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松ヶ浜(まつがはま)
松島湾内の島々や沿岸の丘陵地帯と外洋までを含んだ、総面積96平方キロメートルに及ぶ県立
松島自然公園の西端に位置する御殿崎は、南北約70メートル・東西約18メートルの風光明媚な
岬です。
御殿崎は平安時代には松ヶ浦島と呼ばれていて、当時の和歌の枕言葉として、
その名は京の都まで知られていました。松ヶ浦島は、松ヶ浜地方の総称で、
その中心が御殿崎だったのです。
詳細地図②
P
D 御殿崎 (ごてんざき)
清少納言は『枕草子』で、名のある島のひとつとして松ヶ浦島の名をあ
げて「松ヶ浦島、籬(まがき)島は陸奥(みちのく)。浮島、八十(やそ)島、
島にあらず」と説明するほど、多くの歌人がこの地を歌の題材として取り
あげました。
また『続古今集』に「心ある蜑(あま)(海に入って貝・
海藻をとる女性)や植ゑけん春毎に藤咲きかかる松ヶ浦島」
とあるように、いにしえの御殿崎は、藤の花が美しく咲き
誇る地としても知られていました。 その後、いつとはなしに鴻ヶ崎(こうがさき)と呼ぶようになりましたが、伊達政宗公が
ここからの景勝(けいしょう)を愛し、仮御殿を設けたことから御殿崎と呼ばれるようになりました。
長根(ながね)のパーヤ 民話②
松ヶ浜漁港
御殿崎の館跡
御殿崎の中程に伊達の殿様の館跡があります。景勝の地と
して知れわたっていた御殿崎に当時、伊達の殿様も仮の館を
作り、度々訪れたと伝えられています。また、館があった場
所から岬までは、立派な道が海際にあったそうですが、度重
なる波の浸食により現在はなくなっています。
孝子権右衛門(こうしごんうえもん)の碑
古記録によると、昔々、松ヶ浜の仁兵衛という漁師が漁をしているとき、
誤って海に落ち、運悪く巨大なサメに襲われて亡くなりました。仁兵衛の
息子「権右衛門」は、何とかしてサメを捕らえて父の仇を討とうとしまし
たが、サメはその後、姿さえ見せなくなりました。
ある夜、権右衛門の夢枕に仁兵衛が現れ、「赤犬の肉でサメを釣れ」と
教えました。家人らは手分けして赤犬を探し出し、その肉を釣り針に掛け
て海へ投じました。
しかし、手応えのないまま数日が過ぎ、犬肉はどんどん少なくなり、権
右衛門は焦りました。意を決して冷水を浴び、身を清め、神に祈った権右
衛門は、夜明けとともに岬へ行き、肉の最後の一片を釣り針に掛けて海へ
投げ入れ、綱の端を松の木に結んで待ちました。
すると、その針に、ついに憎きサメが掛かり、見事、釣りあげて、父の
仇を討ちました。腹を割いてみると、中には仁兵衛の頭髪が残っていたと
いいます。
御殿崎東側、赤い鳥居のそばにある松の木は、このとき権右衛門が釣り
収納箱(町指定文化財)針に繋いだ綱を結びつけたものであるといわれています。
安政年間(1772∼1780)、この地を訪れた七代藩主、重村がこ
の話を聞いて、権右衛門の子孫である猿松という人物を仮館に招き、仇討
ちの経緯を詳しく物語らせたといいます。そのとき猿松が、祖先より伝え
られた釣り針と巨大なサメの頭骨を重村に見せたところ、重村は、これに
感銘。家臣に命じて釣り針と頭骨を収める箱をあつらえさせ、さらに藩の
儒者・田邊希元に、その由来を箱のふたの裏に記録させました。
なお、サメの頭骨、釣り針、収納箱は、町指定文化財となっています。
釣り針と鮫の頭骨
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● 長根坂 乙女浜(おとめはま)
御殿崎北東側には、
地区で乙女浜と呼ぶ小
● 乙女浜
さな浜があります。
「お留浜」の転訛(て
んか)との説もあり、
藩主が御殿崎の仮館に
滞在している間は、お
留め、つまり立ち入り禁止の措置がとられたので
はないかともいわれています。
昔、松ヶ浜の長根坂に「長根のパーヤ」という一つ目
の化けものがいました。暗くなると通行人の前に立ちふ
D 御殿崎
さがり、大きな一つ目をむきだして見せたので、村の人
達は恐ろしくなり、夜の長根坂は、だんだん人通りが少
P
なくなりました。
ある時、この話を聞いた村の坊さま(盲人)が、わざ
●
と夜の長根坂を通ったら、長根のパーヤが出て来て、坊
孝子権衛右門の碑
さまの頭を鷲つかみにして押さえつけ、「これ坊主、この夜道ばど
ごさえぐ。俺は長根のパーヤだど、この大きな一つ目ば見ておっか
なぐねぇのが」と言って坊さまを脅かしました。
しかし、坊さまは少しもあわてないで、「何
言ってんだ化け者め、暗いだの明るいだの、座
頭の俺には関係ない話だ。一つ目だが二つ目だ
鴻ヶ島
か知らないが、お前は一つでも目があるから幸
せでねぇが、他人の迷惑も考えねぇで人を脅す
なんてとんでもねぇごった。そんなやつはこれでもくらえ」と言って持っ
ていた樫(かし)の棒を思いきり振りまわしました。すると、長根のパー
ヤは一目散に走り去りました。長根のパーヤに鷲つかみにされた頭は傷だ
らけで、なかなか治りにくかったと伝えられています。
現在の長根坂
浮穴ノ貝(富結の貝)(ふけつのかい) 民話③
文化4年(1807)頃、松ヶ浜の漁師が御殿崎の沖合いで釣りをしていたとこ
ろ、4尺程(1.2m)の大亀が海上に浮き上がりました。珍しがった漁師は亀を家
へ連れて帰り、酒を振る舞った後、背中に印を付けて海へ帰しました。
亀は翌年もやってきました。漁師は再び酒を振い、海へ帰した後、翌年の再来を
また楽しみに待ちました。
すると翌年、亀は見たこともない貝を背中に背負ってやってきました。貝を受け取ってよくよく見れば、亀
は左手に、何者かに食いちぎられたような大けがを負っていました。漁師は手当てをし、酒を飲ませて船に乗
せ、沖合に帰しました。
ところが翌朝、その亀が死んでいるのを見つけて、気の毒に思った漁師は、養松院の境内に埋葬し「亀霊明
神」と名付けてまつりました。そして、漁師は亀の背に乗ってきた貝を、家の入口付近に置きました。
数日が過ぎた頃、漁師の家の前を通りかかった旅の僧侶が、その貝を見つけて仰天しました。僧は「これは
浮穴の貝という深海の珍宝で、出漁前に拝めば大漁
をもたらす」と漁師に語りました。半信半疑で漁師
がそのようにしてみると、大漁が続いた事で、噂は
たちまち広がり、はるばる四国から拝みにやってく
る人もいたといいます。
浮穴(ふけつ)という読みの音から「富結」とい
う縁起のいい字を当てることもあります。この漁師
の子孫は、今も松ヶ浜に暮らし、亀霊明神の祠を養
浮穴ノ貝
松院から自宅そばに移して今も供養を続けています。「亀霊明神」左側がそのほこら
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