小林 一男

世界にはばたいたテノール歌手
小林 一男
ある。
ばたく出発点となったので
弟コンビが小林の世界には
ら以降、佐々木/小林の子
であると直感した。これか
から失うことは日本の損失
なる、この子を音楽の世界
後々ナンバーワンの歌手に
たのが佐々木で、この子は
歌唱力に驚異の目を見張っ
ラス部で歌っている小林の
に移っていた。この時コー
部、二年生から就職クラス
抗もあってコーラス部に入
も、受験中心の教育への反
すクラスに入っていながら
年生では国立一期校を目指
プクラスの成績で入学、一
当時二年生の小林はトッ
的な邂逅であった。
はばたいた小林一男との劇
に来ていた。これが世界に
が教育実習に都留高等学校
代子︵以下佐々木と略す︶
学四年に在学中の佐々木加
和四一年︶当時国立音楽大
係である。一九六六年︵昭
をまさに地で行った子弟関
名伯楽に名馬ありの例え
体育館での卓球練習後、あ
特に中学校時代放課後の
な少年でした。
文体バランスのとれた優秀
たが、学業成績も抜群で、
していたスポーツ少年でし
狩中学校時代は卓球に熱中
狩小学校時代は野球に、初
う大家族の中で育った。初
及び祖母を含めて十人とい
七人兄弟の六番目で、両親
小林の実家は初狩町で、
層努力を促したのであった。
して小林に与えて、より一
佐々木はピアノを月賦購入
小林の大学合格後も、
たした。
楽大学へもトップ合格を果
は日本一と言われた国立音
子弟コンビは、当時声楽で
短い期間でこの二人三脚の
そしてこの一年半という
まった︶程でした。
た︵鍵盤を叩きつぶしてし
ノの音階を狂わせてしまっ
像を絶するすごさで、ピア
っている。この練習量は想
ムのピアノを弾かせてもら
いた河合楽器のショールー
佐々木が予め了解を得てお
してその間、大月の町で
過ぎの電車で帰宅する。そ
で音楽の勉強をし、夜十時
次は図書館や佐々木のもと
授業が始まり出欠をとると、
らうと、まずピアノの練習、
室で音楽室の鍵をあけても
車に乗って登校し、用務員
旅立った。
イタリア政府給費生として
ミラノヴェルディ音楽院へ
ソでミラノ大賞を受賞し、
次にイタリア声楽コンコル
大学進学後、大学院ニ年
ていたのである。
小林の器用な素質をよく観
願いは終焉するのであるが、
音楽の道を驀進して父親の
うである。この後、小林は
て小林を手伝わせていたよ
を込め、大工道具を新調し
の後継者としての最後の願
のであるが、自分の大工職
事を小林と共同作業で行う
大工職の父親はこの増築工
屋の増築が必要となった。
たピアノを収容する為に部
後、前述佐々木から贈られ
小林が国立音楽大学合格
していたようである。
後に残った小林に望みを託
に家を離れて行くので、最
である。しかし上から次々
いという願望があったよう
自分の職業の跡継ぎにした
男の兄弟四人の内、誰かを
父親は大工職であったが、
となって迸り出るのである。
高校時代に音楽という噴水
これが伏線となって、後年、
が、身体の中に残っており、
る音楽の琴線に触れた感覚
色が何となく心の奥底にあ
に入っていたコーラスの音
向けて最後の追い込み練習
部が地区合唱コンクールに
体育館の片隅で、コーラス
終わった時期でもあったの
身も一年間の奨学金給付の
状態が非常に悪く、小林自
ったので、イタリアも経済
いた石油ショックの頃であ
の、この時代世界を覆って
デビューを果たしたもの
た。
ンクールで特別賞を受賞し
オ・エミーリア国際声楽コ
果たすと共に、同年レッジ
タ﹂べッペ役でデビューを
ドニゼッティの歌劇﹁リ
﹁ピツコラ・スカラ座﹂で、
ている小規模オペラ殿堂
有名なスカラ座に併設され
受賞すると共に、世界的に
声楽コンクールで特別賞を
レッジョ・エミーリア国際
留学二年目の一九七四年、
る。
動へと入って行ったのであ
手へ・・・勉強から演奏活
もって音楽学からオペラ歌
でのデビューという節目を
後総決算として、スカラ座
しい恩師との出会いがその
られたのである。この素晴
ての音楽の骨格を作り上げ
ルボーネよりプロ意識とし
ーネ女史である。此処でカ
に活躍したマリア・カルボ
ベニアミーノ・ジーリと共
〇年、伝説の名テノール ドンナで一九四〇∼一九五
ミラノ・スカラ座のプリマ
の恩人に出会う。その人は
の佐々木に次いで第二番目
ミラノ留学中、ここで先
ないか・・・と思うように
っても異邦人、よそ者じゃ
も、根本的にはいつまで経
の劇場を飛び回ったとして
とえそれで成功し、世界中
ヨーロッパで活躍し、た
国することになった。
夫人﹂でデビューする為帰
あったので、オペラ﹁蝶々
劇団がある︶からの誘いが
大歌劇団の雄、他に藤原歌
丁度この頃、二期会︵二
と感じていた。
日本で歌ってもいい頃かな
ト活動をしながらそろそろ
りイタリア国内でコンサー
ヘルグを辞め、ミラノに戻
でニ年間活躍後、オーデン
ール専属歌手としてこの地
イタリアンリリックテノ
契約を取ることができた。
﹁イタリア歌手﹂としての
ルグ国立劇場で日本人が
ーデンヘルグのオーデンヘ
ばならないドイツ北西部オ
がらドイツ語で歌わなけれ
言葉の障害とたたかいな
た。
してドイツに行くことにし
ということなので、意を決
って、専属歌手の口もある
に行くとたくさん劇場があ
輩たちの話を聞くとドイツ
なか見つからないので、先
は、小林の歌う場所はなか
兎に角不景気なイタリアで
で、日本へ帰るかヨーロッ
これからもますます期待
ある。
を根底から支えている﹂で
ており、それが言葉の魅力
間のあらゆる感情が含まれ
小林の信念は﹁音楽は人
立音楽大学客員教授である。
台も賞賛された。現在、国
玖磨﹁建︵たける︶﹂の舞
場こけら落とし公演、團伊
の話題を独占し、新国立劇
章﹁忠臣蔵﹂の名演は楽壇
た。また一九九七年三枝成
より﹁有馬賞﹂を授賞され
九六年にはNHK交響楽団
意欲的な活動が続き、一九
︵すさのお︶﹂︵初演︶等
九九四年團伊磨﹁素戔鳴
﹁千の記憶の物語り﹂、一
演﹂、一九九三年三枝成章
後ニ〇〇年六大オペラ公
日生劇場﹁モーツァルト没
ペラ﹁魔笛﹂、一九九一年
ドホール・オープニングオ
賞、一九八九年オーチャー
八三年ジロー・オペラ賞受
日本での活躍は以後一九
に戻る決心をした。
いと思うようになって日本
人たちの中で歌ってゆきた
見てくれる人たち、そんな
かの岐路に立たされていた。 なら、その歌をいつまでも
パで歌手として食べていく
される逸材である。
楽をやるなら、一生歌うの
なっていた。自分が一生音
小林 脩一
初狩在住の小林は初狩駅
る秋の夕方、静かになった
執筆者
から大月駅まで朝一番の電