女帝VS年下彼氏 京 みやこ !18禁要素を含みます。本作品は18歳未満の方が閲覧してはいけません! タテ書き小説ネット[X指定] Byヒナプロジェクト http://pdfnovels.net/ 注意事項 このPDFファイルは﹁ノクターンノベルズ﹂または﹁ムーンラ イトノベルズ﹂で掲載中の小説を﹁タテ書き小説ネット﹂のシステ ムが自動的にPDF化させたものです。 この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また はヒナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用 の範囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止 致します。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にど うぞ。 ︻小説タイトル︼ 女帝VS年下彼氏 ︻Nコード︼ N9796E ︻作者名︼ 京 みやこ ︻あらすじ︼ 俺の想い人は会社の先輩。冷徹な仕事振りから﹃女帝﹄と皆が呼 ぶ。でも、本当の彼女の姿はそうじゃない。それにしても、みさ子 さん。仕事中の気配りは抜群なのに、どうして俺の気持ちには気付 いてくれないの?●9割は恋愛小説⋮とか言って1話目から絡んで ますけど︵笑︶。彼女にベタ惚れの彼氏が見たい方、どうぞお立ち 寄りください♪●∼72話:北川君のモヤモヤと揺れる心情とアラ サー女性の切ない片想い編。じれったい展開を要覚悟︵笑︶●73 1 話∼両想い編+R18始動 2 1︼女帝と朝の秘め事 ふと、目が覚めた。 窓の外がぼんやりと薄暗い感じからすると、まだ夜が明けたばか りなのだろう。ベッド横においてある時計を見ると、時刻は5時を 過ぎたところ。 起きるにはまだまだ早いが、すっかり眠気は飛んで行ってしまっ ている。それというのも、自分の腕の中に愛しい温もりがあるから だ。寝ているのがもったいない。 俺はぴったりと寄り添っている温もりに頬がにやける。 すやすやと寝息を立てている彼女︱︱︱俺の最愛の人。 佐々木みさ子さんは5つ年上の29歳で、俺と同じ大手文具メー カー本社に勤めている。しかし、残念ながら同じ営業部ではなく、 彼女は総務部のチーフであった。 今時にしては珍しく、まったく色の入っていない真っ黒な髪は肩 の辺りでばっさりと切られている。前髪が長目な上に多目で、瞳に かかるように流されているそれは、表情を隠すどころか、時折冷た い印象を醸し出している。 仕事中は﹃わざとか!?﹄ってぐらいクソ真面目な印象のシルバ ーフレームの眼鏡をかけていて、おまけに一寸の隙もないかっちり としたパンツスーツで身を固める。これが彼女の勤務スタイル。出 会った頃と少しも変わっていない。 その孤高の勤務スタイルのせいか、先輩も同僚も後輩も、みさ子 さんのことを﹃女帝﹄と影で呼んでいる。彼女の仕事振りはもちろ ん、目の前にしたときの威圧感がまさに一国を束ねる女性帝王。﹃ お局様﹄なんて、そんな可愛らしいものじゃないのだ。 ︱︱︱確かにねぇ。誰に対しても容赦のないあの様子は、俺だって 足がすくんでいたもんなぁ。 3 自分がそんな風に呼ばれていることを、彼女は知っているのだろ うか? 仕事以外のことには結構疎いから、もしかしたら気が付いていな いのかもしれない。 バリバリ仕事はこなすのに、意外なところでちょっと抜けている 彼女が可愛くて、クスリと笑みが漏れる。 ﹁本当の姿は違うのにねぇ﹂ 目を細めて抱きしめた彼女を見つめる。 冷たいレンズの奥にある瞳は、ふとした瞬間に優しい光を浮かべ る。厳しい口調の中にも、上品さは失われない。がっちり固めたス ーツの下には、それはそれは見事なプロポーションが隠されていて、 前髪に邪魔されている顔立ちは口調と同じく上品な正当派美人なの だ。 だけど彼女は自分の美しさを絶対に出さない。わざとそうしてい るのか、気付いていないのか︱︱︱きっと後者だろう。いつでもお 硬いヘアスタイルに眼鏡、スーツで武装している。 ︱︱︱まぁ、そのほうが俺にとっては都合いいけどね。 少し硬めで、でもサラサラとした髪が彼女の頬にかかっているの を見て、俺は指でそっと払う。すると、髪の下から誘うように薄く 開かれている唇が現れた。 俺は素直に誘われる。 ふっくらと柔らかい彼女の唇は、口紅をつけていなくたって綺麗 で魅惑的。 そっと重ねるだけのキス。・・・・・・のはずだったのに、触れ てしまったら衝動は止まらない。 ︱︱︱まずいなぁ。 と、思いながらも深く深く唇を重ねる。 しっとりと唇を合わせて彼女の舌に自分の舌を絡めると、目の前 にある眉がわずかに寄る。 そんな些細な仕草にも、俺は簡単に煽 られてしまう。どっぷりと彼女に溺れている事を自覚する数ある瞬 4 間の1つだ。 ゆっくりと身を起すと、夏用の肌がけが彼女の肩から滑り素肌が 露になった。昨夜の情事のあと、気を失うように眠ってしまった彼 女。下着もパジャマも着込む間もなく、現在に至る。 すべらかな胸元にあるのは、薄紅色の花びらにも似たいくつもの キスマーク。 そっと指先で触れる。 ︱︱︱この跡がある限り、みさ子さんは俺のモノ。 何て子供じみた独占欲だろうと、苦笑い。 会社では社員に恐れられているみさ子さんだけど、彼女の魅力に 気がついている男が俺以外にもいるのだ。 苦労に苦労を重ねた末にようやく手に入れた彼女を手放してなる もんか!! すでに付いている跡に再び唇を寄せて吸い上げる。 ︱︱︱このキスマークが一生消えなければいいのに。 そんな祈りを込めて、一つ一つ丁寧になぞっていった。 眠りの深いみさ子さんはこのくらいで目を覚ます事はなく、わず かに表情が動くだけで、いっこうに寝息が乱れない。 それをいい事に、悪戯︱︱︱いや、愛情山盛りのスキンシップは エスカレートしてゆく。 肌がけをベッドの下に蹴り落とし、全裸の彼女を俺の目前にさら す。胸元はもちろん、腹部や太ももの内側にも散らせたキスマーク。 ︱︱︱夢中になると、つい付けちゃうんだよねぇ。でも、しょうが ないよな。 その数が愛情の証なのだ、と自分に言い訳して彼女を見つめる。 すぐそばに自分を犯す男がいるというのに、無防備に眠りこける 彼女が愛しくて。だけど、愛する故にこの手で乱れさせたくて。 俺は彼女の脚を開かせてその間に身を割り込ませ、みさ子さんの 5 膝が俺の肩に乗るように担ぐと、数時間前の情事によってしっとり と濡れた秘所にさっきから痛いほど疼いている自分自身をあてがう。 ﹁みさ子さ∼ん。入れちゃうよ∼﹂ クスクスと笑いながら、ゆっくりと腰を押し進める。 彼女が意識を飛ばすほど愛し合ったから、愛撫なしでも十分に膣 内は潤っていて簡単に侵入できてしまう。 広がった先端をクプリと飲み込ませ、体重をかけながら徐々に奥 を目指す。ヌプヌプと内壁をかき分けるように進み、やがて熱く硬 い怒張が最奥に到達した。 さすがのみさ子さんも自分の体に起きている異変に気付き、ブル リと小さく身じろぎしてうっすらと目を開ける。 ﹁んん。・・・・・・え?﹂ 寝起きの頭では理解しがたい状況らしい︱︱︱彼女のアソコに俺 のペニスが突き立てられているってだけの、シンプルな状況なんだ けどね。 体を二つに折り曲げられているせいか、少し苦しそうに眉を寄せ ているみさ子さん。 何度も瞬きを繰り返し、何も言わずにじっと俺を見上げている彼 女の唇に、チュッとついばむようなキスを届ける。 ﹁おはよ、みさ子さん﹂ ﹁・・・・・・おはよう。これって・・・・・・どういうこと?﹂ まだ状況が把握できていない彼女。不安をにじませて俺を見つめ る瞳は、会社では絶対に見ることができない顔。俺だけの特権だ。 ﹁あ、分からない?目が覚めてないのかな?﹂ 体は起きていても頭が起きていないみさ子さんにニコッと微笑む。 口の端を意地悪く吊り上げて。 ﹁じゃぁ、俺が目覚めさせてあげるね﹂ そう言って、小刻みに腰を前後させる。 ﹁あっ、んん﹂ とたんにみさ子さんが切なく声を上げる。 6 彼女の声は俺の官能を簡単に直撃するし、ナカが気持ちよすぎて すぐにでも果ててしまいそうだけど。 できるだけ長く、彼女に快感を与えてあげたいから。 浮かべる笑顔とは裏腹に、精神力、忍耐力、ありとあらゆる力を 総動員して俺は暴発をこらえる。 ゆっくりとしたストロークで、少しずつ彼女を昂らせてゆく。単 調な動きとはいえ、みさ子さんの弱いところを的確に捉えて、静か に攻める。 そのもどかしさがたまらないのか、みさ子さんは俺の背中にしが みつきイヤイヤと首を横に振る。幼い少女みたいな仕草が、また可 愛い。 ﹁どう?もう起きたかな?﹂ 俺が問いかけても彼女はあえぐばかりで、返事にならない。 ﹁答えがないって事は、まだ目が覚めてないんだね。だったら、も っと強くしないと﹂ 抜けそうなほど引き抜いたペニスを一気に突き入れる。鈍い音を 立ててぶつかるお互いの体。 ﹁ひゃぁんっ!!﹂ 甲高く鳴くみさ子さん。それと同時に、ナカがきゅっと締まる。 ︱︱︱ったく、気持ちよすぎ。 悔しい事にこのままでは俺のほうがもたない。と、言う事で。 ﹁みさ子さん、いくよっ﹂ どうせ聞こえてないだろうけど、一応声をかけてから俺は激しく 揺さぶる。 ﹁あ、あんっ﹂ 彼女の甘い声と共に、互いの秘所が絡み合うところからグチュ、 グチュと卑猥な水音がする。 朝だというのになんだかいけないことをしているみたいで、その 背徳感がよけいに自分を興奮させる。 ﹁はぁん・・・・・・、も、もう・・・・・・だめぇ﹂ 7 しがみつく腕に力を入れて、みさ子さんの体がこわばってゆき、 ナカの締め付けが増す。 ﹁う・・・・・・くぅ、俺もっ﹂ ︱︱︱その前に、みさ子さんをイかせないと。 のしかかるように体重をかけ、恥毛が擦れ合うほどに密着すると、 腰を乱暴に動かし最後の揺さぶりをかける。 ﹁やぁん!あ、ああっ・・・・・・!!﹂ 綺麗な形の眉をくっと寄せて、みさ子さんが息を詰める。ガクガ クと体が震え、絶頂を迎えた事を知らせてくれる。 くったりと腕を投げ出した彼女のナカを数回擦り上げて、俺も果 てた。 8 1︼女帝と朝の秘め事︵後書き︶ ●とうとう新シリーズを始めてしまいました♪ 他にも投稿する候補があったのですが、それはまたいずれ。 ●先月まで年上の彼氏が苦労する様を書いてきたので、視点を変え て今回は年下彼氏が主人公です。・・・彼女に関して苦労する事は 変わりありませんがね︵苦笑︶ ﹃彼女2﹄で、三山さんが色々苦労したのを書いていて﹁年下の彼 氏だったら、もっと苦労するんじゃないの?!﹂と、なにやら面白 い事になりそうな予感がして、このお話を思いつきました。 ﹁年下﹂ってだけで、ちょっとしたハンデがあるからなぁ。苦労の させ甲斐があるというのもです。くすくす。 年下彼氏の独占欲って、なんか可愛くありませんか? ●おそらく、いえ、間違いなく王道パターンの展開になるでしょう。 でも、みやこはそういう甘アマな話が大好物なんですもの♪ 本当は読みきり短編にする予定が、後から後からネタが浮かび、そ こそこの長編になりそうな気配。 どうぞ長い目でお付き合いしてやってください。 9 2︼女帝に溺れる俺 手早くゴムの処理をして、スウェットの下だけを身につけた。み さ子さんは意識を失う事はなかったけど、ぼんやりと薄く目を閉じ てぜいぜいと喘ぎ、ベッドに身を投げ出している。 ﹁飲み物、持ってきてあげるね﹂ そんな彼女の髪をそっとなでて冷蔵庫へと向かう。その足取りは 軽やかだ。 一晩一緒にいて、体を重ね、寄り添うように眠って、目が覚めた ら一番最初に目に入ってきたのが愛しい彼女の顔。嬉しくって鼻歌 の1つも飛び出しそうだ。 何度となく夜を共にしているけど、全然飽きない。飽きるどころ か、ますます彼女に囚われてゆく。そんな俺に、自分自身が驚いて いる。 ︱︱︱昔の俺だったら、こんな自分の姿を想像すら出来なかったな。 クスクスと笑いながら冷蔵庫の扉を開けて、迷わずミネラルウォ ーターのボトルを手にした。喉が渇いている時、みさ子さんは何よ りも水を好む。おかげで彼女と付き合って以来、俺の家の冷蔵庫に はミネラルウォーターが常備されている。 いつだって彼女の望むものは全て、俺の手で与えてあげたい。ほ んの小さな支配欲だけど、彼女が喜べば必然的に俺も嬉しくなるん だから、これでいいのだ。俺自身、ちっとも負担に思ってないし。 よく冷えたミネラルウォーターを手にご機嫌で戻ってくると、肌 がけを体に巻きつけてベッドの上にへたり込んでいるみさ子さんの 姿があった。完全に目が覚めたらしい。 ﹁みさ子さん、おはよ♪﹂ ベッドの端に腰を下ろし、片腕で彼女を抱き寄せる。 ﹁“おはよ♪”じゃないわよっ!﹂ 普段は冷製沈着な彼女が顔を真っ赤にして怒っている様子が愛ら 10 しくて、心の奥がくすぐったくなる。 ︱︱︱﹃怒ってる顔もそそる﹄なんて言ったら、もっと怒るかな? 機嫌を損ねたら口をきいてもらえなくなりそうなので、やめてお こう。 ﹁そんなに怒らないで﹂ 寄せたこめかみに唇をそっと押し当てる。 ﹁ああ、もう!やめてよっ﹂ みさ子さんは右手で巻きつけた肌がけを押さえ、左手で俺の胸を 押し返している。照れ隠しなのか、素っ気無い態度。 ﹁まったく!朝から何すんのよ?!﹂ じろりと俺を睨んでくるけど、流し目にしか見えない。俺は﹃み さ子さん好き好き病﹄の末期患者だな。 彼女の鋭い視線を笑顔でかわし、 ﹁ん?みさ子さんとセックス・・・・・・﹂ と言いかけたところを ﹁いやーっ!!はっきり言わなくていいからーっ!!﹂ 彼女が左手で俺の口を塞ぐ。 ﹁・・・・・・何って訊かれたから答えたのにぃ﹂ 押さえられたまま、モゴモゴと口を動かす。 ﹁ホント、信じられない!!﹂ 頬どころか耳まで真っ赤にして、みさ子さんは大騒ぎだ。俺より 年上なのに、こういうスレてないところがたまらなく可愛い。 ﹁何で?みさ子さんは目が覚めるし、俺は幸せになるし。ほら、一 石二鳥でしょ?﹂ 押し付けられている彼女の手の平をぺろりと舐めると、みさ子さ んがひるんだ。その隙を付いて、手首を掴んでどけさせる。 自由になった口に水を流し込んだ。冷たくってうまい。 ﹁あんまり大きな声を出すと喉に良くないよ?昨夜も今朝も、いい 声で鳴きっぱなしなんだし﹂ ﹁なっ・・・・・・﹂ 11 俺の言葉に、みさ子さんが絶句する。切れ長の瞳が驚きに大きく なるのが可愛い。 何をしても、彼女が可愛く見えてしまう︱︱︱はぁ、俺ってホン ト、みさ子さんにはまってるなぁ。 ﹁水、飲むでしょ?﹂ 手にしたボトルを持ち上げて見せると、彼女はコクンとうなずい た。そしておずおずと手を伸ばしてくる。 その手をすかさず掴んで引き寄せ、俺は水を口に含むと胸に倒れ こんできたみさ子さんに唇を重ねた。 びっくりして思わず開けた彼女の口に水を流し込む。残らず流し 入れると、自分の舌を侵入させ彼女の舌を捕まえる。今飲んだ水の せいで、ひんやりとしている舌。 ﹁んっ﹂ 腕の中でもがくみさ子さん。 俺はボトルを床に置いて、両腕で彼女をがっちりと抱きすくめる。 頭の後ろに右手を回し、動けないようにした状態で甘くなめらかな 彼女の舌を味わう。 ﹁ふぅ・・・・・・ん﹂ みさ子さんがくぐもった声を上げて抵抗する仕草を見せるが、そ れが反って俺を煽るのだという事に気が付いていないようだ。 ︱︱︱やべぇ、止まんねぇ。 キスだけで留めておこうと思っていたのに、体の奥に妖しい火が 灯る。何度抱いても、際限なく彼女が欲しくなる。 ︱︱︱まぁ、いいか。今日は日曜で、会社もないし。 俺はみさ子さんを押し倒した。 12 昨日から今朝にかけて何度となく迎えた絶頂は彼女に堪えたらし く、今は泥のように眠っている。声をかけても、揺すっても起きや しない。 その横でみさ子さんに腕枕をしてあげながら、俺は愛しい彼女の 寝顔を堪能している。 ﹁みさ子さん、好きだよ﹂ 当然ながら返事はない。 でもいいのだ。俺が言いたいだけだから。 ﹁大好き。愛してる﹂ ささやきと共にそっとキス。 今度こそ眠りを妨げないように、やんわりと触れるだけ。 ﹁愛してる。・・・・・・絶対に放してあげないから﹂ くすっと小さく笑って、俺も眠る事にした。 13 2︼女帝に溺れる俺︵後書き︶ ●これから先、年下彼氏の片想い編が始まります。 一応、彼にはかなり頑張っていただく予定︵苦笑︶ 男性が女性を振向かせるために頑張る姿を書くのが、楽しいんです よねぇ♪ みやこの作品史上初の年下彼氏ですし、実際の恋愛でみやこは年上 の方としか付き合ったことがないので、ちょっと不安な面もありま すが、妄想力全開で書き進めたいと思います︵笑︶ 14 3︼女帝とネクタイ︵1︶ みさ子さんと俺の出逢いは雷を食らったような運命でも、心臓が 飛び出るような偶然でもなく、単なる会社の先輩と後輩としてだっ た。 俺は大学卒業後、国内文具で7割のシェアを誇る大手メーカー“ KOBAYASHI”に就職した。 配属されたのは営業部。 自分で言うのもなんだけど、これまで女に不自由する事なかった ルックスと、話し上手&聞き上手という事もあって自ら希望した。 いずれ大口契約をバンバン取って、“KOBAYASHIに北川 あり!”って言われるのが、ひそかな野望だったりする。 1人暮らしの生活や満員電車での通勤、毎日のスーツ姿に少し窮 屈なところを感じていたけれど、明るい未来に向かって俺は張り切 っていた。 入社して2週間目の金曜日。 同期の仲間に誘われた親睦会に向かうべく、仕事を終えた俺は営 業部を出る。他の奴等はすでに店。俺は急な残業で30分ほど遅れ ていた。 親睦会なんていっても、結局女子社員の目当ては俺なのだ。うぬ ぼれでも何でもなく、それが事実なんだから仕方がない。 15 ﹁ふっふ∼ん。モテる男はつらいねぇ∼﹂ フワリと風に揺れるようにセットした茶色の髪をサクッとかき上 げて、独り言。 学生時代、気が付けばいつも女性が周りにいた。頼みもしないの に、次から次へと寄って来る。 歳を重ねるごとに周囲の女性の数は増え、大学生の頃はよく﹃北 川ハーレム﹄なんて、友人に言われてたっけ。 社会人になってもそれは変わらず。入社して間もないというのに、 暇さえあれば俺の周りをうろつく女性社員が多数。 でも、その中の誰かと付き合うつもりなんてこれっぽっちもなか った。社内で特定の彼女を作るなんて面倒だからだ。 社内恋愛ほどサラリーマンの出世を邪魔するモノはないからな。 まぁ、めでたくゴールインすればいいけど、いざ別れる事になった らお互い気まずいじゃないか。そんな理由で会社を辞めるなんて馬 鹿馬鹿しいし。 だったら、最初から付き合わなければいいのだ。 ﹁部長や専務の娘とかだったら、考えてもいいけどねぇ﹂ そんな暢気な独り言を洩らしながら廊下を歩いていた俺は、角を 曲がってきた人物に気がつかなかった。 ドンッ。 ︱︱︱えっ!? 胸に当る衝撃。俺はわずかに顔をしかめる。 ﹁きゃっ﹂ バサッ。 体がぶつかった鈍い音の後に、短い悲鳴と書類が散る音。 見ればぶつかった女性がよろけて、バランスを崩している。 ﹁あぶないっ﹂ とっさに手を伸ばし、その人の腕を掴んだ。 16 すらりとした長身で170センチ弱はあるかもしれない。なのに 腕がやたらに細い。 ︱︱︱女って、身長と体格が一致しないんだなぁ。 そんなことを考えながら、その人が体勢を立て直したのを確認し て、腕を放した。 サラリと髪をかき上げる目の前の女性はものすごく落ち着いた雰 囲気だったので、同期ではない事がすぐに分かった。 落ち着いている以上に、なんだか近寄りがたい空気も出ている。 ︱︱︱誰だ、この人? おそらく違う部の社員だろう。これまでに顔を合わせたことはは い。 ︱︱︱そんなことより、相手は先輩なんだから謝っておいたほうが 無難だな。 そう判断した俺は急いで散らばった書類を拾い、瞬時に笑顔を作 った。世の女性が腰抜けになるような甘い、甘い微笑。友人いわく ﹃詐欺師スマイル﹄。 ﹁すいません。僕がぼんやりしていたからですよね。お怪我はない ですか?﹂ 拾った書類を差し出しながら駄目押しとばかりに、毎日美白剤入 り歯磨きで磨いている歯をチラリと見せる。 たいていの女性は、これだけで堕ちる。 しかし、その人は俺に目を奪われるどころか頬を赤らめる事もな く。 ﹁その足どかしてもらえる?﹂ と、冷静に言い放った。 ﹁えっ!?・・・・・・ああっ﹂ 俺は自分の足元に落ちていた残り一枚の書類に気が付かず、踏ん でいたのだ。 あわてて一歩下がって、その書類を拾い上げる。幸いにも足跡が 付いておらず、ちょっと手ではたけば埃は落ちた。 17 ﹁どうも﹂ 差し出されて受け取ったその人は何事もなかったかのように、素 っ気無く一言だけの礼を述べると書類を束ねている。 ︱︱︱なんだ、この女。可愛気ねぇな。 仕草も表情もそうだが、見た目全体が可愛気の欠片もない。まっ たくない。 長い前髪に隠れて顔の造作はよく分からないが、そこそこ整って いるような気がする。 が、何しろ真っ黒でざっくり肩で切りそろえられている髪、冷た いレンズを縁取るのはこれまた冷たい印象のシルバーフレーム。“ 地味”以外何も言う事ができないグレーのパンツスーツの中は、上 まできっちり止められた白のブラウス。色気の﹃い﹄の字もない。 いくら顔が綺麗でも、これじゃあね。 おまけに。 ﹁何で浮かれているのか知らないけど、せめて会社を出るまではき っちりしていたほうがいいわね﹂ 書類の束を胸に抱いたその女性が少し見上げながら言ってくるセ リフと、その視線の容赦ないことと言ったら。思わず後ずさりした くなるような威圧感。 ﹁は、はい。すいません・・・・・・﹂ さっきまでの楽しい気分はどこへやら。 母親に怒られた子供のようにしょんぼりとなる。 ﹁本当にすいませんでした。失礼します﹂ 頭を下げて行こうとした俺に向かって、その女性の手が伸びてく る。 ︱︱︱な、何? ビクッと身をすくめていると、 ﹁曲がってる﹂ すっと近付いたその人が、ほっそりとした指で俺のネクタイを直 してくれている。 18 その時、フワリ、といい匂いが鼻をくすぐった。 どこのブランドの香水だろうか。これまでにかいだ事のない匂い だ。 甘すぎず、華やか過ぎず、女性向けにしてはすっきりと落ち着い た香り。きっと男性がつけても、おかしくはないであろうとさえ思 える。 でも、この人にはすごく合ってる。 見た目や言動に色気はないのに、ほのかに漂うこの人の香りだけ が妙に色っぽい。 香りを深く吸い込んだとたんにドキン、と胸が高鳴る。 女性に関して百戦錬磨といわれたこの俺が、この程度で不覚にも ときめいてしまった。 ︱︱︱・・・・・・なんで?どうしてだ ありえない状況に、頭がうまく回らない。 されるがままに呆けていた俺から、その人がすっと離れる。 ﹁はい。いい男になったわよ﹂ さっきよりもほんの少しだけ表情を和らげて、俺の胸をポン、と 叩く。 ﹁え?・・・・・・あっ、あのっ。ありがとうございます﹂ 慌てて我に返って、お礼を言う。 ﹁どういたしまして。今度はしっかり前を向いて歩きなさいね﹂ チクリと嫌味なことを言って、その人は去っていった。 それが俺とみさ子さんの初めての出逢いだった。 19 4︼女帝とネクタイ︵2︶ 40分ほど遅れて会社近くの会場に到着。新人の給料なんてたか が知れているんだから、親睦会は安く上がる居酒屋で行われる。 ﹁遅れてごめん﹂ 俺は奥で一角を占めている20人ほどの団体に笑顔全開で近付い ていった。一斉に振向く女性陣。 ﹁北川君、お疲れ様っ﹂ ﹁待ってたよー﹂ ﹁早く。こっち、こっち﹂ 少し念入りにメイクをしている7、8人程の女性たちが笑顔で俺 を呼んだ。 俺の気を惹くために、いつも以上にメイクに気合いを入れた彼女 たちが可愛くもある︱︱︱ま、そんな程度でほだされる俺じゃない けどね。 座敷に上がって空いていた座布団に腰を下ろしたとたん、女性達 が群がってきた。 ﹁何飲む?﹂ ﹁北川君。はい、おしぼり﹂ ﹁お料理、取ってあげるね﹂ 頼んでもいないのに進んで俺の世話をしてくれる。 ︱︱︱そうそう、これが女性の反応だよね。 だけど、さっきの女性は表情1つ変えなかった。俺とばっちり目 が合っていたわけだから、あの人が見逃したということは考えられ ない。 俺の笑顔に堕ちなかった女性はこれまでにいないのに。 ︱︱︱疲れていて、笑顔の威力が落ちていたのかな? そんな筈がないことは分かっていたけど、自分を慰めるために無 理矢理結論付けた。 20 俺が頼んだビールが手元に来たのを見計らって、幹事で同じ部署 の岸が立ち上がった。 ﹁よーし、全員揃ったところで。改めて乾杯!﹂ ﹁カンパァイ﹂ 近くの仲間達とグラスを合わせてから、ビールを流し込む。 ﹁はぁ、うまぁい﹂ 一気に空になったグラスをドン、とテーブルに置いた。 ﹁わぁ。北川君、いい飲みっぷり﹂ ﹁男らし∼﹂ ﹁私、次のビールを注文してあげるね﹂ ﹁このから揚げ、美味しいよ﹂ その後もわらわらと寄って来る女性達。時間が経つにつれ、その 数は増えてゆく。 そんな様子を遠巻きに見ている男どもはちょっとうらやましそう、 もしくは面白がっている。 女性はもちろん大好きだけど、友情にも厚い俺は同期の男性社員 ともうまくやっている。 それに俺が“社内恋愛はしない主義”というのを知っているし、 女性に言い寄られてもそれとなくかわしているのを見ているから、 やっかみを受ける事もない。 一応、定年まではこの会社に勤める予定だから、少しでも居心地 は良くしておかないと。 女性陣の席が多少︵?︶入り組みながらも、親睦会は和やかに進 んでいった。 2杯目のビールに口をつけた時、岸がやってきた。 ﹁お∼。相変わらず、お前の周りは花盛りだな﹂ 21 同期で同じ部署という事もあって、コイツとは結構仲がいい。気 を遣わないで、お互い言いたいことが言える岸の存在は、親友とい ってもいいかもしれない。 ﹁いいだろう﹂ 俺はふふん、とわざとらしく鼻で笑う。 ﹁ちくしょ∼。ようし、うらやましいからおすそ分けしてもらおっ と﹂ そう言って、岸は近くに腰を下ろした。 カチン、と飲み物が入ったグラスを合わせると、岸は俺を見る。 ﹁お前、いつまでご丁寧にスーツを着込んでんだよ。会社を出たら 関係ないだろ。上着もネクタイも取っちまえ、取っちまえ﹂ 岸はすでに上着どころかワイシャツのボタンも肌蹴て、いい感じ に酔っ払いの風体だ。 ﹁ああ、そうだな﹂ するりと腕を抜いて上着を脇に置き、次にネクタイの結び目に手 をかけて緩める︱︱︱のを、やめた。 せっかくあの人︵誰だか知らないけど︶が直してくれたのに、外 してしまうのはなんだかもったいない気がしたのだ。 ﹁北川、どうした?﹂ いっこうにネクタイを解こうとしない俺を変に思って、岸が声を かけてくる。 ﹁ん?別に。・・・・・・このネクタイ、気に入っているからさ。 このままつけておこうと思って﹂ それらしい言い訳をして、襟もとにあった手をビールのグラスへ と伸ばす。 ﹁他の男の人が着崩しているのに、北川君だけしゃきっとしてると 目立つよね﹂ ﹁かえってセクシーな感じ∼﹂ 俺の意図など知らない女性陣たちは、都合のいいように盛り上げ る。 22 ﹁ちぇっ。なんだよ、それを狙ったのか?﹂ 岸が苦笑交じりにぼやく。 ﹁・・・・・・まぁね﹂ うまく説明ができないので、あいまいに答えておいた。 参加していた女性陣と全員メルアド交換も済ませ︱︱︱この位は 社交辞令の範疇だろう︱︱︱、出された料理もあらかた片付いた頃、 岸が大声で叫ぶ。 ﹁親睦会はこれで終了∼。二次会に行く奴は店の外で待っててくれ﹂ そのかけ声とともにみんなが荷物を持ってぞろぞろと出口に向か う。俺は店の一番奥の席だったこともあり、とりあえず移動が落ち 着いたら出ようと思って座って待っていた。 そこに流れに逆らって一人の女性がやってくる。それは同期で一 番、いや、社内でも一番可愛いと評判の森尾さんだった。 ﹁北川君、どうしたの?具合でも悪いの?﹂ 座敷の縁で座り込んでいる俺に心配そうな視線を向ける。 ﹁違うよ。混雑が収まるのを待ってるだけ﹂ 気にしなくていいよと言う意味で微笑みかけたら、勘違いしたら しい彼女が頬を染める。 ﹁そっか。じゃぁ、私もここで待ってよっと﹂ 受付嬢の彼女はお得意の極上スマイルを俺に向けて、すとんと横 に腰を下ろす。 ﹁ふふっ、少し酔ったかもぉ﹂ と言いながら、俺にしなだれるように軽く体重をかけてくるのは 計算だろう。 ︱︱︱俺って、本当にモテるよなぁ。 こっそり心の中で笑みを洩らす。 彼女に特別な好意を抱いているわけじゃないけど、好かれるのは 素直に嬉しいものだ。 23 でも、アルコールの気持ちいい余韻に浸っている今の俺には、嬉 しいと思う以上に森尾さんの存在はちょっと鬱陶しい。 ﹁親睦会、楽しかったねぇ﹂ 森尾さんは本当に酔っているのか、それとも演技なのか、少し舌 足らずの甘い声で話しかけてくる。 ﹁うん、そうだね﹂ 正直面倒ではあったけれど、一応笑顔で返した。 すると彼女は俺のワイシャツの袖口を指先でそっとつまんで、ク イッと引く。 ﹁・・・・・・私、北川君ともっと個人的に親睦を深めたいなぁ﹂ 俺だけに聞こえる音量でささやき、潤む瞳で見上げては数回ゆっ くりとまばたきをしている森尾さん。 まつ毛に縁取られた瞳が熱っぽく俺を見つめ、グロスが艶めく唇 でやわらかく微笑む。この彼女の仕草に、おそらく岸だったら一発 で撃沈するであろうが、その媚びてくる態度に俺はときめくどころ か、軽く失笑気味。 だけど、そんな事は一切顔には出さず、彼女の体をやんわりと押 し戻す。 ﹁気持ちは嬉しいんだけど、実家で飼ってる猫の体調が悪くって3 日と持たないらしいんだ。もう10年も飼っている猫だから、最後 は傍にいてあげたくって。この後、すぐに帰らないと﹂ 口元は優しく、でも目元は寂しげに微笑んで見せる︱︱︱詐欺師 スマイルの応用編である。 少し影のあるこの笑顔は、にこやかに微笑むよりも破壊力抜群。 ﹁北川君って、優しいんだね﹂ 森尾さんは更に目をウルウルさせている。 ︱︱︱ほらね。ちょろいもんだぜ。 ﹁そんなことないよ。その猫は家族の一員だからさ。・・・・・・ ごめんね、せっかく誘ってくれたのに﹂ 申し訳なさそうな顔を作って、森尾さんに謝る。 24 ﹁ううん、私の事はいいの。それよりも、早く猫ちゃんの傍に行っ てあげて。じゃあね﹂ 森尾さんはうっすらと浮かんだ涙をぬぐって俺に小さく手を振る と、外で待つみんなと合流するために出口へ向かっていった。 その背中を眺めながら、俺はペロッと舌を出す。 ﹁ははっ。嘘だよ∼﹂ 実家で猫を飼っているのは本当だけど、老衰の心配がない3ヶ月 の仔猫だ。元気が良すぎて困ると、母親が嘆いていた。 ああやって言っておけばいい断わり文句にもなるし、﹃動物好き の優しい人﹄という好感ステータスがつくってもんだ。 女子社員と仲良くはするけど、深入りはしない。 まして森尾さんのようなタイプは2人で食事しただけでも彼女を 気取るから、要注意だ。 すっかり人がいなくなった出口を見て、俺はゆっくり立ち上がる。 首に巻かれたネクタイは少しも崩れることなく、いまだにピシッ と形を保っていた。 25 4︼女帝とネクタイ︵2︶︵後書き︶ ●もてるのに、女性には結構冷たい北川君ですねぇ︵苦笑︶。 まぁ、とっかえひっかえして女性をもてあそぶよりはいいかな。 こんな北川君がどんな風に変わって行くのか、楽しみですねぇ♪ ●みやこはスーツ姿の男性に弱いです。本気で弱いです。 スーツをカッコよく着こなしている殿方を見ると、後について行き たい衝動を抑えるのに必死ですよ︻笑︼。 26 5︼初めての外回り 明けて月曜日。 いよいよ俺たち新人も本格的に仕事に乗り出す。と言っても、当 分は先輩と一緒に回るんだけど。 俺を指導してくれるのは5才年上の永瀬先輩。筋肉が綺麗に付い た男らしい体型で、178センチの俺よりも10センチ近く目線が 高い。いかにも﹃スポーツをやってました﹄と言った感じの爽やか な人。実際、学生時代はずっとバスケ部だったと教えてくれた。 やや短めの黒髪が似合う顔立ちは凛々しく精悍で、俺より・・・・ ・・い、いや、俺と同じ位カッコいい。 仕事もバリバリこなすし、面倒見はいいし、上司からも他の社員 からも信頼が厚い。俺の憬れであり、目標である。まぁ、いずれ追 い抜いてみせるけど。 ﹁北川。準備はできたか?﹂ 部の出入り口に立っていた永瀬先輩から声がかかる。 俺は再度手持ちの荷物を確認する。 名刺は持ったし、携帯も持ったし、商品パンフレットも持ったし。 ﹁はい、OKです﹂ 外回り用のカバンを持って先輩に駆け寄ると、近くに来た俺を上 から下までじっくり眺めていた先輩が渋い顔をした。 ︱︱︱どこか変なところでもあるのか? さっき鏡で見たときは髪型にも服装にも、おかしな場所はなかっ たけど。 ﹁あ、あの?﹂ いぶかしんで先輩に声をかける。 すると先輩が突然大きな声を出した。 27 ﹁北川、気をつけっ!!﹂ ﹁え!?は、はいっ﹂ 腕を下ろしてぴったり体につけ、ピシッと背筋を伸ばして直立し た瞬間、俺のおでこがビチッと音を立てる。 ﹁い゛っ!?﹂ 目から火花が出るほどの衝撃。クラリと頭が揺れる。 一瞬、何が起きたのか分からなかった。 しぱしぱと目を瞬かせ、ニコニコと微笑んでいる先輩を見やる。 目の前の先輩は、手首をぶらぶらとさせ、﹃いい音だったなぁ﹄と、 満足そうだ。 ﹁・・・・・・なんで、でこピンするんですか?﹂ かなりの勢いでヒットしたため、うっすらと涙がにじんでくる。 ﹁お前の緊張をほぐしてやろうと思って。さ、行くぞ﹂ ︱︱︱本当に面倒見のいい先輩だよ・・・・・・。 俺は痛むおでこを擦りながら、営業部を出て行った先輩を追いか けた。 今日は新商品のパンフレットをお得意さんに届けつつ、俺の紹介 をするらしい。 営業用の車に乗り込む俺達。ちなみに今日の運転は俺がする。先 輩が楽をしたいからじゃなくって、道を覚えさせるためらしい︱︱ ︱多分。 信号待ちをしていると、先輩が話しかけてくる。 ﹁営業の基本は相手の顔を覚える事。相手に自分を覚えてもらう事 だ。緊張するような事じゃない﹂ ﹁はい﹂ 俺は大きくうなずく。 ﹁愛想笑いは必要ないが、表情は柔らかくな。硬い時は遠慮なくで こピンを食らわすから﹂ 先輩は意地の悪い笑みを浮かべて、右手をヒラヒラさせている。 28 あんな強烈なでこピンを何度もされたら、次の日にはアザになり かねない。 ﹁はい、気をつけます﹂ 俺はグッと気持ち歩引き締めつつ、頬の筋肉を緩めた。 午前中に1社、昼飯の後に3社訪問した。 俺の天性の営業センスで、顔合わせもスムーズに終了・・・・・・ と言いたいところだが、あの後、2発でこピンされた。 おでこの真ん中を赤くしてあいさつする俺に、行く先々の取引先 は不思議そうな顔をしながら心配してくるので、正直に理由を告げ たら大笑いされた。おかげで場の雰囲気が和んでよかったけど。 それに、おかげで俺のことはすぐに覚えてもらえたみたいだし、 不幸中の幸いって奴かも。 でも、﹃あの、でこピンされた人ね﹄なんて覚え方されても全然 嬉しくないから、早くいい仕事してイメージを払拭しないとな。 ﹁それにしても、永瀬先輩はどこに行っても大人気でしたね﹂ 俺は自分の会社に向かう道を運転しながら、助手席の先輩をチラ リと見る。 来訪を告げるために立ち寄った受付の女の子達も、お茶を運んで くれた女子社員も、それ以外の女子社員たちにも熱い視線を注がれ ていた。まるでどこかのアイドル並みだ。 ﹁そうか?いつもあんなもんだから、大して気にならなかったけど﹂ 頼れる先輩は、サラリとカッコいい事を仰る︱︱︱いつかは俺も 言ってみたいセリフだ。 ﹁まあ、今日は新人の中でも評判の北川も一緒だったから更に騒が れてたかもなぁ。俺たち2人で外回りすれば、仕事取るのも楽勝か もよ?﹂ にやりと得意げに微笑んでくる。 ﹁あははっ。そうだといいですけど﹂ 29 俺も微笑み返す。もちろん、先輩が言う事は冗談だって分かって る。 顔の良さだけで契約が取れるほど、世の中はそう甘くない事は重 々承知だ。“顔しか取り得のない社員”と言われないように努力し ようと胸の中で誓った。 車を会社の駐車場に停める。 時刻は5時半を少し過ぎたところ。 ﹁はい、お疲れさん﹂ シートベルトを外しながら先輩が言う。 ﹁部に戻ったら今日受けた注文を発注しとけよ﹂ ﹁はい﹂ 俺もシートベルトを外す。 ﹁それと・・・・・・﹂ 先輩がじっと俺の顔を見る。 ﹁その額は冷やしておいたほうがいい。まだ赤いぞ﹂ 言われてルームミラーで確認すると、十円玉くらいの範囲で赤く なっている。 ﹁誰のせいだと思ってるんですか?﹂ ジト目で先輩を見遣ると、 ﹁お前の表情が硬いのが悪い﹂ 軽く言い返されてしまった。 初めての外回りで肩がこった。首や肩を揉み解しながら昇りのエ レベーターを待っていると、仕事を終えた女子社員たちに囲まれた。 ﹁おかえりなさい﹂ ﹁お疲れさまぁ﹂ ﹁初めての外回りはどうだった?﹂ 30 群がる女性達の質問に答えていると、俺の視線の先にあの人が横 切った。今日も一昨昨日と変わらず“THE・地味”だ。その人は たくさんの書類を抱えながら、奥の総務部へ向かっている。 ︱︱︱へぇ、総務だったんだ。 会社の書類の八割方は総務に集まるらしい。なので、いつも書類 整理に追われているのだと聞いた事がある。 ぼんやりとあの人の背中を追っていると、森尾さんが首をかしげ た。 ﹁あれ?北川君、おでこ赤くなってるよ﹂ 少しトーンの高い彼女の声は、よく響く。 周りにいた女性たちも﹃本当だぁ﹄と、口々に言う。 ﹁ああ。表情が硬いからって、永瀬先輩にでこピンされたんだ﹂ 俺は照れくさくて、ちょいちょいと指先でおでこに触れた。 ﹁えー、かわいそう﹂ ﹁まだ痛い?﹂ 眼をウルウルさせて、女子社員たちが一斉に俺を見上げる。 ︱︱︱心配してんだったら、ハンカチの一つも冷やしてもってこい よ。気がきかねぇなぁ。 心の中では毒づきながらも、変に気を回されるのも反って面倒な のでにっこりと笑う。 ﹁もうそんなには痛くないんだ。この後発注しないといけないから、 部に戻るよ﹂ ﹁まだお仕事なの?頑張ってね﹂ ﹁お大事に∼﹂ 女性たちは俺に手を振って行ってしまった。 営業部に戻る前にトイレに入る。上着の右ポケットに入れておい たハンカチを取り出して水に浸し、おでこに当てた。 しかし、いくら水とはいえ水道水では大して冷えていない。もっ としっかり冷やさないと、赤みも痛みも引かないだろう。家に戻っ たら氷水で冷やそう。 31 ﹁まぁ、これでも気休め程度にはなるか﹂ もう一度ハンカチを水に浸しておでこに押し当てると、その場を 後にした。 戻ってきたのは6時少し前。他の社員は定時で上がったらしく、 すでに姿はない。永瀬先輩はまだ戻ってきてないから、営業部には 俺1人。 ﹁ふぅ﹂ 椅子にドサリと腰を下ろして、思い切り背伸びをする。半日運転 していたから背中が固まっている。 ﹁ん、ん∼﹂ 上げた両手を下ろし机の上に目をやると、おでこに貼り付ける冷 却シートが1つ置いてあった。 ﹁誰がくれたんだろう﹂ ︱︱︱永瀬先輩か? でも、先輩のデスクには上着も荷物もなく、先に戻っていた様子 はない。かといって、ロビーであった女子社員たちではないはずだ。 誰が置いたのか分からないけど、使っても別に害はないはずだ。 置き主不明の食べ物だったら、ちょっと気持ち悪くて遠慮するけど。 ﹁気の利く人もいるんだなぁ﹂ シートを取り上げ外袋を破いた時、うっすらと何かの香りがした。 記憶にあるような、ないような、はかない残り香。 でも、独特の香りは俺の記憶にかすかに引っかかる。 ︱︱︱この匂い、どこでかいだっけ? 飲み屋? 会社の女子社員? 通勤電車の中? あれこれ考えるけど、どれもピンと来ない。 ﹁覚えはあるんだけどなぁ﹂ 32 そんなに遠い昔ではない。つい最近の事だ。 ﹁最近、なんかあったっけ?﹂ 記憶を一日ずつ遡っていると、あの地味な女性先輩のところで記 憶のピントがあった。ネクタイを直してもらった時、あの人から漂 ってきたのは確かこんな香りじゃなかっただろうか。 だけど、外袋についている香りが弱すぎて確証と言えるほどの判 別は付かない。 ﹁ま、いいか。誰がくれたものでも。ありがたく使わせてもらおっ と﹂ 俺はおでこにひんやりと感触を感じながら、発注書類に取り掛か った。 33 5︼初めての外回り︵後書き︶ ●北川君は女の子に騒がれる事が好きで、ちょっと遊んでいるイメ ージがありますけど、思った以上に仕事は真面目な青年なんですよ ︵苦笑︶ ●なかなか北川君と女帝の接点にまでたどり着けません・・・︵泣︶ 。 すいません、すいません。みやこはじんわりじんわり時間を追って、 登場人物の気持ちが少しずつ変化してゆく過程が大好物なのです。 2人のらぶらぶモードはもう少しお待ちくださいませ♪ 34 6︼厳しさの裏にあるもの︵1︶:書類受理カウンターでの攻防 入社して一ヶ月ともなるとだいぶ1人立ちするようになり、これ まで先輩や上司に聞きながら書いていた様々な申請書類を各自で記 入することになる。 交通費やその他金銭に関する書類は経理部へと提出するが、諸々 の申請はすべて総務部となる。 しかしこの総務部がやっかいで。いや、やっかいなのはただ1人 なんだけど・・・・・・。 ついさっき﹃総務へ行って来る﹄と出ていった岸が、ガックリと 肩を落としながら帰ってきた。 ﹁ハァ﹂ 大きなため息と共に、俺の隣の席に力なく座った。 ﹁どうしたんだよ?﹂ あまりの落ち込みっぷりに思わず声をかけてしまう俺。 ﹁・・・・・・女帝にやられた﹂ そう呟いた岸は腕を投げ出して机に突っ伏した。 ﹁それはご愁傷様﹂ 岸の向かいの席に座る1つ上の山田先輩が、気の毒そうに声をか ける。 ﹁あの女帝は容赦ないからなぁ﹂ ﹁本当ですよ。俺、もう立ち直れないですぅ﹂ クスンと泣きまねをした岸を、よしよしと慰める先輩。いいコン ビだ。 2人は話を続けているが、俺にはいまいち状況が把握できない。 ﹁山田先輩。“女帝”って?﹂ 尋ねると、先輩は少し驚いたように目を大きくする。 35 ﹁北川ってまだ佐々木さんに書類整理してもらったことないのか?﹂ ﹁え?ああ、多分ないはずです﹂ 俺は過去に対応してくれた総務の社員を思い浮かべた。何度か足 を運んでいるが、“佐々木”と言う名前には覚えがない。 ﹁そいつはラッキーな事だ。ま、いずれ当るだろうけどな。覚悟し とけ﹂ 山田先輩はにやりと笑う。 ﹁はぁ。あの、それで女帝ってどういうことですか?﹂ “お局様”なんてのは聞いた事があったけど、それとはまた違う のだろうか。 ﹁総務の佐々木みさ子さんのこと。永瀬先輩と同期って言ってたか な。その人の書類チェックがものすっごく厳しくてさ。ホンの小さ なミスも絶対に見逃してくれないんだよなぁ﹂ 山田先輩も何度か痛い目に合ってきたのか、話をしながら小さく 身震いをした。 ﹁しかもさ﹂ 岸が顔だけこちらに向けて、会話に参加してくる。 ﹁無表情で、その雰囲気が怖いこと、怖いこと。間近で対峙すると、 みんなが“女帝”って呼ぶ理由が良く分かるぜ。あの威圧感は﹃国 を背負ってます!﹄って感じで、一国の王様を思わせるもんなぁ﹂ そこまで一気に言うと、またため息。よほど精神的ダメージを与 えられたらしい。 ﹁他の総務の社員はそんなことないのに、佐々木さんは後輩も同僚 も先輩にも容赦しないしな﹂ “あんまり気落ちすんな”と、山田先輩は岸の頭を軽くポンと叩 いた。 ︱︱︱“女帝”ねぇ。 あの人の事かな? 俺は心当たりのある女性が1人浮かんだ。 36 全身地味オーラに包まれたあの人。前に廊下でぶつかった時、落 ち着き払った様子が異常な緊張感を与えた。 この前、書類を抱えたその人が総務に入って行くのも見たし。き っとそうだ。 ︱︱︱仕事に厳しそうだとは思っていたけど、想像以上らしいな。 今度総務に行く時はその女帝とやらがいないのを見計らって行く 事にしよう。 しかし、世の中はそううまくは行かないようで。 数日後、今日中に提出しなければならない申請書類を手に総務へ 向かうと、なぜかあの地味な女性しかいなかった。今日のスーツは 濃紺で、グレーの時よりも更に威圧感アップ。 書類受付カウンターに座り、黙々と書類のチェックをしている彼 女からは近寄りがたいオーラが絶好調に大噴出。 ︱︱︱う、うわぁ。なんか、怖い・・・・・・。 ドアの隙間から遠巻きに見ているのだが、離れていてもそのオー ラを感じる。 時間は刻一刻と過ぎてゆき、提出期限の4時まであと15分。し かし、俺の足は床に根を張っているみたいで、一歩も踏み出せない。 ︱︱︱なんであんな怖い顔で仕事してんだよ。 そりゃ、仕事中なんだから真剣に取り組むべきだとは思うけど、 いちいち書類を睨みつけなくったっていいだろうに。 実際のあの人は怒っているわけでもなく、単に無表情なだけなん だろうけど、山田先輩や岸の話が頭に残っていて、どうもあの人が 不機嫌丸出しにしているように見えてしまった。 ︱︱︱行くべきか?!ああ、でも。 37 二の足を踏めずにその場で立ち往生していると、手に持った書類 がカサリと音を立てた。 するとあの人がふと顔を挙げ、こちらに視線を向ける。そして、 自分の様子を伺っている俺に気がついた。 ﹁何か?﹂ 抑揚のない口調で短く言う。 座っている彼女は立っている俺を下から見上げる形。その様子が、 じろりとねめつけられるようだった。 いい年した男の俺がビクン、と跳ねる。 ︱︱︱こ、こ、こ、怖い・・・・・・。 温度のない声、表情のない顔。 俺はその場で﹃ごめんなさい﹄と土下座して、逃げ出したい衝動 に駆られる。 だが、この書類を提出しないことには、今日は帰れないのだ。 壁にかけられている時計はすでに3時50分を過ぎている。 ︱︱︱行くしかないのか!? 俺はゴクンと息を飲んで、総務部に足を踏み入れた。 カウンターの上に置かれた担当者プレートには﹃佐々木みさ子﹄ とある。やっぱりこの人が、女帝だったんだ。 ﹁あ、ああ、あの・・・・・・。この書類を・・・・・・﹂ おずおずと差し出すと彼女は無言で受け取り、一通り目を走らせ た後に眉をしかめた。 ﹁これでは受理できないわ。書き直して﹂ 新しい用紙と共に突き返される。 ﹁えっ!?間違いはないはずですが!?﹂ そそくさと帰ろうとしていたところを引き止められる。 ︱︱︱うう、早くここから離れたいのにぃ。 言い返した俺に冷静な視線をよこす佐々木さん。 38 ﹁訂正箇所があるから、書き直しさせるのよ?﹂ 俺が泣きそうな顔をしているのに、彼女の表情はまったく変わら ない。 ﹁時間がないから急いだほうがいいと思うけど﹂ 書類の上にボールペンを置いて、俺のほうに押しやった。 一歩も譲らない。 さすが女帝、血も涙もない独裁っぷり。 ︱︱︱仕方がないかぁ。 イヤでも、怖くても、この書類はなにが何でも受理してもらわな ければならないのだ。 俺は長いカウンターの端のスペースを借りて、新しい書類の記入 に取り掛かる。 返された記入済の書類に目を通すが・・・・・・。 ︱︱︱えー?どこが間違ってんだ!? ここに来る前に何度も見直して、完璧だと思ったから総務に出向 いてきたのに。 繰り返し目を通すけど、どこに不備があるのかさっぱり分からな い。 締め切りまで残り5分を切った。 焦れば焦るほど、ミスが見つからない。 その時、カウンターを爪でカツカツ叩く音が聞こえた。 ﹁す、すいません。今、終わらせますからっ﹂ 俺が書類に目を戻すと、再びカツカツという音。 ちらりと横目で見ると、彼女は別に俺を急かしている訳ではなさ そうだ。 ︱︱︱じゃぁ一体、何? 彼女の手元を見ると、カウンターの上に貼り付けられている小さ なカレンダーがあった。 39 ︱︱︱何だって言うんだよ。こっちはそれ所じゃないってのに。 書類に目を戻し、確認作業に戻る。 そこでふと気が付いた。 ︱︱︱・・・・・・カレンダー!?もしかしてっ。 あわてて書類に目を向けると、書き込んだ日付けと曜日が合って いなかった。 ︱︱︱これかっ!! 大急ぎで、でも字が乱れないように気をつけて、新しい書類を作 り上げる。 ﹁あ、あのっ。これでどうですかっ!?﹂ 佐々木さんの前に書類を滑り込ませた。 彼女はすっと取り上げた書類に目を通すと、今日の日付けの入っ た検印をポンと押す。 ﹁はい、確かに﹂ そう言って“受領”と書かれたトレイに乗せた。 ﹁今度からはもう少し時間に余裕を持たせたほうがいいと思うわよ﹂ と、またしてもこの前同様にチクリと言われる。 ﹁す、すいません。次は気をつけます﹂ ペコリと頭を下げてその場をあとにした。 総務部を出たとたん、何とも言えない脱力感が俺を襲った。あの 時、岸がぐったりしていたのが良く分かる。 ここが廊下じゃなかったら体を投げ出してしまいたい気分だった。 足を引きずるようにして営業部に戻ると、パソコンに向かってい た岸が顔を上げる。 ﹁もしかして?﹂ ﹁ああ。女帝の洗礼を受けてきた・・・・・・﹂ ドサリと自分の椅子に腰を下ろす。 ﹁ふぅ。なんか精神的にやられるな﹂ 40 見慣れた営業部に戻ってくると、えもいわれぬ緊張感と恐怖から 開放され、脳みそが飽和状態︱︱︱アウウ、何にも考えられない・・ ・・・・。 ﹁そうだろ。俺の気持ち、分かったか?﹂ ﹁イヤって言うほど体感したよ﹂ 本当にぐったりだ。 俺は椅子の背もたれに力なく身を預ける。 ﹁佐々木さんて、何であんなに細かくて厳しいんだろう﹂ ポツリと俺が呟くと、岸が手を止めた。 ﹁個人的にじゃなくて、みんなにも変わらずあの態度って話だぞ。 そんなところで平等に扱ってくれなくてもいいのにな﹂ デスクの端に置かれたコーヒーを取り上げ、岸が苦笑いをする。 ﹁どうせなら平等に優しくしてくれればいいのに﹂ そんな岸の言葉に、俺達の後ろを通りすがった同僚が ﹁ストレスがたまっていて、イライラしてるのかもよ?﹂ と言った。 その言葉に俺は内心首を傾げる。 佐々木さんは言葉数も表情も少なかったけど、嫌がらせをしてい るようには感じなかった。 日付けの件に関しては口で言ってくれ たほうが早かっただろうけど、一応教えてくれたし。 ﹁他の総務の社員だったら間違いを手直ししてくれるか、見逃して くれるんだけどな。ま、今日は運が悪かったって事だよ﹂ 背伸びをした岸が再びパソコンに向かう。 ﹁え?・・・・・・ああ、そうかもな﹂ ぼんやりしていた俺は気の入らない返事をした。 41 7︼厳しさの裏にあるもの︵2︶誤解 ﹁北川、今夜飲みに行こうぜ﹂ 女帝にやっつけられた俺を慰めてくれるつもりなのか、岸が声を かけてきた。 ﹁あー﹂ ︱︱︱どうしようかなぁ。 タイムカードを押しながら考える。 給料日前であんまり手持ちがない。でも、この脱力感の中一人で 夕食を摂ったら、きっと消化不良になりそうだ。 そう思って、岸の誘いに乗った。 ﹁そうだな。どの店にする?﹂ ﹁永瀬先輩に飯がうまくて、酒も飲めて、しかも安い店を教わった んだ。そこにしようぜ﹂ ﹁分かった﹂ 岸と並んで歩き出す。 エレベーターを降りたところで、女子社員の集団と出くわした。 ﹁北川君、上がり?﹂ 話しかけてきたのは経理部のチーフである奥井佳代先輩。彼女は 世話好きの姉御肌な性分らしく、いつも色々な部署の女子社員を連 れて食事会をしているという話だ。 今日もチーフの後ろには数人の女性が控えている。 ﹁お疲れ様です。奥井チーフも上がりですか?﹂ 社内でもかなり忙しい部署である経理部が定時で終わるとは珍し い。 ﹁今日は仕事が早く片付いたの。・・・・・・なんか、元気なさそ うね﹂ 奥井さんがチラリと俺の顔を覗き込む。 ﹁え?そうですか?﹂ 42 そう答えると、 ﹁実は、総務の佐々木さんにやられたんですよ、コイツ﹂ 岸がすかさず説明をした。言うようなことでもないのに・・・・・ ・。 ﹁ふぅん、なるほどねぇ﹂ 奥井さんは手を口元に当てて、クスクスと笑う。 ﹁それで、俺が励ましてやろうと思って。これから飲みに行くんで す﹂ なぜか岸が胸を張る。 ︱︱︱ったく、女子社員の前だからって“いい人”をアピールする なよ。 ﹁ん∼、だったら私達と一緒に飲まない?この子達、北川君と飲み たいみたいだし﹂ 後輩女子社員たちの顔色を見ながら、奥井さんが申し出た。女性 達はキラキラと期待に満ちた瞳で俺を見つめている。 ︱︱︱どうすっかなぁ。出来れば静かに飲みたかったんだけど。 返答に迷っていると、岸が ﹁いいですねぇ。ぜひ、ご一緒させてください!!﹂ と、勝手に返事をしてしまった。 ︱︱︱コイツめ∼!俺を励ますよりも、女子社員に囲まれたいとい う自分の欲望を優先させやがったなぁ。 しかし、直属ではないにせよ上司の誘いを断わるには忍びなく、 俺も了承した。 そんな訳で、10人の団体でぞろぞろと店に向かう。 15分ほど歩くと﹃創作和食ダイニング﹄と看板を掲げる落ち着 いた雰囲気の店に付いた。 ﹁へぇ。会社の近くにこんな素敵な店があったのねぇ﹂ 奥井さんを始めとする女性陣たちは、感心したように店を眺めて 43 いる。 ﹁永瀬先輩に教わりました。先月オープンしたばかりだそうです﹂ こうやって、人から聞いた情報を自分の手柄にしないのが岸のい いところだ。 黒塗りの引き戸を開けると、外装同様、店内は黒を基調とする落 ち着いたコーディネートとなっている。全体的に和の雰囲気だけど、 BGMのジャズがすごく合っていておしゃれだ。 俺達は大きな長テーブルの席に案内される。 少しでも静かになりたくて、向かって右側の端を選んだ。岸はど 真ん中の席︱︱︱女性に挟まれるように。ホント、分かりやすい男 だ。 席に着くと、﹃俺の左側に誰が座るのか?﹄という得も言われぬ 緊張感が女子社員たちの間に走っているのが分かった。 女の子と飲むのは嫌いじゃないけど、こういった事が面倒だ。 火花でも散りそうな気配の中、 ﹁ここ、いいかしら?﹂ にっこり笑って奥井さんが腰を下ろす。変ないざこざが起きない ように配慮したのだろう。 ﹁ほら、あなたたち。早く席についてくれないと注文できないじゃ ないの﹂ クスクス笑いながら、立ったままの後輩達を促した。 俺の近くに座った奥井さん以外の女性陣たちはおしぼりだの、割 り箸だのと、案の定世話焼きオンパレードだ。 今日はそっとしておいてほしいんだけどな。やれやれ。 ﹁聞きしに勝るモテっぷりねぇ﹂ そんな俺の状況を見て、楽しそうに言う奥井さん。 ﹁あ、まぁ。ははっ﹂ 実際にはそんなにありがたいと思っていないので、笑ってごまか 44 す。 ﹁あら?あんまり嬉しがっているようには見えないけど﹂ 俺の顔をじっと見ながら、俺にしか聞こえないように奥井さんが 囁いた。 ﹁え?そ・・・・・うですか?﹂ ︱︱︱鋭いな。 内心ドキドキしていると、それ以上は突っ込まれなかった。 ﹁ふふっ。北川君は器用そうに見えて、意外と不器用なのかしらね。 ・・・・・・あの子と一緒だわ﹂ 苦笑を洩らしつつ、やっぱり俺にだけ言葉を届ける。周りの女子 社員たちは奥井さんが話しているということもあってか、会話に割 り込んでくる事はしない。奥井さんを敵に回したら恐ろしい事にな るという事が分かっているのだろう。 そんな事を考えながら、俺はさっきの奥井さんの言葉に感じた疑 問を聞き返す。 ﹁あの子ってどなたのことでしょうか?﹂ この場にいる女子社員たちに視線を巡らせる。すると奥井さんは ﹃違う、違う﹄と手を振った。 ﹁今日、あなたをやっつけた佐々木さんのことよ﹂ ﹁はぁ?﹂ ︱︱︱あの人が不器用?きっちり、かっきり、そつなく生きている ように見えるけど。どこが不器用だというのだろうか? 首を傾げて不思議そうな顔をした俺を見て、奥井さんが話を続け る。 ﹁あの子も大概分かりづらい性格しているから。その性格のせいで 100%損してるもの。しかもやっかいなのは、それを分かってい て直そうとしないって事よねぇ﹂ この場にいない佐々木さんのことを思って、奥井さんの目が優し くなった。彼女の言葉には単なる職場の先輩と後輩というつながり 以上のものを感じる。 45 ﹁もしかして、佐々木さんとは特別なお知り合いなんですか?﹂ こんな事を訊いたら失礼かとも思ったが、奥井さんからにじみ出 るフランクなオーラによって、すんなり尋ねる事が出来た。 ﹁そ。父方のイトコなのよ。家が近所だったという事もあって、結 構顔を合わせていたの。私としては妹のような存在ね。10歳も離 れていると、もう、可愛くて、可愛くて﹂ そう話す奥井さんの顔は“経理部のチーフ”から“お姉さん”に 変わる。 ﹁素直で優しくて、本当にいい子なのよ﹂ にっこり笑って優しい眼差しの奥井さん。あれこれと過去のエピ ソードを年を追って披露してくれているうちに、彼女の瞳にさっと 影が走る。 ﹁・・・・・・でも、高校に入ってから少しずつ変わってしまった の。なにか重大な事があったんだと思うけど、尋ねても答えてくれ なくて﹂ ふぅ、と小さくため息をつく。 ﹁今も本質的には優しい子のままなのよ。ただ、感情をうまく表現 できないって言うか、回りくどいっていうか。だから、傍からする と意地悪く見えちゃうんだろうけど﹂ ﹁なるほど﹂ 確かに今日のあの人の態度は怖かったけど、底意地の悪さはなか ったように思う。 ﹁社内にあの子を誤解している人はたくさんいるわ。まぁ、みさ子 ちゃんの態度に問題があるのは分かっているんだけどねぇ﹂ 奥井さんはテーブルにひじを立てて頬杖をつき、少し重い感じの ため息をつく。 ﹁なんとか誤解を解いてあげたいんだけど、彼女自身がいっこうに 改めようとしないからどうにもならないし。・・・・・・だから、 北川君﹂ 奥井さんがくるりと顔を向ける。 46 ﹁はい!?﹂ 突然名前を呼ばれて、あわてて返事をする。 ﹁あなたは誤解しないでいてあげてね。特別、味方になってあげる 必要はないから﹂ よろしく、と言わんばかりに綺麗に微笑まれる。 ﹁え、えと。どうして僕にそんな事を言うんですか?﹂ ︱︱︱奥井さんとも、佐々木さんとも、ほとんど関係のない俺なん だけど? ﹁うふふっ。なんとなく﹂ 楽しそうに笑っている奥井さんに戸惑う俺。 はぁ、まったく意味分かんないし。 思い切り首をかしげているところに、さっき注文したビールが置 かれた。 47 8︼厳しさの裏にあるもの︵3︶雨の日タオル 5月病を乗り越えた頃になると、外回りの仕事は1人でするよう になった。とりあえずは取引先の会社を訪問する日々。新規開拓を して新しい契約を取りたいというのは山々だけど、まだ自信がない。 まずは与えられた仕事をきちんとこなしてからだ。 営業マンとして日の浅い俺なんかが飛び込み営業をしたところで、 門前払いが関の山。あせらない、あせらないっと。 営業に回る仕事が多くなるにつれて提出する書類も増え、総務に 出向く事も多くなる。 佐々木さんは相変わらず彼女のスタイルを貫いていて、新入社員 の間でも“女帝の洗礼”は誰もが知るところとなった。 どうして、あの人はあんなにも書類のミスに厳しいんだろう。 細かいミスをつついて、人が困る様子を楽しんでいるんだろうか? ううん、違うな。それは絶対無い。 佐々木さんの目つきは鋭いけれど、悪い人には見えない。 それならどうして? ぼんやりと窓の外を眺めながら、答えのない問いかけを小さく呟 いた。 午前中はデスクワークを片付け、午後は得意先回り。 会社を出ると春とは違う爽やかな風が吹き抜ける。5月の後半と 48 もなると、陽射しが結構まぶしい。 ﹁すっかり初夏って感じだな﹂ 頭上の太陽をチラリと見遣って、俺は営業車に乗り込んだ。 地道な営業活動を終え、社に戻ってくる。車を降りて、急いで社 員通用口へ。まだ晴れているけど、急に雨が降りそうな予感。自慢 じゃないが、俺は雨の匂いに敏感だ。もう少ししたらあっという間 に降り出すはず。 通用口を入った脇にある自販機でコーヒーのボタンを押した。他 の営業社員たちはまだ帰ってきていなくて、コーヒーが紙コップに 落ちる音だけが響いている。注ぎ終えた紙コップを取り出し、誰も いない通用口へと目を向ける。 ﹁早く帰ってこないと大変な事になるぞぉ﹂ 一人ほくそ笑みながら、湯気の昇るコーヒーをすすった。 そこにこちらへ向かってくる足音。かなり急いでいるようだ。 ︱︱︱誰だ? 壁に寄りかかっていた身を起こして顔を向けると、俺がいる反対 側の廊下から小走りで佐々木さんがやってきた。手には結構な荷物 とパイプ椅子を抱えて。 彼女はチラリと外を見ると、 ﹁良かった、間に合ったわ﹂ と呟き、がしゃん、がしゃんと椅子を組み立てる。座面においた のは・・・・・・タオルだろうか。白くてふわふわしたものが何枚 も用意されている。 ﹁あとは﹂ 佐々木さんは透明で大きなポリ袋を広げて、口を開けた状態のま ま椅子の背にかける。おそらく使ったタオルを入れるためのものだ ろう。 ︱︱︱へぇ、総務ってこういうことまで仕事の範囲なんだ。 コーヒーを飲むのもそっちのけで、鮮やかな手つきで作業をして 49 いる彼女を見ていた。 すっかり準備を終えた佐々木さんはもと来た廊下へと姿を消す。 それと同時に空が見る見るうちに暗くなり、そしてザーッっという 激しい雨音が聞こえてきた。 ﹁やっぱり降ってきたな﹂ 得意顔でコーヒーを飲んでいると、通用口が開いて社員達が次々 と帰ってくる。岸や山田先輩の姿もあった。 ﹁何だよ、さっきまで晴れてたのに!﹂ ﹁うわぁ、結構濡れちまった﹂ ﹁雨が降るなんて天気予報で言ってたか?!﹂ 入ってくるなり、突然の雨にみんなが口々に文句を言う。その様 子を死角になっている場所からニヤニヤしながら見ている俺。 ︱︱︱ご愁傷様。 と心の中で呟いて、コクンとコーヒーを飲み下す。 ﹁はぁ、やれやれだよ。タオル使わせてもらおっと﹂ 社員達は用意されていたタオルに手を伸ばし、髪やスーツの雫を ぬぐう。 ﹁それにしても、このタオルは誰が用意してるんだろうな﹂ 山田先輩がぽつりと言う。 ︱︱︱えっ?それって、総務の仕事じゃないのか? さっき見たのは、確かに総務の佐々木さんだった。 ﹁いつの間にか置いてあって、いつの間にか片付けられているんだ よなぁ﹂ ﹁お客様用のタオルは受付か庶務課が用意しますよね?﹂ 頭にかぶせたタオルの隙間から目だけをのぞかせて、岸が先輩に 問う。 ﹁客の分はな。うちの会社は社員に厳しいんだよなぁ。前に受付の 子に聞いてみたんだけど、社員用は担当の仕事じゃないらしい。庶 務もそう言っていた﹂ ﹁じゃあ、誰が用意してくれてるんでしょうね?﹂ 50 ﹁そうだなぁ。優しくて、気がきいて、恥ずかしがり屋な可愛い女 子社員だったりして。・・・・・・そろそろ行くか﹂ 使ったタオルをビニル袋に押し込んで、山田先輩達は俺に気づか ず行ってしまった。 俺は営業部には戻らず、総務へ向かう。途中、総務の同期社員に あったので話しかけた。 ﹁沢田さん﹂ ﹁あ、北川君。どうかしたの?﹂ コピー用紙の束を抱えている彼女が振り返る。 ﹁ん、その。総務っていろんな仕事をするよな?﹂ ﹁そうだねぇ。うちの会社は庶務課の人数が少ないから、雑用が時 々回ってくる事もあるかな﹂ ﹁大変なんだな。・・・・・・その中に、社員用の雨の日タオルの 準備は入ってる?﹂ ﹁ううん、それは私達の仕事じゃないと思うよ﹂ 沢田さんがそう言ったところで、総務の部長が中から出てきた。 ﹁ごめん。私、もう行くから﹂ ﹁引き止めて悪かったな﹂ ﹁じゃね﹂ 沢田さんは小走りで去っていった。 ﹁さぁて、俺も戻るかな﹂ その場で背伸びを一つして、歩き出す。 ︱︱︱どうして佐々木さんは、あんなことをしているんだろう。 俺は“佐々木みさ子”という人に興味を覚えた。 真相を突き止めてやろうってことじゃない。 ましてや好意を持ったわけじゃない。 純粋な興味だ。 51 その興味が自分のポリシーを難なく覆す事になろうとは、この時 の俺は露ほどにも思わなかった。 52 9︼厳しさの裏にあるもの︵4︶雨の匂い 今年の天気は先が読めないのが特徴らしく、その後も突発的な雨 に見舞われることが何度かあった。その度に佐々木さんが雨の日タ オルを用意する姿を見かける。 今日までに10回にわか雨があったが、そのうちの9回は佐々木 さんが用意している。1回だけ結構な土砂降りの日にもかかわらず タオルが置かれていなかった事があった。というのは、その日、佐 々木さんが熱を出して休んでいたから。 つまり、雨の日タオルの準備は完全に彼女だけが行っているとい うことだ。 営業部の社員誰もがタオルの存在を知っていても、その置き主は 知らない。 ひっそりと用意されたタオルはきちんと洗濯されていて、ふんわ りとやわらかい。 きっと佐々木さんの素顔はこのタオルのように優しいんだと思う。 そうじゃなかったら、誰にも知られる事なくこんな事はしないと思 う。褒められるのが目的じゃなく、義務や責任感でもなく、親切心 を感じる。 素っ気無い態度で、仕事に対して容赦なく厳しくて、みんなから 影で“女帝”と呼ばれて恐れられている彼女。 その彼女が人知れず見せる優しさ。 もしかしたら、佐々木さんはイメージ通りの人ではないのかもし れないという想いが日に日に強くなる。 俺は奥井チーフの言葉を思い出した。 ﹃素直で優しくて、本当にいい子﹄ 53 ﹃社内にあの子を誤解している人はたくさんいるわ﹄ 本当の佐々木さんはどんな人なんだろうか。 興味が深まるにつれ、彼女への仲間意識が芽生え始める。 俺と同じように雨の匂いに敏感なようだ。佐々木さんはまだ晴れ 間のあるうちからタオルの用意を始め、そして準備を終える頃には 空が雨雲に覆われる。 彼女はどんな突発的なにわか雨もはずしたことはない。もちろん それは俺も同じだ。 その事が俺とだけ共有する秘密みたいに思えて、ちょっとくすぐ ったい。 間もなく7月を迎えるが、梅雨明けは当分先らしい。それでも今 朝は太陽が顔を出し、テレビの天気予報も﹃今日一日は傘の心配が なさそうです﹄と言っていた。 ﹁そうかなぁ﹂ ワイシャツに袖を通しながら、俺は独り言を洩らす。 窓の外はまぶしいくらいに輝いているが、俺は雨の匂いを嗅ぎ取 っている。 そんな訳で、身支度を整えた俺はくつ箱の横に立てかけてある傘 を手にアパートを出た。 駅へ向かう途中でも、電車の中でも、降りてからも、大きな傘を 手にしているのは俺だけ。みんなが変な目で俺を見ている。 ︱︱︱あとで泣きを見るのはお前達だぞ。 少しばかり得意気に歩いていると、後ろから呼ばれた。 ﹁北川、おはよっ﹂ 54 同じく電車通勤の岸だった。 ﹁ああ、おはよう﹂ あいさつを返す俺を岸がみんなと同様に変な目で見ている︱︱︱ 正確には俺が手にしているものを。 ﹁こんな天気のいい日に傘なんか持って、馬鹿じゃねぇの?﹂ 本気で呆れている顔だ。 ﹁ふん、ほっとけ﹂ 俺は鼻で笑って歩き出す。 ﹁お前見てみろよ、この青空。いくら梅雨時だからって、今日みた いな晴れの日にその傘は大げさじゃないか?﹂ 横に並んだ岸はぶつぶつ言ってくる。 しかし、俺はいっこうに気にしない。さっきよりも雨の匂いが近 くなってきたのを感じているから。 ﹁今に分かるさ﹂ その時だった。 突然湿った風が吹き込み、辺りが薄暗くなったかと思うと、パラ パラと雫が落ちてきたのだ。 ﹁雨?!﹂ 岸は目を丸くして空を見上げる。周りの誰もが同じように信じら れないと言った面持ちで上を見ている。 そうこうしているうちに雨は徐々に強くなり、みんなはカバンや 上着を頭に載せて走り出した。そんな中、俺は一人余裕で傘を開く。 ﹁だから言っただろ﹂ にやりと笑って歩き出すと、岸はあわてて俺の傘の中に身を滑り 込ませる。 ﹁頼む、入れてくれっ﹂ そんな奴の肩をグイッと押し出し、 ﹁傘を持った俺を馬鹿にした奴なんか知るか。それに、男と相合傘 をする趣味はないんだよ!﹂ と言ってやる。 55 ﹁ちぇっ﹂ 岸は短く舌打ちすると、書類ケースを頭に載せて走っていった。 去ってゆく背中を見ながら、俺は悠々と歩き出す。 ︱︱︱なんか、優越感♪ そんな気分に浸って会社へと向かう。 ふと前方に目を向けると、すみれ色の大きな傘をさした人物が目 に入った。傘に隠れて後姿が半分しか見えないけど、ピシッと伸び た背筋とグレーのパンツスーツで見当が付く。 俺は小走りで近付いてそっと並び、その人の横顔をチラッとのぞ く。 やっぱりあの人だった。 ﹁おはようございます、佐々木さん﹂ いきなり声をかけられて、少しびっくりしたように目を瞠る彼女 だったが、すぐにいつも通りの表情へと戻る。相変わらず、俺を見 ても頬を赤らめない。 ﹁おはよう、北川さん。岸さんが走って行ったわよ?﹂ 佐々木さんは男女や、先輩・後輩の区別なく“さん付け”で呼ぶ。 ﹁知っています。さっきまで一緒にいたんですけど、“こんな晴れ た日に傘を持ってるのは変だ”と言ったので、入れてやりませんで した﹂ 俺の言葉に少しだけ︱︱︱本当に少しだけ、佐々木さんがおかし そうに口元を緩める。勤務中ではないためか、彼女の表情はいつも より穏やかな気がする。威圧感が残っているのは流石女帝って感じ だけど。 ﹁傘を用意してるなんて、私だけだと思ってたわ﹂ バタバタと周りが大慌てしている中、俺と佐々木さんだけはゆっ くりと進む。 会社のみんながこの様子を見たらきっと驚くだろう。なにしろ女 56 帝と肩を並べて歩いているんだから。岸が見たら、﹃怖いもの知ら ずだな﹄とか言いそうだ。 受理カウンターで書類を処理する佐々木さんは、やっぱり女帝オ ーラを出しまくりなんだけど、彼女の隠れた優しさを知ってから、 怯えなくなった。 怖くないって言ったら嘘になるけど、前よりはマシになった・・・ ・・・かな?! ﹁僕も自分だけだと思っていました。子供のころから雨の気配には 敏感ですので﹂ ﹁ふふっ。私もよ﹂ まっすぐ前を見て歩いている佐々木さんは無表情だったけれど、 取り巻く雰囲気がフワリと軽くなる。 ︱︱︱へぇ。気配だけで微笑む事が出来るなんて、器用だなぁ。 また1つ、佐々木さんの新しい一面を見つけた朝だった。 57 10︼厳しさの裏にあるもの︵5︶隠れた優しさ “恐怖”というレンズを通さずに佐々木さんを見てみると、怯え る必要がないということが良く分かった。 話しかければ返事は簡素だけどきちんと会話をしてくれるし、無 表情で素っ気無いのは相変わらずだけど、そこに悪意は感じない。 感じないけど・・・・・・、やっぱり仕事中の佐々木さんは怖いと 思うこともあったりして。 ﹁この書き方では受理できません。改めて提出なさってください﹂ 総務の前を通りかかるとそんなセリフが聞こえた。中を覗けば他 の部署の先輩が佐々木さんに書類を返されているところだった。 見たところその先輩というのは佐々木さんよりも少し年上。なの に、俺達後輩と接する時と同じく女帝オーラ満載。 ﹁間違いなんてないはずだぞ!﹂ 返された書類を佐々木さんの前に滑らせる。 ﹁訂正箇所があるから受け取れないと申し上げているんです﹂ 再び返す彼女。 いっこうに折れない彼女に先輩は声を荒げた。 ﹁はぁ!?気が付いているんならそっちで直しておいてくれよ。俺 は忙しいんだっ!!﹂ 先輩は書類をバンッとカウンターに叩きつけ、くるりと背を向け る。 俺は急いで張り付いていた扉から離れた。上着のポケットから手 帳を取り出し、眺めている振りをする。 その横を先輩が通り過ぎた。 ﹁何なんだよ、あの女。間違いに気付いているなら直してくれたっ ていいだろうに。意地悪な奴だ!!﹂ 58 ぶつぶつと呟きながら、かなり怒った様子で行ってしまった。 ︱︱︱意地悪とは違うと思うんだけどなぁ。 何の気なしに総務の中をのぞくと、誰にも悟られないようにこっ そりとため息をつく佐々木さんがいた。 それは“やれやれ”とか、“口うるさい”とか、そういうものじ ゃなくて、心苦しそうなため息だった。 さっきの対応が意地悪だとしたら、こんな寂しそうな表情をする だろうか。 ︱︱︱佐々木さんは何の理由があってあんな態度を取るんだろう。 そんな疑問を胸に、俺はその場を去った。 その日の午後。 コーヒーが飲みたくなった俺はパソコンを打ち込む手を止めて、 同じフロアにある休憩室に向かった。 いつもなら3時前のこの時間は一息入れる社員達で騒がしいのに、 今日は静か。 ﹁珍しい事もあるもんだ﹂ 自販機に足を向けた時、男性と女性の話し声が聞こえたので思わ ず身を隠す。 ︱︱︱逢引!?・・・・・・そんな訳ないよな。 2人の口調は穏やかで、やましい感じは一切ない。俺がこのまま 出て行ったところで何も問題はないのだが、何となくタイミングを 外してしまった。 ︱︱︱誰だろう。 柱の影からそっと顔を出して休憩室の奥を見ると、窓際に永瀬先 輩と佐々木さんがいた。 仲良さそうな雰囲気だ。そう言えば、2人は同期だって山田先輩 59 が言ってたな。 佐々木さんは俺がこれまでに見た事がないような楽しげな表情を している。まぁ、笑顔って訳じゃないけど、女帝の時に比べれば格 段に穏やか。 永瀬先輩は、いつもどおりのニコニコ顔。 ﹁さっき、岩山先輩がものすごく腹を立てて歩いているのを見かけ たぞ。原因はお前だろ?﹂ からかうような口調の先輩の言葉を聞いた佐々木さんはわずかに 眉を寄せた。 ﹁そんなに怒ってた?﹂ 穏やかな表情が一変し、うつむく彼女の顔はどことなく申し訳な さそうだ。 ︱︱︱どうしてそんな顔をするんだろう。 俺の疑問は長瀬先輩のセリフで明らかになる。 ﹁親切心でやった事なのにな﹂ ︱︱︱親切心!? 俺は更に耳に神経を集中させ、先輩の話を聞く。 ﹁“書類もまともに作れない社員に出すボーナスはない!”なんて、 上司が洩らした言葉をたまたま耳にしたのが佐々木でよかったのか、 悪かったのか﹂ 困り顔の佐々木さんに対して、先輩はクスクスと忍び笑いを隠さ ない。もしかして、先輩って結構性格悪い!? ﹁みんなのためを思ってきっちり書かせているのにな。間違いを本 人に直させているのは、筆跡の違いで本人以外の人間が直した事が バレないようにするためだろ?﹂ やや間を置いて佐々木さんが小さくうなずく。 ︱︱︱そうだったのか。 佐々木さんがしつこくやり直しさせるの は、そういう理由があったんだ。 俺はこれまでの彼女の対応に、ようやく納得がいった。やっぱり 単に意地悪だったわけではないのだ。 60 ﹁ボーナスが下がったって、書き間違えた書類を提出する社員の自 己責任だろ。いちいち直させなくたっていいだろうに﹂ 人知れず世話焼きな同僚を見て、先輩はやや呆れたように言う。 ﹁そうなんだけどね。でも、少しでも多くもらえたほうがいいじゃ ない。家庭を持っている人は特に﹂ 長い前髪をかき上げて、佐々木さんは淡々と返す。 何を言っても改めるつもりのなさそうな佐々木さんに、ふっと小 さく笑う永瀬先輩。 ﹁損な役回りを進んで引き受けるなんて、ホントお前らしいよ。ま、 佐々木の言い方や態度もあるんだろうけどさ﹂ ﹁私がきつく言えば次はきちんとやろうって気になるでしょ﹂ 書類カウンターでのあの態度は、彼女なりの愛のムチだったとい うわけか。 だけど、あの対応はかなり誤解されるよなぁ。俺だって、佐々木 さんの隠れた優しさを知らなければ、他の社員と同様に彼女を﹃冷 酷で非情な女帝﹄と思いこんでいたはずだ。 ﹁それにしたって、もう少し可愛く言えば?﹂ 同僚の誤解を少しでも軽くしようと永瀬先輩が言うけれど、彼女 は素直にうなずかない。 ﹁いいのよ。可愛げのある女性を目指しているわけじゃないから﹂ 口元だけで笑って見せたその声が寂しそうだったのは、俺の気の せいだろうか。 ﹁ははっ。愛のムチも程ほどにしとけよ﹂ 永瀬先輩は苦笑しながらこちらにやってくる。 ︱︱︱やばっ。 俺は柱の影にピタリと張り付き、死角を保つ。ラッキーな事に気 付かれずに済んだ。 ︱︱︱ふう、やれやれ。 61 ホッと息を吐き、一人残った佐々木さんの様子を伺う。 彼女は窓の縁に手を付き、ぼんやりと空を見上げている。 ﹁可愛くない女性になりたい訳ではないんだけど・・・・・・﹂ ポツリと呟く佐々木さんの瞳から雫が落ちたのは、俺の見間違い じゃなかった。 62 11︼厳しさの裏にあるもの︵6︶温もり 長かった梅雨が明けて、いよいよ夏本番。ぎらぎらと照りつける 太陽は室内にいてもその存在を感じる。 ﹁よかったぁ。こんな日に外回りの予定を組んでなくて﹂ データ入力や書類処理をしながら、うだるように暑い窓の外を見 る。そして隣りに視線を移した。 ﹁岸の奴、日ごろの行いが悪いんだな﹂ くすくすと笑い、今頃汗をかきかき営業に回っている同僚を思う。 ﹁さてと、昼飯前に書類を片付けちまうか﹂ 月末ともなると提出する書類は山ほどある。俺は一枚一枚慎重に 書き込み、最後に確認のため目を通す。 ﹁ん、大丈夫そうだな﹂ と思いつつも、もう一度書類たちをチェック。目を皿のようにし て見たところ、間違いはなさそうだ。机の上でトントンと書類をそ ろえて立ち上がる。 ﹁経理と総務に行ってきます﹂ パソコンに向かっているチーフに声をかけ、営業部を後にした。 まずは経理部から。こちらの書類は難なく受理される。 ﹁次は手ごわい総務だ﹂ あれほど見直ししたのだ。今回は完璧なはず。 ﹁失礼します﹂ 中に入ると、受理カウンターにいたのは佐々木さん。積み上げら れた書類の整理に追われて、いつもより無表情な気がする。女帝オ ーラ三割り増し?! ︱︱︱い、いや。本当の佐々木さんは怖い人じゃないんだ。大丈夫。 大丈夫だ・・・・・・たぶん。 63 大きく息を吸ってからカウンターの前に立つ。 佐々木さんが顔を上げた。 俺を見上げる眼鏡越しの視線は少し疲れていたようだったけど、 イライラと不機嫌そうではない。この人はきっと仕事のストレスを 人にぶつけたりしないんだ。 ﹁こちらの書類をお願いします﹂ 俺は自信満々で差し出した。 ︱︱︱三回も見直したんだ。間違っているはずがないって。 佐々木さんは受け取った書類たちに目を通し、次々に“受理”の 検印を押してゆく。 ︱︱︱やったね。 俺は心の中でガッツポーズ。 その後も書類は順調に受理されて、残るは佐々木さんが手にして いる一枚のみ。 目を通し終え、検印スタンプを持つ右手が動いて書類の上に・・・ ・・・というところで、彼女の動きが止まった。 ︱︱︱え?!もしかして?! ドキドキしながら佐々木さんの様子を伺っていると、少し眉をひ そめた彼女が書類を俺に向けて滑らせた。 ﹁これはやり直しね﹂ ガーン。 絶対大丈夫っていう自信があったのにぃ。しくしく。 でも、仕方がない。 ﹁すいません﹂ 頭を下げて書類を受け取った。 反論もせずにおとなしく従う俺に佐々木さんは妙な顔になる。 俺がこの前永瀬先輩と佐々木さんの会話を聞いていた事に、まっ たく気がついてないらしい。 ﹁端の空いた場所をお借りします﹂ 一言断って俺が書類の見直しを始めると、佐々木さんは自分の仕 64 事を再開した。 ︱︱︱それにしても、今回はどこを間違えたんだ? あんなに気をつけて記入したのに。見直しだって何度もしたのに。 書類を丁寧に目で追っているけれど、さっぱり分からない。まる でゴールのない迷路に迷い込んでしまった心境だ。 ︱︱︱困ったなぁ。 しばらく書類と向き合っていたけれど訂正箇所は見つからず、つ いため息。 それを見かねたのか、佐々木さんが俺にしか聞こえない小声でポ ツリと呟いた。 ﹁・・・・・・漢字﹂ 俺はガバッと顔を上げて彼女を見るが、佐々木さんは黙々と書類 の整理をしている。 ︱︱︱今のは空耳?でも、佐々木さんの声だったような。 藁にもすがる気持ちで、俺は書類の漢字部分だけに注目した。 一段目、二段目。 間違いはない。 五段目、六段目。 ここまでは大丈夫だな。 八段目の終盤に差し掛かったとき、それは見つかった。田中建設 を田中“健”設と書いていたのだ。なんてうっかりすぎるミス。 ﹁あったぁー!!﹂ 思わず声をあげてしまった俺に、総務の社員達が驚いてこちらに 目を向ける。常に冷静な佐々木さんでさえも、俺が叫んだ瞬間にビ クッ肩が跳ねた。 ﹁え・・・・・・、あ、あの、何でもないです。お騒がせしました﹂ ぺこぺこと頭を下げて謝った。 ︱︱︱そんなことより、早く書類を仕上げないと。 65 元の書類を見ながら、新しくまっさらな書類に書き込んでゆく。 今度こそ一文字の間違いもないように、気をつけながら。 最後まで書き終え、念のために二回見直す。 ︱︱︱よし、大丈夫だ。 ﹁お願いします﹂ ふと周りを見ると、他の総務の社員達がいない。みんな昼休みに 入ったようだ。 佐々木さんは俺がいるからお昼に行く事もできず、ただじっと待 っていた。 彼女は受け取った書類をチェックし、﹁ご苦労様﹂という一言と もに検印を押してくれる。 ﹁あのっ、すいませんでしたっ﹂ ペコリと頭を下げた俺に、意味が分からないと言った不思議そう な視線を向けてくる。 ﹁僕のせいで休憩に入れなかったんですよね?ご面倒をかけて、本 当にすいませんでした﹂ もう一度頭を下げる。 ﹁いいのよ﹂ 書類の束をトントンと揃えながら彼女が言う。 ﹁お弁当を持ってきているから、昼食はここで食べる事にしている の。だから気にしないで﹂ 話は終ったとばかりに立ち上がる佐々木さんの背中に、あわてて 声をかける。 ﹁それからっ﹂ 振り返った彼女はゆっくりとまばたきを三回して、首をかしげた。 眼鏡の奥の瞳の色は読み取れなかったけれど、不機嫌じゃないこ とを願って引き止める。 ﹁書類のミスを教えてくださってありがとうございました﹂ 改めて深く頭を下げる。 66 佐々木さんは何も言わず、かといって立ち去る様子もない。 俺達の間に沈黙が流れる。 ︱︱︱う、うわぁ。この空気、ちょっと厳しいかも・・・・・・。 どうしていいのか分からず、お辞儀をしたままの俺を見て、佐々 木さんはクスリと小さな笑みをこぼす。 ﹁ふふっ。書き直しをさせられてお礼を言う人って初めてよ﹂ 少し呆れたような物言いだけど、馬鹿にされた感じはしない。 佐々木さんが女帝オーラを外してくれたおかげで場の雰囲気が和 み、俺はようやく頭を上げることができた。 ゆっくりと姿勢を戻すと、俺のすぐ目の前に佐々木さんが立って いる。 ﹁間違いって自分だと気が付かないのよね﹂ サラリと前髪をかき上げて淡々という。 ﹁ミスを教えたと言ってもたいしたことじゃないわ。それに、私は 仕事をしただけだもの﹂ ︱︱︱そんなことない。 確かに書類の処理は仕事だけど、その裏には相手を思いやる優し さがあることを俺は知ってる。 でもそれを言ってしまったら、俺が先輩達の話を盗み聞きしてい た事がばれてしまう。 うまい言葉が出てこなくて黙ってしまうと、佐々木さんはわずか に笑みを浮かべる。 ﹁お礼を言われて悪い気はしないんだけど﹂ ふっと口元を緩める彼女。 ﹁完璧な書類を提出してくれたほうがもっとありがたいわね﹂ 威圧感はなくとも、やっぱり彼女の一言はチクリと刺さる。 ﹁あ、はい。そうですよね﹂ シュンと俯く俺の肩に、佐々木さんは指先でそっと触れ、 67 ﹁次回はしっかりね﹂ と言って去っていった。 からかっているとか、厭味とかじゃなく、励ましてくれた事が伝 わって心地いい。 触れられたところがホワンとあたたかくなると同時に、俺の頬が 少しだけ赤くなったような気がした。 68 12︼揺れる心︵1︶新たな共通点 夏真っ盛りの八月。 数日間の夏休み以外は毎日みっちり仕事の俺。いや、俺だけじゃ なくって、ほぼ全社員がそうなのだ。 九月に大量の新商品が登場するという事で、カタログ作りや商品 生産の段取りなどの色々な準備でどこの部署もバタバタしている。 チーフが大きなダンボールを抱えて部に顔を出す。 ﹁新商品のサンプルとカタログの下刷りが届いたぞ。A地区とB地 区の営業担当者は今やっている仕事を10分以内で終わらせて第二 会議室に来るように﹂ 大きな声で伝達すると、そのまま行ってしまった。 営業部は担当地区が五つに分かれていて、俺はさっき声がかかっ たA地区。 パソコンの打ち込みをキリのいいところまで進めて、席を立った。 会議室でチーフと開発部メンバーによる商品説明が行われる。 営業に回る俺たちがお客の質問に素早く的確に答えるためにも、 きちんと把握しておかなければならない。使用方法、従来品との違 い、改良された事によるメリットなど、覚える事は山積みだ。 それと同時に、このカタログが分かりやすいかどうかもチェック する。 ﹁チーフ、18ページの三段目右端、誤字です﹂ ﹁それとこの写真、商品名と現物があってないですよ﹂ ﹁代え芯はどこから入れればいいですか?﹂ 69 そんな言葉が会議室内に飛び交った。 こんなミーティングは連日のように行われている。もちろん通常 業務もあるわけだから、一段楽するまではそれこそ目が回るような 忙しさ。 今日も今月に入ってからもう数度目の残業が確定。 カタログの最終改訂原稿が届くのを待っているところだ。予定で はもうとっくにこちらの手元に届いているはずなのに、担当の課で トラブルがあったらしく、﹃一時間ほど遅れる﹄とついさっき連絡 が来た。 みんなはそのまま会議室でコーヒーを飲んだりしているが、俺は 別の場所で息抜きをするために会社の裏手に来ていた。 業者出入り口を抜けて角を曲がると、そよ風が顔をなでる。 ﹁ん、ん∼﹂ 両手を思い切り上げて背伸びした。 海に近いこの地域は昼間の暑さとは打って変わって、日が傾くと 少しひやりとした風が吹く。 そんな海風を頬に受けながら足を進める。 あまり陽の差さない裏手に来るような物好きは俺くらいしかいな い。一息つきたい時、世間から切り離されたようなこの空間はもっ てこいなのだ。 別段なにがあるわけでもないのだが、俺にとっては大切な場所で・ ・・・・・。 ﹁ニャー﹂ ︱︱︱おっ、今日もいるな。 この先の空き地から聞こえてくる声を耳にしてワクワクする。 そう、ここは野良猫の溜まり場なのだ。猫好きの俺は時々ここに 70 訪れて癒されている。 ﹁何匹いるかなぁ﹂ 空き地へ続く最後の角を曲がってその先に目を向けた時、先客が いる事に気が付いた。 背筋をピンと伸ばしたグレーのパンツスーツ姿。しなやかな黒髪 が風にサラサラと揺れている。そしてその背中からは、ちょっと近 寄りがたいオーラがそこはかとなく漂っていた。 こんな人、他にいるはずがない。 ︱︱︱なんで佐々木さんがここにいるんだ? 壁に身を寄せて息を潜める・・・・・・って、この間もこんなこ としてたよな、俺。 彼女に気付かれないように首だけを伸ばし、そっと様子を伺った。 佐々木さんはまっすぐ立っていて、足元に集まっている数匹の猫 達を無言で見下ろしている。 ︱︱︱ま、まさか。これから猫を苛めるとか!? 俺が出て行こうかどうしようか迷っていると、佐々木さんは一歩 踏み出した。 ︱︱︱あっ!! 思わず体が前に出たが、彼女はただそこにひざを曲げて座っただ け。そして持っていた紙袋から猫缶を取り出し、手早く並べる。 ﹁みんなおいで。ご飯よ﹂ 初めて聞く佐々木さんの柔らかい声。ここからじゃ表情が見えな いけど、その声音だけで猫が好きなんだって伝わってきた。 彼女の餌やりの様子と、猫達がなついているところを見ると、ず いぶん前からここに通っている事が分かる。 ﹁もう、ケンカしないの。まだたくさんあるから﹂ クスクスと笑いながら新しい猫缶を取り出す。チラリと見えたそ の横顔がすごく楽しそうだった。 71 永瀬先輩と話していた時も穏やかな顔をしていたけど、今の佐々 木さんはその何倍も笑顔で。 横からだと眼鏡のレンズを通さない分顔立ちが見えて、俺は予想 外に綺麗な横顔と、屈託のない笑顔に目を奪われていた。 トクン・・・・・・。 俺の心臓が小さく跳ねる。 だけど、彼女の表情に釘付けになるあまり、俺は胸の鼓動に気付 けなかった。 しばらくすると鼓動は落ち着いてゆき、我に返った時にはすっか り胸の動悸は治まっていて、俺は“何か”の始まりをそのままやり 過ごしてしまった。 猫達が餌の半分近くを食べた頃、ビルとビルの隙間から一匹の猫 がこちらにやってくるのが見えた。ゆっくり、ゆっくり、人の気配 に注意を払いながらやって近付いてくる。 その猫は野良にしてはつやつやの白い毛並みで、理想的な体型を している美猫だ。 警戒心が強いらしく、俺はその猫にまだ一度も触れられずにいる。 72 俺が餌を用意しても、絶対に3メートルは距離をとる。 この空き地に通うようになってから早二ヶ月。あのビロードのよ うな毛並みはさぞかし手触りがいいんだろうな、と思いつつも願い はむなしく、美猫との距離はいっこうに縮まらない。 それなのに。それなのに! その猫は優雅な足取りで、ためらうことなく佐々木さんのすぐそ ばまでやってきたのだ。 ︱︱︱嘘だろっ? こっちがどんなにいい餌を用意しても、どんなに優しい声で呼び かけても、けして近寄ってきてはくれないその美猫が、差し出した 佐々木さんの手に体をすり寄せ、しかも甘えた声で鳴いている。 ︱︱︱女帝は猫さえも服従させるのかっ!? 恐るべし、佐々木み さ子。 俺はその光景にただ、ただ、唖然とするばかり。そして更に驚く シーンが。 ﹁ヒメ、久しぶりね。元気だった?﹂ 佐々木さんが体をなでながら話しかけると、美猫は元気に“ニャ ン”と鳴いた。 ︱︱︱す、すげぇ。猫と会話してるよ、この人。 超猫好きを自称している俺でもこんな事は無理だ。飼っている猫 であれば多少の意思疎通は図れるが、野良猫が相手だとそう簡単に はいかない。 呆然と見入っていると、ポケットに入れておいたケータイが震え た。マナーモードにしておいたおかげで、佐々木さんにも猫達にも 気付かれずに済んだ。 ︱︱︱誰からだ? そっと携帯を開くと、岸からの着信となっている。 73 名残惜しかったけれど俺は会社へと急いで引き返し、業者出入口 に入ったところで通話ボタンを押した。 ﹁もしもし?﹂ ﹃後5分で原稿が出来るって。そろそろ戻って来いよ﹄ ﹁分かった、すぐ行く﹂ 閉じた携帯をポケットに滑り込ませ、会議室へと向かう。 ﹁そっかぁ。佐々木さんも猫が好きなのかぁ﹂ またしても俺との共通点を発見したことで、自分が浮かれている 事など自分のことなのに気付かずに。 やたらご機嫌で戻ってきた俺を、岸は不思議そうに見ていた。 74 13︼揺れる心︵2︶可愛い?! それから数日後、カタログの完全版が出来上がる頃には、ようや く通常業務に専念できるようになる。 これまでよりも時間に余裕ができた俺は、昼休みや終業後に例の 空き地にちょくちょく顔を出していた。 今住んでいるアパートはペット厳禁。 猫好きの俺としてはできる限り猫達と触れ合いたいし、かといっ て、そのためだけに実家に戻るのも面倒だしさ。 俺が空き地に行くと、佐々木さんが先にいたり、彼女が後からや ってきたりと、顔を合わせることもあった。 そこで多少の会話はあるけど、﹃仲が良い﹄と言う表現には程遠 い。ま、先輩と後輩だし、永瀬先輩のように佐々木さんと馴れ合う 事はありえない。 それでも、初めの頃に比べれば大分親しくなったように思う。 業者出入り口を開けると、吹いてくる風にほんの少し秋の気配を 感じた。 ﹁夏もそろそろ終わりかぁ﹂ 何となくわびしく思う。 子供の頃、夏休みが終わりに近付くときに感じた気分に似ている かも。 実際には休みが終る寂しさよりも、まだ白紙のままの宿題たちを 前に途方にくれる・・・・・・と言った思い出のほうが強く残って いるけどさ。 75 角を曲がった先には、まだ佐々木さんの姿はない。 俺が近付くと、お腹を空かせた猫たちが次々に集まってくる。あ の美猫もいるけれど、空き地の角に座ったままで、こちらにやって くる気配すらない。 ﹁一体、いつになったら触らせてくれるんだよぉ﹂ ポツリと洩らしたぼやきに、 ﹁触るって何を?﹂ と、返された。 ﹁え?﹂ 驚いて振り返ると、そこにいたのは佐々木さんだった。 ﹁あ、ども。お疲れ様です﹂ 餌やりの手を止めて、ペコッと頭を下げた。 ﹁お疲れ様。で、何に触りたいの?﹂ 佐々木さんは相変わらず無表情に近いけれど、職場を離れた今は 威圧なオーラをそれほど感じない。だから俺も前ほど怯えることな く話ができる。 ﹁あの猫ですよ﹂ 俺はまだ座ったままの美猫を指差した。 ﹁ああ。あの猫はちょっと警戒心が強いから﹂ ﹁でも、佐々木さんには触らせてますよね?﹂ 俺がここで彼女を初めて見かけた時以外でも、何度となく綺麗な 毛並みをなでているのを見かけている。 ﹁んー、私とは気が合うのかしら?﹂ そう言って彼女はその場に座ると、美猫に向かって手を差し出し た。 猫は佐々木さんの横に俺が立っているせいか、こちらをじっと見 ているだけで動かない。 でも、佐々木さんが ﹁おいで﹂ と声をかけると、いつものように優雅な足取りでやってきた。が、 76 俺がいないほうの佐々木さんの足元に座る。 ︱︱︱毎日のように来てるのに、まだ認められてないのか?! がくんと肩が落ちた。 佐々木さんは俺の様子を見てくすっと笑う。 ﹁気長に構えていたら?﹂ ﹁・・・・・・はい﹂ 気長ってどのくらいだろう。早く触りたいなぁ。 うらやむ俺をよそに、佐々木さんは猫に向かって手を伸ばす。 ﹁今日もヒメは美人ね﹂ 彼女のほっそりした指で喉をなでられ、ヒメと呼ばれた猫は気持 ちよさそうに目を細めている。 ︱︱︱いいなぁ。 その光景を心底うらやましく思いながら、口を開く。 ﹁“ヒメ”って佐々木さんがつけた名前ですか?﹂ ﹁そうよ。この猫、すごく気品があるじゃない。お姫様みたいだか ら﹂ 猫をなでている彼女はその場に俺がいることを忘れてしまったか のように、無邪気な顔をしている。 それは綺麗というよりも可愛いという表現があっている。 ︱︱︱へぇ。佐々木さんってこんなに可愛く笑うんだ。 見ているこっちまで嬉しくなるような、彼女の笑顔。 トクン、トクン・・・・・・。 胸が早く鳴っている事に気が付く。 ︱︱︱って、年上の女性に“可愛い”って何だよ!?それに、どう してドキドキしてんだ?! 77 ﹁さてと。私、帰るわね﹂ 立ち上がった佐々木さんの表情は、いつもどおりの無表情に近い ものに戻っていた。 それを見てホッとしたような、残念なような。 胸の奥で説明の付かない感情がぐるぐると渦巻くのを感じながら、 俺は彼女の背中を何も言わずに見送っていた。 78 14︼揺れる心︵3︶モヤモヤ ある日の昼休み。 ﹃たまには外でメシ食おうぜ﹄という岸の誘いに乗って、近くにあ る洋食屋へ。 社に戻り、エレベーターの乗り口で佐々木さんに会った。彼女の 手には猫缶の入ったビニールの手提げ袋が握られている。 ﹁こんにちは。今から裏ですか?﹂ ﹁仕事の後は時間取れそうにないから﹂ にこりともせずそれだけ言うと、佐々木さんはすたすたと行って しまった。 猫たちといる佐々木さんとは違って、社内で彼女の表情が崩れる 事はまずない。それでも、邪険に扱われているわけではない事が分 かっているから、俺は気にもせず話しかけることがある。 ﹁お前、よく佐々木さんに話しかけられるなぁ﹂ 隣に立つ岸が感心したように俺を見ている。 ﹁ん?そんなに不思議な事か?﹂ ﹁俺なんかいまだにすれ違うだけでも緊張すんのによ﹂ あの女帝と会話になるのか?﹂ 奴が大げさに体を震わせる。 ﹁第一、 ﹁なるよ﹂ “怖い”と思い込むからいけないのだ。 話してみると佐々木さんは見た目から受ける印象よりも話しやす かったりする。言葉数は決して多くはないけど、きちんと返事もし てくれるし。 いつの間にかそばにいた山田先輩や同僚達が口々に﹃あの人、俺 苦手なんだよ﹄とか、﹃無愛想だし﹄とか、﹃可愛げがない﹄とか、 79 あまつさえ﹃人を思いやる心を母親の腹の中に忘れてきたんだ﹄と まで言い出す始末。 それを聞いて、俺はムカッと来る。 ︱︱︱なんだよ、みんなして。たしかに表情は乏しいけど、本当の 佐々木さんは優しくて、笑った顔は可愛いんだぞ!女帝の彼女しか 知らないくせに、勝手な事言ってんじゃねーよ!! ムカッ。 ムカムカッ。 腹の底がグツグツと熱くなる。 ﹁北川、どうしたんだよ。怖い顔して﹂ 不意に岸に言われて、自分が腹を立てていた事に気が付いた。 ﹁えっ?!・・・・・・あ、いや。何でもない﹂ あわててかぶりを振る︱︱︱俺、何で怒ってんだ? ﹁コーヒー飲んでから戻るよ。先に行っててくれ﹂ そう言い残し、一階の自販機スペースに向かった。 途中、森尾さんに会う。 ﹁北川君、今晩は暇?﹂ 小柄な彼女はちょこんと首をかしげて、俺を見上げる。ウルウル の瞳と、つやつやの唇は魅力的だし、可愛いと思うけど、ドキドキ はしない。 ﹁特に予定は入れてないよ﹂ ﹁それなら同期の人たちと飲みに行かない?金曜日だし、このとこ 80 ろ新商品のことでバタバタしてたから同期会やってないし。どうか な?﹂ パチパチとまばたきをして、じっと俺を見つめてくる。その視線 に誘われたわけじゃないけど、森尾さんの提案に賛成した。 このところ胸の中のモヤモヤがどんどん大きくなっていて、気の 合う仲間達と騒げば気分も晴れるんじゃないかと思ったから。 ﹁いいよ。場所はどこにする?﹂ 俺が返事をすると、彼女はパァッと明るい表情になる。森尾さん に好意を抱いてない男でも、この笑顔を見たらクラリとなるかもし れない。 でも、俺の心はちっともその笑顔に魅かれなかった。﹃社内恋愛 は絶対にしない﹄と決めているからだろうか。 ﹁いつもの居酒屋さんでいいと思うよ。私、予約入れておくから。 北川君、絶対に来てね﹂ 森尾さんは両手で俺の手をキュッと握ると、パタパタと駆けてい った。 きっとストレスを発散する機会がなかったから、訳の分からない 感情が湧いてくるんだ。うん、きっとそうだ。 ﹁よし、今夜は飲むかな﹂ 独り言を洩らし、俺は再び自販機目指して歩き出した。 買ったコーヒーを手に空き地へ向かう。仕事が終わってからだと 猫達に会う時間はなさそうだしさ。 俺が到着した時にはすでに猫達は食事を終え、思い思いの場所で くつろいでいた。 そこにヒメの姿はない。佐々木さんの姿もない。 81 少し残念な気がした。 それはヒメに会えなかったからか、それとも・・・・・・。 82 15︼揺れる心︵4︶食堂にて あの日、目いっぱい酒を飲んで、みんなと馬鹿騒ぎして、胸の中 のくすぶる“何か”をすっかり忘れた。・・・・・・のは休日の間 だけで、会社に来たらまたモヤモヤが復活。 ﹁なんだろ、疲れてんのかなぁ﹂ 席に着いてパソコンの画面をぼんやり眺めながら呟くと、隣の岸 が変な顔をした。 ﹁月曜からそんな事言ってたら、金曜までやってらんないぞ?﹂ ﹁んー﹂ そうは言っても、どうも気分が乗らない。 ﹁何でそんなにダレてんだよ。昼飯でも食って、気分転換しようぜ﹂ 俺の肩をぽんと叩いて、岸は席を立った。 社員食堂はそこそこに混んでいて、トレーを持ったまま空席を探 す。視線をめぐらせる中、意外な人の姿を目にする。 ︱︱︱なんで、佐々木さんがここにいるんだ? 俺はよく食堂を利用するけど、これまでに彼女の姿を見たことな んてなかった。それに、弁当持参でいつも総務で食べるって言って たのに。 ﹁おい、北川。向こう空いてるぞ﹂ ﹁え?ああ﹂ 呼ばれて岸の後について歩き出す。 ︱︱︱今日は寝坊して、弁当が作れなかったのかな? そんな理由で片付けて、俺は自分の食事に手をつけた。 翌日も昼は社食。来週の給料日まで無駄な金は使えないため、し 83 ばらくは食堂通いだ。 トレイを受け取り、どこに座ろうか考えていると、今日も定食を 食べている佐々木さんを見かけた。 ︱︱︱二日続けて寝坊なんて。あの人も疲れてんだ。 もくもくと箸を進める彼女を見て、クスリと笑った。 水曜日。 二日続いた雨も上がり、これまで食堂に来ていた外食組は自分の ひいきの店に出かけていった。 外回りを終えてから食堂に向かった俺はみんなよりも大分出遅れ たけれど、席には十分な余裕があって、どこにでも座れる状態。 ﹁北川、何してんだ?﹂ 声をかけられて振向くと、トレイを持った永瀬先輩が立っていた。 ﹁何って・・・・・・、何がでしょう?﹂ 俺には先輩に呼び止められた理由が分からない。 ﹁こんなに空席だらけなのにキョロキョロして。誰かと待合わせで もしてるのか?﹂ ﹁えっ?!そんなこと、してましたか?﹂ 自分ではまったく自覚がなかった。ちなみに、誰とも待ち合わせ などしていない。 ﹁変な奴だな。それよりさっさと済ませろ。午後も得意先回りだろ﹂ ﹁あっ、そうでした﹂ 先輩と一緒に手近な席に座り、急いで昼飯を食べていると、佐々 木さんが食堂に入ってきた。注文口へ向かう様子を視界の端に捉え、 俺はなんだか心の奥がホッとした。 四日目。 俺は食堂に入るなり、つい呟く。 84 ﹁なんでだ?﹂ その声をすぐそばにいた岸が拾う。 ﹁どうした?﹂ 俺はまっすぐあの人を見つめたまま、独り言のように洩らす。 ﹁いつも弁当だって言ってたのに、佐々木さんが四日も続けて食堂 にいるから﹂ ﹁はぁ?﹂ 岸が素っ頓狂な声を上げる。 ﹁女帝がどこで何を食おうがどうだっていいじゃん。何、気にして んだよ﹂ ﹁あ、別に、気にしてなんか・・・・・・﹂ ︱︱︱そうだよ、佐々木さんの昼飯の事なんて、どうだっていいじ ゃないか。たまたま気にかかっただけだ。深い意味なんてないんだ。 そそくさと席について、食べ始める。 岸が変な顔をしていたけど、何も言わずに奴も箸をつけた。 モヤモヤはやっぱり消えない。 それどころか、日ごとに大きくなっているような気がした。 そして金曜日。 今日も佐々木さんは食堂にいた。五日も続くと、単なる寝坊だと は考えられない。 岸が言うように、佐々木さんの昼飯がどうであっても、俺には一 切関係がない。たしかにどうでもいい事だ。仕事にも、俺の生活に も、何の影響も及ぼさない。 だけど、気になってしまう。一度気になってしまったら、頭から 離れない。 それは雨の匂いに敏感な、猫好き同士としての仲間意識からなの 85 だろうか。 ︱︱︱今度会ったら、どうして弁当じゃなかったのか聞いてみよう。 心の中でそう呟いて、俺は定食を食べ始めた。 仕事が終わり、さっそく空き地へ行ってみる。その日は一時間待 っても佐々木さんは現れず、俺は大きなため息をついて会社を後に したのだった。 せっかくの土日をくすぶった気持ちで過ごしてしまった。 こうなったら出社早々にでも総務に出向いて、はっきりさせない と、どうも落ちつかない。 申請書類を手に総務へいく。 中を覗くと、佐々木さんは内線で話をしながら大急ぎで身支度を していた。 ︱︱︱どこか、出かけるのかな? 話しかけようとしたんだけど、かなり忙しそうだったし。 俺は午後にまた来ようと思って、書類は申請しないまま営業部に 戻った。 その日の昼、佐々木さんは食堂に現れず、通りすがりに覗いた総 務にも、弁当を食べている彼女の姿はない。 ︱︱︱誰かに誘われて外食してるんだろうか。 いくらなんでも午後の仕事が始まれば戻っているだろうと、俺は 二時過ぎに再び総務へ。 佐々木さんの姿はなかった。 俺は今日のカウンター担当として座っている沢田さんに声をかけ 86 る。 ﹁あのさ・・・・・・、佐々木さんはいないの?﹂ ﹁うん、先輩は海外事業部に借り出されてるから﹂ ﹁は?﹂ ︱︱︱なんで、総務の佐々木さんが? 首を傾げた俺に、沢田さんが説明を始める。 ﹁先輩ね、語学が堪能なのよ。英語、フランス語、あとドイツ語も 話せるって言ってたかな。それで、今日フランスからのお客様があ るからって、通訳としてお手伝いしてるのよ﹂ ﹁へぇ﹂ 素直に感嘆の声が出る。俺なんか英語だってロクに話せないのに、 フランスとドイツも征服済みかよ、あの女帝は。 ﹁で、佐々木先輩がどうかしたの?﹂ ﹁あ、いや。いつもいる人がいないと、なんかここの雰囲気が違う なって・・・・・・﹂ ﹁ふふっ。先輩、存在感ありまくりだもんね﹂ ﹁そうだな。じゃ、そろそろ戻るよ﹂ “担当頑張れよ”と声をかけて、その場を離れた。 お客様について回ってるんじゃ、夕方の餌の時間にもあの人は戻 ってこないかもしれない。きっと、夕食の席にも佐々木さんは同行 する事になるだろうし。 営業部へ帰る俺の足がどことなく重い。 ﹁そっかぁ。今日は会えないんだ﹂ ポツリと呟いた内容に、俺自身がびっくりした。 ︱︱︱何で?何で会えないからって残念がってんだ?! 廊下の真ん中でひどく動揺している俺を、周りにいた社員達が変 な目で見ている。 その視線に耐えられず、俺は逃げるように立ち去った。 87 ﹁ふぅ﹂ 俺は自分の席に腰を下ろすなりため息。 ﹁どうした?今日の総務には女帝はいないから、書類提出も楽勝だ ったろ?﹂ 俺が営業部を出るときに入れ違いに総務から戻った岸が、発注書 を仕上げながら言う。 ﹁佐々木さんは関係ない。・・・・・・ん、いや、関係ある・・・・ ・・かな?﹂ ﹁なんだ、それ?﹂ 岸が“訳が分からん”と顔に書いて俺を見る。 ﹁ああ、なんでもない。気にすんな﹂ 俺は自分の頬を両手でパチンとはたいて、仕事にかかった。 88 16︼揺れる心︵5︶無意識 翌日の終業後、ようやく佐々木さんに会えた。 ﹁こんばんは、お疲れ様です﹂ 薄暗い空き地で餌をあげていた彼女に声をかける。 ﹁お疲れ様﹂ 俺のほうを見ることなく、手を止めない彼女。 それはけして無視をしているのではない事を知っているから、俺 は気にも留めない。 奥井さんが言ったように、佐々木さんのことをよく知らない社員 達は、素っ気無い彼女に対して悪い印象しか抱かない。俺だって雨 の日タオルや、書類の書き直しの件の真実、そして猫好きな一面を 知らなければ、きっと苦手な人物のままだった。 横に立つ俺を座ったままの姿勢でチラッと見て、 ﹁昨日、私に用でもあった?﹂ と、言ってきた。 ﹁は?﹂ ﹁沢田さんに言われたわ。探していたみたいだって﹂ ごみを袋にまとめた佐々木さんは静かに立ち上がり、改めて俺を 見る。 今ではレンズ越しの瞳に怯える事のなくなった俺は、少し困った ように鼻の頭を指でかく。 ﹁用って事の程でもないんですが﹂ ﹁でも、わざわざ総務に来てくれたんでしょ?﹂ すらりと背の高い彼女はわずかに俺を見上げる。森尾さんのよう にかなり下から見上げられるよりも、視線の近い佐々木さん。 彼女のまっすぐな視線にちょっと臆したけど、ここ数日気になっ 89 ていた事の答えは彼女しかもっていない。 思い切って訊く事にした。 ﹁あ、あの。先週ずっと社員食堂にいましたよね?どうしてですか ?﹂ ﹁えっ?﹂ 切れ長の瞳を少し大きく開いて、佐々木さんの顔が固くなった。 ﹁えと、そのっ。以前、昼食は総務で弁当を食べるとおっしゃって いたので。それに五日も続けて食堂通いなんて、どうしたのかなと・ ・・・・・﹂ ここまで言って、俺は“しまった”と思った。 ︱︱︱人の行動を見張るような事をして、気持ちの悪い奴だと思わ れたらどうしよう?! 自分の不用意な発言にオロオロし、どうやって取り繕おうかと焦 る俺にかけられた言葉は、﹃変態﹄でも、﹃ストーカー﹄でもなく、 ﹁チラッと言ったことを良く覚えていたわねぇ﹂ と、逆に感心されてしまった。 ﹁あっ、いえ。たまたま、何となく・・・・・・と言いますか、ま ぁそんな感じで﹂ 拍子抜けしてしまった俺は、しどろもどろ。 そんな俺に佐々木さんは雰囲気だけで微笑む。 ﹁先週はガス台が壊れて、料理ができなかったのよ﹂ ﹁あ、そうでしたか﹂ 一週間近く悩んでいた事が、彼女の一言であっけなく解決。 ﹁それにしても﹂ 足元で食事をしている猫達を見守りながら、佐々木さんが話を続 ける。 ﹁うちの社食って結構広いし、昼時の混んでいる時間帯でよく私の 姿を見つけられたわね?﹂ 今度は彼女に尋ねられた。 ﹁へ?﹂ 90 そう言えば、どういうことだか佐々木さんの姿が自然と目に入っ てきていた。探そうとしていた訳ではなく、無意識のうちに姿を見 かけたので、その理由を聞かれると返答に困る。 ︱︱︱なんて答えればいいんだ? 言葉に詰まっていると、佐々木さんが先に口を開く。 ﹁こんな地味な格好しているのは社内で私くらいだから、かえって 目立つのかもね﹂ 猫達に視線を向けたまま、そう言って佐々木さんはこの話を終ら せた。 91 17︼さまよう気持ちの出口︵1︶視線の先 秋もすっかり深くなり、街中には枯葉が舞い散る季節となった。 空き地での佐々木さんは時々ふと表情がやわらかくなる事もあり、 俺のことを﹃単なる後輩﹄から﹃会話を交わすそこそこに親しい後 輩﹄へと格上げしてくれたみたいだ。 とはいえ、社内での佐々木さんは女帝オーラ大噴出で、相変わら ず社員から恐れられている。仕事中でなくても、ほぼ無表情という のも変わらず。 永瀬先輩の前では、それなりに穏やかな表情もするというのに。 俺の前でも、わずかとは言え微笑んでくれるというのに。 どうして佐々木さんは、あえてみんなと距離をとろうとするんだ ろうか。それなのに、こまごまとした優しさをそっと忍ばせている。 まったくもって謎の人物だ。 俺はますます“女帝・佐々木みさ子”の存在が気になってゆくの であった。 佐々木さんはいつでも、基本的には表情が崩れない。だけど、ほ んのふとした瞬間に感情が表れることもある。 もちろん傍目にはっきりと分かるようなものじゃないが、すっき りとした眉が少しだけひそめられたり、レンズの奥の瞳がちょっと 大きく開いたり、落ち着いた色の口紅が引かれた唇が軽く上がるな ど、女帝であっても表情はあるんだと気が付いた。 それに気が付いたのはどうやら俺だけらしい。岸なんかは﹃鉄仮 92 面な女帝﹄とまで呼んでいるくらいだ。 誰にも知られていない。 自分だけが手品の仕掛けを見つけたようで、嬉しくって。 その仕掛けをもっと深く探ってみたくて、気になってしまう。 俺は知らず知らずのうちに、彼女を目で追いかける。時にはその 場にいない彼女の姿を探し出そうとしている︱︱︱無意識のうちに。 彼女の何がこんなにも俺を惹きつけるのだろうか。 その答えにたどり着けないまま時は過ぎ、俺は今日も彼女を視線 で追いかける。 93 17︼さまよう気持ちの出口︵1︶視線の先︵後書き︶ ●久々にあとがきを書く事にします。今回、結構長いあとがきです ので、お時間のない方はすっ飛ばしてくださいませ♪ パソコンで閲覧なさっている方はあまり感じないかもしれません が、携帯電話での小説閲覧は本文のあとに﹁あとがきを読むかどう か﹂のステップを踏むというのが面倒なのではと思い、極力あとが きを書かないにようにしていました。 本当は、言いたい事が毎回、毎回あるんですけどねぇ。本文後にあ とがきも同ページで掲載しちゃおうかなぁ。 ●R18小説だと言うのに色っぽいシーンがなくて申し訳ないです。 実は、官能シーンを書くよりも片想いのシーンや、恋人としての悩 みを書く事のほうが好きなんですよ︵苦笑︶。 もうしばらくは官能シーンが出てこないと思います。 ごめんなさい、ごめんなさい。 その代わり、絡みのシーンを書くとなったらそれはもう目くるめく 官能の世界に皆様をご招待しますからぁ!! さて、この章から北川君の気持ちが大分具体的に動き出します。 とは言っても、そう簡単にはみさ子さんとくっつけませんがね︵に やり︶ 読者の方はかなりじれったい思いをなされているでしょうが、これ がみやこのスタイルなのでどうぞご勘弁を∼。 みやこの書く作品には現実世界とほぼ同様に時間が流れていて、そ れゆえに話の展開がゆっくりだったりします。 おまけに、一目ぼれよりも、自分の気持ちを確認しながら徐々に恋 愛につながる・・・と言った展開が大好物なのですよ。なので、話 が進まないこと、進まないこと︵笑︶ 94 せめてものお詫びにできる限り投稿ペースを早めようと、これまで 週一ペースだったものを暇さえあれば投稿としています。 ・・・気まぐれなみやこですので、このペースがいつまで続くもの やら︵汗︶ 95 18︼さまよう気持ちの出口︵2︶さりげない気遣い 街には冬の気配が漂う。 木々の葉はすっかり落ちて、風に吹かれる枝が寒そうだ。 終業後、4階にある営業部の窓からぼんやりと下界を見ながら盛 大なため息をつく。 今日俺は仕事でミスをした。確認不足で先方に迷惑をかけてしま ったのだ。 もちろん後始末はきっちりつけたし、先方も気にしなくていいと 言ってくれたけど・・・・・・、気にしてしまう。 こういうところは意外と小心者で、なかなか立ち直れずにため息 ばかりが増えてゆく。 ﹁なぁに黄昏てるんだよ﹂ 後頭部をゴツンと叩かれた。 振り返るとそこには岸をはじめとする同期の仲間が数人。 ﹁別に﹂ 視線も合わせず、短く返す。 ﹁そんな顔して“別に”はないだろ?・・・・・・と言うわけで、 これから北川君を励ます会を行いたいと思いまーす!!﹂ 岸が声をあげると、みんなが﹃賛成!﹄と拍手をする。 ﹁え?何だよ、励ます会って﹂ 驚く俺の左腕を森尾さんが取った。 ﹁パッと飲んで忘れちゃおうよ。お店ももう予約しちゃったし。ね ?﹂ 96 にっこりと笑いかけてくる。 ﹁え、いいよっ﹂ 俺は一歩下がるが、森尾さんは腕の力を緩めない。 ﹁そんなこと言わないで﹂ ﹁そうそう。さ、行くぞ!!﹂ 岸は俺の意見も聞かず、みんなを連れ立って営業部を出て行って しまった。 ﹁私達も行こっ﹂ ﹁あ?え?﹂ 森尾さんに腕を引かれて、俺はみんなの後をついていく羽目にな った。 着いたのはいつもの居酒屋で、俺は座敷の奥の席へ押し込まれた。 今夜も例のごとく女性達にあれこれ世話を焼かれ、励まされるど ころか逆にブルーになる。 ︱︱︱こういう時はそっとしておいて欲しいんだけどなぁ。 みんなに悪気があるわけじゃないから文句も言えない。 俺は誰にも気付かれないようにこっそりため息をついた。 一時間が経ち、さすがにこれ以上は耐えられなくなってきた。み んなに悪いと思ったけど、適当な理由を岸に告げて帰る事にしよう。 数人の女性が俺の後に付いてきたけれど、どうにか言いくるめて 一人で脱出。 店を出ると音を立てて北風が吹く。 97 ﹁うう、寒い∼﹂ 居酒屋でビールばかり飲んでいたから、体が冷えてしまった。 ﹁もう少し飲みたいんだよなぁ。熱燗があると最高なんだけど﹂ 時間はまだ早く、あと一箇所くらい寄っても問題ないだろう。俺 はあの和食ダイニングへと足を向けた。 上品な引き戸を開けると、窓側の席に永瀬先輩と佐々木さんの姿 を見つけた。相変わらず仲がいい二人だ。 ﹁いらっしゃいませ。お一人様ですか?﹂ 俺よりも幾分若い店員がにこやかに声をかけてきた。 “はい”と答えようとしたところに、俺に気がついた先輩が手を 振ってくる。 ﹁北川、こっちに来いよ﹂ 他のお客さんの邪魔にならない声量で俺を呼ぶ。 俺の返答を待っていた店員に頭を下げて、先輩達のテーブルに近 付いていった。 ﹁お疲れ様です﹂ 2人に声をかける。 ﹁珍しいな。お前一人なのか?﹂ ﹁ああ、はい﹂ ﹁良かったら一緒にどうだ?﹂ 人懐っこい笑顔で誘われるが、迷う。 ︱︱︱まったり一人で飲む予定だったんだけどなぁ。 そこに永瀬先輩の携帯電話が鳴る。届いたのはメールらしい。画 面に目をやった先輩が苦笑し、“しょうがないなぁ”と、呟いた。 ﹁呼び出されちまったから、帰るよ。先に悪いな﹂ 片手を挙げて謝ると、先輩が席を立つ。そして財布から一万円札 を置き、佐々木さんの前に滑らせた。 98 ﹁これで足りなかったら、あとはよろしく﹂ ﹁永瀬君、これは多すぎるわ﹂ 差し出された札と伝票を見比べた佐々木さん。 ﹁いいんだよ、北川の分も入っているから﹂ と、先輩がにっこり笑う。 ﹁え?﹂ 俺と佐々木さんが同時に声をあげた。 ﹁仕事を頑張る後輩へのささやかな励ましだよ。じゃ﹂ 先輩はヒラヒラと手を振って店を出ていった。 落ち込んだ表情は隠していたはずなのに、永瀬先輩は気付いてい たんだ。まぁ、俺がミスした現場を目撃してたもんなぁ。 サラリとこういうことをやってのけるところが、永瀬先輩の器の 大きさと言うか、営業マンとしてのソツのない気配りと言うか。 ︱︱︱俺もあんなスマートに振舞える男になりたいもんだよ。 ぼんやりと先輩の背中を見送っていたら、佐々木さんに声をかけ られた。 ﹁座ったら?﹂ ﹁あ、はい﹂ 促されて、これまで永瀬先輩が座っていた席に腰を下ろす。使わ れていた食器やグラスは端に片付けられていて、俺の分のお絞りや 割り箸、小皿が置かれていた。 ︱︱︱いつの間に・・・・・・? 俺が突っ立っている間に佐々木さんがセッティングしてくれたら しい。さっきまで散々親切の押し売りのような女性達と接していた ので、俺に気付かせないようなさりげなさに驚く。同時にホッとす る。 お絞りを手に取ったあと、日本酒とつまみを何品かオーダー。 料理が出てくる前も、出てきてからも、佐々木さんは何も言わず 99 生演奏されているジャズに耳を傾けている。 とは言っても俺の存在を忘れているのではなく、俺の料理や飲み 物がなくなりそうになると静かに店員を呼び、追加の注文を入れて くれる。 言葉は少ないが、必要最低限の気配りのおかげでゆったりとした 時間を過ごせている。 ありがたい事だけど、こんなに会話がないと少し寂しいかも。 ﹁あの・・・・・・﹂ 俺が声をかけると、ステージからこちらにと視線を戻す佐々木さ ん。 ﹁何?﹂ ﹁今夜はあまり話さないんですね﹂ さっき、永瀬先輩とあんなに楽しそうに話していたのに。 ﹁・・・・・・僕は話をしてもらえる価値もないんでしょうか?﹂ 先輩と自分に対する態度が違いすぎて、卑屈になる。 猫を通して結構親しくなったと思っていたのに、それは俺の勝手 な思い込みだったのだろうか。 佐々木さんは不思議そうに瞬きを繰り返す。そしてふっと口元を 緩めた。 ﹁今の北川さんはなんだか疲れているみたいだから、そっとしてお いた方がいいと思っただけよ﹂ そう言った彼女は静かに微笑む。 酒が入っているせいか、女帝オーラは通常よりも8割ほどダウン していて。向かいに座る彼女の笑顔はまじまじと見てもすごく綺麗 だった。それは色気すらも感じさせるほどに。 俺は彼女の表情と、そして鋭い洞察力に言葉がなかった。 その後も会話らしい会話もなかったけれど、佐々木さんのさりげ 100 ない気遣いのおかげで、居心地のいい時間を過ごすことができた。 101 19︼さまよう気持ちの出口︵3︶コイゴコロ・・・? 12月に入ると時計の進み方が早く感じるようになる。 文具業界なんて、四月の入学シーズンだけが忙しいかと思ったら 大間違い。二月のバレンタイン、三月のホワイトデー、六月の父の 日、十二月のクリスマスには実用的でなおかつオシャレなステイシ ョナリーが飛ぶように売れる。 中でも万年筆は定番の売れ筋。パソコンが普及しまくっている現 代でも、最終的に肝心なサインは人の手で文字が書き込まれるから な。 それと、お年始用の粗品。一昔前まではタオルが一般的だったけ れど、ここ数年は社名入りのボールペンの需要が高まっている。 ・・・・・・というわけで、仕事納めのぎりぎりまで我が文具メ ーカーは大忙しだったのだ。 そんな社員たちの労をねぎらおうと、某ホテルの特大会場を借り 切っての忘年会が行われている最中である。 ﹁さすが天下のKOBAYASHIだな。たかだか忘年会なのに、 こんな立派だなんて﹂ 岸が白い皿に山ほどの料理を載せ、むしゃむしゃと頬張る。 会場の規模はもちろん、出される料理も飲み物も一流ホテルなら ではのものばかりで、基本庶民の俺としてはため息が出る。 ﹁この会社は今、勢いがあるしな﹂ 手にしたワインを飲みながら、少し疲れたように返事をする。 この忘年会は本社の社員総出。立食パーティーという形式からさ まざまな部署が入り乱れて、俺の周りには例のごとく女子社員たち が同期、先輩関係なく集まっている。 入社して半年も過ぎ、当初のような群がりはない。どんなに誘わ れても俺がけして二人きりでは出かけようとしないから、次第に女 102 子社員たちも諦めていったようだ。 が、それが反って一部の女性たちを煽ることにもなっているらし い。 “私が彼女になって見せる!”と息巻き、しぶとく俺にまとわりつ いているのが森尾さんを筆頭に少々厄介な女性たち。 岸や他の男性社員に言わせると“選り取りミドリだな”というこ とらしいが、俺はこの中から彼女を選ぶつもりはないし︱︱︱社内 恋愛をしない主義はいまだ健在︱︱︱、ましてや適当に遊ぶつもり もない。 いくら女性にもてはやされるのが好きでも、つまみ食いなんかは しない。外見は軽そうに見えても結構まじめなんだぞ、俺は。 なんていいつつも、女性に執着しない冷めた部分がどこかにある から、やたらに手を出さないのかも・・・・・・と考える自分がい る。 だから、どんなにかわいい仕草で微笑まれても、つやっぽい視線 を送られても心は揺るがない。 執着心。 独占欲。 女性に対して、この二つの感情を持ち合わせていない。 まぁ、当分の間は仕事で身を立てるのが最優先事項だし、女性を かまっていられないのが実情だったりもするけどね。 だけど・・・・・・。 確かに、執着心も独占欲もないけれど、興味を持っている対象が 一人いる。 ここ数ヶ月は自然と“あの人”の姿を探し出そうとしている自分 に、うすうすは自覚している。今もこうして岸や周囲の社員たちと 話をしながらも“あの人”の姿を視界に捉えようとしている。 俺が唯一興味を抱く女性︱︱︱女帝・佐々木みさ子。 103 相変わらずの地味なヘアスタイルとパンツスーツ、シルバーフレ ームの眼鏡で部長クラスの人たちに囲まれていた。海外事業部の部 長なんかニッコニコだ。秋に通訳として借り出したときの仕事がう まくいったのだろう。大きなしゃがれた声で、これまた大きな腹を 揺すりながら﹃君のおかげだ﹄と、連発している。 ほかの重役たちにも肩を叩かれ、はにかんだ笑顔を浮かべている 佐々木さん。 吸い寄せられるようにその表情を見ている俺。 ﹁北川君、どうかしたの?﹂ 森尾さんが俺を見上げていた。 ﹁え?﹂ ハッと我に返る。 ﹁話しかけても返事してくれないし﹂ すねたように少し口を尖らせている。 ﹁あ、ごめん。そんなにボーっとしてた?﹂ ﹁うん。何回も呼んだのに、ぜんぜん反応なかったんだよ。・・・・ ・・もしかして、熱でもある?﹂ 森尾さんが小さな掌を俺のおでこに当てた。 ﹁ん∼、熱はないみたいだね﹂ ﹁大丈夫、体調は悪くないから﹂ 彼女の手首をつかんで、おでこから外させる。 岸がこっそり﹃いいよなぁ、こんなかわいい子に心配されて﹄と、 耳元で言ってくるが、俺にとっては嬉しくも照れくさくもない。 でも、話を合わせて﹃うらやましいだろ?﹄と小さく言ってやっ た。 年が明けて、一月一日。 104 のんびり昼まで寝た俺は、近所のスーパーに買出しに行く途中、 大きなくしゃみをした。起きた時になんとなく体がだるいような気 がしたっけ。 ︱︱︱風邪かなぁ。でも、目立った症状はないから平気な気もする し。 大して気にも留めずに歩いていると、前から予想だにしなかった 人物がやってくる。 佐々木さんだった。 黒のコートに黒いブーツ。初めて見たスカートはさすがに黒では なかったけれど、やっぱり地味目なこげ茶のロングスカート。 だけど、スラッと長身の彼女にはその格好がとてもよく似合って いて、ファッション雑誌の一ページから抜け出てきたみたいだ。 そんな彼女の横にはまるっきり正反対の女性がいた。ベビーピン クのファーがついたダウンジャケット、その下は赤を貴重としたギ ンガムチェックのミニスカート。背中まで伸びている髪は明るいオ レンジブラウン。佐々木さんがダークカラーオンリーなのですごく 目立つ。 目鼻立ちが似ているところを見ると妹さんだろうか。でも、背の 高さはぜんぜん似てなくて、きっと160センチないくらい。 ﹁あら、北川さん?﹂ 佐々木さんも俺に気がついた。 ﹁明けましておめでとうございます﹂ 頭を下げると、“おめでとう”と返してくれた佐々木さんの眉が 寄った。 何でそんな顔をしたのか分からずぼんやりしていると、佐々木さ んが手を伸ばして俺のおでこに触れた。 ほっそりとしなやかな指先が触れた瞬間、ドクン、と心臓が大き く跳ねる。 それは彼女の手が冷たかったからじゃない。 まして、不意に触られたからでもない。この前森尾さんに同じこ 105 とをされても、俺はまったく驚かなかったのだから。 ﹁声が少し枯れてるわよ。熱もあるみたいだし﹂ そう言って佐々木さんは手を下ろす。 そのことが寂しく感じた。 もっと触れていてほしいと思った。 ︱︱︱・・・・・・へ?俺、何考えてんのっ!? とっさに頭を振って変な考えを追い出す。 ﹁そ、そうですか?起きた時に、なんか調子悪いなって気はしたん ですけど。ははっ﹂ 引きつる顔をどうにか動かす。 ﹁自分のことなのに、のん気ねぇ﹂ 佐々木さんはいつものように雰囲気だけで微笑む。 ﹁仕事始めまでに治るといいわね。じゃ、私たちもう行くから﹂ ﹁あ、はい。失礼します﹂ 熱だけじゃないほてりを頬に感じながら、頭を下げた。 飲み物や食料を仕入れて帰宅。 途中で買った弁当の後に風邪薬を飲み、早々に布団に入った。 腹も膨れて、薬も効き始めて、うつらうつらとしながら、俺はさ っき頭によぎったことを思い出していた。 俺自身、佐々木さんに対して恐怖を感じることはもうない。 だから何の前触れもなくおでこを触られた時のあの衝撃は、恐怖 心からではない。 それなら、一体なんだというのか? そして、彼女の姿を視線で追いかけているのは、どんな理由があ ってのことなのか。 もっと、触れていてほしかったというのは・・・・・・? 106 もはや“興味”という範疇を越えている気がする。 興味じゃないなら、それは何だというのか? ︱︱︱それは・・・・・・。それは・・・・・・。好意? ここで俺の意識は眠りに落ちた。 107 20︼さまよう気持ちの出口︵4︶気になる人 目が覚めたら翌日の昼だった。 ﹁ええっ!?﹂ 時計を見てびっくり。丸一日寝ていたようだ。 薬がよく効いたのか、夢も見ずにぐっすり熟睡。 一日無駄に過ごしてしまったけれど、体はすっきりしている。念 のために熱を測ったら、平熱に戻っていた。 ﹁ふわぁ﹂ 大きなあくびをして、ベッドから降りる。 ︱︱︱あれ?寝る前になんか考え事をしていたような・・・・・・。 記憶をめぐらせるが、朦朧とした中での考え事は頭の中には残っ ておらず、思い出せそうにない。 ﹁ま、いっか。忘れるってことはたいしたことじゃないんだな﹂ そんな独り言をもらしつつ、俺は洗面所へ向かった。 車で一時間のところにある実家に出向き、たまの親孝行に精を出 す。夜は母親の手料理を堪能し、父親と酒を酌み交わし、兄と姉の 子供たちの遊び相手をこなしたら、再び夢も見ないでぐっすりだ。 翌朝、台所に行くと母親と兄嫁、姉が食事の準備をしていた。 ﹁おはよう、貴広君﹂ 皿を運んでいた義姉さんが声をかけてくる。 ﹁おはようございます﹂ ﹁夕べはうちの子供たちがはしゃいじゃってごめんなさいね﹂ ﹁いえ。普段は一人暮らしで寂しい思いをしていますから、にぎや かで楽しかったですよ﹂ 108 俺も箸や小皿を運ぶ手伝いをする。 ﹁へぇ、一人で寂しいなんてねぇ。彼女はいないの?﹂ 三歳上の姉が遠慮なく訊いてくる。 ﹁いないけど﹂ ﹁珍しいこと。あんた、女性にモテることだけは得意なのに﹂ ﹁“だけ”って所を強調するなよ、失礼な﹂ ﹁はいはい、ごめんなさいねぇ﹂ その口調にちっとも反省の色はない。 そしておしゃべり好きの姉の口は止まることはない。 ﹁だけど、気になっている人くらいはいるんじゃないの?﹂ ︱︱︱気になっている人? そう言われて目の前に浮かんだのは、佐々木さんだった。 ︱︱︱どうしてここであの人がっ?! 我ながらギョッとする。 ︱︱︱マジでありえない。 佐々木さんがいい人だってことはよく分かってるけど、これまで に俺が付き合ってきた女性とは真逆のタイプで。 おまけに同じ会社の人間。 俺は絶対、ぜーっっったい、社内恋愛だけはしないって決めてい るんだ! でも、あの人が気にならないって言ったら、嘘になる・・・・・・ 。 ﹁貴広、お皿が落ちる!!﹂ 悲鳴のような姉の声に、あわてて我に返る。 五枚ほど重ねて持っていた小皿が斜めになっていて、今にも滑り 落ちそうだった。 ﹁うっわぁ、びっくりしたぁ﹂ 109 おでこに変な汗がにじむ。 ﹁驚いたのはこっちよ。何、動揺してんの?﹂ 姉がニヤニヤと笑っている。 ﹁別に動揺なんかっ﹂ ﹁・・・・・・顔、赤いけど?﹂ 姉と義姉、さっきまで味噌汁を作っていた母親までもがじっと俺 を見ている。 ﹁ち、違うよっ!皿を落としそうになって焦っただけだって。俺、 テーブルに箸と皿を並べてくるからっ﹂ そそくさとその場を逃げ出した。 それからは姉にからかわれることもなく、実家を後にすることが できた。 運転しながらきれいな茜色に染まり始めた空を見る。 ﹁明日は晴れか﹂ この分だと当分天気はよさそうだ。 おそらく仕事始めの日もいい天気になるだろう。それだけで、な んとなくこの先一年の仕事もうまくいきそうな気がする。 弾む気分で車を走らせた。 110 21︼さまよう気持ちの出口︵5︶触れられたくて いよいよ冬休みも終わり、正月ボケの頭と体に鞭打ちながら順調 に︵?︶仕事をこなしていく日々。 2月のバレンタイン商戦に向けて仕事は忙しさを増してゆく。 それ以外は特に変わらない。 なんとなくではあるが形になりつつある胸の奥のモヤモヤも、変 わらずに存在している。 冬の夕暮れは早い。 就業後、俺は猫缶持って急いで薄暗い空き地へ向かった。 猫たちは根性があるのか、それとも食い意地が張っているのか、 寒空の中、俺を出迎えてくれる。 ﹁猫って寒いのが苦手じゃなかったか?﹂ くすくすと笑いながら準備を進める。缶の蓋を開けて並べると、 少し離れたところで彼らの様子を眺めることにした。 そこへこっちに向かってくる足音が。 正体は分かっていたけど、振り返る。案の定、佐々木さんだった。 ﹁こんな寒いところにいて、体は大丈夫なの?﹂ 俺の横に並んで猫たちの食事風景に目を向けながら話しかけてく る。 ﹁あ、はい。もうすっかりよくなったので﹂ 俺も視線を猫たちに戻す。 お互い大した会話もないのに、なぜか居心地がいい。“沈黙が落 ちつく”なんて、これまでになかった経験だ。 ︱︱︱どうして? 111 誰もが恐れる“女帝”の隣にいるのに、俺は一体どうなってしま ったんだろう。 こうやって猫を介して話をしているうちに、感覚が麻痺してしま ったんだろうか。 ︱︱︱いや、違う。 すぐさま否定する自分がいる。 ︱︱︱それなら、何? 違うと分かっていても、答えにはたどり着けない。 ︱︱︱もう一度触れてもらえば、何か分かるんだろうか。 しかし、ほっそりとしなやかな彼女の指先は手袋に覆われていた。 自分の中で何ひとつ変わらず、日付だけが変わってゆく。 ﹁今日も北川さんが先だったのね﹂ 寒さが本格的になった一月の下旬でも、俺はほぼ毎日空き地に通 っていた。 ﹁営業は総務ほど忙しくありませんので﹂ 足元でじゃれつく猫をなでながら、佐々木さんに答えた。 ここに顔を出すようになって半年、猫たちとだいぶ仲良しになっ た。 が、いまだにヒメは触らせてくれない。近くまで寄ってきてはく 112 れるものの、俺が手を伸ばすとスッと遠ざかってゆく。くぅ、切な いぜ。 ﹁ここしばらくは毎日来てるわよね。そんなに猫が好き?﹂ 俺の横に腰を下ろした佐々木さんが、猫たちの中で一番のチビス ケをなでている。その眼差しは母猫のように優しい。 ﹁はい。猫は大好きですよ﹂ そういう俺の視線は彼女の横顔に向けられている。 猫は大好きだ。 それは間違いない。 ただ最近は猫を見に来ているのか、この人に会いに来ているのか、 分からなくなってきた。 ﹁猫の口元ってかわいいのよね﹂ ふふっ、と小さく笑ってチビスケを抱き上げる。 彼女の笑顔を見て、俺の顔も自然とほころぶ。 ︱︱︱俺はどうして、こんなにもこの人が気になるんだろう。 もしかしたら答えはとっくに出ているのかもしれない。 “興味”という言葉の裏に隠れた“好意”に気付いていないだけ で・・・・・・。 113 22︼さまよう気持ちの出口︵6︶眠り姫:前 バレンタイン商戦真っ只中にトラブル発生。 他の社員は外回り中なのでチーフと2人で伝票整理に追われてい るところに、●○デパートから﹃黒の万年筆を40本追加してほし い﹄と急な発注が入ったのだ。 注文の入った万年筆はバレンタインの時期に合わせて受注の数を 見ながら生産しているため、急な在庫確保は不可能に近い。 しかし卸値が1本2万円の高級万年筆が40本もさばければ結構 な金額になるし、それに老舗デパートの●○デパートはKOBAY ASHIが出来てからずっと付き合いがある。なんとかしてあげた い。 そしてこの在庫確保に成功すれば、さらにお互いの関係が深まる。 得意先にひいきにされるためには、いざという時に無理難題をこ なせるかどうかだ。 ということで、俺は支社と生産工場の電話番号を知っている総務 へと走った。 ﹁すいませんっ﹂ 勢いよく駆け込んできた俺に、みんながびっくりする。 ﹁どうした?﹂ 総務の部長があわててやってくる。 ﹁実はP−M05の黒を急ぎで40本用意してほしいと●○デパー トから電話がありまして﹂ 俺の言葉に総務部内がざわつく。 114 ﹁それで、在庫があるかどうかの確認を取っていただきたいんです。 お願いします﹂ 頭を下げる俺の耳にひそひそと話し声が入ってくる。 季節商戦中の総務はいつも以上に忙しく、ましてや4時ともなれ ばこの飛び込みの仕事で残業確実。おまけに今日は金曜日。それぞ れがすでに予定を組んでいるだろう。 みんなは顔を見合わせて困り顔だ。 ︱︱︱そうだよなぁ。無理も無いか。 元はといえば営業部に舞い込んだ依頼だ。俺が残業するのが筋っ てもんだろう。 ﹁でしたら連絡先のリストを貸してください﹂ そう言った時、コツコツとヒールを響かせて近づいてくる足音。 佐々木さんだった。 ﹁私が引き受ける。黒を40本ね﹂ 眉一つ動かさず、彼女が名乗りを上げた。 ﹁い、いえっ。自分でやりますからっ﹂ 佐々木さんはおそらく他の社員よりも仕事を抱えているはず。そ んな彼女にお願いするのは忍びない。 ﹁大丈夫ですからっ﹂ ﹁もちろん北川さんにも手伝ってもらうわ。こちらで工場と支社に 連絡を取るから、あなたはすでに出荷した店舗に余りが有るか確認 して﹂ そう言うと佐々木さんは自分の席に着き、パソコンで連絡先一覧 の画面を開いて机上の電話をかけ始めた。 支社も工場も結構な数があり、ましてやどこに在庫があるのか分 からない状態で片っ端からひたすら電話をするのだから、時間はか なりかかるはず。 それでも佐々木さんは自分の仕事を後回しにして、電話をかけ続 けている。 俺は申し訳ない気持ちでいっぱいだ。 115 そんな俺の肩を沢田さんがポン、と叩いた。 ﹁ここは佐々木先輩に任せたほうがいいよ。北川君は言われた通り に電話しなきゃ﹂ ﹁そうだな。・・・・・・佐々木さん、よろしくお願いします!﹂ 声をかけたら軽く左手を上げ、彼女は再び電話をかけ始めた。 チーフに事情を話し、伝票整理を一時中断して取引先に電話をか け始める。自分の担当区域は全滅だったので、すべての取引先をし らみつぶしに当たるが、これが結構骨が折れる作業で、しかも在庫 確保は思うようにはかどらず、気持ちがどんどん沈んでいく一方。 ﹁はぁ∼﹂ つい手が止まって、ため息がこぼれる。 ︱︱︱こんなことをして在庫なんて見つかるのかよ?余りが出ない ように受注発注にしたってのによ。 まだかけていない電話番号は3分の1ほど残っているけど、投げ 出したくなってきた。 ︱︱︱﹃在庫はありませんでした﹄って●○デパートに言っちゃお うかなぁ。 ろくでもない考えが、一瞬頭の隅を掠める。 同時に、佐々木さんの姿も浮かぶ。 ︱︱︱・・・・・・いや、あきらめたらダメだっ! 佐々木さんはきっと今も確認作業を続けているはず。俺が中途半 端にやめるわけにはいかない。 手の平で自分の顔をはさむようにパンッ、パンッと叩き、弱気に 116 なった自分に喝を入れた。 そして40分後。 ﹁△デパートに15本ありましたぁ!﹂ 残り2件の得意先を残した時点で、ようやく余った万年筆を見つ けた。 ﹁よし、それは外回りしてる者に取りに行かせよう﹂ チーフが担当の営業部社員に連絡をいれていると、内線電話が鳴 った。 ﹁はい、営業部です﹂ ﹃あ、北川さん?総務部の佐々木だけど。水田工場に30本の在庫 があったわ﹄ ﹁そんなに!?よかったぁ。こちらで今やっと、15本確保したと ころだったんですよ。これで予定の40本に間に合います﹂ チーフに目配せして、指でOKサインを出す。 ﹁ありがとうございます。お忙しいところを無茶な申し出をしてし まってすいませんでした﹂ 電話をしながらお辞儀をしたって佐々木さんには見えないのに、 かまわずぺこぺこと頭を下げる。 そんな俺の様子が分かったのか、電話口で佐々木さんが小さく笑 った。 ﹃いいのよ、仕事だから﹄ 予定外の仕事を進んで引き受け、しかも恩を売るような真似をし てこない彼女は、なんて器が大きいのだろう。さすが女帝。懐の深 さも並じゃない。 ﹁すごく助かりました。それじゃ、今から工場に向かいます。本当 にありがとうございました﹂ 深々と頭を下げてから電話を切った。 117 ﹁北川、水田にあるんだって?﹂ ﹁はい、30本押さえました﹂ 俺は上着を羽織ながら返事をする。 ﹁すぐに向かいます。チーフは先に上がってください。奥さん、今 日が出産予定日ですよね?﹂ ﹁ああ。4時過ぎに病院に着いたとメールが入ってたよ﹂ ﹁だったらすぐに行ってあげませんと﹂ ﹁悪いな。朝一のバイク便を手配しておくから、万年筆はまとめて 警備員室に預けてくれ。 私から宿直の警備員に連絡しておく﹂ ﹁分かりました﹂ 手荷物をつかんで、俺は営業部を飛び出した。 工場までは約1時間。道の混み具合もあるだろうから、帰社はお そらく8時を過ぎるだろう。 ﹁ま、仕事だからな﹂ 図らずもさっきの佐々木さんと同じことを言った自分に苦笑した。 無事に万年筆を手に入れて、会社に戻ってこられたのは予想通り 8時を回った頃。 部に戻るとすでにみんなは退社した後。先に確保した15本が箱 に収まっていてので、そこに25本追加して1階の警備室へ。警備 員さんに手渡して、本日の任務は完了。 ﹁ふぅ、やれやれ﹂ 背伸びをしながら歩いていると、総務部に明かりがついているこ 118 とに気がついた。 ︱︱︱電気の消し忘れかな? 中を見ると、佐々木さんが机に伏せている姿が目に入った。 ︱︱︱やっぱり、残業になっちゃったんだな。 そっと近づいて様子を伺う。 少しだけ休むつもりなのだろう。携帯電話が机上にあるというこ とは、アラームをセットしているのかもしれない。 山積みの書類の間で腕を枕に眠っていた佐々木さんを見て、息を 飲んだ。 メガネが外された瞳を縁取る長いまつげ。鼻筋は適度に通ってい る。唇はいつもと違って無防備に薄く開かれ、誘っているようでも ある。 ︱︱︱佐々木さんて、実は結構な美人だったんだ。 時々盗み見ていた横顔から整った顔立ちだとは思っていたけど、 長い前髪と冷たいメガネに遮られていたから、これほどまでとは気 がつかなかった。 すやすやと眠る彼女を見て少しドキドキ。でも、仕事中とはまる で違うあどけない寝顔が微笑ましくて、なんとなく保護者の気分で もある。 規則正しい呼吸を繰り返す佐々木さんの頬にかかる髪がうっとう しそうに見えて、指でそっと払う。 気をつけてはいたけど、掬い上げる時に指先が頬に当たってしま った。その滑らかな肌触りに再び息を飲む。 ︱︱︱うっわぁ∼。この人、肌が超きれい∼。 やわらかくて、肌理細やかで、吸い付くような触れ心地はいつま でも触っていたいという衝動を駆り立てる。 佐々木さんがすっかり寝入っているのをいいことに、俺はしばら くその感触を楽しんでいた。 119 ﹁・・・・・・んっ﹂ 不意に佐々木さんが眉を少しだけしかめ、短い声を上げた。 それを聞いてはっと我に返る。 ︱︱︱ヤバイッ! 俺はあわてて手を引っ込め、一目散にその場から逃げ出した。 120 23︼さまよう気持ちの出口︵7︶眠り姫:後 頭の中が真っ白になった俺はどこをどう走っていたのか分からず、 気付けばいつもの空き地に来ていた。 心臓の動機は痛いくらいに激しい。バクバクと打ち付けているの は、﹃今しがた走ったから﹄という理由以外のことも含まれている。 ︱︱︱俺、どうしちゃったんだよぉ!? 佐々木さんの頬に触れた指先を、もう一つの手でそっと包み込ん だ。今も残るすべらかな肌の感触とほんのりと温かいぬくもり。 心臓の動きは落ち着いてゆくどころか加速する一方。 ︱︱︱なんで?どうして?? 半ばパニック状態で立ち尽くしていると、細い路地からヒメが現 れ、ゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。 初めの頃よりはだいぶ慣れてくれたものの、いまだに俺たちの間 には緊張感があって、ヒメは俺の1メートル手前で止まった。 前足をそろえて俺を見上げるその姿は優美。まっすぐな瞳は誰か を思い出させる。 ﹁・・・・・・ああ、そうか﹂ それはまるで佐々木さんのものと同じだった。 ︱︱︱ヒメは佐々木さんに似てるんだ。 気品があるところ。凛とした態度。つれない仕草。だけどふいに 柔らかい声で鳴く。 そのすべてが佐々木さんを思わせる。 ︱︱︱ん、待てよ? 121 佐々木さんに似ているヒメを触りたいってことは・・・・・・。 ﹁つまり俺は“佐々木さん自身”に触れたかったってこと!?﹂ 小さくつぶやいた時、これまで胸くすぶっていたモヤモヤが晴れ てゆく。 他の女性がそばにいてもなんとも思わないのに、佐々木さんのそ ばにいることが心地よかった。 佐々木さんに触れたい、触れられたい。 声が聞きたい。 腕の中に閉じ込めて、唇や肌を重ねたい。 強くそう願う自分がいる。 この想いはまぎれもなく俺の感情で、面白半分や気の迷いじゃな い。 ﹁俺、佐々木さんのことが好きなんだ・・・・・・﹂ だから彼女の姿を無意識に探したりしてたんだ。 いつの間にか興味が好意に変わって。 それがあまりに自然すぎて、自分でも気がついていなかった。 だけど、心と体はしっかり分かっていたんだ︱︱︱もう、ずっと 前から。頭で理解するよりもずっと、ずっと前から。 もしかしたら、初めて会った時から心を奪われていたのかもしれ ない。 122 “どこが好き”とか、“ここが好み”とかじゃない。“佐々木み さ子”という存在そのものに惹かれた。 ﹁うっわぁ・・・・・・﹂ たった今自覚した衝撃の事実に、思わず声が漏れる。 社内恋愛は絶対にしないと決めていたのに、入社一年もしないう ちにこうなるとは・・・・・。 おまけに相手は年齢も仕事能力も度量も、何もかもが俺より上で。 だけど、あきらめることなんて出来ない。自分の想いをなかった ことには出来ない。 手ごわすぎる相手だとは百も承知だけど、彼女のそばにいたいと 思う気持ちは本物。 これまでの経緯を見るに、嫌われていないことは分かる。 ﹁一応、扉は開かれているわけだ﹂ これから先、自分の努力しだいで彼女を手に入れられるかもしれ ない。その努力は想像をはるかに超えるものかもしれないが。 ﹁やってやろうじゃん﹂ 初めてなんだ、こんなにも自分から欲した女性は。 後にも先にも、彼女以外に心とらわれる存在は現れないと、俺の 直感が示す。 ﹁決めた!﹂ あの人を手に入れよう。 あの人の隣に立つのにふさわしい男になろう。 123 二つの誓いを胸に秘め、俺は冬の星空に向けてこぶしを高々と突 き上げた。 124 23︼さまよう気持ちの出口︵7︶眠り姫:後︵後書き︶ ●北川君、ようやく自覚しましたねぇ。 かといって、すんなり2人をくっつけませんよぉ。 男性が、好きな人を想って悩む姿が大好物なので︵笑︶ ●とはいえ、このまま単に恋愛話ばかりを書いても読者様が離れて いきそうなので次話はちょっとしたサービスストーリーをお届けし ます。 ちょっとしたとか言いつつも、けっこう絡ませてますけどね︵苦笑︶ 125 24︼女帝と昼下がりの情事 それからの俺は地道に仕事をこなし、業績を上げていった。 社内でも社外でも評価は上々で、男として、そして人間としての 自信が備わったように思う。 そして俺はとうとう、あの人を呼び出すことにした。 ここは会社のミィーティングルーム。 広々とした会議室と違って、簡単な商談や社員同士の話し合いの 場として使われることが多い部屋。簡素な応接室といったところだ ろうか。こういった部屋がこの会社の3階には5つほどある。 そのうちの一つに俺はみさ子さんを呼び出した。 部署の違う俺が彼女に相談があると持ちかけると怪訝な顔をされ たが、﹃佐々木さんにしか話せない﹄と言うと、首をかしげながら も応じてくれた。 低いガラステーブルを挟んで3人がけのソファーが向かい合わせ に置いてある。 向かって左側に佐々木さんが腰を下ろした。 ﹁それで話って何?﹂ 座ることなく立ったままの俺に、みさ子さんが言う。 こんな狭い密室に女性の自分と男の俺がいるというのに、彼女に は警戒心というものがまったく感じられない。俺にとっては都合の いいことだけどね。 ﹁本当に私でいいの?永瀬君じゃなくて?﹂ ﹁はい﹂ ﹁そう・・・・・・﹂ 俺が答えるとみさ子さんはどんな相談を持ちかけられるのかと、 126 自分の中であれこれ推測を始めたようだ。床に視線を落として黙り 込んでしまった。 おかげで反応が遅れる。 ﹁えっ?!﹂ 気づいた時には俺に押し倒され、ソファーの上に仰向けとなった。 状況が把握できていないみさ子さんはしきりに瞬きを繰り返し、 自分の上に馬乗りになっている俺を見上げる。 ﹁北川さん?﹂ あっけにとられて身動きできず、きょとんとなっているみさ子さ ん。 そんな彼女に自分の想いを告げる。 ﹁好きです﹂ みさ子さんの瞳が驚愕に大きく開く。 ﹁何の冗談?!﹂ ﹁冗談でこんなことを言う軽薄な男に見えますか?﹂ ﹁そ、そういう訳じゃなくってっ!?﹂ いつもの女帝はどこへやら、彼女はオロオロと視線を泳がしてい る。 ﹁好きなんです、みさ子さん・・・・・・﹂ 俺はささやきとともに彼女の唇に自分の唇をそっと重ねた。 ﹁や、やだっ﹂ みさ子さんは突然のことに起き上がろうとするけど、俺に両肩を がっちり押さえこまれ首を動かすのがやっとだ。 ﹁僕のことが嫌いですか?﹂ ﹁嫌いじゃないけどっ。いきなり告白されても、考えられないわよ っ!!﹂ 涙目になりながら声を上げる。 127 ﹁今は何も考えなくていいです。俺の気持ちだけを受け取って・・・ ・・・﹂ 俺は再び唇を重ねた。 少しひんやりとした彼女の唇をついばむように味わう。しっとり と重ねては離し、また近づいて舌で舐める。 みさ子さんは首を振って抵抗するけど、次第に力が抜けていく。 その隙を突いて俺は彼女の口腔内に舌を滑り込ませ、甘く柔らか なみさ子さんの舌に絡める。おびえて逃げる彼女の舌を熱くしつこ く捕らえ、呼吸も思考も奪うように激しく奪う。 時折“ピチャ・・・・・・”という湿った音が重ねた唇の隙間か ら漏れた。 ﹁んっ、ふ・・・・・・ん﹂ 甘く妖しい吐息が彼女の口をつく。 起き上がろうとする反応は弱くなり、俺は肩から手をはずして彼 女の頬を挟み込む。滑らかで吸い付くような感触を手の平に感じつ つ、角度を変えてさらに舌をもぐりこませる。優しく吸い上げ、唇 を甘噛みし、口腔内をたっぷりとねぶる。 彼女の舌と唇を十分に堪能すると、みさ子さんは信じられないと 言った表情でのしかかっている俺をぼんやりと見上げている。 ﹁メガネ、邪魔ですね﹂ これから先の激しい行為を考えて、外しておいたほうが得策だろ う。彼女が放心しているのをいいことに有無を言わさず取り上げ、 腕を伸ばしてガラステーブルの端に置いた。 仰向けになった拍子に長い前髪は上がっていて、今では何も隔て ることのない瞳が俺を見つめている。レンズ越しではない彼女の瞳 は涙に潤み、それだけで俺を煽る。 俺はスーツの上着を無造作に脱ぎ捨て、ネクタイを強引に引き抜 き、ワイシャツのボタンを乱暴にはずす。 その様子を見て、俺が本気だと︱︱︱自分がこれからここで抱か れるのだと、みさ子さんは悟り、なけなしの力を振り絞って上体を 128 起こそうとする。 ﹁・・・・・・逃がしませんよ﹂ にやりと笑って、俺は彼女の体に倒れこんだ。 深いキスをしながら左の指先で彼女の首筋をなでると、俺の下の みさ子さんがビクンッと跳ねる。素直な反応にほくそえみながら、 空いた手で彼女のブラウスのボタンをはずしてゆく。 現れた綺麗な鎖骨に口付けた。 ﹁あっ﹂ 短く声を上げ、ピクンと肩を震わせるみさ子さん。 のけぞる彼女の首筋に舌先を這わせる。ゾクリ、としたなんとも いえない衝撃が彼女の背筋を駆け抜けていった。 ﹁き、北川さん・・・・・・。やめて・・・・・・﹂ 唇を震わせ、弱々しい手つきで俺の頭を押さえる。 ﹁やめる?・・・・・・ご冗談を。これからがいいところなのに﹂ 苦笑し、すっかりボタンがはずされたブラウスの前を開く。そこ には深い緑色のブラジャーに包まれた柔らかな二つのふくらみ。 ブラの上からそのふくらみをやんわりと手で包む。 ﹁あんっ﹂ みさ子さんは身じろぎをして、甘い声を出す。 ﹁ちょっと触っただけでも感じているくせに。今、やめてしまって いいんですか?﹂ くすくすと意地悪く笑い、手の平に少し力を入れて乳房を揉みし だく。けして大きいとはいえないが、スレンダーな割りには十分す ぎるふくらみだ。俺の手にちょうど収まるサイズ。 ヤワヤワと揉みあげながら、ブラがずれて見えてきた乳首の一つ を口に含む。 ﹁ひゃ・・・・・・ん!﹂ 129 ソファーの上でみさ子さんの体が大きく体が跳ねる。 ﹁ほら、気持ちいいでしょ?ドンドン硬くなっていますよ、ココ﹂ 転がすように舌で舐め、立ち上がってきた彼女の乳首の感触を味 わう。舌先を尖らせ乳首をつつき、時には歯を立てる。 みさ子さんの綺麗な眉が寄る。 もう制止の声は上がらない。 俺は片方の胸に手を這わせ、頂上でツンと存在を主張している乳 首をつまんだ。 ﹁ああっ・・・・・・﹂ 押し殺したような彼女のあえぎ声。 防音工事のなされていないこの部屋ではやたらに大きな声を上げ ることは出来ない。扉の鍵は閉めてあるから中を覗かれる心配はな いが、通りすがった社員に聞かれることはあるかもしれない。 みさ子さんは自分の掌を口に押し当て、沸きあがる快感をこらえ ている。 そういう姿を見ると、かえって啼かせてみたくなるのはなぜだろ う。 ﹁じゃぁ、これはどうかなぁ﹂ 俺は両方の人差し指と親指でそれぞれの乳首をキュッとつまんだ。 ﹁・・・・・・!﹂ ぎゅっと目を閉じ、俺の攻撃に耐える。 ﹁へぇ、まだ頑張れそうだね。なら、これは?﹂ クニッ、クニッと強くひねりながら、つまみ上げる。 ﹁く、ううっ﹂ かみ締めていた唇の合間から低いうめき声が少しだけ漏れた。 ﹁みさ子さんたら、こんなところでも辛抱強いんだねぇ﹂ コリコリと硬い乳首を指先でつぶすようにこねくり回す。刺激を 与えられた乳首は大きく立ち、それゆえに敏感となりさらに大きく 硬くなる。 ﹁ん、んんっ﹂ 130 みさ子さんが小刻みに首を振り刺激をやり過ごそうとするけど、 おとなしく見ている俺じゃないんだよねぇ。 乳首の先端にグッと爪を立てた。胸の中でもっとも敏感なソコは、 突然の強い刺激になす術がない。 ﹁はぁんっ!﹂ 堪え切れず、みさ子さんが喘いだ。 ﹁ココ?ココが気持ちいいの?﹂ 俺は執拗に攻め立てる。指の腹でグニグニとすり上げたり、口に 入れて強く吸ったり。 しつこく集中的にいじられて、ほんのり桜色だった乳首はすっか り紅色に。 “ピチュッ”っとわざと音を立てて乳首を吸うと、みさ子さんの頬 がいっそう赤く染まる。どうやら彼女は淫音が相当恥ずかしいらし い。声を漏らさないように唇をかみ締め、手で耳をふさいでいる。 その様がかわいくて、さらにいじめたくなる。 ︱︱︱言葉攻めしたら、どうなんだろう。 ワクワクと逸る気持ちを隠しもせず、俺は彼女の下半身に手を移 動させる。 今日のみさ子さんはどんな心境の変化によるものかは分からない けど、いつものパンツスーツではなくタイトスカートだった。 彼女にとっては運悪く、俺にとっては運のいい服装。迷わずスカ ート中に手を滑らせる。 ︱︱︱ん? なんと、さらに都合がいいことにみさ子さんはパンストではなく ガーターベルトをはいていたのだ。 下着の股の部分に簡単に指が届く。軽く押し当てると、ソコはす でに湿っていた。 ﹁あれ?もう濡れてるよ﹂ 口を耳元に寄せてささやくと、押さえていた耳が赤くなる。 ﹁“ヤダ”とか“やめて”って言ってたのに、感じてたんだね﹂ 131 割れ目に沿って指の腹を動かす。下着をめり込ませるように指を 前後させると、ぬめりがジワジワと溢れてくる。 ﹁ダメ・・・・・・﹂ 耳をふさいで必死に耐えているみさ子さんの片手を無理やりはが し、俺は耳にキスをするように言う。 ﹁ダメじゃないでしょ、こんなにグショグショなのに﹂ 下着の太ももの付け根から中指をスルリと差し込み、膣口に触れ る。 ﹁ほら。大洪水だよ、ココ﹂ ヌルヌルと温かい愛液が俺の指を濡らしてゆく。 俺は指を差し込んだ。ヌプヌプと飲み込まれてゆく俺の中指。根 元まですっかり差し込むと、ゆっくりと注挿を始める。 俺の指を温かく包み込む膣壁をこするようにいじると、さらに奥 から愛液が溢れる。 ﹁すごいね。みさ子さんの中からドンドン出てくるよ﹂ ふぅっと息を吹きかけながらささやくと、首筋までもが朱に染ま る。 俺は指を一本増やし、二本の指でナカをまさぐる。滴るほどの愛 液によって、指を動かすたびにグチュグチュと卑猥な音が室内に響 く。 ﹁ね、聞こえる?・・・・・・聞こえてるよね、仕事にまじめでお 堅いあなたが乳首を舐められて、アソコをいじられて感じてる音が。 ふふっ。こんなにいやらしい音をさせちゃって、恥ずかしいね﹂ ﹁あうぅっ﹂ 耳からは俺の淫猥なささやきと淫らな水音、そして秘部をいじく る刺激に襲われ、みさ子さんは体を小刻みに震わせている。 ﹁こんなに音をさせてたら、廊下にいる人にも聞こえちゃうかもよ ?﹂ 俺は激しく指を突きたて、膣内をかき回す。ジュブジュブと泡立 つような音が、大きく聞こえてくる。 132 ﹁はぁ・・・・・んん。や、やめ・・・・・・て、お願い・・・・・ ・﹂ 潤む瞳で俺に訴えかけてくる。目の縁を桃色に染め、唇を震わせ る彼女の表情はなまめかしすぎてクラクラする。 ﹁こんなに俺の指を締め付けてるくせに、やめてって言うんだ。コ コはこんなにもいやらしく喜んでるのにね﹂ クスクスと笑いが止まらない。 ﹁もう、正直に言ったら?気持ちいいって。俺にいじられて感じま くってますって﹂ ズブズブと容赦なく挿入を繰り返し、さらに言葉で攻める。 ﹁真昼間の会社で後輩の俺に襲われてよがっているなんて、みんな に知られたらどうなるのかなぁ。もしかしたら、今頃扉の向こうで 聞き耳を立てている人がいるかもよ?﹂ ︱︱︱ま、そんなことはありえないんだけどね。 わざとらしくそう言って、俺は器用に片手で彼女の下着を一気に 取り去る。俺は指を抜いて上半身を起こし、スラックスのベルトに 手をかける。 ﹁・・・・・・みんなに聞かせちゃう?﹂ 今日一番の意地悪な微笑を浮かべてみさ子さんを見下ろす。 ﹁え?な、何を・・・・・・?!﹂ 戸惑う彼女をよそにベルトをはずす。 ﹁だからぁ﹂ 俺はスラックスとトランクをすばやくずり下げ、彼女の両足を担 ぎ上げるとに熱く固い欲望を彼女のナカへと一気に突き立てた。指 でほぐしておいたナカはすんなりと俺を迎え入れ、すべるように最 奥まで到達する。 ズンッ、と突き上げる衝撃にみさ子さんが啼いた。 ﹁ああっん!!﹂ ﹁いい声・・・・・・。もっと、聞かせて。みさ子さんの感じてる 声、もっと聞きたい﹂ 133 ペニスが抜けるギリギリまで腰を引き、そこから思い切りぶち込 んだ。 グチュンッ・・・・・・。 みさ子さんのアソコからは湿った淫音。 ﹁んああっ・・・・・・!﹂ みさ子さんは眉をしかめ、衝撃を受け止める。 ﹁もっと・・・・・・。もっとだよ﹂ 俺は揺さぶるように彼女のナカに押し入る。猛る自分の欲望を、 溢れる彼女への気持ちを激しくぶつける。 ﹁はぁっ、ああ・・・・・・・、んっ・・・・・・﹂ 俺にのしかかられて二つ折りになったみさ子さんが苦しそうに喘 ぐ。 狭いソファーの上では逃げ場がなく、分散されない刺激がダイレ クトにみさ子さんの秘部を襲っている。 ﹁うぅ・・・・・・、あ、ああんっ!﹂ ジュブッ、グチュッ、ジュクッ・・・・・・。 突き立てられ、こすられ、揺さぶられては突き上げられ、水音と ともに響く彼女の甘く切ない喘ぎ。 ﹁くっ・・・・・あんっ、ん、んんっ・・・・・・はぁん﹂ みさ子さんの様子に余裕がなくなってきた。そろそろ絶頂が近い のだろう。俺のペニスを締め付ける膣壁の力がさっきよりも増して いる。 ﹁い、いいよ・・・・・。みさ子さん・・・・・・イッて・・・・・ ・﹂ 彼女の両足を担ぎなおし、追いつめる。 みさ子さんが一番切なく啼くポイントをガチガチに固くなったペ ニスの先端で突きまくった。 絶え間なく攻められ、みさ子さんの脚に力が入ってゆく。 ﹁あっ、い、いやっ・・・・・・。もう、だ・・・・・・めぇっ! !﹂ 134 たまらず俺の首に腕を回し、大きすぎる快楽の波に流されないよ うに必死にしがみつき、俺の耳元で、小さく何度も﹃ダメッ﹄と繰 り返している。 ﹁ダメじゃ・・・・・・ないよ。さぁ、イッて・・・・・・﹂ ズプッ、ズプッと挿入しながら、俺はコリッと固くなったクリト リスを指でつまんだ。 ﹁ひゃっ﹂ 悲鳴にも近い甲高い喘ぎ声が彼女の口から漏れ、ペニスを包み込 んでいる膣壁がキュゥゥッと締まっていく。 俺は大きく腰をグラインドさせ、最後の追い込みを仕掛ける。ク リトリスをグッと指の腹で押しつぶしながら、貪欲にペニスを飲み 込もうとする彼女のナカに激しく打ち込む。 ジュプッ、ジュプッ・・・・・・。 二人がつながる部分から愛液がとめどなく溢れ、俺とみさ子さん を汚してゆく。 ﹁い、いやぁぁぁっ!!﹂ 俺に回された彼女の腕が強くしまり、喉を引き裂くような叫び声 が俺の下から聞こえる。息を詰め、全身を硬直させたみさ子さんが ガクン、とのけぞった。 俺は彼女がイッた喜びをかみしめながら、腰を押し付ける。 ﹁み・・・・・・さこさん。好きだ・・・・・・よ﹂ 自分の想いと欲望を、彼女のナカで熱く吐き出した。 135 ◆◇◆ ﹁どわぁぁぁぁっ!!﹂ けたたましい叫び声とともに、俺は飛び起きた。 心臓は今にも口から出てきそうなほど激しく脈打ち、全身が意味 不明な汗でじっとりとしている。 はぁ、はぁ、と息を切らして辺りを見回すと見慣れた自分の部屋。 ﹁な、な、な、なんて夢を見てしまったんだぁぁぁ﹂ ベッドの上で頭を抱え込む俺。 昨日自分の恋心を自覚したばかりだと言うのに、あまりになまめ かしい夢。 いや、まぁ、いつかはみさ子さんの身も心も手に入れるつもりだ けど、昨日の今日でこの夢はないだろう。 しかも明るい昼間のうちからみさ子さんに襲い掛かるなんて。お まけに舞台は会社。とんだシチュエーションだ。 ﹁俺、どんだけ欲求不満なんだよぉ﹂ ふぅ、と大きなため息。 ︱︱︱今日と明日が休みでよかったぁ。 こんな夢を見たばかりじゃ、みさ子さんにどんな顔で接したらい いのか分からない。 ﹁早く一人前になって告白しよう。そうしなきゃ、身が持たねぇ・・ ・・・・﹂ 土曜の早朝、誓いを新たにする俺だった。 136 24︼女帝と昼下がりの情事︵後書き︶ ●新年明けましたね。お年玉と言うにはお粗末過ぎるとは思います が、久々の絡みシーンをお届けです。 実はこのお話はまったくの予定外でした。北川君の想いが叶うまで 絡みのシーンは入れるつもりはなかったのですが、それはかなり先 のことになりそうでして・・・。 このままただの恋愛小説として進めてしまってはわざわざR18に している意味もないかなっと。強引な展開かもしれませんが入れて みました。楽しんでいただけたでしょうか? ちょっとした読者サービスということなので、絡みは軽めにしてい ます。ええ、そうですとも。みやこにとってはこの程度はお遊びで す︵苦笑︶ そうじゃないと北川君とみさ子さんが結ばれることになった時のお 楽しみがなくなってしまうかと思いましてね。 本当はもっと、もっとガッツリ書きたかったんですけど、今回はあ くまでもオマケですので泣く泣くあきらめることに︵つД`;︶ このお話で北川君がちょっとS気味ですが・・・。あくまでも彼の 夢の中での出来事と言うことで、あまり気にしないでください。 でも、書いてて楽しかったなぁ♪ ●いつもはルーズリーフに下書きをしてからパソコンに打ち込むの ですが、今回は下書きなくパソコンに向き合ってダダダッと30分 ほどで書き上げました。自分としても信じられないスピードです。 ・・・ん?みやこは官能シーンのほうが筆が進むのか?︵笑︶ 否定は出来ないかも︵滝汗︶ ●さて、今後は北川君の片想いの時期が始まります。そしてみさ子 137 さんの過去も登場します。 なんだか恋愛人生小説みたいな展開になりそうですが、どうぞ最後 までお付き合いくださいませ。 138 25︼恋する男のバレンタイン事情︵1︶ ドタバタしながらも、2月14日を迎えた。 バレンタイン当日になってしまえば業務は落ち着く。 今日は水曜日で、みんな急ぎの仕事を抱えている様子もないし、 いつもならのんびりとした空気が流れているはずなんだけど⋮⋮。 営業部内のみんながどことなくソワソワしている。 正しくは営業部だけではなく会社全体が、みんながではなく男性 社員がである。 ﹁今日、いくつチョコもらえるんだろう﹂ 岸が不安そうでありながらも期待に満ちた呟きをもらす。 隣に座るこの男はいつもよりおしゃれなネクタイを締め、いつも より少しヘアスタイルをいじっていて、女子社員からのチョコに期 待しているのが丸分かり。 この会社では経費を使っての義理チョコ配布はないようだ。なの で、男性社員が必ずしもチョコを手に出来るとは限らない。 ﹁いいよなぁ、北川は﹂ 恨めしい目つきでこっちを見る。 俺の足下に置かれた紙袋には、綺麗な包装紙で包まれ、あでやか なリボンが結ばれた包みがいくつも入っている。出社して早々、女 子社員たちから個人的に渡されたチョコだ。 ﹁でも、小さくないか?言っちゃ悪いけど、あんまり気合が感じら れないし﹂ 袋を覗いた岸が言う。 ﹁ああ、それ全部義理。本命チョコは断った﹂ 139 ﹁なんでだよ?どうして断ったんだよ?﹂ 岸が顔に大きく“もったいない”と書いて尋ねてくるので、 ﹁ん?好きな人が出来たから﹂ と何気ない振りを気取って、さらりと言う。岸にギリギリ聞こえ るかどうかの小声で。 ﹁は?今、なんて言った?﹂ うまく聞き取れなかったらしく、聞き返される。 ﹁だから・・・・・・。好きな人が出来たんだよっ﹂ さっきよりもほんの少しだけ大きい声。 改めて言うのはものすごく照れるので、パソコンの画面を見なが ら打ち込む手を止めずに言った。 俺と岸の間にキーボードをたたく音だけが響く。 カチャ、カチャ。 カチャ・・・・・・。カチャ・・・・・・。 カチャ・・・・・・。 ﹁ええーーーっっっ?!﹂ 岸は勢いよく立ち上がり、絶叫した。 あまりの大声に営業部の社員達がいっせいに注目する。 ﹁ば、ばかっ。うるせーよ!﹂ 棒立ちとなっている奴の腕をつかんで、強引に座らせた。岸は目 を開いて口をパクパクと動かしている。 ﹁俺が人を好きになったらおかしいのかよ?﹂ 手をキーボードに戻し、呆然としている隣の男をにらむ。 ﹁ご、ご、ごめん。おかしくなんかないさ。ただ、驚いただけだよ。 だってお前、そんな話これまでに全然したことなかったし﹂ 岸が俺以上に動揺している。 140 確かにこいつとはいろいろと話はしているが、俺の恋愛に関して は一切口にしたことがなかった。﹃あの子良いよな﹄とか、﹃あの 先輩色っぽい﹄とかいう類の軽いノリの話すらした事がない。 だって、そう思うことがこれまでになかったから。色恋沙汰に時 間を使うよりも、仕事に打ち込むほうが俺にとって優先だったし。 ﹁まぁ、俺自身も最近自覚したばっかりだからなぁ﹂ ふぅ、と息をついて手を止めた。 これまで付き合ってきた女とまるでタイプの違う彼女だから、恋 に落ちていたことに気付きもしなかった。今考えれば、胸の鼓動も、 視線の先も、すべてみさ子さんが好きだったからだと分かる。 ﹁で?誰なんだよ。北川のハートを射止めたラッキーな女性は?﹂ ニヤニヤと顔を緩ませている岸が楽しそうに訊いてくるのを、そ っけなく返してやった。 ﹁教えねぇ﹂ 俺の恋はまだ始まったばかりなんだ。 やたらな噂が流れてあの人の耳に入ることだけは避けたい。気持 ちを伝えるなら、自分の口から彼女を前にして言いたい。 ﹁でもさぁ、チョコくらいもらってもいいんじゃないか?受け取っ たからって、“即付き合う”ってもんじゃないしよ﹂ ﹃本命だ﹄と言って渡してくる人の中には、俺と付き合うことは 望まずチョコを渡すだけで満足する人もいるし。 だけど、たとえそうであっても“チョコを受け取った”というこ とは、“その女性の気持ちも受け取った”ということになると思う。 自分の気持ちに気がついてしまった今、軽々しく本命チョコを受 け取るわけにはいかない。 ﹁本気で好きなんだよ。その人以外から本命チョコを受け取ったら、 その人と俺の気持ちを裏切ることになる。だから、本命チョコは断 ってる。分かったか?﹂ できれば義理チョコだって気が引けるから、断りたかったんだ。 でも、一応付き合いってものがあるし。 141 今日受け取ったものは全部、イベント好きの女性たちからもらっ たお友達チョコ。お返しは期待してないらしい。そんなチョコなら もらっても罪はないだろうから。 岸はしきりに“もったいない”と繰り返す。 俺はそんな奴に向かって ﹁本気なんだ﹂ 小声ながらもはっきりと宣言し、視線を岸からパソコンに戻すと 作業を再開した。 自分で言ったとおり、﹃本命だ﹄と言って渡されるチョコはすべ てお断りしているんだけど、これが結構骨が折れる。せっかく俺の ために用意してくれたのはありがたいし、断るのは申し訳ないけど、 あの人に軽い男だと思われたくない。 それに、俺が欲しいのはあの人だけ。あの人以外の女性が俺に向 ける気持ちには応えられない。 女性に囲まれるのが常で、その扱いには慣れていると自負する俺 がまるで中学生の初恋のようにこの想いを大切にしたいと考えてい る。 なんて真剣で純情なんだと、我ながら驚きだ。 苦笑をもらしつつ、パソコンを閉じた。 ﹁一区切りついたし、昼飯でも食べるか。どこにする?﹂ ﹁いつもの定食屋でいいんじゃね?﹂ データ保存を終えた岸が座ったまま背伸びをし、 ﹁あ∼あ、もう半日過ぎたってのに、まだ義理チョコの一つももら ってないぜ・・・・・・﹂ とため息混じりにぼやいた。 ﹁そんなに気落ちすんなよ。仕事が終わるまでまだ時間あるし。そ 142 れに、駅で女子高生に“いつも見てました”とか言われて渡される かもよ?﹂ ﹁そっかぁ!そうだよな、今日はまだまだ終わらねぇよな﹂ ぱっと顔輝かせて岸が立ち上がる。 ︱︱︱単純な男だ。 心の中でくすっと笑いながらも、実は俺も期待していたりする。 佐々木さんからのチョコを。 本命はまずありえないから、せめて義理チョコくらいは欲しい。 でも、あの人がチョコなんて配るだろうか? 今朝、出勤時に見かけた佐々木さんはいつもどおりのバッグだけ を手にしていて、チョコが入っていそうな袋は提げていなかった。 ︱︱︱期待するだけ無駄か。 なぁんて言ってみても、やっぱり期待してしまう自分がいる。 女性と同じくらい、いや、もしかしたらそれ以上に男性はバレン タインのチョコを気にしていたりするのだ。 143 26︼恋する男のバレンタイン事情︵2︶ 行きつけの定食屋のおばちゃんからもチョコをもらった。 別に俺だけじゃなくて、来店した男性客すべてに配っていただけ。 ﹁よかったな。念願のチョコをもらえて﹂ 隣を歩く岸に話しかける。 奴はうなだれていて、まさに﹃とぼとぼ﹄という表現が似合う。 ﹁確かにこれもチョコだけどさぁ。俺が欲しいのはたとえ義理でも かわいらしくラッピングされたものなんだよ。こんなチョコなんて、 誰にも自慢できねぇよ・・・・・・﹂ 岸の掌の上には透明なフィルムに包まれた四角い一口サイズのチ ョコが乗っている。 ﹁自分の彼女でもこういうのを渡してきたら、俺はショックで寝込 むね﹂ 無造作に包みを解き、チョコを口の中へと放り込む岸。 ﹁そうかぁ?彼女からのプレゼントなら、なんだって嬉しいけどな ぁ﹂ 佐々木さんからもらえるのであれば、駄菓子屋で売ってるような 十円チョコだって大喜びだ。チョコに費やした金額ではなく、﹃俺 にチョコをくれる﹄という行為が大事だから。 ﹁ふぅん。北川ってお安い男だなぁ﹂ ﹁お前がこだわりすぎんだよ﹂ そういって俺もチョコを口にした。 終業後、いかにも﹃本命です!﹄って包みを手にした女子社員数 144 人から呼び出されたけど、断固として受け取らず。 中には半ば泣き落としのように強引に押し付けてくる人もいて、 本当に困った。 特に森尾さん・・・・・・。 ﹁どうして受け取ってくれないの?私、こんなにも北川君のことが 好きなのに!﹂ 瞳を潤ませ、唇をきゅっとかみ締めている彼女。 ﹁いつでも北川君のことを考えているのに・・・・・・﹂ 下からじっと見上げてくる。 ︱︱︱俺のことを考えてくれるなら、こんなクソ寒い屋上に呼び出 すなよ! 日が落ちてからの北風は半端じゃねぇんだ!! 森尾さん自身も寒さに耐え切れず、手に息を吐きかけている。そ して、ちらりと俺を見る。 ︱︱︱もしかして、“俺の上着を貸してやるよ”なんて台詞を待っ ているのか?! いや、もしかしてじゃないな。 彼女は自分からこの屋上に呼び出しておきながら、マフラーや手 袋どころかコートすら身に付けていない。 ︱︱︱計算か。 少し前の俺ならたとえそれが計算だと分かっていても、女性には 優しく接していた。 だけど今はあの人にしか優しくしたいと思わない。 ﹁森尾さんの気持ちは嬉しいけど、俺はそれに応えられない。ここ は寒いから早く帰ったほうが良いよ﹂ そう言って彼女に背を向けて立ち去ろうと歩き出したら、いきな り後ろから抱きつかれた。俺の体の前に回された華奢な腕にクッと 力が入る。 ﹁私のどこがダメなの?どうしたら北川君は私のことを好きになっ てくれるの?﹂ 森尾さんはさらに体を押し付けてくる。 145 “どこが”じゃない。 “どうしたら”じゃない。 森尾さんは佐々木さんじゃないから、いくら変えたところでどう にもならないんだ。 その証拠に、森尾さんにしっかり抱きつかれていてもぜんぜんド キドキしない。 佐々木さんがほんのわずかに触れてくるだけで、俺の心臓は跳ね 上がるというのに。 ﹁ごめんね。森尾さんのことは嫌いじゃないけど、友達にしか思え ない﹂ 俺が回された腕を解くと、彼女の腕がだらりと力なく落ちる。 ﹁他の人を好きになったほうが、きっと幸せになれるよ﹂ 森尾さんの顔を見ないでそのまま歩き出し、後ろ手で扉を閉めた。 そして空き地へ行くために、急いで階段を駆け降りる。 だから森尾さんが﹃絶対にあきらめないんだからっ!﹄と、叫ん だ声が聞こえなかった。 営業部に戻って荷物やコートを引っつかんで空き地へダッシュ。 ︱︱︱もう来てるかな? ついさっきまで屋上で冷たい風にさらされていたというのに、佐 々木さんのことを考えるだけで体の奥がホワンと温かくなる。 裏口を抜けた先の空き地には、案の定彼女の姿があった。 146 ﹁お疲れ様です!﹂ 俺は会釈をしながら小走りで近づく。 ﹁お疲れ様﹂ 餌やりの手を止め、俺を見る。そんな彼女の手元を見て、﹃おや ?﹄と思う。 ﹁今日の餌、いつもより豪華ですね﹂ 質・量ともにグレードアップしている。 ﹁オス猫たちにバレンタインのプレゼント﹂ さりげなく告げられた内容に、嫉妬の炎がめらめらと上がる。 ︱︱︱猫の分際で、なまいきなっ!! 餌を食べている猫たちを見る俺の目つきが険しくなる。 ﹁どうかした?﹂ 佐々木さんが首をかしげる。 ﹁い、いえ、別に・・・・・・﹂ あわてて表情を元に戻す。 ﹁あっ、そういえば、佐々木さんはどなたかにチョコを上げたんで すか?﹂ ﹁ええ。父と兄に﹂ ︱︱︱え?それだけ? ﹁会社の人には誰も渡さなかったんですか?えと、その・・・・・・ 、義理チョコとか﹂ 正直なところ﹃本命チョコは?﹄と言いたかったけど、怖くて聞 けない。 ﹁家族以外にあげる人なんていないもの。どうしてそんなことを訊 くの?﹂ 少しだけ彼女の眉が寄る。 ﹁北川さん、もしかして・・・・・・﹂ 佐々木さんがじっと俺を見る。 ︱︱︱えっ?えっ!?俺の気持ち、バレた!? 心臓がドクンと大きく跳ねる。 147 何も言えず、俺もじっと佐々木さんを見つめる。 ドキン、ドキン。 ︱︱︱バレてる?バレてるのか?!だったら今、思い切って告白し たほうがいいのか!?でも、でも!! 背中に冷や汗が伝ってゆく。 ごくりと固唾を飲んで、彼女の次のセリフを待つ。 ところが・・・・・・。 ﹁女子社員みんなからもらおうとしてるの?記録に挑戦?﹂ まじめな顔で的外れなことを言うものだから、俺は内心派手にず っこけた。 ︱︱︱ほ、本気で言ってるんだろうか? たいていの女性なら、この場面に遭遇した場合﹃この人、私に気 があるのかしら?﹄なんて思うはずなのに。 ﹁ごめんなさいね。私、家族以外の人にはいつもあげてないの﹂ 佐々木さんはどうやら本気で言っているようだ。 ﹁い、いえ。全員からもらおうとは思ってませんし、記録にも挑戦 してませんから﹂ すごく真剣に謝る彼女を見て、俺は苦笑するしかない。 いつもは驚くほど気が回るのに、恋愛に関しては少々鈍いのだろ うか。 ︱︱︱こりゃぁ、かなりの長期戦になりそうだぞ。 でも、あきらめるつもりは毛頭ない。 時間がかかろうが、苦労しようが、最終的に彼女が手に入ればい いんだから。 148 149 27︼恋する男のバレンタイン事情︵3︶ 二人並んで猫たちの様子を見守っていた。 日はとっくに落ちて、ぼんやりとした外灯の明かりだけが俺たち と空き地を照らしている。 ぐっと冷え込んできたけれど、もう少し佐々木さんと一緒にいた い。彼女が﹃帰る﹄と言い出さないように、悪いとは思いつつも俺 はとめどなく話しかけていた。 ﹁俺もそうですけど、佐々木さんもかなりの猫好きですよね。今、 飼ってるんですか?﹂ ﹁実家でね。私が住むマンションはペット可なんだけど、仕事で家 にいない時間が長いから世話できないし﹂ ﹁あー、分かります。自分の留守に一人で置いとくのってかわいそ うですもんねぇ﹂ 飼い主のいない隙にいたずらするんじゃないかって心配もあるけ ど、急に体調を崩したり、怪我をしたりするんじゃないかって事の ほうが気がかりだ。 うん、うんとうなずくと、佐々木さんがぷっと吹き出す。 ﹁あなたって、私以上に猫が好きなのね﹂ ﹁へ?﹂ ﹁ペットのことを人間に置き換えて“一人”って言うんだもの。相 当なものよ﹂ ﹁そ、そうでしょうか?﹂ ﹁猫に向かって“今日は顔色悪いよ”とか言ったことあるでしょ?﹂ ︱︱︱なぜ分かる?! そうなのだ。 この前実家に行った時、一番年長の猫が風邪を引いているのを見 て﹃青い顔してかわいそうに﹄と言ったのだ。 実際、猫の顔色なんて分かるはずもないんだけど、そういったこ 150 とがつい口をつく。 ﹁変ですよね﹂ 頭をかくと、 ﹁それだけ猫が好きってことでしょ﹂ 口元をやわらかく緩める彼女。 そこに“クシュン”と小さなくしゃみ。 なんだかんだと30分以上立ち話をしていたから、すっかり体が 冷えてしまったみたいだ。 ﹁あっ、すいません!こんな所で話し込んでしまって!﹂ ﹁そろそろ帰ったほうがいいわね﹂ 肩をすくめる佐々木さんの首もとにはマフラーがなく、すごく寒 そうに見えた。俺はこれまで自分の首に巻いていたマフラーを急い ではずして差し出す。 ﹁あの、これっ﹂ 森尾さんには何一つ貸してあげる気はなかったけど、佐々木さん ものためならマフラーどころかコートだって貸してあげてもいい。 突然差し出されたマフラーに彼女は驚く。 ﹁大丈夫よ﹂ そういって辞退するのにもかまわず、俺は彼女の首に巻きつけた。 ﹁俺の使い古しで、おまけに申し訳ないくらい安物ですけど、ない よりはマシなはずですからっ﹂ いらない、と言われる前に急いで立ち去ろうと一息に言う。 ﹁それじゃ、失礼しますっ﹂ くるりと背を向けて駆け出した。 ﹁ちょ、ちょっと待って!﹂ 佐々木さんが呼び止める。 ︱︱︱迷惑だったか? ビクビクしながら振り返ると、カバンの中をごそごそとあさって 151 いる彼女。 ﹁確かこの辺に・・・・・・。あ、あった﹂ 早足で近づいてきて、俺に向けて手を伸ばす。 ﹁これ、あげるわ﹂ 何だろう、と手を差し出すと、載せられたのは一枚の板チョコ。 俺が子供の頃から販売されている定番の商品だ。 ﹁マフラーのお礼。昨日買ったんだけど、食べはぐっちゃって﹂ 俺は何も言わず、手の平の上のチョコをただじっと見る。 黙ってしまった俺に佐々木さんはなにやら勘違いしたらしく、あ わてて言い訳めいたことを口にする。 ﹁そのっ、バレンタインだからチョコを渡したわけじゃないのよ? !だからホワイトデーとか気にしないでいいんだから。ね?﹂ またしても彼女は的外れなことを言う。 俺が何も言えなかったのは感動しているからだというのに。 お父さんとお兄さん以外の男性にはチョコをあげていないと言っ た佐々木さん。その彼女から︱︱︱これは単なるお礼で、バレンタ インには関係ないとしても︱︱︱家族以外の男でチョコをもらった のは俺だけなんだ。 そのことが嬉しくて胸がいっぱいになって、言葉にならない。 100円あれば買えてしまうチョコだけど、俺にとっては何にも 変えられない価値がある。 ︱︱︱佐々木さんから、チョコもらっちゃった。 ジワジワと嬉しさがこみ上げてくる。 そっと握り締めようとした時、佐々木さんの手が伸びてきて箱の 隅を摘んだ。 ﹁いらない?﹂ ﹁えっ?!い、いります!食べます!﹂ とられまいとして、急いで胸に抱きこんだ。 大きな声を出した俺に佐々木さんは目をぱちくり。 ﹁・・・・・・そんなにそのチョコが好きなの?﹂ 152 ︱︱︱あなたがくれたチョコだからです。 とは言えず。 ﹁少し疲れているので、甘いものが欲しかったところなんですよ﹂ そうごまかした。 佐々木さんはマフラーをはずすことなく、そのままでいてくれる。 ﹁せっかくだから遠慮なく借りるわね﹂ ﹁押し付ける形で反って申し訳ないです。でも、女の人は体を冷や したらいけないって聞いたことがあるので。・・・・・・って、こ んな所で引き止めてしまった僕が言えることじゃないですけど﹂ 頭をかいた俺を見て、佐々木さんが静かに笑う。 ﹁北川さん、優しいのね﹂ しなやかな指先でマフラーに触れながら、彼女が言った。が、次 の瞬間、瞳に影が浮かぶ。 ﹁でも、女性にだれかれかまわず優しくするのはよくないわ。“自 分に気があるのかも?”って誤解すると思うの。私はそんな勘違い をしないけど﹂ 少しとがめるような視線で俺を見る。 俺はあなた以外の女性に優しくしません。 あなただけに優しくしたいんです。 あなただから優しくするんです。 勘違いじゃなくて、俺の想いを受け止めて欲しい。 153 ︱︱︱やっぱり、今告白してしまったほうがいいのか?そうすれば “後輩”じゃなく、“一人の男”として見てくれるだろうか? ・・・・・・いや、ダメだろうな。 ここで告白したところで、佐々木さんはきっと冗談として受け取 るだろう。 ︱︱︱もっともっと俺のことを意識してもらわないと。さっき自分 で長期戦を覚悟したじゃないか。あせるな。 自分に言い聞かせて心を落ちつかせる。そして、にっこりと微笑 んだ。 ﹁わかりました。やたらに優しさを振りまかないようにします﹂ ︱︱︱これからはあなただけに優しくします。 付け足したセリフは彼女に聞こえないように、小さく、小さくさ さやいた。 154 28︼恋する男のバレンタイン事情︵4︶ 空き地の奥から小道を抜けて大通りへ。 俺の左側を歩く佐々木さんは女性にしてはそこそこ身長があり、 今日はいつもより少し高めのヒールを履いているので、普段よりも 近くに彼女の顔がある。 それをいいことに、俺はちらちらと横顔を盗み見ていた。 ︱︱︱ほっぺがつるつるだなぁ。また、触ってみたいなぁ。 見とれていたら足元の段差に気が付かず、バランスを崩してしま った。 ﹁うわぁっ!!﹂ ﹁大丈夫っ?!﹂ 佐々木さんがとっさに俺の腕をつかむ。 俺は大きく一歩踏み出し、どうにか踏ん張った。 ﹁もう、びっくりさせないでよ﹂ 俺の体勢が整ったのを見計らって、佐々木さんは手を離した。 ﹁す、すみません﹂ 彼女に触れらたところが熱を帯び、耳に煩いほど胸の鼓動が鳴り 響く。 ︱︱︱森尾さんに抱きしめられても、ぜんぜんドキドキしなかった のになぁ。 体と心は正直だ。 ﹁あっ、そうだ。P−M05の件ではお世話になりまして。本当に 助かりました。ありがとうございます﹂ 呼吸を整えて、言い忘れていたお礼を述べる。 ●○デパートには心底感謝され、ホワイトデー用の女性向け万年 筆P−W03の注文がなんと100本も入ったのだ。なんともあり 155 がたい展開。社長賞ものだ。 ﹁別に、たいしたことはしてないわ。仕事をしただけ、と前にも言 ったでしょ﹂ ﹁確かにそうなんですけど、佐々木さんのおかげで追加分が間に合 ったわけですし﹂ 俺は大きく息を吸った。 ﹁なので、お礼に食事をおごりますよ﹂ にっこりと笑う。 だけど心の中では超緊張。 ︱︱︱言っちまったぁーーー。 理由もなしに食事に誘っても、彼女はけして﹃うん﹄とは言わな いだろう。こじ付けとは思うが、誘う理由に不自然さはないはずだ。 ところが佐々木さんはとたんに眉をひそめる。 ﹁どうして北川さんがおごってくれるの?﹂ ﹁え?﹂ てっきりOKしてもらえるものだと思っていた俺は、ぽかんと彼 女を見る。 ﹁●○デパート、もしくは営業部や会社からなら分かるけど、北川 さんが個人的にお礼をするというのはおかしいわ﹂ ︱︱︱うう。なんて冷静な人なんだ。 ﹁そ、そうでしょうか?もしかしたら、そのうち社のほうから佐々 木さんに何か報奨が出るかもしれませんが、僕からもお礼をしたい 気分ですし・・・・・・﹂ ︱︱︱気分って何だよ?! 気転の利かない自分の言葉に突っ込みつつ、しどろもどろになり ながら必死で彼女をつなぎとめようとする俺。 それを見て、佐々木さんはこれまでになく盛大に吹き出した。 ﹁あははっ。ど、どうしたのよ、北川さん?﹂ 口元を手で押さえ、こみ上げてくる笑いを懸命に堪えながら彼女 が言う。 156 ﹁どうしたのよって・・・・・・?佐々木さんこそ、何で笑ってる んですか?﹂ ﹁ああ、ごめんなさいね。ふふっ﹂ はぁ、と大きく息をついて、ようやく彼女の笑いが止まった。 ﹁北川さんって見るからに大人の良い男でしょ。それなのにちょっ とした言動が不意に子供っぽくなるのよね。そのギャップがおかし くって。まるで“男の子”って感じなんだもの﹂ 今まで見てきた中で一番楽しげに笑った佐々木さん。 嬉しいはずなのに、その喜びの何倍も落ち込む。 ︱︱︱よりによって﹃男の子﹄かぁ。 言外に“恋愛対象じゃない”と告げられたみたいで、ショックだ った。 思わず俺の足が止まる。 ﹁北川さん?﹂ 数歩先に進んだ佐々木さんは隣に俺がいないことに気が付いて振 り返った。 ﹁何かあった?もしかして、さっき足をくじいたの?﹂ 戻ってきた彼女は心配そうに俺の顔と足元を見ている。そのまな ざしは姉が弟に向けるものに似ていてつらい。 ﹁・・・・・・いえ、なんでもないです﹂ 自分の気持ちを押し込め、無理やり笑顔を作る。 ﹁これだけ寒いと、星が綺麗に見えますね﹂ 157 俺はジワリと滲んだ涙を悟られないように顔を上げた。頭上には いくつもの星たちが瞬いている。 突然こんなことを言い出した俺に佐々木さんは変な顔をすること なく、 ﹁そうね﹂ といって、一緒に見上げてくれた。 158 29︼春雷∼みさ子の過去編∼︵1︶ 4月。 俺と佐々木さん︱︱︱心の中ではみさ子さんと呼んでしまおう︱ ︱︱が出逢った季節。 一年前﹃なんてかわいげのない女だ﹄と思ったのに、今では最愛 の女性。まだ片想いのままだけどね、くすん・・・・・・。 自分の気持ちを自覚してから2ヶ月が経ったけど、告白をする段 階にはいまだ至らず。先輩と後輩の関係を継続中。 でもいいんだ。 今は自分を一人前の男に成長させることが肝心だから。想いを伝 えるのはそれから。 のんびりと悠長に構えているつもりはないが、みさ子さんを支え られるようになるには数日やそこらじゃ無理。 内心焦りつつ、こういうときは彼女が“女帝”であってよかった と思う。だって、みさ子さんを恋人にしようとする男が俺以外にい ないから。 とりあえず、さらに親交を深めるべくせっせと彼女のもとに通っ ているのだ。 仕事を終えた俺は“あるもの”を手に、空き地へと向かった。 新入社員が入り、俺は先輩の立場になった。そしてみさ子さんは 総務部のチーフとなり、ますます忙しい日々を送っている。なので、 最近では俺のほうが先にやってくることが多い。 猫たちの飲み水を用意したり、じゃれあっている姿を眺めたりし ているうちに、聞きなれた足音が近づいてきた。 159 ﹁今日も北川さんが早かったわね﹂ 40分ほど遅れてみさ子さんがやってきた。 ﹁お疲れ様です﹂ 俺の言葉に違わず、彼女の表情は少し疲れている。もともと華奢 だったのに、いっそう体の線が細くなったようだ。 でも彼女は一度だって仕事の愚痴をこぼしたことがない。 ﹃俺にも弱音は吐かないんだよなぁ﹄と、永瀬先輩が言っていた。 先輩に言わないのなら俺にはきっと欠片ほどもこぼしてはくれな いだろう。 早くみさ子さんを支えられる男になりたいものだ。 すっかり定位置となった俺の左側にみさ子さんが立った。 そして遊んでいる猫たちの姿を見て、ふっと微笑む。女帝のオー ラが少し消えた。 ﹁かわいいわね﹂ 冷たいレンズ越しに穏やかな視線を向けている。 ﹁はい、なごみますね﹂ 釣られて俺の表情も優しくなる。 黙ったまましばらく猫たちを眺めていたんだけど、俺は手にして いた“あるもの”の存在を思い出した。 ﹁佐々木さん。これ、あげますよ﹂ ビニールの小さな手提げ袋を彼女に差し出す。 袋を受け取ったみさ子さんは中をのぞいて﹃あっ﹄と、小さく言 った。 俺が渡したのはガラスの小瓶に入ったヨーグルト。これは県外の 牧場が出している商品なのだが、﹃会社からも住まいからも遠くて なかなか買いにいけない﹄と以前、何かの話しの折に彼女から聞か された。 このヨーグルトが置かれたアンテナショップが俺の営業ルートに 160 あり、時折こうして買ってくるのだ。 本当はその店の前を通るたびに買い占めたい衝動に駆られるが、 そんなことをしたらとたんに俺に気を遣うのが目に見えている。 だから月に一回程度、一つだけ買ってくる。 みさ子さんはどんな時でも謙虚で、人からの好意を当然のものと して受け取らない。 森尾さんあたりだと﹃男は女にプレゼントをするものだ﹄と思っ ている節があるから、みさ子さんの控えめな態度にますます惹かれ る。 彼女の喜ぶ姿が見たくて買ってきているのだから、にっこり笑っ て﹃ありがとう﹄の一言でももらえれば満足なんだけど・・・・・・ 。 ﹁お金払うわ﹂ 彼女はカバンの中から財布を取り出す。 ﹁いえ。俺が勝手にしていることですので、代金は要りません﹂ 小銭をつかんで差し出した彼女に、俺は首を振った。 ﹁だけど、前回も、その前も払ってないもの﹂ みさ子さんは手を引っ込めない。 ﹁いいんです。お忙しい総務部チーフへ差し入れですよ﹂ 俺はニコニコと笑うだけで一向にお金を受け取ろうとしないのた め、みさ子さんは苦笑いをして手を下ろした。 ﹁じゃぁ、遠慮なくいただくことにするわ﹂ “ありがとう”と、短く言う彼女の顔はどこか浮かない。 今回だけじゃなく、俺がみさ子さんに何かをしてあげて手放しで 喜ばれたことがない。いつも一歩引いた態度。迷惑とは違うみたい だけど。 ﹁ねぇ、北川さん﹂ 財布をカバンにしまいながら俺を呼ぶ。 161 ﹁はい?﹂ ﹁前に言ったわよね。“だれかれかまわず優しくするのはよくない ”って。覚えてる?﹂ ﹁覚えてますよ﹂ ︱︱︱だから俺は、あの日からあなただけに優しくしているんです。 自分から進んで何かをしてあげたり、積極的に話しかけるのはみさ 子さんにだけなんです。 だけど、彼女は俺の胸中をまったく知らない。 ﹁だったら、今後は気をつけなさいね。あなたのその行動で泣く女 性がいるかもしれないのよ?﹂ その口調は苦々しく、そしてその視線はたしなめるようだった。 俺に忠告する彼女のほうがつらそうな表情。 ﹁・・・・・・佐々木さん?﹂ 声をかけると彼女はすっと目線をそらし、 ﹁余計なおせっかいかもしれないけど、人生の先輩からアドバイス よ。ヨーグルト、ご馳走様﹂ 口早に告げて、みさ子さんは去っていった。 ﹁いったいどうしたんだ?﹂ 彼女が消えた方向に目を向けて、俺はポツリとつぶやく。 さっきまであんなに和やかな空気で猫を見ていたのに、ヨーグル トを持ち出してからその場が一変。 そしてみさ子さんが残した﹃あなたのその行動で泣く女性がいる かもしれないのよ?﹄ という言葉。 162 それは何を指しているんだろう。 それ以降、俺は彼女にお土産と称したプレゼントをやめた。そし て、しばらく会社での彼女の様子を観察することに。 仕事中は相も変わらず女帝オーラ全開。そんな中でもよく見ると、 男性社員と女性社員とでは接し方に微妙な差があることに気が付い た。 何と言うのか、男性社員とは必要以上に距離をとろうとしている 感じ。同じ内容を伝えるのでも、男性社員には完全に事務的な態度。 これが逆だったら分かる。男性社員に優しくするのは、女性社員 にとってよくあることだ。 なのに、みさ子さんは違う。 男性不信とか、男性恐怖症ではないはずだ。空き地で俺と居た時 の彼女に怯えの色はなかった。 どうして、みさ子さんは一線を引いて男の人と接するのだろうか・ ・・・・・? 163 30︼春雷∼みさ子の過去編∼︵2︶ ≪SIDE:みさ子≫ 桜が散り始め、春もそろそろ終わりという頃、珍しく遠くで雷が 鳴っている。 書類をチェックする手を止めて、窓の外に目を向けた。 一階の総務部からは葉桜が風に揺れているのが見える。 ﹁どうしたんですか?ぼんやりなさって﹂ 見上げれば、私のデスクの横に後輩の沢田さんが立っていた。 彼女は“部長よりも怖い”と恐れられている私になぜかなついて いて、こうしてよく声をかけてくる。 ﹁春の雷って珍しいと思ってたのよ﹂ ﹁たしかに。雷ってたいてい夏ですもんねぇ﹂ 少しふっくらとした体型の彼女が柔らかなほほに笑みを浮かべる。 ﹁・・・・・・先輩、なんだか思いつめたような顔をしてましたよ ?﹂ おっとりしているように見えて、実はかなり鋭いところがある彼 女。猫のようにくりっとした瞳がじっと私を見ていた。 私はその視線から逃げるように再び外を眺める。 ﹁春の雷にはいい思い出がなくてね﹂ ﹁子供の頃に怖い思いでもしましたか?﹂ ﹁ま、そんなところ﹂ 雷雲はこちらに近づいているらしく、外がだんだんと薄暗くなっ てゆく。時間を追うごとに、夕暮れとは違う暗がりが訪れる。 ふぅ、っと息をついて傍らにいる沢田さんを見上げ、 ﹁こんな日に残業なんてことになったら、家に帰れなくなるわよ。 早く終わらせなさいね﹂ 164 と、いつものわたしの顔に戻って言った。 予想通り天候は悪くなる一方で、私がマンションに着いた時には 土砂降りとなった。 お風呂に入ってさっぱりすると、昨夜作ったカレーの残りを温め て夕飯にする。 テレビを見たりしているうちに時計はもう9時を示しているが、 外は一向に落ち着く様子がなく、時折激しい雨が窓をたたく。 ﹁はぁ﹂ 点けているだけでまったく見ていなかったテレビを消した。 自分しかいない部屋。 聞こえてくるのは雨や風の音。そして雷。 ︱︱︱あれから10年以上も経っているのに。自分はすっかり立ち 直れたはずなのに・・・・・・。 春の雷を耳にすると、一瞬であの頃に戻ってしまう。 ﹁こういう時は寝てしまったほうがいいわね﹂ 誘眠剤代わりに赤ワインをグッと一杯飲み干してから、ベッドに 入った。 165 ◆◇◆ 夢の中の私は高校一年生になっていた。 新しい学校生活に胸を弾ませている新入生の私。 新しい友達、新しい先生、新しい教科書。 いろいろなものがこれから先の楽しい未来を予感させて、毎日が すごく楽しかった。 その中でもとりわけ私の胸を弾ませていたのは・・・・・・。 ﹁佐々木、この問題どうやって解くんだ?﹂ 不意に呼ばれて振り返ると、同じクラスの川崎君だった。 バスケ部だという彼は背が高く、バランスのいい体型。明るい茶 色の髪がさわやかな笑顔によく似合っていた。 誰の目から見ても素敵だけど、それを少しも鼻にかけていなくて みんなから好かれている。特に女子からの人気は絶大だ。 おそらくほとんどの女の子は彼に心が奪われていることだろう。 私も密かに想いを寄せていたりする。 ﹁さっきの数学のこと?﹂ 先週行われたテストで40人中唯一満点を取った私に、彼はよく 質問に来る。 ﹁ああ。どの公式を使ったらいいのか、いまいち分かんねぇんだよ なぁ﹂ 整った男らしい顔が、少年のような顔になる。 ﹁毎度迷惑だろうけど、頼むよ。先生より佐々木の説明のほうが頭 に入ってくるんだ﹂ ﹁ふふっ。迷惑だなんて思ってないから、遠慮なく訊いて﹂ 166 どんな理由でも彼と接点があることが嬉しくて、尋ねられれば喜 んで勉強を教えていた。 川崎君はお礼といってはジュースやお菓子をしょっちゅうプレゼ ントしてくれる。 こんなことが毎日のように続き、彼の態度から私のことはそれな りに好ましいと思ってくれているものだと考えていた。 でも、それは勝手な思い違いで・・・。 167 31︼春雷∼みさ子の過去編∼︵3︶ ≪SIDE:みさ子≫ まもなく初夏に入ろうとしていた頃、その日は朝からぐずついた 天気。 放課後が近づくにつれてますます雲は厚くなり、外はぼんやりと 暗い。おまけに遠くで雷が鳴っているのが聞こえる。 ﹁イヤなお天気。早く帰らないと、大変なことになりそうね﹂ 私はみんなと同じく足早に教室を出た。 そこで声をかけられる。 ﹁待って、佐々木さん﹂ 呼び止めてきたのは隣のクラスの女子。 小田さんって言ったかな。小柄で大きな瞳が印象的なかわいらし い女の子。でも今はその瞳が怒りとも悲しみとも取れる感情に揺れ ている。 合同体育の時に顔を合わせるくらいで大して親しくもないのに、 なぜ彼女は私を呼んだのだろう。 ﹁何?﹂ ﹁話があるの。一緒に来て﹂ 小田さんはそう言って唇を固く結ぶと、歩き出す。 ︱︱︱話?私に? なんだか分からないけど、私は後に続いた。 連れてこられたのは、使われなくなった旧音楽室。夏に取り壊さ れることが決まっているこの教室は、今では近づく人がいない。 ﹁入って﹂ 168 先に踏み入れた小田さんが扉のところで立っている私に声をかけ る。 私は小田さん以外に何人かいるんじゃないかと思って、怖くて足 が動かない。 集団でいじめられるような事をした心当たりはないけれど、﹃も しかしたら?﹄と考えると体が硬くなる。 そんな私を見て、彼女は軽く鼻で笑った。 ﹁他に誰もいないわ。私はそんな卑怯者じゃないから﹂ 小田さんの吐き捨てるようなセリフは、まるで“あなたとは違う ”と言いたげ。 ︱︱︱私がいつ、小田さんに卑怯なことをしたんだろう? 数学ならすぐ答えが出るのに、この問いかけに対する解答はいく ら考えたところで出てきそうにない。 私は少し首をかしげながら、音楽室へ。 確かにそこには小田さん以外に人はいなかった。 使われることのなくなった音楽室は電気がつかず、薄ぼんやりと した空間に私と小田さんが机3つほど空けて、向かい合わせに立っ ている。 小田さんは私を呼び出しておきながら、うつむいたままなかなか 口を開かない。 天気はどんどん悪くなり、今にも雨が降り出しそう。雷の音もだ いぶ近くなってきた。 早く帰らないと、きっとびしょ濡れになってしまう。 ﹁あの、話って?﹂ 私が切り出すと、小田さんがパッと顔を上げた。彼女は大きな瞳 に涙を一杯溜めてこっちをにらんでくる。 169 明らかに憎しみのこもった視線。いつものかわいらしい彼女は微 塵もない。 ﹁えと、小田さ・・・・・・﹂ ﹁これ以上、彼に近づかないでっ!!﹂ 呼びかけを遮り、悲鳴とも思える叫びをぶつけてきた。 ﹁え?﹂ 私は声を失う。 ︱︱︱﹃彼﹄ってなんのこと?! 呆然と目前の彼女を見ていると、噛み締めていた唇を開く。 ﹁私は川崎 智也と中学の時から付き合ってるの!佐々木さんが入 り込む隙間なんてないんだからっ!!﹂ 小田さんの瞳からぽろぽろと涙が溢れ出す。 川崎君とは勉強を教えてあげたり、軽くふざけあったりと、親し くする機会は多かった。 それが付き合っていることだとは思わなかったけど。 確かに彼から告白されたこともなかったけど。 いずれ自分が彼にとって特別な存在になれる日が来るんじゃない かって夢見ていた。そう思えるほど、私と彼は仲が良かったから。 彼があまりに楽しくて、優しい顔を私に見せるから。 ︱︱︱川崎君、彼女がいたんだ・・・・・・。 目の奥がジンとして、鼻の奥がツンとして、胸の奥がギュッと痛 くなった。 170 ︱︱︱だったら、どうして私に笑いかけたの?どうして私をかまう の?そんなことされてたら、期待しちゃうのに・・・・・・。 私の目に涙がじわりと浮かぶ。 私以上に涙を浮かべている小田さんが更に叫ぶ。 ﹁勉強を教える振りをして智也に近づくなんて卑怯よ!私たちはず っとうまくいってたの。これからだって、ずっと・・・・・・、ず っと私と智也は一緒なんだから、邪魔しないで!あなたなんか、大 して美人じゃないくせにっ!!﹂ とうとう彼女は泣き崩れてしまった。 ︱︱︱彼に恋心を抱いていたのは事実だけど、“振り”なんかじゃ なかったのに。教えて欲しいって頼まれていたからなのに。 床に座り込んで泣き続ける小田さんを見て、私は突然呼び出され たことによる腹立ちや、失恋のショックよりも、彼女を泣かせてし まったことに深い罪悪感を覚えた。 ︱︱︱やたらに男の人に親切にしたり、親切を受けてもダメなのね。 自分の浅はかな行動を後悔する。 私が彼の親切をきっぱりと断っていたら、小田さんはこんなにも 誤解を深めることはなかっただろう。 ふっと息を吐いて、ゆっくりと目を伏せた。 ︱︱︱“大して美人じゃないくせに”か・・・・・・。こうやって 面と向って言われるくらいなのだから、私は美人じゃないんだわ。 昔から自分の容姿に無頓着だった。人並み以上でも、人並み以下 でもなく、“自分の顔”としか見てこなかった。 だから、小田さんのセリフが悔し紛れの八つ当たりだとは気付か なかった︱︱︱実際は人がハッと目を惹くほど整っている造作だと いうのに。 171 いろいろな感情が押し寄せてきて、言葉にならない。 立ち尽くしていると、ガラガラと鈍い音を立てて扉が開いた。 ﹁夏美、いるか?﹂ 恐る恐る顔をのぞかせたのは、川崎君だった。 ﹁探したぞ。一緒に帰る約束をしてたのに、急に“先に帰ってくれ ”なんてメールよこして、どうしたんだよ?﹂ 薄暗い教室の真ん中で泣きじゃくっている小田さんに歩み寄る。 まさか他にも人がいるとは思っていなかった彼は、私の気配を感じ てびっくりした。 ﹁えっ?!あ、佐々木?!﹂ 川崎君が私の名前を呼ぶと、小田さんは弾かれたように顔を上げ て彼の脚にしがみついた。 ﹁智也っ、智也ぁ。お願いだから、私以外の人のところに行かない でっ﹂ 話の流れが見えていない彼はきょとんとする。 ﹁何のことだよ?それより、どうしてお前と佐々木がここにいるん だ?﹂ 川崎君は小田さんの横に腰を下ろし、ゆっくりと彼女の背中をな でている。 グズグズと涙声で、小田さんがしゃくりあげながら言う。 ﹁だって・・・・・・。智也、勉強教えてもらうって言って、いつ も佐々木さんのところに行っちゃうからぁ。だから、佐々木さんに “私たちの邪魔をしないで”って話をしてたんだもん・・・・・・﹂ ﹁ったく、馬鹿なこと言うなよ﹂ ひっく、ひっくと小さく泣いている小田さんに優しく笑いかける 川崎君。その笑顔は私が知っているものとは微妙に違っていて、初 めて見る表情だった。それはきっと、﹃彼女﹄しか見ることが許さ れない、特別な笑顔なのだろう。 ﹁俺には夏美しかいないって前から言ってるじゃん。佐々木は説明 がうまいから教わってるだけ。話も合うから仲良くしてるけど、俺 172 はクラスメイトとしか思ってないし﹂ 彼の言葉で私の失恋が決定的なものとなる。 ︱︱︱クラスメイト・・・・・・。異性として見てもらっていたわ けじゃないのね。 自分勝手に夢見ていた己が恥ずかしい。 川崎君が小田さんの腰に手を回し、どうにか立ち上がらせる。 ﹁佐々木、ごめんな。こいつが余計なことを言って﹂ 私は言葉もなく首を横に振る。 何もかもがグチャグチャになってどん底に落ちた今、何を言った らいいのか分からないから。 ﹁じゃ、俺達帰るよ﹂ 川崎君は彼女の肩を抱いて、音楽室を出て行った。 明かりのない薄暗い教室に一人残された私。 とうとう雨が降り出し、雷が低く鳴っていた。 173 32︼春雷∼みさ子の過去編∼︵4︶ ≪SIDE:みさ子≫ うっすらと目を開け、視界に入ってきたのは一人暮らしを始めて 四年目になるマンションの見慣れた天井。 重くだるい体をどうにか動かして、ベッドの上に起き上がる。 ﹁イヤな夢、見ちゃったな﹂ はぁ、とため息。 ︱︱︱もう忘れたと思ってたんだけど・・・・・・。 あの時と同じ春の雷を耳にしてしまったからか、心の奥で蓋をし ていた過去が蘇ってしまった。 少しでも彼の役に立ちたくて、嬉々として勉強を教えていた。そ れが、彼の大切な人を泣かせることになってしまった日。 自分の淡い期待がまったくの見当はずれだったと思い知った日。 その日から不用意に男の人に親切にすることをやめた。私の言動 が原因で涙を流す女の子をもう二度と見たくなかったから。 そして、﹃自分は男の人に好きになってもらえるような人間じゃ ないんだ﹄と、思うようになった。 川崎君の好みがたまたま小田さんだった、というだけのことなの に。 小田さんの言葉はその場の感情のままの八つ当たりだったという 174 のに。 思春期で不安定だった私の中にその価値観は深く根付き、今でも 心の中心にどっかりと居座っている。 それが不確かな認識だとは気付けないほど、私の中で根を張って いる。 あの一件以来ふさぎこんだ私をイトコの佳代お姉ちゃんが心配し て、原因を聞きだそうとするけど、私は絶対に言わなかった。 今思えばどうしてあんなにも頑なに拒んだのか、理由が分からな い。 あの時はただ、口をつぐむだけだった。 高校、大学と時が進むにつれて、周りの人たちが次々と彼氏と付 き合い始めてゆく。 正直にうらやましいな、と思った。 だけど、﹃自分を好きになってくれる男の人はいない﹄という鱗 が両目にぴったりと張り付いていて、人を好きになることすらあき らめて。 そして、恋をする気持ちを忘れた。 第一、高二からかけ始めたメガネと170センチ近い長身、おま けに無表情とくれば、私の周りに寄ってくるような男の人はいなか ったし。 あ、一人だけいた。 175 大学で知り合った永瀬君は私のとっつきにくい容姿と素っ気無い 言動を気にもかけず、あれこれと世話を焼いてくれたっけ。 彼の整った顔立ちと人懐っこい態度が川崎君に重なって少しつら かったけど、いい友人となった。その縁が社会人となった今も続い ている。 彼と係わっていくうちに、恋愛を捨てた私が永瀬君を好きになり かけたことがあった。その想いは早々に砕け散ったけれど・・・・・ ・。 大学二年の夏、学校から割りと近い所に住んでいた私の家にゼミ のメンバーが集まってレポートを仕上げていた。その中にはもちろ ん永瀬君の姿も。 リビングで五人が頭をつき合わせてペンを進めていた時、四つ下 の妹が気を利かせて飲み物を持ってきてくれた。 そこで永瀬君は妹に一目惚れ。 二人の付き合いは現在進行形で、この先結婚するはず。 やっぱり、私を好きになってくれる人はいないんだわ。 だからもう、男の人には期待しない。好きにならなければ、失恋 することはないもの。 ジクジクとうずく胸の痛みを抱えるのは、もうこりごりだから。 その考えは枯れるどころか深く広く根を張り、枝が伸び、葉を茂 らせ、ちょっとやそっとじゃ揺らぐことがないほど強固。 恋をしない自分を寂しい人間だと感じることもあったけど、その うち感覚が麻痺して寂しさは消え、そう考えることが私の中では当 176 然のものとなってゆく。 “自分は男性に好かれるような女性じゃない”という固定観念がガ ッチリとした大樹へと成長した。 そして着飾ることへの関心もない。 とりたてて綺麗じゃない自分がどんなに身なりを整えたところで、 反って笑われる羽目になるだけだと思うから。 小田さんに言い放たれた﹃大して美人じゃないくせに﹄という言 葉は、もう一つの固定観念とともに今も私の中で根を下ろしている。 一度自分で﹃そうだ﹄と思ってしまうとその観念からは抜け出す ことが出来ず、これまでに自分に言い寄ってくる男性がいたり、﹃ 綺麗だ﹄と言われたりもしたけれど、﹁冗談でしょ﹂と返してしま う。 たとえ男性の想いが本物でも、﹁私のせいで他の誰かが涙を流す のでは?﹂と考えてしまうと踏み切れない。 そんな私に言い寄る男性は徐々に減り、﹃女帝﹄として総務部を やりくりしている私のもとには色っぽい話は舞い込むことが一切な くなった。 それが今の私。 たしかに﹃寂しい人生かな?﹄って思わなくもないけど、それは それで気楽でいいと思う。 色恋で気を揉むことがないんだもの。 177 私は綺麗じゃない。 私は恋をしない。 まして私を好きになってくれる男性なんて、いるはずない・・・・ ・・。 178 33︼春雷∼みさ子の過去編∼︵5︶ みさ子さんの行動を見れば見るほど謎が深まってゆく。 気配りが出来て、本当は優しくて、笑顔がかわいいのに、どうし て彼女はこんなにも﹁女帝﹂であろうとするのだろうか。 今日も朝から天気が良くない。 ひどい雨は昨夜で収まったけれど、低く垂れ込めた暗雲の隙間か ら時折ゴロゴロと低い雷鳴が聞こえてくる。 夕方になってもあまり天候は回復しなかった。それでも雨は降っ てなかったので、仕事のあとで空き地に向う。 昨日は餌もあげずにあわてて帰ってしまったから、みんなお腹を 空かせて待っていることだろう。 猫缶の入った袋を提げて角を曲がった時、ポツンと座り込むみさ 子さんの背中が見えた。 けして小柄ではないのに、丸まって座る彼女は小さくて儚げ。そ のままの格好でずっと黙ったまま、ヒメの頭を指先でなでている。 ︱︱︱どうしたんだろう。こんなみさ子さん、初めてだ。 いつもと違う様子に声もかけられない。 うずくまった彼女の背中があまりにも寂しそうで、その横に俺も 同じようにただ座り込んだ。 俺達の頭上ではだいぶ遠くなった雷が鳴っている。 しばらくして気配に気がついたみさ子さんがゆっくりと頭を上げ て、ゆっくりと俺を見る。その瞳には女帝らしさがまったく無く、 不安定に揺れていた。 ﹁佐々木さん?﹂ 179 俺に呼ばれても何も発せず、じっと見つめてくるだけ。 しばらく視線を合わせたあと、不思議そうな表情になった。意識 が別の世界にあるようだ。 ﹁・・・・・・北川君?﹂ まるで確認するかのような声音には怯えが感じられる。 初めて聞く弱々しい声だった。 ︱︱︱何があった? どんなことがあっても毅然とした態度のみさ子さんが、こんなに も不安をあらわにしているなんて。 彼女の身内に不幸があったという話は聞いてないし︵そんな連絡 が入ったのなら、彼女はこんなところで猫と一緒にいないだろう︶、 仕事でミスを犯したという感じでもないし︵この人がミスをするだ なんてありえない︶。 まさか、いじめ!?・・・・・・天と地がひっくり返ってもそん なことは起きないな。“女帝・佐々木 みさ子”に戦いを挑む強者 がこの会社にいるとは思えない。 とりあえず俺はこの場の雰囲気を和ませるため、少しおどけてみ た。 ﹁そうです、北川ですよ。こんなにいい男が僕以外にいますか?﹂ 全開のさわやかスマイルを彼女に見せる。ちょっとオーバーに白 い歯をのぞかせて。 みさ子さんは一瞬あっけに取られていたけど、一呼吸おいた後に “フフッ”っと小さいながらも笑ってくれた。 でも、瞳の奥にある影はそのままで。 そんな彼女を放っておけなくて、精一杯優しく言った。 ﹁話、聞きますよ﹂ ﹁え?﹂ 数回瞬きをしたみさ子さんが訊き返す ﹁僕はまだ若輩者で佐々木さんにアドバイスなんて大それたことは 出来ませんが、話を聞くくらいなら﹂ 180 ︱︱︱そんなことしか出来ないけど、少しでもあなたを楽にしてあ げたいんです。 そんな意味を含ませて、優しく、優しく、だけど真剣に。 ﹁そうね・・・・・・。聞いてもらおうかしら﹂ わずかに彼女の瞳が揺れて、ぽつりぽつり、とみさ子さんは話し 出した。 春の雷が苦手になった理由︱︱︱高校一年の出来事。 自分の中にある価値観。 みさ子さんが俺に語ったことはとてもあいまいで、真実の十分の 一も明かされていないと思う。 それでも俺には彼女が﹁女帝であろうする理由﹂が垣間見えた。 ﹁今までこの話は誰にもしたことが無かったのよ・・・・・・﹂ 一通り話し終えて、みさ子さんがそっと息を吐く。 今のこの話は、前に奥井チーフが聞きだせなかったと言っていた ﹃みさ子さんが変わってしまった原因﹄だろう。 奥井さんには無理だったのに、俺には話してくれたことがすごく 嬉しかった。 ﹁なんだか自分の弱いところを見せたみたいで、恥ずかしいわね。 北川さん、今の話は忘れて﹂ 胸の内を多少なりとも言葉にしたことで落ち着いたのか、みさ子 さんの瞳から不安定な色は少し消えた。 181 ﹁餌をあげに来たんでしょ?猫達が待ってるわ﹂ そう言ったみさ子さんの表情は、ほぼいつもどおりだ。 彼女は俺の手から袋を受け取り、猫缶を取り出す。 みさ子さんが包み隠さず真実を話してくれるように、早く一人前 の男になろう。 彼女のすべてを受け止めてあげられるように。 俺の前で彼女が涙を我慢しなくてもすむように。 みさ子さんの横顔を見ながら誓いを新たにした。 ◆◇◆ ∼後日談∼ 翌日の昼休みに空き地へ行くと、先にみさ子さんが来ていた。 ﹁佐々木さん、こんにちは﹂ 俺はにこやかに彼女へ歩み寄る。 まっすぐに立って猫達を見守っていたみさ子さんに、昨日のよう な弱々しさはなかった。 ﹁・・・・・・こんにちは﹂ 俺の笑顔を見て、みさ子さんはちょっといぶかしそうにこちらに 182 視線をよこす。 ご機嫌な俺はそんな彼女の表情に気付かず、いつもの定位置に立 った。 ﹁昨日のことは誰にも言いませんから﹂ ウキウキと弾む心を抑えて、そっと告げる。 ﹁奥井チーフにも、絶対に言いません﹂ ︱︱︱みさ子さんの話は俺の中だけに留めておこう。 彼女の中にあったわだかまりを話してくれたことが、本当に嬉し かった。 ほんの少しだったけど、みさ子さんが甘えてくれたことは自分達 の関係が前進したように思えて、めっちゃくちゃ嬉しかった。 ﹁だから、安心してくださいね﹂ 全開の笑顔でみさ子さんに一歩近づく。 すると彼女は俺が近づいた分だけ後ずさり。 ︱︱︱どうして俺から離れるんだ? きょとんとしていたところに、みさ子さんが口を開いた。 ﹁北川さん。昨日のことって、何?﹂ 思いっきり眉をしかめて、俺を見ている。 ︱︱︱え??ええっ?! ﹁・・・・・・佐々木さん?﹂ 俺が瞬きを繰り返していると、みさ子さんはバツが悪そうにメガ ネを指でそっと押し上げる。 ﹁実は・・・・・・。仕事が終わってからの記憶がほとんどないの よ。沢田さんが言うには昨日の私はすごく熱があって、いつもより 早めに退社したらしいの﹂ みさ子さんは俺から視線をはずし、離れたところにある水溜りに 目を向ける。 ﹁だけど、そのあたりのことを覚えていなくて。朝起きたら自分の 183 ベッドにいて、きちんとパジャマを着ていたし、バッグの中からな くなったものはなかったし、怪我もなかったから何事もなく家にた どり着いたんだろうけど﹂ ふっ、と短く息を吐いて、水面に移っている太陽を苦笑いしなが ら眺めている。 それを聞いて俺は頭の中が混乱しそうだった。 ︱︱︱ちょ、ちょっと待ってくれよ!みさ子さんが話をしてくれた のは、少しでも俺を信頼してくれたからじゃないのか!? “頼られて嬉しい”と一人ではしゃいでいた自分がバカみたい。 がっくりと俺の肩が落ちた。 ﹁ねぇ。私、何を言ったの?﹂ そう口にする彼女の表情は﹃昨日のことは何一つ記憶にございま せん﹄というものだった。 ﹁あっ、いや。べ、別にたいしたことじゃないですよっ﹂ 内心の落胆を悟られないように、俺は微笑みを浮かべる︱︱︱若 干の引きつりとともに。 ﹁本当に?﹂ 疑うように見てくる瞳は女帝そのもの。 ﹁ほ、ほ、本当です!えと、その・・・・・・、ちょっとした愚痴 と言いますか、まぁ、そんな程度のことでしたからっ﹂ 何も言わずじっと見てくるみさ子さん。久々に真正面から見ると 怖いー!! ﹁本当ですってばっ!!﹂ 今度は俺がじりじりと後ずさり。 佐々木さんは必死な俺を見て信用したらしく、それ以上追求はし てこなかった。 ﹁そう・・・・・・。愚痴なんか聞かせちゃって、ごめんなさいね﹂ ﹁あっ、そんなっ。謝っていただくほどのことではありませんから。 ・・・・・・そうだ!経理に用事があったんだっけ。それじゃ、失 184 礼しますっ﹂ 俺はその場を離れるために適当な言い訳をして、脱兎のごとく走 り去った。 みさ子さんが俺に心を開いてくれる日は、まだまだ先のようだ。 185 34︼揺らぎ始めた女帝観念︵1︶ 一年後輩の新人達が初めての営業に出る時期となった。 後輩をつれて歩くのは営業部で2年以上仕事している人だけ。去 年俺と一緒に回った永瀬先輩は、今年も新人と出かけていった。 その新人も俺同様、おでこを赤く腫らして帰ってくるだろう。 “愛のムチ”という名の強烈なでこピン。実際、愛情よりもから かいを強く感じたのだが。 ﹁そういえば、あの冷却シートは誰がくれたんだろう﹂ 社員食堂で昼飯を済ませた後、空き地でのんびりとくつろいでい る俺は背伸びをしながら、ふと呟いた。 早めに冷やしたおかげで、翌日には赤みがすっかり消えていた。 営業部の先輩やチーフに訊いてみても置き主は明らかにならず、 一年経った今も不明のまま。 シートの外袋にわずかに残った香りがみさ子さんの香水と同じよ うに感じたんだけど、いまいち確信がもてない。 そんなことを考えていたところに、みさ子さんがやってきた。 ﹁佐々木さん、こんにちは﹂ ﹁こんにちは﹂ お互い、いつもの定位置で猫達を眺める。 シートの件について言おうか言うまいか悩んでいると、佐々木さ んが水を向けてくれた。 ﹁どうかした?何か言いたそうな顔してるけど﹂ 本当にこの女帝はよく気が回る︱︱︱俺の想いにはまったく気付 いてくれないのに・・・・・・。 せっかくなので、思い切って言うことに。 ﹁あ、あの。去年、俺の机におでこを冷やすシートを置いてくれた 186 のって佐々木さんですよね?﹂ とたんにみさ子さんは少し目を大きく開いて驚いた。 ﹁よく私だと分かったわね﹂ ﹁はい、実は﹂ と、言いかけてぴたりと止まる。 ︱︱︱﹃外袋に残っていた香りから見当をつけた﹄なんて言ったら、 変態ぽくないか?! ﹁実は・・・・・・、何?﹂ 黙ってしまった俺に尋ね返すみさ子さん。表情のほとんど変わら ない彼女が、今の俺には不審全開にして見えるのは気にしすぎか?! ﹁えと・・・・・・、そのっ、か、か、勘です!﹂ とっさに嘘を付く。 ﹁勘だけで私だと分かったの?﹂ 疑わしい声音に聞こえてしまうのは、俺が小心者だから?! 本当のことを言えば俺のイメージがダウンしそうなので、あえて 嘘を突き通す。 ﹁そ、そうです。昔からそういう勘だけは冴えてまして。あは、は はは・・・・・・﹂ どぎまぎしている自分を悟られないように、とりあえず笑ってご まかした。 みさ子さんはパチパチと瞬きをして、感心したように言う。 ﹁それはすごい特技ねぇ﹂ 激しく突っ込んでこないのは彼女の優しさか、本当に信じたか︱ ︱︱多分、後者。 ﹁今度探し物で困ったら北川さんに相談するわ﹂ いつものように雰囲気でやんわりと微笑まれてしまったら、ます ます本当のことが言えなくなってしまった。 ︱︱︱ヤ、ヤバイ。みさ子さんが探し物の依頼をしてきたらどうし よう。でも、真実を伝えて変態扱いされるの困るし・・・・・・。 オロオロと視線をさまよわせている俺。 187 しかし、みさ子さんはこの話題についてはもう気に留めてないよ うで、話を進めていく。 ﹁永瀬君が初めて新人さんを連れて外回りに行った日、たまたま2 人の帰社を見かけてね。遠目から見ても額が赤くなってるし、きっ とでこピンされたんだなって分かったわ。永瀬君、学生時代から何 かあるといつもでこピンしてたから﹂ 話題がそれて、一安心な俺。ほっと息をつきながらみさ子さんの 話に耳を傾ける。 ﹁あのシートは永瀬君と一緒に回った人のために用意してるの。ほ ら、彼って容赦ないでしょ?﹂ ﹁そうですね﹂ 先輩が聞いていないのをいいことに、俺は力いっぱい肯定する。 だって、本当に容赦なかったのだ。 ﹁それからは毎年ね。営業部の業務日程はパソコンで閲覧できるか ら、誰と誰が外回りしてるか分かるし。あ・・・・・・﹂ ここまで言って、みさ子さんは手を口元で押さえた。 ﹁このこと、永瀬君には内緒ね。知られたら“新人を甘やかすな” って怒られそうだから﹂ ﹁ははっ。いいですよ﹂ 自分にも他人にも良い意味で厳しい永瀬先輩。怒りはしないけど、 何か一言くらいは言ってきそうだ。 ﹁絶対に内緒よ﹂ ﹁はい。僕は恩をアダで返すほど薄情じゃないですよ﹂ ﹁ふふっ。信用してるわ﹂ ほんの少し目元を和らげるみさ子さん。 ︱︱︱毎年のことか・・・・・・。俺だけに特別って訳じゃなかっ たんだ。 置き主の正体が明らかになってすっきりしたけど、種明かしされ て、なんだかそれはそれでショック。 188 ︱︱︱仕方ないか。今はまだ、たくさんいる後輩のうちの一人なん だし。 なんとなくしょぼくれていると、みさ子さんが話を続ける。 ﹁北川さん。痛みはどのくらいで引いたの?﹂ ﹁痛み・・・・・・ですか?その日のうちでしたよ﹂ しっかり冷やせたおかげで、次の日にはいつもどおりの男前な俺 が復活していた。 ﹁そうなの?﹂ 俺の返事に軽く目を見張るみさ子さん。 ﹁佐々木さんがくれた冷却シートのおかげですよ﹂ 俺がそう言うと、みさ子さんは首を小さく横に振った。 ﹁そうじゃないわ。北川さんが優秀だからよ﹂ ﹁でこピンされたのにですか?﹂ ﹁永瀬君にでこピンされなかった新人さんはいまだかつて一人もい ないのよ。でも、そんなにすぐに痛みが引いた人は初めてだわ。た いていの人は2、3日赤く腫れてるもの。少なくても10回はやら れてるわね﹂ ︱︱︱2、3日も!?先輩、どんだけ容赦ないんだよ・・・・・・。 過去に先輩から愛のムチを受けた人たちを思って、少し身震い。 ﹁北川さんは営業に向いているんだわ。これからも頑張ってね﹂ ﹁は、はい!頑張ります!﹂ ︱︱︱みさ子さんに認めてもらえたぁ。よし、この調子でバリバリ 仕事するぞ!! さっきまでの沈んだ気持ちはどこへやら。 俺はすっかりご機嫌だった。 189 35︼揺らぎ始めた女帝観念︵2︶ あと10分で昼休みが終わる。 俺とみさ子さんは社屋に戻った。寄り添って・・・・・・と言う ことはありえないが、微妙な距離感を保ちながら並んで歩く。 ﹁このあと通訳の手伝いがあって、夜の餌やりにこられそうにない の。北川さん、お願いできる?﹂ ﹁いいですよ﹂ ﹁じゃ、よろしくね﹂ みさ子さんは軽く右手を上げて、総務へ戻っていった。 ﹁おい、北川﹂ エレベーターに乗ろうとした時、声をかけられる。振り向くと岸 が立っていた。 ﹁何だ?﹂ ﹁今まで女帝と一緒にいたのか?﹂ ﹁そうだよ。裏の空き地で猫を見てたんだ﹂ 俺にとってはそんなことは日常の一部なのでさらりと告げると、 岸は目を見開く。 ﹁お前の神経ってワイヤーで出来てる?﹂ ﹁なんだよ、それ﹂ むっとする。 ︱︱︱そんな訳ないだろ。なかなか報われそうにない片想いに日々 心を悩ませている繊細な俺に向って、なんて失礼な奴だ。 ふん、と顔を背ける俺にかまわず岸は話を続ける。 ﹁お前の猫好きは認めるけど、だからって猫見たさによく女帝のそ 190 ばにいられるよなぁ。俺なんかいまだにあの人には怯えてるっての にさ。仕事以外の時間に女帝との関わりなんて絶対に持ちたくねぇ よ﹂ 2人で来たエレベータに乗る。 岸のおしゃべりは止まらない。 ﹁仕事中でも出来る限り女帝には近づきたくないのに、お前ってホ ント物好きだよなぁ。・・・・・・ん?﹂ 岸は自分の言葉に何か思い当たったらしい。 ﹁そういえば、バレンタインの時に“好きな人が出来た”って言っ てたよな?﹂ ドキッ。 俺は内心の焦りをごまかし、素っ気無く返す。 ﹁ああ、言ったな。それがどうかしたか?﹂ 必死で平静を装う。 ︱︱︱誰もが恐れる女帝のそばにしょっちゅういるなんて、やっぱ りまずかった?! ドキン、ドキン。 鼓動が早くなり、手の平にじんわりと変な汗が滲んでくる。 自分の想い人がみさ子さんであると、岸にばれてしまっただろう か? 運の悪いことにエレベーターには同乗者がなく、俺達の間に妙な 沈黙が流れる。 先に口を開いたのは岸。 ﹁それって・・・・・・、女帝のこと?﹂ ︱︱︱核心、きたぁーーーーー!! 言葉に詰まる俺。 この場合、否定も肯定も出来ない。 191 今はまだ彼女にこの想いを知られるわけにはいかないのだ。かと いって﹃違う﹄と答えるのも、みさ子さんになんか失礼だし。 万が一、話に変な尾ひれが付いて﹃俺はみさ子さんが嫌い﹄と言 う事になっても困る。 ︱︱︱どうすりゃいいんだ!? 涼しい顔を保ちながらも、背中には冷や汗が流れる。 ︱︱︱早く何か言わないと!このまま黙っていたら絶対にまずい! !ああ、でもっ!!! 岸にじっと見られながら、俺は懸命に次のセリフを考える。 いっそのこと正直に話して、﹃誰にも言うなよ﹄と釘をさすのが 得策だろうか。 ﹁実は・・・・・・﹂ と言いかけたところで、岸のほうが少し先に口を開いた。 ﹁そんなことないか。北川には森尾さんみたいなかわいいタイプが お似合いだし﹂ 勝手に結論を出してきた。 ︱︱︱ホッ。やれやれだな。 変な探りを入れられなくて助かった。だけど、勘違いは正してお かないと。 ﹁森尾さんは俺の彼女には向かないよ。仲はいいけど、友達にしか 思えないな﹂ きっぱりと言った。 何かの拍子に﹃俺のタイプは森尾さんだ﹄と言う岸の勝手な思い 込みが広まってしまったら、森尾さんは今以上に俺にまとわり付い てくるはず。 バレンタインの時にも思ったけど、あの手の女性は用心に用心を 重ねなければ自分の身が危ない。 何はさておき、無事に会話が反れて一安心だ。 ところが。 ﹁それと﹂ 192 岸がまた口を開く。 ﹁・・・・・・まだ何かあるのか?﹂ 内心ビクビクしながら尋ねる。 ﹁ちょっと気になったことがあって。北川に対する女帝の態度って、 他の男性社員となんか違うように思えるんだよなぁ﹂ ﹁は?﹂ ﹁常に素っ気無い女帝が、どことなく親しげというかさ。永瀬先輩 と仲がいいのは学生時代からの縁だからって聞いてるけど、お前は 入社前に女帝と会ったりしてないだろ?﹂ 俺はうなずく。 岸の言うことは俺も感じていた。 みさ子さんは高校一年での出来事があってから、男性とは距離を 置いて接するようにしていると言った︱︱︱彼女自身は俺にそんな 話しをしたことをいまだに気付いてないが。 なのに、空き地で会えばわずかとはいえ表情をやわらげてくれる。 社内でも、他の社員よりは会話をしてくれる。 どうしてだろうか。 ︱︱︱もしかして、みさ子さんにとって俺は特別な存在?! ﹁・・・・・・北川、顔がにやけてるぞ?﹂ 突然表情が緩みだした俺に、岸が不思議そうに言う。 ﹁えっ?﹂ あわてて顔の筋肉を引き締める。 ちょうどエレベーターの扉が開いたので、余計なことを突っ込ま れないうちに急いで降りた。 数日後、仕事を終えて空き地に行くと先客がいた。みさ子さんと 永瀬先輩だった。 193 この場所は誰でも出入り自由だし、ましてみさ子さんと待ち合わ せていたわけじゃないから先輩がいてもいいんだけど、なんとなく 面白くない。 ちょっとふてくされたまま、離れたところで2人の様子を伺う。 ﹁相変わらず猫が好きなんだな。初めて佐々木の家に行ったとき、 あまりの猫屋敷っぷりに驚いたよ﹂ ﹁ふふっ。今でも実家は猫屋敷よ﹂ みさ子さんはしゃがみ込んでヒメをなでながら小さく笑う。 ﹁このコ以外はみんな人懐っこいから、永瀬君もなでてみたら?﹂ ﹁いいよ。俺、犬派だし﹂ そう言う先輩は、猫達の集団から少し離れたところに立っている。 ﹁へぇ、そうなんだ﹂ ﹁男はたいてい犬好きだぞ﹂ ﹁あら?北川さんは猫が大好きなのよ。私以上にね﹂ 首を少し動かし、みさ子さんは斜め後ろの先輩を見上げる。 ﹁うちの部の北川のことか?﹂ ﹁そうよ。ここで一緒に餌をあげたりしてるわ﹂ にっこりと微笑むみさ子さん。 ﹁へぇ﹂ 先輩が驚いた声を上げる。 みさ子さんはなでる手を止め、先輩をまじまじと見上げた。 ﹁何をそんなに驚いているの?﹂ ﹁佐々木が俺以外の男と仲良く出来るなんて、初めてのことだから さ﹂ 先輩は数日前に岸が話したことと同じような内容を口にする。 ﹁同じ猫好きとして、気が合うのよ﹂ ﹁・・・・・・ふぅん﹂ 先輩はなんだか歯切れの悪い相づちを返す。 ﹁どうかした?﹂ ﹁猫以外に理由があるんじゃないかと思ってね﹂ 194 ゆったりと腕を組み、楽しそうにみさ子さんを見る先輩。 ﹁他の理由?﹂ みさ子さんはきょとんとした顔つきになった。 そんな彼女を食い入るように見つめる俺。 ︱︱︱いったい、どんな理由なんだ?じ、実は﹃俺のことが好き﹄ とか?!そんなの言われたらテレまくって死にそー!でも、聞きて ぇ!! 建物の影で一人身悶えしながら、彼女の答えを待つ。 みさ子さんはゆっくりと首を巡らせ、数回瞬きを繰り返した。 ﹁そうねぇ。あると言えば、あるかも﹂ 微妙な言い回しに俺の心臓が張り裂けそうだ。 ﹁だって・・・・・・﹂ みさ子さんはちょっとはにかむような笑みを浮かべて、1度言葉 を区切る。 ︱︱︱﹃だって﹄?そのあとのセリフは?! ごくん、と息を飲む。 みさ子さんは穏やかに目元を細めて言った。 ﹁だって、北川さんってすごくかっこいいから﹂ ︱︱︱・・・・・・は?どんな理由だ、それ。 俺は思いっきり首をかしげる。 先輩もみさ子さんの言おうとしていることが分からなかったらし い。 ﹁何でかっこいいと仲良く出来るんだ?普通、逆だろ。“かっこい いから、近寄りがたい”とかになるんじゃないのか?﹂ ﹁ん∼、なんて言うのかなぁ。あそこまでいい男だと自分とはかけ 離れた存在に思えて、現実味がないって感じ。だから緊張もしない し﹂ ﹁確かにあいつの外見は社内でもピカ一だな。俺や社長に匹敵する ぞ﹂ さりげなく俺を認めながら、結局は自分を持ち上げる先輩。素敵 195 な性格をお持ちでいらっしゃるぜ。 ﹁何言ってんのよ、永瀬君。・・・・・・ま、確かにあなたもかっ こいいけど﹂ 苦笑しながらみさ子さんがゆっくり立ち上がる。薄暗くなった空 を見上げながら、みさ子さんは言葉を続ける。 ﹁それに、あんなにかっこいい人は地味な私なんか相手にしないっ て最初から分かっているから。他の男性社員よりかえって気楽に接 することが出来るのよ﹂ 彼女のセリフは、“俺を恋愛対象として見てくれてはいないのだ ”というもの。 胸のドキドキがズキズキという痛みに変わった。 ﹁自虐的なところも猫好きと同じで相変わらずだな﹂ 先輩がほんの少し寂しそうに笑う。 ﹁別にいいじゃない。それが“私”なんだもの﹂ 背筋をまっすぐに伸ばして振り返ったみさ子さんの顔はすっきり としたものだったけど、レンズの奥の瞳が悲しそうに見えたのは俺 の勝手な勘違いだろうか? 196 35︼揺らぎ始めた女帝観念︵2︶︵後書き︶ ◆永瀬先輩が言った社長とは、このKOBAYASHIの若社長の ことです。 おばあちゃんがフランス人のクォーター。背が高く、顔が綺麗で、 天使のような青年です。 でも、性格はエロ魔人︵笑︶ この社長が社員のある女性に一目惚れしてしまう・・・というスト ーリーが﹃女帝﹄よりも先に出来上がっていたのに、途中で筆が進 まなくなってしまったので投稿はとり合えず見合わせています。 KOBAYASHI社内は恋愛自由なので、たくさんのカップルが 存在します。 俺様先輩とかわいい女性後輩とか、30代の渋い課長とアルバイト の大学生とか。 あ、課長とバイトのお話はBLでしかも年下攻めだったりします。 はやく彼らのお話も書き上げたいです。 ﹁年下の彼女﹂も書きたいし。 体がもう一つ欲しい今日この頃です。 197 36︼揺らぎ始めた女帝観念︵3︶ ≪SIDE:みさ子≫ 最近どうも気分が悪い。いや、悪いといのは違うかも。 なんとなく居心地が悪いというか、落ち着かない。 総務のチーフとして忙しい日々を送っているから、疲れやストレ スが原因だろうか? それとはどうも違う気がする。 イライラでもなく、悲しいのでもなく、フワフワとつかみ所のな い感情が胸の奥でくすぶっている。 お局街道をひた走る自分が意味不明の感傷に戸惑うなんて、少し は可愛げというものが残っている証拠だろうか。 ﹁どうだっていいことだわね、そんなの﹂ 大きく背伸びをしてからベッドを出る。 今日は月末。 きっと仕事は朝から山積みで、ボヤッとしている余裕はないはず だ。 仕事さえしていれば、こんな感傷忘れられるだろう。 ﹁さ、支度しなくちゃね﹂ 自分のほほを手の平でピチン、と叩いてから洗面所に向った。 ﹁はぁ、終わったぁ﹂ 198 私以外誰もいない総務部で、盛大なため息をつく。 本来残るべき部長は結婚記念日ということで一足先に帰った。そ れについて別に文句はない。私は独身で、彼氏もいないし予定もな いんだもの。 ﹁あの部長があんなにも愛妻家だったなんてね、ふふっ﹂ 見た目が厳つく、サラリーマンというよりはその筋の幹部といっ たほうがぴったりだと思う。 仕事に厳しく、笑顔なんて3日に1度拝めるかどうかという鬼部 長が、奥様を溺愛しているというのが微笑ましい。 ﹁20年も経つのに、いまだに仲がいいのは素敵ね﹂ チェックの終えた書類を束ねながら呟く。 ︱︱︱結婚記念日なんて、私には一生縁のないイベントだわ。 いつもと違って少し皮肉っぽい自分がいた。 昨夜、酔った妹が惚気の電話をしてきたからかもしれない。 お風呂から出て、さぁ寝ようという時に携帯が鳴った。 ﹁もしもし?﹂ ﹃あ∼、おねぇちゃん。聞いて、聞いてぇ﹄ 若干ろれつの怪しい妹からの電話。 ﹁あんた酔ってるわね?今どこにいるのよ?﹂ ﹃自分の部屋だよぉ。この前みたいに道路で寝たりしてないから、 だぁいじょうぶぅ。あははっ﹄ よほど嬉しいことがあったのだろう。ケラケラと楽しそうな声が 聞こえてくる。 話は聞いてあげたいが、明日は絶対に遅刻が出来ない。 ちらりと時計を見ると、10時を回ったところだ。 ︱︱︱30分くらいで済めばいいけど。 199 妹に分からないように小さくため息をついて、話しかけた。 ﹁急ぎの用事?手短に話してね﹂ ﹃くふふ。えとね、実はね・・・・・・。えへへっ﹄ 妹はにやけた笑いを浮かべるだけで、なかなか話を進めようとは しない。 ﹁留美。私、明日はいつもより早めに出社しないといけないの。話 さないなら切るわよ﹂ ちょっと低い声で脅すと、妹はあわてた声を出す。 ﹃ま、待って、切らないでぇ。ちゃんと話すからぁ﹄ いつもは素直で可愛い妹だけと、お酒が入ると自分のペースでの んびり事を進めるのが困る。 ︱︱︱やれやれだわね。 困るけれど、姉としては話を聞いてあげるべきだろう。電話をあ まり好まない彼女がわざわざかけてきたんだし。 ﹁で、なに?﹂ ﹃うふふっ、照れくさいなぁ∼﹄ 話すと言った彼女がこの期に及んで言いよどむ。 ﹁るーみー!!﹂ ﹃あっ、ごめん、ごめん。えっと、えとね﹄ 言葉を区切った妹が、深呼吸を一つして言った。 ﹃・・・・・・プロポーズされたの﹄ ようやく切り出した本題は寝耳に水な内容だった。まぁ、いつか そうなるとは思っていたけど、考えていたよりも時期が早かった。 ﹁プロポーズ?﹂ ﹃うん、指輪だってもらったんだからぁ。きゃはっ、言っちゃった ぁ∼!!﹄ 電話の向こうでバタバタと暴れている音がする。 ︱︱︱ったく、これだから酔っ払いは!! ﹁ちょっと留美!静かにしなさいよ!﹂ 夜にこんな物音を立てていたら、近所迷惑は必至。妹をたしなめ 200 て、改めて尋ねる。 ﹁本当にプロポーズされたの?間違いないのね?﹂ ﹃ホントだよぉ。今日は私の誕生日でしょ。だから彼と食事に行っ て、そのあとのドライブで・・・・・・。うふふっ﹄ でれでれとした声。きっと表情も声を同じく緩んでいるのだろう。 それだけ嬉しいということなのだ。 ﹁そう、おめでとう。式は挙げるんでしょ?それとも入籍だけ先に するの?﹂ ﹃具体的な話はこれから。“今は留美の旦那になる予約をさせてく れ”って、左の薬指に指輪をはめてくれたんだぁ﹄ 嬉しそうに弾む声。それを聞いて私も嬉しくなる。 ﹁本当に良かったわね。近いうちに何かお祝いしなくちゃ﹂ ﹃そんなのはいいって。それより聞いて、聞いて!!﹄ と、始まった妹の惚気話。 彼のプロポーズがいかに素敵だったのかを事細かに説明し、あま つさえ、出会いから今日に至るまでの道のりを歯が浮きそうになる ほど甘さたっぷりで語りだしたのだ。 楽しそうに話す妹を冷たく突き放すことも出来ず、付き合うこと 2時間。日付が変わってからようやく解放された。 幸せ一杯の妹を姉としてもちろん嬉しく思うが、延々惚気を聞か されるのは精神的に疲れる。 ﹁早く寝なくちゃ﹂ ベッドに潜り込み、頭から布団をかぶる。 まだ先のこととはいえ、﹃結婚﹄が現実のものとして手に入る妹。 同じ親から生まれたのに、私とは違う人生が用意されている。 ︱︱︱私は自分から恋愛を捨てたのよ。何を今更・・・・・・。 真っ暗な布団の中で、そっと苦笑した。 201 ﹁ゆうべはあんまり眠れなかったわ。今夜こそは早く寝なくちゃ﹂ 机の上を片付けていると、扉をノックする音が聞こえた。 ︱︱︱部長が戻ってきたのかしら? イスを半回転させて振り向くと、顔を覗かせていたのは北川さん だった。 ﹁お疲れ様です﹂ 一言挨拶してから、彼が中に入ってくる。 ﹁お疲れ様。もう帰るから、書類は明日提出して﹂ 表情をいつもの私に戻して言うと、彼は﹃違いますよ﹄と笑いな がらこちらへやってくる。 ﹁どうぞ﹂ 差し出してきたのは一つのお饅頭。 ﹁空き地で猫と遊んでいたら、警備員さんがおすそ分けしてくれた んです。2泊3日で温泉に行ったらしいですよ﹂ ﹁何で私にくれるの?北川さんが食べればいいじゃない?﹂ ﹁あんこは苦手なんです。チョコやケーキは平気なんですけどね﹂ ちょっと困ったように笑って、鼻の頭を指でかいている。 ﹁せっかくいただいたのに捨てるのは悪いですし。で、通りかかっ たら電気がついていたから、誰かいるんじゃないかなぁっと思って。 もらったものを差し上げるのは失礼かもしれませんが﹂ ﹁そんなことないわよ。捨ててしまうより食べられる人が引き受け たほうがいいもの﹂ 私がそう言うと、彼は﹃良かった﹄といってはにかみながら笑っ た。 ︱︱︱あ・・・・・・。 202 彼の顔を見て、私の胸の奥がにわかにざわめきだす。 その原因に自分はすでに気が付いているのかもしれない。だけど、 答えを知ってしまうのが怖くてその感情を無視した。 ﹁北川さんも早く帰りなさい﹂ 身支度を整えながら声をかけた。彼のほうを見ないようにして。 ﹁はい、そうします﹂ ペコリと頭を下げて立ち去ろうとする彼。 一歩踏み出した彼の背中を見て、私はとっさにその右手をつかん だ。 ﹁何でしょうか?﹂ 振り返った彼はきょとんとした表情で私を見る。 ﹁・・・・・・えっ!?﹂ 私はあわてて手を離した。 ︱︱︱私ったら、何やってんのよ!? 自分の行動に我ながらびっくりする。 ﹁佐々木さん、どうかしました?﹂ 不思議そうに首をかしげている彼。 ﹁う、ううん、なんでもないの。その・・・・・・、お饅頭をもら ったお礼を言い忘れてたから。どうもありがとうね﹂ ﹁いえ。もらってくださって、こちらこそありがとうございます。 じゃぁ﹂ 改めて頭を下げた彼はにっこり笑って、総務部を出て行った。 バタンと扉の閉まる音を聞いて、私はイスにへたり込んだ。 ︱︱︱何を血迷ったのかしら? 203 背を向けて去ってゆく彼の背中を見て、なんだか切なくなって、 思わず手が伸びてしまった。 この私としたことがありえない感情。ありえない行動。 ﹁やっぱり長々と惚気られて、寝不足で、仕事で疲れているからお かしくなっちゃったのかしら?﹂ 手の平に乗せられたお饅頭に視線を落とし、ポツリと呟いた。 204 37︼揺らぎ始めた女帝観念︵4︶満員電車:1 社内では産休を取る人が相次ぎ、一時的な欠員補充として派遣社 員を雇うことになった。 なぜか全員が女性。俺と大して年の変わらない彼女達は、毎日小 奇麗なメイクと服装で出社してくる。 俺からすれば“仕事をするのに、何でそこまできっちりメイクを するのか?”と、不思議でならない。 “化粧は女性のたしなみ”なんていうことを聞いたことはあるが、 これは少しやりすぎじゃないかなぁ。 あの森尾さんですら勤務中のメイクは控えめなのに。ま、仕事が 終わったらばっちり顔を作って、俺を誘いに来たりしてるけど。 ﹁ふぅ﹂ 食堂で今日の定食に手をつけながらため息。 ﹁何だよ、暗い顔して﹂ そういう岸は俺とは反対にニコニコしている。奴が笑顔全開なの は、俺達を取り囲むように派遣さんたちが座っているから。 営業部は欠員補充をしなかったので、他の部署で働く彼女達は昼 休みになると俺に群がってくる。 ︱︱︱静かに飯が食いたい。 俺の思いをよそに、彼女達はしきりに話しかけてくる。 趣味は? 休みの日は何をしているのか? どんな音楽が好みなのか? などなど・・・・・・。 205 俺をリサーチする気満々なのが鬱陶しい。 冷たくあしらった結果、﹃明日からもう来ません﹄と言われるの も困るし、かといって仲良くする気は毛頭ない。 大好きな肉じゃがを前にして、俺のテンションはいつもの半分も 盛り上がらないでいる。 ﹁はぁ﹂ 二度目のため息。 そこに俺の正面に座っている派遣さんがすかさず声をかけてくる。 ﹁北川さん。もっと楽しく食事しましょうよ♪﹂ 弾む口調のこの彼女は他の派遣さんよりも更に見事なメイクを施 し、オマケにブラウスの胸元はギリギリまでボタンがはずされてい る。 岸は落ち着かない様子でありながらも、しっかり盗み見ている。 たいていの男は岸のように彼女に興味を示すだろう。 でも俺からすれば、色気ではなく逆に下品な印象を受ける。 ︱︱︱なんか違うんだよなぁ。 “女性らしさ”や“女の魅力”というのは、着飾ることや見せ付 けることじゃないと思う。 ﹁ねぇ、北川さん。どんな女性がタイプなんですかぁ?﹂ 付けまつげをバサバサと振るわせて瞬きしながら、その派遣さん は甘える声で訊いてくる。 ﹁タイプ?・・・・・・そうだなぁ、静かに食事する女性が好みか な﹂ ニコッと笑ってやると、その場にいた女性たちは気まずそうに口 をつぐんだ。 206 夕暮れを過ぎ、肌寒さをうっすらと感じながらみさ子さんを待っ ている。 程なくして、彼女が空き地に現れた。 今日もみさ子さんのスタイルは変わらない。 出会って一年経つけど、基本的にはいつも同じ。メイクは必要最 低限で、髪型も服装もやっぱり地味としか言いようがない。 なのに、ふとした仕草が妙に色っぽい。 今も何気なく前髪をかき上げただけなのに、ドキッとしてしまっ た。 きっちりボタンが留められた襟元からのぞく細い首、控えめな色 の唇。何も塗られていない爪だけど、手入れは行き届いていて荒れ ている様子はない。 派遣さんたちとは真逆のみさ子さんのほうが、俺にとっては色気 を感じる。 ︱︱︱普段のみさ子さんを見てこんなにドキドキするなんて・・・・ ・・。この先彼女と何かあった時、俺はどうなってしまうんだろう。 そんなことを感じながら過ごしていたある日、帰りの電車でみさ 子さんと偶然乗り合わせた。 ﹁あら、北川さん﹂ 車両に入ってきた俺に、先に乗っていたみさ子さんが気付いて声 をかけてくる。 ﹁え?佐々木さん?!どうしてこの電車に?﹂ ﹁部長に頼まれておつかいに出てたのよ。それで直帰﹂ ﹁そうだったんですか。お疲れ様です﹂ 俺がそう言った時に発車のベルが鳴り、学生や会社員がバタバタ と乗り込んできた。 207 あっという間もなく、後ろから押されてみさ子さんに大接近。俺 は腕を伸ばしてつり革をつかみ、これ以上彼女を押しつぶさないよ うに背中にかかる圧力を懸命に堪える。 ﹁今日は一段と混んでるわね。大丈夫?﹂ 俺の様子を心配して声をかけてくれるが、みさ子さんにも大して 余裕はなく、お互い苦笑。 ﹁ちょっとつらいですけど、次の駅でかなり人が降りますからね。 それまでなら耐えられそうです﹂ しかし、俺の予想は大きく外れることになる。 キキーッ!! ガタンッ! ﹁きゃぁっ﹂ ﹁うわぁ!﹂ 発車した直後に急ブレーキがかかり、大きく揺れた電車は止まっ てしまった。 ﹁何だ?﹂ 車内がざわつく。 そこに流れてきたのは人身事故により緊急停車したとのアナウン ス。 幸いにも事故にあった人は軽傷で、15分ほどの安全確認が済み 次第発車するという。 しかし、帰宅ラッシュで寿司詰め状態の車内。たかが15分とは いえ、周囲の人と押し合うように立っているのは結構疲れる。 俺からすれば肉体的なきつさよりも、精神的なものが大きい状況 だったりする。激しく揺れた時、人から押されたみさ子さんが俺に くっつき、今もその状態なのだ。 俺もみさ子さんも一歩たりとて動けない。 208 ︱︱︱嬉しくって鼻血でそう・・・・・・。 いつもでは考えられない至近距離。普段はそこはかとなくしか感 じられないみさ子さんの香水が、間近で俺の鼻腔をくすぐる。 にやけてしまいそうになるのを堪えるのが、本当につらい。 ﹁寄りかかったりしてごめんなさいね﹂ みさ子さんは少しでも俺から離れようと試みているが、その隙間 はほんのわずかしか開かない。 掴まるところもなく、両足に力を入れて背中を反らすように立つ 体勢は、華奢な彼女にとってしんどいはず。 込み合った車内では仕方のないことなのに。 みさ子さんが悪いわけじゃないのに。 それでも彼女は申し訳ない表情で、どうにかしようと頑張ってい る。こんな時でも俺に甘えようとせず、必死なみさ子さんがかわい い。 俺はそんな彼女に優しく微笑んだ。 ﹁無理しないでください。僕にもたれていいですから﹂ ﹁え?でも・・・・・・﹂ ﹁あと15分もその格好でいたら、駅に着くまで持ちませんよ﹂ 彼女にくっつかれたら俺の理性はぶち切れるかもしれないが、全 身をこわばらせて俺に体重をかけないようにしているみさ子さんを 見たら、そんなことも言ってられない。 大きく深呼吸する俺。 ︱︱︱落ち着け、落ち着け。紳士的に振舞って、株を上げるチャン スだぞ。 ﹁遠慮しなくていいですから﹂ 俺がもう一度微笑みを浮かべると、みさ子さんは眉を少し寄せて 困り顔。 ﹁だけど・・・・・・。なんか、悪いじゃない?﹂ 209 ︱︱︱悪い?誰に? またしてもみさ子さんは自分以外の女性の存在に気を遣う。 ︱︱︱俺は川崎君とは違うから、甘えてくれていいのに。 ・・・・・・とは言えない。 この話、俺は何も知らないことになっているのだから。 ﹁悪いことなんてないですって。あ、嫌でしたら無理にとは言いま せんが﹂ 俺がそう言うと、やや間があってみさ子さんがぼそぼそと呟く。 ﹁嫌じゃないけど・・・・・・。恥ずかしいもの﹂ ︱︱︱恥ずかしいだけか。嫌がられてなくてよかった。 俺はわずかにほほを染めるみさ子さんを見て、ほっとする。 ﹁平気ですよ。見知った顔はありませんし、気にすることないです﹂ ︱︱︱だから遠慮なく、俺の胸に飛び込んできてください!! ﹁でも・・・・・・﹂ 彼女はまだ渋っている︱︱︱本当はつらいくせに。 歯を食いしばり、額にうっすらと汗をかいているみさ子さんを見 ていられなくて、俺は彼女の肩に手をかけて自分の方に引いた。 ﹁あっ﹂ 短く声を上げたみさ子さんが俺の胸に倒れこんでくる。 とたんに周囲の人から背中や肩を押され、みさ子さんはそのまま の体勢で完全に動けなくなった。 うつむき加減で固まった彼女の様子をそっと伺う。 ︱︱︱迷惑・・・・・・じゃないよな? 恐る恐る表情を覗き込むと、不快感はなさそうだ。 ︱︱︱ほっ。よかった。 ﹁強引ですいません。佐々木さんがあまりにもつらそうな顔をして らしたので、つい﹂ ﹁あ・・・・・・うん。まぁ、正直あの格好はきつかったから、助 かったわ﹂ 照れているのか、視線を合わさないようにして彼女が言う。 210 ぴたりと身を寄せているみさ子さんの体には、もう余計な力が入 っていなかった。 停車してから10分が過ぎた。そろそろ動き出す頃だ。 俺は置いていただけの手を彼女の肩を抱くように回し、周囲の人 から彼女を守るように包み込む。電車が動いた時の揺れで、みさ子 さんが押しつぶされないようにするために。 みさ子さんはその様子にギョッと俺を見る。 ﹁き、北川さん?!﹂ ﹁すいません、この方が安全ですので。これ以上佐々木さんがつぶ れてしまったら、明日出社出来なくなる可能性もありますし﹂ さわやかに笑う。下心など微塵もないかのように。 実際はやましい気持ちが山盛りだったけど、そこは営業で培った 演技力でごまかす。 ﹁あ、ああ、そう。ありがと・・・・・・﹂ 目を伏せてみさ子さんが礼を述べる。 数回瞬きを繰り返し、再びみさ子さんが口を開く。 ﹁あの・・・・・・、ごめんなさいね。私みたいな色気のないオバ サンにくっつかれて、北川さんにしてみたら災難よね?﹂ ﹁いえっ、そんなっ﹂ 動かせる範囲で首を横に振る。 ︱︱︱災難どころか、超ラッキーだよ。 ﹁気を遣って否定しなくてもいいのに。実際、私はオバサンなんだ し﹂ ふわりと苦笑するみさ子さん。 ﹁佐々木さんはぜんぜんオバサンじゃないですし、それに、色っぽ いところだってあります!﹂ 混み合った車内で大声は出せないが、彼女に聞こえるようにはっ きりと言う。 211 ﹁ふふっ。そう言ってもらえると、お世辞でも嬉しいわね﹂ ﹁お世辞じゃないです!本当にそう思ってます!﹂ 俺の心臓は今にも破裂しそうなほど、ドキドキしているというの に。 あなたに対する不埒な欲望が頭の中を駆け巡っているというのに。 みさ子さんが視線をチラッと上げて俺を見る。 ﹁・・・・・・じゃぁ、そういうことにしておくわ﹂ 目元を少し寂しそうに緩ませて、彼女はそう言った。 安全確認終了のアナウンスの後、電車が動き出す。 3分もすれば次の駅。この密着状態もあとわずかだ。 心臓は痛いくらいに脈を打ち、体温が一気に5度くらい上がった かのように頭がクラクラしているけど、“このまま電車が止まれば いいのに”と思っていた。 212 38︼揺らぎ始めた女帝観念︵5︶満員電車:2 ≪SIDE:みさ子≫ ﹁佐々木君。この書類を××社に届けてくれないか?﹂ 3時を少し過ぎた頃、部長がやってきて私に声をかける。 ﹁分かりました﹂ 今日は急ぎの仕事も抱えてなくて、暇つぶしに自分のデスクを片 付けていただけだから断る理由はない。 書類を受け取ろうと手を差し出すと、 ﹁あ、私が行きますよ﹂ 割り込むように2歳後輩の女の子が言う。 しかし部長は私の手に書類が入った封筒を載せた。 ﹁いや、これは佐々木君じゃないとダメなんだ。じゃ、頼んだよ﹂ 珍しく笑顔を向けて、去っていった。 実のところ、書類のお使いなんて誰でも出来ること。見積もりの 説明をするわけでもないし、商品案内をするわけでもないし。 でも、なぜかよく頼まれる。 理由は簡単。私だと無駄な寄り道をしないから。 電車で5駅のところにある××社の近くには、大手デパートや数 々のブランド店がある。私以外の女の子だとウインドーショッピン グに気をとられて届けるのが遅くなったり、最悪の場合は書類をな くした子もいた。 なので、まっすぐ相手先へ向う私にお呼びがかかるのだ。 まじめな社員として評価されている私。だけど、裏を返せば“真 面目すぎてつまらない”ということでもある。 30歳目前のお局で、色気がなくて、つまらない女。 こんな自分なんて、誰も好きになってくれるはずないわ・・・・・ 213 ・。 相手先の受付に書類を預けたあと、ちらりと見た腕時計は5時手 前だった。 部長からは帰社しなくていいと言われているので、そのまま帰る ことにする。自分が降りる駅までのんびり揺られていることにしよ う。 とはいえ、ちょうど帰宅ラッシュの時間帯。一駅ごとに乗客は少 しずつ増えていくため、そうぼんやりもしていられない。 バッグをしっかりと抱え、手すりに掴まっていた。 ﹁大崎ー、大崎ー﹂ アナウンスが会社の最寄駅を告げ、扉が開く。真っ先に乗り込ん できたのは見知った顔だった。 ﹁あら?北川さん﹂ 彼を知っているということもあるし、それに北川さんは人目を惹 く容姿をしているからすぐに気がついた。 声をかけると彼は少し驚いた顔をする。 こういうふとした表情がいつもの男らしさと違って、かわいらし く見えるところに好感を持っている私︱︱︱それはあくまでも好感 であって、恋愛感情ではない。 不思議そうにしている彼に私がこの電車に乗っていた理由を手短 に説明していると、電車が動き出した。 かと思ったら激しく揺れ、つかんでいた手すりから手が外れてし まう。 ﹁きゃっ!﹂ あまりの揺れにバランスを崩し、正面に立っていた北川さんの胸 に飛び込んでしまった。 とっさに離れようと試みるが、横からも後ろからも人に押されて 214 身動きが取れない。 ︱︱︱どうしよう!? このままくっついているのは申し訳なくって、後ろの人には悪い けど両脚に力を入れてのけぞる。 だけど、折り重なる人たちは女一人の力じゃどうにもならない。 それでもさらに力を入れて踏ん張った。 ﹁寄りかかったりして、ごめんなさいね﹂ 謝りながら全力で背後の人を押し返すが、ビクともしない。 ︱︱︱脚、つりそう・・・・・・。 変な体勢で力んでいるものだから、体のあちこちに負担がかかる。 ︱︱︱明日、筋肉痛になるかしら? そんな心配をしていたら、北川さんが不意に微笑んできた。 ﹁無理しないでください。僕にもたれていいですから﹂ ﹁え?でも・・・・・・﹂ 少しでも彼から離れようとしていた最中の私は、きょとんと彼を 見る。 ﹁あと15分もその格好でいたら、駅に着くまで持ちませんよ﹂ ︱︱︱もうすでに疲れているんだけどね。 だからと言って、﹃はい、そうですか﹄と彼の申し出を受けられ ない。“第2の小田さん”を生み出すわけにはいかないから。 ﹁だけど・・・・・・。なんか、悪いじゃない?﹂ せっかくの善意をきっぱりと断るのが忍びなくて、あいまいに答 える。 ﹁悪いことなんてないですって。あ、嫌でしたら無理にとは言いま せんが﹂ それでも彼はもたれるようにと勧めてくる。優しい物言いゆえに 断りづらい。 ︱︱︱何かいい断り文句はないかしら? 人の熱気でのぼせそうな頭を必死に巡らせる。 そして、 215 ﹁嫌じゃないけど・・・・・・。恥ずかしいもの﹂ と、呟くように返事をした。 ︱︱︱これなら彼を傷つけずに済むわよね。 心の中でほっと安堵のため息を漏らした時、なんと彼に肩をつか まれ、グッと引き寄せられる。 ﹁あっ﹂ 気付いた時には彼の胸に自分の体を押し付けるように立っていた。 ドキ・・・・・・ン。 心臓が大きく脈打つ。 体の前で手を交差させてバッグを抱えているから、胸の鼓動が彼 に伝わることはないだろうけど、ともすれば響いてしまうんじゃな いかってくらいドキドキとうるさい。 ︱︱︱ど、どうしよう・・・・・・。 周囲の人はぴったりと私に張り付き、オマケに彼が私の肩を抱い ているから身じろぎ一つ出来ない。 自分の顔が人の熱気とは違う熱で赤くなる。 私と大きく変わらない身長の北川さん。だけど、肩にある手は大 きくて、私を支える胸は広く頼もしい。しっかりと“男性”を感じ させるものだった。 それを意識した瞬間、心臓は更に激しく暴れる。 男の人にこんなに密着したことなんてなかったから、今の私は恥 ずかしさのあまり、顔から火を噴きそうだ。 でも、ぜんぜん嫌じゃなかった。 不快感どころか、安堵を覚える。 それは私を守るように立つ彼の仕草によるものだろうか。 トクン、トクン・・・・・・。 216 恥ずかしさ以外の“何か”が、一層ほほを熱くさせる。 このまま彼に身を預けてしまいそうになった時、ハッと我に返っ た。 ︱︱︱や、やだ、私ったら。何、ときめいてんのよ!! 北川さんは男として、そして後輩として私に気を遣ってくれてい るだけのこと。目の前で押しつぶされそうになっている私を見捨て られないだけのこと。 そう考えると、少しずつ冷静さが戻ってきた。 ﹁あの・・・・・・ごめんなさいね。私みたいな色気のないオバサ ンにくっつかれて、北川さんにしてみたら災難よね?﹂ いつもの私の表情になる。 ﹁いえっ、そんなっ﹂ 即座に彼が否定してくれる。 だけど、本人を目の前にして肯定できるはずもない。 ﹁気を遣って否定しなくてもいいのに。実際、私はオバサンなんだ し﹂ ︱︱︱私は私のことを誰よりも分かっているんだから。 苦々しい笑みが口元に浮かぶ。 なのに、彼はまじめな顔で言い返してきた。 ﹁佐々木さんはぜんぜんオバサンじゃないですし、それに、色っぽ いところだってあります!﹂ ︱︱︱色っぽい?私のどこに色気があるって言うのよ? 年がら年中地味な色のスーツに身を包み、化粧っ気はほとんどな く、髪なんてばっさり切りそろえたままの黒髪。今流行の巻髪なん て、どうやったらいいのか分からない。 加えてこのメガネ。実用重視で、おしゃれ度はゼロ。 こんな私をつかまえて﹃色っぽい﹄とは、いったい何の冗談だろ 217 うか。 ところが、チラッと見上げた彼の瞳にからかいの色はない。 ︱︱︱・・・・・・本気で言ってるの? 心の中でそっと呟く。 が、それをすぐさま打ち消す。 ︱︱︱ありえないわね。北川さんは営業部の人間だもの。このくら いのリップサービスはたやすいものよね。 彼はきっと、私が言えば言うほど﹃違います﹄と、返してくるだ ろう。 そんなやり取りを繰り返せば、自分がみじめな存在に思えてくる。 だから私は、 ﹁・・・・・・じゃぁ、そういうことにしておくわ﹂ と軽く微笑み、この会話にケリをつけた。 ようやく電車が走り出したものの、駅に着くまではこのまま。 恥ずかしさはいまだに消えていないが、彼の腕の中は妙に居心地 がいいからドキドキが少し収まってきた。 だけど彼の腕は本来“私以外の女性”を抱きとめるためのもの。 “ここ”が私の居場所であるはずがない。 ︱︱︱勘違いするほど、私は愚か者じゃないわ。 あの時の事は、絶対に繰り返すべきではない。 自分のせいで他の女性を傷つける苦しみは、もう二度と味わいた くない。 そう思うのに、彼がすごく優しい瞳で私を見るから。 ︱︱︱ほんの少しだけなら、甘えてもいい・・・・・・かな? 218 私はさっきよりもちょっとだけ、彼に体重をかけた。 彼よりも一駅先に降りた私は、マンションへと歩きながら自己嫌 悪と猛反省を繰り返していた。 ︱︱︱何やってんのよ、私!! 男の人に甘えるなんて、してはならないことだ。 まして、彼のように女性の視線を一身に集める人には、絶対に甘 えてはならなかったのに。 ︱︱︱なんで? 彼がそばにいると、どうも自分のペースが狂う。 そのことに嫌悪感はないが、頭の中心が“危険だ”という信号を 発する。 ︱︱︱以前はこんなこと、なかったのに。 このところ立て続けに妹から惚気話を聞かされて、精神的に疲れ ているからだろうか。 ﹁今夜こそ、留美の長電話に付き合うのはやめなくちゃ﹂ このままだと確実にマズい方へと流されてしまいそうな予感がす る。 妹には悪いけど、携帯電話を留守電設定に切り替えた。 219 39︼揺らぎ始めた女帝観念︵6︶ ≪SIDE:みさ子≫ あの満員電車でのアクシデント以来、私は自分をきつく戒める︱ ︱︱あ、私にとってではなく、北川君にとってのアクシデントと言 う意味ね。オバサンの肩を20分近くも抱いていたなんて、彼にと って苦痛だったに違いないもの。 高1からこれまでの人生で、多少の寂しさはあったが後悔はして いない。 男性に媚びず、甘えず、期待せず。 こういう生き方が私にふさわしいのだ。 今日も朝からきっちり﹃お局様﹄として仕事に臨んでいる。 いままでは休憩時間や就業後は勤務中よりも多少は気を抜いてい たけど、最近は出社してから退社するまでお局スタイルを崩さない。 なのに、それでも北川さんはこれまでと変わらない態度で私に接 してくる。 ︱︱︱気を張っているつもりでも、お局が崩れているのかしら? 自分の行動を思い返す。 ︱︱︱そんなはずないわね。ついさっきすれ違った部長ですら、私 と目を合わそうとしなかったんだもの。 異様な緊張感を放つ私に、かなりなついている沢田さんですら一 歩引いていた。 それなのに⋮⋮。 ﹁おつかれさまです。また饅頭をもらってしまったんですけど、食 べてもらえますか?﹂ 220 就業後、猫に餌をあげていると北川さんがやって来てそう言った。 ニコニコと人懐っこい笑顔で、私にお饅頭を差し出している。 ︱︱︱どうして、この人はいつもどおりなの? 彼が自分になつく理由が分からない。 知り合って一年。部署が違うのにいつの間にか親しくなり、私の そばで当然のように立つ彼︱︱︱そこがまるで自分の居場所である かのように。 ﹁どうぞ﹂ 左手で私の手を取り、右手に持っていたお饅頭を載せてくれる。 ﹁ありがと⋮⋮﹂ お礼を言うと、彼はことさら嬉しそうに笑った。 それからは2人で猫を眺める。お互い言葉もなく、ただ猫を見て いる⋮⋮のは北川さんだけ。私は猫の様子が目に入らないほど、考 え事に没頭していた。自分の横に立つ、この男性についてだ。 猫を介して親しくなったものの、それ以上はどうにも変わりよう がない﹃職場の先輩と後輩﹄というだけの関係のはず。 なのに、今年に入ったあたりから彼の様子が去年とは違うように 思える。うまく表現できないけど、“親しみが深くなった”とでも 言えばいいだろうか。ふとした仕草や視線が優しくなった気がする のだ。 ︱︱︱なんで? まったく分からない。 私のそばにいる理由も、私と親しくする訳も、優しい視線の意味 も、何もかもが理解できない。 私は自分が社員たちから﹃女帝﹄と呼ばれ、年齢、部署を問わず 恐れられていることを知っている。それに関しての異論はない。自 分でも会社の中の私の存在はそういうものだろうと思っているから。 仕事しかとりえのないこんな私と一緒にいるメリットなんて、彼 にはないのに。 221 ︱︱︱なんでなの? 口の中で小さく呟く。 その時、以前彼が話していたことを思い出した。何かの拍子で家 族構成の話題になり、お互いの家のことをしゃべったっけ。 ︱︱︱確か、お姉さんがいるって⋮⋮。 それで彼の言動が腑に落ちる。 ︱︱︱私のことを“姉”という感覚で見ているんだわ。 末っ子だとも言っていた。きっと彼は、末っ子特有の甘えん坊な 気質があるのだろう。だから私になつくのだ。 その考えに納得する自分。 それと同時に、胸の奥にすっと隙間風が入り込むような侘しさを 感じた。 北川さんが私のことを﹃姉﹄として見ていることに、なぜ寂しさ を覚えるのだろう。 ︱︱︱それっていったい⋮⋮? 再び頭の中で警鐘が鳴る。“それ以上は考えるな”と。 ︱︱︱そうね。彼がどんな目で私を見ていようとも、どうでもいい ことだわ。私は私らしく、生きていくだけだもの。 こっそりと苦笑いをし、そっとため息をついた。 ゆっくりと目を伏せると、足元にはいつの間にかヒメが来ていた。 しゃがんで頭をなでてやる。 ﹁ニャン﹂ 短く鳴いて、じっと私を見上げるヒメ。きらきらと宝石のように 輝き透き通った瞳は、何か言いたげだ。 ︱︱︱何でもないから、心配しないで。 心の中でヒメに語りかける。 ︱︱︱疲れているから、ちょっと人恋しい感傷に流されているだけ。 そう、自分は疲れているのだ。 222 携帯を留守電設定にしてから妹の長電話はなくなったが、替わり に膨大な量のメールがたびたび届くようになった。 妹の幸せは喜ばしいけど、ここまでされると困惑する。 ︱︱︱⋮⋮そう言えば、いくら怒っても冷たくあしらっても、あの 子は私から離れることはなかったわ。 留美も北川さんも末っ子。どうやら自分はそういう人に好かれる らしい。 ︱︱︱こういうのも体質っていうのかしら?まぁ、多少面倒なとこ ろもあるけど、嫌われるよりはいいのかもね。 北川さんになつかれている理由を、そう結論付けた。 223 40︼微妙な距離のまま、季節は巡る︵1︶ 蒸し暑い梅雨が終わり、本格的な夏を前に俺は岸と会社近くのビ アガーデンに来ていた。 ﹁おつかれ﹂ グラスを合わせ、ビールを一気にあおる。 ﹁っはぁ、うまいなぁ﹂ 満面の笑みを浮かべる岸につられて、俺も笑う。 ﹁仕事の後に飲むと、更に美味い気がするよな﹂ ﹁そうそう、企業戦士のつかの間の楽しみだぜ。⋮⋮よし、明日は 休みだから飲み倒すぞ!﹂ そう言った岸がさっそくお代わりを注文した。 ﹁ところで、北川ぁ﹂ いい感じに酔いが回ってきた岸はとろんとした目つきで俺を呼ぶ。 ﹁あ?﹂ フライドポテトに伸ばしかけた手を止めて奴を見ると、ニヤニヤ と薄気味悪く笑っていた。 ﹁お前の好きな人って誰だよぉ?﹂ ︱︱︱またこの話か。 酒の席では必ずこの話題になる。いい加減、うっとうしい。 ﹁教えねぇって言っただろ!﹂ 俺はやけ気味に口の中へポテトを放り込む。 ﹁なんだよ、教えろよぉ。⋮⋮じゃぁ、誰とは言わなくていい。ど こで会ったのかだけでも教えろ。駅か?近所のコンビニか?それと も取引先か?﹂ 岸の選択肢に“会社”は含まれていなかった。 ﹁“社内恋愛だけは絶対にしない”と断言したお前が、会社以外の どこで女を見つけたんだよぉ﹂ 224 ︱︱︱ああ。入社当時はそんな主義を掲げていたっけ。 その時は本気でそう考えていた。恋愛が原因で仕事に悪影響が出 るのはごめんだったから。 だけど、今はその主義をひっくり返してでも、みさ子さんが欲し い。 ﹁今夜こそ、絶対に訊きだしてやるからなぁ。すいませぇん、大ジ ョッキ2つ∼﹂ 岸が張り切って注文を入れる。どうやら俺を酔わせて、どさくさ まぎれに訊きだす作戦のようだ。 ︱︱︱ま、無理だろうな。 酒にはめっぽう強い俺。誰と飲み比べても負けない自信がある。 俺は苦笑を隠しつつ、ビールに口をつけた。 案の定、岸のほうがつぶれる羽目に。 ﹁ったく、しっかりしろよ﹂ ふらついているが意識はある岸をタクシーに押し込んだ。 ﹁うう∼。お前がこんなに酒が強いなんて、ずるいぞぉ﹂ 手をばたばたさせ、子供のように駄々をこねている岸。そこに可 愛げは一切ない。 ﹁ずるくねぇよ。悔しかったら、俺より飲めるようになればいいだ ろ﹂ なんて言い返しているけど、実はちょっとだけ頭がぼんやりして いる。 ︱︱︱明日が休みでよかった。 半日ものんびりしていればアルコールは抜けきるだろう。 ほっとすると同時に、寂しくもある。 会社に行かないということは、みさ子さんに会えないということ だから。 225 翌日、昼過ぎに起きた。 ﹁ふわぁ∼﹂ 大きなあくびとともに背伸び。アルコールは残ってないようだ。 今日は何の予定もないので二度寝をしてもいいのだが、せっかく の休日をベッドの上で過ごすのはもったいない。 ﹁そういや、あの映画の公開が始まってたな。行ってみるか﹂ 一人で映画を見るのはやや侘しいが、どうせ岸は二日酔いでつぶ れているだろうし。 簡単な食事の後、お気に入りのTシャツとジーンズに着替えて家 を出た。 普段使っている駅から一つ先の駅に、直結型のシネコンがあるの でそこに向った。 車で行っても良かったんだけど、出先で酒が飲みたくなるかもし れないので電車を使う。その駅なら定期の範囲だから電車賃が浮く しな。 3時間にも及ぶ長編映画を堪能し、駅ビル内の小洒落たイタリア ンレストランでビールとピザを注文。 ふと携帯を見るとメールの着信履歴があった。 ﹁誰だ?﹂ 開いてみると、差出人は岸。 ﹃気持ち悪くて、死にそう・・・。 助けてくれ﹄ この時間になっても酒が抜けてないようだ。思った以上に酒に弱 いらしい。 クスリと笑い、返信を打つ。 “二日酔いはどうすることもできねぇよ。 226 腹いっぱい水を飲んで、おとなしくしてろ。 俺はおいしいビールと、おいしいピザでご機嫌♪” このメールを見て恨めしそうな顔をする岸を思い浮かべつつ、俺 はビールをお代わりした。 ﹁ふぅ、ちょっと飲みすぎちゃったかな﹂ 酔っぱらったとまではいかないけれど、酔い醒ましのために少し 歩こうと思った。 店を出るとそこにはたくさんの女性が。 俺目当てに集まった・・・・・・ということではなく、この上の 階にあるカルチャースクールの生徒さんたちだ。ちょうど授業が終 わったのか、ぞろぞろと駅に向っている。 ︱︱︱もしかしたら、みさ子さんも何か習いに来てたりして。 この駅で乗り降りしている彼女だから、ここに通っている可能性 は無きにしも非ず。淡い期待を胸に視線を巡らせると、なんと、前 方に彼女の後姿を見つけた。 ︱︱︱やったね♪ 明日まで会えないはずのみさ子さんを見かけて、思わず嬉しくな る。 もう少しその姿を見ていたくて、こっそり後をつけ始めた。幸い、 スニーカーをはいている俺の足音はほとんどない。 駅ビルを出て大半の人は左に進み、バス停やタクシー乗り場へと 向う中、このあたりに住んでいるみさ子さんは一人右へ。 今日の彼女は淡いブルーのサマーニットとベージュのパンツ。勤 務中に見かける服装と比べると、格段に明るい。 ︱︱︱いつも、あんな感じだったらいいのに。そうすれば、みさ子 さんに対する印象はだいぶよくなると思うんだけどなぁ。 気付かれない程度の間隔を保ちながら歩いていると、みさ子さん 227 がある公園へと入っていった。 大きく立派な園内の割には外灯が少なく、薄暗い。それでも彼女 の足取りに迷いはない。きっと、普段から近道として使っているの だろう。 ︱︱︱でも、危ないよなぁ。公園の外からの見通しも悪そうだし。 何かあっても気付いてもらえないじゃないか。 すたすたと歩く彼女の背中を遠目に見ながら、心の中で呟く。 世の中、悪い予感ほど的中するのはなぜだろう。 みさ子さんが大きな植え込みの前を通りかかった時、その暗がり から人が飛び出してきて、あっという間に彼女を茂みに引き込んだ。 ︱︱︱マズいっ!! あわてて駆け出し、茂みに分け入る。 そこで目に入ってきたのは、口に布を押し込まれ、2人の男に押 さえつけられていたみさ子さんの姿。 ﹁お前ら、何やってんだ!!﹂ かっとなった俺は、遠慮なくそいつらをけり倒す。みさ子さんに 襲い掛かるやつらに、手加減なんかしてやるもんか!! 渾身の力を込めて、3発ずつ怒りの鉄蹴をくらわせた。 ﹁うっ・・・・・・﹂ ﹁ぐぇっ!﹂ 突然現れた俺に男たちは慌てふためき、鈍いうめき声を上げた後、 地面を転がるように逃げていった。 ﹁ちっ!﹂ 走り去ったやつらの背中を睨みつけ、思いっきり舌打ちをする。 追いかけて警察に突き出してやりたかったが、今はみさ子さんが心 配でこの場を離れられない。 ﹁大丈夫ですか?!﹂ 228 横たわったままの彼女を抱き起こし、口の詰め物をそっと取り出 す。 放心状態で声も立てずにカタカタと振るえているみさ子さんがか わいそうで、思わず胸に抱きしめてしまった。 ﹁もう平気ですよ。僕がそばにいますからね﹂ 落ち着かせようと、優しく彼女の背中をなでる。それでもなかな か彼女の震えは止まらず、細い肩は揺れ続ける。 ﹁大丈夫です。大丈夫ですよ﹂ 俺は根気よく声をかけ、何度の背中をなでた。 真っ青な顔のみさ子さんが遠慮がちに俺のTシャツをつかみ、身 を寄せてくる。 その様子がたまらなく愛しくて。 俺を頼ってくれているのが嬉しくて。 胸の奥から﹃この人を守りたい﹄という思いが湧き上がり、抱き 寄せる腕に自然と力がこもる。 こういう時、自分は本当にみさ子さんが好きなんだなぁって実感 する。たとえ彼女が俺の気持ちに鈍感でも、俺の想いは変わらない。 しばらくして、ほっと短く息を吐いたみさ子さん。震えも止まっ たようだ。 ゆっくりと顔を上げ、パチパチと瞬きをし、俺を見てギョッとし た。 ﹁北川さん?!どうして?!﹂ ﹁駅のレストランで少し飲んでたんです。酔い覚ましにこの辺をう ろうろしていたら、たまたまここを通りかかって。それで・・・・・ ・﹂ “後をつけていた”とは、口が裂けても言えない。 ﹁そうだったの。おかげで助かったわ﹂ 雰囲気を微笑ませるみさ子さん。落ち着きを取り戻した彼女は、 そこで今の状況を初めて理解する。 229 閉じ込められるように俺の腕に抱かれている。あの満員電車の時 よりも、密着度は増していた。 これまで青かった顔が、さっと赤くなる。 ﹁あ、あのっ、ごめんなさいっ﹂ みさ子さんは急いで立ち上がろうとするが、腰が抜けてしまって いるようで脚に力が入らない。 ﹁やだ、もうっ、私ったら!!本当にごめんなさいね。迷惑よね?﹂ 眉をきゅっと寄せて、心底済まなそうな表情のみさ子さん。 ﹁迷惑だなんて、とんでもない﹂ にっこりと微笑み返す。 ︱︱︱助けることが出来た上に、こうやってみさ子さんを抱きしめ ることが出来て嬉しいのに。 俺の胸に収まっているみさ子さんの顔はすぐ間近にあって、今に もキスが出来そうだ。・・・・・・しないけど。 動けない彼女にそんな卑怯な真似は出来ない。 ︱︱︱みさ子さんが俺の想いを受け止めてくれるまで、キスは取っ ておこう。その代わり・・・・・・。 回した腕にそっと力を入れて、やんわりと抱き寄せた。 それからもうしばらく経って、ようやくみさ子さんは立ち上がる ことが出来た。服についたほこりや木の葉を手で払っている。 ﹁どうもありがとう。北川さん、帰っても大丈夫よ﹂ ﹁いえ、お宅まで送ります﹂ 彼女が心配で、とても一人には出来ない。それに家までの道のり を2人で歩けるんだから、願ってもないチャンス。 ﹁え?そんな、悪いわよ。私だったらもう平気だし﹂ 確かに、彼女の顔色は元に戻ったようだし、足取りもしっかりし 230 ているけど。 ﹁だめです。また襲われたらどうするんですか?﹂ どんなに抗ったところで、華奢なみさ子さんの力が男にはかなう はずないんだから。 ﹁さっきのは、ホントたまたま。そんなこと、もう二度とあるわけ ないじゃない﹂ 苦笑を漏らす彼女に、俺は断固として譲らない。 ﹁万が一ということもありますからね。用心に越したことはないで す。さ、行きましょう﹂ 彼女の返事も聞かずに、俺は歩き出す。 先に立つ俺に、みさ子さんは微妙な表情でそっと目元を緩めた。 みさ子さんが住むマンションまで、無事に到着。 ﹁わざわざありがとう﹂ ﹁いいえ。いい酔い覚ましになりましたから﹂ ﹁ふふっ。それならよかったわ﹂ 俺の言葉にみさ子さんは苦笑する。 ﹁そうだ。佐々木さん、これからはあの公園を通り抜けないほうが いいと思いますよ﹂ 今日は俺が助けに入ったけど、そんな偶然この先もある保障はな い。 ﹁昼間はともかく、夜はあの暗さですから危ないです﹂ ﹁ん∼。でも、あの道から帰ると10分は短縮できるんだもの﹂ そう言いながらも、先ほどの体験がよほど怖かったのか、 ﹁そうね。遠回りでも、住宅街を抜けていくわ﹂ と、最終的には了承してくれた。 ﹁それにしても、まさか自分が痴漢に遭うなんて考えたこともなか ったわ。私のような“見るからにつまんない女”に手を出すなんて、 世の中には変わり者がいるのね﹂ 231 くすくすと笑いながら、みさ子さんが言う︱︱︱だけど、瞳の奥 は寂しそうな光を浮かべて。 ﹁さっきの男たちはよほど欲求不満だったのね。こんな私を襲うな んて﹂ 俺とは視線を合わせないようにして、彼女は話し続ける。 ﹁女だったら誰でもよかったのかしら?﹂ ﹁・・・・・・佐々木さん?﹂ ﹁体だけが目的なら、そうなのかもね。見た目なんて関係ないんだ し﹂ 一向に自虐的な発言を止めようとしない彼女に、こっちが泣きた くなる。 ︱︱︱あなたは俺の心を捉えて放さないほど、魅力的な女性なのに。 どうしてもっと自信を持ってくれないんだ? これ以上、彼女が自分自身を傷つけてしまわぬように、 ﹁僕、帰りますから﹂ と、さえぎった。 ﹁あ、うん。気をつけて帰ってね﹂ 突然割り込んだ俺に、みさ子さんはちょっと驚きながらも微笑ん だ。 ﹁はい。おやすみなさい。失礼します﹂ 背を向けて立ち去ろうとした俺に、みさ子さんが小さく早口で言 った。 ﹁・・・・・・北川さんってスーツだとほっそりして見えるけど、 すごくたくましいのね。さっき、抱きしめられてドキドキしちゃっ たわ﹂ ﹁︱︱︱えっ?!﹂ 振り向いた時にはみさ子さんはすでにエントランスに向って歩き 出していて、その表情をうかがい知ることは出来ない。 中に入る直前にこっちを見て、 232 ﹁おやすみなさい﹂ と、普段どおりの彼女の顔で一言だけ告げて、エレベーターへと 姿を消した。 ︱︱︱すごくたくましいのね。 ︱︱︱ドキドキしちゃったわ。 そんなことを言われたら、俺のほうがドキドキだ。 ﹁うおおおおおおっっっ!!!﹂ 住宅街では迷惑極まりない大きな雄たけびを上げ、俺は自分のア パートまでの一駅分の道のりを全力疾走した。 233 41︼微妙な距離のまま、季節は巡る︵2︶ 翌日出社すると、ホクホクと嬉しそうな俺とは対照的にだるそう な岸をエントランスで見かけた。 ﹁北川がこんなに薄情な奴だとは思わなかった・・・・・・﹂ 顔を合わせるなり、じろりと睨んでくる岸。 ﹁何だよ、いきなり﹂ ﹁気持ち悪くて苦しんでいる俺をほったらかしにして、自分はビー ルとピザを楽しんでいるんだからな∼。ホント、友達甲斐のない男 だよな∼﹂ シクシク、と泣き崩れる振りをしている。 ︱︱︱だから、そういうことしたって可愛げないっつーの!! 奴の後頭部をこぶしで軽くコツンとぶってやった。 ﹁二日酔いになったのは自分の限界を知らずに飲んだ自分の責任だ ろ。俺に八つ当たりすんなよ﹂ ﹁当たりたくもなるさ。目の前でそんなニヤけた顔をされれば﹂ ﹁べ、別に、ニヤけてなんかっ!?﹂ 俺はあわてて顔の筋肉に力を入れる。 この前の満員電車といい、昨日といい、みさ子さんと密着する機 会に恵まれてつい頬が緩んでしまう。 ︱︱︱最近、いい感じだよな。運が向いてきたのか? なんとなく神様も﹃頑張れよ﹄と、応援してくれているように思 う。 ︱︱︱昨日なんか、しっかり抱き寄せちまったもんなぁ。 見た目にも華奢なみさ子さんは、抱き締めるとその儚さをリアル に実感。女性特有の細くしなやかな抱き心地は、今も俺の腕に残っ ている。 ︱︱︱いつの日か、遠慮なく抱きしめてぇ!! 234 苦しいと言っても放してあげない。 恥ずかしいと言っても逃がしてあげない。 腕の中に閉じ込めて、何度も何度もキスしたい・・・・・・。 ﹁︱︱︱っ!!北川っ!!﹂ 名前を呼ばれた上に、肩を揺すられてハッと我に返る。 ︱︱︱やべっ、トリップしてた。 ﹁返事もしないほどボンヤリして、どうしたんだよ?﹂ ﹁え、あっ。も、もしかして、昨日の酒が残っているのかな?は、 ははは・・・・・・﹂ 乾いた笑いを浮かべる俺を、岸は不思議そうな目で見ていた。 これ以上岸に余計な突っ込みをさせないために、いつも以上に気 を引き締めて仕事をしていたせいか、退社時間にはぐったり。 ﹁これはもう、みさ子さんと猫たちに癒してもらうしかないなぁ﹂ いそいそと空き地へ向うと、すでに人の気配がする。 ﹁お疲れ様ですっ﹂ と、声をかけようとした俺の動きが止まった。 あわてて建物の影に身を隠す。 ︱︱︱な、な、なんで森尾さんがいるんだ?! てっきりみさ子さんがいるんだと思ったのに。 いや、みさ子さんもいるけど、今日はなぜか森尾さんもいる。し かも思いっきり不機嫌な顔で、みさ子さんを睨みつけている。 ︱︱︱2人の間に何があったんだ? ケンカとはどうも様子が違う。 怒っているのは森尾さん一人。みさ子さんはどうして自分に怒り をぶつけてくるのか理解できないようで、困った顔をしていた。 仕事のミスで森尾さんが怒られるのなら分からなくもないが、こ 235 の状況はいったい? 息を飲んで見守っていると、森尾さんが口を開いた。 ﹁佐々木さんは、北川君とどういう関係なんですかっ?﹂ 小型犬が吼えるみたいに、甲高い声で叫ぶ。 それを聞いたみさ子さんは盛大に首をかしげた。 ﹁どういうって・・・・・・、職場の先輩と後輩よ﹂ 森尾さんの神経を逆なでしないようにみさ子さんは穏やかに返す が、それがかえって彼女の癪に障ったらしい。 ﹁そんなのウソです!!﹂ 離れていても耳にキン、と響く高音。今はみさ子さんとの間に少 し距離があるけど、掴みかかりそうな勢いだ。 ︱︱︱どうしよう。間に入ったほうがいいんだろうか? 女性同士の言い合い︱︱︱といっても、一方的に森尾さんが怒っ ているだけなんだけど︱︱︱は、男同士の喧嘩と勝手が違って、ど う止めに入ったらいいのか分からない。 ここで俺が割り込んだら、火に油を注いでしまいそうな予感がす るし。 申し訳ないが、ここはみさ子さんに任せよう。ほら、悪い予感は 当たるって前例があるからな。 森尾さんに強い口調で詰め寄られても、みさ子さんは努めて冷静 さを崩さないでいる。 ﹁“ウソ”と言われても、それより他に言いようがないもの。ねぇ 森尾さん、どうしてそんな風に思うの?﹂ この状況を少しでも把握しようと、みさ子さんは優しく説明を求 める。 すると、森尾さんは両手をグッと握り締め、ツンと顎を反らした。 ﹁私、見たんです!﹂ 小柄な森尾さんが、女性にしては背の高いみさ子さんを見上げる 視線はまるで火花が散っている。 236 ﹁見たって、何を?﹂ その程度ではまったく動じないみさ子さん。さすが女帝だ。 ﹁まだしらばっくれるんですか?2人並んで歩いていたくせにっ! !﹂ 森尾さんの吠える声に、みさ子さんがパチパチッと瞬きをする。 ﹁あっ。それって、昨日の夜のこと?﹂ ﹁そうですっ!!﹂ 怒りマックスの森尾さんとは反対に、みさ子さんはふっと苦笑し た。 ﹁それ、偶然なの。カルチャースクールから帰る途中、痴漢に遭っ てね。近くまで映画を見に来ていた北川さんが、たまたま通りかか って助けてくれたのよ。それで、念のために家まで送ってくれたっ て訳。森尾さんはそれを見かけたのね﹂ ﹁・・・・・・本当ですか?﹂ そんなうまい話あるわけない、と言わんばかりに森尾さんは疑心 たっぷりの視線を向ける。 ﹁本当よ。気になるなら下平の交番に問い合わせてみて。そこに私 の調書があるはずだから﹂ みさ子さんを送る途中、交番に被害届けを提出した。この先また、 みさ子さんや他の女性が襲われないために、パトロールの強化もお 願いしたのだ。 ここまで言われて、森尾さんは引き下がるしかない。 ﹁・・・・・・分かりました。信じます﹂ 森尾さんがそう言うと、みさ子さんはほっと胸をなでおろした。 ﹁まだそんなに遅い時間じゃなかったのに痴漢が出るなんて、世の 中物騒よね。森尾さんも気をつけないとダメよ﹂ 後輩にそっと注意を促す。 森尾さんの勝手な勘違いの被害を受けたにもかかわらず、身の安 全を心配してあげるとは、人間の器が違う。森尾さんがかなう相手 じゃない。 237 ︱︱︱みさ子さん、かっこいい∼。 人知れず感心していると、さらりと前髪をかき上げてみさ子さん は話を続ける。 ﹁それと、何か誤解しているみたいだけど。あんなにかっこいい北 川さんとこんな私がどうにかなるはずないでしょ。彼にはあなたみ たいな可愛い人がお似合いよ﹂ 森尾さんの肩に触れ、にっこりと笑いかけるみさ子さん。 とたんに森尾さんはパァッと明るい笑顔になる。 ﹁ありがとうございますぅ♪やっぱり、佐々木さんもそう思います かぁ?﹂ 先ほどまでの怒りはどこへやら、﹃俺とお似合い﹄と言われた森 尾さんはすっかり上機嫌だ。 一方、これまでの浮かれっぷりが木っ端微塵に砕け散り、どんよ りと落ち込む俺。 ︱︱︱いったい、いつになったら少しは俺のことを意識してくれる んだろう・・・・・・。 この日、俺はみさ子さんにも猫たちにも顔を合わせないまま、ト ボトボと帰っていった。 238 42︼微妙な距離のまま、季節は巡る︵3︶ まぁ、こんな風にヘコむこともあるけど、俺の想いは変わらずみ さ子さんへと一直線。 夕暮れの風にほんのり秋の気配を感じるようになった。 営業部の吉田 治先輩と、総務部の後藤 麻奈美さんが結婚する ことになったので、この日は合同でお祝いパーティーが催されるこ とになっている。ちなみに、後藤さんは2ヵ月後に寿退社をするよ うだ。 社長の計らいで、このあたりでそこそこ有名なホテルのパーティ ー会場に営業部と総務部の社員が集まる。 忘年会の時ほど豪華じゃないが、社員のお祝いにしてはかなり立 派な部屋。ウチの社長は本当に社内恋愛に寛容だ。 会場内のテーブルはまるで披露宴のようにセッティングされてい て、高砂には吉田先輩と後藤さん。参加者は一テーブルに五人ずつ 座るようになっているが、俺の席にはみさ子さんが一人いるだけ。 どうしてこんなラッキーなことになったのか? それはひとえに俺の日頃の行いが良かったことと、みさ子さんへ の愛情の賜物に違いない。 このテーブルには本来みさ子さんの他に総務の社員三人と、永瀬 先輩が座ることになっていた。 ところが、総務の人たちはそろって熱を出して本日欠勤。先輩は 急遽取引先に呼び出されて中座。 俺は今夜◆◇デパートとの打ち合わせが外せなくて欠席する予定 だったのだが、先方にトラブルが起きて打ち合わせは延期に。 せっかくだからと永瀬先輩のピンチヒッターとしてお祝いに駆け つけたら、みさ子さんと俺の二人だけのテーブルが完成、というな 239 んともすばらしい偶然の結果だ。 営業部部長の挨拶が終わり、総務部部長の挨拶へと切り替わる隙 に、俺はもともと座っていたみさ子さんの対面の席から彼女の右隣 へと移動する。 ﹁北川さん?﹂ とたんに怪訝な顔をするみさ子さん。 ︱︱︱そんな顔しないでよ。落ち込むじゃん。 喜んでくれ、とは言わないが、せめて困ったような表情はやめて ほしいなぁと思う。でも、そんなことでメゲる俺じゃない。 ﹁あの席だと振り向かないと前が見えないんで、首が疲れるんです よ。このテーブルにはもうどなたも着かないから、ここに座っても いいですよね?﹂ ﹃いいですよね?﹄と尋ねておきながら、彼女の返事も待たずに ストンと腰を下ろす。 上司たちの挨拶が終われば席なんて適当に入れ替わってしまうだ ろうから、今だけでもみさ子さんの傍にいないと。 ﹁まぁ、空いてるからいいけど﹂ 嬉しそうでもないけど嫌がってもいないので、俺はここに居座る ことを決めた。さっそくみさ子さんへ話しかける。 ﹁うちの会社、社内恋愛に関してはオープンなのに、あの二人はず っと内緒にしていたんですね﹂ お祝いパーティーが開かれる段階となって、俺は吉田先輩と後藤 さんの関係を知った。 ﹁事情は人それぞれあるんじゃない?みんなに認めてもらいたいと いう人は周りに知らせるだろうし。後藤さんたちは穏やかな恋愛を 好むタイプだから、お互いのペースで大事に恋愛してきたのよ﹂ ﹁なるほど。でも、突然“結婚”や“寿退社”と聞かされるとびっ くりしますよ﹂ ﹁ふふっ、そうね﹂ スピーチ中の部長に目線を向けながら、みさ子さんが小さく笑う。 240 ﹁・・・・・・佐々木さんも突然、寿退社したりして?﹂ これまで彼女に関する浮いたうわさは一切なく、普段のみさ子さ んの行動を見ていてもそんなはずはないだろう。だけど、どんな反 応をするのかちょっと見てみたくて、話を振ってみたのだ。 するとみさ子さんは俺の方へとゆっくりと顔を向け、一瞬眉をひ そめた後にぷっと吹き出した。 ﹁そんなことはまずないわね﹂ 俺があまりにとっぴな事を言ったのがツボにはまったらしく、み さ子さんはくすくすと笑い続ける。 ﹁だって、結婚どころか彼すらいないのよ。そんな私がどうやって 寿退社するのよ﹂ ﹁彼氏、いないんですか?﹂ 分かってはいたけど、つい念のために確認してしまう。 ﹁北川さん、そんなまじめな顔で言わないでくれる?傷つくじゃな い﹂ 笑いを収めたみさ子さんがチロリとにらんできた。 ﹁あっ、すいません﹂ 肩をすくめてシュンとうなだれる俺。その姿を見て、みさ子さん がまた吹き出す。 ﹁冗談よ。私はその程度でショックを受けるほど繊細じゃないから、 気にしないで﹂ ふわっと雰囲気を微笑ませたみさ子さんは少しだけ俺を見て、ス ピーチを続ける部長に目をやった。 ﹁・・・・・・それなら、俺が立候補します﹂ ﹁えっ?﹂ 視線だけを俺に向けるみさ子さん。スピーチに集中してよく聞き 取れなかった彼女は、数回瞬きをしたあと、首をかしげる。 ﹁ごめんなさい。聞こえなかったわ﹂ 済まなそうな表情をするみさ子さんに向って、改めて口を開く。 ﹁“僕が佐々木さんの彼氏に立候補します”と言ったんですよ﹂ 241 しっかり聞こえるように、ゆっくりと言った。 ギョッと目を見開いた彼女は見事に硬直。 みさ子さんに対する自分の気持ちを自覚して約半年。そろそろ行 動を起こしてもいい頃だろう。そう考えた俺は思い切って、口にし たのだ。 ﹁佐々木さん、今のは聞こえましたよね?﹂ たっぷり10秒後、尋ねる俺の目をじっと見て、みさ子さんがこ っくりと大きくうなずいた。 今度はしっかり彼女の耳に届いたようだ。 ︱︱︱よし! 俺が心の中でガッツポーズ。 ︱︱︱さぁ、この後はどういう反応をとる? 期待でワクワクと弾む胸を必死で押さえ、みさ子さんの返事を待 っていると、予想外のリアクションが返ってきた。 切れ長の瞳を綺麗に細め、盛大に吹き出したのだ。 ちょうどスピーチが終わり、拍手の音が周りに響いたため、誰も こちらの様子には気がついていない。 ﹁あははっ、何言ってるのよ。あー、おかしい﹂ ︱︱︱え? 呆然とする俺の耳の奥で、拍手と彼女の笑い声が渦巻く。 ﹁そんなまじめな顔して、冗談言わないで﹂ 笑いすぎて滲んだ涙を、綺麗な指でぬぐうみさ子さん。 ︱︱︱冗談なんかじゃないです!! 俺が口を開こうとした時、みさ子さんは総務の部長に呼ばれた。 ﹁ちょっと行ってくるわね﹂ 歩いていってしまった彼女の背中を見つめながら、途方もなく寂 しくなる。 242 ︱︱︱せっかく勇気を出したのに・・・・・・。 まだ時期が悪いというのだろうか? いつになったらいいタイミングが廻ってくるのか、まったく分か らない。 ︱︱︱ちくしょう、負けねーぞ!! 乾杯用に置かれていたビールを一気に飲み干した。 243 43︼微妙な距離のまま、季節は巡る︵4︶ ≪SIDE:みさ子≫ 後藤さんのお祝いパーティーから帰った私は、お風呂に直行した。 バスタブにたっぷりお湯を張り、お気に入りの入浴剤を入れて中 に入る。 ﹁はぁ。お料理、美味しかったぁ。﹂ 背伸びをしながら、今日のことを思い返す。 結婚を控えた吉田さんも後藤さんも、幸せ一杯の顔をしていた。 その二人を見て心の底から祝福の気持ちが湧いたが、うらやましい とは感じなかった。 結婚や恋愛を望まないなんて、自分は女性としての一部が欠落し ているのかもしれない。 でも、それが何だというのか? 他の誰にも迷惑をかけていないのだから、いいではないか。 ︱︱︱あっ。結婚しないってのは、親不孝に当たるのかしら? まもなくそろって還暦を迎える両親を思い出す。 ︱︱︱でも、いいじゃない。家は兄夫婦が継ぐんだし、留美だって 結婚するんだから。 兄たちにはすでに三人の子供がいて、いずれ妹も子供を授かるだ ろう。留美も永瀬君も子供が大好きだから、下手したら野球チーム が作れるほどの大家族になるかもしれない。 ︱︱︱孫はもう十分よね。私は親がいざという時のために、ガッツ リ稼いでおこう。それが私なりの親孝行だわ。 チャプンと湯船を揺らし、バスタブの中でひざを抱えた。 ﹁それにしても・・・・・・。北川さんのあの発言、面白すぎよね﹂ 244 拍手そっちのけで笑ってしまった。 だって、本気でおかしかったのだ。 誰もがかっこいいと認める彼が私に向って﹃彼氏に立候補します﹄ だなんて。天と地がひっくり返ってもありえないことを真剣な顔で 言うのが、おかしくて、おかしくて。冗談というのは、笑いながら よりもまじめに言うほど、聞いている側は笑えてくる。 ︱︱︱きっと彼は私に気を遣って、あんなことを言ったのね。 私よりも年下の後藤さんが寿退社することに、彼はちょっとした 哀れみを感じたのかもしれない。だから場を明るくしようとして、 冗談を口にしたのだ。 ︱︱︱あのセリフはきっと、そんな理由からだわ。 それ以外の理由はあって欲しくない。 彼が少しでも私のことを好意的に思っていたら、期待してしまう。 姉として慕ってくれていることにかこつけて、甘えてしまう。 ﹁・・・・・・あっと、いけない、いけない﹂ お湯を両手ですくい、ザバッと顔を洗う。ザバザバと何度も顔を 洗う。 ︱︱︱気をしっかり持たなきゃ。私には恋愛も、男も、必要ないの。 それなら自分から彼を遠ざければいいと思うものの、私を見かけ て嬉しそうによってくる彼を突き放すのが忍びない。北川さんに悪 気があってのことではないため、邪険に扱えないのが面倒といえば 面倒。 自分の気持ちを抑えるのは、なんと苦しいことか。 ﹁私、なんだか修行僧みたい﹂ 妙にぴたっと来る表現に笑ってしまう。 ﹁ま、これもあとしばらくの辛抱ってとこね﹂ 仕事にもだいぶ慣れて余裕も出てきたみたいだし、北川さんに彼 女が出来るのは時間の問題。 そうすれば、私にかまうこともなくなるだろう。 245 早く、早く北川さんに彼女が出来ればいい。 そうでないと、これまで作りあげてきた“佐々木みさ子”が、崩 れてしまうから・・・・・・。 最後に大きくすくったお湯で顔を洗う。 お湯がすべて零れ落ちても、その手がしばらく外せなかった。 246 43︼微妙な距離のまま、季節は巡る︵4︶︵後書き︶ ●今日は頑張って2話更新しました。 ・・・まぁ、2話程度では目覚しい進展はありませんがね︵苦笑︶ 北川君、ちょっとかわいそうかも?と思いつつ、楽しく執筆してま した。 最高の彼女を手に入れるためには、ちょっとやそっとのことでへこ たれるようではいけません。作者の愛のムチです︵笑︶ みさ子さんが悩みはじめましたよ。でも、まだ﹃好き﹄という感覚 ではないですね。 この段階では認めたくない気持ちが強いのでしょう。 彼女の場合、最後の最後まで認めないため、周りが結構苦労します。 みやこの中でどうやって告白させるかというシーンが具体的にまと まってきたので、両想いになるまでもう少しです!! ・・・とか言いつつ、書きたいエピソードがポコポコと出てくるの で、どうなることやら︵滝汗︶ どうぞ、気長にお付き合いください。 ●コメントをくださった方々、本当にありがとうございます。皆様 の一言、一言が励みになります。 R18作品のクセに今のところ色っぽいシーンが極少にもかかわら ず、目を通してくださった皆様に感謝です。 思った以上に男性からの支持が多いのが、びっくり&感激♪ これからも、男女問わず﹃読んでよかった﹄と思っていただける作 品を目指して頑張ります。 247 248 44︼微妙な距離のまま、季節は巡る︵5︶ 就業後、いつものように空き地へ向う。 ﹁こんばんは。お疲れ様です﹂ ヒメの頭をなでていたみさ子さんに笑顔全開で挨拶。 ﹁・・・・・・お疲れ様﹂ そう返してくれる彼女の顔には困ったような笑みが浮かんでいる。 まるで﹃懲りずによく来るわね﹄とでも言いたそうだ。 ︱︱︱みさ子さんに会いに来ることが、そんなに迷惑なんだろうか? だけど、彼女の口からははっきり言われてないし、俺の被害妄想 かもしれない。 なので、今日も遠慮なくみさ子さんの横に立つ。彼女の短く漏ら したため息に気がつかない振りをして。 ﹁ねえ、北川さん﹂ みさ子さんがヒメの喉もとを指先でさすりながら俺を呼ぶ︱︱︱ こっちを一切見ずに。 ﹁なんですか?﹂ ﹁暇さえあればここに来てるけど、デートとかしないの?﹂ ﹁・・・・・・は?﹂ ︱︱︱突然、何を言い出すんだ? ﹁仕事が終われば毎日ここに顔を出して、結構遅くまでいるじゃな い。だからちょっと気になって﹂ 顔を伏せ、独り言のようにぽつぽつと漏らすみさ子さん。なんだ かそれが照れているようにも見えるのは、俺の勘違いだろうか。 249 ︱︱︱もしかして、﹃時間があるのなら、デートに誘って欲しい﹄ と、遠まわしに言ってたりする?! 立っている俺からは、しゃがんでいるみさ子さんの顔が見えない。 ︱︱︱どういうつもりなのか見当がつかないけど、ここは思い切っ て。 大きく息を吸って、いざ誘うぞ、と言う時にみさ子さんが口を開 く。 ﹁森尾さんの気持ち、気がついているでしょ?﹂ ﹁は?﹂ ︱︱︱森尾さんの気持ち?!なぜ、それがここで話題に上る? みさ子さんを誘おうとした矢先に森尾さんのことを言われて、俺 の頭は回転が止まってしまった。 彼女はなおも話を続ける。 ﹁それに庶務の春日さん、宮迫さん、児玉さん、山根さん。販売促 進課の山田さん、木下さん、石橋さん。システム課の渡辺さん、鈴 木さん、今田さん。開発部の金田さん、西野さん、板尾さん。総務 だったら・・・・・・、ああもう、キリがないわね﹂ 戸惑う俺をよそに、みさ子さんは次々と女性社員たちの名前を列 挙してゆく。 ︱︱︱その人たちが何だって言うんだ? ポカン、としていると、ちらりと振り向いたみさ子さんはちょっ とだけ意地悪く笑う。 ﹁気付いてなかったでしょ?﹂ ﹁あ、あの、気付くって何にでしょうか?﹂ 一度止まってしまった頭はなかなか動き出さず、彼女の言わんと するところがつかめない。 みさ子さんはそんな俺に呆れる風でもなく、ご丁寧に解説してく れた。 ﹁今、私が名前を言った人はみんな、北川さんのことが好きなのよ。 実際にアプローチをかけている人は少ないけれど、彼女たちは単に 250 憧れじゃなくて、かなり本気だわ。中には結婚まで考えている人も いるもの﹂ その言い方は単なる推測ではなく、まるで報告の様でもある。 ﹁えと、その、皆さんは佐々木さんに相談でもしてきたんですか?﹂ ﹁してこないわよ﹂ ケロリと答えるみさ子さん。 ﹁えっ!?じゃぁ、どうしてその人たちが僕のことを好きだと分か るんですか?!﹂ ﹁私ね、昔からそういう勘は鋭いのよ。完璧とは言い切れないけど、 9割は硬いわね﹂ みさ子さんが得意げに言う。彼女はウソをつくような人ではない ので、それは本当なのだろう。 ︱︱︱本当かよ?!開発部なんてうちの最上階のフロアだぞ?一階 の総務とたいした接点がないくせに、何でそこの女子社員の気持ち が分かるんだ!? 明かされた彼女の能力にびっくりするのと同時に、恨めしい気持 ちがむくむくと頭をもたげる。 ︱︱︱相談もされてない社員の気持ちには敏感なくせに、どうして 俺の想いには鈍感なんだよ・・・・・・。 募る切なさと、やりきれないもどかしさに唇を噛み締める。 先日、勇気を出して彼氏に名乗りを上げれば冗談にとられる結果 に終わったばかり。 ︱︱︱いっそのこと強引に迫るか?・・・・・・いや、だめだ。そ んなことをしたら、次の日から不審と恐怖で俺との接触を避けるだ ろうな。 そうなったら、どんな手段を使ってもみさ子さんの心を掴まえら れなくなる。 まさに八方塞がりな状態。 なのにみさ子さんを諦めることなんて絶対に出来ないと分かって いる。 251 歯がゆくて、苦しくて、噛み締める力がいっそう強くなる。 ﹁北川さん。怖い顔して、どうしたの?﹂ いつの間にか俺の顔を覗き込むようにみさ子さんが立っていた。 ヒメの姿はそこにはない。 我に返った俺は急いで力を緩め、口元の戒めを解いた。 ﹁あ、いえ。まさか自分がそんなにたくさんの人から好かれている とは思ってなくて。それで驚いたと言いますか・・・・・・﹂ 適当な理由でごまかした。 どうしたらいいのか分からないけれど、今ここで自分の想いを告 げても無駄だと言うことだけは分かっている。 ﹁ふふっ、謙遜しなくてもいいのに。よほどのことがない限り、あ なたを嫌いな人なんていないわ﹂ みさ子さんは何の悪気もなく、話を続ける。 形のいい目を細めて苦笑する彼女は、普段なら俺の心を和ませて くれるものなのに、今の俺にとっては歯がゆいものでしかない。 ﹁・・・・・・それは、佐々木さんも僕のことは憎からず思ってい ると言うことですか?﹂ 報われない自分の想いに少しでも気がついて欲しくて、俺はすが るような思いで言った。 それを聞いたみさ子さんの顔が一瞬こわばる。だけど、すぐさま 表情を戻した。 ﹁そうね﹂ ﹁本当ですかっ!?﹂ 否定されなかったことが嬉しくて、一瞬で浮上する。 ところが。 ﹁ええ、本当よ。仕事は真面目にこなしているし、書類のミスもほ 252 とんどないし、社員の悪口も言わないし。あなたはとてもいい後輩 で、嫌うだなんてとんでもないわ﹂ 続いた言葉はあまりに無情だった。 ﹁後輩・・・・・・?﹂ ︱︱︱これまで過ごしてきて、俺はまだ﹃後輩﹄という位置づけか ら抜け出せていないのか?彼女との距離は縮まっていないのか? 落ち込む俺にみさ子さんが更に追い討ちをかける。 ﹁あとは、弟って感じでいいなって思ってる。私、妹はいるけど弟 はいないから、なんだか新鮮な感じで嬉しいのよ﹂ 俺の気持ちに気付こうともしないみさ子さんは、最後にこう言っ た。 ﹁私の妹ね、結婚が決まったの。だから北川さんも、この“お姉さ ん”に早く彼女を紹介してね﹂ 俺の肩をポンと叩き、﹁楽しみに待ってるわ﹂と付け加えて、彼 女は去っていった。 吹きぬける秋風が冬の北風以上に厳しく感じる。 ﹁何だよ、あのセリフ・・・・・・﹂ ︱︱︱﹃この“お姉さん”に早く彼女を紹介してね﹄? ︱︱︱﹃楽しみに待ってるわ﹄? 完全に俺の存在を否定した言葉。 彼氏立候補を﹃冗談はやめてくれ﹄と、笑い飛ばされた時よりも 圧倒的な絶望感がのしかかる。 まして“弟”だなんて、﹃恋愛対象じゃない﹄と告げられたも同 253 然だ。 ﹁どうすりゃいいんだよ・・・・・・﹂ 星が瞬きだした夜空を見上げて呟く。 するとそこに“ニャー”という鳴き声が。 ﹁ん?﹂ 視線を下ろすと足元にヒメがいた。 ﹁あれ?戻ってきたのか?﹂ 前足をきちんとそろえ、凛とした態度で座っているヒメ。いつも なら俺からもう少し離れたところにいるはずなのに、今夜は珍しく 手が届く距離にいる。 俺はゆっくりとしゃがみこみ、ひざを抱えた。 ﹁お前によく似た俺のお姫様は、なかなか手が届かないお方でね﹂ 泣きそうに顔をゆがめ、クシャリと笑う。 ﹁心がくじけそうだよ・・・・・・﹂ 猫に愚痴ったところでどうにもならないが、苦しい胸のうちを吐 き出さないでいるのはつらすぎる。 ﹁こんなにみさ子さんが好きなのに・・・・・・。どうしたら、あ の人に近づけるんだ?どうしたら、俺のことを男として見てくれる んだ?﹂ 目の前にいるヒメがみさ子さんの姿と重なり、俺の手が自然と伸 びてゆく。 こんなことをしても、どうせいつものように逃げてしまうのだろ うと苦笑を漏らす︱︱︱まるでさっきの彼女のように、いつまでも 近くて遠い存在。 ところが、予想に反してヒメは逃げなかった。 俺の震える指がおでこに触れる。つややかで滑らかな毛並みの感 触が指先にあった。 空き地に通い始めて一年半以上にして、初めてヒメに触れること が出来た。 254 ︱︱︱さわれた・・・・・・。 ﹁マジで?!﹂ 驚きのあまり動きが止まる。 すると伸ばされたままの俺の指に、ヒメがぱくりと噛み付いた。 ﹁うわっ﹂ あわてて腕を引っ込め、噛まれたところを見るが傷にはなってい ない。そういえば、痛みは感じなかった。 ︱︱︱なんだ、甘噛みか。 いつもらしからぬ行動に、恐る恐る呼びかける。 ﹁ヒメ?﹂ 俺が呼ぶと綺麗な瞳でじっと見つめてくる。その瞳はまるで﹃こ の程度で泣きごと言ってるんじゃないわよ!甘ったれないで!﹄と、 叱りつけているようだ。 ﹁そっか・・・・・・。そうだよな﹂ みさ子さんに“弟”と言われても、実際には何の血縁関係もない。 俺はまだはっきりと自分の気持ちを伝えてもいない。 今後のアプローチによっては逆転の可能性だってあるのだ。 落ち込んでいる場合じゃない。 少しずつ俺のことを意識させよう。 少しずつ俺の気持ちを伝えていこう。 そして、告白するのだ。 これまでずっと触れることが出来なかったヒメに手が届いたのだ。 いつの日か、みさ子さんに俺の想いが伝わる時がきっと来る。 ﹁よし、頑張るぞ!﹂ 立ち上がってこぶしを握り、気持ちを改める。 ﹁さぁて、そろそろ帰るか﹂ 255 通用口へと歩き出そうとして、足を止め振り向いた。 ﹁ヒメ、サンキュ﹂ 俺が声をかけると、“ニャ”という鳴き声が返ってきた。 256 45︼あなたまでの距離 あなたへの想い︵1︶ みさ子さんが俺のことを意識してくれないなら、意識するように してやる。俺が弟なんかじゃなく、あなたに恋する一人の男性なの だと分からせてやる。 だけど、﹃好き﹄という言葉は簡単には伝えない。 それは、最後の切り札だから。 昼休み。 総務で一人昼食を取るみさ子さんを狙ってやってきた。 ﹁こんにちは﹂ 扉の隙間からピョコッと顔を覗かせた俺を見て、唖然とするみさ 子さん。箸で挟んだ唐揚げが彼女の膝の上にポトリと落ちる。 ﹁あー、もったいないですよ﹂ スタスタと歩み寄り、指でつまんだ唐揚げを俺は口の中に放り込 んだ。 ﹁え?﹂ 突然のことに、みさ子さんはせわしなく瞬きを繰り返す。そんな 彼女ににっこりと微笑んだ。 ﹁すごく美味いですね。佐々木さんの手作りですか?﹂ ﹁え、ええ。そうよ。・・・・・・はぁっ?!﹂ みさ子さんの声が裏返る。 それもそのはず。俺が近くにあったイスを引き寄せ、彼女の正面 に座ったからだ。 ﹁き、北川さん?!﹂ 俺の行動にみさ子さんは目を白黒。 びっくりさせちゃって悪いなぁ、と思いつつ、この場所から移動 するつもりは微塵もない。 257 俺は持っていた袋から弁当を取り出す。 ﹁一緒に昼飯食べましょ﹂ ﹁・・・・・・は?﹂ みさ子さんの動きが止まった。瞬きすらしないで、俺を凝視。 そんな顔ですら“好きだなぁ”と思ってしまう俺はニコニコと話 しかける。 ﹁天気がいいから空き地で食べようかと思って、コンビニで弁当を 買ってきたんですけど。風が強くなってきたので退散してきました﹂ というのはウソで、最初からみさ子さんと昼飯を食べる予定だっ たのだ。 総務の社員は外食者や食堂利用者が多く、ラッキーなことに昼休 み中はみさ子さん一人となる。少しでも彼女との距離を縮めるため に、どんな小さなチャンスでも見逃せない。 ﹁そう。だったら営業部に戻るか、社食に行けばいいんじゃないの ?﹂ あっという間に冷静さを取り戻したみさ子さんは、至極まともな ことを言う。 それに負けじと、俺は言い訳を続ける。 ﹁営業部は今、誰もいないんですよ。一人で食べるなんて寂しいじ ゃないですか。それに、今から食堂に行っても席が空いているかど うか・・・・・・。で、ここなら佐々木さんがいますので寂しくな いですし、席はたくさんありますしね﹂ ﹁そうだけど・・・・・・﹂ 落ち着きなく視線を泳がせ、言いよどむ彼女。 ﹁社の規則では後片付けさえすればどこで食事をしてもいいことに なってますよね。だから、営業部の僕がここで昼飯を食べても問題 ないと思いますが?﹂ 規則を持ち出して畳み掛けるようにそう言うと、さすがのみさ子 さんも反論できない。 ふぅ、とため息をついて 258 ﹁ゴミは持ち帰ってね﹂ と、言うだけだった。 ︱︱︱よし! 俺は心の中でガッツポーズをしつつ、いそいそと弁当の蓋を開け た。 ﹁北川さんのお弁当も、メインが唐揚げなのね﹂ 沈黙が気まずいらしく、みさ子さんのほうから話しかけてくる。 ﹁はい、大好物なんですよ。このコンビニの唐揚げもなかなかイケ ると思ってましたが、佐々木さんのと比べたら雲泥の差ですね﹂ ﹁私のは普通の唐揚げなんだけど・・・・・・﹂ 褒められ慣れていないのか、ドギマギとしながらうつむくみさ子 さんは本当に可愛い。 もう少し慌てるみさ子さんが見てみたくて、俺は言葉を続ける。 ﹁でも、めちゃくちゃ美味かったです。料理が上手なんですね﹂ ﹁そんなことないわ。私が作るのは極一般的なメニューばかりだし﹂ 照れているのか困っているのか、判別の難しい顔でみさ子さんは ペットボトルのお茶を一口飲む。 ﹁こういう家庭的な味を出せる女性って素敵です﹂ ﹁︱︱︱っ!?﹂ 飲み下そうとした時に俺がこんなことを言ったものだから、みさ 子さんの動きが中途半端なところで止まってしまったようだ。 ﹁ごほっ、ごほっ﹂ ﹁大丈夫ですか?!﹂ 俺はあわてて立ち上がり、セクハラにならない程度に彼女の背中 をさすってあげる。 ﹁ご、ごめ・・・・・・なさ・・・・・・い。ありが・・・・・・ と。もう、平気﹂ 最後に“けほっ”と小さく咳き込んで、みさ子さんが顔を上げた。 259 ﹁はぁ、びっくりした。北川さんがあんなこと言うから・・・・・・ ﹂ ﹁すいません、驚かせるつもりはなかったんですよ。素直にそう思 ったから、言っただけなんですけどね﹂ 苦笑をしながら告げる俺に、みさ子さんはほんの一瞬、目元を赤 らめる。 ﹁・・・・・・営業部だけあって、口がうまいわね﹂ チロリと睨んでくる瞳にはさっきの涙がうっすらと滲んでいて、 彼女独特の色香を含む。 ︱︱︱こういう無意識の艶って反則だよな。 思わず誘われそうになるが、﹃昼間の社内﹄という言葉がすぐさ ま頭に浮かび、理性を取り戻す。 ﹁お世辞じゃないです。本当に美味かったです﹂ ﹁・・・・・・素直に聞いておくわ﹂ そういう彼女の声はちっとも素直じゃない。 ﹁本当に本当ですよ。もっと食べたいって思いました﹂ ﹁あげたいけど、さっきので最後だったのよ﹂ 見れば彼女の弁当は唐揚げが収まっていたであろう場所がぽっか りと空いている。 ﹁人のおかずを欲しがったりして、図々しかったですね﹂ 俺は照れ隠しに鼻の頭をかく。 ﹁気にしないで。美味しいって言ってもらえるのは嬉しいし﹂ 目の前のみさ子さんは他の人からすれば単なる無表情だけど、ず っと彼女を見てきた俺には分かる。口角がわずかに上がり、目がや んわりと細められている。 ︱︱︱嬉しいってのはウソじゃないな。 冷たそうに見えて、意外と情にほだされやすいみさ子さん︵これ は勝手な予想だけど、あながち外れてないと思う︶。 俺は彼女の優しさにつけ込んで、おねだりをする。 ﹁こんなにうまい唐揚げを食べてしまったら、もう他のは食べられ 260 ませんよ。作ってもらえませんか?﹂ ﹁え、あ、私が?﹂ ﹁このところずっと実家に帰ってなくて、家庭の味に飢えていたん です。材料代はもちろん僕が出しますので、お願いできませんか?﹂ ﹁で、でも、会社の近くに美味しいお惣菜屋があるわよ。それに、 北川さんが頼めば他の女の子たちは喜んで作ってくれるわよ。ほら、 森尾さんとか﹂ ﹁僕は、佐々木さんが作った唐揚げが食べたいんですよ﹂ 相手の目を見据え、口元は爽やかに微笑むという“ねじ込みの営 業スマイル︵命名は岸︶” とともにはっきりと言う。 するとみさ子さんは言葉につまり、しばらくしてから ﹁そんなに言うなら、作ってあげてもいいけど・・・・・・﹂ と、ごにょごにょと口ごもりながらもOKしてくれた。 ﹁やったぁ、ありがとうございます。おっと、早く食べないと昼休 み終わっちゃいますね﹂ ニコニコと箸を進める俺に対して、目線を落としモソモソと食べ ているみさ子さん。 ︱︱︱強引過ぎたか?だけど、遠慮してたら、これまでと何も変わ らないからな。 みさ子さんに俺の気持ちを分かってもらうためには、多少強引で も手段を選んでいる場合じゃないのだ。 食べ終えた弁当の容器をビニール袋に押し込み、席を立つ。 ﹁唐揚げって作るのにいくら位かかるんですか?千円で足ります?﹂ 俺だって一応自炊はするけど、揚げ物類は作ったことがないので 材料費の見当がつかない。財布から取り合えず千円札を差し出した。 それをやんわりと押し返される。 ﹁お金はいいわよ。知り合いのお肉屋さんから鶏肉をたくさんもら 261 ったの﹂ ﹁でも、油とか粉とか使いますよね?﹂ ﹁大した量を使うわけじゃないもの﹂ 受け取ろうとしないみさ子さんに、俺は手を引っ込めた。 ﹁じゃあ、佐々木さんのご好意に甘えて。・・・・・・と、言いた いところですが、人に借りを作るのはイヤなので、今度食事でもお ごりますよ﹂ ﹁え??﹂ みさ子さんが眉をしかめて“しまった”という顔をする。 ︱︱︱素直に受け取っていればよかったのに。誘うきっかけを与え てしまったあなたが悪いんですよ。 ﹁近いうちに飲みに行きましょう。さてと、そろそろ部に戻ります。 唐揚げ、期待してますね﹂ 最後にきっちり笑顔で念を押して、総務を後にした。 262 45︼あなたまでの距離 あなたへの想い︵1︶︵後書き︶ ●佐々木みさ子捕獲大作戦がスタートしました︵笑︶。 ・・・が、任務完了までに超ド級に最難関のミッションが待ち構え てます。 それは!!﹁どうやってみさ子さんに恋心を自覚させるか?﹂です。 もう、本気で頭が痛いです・・・︵号泣︶ 自覚シーンの構想はまとまりましたが、そこにたどり着くまでに 段取りをいくつか踏まなければないません。 読者様の中には﹁北川さん、さっさと告白してしまえ∼!!﹂とお っしゃる方が多数いることと思いますが、なんたって、みさ子さん が自分の想いを自覚しないことには、北川君の告白が無駄になって しまう恐れがありますので、告白はもう少し後になります。 ﹁ここまで来て、まだ引っ張るの!?﹂という突込みが飛んできそ うですが、どうかもうしばらく辛抱してください。 ●コメントを寄せてくださった方々、本当にありがとうございます。 みやこの妄想暴走ワールド︵笑︶にお付き合いくださって、本当に 感謝です。 コメントを頂くたびに、頑張ろうと意欲が湧きます。 ﹁早く続きが読みたいです﹂なんてコメントを頂いてしまったら、 ﹃出来る限り早く次話を書かねば!﹄という気になりますからね。 ・・・だからといってやたらに﹁早く続きを!﹂とコメントしない ように︵苦笑︶ 263 46︼あなたまでの距離 あなたへの想い︵2︶ ≪SIDE:みさ子≫ 朝6時。 私はキッチンに立って、唐揚げを揚げている。 ﹁あんなの、冗談だと思っていたのに﹂ 私の作った唐揚げを気に入ったらしい北川さんが、﹃材料費を払 うから作ってくれ﹄とまで言ったのは社交辞令ではなかったようだ。 ﹁いつ、唐揚げを作ってくれますか?﹂ 昨日、書類を提出しに来た北川さんが、受理カウンターに座る私 にコソッと囁く。 ﹁・・・・・・本気だったの?﹂ 書類に目を通していた私が驚いて顔を上げると、まっすぐにこち らを見ている彼の視線とぶつかった。 ﹁本気ですよ。早く食べたいです。催促するのは失礼かと思ったの ですが、あれから五日経ちますし、待ちきれなくって。それで、い つ作ってもらえます?﹂ ニコニコと穏やかな笑顔なのに押しの強い雰囲気があって、ちっ とも隙がない。 ﹁え、あ・・・・・・﹂ 返事に困っていると、やたらに笑顔の北川さんを変に思い始めた 周囲の社員たちがこちらを伺っているのが視界の隅に入る。 そんな周りの様子に動じることなく、彼は一歩も動かない。 ﹁あの時から佐々木さんの唐揚げが夢にまで出てくるんです。オマ ケに禁断症状で手が震えてくるし、唐揚げの幻覚まで見るようにな って﹂ 264 ﹁それはウソよね?﹂ そんな馬鹿な、とすかさず突っ込むと、北川さんが苦笑いを浮か べる。 ﹁ははっ。すいません、ウソです。でも、食べたいのは本当ですよ﹂ 書類の受理はとっくに終わったというのに、一向に出て行こうと しない北川さんの様子に、社員たちは﹃何事か?﹄とひそひそ囁き 出した。 総務の中で北川さんに好意を持つ女子社員たちが、不審そうにこ ちらを見ている。 さっさと帰って欲しいのに北川さんは気にする様子もなく、ニコ ニコと私の返事を待っていた。 ︱︱︱あー、もう。こんな状況じゃ下手に断れないじゃないの!こ れを狙って、勤務中に話を持ち出したのね! ﹁・・・・・・明日、持って来るわよ﹂ 彼のしたたかな術中にはまってしまった自分を呪い、下を向いて ボソリと答えると ﹁分かりました。楽しみにしています﹂ と、彼は最後に改めてにっこり微笑み、ようやく総務を出て行っ た。 ﹁はぁ﹂ こっそりとため息をついたところで、目の前に影が出来る。 顔を上げると沢田さんが立っていた。 ﹁北川君、どんなことを言ったんですか?﹂ ﹁え?﹂ ﹁先輩が嬉しそうな顔をしているから、ちょっと気になって﹂ ﹁あっ、そ、そうかしら?﹂ 自分がそんな顔をしていたことにまったく気がついてなかった私 は、ちょっと慌てる。 ︱︱︱嬉しそう?﹃唐揚げが食べたい﹄って言われただけじゃない。 265 ﹁べ、別に大したことじゃないの。えと・・・・・・、ね、猫の話 をしてたのよ﹂ ﹁そうでしたか。先輩って猫大好きですもんね﹂ 私の言葉に一切不審を抱かない彼女は、小さくうなずいている。 ﹁う、うん。だから、つい顔が緩んでたのかも。・・・・・・あ、 私、庶務に備品発注の書類を出してくるわね。沢田さん、少しの間 カウンターに入って。じゃっ﹂ 書類をつかんでバタバタと出て行く私に、沢田さんが不思議そう な顔で見送っていた。 ﹁だって、作るって約束しちゃったし。もらった鶏肉、早く使わな いと悪くなるし﹂ ブツブツと独り言を口にしながら、衣を付けた鶏肉を次々と油の 中へ落としてゆく。 ︱︱︱いつも一人で食事をしているから、﹃美味しい﹄って言われ たことが嬉しくって。また﹃美味しい﹄って言ってもらいたくて。 別に、北川さんを喜ばせるためじゃないわ。自己満足のためよ。 誰も聞いていないのに、つい、言い訳がましくなる。 そんなこんなで、目の前にはこんがり狐色の唐揚げが山盛りに。 粗熱が取れたところで、お弁当箱に詰めてゆく。 ﹁そういえば、北川さんって一人暮らしなのよね﹂ 男の人って野菜とか海藻類はほとんど食べないと聞く。一人暮ら しで、実家にもあまり帰ってないようならば、栄養が偏っているこ とだろう。 ﹁ひじきの煮物が残っていたわね。おととい買ったほうれん草も萎 びてきたから、使っちゃわなきゃ﹂ 冷蔵庫からあれこれ取り出し、30分後には唐揚げの他にひじき 266 のおにぎり、ほうれん草の胡麻和え、だし巻き卵、アスパラとキノ コのバターソテー、プチトマトがぎっちりつまったお弁当が出来上 がっていた。 ﹁・・・・・・何やってんの、私﹂ 完成したお弁当を見て、しばし呆然。 ︱︱︱こんな健康に気を配ったお弁当なんて、まるで愛妻弁当みた い。 その思考に、我ながらギョッとする。 ﹁いや、だって、ほら。北川さんは私にとって弟みたいな人だし。 弟の体調を心配するのは、姉として当然であって﹂ またしても自分に言い訳してしまう。 ︱︱︱ホントに何なのよ、私・・・・・・。 お弁当の蓋を閉めつつ、大きなため息がこぼれた。 そして昼休み。 他の社員がいなくなったのを見計らって、北川さんが現れた。 ﹁お邪魔します﹂ 弾むような足取りで私のところにやってきて、この前と同じよう に私の目の前に陣取る。 ﹁わがまま言ってすいません﹂ ニコニコと嬉しそうな彼からは反省している様子が見られないが、 今となってはどうでもいいことだ。 ﹁いいのよ。約束だし﹂ ︱︱︱謝るくらいなら、総務であんなこと言い出さないでよ。 私はなんだかヤケクソ気味に、お弁当箱を差し出した。 ﹁ありがとうございます﹂ 受け取ったお弁当箱の蓋をパッと開けた北川さんの顔が一瞬驚き に固まり、その後喜びに目を大きくする。 ﹁唐揚げだけかと思っていたのに・・・・・・。おにぎりに胡麻和 267 え。わぁ、だし巻き卵も入ってる!﹂ 子供のように目を輝かせてはしゃぐ彼を見て、思わず私も嬉しく なった。 ﹁唐揚げだけじゃ物足りないと思って。残り物にちょっと手を加え ただけなんだけど﹂ ﹁どれも美味そうですね。食べるのがもったいない﹂ ﹁何、言ってんの。食べないほうがもったいないわよ。適当に詰め てきちゃったから、苦手なものがあったら遠慮なく残して﹂ ﹁大丈夫です。好き嫌いはないんで﹂ 彼は﹃いただきます﹄と一礼して、箸を割った。 ﹁北川さん、一人暮らしでしょ。栄養が偏ってるんじゃないかと思 って、野菜とか多めに入れたんだけど。嫌いなものを入れてたら悪 いなって気になっててね。偏食がないなら良かったわ﹂ と、ここでハッと気付く。 ︱︱︱彼女でもないくせに、あれこれ気を回しておせっかいだった かしら?!私には口を挟む権利なんてないのに。 ﹁あ、あの、ごめんなさいね﹂ ﹁へ?何がですか?﹂ さっそくムシャムシャとお弁当に箸をつけている彼が首をかしげ る。 ﹁でしゃばったマネして、余計なお世話よね?﹂ ﹁そんなことないです。僕の体を心配してくださって、優しいなぁ って感激してました﹂ ふわりと笑いかける彼の瞳に、ちょっとドキッとする。 ﹁や・・・・・・、優しくなんてないわよっ。みんな、私のこと怖 いって言ってるし﹂ ﹁いえ、佐々木さんは優しい人です﹂ 穏やかな口調だったけど、きっぱりと言い切られて、私は何も言 い返せなくなってしまった。 268 北川さんは終始笑顔で﹃美味しい、美味しい﹄と箸を進めている。 彼の笑顔には嫌味がなく、さっきの鬱屈とした気分は成りを潜め ていた。 ︱︱︱こんな無邪気で素直な弟がいたら、思いっきり甘やかして可 愛がるかもね。 目の前に座る彼を見ながら、そんなことを考える。 妹の留美だって私になついていて確かに可愛いけど、弟という存 在はまた違う気がする。なんだか、ついかまいたくなってしまうの だ。 ﹁はぁ、おいしかったぁ。ごちそうさまでした﹂ 結構な量が入っていたお弁当を見事完食し、満足そうにお礼を言 う彼の口元にはご飯が一粒ついていた。 綺麗に整った顔にご飯粒がついている様子が微笑ましくて、私は 苦笑を漏らす。 ﹁ついてるわよ。もう、しょうがないわねぇ﹂ 小さな子供にしてあげるように、手を伸ばしてご飯粒をとってあ げた。 腕を引こうとした時、パッと手首を掴まれる。 ﹁え?﹂ 驚いて北川さんを見ると、なぜかすごく真剣な目をしていた。 ﹁北川さん?﹂ ﹁佐々木さんにとって、僕は頼りない弟みたいな存在なんでしょう ね﹂ ﹁ね、ねぇ、どうしたの?﹂ これまでとは一変した表情の彼に、私は戸惑いを隠せない。 ﹁北川さん?﹂ もう1度名前を呼ぶと、じっと私の目を覗き込んでいた彼の顔が 不意に緩む。 ﹁僕は弟みたいであっても、あなたの弟ではありませんから。血の 繋がらない一人の男です。・・・・・・お弁当、ありがとうござい 269 ました。失礼します﹂ 私には読み取れない光を瞳に宿した北川さんが、頭を軽く下げて 出て行った。 ドキドキと心臓が痛い。 掴まれた手首が妙に熱い。 ﹁何・・・・・・な、の・・・・・・﹂ 彼の気にさわることをしてしまったのだろうか?もしかして、子 供扱いしたことに腹を立てたのだろうか? 考えてみれば、いい年の北川さんにあんな行動は失礼だったかも しれない。 ︱︱︱でも、怒っているようには見えなかったし。平気かしら? 気を取り直してお茶を飲む。 今日は家からハーブティを持参した。 精神安定作用があるカモミールティだったけれど、胸の動悸はな かなか収まってくれない。 さっきの彼の態度と視線のせいだろうか。 私を見つめる真剣な瞳は、今までとは印象が違っていて。優しい 光はそのままに、訴えかけるような視線はまっすぐに私を射抜く。 ︱︱︱あんな目で、私を見ないでよ・・・・・・。 胸のざわつきはいつまで経っても消えてくれなかった。 270 46︼あなたまでの距離 あなたへの想い︵2︶︵後書き︶ ●自覚のない﹃恋する乙女﹄なみさ子さんです︵笑︶ ﹁北川さんの想いにも、自分の気持ちにもいい加減気付きなさい よ﹂と思うのですが、このまんじりともしない展開がみやこは好き なんですよねぇ。 ・・・読者様からすれば悶絶モノかもしれませんが︵笑︶ ある読者様のコメントに﹁後10話ほどでケリがつきます︵3月 28日現在︶﹂と返したのですが。 ・・・大嘘です︵爆︶ この章だけでも7話で構成予定︵現段階の話ですので、増える可能 性もあり!?︶ 2人がどうなるのかは次章に持ち越しなので、もうしばらくかかり ます。 少しずつ話を詰めていくのがみやこのスタイルですので、どうにも なりません。 そのあたりをどうぞご理解くださいませ。 ●さて、45話のあとがきに﹃早く続きを﹄とコメントいただくと、 頑張れます・・・と書いたためか、そのようなコメントが立て続け にありました。 ありがとうございます♪ このところ筆が進み、これまで週1ペースだった投稿が週2ほどに なってます。皆様の応援のおかげです。 また中にはみやこの体調を危惧して、あえて続きを急かさない方も いらっしゃるかもしれません。 お心遣い、ありがとうございます。 まあ、結局の所、コメントがあってもなくても調子がよければガン 271 ガン投稿しますし、時間がなければ投稿ペースを落とします。 ただし、コメントを頂いたほうがテンション上がって、投稿ペース が速くなることはよくあります。 自己中な作者で申し訳ありません ︵つД`;︶ 272 47︼あなたまでの距離 あなたへの想い︵3︶ みさ子さんのもとへ日参を繰り返す。 だけど、ウキウキと弾むような俺に引き換え、なんだか浮かない 彼女の表情を見る機会が増えたような。態度もどことなくよそよそ しい気がするし。 しつこくて嫌われたか?! そんな様子の彼女でも俺のことを心底嫌っているようには感じら れないので、今日もめげずに通うのである。みさ子さんが喜びそう な“ネタ”を持って。 空き地に顔を出すと、みさ子さんの姿はまだなかった。 暇つぶしと確認も兼ねて、携帯を取り出し画像をチェックする。 日曜日、実家に帰った際に撮りためてきた子猫の画像だ。 生後1ヶ月を過ぎたばかりで、まだボサボサの毛並みと愛くるし い表情がメガトン級にラヴリー。 ﹁これを見せたら、絶対に喜ぶぞ∼﹂ 俺と同じくらい猫好きな彼女が、このネタに食いつかないわけが ない。 ﹁そろそろ来る頃かな?﹂ 彼女の喜ぶ顔を想像しつつ腕時計に目をやると、背後から物音が した。餌の入った袋を提げたみさ子さんがやってきたのだ。 ﹁お疲れ様です﹂ ﹁⋮⋮お疲れ様﹂ 彼女はポツリと呟き、伏せ目がちにこっちへ歩いてくる。そして 俺から少し離れたところにしゃがみ込んだ。 俺はパッと近づき、真横に座る。 273 ﹁手伝いますね﹂ 半ば奪うように猫缶に手を伸ばすと、指先がみさ子さんの手の甲 を掠める。 ﹁あっ﹂ 小さく声を上げ、少し顔を赤くするみさ子さん。その初々しさが たまらなく可愛い。恥ずかしそうに俯く彼女もいいけれど、やっぱ り笑顔が一番好きだ。 ということで。 俺は携帯を開き、仔猫の画像をみさ子さんの前に差し出す。 ﹁何かしら?﹂ ﹁実家で新しく飼いだしたんですよ﹂ いぶかしげな表情のみさ子さんだったが、仔猫の姿を目にしたと たんにパッと顔が明るくなり、画面を食い入るように見つめた。 ﹁いやぁん、可愛い∼!﹂ 落ち着いた大人の女性からあどけない少女へと早変わり。次々と 映し出される画像に大興奮のみさ子さん。 ﹁何、このコ。可愛すぎる!!﹂ うっとりと目を細め、時折小さく腕を振り回し、はしゃぎまくっ ている。 ︱︱︱ははっ。こんなに喜んでくれるとは思ってもいなかったよ。 想像以上の反応に、ほくそえむ俺。 ﹁あと、ムービーもあるんです﹂ ﹁本当?!見たいわ!﹂ 2人で覗く小さな画面には、おぼつかない足取りで歩く仔猫の映 像。この時期は何をしても可愛く見える。 ﹁あぁ、転んじゃったわぁ。ねぇ、他にもある?﹂ みさ子さんは希に見る全開の笑顔で、画面から目を離そうとしな いまま催促をしてくる。夢中になるあまり、俺の顔がすぐ横にある ことに気がついていないようだ。 ﹁おもちゃで遊んでるシーンがありますよ﹂ 274 ﹁見せて、見せて!⋮⋮え?﹂ 俺の声の近さに今の状況を理解したみさ子さん。サッと顔を赤く して、バッと立ち上がった。 ﹁あ、あの⋮⋮、ごめんなさい﹂ オロオロと視線を彷徨わせた後に頭を下げる彼女。 苦笑しながら、俺も立ち上がる。 ﹁どうして謝るんですか?﹂ ﹁無意識とは言え、あんなにくっついてしまったし。それに、年甲 斐もなくはしゃいだりして⋮⋮。みっともないわよね、私﹂ モジモジと所在無さ気に立っている彼女からは、動揺の大きさが 伝わってくる。 ︱︱︱別に気にすることないんだけどなぁ。俺からすると、そうい う反応が見たかった訳だし。 あまりにも動揺するみさ子さんがちょっと気の毒になって、フォ ローを入れる。 ﹁そんなことないです。可愛いかったですよ﹂ ﹁かっ⋮⋮!?﹂ 俺の顔を凝視し、絶句したみさ子さんは更に頬を赤くした。 ﹁な、何言ってんのよっ﹂ パッと横を向き、そっと深呼吸を繰り返している。 恥ずかしそうにするみさ子さんからは独特の艶が感じられ、そん な彼女をもう少し見ていたくて、俺は口を開く。 ﹁勤務中とは違う一面ですよね。僕はそんな佐々木さんもいいと思 いますよ﹂ それを聞いた彼女の肩が、ピクンと震える。 残念ながら髪が邪魔して、彼女の横顔がよく見えない。 ﹁佐々木さん﹂ こっちに向かせようと名前を呼ぶ。 もっと照れているかと思いきや、ゆっくりと視線を戻した彼女は “女帝”に戻っていた。 275 ﹁30手前の私が可愛い訳ないでしょ。ふふっ、オバサンをからか うんじゃないわよ﹂ 体の前で優雅に腕を組み、苦笑交じりに軽くにらんでくる彼女。 その様子はまるで子供のいたずらを﹃しょうがないわねぇ﹄と許す 母親のようだ。 たしなめるように俺に言うみさ子さんに、﹃自分はそんなつもり じゃない﹄と慌てて訂正する。 ﹁いやっ、僕はからかってなんかいませんからっ。本当に可愛いと 思って!﹂ だけど、みさ子さんは聞く耳を持ってくれない。 ﹁北川さんは優しいわね。こんなオバサンにまで気を遣ってくれて。 でも、私は自分が可愛くないって知ってるから、フォローしてくれ なくても大丈夫よ﹂ ﹁佐々木さん⋮⋮﹂ ﹁わざわざ見せてくれてありがとう。猫ちゃんによろしくね﹂ 取り付く島もないみさ子さんは言いたい事だけ言って、口元を微 笑ませて去っていった。 こんな風に最近のみさ子さんは表情に変化が出てきた。 俺の言動に対して顔を赤らめてくれたり、見るからに戸惑ったり と、明らかに俺を意識してくれているのが分かる。 まぁ、即座に女帝の仮面をかぶっちゃうんだけどね。 それでも、以前に比べれば格段の変化。 そんなみさ子さんの変化に喜ぶ反面、気になっていることがある。 それは自分を傷つける物言いが増えたこと。突き放すような言い 方は鋭さを増しているような気がする。 こんなこともあった。 276 例のごとく、空き地で猫を眺めていた時のこと。 元気でやんちゃなオス猫が何かを咥えてこっちに走ってきた。そ れは50センチほどの紐状で、長さの割には太い物体。 ︱︱︱なんだ? 首をかしげている間にその猫はみさ子さんの足元までやってきて、 その物体をポトリと落とした。 ﹁ん?﹂ ﹁え?﹂ 俺とみさ子さんが“それ”に釘付けとなった。 ︱︱︱げっ! 俺の顔は引きつり、みさ子さんは青ざめる。 なんとその物体とは蛇だったのだ。かろうじて生きているらしく、 のったりと苦しそうに体をくねらせる。 ﹁いやぁぁぁっ!!﹂ みさ子さんが悲鳴を上げてその場から逃げようとするが、あいに く足場が少しぬかるんでいて、彼女はバランスを崩した。 ﹁危ないっ!﹂ よろけるみさ子さんに腕を伸ばして、とっさに抱きしめる。 心の準備もなく抱きしめてしまったことに、そしてブラウスの襟 元からのぞく綺麗な鎖骨に、俺の心臓が大きく跳ねた。 ドキドキしながらも、この展開にニヤつく。 ︱︱︱ラッキーなハプニングだ。ナイス、野良猫! ﹁びっくりしましたね。まさか蛇だとは思いませんでしたよ﹂ 腕の中の彼女に話しかけると、小さい返事が返ってくる。 ﹁⋮⋮そうね﹂ 耳まで赤くしてじっとしている彼女が愛しくて、このまま強く抱 きしめてしまいたいと思った矢先、みさ子さんがそっと俺の胸を押 し返す。 ﹁⋮⋮そろそろ放してもらえるかしら?﹂ 277 うつむいたまま、髪で表情を隠した彼女がポツリと言う。 ﹁あ、ああ、すいません﹂ 慌てて腕を解く。 開放されたみさ子さんはすっと2、3歩下がる。 ﹁なんだか、北川さんにはよく抱きしめられている気がするわ﹂ 苦く笑いながら顔を上げたみさ子さんに照れた様子は残っていな い。 ﹁あら?北川さん、顔が赤いわよ?﹂ 下からチラッと視線を上げた彼女が言う。 ﹁あっ、そのっ﹂ さっきの動揺が思いのほか大きく、なかなかほてりが消えない。 そんな俺を見て、いたずらっ子のように笑うみさ子さん。 ﹁赤い顔をしてくれるだなんて、私みたいな女でも女性としてみて くれているということかしら?﹂ ︱︱︱そうです! 口を開きかけると、それより先にみさ子さんが言葉を続ける。 ﹁ま、それはないわね。こんな面白味のない自分に女性的な魅力が ないことは、十分承知してるもの﹂ 諦めと卑下の混じった淡々とした口調。感情のないその言い方が、 余計にやりきれなく感じてしまう。 ﹁北川さん。こんな女を忘れたオバサンを抱きしめて赤くなってる ようじゃ、男として駄目じゃないの。早く、若くて可愛い彼女を掴 まえなさい﹂ みさ子さんがポンと俺の肩を叩く。 ﹁あ、あのっ﹂ 俺の話も聞いてもらおうとするけど、みさ子さんの口は止まらな い。 ﹁人に言われてもショックだけど、自分のことをオバサンって言う のも結構ショックだわね。でも、実際オバサンなんだし、仕方ない か﹂ 278 ふっと自嘲気味な笑みを浮かべるみさ子さんの視線は、どこか遠 くを見ていた。 顔は笑っているのに、漂うオーラが悲しみに満ちていてすごく不 自然だ。 危うい彼女が心配になる。 ﹁佐々木さん?﹂ だけど、みさ子さんは俺のことを一切見ようとしない。 ﹁色気も可愛気もない私には、オバサンがぴったりね。ふふっ﹂ ﹁佐々木さん!!﹂ さえぎる俺の声も聞かず、みさ子さんは自虐的な独白を止めよう としない。 ﹁今度生まれてくるときは、もう少し人から愛される女性になりた いものね。あ∼あ、今世は一人悲しく人生の最後を迎えることにな りそうだわ﹂ みさ子さんは肩を揺らし、クスクスと笑い続ける。 聞いている俺のほうが身を切られる思いだ。 ︱︱︱いったい何がみさ子さんを追い込んでいるんだ? もしかしたら、原因は俺にあるのかもしれない。 だけどもう、引けない⋮⋮。 俺の気持ちもギリギリまで追い込まれているのだから。 279 47︼あなたまでの距離 あなたへの想い︵3︶︵後書き︶ ●少しずつ、みさ子さんを追い詰めております︵苦笑︶。 登場キャラクターが大人の恋愛小説は展開が難しいですが、それが また面白くもあります。 年を重ねて子供の頃より色々経験しているはずなのに、その経験ゆ えに余計なものが見えすぎてしまって素直になれない⋮。 その歯がゆさがみやことしては書く楽しみでもあります。 読者様からすれば、歯がゆすぎて悶え死ぬかもしれませんが︵苦笑︶ ●コメントがたくさん寄せられまして、感謝です。 皆様のコメントがなくても執筆は続けますので、気を遣って無理に 書き込まなくても大丈夫ですよ∼。言いたいことがあった時だけで、 十分です。 コメントがなくても、酷評を食らっても、書き続けますので♪ <私信> 作者宛のメッセージ機能を使ってコメントくださった方。ありがと うございます。 返信アドレスがなかったので、こちらにてコメント返しを。 ◆な∼ん様 本当に﹁早く、北川さんの気持ちに気付いてあげて∼!﹂とみさ子 さんに言いたいですよ︵苦笑︶ 今後もどうぞ応援してやってくださいね。 北川さん、みさ子さん共々、みやこもよろしくお願いいたします。 *みやこ宛にメッセージが送れるようですね。携帯利用者の方はト 280 ップページの﹁作:みやこ京一﹂をクリックすると、メッセージ機 能が表示されます。 パソコン利用者の方は、作品トップページのQRコードをクリック すると作者ページが表示されますので、﹁作:みやこ京一﹂をクリ ック。ページが変わりましたら、その下の﹁メッセージを送る﹂を クリックしてください。 ただし、作品に関する感想やご意見は、これまで通り各作品の﹁評 価・感想を送る﹂機能をご利用ください。こちらの機能で作品の感 想を送るのは、極力控えてくださいね。 個人的に送りたいメッセージがある時のみ、上記の機能をどうぞ。 返信希望者は、必ずアドレスを入力してください。 この機能で送られたメッセージはみやこのみが閲覧可能です。他の 誰にも知られず、こっそりみやこにあれこれメールすることが可能 です♪ とはいえ、無駄に年を重ねた役に立たない大人のみやこですので︵ 苦笑︶、難しい相談にはお答えできないことも⋮︵汗︶ 281 48︼あなたまでの距離 あなたへの想い︵4︶ ≪SIDE:みさ子≫ フランスからのお客様の通訳として借り出されて3日目。 無事に役目を果たして帰宅した私はもつれるように靴を脱ぎ、壁 を伝いながら廊下を進み、スーツの上着を無造作に床に放り投げ、 ソファーに倒れこんだ。 ﹁疲れた⋮⋮﹂ 全身が脱力感にがんじがらめで、何もする気力がない。 別にスケジュールがきつかったということではない。体力的な問 題よりも、精神的な疲労があまりにも大きすぎたのだ。 それというのも、あのフランス人が原因。 何でもフランスの教育委員会のNO.2で、自然環境やリサイク ルに配慮したわが社の製品を自国内の全小・中学校で率先して使わ せたいと申し出てきた。 ヨーロッパ市場においてまだまだ基盤の弱いKOBAYASHI にとって非常にありがたく、 ぜひともこの契約を成立させたい。 ところが、ここで問題が一つ。 向こうが予算を渋っているとか、無理難題を押し付けてくるとか ではない。その点に関しては特に難航もせず、商談と言っても確認 や書類のサイン程度。 その問題と言うのが私個人的なものなんだけど、本当に、本当に 頭を悩ませた。 それと言うのも⋮⋮。 ﹁ミサコー!オハヨー!﹂ 282 商談相手が待つ応接室に入るなり、うるさいほどの挨拶とともに 思いっきり抱きしめられた。 ﹁お、お、おはようございます、ムッシュ﹂ 遠慮のない抱擁によろめきつつの挨拶。 今後のKOBAYASHIの運命を握る相手に対してあからさま にイヤな顔も出来ず、ましてや暴力を振るうことも出来ず、逃げた くても逃げられない。ちょっときつめの香水にめまいを感じながら、 されるがままの私。 この人物がこのところの頭痛の種であるムッシュ・ジョルジュ。 若い頃はかなりモテたんだろうなぁって感じだけど、﹃今となっ ては﹄と言う感じ。このお腹の出具合では⋮⋮ねぇ。 すっかりいい感じのオジサンになっており、人なつっこいを通り 越してセクハラすれすれのスキンシップを遠慮なく炸裂させてくる。 ﹁オウ!今日ハ一段トチャーミングダネ﹂ がっちり抱きしめられたまま、右と左の頬に一回ずつ軽いキスを 送られる。 通訳として顔を合わせた初日から万事この調子で、戸惑いと疲労 のダブルパンチ。 ︱︱︱チャーミング?おとといも昨日も、今日と大して変わらない 格好なんだけど⋮⋮。 “フランス人は女性と見れば、誰彼構わず口説く”なんて通説は 単なるうわさでしかないと思っていたが、どうやら真実らしい。 見た目の冴えないこんな私に抱きつき、挨拶とは言えキスをし、 褒め殺しの嵐なのだ。 ﹁ムッシュは本当に佐々木君がお気に入りのようですね﹂ 海外事業部の上田部長が苦笑いをしながら話しかけてくる。その 瞳の奥に“すまん、今は耐えてくれ!”と言うサインを私に送りな がら。 ﹁モチロンデス。私ハコンナニモ素敵ナ女性二出会ッタ事ハアリマ セン。彼女ハ私ノ理想ノ女性ソノモノ。ミサコ、結婚ヲ前提二付キ 283 合ッテクダサイ!7ツノ年ノ差ナンテ、気ニスルコトハナイデス﹂ バチン、と音がしそうなほどのウインクをするムッシュの言葉に、 驚愕する私。 ︱︱︱ええっ!この人、まだ30代?!この髪の毛の薄さから、て っきり50歳は超えてると思ってたわ。 そんなムッシュに熱烈なハグをされながら交際を申し込まれ、こ れから数時間もこの人の通訳に就かなければならないのかと考える 私は、今にも泡を吹いて倒れそうである。 ︱︱︱助けて⋮⋮。 私の心の声をキャッチした上田部長がすかさず口を挟んでくる。 ﹁日本語が大変お上手なんですね。驚きましたよ。まぁ、ともかく こちらにお座りください﹂ ムッシュの肩にやんわりと手をかけ、そっと引き剥がしてくれた。 私から離されたことに少しだけ眉を寄せた彼だが、褒められたこ とが嬉しかったのか、すぐにご機嫌になる。 ﹁ハイ!ミサコノ為ニ、必死デ覚エマシタ!﹂ ︱︱︱ふざけたこと言ってんじゃないわよ! 私は心の中で突っ込む。 ムッシュの日本語はイントネーションに多少怪しい点はあるが、 十分な会話能力がある。 ︱︱︱3日やそこらで、ここまで話せるわけないじゃない!ぜった い最初から日本語が出来たのよ!! 部長も私と思うところが同じらしい。 ﹁こんなにも日本語が堪能でしたら、通訳はもう必要ないですね。 佐々木君、今日からは通常業務に戻りなさい﹂ 上田部長の言葉に、私は内心踊りださんばかりに大喜び。 ところが、とたんにムッシュは不機嫌さを露にし、ものすごい勢 いのフランス語でまくし立て始めた。 ﹁え?え??﹂ あっけに取られる部長。 284 こめかみを押さえて眉をしかめる私。 ︱︱︱まったく、もう。くだらない悪口言ってんじゃないわよ、こ のエロ・フランス人。今時﹃お前の母ちゃん、出ベソ﹄だなんて、 幼稚園児だって使わないって⋮⋮。 私は大きく息を吸って、マシンガンのごとく罵詈雑言を吐き出す ムッシュに向き直る。 ﹁あなたが帰国なさるまで、私が最後までお世話いたしますから。 どうぞ落ち着いてください﹂ 引きつる顔をどうにか微笑ませると、手の平を返したように機嫌 を直すムッシュ。 ﹁流石ミサコ!ヤハリ貴女ハ素晴ラシイ女性ダ!!デハ、サッサト 商談ヲ済マセテ、観光二連レテ行ッテクダサイ!モチロン観光ハ貴 女ト二人キリデスヨ﹂ 両手を上げてはしゃぐムッシュに私と部長はこっそりと目を見合 わせて、そっとため息をついた。 商談中も、接待としての観光案内中も、食事中も、移動中も、ム ッシュは私にべったりとくっついて、片時も離れようとしない。 しかも私に触れてくる手には下心を感じ、ますます疲労がたまっ てゆく。 再び社に戻ってきてムッシュのお見送りをすませた頃には、すっ かり生気が抜けていた。 ︱︱︱お、終ったぁ∼。 彼を乗せた車が見えなくなり、私はようやく安堵のため息をつく。 ﹁佐々木君、これまで本当にごくろうだった。小林社長から連絡が 入ってね、この契約は成立だそうだ。すべて君の忍耐力の賜物だよ﹂ 上田部長が心の底からねぎらいの言葉をかけてくれる。 ﹁それはよかったです﹂ 最後に残された力で、ささやかながら部長に笑みを返す。 285 ここまで苦労して契約不成立だったら、社長室に火をつけた後、 ムッシュを追いかけて彼の残り少ない頭髪を根こそぎ引っこ抜いて やるところだ。 ﹁少し時間が早いが、もう上がりなさい。君のところの部長には私 から話しておこう﹂ ﹁はい。では、失礼いたします﹂ 頭を下げた私は、玄関ではなく空き地に向った。 この状態で帰ったら途中で力尽きてしまいそうなので、癒しを求 めて猫たちに会いに行く。 小春日和の空き地では、猫たちが思い思いに遊んでいた。 いつもなら彼らの姿を見るだけで心が和むのに、今日は相当にや られていたらしく、なかなか精神安定が得られない。 そんなピリピリと神経が昂っている中では、自分に対する男の人 の対応に過剰に反応してしまう。 ﹁髪に糸がついてますよ﹂ 優しい声と共にすっと腕が伸びてくる。 その手はなぜかゴミをとった後も私の耳元から離れず、不意に頬 をなでる。 触れてくる手に﹃男性﹄を感じた。 このしぐさがムッシュと重なり、ストレスのピークを迎えていた私 はつい叫んでしまった。 ﹁いったい、何の下心があって?!﹂ ﹁えっ?﹂ 目の前にいたのはエロ・フランス人ではなく、北川さんだった。 突然の私の大声にきょとんとしている。 ︱︱︱しまった。 さっと青ざめる。 ︱︱︱私に下心を抱く男性は、あのムッシュぐらいなのに。私った ら何、うぬぼれてんのよ?!こんなこと言ったら、彼のプライドが 傷つくじゃない。急いで弁解しなきゃ。 286 ﹁あ⋮⋮、ごめんなさい。今のは別に、深い意味はないのよ。北川 さんに対して言ったのではなくって、その⋮⋮このところ色々あっ て﹂ 私が謝ると同時に、彼がゲラゲラと笑い出した。 彼が笑う理由が分からず、今度は私がきょとんとする。 ﹁あの、北川さん?﹂ ﹁す、すいま⋮⋮せ⋮⋮。笑ったり⋮⋮して﹂ そう言いながらも彼はお腹を抱えてヒーヒーと笑い続け、目じり に浮かんだ涙をぬぐっている。 ︱︱︱私があまりにも馬鹿なことを口走ったから笑ってるのね。な んか、怒られるよりもショックだわ。 何も言えず、ただ彼の様子を見ている私。 ﹁も、もう、笑いませんから﹂ 北川さんは口元を押さえて必死にこらえようとするけど、彼の口 の端はピクピクと震えている。 ﹁いいのよ。私の方こそ、変なことを言ってごめんなさいね﹂ 私は何でもないように微笑んだ。 すると、ようやく笑いを収めた北川さんが優しい目でこっちを見 る。 ﹁あー、僕が笑ったのはですね、佐々木さんがあまりにも当然なこ とを真剣に怒鳴ったのがおかしくって﹂ ﹁は?﹂ ︱︱︱当然なことって、なに? 私が首をかしげると、彼は私の正面に立って言った。 ﹁男なんて、下心の塊ですよ。いつだって隙を狙っているんです﹂ まっすぐに私を見つめる彼の瞳。 ︱︱︱何を言ってるの?あなたはこんな私に下心を抱くというの? ⋮⋮ありえないわ。 私は自分の容姿、性格、これまで小耳に挟んだ男性社員からの自 分の評判を頭の中から引っ張り出し、そのデータをもとに答えを出 287 そうとする。 程なくして導き出された答えは⋮⋮。 ︱︱︱きっと、からかわれているのね。いつも仏頂面している私が ドギマギする様子が面白くて、それで彼はこんなことを言うんだわ。 北川さんのことはそんな底意地の悪い人間には思えないけれど、 それ以外見当がつかない。 ふぅ、と短く息を吐いて顔を上げる。 ﹁先に帰るわ﹂ すっかりいつもの調子に戻った私を見て、北川さんが眉をひそめ る。 彼がどうしてそんな顔をしたのか心当たりがないので、気にも留 めていない振りをして立ち去った。 やっとのことでお風呂に入り、ベッドにもぐりこんだ。 ︱︱︱明日からは通訳をしなくていいんだわ。 その開放感から久しぶりに安眠につけるはずなのに、北川さんの 傷ついたような表情が目の前にちらついてなかなか眠れない。 それどころか、最近の彼は一歩踏み ﹃早く彼女を作れ﹄と散々勧めても困ったように笑うだけで、一向 に彼女を作る様子はない。 込んだ言動を取る。 そんな彼に動揺してしまう自分。 ︱︱︱私をオトせるか?⋮⋮という賭けを誰かとしてるのかしら。 難攻不落で男を寄せ付けない︵正確には寄ってこない︶私に言い 寄って、こちらの反応を楽しんでいるのだろうか? ︱︱︱違う。違うわ。彼はそんな人じゃない。 私を見つめる瞳は、ちっとも意地悪じゃない。 288 すごく優しくて。 すごく、すごく切ない。 そんな彼が私を陥れようとしているとは思えない。 だったら、彼の目的はなんだというのか? ︱︱︱お願いだから、これ以上私の心をかき乱さないで⋮⋮。 眠りに落ちる寸前、閉じた私の目から一粒の雫が頬を伝った。 289 49︼あなたまでの距離 あなたへの想い︵5︶ ︱︱︱熱燗が美味く感じる季節だなぁ。 そんなことを考えながら、俺は仕事終わりに空き地へ向かってい る。 今日は帰り際に開発部とちょっとしたミィーティングがあって、 遅くなってしまった。 10日ほど前、得意先からある注文を受けたのだ。 従来から使っているAという商品は悪くはないが、どうも不自由 感があると指摘された。 お客の意向をあれこれ伝えているうち、いつの間にか俺もその開 発会議に時々混ざることに。 開発部の社員よりも俺の能力が勝っているということではないが、 お客様に近い分、彼らよりも相手が何を望んでいるのか掴みやすい。 そんな訳で、近頃はちょこちょこと開発部に呼ばれる。 同期の伊藤が ﹃お前のアイディア、なかなかいいセンスだな。人事部に掛け合っ てやるから、こっちに来いよ﹄ と言ってくる。 しかし、俺は営業の仕事が好きだから。 彼の申し出は嬉しいけど、今のところ異動する気はまったくなし。 少し駆け足で向うと、餌やりを済ませたみさ子さんがボンヤリと 立ったまま、猫たちを眺めていた。 ﹁お疲れ様です﹂ そのままの勢いで彼女に近づき、止まることなく手首をつかむ俺。 ﹁え?え?﹂ 290 引っ張られて歩くみさ子さんの頭上には?マークが飛び交ってい る。 ﹁唐揚げのお礼です。いくら誘っても断られるので、強引に連れ出 すことにしました﹂ 俺は空き地と通りを結ぶ細いわき道を抜けながら、少し後ろを振 り向いて言った。 ﹁いや、あの、ちょっと、北川さん!放してもらえる?!﹂ みさ子さんが叫ぶが取り合わない。 彼女が転ばない程度にスピードは落としたものの、つかんだ手は そのまま。 ﹁ほ、ほら、人が見てるじゃないのよ!﹂ みさ子さんの言うとおり、すれ違う人たちの視線を集めている俺 達。 ﹁そうですね。でも、僕は気にしませんけど﹂ 前を向いたまましれっと答える。 ﹁私は気にするの!放してってば!﹂ 腕を引いてどうにか俺を止めようとしているけど、華奢な彼女の 力は男の俺にかなうはずもない。 ズルズルと引きずられ、彼女は歩き続ける。 ﹁お願いだから、放して。ねぇ、聞いてるの?﹂ ﹁聞いてますけど、放したら佐々木さんは逃げるでしょ?﹂ ﹁うっ⋮⋮。に、逃げないわよ!﹂ 憤りと恥ずかしさで目の縁をほんのり赤く染める彼女。あせった ような口調は、どうやって逃げようか算段していた現われだろう。 ﹁ん∼、信用できません﹂ ﹁何でよっ!﹂ と、こんな感じで有無を言わさず、あの和食ダイニングバーに到 着したのだった。 291 ﹁あぁ、もう。喉がカラカラよ⋮⋮﹂ ようやく腕が解放されて、ちょっと不貞腐れたような表情のみさ 子さん。 ﹁でしたら、遠慮なく飲んでくださいね﹂ 店先でやり取りをしていると、中から永瀬先輩が出てきた。 ﹁おっ、佐々木と北川じゃないか。飲みに来たのか?﹂ ﹁う、うん。その⋮⋮、北川さんがおごってくれるって言うから⋮ ⋮﹂ 突然の知り合いの登場にびっくりしながらも、みさ子さんが答え る。 ﹁へぇ﹂ なぜか先輩は俺を見てニヤリと笑う。 ﹁北川、気をつけろ。佐々木はなんでもない顔して飲み続けるから な。つぶされるなよ﹂ ﹁失礼ね。人を大酒飲みみたいに言わないでよ﹂ 苦笑しながら、先輩のおでこをこぶしで軽く小突くみさ子さん。 ﹁ははっ。そりゃ、悪かったな。おっと、呼び出されて急いで帰る ところだったんだ。じゃな﹂ ﹁気をつけてね﹂ 先輩はみさ子さんの声を背に、駅へと駆けていった。 中に入ると、奥のテーブルへと案内される。 金曜日とあってか、店内はそこそこ混んでいて、通されたのはこ じんまりとした二人席。なんとなく窮屈な感じもするけど、その分 みさ子さんとの距離が近いので気にしない。 つまみを何品かと俺はビール、みさ子さんは梅酒のソーダ割を注 文した。 明るさを絞った照明に照らされている彼女の顔がなんとなく浮か ない。 292 ︱︱︱さっきはあんなに楽しそうに永瀬先輩としゃべっていたのに な。 いや、さっきだけじゃない。 永瀬先輩といる時のみさ子さんは明るい顔をしていて、二人は本 当に仲がいいのだと、見ていてよく伝わってくる。 ︱︱︱もしかして、みさ子さんは先輩のことが⋮⋮好き? そう思ったのは一度や二度ではないのだ。 二人だけでよく飲みに行ってるみたいだし、なにより、先輩と一 緒にいる彼女は女帝の仮面をつけていない。 ツキン、と胸の奥が痛い。 その痛みを消すかのように、俺は運ばれてきたビールを一気に飲 み干した。 ビールから日本酒へ切り替えた俺はいい加減に酔いが回り、つい、 ポロリとこぼしてしまう。 ﹁佐々木さん﹂ ﹁なに?﹂ ﹁⋮⋮永瀬先輩のこと、好きなんですか?﹂ ﹁︱︱︱は?﹂ 口元に枝豆を運ぼうとしていた彼女の動きがピタリと止まる。 ポカン、としているのは、図星を指されてリアクションが取れな いからなのだろうか? 騒がしいはずの店内なのに、彼女の声に集中する俺の耳には余計 な音が入ってこない。 293 俺達の間に沈黙が流れる。 しばらくして先に口を開いたのはみさ子さんだった。 ﹁⋮⋮好きよ﹂ 俺は全身の血が凍る音を聞いた。 294 49︼あなたまでの距離 あなたへの想い︵5︶︵後書き︶ ●﹁いやぁー!何これ!?﹂ ﹁マジで!?普通、ここで止めるか?﹂ といった読者様の悲鳴が今にも聞こえてきそうです。 こんなところで話を区切るみやこは、もはや鬼ですね︵苦笑︶ この後もかなり大荒れな展開になりそうですが、ハッピーエンドだ けは保障します。 ●﹃北川さん、頑張れ!﹄と言うお声を多数頂いております。あり がとうございます。 もちろん彼にも頑張っていただきますが、みさ子さんを動かすこと がこの先やや多くなります。何しろ、彼女の気持ちを動かさないこ とにはどうにも進展しないものでして︵苦笑︶ 295 50︼あなたまでの距離 あなたへの想い︵6︶ ︱︱︱そうだったんだ⋮⋮。 愕然となる俺。 みさ子さんが誰のことも好きでなければ“いつか俺の想いに気付 いてくれるんじゃないか”って頑張れる。 だけど、彼女の心の中にすでに俺以外の男がいるのなら、もう頑 張れない。 まして、あの永瀬先輩が相手では俺に勝ち目はない。 目の奥がグゥッと熱くなった。 告白する前に失恋だなんて、情けなくて、つらくて⋮⋮。 ︱︱︱こうなったら、ヤケ酒だ!! 徳利にパッと手を伸ばしたところで、みさ子さんがぽつりと言う。 ﹁⋮⋮って言えば、満足?﹂ ﹁へ?﹂ 視線を上げた先にいた彼女は、ほんの少し楽しそうに笑っていた。 ﹁いきなり何を言い出すかと思えば⋮⋮。ふふっ﹂ 俺と同じように熱燗に切り替えたみさ子さんは手酌で注ぎ、クッ と一息に飲み干す。 ﹁何でそんな風に思ったの?﹂ あっという間に空になったお猪口にトクトクと酒を注ぎながら、 彼女が尋ねてくる。 ﹁え、いや⋮⋮。なんとなく、です。先輩の前だと、佐々木さんの 表情が柔らかいと言いますか﹂ ︱︱︱それって、好きな人の前だから自然と顔が穏やかになるんで すよね? とは訊けなかった。﹃そうだ﹄と返されるのが怖くて。 目を伏せる俺にみさ子さんはクスクスと笑い、なみなみと注がれ 296 たお猪口を再び一気に空ける。 ﹁永瀬君とは大学からの付き合いだって聞いてるわよね?気心が知 れているから、お互い気楽な態度でいられるのよ。私にとって彼は ⋮⋮、そうね、戦友ってとこかしら。大切な仲間だけど、ライバル にもなる。昔から負けず嫌いなのよねぇ、私﹂ 徳利を傾けたみさ子さんは、中が空になっているのに気がついて 追加で熱燗を注文している。 今日はずいぶんと酒の進むペースが速い。どうしたことだろうか。 だけど、そんな彼女の態度を伺う余裕は今の俺にはなかった。 ネガティブな思考ばかりがグルグルと渦巻く。 ﹁でも、それだと僕の質問の答えになってません﹂ 酔いがかなり回り始めたのか、俺は彼女に対して絡むような物言 いになってしまう。 ﹁答えてください﹂ みさ子さんの回りくどい言い方は、自分の本当の気持ちを隠して いるようにも受け取れる。 そして、立て続けにあおる酒は、先輩に対する押さえ切れない感 情をごまかしているようにも見えるのだ。 届かない片想いをこのままズルズルと続けるくらいなら、いっそ のこと引導を渡されたほうがすっきりするんじゃないかと思って彼 女に詰め寄る。 ﹁答えてください。⋮⋮好きなんですか?﹂ こみ上げそうになる涙をこらえ、噛み潰すように尋ねる。 すると、みさ子さんは数回瞬きをした後、ふっと目を細めた。 ﹁何を勘違いしているのか分からないけれど、私にとって永瀬君は 友達でしかないわ。これまでも、これからも、友情はあるけど愛情 はないのよ﹂ 柔らかく緩められたみさ子さんの瞳にウソは見当たらない。 酒に酔い始めた彼女の焦点は少し妖しい所があるが、ごまかして いる様子は微塵もない。 297 ︱︱︱俺の勘繰り過ぎだったんだ。 みさ子さんに関して自信が持てない俺は、つい穿った見方をして しまった。 やはり彼女の言うとおり、永瀬先輩とは特別仲がいいけれど、本 当にそれ以上の感情はないのだろう。 安心した俺は思わず小さく息を吐いた。 ︱︱︱みさ子さんのこと、諦めなくていいんだ。 完全に酔いが回りだしたのと、ほっとしたことが重なり、これま での自制が外れる。 ︱︱︱良かったぁ。みさ子さんを好きでいてもいいんだぁ。 募りに募った愛しさを込めて、みさ子さんに微笑みかけてしまっ た。 298 51︼あなたまでの距離 あなたへの想い︵7︶ ≪SIDE:みさ子≫ 会社の裏手から半ば連れ去られるように歩かされている私。 ﹁放してよ!﹂ 何度頼んでも北川さんはニコニコと笑うだけで、ちっとも力を緩 めてくれない。 ︱︱︱まったく、何なの?! 彼のこの行動の意味が分からない。 それ以上に分からないのが、自分の心。 ︱︱︱こんなことされて、どうしてイヤだって思わないんだろう。 心底イヤじゃないから、本気で振りほどけない。 近頃の私は本当におかしい。 そんな自分にどうしていいか分からず、いつもより早いペースで お酒が進んでいた。 ︱︱︱どうして、彼の表情にいちいちドキッとしてしまうんだろう。 “いい年をした大人が引きずられながら歩く”という醜態をさらす 羽目になった原因を作った北川さんに、ちょっとした仕返しを込め て﹃永瀬君が好きだ﹄と答えた。 いつもはこんなことしない私だけど、お酒が回ってきたのか、彼 をいじってみたくなってしまったのだ。 彼の反応をからかってやるつもりでいた私は、ギョッとした北川 さんを見て内心ほくそ笑む。 299 ところが、彼はそのすぐ後になぜか泣きそうになった。 すぐさま﹃こんな冗談に引っかかって、バカねぇ﹄と笑うつもり だったのに、北川さんのそんな顔を見てしまったら一瞬言葉に詰ま る。 どうにか顔を微笑ませて、短く告げるのが精一杯。 そんな自分をごまかすように、私は立て続けに日本酒をあおった。 頼んだお酒を受け取りつつちらりと視線を向けたら、彼はなにや らほっと息を吐いている。 子供のように表情がころころと変わる彼。きっと、素直な性格の 持ち主なのだろう。 ついさっきまで落ち込んでいたかと思えば、話の終わりに北川さ んがふわりと微笑みかけてきた。 ドキン、と跳ねる私の胸。 この動悸はお酒のせいじゃない。 前から優しい目だなとは思っていたけど、初めて見たとびきりの 笑顔に不覚にもときめいてしまった。 本当にどうしたことだろうか。 ︱︱︱これって、年下のアイドルにハマるのと同じ感覚かしら? 調子に乗って普段はほとんど口にしたことがない日本酒なんて飲 んだものだから、思考が定まらない。 フワフワと漂う私の気持ち。 何と何の間で揺れているのだろう。 ︱︱︱変な私。こんな自分、今までになかったのに。 誰かの笑顔に、こんなにも心が奪われるなんて⋮⋮。 300 51︼あなたまでの距離 あなたへの想い︵7︶︵後書き︶ ●50.51話が短いので、一挙に2話掲載です。 このお話は続けて読んで欲しいなぁと思いまして。 ●世間ではGW突入です♪ 皆様のひと時の楽しみに、この小説が役に立つと嬉しく思います。 ・・・いや、なかなか進まない展開に、楽しむどころかストレス大 噴出になるかも!?︵苦笑︶ さてさて、今年のGWはお天気がいいそうですね。 絶好のお出かけ日和☆ そんな中、みやこはがっつり仕事です。 ちくしょう・・・︵T−T︶ 301 52︼あなたまでの距離 あなたへの想い︵8︶女帝崩落:前 ≪SIDE:みさ子≫ 最近、北川さんと顔を合わせるのがなんだか気まずい。 私のことを可愛いと言ったり、手を引いて強引に連れ出したり、 優しく笑いかけたり。 そんなことをされたら、落ち着かなくなってしまう。 流石の彼も勤務中にはそういったことはしてこないので、私が空 き地に顔を出さなければ済むこと。 なのに、つい足が向いてしまう。 ︱︱︱だって、餌をあげなくっちゃ。猫たちがかわいそうだもの。 ⋮⋮そうよ、私が空き地に出向くのは猫たちのためよ。 あれこれ理由をつけては、出かけて行く私。 このところ、なんだか自分の行動にやたら理由をつけているよう な気がする。 ︱︱︱年を取って、理屈っぽくなったのかしら?⋮⋮それとも、“ 何か”を認めたくないから? そう思うと同時に、﹃それ以上深く考えるな﹄と声がした。 夏前あたりから、こんな風に頭の中で警鐘がなることが多くなっ た。ここ1、2ヶ月は特に。 この警鐘に忠実であったからこそ、私はこれまで“佐々木みさ子 ”でいることが出来た。 私がこの先も“私”でいるためには、今回もこの声に従うべきで あり、もちろん、そうするつもりだ。 だけど、それに反発したいと思う自分も少しだけ存在していた。 302 しかし、﹃それはあまりに危険だ﹄と本能が告げる。 結局は今までどおりの“佐々木みさ子”でいることに。 それが一番安全だから。 毎日慎重に、北川さんの前では特に慎重であろうとする。 その心がけのおかげか、警鐘が鳴り始める前の、つまり“従来の 佐々木みさ子”でいた頃の自分に戻りつつあった。 むなしい気がしないでもないけど、精神的には楽だ。 それがたとえ逃げであったとしても⋮⋮。 北風に吹かれて枯葉が舞い始める季節となった。 日暮れも早くなり、首もとをなでる風に肩をすくめる。 辺りが薄暗くなっても、彼はまだ現れない。最近の北川さんは忙 しいらしく、私が先に来る機会が増えた。 ﹁何をしてるのかしら?﹂ 悠然と横たわるヒメの背をゆっくりとなでながら、今しがた呟い た自分のセリフに苦笑する。 ﹁彼がどこで何をしていても、私には関係ないのにね﹂ “あの人はただの会社の後輩” “あの人はただの猫好き仲間” 口癖となったこの呟き。 心のざわつきを鎮めてくれる呪文。 303 そんなところに駆けてくる足音がした。 ﹁佐々木さん、まだいらっしゃったんですね﹂ 嬉しそうな顔で、嬉しそうに北川さんが言う。 ﹁ええ。ヒメと遊ぶのに夢中になってしまって﹂ ﹁⋮⋮本当は、僕を待っていてくれたとか?﹂ 笑顔のまま何かを探るような視線に私は動じることなく、 ﹁ふふっ、そうよ﹂ と、笑顔で返す。 もちろん、彼を待っていたつもりは微塵もない。 さっきのおまじないのおかげで、こういう軽口が返せるようにな った。おまけに、私から北川さんに近づいても平気。 ﹁あら、ネクタイの結び目が少し変よ﹂ 彼の首もとに収まっている濃いブルーのネクタイはなんだか締ま りがなく、形が少し不恰好だ。 ﹁これですか?実は、外回り中に汚してしまって、新しく買ったん ですよ。生地がなじんでないのか、うまく結べないんです﹂ 苦笑いしながら北川さんがネクタイに手をかけるけど、少しも改 善されていない。それどころか、どんどん形が悪くなっている。 ﹁直してあげるわ﹂ すっと腕を伸ばす私に彼は息を飲んだけど、気に留めることなく ネクタイを解く。 彼の言うとおり、若干の硬さを感じる生地。それでも、私は難な く仕上げてゆく。 ﹁はい、出来たわよ﹂ 最後に彼のスーツの襟元を正してあげて、すっと離れた。 長さも左右のバランスも問題ない仕上がりに、我ながら満足。 ﹁ありがとうございます。お上手ですね﹂ ネクタイをそっと撫でながら、彼がお礼を言ってくる。 304 ﹁そういえば、僕が入社して間もない頃にもネクタイを直してもら ったんですよ。覚えてますか?﹂ ﹁一階の廊下でぶつかった時のことでしょ﹂ やたらはしゃいでいた北川さんが私の一言でシュンとなった様子 がちょっと気の毒になって、私にしては思わず優しくしてしまった。 ︱︱︱だって、あんな“捨てられた仔犬”のような顔をされたらね ぇ。あ、彼の場合は“仔猫”かしら? 嬉しそうにネクタイに触れている彼を見て、クスッと小さな笑み をこぼした。。 結ばれたネクタイに満足した彼は、私に向き直る。 ﹁あの後、同期会で飲んだり騒いだりしたんですけど、ぜんぜん崩 れなかったんですよ。上手に結ぶコツってあるんですか?﹂ ﹁んー、どうかしら﹂ 自分の手順を思い出すが、取り立てて気をつけていることはない。 強いて言えば仕上げる際に、少し強めに生地を引くことくらいだろ うか。 ﹁結ぶ時に大して意識しているわけじゃないからよく分からないん だけど、コツというほどのものはないわね﹂ ﹁そうですか。ぜひとも教わりたかったんですけど、残念です。⋮ ⋮じゃぁ、ネクタイが崩れた時は佐々木さんに頼んでもいいですか ?﹂ ﹁お安い御用よ。いつでもいらっしゃい﹂ 私はそっと微笑む。 おまじないは本当に効果抜群。 北川さんがなにやら意味深な視線を送ってきても、こうやって平 然と返事が出来るんだから。 305 306 53︼あなたまでの距離 あなたへの想い︵8︶女帝崩落:後 ≪SIDE:みさ子≫ ある日の昼下がり。 自分の机でパソコンに向っていると、電話が鳴った。 ﹁はい。総務部、佐々木です﹂ ﹃永瀬だけど、そっちで手が空いている人間はいるか?﹄ 普段は泰然と構えている友人が、心なしか焦った声を出す。 ﹁何よ、いきなり﹂ ﹃実は、明日のプレゼンで使うデータが手違いで飛んでしまってな。 その復旧を手伝ってくれる人を集めているんだ﹄ 永瀬君の言うプレゼンは確か結構大掛かりで、2か月くらい前か ら準備をしていたはず。 そのデータが消えたとなれば一大事。しかも期日は明日。 営業部が仕事を取ってきてくれるおかげで私たち社員のお給料が 出ているようなものだから、何をおいても手伝ってあげたい。 自分で言うのもなんだが、パソコン処理はちょっと自信があるの だ。 だけど、部長が席をはずしている今、チーフの私が抜ける訳にも いかない。 しかも今日は月末で、仕事は山ほどある。 ︱︱︱助けてあげたいけど、手を放せそうな人がいないのよね。 申し出を断ろうかとした時、 ﹃他の部署にも連絡したんだが、なかなか掴まらなくてな。ははっ、 まいったよ﹄ 電話の向こうで永瀬君が乾いた笑いを漏らす。いつもは余裕たっ ぷりの友人が珍しく弱気だ。 そんな声を出されたら、何とかしてあげたくなってしまうではな 307 いか。 ︱︱︱仕方ないわね。 私は苦笑いをする。 ﹁分かった、手伝いをそっちによこすわ。でも、こっちだって忙し いんだから、そんなに人手は割けないわよ﹂ ﹃何人でもいい。少しでも多くの人が必要なんだ﹄ ﹁ちょっと待っててね。すぐに向わせるから﹂ ﹃悪いな﹄ ﹁いいのよ。そのかわり、今度ご飯おごってね﹂ 冗談交じりに受話器を置いて、総務の中でもパソコンが達者な社 員二人に声をかける。 ﹁すぐに営業部に行ってもらえる?話は永瀬君に聞いてちょうだい。 それと、あなたたちの仕事は私が引き受けるから、気にしなくてい いわ。そのかわり、しっかり手伝ってあげてね﹂ そう言って二人を送り出した。 ﹁さてと、始めますか﹂ 自分の仕事と合わせて三人分は少々骨が折れるが、友人のためと あっては仕方がない。 私はいつも以上に気合いを入れて、書類の束と向き合った。 途中、手の空いた沢田さんが助けてくれたおかげで、どうにか1 時間弱の残業で終った。 ﹁お疲れ様﹂ 書類を束ねながら、沢田さんに声をかける。 ﹁先輩こそ、お疲れ様です。あれだけの仕事をこの時間に終わらせ るなんて、流石ですね﹂ ﹁ふふっ、ありがと。戸締りのチェックは私がしておくから帰りな さい﹂ 308 ﹁はい。お先に失礼します﹂ 彼女と入れ替わりに、さっきの二人が帰ってきた。 ﹁もう終ったの?﹂ ﹁大体は。残りは営業部の人達で仕上げるそうです﹂ ﹁そう﹂ ︱︱︱永瀬君達はまだ帰れそうにないのね。後で差し入れしてあげ ようかな。 ﹁ご苦労様。あなたたちももう帰りなさいね﹂ ﹁はい﹂ ﹁お疲れ様でした﹂ 頭を下げる二人を見送り、私は身支度を整える。 窓ガラスの鍵をチェックし、電気のスイッチを切って総務を出た。 ﹁コーヒーとお茶でも持っていってあげようかしら﹂ 私は社員通用口の脇にある自販機コーナーに向かう。 廊下の角を曲がったところで、自販機傍に置かれた小さな丸イス に北川さんが座っているのが見えた。 彼は相当くたびれた様子で、ぐったりと壁にもたれている。 データー復旧に追われる社員の代わりに、担当以外の場所も回っ たのだろう。月末なので集金業務もあっただろうし、疲れるのは当 然。 ︱︱︱なんか、本当にお疲れ様って感じね。 いつもきっちり着こなしているスーツがよれ気味で、ネクタイも 曲がっている。 あまりにグズグズな格好に、私はつい苦笑してしまう。 ︱︱︱よし、コーヒーをおごってあげるか。 ﹁北川さ⋮⋮﹂ 声をかけようとしたところで、廊下の反対側から小柄な女性が駆 けてきた。森尾さんだった。 309 ﹁北川君、お疲れ様。そろそろ帰ってくる頃だと思ったんだ。はい、 どうぞ﹂ そう言って彼女が差し出したのは、彼が良く飲んでいる銘柄のコ ーヒー。確か、社の自販機にはなかったはず。わざわざコンビニま で買いに行ったようだ。 ﹁ありがと⋮⋮﹂ 北川さんは気だるそうに腕を上げ、やっとで受け取った。 ﹁本当に疲れているんだね。服もヨレヨレだし、ネクタイもずいぶ ん曲がってるよ﹂ ﹁そうだな﹂ 返事はするものの、今の北川さんには身なりを気にする元気もな いようだ。ネクタイを少し見やっただけで、直そうとしない。 ﹁このままじゃ変だよ。私、直してあげる﹂ 森尾さんは彼の首もとに手を伸ばした。 ﹁いいよ、自分でやるから﹂ 少し鬱陶しそうにその手を押しやるが、森尾さんは気にしない。 ﹁まぁまぁ。遠慮しないの﹂ 彼女は北川さんの言葉に取り合わず、嬉しそうにネクタイの歪み を直した。 その光景はまるで恋人同士のようでもある。 ︱︱︱あっ⋮⋮。 それを見た私の胸の奥がチリッと熱くなった。 ﹁はい、できたよ﹂ ニコニコと嬉しそうな森尾さん。 ﹁ん⋮⋮﹂ まっすぐになったネクタイを見て、彼が素っ気無く述べる。疲れ ているからだろうか、心なしか不機嫌そうだ。 310 ﹁なによ∼。わざわざ直してあげたんだから、もっと嬉しそうにし てよ∼﹂ 甲斐甲斐しく動く自分を褒めてくれると思った森尾さんは当てが 外れて、頬を少し膨らませてすねてみせる。 それは女性の私から見ても、かわいらしい仕草だった。 そんな彼女をチラリと見て、悪いと思ったのか北川さんはやんわ りと微笑む。 ﹁サンキュ﹂ どんなにくたびれていても、やはり整った顔立ちの彼の笑顔はそ れなりのもので、森尾さんはとたんに機嫌をよくする。 ﹁どういたしまして。他にして欲しいことはある?﹂ 落ちて目にかかっている彼の前髪に伸ばしてくる森尾さんの手を、 北川さんが今度はしっかりと押し戻した。 ﹁いや⋮⋮。俺、部に戻らなきゃ﹂ 北川さんは乱れた髪をザッと手櫛で直し、よろよろと立ち上がる。 ﹁ねぇ。そのあと、一緒にご飯食べに行かない?﹂ ﹁悪いけど、今日は早く帰ってゆっくりしたいんだ﹂ ため息混じりに彼が答える。 ﹁そっかぁ﹂ 森尾さんは残念そうにするものの、北川さんの疲労の度合いが酷 いため、あっさりとあきらめた。 ﹁じゃぁ、また今度ね﹂ のそのそと歩き出した北川さんに向ってかわいらしく手を振る森 尾さん。 ﹁そうだな﹂ ポツリとつぶやいた彼がこっちへ歩いてくる。 私は二人に見つからないように、とっさに逃げ出した。 311 営業部に差し入れしようと思っていたのに、何も買わずに駆け出 す。今の私にはその場を離れることしか頭になかった。 走っている間も、チリチリとした痛みが次第に温度を上げてゆく。 熱い。熱い。⋮⋮そして、痛い。 一人になりたくて、すっかり暗くなった総務へ飛び込み、内側か ら扉の鍵をかけた。 立っていられないほど脚の力が抜けてゆき、扉に背中を預けてズ ルズルとへたり込む。 冬場であり、しかも人気のなかった総務部の床は完全に冷え切っ ており、まるで氷のようにヒヤリとした感触を感じるが、そんなこ とを気にかけていられないほど動揺していた。 熱を帯びた痛みがブスブスと胸の奥でくすぶり続け、私の心の中 に広がってゆく。 駆けてきたせいで息が弾み、肩が上下する。そして、瞳からは涙 が溢れ出す。 ︱︱︱北川さんのネクタイを直すのは、私の役目なのに⋮⋮。 嬉しそうにネクタイを直す森尾さんの姿が見ていられなかった。 まるで彼女であるかのように振舞う森尾さんの様子が目に痛かっ た。 それは完全なる嫉妬心によるもの。 ︱︱︱私、私⋮⋮!! 頭の中でガンガンと警鐘が鳴り響く。﹃危険だ。それ以上、何も 考えるな!﹄と、これまでになく悲痛な信号。 この声に従えば私は“私”でいられる。 だけど、心の奥から湧き上がる想いは、もう止められない。 312 激しい感情は声にするには苦しくて、噛み潰すようにつぶやいた。 ﹁私、北川さんが⋮⋮好き⋮⋮なんだ⋮⋮﹂ ようやく気がついたこの想い。 ううん、本当は分かっていた。 もうずっと、ずっと前から、彼のことが好きだったんだ。 認めてしまうのが怖くて︱︱︱認めてしまえば、“佐々木みさ子 ”が崩れ落ちることになるから。 必死で﹃あの人は弟みたいなものだ﹄と言い聞かせて。 懸命に﹃自分は恋愛するような女じゃない﹄と言い訳して。 ﹃男性は必要ないから﹄と思い込もうとした。 ﹃恋愛は必要ないから﹄とあきらめようとした。 だけど。 気付いてしまった。 認めてしまった。 ﹁ぐ、うぅ⋮⋮﹂ こらえ切れなくなった想いが嗚咽となってこぼれ出る。 ︱︱︱でも、駄目。この恋はきっと報われないわ⋮⋮。 私の中に悲しみの嵐が吹き荒れる。 好きになる人は、みんな私以外の女性を好きになる。川崎君も、 永瀬君も、私には眼もくれない。 好意的に接してくれるのは、友情ゆえ。 そこに恋情がないからこそ、好意的なのだ。 そして、さっき目にした光景が脳裏にこびりついて離れない。 小柄でかわいらしく、愛される女性の森尾さん。北川さんの隣に 313 立つ彼女は、ものすごくお似合いだった。 それに引き換え、地味で色気もなく、女性にしては長身で、おま けに彼より5歳も年上。 かなうはずがない。 そのことを無意識ながらに察していたから、これまで自分の気持 ちに蓋をしてきたんだ。 溢れる涙はとどまることを知らず、次々に頬を濡らす。 恋心を手にした瞬間、彼への想いが届かない距離にあることを知 ってしまった。 ︱︱︱誰か⋮⋮。誰か、助けて⋮⋮。この想いを消す方法を教えて ⋮⋮。 薄暗い部屋に、ひっそりと私の泣き声だけが響いた。 314 53︼あなたまでの距離 あなたへの想い︵8︶女帝崩落:後︵後書き︶ ●⋮おかしい。 この作品の前に投稿していた﹃年下の彼女2﹄が“恋人との関係は どうあるべきか?”という真面目なテーマで書いていたので︵内容 は激ピンクHでしたが⋮︶、﹁次の作品は明るくさっくりと進んで、 ラブラブHな2人が書きたいなぁ∼♪﹂と言う目的の元に﹃女帝﹄ を書き始めたのに⋮。何、この展開!?︵滝汗︶ 昼ドラ感満載ですよ︵苦笑︶ ●ようやくみさ子さんが自分の想いを自覚しました。すいませんね ぇ。恋愛小説なのに、こんな暗い自覚シーンで⋮。 でも、彼女らしいなぁ、とみやこは思っています。 これでやっと次章﹃告白の行方︵仮︶﹄にたどり着けますよ。はぁ、 やれやれ。 ここからどうやって2人をくっつけるかは若干力技かもしれません が︵笑︶。そして、北川君よりも、みさ子さんのシーンがやや多く なるかもしれませんが、どうぞお付き合いください。 315 54︼告白の行方︵1︶私は偽善者 ≪SIDE:みさ子≫ 年の瀬も押し迫ってきた師走のある日。 珍しく仕事が早めに片付いた私は、部長に挨拶を済ませて総務を 出た。 ﹁みさ子ちゃん!﹂ ドアを出たところで私に声をかけてきたのは、イトコで経理部チ ーフの佳代お姉ちゃんだった。 ヒールの音を軽快に響かせて小走りで近づいてきたと思ったら、 突然両手を合わせて勢いよく拝まれる。 ﹁ごめんっ!!﹂ ﹁え?“ごめん”って何が?﹂ 私は二、三度まばたきをして、首をかしげた。 ﹁この前、あなたが欲しいって言った花瓶。ほら、陽一叔父さんの 形見で、とりあえず私が引き取ったアレよ。実は、主人の母が目を つけちゃって﹂ 顔を上げたお姉ちゃんは苦虫を噛み潰したような表情で手を腰に 当てる。 ﹁さんざん言ったのよ。“これはもう貰い手が決まっているから、 差し上げられません”って。なのに、私が不在の間に持っていって しまったらしいの。とはいえ、さすがに主人の実家に乗り込んで取 り戻すのもね⋮⋮﹂ はぁぁ、とお姉ちゃんは大きなため息をつく。 お姉ちゃんと旦那さん、実は周囲からものすごい反対にあっての 結婚だった。特に旦那さんのご両親には厳しい目で見られていたの だ。 316 それはお姉ちゃんが子連れのバツイチだから。 旦那さんの実家は地元では有名な老舗の和菓子屋さんで、そうい った風体を非常に気にするお家柄。 そこを旦那さんの熱心な説得でどうにか結婚を認めてもらったの だが、新婚当初、お姉ちゃんは﹃嫁﹄として認めてもらえず、旦那 さんの実家に上がることを許されていなかったらしい。 やがてお姉ちゃんが男の子を産み、その子が5歳にもなると、よ うやく義理のご両親もお姉ちゃんを受け入れるようになった。 最近では一緒に温泉旅行に行くまでの仲になったという。 もしお姉ちゃんが花瓶を取り戻すなんてことをしたら、その関係 は一瞬で崩れ落ちるかもしれない。 5年かけてようやくまとまった家族関係を壊してしまうことは、 お姉ちゃんには出来なかったのだ。 ﹁ごめん。ホント、ごめんね﹂ お姉ちゃんが何度も頭を下げる。 ﹁そんなに気にしなくて大丈夫だから﹂ 私はクスッと笑った。 ﹁持っていってしまうほど気に入ったのなら、あちらのお母さんは 大事にしてくれるよ。きっと花瓶も喜んでるんじゃないかな。だか ら、これでよかったんだと思う﹂ ﹁だけどみさ子ちゃん、あんなに楽しみにしてたじゃない。それが とにかく申し訳なくって﹂ お姉ちゃんはこの場にお姑さんがいないのをいいことに、舌打ち をしながら﹃あの強欲ババァめ﹄と漏らしている。 ﹁代わりといってはなんだけど、みさ子ちゃんが気に入った花瓶を 買ってあげるわ。このあと時間ある?﹂ ﹁いいんだってば﹂ 私は目を細めて微笑みかける。 ﹁もともと、私の手に入る方が奇跡みたいなものだったから。あん なに高価で綺麗なんだもの、他の人が目をつけるのも分かるし。も 317 しかしたら無理かもしれないって考えていたから、そこまでショッ クじゃないよ﹂ 確かにあの花瓶が欲しかったけれど、お姑さんと仲たがいさせて まで手に入れようとは思わない。 まぁ残念ではあるが、お姉ちゃんに必死で謝ってもらうほど落ち 込んではいないから、償ってもらう必要もない。 ﹁みさ子ちゃん⋮⋮﹂ まさにしょんぼりと言った顔で、お姉ちゃんはしょげている。 ﹁やだな、もう。お姉ちゃんの方が暗い顔してるよ。私は平気なん だから、本当にいいんだって。じゃ、先に帰るね﹂ お姉ちゃんに軽く手を振って、私はロビーへと歩き出した。 私はいつも、いつも、最悪の事態を見据えて生きてきた。 あらかじめその事態に備えて心構えをしておけば、それほど落ち 込まなくて済むから。 年を重ねてゆくとこういう変なところが無駄に器用になるが、私 にとって大事な処世術。 もちろん、ただ悲観的に結果を待っているだけではない。最大限 に努力はする。勉強や仕事はそれこそ自分が努力した分だけ、報わ れることが多いのだ。 だけど、どんなに頑張っても成果に結びつかないということも人 生にはあるから。 それは特に恋愛においての場合。 初めから無理だと分かっている相手を想い続けるのは、胸をかき むしってしまいたいほどに苦しい。そんな苦しみに耐えられるほど の勇気は持ち合わせていない。 それに﹃報われなくても、あの人を想っているだけでいい﹄と、 手の届かない片想いに胸をときめかせるような若さは、私にはもう 318 ない。 ﹃自分の想いが北川さんに届くはずはないのだから﹄と、あらかじ め思っていれば、彼に彼女が出来たとしても、私はきっと大丈夫。 彼への想いを消す方法。 それは﹃あきらめてしまうこと﹄。 そうすれば、これ以上傷つくことはないのだ。 こうやって私は今まで何度も自分の想いに蓋をしてきた。それは 一度も失敗したことがない。 おそらく、今回も成功するだろう。⋮⋮いや、成功させなければ ならない。 あの人は過去の誰よりも女性たちから熱い思いを寄せられている。 失敗する訳にはいかない。 私が“私”であろうとするのは﹃第二の小田さん﹄を作りたくな いからだけど、それは偽善なのだろう。 でも、いいのだ。 自分が誰かを悲しみの底に突き落としてしまうことを考えれば、 偽善者でいた方が気持ちは楽だ。 ところが、ムリヤリ自分に嘘を付くということは思った以上に精 神の安定を乱す。 自分ではこれまでどおりに過ごしているつもりでも、周りがおか しいと気付くほどに。 ﹁そろそろ式について具体的な話はしてるの?﹂ 永瀬君と飲みに来た私は、ちょうどいい酒の肴とばかりにこの話 319 題を持ち出す。 ﹁少しずつ前進ってとこだな。決めることが山ほどあって目が回り そうだよ。はぁ、結婚するって大変なんだなぁ﹂ やれやれ、とため息をつく永瀬君。 ﹁何言ってんのよ。すっごく嬉しそうな顔してるくせに﹂ 私は正面に座る永瀬君を軽く睨む。 ﹁嬉しそう?俺が?毎晩遅くまであれこれ話し合って、ぐったりし てるんだぞ?﹂ ﹁はいはい。何を言っても惚気にしか聞こえませんよ∼﹂ 空になった彼のグラスにビールを注ぎながら、私は小さく笑う。 ﹁そうだ。結婚祝いは何がいい?こっちは結婚できそうにないから、 その分あなたたちを盛大に祝ってあげるわね。リクエストがあった ら、未来のお義姉さんに遠慮なく言って﹂ ずっと友達だった永瀬君が自分と親族になり、しかも同い年なの に“姉と弟”と言う関係になることがなんだかおかしくて、私はク スクスと笑い続ける。 ﹁これからは私のこと“お義姉さん”と呼んでね。ふふっ﹂ 笑い続けたせいだろうか。 涙が滲み、視界がゆるりと揺れる。 ﹁もうお酒が回ったのかしら?なんだか笑いが止まらないわ﹂ そう独り言をつぶやき、私は指先でそっと目じりをぬぐう。そう いう私の心はちっとも笑っていないことを自分では分かっているが、 気がつかなかったことにする。 ﹁なんだよ、それ。人のお祝いに力を入れるより、お前だって結婚 すればいいじゃないか﹂ 私の手から瓶を取り、永瀬君が注いでくれながらちょっと不機嫌 そうに言う。 ﹁無理無理。この私を本気で嫁にもらおうだなんていう物好きな男 性は、世界中を探したっていないわよ﹂ 私は注がれてゆく綺麗な琥珀色の液体を眺めながら言う。表面的 320 には明るいその口調がが吐き捨てるようだというのは、無意識だっ た。 もしかしたら、この広い世界には﹃私と結婚してもいい﹄という 人がいるかもしれない。 だけど、私は単に結婚にあこがれているのではない。 私が望むのは“自分が好きな人との結婚”。 ︱︱︱⋮⋮果てしなく無謀な望みだわね。 北川さんに嫌われていないとは思う。 ただ、それは慕われているだけであって、恋愛感情とは違うはず。 いつも素敵な女性から想いを寄せられている彼にとって、私なんて みすぼらしい女性に過ぎない。 我ながら痛感している︱︱︱こんな自分、彼に好かれるはずがな いと。 ﹁そんなことないだろ﹂ なぜか怒ったような口調の永瀬君。真面目な口調がかえっておか しい。 ﹁そんなことあるわよ。女が終わっているような私には、何の魅力 もないんだから﹂ あははっ、と笑って私はグラスに口をつける。 ﹁佐々木、最近のお前は自虐的過ぎる。留美も心配してたぞ﹂ 私の様子を見て、彼は眉をひそめている。 ﹁別に、今までと変わらないわ﹂ グラスに残っていたビールをグッと飲み干し、目の前に置かれて いる瓶に手を伸ばす。が、寸前で瓶がさらわれた。 ﹁なら、言い方を変えよう。何に怯えている?﹂ やや低めの声で、問い詰めるように永瀬君が言う。 ピクン、と私の肩が揺れる。 ﹁怯えてなんか、ないわよ⋮⋮﹂ 321 何も入っていないグラスを両手で握り締め、搾り出すようにつぶ やいた。 ︱︱︱私が怯えているって? まったく、どうしてこの友人はこんなにも聡いのだろう。 ︱︱︱⋮⋮ええ、そうよ。 完全に北川さんを諦め切れていない私は、押さえ込んでいる想い が溢れて来やしないかと、人知れず毎日ビクビクしている。 自分を﹃恋愛する価値のない人間﹄と思い込むことで、胸の奥で 燻る感情を断ち切ろうと必死なのだ。 仕事中はまだいい。 社員達の目もあるから、自分を律することが出来る。 だけど彼と2人きりになってしまったら、私は自分の気持ちを抑 えきる自信がない。感情のままに、ジリジリと今にも焼け焦げてし まいそうな恋心を口にしてしまうかもしれない。 だから、最近では北川さんと時間をずらして空き地に行っている。 彼に会いたい。 でも、会ってはいけない。 このジレンマが私を連日苦しめているのだ。 現実から逃げ出せたら、どんなに心が軽くなることだろうか。 自分の想いを人に悟らせないためなら、苦しい毎日から逃げ出せ るためなら、私は何だってする。 たとえそれが﹃逃避﹄と責められても、楽になりたかった。 ﹁私のことはどうだっていいじゃない。それより、決まっているこ とだけでも教えてよ。留美が言ってたわ。いくつかの式場は下見に 322 行ったんでしょ?﹂ これ以上自分に話題が振られる事のないように、私はしゃべり続 ける。 この不自然な様子に、永瀬君は寂しそうな目をした。 323 54︼告白の行方︵1︶私は偽善者︵後書き︶ ●いつもより投稿ペースが遅くなってしまって申し訳ないです。 どうにか新章﹃告白の行方﹄がスタートしました。 この章で決着をつけます⋮多分。 あ、いえ、必ずや二人をまとめて見せます!!︵苦笑︶ ただ、絶対にミスの許されない章なので、じっくり書き進めるあま り投稿が遅れがちになるかもしれません。 出来得る限り真剣に取り組んでいますので、どうぞ温かく見守って やってくださいませ ︵^ω^︶ 324 55︼告白の行方︵2︶そして臆病者 ≪SIDE:みさ子≫ 冬の朝。 痛いほど冷たい水で顔を洗う。そして、正面の鏡に映る自分をじ っと見つめた。 ︱︱︱彼は単なる後輩。私は⋮⋮彼のことなんて、好きじゃない。 自分の瞳をグッと見据えて、心の中で納得のいくまで唱えて暗示 をかける。 これが毎朝の日課。 繰り返し行うことで、焼け付くような感情が少しずつ冷却されて ゆく。 会社ではなるべく北川さんと顔を合わせないようにしているが、 それでも総務にいれば会わざるをえないこともある。 まだ諦めることが出来ないでいる私は、彼のまなざしに、言葉に、 笑顔に﹃もしかしたら、私の事をそれなりに好いてくれているのか も﹄と思ってしまう。 それほどまでに、私に向けられる北川さんの態度は甘く切ない。 だけど、それが私の勘違いだとしたら? 先輩として慕ってくれているだけだとしたら? うかつな期待のしっぺ返しがとてつもなく痛いものだと知ってい る。 私が人を好きにならないのは﹃第二の小田さんを作りたくない﹄ 325 ということ以上に、失恋して傷つくのが怖いからだ。 偽善者で臆病者。 会社で恐れられている私の中身はこんなもの。 ﹁ふふっ﹂ 鏡の中の私に向って、思わず苦笑い。 ︱︱︱30年近く生きてきて、出来上がったのがこんな人間だとは ね。 強そうに見えて、強くはない私。 でも、それはみんなが知っている“私”じゃない。 両手で自分の頬を挟むようにパチンと叩き、目の前の自分を睨み つける。 その顔はいつもの“佐々木みさ子”だ。 ︱︱︱これでこそ、私だわ。 満足げに目元を細める。 確かに私は強くないけれど、時間が経てば心の傷を乗り越えられ るくらいの強さは一応持っている。 川崎君や永瀬君に寄せていた感情を思い出すと胸の隅っこがツキ ンと疼くけれど、気になるほどでもない。 だから、北川さんに対する想いも、この先いつかきっと、隅に追 いやれるはず。 私の中から彼を追い出してしまえ。 彼への恋心も忘れてしまえ。 ﹁さてと、そろそろ朝ごはんにしないとね﹂ もう1度頬をパチンと叩いて、その場を離れた。 326 56︼告白の行方︵3︶北川、告白を決意する このところ、本当に忙しい。 年末年始に向けての営業もあるし、新商品の開発のことで時間は 取られるし、おかげでなかなかみさ子さんに会えない。 連日のように外回りが続くために昼飯時は社にいることがなく、 就業後に空き地へ行ってみても、みさ子さんはすでに帰ってしまっ た後。 総務へ行けば会えるけど、彼女の仕事を邪魔することは出来ない から無駄話なんてしていられない。 それに忙しい時期の総務部チーフはおちおち座っている場合では ないらしく、受理カウンターやデスクにいないどころか、総務にす らいない。 今日も彼女をまったく目にすることなく帰宅。 ﹁はぁ⋮⋮﹂ 適当に食事と風呂を済ませ、ベッドに横になったとたんに大きな ため息が出た。 みさ子さんに会わないと、どんどん心が疲れていく。 俺の想いに気付いてくれなくて、胸の奥をつらく苦しい切なさが 占領していたとしても、俺にとってみさ子はなくてはならない存在 なのだ。 ﹁会いたいなぁ⋮⋮﹂ 照明が落ちた暗い部屋でポツリと呟く。 閉じたまぶたに浮かぶのは、愛しいあの人。 話なんか出来なくっていい、声が聞けなくてもいい。 ただ、彼女に会いたかった。遠目でもいいから、ほんの一瞬でも いいから、みさ子さんの姿が見たかった。 327 ︱︱︱みさ子さんも俺に会いたいって思ってくれたらいいんだけど なぁ。 そうしたら、俺は何をおいても彼女のところへ飛んでゆくのに。 それから数日後、開発部とのミーティングもなく、早々に空き地 へ向うことが出来た。 何日か振りでみさ子さんと会える嬉しさにウキウキと歩いている と、前方の空き地から話し声が聞こえてくる。 みさ子さんと永瀬先輩の声だった。 ︱︱︱相変わらず、仲がいい事で⋮⋮。 ちょっとすねながら建物の影から二人の様子を伺うと、いつもと は感じが違った。 楽しげに会話を交わすといった様子は見られず、みさ子さんも先 輩も表情が硬い。 ︱︱︱何かあったのかな? 首をかしげる俺の耳に飛び込んできたのは、信じがたい話だった。 ﹁仕事、辞めるんだって?﹂ 先輩の声は驚くでも、責めるでもなく、ただ、ただ残念そうだ。 ﹁ええ。しばらく考えて決めたことだから、反対しても無駄よ﹂ みさ子さんはひざを抱えるようにしゃがみ込み、猫達が戯れてい る様子を眺めながら告げる。 その声に後悔の念はなく、むしろ潔さすら漂う。 ﹁せっかくの仕事がもったいないだろう﹂ 小さく丸められたみさ子さんに背中に、先輩の方が気落ちした声 で話しかける。 328 ﹁私もそう思ったんだけどねぇ。それなりに事情があるのよ﹂ みさ子さんの足元にはヒメが横たわっている。しなやかな尻尾が 揺らめく様子を見ながら、彼女は淡々と答えた。 ﹁それなりの事情って何だよ?﹂ みさ子さんの漠然とした物言いに、先輩はどうすることも出来な いもどかしさから、少し苛立った口調になっている。 ﹁話してくれてもいいじゃないか﹂ ﹁⋮⋮私の口からは言えないわ﹂ やや間が空いた後、ポツリと返す言葉。 一貫して態度が変わらないみさ子さんに、先輩は大きなため息を ついた。 ﹁俺が辞めるなと言っても、気持ちは変わらないのか?﹂ ﹁⋮⋮そうね。長い付き合いで、頑固な性格だって分かってるでし ょ?﹂ ヒメを見ながら雰囲気だけで笑うみさ子さん。 ﹁確かに、身に染みて分かってるよ。でも、残念だなぁ。仕事して る姿、結構好きだったんだけどな、俺﹂ 本当に残念がっているのか良く伝わってくる声音。先輩は腕を組 み、足元の小石を軽く蹴飛ばす。 ﹁ふふっ、そう?﹂ みさ子さんは顔だけこちらに向けて笑う。 ﹁すごく生き生きしててさ、見ていて応援してやりたくなるんだよ。 ⋮⋮あ∼あ。辞める事を知っていながら、見守ることしか出来ない のかぁ﹂ ふてくされた声で、先輩は腕を大きく上に伸ばす。 そんな先輩のことを目元を細めて、みさ子さんが見遣る。 ﹁そうね。今は何も言わないで、そっとしておいて﹂ ﹁はいはい、了解です。ところでさ⋮⋮﹂ 二人は話題を変えて会話を続ける。 329 俺はこれ以上話を聞く気になれず、フラフラとした足取りでその 場を離れた。 通用口に入ってすぐの壁に背中を預ける。 冬のコート越しにひんやりと伝わってくる壁の温度も気にならな いほど、俺は呆然としていた。 ︱︱︱みさ子さんが仕事を辞める⋮⋮?そんな馬鹿な!! 一生この会社で働くのではないにしても、彼女がそう簡単に辞め るはずなんてないと思っていた。 みさ子さんは自分の仕事に自信とプライドを持っている。それは 見ていればよく分かる。 結婚までの単なる腰掛として働いているのではないのだ。 ︱︱︱そのみさ子さんが、この仕事を辞める?! 彼女が会社を去ることにショックなのは、今の俺達をつないでい るのが“職場の先輩と後輩”という関係だけだから。 “先輩と後輩”ではない関係を新たに作り上げるためにも、俺 それが無くなってしまったら、彼女との関係が切れてしまうから。 の想いを伝える必要がある。 いよいよ、その時期が巡ってきたのだ。 ︱︱︱よし、告白しよう。 蛍光灯の明かりがボンヤリと灯る廊下で、俺はグッとこぶしを握 った。 330 57︼告白の行方︵4︶抱きしめて 会社全体が慌しい空気に包まれている12月中旬、俺は緊張した 面持ちである場所に向っていた。 社の5階、一番南端にある小部屋。そこは社長の趣味で作った休 憩室で、窓からは小さいながらも海が見え、景色が良いという。 ところが3階にはドリンク類が充実した大休憩場があるため、こ こに来る社員は極々一部。俺も教えてもらうまではこんな場所があ ることすら知らなかった。 そんな数少ない利用者の一人がみさ子さん。 カウンター当番ではない時、午後の休憩をここで取っているとい う情報を沢田さんに教えてもらった。 なぜ彼女が俺に情報提供をしたのかというと⋮⋮、みさ子さんを 好きだということがバレてしまったからである。 勤務中、総務に訪れる時は自分の感情が周囲に悟られないように 注意していたけれど、つい先日、沢田さんに嗅ぎ取られてしまった のだ。 ﹃意外と勘がいいんだな﹄なんて言ったら失礼だろうが、まさか沢 田さんに知られるとは思わなかった。 だって、彼女の見た目はホヤ∼ンとしたおっとりお嬢さんで、気 を張っていた俺から“みさ子さん好き好きオーラ”を読み取れるな んて想像できない。 洞察力にかなり優れているという事を思い知らされた俺は、﹃こ れからは沢田さんの前でうかつなことはできない﹄と、総務に行く のが少し厄介に思ってしまった。 だが、彼女はけして茶化すことなく、真剣に俺の恋を応援してく れている。 そしてなにより、女帝オーラに惑わされることなくみさ子さんを 331 慕っている。 そんな沢田さんは、俺のよき協力者となった。 裏の空き地ではすれ違いの日々が続き、告白しようにもみさ子さ んが一人でいる場に遭遇できないと相談を持ちかけたところ、小休 憩室の事を教えてくれたのである。 自分のデスクで書類の整理をしていたところで、スーツのポケッ トに入れていた携帯電話がメールの着信を告げる。 差出人は沢田さん。 内容は﹃先輩が休憩室に向ったよ﹄だった。 ︱︱︱さ、行くか。 短く息を吐いて気合を入れる。 ﹁ちょっとコーヒーでも飲んでくるよ﹂ 隣で発注書のチェックをしていた岸に適当な理由を述べて席を立 ち、俺は営業部を出た。 ﹁ドキドキするなぁ﹂ 廊下を進みながらポツリと漏らす。 こんなに緊張するのはどれくらいぶりだろうか。⋮⋮いや、初め てのことだ。 過去に付き合った彼女達にそれなりのトキメキは感じたが、心臓 が痛くなるほどの胸の高鳴りはなかったように思う。 それだけ、みさ子さんは特別だということ。 俺が本気だということ。 細い階段を抜けた先に休憩室の扉が見えた。 332 扉の前で深呼吸を繰り返す。 ︱︱︱いよいよだ。 最後に大きく息を吸って、扉に手をかけた。 鍵の付いていない扉はすんなりと開き、俺は一歩踏み込む。 窓際で外の景色を眺めていたみさ子さんは人の気配に振り返り、 そして固まった。 ﹁北川さん⋮⋮﹂ 目を見張る彼女。突然人が現れたから、という理由では片付けら れないほど驚いている。 ︱︱︱そんなに、俺には会いたくなかった? 理由は分からないが、この所みさ子さんは俺を避けていたように 思う。 これまでに何度か今の彼女と似たような表情を見てきたが、目の 前の彼女は過去のどの表情よりも複雑だ。 だけど、ためらっている場合じゃない。 押して駄目でも、押しまくるしかないのだ。 窓枠に手を着いたまま動かないみさ子さんに向けて、ふわりと微 笑みかける。でも、瞳には強くまっすぐな光を宿して。 ﹁こんにちは、佐々木さん﹂ 後ろ手で扉を閉め、俺はゆっくりと歩み寄る。 ﹁⋮⋮あなたも休憩?﹂ 努めて冷静であろうとするみさ子さん。 口元は穏やかに緩められているものの、その目には驚きと、読み 取れない“何か”を滲ませている。 そんな彼女に俺は告げる。 ﹁休憩ではありません。⋮⋮実は、告白をしに来ました﹂ それを聞いて、彼女の形のいい瞳が一瞬大きく開いた。が、その 333 直後に不思議と暗い光が浮かぶ。 ﹁そう⋮⋮。ここで待ち合わせ?それなら、私はいない方がいいわ ね﹂ みさ子さんがゆっくりと窓から離れた。 ﹁今日は特にいい眺めよ。こんな日の告白はきっとうまくいくわ⋮ ⋮﹂ 目を伏せ、視線を合わせないようにして俺の横をすり抜ける。 その右手首をパッとつかんだ。 ビクン、と足を止めた彼女を強引に引き寄せる。 ﹁きゃっ﹂ みさ子さんが短く声を上げてよろけたところを、胸に抱きこんだ。 さっきの戸惑いに満ちた彼女の表情は何を意味するのだろう。 感情を表す事をめったにしないみさ子さんが、俺がここに現れた とたん、明らかに顔色を変えた。 その様子はどう見ても、俺の事を歓迎してはいなかった。 一人でのんびりしていたかったから、突然邪魔されたことに気分 を害したということではないだろう。 みさ子さんはそんな器量の狭い人ではない。 ︱︱︱とっさにあんな複雑な顔をするほど、俺のことが嫌いなのか? もしそうだとしても、俺は諦めるつもりはない。 今、俺のことが嫌いなら、この先俺を好きになってもらえばいい。 まずは俺の気持ちを伝えて、“関係の始まり”を作らなければ。 俺は自分の胸の鼓動をうるさいほど感じながら、言葉をつむぐ。 ﹁⋮⋮あなたに告白するんですよ﹂ 抱き寄せた彼女の耳元で囁いた。 334 58︼告白の行方︵5︶抱きしめられて ≪SIDE:みさ子≫ ﹁はぁ⋮⋮﹂ 休憩室の窓から海を眺めてため息をつく。 このところ﹃私以外、来る人はいるのか?﹄と言いたい位、利用 率が低いこの部屋で一息入れることが多くなった。他の休憩室や裏 の空き地では、北川さんと顔を合わせかねないから。 私がここに来ていることは、沢田さんしか知らない。だから、思 う存分⋮⋮とは言えないまでも、他の場所よりはくつろぐことが出 来た。 日を追うにつれ、北川さんへの想いが少しずつ落ち着きを見せて いると感じている。 が、よくよく考えてみると﹃実は、そうではないのかもしれない﹄ とも思うようになった。 北川さんと会っていないから冷静でいられるのだ。もし彼に会っ てしまえば︱︱︱それが総務部ではない所で二人きりだとしたら︱ ︱︱自分の気持ちを留めておく自信がない。 ﹁早く忘れてしまいたいのに⋮⋮﹂ 北川さんの存在を自分の中から追い出そうとすればするほど、彼 はどんどん奥へと入り込んでくる。 ︱︱︱こんな辛い毎日なんて、もうイヤなのに⋮⋮。 この日何度目になるかも分からないため息をついた。 どんよりと燻る私の心と違って、目の前にはすがすがしい景色が 広がっている。 335 ところが、陽の光を反射してきらきら輝く海面を見ても心は少し も晴れない。それなら、仕事でもしたほうが少しは気が紛れるだろ うか。 ﹁そろそろ戻るかな﹂ 水平線の向こうへと進んでいく大きな貨物船を眺めながら呟いた 時、扉の外に人が立つ気配を感じた。 ﹁沢田さんが来たのかしら?﹂ 彼女以外ここに来るはずがないと油断していた私は、ゆっくりと 扉を開けて入ってきた人物を目にして、心臓が凍りついた。 それは今一番会いたくない人。 ﹁北川さん⋮⋮﹂ ︱︱︱なんで?! 目を大きく開き、唖然となる。 突然の彼の登場に、私の表情はさぞや複雑だったであろう。 北川さんはそんな私を見て、少しだけ瞳を翳らせる。 ︱︱︱どうして、この人がここに来るの!? パニック寸前の私は動けず、首だけ彼に向けた状態で固まってし まった。 ︱︱︱会いたくなかったのに⋮⋮。 心の中でそう呟く私は、北川さんのことでいつも頭が一杯だった。 好きな人を嫌いになるって、どうしてこんなにも精神的苦痛を伴 うのだろうか。 そんな毎日からとにかく抜け出したくて、彼を避けていたのに。 しかも、私たちしかいない休憩室。ましてや、この後ここに訪れ る社員は皆無だろう。 2人きりの空間。 私が恐れていた状況になってしまった。 ︱︱︱どうしよう。 336 窓枠を握り締める指の関節が、その力の強さに白く浮き出る。 ︱︱︱どうしよう⋮⋮。 扉を閉めた彼がまっすぐに私を見る。 ドクン、と跳ねた心臓が熱く、痛い。 ︱︱︱ダメ⋮⋮、ダメよ。 なのに、彼から目が放せない。 ︱︱︱落ち着かなくちゃ⋮⋮。早く冷静になって、一刻も早くこの 休憩室を出なくちゃ。 とるべき行動を理解した私は、彼に分からないように深い呼吸を 繰り返している。 すると、北川さんが声をかけてきた。 ﹁こんにちは、佐々木さん﹂ やんわりと微笑みつつ、射るような視線を向けてくる北川さん。 この際、何で彼がここに来たかはどうでもいい。 早く彼の前からいなくなりたい一心だったが、挨拶してくれた北 川さんを無視することも出来ず、ゆっくりと言葉を返す。 ﹁⋮⋮あなたも休憩?﹂ 彼を見ているだけで、彼の声を聞くだけで、彼に視線を向けられ るだけで、私の心は張り裂けそうだ。 表面上は落ち着いて見えているかもしれないが、今にも泣き出し そうな私。 そんな私に追い討ちをかけるかのごとく、彼はわずかにはにかみ ながら言った。 ﹁休憩ではありません。⋮⋮実は、告白をしに来ました﹂ ︱︱︱告⋮⋮は⋮⋮く? その瞬間に私の呼吸が止まった。 だけど、頭の中はフルスピードで回転を始める。 337 ︱︱︱⋮⋮あ、そうか。好きな人をここに呼び出したのね。 私はフッ、と短く息を吐いた。 ﹁そう⋮⋮。ここで待ち合わせ?﹂ だったら、私はそれこそすぐに退散しなくては。 窓辺から身を起こし、静かに北川さんへと体を向ける。ただし、 私の視界に入るのは床の木目。今、彼の姿を見るのはあまりにつら い。 ﹁今日は特にいい眺めよ。こんな日の告白はきっとうまくいくわ⋮ ⋮﹂ 視線を落としたまま歩き出す。 彼から微妙な距離をとりつつ、扉に向う。その足取りは自分でも 驚くほど頼りない。 ︱︱︱しっかりして!とっくに覚悟は決めてたでしょ、私の恋は実 らないって。 ショックを受けないようにと何度となく言い聞かせてきたのに、 そんなことは何の意味も成さない。 それでもだらしない自分を見せたくなくて、最後の意地で一声か ける。 ﹁北川さん、頑張って﹂ ︱︱︱⋮⋮バイバイ、私の好きだった人。 こみ上げてくる涙を歯を食いしばって耐える。 その時、北川さんがいきなり私の右手首をつかんだのだ。 ︱︱︱えっ?! 驚きで歩みが止まってしまった私を、北川さんが力強く引き寄せ る。 バランスを崩し、よろめく私。 ﹁きゃっ﹂ その動作は一瞬のうちに済まされ、気付けば北川さんに抱きしめ られていた。 ︱︱︱な、何⋮⋮、これ? 338 自分の今の状況が信じられない。 そして、この後もっと信じられないことが起こる。 ﹁⋮⋮あなたに告白するんですよ﹂ 私の耳に響く彼の声は、私の心臓を止めてしまうほどの衝撃だっ た。 339 58︼告白の行方︵5︶抱きしめられて︵後書き︶ ●この先北川君とみさ子さんの視点が入れ替わりながらの展開とな ります。 ちょっと読みにくいかもしれませんが、二人の気持ちをそれぞれ書 き表したかったので、このような形にいたしました。 ご理解いただけると幸いです。 ●作者の予想以上に、この作品がたくさんの方に支持されて本当に ありがたいことだと思っています。 北川君とみさ子さんが落ち着くまでにあとちょっとだけかかります が︵﹃え∼!!まだ、かかるの?!﹄と突っ込まないように︵苦笑︶ 、今後も変わらず作品を愛していただけるように頑張ります。 340 59︼告白の行方︵6︶﹃あなたが好きです﹄ 抱き寄せたみさ子さんの顔は見えないが、おそらく平静ではない だろう。“揺るぎ無き女帝”である彼女も、この状況ではさすがに 声も立てられずに全身をカタカタと振るわせている。 相変わらず華奢な肩。 初めて抱きしめた時から、ちっとも変わっていない。 いつもは怖いくらいにしっかりした人なのに、俺の腕の中ではい つでも儚げな彼女。今日はその肩がいつも以上に硬く、そしてこれ までになく震えている。 包み込むように彼女の体に腕を回した。 みさ子さんの震えはなかなか止まらず、全身がこわばっている。 真っ青な顔でじっとしている彼女は気の毒だと思うものの、そん な表情も仕草も可愛いと思える俺は﹃恋は盲目病﹄の重症患者だ。 そばにいたい。 守ってあげたい。 俺の持てる限りの愛情を、彼女に注ぎ込んであげたい。 そんな俺の想いを受け入れてくれたらいいと、心の底から願う。 今のみさ子さんの中には疑問とか不安とか、そういった感情が大 きく渦巻いているはず。 彼女自身がいつも言っていた︱︱︱﹃私には恋愛なんて必要ない﹄ と。 だから自分が告白される状況になって、半ばパニックになってい るのかもしれない。 だけど、俺は中途半端な気持ちで告白しに来たのではない。 341 いっそうパニックにさせてしまうかも知れないが、俺は自分の目 的を果たすために口を開く。 ﹁他の誰でもない、あなたに告白をするために来たんです﹂ そっと腕に力を込めて優しく抱きしめると、みさ子さんからあの 香りがフワリと漂ってくる。 色気すら感じさせるこの香りを初めて知った時、俺はみさ子さん をただ“怖い先輩”としか見られなかった。 ﹃社内恋愛なんて絶対にしない﹄と、周りにはっきりと豪語してい た。 それなのに、今では胸を焦がすほどこの人が愛しい。愛しくてた まらない。 ﹁佐々木さん、あなたにですよ﹂ 耳元で囁かれて、みさ子さんの肩がビクンと跳ねる。 ﹁そ⋮⋮んな⋮⋮﹂ 彼女の小さな声が揺れている。 ﹁そんなの嘘よ⋮⋮。北川さん、タチの悪い冗談はやめて⋮⋮﹂ ここまで来て﹃冗談﹄と受け取る彼女に、俺の語気が強くなった。 ﹁冗談なんかじゃありません!僕は⋮⋮、僕はあなたが好きなんで す!﹂ 回した腕にグッと力を入れ、更に抱き寄せる。 ﹁ずっと見てました。厳しいあなたも、優しいあなたも、可愛いあ なたも。ずっと、ずっと佐々木さんだけを見ていたんです!!﹂ これまでの想いをすべて吐き出す。 自分の気持ちに気がついてから、辛い日々が多かった。 それでも、みさ子さんを好きにならずにいられなかった。 彼女は揺れる瞳で俺を見上げている。 その瞳から逸らさずに、俺も見つめ返す。 ﹁好きです﹂ 切なさも、苦しさも、愛しさも、俺の想いのすべてをこの一言に 乗せる。 342 ﹁あなたが好きです⋮⋮﹂ 精一杯の気持ちを込めて、腕の中の彼女に伝えた。 343 59︼告白の行方︵6︶﹃あなたが好きです﹄︵後書き︶ ●読者さまに一言ご連絡があります。 ﹁あわてないでください﹂︵笑︶ この意味はそのうち分かると思いますよ♪ 分からなくても、問題なし☆ 344 60︼告白の行方︵7︶切ない告白 ≪SIDE:みさ子≫ ︱︱︱今、何て言ったの? 止まったかに思えた心臓が、今度はうるさいほど激しく動き出す。 ︱︱︱告白って⋮⋮、私に?! 頭の中が真っ白で、声を出すことも出来ないでいる私は、彼の腕 の中で震え続けた。 私を抱きしめる腕は以前とちっとも変わっていない。 大きな手、広い胸、優しい腕は、私を包み込み、守ってくれる居 心地の良い場所。 ﹃私には男も恋も必要ないの﹄と強がっていた自分が、ガラガラと 音を立てて崩れ落ちてしまうほど、彼の腕の中は切なく甘い。 だから困るのだ。 このままではいけないということは分かっているのに、思考回路 がショートしてしまって、行動に移せない。 そんな私を更に混乱させるセリフが、彼の口から聞かされる。 ﹁他の誰でもない、あなたに告白をするために来たんです﹂ 優しい言葉とともに優しく抱きしめられた。 ︱︱︱ま⋮⋮さか⋮⋮。 ありえない彼のセリフ。 だけど次に続く彼の言葉で、嘘や人違いではなかったと知らされ る。 ﹁佐々木さん、あなたにですよ﹂ ﹁そ⋮⋮んな⋮⋮﹂ 唇が震えて、うまく声にならない。 ︱︱︱だって私は地味で、色気がなくて、みんなから厄介者扱いさ 345 れていて⋮⋮。 そんな自分に彼が恋心を抱くはずがないのだ。 小刻みに揺れる声のまま、私は必死で唇を動かす。 ﹁そんなの嘘よ⋮⋮。北川さん、タチの悪い冗談はやめて⋮⋮﹂ いくら“冷血漢”と名高い私でも、こんなからかい方をされれば 傷付くのだ。ましてや、彼は私の好きな人。これ以上酷いイタズラ はない。 ところが北川さんは﹃すいません﹄と謝るどころか、強い口調で 言い返してくる。 ﹁冗談なんかじゃありません!僕は⋮⋮、僕はあなたが好きなんで す!ずっと見てました。厳しいあなたも、優しいあなたも、可愛い あなたも。ずっと、ずっと佐々木さんだけを見ていたんです!!﹂ 痛いほどに伝わってくる彼の真剣さに思わず顔を上げると、まっ すぐに私を見つめる視線とぶつかる。 熱く激しく、だけど切ない彼の瞳。 目が逸らせない。 瞬きも出来ないまま、ただ彼を見上げると、わずかに彼の瞳が細 められる。 ﹁好きです﹂ 胸が締め付けられるような一言。 ﹁あなたが好きです⋮⋮﹂ 今にも泣いてしまうんじゃないかってほど殊更切ない声で、北川 さんは再び私を﹃好きだ﹄と言った。 346 61︼告白の行方︵8︶追いかける俺 狭い休憩室。 壁にかけられた時計の音だけが響いていた。 しばらくして、俺に抱きしめられたままのみさ子さんがポツリと 呟く。 ﹁それ⋮⋮、本当なの?﹂ オドオドとした口調で確かめる様に訊いてきた。その様子には“ しっかり者の先輩”や、“大人の女性”といった感じはなく、“少 女”と言うのがぴったりかもしれない。 不安そうな色を瞳に浮かべている彼女を安心させてあげたくて、 やんわりと微笑みかける。 ﹁はい、本当です﹂ はっきり答えると、みさ子さんは体に入っていた力を抜き、わず かに俺へと身を寄せる仕草を示す。 俺は抱きしめる力を少し緩めた。 ﹁本当ですよ。それで⋮⋮、佐々木さんは僕の事をどう思っていま すか?﹂ 俯きつづけるみさ子さんにそっと尋ねる。 俺が艶やかな彼女の黒髪をゆっくり撫でると、みさ子さんは細く しなやかな指で俺のスーツの前身ごろをそっとつかんだ。 ﹁私⋮⋮、私⋮⋮﹂ 伏せていた顔が少しずつ上向きになり、長い前髪の隙間から唇が のぞいた。今日も落ち着いた色を重ねたその唇が柔らかく緩められ る。 ﹁あの⋮⋮、私も⋮⋮﹂ と言ったところでみさ子さんは何かに気付いて息を飲み、顔付き 347 が豹変した。 ︱︱︱どうしたんだ? ﹁佐々木さん?﹂ 再びカタカタと震え始めたみさ子さんを呼ぶ。 怯えて焦点の合わない彼女の瞳が宙を泳いでいる。 そして、ゆっくりと視線を戻した彼女が俺の姿を捉えると、 ﹁⋮⋮ダメッ!!﹂ と一声叫び、俺の胸をドンッと突き飛ばして腕の中から逃げた。 ﹁あっ!佐々木さんっ!?﹂ 扉に向って駆け出すみさ子さんの肩をあわてて掴む。 ﹁何で逃げるんですかっ﹂ ﹁ダメ!ダメなの!放してぇっ!!﹂ 身をよじって叫ぶみさ子さん。 ﹁それなら教えてください!一体、何がダメなんですかっ!?﹂ 俺の大声にみさ子さんが一瞬身をすくめる。だけど、すぐさま暴 れだす。 ﹁ダメと言ったら、ダメ!あなたに素敵な女性を紹介してあげる! だから放してっ。⋮⋮放しなさいっ!!﹂ 厳しい口調とともに振り返るみさ子さん。揺れる前髪の間から見 えた彼女の瞳は“女帝”の色だった。 ﹁何でですか!?いい加減、僕を見てください!﹂ 俺の言葉にハッとして見つめ返す彼女の瞳がグラリと揺れる。だ が、みさ子さんは渾身の力で俺の手を振り払い、休憩室を飛び出し た。 ものすごい速さで遠ざかってゆく足音。 すぐさま追いかける。 ところが、部屋を出た時点で彼女の姿はすでにない。 ﹁くそっ!﹂ 遠くからかすかに聞こえてくる足音を頼りに駆け出した。 必死に追いかけるが、階段や廊下を逃げるには小回りが利く女性 348 の方が有利。 俺は彼女を見失った。 ︱︱︱なんでみさ子さんは逃げたんだ?腕の中の彼女は俺の想いに 応えてくれそうだったのに⋮⋮。 ﹁チッ!﹂ 短く舌打ちしたのは営業部の前。 ちょうどその時、中から人事部長が出てきた。 ﹁北川君、探していたんだよ。大事な話があるから来たまえ﹂ ﹁え?いや⋮⋮、その﹂ 引き続きみさ子さんを追いかけようとしていた俺は、恐れ多くも 部長の申し出を断ろうとしたのだが。 ﹁君にいい話があるんだよ﹂ そう言って俺の肩をガッチリ掴まれてしまったら、うなずかざる をえない。 ﹁はい、分かりました⋮⋮﹂ 人事部長の後についてしぶしぶ歩き出した。 349 62︼告白の行方︵9︶逃げる私 ≪SIDE:みさ子≫ まるで日常と切り離されたかのように静まり返ったこの部屋。 トクン、トクンと響いてくるのは私の鼓動?それとも彼の鼓動? どちらのものか判別が付かないくらい、北川さんに強く抱きしめ られていた。 彼は何も言わず、私を見つめている。その瞳には後輩でも、弟で もない、“一人の男”としての色が浮かんでいる。 ︱︱︱北川さんが、私を⋮⋮好き? この恋は絶対に報われないと思っていた。 自分の気持ちは絶対に届かないと思っていた。 なのに、彼からの告白。 嬉しくてたまらないはずなのに、つい試すような口ぶりになって しまう。 ﹁それ⋮⋮、本当なの?﹂ ここまでしておいて﹃嘘でした﹄と言うような悪人じゃないって 分かっているが、やはり信じられないのだ。 ところが今の状況は夢でも幻でもなく、現実なのだと言うことが 彼のセリフと笑顔で証明される。 ﹁はい、本当です﹂ 350 微笑みが添えられた力強い返事に、私はわずかに息を吐いた。 ︱︱︱嘘じゃないんだ。 はにかむような彼の表情で、やっと体のこわばりが解ける。 ︱︱︱嘘じゃ、ないんだ⋮⋮。 感激のあまり目頭が熱くなる。 嬉しくて泣いてしまうなんて初めてのことで、それがすごく恥ず かしくって、彼の肩口に額を付ける様にして顔を伏せた。 そんな私の髪を優しくなでる北川さん。その仕草が心地良い。 そして耳に心地良い声で尋ねてくる。 ﹁佐々木さんは、僕の事をどう思ってますか?﹂ ︱︱︱そんなの⋮⋮、決まってるじゃない。 重く硬い蓋をしてきた自分の気持ちが心の奥底でカタカタと動き 出す。 ︱︱︱好き⋮⋮。私もあなたが好き。 だけど、それを言葉にするには照れがある。 迷う私は所在無さげに震える指で彼のスーツにそっと触れた。 ︱︱︱どうしよう、恥ずかしい。 迷って、迷って。 ︱︱︱⋮⋮でも、言わなくちゃ。 ようやく心を決めた。 深呼吸を一つして、ゆっくりと顔を上げる。 ﹁私も⋮⋮﹂ ︱︱︱﹃あなたが好き﹄ そう続けようとした時、ある女性の姿が目の前に浮かんだ。 それは今年総務に入ってきた内村さん。北川さんに思いを寄せて いる女性のうちの一人で、誰よりもひっそりと、だけど誰よりも熱 い視線を彼に向けていた。 血の気がさっと失せる。 ︱︱︱何やってるのよ、私⋮⋮。 内村さんの顔と自分自身で立てた誓いを思い出し、そして今の状 351 況を理解した私は見る見る青ざめてゆく。 北川さんが私を好きだと分かってそれこそ天にも昇るほど嬉しい が、⋮⋮でも、ダメなのだ。 ︱︱︱ダメ、ダメよ。私はこの人を好きになったらダメなの! ﹁⋮⋮ダメッ!!﹂ 両腕にありったけの力を入れて北川さんを突き飛ばした。 彼の力が緩んだ隙に扉を目指す。だが、一歩踏み出す前に北川さ んが後ろから私の肩を掴んだ。 ﹁佐々木さんっ!?﹂ 血相を変えた彼の声を掻き消すように、私は叫ぶ。 ﹁ダメ!ダメなの!放してっ!!﹂ ﹁一体、何がダメなんですかっ!?﹂ 私の声を上回る彼の声。その激しさに身が縮むが、私はここに居 られない。 ﹁ダメと言ったらダメ!﹂ ︱︱︱私なんかより、あなたにふさわしい人がいるの!それを知っ ていて、私はあなたの想いに応えるわけにはいかないのよ! ﹁あなたに素敵な女性を紹介してあげる!だから放してっ!﹂ もがくように身をよじり、半分だけ彼に体を向ける。 そして、 ﹁放しなさいっ!!﹂ と、一言放つ︱︱︱必死で作り上げた“佐々木みさ子”として。 キッと睨みつける私に彼は臆することなく、すかさず言葉を返す。 ﹁何でですか!?いい加減、僕を見てください!﹂ 北川さんの瞳には一切の余裕がなく、キリキリと締め付けるよう な視線が私の心に突き刺さる。 こんなにも私を求めてくれていることに、誓いなんて吹き飛んで いきそうになる。しかしそれは⋮⋮、それだけは許されないこと。 私は腕が千切れんばかりの勢いで彼の腕を振り払い、休憩室から 352 逃げ出した。 353 62︼告白の行方︵9︶逃げる私︵後書き︶ ●⋮すいません、まだ二人はくっつきません︵滝汗︶ このまま北川君の想いをすんなり受け入れてしまえば、みさ子さん は何一つ成長しないままに。 なので、あえてこのような展開にしました。 みやこの理想とする小説は、単に面白おかしく状況を文面化しただ けのものではなく、キャラクターの成長録なんです。 なので、しばしば説教くさいセリフも登場します︵笑︶ みやこの描くキャラクター達は小説の世界で﹃生きて﹄います。 そして作者であるみやこの役割は、彼らが何を考え、何に悩み、そ して何を見つけ出したのかを読者様に伝えることだと思っています。 それゆえに展開が進みにくいのですが、その点を踏まえてくださる と嬉しく思います。 みさ子さんは自分自身の弱さに打ち勝ってこそ、幸せになれるのだ と思います。 もちろん、最終的にはハッピーエンドを用意しておりますので、も うしばらくお待ちくださいね♪ 354 63︼告白の行方︵10︶私は“私”でありたいのに:前 ≪SIDE:みさ子≫ ︱︱︱逃げなきゃ。早く、遠くへ。捕まらないところに逃げなくち ゃ⋮⋮。 私は震える足を必死に動かし、会社の通路を駆けてゆく。 幸いにも社員達の姿はなく、私は誰の目に留まることないまま廊 下を全速力で走った。 北川さんよりも社内を知り尽くしているから、右へ左へと小刻み に逃げる。 追いかけてくる足音が聞き取れないほど北川さんから離れた私は、 上着のポケットをまさぐり小さな鍵を取り出した。 それは総務部専用の資料室兼倉庫の鍵で、部長と私しか持ってい ない。 ゼイゼイと喘ぎながら扉を開けて中へと滑り込み、鍵をかけた。 部屋の一番奥まで這うようにして進み、突き当たりの壁に背をもた れかけさせる。 耳を澄ませてみるが、北川さんが追ってくる気配はない。 ﹁はぁ⋮⋮﹂ 私はようやく一息ついた。 弾む呼吸は次第に落ち着いてきたが、胸の動悸はぜんぜん治まっ てくれない。 それもそうだろう。 好きな人からあんなにも熱烈な告白をされたのだ。 北川さんのあのセリフ。 あの態度。 恋愛事に疎い私でも、彼が本気だと分かった。 ︱︱︱まさか⋮⋮、まさか北川さんが私を好きだったなんて⋮⋮。 355 とにかく驚いた。 自分が想いを寄せている人が私を好きだなんて経験は、今までに なかった。 しかも、あんなに素敵で、かっこよくて、常に女性の目を惹く北 川さんが私を好きになったなんて、天と地がひっくり返ってもあり えることじゃないと考えていたから。 激しい鼓動とともに、ジワジワと喜びがこみ上げてくる。が、首 を大きく横に振って、胸を熱くしている感情を振り払った。 ︱︱︱北川さんの気持ちは、受け入れられないもの⋮⋮。 名前を挙げればキリがないほど、たくさんの女性が彼を好きなの だ。 私が彼と付き合わなければ、女性達の中の誰かが“北川さんの彼 女”の座に収まることが出来る。私はその誰かを幸せにすることが 出来る。 愚の骨頂で偽善の極みだが、私はそんな生き方しか出来ない人間 なのだ。 それに、周りから睨まれながら彼と付き合っていく度胸はない。 きっと誰もが言うだろう︱︱︱﹃釣り合っていない﹄と。 薄暗い部屋の天井を見上げながら、北川さんを思う。 ﹁怒ってるわよね⋮⋮﹂ 理由も告げずに、目一杯の拒絶を彼に叩きつけて逃げ出したのだ。 怒るのは道理。 二人しかいなかった休憩室での事の顛末は、私たち以外知り得る 事はない。 だが、目撃者がいなかったとはいえ、彼のプライドをこっぴどく 踏みにじった私。 そんな私のことなんて、彼はいずれ気にもかけなくなるだろう。 私を好きになったのは気の迷いだと、若さゆえの失敗として笑い 飛ばすだろう。 356 寂しくはあるが、それは私自身が望んだ結果。 ﹃彼を諦める﹄と口ばかりだった私に、本気で彼を諦める良いきっ かけが出来たではないか⋮⋮。 ﹁もう、しっかりしなさいよ!佐々木みさ子!!﹂ 自分の頬を手の平でパンッと叩く。 ︱︱︱﹃私の人生に男も恋愛も必要ない﹄って、何度言ったら分か るの?! 目を閉じて三回深呼吸。 そしてパッと目を開ける。 ﹁⋮⋮大丈夫。私は“私”よ﹂ スッと立ち上がり、スーツに付いたほこりを手早く払う。そして、 しっかりとした足取りで扉に向った。 その様子はこの部屋に転がり込んできた人と同じとは思えないほ ど、きびきびしている。 ドアノブに手をかける前に、改めて大きく息を吸う。 ︱︱︱今日で⋮⋮、今、この瞬間で北川さんのことはおしまい。 ﹁さぁて、仕事に戻りますか!﹂ 自分を奮い立たせるために、わざと大きな声を出して、グイッと ドアノブを引いた。 それからは完璧な“佐々木みさ子”として過ごす毎日。 沢田さんはそんな私を見てなぜか何か言いたそうな視線を向けて くるけど、気付かないフリをして仕事に没頭する。 357 あれから十日経った今も、北川さんとは会っていない。何に忙し いのか分からないが、総務に書類の提出すらしに来ない。 その事にそっと安堵している私。 彼に嫌われているとなれば、ますます諦めがつくというもの。 結果、私の中を占める北川さんの割合が少しずつ、少しずつ小さ くなってゆく。 もうしばらく会わずにいれば、北川さんのことは思い出の一つに なるだろう。 世間がクリスマスムードで華やぐ中、私はそう信じて疑わなかっ た。 更に数日が過ぎて、今日はクリスマス当日。 平日であり、仕事納めが目前の我が社は浮かれている場合ではな く、社員達は黙々と仕事をしていた。 私ももちろん片っ端から仕事を片付けてゆく。 目が回るほど忙しい毎日のおかげで、彼のことは頭の片隅に追い やれるまでになっていた。 ﹁後はこの書類のコピーか﹂ 近くにいた後輩に﹃ちょっと出てくるわね﹄と声をかけて、総務 部を後にした。 部内にもコピー機はあるのだが、あいにく故障中なので、三階に ある共同コピー室へと向う。 このコピー室の手前にはミーティングルームがいくつか並んでい て、たいていどこかの部屋が使われている。 358 私はそこに近付くにつれて歩くペースを上げていった。 入社して間もなく、同じようにコピー室へ向う途中に少々厄介な 話を耳にしてしまったので、のんびり歩いていたくないのだ。 ︱︱︱人事部長もあんな大事なこと、大声で話さなくてもいいじゃ ない。 私が聞いたのは﹃書類がまともにかけない社員はボーナス減給﹄ という話。 近年景気があまりよろしくないのだから、そんな話を聞いてしま ったら社員達にどうにかしてきちんとした書類を書いて欲しくなる ではないか。 私が厳しくチェックしているせいか、以前に比べて書類のミスが 全体的に減った。が、反対に私の事を苦手だと思う社員が激増。 それについては少々残念に思うが、自分から買って出た憎まれ役 なので仕方がない。 とはいえ、好きで憎まれたいわけではないのだから、これ以上の 嫌われ役は勘弁して欲しいというのが私の本音だ。 ︱︱︱今回は大事な話が耳に入ってきませんように。 心の中で祈りながら、足早に通り過ぎようとする。 ところが、前回同様ミーティングルームの一つから人事部長の声 が聞こえてきた。 思わず眉を盛大にひそめる。 ︱︱︱この人、自分の声が大きいことを分かってないのかしら? 小さくため息を漏らしたところに、営業部、海外事業部、開発部 の各部長の声も。揃いも揃って、皆、声が大きい。 これだけ我が社の主要人物が揃っていれば、それなりに重要な話 だと簡単に予測がつく。 ︱︱︱なんでよ⋮⋮。 自分の運の悪さを呪いたい。 耳を塞ぎたかったが、書類の束を抱えているのでそれも適わない。 359 せめてものあがきで他の社員の姿がないのをいいことに、その前を 全力で駆け抜けようとする。 しかし、私の運の悪さは折り紙つきらしく、ちょうど通りかかっ た時に人事の上島部長が一際大きな声を出した。 ﹁じゃあ、来年の春から営業部の北川君はドイツ支社で頑張っても らうことで良いかね?﹂ ︱︱︱⋮⋮え? 思わず足がピタリと止まってしまった。 廊下に私がいることなど知らない部長達は次々に口を開く。 ﹁あの若さでドイツとは、大出世だなぁ。ま、彼の仕事振りは間違 いないですから、遅かれ早かれこうなったでしょうね﹂ と言うのは営業部の志村部長。 ﹁初めのうちは言葉の壁に戸惑うでしょうが、彼は根性がありそう だからそれも良い経験になるでしょう﹂ ﹁この所一緒にいたから、真面目だと言うのはよく分かるよ。向う でもいい働きを見せてくれるだろうね﹂ 海外事業部の上田部長と開発部の中本部長も話を続ける。 ﹁彼が抜けて営業部に支障が出るかもしれんが⋮⋮﹂ ﹁大丈夫ですよ。口の堅い永瀬に事情を話して、春までに後任をビ シビシ鍛えさせている最中ですから﹂ ﹁それなら問題ないな。そうそう、この件に関しては辞令が正式に 出るまでくれぐれも内密に頼むよ。いやぁ、若い人材が育っていく のはいいものだなぁ﹂ 楽しそうに笑う上田部長。 こんな話を聞いてしまった私は笑うどころではない。 胸に抱えた書類がカサカサと音を立てる。 その音を聞いた私はハッと我に返り、コピー室に向けて再び走り 出した。 360 63︼告白の行方︵10︶私は“私”でありたいのに:前︵後書き︶ ●法事が立て続けにあったため、投稿が遅くなってしまいました。 もし、続きを待っていた方がいたらごめんなさいです。 ⋮誰も待っていなかったりして!?︵滝汗︶ この先はそこそこ下書きを済ませてあるので、そんなにお待たせせ ずに投稿できると思います♪ ●日々、色々考えながらの執筆ですが、自分の中で筋書きがはっき りしたので、後はひたすら書くだけです。 若干みさ子さんが駄々をこねますが、どうにか説き伏せましたので、 もう逃げ出すようなマネはさせません︵苦笑︶ 361 64︼告白の行方︵11︶私は“私”でありたいのに:後 ≪SIDE:みさ子≫ コピーをとり終えて総務に戻った私は、自分の席に力なく腰を下 ろした。 思ったより手間取ってしまったために今はもう就業時間を過ぎて いて、残っている社員の姿はほとんどない。 そんな閑散としている中、ボンヤリ座っていると不意に声をかけ られた。 ﹁先輩?﹂ すぐ横に沢田さんが立っていた。彼女は心配そうな目で私を見て いる。 ﹁体調が悪いんですか?真っ青な顔してますよ﹂ ﹁⋮⋮え?﹂ 数回まばたきをして不思議そうに首をかしげる私に、彼女は心配 の色を濃くする。 ﹁何かあったんですか?私でよかったら、いくらでも話聞きます﹂ 気遣ってくれる優しい微笑み。 だけど、自分がショックを受けた内容を伝えるわけにはいかない。 正式発表前の人事異動を洩らすのはもちろん、私がどうしてその 話を聞いて動揺したのかなんて、口が裂けても言えない。 ﹁ああ、たいしたことじゃないのよ。心配かけてごめんなさいね﹂ “先輩”の顔で沢田さんにそう告げるが、彼女はじっと探るよう な視線を私に向けたまま、そこから動こうとしない。 その視線には単なる興味本位ではなく、心底私を案じてくれてい る光があったが、私の中で吹き荒れている感情は人知れず処理しな くては。 ﹁本当に私は大丈夫だから。今日はクリスマスだし、何か予定があ 362 るんでしょ?早く帰りなさい﹂ どうにか笑顔を作る。 ﹁はい⋮⋮﹂ 彼女は眉をひそめながらも﹃お先に失礼します﹄と頭を下げて、 出て行った。 それから5分ほど座っていた私はおもむろに帰り支度を始め、総 務を後にした。 頭の中心が水に浮かぶ浮き輪のようにフワフワとして、何も考え られない。 無意識のままに向った先は、あの空き地だった。 どうしてここに来てしまったのだろうか。 北川さんには会いたくないのに。 会って、何をしたいわけでも、何かを言いたいわけでもないのに。 今は無性に彼の顔が見たかった。 その矛盾した思いが私をがんじがらめにして、その場に足止めす る。 ︱︱︱やっと忘れかけてきたのに⋮⋮。彼がこの会社からいなくな ると聞いて、こんなにも動揺するなんて⋮⋮。 自分の心が弱いから? それとも⋮⋮、どうあっても好きだという想いが捨てられないか ら? 私はバッグを胸に抱き、その場にしゃがみ込んだ。 363 しばらく猫達の様子を眺めていると、こちらに近づいてくる足音 が聞えてきた。 ︱︱︱あっ。 まったく無意識に顔がほころぶ私。 パッと振り返ると、そこにいたのは予想とは違った人物だった。 ﹁⋮⋮永瀬君か﹂ そんなセリフがついこぼれる。 それを聞いて、永瀬君は顔をしかめた後、ニヤリと笑った。 ﹁なんだ、それ。誰が来たと思って期待したんだ?﹂ ﹁べ、別に、期待なんかっ﹂ あわてて視線を逸らす。 よりによって一番厄介な人が来たものだ。 私は自分の気持ちを永瀬君に知られたくなくて、素っ気無く応え た。 ﹁ふぅん﹂ すると彼は面白そうに相槌を打ち、私の横に立つ。 ︱︱︱なんで帰らないのよ?⋮⋮っていうより、どうしてここに来 たのよ? 心の中でブツブツと文句をたれる私。 ﹁盛大にふてくされた顔をしてどうしたんだ?﹂ ﹁元々こういう顔なの。ほっといて。あっちに行ってよ﹂ つんけんする私に構わず、永瀬君は楽しげに話しかけてくる。 ﹁今日はやけに突っかかるなぁ。可愛くないぞ﹂ ﹁この私に可愛げなんてあるはずないじゃない。そんなもの、母親 364 のお腹にそっくり置いてきちゃったわよ。だからその分留美が可愛 くなって、あなたとくっついたんだわ﹂ どうしてだか感情のコントロールが利かず、永瀬君に八つ当たり めいたセリフをぶつけてしまう。 それでも永瀬君は特に気にせず、苦笑いを浮かべるだけ。 ﹁総務から出てくるお前を見かけて、今日はなんだか様子が変だと 思ったんだよなぁ。お前、また自分の中に何かを押し込めてるだろ ?﹂ ﹁なっ⋮⋮、何言ってんのよ?何の根拠があって、そんなこと﹂ 私は顔の引きつりを必死で誤魔化して、微笑んで見せる。 ところが、永瀬君はそんな程度でだまされるような素直な人では なかった。 ﹁十年も友達やってれば、そのくらい分かるさ。佐々木は気持ちを 抑えようとする時、いつも以上に自虐的な言葉を使うんだよ﹂ 言い当てられて私は口をつぐんだ。 でも、素直に認めたくないから頷かない。 ﹁さっさと自分の心の中をぶちまけろ。それで、可愛いお前に戻れ よ﹂ ﹁何それ?意味分かんない﹂ ツン、と短く言い返す。 すると、やれやれといった様子で永瀬君が肩をすくめた。 ﹁佐々木は造作が悪いわけじゃないのに、表情で損してるよなぁ。 アイツといる時は表情が素直にコロコロ変わって、すごくいい感じ なのにさ﹂ この人は何を言っているのだろう。 相手にしたくないけど永瀬君が指す人物が誰なのか、ちょっと気 になってしまって、思わず訊き返してしまった。 ﹁⋮⋮アイツって誰のこと?﹂ ﹁ウチの北川﹂ 間髪入れずに告げられた名前に、ドキン、と心臓が大きく跳ねる。 365 この友人は本当にムカつく程勘がいい。 俯いている私は、彼に表情が見えない事をいいことに小さく舌打 ちをした。 だけど、諦めようと必死なところを掻き回されたくなくて、私は すぐさまわざととぼける。 ﹁そんなことないわよ。私は“誰に対しても仏頂面だ”って有名じ ゃない﹂ ﹁おやおや、自覚がないのか?困った奴だ﹂ くすくすと笑う永瀬君。 何もかも分かったようなその笑いにますますムカつきが増してゆ くが、私は反論しなかった。やたらに口を開くと、墓穴を掘りそう だから。 そんな私にかまうことなく、永瀬君は話を続ける。 ﹁お世辞じゃなく、本当にいい顔をしてたぞ﹂ うずくまったまま身動きしない私を見て、永瀬君はふっと微笑ん だ。 ﹁怒るし、照れるし、不機嫌になるし、笑うし。アイツといるお前 を見てると、これが本当の佐々木なんだなって思った﹂ ﹁⋮⋮いつ見たのよ?﹂ 顔をわずかに横に向け、不機嫌丸出しで低く尋ねる。 ﹁それは内緒♪﹂ 片目をバチン、と閉じてウインクを送ってくる永瀬君の憎たらし いこと、この上ない。 私はフイッと前を向き、ひざを抱えた。 永瀬君に言われるまでもなく、素の自分が時折顔を覗かせていた 自覚はあった。 それは北川さんの前でだけ。 他の人はきっと私が耳まで赤くしたり、声を荒げて怒鳴ったり、 366 ケラケラと笑うことなんて知らない。 北川さんの前でだけ、“私”は私でいることが出来た。 改めて思い知る︱︱︱いつの間にか、自分がこんなにも北川さん に心を許していたことを。 ﹁北川といる時の佐々木は自然に笑ってんだよな。俺の前じゃ、あ んなに無邪気な表情しないくせに﹂ 永瀬君は上体を屈ませて、私の肩にポン、と手を置く。 ﹁な、認めちまえよ。北川は特別な存在なんだってことを﹂ のん気に告げる永瀬くんに、カチンと来た。 ︱︱︱そんなの、言われなくても自分が一番よく知ってるわよ! だけど、素直に﹃はい、そうです﹄とは言えない。 ︱︱︱諦めようと努力しているところを、邪魔しないで!! ムカムカと怒りが激しく湧き上がってくる。 そんな私の心情を知ってか知らずか、永瀬君は言葉を止めない。 ﹁北川が好きなんだろ?それも結構前から﹂ ﹁⋮⋮もう、うるさいわねっ!北川さんなんて、ぜんぜん好きじゃ ないわよっ!!﹂ 私はバッグが地面に落ちるのも構わず、ガバッと立ち上がりざま に永瀬君の手を振り払い、ヒステリックに怒鳴る。 すると、永瀬君は私以上に大きな声で怒鳴り返してきた。 ﹁何で素直にならないんだよっ!?﹂ ﹁そっちこそ、どうしてしつこく言うのよ!!﹂ 奥歯を噛み締め、怒りに震える手を握り締めた。 ﹁そんなに私の事をからかいたいの?!そんなに⋮⋮、そんなに私 の事をいじめたいのっ!?﹂ 珍しくカッとなった私は、永瀬君に掴みかからんばかりに感情を ぶつける。 ところが、それに返って来たのは怒りではなく、私を思う彼の優 367 しさ。 ﹁違う!大事な友人だから、気にかけてるんだよっ!お前が苦しそ うにしているのを、見ていられないんだよっ!!﹂ 初めて見たといっても過言ではないほど真剣な永瀬君の視線に、 私は怯えるように身をすくめ、何も言えなくなってしまった。 ﹁あ⋮⋮、怒鳴ったりして悪かった﹂ 罰の悪い顔をして、永瀬君が頭を掻く。 私は無言で首を横に振った。 ふう、と大きく息を吐いた永瀬君はそっと目を細める。 ﹁さっさと認めろよ。北川が好きなんだろ?⋮⋮好きで、好きでた まらないんだろ?﹂ 正面に立つ友人を見上げる私の瞳に涙が滲む。 会わなければ、忘れられると思っていた。 声を聞かなければ、諦められると思っていた。 川崎君や永瀬君の時と同じように、胸を焦がした想いをなかった ことに出来る、と本気で思っていた。 だけど、彼が遠く離れたドイツに行ってしまうと知って、一瞬の うちに私の心は切なさで一杯に。 溢れた雫がゆっくりと頬に伝うのを感じながら、私はゆっくりと 頷いた。 368 65︼告白の行方︵12︶後悔しないために ≪SIDE:みさ子≫ ﹁やれやれ、やっと白状したか。本当に意地っ張りな奴だよ、お前 は﹂ 苦笑する永瀬君はコートのポケットをまさぐり、私にハンカチを 差し出した。 それを奪い取り、ジロリと睨みつける。 ﹁⋮⋮意地っ張りは余計よ﹂ 清潔な香り漂うハンカチで目元をぬぐった私は大きく息をついて、 星が瞬き始めた空を仰ぐ。 ﹁ま、永瀬君のおかげでちょっとすっきりしたかな﹂ 私は自分の息が白く立ち昇るのを眺めながら、苦笑した。 ﹁この私が5歳も年下の人を好きになるなんて⋮⋮。柄じゃないわ よね。笑っちゃうでしょ?﹂ ﹁⋮⋮笑わねぇよ﹂ ﹁え?﹂ てっきり﹃そうだな﹄なんて軽口が返ってくると思っていた私。 真面目な声音に、思わず視線を永瀬君に向けた。 ポケットに手を突っ込んで、目元を柔らかく細めている彼。 同い年のはずなのに、彼の瞳は兄のように私を温かく見守ってい た。 ﹁年齢とか、家柄とか、学歴とか、人を好きになるのにそんなモン を気にする必要はない。“好き”って気持ちを大事にしろ﹂ 彼の言葉は私の胸に柔らかく染みてゆく。 ﹁それで、お前はどうしたいんだ?﹂ ﹁どうって?﹂ ﹁他ならぬ親友の恋路だ。協力してやるって事だよ。遠慮なく俺に 369 言え﹂ その表情がなんだか面白がっているように見えなくもないけど、 本気で応援してくれているのだろう。 人の気持ちを読むことに長けている永瀬君なら、きっとうまく取 り成してくれるだろうし、それに北川さんと同じ部署だから、何か と都合が利くだろう。 ︱︱︱だけど⋮⋮。 自分の靴のつま先に視線を落とし、噛み締めるように呟いた。 ﹁してもらうことは何も無いわ。⋮⋮諦めないといけないから﹂ ﹁⋮⋮は?﹂ 男前の永瀬君の顔が驚きに歪む。 ﹁なんで諦める必要があるんだ?﹂ 私はハンカチを握り締めながら、本当は思い出したくない自分の 過去を話し始める。 ﹁高校生の頃、ある女の子を酷く傷つけてしまったの。わざとじゃ なかったんだけど、その子と、その彼氏の間に割り込むようなこと になってしまって⋮⋮。彼女に悪い事をしてしまったと、ずっと後 悔してる﹂ 今でも小田さんの涙を思い浮かべるだけで、胸の奥がジクリと痛 む。この痛みは一生消えることはないのだろう。 ﹁永瀬君だけに教えるけど、実は⋮⋮、2週間くらい前に北川さん から好きだって言われたの﹂ 永瀬君の顔がこれまで以上に不思議そうな顔になった。 ﹁それが、どうしてアイツをあきらめることに繋がるんだ?﹂ 私はゆっくりと顔を上げ、淡々と告げる。 ﹁だって、北川さんを好きな人って社内にたくさんいるのよ。その 人たちを傷付けてまで、私だけ幸せになれないわ。だから、諦める の﹂ 落ちたバッグに手を伸ばしながら、私は何でもないことのように 告げる。 370 バッグに付いた埃を手で払い、話が終わったとばかりに立ち去ろ うとする私の耳に、永瀬君の呆れたような声が入ってきた。 ﹁⋮⋮馬鹿じゃねぇの?﹂ ﹁え、何?﹂ ︱︱︱今、馬鹿って言った? 振り返ってきょとんとする私に向って、彼は再び﹃馬鹿じゃねぇ の?﹄と言う。 体の前で腕を組み、本気で呆れ顔の永瀬君。 ﹁生きていくのって、そんな綺麗事ばかりじゃないんだぞ。時には 誰かを傷つける事を承知で決断しなくちゃならないんだ。後悔しな いためにな﹂ やけに実感がこもったセリフ。 これまで穏やかだった彼の顔が、ほんの少し苦しそうに見える。 ﹁永瀬君?﹂ ﹁俺だって人を傷つけたことがあるさ。⋮⋮佐々木、お前だよ﹂ 彼はまっすぐに私を見る。 ﹁わ、私?﹂ 自分の事を指差すと、永瀬君は大きく頷いた。 ﹁大学生の頃、お前が俺の事を密かに想ってくれているのは、なん となく気付いていた。だけど、俺は留美を選んだ。お前に恨まれて も嫌われても、そして大事な友人を失うことになったとしても、留 美と一緒にいたかったんだ﹂ 初めて聞かされた話に、私はどんな相槌を返したらいいのか分か らない。 私の気持ちを知っていたことも驚きだし、そんな決意を持って妹 を選んだのだと聞かされたことも驚きだ。 だから、ただ小さく頷いた。 永瀬君はふっと息を吐き、また穏やかな表情に戻った。 ﹁まぁ、俺の話は今どうでもいいか。とにかく、アイツのこと諦め るって本気で言ってんのか?﹂ 371 ズイッと一歩前に出て、私をまっすぐに見下ろす永瀬君。 頭一つ上からの視線にたじろぐが、私ははっきりと言い返す。 ﹁も、もちろん本気よ﹂ 川崎君だって、永瀬君だって諦められたのだ。今回だって、きっ と出来るはず。時間はかかるかもしれないけど、いつかきっと。 なのに、永瀬君は私の返事を鼻で笑った。 ﹁どうだか。これまでのお前の人生の中で、ここまでお前の中に入 り込んだ男はいたか?ここまでお前が侵入を許した男がいたか?⋮ ⋮そんな奴、北川以外にいないだろ﹂ この友人はどこまで洞察力が鋭いのだろう。 まるで私の心の内を見てきたかのような口ぶり。 あまりに図星過ぎて、言い返すことが出来ない。 ﹁それだけ北川はお前にとってかけがえのない存在なんだよ。本当 のお前も、創り上げたお前も、アイツはきちんと見ていたぞ。そん な相手、めったに出逢えるものじゃない﹂ 永瀬君が言うとおり、北川さんは私も、“私”も受け入れてくれ ていた。 誰もが“創り上げた私”を本当の私だと思っていたのに、彼は違 った。 ﹁お前はそれでもアイツを諦めるって言うのか?諦められるって言 うのか?﹂ ﹁それは⋮⋮﹂ 言葉に詰まってしまった。 あれほど﹃諦めよう﹄、﹃忘れよう﹄と言い聞かせてきたのに、 結局は叶っていない。 心の奥の方ではなんとなく気が付いていた︱︱︱彼を忘れるなん て、無理だと言うことを。 それを気付かないフリをして、無理矢理忘れようとしていた。 ﹁逃げてしまうのは簡単だ。だが、本当に欲しいものは泥の中を這 いずり回る覚悟じゃなきゃ手は届かない。誰かを傷つける事を怖が 372 って、欲しいものを“欲しい”と声に出して言えない様な人生で、 お前は“生きてる”って思えるのか?﹂ 言い聞かせるように優しい口調の永瀬君。 彼の主張はよく分かる。 ︱︱︱でも⋮⋮。 私は力なく首を振った。 ﹁だめよ、きっと手遅れだわ。私、理由も告げずに彼の告白から逃 げてしまったんだもの。こんな私のことなんて、もう嫌いになった はずよ﹂ ﹁ダメかどうかは俺には分からないし、まして、それを決めるのは 佐々木でもない。答えを持っているのは北川だよ﹂ 永瀬君が緩やかに目を細める。 ﹁苦しくても、つらくても、アイツに自分の気持ちを素直にぶつけ ろ。今重要なのは、好きになってもらうことじゃなくて、お前の気 持ちをアイツに伝えることなんじゃないか?﹂ 小さな子供にするように、永瀬君は私の頭をそっと撫でる。 ﹁やっと大事な人に巡り合えたのに、自分の中で想いを腐らせちま ったら一生後悔する羽目になる。そんな人生、イヤだろ?﹂ ︱︱︱後悔なんて、したくてしてるんじゃないわ⋮⋮。 強がって、諦める事を選んだ私。 でも実際は、弱い自分を創っていただけ。 ︱︱︱決めた。もう、逃げない。 私は顔を上げて、永瀬君に微笑み返した。 373 私の中で北川さんへの告白は決定事項となった。 決心してしまえば、自分でも驚くほど行動的になるようだ。 ﹁だったら早く言わなくちゃね。北川さん、ドイツに行くんだもの﹂ 小さく握りこぶしを作りながら、永瀬くんに話しかける。 すると彼は素っ頓狂な声を出した。 ﹁ドイツ?﹂ 妙な顔つきで私を見る永瀬君。公表前の人事を知っていることが 不思議なのだろう。 ﹁あのね⋮⋮、実はまた立ち聞きしちゃったのよ﹂ 私は苦笑交じりに話し出した。 ﹁“北川君をドイツ支社に行かせる”って、人事部長が言ってた。 志村部長も上田部長もそう言ってたから間違いないわ。永瀬君、聞 いてるでしょ?﹂ 志村部長はすでに永瀬君が後輩育成をしていると言った。 だから彼が知らないはずはない。 永瀬君はほんの一瞬目の奥に読み取れない色を浮かべたが、すぐ にいつもの顔に戻る。 ﹁上島部長は若手を育てることに生き甲斐を感じる人だからなぁ。 ⋮⋮そりゃ、確かに早く伝えるべきだな﹂ ニコッと笑う永瀬君。 彼に関しては観察眼の働かない私は、永瀬君が何を考えていたの かこの時は気が付かない。 だから素直に﹃そうね﹄と返した。 ﹁はぁ。でも、いざ告白となるとドキドキする﹂ 大げさでもなく、口から心臓が飛び出してきそうだ。 胸に当てた手の平には、通常ではありえないほどハイペースな鼓 374 動が響いてくる。 ﹁ははっ。今の佐々木、女の子みたいで可愛いなぁ﹂ 口元を隠して小さく笑うならまだしも、声を上げて笑うとは、な んと遠慮のない友人だろうか。 ﹁なによ!人が真剣なのにからかったりして!﹂ さんざん﹃想いを告げろ﹄とけしかけておいて、いざ真面目な顔 をしたら笑うなんて、まったく酷い話だ。 ゲラゲラと笑う永瀬君を思いっきり睨んでやった。 ﹁あははっ、悪い悪い。よし、お詫びにチャンスをやろう﹂ 失礼にも涙が出るほど笑い転げた永瀬君はどうにか笑いを収め、 そんな話を持ち出した。 ﹁チャンス?﹂ 彼が何を考えているのか、付き合いの長い私でも読みきれない。 この期に及んで人を貶めるようなことはしないはずだが⋮⋮。 私は首をかしげた。 ﹁そんなに訝しがるなよ。さっき連絡が入ったんだが、北川は外回 りの仕事が長引いて、六時に帰社だ﹂ 私は手首に巻いた時計に目を落とす。彼の言う時間までにはあと 三十分はある。 ﹁その間に腹をくくれ。アイツが帰ってきたら、お前がよく行くあ の休憩室に行かせるから﹂ それは確かに自分の想いを伝える、絶好のチャンスだ。 ﹁うん⋮⋮﹂ 私の人生を左右しかねない重大な出来事が、一時間もしないうち に起こってしまう。 そう考えると、ちょっとだけ怖くなってしまった。 わずかに俯いた私に向って、永瀬君は力強く言う。 ﹁たとえその時傷付いても、それが必ず何かの糧になる。だから結 果を恐れずに、言いたい事を全部アイツにぶちまけろ。いいな?﹂ ﹁永瀬君⋮⋮﹂ 375 ﹁友人として、そして未来の姉の幸せを願う弟からのありがたーい 激励だよ。じゃあな、健闘を祈る﹂ ﹁⋮⋮ありがと﹂ 私は彼の温かい励ましに背中を押されるのを感じながら、笑顔に なった。 376 65︼告白の行方︵12︶後悔しないために︵後書き︶ ●﹃誰かを傷つける事を怖がって、欲しいものを“欲しい”と声に 出して言えない様な人生で、お前は“生きてる”って思えるのか?﹄ これはあくまでもみさ子さんに向けたセリフですので、皆様はむや みやたらに人様に迷惑をかけることなく生きてください︵笑︶ 377 66︼告白の行方︵13︶大事なモノ ﹁疲れた⋮⋮﹂ 社用車を車庫に入れて、シートベルトを外したとたん、思わずこ の言葉がこぼれた。 すっかり辺りは暗くなっている。 人事部長とミーティングすることが増えたため、その分外回りの 時間がずれ込み、いつも定時には上がれない。 今日だってすごく頑張ってみたものの、やはり定時を大幅に過ぎ てしまい、時計が間もなく六時を示す頃になってようやく会社に戻 ってこられた。 こんな毎日のおかげで、いまだにみさ子さんを捕まえられずにい る。 改めて決着をつけるために再度告白のチャンスをうかがっている が、これがなかなかうまくいかない。 沢田さんの話では、あの休憩室にはもう行ってない様だ。 ︱︱︱それにしても、どうして﹃ダメ﹄なんだろう。 理由を訊きたくても会えないから、疑問ばかりが俺の中で渦巻く。 どうしたら良いのか分からず、取りとめもなくモヤモヤとした日 を過ごしてしまっていた。 ﹁はぁ﹂ ため息をつきつつ営業部のドアを開けると、永瀬先輩が一人パソ コンに向っていた。 ﹁北川、お疲れ﹂ チラリと顔を上げ、俺に声をかけてくれた。 ﹁お疲れ様です。まだ仕事だったんですか?﹂ 378 俺はコートを自分のイスの背にかけ、営業バッグをデスクに置く。 ﹁急ぎじゃないが、キリのいいところまで終わらせちまおうと思っ てさ﹂ カタカタとしばらくキーボードを叩いた後、先輩は大きく背伸び をする。 ﹁終了、終了っと。これで明日は思いっきりサボれるぞー﹂ 先輩は爽やかにサボり宣言。 その様子があまりに無邪気で、つい笑ってしまった。 ﹁あははっ。そういうことは大きな声で言わない方がいいんじゃな いですか?﹂ ﹁やることやっておけば、空いた時間を有効に使っていいんだよ。 ⋮⋮で、何かあったのか?﹂ ﹁え?﹂ 突然話が振られ、流れが読めない俺はきょとんとする。 ﹁仕事で疲れている以上に辛気臭い顔してる。笑顔がぎこちないぞ﹂ ﹁あ、それは⋮⋮﹂ 俺は少し迷ったけれど、話を聞いてもらいたくて先輩の隣に腰を 下ろした。 ﹁先輩は佐々木さんと仲がいいから、色々ご存知なんでしょうね﹂ 俺の口からみさ子さんの名前が出たことに、先輩は一瞬不思議そ うな顔をした。が、俺の質問に答えてくれる。 ﹁学生の頃からの付き合いだし、もしかしたら奥井チーフよりもア イツを分かっているかもなぁ﹂ 首を左右に振って揉み解しながら、そう答える先輩。 ﹁急にそんな事を言い出して、どうしたんだ?﹂ 突拍子もない話にも関わらず優しく微笑んでくれている先輩を見 て、俺は思い切って言った。 ﹁俺⋮⋮、佐々木さんが好きなんです﹂ すると先輩の片眉がひょいっと上がる。 でも、からかう様子は微塵もない。 379 この人はたまに冗談が過ぎることもあるが、基本的には懐が深く、 面倒見がいいのだ。 ﹁そうか。まぁ、なんとなくそんな気はしていたがな﹂ イスの背に背中を預けて足を組んだ先輩は、まるで俺がその事を 言い出すのを知っていたかのようにまったく驚かない。 ﹁え、そうなんですか?!俺、バレる様なことしましたっ?!﹂ その様子にかえって俺がびっくりし、あわてて聞き返す。 いつだって慎重に過ごしていたはずなのに、いつ、どこで先輩は 気付いたのだろうか。 ﹁お前、動揺しすぎ﹂ クスッと笑う先輩。 ﹁あっ、す、すいません﹂ 俺は浮かしかけた腰を座面に戻す。 先輩はちょっと遠くを見ながら、思い出すような口調で話を続け る。 ﹁あからさまにって訳じゃない。いつだったかなぁ。佐々木といる お前の目が、アイツを“女”として見ていたんだよ。ほんの一瞬だ ったから、俺しか気付いてないぞ﹂ ︱︱︱そのほんの一瞬を見逃さなかった先輩って⋮⋮。 沢田さんといい、永瀬先輩といい、穏やかにニコニコしているだ けかと思ったら、驚くほど勘が鋭い。 自分の気持ちが知られてると分かって、かえって肩の力が抜けた。 先輩にきちんと向き直って、話を切り出す。 ﹁それで相談といいますか、少し話を聞いてもらいたくて﹂ ﹁手強いからなぁ、あの女帝は。お前じゃ手に負えないだろ?﹂ ﹁そうですね﹂ 大きく頷く俺。 ﹁⋮⋮実は、この前佐々木さんに告白したんですが﹂ あの時の彼女の行動の理由は分からないまま。前に進みたくても、 ためらいが出てしまう。 380 先輩なら、何かヒントをくれるだろうか。 藁にもすがる思いで先輩に尋ねる。 ﹁ただ“ダメ”と繰り返すばかりなんです。このまま強引に迫った 方が良いのか、少し間を空けたほうが良いのか⋮⋮。どうしたらい いのか迷っているんです。先輩、こういう時の佐々木さんの気持ち、 予想つきますか?﹂ だけど、先輩は少し困ったように首をかしげた。 ﹁んー、さすがの俺でも、アイツの心の中は完全に読めないからな ぁ。佐々木は恋愛に関してひねくれた感覚の持ち主だし、何を考え ているのか分からないこともある﹂ ﹁そうですか⋮⋮﹂ 俺は弱々しく肩を落とす。 ︱︱︱諦めるつもりなんてないけどさ。好きな人を追いかけるのっ て、けっこう難しいんだな⋮⋮。 わずかとはいえ、心が揺らいでしまった。 それに気がついたのか、先輩がすかさず口を開く。 ﹁だがな、諦めたらそこで終わりだって事は分かるぞ﹂ そう言われてパッと顔を上げると、先輩はニッと笑った。 ﹁アイツの気持ちはとっ掴まえて本人に聞け。本気で手に入れたい なら、そう簡単にグラつくな。手強いのを承知で好きになったのな ら尚更だ﹂ 先輩は軽く握った拳で俺のおでこをコツンと小突く。 ﹁ダメと言われただけなんだろ?嫌いと言われた訳じゃないんだろ ?だったら根性見せろよ。俺はそんな軟弱な人材を育て覚えはない ぜ﹂ ﹁⋮⋮はい﹂ 俺の心の中で揺れていた軸が、次第に落ち着いてゆく。 “また拒絶されたらどうしよう”と、臆病になっていた俺を励ま してくれる先輩の言葉に、目頭が熱い。 ﹁応援はしてやる。だが最終的にはお前の頑張りがものを言う。惚 381 れた女は自分の力で手に入れろ!﹂ バシン、と音を立てて肩が叩かれる。 顔をしかめるほど痛かったけれど、すごく嬉しかった。 ﹁はいっ﹂ 俺は大きな返事をした。 ﹁うん、うん、よろしい。では、毎日遅くまで仕事を頑張っている 北川君に、素敵なご褒美をあげようではないか﹂ ニコニコと満面の笑みを浮かべている先輩。その様子が逆に怪し い。 ﹁ものすごく胡散臭いんですけど⋮⋮﹂ 俺は少し後ずさりする。 ﹁まぁまぁ、人の好意は素直に受け取っておくべきだぞ。おっとそ の前に、一つ頼みがあるんだ﹂ ﹁頼み、ですか?﹂ ﹁上に休憩室があるだろ、ほら、海が見える部屋の。そこに大事な モノを置いてきちまったから、取りに行ってくれないか?俺は訳あ ってここに待機してなきゃならないんだ﹂ ﹁はぁ、いいですけど﹂ なんだかよく分からないが、忘れ物を取りに行く位たいした用事 ではないので引き受ける。 ﹁それで、何を置いてきたんですか?﹂ そう尋ねたところで、先輩の携帯が鳴った。 ﹁もしもし?⋮⋮はぁ?!﹂ 何気なく電話に出た先輩の声が裏返った。 ﹁週明けには辞表を出す?!二月末までは働くって言ってなかった か?⋮⋮何?覚悟を決めたって?ったく、マジかよ。⋮⋮まぁ、お 前の意見には反対しないけどさ﹂ その後二、三言交わした先輩は、短いため息とともに電話を切っ た。 失礼だとは思いつつも話の内容に聞き耳を立てていた俺は、先輩 382 にグッと詰め寄る。 ﹁あ、あの!佐々木さん、辞めちゃうんですかっ?﹂ ﹁へ?﹂ いきなり俺に肩を掴まれた先輩は、パチパチと瞬きを繰り返す。 ﹁え、えと、今月の初めくらいに、裏の空き地で先輩と佐々木さん の話を聞いてしまいまして⋮⋮。それに、今の電話でも辞表と言っ てましたし。それで、あの、本当に佐々木さんは辞めてしまうんで すか!?﹂ ﹁⋮⋮本当だ﹂ 微妙な間を取った後、先輩は至極真面目な顔で頷いた。 ﹁そんなっ﹂ 辞表が受理されたからといって、その日のうちに会社を去ること はないだろうが、一ヶ月以内には確実にいなくなってしまう。 ためらっている場合じゃなくなってしまった。 ﹁ボヤボヤしてられねぇなぁ、北川。佐々木に会うことがあったら、 しっかり掴まえろよ﹂ 置かれたままになっていた俺の手に、先輩が自分の手を重ねる。 ﹁そうします﹂ 先輩の温もりを感じながら、俺は心を決める。 忙しい毎日はおそらくこの先も続く。次に彼女と会った時が、最 後のチャンスかもしれない。 ︱︱︱よし、改めて告白しよう。そして今度こそ、みさ子さんの返 事を聞くまでは放すもんか。 ﹁じゃあ、早く俺の大事なモノを取りに行ってくれ﹂ まったく邪気のない様子でにっこりと笑いかけてくる先輩。 俺にはどうしてここで﹃じゃあ﹄という言葉が出てくるのか理解 できない。 383 ﹁それとこれとは話が違う気がしますが?﹂ 首を傾げるものの、先輩は早く行けとばかりに手をヒラヒラと振 る。 ﹁いいんだよ。細かいことにこだわっていたら、出世できねぇぞ。 あ、モノは行けば分かるから﹂ ﹁はい⋮⋮﹂ 先輩に急かされ、俺は腑に落ちないまま営業部を出た。 ◆◇◆ 一人残った営業部。 永瀬は今しがた出て行った後輩の顔と、十年来の友人の顔を交互 に思い浮かべる。 ﹁似た者同士と言うか、なんと言うか。世話の焼ける二人だよなぁ﹂ くすくすと笑いながら天井に目をやる。 この上部に位置する休憩室で、間もなく二人は大事な局面を迎え る。 ﹁北川、俺の大事な大事な友人を任せたぞ﹂ 永瀬は誰に聞かせるわけでもなく、静かに呟いた。 384 67︼告白の行方︵14︶想いが重なる時:1 ≪SIDE:みさ子≫ 腕時計を見ると、永瀬君が指定した時間まで後10分にまで迫っ ていた。 北川さんに自分の気持ちを残らず伝えると強く決めたはずなのに、 緊張のあまり逃げたくなってしまう。 そんな自分を必死に奮い立たせて、どうにか家に帰らずに済んで いる。 周りを建物に囲まれているので、空き地に吹き込む風はほとんど ない。だが、夜の寒さは確実にやってきている。 それでも色々な感情が入り混じっていることに気を取られ、身を 切るような冷たさを感じない。 ﹁私、頑張るから。きちんと“好き”って伝えるから。応援してて ね﹂ しゃがんでいる私に寄り添うように座っているヒメの背をなでる。 ﹁あー、でも、心臓が爆発しそう!﹂ 冬の夜の寒さで冷えきっているはずなのに、握り締めていた手の 平にはうっすらと汗をかいている。 ︱︱︱北川さんに嫌われていたらどうしよう。私がしたように、拒 絶されたらどうしよう。 ヒメに触れながら、そんな事が心を占める。 野良猫とは思えないほど手触りの良いヒメの毛並みは、いつもな らたちどころに私の気持ちを落ち着かせてくれるのに、今は悪いこ とばかりが頭の中をグルグルと巡る。 385 これまでに味わったことのない緊張に輪をかけて、恐怖や不安が 次々と押し寄せていた。 ︱︱︱まさか自分が男の人に告白する日が来るなんて。 思ってもみなかったことに、今でもこんな自分がちょっと信じら れなかったりする。 ︱︱︱私が誰かを好きになるなんて、嘘みたい⋮⋮。 だけど、私の胸を締め付けている想いは紛れもなく自分の中に存 在している。 これまで私の中で深く強く根付いていた価値観を完全撤回するほ ど、北川さんは特別だった。 川崎君の事も永瀬君の事も確かに好きだったけれど、改めて考え てみると北川さんに抱いている想いとはどこか違った気がする。 二人に対しては憧れや、仲間意識のようなものを“恋”だと思っ てしまっていたようだが、北川さんへの想いはそれらとはぜんぜん 違う。 姿を思い浮かべるだけで泣きたいほど愛しいと感じたのは、北川 さんだけ。 これが本当の恋なのだろう。 ﹁29歳にして、やっと本気で人を好きになるなんて⋮⋮。恋愛音 痴の自覚はあったけど、これほどまで鈍いとは思わなかったわ。遅 すぎて、我ながら呆れちゃうわね﹂ 寒さと緊張で固まった顔で苦笑い。 するとこれまで眠ったように目を閉じていたヒメが、ゆっくりと 顔を上げてこちらを見た。 “大事なのは﹃気が付く﹄ということ。早い、遅いは関係ないの。 さ、後は行動に移すだけよ。しっかりしなさい” 386 叱るようでいて、だけど励ますような瞳。 その瞳を見ているうちに、逃げたいという気持ちが薄れてゆく。 ﹁あんたってホント不思議な猫ね﹂ 額をなでてやると、ヒメは微笑むように目を細めた。 腕時計は6時を回った。 ︱︱︱そろそろ来る頃だわ。 休憩室に移動していた私は、痛いほど脈打つ胸を両手で押さえる。 グチャグチャになった感情は相変らず私の中にあるけれど、今は 好きだという気持ちを伝えることだけに集中する。 私が好きだと言っても、彼はもう受け入れてくれないのかもしれ ない。 ﹃僕の言葉に聞く耳を持たなかったくせに、今更、何を言ってるん ですか?﹄ と、冷たく笑うかもしれない。 私と北川さんの関係は前進するどころか、崩れてしまうかもしれ ない。 387 だけど、彼に自分の正直な気持ちを伝える事で、私はきっと変わ ることができる。 北川さんに嫌われていてもいい。 呆れられてもいい。 とにかく、私は自分の口から﹃好きだ﹄と伝えなくては。 ︱︱︱ここまできたら、後には引けないわ。 クッと唇を結び、胸の前で祈るように手を重ねた。 程なくして、こちらに向ってくる足音が聞えてくる。 ︱︱︱いよいよね⋮⋮。 窓の外に目をやっていた私は大きく息を吸ってから、振り返った。 勝ち負けの分からない勝負。 いや、九割方決まっているのかもしれない︱︱︱“失恋”という 敗北が。 それでも、避けて通る事はしたくない。 私は扉を静かに見据え、開かれる時を待った。 388 ◆◇◆◇◆ ﹁それにしても、先輩は何を忘れてきたんだろう﹂ 階段を上りながら呟く俺。 ﹁そんなに大事なものなら、肌身離さず持っていればいいのに﹂ と言ったところで、例の部屋の前に着いた。 海の見える休憩室での出来事が俺の脳裏にまざまざと蘇り、中に 入る事を躊躇した足が止まってしまった。 あの一幕で、俺達の関係は深まったのか? それとも、単に溝が深まっただけなのか? ﹁今、そんな事を考えても仕方がないか﹂ 俺は苦笑する。 ︱︱︱どんな方向に転んだとしても、俺はみさ子さんをひたすら追 いかけるだけだ。はっきりとした返事をもらうまで今度こそ放さな い。 そう強く心に決めるものの、肝心のみさ子さんに会わなければ。 ﹁どうすれば会えるのかなぁ﹂ 一人でぼやきながら、グイッと扉を引いて室内に踏み込んだ。 389 68︼告白の行方︵15︶想いが重なる時:2 ≪SIDE:みさ子≫ 足音が扉の前で止まり、やや間が空いたのちにおもむろに扉が開 かれる。 何も知らない北川さんは何気なく踏み入ったが、私がいる事に気 付いてピタッと動きを止めた。 ﹁⋮⋮えっ?!﹂ 私を見たまま、ピクリとも動かない北川さん。 彼はまるで幽霊でも見るような表情で固まった。表情だけではな く、全身が固まっているようだ。 ︱︱︱この前とは立場が逆ね。 休憩室に入って来た北川さんを見て、あの時の私もきっとこんな 顔をしていたに違いない。 記憶をそっと思い起こす。 私に告白するために来たのだと告げた北川さん。 強く優しく抱き締める腕に、私は彼の気持ちを受け入れてしまい そうだった。いや、受け入れたかった︱︱︱内村さんの顔を思い出 すまでは。 あの時、私が彼の告白をOKしていたら、事態はどうなっていた のだろう。 今頃は恋人同士として、2人であれこれと計画をしたクリスマス の夜を楽しく過ごしているのだろうか。 そう考えると、残念に思う。 390 でも、あの時は自分の判断が正しいと思っていたから。 彼から逃げ出した事に後悔はしたが、それが“自分らしい”と納 得もした。 だけど、本当の佐々木みさ子はそんな事を少しも望んではいなか った。 永瀬君に見事に見破られてしまって、無性に悔しいけれど、今で は感謝している。 今更私が﹃好きだ﹄と言ったところで、時間はあの時には戻らな い。 彼があの時と同じ気持ちでいるという保証はない。 それでも、私は自分の気持ちを伝えたい。 ︱︱︱さ、ここからが正念場よ。 私は真っ直ぐに北川さんへと向き直った。 しばらくその状態でいた彼が、ようやく口を開く。 ﹁さ⋮⋮さき⋮⋮さん?﹂ やっとで喉を動かし、疑うような声色で私の名前を呼び、その存 在を確認しようとしている。 驚くのも無理はないだろう。 391 永瀬君のことだ。どういう話の持って行き方をしたのかにせよ、 私がここにいるということは北川さんに知らせていないはず。 それでよかったんだと思う。これは私の勝負だから、私自身が頑 張らないと。 北川さんはよほど信じられないのか、何度も手で目をこすっては まばたきを繰り返し、そして恐る恐る近付いてくる。 彼が一歩進むたびに、私の心臓が大きく跳ねた。 怖い。 苦しい。 でも、今度は逃げるわけにはいかないし、逃げたくない。 私は彼から視線を逸らすことなく、じっと見つめて彼がやってく るのを待つ。 とうとう北川さんは私のすぐ目の前までやってきた。 ここにいるのは確かに私だというのに、彼はまだ不思議そうな顔 のまま。 ﹁本当に、佐々木さんなんですか?﹂ 上から下まで私を眺め、それでも確認を取ってくる彼。 どれ程疑えば気が済むのだろうか。 ︱︱︱まぁ、それも仕方ないわよね。 心の中でそっと苦笑する。 彼の告白を振り切って逃げ、それ以降この部屋には近付かなかっ た私がここにいるのだ。 信じられないのも分かる。 だが、信じてもらわなければ困る。 ﹁ええ。間違いなく、佐々木みさ子よ﹂ 緊張でガチガチになった顔をどうにか動かして微笑んで見せると、 392 北川さんはほんの少しだけ体のこわばりを解いた。 ﹁あの⋮⋮、どうしてここにいるんですか?﹂ それでもまだ完全にはいつもの彼に戻ったわけではなく、おずお ずと尋ねてくる。 私はゆっくりと1度だけ瞳を閉じ、またゆっくりと開いて彼を見 上げる。 ﹁⋮⋮あなたを待っていたの﹂ 10センチほど高い彼の瞳をまっすぐに見つめた。 規則正しい時を刻む秒針の音が聞えないほど、自分の心臓がうる さい。 震える唇を動かし、もう一度口を開く。 ﹁北川さんを待っていたの﹂ それを聞いた彼がギョッと目を見開いた。 ﹁僕⋮⋮を?﹂ 私は大きく頷く。 ﹁あなたに伝えたいことがあって⋮⋮﹂ ドキン、ドキン。 頭の天辺からつま先まで鼓動が響く。まるで自分自身が大きな心 臓になってしまったかのようだ。 ︱︱︱頑張れ、頑張れ私。 クッと手を握り、小さく拳を作る。 そして、照れくささと緊張で顔が赤くなるのを自覚しながら、彼 の瞳を見つめて言った。 ﹁私の正直な気持ち、聞いて欲しいの﹂ ◆◇◆◇◆ 393 俺は自分が置かれている状況をまったく飲み込めずにいた。 一体何がどうなって、こうなっているのか。 俺は先輩に頼まれて、たまたまここに来ただけなのに。 休憩室にやって来た俺を待っていたのは、なんとみさ子さんだっ た。 夜の海が浮かび上がっている窓の前にスッと立っている彼女は、 突然現れた俺に驚く様子もない。 そんな彼女の様子を疑問に思う余裕もないほど、俺は混乱してい た。 ︱︱︱どうしてみさ子さんがここに? 彼女はこの休憩室を一切利用しなくなったと聞いている。しかも、 終業一時間も経って、ここにいる理由も分からない。 疲れ目による幻覚かと思い、目をこすり、瞬きを繰り返しても、 彼女の姿は消えなかった。 それでもみさ子さんがいるという現実をなかなか受け入れられず、 狐につままれたような感覚で一歩、また一歩と恐る恐る近付いてい く。 そして腕を伸ばせば簡単に触れられる距離にまで足を進めた。 改めて問いかける。 ﹁本当に、佐々木さんなんですか?﹂ 艶やかな黒髪も、形の良い瞳も、落ち着いた色の唇も、この独特 で色っぽい香りは確かにみさ子さんのもの。 俺の胸をこんなにも熱くするのは彼女以外にいないというのに。 そんな馬鹿げた問いかけにも、みさ子さんは優しく微笑んでくれ た。 ﹁ええ。間違いなく、佐々木みさ子よ﹂ ︱︱︱ああ、本物だったんだ。 やっと納得できた俺。 394 だがホッとする間もなく、みさ子さんは耳を疑わんばかりのセリ フを続ける。 ﹁北川さんを待っていたの。あなたに伝えたいことがあって⋮⋮。 私の正直な気持ち、聞いて欲しいの﹂ ︱︱︱え? みさ子さんは少し困ったようにはにかみながら、だけど視線は俺 から逸らすことなく言った。 395 69︼告白の行方︵16︶想いが重なる時:3 ≪SIDE:みさ子≫ なんだかあっけに取られたような北川さんは、茫然と私を見てい る。 視線を合わせている事に気恥ずかしさを感じるが、それでも私は 黙って彼を見つめていた。 正面からまじまじと見ても、この人はなんとかっこいいのだろう。 軽く口を開き、ぽかんと驚く様ですら、私の胸がときめいている。 とはいえ、私は彼の容姿に惹かれたのではない。 確かに、川崎君も永瀬君も素敵な顔立ちだったけど、私なりに彼 らの人間味に引かれたのだ。 そして、それは北川さんにしても同じ。 人懐っこくて、楽しくて、一緒にいることがとても居心地いいと 思える人。 近年では仕事が長続きしない若者の姿が時折テレビで取り上げら れているが、北川さんはそのような人たちと違って、すごく真面目 で熱心に仕事に取り組んでいる。 今日だって、こんな遅くまで仕事をこなしてきた。 そんなところも、すごく好ましい。 北川さんは何度かまばたきをして、軽く首をかしげた。 何気ない些細な仕草も、すごくいいと思う。 かっこいいから好きなのではなく、好きだから余計にかっこよく 見えるのだ。 まるで初恋をした少女のように胸を熱くして、私は北川さんを見 396 つめていた。 やがて北川さんが小刻みに震える声で、搾り出すように問いかけ てくる。 ﹁佐々木さんの、⋮⋮気持ち?﹂ 聞き返す彼に、コクンと頷く。 ﹁今までずっと意地を張って、逃げたりして、私はちっとも素直じ ゃなかった⋮⋮。でもね、正直になるって決めたの﹂ 一度下げた視線を、再び彼に向ける。 やっと、素直になれた。 やっと、自分の気持ちに向き合えた。 あれこれ回り道してしまったけれど、やっぱり、私の心は北川さ んで一杯だった。 好き。 大好き。 ありったけの気持ちを言葉に乗せて、今度こそ彼に伝えなくては ならない。 ありえない場所に私がいて、あまつさえ﹃あなたを待っていた﹄ と告げた。 そして、この部屋での私の態度を見ていれば、北川さんは私が何 を言おうとしているのか、すでに察しが付いていると思う。 それでも、大事なのは“気持ちを言葉にする事”だ。 あの時、彼は精一杯自分の気持ちをぶつけてきてくれた。 397 だから私も精一杯の気持ちを彼に伝えなければならない。自分の 視線や表情ではなく、“自分の言葉”として。 ︱︱︱頑張れ、私。 そっと息を吸い込み、ぎこちないと分かっていても一生懸命笑顔 になった。 これまで以上に熱く、北川さんの瞳を見つめる。 ドクドクと脈打つ激しい鼓動を感じながら、私は言葉をつむぐ。 ﹁あの⋮⋮。私ね、あなたのことが好⋮⋮﹂ と、ここまで言いかけたところで、北川さんがとっさに私の口を 手で塞いだ。 ︱︱︱⋮⋮え? 何が起こったのか理解できない。ただ、静かに北川さんを見つめ る。 すると彼は眉を寄せた。 ﹁いきなりこんなことをして、すいません。⋮⋮ですが、それだと ちょっと困るんですよ﹂ 謝ってくれるものの、手は外してくれない。 ︱︱︱どういうこと? 398 今でも彼が私を好きでいてくれるなんて、そんな都合のいい結末 は期待してなかった。 私は自分の気持ちを自分の言葉で伝えたかっただけなのに。 彼は聞く耳を持たないどころか、言わせてさえくれない。 ︱︱︱もしかして、告白もさせてもらえないくらい嫌われちゃった の?それほどまで、私を憎んでいるの⋮⋮? 驚きと悲しみで、私は泣き出してしまった。 いい年した大人がポロポロと涙を流すなんて傍から見ればおかし な光景だが、そんな事を気にする余裕は今の私にない。 あまりにショックが大きすぎて、取り乱す事も出来ずに茫然と涙 を流す。 そんな私を見て、北川さんはわずかに目を伏せた。 複雑な表情の彼を覗き込むが、私には北川さんが何を考えている のかぜんぜん分からない。 不安と絶望が私の中で膨らんでゆく。 ︱︱︱自分の気持ちを伝える事もさせてもらえないなら、私はどう したらいいの⋮⋮? いつもの冷静な私なら、すぐにいくつかの解決策が浮かんでくる のに。 真っ白になった頭ではいい案が浮かばす、北川さんの反応を待つ ことしかできない。 再び流れる沈黙。 やや間があって北川さんは小さくため息を漏らし、目を伏せたま まゆっくりと呟いた。 ﹁僕のセリフ、取らないでください﹂ 399 ︱︱︱僕の⋮⋮セリフ? 先ほどのショックからまだ立ち直れていない私は、彼の言葉の意 味が飲み込めない。 涙がこぼれ落ちるのも構わず、北川さんを見つめた。 400 70︼告白の行方︵17︶想いが重なる時:4 ﹁あの⋮⋮。私ね、あなたのことが好⋮⋮﹂ みさ子さんがそう言いかけた時、俺は思わず彼女の口を手で押さ え込んでしまった。 彼女の言葉を聞きたくなかった訳ではない。むしろその逆なのだ が、今は聞きたくなかったのだ。 みさ子さんが言わんとしている事は察しが付いている。 俺を待っていたと告げ、オマケに顔を赤らめながらも黒曜石のよ うにきらきらと輝く瞳をしっとりと潤ませてじっと見つめられれば、 何のために彼女がここにいたのか予測は簡単だ。 どういう心境の変化があったのかは分からないが、彼女は俺が以 前に告白した時に途切れてしまった﹃私も⋮⋮﹄の続きを聞かせて くれるつもりなのだろう。 ︱︱︱まったくもう、この人は⋮⋮。 心の中で小さく苦笑する。 俺の事を散々避けまくり、必死の告白を﹃ダメ﹄の一点張りで振 り切ったくせに。 今のみさ子さんの様子から、喉から手が出るほど欲しかった答え を用意してくれているのが見て取れる。 告白に踏み切った彼女の行動は俺の計算外であるが、それがまた 嬉しくて嬉しくて。 にやけてしまう顔を必死で引き締めていたから、俺の顔はみさ子 さんから見たらかなり複雑だっただろう。 みさ子さんに避けられても、彼女を忘れる事なんて出来なかった。 401 みさ子さんに拒絶されても、彼女を嫌いになんてなれなかった。 忘れられるはずなんてない。 嫌いになれるはずなんてない。 俺の心の奥にいるみさ子さんは、そこにいるのが当たり前である かのように何気ない顔で息づいている︱︱︱俺がみさ子に惹かれる 事が極自然の事だと言わんばかりに。 そばにいて欲しいと望む女性は、そして俺がそばにいたいと思え る女性は佐々木みさ子、一人だけ。 自分でもどうしてここまで彼女に執着するのか、さっぱり理解で きない。 理解は出来ないが、彼女が好きだということはイヤというほど分 かっている。 しつこいと思われても、往生際が悪いと思われても、俺はまだ諦 めていないし、諦めるつもりもない。 会えない時間が増えるほど、彼女への想いは募っていった。 一日、一日と、俺の中でみさ子さんの存在が膨れ上がり、何をし ていても彼女の姿が瞼にちらつく。 あの時、彼女が口にした﹃私も⋮⋮﹄という言葉を信じて。 その短い一言にすがりつき、一縷の望みをかけてしがみついてい た。 その想いがとうとう報われようとしている。 ︱︱︱よかった。こうしてみさ子さんが自分から俺と向き合ってく れる日が来て。 心の底からよかったと思う。 だが、彼女からその答えを聞く前に、俺は自ら彼女の言葉を遮っ た。もちろん理由があっての事。 402 みさ子さんは口を塞がれたまま、表情を凍りつかせている。 ︱︱︱本当は今すぐ、みさ子さんの気持ちが聞きたい。だけど⋮⋮。 ﹁それだとちょっと困るんです﹂ 苦々しく呟くと、彼女はハッとしたように目を大きく開き、そし て泣き出してしまった。 暴れる事もなく、ただ静かにはらはらと涙を流す彼女。 そんなみさ子さんを見て申し訳ない気持ちになったが、それでも 俺は手を放す事はしない。 自分勝手だとは思うが、こっちにも都合があるのだ。 二人の間に流れる沈黙を破るように、俺は口を開いた。 ﹁僕のセリフ、取らないでください﹂ ︱︱︱俺より先に言わないで。 そうなのだ。 俺がみさ子さんのセリフを遮った理由は、自分が先に﹃好きだ﹄ と言いたかったから。 そういう所にこだわる事自体、年下のガキの男なのかもしれない けど、やっぱり俺の口から改めて告白したかった。 我ながら器の小さな男だなと思うが、それもまた自分であり、包 み隠しや見栄、虚勢のない正直な俺を知って欲しかったから。“後 輩の北川”ではなく、生身の“北川貴広”という男を知ってもらい たかったから。 彼女の言葉に乗っかるのではなく、彼女より先に気持ちを伝えた い。 みさ子さんの口からすぐにでもさっきのセリフの続きを聞きたい けど、やっぱり俺からけじめをつけたい。 それと、俺がみさ子さんの告白の返事に﹃好きだ﹄と返したら、 彼女はもしかしたら﹃自分に気を遣ってくれているのではないか﹄ 403 と考えかねない。 奥ゆかしく、そしてそれ以上に臆病。佐々木みさ子はそんな人だ。 彼女に気を遣って﹃好きだ﹄と返すのではない。 ﹃今でも変わらず好きなのだ﹄と分かってもらいたい。 その上で、みさ子さんの気持ちを聞きたかった。 今頃激しく勘違いしているみさ子さんに向って、俺はそっと微笑 みかけた。 ︱︱︱スマートな振る舞いが出来なくてごめんなさい。でも、あな たが思っているようなことではありませんから。 少しでも彼女を落ち着かせようと、出来る限り優しい光を瞳に浮 かべる。 ﹁すいません。僕の小生意気なプライドと言いますか、男としての つまらない意地なんですけど⋮⋮﹂ みさ子さんは俺が何を言っているのか分かっていないらしく、涙 を流しながら眉を寄せ、不思議そうに俺を見上げている。 ﹁佐々木さん﹂ 不安そうな色を瞳一杯に浮かべている彼女を呼んだ。 みさ子さんはまばたきを二回して、わずかに首をかしげる。 ﹁身勝手だとは重々承知ですが、こちらから仕切り直しをさせてく ださい﹂ みさ子さんはじっと俺を見つめる。不安を拭えないままで。 真っ青な顔の彼女は倒れずにいることが精一杯のようだ。 ︱︱︱今、その不安を取り去ってあげますからね。 俺はすっ、と短く息を吸った。 ﹁佐々木みさ子さん﹂ 彼女を改めて呼ぶ。 そして穏やかに微笑んだ。 404 ﹁あなたが好きです。他の人を紹介されても、僕はあなたしか目に 入りません。あなただから好きなんです﹂ 好きです。 愛してます。 もしこの気持ちを形にできるのであれば、是非とも彼女に見せて あげたい。 俺がどれだけみさ子さんのことが好きなのか教えてあげたい。 そんな想いを込めて、真剣に告げた。 ﹁好きです﹂ 射抜くほどに彼女の瞳を見つめる。 ﹁あなたが好きなんです﹂ ハッとしたように開かれたみさ子さんの瞳から一際大きな涙が一 雫、ポロリと零れ落ちた。 涙で赤くなった彼女の瞳が大きく開き、俺の手の平に当たってい る唇がわずかに動く。 感じからして﹃本当に?﹄と言ったのだろう。 ﹁本当ですよ。嘘でも夢でもないですからね﹂ 405 俺が目を細めると、みさ子さんの瞳に驚きと喜びが混ざった微妙 な光が浮かぶ。 ︱︱︱さ、今度は聞かせてもらう番だ。 俺は彼女の口元からゆっくりと手を放し、その手をやんわりとみ さ子さんの腰に回してそっと抱き寄せた。 みさ子さんは何の抵抗もなく、引き寄せられるままにおとなしく 腕の中へと収まってくれる。 おでこ同士をつけるような格好で、俺は彼女に問いかけた。 ﹁強引だったり、変なところで男のプライドにこだわったりと少々 厄介な性格をしていますが、それでも僕の事を好きでいてくれます か?﹂ ︱︱︱人としての器がちょっと小さかったりしますけど、あなたの 事を全身で愛します。全力で守ります。 そんな想いを言外に含ませて囁いたセリフに、みさ子さんは大き く頷く。 ﹁好き⋮⋮。北川さんが好きなの。あなたじゃなきゃダメなの⋮⋮﹂ そう言ったみさ子さんは笑顔を作ろうとする。 だが、涙は一向に止まる様子がない。 ﹁ああ、もう。そんなに泣かないでくださいよ。まるで僕が悪い事 をしているみたいです﹂ 苦笑すると、 ﹁わた⋮⋮、私だって、な、泣き止みたいけど⋮⋮。色々な感情が グチャグチャで⋮⋮、と、止まんないんだもん﹂ 子供のように、みさ子さんは一生懸命手で涙をぬぐう。 彼女の泣き顔はとても無防備で、そしてとても綺麗。 俺は両手でみさ子さんの頬をそっと挟むと、吸い寄せられるよう に彼女の額に唇を寄せた。 ﹁え?﹂ 406 短く声を上げ、パッと顔を上げるみさ子さん。 何が起きたのか理解できなかった彼女は、きょとんと俺を見上げ ている。 そこには“女帝”の片鱗すらなく、一人の女性としての⋮⋮いや、 少女のみさ子さんがいた。 ︱︱︱みさ子さん、無防備すぎだよ。 そんな彼女の唇に、軽く触れるだけのキスを贈る。 わずかに触れただけなのに、一瞬で俺の全身が熱情と幸福感に包 まれた。 キスだけでここまで満たされるのであれば、彼女のすべてを手に 入れた時に訪れるであろう充足感の大きさを考えると空恐ろしくな る︱︱︱といっても、近いうちにしっかり頂きますけど。 ﹁え?え??﹂ みさ子さんはパチクリと忙しなく瞬きを繰り返している。びっく りした拍子にどうやら涙は止まったようだ。 ﹁良かった。ようやく泣き止んでくれましたね﹂ にっこりと微笑みかけると、さっきまで青かった彼女の顔がボン、 と赤くなる。 ﹁な、な、何するのよっ!?﹂ 我に返ったみさ子さん。目を白黒させて驚く様子が本当に可愛い。 ︱︱︱自覚ないんだろうなぁ。 そう思うと少しおかしくなって、クスクスと笑いが漏れた。 ﹁急にしたくなったんですよ﹂ 笑いながらそう言うと、みさ子さんは憤然と声を上げる。 ﹁それにしたって急すぎるわよ!﹂ 彼女の言い分はもっともかもしれないが、俺は冷静に言い返す。 ﹁言ったはずですよ。僕は強引だって﹂ そう言ってニヤリと笑ってやる。 するとみさ子さんは言葉に詰まり、ゆっくりと後ずさりを始めた。 407 そこをすかさず腕を回して抱き寄せる。 ﹁ひゃっ﹂ 腕の中に戻ってきたみさ子さんが驚いた声を上げた。そして、身 をよじって俺から離れようと試みる。 もちろん、みすみす逃がす俺じゃない。 ﹁逃がしませんよ﹂ 更に腕の力を入れ、しっかりと抱き込んだ。彼女の肩と腰にがっ ちりと腕を回し、隙間なく密着する。 ﹁き、北川さんっ!?﹂ 戸惑うみさ子さんの瞳をじっと見据える。 ﹁もう、逃がしませんからね﹂ ︱︱︱苦しい片想いの末にようやく手に入れたんだ。逃がしてなん かやるものか。 再びニヤリ、と笑うとみさ子さんが慌てだす。 ﹁北川さんっ、なんだか性格変わってない?!﹂ ﹁変わってないです、これが本来の僕ですので。ま、その辺はこの 先じ∼っくりと分からせてあげますよ﹂ ︱︱︱俺がどれだけあなたに惹かれているのか、心身ともに教え込 んであげる。 ビクッと肩をすくませ、一瞬怯えたみさ子さん。 息を飲んでしばらく俺を見つめていたが、やがて“しょうがない わね”といった表情で目を細める。 ﹁私も我ながら厄介な性格だと思うから、お互い様かしら?﹂ クスリ、と笑ったみさ子さんは俺の肩口にコツンとおでこを付け、 恥ずかしそうに俺の背中に腕を回してきた。 ﹁こんな私だけど、よろしくね﹂ 俯く彼女の表情は見えないが、おそらく照れているあまりに耳ま で赤いだろう。 408 俺より年上なのに、時折見せる少女のような反応がすごく嬉しい。 ︱︱︱こんなみさ子さんは俺しか知らないんだろうなぁ。 自分だけに許された特権に胸の奥が温かくなる。 ︱︱︱どんなあなたでも、受け止めてあげますからね。 佐々木みさ子も、“女帝・佐々木みさ子”も、俺にとっては愛し い存在。どちらもみさ子さんであることには違いないのだ。 ﹁もちろん。喜んでよろしくしてあげます﹂ 俺の返事に、みさ子さんを包む雰囲気がふわっと柔らかくなった。 こうして、俺は極上のお姫様を手に入れた。 409 70︼告白の行方︵17︶想いが重なる時:4︵後書き︶ ●大変長らくお待たせしました。やっと、やぁ∼っと、二人がくっ つきました。 ここに来るまで何度となく挫けそうになりましたが、二人を応援し てくださっている方のためにも逃げ出すわけにもいかず、必死でこ こまでこぎつけました。 70話は本当に難しく、過去最高回数書き直し︵号泣︶。おそらく 20回は訂正してます。 長い事引っ張りすぎたため、生半可な展開では読者様は納得しない だろうということで、干からびた脳みそを必死でこねくり回して、 書き上げました。 みさ子さんにも北川君にも頑張って欲しかったので、このような展 開にしました。自分としては﹁この二人らしいなぁ﹂と思うのです が。 それでも納得できなかった方、ごめんなさい。現段階でのみやこに とって、これが精一杯です⋮。 ●この後は後日談等を数話挟んでから、第2部の二人の初H編に進 もうかと。 両想いになったので、北川さんの封印を解きますよ∼︵笑︶ でも単なる絡みばかりではなく、それなりに切なさを小出しに進め て行こうと思っています。 ﹁女帝﹂のラストはきっちりとは決めておらず、﹁最終的には結婚 だろうなぁ﹂という漠然としたものがあるだけ︵汗︶ ネタだけは山盛りあるので、そこそこ長い作品になる事でしょう。 どうぞお今後もお付き合いください。 410 411 71︼素敵な先輩。素敵な友人。 相変らずこの部屋は静かだ。以前と同じように時を刻む針の音し か聞えない。 だが、俺達の気持ちはこの前とは違う。 ︱︱︱やっと、みさ子さんを捕まえることが出来た⋮⋮。 その喜びにいつまでも彼女を抱きしめていたいのだが、壁にかか っている時計は間もなく七時を指す。 俺は名残惜しさに後ろ髪を鷲づかみにされつつも、エアコンの効 きが悪いこの部屋に長居しては彼女に風邪を引かせてしまうことが 心配で、みさ子さんを腕の中から解放した。 とたんに彼女がグラリと傾ぐ。 ﹁大丈夫ですかっ!﹂ 俺はあわてて彼女の腰を抱き寄せて再び胸に抱きこむ。おかげで みさ子さんは転倒せずに済んだ。 ﹁体調が悪いんですか?!﹂ 心配そうに彼女の顔を覗き込むと、みさ子さんは照れくさそうに 小さく首を振る。 ﹁ううん、違うの。ええと⋮⋮、実は失恋したら会社を辞める覚悟 でいたの。でも、北川さんに好きだって言ってもらったら、ホッと して。それで力が抜けちゃっただけ﹂ 恥ずかしいのか、みさ子さんは俺から目を逸らす。 そういう仕草がいちいち可愛くて、それを俺に見せてくれた事が 嬉しくて、つい顔が緩む。 ﹁あははっ、そうでしたか。でも、その程度の覚悟なんて甘いです よ﹂ ﹁え?﹂ みさ子さんは不思議そうな顔をする。 抱きしめる力を弱め、彼女の顔をしっかり見るために少しだけ離 412 れた。 ﹁僕はあなたが振り向いてくれるまで、しつこく追いかけ回す覚悟 でいましたから﹂ きちんとした理由付きで拒絶されるまで、みさ子さんを好きでい ると決めていたのだ。 俺が彼女の髪をそっとなでると、俯きがちだった顔が上を向く。 みさ子さんの瞳を真っ直ぐに見つめながら言った。 ﹁これからは僕に一生愛される覚悟をしてくださいね﹂ クスッと笑うと、みさ子さんはふわっと目の縁を赤らめて﹃馬鹿 ⋮⋮﹄と言った。 ﹁馬鹿でも何でもいいんです。それだけあなたが好きだって事です から﹂ みさ子さんの体勢がきちんと整ったのを見計らって、俺は腕の力 を緩める。 ︱︱︱ん? ここで俺は先ほどの彼女のセリフに矛盾があることに気が付いた。 ﹁もともと会社を辞めるつもりだったんですよね?それなのに、今 更辞める覚悟って変じゃないですか?﹂ ﹁え?﹂ みさ子さんはパチパチッと瞬きをして、俺を見上げる。 ﹁もともと辞めるつもりだったって?私が?﹂ ﹁はい。そう聞きましたよ﹂ 空き地で立ち聞きした時も、先輩との電話でも、確かに﹃仕事を 辞める﹄との話だった。 だからこそ、俺は告白する決心をしたのだが⋮⋮。 それに対しての彼女の返事は ﹁私、辞めないわよ﹂ と、これまでの話を覆すものだった。 ﹁へ?﹂ 今度は俺が目をしぱたたかせる。 413 ﹁で、でも、永瀬先輩がっ﹂ 俺が﹃佐々木さんは辞めてしまうのか?﹄と聞いたら、真面目な 顔で﹃そうだ﹄と返してきたのだ。先輩はあんな場面で嘘を付くよ うな人じゃない。 ﹁状況が読めないんけど⋮⋮。永瀬君が何を言ったの?﹂ 思いっきり首をかしげているみさ子さん。 ︱︱︱どういうことだ? 頭の中で?マークが踊る。 俺も首をかしげたところで、みさ子さんが口を開いた。 ﹁それより、北川さんは四月からドイツ支社でしょ。私、有休とっ て、出来るだけ会いに行くから。電話もメールもするから﹂ 真剣に言われるが、俺には意味が分からない。 ︱︱︱いったい何の話だ? ﹁ドイツなんて行きませんが⋮⋮﹂ そう答えたとたん、みさ子さんは俺のスーツを掴んで詰め寄る。 ﹁え?!だって、人事部長が言ってたのよ!私、聞いたんだから﹂ 確かにこの所、上島部長とやたらミーティングが多かった。だが、 それは異動の件とはぜんぜん違う話で。 一緒になって開発した商品がどうやらすこぶる評判が良いらしく、 部長が開発部に移らないかと持ちかけてきたのだ。 そうやって自分の仕事が認められたおかげでみさ子さんに告白す る踏ん切りがついた一因ではあるけれど、やっぱり俺は営業の仕事 が好きだから。 話があったその日に異動は断ったのだが、上島部長は意外としつ こくって。今日だってその話があったのだ。 まぁ再三に渡る辞退で、このまま営業を続ける事になったのでよ かったが。 俺が聞かされた話はこの件に関してだけ。 ﹁何の事でしょう。ドイツ支社の話は一切聞かされていませんが﹂ みさ子さんがきゅっと眉を寄せる。 414 ﹁どういうこと?﹂ ﹁さぁ?﹂ 再び二人して首をひねる。 そこに扉をノックする音が。 ﹁入るぞ﹂ 声がして、顔をのぞかせたのは永瀬先輩だった。 ﹁おー、無事にまとまったみたいだなぁ。いやぁ、よかった、よか った﹂ 寄り添っている俺達を見て、先輩は本当に嬉しそうに拍手をして くれる。 だが、今はそんなのん気にしている場合ではない。 ﹁ちょっと先輩、佐々木さんは仕事を辞めないって言ってますけど ?これってどういうことですか!?﹂ 俺は声を大きくして問いかけるが、先輩はしれっと ﹁ああ。こいつは辞めないぜ﹂ と言った。 ﹁はぁっ?!﹂ 俺は素っ頓狂な声で叫んだ。 ︱︱︱何だそれは?!話が違うじゃないか!! 頭が混乱してきた。 ここはきちんと説明してもらわなければならない。 ﹁で、でも、さっき電話でやり取りしてたじゃないですか。それに 俺が尋ねたら、“そうだ”ってはっきり言いましたよね?!﹂ ﹁うん、言ったよ﹂ 取り乱す俺に対して、冷静な先輩の返事。 ︱︱︱う∼、ますます訳分からない。 頭の中がただグルグルと回り、ちっとも答えが見つからない。 目の前がクラリとした瞬間、先輩がポソッと言った。 ﹁ただし、辞めるのはそいつの妹﹂ ﹁⋮⋮は?﹂ 415 ︱︱︱妹?? あんぐりと口を開けて先輩を見ると、クスクスと含み笑いをしな がら説明をしてくれた。 ﹁俺は佐々木の妹の留美と付き合ってるんだ。さっきの電話は留美 が仕事を辞めるってかけてきたんだよ。みっちり花嫁修業をして、 結婚したら俺を支える覚悟を決めたんだと。ま、家でじっとしてい られるタチじゃないからそのうち働き出すだろうが、その気持ちが 可愛いよなぁ。⋮⋮で、結婚の予定はあるが、まだ籍は入れてない から、留美も“佐々木”と言う訳。嘘はついてないぜ﹂ ニヤリと笑う先輩を見て、がくんと力が抜ける。 ︱︱︱やられた⋮⋮。 肩を落とした俺の横で、今度はみさ子さんが先輩に詰め寄る。 ﹁私も永瀬君に訊きたいことがあるのよ﹂ ズイッと前に出るみさ子さん。 ﹁北川さんはドイツに行かないどころか、異動の話しすら聞かされ てないと言ってるわ。私があなたに尋ねた時、この話を否定しなか ったわよね?﹂ みさ子さんはすっかり女帝のオーラをまとっている。 ところが、そんな彼女に怖気づく先輩じゃない。 俺の時と同じように、何事もなかった顔して言い返す。 ﹁肯定もしなかったがな﹂ 淡々と、でも楽しそうに返事をする先輩を見て、みさ子さんがポ カンとなる。 が、すぐに正気を取り戻した。 ﹁だけど、上島部長が言ってたのよ!?﹂ ﹁それは、お前の聞き間違いだ﹂ ﹁聞き間違い?﹂ 眉をひそめて、みさ子さんは首をかしげる。 ﹁部長は“北川”じゃなくって、“板川”って言ったんだよ。あの 人、活舌悪いからなぁ。オマケにドア越しだったから、はっきり聞 416 き取れなかったんだろうよ﹂ 先輩は“してやったり”と言う顔で、ニヤリと笑った。 ﹁そんな⋮⋮﹂ みさ子さんはなんとも言えない表情で絶句した。 力なく肩を落とす俺と茫然としているみさ子さんを眺めて、先輩 はさらにニヤリとする。 ﹁お前達があんまりにも煮え切らないからさ。ちょっと背中を押し てやったんだよ﹂ なんて心臓に悪い気遣いだろうか。寿命が十年は縮まった気がす る。 まぁ、おかげで結果的にはうまくまとまったのだから文句は言う まい。 みさ子さんに目をやると、彼女は苦笑いしながら肩をすくめた。 ﹁なんだよ、2人でいい雰囲気作りやがって。北川、ニヤケ過ぎだ ぞ﹂ そう言う先輩のほうがニヤケているように見える。 先輩の手の平の上でまんまと踊らされていたことは少し悔しいが、 みさ子さんを手に入れることが出来たのは先輩のおかげでもあるの で、俺は頭を下げた。 ﹁ありがとうございました。力添えのおかげで、やっと佐々木さん を彼女にする事が出来ました﹂ ﹁いや、礼を言われるような事はしてないぜ。北川の諦めない気持 ちが報われた結果だ﹂ ポンと俺の肩を叩いた先輩の顔は、自分のことのように嬉しそう だった。 そして俺の隣に立つみさ子さんを見た。 417 ﹁佐々木、よかったな。やっと“お姫様”になる事が出来て﹂ ﹁何のこと?﹂ 首をかしげるみさ子さん。 先輩は腕を組み、楽しそうに話し出した。 ﹁たしか、大学三年の時だったかな?ゼミの飲み会でお前が愚痴っ たんだよ。“白雪姫でもかぐや姫でも親指姫でも何でもいいから、 私もお姫様になりたい”ってね﹂ ﹁う、うそ?!﹂ ﹁ホント。珍しく酔っていたから、その時の記憶はお前にないだろ うがな。案の定、次の日には自分が何を言ったのかケロッと忘れて たし﹂ 先輩はフッと目を細めて、優しい表情になる。 ﹁佐々木が言った姫ってのは実際に城に住むお姫様じゃなくて、お 前にとって女性の幸せの象徴が“姫”だったんだろうなぁ﹂ ﹁私、そんな事言ったんだ⋮⋮﹂ 先輩が言うとおり、みさ子さんは一切覚えてないようだ。口元を 手で押さえて、小さく呟く。 そんな彼女を見て、先輩は更に優しい表情で話を続ける。 ﹁滅多に自分の心内を話さないお前が酔った勢いで言うってことは、 長年溜め込んだ言葉なんだろうなって思った。本当は今の自分を捨 ててしまいたいって考えてるんじゃないかって感じたよ﹂ 長身の先輩は高い位置からみさ子さんに目をやる。でもそれは見 下ろすというよりも見守るという言葉がしっくりくるようなまなざ しだった。 ﹁どうにかしてやりたかったが、なかなかきっかけがなくてなぁ。 で、今回の北川の件が巡ってきた訳だ。うるさいくらいあれこれ口 出ししたのは俺なりの優しさだよ﹂ ﹁永瀬君⋮⋮﹂ みさ子さんは微笑みながら、でも少し涙声で先輩を呼んだ。 ﹁そうだったのね。ありがと、感謝してる﹂ 418 瞳を潤ませてやんわりと笑顔を浮かべると、先輩は満足そうに頷 く。 ﹁これでやっと俺の気がかりがなくなって、こっちとしても一安心 て所だな﹂ 先輩は一歩足を進め、みさ子さんの正面に立った。 ﹁知ってるとは思うが、北川は頑張り屋で真面目で、オマケに俺の 次くらいにいい男だ﹂ なんて先輩らしい言い回しだろうか。 みさ子さんとチラッと目を見合わせて、口元だけで笑う。。 ﹁そして何より、お前にベタ惚れの王子が登場したんだ。これから はきっと幸せが待っているぞ﹂ それから俺に目を向ける。 ﹁北川、俺の大事な友人をよろしくな﹂ ﹁ご心配なく﹂ 俺はみさ子さんの肩を抱いて、グッと自分に引き寄せる。 ﹁絶対に幸せにしてみせますから﹂ ﹁き、北川さん?!﹂ 右の親指をビシッと立ててニッと笑う俺と、引き寄せられて焦り まくるみさ子さんを見て、先輩は大笑いする。 ﹁あははっ、大した自信だな。ま、くれぐれも頼むよ﹂ 爽やかな笑い声を立てて、先輩は休憩室を出て行った。 ﹁なんだか、永瀬君にまんまとやられたって感じだわ﹂ 俺の腕からそっと抜け出したみさ子さんは、閉じられたドアを軽 く睨んでため息混じりに苦笑する。 ﹁そうですね﹂ 俺も苦笑を返す。 ﹁佐々木さんは“素敵”な友達をお持ちですねぇ﹂ 419 あえて“素敵”という部分を強調して言うと、彼女はフッと笑う。 ﹁でも、あなたにとっても“素敵”な先輩よね﹂ 抜け目がなくて、たまに意地悪で、だけどやたら人の気持ちに聡 い。 敵に回したらゾッとするほど恐ろしいが、味方でいてくれればこ れほど心強い人はいない。 お互いにそう思ったようで、俺達はやんわりと視線を合わせた。 ﹁じゃ、私たちも帰りましょうか﹂ みさ子さんの口から何気なく発せられた﹃私たち﹄という言葉に、 “本当に俺達両想いになったんだな”と実感した。 これからどんな毎日が待っているんだろう。 きっと楽しい事ばかりじゃないと思う。ケンカしたり、泣いたり、 つらい事もあるだろう。 それでも、最終的に幸せでいればいいのだ。 ︱︱︱これからは永瀬先輩に代わって、俺がみさ子さんを支えてい かないとな。 あの先輩にはいろいろと敵わないことがあるが、みさ子さんを好 きなことに対しては誰にも負けない自信がある。 幸せになろう。 みさ子さんも、俺も。 二人で幸せになろう。 ﹁はい、帰りましょう﹂ 彼女となったみさ子さんに、彼氏としての微笑みを向けた。 420 72︼お姫様になった私 ≪SIDE:みさ子≫ 年の瀬もいよいよ押し迫り、今年の仕事は今日で最後。 この後は恒例の忘年会がある。 いつものように立派なホテルで行われる会が始まるまでにはもう しばらくあるので、私は会社裏の空き地に来ていた。 陽は沈みかけ、冷たい風が時折吹いてくるというのに、猫達は思 い思いの場所でのんびり過ごしている。 風にあおられて崩れた髪を手櫛で直していると、奥の小道からヒ メが現れた。 彼女は相変らず優雅な足取りで私のすぐそばまでやってきて、寄 り添うように座る。 ﹁こんばんは、ヒメ。今日も寒いわね﹂ ﹁ニャッ﹂ こうして話しかけると必ず短い一鳴きが返ってくる。 ︱︱︱本当に不思議な猫だわ。 私はそっと微笑んだ。 彼女を“ヒメ”と名付けたのには深い理由はなかった。3年ほど 前、この空き地で初めてこの猫に会った時、印象からの直感でそう 名前を付けた。 今思えば、そこには密かな憧れがあったのかもしれない。 先日、永瀬君から学生時代の話を聞くまで知らなかったのだが、 どうやら私はずいぶん昔から“お姫様”という存在に憧れていたら しい。 421 私自身がお姫様になれる日は一生来ないだろうから、せめてもの 慰めでこの真っ白で気品溢れる猫をそう呼ぶようにしたのだろう。 “ヒメ”と呼ぶことで、みじめな自分がほんの少し救われた気がし た。 でもそれは気がしただけで、実際は何一つ好転していなかった。 私はお姫様にはなれない。 だって、こんな私を迎えに来てくれる王子様なんていないから⋮ ⋮。 そう思って生きてきた︱︱︱つい数日前まで。 ﹁みさ子さん、ここにいたんだ﹂ 声が聞こえたと同時に、後ろから包み込むようにフワリと抱きし められる。 この空き地は誰もが出入り自由で、いつ人が来るかもしれない。 まぁ、いまだかつて自分と、この彼と、永瀬君くらいとしか顔を合 わせた事はないけれど。 それでも、他に人が来ないとは限らないのだ。 爽やかな顔して行動が大胆な彼はそんな事を一向に気にしていな いらしく、私の髪に頬擦りしている。 人に見られたら恥ずかしいと思うのに、彼の腕の中は本当に居心 地がよくて振り解く事が出来ない。 回された腕に包まれたのは私の体だけど、心までもが優しく包ま 422 れた感覚。 心臓がドキドキと音を立てるのを聞きながら、私はされるがまま だった。 ﹁猫達に挨拶をしていたの﹂ 少しだけ後ろを振り向いてポツリと呟くと、彼は短くため息をつ く。 ﹁それにしたって、マフラーも手袋もしてないなんて⋮⋮。ほら、 こんなにほっぺが冷たい。風邪引いたらどうすんの?﹂ 私の頬に顔を寄せた彼の口調は、まるで叱りつけるような感じ。 だけど、口調が強目なのは私を心配してくれているからであって、 怒っている訳ではないのだ。 その証拠に、彼の仕草はすごく優しい。 ﹁心配かけてごめんなさい。でも、そんなに長時間いたわけじゃな いもの。風邪を引くほど冷えてないわ﹂ 私の方が五歳も年上なのに保護者のような口ぶりをする彼に悔し くなって、私はちょっと拗ねてみせる。 すると彼がクスッと笑った。 ﹁会社に来るのは今日が今年最後だしね。猫達に挨拶したい気持ち は分かるよ﹂ そう言って更に強く抱きすくめられる。 ﹁俺がこうして温めていてあげるから、思う存分挨拶すればいいよ﹂ 子供のような私に呆れることなく、そう申し出てくれた。 時間を追うごとに寒さが増すこの場に一緒にいてくれる。やはり 彼は優しい人だ。 コクンと頷いた私に、彼はうっとりするほど綺麗な微笑みをくれ た。 423 ありのままの私を受け入れてくれる大好きな人。 どんな私でも受け止めてくれる大切な人。 そう思うと、心の奥がもっと温かくなった。 ふと目線を落とせば、ヒメがこちらを見上げている。 彼女の瞳はまるで“良かったね”と言ってくれたみたいだった。 424 72︼お姫様になった私︵後書き︶ ●これにて北川君の片想い編&みさ子さんの過去脱却編は終了です。 まさか、ここまで長くなるとは予想していませんでした。下書きを しているうちに、書きたいエピソードがどんどん出てきてしまいま して、ついにはこんな長さに︵汗︶ 展開が遅く、オマケに色っぽいシーンがほとんどなかった事は申し 訳なく思います。 ただ、この二人はなし崩し的にHにもつれ込むのはどうも違うよう に感じていたので、関係がしっかり成り立つまであえて絡みのシー ンは入れませんでした。 それにもめげずここまでお付き合いくださった読者様方には本当に 感謝しています。 ありがとう、ありがとう。ようし、みんなまとめて抱いてやる!! ︵笑︶ ●この﹃女帝﹄は小説を書く楽しさと難しさを実感した作品でもあ ります。 みやこは自分が納得しないと先に進む事が出来ない不器用な人間で す。なので、展開が遅くなりがちです。 読者様が先を急ぐ気持ちはそりゃぁもう痛いくらいにビシビシと感 じておりましたが︵苦笑︶、﹁何でここでこうなるの?﹂、﹁これ ってどういうこと?﹂と言ったような疑問を自分自身持ちたくない ですし、読者様にも違和感を感じて欲しくないのです。 読み進めていくうちに腑に落ちない文章と言うのは、作品を公開し ている以上あってはならないことだと考えています。 たとえ素人作家であろうとも、不特定多数の方が閲覧するサイトに おいてはそれが最低限の作者の義務だというのがみやこの持論です。 両想いになった二人のことですから今までよりは展開が早いかとは 425 思いますが、それでもジェットコースター的な展開は無理かもしれ ません。 イライラを防ぐためにも、しっかりカルシウムを補給しつつ作品に お付き合いくださいませ︵苦笑︶ ●この﹃女帝﹄を書いていて驚かされたのは、男性読者様からのコ メントの数の多さです。 7割近くは男性からのお言葉。ホント、びっくりです。 男性向けとされるノクターンにおいて人気の高い﹁陵辱﹂﹁ロリ﹂ ﹁美少女﹂系が自分に書けない為、女性向けとされるムーンライト にて活動しているのですが、まさかこんなにたくさんの男性読者様 が応援してくださるとは想像していませんでした。 ものすごく嬉しい誤算です。 そして同時に謎でもあります。 この作品の何が男性読者様の興味を惹いたのでしょうか。 男性目線が多いから、とっつきやすかったのか? 運良く恋愛小説好きの男性読者様の目に止まったからなのか? それとも、みやこが醸し出すフェロモンに引き寄せられたからなの か?︵大笑︶ 理由はどうあれ、男性、女性問わず楽しんでいただける作品を目指 してこれからも精進いたします。 ●さて、今後は以前からの予告どおり二人を絡ませますよ∼♪ ただし、基本は恋愛小説なので毎話の絡みは期待しないでください ませ。⋮こんな事を言いつつ、次話では北川君がみさ子さんのセー ターの中に手を突っ込みます︵笑︶ 426 SEXは愛情表現としての行為ではありますが、唯一至上の愛情表 現ではないと思っています。行為に至るまで、またその最中に﹃ど うやって二人が心を通わせるのか﹄が大切なのであり、回数や程度 の激しさで愛情を測るものではないと考えています。 ⋮とか言っておきながら、妄想が暴走して濃密シーンが出てくる可 能性はかーなーり高いです︵笑︶。何たって、北川君は意地悪Hが 得意そうだし︵大笑︶ ﹃女帝﹄前に投稿していた﹃彼女2﹄は由美奈ちゃんが高校生とい うことで余り無理はさせられませんでしたが、みさ子さんは大人の 女性ですからね。北川君の強引さにソコソコついていけるハズです ︵にやり︶ それではこれからも作品たちとみやこ京一をヨロシクです。 427 73︼初めての人。最後の人︵1︶ ﹁ねぇ、鶏肉もお野菜もたくさんあるからお昼はお雑煮にしようと 思うんだけど。お餅は何個食べる?﹂ 年が明けて1月3日。 お互い帰省は昨日までに済ませて、俺は朝からみさ子さんの家に お邪魔している。 小ぢんまりとしたマンションはもう6年近く住んでいるという話 だが、手入れが行き届いていて、部屋の中はちっともくたびれた感 じがしない。 普段から地味目な彼女の部屋らしく、必要な物しか置かれていな い為どこもかしこも殺風景に見えるものの、淡いアイボリーを基調 とした部屋は清潔感が漂っていた。 みさ子さんに頼まれたリビングの家具の移動を終えてソファーで 一休みしていると、台所から先ほどのセリフが聞えてきたのである。 ﹁んー、五個かな﹂ 俺は腰を上げ、返事をしつつ声がした台所へと向う。 中を覗くと、みさ子さんは冷蔵庫から切り餅を取り出していると ころだった。 今日の彼女の格好はざっくりと編まれたクリーム色のセーターと、 ダークブラウンのパンツ。そして普段は下ろしている髪を軽く一つ に結んでいた。 相変らずメガネはかけているが、服装も表情も会社にいる時とは 違って、だいぶラフである。 やって来た俺の姿を見て、驚いたように笑うみさ子さん。 ﹁五個も?!北川さんってほっそりしているけど、結構食べるのね ぇ。前に私が作ったお弁当も結構な量があったのに綺麗に食べちゃ 428 ったし﹂ 付き合い始めて一週間も経つと、口調も親しげに変わってきた。 ところが俺の事をいまだに﹃北川さん﹄と呼ぶ。俺はとっくに﹃ 佐々木さん﹄ではなく、﹃みさ子さん﹄と呼んでいるというのにだ。 そのことがちょっと気に触った俺は、そっと彼女に近寄る。みさ 子さんが餅を手に冷蔵庫を閉めたところで、後ろから抱きついた。 ﹁きゃっ﹂ 俺が近くに来ていたことには気が付いていたものの、まさか抱き しめられるとは思っていなかったみさ子さんは驚いて餅を落として しまった。 一個ずつ薄いフィルムで包装された餅が、バラバラと散る。 ﹁びっくりさせないでよ。そんなことすると、お雑煮作ってあげな いから﹂ 後ろを振り返ってチラッと俺を睨んだ後にクスリと笑い、床に手 を伸ばそうと腰を屈める。 が、俺は腕を解かずに抱きしめたままなので、当然手は届かない。 ﹁何?どうしたの?﹂ きょとんとした表情で、みさ子さんはすぐ横にある俺の顔を覗き 込む。 ﹁“どうしたの?”じゃないよ﹂ ため息混じりにそう言うと、みさ子さんは本当に分かっていない らしく、パチパチと瞬きを繰り返して俺を呼んだ。 ﹁北川さん?﹂ 彼女の気配りの素晴らしさは仕事の上でのみ発揮されるらしく、 プライベートではその実力はあまり発揮されないらしい。 ぜんぜん分かってくれないみさ子さんに、俺は盛大に落胆して見 せた。 ﹁あ∼、また“北川さん”って言った。今日はこれで十回目だよ。 さすがにヘコむって﹂ 拗ねた口調で言うと、 429 ﹁あっ、ごめんなさい﹂ 口元を手で押さえて、しまったといった表情を作るみさ子さん。 ﹁わざとじゃないの。ただ、今まで男の人は苗字以外に呼んだこと がないから、どうしても慣れなくって、つい⋮⋮﹂ 後ろから抱きついているのでその表情は見えないが、シュンとし ょげた声からみさ子さんが気落ちしているのが分かる。 ちょっと強く言い過ぎたかな、と反省した俺は“怒ってないよ” と伝えるために、指先でそっと頬に触れた。 ﹁習慣ってのがなかなか抜けないのは分かるよ。でもね、苗字で呼 ばれるのってすごく寂しいんだ。まだ彼氏として認めてもらえてな いみたいでさ﹂ そう告げると、彼女は本当に悪いと思っているようで、前に回さ れた俺の腕におずおずと触れてくる。そして体の力を少し抜いて、 そっと俺に寄りかかってきた。それは彼女なりに甘えている仕草。 ﹁タカ、ごめんなさい⋮⋮﹂ 今日初めて俺の名前を呼んでくれたみさ子さん。 ﹃貴広﹄と呼び捨てにするのは苦手だということで、﹃タカ﹄と愛 称で呼ぶようにすると言った。彼女自身がそう決めてから片手で数 えるほどしか聞いたことはないけれど。 何気ない仕草と、何気ない一言。それなのにそこには色気が漂っ ている。 オマケにすぐ目の前には華奢なうなじ。 ドクン、と俺の心臓が大きな音を立てた。 ︱︱︱このままだとちょっとヤバイかも⋮⋮。それにまだ昼前だし な。 自重しようとするのだが、あまりに綺麗な首筋を前に欲望に逆ら う事が出来ず、思わず唇を寄せた。 ﹁んっ﹂ ピクン、と小さく震えるみさ子さん。わずかに鼻にかかった声が 妙に色っぽい。勤務中の彼女からは想像できないほど、魅惑的な声 430 だ。 その声をもっと聞きたくて、彼女の首筋に何度もキスをする。 少しずつ位置をずらして唇を押し付け、チロリ、と舌先を這わし た。 ﹁あん⋮⋮。やめて﹂ みさ子さんは身をよじって逃げようとするが、ガッチリと回され た俺の腕がそれを阻んだ。 いつもは目にする事のないうなじの白さに目がくらんでいる俺は、 彼女の制止の声も聞かず軽く吸い上げ、わざと音を立ててキスをす る。 ﹁んんっ⋮⋮、も、もう、やめてったら。お昼ご飯にしましょ、ね ?唐揚げもあるのよ﹂ みさ子さんはどうにか止めさせようと俺の好物である唐揚げを餌 に止めさせようとしてくるが、これほどまでに色っぽい首筋を目に して俺が止まるはずもない。 付き合い始めた日からデートをしたり、お互いの家に行く事はあ っても、こんなふうに欲情を込めて彼女に触れた事はなかった。 スキンシップの範囲で抱きしめたり、キスをしたりする事はあっ たけれど、みさ子さんはものすごく恥ずかしがって、それより先に 進ませようとはしなかった。 俺はみさ子さんの体だけが目的ではないし、一緒にいるだけで十 分幸せなのだが、好きで好きでたまらない彼女が目の前にいたら、 やっぱり健康的な成人男性としては⋮⋮ね。 それに、身も心も俺がみさ子さんに溺れている事を教えてあげた いし。 時折彼女の耳に息を吹きかけると、みさ子さんがブルリと身を震 わせる。 ︱︱︱ふぅん、ここが弱いんだ。 見つけた弱点にほくそ笑み、耳を集中的に攻めた。 431 唇でやんわりと耳を挟み、舌でゆっくりとその輪郭をなぞる。熱 く湿った舌先が何度も往復すると、彼女は身をすくめながら熱く甘 い吐息を洩らす。 ﹁や⋮⋮んん﹂ 官能的に喘ぐその様子に嬉しくなる。 恥ずかしがっているのは建前で、“本当は俺の事を受け入れたく ないんじゃないか”って、ちょっと不安に思っていたのだ。 俺はみさ子さんの彼氏としてまだまだ未熟だという自覚はあった から。 ﹁みさ子さん、大好きだよ﹂ 更に抱きしめ、これまでよりも少し強めのキスを送った。 ﹁はぁんっ﹂ 右耳の付け根を赤い跡が付くくらい吸い上げると、みさ子さんは 軽くのけぞる。 次いで耳たぶを甘噛みして意識をそこに向けさせておきながら、 みさ子さんのセーターのスソから右手を差し込んだ。ゆったりとし たデザインなので、簡単に俺の侵入を許す。 みさ子さんの肩に回した左腕はそのままに、中に入れた手でキャ ミソールをパンツから引き出した。 そして、その隙間から手を這わせる。 初めて触れた服の下の彼女の肌はすごく滑らか。頬以上に吸い付 くような手触りは、まるで極上のシルクを思わせる。 その感触を楽しむように、腹部から胸部へとゆっくり指を滑らせ てゆく。 ﹁ふっ⋮⋮うんっ﹂ みさ子さんは耐えるような声を出すが、俺は構わずその上にある 膨らみを目指した。 ﹁あ、ダメっ﹂ 体の前にある俺の腕を引き剥がそうと試みるみさ子さん。だけど、 力が抜け始めた彼女にはどうする事も出来ない。 432 一方、まったくもって元気な俺は、彼女を逃がすまいとして力を 込めて腕の中に留める。 ﹁ダメって言われても止めてあげない。俺の名前をなかなか呼んで くれないからお仕置きだよ﹂ 耳元で意地悪く囁くと、彼女の体に緊張が走り硬くなる。 ﹁そんなっ⋮⋮!?あ⋮⋮、やぁ⋮⋮。さっき、許して⋮⋮くれた じゃない⋮⋮。ん、んっ﹂ 耳や肌を絶えずいじられているみさ子さんは、喘ぎながら顔色を 変える。 ﹁でも、やっぱり気が変わった﹂ そう言って右手で彼女の左胸をやんわりと掴んだ。 みさ子さんは全体的にほっそりとしたスタイルなのだが、手の平 にはしっかりとした弾力を感じる。 意外とスタイルがいいことにちょっと感動。 ︱︱︱ま、みさ子さんであればどんな体型でもOKだけどね。 ブラの上から強弱をつけて揉みしだく。 ﹁や⋮⋮めて⋮⋮﹂ 俺の腕に押さえ込まれて逃げ出す事が出来ない彼女は、全身を小 刻みに震わせて懇願してくるが、もちろん俺の手が止まることはな い。 乳房を包み込むように大きく揉むと、ピクン、と肩が揺れた。 手を動かす事で胸の先にある突起がブラにこすられて、なんとも いえない刺激を生み出しているようだ。 ﹁ん⋮⋮、あぁ⋮⋮﹂ これまで以上に色っぽい吐息が彼女の口から次々とこぼれる。 ﹁どうしたの?まだ直接触っていないのに、そんな声出しちゃって﹂ クスッと笑った俺は、ブラの中にスルリと手を滑り込ませた。す ると指先に独特の硬さを持ち始めた乳首が当たる。 ﹁ココ、硬くなってきてるね。止めてって言ってたくせに、感じち ゃってるんだ﹂ 433 人差し指の先でピンと弾いてやると、 ﹁あんっ﹂ と、みさ子さんが短く啼いた。 ﹁まだまだ途中でこんなに硬くなってるなんて。この先続けたら、 どこまで硬くなるのかなぁ﹂ 指の先で円を描くように乳首を転がしていた俺は、クスクスと笑 いながらいきなり指でキュッとつまんだ。 ﹁⋮⋮っ!﹂ 今度は声もなく、ビクンと彼女の肩が激しく跳ね上がる。 ﹁何も言えないくらい気持ちいいのかな?﹂ 親指と人差し指でこするようにクニクニとすりあげ、快感を与え る。 敏感な乳首はたちどころに硬さをまし、コリコリとした感触を俺 の指に伝えてきた。 ﹁ほら、あっという間に硬くなってきたよ。それに大きくなってき てる。自分でも分かるでしょ?﹂ 脚の力も抜けてきているようで、俺にしなだれかかってくるみさ 子さん。 俺の肩に頭を乗せて上を向き、唇を少し噛んで我慢している彼女 の目元がピンク色に上気し、ますます艶っぽい。 そんな彼女の表情を覗き込みながら、わざと問いかけた。 だが、みさ子さんはスッと視線を横に逸らすだけで、何も言わな い。 ﹁ふぅん、そういう態度を取るんだ。⋮⋮じゃ、体に聞こうっと﹂ 俺は胸をいじっていた手をスルスルと下に移動させる。 ﹁コッチはどうなっているのかなぁ﹂ 楽しそうに言って、ダークブラウンのパンツのウエスト部分から その中に指先を滑り込ませる。 すると、今までぐったりしていた彼女が、ハッとしたように頭を 上げた。 434 ﹁いやぁっ!﹂ 足をふらつかせながら、俺の腕の動きを止めるように必死で押さ え込む。 俺は彼女の突然の行動に、そしてそれ以上に悲鳴に驚いた。 これまでのような照れ隠しの拒絶ではなく、はっきりとした意思 を持った拒絶。 俺は急いで彼女の服を正し、欲情なしに抱きしめた。 ﹁ご、ごめん。俺、調子に乗りすぎた⋮⋮。あまりにもみさ子さん が色っぽくって、自分を止められなっちゃって﹂ 俺達の付き合いはようやく始まったばかり。 それなのにこんなにがっついていたら、彼女が俺から離れていっ てしまう。 その事を想像するだけで、全身の血が凍るほどゾッとする。 ﹁ごめんね。みさ子さん、ごめん﹂ みさ子さんの後頭部に自分のおでこをコツンとつける。 ﹁もう何もしないから怒らないで。俺を嫌いにならないで﹂ するとみさ子さんはゆっくりと首を横に振った。 ﹁あ⋮⋮、その、ちょっとびっくりしちゃって⋮⋮。私は怒ってな いし、タカを嫌いになんてならないから﹂ どことなく歯切れの悪い彼女のセリフ。 だけど、その言葉に嘘はないようだ。 ﹁私、朝ごはんをほとんど食べてないからお腹空いてるの。お昼に しましょ﹂ 俺の腕をポンポンと軽く叩いてきたので、抱きしめる力を緩めた。 みさ子さんは腕の中からするりと抜ける。 振り返ったその表情はいつもの穏やかな彼女のもので、俺はホッ とした。 435 こんな風に、事に及ぼうとするとみさ子さんはたびたびその先に 進ませないようにするのだ。 それが俺と関係を結びたくないからではないと分かるが、一体、 なぜ彼女は拒むのか。 笑顔の中にひっそりと潜む寂しそうな影が気になってたまらなか った。 436 73︼初めての人。最後の人︵1︶︵後書き︶ ●両想い編、いよいよスタートです。 書き出しの73話もついに、つーいーに、R18らしくなりました ね︵苦笑︶。 色っぽいシーンをご希望されていた方、お待たせしました♪ とはいえ、これまでお付き合いくださった読者様はお気づきでしょ うが、すんなり事が進むはずはありません。 何たって相手はみさ子さんですからね∼︵苦笑︶ でも、この章で二人をがっつり絡ませますので今しばらくのお待ち を!! ●そうそう、みやこの小説は女性向けにもかかわらず﹁アソコ﹂﹁ アレ﹂等の表現ではなく、具体的な名称が多いです。⋮多いという か、それしかありません︵苦笑︶。73話はほんの序の口です。 やんわりHをご希望の方は今のうちに引き返してください。 とはいえ鬼畜ドロドロHにはなりませんので、ご安心を♪ ただ、読者様のシ●ン様のご希望により﹁縛りプレイ﹂がいずれ登 場します。 その場合縄ではなく、ネクタイやベルトになるでしょうが︵今考え ているのは浴衣の帯︶、そういった表現が苦手な方も読み進めない でください。 シ●ン様、いつになるか分かりませんがみさ子さんを縛っちゃいま すよ︵笑︶ リクエストは受け付けますが、話の流れにそぐわないご要望はお受 けできませんので、ご了承ください。 基本は﹁甘ラブHプラス愛ある意地悪&やきもち﹂です♪ 437 438 74︼初めての人。最後の人︵2︶ ≪SIDE:みさ子≫ 仕事始めの日は毎年どこの部署も忙しく、もちろん総務だって例 外ではない。 私は部長に頼まれた書類の束を手に、コピー室へと向っていた。 部のコピー機は日頃酷使していたためか、三週間ほど前にメンテ ナンスしてもらったばかりだというのに朝から調子が悪く、とうと う使えなくなってしまったのだ。 近年では紙を使った書類ではなく、パソコン同士で情報のやり取 りを行うようになってきたので、以前ほどの量ではない。 それでも一人でコピーをとるのでは効率が悪いため、沢田さんに 手伝いを頼み、連れ立って廊下を歩いていた。 沢田さんの家でも猫を飼い始めたらしく、彼女と猫談義に花を咲 かせていたらあのミーティングルームに差し掛かる。 ふと思い出すのは去年の出来事。 ︱︱︱まさか、私の聞き間違いからあんな事になるとはね。 今となっては上島部長の活舌の悪さのおかげと言うべきだろうか。 彼がドイツに行ってしまうと思った私は、そこで自分の想いを自 覚し、結果として付き合うことになったのだから、やはりここは感 謝するべきなのかもしれない。 今でも信じられない。 あんなに素敵な人が私の彼氏だなんて。 見た目はもちろんの事、優しくて面白くて、いつも私の気持ちを 優先してくれる素敵な人。 どんな私でも受け入れてくれるかけがえのない人。 439 ︱︱︱自分が年下なのを気にしてムキになるところは、ちょっと困 っちゃうんだけど。 これまでに起きたエピソードをいくつか思い出し、つい苦笑して しまう。 ﹁なんだか楽しそうですね﹂ 隣を歩く沢田さんが私を見上げ、声をかけてきた。 ﹁え?そう⋮⋮かしら?そんな事はないと思うけど﹂ ︱︱︱いけない、いけない。ここは会社だったわ。 私にしては珍しく緩んでいた頬を引き締め、いつもの“佐々木み さ子”を急いで取り戻す。 が、彼女には通用しなかったようだ。 ﹁ふふっ、警戒して隠さなくてもいいですよ。深く追求するつもり はないですから﹂ にこりと笑う沢田さん。その瞳がいたずらっ子みたいに感じたの は、私の気のせいだろうか。 わずかに首をかしげると、その感覚が間違いではなかったと分か る。 ﹁でも、先輩の様子が去年と違ってどことなく幸せそうだから、か なりいいことがあったんだろうなってことくらいは勘付いてますけ どね﹂ 本当に彼女の観察眼は鋭い。 この時間までにたくさんの社員と顔を合わせたけれど、誰一人そ んな事は口にしてなかったのに。もちろん傍から見て分かるほど浮 かれてもいなかったから、当然といえば当然なのだが。 ︱︱︱油断できないなぁ。 とはいえ、沢田さんの目はとても穏やかで、面白がって秘密を暴 いてやろうという気配はまったくない。 本当にいい後輩である。 ︱︱︱そういえば⋮⋮。 440 私は彼女に聞いてみたい事があったのを思い出した。 海の見える休憩室に彼が現れた事をずっと不思議に思っていたの だ。私があそこで息抜きしている事を知っているのは、永瀬君と沢 田さんだけ。 周りに人がいないので、思い切って話を切り出した。 ﹁12月の初め頃の話なんだけど、あの休憩室に突然北川さんが来 たの。あなた、教えた?﹂ 歩みを止めてこっそりと問いかけると、彼女は申し訳なさそうな 表情ですぐさまペコリと頭を下げた。 ﹁すいません、言いました。もしかして、先輩に何かご迷惑おかけ したでしょうか?﹂ 元々小柄な彼女は更に身を小さくした。 ﹁あ、ううん。別にたいした事じゃないの。ちょっと気になってい ただけだから﹂ 私は彼女を糾弾しようとしたのではなく、ただ聞いてみたかった だけなので、すぐに“なんでもないのよ”という顔を作る。 ここであれこれ話してしまったら勘のいい彼女に、あの日あの部 屋で何が起こったのかバレてしまう。 社内恋愛はオープンな会社だが、私とタカの事はできれば人に知 られたくないと想っている。 ところが⋮⋮。 ﹁実は、北川君が何をしにそこへ行ったのか知ってるんです﹂ ぺロリと舌を出して、そう告げられた。 ﹁⋮⋮え?﹂ ︱︱︱知ってる?! あまりに驚いて、金魚のように口がパクパクと動くだけで声が出 ない。 “女帝”と呼ばれて社員から恐れられている私が棒立ちになり、 口だけ動かす様はさぞや滑稽だっただろう。いや、あまりにありえ ない光景に笑うどころか、﹃天変地異の前触れだ!﹄と騒ぎ出す人 441 がいるかもしれない。 目撃者がいなかったのは幸いだった。 ﹁先輩?先輩、大丈夫ですか!?﹂ 茫然とする私の顔の前でパタパタと手を振り、心配そうに覗き込 んでくる沢田さん。 ﹁あ⋮⋮。うん、平気よ﹂ 大きく深呼吸して冷静になろうと心がける。 ﹁なんか、びっくりしちゃって﹂ 私がふぅ、と息を吐くと、彼女は再び頭を下げた。 ﹁黙っていてごめんなさい。私、北川君から佐々木先輩のことで相 談を受けていたんです。それで、それなりに事情は分かっています﹂ ﹁相談?北川さんからの?﹂ ﹁はい。“告白したいんだけど、どうも避けられているみたいでな かなか掴まえられない”って。それで、あの休憩室の話をしたんで す﹂ ﹁⋮⋮そうだったの﹂ ポツリと呟くと、沢田さんが泣きそうな顔になった。 ﹁あ、あのっ、単なる興味本位で教えた訳じゃないんです!北川君、 本当に先輩のことが好きだったから応援してあげたくて、それで⋮ ⋮﹂ だんだん尻すぼみになり、最後に彼女はシュンとうつむいてしま った。 そんな彼女の肩にそっと触れる。 ﹁怒ってないわよ﹂ そう声をかけると、彼女の表情がホッと和らぐ。 ﹁それなら良かったです。ずっと心に引っかかっていたんですよ。 北川君はその後の詳しい報告をしてくれないし﹂ 沢田さんはこの場にいない同僚を思い浮かべて頬をプッと膨らま せたかと思うと、次の瞬間にフワリと目を細めた。 442 ﹁でも、先輩の様子を見ると、お二人はうまくいったようですね。 おめでとうございます﹂ なんと返そうか言葉に迷ったが、彼女の人柄と口の堅さを信用す ることにした。 ﹁ありがと﹂ はにかみながら言うと、沢田さんがにっこりと笑う。 ﹁先輩、本当に幸せそう﹂ ﹁そう?﹂ なんだか照れくさい。 それを誤魔化すように書類の束を抱えなおした。 そこでかねてから考えていた提案を持ち出す。 ﹁それでね、付き合っていることを社内では内緒にしようと思って いるんだけど﹂ 私の言葉に沢田さんが大きく頷く。 ﹁今はそれがいいかもしれませんね、ひがむ人たちが大騒ぎするか もしれませんし。北川君って結構厄介な人たちに好かれているから、 もうしばらくは波風立てない方が無難だと思います。もしかしたら、 先輩を逆恨みして嫌がらせしてくる可能性もありますもん﹂ ﹁厄介な人たちって?﹂ ﹁色々いますが、特に要注意は受付の森尾さんですよ。私や北川君 と同期の﹂ ﹁あ⋮⋮﹂ 脳裏に昨年夏の空き地での事が蘇る。 ボンヤリ猫を眺めていたところに、ものすごい剣幕で乗り込んで きた森尾さん。 まだ付き合っていなかった私と彼が並んで歩いていたのを見かけ ただけで、あの怒りっぷりなのだ。交際を始めたという真実を知れ ば、その怒りはどこまで大きくなる事やら。 しかし、その彼女とのいざこざを恐れるよりも、私にとっては別 の気がかりがあった。 443 付き合い始めて“恋人同士”となった私とタカだけど、並んで歩 けば﹃先輩と後輩﹄、もしくは﹃姉と弟﹄に見えるだろう。 ところが、かわいらしい森尾さんとタカとは私から見てもお似合 いで、誰もが“恋人同士”と認めるに違いない。 心にスッと影が差しこむ。 そこにすかさず沢田さんが声をかけてきた。 ﹁先輩と北川君はお似合いだと思ってますよ﹂ ﹁そうだといいけど⋮⋮﹂ 勘のいい彼女はさすがのフォローを見せてくれるが、自信の無さ から私は曖昧な返事しかできない。 そんな私を励ますように、沢田さんは話を続ける。 ﹁それに、北川君は先輩が思っている以上に先輩のことが大好きで すよ。相談を受けていた時なんですけど、いつの間にか“自分がい かに佐々木さんを好きなのか”って語りだして、私が口を挟むまで 止まらなかったくらいでしたから。見てるこっちが恥ずかしくなる くらい本気なんです、うふふっ﹂ 口元を押さえて、沢田さんは楽しそうな声を上げる。 ﹁そ、そんなに?﹂ ︱︱︱まったくもう。タカってば、私の知らないところで何やって んのよ?! 彼の話した内容がなんとなく想像付いて、顔が赤くなりそうだ。 先日、彼が実家のお母様に電話しているのを横で聞いていたのだ が、その内容はありがたい事に︵?︶、私をベタ褒めしていたもの で。 悪口を言われるよりも良いけれど、本人がすぐそばにいるのに、 次から次へと私を褒め称える言葉がお母様へと告げられていた。 おそらく、沢田さんにもそんな調子で私のことを話したのかもし れない。 うっすらと赤くなった顔を見て、沢田さんは殊更笑顔になる。 ﹁だから先輩は何も心配する事は無いですよ。北川君は先輩の事を 444 何よりも大切に想っていますからね﹂ 明るくきっぱりと言い切る沢田さん。 だけど、彼女の笑顔を見ても、私の中の影は消えそうも無かった。 445 75︼初めての人。最後の人︵3︶ ≪SIDE:みさ子≫ コピー室に着いた私たちは手分けして作業を始める。 一枚の書類につき100枚ほどコピーするので、かなり時間がか かって厄介だ。だが単調な作業なので、私はいつしか考え事に没頭 していた。 この所、私の胸の奥に居座っている黒い影。 さっきの沢田さんとの会話で、その濃さがいっそう強くなった。 彼女が言ったように、タカは私に対してかなり本気だ。そのこと は当人である私がよく分かっている。 何においてもまず私を優先し、尊重してくれる。時折びっくりさ せられる事もあるが、最終的には私の望むとおりにしてくれるのだ。 だからこそ、彼に対して申し訳ない気持ちで一杯になり、それが 影を濃くしている原因でもある。 昨日、こんなことがあった。 以前から私が見たがっていた映画のDVDをタカが借りてきたと いうことで、お昼過ぎに彼のアパートへお邪魔した。 リビングには二人で座るのに十分な大きさのソファーがあり、そ こに並んで座る私たち。 ﹁よく手に入ったわね﹂ 前に置かれた背の低いテーブルに載せられているパッケージに目 を落として、私は感心したように呟いた。 446 この映画は、もう市場には出回っていないと聞く。 ハリウッド映画であれば大抵のものが販売されたりレンタル可能 となるが、この作品は世界的にはあまり名が通っていない監督のフ ランス映画。しかも7年近く前の単館上映の作品ともなれば、入手 することはかなり難しいはず。 悲運な女性の一生を描いた映画なのだが、最後には全てを帳消し にするような幸せが彼女に舞い込む。心がホワッと温かくなる展開 と、全体的にセピア色をした独特の画面に惹かれ、当時の私は深い 感銘を受けた。 社会人になって三年が経ち、仕事に慣れて余裕が出来た頃、もう 一度この映画を見たくなってあちこち調べて回った。 しかしどこの店頭にも並んでなく、取り寄せようとして問い合わ せてみたら﹃既に絶版だ﹄と言われてしまったのだ。 諦めきれずにその後も散々探してみたものの、今日に至るまでと うとう見つけられなかった。 それなのに彼は一体どんな手段を使ったのだろう。 ﹁みさ子さんのためなら、俺は魔法使いになれるんだよ﹂ クスッと笑った彼。その笑顔は少しも恩着せがましくない。 ﹁ありがとう。本当にありがとうね。探すのに苦労したでしょ?﹂ すると彼はちょっと困ったような笑顔になった。 ﹁種明かしをすると、姉貴の知り合いでフランス映画のコレクター がいて、その人から借りたんだ。正月実家に帰った時、この映画の 話をしたら姉貴が連絡取ってくれてさ。それで今日送られてきたっ て訳。苦労って程の事はしてないから、そんなにお礼を言われると かえって困る﹂ タカは照れくさそうに鼻の頭を人差し指でかいている。 私は静かに首を横に振った。 ﹁ずっと探していた映画を見つけてきてくれたんだもの。すごく感 謝してるわ。それに、この映画の話を覚えていてくれたのも嬉しい 447 し﹂ 付き合い始めて間もなく、何かの話のついでにこの映画の話を彼 にした。ほんの些細な話題の一つだったのに、気にかけてくれてい た事がすごく、すごく嬉しい。 ﹁ありがとう﹂ 改めてお礼を述べて私も笑顔を返すと、優しく髪をなでられた。 いよいよ映画が始まった。 念願の作品に胸を弾ませ、私は食い入るように画面を見つめる。 ストーリが進むにつれてタカは少しずつ私へとにじり寄り、間も なくエンドロールという時には、私の肩には彼の手がしっかりと回 されていた。 ﹁ちょっと近すぎじゃない?﹂ チラッと見遣ると額にキスをされた。 ﹁ね、ねえ、聞いてるの?!﹂ 問いかけても彼は返事をすることなく、頬や鼻先にキスを繰り返 しつつ徐々に抱き寄せる腕の力を強めていったのだ。 そしてお互いの唇が重なったと同時に肩にあった彼の手がわき腹 へと下りてゆき、サワサワとなで始める。それは明らかにスキンシ ップ以上の触れ方で、セクシャルな意図が感じられた。 とたんに私の全身が硬直する。 ﹁タ、タカッ!?﹂ 喉が引きつったような私の呼びかけに彼はハッとし、腕を緩めて スッと身を引いた。 ﹁タカ?﹂ もう一度私が呼ぶと、ほんの少しだけ眉をひそめる彼。その表情 はなんだか寂しそうに見える。 タカは視線を逸らすようにテレビへと目を向けた。 448 ﹁⋮⋮DVD終わったね。次は何を見ようか?それとも早めの夕食 にする?﹂ 再び私に視線を戻した彼の顔は、何事も無かったようにすがすが しい笑顔。 その微笑みを見て、事が進まなかったことに対して安堵し、同時 にその何倍も罪悪感を抱いた。 私は彼に我慢させてしまっているのだ。 タカはキスやスキンシップの先を望んでいるのに、私が硬直した とたん、彼は自分の欲望を押し殺す。 そのことが本当に申し訳ないと思う。 でも⋮⋮、怖いのだ。 タカは惚れた欲目ではなく本当に素敵な人だから、私の前に彼女 はいたはず。何人いたかは分からないけれど、きっとその中にはベ ッドを共にした女性がいたはずだ。 それについては別に気にしない。 タカはモテるし、24だし、まったく経験がないとは思えない。 一方私は男性と付き合うことがなく、体を重ねる機会などなかっ た。 私が気にしているのは“自分が処女である”ということだが、心 を占めるのは初めての経験に対する恐怖ではなかった。 処女喪失は痛いというし、出血もするというから怖くないといえ ば嘘になる。 ただそれ以上に、“経験が無いゆえに、彼を満足させてあげられ 449 ない自分は捨てられてしまうのではないか”という恐怖が上回って いた。 経験が無いとは言え、良くも悪くも情報が乱れ飛んでいる現代に 生きる私はそれなりの知識くらいは持ち合わせている。 だが、いくら知識があったところで経験に勝るものはないだろう。 既に女性経験のあるタカが、こんな私を抱いても満足するとは思 えない。 私は捨てられてしまうかもしれない。 そしていずれは、彼は自分にお似合いの若くてかわいらしい彼女 を作るかもしれない。 彼を失望させる事、そして、彼が自分から離れてゆく事が怖いの だ。 抱かれなければ彼に呆れられる事もない。 だからといっていつまでも頑なに拒んでいたら、最終的には彼が 私のもとから去ってしまいかねない。 体の付き合いが全てだとは思わないけれど、恋人同士の大事なコ ミュニケーションの一つだ。 近いうちに決断しなければ⋮⋮。 そして、付き合い始めて一ヵ月後。 遂に彼の誘いに乗ることにした。 450 76︼初めての人。最後の人︵4︶ 一月の最終土曜日。 朝の冷え込みはまだあるものの、すっきりと晴れているのでそん なに寒さは感じない。 車のエンジンをかけながら、“今から迎えに行くよ”というメール をみさ子さんに送る。 俺は﹃いつもより遠くにドライブしてみよう﹄とみさ子さんを誘 っていた。 山梨には国産のワイナリーがあって、ワインが好きだと言う彼女 を連れて行ってあげたかったのだ。 ただ、それだけ。 長距離移動を理由に宿を取ることは考えていなかった。 明日も休みだし、向うで泊まることも可能だけど、俺は日帰りに すると決めていた。 こっちに戻ってきてもみさ子さんを俺の部屋に泊めるつもりもな いし、彼女の部屋に押しかけるつもりもない。 体の中心でうずく熱を無理矢理無かった事にするのはつらい。 仕事始めの前日。あの時はまだ我慢が足りなくて、俺の部屋で映 画を見ているうちに無意識で襲いかけ、彼女が俺を呼ぶ声で我に返 ったという有様。 すぐ横に抱きたい彼女がいるのに手が出せない状況は、本当に、 本当につらい。 だけど、今にも泣き出してしまいそうなみさ子さんを見てしまっ たら、それ以上は突き進めない。“萎える”のではなく、“申し訳 451 ない“と感じてしまうのだ。 みさ子さんと今すぐにでも一つになりたいけど、俺が欲しいのは 体だけじゃないから。 新年の仕事が始まって以来、デートはよくしているけれど、軽い ハグや触れるだけのキス止まり。 衝動に流されてしまいそうになるけれど、そんな自分を必死で押 さえ込む。 約一年、苦しい片想いに耐えてきたんだ。彼女が俺を受け入れよ うという気になる日まで待ってみせるさ。 そんな訳で、お泊りはナシの長距離ドライブに向うために、みさ 子さんの待つマンションまで車を発進させた。 約束の九時にマンションに着いた。 彼女に見えるように、車をエントランス付近に停車させる。 それから間もなくしてみさ子さんが現れたのだが、様子が少しお かしい。やや俯き加減で元気がない。 今日の格好は少し濃い目のベージュのコートに、落ち着いたオレ ンジ色のロングスカート。いつもと違って全体的に明るく柔らかな 色使いの服装だというのに、顔つきはあまり明るくない。 ︱︱︱体調が悪いのかなぁ。 心配しながら、彼女がこちらにやってくるのを待つ。ところがみ さ子さんはマンションを出たところで立ち止まり、一向に動こうと しない。 この車はみさ子さんも乗った事があるし、時間どおりにいつもの 待ち合わせ場所にいるのだから、分からないはずがない。 それなのに、みさ子さんはボンヤリと立ち続ける。 やっぱり具合が悪いのではないかと本気で心配になり、急いで運 転席を飛び出して彼女に駆け寄った。 ﹁みさ子さん、大丈夫?!﹂ 452 彼女の肩にそっと手を乗せて声をかけると、みさ子さんはハッと 顔を上げた。 ﹁あ⋮⋮。タカ、いつ来たの?﹂ ぱちくりと瞬きを繰り返す彼女は、十分前から俺があそこにいた ことにまったく気が付いてなかったようだ。 問いかけには答えず、手の平をみさ子さんの額に当てた。 ﹁熱は⋮⋮ないみたいだな﹂ ポツリと呟くと、不思議そうに見上げてくる視線とぶつかる。 ﹁どうしたの急に?﹂ 顔も赤くないし、声の調子も変わらない彼女の様子にほっとして、 俺は手を下ろした。 ﹁なんだか今日のみさ子さんは調子が良く無さそうに見えてさ。そ れで、熱でもあるのかなって思ったんだ﹂ そう言うと、彼女がわずかに眉を寄せるが、すぐに笑顔になる。 ﹁まったくもって元気よ。ワイナリーに行くのが楽しみでよく眠れ なかったから、そう見えるのかしらね﹂ そんな小学生みたいな言い訳、俺に通用するはずない。 確かに病気ではなさそうだが、彼女を包む雰囲気がいつもとは違 っている。 ﹁無理して出かける事ないよ。俺は帰るから、今日は一日部屋でゆ っくりしていたら?﹂ にっこりと笑いかけて彼女の髪をなでると、みさ子さんはおずお ずと手を伸ばして俺の上着をキュッと握る。 ﹁⋮⋮本当になんでもないの。だから心配しないで﹂ そっと身を寄せてきたみさ子さんが俺を見上げる。 ﹁今日は天気もいいし、絶好のお出かけ日和じゃない。こんな日に 家でゴロゴロしてられないわ﹂ ﹁でも⋮⋮﹂ 渋る俺にみさ子さんはチロリと睨んでくる。 ﹁何よ。私にワインを飲ませないって言うの?﹂ 453 ふてくされて唇を尖らせる彼女は俺の良く知る顔だ。 この分なら大丈夫だろう。 体調が悪そうに見えたのは、もしかしたらみさ子さんは起きたば かりで、眠気が抜けてなかったからかもしれない。 ﹁そんなことはないよ。じゃ、行こうか﹂ 車へと促した俺は彼女の手を握る。 しっかりと服を着込んでいるにもかかわらず、みさ子さんの手は わずかに震えていた。 その後のみさ子さんは今朝の様子が見間違いだったんじゃないか って思えるほどいつもどおりだった。 お昼にワイナリーに到着したものの、すきっ腹にアルコールを入 れたとなれば悪酔い必至。なので、併設されている手打ち蕎麦屋で 食事をとる事にした。 豊かな自然の元、綺麗な水で育てられたそばの味は格別で、俺は 三人前の盛り蕎麦をペロリと完食。みさ子さんも﹃おいしい、おい しい﹄と箸を進め、きっちり一人前の盛り蕎麦と、山盛りの野菜て んぷらを平らげた。 そしてみさ子さん待望のワイナリーへ。 ワインといえばフランスやイタリアを思い浮かべるが、日本のワ イン技術も近年では格段に進歩し、このKワイナリーもヨーロッパ 諸国に引けを取らない品質を提供してくれる。 施設内をじっくり見学した後、いよいよワインの試飲。 ここのオーナーはたいへん気前がよく、試飲といっても大振りの ワイングラスに注いでくれた。 赤ワインが好きだというみさ子さんは、グラスの中で揺れる深紅 を見て嬉しそうだ。 そんな彼女を見て俺も嬉しくなる。 ﹁試飲はどれでも自由にできるんだって。せっかくだからいろいろ 454 飲み比べてみるといいよ﹂ ﹁んー。でも、私一人だけで飲んだら悪いし﹂ ユラユラとグラスを動かし、みさ子さんはなかなか口をつけよう とはしない。 ﹁いいんだよ。俺は運転だから、元々飲む気なかったし。今日はみ さ子さんのためにここに来たんだから、遠慮しないで﹂ 笑顔で促すと、みさ子さんがやんわりと笑う。 ﹁ありがと﹂ 綺麗な目を細めて微笑みを返してくる。 ︱︱︱やっぱり、みさ子さんには笑っていて欲しいよな。 俺の勝手な欲望を押し付けて、怯えさせたくない。 チャンスがあればいつだって彼女を抱きたいけど、もうしばらく は様子を見ようと改めて思った。 ﹁いいお土産も買えたことだし、そろそろ帰ろうか﹂ 間もなく三時になろうかという頃、俺はみさ子さんにそう言った。 彼女はお気に入りのワインを見つけて、至極ご満悦⋮⋮そうに見 えるが、なんとなく表情が硬い。朝と同じような雰囲気だ。 徐々に口数が減り、高速道路の出口が見えてきた頃には助手席の 彼女は自分のひざの辺りを見つめたまま。それは不機嫌ではなく、 なぜか緊張感が漂ってくる。 ︱︱︱なんでだ? 料金所に差し掛かったところで俺は首をかしげる。 車内の空気を和ませようと、目の前の見えてきた光景をネタに話 を始めた。 ﹁子供の頃なんだけど、高速の出口辺りでよく親を困らせていた事 があってさ﹂ 運転中なので俺は前を向いたままだが、みさ子さんが顔を上げた のを視界の隅でとらえる。聞いてくれているのが分かって、話を続 455 ける。 ﹁ほら、この辺りってやたらホテルが多いじゃん。しかも綺麗な。 子供だからこの“ホテル”の意味も分からず、“今度は絶対にここ に泊まりたい!”って駄々をこねたりしてたんだ﹂ 日本全国、たいていの高速出口には家族連れでは絶対に泊まらな い“ホテル”が立ち並んでいる。 小学生の俺にはホテルというのは単なる宿泊施設という認識しか なく、そこが恋人同士で泊まったり休憩したりする“ホテル”だな んて分からなかった。だからこそ、素直に親におねだりしたのだが。 ﹁そんなこと言われて、親も苦笑いするしかなくってさ﹂ ﹁⋮⋮私も同じことを親に言った﹂ フッと小さく苦笑するみさ子さん。表情が少し和らいだ。 ﹁本当?あははっ、そっかぁ、みさ子さんも言ったんだ。どこの子 供も一緒だなぁ﹂ ﹁ふふっ、そうね﹂ みさ子さんは短く答えると、再び外の景色に目を向ける。 立ち並ぶホテルたちを物珍しそうに眺めながら、幾分明るい口調 で話しかけてきた。 ﹁外観がだいぶ変わってきたのね。昔はお城みたいなゴテゴテとし た建物ばかりだったのに、おしゃれでシンプルになったわ﹂ 彼女の口数が増えた事にほっとする。 信号待ちで停車している時、気を抜いた俺はつい口を滑らせてし まった。 ﹁入ってみる?﹂ もちろん期待なんてしていない。ちょっとした軽口のつもりだっ た。 ﹁えっ?﹂ みさ子さんはパッと振り向き、形のいい瞳を大きくして俺の顔を 凝視。 その表情を見て、サァッと血の気が引く。 456 ︱︱︱や、やべぇ!? みさ子さんにとって、これは笑えない冗談だ。 ﹁い、いや、その⋮⋮、今のは﹂ しどろもどろになりながら﹃冗談だ﹄と続けようとした時、みさ 子さんがゆっくりと頷いた。 457 77︼初めての人。最後の人︵5︶ ≪SIDE:みさ子≫ ﹁明日、山梨のワイナリーまでドライブしない?﹂ 終業後、空き地で猫たちと戯れながらタカが言った。 ﹁え?山梨?﹂ 私たちが住んでいる所から車で行けないこともないが、それでも 片道二時間近くはかかる。 ︱︱︱﹃ちょっと行ってみようか﹄という距離ではないと思うんだ けど。 彼は何でこんな事を言い出したんだろう。 首をかしげながら、私は口を開く。 ﹁私はタカの車を運転できないんだから、往復あなたが運転する事 になるのよ。そんなの疲れちゃうでしょ﹂ 私も一応免許は持っているが、オートマ限定である。 タカの車はマニュアル車なので、私には動かせない。そのことは 彼も知っている。 それなのに、計4時間にも及ぶ道中を一人で運転しようというの か。 ヒメにバイバイと手を振ったタカは私のところに来て、風で乱れ た前髪を直しながら優しい声で言った。 ﹁うん、それは承知してる。ほら、みさ子さんってワインが好きで しょ。だからどうしても一度は連れて行ってあげたかったんだ。せ っかくの連休なんだから、いつもと違うデートをしてもいいかなっ て思ったんだけど﹂ にっこりと微笑んでくれる彼。 自分が愛されていると実感できるたくさんの瞬間のうちの一つ。 ﹁遠出しても日曜日に家でゆっくりしていれば、疲れなんてすぐな 458 くなるよ。で、どうする?﹂ “連休”、“遠出”と聞いて、﹃もしかして外泊なのか?﹄と一 瞬頭をよぎったが、タカはまったくそのつもりはないようだ。 相変らず私の気持ちを尊重してくれている。 ︱︱︱でも、これ以上待たせるのは気の毒よね⋮⋮。 タカはあくまでも日帰りのつもりでいるが、何かの拍子で気が変 わるかもしれない。 その時は、私も拒否はするまい。 三週間近く迷って悩んで、そして“彼に誘われるような事があれ ば素直に身を任せよう”、そして“いよいよなら自分から誘ってみ よう”という結論にたどり着いていた。 翌日、私は調子が悪かった。 風邪を引いたというわけではない。 ﹃もしかしたら、今日こそは彼に抱かれるかもしれない﹄と考えた ら、緊張で眠れなかったのだ。 ︱︱︱まったく、穢れを知らない無垢な少女でもあるまいし。 この歳まで生きていれば、性経験はなくとも知識はある。 誰とも関係を持ったことことがないからある意味“無垢”ではあ るが、だからといって寝付けないほど緊張するだなんて、自分はど れほど小心者なのだろうか。 ﹁はぁ⋮⋮﹂ 枕元においていた時計に目を向けると、八時に指しかかろうとし ていた。 そろそろ支度を始めないと、彼が迎えに来てしまう。 459 私はだるい体をどうにか動かして身支度を始めた。 昨夜のうちに選んでおいた服はこれまでの私では滅多に身につけ ることのないオレンジや明るいベージュのもの。 今日が大切な日になると思ったら、ちょっと特別な服にしたかっ たのだ。 初体験に対する色々な怖さは、心を決めた今でも胸の中にある。 そんな自分を奮い立たせるために、そしてタカの前で“女性”であ るために明るい色を選んだ。 着替えを済ませ、トーストにスープといった簡単な朝食を取って いるとタカからメールが届いた。 一駅分離れた距離にあるタカのアパートからは十分ほどで着くだ ろう。 皿に残っていたひとかけらのトーストを口に放り込み、スープで 流し込んで席を立った。 マンションの入り口を出たところで、そっとため息。 ︱︱︱今からこんなに緊張していて、私、大丈夫かしら? 緊張と寝不足でボーっとしてしまう。 おかげで先に来て待っていたタカが分からず、ボンヤリと立ち尽 くす。 すると車から降りたタカが走ってきた。 ﹁みさ子さん、大丈夫?!﹂ “おはよう”の挨拶もすっ飛ばし、彼は私の顔を心配気に覗き込 んで熱を測る。 いつだって優しい彼は私の様子がおかしい事に気付き、﹃出かけ るのはやめよう﹄と提案してきた。 ︱︱︱やめて!決心が鈍るようなこと、言わないで! 今日を逃したら、私はまた臆病者になってしまうかもしれない。 460 私は彼の上着をそっと掴んだ。 ﹁本当になんでもないの。だから心配しないで﹂ タカを安心させるために、やんわりと目を細める。 ︱︱︱もう、タカを苦しませたくないの。 私を動かしているのは、その一心だった。 結局タカは半ば私に脅されるようにして、出かける事を承諾する。 どこまでも私に甘い彼。 きっと何があっても私に向ける優しさは変わらないであろう。 だが、たとえ相手がこの優しいタカだとしても、この歳にして初 めて男性に抱かれるということにやっぱり体がこわばってしまう。 無意識のうちに指先が震えていた。 美味しいお蕎麦と大好きな赤ワインを味わったら、緊張感はどこ かに行ってしまったように見えた。 が、帰るとなった時、再び体がすくむ。 さっきまであんなに楽しい気分だったのに、帰路を進む車内では すっかり無言となってしまった。 ︱︱︱これじゃダメじゃない。タカが心配しちゃうでしょ! 案の定、彼はわざとらしくおどけた様子で話し出した。 ﹁子供の頃なんだけど、高速の出口辺りでよく親を困らせていた事 があってさ﹂ ︱︱︱困らせた事? 461 私は彼の話に興味を持ち、視線を向ける。聞いているのが分かっ たのか、タカはそのまま話を続けた。 ﹁ほら、この辺りってやたらホテルが多いじゃん。しかも綺麗な。 子供だからこの“ホテル”の意味も分からず、“今度は絶対にここ に泊まりたい!”って駄々をこねたりしてたんだ。そんなこと言わ れて、親も苦笑するしかなくてっさ﹂ ﹁⋮⋮私も同じことを親に言った﹂ ︱︱︱しかも妹と二人して大騒ぎしたっけ。 大人の事情を知らない子供ならではの無邪気さに、親は叱る事も 出来ずにただ困ったように笑っていた。両親の表情を思い出して私 も苦笑い。 彼のおかげで緊張が少しほぐれた。 外の景色を眺めながら、今度は私から話しかける。 ﹁外観がだいぶ変わってきたのね。昔はお城みたいなゴテゴテとし た建物ばかりだったのに、おしゃれでシンプルになったわ﹂ 通り沿いにはいくつもの綺麗な建物が並ぶ。呼び名が﹃ラブホテ ル﹄から﹃ブティックホテル﹄に変わったように、ずいぶんと外装 も様変わりしたようだ。 信号待ちの最中もその物珍しさに私は建物を眺めていたら、何気 なく彼が言った。 ﹁入ってみる?﹂ ﹁えっ?﹂ 私はパッと彼の顔を見つめる。 心の奥底で少しだけ迷いがあるけれど、嫌悪感はない。 ただ、来るべき時が意外なほどあっけなく訪れたことに拍子抜け してしまった。 言葉もなく見つめていると、タカが焦りだす。 あの口調から、けして本気ではないとすぐに分かった。でも、そ れが彼の本音なのだということも分かった。 ︱︱︱今まで我慢させちゃってごめんね。 462 私は大きく深呼吸してから、ゆっくりと頷いた。 463 77︼初めての人。最後の人︵5︶︵後書き︶ ●なかなか絡みのシーンにたどりつけなくてごめんなさい︵号泣︶ 79話では確実に絡ませますので、あとちょっとだけお待ちを∼! ! 464 78︼初めての人。最後の人︵6︶ ≪SIDE:みさ子≫ 頷く私を見て、あんぐりと口を開けたタカ。 信号が青になった事にも気が付かず、後続車から短くクラクショ ンを鳴らされてハッと我に返った。 ﹁いけねっ﹂ 急いで車を発進させる。 その様子に、これまでの余裕は見られない。 ﹁は、はは⋮⋮。みさ子さん、冗談がうまくなったねぇ。あはは⋮ ⋮﹂ 乾いた笑いを浮かべて、タカは顔を引きつらせている。 私は運転の邪魔にならない程度の力で、彼の左腕にそっと触れた。 ﹁冗談なんかじゃないの⋮⋮﹂ 声を震わせて私がそう言うと、彼はすぐさま路肩に停車した。 タカはゆっくりと首だけこちらに向ける。 ﹁それ、本気で言ってるの?﹂ 完全に表情が固まっている。 私が彼の誘いに乗った事に喜ぶのではなく、驚いているようだ。 再び頷く私。 すると今度はギョッとしたように目を見開いた。 ﹁本当に⋮⋮本気なの?﹂ しつこく聞き返してくるタカ。 まぁ、これまで散々拒絶しまくっていたのだから、疑り深くなる のも分からなくはない。 とはいえ、そう何度も意思表示をするのは恥ずかしいのだ。 ﹁本気。だから、何度も聞かないで⋮⋮﹂ 私は俯き、か細い声でやっと返事をする。 465 ドキン、ドキン、と心臓がうるさい。今からこんな状態だったら、 いざという時に心臓が止まってしまうのではないかと思えるほど激 しい鼓動。 タカは俯く私の横顔をじっと見ている。 ︱︱︱そんなに見ないで。黙ってないで、早く何か言って! 勇気を振り絞って誘いに乗ったのに、無言の空間ではその勢いが しぼんでしまいそうだ。 唖然とした表情で私を見つめていた彼がフッと息を吐く。 ﹁分かった﹂ 短くそれだけ言うと、私の髪を軽くなでてからハンドルを握った。 いくつかのホテルの中でも一番シンプルで新しそうなホテルへと 車を走らせた。門を通り過ぎ、表示にあるとおり駐車場へと進む。 薄暗い地下の駐車場は週末という事もあってか、そこそこに埋ま っている。 ︱︱︱私も先に入った人たちと同じように、彼に抱かれるんだ⋮⋮。 更に早くなった心臓の動きは激しさを増し、張り裂けんばかりに 痛いくらいだ。 お互いが妙な緊張感を醸し出していて、エンジンを切った車内は 静か過ぎるほど。 タカは無言のまま車から降りようとする。 それを遮るように、私はパッと彼の上着の背中部分を掴んだ。 間際になって彼を驚かせるよりも、前もって知らせておいたほう がいいと思って、震える唇を動かした。 ﹁あ、あの⋮⋮、私、男の人とこういうことしたことなくて⋮⋮。 だから、どうしたらいいか分からないし、実はもう既にかなりパニ ックで⋮⋮。ごめんなさい、こんな歳にもなって、初めてだなんて ⋮⋮﹂ 指先まで震えてきた。 466 極度の緊張感に意識が遠のいてしまいそう。だけど、こんなとこ ろで気を失うわけにはいかない。 今、このタイミングを逃したら、タカも私も救われないだろう。 なので、爪が食い込むほど手を握り締め、その痛みで必死で意識 を保つようにしていた。 タカは私が言い終えた後、たっぷり十秒はそのままの体勢でいた。 そしてまるで油が切れたロボットのように、ぎこちなくこちらを 向く。 更に十秒ほど私を見つめる。 ﹁⋮⋮マジで?!﹂ そう言うと口元をガバッと手で押さえ、パッと顔を背けた。 ︱︱︱え? 思いもよらなかった彼の行動に、私は向けられている彼の背中を 言葉もなく見つめる。 ︱︱︱こんな女は嫌なの⋮⋮? そうかもしれない。 この歳になって一度も男性経験がないだなんて、珍獣もいいとこ ろだ。聞くところによると、処女は面倒だという話も。 ︱︱︱そっか⋮⋮。 拒み続けた挙句に、結局タカにはがっかりさせてしまったようだ。 こんな私なんて用済みだろう。 ︱︱︱そのうち別れ話でも切り出されるのかな? あまり彼女らしい事をしてあげられなかった自分の不甲斐無さが ショックで、胃の辺りがまるで鉛を飲み込んだようにズシン、と重 くなった。 二人とも黙ってしまい、重苦しい沈黙だけが車内に流れる。 467 しばらくして、タカは静かに車を出した。 ︱︱︱どこに行こうとしてるの? 尋ねようとしたけれど彼は思いつめたように正面を向いて、とて も声をかけられる状態ではない。 私は俯く事しか出来なかった。 しばらく車は走り続け、辺りが夕闇に包まれ始めた頃に静かに停 まった。 顔を上げれば、そこは良く知っている場所。私が住んでいるマン ションだった。 私は滲む涙をそっと拭き、急いで車を降りて運転席側へ向い、降 りてきたタカに言った。 ﹁今日はありがとう。楽しかった﹂ ︱︱︱いい思い出が出来たわ。ほんの少しの間とはいえ“彼氏”と いう存在を味わえたんだし。 ﹁じゃぁね﹂ 泣き出してしまわないうちにタカに背を向けて歩き出す。 すると後ろから右腕を掴まれた。 ﹁⋮⋮何?﹂ 私は涙をこぼさないように必死でこらえながら、一言短く尋ねる。 たくさん喋ると泣いてしまいそうだから。 ﹁みさ子さんの部屋に行ってもいい?﹂ タカは私と視線を合わそうとしないで、ボソボソと決まり悪そう に小声で言う。 ︱︱︱今さら部屋? 何を言い出すのかと怪訝な顔になる私。だが、すぐに合点がいく。 ︱︱︱ああ、別れ話ね。こんなところで話し込んでいたら、住人達 に変な目で見られちゃうものね。 最後まで気を遣ってくれるんだ。 468 でも、どうせならあっさりと振ってくれた方がこっちも引きずら ないで済むのに。 ︱︱︱﹃中途半端な優しさは罪作りだ﹄と後で教えてあげよう。 私はボンヤリとそんな事を考えていた。 リビングのソファーでは、タカが落ち着きなく座っている。 いや、一見落ち着いているように見えるけれど、必死で冷静さを 保とうとしているのが伝わってくる。 私はそれに気付いていないフリをして、彼の前にコーヒーの入っ たマグカップを差し出した。 彼の隣には座らず、向かいの床にクッションを置いて腰を下ろす 私。 お互いが無言でコーヒーを飲んでいる。 ︱︱︱年上として、私から話を切り出した方がいいのかしら?それ とも、タカの方から言い出すのを待ったほうがいいのかしら? “こんな女に振られた”ということよりも、“振ってやった”と いう方が彼にとって体裁がいいかもしれない。 何もしてあげられなかった最低の彼女だから、最後くらいはタカ に花を持たせてあげたくて、彼が話を切り出すのをおとなしく待っ ていた。 半分ほどコーヒーを飲んだタカがマグカップをローテーブルに置 いた。そして正面にいる私を真面目な表情で見つめて口を開く。 ﹁汚れてもいいようなバスタオル、ある?﹂ ﹁え?﹂ 469 私はマグカップを持ったまま動きを止めた。 ︱︱︱バスタオル⋮⋮? そんな物、何のために使うのだろう。 もしかして、別れ話で号泣する私のためにだろうか。いくら悲し くても、バスタオルが必要なほどは泣かないと思うが。 首をかしげていると、タカが訊きなおす。 ﹁ある?﹂ 私は頷くとカップを置いて立ち上がり、洗面所に向う。 棚に積んである洗濯済のタオルの中から適当な一枚を手に取り、 リビングへと戻ってきた。 ﹁これでいい?﹂ タカの目の前で広げて見せると、彼は小さく微笑む。 ﹁ああ、十分だよ﹂ と言った彼はおもむろに立ち上がり、私の事をすばやく横抱きに した。 ﹁きゃっ﹂ 突然の浮遊感に戸惑う私。 ︱︱︱どうしてお姫様抱っこされてるの?! 訳の分からない展開に、私は手にしているバスタオルをギュッと 握る。 恐る恐る見上げると、私を見つめる視線とぶつかった。 その表情が異常に色っぽい。視線も絡みつくように艶っぽい。 ︱︱︱こんなところで色気を出したりして、どういうつもりかしら? ﹁タカ?﹂ ﹁寝室はどこ?﹂ ︱︱︱は? 思わず私は首を捻る。 “バスタオル”に“寝室”。 この二つがどうやっても結びつかない。 彼の言動は本当に意味不明だが、答えないままではどうにもなら 470 ない。私は訊かれるままに答えた。 ﹁ここを出て左だけど⋮⋮﹂ それを聞いてタカは歩き出す。 私はけして太っているわけではないけれど、女性にしてはそこそ こ長身だからそれなりに体重はあるはず。それなのに彼は涼しげな 表情で歩みを進める。 彼の逞しさをありありと実感して、胸の奥がくすぐったい。 ︱︱︱でも、この腕に抱かれるものこれで最後ね。 私は顔を伏せて、唇をそっと噛み締めた。 タカは私を横抱きにしたまま器用に寝室の扉を開けて中に入り、 ベッドの縁に私を下ろした。 ︱︱︱こんなところで別れ話?なんで?⋮⋮あ。 私はある事に思い当たる。 以前、このマンションはどの世帯も一室が防音壁となっていて、 自分はそこを寝室にしていると彼に話したことがある。 タカはそれを思い出し、私が大声で泣いてもいいようにここにつ れてきたのだろう。 ︱︱︱いよいよ話が始まるのね。 私は覚悟するようにタオルを胸にギュッと抱きしめて、息を詰め た。 ﹁みさ子さん⋮⋮﹂ 遠慮がちに私の名前を呼ぶタカ。 ︱︱︱そんな心配そうな顔をしなくても、後腐れなく別れてあげる から。大丈夫。私なら大丈夫⋮⋮。 そんな言葉を心の中で繰り返してから、私はゆっくりと顔を上げ た。 するとタカは静かに私へと手を伸ばしてタオルを取り上げ、次に メガネを取り上げる。 471 ︱︱︱え? 驚いている隙にタカは私を押し倒して上にまたがり、服を脱ぎ始 めた。 ︱︱︱はぁっ?! 今日一番といっていいほど彼の珍行動。 ﹁ちょ、ちょっとタカ!何してんの?!﹂ 起き上がろうとすると肩を押さえつけられる。 ﹁何って⋮⋮、これからする事は一つでしょ﹂ どこか楽しげな顔のタカ。 ﹁だからって、なんで服を脱ぐのよっ?﹂ 慌てふためく私が彼に問いかけると、キュッと眉を寄せ短く息を 吐く。 ﹁はぁ⋮⋮。みさ子さん、俺が何をしようとしてるか分かってる?﹂ 膝立ちのタカは呆れたように私を上から見下ろしてくる。 ︱︱︱分かってるかって?そんなの当たり前じゃない。タカこそ、 意味不明じゃないの!! つい先程までしょげていた私はなりを潜め、感情を爆発させる。 さっさと別れ話を切り出さない彼に対して憤りさえ覚えながら。 ﹁もちろんよっ!なのにタオルを用意させたり、ベッドに寝かされ たり、オマケにタカは服を脱ぎだすし。もう、何なの!?言いたい 事があるなら、こんな事してないでさっさと言えばいいじゃない!﹂ ジワリと涙が浮かんでくるのを感じながら、私は叫ぶ。 そんな私を見て、タカは苦笑した。 ﹁分かってないじゃん﹂ その様子が癪に障り、睨みつけた。 ﹁分かってるわよ!別れ話をするんでしょ!!﹂ 一際大きな声を上げると、タカはきょとんとする。 ﹁⋮⋮は?﹂ ピタリと動きを止めたタカは、次の瞬間盛大に笑い出す。 ﹁あははっ、やっぱり分かってないや﹂ 472 なぜ彼が笑うのか、私にはぜんぜん分からない。 ﹁なに笑ってるのよ!?﹂ ︱︱︱もう、何なの!? 話の流れが読めないことに加え、上半身裸のタカを前にして思考 がまとまらない。 タカは仰向けになっている私の顔の横に手を着いて、上から覗き 込んでくる。クスクスと笑いながら。 ﹁これから俺に抱かれるってこと、ぜーんぜん分かってないんだも ん。あまりに鈍いから、つい笑っちゃったよ﹂ 目を細め、﹃笑ったりしてごめんね﹄と言った彼は私の頬をそっ となでる。 タカのセリフを聞いて、頭が真っ白になった。 ︱︱︱だ、抱く?!これから?タカが私を!? ﹁う、嘘っ!?私を抱くつもりだったら、さっきのホテルでよかっ たじゃない。なんでわざわざ私の寝室なのよ!?﹂ あのままホテルの一室の連れて行かれていれば、こんなにグルグ ルと考え込まなかったのだ。 ﹁あの時のみさ子さん、かなりテンぱってたでしょ?女性って少し でも気になる事があるとイケないっていう話を思い出してさ。だか ら、安心して気持ちよくなってもらうために、普段使ってる寝室が ベストかなって考えたんだけど﹂ ︱︱︱そういう理由で? 本当に彼はどこまでも私に優しい。 彼に嫌われていない事が分かったらホッとして、急に目頭が熱く なった。 タカは優しく頬をなでながら、穏やかに尋ねてくる。 ﹁なんで俺が別れ話をすると思ったの?﹂ ﹁だ、だって、私がその、男性経験がないって言ったら変な顔をし たじゃない。それに急に黙り込むし。だから、嫌われたと思ったの よ⋮⋮﹂ 473 最後は尻すぼみになり、涙が浮かんで、すぐそばにあるタカの顔 がぼやけている。 唇を噛み締めて泣き出したいのを堪えている私に、タカはチュッ と短いキスをした。 ﹁え、な!?﹂ 不意打ちのキスに慌てていると、タカが私の額をピン、と指で弾 く。 ﹁いたっ﹂ ﹁まったくもう、俺がみさ子さんと別れるはずないでしょ。なんで そんな事思うかなぁ﹂ はぁ∼、とわざとらしく長いため息をついて見せるタカ。 そんな事を言われても、私にはそう思わざるをえなかった理由が ある。 ﹁じゃ、じゃあ、どうしてあんな態度をとったのよ!?あんな思い つめた横顔を見せられたら、普通誤解するでしょ!﹂ まるで大きな厄介ごとを背負い込んでしまったかのように深刻な 顔だったのだ。 キッと睨みつけると、タカはバツが悪そうにわずかに視線を泳が せる。 ﹁⋮⋮嬉しかったから﹂ 照れたようにポソリとタカが言う。 ﹁は?嬉しいって、なにが?﹂ ﹁だーかーら、俺がみさ子さんの初めての男になれるってことが嬉 しかったんだよ。浮かれてニヤけるのを我慢するのに必死だったか ら、話も出来なかっただけ﹂ そんな話信じられるだろうか。 いい年を過ぎた女が処女だというのに、それが嬉しくてあの態度 だったなんて。 ﹁本当なの?三十目前にして処女だなんて、とんだ笑い話でしょ?﹂ するとタカはまたキスをしてくる。 474 ﹁なんで笑わないといけないの?車の中じゃなかったら、その場で 踊りだしてたくらい嬉しかったのに﹂ そういう彼の顔は、あの時の表情が微塵も感じられないほど満面 の笑みだった。 ﹁嘘⋮⋮﹂ 茫然と呟く私にタカは目を細める。 ﹁嘘じゃないよ。だって、世界で初めてみさ子さんを抱く男になれ るんだよ。これが喜ばずにいられるかっての。あ、もちろん最後の 男にもなるからね。みさ子さんは多分処女だろうなって予想してい たけど、それが事実でホーント嬉しい﹂ 無邪気に喜ぶ彼だが、私はどこで聞いたのか忘れた噂話を思い出 す。 ﹁で、でも⋮⋮、処女は面倒だって聞いたことあるもの﹂ 再び弾かれる私の額。 ﹁いたっ。痛いってば!﹂ 私は顔をしかめる。 ﹁それは俺が言った言葉じゃないでしょ。くだらない噂に振り回さ れないの。⋮⋮ああ、もう。そんな顔であおらないでよ﹂ 困ったように、それでいて楽しそうにタカが言う。 ﹁そんなって、どんな顔よ?﹂ 今の自分がどんな表情なのか、と気にする余裕のない私は、一人 楽しげな彼に向って拗ねた口調で尋ねた。 ﹁捨てられた子猫みたいにすがりつく瞳をしてる。いつもは完璧な 大人の女性なのに、今は小さな女の子みたい﹂ クスクスと笑いながら、タカは顔を近づけてくる。 ﹁何があっても、俺はみさ子さんを手放すなんてことはしないよ⋮ ⋮﹂ 整った顔で優しく微笑んで、タカはしっとりと唇を合わせてきた。 475 78︼初めての人。最後の人︵6︶︵後書き︶ ●ネガティブ思考に突っ走る女性を書くのが好きなんですよねぇ。 そして、そんな女性をすっぽり包んでしまえるほど、大きな愛情を 持つ男性を書くのはもっと好き♪ ●さて、大変長らくお待たせしました。 次話から二人が遂に心身ともに結ばれます。 焦らしに焦らしたため、北川君の理性が吹っ飛ばないようにするの が大変です︵苦笑︶ 476 79︼初めての人。最後の人︵7︶重なる唇 合わせた彼女の唇が震えている。初めての体験に対する緊張や恐 怖から来る震えだろう。 それでも俺を受け入れようとしてくれるみさ子さんが、すごく可 愛い。すごく愛しい。 いったん唇を離し、彼女の目にかかっている前髪を指で払ってや る。 とたんに現れる綺麗な瞳。 涙に濡れたこの瞳が快楽に潤んだら、どれほど魅力的な宝石にな るのだろう。よりいっそう心が捉えられるに違いない。 ︱︱︱俺はどこまでみさ子さんに溺れるんだ? 底なしの深みを感じて一瞬身震いするが、すぐさまここまで惚れ 込める相手にめぐり合えた幸運に感謝した。 ﹁みさ子さん﹂ 名前を呼ぶと、ゆっくり瞬きした彼女が俺をじっと見つめ返して きた。 ﹁悪いけど“恥ずかしい”とか“怖い”とか言ってもやめないよ。 もう止められる状態じゃないから﹂ わずかにコクンと頷くみさ子さんの瞳に影が浮かぶ。 彼女も﹃処女消失は痛みを伴う﹄という話を耳にした事があるだ ろう。だから不安そうに表情を曇らせたのかもしれない。 その瞳を覗き込んで、出来る限り優しい声で言う。 ﹁でも、どうにもならないほど痛かったら正直に言って。俺はみさ 子さんを苦しめたい訳じゃないからね﹂ みさ子さんが再び頷く。さっきよりも表情を和らげて。 ﹁じゃぁ⋮⋮、いい?﹂ 477 ﹁うん﹂ 伏せ目がちに彼女の返事が返ってくる。 ﹁本当にいいんだね?﹂ みさ子さんの頬を両手ではさみ、俺と視線が合うように伏せた顔 を上げさせる。 真っ直ぐに視線を重ねた後、少し間を開けてみさ子さんが言った。 ﹁いいの、覚悟を決めたから⋮⋮。だから、大丈夫﹂ みさ子さんが弱々しく微笑む。 ﹁その覚悟って、俺のため?俺が手を出したいのに我慢してるから ?﹂ 眉をひそめて低く訊くと、 ﹁あ⋮⋮﹂ と言葉に詰まり、みさ子さんはまた目を伏せる。 その仕草だけで彼女の意図が分かった。 俺は触れている手に少し力を入れて、俯く彼女の顔を上げさせる。 ﹁それってありがたいけど、嬉しくないな。俺はね、みさ子さんの 心まで欲しいんだよ。俺一人で盛り上がるのは単なる性欲処理で、 セックスじゃないから。そんなの、何の意味もないよ﹂ 俺の言葉で、みさ子さんは叱られた子供のように寂しそうな表情 になる。 ︱︱︱まったく彼女らしいや。 心の中で苦笑する。 俺の欲情を満足させるために自分はどうなってもいい⋮⋮とまで は思っていないだろうけど、日頃我慢している俺のために、みさ子 さんは抱かれる覚悟を決めたのだろう。 この状態でこのまま事に及ぶのは、みさ子さんを“物”としか見 ていないことになる。 俺はただ快楽を得たいわけじゃない。 彼女と身も心も抱き合いたいのだ。 478 フッと息を吐き、俺は顔を少し離す。 ﹁みさ子さんがそういう気持ちになってくれただけでも、今日は十 分だよ﹂ にっこり笑いかけてから上体を起こし、俺はベッドの縁に腰をか けた。 するとみさ子さんはおずおずと俺に腕を回して抱きついてくる。 肩の辺りに頬を当て、みさ子さんは恥ずかしそうに囁いた。 ﹁あ、あの⋮⋮、もちろんタカのためでもあるんだけど、その⋮⋮、 私自身がタカに抱かれたいって思ったから⋮⋮。怖いけど、もっと タカを抱きしめたいの。もっと近くにタカを感じたいの。それは⋮ ⋮、私のためでもあるの﹂ みさ子さんの腕の力は弱々しい限りなのに、俺の体も心も捕らえ て放さない。 体に回された彼女の腕にそっと触れると、みさ子さんは頬を摺り 寄せた。 ﹁タカ、好き⋮⋮﹂ 彼女の口からこぼれた短い告白が、俺の中の欲情を煽り立てる。 みさ子さんのセリフはこれから起こることに対しての完全なる了 解と受け取り、熱情を抑える事をやめた。 俺は彼女の腕を解いて振り向く。 ﹁そういうセリフは顔を見て言ってくれないと。はい、もう一回言 って﹂ 視線に熱を込めて我ながら艶っぽく笑みを浮かべると、みさ子さ んは目の縁を赤らめてフイッと横を向いた。 ﹁そんなの無理。顔を見たら、恥ずかしくて言えないもの⋮⋮﹂ 髪の隙間からのぞく耳が盛大に赤い。 ﹁あっそ。じゃぁ⋮⋮﹂ 俺はすばやく腕を伸ばし、グイッと引き寄せて彼女の頭を抱える ように抱きすくめた。 479 ﹁きゃっ﹂ 悲鳴を上げた彼女の耳に口元を寄せる。 ﹁言ってくれるで今日は放してあげないから﹂ 真っ赤に染まった耳元で囁いてやると、横を向いたまま、ほんの 少しだけ寂しそうな声音でみさ子さんが言う。 ﹁⋮⋮言ったら放しちゃう?﹂ 俺はみさ子さんの顔をこちらに向けさせて、お互いの額をコツン と合わせた。 ﹁言っても放さない⋮⋮﹂ 吐息と共に囁くと、みさ子さんは恥ずかしそうにしながらも雰囲 気で微笑む。 俺も微笑む。 しばらく視線を絡ませた後、どちらともなく瞳を閉じて、俺達は キスをした。 触れては離し、角度を変えてまた重ねる。 しっとりと柔らかい彼女の唇は、ただ触れるだけで俺の意識をさ らってゆく。 唇を重ねたまま俺は舌先でみさ子さんの唇をなぞり、時折下唇を 甘噛み。 指の腹でみさ子さんの頬をなでると、そのくすぐったさでわずか に彼女の口が緩む。その隙間から自身の舌を滑りこませた。 ﹁んっ﹂ ピクン、と肩を震わせてみさ子さんが短い声を上げるが、嫌がっ ている様子には感じられないので、そのまま舌を絡ませる。 ここまで深いキスは初めてだから、みさ子さんの戸惑いが舌を通 して伝わってくる。それでも、彼女は逃げる事をしないで俺の想い を受け止めようとしていた。 480 そのいじらしさが嬉しくて、むさぼるように絡ませ続ける。チュ クッ、という水音が聞えるほどに激しく、熱く。 熱い俺。そして同じくらい熱い彼女。 俺はキスを続けながらみさ子さんの服へと手を伸ばす。 いつもと違うみさ子さんの服装がさらに彼女の女性たる部分を引 き立て、今日はずっとドキドキしていた︱︱︱その服を脱がす方が もっとドキドキするが。 カーディガンのボタンに続いてブラウスのボタンにも手をかける。 全てのボタンをはずし終え、俺はみさ子さんの肩から少しだけ服 を引き下ろした。 ゆっくりと唇を離し、みさ子さんを見る。 ブラウスのはだけた部分からは華やかかつ落ち着いた深紅のブラ が覗いていて、その紅色はみさ子さんの肌の白さをさらに際立たせ ている。 適度なふくらみを持った胸は大きすぎず、小さすぎず、彼女の体 型と照らし合わせてすごくバランスがいい。 首筋から鎖骨にかけたラインが儚げで、今すぐにでもむしゃぶり つきたい。 ほっそりとしたウエストは優雅で魅惑的なラインを描いている。 頬をうっすらと上気させ、唇を妖しく艶めかせ、すがるような視 線を俺に送ってくるみさ子さん。 そこには俺の想像をはるかに超える美神がいた。 思わず息を飲む。 ︱︱︱理性を失わずに済むんだろうか? それほどまでに魅力的なみさ子さん。 その彼女をこれから抱くのだ。感激で胸が震える。 俺を見つめるみさ子さんに何か言葉を捧げたいけれど、この場面 で何を言っても陳腐に聞えてしまうだろう。 彼女の色香にクラクラする頭をどうにか動かして、俺はようやく 481 見つけたふさわしいセリフを唇に乗せる。 ﹁みさ子さん、愛してるよ⋮⋮﹂ そして、抱きしめるように彼女を押し倒した。 二人の体重を受け、ベッドが低くきしむ。 俺は彼女の舌を舐りながら、柔らかな膨らみを手で包み込んだ。 見事なレースがあしらわれたブラに包まれた胸は、揉まれるたび にヤワヤワと形を変える。 左右の手でそれぞれの胸を下から掬うように揉みしだくと、 ﹁ふ⋮⋮、んん﹂ と、彼女の甘い声が重ねた唇のわずかな隙間を縫ってこぼれ出た。 その声をもっと聞きたくて、俺は唇をあご先から耳元へと移動さ せる。耳が弱い事はこれまでに先走ったイタズラで承知済み。 ゆっくりと舌先を耳に這わせる。 ﹁あぁっ﹂ 甲高い声を上げてみさ子さんが啼いた。 気を良くした俺はギリギリ触れる距離に唇を寄せて囁く。 ﹁ふふっ、いい声だね﹂ ビクン、と肩をすくめる彼女。 掠めるように触れた唇と発せられた俺の声の振動が、彼女の弱い ところを攻める。それを分かっていて、俺は彼女の耳を唇で挟んだ り、わざと音を立てて耳元にキスをする。 そのたびにピクッ、ピクッと小さく跳ねるみさ子さん。 ﹁いや⋮⋮。んっ﹂ みさ子さんはキュッと眉を寄せて瞳を閉じ、首を振る。 ﹁耳、弱いね。こっちとどっちが弱いのかな?﹂ 少しだけ意地悪い笑みを浮かべて、胸をまさぐる手の動きを強め 482 た。大きく円を描くように動かしたり、少しだけ乱暴気味に鷲掴み にしたりを繰り返す。 ﹁はぁんっ﹂ みさ子さんが嬌声を発し、のけぞるように顎を上げ、逃げるよう に体を上へとずらした。 俺がいる位置は変わらないままに彼女の体だけがずり上がってい くので、ブラから乳房がこぼれる。 揉みしだく指の間から薄紅色の乳首が顔を出した。 二つの突起は刺激を受けた結果、ツンと上を向いている。 蝶が花に引き寄せられるように、俺は右側の乳首を口に含んだ。 ﹁あ⋮⋮﹂ みさ子さんがブルリと体を震わせる。 こんなところを舐められるのは人生初のみさ子さんは、戸惑いに シーツを強く掴んでいる。 しかし、短く洩らす吐息には明らかに官能が感じられた。 俺はそっと微笑み、乳首を攻める動きを強める。ねっとりと舐め あげ、時にはチロチロと焦らすように舌先で突付き、唇で挟んでは 強く吸う。 赤ん坊が母乳を飲むようにチュクッ、チュクッ、と音を立てて乳 首に吸い付くと、唇にはしっかりとした硬さを感じるようになった。 ﹁みさ子さん、気持ちいい?﹂ ざらつく舌で色づき始めた乳輪を丹念に舐めながら、彼女に尋ね た。 まぁ、訊くまでもないだろうけど、このまま無言で進めていくの は味気ない。それに、より彼女に感じてもらうためには、みさ子さ んのイイ所も見つけなくては。 ところが、と言うか予想通り、恥ずかしがってみさ子さんは答え てくれない。 口を閉じ、色っぽく喘いでいるだけ。 483 ︱︱︱しょうがないか。 苦笑いした俺は無理に答えを引き出すことは諦めた︱︱︱とりあ えず今はってことだけどね。 再び胸を弄り始めようとした時、固く結ばれていたみさ子さんの 唇が動いた。 ﹁イヤじゃ⋮⋮ない﹂ くだり 素直に﹃気持ちいい﹄と言葉にするのには抵抗があったらしく、 遠まわしに告げる彼女。 多分、さっき俺が言った﹃一方的に盛り上がるのは∼﹄の件を覚 えていたのだろう。 俺だけがみさ子さんを求めているのではなく、彼女も俺を求めて いるのだと伝わってくる。 目一杯顔を赤くして、絶対に視線を合わせようとはしてくれない けれど、それでも答えてくれた。 ︱︱︱ったく、この人はどこまで可愛いんだ? 嬉しくなって、俄然張り切る俺。 ﹁じゃ、もうちょっと弄っちゃおっと﹂ ﹁⋮⋮え?﹂ 明るい俺の声に一抹の不安を感じたのか、わずかに頭をもたげた みさ子さんが怪訝な声を出した。 が、もう遅い。 俺はすぐさま再び乳首を口に含み、左手でもう片方の乳首を指で つまんだ。 ﹁ああんっ!﹂ 一際高いみさ子さんの声が寝室に響く。 その声を耳にしつつ、既にしっかりと硬くなった乳首を、コロコ ロと転がすように強めに舐めあげる。独特の硬度を持った乳首の感 触を舌に受けながら、丹念に、丹念に嘗め回す。 そして親指と人差し指でつまんだ乳首は擦り上げる様にようにク 484 ニクニと弄ったり、人差し指の先でグイッと押し込みながら円を描 くように攻めた。 ﹁ん、んんっ﹂ みさ子さんが彼女の胸にある俺の頭を抱きしめる。 やめて欲しいのか。 それとも、もっと刺激が欲しいのか? 無意識なのであろう彼女の行動にどちらの意図も感じられないが、 押さえつけられるように頭を抱えられて、俺の頬にはやわらかい乳 房が当たった。 その肌はうっすらと汗ばみ、体温も上がっているように思える。 ︱︱︱みさ子さんも一緒に気持ちよくなりたいんだね。 言葉はないが、彼女の様子からそう受け取る。 ︱︱︱でも今は、俺よりもみさ子さんに気持ちよくなって欲しいか ら。 すぐ目の前にある赤々と色付いた官能的な二つの実を弄る俺の手 と舌の動きは、当分の間止まる事はなかった。 485 79︼初めての人。最後の人︵7︶重なる唇︵後書き︶ ●いよいよ始まりました∼♪ もちろんこれは序章です。この先あーんなことやこーんな事を予定 しています︵にやり︶ ただ基本は恋愛なので、がっつり官能シーンをご希望の方には期待 はずれになるかもしれません。 とはいえ、伏字等はほぼ使わないみやこの作品ですので、女性向け 作品としてはそこそこに過激になるでしょう︵苦笑︶ 486 80︼初めての人。最後の人︵8︶濡れる私 ≪SIDE:みさ子≫ 彼の手が、指が、唇が、舌が私の肌を這うたびに、妖しい熱が体 の奥から沸々と湧き上がる。 初めての感覚に私は何も言えず、ただ喘いでいる。 自分ではどうする事も出来ない熱が体の中で渦を巻いていて、口 を開いたとたん、感情のままに恥ずかしい事を口走ってしまいそう だ。 完全に溺れるにはまだ意識が残っているので、なけなしの正気を かき集めては余計な事を話さないために、噛み締めるように吐息を 洩らすだけ⋮⋮。 キスをされると、体温がフワリと上がる。 耳元で囁かれると、なんともいえない感覚が背筋を走る。 胸を弄られると、灯る熱情が押し寄せる。 そして刺激に堪え切れず、つい漏れてしまう声。 タカが私の耳に舌をそっと差し入れてゆっくりとその輪郭をたど ると、とたんに声が上がってしまう。 ﹁あ、んんっ﹂ 自分がこんな甘い声を出せるだなんて、ぜんぜん知らなかった。 体を重ねた経験がないのだから当たり前といえばそうなのかもし れないが、きっと、タカ以外の人にはこんなにも自分は欲情しなか ったに違いない。 私を求める人がタカだから、こんなにも欲情するのだ。 とはいえ、それをはっきり口にするにはまだ経験不足で。恥ずか 487 しさのあまり、遠まわしにしか伝えられない。 予想していた通り、心臓は今にも火を噴き出して爆発しそうだ。 こんな格好の自分に羞恥するドキドキと、初めての体験に対する ドキドキと、彼を想うドキドキがごちゃごちゃに混ざって、言葉な んて出てこない。 ﹃気持ちいいか?﹄と訊かれて、﹃イヤじゃない﹄と答えること が精一杯なのだが、タカは私の心を読み取ってくれて、無理強いす ることなどしてこなかった。 どこまでも優しいタカ。 それでも事は進み、戸惑う私を気遣いつつも、少しずつ生まれた ままの姿へと変えてゆく。 私の胸に吸い付いて舌で乳首をコロコロと転がしたり、ねっとり と乳房を舐め上げながらスカートのホックをはずす。 ブラウスやブラジャーはとっくに脱がされていて、ベッドの下に 力なく丸まっている。 ホックがはずされ、ファスナーがゆっくり下ろされると同時に、 ジュッと音を立てて強く乳首が吸われた。 ﹁んっ﹂ 思わず腰が浮く。 その瞬間、私の腰に巻きつくようにタカが腕を回し、下から私を 持ち上げてスカートを一気に引き抜いた。そして驚くような早業で、 ストッキングも脱がしてしまう。 これまで布に守られていた下肢がひやりとした空気にさらされ、 わずかに正気が戻ってくる。 自分の状態を思い出し、とっさに胸を腕で隠した。寝室は薄暗い ものの、これだけの至近距離にいては何もかもが見えてしまうのだ。 すると、彼が苦笑しながら私の腕をつかむ。 ﹁こら。なんで隠しちゃうの?﹂ クスクスと笑うタカはクロスした私の腕を解き、掴んだ手首を器 用に右手だけで私の頭上でまとめた。そして、まじまじと私の体を 488 舐めるように眺めている。 彼の目前にさらされる私の裸。 かぁっと目の前が真っ赤に染まる。 ﹁は⋮⋮、恥ずかしいからっ﹂ ﹁なんで恥ずかしいと思うの?こんなに綺麗なのに﹂ うっとりと告げる彼の口調でさらに恥ずかしさが増す。 少しでも彼の視線から逃れようと身を捻るが、手首はちっとも自 由にならなくて、もがいてもただ胸が揺れるだけだ。 我ながら形がいいと思う乳房はフルフルと動き、タカの目の前で 赤く色付いた乳首が揺れる。 ﹁みさ子さん、もしかして誘ってる?﹂ 彼の苦笑に少し意地悪な色が混じる。 ﹁ち、ちがっ﹂ 否定しようと口を開いたが、言い終える前にタカが再び胸に吸い 付いた。 ピンと立ち上がった乳首にタカが歯を立てる。それから喉が渇い ている犬や猫が水を飲むように、執拗に舌を動かして乳首を舐る。 ﹁ああっ﹂ 背筋に電気が走ったように、体が震えた。 わずかに痛みを感じるその愛撫は次第に私の快楽を引き出し、意 識が白濁してゆく。 ﹁はぁ、んっ⋮⋮﹂ 喘ぐ私にほくそえみながら、タカは左手で強く乳房全体を揉みし だく。 タカが手を動かすたびに乳首が手の平でこすられ、痛みとくすぐ ったさの中間くらいの感覚が胸から全身へと広がる。 ︱︱︱や⋮⋮。何、な⋮⋮の? 胸を舌で弄られ、大きく揉まれているうちに、抵抗しようとする 489 意識が薄れ、体の力が抜けてゆく。 それを察したタカは手首を押さえつける力を緩め、右手を首筋か ら胸元、そして下腹部へと滑らせる。 タカの右手が下着に到着すると、股の辺りをなでられた。 ﹁はぁんっ!﹂ なんとも言えないゾワリとした感覚が生まれる。 これまでよりも大きなその感覚の波に驚き、私はタカにしがみつ いた。 上半身裸の彼の体はしっとりと汗ばんでいて、すごく熱い。 そんな事を感じられたのはつかの間で、下着の上からタカがこす りつけるように指を動かしてくると、意識が飛びそうになる。 ﹁あっ、ああっ⋮⋮﹂ これまでにない大きなうねりが、触れられている部分から体中に 広がってゆく。 どうしていいか分からない私は彼の首に回した腕に力を入れて、 意識を飛ばさないように必死でタカにしがみつく。 これまで他人が一切触れる事がなかった秘部。布越しに弄られて、 中から滴りが溢れてくるのが感じられた。 ﹁ふふっ、濡れてるね﹂ 小さく笑って、彼が言う。 私がタカを引き寄せているので、自分の耳元に彼の口があり、そ の囁きは私の耳にしっかりと届いてしまう。 楽しそうに囁かれて羞恥の極地だが、タカは指の動きも囁きも止 めることはない。 ﹁どんどん溢れてきてる。このままじゃ、下着がグショグショにな っちゃうね﹂ ワレ目を開くように二本の指で大きくこするタカ。 ﹁や⋮⋮。言わないで⋮⋮﹂ 私は弱々しく首を振るが、タカはますます苦笑を洩らす。 ﹁どうして?こんなに濡れてるのは、俺としては嬉しいんだけど﹂ 490 タカは下着のウエスト部分から手を侵入させる。 自分のものとは明らかに違う男性らしい指が、恥毛を掻き分け、 直接ワレ目に触れた。 タカの中指の腹が膣口から溢れる愛液を掬い、その潤いの助けを 借りて滑らかに指を上下させる。 ﹁んんっ!﹂ 私の肩が跳ね上がる。 ﹁みさ子さんはどこも感じやすいんだね﹂ 満足げな彼の囁きとともに、指の動きが早さを増した。 こすりあげられるたびに、時折“クチュ⋮⋮”という湿った音が 弄られている部分から聞える。 ﹁こんなに濡らしちゃって。もう、かわいいなぁ﹂ 私のコメカミに軽くキスをして、タカはワレ目上部にある小さな 突起に指先を当てた。彼がその突起に触れると、激しい電流が全身 を駆け巡る。 ﹁いやぁ!!﹂ 思わず悲鳴にも似た声が私の口から飛び出す。 同時に私の体の奥からドクンと音を立てて、熱情と愛液が溢れた。 491 81︼初めての人。最後の人︵9︶一度目の絶頂 ﹁いやぁ!!﹂ みさ子さんの甲高い声が寝室に響き、彼女の体がビクンッ、と大 きく跳ね上がる。 ちょっとクリトリスを触っただけなのに、初めて尽くしのみさ子 さんは過剰なほどの反応を示した。 その様子に嬉しくなる俺。 俺の手や舌で反応を示すみさ子さん。 俺だけが彼女の甘い喘ぎを耳にすることができる。 そして、俺がみさ子さんを“女”にする。 征服欲。 欲情。 独占欲。 愛情。 中でも一番大きく深いのは、言わずと知れた彼女への愛情。 その愛情を体の奥深くに打ち込み、注ぎ込むためには準備をしな ければならない。 俺は秘部をまさぐっていた手を止め、中指をそっと膣口にあてが った。指を少し曲げて、チュプンとナカに差し入れる。 ヌルヌルとした独特の感触を持つ愛液が溢れているが、これまで に一度も受け入れた事のない膣内はたとえ指一本でも抵抗を示す。 まだ関節一つしか差し込んでいないのに、あまりの狭さが俺の指 を阻む。 492 とはいえ、十分ほぐさなければ後々彼女を苦しめる事になってし まう。 今はちょっと我慢してもらうしかあるまい。 ﹁みさ子さん。しがみついても爪を立ててもいいから、暴れないで﹂ そう伝えてから、俺は中指をナカにグッと押し込んだ。 ﹁あ、ああっ﹂ みさ子さんが眉をひそめて息を吐きながら、俺の背に腕を回して しがみついてくる。 自分の体内に侵入された驚きで、小刻みに震えているみさ子さん。 ﹁ごめんね。でも、苦しいのは今だけだから。後で一緒に気持ちよ くなろうね﹂ 謝りながらゆっくりと指を進める。狭い膣内を少しずつ広げるよ うに、小刻みに前後させて。 ナカを傷つけないように慎重に力を加減して、ようやく中指を根 元まで飲み込ませた。 彼女のナカは俺の指を排除しようとしているのか、それとも絡め 取ろうとしているのか、ヤワヤワと蠢いている。 ︱︱︱うわぁ。ココに突っ込んだら、一分と持たないかも。 指を締め付ける動きは明らかに男の俺にとっては強敵。⋮⋮いや、 女神様? 指だけでもこんなにキュウキュウと締め付けるのだ。ペニスを挿 入したら、即時昇天間違いなしだろう。 みさ子さんがこれまでに男性経験が無かった事を心底感謝する。 もし一度でも彼女と関係を持ってしまった男は、みさ子さんをぜ ったいに放さないはず。 みさ子さんを愛する男は俺だけ。 みさ子さんが愛する男は俺だけ。 それでいい。 493 彼女の呼吸が治まってきたのを見計らって、俺は指を動かす。 締め付けを感じながらゆっくり中指を出し入れすると、動きに合 わせてクチュ⋮⋮、クチュ⋮⋮と水音がする。 その音は彼女にも聞えているだろう。 俺に抱きついているみさ子さんの顔は見えないが、視界の隅に映 る彼女の耳がこれ以上ないほどに赤い。 ︱︱︱まったく、もう。反応がいちいち可愛いんだよなぁ。 初心なみさ子さんを見て、こっそり微笑みかけた。 ユルユルと抜き差しを繰り返しているうちに中指には慣れてきた ようで、それほど締め付けを感じなくなった。 ︱︱︱そろそろ指を増やしてもいいかな。 頃合いだと思った俺はいったん中指を全部抜き、人差し指を添え た二本をズブリ⋮⋮と膣内に差し込む。 ﹁んっ﹂ みさ子さんの腕の力が強くなった。 俺は彼女の様子を窺いながら、先程同様、慎重に押し進める。 いきなり倍の太さになったので抵抗は強いが、そこは辛抱強くほ ぐしてゆく。 奥まで入れてはゆっくりと引き、そしてまた押し入れる。 徐々に慣れてきた膣内は俺の指の動きを喜んでいるように感じた。 ﹁はぁん⋮⋮、あ、ああ⋮⋮﹂ みさ子さんも苦しそうな吐息を吐くことなく、ただ甘く喘いでい る。 愛液の分泌がいっそう多くなり、ズチュッ、ヌチュッといった湿 った淫音が大きさを増す。 今では二本の指をしっかり飲み込んでいるみさ子さんの秘部はし っとりと俺の指を包み、そしてとろけそうなほど熱い。 494 俺としてはそろそろ暴発の危険性が高まってきたのだが、まだ早 い気がする。 もう少しほぐすために、愛液にまみれた指をねじりながら押し込 んだ。 ﹁ああっ﹂ 仰け反りながらみさ子さんが啼く。 その声は完全に艶声。 ︱︱︱もう少しだな⋮⋮。 俺は動きを早めて、膣内を指で攻め続ける。 ジュブッ、グチュッ、チュクッ⋮⋮。 捻りを加えて抜き差しを繰り返すと、みさ子さんの腰がほんのわ ずかに動き出す。 おそらく無意識。 それでも“快楽を得たい”という彼女自身の本能が働きかけ、腰 を揺らしているのだろう。 こういう行動が現れたという事は、みさ子さんに絶頂が訪れつつ ある証。 ︱︱︱んー。でも、いきなり突っ込むより、一度イカせたほうがい いかもな。 みさ子さんが極まった状態で指より格段に太いペニスを挿入した ら、彼女も俺も一瞬で事が終わってしまいそうだ。 それでは困る。 快感と共に、じっくりと俺の愛情を味わってもらわなくては。 俺は指を根元まで差し込み、指先に当たる膣壁を引っかくように 弄った。それと同時に親指の腹でぷっくりと膨らんだクリトリスを 円を描くように押しつぶす。 ﹁ひゃぁ⋮⋮っん!﹂ みさ子さんの腰が浮く。 495 ﹁んん、ダ、ダメ⋮⋮﹂ くぐもった声のみさ子さんが強すぎる刺激と俺から逃れようと、 弱々しいながらも身を捻る。 もちろん、やすやすと逃がす俺ではない。 彼女の半身に体重をかけ、足を絡めて動きを封じる。 体が固定されたみさ子さんはどうする事も出来ず、ただ、ただ、 与えられる刺激に翻弄される。 グチュグチュといやらしい音を立てて弄られる膣壁。 愛液を塗りこめるようにクニクニとなぶられるクリトリス。 みさ子さんは首を横に振って抵抗を試みているが、そんなものは 俺の動きを封じるほどのものではない。 ﹁あん、やっ⋮⋮。なんか⋮⋮、変に、なり⋮⋮そうっ﹂ 彼女の体に力が入っていくのが分かる。 浅い呼吸を忙しなく繰り返しているみさ子さん。 一度目の絶頂が近づいているのだろう。 ﹁いいよ、変になっちゃって﹂ 俺はニヤッと笑って、クリトリスをグリッと擦り上げた。 ﹁いやっ⋮⋮んんっ!﹂ 喉を引きつらせたような悲鳴が上がり、俺の指を締め付ける更に 力が増す。 そして、彼女は初めての絶頂を迎えた。 496 82︼初めての人。最後の人︵10︶私のナカの彼 ≪SIDE:みさ子≫ グチュ、チュクッという耳に恥ずかしい音を立てて、タカは私の 秘部を弄った。 指をナカに突き立てられ、敏感な突起を擦られるうちに、お臍の 下辺りというか太ももの付け根というか、そういった部分になんと もいえないむず痒さを感じる。 気持ち悪さはないが、どうする事も出来ない浮遊感が下半身を襲 い続ける。 その感覚は時間が経つにつれて、どんどん大きくなっていった。 ﹁あん、やっ⋮⋮。なんか⋮⋮、変に、なり⋮⋮そうっ﹂ このままどこかへ飛び立ってしまいそうでもあり、勢いよく地に 落ちていきそうでもあり。 どう表現したらいいのか分からない初めての感覚に、私は戸惑い を隠せない。 短い周期で浅い呼吸を繰り返し、喘ぐ私にタカが言う。 ﹁いいよ、変になっちゃって﹂ そう言って、彼は親指に力を入れてやや乱暴気味に卑猥な実を親 指の腹で嬲った。 とたんに訪れる衝撃。 タカが触れているところからビリビリとした感覚が弾け、手や足 が、いや、全身がこわばる。 ︱︱︱ああっ!何なの、これっ?! 体の中で渦巻く熱に耐え切れず、タカにしがみつく。 ﹁いやっ⋮⋮んんっ!﹂ 497 私は絹を裂くような声を上げて、その衝撃をその身に受けた。 嵐に吹き飛ばされないよう樹の幹にしがみつくかのごとく、私は タカにすがり付いていた。 ﹁あふ⋮⋮、うぅ﹂ 弄られた部分が、ビクン、ビクンと大きく脈を打っているのを感 じながら、酸欠の金魚よろしく懸命に酸素を求める。まるで全力疾 走をした後のように心臓がドクドクと脈打ち、息苦しい。 タカは私に抱きしめられるままにじっとしている。時折、私をな だめるように肩口をなでていた。 ようやく呼吸が落ち着いたところで、私はすがり付いていた腕の 力を緩めた。 半ば放心状態でいると、タカは少しだけ体をずり上げて、見下ろ すように私の顔を覗き込む。 ﹁大丈夫?﹂ うっすらと汗ばんだ額に張り付いていた私の前髪を指でそっと払 いのけて、心配そうに尋ねてくる彼。 ︱︱︱こういう時、どうやって答えたらいいのかしら⋮⋮? ベッドトークは分からないし、ましてや頭がボンヤリしていてふ さわしい言葉がうまく出てこない。 “平気だ”と伝えるために、とりあえずコクンと頷く。 するとタカはフワリと笑って、私を抱きしめた。 ﹁みさ子さん、めちゃくちゃ可愛い!!﹂ 腕にすっぽりと私を包み込み、なおかつ足を絡めて、全身で抱き 寄せる。 そこで私は体に押し付けられているモノに気が付いた。 ベルトのバックルとは違う感触。 柔らかいとも思えるが、何か芯を持ったような独特の硬さを肌に 感じる。 498 ︱︱︱これって⋮⋮、アレよね? 私は既にショーツ一枚だが、タカはまだジーンズを穿いたまま。 厚手の布越しでもその存在をしっかりと主張している彼の昂り。 思っていたよりもしっかりとした感触に、ちょっとだけ逃げ腰にな ってしまう。 いくら指で慣らされたとはいえ、その質感は比べ物にならない。 実物はこれまで見たことないが、確実に指三本分以上だろう。 でも、ここまで来ておしまいにしてしまうのは、彼に対してあま りに残酷。 ︱︱︱大丈夫。タカは絶対に私を大切にしてくれるはずだもの。 正直、初体験に対する恐怖心は今なお私の中にあるけれど、それ 以上にタカが愛しい。 私はだるい上体を軽く起こして、そっとタカの唇に触れた。押し 当てるわけでもなく、重ねるわけでもなく、掠めるように触れるだ けのキス。 言葉で誘う事なんて恥ずかしすぎて出来ない私にとって、精一杯 のお誘い。 一瞬あっけに取られたタカだが、次の瞬間、ものすごく優しい笑 みを浮かべた。 見惚れるほどに甘い甘い微笑み。 自分は愛されている。 彼に求められている。 女として、これ以上の幸せがあるだろうか。 私の胸が切なく締め付けられた。 タカは﹃ちょっと待ってて﹄と言うと、私から離れる。 499 素早くベッドを降りて、着ていた衣服を全て取り払う彼。衣擦れ の音の後に、カサカサッという何かの袋を破る音がした。 ﹁俺の準備はこれでよしっと﹂ 独り言を洩らしたタカが再び私の元に戻ってくる。 そして、私の体の下に用意しておいたバスタオルを敷いた。 ﹁人によって違うみたいだけど、初めての時はたいてい出血するっ て言うから﹂ 汚れ防止のためのタオルだったのかと、今更ながらに気がついた。 ︱︱︱勝手に勘違いして大騒ぎして、私ったら馬鹿みたい。 自分の慌てぶりにしょげていると、私の体をまたぐ様に膝立ちの タカが上体を屈めて両手で私の頬を包む。 自然と重なる二人の視線。 ﹁別れるなんて考えた事ないよ。俺はいつだって、みさ子さんを繋 ぎ止める事に必死なんだ﹂ 真っ直ぐ、自分だけに向けられる彼の視線。 この視線の先に私だけがいる。タカが過去に付き合った女性では なく、私が。 経験不足は仕方ない。どう足掻いたって今更だ。 だけど、経験は積むことが出来る。 タカが私に呆れないように、私から離れていかないように、これ から考えてゆけばいいのだ。 それに、タカはそういうことで私を見限るような度量の狭い男で はない事が十二分に分かった。 “彼に捨てられるかもしれない”という恐怖心は小さくなってゆ く。 しばらく見詰め合った後、真剣な表情になるタカ。 ﹁精一杯優しくする。だから、みさ子さんを俺にください。俺に⋮ 500 ⋮抱かれてください﹂ まるで彼女の父親に結婚の許しを請うように、怖いほど真摯な態 度。 こんなに真剣な愛情を差し出されて、誰が拒否など出来ようか。 私は了承したとばかりに、唇にそっと笑みを乗せた。 タカは顔を近付けてキスを一つ落とした後に私の両脚の間に割り 入ると、膝裏に手を当てて、私の脚を担ぐように持ち上げた。 そしてさっきまで散々弄られていた秘部に宛がわれるタカ自身。 心構えをしたつもりでも、思わず身構えてしまう。 ﹁怖いよね?⋮⋮でも、ごめん。俺、みさ子さんのことが欲しくて 欲しくて、気が狂いそうだから﹂ 泣き出しそうなタカの声に、私も泣きたくなる︱︱︱嬉しくて。 ﹁私もタカを愛したいって言ったでしょ。だから、いいの⋮⋮﹂ 滲む涙を感じながら私が微笑むと、タカが大きく息を吸う。 ﹁みさ子さん、大好き。⋮⋮愛してる﹂ そう言ってタカは熱い昂りを押し付けた。 ヌプリ⋮⋮。 まずは広がった先端がグイッと膣口を押し広げるように入ってく る。タカがしっかりほぐしてくれたから、今のところ痛みは感じな い。 タカは腰を小刻みに前後させ、私を揺さぶりながら少しずつ、少 しずつ、侵入を深める。 クチュ、クチュと淫音を立てて、私のナカに押し入ってくるタカ。 内側から広がる圧迫感を強く感じた。 501 ﹁んっ﹂ 少し苦しくなって自然と私の眉が寄るが、それでも止めて欲しい とは思わなかった。 苦しいほどに感じるタカの存在︱︱︱今、私の中に彼がいる何よ りの証拠。 私の心の奥で、何やら温かい感情がジワジワと湧き上がる。 半分ぐらい進んだところだろうか。タカの動きが止まった。 ﹁ここから一気に行くよ⋮⋮﹂ おそらく今から処女膜を突き破るのだろう。 私は返事をする代わりに静かに目を閉じ、シーツを握り締めた。 脚を抱えなおしたタカが、体重をかけて私にのしかかる。 ズ、ズズ⋮⋮と言う音にならない鈍い音を立てて、私のナカを突 き進む。さっきよりもものすごい圧迫感が下からせり上がってきた。 同時にブチン、と何かが弾け飛んだような感じがして、下半身が 痛みに襲われる。 ︱︱︱あ、ああっっ!! 思わず飛び出しそうになった悲鳴を、どうにか飲み込んだ。 ここで私が﹃痛い﹄と口にしてしまえば、タカは動きを止めてし まう。 私は唇を噛み締め、懸命に傷みを堪える。 ︱︱︱う、うう。い⋮⋮、痛⋮⋮い。 握られたシーツが私の手の中でキリキリと音を立ててきしむ。 “痛くても苦しくても、彼を受け止めてあげたい” そう思ってあれほど覚悟を決めたというのに、想像以上の痛さで 押しやったはずの不安と恐怖が一度に襲い掛かってくる。 ︱︱︱た、助けてっ⋮⋮。 私は救いを求めて硬く閉じていた瞳をうっすらと開くと、タカと 502 目が合った。 彼は申し訳なさそうに瞳を翳らせている。 ﹁ごめん、ごめんね。もうちょっとだから﹂ 謝罪を口にするタカの表情は、男性なのにものすごく艶っぽい。 部屋の薄明かりで彼の顔には所々影が落ち、それが外国映画の俳 優のように見えて、私は目を奪われる。 その間にもジリジリとタカのペニスは奥を目指しているが、私は 目を閉じることなく彼を見つめた。 ︱︱︱彼にこういう顔をさせているのは私なのね。私だから、タカ はこういう顔をするのね。 そう思うと、タカと一つになるための痛みなら我慢できそうだ。 私は右手をおずおずと彼へと伸ばし、脚を支えているタカの手に 触れた。 タカは左手を解き、私の指を絡めるように手を握る。 その手の平の温かさで、苦痛が和らいでゆくのを感じた。 やがてタカの腰の動きが止まった。 脚を抱きしめるように抱えられ、お互いの恥毛が触れ合っている。 ﹁は、ああ、全部入った⋮⋮﹂ タカが嬉しそうに呟くが、その表情はわずかに曇っている。私の 身が心配なようだ。 ﹁苦しくない?痛くない?﹂ 問われて私は小さく首を振った。 ジクジクとした鈍痛は感じるが、さっきの身を引き裂かんばかり の激痛は今は薄れている。どうやら膜を通過してしまえば、痛みは それほどないようだ。 ﹁じゃぁ、動いても平気?﹂ 503 私の様子を窺いながら、タカが訊く。 ﹁⋮⋮平気﹂ ︱︱︱だとは思うけど⋮⋮。 心の中の呟きを悟ったタカは、小さく苦笑する。 ﹁今日は初めてだから、あまり激しくしないでおくよ﹂ そう言うと、タカは腰をいったん引いてペニスを半分ほど抜く。 その時、広がった先端が私の中のある場所に当たった。 ﹁あっ⋮⋮﹂ たまらず声が出てしまった。 その感覚はタカにクリトリスを弄られた時に感じた浮遊感と同じ。 さっきは痛みがあまりに大きくて、そこに当たったことに気が付 かなかった。 ﹁ここが気持ちいいんだね﹂ タカはユルユルと腰を揺らして、そこを突っつくように攻める。 ﹁ん、はぁ⋮⋮﹂ 私は痛みの中に快感を感じ始めていた。 504 82︼初めての人。最後の人︵10︶私のナカの彼︵後書き︶ ●話によると、処女膜は実際膜状ではなくヒダ状だそうです。 まあ、膜だろうがヒダだろうが、痛いものは痛いのです︵苦笑︶ ●相変らずまんじりともしない展開ですが、じわじわと進んでいま す。 この章は﹃初めてのH﹄という事で、北川君を暴走させる事も出来 ずにいます。 ほら、最初から北川君の好きなようにさせたら、みさ子さんが﹃も うHなんてしない!﹄と言い出しそうなので⋮︵笑︶ みやこが大好物としている“愛のある意地悪H”は次章からとなり ます。今しばらくのお待ちを。 505 83︼初めての人。最後の人︵11︶初めての恋愛 俺が腰を揺らすたびに、みさ子さんが甘い声で啼く。 ﹁あん、ん⋮⋮﹂ 熱く、柔らかく、そしてしっとりと包まれる俺自身。 彼女のナカは想像以上に気持ちがいい。その心地よさを極限まで 味わいたくて、めちゃくちゃにみさ子さんを犯してしまいたいけど、 それはダメだ。 彼女に無理をさせてまで自分の欲望を暴走させるなんて出来ない。 欲情を押さえ込むのはキツいけれど、暴走した結果、みさ子さん を傷つけてしまう事の方が俺にはつらいから。 彼女の体が少しでも苦痛を感じないように、自分の欲望を後回し に優しく挿入を繰り返す。 ︱︱︱別に今日だけって事じゃないし。この先、何度でもすればい いんだもんね。 体を重ねるうちに、彼女もセックスに慣れてゆくだろう。俺のあ りったけの愛情を打ち付けるのは、それからでも遅くはない。 何しろ、俺はみさ子さんと離れるつもりなんてこれっぽっっっっ っちもないのだ。 彼女と今後も付き合いを続ければ、セックスする機会など数え切 れないほどあるし、オマケに結婚ともなればナマで出来る。ヤりた い放題だ。 ここで一瞬我に返る。 ︱︱︱この俺が“結婚”だってさ。 思わず心の中で苦笑が漏れる。 過去に付き合ったどの彼女とも、結婚したいなんて露ほども思わ なかった。 506 今、楽しく付き合えればいい。むしろ結婚に囚われて、束縛され る事なんて絶対にイヤだった。 それなのに、そんな俺自身がみさ子さんとの結婚を望んでいる。 みさ子さんを束縛したい。 みさ子さんに束縛されたい。 二人で一緒に時間や空間を共有したい。 彼女に対して心底本気なのだと、改めて自覚する。 きっと、今まで結婚したいと思わなかったのは、どの彼女に対し ても本気じゃなかったのだ。 それなりに好きではあったけれど、愛してはいなかったのだ。 ︱︱︱まったく、みさ子さんは俺の人生観をどこまで変えるんだ? “絶対に社内恋愛はしない”と誓った俺の主張を簡単に覆し、あ まつさえこの俺に結婚という二文字をちらつかせる。 それがちっともイヤじゃない。むしろ、嬉しいのだ。 俺は今、初めて“恋愛”をしているのだろう。 自分の欲望を無理矢理に押さえ込んでまでも、みさ子さんを大切 にしたい。 そんな自分を誇らしく思える。 そう思わせてくれるみさ子さんを愛しく思う。 この先、何があっても、俺はみさ子さんを愛し続けよう。 みさ子さんの幸せを守ろう。 507 そして、二人で幸せになろう。 俺はかつてない幸福感に包まれながら、腰を動かし続けた。 チュプチュプと軽い水音をさせて突き入れながら、そっとみさ子 さんの様子を伺う。 さっきまで苦痛に顰められていた眉は今、切ない表情としてわず かに寄っているだけ。心配するような痛みは既に薄れたようだ。 みさ子さんが単調な挿入に慣れてきた頃合いを見計らって、少し 角度を変えて彼女のナカを攻めることにする。 半分ほどペニス突っ込んだまま彼女の腰を両手で掴み、グイッと 引き寄せると同時に更に腰を突き出した。 ﹁ああっ!﹂ ズンッ、と突き込まれて、みさ子さんが甲高い声で啼く。 どうやらココも感じるらしい。 これまでになく奥まで飲み込まれたペニスが、キュッと膣壁に圧 迫された。 ﹁気持ちいい?﹂ ガッチリと腰を押さえ込み、幾分強めの挿入を繰り返す。 ズブ⋮⋮、ズズッ。 みさ子さんの表情を見ながら、慎重にイイところを突いた。 ﹁はぁんっ、あっ、んん⋮⋮﹂ 再びシーツを握り締め、左右に弱々しく首を振るみさ子さん。 大人の色気もあり、少女のかわいらしさもあり、最高にいい女と なっている。 初めてのセックスながらも俺のペニスを根元までずっぷりと飲み 込んだみさ子さんの秘部は、溢れる愛液とそれに混じったわずかな 508 血液で濡れている。 それが胸を焦がすほどの愛しさと独占欲を駆り立てる。 一糸纏わぬみさ子さんを目にするのは、世界で俺だけ。 みさ子さんの艶声を耳にするのは、世界で俺だけ。 彼女の“女としての人生”は俺で始まり、俺で終わればいい。 そんな願いを込めて、抜いては突き、挿しては引き⋮⋮。 初めはチュク、チュクという軽い音だったのが、次第にジュブッ、 グジュッ、と大きく鈍いものに変わってゆく。 ﹁や、んっ⋮⋮、ぁぁ﹂ シーツを握る彼女の指は関節が白く浮き出るほどに力が入り始め、 俺が抱える脚にも力が入ってきた。どうやら二度目の絶頂が近付い ているようだ。 飲み込ませたペニス全体が締め付けられてゆく。 ︱︱︱こっちもそろそろ、かな。 ﹁みさ子⋮⋮さん。一緒に⋮⋮イこうね﹂ 激しくなる腰の動きに、俺の息もあがってくる。薄い壁越しでも うねるように絡みつく彼女のナカが俺を追い詰め、爆発寸前だ。 しっかりと彼女の腰を抱え、ぶつけるようにペニスを突っ込んだ。 ﹁あ、あっ、やぁんっ!!﹂ 引きちぎらんばかりに、シーツを掴んでいるみさ子さんの手に一 層力が入る。 ﹁ん、ふっ⋮⋮、はぁん、んんっ!﹂ 俺の腰の動きに連動するように、彼女は首を振り続ける。 極まりゆく艶声。 薄紅に染まる頬。 509 リズミカルに揺れる胸。 そして、俺を逃がすまいとするかのように締め付ける秘部。 聴覚に視覚に触覚。さまざまな感覚が俺を追い込む。 ︱︱︱や、やべぇ、スッゴイ気持ちいい。 俺の体中を快感が爆走し始める。 少しでも気を抜けば、みさ子さんより先に果ててしまいそうなほ どに圧倒的な快楽が、大波となって押し寄せてくる。 ︱︱︱が、頑張れ俺。みさ子さんと一緒にイくんだから⋮⋮。 グッと歯を食いしばり、彼女を高みに上げるために腰を打ち付け る。 嬌声と、淫音が重なり合う寝室。 お互いの感覚が極限までに高められる。 みさ子さんのイイところをえぐる様に攻めると、彼女は顎を突き 出すように仰け反り、殊更眉を寄せた。 ﹁ああっ!﹂ ﹁イって。俺⋮⋮も、すぐに、イくから⋮⋮。くっ﹂ 最後の追い込みとばかりに、肌がぶつかる音が響くほど大きく突 き入れを繰り返す。 愛液にまみれたペニスを、何度も何度も奥まで飲み込ませた。 ジュブッ、グチュッ、ズチュッ。 ペースも音量も次第に上がっていく水音。 ﹁タカッ、も⋮⋮、もう、だ、めぇ⋮⋮!!﹂ 喉を裂くような悲鳴がみさ子さんの唇からこぼれる。 ギュュュ、とペニスが絞られ、そして不意に訪れる開放。 みさ子さんがイったようだ。 ︱︱︱後は、俺だけだ。 膣壁にこすり付けるようにペニスを押し込む。 ﹁みさ子さん⋮⋮、みさ子さん、みさ子さ⋮⋮ん﹂ 510 彼女の名前を繰り返し呼び、幾度か突き上げを繰り返した後に、 みさ子さんのナカで欲情をほとばしらせた。 ﹁は、ああ⋮⋮﹂ 満足感一杯のため息を漏らし、俺は重なるようにみさ子さんの体 に倒れこんだ。 心地よい疲労感に酔いしれ、指一本動かすのも気だるい。 それでもみさ子さんをどうしても抱き締めたくって、どうにか腕 を動かし、俺以上にぐったりとしている彼女を腕の中に抱き込む。 触れ合っている部分からドクン、ドクン、と同じテンポの鼓動が 聞えてきた。 そのことが同じ時間を共有した証のように思えて、胸の奥がふわ っと温かくなる。 ︱︱︱俺、すごく幸せだ。 その想いを伝えたくて、閉じられているみさ子さんのまぶたにキ スを送る。 ﹁んっ⋮⋮﹂ わずかに身じろぎして、彼女がゆっくりと目を開けた。 まだ完全には意識が戻ってきていないらしく、焦点の合わない瞳 でボンヤリと俺を見つめている。 みさ子さんはそのままで、瞬き一つしない。 そして一呼吸置き、彼女は月下美人が開花するように楚々とした 笑みを静かに浮かべた。 511 84︼初めての人。最後の人︵12︶果てに ≪SIDE:みさ子≫ 浮遊と墜落を何度か繰り返し、その果てに頂へと駆け上がった︱ ︱︱彼と共に。 何もしたくないほどの気だるさに全身が覆われ、ベッドに体を投 げ出したままの私。そこにタカが倒れこむように身を重ねてくる。 そして優しい腕で、力強く抱き寄せられた。 まるで誰の目にも触れさせたくないかのごとく、すっぽりと包み 込まれる私。 もちろんこの寝室には私たちしかいないのだから、人に見られる ことなどありえない。 それでも独占欲丸出しのタカに嬉しくなる。 彼を見つめているうちに、自然と笑みがこぼれた。 それからわずかにまどろんだ後、タカは果てた欲情を手早く処理 し、ベッドに戻ってくる。 足元に置かれていた肌掛け布団を素肌のまま二人でかぶると、再 び腕に抱きこまれた。 ぴったりと私に寄り添いながら、申し訳なさそうに彼が口を開く。 ﹁敷いたバスタオルに血がついてた。それに、途中ですごく痛い思 いをさせたよね。ごめん﹂ キュッと抱きしめられ、タカの切ない謝罪を耳元で聞く。 ﹁出来る限り抑えたつもりだったんだけど、やっぱり怖かったよね。 もっと、もっと優しくするはずだったのに⋮⋮﹂ 沈んだ声に、私はゆっくりと首を横に振った。 512 確かに痛かったし、正直怖かったが、それを感じさせないくらい 心が満たされている。 この歳まで生きてきたおかげで、耳年増といかないまでもセック スに関する情報はそれなりに得ている。 だけど実際に彼に抱かれてみて、聞いていた知識以上のことが分 かった。 “愛される”という幸せ。 今、私は彼の愛情に包まれている。 それだけで、苦痛も恐怖もどこかへ飛んでいってしまっていた。 肌を合わせることで、言葉では表現できないくらい大きな想いを 感じた。 セックスとは互いが快楽を求める事でもあるけれど、それ以上に 愛情を確認するための大切なコミュニケーションなのだろう。 愛する人と抱き合いたい。 自分の想いを相手に伝えたい。 そのために、恋人達は肌を重ねあう。 なんと幸せなコミュニケーションなのだろう。 ﹁飛び起きて100メートルダッシュするのは無理だけど、痛みは 落ち着いてきてるから平気﹂ 綺麗に筋肉がついている彼の胸にそっと触れる。 ﹁それに、私はタカに抱かれて本当に良かったと思ってる。だから 513 謝らないで﹂ 手の平に伝わる心地よい鼓動と、穏やかな体温。こんな些細な事 さえも愛しい。 私はタカの肩にコツン、と額をつけた。 ﹁謝るなら私のほうよ。ずっと我慢させちゃって、ごめんなさい﹂ 知識から得た恐怖感や、﹃彼に捨てられるかもしれない﹄という 勝手な妄想で、タカを拒んでいた自分に反省する。 事が済んでしまえば思っていたほどの精神的重圧はなく、オマケ にまだほんの少しではあるが、抱き合う快感まで経験できた。 こんなことなら、グズグズ悩んでいないでさっさと抱かれればよ かった⋮⋮と、今更ながらに思う。 でもこれが私だし、こうやってずっと生きてきたのだから、そう 容易く性格は変えられない。 そういう私の心の内をさりげなく読み取ったタカは、フッと目を 細める。 ﹁それはもういいんだって﹂ クスッと笑ったタカが髪を優しくなでる。 ﹁俺が焦りすぎてたんだよ。青臭いガキじゃあるまいし、いい年の くせにガツガツして情けないよなぁ﹂ 髪をなでていた手が私の頬に滑り降りてくる。 ﹁それだけみさ子さんが魅力的って事なんだけど﹂ タカは親指の腹で何度も頬をなでている。どうやら彼はその感触 が好きなようだ。 ﹁⋮⋮私なんて、ちっとも魅力ないわよ﹂ 彼のセリフが恥ずかしくて、触れられている頬が少し赤く染まる。 その様子を見て、タカは声を出して笑った。 ﹁ははっ。ホント、分かってないよなぁ﹂ 私の目にかかっている前髪を掬い上げ、タカが瞳を覗き込む。 ﹁ま、俺だけがみさ子さんのいいところを知っていればいいんだし。 むしろ他の人に知られたら横取りされそうだから、これからも今ま 514 で通りのみさ子さんでいるように。いいね?﹂ じっと視線を合わせ、半ば強制的な彼の言葉。 そんな命令口調が嬉しいだなんて、本当に私はどうなってしまっ たのだろう。こんな自分、今までにいなかった。 完全に覚醒していない頭で、ボンヤリとそんな事を考えながら私 は苦笑する。 ﹁こんな私、タカ以外の人が好きになってくれるはずないわよ。そ れに⋮⋮﹂ ﹁それに?﹂ ﹁私はタカが好きなんだもの。他の人なんていらない。タカじゃな ければ、何の意味もないわ﹂ この時の私は幸せな余韻に浸るあまり、通常であれば絶っっっ対 に口が裂けても言わないセリフがポロリと零れ出てしまった。 それを聞いて、タカは大きく目を開く。 そして次の瞬間、息も出来ないくらい激しく抱きしめられる。 ﹁ああ、もう。みさ子さん、サイコー!!﹂ ﹁きゃ、タ、タカッ?!﹂ タカは抱きつきながら自身の腰を押し付けてくる。 そこには先程果てたばかりだというのに、既に昂りを取り戻した アレの感触が⋮⋮。 タカは気付いてないのか︱︱︱いや、絶対にわざとだ︱︱︱私の お腹の辺りにグリグリと押し付けてきた。 ﹁ね、ねぇ、ちょっと、当たってるんだけど!?﹂ さっきまでこの熱い欲情の塊で散々ナカを突かれていたのだから、 今更かもしれない。 だが、やはり最中でなければその存在は恥ずかしい。 腰を引いて距離をとろうとすると、すかさず彼の腕が私をグイッ と抱き戻す。 ﹁ひゃっ﹂ そしてまたしても腹部にはアレの硬さが。 515 ﹁だって、当ててるんだもん。みさ子さんがあんな嬉しい事言って くれちゃうから、元気になっちゃったよ♪﹂ ﹁えっ?!﹂ 思わず見上げた彼の瞳には、何やら楽しげな光が輝いている。 私の背筋に走る緊張感。 ︱︱︱もしかして、またセックスするの?! タカに抱かれるのは嫌じゃないけど、今は無理だ。体がついてい かない。 顔の筋肉が引きつる私に、タカはチュッとついばむようなキスを 落とす。 ﹁今から始めたりしないから、そんな泣きそうな顔しないで。今日 が初エッチのみさ子さんの体も心配だし、また日を改めてという事 で﹂ そのセリフを聞いて、内心ホッとする。 ︱︱︱はぁ、助かった。 が、続いた彼の言葉に再び凍りつく私。 ﹁でも一回経験したら、もう怖いモン無しだよねぇ。今度は失神す るまで攻めちゃおうかなぁ。もっと大胆に乱れるみさ子さんが見た いしさ﹂ ︱︱︱失神するまで?! さっきの状態でも意識が何度も飛びそうだったのだ。 それ以上の事が起きたら、私はどうなってしまうのか。想像する だけで、冷や汗が出る。 ﹁う、うそっ?!冗談よね?ね?!﹂ すがりつくように彼を見ると、 ﹁みさ子さんのナカがあまりにも気持ちいいから、抜かないまま三 発はいけそうなんだよねぇ。色々な体位も試したいしさ。あ、そう だ。せっかくの社内恋愛なんだから、会社でセックスするのもいい よねぇ﹂ ニヤニヤと頬を緩ませて、ねずみを追い詰める猫のような瞳で私 516 に微笑みかけてくる。 ﹁大丈夫。みさ子さんが気持ちよくなることしかしないから、安心 して﹂ 自信たっぷりのその笑顔に底知れぬ怖さを感じるのは、気のせい? 私とタカの恋人ライフは、どうやらかなり濃いものになりそうだ ⋮⋮。 517 84︼初めての人。最後の人︵12︶果てに︵後書き︶ ●これにて初めてのH編終了です♪ 本来のスタイルとは違う絡みのシーンだったので、なかなか思うよ うに執筆が進まず苦労しました。 ほら、初Hから北川君が意地悪全開だったら、2回目のHはみさ子 さんのOK出なそうですし︵苦笑︶ なので、この章は出来る限り真面目に真面目に書きました。 が、以降はみやこ大好物の﹁愛ある意地悪H﹂なので、出来る限り サクサクと進めて行きたいものです。 うっふふ∼ん☆ とはいえ、仕事をしながらの執筆なので、やはり更新は遅れる事も あります。 散々ご承知の上とは思いますが、これからも気長にお待ちください ませ。 518 85︼バレンタイン狂想曲︵1︶バレンタインとネクタイ ≪SIDE:みさ子≫ 関東では厳しい寒さが続く二月。 ところが街中はホンワカ⋮⋮というよりも、桜が咲いてしまうの ではないかというほどの熱気が溢れ、盛り上がっている。 それというのも、恒例のバレンタインが三日後に迫っているから であった。 私は誰もいない総務でお弁当を突っつきながら、雑誌を食い入る ように見ている。 表紙には﹃男性が喜ぶチョコ&バレンタインギフト ベスト10﹄ という見出しが大きく書かれていた。 二十九歳にして初めて恋人が出来て、そして初めてのイベントが バレンタイン。 どうしたらいいのかまったく分からない。 でも、タカには喜んでもらいたい。 ところが恋愛経験値が限りなく低い私にはいい案が浮かばず、グ ズグズしているうちに明々後日にはバレンタインという間際になっ てしまった。 というわけで、食事をそっちのけで雑誌に目を通している最中な のである。 パラリ、パラリとページをめくるたびに、かえって頭が混乱して きた。 昔はチョコを渡すだけだったのに、現在はそれに加えてプレゼン 519 トをつけるのが主流との事。 付き合って間もない私にはタカがどういうものを好むのか、まだ 把握出来ていない。 猫が大好きだということは先刻承知だが、恋人同士のイベントに 猫グッズではあまりに色気がなさ過ぎる。 タカのことだから、それでも十分喜んでくれるだろうけど、記念 すべき初イベントなので私としてはもっとこう、なんていうのか⋮ ⋮、ムードのあるものにしたい。 ﹁日常使える品物を贈るのが、男性には喜ばれるのかぁ﹂ 見出しに書かれた一文を、何とは無しに呟く。 ︱︱︱営業マンのタカには、いくらあっても困らないネクタイとワ イシャツが無難かしら。 ﹁んー。でも、それじゃ何となくつまらないわねぇ﹂ ふぅ、と小さくため息をついたところで、背後からポンッと肩を 叩かれた。 ﹁ひゃっ!﹂ びっくりして振り返ると、そこに立っていたのは沢田さん。 ﹁もう、脅かさないでよ﹂ 苦笑いしながらチロリと睨むと、彼女は気にせずにっこりと笑顔 を浮かべる。 ﹁結構足音立ててたんですよ。聞えないほど何を熱心に読んでいた んです?﹂ 私の肩越しに覗き込んだ沢田さんは、更ににっこりと笑う。 ﹁ふふっ。先輩、バレンタインに向けて情報収集ですか?﹂ とっさに雑誌を隠したのだが、目ざとい彼女にはバレてしまった。 ﹁あ⋮⋮、その﹂ 一瞬うろたえてしまったが、思い切って訊いてみようかとも思っ た。分からない事は人に尋ねてしまったほうが、早くに答えが見つ かる事もある。 こんな相談を出来る人は沢田さん以外にいないから、誰もいない 520 今はいい機会かもしれない。 佳代お姉ちゃんと私では歳が離れているから、相談しても参考に ならない可能性が考えられる。 歳の近さで言えば妹の留美でもいいのだが、あの子にバレンタイ ンの事を聞いたら、ひたすら永瀬君とのノロケ話を聞かされるに違 いない。それは以前のプロポーズの時で懲りた。 それに今の彼氏と付き合って五年だという彼女なら、雑誌に書か れた一般的な情報よりももっと素敵な案を出してくれるかもしれな い。 思い切って口を開いた。 ﹁もうすぐバレンタインでしょ。だから彼にプレゼントをするもの を選んでいるんだけど、慣れていないからよく分からなくって。ネ クタイだったら、もらっても困らないとは思うの。でも、それじゃ つまらない気もするし﹂ 入社以来この後輩をずっと見てきたのだから、私を馬鹿にするよ うなことはけしてしないと分かっている。それに、彼女は社内にお いて数少ない私の応援者。 私は正直に告げた。 すると彼女は首をわずかにかしげる。 ﹁そうですねぇ。ですが、むしろネクタイがいいと思いますよ﹂ ﹁どうして?﹂ ﹁佐々木先輩に惹かれたきっかけはネクタイだって、北川君が言っ てました。他の人からすれば単に実用的でも、北川君にとっては思 い出の品なんですよね﹂ それを聞いて、頬がほんの少し赤くなった気がした︱︱︱私と初 めて会った時の事を、タカが今も大事に想ってくれているなんて。 お互い名前も部署も知らない時の出会いを思い出の一つとして、 彼の記憶にあることが嬉しかった。 そして私にとってもネクタイは大事なアイテム。自分の想いを気 付かせてくれたのだから。 521 ﹁もらっても困らない上に思い出の品だなんて、プレゼントにぴっ たりだわ。ありがとう沢田さん。あなたに相談してよかった﹂ ホッと息を吐いた私は、用がなくなった雑誌を通勤用のバッグに しまいこんだ。 ﹁お役に立ててよかったです。あ、ところで、チョコはもう用意し たんですか?﹂ ﹁ううん。それも悩んでいたところよ。今日の帰りにでもデパート によって探してみるわ。手作りにしようかとも思ったんだけど、お 菓子作りは慣れていないから失敗するかもしれないし﹂ タカはこれまでに私が作った食事を何度も口にして、その度に﹃ 美味しい﹄と言ってくれるから、料理の腕はそれなりに自信がある。 だが私はこれまでにお菓子は作った事などないし、聞くところに よるとチョコレートを使ったお菓子は、温度を間違えると取り返し がつかないという。 慣れない事をした挙句に、失敗ばかりでバレンタインに間に合わ ないようでは悲しいではないか。 なので、今回は無難に買うことに決めていた。 ﹁それなら、いいお店を紹介しますよ。穴場中の穴場なんですけど、 味は保障します。そこの生チョコは絶品ですよ﹂ 食べ歩きが趣味で、時折差し入れてくれるお土産は間違いないも のばかりの彼女のおすすめなら安心だ。 チョコレートが大好きなタカも、きっと気に入ってくれるに違い ない。 ﹁ぜひ教えてほしいわ﹂ 私がそう言うと、沢田さんがちょっとだけ目を大きくして、そし て小さく笑った。 ﹁何?﹂ ﹁先輩、すっかり“恋する女性”ですね。仕事の時の表情とは大違 522 い﹂ ﹁え、あ⋮⋮、そ⋮⋮かしら?私らしくなくて、おかしいわよね﹂ 動揺を隠すために、さりげなく前髪を直すフリをする。 すると沢田さんは嬉しそうに首を横に振った。 ﹁全然おかしくないです。ああ、でも、そんな表情は北川君以外の 人に見せない方がいいですよ﹂ ﹁なんで?そんなに変な顔していた?﹂ ﹁違います。幸せそうに微笑む先輩の様子を自分以外の人に見せた 事を知ったら、北川君が嫉妬しますから﹂ ﹁は?﹂ ︱︱︱私の笑顔に嫉妬?なんで? パチパチッと瞬きをして見せる私に、沢田さんは意味あり気に笑 う。 ﹁私の勘なんですけど、北川君ってかなり独占欲が強いと思うんで すよ﹂ 独占欲が強い。 確かにそうだ。 こんな私をそばにおきたいと思う男性なんてタカ以外いないだろ うに、それでも彼は心身ともに私を閉じ込めようとするのだ。 ﹁まぁ、言われてみればそうかもね﹂ 私が独り言のように呟けば、沢田さんは自信満々にうなずきを繰 り返す。 ﹁ですよね!だから先輩は誰に対しても、いつも通りの態度でいて ください。あ、私の前ででしたら、いくらでも微笑んでくださって かまいませんけど。お二人の事情は知ってますし、それに、私は北 川君と先輩を結び付けた一因を担った人間ですからね。彼は私に頭 が上がらないはずですもん﹂ えへん、と得意げに胸を反らす後輩の様子が可愛くて、私は思わ ず笑ってしまった。 523 524 86︼バレンタイン狂想曲︵2︶私をア・ゲ・ル!? ≪SIDE:みさ子≫ 仕事帰りに沢田さんと一緒にその店に向かった。 細い路地に面している小ぢんまりとした構えの洋菓子店は、夕方 六時を回ったというのにそこそこ混んでいる。 中にいる客は全員女性で、自分と同じようにチョコを求めて来店 したのだろう。紙袋を提げた女性達は、一様に嬉しそうな顔をして いた。 そんな様子を見て、ふと不思議な感覚を覚える。 まさか自分が彼女たちと同じような立場になろうとは、想像すら していなかった。これまでにチョコを渡した相手は、父や兄しかい なかったのだから。 それがこうして義理チョコではなく、自分の彼氏のために本命チ ョコを用意することになるなんて、自分の事ながらいまいち信じら れない。 嬉しいけど、照れくささを強く感じる。 だが、その感覚すら幸せに思えた。 不意に感じた幸せが気恥ずかしくて、なんとなく二の足を踏めず にいると、沢田さんがグイッと腕を引っ張った。 ﹁何してるんですか?早く行かないと、売り切れちゃいますよ﹂ ﹁え⋮⋮、ええ﹂ つれられて踏み入れた店内は、洋菓子店特有の甘くやわらかな香 りが漂っている。 525 ﹁すいませーん。バレンタイン用の生チョコはまだ残ってますか?﹂ 沢田さんが店員に声をかけると、困ったような笑顔を返された。 ﹁残ってはおりますが⋮⋮﹂ 落ち着いた物腰の女性店員がケースから取り出した小箱をこちら に見せる。 ﹁追加で作る予定がございませんので、販売できるのはこの一箱だ けなんです。それでもよろしいですか?﹂ 沢田さんおすすめのチョコなら、是非とも買いたい。でも、一緒 に買いに来ているのに、私一人だけ手に入れるのも申し訳ない。 一歩下がって彼女と店員のやり取りを見ていると、沢田さんがに こりと笑う。 ﹁あっ、一つで十分ですよ。こちらの女性が持って帰ります。先輩 良かったですね。ギリギリで買えましたよ﹂ そう言って私に振り返る。 ﹁え?いいの?沢田さんもこのお店のチョコを彼にあげるんでしょ ?私の分なら心配しなくていいわよ﹂ ここは私が譲るべきだろうと、店員が差し出した手提げを彼女に 渡す。 ところが、その手をやんわりと押し返された。 ﹁ふふっ、それこそ心配ご無用です。しっかり予約済みですので﹂ そう言って、財布から取り出した予約伝票を店員に渡す。 さすがは沢田さん。抜かりはないようだ。 ﹁ありがとうございました。どちら様も幸せなひと時を過ごされま すように﹂ 店員の温かい言葉を背に、私たちは店を出た。 ﹁沢田さん、ありがとう。助かったわ。これでプレゼントを用意し たら、準備万端ね﹂ 駅に向かいながら私は、改めて彼女に礼を述べる。 526 ﹁どういたしまして。他ならぬ先輩のことですから、こちらとして もお役に立てて嬉しいです﹂ 柔らかく目を細める笑う沢田さん。 ところが、次の瞬間何かに気付いたようにハッと瞳を大きくする。 ﹁どうかした?﹂ ﹁プレゼントとして、すっごくいいアイデアがあった事を忘れてま した﹂ じっと私を見上げ、瞳をきらきらと輝かせている。その“名案” が“妙案”であるように感じるのは、私の気のせいだろうか。 ﹁いいアイデア?﹂ 訝しげに聞き返すと、彼女は殊更楽しそうにはしゃぐ。 ﹁はい。自分からグイグイ行かない先輩がコレをやったら、北川君 は絶対に喜びますよぉ﹂ ﹁どういうこと?﹂ ︱︱︱普段私がやらない事をすると、タカが喜ぶ⋮⋮? 何となく、イヤな予感が。 聞こうか聞くまいか迷っているうちに、彼女は私のすぐ傍に寄っ てきた。 ﹁えっとですね﹂ 沢田さんは私の耳に口元を近づけて、小声で囁く。 ﹁セクシーな下着で北川君に迫るんですよ。“私をア・ゲ・ル”と か言って﹂ ﹁⋮⋮はぁっ?!﹂ 人通りのある往来だというのに、私は素っ頓狂な声を上げてしま った。通りがかった数人がこちらを不思議そうに見ている。 好奇の視線から逃れるために、沢田さんの肩を掴んでクルリと彼 らに背を向けた。 ﹁ちょ、ちょっと沢田さん。何、馬鹿な事を言ってるの?!﹂ 軽くパニックになった私は焦った声音で彼女をたしなめるが、あ っけらかんとした沢田さんは、恐縮するどころかしれっと答える。 527 ﹁何って、昔からの定番ネタじゃないですかぁ。セクシーな彼女を 嫌う彼氏なんていませんからね﹂ この肝の据わった受け答えは実に素晴らしい。社員に恐れられて いる私に対して、こんな事を正面切って言えるの沢田さんくらいだ ろう。 しかし、感心している場合ではない。 ﹁いくらなんでも、そういうことは無理だわ﹂ すかさず断りを入れるが、沢田さんはニコニコ笑って更に勧めて くる。 ﹁そんな先輩がするから、効果は絶大なんです。それに初めてのイ ベントは印象深いものにしたほうが、いい思い出になりますよ﹂ ︱︱︱いい思い出? タカにとってはいいかもしれないが、私としては赤面モノの記憶 しか残らないのではないだろうか? 彼女の提案は、インパクトを与えるという意味では十分すぎる効 果を発揮するだろう。 しかし、それをこの私がするのには性格的にかなり難しい。 ﹁そういうことは、いずれ別の機会にでも⋮⋮﹂ その場を濁してしまおうとする私の気持ちとは裏腹に、沢田さん が私に手首を掴んで歩き出した。 ﹁まぁまぁ。そんなこと言わずに、とりあえず下着売り場を見てみ ましょうよ。ネクタイやワイシャツを買うのに、デパート行くんで すよね﹂ ﹁あ、ちょ、ちょっと!﹂ 小柄な彼女のどこにこんな力があるのか。彼女よりも10センチ 以上背が高い私を連れて、沢田さんがどんどん脚を進める。 ようやく解放されたのは、駅前にある老舗デパートの下着売り場 だった。 528 そこには日常使いの下着はもちろん、外国映画の女優さんが身に 着けているようなゴージャスでセクシーなものも並んでいる。 ﹁さ、先輩。どんな下着がいいですか?﹂ ずらりと下着が並んだ店内を見回して、沢田さんが尋ねてきた。 ﹁だからっ!今回は買わないって!﹂ 一向に引かない彼女に、思わず声が大きくなる私。 ﹁お店でそんな大きな声を出したらダメですよぉ﹂ 私の言葉に耳を貸さず、沢田さんは店内に並べられている下着を いくつか持ってきて、私の体に当てている。 ﹁先輩は色が白いし顔立ちも綺麗だから、大人っぽくて濃い色の下 着が合うと思うんですよねぇ﹂ そう言ってとっかえひっかえ、次々と下着を運んできては私に合 わせる。 ﹁色気があって、でも下品にならないようないいデザインがあると いいのですが﹂ ﹁ね、ねぇ、沢田さん。本当に下着は要らないんだって。だから、 もう帰りましょ﹂ 小声で頼み込むが、沢田さんはそんな私を笑顔で一蹴。 ﹁いつか使うことがありますよ。買っておいて損はありませんから﹂ ︱︱︱いつかっていつよ?! 頬が引きつるのを感じつつ、そっとため息。 これだけ言っても聞いてくれないのだから、放っておくしかない。 ︱︱︱まぁ、いいわ。私が相手にしなければ、そのうち沢田さんも 諦めるでしょ。 ところが、沢田さんは諦めが悪い上に口がうまい事を、私はこの あと身に染みて実感することになる。 529 ﹁⋮⋮買ってしまった﹂ 結局、沢田さんの勢いに逆らう事が出来なかった。 私が持っている下着とはまったく違うセクシーな下着が、リビン グの絨毯の上に広げられている。 床に正座をし、まじまじとその下着を見た。 うまい事口車に乗せられ、半分脅されるような形で買ったその下 着は、全体が黒のレースで作られていて、ところどころに金色の糸 でバラの刺繍が施されている。ブラと同様にパンティも同じ素材の 同じデザイン。 肌が透けるほどに生地が薄いことにも驚きだが、その面積の狭さ にも驚きだ。 普段身に着けているブラは、胸の形が綺麗に見えるという四分の 三カップ。ところが置かれているブラは二分の一カップほどで、動 けば胸がこぼれ出るかもしれない。 そしてパンティは脇が紐のように細く、肌を覆う部分が限界まで 小さいのだ。 こんな凶悪なほどにセクシーな下着を身に着けた私を見せたら、 タカはどこまで暴走するのだろうか。 ブルリ、と体を震わせる。 ﹁⋮⋮よし、コレはなかったことにしてしまおう﹂ 下着を掴んだ私は立ち上がって寝室に向かう。 そして、めったに着ることがない服たちをしまっているクローゼ ットの奥の奥に、その下着を押し込んだ。 530 531 87︼バレンタイン狂想曲︵3︶与えられる愛情 ≪SIDE:みさ子≫ そしてバレンタイン当日。 私は朝起きてすぐに、枕もとの携帯電話を手に取った。 “おはよう。今夜、一緒に食事しない?渡したいものがあるから、 ウチに来て欲しいんだけど。都合はどう?” タカにウチへ来るようにというメール。 イベントの時くらい外食してもいいかもしれないが、私はまだタ カとの付き合いが社内で広まって欲しくないので、二人きりの外食 は避けている。 誰にも見られないように、タカとの外食は車を使って遠出した時 と決めていた。 それに、私は仕事とプライベートをきっちり分けたいので、会社 にはあまり余計なものを持って行きたくない。 オマケに用意したのは軟らかい生チョコなので、電車の暖房で溶 けてしまっては困る。 ⋮⋮といった理由以上に、沢田さんにあれこれ突っ込まれたくな いというのが一番の理由だったりする。 彼女はもちろん親切心からなにかとアドバイスをくれるのだが、 こちらとしても受け入れがたいものも多かった。気のせいかもしれ ないが、どうも私の反応を楽しんでいるようにも感じる。 だからといって意地の悪さは微塵もなく、臆病な私を後押しして いる部分が強い。 同性の友達とは皆無といっていいほど付き合いのない私なので、 沢田さんのような存在はありがたいとも思う。 532 が、あの下着でタカに迫るという案は今もって却下である。 ﹁送信っと﹂ パタンと携帯電話を折りたたみ、ベッドを降りる。 洗顔を済ませて、台所で昨夜残ったスープを温めているところで メールが届いた。 “俺がみさ子さんの誘いを断るわけないでしょ。もちろんOKだよ wwwww” 今時絵文字も使わない真っ黒な私のメールに対し、タカは必ず最 後にハートマークを五つつけて送ってくる。 付き合い始めた頃、どうして必ず五個なのか尋ねたら、﹃“愛し てる”は五文字でしょ。だからその意味を込めてね﹄と、穏やかに 微笑まれた。 いつでもこちらが困惑するほどの愛情をくれるタカ。 私はきちんと愛情を返せているだろうか。 恋愛初心者の私だから、もらったほどは返せていない自覚はある。 それでも、私なりに精一杯彼の気持ちには応えたい。 私は冷蔵庫の中で出番を待っている生チョコと、綺麗にラッピン グされたネクタイとワイシャツを思い浮かべて、小さく微笑んだ。 社内ではそこかしこでチョコレートが飛び交っている。 社会人の彼らは現を抜かしてしまうほどバレンタインに踊らされ ているわけではないが、女性社員も男性社員もどこかソワソワして 533 いた。 去年まではそんな彼らを見てもまったく無関心だったが、今年の 私は違う。なにしろ、チョコを渡したいと思う相手がいるのだ。 女性が男性にチョコを渡すようになった習慣は、日本のお菓子メ ーカーの策略だというのは有名な話で、そんな商売目的に踊らされ るなんて自分としてはありえないと思っていただけに、自身の変化 に驚く。 ︱︱︱他人事だと思っていたイベントに、この私が参加するなんて ね。 なんだかくすぐったい感じがする。 とはいえ、勤務中に浮き足立つほど私は可愛い性格ではない。 ﹁岸さん、この書類は受理できません。正しく直してから、再提出 をお願いします﹂ タカと同期で同じ営業部の岸さんが、私に書類を返されて泣きそ うな顔になっていた。 バレンタインで土曜日ともなれば、たいていの人は手早く仕事を 切り上げて退社する。 私もそんな彼らと同じように、キリのいいところまで作業を進め て手を止めた。 午後からはパソコンに向かいっきりだったので、肩や首の筋肉が 固まっている。軽く揉み解しているところに、沢田さんがやって来 た。 ﹁先輩、お疲れ様です﹂ ﹁お疲れ様。あなたも早く帰ったら。彼氏が待っているんでしょ?﹂ ﹁大丈夫です。彼の仕事が終わるのは日付が変わる頃なので。そう そう、今日の北川君、すごく頑張っていましたよ﹂ 帰り支度をしている手を止めて、彼女を見遣る。 534 ﹁頑張るって、何を?﹂ すると沢田さんはくすくすと笑いながら教えてくれた。 ﹁チョコレートを断ることですよ。なにしろ、義理チョコすら受け 取らなかったんですから﹂ ﹁そうなの?﹂ こちらからタカに﹃チョコは受け取らないで﹄と言った事はない。 受け取る、受け取らないは彼の意思の問題だし、それにとやかく 口を出すほど私はうるさい人間ではないと、自分では思っている。 ︱︱︱もしかしてタカには“義理チョコ程度でやきもちを焼く、心 の狭い女”と思われているのかしら? そんな心中を察した沢田さんがすかさず口を開く。 ﹁先輩の性格云々ではなくて、それが北川君の誠意なんですよ。い いですねぇ、こんなに一途に愛されて﹂ うっとりとした表情の沢田さんに、照れくさい私は曖昧に微笑ん だ。 彼女は身をかがめて、ひそひそと話し出す。 ﹁今だから言いますが、去年もチョコを断るのに苦労したみたいで すよ。まぁ、義理チョコは受け取っていたみたいですけどね。中に はしつこく追いかけて、本命としてのチョコを押し付けようとして いる女子社員たちもいましたから﹂ あれだけモテる要素満載のタカだから、本気で彼を好きな女子社 員たちがいたことは私も知っている。 ︱︱︱去年の段階ではまだ付き合ってなかったんだし、別にチョコ くらい受け取っても良かったんじゃない? 私がそれを知る事もな いんだし。 と考えて、はっと我に返る。 まだ付き合うかどうかも分からない段階から、タカは私に誠実で いてくれたのだ。 あの人はどこまで、一生懸命なのだろう。 535 こんなつまらない女のために、タカはどれほど愛情を注いでくれ るのだろう。 ︱︱︱自分なりにタカに愛情を返そうと思ったけれど、果たして返 せるの? そう考えると、心の奥にほんの少し影が落ちる。 ﹁先輩?﹂ 沢田さんが心配そうに私を呼ぶ。 ﹁⋮⋮あ、ごめんなさいね。ボンヤリしちゃって﹂ 苦笑いを返すと、聡い彼女は私の右手をキュッと握った。 ﹁大丈夫ですよ。先輩達はまだ始まったばかりなんです。これから 先、少しずつ近付いていって、最終的にお互いの愛情が同じくらい になればいいんですよ。焦ってはダメです﹂ そう言って優しく目を細める。 私よりも年下なのに、彼女の言葉はすごく温かくて頼もしい。 おかげで気持ちが軽くなった。 ﹁ありがと。⋮⋮そうよね、なんたってこの歳で初めて恋愛してい るんだもの。焦ってはダメよね﹂ さっきとは違う明るい笑みをそっと返す。 ﹁そうですよ。とはいえ、北川君の愛情があまりにも大きすぎるの も原因なんでしょうけど。ま、それだけ、先輩を大事にしているっ て事ですね﹂ うん、うん、と一人で納得し、沢田さんは帰っていった。 536 87︼バレンタイン狂想曲︵3︶与えられる愛情︵後書き︶ ●なかなか二人の絡みが出てこなくてごめんなさいです。 どうしてもシチュエーションを作り上げてから出ないと、脳内妄 想のエンジンがかからない人間でして⋮。エンジンさえかかってし まえば、妄想フルパワーでガツガツ書きますから♪︵笑︶ あともうちょっとだけ、お待ちくださいね。 アノ下着の出番ももうすぐです︵ニヤリ︶ 537 88︼バレンタイン狂想曲︵4︶過去、現在、未来 ≪SIDE:みさ子≫ 会社を出て、一足先に家へと帰る。 途中スーパーに寄って、食材を買い込んだ。 バレンタインとはいえ、お互いの何か特別な記念日でもないので、 作る夕飯は極一般的なものにする。あんまり気張りずぎると空回り してしまう気がするから。 それでも、自然にタカが好きなメニューばかりを思い浮かべ、そ のための材料を手持ちのカゴに入れていた。 今夜の献立は豆腐と油揚げのお味噌汁、南瓜のそぼろあんかけ、 小松菜のおひたし、そして鶏の唐揚げ。 そのカゴを見て、ふと口元が緩む。 好きな人のためにご飯を作る事が幸せに感じるなんて、この歳ま で味わえなかった事だ。 その幸せを感じながら、帰宅後いそいそと準備を始める。 唐揚げを皿に盛り終えたところで、玄関のチャイムが鳴った。 パタパタとスリッパの音を立てて玄関へと急ぎ、扉を開けるとタ カがにこりと微笑む。 ﹁遅くなってごめんね﹂ 駅から駆けてきたのだろうか。軽く息が弾んでいて、頬も少し赤 い。 仕事の後で疲れているだろうに、それでも急いで来てくれたこと が嬉しかった。 タカをねぎらう様に微笑みを返す。 ﹁急に仕事が入った事は聞いていたもの、気にしないで。寒いでし ょ、入って﹂ 538 ﹁お邪魔します。⋮⋮あ、いい匂いがする。唐揚げ、作ってくれた の?﹂ 靴とコートを脱いだタカが嬉しそうな顔をする。 ﹁ええ。いつも代わり映えのないメニューでごめんなさい﹂ 他にもあれこれ作ろうとは思うのだが、やはり、彼に作るご飯に は唐揚げが毎度のように登場してしまう。 ﹁みさ子さんの唐揚げは天下一品だからね。毎日食べたいくらいだ よ﹂ フワリと笑みを浮かべて、タカは嬉しそうに目を細める。 ﹁やめてよ、そんなに褒められると照れるわ。もう出来上がってい るのよ。さ、早く食べましょ﹂ 視線を向けられて照れくさくなった私は、赤い顔を見られたくな くて先に発って歩き出した。 きっとタカには、私の照れ隠しの態度なんてお見通しなのだろう。 それでも、何も言ってこない。 たまに︱︱︱特にベッドの中で︱︱︱顔から火が出そうなほど真 っ直ぐな愛の告白をしてきたり、恥ずかしがる私を見ようとしてわ ざと意地悪な事を言ったりするけれど、基本的にタカは優しい。 そういう気遣いがすごく心地よい。 そんな穏やかな雰囲気の中で食事を終え、いよいよ用意したチョ コとプレゼントを渡す時が来た。 ﹁ちょっと待っててね﹂ タカをリビングのソファーに残し、私は立ち上がる。 冷蔵庫を開けて生チョコを取り出し、キッチンに用意しておいた プレゼントも手にして戻ってきた。 ﹁バレンタインのチョコ。手作りじゃないけど、沢田さんのお墨付 きだから美味しいはずよ﹂ 床に置いたクッションの上にペタンと座って、そっと包みを差し 出す。 539 ﹁いつも誠実な彼氏でいてくれて、ありがとうね﹂ 素直な気持ちで告げる。 相当に照れ屋な私だが、こういう時くらいは素直になれるのだ。 はにかむ私を優しい瞳でタカが見つめる。 ﹁こちらこそ、いつも俺の傍にいてくれてありがとう﹂ こういう瞳は彼が年下であることを感じさせなくて、温かくて頼 もしい。 それから小さな包みに続いて、大き目の紙袋も渡す。 ﹁それと、これ。良かったら使って﹂ チョコの包みを脇のローテーブルに置いたタカが、さっそく紙袋 を開ける。 中から出てきたのは、タカのために選んだ白いワイシャツと藍色 のネクタイ。 タカはまだまだ若いから明るい色のネクタイにしようかとも考え たのだが、少し落ち着いた色合いの方がかえってタカを引き立てる ように思えて、あえて青より少しだけダークトーンの藍色に。 少しでも喜んでもらえるように。 少しでも気に入ってもらえるように。 たかだかネクタイ一本なのに、ものすごく真剣に選んだ。 ﹁男の人にプレゼントするなんて慣れてないから、気の利いたもの じゃなくてごめんなさいね﹂ 申し訳ない口調で言うと、タカがゆっくりと首を振る。 ﹁わざわざありがとう。俺、この色好きなんだ。休み明けは、さっ そくこのネクタイで出社するよ﹂ 大事そうにネクタイをなでているタカを見て、私も嬉しくなる。 ﹁よかった、気に入ってもらえて。ねぇ、チョコも食べてみて﹂ ﹁そうだね。沢田さんの舌は肥えているから、食べるのが楽しみだ﹂ 540 タカは器用な手つきで綺麗にラッピングをはずし、小箱の蓋を開 ける。そこには一口サイズにカットされてココアパウダーを振り掛 けられた生チョコが整然と並んでいた。 ﹁ではさっそく、いただきます﹂ 添えられていたピックでチョコを口に運んだタカ。数回咀嚼し、 飲み込んで叫ぶ。 ﹁うっまーい!何、このチョコ。すげぇ、うまい﹂ お世辞ではなく本当に美味しいようで、二個三個と手が進んでい る。 ﹁喜んでもらえてよかった。味見もしないで渡すのは不安だったけ ど、さすが沢田さんが勧めてくれただけのことはあるわね﹂ ホッと胸をなでおろす。 するとそんな私を見て、タカの手が止まった。 ﹁みさ子さん、このチョコ食べたことないの?﹂ ﹁ええ、それが最後の一箱だったんだもの。言ったじゃない、味見 してないって﹂ そう言うとタカがニヤリと笑う。 ﹁⋮⋮じゃ、おすそ分けしてあげる﹂ タカはチョコを一つ咥えると、素早く私の右手首を掴んだ。 見た目は華奢なくせに、タカは床からソファーへと軽々と私を引 き上げる。 ﹁えっ?﹂ あっという間にタカの胸に抱きこまれたかと思うと、顎先に手を 添えられ上を向かされる。 そしてタカが唇を重ねてきた。 あっけにとられている私は唇を閉じる暇もなく、半開きの状態。 その隙間から生チョコが押し込まれ、私の口腔内にほろ苦いココ アが広がった。 ﹁んっ﹂ 慌てて口を閉じようとしたが、スルリとタカの舌が忍び込む。 541 柔らかい生チョコはタカの舌の動きによって次第に溶けて小さく なり、噛まないうちにその形はなくなってしまった。 それでもタカはキスをやめない。 私の背に腕を回して少しも隙間がないように抱き寄せ、角度を変 えてさらに舌を深く侵入させてきた。 絡み合うたびに、クチュッという淫らな音が耳に届く。 ﹁ふ⋮⋮、んんっ﹂ しつこいほどに舌を舐られ、私の口からは自然と声が漏れる。 ココアは苦かったが、チョコの部分はミルクが多くて甘かった。 でも、それ以上に甘い甘いタカのキス。 お酒を飲んだわけではないのに、甘さと熱で頭がクラクラする。 すがるようにタカのワイシャツを掴んだところで、ようやく唇が 離れた。 ﹁美味しかった?﹂ くすくすと笑いながら、タカが私の顔を覗き込んでくる。 私は恥ずかしくて、顔を伏せた。 ﹁もう、何すんのよ!﹂ ﹁何って、チョコのおすそ分け﹂ 当たり前のように答えてくるタカに、余計顔が熱くなる。 ﹁普通に食べさせてくれてもいいじゃない。なんで、口移しなのよ !!﹂ 私の頬に手をかけて上を向かせようとしてくるタカだが、私は首 を振ってその手を逃れる。 それでもタカはスイッと手を伸ばして、頬に触れてくる。 ﹁普通じゃつまんないじゃん。別にいいでしょ、他に誰か見てるわ けじゃないんだから﹂ ﹁それでも、恥ずかしいの!﹂ 542 大きく叫んだ私はそのままガバッと彼の胸に顔をうずめ、タカの 手を振り払う。 顔の赤みが引くまでしばらくそのままの体勢でいる私。 するとなにやらタカがごそごそと動き、うなじに触れてきた。い や、触れたというよりも、その辺りで指を動かしているという方が 正しいか。 ﹁なにしてるの?くすぐったいじゃない﹂ 不思議に思って顔を上げる。 すると首筋から鎖骨にかけて、今までなかった違和感が。 ︱︱︱何? 着替える間もなく夕飯の準備をしたので、今着ているのはいつも どおりのブラウス。 だが、さすがに家にいてまでもボタンをきっちり上まではめてい るのは息苦しく、一つはずしていた。 少しだけ開けられている胸元を見てみると、小粒のダイヤが三つ 揺れるデザインのネックレスがあった。 ﹁あの⋮⋮、これ、どういうこと?﹂ 茫然と尋ねる私に、タカはうっとりするほど優しい笑みを浮かべ てくる。 ﹁プレゼントだよ﹂ ﹁なんで?﹂ 今日はバレンタインで、外国では違うみたいだけど、日本では女 性から男性にプレゼントをあげる日。 なのに、このネックレスは一体⋮⋮。 ﹁ホワイトデーのプレゼント?ずいぶん気が早いのね﹂ 首をかしげながら言うと、タカが苦笑いしている。 ﹁違うって。ホワイトデーにはまた改めて用意する。それはお返し じゃなくて、今日のみさ子さんのために用意したんだよ﹂ ﹁今日の私のため?﹂ どういうことなのか、さっぱり分からない。 543 ︱︱︱夕飯に大好物の唐揚げを作ってあげたから、という事じゃな いわよね。 たかだか唐揚げのお礼にしては、あまりに高価すぎる。この輝き はおそらくシルバーではなくプラチナだ。 さらに首をかしげるとタカがプッと吹き出した。 ﹁本当に分かってないの?今日はみさ子さんの誕生日だよ﹂ ﹁⋮⋮あっ!﹂ そうだった。 バレンタインをどうするかで頭が一杯だったから、自分の誕生日 なんてすっかり忘れていた。 ﹁頭から完全に抜けていたわ⋮⋮﹂ 呆けたように呟くと、タカが優しく抱きしめてくる。 ﹁それだけ俺のプレゼント選びに一生懸命だったんでしょ?彼氏冥 利に尽きるよ﹂ そっと髪をなでるタカ。 言葉も仕草も優しい。 ﹁でも、よく今日だって知ってたわね。私、言ってなかったと思う けど﹂ 付き合い始めて二ヶ月が経つが、今更ながら誕生日を教えていな い事を思い出した。 初めてのことだらけの私にとって、誕生日ですら恋人同士には一 大イベントになるのだという認識が薄い。 なので、あえてタカに尋ねることも、教える事もしてなかった。 髪をなでながら、くすくすとタカは笑い続ける。 ﹁驚かせようと思って今日まで内緒にしていたけど、とっくに知っ てたよ。沢田さんも永瀬先輩も、そして妹さんも協力的だしね﹂ そうだった。 タカには私の情報をいくらでも聞きだせる味方がいたのだ。 ﹁普段アクセサリーはつけてないけど、嫌いって事ではなさそうだ し。指輪にしようかとも考えたんだけど、サイズが分からなくって 544 ね。それでネックレスにしたんだ﹂ 髪をなでていたタカの手がネックレスのトップに触れる。 ﹁誕生日おめでとう。気に入ってもらえた?﹂ 私はコクン、と頷いた。 ﹁すごく気に入ったわ。シンプルなデザインだけど、ダイヤがとっ ても綺麗﹂ キラキラと輝きを放つ宝石に見とれる。 ﹁それ、トリロジーって言って、ダイヤはそれぞれ過去、現在、未 来を表しているんだって。俺は今のみさ子さんはもちろん、過去の みさ子さんも、そして未来のみさ子さんも大切にしたいんだ﹂ 含み笑いをしていたさっきとは打って変わった真剣な声音に、思 わず視線を上げてタカを見る。 真摯な光を浮かべた視線とぶつかった。 ﹁言っておくけど、俺は遊び半分で付き合っているわけじゃない。 結婚前提のつもりだよ。それは分かっておいて﹂ ﹁え?﹂ ﹁プロポーズはいずれ改めてするから﹂ まっすぐに私の目を見て、怖いくらいまじめな彼。 ﹁タ⋮⋮カ?﹂ 予期してなかった展開に私はせわしなく瞬きを繰り返すだけ。 お互いが視線を逸らさず、無言のまま時が流れる。 ﹁ま、今日のところは予約って事で﹂ しばらくしてタカがフッと表情を緩めると、つられて私の緊張も 緩む。 でも、胸のドキドキは収まらない。 タカが私との付き合いをそこまで真剣に捕らえていたとは思わな かったから、ものすごく驚いた。 結婚は考えていなかったわけではないけれど、どこか自分とはか 545 け離れたものだという感覚だった。 先のことまで考えて、私と付き合いたいと思ってくれていること がすごく嬉しい。 自然と笑顔になる。 そんな私を見て、タカも嬉しそうだった。 ﹁その長さならブラウスの下に隠れるでしょ。会社にしていっても 平気だよね﹂ ﹁ええ、そうね。ありがとう、大事にする。いつも身に着けておく わ﹂ 指先でそっとダイヤに触れた。 546 89︼バレンタイン狂想曲︵5︶お返しは⋮。 ≪SIDE:みさ子≫ 抱きしめ続けられるのも恥ずかしくなり、そろそろ開放してもら おうかとタカに申し出るが、すげなく断られた。 タカは私に触れているのが本当に好きらしい。会話がなくても、 ﹃抱きしめているだけで癒される﹄とよく言っている。 私も触れられるのは嫌いではないが、黙っているのはどうも落ち 着かないので口を開いた。 ﹁ところで、タカの誕生日はいつなの?私もプレゼントしたいから、 教えて﹂ 尋ねると、タカは困ったように笑う。 ﹁別に、今言うことじゃないから﹂ 彼が誕生日を秘密にする理由が分からない。私は問いかけを繰り 返す。 ﹁なんで?いいじゃない、教えてよ。いつ?﹂ ﹁いや、それは⋮⋮﹂ 詰め寄ると口ごもり、目を泳がせるタカ。 なんだか様子がおかしい。彼の顔には﹃訊かないでくれ﹄と書い てある。 どうしてそこまで拒むのか、やはり分からない。 いつまで経っても教えてくれそうにないので、私はスルリとタカ の腕を抜け、近くにおいてあった彼の通勤カバンの横ポケットに手 を入れる。そこには定期入れが入っていて、社員証や免許証がはさ まれているのを知っていたのだ。 ﹁あっ!﹂ タカが声を上げた時には、私が社員証を手にしたあとたっだ。 547 そこに書かれていた彼の誕生日は二月十四日。 バレンタインデーで、私と同じで、そして⋮⋮今日。 ﹁うそ⋮⋮﹂ 社員証に続いて免許も見てみるが、やはり書かれていた日付は二 月十四日。 それを知って、私はがっくりとうなだれる。 ﹁ごめんなさい。私、何も用意してない⋮⋮﹂ 気落ちした声で謝りチラリとタカを見上げると、バツが悪そうに 頭をかいている。 彼は誕生日に気付かなかった私が落ち込むだろうと予想し、言い 出せなかったのだ。 だから、誤魔化そうとしたのに。 それがタカなりの配慮だったのに。 恋愛ごとに気の利かない私は、自ら地雷を踏んでしまったのだ。 ﹁ネックレスは俺が勝手に用意したんだしさ。それに男の誕生日な んて、祝うものでもないよ。最初から誕生日プレゼントはもらうつ もりなんてなかったから、気にしないで﹂ 気にしないでいられようか!! タカはしっかりと私の誕生日をリサーチし、そしてこんなに素敵 なプレゼントを用意してくれたのに。 私といえば、バレンタインに気を取られるばかりで、誕生日の事 など綺麗さっぱり念頭になかった。 知らなかったとはいえ、許されざる行為だ。いや、普通なら彼氏 の誕生日は真っ先に知るべきだ。 そんなことも出来ない女なんて、彼女失格だ。 ﹁今日が誕生日だなんてぜんぜん知らなくて⋮⋮。ごめんなさい、 本当にごめんなさい﹂ ﹁でも、ネクタイとワイシャツをもらったよ﹂ タカは気を遣ってそう言ってくれるが、渡した意味合いが違う。 548 ﹁それは誕生日プレゼントじゃないもの﹂ ︱︱︱どうしよう。もう九時を回っているからデパートだって閉ま ってるし、何も用意できない。 ﹁じゃ、じゃあさ。明日一緒に買い物に行こう。そこで何か見繕っ てくれれば十分だよ﹂ 動揺する私を落ち着かせようとタカが提案してくるが、私は納得 できない。 ﹁それじゃダメよ。タカの誕生日は今日なのよ!今日渡したいんだ もの!﹂ ︱︱︱何かないかしら。すぐに用意が出来て、タカが喜んでくれそ うなもの⋮⋮。 オロオロとする私の脳裏に“あるモノ”の存在が浮かんだ。 おそらく一生身に着けることはないだろうと思っていた代物。そ う思って、先日クローゼットの奥深くに押し込んだばかりだ。 ︱︱︱まさか、こんなに早く使うことになるなんて⋮⋮。 沢田さんのしてやったりな笑顔が目の前にちらつく。 ︱︱︱恥ずかしい。でも⋮⋮。 それこそ顔から音を立てて火柱が上がりそうなほど恥ずかしいけ れど、今の私に用意できるものはコレしかなかった。 ︱︱︱恥ずかしいなんて言ってられないわ。 当日のお祝いとしてタカにあげられるものは、コレより他にない から。 大きく息を吸った。 タカの顔を見て堂々と言うには恥ずかしいので、視線は彼の膝辺 りを彷徨いながら告げる。 ﹁今の私に出来る精一杯のプレゼントを用意するから、ちょっと待 549 ってて﹂ ﹁え?あ、うん﹂ 私のセリフを良く飲み込めないタカが、戸惑いながらも返事をす る。 私は立ち上がって寝室に向かった。 壁に埋め込むように備え付けられているクローゼットを開ける。 捨てるに捨てられないバッグや服などを詰め込んだエリアに腕を 差し入れ、仕舞った小さな紙袋を取り出す。 それを見ただけで、既に私の顔が真っ赤になっている。 ︱︱︱やっぱり、やめようか⋮⋮。 という迷いを、大きく首を振って追い出す。 せっかくこうして誕生日当日に会っているというのに、何もお祝 いしないのでは私の気が済まない。 ︱︱︱ええい、女は度胸よ! 拳をグッと握り締め、勢いよく立ち上がった。 リビングに取り残されたタカは、困惑気味の顔で戻ってきた私を 見る。 ﹁みさ子さん、どうしたの?さっきも言ったけど、プレゼントのこ となら気にしないでいいんだよ﹂ ﹁うん。でも、私はお祝いしてあげたいから。それで、ちょっとお 願いがあるの﹂ 紙袋を見られないように後ろ手で隠し、タカに申し出る。 ﹁お願い?﹂ ますます訝しい表情になるタカ。 ﹁寝室に行って、待っててくれる?十五分、いえ、十分したら私も 行くから﹂ ﹁へ?いいけど⋮⋮﹂ 550 タカは盛大に首を捻りながらも、言われるままに寝室へと向かっ た。 それから私は大急ぎでシャワーを浴びた。 本当はシャワーを浴びるだけでも二十分近くはかかる。それをあ えて短い時間で言ったのは、グズグズしていたら決心が鈍ってしま うから。 髪を洗いたいところだけど、乾かしていたら時間がなくなってし まうので、とりあえず体だけを洗う。 勢いよくシャワーで泡を流し、手早く体を拭く。 まだしっとりと水気の残る肌に例の下着を身に着けた。恥ずかし いので、鏡を見ないように気を付けながら。 そして、下着を買った時に沢田さんから押し付けられるように渡 されたバスローブに袖を通す。 彼女の予想通りに事が運び、ありがたいやら悔しいやら。永瀬君 同様、本当に油断ならない人物だ。 ローブの紐を結び、小さく﹁よしっ﹂と声を出してから洗面室を 後にした。 寝室の扉を細く開けて、中の様子を窺う。 タカは落ち着かない様子でうろうろと歩いていたが、顔だけを覗 かせている私に気がついた。 ﹁ねぇ、みさ子さん。これから何があるの?﹂ 困ったように眉を寄せて尋ねてくる。 ﹁だから⋮⋮、あなたに誕生日プレゼントを渡したいの。あ、あの ⋮⋮、明かりを少し落とすわね﹂ 扉から手だけ忍び込ませて、入り口付近のスイッチに触れる。 いくら決心したとはいえ、煌々とした明かりの中でこの姿をさら す度胸はない。 551 照明を絞り、徐々に薄明かりに包まれる寝室。 ﹁みさ子さん?﹂ タカがかなり困惑したように私を呼ぶ。 私は心臓が早鐘のように打ち付けているのを感じながら、ドアノ ブを静かに押した。 552 89︼バレンタイン狂想曲︵5︶お返しは⋮。︵後書き︶ ●はぁ、やっと舞台は整いました。次話からエロ魔神降臨です︵笑︶ みさ子さんは書いていて楽しいので、ついつい絡みのシーンにた どり着くのが遅くなってしまうんですよねぇ。 仕事はできるのに、ちょっぴり抜けている。そして、照れ屋で素直 じゃないところもあるけれど、可愛いところも持ち合わせている。 理想の女性像ですね。 そんなみさ子さんを乱れさせるのは、北川氏ともども楽しみです︵ ニヤリ︶ 553 90︼バレンタイン狂想曲︵6︶こぼれる胸 扉の隙間から恥ずかし気に滑り込んできたみさ子さんは、なぜか バスローブを着ていた。 ︱︱︱なんで?! 首を傾げている俺の前で、彼女はたどたどしい手つきでローブの 紐を解く。肌蹴た合間から見えたのは、下着だけを身に着けたみさ 子さんのバランスのいい体。 何より驚いたのは、初めて見る強烈にセクシーな下着姿。こんな 下着、いつ買ったのだろうか。 俺はポカン、と大口を開けて立ち尽くす。 ︱︱︱ど⋮⋮いうこと⋮⋮だ?俺の妄想が見せる都合のいい幻想? 錯覚かと思って瞬きを繰り返すが、彼女の姿は消えない。 それでも自分の目が信じられなくて、手の甲でグリグリと両目を 擦るものの、やっぱりみさ子さんは霞みも消えもしない。 ﹁み⋮⋮さ子⋮⋮さん?﹂ 呼びかける声のなんと弱々しい事か。 嬉しさを通り越して、ただ、ただ、驚愕。 超テレ屋な彼女がこんな事をするなんて、“ド肝を抜かれた”と いう以外にどう表現すればいいのか分からない。 寝室の薄明かりに白く浮かび上がる彼女の肌を覆うのは、やけに 布が小さいブラとパンティ。 黒地のレースに金刺繍のバラが散っているそのデザインは、俺の 理性を焼き尽くすほど強烈に色っぽい。 ゴクン、と俺の喉が鳴った。 何も言えずにいる俺にみさ子さんが先に口を開く。 ﹁これが、誕生日プレゼントよ⋮⋮﹂ 554 俯いたまま、今にも消え入りそうな声。 ﹁は?﹂ 俺は耳を疑った。 ︱︱︱今、プレゼントって言った?⋮⋮言ったよな!? そう告げる彼女は何も手にしておらず、プレゼントらしき物体は 見当たらない。 では、身に纏っているそのローブが俺へのプレゼントって事なの だろうか。 いや、それはありえない。彼女にぴったりのサイズであるバスロ ーブが、男の俺に着られるはずもない。 それならば、何を指して“プレゼント”なのだろう︱︱︱当然の 事ながら、面積の少ない下着たちは初めから除外してある。 頭の天辺からつま先まで彼女の全身をくまなく眺め、俺は一つの 答えに行き当たった。 ︱︱︱も、もしかして⋮⋮!? まさかとは思いつつも、ソレしか思い当たらない。 ﹁えと⋮⋮、みさ子さんがプレゼントってこと?﹂ 訊き返すと、彼女は小さく頷いた。 ﹁すぐに用意できるものっていったら、こんなつまらないモノぐら いしかなくって⋮⋮﹂ 自分でもとんでもない事をしているという自覚からか、語尾が尻 すぼみになってゆく。 視線を床に落としたままモジモジと恥ずかしがるみさ子さんを見 て、俺は再び息を飲んだ。 ︱︱︱つまらないモノだって!?これ以上素晴らしいプレゼントが この世にあるものかっ!! ところが過大な喜びが先立って振るえるあまり、何も言えない俺。 感激で言葉に詰まっていると、ネガティブ思考のみさ子さんはサ ッとバスローブの身ごろを重ねて肌を隠し、焦ったように口を開い 555 た。 ﹁あ、あのっ、やっぱり迷惑よね!?タカはあんなに綺麗なネック レスを用意してくれたのに、こんな私なんかじゃぜんぜんダメよね !?ごめんなさいっ﹂ パッときびすを返して出て行こうとするみさ子さんへととっさに 腕を伸ばし、後ろから抱きしめた。 突然の事に驚き、みさ子さんの動きが止まる。 ﹁⋮⋮タカ?﹂ 恐る恐る俺を呼ぶ彼女をさらに抱きしめると、ボディソープのい い香りが俺の鼻を掠めた。その香りをゆっくりと吸い込みながら、 穏やかに告げる。 ﹁迷惑じゃないよ。ダメじゃないよ。感動して声が出せなかっただ け﹂ その言葉に彼女はこわばりを解いて、そっと息を吐いた。 みさ子さんからプレゼントをもらうつもりなんて、毛頭なかった。 彼女から貰えるのであれば、品物が何だって喜んで受け取る。そ れが愛して止まない“みさ子さん自身”だというのであれば、どう して拒否できようか。 彼女がセクシーな下着を身にまとい、プレゼントだと言って自身 を差し出してくるなんて、夢のように幸せなシチュエーションだ。 これまでに何度も肌を重ねてみさ子さんを十分味わっているが、 全て俺からの誘いだったから、“みさ子さんが俺を誘う”という行 為がどれほど貴重なのか、存分に分かっている。 無垢な彼女に誰がこんな入れ知恵をしたのだろう。 沢田さんか、妹さんか。どちらであっても、とにかく感謝だ。 抱きしめていた腕を解き、彼女の肩に手をかけてこちらに向かせ 556 た。 そして両手で頬を包んで、そっと上を向かせる。 ﹁こんなに可愛くて綺麗で、何より色っぽいプレゼントを喜ばない はずないって。ああ、もう、嬉しすぎて頭がどうにかなりそうだよ﹂ 正面から抱きつくと、腕の中のみさ子さんは弱々しく俺のワイシ ャツを掴む。 ﹁嬉しいって⋮⋮本当?﹂ ﹁本当だって。ほら、分かるでしょ?﹂ 俺は自分の腰をグッと彼女に押し付ける︱︱︱欲情を表す熱く硬 い存在を。 それを感じてみさ子さんの顔が一際赤くなる。 ﹁えっ?!いや、あの⋮⋮﹂ 独特の硬さを持ったソレを押し当てられ、焦りだす彼女。 ﹁自分からそんな格好をしておいて、何も起きないと思ってた?﹂ ニヤリと意味深な笑みを浮かべて問えば、ギクッと彼女の肩が揺 れる。 ﹁そ、それは、その⋮⋮﹂ みさ子さんは視線をさまよわせて、戸惑いを露わにした。彼女が 想像していた以上に、俺の顔は意地悪なようだ。 だが、ここで逃がしてしまうような俺ではない。 素早く彼女を横抱きにする。 ﹁今夜はみさ子さんに誘われちゃったし、俺、頑張っちゃお∼♪﹂ ﹁え?え??﹂ 目を白黒させている彼女をさっさとベッドに連れ込んだ。 下ろした彼女の上に膝立ちでまたがり、俺はネクタイに指をかけ てシュルリと引き抜く。ワイシャツとその下に着ていた白いTシャ ツも勢いよく脱ぎ捨てた。 557 あっという間に上半身裸になる俺。 それを見たみさ子さんは慌てて起き上がろうとするが、俺はその 肩をベッドに押し付ける。 ﹁ちょ、ちょっと、離してっ﹂ ︱︱︱この期に及んで今更何を言い出すのかなぁ、この愛しい彼女 は。 慌てっぷりが可愛くて、クスクスと笑いが漏れる。 逃がしてやる気は微塵もない俺。ガッチリと肩を押さえ込み、上 から見下ろした。 ﹁この俺が、この状況でみさ子さんから離れると思う?﹂ ﹁いや、でもっ。ほ、ほら、急な仕事が入ったから、今夜は疲れて いるでしょ?﹂ 往生際の悪いみさ子さんはどうにか逃げようと、俺の説得を試み る。 今の俺の様子から、このままいけば普段よりも濃密なセックスに なる事をみさ子さんは嗅ぎ取ったようだ。 ﹁私は逃げないし、また日を改めて。ね?﹂ 必死にお願いしてくるみさ子さん。 その様子も可愛いが、こんなにもセクシーな彼女を目の前にして、 俺が﹃はい、そうですか﹄と言うことはない。 ﹁お風呂入ってきたら?さっぱりするわよ。タカが好きな石鹸、用 意してあるからっ﹂ なおも言い募る彼女を笑顔のまま睨む。 ﹁うるさい口は塞ぐよ?﹂ しぶとく抵抗を見せる彼女にゆったりとのしかかり、ちょっと乱 暴に唇を奪った。 ﹁タカ!待って⋮⋮﹂ 抗う言葉が俺に飲み込まれてゆく。 ﹁ん、んんっ﹂ くぐもった彼女の声が漏れ聞えた。 558 触れるというよりは押し付けるといったほうが正しいキス。 みさ子さんは身をよじったり手足をばたつかせたりして逃げ出そ うと試みているが、そんなものはかえって俺の興奮を煽るだけ。 俺はさらに深くキスをする。彼女の抵抗や正気を奪いつくすよう に、深く、強く。 舌をいやらしく絡ませ、強く吸い寄せては時折唇を甘噛みしてや る。 ﹁ふぅ⋮⋮ん﹂ やがて艶っぽい響きを含んだ吐息が聞えて、始めのような抵抗は なくなってきた。しかし、油断するとみさ子さんは俺の腕から抜け 出してしまうだろう。 セックスに慣れないみさ子さんは、イヤではないのに恥ずかしさ のあまり毎度逃げだそうとするのだ。 ︱︱︱ま、そんな時は逃げようって気を起こせないくらい感じさせ ちゃえばいいんだけどね。 今夜ももちろんそのつもりである。 身をはがした後、弱々しい力で抵抗を示してくる彼女の腕を手首 の辺りでまとめ、左腕一本で彼女の頭上に持ってゆく。 ﹁やめ⋮⋮て⋮⋮﹂ 俺に顔を覗き込まれ、羞恥で彼女の瞳が潤む。しつこく重ねた唇 は赤みを増した上にしっとりと濡れ、淫靡に俺を惑わせる。 ﹁みさ子さんから誘っておいて、“やめて”って言うのはおかしい んじゃない?﹂ クスクス。クスクス。 目を細めて笑う俺の顔は、きっと相当に意地悪く見えただろう。 みさ子さんにとっては﹃悪魔の微笑み﹄と言ったところか? とはいえ、彼女をいじめて喜ぶ趣味は俺にはない。嫌がる女性を 559 暴力などで押さえ込み、無理矢理犯すことにエクスタシーを感じる ことは一切ない。 感じるポイントは人それぞれだから、そういう嗜好の人をどうこ う言うつもりはないが、そういうことに魅力は感じない。 俺はただ、恥ずかしがりながらも乱れるみさ子さんを見るのが好 きなだけだ。 単にいじめるのではなく、深くて大きい俺の愛情を存分に使って 彼女の官能を昂めてゆくのだから、その点は問題はない。最終的に みさ子さんも満足するんだしね。 という事で、俺は早速みさ子さんを攻めることにする。 腕を上げたことで背筋が伸び、ブラジャーから胸がこぼれ出る。 元々、隠すというよりも下から支える程度にしか覆われていなかっ たのだ。ちょっと動けばはみ出てしまう。 淡く薄紅に色付いた乳首が黒いレースからこぼれて、ちょこんと 顔を覗かせていた。 ﹁ふふっ、見えちゃったね﹂ 色っぽい下着がイイ感じにずれて、乳首はその存在を俺の目前に 晒している。 まだ弄っていないというのに、二つの突起は既に硬さを持ちつつ あり、ツンと立ち上がっていた。 ﹁ね、みさ子さん。ココ、もう感じてるみたいだよ?﹂ 俺は右の人差し指で左の乳首の先をそっと突付いた。 ﹁あ⋮⋮﹂ 掠める程度にしか触れていないのに、いつもと違う格好をした彼 女はいつも以上に感じやすくなっているようだ。 指先だけでクルクルと撫で回し、徐々に膨らみ硬さを増すその感 触を楽しむ。 ﹁こっちの乳首だけ大きくなってきたよ。一回りくらい違うねぇ﹂ 560 下着からはみ出した胸は全裸時よりも壮絶に色っぽい。 ︱︱︱こういう中途半端さが逆にソソるんだよなぁ。 そんな彼女の姿を堪能しながら、乳首を弄る。爪先で引っかいた り、親指と人差し指を合わせるように擦ると、ビクンと彼女の体が 跳ねる。 ﹁んんっ!﹂ 俺から与えられる刺激から逃げようと体をひねろうとしているが、 手首は押さえつけられ、右半身は俺が体重をかけているのでどうす る事も出来ないみさ子さん。 ﹁や、やめ⋮⋮て﹂ 綺麗な眉を寄せて懇願してくる仕草さえ、俺を惑わせる。 もっと俺を惑わせて。 もっと乱れるみさ子さんを見せて。 俺は赤みを濃くした乳首を指先でピンっと弾いた。 ﹁あうっ、うう⋮⋮﹂ 顎を仰け反らせて、みさ子さんが低くうめく。 ﹁今日は反応がいいね。嬉しいなぁ。これからどうしようかなぁ﹂ 一人ホクホクと喜んでいると、みさ子さんが睨んできた。 ﹁どうもしなくていいから。腕、離して⋮⋮﹂ ここまで来て、彼女はまだ俺から逃げようとしている。 ﹁えー、それはヤダ。離したら、みさ子さん逃げそうだし。それに まだ俺はプレゼントを味わってないしさ。夜は長いんだから、じっ くり堪能させてもらわなくっちゃね﹂ ニコリと笑いかけると、乳首への攻めを再開した。 二本の指でクニクニと弄りながら引っ張ると、みさ子さんは浅い 喘ぎを繰り返す。 ﹁はぁんっ、あ、あん⋮⋮﹂ その声はどう聞いても嫌悪しているようには思えない。 561 ﹁ほら、気持ちいいんでしょ?乳首が硬くてコリコリしてるよ。色 もだいぶ赤くなってきたしね﹂ 目前の乳首をじっくりと観察していると、みさ子さんが少し暴れ だす。 ﹁イヤッ、見な⋮⋮い⋮⋮で﹂ ﹁こんなに綺麗なのに、どうして見たらダメなの?﹂ 口元だけを緩ませてクスリと笑うと、みさ子さんは眉をキュッと 寄せる。 ﹁タカ、お願い⋮⋮﹂ 見られるということに激しく羞恥を感じるみさ子さんは、今にも 泣き出しそうに目を潤ませている。そんな彼女の声に、これ以上の 視姦はやめることにした。本当に嫌がる事はやめてあげないと。 ﹁ん∼、よし分かった。もう見ないよ﹂ が、大人しく引き下がる俺ではない。 ﹁⋮⋮その代わり﹂ 手首を放し、両手で彼女の肩をガッチリ掴む。 ﹁あ、あの、タカ?﹂ 瞳を揺らせて俺を呼ぶみさ子さんの唇に、チュッとキスを落とし て笑顔を浮かべた。 ﹁舐めたり吸ったりするよ。それならいいよね?﹂ ﹁えっ?﹂ 俺は素早く顔を移動させ、目を閉じて片方の乳首の先を舌で突付 く。 ﹁だめっ、いや、ん。あ⋮⋮あんっ﹂ 抗議の後半が喘ぎに変わった。 562 90︼バレンタイン狂想曲︵6︶こぼれる胸︵後書き︶ ●やっぱり愛ある意地悪Hは書いていて楽しいですねえ。 初H編はかなり抑え込んで書いたので、今回はようやく北川君の 本領発揮といったところでしょうか︵ニヤリ︶ あ、もちろんここで終わりではありませんよ∼。 細かい下書きをしていないのではっきりとは言えませんが、こう いった感じでイチャつく二人が当分続きます。 みさ子さん、頑張れ︵苦笑︶ 563 91︼バレンタイン狂想曲︵7︶濡れた秘部 舌先を尖らせて立ち上がっている乳首の先に押し当てると、押さ れた乳首が柔らかい乳房に少し埋もれる。 そのままの状態で舌を左右に動かすと、みさ子さんはその度に甘 い吐息を洩らしている。 膨れ立つ乳首は先程よりもさらに色味も大きさも増し、俺の官能 を激しく沸き立たせる淫らな実へと成熟した。 ﹁あ、あぁ⋮⋮﹂ 肩を押さえつけられて腕の自由が奪われているみさ子さんは、自 由になる指先を握り締めて押し寄せる刺激に耐えている。 その様子を肌で感じ取り、俺の下半身の辺りがズクンと疼いた。 恥辱に耐える彼女の姿は、どうしてこうもソソるのだろうか。 “少しでも快楽に溺れないように”と、綺麗で品のある唇を噛み 締めているみさ子さんの様子をまぶたの裏に思い描くだけで、体の 中心から歓喜とも思える感情が染み出るように湧き、武者震いでゾ クゾクする。 こうしてジワジワと追い詰めるようにみさ子さんを攻める間に、 この悩ましい姿を少しでも長く楽しみたいと思う“俺”と、熱く猛 る俺の欲情を突き立ててもっと乱れる彼女を見てみたいという“俺 ”が頭の中で大暴れし、互いの主張を通そうとする。 毎度繰り返される“俺論争”は、その時の雰囲気で結論が出る。 みさ子さんが恥ずかしがっても、その結論が揺るぐ事はない。 ︱︱︱今夜は⋮⋮、じっくりと楽しむことにしようかなぁ。 なにしろプレゼントと称し、悩殺下着を纏って俺に身を差し出し てきたのだ。その下着も彼女の体も心ゆくまで堪能しなくては、み さ子さんに失礼ではないか。 564 幸い、今日は土曜日。 明日は昼頃起きても、遅刻にはならない。 ︱︱︱とりあえず今は。 先程の言葉通り、目を閉じたまま彼女の体を味わう事にする。 約束を守って俺が見ていないと分かっているからか、みさ子さん の体から緊張が少しずつ薄れていた。 全てが俺の欲望のままに進めようとは思っていない。 彼氏と彼女の立場は対等だ。 年齢や社会的立場、ましてや腕力で優劣は付けられない。 対等でいられない関係など、恋人同士とは呼べないと思っている。 俺の思うままに行動する代わりに、みさ子さんの願いも聞き入れ る。 それが俺達のセックスでのルール︱︱︱時折、いや、しばしば﹃ みさ子さんに不利な展開になっているのでは?﹄という突っ込みは 控えていただきたい。 これでも、みさ子さんが本気で嫌がることは即座にやめているん だからさ。 目を開けてしまいたい衝動を堪えつつ、俺は彼女の下着をどのタ イミングで取り去ろうか考える。 愛撫というのは、何も手や唇で触れる事だけではない。 服を脱がすという行為も、やり方によっては官能を高める重要な 前戯になりうるのだ。 ︱︱︱ん∼。でも、このまま脱がさなくてもいいか。下着をつけた ままのセックスって、逆に燃えるかも。 後に訪れるめくるめく官能のひと時を想像し、フッと小さな笑い が漏れた。その息が彼女の乳首の先端を掠める。 565 ﹁ん⋮⋮﹂ たったそれだけのことでも、みさ子さんは感じ取る。 本当に彼女は胸を弄られるのが弱いのだ。 首筋も耳元も触れられる事に弱いけれど、さらに弱いのが形のい い胸を飾る赤い二つの実。 クリトリスと同じくらい反応を示してくれるので、つい弄り倒し たくなってしまう。 まぁ、そうした思いを実行に移したところでそれを阻む者はいな いのだから、遠慮なく弄らせていただこう。 ザラリとした感触の舌で乳首の先をしばらく舐めまわす。 下から掬うように舐めあげるたびに乳首は根元からクニャリと折 れ、弾力を持つがゆえに立ち上がり、また舐められては角度を変え る。 何度も何度も繰り返す。 子供が心待ちにしていたおもちゃを与えられた時のように、飽き ることなく何度も。 やがて、舐めていた乳首をおもむろに口に含む。 ﹁はぁんっ!﹂ みさ子さんが首を横に振って、抵抗を示した。 もちろん、俺の動きが止まる事はない。 口の中で転がすように乳首を舌で弄り、思い切り吸い付いた。 敏感になってきたところに与えられた刺激は強かったらしく、み さ子さんの体がビクッと震える。 ﹁く、んん⋮⋮﹂ 耐え忍ぶ彼女の声。 目を閉じているのでその表情は見えないが、おそらく愁眉を寄せ て瞳を硬く閉じているのだろう。 ︱︱︱快楽に流されちゃえば楽になるのになぁ。 なかなか“理性”や“羞恥”の枷が外れず、ひたすら耐える彼女 566 につい意地悪な笑みを浮かべてしまう俺。 とはいえ、そういうみさ子さんだからこそますます俺の欲情が猛 り、ますます彼女が欲しくなるのだ。 彼女の何もかもが、俺を捕らえる甘美で優美な鎖。 その鎖に雁字搦めになることは屈辱でも、絶望でもない。むしろ 自分からその鎖を幾重にも巻きつけていると言っても過言ではない。 ︱︱︱俺がそう思っているのと同じくらいに、みさ子さんも俺に囚 われてくれたらいいのに⋮⋮。 そう願いを込めて、俺は彼女を快楽の淵に引きずり込んでゆく。 彼女の胸を舌や唇で攻めながら、右手を下に移動させる。 もう、彼女を押さえつける必要はない。 ここまで来たら、みさ子さんは逃げようとは思っていても体の自 由が利かないほどになっているのだ。 逃がさないためではなく、触れ合うために空いている左腕でみさ 子さんをそっと抱き寄せた。 するとまだ完全に溺れてはいない彼女は、俺の胸を弱々しいなが らも押し返してくる。 ︱︱︱なかなか頑張るなぁ、みさ子さん。 しぶとく理性を保つ彼女を陥落させるのも、セックス中の楽しみ の一つ。気高い彼女が艶めく女性へと変貌する瞬間に見せる表情は、 いつでも見惚れるほどに綺麗なのだ。 今夜もその姿が見られると思うだけで、つい、笑みがこぼれてし まう。 567 ウエストラインに指先を滑らせ、徐々に秘部を覆う小さな布を目 指す。 臍の上部を掠めて腰の括れを通り、軽く浮き出ている骨盤を一撫 でしてから目的の場所に到達した。 ソコはしっとりとしていて、いつもより薄い生地の下着は湿ると いうよりも濡れるという表現が相応しい。 下着の上からワレ目をなぞると、みさ子さんは最後の抵抗とばか りに太ももを閉じてくる。 ﹁そんなこと、無駄だって﹂ フゥッと耳に息を吹きかけるように囁いて首筋に舌を這わせると、 小さく身震いをしたみさ子さんの脚の力が緩んだ。 俺は難なく指を侵入させる。 ザラザラとしているレース地は、軽く触れるだけでも刺激を与え る。それを分かった上で、膣口の辺りに指先をグッと押し込んだ。 ﹁あんっ﹂ みさ子さんが啼く。相変らずいい声だ。 その声をもっと聞きたくて、生地ごと指をねじ入れる。 左右にひねりながら押し込むと、中指の関節一つ分くらいが秘部 に埋もれた。 今のみさ子さんにとって、滑らかな指先で触れるられるだけでも 十分にたまらない刺激なのだ。 それをざらつく布地ごとねじ込まれ、オマケに敏感な秘部をグリ グリと抉られば腰が跳ね上がるもの当然。 ﹁いやっ、ああっ!!﹂ 激しい刺激にみさ子さんは俺の首に腕を回し、キュッとしがみつ いていた。 それがまた嬉しくて、俺はねじ込む手を休めない。 弄られるたびに愛液は溢れ、埋め込まれた箇所はもちろん、その 周辺の布地にも湿り気は広がっていった。 568 91︼バレンタイン狂想曲︵7︶濡れた秘部︵後書き︶ ●どうにかこうにか進んでいます。皆様、お楽しみいただけてます でしょうか? 新システムになってから感想が気軽に書き込めなくなり、読者様の 反応が分からないため毎回ビクビクしながら投稿しております。 根っからの小心者なのですよ、みやこは︵苦笑︶ 読者様も登録制となったので、コメント荒らし対策にはいいので しょう。ですが、どなたでも気軽に感想を書き込めるのがノクター ンやムーンのいいところだったのになぁ、とちょっと残念に思う今 日この頃です。 まぁ、﹃自分が楽しむために小説を書いている﹄というのが基本 スタンスのマイウェイ作者︵笑︶なので、感想がなくてもこの作品 は最終話まで書き上げますよ。 やはりみやこにとって小説を書くことは食事や睡眠と同じように、 生きていく上で大切なこと。いい気分転換であり、自分を支える要 素でもあります。いつまで経っても至らないところまみれですが、 この先もお付き合いくださると嬉しく思います。 569 92︼バレンタイン狂想曲︵8︶淫靡な肢体 ヌチュッ、ヌチュッ⋮⋮。 手を休めることなく動かすと、やはり淫音もとめどなく聞えてく る。そして、みさ子さんの喘ぎ声も。 ﹁ん、んんっ⋮⋮、はぁ﹂ 秘部を下着ごとかき回される刺激に翻弄され、軽く左右に頭を振 り、悩ましげな声を上げている。 ざらつく布越しの刺激がたまらないらしく、いつも以上に愛液で 濡れそぼっていた。 ﹁ふふっ、グチャグチャに濡れちゃってるね﹂ 意地悪く声をかけるとみさ子さんは殊更顔を赤らめるが、抵抗す る気力はないらしい。うねるような快感に体の自由を奪われ、され るがままになっている。 ︱︱︱もうここまで来たら、下着が濡れるとか汚れるとか気にしな くていいよな。みさ子さんもそんなことに気を回している余裕なさ そうだし。 既にぐっしょりと濡れている布地を見て、一人で﹃今更だよな﹄ と苦笑した。 俺は中指で膣口の辺りをまさぐりつつ、親指の腹で十分に肥大化 しているであろうクリトリスをさすった。 ﹁あうっ⋮⋮﹂ みさ子さんの腰が浮いた。 普段指先でちょっとつついただけでも、いい反応を示す彼女。レ ース地の上から擦られては刺激が強すぎるようだ。 もちろん、それを分かってやっている俺。 ﹁どう、みさ子さん。いつもより気持ちいいでしょ?﹂ 570 みさ子さんの顔を覗き込む。彼女の瞳は快感と熱に潤み、そのま なざしだけで俺を捕らえた。 ︱︱︱ホント、いい顔するよなぁ。ますます惚れちゃうよ。 彼女からはどうにも抜け出せない自分がおかしくて、自然と顔が 緩む。 ︱︱︱おっと。まったりするのは後、後。今はみさ子さんと、そし て俺も気持ちよくならなくっちゃ。 疎かになっていた手の動きを再開する。 ﹁みさ子さんはココをこうされるのが好きなんだよねぇ﹂ ほくそ笑みながら、ぷっくりと膨らんだ淫芽を円を描くように親 指でグリグリと押しつぶした。 ﹁いやぁっ、あ、ああっ!!﹂ あまりに大きすぎる快感は時に恐怖すら覚えるようで、みさ子さ んは俺の肩に必死でしがみつく。 でもそれは絶頂を迎える前の彼女の無意識の行動。本当に嫌がっ ていたり、怖がっているわけではない。 そろそろもう少し強目の刺激をあげてもいい頃合いだろう。 愛液で十分に潤っていても、俺のペニスを受け入れるにはまだま だ彼女に負担がかかる。だから一度イカせて、無駄な力を抜いた状 態で挿入するのが常。今夜もそのつもりで、クリトリスや膣口を休 まず攻める。 ﹁ふっ、ん、んん⋮⋮﹂ 眉を寄せ、喘ぐ声もさらに艶を増しているが、まだイクには至ら ない。 俺はいったん手を放し、彼女の左足の股の隙間から指を差し入れ た。 十分すぎるほど愛液で潤っている秘部は難なく二本の指を飲み込 み、ツプツプと根元まで侵入を許す。 ﹁うぅ、ああ⋮⋮ん﹂ 鼻にかかった独特の嬌声が寝室に響く。だが、まだだ。 571 膣壁を擦るように、指を抜き差しする。 俺はチラリと彼女の下腹部に目を向けた。 下着の股の部分を強引に横にずらして出入りする俺の指が、彼女 自身から溢れる愛液でヌラヌラと怪しく光を帯びている。その辺り の恥毛も同様に濡れている。 目の前にあるブラからはみ出た乳房が、俺の指の動きに合わせて 小さく震えていた︱︱︱﹃見ないで﹄という彼女の言葉を忘れた訳 ではないが、この状況でみさ子さんは俺の動向を把握できるはずも ない。なので、しっかりじっくり眺めている。 それにしても、なんと淫靡な光景だろうか⋮⋮。 そんなみさ子さんを見るだけで俺のほうがイッてしまいそうにな るが、それでは意味がない。今はみさ子さんをイカせることが優先 なのだ。 俺は二本の指を激しく抜き差しし、さらに怪しい水音を立てる。 クチュッ、ジュプッ⋮⋮。 彼女のナカが絡みつくように俺の指にまとわりつき、さらに水音 が大きくなる。 ﹁あっ、あぁ⋮⋮﹂ 俺の肩にある彼女の指に力がこもりつつある。 ︱︱︱もう少しだな。 俺は切なく揺れている乳首の一つに吸いついた。とたんに、ナカ を弄っている俺の指が締め付けられる。 みさ子さんは声もなく、息を飲むだけ。 唇でつぶすように乳首を挟み、時には優しく歯を立て、時には思 い切り吸い上げる。 ﹁いやっ、タ、タカっ!も、もう⋮⋮﹂ 痛いほどに硬くなった乳首をねっとりと舐めまわし、そして秘部 に侵入させた指で容赦なくかき混ぜた。 572 半身に俺がのしかかっているにもかかわらず、みさ子さんの腰が 何度も浮き上がる。 彼女が絶頂を迎えるのも後わずかだ。 ﹁みさ子さん、イッちゃいなよ﹂ ニッと笑って、俺は親指でクリトリスを弄りつつ、挿入させた指 で彼女のイイ所を重点的に擦りあげる。 ﹁あっ、だ⋮⋮、だめぇっ﹂ 食い込むほど俺の肩にしがみつき、みさ子さんが悲鳴じみた声を 上げる。 ﹁あ、ああっ⋮⋮!!﹂ そして、ほどなくして彼女のほっそりとした指たちが俺の肩から 滑り落ちた。 うつろな瞳で浅く喘ぐ彼女をベッドに残し、俺はゴムを装着する。 再びベッドに戻り、力なく四肢を投げ出している彼女を膝立ちで 見下ろした。 スレンダーでありながら、しっかりと女性らしい丸みを帯びてい るみさ子さんの姿態。ただでさえ色気抜群なのに、着崩れたセクシ ーな下着がさらにその色気を激増させている。 ︱︱︱ああ、もう、たまんねぇ。 圧倒的色香を放つ彼女の全てを手に入れたくて、俺は彼女の脚を 持ち上げて肩にかける。 パンティの股の部分を指で少しずらし、脇からいきり立つペニス の先端を膣口にあてがった。 下着をつけたままの彼女に挿入する事はどことなく背徳感を煽り、 573 俺の欲情がやおら盛り上がる。 ﹁んっ⋮⋮﹂ 大きく脚を持ち上げられ、みさ子さんがわずかに身じろいだ。 そのなんでもない仕草でも、俺を惑わせる。それほど今夜のみさ 子さんは凶悪なまでに艶っぽい。 そんな彼女が他でもない自分を愛してくれているのが、たまらな く誇らしい。 幸福感を感じながら、腰を少し前に出す。 ﹁みさ子さん、入れるよ⋮⋮﹂ 一声かけてから、俺は熱い怒張をそっと飲み込ませる。 十分すぎる愛液と指での愛撫で、みさ子さんの膣口はやんわりと 俺を迎え入れる準備が出来ているはずだった。 だが、張り出している先端は簡単には入り込めない。そこをちょ っとばかり無理矢理に 入れる。 柔らかくも締め付ける入り口をこじ開け、ペニスの先をヌプリと 差し込んだ。 ﹁う⋮⋮﹂ みさ子さんの口から低くうめくような声が漏れる。 でも苦痛とは違う声音に、俺はそのまま腰を推し進めた。 ズ、ズズ⋮⋮。 指で慣らしたとはいえ、猛る俺のペニスはかなり肥大化していて、 みさ子さんのナカを半ば強引に押し広げるように進む。 どうも今夜のみさ子さんはずいぶん締め付けてきているような気 がする。 それは身に付けた事のない下着を纏っていて、どうにもならない 興奮が渦巻いているからか。 それとも、そんな彼女を見て、いつも以上に俺が興奮しているか らか。 574 どちらだろうか。 いや、どちらもだろう。 お互いが興奮し、それゆえに感度が上がっているのだ。 この調子では、みさ子さんがもう一度絶頂を迎えるまで俺が持つ だろうか。 ちょっと心配。 でも、それでもいいかと気を取り直す。 みさ子さんがイクまで、何度でも抱けばいいのだから。 ゆっくりと体重をかけ、ズブズブとペニスを侵入させてゆく。 締め付けのきつい膣壁の抵抗を感じながら、それでも奥まで到達 した。 ﹁入ったぁ⋮⋮﹂ 満足気な吐息が俺の口から漏れる。 とはいえ、この程度で俺が満足するはずもない。 早速腰を前後させると、彼女が悩ましい声を上げる ﹁ああっ⋮⋮﹂ 軽く腰を動かしているだけなのに、簡単にみさ子さんは啼き声を 上げる。 下着を着けたままのセックスなんて初めての経験だから、その羞 恥ゆえに感度が上がっているようだ。 ﹁ねぇ、気持ちいい?﹂ 擦り付けるようにペニスをナカで動かすと、みさ子さんが首を横 に振る。それは否定の動作ではなく、持て余す快楽に飲み込まれて いる証拠。 575 ﹁いつもと違うから、感じやすくなっているのかなっと﹂ いったん腰を大きく引き、そこから一気に突き込む。 ズン、と大きな衝撃が彼女を襲った。 ﹁はぁんっ!!﹂ 首筋を晒すように仰け反るみさ子さん。 ﹁ふふっ、すっごくいい眺め。色っぽいよ﹂ 彼女の腰をガッチリ掴みながら、俺は欲情を打ち付けた。 激しく体を揺さぶられ、みさ子さんのブラが少しずつずり下がる。 そして、パンティは抜き差しされるペニスによって、股の部分だけ 横に大きくめくれている。 中途半端に纏った下着が衝撃的に卑猥すぎる。 ︱︱︱本気で今夜は何回でも出来そうだな。 みさ子さんが聞いたら顔面蒼白になりそうな呟きを、心の中でそ っと洩らした。 576 93︼バレンタイン狂想曲︵9︶お楽しみはこれから?! ≪SIDE:みさ子≫ ﹁あっ、ん、んん⋮⋮、ふ、うぅ⋮⋮んっ﹂ 何度も何度も突き込まれて、私の口から零れる嬌声はこれ以上無 いほどの艶を含んでいる。 止めようとしても次から次へと快感が押し寄せ、甘い吐息混じり の喘ぎが絶えることはなかった。 タカと初めて体を繋げてから、約二週間が経っていた。 その間にも何度か抱かれていたけれど、それでも共に夜を過ごし たのは初めてのセックスを含めて、まだ片手ほど。 お世辞にも﹃セックスに慣れた﹄とは言えない私が、大きなうね りを持った快感に溺れてしまうには怖さがあった。 強すぎる良薬が時として体に害を与えかねない毒にも成り代わる 事と同じように、強すぎる快感は恐怖心を呼び起こす。 深海に引きずり込まれてしまいそうな底知れぬ恐怖を感じながら、 私は喘ぎ続けることしか出来なかった。 タカに突かれている箇所から広がるしびれるような快楽が全身に 広まり、今では自分の体が自由に動かせなかったから⋮⋮。 ある程度覚悟はしていたものの、自分のしていた覚悟などは取る に足らないことだと、体を妖しく揺さぶられながら思った。 今夜のセックスは想像以上に激しい。そして、しつこい。 ︱︱︱私、早まったのかしら?! 歳だけ重ねて性的経験など無かった私が“プレゼント”と称して この身を差し出したのは、失敗だったかもしれないと感じ始めてい 577 る。 それは、差し出した相手を嫌っているからではない。 彼を想うと胸の奥がくすぐったいような、苦しいような、なんと も言えない感覚が押し寄せてくるほど、タカの事が好き。 だから、抱かれる事が嫌だと思ったことは無い。彼と肌を重ねる 事は、まぁ、いまだに羞恥が拭えないけれど、嫌ではない。 ただ、この身を差し出す“相手”が悪かったのだ。 真面目一辺倒な私が今までに着た事が無いセクシーな下着に身を 包み、その下着を纏ったままセックスをする、という事がたまらな く私の羞恥心を掻き立てている。 タカが挿入する前に絶頂を迎え、そして挿入してから程なくして また絶頂を迎えた。既に二度も大波に飲まれているのだ。 なのに、三度目の大波がすぐ傍にまで迫っている︱︱︱その間に 押しよせた小さな波は、数え切れないほど。 いつもと違う状況が、こんなにも私の欲情を引き出している。 それはタカにとっても同じようで、熱が収まる様子をまったく見 せない。 これまではどんなに時間があろうとも、体力に余裕があろうとも、 私が二度の絶頂を、そしてタカが一度の果てを迎えたところでセッ クスは終わっていた。 なのに、今夜はタカの怒張は一向に収まる気配が無い。既に一度 は果てたというのに、私のナカで依然としてその硬さと熱を誇って いる。 ︱︱︱いったい、いつまで続くの⋮⋮!? 掴み所のない不安が頭を掠める。 ︱︱︱やっぱり、この下着を着けたのは失敗だったかも⋮⋮。 何かプレゼントをと、焦るあまりにこの身を彼に晒した事を改め て後悔。 578 いくら彼を愛しているとは言え、一晩で何度もイカされるのはち ょっと⋮⋮いや、かなり大変。 ﹁やっ⋮⋮、タ、タカ⋮⋮﹂ 執拗に追い上げられ、限界に近い私はこの身を深々と貫いている 彼に目を向ける。 ﹁お、お願い⋮⋮、も、もう⋮⋮﹂ ︱︱︱やめて。 と、私が最後の言葉を言う前に、タカはすかさず充血したクリト リスに親指を伸ばしてくる。 下着の上からではなく素手で直に、しかも少し強い力で触れられ、 まさに電流が走ったような衝撃を受けた。 ﹁はぁんっ!﹂ 殊更甘い声が大きく響く。 私の口は嬌声しか紡げず、静止の言葉は出口を失ってしまった。 ﹁あ、んっ!﹂ 体がビリビリとしびれる感覚を受け、﹃やめて﹄の一言が出てこ ない。私はシーツを握り締めて、唇を噛み締めて、何度も首を横に 振るだけ。 そんな私を見て、タカがニヤリと笑う。 ﹁なぁに、みさ子さん。言いたい事があるなら、最後まではっきり 言ってくれないと分からないよ﹂ 彼は肩に抱えあげた私の右足をがっちりと左腕で絡めとり、右手 はしつこくクリトリスを弄っている。なおかつ、タカの腰の動きが 止まる事はなかった。 淫芽もナカも同時に攻められ、私はなす術がない。 ただ、ただ、淫悦の波にユラユラと漂うだけ。 ﹁あ、ああっ、い、いやぁっ!!﹂ クニクニとクリトリスを弄られつつ、そそり立つペニスでこれま 579 で以上に激しく膣の奥の奥まで抉り込まれ、私は思わず悲鳴を上げ た。 ﹁も、もう、たまんない⋮⋮。今夜の⋮⋮みさ子さん、締まり⋮⋮ 過ぎ⋮⋮﹂ 激しく腰を突き動かしながら、途切れ途切れにタカが嬉しそうに 洩らす。 ﹁ひ、あぁっ!﹂ 大波が確実に私の間近へと迫っている事を察知し、口から飛び出 したのは乾いた悲鳴。 クリトリスをギュッと押しつぶし、私のイイ所を的確に、そして 力強く突き上げるタカがまたポツリと呟いた。 ﹁一生、このナカ⋮⋮から、出たく⋮⋮ないよ﹂ ︱︱︱い、一生?! 遠のく意識の中、タカのセリフが空恐ろしくて一瞬正気に戻る。 そんな恐ろしい事、間違っても実行してもらいたくない。一時間 ほどのセックスで、私は身も心もぐったりなのだ。 ︱︱︱これ以上は、ホント無理⋮⋮。 必死に力を振り絞ってどうにか逃げ出そうとするものの、タカの ペニスに膣内をグチュグチュとかき回され、戻った意識が再び駆け 足で遠ざかる。 視界も白濁してきた。 ﹁あ、ああ⋮⋮、だ、だめ、んんっ﹂ 絶頂前の条件反射のように膣壁が収縮し、ずっぷりと挿し込まれ ている彼自身を締め付けにかかる。 ﹁うっ﹂ タカが苦しそうに低い呻きを洩らした。 だが、さすがと言おうかなんと言おうか、彼の腰の動きは先程と 寸分変わらないほど激しく私を求め続けている。 ﹁みさ子⋮⋮さん、そんな⋮⋮に、締め付け⋮⋮ないで﹂ 締め付けるなと言われても、私が意識をして膣壁を動かしている 580 のではない。 ズブズブと彼のペニスに串刺しにされ、息も絶え絶えに喘ぐ事し か出来ない私にそんな事を言われても、どうしようもない。 ﹁まぁ⋮⋮、気持ちいいから⋮⋮いいけどね。さて⋮⋮、そろそろ 俺も⋮⋮イッておく⋮⋮かな﹂ 小さな苦笑交じりにタカが呟く。 肩に抱えていた私の足を下ろして左右に大きく広げた。 ﹁一緒に⋮⋮イこう⋮⋮ね﹂ 一言告げてから、タカは折り曲げられている私の左右の膝頭にチ ュッ、チュッとキスをし、私の腰をしっかりと掴む。 そして、いったん引いたペニスを大きく突き出した。 グジュッ⋮⋮! 湿った淫音が意識まどろむ私の耳にもはっきり届く。 ﹁はぁんっ!!﹂ 今日一番の衝撃が私の秘部に襲い掛かってきた。 キリキリと音がするほど、きつくシーツを握り締める。それでも タカの攻めは止まらない。 激しく突いて、突いて、一呼吸おく間もなく突いて。 ﹁あっ⋮⋮、はぁっ、くっ﹂ その激しさに、とうとうタカの口からも切れ切れの吐息しか出て こない。 最後のスパートとでも言わんばかりに、タカは私の体にいっそう 深く身を沈めた。 カチカチに硬いペニスで子宮の入り口を突き破るかのようにズブ ッ、ズブっと大きくえぐり上げる。 私は耐え切れずに目をギュッと閉じた。 何も見えないはずの目前に、白い光がチカチカと点滅する。 ﹁いやぁっ、あっ、ああっ⋮⋮!!﹂ シーツを握り締め、私の背が弓のように反った。 581 三度目の大波が、私を頭から飲み込もうと襲い掛かってくる。 ﹁あ、だっ⋮⋮だめぇっっ﹂ 子宮の辺りから大きなうねりが渦を巻いて全身に広がったのを感 じたのと、私の体の奥でタカが熱い欲情を放ったのは、ほぼ同時だ った。 私はゼイゼイと呼吸を繰り返し、必死で酸素を取り込む。 タカも肩で大きく息をしていたが、元々体力があるからなのか、 それとも若さゆえか、ほどなくして、呼吸を落ち着かせた。 ふぅ、と深い吐息と共に、タカがズルリとペニスを抜く。 ︱︱︱あ⋮⋮。 抜かれた瞬間になんとも言えない喪失感を覚えた。 さっきまであんなに私を苦しめていたモノだというのに︱︱︱そ れは苦痛としての意味でなく、あまりに大きすぎる快悦という意味 で。 でも、そんなことはタカには言わない。 言ったが最後、﹃それなら、寂しくないようにずっとナカに入れ ておこうか?﹄と、なりそうだから。 ﹁ちょっと待っててね﹂ そう言ってタカは欲情の果てを片付け、すぐさま私の横に戻って きて抱きしめてくる。 頬にかかっている私の前髪をそっと指先で払って、薄く開いてい る瞼にキス。 それから血流が止まるほどシーツを強く握り締めていた私の手に、 タカがそっと自身の手を重ねてきた。 582 その温もりを感じて、無駄に込めていた力が少しずつ抜けてゆく。 ﹁ちょっと無理させちゃったかな?﹂ いたずらっ子のように告げるタカ。 私はいまだに呼吸が整わず、何も言い返せない。 そんな私に柔らかく目を細めて、そして一言。 ﹁メチャクチャ気持ちよかったぁ﹂ 私の耳元で囁き、そして強く抱きしめる。 ボンヤリとした私の頭でも、心の底から出たセリフだと分かった。 超絶疲労困憊になったけれど、彼の口からその言葉が聞けたのな ら、恥ずかしさを押してこの下着を身に着けた甲斐があったという もの。 ︱︱︱よく頑張った、私。 心の中で、そっと自分を褒めた。 と、ホッとしたのもつかの間。 私がまだぐったりしているのをいいことに、タカが背中に手を伸 ばしてブラのホックをはずした。続いて“もはや濡れていない場所 などないのではないか”と思えるほど、濡れに濡れたパンティを脱 がせる。 そして、再び私を抱きしめてきた。 ﹁あ、あの、タカ?﹂ 恐る恐る彼の名前を呼ぶ私の目に飛び込んできたのは、なんとも 楽しげで、それでいて意地悪な光を浮かべた彼の瞳。 ﹁これでおしまいだなんて思ってないよね?﹂ ﹁⋮⋮え?﹂ 583 ︱︱︱どういう⋮⋮こと? 今日はいつもよりたっぷり、しっかり、どっぷり愛されて。 タカだって、さっき満足気に﹃気持ちよかった﹄って言ったのに。 ︱︱︱も、もしかして、まだ、続ける気なのっ?! 顔が引きつる。 血の気が失せる。 ﹁冗談よね?ね??﹂ しかし⋮⋮、私の懸念は残念な事に外れてはくれなかった。 タカがしっとりと唇を重ねてきて、差し入れた舌で私の舌を絡め 取る。それは欲情を呼び起こすように、優しく、甘い。 クチュリ、と音を立てて舌を強く吸い上げた後、タカが少しだけ 顔を離して私を覗き込む。 ﹁今度は下着を着けてないみさ子さんを抱かせて﹂ ︱︱︱は? 本気なのだろうか。 ついさっき果てたばかりだというのに。 これまた、私の懸念が外れる。 ﹁今夜の俺、どうかしてるかも。もう、こんなになってる﹂ タカは脱力している私の腕を取り、彼の下半身へと導く。 私の手に触れたのは、あっという間に硬さを取り戻している彼の アレ。 ︱︱︱えっ?!もう、復活してるの!? ﹁みさ子さんが色っぽいから止まらないよ。責任とってね♪﹂ パチン、と片目をつぶるタカ。 そんな彼を見て、私は口をパクパクさせるばかり。 ︱︱︱う、う、嘘でしょーーーーー!? 無邪気な顔をして微笑む彼の背後に、黒い翼と黒い尻尾が見えた 584 のは気のせいではないだろう。 再三に渡り彼のペニスに突き上げられて、私は“もう二度とこの 手の下着は身に着けない!!”と強く強く心に誓ったのだった。 585 93︼バレンタイン狂想曲︵9︶お楽しみはこれから?!︵後書き︶ ●バレンタイン編はこれにて終了。相変らずみさ子さんは北川君に 振り回されてますね︵笑︶ ワタワタと慌てる女性を書くのは楽しいです。もちろん、その根底 には彼氏の大きな愛情があるからこそ、楽しめるんですけどね。 ●新システムになってから読者様の意向が心配だったのですが、い つの間にやら評価ポイントが上がり、嬉しい限りです。 よかったです、飽きられてなくて︵苦笑︶ 感想と違って、ポイントのみだとどなたが加点してくださったのか 分からず御礼も言えずじまい・・・。 なのでこの場を借りて返礼を。 ﹁どうもありがとうございます!お礼に今夜添い寝に伺います︵爆︶ ﹂ これからも地道に執筆を続けます。 586 94︼スキーはお好き?︵1︶ペア宿泊券ご当選 二月もあと一週間でお終いとなった頃。 すっかり習慣となった就寝前のラブコールの最中、俺はある事を 思い出した。 ﹁そうだ!ね、みさ子さん、スキーに行かない?﹂ ﹃は?スキー?!どうしたのよ、急に﹄ これまで会社裏の空き地に集まる猫達について話していたのに、 急に話題が変わって、みさ子さんが驚いた声を上げる。 勤務中は相変らず鉄壁の女帝スタイルだが、俺の前ではこうして 感情を表してくれるようになった。 その様子から“俺の存在を受 け入れてます”ってことが分かって、すっごく嬉しい。 プライベートで一緒にいても、過去の彼女たちのように感情では 物を言わないみさ子さんだから、ふとした拍子に出てくる素のみさ 子さんが可愛くって仕方がない。 今、俺の横にいたら思いっきりギューッて抱きしめているだろう。 ﹃恥ずかしいからやめて﹄と言われても、離してあげない。 抱きしめるだけでは物足りないから、腕の中に閉じ込めてキスを して、耳元で﹁可愛いね﹂って囁いて、それから押し倒して、服を 脱がせて⋮⋮。 めくるめく官能パラダイスを脳内に浮かび上がらせていると、耳 元で俺の名前を呼ぶ声が。 ﹃タカ?タカ?聞いてる?どうして急にスキーに行こうなんて言い 出したの?﹄ おっと、今はみさ子さんと電話中だった。 長く苦しい片想いの末にようやく手に入れた、最愛の女性である みさ子さん。 587 そんな彼女が俺の恋人になってくれた事がいつまで経っても嬉し くて。いつでもどこでも彼女に触れていたいと思っているから、こ ういう些細な事でつい妄想が暴走してしまう。 気をつけなければ。 俺は軽く咳払いをして、話を続けた。 ﹁あ、えっと。半年前、商店街で買い物した時に福引券をもらって ね。それで、特賞ゲットしたんだ﹂ 本当は三等の黒毛和牛焼肉セットを狙っていたんだけど、今とな ってはこの□□スキー場ペア宿泊招待券の方が嬉しい。みさ子さん と初めての旅行︵お泊り付き︶が実現するかもしれない。 ﹁すっかり忘れててさ。有効期限を見たら、今年の三月いっぱいな んだよ。それで、もしよかったら一緒に行かないかなって﹂ ﹃それって、日帰り⋮⋮じゃないわよね?﹄ 不振そうな声で尋ねてくるみさ子さん。 ︱︱︱やっぱり、そこが引っかかるのか。 彼女とのセックスは回を追うごとに激しさとしつこさを増してい る事に、我ながら自覚はある。 みさ子さんは﹃一緒に泊まるとなったら、どれだけ求められるの か?﹄という不安に駆られている最中なのか。 もしかしたら断られるかもしれないが、騙して彼女を連れ出す事 なんてしたくないから正直に答えた。 ﹁うん、一泊二日だよ。三月初めならまだ雪も残ってるし、十分ス キーは楽しめると思うんだ。だから、第一週に行けるといいなって﹂ 何気ない口調を努めて、さらりと言う。 それに対して返ってきたのは短い言葉。 ﹃そう⋮⋮﹄ 一言洩らして、みさ子さんは黙り込んでしまった。 ︱︱︱泊まりは気が引けるのかな? それなら﹃セックスは控えるよ﹄と告げれば、彼女は安心するの 588 だろうか? でも、それは言えない。同じ部屋に寝泊りして、加減できる自信 がないことに自信満々の俺だから。 ︱︱︱なんか、無理っぽいよな。 彼女の返事を待っている間、一緒に行けない可能性を感じ始めた。 ︱︱︱まぁ、無理に連れて行くこともないか。チケットは岸にでも 売りつければいいし。 そんな事をぼんやり考えていたら、不意にみさ子さんが口を開い た。 ﹃それなら休みを取らないと無理ね。週末に行くとしても、土曜日 分は有給申請しないと。ただ、三月頭は駆け込みで申請が増えるか ら。都合よく休めるかしら?﹄ 総務部チーフらしい答えが返ってくる。 なぜかみさ子さんは泊まりということよりも、有給申請が気にな るらしい。 俺に抱かれる事に慣れてきて、セックスには拘らなくなってきた のだろうか。それならそれで、喜ばしい。 彼女の気が変わらないうちに、俺は話を進める事にする。 ﹁とりあえず申請してみようよ。それで、みさ子さん。何か予定は ある?﹂ ﹃予定はないけど⋮⋮﹄ 引き続き、あまり心よい返事ではない。 ﹁行きたくない?﹂ 静かに尋ねると、すぐさま﹃違う﹄と返ってくる。 ﹃そうじゃないわ。15年くらい滑ってないから、どうかしらと思 ってね﹄ 電話の向うで﹃久し振りすぎて、滑るより転ぶ方が多いかも﹄と、 独り言を呟いているみさ子さん。 589 ︱︱︱よかった。俺と行きたくない訳じゃないんだ。 ホッと胸をなでおろし、みさ子さんに優しく声をかける。 ﹁それなら心配しないで、俺がそばに付いてるから。毎年滑ってる し、結構上手だと思うよ。特に大学時代はかなりの勢いで滑り込ん で、インストラクターの資格が取れるかもってぐらいの技術は身に 着けたんだ﹂ 小学生の頃、親戚の伯父さんに東北の某スキー場に連れて行って もらって以来、すっかりスキー魅力に取り付かれ、毎年最低一回、 多い時は三回ほど滑りに行く。 夏場はグラススキーや室内スキー場で滑っているから、腕は落ち ていないはず。 ﹃へぇ。タカって何でもできるのね﹄ 掻い摘んで俺のスキーストーリーを話すと、素直に感心した声が 返ってくる。 みさ子さんは感情表現が豊かではないけれど、それはけして性格 が捻くれているという事でも、無感動という事でもない。 本当は素直で優しい女性。 人の実力を真っ直ぐに受け止め、それが年齢や性別に関わらず、 自分よりも優れた人を素直に賞賛できる女性。 ただ、過去の失恋の経験からネガティブ思考だったり、自己表現 が下手ってだけ。 まぁ、俺からすると他の男に愛想振りまかれるのはイヤなので、 男に対して無愛想な点は諸手を上げて大賛成である。 590 ﹁何でもって訳じゃないけど、運動神経は割りといいほうだからさ﹂ ﹃ふふっ、それなら安心して教えてもらえそうね﹄ ﹁ドンと任せなさい。みさ子のためなら、親切丁寧に手取り足取り 腰取りでみっちり個人教授してあげるよ♪﹂ 楽しげに言うと、案の定、声をひっくり返すみさ子さん。 ﹃こ、腰取り!?﹄ 電話の向うでは目を白黒させていることだろう。そんな彼女の姿 を想像しておかしいやら、愛しいやら。 ﹁あははっ、それは冗談。人目のあるスキー場でそんなことしない って。俺はそこまで節操ないじゃないよ﹂ あまりふざけていると﹃じゃあ、行かない﹄とみさ子さんが言い 出しそうなので、この辺でおふざけはお終い。 ﹁じゃぁ、三月の第一土曜日に有給取って行こうか﹂ ﹃え、ええ。そうね﹄ まだドキドキした感じの返事だったが、否定ではなかった。 俺は携帯電話を握り締めながら、ガッツポーズをする。 ︱︱︱よし、みさ子さんとの初旅行だ! ﹁楽しみだなぁ。⋮⋮おっと、もうこんな時間だ。そろそろ寝なく ちゃね。おやすみ﹂ 電話を切ろうとした時、躊躇いがちに声がかかった。 ﹃あ、あの⋮⋮﹄ 恥ずかし気にくぐもった彼女の声が受話口から聞える。 ﹁ん?どうかした?﹂ 訊き返すと、少し間をおいて ﹃⋮⋮私も楽しみにしてるから。タカとの旅行﹄ ﹁え?﹂ ﹃お、おやすみなさいっ﹄ 照れた声音で口早に告げたみさ子さんは、俺にあれこれ突っ込ま れる前に通話を切った。 591 普段から俺がみさ子さんを引っ張りまわす図式が出来上がってい て、それに付き合ってくれている彼女。 本当のところ、みさ子さんが楽しんでくれているのか不安だった けれど、さっきの言葉でホッとした。 とっくに切られた電話を見つめて、 ﹁おやすみ。愛してるよ、みさ子さん﹂ と呟いた。 592 95︼スキーはお好き?︵2︶修学旅行じゃないんですけど⋮ 旅行当日がやってきた。 平日に二日続けて有給を取る事ができなかったので、土曜日だけ 申請をしての一泊旅行。 二人で東京駅へ向かい、そこから新幹線に乗って●県へ。 宿泊先のホテルは新幹線で一時間弱にところにあり、都心からの お客も結構多いという人気スポットだ。 チェックインは午前十一時からできるそうなので、部屋に荷物を 置いて昼飯食ったら、滑る予定である。 みさ子さんと二人きりで出かける事は何度もしているが、こんな に長時間一緒にいられるのは初めて。 週末には時折お互いの部屋で夜を明かした事もあるので、この旅 行が初のお泊りとは言えないが、普段とは違った環境で愛する人と 朝を迎えるというのは、きっと格別に違いない。 否が応でも俺のテンションは上がる。 自分の荷物と彼女の荷物を手にしている俺は、その重さをまった く感じないほどに浮かれまくりだ︱︱︱板もスキー服も小物もレン タルできるため、手荷物は一泊分の着替えのみなので、軽くて当た り前ではあるが。 荷物と同様に、俺の心もウキウキと軽く弾んでいる。 ところが⋮⋮。 ﹁ね、みさ子さん。お茶買って来たよ﹂ ﹁ありがと﹂ 593 ﹁お腹空いてない?飴、食べる?﹂ ﹁今はいらないわ﹂ 浮かれる俺の問いかけに対して、返ってくるのはちょっと素っ気 無いセリフ。 普段は建物に囲まれた中で生活しているから、自然溢れる景色は 見ていて感動物なのだろう。さっきからみさ子さんは移り行く窓外 にずっと目を奪われている。 俺としては少々、いや、かーなーりつまらない。 徐々に雪深くなってくる光景に、俺だって﹃すげぇ﹄と思ったり するが、やっぱりみさ子さんと一緒に楽しく道中を過ごしたい。そ う、“一緒に”というのが大事だ。 外を向いたままのみさ子さんの背中をちょっと睨む。 ︱︱︱せっかく二人きりの旅行なのにー!! 口を尖らせてふてくされている俺は、わざとではないにしても俺 をそっちのけにしている彼女に対して、ある事を思いついた。 周りをキョロキョロと見回す。 通路を挟んで隣の席には誰も座っていない。向うから人が歩いて くる事もない。 ︱︱︱よし、今だ。 静かににじり寄り、トントンと彼女の左肩を叩いた。 ﹁みさ子さーん﹂ ﹁なに?﹂ 何の疑いもなく振り返った彼女の唇にチュッとキス。 ﹁え?﹂ 突然の事にみさ子さんはあっけに取られている。 ﹁あはは、大成功!﹂ さっきまでの機嫌の悪さが吹っ飛ぶ俺。軽く触れただけでも、み さ子さんの唇は癒し効果抜群だ。 ﹁な、な、な、何してんのよっ?!﹂ 594 事態を把握して顔を赤くしたり青くしたり、目をぱちくりしたり と、慌しい様子で硬直するみさこさん。声を潜めながら怒鳴るとい う器用な芸当を見せてくれた。 ﹁みさ子さんってば、ずっと外ばかり見てるんだもん。俺のほうも 見てほしいのに﹂ ﹁だからってキスする事ないでしょ!﹂ 俺を恐れてか、みさ子さんはジリジリと後ずさりして距離を取る。 ﹁大丈夫だよ。誰にも見られてないからさ♪﹂ 叱られているというのに、俺はニコニコと笑顔全開。 そんな俺を見て諦めたのか、ふぅ、とみさ子さんがため息をつい た。 ﹁それにしても⋮⋮。タカ、どうしてそんなに浮かれてるの?﹂ みさ子さんが訝しげに尋ねてくる。 ﹁だって、ずっとみさ子さんと一緒にいられるんだよ。朝も、昼も、 夜もね。嬉しくて、楽しくて、はしゃぎたくもなるさ﹂ ﹁夜も⋮⋮?﹂ みさ子さんがなにやら不思議そうな顔で首をかしげた。 俺も首をかしげる。 ︱︱︱みさ子さんは何で“夜”の部分で引っかかったんだ? しばらくお互いその体勢でいたのだが、彼女からそれ以上問われ ることはなかった。 新幹線を降り、ホテル専用のシャトルバスに乗り込んだ。 十五分ほどバスに揺られていると、そんなに立派な建物ではない が、お洒落な造りのホテルが見えてきた。 595 真っ白な雪の世界に浮かび上がるように、極々淡いグリーンのホ テルが建っている。 そのホテルを取り囲むように広がるスキー場の手入れもしっかり と行き届いているようで、とても滑りやすそうだ。 ﹁へぇ、可愛い感じのホテルね。雪質もよさそうだわ﹂ みさ子さんが嬉しそうに呟く。 そんなみさ子さんを見て、俺も嬉しくなる。 ﹁じゃぁ、先に荷物を運んじゃおうか﹂ ﹁そうね﹂ フロントでルームキーを受け取った俺は、みさ子さんを連れ立っ て部屋へ向かう。 扉を開けると、商店街の福引商品にしては豪勢な部屋が現れた。 壁紙全体が薄い桜色で統一されている。木目調の家具類が目立た ないように置かれた室内は、ゆったりとしていて本当に落ち着く感 じ。 奥の窓からはスキー場を一望でき、山際から覗く朝日はきっと素 晴らしいものだろう。 中に進むと、部屋の中央に大きな大きなベッドが鎮座していた。 これがキングサイズってヤツだろうか。 みさ子さんもその迫力に驚いている。 ﹁うわぁ、こんなに大きなベッドって初めて。これだけ大きければ、 どんなに寝返りをしても落ちないわね﹂ どことなくはしゃぐ様に発言をしたみさ子さんは、ベッドにポス ンと腰を落とす。 ﹁すっごくフカフカ。寝心地よさそうだわ﹂ 感触をひとしきり確認したみさ子は、傍らに立つ俺を見上げる。 ﹁荷物を運んでくれてありがとう。あなたも早く部屋に行って、荷 物を置いてきたら?﹂ みさ子さんは当然といった口調で、俺にそう言った。 596 ︱︱︱﹃あなたも早く部屋に行って﹄?⋮⋮部屋に行って??⋮⋮ ⋮⋮⋮⋮ああ、なるほどね。 頭の中で彼女のセリフを繰り返した俺は、みさ子さんの勘違いに 気が付いた。 ﹁ここは俺の部屋でもあるんだけど﹂ ﹁⋮⋮え?﹂ きょとん、とするみさ子さん。 ﹁だから、二人でこの部屋に泊まるんだよ﹂ 俺は腰を屈めて、ベッドに座ったままのみさ子さんの髪を一撫で した。 とたんに彼女の表情が凍りつく。 ﹁な、なんでっ?!﹂ 悲鳴のような声を上げて、みさ子さんが驚いている。 ﹁なんでって?そんなに変な事じゃないでしょ﹂ ﹁だ、だって、普通、男性と女性で部屋を分けるんじゃないのっ! ?﹂ 彼女は泣きそうな顔で訴えかけてくる。 俺はクスクスと苦笑を洩らした。 ﹁みさ子さん、これは修学旅行じゃないんだよ。恋人同士なのに、 どうして別々に部屋を取らないといけないの?﹂ 新幹線の中で不思議そうに首をかしげた事も、早く自分の部屋に 行けと言った理由も、これで納得。 彼女は一人一人で部屋を取るものだと思っていたらしい。 だからこそ俺が﹃一泊するよ﹄と言っても、さしたる抵抗を見せ なかったのだ。 交際経験のないみさ子さんらしい勘違いである。 経験がなくてもそのくらいは察しが付きそうなものだが、真剣に 男女別室だと思い込んでいた所が本当にみさ子さんらしい。 俺は更に苦笑しながらベッドへと歩み寄り、そっと腕を伸ばして 597 スプリングの弾み具合を確かめる。 ﹁これだけ大きければ、二人で寝ても十分なスペースがあるね。そ れに造りが丈夫そうだから、激しくセックスしても壊れる心配しな くていいし﹂ みさ子さんは唖然とした表情で俺を見た。 ﹁う、そ⋮⋮﹂ そして唇だけで、彼女は呟いた︱︱︱﹃それなら、来るんじゃな かった⋮⋮﹄と。 そんなこと言っても今更である。 ﹁大丈夫、目的はセックスじゃなくてスキーだから﹂ ニコッとする俺を疑いの目で彼女は見てきた。 ﹁それ、ホントでしょうね?﹂ ﹁うん。それより、早くお昼ご飯食べて滑りに行こうよ﹂ 俺はみさ子さんの手を掴んで立ち上がらせた。 俺に手を引かれて廊下を歩きながら、みさ子さんが恨めしそうに まだブツブツ言っている。 それを耳にして、小さく噴き出した。 ﹁ははっ、俺は騙したりしてないよ。ちゃんと泊りだよって教えた でしょ﹂ ﹁でも、同室だって言ってないじゃない﹂ ﹁訊かれなかったから、答えなかっただけ。俺は悪くないと思うけ ど?﹂ 顔だけで振り返ると、みさ子さんはチロリと睨んでくる。 ﹁そうだけど⋮⋮。なんか、腑に落ちないわ﹂ ﹁細かい事を気にしてたら楽しめないよ﹂ 598 そう言って彼女をグイッと引き寄せ、しかめっ面のみさ子さんの 額にキスを贈る。 新幹線の車内とは違って、今度は数人のお客さんとホテルのスタ ッフに目撃された。 ﹁あっ、あっ⋮⋮﹂ 目を大きく開いて、口をパクパクさせるみさ子さん。 ﹁こういうこと、修学旅行じゃなかったでしょ?恋人同士の旅行の 醍醐味を味合わせてあげるね﹂ ウインクつきで彼女に微笑んだ。 599 95︼スキーはお好き?︵2︶修学旅行じゃないんですけど⋮︵後書き︶ ●しっかり者のみさ子さんなのに、恋愛事に関しては結構抜けてて、 そこがまた書いていて楽しいです。そんな彼女を愛情込めてからか う北川君を書くのも楽しいですね。みさ子さんからすれば、たまっ たものではないかもしれませんが︻苦笑︼ ●友人に誘われて、いろんな意味で話題︻笑︼の携帯ゲームGRE Eに登録しました。大して遊んではいませんが、いい暇つぶしにな ってます。 始めてから数ヶ月経ちましたが、超絶小心者のみやこはお友達が少 ないです︻泣︼。 もし、読者様の中でGREEに登録されている方、﹁みやこ 京一 ︵みやこの後は1マス空ける︶﹂で検索して遊びに来てやってくだ さい。かっこいいアバのみやこがお出迎えします♪ プロフにムーンライト読者様専用足跡帳がありますので、﹃年下彼 氏、読んでます﹄と一言書いてくださると、分かりやすくて助かり ます。そしてお友達になってください︻切実︼ こうやって書いても、一人も遊びに来てもらえなかったりして︻滝 汗︼ *明らかに冷やかしだと分かるIDには、拒否設定いたします。 600 96︼スキーはお好き?︵3︶ナンパ初体験 顔を真っ赤にしている彼女の手を引いて、俺達はレストランへと 向かう。が、しばらく歩いたところで、俺は忘れ物に気がついた。 このホテルは支払いの全てが専用カードに記録され、チェックア ウト時に精算するシステムとなっている。そのカードを忘れてしま っては何も買えないし、何も食べられない。 ﹁ごめんね、ここでちょっと待ってて﹂ みさ子さんに一言謝って、俺は急いで部屋へと逆戻り。 テーブルの上に置いたままになっていたカードを掴んで、また慌 しく彼女のもとへと走ってゆく。 どうして俺がこんなにも焦っているのかって? それはキスを人に見られたみさ子さんが、怒ってどこかに行って しまうからではない。 フラフラと興味のままに、彼女がホテル内を散策してしまうから でもない。 俺が恐れているのは、みさ子さんがナンパされてしまうことであ る。 今日のみさ子さんは、いつものシルバーフレームのメガネはかけ ていない。 事前にホテルに問い合わせたら、度の入ったゴーグルは用意して いないとのこと。みさ子さんは実はコンタクトも持っているから、 その点は心配ないんだけど。 素顔のみさ子さんは惚れた欲目を差し引いても、正真正銘の美人 なのだ。 サラリとした黒髪が映える白い肌、柔らかなカーブを描く眉、形 601 のいい瞳、絶妙な位置に配置された鼻、色艶のよい唇。 仕事を離れたみさ子さんは女帝オーラを背負っておらず、おまけ にメガネがないと雰囲気が更に和らいで見えるのだ。 それほど近寄りがたい印象もなく、むしろこの物静かな様子がク ールビューティーそのもの。 加えてバランスのよいスラリとした長身とくれば、下心満載の男 から声をかけられない訳がない!! みさ子さんが軽々しくナンパ男についていくことはまずありえな いから、そこは心配していない。 細身な彼女がいかに抵抗しても、強引な男なら無理矢理にでも連 れ去ってしまうかもしれないことが心配なのである。 それにナンパされることに慣れていないみさ子さんだから、言葉 巧みに誘われて、それがナンパだと気がつかずについていってしま うかもしれない。 早く戻らなくてはと、いい年した大人が廊下をバタバタと駆ける。 ようやく最後の角を曲がって、みさ子さんが待っている場所へ。 そこには案の定、男性二人に声をかけられているみさ子さんの姿 が。 ﹁すごく綺麗な髪だね。特別な手入れでもしているの?﹂ ﹁いえ。どこのドラッグストアにでもあるシャンプーを使ってます﹂ ﹁お肌ツルツル∼。触ってもいい?﹂ ﹁それは⋮⋮困ります﹂ スキーウェアに身を包んだ男達はみさ子さんを壁際に追いやり、 左右から挟みこむように立っていた。 明るい茶髪に、そこそこ高身長の二人。明るい笑顔を纏っていて 602 爽やかな青年達に見えるが、明らかにナンパ目的でこのスキー場に 来ていることが見て取れる。 律儀なみさ子さんは少し困った顔をしながらも、そのナンパ男達 に答えていた。 ︱︱︱ああ、もう! 俺はわざと大きな足音を立てて、その男供に近付いていった。 ズカズカとその間に割り込んで、みさ子さんの腰に手を回してか ばうように抱き寄せる。そして男共を睨みつけた。 ﹁俺の彼女に、何か用?﹂ にっこりと笑ってはいるが、目は完全に据わっている俺。その方 が感情のままに怒るよりも怖いのだということを承知で。 第一、俺のみさ子さんに手を出そうとしている奴らに何の遠慮が あるっていうのか。容赦なく正面きってガンを飛ばし続ける。 すると男共は気まずそうに、一歩後ずさり。 俺の表情を見た二人は、﹃いえ、その⋮⋮。失礼しました﹄と口 早に告げて、すごすごと立ち去っていった。 ﹁お帰りなさい。早かったのね﹂ 腕の中のみさ子さんはあからさまにホッとした顔になる。短くた め息をついたところを見ると、よほどしつこく言い寄られていたよ うだ。 ﹁あの人たちが急に話しかけてきて、ちょっと困っていたの。あの 場所から離れようとしても、腕をつかまれてしまって﹂ ︱︱︱なにぃ!?あいつら、みさ子さんに触ったのか!?ちくしょ う、一発ぐらい殴っとけばよかった。 ﹁私に何か用事がある風にも思えなかったし、暇つぶしにからかわ れていたのかしらね。⋮⋮タカ?怖い顔して、どうしたの?﹂ 自分がナンパされていた事にぜんぜん気が付いていないみさ子さ んは、どうして俺が怒っているのか分かっていない。ちなみに、怒 603 っているのは彼女に対してではなく、あのナンパ野郎共にだ。 ︱︱︱う∼ん。みさ子さんのこういう性格は、ある意味問題かもな ぁ。 小さな子供をたしなめるかのように、俺はみさ子さんに対して苦 笑交じりに言った。 ﹁あのね、今、ナンパされてたんだよ﹂ 俺の言葉に、みさ子さんがぎょっとする。 ﹁えっ?あの人たち、私のことをナンパしてたの?!﹂ ﹁そうだよ﹂ あれがナンパと言わずして、何だと言うのか。まぁ、経験のない 彼女にしてみれば仕方がないのかもしてないが。 ところが、みさ子さんは淡々と返事をしてくる。 ﹁まさか。この私に手を出す男の人なんて、どこにもいないわよ﹂ 自分の彼氏を目の前にして、何たる発言。 ﹁そのあなたに手を出している人物が、すぐ目の前にいますが?何 なら今ここで、手を出して見せましょうかねぇ﹂ 彼女の瞳を覗き込みながらクスクスと苦笑を洩らすと、みさ子さ んが慌てた声を出す。 ﹁あ、ああっ、そのっ。タカ以外にいないってこと﹂ みさ子さんはスルリと俺の腕の中から抜け出して、ススッと数歩 下がった。 ﹁人前であんまりアレコレしないでよっ﹂ またしても声を潜めて怒ってくる。 ﹁はいはい、分かってるって﹂ 俺は彼女をからかう事を止め、“何もしませんと”いう証拠に後 ろに手を組む。 ﹁さっきのようなものがナンパなのね。まぁ、もう二度とはないで しょうけど﹂ しみじみと言った彼女に、俺は注意を入れる。 604 ﹁そんなことないって。これからも気をつけてね﹂ 俺が極々真面目に言っているのに、みさ子さんは小さく噴き出す。 ﹁何言ってるのよ。受付の森尾さんならともかく、私なんかに男の 人が声をかけてくることなんて、そうそうありえないもの﹂ みさ子さんはやけに自信満々で言い切ってくる。 この危機感の無さはかなりの問題だ。 ︱︱︱はぁ、なんだか心配で目が離せないよ。 こんなことなら、俺の部屋でのんびり週末を過ごしていた方がよ かったかも、とそんなことがチラリと脳裏を掠めた俺だった。 605 97︼スキーはお好き?︵4︶シンプルな想い ≪SIDE:みさ子≫ ホテル内のレストランで食事を済ませて、タカはコーヒー、私は 紅茶を飲んでいると、テーブルの上に置かれた彼の携帯電話が小さ く震えた。 ﹁あ、実家からだ。ちょっと電話してくる﹂ タカはイスから立ち上がる。 レストランの出口へと行きかけて、慌てたようにこちらに戻って きた。 ﹁どうしたの?﹂ わずかに眉をひそめて尋ねると、タカが ﹁くれぐれもナンパ男に引っかからないでね﹂ と、真剣な顔で一言告げ、私の頬にそっと触れてから離れていっ た。 私たちが最後のお客だったらしく、ランチタイムのラストオーダ ーまでにはもう少し時間があるものの、他の席には誰もいない。 この状況で、一体誰にナンパされるというのか。 ﹁小さな子供じゃあるまいし、私のことなんて心配する必要ないの に⋮⋮﹂ ぼやくように呟いて、少しぬるくなった紅茶をコクンと一口飲み 下した。 心配なのは私ではなく、タカの方だと思う。 どこにでも売っているパーカーと、これまたどこにでも売ってい 606 るジーンズという服装だというのに、このホテルに訪れてからずっ と女性達からの熱い視線を集めているタカ。 顔もスタイルもいいから、何を着ていても本当にモデルか俳優さ んみたいだ。 今時の女性は積極的だから、声をかけることに躊躇しない。ここ 数年は逆ナンパなどという言葉も当たり前のように遣われるように なってきた。 どこに魅力があるのか分からない私なんかより、タカの方がよほ どナンパされる可能性があるはず。 ﹁はぁ⋮⋮﹂ ソーサーにカップを戻すなり短くため息をつくと、傍らに影が落 ちる。 ふと見上げると、コックコート姿の男性が立っていた。 スラリと背が高くて、少し癖のある柔らかそうな髪が優しい雰囲 気に合っている。 驚くのはその顔立ちのよさ。タカもかなりのいい男だと思うが、 この男性も負けず劣らずなのだ。 ﹁ため息などついて、どうされましたか?﹂ 雰囲気どおりの優しい声。 タカにもさっき言われたばかりだし、一応警戒しなくてはと思う けれど、その表情をどことなく知っている気がして、つい返事をし てしまった。 ﹁少し考えて事をしていまして⋮⋮﹂ 普段から愛想がいいとは言えない私はとっさに笑顔を作る事が出 来ず、鬱々とした気持ちを引きずったまま、ボソリと答える。 そんな私の無礼な態度にも係わらず、その人はニコリと口元をほ ころばせた。 ﹁せっかくご旅行に来ているというのに、浮かない顔では楽しめま せんよ。僕でよければ話してみませんか?少しは気が晴れるかもし 607 れませんし﹂ 緩やかに目を細める仕草がタカとダブって見えた。タカがあと十 歳も歳を取ったら、こんな感じになるのかもしれないと思えるほど に。 ︱︱︱タカには言えない事も、タカに似ているこの人には言えるか もしれない。 失礼を承知で、私は初対面の男性に口を開いた。 ﹁二ヶ月ほど前から付き合い始めた彼がいるんです。彼とは五歳も 歳が離れていて、その彼は私にはもったいないくらい素敵な男性な んです。時々、私なんかが彼女でいいのかなって考えてしまって﹂ その気持ちはずっと消えないまま、私の心の奥で燻っている。 沢田さんからは﹃先輩は気にしすぎです﹄と、うるさいほど言わ れているけれど、その気持ちは小さくなりはするものの、消える事 がない。 彼を悲しませてしまいそうで、タカには絶対に言えない。 こんなにも彼に愛されていて、何を不安に思うのだろうかと自分 でも馬鹿馬鹿しく感じることがあるけれど、それでも、消えないも のは消えないのである。 ﹁さっき店を出て行った男性の事かな。彼氏は年下?﹂ 嫌味のない親しさで、その人が私に訊いてきた。その口調に安心 して、私は警戒する事も忘れて話し続ける。 ﹁はい。でも、年の差を感じないくらい頼りがいがありますし、仕 事もきっちりこなしますし、みんなにも好かれていて、明るくて朗 らかで。だから余計に、私みたいなオバさんがそんな素敵な人の彼 女でいいのかなって思ってしまうんです。あ、彼が私に対して冷た いとか言うんじゃないんですよ。こっちが戸惑ってしまうくらい一 生懸命で⋮⋮﹂ 608 ﹃遊びじゃないから﹄ ﹃本気でみさ子さんとの結婚を考えているんだ﹄ これまでに何度もそう言われている。 でも、タカの事を考えれば考えるほど、時折出口のない迷路に迷 い込んでしまったような不安が押し寄せてくるのだ。 ふぅ、と再びため息が私の口から零れる。 ﹁ふふっ、だいぶ深刻そうだね﹂ すると、その人はいつの間にか私の左側に座って、小さな笑いを 洩らしていた。 ﹁ご、ごめんなさい。話を聞いてもらっているのに、ため息なんか ついたりして﹂ 慌てて謝罪をすると、その人はそっと首を横に振る。 ﹁そのことで笑ったんじゃないんだ。なんか、昔の自分を見ている ようで、懐かしいなって﹂ ﹁昔の自分⋮⋮ですか?﹂ これだけ素敵な人が、一体何に悩むというのか。 少し首をかしげると、その人はゆっくりと頷く。 ﹁うん。僕も泣きたいほど苦しくて、死ぬ程もどかしい恋愛を経験 した事があるから﹂ 静かに告げるその人の口調の奥に、焦げ付くまでに追い詰められ た苦しさが垣間見える。 美形と言えど人間なのだから、やはりそれなりに恋愛面で苦労は してきているのだろう。 でも、死ぬほど苦しい想いとは、どういうことなのか。 表情をフワリと和らげて、その人が言う。 609 ﹁あなたは五つの歳の差で悩んでいるようだけど、僕なんて彼女と 十一歳も違うんだよ﹂ ﹁えっ?﹂ ︱︱︱そんなに?! 驚きを顔に出してしまったが、彼は気にも留めずに話を続けた。 ﹁しかも、出会った時の彼女はまだ高校一年生でね。いい年の社会 人だった僕は正直、自分の頭が狂ったかと思ったよ﹂ ほんの少し遠い目をして、その人は苦笑する。 ﹁だけど諦める事なんて出来なくてさ。悩んでいるうちに、彼女の 存在が僕の中でどんどん大きくなってきて、今更忘れる事なんて出 来なくなって⋮⋮。それで、煮詰まったところで思い切って告白し てみた﹂ ﹁それで、どうなったんですか?﹂ 下世話にも私は問いかけてしまった。 それでもその人は嫌な顔もせず襟元に手を入れて、細い鎖を引っ 張り出す。つられるように出てきたのは、鎖に通されたマリッジリ ング。 ﹁無事に両想いになって、数年付き合ってからめでたく結婚したよ﹂ 自慢げな微笑みが、すごく幸せそうだ。 ﹁よかったですね﹂ 他人事ながら嬉しくなって、ささやかながらも笑顔で言葉を返す。 ﹁でも、大変だったんだよ。大好きな彼女と付き合っていても、な かなかうまくはいかなくて。お互いの気持ちの歯車がかみ合わない ことなんて、本当にしょっちゅう。⋮⋮そうそう、ものすごい大喧 嘩をしたっけ﹂ この彼の話では自分たちの恋路にある女性が割り込んできて、そ の女性にかき回された結果、自分は泣いている彼女を置いてその場 から去ってしまったと。 610 ﹁酷い男だよねぇ。大泣きしている自分の彼女を置き去りにするな んて﹂ 私はどう返事をしたらいいのか分からないので、曖昧に微笑むだ けにしておく。 ﹁その後どうにか関係修復に成功したけど、それからも悩む事は度 々だったなぁ。好き合って付き合っていても、そうすんなり進んで いかないものだよ﹂ まるで今の私の心理状況を読んだかのような言葉だ。 遠くを見ていたような視線を私に戻して、その彼は言う。 ﹁僕の奥さんにも言えることだけど、見たところ、あなたは色々と 考えすぎてしまうようだ﹂ ﹁あ⋮⋮、そうでしょうか?﹂ ﹁そんな気がするな﹂ 確かに、考えすぎてしまう部分が私にはある。考えれば考えるほ ど、悪い方にしかベクトルが向かない悪循環。 軽く俯くと、励ますように肩を優しく叩かれる。 ﹁恋愛なんて、シンプルな気持ちでいればいいと思うよ。“相手の ことが好き”、基本はそういうことだ。周りの目が気になってしま うのは、あなたの性格だからかもしれないけど、そればかりに囚わ れるとうまくいかないよ﹂ この人にそう言われると、なぜだか素直にそうだと思える。 ︱︱︱“シンプルな気持ち”ね。 話を聞いてもらえたことと、出口らしきものが見つかったおかげ で、私の気持ちがふわっと軽くなった。 ﹁やっと、いい顔になったね﹂ まるでの兄のように見守る光を瞳に浮かべて、その人が言った。 ﹁ごっ、ごめんなさい。ずっと仏頂面で。私ったら失礼ですよね﹂ 611 どうも男性に対しては表情を和らげることが出来ない。タカと付 き合い始めて、少しは男性に免疫が出来たかと思っていたけれど、 まだまだだ。 頭を下げると、その人は優しく言葉をかけてくれる。 ﹁気にしないで。美人はどんな顔をしていても美人だから﹂ ︱︱︱はぁ?! 突然、しかも至近距離で美形な男性に﹃美人だ﹄と言われて、戸 惑う私。 ﹁や、その、えっと、私はちっとも美人なんかじゃないですから⋮ ⋮﹂ もごもごと答える私。そんなこと言われたら、恥ずかしいだけだ。 ﹁こんなにも綺麗なあなたが美人じゃないといったら、誰を美人と 言えば良いのか﹂ からかっているのだろうか。そんな意地悪そうな人には見えない けれど。 美人ではない自覚はあるが、その逆の﹃美人だ﹄なんて言葉、私 には相応しくない。 ﹁あの、ですから、私は美人なんかじゃなくって、取るに足らない つまらない女で⋮⋮﹂ 照れというよりも戸惑いで段々しどろもどろになってくると、そ の人はプッと短く噴き出す。 ﹁ははっ。困らせてしまった様で悪かったね。でも、あなたはもっ と自信を持つべきだ。自信を持ちすぎて、傲慢になるのはよくない けど﹂ ﹁は、はぁ⋮⋮﹂ ︱︱︱自分に自信かぁ。私にしてみればかなり難しいわね。 こっそり眉をひそめると、その人は笑いを収めてこう言った ﹁自分を信じることが難しいなら、彼を信じればいい。彼の愛情を 信じればいい。あなたが言う優しくて素敵な彼が、他の誰でもない あなたを選んだ。それだけであなたには十分価値があるということ 612 だからね﹂ 苦しい恋の経験者であるこの人が言うのだから、そのセリフは正 しいのだろう。しかし、私にはあまりにも理想論すぎて、実践でき るかどうか悩みどころだ。 ﹁いきなり自信満々になるのは無理だろうけど、少しずつでも自分 に自信を持てるようにした方がいい。そうしないと、あなたにベタ 惚れの彼が可哀想だ﹂ タカが可哀想だと言われて、頷かない訳にはいかない。 ﹁が、頑張ってみます﹂ 弱々しいながらも頷いてみせると、その人に頭を軽く撫でられる。 その瞬間、イスに座ったままの私を後ろからすごい力で抱きすく めてくる腕が。 ﹁あんた、何してんだ?﹂ いつの間にか戻ってきたタカが低い声で凄んでいる。 ところが、タカに睨まれた彼はあっけらかんとした表情でにっこ りと笑って見せた。 ﹁いやぁ、あんまりにもこの彼女が寂しそうだったんでね。ちょっ と相手をしていたんだよ﹂ ﹁ったく、余計お世話だ!!﹂ レストラン内にタカの大声が響く。 ﹁タ、タカ?!ちょっと落ち着いて。少し話していただけなの。本 当にそれだけなのよ。それにこの方、結婚されてるし﹂ ﹁そんなの関係ない!結婚していたって、女に手を出す男はいるん だ!﹂ まるで今にも噛み付きそうな勢いである。 そんなタカを見て、面白そうにその人は肩を竦めた。 ﹁おー、おー、怖いなぁ。そんなに独占欲丸出しだと彼女に嫌われ るぞ、貴広﹂ 613 ﹁⋮⋮え?﹂ 私もタカも目を丸くする。 教えていないのに、どうしてこの人がタカの名前を知っているの だろう。 黙り込む私とタカを見て、彼がニヤニヤと意地悪そうな笑みを浮 かべてくる。 ﹁なんだよ、俺が誰だか分からないのか?あ∼あ、薄情なヤツだよ なぁ。昔は“マサにいちゃん”って懐いていたのに﹂ タカがその男性を凝視する。そして弾けるように、叫んだ。 ﹁あっ!?う、そ⋮⋮、本当にマサにいちゃん??﹂ 軽く握った拳で、“マサにいちゃん”と呼ばれたその人がタカの 頭を小突く。 ﹁今頃気付きやがって。彼女以外、ぜんぜん目に入ってないんだな、 お前は﹂ ﹁こんなところで仕事してるとは思わないから、普通分からないっ て。何で、このホテルに?﹂ ﹁助っ人だよ。あと二週間したら、元の店に戻る﹂ ﹁そうなんだ。それにしてもびっくりしたなぁ﹂ ﹁俺も最初に貴広を見かけた時は驚いたよ。しかもいっちょ前に素 敵な彼女を連れてるし。まぁ、俺の奥さんには敵わないかな﹂ ﹁何言ってんだよ、みさ子さんの方がいい女だって。まぁ、由美奈 さんが可愛いのは認めるけど﹂ 私抜きで話が繰り広げられている。 ﹁ねぇ、タカ。知り合いの方?﹂ ﹁うん。イトコのお兄ちゃん﹂ ︱︱︱イトコ?ああ、イタリアンレストランのチーフコックをして いると言ってた人が、この人なのね。 いつだったか、タカに教えてもらった話を埋もれていた記憶から 掘り起こす。 ﹁改めまして、三山正和です。貴広とは父親同士が兄弟なんですよ。 614 自分の父は入り婿なので、三山は母親姓になります﹂ ﹁どうも⋮⋮。佐々木みさ子です﹂ イトコと言われれば納得。どうりで雰囲気がタカに似ているわけ だ。 まったくの他人だと思っていたからあんなにベラベラと喋ってし まった訳だが、タカの身内だと知って、かなり焦る。 ︱︱︱さっきの話、タカに言ったりしないわよね? チラリと見遣ると、三山さんは優しく瞳を細める。 どうやら、内緒にしていてくれるようだ。 ﹁なんだよ。二人で意味深だな﹂ ホッと胸をなでおろしていると、再びタカが後ろから抱き付いて くる。 ﹁勘繰るなよ。さっきも言ったが、あんまり独占しすぎると彼女さ んが呆れて逃げ出すぞ?﹂ ﹁ふん。そうなったら、逃げ出さないように閉じ込めるから大丈夫 だよ﹂ タカがサラリと恐ろしい事を言ってくる。彼なら、その位の事は やってのけるかもしれない。 密かに顔を引きつらせていると、三山さんが大きく笑う。 ﹁あははっ、分かったよ。結婚式には招待するんだぞ﹂ そう言って立ち上がった三山さんは、手をヒラヒラと振りながら 厨房へと戻っていった。 ﹁まさかここで親戚に会うとは思わなくて、びっくりしたよ﹂ タカが私の横の椅子にストン、と腰を下ろす。 ﹁タカと三山さん、似てるわね。ちょっとした仕草とか、笑顔とか﹂ ﹁あ∼、伯父さんたちにもよく言われてた。⋮⋮って、みさ子さん。 もしかしてマサ兄ちゃんに惚れちゃった?!﹂ 615 大真面目に訊いてくるタカ。 ︱︱︱もう。私が好きな人は、この世界に一人だけだって言うのに。 あまりに真剣な彼の表情がおかしくて苦笑を洩らすと、手首を捕 まれて立ち上がらされる。 ﹁部屋に戻るよ﹂ なんだか不機嫌にも取れる声音。 ﹁どうしたの?﹂ おそるおそる彼の背中に声をかける。 するとタカはクルリと振り返り、私の耳元に口を寄せて囁いた。 ﹁今すぐにみさ子さんを抱きたい﹂ ﹁⋮⋮え?﹂ 戸惑う私にかまわず、腕を引いてタカがどんどん歩く。 ﹁ちょ、ちょっと。何言ってるの?これから滑るんでしょ?﹂ ﹁予定変更﹂ 急ぎ足の彼に釣られて歩いているうちに、部屋に着いてしまった。 ドアを閉めたとたんに抱き上げられ、そのまま二人でベッドにな だれ込む。 ﹁タカ、待って。なんで、こんなことになるの?!﹂ 手首を強くベッドに押し付けられ、オマケに私の体の上にはタカ が馬乗りになっているから身動きが取れない。 ﹁だって、不安なんだもん﹂ 私とは目を合わせないようにして、タカがポツリと呟いた。 ﹁何よ、不安って?﹂ ︱︱︱不安なのは私の方だわ。いつ、あなたが素敵な女性にさらわ れてしまうか、ビクビクしてるのはこっちなのよ!? 尋ねると、タカは伏せた目を上げて言った。 ﹁みさ子さんが俺の腕の中からいなくなってしまいそうで、不安な んだ﹂ イトコのお兄さんの前での強気なタカではない。 ﹁マサにいちゃんは俺から見ても、ホントにいい男だし。それ以外 616 にも、俺よりいい男だっている。だから、みさ子さんが俺から離れ ていってしまうんじゃないかって、不安になるんだよ⋮⋮﹂ 私が感じているような不安を、タカも抱えていたというのだろう か︱︱︱社内の誰もが認める“いい男”のタカが。 ︱︱︱タカが不安に思うことなんて、何一つないのに。 ﹁タカ﹂ 私は優しく彼の名前を呼ぶ。 おずおずと目を合わせてくるタカ。 ﹁私が好きなのは、あなたよ﹂ “だから、不安に思わないで” 言外にそんな想いを込めて告げる。 三山さんが言っていた。﹃好きで付き合っていても、うまくいか ないことだらけだ﹄と。 だけど、﹃好き﹄という気持ちがあれば大丈夫という事も言って いた。 ︱︱︱恋人と付き合うことって、こういう事なんだわ。 色々と悩んで、不安になって、それでも乗り越えれば、きっとよ り関係が深まってゆく。 ﹁あなただけが好きなのよ﹂ 精一杯優しく告げる。 すると、タカの顔つきがようやく穏やかなものになった。 ﹁なんか、みっともないところ見せちゃったね。俺って余裕なさ過 ぎだな﹂ クスリと笑うタカに、私も微笑みかける。 617 ﹁そういうところもタカらしくていいと思うわよ。ねぇ、落ち着い たところで、腕を放してくれる?﹂ これで一件落着かと思った私。 ところが⋮⋮。 ﹁この体勢で、俺がおとなしく引き下がると思う?﹂ さっきまでの弱気なタカはどこへやら。ニヤリと笑いを浮かべて、 いつもの彼になっていた。 ﹁は?何言ってんのよ。目的はスキーって言ったじゃない!﹂ ﹁でも、セックスしないとは言ってないよ﹂ フフン、と楽しげに鼻で笑ったタカが私の額にキスをする。 ﹁みさ子さんがどれだけ俺のことが好きなのか教えて。⋮⋮その体 で﹂ そう言って、タカは私の上に倒れこんできた。 618 97︼スキーはお好き?︵4︶シンプルな想い︵後書き︶ ●みさ子さんが思い悩む回はどうしても長くなってしまいます︵滝 汗︶。長々とお付き合いくださって、ありがとうです。 ﹃人を好きであること﹄というのは楽しいことばかりではないんで すよねぇ。でも、恋愛は素敵な事です。皆さん、どんどん素敵な恋 をしましょうね♪ ●さて、今回特別出演していただいたのは⋮、﹃年下の彼女﹄に出 ていた三山さんです。一度自分のキャラを作品中で絡めて見たかっ たんですよ。 歳の差を気にするみさ子さんに諭す事ができるのは、やはり、同じ 歳の差で苦労した三山さんしかいないと。 書いていてすっごく楽しかったぁ♪♪ この﹃女帝∼﹄よりも﹃年下の彼女2﹄の方が恋愛小説としては少 し重い物になっていますが、まだお読みになっていない方は是非と も目を通してやってください。 今のところ、みやこの中では﹃彼女2﹄が一番の恋愛小説ですね。 ﹃人を好きになる事﹄や﹃恋人のあり方﹄をここまで深く書いたの は初めての作品なので。まぁ、理想論に近いのですが、こういう付 き合いが出来たらいいなと思って﹃彼女2﹄を書きました。 619 98︼スキーはお好き?︵5︶官能に染まる身体 ベッドに縫い付けるように彼女を押さえつけ、隙を付いてチュッ と唇を奪う。 一瞬あっけに取られたみさ子さんは、キスをされた後にハッと我 に返り、声を荒げた。 ﹁タ、タカ、やめてっ!﹂ 押さえつけている俺の手をはずそうと身をよじり、激しく抵抗を 示すみさ子さん。 ﹁放してよっ。まだ昼間じゃないのっ!﹂ 目の縁を赤くして、俺を睨みつけてくる。 薄暗い室内だが、その表情はしっかりと見えるほどに目は利く。 遮光カーテンは引かれているもののセックスするには十分な明る さがあり、どんな表情も俺を煽り立てる要素を含むみさ子さんの表 情をじっと見て、そしてニヤリと笑う。 ﹁安心して。夜もたっぷり抱いてあげるから﹂ ﹁そんなこと心配してないっ、⋮⋮んんっ﹂ その言葉尻を盗むように、彼女の口内へ自分の舌をねじ込んだ。 俺は丹念に舌先で歯列をなぞり、優しく吸い上げては激しく互い の舌を絡ませる。 ﹁ふ⋮⋮うぅ﹂ みさ子さんはくぐもった甘い声を上げるが、抵抗を弱める様子は ない。 ︱︱︱こういう強情な所も、かえって俺を煽るだけなのにな。 心の中で小さな笑みをこぼし、更に彼女の唇と舌を貪る俺。 クチュッ、チュクッ、という水音をわざとらしく聞かせ、彼女の 中に眠る官能を呼び起こすきっかけを与える。 目の縁だけではなく、耳も、そして鎖骨の辺りにまで羞恥ゆえの 赤みが広がってきた。 620 そんな事をしばらく続けているうちに、少しずつみさ子さんが大 人しくなってくる。 それでも、まだ油断は出来ない。俺の不意を付いて、逃げ出すか もしれないし、それに、無理強いだけは絶対にしたくないから。 俺はみさ子さんの手首を開放し、その手で彼女の頬をそっと挟む。 そして、熱に潤み始めた彼女の瞳を覗き込んだ。 鼻先が触れるほど近い距離。 みさ子さんを俺の手の内に落とすために、それと確認のために問 いかける。 ﹁ダメなの?俺とはセックスしたくない?﹂ 口元はやんわりと緩め、だけど目元は寂しげな光を湛えて切なく 囁くと、みさ子さんの瞳がグラリと揺れた。 しばらくの沈黙の後、彼女から口を開いた。 ﹁⋮⋮タカ、ずるい﹂ みさ子さんが拗ねたようにポツリと告げる。 ﹁そんな声で言われたら、ダメって言えないじゃない⋮⋮﹂ 目を伏せ、俺から視線を外す彼女。肯定のセリフをみさ子さんの 口から告げることは、何度となく抱かれた今でも恥ずかしいらしい。 そんなところもたまらなく愛しい。 ﹁でも、みさ子さんがどうしてもダメって言うならやめる。俺はそ こまで暴君じゃないから﹂ “どうする?”と、視線で彼女に問いかける︱︱︱返事は見当つ いていたが。 みさ子さんは一度俺の眼を見つめてから視線を逸らし、困ったよ うに眉を寄せた。 621 ﹁あんまり激しくしないでくれるなら⋮⋮、いい⋮⋮わよ﹂ 彼女の口から、小さい声ながらもしっかりとした答えが聞けた。 押してだめなら引いてみろ作戦、大成功! ﹁言質は取ったからね。よし、これでみさ子さんも共犯だ。後で文 句言わないでよ﹂ 再び“してやったり顔”の俺。 ﹁えっ?あっ、やっぱり嫌!﹂ 俺の小芝居に気付いたみさ子さんがとっさに身を翻そうとするが、 俺は彼女の肩をガッチリ押さえ込む。 ﹁もう遅いよ﹂ クスクスと笑いながら、彼女に顔を寄せる。 ﹁うんと優しくするから⋮⋮、しよ?﹂ とびっきり艶っぽい声でみさ子さんの耳元に囁きかけると、彼女 の耳がいっそう赤く染まった。 寄せた唇で彼女の耳をそっと挟む。 ﹁あんっ﹂ 柔らかい唇での甘噛みですら敏感なこの場所には刺激が強いらし く、みさ子さんの肩がピクンと跳ね上がる。 耳たぶに歯を立てると、彼女の体がブルリと震えた。 ﹁相変らず、感度いいなぁ﹂ 苦笑とともに告げると、みさ子さんはまた体を震えさせる。 しゃべりかけるたびに届く俺の吐息が彼女の耳にかかり、みさ子 さんの背筋にはゾクゾクとした独特の感覚が駆け上がってゆく。 ﹁やめ⋮⋮て﹂ 泣きそうな声でみさ子さんが言った。 話すこと自体が彼女にとって刺激になるのを十分に承知しつつ、 622 俺はもっと近付いて問いかける。 ﹁やめるって何を?激しいことも、痛いこともしてないよ﹂ ﹁んっ﹂ 押さえつけてもなお、彼女の肩が震える。 そんな彼女の反応に嬉しくなりながら、俺はみさ子さんの左耳の 付け根に唇を押し当てた。 ﹁イヤ⋮⋮﹂ 首を振って、微妙な強さで与えられる刺激に抗議するみさ子さん。 ﹁“イヤ”じゃないくせに﹂ クツクツと一人楽しげに笑う俺は、みさ子さんが着ている丈がや や長いセーターの裾から右手を差し入れた。 ︱︱︱そうそう、こんな服装はやめるように言わないと。 どこか特別ということでもないセーターとジーンズなのだが、体 のラインに沿うようなデザインなので、みさ子さんのプロポーショ ンの良さが丸分かりなのだ。 綺麗な顔立ちに抜群のスタイル。 だからこそ、男たちは彼女に声をかける。 ︱︱︱スキー場だけじゃなくて、普段からの服装にも目を光らせよ う。 そんな決意を固めつつ、キャミソールもブラもたくし上げた。 俺の指先に当たる彼女の乳首は、既にその存在を主張している。 ﹁硬くなってるね。本当は気持ちいいって思ってるんでしょ?﹂ 人差し指の先でクリクリと撫で回してやると、艶を帯びた嬌声が 聞え始めた。 ﹁ああ⋮⋮んっ﹂ 唇を押し当てている喉元が仰け反る。 ﹁いい声。もっと聞かせて⋮⋮﹂ 首筋を舌で舐め上げた。 ザラリとした特有の感触が、彼女の耳元から鎖骨にかけて走る。 623 それと同時に親指と人差し指でつまんだ乳首をキュッとすりつぶ す。 ﹁はぁんっ!﹂ 今度は首筋だけではなく背中までもが弓なりに反った。 ﹁あ、イヤッ﹂ みさ子さんが激しく首を振り、ほっそりとした指が敷かれている 布団をグッと握り締める。 綺麗な眉がいっそう悩ましく寄っていた。 喘ぐ彼女に、俺が尋ねる。ちょっとだけ意地悪な笑顔とともに。 ﹁何がイヤ?⋮⋮ああ、そうか。これじゃ物足りないってことだね﹂ 俺は身を起こして彼女を見下ろすと、掴んだセーターとキャミソ ールを一気に首元まで押し上げた。 ずり上がっているブラのホックを素早くはずし、これも邪魔だと ばかりに押し上げる。 姿を現した形のいい胸の先にしゃぶりつき、右手でもう片方の胸 を鷲掴みに。 ﹁ああっ!!﹂ たまらずみさ子さんが甲高く啼く。 その様子を喜ばしく感じた俺は、更に胸への刺激を強くする。 口に含んだ乳首を舌で押したり、突付いたり、チュクチュクと音 を立てて吸ったり。 左手は乳房全体を大きく揉みしだき、時折乳首を指で弾いてやっ た。 ﹁う、んんっ!はぁ⋮⋮あん﹂ ますます色っぽい声で啼くみさ子さん。 視界に入る彼女の上半身はうっすらと桜色に染まっていた。 ︱︱︱結構感じてきてるな。 乳首を攻める左手の動きは止めないままに、唇を少しずつ下にず らして跡を付けた。そしてまた唇をずらし、別の場所に跡を付けて ゆく。 624 薄紅色の肌に、紅の花びらが散る。 雪のように白い肌のみさ子さんが徐々に色づいていく様は、とて つもなく綺麗で、恐ろしいほどに官能的。 快楽に支配されつつある彼女の体は、逃げ出そうとする力と意思 が奪われていた。 今では腕が投げ出されるように伸ばされ、指先は弱々しくシーツ を掴んでいる。 ﹁みさ子さん、愛してるからね﹂ 彼女を抱くための免罪符としてではなく、心からの言葉として愛 を囁く。 ﹁みさ子さんの全部が大好き。愛してる﹂ 少し冷たい彼女の指先に自分の指を絡める。 ﹁愛してる⋮⋮﹂ みさ子さんの左薬指にキスを落としたところで、俺の頭にみさ子 さんがおずおずと触れてきた。 優しく、ゆっくりと、俺の髪を撫でている。 顔を上げてみさ子さんを見ると、ボンヤリとした視線ながらも見 つめ返してきた。口下手な彼女なりの、精一杯の気持ちの伝え方。 本当は言葉にして欲しいけど、今はそれだけで、彼女の想いが十 分に伝わってきたからよしとしよう。 自然と俺の顔が穏やかに微笑む。 ﹁みさ子さん、愛してるよ﹂ 目元を静かに細めて、彼女も微笑んだ。 625 99︼スキーはお好き?︵6︶吐き出される淫熱 既に何も身に着けていないみさ子さん。 俺も余計な衣服はすべて脱ぎすて、今あるのは薄いゴム一枚のみ。 外は雪が一面に敷き詰められていて凍えるばかりの寒さだという のに、俺も、みさ子さんも寒さは感じない。 寒いと思うどころか、どうしようもない淫熱が体の中でうねって いて、肌がじんわりと汗ばんでいる。 早くこの激しく暴れる熱を吐き出したい。 でも、もっと、もっとこの熱さを彼女とともに味わっていたい。 両極端の思いが俺を支配し、理性が焼ききれそうになる。 今の俺には愛するみさ子さんと一緒に高みに上る事しか考えられ ない。それ以外のことは何もかもが余計な事で、頭の中には存在し ない。 ﹁愛してる。みさ子さん、愛してる⋮⋮﹂ 裸の彼女を抱きしめ、熱病にうなされたかのように彼女の耳元で 囁いてはキスを繰り返す。 同じように熱に翻弄されているみさ子さんは、すでに半分ほど意 識を飛ばしていて、絡める俺の舌に応える余裕はないようだ。 甘く濡れるみさ子さんの舌を味わいながら、俺は右手を彼女の下 肢へと伸ばす。 うっすらとした茂みを掻き分け指を進めると、秘部はぐっしょり と濡れていた。 イヤだ、イヤだと言うわりに、感じやすいみさ子さんの身体は確 実に反応を示す。身体は正直だといったところか。 626 俺はクスリと笑いながら、中指をそっとナカへと忍ばせた。十分 すぎるほど潤っている秘部はすんなりと指を迎え入れる。 ﹁あんっ﹂ みさ子さんが小さく啼き、切なげに眉を寄せた。 でもそれは嫌悪の表情ではないから、俺は指を動かし続ける。 溢れる愛液を指で絡めるように、出し入れを繰り返す。 クチュッ⋮⋮。クチュッ⋮⋮。 指の動きに合わせて妖しい水音がみさ子さんの秘部から聞えてき た。 秘部を弄るほど愛液は次々と溢れ、中指一本では物足りないとば かりにナカが蠢いている。 俺は素直に指を増やす。 人差し指を添えて、少し強めに挿入した。 ﹁んっ!﹂ クッと目を硬く閉じて、みさ子さんが首を振る。 ﹁痛くないでしょ?これだけグショグショに濡れているんだから﹂ 耳元で意地悪く囁やいて、二本の指をグイッと奥まで突き入れた。 ﹁あ、ああっ!!﹂ ビクン、と大きく彼女の身体が跳ねる。だが、俺の左腕が巻きつ くように抱きしめているので、逃げる事は出来ない。 俺はそれを承知で、グチュ、グチュと音を立てながら、指の抜き 差しを繰り返す。 時折、みさ子さんが感じる場所を押すように強く擦ると、更に彼 女の腰が揺れた。 ﹁ふふっ、ココがいいんでしょ?ナカからどんどん溢れてきてるよ﹂ 奥まで差し込んだ指先でイイ場所を押し、擦り、引っかくと、ビ クッ、ビクッと腰が小刻みに跳ね上がる。 愛液の分泌はいっそう増え、彼女の秘部を覆う恥毛が濡れて艶め く。 二本の指でズブズブとナカを犯し、快楽を与えると同時に準備を 627 進める。俺と一つになる時に、少しでも負担のないように。 ﹁あ、ん⋮⋮、あぁ!﹂ 悩ましい吐息が続けざまに彼女の口から零れる。 さっきよりも官能の色が濃い吐息。 しつこいほどに指での挿入を繰り返したおかげで、みさ子さんの ナカもだいぶ解れてきた。今では二本の指を余裕で飲み込んでいる。 そろそろ“俺”を受け入れても大丈夫だろう。 指を抜くと、彼女の秘部と繋がる愛液で出来た妖しく光る糸が伸 びていた。 みさ子さんの脚の間に自分の体を割り入れ、膝立ちとなって力な く横たわる彼女を見下ろす。 薄明かりの中に浮かぶ、彼女の白い身体。上体に散るいくつもの 鬱血跡が、まるで桜の花びらのようだ。 浅い呼吸を繰り返している薄く開かれた唇は、何度も何度もキス を受けたために、少し腫れていて、赤みが強くなっている。 ベッドに乱れ散る艶やかな黒髪。 淫熱に潤む瞳。 薄紅色の頬。 首筋も、鎖骨も、胸も、腰や脚のしなやかなラインも、すべてが 俺を誘う要因。 ズクン、と俺の下肢から熱が湧き上がる。 今こそ吐き出さなければ、俺はこの熱で焼け死んでしまう。 そんな俺を助けてくれるのは、目の前で横たわる彼女だけ。 628 俺はみさ子さんの脚を担ごうと、膝裏に手をやって持ち上げる。 ところが、みさ子さんは身をひねってうつ伏せとなってしまった。 ここまで来ておいて、それでもわずかながらに抵抗を示す彼女。 嫌悪ではなく、羞恥を感じているから。 ︱︱︱もっと大胆になってくれてもいいのになぁ。 従順なみさ子さんも見てみたい気もするが、少しずつ身も心も開 いてゆく彼女の様子は何物にも変えがたい至福で至高の宝石でもあ ったりする。なので、不愉快になることはない。 ︱︱︱ま、別にこれでも問題ないけどね。 彼女に見えない事をいいことに思いっきり意地の悪い笑顔を浮か べると、身を伏せている彼女の腹の下に腕を回し、グッと引き上げ て四つん這いの体勢をとらせる。 ﹁⋮⋮え?﹂ ボンヤリとした彼女の反応が返ってきた時には、俺は既にみさ子 さんの腰をガッチリ掴み、熱い昂ぶりを秘部の入り口にあてがって いた。 ﹁みさ子さん、入れるよ⋮⋮﹂ 一言告げて、怒張をヌプリと忍び込ませる。 愛液が滴るほどの秘部は、少々抵抗を示しながらも俺のペニスを 受け入れていく。 ズ、ズッ、ズズ⋮⋮。 膣壁を押し広げて進む俺の昂ぶり。 ﹁はぁっ⋮⋮、ああっ!!﹂ みさ子さんがシーツを掴んで啼いた。 後ろからの交為は初めてなので、単なる挿入だけでも今までにな い感覚が彼女を襲う。 それでもナカは慣らしてあるから、苦痛はないはずだ。 容赦なく突き進むペニス。だが、慎重に。 みさ子さんに与えたいのは快楽のみ。苦痛などという余分なもの 629 は彼女には一切必要ない。 小刻みに腰を揺らし、淫音を響かせながら、みさ子さんを徐々に 支配してゆく。 ﹁あ、あっ⋮⋮﹂ シーツを握り締めるみさ子さんの指に一段と力がこもった。 限界まで張り詰めた俺のペニスが、彼女のナカを妖しい熱と共に 圧迫する。 ジュプッ、グチュ⋮⋮、チュプッ。 彼女のナカへと侵入と後退を妖しい音を立てて繰り返す。 やがて、みさ子さんの秘部は俺のペニスを根元まで受け入れた。 ﹁あぅ⋮⋮﹂ 初めての体位で受ける初めての感覚に、みさ子さんが低く呻いた。 俺に腰をガッチリと押さえ込まれ、硬く大きなペニスで深々と串 刺しにされているみさ子さんは、額をベッドに押し付けるようにし て肩をフルフルと小さく震わせている。 ﹁これで終わりじゃないからね﹂ 開始の合図とばかりに声をかけると、いったん引いた腰を思い切 り突き出した。 ズン、という衝撃がみさ子さんの最奥にぶつかる。 ﹁いやぁんっ!!﹂ その衝撃の大きさに、みさ子さんは伏せていた顔を挙げ、悲鳴を あげた。 ﹁あっ⋮⋮、だ、だめ⋮⋮﹂ 彼女を大きく揺さぶりながら突き込んでいると、みさ子さんは泣 きそうな声を出す。 ﹁ダメじゃないくせに。ココは喜んでるよ﹂ ペニスが抜けるほど腰を引いた俺は、引いた分だけ、いや、それ 630 以上に腰を勢いよく突き上げる。 みさ子さんの柔らかい双丘と俺の下腹部がぶつかる鈍い音がした。 ﹁ああっ!!﹂ 彼女の背中が弓のように反る。 その綺麗なラインを見ながら、俺はズン、ズンと強く腰を打ち付 ける。 お互いの身体がぶつかる音。 秘部から漏れる水音。 ベッドがきしむ音。 みさ子さんの口から出る悩ましげな声。 俺の口から零れる暴発を堪える吐息。 すべてが一体となり、お互いの官能を更に高めてゆく。 俺に攻めに耐え切れなくなったみさ子さんは、再び額をベッドに 強く押し付ける。 腰は俺に掴まれ、なおかつ体の奥の奥まで貫かれている彼女は、 快楽を分散させる事が出来ず、俺が与えるすべての刺激をその一身 に受けている。 短い啼き声を繰り返し、時々首を横に振り、キリキリと音がずる ほどシーツを握り締め、絶頂が訪れるのを待つばかりだ。 俺のペニスをしっとりと包み込んでいる彼女の膣壁が徐々に締め 付けを増してくる。 それと同時に、みさ子さんは喉が引きつるような甲高い嬌声を上 げ始める。 いよいよ高みに到着するらしい。 ︱︱︱さて⋮⋮、そろそろ追い上げるか。 631 俺の方も限界を感じていたので、この辺りでラストスパートをか け、二人で一緒にイクことにする。 汗ばんだ手の平で改めて彼女の腰を掴み直し、大きく息を吸った。 ﹁みさ子さん⋮⋮。ちょっとだけ乱暴になっちゃうかもしれないけ ど、絶対気持ちよくさせてあげるから、許して⋮⋮﹂ 猛る熱を言葉に織り交ぜ、みさ子さんに投げかける。 そして俺は爆発寸前のペニスを一気に突き入れた。 ﹁⋮⋮!!﹂ みさ子さんが声なき悲鳴を上げた。 後ろから襲い掛かる大きすぎる快楽の波に耐えるように、彼女は ひたすらシーツを握り締める。 沈むほどに頭を押し付け、腰だけを淫らに高く突きだしているみ さ子さんを、俺もひたすら攻める。 “優しくするから”という約束を忘れている訳ではないけれど、 俺も彼女も淫熱を吐き出すためにはある程度手荒にならざるを得な い。 このままうねる熱を抱え続ける方がみさ子さんもつらいはず、と いう少々自分勝手な理屈をこね、俺は赴くままに腰を突き入れた。 愛液の滑りを借りてみさ子さんの最奥の壁にペニスをぶつけると、 膣壁がキュゥッとしまってくる。 いよいよ彼女に絶頂が迫ってきたようだ。 俺は大きなグラインドをやめ、みさ子さんが感じるポイントに集 中して小刻みにペニスの先で押し擦る。 ﹁ひゃぁっ⋮⋮!﹂ みさ子さんがまるで仔猫のような啼き声を立てると、膣壁がペニ スをグッと押し潰してきた。 ︱︱︱あ、あと⋮⋮、ちょっとだ⋮⋮。 俺も彼女も絶頂は目前。 632 最後の力を振る絞るように、俺はがむしゃらに腰を打ち付ける。 それを繰り返しているうちにみさ子さんのナカの締め付けが極限 まで強まり、彼女の身体がガクガクと震え始めた。 ﹁⋮⋮あぁ﹂ 傍にいる俺ですら聞き取れるかどうかという、本当に小さな甘い 淫息を吐いて、みさ子さんは全身の力を抜いた。 それを見遣った時、俺のペニスも熱い欲情を勢いよく吐き出して いた。 633 99︼スキーはお好き?︵6︶吐き出される淫熱︵後書き︶ ●更新が遅くなってごめんなさい。予定外の仕事が立て込み、毎日 泣きそうになっています。⋮いえ、泣いてます。 ●あちこちのサイトで北川君やみさ子さん、ならびにみやこに対す る応援メッセージを頂き、心の底から感謝しております。 みやこは皆様の支えがあってこそ、頑張れます。︵つまり自力では 頑張れないヘナチョコ⋮︶ この先も出来る限りの努力は尽くしますので、どうか応援してやっ てくださいませ。 ●寒さもいっそう厳しくなってきました。どうか皆様、ご自愛くだ さいませ。 634 100︼スキーはお好き?︵7︶惚れ直す? その後は第二ラウンドに突入することなく、俺達は少し休んでか ら滑ることにした。 一応の約束通り、激しいセックスにはしなかったので、みさ子さ んは仮眠を取っただけで体力が回復したらしい。 一眠りしてから起き上がり、眠りに落ちる前に俺が着せてあげた バスローブの胸元を直してから、彼女はスルリとベッドを抜け出し た。 ベッドの下に散った自身の服を拾いながら、時折チラリ、チラリ と恨みがましく俺を睨みつけている。真昼間からセックスを仕掛け た俺に対して、なにやら不満があるらしい。 ﹁何?﹂ 俺もベッドから出て、その縁に腰掛ける。見上げると、彼女は殊 更大きな息を吐く。 ﹁⋮⋮せっかくスキーに来たのに﹂ 服を胸に抱きしめ、重いため息と共に、ポツリと呟くみさ子さん。 ﹁そんなに滑りたかった?﹂ ﹁こんなに素敵なゲレンデに来たんだもの、何度でも滑りたいじゃ ない。それなのに、もう三時過ぎ⋮⋮﹂ はぁ、とまたしてもみさ子さんはため息をつく。 そんな物憂げな表情ですら俺にとっては色っぽいというのに、彼 女はまったく自覚がない。 かといって﹃じゃぁ、教えてあげるか﹄とばかりに手を出せば、 おそらく旅行中は一言も口を利いてもらえなくなりそうなので、大 人しく眺めるだけにしておく。 ﹁ごめんね。だって、みさ子さんが欲しかったんだもん﹂ 苦笑しながらそう告げると、サッとみさ子さんの顔が赤くなる。 ﹁うっ⋮⋮。す、少しは我慢してよねっ﹂ 635 そう言って、みさ子さんは逃げるようにバスルームへと消えてい った。 やはり機嫌を損ねてしまったようだ。 道具を借りにロビーに行く時も、着替えを済ませてゲレンデに向 かう時も、手をつなごうとして差し出した俺の手をピシャリと払い のけられる。 ︱︱︱まずいなぁ。 時間が経てば彼女の怒りも落ち着くと思うけれど、一分でも、一 秒でも、みさ子さんとイチャついていたい俺としては困った事態で ある。 ︱︱︱ようし。ここは俺の勇姿を見せて、挽回しなくては。 意気込んで、人知れず握りこぶしを作る俺。 ところが、ゲレンデにいる誰よりも颯爽と滑り降りてくるのは、 俺じゃなくてみさ子さんだった。 慣れた手つきでスキー板をはめ、ストックを握った彼女は雪の感 触を確かめるように何回か初心者コースを滑ったあと、﹃ちょっと 行ってくるわね﹄と言って、一人でさっさとリフトに乗って上級者 コースへと行ってしまった。 ︱︱︱本気であのコースを滑るつもりなのか?!大丈夫なのかっ?! 心配に思いながらも、慎重な性格の彼女が無茶をするはずもない だろうと、俺はゲレンデの下で彼女を見守ることにした。 みさ子さんの滑りを見て、悪いところがあれば注意しようかと思 っていたのに⋮⋮。 636 見事にストックを操り、華麗にターンを決めながら彼女は滑らか に降りてくる。身体の軸はまったくぶれることなく、綺麗な姿勢を 保ったままの彼女。 まるでお手本のような滑走姿に、ゲレンデにいた誰もがみさ子さ んの姿に見とれていた。 心配する必要など、全然なかった。 はっきり言って、俺なんかより断然上手い。 ︱︱︱俺の出番がないじゃん⋮⋮。 唖然として立っている俺の前に、キュッと雪を鳴らし、まったく 危なげなくピタリと止まってみせるみさ子さん。 ゴーグルを外して微笑む彼女。 上々の雪質に機嫌はすっかり直ったようだが、こちらとしては当 初の予定が狂いまくりである。 ︱︱︱せっかく惚れ直させようと思ってたのに!! だが、ここで拗ねて見せたら器量の狭い男だと思われてしまう。 引きつる頬をどうにか動かして、みさ子さんに微笑み返した。 ﹁⋮⋮かなり上手いんだね﹂ スムーズに言えないところが、精神的に未熟な俺である。 だけど、みさ子さんは気にもせず、少し乱れた髪を手櫛で直して いる。 ﹁父に叩き込まれたのよ。厳しく教えられた分、久しぶりでも体が 覚えているのね。無事に滑れてよかった﹂ 彼女のレベルは﹃滑れてよかった﹄程度ではない。 その辺のインストラクターも目じゃない。 ︱︱︱ん?ちょっと待てよ。 みさ子さんにスキーを教えたお父さん。人に教えるということは、 彼自身もそれなりに上手いということ。 教え子のみさ子さんを見れば、そのレベルは完全にプロレベル。 教える側のお父さんは、彼女以上の腕前ということになる。 637 ︱︱︱スキーのプロ⋮⋮。あっ、佐々木って!! 俺の記憶の中の引っ掛かりがパッとはじけた。 ﹁も、もしかして、みさ子さんのお父さんって、佐々木健蔵さん? !﹂ ﹁そうだけど⋮⋮。なんで知ってるの?私、父の名前はまだ教えて なかったわよね?﹂ ぱちくりと瞬きを繰り返す彼女を見て、俺はまた愕然とした。 知ってるも何も、佐々木健蔵さんといえば、十代で日本人初の金 メダルを取った人なのだ。彼の輝かしいスキー経歴は日本国内はも ちろん海外でも名高い。 スキーをちょっとやっている俺達ぐらいの年代にとっては、神様 と同じ存在の人物だ。 ︱︱︱そんな人がコーチだったら、俺の出る幕ないよ⋮⋮。 カッコいいところを何一つ見せることなく、この旅行を終えるこ とになりそうな予感がする。 はぁ、と思わずため息が零れた。 ﹁どうしたの、タカ?﹂ 不思議そうな顔で俺を覗き込んでくるみさ子さん。 ﹁えと⋮⋮、個人的な理由でちょっと落ち込んでるだけ﹂ ぎこちない笑顔の俺。 みさ子さんはますます不思議そうな表情で首をかしげた。 ﹁個人的な理由?⋮⋮それって、私にスキーを教えるとかってこと ?﹂ ﹁ああ、まぁ﹂ ︱︱︱正確には﹃教える﹄ことが問題なのではなく、﹃俺に惚れ直 させる﹄って所がポイントなんだけど。 俺の得意分野よりも上手だったみさ子さんを恨むのはお門違いで、 638 モヤモヤした気分だけが胸の中でくずぶる。 ﹁俺が教えるまでもなかったね。自由に滑ってきてもいいよ。明日 もお昼までは時間あるし⋮⋮﹂ 寂しそうに俺が言うと、みさ子さんはじっと俺を見つめた後、ポ ツリとこう言った。 ﹁今日はスキーを楽しむけど、明日はスノーボードをしてみたいな﹂ ﹁え?﹂ 伏せた目を上げると、彼女が俺を見ていた。 ﹁私、まだ一度もスノーボードをやったことないのよ。だから、色 々教えてもらわないと。タカ、教えてくれるわよね?﹂ みさ子さんがチラリと俺を見上げてくる。 俺が落ち込んでいる理由など、とっくにお見通しだったみさ子さ ん。 ﹁かっこいいタカを見せて﹂ クスクスと楽しそうに笑う彼女の瞳は、ちょっとだけイタズラッ 子のようだ。 ︱︱︱ああ、もう。ホント、みさ子さんにはかなわないなぁ。 彼女のおかげで、不貞腐れた感情があっという間に消え去ってい く。 スキーほど上手くはないものの、そこそこボードも滑ることが出 来る。人に教えられるには十分なほどの腕前だ。 ﹁分かった。明日は一緒にスノボしようね﹂ 明るく言った俺に、みさ子さんはフワリと綺麗な微笑みを浮かべ てくれる。 彼女に惚れ直させるつもりが、逆に俺が惚れ直した。 639 100︼スキーはお好き?︵7︶惚れ直す?︵後書き︶ ●お待たせしました。久々の更新です。年内にこの章を終えること が出来て、本当にホッとしております。 十二月に入ってから仕事が立て込み、一日の半分は職場にいるみや こ︵号泣︶ クリスマスはもちろん激務の連続。一日12時間勤務ってどうよ!? まぁ、文句は誰にも言えないので、ひたすら働いております︵苦笑︶ 。 ●早いもので、もう100話。こんなに長編になる予定ではなかっ たのに、書きたいことが次から次へと出てきております。 ﹃無事にラストにたどり着けるのだろうか?﹄という不安が胸一杯 に広がっておりますよ⋮。 二人にはこの先も乗り越えてもらわなくてはならない山がいくつも あるので、今後の展開を考えると気が遠くなりそうですが、どうに か頑張ります。 どうか北川君とみさ子さんを温かく見守ってあげてください。 皆様の応援で、二人は︵正確には書き手のみやこが︵笑︶︶頑張れ ます。 ●それでは皆様、よいお年を⋮。 640 101︼ある春先の日の出来事︵1︶俺だけの微笑み 三月も十日近くになると年度末の関係で社内が慌しくなり、部署 に関係なく、社員達は社外でも社内でも仕事に追われいている。 特に書類が集中する総務部はいつも以上に緊張感が漂っていた。 ﹁うわぁ。みんな、ピリピリしてるなぁ﹂ 数枚の書類を手に、入り口から総務をそっと覗く俺。 パソコンのキーボードを叩く音。 電話をかけたり受けたりする声。 社員が歩き回るせわしない靴の音。 叫ぶように指示を出す大きな声。 様々な音や声が溢れていて、“殺気立っている”という言葉が俺 の脳裏に浮かぶ。 それほどまでに室内は忙しそうなのだ。 その様子を見て足が竦むが、この書類を提出しなければ俺の今日 の仕事は終わらない。 午後には絶対に外せない得意先回りが控えているから、是非とも 昼飯前に済ませてしまいたいのだ。 俺と同じような社員が多いらしく、昼休み前の総務には書類を持 った先輩、同僚、後輩が受け付けカウンターの前に列を成していた。 ︱︱︱ずっとここに立っているわけにもいかないしな。⋮⋮よし。 一つ深呼吸してから室内へ踏み込み、行列の最後尾に着く。 前方を見遣ると、今日のカウンター担当者であるみさ子さんが淡 々と、だけどすさまじい速さで書類を捌いていた。 641 一文字のミスも見逃すまいと、丁寧に文面を追う彼女の顔は普段 よりもやや固い。 そんな彼女の全身を覆うのは例の女帝オーラ。 ︱︱︱こんなにピリピリしているみさ子さんは、久し振りに見たな。 怖いほど真剣な表情でチェックをしている彼女の姿に、順番を待 っている社員達は顔をこわばらせ、まるで懺悔を受けるかのように 重苦しいため息をついていた。 俺はといえば、凛とした姿で仕事に臨んでいる彼女を見て、ニヤ ついていることがバレないように頬を引き締めている。 惚れた欲目かもしれないが、みさ子さんは本当にどんな時でも俺 の心を捉えて離さない。 もちろん、俺の腕の中で妖しく乱れる姿が一番魅力的なのだが。 なんて事をこっそり考えていたら、いつの間にか俺の番になって いた。 書類を受け取ろうと手を差し出しているみさ子さんは、ボンヤリ 突っ立ている俺に向けて、聞えるように咳払いをする。 ﹁えっ?!あ、すいません。お願いしますっ﹂ ハッと我に返った俺が慌てて差し出した書類をみさ子さんは静か に受け取り、小さく頷いた。 彼女の書類チェックを受けている間、俺は幾度となく欠伸をかみ 殺す。 一年の中でも、この時期は三本の指に入るほど忙しく、おまけに、 同じ担当地域の社員が交通事故で入院してしまった。 その分の仕事も請け負っている俺の疲労は、もはや限界点スレス レ。 永瀬先輩が手伝ってくれてはいるものの、彼は俺よりも仕事量が 多いので、あまり甘えることも出来ない。 642 連日のハードワークは確実に俺の体に負担をかけてた。 ︱︱︱腹減ったなぁ。昼はちょっと奮発して、何か旨いもの食うか。 何度目かの欠伸を堪えているところで、みさ子さんがチラリと視 線を上げ、提出した五枚の書類のうち三枚を返してきた。 ﹁書き直しをお願いします﹂ 冷静とも取れるその物言いは、他の社員に対するものと同じ。 彼女は職場にプライベートを持ち込むことは絶対にしない。付き 合う前も、付き合っている今も、どの社員にも平等に厳しい。 そんな態度に少しだけ寂しさを覚えるが、それでこそ俺が惚れた 女帝だし、俺が望んでいる姿。 厳しい姿ですら彼女の魅力なのだ。 それに彼女が優しく振舞うことで、俺以外の誰かがみさ子さんに 目をつけては困る。 みさ子さんの可愛い態度や綺麗な笑顔は、俺だけが知っていれば いいのである。 ﹁すぐに直します﹂ 軽く頭を下げて書類を受け取り、一時的に設けられている書類作 成スペースに向かう。 同じように書き直している社員達に並んで、俺もミスを直しにか かった。 総務に来る前に何度も見直したはずだが、ぼうっとしていたせい か、三枚も再提出する羽目に。 ︱︱︱仕方ない。自分が悪いんだし。 みさ子さんが意地悪でやり直しをさせているのではないことを百 も承知の俺は、すぐさま書類に目を走らせる。 643 が、疲労で回らない頭ではなかなか訂正箇所が見つからない。 ︱︱︱えっと、どこが間違っているんだ? とはいえこのままボンヤリしていたら、みさ子さんの昼休みに食 い込んでしまう。 チーフである彼女は同じ部のどの社員よりも仕事をこなしている ため、誰よりも疲れているはず。 俺のことで彼女の貴重な休憩を潰すわけにはいかない。 ︱︱︱頑張れ、俺! しょぼつく目を擦りながら必死で頭を働かせ、どうにかこうにか 書類を完成させた。 書き上げた書類に改めて目を通し、今度はミスが無い事を確認し て再びみさ子さんのもとへ。 だいぶ時間がかかってしまったからか、俺より後に来た社員の姿 も無い。 ﹁申し訳ありません。遅くなりました﹂ 短いお詫びと共に書類を出す。 今度もみさ子さんは無言で受け取り、素早く丁寧に目を通してい る。 書き直した書類が次々と﹃受領﹄と書かれたトレイに入れられた。 ﹁はい。確かに受け取りました﹂ みさ子さんが最後の書類にポンと受領印を落とした。 ︱︱︱やれやれ。とりあえず、午前中の仕事は片付いたなぁ。 再三に渡って欠伸を噛み締めていると、みさ子さんが一枚の書類 を俺に差し出してきた。 ﹁なんですか?﹂ 確かに彼女はすべての書類を受け取り、やり直しするものは無い はず。 みさ子さんの行動の意味が分からず首をかしげていると、 ﹁この書類を永瀬君に渡してください﹂ 644 昼食に向かわず、まだ室内に残っている総務の社員にも聞えるよ うにやや大きめの声でみさ子さんが言った。 ︱︱︱なんだ。先輩への書類か。 ﹁分かりました﹂ 俺が書類を受け取った瞬間に、みさ子さんは右下のある部分を指 先でトントンと軽く叩いた。 そこには、なにやら書かれた黄色の付箋が貼られている。 “お仕事ご苦労様。唐揚げをたくさん持ってきたから、一緒にお昼 を食べましょ。あの休憩室で待ってて” ﹁えっ?﹂ 驚いた俺は思わず声が上がるが、みさ子さん以外の社員達には届 かなかったようだ。 ﹁北川さん、よろしくお願いします﹂ 真っ直ぐな声で俺の名前を呼ぶみさ子さんの瞳は、俺だけに分か るように優しく微笑んでいた。 645 101︼ある春先の日の出来事︵1︶俺だけの微笑み︵後書き︶ ●だいぶ遅くなりましたが、皆様、明けましておめでとうございま す。昨年に引き続き、この作品をどうか温かい目で見守ってやって ください。 646 102︼ある春先の日の出来事︵2︶森尾さん襲来 書類の提出を無事に終えた俺は、軽い足取りで営業部へと急いだ。 その様子からは先ほどの眠気がまったく感じられない。 残業が続くようになってから、疲れきっている俺を気遣って、み さ子さんは﹃仕事を終えたら真っ直ぐ自宅に帰るように。そして早 く寝るように﹄と俺に言っていた。 普段は帰りに二人で食事をしたりする事もあったのだが、仕事が 立て込むようになってからは一緒に帰ることが無い。 俺もそうだが、みさ子さんもほぼ連日残業しているので、時間を 合わせて帰ることが難しいのだ。お互い何時に仕事が終わるのか分 からないし。 週末の休みは一応あるけれど、突然俺が休日出勤になったりして 会いに行く間が無い。 みさ子さんも疲れているだろうから、習慣となっている就寝前の 電話も今はかけていない。 彼女の手料理も、ゆっくり顔を合わせることも久し振りのことだ った。 ︱︱︱久々にみさ子さんの唐揚げが食べられるぞ∼。しかも、みさ 子さんからのお誘いで。 これが浮かれずにいられるだろうか。 ﹁かっらあげ∼♪かっらあげ∼♪﹂ 誰もいない廊下を鼻歌交じりに進んでいると、 647 ﹁北川君っ﹂ と、声をかけられた。 足を止めて振り向けば、森尾さんが小走りで駆け寄ってくる。 ﹁最近、仕事が大変なんだってね﹂ 嬉しそうに俺を見上げる彼女は、今日もウルウルの瞳にツヤツヤ の唇。 俺の顔を見るなり怪訝な表情をされるのは嫌なものだが、こうや って期待を込めて嬉しそうにされるのも困るのだ。 だから俺は、彼女にはあえて素っ気無い態度に出る。 ﹁この時期はみんなが忙しいし、俺だけが特別大変って訳じゃない から﹂ ほぼ無表情で言ってのけるが、それはまったく通用しなかった。 ﹁ふふっ。そうやって謙遜するところが北川君のいいところだよね﹂ パチパチッと瞬きをした森尾さんが、ほんのりと頬を赤らめては じっと俺を見つめる。 その視線からは、いまだに俺を諦めていない様子がありありと見 て取れた。 ︱︱︱今年のバレンタインにも、その後にも、﹃本命の彼女がいる から﹄って散々言ったのに⋮⋮。 そんな俺の言葉も“体よく断るための決まり文句”ぐらいにしか 思っていないのだろうか。 前向きというか、自己中心的というか。 とにかく俺としては、そんな彼女にほとほと困っている。 ︱︱︱まいったなぁ。でも、みさ子さんからは﹃くれぐれも私の存 在を内緒にするように﹄って言われてるし。 みさ子さんの存在をはっきり告げて、森尾さんのように俺に言い 寄る女性社員たちを遠ざけたいのだが、みさ子さんの意向には逆ら えない︱︱︱それ以外にも、付き合いを隠す理由はあるのだが。 なんにせよ、森尾さんからの熱心なアプローチは、俺にしてみれ 648 ばちっとも嬉しくないものなのだ。 ︱︱︱ホント、まいったよなぁ。 心の中でこっそりとため息をついた。 そんなことより、いつまでも廊下の真ん中で立ち話をしている場 合ではない。 ﹁受付け嬢の森尾さんがわざわざこんな所に来るってことは、何か 用件があってのことだろ?﹂ 厄介な相手ではあるが、このまま逃げ去ってはさらに厄介になる ので、早く話を済ませてしまいたい俺は彼女に水を向ける。 すると森尾さんは飛び切り顔を輝かせた。 ﹁あのねっ。先輩から近くにある美味しい洋食屋さんを教えてもら ったの。北川君、最近疲れているみたいだから、気分転換にランチ をご馳走してあげようと思って。一緒にお昼、どうかな?﹂ 再び瞬きを繰り返し、ちょこんと首をかしげる。 森尾さんの得意ポーズだ。 客観的に見てもその仕草は確かに可愛いとは思うが、やはり俺に とってはみさ子さん以上に魅力的な女性はいない。 少しも胸がときめくことも無く、淡々と断りを入れる。 ﹁せっかくだけど、この後に用事があるから。それと⋮⋮、これ以 上俺にかまっても、森尾さんの気持ちには応えられないよ﹂ 何度も繰り返してきたセリフを、改めてはっきりと伝える。 望みの無い告白を繰り返したところで、俺にとっても、また森尾 さんにとっても無駄でしかないから。 言外にそういう意味を込めて告げると、彼女の瞳が寂しげに曇っ た。 ﹁⋮⋮私のこと、嫌い?﹂ 649 コレも何度となく聞いてきたセリフだ。 ﹁嫌いじゃないよ。ただ、森尾さんとの間に友情はあっても、恋愛 感情はないんだ。それに、前から言ってるだろ。“誰よりも大切な 彼女がいる”って﹂ 愛しくてたまらないみさ子さん。 誰よりも、何よりも大切な彼女。 俺はみさ子さん以外の女性は欲しくない。 みさ子さん以外の女性を愛する事なんてできない。 ﹁だから⋮⋮﹂ 話を続けようとした俺の言葉をさえぎるように、森尾さんが声を 上げる。 ﹁それでも諦められないんだもん!それに、実際に北川君の彼女を 見たわけじゃないもん!そんなに言うんなら、会わせてよっ﹂ まるで子供がダダをこねるているようだ。 ぜんぜん話を聞いてくれない彼女に対して正直嫌気が差し、心の 中で盛大なため息を漏らす。 ︱︱︱できるのなら、そんな事とっくにしてるって。 だけど、以前沢田さんから﹃やっかみで佐々木先輩が狙われるか もしれないから﹄と聞かされているし、おまけに森尾さんならやり かねないという危惧がある。かわいらしい顔をして、結構激しい気 性の持ち主なのだ。 俺とみさ子さんが付き合い始めるだいぶ前、会社裏の空き地でみ さ子さんに食って掛かるところを見ているから、どの女性社員より も森尾さんは要注意人物。 ﹁彼女がいるなんて言葉ばっかりで、私を諦めさせるための嘘なん でしょ?﹂ 挑みかかるような勢いから一転して、弱々しくすがりつく目で俺 650 を見上げてくる。 ほんの少し眉を寄せて下唇を噛み締める森尾さんは、泣きたいの を必死で堪えているように見える。 しかし、本気で泣きたいのか演技なのかは、この際どうでもいい。 俺は早くあの休憩室に向かいたいのだ。 ﹁今は事情があって紹介できないけど、俺に彼女がいるのは本当に 本当なんだ。だから、何度告白してきても無駄だよ﹂ 俺が突き放すようにそう言うと、森尾さんは更に唇を強く噛む。 ﹁⋮⋮そんなこと聞かされても、絶対に諦めないんだから!!﹂ 今にも泣き出しそうな声音で捨て台詞を残し、身を翻した彼女は パタパタと駆け去っていった。 ﹁やれやれ。やっと行ってくれたよ﹂ はぁ、と大きなため息と共に思わず呟きが漏れる。 ﹁あのガッツを他の男に向けてくれたら良いのになぁ﹂ 森尾さんがどんなに男性社員からの人気があっても、俺にはみさ 子さんしか選べない。 俺が片想いをしていた頃、確かに今の森尾さんと同じく諦めが悪 いところがあったが、それはみさ子さんに彼氏がいなかったから成 立した話だ。 彼女のいる俺にいくら告白してきたところで、その頑張りは報わ れない。 ﹁おっと。ここでボンヤリしている場合じゃなかった!﹂ 一声上げた俺は、慌てて営業部へと戻った。 651 652 103︼ある春先の日の出来事︵3︶みさ子さんの悩み 付箋をはがした書類を永瀬先輩に渡し、またバタバタと走って例 の休憩室へと向かう。 みさ子さんと二人きりで狭い休憩室にいるところを誰かに見られ たら、さぞかしマズイ事態になるだろうと思う。だが、なぜかいま だに見つかった事がない。 あの空き地にだって、俺とみさ子さんが一緒にいる場合は他の誰 とも会わない。 休憩室にしろ、空き地にしろ、よほど物好きではないと足が向か ないようだ。 ﹁ははっ。じゃぁ、俺達は揃って物好きか。まぁ、気が合うって事 だな﹂ 階段を駆け上がり、休憩室に到着。 念のために誰も後をついてこなかったのを確認し、ドアを開ける。 部屋の中では既にみさ子さんが待っていた。 ﹁待たせちゃってごめんねっ﹂ 滑り込むように、室内へ入る俺。 するとみさ子さんは返事をする事もなく、静かに首を横に振るだ けだった。 ︱︱︱あれっ? 様子がどうもおかしい。 ソファーに浅く腰掛けているみさ子さんは浮かない表情だ。 疲れているのではなく、なんだか寂しそうな顔。さっきまでバリ バリと仕事をこなしていた女帝と同一人物だとは思えないほどに。 ﹁みさ子さん?﹂ 急いで歩み寄った俺は、彼女の隣に腰を下ろす。 653 ﹁何かあった?﹂ ﹁あ⋮⋮、何もないわよ⋮⋮﹂ 問いかけてみても、気のない返事を寄こすみさ子さん。 そんな彼女を俺が見過ごせるはずがない。こういう時の彼女は、 ネガティブ思考になっているのが常だから。 ﹁何を考えてるの?﹂ 脇に置かれている彼女の左手を俺の右手でそっと握る。 するとみさ子さんがまた首を横に振った。 ﹁別に、たいした事じゃないの。何でもないことだから﹂ 頑固に言い張るみさ子さんを放っておいたら、ますますネガティ ブ思考にはまってしまうに違いない。 俺はしつこく彼女に言い寄る。 ﹁たいした事じゃなかったら、俺に言えるよね。教えて﹂ ﹁それは⋮⋮﹂ みさ子さんは目を泳がし、口ごもる。 ﹁言わないつもり?だったら話してくれる気になるまで、今この場 でキスしちゃおうかなぁ﹂ ニヤリ、と嬉しそうに片頬を上げる俺。 握り締めた彼女の手がビクッと震える。 ﹁タカ、何言ってるの?!ここは会社なのよ!誰かが急に来るかも しれないじゃない!﹂ みさ子さんはグイッと手を引いて俺から逃げようとするが、その 前に更に強く握る。 ﹁今まで誰にも見つかってないんだから、平気だよ﹂ ゆっくりと顔を近付け始めると、みさ子さんは慌てて半分腰を浮 かせた。 ﹁ちょ、ちょっと!﹂ 真剣に逃げようとする彼女に、俺は優しくにっこりと微笑みかけ る。 ﹁それなら正直に教えて。何を考えてたの?﹂ 654 目元は優しいままだが、眼差しは怖いくらい真剣に見つめる俺。 みさ子さんにあんな不安気な顔は似合わない。彼女の不安を取り 除いてあげるのは、彼氏である俺の役目だ。 俺が目を逸らすことなくじっと見つめていると、とうとう観念し たのか、みさ子さんは浮かせていた腰をソファーに戻し、おずおず と口を開いた。 ﹁あの⋮⋮。廊下でタカと森尾さんがいるところを見かけて⋮⋮﹂ 苦しそうにというよりも、悲しそうにみさ子さんが言葉を紡ぐ。 ︱︱︱ああ、さっきのやり取りの事か。誰も見ていないと思ってい たんだけど。 まぁ、みさ子さんに見られていたとしても、俺にはやましい所な んてないからぜんぜん問題ないのだが。 ﹁で?俺がみさ子さんから離れて、森尾さんとつっくつとでも思っ た?﹂ ほんの少しだけ、声を低くして尋ねる。 ︱︱︱万が一にも、ここでみさ子さんが﹃うん﹄と答えたら、問答 無用で押し倒してやろう。 そう思っていたら、彼女はとっさに﹃違うわっ﹄と言った。 ﹁そうじゃないの。そうじゃなくって⋮⋮﹂ 再び口ごもるみさ子さんは、しばらくの沈黙の後、ポツリと呟く。 ﹁小柄な女性って良いなって思ったの⋮⋮﹂ そして、肩が沈むほど大きなため息をついた。 ﹁そう?みさ子さんくらい長身の方が、スタイルよく見えて良いと 思うけど?﹂ 正直に俺の感想を言うと、みさ子さんは瞬きを繰り返しながら言 葉を捜す。 ﹁ええと、うまく言えないんだけど⋮⋮。小柄な女性の方が、男性 と並んでバランスが取れるって言うか。ほら、私なんて無駄に大き 655 いだけだし⋮⋮﹂ 小柄な事で困っている女性陣を敵に回しかねないみさ子さんの発 言。でも、彼女は彼女で自分の高身長を悩んでいるのだ。 ︱︱︱なんだ、そんなことでショゲていたのか。 と、俺は心の中で呟いた。 だが、彼女からすれば“そんなこと”では済まされないのだろう。 その証拠に、みさ子さんはまたため息をつく。 悩んだところで仕方がない。 解決策があるわけでもない。 そんなことは分かっている。 だからこそ、彼女は出口のない悩みの迷路に迷い込む。 俺にできることは﹃そのままのみさ子さんで良いんだよ﹄と教え てあげることだけ。 ﹁俺からすれば、みさ子さんが背の高い人でよかったと、つくづく 思っているけど?﹂ ﹁どうして?こんな大きな女のどこがいいの?﹂ きょとんとした瞳で、みさ子さんが俺を見る。 ﹁ふふっ、じゃ、その理由を教えてあげるよ。さ、立って﹂ 掴んだままの手を引いて、彼女を立ち上がらせた。 俺の前に立つみさ子さんとの目線には大きな差はない。 その事をまざまざと感じたみさ子さんは、寂しそうに目を伏せる。 ﹁こら、下を向かない。真っ直ぐ正面を見て﹂ 注意をすると、みさこさんが首をかしげる。 656 ﹁正面?﹂ ﹁そ、正面だよ﹂ ﹁うん⋮⋮﹂ 腑に落ちない顔をしながらも、みさ子さんは真っ直ぐに正面を向 く。 そして俺はちょっとだけ屈んで、彼女にそっとキスをした。 突然の事に声も無く、呆然と立ち尽くすみさ子さん。 ﹁ほらね。伸長差が無いと顔の位置が近くてキスしやすいんだよ。 すっごくいいことだと思わない?﹂ 改めてチュッと唇を重ねる。 今度はキスをされたことを理解したみさ子さんは、目をまん丸に 見開き、顔を真っ赤にして、自分の手でガバッと唇を隠した。 ﹁ちょ、ちょっと!何するのよっ!!﹂ 慌てふためく彼女に、俺はパチンとウインクを送る ﹁何って、みさ子さんの背が高くてよかったって事を証明してあげ たんじゃん。あれ、分からなかった?なら、もう一回﹂ 俺が顔を近づけようとすると、 ﹁いやぁー!!﹂ と悲鳴を上げて、みさ子さんが身を翻した。 ﹁ああ、もう!会社でこんな事をするなんて、信じられないっ﹂ さっきまで鬱々とした表情はどこへやら。 プリプリと怒って声を上げている。 ﹁信じられないなら、信じてくれるまでキスしようかなぁ﹂ ﹁そんなことを言ってるんじゃないわよっ!﹂ 657 恥ずかしさのあまり両手で顔を覆っているみさ子さんが、俺に背 を向けたまま怒鳴る。 ﹁じゃぁ、どうしたらみさ子さんは気が済むの?﹂ クスクスと笑いながら尋ねると、彼女は顔だけこちらに向けてキ ッと俺を睨む。 ﹁これ以上何もしないでっ﹂ 目の縁を赤くして怒っている彼女が愛しくてたまらない。 俺はますます苦笑する。 ﹁みさ子さんが悩まなくなったら、こんな事もうしないって﹂ ﹁本当に?本当に、もうしない?﹂ しつこいくらいに念を押してくるみさ子さん。 そんな彼女の肩を掴んで、こちらに向かせた。 ﹁俺はね、ありのままのみさ子さんを好きになったんだよ。社員に 恐れられるみさ子さんも、背が高いみさ子さんも、何もかも含めて ね。だから、みさ子さんが自分自身のことで悩む事なんて、何一つ ないんだよ﹂ 彼女のいい所も、悪い所も含めて“佐々木みさ子”という女性な のだ。 そういう女性に、俺は惚れたのだ。 緩やかに目を細めて告げると、みさ子さんはコクンと小さく頷く。 ﹁分かった。これからは背の事で悩んだりしないから﹂ ﹁約束だよ﹂ 俺が確認するように言うと、今度は大きく頷く。 ﹁約束する。だから⋮⋮、その⋮⋮、会社でキスしないで﹂ 恥ずかしそうに頬を染めて、みさ子さんが泣きそうな顔で懇願し てきた。 誰もが恐れる女帝が、俺のほんの些細な行動で狼狽したり、感情 658 を露にする様子が愛しくて、心底愛しくて、俺の顔が思いっきり緩 む。 ﹁ホント、みさ子さんはかわいいなぁ﹂ 満足そうに俺が呟くと、彼女の顔がいっそう赤く染まった。 659 104︼ある春先の日の出来事︵4︶過去の傷 ちょっとキスしただけなのに真っ赤になって恥ずかしがっている みさ子さんがものすごく可愛くて、思わずキス以上のこともしたく なってしまう。 ⋮⋮が、ここで手を出せば確実に唐揚げはお預けとなるだろう。 それは避けたい。なんとしても避けたい。 なので、なけなしの理性を総動員し、体の奥に灯り始めた妖しい 炎をどうにか消す事に成功。 俺が一人で己の欲望と戦っている間も、肩を掴まれているみさ子 さんの顔は赤いまま。 大きな深呼吸を何度か繰り返し、そして改めてジロリと睨んでく る。 ﹁もう、キスしてこないでよね!﹂ 怒りよりも羞恥の色が濃い声音。 三十歳目前の彼女がキスの一つや二つでうろたえる姿は他の人か ら見れば少々呆れてしまうものなのかもしれないが、俺からすれば 可愛らしい以外にない。 だけど困らせたい訳ではないから、ここは素直に頷いた。 ﹁分かった。キスしたりしないよ﹂ にっこりと微笑みかけると、みさ子さんはようやく緊張を解いた。 660 ソファーに二人並んで腰を下ろす。 包みを開いた弁当箱には、ぎっしりと詰められた大好物の鶏の唐 揚げ。 別の弁当箱にはシラスとほうれん草が入った出し巻き卵、あんか けの肉団子、焼き鮭、色鮮やかに茹でられたブロッコリーとニンジ ンが入っていた。 ﹁今日はおにぎりを持ってきたの﹂ そう言って薄茶の紙袋からみさ子さんがごそごそと取り出す。 ラップに包まれているのは、綺麗な三角形をしたおにぎりで、刻 んだ梅肉と削り節が混ぜられていた。 ﹁梅の酸味は疲れを取るのよ。少しすっぱいだろけど、薬だと思っ て我慢して﹂ みさ子さんはまるで母親のような感じで、やや大振りのおにぎり を渡してくれる。 それをそっと受け取り、ニコッと微笑み返す。 ﹁我慢だなんてとんでもない。みさ子さんが作ってくれたおにぎり なんだから、喜んで食べるよ﹂ おにぎり上部のラップを剥ぎ、小さく“いただきます”と言って、 俺は大きな口で噛り付いた。 ぱくっ。 もぐ⋮⋮、んっ?! ︱︱︱す、すっぺぇーーーっ!! 予想以上の酸味に体が硬直した俺を見て、みさ子さんがぎょっと する。 ﹁ちょ、ちょっと!大丈夫!?ほら、ここに出してっ﹂ みさ子さんが慌てておにぎりを入れていた紙袋を俺の口元に差し 出したが、俺はそれを空いた手で押しのけて首を横に振った。 661 ものすごい速さで咀嚼し、一気にゴクン、と飲み込む。 ︱︱︱はぁ、びっくりしたぁ。 息を吐く俺を見て、みさ子さんはなにやら複雑な顔だ。 ﹁無理しなくてもよかったのに⋮⋮﹂ ﹁無理じゃないよ、ちょっとすっぱいだけで味は問題ないんだし。 それに、みさ子さんが俺の体を気遣って作ってくれたんだから、尚 更出すなんでできないよ﹂ 涙目で笑みを浮かべる俺に、みさ子さんは申し訳なさそうな表情 をした後、わずかにフワリと目を細める。 ﹁どうかした?﹂ ﹁⋮⋮不思議だなって思ったの﹂ 膝の上で紙袋をたたんでいるみさ子さんが静かに言った。 ﹁不思議?何が?﹂ ﹁タカといると、自分の嫌いな部分が気にならなくなるって言うか、 好きになってくるって言うか﹂ 手元に目線の落としたままのみさ子さんを、俺は黙って見守る。 彼女は一点を見つめたまま、やや思いつめたように話し出した。 ﹁背の事だってそうよ。ずっと、⋮⋮ずっと、背の高い自分が嫌い だったわ﹂ そう言って、みさ子さんは少し顔を上げて、海が見える窓の外に 目を向る。 ﹁高校3年の頃だったかしら?お正月に親戚が集まった時、ある人 に言われたの。“背の高い女は可愛げがない”って⋮⋮﹂ ふぅ、とため息を一つついて、なおも話を続けるみさ子さん。 ﹁私の親戚はわりと小柄な男性が多くてね。父と兄くらいだわ、私 より大きいのは。その人は酔っていたから、悪意があっての言葉で はないんだろうけど。でも、その一言がずっと心の奥に引っかかっ ていたの⋮⋮﹂ 662 “可愛げがない” その言葉は、女性である自分を否定されたかのように、当時のみ さ子さんは感じたのだろう。 過去に小田さんから﹃大して美人じゃにクセに!﹄というセリフ をぶつけられたみさ子さんにとって、親戚からのその言葉は、思春 期特有の不安定さを抱えた彼女には厳しいものだったに違いない。 ﹁そうだったんだ。だからみさ子さんは、あんなにも背の高さを気 にしていたんだね﹂ そっと髪を撫でてやると、みさ子さんは小さくコクンと頷く。 ﹁⋮⋮こんな自分、大嫌いだった﹂ 視線を床に落とした彼女は、砂を噛み締めるように呟いた。 そんなみさ子さんに気の利いた慰めの言葉をかけてあげることも できず、俺はただ、優しく髪を撫で続ける。 “俺は、みさ子さんが大好きだよ”という想いを込めて。 しばらく俯いていた彼女は、ゆっくりと顔を上げて俺に向き直っ た。 ﹁でもね、タカが“私の背の高さがちょうどいい”って言ってくれ て、すごく気持ちが楽になったの。背の高い自分を、やっと受け入 れる事ができたわ﹂ 思い出話をしていた時のみさ子さんとは別人のように、今の彼女 は晴れやかな表情をしている。 ﹁⋮⋮まぁ、あのやり方は納得しかねるけど﹂ チロリ、と睨まれる俺。 663 気まずい顔をして﹃ごめん﹄と謝ると、みさ子さんが今度はその 目を和らげた。 ﹁さっきもそう。“俺の体を気遣ってくれたから”って言って、吐 き出さずにおにぎりを食べてくれたでしょ。すごく嬉しかった﹂ ﹁え、そう?﹂ 自然に取った言動なので、その事に感謝をされて逆にびっくりし た。 ﹁そうよ。もし、その言葉もなくて、おにぎりを袋に出されていた ら、“失敗したものを食べさせちゃった。どうしよう”って、きっ と地の底まで落ち込んでいたと思うの。タカのおかげで私は救われ たわ﹂ ﹁それはちょっと大げさに言いすぎじゃない?﹂ 何となく照れくさくなって鼻の頭を指で引っかいていると、みさ 子さんがポツリと呟く。 ﹁タカは何気なく私を救ってくれるわ。⋮⋮だから、嬉しいの﹂ 彼女も照れくさいらしく、俺から視線を外してサラサラの黒髪を かき上げた。 そんな些細な仕草でさえも、とたんに彼女への愛しさで一杯にな る。 ﹁⋮⋮ね、抱きしめていい?﹂ つい、そんなことを口にしてしまうと、みさ子さんはパッと俺を 見て、顔をこわばらせた。 ﹁だ、だめっ!そんなことしたら、唐揚げ食べさせてあげないから !﹂ 顔色を赤や青に忙しなく変えながら、みさ子さんは唐揚げの詰ま った弁当箱を俺から遠ざけた。 664 105︼ある春先の日の出来事︵5︶キス。⋮そして誓い その後、俺は彼女に手を出すこともなく、無事に唐揚げを口にす ることができた。 ﹁何回食べても、みさ子さんが作る唐揚げは旨いなぁ﹂ 大き目の弁当箱に詰められていた唐揚げたちが、次々と消えてゆ く。その他のおかずやおにぎりもどんどんと俺の口の中へ。 ﹁いつも思うけど、料理上手だよね﹂ 感心仕切りでそう言うと、みさ子さんは何気ないように箸を取っ た。 ﹁そうかしら。人に食べさせる事なんてこれまでほとんどなかった から、よく分からないわ﹂ 素っ気無い口調の中にも一握りの嬉しさを滲ませて、みさ子さん も唐揚げを口にする。 ﹁誰かに料理を教わったわけでもないし、特別な事をしているわけ でもないの。極当たり前のお惣菜よ﹂ ﹁その当たり前の惣菜がこんなに美味しいってことは、やっぱり料 理が上手って事だよ﹂ ニコッと笑いかけると、みさ子さんの頬がほんのり染まる。 ﹁タカっていつも明け透けに褒めてくるわね﹂ ﹁誰彼かまわず褒めているわけじゃない。みさ子さんにだけだよ﹂ 他の女性に対して、特に俺の顔しか見ていない人にはかなり素っ 気無い態度だという自覚はある。さっきの森尾さんに対してのよう に。 ︱︱︱そうだ。森尾さんで思い出したよ。 665 ﹁みさ子さん、社内で嫌がらせとかされてない?﹂ 持参したハーブティを水筒からカップに移していた彼女の手が止 まり、俺を見た。 ﹁嫌がらせ?﹂ 不思議そうな顔をして、パチパチッと瞬きを繰り返している。 ﹁うん﹂ 俺は彼女のどんな些細な変化も見逃すまいと、じっと見つめる。 みさ子さんはちょっとだけ首をかしげて、静かに見つめ返してき た。 ﹁思い当たる節はないけど。どうして急にそんな事を訊くの?﹂ ﹁実はね、森尾さんが何か仕掛けてくるんじゃないかって気がして いるんだ﹂ それを聞いたみさ子さんの表情がわずかに曇る。 みさ子さんはずっと以前から、森尾さんが俺の事を好きだと知っ ている。 それを知っていて、俺と付き合っている。 その事に負い目を感じているらしい︱︱︱そんなものは負い目な どではないのに。 視線を床に落としたみさ子さんの頭を、軽く握った拳でコツン、 と叩いた。 ﹁こら。みさ子さんが気にする事じゃないよ﹂ ﹁あ⋮⋮、ごめんなさい﹂ 俺と付き合うようになって、かつてのようなネガティブ思考に雁 字搦めの彼女ではなくなってきたものの、いまだ完全に過去の彼女 666 からは脱却できていないようで、時折こうして暗い顔をする。 ﹁みさ子さんは悪い事なんて何にもしてないんだよ。だから、そん な顔しないで。分かった?﹂ ﹁⋮⋮ん、そうね﹂ 苦笑いをしてくる彼女の瞳から暗い影が薄れた。 ﹁さっきの話に戻るけど。俺とみさ子さんの付き合いは今のところ 永瀬先輩と沢田さんにしか知られてないから、大丈夫だとは思うん だけど﹂ 俺の心配そうな視線を受けて、みさ子さんは柔らかく微笑む。 ﹁タカが心配するような事は何も起きてないわよ。沢田さんも気に かけてくれているし、大丈夫よ﹂ ﹁それならいいんだ。でも、森尾さんは直情的な性格だから、この 先何も起こらないとは限らない。気になる事があったら、どんな小 さなことでも良いから俺に教えて﹂ ﹁分かったわ﹂ 軽い調子で返事を返してくるみさ子さんに詰め寄る俺。 ﹁約束だよ!森尾さん以外の人に何かされても言うんだよ。これは 二人の問題なんだから、絶対に一人でどうにかしようと思わないで !﹂ ﹁そんなに念を押さなくても分かってるわよ。それに、よほどの事 がない限り、私とタカが付き合っているなんて考えないだろうし。 私みたいな女がタカの恋人だなんて、みんな夢にも思わな⋮⋮、痛 いっ!﹂ 彼女が最後まで言い終える前に、俺はみさ子さんのなだらかだな 額をペチンと叩いた。 ﹁もう!“私みたいな”って言わない。俺にとって、みさ子さんは 最高の女性なんだから、自分を卑下しないで。いい?﹂ 睨み付けると、みさ子さんは小さく何度も頷いてみせる。 667 ﹁ご、ごめんなさい。これからは気をつけるわ﹂ ﹁みさ子さんは自分の魅力に気付いてないだけ。本当のみさ子さん は誰もが羨む美人なんだからね﹂ ﹁そう⋮⋮かしら?﹂ 俺の自信満々な言葉に、彼女は訝しげだ。自分の事をまるで分か っていないみさ子さんは盛大に首をひねる。 ﹁そうなんだよ﹂ ﹁んー。タカにそう言われても、やっぱりそうは思えないわ。服装 や髪型を変えてみたら、少しは分かるのかしら?﹂ みさ子さんは今着ている上下黒のパンツスーツに目をやる。 ﹁いい年だから、あまり派手な格好はできないけど⋮⋮。タカ、ど う思う?﹂ 訊かれた俺は即答。 ﹁今まで通りでいいから﹂ ﹁え、そう?﹂ ﹁だって俺は着飾る事をしないみさ子さんを見て、それでも好きに なったんだよ。今更変える必要ないさ﹂ ︱︱︱華やかになった彼女を見て、他の男が手を出してきたら困る !! という、心の狭い意見は俺の胸中だけに留めておく。 ﹁タカがそう言うならいいけど。この歳でイメチェンするのは、私 もなんだか恥ずかしいし﹂ 彼女は俺の心の叫びには気付かなかったようで、てきぱきと食べ 終えた弁当箱を片付けている。 ﹁ご馳走様でした。すごく美味しかった。わざわざ作ってくれてあ りがとう﹂ 668 お礼を言うと、みさ子さんははにかみながら首を横に振る。 ﹁喜んでもらえてよかったわ。これで元気になった?﹂ ︱︱︱うん! と答えようとしたが、俺は不意にある事を思いつき、ぐったりと ソファーの背にもたれた。 ﹁だいぶ元気になったけど、あと一歩って所かなぁ﹂ ﹁それなら、栄養ドリンクでも買ってくるわね﹂ 立ち上がりかけたみさ子さんの左腕をパッと掴む。 ﹁そんなものよりもっと確実に元気が出るものがあるよ。⋮⋮みさ 子さん、キスして﹂ とたんに彼女の体がギクリとこわばる。 ﹁な、何言ってるの?!さっき、会社ではキスしないって約束した じゃない!﹂ ﹁俺からはしないってだけだよ。みさ子さんからしてくれれば、約 束を破った事にはならないし﹂ ﹁何、屁理屈こねてるのよ!﹂ 腕を振り回して逃げようと試みている彼女。もちろん俺が手放す はずもない。 ﹁だって、俺の元気の源はみさ子さんだから。ね、お願い﹂ 引こうが振ろうが一向に逃げられない事に観念したのか、みさ子 さんはあからさまに大きなため息をついて、いやいやながらに頷い て見せた。 ﹁ほんのちょっとだけよ!それでいいでしょ!!﹂ 恨めしそうに俺を睨んでくるが、後の祭りだ。頷いたのは彼女自 身なのだから。 ﹁十分だよ﹂ してやったりの俺。 満面の笑みを彼女に向けてから目を閉じて、みさ子さんを待つ。 669 ﹁はい、どうぞ﹂ ﹁ぐっ⋮⋮﹂ 言葉に詰まるみさ子さん。 目を閉じていても彼女の戸惑いが伝わってくる。 ﹁しないとダメ?﹂ ﹁ダメ∼。ほら早く﹂ 俺が言っても、それでもなかなか動かない彼女。 ﹁ね、早く。昼休みが終わっちゃうよ﹂ 掴んだ彼女の手首を軽く引いて先を促すと、再び大きなため息を つく彼女。しばらくした後に、ソファーに腰を戻す。 更にため息をつき、深く息を吐ききった後、ゆっくりと近付いて くる気配がした。 みさ子さんのいい香りがして、温もりが更に近付いてくる。 唇が重なる寸前、小さな小さな声で﹃タカの馬鹿⋮⋮﹄という照 れ隠し満載な彼女の声を聞いた。 そっと掠めるような彼女からのキス。 近付いてきた時はあんなにゆっくりだったのに、離れる時は驚く ほど素早い彼女。 しかし、それよりも素早く俺は彼女の背に腕を回した。 バランスを崩して俺の胸に倒れこむみさ子さん。 ﹁ちょ、ちょっと!何すんの!ちゃんとキスしてあげたんだから離 しなさいよ!﹂ ﹁離してあげるから、少しだけこのままでいて。お願い⋮⋮﹂ 670 真剣な俺の声音に、みさ子さんは言葉に詰まった後に大人しくな った。 その様子に、自然と俺の頬がゆむる。 ︱︱︱なんで、こんなに可愛いかなぁ。 優しくて、照れ屋で、素直じゃないようで素直な彼女。 最高で極上な俺の彼女。 この彼女を傷つける者は許さない。 絶対にみさ子さんを守ってみせる。 俺は俺自身に固く誓った。 671 106︼ある春先の日の出来事︵6︶みさ子の決意 ≪SIDE:みさ子≫ 不意に背中に腕を回され、タカに抱きしめられている私。 いくら来る人が皆無だという休憩室とはいえ、昼間の社内で抱き 合っているなんて不謹慎極まりない。 恥ずかしくって、彼の膝の上にちょこんと横向きに座っている事 が心底恥ずかしくって、今すぐに逃げ出したいのに。 だまし討ちみたい私にキスをさせた挙句、抱きしめるなんて卑怯 だと、怒鳴りつけてやりたいのに。 私はまったく動けないでいる。 小さく握った手は彼の体を押し返す事もなく、また、叩きつける 事もなく、ただ大人しく握られたまま自分の膝の上に。 彼の肩口に頭を預けるようにもたれ、そっと抱きしめられている。 この人の腕はまるで檻だ。 抱きしめる腕はやんわりと優しいのに、⋮⋮ううん、優しく甘い からこそ抜け出せない。 極上の檻。 672 そのことがなんだか悔しいのに、嬉しくもある。 でもやっぱり悔しいから、タカには言わないけれど。 いつも抱きしめられるたびに思うのは、﹃タカの近くは居心地が いい﹄ということ。 いまだに慣れなくてドキドキするし、恥ずかしいけど、抱きしめ られていると、胸の奥の奥の方がホワン、と温かくなることを知っ てしまってから、私はこの檻から抜け出せないでいる。 抜け出せないというのはちょっと違うかもしれない。なにしろ、 自分から抜け出そうとしていないのだから。 ︱︱︱好き。 ︱︱︱タカ、大好き。 面と向かって口にするのは恥ずかしいから、心の中でこっそり呟 く。 恋愛経験値が恐ろしく低い不器用な私の事を、ものすごく愛して くれているタカ。 言葉も上手じゃないし、自分の感情を表すのも苦手な私を、こっ ちが驚くほど真剣に愛してくれている。 673 そして、私の事を親や兄妹以上に分かってくれている。 有りもしない森尾さんからの嫌がらせを心配してくれる優しい、 優しい彼。 過去の私なら、彼を好きだという人がいる事を知ったら、その女 性に今の私の立場を譲っていた。 そのことが“さも当然である”というように、自分は彼の前から 姿を消していたはず。 でも、今の私にはそれが出来ない。 時々、コンプレックスの塊であった頃の私が顔を出してしまうけ ど、それでも、タカの隣にいるのは私でありたい。 そう強く思う自分がいる。 タカと付き合い始める前の“私”が今の私を見たら、きっと腰を 抜かすほど驚くに違いない。 そのくらい、今の私は変わったと思う。 初めて恋愛を知った私に何が出来るのかはまったく分からないけ れど、それでも、タカの隣は譲れない。 タカの腕の中は譲れない。 森尾さんがこのままタカを好きだと言い続けるのであれば、いず れは衝突する日がくるかもしれない。 674 あの彼女に太刀打ちできるだろうか? 小さくて可愛らしくて、私の理想の女性像に近いあの森尾さんに。 29歳にして初めて彼氏ができたような恋愛音痴な私が、彼女と 対等に向き合えるだろうか? 勝算は⋮⋮、分からない。 正直怖い。 小田さんのように、真っ直ぐな憎悪を向けられたら、怖くてたま らない。 それでも、森尾さんから逃げたりしたらいけないのだ。 最近分かった事がある。 タカが私を好きでいる以上、私が臆病風に吹かれて尻尾を巻いて 逃げる事は、タカを裏切るのだという事。 私を心底愛してくれている彼に対して、それは絶対にしてはいけ ないことだと思うから。 だから、私は自分のためにも、そして彼のためにも、タカの彼女 の座を守らなければならない。 ︱︱︱⋮⋮大丈夫。 タカは私一人に森尾さんの問題を押し付けたりしていないのだか ら。 675 二人で解決しようと言ってくれているのだから。 わずかに首を動かすと、ブラウスの下でタカにもらったネックレ スが静かに動く。 過去も、今も、未来も、すべてに渡る私を大切にするという、彼 の真摯な誓いがこもったネックレス。 私はあれから肌身離さず身に着けている。 ︱︱︱大丈夫よ。私にはこんなにも心強い彼氏がいるのだから。 胸元に手をやり、ブラウスの上からネックレスにそっと触れた。 676 106︼ある春先の日の出来事︵6︶みさ子の決意︵後書き︶ ●やはりみさ子さんと森尾さんの対決は避けられないモノになって きました。読者様の中には﹁ちょっと森尾さん!いい加減、北川君 を諦めなさいよ!﹂と仰る方もいることでしょう。何通かそのよう なお便りをいただいております。 確かに自作のキャラながら﹁ちょっとしつこいかな?﹂とも感じて います︵苦笑︶。一応自覚はあります︵笑︶ でも、自分の好きな人に想いが届かないからといって、その気持ち を簡単になかったことに出来るのだろうか? ・・・そう考えたとき、やはり森尾さんは必要なキャラなんですよ。 綺麗事だけの作品は出来るだけ書きたくないんです。現実世界と同 じように、キャラクター達も悩んで、苦しんで、それで乗り越えて 欲しいと願っています。 まぁ、みさ子さんとの対決時は流血沙汰にならないようにしますよ。 ﹃彼女2﹄の田辺さんほど、森尾さんは大暴れしないはずです⋮多 分︵苦笑︶ 677 107︼ホワイトディ・ラプソディー︵1︶ あの衝撃的なバレンタインの夜を迎えてから1ヶ月が経った。 そう、今日はホワイトディ。 相変わらず仕事は忙しいが、一時期ほど体はつらくない。 みさ子さんの愛情ぎっちりの唐揚げと気遣いたっぷりの弁当のお かげで、体も心も満たされたから。 そのことに対するお礼も含めて、昨夜のうちに﹃一緒にご飯を食 べよう﹄と誘っておいた。 念のため昼休みに確認のメールを送ったら、﹃定時で上がれそう﹄ との返事。 ﹁よぅし。張り切って腕を振るうぞ﹂ 午後も外回り中の俺は、営業車の中で一人気合いを入れる。 今夜の食事は俺が作るのだ。 いつだったか、﹃タカの手料理を食べてみたい﹄と言ったみさ子 さんのリクエストに応えて、彼女の大好きなカルボナーラを披露す るつもりである。 一人暮らしを始めて約二年。それなりに料理の腕は上達したし、 オマケに俺には心強い味方がいる。 なんたってプロの料理人が身内にいるのだから、教えを請うのも そう難しいことではない。 一昨日、正兄ちゃんから送られてきたメールに改めて目を通す。 678 ﹃カルボのポイントはチーズ。出来る限り上質のものを選ぶように。 パルミジャーノよりもグラナパダーノの方がコクが増すし、口当 たりが滑らかだ。 それからベーコンを炒める時にニンニクのみじん切りをほんの少 し入れると、いい隠し味になるぞ。 では健闘を祈る﹄ さすが現役シェフ。ポイントを押さえた分かりやすいアドバイス だ。 ﹁仕事帰りに駅前のデパートで買い物しよう﹂ 地下一階の食品売場はかなり立派で、大抵の物が揃う。チーズ専 門店もあるから、正兄ちゃんの言うグラナパダーノというチーズも あるだろう。﹁あとは生野菜のサラダとスープを作ればいいかな﹂ 俺は楽しそうに呟き、閉じた携帯を上着のポケットに滑り込ませ た。 四時過ぎには外回りの仕事を終え、社に戻ってきた。 通用口の横にある自販機で買ったコーヒーをすすっていると、ゆ っくり扉が開く。 入ってきたのは沢田さんだった。 お使いから帰ってきたところらしく、手には色々入った袋を提げ ている。 ﹁あれ?北川君も今、帰社なんだ﹂ 679 ﹁そうだよ。沢田さんは買い出し?﹂ ﹁お客様用のお茶とかコーヒーがなくなりそうだったからね。息抜 きも兼ねて﹂ ふふっと人懐っこい笑顔を浮かべた彼女が、ふと何かを思い出し たように手提げ袋の中を漁りだす。 ﹁ねえ、北川君はウイスキーボンボン食べられる?﹂ ﹁うん。基本的に酒は何でも平気だから﹂ 凄く甘いカクテル以外なら、殆どの酒はイケる俺。 ﹁ならよかった。さっきコーヒー豆を買った時に、お店の人に貰っ たの。でも、私はウイスキーが苦手なんだ﹂ そう言って、沢田さんは手の平より一回りほど大きな箱を差し出 した。﹁すごく美味しいよって渡されたから、期待していいと思う﹂ ﹁ありがとう。早速今夜にでも食べるよ﹂ 遠慮なく小箱を受け取り礼を述べると、沢田さんがニコッと笑う。 ﹁そしたら今度感想を聞かせて。“どうだった?”って訊かれて答 えられないと悪いし﹂ ﹁ははっ、そうだね。感想はメールで送るよ﹂ ﹁よろしくね。じゃ﹂ 二、三歩行きかけた沢田さんがパッと振り返った。そして、神妙 な顔で口を開く。 ﹁そうそう。森尾さんがあれこれ訊き回ってるみたいよ﹂ 潜めた声で沢田さんが言う。 ﹁訊き回る?何を?﹂ いまいちピンとこない俺は、訝しげに首をひねった。 すると沢田さんは更に声を潜めて告げる。 ﹁私の所にはまだ来てないからよく分からないけど、北川君の彼女 の件じゃないかな。岸君は北川君と仲がいいから、結構しつこく訊 かれてるみたい﹂ ﹁⋮⋮そうなんだ﹂ それを聞いて、思わず苦々しい声が俺の口から漏れた。 680 この前﹃彼女がいるなら会わせてよ﹄と詰め寄ってきた森尾さん。 俺の彼女がどんな人なのか知るために、俺と関わる同僚や先輩、 後輩に当たっているのだろう。 もしくは“彼女はいない”という証拠を集めようとしているのか もしれない。 ︱︱︱とうとう動き出したか⋮⋮。 自然と俺の眉が寄る。 そんな俺を見て、沢田さんの眉も寄る。 ﹁森尾さんがいくら訊いて回っても、誰も佐々木先輩と北川君の関 係を知らないからね。ただの無駄足になってるみたいよ、⋮⋮今の 所は﹂ 沢田さんが意味あり気に﹃今の所は﹄を強調した。 彼女もいつか森尾さんが何かをやらかすと踏んでいるらしい。 ﹁これまで以上に先輩の事は気にかけるようにするわ﹂ ﹁よろしくな。勤務中はさすがに目が届かないからさ﹂ ﹁任せて。佐々木先輩の笑顔は私が守るから!﹂ 自信満々な表情で胸を張る沢田さんを見て、吹き出す俺。 ﹁いや、それは俺の台詞だし﹂ ﹁あっ、そうだね﹂ 俺達は互いに苦笑した後に軽く手を振り、それぞれの部署に戻っ た。 681 定時で仕事を終えた俺は、大急ぎでデパートに向かう。 真っ先にチーズ専門店に行って、教えられたグラナパダーノをゲ ット。それからその他の食材を買い込んで、電車に飛び乗る。 停車駅に着くやいなや電車を飛び出し、駅のすぐ隣にあるコンビ ニへと入っていった。 ﹁みさ子さん、お待たせっ﹂ 俺より先に着いていた彼女は、雑誌コーナーで立ち読みしていた。 ﹁ううん。そんなに待ってないわ﹂ パタンと閉じた雑誌を棚に戻し、そっと微笑んでくれる。 ﹁何か買うの?﹂ ﹁飲み物を切らしてるから、買っていこうと思って﹂ みさ子さんと奥のドリンクコーナーに向かった。 最近のコンビニはミネラルウォーターが常に数種類置いてある。 俺は迷わずみさ子さんが好きなボトルを手に取った。 ﹁これでいい?﹂ ﹁ええ﹂ こういった些細なやりとりですら、俺にとっては楽しい。 俺が利用している駅周辺には、運良く他の社員が住んでいない。 だから彼女と並んで買い物していても、見られないで済むのだ。 近くに大きなショッピングモールも娯楽施設もないけれど、みさ 子さんと付き合うようになって、人目を忍ばなくてもいいこの町を 選んで良かったと思ってる。 詰まるところ、俺の価値基準はみさ子さんにあるのだ。 隣にみさ子さんがいるだけで幸せになれる。 682 他の人からすれば﹃単純﹄とか、﹃お手軽な奴﹄とか言われそう だけど、これってすごく大切で重要な基本だと思う。 付き合いが長くなるうちに欲張りになってしまうかもしれないけ れど、この基本さえ忘れなければ大丈夫なはず。 コンビニを出て並んで歩いていると、みさ子さんがヒョイと俺の 顔を覗いてきた。 ﹁なんだか嬉しそうね﹂ 彼女の言葉に大きく頷く俺。 ﹁嬉しいよ。だって、俺の隣にみさ子さんがいるんだもん。幸せだ なって考えてたんだ﹂ 俺が微笑むと、彼女はサッと顔を赤らめ、恥ずかしげに顔を伏せ てしまう。 そのまましばらく無言でいたけれど、 ﹁⋮⋮私も幸せよ﹂ と、小さな声で、でも嬉しそうに呟いてくれた。 683 108︼ホワイトディ・ラプソディー︵2︶ ほんのりくすぐったい想いを胸に抱いて、俺が住むアパートに着 いた。 ﹁すぐに食事の支度をするね﹂ 台所の流し台に買ってきた材料を並べながら、リビングにいる彼 女に声をかける。 ﹁私も手伝うわ﹂ 上着をハンガーに掛けてきたみさ子さんが、ブラウスの袖を捲り ながらこちらにやって来た。 ﹁いいって。今夜は俺の手料理を味わってもらうんだから﹂ 彼女の申し出を笑顔で断ると、みさ子さんはちょっと苦笑い。 ﹁そうだったわね。じゃ、お言葉に甘えてタカにお任せしようかし ら﹂ そう言って捲った袖をスルスルと戻した。 ﹁30分もかからないと思うから、テレビでも見て待ってて﹂ ﹁分かったわ﹂ 頷いたみさ子さんはリビングに行きかけて、ふと足を止める。 ﹁ねぇ、先にシャワーを貸してもらえる?﹂ ﹁いいけど⋮⋮。どうしたの?今夜は俺に抱かれる気満々なのかな ?﹂ ちょっとした冗談のつもりだったのに、みさ子さんは絶句した後、 物凄く怖い顔で睨んできた。 ﹁違うわよ!今日は春一番が吹いたから、体が埃っぽいなって思っ ただけなの!ただそれだけよ!﹂ 声を荒げ、顔を赤くして怒っている。 こうやっていちいち真面目に反応してくるのが、たまらなく可愛 684 い。 本音を言えば、彼女の方から迫って来てくれたり、断るにしても、 もう少し色っぽく返答してもらいたいけれど、どうやら難しいよう だ。 自ら大胆になるみさ子さんを目にする日はまだまだ先のことらし い。 それでも、彼女にベタ惚れな俺はみさ子さんに呆れることもなく。 ﹁ごめん、ごめん。そんなに怒らないで。冗談だから﹂ 宥めるように彼女の髪を撫でてやると、みさ子さんはバツの悪い 顔をして途端に大人しくなった。 ﹁あ⋮⋮。ううん、私こそ大きな声を出してごめんなさい。ちょっ と言われただけで取り乱すなんて、馬鹿みたいね﹂ 少し伏せた瞳には、﹃冗談もうまく切り返せないつまらない女は、 そのうち嫌われてしまうのかしら?﹄ という不安そうな光が浮かんでいる。 ︱︱︱ったく、しょうがないなぁ。 くすくすと笑いながら、彼女の頭を軽くポンポンと叩いた。 ﹁いつも言ってるでしょ。“俺がみさ子さんを嫌いになるはずない ”って。俺は器用なあしらいを期待している訳じゃなくて、みさ子 さんの反応が見たいだけなんだからさ﹂ ﹁⋮⋮それってフォローじゃなくて、単に私をからかいたいって言 ってるだけじゃない?﹂ ﹁からかうんじゃないよ。愛しんでいるだけ。だからみさ子さんは、 この先も遠慮なく取り乱していいから﹂ にっこり笑う俺とは正反対に、みさ子さんは苦虫を噛み潰したよ うな複雑な顔をして呟く。 685 ﹁そんな事言われても、ぜんぜん嬉しくないんだけど⋮⋮﹂ 本当に、複雑な顔の彼女だった。 軽くひと悶着あったが、ご希望通りみさ子さんを風呂場へと送り 込んだ。 彼女がシャワーを浴びている間に、俺は料理に取りかかる。 スープ用の鍋で湯を沸かして固形コンソメを放り込み、一口大に 切ったキャベツとスライスしたタマネギを入れて弱火にかけた。 洗ったレタスはよく水気を切ってから、ちょっと大きめのサラダ ボウルに盛り付け。食べやすい大きさに切ったトマトも並べた。 ﹁ドレッシングは作り置きのものがあるから、それで十分だな﹂ 酢と醤油と砂糖を合わせて、すりおろしたにんにくと生姜を加え た特製ドレッシングは肉にも魚にも野菜にも合う優れものなのだ。 ここまで準備しておけば、作業は八割方終わったも同然。 時計を見ると、あれから二十分程経っている。そろそろみさ子さ んがシャワーを浴び終える頃だろう。 そう思っていた所に風呂場のドアが開き、ややあってドライヤー をかける音が。 ﹁さて。仕上げに取りかかるか﹂ スープの味見をして、カレーパウダーと粗挽きの黒胡椒を振り入 れた。 その横でフライパンにオリーブオイルと厚切りのベーコンを入れ て、軽く炒める。正兄ちゃんに教えられたとおりに、ニンニクのみ じん切りも忘れずに。 686 ここに生クリームを注いだ所でみさ子さんがやって来た。 彼女の服は何点か置いてあり、風呂上りのみさ子さんは長袖の黒 いカットソーと少しゆったりとしたベージュのパンツ姿。 俺としてはみさ子さんがパジャマを着たところで何の問題もない し、問題があるどころかリラックスしてくれているのだと思えて嬉 しいのに。 彼女はいつだってそのまま帰ってもおかしくない服を選ぶ。 それがちょっと寂しい。 ︱︱︱まあ、こういった微妙な緊張感を含んでいた方が、馴れ合っ てしまうよりも長続きするのかもしれないな。 さっき感じた幸せが胸に残っているせいか、物事を前向きに捉え る俺。 ﹁おかげでさっぱりしたわ﹂ 台所に顔を出したみさ子さんは化粧を落としており、普段よりも 幼く見える。 ︱︱︱普段は綺麗だし、プライベートは可愛いし。俺っていい彼女 を持ったよな。 こんな風に、日常のほんの些細なことに幸せを見出すことが多く なった。物事を前向きに考えるようになったのも増えた。 正しくは﹃多くなった﹄のではなく、﹃感じとるようになった﹄ と言うべきかもしれない。 以前に付き合ったことのある彼女に対しては、そんな風に捉える ことがなかったのだから。 過去に俺の彼女になった女性に対して、いい加減な態度だったつ もりはないけれど、みさ子さんとの付き合いと比較してみると、そ の差は歴然。 687 それだけ俺がみさ子さんにどっぷりハマっているという事なのだ ろう。 ﹁後はパスタを茹でるだけだから、もう少し待ってて﹂ 湯上りでほんのりと頬を赤らめているみさ子さんに、カルボナー ラの準備をしながら微笑みかけて告げる。 ﹁じゃ、飲み物と食器を用意しておくわ﹂ ﹁ありがとう。よろしくね﹂ お礼を言うと、そっと目を細める彼女。 たったそれだけの仕草にも、俺の心が温かくなる。 俺が感じている幸せを、みさ子さんも感じてほしい。 強くそう思った。 手早く料理を盛りつけ、リビングのローテーブルに並べた。 ﹁美味しそう!﹂ 運ばれてきた料理を見て、みさ子さんが嬉しそうな声を上げる。 ちょっと照れくさくなって、俺は鼻の頭を指でかく。 ﹁口を合うといいけど。さ、温かいうちに食べよう﹂ ﹁そうね。早速いただくわ﹂ みさ子さんは軽く両手を合わせてから、まずカルボナーラに手を 着ける。 優雅なフォークさばきでパスタを巻き付け、パクン。 ﹁⋮⋮これ、すごく美味しい﹂ 淡々とした一言だったけれど、それがかえってお世辞ではないと 688 分かる。 ﹁本当?それならよかった﹂ 彼女の嬉しそうな表情を見ながら、俺もパスタを口に運ぶ。 口に入れたとたんに深くまろやかなチーズの香りが広がり、わず かに感じるニンニクの風味が更にソースを引き立て、絶妙のカルボ ナーラとなっていた。 ﹁うん。我ながら良く出来たな﹂ 自画自賛とまではいかないが、素直に料理のできばえに感心する。 ﹁本当に美味しい。今まで食べた中で、一番好きな味だわ﹂ 彼女の言葉に嘘はないようで、手を止めることなくパスタを食べ ている。 ﹁上手くできたのは、正兄ちゃんのアドバイスのおかげだよ﹂ 種明かしをしないで俺の手柄にしてしまうこともできるけれど、 そういう卑怯は何となくしたくなかった。 自分の実力は分かっているし、無理に背伸びをしたり、人の実力 を自分のものとしてみせるのも馬鹿馬鹿しい。 それに、みさ子さんは万能な俺じゃなくても好きでいてくれるは ずだから。 パスタを嚥下したみさ子さんが、ちょっと首をかしげる。 ﹁スキー場で会った従兄弟のコックさんのこと?﹂ ﹁そう。正兄ちゃんの作る洋食は何でも旨いけど、特にパスタが絶 品なんだ。よく口コミ情報誌で取り上げられてる﹂ 正兄ちゃんはあの外見だけで騒がれがちだけど、料理の腕は誰も が認めるものなのだ。 ﹁へぇ、凄いのね﹂ ﹁今度、正兄ちゃんの店に行ってみようか。これよりも何倍も旨い カルボナーラを作ってくれるよ﹂ 689 俺がそう言うと、みさ子さんは食べる手を止めて、静かに首を横 に振った。 ﹁タカが私のために作ってくれたこのパスタの方が、絶対に美味し いと思う。⋮⋮だって、愛情がたくさん入ってるもの﹂ ﹁︱︱︱え?﹂ ビックリして訊き返すと、みさ子さんは俺とは目を合わせないよ うに俯いて、黙々とパスタを食べ続ける。 チラリと見える彼女の耳を、これ以上ないってほど赤らめて。 ︱︱︱本当に、この人は⋮⋮。 どうしようもない嬉しさがこみ上げてくる。 恥ずかしがり屋で意地っ張りで、ちっとも素直じゃないくせに、 時々こういうセリフをポロリと告げてくるから、俺としてはやられ っぱなし。 みさ子さんを喜ばせるはずの料理が、俺を喜ばせることになると は、ものすごく嬉しい誤算だった。 690 109︼ホワイトディ・ラプソディー︵3︶ たいした技術はないけれど、“料理に込めた愛情だけは誰にも負 けない”という夕食は和やかに進んでいった。 カルボナーラはもちろん、スープもサラダもみさ子さんは気に入 ってくれたようだ。 ﹁ごちそうさま。美味しかったわ﹂ みさ子さんは口元を拭い、嬉しそうにそう口にする。 彼女に出した料理の皿は、どれも綺麗に空いていた。 ﹁喜んでもらえてよかったよ。普段は誰かに作ってあげることなん てないから、ちょっと不安だったんだ﹂ 俺はそっと胸をなでおろす。 自炊はしているから料理には慣れているものの、俺がこれまでに 作ってきた料理は人に食べてもらうものではない。 腹が一杯になって、そこそこ美味ければOKという代物なのだ。 ﹁ふふっ、謙遜しなくてもいいのに。本当に美味しかったから、ま た食べたいって思ったもの﹂ みさ子さんは満足そうな笑みを浮かべている。 その笑顔を見て、改めて嬉しくなる俺。 ﹁じゃ、またそのうちに作るよ。⋮⋮ああ、だったら、休みの日に でも正兄ちゃんに料理を習おうかなぁ﹂ そう呟くと、みさ子さんは慌てて口を開いた。 ﹁え!?な、何も、そこまでしなくてもいいのよっ﹂ ﹁ん∼。でも、どうせ食べてもらうなら、きちんとした料理を食べ てもらいたいし﹂ 691 自分の腕にはいまいち自信のない俺としては、﹃イトコがプロの シェフである﹄という特権を使いたいと考えていた。 運のいいことに、正兄ちゃんはみさ子さんの好きなパスタが得意 なのだし、それを活かさない手はない。 ところが、みさ子さんは両手をせわしなく左右に振って、俺の持 ち出した案にストップをかける。 ﹁いいのよ、その気持ちだけで十分だわ。私の作る料理が和食ばか りだから、タカは時々手軽な洋食を作ってくれればそれで満足よ﹂ なにやら必死で、﹃俺が料理を教わる事﹄を阻止しようとしてい た。 ﹁そう⋮⋮。俺が作れる料理なんて高が知れてるけど、それでもい いの?﹂ 尋ねると、みさ子さんが何度も首を縦に振る。 ﹁分かった。正兄ちゃんにわざわざ教えてもらうことはしないよ﹂ 苦笑しながら答えると、彼女はホッとしたように息をついた。 その様子から、仕事が忙しい俺の事を心配してくれていたのだと 分かる。 ︱︱︱みさ子さんのためなら、休みを潰してもぜんぜん平気なんだ けどなぁ。 そう思うけれど、俺の体を気遣ってくれるみさ子さんを困らせる のは不本意だ。 なので、ここは彼女の言うとおりにする。 ﹁わざわざ料理を習う事はしないけど、本やネットで新しいメニュ ーを調べるくらいはしてもいいよね?﹂ ﹁ええ。⋮⋮タカの体と時間に余裕がある時なら﹂ 柔らかく目を細めてそっと釘をさしてくるところは、さすがみさ 692 子さん。時折、無茶して突っ走る俺の行動なんてお見通しである。 ﹁はいはい。くれぐれも無理は致しません﹂ 更に苦笑を深くした俺を見て、みさ子さんも小さく笑う。 ここで、昼間耳にした話をふと思い出した。 ﹁そうだ。沢田さんに言われたんだけど、森尾さんがなんだか動き 回っているみたいなんだ﹂ それを聞いて、みさ子さんの顔がわずかに曇った。 ﹁何?心当たりあるの?﹂ 問いかけると、みさ子さんは歯切れの悪い口調で話し出す。 ﹁あ、うん⋮⋮。何日か前に永瀬君が“北川君の彼女について、何 か知っていたら教えて欲しい。どんな些細な情報でもかまわないか ら”って森尾さんに言われたって⋮⋮﹂ ﹁えっ?森尾さんは先輩のところにも行ったの?!﹂ 勤務する階が違うし、業務内容にそれほど接点もないから、営業 部と受付嬢は接する機会などほとんどないというのに。 面識も皆無に等しい永瀬先輩のところに、わざわざ森尾さんが出 向いていくなんて。 ﹁もちろん永瀬君は私のことは伏せていたわ。“いくら親しい後輩 の事でも、プライベートまではさすがに知らないよ”みたいな事を 言って、相手にしなかったらしいけど﹂ ﹁ったく、森尾さんは何やってんだよ⋮⋮﹂ ︱︱︱やれやれ、森尾さんには困ったものだ。 今はまだ岸や永瀬先輩といったように、俺の身近な人物に当たり を定めているけれど、そのうち会社中の人間一人一人に訊いて回り そうな気がする。 693 俺もみさ子さんと同じく顔を曇らせる。 そんな俺を見て、みさ子さんは軽く眉を寄せてポツリと呟いた。 ﹁どうしたらいいのかしらね﹂ ふぅ、と息を吐いた彼女を見遣る。 ﹁どうすれば、いいのかしら⋮⋮﹂ 俺はテーブル越しに腕を伸ばし、視線を伏せるみさ子さんの額を 指でチョンと突っついた。 ﹁タカ?﹂ とっさに顔を上げたみさ子さんと視線を合わせて、俺は精一杯優 しく微笑む。 ﹁そんな暗い顔をしないで。何か起きた訳じゃないんだし、このま ま隠し通せば森尾さんもそのうち落ち着くよ。だから、無理に俺達 の関係を公表する事ないから﹂ みさ子さんが俺達の付き合いを、いまだに内緒にしておきたいの だと知っている︱︱︱生まれて初めて“彼氏”が出来て、その存在 を回りに知られるのが、まだ恥ずかしいのだと。 彼女の気持ちが追いつくまで、俺はみさ子さんのしたいようにす ればいいと思っている。 みんなに知って欲しい気もするけれど、知られていなくてもいい。 みさ子さんを困らせるくらいなら、このまま誰にも知られなくて いい。 俺とみさ子さんが、その事実を知ってさえいればいい。 ︱︱︱ああ、これって吉田先輩たちと同じだ。 俺は去年結婚した吉田先輩と後藤さんを思い出した。 694 社内恋愛に関して寛容なウチの会社にいながら、彼らは一切自分 たちの付き合いを 周りに知らせていなかった二人。 たいていの人は、付き合い始めたら周囲の人間に言いたがる。 俺もかつてはそうだった。 彼女が出来たら、見せびらかすかのように顔見知り全員に報告し て回っていた。 ﹃自分がどう思うか﹄ではなく、﹃自分が周りにどう思われるか﹄ ということばかりが気になっていた。 だから、吉田先輩達の付き合い方に首を捻った。 その時、みさ子さんが言ってたっけ。 ﹃お互いのペースで、大事に恋愛してきたのよ﹄と。 今なら、みさ子さんが言った台詞の意味が分かる。 周りに見せ付ける必要はない。 自分たちの気持ちがつながっている事が重要。 みさ子さんの言葉にはそんな意味合いが含まれていたことに、今 更ながら気がついた。 そんなものは自己満足に過ぎないと言われてしまえば確かにそう ではあるが、恋愛なんて自分のためにしているものだし。 みさ子さんと俺がそういう付き合いに納得していれば、何も支障 がない。 695 ︱︱︱自分のためか⋮⋮。そうだよな、こういうことって当人同士 の問題だし。 “自分のため” でもそれは、森尾さんのように﹃自分のことしか見えていない恋 愛﹄とは意味合いが違う。 ︱︱︱森尾さんが本気で夢中になれる人が早く現れてくれたらいい のに。 心の底からそう願った。 696 109︼ホワイトディ・ラプソディー︵3︶︵後書き︶ ●ご無沙汰しております。パソコンの故障により、更新がかなりず れ込んでしまって申し訳ないです︵滝汗︶ 一応どうにか復旧出来ましたので、これからは出来る限り期間を空 けないように頑張って更新します。 ●さて。この章で書きたい事を書き終えましたので、間もなくウッ フフ∼ンな展開になる筈です︵にやり︶ 697 110︼ホワイトディ・ラプソディー︵4︶ 一通り話を終え、俺は近くに置いていたカバンから品のいい和紙 でラッピングされた小さな包みを取り出した。 ﹁はい。バレンタインのお返し﹂ そう言って、テーブルの上に載せた包みを彼女へと滑らせる。 ﹁お返し?それなら、このお料理でしょ?﹂ みさ子さんはテーブルに置かれている包みに視線を落とし、首を かしげた。 そのあどけない仕草が可愛くて、ついつい笑ってしまう。 ﹁ハハッ、そんなに不思議がる事じゃないよ。俺の料理は言ってみ ればオマケで、本当のお返しはこれ﹂ 俺は指先で今一度押しやる。 ﹃ホワイトディのお返しは三倍返し﹄ なんてセリフを昨今では当たり前のように耳にしているが︵そんな こと、誰が言い出したんだ?︶、みさ子さんはまったく欲がないよ うで。 料理をご馳走してもらった事で、ホワイトディが終わったものだと 本気で思っていたらしい。 ︱︱︱こういう擦れてないところが、可愛いよなぁ。 欲しい、欲しいと声高にねだられるよりも、何も言い出さないほ うが逆にアレコレとしてあげたくなる。 もちろん、みさ子さんは計算で欲しがらないのではなく、素であ るからこそ余計に。 698 ﹁遠慮しないで。みさ子さんのためにせっかく用意したんだから﹂ にっこりと微笑みかけると、みさ子さんがはにかんだ様な笑みを 浮かべてくる。 ﹁じゃあ、ありがたく受け取るわ﹂ 綺麗な指を伸ばし、大事そうに箱を持ち上げた。 ﹁うん、受け取って。みさ子さんが好きそうな飴を見つけたんだ﹂ ﹁そう言われると気になるわね。今、開けてもいい?﹂ ﹁どうぞ﹂ 俺の促しに、みさ子さんは嬉しそうに包みを解きにかかる。 包装紙を広げて小箱の蓋を開けると、そこには一粒ずつ透明なセ ロファンに巻かれたベッコウ飴。 ﹁綺麗ね⋮⋮﹂ みさ子さんはそのうちの一粒を指でつまみ上げる。 蛍光灯の光を受けて山吹色に輝く飴は、まるで宝石のようだ。 ﹁こんな綺麗なベッコウ飴は初めて見たわ。どこか特別なお店のも の?﹂ ﹁ん∼、特別かどうかは分からないんだ。たまたま通りかかった店 だったから﹂ 外回り中に見つけた小さな手作り飴の店。 子供の頃によく通った駄菓子屋のような懐かしい雰囲気に誘われ て踏み入れると、独特の甘い香りが漂っていた。 小さな店内には丹念に仕上げられた飴たちが並んでいる。 色とりどりの飴たちの中に埋もれるような存在ではあったけれど、 一番目を惹いたのがこのシンプルなベッコウ飴だった。 お店のご主人のご好意で一つご馳走になった俺は、その美味しさに 驚いた。 699 これは絶対みさ子さんに食べてほしいと思って、即座に一箱買い込 んだのだった。 ﹁くどくない甘さで、すごく美味しかったよ﹂ ﹁ふふっ、それはいただくのが楽しみだわ﹂ 改めて﹃ありがとう﹄と礼を述べるみさ子さんに、﹃どういたし まして﹄と頭を下げる。 ﹁そうそう。貰いものなんだけど、これもよかったら食べてみて﹂ 再びカバンに手を伸ばし、沢田さんに貰ったウイスキーボンボン を差し出す。 ところがうっかり手元が狂い、その小箱がテーブルにあったドレ ッシングボトルにぶつかって容器が倒れてしまった。 あっと思った時には既に遅く、蓋をしていなかったために飛び散 ったドレッシングが俺のワイシャツに。 ﹁うわっ、やっちゃった!すぐに洗わないと⋮⋮。俺、着替えてく るよ﹂ こぼれたドレッシングを手早く台布巾で拭き、俺は洗面所へと急 いだのだった。 ワイシャツを脱いだついでに、ザッとシャワーを浴びた。 普段から部屋着にしている小奇麗なスウェットに着替えて、リビ ングへと戻る。 ﹁みさ子さん。あったかい紅茶でも淹れようか﹂ 入り口に背を向け、床にペタンと座っている彼女に声をかけた。 ⋮⋮が、返事がない。 700 この距離で聞えないはずがないのだが。 ﹁みさ子さん?﹂ 改めて呼んでみるが、やはり返事がない。 変に思って慌てて彼女の正面に回り、そしてぎょっとする俺。 ﹁えっ?!ちょっと、どうしたの??﹂ みさ子さんの目は虚ろで、頬が赤く染まっている。 ﹁みさ子さん?みさ子さん!?﹂ 肩を掴んでゆすってみても、焦点の合わない瞳で彼女は笑うだけ。 ﹁ふふっ⋮⋮。うふふ、なんか楽しい∼、あははっ﹂ 焦る俺をよそに、彼女は一人で明るい声を上げる。 ︱︱︱俺がいない間に、何があったんだ? その時、彼女の足元に散らばった数枚の包み紙を見つけた。 ﹁ボンボンの包み紙?﹂ 小箱に目をやれば、10個入りのボンボンは既に半分以上がなく なっている。 ﹁ウイスキーボンボンって、けっこう美味しいのねぇ。調子に乗っ て、たくさん食べちゃったぁ﹂ なるほど。 みさ子さんは酔っているらしい。 ﹁でも、ウイスキーったって、所詮お菓子だろ﹂ 広げられた包装紙の上にちょこんと置かれていた同封の商品案内 カードを見て、俺の目が点になった。 ﹃当商品に使用しているウイスキーのアルコール度数は40度です。 お召し上がりの際はご注意ください﹄ ﹁ええっーーーーー!!40度!?﹂ ボンボンに封入されたウイスキーは一粒辺り大した量はないが、 いくらそこそこお酒の強いみさ子さんだって、いっぺんに7個も食 べたら酔っぱらうのも無理はない。 701 ﹁うっわぁ、どうしよう!﹂ まったく予期していなかった事態に、慌てふためく俺。 ﹁えっと⋮⋮、えっと⋮⋮。そうだ、とりあえず水を飲ませよう!﹂ テーブルに置かれていた水の入ったグラスをみさ子さんに突き出 す。 ﹁これっ!飲んで!!﹂ 目の前に出されたグラスを不思議そうな目でじっと見つめたみさ 子さん。やや間があって、おもむろに首を横に振る。 ﹁お水ぅ?いらなぁい。飲めないもぉん﹂ 酔ったせいで少し舌っ足らずな口調のみさ子さん。そしてゆっく りと首を左右に振りながら、弾む調子でハミングを始め、時折ケタ ケタと笑い声を上げている。 今までに何度も一緒に酒を飲んでいるが、こんな酔い方をした彼 女は見たことがない。結構やばい状態なのかもしれないと、俺は更 に焦る。 ﹁な、なんで?みさ子さんが好きなミネラルウォーターだよ!?い つも飲んでるでしょ﹂ ﹁だってぇ。口移しじゃないと、飲めなぁい♪﹂ ﹁⋮⋮は?﹂ ︱︱︱今、なんて言った? 俺は自分の耳を疑った。 “超”が何個も付くほど恥ずかしがり屋な彼女が、﹃口移しで飲 ませろ﹄なんて言うはずがないのだ。 ﹁⋮⋮あの、みさ子さん?﹂ 唖然とする俺を見て、みさ子さんが首の振りを止めて緩やかに形 のいい目を細める。 ﹁うふふ⋮⋮。だからぁ、タカがぁ、私にぃ、口移しでお水飲ませ 702 てぇ﹂ ほんの少し意地の悪い目をして、彼女は楽しそうに笑った。 ︱︱︱なんですとーーー!? ありえない言葉を耳にして、体が固まった。 嬉しいというよりも、更に混乱。 ﹁いや、あのっ。自分で飲めるでしょ!﹂ みさ子さんの口元にグラスを近付けるが、彼女はプイッと横を向 いてしまった。 ﹁タカが飲ませてくれないならぁ、お水なんて要らないもぉん﹂ まるで小さな駄々っ子のように、俺の言う事には耳を貸さない彼 女。 再びハミングをしながら、首を振ってリズムを取り始める。 ︱︱︱どうしよう⋮⋮。 でも、ほったらかしにすることなんで出来ない。少しでも水分を 体に入れて、アルコールを薄めてあげなければ。 ビールや日本酒は飲み慣れているだろうけど、ウイスキーなんて 滅多に口にしない彼女が明日二日酔いになったらかわいそうだ。 俺は水を口に含み、グラスを持っていない手をみさ子さんの首の 後ろに回す。そしてそっと引き寄せた。 するとさっきの駄々っ子振りが嘘のように、みさ子さんは素直に 顔を寄せてくる。しかも嬉しそうに。 その表情を見てちょっとドキドキしたものの、零さないようにし っかりと唇を重ね、合わせた隙間から彼女の口腔内に水を送り込ん だ。 ゆっくりと送り込まれた水を、みさ子さんがゆっくりと嚥下する。 そんな口移しを二度、三度と繰り返し、グラスの水がすっかりな 703 くなった頃、みさ子さんは静かに俺の首へ腕を回してきた。 少し驚いて、俺は合わせていた唇を思わず離す。 ﹁みさ子さん?﹂ 身を離そうとすると、緩やかではあるがしっかりと回された彼女 の腕がそれを阻んだ。 ﹁みさこさん、どうしたの?﹂ 瞳を覗き込みながら尋ねると、みさ子さんは艶然と微笑みを浮か べるだけで何も言わない。 その表情がものすごく色っぽくて、俺の体の奥に妖しい熱が灯る。 だけど、酔った彼女を勢いで抱くのは何となく気が引けるのだ。 ﹁ね、みさ子さん。ベッドで休んだ方がいいよ﹂ 空のグラスをテーブルに置いた俺は、出来る限り何気なくみさ子 さんの髪をそっと撫でる。 彼女はうっとりと目を細めていたが、静かに目を開け、俺をじっ と見つめて言った。 ﹁タカも一緒に寝るの?﹂ それは牽制ではなく、明らかに誘惑だったが、俺はその誘いを拒 否する。 ﹁いや。みさ子さんの酔いが醒めるまで俺は別の部屋にいるから、 ゆっくり休んで⋮⋮﹂ と言いかけたところで、みさ子さんは俺に飛び掛るように抱きつ いてきた。 ﹁うわぁっ﹂ 突然の事に、俺はあっけなく後ろに倒れる。 リビングに敷いてある絨毯は奮発しただけあってフカフカで、後 頭部も背中も痛くはない。 704 仰向けになった俺の腹の上にみさ子さんが跨ぐように座っていて、 こっちを見下ろしている。 おぼろげな視線だが、真っ直ぐに俺を見ている。 ﹁みさ子さん⋮⋮?﹂ いつもとはまるで違う彼女の様子に、俺は思考がついていかない。 そして更に思考が混乱する出来事が!! ボンヤリとみさ子さんを見上げている俺の目の前で、彼女はメガ ネを外した後に勢いよく自分からカットソーを脱いだのだ。 ﹁えっ?!﹂ ギョッとしている俺にかまわず、脱いだカットソーをぽんと投げ 捨てた彼女は、俺の胸に手をついてクスクスと笑い続ける。 ﹁一人で寝るなんてイヤ。寝るならタカも一緒に⋮⋮ね?﹂ 淡いオレンジのブラジャーだけを纏った上半身を惜しげもなく晒 して、みさ子さんはちょこんと小首を傾げて見せる。 今夜の彼女はなんて大胆なのだろうか。 キスですらなかなか自分からしてこないのに、今夜は彼女から誘 われた。 こんなみさ子さんは見たことないし、この先も見られるだなんて 思ってもいなかった。 さっき無理矢理押し込めた淫熱が、ズクン、と体の奥で大きく脈 打つ。 我慢に我慢を重ねたけれど、こんなに色っぽい姿で艶っぽく誘わ れたら、断れるはずなどない。 705 ﹁⋮⋮俺を誘ったみさ子さんが悪いんだからね﹂ そう告げると、みさ子さんは今まで以上に嬉しそうに、そして艶 っぽく微笑んだ。 706 110︼ホワイトディ・ラプソディー︵4︶︵後書き︶ ●通常では考えられないみさ子さんの登場です︵笑︶ 以前読者様から﹃大胆なみさ子さんを見てみたい﹄とのリクエスト を頂いたので、挑戦してみました。 素面では絶対に、絶対に、自分からタカに迫る事など出来ない彼女 ですから、飲み慣れていないウイスキーを使って酔わせてしまうと いう鬼作者みやこ︵笑︶ もちろん、ここで終わることはありません。 もうしばらくいい感じに酔っぱらったみさ子さんを書くことにしま す。 ただ、大胆といっても恋愛経験値の﹁みさ子さん﹂ですからね。そ こは限界がありますし、それに今からみさ子さんを暴走させてしま ったらこの先の楽しみが減ると思うので。 今回はやや大胆なみさ子さんということで、ご了承ください。 707 111︼ホワイトディ・ラプソディー︵5︶ ≪SIDE:みさ子≫ さっきから目の前の景色が立ち昇る陽炎のように、ユラユラと定 まらない。 ︱︱︱もしかして⋮⋮酔った? ウイスキーなんて苦手だと思っていたのに、タカが差し出したウ イスキーボンボンがすっごく美味しくて、一つ、また一つと手が進 み。 ほのかな苦味と芳醇な香りに誘われて、気がついたら立て続けに 7個も食べていた。 ︱︱︱ふぅ、いつもと酔い方が違うわね⋮⋮。 吐き気はない。 ただ、頭の中がフワフワと定まらず、視界がグルグルと回ってい る様子がなんだかおかしくて、意識しない笑いが漏れる。 一人でクスクスと笑っていたら、目の前にタカが現れた。彼は慌 てたような、困ったような顔をしている。 ︱︱︱へぇ。タカはどんな顔をしてもかっこいいのねぇ。 自分の彼氏のかっこよさに嬉しくなり、私はまたニンマリと笑う。 そんな私を見て、タカは﹃そうだ、水!﹄と騒ぎながらグラスを こちらに突き出してきた。 私の目の前にはちょっと大振りのグラス。おかげで大好きなタカ の顔が半分隠れてしまった。 708 ︱︱︱このグラス、邪魔。 そう思った私はぷいと横を向き、大げさに不貞腐れて見せる。 視線の先は相変らずグルグルとユラユラを繰り返していて、いっ そう楽しくなってきた私はハミングを口ずさみ始めた。 そして彼の慌て振りもいっそう増す。 ﹁な、なんで?みさ子さんが好きなミネラルウォーターだよ!?い つも飲んでるでしょ﹂ どうしても私に水を飲ませたいらしいタカが、必死に話しかけて くる。 ︱︱︱ふぅん。そんなにお水を飲んで欲しいなら⋮⋮。 いつもならこんなセリフ口が裂けても言えないけれど、酔った勢 いというか、自制が外れたというか、私であって私ではないもう一 人の“自分”が思わずこんなおねだり。 ﹁だってぇ。口移しじゃないと、飲めなぁい♪﹂ にっこり笑ってそう告げると、タカの顔が固まった。 そんなタカを見て、“私”はもう一度言う。 ﹁うふふ⋮⋮。だからぁ、タカがぁ、私にい、口移しでお水飲ませ てぇ﹂ 子供がなにやら悪戯を企んでいる時のように、楽しげに瞳を細め て。 それでも、タカはなかなか私にお水を飲ませてくれない。相変ら ず硬直したまま、唖然とした様子で私を見ていた。 ︱︱︱ふふっ、タカはこの後どうするのかなぁ。 首を小さく左右に振り、ハミングしながら彼の出方を待つ。 709 やや間があった後、タカは真面目な顔で水を口に含み、優しい仕 草で私を引き寄せる。 それに素直に従い、体を大人しく寄せた。 タカの口から私の口に冷たい水が送り込まれる。 雫を零さないように、いつも以上に唇をぴったりと重ねて。 火照った体に染込んでゆく感覚が気持ちいい。 それ以上に、タカの唇の感触と体温が心地いい。 何度か繰り返すと、グラスに半分ほど入っていた水をすっかり飲 み干していた。 ﹁ふぅ⋮⋮﹂ 小さく息を吐くと、タカがホッとした顔をして私から離れていこ うとする。 私は柔らかい感触と穏やかな温もりをもっと味わっていたくて、 それを阻むように、彼の首に巻きつくように、そっと腕を回した。 ﹁みさ子さん?﹂ 不思議そうな瞳で私を呼ぶタカ。 いつもいつもタカに誘われるばかりで、1度もベッドに誘った事 がなかった。 恥ずかしくて、そんな事をしたら顔から火柱が確実に上がってし まうと分かるほど恥ずかしくって、到底出来る事ではなかった。 でも、タカと肌を重ねる事はイヤじゃないから。 本当は誘ってみたいと思っていた。 710 今なら。 いつもの私と違う今なら、それが出来そうな気がした。 セックスの後、﹃いつも一方的に誘ってごめんね﹄と謝る彼に、 ﹃私だって、タカの肌の温もりが好きなのよ﹄って伝えてあげたく て。 私は視線に想いを込めて微笑んだ。 ところが、タカはいつもと様子が違いすぎる私を心配し、あろう ことか﹃ベッドで休んだ方がいい﹄と言い出した。しかも、添い寝 でなく、私一人で休むようにと。 せっかく私が︱︱︱酔った勢いとはいえ︱︱︱抱かれようとして いるのに、それを宥めてくるとは。 ちょっとだけしょんぼりしたけど、すっごく嬉しかった。 それだけタカは私の事を大切にしてくれているのだと分かったか ら。 勢いだけで流されず、私を思いやってくれているのが伝わってき たから。 ︱︱︱私の彼は、どんな時でも最高の男性だわ。 心の底からそう思った。 711 ︱︱︱でもね。ここまで来たら、引っ込みがつかないもの。 そして⋮⋮。 大胆すぎる“私”は、彼を床に押し倒した。 ﹁うわぁっ!﹂ 突然の事に、タカは大きな声を上げて倒れ込む。 何がなんだか分からない、という顔をしている彼の目の前で、私 はメガネを外し、そして自分から服を脱いだ。 押し倒したり、進んで服を脱いだり、しかも明るい部屋で彼に抱 かれようとしたり、普段の私からは考えられないような行動の連続 に、タカはただ大人しく私にされるがまま。 ﹁一人で寝るなんてイヤ。寝るならタカも一緒に⋮⋮ね?﹂ 酔って開放的になっている私は、これまたいつもの私ではありえ ないセリフを零す︱︱︱自ら誘うセリフを。 蛍光灯の灯りに、ブラしか身につけていない私の上半身が照らし 出される。 その姿に目を奪われているタカ。 だけど、その瞳にはいつしか妖しい炎が揺らめき始め、男性特有 の色香がタカから漂ってくる。 お互いに視線を逸らさずに、言葉もなく静かに見詰め合っていた。 しばらく私を眺めていた後、熱の篭る声でタカが囁く。 ﹁⋮⋮俺を誘ったみさ子さんが悪いんだからね﹂ ゾクリ、とするほどセクシーな声音に、私は艶然な微笑みで応え た。 712 タカが右手を伸ばし、私の左頬に触れてくる。 いつもより体温が高くなっている私の頬に当てられた手は、冷た いグラスを持っていたために程よくヒヤリとして気持ちがいい。 親指を動かして頬の丸みを確かめるようになぞり、ひとしきり撫 でた後は唇へと移動した。 水を飲ませるという行為で触れ合った互いの唇は今、官能を高め る一つの器官へと化している。 指の腹で私の下唇をなぞる彼の親指に、チロリと舌先を這わせた。 ビクッとしたタカの動きが一瞬止まり、そしてフッと目を細める。 ﹁今日のみさ子さん、なんかすごいね⋮⋮﹂ 再び私の唇の上で指を動かし、嬉しそうに告げてくる。 ﹁すごいって、どうすごいの?﹂ 酔っている私には彼の言わんとするところが伝わってこず、尋ね 返す。 するとタカは更に目を細めてこう言った。 ﹁すごい色っぽいってこと﹂ ﹁私からすれば、ただ目を細めただけなのに、艶が溢れるタカの方 がよほど色っぽく見えるけど?﹂ ﹁ふふっ、それはね。みさ子さんが俺をそうさせているんだよ⋮⋮﹂ そう言って、タカは唇から浮き出る鎖骨へと指先を滑らせた。 713 111︼ホワイトディ・ラプソディー︵5︶︵後書き︶ ●投稿ペース並びに展開が遅くてごめんなさい!! 次話こそは確実に絡ませますからーーー︵笑︶ 714 112︼ホワイトディ・ラプソディー︵6︶ ≪SIDE:みさ子≫ タカの右手の指先が私の首筋を辿り、鎖骨を通って、胸の膨らみ に行き着いた。 肌の感触を確かめるように、指先がブラに覆われていない膨らみ や谷間の部分をゆっくりと行き来する。 一通り撫でると、また首筋へと戻り、再び胸へと降りてきた。 女性とは違うわずかにかさついた指先が、肌の上を滑りながら肌 の奥からくすぐったさとは違う疼きを呼び起こしてゆく。 ︱︱︱これだけで感じてしまうなんて⋮⋮。 ただ触られているだけなのに、酔って興奮状態にいるせいか、そ れだけで肌がゾクリ、と粟立った。 いいえ、触られているからだけじゃない。 タカが真っ直ぐに見つめてくるからだ。 私の表情を一つとして見逃すまいと、彼は熱い視線をじっと向け ている。 その視線があまりに色っぽく綺麗で、私は目を逸らせない。 タカに見つめられながら、私は官能を覚え。 私に見つめ返されながら、タカは更に官能を与える。 恥ずかしいという感覚は思考の隅におぼろげながら存在するもの の、彼の視線から逃れる事が出来ず、己の体を彼の目前に晒し続け 715 る。 ︱︱︱見られているのに⋮⋮。しかもこんな明るい部屋で。 状況は理解できている。 いくら恋人同士だからといって、自分の体をこんな状況で見せる のは、私としてはありえない。 しかし、そのありえない状況が私の中からいつも以上の欲情を引 き出していることに、体は気が付き始めている。 今の私は理性よりも欲情に走る“女”へと変化していた。 ﹁そんなに見ないで⋮⋮﹂ クスリ、と小さな微笑みと共に告げる。 見ないでと言っておきながら、私は隠す事をしない。 むしろそう告げる事で、さらに彼を煽り立てる。 酔った私は﹃怖いものなし﹄らしい︱︱︱正気の私が傍からこの 場面を見ていたら、口から泡を噴いて卒倒しただろう。 理性が吹っ飛んでいる私は彼のお腹の上におとなしく跨り、され るがままに胸を弄られていた。 普段とはあまりに違いすぎる私の様子にさっきまで戸惑っていた タカは、すっかりいつもの彼に戻り、クスクスと嬉しそうな微笑み を浮かべている。 ﹁こんなに綺麗なみさ子さんから、俺が目を離せるはずないでしょ 716 ?いい加減、自分の魅力を自覚してくれないかなぁ﹂ クスリ、クスリと小さく笑いながら、意地悪そうに目を細めるタ カ。 いつの間にか彼の左手も私の右胸に添えられていて、両手で下か ら持ち上げるようにブラごと揉みしだき始めた。 いつもと違う状況下にいる私の体は敏感に反応し、硬さを示し始 めている乳首の先がブラの布地に擦られて、えも言われぬ刺激を受 けている。 ゆったりと大きく胸を包み込む彼の手の平。 優しいその動きは一定のリズムを繰り返し、単調で何てことのな い仕草なのに、私の口からは簡単に艶声が漏れてしまう。 ﹁あん⋮⋮﹂ 思わず私は目を閉じ、わずかに眉を寄せた。 そんな私の様子に、タカは満足気な笑みを口の端に浮かべ、徐々 に手の平に力を加えてゆく。 1度目を閉じてしまうと、再び視界を取り戻すタイミングがうま く計れない。 もどかしく思いながらも目を閉じたまま、彼の手によって与えら れる感覚を追った。 ﹁はぁ⋮⋮ん﹂ それが更に陰熱を煽り立てるのだと気付いた時にはもう遅く、ま だ胸だけ︱︱︱しかも直接乳房に触れられているのではなく、下着 の上からであるにもかかわらず、体の奥から妖しい疼きがドクン、 と波立つ。 ﹁あっ、んん﹂ キュッと目を強く閉じ、仰け反った。 背を逸らしたおかげで、乳房がハーフカップのブラからはみ出し 717 てしまう。 おそらく色付きを濃くし始めた両の乳首が、彼の視線の先にある ことだろう。 自分の姿を思い描き、ほんの少しだけ恥ずかしいと感じる私。 ﹁ますますいい眺めだね﹂ そんな時に彼にそう言われて、私の体がカッと熱くなった。 しかし、酔いが回っている頭と体では、その場から逃げる、もし くは隠すということが出来ない。 一言だけ告げたタカは、人差し指と中指の間に乳首の先を挟み、 さらに強く揉みしだいてくる。 まるで乳房にめり込ますような勢いで、彼は指先に力を入れて、 円を描くように手を動かした。 柔らかい乳房は、タカの手の動きに合わせて悩ましげに形を変え る。 そして彼が手を動かすたびに、指の間にある両方の乳首が締め付 けられ、痛みだけではない感覚を私に与えた。 ﹁く⋮⋮﹂ 痺れる様な感覚に、私はいっそう眉を寄せる。 ﹁ふふっ。酔っていても、感じるんだね。⋮⋮ああ、もしかして、 酔っているから余計に感じてる?﹂ そう言ったタカは親指と人差し指の先で乳首を根元からキュッと 握った。 とたんに電流にも似たビリビリとした刺激が、勢いよく背筋を駆 け抜けてゆく。 ﹁はぁん!﹂ 甲高い声で啼く私。 疼きの熱がグッと上がる。 ﹁うん、やっぱり感じやすくなってるみたいだ﹂ 目を閉じている私には彼の表情が見えないけれど、声を聞いただ 718 けでタカが心底嬉しそうにしているのが、そして、興奮しているの が分かった。 ﹁⋮⋮こんなシチュエーションはこの先ないだろうから、楽しまな くちゃ﹂ だけど。 既に快楽に溺れつつある私には、タカの洩らした呟きの意味が分 からなかった。 719 112︼ホワイトディ・ラプソディー︵6︶︵後書き︶ ●お待たせしてしまって、大変申し訳ありませんでした︵滝汗︶ 五月はみやこの体が壊れ、六月はパソコンが壊れ⋮。そして諸々の 事からようやく立ち直って久々の更新︵苦笑︶ これからは出来る限り早めに更新いたします。⋮多分ね︵笑︶ ●やっと絡みのシーンにたどり着きました。 お酒の力を借りてとはいえ、自ら誘うみさ子さん。こんな展開、も う二度とないでしょうから、楽しんで執筆したいと思います♪ 720 113︼ホワイトディ・ラプソディー︵7︶ ︽Side:みさ子︾ 彼の指で捻り潰されるように、クニクニとなぶられる乳首。 お酒の作用で体が火照っているけれど、タカに触れられている部 分は特に熱い。 親指と人差し指で挟むように擦り上げ、時折爪の先でカリカリと 引っかいたり先端を押し込んだりと、様々な仕草で刺激を与えてく る。 おかげで途切れることなく、私の口から嬌声が漏れていた。 ﹁あ⋮⋮、んんっ﹂ 普段は出さない甲高い声。“オンナ”の声。 なぜタカに触れられると、体はこんなにも敏感になってしまうの だろうか。 ﹁いつ聞いても“いい声”だね﹂ 嬉しそうに、楽しそうに、タカが言う。 そして摘んだ私の乳首をグリッと捻った。 ﹁ああっ!﹂ 敏感になっている部分には強すぎる刺激に一瞬膝立ちになり、私 は腰を浮かせる。 その隙をついて、タカは上半身を起こした。 721 優しいけれど絶対に逃がしてはくれない腕に抱きすくめられ、私 はタカの胸の中に収まる。 彼の太ももに乗っている私は、少しだけタカを見下ろす形となっ た。 ﹁下から見たみさ子さんもいいけど、やっぱり近くで見たいんだよ ね﹂ クスリ、と笑ったタカは私の背に回していた右腕を緩くほどき、 髪に触れる。 ゆっくりと何度か髪を撫でつけていた彼の手の平が、静かに私の 首筋に降りてきた。 それから僅かに力を入れて引き寄せる。 されるがままの私を待ち受けていたのは、嬉しそうに微笑むタカ の唇だった。 始めは軽く押し当てるだけ。 唇の感触を楽しむように触れては離し、また触れる。 それを繰り返しているうちに私を抱きしめるタカの腕の力が強ま り、押し当てられる唇の強さも増した。 私の首裏にあった彼の手がうなじをスッと撫でると、ゾクリとし た感覚が皮膚全体に走る。 反射的に薄く開く私の唇。 722 僅かに開いた隙間から、スルリと彼の舌が忍び込んできた。 すぐさま捕らえられる私の舌。 甘く吸われ。 きつく絡められ。 クチュ⋮⋮という湿った淫音が部屋に響く。 優しく穏やかなタカの風貌からは想像出来ないような、熱く深い キス。 ︱︱︱ほんの少しの吐息さえも、飲み込まれてゆくみたい。 そんな事をぼんやり感じていると、タカの手が徐々に下へと降り てきてブラのホックを外した。 不意に胸の膨らみが解放される。⋮⋮が、自由になったのは束の 間、素早くタカの右手が前へと回り込んだ。 彼の左手は私の髪を撫でつつ、動きを封じてくる。 そのせいで乳首が弄られても、肩を震わせるばかりで逃げられな い。 おまけに唇は相変わらず塞がれたままなので、外に出せない声が もどかしい熱となり体に籠もってゆく。 クリクリと二本の指で乳首をつまみ上げられ、その度にビクン、 と跳ねる私。 723 ﹁ん⋮⋮、ふ⋮⋮﹂ 重なった唇の微かな隙間から、くぐもった声が漏れた。 甘い痺れが強さを増し、私の体を支配する。 アルコールの酔いとは違う脱力感が私を襲い、タカに軽く引き寄 せられただけなのに上体が倒れる。 タカは私を抱き留めながら床へ仰向けになり、器用にもキスをし たまま私と上下を入れ替えた。 素肌の背中に絨毯の感触。 剥き出しになった胸には、タカが着ているTシャツの生地が当た っている。 思考すら手放しかけている私には、タカがいつブラを抜き取った のか分からなかった。 タカは私の上に乗り、こちらが苦しくないように体重をかけてき た。 そして角度を変え、改めて唇を重ねる。 さっきよりも大きく響く水音。 724 休みなく私の胸を揉みしだくタカの右手。 一層濃くなる私の頭の中の白い霧。 意識を失う訳ではないけれど、何も考えられなくなってゆく。 ふっと体の力が抜けた。 その瞬間を待っていたかのように、口元だけで小さく笑うタカ。 彼の唇はゆっくりと私の首筋を辿り、右の鎖骨を経由して左胸の 先端を目指した。 725 113︼ホワイトディ・ラプソディー︵7︶︵後書き︶ ●大変お待たせいたしました!ようやく連載再開です。 パソコンが壊れると不便で仕方がないですね︵号泣︶ 726 114︼ホワイトディ・ラプソディー︵8︶ 燦々と降り注ぐ日の光とまではいかないが、明るい蛍光灯に照ら されて、色の白いみさ子さんの肌が輝いている。 何度抱いても恥ずかしがる彼女のために、普段は薄明かりの下で しかセックスはしない。 それでもみさ子さんの肌は十分綺麗なのだが、今夜は明かりのお かげでその美しさまざまざと目にすることが出来た。 アルコールと淫熱で火照っているからか、目下に晒されている彼 女の上半身は淡い桜色。 そして形よく膨らんだ胸の頂は、更に色味の濃い紅色。 いつもならばすぐさま自分の肌を隠そうとするみさ子さん。 だけど、俺に見られていることを知っているだろうに身じろぎ一 つしない。 それどころか、俺に見せつけているような感じだ。 普段の慎ましやかなみさ子さんも大好きだが、こういったみさ子 さんももちろん愛しい。 抜群のプロポーションを惜しげもなく披露している姿を見て、体 の奥底がズクンと熱く疼いた。 彼女の全てを手に入れたいと、かつてないほどの渇望を覚える。 俺の気持ちを根こそぎさらっていく彼女は、まさに蠱惑的。 727 艶めく肌に惹かれて、胸の谷間に顔を寄せた。 息がかかるほど近くにある妖しく色付いた果実に、思わず俺の喉 が鳴る。 そして、圧倒的な色香に誘われるままにそっと口に含んだ。 ﹁んっ﹂ ピクンと肩を震わせ、みさ子さんが短く啼く。⋮⋮が、抵抗はし てこない。 ︱︱︱本当に今日のみさ子さんは別人みたいだ。 クスリと微笑みながら、口内の突起を音を立ててチュッと吸う。 同時に左胸の乳首を親指と人差し指でクリッと摘んだ。 ﹁ああっ!﹂ みさ子さんが眉をひそめて声を上げた。 嫌がっている声音ではない。むしろ歓喜といったところか。 与えられる快感に耐えられなくなりつつあるみさ子さんは、その 細くしなやかな指で絨毯の毛足を掴んでいる。 そんな彼女の口から零れるのは、悩ましすぎる吐息。 乳首を舌先でやや乱暴に転がした後、赤ちゃんが母乳を飲む時の ようにジュクジュクと吸い上げると、みさ子さんが両手で俺の頭を 抱えるように押さえてきた。 728 ︱︱︱⋮⋮嫌なのかな? そう思って離れようと頭を上げると、後頭部をやんわりと押され て元の位置に。 ︱︱︱どういうことだ? そのままの体勢で何度か瞬きしていると、みさ子さんが囁くよう に言った。 ﹁⋮⋮もっと﹂ 初めて聞くみさ子さんからの要求。 俺の頭を抱えたのは、今の動きを続けてほしいというアピールだ ったようだ。 ならば、それに応えるまで。 目の前でツンと立ち上がっている乳首を遠慮なくくわえた。 そしてわざとらしく大きく舐め回したり、歯を立てて甘噛みして みたり。 ﹁あ⋮⋮、あん﹂ 俺の髪に差し入れたみさ子さんの指先に力がこもる。 その喘ぎ声はいつものように﹃思わず口をついた﹄のではなく、 完全なる悦びの声。 こんな“いい声”で啼かれたら、もっと聞きたくなってしまうで はないか。 729 ︱︱︱よし!! 一人気合いを入れて、右手をみさ子さんの下腹部へと滑らせた。 ウエスト部分が幅広のゴムになっている部屋着の中に手を忍ばせ る。 脚の付け根付近は既にしっとりと⋮⋮、いや、ぐっしょりと濡れ ていた。 これまでのセックスにおいてはみさ子さんの様子を伺いながら、 静かに彼女の衣服を脱がせていたが、今夜は確認もとらずに一気に 剥ぎ取る。 見事にくびれたウエスト、スラリと伸びた脚。 そして彼女の艶やかな黒髪と同じ色の茂みに目が釘付け。 どんな褒め言葉も陳腐になってしまうほど、みさ子さんの肢体は 壮絶な色香を放っている。 じっくりと全裸のみさ子さんを堪能したいところだが、﹃早く彼 女のナカに入りたい!!﹄と、俺の下半身が激しく主張していた。 しかし、いくら愛液で潤っているとはいえ、いきなり突き入れる のはみさ子さんの負担となる。 730 俺は痛いほど脈打つペニスを一旦頭の隅に追いやり、まずは彼女 のナカを解すことに。 みさ子さんの脚を開かせ、その間に身を置く。 露わになった陰部に、先ずは中指をツプリと差し入れた。 ﹁んっ﹂ 小さく戦慄くみさ子さん。 チラリと見遣ると、眉を寄せてはいるが嫌悪や痛みはなさそうだ。 ゆっくりと指を抜き差しする。 僅かに身を震わせ、みさ子さんは更に絨毯を掴む指に力を入れた。 そして彼女が脚を閉じようとしてくるが、俺が居座っているため どうにもならない。 ﹁やぁ⋮⋮ん﹂ もどかし気に、みさ子さんが声を出す。 ﹁みさ子さん。“イヤ”じゃないよね?﹂ 俺はニヤリと口元を弛ませ、頃合いを見て指を二本に増やした。 ズブリと奥まで差し入れ、引き抜く。そしてまた奥まで、深々と。 次々と溢れる愛液が、指の動きに合わせて、クチュ⋮⋮、クチュ ⋮⋮と湿った音を立てる。 731 ﹁はぁ⋮⋮んっ﹂ 艶っぽく啼いて、みさ子さんが自身を抱きしめた。 アルコールで全身が怠いようだが、膣内は相変わらず敏感なまま のようだ。 ︱︱︱じゃあ、ココはどうかな? 俺は指の突き入れを止め、淫らに実るクリトリスへと舌を伸ばし た。 かなり固くなっていたクリトリスを下からペロリと舐め上げる。 ﹁⋮⋮っ!﹂ みさ子さんはビクンと大きく跳ね、喉を引きつらせたような声な き悲鳴を上げた。 コリコリとした感触を伝えてくるほど彼女の淫らな実は固く肥大 しており、舌を這わせる度に切ない吐息を漏らす。 ﹁ん、ん⋮⋮﹂ 頭を軽く左右に振り、身悶えるみさ子さん。 俺はその様子を見ながら小さく微笑んだ後、淫唇に手を添えて左 右にそっと開いた。 初めて明るみに出た彼女のクリトリスは真っ赤に充血しており、 脈打つようにピクピクと震えている。 732 舌先を尖らせて転がすように弄ると、みさ子さんの腰がまた跳ね る。 ﹁ああっ!﹂ 切羽詰まった甲高い声。 みさ子さんの指に力一杯掴まれた絨毯の毛足が、ギリ⋮と鈍い音 を立てた。 733 115︼ホワイトディ・ラプソディー︵9︶ みさ子さんが完全にイッていないことは分かっていたが、俺は舌 の動きを止める。 この先こんな機会は二度とないかもしれないのだ。 それなら、間近で彼女が絶頂を迎える顔を見てみたい。 だから、敢えて中途半端な状態で愛撫を止めた。 ﹁⋮⋮タカ?﹂ 急に刺激を止められて、みさ子さんが不安そうな声音で俺を呼ぶ。 ﹁そんな声、出さないで。心配しなくても、気持ち良くさせてあげ るから﹂ 彼女を見遣りながら優しく声をかけ、再び陰部に視線を落とす。 目前の愛芽は舐められたことにより、更に色味と艶を濃くしてい た。 その下に少し視線をずらすと、中途半端に差し入れたままの俺の 指がある。 愛液に濡れたその指は、関節二つ分飲み込まれていた。 それをそっと引き抜く。 ﹁⋮⋮あっ﹂ 体内から奪われた感覚に、みさ子さんは僅かに声を上げて身震い する。 734 ﹁あれ?抜かないで欲しかった?﹂ クスクスと笑う俺の言葉に、彼女の耳がサッと赤くなった。 驚くほど大胆かと思えば、今度は打って変わって恥じらって見せ たり。 お酒の影響でいつもと違う彼女ではあるが、根底にある恥ずかし がり屋な部分が時折顔を出すようだ。 そんな風に表情をあれこれ変えてくるみさ子さんが、心の底から 愛しくてたまらない。 上体を起こし、とっくに脱ぎ捨てていたスウェットの上着の所へ Tシャツを放り投げた。 次いで素早くスウェットの下履きも脱ぐ。 明るい部屋に全裸のみさ子さんと下着姿の俺というシチュエーシ ョンは、何というか、凄く淫らだ。 興奮が体の奥からうねり上がる。 俺は、みさ子さんの右半身にピッタリ寄り添った。 左腕を彼女の首裏から回し入れ、ガッチリとみさ子さんの左肩を 掴む。 そして彼女の耳元で囁いた。 735 ﹁そんなに欲しいなら、入れてあげる﹂ 右手をみさ子さんの秘所へと伸ばし、ズブリと二本の指を一気に 差し込んだ。 少し乱暴に抜き差しすると、しとどなく溢れる愛液によってグチ ュグチュという淫猥な水音が耳に届く。 ﹁は⋮⋮、あぁ﹂ 熱い吐息が彼女の口から漏れた。 ﹁いつもより濡れてるね﹂ 意地悪く微笑みながら告げ、フッと耳に息を吹きかけると、彼女 のナカがキュッと締まる。 ﹁おまけに、普段より感度も良いみたいだし﹂ 指を目一杯突っ込み、そしてクイッと軽く曲げた。 ﹁あっ⋮⋮ん!﹂ ビクンと彼女の体が跳ねる。 俺の指先が“イイ所”に当たったようだ。 ﹁本当にいい声だよねぇ﹂ 俺の官能を直撃する、なんとも悩ましい声。 もっと聴きたい。 もっと啼かせたい。 736 俺の欲望は二人きりの部屋では抑える必要もなく、思うままに指 を突き入れ、掻き回す︱︱︱みさ子さんが感じるポイントを重点的 に攻めながら。 ﹁ひぁっ⋮⋮、ん、んっ﹂ グチュリ⋮⋮、ジュブッ、グジュ。 彼女のかん高い声と水音が、同じリズムで発せられている。 右半身を俺に覆われるようにのし掛かられ、その上左肩を抑え込 まれているため、みさ子さんは逃げることも出来ず、体を震わせ嬌 声をこぼし続けた。 ズブズブと容赦なく抉るように突き込み、イイ所を引っかくよう に抜く。 それを繰り返しているうちに彼女のナカの締め付けが強くなって きた。 間もなく絶頂を迎えるのだろう。 ﹁んっ、あぁっ﹂ 余裕を無くしつつある喘ぎ声を上げ、みさ子さんは形のいい目を 切なげに閉じた。 快感に唇を震わせ、眉を寄せる彼女の表情をすぐ傍で目にした俺 は、一層激しく指を動かす。 ﹁気持ちよくなってきた?﹂ 737 そう問いかけると、どうにも耐えられなくなってきたみさ子さん は、自由になる左手で俺の右肩をギュッと掴んだ。 ﹁あっ⋮⋮、タカ、もう⋮⋮だ⋮⋮めっ!!﹂ 喉を引きつらせてみさ子さんが啼く。 同時に一層ナカの締め付けが増した。 ﹁イッていいよ﹂ 俺は指先で彼女のイイ所を強くこすりあげる。 ﹁くぅっ⋮⋮、ああっ!﹂ 悲鳴と共にガクンと彼女の体の力が抜け、ズップリと差し入れて いた俺の指先は熱いヌメリが奥から溢れ出してくるのを感じ取った。 俺の体の下でみさ子さんが少し苦しそうに喘いでいる。 そんな彼女の頬に軽くキスをして囁いた。 ﹁こんなに明るい所で、しかも俺に顔を見られながらイッちゃった ね﹂ 薄明かりの中でしか抱き合ったことがなかったから、彼女が絶頂 を迎える瞬間をこんなにはっきりと見たのは初めてだ。 快楽の階段を駆け上がる彼女の表情は壮絶に悩ましくて、俺の瞼 の裏から消えることはない。 そんなみさ子さんの様子を殊更焼き付けながら、言葉を続ける。 ﹁いつもより声が出てたよね。⋮⋮そんなに気持ちよかった?﹂ 図星を指されて、みさ子さんは顔を隠すように俯いてしまった。 そして、しばらくそのまま動かない。 738 ︱︱︱⋮⋮もしかして、余計なことを言って怒らせたか? 内心焦り出すと、不意に彼女が顔を上げた。 そしてさっき解いた腕を再び俺の首裏に回し、クッと引く。 ﹁えっ!?﹂ 一瞬のうちにみさ子さんに唇を奪われた。 やんわりと触れるだけのキスなら、これまでに何度か受けてきた ことがある。 ⋮⋮が、このキスはいつもとは違い、やや強引に重ねられ、そし て離れたかと思えば彼女の舌が俺の下唇をゆっくり舐める。 ザラリとした舌が何度も唇をなぞり、俺の背筋に妖しい何かが走 る。 ﹁ふっ⋮⋮﹂ ゾワリとした得も言われぬ感覚に、俺は思わず息を漏らす。 そこにスルリとみさ子さんの舌が忍び込んできた。 ︱︱︱ええっ!! さっきよりも驚く俺。 みさ子さんがこんなキスを仕掛けてくるなんて、夢にも思わなか った。 739 俺が彼女に与えるように激しく絡め合うことはないが、それでも 俺の口腔内でみさ子さんの舌が蠢いている。 ︱︱︱どういう事だ?単に酔っているだけか? 頭の中に大きな疑問符を浮かべていると、スッとみさ子さんが離 れた。 呆気に取られている俺はジッと彼女を見つめる。 すると紅く濡れた唇が静かに動く。 ﹁⋮⋮タカにも気持ちよくなって欲しいの﹂ 困ったような照れたような、でも真摯な瞳で見つめ返された。 740 116︼ホワイトディ・ラプソディー︵10︶ ≪SIDE:みさ子≫ 私からこんなキスをするなんて、まったくの初めて。 だからこそ、タカは体を強ばらせているのだ。 戸惑った目の色で私を見つめる彼に、かねてから言いたかったセ リフを告げた。 ﹁⋮⋮タカにも気持ちよくなってほしいの﹂ さっきも去来した彼のセリフが、再び私の脳裏に浮かぶ。 ﹃いつも一方的に誘ってごめん。強引に抱いたりしてごめんね﹄ 雰囲気というか勢いというか、肌を重ねるような流れにもってい くのは、いつだってタカ。 それゆえ事が済むと、重罪を一身に背負ったような悲壮な表情で、 気怠い私を優しく抱きしめながらいつもそう言うのだ。 我を忘れたように熱に浮かれるタカではあるが、どんな時も私の 快楽を最優先してくれる。 741 最終的に彼も達するのだから、気持ちよさは感じてくれているの だろう。 だが、私の事を差し置いて快楽に溺れるようなことは、これまで に一度もなかった。 タカはちっとも悪くない。 誤る必要なんてない。 私はタカに抱かれて嬉しいのだ。 快楽に浚われて頭が真っ白になりかけている時でも、体の奥から 満たされていくのを感じている。 だからタカに伝えたい。 私と同じ様に、ううん、私以上に気持ちよくなってほしいと。 流されるように始まるセックスでも、タカに抱かれるのはとても 幸せなのだと。 普段の私では恥ずかしくて、とてもそんな言葉は口に出せない。 でも、アルコールのおかげで大胆になっている今なら。 742 ﹁タカ、好き⋮⋮。あなたに抱かれて、私はいつだって幸せなのよ﹂ 彼と視線を絡めたまま目を逸らさず、そっと微笑む。 そして、行動に移した。 寝返りを打つようにして、タカと私は位置を入れ替える。 仰向けにされてボンヤリしているタカの首筋に唇を当てた。 更にずらして鎖骨にもキス。 それから適度に筋肉が付いている胸にもキス。 これは触れるだけではなく、チュッと吸い上げた。 唇を離すと、彼の左胸のやや上部に赤い跡が付いているのが目に 入る。 一瞬走った痛みで、タカは私が今、何をしたのか気づいたようだ。 ﹁みさ子さん⋮⋮﹂ 頭を起こし、自分の上半身に体を寄せている私を見た。 それに対して、小さな笑みを返す。 ﹁一度付けてみたかったの。⋮⋮こうすると“私だけのタカ”って 感じがするわね﹂ そう言いながら、これまで抱かれてきた時の事を思い返す。 そして、タカがやたらにキスマークを付けてくる理由がなんとな 743 く分かった。 キスマークの付いた彼は、“私の所有物”ということではない。 相手はれっきとした人間。私は大切な恋人を物扱いするつもりは 一切ない。 この赤い跡は何と言うか⋮⋮、そう、“手に入れる事を許された 証”といったところだろうか。 おそらく、彼も同じように考えているはず。 肌を重ねる度にタカには花吹雪のごとく跡を付けられるが、﹃愛 されている証拠﹄だと思えば、今後私にはそれを止めることはでき ない。 ︱︱︱ま、仕方ないわね。 私は胸の中で甘い苦笑を漏らした。 先程のキスマークからやや下がってもう一つ花びらを散らしなが ら、ゆっくりと右手を下方へと伸ばしてゆく。 そして⋮⋮、下着の上から“彼自身”に触れた。 744 ﹁あっ!﹂ 短く声を上げたタカが、肘を着いて上半身を起こす。 それに構わず、私は一つ、また一つと跡を付け、同時に硬く存在 を主張しているソレを撫でた。 上から下へ。下から上へ。 指先にほんの少し力を入れ、その動きを繰り返す。 ﹁みさ子さん⋮⋮!?﹂ 名前を呼ばれて目線を彼に向けると、驚きを浮かべた視線とぶつ かる。 私は思わず手を止めた。 肌を重ねるといった経験はタカ以外にない為、どうすれば男の人 が気持ちよくなってくれるのかが分からない。 見よう見まねで、聞きかじった知識をこうして実行に移してみた ものの⋮⋮、タカが喜んでくれなければ何の意味もない。 ﹁⋮⋮こうされるのはイヤ?﹂ おずおずと切り出した問い掛けに対して、答えは返ってこなかっ た。 ︱︱︱やり方が悪かったのかしらね⋮⋮。 745 私は気落ちして、止めていた手を静かに引く。 すると、タカが私の手首をパッと掴んだ。 ﹁⋮⋮違うから﹂ ﹁え?﹂ ︱︱︱違う?何が? 私が不思議顔で小首を傾げると、タカは苦笑い。 ﹁イヤではないんだ。むしろ嬉しいっていうか、気持ちいいってい うか﹂ ﹁本当?﹂ ﹁うん﹂ タカが柔らかく目を細める。 ﹁ただ、ビックリしちゃって。まさかみさ子さんが自分からしてく れるなんて、ぜんぜん思ってもみなかったから﹂ そう言って、タカは私の手首を解いた。 それは続きを促す合図。 一旦止めてしまった動きを再開するには勇気がいるけれど、タカ が望んでいるなら。 私はフゥッと短く息を吐き、右手を動かし始めた。 746 116︼ホワイトディ・ラプソディー︵10︶ ︵後書き︶ ●今回、どうしてもみさ子さんの心情を書き表したかったので、激 しい絡みのシーンはお休みさせていただきました。 もう間もなくピンクな神様が降臨しますので︵笑︶、二人の絡みは 今しばらくお待ちください。 747 117︼ホワイトディ・ラプソディー︵11︶ ≪SIDE:みさ子≫ タカの傍らに寄り添うようにうずくまり、彼の隆起部分を手の平 で包み込むようにして、上下にゆっくりと動かす。 柔らかいようでいて、でも中に芯が通ったような不思議な感触が 下着ごしに伝わってくる。 聞いた話では、男性のこの部分は痛みに敏感らしい。 なので私は力を入れすぎないように、かなり注意深く手を動かし ていた。まるで産まれたばかりの赤ちゃんの頭を撫でるように。 ︱︱︱どんな感じなのかしら? チラリと目線を上げてタカの様子を伺うと、肘を着き上体を起こ して私の様子を見守っていた彼は、物凄く困った顔をしていた。 その表情は快楽とは程遠い。 ︱︱︱やっぱり、私はこういう事に不向きなのね。 彼を喜ばせてあげたい気持ちは、それこそ溢れるほどあるのに⋮ ⋮。 経験の足りない私は、自分の不甲斐なさに泣きたくなる。 俯き、キュッと眉をひそめた私をタカが呼んだ。 ﹁みさ子さん⋮⋮﹂ おずおずと視線を向けると、相変わらず困り顔のタカ。だけど、 口元が微笑んでいる。 ﹁そんな悲しそうな顔しないでよ﹂ タカはそう言うが、私は今にも泣き出してしまいたいくらい落ち 748 込んでいるのだ。 恋人を気持ち良くさせる手段の一つも持たない自分が、情けなく てたまらない。 ﹁だって⋮⋮﹂ 言いよどむ私の視界が、うっすらと涙で曇る。 ﹁あぁ、もう⋮⋮。みさ子さん﹂ 苦笑いのタカが、また私を呼んだ。 ﹁あのね、みさ子さんが下手とかじゃなくて、その⋮⋮、力加減が さ﹂ ﹁力加減?﹂ ﹁うん。そんなにやんわり触られると、もどかしくて困る﹂ そう言って、タカは鼻の頭を指で掻く。 ﹁そうなの?﹂ 男性にとって、最大の急所はココだろう。 ボールを受け損ねたキャッチャーが悶絶している姿を、何度か野 球中継で見たことがある。 あの痛がり様は、見ていて心底気の毒になるほどだ。 ﹁だって⋮⋮、敏感なんでしょ?﹂ ︱︱︱タカには絶対に痛い思いはさせたくない! 私の真剣な眼差しに、タカはクスッと笑う。 ﹁確かにそうなんだけどさ。みさ子さんの撫で方だと、なんだかく すぐったいんだ。もう少し力を入れても大丈夫だよ﹂ と言われても、どの位の力で撫でればいいのか分からない。 僅かに首を傾げた私に気付いたタカは、右手を伸ばして私の手の 甲に重ねる。 749 そして重ねた手を押し付けるようにして、一緒に撫で上げた。 その動きは思っていたよりも強く、擦り付けている感じだ。 ︱︱︱へぇ。意外と丈夫なのね。 妙に感心していると、程なくタカが手を外し、それからは私一人 で続けていたが、ふと思った。 ︱︱︱いつまでも同じことをしていたらダメよね。 もっと気持ち良くなってもらうためにはどうしようかと、アルコ ールが回っている頭を必死に動かし、何時ともなく仕入れた情報を 引きだそうとする。 ︱︱︱そうだわ!こんな事をすると男の人が喜ぶって。⋮⋮でも。 ある手段を思い付いたものの、いざ実行に移すとなると正直戸惑 う。 しかしタカに喜んでもらいたい一心で、私は覚悟を決めた。 トランクスのウエスト部分から右手を滑り込ませ、そして⋮⋮、 アレを握った。 タカは体を強ばらせたけれど制止や拒絶の言葉を口にしなかった ので、続けてもいいということだろう。 私の手に包み込まれたペニスは凄く熱い。 先程教わった力加減で、握り込んだ手を上下に動かす。すると手 の中でググッと太くなった。 ︱︱︱フフッ、面白いかも。 先程の躊躇は消え去り、更に手を動かす。 今度はビクン、ビクンと脈打つのを感じた。 ︱︱︱どんな風になっているのかしら? 750 気になった私は、大胆にも左手でトランクスのウエスト部分を引 き下ろす。 ﹁︱︱︱!?﹂ 驚愕に固まるタカ。 私の突然の行動に声も出せないようだ。 明るみに出されたペニスは、私の手よりはみ出している先端部分 から少し白濁した液体を滲ませている。 指の隙間から見える棒状の部分は周りの皮膚よりも赤味があり、 所々血管が浮き出ていた。 初めて見たペニスに対して何とも言いようがない印象を受けたが、 嫌悪感はない。 嫌悪どころか、私を気持ち良くしてくれて、なおかつタカが気持 ち良くなるソレが、とても愛おしく見えて。 思わず先端にキスをした。 ﹁うっはぁ!﹂ 今まで呆気に取られていたタカが素っ頓狂な声を出したかと思う と、いきなり起き上がって私を床に押し倒した。 彼が思い詰めた表情をしていることで、自分の顔がみるみる強張 るのが分かる。 ︱︱︱私、また何か失敗した? ﹁⋮⋮タカ﹂ 仰向けに倒れたまま不安気に呼ぶと、彼は私の右肩に額をつけ、 ため息混じりに言った。 ﹁みさ子さん、何てことするんだよ。あれはマズいって﹂ そして深いため息をつくタカ。 ︱︱︱マズい?あぁ、やっぱり失敗したのね。 751 自分にほとほと呆れかけた時、再びタカが言う。 ﹁あんな気持ち良くて嬉しいことされたら、一瞬で出ちゃうよ。み さ子さん、俺を喜ばせ過ぎ﹂ そう言って、キュッと私を抱きしめてくる。 ︱︱︱喜ばせ過ぎ? ﹁⋮⋮失敗じゃないの?気持ち良かったの?﹂ ﹁そうだよ!﹂ タカが唸るように叫ぶ。視界の端に映る彼の耳が赤い。 私はホッとして小さく息を吐いた。 ︱︱︱喜んでもらえて良かった。 ﹁だったら続きを⋮⋮﹂ と言いかけた所でタカが唇を重ねてきたため、最後まで言わせて もらえなかった。 ゆっくりと唇を離したタカは私に微笑みかける。 ﹁今日はもう十分だよ。みさ子さんの想いは伝わったから﹂ ︱︱︱あの程度で十分だなんて!!私はまだ、大したことはしてい ないもの。 ﹁でもっ﹂ またしてもタカに口を塞がれた。 わざとらしくチュッと音を立てて離れると、タカがニヤリと笑う。 ﹁一度にあれこれしてもらったら、この先の楽しみがなくなるよ。 だから今日はここまで。それにね⋮⋮﹂ タカは言葉を区切り、右の中指を私の秘所に忍び込ませた。 愛液で濡れそぼり、既に侵入を許したソコは、簡単に指を受け入 れる。 ﹁早くみさ子さんの中に入りたくて、もう限界⋮⋮﹂ タカは私の秘所をクチュクチュといやらしくかき混ぜながら、艶 752 っぽく囁いた。 753 118︼ホワイトディ・ラプソディー︵12︶ ≪SIDE:みさ子≫ タカが指を動かす度に、淫靡な水音が耳に届いた。 ﹁あ⋮⋮んっ﹂ 気怠い喘ぎが私の口から絶えず漏れる。 ﹁いや⋮⋮、だめぇ、ああっ﹂ 指をやや強めにねじ込まれ、タカの首に腕を回してすがりついた。 いつもより嬌声が高いのは、飲み慣れないウイスキーのせいと、 自分から彼のペニスを触ったり口付けたりしたせいで、妙な興奮状 態だから。 タカはいつの間にか抜き差しする指を三本に増やしており、私の ナカで蠢かせている。 ﹁んんっ!﹂ 時折、グチュリと音を立てて弱い部分を擦り上げられ、淫熱が今 にも放出されそうだった。 でも、一人でイキたくない。 ﹁タカ⋮⋮﹂ 切なく、熱っぽく、彼を呼ぶ。 するとナカからゆっくりと指が抜かれた。 ﹁みさ子さんのココ、すっかり準備が出来てるみたいだね﹂ 耳元に寄ってきたタカがそう囁くと、頬がカアッとなる。 754 だけど、恥ずかしいと思う気持ちよりもタカを欲しいと思う気持 ちの方が強かった。 ﹁お願い、キテ⋮⋮﹂ 吐息と共に懇願する。 ここまで火照ってしまった身体は、極限まで熱くしてしまわなけ れば冷えそうにない。 そしてそれは、タカにしか出来ないこと。 ﹁タカ、お願い⋮⋮﹂ 感情が昂ぶり、涙がツウッ⋮⋮と一雫、静かに伝い落ちる。 その涙にタカが唇で触れる。 ﹁今日のみさ子さんはアレコレしてくれるし、オマケにこんなにも 色っぽく誘ってくれちゃって⋮⋮。ホワイトディなのに、俺の方が お返しを貰ったみたいだよ﹂ 目尻から瞼、額へとキスが降らされる。 ﹁みさ子さん。俺のこと、気持ち良くさせて。そして、みさ子さん も気持ち良くなって﹂ 官能に掠れた彼の声が、私の唇に降りてきた。 私の脚を左右に割り開き、準備を終えた彼のペニスが私の秘所に あてがわれる。 彼を見つめる私。 私を見つめる彼。 二人の瞳はお互いが身も心も激しく求めていることを物語ってい 755 た。 しとやかに視線を絡ませ、どちらともなく僅かに微笑む。 それが合図であるかのように、タカが腰を進めた。 グッと突き出された事により、一番太い部分がナカにズッ⋮⋮と 侵入してくる。 ﹁うぅっ﹂ 思わず眉を寄せて呻く。 これまでに何度も経験しているのに、いつもこの瞬間は息が詰ま るほど苦しい。 オマケに彼もかなり興奮状態にあるらしく、いつもよりペニスが 大きく太い。 タカは私の表情を見て、ピタリと動きを止めた。 薄暗い部屋では誤魔化せていた表情が、今夜は灯りの下で抱き合 っているため、些細な表情も彼に見られてしまう。 心配性で際限なく私に甘いタカは、己の欲望を果たすことよりも 私への気遣いを優先するのだ。 だけど私は止めてほしくない。 下腹部の圧迫感から解放されることよりも、彼を気持ち良くさせ たい。 それに、これは単なる苦痛ではなく、愛しい恋人から与えられる 快楽の始まりを知らせるものなのだ。 ﹁平気よ。止めないで⋮⋮﹂ ﹁でもっ﹂ 躊躇う彼に告げる。 756 ﹁それなら、苦しさを忘れてしまうほど、快楽に溺れさせて⋮⋮﹂ タカが大好きだと言ってくれる穏やかな笑みを添えて。 757 118︼ホワイトディ・ラプソディー︵12︶︵後書き︶ ●性懲りも無く、恋愛小説大賞に当作品を応募してみました︵苦笑︶ 。 よろしければ、応援クリックしてくださいませ。 758 119︼ホワイトディ・ラプソディー︵13︶ ≪SIDE:タカ≫ ﹁それなら、苦痛を忘れてしまうほど、快楽に溺れさせて⋮⋮﹂ ふわりと花が開くような、やわらかい微笑を浮かべるみさ子さん。 嬉しい事を言ってくれたり、言葉にしてくれたり。 今日のみさ子さんはサービス満点だ。ウイスキー万歳!! 滑らかにくびれる彼女の腰を掴み、俺はそっと目を細める。 ﹁二人で溺れようね﹂ そう言って、さらに腰を進めた。 ズブリ⋮⋮。 太く張り出した部分を完全にナカへと沈める。 指だけでは解しきれないので、毎回みさ子さんは苦しそうに眉を 寄せる。特に今は蛍光灯の明かりによって、彼女の表情は丸分かり。 彼女の様子に俺の胸がキュッと締め付けられるが、そのまま進入 を続けた。 ︱︱︱この苦しさの何倍も気持ちよくさせてあげるから。だから、 今は我慢して。 759 みさ子さんがこの圧迫感に少しでも慣れるように、俺は丁寧に注 挿を繰り返した。 始めのうちは浅く。 そして、徐々に奥まりを目指す。 小刻みに揺さぶられるたびに、みさ子さんは喘いでいた。 ﹁ん⋮⋮、くぅっ﹂ その声にはまだ、快楽に彩られた艶めきはない。 彼女の気を紛わせてあげようと、俺は左腕を伸ばして、所在無さ げに絨毯を彷徨う彼女の右手を掴んだ。 ゆっくりと開かせ、指を絡める。 指先から伝わる俺の体温に安堵したのか、寄せられた眉が緩み、 みさ子さんは薄く眼を開いた。 まっすぐに見つめている俺の視線をその瞳に捕らえ、みさ子さん はそっと息を吐いて、体のこわばりを静かに解く。 その瞬間を見計らって、グプリ⋮⋮と、ペニスを差し入れた。 今夜はいつも以上に興奮している為、いつも以上に存在感を示す 怒張ではあるが、たっぷりと溢れている愛液のおかげで、一気に飲 み込ませることができた。 ﹁あっ⋮⋮、っふ﹂ 最奥に到達する途中で、彼女のナカのイイ所に当たり、さっきと は違う艶声を上げるみさ子さん。 俺が軽く腰を揺すると、押し広げてくる圧迫感に慣れた彼女は、 うっとりするような嬌声を立て続けに零す。 ﹁はぁんっ。やぁ⋮⋮、んんっ﹂ 完全に色めき立つその声に、俺は嬉しくなった。 760 ﹁みさ子さん、気持ちいい?﹂ ヌプヌプと注挿を繰り返しながら尋ねた。時折、イイ所をペニス の先で掠めながら。 ﹁ああっ!!﹂ 甲高く啼く合間に、みさ子さんがうなずきを返してくる。 そして、官能の渦に飲み込まれそうになりながらも、彼女が口を 開いた。 ﹁タ⋮⋮、タカ⋮⋮は?気持ち⋮⋮いい?﹂ 淫熱に潤む瞳を俺に向ける。 そんな彼女に答える。 ﹁もちろん。⋮⋮でも、まだまだこれからだよ﹂ 不敵に微笑み、俺は抱えたみさ子さんの左脚をグッと引き寄せ、 ズブッ⋮⋮と激しく突きこむ。 それと同時に、繋がりを解いた左手を陰部に滑り込ませ、ぷっく りと膨らんでいるクリトリスを親指で強めに擦った。 ﹁あっ、ああっっっ!﹂ 叫び声に近い嬌声と共に、ビクンと彼女の体が大きく跳ねる。 そして、ナカがギュッと締まった。 俺は腰をグラインドさせ、その狭まったナカを何度も抉る。 ﹁はぁ⋮⋮、んっ、ああ⋮⋮﹂ グチュッ⋮、ズッ、ジュブ⋮⋮。 みさ子さんの喘ぎ声と互いが繋がった陰部から漏れ聞こえる水音 が、重なり合って耳に届く。 激しい快楽に襲われ、耐え切れないといった様相でみさ子さんは 左右に首を振った。 761 彼女の閉じられている瞼の端から涙が零れているが、俺は動きを 止めない。 指で淫芽をグリグリと弄り、互いの肌がぶつかった瞬間に音を立 てるほど、勢いよく突き入れる。 絶えず部屋に響く淫らな水音、みさ子さんの喘ぎ声、俺の乱れた 吐息。 明るみの下で全てを曝け出している事が、二人の淫熱を更に上げ てゆく。 ﹁あ、ああっ⋮⋮﹂ みさ子さんは一段と硬く目を閉じ、背を反らした。 まもなく絶頂を迎えるようだ。 彼女のナカで抜き差しを繰り返す俺のペニスを締め付ける力が、 より一層強くなる。 ﹁ん、あっ⋮⋮。タカ⋮⋮﹂ 高みに登りつめながら、彼女が俺を呼んだ。 ﹁分かってる。一緒に⋮⋮イこうね⋮⋮﹂ 俺の言葉に、みさ子さんは小さな笑みを浮かべる。 ﹁うん⋮⋮、一緒⋮⋮ね﹂ それは今日一番、綺麗な微笑だった。 762 763 119︼ホワイトディ・ラプソディー︵13︶︵後書き︶ ●大変長らくお待たせいたしました。ようやく更新することができ ました。 待っていてくださったという奇特な⋮、あ、いえ、心優しい読者様、 感謝いたします。 ●実は、数ヶ月前から精神的にも肉体的にもかなりきつい状態が続 いておりまして、なかなか執筆できる状況にありませんでした。 本来ならば、今回の投稿にて﹁みやこ、復活です!!﹂と、お伝え したかったのですが、更に厳しい状況がこの先待っていそうなんで す。 頑張っても、頑張っても、先が見えません。 正しい道が分からなくて、毎日不安に押しつぶされそうになってま す。 なので、みやこの復活はまだ先のことになりそうです。 いつになるか、正直、みやこ自身にも見当がつきません。 ですが、小説を書くことはやはりやめられそうにありません。 心が元気になったら、また、皆様のもとに戻ってきたいです。 戻れるように、前向きに生きていたいと思います。 764 こんな精神状況で執筆した119話なので、もしかしたらみやこ本 来の世界観が損なわれているかもしれません。 ですが、今のみやこにはこれが精一杯です。 ごめんなさい。 そして、それでも、読んでくださった方々。本当にありがとうござ います。 765 120︼ホワイトディ・ラプソディー︵14︶ ≪SIDE:タカ≫ 俺は彼女の脚を自分の肩に掛けるように開き、ゆっくりと上半身 を倒した。 ガチガチに張ったペニスがのしかかる重さゆえにググッ、とみさ 子さんの最奥へと進んでゆく。 いつにないシチュエーションのために、いつも以上に硬く張って いるペニス。それを誘い込むように、彼女のナカはヤワヤワと収縮 を繰り返していた。 その収縮を押しのけるように、たぎる欲望を具現化した怒張を進 ませる。 やがてみさ子さんを二つ折りした状態になり、密着する互いの上 半身。 完全にペニスがみさ子さんのナカに収まった。 ﹁ふ⋮⋮うぅ﹂ みさ子さんは内側から感じる圧迫に小さく息を吐いた。 ﹁苦しいの?﹂ 彼女を気遣うようにチュッ、チュッと、左右の頬にキスを送れば、 コクンと静かなうなずきが返ってくる。 そして、 ﹁タカのことが好きすぎて、胸が苦しいの⋮⋮﹂ そう呟いた。 766 ズガーーーーーンッ!!!!!︵俺、撃沈︶ ︱︱︱みさ子さん、俺のことを殺す気か!? 今日は本当に嬉しいことの連続で、たたでさえ幸せなのに、ここ に来て更に追撃の一言。 瞳を潤ませながらこんなセリフを告げられたら、幸せのあまり心 臓が止まりそうだ。 ︱︱︱まったく、今日のみさ子さんにはやられっぱなしだよ。 思わず苦笑が漏れる。 でも、このままでは悔しいから。 みさ子さんをイかせて、イかせて、イかせまくってやる! そんな決意を胸に、みさ子さんの唇にキスを落とした。 キスをするとその分だけ互いの体の密着度は増し、俺と彼女の恥 毛が触れ合う。 その恥毛を絡ませるように、俺は腰をゆっくりと回した。 ザリザリとした独特の感触が妙に気持ちいい。 ﹁んっ⋮⋮﹂ 重ねた唇の隙間からみさ子さんの艶息が漏れ、悩ましい光が瞳に 浮かぶ。 767 そんな彼女の表情を間近で楽しみながら、前後に注挿することな く、腰をゆっくりと回す。 みさ子さんの最奥は微妙な刺激を与えられ、ぴったりと重ねられ た結合上部にある彼女の淫芽は俺の恥毛に擦られ、これまた絶妙な 刺激を受けている。 おまけに俺にのしかかられているせいで、押しつぶされている彼 女の乳房と乳首が動く度に擦られ、更に快感を生み出しているよう だ。 ﹁あ、あんっ﹂ みさ子さんが仰け反り、その拍子に外れた唇から切なげな声が漏 れる。 激しく抜き差しされるよりも、じっくりとナカをかき混ぜられる ほうが彼女にとっては堪らないらしい。 気持ちいいけれど絶頂には至れないもどかしさが、みさ子さんの 寄せられた眉に表れている。 ﹁や⋮⋮ん。タカ、いじわる⋮⋮しない⋮⋮で⋮⋮﹂ 吐き出せない熱が彼女の体内を駆け巡り、それが感極まって涙と なる。 瞬きをするみさ子さんの目からツ⋮⋮と、雫が零れた。 明かりの下に晒されるその様子が壮絶に綺麗で、今度は俺の胸が 苦しくなった。 みさ子さんの笑顔はもちろん大好きだが、こうやって悦楽に頬を 濡らす彼女は俺の心を妖しく激しく掻き立てる。 ︱︱︱やっべぇ。この顔、キタよ⋮⋮。 明るい場所でのセックスなんてこの先ありえないかもしれないか ら、彼女の色々な表情を見ておきたかった。 768 が、もともとギリギリの状態だったペニスは、みさ子さんの涙で 臨界点に達する。 俺は軽く息を吸い込んで、緩やかに目を細めた。 ﹁ん、分かった﹂ 微笑みかけてから、そっと彼女の耳元に口を寄せる。 ﹁みさ子さんが誘ったんだからね。⋮⋮覚悟して﹂ と、囁いた。 俺は少し上体を起こして滑らかにくびれたウエストを掴み、グッ と自分の腰を突き出した。 ズンッ、と最奥を突き破らんばかりにペニスが進む。 ﹁ああっ!!﹂ みさ子さんが嬌声を挙げた。 掴んだ腰を強引に引き寄せは自分の腰をタイミングよく突き込み、 彼女のナカをペニスで激しく蹂躙する。 彼女のイイ所を集中的に攻め立てれば、みさ子さんの口からは更 に甲高い声が。 ﹁はぁん、ん、あ⋮⋮。ああっ!!﹂ その声を消すような勢いで、ジュブジュブと湿った淫音が結合部 から愛液と共に零れだす。 硬さと太さと熱さを纏った肉棒が、容赦なくみさ子さんのナカを 襲う。 そして、彼女が感じれば感じるほど、俺も悦楽を感じる。 一方通行ではない、快楽の相互交換。 心の通った恋人だからこそ、セックスは愛情表現となる。 欲望を吐き出す為の単なる﹃行為﹄ではなく、愛を受け渡す﹃交 769 為﹄となるのだ。 そしてそれが更に相手を愛おしく感じるエッセンスとなり、より 一層相手を深く想う。 ︱︱︱俺、絶対にみさ子さんからは離れられないや⋮⋮。 みさ子さんもそう感じてくれたらいいなと思いながら、俺は腰の 動きに熱を込めた。 770 120︼ホワイトディ・ラプソディー︵14︶︵後書き︶ ●お久しぶりのみやこ 京一です。皆様、覚えていらっしゃるでし ょか?︵苦笑︶ 諸々の問題はまだ片付いておらず、完全復活とまでは言えませんが、 小説を書きたいという気持ちが少しずつ戻ってきましたので、活動 再開することにいたしました。 この作品を楽しみに待っていてくださった方、お待たせいたしまし た。 ●さて、久々に女帝に戻ってきましたので、絡みのシーンをどう書 けばいいのか忘れかけておりまして⋮︵滝汗︶ もしかしたら、読後に物足りなさを感じる方がいらっしゃるかもし れませんね。 すいません、この作品は恋愛がメインなんですよぉ︵↑今更それを 言うのか!?︶ 予定ではこの章はもう1話を書いて締めようと思っています。 が、もちろんこのままでは終らせません︵ニヤリ︶ では、今後ともこの作品とみやこを宜しくお願い致します。 771 121︼ホワイトディ・ラプソディー︵15︶ 抑えようとしても抑えきれない欲望を行動で示す。 腰を一気に引いて突き立て、ズブ、ズブと飲み込ませては、抉る ようにみさ子さんのナカを掻き混ぜた。 ﹁あ⋮⋮、やぁん!﹂ 激しい悦楽に彼女が身を捩る。 もちろん俺は彼女の腰をがっちり掴み、逃がしてなんてあげない。 グチュッ、ジュッ。 妖しい水音が俺の怒張で広げられた膣口から途切れなく聞こえて くる。 その音を耳にしながら、立て続けにペニスを暴れさせた。 ナカの奥の奥、限界まで進入しては退き、勢いをつけて突き込む。 みさ子さんの悦ぶところは、重点的に攻め立てた。 ﹁いや⋮⋮、いやぁっ﹂ 追い詰められてゆく彼女。 首を左右に振り、滑らかで艶やかな黒髪をはらりはらりと揺らし た。 そんなみさ子さんを見つめながら、俺自身ももうまもなく果てに 辿り着くだろうと感じる。 ﹁みさ子さん。みさ子さん⋮⋮﹂ 更に腰を大きく前後させ、啼き声を上げる所に硬さを増したペニ スの先端を擦りつけ、彼女を高みへと導く。 ﹁はぁ⋮⋮、あっ﹂ みさ子さんがきつく瞳を閉じると、それに連動してナカも締まっ た。 772 ヒクヒクと痙攣に似た動きで、律動するペニスを快楽の最果てへ と誘ってゆく。 そんな彼女のナカに惹きこまれるが、みさ子さんをイかせるまで 達するわけにはいかないと歯を食いしばり、暴発を堪える。 ある種負けられない戦いだ。 そんな戦いの決着をつけるために、渾身の力を込めてみさ子さん のナカにペニスを打ち付けた。 俺の頬に一筋の汗が伝う。 ﹁ん、あぁっ、タ⋮⋮、タカっ!!﹂ グッとのけぞり、みさ子さんの口からは悲鳴染みた嬌声が。 同時にペニスを包み捉える内壁が一層収縮し、俺も熱い烈情を迸 らせた。 荒い呼吸を数度繰り返し、ペニスを抜く。 被せたゴム内には驚くほどたくさんの白濁液。 自分がこんなにも興奮していたことを目の当たりにして、思わず 苦笑い。 ︱︱︱ま、仕方ないか。初めて大胆なみさ子さんを見て、俺がいつ も通りでいられるはずもないよな。 普段から綺麗で可愛くて、艶のある彼女。 アルコールのおかげで抱かれる喜びを素直に表し、みさ子さんの 魅力は倍増だ。 その彼女に煽られ、これまでに無く激しく求めてしまった。 なので、みさ子さんはぐったりと身体を投げ出し、苦しげに浅い 呼吸をずっと繰り返している。 彼女の頬にかかる髪を指で払ってやり、みさ子さんの左側に横に なった。そして向き合うように自分の胸に抱きこむ。 773 うっすらと汗ばんでいるみさ子さんの額に触れるだけのキスを贈 ると、くすぐったそうに目を細めた。 ﹁いつもよりずいぶん乱暴だったかも。ごめんね﹂ もう一度唇で彼女の額に触れると、みさ子さんはゆっくりと首を 振った。 ﹁さすがにちょっときつかったけど、⋮⋮なんか嬉しい﹂ そう言うと、恥ずかしそうに彼女は俺の肩口に顔をうずめる。表 情を見ることはできなかったけれど、彼女を取り巻く雰囲気が凄く 柔らかい。 嘘や誤魔化しではなく、心底彼女がそう思っていることがよく伝 わってくる。 ﹁うん、俺も。俺も嬉しいよ﹂ 労う様に、ゆっくりとみさ子さんの黒髪をなでた。 みさ子さんが普段抱えていた想いが伝えられ、お互いの気持ちが 更に深く繋がった気がした今夜。 同じ快楽に二人で向かうセックスがこれほどまでに愉悦を引き出 すのかと思うと、頬が緩む。 みさ子さんで無ければ、俺はここまで心を許さない。 みさ子さんもそうであって欲しい。 俺だから。俺だからこそ、みさ子さんが全てを曝け出し、全身で 俺を欲してくれるのだと。 ︱︱︱どこかの誰かに目が行かないほど、みさ子さんの身も心も俺 で一杯にしてやろっと。万が一俺以外の男に目が行くなんて事があ ったら、⋮⋮そんな目障りな男の命は保障しないかもな。 774 少々︵?︶危険な思考を巡らせつつ、クスリと小さく笑った。 気だるい空気の漂う部屋。 だけど、反ってそれが甘く心地よい。 みさ子さんは身じろぎすることなくその体勢でしばらく黙ってい たかと思うと、おもむろに尋ねてきた。 ﹁⋮⋮えと、タカは?﹂ ﹁ん?﹂ ﹁あの、その⋮⋮、よ、良かった?﹂ たどたどしく訊いてくる彼女がことのほか愛しい。 じっとしたまま動かない彼女の顎に手を添えて、少し強引に上を 向かせる。 ﹁俺があれだけ昂ぶっていたのに、分からなかったの?⋮⋮それな ら、今から改めて分からせてあげるけど﹂ 視線を合わせてニヤリと笑えば、驚きにみさ子さんの瞳が大きく 開いた。 ﹁あっ、ううん。よく分かったわっ。それはもう、身に沁みて!﹂ 焦った声音で答えが返ってくる。 ︱︱︱本当にもう、可愛いなぁ。 力の入らない身体で必死に俺から離れようとするみさ子さんをギ ュッと抱きしめ、﹃駄目!もう、無理よっ﹄と何度も抗議する唇を 775 キスで塞いだ。 この夜、2回戦が行われたどうかは、神のみぞ知る⋮⋮。 ◆◇◆◇◆ 後日談 俺が外回りの仕事を終えて社車から降りると、社員通用口から沢 田さんが出てきた。 ﹁あ、お帰り﹂ 財布を小脇に抱えた沢田さんが俺に駆け寄ってくる。 ﹁沢田さんがこんな時間に外出なんて珍しいね。今からお使い?﹂ そう訊くと、大きな頷きが返ってきた。 ﹁急にお客様が見えることになって、お茶菓子を買いに行くところ なの。⋮⋮ところで、北川君﹂ ﹁なに?﹂ 呼ばれて、小柄な彼女を見下ろす。 ﹁ねぇ。あのチョコ、どうだった?﹂ その言葉に、俺は満面の笑みを浮かべた。 ﹁うん。すごく“良かった”よ﹂ ﹁は?よかった?味が?口当たりが?﹂ 俺の感想に首を傾げる沢田さんだった。 776 777 121︼ホワイトディ・ラプソディー︵15︶︵後書き︶ ●やっとこの章が終りましたぁ。 当初の予定と違って、やや恋愛観を多めに盛り込んでしまったた めに、なかなか終えることができず⋮。 みさ子さんによる可愛いセリフ&大胆な行動が、みやこの執筆予 定を狂わせることに︵笑︶ 身体を繋げること。 気持ちが繋がること。 幸せなことだと思います。 778 122︼女帝VS王女様︵1︶ 桜の花が散り、鮮やかな緑の葉が少しずつ顔を出す季節となった。 渡る風もだいぶ暖かくなり、日中、会社裏手の空き地では猫達が 思い思いの場所でのびのび過ごしている。 ﹁くはぁぁ、俺も昼寝したいなぁ。午後の仕事、サボっちゃおうか なぁ﹂ 昼飯食って腹が膨れた俺は、睡魔の容赦ない攻撃を受けている最 中だった。 欠伸をかみ殺していると、俺の隣に座り込んでヒメを撫でている みさ子さんがクスクスと笑う。 ﹁そんなことをしたら、新入社員に示しがつかないでしょ﹂ ﹁そうなんだけどさぁ。でも、眠いものは眠いんだもん。⋮⋮くふ ぅ﹂ 春眠暁を覚えずとはよく言ったものだ。 かみ殺せなかった欠伸が次々と漏れる。 ﹁新年度の営業部は特に忙しいわよね。年末からずっと仕事が詰ま っていたみたいだし、おまけにタカは板川さんの抜けた穴もカバー しているんでしょ。なかなかゆっくりする間も無いわよね﹂ ここでみさ子さんがそっとため息をつく。 ﹁⋮⋮だから、休日は家でのんびり寝ていればいいのに。休みのた びに、無理矢理私との時間を作らなくてもいいのよ﹂ 言い終えて、もう1つため息。 時折休日出勤で休みが潰れることもあるが、時間さえ取れればみ さ子さんと出掛けたり、彼女の部屋で過ごすことが俺の休日の常だ 779 った。 連絡も入れないで突然押しかけてきた俺をどうにか家に帰そうと するみさ子さんだったが、何を言ってもニコニコと笑って聞き入れ ない俺に折れたらしく、今では﹃仕方ないわね﹄と苦笑交じりに部 屋へ通してくれるようになった。 ﹁いつだってみさ子さんの傍に居たいんだもん﹂ ﹁1人の方がゆっくり出来るんじゃない?﹂ ﹁ううん。一緒に居たほうが、俺の気持ちが落ち着いて疲れがスウ ッと抜けていくんだよねぇ。⋮⋮そ・れ・に、みさ子さんを抱くこ とが、俺にとって最高のリラックス法だから﹂ 横並びに座って右腕でみさ子さんの肩を抱くと、彼女がつけてい る香水がフワリと俺の鼻腔を擽った。 僅かに感じる程度の爽やかな香りは控え目なみさ子さんにぴった りで、まったく嫌味が無い。 肩に回した腕に少し力を入れてそっと抱き寄せ、彼女のこめかみ にキスを贈った。 途端にビクンと、大きく身体を震わせるみさ子さん。 ﹁もう、何言ってるのよ!そして、何してんのよ!﹂ 横目で睨んでくる彼女の目元が赤らんでいる。 触れるだけのキス以上のことを何度もしているというのに、相変 わらず彼女の反応は可愛らしい。 そんな可愛い彼女に睨まれたくらいで怯む俺ではなかった。 睨んでくるみさ子さんの目つきは、俺からすれば悩ましげな流し 目と変わらない。 ﹁しょうがないよ。こんなに近くに居るのに、俺が手を出さないは ずないでしょ﹂ 再び唇でこめかみに触れる。 780 今度はチュッと音を立てて。 ﹁ああっ、やめてやめてっ﹂ 目元どころか頬も耳も赤らめて、彼女はガバッと立ち上がった。 ﹁会社でこんなことしないでっ。万が一、誰かに見られたらタカが 困るのよ!﹂ タタタッと俺から数歩離れ、みさ子さんが小さく怒鳴る︵器用な ことするなぁ︶。 ﹁困る?俺が?﹂ 現場を見られてみさ子さんが恥ずかしい思いをするというなら分 かるが、なぜ俺が困ることになるのだろう。 みさ子さんとの関係を堂々と示したいと常々考えている俺として は、社員に見られたとしても困る要素は微塵も無い。 首をひねると、彼女の視線がスッと下がった。 ﹁⋮⋮私みたいな面白味の無いお局と付き合っていることが知られ たら、営業部ホープのあなたの評判が落ちるわ﹂ 俯いたみさ子さんがぼそぼそと呟く。 ︱︱︱評判が落ちる?意味が分からん。 立ち上がり、風に吹かれた前髪を手櫛で直しながら苦笑する俺。 ﹁何、言ってんの?社内の評判なんて落ちるわけ無いよ。ったく、 本当にみさ子さんは分かってないんだから﹂ ﹁分かってるわよ!私ほど、この会社で嫌われている人はいないん だもの﹂ 地面をクッと見つめながら、みさ子さんは苦々しく言った。 781 確かに仕事中の彼女の言動は、かなり厳しく冷たい。それ故に、 社員からは影で﹃女帝﹄という渾名で呼ばれている。 女性帝王︱︱︱それはけして褒め言葉として使われてはいない。 しかし、みさ子さんは意地悪をしているわけではないのだ。 彼女の仕事ぶりは、見る人が見れば悪い評価に繋がる余地は無い。 まぁ、あそこまで徹底した無表情なのは、印象があまりよくないが。 ﹁ほら、やっぱり分かってない﹂ 俺は自慢の長い脚で一気にみさ子さんとの距離を縮め、彼女が逃 げ出す前に胸に抱きこんだ。 ﹁タ、タカ!?﹂ ﹁いいから﹂ 暴れる彼女を宥めるように、艶やかな黒髪を何度も撫でる。 始めのうちは抵抗していたが、まったく腕の力を緩めない俺に諦 めたらしく、次第に大人しくなった。 そんな彼女に言い聞かせるように、優しく囁く。 ﹁みさ子さんはこの会社にとって欠くことのできない大切な存在だ って、上層部は口を揃えて言ってるよ。みさ子さんのことを悪く言 うのは、自分の能力の低さに気付かずに八つ当たりしてくる馬鹿な 連中だけ。そんな馬鹿どもの戯言なんかに惑わされないで﹂ ﹁でも⋮⋮﹂ 彼女の瞳に、不安げな光がゆらりと浮かぶ。 例え戯言とだとしても、それを耳にする彼女自身がつらい思いを していることを俺は知っている。 ﹁そうだね。まったく気にするなって言っても無理だよね。だけど、 みさ子さんの味方がいるってことは忘れないで﹂ そう言うと、彼女の肩の力が少しずつ抜けてゆく。 782 ﹁忘れてなんていないわ。⋮⋮そうね、沢田さんも、永瀬君も、奥 井チーフもいるものね﹂ ﹁あれ?俺の名前は出してくれないの?﹂ わざとらしく落ち込んだ声を出せば、 ﹁もちろん、タカが一番大きな心の支えよ﹂ みさ子さんは俺の肩にコツンと額をつける。 ﹁ごめんなさいね。今日、書類を受け付けた時に強く言われて少し 落ち込んでいたから、いつもよりネガティブになっていたみたい﹂ ﹁そうだったんだ﹂ 励ましを込めて、彼女をキュッと抱きしめた。 すると額をつけたままの姿勢で、みさ子さんが言う。 ﹁嫌な女でごめんなさい﹂ まるで子供が母親に叱られた時のように、しょんぼりとした声音。 それはいつもの凛とした“佐々木みさ子”ではなく、俺の前でだ け見せる“みさ子さん”だった。 ︱︱︱なんでこうも可愛いところを、躊躇無く見せるんだろうねぇ。 俺は愛しい思いのままに、彼女の髪へと頬ずりをする。 ﹁ううん、ちっとも嫌な女なんかじゃないよ。俺はどんなみさ子さ んでも好きなんだから﹂ そう言うと、みさ子さんはおずおずと顔を上げた。 ﹁本当に?こんなくだらないことで落ち込んだりして、面倒に思っ たりしていない?﹂ 俺は彼女の瞳を見つめ、目を細める。 ﹁ぜんぜん。それに、こうやって落ち込んでくれたおかげで堂々と 抱きしめられたんだから、むしろラッキー♪﹂ ﹁⋮⋮あっ﹂ 783 満面の笑顔で俺が言えば、強く抱きしめられていることを今更の ように驚くみさ子さん。 こうやって俺の前ですぐに油断しちゃうところなんて、たまらな く愛しい。 ﹁はーなーしーてーーー!﹂ ﹁はいはい、放してあげるから﹂ 我に返って再び暴れる彼女に苦笑し、ゆっくりと腕の中から解放 してあげた。 が、手はしっかりと繋いでおく。 ﹁他人からの評判なんかで俺は困ったりしない。そんなことより、 俺からみさ子さんが離れていってしまうことの方がよっぽど困るよ﹂ 優しく言い聞かせると、彼女は繋いでいる手にそっと力を込めて、 握り返してくれた。 784 122︼女帝VS王女様︵1︶︵後書き︶ ●ホワイトディ・ラプソディーが終わり、ようやく新章が始まりま したぁ。 春はとっくに過ぎ去り、秋も深くなりつつありますがね︵苦笑︶ ●しつこくタカを追い回す森尾さんの存在を自然消滅させるのは展 開的におかしいかと思い、かなり前からみさ子さんとの対決を考え ていたわけですが⋮。 色々な意味で、ちょっと手こずりそうです︵涙︶ 785 123︼女帝VS王女様︵2︶ 会社裏から営業部に戻ると、廊下にちょっとした人だかりが出来 ていた。 ︱︱︱なんだ? 近づいてみれば、営業部の先輩、同僚、後輩が集まっている。 その集団の中心にいたのが、森尾さんだった。 彼女は取り囲む男性社員たちから立て続けにあれこれ話しかけら れ、少し困ったような笑みを浮かべている。 森尾さんは俺の好みのタイプではないが、社の顔とも言える受付 嬢の一員なのだからそれなりに可愛いと思うし、その容姿に惹かれ る男性がいるのは分かる。 話によると、仕事ぶりもなかなかしっかりしているみたいで、そ の点も人気を集める要素だろう。 ︱︱︱せっかくあれだけ言い寄られているんだから、俺なんかさっ さと諦めて、その中から彼氏を選べばいいのに。 そんなことを考えつつ集団の様子を遠巻きに眺めていたら、人垣 の隙間から顔を覗かせた森尾さんと目が合った。 ﹁北川君っ﹂ パァッと花が開くような明るい笑顔を浮かべる彼女。 それを見た男性社員たちの頬が赤く染まる。 出来る事なら彼女に気付かれること無く部に戻りたかったが、こ うして名前を呼ばれてしまえば無視するわけにもいかない。 786 ﹁なに?﹂ 森尾さんの明るい笑顔とは違い、無理矢理作った愛想笑い程度の 笑みを浮かべて数歩近づいた。 俺が傍まで来ると、彼女は照れたようにはにかむ。 ﹁あ、あのね、映画の試写会のチケットが当たったの。きっと、北 川君が気に入るだろうから、誘おうと思って﹂ そう言って差し出してきたのは、俺が学生時代から読み続けてい る小説を原作とした、実写版の映画のチケットだった。 入社してまもなくの頃の同期会で、この作者の小説が好きだと言 ったのを覚えていたらしい。 しかし、俺はその映画には一切の興味を抱かなかった。 小説を読む中で、登場人物の容姿や声は俺の中で創り上げられて いくため、実写版になると自分の中のイメージと、実際の俳優に違 和感を覚え、どうにも嫌なのだ。 それ以前に、みさ子さんという愛しい彼女がいるのに、他の女性 と出掛けるつもりなんてまったく無い。 ﹁せっかく声をかけてもらって悪いけど、俺は行かないから。最近 疲れが取れなくて、休みの日はゆっくりしたいんだ。他に都合のい い人を誘ってくれるかな﹂ 森尾さんが何か言い出す前に話を終らせ、その場を立ち去る。 背後では、﹃あんな素っ気無い奴、放っておきなよ﹄、﹃それな ら俺と行こう﹄、﹃最近出来たあの店、知ってる?﹄などと、一斉 に森尾さんに群がり、彼女を慰める男性社員たちの姿が。 その光景はまるで、王女に傅く家来達のようであった。 787 俺は自分の席に戻り、パソコンを起動させる。 今月の営業報告を打ち込んでいると、岸が昼飯から戻ってきた。 ﹁相変わらず森尾さんの人気はスゲェな。ウチの部の男ども、骨抜 きじゃないか﹂ 感心したような岸の声に、俺は﹃そうだな﹄と短く一言だけ返し、 黙々とキーボードの上で指を動かす。 ﹁何だ、その態度。みんなのアイドル森尾さんがお前に迫っている というのに、何で素っ気無いんだ?﹂ ﹁彼女は俺の好みじゃないって、前にも言っただろ﹂ パソコンの画面を睨みながら、不機嫌丸出しで言う。 ﹁そんな冷たいこと言うなよ。森尾さんが可愛そうだろ﹂ 岸は何のおせっかいか、俺と森尾さんをくっつけようとしている らしい。巨大なお世話だ。 ﹁好みじゃなくても、あれだけ可愛い子に好意を寄せられているん だから、いいじゃないか。据え膳食わぬは男の恥だぞ﹂ ﹁嬉しくもない膳を差し出されたところで、単に迷惑なだけ。俺に は大切な大切な彼女がいるんだ。その彼女以外の女は、一切目に入 らねぇんだよ﹂ 手にしていたボールペンをシュッと岸の前に突き出した。 ﹁うおっ!危ねぇな。俺のつぶらな瞳を刺す気か?!﹂ 岸は慌てて椅子ごとをスッと下がる。 そしてフゥッ吐息を吐いた後、こりもせずまた近づいてくる。 ﹁北川ってさ、“彼女がいる”っていつも言うけど、誰もお前の彼 女を見た奴がいないんだよ。⋮⋮嘘ついてるんじゃないのか?﹂ 俺をジロリと睨んで様子を伺う岸。 それを呆れたように見据える俺。 ﹁はぁ?そんな嘘ついて、俺に何の得があるんだよ。お前が信じよ 788 うが信じまいが勝手だが、俺にはれっきとした彼女がいて、毎日ラ ブラブだからな!﹂ 綺麗で可愛くて、凛としていて優しくて。 ようやく手に入れた、何もかもが好ましい愛しのみさ子さん。 俺と彼女の間に割って入ろうとする奴は、絶対に許さない。 フンッ、と息も荒く言い切れば、岸が頬に手を当ててわざとらし く顔を赤らめる。 ﹁うっひょ∼∼∼。お前の口から“ラブラブ”なんて甘い言葉がで るとは﹂ ﹁ホント煩い!﹂ 俺はボールペンの尻を岸の眉間に突き立てた。 789 124︼女帝VS王女様︵3︶ その日の仕事を定時少し過ぎた辺りで終え、営業部を出た。 今日のみさ子さんは習い事があると言うことで、どこかで待ち合 わせることも無く1人で帰ることになっている。 ﹁会えないのは寂しいなぁ。俺もみさ子さんと同じカルチャースク ールに通おうかなぁ﹂ 結構本気で思っているのだが、そんなことをしたらみさ子さんが 恥ずかしがって習い事を辞めてしまいそうなので、仕方なしに踏み とどまっている。 ﹁もっともっと一緒に居たいんだけど、俺の仕事が落ちつかないこ とには﹂ 今日も相変わらず仕事に追われまくっていた。 おまけに午後からずっと苦手なパソコンに向かいっぱなしだった ため、背中がガチガチに固まって痛みを訴えている。 ﹁うぅ。たまには駅前のマッサージでも寄ってみるか﹂ ゴリゴリと首を回しているところへ、森尾さんがこちらに向かっ て小走りで駆けてきた。 ﹁北川君、お疲れ様。もう帰り?﹂ 勤務後にメイクを整えたのだろう。昼休みに見た時と違い、キラ ッキラの目元にツヤッツヤの口元。仕事中は控えめのメイクだから、 今のこの顔に別に何も言わないが。 瞳を潤ませて小首を傾げて俺を見上げてくる仕草は、もはや定番。 だが、俺としてはこの様子が鼻について、逆に厭味にすら感じる。 ︱︱︱疲れてるから、早く帰りたいんだけどなぁ。 790 疲労が溜まり余裕がなくなっているせいか、思わず顔をしかめて しまう。 それに気付いた森尾さんは、 ﹁顔色良くないね。そういえば、疲れが取れないって昼間こぼして たもんね﹂ と、心配そうに言ってきた。 この分なら開放してもらえそうだと思った矢先、 ﹁私、マッサージが上手ってよく言われるんだ。この後、やってあ げるよ﹂ とびっきりの笑顔と共に申し出された。 開放されるかと思いきや、まさかの延長戦だ。 昼間、けんもほろろに断られたにもかかわらず、めげずに再戦を 挑む森尾さん。 頼むから、そのガッツを他の男に向けて欲しい。 ﹁私、本当に上手なんだよ。休憩時間に、よく先輩の肩を揉んであ げてるんだ。どの先輩にも褒められるんだから、心配することない よ﹂ 俺が何も言わないのを不安に思ったのか、続けて口を開く。 ﹁⋮⋮別に、疑っているわけじゃないから﹂ 深いため息交じりだが返事をすれば、森尾さんは嬉々として誘っ てくる。 ﹁会社じゃゆっくりマッサージするスペースもないから、私の家に 来てよ。歩いて10分くらいのところにあるアパートなの﹂ 無邪気な表情に下心などは感じさせない。⋮⋮が、そんなはずは 無い。 ﹁いや、いいから﹂ そう言って歩きだした俺の右腕を森尾さんはとっさに掴んで引き 791 止めた。 ﹁なんで?遠慮すること無いのにぃ﹂ 唇をちょっと尖らせて拗ねて見せる。 それも計算された仕草なのだろう。彼女に似合っているが、やは り俺の心はそんなものでは動かされない。 ﹁遠慮とかじゃなくてさ⋮⋮﹂ ﹁じゃ、どうして?﹂ 彼女は“積極的”の意味を履き違えているのではないだろうか。 森尾さんの言動は常に一方的なもので、強引としか言いようが無 い。 ﹁今日は特に疲れたから、早く家に帰りたいんだ﹂ いい加減にしてもらえないだろうかと眉をしかめたところで、森 尾さんには効果がなかった。 ﹁それならなおさらだよ。そんなに疲れた顔をしているんだから、 少し休んでから帰ればいいよ。リラックス効果のあるハーブティも あるんだ﹂ 森尾さんはニコニコとやわらかい笑顔を浮かべているが、一向に 引かない。 疲れている時や落ち込んだ時、俺は傍に人がいると反って気が休 まらないのだ。 森尾さんのように、こちらの都合も聞かずに親切を押し売りして あれこれかまってくるタイプは本当に苦手である。 彼女なりに気を利かせているつもりなのかもしれないが、俺にと ってみればただ鬱陶しいだけ。 ︱︱︱同じ傍にいてくれるのでも、みさ子さんなら違うのになぁ。 792 みさ子さんはこんな時の俺を無駄にかまうことはしない。 放っておくのではなく、俺がそれとは気付かないように、さりげ なく気を回してくれるのだ。 だから、どんなに疲れていてもみさ子さんが傍にいてくれるのは まったくかまわない。 むしろ、疲れている時こそ、愛する彼女に触れて癒されたいのだ から。 何を言っても聞く耳を持たない彼女に嫌気が差し、森尾さん相手 に機嫌を取るつもりは無い俺はあからさまにため息をついた。 ﹁⋮⋮森尾さん﹂ 普段の口調より、だいぶ低く彼女に呼び掛ける。 初めて聞く俺のその声に、森尾さんの肩がビクンッと震えた。 ﹁あのさ、今の俺にはマッサージもハーブティも必要ない。だから、 放っておいてくれないかな﹂ ただでさえ疲れているのに、この数分の会話のうちに更に疲れて きた。 そんな状況の俺に、愛想笑いすら作る余裕も無い。 冷めた目で彼女を見遣れば、悲しげに眉を寄せる森尾さん。 ﹁わ、私は⋮⋮、北川君が心配で⋮⋮﹂ 下唇を噛んで涙を堪える。 その仕草は素だろうか、演技だろうか。 ⋮⋮そんなこと、どうだっていいか。 ﹁そういう心配は俺の彼女がしてくれるから、森尾さんが気に掛け ることじゃない﹂ もう一度大きく息を吐いてぶっきらぼうに告げると、ますます彼 女の瞳が潤む。 793 仕事を終えた何人かの社員が通りすがりにこちらの様子を伺って いるのが分かったが、森尾さんを泣かせたことで俺の好感度が下が っても気にはならない。 ﹁いい加減俺のことは諦めて。じゃ、お疲れさん﹂ 話は終ったとばかりに軽く手を上げ、森尾さんを残して歩き出し た。 794 125︼女帝VS王女様︵4︶ ぐったりしたまま電車に揺られ、思い足取りで駅を出る。 ﹁⋮⋮森尾さんにはまいるよなぁ﹂ あれだけ拒絶されているのに、どうしてあそこまで俺に執着する のだろう。 相当モテるのだから、彼女を好きだと言う男性の中から自分に合 う人と付き合えばいいのに。 脈の無い俺をいつまでも追い掛け回すなんて、まったくもって不 毛なことだ。 ﹁無駄に疲れたなぁ。よし、後でみさ子さんに電話しよっと﹂ 彼女の穏やな声で、このささくれ立った心を宥めてもらおう。 そうポツリと呟いた時、後ろからポンッと肩を叩かれた。 振り向けば、そこには見覚えありまくりの男の顔が。 ﹁岸、何でここに?お前の家って、この駅使わないだろ﹂ 俺があの電車の下り線を使っていて、こいつは上り線を使ってい るはず。 そう訊くと、岸は少し目を泳がせた。 ﹁あ、ああ。その⋮⋮、実は親戚に呼ばれてさ。その親戚がこの近 くに住んでいるんだ﹂ ﹁へぇ、そうなんだ。入社以来この駅を使っているけど、ここでお 前と会うのは初めてだな﹂ ﹁あ、まぁ。お、俺もその親戚に会いに行くのは数年ぶりだし⋮⋮。 そ、そんなことはどうでもいいから、行こうぜ﹂ ﹁行こうぜって?﹂ 795 ﹁親戚の家は北川の家の方向なんだ。だから、ええと、途中まで一 緒に、さ﹂ ﹁⋮⋮そりゃ、かまわないけど﹂ 歯切れの悪い岸の言葉に腑に落ちないが。断る理由も無い。 俺が了承すると、岸はそっと胸をなでおろす。なんでだ? 取り留めのない世間話をしながらしばらく歩いて、俺の住むアパ ートに到着。横にはまだ、岸がいる。 ﹁おい、親戚の家は?﹂ ﹁えっ!?ああ、し、親戚はこの先に住んでいるんだっ﹂ 彼は通りの先にある住宅街を指差す。 ﹁そうか。じゃ、気をつけていけよ﹂ ﹁う⋮⋮、うん。また、明日な﹂ 最後まで歯切れの悪い岸を妙に思いながらも、俺はアパートに向 かった。 昨夜、少しの時間だったけれど、みさ子さんと電話で話して鋭気 を補充したから朝の目覚めはばっちりだ。 目覚ましが鳴る前に目が覚めたので、いつもより早めに出社して “ある所”に寄ることにした。 その場所とは、社員通用口をグルッと回った先にある壁と壁の間。 そこに近頃、猫の親子が住み付き出したのだ。 会社裏の空き地よりも人目がないため、警戒心の強い母猫がその 場所を選んだのだろう。 とはいえ、自称猫マスターの俺としては、そんな猫を手なずける なんて朝飯前。 今朝も手には猫用の餌缶と仔猫用のミルクを持って、新入り猫フ 796 ァミリーの元へ向かった。 あまり日の射さないその場所に用がある人間は俺かみさ子さんく らいのはずなのに、今朝はなぜか人の気配がした。 ︱︱︱誰が、何の目的で? 壁の陰に隠れ、首だけ伸ばしてこっそりと様子を伺うと、そこに いたのは森尾さんと岸。 ︱︱︱もしかして、2人は付き合っているとか! これでようやく森尾さんの追撃から解放されるかもしれないとい う淡い期待は、彼女の表情によって砕かれた。 岸と向き合っている彼女には、一切甘さがない。ただ、淡々と話 をしている。と言うよりも、なにやら報告を受けていると言った様 子だ。 悪いとは思いつつも耳を済ませてみる。 ﹃それで⋮⋮について行けたの?﹄ ﹃ああ。家まで⋮⋮ってさ﹄ ﹃そのあと⋮⋮たの?きちんと⋮⋮ってくれてた⋮⋮よね?﹄ ﹃部屋の明か⋮⋮消えても、家を出た⋮⋮もなかったよ。昨日はか なり疲れていた⋮⋮から、すぐ寝た⋮⋮な﹄ 一体、何の話だろう。 途切れ途切れに聞こえてくる内容からは、何のことか推測できな い。 気にはなったが、わざわざ人目を忍んで話しているのだから、人 に聞かれたくないのだと思い、俺は餌やりを諦めて静かにその場を 立ち去った。 797 798 126︼女帝VS王女様︵5︶ 今日もどうにか仕事を終え、パソコンを閉じた。 昨日のように森尾さんに捕まるのではないかという不安を抱きつ つ、自分のカバンを抱えてこっそり廊下を伺う。 しかし、そこには彼女の姿はなかった。 ﹁はぁ、良かった﹂ そっと安堵の息を吐く。 連日あの調子で迫られたら、ストレスで胃に穴が空くのが先か、 彼女を怒鳴り散らすのが先か⋮⋮といった事態になりかねない。 どちらにしても遠慮願いたいものである。 ︱︱︱いや、まてよ。 俺が体調崩す↓心配性のみさ子さんは俺を看病する↓思う存分甘 える俺↓優しい彼女は仕方ないと思いながらも、俺を甘やかす ﹁“胃にやさしいスープを作ったわよ。タカ。はい、あ∼ん”⋮⋮ とかなんとか、言ってくれたりなんかして!!胃潰瘍、万歳!!﹂ 1人妄想劇場を堪能し、グッと拳を握り締めたところに声をかけ られる。 ﹁北川先輩、どうしたんですか?﹂ 扉のところで立ち尽くしていたところに、俺が指導に当たってい る後輩の沖田が近寄ってきた。かなり不審そうな視線を向けて。 ﹁あっ、いや。なんでもない﹂ 慌ててニヤけた顔を引き締め、平静を取り戻した。 799 並んで社員通用口に向かっていると、沖田が口を開く。 ﹁そうだ、先輩。この後、何か予定はありますか?﹂ ﹁ないけど﹂ 残念ながら、今日もみさ子さんと会えない。先ほど、急遽通訳の 仕事で海外事業部に借り出されたところなのだ。 おそらく夜の接待にも同行するはずだから、彼女が解放されるの は21時を過ぎる頃だろう。 ﹁それでしたら、一緒に夕飯を食いませんか。仕事のことで聞いて もらいたい話もありますし﹂ ﹁分かった。じゃ、行こうか﹂ 沖田の誘いに乗ることにした。 1人で食事するのも味気ないし、後輩の相談に乗ってあげるのも 先輩としての大切な役目だ。 みさ子さんに会えない寂しさを紛わせるため、ということもあっ たが。 贔屓にしている定食屋に向かい、2人とも﹃本日のお勧め﹄と書 かれたブリの照り焼き定食に箸を伸ばす。 居酒屋に行こうかとも考えたが、みさ子さんが勤務時間外も仕事 していることを思えば、酒を飲んで楽しむ気分にはなれなかった。 香ばしく焼かれた魚を口に運びつつ、沖田の仕事についての悩み や今後の方針などを話しているうちに、なにやら話しの方向性が変 わってきた。 ﹁先輩って彼女がいるんですよね。どこで知り合ったんですか?﹂ ﹁そんなこと聞いてどうする。仕事には関係ないだろ﹂ ﹁関係なくても気になるんですよ。イイオトコとして名高い北川先 800 輩の彼女って、どんな人ですか?歳はいくつですか?彼女のどこに 惚れたんですか?﹂ テーブルに身を乗り出し、迫ってくる沖田。 ︱︱︱なんだろう。﹃絶対聞き出してやろう﹄といった風情の、こ のグイグイ押してくる感じは。 ﹁お前に話すことじゃない﹂ そんな沖田を相手にせず食後のほうじ茶をのんびりすすっている と、彼は意地の悪い笑顔を浮かべる。 ﹁⋮⋮そんなこと言って、本当は彼女なんていないんじゃないんで すか?ね、どうなんですか?﹂ 酒は一滴も飲んでいないのに、沖田はやけに絡んでくる。 素面の状態でコレであれば、アルコールが入るとどうなるかは一 目瞭然だ。 よし、決めた。こいつとは絶対に飲みに行かない。 この鬱陶しさから早く開放されたくて、俺は渋々口を開く。 ﹁知り合った場所は教えられないが、彼女は本当にいるんだ。歳は 俺より上、普段は落ち着いているけど、実は凄く可愛い女性だよ﹂ とたんに沖田は興奮気味に輝かせた。 ﹁おおっ!なんと、先輩は年上キラーでしたかっ﹂ ﹁その言い方は止せ。年上が好きなんじゃなくて、好きになった人 が年上だっただけだ﹂ せっかく話してやったのに、茶化されたような物言いをされて気 分が悪い。 ところがテンションが上がって空気が読めない沖田は、とんでも ないことを言いやがる。 ﹁とか言って、それも結局は口から出まかせだったりして∼﹂ 801 ﹁出まかせじゃないって﹂ ﹁なら、証拠を見せてくださいよぉ﹂ ムッとした俺に怯むことなく、ニマニマしながら沖田が俺を見る。 ︱︱︱こいつ、こんな調子で営業の仕事をこなしていけんのか?! 少しは俺の顔色を伺え!! 適当に言いくるめたら、それこそハイエナかピラニアのごとく追 い回されそうなので俺はカバンを漁り、ある包みを取り出した。 それは今朝、こっそりみさ子さんから渡された弁当箱。 付き合うようになってから、彼女は時々こうして弁当を用意して くれるようになった。 昼の休憩時間が不規則になりがちで、たまに昼飯を食いっぱぐれ る俺のことを心配しているのだ。 そして更に嬉しいのは、弁当に添えられた手書きのメッセージカ ード。 “タカ、お疲れ様。あと半日、頑張ってね” みさ子さんらしい綺麗で繊細な文字がそこにはある。 ﹁これ、先輩の字じゃないですもんね。そっかぁ、本当に彼女がい たんだ⋮⋮﹂ メッセージカードをしげしげと眺め、沖田はポツリと呟いた。 ﹁これで分かっただろ﹂ カードを奪い返し、さっさとカバンに仕舞い込む。 ﹁お前は人の彼女のことより、自分の仕事のことを気に掛けろ﹂ ギロリと睨みつけ、永瀬先輩直伝のでこピンを沖田の額に食らわ せてやった。 802 翌日。 午後の仕事に目処が付いた俺は、休憩室でコーヒーを飲もうかと やってきた。 そこで、昨日も見たような光景を目にする。 人目を避けるかのように、奥の柱の影にいるのは森尾さんと沖田 だった。 803 127︼女帝VS王女様︵6︶ 一体、これは何の偶然なのだろうか。 俺は家の近所のコンビニで出くわした開発部の先輩と、店先で話 をしていた。 みさ子さんと付き合う前、商品の開発に少し携わったことがある ので、開発部の社員とはわりと仲良がいい。 その部の先輩とこの夏に出る新商品について話しているのだが、 俺の携帯が鳴る度に﹃遠慮せずに出ていいから﹄と言ってくる。 それを適当な理由でごまかして、電話には一切出ないでいた。 俺は掛けてくる人毎に着信音を変えているので、携帯を取り出さ なくても誰が掛けてきているのか把握している。 友人や家族からの着信の中に、今日はみさ子さんからの着信もあ り、万が一着信画面を見られたりしたら、マズイ状況になることは 明らかだ。 恥ずかしがり屋なみさ子さんの平穏な会社生活を守る為にも、俺 の彼女が“佐々木みさ子”であることを絶対に知られるわけにはい かない。 そうこうしているうちに、また着信。 ﹁どうしたんだよ、北川君。せめて、誰からの着信なのか確認すれ ばいいじゃないか﹂ 804 先輩が水を向けてくるものの、﹃あとで、ゆっくり掛け直します から﹄とさっきから繰り返している言い訳を改めて口にした。 こんな風に、このところ営業部の社員や他の部の顔見知りの社員 に食事や飲みに誘われたり、帰宅途中で出会ったりする日が続いて いた。 仕事終わりで誘われることはこれまでにもあったが、こんなにも 頻繁に声を掛けられることはなかったし、最寄り駅や家の近くでば ったり出会うことなどなかったことだ。 連日声をかけてくる連中が、揃いも揃って森尾さんの取り巻きと いうのは気のせいだろうか。 そして、見張られているように感じるのは考えすぎだろうか。 ◆◇◆◇◆ SIDE:森尾 雑誌にも何度か掲載されたことのあるおしゃれな居酒屋に、彼等 はいた。 綺麗な店内、雰囲気のいい店員、美味しい料理に豊富な種類のア ルコール類。 そして、きっちりと仕切られ、こちらの会話がほとんど外に漏れ ることのない個室。 いくつか並ぶ個室の1つに、女性が1人と数人の男性がいた。 805 ﹁それで、彼女らしき人に接触した人はいないの?﹂ 室内で1人きりしかいない女性は、居並ぶ男性達に臆することも なく話しかける。その様子はやや尊大で、彼女がその場を仕切って いることは容易に見て取れる。 男性達はお互いの顔を見回しているが、その様子からすると、彼 女の問いに﹃是﹄と答えられる人物はいないようだ。 ﹁沖田君の話からすると、北川君に彼女がいるのは確実なようね。 でも、あれだけ彼の様子を注意深く窺っているのに、誰一人として 顔も見てないなんて⋮⋮。よほど用心しているのかしら﹂ 口元に人差し指を添えて考え込むような仕草をしているのは、森 尾だった。 彼女は﹃自分のお願いなら、なんでも聞いてくれる﹄という男性 社員たちを使って、北川の動向を見張らせていたのだ。 会社帰りに彼女と会うのではないか。 帰宅後、彼女の元に出かけるのではないか。 そんなことを調べさせ、同時に彼女の存在がどういったものなの かも探らせている。 しかし、結局は沖田が本人から聞いた“年上で物静かな女性”と いった漠然としたイメージしか分かっていない。 また、顔どころか名前すら分からない。 ﹁まったく、どこの誰なのよ﹂ イラついているのを隠しもせず呟くと、ある男性が話しかけてき た。 806 彼は今年人事部に入った新入社員である緑川だった。 ﹁でも、この会社にいるのは確実です﹂ ﹁どうしてそんなことが言えるの?﹂ 不機嫌そうに見遣れば、その男性は自分に視線を向けてもらった ことが嬉しいらしく、うっすらと頬を染めて話し出す。 ﹁僕、見たんです。北川さんが朝は持っていなかった弁当箱を、昼 休みには手にしていたのを﹂ ﹁どういうこと?﹂ 小首を傾げて問いかければ、ますますその男性は嬉々とする。 ﹁あの日、会社に向かう北川さんと電車の中で会ったんです。その 時は通勤用のカバンしか持っていなかったのに、昼休みに入ったら 紙袋を提げていたんです。つまり会社の中の誰かが、北川さんに手 渡したんだと思います﹂ ﹁⋮⋮そう﹂ 森尾は目を閉じて、一言漏らした。 ︱︱︱あれだけ“社内恋愛だけは絶対にしない”と言ってたのに、 彼女が同じ会社の人だったなんて。 いったい、彼にどんな心境の変化があったのだろう その変化をもたらした存在が自分ではないことが、森尾には悔し くてたまらない。 ﹁分かったわ。これからは社内の女性に対して、徹底的に目を向け ることにしましょ﹂ まるで独り言のようであった森尾の発言は、彼らにとって尊守す るべき言葉であった。 807 808 127︼女帝VS王女様︵6︶︵後書き︶ ●何してんの、森尾チャン︵汗︶ 若干危なげな雰囲気ですが、そこはあまりドロドロしないようにす る予定です。 間違っても、﹃年下の彼女2﹄のような田辺さん的展開にはしませ んので、流血沙汰が苦手な方にも安心して読んでいただけるはずで す︵苦笑︶ 809 128︼女帝VS王女様︵7︶ 提出すべき書類を持って、俺は総務部に向かった。 ︱︱︱今日の受付担当、みさ子さんだといいなぁ。このところ、ぜ んぜん会えてないし。 こんな風に佐々木みさ子を歓迎する社員など、この会社では俺ぐ らいだろう。 彼女の女帝振りはいつでも健在で、いまだに岸は書類提出後、げ っそりとした顔で営業部に戻ってくるのだ。 誤字に気付かないそそっかしいあいつが悪いのだから、同情なん かするつもりはない。 同情どころか、﹃みさ子さんの手を煩わせる岸など、思い切り給 料下げられてしまえ!﹄と、秘かに呪っていたりする。 ﹁失礼します﹂ 一言声をかけて、総務部に踏み入れた。 真っ先に書類受理カウンターへ目を向けるが⋮⋮。残念、みさ子 さんではなかった。 ﹁沢田さん、お疲れ。書類よろしく﹂ 本日の当番である沢田さんに声をかける。 ﹁北川君もお疲れ様﹂ ニコッと笑って書類を受け取る沢田さん。 数枚の書類に受領印を押してもらって、提出は無事完了。 さて営業部に戻ろうかと思った時、沢田さんが声を潜めて俺に話 しかけてきた。 ﹁今夜、時間取れる?﹂ 810 ﹁うん、いいけど。なんかあるのか?﹂ 同期会でも開くのだろうか。 しかし、同期会の幹事はいつも岸だ。お調子者ではあるが、そう いった場を取り仕切るのは異常に上手い。 ところが、彼女の誘いはそんな楽しいものではなかった。 ﹁先輩のことで、ちょっと話があるの﹂ 周囲の誰かが見ても不審に思わないように、彼女は穏やかに笑っ ている。 ところが、その目に浮かぶ光は穏やかではない。こういった態度 を取る彼女は、かなり深刻な話を持ちだそうとしている時だ。 そういえば3月の半ばに沢田さんから、﹃森尾さんが俺の彼女に ついて訊き回っているらしい﹄と聞かされた。 おそらく、それに関係することだろう。 最近俺に付きまとわなくなった森尾さんに対して、ようやくホッ としていたところなのに。 本当に面倒な人だよ、森尾さんは。 ﹁後で店の場所をメールするから﹂ 書類を机上でトントンと揃えながら、何気ない振りを装ってそう 言ってくる沢田さんに、俺も何気なく﹃了解﹄と返した。 教えられた場所は、沢田さんの伯父さんが経営しているというバ ーだった。 金曜の夜ということもあって店はそこそこ混んでいたが、そこは 姪権限を発動させ、彼女は一番立派な個室を占領した。 高級サロンを思わせるような、品の良い室内。 811 しっとりとした手触りの革張りのソファー。一枚板から切り出さ れた、艶と深みのある立派なテーブル。 どこぞの政治家や社長が利用するに相応しい、そんな一室だった。 ﹁いいのか、こんないい部屋使って。別にカウンターでも良かった のに﹂ 俺たち若いサラリーマンが利用しそうにない、格式高く落ち着い た店。 ここなら、俺が知るような社内の人間に会うこともないだろう。 だが、沢田さんはすぐさま個室に向かい、それ以降部屋から出る ようなことはしない。 ﹁先輩の件は私たちにしてみれば国家機密級だからね。万が一でも、 誰かに聞かれるわけにはいかないもの﹂ 彼女は手の仕草で座るように促してくるので、素直に腰を下ろし た。 ﹁“誰かに”って、誰に聞かれるっていうんだ?﹂ ﹁さっき伯父から聞いたんだけど、うちの会社の上層部が来ている らしいのよ﹂ メニューを手渡してくれながら、沢田さんが言う。 ﹁私たちの姿を見られなくてよかったわ﹂ ﹁森尾さんが来ている訳じゃないなら、気にすることないと思うけ ど﹂ 沢田さんは何をそんなに警戒しているのだろう。 そりゃぁ、みさ子さんと俺の関係は社の人間に知られたくはない が、この警戒の仕方はちょっとやりすぎな気もする。 ﹁違う、違う。問題なのは、上層部の付き添い出来ている若い社員 の方﹂ ﹁若い社員?﹂ 話が見えない。 ﹁話の前に飲み物と食事を注文しよっか﹂ 812 沢田さんは内線の受話器を上げた。 ここはバーだと言うのに、アルコールは1つも注文を入れなかっ た︱︱︱お互い、飲めるような心境ではなかったのだ。 それでも、姪に相当甘いらしい伯父さんはニコニコと料理を運ん できてくれた。 ﹁良幸伯父さん、ありがと。それと、この部屋使っちゃってごめん ね﹂ ﹁可愛い美月のお願いを、この私が断れるわけはないだろ。気にし なくていいから、ゆっくりしていきなさい。⋮⋮ところで、こちら は新しい彼氏?﹂ ﹁ハ・ズ・レ。カッちゃんとは別れてませんよ∼だ﹂ 料理の皿を受け取った沢田さんが、ベッと舌を出した。 ︱︱︱沢田さんの彼氏、どんな人だろう。 かなり興味がある。 しかし、今はそれよりもみさ子さんのことだ。 温かな料理が冷めないうちに2人で手を伸ばし、ある程度腹に収 めたところで沢田さんが口を開いた。 ﹁最近、みさ子先輩と社内で会ってる?﹂ ﹁ううん﹂ 寂しいことに、通訳としての彼女の仕事がずっと続いていて、時 間的にすれ違ってばかりなのだ。 猫の餌やりで顔を合わせるどころか、言葉を交わすことすらここ 10日以上していない。 電話で話すくらいはしているが、このままでは“みさ子さん欠乏 症”で倒れかねない状況である。 813 それを聞いて、沢田さんが顰めた眉を解いた。 ﹁ならよかった。じゃ、まだバレてないわね﹂ ﹁何が?﹂ ﹁前に“森尾さんが北川君の彼女を見つけ出そうとしている”って、 言ったでしょ。それが、更に厄介な方向に進んでいるのよ﹂ ﹁どういうことだ?﹂ デザートの桃のソルベを食べ終えた沢田さんは、再び眉を顰める。 ﹁森尾さんが若手の男性社員を使って、北川君の彼女を探し出そう としているの﹂ ﹁はぁ?!﹂ ︱︱︱何だ、それは。いくらなんでも、やりすぎじゃないのか!? 呆れるやら、腹が立つやらで、俺の今の表情は、盛大なしかめっ 面。 沢田さんはデザートと共に運ばれたティーポットを傾け、ゆっく りとカップに紅茶を注ぐ。 ﹁先週、共同書類倉庫の片付けをしていた時にね、誰かが入ってき たの。ほら、あの倉庫って重要書類が置いてあるわけじゃないから、 比較的出入りが自由なのよ。でも用のない人は近づかないから、聞 かれたくない話をするには打って付けの場所なのよね﹂ ﹁それでっ?﹂ 俺の分のソルベが解けかけているが、沢田さんの話が気になって とても食べる気になれない。 続きを促せば、沢田さんはすぐに口を開く。 ﹁入ってきた人は森尾さんよ。携帯電話で誰かと話を始めたの。そ の相手は確か、人事部の男性社員だったわ。盗み聞きするつもりは なかったんだけど、私、出るに出られなくなっちゃって。仕方なく じっとしていたら、“北川君の彼女について、新しく何か分かった ?”って言ってるのが聞こえてきたのよ﹂ 814 ﹁マジで?﹂ ﹁うん。それと、“この会社で、北川君より年上の女性は何人居る の?”とも言ってたわ。ね、北川君。誰かに何か話をした?﹂ ﹁後輩の沖田にしつこく聞かれてさ、俺の彼女は年上で物静かだっ てことは話した。でも、この会社にいるってことまでは一切言って ないよ﹂ 沢田さんが言うように、みさ子さんのことはトップシークレット なのだから。 ﹁それなら、どうやって北川君の彼女が社内にいる人だって知った のかなぁ?﹂ 沢田さんが紅茶のカップを両手で包むように持ち上げた。 ﹁いくら自分の言う事を聞いてくれるからって、社員を使って調べ させるのは行き過ぎだと思うわ﹂ 鮮やかな琥珀色の紅茶に視線を落とし、沢田さんがため息をつく。 俺の口からもため息が零れる。 ﹁最近、森尾さんに声を掛けられないから安心してたんだけどさ、 まさかそんな事になっていたとはね﹂ ︱︱︱KOBAYASHIの社員によく食事に誘われたり、家の近 所で出くわしていたのも、森尾さんが裏で動いていたってことか。 勘弁してくれよ⋮⋮。 俺に直接言い寄ってきていた方が、まだまともだと思う︱︱︱ム カつくけど。 ﹁一昨日だったかな。“振り向いてくれない人をいつまでも追いか けるのは止めたら?”って彼女に言ったの﹂ ﹁それで、森尾さんは?﹂ 815 ﹁凄くムキになって“絶対に諦めない”って。意地になってるみた いで、聞く耳持たないんだもん﹂ 困ったなぁ、とため息混じりに嘆いてから、沢田さんが紅茶を一 口含んだ。 それほどまでに執着心を見せてくる森尾さんが、煩わしくてたま らない。 こちらから何を言っても、彼女には通じていない。 ︱︱︱ホント、困ったもんだよな。 コクのあるミルクを落としたコーヒーなのに、やけに苦く感じた。 ◇◆おまけ◆◇ 2人とも食後のドリンクを飲み終え、帰り支度を始める。 ﹁そうそう、夕方部長から聞いたんだけど。みさ子先輩、通訳の仕 事は今夜で終えて、来週には総務部に戻ってくるわ。でも、しばら くの間は社内で会わない方がいいと思う﹂ 通常業務であれば裏庭で会う時間や、あの休憩室で会う時間も取 れるだろう。 しかし、俺を見張る社員がいるのであれば、今までとは違って、 俺とみさ子さんが親しげに話すところを見られてしまう可能性があ る。 816 ﹁そうだな。一緒にいるところさえ見られなければ、俺の彼女が誰 かって分からないだろうし﹂ すごく寂しいことだが、みさ子さんを守る為には仕方がない。 ﹁用心するに越したことはないわね﹂ ﹁わかった﹂ 沢田さんのおかげで助けられることが、本当に多い。 俺とみさ子さんを温かく見守りながら応援してくれる同僚の存在 に、改めて心強さを感じた。 ﹁いろいろ心配してくれてありがとうな。それに、みさ子さんを守 るために、職場でもあれこれ気を回してくれてるんだろ?﹂ 俺が礼を述べれば、沢田さんはニッコリと笑う。 ﹁お礼なんて別にいいのよ。⋮⋮今夜の食事をおごってくれれば、 それでOK﹂ ﹁ええっ!ここ、割り勘じゃないのか?!﹂ 高級食材オンパレードの前菜や日本が誇る有名牛のステーキ、ト リュフの掛かったパスタなどなど、値の張るメニューを俺に相談も なくバンバン注文入れていたのは沢田さんだ。 ﹁何言ってんのよ。情報提供者の私が、どうして支払う側に回らな きゃならないの?じゃ、北川君ご馳走様∼♪﹂ 弾む様な口調と足取りで、沢田さんは楽しげに部屋を出て行った。 817 128︼女帝VS王女様︵7︶︵後書き︶ ●支払いは沢田さんの伯父さんのご好意で全額無料となり、北川君 の財布は救われました︵笑︶ 818 129︼女帝VS王女様︵8︶ 沢田さんとの密談が明けての土曜日。 本当は朝一でみさ子さんに会いに行きたかったけれど、昨日も遅 くまで通訳を任された彼女を気遣って日曜までゆっくりさせてあげ るべきだと、自分の部屋でゴロゴロしていた。 が、夕方には休ませてあげたいという気持ちよりも、彼女に会い たいという気持ちが上回ってしまい、それでも我慢して我慢して、 ⋮⋮我慢しきれなくなって、今、みさ子さん宅のドアの前。 チャイムを押すと、すぐに彼女が開けてくれる。 ﹁いらっしゃい﹂ 一応事前に連絡は入れておいたが、それでも急な訪問にも拘らず みさ子さんは笑顔で迎えてくれた。 ﹁疲れているところ、ごめん﹂ いつもより少し顔色の悪い彼女の顔を見たら、自分勝手な気持ち だけで押しかけてしまったことが凄く申し訳なくなり、シュンと萎 れる。 ﹁ふふっ、何言ってるの。さ、入って﹂ みさ子さんは“気にしないで”と言わんばかりに俺の肩にそっと 触れて、中へと促した。 2人でソファーに腰掛け、お気に入りのDVDを見て、のんびり とした時間を過ごす。 みさ子さんほどではないが、俺も仕事に追われて疲れていた。 だけど、自分の横に彼女の存在を実感して、それだけで癒されて ゆく。 それはみさ子さんだから出来ること。 819 森尾さんや、他の女性では絶対に出来ないこと。 テレビ画面がエンドロールを示し、穏やかな余韻が俺たちを包む。 満足そうに微笑んで画面を見つめていたみさ子さんをそっと抱き 寄せた。 ﹁タカ?﹂ ほんの僅かに首を傾け、俺の顔を見上げる彼女。 そんなみさ子さんにコツンと、額を合わせた。 ﹁会いたかったんだ﹂ 思わず本音が漏れる。 子供じみた自分を見せることは恥ずかしいのだが、久しぶりに触 れた彼女の体温に、心の奥で感じていた寂しさが溢れてきてしまっ た。 ﹁会社では顔も合わせることも出来なかったし、仕事終わりに会う ことも出来なかったから。いい加減“みさ子さん欠乏症”でおかし くなりそうだったよ﹂ 更にキュッと抱きしめ、彼女から漂う穏やかで優しい香りを味わ う。 これでようやくみさ子さんを実感できた気がする。 ﹁なぁに?その変な病気は﹂ クスリ、と頬を緩ませるみさ子さん。 真剣に言ったのに苦笑されてしまったことが恥ずかしくなって、 ちょっとだけ意地悪したくなってしまった。 ﹁俺はみさ子さんに会えないと、寂しくて寂しくて生きていけない んだ。そういう病気。ね、みさ子さんはこの2週間どうだった?俺 に会えなくて寂しかった?もちろん、寂しかったよね?⋮⋮だって、 キスもセックスもできなかったし﹂ 強く抱き込み、耳元で囁いた。 照れ屋な彼女なら顔を真っ赤にして、﹃そんなことないわよ!﹄ 820 と怒鳴るかもしれない。 そんな展開を想像していたら、 ﹁⋮⋮私も、タカに会いたくてたまらなかった﹂ 今にも泣き出しそうな声が聞こえてきた。 ﹁え?﹂ 腕の中を見下ろせば、ほっそりとした指で、俺のシャツの胸元を そっと握る彼女。 俯きながら﹃本当よ﹄と告げてくる。 ︱︱︱ウオ︱︱︱ッ!!なんて可愛らしくて、いじらしい姿なんだ ︱︱︱︱︱!!!!!! そんなみさ子さんへ一気に襲い掛かりたいが、疲労の色が浮かぶ 彼女を襲うほど俺は鬼畜ではない。 鬼畜ではないが⋮⋮、正直、つらいところだ。 スーハーと大きな深呼吸を繰り返し、どうにか冷静さを取り戻す。 みさ子さんの態度により欠乏症が半分ほど改善されたので、今日 はこれでよしとしよう。 残りの欠乏部分を埋めるのは、後日じっくり改めて。 落ち着いた俺は、みさ子さんに沢田さんとの話を切り出した。 森尾さんが社員を使ってあれこれ調べているのを﹃まさか。冗談 でしょ﹄と信じていないようだったが、俺が社員にやたら顔を合わ せようになったことと、沢田さんが聞いた電話の話をすると納得し たようだ。 ﹁そうね。たしかに、社内で親しげにするのは避けたほうがよさそ うだわ﹂ 821 という彼女は、唇をちょっとだけ噛みしめる。 その表情は悲しそうだ。 みさ子さんにこんな顔をさせ、おまけに俺たちが会社で自由に会 うことも出来なくなるなんて。 森尾さんとその下僕達、許さん! ﹁何も起きないといいけど⋮⋮﹂ ポツリと不安げに呟く彼女。 ﹁大丈夫。これといったみさ子さんに繋がる手がかりもないんだし、 いずれ騒ぎは収まるよ﹂ ところが、俺の予想は大きく外れることになる。 あれから一週間後の金曜日。 週末は急な飛び込みの注文が入ったりして、けっこう忙しい。 それでも1時間弱の残業で仕事を終えて帰り支度をしていると、 上着のポケットに入れていた携帯が震えた。 掛けてきたのは沢田さん。 ﹁もしもし?﹂ 俺が電話に出た瞬間、これ以上となく切羽詰った声が受話器から 聞こえてきた。 ﹃北川君!!先輩のこと、バレたかもっ﹄ ﹁え?﹂ 一瞬で血の気が引く。 なんで?どうして?と、頭の中がグルグルと回り出す。 ﹃さっき、コピー室から戻ってく途中で、森尾さんが血相を変えて 822 って言うか、凄い形相で走って行ったのを見たの。あの雰囲気、北 川君の彼女が先輩だって事を掴んでるわ!北川君、2人の居場所を 探して!﹄ ﹁分かった!﹂ 俺は帰り支度を途中で放り出して、営業部を飛び出した。 823 129︼女帝VS王女様︵8︶︵後書き︶ ●いよいよ次話で森尾ちゃんがみさ子さんに詰め寄ります。 下書きの段階で、森尾ちゃんがかなり嫌な女になってますよ。 これまでの段階で、もう充分﹃嫌な女﹄かも知れませんが︵苦笑︶ みやこはほのぼの&ラブラブなシーンは好きですが、対決シーンは 本当に苦手なので上手く書きこなせるか心配ですが、どうぞお付き 合いください。 824 130︼女帝VS王女様︵9︶ SIDE:森尾 聞かされた情報をもとに、森尾は社内の女子社員の中で北川より 年上で未婚の女性に目を配るようになった。 しかし協力者たちもそれなりに動いているものの、いまだにこれ といった成果が上がっていない。 仕事が忙しいこともあるのだろうけれど、北川はどの女性社員と もあまり話さないのだ。 おかげで森尾も協力者達も、標的を絞りかねていた。 ﹁このままじゃ、いつまで経っても相手が分からないままだわ﹂ 就業後、誰も来ることがない屋上で、森尾は腕を組みイライラと 歩き回っている。 そこへ走りこんでくる人影が。 ﹁森尾さん、分かりましたよ!!﹂ 嬉しそうに駆け寄ってくるのは、北川の後輩である沖田と、人事 部の緑川だった。 ﹁本当?どうやって?﹂ 歩みを留め、2人に向き直る森尾。 息を弾ませた沖田が、肩を上下させながら話し出す。 ﹁前に北川先輩の彼女が書いたメッセージを見せてもらったって、 話をしたじゃないですか﹂ ﹁そうだったわね。それで?﹂ ﹁緑川の作ったリストを元に、みんなで手分けして⋮⋮﹂ そう言って沖田が森尾に差し出したのは、鷹の絵の横に片仮名で ﹃タカ﹄と書かれた何枚ものカードだった。 825 カタカナ2文字は、一枚ずつそれぞれの特徴がある。 ﹁これがどうしたの?﹂ ﹁あのメッセージカードの筆跡と照らし合わせれば、北川先輩の彼 女が見つかるんじゃないかと。思い返してみると、カタカナに独特 の癖があったんですよね。それで“筆跡鑑定が趣味だから”とか、 もっともらしい理由をつけて該当者に“タカ”と書いてもらったん ですよ。それで今日、集められたカードの中に、俺の見た文字と同 じ筆跡の人を見つけました﹂ ﹁それは⋮⋮、誰?﹂ 森尾は緊張した面持ちで、沖田と緑川に尋ねる。 そして︱︱︱。 彼らが口にしたのは、意外すぎる人物の名前だった。 SIDE:みさ子 通訳の仕事に振り回されることなく、今週は大して忙しくなく終 った。 タカに言われたように、私は社内で彼と接する機会を持たないよ うにしている。 猫たちの餌をあげに行く日を決め、そこで顔を合わせないように 担当の日以外は裏庭に近付きもしない。 どこかで待ち合わせて帰ることもなく、食事はお互い別々に取っ ている。 今まで誰にも気付かれずに渡していたお弁当は、今週一度も作っ ていない。 826 たかが一週間のことなのに、すごく物寂しさを感じていた。 自分の日常にこんなにもタカが入り込んでいたことに気付き、そ れが嬉しくもあり、だからこそよけいに寂しくもあった。 ﹁さてと、餌やりもすんだことだし。今夜は赤ワインでも飲みなが ら、のんびり本でも読もうかなぁ﹂ そんな独り言を零しているところに、わざとらしくゆっくりと近 づいてくる足音が耳に入った。 金曜の就業後、合コンのメンバーになりえない私にわざわざ近寄 ってくるのは、沢田さんくらいしかいない。 しかし彼女は、部長の指示でコピー室に篭っているはず。 誰だろうと振り向けば、そこに立っていたのは森尾さんだった。 ﹁お疲れ様です。佐々木さん、少しお時間いただけますか?﹂ いつもどおりの可愛らしい彼女。 ところが全身からそこはかとなく怒りにも似たオーラが噴き出し ていて、とても断れる様子ではなかった。 森尾さんたちが何をしているのか聞かされていたから、彼女が私 を探し出した理由にすぐさま思い当たる。 何も知らない振りを押し通してごまかすことも考えたが、ここで 私が逃げてしまえば、森尾さんは一層タカに執着することだろう。 どうなるか分からないけれど、今は彼女に向き合うことを決めた。 ﹁少しならいいわよ﹂ 自分を落ち着かせるためにも、あえて何気ない振りをする。 それが癪に障ったのだろう。森尾さんはムッと眉をしかめた。 827 ﹁北川君の彼女というのは、佐々木さんのことですよね﹂ いかにも不快そうな顔で、回りくどい言葉を並べることなく森尾 さんはストレートに訊いてきた。 ﹁どうしてそう思うの?﹂ 私は無駄に事を荒立てたくなくて出来るかぎり静かに答えるが、 感情の昂ぶっている森尾さんにはやっぱり逆効果となる。 ﹁私は想像として言ったのではなく、確認をしているんです!﹂ 建物に囲まれている空き地に、キンと甲高い森尾さんの声が響く。 それに驚いて、猫達は逃げてしまった。 私も一瞬、身体が震える。 そんな私を見て、うっすらと笑みを浮かべた森尾さんが改めて口 を開く。 ﹁佐々木さん、そうなんですよね﹂ 彼女の口ぶりからすれば、相当の自信があるようだ。 それだけの証拠らしきものを掴んだのだろう。 その証拠が何なのか私には分からないが、この状況からすんなり と逃げられないことは分かる。 ︱︱︱逃げるつもりもないけど。 付き合い出してから、タカがいかにモテるのかということを、身 近に居る私は思い知らされてきた。 だから、私を押しのけてタカの彼女に納まろうとする女性が現れ るかもしれないということは、なんとなく予想していた。 以前の私なら自分の容姿に自信が持てず、相当にモテるタカがそ んな自分の彼氏であることが申し訳なくて、森尾さんのように可愛 らしい女性に詰め寄られたら、タカとの別れを選んでいただろう。 もちろん今でも自分に自信はないけれど、それでも、彼の傍にい たいという想いが強くなってきたのだ。 828 一度目を閉じ、そして静かに森尾さんを見据える。 ﹁ええ、そうよ﹂ 私の言葉を聞いて、森尾さんの眼光が一段と鋭くなった。 射殺さんばかりに私を睨みつけている森尾さん。 ﹁どうして、北川君の彼女が佐々木さんなんですか!?以前、ここ でお話した時、そんな素振りまったくなかったじゃないですか!?﹂ 以前とは、痴漢に襲われた私をタカが送ってくれているのを見か けた森尾さんが、真相を確かめようと私に詰め寄った時のことを指 すのだろう。 確かにあの時はタカのことは仲の良い後輩ぐらいにしか思えてな かったし、森尾さんに言った言葉に嘘はなかった。 ただ、その後、私の気持ちが変化してしまった。 タカのことが“仲の良い後輩”から、“好きな人”へと変わって しまったのだ。 ﹁あの時の言葉は本当のことだったわ。私自身もまさか、こんな風 になるとは思っていなかったもの﹂ 人の心は時として変わるもの。変えられてしまうものだ。 ﹁そうですか⋮⋮﹂ ポツリと静かに呟く彼女。 分かってくれたものだと思い、私はホッと胸をなでおろす。 ならばもう、ここで彼女と対峙する理由はないだろう。 私はスプリングコートの襟元を直した。 ﹁確認は済んだ?﹂ ﹁ええ﹂ 俯いている彼女が短く返事をする。 829 ﹁それなら、もう話は⋮⋮﹂ 帰ろうと半身を翻した時、グッと左腕を掴まれる。 ﹁終ってません。むしろ話はこれからです﹂ ゆっくりと顔を上げて、森尾さんが不敵に微笑んだ。 830 131︼女帝VS王女様︵10︶ SIDE:みさ子 小柄で華奢な彼女の力は大したものではないはずなのに、なぜか 振りほどけない。 ﹁ねぇ、放して?﹂ そう告げるも、森尾さんは更に掴む手に力を込める。 そして下から私をグッと睨みつけ、でも口元には笑みを浮かべて こう言った。 ﹁佐々木さん、今すぐ北川君と別れてくださいよ﹂ まっすぐに視線をぶつけて、私が目を逸らすことを許してくれな い。 ぱっちりと大きく愛らしい瞳が、今はとてつもなく恐ろしく見え た。 ﹁⋮⋮どうして、別れなくてはならないの?﹂ 唇が震えていることを悟られないように、ゆっくりと言葉にする。 すると森尾さんが小さく鼻で笑い、当然といった体でこう言った。 ﹁北川君がフリーにならなきゃ、私と付き合えないじゃないですか。 二股掛けられるのって、やっぱり嫌ですしね。だから、別れてくだ さい﹂ 私は息を飲んだ。 ︱︱︱なんて馬鹿なことを言うの!? こんな滅茶苦茶な理屈、どう考えたってありえない。それでも、 筋の通らない自分勝手な話を森尾さんは平然と言ってのけた。 831 そんな彼女に唖然とするが、言われたとおりに従うつもりはさら さら無い。 一方的な理由で別れられるほど、私にとってタカの存在は軽々し いものではなくなっているのだ。 “彼女”としてまだ堂々と胸を張れないけれど、それでも、私は 彼の傍にいたい。 だから、森尾さんの要求を撥ね付ける。 ﹁どうあっても無理よ。私は彼のことが好きだもの、別れるつもり なんてないわ﹂ なのに彼女は相変わらず、身勝手な理屈を押し通そうとしてくる のだ。 ﹁いいえ、無理じゃないです。だって、私の方が佐々木さんより北 川君のことを好きですから﹂ ニッコリと笑う森尾さん。 彼女の様子に、私は腑に落ちないものを感じる。 人の気持ちは目に見えないもの。 だからどんなに相手を大切に想っていたとしても、形として表す ことは出来ない。 深さや大きさで表現することも出来ない。森尾さんの想いと私の 想いを実際に比べることなども。 それでも、彼女は言う︱︱︱﹃自分の方が、はるかに彼を想って いる﹄と。 気持ちを比較することなど不可能で無意味なことを、目の前の彼 女は理解しようとしないのだ。 クスリと笑った森尾さんは、私に手を見せてきた。 ﹁少しでも彼の隣に立つ女性として相応しくなりたくて、可愛い自 832 分でいられるように凄く努力をしているんですよ。服もメイクも、 顔も身体も。指先まで気を抜かずにね﹂ スッと差し出してきた華奢な指先には、綺麗な色のネイルが並ん でいる。 女性らしい手だ。 それに比べて、自分の指先はなんと地味なのだろう。爪を切り、 ハンドクリームを塗る程度の手入れしかしていない。 確かに、素敵な女性であろうと頑張っていることはいいと思う。 だけど、タカを好きだというのであれば、外見を整えるよりも他 に努力することがあるのではないだろうか。 恋愛に疎い私が言えることではないかもしれないが、森尾さんの 想いの向け方は違うような気がする。 ﹁ねぇ、森尾さ⋮⋮﹂ 声を掛けるが、私の呼びかけを遮って森尾さんは仮面のような笑 顔を貼り付けたまま、思い出したように彼女が口を開く。 ﹁あっ、そうだ。私、聞いてみたいことがあるんです﹂ この場に相応しくないとびきり可愛らしい笑顔で、森尾さんはと んでもないことを口にした。 ﹁どうやって北川君を誑かしたんですか?﹂ ﹁︱︱︱え?﹂ 耳を疑った。 ︱︱︱誑かした? 一体どこからそんな話が出てくるのだろう。 二の句が告げないでいる私を嘲笑いつつ、森尾さんは話を進めた。 833 ﹁佐々木さんって会社じゃお堅いお局様ですけど、眼鏡とスーツを 取り去ったら、その正体は娼婦なんですか?﹂ ﹁な⋮⋮にを、言って⋮⋮るの?﹂ どうしてここで、“娼婦”だなんて言葉が出るのだろう。 本当に彼女が言わんとしていることが理解できない。 向き合うと決めたのに、こんな話をされてはどう向き合えばいい のか分からなくなってきた。 ﹁佐々木さん、聞こえてます?社会人になってまだ年月の浅い彼に、 年上の魅力ってヤツで迫ったんじゃないですかって訊いてるんです。 つまり、“身体を武器にしたのか”ってことですよ﹂ 森尾さんの言葉に愕然となる私を気にすることもなく、彼女は更 に1人で話を続ける。 ﹁もしかして、無愛想な仕事ぶりはポーズってことですか?そうや って勤務中とプライベートでは顔も態度も使い分けて、そのギャッ プで北川君を堕としたってことですか?﹂ 怖いとか、愛想がないといったことは散々言われてきたが、自分 の身体で男性を唆したなんて、身に覚えのない嘲りにどう反論する べきか困り果てた。 ﹁そんな⋮⋮こと、してない⋮⋮わ﹂ 引きつる喉を動かして、そう答えるのが精一杯。 すると何を納得したのか、大きく頷いている森尾さん。 ﹁そうですか。じゃ、総務部チーフという肩書きを盾に付き合いを 迫ったとか。⋮⋮ああ、この方がさっきの話より信憑性があります ねぇ﹂ 綺麗なネイルが施された指を唇に当て、無邪気に笑う森尾さん。 クスクスと漏れる楽しそうな笑みに反して、目が鋭い。 ﹁重要な提出書類って、ほとんど佐々木さんの判断で押印してます 834 よね。北川君に“私と付き合わないと、今後一切受領しないわよ” とでも言いました?﹂ ﹁どうして⋮⋮。どうして、そんな風に言うの?﹂ 今まで一度だって仕事に私情は挟んだことがない。それはタカに だけではなく、誰に対してもだ。 そのことについては胸を張って主張できる。 だが、彼女の目にはそう映らないという。 悔しかった。 そしてなにより⋮⋮。 ﹁だって、北川君自身が社内恋愛は絶対しないと言い切っていたん です。なのに同じ会社の佐々木さんと付き合ってる。そういう“裏 ”があるとしか考えられませんよ﹂ 腹が立った。 妙な勘繰りを続ける森尾さんに、私は腹が立った。 身体や権力を使って彼に迫ったのだろうと自分を侮辱されたこと よりも、そういうことがあったからタカが私と付き合い出したとい うことに。 森尾さんは私を侮辱しながらその実、彼のことを﹃身体や権力に 弱い﹄と暗に示している。 本当に彼のことが好きならば、そんな物言いなど絶対にしないは ずだ。 私は森尾さんが言うようなことは一切していない。 でも、そんなことを弁解するのは、この際どうでもいい。 タカのことを“女性の身体や権力を前にしたら、自分の信念を曲 げて靡いてしまう男”だと思われていることが許せなかった。 835 タカは真剣に仕事に向き合っている。特に相手先の取引担当者が 女性の場合は、毎回神経をすり減らすほど真剣だ。 ﹃どうせ、その顔のおかげで契約取れたんだろ?﹄ 周囲からそう言われるのが心底嫌で、同僚の知らないところで必 死に頑張っているのを私は陰でずっと見てきた。 妬みを言われても腐らず、前を向いて仕事に励む彼をずっとずっ と見てきた。 営業のみならず、些細な社内業務においても手を抜かない彼を。 仕事面だけではない。 プライベートでも、彼は私にはもったいないくらい素敵な男性だ。 私よりも歳は下だが、優しさも温かさも充分すぎるほど持ってい て、誠実な態度で私のことを一番に考えてくれる。 何より自慢の恋人なのだ。 社会人としても、彼氏としても、誇り高い大切な存在。 そんな彼が侮辱されて、黙っていられない。 私は今まで掴まれていた彼女の手を、思い切り腕を振り払って外 した。 その勢いで私の髪が揺れる。 ﹁なっ⋮⋮﹂ 突然のことに唖然とする森尾さんに向かって言い放つ。 ﹁いい加減にして頂戴!!﹂ 感情のままに声を出した。 もう彼女の言葉は聞きたくない。 私の大切な彼を侮辱する言葉など、一言だって聞きたくない。 836 ﹁森尾さんは、何も分かってないわ!﹂ 今まで大人しかった私が声を張り上げたことに、森尾さんは怯ん だ。 ﹁な、なんですか、いきなり⋮⋮﹂ 一歩後ずさりした彼女に合わせて、私は一歩踏み出す。 ﹁あなた、今まで彼の何を見てきたの?!タカはね、周りが思って いるより何倍も芯の通った人よ。彼が色仕掛けや権力なんかで女性 に靡くわけがないわ!﹂ ︱︱︱そんな安っぽい男じゃないの、あの人は。 ここで納得した。 彼女がタカに対して抱いている感情を。 これまでの森尾さんの言葉の端々から窺えるのは、タカと付き合 うことで自分のプライドを満たそうとしている思いだ。 見せびらかして楽しむ“アクセサリー”のように扱っていいよう な人ではないのだ、タカは。 ﹁あなたのタカを想う気持ちを否定することはしない。人を好きに なるのは止めようがないもの。⋮⋮だけどね、あなたの彼に対する 眼の向け方には言わせてもらうわ﹂ 乱れた前髪をザッとかき上げ、クリアになった視界で森尾さんを 見据えた。 ﹁彼の表面ばかりを目で追っていたあなたは、本当の彼を理解しよ うとしてない。そんなことで、あの人を好きだって言えるの!?八 つ当たりじみた感情で、タカを振り回さないで!﹂ 怒りで小刻みに肩が震える。 ﹁私の大切なあの人を侮辱しないで!!﹂ 837 叫ぶように言った直後、近付いてくる足音が。 ﹁みさ子さん!!﹂ その場に駆け込んできたのは、タカだった。 838 131︼女帝VS王女様︵10︶︵後書き︶ ●みさ子さん、だいぶ強くなりましたね。 ●当初の予定とはまったく違う131話になりました︵苦笑︶ 森尾ちゃん、もう少し﹃いい人﹄で終らせるつもりだったんですけ どねぇ。 でも書き進めているうちに、中途半端な嫌われキャラは面白くない だろうということで、急遽下書き削除。 いや、もっと徹底的に嫌なオンナの森尾ちゃんにしようとも思いま したが、まぁこんな感じで勘弁してやってください︵エンドレス土 下座︶ 839 132︼女帝VS王女様︵11︶ 沢田さんから連絡をもらって、俺は取るものも取らず営業部を飛 び出した。 いくら大胆不敵な森尾さんとはいえ、さすがに人目のある場所で 話を切り出したりはしないだろう。 そう目星をつけ、社内で人が寄り付かないような場所を回るが、 2人の姿はなかなか見つけられない。 ︱︱︱そういえば、今日、裏庭の猫達に餌をあげるのはみさ子さん だったな。 そのことを思い出し、次は裏庭の空き地に向かおうと通用口を抜 けたところで、女性の叫ぶような声が聞こえた。 ﹁私の大切なあの人を侮辱しないで!!﹂ それは感情の昂ぶりを隠しもしない、みさ子さんの声だった。 誰に対しても声を荒げることの無い彼女。 例えどんなに腹に据えかねることが起きても、グッと堪えて、淡 々と相手を説得するのが彼女の常だった。 そんなみさ子さんがこれほど大きな声を出すとは、一体何が起き ているのだろうか。 更に速度を上げ、そして、2人の前に飛び出した。 840 突然現れた俺の姿に、ハッと釘付けになるみさ子さんと森尾さん。 日頃は穏やかであるはずの彼女の眼には言いようのない怒りが浮 かんでおり、そんなみさ子さんに対峙している森尾さんは少し怯え ていた。 俺は肩で息をしながらズカズカと近づいてゆき、庇うようにみさ 子さんの前に立つ。 ﹁タカ⋮⋮﹂ 怒りと悔しさを同時に窺わせる光を浮かべているみさ子さん。 初めて見るその表情に、ここまで彼女を追い詰めた森尾さんに対 して、より一層の不信感を抱く。 硬く握り締められているみさ子さんの手に自分の手をスッと重ね ると、僅かに彼女の顔つきが落ち着いた。 そしてこの場を俺に譲るべく、みさ子さんが1歩下がった。 ﹁こんなところで、何をしてるんだ?﹂ 苛立ちも顕に、森尾さんへと尋ねる。 すると森尾さんは、しおらしく眉を顰めた。 ﹁あの⋮⋮、女同士の話をしていたの。そんな大したことじゃない のよ、なのに、佐々木さんが突然大きな声を上げて⋮⋮﹂ そう言うと、森尾さんは唇を噛む。いかにも自分は被害者だとい う表情で俺に縋りつくような視線を向ける彼女に対し、腹の底で怒 りが渦巻く。 ﹁大したことじゃない?﹂ ﹁うん、そうよ﹂ 彼女は取り繕うように瞬きを数回した後、いつものように熱くジ ッと俺を見上げてきた。 ﹁私、凄く怖くって⋮⋮﹂ 841 今にも泣き出しそうな顔の森尾さん。その様子に反吐が出そうだ。 俺は上から森尾さんを冷めた視線で見下ろす。 ﹁⋮⋮何も知らないと思ってんのか?﹂ ﹁え?﹂ 短く呟いた森尾さんは、ゆっくり一度瞬きをした。 ﹁社員を使って俺の身の回りを調べた挙句に、理不尽な理由でみさ 子さんに詰め寄ることを“大したことじゃない”って言える森尾さ んの神経を疑うね。人間として、到底まともだとは思えないんだけ ど﹂ 取り付く島もない様子で吐き捨てれば、森尾さんは悲しそうに顔 を歪めた。 ﹁そんな言い方、ひどい⋮⋮﹂ 大きな瞳に涙を滲ませるが、そんな様子を見るほどに俺の怒りが 増してゆく。 ﹁ひどい?そうかな﹂ 無表情で言い返せば、森尾さんはガバッと俺の胸に縋りついてき た。 ﹁そうよ!私がこんなに必死なのに!私の方が佐々木さんよりもず っと⋮⋮、ずっとずっと、北川君のことが好きなのに!!﹂ 森尾さんの感極まった告白に、自分の心が揺れることは無い。た だ、ただ、怒りが俺の中で大きくなってゆくだけ。 ﹁そんなこと、聞きたくないから言わないでいい。それより、離れ てよ﹂ ところが俺の言葉に反し、スーツの上着を更にギュッと握り締め、 森尾さんは俺から離れようとしない。 深く大きなため息を付くと彼女の肩に手を置き、グイッと無遠慮 に突き放した。 乱暴な仕草に森尾さんは驚きで目を大きくするが、性懲りも無く 俺へと腕を伸ばしてくる。 その手をパシンと叩き払った。 842 ﹁き⋮⋮たが⋮⋮わ君?﹂ あからさまな拒絶に、森尾さんの顔が引きつる。 その森尾さんに蔑む視線を向ける俺。 俺に悪意を向けるならともかく、みさ子さんを攻撃対象にするな んて許せなかった。 これまで我慢してきたことが爆発する。怒りや憎しみ、そういっ た感情を森尾さんにぶつける。 ﹁俺の彼女でもないくせに、気安く触るなっ!﹂ 初めて見る俺の怒りに、森尾さんは青ざめた。 小刻みに震えながら俺を見上げる森尾さん。 その森尾さんを容赦なく睨みつける俺。 互いがしばらく何も言わず、沈黙が流れる。 俺たちの間に、夕方特有の湿り気を持つ風が吹いた。 肩の力をほんの少し抜き、だけど、怒りだけは抑えることなく俺 は口を開く。 ﹁人の気持ちは重さを量ることも、大きさを見ることも、深さを調 べることも出来ない。まして、誰かと比べることなんて出来ない。 それなのに、どうして森尾さんの方がみさ子さんよりも俺のことを 好きだって言えるんだ?﹂ 問いかければ、彼女は ﹁あ、そ、それは⋮⋮。ほら、私、こんなに頑張ってるんだよ!北 川君に気に入られたくって、どんな時でもお洒落には気を抜かない 843 し。それに、リラックスに役立つ情報を集めたりとか﹂ 必死で自分を売り込もうとしてくる。 ︱︱︱俺が言いたいのは、そういうことじゃない。 首を左右に振りながら、俺は改めて問いかける。 ﹁ねぇ、森尾さん。君は本当に俺のことが好きなのか?﹂ すると彼女は間髪入れず、甲高く叫んだ。 ﹁もちろんよ!これまでに何度も言ってるじゃない!!ずっと言っ てきたじゃない!!﹂ ﹁それなら、どうして俺の気持ちを無視するんだよっ!!﹂ 森尾さん以上の大声で言い返す。 ﹁俺だって何度も言ったよな?“森尾さんの気持ちには応えられな い”、“俺には彼女がいる”って。それなのに、どうしてしつこく 付きまとうんだっ?﹂ ﹁そ、それは、私の気持ちを伝えたくて⋮⋮﹂ 純然たる怒りを向けられた森尾さんは、唇を震わせながら答えた。 それを軽く笑い飛ばす。 ﹁伝える?森尾さんがしていることは、単なる“押し付け”だろ﹂ ﹁そんなことない!私は本気で北川君のことをっ。だから一生懸命 綺麗になろうとしたし、積極的に声を掛け続けたのよ!﹂ ﹁そんな面倒な本気、こっちは望んでなんかいないんだ。本当に俺 のことが好きで大切に考えてくれているなら、俺のことを最優先に 考えるんじゃないか?それなのに森尾さんは話に耳を貸さず、ただ 自分の気持ちを身勝手に押し付けてきただけだろ!﹂ 自分がこれまでにしてきたことを真っ向から否定され、森尾さん が愕然となる。 それでも、俺は言葉を止めない。 ﹁始めのうちは我慢できたよ。好きな人に断られたからって、そう 簡単に諦められない気持ちは分かるしね。でも、だからといって俺 844 が迷惑するほどひたすら追い掛け回し、自分の気持ちを押し付ける だけの森尾さんは、本気で俺を好きだって言える?俺には子供が意 地を張っているようにしか見えない﹂ 静かに息を吐き、徐々に肩の力を抜いてゆく。 ﹁本気で人を好きになる事⋮⋮、愛するって事はね、何よりもまず 相手を思いやることだよ。今の森尾さんはそれが出来ていない、結 局は自分中心だ。そんな人、どうあっても俺は好きにならない﹂ 言い切った俺は後ろで息を詰め、静かに様子を見守っていたみさ 子さんを振り返った。 ﹁俺が好きなのは、みさ子さんだから﹂ 風に吹かれて乱れてしまった彼女の髪を、手櫛で直してやる。さ れるがままになっている彼女に、優しく微笑んだ。 ﹁他の誰も代わりなんてできないし、みさ子さん以外の人なんか要 らないから﹂ みさ子さんは何も言わずにそっと俯き、しばらくしてコクン、と 頷く。 そんな彼女の頬を一撫でし、再び森尾さんに向き直った。 ﹁この際だから、はっきり言うよ。もう俺に一切関わらないでくれ、 うんざりだ﹂ 森尾さんは表情をなくし、呆然と地面を見つめている。 これ以上言いたい事もなくなった俺はみさ子さんの右手を取り、 その場を立ち去った。 845 132︼女帝VS王女様︵11︶︵後書き︶ ●思いのほかこの章が長くなり、とうとう11話目になってしまい ましたね。 でも、ずっと書きたかったお話なので、中途半端にまとめてしま いたくなかったんですよ。 自分の気持ちを伝えることはとても大切なことだと思います。 諦めないことも大事だと思います。 時には勢いも必要です。 大胆な行動も重要です。 ですが、そこに﹃相手を思いやる気持ち﹄が無くては愛情に発展 しないと思います。 そんな恋愛観を書きたくてこの章を構想したのですが、少しは皆 様に伝わったでしょうか。 ●いがみ合うシーンというのは本当に難しくて苦手なんです。 書いていて楽しくない∼∼∼∼∼!︵苦笑︶ ですが、次話からはようやくタカとみさ子さんの2人のシーンが 始まります。 まだざっくりとしか下書きを進めていませんが、しばらく不本意 なお預けを食らったタカですからね。 どうなることやら⋮︵ニヤリ︶ 846 133︼女帝VS王女様︵12︶ みさ子さんの手を包むように握り、通用口へと向かって歩きなが ら、やや後ろに位置する彼女の様子を伺った。 ﹁怪我はしてない?叩かれたり、引っかかれたりはしなかった?﹂ ﹁ええ、平気よ﹂ 先ほどの怖いくらいに張り詰めた空気から開放されたみさ子さん は、やんわりと瞳を細める。 ﹁私のこと、あちこち探し回ってくれたんでしょ?ありがとう﹂ そう言って少し前に出たみさ子さんが、走り回ったおかげで曲が ってしまったネクタイに空いている片手を伸ばして真っ直ぐにして くれた。 ﹁お礼を言われるほどのことじゃないよ。でも、掴み合いとかにな らなくてよかった﹂ 森尾さんのことだから、感情的になり過ぎればみさ子さんに手を 出していただろう。 綺麗に飾られた指先は、時として凶器になる。 やや長めに形作られたネイルで引っかかれたら、みさ子さんの柔 らかい頬に傷跡が出来そうだ。 ここでもう1つ懸念していたことを切り出す。 ﹁あの場所にいたのは2人だけ?森尾さんに使われた社員はいなか った?﹂ ﹁ずっと私と彼女だけだったわ﹂ ﹁そっか﹂ 俺はそのことに心の底から安堵した。 それこそ手段を選ばない状況まで森尾さんが陥っていたとしたら、 その男性社員たちを使ってみさ子さんに暴力を働いていたことも考 847 えられる。 ﹃同じ会社の人間に、正直そこまでするだろうか?﹄という疑問も 浮かんだが、本気じゃないまでも脅しの意味で、男性社員が出張っ てきた可能性もないとは言い切れない。 みさ子さんは森尾さんのように小柄ではない。 だからといって、男の力には到底かなわない。 以前、夜の公園でみさ子さんが男に襲われたことを思い出す。 あの時の彼女は、かつて無いほど狼狽し、自分を見失っていた。 常に冷静さを崩さないみさ子さんが茫然自失になるほど、彼女の 身に、心に、恐怖が襲い掛かってきたのだ。 どんなに必死になったところで、男の力の前では逃げることも、 抵抗することも出来ない。 一方的に蹂躙されるだけ。 その後、彼女に待つのは、けして拭い去れない絶望だけ。 ブルリ、と背筋が冷たくなる。 もう二度と、みさ子さんにあんな怖い思いはさせたくなかった。 俺は足を止め、繋いでいる手に目を落とす。 自分の手の中にある彼女の指はそれこそ華奢で、男にしては細い 部類に入る俺よりもずっとずっと細い。 そんな華奢な指先をキュッと握り締める。 ﹁⋮⋮ほんと、無事でよかった﹂ 俺がポツリと呟き大きく息を吐くと、やんわりと手が握り返され た。 ﹁タカ﹂ いつものように優しく穏やかな声で、静かに俺の名前を呼ぶみさ 子さん。 848 俺の余計な不安を払拭させてくれる、彼女の綺麗な微笑。 ﹁そろそろ帰りましょ﹂ ﹁そうだね﹂ 俺も微笑み返し、この幕引きに改めて安堵したのだった。 再び足を進めながら俺は口を開いた。 ﹁あのさ、これからみさ子さんの家に行ってもいい?﹂ みさ子さんがニッコリと微笑んでくれる。 ﹁いいわよ。夕食、一緒に食べましょ﹂ それを聞いて、空いている左手で思わずガッツポーズ。 ﹁やったーーー!久々の手料理だ!俺カバン取りに行くから、みさ 子さんは先に帰ってて。後から行くね﹂ 俺の言葉に、彼女の表情が申し訳なさそうなものへと変わった。 スッと俯き、小さな声でみさ子さんは言う。 ﹁分かったわ。それと、⋮⋮ごめんなさい﹂ 歩みを止めてしまった彼女の正面で向き合い、俺は苦笑した。 ﹁そんな顔しないでよ。みさ子さんが会社の人に付き合いを知られ たくないってのは、よく分かるし。そりゃあ、堂々とみんなに言い ふらしたい気持ちも確かにあるけど、今回みたいなことが2度と起 こらない様に、やっぱり無駄に広めない方がいいと思うんだ﹂ ﹁⋮⋮そうね﹂ 俺の顔を見ることもなく、視線を下げ続けるみさ子さん。 念のために周囲を見回して誰もいないことを確認すると、俺はサ 849 ッと彼女を抱きしめた。 ﹁きゃっ﹂ 短い悲鳴を上げて後ずさりしようとしたが、みさ子さんの肩と腰 に回した腕でしっかり捕らえる。 しばらくはジタバタと腕の中で暴れていたが、一向に緩まない腕 の力に観念したのか、大人しくなる彼女。 すぐ傍にあるみさ子さんの耳元で優しく囁く。 ﹁会社では先輩と後輩だけど、2人きりの時は目一杯“恋人”を満 喫するから。それで問題無しだよ。だからこの点に関して、みさ子 さんは俺に余計な気遣いしないで﹂ ﹁⋮⋮うん﹂ コクンと頷くみさ子さんの額に、軽く唇を押し当てる。 そして腕の中から開放した。 ﹁ねぇ、みさ子さん。俺、唐揚が食べたい。食べたいなぁ∼♪﹂ おどけた様に言うと、彼女が苦笑した。 ﹁分かったわ。山ほど作ってあげる﹂ ﹁約束だよ﹂ そう言ってから、俺は営業部に向かって走り出した。 みさ子さんの家のドアを開けると、美味しそうな匂いが出迎えて くれた。 ﹁来たよ∼﹂ 洗面所で手を洗ってからリビングを抜けてキッチンに向かうと、 揚げ物に勤しむ彼女の後姿が見える。 ﹁いらっしゃい。もう少し時間が掛かるから、向こうで待ってて﹂ 若草色のカットソーに、ややゆったり目のベージュのパンツとい った部屋着に着替えていたみさ子さん。それにラベンダーカラーの 850 エプロンを着けた彼女が振り返る。 ﹁何か手伝おうか?﹂ 俺が申し出ると、僅かに逡巡したみさ子さんが答える。 ﹁じゃぁ、お箸と取り皿を運んで﹂ 彼女の家の食器棚には、俺用の食器がいくつか並んでいる。 食器だけではなく、俺が使う歯ブラシだとかちょっとした着替え だとか、付き合い始めてから、この家に俺の持ち物が増えた。 彼女の生活空間に自分の存在が許されていることが、この上なく 幸せだ。 ﹁了解。⋮⋮っと、その前に﹂ みさ子さんの右肩に手を掛け、少し引いてこちらに向かせる。 ﹁え?﹂ 驚く彼女の唇にチョン、と自分の唇を重ねた。 ﹁な、何すんのよっ!!﹂ 菜箸を振り上げ、目を吊り上げ、みさ子さんが怒鳴る。 ﹁だって、この1週間はぜんぜんみさ子さんに触れなかったから我 慢できなくって﹂ ﹁さっき、通用口前で抱きついてきたじゃない!額にキスをしたじ ゃない!﹂ ﹁あんな程度じゃ足りないよ。むしろ、余計に煽り立てられた感じ﹂ 悪びれもせずそう言って再びキスをしようと近付けば、顔の前に バッと鍋の蓋が。 ﹁うぐっ﹂ 俺の鼻がつぶれた。 ﹁いい加減にしないと、唐揚食べさせてあげないから!!﹂ 顔を赤くして睨むみさ子さん。 その勢いはかなり本気だ。 ﹁それは困る。では、大人しく食器を並べてきますよ⋮⋮﹂ 851 鼻を擦りながら、俺は食器棚へと向かった。 852 133︼女帝VS王女様︵12︶︵後書き︶ ●森尾ちゃんの件はとりあえず収束を迎えることが出来ました。や れやれです∼。 ちょっとしたほのぼのシーンをはさんだ後は、恒例のウフンアハン な展開です。しばしお待ちを∼♪ ●他作者様の作品にはR18なシーンが含まれる際、前書きに注意 書きがあることが最近特に見受けられます。 みやこはこれまでに一度もそういった注意書きを施したことが無い のですが、読者様からすれば、そういった注意喚起があったほうが よろしいのでしょうか? ムーンライトは年齢制限ありの作品を掲載するサイトであり、みや この作品案内文にもR18物である事は記してありますし、また、 みやこ作品がどのような作風であるのかは読者様もすでにご存知で あるかと思いますので、あえて前書きに書き入れなくてもいいかと 言う思いで、今日まで過ごしてきました。 もし、﹃R18なシーンが含まれる話の前書きに、一言注意書きが あると助かります﹄というご意見をお持ちな読者様がおりましたら、 ご一報ください。 853 134︼女帝VS王女様︵13︶ 程なくして、リビングのローテーブルには大根サラダ、ナスの煮 浸し、わかめの味噌汁、そして山盛りの唐揚が並んだ。 ご馳走を前にした幼稚園児のように、俺の目がキラキラと輝いて いる。 ﹁1週間振り∼∼∼∼∼♪﹂ はしゃぐ俺にみさ子さんは楽しそうに笑いながら、俺の前にご飯 をよそった茶碗を置く。 ﹁どうぞ召し上がれ﹂ ﹁いただきますっ﹂ まずは熱々の唐揚をパクリ。 衣はカリッとしていて、中は柔らかくてジューシー。生姜醤油で 下味をつけたみさ子さん特製の唐揚は、いつも通り絶品だ。 ﹁くはぁ、あまりの旨さに涙が出るよぉ﹂ ﹁それはちょっと大げさじゃない?﹂ 次から次へと口に唐揚を運ぶ俺を見て、苦笑いしながらみさ子さ んは自分も箸を進める。 俺は口の中の唐揚をゴクンと嚥下した。 ﹁大げさじゃないって。特に今週は夕食どころか、手作り弁当も食 べられなかったんだから。旨さ一入って感じ﹂ ﹁たかが唐揚でそんなに感動されると、なんだか恐縮しちゃうわね﹂ 皿に大根サラダを取り分けながら、困ったように小さく笑うみさ 子さん。 ﹁“たかが”じゃないよ。これはみさ子さんにしか作れない貴重な ものなの!その辺に売ってないんだからさ!﹂ 興奮するあまり、俺はドン、とテーブルを叩いた。 ﹁はいはい、もうそれ以上言わないで。恥ずかしくて喉が詰まりそ うよ。まだたくさんあるから、遠慮なく食べてね﹂ 854 顔を赤らめてはにかんだみさ子さんの笑顔。 これも1週間振りだ。 俺は美味しい手料理とみさ子さんの穏やかな表情をじっくり楽し んだ。 明らかに5人前はあったであろう唐揚は、ほとんど俺の胃袋へと 消えた。 ﹁はぁ、美味しかったぁ∼﹂ 2人で食器を片付けた後にリビングへと戻り、ソファーに座る。 そして腹を擦りながら満足げに呟いた。 ﹁よく食べたわねぇ。さすがに残すと思ったんだけど﹂ お盆に熱い玄米茶を注いだ湯飲みを載せてこちらにやってきたみ さ子さんは、呆れたように、それでも嬉しそうに笑っている。 テーブルにお盆を置くと、彼女は俺の向かい側にある床の上のク ッションへと腰を下ろした。 当たり前の顔をしてお茶をすするみさ子さんを見て、俺の眉が寄 る。 ﹁どうかした?﹂ ほんの少し前までご機嫌だった俺がしかめっ面になったのを、首 を傾げて不思議そうに見ているみさ子さん。 ﹁“どうかした?”じゃないって、ほらっ﹂ そう言って俺は空いている左側の座面をポンポンと叩く。 それに対してみさ子さんがキョトンとなった。 ﹁は?﹂ ﹁こっちに来て!﹂ 俺の機嫌が悪くなった理由が分からないみさ子さんは、改めて首 855 を傾げる。 ﹁どうして?食事やお茶の時、私の定位置はここでしょ﹂ ﹁い・い・か・ら!﹂ 少し強めに言うと、みさ子さんは自分の湯飲みを持って立ち上が り、俺の隣に腰を下ろした。 そして湯飲みをテーブルに置いたのを見計らって、彼女の左肩に 手を伸ばしてグイッと抱き寄せる。 ﹁きゃっ﹂ 俺の胸に倒れこんできたみさ子さんを強く抱きしめた。 ﹁ど、どうしたのよ急に?﹂ 突然の俺の行動に驚いたみさ子さんが体勢を立て直そうと身を起 こすが、腕の力を更に強めて閉じ込める。 ﹁みさ子さんが“ここ”にいる⋮⋮﹂ 切ない囁きとともに深く大きく息を吸うと、彼女の香り、温もり をありありと感じた。 ﹁みさ子さんに会えない一週間は、ホントつらかった。仕事に振り 回されて残業続きだった時の何倍もつらかった﹂ 2人とも会社に行っているのだから、何かの拍子で顔を合わせた こともあった。 仕事上の会話とはいえ、簡単な言葉を交わせたこともあった。 ただしそれは、すべてKOBAYASHIの社員として。 職場の先輩、後輩として。 ほんの欠片ほども恋人として接することが出来なかった。 みさ子さんは確かにそこにいるのに、この一週間の彼女は﹃俺の 彼女﹄ではなかったことが、ことのほか精神的に堪えたのだ。 彼女を守る為に、これからも自分達の付き合いはあえて周囲に知 856 らせるつもりはない。 社員達の前で、恋人同士であることを窺わせる態度を取らないこ とも納得している。 納得はしているが、今回のように理不尽な理由で互いの接触を避 ける事態は心が苦しいのだ。 やっと取り戻した恋人としてのみさ子さんを味わいたくて、強く 強く抱きしめる。 恥ずかしがり屋の彼女は逃れようと身じろぎを続けていたが、俺 の囁きを聞いて大人しくなった。 俺の肩口に頭を乗せ、左手を俺の胸につけてじっとしている。 そんな彼女の髪を撫でながら、穏やかな時を味わう。 ﹁ねぇ、みさ子さん﹂ 呼び掛けに、チラリと視線を上げた。 ﹁なに?﹂ ﹁俺が裏庭に駆け込んだ時の、あのセリフだけどさ⋮⋮﹂ みさ子さんらしい凛とした声は、今もしっかりと耳に残っている。 “私の大切な人を侮辱しないで!” 色恋における自己主張をこれまで滅多にしてこなかった。 俺に対しても少ないのだから、他人に対してはおそらくしたこと など無いのだろう。 そういうみさ子さんが、森尾さん相手にあれだけ強くはっきりと 言い放ったのだ。 その態度も、セリフの内容も嬉しかった。 ﹁私の大切な人って、俺のことだよね?﹂ みさ子さんの頭を寄せて頬ずりしながら尋ねると、これまで大人 857 しかった彼女がガバッと身を起こした。 ﹁そうよ!タカ以外に誰がいるって言うの!?﹂ 怒ったような、それでいて泣きたいような複雑な顔で俺を見る。 ﹁タカがどれほど苦労して今の仕事を成し得ているのか、森尾さん はぜんぜん分かっていなかった!あなたがどれほど男らしくて芯の 強い人なのかを、まったく理解してなかった。まるで見せびらかす アクセサリーとして、タカを手に入れようとしていたのよ!!﹂ 俺の胸に置かれたみさ子さんの手が、グッと握り締められた。 ﹁タカのことを好きだと言いながら明らかに侮蔑していたの、私の 大切なあなたを!それがどうしても許せなくって!!﹂ 感情が昂ぶり、みさ子さんの目からポロリと涙が零れる。 彼女の激昂に驚いたが、それは俺にとって凄く嬉しいもので、ニ ヤけてだらしなくなる顔を必死で抑え、俺は彼女の目元に唇を近づ けた。 ﹁みさ子さん、分かったから﹂ 涙が止まるまで、優しく何度も押し付けた。 ﹁少し落ち着いて、ね﹂ ﹁あ⋮⋮、取り乱してごめんなさい。森尾さんに対してもかなり感 情的になってしまったし、いやね、私ったら小さな子供みたい﹂ 気まずいと思ったのか、肩を落としてボソボソと呟くみさ子さん に、俺は首を横に振る。 ﹁俺のことを想って、声を荒げてくれたんでしょ?森尾さんに向か って堂々と言ってくれたあのセリフ、本当に嬉しかったよ﹂ ようやく泣き止んだ彼女の目元から唇を離し、頬に1つ、鼻先に 1つ、そして唇にも1つキスをする。 ﹁愛されてるなって、改めて実感できてすごく嬉しかった﹂ 今までだってみさ子さんの愛情を疑ったことなど無かったが、あ んなにも感極まった告白をされて喜ばない恋人がいるだろうか。 858 ﹁本当?呆れてたんじゃない?﹂ 不安そうに俺の顔を窺うみさ子さんに、唇にもう1つキスを落と す。 ﹁本当だし、呆れてもいないから。⋮⋮と、いうことで﹂ 俺はみさ子さんの背中と膝裏を素早く腕で支えて立ち上がった。 突然高くなった視界に驚いて、彼女は俺にギュッとしがみつく。 ﹁な、な、なに?﹂ みさ子さんがオロオロしているうちに、俺は彼女の寝室へと向か う。 ベッドに下ろし、そのみさ子さんの上にのしかかった。 ﹁さっき言ったでしょ﹂ 俺は首元に手をやり、シュルリとネクタイを引き抜くと、無造作 にベッドの下に放った。 ﹁さ、さっき?﹂ 身の危険を感じた彼女は脚をバタつかせるが、そこは自分の脚を 絡めるようにして動きを封じる。 ﹁“2人きりの時は目一杯恋人を満喫するから”って、俺、言った よ﹂ 艶然と微笑めば、みさ子さんの目が泳ぎ出す。 ﹁あ⋮⋮﹂ ﹁みさ子さん、その言葉に対して頷いたよね。それってOKってこ とでしょ?﹂ ﹁いや、え、えっと、そのっ﹂ 羞恥に顔を赤く染め、視線を忙しなく彷徨わせている。 そんな彼女から眼鏡を素早く取り去り、頬を手で挟んで強制的に 自分と視線を合わさせる。 ﹁恋人としての時間、そろそろ俺に頂戴⋮⋮﹂ そして、唇を合わせた。 859 134︼女帝VS王女様︵13︶︵後書き︶ ●ようやくここまで辿りつきましたよ∼。 お待たせしました。 次話からは、タカの言うところの﹃恋人の時間﹄が始まります︵ ニヤリ︶ 860 135︼女帝VS王女様︵14︶ しっとりと柔らかいみさ子さんの唇は、相変わらず甘い。 いや、味わいたくても味わえなかった分、その甘さを更に強く感 じる。 ベッドに運ばれ、上から押さえ込まれ、これから何が起こるのか 既に知っているくせに、彼女はいつも恥ずかしがる。 ︱︱︱知っているからこそ、恥ずかしがるのかな? 逃げられないことも、俺が逃がさないこともこれまでの経験で充 分知っているだろうに、それでも彼女は首を振ってこの場から逃げ ようと画策する。 そんなみさ子さんの様子に、俺の官能が刺激された。 ︱︱︱ああ、もう、可愛いなぁ。そんなことをしたって、余計に俺 を煽るだけなのに。 クスッと心の中だけで苦笑し、繰り返すキスの合間に呼び掛けた。 ﹁ねぇ、みさ子さん﹂ ﹁んっ、なっ、何よ!?﹂ 彼女はこれから始まる行為に対する羞恥や、この場から脱出しよ うとする必死さから顔を赤くしてグイグイと俺の胸を手で押し返し ている。 しかし、いくら頑張ったところで大人の男の体重をどうこう出来 る力は、彼女の細腕にはない。 それでも諦めを見せないみさ子さんの手首を掴み、彼女の顔の横 に縫い付けた。 861 ﹁逃げようとしても無駄だって事、まだ分かってないの?こんな状 況で、俺がみさ子さんを放したこと、一度だってあった?﹂ ﹁ないけど、でもっ、今日は逃がしてくれるかもしれないしっ﹂ 足を延ばしてベッドの外に下ろそうとしているのを、自分の脚で 絡め取る。 俺の手によって手首は固定され、俺の脚によって下半身の自由を 封じ込められ、上体は俺の体重で押さえ込まれたみさ子さん。 上にも横にも動けない状態に追い込み、今度は声を出して笑う俺。 ﹁ふふっ、残念でした。今日も逃がしてあげないよ⋮⋮﹂ 合わせていただけの唇を少し浮かせて、彼女の上唇を自分の舌先 でなぞる。 右から左、左から右へと丁寧に、その輪郭を確かめるようにゆっ くりと。 みさ子さんの背に得も言われぬ感覚が走ったのか、彼女は目も唇 もキュッと閉じた。 俺のすぐ目前でみさ子さんの睫毛が震えている。 それは恐怖でも嫌悪でもなく、羞恥によるものであるから、俺は 止めることなどしない。 次いでみさ子さんの下唇を唇でソッと挟み、軽く吸う。 チュッとわざと音を立てると、彼女の目元に濃い朱が入った。 色の白いみさ子さんだから、薄明かりの寝室でもその様子が見て 取れるのだ。 ここで俺はみさ子さんの手首から手を離し、すぐ横に手を着いて 上体を起こす。 何もせずにただ彼女の顔を見つめていると、みさ子さんがおずお ずと瞳を開けた。 互いの顔は真正面に位置しておらず、やや上のほうにずらしてい る俺。 おかげでみさ子さんは俺と視線を合わせるため、僅かに上目遣い 862 となっている。 潤む瞳でじっと見上げてくる彼女。 ︱︱︱ああ、ぜんぜん違う。 同じような上目遣いでも、みさ子さんと森尾さんとでは明らかに 違う。 視線1つで俺の心を攫うのは、ここにいる佐々木みさ子という女 性ただ1人だけ。 森尾さんや他の女性がどんなに着飾ろうとも、どんなに色気を滲 ませようとも、どんなに言葉巧みに言い寄ろうとも、俺の心を揺さ 振ることはない。 佐々木みさ子ではない他の人では一切意味が無いのだと、まざま ざと感じた。 ﹁タカ⋮⋮?﹂ 俺が何も言わずにただ見ているのを不安に思ったのか、頼りない 声で俺を呼んだ。 その声だけで、身体の奥の官能が熱を増す。 目を細めて穏やかな微笑を彼女に向けると、みさ子さんがまた俺 を呼ぶ。 ﹁タカ?﹂ 震える声には変わらず不安が滲んでいた。 俺は唇でニッと笑う。 ﹁良かったと思って﹂ ﹁なに⋮⋮が?﹂ 俺の言わんとすることが理解できず、みさ子さんは一層不安そう に瞳を揺らす。 ﹁⋮⋮何がよかったの?﹂ ﹁ホント良かった、この部屋が防音で。隣、上下の住民に気兼ねす 863 る必要ないしね。なにしろ今日まで焦らしに焦らされたからね、手 加減してあげられないかも﹂ クスッ、クスクス。 これから始まる甘く濃厚な恋人の時間を思えば、自然に笑みが零 れてしまう。 そんな俺の表情になにやら危機を感じたのか、みさ子さんの顔に 焦りの色が浮かぶ。 ﹁やっ、でも、それは森尾さんの件があったからで、私が故意に焦 らしたわけじゃないもの!﹂ ﹁うん、そうだね。みさ子さんも焦らされたんだよね?﹂ 俺がそう切り返せば、彼女は戸惑いに目を大きくする。 ﹁は?え?﹂ ﹁大丈夫。いつも以上に悦ばせてあげるから﹂ 意地の悪い笑みをほんのりと乗せた唇で彼女の唇を塞いだ。 さっきとは違い、荒々しく奪う。 俺の舌が動くよりもみさ子さんが己の唇を引き結ぶ方が一瞬早か ったが、そこは強引に歯列を割り、無理矢理ねじ込んだ。 ﹁んんっ﹂ 驚いたみさ子さんは声を上げて唇を閉じようとするが、侵入して しまえばこっちのもの。 逃げる彼女の舌に自分の舌を巻きつけて吸い上げると、小さな水 音が互いの耳に届く。 さらに舐り上げれば、チュクッと、はっきりした音が聞こえる。 クチュリ、チュッ⋮⋮。 2人の舌の境界が分からなくなるほど深く絡め合えば、水音が大 きく響いた。 ﹁ふ、うぅ⋮⋮﹂ みさ子さんが眉を寄せ、苦しそうに喘ぐ。 864 それでも、俺は唇を離すことは無い。 みさ子さんの舌を俺の口内に引き込むと少し力を緩めて、その舌 をやんわりと甘噛みした。 その妖しい感覚にみさ子さんの身体がブルリと震える。 ﹁あっ﹂ 顎を上げて吐息を漏らすみさ子さん。 諦めたのか、腰が砕けたのか、ここまで来ると、流石に抵抗する 元気はなくなったようだ。 俺はしたり顔でキスを止め、真っ赤になったみさ子さんの耳元で 囁く。 ﹁怖がることはないからね。ただ、俺に愛されて⋮⋮﹂ 甘い声で囁きながら、強く抱きしめた。 865 135︼女帝VS王女様︵14︶︵後書き︶ ●年明け最初の女帝はこんな感じで幕開けです。 本年も、タカとみさ子さんをどうぞ宜しくお願いいたします。 ●毎度の事ながら、キスシーンで1話使っておりますよ。 これがないと、みやこの中にエロ魔神様が降臨しませんので︵苦笑︶ さてと、これでみやこ&タカのギアが入りました♪︵ニヤリ︶ 866 136︼女帝VS王女様︵15︶ みさ子さんの唇に重ねていた自分の唇を、小刻みに震えている彼 女の耳元へと移動させる。 柔らかい耳たぶを少し強めに甘噛みすれば、ピクンと彼女の身体 が跳ねあがった。その隙に右手をみさ子さんの背に這わせて、素早 くブラのホックを外す。 感じやすい耳から首筋を辿るようにじっくりと舌を這わせると、 刺激に肩をすくませたみさ子さんの鎖骨が綺麗に浮き上がった。 彼女は一見すると、その雰囲気はとても硬質で、常に揺ぎ無い強 さを感じさせる。 だが、“佐々木みさ子”を作り上げるパーツの一つ一つがどれも 華奢で繊細。 俺の舌が辿っている鎖骨もほっそりとしていて、強く抱きしめれ ばあっさりと折れてしまいそうだ。 KOBAYASHIの社員達から﹃無敵の女帝﹄と恐れられるみ さ子さんがこんなにも“女性”であることは、世界広しといえ俺し か知らない。 その優越感が心底嬉しい。 襟元にキスを落としながらカットソーとキャミソールをデコルテ までたくし上げれば、ブラが緩んで無防備になった2つの膨らみが 現れた。 薄闇に浮かぶ白く柔らかな乳房が、小さくフルリと揺れる。 俺は目の前にある赤く色付いた果実を迷わず口に含んだ。形のい い胸の先に付いたその果実は既に独特の硬さを持っているようで、 案の定、俺の舌にはツンと立ち上がった乳首が当たる。 それをザラリとした舌先でペロリと舐め上げた。 867 ﹁ん、ふっ⋮⋮﹂ 敏感になっているみさ子さんは、少しの刺激でもくぐもった声を 上げる。 上下の唇で乳首を挟みながらチュクチュクと音を立てて吸い上げ れば、恥ずかしがり屋な彼女は肌の色を朱に染めてゆく。 耐え切れなくなったみさ子さんは、手で自分の耳を塞ごうとした ︱︱︱もちろん、俺は彼女の手を即座に押さえ込んだけどね。 ﹁あっ、やぁ⋮⋮ん﹂ みさ子さんの腕をベッドに押さえつけ、しつこく舐る。 唇で挟み、歯で噛み、舌で舐め上げ、口内全体で吸い上げた。 ジュクッと一層大きな響きが俺の口元から零れれば、首元の朱が 胸元一杯に広がる。 ﹁んふ、う⋮⋮﹂ 唇を硬く合わせ、熱い吐息を漏らし続けるみさ子さん。 自分の口から言葉として快感を正直に伝えることは、付き合い始 めて4ヶ月ほど経った今でもほとんどないが、それでも、彼女の身 体は正直だから。 快楽を享受した結果に染まるみさ子さんの肌は、赤みが差すごと にしっとりと汗ばんでゆく。それは彼女の身体が快楽に飲まれ始め ている動かぬ証拠。 ﹁タカ⋮⋮。お、音⋮⋮、恥か、し⋮⋮い﹂ 少しでも羞恥を遠ざけようと、みさ子さんは小刻みに首を振る。 ︱︱︱だから、それが俺を煽るんだって気付いてる? と、苦笑交じりに心の内で呟いた言葉はあえて彼女に伝えない。 その恥ずかしがる姿が心底愛らしいから。 いつまでも、その姿を俺の前に晒してほしいから。 868 ︱︱︱でも、意地悪を続けるのは心優しい彼氏としてはマズイよね。 と、言うことで。 俺は胸の先端から唇を離し、そして、右の人差し指と親指で真っ 赤に熟した乳首をキュッと摘んだ。 ﹁あんっ﹂ 部屋に響く甲高い彼女の嬌声。 開放された彼女の左手が俺の右手を押さえ込む。 ﹁ダ、ダメ⋮⋮ッ﹂ ﹁なんで?音が恥ずかしいって言うから、舐めるのを止めたんだよ﹂ ニンマリ笑う俺の口元は、少々意地が悪かったかもしれない。 ﹁そ、そうだけど⋮⋮﹂ みさ子さんは首を少し起こし、自分の上体に乗って指で胸を弄る 俺に目を向ける。﹃止めてほしい﹄という懇願を込めて。 しかし、 ﹁これ以上、我侭は聞きません﹂ 彼女の潤んだ瞳にニッコリ微笑みかけて、俺は手の動きを再開し た。 指先に力を入れ、クニクニと赤い乳首を弄る。 俺に舐められたことで硬く敏感になった乳首は、強く捻るように 擦り上げられることに耐えられない。 ﹁あっ、ああっ!﹂ 悲鳴にも似た嬌声。 震える指で俺の手を静止しようとするも、彼女の細い指では男の 力に敵うはずもなく、俺は好きなようにみさ子さんの乳首を摘み、 捻り、その先端に爪を立てる。 人差し指の先で小さく円を描くように彼女の乳首を押し込めば、 869 みさ子さんが仰け反った。 ﹁イヤッ、あ、んんっ!!﹂ ﹁ふふっ、こんなに硬くさせてちゃって。⋮⋮じゃぁ、こっちはど うなってるのかな∼?﹂ まるで歌うように楽しげに囁きながら、俺は肌触りの良いベージ ュのパンツのウエスト部分から左手を滑りこませた。 870 136︼女帝VS王女様︵15︶︵後書き︶ ●タカは結局“意地悪な彼氏”だと思う︵苦笑︶ でも、そこにはみさ子さんに対する深∼∼∼い愛情があるので、許 してやってくださいませ。 871 137︼女帝VS王女様︵16︶ 下着の上から割れ目に沿って指を這わせれば、濡れた感触が伝わ ってくる。 ﹁やっぱり濡れてるね、⋮⋮しかもいつもより﹂ 既に下着のクロッチ全体が、みさ子さんのナカから溢れた愛液で グッショリと湿っていた。 そして、今なおその染みが広がってゆく。 森尾さんたちの目を引かない為に、極力彼女との接触を絶ってい たのだ 。 用心を重ねて社外でも会うことを避けていたから、みさ子さんと 軽く触れるだけのキスすらも出来なかった。 胸を弄られたり、こういう直接的な刺激を与えられれば、彼女の 秘部がグッショリと濡れそぼるのも無理はない。 俺はその湿り気が一番強い部分に中指を立てて少し押し込み、グ リグリと回した。 ﹁はぁんっ﹂ 膣口を布地で擦られた刺激に、みさ子さんの甘い吐息が漏れる。 ﹁久しぶりだから、気持ち良いでしょ?﹂ ピクン、ピクンと跳ねる彼女を押さえ込んでいる自分の上体に感 じながら、押し込んでいる指の力を徐々に強めてゆく。 左中指の関節1つ分を下着の布地ごと押し込んだところで、手首 を左右に捻る。 愛液で充分に潤っているナカではあるが、皮膚よりも滑らかさに 欠ける布地が強引に侵入してくる感触は相当に刺激的だ。 しかも利き手ではない左手で攻めているためにその動きはぎこち なく、その拙さが彼女にとっては余計にたまらないようだ。 ﹁ん、んっ﹂ 872 もどかしさに唇を噛みしめ、小刻みに首を振るみさ子さん。 その様子は愛らしいが、切なげに寄せられた眉が悩ましげで色っ ぽい。 幼い少女と、艶やかな女性が同居するみさ子さんの痴態は、何度 見ても俺の心をくすぐるのだ。 ︱︱︱今日はみさ子さんをどれだけ抱けば、俺の気が済むんだろう な。 身体の奥底で、自分の理性の糸がジリジリと焼き切れる音を聞い たような気がした。 熱い吐息を絶え間なく漏らし、不意に身じろぎを繰り返すみさ子 さんを笑みを浮かべて眺めながら中指でグリグリと膣内の浅い部分 を弄っていると、更にジワジワと愛液が溢れてくる。 ﹁凄いね、みさ子さん。どんどん濡れてくるよ﹂ 少しずつ中指を捻じ込ませて侵入を深くすると同時に、親指の腹 でクリトリスがある辺りをグッと押した。 それは見事に命中したらしく、とたんに彼女の背が弓なりに反る。 ﹁ああっ!﹂ 一際甲高い声を上げるみさ子さん。 俺はその様子に嬉しくなり、中指と親指を同時に動かした。 慣れない左手でのぎこちない愛撫はもどかしい上に力加減が難し いので、いつもよりは強目に力がかかっているかもしれない。 ﹁イヤッ、あ、ああんっ﹂ ただでさえ敏感な場所を、少々乱暴に弄られ続ける彼女。 普段とは違う俺の攻めに、彼女は普段以上に身悶える。 873 そして散々お預けを食らった俺も、みさ子さん以上に狂わんばか りに激しい熱をその身に抱いている。 スラックスの上からでもはっきり形が分かるほど、硬く勃ち上が っている俺の分身。 こうしている今も、ソコに滾る熱が集約されていくのをまざまざ と感じ、ドクドクと脈を打っては存在を主張している。 コレを彼女のナカに打ち込む悦びと彼女のナカに包まれる幸せを 味わいたいが、それよりも、彼女の痴態をもう少し眺めていたいの が今の正直な気持ちだ。 ︱︱︱お楽しみは後に回すと、感動が倍増だしね。 俺は左手を絶えず動かしなしながら、右手で赤く膨れたみさ子さ んの乳首を摘んでクリクリと弄り回し、もう片方の乳首に吸い付い た。 ﹁は、ん、んんっ、だめっ﹂ みさ子さんは指先が白くなるほどシーツをきつく掴む。 右の乳首は俺の舌先で転がされ、唇で挟まれ、歯を立てられ。 左の乳首は利き手の右手で器用に弄られて、クニクニと形を変え ている。 そして、クリトリスは加減の利かない左親指で押し潰され。 みさ子さんの弱点でもある膣の浅い部分を下着ごと中指で擦り付 けられている。 4箇所も同時に愛撫されることは、いまだにセックスに慣れてい ないみさ子さんにとって衝撃と言えるほどに強烈。 ﹁イヤァッ!﹂ 寝室に響き渡るみさ子さんの悲鳴。 ビクン、ビクン、と何度も跳ね上がる彼女の身体。 止まることのない俺からの愛撫。 874 ﹁あ、あっ、ん、ふっ﹂ たまらないといった風情でみさ子さんが自分の口を手で覆うが、 それでも絶え間なく零れる喘ぎは抑えることはできない。 ﹁く、うぅっ!﹂ 硬く閉じられているみさ子さんの眦から、涙がツ、と伝う。 俺は手の動きはそのままに、唇を静かに離す。 ﹁ね、みさ子さん。イッちゃいなよ﹂ ニンマリと笑う俺が両手に力を込めれば、 ﹁ダメ、イヤッ、あ⋮⋮、ああっ!﹂ 顎先を突き出し、しなやかな肢体を小刻みに痙攣させた後、彼女 の身体が弛緩した。 一度目の絶頂を迎えたみさ子さん。 浅い呼吸を繰り返しグッタリとしている彼女にチュッと小さなキ スを贈ると、みさ子さんが僅かに纏う衣服を取り去った。 そして俺も素早く服を脱ぎ捨てた。 乾いた衣擦れの音に、みさ子さんが閉じていた瞳を静かに開ける。 ﹁⋮⋮タカ?﹂ 心もとない声で俺を呼ぶみさ子さん。強すぎた刺激に戸惑ってい るのだろう。 全ての衣服を脱ぎ去った俺は彼女の元に戻り、もう一度小さなキ スを落とす。そして、しなやかに伸びるみさ子さんの脚を抱え上げ た。 ﹁大丈夫、俺はここにいるよ﹂ 腰を軽く突き出し、分身の先端を入口に擦り付ける。 薄明かりの中、みさ子さんの膣口がテラテラと妖しく光を放って いる。 ﹁もっと近くにいてあげるからね⋮⋮﹂ 俺は囁きと共に熱い怒張を彼女のナカに侵入させた。 875 876 137︼女帝VS王女様︵16︶︵後書き︶ ●ホントひっさびさのタカとみさ子さんの絡みのシーン。 大丈夫でしょうか? 2人らしいHになっているでしょうか?︵ドキドキ︶ 877 138︼女帝VS王女様︵17︶ ゆっくりと腰を進ませ、ズブズブとみさ子さんの秘部にペニスを 埋めてゆく。 じっくりと解された膣口付近、そして嫌というほど焦らされた彼 女のナカは充分すぎるほどに濡れているが、それでもスムーズには 挿入できない。 ︱︱︱相変わらず、キツイな。 キュウキュウと容赦のない締め付け。限界まで張り詰めた怒張に は正直苦痛でもある。 しかしその痛みこそ、自分が彼女のナカにいることをありありと 実感させ、この上ない幸せを俺に与えるのだ。 ﹁みさ子さん、ちょっとだけ我慢してね﹂ そう言った俺は彼女の滑らかな曲線を描く腰を掴み、グイッとペ ニスを根本まで突き入れた。 ﹁ああっ!﹂ 形のいい眉がギュッと寄り、彼女に苦痛の表情が浮かぶ。 待ちに待ったセックスで、いつもより大きく硬く張り出した俺の ペニス。 たたでさえ狭い彼女の膣壁にはつらいかもしれない。 申し訳ないと思いつつも、グ、グッと腰を押し付け、互いの恥毛 が触れるまで深々と突き立てた。 ﹁は、あぁ⋮⋮﹂ 見るからに苦しそうに喘ぐみさ子さん。 俺は上体を倒して彼女を腕の中にすっぽり抱きしめると、薄く開 いたみさ子さんの唇にそっとキスを落とす。 878 このままガンガンに腰を突き動かし、これでもかというほど揺さ 振って、みさ子さんの声が枯れるまで艶っぽく啼かせてみたいが、 それはあまりに身勝手だ。 それに今日は金曜日。 土曜、日曜と、時間はたっぷりあるのだ。焦ることは無い。 なので、彼女のナカがペニスに馴染むまで、しばらくジッとして いることにする。 ﹁みさ子さん、みさ子さん﹂ 名前を呼ぶごとに、キスを1つ。触れるだけの優しいキスを贈る。 ﹁みさ子さん、好きだよ﹂ 彼女の唇を軽く吸い上げ、チュ、という可愛らしい水音を立てて やった。 ﹁好きだよ。大好き、みさ子さん⋮⋮﹂ 何度も何度も繰り返しているうちに、少しずつ彼女の表情が和ら いでゆく。 中央に厳しく寄せられていた眉が元の位置へと戻って行き、そし て、みさ子さんの瞳がゆっくりと開いた。 涙の滲む彼女の瞳がベッドサイドのランプの明かりを映し、頼り なく揺れている。 オレンジと茶の中間のようなランプの明かりが黒曜石を思わせる 綺麗な瞳に浮かび、そこに俺の顔が重なっていた。 誘われるように目元へとキスを落とし、涙を舌で拭う。 そんな仕草を大人しく受けていたみさ子さんが、静かに口を開い た。 ﹁タカ⋮⋮﹂ ﹁ん、なぁに?﹂ 彼女が好きだという微笑を浮かべて、優しく訊き反す。 するとみさ子さんは何も言わず、俺の首に腕を回してしがみつい てきた。 879 ﹁どうしたの?ツライの?でも、コレは抜いてあげられないよ﹂ 腰を僅かに回し、彼女のナカに埋め込んだペニスの存在を改めて みさ子さんに知らせてやる。 動かすたびに溢れた愛液がクチクチと小さな淫音を立て、互いが 深く繋がった部分から聞こえてくる。 その音に頬どころか耳まで鮮やかに赤らめながらも、みさ子さん は制止の声を上げない。 小刻みに腰を前後させ、緩々と腰を回し、彼女のイイ所をペニス の先端で擦ってやる。 ﹁⋮⋮あんっ﹂ 囁きにも似た小さな喘ぎ声。 そこには完全に官能の海へと溺れていることを知らしめる響きが あった。 さっきまで痛いくらいに感じていた締め付けが、幾分馴染んでき たのを感じる。 ︱︱︱そろそろよさそうだな。 俺はもう一度しっかりと唇を重ね、耳元で告げた。 ﹁ねぇ、みさこさん。脚を俺の腰に絡めて﹂ 彼女は一度絶頂を迎えて脱力している脚をゆっくりと動かし、し がみつくように俺の腰へと回してゆく。 それが終ったのが分かると、俺は彼女の脇からくぐらせるように 腕を滑りこませて肩をがっしりと掴み、これ以上は無理だというほ どに、身体を密着させた。 彼女のナカはまだキツイが、もう待てない。 ﹁みさこさん。俺の背中に爪を立ててもいいから、絶対に放さない で。俺から離れないで⋮⋮﹂ そう言って、ペニスが抜けるギリギリまで引いた腰を、勢いをつ けて激しく打ちつけた。 880 ゴツリ、という鈍い音が聞こえるほどに、強く強くみさ子さんの ナカを遠慮なく抉る。 ガチガチのペニスが彼女のイイ所を的確に突き、甲高い啼き声が 寝室に響いた。 ﹁あっ、やぁん!﹂ みさ子さんのナカを容赦なくズクズクと犯し、膣壁の締め付けを 無視して更に最奥目掛けてゴリゴリと抽挿を繰り返す。 俺の強引な突き上げにみさ子さんの体がベッドヘッドに向けてず り上がっていくのを力任せにグッと引き寄せ、同時にペニスを思い 切り突き込んだ。 ﹁いやぁっ!ああっ!﹂ 俺の耳元で、悦楽に濡れたみさ子さんの嬌声が弾ける。 それを聞いて、俺の奥で蠢いていた情欲が出口を求めて迫り上が って来た。 捻りを加えた抽挿で、みさ子さんを再びの絶頂へと追い込み、自 分自身も一度目の解放を目指してこれまで以上にズブ、ズブッと貪 るように穿つ。 ﹁んっ、はぁ⋮⋮、ああんっ!﹂ 俺の背中を放すまいと、熱に侵されながらも細くしなやかな指に 力が入った。 背中にヒリヒリとした痛みを感じる。 おそらく、そこには赤い傷跡があるだろう。 でも、そんなことは気にならないくらい、俺はみさ子さんに飢え ている。 もっと、みさ子さんが欲しい。もっと、もっと。 881 ﹁みさ、子、さ⋮⋮ん。みさ子⋮⋮さんっ﹂ 絶え間ない侵入に、早くも俺の息が上がる。 切れ切れに名前を呼べば、みさ子さんのナカが一層締まった。 そのおかげで、俺の怒張の形をしっかりと感じ取ったのだろう。 ﹁く、あ、あんっ、タカ、タカがいる⋮⋮﹂ 繰り返された嬌声の為、みさ子さんの声が掠れている。そんな声 音の中に、俺に対する愛しさを感じた。 ﹁うん、いる⋮⋮よ。みさ子さんの、ナカに⋮⋮、一番近くに、い る、よ⋮⋮﹂ 俺が今いる場所は、俺だけが許された場所。 この先どんなことがあっても、他の誰にも譲れない場所。 俺がいる場所は、“ここ”だから。 ︱︱︱だから、みさ子さんも俺の傍にいてね。 俺の額に、身体に、汗が浮かぶ。 みさ子さんの全身も汗で光る。 お互いがギリギリのところまで追い詰められ、追い上げられてい る。 ﹁ん、ふっ、ううんっ、タ、タカッ!﹂ ﹁愛して、る⋮⋮よ、みさ子さん⋮⋮﹂ 彼女のナカに全ての熱が搾り取られるような収縮を感じ、そして、 促されるままにみさ子さんの最奥で激しい欲情を迸らせた。 882 ≪後日談≫ 休みが明けての月曜日。 出社してみたが、特に変わった様子は無い。 その日はずっと用心していたが、森尾さんが俺に言い寄ってくる こともなかったし、森尾さんの言いなりで動く男性社員の姿も見か けなかった。 それから数日が経っても俺やみさ子さんの周りは穏やかで、これ までと同じように時間が過ぎていった。 ﹁腹いせに報復でもしてくるかと思ってたんだけど﹂ 裏庭でみさ子さんの残業終わりを待ちながらポツリと呟けば、あ るはずの無い応答があった。 ﹁それって、森尾さんたちの事?﹂ 話しかけられて振り向けば、沢田さんが小さく手を振りながらこ ちらに歩み寄ってきた。 ﹁沢田さん、お疲れ。今回は色々と迷惑かけたな﹂ ﹁私は北川君の落ち込んだ顔も、先輩の悲しい顔も見たくなかった んだもん。そのためなら、いくらでも協力するよ﹂ 彼女があれこれアドバイスをしてくれたり、俺の目の届かないと ころでみさ子さんのことを気遣ってくれたから、最悪の事態にはな らないで済んだのだと思う。 ﹁ホント、助かった。ありがとう﹂ 礼を述べれば、﹃気にしないでいいってば﹄と、肩をポンと叩か れた。 沢田さんが俺の横に並んで、猫達が遊ぶ様子を一緒に眺める。 ﹁で、さっきの報復とかいうのは森尾さんの事?﹂ 883 ﹁うん。あれだけしつこかったから、何か動きがあるんじゃないか って。それこそ、みんなにあることないこと言って、俺たちを別れ させようとか﹂ 手が付けられないほど感情的になって、周りが見えなくなってい た森尾さんの姿を間近で見せられたのだ。ありえないことではない。 俺の言葉に沢田さんが少し考え込むような仕草をした後、まっす ぐ前を見つめて言った。 ﹁⋮⋮多分、大丈夫じゃないかな﹂ ﹁ん?﹂ どことなく確信めいた響きを含ませる沢田さんの口調に、俺は首 を傾げた。 そんな俺を見上げて、彼女は小さく微笑む。 ﹁昨日、森尾さんの家に行ったの。色んな意味で心配だったしさ。 でね、ちょっと話をしたんだけど、その時の彼女の目、今までと違 っていたから﹂ ﹁どんな風に?﹂ 俺と同じように首を傾げて、沢田さんが言葉を選ぶ。 ﹁う∼ん。上手く言えないんだけど⋮⋮、答えを見つけたって感じ かな。意地とか、執念とか、そういった感情に囚われているように は見えなかったよ﹂ 人の心情に敏い沢田さんが言うのだから、本当のことなのだろう。 それは、少しは俺やみさ子さんの話を分かってくれたということ だろうか。 人を好きになることがどういうことなのか、考え直してくれたと いうことだろうか。 ﹁そっか、ならよかった﹂ 884 安堵の息を漏らせば、沢田さんが意地悪く笑う。 ﹁モテる男はつらいねぇ、北川君﹂ ﹁別に、モテようとは思ってないんだけどね﹂ 俺が苦笑を浮かべて答えれば、 ﹁うっわ、何そのセリフ。モテない人に聞かれたら、刺されるか撃 たれるよ﹂ 呆れたような表情でしみじみ言われたのだった。 885 138︼女帝VS王女様︵17︶︵後書き︶ ●これにて﹃女帝VS王女様﹄の章は終わりです。 結構長くなってしまいましたね。お付き合いありがとうございます。 みさ子さんと森尾さんの対決はどうしても書きたかったお話の1つ です。 みさ子さんとタカを通して、みやこの恋愛観を表現してみたかった んですよね。 あくまでもみやこの個人的な感覚ですし、理想でもありますので、 現実的にはなかなかそうも行かないんですけど︵苦笑︶ さて、次の章はどんなお話にしようか思案中です。 とりあえず、﹃33歳、苺キャンディ﹄をキリの良い所︵理沙ちゃ んと野口氏の絡み︶まではさっさと終らせてしまいたいです。 だって、みやこの背後で野口氏がとびっきりの暗黒笑顔を浮かべて、 バスーカ砲を抱えているんですもん︵滝汗︶ ﹃早く、彼女を抱かせろ!﹄というプレッシャーがハンパないです ︵号泣︶ ●S系のタカが思いのほか出張りませんでしたねぇ。 期待されていた方、申し訳ありません。 ・・・って、そんなタカを待っている方、いるのでしょうか?︵ド キドキ︶ 886 S系なタカが登場するお話は別の章に用意してありますので、その 章が投稿されるまでしばしお待ちくださいませ☆ 887 139︼春雷がもたらしたもの︵1︶ ゴールデンウィークを間近に控えたある朝、食事を済ませた俺は ネクタイを結びながらテレビの画面に眼を向ける。 ﹁うわぁ。今回の連休は天気悪い日が続くなぁ﹂ 雨マークの並ぶ画面を見て、思わず苦く呟いた。 テレビの中のお天気お姉さんが言うには、今日にもまとまった低 気圧が日本上空に留まり、残念ながらゴールデンウィークは外出に 向かないとか。 気圧の急激な変化により突風や雷が発生するので、外出の際は充 分気をつけるように、とのことだ。 ﹁こりゃ、家でのんびりするしかないなぁ﹂ 出歩くのは嫌いではないが、連休だからと言ってどうしても外出 したいとも思わない。 天気の悪い中、無理して出かけていくのであれば、みさ子さんと 一緒に家で過ごす方がよほど有意義な時間の使い方だ。 ﹁よし、連休中は目一杯イチャイチャしよっと。いっそのこと、ず っとベッドで過ごすとかさ♪﹂ みさ子さんが聞いたら目を剥いて赤面しそうな朝の爽やかさから かけ離れた独り言を零し、俺はスーツの上着を羽織った。 家を出た時には薄曇だった空が、午後を過ぎた辺りから暗さが増 してきた。 かすかに雷の音も聞こえてくる。 ﹁思ったより天気が崩れるのが早かったな。傘は持ってきたけど、 出来れば家に帰るまで降ってほしくないなぁ﹂ 総務部を出て営業部に戻る途中、廊下の窓から空を見上げている 888 と、駆け寄ってきた沢田さんが俺を呼んだ。 ﹁北川君、ちょっと待って﹂ ﹁何?出した書類に不備があった?﹂ 今日の書類受理当番である彼女にそう尋ねれば、違うと首を振ら れる。 ﹁営業部に戻る前に時間ある?﹂ 顔つきからして、楽しそうな内容ではなさそうだ。こういう沢田 さんを無視することは出来ない。それはみさ子さんを心配しての顔 つきだからだ。 ﹁いいよ﹂ そう言って、俺たちは社員通用口傍の自販機に向かって歩き出し た。 それぞれが好みの飲み物を購入し、一口含む。 先に口を開いたのは沢田さんだった。 ﹁あのさ、先輩が元気ないの。休み前で仕事量が増大しているから 仕方ないんだろうけど、でも、仕事で疲れてるって感じじゃなくて ⋮⋮。理由を聞いたんだけど、“なんでもないのよ”っていうばか りでさ﹂ 心配そうに沢田さんが眉を寄せる。 ﹁みさ子先輩、どうしちゃったんだろう﹂ ふぅ、とため息をついて、彼女はレモンティーをコクンと飲んだ。 みさ子さんと沢田さんは先輩と後輩でありながら、時折その立場 や年齢の垣根を越えて凄く仲が良い。時折都合を合わせて、買い物 にも一緒に行っている。 こんなに親しい関係なのは、おそらく沢田さんだけだろう。 永瀬先輩とももちろん仲はいいが、それは大学時代からの友人で あるし、もう間もなく身内になるといった理由もあるものの、ここ 889 最近、みさ子さんとより親しげなのは沢田さんの方だ。 そんな沢田さんが、みさ子さんの顔つきがどうして暗いのかとい う理由には思い当たらないでいる。 それは、みさ子さんは自分の心内に人を入れないからだ。意識的 にも、無意識的にも。普段はあんなに仲良く接する沢田さんですら。 だから沢田さんは、春の雷が聞こえてくる今日、みさ子さんに元 気がない理由を知らされていない。 みさ子さんを思ってため息をつく沢田さんに、俺はゆるりと苦笑 を浮かべる。 ﹁そっとしておいてあげて。心当たりはあるけど、それは俺の口か らはまだ言えないんだ。心配してくれてるのに悪い。ごめんな﹂ 俺が軽く頭を下げれば、沢田さんは慌てて手を小さく振った。 ﹁北川君が謝ることじゃないよ。ちょっと前に森尾さんの件があっ たばかりだから、私、神経質になりすぎていたのかも。先輩がそう いったトラブルに巻き込まれてなければいいの﹂ みさ子さんの様子がおかしいのは個人的な事情だと察した沢田さ んは、静かに微笑む。 ﹁じゃ、そろそろ戻らなきゃ。北川君、引き止めちゃって悪かった ね﹂ ﹁気にしないでくれ。みさ子さんのこと、いつも色々気にかけてく れてありがとな﹂ ﹁それこそ気にしないで﹂ 沢田さんは小さく笑って、その場を後にした。 さっきより少し大きくなった雷鳴が、俺の耳に届く。 890 ︱︱︱春雷か⋮⋮。やっぱり、まだ“あの時”から抜け出せてない のかな? 壁に背中を預けて、紙コップの中のぬるくなったコーヒーに目を 落とした。 俺に対しても、みさ子さんは時々壁を作る。 彼氏の俺ですら、彼女自身から全てを聞かされていない。熱に浮 かされていたみさ子さんが話した過去の話は、正気のみさ子さんで はない時だったから。 寂しいけれど、悔しいけれど、例え彼氏でも不用意に踏み込んで はいけないのだ、この件は。 恋人という立場を笠に、自分の彼女が憂いている理由を無理矢理 にでも問い詰めて白状させる⋮⋮なんてことはしたくなかった。 それは彼女を心配する行為ではなく、単なる傲慢な自己満足にし か過ぎないだろう。 みさ子さんを愛しているから、彼女の口から言葉にして欲しいの だ。俺に訊かれたからではなく、俺に言わされるのではなく。 それに彼女の性格を考えれば、例え彼氏の俺でも彼女の心に強引 に踏み込むことは良しとしないだろう。 恋愛に慣れてないみさ子さんを怯えさせたくはなかった。 今の俺にできることは、いつもと変わらない態度でみさ子さんの 傍にいること。 俺のありったけの愛情を示すこと。 そして、みさ子さんが自分の心の奥に抱えるものを、自ら見せて くれる時を辛抱強く待つこと。 891 みさ子さんより年上で人生経験豊富な大人の男だったら、こんな 漠然としたまどろっこしい方法なんか取らなくても、彼女の心を開 放してあげられるのかもしれない。 だけど、逆立ちしたって、俺はみさ子さんの年を追い越せないし、 これまで培ってきた経験以上の方法を見つけることは出来ない。 こんな時、自分が無性に情けなくなる。 それでも、みさ子さんから離れることなんて絶対に無理だから、 俺は俺の精一杯で彼女を見守るしかなかった。 892 139︼春雷がもたらしたもの︵1︶︵後書き︶ ●今回の章はなんとなくしんみりとした展開ですが、タカにとって も、みさ子さんにとっても必要なんじゃないかと考えましてね。 それにしても、おかしいなぁ。 ラブコメが書きたくて女帝の執筆を始めたのに、全体的にコメディ ー要素が少ない︵滝汗︶ ●今回の章はさっくり終らせる予定です。 座右の銘が﹃予定は未定﹄というみやこですが、どうぞお付き合い くださいませ。 893 140︼春雷がもたらしたもの︵2︶ 2人でどこかに行こうかと一応は考えていたものの、連休前は仕 事が立て込み、結局何の予定も決まらないまま連休に突入。 そしてゴールデンウィーク最初の休日。この日は夜明け前から雲 行きが怪しかった。 朝を迎えてみれば、やはり遠出するような天候ではなかったので、 秘かに決めていた予定通り、俺はみさ子さんの部屋にお邪魔してい た。姉貴の知り合いから譲ってもらった彼女好みのフランス映画D VDと食材を手土産に。 あえて何の予定も立てず、気の向くままに時を過ごす。 ﹁家でゆっくりするのも、贅沢な休日よね﹂ リビングのソファーに横並びで座り、2人仲良くテレビ画面を眺 めていると、みさ子さんが何気ない感じで呟く。 俺は前にあるローテーブルに置かれたマグカップに手を伸ばし、 コーヒーを一口飲んだ。 そして右隣に座るみさ子さんをチラリと伺う。 フランス映画が流れる画面に真っ直ぐ目を遣る彼女。 だが、その表情はいつもと違っていた。 視線を逸らさず、熱心にストーリーを追っているようだが、心こ こに在らずといった様相なのだ。 その理由は、時折響く雷にある。 大好きだというフランス映画を前にして、それに集中出来ないほ ど、彼女はいまだ過去に囚われていた。 ︱︱︱よほど根深いんだな。 894 みさ子さんと付き合う前、熱に浮かされた彼女がポツリ、ポツリ と語ったあの日の出来事。 もう10年以上経っているのに、そのことを責め立てる人はもう いないのに、それでも彼女は完全に抜け出すことが出来ないでいる。 春雷鳴り響く日に起きた、“女帝・佐々木 みさ子”を生み出す きっかけを俺は知っているが、俺は知らない振りをしている。 何とかしてあげたい。 彼女の心を開放してあげたい。 そう思うものの、彼女のトラウマに不用意に飛び込んではいけな いと思う気持ちは変わっていない。 正午過ぎに彼女の部屋を訪れ、それから立て続けに3本のDVD を見れば、時刻はすっかり夕飯時。 ﹁そろそろご飯にしましょ﹂ みさ子さんがソファーから立ち上がろうとするのを、ソッと手で 制した。 ﹁俺が作るよ。新作パスタを覚えたから、味を見てほしいんだ﹂ 彼女はたまに作る俺の料理を、けっこう楽しみにしてくれている。 今はこんなことでしかみさ子さんを喜ばせることができないが、 それでも彼女が少しでも元気になってくれるのであれば何でもして あげたい。 ﹁嬉しい。じゃぁ、お願いしようかしら﹂ フワリとみさ子さんが微笑んだ。少しばかり表情が硬いがそこは 気付かない振りをする。 ﹁用意が出来るまで、お風呂に入ってて﹂ 彼女の頭を一撫でして、俺はキッチンに向かった。 895 俺が作ったベーコンとナスのトマトソースパスタを2人でお腹に 収め、みさ子さんが食器を片付けてくれている間に俺はシャワーを 借りた。 リビングに戻ってくると、みさ子さんはソファーに座って彼女が 一番お気に入りだというDVDを見ていた。 なのに、その表情はやっぱり冴えない。 今日の雷は特にひどいから、それも仕方ないのだろう。 小さく膝を抱えて座るみさ子さんをソファーの後ろから抱きしめ、 彼女に頬を寄せる。 タオルでしっかり拭いたものの、まだ少し水分の残る俺の髪が彼 女に触れても、何も言わないみさ子さん。大人しく、俺の腕の中に 納まっていた。 そのままお互い口を開くことなく、テレビから聞こえるフランス 語がリビングに流れる。 映画も終盤に差し掛かった時、感情を露にした役者のセリフに重 なって大きな雷が鳴り響けば、これまで身じろぎ一つしなかったみ さ子さんの肩が、ピクッと跳ね上がる。 彼女の顔は音の大きさに驚いた後、苦く厳しいものへとなった。 それからしばらくして俺は腕を解き、ソファーを回って彼女の前 に立つ。 そんな俺を不思議そうな顔でみさ子さんが見上げた。 ﹁どうしたの?そこにあなたがいたら見えないんだけど﹂ ﹁映画、もう終ってるよ﹂ エンドロールどころか、画面は暗く何も映していない。 みさ子さんはそれに気づかないほど、気も漫ろだったようだ。 ﹁え?﹂ 俺に言われて初めて状況を飲み込んだ彼女は、パチパチと瞬きを して改めて画面に目を向ける。 ﹁あ、あぁ、嫌だわ。ちょっとボンヤリしてたみたいね﹂ 苦笑いを浮かべるみさ子さんが、スッと俺から目線を逸らした。 896 ﹁次は何を見ようかな。タカが一杯持ってきてくれたから、迷っち ゃうなぁ﹂ DVDを選ぶ彼女の手を取りグッと引き上げて立たせると、俺は 寝室へと向かう。 ﹁ねぇ、急にどうしたのよ﹂ 引かれるままに歩く彼女の呼び掛けには答えず、寝室に入ったと ころでみさ子さんを抱き上げ、ポスン、とベッドに下ろした。 ﹁タカ?﹂ 仰向けにされた彼女が起き上がろうとする肩をやんわりと押さえ つけ、再びベッドに寝かせる。 ﹁今夜はもう休んだら?この部屋なら雷も聞こえないから、怖くな いでしょ﹂ みさ子さんが雷自体を怖がっているのではないことなど百も承知 だが、そこはあえて口にしない。 優しく優しく彼女の頭を撫で、俺はニッコリと微笑んだ。 瞳に艶を浮かべることなく、みさ子さんを見守っていると、小さ な頷きが返ってきた。 ﹁うん⋮⋮﹂ 短く答えると同時に、弱々しく息を吐くみさ子さん。何だか凄く 寂しそうで、怯えている。 その様子はまるで高校生の頃の彼女のように、今よりもだいぶ幼 い。 彼女と手を繋いでベッドの淵に腰をかけていた俺だが、上がりこ んでみさ子さんの横に寝転んだ。 そして腕の中に彼女を閉じ込める。 いつもであればこのままセックスを始める流れだが、今はただ、 みさ子さんを安心させてあげたいという想いだけ。 俺の肩口に額をつけて、じっとしている彼女の背をゆっくりと撫 897 でる。 ﹁俺ももう寝るから、このまま傍にいてあげるね。おやすみ﹂ 薄い羽布団を引き上げ、みさ子さんの額にチュッとキスを贈ると、 ベッドヘッドのランプの明かりを絞った。 雷の音は聞こえず静寂に包まれた寝室には、ごく僅かな明かりだ けが灯る。 しばらく黙っていたみさ子さんがモゾリと動くと、俺の名前を呼 んだ。 ﹁⋮⋮タカ﹂ ﹁ん?﹂ ﹁もう寝ちゃった?﹂ ﹁起きてるよ﹂ そっと彼女を抱き寄せると、みさ子さんはフゥっと息を吐く。 ﹁あのね⋮⋮、聞いてほしい話があるの﹂ そう言って、みさ子さんは春の雷にまつわる悲しい思い出を語り 出した。 高校時代、クラスメイトの川崎君にほのかな恋心を抱いていたこ と。 その結果、彼の彼女である小田さんをひどく傷つけてしまったこ と。 もう二度と誰かを小田さんのようなつらい目に合わせたくなくて、 男の人から距離を取ってきたこと。 以前に聞いた話より、更に細かい心情を訥々と語るみさ子さん。 898 俺の胸でうずくまる彼女の顔は見えないけれど、きっと、泣いて いるのだろう︱︱︱あの日、必死でこらえた涙がようやく出口を見 つけて。 全てを話し終え、みさ子さんは濡れた頬をソッと指で拭った。 ﹁だから、こんな捻くれて冷たい女になっちゃった。⋮⋮ふふっ、 嫌な女ね、私って。いつまで経っても子供みたいだし、人付き合い も上手じゃなくて素っ気無い態度ばかりだし。ホント馬鹿みたい﹂ 自虐的に笑うみさ子さんを、反射的にギュッと抱きしめる。 ﹁そんなこと言わないで。俺は知ってるよ。みさ子さんは優しさを 上手に表現できないだけで、本当は凄く優しい人なんだって。捻く れててもいいよ。素っ気無くてもいいよ。それが“佐々木 みさ子 ”の一部なんだから、俺はそんなみさ子さんも好きでいるよ。どん なみさ子さんも愛してるから﹂ 自分でも呆れるくらい優しい声でそう告げれば、腕の中のみさ子 さんは俺のTシャツをゆっくりと手に握りこむ。 ﹁そんな嬉しいこと言われたら⋮⋮﹂ ﹁俺のこと、もっと好きになっちゃう?﹂ 重い空気をかき消そうとしてわざと明るく言えば、返ってきたの は思った以上に真剣な声音。 ﹁⋮⋮これ以上、好きになんかなれない﹂ そう言って、みさ子さんは俺の胸にコツンと額をぶつけてきた。 ︱︱︱あー、もう!ホント可愛いんだから! 彼女の背中に回していた腕を解き、みさ子さんの顔と同じ位置に まで素早くずり下がった。 ﹁な、なに?﹂ 息がかかるほど顔を寄せた俺に、みさ子さんは目を大きくしてい 899 る。 薄明かりの中でも、涙に濡れた瞳が赤くなっていた。 労わるように親指でゆっくりと瞼をなぞり、その手を彼女の首裏 に滑り込ませた。 ﹁あんまりにも嬉しいこと言ってくれたから、お礼にキスしてあげ るね♪﹂ ﹁え?!﹂ グッと手に力を入れて引き寄せ、驚くみさ子さんの唇を塞いでや った。 900 141︼春雷がもたらしたもの︵3︶ みさ子さんの上唇を舌でなぞり、下唇を軽く吸う。 柔らかな唇の感触を楽しんだ後、俺は彼女の口腔内にスルリと舌 を滑り込ませる。 そして優しくみさ子さんの舌に絡めた。 彼女の甘い舌をほんの少し味わい、そして静かに重ねた唇を離す。 前戯として欲情を高めるためのキスがしたかったのではなく、俺 という存在を感じて欲しかった。 みさ子さんと想いが通じ合えたことが幸せで。 彼女と初めて身体を重ねた時も幸せで。 こうして付き合いが続いていることも幸せで。 でも、今、この瞬間がこれまでで一番幸せかもしれない。 みさ子さんが長い間一人きりで抱えてきた心の奥にある蟠りを、 彼女自身の意思で話してくれたのだ。 彼氏として嬉しく思うのは 当たり前のことだと思う。 俺だけに偽りのない弱さを見せてくれたみさ子さんと、本当の意 味で恋人同士になれたと感じた。 ﹁話してくれてありがとうね﹂ 盛大な音を立ててキスをすると、みさ子さんが真っ赤な顔で眉を ひそめる。 ﹁何すんのよ、もう!あんな暗い話を聞いてお礼を言うなんて、タ カって変な人ね。逆に居心地が悪いわ!﹂ ツンとした物言いは、彼女が照れている証。 こんなにつれないことを言っておきながら、弱々しく俺のTシャ ツを握る手はさっきと変わらない位置にあった。 901 顔をプイッと横に向けて不機嫌全開のクセに、俺の腕の中からは 出て行こうとしない。 そういうところが、俺にしてみればたまらないのだ。 ︱︱︱ツンデレ最高! 自分の脚で凛と立つ強い彼女も、過去に囚われ続けた弱い彼女も、 素直に涙を流す彼女も、意地っ張りで強がる彼女も、どれもこれも 愛しくてたまらない。 頬が緩みっぱなしの俺は、彼女を力いっぱい抱きしめる。 ﹁みさ子さん、大好き﹂ ﹁痛いっ!タカ、ちょっと加減して!これから寝るんだから大人し くしなさいよっ!!﹂ 段々と語気が荒くなっている割に、﹃放せ﹄とか﹃離れろ﹄とは 言わないところが、愛されているんだなって強く感じる。 ﹁何、そのにやけ顔!?どんな顔でもカッコ良くて好きだけど、そ ろそろ顔を戻しなさいよっ。⋮⋮ああ、もうっ、私は寝るからね!﹂ 計算されたわけではないセリフが、勢いよく彼女の口を突いた。 ︱︱︱﹃どんな顔でもカッコ良くて好き﹄なんて、サラッと言わな いでよ。 どうしてこうも、みさ子さんは俺を喜ばせる天才なのだろうか。 いつまで経っても締まりのない顔から脱せない俺に、みさ子さん は呆れ返ってベッドヘッドの明かりをパチンと消したのだった。 連休中はずっとみさ子さんの家で過ごした。 2人で買出しに行ったり、料理を一緒に作ったり、ワイドショー 902 に突っ込みを入れたりと、何気ないけれど凄く心が癒される休日を 満喫。 春雷の呪縛から解き放たれたみさ子さんは、時折雷が鳴り響いて も自然な笑顔を浮かべるようになってくれた。 連休最終日、昼食に使った食器を俺が洗っている間、みさ子さん は畳み終えた俺の洗濯物をバッグに詰めてくれている。 ﹁みさ子さん、こっちは終ったよ﹂ タオルで手を拭いてリビングに戻れば、彼女はバッグのファスナ ーを閉めているところだった。 ﹁ありがとう。あなたの荷物は全部詰めておいたわ。多分、入れ忘 れはないと思うけど﹂ ﹁まぁ、忘れ物があっても取りに来ればいいし、ここにそのまま残 してくれてもいいよ。そんなに重要なものは持ってきてないからさ﹂ ﹁分かったわ﹂ フワリと笑うみさ子さんを思わず抱きしめる。 ﹁どうしたの?﹂ 不思議そうに尋ねる彼女をキュッと抱き寄せ、サラリとした黒髪 に頬を寄せた。 ﹁なんか、帰りたくないなって﹂ みさ子さんと付き合い始めてからこんなに長い間一緒にいたこと が初めてだったから、離れることがものすごく寂しく感じる。 我ながら子供じみていると感じるが、そう思ってしまうのだから 仕方がない。 みさ子さんは困ったように笑いながら俺に言う。 ﹁そんな事言っても、明日からは仕事だもの。ここにはタカのスー ツがないから、家に帰らないと出社できないわよ﹂ ﹁分かっているけどさぁ﹂ 903 唇を尖らせる俺に、みさ子さんは俺の背中をポンポンと叩く。 ﹁ほら、放して。週末、また来てもいいから﹂ ﹁ホント?﹂ ﹁ええ。今度は私が新作の料理をタカに振舞ってあげるわね﹂ ﹁うん、楽しみにしてる﹂ 最後にもう一度ぎゅっと抱きしめて、俺はみさ子さんを解放した。 お互いにとって意味のあった特別な連休が終わり、俺は5日ぶり に自宅に戻った俺は扉を開けようとバッグのサイドポケットからキ ーケースを取り出した時、いつもと違うことに気付いた。 このキーケースには車の鍵と家の鍵しかつけていない。なのに、 これまでとは微妙に重さが違っていた。 ﹁どういうことだ?﹂ バッグを床に下ろし、ゆっくりとケースのカバーを開く。 するとそこには見慣れた2本の鍵に並んで、もう1本の鍵が納ま っていた。 俺自身がその鍵を使ったことはないが、でも、見覚えがある。 ﹁これって、もしかして⋮⋮﹂ ︱︱︱みさ子さんの家の合鍵!? それは秘かに切望していたもので、いつか口に出してお願いしよ うと思っていたもの。 それが今、目の前にある。 春雷の頃に深く傷ついたみさ子さんが、春雷の中で俺に全てを見 せてくれた。 904 これまで以上に深い付き合いを認められた結果が“彼女の家の合 鍵”という形となり、俺の手の中にある。 これこそが、みさ子さんの心の奥底まで踏み入れることが許され た証なのだろう。 ﹁まったく、もう⋮⋮﹂ 俺は緩みの止まらない口元を左手で押さえる。 直接手渡ししないところが恥ずかしがり屋な彼女らしいが、こう したサプライズの方が感動も一入だ。 ﹁やっぱり、みさ子さんは俺を喜ばせる天才だよ﹂ キーケースごと握り締めると、重なり合った鍵たちが、チャリッ という小さな音を立てた。 905 142︼春雷がもたらしたもの オマケ︵前書き︶ このところのタカが余りにもイイオトコ過ぎて、みやこ的には納得 行かない為、ちょっと可哀想なタカを書いてみることにしました。 完璧な男性キャラ&女性キャラはどうもつまらない。 ダメダメな部分があるからこそ、人間的な魅力があるのではないか と︵苦笑︶ 906 142︼春雷がもたらしたもの オマケ 連休中はずっとみさ子さんと過ごし、後ろ髪を根こそぎ引っこ抜 かれる思いで帰宅した俺はリビングにいた。部屋のど真ん中に正座 して。 そんな俺の前には、みさ子さん愛用のクッションの上に鎮座まし ますキーケースがある。 新たに仲間入りした3本目の鍵をジーッと見つめてはニヘラと笑 い、また見つめてはニヘラと笑った。 そんなことをかれこれ15分は続けている。 俺が知らないうちにキーケースに付けられた、みさ子さん宅の合 鍵。 こっそりだなんて、初々しくて可愛くて、この場にみさ子さんが いたら確実に押し倒していただろう。 ﹁合鍵、貰っちゃった♪﹂ 嬉しくて嬉しくて、身体の奥底から幸せが込み上げてきて、俺の 顔はもう、どうにもならないくらい緩みっぱなし。 今までだってみさ子さんからは信頼されていたけれど、どこか踏 み込むことを許さない雰囲気を彼女は持っていた。 それは俺のことが嫌いだとか、信頼を寄せるに値しない男だから とか、そういうことではないと思う。 要は彼女自身の気持ちの問題で、みさ子さんの心の奥に“隠され ているもの”は彼女が生きていた中で一番自分を情けなく思ってい る部分だから、俺には知られたくなかったのだろう。 だが、彼女は自分から話してくれた。そして合鍵をくれた。 みさ子さんにしてみれば、最大級の愛情表現であり、最上級の信 907 頼の証。 俺の顔がだらしなくにやけるのも、仕方がないことなのだ。 ﹁この鍵があれば、いつだってみさ子さんを夜這いできるなぁ♪﹂ 何気に寝起きの悪い彼女。 寝室に突然現れた俺になす術もなく、いとも簡単に組み伏せられ てしまうだろう。 寝ぼけて自由が利かない彼女に、いつもは出来ないような恥ずか しいアレやコレをたくさんたくさん仕掛けたい。 ﹁目を覚ましたら俺に奥まで突っ込まれてたり、とかね。⋮⋮実際 には、襲うなんてことはしないけど﹂ 以前、夜の公園で男たちに乱暴されたみさ子さんだから、例え彼 氏の俺からでもそんな風に襲われることは嫌悪を抱くに違いない。 愛して止まない彼女に、例え冗談でもそんなことをしてはいけな いのだ。 もちろん、夜這い云々は単なるおふざけ発言。実行するつもりも なければ、彼女に聞かせるつもりもない。 ﹁今度みさ子さんの家にお邪魔した時は、俺がこの鍵を使って中に 入るんだよな。なんか、照れちゃうなぁ。早く週末になれ∼﹂ 遠足前の小学生のように異常なテンションで浮かれていると、ジ ーンズの後ろポケットに入れていた携帯電話が着信を知らせた。 掛けてきたのはみさ子さん。 ﹁もしもし?﹂ 最高潮に弾んだ声で電話に出た。 ﹃タカ。⋮⋮もう、家に着いた?﹄ みさ子さんもなんとなくいつもと違う感じの声。悪戯が見つかっ た子供のようだ。 そんな彼女の様子に、再三に渡って頬が緩む。 ﹁ついさっきね。そうだ。みさ子さん、合鍵ありがとう﹂ ﹃あ⋮⋮、うん﹄ 908 その素っ気無い口調から、電話の向こうで相当顔を赤らめている 様子が簡単に伺えた。 ﹁本当にありがとう。すっごく嬉しくってさ、俺、鍵の前で正座し てるんだ﹂ ﹃︱︱︱は?﹄ 少し間をおいて素っ頓狂な声で彼女が返事するが、それにかまわ ず俺は話を続ける。 ﹁何かさ、神々しいって言うか、恐れ多いって言うか。とにかく、 俺にとってはものすっごくありがたい贈り物なんだよ。だからクッ ションに載せてさ、それを眺めて幸せを実感していたところ﹂ 一息に告げれば、みさ子さんはプッと小さく吹き出した。 ﹃何だかよく分からないけど、喜んでもらえたことは伝わってくる わ﹄ クスクスと隠しもしない苦笑が聞こえてくる。 ﹃勝手に押し付けるような形で、迷惑じゃなかった?﹄ ﹁そんなはずないよ!ずっと欲しかったんだから。いつまでも経っ ても貰えなかったら、こっそり自分で合鍵作っちゃおうって思うほ ど、欲しかったんだよ﹂ ﹃⋮⋮それ、実際にやったら犯罪だから﹄ 今度は苦笑どころか、完全に呆れている声が。 ﹁そのくらい欲しかったって事。ところで、電話掛けてきてどうし たの?俺、なんか忘れ物してた?﹂ 俺が訊けば、みさ子さんは少し声のトーンを下げてきた。 ﹃そうじゃないわ。あのね、今週末、用事が出来ちゃって、タカと 会えなくなっちゃったの﹄ ﹁︱︱︱え?﹂ 俺は耳を疑った。 ﹁みさ子さん?会えないって、ホント?﹂ 909 ﹃父方の祖母が交通事故で入院したって、さっき連絡があってね。 病院が遠いから金曜の夜にこっちを出て、日曜の夜に帰ってくるこ とになるわ。だから、今週末に会う約束はなかったことにしてもら えるかしら﹄ ﹁そ、そんなぁ。じゃぁ、来週は会える?!﹂ ﹃来週も用事があるのよ。永瀬君の家族とこちらの家族が顔合わせ することになっていてね。姉としての立場上、ちょっと顔を出して おしまいって訳には行かないの。土曜はウチに泊まって日曜日に帰 られるから、お見送りまでしないと﹄ 彼女の話を聞いて、俺のテンションは地獄の底を突き破る勢いで 底辺に落ちた。 俺が“夜這いを仕掛ける”などと不穏なことをチラッとでも考え たから、天罰が当たったのだろうか。 ものすごく残念ではあるが、変更不能な予定ならば仕方がない。 だが、諦めの悪い俺は彼女に代案を申し出た。 ﹁じゃ、じゃぁ。明日でも明後日でも、仕事が終わったらみさ子さ んの家に行ってもいい?別に新作料理をねだりに行くんじゃなくっ て、ただ、ちょっとでも会いたいんだけど﹂ すると、申し訳ない様子がありありと伝わる声音が帰ってきた。 ﹃それが⋮⋮。休みが明けたら金曜まで、ドイツ語とフランス語の 通訳として借り出されることになっていて、帰りが遅くなりそうな の。ごめんなさいね﹄ ﹁みさ子さんが謝ることじゃないよ、仕事なんだし﹂ そういう俺の顔は、さっきまでの浮かれモードから一転し、青褪 めた上に引きつっている。 ﹃そういうことで、新作料理はいずれご馳走するわ﹄ ﹁う、うん、分かった。通訳頑張ってね﹂ 910 ﹃ありがとう、タカも仕事頑張って。じゃ、切るわね﹄ プツリと切れた電話を耳に当てたまま、俺はしばらくの間動けな かった。 この合鍵を使う出番は、いつになることやら⋮⋮。 911 この章はこれで終わりますが、今回は二人の絡みを入れません 142︼春雷がもたらしたもの オマケ︵後書き︶ ● でした。期待されていた読者様、申し訳ございません。ほのぼのし た展開もいいかなぁ、なんて。 女帝VS王女様が途中で重い展開になったので、﹁次話こそは、 えへ、ごめんね♪↑本当に申し訳ないと思ってるのか? ● 明るいストーリーにしよう!﹂と意気込んでいたにも関わらず、書 き上がったのはしんみりテイストのこのお話。まさに、予定は未定 ︵笑︶ でも、タカとみさ子さんにとって、これは外せないんじゃないかな と思いましてね。 2人が互いの片想い期間を抜け、恋人となり、そして付き合い始め て。 ところが、心を許しあえる存在になったはずなのに、未だタカに心 の影を見せ切れていないみさ子さんがいたんですよ。 このまま話を進めたらダメなんじゃないか、と王女様執筆後に気が 付きました。 ﹃作者のクセに、気付くの遅いよ!﹄という数多の突込みが聞こえ てきそうです︵泣︶ みさ子さんの弱さを克服することが、2人の絆を深めることであり、 またこの作品のサブテーマが﹁みさ子さんの心の成長記︵苦笑︶﹂ なので、今では書いてよかったと思いますし、必要だったと感じて います。 912 ● これにて、﹁女帝VS年下彼氏﹂第2部はおしまいです。 とりあえず、2人が本当の恋人同士となったところで一区切り。 いかがでしたか。 タカとみさ子さんの関係の深まりを感じていただけたでしょうか。 第3部をどう展開させるか、只今ちっこい脳みそフル回転で頑張 っていますよ。 次の章からはほんの少しだけ結婚を匂わせる展開を織り込めれば いいなと考えています。 最終的に2人は結婚に行き着くようにと考えていますが、それを 執筆するのはもうしばらく先になることでしょう。 ちなみに、プロポーズのシーンは既に用意してあります。 このシーンが無事にお披露目できるように、なんとか書き進めな ければ! あと、読者様のリクエストにもお応えしたいなぁ。 リクエストで一番多いのは、﹁タカのライバル出現﹂ですので、 今後その辺を絡ませる予定です。 その他にも、頂いたリクエストのうち﹁浴衣﹂と﹁縛り︵笑︶﹂ でネタ作り中。 でも、ざっくり漠然としたネタ出ししかしていませんので、どう なることやら⋮。 どうしようもない作者ですが、これからもお付き合いしてやって くださいませ。 913 143︼メールにご用心︵前書き︶ 前話のタカがちょっと不憫だったので、救済措置としてこの話を 急遽作りました。 ⋮⋮果たして、救済になっているのだろうか︵苦笑︶ 914 143︼メールにご用心 SIDE:みさ子 ある日の昼休み。 私はいつものように総務部に一人残って、持参したお弁当を食べ ている。 そこに、部長に頼まれてお使いに出ていた沢田さんが戻ってきた。 ﹁ご苦労様。今日は風が強かったから、大変だったでしょ﹂ おまけに数日続いた晴天のせいで地面が乾き、埃が舞いやすい。 案の定、沢田さんの目が少し赤くなっている。 ﹁はい、目がゴロゴロします﹂ 彼女は化粧ポーチから目薬を取り出し、コンタクトレンズを外し た。 数滴落とした後に瞬きをする、ということを数度繰り返し、そし てようやく目に入った埃を出せたようだ。 ﹁やっとすっきりしたぁ。風のある日は、コンタクトしていると不 便ですね﹂ ティッシュで目元を拭った沢田さんが、はぁ、と息をつく。 ﹁みんなそう言うわね。私はずっと眼鏡しかかけてこなかったから、 そのつらさはよく分からないけど。ねぇ、沢田さん。あなた、眼鏡 は持っていたわよね。風のある日だけでも、眼鏡にしてみたら?﹂ ﹁⋮⋮いえ、出来ないんです﹂ 彼女はどこか憎々しげにそう答える。 ﹁どうして?ああ、眼鏡を長時間かけると、目頭の辺りに負担がか かって、頭痛がするから?﹂ 眼鏡をかけ慣れない人は、この頭痛に悩まされるという。 私の問に、彼女は一層憎々しげに口を開いた。 915 ﹁そういった身体的なことではなく⋮⋮、いうなれば、精神的な問 題でしょうか﹂ ﹁はぁ?﹂ 精神的な問題で眼鏡が掛けられないとは、どういうことだろう。 私は見当が付かずに、首を捻る。 そんな私の表情から察したのか、沢田さんが説明を始めた。 ﹁以前、今日のように風が強い日にお使いを頼まれた事がありまし て、眼鏡を掛けて出かけたんです。そうしたら、仕事中の彼氏に偶 然見られて⋮⋮﹂ 沢田さんの彼は引越し業だと聞いている。街中をしょっちゅう車 で走っているので、何気なく歩いていても、よく会うのだとか。 ﹁うん、それで?﹂ ﹁いきなり車を降りてきて、私に駆け寄ってこう言ったんです。“ 美月の眼鏡姿、女性教師みたいで、すげぇエロい。やっべぇ、マジ で俺のツボなんだけど!ね、今すぐ押し倒してもいい?”と。それ はもう私がドン引きするほどの興奮顔で﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮は?﹂ 私は沢田さんの言葉に呆気に取られ、ポカンとしてしまった。 ︱︱︱眼鏡姿が、何ですって? 言葉を無くした私に、沢田さんが今にも舌打ちせんばかりの顔で 話を続ける。 ﹁それ以来、眼鏡は掛けていませんし、掛けたくもありません。ち なみに、眼鏡はその日のうちに叩き壊しました﹂ ﹁そ、そうなの﹂ 何て言うか、沢田さんの彼氏は面白いというか、発想が吹っ飛ん でいるというか。 まぁ、なんだかんだあっても、結局は沢田さんと彼はとても仲が いいのを私は知っている。 916 こうして話している間にも、沢田さんの携帯がメールを受信して いた。 ﹁ちょっと失礼します﹂ 一言断った彼女は携帯を開く。 案の定、そこには彼からのメールが届いていたようだ。 ﹁仕事で手が離せないくせに、わざわざ返信してこなくても﹂ 素っ気無く呟いてはいるが、画面に目を落とす沢田さんの顔はち ょっと嬉しそう。 ﹁相変わらず仲がいいわね﹂ 私が微笑むと、沢田さんははにかんだ笑顔を返してくれる。 ﹁メールのやり取りぐらい普通ですよ。みさ子先輩だって、北川君 とメール交換してますよね?﹂ そう訊かれて、困ったように笑うしかなかった。 私は用事がある時にしかメールを送らない。しかも、ほぼ用件の みの短文だ。 彼に送るメールは俗に言う黒メールというもので、デコメールな んてありえないし、各社共通の絵文字ですら使わない。 妙に照れくさくなってしまって、どうにも駄目なのだ。 それでも、そんな私の性格をよく分かっているタカは、どんなに 素っ気無いメールを受け取っても、一切文句を言わない。 ﹁電話と違ってメールはその場で出なくても済みますから、どんど ん送ればいいのに。仕事で疲れている時に先輩からメールが送られ てくると、北川君の励みになりますよ﹂ 沢田さんからの提案に、私は素直に頷けないでいた。 ﹁そういうものなのかしら?なんだか、迷惑になってしまうような 気がして﹂ ﹁あの北川君がみさ子先輩からのメールをそんな風に捉えるなんて、 絶対にありません﹂ 沢田さんにニッコリ言い切られて、私はちょっと顔が赤くなる。 917 ﹁どんな内容でもいいんですよ。短く“お疲れ様、頑張って”とか。 そこに絵文字があれば、更にいいんですが﹂ ﹁だけど、私は絵文字が使い慣れてなくて﹂ 携帯にはいろいろな表情やマークの絵文字が登録されているが、 どんな時にどんなものが適しているのかいまいち理解できない。 だから、つい文字ばかりになってしまっていた。 いつだったか、参考までに妹の留美が永瀬君に送るメールを見せ てもらった事がある。 しかし数文字おきに絵文字が使われていたそのメールは、私にし てみればまるで暗号文のようで、ちっとも理解できなかった。 ﹁無理にとは言いませんけどね。でも、機会があればぜひ挑戦して みてください﹂ ﹁⋮⋮うん、そうね﹂ なんともはっきりしない返事をする私だった。 その日の午後は営業部でデータトラブルが起こったようで、以前 のように総務部の社員をパソコン要員として貸して欲しいとの連絡 が永瀬君から入った。 ﹁今日は差し迫った仕事がないから、8人ほどそちらに向かわせる 事が出来るわ﹂ ﹃すげぇ、助かる。ウチの部の人間はそこまでパソコンに強くない から、こういう時は参るよ﹄ 疲れた声の永瀬君。 どうやら、思った以上に深刻な状況のようだ。 ﹁よかったら、私も手伝いに行くわよ﹂ 入社して以来、毎日パソコンと向き合ってきたのだ。総務部の中 でも、そこそこ自信がある。 918 ﹃佐々木が来てくれたら百人力だけど、今、そっちの部長や課長が いないんだろ?そんな時にお前が席外すのはマズイって﹄ 永瀬君が言うことはもっともだ。 新入社員たちはまだまだ仕事に慣れていないので、彼らが指示を 仰ぐ際に私がこの場にいないのは駄目かもしれない。 ﹁そうね。じゃ、後で飲み物でも差し入れするわ﹂ ﹃サンキュ。さて、さっさと片付けちまうかな﹄ ﹁ふふっ、頑張って﹂ 私は内線電話の受話器を戻すと、パソコン処理に強い社員たちに 声を掛けた。 永瀬君からの電話を切って、2時間。 総務の社員が戻ってこないところを見ると、そうとう手こずって いるようだ。 ︱︱︱そういえば、今日のタカは外回りがないから、今頃営業部で 大変な目に遭ってるのよね。 ここで、先ほど沢田さんと交わした会話がふと過ぎる。 ﹃仕事で疲れている時に先輩からメールが送られてくると、北川君 の励みになりますよ﹄ 今は午後3時を回り、一時休憩とっている社員が多い。携帯電話 を弄っても、周囲から咎められることはないだろう。 私はデスクの引き出しに仕舞っていた携帯電話を取り出し、メー ル作成画面を呼び出す。 何を書こうか暫く考え、﹁よし﹂と短く呟いた後、指を動かした。 919 ﹁これなら短いし、分かりやすくていいわよね﹂ 画面を眺めて1つ頷くと、私は送信ボタンを押した。 ◆◇◆◇◆ SIDE:タカ 総務部から応援要員が8人来て、外回りがなく手の空いている営 業部の社員も作業に当たる。 新入社員のミスで飛んでしまったデータはかなり膨大で、しかも そのどれも入力が面倒なものばかり。 ﹁まさか、USBのデータを丸々消されるとはなぁ﹂ 永瀬先輩が苦∼いため息をつく。 その横で入力作業する俺も、重∼いため息をつく。 これまで数年に亘って書き込まれたメモリーには、営業部にとっ て欠かせない情報が満載だ。 ﹁紙ベースの資料が残っていたのが、不幸中の幸いでしたねぇ﹂ 俺はデスクに載せられた書類に目を向けた。 しかし、積まれた紙の高さを見れば、思わずげんなりしてしまう。 ﹁はぁ、なんか心が折れそうですよ﹂ ﹁そう言うな。一旦休憩して、気分転換してこい﹂ ﹁そうさせてもらいます﹂ 目頭を指でグリグリとマッサージした俺は、固まった背中の筋肉 を解しながら立ち上がる。 その時、上着のポケットに入れていた携帯電話が震えた。 ﹁なんだろ?﹂ 920 携帯を開くと、メールの着信を知らせるアイコンが表示されてい る。 ︱︱︱こんな時間にメールを送ってくるなんて、誰だろう。 ボタンを弄って受信画面を開けば、送り主の欄にみさ子さんの名 前があった。 ﹁え?﹂ 今まで彼女が仕事中にメールなんてしてきた事などなかったのに、 一体どうしたのだろう。 なにか大変な事が起きているのだろうか。森尾さんの時のように。 俺は急いで画面を進める。 タイトルには﹃お疲れ様﹄とあり、本文には⋮⋮。 赤いハートマークが1つあった。 初めてもらった仕事中のメール。 オマケに初めての絵文字。しかもハートマーク。 画面の真ん中にちょこんとある“それ”は、テレ屋なみさ子さん らしく、なんとも可愛らしい。 ﹁うおおおおおおおおおっ!﹂ 感激のあまり、携帯を握り締めて大絶叫する俺。 その声に驚いて、営業部にいる全員が固まった。 ﹁な、な、なんだ!どうした、北川!?﹂ ブンブンと腕を振って狂喜乱舞する俺の肩を永瀬先輩が掴んで、 必死に落ち着かせようとするが、その程度で興奮が収まるはずもな く。 何度も絶叫しながら、俺はひたすら腕を振る。 そして、その腕が振り下ろされた場所が俺のパソコンのキーボー 921 ド上で。 しかも、保存を掛けるのを忘れていて。 結果、これまで入力したデータが一瞬で消えた。 励ますつもりのみさ子さんからのメールは、タカの仕事の邪魔に なってしまった。⋮⋮かもしれない。 922 143︼メールにご用心︵後書き︶ ●タカは爽やか好青年で、とっても素敵な男性なのに、たまに残念 なところがあります︵苦笑︶ でも、こういうキャラの方がみやこ的には好みなんですよ。 完璧なキャラというのは、どうも食指が動かない。 タカのように少しおっちょこちょいとか、冷静さに欠けるところと か。 野口氏のように、仕事も容姿も完璧なのに溺愛の方向が変態サンだ ったりとか。 そのほうが人間味があって動かしやすいです♪ 923 144︼変わり始めた彼女︵1︶ 勤務中のみさ子さんは基本的に表情も変わらないし、態度も素っ 気無い。 ただそれは単なる意地悪ではなく、彼女なりの理由があってのこ とだった。 そんなみさ子さんの表面的な態度しか見ていない社員達は、彼女 のことを侮蔑の意味で﹃女帝﹄と陰で呼び、恐れ、そして嫌悪して いた。 しかし、最近では﹃鉄壁の女帝 佐々木みさ子﹄がほんの少し崩 れつつある。 本来は心根が素直な彼女であるし、俺と付き合うようになって、 そして春雷の呪縛から解き放たれたこともあってか、みさ子さんの 表情が僅かに緩む機会が増えたように思う。 視線が柔らかくなってきた。 口元が穏やかになってきた。 言葉が優しくなってきた。 態度が親しみやすくなってきた。 そして、前髪や眼鏡で隠れているとはいえ、みさ子さんの顔立ち は綺麗だ。 だから、僅かに表情を和らげるだけでその魅力が伝わり、見る人 が見れば彼女の良さが分かるだろう。 もちろん顔立ちだけではなく、彼女の人格は理想的な女性像その もの。 924 可愛くて、いじらしくて、恥ずかしがり屋で、料理が上手くて、 所作も優雅で、なにより恋人の俺のことを信頼してくれている。 惚れた欲目ではなく、みさ子さんは本当に素晴らしい女性だから。 爽やかな5月も終わり、6月の中旬を迎えると社内の業務は落ち 着きを見せる。 とはいえ、けして暇ということはなく、提出する書類は相変わら ず。 今日も数枚の書類を持って総務部へと向かった。 ︱︱︱書類カウンターの受付、みさ子さんだといいなぁ。 そんなことを願いつつ足を踏み入れるも、残念ながら担当は新入 社員とその教育係の社員だった。 残念に思いながらザッと総務部内を見回して彼女の姿を探せば、 自分のデスクの横に立っていた。 どうやら庶務課の寺田君がみさ子さんの椅子を直していて、それ を見守っているらしい。 寺田君は今年の新入社員で、男性にしてはちょっと細身で小柄。 多分ギリギリ165センチある位。 丸いフレームの眼鏡が似合う彼は、ビジネススーツを着ているの にも関わらず、可愛らしい印象を受ける。 そんな彼のことを、﹃細かいところまで気を回して動いてくれる 働き者よ﹄と、みさ子さんが言ってたっけ。 暫く蹲って工具を弄っていた寺田君が、﹃よしっ﹄という呟きと 共に得意げに立ち上がった。 ﹁直りましたよ。座ってみてください﹂ 925 寺田君の言葉に小さく頷いたみさ子さんが、ゆっくりとその椅子 に腰を下ろした。 ところが留め具の固定が甘かったのか、ガクンと座面が大きく下 がったのだ。 ﹁きゃっ﹂ いきなり20センチほど身体が落ちて驚いたみさ子さんが、小さ な悲鳴を上げる。 その状況に周囲は青褪め、寺田君は紙のように真っ白になった。 総務部全体が一気に重苦しい空気に包まれる。 ﹃誰もが恐れる女帝にこんな仕打ちをして、ただで済むはずがない !﹄ おそらく俺と沢田さん以外の全員が心の中で呟いたことだろう。 しかし、この静まり返った空気を破ったのは、他ならぬみさ子さ ん自身だった。 ﹁プッ⋮⋮、ふふっ﹂ 下がった座面に座ったまま、軽く押さえたみさ子さんの口元から 小さな笑いが洩れる。 ﹃嘘だろ!あの女帝が笑ってる!?﹄ と、みんなが唖然とする中、笑い続けるみさ子さん。 ﹁ふふっ。あぁ、驚いたわ﹂ そう呟き、何事もなかったかのようにスッと立ち上がる。 ﹁人間って驚くと声も出ないって言うけど、本当に驚いた時って笑 ってしまうのね。初めて知ったわ﹂ 暫く肩を震わせて笑っていたみさ子さんは、ふぅ、と息を吐いて ようやく笑いを収めた。 そこでようやく寺田君が我に返る。 ﹁も、申し訳ありません、佐々木チーフ!こんなことになるなんて ⋮⋮。も、もちろん、悪戯なんかではないんです!﹂ 926 ただそこにいるだけで存在感ありまくりのみさ子さんに対し、半 泣きになって必死で謝る寺田君。 ﹁本当に申し訳ありません!﹂ やりすぎなくらいに頭を下げ、何度も何度も謝罪する彼に、みさ 子さんは﹃いいのよ﹄と声を掛けた。 ﹁あなたがそんなことをする人だとは思ってないもの。例えそうだ としても、この私に悪戯を仕掛けるなんて、かえって箔が付くんじ ゃない?﹂ 背の高い彼女がチロリと視線を下ろす。でも、瞳の奥はすごく優 しい。 寺田君はみさ子さんがその場の雰囲気を和ませようと、わざと冗 談めかしたことを口にしているのだと気付き、その表情に少し落ち 着きが見えた。 ﹁滅相もないですっ。尊敬する佐々木チーフに、冗談でも悪戯なん かしません﹂ ビシッと直立不動でそう言った彼に、みさ子さんはレンズの奥の 瞳を更に細める。 ﹁ふふっ、まぁいいわ。この件はもう終わりにしましょ、怪我をし たわけでもないんだし。さぁ、仕事に戻りなさい﹂ いつもの女帝より優しい顔つきで、みさ子さんはその場を締めた。 ︱︱︱流石、みさ子さん。優しくてカッコいい。 俺がみさ子さんに見惚れていると、俺の前で順番を待っていた他 の部の男性社員達が小さな声で話し出す。 ﹁なんだ。冷たいだけの女じゃないのか﹂ ﹁驚いた時の悲鳴とか笑った時の顔とか、意外と可愛いんだな﹂ ﹁なんか、ギャップがあっていいかも﹂ ﹁見た目はきつそうなのに、優しいよな﹂ 927 そんな呟きを耳にして、 ︱︱︱そんなこと、俺はずっと前から知ってるよ! 誤解なくみさ子さんを見てもらえたことに嬉しさを感じるが、そ の何倍も胸の奥がチリチリと痛い。 俺以外の人間が、みさ子さんの本当の魅力に気付いた事がちょっ と悔しくて寂しい。 まるで自分だけが見つけた宝物を、誰かに奪われてしまったかの ように。 928 144︼変わり始めた彼女︵1︶︵後書き︶ ●お待たせしました。いよいよ第3章がスタートしました♪年の差 カップルがぶつかるであろう壁がこの章のテーマです。 まぁ、そんな重々しく大それたものは書かない︵書けない⋮︶ので、 これまでと同じように楽しんでいただけたら嬉しく思います。 ●さて。 かねてからの﹃ラブコメ書きたい病﹄がとうとう発症しまして︵苦 笑︶、なろうサイトにて﹃タンポポと黒豹﹄という作品の連載を開 始しました。 のちのち、彼役の竹若が苺の野口氏よりもヤバい感じになります。 ⋮いや、もうなってるか︵爆︶ それと。 やはりなろうサイトにて﹃ワンピースとダースベーダーと私﹄とい う花粉症の時期にぴったりのコメディを連載しています。 こちらはリンクを貼っていませんので、みやこの通常ページより作 品に入ってください。 どちらもどうぞ宜しくお願いします♪ 929 145︼変わり始めた彼女︵2︶ 総務部でのそんな一件があって以来、みさ子さんに対する皆の印 象が少しずつではあるが和らいでいるように思える。 これまでは彼女が書類受理担当だった時のカウンター前には、そ れこそ死地に赴く兵士達のような社員達がスラリと並んでいたのだ が、今では彼らの表情に切羽詰った悲壮感は無い。 いや、ヒシヒシと伝わる緊張感はいまだに残ってはいるものの、 間違いを指摘された後の彼らの口から、みさ子さんに対する憎々し げな言葉が吐かれる事は目に見えて少なくなった。 そして、これまで沢田さんや永瀬先輩などの極親しい社員達以外 からは何事も遠巻きにされていたみさ子さんだが、仕事以外のこと も話しかけられるようになったようだ。 それは女性社員よりも、男性社員との接触の方が多いように見受 けられる。 ﹁これって良い事なんだろうけど⋮⋮﹂ 終業後、会社の裏の空き地で猫達を眺めている俺の口から、ポツ リと洩れた呟き。 俺と付き合うことでみさ子さんの頑なだった殻が崩れてきたこと は、彼氏として嬉しい限りだ。 しかし本音では、誰も知らなかった“真の佐々木みさ子”が俺以 外の人の目に映る事が、たまらなく嫌だった。 悔しさと共に、うっすらと恐怖すら覚える。 いつの日か、俺以外の男にみさ子さんが攫われてしまうのではな いかという恐怖。 素のみさ子さんは、本当に、本当に素敵で可愛い女性なのだ。 そんな彼女が、誰かに見初められないという保証は無い。 930 ﹁俺としてはこれまでと同じく、素っ気無い態度で仕事していて欲 しいんだけど⋮⋮。でも、こんな心の狭いことを言っていたら、み さ子さんに嫌われちゃうかなぁ﹂ 男ならどんな状況でも受け入れてドンと構えているべきなのだろ うが、彼女より5歳下の俺は、まだまだ子供のようだ。 余計な心配ばかりがとりとめもなく先に立ち、ため息が止まらな い。 みさ子さんが簡単に心変わりするような女性ではないことは、恋 人である俺がよく知っている。 恋愛に不器用な彼女なりに、精一杯俺を愛してくれているのもよ く分かっている。 みさ子さんに対しての不安ではない。 みさ子さんを取り巻く周囲の変化が不安なのだ。 ︱︱︱こんなこと考えるなんて馬鹿だとは思うけどさ⋮⋮。 大きくて深いため息をついていると、こちらに近付いてくる足音 が耳に届く。 ﹁どうしたの?﹂ 仕事を終えた彼女が裏庭にやって来た。 そして肩を落とした俺の姿を見かけるなり、駆け寄って顔を覗き こむ。 ﹁仕事が大変?それとも、また何か厄介ごとに巻き込まれてるの?﹂ 風に吹かれて頬にかかった俺の髪を、みさ子さんはほっそりとし た指でソッと払ってくれた。 ﹁私に手伝えることはある?何でも言って﹂ 俺以上にあれこれと仕事を抱えて疲れているはずなのに、いつで 931 も俺のことを優先して考えてくれるみさ子さんの優しさが嬉しくて、 つい抱きしめてしまう。 ﹁ちょ、ちょっと、タカ!﹂ とたんに顔を赤らめて、俺の腕の中から逃げ出そうと身を捩った り、俺の胸を手で押し返したり、躍起になる彼女。 ﹁もう、何するの!?放してよっ﹂ キッと、下から切れ長の瞳が睨み付けてくる。 だけど、俺の腕が緩むことは無い。 ﹁ごめん。ちょっと、このままでいさせて﹂ ギュッと抱きしめて、みさ子さんの肩口に額を押し付ける。 すると、これまで暴れていたみさ子さんの動きが静かになった。 ﹁⋮⋮タカ?﹂ 気遣わしげに俺を呼ぶ声に、小さく首を横に振った。 ﹁なんでもないんだ。ただちょっと疲れちゃったから、みさ子さん を補充させて﹂ わざとおどけて言って見せたが、聡い彼女は僅かに震える俺の声 に気づいたようだ。 少し間を空けた後、俺の背に華奢な腕を回し、やんわりと抱きし め返してくれる。 ﹁仕方ないわね。しばらく大人しくしていてあげるから、早くいつ もの明るいタカになって﹂ 俯く俺の頭にそっと頬を寄せて、みさ子さんは優しい声でそう言 ってくれた。 子供染みた俺に対しても呆れることなく、やんわりと受け入れて くれるみさ子さん。 こんな時、彼女が“大人の女性”だということも、俺よりも人間 的器が大きいことも、まざまざと見せ付けられる。 そして、﹃こんな俺が本当にみさ子さんに相応しいのだろうか?﹄ 932 という、不毛な疑問に囚われてしまう。 彼女との年齢差を考えても仕方が無い。 会社での役職の差を取り上げても仕方が無い。 そんなことはよく分かっている。 だが⋮⋮。 ﹁大丈夫?﹂ すっかり黙りこんでしまった俺に、みさ子さんが声をかける。 ﹁大丈夫だよ。みさ子さんのおかげで復活できた﹂ そう言って、俺は顔を上げて微笑を返した。 正直なところ、心の奥で燻る不安は消えてなんかいない。 しかし、いつまでも彼女に心配かける情けない男になんてなりた くないのだ。 みさ子さんに心配かけるのは不本意だし、それに、自分の器の小 ささを彼女に悟られたくなかった俺は、いつものようにニッコリと 笑いかける。 ﹁帰ろうか﹂ 少し乱れた前髪をかき上げた俺をみさ子さんはじっと見つめてい たが、 ﹁そうね﹂ と、返しただけでそれ以上は無いも言ってはこなかった。 933 146︼変わり始めた彼女︵3︶ 今年は梅雨明けが遅く、7月に入ってもジメジメとしたすっきり しない天気が続いていた。 今日も朝から曇り空で、シトシトと小雨が降り続いている。 どこまでいっても雲の切れ間がなく、空には濁った灰色が一面に 広がっていた。 それはまるで今の俺の心の中のようだ。 どうしたらいいのか見当もつかないモヤモヤとした感情を抱えた まま、日々は過ぎてゆく。 自分のこと以外には聡いみさ子さんだから、どんなに俺が取り繕 ったところで何かしら鬱屈としたものを抱えているということに気 付いているようだ。 その事には直接触れずにやんわりとぼかしながら、そして口調も 表情も心配気に尋ねてくる。 しかし、無理には聞き出そうとはしてこない。 しつこく追求してこないのは、俺に対する興味や愛情が薄いから ではなかった。 俺の性格や男のプライド、そういったものを彼女なりに諸々考え て、俺が言い出すか、あるいは心の中での葛藤にケリをつけるのを じっと待ってくれている。 そういった辛抱強い彼女を見ると、何となく自分が矮小な存在に 思えてしまう。 これが逆の立場だったら、﹃なんで話してくれないんだ!﹄と、 ギャーギャー騒ぎ立ててみさ子さんに詰め寄ってしまうかもしれな 934 い。 ﹁こういうところが、まだまだ子供ってことなんだよなぁ﹂ 外回り中の社用車の中、信号待ちで止まった俺はハンドルにもた れるようにしてポツリと呟く。 こんなことを不安に思う日が来るなんて、付き合い始めた時は考 えもしなかった。 苦しい片想いがようやく実った事が嬉しくて嬉しくて、そしてみ さ子さんの恋人として傍にいる事が幸せで幸せで。 今までに葛藤や不安を抱えたこともあったけれど、それは解決す る手立てがあった。 だけど、年の差を埋める方法は見つからない。 ﹁そんなの、気の持ちようで何とかなるんだろうけどさ﹂ ため息と共に、またポツリと呟く。 こんな時、つい考えてしまう。自分が彼女より年上だったならば、 と。 みさ子さんより少しでも人生経験が長ければ、今の俺のように卑 屈にならなかったかもしれない。 彼女を丸ごとすっぽり包んで、年上の余裕でどっしりと構えて対 処できたかもしれない。 もし、俺がみさ子さんより年上であれば、もっと、もっと、彼女 を幸せに出来たのかもしれない。 考えたところで無意味なものしか生み出さない思考が、俺の頭を 駆け巡る。 ﹁ははっ、馬鹿だな俺って﹂ ようやく信号が青に変わり、アクセルを踏み込む俺の口からは乾 いた笑いが零れた。 935 それ以降も、自分ではどうすることも出来ない思考のループから は抜け出せず。 そんな俺は﹃みさ子さんとの距離を置けば彼女は元の女帝に戻っ て、以前のように他の男の目には留まらないのではないか﹄という、 それこそ馬鹿みたいな思いに至ってしまったのだった。 社内では極力みさ子さんとは接しない。 もともと営業部と総務部はフロアがぜんぜん違うし、書類を提出 しに行く時くらいしか総務部に出向くこともない。 それだって、みさ子さんが書類受理カウンターの担当日を外せば、 顔を合わせることもなくなる。 そしてメールや電話はしょっちゅうするけれど、仕事が休みの日 でも彼女と一緒にいることは不自然にならない程度で避けるように なった。 運がいいという表現もおかしいかもしれないが、この時ちょうど 新規開拓した大口の契約が大詰めに差し掛かっており、仕事がハン パなく忙しかったのだ。 だから、結果として就業時間中は打ち合わせや書類作成に忙殺さ れ、休みの日はその疲れを癒す為に費やすことになってしまってい た。 だが、みさ子さんは文句一つ言わず、携帯の留守電に励ましと労 わりのメッセージを残してくれたり、俺の体調を気遣うメールをま めに送ってくれている。 金曜の夜。 2時間残業して、途中のコンビニで夕飯用として適当に弁当と飲 み物を買い込み、疲れた足取りでアパートに辿り着いた。 936 スーツの上着とネクタイを床に放り投げ、疲れた身体も床に投げ 出した。 仰向けでゴロリと転がり、大きく息を吐き出す。 そんな時、みさ子さんからのメールが届いた。 “今日もお疲れ様。 仕事で頑張っているタカを応援しているけど、頑張り過ぎていな いか心配。 きちんと食事を摂ってる? 私の料理でよかったらいつでも差し入れするから、遠慮なく言っ てね。 おやすみなさい” ﹁相変わらず優しいなぁ、みさ子さんは﹂ 彼女の綺麗な微笑を思い浮かべ、メッセージが表示されている携 帯電話の画面を指でソッとなぞる。 みさ子さんに会いたい。 あの穏やかで優しい笑顔を見つめて、華奢でしなやかな身体を抱 きしめたい。 彼女の存在を全身で感じたい。 でも⋮⋮、今は会えない。 937 146︼変わり始めた彼女︵3︶︵後書き︶ ●ご無沙汰し過ぎて、本当に申し訳ありません。 しかも久々の更新が暗い内容で⋮⋮。 でも、タカとみさ子さんにはこういった葛藤のシーンがあっても いいのかなぁと思いまして。 世の中には年の差のある恋人や夫婦が数多おりますので、多かれ 少なかれ皆様年の差を気に掛けるのではないかと思っています。 年上であること。 年下であること。 そんな葛藤を抱える二人を書こうとしていたら、こんなどんより した展開に。 以前に投稿していた﹁年下の彼女2﹂では彼氏が年上であったの で、﹁女帝﹂ではそれとはまた違った悩みや葛藤をどう表現するの か、試行錯誤している毎日です。 それでも、なんとかハッピーエンドに辿り着けるように頑張りま すので、どうか皆様、気長に温かく見守ってやってくださいませ。 ちなみに。 みやこは旦那様より5歳年下ですが、基本的に超絶能天気な性格 ゆえ、一切不安も葛藤もありません︵爆︶ だって、みやこはみやこ以外の存在にはなりえませんので、悩ん だって仕方がない。 他の事では胃に穴が開くほど悩みまくっていますがね︵苦笑︶ 938 逆に旦那様は、ふとした拍子に5年の差を感じて凹んでいます︵ 子供の頃のお菓子の値段の違いとか、当時の電化製品の普及状況の 違いとか︶。 いちいちしょげる旦那様が面白い⋮⋮、いえ、可愛らしい★ ●とある読者様からの﹁9月1日で女帝が4周年ですね﹂というメ ッセージを頂きました。 ﹁もう、そんなに経つんだなぁ﹂と感慨にふけりつつ、﹁4年経っ ても完結していないなんて!﹂と青ざめたり︵泣︶ みやこが小説を書き続けられるのも、読者様からの温かい応援が あってこそです。 これからも応援していただけたら、心より嬉しく思います。 感想のみならず、ご意見がございましたら遠慮なくお寄せくださ い。 みやこの作風や作品の世界観など、どうしても譲れない事もあり ますが、寄せられたご意見は参考にさせていただきます。 この先もどうぞ、みやことみやこ作品をよろしくお願いいたしま す。 939 147︼変わり始めた彼女︵4︶ 新規開拓した大口のお客様との契約が、どうにか無事に成立へと 至ることができた。 おかげでようやく時間的にも体力的にも余裕が出てきたのだが、 しばらくみさ子さんとの距離を取ってしまったせいで、どういう顔 で彼女に会えばいいのか分からなくなってしまっていた。 もちろん会いたい。 だけど、心の奥でずっと燻っていたモヤモヤがいまだに晴れる事 がなく、みさ子さんに会いたいと思いながらも踏ん切りがつかない 毎日。 なのでこうして、総務部の入口から仕事に励むみさ子さんを遠目 で眺めていたりする。 ﹁なんで、こんな所にいるのよ﹂ まるで覗きのようにコソコソと扉の陰に立っていたら、後から声 を掛けられた。 ビクッとして振り向いたら、沢田さんが変な顔をして俺を見上げ ていた。 ﹁書類を出すの?⋮⋮って、何も持ってないじゃない。だったら、 何しに総務に来たの?足りない備品でもある?﹂ 総務部庶務課に所属している沢田さんは、社内業務の細々したサ ポートが仕事だ。 各部署で使用している備品の管理や、社内設備の点検と修理など、 一見すると地味な仕事だがとても重要なことだ。 何かと聡い彼女にはうってつけの部署だと思う。みさ子さんも沢 田さんの仕事ぶりをいつも褒めている。 940 部下には厳しい︵自分にはもっと厳しい︶立川総務部部長も、沢 田さんのことを認めていた。 そんな優秀な同期に思い切り怪訝な顔を向けられ、俺は言葉に詰 まってしまう。 ﹁あ、いやっ、そのっ﹂ 確かに手ぶらで総務部の入口に立っていたら、明らかにおかしい。 なにか適当な言い訳をしようにも、洞察力がハンパない沢田さん には通用しないだろう。 更に言葉に詰まる俺に、彼女がフッと頬を緩めた。 ﹁それとも、愛しの恋人に会いに来たとか?﹂ クスクスと、ほんの少し意地悪く笑う沢田さん。 だけど、すぐに真面目な顔つきに戻って自分で自分の言葉を撤回 した。 ﹁単純にそんなことじゃないわよね。このところの北川君、態度が おかしかったし。何かあった?﹂ 相変らず、その鋭さには感服だ。 頼れる同期を廊下の隅に誘い、俺は口を開いた。 ﹁実はさ。みさ子さんって俺と付き合うようになってから、ますま す魅力的になったと思って﹂ 俺が意を決して話し出せば、思い切り眉を顰められる。 ﹁なにそれ、惚気?﹂ ﹁違うよ、そうじゃない!そうじゃなくって﹂ 慌てて言い返せば、彼女は大きく数回頷いた。 ﹁ははぁ∼ん。さては、綺麗になった自分の彼女が他の男に捕られ たら、なんて考えちゃったりしてるんでしょ?﹂ 沢田さんはまるで名探偵のように、顎先をゆったりと指先で擦り ながらニヤリと笑う。 ︱︱︱なんで分かったんだ!? 941 驚いて声を無くしていると、 ﹁だって本当に綺麗になったなって思えるもん、北川君と付き合い だしてからの先輩って。もともと顔立ちは整っているほうだったけ ど、これまでは表情が固かった、というか無表情に近かったから怖 い感じがしていたしね。今ではちょっとした時に見せる表情が穏や かになって、優しいって言うかさ。特に不意に笑ったりすると、も っとその笑顔が見たいなって思うもん﹂ 同性の沢田さんですらそう思うならば、男性陣はもっと痛烈にそ う感じているであろう。 だからこそ、俺は悩んでいるのだ。 俺と付き合うことで花開いた、彼女自身の魅力。 だけど、そんな彼女を他の男には見せたくない。 だったら、みさ子さんと別れるべきだろうか?そうすれば、もと の彼女に戻るだろう。 しかし、そんな馬鹿な話があってたまるか! だったら、どうすればいいというのだ!! ということで、相も変わらず俺は思考がループしていて、解決策 に辿り着けないでいた。 ﹁でもさ、それって北川君が先輩から離れたって、何の意味もない よ﹂ ふと黙り込んでしまった俺に向かって、呆れたように沢田さんが ポツリと呟く。 ﹁うん⋮⋮﹂ そんなことは分かっている。 だが、それ以外にどうしたらいいのか分からないのだ。 俯く俺に、沢田さんはゆっくりと息を吐いた。 ﹁あのさ。こういうのって結局は2人の気持ちの問題だからさ、自 分達で解決するしかないんじゃないかな。私にはどうすることもで 942 きないよ﹂ ﹁え?﹂ てっきり具体的にアドバイスしてくれるとか、俺とみさ子さんと を取り持つための行動を起こしてくれるかと思ったのに。 視線を床から沢田さんの顔に向けると、まるで姉のように優しく 笑っている彼女を目が合った。 ﹁誰だって不安だよ。片想いでも、両想いでも、恋人同士でも、そ れこそ夫婦でも。だって、相手は自分じゃないんだもん。相手の気 持ちなんか、自分には100%理解できないよ﹂ “私が言いたいこと、分かる?”という目の色をしてきたので、俺 は黙って頷いた。 そんな俺を見て、沢田さんも頷く。 ﹁だからこそ、どんな時でも向き合わなくちゃいけないんだと思う。 言葉にしなくちゃいけないんだよ。相手に自分の気持ちをすべて正 直に話すことって怖いし、苦しいし。もしかしたら、その時はケン カしちゃうかもしれないし、それが原因で別れちゃうかもしれない し﹂ “別れ”と言う言葉が出てきてギョッとしたが、彼女の話を遮るこ とは止めておいた。 続きを促すようにジッと沢田さんを見つめ返せば、フッと微笑ま れる。 ﹁だけどさ、本当に好きな相手には、やっぱり素直にならなくっち ゃいけないんだろうね。自分の良いところばっかり見せるんじゃな くってさ、ダメなところとか、弱いところとか。そういうことを少 しずつ繰り返して、2人の関係が深まっていくんだと思うよ﹂ ﹁⋮⋮もし、それで俺たちの関係がダメになったら?﹂ 沢田さんの言うことはもっともだと分かっている。 だからこそ、俺はずっと二の足を踏めないでいるのだ。 943 情けなく肩を落としていれば、その肩をポンと叩かれた。 ﹁そんなの、死ぬ気で関係を修復しようとすればいいだけじゃない。 自分が相手のことを好きで、その相手も自分のことを好きでいてく れるのなら、またもとの関係に、ううん、それ以上の良い関係にな れるはずだよ﹂ 淡々と、だがどこか自信をもって告げられる言葉に、俺の胸の奥 で燻っていたモヤモヤが徐々に鎮火してゆく。 ﹁なぁ、それって経験談?﹂ ﹁ふふっ、内緒ですぅ﹂ ニッコリと笑った沢田さんは、バシッと俺の胸を拳で叩く。 ﹁先輩のこと、好きなんでしょ?離れたくないんでしょ?だったら、 放さなければいいだけ。我武者羅になって、しがみつけばいいんだ よ。先輩はそんじょそこらの女性じゃないの。どんな北川君でも喜 んで受け入れるくらいに優しいしあったかいし、心がとてつもなく 広い人なの。私が尊敬する先輩を見くびらないでよ﹂ 沢田さんが口元に微笑を浮かべながら睨んでくる。 その視線に頷きを返した。 ﹁万が一取られたら、正面きって取り返す。そのくらいの気概がな いと、あんなにもいい女性は北川君の傍に置けないよ﹂ 沢田さんにすっぱりと言われて、自分の心が更に落ち着いてゆく。 ﹁うん、そうだな﹂ ﹁もっと自信持ちなよ。先輩があんなに魅力的になったのは、北川 君の事が大好きだからだよ。他の男の人じゃ、きっとあそこまで変 わらなかったと思う﹂ ﹁そう、かな?﹂ 沢田さんの言葉がくすぐったくて苦く笑えば、大きく頷いてくれ た。 ﹁色々あるだろうけど、本当に好きな人からは逃げたらダメだよ。 それだけは忘れないでね﹂ ﹁分かった。ありがと﹂ 944 俺は幾分すっきりした顔で礼を述べた。 やっぱり沢田さんは頼れる同期だ。話してよかったと、強く感じ る。 これまでとは表情が変わった俺を見て、沢田さんが安心したよう に目を細めた。 ﹁どういたしまして。じゃ、早く先輩のこと浮上させてあげてね﹂ ﹁浮上って?﹂ 俺が首をかしげると、彼女は軽く口角を上げる。 ﹁勤務中は何てことないような顔しているけど、このところの先輩 って寂しそうだもん。うかうかしたら、そんな先輩を慰めようとす る輩に攫われちゃうよぉ﹂ ニヤッと笑う沢田さんに、俺は青ざめた。 ﹁そんなのはダメだ!﹂ 自分がボヤッとしていたせいでみさ子さんが他の男に捕られるな んて、後悔なんて言葉では表現できないほど悔しいに決まっている。 ﹁でしょ?だったら、さっさと2人でイチャつきなさいよ。⋮⋮あ、 もちろん会社外でね﹂ もう一度俺の胸にバシッと拳を叩き込み、沢田さんは総務部へと 戻っていった。 945 147︼変わり始めた彼女︵4︶︵後書き︶ ●とりあえず、タカの気持ちが落ち着きましたかねぇ。 ですが、これで話が終わってしまうこともなく⋮⋮。 もう少しだけ別章でこの件を掘り下げてみたいのですが、上手く表 現できるか不安です。 でも、頑張ります。 さて、次話では久々に2人を絡ませますかね︵ニヤリ☆︶ 946 148︼変わり始めた彼女︵5︶︵前書き︶ ●始めに謝っておきます。絡みまで辿り着けませんでした︵滝汗︶。 次話こそ、次話こそは確実に絡みます!! 947 148︼変わり始めた彼女︵5︶ 仕事を終え、俺は早速みさ子さんにメールした。 “色々な事がやっと一段落したよ。 久しぶりにご飯食べに行こう” ようやくみさ子さんと向き合える気分になれた。 心のモヤモヤが完全に晴れたわけではないけれど、沢田さんのお かげで気持が落ち着いた。 ︱︱︱そうだよな。好きだったら、離れちゃダメだよな。離れてい かないように、そばにいなくちゃダメだよな。 沢田さんに言われた事が、頭の中で何度もこだましている。 年の差とか、役職の差とか、今の自分ではどうにも出来ないこと がある。 だから、今の自分に出来る精一杯のことをすればいい。 みさ子さんには情けないところを見せてもいい。甘えたっていい。 彼女はこんな俺をすっぽり包んでくれるほど器が大きいのだから、 みっともない俺を見捨てたりはしない優しい人だから。 俺が心底好きになった佐々木みさ子は、本当にすばらしい女性な のだから。 ︱︱︱ジタバタしたってどうにもならないことがあるんだから、腹 をくくって、ドーンと構えなくっちゃ。 うん、と大きく頷いたところで、手の中の携帯電話が静かに震え た。 948 パッと開いてみれば、みさ子さんからのメールを着信している。 “いつもお疲れ様。 よかったら、私の家に食べに来ない? 大口契約がまとまったお祝いに、タカの好きなモノを作るから” そのメールを見たとたんに、俺の顔が弛んだ。 なんてことはない文章だが、こんなささいなメールですら俺の心 が嬉しさで弾む。 ︱︱︱こんなにみさ子さんが好きなのに、離れられるわけないよな。 俺は大急ぎで帰り支度を済ませ、営業部を飛び出した。 みさ子さんの家の最寄り駅で待ち合わせをして、そこから二人で 近所のスーパーへ食材の買い出し。 買い込んだ肉やら野菜やら入った買い物袋を持って、みさ子さん の隣に並ぶ。 それだけで嬉しい。 ﹁タカ、すっごく嬉しそうね。何か良いことあった?﹂ ニコニコと言うよりニマニマと顔全体が弛んでいる俺を見て、不 思議そうにみさ子さんが尋ねてくる。 そんな彼女に、ことさらニコリと微笑みかけた。 ﹁良いことならあったよ。今、こうしてみさ子さんと一緒に歩いて るじゃん。それが嬉しくって嬉しくって﹂ ﹁そんなの、別に大したことではないと思うけど﹂ 俺の言葉に照れたみさ子さんは、恥ずかしさを隠そうとしてわざ と素っ気なく答える。 949 だが、そんな態度も俺にとっては可愛くてたまらない。 両手は買い物袋と自分の通勤バッグでふさがっているので抱きよ せられないのが残念だが、自由になっている唇で彼女のこめかみに チュッとキスをした。 とたんに顔を真っ赤にしたみさ子さん。 ﹁な、何すんのよ!﹂ ﹁喜びを態度で表しただけだよ﹂ そう言って再びキスをしようと顔を寄せたのだが、みさ子さんの 手の平が俺の顔をググッと押し戻す。 ﹁態度で示さなくて良いわよ!ったく、恥ずかしい人ね!﹂ ﹁だって、その方が分かりやすいかと思って﹂ ﹁そんなことしなくていいの!もう、早く行くわよ!﹂ つん、と言い捨てて足早に前を行くみさ子さんの背中を、俺はこ の上なく幸せな気持ちで追いかけた。 みさ子さんが愛情込めて作ってくれた料理を綺麗に平らげ、リビ ングのソファーでくつろぐ俺。 ﹁ふわぁ、美味しかったぁ。いつ食べても、みさ子さんの手料理は 最高だね。外食するより、断然いいよ﹂ 満足気にお腹をさすっていると、グラスに冷たい麦茶を入れてみ さ子さんが持ってきてくれた。 ﹁ありがと﹂ 受け取った麦茶を一気に飲み干して、ふぅ、と息をつく俺。 ﹁タカの褒め方は大げさよ﹂ そんな俺に苦笑しながら近くのローテーブルにグラスを置いて、 みさ子さんが俺の左隣に腰を下ろした。 そして俺へと寄り添ってくる。 いつもであれば、こんなふうに彼女から甘えてくることはしない。 950 どうしたのだろうかと思っていると、みさ子さんが口を開いた。 ﹁あのね、タカ⋮⋮﹂ ﹁ん?﹂ チラリと横を見ると、みさ子さんは俯いて水滴がつき始めたグラ スを見つめている。 俺はそんなみさ子さんの肩にソッと腕を回して、優しく抱き寄せ た。 互いが無言で、静かに時が流れる。 しばらくそのままでいると、グラスの中の氷がカランと小さな音 を立てて崩れた。 そして深く息を吐いたみさ子さんが、再び口を開く。 ﹁あの⋮⋮、私、何か悪いことをした?﹂ ﹁え?﹂ 突然何を言い出すのだろうか。 悪いことをしたのは、理由も告げず子供じみた感情で距離を置い たのは、情けない俺の方なのに。 驚いて言葉が継げずにいると、みさ子さんが先に口を開く。 ﹁ここしばらくの間、あまり会う時間もなかったし、メールや電話 も最低限だったし⋮⋮。それって、タカのこと怒らせたからよね? 自分では気が付かないうちに、タカに失礼なことしちゃったのよね ?﹂ 段々と声が小さくなってゆくみさ子さん。 ﹁ごめんなさい。私、私⋮⋮﹂ 俺が抱くみさ子さんの肩がわずかに震え出す。 ﹁ち、違うよ!みさ子さんは悪くない!何も悪くないんだ!﹂ 肩を抱く手にグッと力を入れて、みさ子さんを抱き寄せた。 俺の胸に手をつき、そのままの姿勢で俯いていたみさ子さんがゆ っくりと顔を上げた。 951 ﹁だけど⋮⋮﹂ みさ子さんは母親とはぐれた迷子のように、悲しそうで寂しそう な顔。 俺が勝手に連絡を取らなくなったことを怒るどころか、それを自 分のせいだと己を責めている。 俺が不安になることで、彼女はそれ以上に不安を抱いていたのだ。 俺がしたことは結局みさ子さんを不安に陥れただけで、何の解決 にもなっていなかったのだ。 それこそ、子供染みている以外の何物でもない。 ︱︱︱ああ、俺って本当に馬鹿だ!みさ子さんにこんな顔をさせて しまうなんて! ﹁ごめん!!﹂ 俺は正面からみさ子さんを抱きしめた。 ﹁ごめん、ごめんね、みさ子さん﹂ 馬鹿な俺は彼女を抱きしめて、謝ることしか出来ない。 ﹁みさ子さんは、本当に悪くないんだ。俺が勝手に落ち込んでいた だけなんだ!﹂ ﹁どういう事?﹂ ﹁それは⋮⋮﹂ 自分の情けない部分を正直に話すのは、男としてのプライドが邪 魔をする。 が、そんな邪魔は一瞬だった。 ﹃かっこいいところだけではなく、ダメで情けないところも好きな 人には見せるべきだ﹄ そう言った沢田さんの言葉が、俺の弱い心を勇気付けてくれる。 短く息を吸って、改めてみさ子さんの瞳を見つめた。 ﹁俺さ、みさ子さんがどんどん綺麗になっていって、周りの人から の印象が変わって自然に受け入れられていくのが悔しかったんだ。 952 本当は喜ぶべき事なのに﹂ ﹁え?﹂ 今度はみさ子さんが驚いて言葉をなくしていた。 そんな彼女の頬にソッと手を当てて、俺は話を続ける。 ﹁俺と付き合い始めてからみさ子さんが変わったのなら、俺と距離 を置けば以前のみさ子さんに戻るんじゃないかって。すっごい子供 だよね、とんでもなく馬鹿だよね、俺。そんな自分勝手な行動でみ さ子さんを傷つけたなんて気が付かなくて、もう、どうしようもな くダメな奴だよね。 だけど⋮⋮、こんな馬鹿でどうしようもない俺だけど、みさ子さ んが好きなんだ。俺の方こそ謝らないといけないんだ。ごめんね、 みさ子さん。俺の考えなしな行動で不安にさせちゃって、ごめんな さい!本当にごめんなさい!﹂ 一息に告げて、ギュッとみさ子さんにしがみついた。 俺の腕の中の温もりは何物にも代え難くて、誰にも取られたくな くて。 だから、彼女が自分から離れていかないように努力することが大 事だったのだ。 彼女と距離を取るのではなく。 みさ子さんを抱きしめたまま黙り込んでしまった俺の頭を、みさ 子さんがポカッと殴った。 ﹁馬鹿ね。タカったら、ホント馬鹿ねぇ﹂ クスッとみさ子さんが笑う。 だが、その口調にも仕草にも、優しさが溢れていた。 拳を解いたみさ子さんは少し背中を伸ばして、俺の首に腕を回し てくる。 ﹁何度も言ってるでしょ?私はタカ以外の人の所になんか行かない って。私にはタカしかいないって。なんでそんなに不安になるの?﹂ 953 ﹁だって、みさ子さん、すごく綺麗になった。沢田さんも言ってた よ﹂ ﹁そうかしら?自分じゃちっとも分からないけど﹂ 抱きついたまま首を傾げるので、みさ子さんの滑らかな黒髪が俺 の頬に当たる。 そんな優しい感触に頬ずりしながら、俺は強くみさ子さんを抱き しめた。 ﹁俺、頑張るから。今は本当にダメな男だけど、将来はみさ子さん が安心して何もかも任せられるような、器の大きな男になってみせ るから﹂ ﹁私にとっては、今でも十分すぎる恋人よ﹂ その言葉に、俺はすぐさま首を横に振った。 ﹁ううん。このままじゃ、自分が嫌なんだ﹂ ﹁そう?でも、その成長をそばで見られるのは、結構楽しみかも﹂ フフッと笑うみさ子さんに、俺は大きく頷いてみせる。 ﹁楽しみにしていて!絶対に、絶対にいい男になるから!﹂ そう言って、俺はみさ子さんを横抱きにして立ち上がった。 いきなり変わった姿勢と視界の高さに、みさ子さんが﹁きゃっ﹂ と短く悲鳴を上げる。 ﹁な、な、何!?どうしたのよ、いきなり!﹂ レンズの奥の瞳が、パチパチと忙しなく瞬きを繰り返す。 ﹁だって、ずっとみさ子さんの触れてなかったんだよ?これまでの 分を取り返さなくちゃ﹂ それを聞いて、彼女の切れ長の瞳が見開かれた。 ﹁と、と、取り返すって?そんなの、タカが勝手に距離を置いてい たんじゃない!﹂ ﹁だからね。今夜はその分、みさ子さんを一杯気持ちよくさせてあ げるから﹂ ﹁はぁっ!?結構よ!降ろして、タカ。降ろしなさい!!﹂ ﹁ダメ、降ろさない﹂ 954 ユルリと口角を上げて笑う俺を見て、みさ子さんは夕食に招待し たことを後悔したようだった。 955 148︼変わり始めた彼女︵5︶︵後書き︶ ●ご無沙汰してしまいまして、申し訳ございません。 しかも、前話のあとがきに予告したことを、思いっ切り裏切ってし まいまして、重ね重ねお詫び申し上げます。 でも、ほら、﹃予定は未定♪﹄と言うではないですか。あは、あは は⋮⋮。 ぎゃぁぁぁ、石を投げないでください! いやぁぁぁ、熱々のフライパンは危険すぎます!! 誰ですか、包丁を投げたのは!? 読者様の怒りを無事にくぐり抜けて五体満足であれば、年内に更新 したいモノですね︵苦笑︶ 956 149︼変わり始めた彼女︵6︶ 懲りもせずに腕の中で暴れるみさ子さんをがっちり抱きすくめ、 俺は彼女が使っている寝室へと進んでゆく。 片腕でグッとみさ子さんを引き上げ、空いた手でドア横の電気の スイッチを 弄り、丁度いい具合の薄明かりにした。 ﹁もう、聞いてるの!?降ろしなさいよ!!﹂ 真っ赤な顔で叫ぶみさ子さんに、俺は両腕で抱き直すとニッコリ と微笑んだ。 ﹁そんなに言うんなら、降ろしてあげる﹂ そう言って、ソッと彼女を降ろしてあげた︱︱︱ベッドの上に。 ﹁え?﹂ 背中に当たる感触にギョッとしたみさ子さん。 ﹁ちょ、ちょっと、タカ!何なのよ!﹂ ﹁だって、みさ子さんが“降ろして”っていうから降ろしてあげた んだよ﹂ ﹁私はベッドの上に降ろしてなんて言ってないわ!﹂ とっさに起き上がろうとした彼女に、俺はすかさず眼鏡を奪い去 って覆い被さる。 ﹁ベッド以外の所に降ろしてなんて言われてないし。ああ、そうか。 今夜はあのままソファーで抱かれたかったって事?﹂ 切れ長の瞳を覗き込んで問いかければ、みさ子さんは一気に耳ま で赤くなった。 ﹁そ、そう言うことじゃなくって!﹂ ﹁ふふっ。まぁ、どういう事でも良いけどね。結局、俺はみさ子さ んを抱くんだし﹂ ﹁なっ⋮⋮﹂ 目を見開いて固まった彼女に、俺はニンマリと笑いかける。 957 ﹁往生際が悪いよ、みさ子さん。ここまで来たら、さっさと諦めち ゃいなよ﹂ ﹁馬鹿なこと言わないで!﹂ 羞恥で潤む瞳で睨んできてもまったくの逆効果だと、未だに理解 していないみさ子さん。 それはまるで誘っているとしか思えない。 もちろん、彼女にはそんなつもりなど一切ないことは分かってい る。 分かっているけど、この状況をみすみす手放すなんてことは、俺 の方にも一切ない。 と、いうことで。 ﹁観念して、俺に抱かれてよ⋮⋮﹂ ユルリと目を細めた俺は、彼女の唇を自分の唇で塞いだ。 ﹁ん、んんっ﹂ 重ねた唇の隙間からみさ子さんの抗議の声が漏れ、彼女の手が俺 の肩に掛かり、押し返そうとしてきた。 だが、そんなものは気にしない。 みさ子さんだって本気で嫌がっているわけではないのだ。恥ずか しがっているだけなのだ。 何度も何度も熱く深く肌を重ねてきたというのに、みさ子さんの 羞恥心は初めて抱いた時と大して変わりがない。 だけど、それが俺にとっては嬉しかったりする。 俺と抱き合うことに慣れてしまって、最後までおざなりに流れて しまうのでは寂しすぎるではないか。 それならば毎回毎回恥ずかしがってくれると、俺に飽きていない んだなと思えて、返って嬉しくなる。 彼女に進歩がないのではなくて、みさ子さんは毎回俺に初々しい 958 気持ちで向き合ってくれているのだと、俺にとってはそう思えるの だ。 そして、そんなみさ子さんを毎回幸せな気持ちにさせてあげたい と、頑張りたいと思ってしまう。 ﹁みさ子さん、みさ子さん﹂ 彼女の緊張を解くように、何度も何度も名前を呼んでキスを贈っ た。 角度を変えては優しく重ね、上唇をソッと吸い、下唇にやんわり と歯を立て る。 ﹁ふ、んっ⋮⋮﹂ 甘い吐息が彼女の唇から溢れ、少しずつ強ばりが解けてゆく。俺 の肩を掴んでいたみさ子さんの手から、ゆっくりと力が抜けてゆく。 抱き合う前はなんだかんだ大騒ぎしても、俺のことを信用して身 体を任せてくれる彼女の様子に、毎度のように心の奥がフワリと温 かくなった。 こんな些細すぎる仕草なのに、俺にとってはものすごく大切な事。 やっぱり自分は彼女を愛しているのだと、しみじみ実感する瞬間。 ﹁大好き、みさ子さん﹂ 囁きとともに、改めて唇を重ねる。 舌先で彼女の唇の輪郭をソロリとなぞり、丁寧に一周した後は口 腔内に侵入した。 そして恥ずかしがっているみさ子さんの舌に、自分の舌を少し強 引に絡みつかせる。 柔らかくて温かい彼女の舌を舐り、吸い上げ、再び奥まで舌を忍 ばせ。 みさ子さんの口腔内をかき混ぜるたびに、クチュッと湿った音が 二人の耳に届く。 それが恥ずかしいらしくて、みさ子さんは閉じていた瞳を更にキ ュッと力を入れた。同時に寄せられた眉が、殊の外色っぽい。 ぼやけるほどの至近距離で見せるその表情は、俺しか見ることが 959 出来ないのだと考えると、今更ながら幸せだと思うし、本気で興奮 する。 俺は彼女の手首を押さえていた手をゆっくりと移動させた。 左手はみさ子さんの頬に。右手は彼女の左耳の後ろに。 なだらかな頬を撫でつつ、そろそろと指先で首筋を辿った。 項から首筋を通り、鎖骨に辿り着くと、またそれを繰り返す。 弱い部分を何度も撫で下ろされ、擦り上げられているうちに、み さ子さんが小さな喘ぎを聞かせ始める。 ﹁あっ、ん⋮⋮﹂ 深いキスで唇を塞がれている為に、それはくぐもっていてはっき り聞こえない。 だが、それがまた艶っぽい。 その声が聞こえた瞬間、俺の身体の奥に妖しい熱が灯った。 こんなわずかな声だけで俺を煽るなんて、そんなことはみさ子さ んにしかできないこと。 ︱︱︱ったく、俺ってどんだけみさ子さんに惚れてんだよ。 内心独り言を漏らすが、そんなこと、とっくのとうに分かりきっ ている。 髪の先から、足のつま先に至るまで、“佐々木みさ子”を構成し ているありとあらゆるものが愛しくてたまらない。 ︱︱︱みさ子さんも、自分で呆れちゃうくらい俺のことを好きでい てくれたらいいのに。⋮⋮いや、そのくらい好きになってもらうよ うに頑張れば良いんだ。 クスリと苦笑を浮かべた俺は、唇を彼女の耳元へと持ってゆく。 ﹁みさ子さん。もっともっとイイ男になるから、俺のこと、もっと もっと好きになって﹂ 960 そう告げた俺の事を、みさ子さんは言葉もなくソッと抱きしめて きた。 やんわりと背中に回された腕は俺の半分しかないほど細いのに、 なぜだかとても安心感を与えてくれる。 ︱︱︱この腕を⋮⋮、みさ子さんを手放すなんて無理だ。 穏やかな体温を噛みしめ、俺はみさ子さんを強く抱きしめ返した。 耳元に寄せた唇で﹃愛してるよ﹄と囁き、軽く彼女の左耳を噛む と、みさ子さんがピクッと跳ねた。 そんな彼女を宥めるよう、頬に優しく触れる。 指先で小さな円を描きながら頬の感触を楽しみつつ、唇はみさ子 さんの首筋を跡がつかない程度に吸い、残った右手は彼女の左胸。 部屋着である淡いレモンイエローのTシャツの上から、豊かに膨 らんだ胸を痛くない程度に鷲掴みにした。 そして下から上に持ち上げるように揉みしだく。 ﹁あっ⋮⋮﹂ 塞がれていない口からは、素直な嬌声が上がる。 不意に出たその声は、普段の落ち着いたアルトよりも高い。 その可愛い声がもっと聞きたくて、俺は乳房全体を丁寧にヤワヤ ワと揉んだ後に、乳首があるであろう部分をギュッと摘んだ。 ﹁やぁ、んっ﹂ 予想通り命中したらしく、甲高い声で啼いてくれる。 ﹁いつものことだけど、みさ子さんって乳首をいじられるのが弱い よねぇ﹂ 俺は彼女の鎖骨にキスをしながらクスッと笑い、摘んだ乳首を布 ごとクリクリと捻った。 Tシャツと下着を通して伝わってくる刺激に、みさ子さんはピク ピクと小さく身悶えている。 961 ﹁あん、やっ⋮⋮、ん。だ、め⋮⋮﹂ 可愛らしい声で辿々しく啼くみさ子さん。 いきなり与えられた強い刺激に戸惑い、彼女のしなやかな指が助 けを求めるように宙を彷徨う。 そしてその指が鎖骨に舌を這わせている俺の頭に触れた。 再度乳首を捻れば、みさ子さんが俺の頭にしがみついてくる。 短く浅い吐息を切なげに繰り返しているみさ子さんが弱々しい力 で、それでも俺へと手を延ばしてくれることが嬉しい。 ﹁ねぇ、気持ちいい?﹂ 後頭部に彼女の華奢な指を感じながら、右に左にと乳首を捻りつ つ尋ねると、みさ子さんにキュウッと頭が抱き寄せられた。 それは抗議ではなく、賛同の証。 恥ずかしがり屋な彼女の、精一杯の反応。 ︱︱︱ああ、もう。ホント、可愛いんだから! 身悶えるみさ子さんに、俺の方こそ身悶えしてしまう。 だが今はそんなことよりも、更にみさ子さんに感じてもらう方が 重要だ。 俺はチュッと音を立てて彼女の首筋にキスを落としてからTシャ ツを素早く捲り上げ、魅惑の膨らみを覆っているブラのカップを指 先で引っかけて引き下げた。 張りのある胸がポロリと零れ、赤い色をした乳首が顔を出す。 布地の上から擦られたその先端は、少し膨らんでいた。 ﹁あ、いやっ﹂ 驚いたみさ子さんが身を捩る前に、俺はツンと立ち上がっている 胸の先端を口に含む。 まだ弄られていなかったもう片方の乳首は、左手の人差し指で引 っ掻き、やんわりと爪を立てた。 刺激に慣れていなかったその乳首は、このちょっとした動作でた 962 ちまち堅くなる。 ﹁ん、んんっ﹂ 喘ぐみさ子さんに頭を抱きしめられながら、俺は徐々に舌と指の 動きを強めていった。 963 149︼変わり始めた彼女︵6︶︵後書き︶ ●どうにか年内にもう一話更新することが出来ました。 ほんと、やれやれです⋮。もっとも、やれやれと思っているのは 読者様のほうかもしれませんが︵苦笑︶ 女帝を書き始め、この作品とともに5回目の年越しを迎えること になりました。 時の経つのが早いと言うべきか、みやこの執筆ペースが遅いと言 うべきか︵滝汗︶ 初めて﹁彼氏が年下﹂という設定の作品なので書き慣れていなく て迷うこともたくさんありましたが、タカもみさ子さんも大切な存 在ですので、最終話まで可能な限り丁寧に書き進めたいと思います。 来年もどうぞよろしくお願いいたします。 964 150︼変わり始めた彼女︵7︶ 十分すぎるほどに彼女の胸の飾りを弄り倒せば、みさ子さんの身 体からは余計な力が抜けてクタリとなった。 そんな彼女にクスリと苦笑を零し、俺はみさ子さんの部屋着を脱 がしてゆく。 柔らかい素材で出来ているちょっとお洒落なスウェットパンツを 引き下げれば、スラリと伸びた綺麗な足が現れる。 普段から出来る限り歩くようにしているというみさ子さんの脚は、 無駄な肉が無く、かといって貧弱でもない。 適度に筋肉がついて、それでいて女性らしいしなやかさを兼ね備 えている、まさに理想の脚。 まぁ、俺にとっては、みさ子さんのどこを取っても理想なのだが。 半端にずらされたブラを取り去り、改めてその胸の先端に吸い付 く。 ジュクッと音を立てて強めに吸えば、みさ子さんがすぐに反応を 示した。 ﹁あ、ふっ﹂ フルリと形のいい胸を揺らして、彼女が身悶える。 ﹁気持ちよさそうだね﹂ 目を細めて浅い吐息を繰り返すみさ子さんを見て、さらに笑みが 深くなる俺。 今度はその赤く色づいた乳首に軽く歯を立てる。 乳首の根本を甘噛みしながら、その先端を舌で突くと、 ﹁ん、いやっ﹂ と、みさ子さんが首を左右に振った。 ﹁嫌なの?こんなに硬く尖らせているのに?﹂ 俺は乳首を舌で強めに転がしながら問いかける。 プクリと膨れた乳首は舌で嬲られ、クニクニと向きと形が変えら 965 れてゆく。 ﹁や、あぁ⋮⋮﹂ みさ子さんの首の振りが大きくなる。 ﹁そんなに嫌なの?おかしいなぁ﹂ そう呟いて、俺は彼女が穿いている下着のウエスト部分から右手 を滑り込ませた。 ﹁だって、ココはこんなに濡れてるよ﹂ 割れ目に沿って中指を這わせれば、案の定ヌルリと指先が滑る。 ﹁胸を弄られただけで、こんなにグッショリさせちゃってさ。これ って、気持ちいい証拠だよね?﹂ チュッと胸元にキスを贈ってから彼女の顔を見遣れば、みさ子さ んはまるで否定するかのように一層首を激しく横に振った。 ﹁もう、強情だなぁ﹂ クスクスと笑いながら俺が中指と人差し指を彼女の秘部に挿し込 むと、クチュッと小さな水音を立てて、二本の指は容易に飲み込ま れた。 それと同時に再びみさ子さんの乳首に歯を立てれば、キュッと彼 女のナカが俺の指を締め付ける。 ﹁ほら、今、みさ子さんが俺の指を締め付けたよ。気持ちよくて反 応している証拠だよね﹂ ﹁そ、そんな、こと⋮⋮﹂ ﹁無いっていうの?こんなにナカが動いているのに?﹂ うねる様に蠢くみさ子さんの膣壁は、俺の指に絡みついては妖し く誘う。 ﹁ん、んんっ﹂ それでもみさ子さんは眉を寄せ、首を振った。 その動きに合わせて柔らかな胸の膨らみもユルユルと揺れ、しな やかな腰の曲線も滑らかに揺れる。 ﹁しょうがないなぁ。じゃ、直接みさ子さんの身体に訊くことにす るよ﹂ 966 そう言って、俺は上体を起こすと素早く彼女の身体に最後まで残 っていた下着を全て取り去り、自身の服も脱ぎ去った。 ベッドの下に落とされた服が、パサリと乾いた音を立てる。 室内の薄明かりの元に映し出されるのは、裸の俺とみさ子さん。 互いが妖しい熱に犯され、瞳が同じように潤んでいる。 独特の光を帯びる彼女の瞳は俺を欲しがっていると確信させ、そ れを見ただけで心の底から幸せがこみ上げてきた。 みさ子さんをこの腕の中に閉じ込める事が出来るのは、俺にとっ て至上の喜び。 ﹁タ、カ⋮⋮?﹂ 少しだけ目を瞠ったみさ子さんが、足の間に割り入って自分の身 体に圧し掛かっている俺を見上げる。 そんな彼女の瞳を柔らかい微笑で見つめた。 ﹁もう何も訊かない。⋮⋮だから、お願い。俺をみさ子さんの一番 近くにいさせて﹂ まさに懇願ともいえる声音で囁いて、俺は固くいきり立ったペニ スを彼女の秘部に挿し入れた。 ﹁あ、ああっ!﹂ 俺のペニスが入れられた途端、みさ子さんが艶やかな嬌声を上げ た。 ﹁まだ半分も入ってないよ。なのに、もう啼いちゃうんだね﹂ 押し進める腰の動きを止め、俺はみさ子さんの頬にかかっている 髪を右手でソッと払う。 わずかに汗ばんだ肌が、しっとりと俺の手の平に吸い付いた。 その柔らかな頬を包む俺の手に、みさ子さんが自分の手を重ねて くる。 ﹁⋮⋮から﹂ 967 唇を震わせ、みさ子さんが囁く。 ﹁ん?なぁに?﹂ 彼女の声はあまりにか細く、俺がみさ子さんの頬をサワサワと擦 りながら表情を覗き込めば、 ﹁⋮⋮タカのこと、待ってたから﹂ そう言って、みさ子さんはキュウッと俺の手を握った。 ﹁タカと会えなくて、タカの声が聞けなくて⋮⋮。本当はすごく寂 しかったの﹂ 縋りつくように俺の手を握り締め、みさ子さんは小さな声で告白 を続ける。 その様子に、俺の胸が締め付けられて苦しくなった。 ﹁みさ子さん?﹂ 思わず彼女の名前を呼べば、短く息を吸ったみさ子さんはゆっく りと目を開け、俺を見つめる。 ﹁私がタカに嫌われるようなことをしたんだと思って、すごく、す ごく怖かったの⋮⋮﹂ 切ない声音が小刻みに震えている。 泣き出してしまいそうな、いや、みさ子さんは泣いていた。 真っ直ぐに俺を見つめる瞳から、つ⋮⋮と雫が伝い落ちる。 ﹁でも、こうして私のことをまた愛してくれて、それが嬉しくて⋮ ⋮。ずっと、タカのことを待っていたから﹂ 握った俺の手に、頬を摺り寄せるみさ子さん。 その様子に、愛しさとか、切なさとか、嬉しさとか、彼女に対す る諸々の愛情があふれ出す。 自分がいかに馬鹿なことをしたのか、改めて思い知らされる俺。 ﹁ごめん、みさ子さん﹂ するとみさ子さんは口元を優しく微笑ませた。 ﹁謝らないで。こうして戻ってきてくれたんだから﹂ ﹁うん、戻ってきたよ。っていうか、もう離れない﹂ 俺がはっきりそう言えば、みさ子さんは静かに微笑む。 968 形のいい瞳が緩やかに弧を描き、再び涙がポロリと零れた。 その涙を右手の指先で払い、左手でさらにしっかりと彼女の片足 を抱え上げる。 お互い何も言わず、静かに見詰め合ったまま。 しばらくしてゆるりとみさ子さんが瞳を細めたのを合図に、俺は 腰を押し付けた。 ﹁あ⋮⋮﹂ わずかにみさ子さんが慄き、自分の脚を支えている俺の腕を掴ん でくる。 その指の感触にすら幸せを覚え、俺はさらに彼女のナカにペニス を突きたてた。 小刻みに腰を前後させ、チュプチュプと淫音を繰り返し、少しず つ最奥を目指す。 十分に潤っているみさ子さんのナカはとても熱く、ゴム越しにそ の熱を伝えてくる。 だが愛液で濡れているとはいえ、今日はいつもより愛撫に時間を かける事が出来なかったので無茶はしない。 みさ子さんのナカをじっくり解す余裕がないくらい、俺はみさ子 さんが欲しくて欲しくて切羽詰っていたのだ。 なのに、いつも以上に大きく硬く勃ちあがっているペニスを受け 入れることになっても、みさ子さんは文句一つ言わない。 ﹁ごめんね、みさ子さん。つらい?﹂ すっかり収めてしまってから今更とは思うものの尋ねてみれば、 彼女は ﹁平気、幸せだから⋮⋮﹂ と、こっちの心臓を止めかねないセリフを告げてくる。 ﹁ああ、もう!どうしてみさ子さんはそんな可愛いこと言っちゃう の?でも、俺のほうが、もっと幸せだからね!﹂ 俺はそう宣言すると、ギュッと華奢な彼女の身体を思い切り抱き 締めたのだった。 969 970 150︼変わり始めた彼女︵7︶︵後書き︶ ●ご無沙汰してしまい、申し訳ないです︵滝汗︶ どうしても納得のいく展開にならなかったので、書き上げるまでに 時間がかかってしまいましてね。 色んな意味で精進したいものです。 ●さて、今回のみさ子さんはいつもに増して可愛い!!可愛すぎる !! この可愛らしさが男性読者様のみならず、女性読者様も虜にしてし まうのでしょう。流石みさ子さん☆ 971 151︼変わり始めた彼女︵8︶ 少しだけ上体を起こすと、俺はみさ子さんの瞼に唇で触れる。 涙で濡れた目元を拭うように、優しいキスを何度も贈った。 ﹁愛してるよ﹂ みさ子さんを想うこの気持ちは﹃愛してる﹄なんて短い言葉では 言い表せないくらい大きくて深くて熱いものだけど、他になんてい えばいいのか分からない。 だから、愛しいという想いをありったけ籠めて、みさ子さんにキ スをする。 右の瞼と左の瞼を軽く吸い上げ、そして彼女の唇に自分の唇を重 ねた。 柔らかい唇の感触を味わった後、舌をソッと忍び込ませ、やんわ りと彼女の舌に絡ませる。 さっきまでの奪うような荒々しいものではなく、想いが伝わるよ うにと願いを籠めて、ひたすらに優しいキス。 おずおずと伸ばされるみさ子さんの舌を甘く吸い、唇を重ね、そ してゆっくりと離れた。 うっすらと開いている彼女の瞳を覗き込めば、数回瞬きをしたみ さ子さんがジッと俺を見上げる。 ﹁タカ、大好き⋮⋮﹂ 俺の目を見て、みさ子さんが囁く。 その言葉に俺が緩やかに微笑むと、みさ子さんも穏やかに微笑ん だ。 その表情を素直に綺麗だと思う。 彼女は顔立ちそのものが綺麗なのだが、それ以上にみさ子さんの 心が綺麗だから。 人の心の痛みが分かる優しさを備えていて、相手を思いやる事が 972 出来る懐の深さも備えている。 そんな彼女だからこそ、単に造作の美しさだけではない“佐々木 みさ子”としての美しさを醸し出せるのだ。 だからこそ、彼女は些細な表情、僅かな仕草までもが綺麗なのだ。 なだらかな頬に軽く唇を押し当ててから、俺は再び腰を動かす。 みさ子さんを抱き締めたまま腰をゆっくり前後に揺らすと、しな やかな彼女の腕が俺の背中に回された。 そして、その腕に少しばかり力が篭る。 抱きしめているようでもあり、縋りついているようでもあるその 仕草に、フワリと俺の心の奥が温かくなった。 みさ子さんに必要とされている。 みさ子さんの傍にいる事が許されている。 言葉はなくても、彼女がそう思っていることが如実に伝わってく る、そんな仕草だった。 みさ子さんの仕草を受けて、俺は“ここにいるんだ”ってことを 彼女の身体に教え込むように、緩やかな注挿を繰り返す。 叩きつけるような激しさは伴わせない。 ただ、ただ、己の存在を、想いを分かってほしくて。 彼女の秘部から溢れる愛液でチュクチュクと音を立てるように腰 を擦り付けながら小刻みに動けば、彼女のナカに深々と刺さってい る俺のペニスが程よく締め付けられた。 その気持ちよさにうっとりしながら、みさ子さんにも気持ちよく なって欲しくて、彼女の啼き所をガチガチにいきり立っているペニ スで刺激する。 前後に擦り付け、時折押し上げるように下から突き上げれば、み さ子さんの綺麗な眉がキュウッと寄った。 ﹁あ、はぁ⋮⋮んんっ﹂ 973 吐息交じりの掠れた嬌声が、みさ子さんの口から零れる。 彼女の官能をダイレクトに伝えてくる喘ぎに連動して、更に彼女 のナカが締め付けを増した。 ヒクヒクと痙攣にも似たその動きは、みさ子さんの絶頂が近付い てきていることを知らせてくれている。 このままでも俺は十分気持ちいいのだが、みさ子さんがイクため にはもう少し強めの刺激が必要だ。 それに俺としても、もっと乱れる彼女が見たい。 ﹁みさ子さん、ちょっとごめんね﹂ 浅い吐息が洩れる唇にチュッとキスを贈ってから、俺は静かに上 半身を起こした。 これまで背にあった彼女の腕が滑り落ちて、パサリと乾いた音を 立ててシーツを打つ。 その腕を取り、形のいい爪が並ぶ指先にもチュッ、チュッとキス をした。 ﹁ちょっと本気でみさ子さんを啼かせたいから﹂ ﹁⋮⋮え?﹂ やや戸惑い気味の表情で俺を見つめてくるみさ子さんに、ニコリ と微笑みかける。 そして、ゆっくりと彼女の腕を下ろしてやり、そのまま優雅な曲 線を描いているみさ子さんの細いウエストを掴んだ。 一度腰を引き、そこから一気にペニスを突きこむ。 奥の奥まで勢いよく挿入し、互いの恥毛が感じられるほど深く深 く打ち付けた。 ﹁ああっ!﹂ みさ子さんは甲高い声を上げて仰け反る。 育ちきった太いペニスにズブズブと内壁を犯され、一番感じると ころをズンッと激しく突き上げられ、官能の波に溺れるみさ子さん は助けを求めるがごとくシーツを掴んだ。 ﹁ふっ、んん、んっ!や、あっ、あぁ⋮﹂ 974 嬌声を立て続けに上げる唇は、閉じられる暇がない。 俺としても閉じさせるつもりはない。 みさ子さんの脚を割り入るように、彼女の上に圧し掛かった。 より強く激しく攻め立てれば、2人が結合している個所からはグ チュグチュと卑猥な水音が忙しなく聞こえる。 ﹁あ、ああっ、も⋮⋮だ、めっ﹂ シーツを掴む手が、その強さから関節が白く浮き出していた。 左右に首を振るみさ子さんは切なそうに眉を寄せ、彼女のナカも 今日一番の締め付けを示している。 俺はみさ子さんを追い上げる為に、更に腰の動きを強めた。 ﹁みさ子さんっ、みさ⋮⋮子、さっ﹂ 彼女の名前を呼ぶ俺の頬に、汗がつつ⋮⋮と伝う。 みさ子さんの肌にもうっすらと汗が浮かんでいる。 2人とも絶頂が近いのだ。 お互いが息を荒げ、高みを目指す。 そして。 みさ子さんが﹃あ、んんっ!﹄と極まった声を上げたと同時に、 俺も彼女のナカに情欲を迸らせた。 胸を上下させ呼吸を整えようとしているみさ子さんの額に手を伸 ばし、汗で張り付いている髪をソッと払ってやる。 強すぎる官能に意識を飛ばしかけてボンヤリしている彼女に苦笑 を漏らすと、俺はゆっくりと身体を離して、みさ子さんの右隣へ横 になった。 みさ子さんの頭の下に腕を通して枕代わりにしてやり、空いてい 975 るもう一方の腕で彼女を抱き寄せる。 ﹁大丈夫?﹂ 呼吸の妨げにならないように唇の横にキスをして様子を伺えば、 コクンと小さな頷きが返ってきた。 潤んだ瞳が真っ直ぐに俺を見ている。 仕事中には絶対に見せないこの表情。 だけど、これもみさ子さんを作り上げている大切な一部分。 時や場合により、みさ子さんは変わる。 彼女を取り囲む周りの環境が変われば、彼女だってそれに合わせ て変化することもあるだろう。 それでも、どんなに変わってもみさ子さんはみさ子さんであるし、 そして、彼女の根底にある“佐々木みさ子”を作り上げているもの はきっと変わらない。 そして俺は、そんなみさ子さんに一生惹かれ続けるのだろう。 なんて幸せなのだろうか、俺は。 愛しても愛しても、それでも愛情が尽きない相手に出会えたなん て。 ﹁みさ子さん、愛してる⋮⋮﹂ 自分の胸に強く抱き込み、改めて囁いた。 976 151︼変わり始めた彼女︵8︶︵後書き︶ ●これでやっとタカのお子チャマな嫉妬による騒動は一段落です。 この騒動の結果として分かったことは ﹁みさ子さんは素晴らしい女性だ﹂ ということですかね︵苦笑︶。 977 152︼幸せの青いネクタイ :1 6月最後の土曜日。 KOBAYASHIは週休2日制を取っている会社なのだが、俺 は休日出勤をして得意先に出向いていた。 相手が提示してくる条件は色々な面でけっこう厳しかったり、営 業担当者が少々気難しいところがあったりと、心身ともに大変だっ たりする。 だけど、互いに不利益のない条件に持っていけるように根気よく 話を擦り合わせてゆくのは、営業マンにとってとても大切なことな のだ。 話が思うように進まずヤキモキすることもあるが、焦ってはいけ ない。投げ出してはいけない。 それに、俺は担当の古谷さんが嫌いじゃないから、出向くことは 苦ではなかった。 先方の担当者は俺より10歳も年上で本来穏やかな人なのだが、 仕事になると妥協を許さない人物。 しかし、けして厄介な人ではない。 むしろ、仕事に向ける彼の姿勢は見習うべき点がたくさんあって 尊敬に値する。 永瀬先輩の ﹃お前が成長する為にも、この商談は絶対に逃すなよ。もし万が一 にも駄目になった場合は、“未来の義弟”という立場をフルに利用 して、お前と佐々木の仲を邪魔するからな﹄ という冗談交じりの︵いや、100%冗談だと信じたい︶ありがた い激励を受けて、俺は社用車を走らせていた。 978 3度目の打ち合わせも前回同様、目覚しい進展はなかったが、そ れでも確実に進んでいる手ごたえはあった。 古谷さんは先日会った時よりも、だいぶ乗り気になってきてくれ ている。 こうやって少しずつでも成果が現れれば、もっと頑張ろうという 気力が湧いてくるものだ。 上機嫌で一旦社に戻り、月曜日には上司に報告ができるように書 類をまとめてゆく。 出来上がった書類に最後まで目を通し、ここで本日の業務は終了。 俺は荷物を持つと、急いで会社を出た。 住んでいるアパートに戻り、忙しない様子で鍵を開け、勢いよく 扉を開いた。 そして、玄関にある女性物の靴を見て顔が綻ぶ。きちんと揃えて 端に置かれている靴は、もちろんみさ子さんの物だ。 俺が土曜日に出勤することになった話を数日前にした時、みさ子 さんが ﹃1時過ぎには帰ってこられるんでしょう?よかったら、タカのア パートのキッチンを借りてお昼ご飯を用意するけど﹄ と、言ってくれたのだ。 その申し出はすっごく嬉しい。 だが、もしも予定が入ってしまったら、そちらを優先しても構わ ないからという話にしておいた。 確約があったわけではないからどうなるかと不安だったけれど、 みさ子さんは来てくれたのだ。 彼女の靴を眺めてニヤニヤしていたら、奥から彼女が出てきた。 今まで料理をしていたのか、極々淡いグリーンのブラウスと明る 979 いグレーのスラックス姿にエプロンを着けている。 ベージュが主体で黒と紺のラインが入ったそのエプロンは、可愛 らしさはあまりなかったが実用的である事が簡単に見て取れる。 それは普段からみさ子さんが料理をしているという証拠だ。 そんな彼女のことを“家庭的でいいなぁ”と見惚れていたら、 ﹁お帰りなさい﹂ やわらかい微笑を浮かべて、みさ子さんが俺に言う。 そのセリフはなんだか新婚家庭を思い浮かべさせて、ますます俺 の顔が締まりのないものになっていった。 ﹁みさ子さん、ただいまっ﹂ 蹴散らす勢いで靴を脱いだ俺は、満面の笑みで彼女に抱きつく。 ﹁えっ?ちょ、ちょっと何なのっ!?﹂ いきなり強く抱きしめられて、みさ子さんが慌てた声を出した。 ﹁だって、嬉しくって。俺が仕事から帰ったら、みさ子さんが出迎 えてくれるなんて、嬉し過ぎる!“お帰りなさい”だって!﹂ ﹁何言ってんのよ!ただの挨拶じゃない!もう、放しなさいよっ﹂ 手の平で俺の胸をグイグイ押しのけるが、そんなことで放すよう な俺ではない。 放せと喚くみさ子さんをすっぽりと抱き込んだ。 ﹁やだ、放したくない。⋮⋮あ、そうだ。挨拶といえばもう1つあ るよねぇ﹂ ギュウギュウとみさ子さんを抱きしめながらにやける俺に、彼女 は動きを止めて眉をしかめた。 ﹁⋮⋮何よ?﹂ さっきより少しだけ低い声で尋ねてくるみさ子さんに、俺はニッ コリと微笑む。 ﹁“おかえり”のチュウは?﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮は?﹂ ものすごい間を取ってから一言漏らしたみさ子さんは、グッと眉 間の皺を深めた。 980 ﹁だから、“おかえり”のチュウ﹂ 訝しがる彼女の表情にも怯まずに、俺はニコニコと告げる。 改めて告げられた内容を今度はしっかり理解できたらしく、とた んにみさ子さんの顔が赤くなった。 ﹁馬鹿なこと言わないでよ!﹂ より一層俺の胸を押し返す力が強くなる。 ﹁なんでそんなことをしなくちゃならないの!?﹂ ﹁そんなの、俺がして欲しいからに決まっているでしょ。ほら、ほ ら、みさ子さん。チュってしてよ﹂ 俺は強く抱きしめていた腕の力を少しだけ抜いて、彼女と正面か ら向き合う。 ﹁休日出勤して頑張ったんだよ、俺。ね、みさ子さん。ご褒美にお かえりのチュウして﹂ 一方的に促し、目を閉じて彼女のキスを待つ。 みさ子さんは俺の腕の中でジタバタしているが、俺には彼女を逃 がす気が一切ない。目を閉じたままでじっと待っている様子に観念 したのか、 ﹁⋮⋮お帰りなさい﹂ と囁いて、俺の唇に軽く触れてくれた。 そして俺はといえば、唇が離れた瞬間に左腕で彼女の腰を絡め取 り、右手でみさ子さんの後頭部をしっかりと押さえてキスをした。 さっきのみさ子さんがくれたキスのように軽いものではなく、し っかりと唇を合わせて押し付ける。 ﹁んっ!?んんっ﹂ 驚いたみさ子さんが更にジタバタと暴れるが、俺は強く抱きしめ て後頭部を引き寄せ、その動きを封じた。 ﹁ふ、ううっ!﹂ くぐもった抗議が聞こえたが、それは無視。だって、みさ子さん は本気で嫌がっているわけではないから。 981 ︱︱︱慌ててるみさ子さん、可愛過ぎだよ。 十分に彼女の唇の柔らかさを堪能してから、ゆっくりと顔を離し た。 ﹁⋮⋮何なのよ﹂ 恥ずかしくて顔を合わせられないらしく、みさ子さんは俺の肩に 額を付けてポツリと呟く。 ﹁え?“ただいま”のチュウだよ。おかえりってされたら、ただい まって返すのが礼儀でしょ?﹂ 嬉しさを隠さず彼女の髪に頬ずりすれば、大きなため息が一つ聞 こえて、 ﹁⋮⋮バカ﹂ という囁きと共にコツンと胸を叩かれた。 982 153︼幸せの青いネクタイ :2 玄関先でみさ子さんと熱烈な挨拶︵ま、俺の一方的なものだった が︶をかわし、リビングへと入る。 普段から食卓代わりに使っているローテーブルには、俺が大好き な鶏の唐揚げが皿の上に山盛りになっていた。 ﹁相変らず、みさ子さんの唐揚げはいい色だね。見るからに美味そ う﹂ 香ばしく狐色に揚がっている唐揚げからは、下味の醤油と薬味の 匂いが漂ってくる。 ﹁すぐにピラフとポトフも持ってくるから、手を洗ってきて﹂ ﹁はい、了解です﹂ 俺はスーツの上着を脱ぐと、好物を待ちきれない子供のように急 いで洗面所に飛び込んだ。 戻ってくるとローテーブルの上には艶の良いシーフードピラフと 野菜がタップリ入ったポトフが置かれていた。 俺とみさ子さんは床に置いたクッションにそれぞれ腰を下ろす。 ﹁さ、食べましょ。ピラフはお代わりがあるから、たくさん食べて ね﹂ ﹁うん、いただきます﹂ パチン、と手を合わせてから、早速唐揚げに手を伸ばす。そして 大きな口を開けてパクリ。 ﹁うっまぁい﹂ 一口噛めば中からジューシーな肉汁がジュワッと溢れ、そしてほ んのりと生姜の香りが広がる。みさ子さん特製唐揚げは、今日も抜 群に美味しい。 983 もぐもぐと味わいながら、ピラフとポトフにも遠慮なく手を伸ば す。 今日は休日出勤ということで半日潰れてしまったが、こうしてみ さ子さんが作ってくれた美味しい昼食が食べられるのだから、相殺 どころか超ラッキー。 ﹁何を食べても、みさ子さんの手料理は美味しいなぁ﹂ ニッコリ笑って言えば、みさ子さんは嬉しそうに微笑んでくれる。 ﹁タカは美味しそうに食べてくれるから、作り甲斐があるわ﹂ ﹁だって、本当に美味しいよ﹂ みさ子さんが作る料理は何を食べても美味しい。このピラフだっ て、一口食べたら止まらなくなるほど。 ﹁ふふっ、ありがとう。⋮⋮あ﹂ 向かいに座っているみさ子さんが俺の口元に手を伸ばしてくる。 そして、ほっそりとした指が俺の唇の脇をかすった。 ﹁ご飯粒、付いてたわよ﹂ そう言って、みさ子さんは指先のご飯粒をパクッと食べる。そし て、ハッと我に返って真っ赤になった。 ﹁あ、あの、私、つい⋮⋮﹂ どうやら自分の思わぬ行動に照れているらしい。 俯いてモゴモゴと何やら呟いているみさ子さんが、超絶的に可愛 かった。 ﹁うわぁ、みさ子さん。今の、新婚さんみたいだね!俺たち、今、 新婚さんみたいだったよね!!﹂ 彼女の行動に俺は大興奮して﹃新婚さん﹄という言葉を繰り返せ ば、彼女はますます赤くなって、﹃あの、その⋮⋮﹄と口ごもる。 ︱︱︱ああ、もう、本当にみさ子さんは可愛いんだから! 計算ではない彼女の行動に、俺は身も心も胃袋も大満足なのだっ た。 984 唐揚げもピラフもポトフもすっかり食べ終え、今は二人でソファ ーに並んでくつろいでいる。 ﹁ホント、美味しかったぁ。沢山食べたから、ちょっと暑いや﹂ 俺はネクタイに指をかけてシュルリと解き、Yシャツのボタンを 一つ外した。 ﹁そういえば⋮⋮﹂ 手の平に載せたネクタイに視線を落としてポツリと呟けば、左隣 にいたみさ子さんが ﹁なぁに?﹂ と、視線を向けてきた。 ﹁このネクタイを着けていると、なぜか商談が上手く進んでいるよ うな気がして﹂ 古谷さんに限らず、ちょっと気難しそうな相手と打ち合わせに行 く時、このネクタイを着けているとスムーズに話が進んでいるよう に思えたのだ。 他のネクタイを着けていても良い返事をもらえる時もあるが、こ の鮮やかなブルーのネクタイの時は特に物事が上手くいく。 KOBAYASHIに就職出来ることが決まって、気合いを入れ るためにだいぶ奮発してかったこのネクタイ。色も手触りもお気に 入りの愛用品だ。 じっと手の上のネクタイを見つめていて、ある事を思い出した。 ﹁このネクタイ、初めてみさ子さんに会った時に着けてた⋮⋮﹂ 入社して二週間ほど経った頃に行われた同期会に向かうために浮 かれていた俺は、廊下の曲がり角で反対側からやってきたみさ子さ んとぶつかった。 そして彼女は、今と同じほっそりとした綺麗な指で、俺のネクタ イを直してくれたのだ。ちょっとしたお小言つきで。 985 ﹁そっか、このネクタイのおかげでみさ子さんに出会えたのかも﹂ しみじみ呟けば、みさ子さんがクスッと苦笑する。 ﹁そんなの、単なる偶然じゃない?﹂ ﹁いや、そんなことないよ。みさ子さんと俺を引き合わせてくれた 幸運のネクタイなんだ。だから仕事も上手くいくんだ﹂ ﹁仕事が上手くいっているのは、タカの努力の結果よ。でも、確か に不思議な縁ね。あの時廊下でぶつかった人が私の彼だなんて﹂ ネクタイを見つめて、みさ子さんが眩しそうに目を細めた。そん な彼女の肩を左腕でソッと抱き寄せる。 ﹁よかったぁ、みさ子さんにぶつかって﹂ 思わずそう言えば、チロリとみさ子さんが睨んできた。 ﹁大事な書類を踏んづけておいて、何言ってるのよ﹂ ちょっとだけ低い声のみさ子さんに、ニコッと笑いかける。 ﹁何って、みさ子さんは俺と出逢うべくして出逢ったって事だよ。 俺はあの時から、みさ子さんが気になっていたんだから﹂ もちろん、ぶつかっただけでは恋に落ちなかった。だけど、あれ が彼女を知るきっかけになったのは間違いない。 何気ない日常の一コマが、今の幸せを運んでくれたなんて、ちょ っと感動。 彼女の頭に自分の頬を寄せると、腕の中でみさ子さんがポツリと 呟いた。 ﹁⋮⋮じゃぁ、ぶつかったのが私じゃなかったら、こうしてここに いるのは私じゃなかったって事ね﹂ その言葉に、俺は即座に首を横に振る。 ﹁ううん、それは違う。ぶつかったから気になったんじゃなくて、 みさ子さんだったから気になったんだよ、きっと。みさ子さん以外 の人だったら、多分何の印象も残っていなかっただろうな﹂ ﹁私、口調がきつくて態度も素っ気無いから、それで印象に残った んじゃないの?﹂ そう言われて、一瞬言葉に詰まる。彼女の言葉は図星だったから。 986 するとみさ子さんは小さくため息をついた。 ﹁やっぱりね。まぁ、自分がどんな人間か分かっているけど﹂ 淋しそうな口調に、俺は右手で彼女の頬を包み、顔を上げさせる。 そして、不安に揺れる彼女の瞳をじっと見つめた。 ﹁でもね、素っ気無いのに、どうしてこの人はこんなに色っぽいん だろうって思ったんだ。みさ子さんがつけていた香水が、めちゃく ちゃ似合っててさ。それに、さりげない仕草がすごく綺麗で、俺、 ドキドキしてたんだよ。それがずっと心の中に残ってた﹂ ﹁本当に?﹂ わずかに首を傾げて、みさ子さんが俺を見つめる。その視線を正 面から受け止めて、大きく頷いた。 ﹁本当だよ。だから、あんなに必死になってみさ子さんを追いかけ たんだよ﹂ ほんの些細な出会いから彼女に対する興味が生まれ、それがいつ しか恋心へと育っていった。 小さな小さなきっかけが、こうして大きな幸せへと繋がっていた なんて、運命を信じざるを得ない。 ﹁みさ子さんにぶつかってよかった﹂ コツンと自分の額と彼女の額を付けて、心の底からしみじみ呟く。 すると、みさ子さんの細い腕が俺の背中におずおずと回される。 ﹁⋮⋮タカとぶつかってよかった﹂ 小さく聞こえてきた彼女の言葉に俺は温かな幸せを感じて、強く みさ子さんを抱きしめた。 987 154︼幸せの青いネクタイ :3 彼女の穏やかな温もりを感じながら、胸の中に閉じ込めたみさ子 さんの頬にソッとキスを贈る。 ﹁えっ﹂ きょとんとして俺を見つめるみさ子さんの瞳には、俺が映ってい た。こうして彼女のすぐ傍にいる男が自分で、本当に良かったとつ くづく思う。 これからもずっと、みさ子さんが見つめるのは俺一人であってほ しい。もちろん、俺が見つめるのはみさ子さんただ一人だ。 瞳の中に映った自分を見つめ返しながら、フッと頬を緩めた。 ﹁みさ子さん、可愛い﹂ クスッと笑ってもう一度キスを贈る。今度は唇に。 ﹁あ、あ、あの⋮⋮﹂ チュッと触れるだけの軽いキスでも、みさ子さんは瞬時に顔を赤 く染める。そしてほっそりとしなやかな指で俺のYシャツの背中部 分をキュッと握り締め、オロオロと視線を忙しなく動かしている。 恥ずかしがってはいるけれど嫌がってはいないその様子に、俺は 強くみさ子さんを抱き寄せて深く唇を重ねた。 唇を押し当て、俺の唇とは違ったやわらかいその感触を味わう。 重ねては離し、わずかに角度をずらしてまた重ねる。 それと同時に、みさ子さんがつけている香水がほのかにフワリと 漂った。 しっとりとキスをしながら、俺はこの香を胸に吸い込む。 ︱︱︱ああ、やっぱりいい匂いだ。 同じ香水を纏っている人はいるだろうが、みさ子さんほどにピッ タリとイメージに合う人はいないに違いない。 988 強くて優しくて。健気で儚くて。意地っ張りで淋しがり屋で。可 愛くて色っぽくて。少女のようで大人の女性で。 そして、とびきり心が綺麗な人。そういう人でなければ、この香 水は似合わない。みさ子さんだからこそ、こんなにもこの香りを自 然に纏えるのだ。 彼女から放たれる心地よい香りを堪能しながら、スルリと舌を侵 入させて戸惑っている彼女の舌にやんわりと絡みつかせる。 ﹁んっ﹂ みさ子さんはビクッと肩を震わせたものの、短く声を漏らしただ けで抵抗はしてこなかった。 ただ、目を閉じていても、みさ子さんが体を強張らせているのが 腕に伝わってくる。昼間のリビングで交わすには深くて熱いキスに 戸惑っているようだ。 そんな彼女を宥めるように、絡めた舌をいったん解いて俺はみさ 子さんの口腔内をゆっくりと舌でなぞる。舌先で上顎や歯列を丹念 に辿り、時折彼女の艶やかな黒髪を静かに撫でてやった。 その仕草を繰り返していると、次第にみさ子さんの体から緊張が 抜けてゆき、俺にもたれかかってくる。 俺はゆっくりと顔を離し、静かに目を開けた。 すぐ傍には、レンズ越しでも潤んでいるのが分かるみさ子さんの 瞳がある。 その瞳を真っ直ぐに見つめながら、ソッとシルバーフレームの眼 鏡を外して、ローテーブルに置いた。 そして何も言わずにみさ子 さんに微笑みかける。 彼女は困ったように少しだけ眉を寄せたけれど、目を伏せて再び 抱きついてきた。俺の肩口に額を付けてしばらくじっとしたままだ ったが、やがてコクンと小さく頷く。 愛らしいみさ子さんの愛らしい仕草。 それだけの仕草なのに、幸せで心が満たされた俺はより強く彼女 を抱き寄せた。 989 右手を彼女のなだらかな頬に添えて、顔を優しく上に向かせる。 みさ子さんはじっと俺の目を見ながら、数回瞬きをしたのちに徐 々に瞼を下ろした。 それを合図に、俺は再びみさ子さんにキスをする。 きつく唇を押し当て、舌を差し入れる。彼女の舌に自分の舌を絡 みつかせ、軽く吸い上げた。 チュクッという小さな水音がして、みさ子さんがピクッと震える。 だけど、俺の背中に回されている彼女の腕は変わらずそこにあり、 逃げ出す素振りを一切見せない。 恥ずかしいと思っているはずなのに、それでも俺を求めてくれて いるのが分かって、ますます心が満たされてゆく。 嬉しさに一層きつくみさ子さんを抱き寄せた。 そして舌を更に奥まで侵入させ、根本からみさ子さんの舌を舐る。 何度も何度も絡みつかせると、彼女の体温が上がってきたせいか、 より強く香水を感じた。 みさ子さんも気持ちいいと思ってくれている事が、言葉はなくと も温もりと香りが教えてくれた。それは言葉よりもさらに率直に伝 えてくる。 思わず零れる笑み。 可愛い彼女をもっと可愛がってあげたい。もっともっと気持ちよ くさせてあげたいという思いが、自然と湧き上がる。 俺は右腕をみさ子さんの背中から外し、互いの体の隙間に滑り込 ませた。ウエストの括れを辿り、手の平は柔らかい胸の膨らみに到 達する。そしてしなやかなブラウスごと乳房を大きく揉み込んだ ﹁んんっ﹂ 重ねた唇の隙間から、彼女のくぐもった声が洩れる。 その声を心地いいと感じながら、下から掬い上げるように指先に 力を入れて左胸を揉みしだく。布地越しでもやわらかさを感じさせ 990 る胸を形が変わるほど揉み込むと、みさ子さんは体を小刻みに震わ せた。 執拗にキスを贈りながら静かにみさ子さんを押し倒せば、ギ⋮⋮ と、ソファーが音を立てる。 低くきしんだ音を不快に思うことなく、みさ子さんに圧し掛かる ようにして彼女の唇を引き続き味わった。 重ねた唇が熱を帯びる頃になって、ようやく俺はキスを終える。 解いた唇でみさ子さんの首筋や鎖骨を辿った。 ﹁あ、ん⋮⋮﹂ くすぐったさにも似た独特の感覚に、みさ子さんが艶っぽい声を 上げる。その声にクスリと口角を上げながら、円を描くように彼女 の胸の上で右手を動かす。 ﹁ふ、うぅっ﹂ 切なげに眉を寄せ、ユルユルと首を振るみさ子さん。明るい昼間 のリビングで俺に愛撫されているという羞恥が、いつも以上に彼女 を敏感にさせているらしい。 次第に体の抜いてゆくみさ子さんに満足しながら、ブラウスのボ タンを二つほど外し、鎖骨の辺りを軽く吸い上げて薄紅色の花びら を刻む。 一つ、二つ。三つ、四つ。 はらり、はらりと、増えてゆく所有の証とも言うべき花びら。 肌の白いみさ子さんの胸元に散った朱は、何とも綺麗で官能的だ った。 自分で施した赤い跡を指先で触ると、なぜか、えも言われぬ焦燥 感が募る。 いつもなら散ったキスマークを見て満足するのに、今日はもっと もっとみさ子さんを束縛したい気分に襲われているのだ。 その時、ローテーブルの上に無造作に置かれた青いネクタイが目 991 に入った。そして、無意識にニヤリと俺の片頬が上がる。 欲情の波に飲まれつつあるみさ子さんはボンヤリとソファーに体 を投げ出していて、俺の思惑には気づきそうにない。 それをいいことに、俺は起き上がると、みさ子さんの手首をその ネクタイで素早く纏め上げた。 ﹁⋮⋮え?﹂ 痛くない程度に、だけどちょっとだけきつめにネクタイを結ぶと、 流石にみさ子さんも変だと感じたようだ。 少しだけ顔を起こし、自分の腹部の上で纏められた手首に目をや る。 ﹁タカ?﹂ 驚きを濃く滲ませた声で俺を呼んだ。 その声に、ニッコリと微笑み返す。 ﹁俺の心はみさ子さんに縛られているからさ、お返しに俺のネクタ イでみさ子さんを縛ってあげようと思って﹂ 満面の笑みでそう告げる俺に、みさ子さんの瞳が戸惑いに揺れた。 ﹁意味が分からないわ。なによ、その理屈﹂ みさ子さんは手首を捻ってネクタイを外そうと試みるが、そう簡 単に解けるようには結んでいない。 ﹁だって、そう思っちゃったんだもん﹂ ネクタイの上から華奢な彼女の手首を左手だけで掴んだ。 ﹁みさ子さん自身を俺に縛り付けることは無理だから、せめて、ね﹂ クスクスと笑いながら、みさ子さんに覆いかぶさる。 ﹁だってさ、みさ子さんの事が好きで好きで、どうしたらいいのか 分かんないくらい好きなんだもん﹂ 黒髪から覗く左耳にソッと歯を立てながら囁けば、 ﹁⋮⋮私の心もタカに縛り付けられているのに。バカ﹂ と、極々小さな声で囁かれた。 992 154︼幸せの青いネクタイ :3︵後書き︶ ●読者様から頂いていたリクエストである﹁縛り﹂に応えてみまし た。 すいません、すいません。数年前のリクエストが、今ようやく文 字となりました。 遅くなりまして、ごめんなさい。 荒縄で縛るなんて、そんな本格的でハードなことは初心なみさ子 さんには出来ませんので︵笑︶、ネクタイでご容赦ください。 ん∼、ネクタイも良いけど浴衣の帯で縛るのもいいなぁ。⋮でも、 そっちは野口氏がやりそうだわ︵爆︶ 993 155︼幸せの青いネクタイ :4 しばらくソファの上でみさ子さんの唇や胸の感触を楽しんでいた が、もっと深く彼女と繋がりたい衝動は抑え切れそうにない。その 衝動は次から次へと体の奥から湧き出し、みさ子さんをベッドに連 れていく余裕もないほどだ。 昼間からソファの上で、という背徳感が、ますます俺の中で妖し い熱を生み出す。 みさ子さんをソファに押し付けながら、キスと胸への愛撫を繰り 返した。 ネットリと舌を絡ませ、温かくて柔らかい感触をじっくりと味わ う。何度味わっても尽きないほど、彼女とのキスは俺を幸せにして くれる。 そしてボタンを全て外したブラウスを出来うる限り左右に肌蹴さ せ、薄いクリーム色のキャミソールを鎖骨まで捲り上げた。伸縮性 のある生地で出来たキャミソールを押し上げると、形のいい胸がフ ルリと揺れる。 体の前で腕を合わせるように手首を絡められているおかげで胸が 寄せられ、いつもよりもボリュームがあるように見える。谷間もい つもよりくっきりだ。 その谷間に尖らせた舌先を這わせた。始めは谷間に舌を入れ、隙 間をこじ開けるように舐め上げる。それから丸みに沿ってゆっくり と舌を動かし、ややずり下がったブラのカップから舌先を忍び込ま せた。少し固くなった乳首に当たり、そのままチロチロと舐める。 ﹁あ、んっ⋮⋮﹂ みさ子さんがゆるゆると首を振った。与えられる刺激がもどかし いのか、彼女は切なげに眉を寄せ、首を振り続ける。 その様子が可愛くて、色っぽくて、俺は更に乳首を舌で攻める。 硬く立ち始めた先端だけをじっくりと舐め、突っつき、執拗に弄る。 994 それを左右の乳首に何度も繰り返しているうちに、みさ子さんは 体をわずかにくねらせ始める。そのたびに艶やかな黒髪がサラサラ と乱れ、綺麗な首筋が露になり、柔らかな胸が誘うように揺れる。 俺はみさ子さんの体とソファの間に手を滑り込ませて、少々強引 にブラのホックを外した。そしてブラを上にずらすと、目の前にあ る赤く色づいた先端にしゃぶりつく。 ﹁ああっ﹂ みさ子さんの体がピクンと跳ねて、可愛らしい喘ぎ声が洩れた。 それに気をよくした俺は右胸の乳首をベロリと下から大きく舐め 上げ、それから軽く歯を立てる。左の乳首は右手の親指と人差し指 の腹で擦るように摘んだ。 ざらつく舌と硬い歯で攻められ、指の腹で執拗にクニクニと嬲ら れ、みさ子さんの嬌声はどんどん艶を増してゆく。 ﹁んん、あん⋮⋮、はぁっ﹂ チュクチュクとわざとらしく音を立てて乳首を吸い、爪を立てて コリコリと乳首に刺激を与えれば、ピクッ、ピクッと体を震わせる 彼女。 俺はゆっくりと上体を起こして、押し倒しているみさ子さんを眺 めた。 手首を縛られているので、ブラウスもキャミソールもブラも完全 に取り去ることが出来ない。だけど、それがいい感じに淫らで、俺 の興奮は高まる一方。 左胸、右胸、ウエスト、臍の上とキスマークを散らしながら、俺 は彼女のスラックスとショーツを取り去った。そしてソファから降 りると、自分の服を上下とも一気に脱ぎ去る。 ﹁⋮⋮タカ?﹂ 視力の悪いみさ子さんは、おぼろげな視界で俺を見つめる。不安 そうな瞳が儚げで、そんな瞳が懸命に俺を捉えようとしている様子 がこの上なく可愛らしくて、俺はみさ子さんに抱きつく。 ﹁ごめん、我慢できない。このままソファで抱かせて?﹂ 995 ﹁え?﹂ 反論される前にみさ子さんの口をキスで塞ぎ、左腕で抱きしめた まま、空いている右手を彼女の秘部に伸ばした。 スルリと割れ目に這わせた指先に、しっとりと濡れた感触がある。 そのぬめりを掬うように下から上へと指を動かす。 ﹁ん、んんっ﹂ ビクン、とみさ子さんの体が大きく震えた。 ﹁すごい濡れてるよ。聞こえるよね?﹂ キスを中断して更に激しく指を動かせば、クチュクチュと湿った 淫音がよりはっきりと耳に届く。 ﹁あ、あぁ⋮⋮﹂ 右に左にと首が振られ、彼女の黒髪が俺の目の前で乱れる。そん な彼女を間近でうっとりと眺めながら、俺は人差し指と中指を秘部 に突き入れた。 ﹁やぁんっ!﹂ その刺激にみさ子さんの腰が浮く。 ﹁昼間のリビングで抱かれているからかな?いつもより感度がいい ね﹂ クスッと笑いながら、俺はズブズブと指の注挿を繰り返した。熱 い滴りが次々に溢れ、それによって指の動きが一層滑らかになり、 みさ子さんを更に刺激してゆく。 ﹁ん、く⋮⋮、あっ﹂ 色っぽい唇を噛みしめ、形のいい眉を寄せて刺激に耐えているよ うだけど、どうにも堪えられるはずもなく、甘い喘ぎが洩れ零れる。 ﹁ナカはいい感じだけど、こっちはどうかな﹂ 楽しげに呟くと、俺は根本まで二本の指を飲み込ませたまま、親 指の腹で少し上にあるクリトリスを擦った。 ﹁ああっ!!﹂ みさ子さんの甲高い嬌声が響く。 俺に弄られる前から淫芽はプックリと膨らんでおり、ちょっと触 996 っただけでも、彼女には十分すぎる刺激だったようだ。 だけど、俺に溺れてもらう為には、まだまだ刺激が足りないだろ う。 秘部に入れたままの指を少し曲げて、膣壁の上面を擦った。指先 に少しざらついた感触を伝えるココは、みさ子さんのイイ所だ。そ して膨らんだクリトリスも、もちろんイイ所。 そんな二箇所を同時に攻められ、みさ子さんがガクガクと体を小 刻みに震わせる。 ﹁ん、い、いやぁ⋮⋮﹂ 左上半身で彼女を押さえ込んでいる俺の肩に、みさ子さんは額を 擦り付けた。 ﹁あ、あん、タカッ﹂ 戦慄くみさ子さんに構わず、俺はズブズブ、グリグリと右手を動 かす。 ﹁や、あっ、だ、だめ⋮⋮っ!﹂ いつになく高い声でそう言ったみさ子さんは、ガクンと大きく体 を震わせて愛液をコプッと溢れさせた後、クタリとなった。どうや ら軽くイってしまったらしい。 俺は先ほど脱ぎ捨てたスラックスの後ろポケットから財布を取り 出し、忍ばせていたコンドームを取り出す。口に咥えてビリッとパ ッケージを破ると、腹筋に着くほど硬く立ち上がっているペニスに 被せた。 再びみさ子さんに覆いかぶさり、半ば放心しているみさ子さんの 額にチュッとキスをする。そして、彼女の脇に腕を差し込んでグイ ッと引き寄せ、勢いをつけて後ろに倒れるようにして二人とも起き 上がった。 体を少し捻って、俺はソファの背にもたれるような形で座る。そ れから俺の太ももを跨ぐように乗り上げた形になったみさ子さんの 秘部に、いきり立ったペニスの先端を宛がった。 ﹁⋮⋮挿れるよ﹂ 997 掴んだ彼女の腰をグイッと引き下げ、ガチガチに勃っているペニ スを挿入させる。いつもほど丁寧に解せなかったみさ子さんのナカ だったが、ズブズブと素直に飲み 込んでくれた。 だが強引に飲み込まされたペニスは、みさ子さんの自重もあって、 一気に奥まで到達する。 ﹁ん、あぁっ!!﹂ 悲鳴のような嬌声が、彼女の口から飛び出した。 突然の大きすぎる快楽に、みさ子さんは薄く口を開いたまま後ろ に仰け反る。そんな彼女を腕でしっかりと抱き支え、俺は腰を突き 上げた。 ソファの適度なスプリングの力で、何度も何度もリズミカルに注 挿する。 ﹁ひ、あっ、あぁ﹂ 俺の腰の動きに合わせて、掠れた声で喘ぐみさ子さんが壮絶に色 っぽい。おかげで俺のペニスはどんどん硬さと熱を帯びてゆく。 自由にならない腕では俺に抱きつくことも出来ず、みさ子さんは 俺の胸に体重を預けるように凭れかかっていた。そのことにより、 今までにない角度でペニスが激しく突き上げられ、今までにない場 所をズクズクとペニスで攻め立てられている。 俺のすぐ目の前にいるみさ子さんは、改めて見てもその中途半端 な脱げ具合がたまらなく卑猥で、官能を直撃する。 ガツン、とやや乱暴に腰を突き上げた。ペニスを深々と突き立て られているみさ子さんは逃げることなど出来ず、刺激の全てをその 身に受けた。 ﹁いやぁっ!﹂ 半分悲鳴のような嬌声。 硬く閉じられている彼女の目尻から、うっすらと溢れる涙。 それでも、俺の突き上げは止まることがない。 ﹁みさ子さん、大好き﹂ 998 彼女の腰を支えていた腕を柔らかな臀部へと異動させ、その双丘 を大きく掴む。ペニスをグッと突き込むと同時に、掴んだ双丘を自 分へと引き寄せた。 結合がよりいっそう深くなり、オマケにゴリゴリと腰を押し付け られては、みさ子さんもたまらないだろう。 ﹁く、うぅ⋮⋮﹂ 食いしばった唇から、苦しそうな声が洩れる。だけど、俺のペニ スを包む膣壁はヒクヒクと嬉しそうに扇動している。その動きは“ もっと、もっと”と、更なる刺激を求めているようだ。 心地よい締め付けをいつまでも味わっていたいけれど、こちらも そろそろ限界が近い。 ﹁みさ子、さんっ、大好き、愛してる⋮⋮﹂ 最後の追い上げとばかりに、腰を強く打ちつけ、激しく揺さ振る。 それに呼応して、彼女の膣壁がキュウキュウとペニスを締め上げて きた。 ﹁タカ⋮⋮、タカ⋮⋮﹂ 上下、前後に揺らされながら、みさ子さんはうわ言のように俺の 名前を呼び続ける。 ﹁俺は、ここに⋮⋮いるよ。みさ子さんの、一番、近い場所に、い るよ⋮⋮﹂ 彼女の華奢な背中と腰に右腕と左腕をそれぞれ巻き付け、強く抱 きしめる。 ﹁愛してる⋮⋮﹂ 彼女の耳元でそう囁くと、みさ子さんのナカが一際きつくなり、 そして俺も熱を吐き出したのだった。 999 155︼幸せの青いネクタイ :4︵後書き︶ ●青いネクタイのおかげで、タカは至福の一時を過ごせたようです★ みさ子さんも、幸せ⋮⋮ですかね︵苦笑︶ 1000 156︼﹁彼女が年上であるということ﹂:1 七月の初めと言えば関東では梅雨前線が活発な時期で、一日中傘 が手放せないものだ。 もしくは、朝から晩までドンヨリとした曇りが続き、陽の目が恋 しくなるといったものが例年の梅雨時である。 しかし今年は空梅雨なのか、にわか雨すら降らない日々が続いて いた。 夏真っ盛りには少し早い青空は、青みが少し薄い気がする。そん な空を三人掛けのソファに並んで腰掛け、窓からみさ子さんと見上 げている。 ﹁雨続きっていうのも困るけれど、少しは雨が降って欲しいわ。実 家の母が、毎日の庭の水撒きに苦労しているのよね﹂ ﹁ああ、俺の母さんもそう言ってた。それと“水道代もバカになら ないわ。雨が降ったらタダなのに”って﹂ ﹁ふふっ、私の母も同じ事を言っていたわ﹂ クスッと笑いながら、みさ子さんが手にしていたバッグを目の前 のローテーブルに載せた。そして中から大きな包みを取り出す。 二人でよく使っている休憩室には今でもめったに他の利用者がな く、こうして昼休みに気兼ねなく彼女と昼食を食べられると言うも のだ。 恥ずかしがり屋なみさ子さんは、相変らず俺との関係をオープン にしたがらない。だから人目を避けるという意味でこの休憩室を使 っているのだが、俺としては人目を気にせずみさ子さんとイチャイ チャ出来ると言う意味合いが大きかったりする。 ﹁いつも美味しい料理を作ってきてくれてありがとう﹂ 右隣に座っている彼女の頬に、チュッと音を立ててキスを贈った。 こんなこと、社員達の前では出来ないもんね。 俺にキスをされたみさ子さんは﹃ひゃっ﹄と短く声を上げ、すぐ 1001 さま睨んでくる。 ﹁何をするのよ?﹂ 目元を赤らめて睨んできても可愛いだけなのに、彼女は全く分か っていない。そんなみさ子さんにニコッと笑いかけた。 ﹁ん?お礼のキスだよ﹂ 悪びれもせずに言えば、 ﹁⋮⋮そう。お昼は抜きになってもいいのね?﹂ と、若干低い声で淡々と言ってくるみさ子さん。 ﹁うっ⋮⋮。それは困ります。ごめんなさい、もうしません。みさ 子さんが作った弁当、食べさせてください﹂ 平謝りの勢いで頭を下げれば、クスッとみさ子さんが小さく笑う。 ﹁もう、しょうがないわね。大人しく食べるのよ﹂ まるで弟を嗜めるお姉さんのような口調で言われてしまう。 俺としては、人目がなければ頬にキスをするくらいはいいと思う けれど、みさ子さんはそれでも恥かしがる。周囲に人がいなくても、 “職場”という状況が堪らなく恥かしいのだとか。 彼氏としては淋しい気もするけれど、俺の部屋や彼女の部屋では だいぶ素直に受け入れてくれるようになったから、それだけでもみ さ子さんにしたらかなりの進歩だと思う。 ︱︱︱あんまり欲張ったらいけないよな。 片想いの時は、気安く触れることなど出来なかった。気軽に想い を口にすることも出来なかった。 逃げるみさ子さんの心をどうやったら手に入れられるのか分から なくて、苦しくて、泣きたくて、切なくて。 それでも諦め切れなくて、その末にようやく手に入れた愛しい人。 嬉しくて幸せで、つい先走ってしまうけれど、みさ子さんのペー スに合わせることを忘れてしまったら、彼女はきっと迷子になって しまう。 1002 みさ子さんの幸せも大事なんだ。自分の幸せと同じくらい。いや、 自分の幸せ以上に。 こういう子供っぽいところを治さないと、自分こそが彼女には相 応しくない男だと言われかねない。 ﹁ごめんね﹂ 小さく謝れば、みさ子さんは目元を和らげる。その視線は﹃もう、 怒っていないわよ﹄と雄弁に語っている。 ﹁さ、食べましょ﹂ みさ子さんが持ってきた弁当の蓋を開けた。 目の前に現れたのは、綺麗な錦糸卵と細切りにされた絹さやが載 せられている見た目も爽やかな散らし寿司。 ﹁このところ、やけに暑いでしょ。だからさっぱりしたものがいい と思って。タカが好きなレンコンの甘酢漬けも、醤油煮にした鶏肉 もたくさん混ぜてきたわよ﹂ そう言いながら、持参したプラスチック製の皿に取り分けてくれ るみさ子さん。皿の端には浅漬けのキャベツや、ごぼうの牛肉巻き を品良く添えてくれた。 その様子を見ながら、彼女が用意してくれた濡れタオルで手を拭 っている。 ﹁はい、召し上がれ﹂ そう言って、箸と一緒に皿を差し出してきた。 準備も良く、そして甲斐甲斐しいみさ子さんに、俺はつくづく自 分の恋人が素晴らしい女性なのだと噛みしめる。 ﹁何を笑っているの?﹂ 皿に盛られた料理へ箸をつけない俺に、軽く首を傾げるみさ子さ ん。硬質なレンズ越しに見える形のいい瞳が、不思議そうに見つめ ている。 そんな彼女の瞳を、笑みを浮かべて見つめ返す。 ﹁幸せだなって思ってさ﹂ 目一杯みさ子さんへの愛しさを篭めて告げれば、 1003 ﹁好物の散らし寿司が食べられるから?﹂ という答えが返ってきた。 仕事中では抜群の勘のよさを発揮するのに、どうして彼女は恋愛 に対して︱︱︱殊、自分の恋愛において︱︱︱こうも鈍いのだろう か。 まぁ、そういうところが愛しくて堪らないのだが。 ﹁それもそうなんだけどね、みさ子さんが俺の彼女で幸せだなぁっ て﹂ 苦笑まじりに、だけど真剣に告げれば、彼女は途端に頬を真っ赤 にする。 ﹁や、も、もう、何を言ってるのよ!﹂ プイッと前を向いて、みさ子さんは猛然と自分用に取り分けた散 らし寿司を食べ始めた。この感じでは、髪に隠れている耳までも赤 く染まっていることだろう。 重ねて言うが、こういうところも愛しくて堪らないのだ。 ﹁何って、言葉の通りだよ。優しくって可愛くて品があって綺麗な みさ子さんが、俺の彼女になってくれて幸せで嬉しいなってこと﹂ ﹁むぐっ﹂ 彼女が変な声を出して、箸の動きを止めた。そして胸の辺りをド ンドンと拳で叩き始める。 ﹁大丈夫?﹂ 俺は水筒から麦茶をカップに注ぎ、みさ子さんに手渡した。彼女 はカップを引っ手繰るように奪い、ものすごい勢いで一気に飲み干 した。 はぁ、と大きく息を吐いた後、グリン、と顔をこちらに向けてく る。 ﹁ちょ、ちょっと!さっきより言葉が増えているんだけど!?﹂ ﹁うん、そうだね。でも、俺がみさ子さんを想う気持ちは、あんな 数言のセリフじゃ言い表せないよ﹂ ニッコリと楽しそうに口角を上げる俺。 1004 ﹁試しに言ってみようか?﹂ それを聞いて、切れ長で形のいい彼女の目がギョッと大きく見開 かれる。 ﹁い、い、い、いえ、けっこうよ!﹂ フルフルと首を横に振って、みさ子さんは俺の申し出を断ってき た。 ﹁みさ子さんに対する想いを披露する、ちょうどいい機会なのにな ぁ。ねぇ、本当に聞きたくない?﹂ いまだに頬を赤く染めたまま、みさ子さんがコクコクと頷いてく る。そんな彼女の様子に、ちょっとだけがっかりしてしまう。 ﹁ちぇっ、つまんないなぁ﹂ ﹁そんなこと言ってないで、早く食べたら?昼休みは無限じゃない のよ﹂ ﹁それは分かってるけどさぁ﹂ 彼女に窘められても不機嫌そうに唇を尖らせる俺。顔を僅かに伏 せたまま、そんな俺を横目でチラリと窺うみさ子さん。 そして、 ﹁⋮⋮それに、言葉にしてもらわなくても、タカの愛情はちゃんと 伝わってくるし﹂ と、早口に呟いた。 ﹁え?みさ子さん?﹂ 俺の呼びかけに顔を上げることはせず、再び猛然と散らし寿司を 口に運ぶみさ子さん。 照れくさいのか、何度呼んでも彼女はこちらを見ようとはしない。 チョイチョイと肩を突いてみても、俺を無視して、ひたすらに食べ みたび 続ける。 三度言おう。こういうところが、メチャクチャ愛おしいのだ。 そんな愛してやまない、俺の恋人であるみさ子さん。 大好きで愛しい彼女の幸せを願う。 1005 いつでも笑っていてほしい。 誰に遠慮することなく、のびのびと彼女らしさを見せてほしい。 俺の視線に気づいているはずなのに、あえて見ようとはしてこな い彼女の横顔を眺めながら、彼女の幸せを心の底から願った。 1006 156︼﹁彼女が年上であるということ﹂:1 ︵後書き︶ ●かなりご無沙汰してしまいまして、申し訳ございません。 ようやく新しい章の構想が纏まりましたので、徐々に更新をしてい きたいと思います。 遅筆な作者ですが、これからもどうぞ宜しくお願いいたします。 1007 157︼﹁彼女が年上であるということ﹂:2 ︽SIDE:みさ子︾ 仕事が終わり、帰り仕度をしていると、携帯電話が着信を告げる。 ﹁もしもし?﹂ ﹃みさ子ちゃん、私よ﹄ 電話をかけてきたのは伯母だった。 隣の市に住んでいる母のすぐ上の姉で、二人で日帰りのバス旅行 に度々出かけるほど仲の良い姉妹だ。 伯母の旦那さんが一昨年病気で亡くなって以来、割と頻繁に実家 にお茶飲みに来ていて、私が実家に立ち寄った際には顔を合わせる 機会も多い。 ちょっとせっかちなところと世話焼きなところがあるが悪い人で はなく、これまでに何かと世話になっていた。 その伯母が母ではなく私に電話をかけてくることは、日頃から良 くあることだ。 ﹃ねぇ。今度の日曜日、時間ある?﹄ 電話から明るい声が聞こえてきた。身内に不幸があったとか、そ ういう悪い話ではなさそうだ。 ﹁特別な用事は入れてないから大丈夫ですが。何かあるんですか?﹂ ﹃実は、ホテルにあるフレンチレストランでお友達何人かとランチ を食べることになっているんだけど。一人体調を崩してしまって、 どうしても行けそうにないの。みさ子ちゃん、一緒に行かない?﹄ 伯母が口にしたホテルの名前は、かなり格式が高くて有名なもの だった。気軽なランチでも普段着でフラリと入れるようなものでは ない。 ﹁それなら、母を誘ったらいいんじゃないですか?﹂ ﹃さっき電話したのよ。そうしたら、今はこってりしたフランス料 1008 理が食べたくないって断られちゃったの﹄ 伯母の話を聞いて、つい先日実家に戻った時に母が口にした言葉 を思い出す。 ﹁ああ、そういえば、最近ちょっと体重を気にしていると話をして いましたね﹂ ﹃そうなのよ。それで知り合いにも声をかけてみたんだけど、みん な用事があるみたいなの。それで、予約を取り消すんだったら誰か 誘ったほうがいいと思って。みさ子ちゃん、どうかしら?もちろん、 お代はいらないわ。私が急にお願いした事だし﹄ ﹁それは悪いですよ﹂ 私がそう返せば、 ﹃本当に代金はいらないの。みさ子ちゃんは来てくれるだけで十分 よ。だから、お願い﹄ と、すぐさま伯母が答える。 何だか妙に必死だが、私としては悪い話どころかありがたい話だ。 ﹁分かりました。私でよかったら、お供します﹂ この言葉に、電話の向こうで伯母が大きく息を吐いた。 ﹃ああ、良かったわぁ。それでね、せっかく格式の高いホテルに行 くんだから、オシャレして来てね﹄ ﹁でも、私、ワンピースとか持ってないですよ?﹂ ﹃そこまで余所行きにしなくてもいいわ。ほら、おめでたい席に出 る時に着るようなスーツがあるでしょ?みさ子ちゃんはスラッとし ているから、それで十分素敵よ。とにかく、日曜日は私に付き合っ て﹄ やたら意気込んでくる伯母にやはり少々疑問を感じるが、まぁ、 めったに足を運ぶことの出来ない一流ホテルで食事が出来るという ことで気持ちが高ぶっているのだろう。 ﹁では、お言葉に甘えて。じゃあ、何時に待ち合わせましょうか?﹂ それから日曜日のことについて少し伯母と話して、私は電話を終 えた。 1009 土曜日にタカと買い物に出掛け、その後に私の部屋に二人で戻っ てきた。 夕飯までにはまだ時間があるので、ソファに座って他愛の無い会 話を楽しんでいる。 ﹁明日も天気がいいみたいだし、ドライブに行かない?﹂ テレビで流れている天気予報を眺めながら、タカが言う。それを 聞いて、私は困ったように少し笑った。 ﹁ごめんなさい。明日は伯母と会う予定があるのよ。ホテルのラン チに誘われているの。一緒に行く予定だった方が体調を崩して、ど うしても行けないんですって。一人分キャンセルすることも出来る けど、それはもったいないからどうかって言われて﹂ ﹁そうなんだ﹂ なんてことの無い様子を装っているが、ポツリと呟いたタカはち ょっと寂しそう。 ﹁本当にごめんなさいね。私もタカとドライブに行きたいけど、子 供の頃からお世話になっている人で、うまく断れなくって﹂ ﹁ううん、気にしないで。ホテルで食事なんて滅多に出来ないんだ から、楽しんでおいでよ。俺の今の稼ぎじゃ、みさ子さんをそうい うところに連れて行って食事させるのもなかなか出来ないし﹂ ﹁何言ってるのよ。豪華なホテルで食事するより、タカと一緒に唐 揚げを食べたほうが、よっぽどいいわ﹂ ﹁うん。俺もみさ子さんと唐揚げを食べるほうが幸せ﹂ ニコッと笑ったタカが、不意に黙り込む。 ﹁⋮⋮実は、お見合いがセッティングされていたりして﹂ ﹁まさかっ!﹂ 思わず私は叫ぶ。 ﹁私に付き合っている人がいることは、ずいぶん前に母へ話してあ 1010 るのよ。伯母だってそのことを知っているはずだわ﹂ ﹁ごめん、俺の勝手な憶測だよ。ほら、ドラマとか小説でそういう のってあるでしょ?知らずに出かけていったら、実はお見合いだっ たっていう話。今日、沢田さんとそういう話で盛り上がっていたか ら、つい﹂ 苦笑いをするタカに、私も苦笑い。 ﹁馬鹿ね。そういうのは作り話よ。そうそうあるわけないじゃない﹂ お互いにクスッと笑いあって、その話はそこで終わった。 その“まさか”が現実になるなんて⋮⋮。 日曜日。 私はホテルで食事をしてもおかしくないパンツスーツに身を包ん で、部屋を出た。 伯母は既にロビーにいて、現れた私の姿を見て小さく手を振って くる。私は少し早足になって伯母のところに向かう。 ﹁ごめんなさい、お待たせして﹂ ﹁ううん、ちっとも待っていないわ。ちょうど私も今、来たところ なの﹂ 母とよく似た笑顔でニコッと笑う伯母は、髪も服装も普段よりか なり綺麗だった。もともと身奇麗にしている伯母ではあるが、今日 は一段と気合が入っている。 いくら一流ホテルで食事をするからといって、ここまでする必要 があるだろうか。この髪は明らかに美容院で仕上げてもらったもの だ。 ﹁ねぇ、伯母さん⋮⋮﹂ 私が怪訝な顔で口を開くと、 ﹁あら、いけない。こんなところで立ち話していないで、行きまし 1011 ょ﹂ 伯母は再び笑顔で私を促し、レストランに向かって歩き出した。 そして、案内された席には先客がいた。 伯母と同じ年齢くらいの女性と、私と同じ年齢くらいの男性。こ こまでくれば、この状況が単なるランチではないことに気付く。 ﹁⋮⋮これ、お見合いですよね?﹂ 横に立っている伯母の服を軽く引っ張りながら、小さな声で囁い た。 ﹁だって、こうでもしないと、みさ子ちゃんは来てくれないじゃな い﹂ 豪胆なところがある伯母は、ちっとも悪びれた様子を見せない。 ﹁私、お付き合いしている人がいるんですよ﹂ ﹁そうは言っても、いつまで経っても話だけで、みさ子ちゃんの彼 氏を見たことないって妹が話していたもの。ねぇ、本当にみさ子ち ゃんはお付き合いしている人がいるの?﹂ ﹁いますよ。同じ会社の人です﹂ 今日のことは、どうやら母も噛んでいるようだ。 結婚をせっつく母に﹃付き合っている人がいるから、これ以上、 見合い話を持ってこないで﹄と断り続けていた。そんな私の態度に、 ﹃見合いしろとうるさいから、恋人がいるという嘘をついている﹄ と思い至ったのだろう。 そして、母が世話焼きの伯母に誰か紹介してほしいと持ちかけた に違いない。 こんなことなら、恥ずかしがらずにタカを親に紹介しておけばよ かった。だが、ここで悔やんでももう遅い。 ﹁あら、困ったわねぇ﹂ 伯母が珍しく表情を曇らせた。 いくらなんでも、このまま席にも着かずに帰ってしまっては、こ こまで足を運んでくれた先客にも悪いし、伯母の顔を潰すことにな 1012 る。 ︱︱︱息子さんには後で話をして、このお見合いはなかったことに してもらうしかないわね。 それに、わざわざこちらから話を切り出さなくても、相手が断っ てくる可能性は十分にある。 いくら結婚相手を探しているとはいえ、今時のOLとは思えない ほど地味な私と付き合いたいと言い出すなど到底考えられない。 納得は行かないものの、引き返してしまうほど非情にはなりきれ ず、 ﹁仕方ないですね。今日のところは、とりあえず話を合わせます﹂ そう言って、私は先客のいるテーブルに着いたのだった。 先に来ていた二人はやはり親子で、母親は伯母とカラオケサーク ルのお仲間だそうだ。三十を過ぎた息子が一向に結婚相手を見つけ てこないので、仲のいい伯母に年齢がつりあうような女性の紹介を 頼み、そして私に白羽の矢が立ったという。 運ばれてきたオードブルを口に運びながら、失礼にならない程度 に正面に座る男性に目を遣った。 話によると、この男性は名前の知れた企業の企画部製作課の課長 で、私より三歳上。 スキューバーダイビングが趣味ということで、私より10センチ 以上高いスラリとした長身でも、ひ弱には見えない。 おまけに顔立ちも素敵な部類に十分入っていて、KOBAYAS HIで“王子”と呼ばれているタカとは違う種類の美形だ。 穏やかな物腰と卒の無い会話運び、そしてこの外見に社会的ステ ータス。女性が放っておくはずも無く、今まで独身でいることのほ うが不思議なくらい。 私は場の空気を壊さない程度に会話に加わり、食事は順調に進む。 1013 やがてデザートも終わり、食後の飲み物を飲んでいるところで、 伯母と男性の母親がおもむろに立ち上がった。 ﹁私たち、これからサークルの打ち合わせがあるの﹂ ﹁申し訳ないけれど、ここで失礼させてもらうわ﹂ 来た!これが良くある﹃後は若い人たちで⋮⋮﹄なのか! 一瞬戸惑いが顔に浮かんだが、こちらの事情を説明するには男性 だけ残ってくれたほうが都合はいい。 自分の母親には﹃性格が合わない﹄とでも言ってもらって、このお 見合いを適当に断ってもらおう。 何とも生温かい笑顔を浮かべて、伯母と母親の男性が足早に立ち 去ってゆく。その二人の背中を見送りながら、どうやって話を切り 出そうかと考えていると、男性が声をかけてきた。 ﹁佐々木さんは、KOBAYASHIの総務でチーフをされている んですね﹂ やわらかい口調で話しかけられ、私は視線を男性に向ける。 ﹁福岡さんこそ、私とそう年が変わらないのに、すでに課長だとか﹂ ﹁KOBAYASHIのような大企業ではないので、私の年で課長 といっても、それほどのことでは﹂ 私の言葉に照れくさそうに目を細める。とても好感の持てる仕草 だ。これでどうして結婚できないのか、本当に不思議である。 ﹁でも、学生が就職したいと希望する会社のランキングでは上位を 占めると聞いています。それに、この不景気の中で、業績は右肩上 がりだと。私が言うのはおこがましいですが、とても有望な企業だ と思いますよ﹂ 世間話の延長のような感じでいつものように淡々と話していると、 そんな私に気分を悪くした様子もなく、 ﹁ありがとうございます。佐々木さんにそう仰っていただけると、 これまでの苦労が、報われます﹂ と、爽やかな笑顔が返ってきた。 しばらく話してみた感じでは、私の事情を明らかにしたところで 1014 逆上したりすることはなさそうだ。 私は紅茶を一口飲んだ後、思い切って話し始める。 ﹁あの、福岡さん。この席がお見合いということはご存知ですよね ?﹂ ﹁はい。なかなか結婚しない私に、母が業を煮やしたらしくて﹂ そう言って、福岡さんが苦笑いを浮かべる。そんな彼に私は一瞬 迷った後、 ﹁実は⋮⋮。私、お付き合いしている人がいるんです﹂ ﹁え?﹂ くっきりとした二重の瞳が大きく見開かれる。こんな茶番に時間 を使わせてしまって申し訳ないと思い、私は静かに頭を下げた。 ﹁ごめんなさい。伯母には、ただ昼食を一緒に食べようと誘われた だけでして。お見合いということは、一切聞かされていなかったん です﹂ ﹁そうでしたか⋮⋮﹂ 福岡さんは一言そう漏らすと、黙ってしまった。 ﹁それで、大変失礼なのですが、このお見合いは無かったことにし ていただけませんか?私は見るからにつまらない人間ですから、こ の話が流れても福岡さんのお母様は何とも思わないでしょうし﹂ 一応は顔を立てて同席したのだから、断ったところで誰も悪者に ならない。お見合いだと信じているお母様も傷つかないし、伯母の 顔に泥を塗ることもないはずだ。 やれやれと心の中で安堵していると、今まで視線を伏せていた福 岡さんがソッと顔を上げた。 ﹁あの、佐々木さん﹂ ﹁はい﹂ ﹁本当に恋人がいらっしゃるんですか?﹂ 思いもよらない疑問に、すぐには言葉が出なかった。すると福岡 さんが慌てて口を開く。 ﹁いえ、いるようには見えないということではなくてですね。私は、 1015 あなたのような女性がタイプなんです。ですから、恋人がいらっし ゃらなければお付き合いしていただきたいと、食事の間、ずっと考 えていました﹂ ﹁⋮⋮え?﹂ 今度は私が目を見開く番だった。 ︱︱︱この人、今、なんて言ったの? パチクリと瞬きを繰り返していると、福岡さんがクスッと小さく 笑う。 ﹁自分で言うのも嫌味なのは分かっていますが、大抵の女性は私の 容姿や収入に飛びつきます。おかげで言い寄ってくる女性はそれな りに多いものの、私としては少しも嬉しくないんですよ。何といい ますか、あからさまに伝わる下心というのは、あまり気分のいいも のではありませんね﹂ ﹁は、はぁ⋮⋮。モテるのも大変なんですね﹂ 何のとも間の抜けた相槌だが、福岡さんは特に気にした様子もな く話を続ける。 ﹁なのに、あなたは私には色目を使うことはなかった。まぁ、恋人 がいらっしゃるということですから、他の男性に目が行くはずもな いのでしょうが。それ以外にも、さりげなく私たちに気遣ってくだ さる態度とか、物静かな話し方とか、自分をしっかり持って仕事な さっているところとか、色々と好ましい面があって、この人となら お付き合いしたいと考えていました﹂ ﹁それは大変光栄なことですが⋮⋮﹂ いくら褒められても私にはタカがいるし、タカ以外の男性は考え られない。目の前の福岡さんは魅力的な男性ではあるけれど、私の 心がときめく人はタカだけなのだ。 眉を寄せて困っていると、 ﹁失礼ですが、佐々木さんの恋人はどのような方ですか?﹂ 1016 ﹁同じ会社で働いています﹂ ﹁年は?﹂ ﹁私より五歳下です﹂ ﹁え?上ではなく?﹂ ものすごく驚いた顔の福岡さんに、私は苦く笑った。 ﹁はい。こんなオバサンでも付き合ってくれる優しい人です﹂ そう答えたら、福岡さんが首を横に振る。 ﹁私が驚いたのは、佐々木さんがその恋人より年上ということでは なく、そのお相手が年下ということです﹂ ﹁彼が下だと何かあるんですか?﹂ 福岡さんが何を言いたいのか分からずに首を傾げると、彼はとて も真剣な顔つきになった。 ﹁お話からすると、佐々木さんのほうが役職も収入も上ですよね。 それでもあなたはいいんですか?﹂ ﹁どういうことでしょうか?﹂ 思わず声が低くなった。 私よりタカが年下であることに、何の問題があるというのだろう か。 福岡さんはこれまでよりもゆっくりとした口調で話し出した。ま るでこちらに言い聞かせるように。 ﹁自分より年下の恋人で満足出来ているのか、ということです。そ の恋人に、あなたは存分に甘えることが出来ていますか?あなたの 何もかもを包み込めるほど、恋人には経験や強さがありますか?収 入は?社会的地位は?会社での肩書きは?﹂ 福岡さんが言うように、今のタカは私に届かない点もある。だが、 そんなことを、他人からわざわざ言われる筋合いはない。 タカがどれほど努力しているのか、私のことをどれほど支えてく れているのか何も知らないのに、まるでタカを見下すような物言い に、私も腹に据えかねる。 ﹁私は、十分満足しています﹂ 1017 自然と強く言い返してしまうが、失礼だとは思わない。 今の彼は確かに私より肩書きも収入も下だが、それがタカの魅力 を損なうことには繋がらないのだ。 きっぱりと言い放った私に、福岡さんがちょっとだけ目を見張る。 しかし、穏やかな微笑みは消えることはない。 ﹁それは“恋人”という関係だから言えることですよ。結婚して夫 婦になったら、甘い感情だけでは成り立たない﹂ ﹁⋮⋮何が仰りたいんですか?﹂ 更に低い声で問いかけると、福岡さんの口角がやんわりと上がっ た。 ﹁仕事でも人間的にも有能なあなたには、頼りになる年上の恋人が お似合いだということです﹂ ニッコリと綺麗に微笑む瞳の奥が、まっすぐに私を捉えてくる。 ﹁恋人ということでしたら、まだ婚約を済ませてはいないですよね ?それならば、私が割り込む余地は十分にあるということですよ﹂ ﹁お気持ちはありがたいですが、私には彼しか考えられません﹂ もうこれ以上、この人の話には付き合ってはいられない。私は席 を立った。 ﹁失礼します﹂ おざなりに頭を下げ、腹立たしさ全開で店を出てゆく。 生意気な女だと嫌われれば、それはそれで結果オーライだ。 もしかしたら私のこの態度のことで伯母に苦情が入るかもしれな いが、その時に謝ればいい。 とにかく、今は一刻も早くここから立ち去りたかった。 1018 158︼﹁彼女が年上であるということ﹂:3 ︽SIDE:みさ子︾ 苛立ちを露にして、歩道をツカツカと急ぐ。 もうすぐ駅に着くといったところで、マナーモードにしておいた 携帯電話がハンドバッグの中で着信を告げてきた。 掛けてきたのは、おそらく伯母だろう。福岡さんとの事がどうな ったのか、心配になって掛けてきたに違いない。 だけど、今の私は電話に出る気分ではなかった。このまま電話に 出てしまえば、苛立ちを隠すことが出来そうにない。 こんな見合い話を仕組んだ伯母に一言ぶつけてやりたいとは思っ たけれど、それはいささかお門違いだと考え直す。 私が腹を立てているのは福岡さんの言動に対してであって、伯母 に対してではないからだ。 いや、伯母が見合いをセッティングしなければ、そもそもこんな 事態にはならなかったかもしれない。 そうは考えるものの、福岡 さんに向ける怒りを伯母に向けるのは、やはり違うと思う。 それに、電話に出たところで伯母に何と答えればいいのだろうか。 大丈夫とも、大丈夫ではないとも言えない。 あれこれ頭の中で考えているうちに振動していた電話が静かにな り、私はやりきれないため息をついたのだった。 自宅マンションに着くなり私はスーツを脱ぎ捨て、いつもの部屋 着を纏った。そして、気分を落ち着かせるためにリラックス効果の あるハーブティーを淹れる。 ソファへと腰を下ろして、マグカップにたっぷり注いだハーブテ ィーをゆっくりと口に含んだ。 いつもならばこのやわらかい香りを嗅ぐことによって気持ちが凪 1019 ぐのだが、今日に限ってはあまり効果がないらしい。先ほどの席を 思い出せば、再びにわかに腹の底が沸き立つ。 あの見合いをなかったことにしてもらう話を切り出して、相手が あの場で逆上する事態にならなくて良かったとは言えるが、それに しても腹が立った。 ﹁タカがどれほど素敵な人なのかも知らないのに、年齢や肩書きだ けで低く見るなんて⋮⋮﹂ ポソリと呟いた時、スーツと一緒に放り出したハンドバッグの中 から小さな振動音が聞こえてきた。 レストランを出た時よりは幾分怒りが収まってきたので、私は電 話を手に取る。着信表示を見れば、案の定、伯母からの電話だ。 ﹁もしもし?﹂ ﹃みさ子ちゃん、私よ。今日はごめんなさいね。それと、私の顔を 立てて帰らずにいてくれて、本当にありがとう﹄ ﹁もう、その事はいいですよ。今後は二度と見合い話を持ち込まな いでくださいね。それより、伯母さんのほうに福岡さんから何か連 絡がいっていませんか?例えば、お怒りの電話とか﹂ あれだけ失礼な態度で中座したのだから、私に対して文句の一つ も言いたいに違いないと思っていたのだが、 ﹃あれから息子さんから電話はあったけれど、ちっとも怒ってなん かなかったわ﹄ という言葉が返ってきた。 ﹁本当ですか?﹂ ﹃ええ。こんなことで嘘を言ってもしょうがないでしょ﹄ 伯母の口ぶりからすると、本当に苦情やお叱りの言葉はなかった ようだ。内心ソッと胸を撫で下ろす。 ところが、聞こえてきた伯母の言葉で、私の心が再び平穏を失っ た。 ﹃それより⋮⋮。福岡さんの息子さん、相当みさ子ちゃんが気に入 ったみたいなの﹄ 1020 ﹁え?﹂ ﹃私からも姪にはお付き合いしている人がいるって話したんだけど、 それは既に承知しているって言うの。その上で、この先機会があれ ばお付き合いしたいって言ってきたのよ﹄ 天真爛漫の伯母も流石に福岡さんの申し出には困っているようで、 電話口から聞こえてくる声に張りがない。 ﹃やんわりと断りを入れたんだけど、息子さんはなかなか引いてく れなくてねぇ。私が同席でもいいから、また会いたいって言ってき たわ﹄ ﹁そうですか⋮⋮﹂ 私を紹介した伯母の顔を潰さなくて済んだものの、これはこれで 更に厄介な方向に進んでしまったようだ。 私は思わず眉間に皺を寄せ、伯母の話に耳を傾けた。 ﹃私としても、福岡さんの息子さんは結婚相手として申し分のない 方だと思うわ。だけど、こういう事はみさ子ちゃんの気持ちが一番 大事だもの。恋愛ごとに奥手なみさ子ちゃんが選んだ相手なら、福 岡さんに負けないほどきっと素敵な人でしょうね。その人と幸せに なってくれれば、私も嬉しいわ﹄ ﹁こんな私にはもったいないくらい、本当に素敵な男性ですよ。私 を選んでくれたことが、今でも不思議なんですから﹂ 意地っ張りで可愛げがない私を、タカはいつだって優しく温かく 寄り添ってくれる最高の男性なのだ。 年下だからなんて関係ない。彼の大きな心は、私を丸ごと包んで くれるのだから。 そんな素敵な人が私を恋人に選んでくれたなんて、まさに世界中 の奇跡を一つ残らずかき集めたといっても過言ではないと思う。 自嘲気味に話せば、少しだけ強い口調の伯母の声が。 ﹃そういうことは言わないの。みさ子ちゃんは、自慢の姪っ子なん だから。自分のことを低く見るのは、この私が許さないわよ﹄ ﹁もう、伯母さんたら﹂ 1021 クスリと小さく笑うと、伯母も微かに笑う。 ﹃とにかく、福岡さんの息子さんには私からも改めてお話しておく わ。みさ子ちゃんを気に入ってもらえたのは伯母としても鼻が高い けど、あなたたちを引き裂くつもりなんてこれっぽっちもないんだ から﹄ ﹁ご面倒をおかけしますが、よろしくお願いします﹂ ﹃いいのよ。元はと言えば、私と妹が先走ってしまったことが原因 だし。かえって、みさ子ちゃんに迷惑をかけてしまったわね﹄ ﹁いいえ。どうぞ、気にしないでください。では、失礼します﹂ 申し訳なさを滲ませた声の伯母にそう告げて、私は静かに電話を 切った。 少し冷めたハーブティーを飲みながら、ゆっくりと瞬きを繰り返 す。 福岡さんが私に固執する理由が分からなかった。 恋人がいることはきちんと伝えたし、おまけに、去り際のあの失 礼な態度を見てさえも、伯母に﹃また会いたい﹄と連絡を入れると は。 人から嫌われるよりはいいのかもしれないが、タカ以外の男性に 好かれることに喜びはない。 ﹁ま、自分に靡かなかった私が珍しかっただけでしょ。そのうち、 “会いたい”なんて言い出さなくなるはずよ﹂ そう言い切り、私はカップの中のハーブティーを飲み干した。 お気に入りの音楽をかけ、ゆっくり本を読んで静かな時間を過ご していくうちに、私の心は平穏を取り戻していった。 そろそろ夕飯の支度でもしようかと思った時、また携帯電話が着 信を告げる。そのメロディーで誰からの電話なのか分かった私は、 1022 自然と顔が綻んだ。 ﹁もしもし?﹂ 伯母と話した時よりも弾んだ声で電話に出れば、 ﹃もしもし?今、電話しても大丈夫?﹄ と、耳に心地よい大好きなタカの声がする。 ﹁ええ、大丈夫よ。どうしたの?﹂ ﹃今日は会えなかったから、せめて声が聞きたいなって﹄ はにかんだ笑顔を思い起こさせる優しい声。その声で、私の心で さざめいていた波が完全に凪いでいった。 ﹁私を喜ばせることを言っても、何にも出ないわよ﹂ クスッと小さな笑みを零せば、電話の向こうのタカは ﹃思った事を素直に言っただけだよ﹄ と、真面目な声で告げる。 タカは私を幸せな気持ちにさせる天才だ。こうして短い会話を交 わしただけで、私の顔はすっかり笑顔なのだから。 ﹃ホテルのランチ、どうだった?やっぱり、美味しかった?﹄ タカに訊かれて、一瞬言葉に詰まった。 だけど、隠しておく事は嫌だったから、正直に答えることにした。 ﹁実はね、タカが言ったとおりにお見合いだったのよ。まさかって 事はあるのね﹂ サラッと何気ない調子で告げたら、いきなり耳元で“ガゴンッ! ”という音が。思わず顔を顰めてしまうほどの大きな音だ。 ﹁今の音、何なの!?どうしたの!?﹂ ﹃びっくりして、電話を落としちゃったよ!それより、どうしたの って言いたいのは、俺の方だって!え?ちょっと、何?お見合いっ て、どういうこと!!﹄ ﹁ああ、それは⋮⋮﹂ 私は事情をタカに説明した。 すべてを話し終えると、電話の向こうから長いため息が聞こえて くる。 1023 ﹃やっぱり⋮⋮﹄ ﹁何がやっぱりなの?﹂ ﹃みさ子さんは最高の女性だから、恋人にしたいって思われても当 然ってことだよ﹄ やけにまじめな口調で言われたセリフに、私はつい笑ってしまう。 ﹁もう、馬鹿なことを言わないで﹂ ﹃馬鹿な事じゃないってば!実際に、その福岡さんって人は、みさ 子さんに迫っているんでしょ!俺という恋人がいるっていうのに!﹄ ものすごい剣幕で捲くし立てられ、私には口を挟む暇がない。 ﹃何だよ、その男。みさ子さんを恋人にしたい気持ちは俺がよぉぉ ぉぉぉく分かってるけど、だからって横槍を入れてくるなよ!さっ さと諦めろってんだ!!﹄ ﹁あ、あ、あの、タカ、落ち着いて⋮⋮﹂ ﹃これが落ち着いていられる訳ないよ!ああ、くそっ!!﹄ 荒々しい言葉と共に、ドン、という低い音も聞こえてくる。どう やら床を踏み鳴らしているようだ。 彼の苛立ちは分かるし、嬉しくも思うが、このままでは駄目だ。 ﹁ね、ねぇ、タカ!うるさくしたら。ご近所さんに迷惑よ!お願い だから、落ち着いて!!タカ、タカ!!﹂ 必死に呼びかけ続けると、やがて電話の向こうが静かになった。 ﹃ご、ごめん、大騒ぎしちゃって⋮⋮﹄ 今度は打って変わって、しょぼくれた声のタカである。 ﹁私はいいのよ。ただ、お隣や下の階の人が困るでしょう﹂ 苦笑いで告げると、 ﹃うん、そうだね。ちょっと、取り乱しちゃった﹄ 向こうからも苦笑が返ってきた。 先ほどの彼の様子は“ちょっと”というものではなかったが、そ のことを言及しても仕方がない。 ﹁タカでも、あんなに怒ることがあるのね。だけど、きっと大丈夫 よ。しっかり断りを入れたし、伯母も改めて断ってくれるそうだか 1024 ら﹂ 私の言葉に、タカもだいぶ落ち着きを取り戻したようだ。次いで 聞こえてきた口調は、いつも通りの優しい彼のものだった。 ﹃声を聞いたら、みさ子さんに会いたくなっちゃった。ねぇ、今か ら行ってもいい?﹄ タカの言葉に、私の顔が再び綻ぶ。 実は、私も彼に会いたかったのだ。 だから、快い返事をすぐさま口にする。 ﹁ええ、どうぞ。よかったら、夕飯も食べていって﹂ ﹃でも、疲れているんじゃない?﹄ 私を気遣ってくれる言葉もありがたいけれど、それより彼に会い たい。 ﹁タカに会ったら、疲れも吹き飛ぶわ。だから、来てくれたらすご く嬉しい﹂ ﹃うん、俺もみさ子さんに会えたらすごく嬉しい。わかった、今す ぐ行くね﹄ 晴れやかな彼の声を聞き、私は電話を切った。 1025 159︼﹁彼女が年上であるということ﹂:4 ︽SIDE:みさ子︾ 電話を切って15分ほどすると、玄関のチャイムが鳴った。思っ たより早いところを見ると、車でタカが来たようだ。 パタパタとスリッパの音を立てて駆けつけて扉を開けようとする と、私が鍵を開ける前に合鍵で開錠される。 勢いよく開かれた扉の向こうには案の定タカが立っていて、やた らと息を切らしていた。 ﹁いらっしゃい。どうしたの、そんなに息を⋮⋮きゃぁっ﹂ ﹃切らして﹄と言い終える前に、タカに抱きしめられた。 ﹁みさ子さん!﹂ 肩で息をしているタカがゼイゼイと呼吸をしながら、苦しげな声 で私を呼ぶ。 ﹁みさ子さん、みさ子さん!﹂ 抱き付くというよりはしがみ付くといった感じで、タカが私を腕 の中に抱き込んだ。そして、何度も私の名前を呼んでくる。 ﹁ど、どうしたのよ?ねぇ、何かあった?﹂ 私が声をかけても彼は腕の拘束と解かず、ギュウギュウと抱きし めてくるばかり。 仕方ないので、彼の気が済むまで待つことにした。 それから10分ほどが経ち、大きく息を吐いたのちにタカが抱き しめていた腕を緩める。とはいえ、背中に回された腕はそのまま。 ﹁みさ子さん⋮⋮﹂ 先程の電話ではあんなにも荒げた様子だったのに、今の彼は捨て られた子犬のように寂しそうな顔をしていた。 1026 ﹁タカ、何かあったの?﹂ 電話を切った後、ご家族に大変なことでも起きたのだろうか。そ れで、今の彼はこんなにも心細い顔をしているのだろうか。 ﹁身内の方に何かあったの?誰か病気や怪我で入院したとか?﹂ 俯く彼の頬に手を当ててソッと上を向かせると、タカはコツンと 額を合わせてきた。 ﹁ううん、そうじゃない。そうじゃないんだ⋮⋮﹂ ポツリと呟いた彼はチュッと私の唇に小さなキスをして、またギ ュッと抱き付いてくる。 ﹁みさ子さんが俺以外の男に取られるって考えただけで、腹が立っ て腹が立って、そして、すっごく悲しくなって⋮⋮﹂ ﹁何を言ってるのよ。ちゃんと断わったって、さっきも話したでし ょ﹂ ﹁そうなんだけど!そうなんだけど!﹂ まるで駄々っ子のような彼の様子に、私はポンポンと背中を優し く叩いた。 ﹁私が好きな人はタカ、あなたなのよ。タカ以外の男の人は、私に は必要ないわ。私の言葉を信じてくれないの?私はあなたから信用 を得られるような人間じゃない?﹂ そう言った途端に、タカがガバッと顔を上げる。 ﹁みさ子さんのことはもちろん信じてるよ!﹂ 真っ直ぐに見つめてくる瞳に、私は静かな微笑み返した。 ﹁なら、それでいいでしょ。私は小さな女の子じゃないわ。そう簡 単に浚われることもないでしょうし、一方的に言いくるめられるこ ともないわ。相手だってそれなりの会社に勤める人だもの、おかし な真似なんかできないわよ。だから、大丈夫﹂ あやすように背中を叩いていた手を止め、その手をカットソーの 襟元にやって細いチェーンをゆっくりと引っ張り出す。 それはバレンタインでもあったが私の誕生日でもあった二月十四 日に彼から貰ったネックレス。 1027 揺れる三つのダイヤをタカに見せた。 ﹁あの時、言ってくれたじゃない。私の未来も大切にしてくれるん でしょ?遊び半分で、私と付き合っているわけじゃないんでしょ? そうよね?﹂ 問いかけると、タカは大きく頷く。 ﹁もちろんだよ。結婚前提だって言ったことも覚えてる﹂ 揺れてキラキラと澄んだ光を放つダイヤを見つめ、はっきりと答 えるタカ。その彼に、私は改めて微笑みかけた。 ﹁それは、私も同じよ。あなたのそばにいるのは、遊びじゃないの。 タカのそばにいたい。ずっと、ずっとそばにいたいって思っている のよ﹂ ニコリと笑みを浮かべると、ようやくタカは肩の力を抜く。 ﹁ごめんね、大騒ぎしちゃって。なんか、もう、情けないなぁ。こ ういう子供っぽいところを直したいとは思っているんだけど、つい ⋮⋮﹂ バツが悪そうに、苦笑いを浮かべるタカ。私は小さく首を横に振 った。 ﹁子供っぽいとは⋮⋮、まぁ、思わないこともないけど。私はそん なタカが素直でいいと思うわ。これからも、ありのままのタカでい てね﹂ ﹁うん!⋮⋮俺も“ありのままのみさ子さん”が好きだよ﹂ やたら強調されたフレーズに何やら隠微なものを感じ、ハッとし て彼を見遣れば、瞳の奥に揺れる光が妖しい。 ﹁タ、タカ⋮⋮?﹂ ギクリとして彼から離れようとすれば、すかさず抱きしめなおさ れ、再び彼の腕の中に閉じ込められてしまった。 ﹁あ、あ、あの⋮⋮、夕飯、食べるんでしょ?タカが大好きな唐揚 げ、たくさん作るわよ?﹂ ﹁うん、もちろん夕飯はごちそうになるよ。みさ子さんが作る唐揚 げも楽しみにしてる﹂ 1028 ﹁だったら、そろそろ離してほしいんだけど⋮⋮﹂ そう願い出るものの、満面の笑みを浮かべるタカには通じないよ うで。 ﹁その前に、みさ子さんを補給しなくちゃ。怒ったり、悲しくなっ たりしたら、みさ子さんが足りなくなっちゃった﹂ ニッコリというよりニヤリといった感じで口角を上げたタカは、 私が抵抗する隙を与えずに唇を重ねてきた。 私を玄関の壁に押し付け、タカが覆いかぶさるようにキスをして くる。 唇が触れたとたんに彼の舌がスルリと口内へと侵入し、私の舌に きつく絡みつく。 ﹁ん、んんっ﹂ 突然のことについていけず、私は彼の服を握り締めて、へたり込 みそうになるのを必死でこらえた。 左腕を私の腰に回し、そして右手で後頭部を押さえ込むタカは、 まさに貪るように唇を重ね、舌を吸い、口内を舐る。 時折クチュリと湿った音が耳に届き、羞恥で顏が赤くなった。 ﹁ふ、うう⋮⋮﹂ 激しいキスに息が苦しくなって喘ぐと、タカはチュッと唇を軽く 吸ってから顔を離す。 ﹁真っ赤な顔のみさ子さん、可愛いね﹂ 私に回した腕はそのままに、至近距離でタカが告げた。 そのセリフに、私の顔は更に赤く熱くなる。 ﹁もう、何すんのよ!﹂ 足に力が入らないのでタカに凭れているのだが、こんな体勢で怒 鳴ったところでちっとも迫力がない。 タカは悪びれた様子もなく、 ﹁まだ足りないな﹂ といって、更に深いキスを仕掛けてきたのだった。 1029 タカが満足いくまでキスをされ、腰が抜けてしまった私はタカに ソファまで運ばれる。 ﹁ああ、もう、信じられない。こんなになるまでしなくたっていい のに⋮⋮﹂ 照れ隠しに文句を言っていると、隣に腰を下ろしているタカに肩 を抱き寄せられて、こめかみにキスをされた。 ﹁だって、みさ子さんが足りなかったんだもん。これで少しは補充 できたかなぁ﹂ あんなにキスしておいて、まだ足りないというのか。こっちは息 が苦しいし、腰も抜けて散々だというのに、 恨みがましく隣の恋人を見遣れば、 ﹁あとは、みさ子さんの美味しい夕食をご馳走になればだいぶ補充 できるから。唐揚げ、楽しみだなぁ﹂ と、心底嬉しそうに言ってきた。 その言葉に内心胸を撫で下ろす。 このまま寝室になだれ込むような展開になったらどうしようかと、 ちょっと怯えていた。 明日は仕事があるから、あのキスの勢いで抱かれるようなことに なっては困るのだ。そうなってしまっては、確実に足腰が立たない であろう。 ﹁じゃ、もう少ししたら、準備を始めるわね﹂ タカが来る前にある程度の下ごしらえはしたので、そう待たせる ことはないだろう。 ︱︱︱揚げ物をしている間に、お味噌汁を作って。あと、もやしと ニラの炒め物にしようかしら。 1030 そんな事を考えていると、タカがクスリと笑う。 ﹁それと、みさ子さんを抱けば補充完了だよ﹂ ﹁えっ?﹂ ビックリして隣を見ると、緩やかに目を細めている彼と目が合う。 ﹁明日は仕事だって分かってるから、激しくしないよ。安心して﹂ ︱︱︱安心できるのかしら⋮⋮? 私の顔が軽く引き攣った。 1031 160︼﹁彼女が年上であるということ﹂:5 昨日はみさ子さんがお見合いをしたっていう話を聞いて、気が気 じゃなくなって、みっともなく取り乱して、とにもかくにもみさ子 さんのもとに駆け付けた。 もらった合鍵で扉を開け、ちょうど玄関を開けてくれようとして いたみさ子さんを引き寄せる。 激しく息を切らしている俺に目を丸くしている彼女の顔を見た瞬 間、衝動的に強く抱きしめた。 いきなり、そして乱暴に抱き寄せられたことで驚いたみさ子さん は、俺の腕の中で身じろぎを繰り返す。 そんな彼女を一層きつく抱き込んだ。 この腕でみさ子さんという存在を確かめないと、不安で不安で仕 方がなかった。 強く抱きよせ、そのままの状態でしばらく立ち尽くす。 ︱︱︱ああ、みさ子さんは“ここ”にいる。 彼女の華奢な体と服越しに伝わる温もりに、ようやく人心地をつ いた。⋮⋮ように思えたのだが、自分の想像以上に内心では焦りが 募っていたようで。 その場でみさ子さんの唇を奪った。 いつもは優しく触れ合う事から始まるキスが、この時は強引その ものに彼女の口内を貪った。 舌を絡め、吸い上げ、水音を立てて口内を掻き混ぜる。そんなキ スに、みさ子さんの足から力が抜けていくのが分かったけれど止め られない。 その後もしばらく思うままにキスをして、少しだけ心が落ち着い た。 1032 それからは彼女が作ってくれた美味しい夕食をご馳走になって、 他愛のない話をして、その後はみさ子さんと⋮⋮。 ﹁⋮⋮っと、いけね。今は運転中だって﹂ 思わず漏らした呟きに気を引きしめ、ハンドルを改めてしっかり と握り直した。 週が明けて、月曜日。何とか平静を取り戻し、いつも通りに仕事 をしている。今は大事な取引先に向かう途中だった。 ﹁しっかりしろよ、俺!もっとバシバシ仕事をこなして、いい男に なって、そしてみさ子さんにきちっとプロポーズするんだろ!﹂ そのためには、こんなところで事故に遭って仕事をダメにしてし まうことは絶対避けなければ。 スッと短く息を吸い込み、俺はまっすぐに前を見据えたのだった。 三件目の取引先との打ち合わせが長引き、定時には帰社できそう になかった。 相手の会社を出たところで、みさ子さんへとその旨を書いたメー ルを送る。 社用車に寄りかかって缶コーヒーを飲みながら一息入れていると、 十分ほど経ってから返信が来た。メールをあまり得意としない彼女 なので、たとえ短い文章でも時間がかかるようだ。 シルバーフレームの眼鏡をかけたキリリとした表情で、画面を睨 み付けるように文面を考え、恐る恐る操作をしている彼女の様子が 脳裏に浮かぶ。 もしかしたら、勤務中よりも表情が硬いかもしれない。 だけど俺にとっては、そんなみさ子さんの姿が愛しくてたまらな い。 恋愛において器用とは言えない彼女が見せる一生懸命な愛情表現 は、たまらなく俺の心をくすぐるのだ。 難航した打ち合わせにやや疲れていたけれど、みさ子さんからの 1033 返信があったことで、途端に気持ちが晴れやかになる。 ﹁えっと、なになに⋮⋮。“お仕事お疲れ様です。先に帰って夕飯 を作っています。良かったら、家に寄ってください”か﹂ そこにあるのは丁寧な口調で、恋人同士としてはあまりに硬い文 章。 でも、妙な生真面目さがにじみ出ているそれはみさ子さんらしく て、俺はすごく好きなのだ。 文章を目で追いながら最後まで辿りつくと、俺の顔は更にニマニ マと緩んでいった。 最後の言葉から一行空け、そこにあったのは一つのハート。 この前みさ子さんから仕事中にメールを貰って以来、彼女から届 くメールには必ず真っ赤なハートマークが小さく示されるようにな ったのだ。 恋愛に不器用で、メール操作も得意ではなくて、それでも俺に示 す愛情は限りなくて。 画面にポツリと見えるハートは小さいけれど、そこにはみさ子さ んの愛情が凝縮されているのだから。 ﹁ホント、みさ子さんは可愛いなぁ﹂ 恥ずかしがり屋の彼女が照れながらもハートマークを選ぶ様子は、 とてつもなく可愛い。 ﹁さてと、帰るかな。みさ子さんに早く会うためにも、さっさと報 告書を仕上げなくちゃ﹂ 俺は画面のハートマークにチュッと軽く唇を寄せ、車に乗り込ん だのだった。 社に戻り、社員通用口を抜けたところで、帰ろうとしている沢田 さんに会った。 ﹁お疲れ様。今、帰社なの?﹂ 1034 ﹁沢田さんもお疲れさん。打ち合わせに熱が入っちゃってね﹂ 苦笑いを浮かべると、沢田さんは俺の胸にポスンとパンチしてく る。 ﹁仕事に夢中になるっていいことじゃない。あ、佐々木先輩はもう いないよ。今日は定時で退社しちゃったんだけど﹂ 少し気まずそうな顔になった彼女に、 ﹁知ってる。先に帰って夕飯を用意してるって、メール貰ったから﹂ ニコッと笑ってやった。 そんな俺を見て、沢田さんはわざとらしく頬に手を当てて大げさ に驚いて見せる。 ﹁わぁ、相変わらず仲良しだねぇ﹂ ﹁もちろんだよ。最近は、けっこうメールのやり取りもするように なったし、更に仲良くなったかもな﹂ ﹁それにしても、あんなにメールは苦手だって言ってた先輩が、北 川君にはあれこれ送ってるんだ。頑張ってるね、先輩﹂ 尊敬してやまない大好きなみさ子さんの事を嬉しそうに話す沢田 さんに、大きく頷く俺。 ﹁そうなんだよ。健気なみさ子さんが可愛すぎて困るんだけど﹂ クスッと小さく笑うと、 ﹁何、それ?惚気?﹂ 沢田さんが呆れたように言ってきた。 そんな彼女の様子に、また大きく頷き返す。 ﹁うん、惚気﹂ 即答した俺に、沢田さんは軽く吹き出した。 ﹁はいはい、分かりました。あんなに一生懸命な佐々木先輩に愛さ れたら、それはもう幸せでしょうね。訊いた私がバカだったわ﹂ ヤレヤレといった風に肩を竦める沢田さんに、またクスリと笑う。 ﹁良かったら、幸せを分けてあげよう?﹂ ﹁結構です、私もそれなりに幸せだから﹂ ベッと舌を見せた沢田さんに、今度は俺が吹き出した。それを見 1035 て沢田さんも笑う。 お互いに笑いあっていると、ふと、沢田さんが口を開いた。 ﹁あ、そうそう。今日、先輩にお客様があってね﹂ みさ子さんは総務部の人間だから、基本的には社内の業務をこな している。 とはいえ通訳として駆り出されることも多々あるから、その関係 で彼女と知り合った人が何かの折につけて訪ねてくるという事はこ れまでにも何度かあった。 別段おかしなことではないのだが、それをあえて沢田さんが言っ てくるという事が引っかかる。 ﹁それで?﹂ 先を促すと、沢田さんはこれまでの明るかった表情から真面目な ものへと変えた。 ﹁お昼過ぎに受付の人から佐々木先輩宛に内線が入って。でもその 時、先輩はフランスからのお客様の通訳で海外事業部の会議に参加 してたの。折り返し連絡を入れた方がいいかと思ってそのお客様に 尋ねたら、連絡は不要で、受付に名刺を預けておくから自分が訪ね てきたことを伝えてほしいってことでね。私もちょっと手が離せな くて、あとから受付に名刺を取りに行って、会議から戻ってきた先 輩にその名刺を渡したんだけど⋮⋮﹂ 言葉を区切った彼女は、眉を軽く寄せた。 ﹁先輩、言葉を失うくらい驚いていたの﹂ ﹁え?﹂ 名前を見て、そんなに驚くって、どういった状況だろうか。 ﹁みさ子さん、何か言ってた?﹂ 俺が尋ねると、沢田さんは首を横に振った。 ﹁先輩はすぐにいつも通りの顔に戻って、何でもないって誤魔化し てきたのよ。でも、相手の名前を見てそんな反応するなんて、ちょ っとおかしいでしょ?余計なおせっかいかもしれないけど、気にな っちゃって﹂ 1036 ﹁いや、沢田さんの観察眼は頼りにしてる。で、その名刺って?相 手はどんな人?﹂ 本当は自分以外を訪ねてきたお客の素性をあれこれ聞きだすのは マナー違反なのだし、沢田さんもそういった情報を当人のみさ子さ ん以外に話すことはそれ以上に良くないと分かっている。 だけど、それを圧して俺に教えようとしている彼女の様子に、嫌 な汗がジワリと背中に滲む。 ﹁企業誌に何度か取り上げられている有名な会社で、そこの企画部 製作課の課長という肩書になっていたわ。名前は確か、福岡 正晴 さん。受付の人の話だと30代半ばで、背が高い人だって﹂ 沢田さんに相手の素性を聞かされても俺にはピンとこないが、心 の奥がなんとなくざわついた。 ﹁その人がみさ子さん個人に用があるって、何だろうね。困ってい たところをみさ子さんが助けて、わざわざお礼に来たとか?﹂ 差しさわりのない心当たりを述べてみるが、“違う”と俺の勘が 告げてくる。言外にその意図を含めれば、沢田さんも同感のようだ。 ﹁その可能性がないとは言えないけど、先輩が助けた相手に勤務先 と名前を言うとは思えないわ。礼は気にしないでくれって、すぐに 立ち去るはずだもん﹂ 確かに、みさ子さんの性格ならそうするだろう。 ﹁だったら、その人は何しに来たんだろう⋮⋮﹂ ポツリと呟くと、俺を励ますように沢田さんが明るい声を出した。 ﹁福岡さんって人は名刺を置いていくくらいだから、悪いことをし ようとは考えてないと思うの。やっぱり私の気にしすぎかも。ごめ んね、引きとめちゃって﹂ ﹁ううん、知らせてくれてありがとう。これからもみさ子さんのこ と、よろしく頼むよ﹂ 俺の言葉に沢田さんはトンと自分の胸を叩き、 ﹁任せて。じゃぁね﹂ ヒラリと手を振って、社員通用口を出ていった。 1037 161︼﹁彼女が年上であるということ﹂:6 ︽SIDE:みさ子︾ 通訳として参加した海外事業部の会議が無事に終わり、私はフラ ンスからのお客様を送り出し、これにて私のお役は御免となった。 通訳として私の語学力が役立つのは嬉しいけれど、ビジネスが絡 んでくると独特の言い回しがあったり、ニュアンスを的確に伝えた り受け取ったりしなくてはならないので、けっこう精神的に疲れた りもする。 誰もいないところで大きく背伸びして、ゆっくり深呼吸。 左手に巻かれている腕時計にチラリと視線を落とすと、午後三時 を回ったところだ。外回りで得意先を回っているタカも、今頃は忙 しくしているだろう。 入社当時はあどけなさの残る表情でもあったけれど、最近の彼は ますます仕事に熱が入り、責任感もあってか、その顔つきが変わっ てきた。 整った顔立ちはそのままに、そこに男性特有の凛々しさが加わり、 一層かっこよくなったように思える。いや、彼は実際にカッコいい のだけれど。 いつも優しくて、かっこよくて 時々甘えてきて、ちょっぴり強引で。 年下ではあるけれど、私の事を彼のできる範囲で精いっぱいに愛 してくれる、本当に本当に素敵な恋人だ。 そんなタカの事を考えていると、ふと肩の力が抜けていることに 気が付く。そして、少し顔が熱くなっている事にも気が付いた。 ﹁いけない、タカも頑張っているのにノンビリしてられないわね﹂ そう言って、自分の顔の熱さを誤魔化そうとする私。 自分が誰かに恋をして、誰かに恋される日が来るなんて夢にも思 1038 わなかった。そんな私にも、こうして恋人が出来たのだから、人生、 どこでどうなるか分からないものだ。 ﹁さてと、残っている仕事を片付けますか﹂ まだ少しだけ火照りを感じる顔を手の平でパチンと叩き、私は総 務部へと向かった。 部に戻ると、沢田さんが小走りで近づいてきた。 ﹁先輩、お疲れ様でした。先程先輩宛にお客様があったという事で、 受付から内線をもらったんですけど﹂ ﹁あら、そうなの?﹂ 私に来客の予定があっただろうかと頭の中でスケジュールを思い 返してみるが、どうも心当たりがない。 わざわざ社に訪れて私を呼び出そうとしたくらいだから、面識の ある相手なのだろう。 もしかして、伯母だろうか。その可能性も有りだと思いながら、 ﹁その方、どこでお待ちなのかしら﹂ と沢田さんに訊けば、 ﹁あ、いえ。先輩が会議に参加していると伝えたら、名刺を置いて 帰っていかれたそうです﹂ との返事が。 専業主婦の伯母が名刺を持っているはずはないので、その可能性 は消えた。では、誰だろう。学生時代の知人だろうか。 首を傾げながら可能性を当たっていると、沢田さんが名刺を差し 出した。 ﹁これが受付に預けられた名刺です﹂ ﹁ありがとう﹂ 受け取ろうと手を伸ばし、紙面の名前を見て体が固まった。 そこに書かれていた名前は、先日、伯母の思い違いによって見合 1039 いをさせられた相手の福岡さんだったからだ。 ︱︱︱どうして、彼が、この会社に? 名刺から目が離せなくて、中途半端に浮いた手が動かなくて。そ して、こめかみの辺りでドクドクと脈を打つ音が聞こえる。 ﹁佐々木先輩?﹂ こちらを呼ぶ沢田さんの声で我に返った。ハッと意識を取り戻せ ば、不思議そうに私を見上げている瞳がある。 ﹁あ、ごめんなさいね。何でもないのよ﹂ 私は少しだけ微笑んで、その名刺を受取った。短く息を吸い込み、 すぐに冷静さを取り戻す。 ﹁その方、何か伝言を残されたのかしら?﹂ すっかりいつもの調子を取り戻した。だけど、心臓が普段よりも 少し早い。心なしか、指先が冷たくなっている。 何気ない様子を装っている私をジッと見つめていた沢田さんだっ たけれど、特に何かを言ってくることはなかった。 ﹁伝言は残されていなかったそうです。ただ、この名刺を渡してほ しいというだけでした﹂ ﹁そう、分かったわ。ありがとうね﹂ 受け取った名刺を上着のポケットに滑り込ませ、私は自分のデス クに向かった。 他の部署から申請された書類たちに目を通しながらも、ポケット に忍ばせた名刺の事が気になって仕方がなかった。 ︱︱︱福岡さんは何の用があって、わざわざKOBAYASHIに 出向いてきたのかしら。私に会いに来た? 1040 その可能性がないとも言えないが、私は何度もお断りしたし、伯 母からもそう言う話が彼と彼の母親にも行っているはずだから、そ れは流石に自意識過剰だろう。 もしかしたら福岡さんの会社がKOBAYASHと何かしらの取 引がしたくて、そのとっかかりのために一応は顔見知りである私を 訪ねてきたのかもしれない。営業部ではない福岡さんがやってきた 理由も、それならば理解できる。 あの人とは関わり合いになりたくないが、仕事となればそうも言 っていられない。それに取り引きとなれば、実際に動くのは営業部。 私は初めの引き合わせの時にだけ顔を出せば済むだろうから、さし て実害もないはずだ。 そう結論付けるとだいぶ気持ちが軽くなり、私は再び書類に目を 落としたのだった。 あと三十分ほどで就業を迎える頃になって、今日の仕事がすべて 片付いた。 書類の束をトントンと揃えていると、デスクの上に置いていた携 帯がメールの着信を告げた。 総務部チーフである私の携帯には各部署の上司からの緊急連絡が 入ることもあるので、普段から出来る限り見えるところに置いてい る。 勤務中に電話をしたりメールをすることは良くないことなのだが、 私が個人的な用事で携帯を使う事をほとんどしないためか、常に携 帯を出したままにしていても周りからは特に何も言われないでいる。 普段からのお堅いイメージが功を奏しているのは、良いのか悪いの か。 誰からだろうと着信画面を開けば、タカからだった。 ちょっとだけ周囲を見回し、誰も私の事を気にかけていないよう なのでコッソリとメールを開く。 1041 そこには、打ち合わせが長引いて帰社が遅くなるという事が書い てあった。 今では大口の取引先にも一人で出向くようになったタカなので、 こうして外回りで定時にはなかなか帰ってこられないこともある。 それだけ彼が営業マンとして成長したのだと思えば、私としても嬉 しい。 またしてもこっそり周囲を窺い、返信のメールを打つ。 不慣れな私が文章を考えつつポチポチと文章を打ち込むと、何て ことのない内容でも結構時間がかかってしまう。それでも、なんと か“お仕事お疲れ様です。先に帰って夕飯を作っています。良かっ たら、家に寄ってください”と入力出来た。 パソコンで文章を打つのは得意なのに、どうしてこうも携帯のメ ールは苦手なのだろうか。不器用な自分に苦笑しながら、私はメー ルの最後にいつものお約束を打ち込む。 相変わらず絵文字もデコメールも苦手な私が唯一打ち込む小さな ハートマーク。 キラキラと輝くこともなければ、フルフルと可愛 く揺れることもない、ただのハートマーク。 恥ずかしがり屋の私にとっての精いっぱいが、これである。 私より五歳も若いタカにしてみれば何の面白みもないはずなのに、 それでも彼はこういうところが私らしくて好きだと言ってくれてい る。恥ずかしがり屋の私も、つまらない私も、彼は全部受け入れて くれている。 ︱︱︱器の大きさって、年齢は関係ないものなのかもしれないわね。 画面に﹃送信しました﹄と表示された携帯を指でチョンと突き、 私はクスリと笑った。 1042 161︼﹁彼女が年上であるということ﹂:6︵後書き︶ ●世間ではスマホユーザーが圧倒的に多いとは思うのですが、KO BAYASHI作品のキャラたちはこれまで通り携帯電話ユーザー という設定で進めます。 何かの折に触れスマホに変更するかもしれませんが、しばらくはこ のままとなりそうです。 1043 162︼﹁彼女が年上であるということ﹂:7 ︽SIDE:みさ子︾ それから数日が経ち、各部署から寄せられた備品申請書に目を通 していると内線電話が鳴った。 ﹁はい。総務部、佐々木です﹂ ﹃お疲れ様です、受付の白倉です。先日お見えになられた福岡様と 仰る方が、今、こちらにいらしてまして。いかがいたしますか?﹄ とても落ち着いた声の女性が告げてきた内容に、私の心臓が小さ く跳ねた。軽く息を吸い、そして口を開く。 ﹁今、そちらに向かいます﹂ 彼が一体何の用で会いに来たのかは、直接会って話を訊いた方が 拗れないで済むだろう。 私は席を立ち、部長に声を掛けてから退出する。 小走りで受付カウンターに近づくと、仕立ての良いスーツをビシ ッと着こなした福岡さんが立っていた。 ﹁すみません、急に呼び出したりして﹂ ﹁いえ、お気になさらずに。では、あちらへ﹂ 私はロビーの端にある談話スペースへと彼を案内した。 ついたて 大きな窓ガラスに面しているこのスペースには、ソファセットが 衝立で仕切られていくつか置かれている。ミーティングルームをわ ざわざ確保しなくても、ちょっとした話ならここで十分だ。 向かい合うように腰を下ろし、私は福岡さんに話しかけた。 ﹁今日はどのようなお話でしょうか?商談ということでしたら、営 業部の者に取り次ぎますが﹂ てっきり仕事の話があって訪ねて来たのだと思い、完全に仕事モ ードで話しを切り出す。 ところが。 1044 ﹁仕事をするあなたの姿を是非拝見したくて、佐々木さんに会いに 来たんですよ。切れるほどに鋭い空気を纏ったあなたも素敵ですね、 惚れ直しました﹂ 彼はとろけるような笑顔でそう言った。 ﹁⋮⋮は?﹂ 思わず素に戻ってパチクリと瞬きを繰り返す。 ﹁で、ですが、先日から何度も申し上げているように、あの、わ、 私は福岡さんとはお付き合いできないと⋮⋮﹂ 通訳としてこれまで諸外国の上層部と接した時でも、言葉に詰ま ることはなかった。なのに堂々と会社に乗り込んで口説かれるとは 思ってもみなかった私は、思考回路が止まりかけている。 ︱︱︱福岡さんは本気なの?本気で、私との付き合いを望んでいる の? 伯母が私と取り次がないから、痺れを切らしてやってきたという ことだろうか。彼がそこまでする理由が分からない。 グラグラと頭の芯が揺れ、気を張っていないとソファから滑り落 ちそうだ。私は強くこぶしを握り、手の平に詰めが食い込む痛みで 正気を保つ。 体を固くしている私とは対照的に、福岡さんは一貫して柔らかい 笑みを浮かべ続けていた。 ﹁ええ。ですが、どうしてもあなたの事を諦めきれないのですよ。 佐々木さんは私の理想通りの人なんです。その人柄も、社会人とし ての能力も、容姿も、何もかもが好ましく、是非とも手に入れたい と本気で考えています﹂ やわらかな口調ではあるが、そこには押しの強さが含まれている。 さすがは勢いに乗っている会社で肩書を背負っているだけの事はあ った。 ただ、この件に関しては押し負けるわけにはいかない。私は深く 1045 息を吸って、改めて拳を握る。 ﹁何度も申し上げているように、私には大切な恋人がいるんです。 彼以外との付き合いは、やはり考えられません。私の人となりを褒 めてくださることは大変光栄ですが、それでも福岡さんとお付き合 いするのは無理です﹂ 緊張気味に口を開けば、彼の目が少し困った様に細くなった。 ﹁なかなか考えを改めてはくれないようですね。そういう芯のしっ かりしたところも、実に魅力的です﹂ クスクスと苦笑を漏らす福岡さんは、フッと視線を上に向ける。 ﹁だが聡明な君であれば、この先の事をもっと堅実に考えるべきで すよ。自分より年齢も肩書も収入も下の恋人と、将来、本当に幸せ になれるかどうか⋮⋮と﹂ 再び私に視線を戻した福岡さんは、目元で微笑みながらも強い光 を浮かべていた。その視線を正面から見据える。 ﹁幸せになってみせます﹂ きっぱりと言ってのけた私に、福岡さんはひょいっと肩を竦めた。 ﹁相変わらず手強いですね。参った、参った﹂ 言葉ほどには参っていない彼に、私は更に言葉を続ける。 ﹁でしたら、こんな生意気な私など相手になさらない方が、それこ そ懸命ではないでしょうか?﹂ ﹁私は、こちらの意見にホイホイと流される浮ついた女性は嫌いで してね。むしろ、君のように多少突っかかってくるぐらいの女性の 方が好みなんです﹂ 私が何を言っても、どんな態度をとっても、福岡さんの言い分は 変わらない。 ︱︱︱どうしたらいいの?いっそのこと、タカに会わせれば⋮⋮。 と心の中で呟くも、それを即座にかき消した。彼の事だ。恋人の タカと引き合わせたくらいで大人しくなるようには思えない。 1046 私は気付かれないように、そっとため息を付く。 ﹁私の気持ちは変わりません。そう言ったお話であれば、失礼させ ていただきます﹂ やや強引に終わらせようとすれば、 ﹁君に会いに来たというのは本当だが、それだけが理由ではないで すよ。KOBAYASHIとの取り引きを考えていて、それもあっ てここに来たんです。佐々木さんを口説くだけの色ボケ男じゃ、君 に嫌われてしまいますから﹂ またしてもニッコリと微笑まれる。 仕事となれば、さっさと立ち去るわけにもいかない。私より年上 なだけあって、彼はあれこれと上手なようだ。 ﹁でしたら、営業部の者を呼んでまいります﹂ 私は軽く頭を下げてから席を立ち、受付カウンターへと向かった。 そこで内線電話を借り、ちょうど電話口に出てくれた営業一課の課 長に事情を説明する。もちろん私と福岡さんが見合いした話はせず に、私の伯母と彼の母親が親しくしている繋がりで私を訪ねて来た ということで。 課長からすぐにこちらへ向かうという返事をもらい、それから空 いているミーティングルームを押さえた。 段取りをつけて、席に戻る。 ﹁まもなく担当の者が参りますので、少々お待ちください﹂ ﹁佐々木さんも同席してくれませんか?﹂ ゆったりと腰をかけている福岡さんが、悠然と私を見上げてそん な提案をしてきた。 ﹁私は総務部に所属する者です。必要以上に他部署の業務と関わる のは、あまりいいことではないかと﹂ すっかりいつもの私を取り戻し、落ち着いた口調で返す。 ﹁そういう毅然とした態度が、ますますいいですね﹂ 細めた瞳の奥に一瞬艶めく光を浮かべた福岡さん。ギクリと顔を こわばらせるが、タイミングよく表れた営業一課の課長のおかげで、 1047 私は無事にそこから立ち去ることが出来たのだった。 1048 PDF小説ネット発足にあたって http://novel18.syosetu.com/n9796e/ 女帝VS年下彼氏 2014年9月27日22時51分発行 ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。 たんのう 公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、 など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ 行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版 小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流 ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、 PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。 1049
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