蹴史研究は、現在に至る迄の西駄文化の護展を客観的に巌正正確た事賓の上に理解し、これによって吾々
夫々の現質的意思が自己を規定する際に安じて擦り得る底の客観的知識をこれに提供する貼に存するのである。科事
筑
M
に、屡 J外国事者の研究の模倣M
m介の域を耽せ さりし欣態に飽見ら歩、自らそれら醤時の壊者にとって千本であり部
問屋であった外園事者と同列の地位に進出し、後者と同じ科事的熱情と異国目とを以てその職とする研究に首らんと
する士山は誠に掌敬に値ひするものであり、旦そのやうな立場からの研究の勃興が我関西洋史事界の進歩の上に不可扶
の前提要件である賄を認むるに於て自分は敢て人後に落つるものではないのであるが、しかもそのやうな立場が上来
連ベ来ったやうな困難を伴ふこと、殊に現在の如き時代にあっては、決して外面的程度上の問題としてのみたらや、
T
寧ろ内面的に規定せられ、容易に渡り得ざる底の困難が、それら共同に丙洋史事皐界の位民を以て自ら任ぜん とする・
筆者を待ち設けてをること、それらの諸鈷については特にそれら新進の事者の一考を煩はし度思ふものである。
我凶に於ける西洋史研究の態度に口いて
(村松)
kの問題を問ひ直さたければならぬ。扱て前節
/
寸
代にあっては、歴史家の出護賭も一背に科事、としての歴史撃の.要求する問題といふやうたいは Y現貨から遊離した問題
川駅前にもつやうな、現賓の生活が不安定な朕態にあり、従てすべての闘心が現貫生活の要求に集中せられるやうな時
の末尾に行はれたあの考察は、我園の西洋史研究者にとって特に考慮に値ひする閥係を指示してをる。印現在再々が
に意義づけるやうた立場があり得るや否や、耳目々は今一度立闘って五日
E いふ立場のみによっては猶解決せられ得ない。しからばそのやうな立場以外に猶我聞に於ける西洋史研究を内面的
吾々の問題はそれ故に、他家の加と自家の畑との匝別を撤し、等しく西洋史聞学界の住民として西欧の史資に封する
一
一
東京商科大事研究年報
相附済革研究
号
k
一円凶
化と吾園田有の文化との封立或は接輔の程度が明らかに理解せられ、車に百目的た或は歪められた模倣ではなしに、
質をば、その歴史的建展にかけて正しく理解することでなければならぬ。この課桂を経て始めて、そのやうな輸入文
せられた諸文化の本来の意味、本質を今一度明らかに認識し直すこと、全躍としては所謂西欧の文化、同肱主義の本
ら遠いのである。それ等の多くは猶悌作って魂未だこれに伴はぎるの恨みがある。従て今日の急務は、それらの輸入
これに模する事が出来たとしてもーその運行を規定する根本の本質、その精神に至つては、猶英一だしく正山口回た理解か
べてが古来我園の歴史に扶けたる虚のものであり、従で外部的た制度、事宜的末節に五つては、これを率むで直ちに
れを同化すべき必要に迫られつ Lあることは何人と雌も疑ひ得ざる所である。しかもこれらの新文化はその殆んどす
入して、大に自己を主張しゃうとする我園としては、その幸不幸は別として、大たる程度までこの文化を揖取し、こ
遥かに大たるものがあるのである。殊に現在に於ては世界の文化闘は郎賞質上回欧の文化閏であり、その山中に新に加
今日既に西賦輸入の文化が五口々の生活に封しでもつ意義は、五口園古来のそれに比して、少くとも表面上に於ては屡 a
c
蝦令現今我園間有の文化の慣値を再認識し、これが宣拐をはからんとする運動が漸く盛たらんとしつ Lあるとはいへ、
欧の文化を大に輸入し、今日に於ては五日々の生活は既に著しい程度までこの新しい文化の下に管まれてをるのである
る西洋史事者にとっては特に重要な意義を有するものなることこれである。査し周知のやうに我闘は明治初年以来同
舎に生活する人々の歴史的敬養に貢献すべき任務を背負はされるのである。そしてこの第二の任務は恰も我闘に於け
換言すれば歴史家は翠に科墜としての歴史壊の研究を任務とする以上に、彼等の同胞たる園氏、彼等と共に同一の枇
に止り得守、寧ろ彼等の出護鈷は力強く現貨の生活者が具韓的に要求する如き問題によって支配せられるのである。
信
内面的に新来のものを揖取し、これを同化する一事が出来るのである。それは我間に於ける同洋非の研究者に課せられ
た最も重大た任務であり、同時にそれは単に科接的闘心以上に、より切賓に現質的責践的関心にか﹄ってをるのであ
En
閣の西洋史研究者を待ってをるりである。もとよりか
る。そこではより抽象的な西洋史皐界の共同問題の研究の如き任務以上に更に重要な任務として、具樫的た五口園民に
E つての問題、主口々の今日の生活が要求する問題の解決が、
くいふ意味は、この後の任務がよりよく遂行されるためには、先づ科墜としての西洋史研究が、客観的正確な事貫的
研究がその某礎をなさねばならぬこと、後の任務のためのよき準者が前の任務のためにもよき事者でなければならぬ
こと、これらのことを決して否定する意味ではない。しかもこの雨者の聞に、科墜としての歴史と敬養としての歴史
の任務の間に、重要た差別が存すること、殊に後の任務が現在重要た樹立の意味をもつものたるとともこれを疑ひ得
たい。二つの任務を事買上厳格に直別することが不可能、或は困難であるといふ事は、決して前者のみで﹄事足りると
いふことではない。
具韓的にいへば西陣の世界の歴史的事貨は事質問腫としては五円園民にとって大たる閥心を有しないのである、それ
は他闘のこと、他民族のことである。寧ろ苦々が閥心する所のものは、それらの史賓によって築き上げられた現在の
四賦文化の本質、それらを導く償値意識、最も深き内面に於てそれらを支へる西欧主義の精紳である。叉西欧文化の
あらゆる隅々が、その護展の絶へざる一つ一つの階段が五口々にとって知るに値ひするのではない、それらの中特に大
なる文化意識として、現在の西欧諸岡民、ひいては苦闘民の生活の上にまで重要た影響を及ぼすゃう主要素のみがこ
(村松)
一の五
の第二の任務にとって興味があるのである。このやうに正しく制約せられた窓味に於て出殻鈷をとるたらば、それが
我凶に於ける向洋史研究の態度について
東京商科大祭研究年報
終済拳研究
銑
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文化の中にある諸要素が犬
一つ
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一つは五日々の生活の不可扶
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乞理解し得歩、従て亦明日の記口々の生活を意識的に替み得ぬといふ開係に
Kの生活の全部を歴史の中に分解し、否々の生活の慣値を歴史的相
K新しい相貌に於て戟紘に現はれ、互に相争ふ如き過渡的時代に於て、更には特に現在の
は印睦突を通しての道である。そのやうな歴史の意義が、現在の如き西欧の
ll卸又大なる程度まで現在世界のll
る 0 1日kが Znkの生活の中に相争ふ諸要素を夫々に理解し、所謂敵を知り己れを知ってこれらの上に打勝つ唯一の道
創建へと進むで行くのである。しかもこのやうた歴史牲の克服、新しい歴史の創造への唯一の指導者は邸亦歴史であ
それらの内部的封立を克服しつ与、常に新しい生活慣値へ、械にとっては唯一の、それ以外ではあり得ぬ底の生活の
吾々の生活が猶内に護展の飴力を存する限り、それは絶へや新たな生活要索、新たな生活慣値をその中にとり入れ、
封性の中に沈淡せしめ、或は E日々の生活の上に綜じて蓮命論的た悲観主義的た陰影を投げかけることではない。寧ろ
根ざすものである。もとよりかくいふ意味は、主口
過去の歴史を珂解せ守しては、現在の
に限るものである。第二の動機は吾々の現在の生活があらゆる賄に於て過去の歴史的所産の上に成立し、従て五口々の
続性を有する場合に限るものである、例へば自己の家族の系固であるとか、自園民の過去の記録であるとかいふ場合
にとってそれらの事賓がそれ白樫として親
の要素として歴史が前提せらる ふ
t ことこれである。第一の動機は本来五 H K
心を規定する根本動機は二つある。 一つは過去の事買を事賓として保存し記憶すること、
活の事情、五 H Kの兵躍的生活の要求の上に立脚するのであるからである。 一般に教養、としての歴史に封する者々の闘
搾び得るやうな問題に闘するものであることは自ら明かである。荒しこの第二の任務は密接に現在に於ける我園民生
四蹴出先聞学界の共通た問題といふやうなものではたいこと、それは特に苦闘の草者に要求せられ、彼等のみが亦それを
第
我聞に於てのやうに、そのやうな内面的不安定に悩む問蹴文化を輸入文化として新たに岡有文化の上につけ加へ、本
質上大に異なったこの二つの文化を新たに綜合する必要、それらの封立を克服して、その問から新しい時代の文化を
嘆く必要に迫られてをる如き時代に於て、犬にその重要さを加へ来り、事責加へ来ってをることは現在何人もこれを
一O 七
否み得ぬ所である。この意味に於て我岡の西洋史事研究は調自た内面的任務を有するのであり、そこに確かに苔品川西
(村松)
洋臭事の研究に従事する者が充分考慮するに値ひする内面的た立場が存在するのである。
我図に於ける西洋史研究の態度について