会報第2号 - 長崎大学医学部

同門会 会報
第2号
平成 21 年 9 月
長崎大学医学部眼科学教室同門会
同門会の更なる発展にご支援とご協力を
長崎大学眼科同門会
会長
三島惠一郎
異常気象の影響で各地に大きな被害が出ていますが、皆様方の地方では如何でし
たでしょうか。お見舞い申し上げます。
平成 19 年 11 月に長崎大学眼科同門会総会を再開し、県外からも多くの先生方に
ご参加いただき、また、昨年も予想以上のご参加で総会を盛大に開催することが出
来ました。これは偏に皆様方のご支援の賜と厚くお礼申し上げます。
昨年末頃より、金融市場は世界的大不況であると、新聞・テレビは連日報道がな
されていますが、幸いにして、医師には不景気の実感が少ない様です。ただ、治療
費の不払い、健康保険の未加入者は増加しているような気がします。
どのような不景気の時代になっても、医療・医学の発展を阻害されてはいけませ
ん。しかし、大学病院は行政独立法人制度になり、人手不足、予算の不足などが影
響して研究に力が入れにくいとの苦情を耳にします。
更に、政府は国家予算を削減して行く方針ですので、医学、医療関連に十分な予
算が付く事は期待できません。そこで、必要なのが民間の活力を利用した支援であ
ろうと思います。
しかし、我が国では民間人が大学などに支援あるいは経済援助をする風習、習慣
がなく、簡単にはいかないのが現実のようです。そこで、微力ながらでも、同門会
などが大学を後援する事は大切であり、継続させるべきだと思います。
昨年の総会で、私は、同門会より眼科医局に学術奨励金などを搬出するようにし
たいと提案しましたので、本年度より実施したいと思っています。これを継続し、
増額できるように努めたいのですが、その為には、皆様方からの同門会会費の納入
率を上げる事が重要であります。
一方、同門会はこの様な会報や総会で情報を提供し、会員のコミュニケーション
を図る事により、和が保たれ、後輩達は喜んで研究が出来る様な雰囲気造りに役立
つであろうと確信しています。
先月、久しぶりに日眼総会に出席しました。北岡教授はじめ長大の先生方が発表
し、健闘されていましたが、私はある教育セミナーに出席していました。そこで視
路の講義があり、先輩の故 藤野 貞先生の外側膝状体の研究を賞賛されていました。
私が入局した当初、藤野先生が夜遅くまで、外側膝状体の凍結切片標本を作製され
1
ている姿を思い浮かべ、懐かしくもあり、嬉しくもなり、藤野先生への賞賛は長崎
大学眼科教室同門の誇りでもあると思いました。
これが後輩の業績を賞賛されても同様に誇りに感じるであろうと思います。これ
から、同門の方々の和を大切にしていくことは重要で、同門会を愛し、発展をさせ
て行く責任を強く感じさせられた学会でした。
皆様の同門会へ更なるご支援、ご協力をお願い申し上げます。
長崎大学医学部眼科学教室同門の皆様へ
–医局より–
北岡
隆
残暑の厳しさが続く毎日ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
新医師臨床研修制度も、新しい研修医が入るようになり 4 年目になりました。この
間、長崎大学では平成 18 年度 3 名、平成 19 年度 0 名、平成 20 年度 2 名、平成 21
年度 2 名と関連病院を維持できるほどの入局が得られず、苦しい医局人事が続いて
おります。しかしこの傾向は長崎大学だけでなく、大都市(東京圏、名古屋圏、関
西圏、福岡圏など)を除いた大学の共通した傾向で、眼科にとどまらずほとんどの
科で同じような状況になっております。一方、この数年来眼科全般に逆風が吹いて
おり、新聞・雑誌でも根拠のない眼科叩きが見られます(銀座眼科のレーシック後
の感染など、信じがたい事件が起きているのも眼科叩きに拍車をかけています)
。そ
のため大都市であっても最近 2 年間は、以前に比較すると入局は減少傾向です。こ
れからは関連病院の数を減らしてでも集約化を図る必要がありそうです。
本年7月より長崎市民病院から撤退いたしました。病院の眼科に対する扱い、機
器の老朽化、眼科医の集約化の必要性などから総合的に判断し、撤退となりました
が、内科を中心とする病院にとって、眼科はなくてはならない科であることが痛感
できました。長崎市民病院は現在将来構想の企画中ですが、眼科を再開するかどう
かは、長崎市の構想を参考に医局で決定したいと考えています。
こんな状況ですが、新制度後、眼科に入局した医局員は以前同様熱意にあふれ、
まじめな面々ばかりで、オーバーワークにならないか心配しています。本年度の 2
名は植木亮太郎、黒崎智加の 2 名で、初々しさを残しながら遅くまで頑張ってくれ
2
ています。秋に同門会総会で皆様にお披露目する頃には、きっと立派な眼科医にな
ってくれていると思います。また 6 月から和田光代医師が和歌山日赤医療センター
から着任いたしました。平成7年防衛医大卒業で、持ち前の明るい性格で、外来・
病棟・手術室で積極的に診療に励んでくれています。
長崎大学病院は、医学部附属病院から医学部・歯学部附属病院へと名前をかえ、
本年度からは長崎大学病院(長崎大学本部直轄の病院というかたち)となりました。
病棟が昨年新しくなりましたが、来年度には眼科外来が新しくなります。現地再開
発のため、外科の一部や精神科外来、眼科医局は再来年の移転になります。このよ
うに大学病院の器は、独立行政法人化後の荒波に耐えられる形が整いつつあります。
しかし形が新しくなっても、その精神は長崎大学医学部眼科 150 年の伝統に基づい
たものを持ち続けたいと考えております。
同門の先生方には今後とも尚一層のご支援をお願い申し上げます。
3
総会報告
平成 20 年 11 月 22 日(土)ホテルニュー長崎におきまして、同門会総会及び懇親
会が行われました。51 名の参加者があり、ご多忙の中、数多くの先生方にお集まり
いただきました。
18 時 30 分から、山之内夘一先生より「私の在局の頃」と題しましてご講演をいた
だきました。現在在籍する医局員には、医局の歴史を知る上で大変興味深かったと
思います。
【総会風景】
【山之内夘一先生ご講演「私の在局の頃」】
【三島会長よりご挨拶】
19 時より総会を開催致しました。開会の辞の後、鬼籍に入られました先生方への
黙祷を行いました。世話人の村田 稔 先生より今年度の経過報告が行われた後、会
長の三島惠一郎先生よりご挨拶がありました。次に長崎大学眼科学教室の現教授で
ある北岡 隆先生より教室の近況報告があり、総会は閉会されました。
その後、記念写真撮影となり、懇親会が開催されました。乾杯のご発声を嵩 則雄
4
先生におとりいただき、祝宴が催されました。
当日は、山之内夘一先生の奥様である山之内チヅ様もご一緒にお越しいただきま
した。溝口 孝 先生・柿本末人先生にはスピーチをいただき、また、前年度の新規
入会会員の鈴間 潔 先生・鬼塚尚子先生・深澤祥子先生・前川有紀先生よりそれぞ
れ自己紹介をしていただきました。
当日ご参加いただけなかった先生方より多くのコメントが寄せられておりました
ので、いくつかご紹介させていただきました(音信として 16 ページに掲載させてい
ただいております)
。
白井 彰 先生より閉会の辞を述べていただき、懇親会は盛況のうちに終了いたし
ました。
【嵩 則雄 先生より乾杯のご発声】
【溝口 孝 先生よりスピーチ】
【柿本末人先生よりスピーチ】
5
後列:左より
藤川亜月茶先生・中村晋作先生・
佐藤安雄先生・中村昌子先生・三島惠一郎先生
前列:左より
津田尚幸先生・山之内夘一先生・高瀬智子先生・深澤桂子先生
後列:左より
早田義典先生・嵩 義則先生・
溝口尚則先生・松永伸彦先生・高野潤之輔先生
前列:左より
北岡 隆先生・山之内夘一先生・津田恭央先生
後列:左より
佐藤眞由美先生・永石順子先生・助村房子先生・河野峰子先生
前列:左より
高木敏博先生・秋山和人先生
6
津
四
嵩
田
三
二
高
山
秋
佐
宮
高
山
鈴
岡
川
畑
田
山
藤
村
木
田
間
恭
義
智
泰
太
義
和
隆
紀
敏
浩
央
則
子
宏
一
久
人
哉
毅
博
喜
潔
梶
前
佐
永
助
溝
高
松
隈
今
早
松
三
山
山
川
藤
石
村
口
野
永
上
村
田
本
浦
之
彩
有
由
順
房
尚
之
伸
武
直
義
牧
陽
宏
乃
紀
美
子
子
則
輔
彦
志
樹
典
子
子
一
永
佐
中
深
村
中
梶
藤
鬼
黒
深
宿
河
石
藤
村
澤
田
村
原
川
塚
木
澤
輪
野
列
目
岸
美
列
目
諸
眞
潤
列
目
一
亜
忠
安
昌
桂
徳
雄
子
子
高
山
本
瀬
下
多
列
目
内
晋
喜
月
尚
明
祥
恵
峰
稔
作
徳
茶
子
子
子
子
子
柿
北
溝
嵩
山
山
三
白
津
本
岡
口
之
之
島
井
田
内
内
恵
則
夘
チ
一
雄
一
ヅ
郎
壯
智
之
繁
末
子
助
昭
人
隆
孝
7
尚
彰
幸
寄
稿
私の在局時代
(1)広瀬教授時代(1952-1962)
--------------------------------------山之内夘一
インターンも終わりに近い昭和 27 年 3 月の下旬、入局をお願いすべく浦上の大学
の眼科医局を訪ねた。ちょうど、教授は医局で新聞を読んでおられ、入局の希望を
申し上げるとこころよくお許しいただいた。特別にお話もなく余りにも簡単な面接
であった。
眼科専攻の決心を固めたのは、三菱造船所病院(当時の西日本造船所病院)での
インターンの開始が眼科配属で始まったこと、眼科医員の先輩村田晨六先生(昭和
14 年卒・満州の新京医大眼科助教授で引揚げ)のお勧め、入り口は狭いが奥は深く
広い学問の世界であることが気持ちを眼科に向けたように思う。当時、造船所は朝
鮮戦争で好景気、従業員も多く、眼科では特に角膜異物の患者が多かった。医長の
金光康生先生(大正 15 年岡山医大卒)は実直温厚、寡言実行型のゼントルマンで、
副院長を兼ね外来に出られることは少なかったが、よく含蓄ある診療余話を聞かせ
てくださった。村田先生は飽の浦で眼科を開業されていた義兄にあたる永山寛先生
(昭和 3 年卒・満州の新京医大眼科教授で引き揚げ、大分医大名誉教授永山治男先
生ご尊父)が亡くなられたため後継ぎとして辞められたが、これがその後眼科配属
になった同僚から再々角膜異物除去を頼まれることになり、眼科との縁が一層深ま
ることとなった。
昭和 27 年 4 月 1 日、眼科学教室研究生の辞令をもらい入局。当時の医局は助教授
後藤純孝先生、医局長藤野貞先生、助手に吉岡久春先生、岩崎常人先生、山口哲二
先生、徳永次彦先生、三村璋一郎先生、山越隆晴先生(休職中)とごく少数のメン
バーだった。診療は諫早は岩崎先生が固定、その他は午前中は新興善の病院外来に
浦上から病院バスで通勤、午後は浦上に帰り病棟の入院患者の診療、手術に従事と
いった按配であった。私は無給であったため、週に数回、香焼島の造船所病院にア
ルバイトで出させてもらっていた。住まいはインターンを終えてから上筑後町から
片淵町に移し、近くの下宿屋で食事だけを取っていたが、朝 5 時と出勤が早いため
朝食は前日の夜弁当を作って貰い、大波止からの通勤船で香焼島まで通っていた。
当時の医局生活を吉岡先生は次のように記されている。「その頃医大病院は諫早
8
駅の近くにある二階木造の建物で、午前中診療、午後週 2 回の手術のみで、研究は
全く出来る状態ではなかった。したがってそれ以外の時間は当時食糧難のため畑仕
事だった。昭和 24 年病院は諫早から長崎市の中央にある新興善小学校の跡に移転し
た。網膜剥離の手術は手術室ではなく、眼科の暗室で、小さな締め切った部屋の中
で手術していた。従って冬など手術が長い時間かかることがあると、手術の途中で
看護婦が一人、もう一人、さらに助手も術者も次々に倒れるということがあった。
理由は締め切った部屋の暖房用に使った木炭による炭酸ガス中毒だった。昭和 29 年
か 30 年にやっと浦上にある原爆前の医大当時の病院に移転したが、病棟は鉄骨むき
出しで、病棟にあった手術室はある期間産婦人科と一緒に使っていた。」と。往時
が偲ばれるエピソードである。
第 22 回九州眼科集談会
昭和 27 年 6 月 29 日
於
久留米大学医学部
(※ 後藤助教授)
原爆で殉職された山根教授の後任として、広瀬教授が久留米の九州医学専門学校
から長崎医大教授になられたのは昭和 21 年 6 月である。付属病院は長崎の新興善小
学校と諫早の製糸工場の佐世保海軍病院分院跡にあり、特に食住不自由な時代で、
諫早の病院敷地内にある長屋が教授宿舎となっていた。私の入学した頃もそのまま
で野菜の自家栽培に励んでおられたようである。原爆後、広瀬教授着任まで眼科教
室を守ってこられたのは先輩の小笠原長秋先生(昭和 18 年卒、解剖の国友鼎名誉教
9
授の女婿)である。当時を回顧された手記があるので抄録する。
「戦時中、人吉の陸軍病院に勤務中長崎の原爆を知り、9 月初旬休暇をもらい浦上
を訪れたが、電柱、電線、木材が散乱し、大学への坂道には牛馬の死体すら転がっ
ていた。くぐるようにして教室に入っていったが廊下を通ることもならず、茫然自
失するばかりでそのまま引き返すほかはなかった。9 月中旬、除隊になるとすぐに、
長崎高商(現経済学部)の長大本部を訪れたところ、影浦教授から現場責任者とし
て跡かたづけの仕事を依頼され眼科教室の清掃に取り掛かった。図書を死体安置室
に、ついで長崎高商の一室を借りて輸送保管した。当時毎日歩いて浦上まで出かけ
昼食は畑の芋を看護婦さんが蒸かしてくれた。後になり県庁交通課からトラックを
出して貰うようになり、寝台やめぼしい器具を新興善へと幾往復したことだろう。
進駐軍の肝いりで慈恵病院が設立され、各町内からの徴用人夫がやってきたが、眼
科研究室の電気冷蔵庫や、皮膚科の遠心沈澱器、ふ卵器などを運ぶのを手伝わされ
た。眼科清掃が一段落し 1 ヶ月たった 10 月中旬から原因不明の熱病に罹り 38 度 5
分前後の熱が取れずやむなく帰郷し、2 週間ばかり就床して 11 月初旬再び長崎へや
ってきた。後で原爆地作業による原爆症であることがわかった。その後、大学の大
勢は大村海軍病院へ移っていったが、調教授が眼科主任代理となられ、小生 1 人新
興善小学校での眼科診療に当たった。12 月になって、熊さんが婦長として来られ、
五島和夫君や大島桂(後に浅沼)君など学生が眼科診療の手伝いをやってくれて大
助かりだったが、4 月になって学生の成績表の提出を求められたのには閉口した。
当時大村病院には眼科担当者がなく、小生が再三勧告を受けたが、大学復興は浦
上からとの一念からどうしても応じなかったところ、そのうち後藤純孝先生が川棚
病院から帰られて大村病院眼科を担当された。20 年暮れには山根教授の令息が来ら
れて、遺品としての図書を荷造りし、翌年 6 月頃までには教授室内に疎開してあっ
た先生の図書全部を送り届けることができた。21 年 6 月には、京城医専出身で中国
から復員の嵩 則雄君が入局してきたので、愈々眼科診療室も活気を帯び、非常に有
能・頑健な同君の手によってペンキが塗られ、机、本棚が組み立てられ、兎も飼え
るようになった。又、21 年 3 月台湾から引き揚げの義兄 国友 昇(後に日大眼科名
誉教授)も 4 月から 7 月東京赴任まで小生の眼科手術を手伝ってくれた。
同年 10 月、
広瀬教授着任まで凡そ 1 ヶ年、眼科教室を預かって大過なきを得たのは、一重に諸
兄のご後援の賜と深く感謝する次第である。山根教授は被爆後手厚い治療を受けら
れたが、テタヌスのため道ノ尾で亡くなられ、土江助教授は陸軍病院応召中、広島
原爆で死亡された。」教室のトップ二人が原爆死した眼科教室は長崎だけであろう。
医局外の研究生としては、小笠原長秋、阿部茂子、岩切 孔、上野朔郎、緒方大二
郎、志方勝之、嵩 則雄、津山喜代子、南里四郎、馬場春巳、原 泰彦、原 駿、深町
雄三郎、藤野 寿、横山俊一の諸先生がおられ、時々の医局の会合でお目にかかって
10
いた。
5 月 3,4,5 日、第 12 回医師国家試験を片淵の経済学部で受けた。基礎、臨床全科
の試験を受けた最後の受験組である。国試発表は 7 月、クラス全員(38 名)が合格
した。全国合格率は 93.4%であった。発表の日はちょうど蚊焼小学校のトラコーマ
検診日で出かけ、帰ってから合格のことを知った。入局祝いは中島川に浮かんだ団
平船を改造した飲み屋であったが、料理に何が出たかは覚えていない。この頃、電
車は浜の町から賑橋の方を通っていて思案橋、正覚寺へは線路がなく、今の電車道
には闇市が思案橋に向かって 2 列に並び夜は賑やかであった。吉岡先生も書いてお
られるが、当時は研究が出来る状態ではなく毎晩よく飲みに出たもので、下戸であ
った先生もやがては一人前の酒飲みになられた。私が入局して最初に与えられた仕
事は図書室の整理であった。原爆で建物は崩壊したものの、図書は一部は原爆前に
疎開させたものもあり、火災に会わず残っていたが、たびたびの移転で雑然として
おり、中には微塵になったガラスの破片が図書に刺さり、あるいは濡れてくっつき
到底読める状態ではないものもあった。こうした図書を一冊一冊手にとってはガラ
スを払い、くっついたものは出来るだけ剥がして読めるようにし、表題をタイプし
て整理していった。移転の際に他科に紛れ込んだ図書(Duke-Elder; Textbook of
Ophthalmology など)の取り戻しで、眼科の図書だと張り合ったりしたこともあっ
た。原爆で焼けてしまった他科の図書のことを思うと、眼科では初代教授村上先生
寄贈の Graefe’s Archiv. Ann. Oculist など第 1 巻から備わっていた。大変だったの
は山根教授以前からのものと思われる無数の別冊の処理であった。また、山根教授
は短歌をされておられたようで、歌誌「アララギ」の雑誌も多く、そのためか私が
受けた医専の入学試験問題の作文の採点した答案用紙が残っていた。この用紙は後
で、裏返して当直日誌に使った。当直日誌といえば、当時の当直室には古い当直日
誌があった。筆字で落書風に書かれたもので、ウイットに富んだ読み物になってい
た。いつとはなしに消えてしまったのは今も思うと残念なことである。当直室は教
授室の前にあり、最初は鉄製の硬いベッドが置かれていたが、その後数奇屋風に改
造して畳を敷き、掘り炬燵も作り、休憩室兼用とし数人が泊まれた。私が裏門近く
の古物屋から買ってきた、大きな木の根っこで作った看板を入り口に飾り、一見飲
み屋風にしたが、この飾りは古もの集めの趣味を持つ福岡の某眼科医師に献上した
ので今はその病院にあるはずである。
入局早々、受け持たされたのは原田病の患者で、絵の具で眼底のスケッチをし、
印象派の絵だといわれたことを記憶している。カルテの書き方が悪いと、ご自身で
書き込みをされ恐縮したものである。先生はより細かい観察を身をもって教えられ
たと思う。研究面では新しい機器(位相差顕微鏡、アイソトープ、電気眼圧計(だ
たし自記装置なし)、小型電子顕微鏡など)を入手され、早速研究に使用された。
解剖のご出身であったので、テーマは主に眼組織の形態学的研究で、その成果は昭
11
和 32 年岐阜で行われた第 61 回日眼総会の特別講演「日本人眼瞼の解剖及び病理に
関する若干の知見について」と題して講演された。また、脈なし病(高安・大西病)
の実験的研究にも勢力を注がれた。眼発生学では Ida Mann の「The Development of
the Eye」に勝るものを書きたいといっておられたが、日本眼科全書の第 2 巻「眼発
育」となって結実した。先天異常については在任中には間に合わず、ご開業されて
から「眼の先天異常」として金原出版から出版された。
昭和 30 年の医局員(看護婦も含む)忘年会
門下生としては私の後に入局した青野昌泰、秋山一男、阿部 愈、井上浩彦、今村
博樹、江田浩美、小田隼夫、金光二郎、岸川潤郎、木谷和子、呉 耀南、世戸常徳、
高野士郎、広瀬 泉、三島恵一郎、溝口 孝、村尾幹男の諸先生がおられるが、共に
学んだカメラードである。小児科と眼科の建物の間の狭い敷地にネットを張りバレ
ーボールに興じたり、教授自身が好まれ参加された各科対抗(九眼では各大学眼科
医局対抗)野球試合、夏の医局海水浴、学会後の小旅行など思い出は多いが、中で
も記憶に残る二三の思い出を記すことにする。
1 つは入局の秋、後藤助教授の急逝。先生は普段はお元気に見えたが、血尿で検査
中腎臓腫瘍が見つかり手術を受けられることになったが、手術前日、医局の風呂に
皆と入り、明日の手術のことなど話したのだったが、翌日我々は午前中新興善の診
療に出かけ、午後浦上に帰ったところ先生の急逝を知らされたのだった。ルンバー
ルトートであった。夕方近くになるとよく浜の町界隈に出かけたものである。これ
12
からというときの挫折感が長く続いた。住吉近くのアパートにお住まいだったと思
うが、葬儀のときの幼いお嬢様方の姿に涙したことを思い出す。
2 つ目は教授主催の第 64 回日本眼科学会総会。昭和 35 年 4 月 5,6,7 日の 3 日間、
東山手の活水女子短大で行われた。新しい試みとして講演会場を 2 会場にし、外人
教授招待講演(このときは徳永先生の留学先のアイオワ大学のラインフェルダー教
授)があった。宿の世話、会場その他すべてが医局員総当りの準備設営で、当時私
は山口県防府市にある県立中央病院に勤務中だったが、応援に駆けつけ、後で無断
欠勤を院長から叱られた。懇親会は短大の庭で行われたが、予定時間より早く講演
が終了したため懇親会の開始時間を早め、予定の時間に来た人の口には何も入らな
かったというハプニングで会員の不評を買い何時までも口にのぼったが、このとき
の不評は高久教授主催の第 80 回日眼の海上懇親会で取り戻したと思う。
第 64 回日本眼科学会総会
昭和 35 年 4 月 7 日
於
活水短大(長崎市)
3 つ目は昭和 32 年 7 月 25 日の諫早大水害。このとき私は諫早分院勤務中で、当
日も雨の中を長崎から出て勤務していた。午後帰る頃は特に強い雨で、バケツの水
をぶっかけるといった表現が当てはまるような雨足であった。当時私の高校時代の
13
親友が専売公社に勤務中で、公舎は本明川傍にあり、数日前に家族を連れて遊びに
行ったばかりで、その日(24 日)も彼から酒でも飲もうと電話があったが、明日当
直だからその時にと返事して帰宅したところだった。翌日諫早大洪水のニュースを
聞き、早速に食べ物などを買い込み出勤したのであったが、諫早駅前一帯は流出し
高野眼科も跡形もない状態で、専売公社に友人の安否を尋ねると一家行方不明とい
う。それではと彼の公舎に行ってみると、家も何もない。ただ庭先の木の枝に蚊帳
の釣手が引っかかっていた。この木は先日訪ねた折庭先にあるのを見覚えていた。
こうして彼の一家の遭難を知り、死体探しに廻ったがわからない。結局 1 週間後に
めがね橋の近くで見つかり、長崎の専売公社に連れてきて荼毘に付した。その後奥
さん、子供 2 人は川口近くで発見されたと聞いた。分院は流出は免れたものの汚泥
につかり使用不可、31 日より再開されたが、33 年には閉鎖された。24 日友人の誘
いに乗っていたらと思うとぞっとする。しかし、有能な友人を失ったことは残念で
仕方がない。
以上、広瀬教授時代の思い出を記したが、これはほんの一部に過ぎない。大方の
人々が既に逝き、私の記憶も曖昧になり正すこともできないが、生きた証の一つの
歴史と思い記した次第である。この後、私は岸本教授、高久教授に師事することに
なるが、次回に述べることとする。
膀胱結石を経験して
-----------------------------------------------------福岡市
馬場春巳
老生は 60 才の時直腸癌にて、東京の国立がんセンター病院にてその道の権威であ
る北條慶一先生に「拡大直腸切除術+人工肛門造設術+小骨盤内淋巴節郭清術」をう
け、
「しぼんだ風船」のようになった膀胱が小骨盤内に落ちこまないように、膀胱の
上端を太いナイロン糸 2 本で臍の裏側に吊上げ固定してもらった。術後の持続性の
頑固なる会陰部痛と運動障害は睡眠時以外は現在も続いてある。術後の完全尿閉に
は自己導尿にて対処したが、リハビリと訓練にて腹圧と用手圧迫にて 2~3 年で自力
排尿が出来るようになった(残尿 50cc 以下となる)
。排便は約 1.5 時間かけての高圧
洗腸にて対処した。約 5~6 年前突然高度の平衡感覚障害を来し、起立至難、起立歩
行不能、起立歩行には転倒防止の為右側に杖をつき「つっかい防」とした。三半規
管の機能正常、頭痛なく嘔気嘔吐もなく、発熱なし。四肢の運動及び知覚異常もな
く尿閉あり。腦の CT にて右腦幹の出血が認められた。即日尿道に畄置カテーテルを
14
畄置し、その交換に 2 週間に 1 回泌尿器科に通院した。尿道畄置カテーテルのため
と思われる上向性の膀胱炎を併発し尿は溷濁し、次第には溷濁は増強して来て膿尿
の如くなって来たので膀胱の CT をした所、直径 5cm 位の球型の結石が認められ、
福岡の徳州会病院での治療をすゝめられたが、地理的条件その他家庭的事情により、
約 2 週間の予定にて福岡大学病院の泌尿器科に入院した。結石除去は各種術前検査
にて、全身麻酔下にて経尿道的に施行されることに決定した。術後の術者の説明で
は硬い結石を直径 1~3mm の粒状に少しづゝ砕石し、小砂利状としてこれを掻き出
したり、洗淨流出さしたりして膀胱内を清淨にしたとのことであった。現在もかゝ
りつけ病院の泌尿器科外来で、2 週間に 1 回膀胱洗淨と畄置カテーテル交換に通院し
ている。福大病院の泌尿器科の主治医の先生の話では、腦幹出血では膀胱結石が出
来やすい傾向があるような気がするとのことであった。老生の場合でも比較的最近
出来はじめたのかも知れないと思う。
三島惠一郎会長殿
10/31/08
-----------------------------------------------------------呉
耀南
先生には 1994 年恩師広瀬先生の白寿祝いに長崎でお会いして以来、10 数年の歳
月が経ちました。長い長い間、ご無音に打ち過ぎ失礼申し上げました。(中略)
年に一度の懇親会ですが、どうぞこれから北岡教授のご指導、三島会長のご司会
によって末長く同門会の益々のご発展をお慶び申し上げます。
恐縮でございますが、この度広瀬先生にお届けしました僅少な薄儀、どうぞ同門
会でご笑納下さい。末筆になりましたが、先生を始め皆様のご健勝並びに同門会の
ご盛会を心よりお祈り申し上げます。
敬具
15
同門会ゴルフコンペのレポート
初めての同門会ゴルフコンペは曇り空の諫早市長崎国際ゴルフクラブにて平成 20
年 11 月 23 日午前 9 時スタートで開催されました。
ゴルフコンペに 11 人の参加申し込みがあり、一人キャンセルされましたが 3 組の
組み合わせで和気藹藹のコンペでした。嵩則雄先生が優勝され、準優勝は藤川亜月
茶先生でした。
若い人たちには、飛ばし屋が多く、上手な先生も多いので、私達は嵩先生、柿本
先生と老人組で、連ねられて力まない様に第 1 組でスタートしました。また、ティ
ーショットは白マークからと嵩先生が宣告されましたので、皆と同じ条件でスター
トしました。
嵩先生は米寿を過ぎておられますが、お元気でゴルフはミスが少なく、年齢相応
に無理をしないプレイは大変参考になりました。たとえば、ドライバーも結構な飛
距離がありますが、たとえ少し飛びが悪くても、セカンドショットはスプーンで方
向性は正確であり、上がってみればオーナーになっておられることが多いのです。
私の師匠である柿本先生も感心しておられました。
皆さん楽しいプレイが出来ていましたので、次回も企画する予定です。
(文責:三島恵)
音
信
昨年の総会を欠席された先生方より下記のとおりコメントをいただきました。
阿部茂子 先生
豊増典子 先生
体調を崩しておりとても長崎までは行かれません。山之内先生の御講演を拝聴出来
ないのは残念です。よろしくお伝え下さいますように。
いろいろあって多忙で都合がつきません。欠席いたします。遠方ですので、二年に
一回位の出席にさせていただこうと思っています。ご盛会を祈ります。
中森文之 先生
左膝関節・半月板損傷にて術後療養中。
五島和夫 先生
大腿骨骨折にて療養中。
廣瀬 廣 先生
ここ一ヶ月足らず跋行引摺り足が悪化し、外出に支障を来たすようになりましたの
で、出席を遠慮させて頂くことにしました。
16
物故会員(ご逝去されたことが判明した方も含む)
氏名
出身大学
卒業年
ご逝去日
H15.11.21
伊藤
正二 先生
長医大
昭和 13 年
深江
久人 先生
東京医専
昭和 5 年
深町雄三郎 先生
九州医専
昭和 17 年
長大
昭和 33 年
今村
博樹 先生
H20.10.11
先生方のご生前のご功績を偲び、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
今村博樹先生におかれましては、長らく五島中央病院に勤
務され、離島医療を支えてこられました。私の長崎赴任当時
(平成 5 年)
、大平明弘先生(現島根大学教授)、嵩義則先生
(現ダケ眼科クリニック院長)と私の 3 人が交代で 1 泊 2 日
の診療に伺っておりました。3 人とも、いつも今村博樹先生
の優しいご尊顔に拝するのを楽しみにしておりました。
長年にわたる先生の離島医療と医局に対する貢献に感謝
しつつ、ご冥福をお祈り申し上げます。
17
(北岡)
新病棟完成のお知らせ
平成 20 年 6 月に新病棟が完成いたしました。以前眼科医局があった第一臨床研究
棟が取り壊され、その跡地に建設されております。
14 階建てで、眼科病棟は 9 階西に位置しています。また、最上階にはレストラン
「すかいらうんじ“ぽんぺ”」があり、長崎港・女神大橋や稲佐山など長崎市内の景
色を見渡すことが出来、すばらしい眺めです。
病室は、以前の 6 人部屋から 4 人部屋となり、食堂や談話室も設けられています。
また、新病棟と病院本館を結ぶ一階コリドールは、ガラス張りの吹き抜けになって
おり、開放的な空間です。コリドール傍にはローソンや梅月堂のケーキショップと
オランダヤのフラワーショップも設置されています。
【新病棟外観】
【新病棟からの長崎市内の景色】
【9 階西病棟スタッフステーションや病室】
【1 階コリドール(左)
・ローソン(中央)・ケーキ・フラワーショップ(右)
】
18
【病棟各階配置】
西
血液内科・総合診療科
屋上ラウンジ
13 階
東
泌尿器科・腎臓内科
リウマチ・膠原病内科
呼吸器内科
内分泌・代謝内科
12 階
呼吸器外科
乳腺・内分泌外科
国際ヒバクシャ医療センター
形成外科・呼吸器内科
11 階
耳鼻咽喉科・救急部・麻酔科
循環器内科
10 階
心臓血管外科・放射線科
眼科
脳神経外科・神経内科・
9階
脳神経外科・神経内科
消化器外科・消化器内科
脳卒中ケアユニット
8階
婦人科・消化器内科・皮膚科・
消化器外科
消化器内科
7階
アレルギー科
皮膚科・アレルギー科
産科・分娩部・
6階
小児科・小児外科
精神科神経科
5階
整形外科
設備スペース
4階
設備スペース
新生児集中治療室・小児科
集中治療部
材料部、SPD
3階
血液浄化療法室
ME 機器センター・ベッドセンター
放射線部 (一般撮影・CT・MRI)
2階
放射線部 (血管造影・超音波・透視)
電気室
1階
機械室
防災センター
地下 1 階
19
栄養管理室
医局人事だより
平成 20 年 11 月以降の医局内の異動は下記のとおりです。
平成 21 年 9 月現在
異動日
氏名
旧 勤務先
→
新 勤務先
H20.12.15(辞職)
栗原 潤子
井上病院
→
産休
H20.12.16
諸岡美智子
長崎大学
→
井上病院
H21.4.1
鬼塚 尚子
長崎大学
→
NTT 西日本長崎病院
H21.4 1
深澤 祥子
長崎大学
→
長崎医療センター
H21.4.1
三浦 陽子
NTT 西日本長崎病院
→
長崎大学
H21.4.16
梶山 彩乃
原爆病院
→
長崎大学
H21.4.16
米田
産休
→
原爆病院
H21.6.1
劉
美智
原爆病院
→
長崎大学
H21.6.1
前川 有紀
長崎大学
→
原爆病院
H21.6.15
宇野木良孝
五島中央病院
→
佐世保総合病院
H21.6.15
山瀧 啓介
佐世保総合病院
→
五島中央病院
H21.7.1
小嶺 大志
田川市立病院
→
長崎医療センター
愛
新規入会会員
入局日
氏名
H21.4.1
植木亮太郎
H21.4.1
H21.6.1
う え き りょうたろう
くろさき
とも か
黒崎 智加
わ
だ
みつよ
和田 光代
出身大学
卒業年
島根大学
H19
長崎大学
H19
防衛医科大学
H8
20
新入局員紹介
う え き りょうたろう
植木亮太郎
今年の 4 月から眼科に入局しました。昨年度までは東京の社会
保険蒲田総合病院にて 2 年間の初期研修を行っていました。もと
もと地元が長崎であったことから、戻って参りました。2 年間の
研修を終えてみると病棟も新しくなっており昔の印象とはだいぶ
違った大学に驚いたり、眼科にはまだまだ知らないことも多くと
まどう毎日ですが、眼科医局の雰囲気のよさに救われている部分
が大きいと思います。今後は長崎と眼科にどっぷりつかった日々を邁進していくつ
もりですので、宜しくお願いいたします。
くろさき
とも
か
黒崎 智加
本年度入局しました黒崎智加と申します。生まれも育ちも長崎
で、平成19年に長崎大学を卒業し、1年目は長崎大学病院、2
年目は佐世保中央病院で臨床研修を受けました。
外来のめまぐるしい忙しさ、様々な道具を使う診察、繊細な手
術、それをこなす先生方に憧れて眼科に入局させていただくこと
に決めました。まだ診察も検査も不安が多々ありますが、医局の
先生方には日々温かくご指導いただき感謝しております。同門会
の先生方にご迷惑をおかけすることもあるかもしれませんが、一生懸命頑張ります
のでご指導の程宜しくお願い申し上げます。
21
わ
だ
み つ よ
和田 光代
入局のきっかけは、北岡教授先生からの 1 本の電話でした。ま
ったく、長崎大学と縁のなかった私でした。確か、一度もお会い
したことのない教授に、電話で「本当に、私を採用していいんで
しょうか?変な人だったらどうするんですか?」と、思わず言っ
てしまった様に思います。
そんな私ですが、平成 21 年 6 月からせっせとお世話になって
おります。常にハタチの新人でーす、と自己紹介してまわるため、医局の先生や病
棟の看護師さんには大分嫌な顔をされているようです。ひょんなことから突然入局
することになったため、戸惑いながらも回りの方からいろいろ親切にして頂いて感
謝しています。正体不明の私ですが、今後ともよろしくお願いします。ちなみに出
身大学は防衛医大です。
次回総会のご案内
長崎大学眼科同門会総会および懇親会
日時:平成 21 年 11 月 21 日(土)18 時 30 分より
場所:ホテルニュー長崎「海鳳の間」
長崎大学眼科同門会ゴルフ大会
日時:平成 21 年 11 月 22 日(日)9 時 6 分スタート
場所:長崎国際ゴルフクラブ
22
年会費納入のお願い
今年度も年会費を 5,000 円とさせていただきたいと存じます。つきましては、下
記口座宛へお振込みまたは同封の振込用紙にてお支払いをお願い申し上げます。皆
様のご支援よろしくお願い申し上げます。
振込先:十八銀行 大学病院前支店 普通預金 393357
眼科同門会 代表 北岡 隆
編集後記
医局長 藤川亜月茶
同門会会報がようやく出来上がりました。先生方のお手元に届くのが遅くなりま
して申し訳ございません。この会報が、今後も同門会の先生方同士の情報伝達の場
の一つになればと思います。11 月にはまた同門会総会が開催されますので、ご多忙
中とは存じますが、是非とも足を運んで頂ければ幸いです。
23
* 長崎大学眼科同門会事務局 連絡先 *
〒852-8501 長崎市坂本 1 丁目 7 番 1 号
長崎大学大学院医歯薬学総合研究科 眼科・視覚科学教室内
担当 受付 高見由美子
E-mail: [email protected]
TEL 095-819-7345
24
FAX 095-819-7347