わが故郷 ・母校 さ と 速い昔に誘われる 。 タ閣の中を沖釣に出た漁船は、明け方港に帰 ってくる 。 の活きはよい 。 ながらの漁法で獲物も多くはないが 、釣りあげた 魚 長浜に集められる 。筏を数える単位は 、棚(たな)と呼ぶが 、一棚とは二聞 の長さの 木材を巾八尺程の舟型に組ん 私の郷里長浜はまた材木の町でもある 。 県下最大の河である肱 川を、 筏に組まれた木材はおし流されて河 口の 活きているものだとの考えがあったからだ 。 の大根や人参のように魚、が並べられて売られている光景を 見て、 魚を 食べな くなった 。 私は料理の直前まで魚は うに美し い庖先 の水槽 には目を丸 くす る。 私ははじめて広島に来た当時 、魚屋の庖先で 、あたかも 八百屋の居先 ら銀鱗をひるがえす魚、 が入れら れる 。 遠 く松 山あたりからもこの魚を求めて人が集まるが 、さなが ら水族館のよ 浜ぞいに並ぶ魚屋は、届先にタイルやガラスばりの大きな水槽が造られていて 、 沖から帰ったばかりの漁船か 問 土 今は 広島 の廿 日市に住ん でいるが 、ときおり宮島沖を通る汽船の汽笛や漁船の発 動機の音 に、私は郷愁をおぼ え 、 また一一般と沖釣に出る小型漁船の姿を 、私はいつまでもあきないで見送っていた思い 出がある。あれから 四十 年 、 時代もあ ったが、もともと瀬戸内総業 の小さな 一基地 であ った。 タ閤せまる港に発動機の音を残しながら、 私の郷里は愛媛県伊予長浜町 。 伊予灘に 面した港町 である 。 かつては大阪別府間航路の商船が寄港して賑った る だ一かたまりを指す。 伎を流すときは、十五六の棚を連結し﹁乗り子﹂と呼ばれる筏師が竹ざおを操りながら 二 - 11- 綬 ふ 日も三日もかけて流し ていく 。急流あり濡場ありで危険こ の上ない筏師にと って、最も 辛い ときは初冬か ら蒋先にか けての時期である 。 おだやかに晴れ渡 った日に は、夏 でさ えも、その日の日 暮頃から﹁あ らし﹂と呼ぶ 川風が吹く 。 ﹂とに冬期には山あいに発生した霧 をふき散ら し荒れ狂い い よ長浜町の肱川あらし ながら川面にすさ ぶ。 この﹁あら し﹂の 中を技師は竹ざお を操るのだ 。 一部は 地元 の製材所 ﹂うして運ばれた木材は貯水池におさめられるが、 は船積されて阪神方面に売り出され、 で加工される 。 この木材の版売や製材そして加工という材 木業が長浜を支えてきた大きな産業であ った。鉄道や トラ ツクが 発達した今は、 勇壮な筏流は見られなくなったが 、 製材業や木工業はいまなお町の主要産業 の一つとして 町を 支えている 。 ふるさとの町長浜のよさ、それは、以上の港と肱川を語 - UA ・U-U) ることで尽きるのではないか、私はそう思 っている 。 比治山女子短大新聞(昭 - 1 2ー 部
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