1ページStories - タテ書き小説ネット

1ページStories
灰島
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
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︻小説タイトル︼
1ページStories
︻Nコード︼
N8177BM
︻作者名︼
灰島
︻あらすじ︼
1ページの中に物語という魂を込める
1
おばけこわい
﹃おばけこわい﹄
お日様が沈みかけた部屋の片隅で、弟の怜治が﹁お腹すいたあ﹂
と寝ころんでいた。そんなわかっていることを口に出されると、余
計にお腹がすく。私の中から虫が鳴った。
﹁姉ちゃんも、お腹すいてるんじゃんか﹂
うるさい、って言ったものの、その声に力がこもっていない。自
分でもわかる。頭を支えることも面倒になってきてテーブルにもた
れた。
両親は今朝、お墓参りに行ったまま帰ってこない。帰りに親戚の
家に寄ったり、車が渋滞に巻き込まれたりで予定が大幅にずれてい
るのだと思う。
私たちは朝から夏休み限定のアニメ番組と、午後からのプールで
忙しかったためにお墓参りを辞退した。その結果がこれだ。
お昼はカップ麺で済ませたけれど、さすがに夜もカップ麺は食べ
たくなかった。弟も同じようで、食器棚に隠されている食料品につ
いては何も要求してこない。代わりに﹁姉ちゃん、なんか作ってよ
ぅ﹂と弱々しい目線を送ってくる。
﹁作れないよ﹂
﹁えー、だって六年生はこの前、調理実習したって言ってたじゃん﹂
﹁あたし、野菜の皮しかむいてないもん﹂
﹁駄目じゃん﹂と、失望の目。
﹁駄目だよ﹂と、あきらめの声。
二人同時に息を吐く。
またしばらく、漫画を読んだりテレビを観たりして空腹感をまぎ
2
らわせようとしたが、どうしてもお腹の虫は真実を知らせてくる。
そのうち、空はほとんど紺色になって、地平線に近いところだけ赤
く燃えているようになった。そんな時、怜治が何かを思いついたよ
うに読んでいた漫画を放り投げて、﹁姉ちゃん!﹂と叫んだ。
﹁ねえねえ、おばあちゃんの家に行こうよ﹂
﹁えー⋮⋮﹂
不満げに応えて、窓の外を覗く。すでに街灯がポツポツ灯ってい
て、人のいない道は淋しく感じられた。
﹁行ってもいいけど、お化けでるかもよ﹂
﹁え﹂
怜治はビクリと、身体を震わせる。
﹁ほら、もう暗いし、お盆だし﹂
言いながら、自分の背筋が冷たくなってきた。弟ほどではないけ
れど、私も幽霊とか妖怪とか、そういうものが怖いし嫌いだ。
﹁どうする? でも行けばおばあちゃんの手料理が食べられるね﹂
﹁うーん﹂
怖がりな弟は、頭を抱えて悩む。いつもならお化けの話をすると
﹁行かない﹂って即答なのに、珍しい。相当お腹がすいているのも
あるけれど、おばあちゃんの手料理の味を知ってる人なら、みんな
同じように迷うかも知れない。
三回ぐらいうなってから、弟は意を決して﹁行く﹂と宣言した。
宣言したからには行くしかない。それに、もう二人のお腹は限界に
近づいている。
支度してから、私たちはお腹の虫をごまかすためにアメを口に含
んで出発した。
おばあちゃんの家は歩いて20分ぐらいの場所にある。おじいち
ゃんはずっと前にいなくなって、それからおばあちゃんだけ独りで
一軒家に住んでいて、私たちは学校帰りによく立ち寄った。それで
も、こんなに暗くなってから、二人きりでおばあちゃんの家に行っ
たことなんてない。
3
怜治はぴたっと私に身体をすり寄せながら歩く。﹁もうちょっと
離れてよ﹂と言いかけたところで、頭上にコウモリが飛び交ってい
るのを見て身震いした。
田んぼが転々とあるような田舎だからなのか、通りすがりの人と
会うことがほとんどない。聞こえてくるのは虫とカエルの鳴き声、
コウモリの羽音。
﹁うわああああねえちゃん!!﹂
﹁な、なによ!?﹂
突然の弟の絶叫に驚いて、つられて絶叫してしまった。
﹁大きな声出さないでよ! ビックリするじゃない!﹂
﹁だ、だって、あれーー﹂と、弟は暗闇に覆われた田んぼを指差す。
﹁あれってなによ﹂
﹁あれだよぉ、ほらほら﹂
そう言う弟は私にしがみつき背中に顔を埋めて、指先だけを前方
に向けていた。私は恐怖心を悟られないように、﹁なんなのよ﹂と
強がってみせながら弟の指す方向に目を凝らす。すると、暗闇の中
にぼんやりと立ち尽くす人影が見えた。瞬間、全身に鳥肌が立った。
﹁ぎゃっ⋮⋮﹂
小さな悲鳴とともに一歩退くが、怜治がガシリとくっついている
のでそれ以上動けない。
﹁姉ちゃん、あれなに、なに!?﹂
﹁え、え、えええっと、あれはカカシ、カカシだよ!﹂
とっさに出た嘘だったけど、本当にカカシかもしれない。人影は
動かないで、服の裾を風で揺らしていた。しかし怜治は確かめる前
に﹁うわあああああ﹂と絶叫しながら全力で駆けだしていた。
﹁こら、姉を置いてくな!﹂
必死に追いかけるけども、体力バカの弟との距離は縮まらない。
交差点を曲がったところで、弟の姿を見失ってしまった。まいった。
辺りを見回すが、人の気配すらない。昼間は威勢のいいおっちゃ
んがいる角の八百屋さんも今は堅くシャッターが閉じられている。
4
﹁ちょっとぉ、怜治どこぉ﹂
呼んでも返ってくるのは虫の声か、変な鳥の声だけ。このままお
ばあちゃんの家に行くか帰るか悩んでいると、犬の遠吠えが聞こえ
てきた。続いて弟の叫び声が近づいてくる。
﹁お姉ちゃん、俺を置いていかないでよ﹂
弟は私の姿を見つけるなり泣きながら怒った。
﹁あんたが勝手に意味不明なこと叫びながら走っていちゃったんで
しょ!﹂
﹁だってぇ﹂
まだ弟は何か言いたそうだったけれど、私は無理やり手を引っ張
って歩きだした。途中、散髪屋のクルクルまわるやつとか、写真屋
さんの人型看板を見間違えるたびに怖がる弟が、ちょっと疲れる。
だけど、自分の腕は鳥肌が立ちっぱなし。
ようやくおばあちゃんの家が見えたとき、すごく安心した。引き
戸を開けると、中からおばあちゃんがニコニコしながら迎えてくれ
た。オレンジ色の淡い光が私たちを優しく包み込んでくれる。なん
だか涙が出そうだった。
おばあちゃんは私たちのお腹が空っぽなことを知ると、ご飯を用
意してくれた。隣の台所に行ったかと思うと、すぐお盆を持って居
間に戻ってくる。
ほうれん草のゴマ合え、ショウガのきいた冬瓜のスープ。手羽先
のからあげ、根三つ葉の卵とじ、それにおばあちゃんの畑で取れた
キュウリとトマトのサラダ。それが全部、炊きたての真っ白なご飯
にすごく合うものだから私も弟も何度もおかわりしてしまった。
もうお腹に入りきらなくなった私は畳へ倒れこんだ。
﹁おいしかったあ。やっぱりおばあちゃんの家に来てよかったね﹂
おでんの下を覗くと、怜治も同じように大の字になって倒れてい
た。
﹁俺、むり、しゃべれねぇ﹂
そんな弟の姿を見ながら、おばあちゃんは嬉しそうに笑っている。
5
お腹もいっぱいで昼間のプールで疲れたのか、すごく眠くなって
きた。けど、これだけは言っておこうと思った。寝てからだと、二
度と言えない気がしたから、重いまぶたを我慢して一生懸命に息を
吐き出した。
﹁おばあちゃん、ありがとう﹂
おばあちゃんは笑ったまま私の方を向いて、静かにうなずいた。
身体を強く揺さぶられて、私は目を覚ました。目を開けると変な
顔をしたお母さんがじっと私を見ている。
﹁どうしたの、お母さん﹂
﹁どうしたのじゃないわよあんた、ここで何してんの﹂
ここでって、おばあちゃんに⋮⋮夢半ばのぼんやりとしたまま、
起きあがった。ぽかんと口を開けたままの怜治と目が合う。その眼
もまだ、夢を見ているみたいだった。
﹁お母さん、この部屋なんにもないよ?﹂
何もなかった。さっきまでたくさんの食事が並んだちゃぶ台も、
座布団も、淡い光もすべて消えていた。何もない部屋で私と弟は眠
っていた。
﹁当たり前でしょう、ここは空き家になっちゃったのよ、半年まえ
に﹂
﹁あ、そうか﹂
お母さんはそれ以上は何も言わず、私たちを外へ連れ出して車に
乗せた。運転席でタバコを吸っていたお父さんは何も聞かず、静か
に車を発進させた。
不思議だった。何もなかったはずなのに、私のお腹はいっぱいで、
寝ているときも寒くなかった。おばあちゃんの、あの笑顔も思い出
せる。それは怜治も同じみたいで、名残惜しそうに遠ざかる空き家
を窓に張り付いて眺めていた。
﹁ねえ、お姉ちゃん﹂
6
八百屋さんのある交差点を曲がっとき、怜治はそっと言った。
﹁本当のおばけって、怖くないね﹂
﹁うん﹂
と応えてから﹁特別だからだよ﹂とつけくわえた。
7
ある目覚めた朝に
﹃ある目覚めた朝に﹄
ある朝、俺は宇宙人になっていた。
宇宙にいるんだからみんな宇宙人だろ? なんてナンセンスな返
しはやめてくれ。だいたい宇宙人と言えば地球外生命体という意味
だという事を理解してほしい。とにかく人間ではなくなったのだ。
洗面所の鏡で見た己の姿は、極めてヒトに近い。頭は一つ、目と
耳は二つ、鼻と口は一つ。手足は胴体からちゃんと二本ずつ生えて
いるし、五本指もおかしいところはない。欠けているものはない。
だが、明らかに不自然な格好をしている。
俺は、真っ白な全身タイツを着せられていた。いや、そもそも着
せられたのか、という疑問が湧いてくる。何故なら、︽着ている︾
という表現にふさわしくないほどのフィット感だったからだ。まる
で、この姿のまま母の体内から生まれ出てきたかのようだ。試しに
顔を覆っているタイツに触れてみた。触感は伸縮性のあるポリエス
テル素材の布地そのものだ。摘んでみたが、痛みはなく、いとも簡
単に肌から離れる。どうやら肌に貼り付いているわけではないよう
だ。脱ごうと思えば脱げるのかもしれない。しかし、俺は脱がなか
った。脱ぐことができなかったのだ。たった数ミリ、タイツの布が
肌から離れただけで心の奥底から言い換え難い恐怖が押し寄せてき
たからだ。
何故だ、なんだこの感覚は。
タイツを脱ぐだけのことなのに、自ら生皮を剥いでいくぐらいの
覚悟がいる。理解の範疇を越えた恐怖に、俺は恐ろしくなった。
これだけなら、自分の中だけで収められる疑問だ。周囲の人は俺
をただの変態として見るだけで、まだ同じ人間と思ってくれる。
そうではない。俺は宇宙人になってしまったのだ。
8
決定的な証拠が、目の前に突きつけられている。その真実からは、
逃れられない。
俺の、脳天。
そこには、魚肉ソーセージのような触角が生えていた。ご丁寧に
全身タイツは触角をも覆っている。作ったとしたなら、特注品だ。
恐る恐る、初対面の突起物に触れてみた。
温かい。
触れられている感触があることから、取って付けただけの紛い物
ではなく、本当に俺の一部になっている。
なんだ、この頭は。取れる気配がひとつもない。強く握れば凄まじ
い痛みが走る。これはあれか、いわゆるサイヤ人の尻尾なのか。
それにしたって俺は何をしているんだろう。パジャマも下着も履か
ずに、洗面台の前で突っ立っている。全身タイツはあるが、さっき
も言ったように着用しているわけではない。俺の一部なのだから、
今まさに全裸で鏡の前に立っているのだ。窓から差し込む朝日を全
身で受け止め、光沢感のある真っ白な身体はきめ細かく煌めいてい
た。
綺麗だった。
俺は、生まれて初めて己を綺麗だと思った。
宇宙人になったわけだが、いつまでも鏡の前で自分の姿を眺めてい
るわけにはいかない。
﹁仕事行かなきゃな⋮⋮﹂
俺は宇宙人の格好の上に、スーツを着込んで出勤した。もう、周り
から何を言われようが気にしない。気にしている暇はない。宇宙人
になっても、生きて行くには働いてご飯を食べていかなければなら
ない。だから俺は、どんなに笑われようが、どんなに罵詈雑言を浴
びせられようが会社に行く。宇宙人になっても、生きていたいから
だ。貪欲な人間⋮⋮宇宙人だ。
9
しかし不思議なことに、電車に乗っても、街中を歩いていても、誰
も俺に特別な視線を投げかけてくるものはいなかった。いつものよ
うに、普通に、何事もなく、俺は世間から無視されている。
会社に行っても同じだった。同僚も上司も、受付嬢やガードマンで
さえ、俺を無視している。
宇宙人なのに、こんな真っ白な全身タイツにあまつさえ頭には触角
さえ生えているというのに、俺の扱いはいつもと変わらず粗末なも
のだった。
地味で、なんの取り柄もない、人間だったときと同じ。
皮肉屋な松山やセクハラ上司のように陰口を叩かれることもなく、
飲み会に一度も誘われたこともない。良いことも悪いことも、何も
ない。
俺は確かに宇宙人になった。これは紛れもない事実だ。
それとも、みんなには宇宙人として見えないんだろうか。
全身タイツに触角は俺だけにしか見えていないとか、俺の知らない
間に、こんなことは珍しいことでもなくなったからなのか。それと
も、宇宙人だと解った上で素知らぬふりをしているのか。
俺は、デスクの上に積まれたファイルの山の間から、遠くのデスク
でパソコンに向かっている女性を盗み見た。
我が会社の二華の一人、佐伯さん。おしとやかで可憐で優しくて、
美しい。男どもの憧れの女性だ。今朝、彼女と同じエレベーターに
乗ったら、まるで楽園に咲く花のような甘い香りが漂っていた。
彼女は、俺のことをどう思っているのだろう。
﹁おはようございます﹂と言ってくれた。俺に挨拶をしてくれるの
は、あの人だけだ。それでも、俺の方を見ることはなかった。
﹁おい、これ間違ってるじゃねぇか﹂
昼食を終えた俺に、いきなり葉山が作りたての書類をデスクに叩き
つけた。それから、俺の頭をグーで殴る。
﹁あ、すいません﹂
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﹁謝る前に、やりなおせよジミオ﹂
葉山はそう言って、長い前髪をかきあげてから自席へと戻っていっ
た。
彼女は口は悪いが、一応、佐伯さんと並ぶ二華の片方だ。長身でモ
デルのような完璧なスタイルに、フランス人とハーフらしい日本人
離れした白い肌。筋の通った鼻にノーメイクとは思えないほどの派
手な顔。どんな相手にも態度は変えず、上司にでさえ突っかかるこ
とがある。社内アンケートでは﹃踏まれたい女性、第一位﹄だ。
そんな彼女は、唯一、俺に嫌悪感を抱いてる人物だった。どうにも
こうにも俺のことが嫌いらしい。お茶はセンブリという非常に苦い
葉を使うし、少しのミスも許してくれない。
悪態をついたあとには必ず﹁ジミオ﹂と呼ぶ。もちろん俺はそんな
名前じゃない。できれば、あんまり顔を会わせたくない人間だ。
でも、宇宙人である俺のことは無視している。
気になった。本当に見えていないのか。
さっき、グーで殴られたとき、触角に当たって痛かったのに。
どうしても気になった。一週間悩んで、食欲が減って、仕事が手
につかなくなってきた。そうなると、葉山に頭をグーで殴られる回
数が増えた。心無しか、触角が腫れていた。
我慢できなくなった俺は、給湯室で一人洗い物をしている葉山に
それとなく訊いてみた。
﹁なあ、俺のこと、どう見えてる?﹂
﹁キモッス﹂
葉山は一言だけ言ってから、また、触角をグーで殴った。いつも
より痛かった。
たまたま、佐伯さんとエレベーター二人きりになったので、俺は
さり気なく訊いてみた。
﹁あの、僕のこと、どう思います?﹂
佐伯さんは、困ったように笑うと﹁すみません﹂と言って、早足
でエレベーターを降りていった。やっぱり俺の顔は見てくれなかっ
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た。
なんか、どうでもよくなってきた。
俺のような地味で空気のような存在の人間が宇宙人になろうが、
エスパーになろうが、未来人になろうが、そんなことで世界は変わ
らない。
きっと、俺自身が変わっていかなければ、そう、ずっとこのまま、
ジミオのままなのだ。
旅に出ようと思った。それでしか自分を変える方法が解らなかっ
たからだ。かと言って会社を辞めるわけにも行かないので、入社し
て初めて一週間ぐらいの有給をもらった。そんなに忙しい時期でも
なかったので、すんなりと休暇届は受理された。
英語ができないので、海外はやめて北海道に行くことにした。蟹
ラーメン、ウニ丼、函館寿司、たくさんの美味いものを食し、地面
いっぱいに生えたラベンダーに埋もれたりした。小樽では夜景を眺
めた。美しいものも、たくさん見た。気さくな土産屋のお婆さん。
太っ腹な漁師達。様々な人と出会えた。
だが、みんな、宇宙人の俺は無視した。
もう、それでもいいと思い始めていた。俺が人間であろうが宇宙
人であろうが、俺は俺に違いない。
一週間ぶりの会社では、俺の孤独は変わらなかった。嫌みを言わ
れることのない透明人間だ。むしろ、宇宙人より本当に透明人間に
なったほうが楽しめたかもしれない。透明人間になったら、どうし
ていただろうか、そんなことを考えて独り、小さく吹き出した。
﹁おい﹂
屋上で弁当を食べていると、葉山が俺の前に立ちはだかった。両
手を腰にあて、いかにも怒りMAXといった感じだ。
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また、なにか失敗で怒られるのだろう。俺は、触角に訪れる衝撃
を覚悟していた。
﹁おまえさ、なんで一週間休んだんだ﹂
﹁いや、ちょっと⋮⋮﹂
ああ、仕事を放り出して長期休暇をとったことに怒っているのか。
俺は、本当のことを言いづらくなってしまい、言葉を濁す。しかし、
葉山は何を勘違いしたのか
﹁まあ、わかるよ。佐伯に振られたから、傷心旅行でもしてたんだ
ろ﹂
と言った。もう、わざわざ弁解する気も起こらないので、俺は頷い
た。
﹁そうか⋮⋮﹂
葉山は俺を殴らなかった。その表情から怒りも消えていたし、両
手もだらん、としたにぶら下げていた。
そして、とても、衝撃的なことを呟いた。
﹁佐伯に振られたって聞いて、安心したんだ﹂
﹁⋮⋮はあ﹂
長い前髪を手で、かきあげる。俺は、箸にはさんでいた厚焼き玉
子を地面に落とした。
﹁この一週間、淋しかった﹂
そう言って、彼女が走り去っていったあと、俺の触角がやたら横
に揺れていた。
俺たちは週末、初めてのデートをし、それから幾日か共に夜を過
ごし、気が付けば結婚していた。
もう彼女は俺のことを﹁ジミオ﹂なんて呼ばない。
触角も殴らない。たまに、頭を撫でてくれる。そのとき触角も撫
でてくれる。けっこう、気持ちいい。
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口が悪いのは相変わらずだが、悪態をつくとき、ちょっと頬が染
まる。それを知っているから、俺は以前みたいに彼女に関わりたく
ないとは思わなくなった。
しかし、何故、俺なんかと結婚してくれたんだろう。
それだけ、ずっと気になっていた。
ある日、俺はなんとなしに訊いてみた。
﹁なあ、俺の、どこを気に入ってくれたの﹂
すると、彼女はいつも以上に頬を赤く染め上げる。狼狽したよう
に照れ、口ごもっていた。
何度かの深呼吸のあと、彼女は俺のほうを横目で見た。潤んだ、
瞳だった。
﹁その⋮⋮、触角が素敵だったんだ﹂
見えてんのかい。
終わり
14
紙の上のミシャ
﹃紙の上のミシャ﹄
生前、恋人が書き残した猫いがいる。
それは私の手帳、10月のカレンダーの右下に小さくいた。
鉛筆で書かれた、真っ黒な猫。
私に背を向けるその猫はミシャという。
︱︱男の子でしょ
私が言うと、恋人は
︱︱じゃあ、男の子だ
微笑みながら、ミシャに長いヒゲを付け加えていた。
生みの親がいなくなっても、ミシャは10月の隅っこにちょこん
と座っていた。どこか寂しげな背中をして。
たぶん、それは私が寂しいからそう見えるのであって、絵である
ミシャはあの頃と変わりなく長いヒゲをぴんと伸ばして座っている
だけなのだ。
私はミシャとは違う。恋人はもういないが、生きるために働かな
ければ成らない。いつまでも、ミシャのように隅っこで座ってばか
りはいられないのだ。
涙を思い出さぬように仕事に打ち込んでいたある日、10月のカ
レンダーに予定を書き込もうとして異変に気がついた。
ミシャが消えていた。
会社に置きっぱなしにしていることもあるので、誰かが勝手に悪
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戯か何かで消したのだと思った。
それにしても、筆圧の跡もなく綺麗に消えている。頭を傾げなが
ら、何気なく次のページを開いた。
11月。
その端っこに、ミシャはいた。変わらぬ姿で。
初めは自分の勘違いなのか、やはり誰かが手の込んだ悪戯をした
のだと考えた。
しかし、次の日、ミシャは5月に移動していた。五月には私の書
いたスケジュールがびっしりと詰まっている。その文字を避けるよ
うに寝そべっていた。
元気がなさそうに見えたので、試しにミシャの足元に魚の絵を描
いてみた。小学生みたいな、下手な魚。
翌日、魚は骨だけになっていた。頭と尻尾を残して。
満足したのかミシャは、丸まっていて、まるで黒い毛玉みたいだ
った。
もう誰かの悪戯でもいい。面白くなってきた私は毎日、ご飯を与
えた。
野菜は食べない、おにぎりは少しかじっていた。一番好きなのは、
目玉の大きな金目鯛。色んなものを与えすぎて、舌が肥えてしまっ
たのだろうか。
クッションを置いてやると、そこで丸まって眠る。ネズミの形を
したオモチャを転がしていたら、ボロボロにされてしまった。
ミシャは毎日、様々な姿を見せてくれるが、正面は向いてくれな
い。いつも背中で、何かを語ってくるのだ。
一時は、悪戯の犯人を明かそうとしたこともあった。今はもう、
どちらでも良くなって、ミシャとの生活を楽しんでいた。
16
そんな時、ミシャの姿が手帳から消えていた。どのページを探し
てみ見つからない。とうとう旅立ってしまったのかと、落ち込んだ
気持ちを慰めるために熱い紅茶を飲もうとティーバックを取り出し
た。
すると、茶葉を包んだ薄い紙に、ミシャが丸まっていた。
︱︱ミシャ?
ここで、初めて、ミシャは自分の意思で動いていたんだと、妙な
ことに納得してしまったのだった。
それから、ミシャは家のあちこちの紙に現れるようになった。
困ったのは、トイレットペーパーで寝そべっていたときだ。仕方
なく、新しいものを出したが、ああいう消耗品で眠ってしまうのは
やめて欲しい。
ミシャは私の家以外では決して現れない。ときどき、ポケットの
ティッシュにも忍んでいたことはあったが、会社に着いたころには
いなくなっていた。
仕事が忙しくなって、自宅で夜遅くまでパソコンのキィを叩いて
いたら、書類の隅っこに首を垂らしたミシャがいた。こんな格好を
する時はお腹が減っているときだ。好物の金目鯛を与えてやると、
自分のお腹の虫も騒ぎ始めたので、近所のコンビニへ食料を調達し
に出かけた。
コンビニのペットフードコーナーで足を止める。そういえば、ミ
シャに缶詰やカリカリを与えたことがなかった。私の絵の技術力に
限界もあったのだが、実際に与えてもミシャは食べないだろうなと
思い、つくづく贅沢な猫だと笑ってしまった。
レジでおつりを受け取ると、無造作にポケットに突っ込んでから
自宅へ戻り、から揚げとおにぎりを食べてから、仕事のことも忘れ
17
て眠ってしまった。
浅い夢と、現実の狭間で、ミシャの声がした。ミシャの声なんて
聴いたことなかったけれど、そうだと感じた。
︱︱ミシャ、まだ眠いよ
そう言っても、ミシャは執拗に耳元で鳴いている。
その声にも慣れてきて、再び深い眠りにつこうとした瞬間、どか
っと身体の上にミシャが飛び降りたのだ。
反射的に私は飛び起きて、ミシャを退けようとした、が、そこに
は何もいない。
ああ、夢か、とミシャの重みを感じた腰の辺りを、布団の上から
擦った。すごくリアルだった。そんなはずはないのに、ミシャが本
当にそこにいたような気がした。
今、ミシャはどこにいるのだろうと部屋の明かりを点けたところ
で、深夜にも関わらず外がやけに騒がしいことに気がついた。
窓を開けると、騒がしさは一点に集中し、私の方へと注がれた。
︱︱あそこにまだ人がいるぞ!
ぼんやりとする視界に、赤く点滅した光と、赤い車、銀色の服を
纏った人たちと、パジャマのままの野次馬たち。
頭の中が思考停止状態のまま、半ば無理やり銀色の服の人に窓か
ら出され、地上に降ろされた。
ようやく醒めてきた意識の中、振り返ると、さっきまで私が覗い
ていた窓から激しい炎が暴れていた。
お気に入りのカーテンはみるみるうちに灰になり、炎は黒い煙と
煤を夜空に吐き出している。
︱︱待って⋮⋮ミシャは?
私のつぶやきに誰も応えない。
自分の部屋に手を伸ばしたと同時に、二階立てのアパートは燐を
噴出しながら崩れていった。
18
︱︱火が出る少し前に、猫の鳴き声が⋮⋮
︱︱もしかして、アンタのとこの猫か?
ミシャミシャ、と何度もつぶやく私の肩に、そっと誰かの手が掛
けられた。
︱︱賢い猫だから、どこかへ逃げてるはずだよ
私は何も言わず、その場にうずくまってしまった。
どこかへ逃げられない、私はよく知っている。ミシャは、紙の上
でしか生きていけないことを。
私が泣きはじめると、もう慰めの言葉を掛ける人は現れなかった。
ミシャ、お前まで私を置いていくのね。
こんなことなら、起こしてくれなくてもよかったのに。
実家から父が車で迎えに来てくれ、毛布にくるんだまま後部座席
で眠ってしまった。
泣き付かれた身体は睡眠を欲しているのに、緊張したままの脳は
寝てくれない。奇妙な感覚の中、すぐ傍でミシャの声がした。
目を開けると、高速道路の照明が車内を照らす。
父は何も言わず、ハンドルを握っている。
身体を起こすと、ズボンのポケットから百円玉が転がり落ちた。
そっと、ポケットに手を入れると、くしゃりと、掌に収まった。
取り出して、ゆっくりと皺を伸ばすと、から揚げとおにぎりの下
で、丸まっている黒い毛玉がいた。
毛玉からは、少しだけ、長いヒゲが覗いていた。
おわり
19
紙の上のミシャ︵後書き︶
***
短編映画ジャムフィルムに、広末涼子主演のヤツで似たようなネタ
があったなあと思ったのだが、それを五島に話すと﹁それでもいい
から、いつか書いてね﹂と言われたので書いてみました。
20
レプリカファミリィ
﹃レプリカファミリィ﹄
朝から弟が母の周りをウロウロしながら抗議の声をあげていた。
﹁ねー、今日遊園地つれてってくれるって言ったじゃない﹂
﹁もう、お父さんに言ってちょうだい﹂
このやりとりを、さっきから何回も続けている。いい加減ウンザ
リしてきた私は弟に、とりあえず父を起こしてくるように指示した。
それから30分ほどして、パジャマ姿の父がリビングに現れた。
だけど、出掛ける用意をするそぶりは見せない。
﹁お父さん、遊園地行きたい﹂
私も新聞紙を広げた父に向かって言ってみた。
﹁父さん、残業ばかりで疲れてるんだ。たまの休みぐらいゆっくり
させてくれ﹂
﹁お父さんの嘘つき!﹂
弟が泣きながら叫んだ。確に先週あたりから弟は父と約束をして
いた。
﹁あなた、連れていってあげましょうよ﹂
父のコーヒーを用意しながら母が言った。
﹁お前が行けばいいだろ﹂
﹁今日はダンスの発表会があるの。先週から言ってたじゃない﹂
﹁お前がするようなダンスがよ。そんなものより子供たちの面倒み
てやれよ﹂
﹁いっつもいっつも面倒みてるのは誰よ!私が全然何もしてないよ
うな言い方はやめてちょうだい!﹂
母の剣幕に押されて、父は新聞紙で自分の顔を隠した。
﹁遊園地、行けないの?﹂
弟が哀しそうな顔で両親の顔を交互に見比べる。
21
﹁しょうがないな⋮﹂
父が新聞紙を閉じて、わざとらしい大きなため息をついた。
私は自分の部屋に戻ろうとする父の前に立ちはだかり、声を荒げ
て叫ぶ。
﹁しょうがないって何!?嫌々行くなら連れていってもらわなくて
結構﹂
﹁嫌々⋮じゃないだろ。お前らが行きたいって言うから﹂
﹁それがムカつくのよ! あんまり自分勝手にしてると電池ひっこ
ぬいちゃうわよ!﹂
﹁そ、それだけはやめてく⋮⋮﹂
私は父の背後に周り、耳の穴から単3電池を取り出した。電池を
抜かれた父は力なく床にくずれおちる。
﹁あんたもよ、お母さん。ヒステリーになりすぎ﹂
電池を取ると母も同じように床にくずれた。くずれた母の髪をい
じりながら、弟が言う。
﹁おねぇちゃん、また失敗だったの?﹂
﹁そうね、初めからプログラミングしなおさなくちゃ。良い両親を
作るのって難しいわ﹂
おわり
22
月夜の寝息
﹃月夜の寝息﹄
ひんやりする。湿った臭いがして、ネコは目が醒めた。
拳ひとつ分の距離の先に、男が濡れた髪を白いシーツに垂らして
眠っていた。寝息を感じる度に、これは夢か現かと一人自問自答す
る。答えは出せないまま、男の月明かりで照らされた寝顔を見つめ
た。
さすがに四回目ともなると、最初の頃のような動揺はなくなって
いる。恐ろしくて眠ったフリをしたこともあったが、今は冷静に男
を観察した。
筋の通った鼻に細い顎や体。見ようによっては女性的でもあった。
白磁の肌や、青とも黒とも言えない夜の髪と長い睫にうっすらと水
滴がついている。汗ではない。風呂でも入って、タオルを使わずに
そのままベッドの中へ潜り込んだようだ。ただ、不思議なのは、何
時間経っても水滴が乾いてしまうようなことがなかった。
いや、そもそも、この男には不思議なことばかりなのだ。
五ヶ月前の満月の夜、彼は初めてネコの寝台に現れた。その時は
まだ、少年だった。だが、次の月の満月の夜、彼は成長していた。
そして今月、ネコと変わらぬ歳格好になっている。
彼は満月の夜にしか現れない。しかも、月光が窓の影を作り出す
ぐらいの満月の夜にだけ。一度、雲が月を覆っていた二ヶ月前は現
れなかった。
ネコは月に一度だけ現れる、この美しい青年の瞳をまだ見たこと
がなかった。あまりにも気持ちの良さそうに眠っている月神アルテ
ミスの肩を揺さぶることは、冒涜のように感じられたからだ。ひた
すらに息を潜め、青年の寝息を聴きながら眠りにつくのだ。
そうして朝が来る。隣にはもう、青年はいない。シーツを撫でて
23
みるが、濡れた形跡は無かった。やはり夢なのだろうかと、ちらり
と窓辺に置かれた水槽に目をやる。直径20センチほどの硝子ケー
スの中で、ネオンテトラが一匹だけ泳いでいた。
本来ネオンテトラは複数で飼うほうが多い。ネコも半年ほど前に、
近所のペットショップで水槽とともにネオンテトラを15匹購入し
た。だが、会社から帰ってくるたびに一匹、また一匹と死んで生き
残ったのは彼だけになってしまった。ヒーターも壊れていないし、
水もカルキ抜きはしてある。考えられたのは、何かしらの病気か、
あるいは環境の変化になじめなかったか。
ネコは残ったネオンテトラを大事に扱った。20センチもの水槽
に小指ほどの大きさしかない魚を泳がせるには少々寂しいかもしれ
ないが、新しい魚が病気を持ってくるのを恐れてこのままにしてお
いた。
ベッドから出ると、真っ先に水槽のライトをつけてやり、数分し
てから餌を上から振りかける。青と赤のラインが、餌を求めてさま
よう。
その姿を見ながら、ネコは一つの確信を考えていた。
望月の君は、このネオンテトラではないかと。
会社にいながらも、ネコは魚のことを考えていた。パソコンのキ
ィを打つ指が、時々止まりがちになる。気がつくと、昼になってい
た。最近いつもこうだ。
食堂で定食をつついていると、袴田が向かいに座った。明らかに、
苛立ちを表している。
﹁今晩こそ、いいよね﹂
返事をためらうネコを睨みつけて、袴田は続けた。
﹁はっきり言えばいいじゃないか。他につき合ってる奴がいるって﹂
﹁そんなの、いるわけないじゃない﹂
﹁ならどうして、会ってくれないんだ。仕事中だって、恋患いのよ
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うに呆けてるし﹂
袴田の言いたいことはわかっていた。
あの青年が現れてからというもの、袴田を部屋に呼ぶことを躊躇
い、さらにプライベートまで会うこともなくなった。袴田といると
きでさえ、魚のことが心配になってデートどころではなくなるから
だ。
﹁もう、終わりにしようよ﹂
袴田はそう言って席を立った。去りゆく元恋人を引き留めること
ができずに、残った定食にも箸をつけることができなかった。
袴田と別れて一月が経った。窓の外を覗くと、闇の中に丸く輝く
玉兎がいた。
ネコはわざわざ風呂場に行って、仕事着を脱いだ。水槽がない頃
はその辺で脱いで、風呂場に向かったものであるが、今は彼の目が
気になる。おかげで、だらしなさは減った。
少し胸を高鳴らしながらベッドに潜った。緊張して眠れないかと
思いきや、仕事の疲れとアルコールですぐに睡魔はやってきた。
頭の上で、目覚まし時計の秒針を刻む音が遠ざかっていった時で
ある。
いつもの湿った臭いがした。徐々にネコの脳も覚醒し始める。だ
が、今回はいつもと違った。
もうひとつ、気配がする。
耳を澄ますと、隣にいる青年の夢半ばのような音ではなく、明ら
かに三人目の息づかいが聞こえてきた。しかも、ただならぬ緊張感
が部屋を張りつめている。これは、危険な人物かもしれない。
強盗。
ネコの脳裏にその単語がよぎったとき、体が震えだした。三人目
に自分が起きていることを悟られまいと震えを抑えるが、ベッドが
揺れるほど激しさを増していった。
その時、手に冷たいものが触れた。布団の中で、ネコの右手は湿
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った手に包まれる。驚いたが、もっと驚いたのは震えが止まったこ
とにあった。
薄目を開けると、青年の目も小さく開いている。瞼から少し覗き
見えた深い黒と月の輝きは、眺めているだけで安らぎをもたらし、
眠気を誘った。
それからのことは良く覚えていない。
硝子の割れる音がして、ネコは飛び起きた。
硝子の破片と水びだしの床の上に、男が俯せで倒れていた。混乱
する頭を必死に回転させて、携帯電話で警察を呼んだ。
警察官に事情を話しながら、手の中の小さな魚を見つめた。
青年のことは話していない。強盗が勝手に転んで水槽を壊したん
だと説明すると、警察官も納得したようだった。
警察官は相づちを打ちながら、ハンカチをネコに渡した。強盗に
入られたのだから、恐ろしさのあまり泣き出したのだろうと、警察
官は慰めるようにネコの頭を優しく撫でた。
夢だったのだ。すべて。
強盗があんなふうに倒れていたのも、袴田が実は二股をかけていた
ことも、あの誠実な警察官と仲良くなったのも。
すべては偶然なんだ。
でも、幸せを運んできてくれたと、思いたい。
薄暗い牢獄の中、ある男は気がふれたように何度も同じ言葉を繰
り返した。
男が⋮⋮さか⋮⋮な⋮⋮男が⋮⋮、と。
26
旅行代理店
﹃旅行代理店﹄
娘が幼稚園の制服を片手に持ったまま、朝ご飯も食べずにボーと
している。子供向けの教育番組に夢中になって、周りの世界を忘れ
ているようだった。私は洗濯物を干し終わると、娘の手から制服を
ひったくって着せていく。そして口にウィンナーを運び、半ば無理
矢理食べさせた。娘の視線は、テレビに固定されたままだ。本当は
テレビを観せずに自分で身支度をやらせるべきなのだろうが、テレ
ビを消せば大泣きするのが億劫でつい手助けしてしまう。
朝食を終えた夫が先に家を出て、十分後に娘の手を連れて幼稚園
に向かった。途中で出会った娘の友達の母親たちに挨拶し、門のと
ころで娘を送り出す。傍で行われている井戸端会議には参加せず、
来た道と反対方向へ足を歩ませた。
しばらくすると、スーパーや雑貨屋等が並ぶ大通りが現れ、交差
点の角にある小さなカフェの扉を開けた。いつものように窓側に腰
を掛け、エスプレッソを注文する。そして正午の手前まで、ここで
本を読んで時間を過ごすのが私の楽しみだった。
一時間ほど、小倉百人一首の解説本を読んだところで目を離し、
向かいの通りの店を見た。昨日までは花屋だったはずが、旅行代理
店になっている。こんなにも急に店が変わるものなのだろうか。妙
な気持ちになり、早めに読書を切り上げて向かいの店にを覗きに行
った。
小さいが、どこにでもありそうな旅行代理店で、別段、変わった
ところはない。店の前のパンフレットをジっと見つめていたら、店
員が椅子を勧めてきた。逆らうことはなく椅子に座り、出されたお
茶を啜った。
﹁どのような旅を希望されますか?﹂
27
話すぐらいなら被害は無いと、ありのままの望みを言ってやろう
と思った。
﹁山がいいです。できればコンクリートが無いような時代の雰囲気
をした旅館。お料理が美味しいことはもちろん、川を見ながら温泉
に入りたいです。まるで、時を置いていってしまうような場所﹂
自分で言っておきながら、ひどく抽象的な説明になってしまった
と思ったが、もっと詳しく聞かれたらはぐらかして帰ろうと決めて
いた。だが、店員の返答は、落ち着きはらっていた。
﹁ちょうどピッタリの旅館がございます。ただ、予約が今日までと
なっていますので、明日になると次はいつ泊まることができるのか
わかりません﹂
﹁今日、予約をすればいいのですか﹂
無いと思っていただけに、興味が湧いてきた。
﹁はい、今すぐ予約をしていただき、一時間後にこちらへ着くバス
に乗っていただきます﹂
﹁一時間後ですか﹂
繰り返し訊く私の問いに、店員は変わらない笑顔で、はい、一時
間後です、と答えた。
﹁わかりました、予約を取ります﹂
﹁ありがとうございます、では、こちらの書類に必要事項を記入し
てください﹂
書類に住所や名前等を書いていく。値段もそんなに高くはないの
で、試しに行ってみようという気になってしまった。後で夫に連絡
すればよい。呆れられても構わない。ちょうど、逃れたい気分だっ
たのだから。
﹁ところで、何泊なのですか﹂
﹁時間を忘れていただくために、お客様にはお伝えしていません。
その代わりに、帰る頃合いに迎いをよこします﹂
﹁変わったプランですね﹂
﹁それが私どもの売りでございまして﹂
28
それはそれで面白そうだと、期待に胸を膨らませた。
一時間ほど店で本を読みながら時間を潰し、到着したバスに乗り
込んだ。持ち物は普段通りだ。今時の旅館は何でも揃っているから、
手ぶらでも大丈夫だろう。
本を読んでいたつもりだが、いつの間にか眠ってしまっていたら
しく、目が覚めるとそこはもう緑が茂る山の中だった。木に囲まれ
た小径を、バスが速度を落とし気味で走っている。
速度がさらに下がったかと思えば、旅館の門の前で停車した。私
一人を乗せて、遠くまで運んでくれた運転手さんに礼を言い、タラ
ップを降りる。後ろでドアが閉まり、バスが走り出した。
控えめな門構えをくぐり、いぶし銀の瓦屋根を乗せた建物を観察
した。焦げた深い茶色の柱に白壁が映える。門から玄関まで歩いて
二十歩の間に飛び石が流れ、周りには小さな石が敷き詰められてい
た。左右にはよく手入れされた松が植えられており、奥には立派な
庭園があるのではと期待させられる。耳を澄ませば、川の歌声も聴
こえてきた。
扉に手をかけると、滑るように引き戸が開いた。玄関内で女将ら
しい人物が、三つ指をついていた頭を上げた。紫紺の着物を上品に
纏い、整った顔立ちに薄く化粧をのせてある。
﹁ようこそいらっしゃいました﹂
静かで落ち着いた、それでいて耳に残る声色を発した。
⋮⋮さっそくお部屋へご案内いたします。⋮⋮はい、お願いしま
す。⋮⋮お荷物は。⋮⋮これだけですので、結構です。⋮⋮わかり
ました。では、こちらへどうぞ。
女将に案内され、板の床が続く長い廊下を歩きだした。突き当た
りを左に曲がったところで、右側に予想した通りの日本庭園が広が
っていた。中央の池には、睡蓮が咲いている。
おそらく、建物の一番奥になる部屋の扉を、女将は開けた。入り
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口の先の襖を自分で開ける。八畳ほどの広さに机と座椅子、くぼん
だ壁のところには山水画の掛け軸があるだけのシンプルな部屋だっ
た。だが、窓を開けると山水画にも引けを取らない谷川の風景が飛
び込んできた。
これならテレビが無くても、過ごせそうだ。
女将が風呂やの場所や夕餉の品の説明をしながら、茶を注いで机
の上の茶菓子の隣へ添えた。時間を見ると、あと一時間ほどで日が
沈む。それまでに一度、湯を味わってみたいと女将に告げると、押
入から浴衣とタオルを用意してくれた。
指示通りに廊下を進むと、男女別の入り口を区別する暖簾が現れ
た。橙色に鈍く光る明かりの中をくぐる。奥へ行くと、とたんに湿
気に帯びた空気が体にまとわりついてきた。
脱いだ服を籐の篭に入れ、硝子戸を開ける。湯気で目が曇ったが、
桧の匂いと感触が伝わってきた。焦る気持ちを抑えて体を洗い、そ
れから湯船に身を沈めた。壁の上半分は外と遮るものがなく、聴こ
えてくる川の音を楽しんだ。
部屋に戻ると、すでに夕餉が広げられており、女将が小さな土鍋に
火を灯しているところだった。座椅子に座り、どれから箸をつけよ
うか吟味する。
﹁鯵のお刺身に茄子とシシトウの天ぷら。こちらは山菜の煮物。今、
温めておりますのは湯豆腐でございます﹂
まずは冷えたグラスに、すでに露がしたる瓶からビールを注いでも
らった。喉が潤い、炭酸が胃を刺激する。
﹁では、ごゆっくり﹂
そろそろ一人になりたいと思った頃合いに、女将は丁寧に襖を開け
て去っていった。遠慮なく、片っ端から箸をつけていく。どれも、
ちょうどいい味付けで、舌鼓を打った。
ほとんどを平らげて、少し休憩してから、また風呂へ入りに行く。
食べながらかいた汗を流し、湯に身を委ねる。時折、鼻歌を歌って
は日頃の疲れを溶かしていった。
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部屋では夕餉の皿が跡形もなく消え、代わりに布団が敷かれてあっ
た。窓辺で少しだけ百人一首を暗記する努力をしてから、布団に潜
り込む。そんなに新しい建物では無いはずなのに、い草の香りが下
から漂ってきた。そのまま、夢へと旅立つ。
夢から帰ってくれば、朝から風呂を味わいに行く。戻れば簡素な
朝食が待っていた。空いた時間は近くを散策してみたり、窓辺で読
書をした。
気がつけば百人一首をすべて言えるようになっていた。風呂に入
りながら、詠ってみたりする。
そんなある日、来客が現れた。まだ、若い女性だ。女性は私の顔
を見るなり﹁津田朝子さんですよね﹂と訪ねてきた。返事をすると、
安堵するように深い深い息を吐いて、浴衣姿で緑茶を啜る私にこう
言った。
﹁良かった、もう見つからないと思ってました。私、本宮里美と言
います。旧姓は津田です。香奈の娘になります。さあ、帰りましょ
う﹂
私は里美と名乗る女性の言うことを半分も理解できなかったが、
おそらく、旅行代理店が言っていた迎えなのだろう。
帰る身支度を整え、女将に見送られながらバスに乗った。たやす
く上っていたタラップに手こずっていると、里美が手を貸してくれ
た。礼を言うと、さも当たり前のことをしたかのように、いいえ、
と返した。
座席に座ると、バスが動き出した。覚えた百人一首をひとつひと
つ言っていくと、里美はひとつひとつ頷いていく。
半ばまで言い終えたところで、流れゆく景色に視線を移した。光
を遮るぐらいに、木々たちは寄り添って立っている。ふと、妙な違
和感に襲われた。あの、旅行代理店を見つけた時と似ている。
深く茂った森に重なるように、年老いた老婆の姿が窓に写ってい
た。
31
おわり
32
お玉の神様
﹃お玉の神様﹄
先週の暮れに他界した祖母の家に、掃除という目的で向かわされ
た。他の親戚たちは仕事で忙しいだろうし、そんなに広い家でもな
いので僕一人だけだ。本当のところ、金目の物があればこっそりポ
ケットに忍ばせようという魂胆もある。
田舎の山奥にポツリと佇む一軒家に、足を踏み入れた。珍しい木
造平屋で、部屋数も少ない。さっそく遺留品を片っ端から段ボール
に詰めて、ゴミだと思えるものはそのままにしておいた。あとで業
者が全部捨ててくれる。
一通り終えたところで、最終確認に部屋を回った。指さし確認を
しながら歩いていると、廊下の天井に、四角い切り込みだあり、端
に取っ手がついていた。気になって、脚立を持ち出してきてその取
っ手に手をかけた。すると、取っ手はガチッと音を鳴らして上に開
いた。
多少、怖いが好奇心のほうが勝っている。そうっとのぞき込んで、
暗闇の中を懐中電灯で照らした。180度回転したところで、光の
先に異物が現れた。よく見ると、黒い箱だ。
僕は体ごと上り、天井の頼りない板の上をゆっくり歩いた。屋根
は思った以上に高くて、腰を少し屈めるぐらいで前に進める。
黒い箱に近づくと、それを観察した。こんなところに隠すように
置いているのだから、用心しなくたはならない。
漆塗りのティッシュケース二つ分の大きさで、蓋は上からかぶさ
っている。まるであれだ、玉手箱というやつにそっくりだ。だけど、
現代にそんな物があるはずない。
しばらく悩んだ挙げ句、とうとう箱の蓋に手を乗せた。恐怖心を
吹き飛ばすように、一気に蓋を引き上げた。
33
大量の煙が辺りを包み込む。僕は煙を払いながら逃げようとした
が、誰かに肩をつかまれた。
﹁待たれよ﹂
﹁な、なんですか!?﹂
声がひっくり返る。煙とともに出てきたのは、白い髭をたくわえ
た老人だった。
﹁開けてくれたお礼に、そなたにこれをあげよう﹂
と、老人はが差し出してきたものは、銀色の棒の先にお椀がついて
いる見たことのないアイテムだった。
﹁何ですか、それ﹂
﹁これは魔法のお玉だ。これですくった料理は天帝でさえ唸らせる
ことのできる味になる。ただし、使えるのは三回まで。三回使えば、
あとはただのお玉に戻ってしまう。さあ、受け取るがよい﹂
﹁いいりません﹂
﹁なに! 遠慮はいらぬ、さあ⋮⋮﹂
﹁あの、忙しいんで箱に戻っていいただけますか?﹂
﹁え、あ、こら! またんか!﹂
無理矢理、老人を箱に詰め込んで蓋を閉めた。
やれやれ、せっかくお宝を発見したと思ったのに、あんな爺さん
が一緒じゃあ売れないじゃないか。
僕は天井から降りて、荷物を車に積んだ。
ふと、体力が減っていることに気づく。
車に乗り、タイヤを格納して空中飛行モードに切り替えた。あと
は目的地まで、自動的に運行してくれる。
﹁結局、収穫なしか﹂
ため息をついて、鞄から栄養キューブを取り出すと、口に含んだ。
おわり
34
星の糸
会場の中でざわめきが起こった。
﹁アンビリーバボゥ﹂とか﹁どうしたのかしら﹂とか、そんな台
詞が聞こえてくる。目の前の検査官も、目を丸くして、口を半開き
にしたまま動かない。
ぼくは、恥ずかしくなって机の下に隠れたくなった。
やっと赤い髪から銀髪に﹃変化﹄したぼくは、運命の人と結ばれ
ている﹃赤い糸﹄が左手小指に現れた。
シーシン
その糸の先には、将来、一緒に子供を育てる人がいて、すごく近く
にいたり、はたまた海星の裏側だったりするのだけれど、ぼくの﹃
赤い糸﹄は、真っ直ぐ天井に向かっていた。この会場に二階はない
はずだけど?
ポカンとしていた検査官は、慌てて偉い人を呼んできた。
呼ばれた偉い人は、ぼくの糸を見るなり、震えながら﹁アワワワ、
こりゃどーなっとるんだ﹂と言った。
ぼくの方こそ知りたいよ。
それから、ぼくだけ別室に連れていかれて、色んな検査をした。
だけど、何も異常はないらしい。
また後日、違う検査をするから来てくださいって言われたけど、
何だか理科の時間に使われるハムニーみたいで、あんまり良い返事
ができなかった。
﹁そんなの、サボタージュだよ。オレなら絶対行かないね﹂
家に帰ると、シアがブルーシトロンソーダを用意してくれた。
自転車を飛ばしてきたので、とても暑くて今すぐ口につけたがっ
たけど、瓶の中から星屑を取り出してソーダの中に入れた。星屑は
35
パチパチと弾けながら、コップの底へ沈んでいく。
先月の獅子座流星群の夜に海辺で拾い集めた星屑は、もう残りわ
ずかになっている。
リビングの開け放たれた大きな窓の向こうにある海を、星屑が唄
うソーダ水から覗き見るのが好きだ。海の色をしたソーダ水を口に
含むと、シュワシュワと弾けた。
シアは作りかけのペーパータワーを箱にしまっている。風が出て
きたから、意欲が削がれたみたい。
﹁ね、見せて﹂
箱を床に置いて、シアが言った。
ぼくは左手を差し、強く糸を想うと、うっすらと現れた。
シアは糸をまじまじと見て、口笛を鳴らした。
﹁へぇ、こんなこともあるんだ。オレはまだ﹃変化﹄してないから
わからないけど、どんな感じ?﹂
本人の言う通り、シアはまだ﹃変化﹄していなくて、綺麗な青空
の髪をしている。﹃変化﹄したら、どんな色になるんだろう。
﹁わからない。相手の気持ちが全然わからないんだ﹂
﹁ふぅん、それは随分と遠い星にいるんだな﹂
﹁星?﹂
﹁うん、その糸の先にある、どこかの星﹂
そんな風には考えてなかった。シアは時々すごい想像をする。
﹁そんなに遠かったら、気持ちなんて伝わってこないね﹂
運命の人とは心が繋がっている。だから、例え海星の裏側にいた
って気持ちを共有することができるんだ。だけど、ぼくは何も感じ
ない。
﹁そりゃわからないぜ。﹃変化﹄したばかりだし、糸の存在もまだ
薄いし、時間がたてば伝わってくるかもしれない﹂
そういえば、糸の色が薄い。
﹁そうだね。今は待ってみるよ﹂
ぼくはシアの手に触れた。励ます言葉とは裏腹に、とても心配し
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てくれてることがわかる。
運命の人じゃなくても、こうして触れることで相手の心が流れて
くる。だから、争いごとなんて全然ないんだ。すれ違うことがない
から。
夜、変な夢を見た。
シーシン
ぼくはベッドから浮き上がり、屋根を通り越えて宇宙へ飛び出し
た。
星と星の間を駆けて、やがて蒼い星へ降りたった。
そこは灰色の建物が建ち並び、海は汚れ、空気が埃っぽい、海星
とは全く環境の違う場所だった。
たくさんある建物の一つの窓に、引き寄せられるように近付いた。
窓から部屋を覗くと、ベッドの上に女の子が眠っていた。
珍しい黒髪を肩まで伸ばし、白い素肌が服の隙間から見えた。閉
じた瞼に生える長い睫毛が、少し濡れている。
この女の子が、運命の人なのかな。と、ボンヤリと眺めていた。
突然、女の子は布団にうずくまり苦しみだした。額に汗が吹き出
て、顔色もみるみる悪くなっていく。
女の子の痛みがぼくにも伝わってきて、苦しくて宙に浮きながらも
がいだ。
もがいてる内に、風景が灰色の空、宇宙、海星と急速に巻き戻さ
れていった。
意識が戻ったとたんにベッドから飛び起き、胸を押さえて深呼吸
をする。
目からは涙が溢れ、布団を濡らした。
女の子は苦しんでいた。
きっと重い病気。
だけど、それよりも、とてもとても暗くて深い絶望を抱いていた
んだ。
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朝、体調を崩してしまったので学校をお休みするための書類をシア
に渡した。
書類と言っても、先生への手紙なんだけどね。
朝食も食べずに、ベッドに潜り込んで天井を見上げた。屋根には
めこまれた天窓は青いキャンパスに白い雲が流れていた。
あの女の子はどうしてるんだろう。また会えるかな。
期待と不安が入り混じりながら、目を閉じた。
昨日と同じ場所に女の子はいた。
ベッドから起きて、本を読んでいる。横から覗いてみたけど、何
が書いてるのがわからなかった。
今日は穏やかな風が心に流れてきた。寂しい風も混じってるけど、
暗いものは少ない。
あの、ぼくリィって言います。
一応、自己紹介をしてみたけど、女の子は本を読み続けている。
ぼくの声は聴こえないし、姿は見えない。おまけに遠い星に住ん
でいる。
こうしてる事が虚しくなってきて、海星へ帰ろうとした。
女の子がまた、お腹を押さえてうずくまった。
昨夜の痛みや苦しみ、そして絶望がぼくにも襲いかかる。
大丈夫だよ!
気が付くとぼくは必死に女の子に呼びかけていた。
ぼくが居るから、痛くなくなるまで居るから!
痛みでうずくまる背中を、必死に擦った。すり抜けてしまうけど、
それでも何かをせずにはいられなかった。
しばらくすると、女の子の呼吸は普通になり、何事もなかったか
のように手にしていた本をまた開いた。
もう大丈夫なのかな。お医者さん呼ばなくて平気かな。
背中から手を離し、本を読む女の子の横顔を見つめた。
なんて可愛いんだろう。
38
いつか、お話できるかな。
ちゃんと背中を擦ってあげられるかな。
ぼくは女の子の頬を触ろうとした。
すると、女の子がこちらを向いた。
心臓がビックリして跳び跳ねてる。
でも、違うんだ。ぼくを見ていたわけじゃなかった。後ろの窓の
外を見ていたんだ。
海星と唯一、一緒の色をした青い空を。
それからぼくは、度々、夢の中で女の子に会いにいった。
幾千の星と星の間を駆け抜け、そこで見た宇宙のお土産話を片手
に。
聴こえなくても、ぼくは話し続けた。
女の子が苦しそうにすると、背中を擦った。
不思議なことなんだけど、ぼくが話しかけたり触れたりすると、
女の子の呼吸が楽になってる気がした。
学校にいる時も、ボンヤリと﹃赤い糸﹄の先を眺めていた。
﹁全く、全然ノートをとってないじゃないか、リィ﹂
シアがぼくのノートをパラパラとめくった。
﹁うん、なんだか手につかないんだ﹂
﹁呆れた奴だ。後で見せてやんないからな﹂
そう言って、ぼくの左手の﹃赤い糸﹄をまじまじと観察しはじめ
た。
﹁なんか、前より薄くなってないか?﹂
﹁そう? 疲れてるからかな⋮⋮﹂
あの蒼い星はとても遠くて長い道のりで、そのせいか夢から醒め
た後は体が重い。
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﹁逢いたいなぁ﹂
そう言いながら段々と目が熱くなってきて、しまいにはポロポロ
と涙が溢れてきてしまった。
どんなに自転車を走らせても、女の子の前に現れることはできな
い。
どんなに叫んだって、ぼくの存在なんか気付いてもらえない。
そう思うと、哀しくて淋しくて、泣きたくなってしまったんだ。
﹁逢いたいよな、うん。﹂
シアはぼくが泣き止むまで、手を握りながら待ってくれた。
教室には誰もいなくなって、夕陽が世界を紅く染めても、待って
くれた。
﹁なあリィ、逢いに行こうよ﹂
﹁ど、どうやって?﹂
泣きすぎたぼくは、シャックリをしながら言った。
﹁明日、ムーンライド海岸でロケットの打ち上げがあるんだ。それ
に乗ろうぜ﹂
﹁ダメだよ、シア。ソルシティー社のロケットでも辿りつけないよ﹂
﹁何もしないよりマシだろ。行動することに意味がある﹂
本当にシアは、時々とんでもないアイデアが閃くんだよね。
﹁さ、今から下見に行こう﹂
シアはぼくの手を引っ張って、教室から連れ出した。
シアの運転する自転車の後ろに股がり、腰に手をやった。こうしな
いと、彼はすごいスピードを出すので落ちそうになる。
夕陽が沈みかけた海岸を、走らせた。三日月状になった入江の先端
に、大きなロケットが立っていた。エンジンが三機搭載されている、
長距離型だ。それでも、第三衛星に着くのがやっとだと本に書いて
あった。
うん、でも、この気持ちは、もしかしたら伝わるかもしれない。ぼ
くの存在に気付いてくれたら、向こうから来てくれるかもしれない。
そしたら、獅子座流星群のドロップを拾って、ブルーシトロンソー
40
ダを飲んで、この風を一緒に感じるんだ。
その日の晩、ぼくはなかなか寝つけなかった。
ようやく眠りについて、また女の子に逢いに行った。今日は何を
話そうかな。ロケットのことを話そうかな。
窓から覗くと、いつもより人がたくさんいた。苦しそうに寝てい
る女の子の周りを、何人か大人の人が立っていた。
女の子はいつもより、ずっと辛そうに呼吸が荒い。
大丈夫だよ!
ぼくは叫びながら、女の子のお腹を擦った。
がんばって!ずっと、擦っててあげるから!
でも、全然苦しさは無くならず、顔色は悪くなるばかり。絶望と
淋しさの感情がぼくの中に入ってくる。痛い、痛くて痛くてたまら
ない。それでも、ぼくは叫び続けた。
ねぇ、もうすぐ逢えるんだよ!
﹃運命の人﹄なんだ!
逢わなくちゃいけないんだ!
だって、ぼくと君は赤い糸で結ばれてるのだから!!
苦しそうに目を閉じていた女の子が、ゆっくりとぼくの方を見た。
絶望と淋しさで入り混じっていた心の中に、優しい風が流れてくる。
そして、ニコリと、笑った。
目を醒ますと、天窓から第一衛星の光が射しこんできた。
上半身だけ起き上がり、涙と鼻水でグチャグチャになった顔を服
の左袖で拭いた。そのまま、手を光へかざす。
天まで伸びていた糸は、小指からなくなっていた。
41
人生も半を過ぎ、仕事に追われる日々を過ごしている。
シアはずっと前に﹃変化﹄して、新しい家で新しい家族と生活し
ている。
ぼくは、ぼくの小指には﹃赤い糸﹄は現れない。検査官に、何度
も会場に来るように言われたが、あれから一度も足を運んでいない。
糸は消えたわけじゃない、今は見えないだけなんだ。
ぼくは砂浜に座って、海を眺めた。
糸は切れるはずがない。﹃運命の人﹄とは、必ず結ばれる。なぜ
なら、星が決めたことだから。
例えぼくが死んで、この海の中に溶けたとしても、海の水が蒸発
し細胞は宙へ散乱して、やがて宇宙へ飛び出す。幾千の星と星の間
を駆け、君に逢いにいくんだ。
側に落ちていた桜貝を拾った。夕陽の光が薄い貝を透き通って煌
めいた。
赤い煌めきの中に、うっすらと何かが見えた。
小指に現れたそれは、遥か水平線の彼方へと続いている。
頬を涙で濡らしながら、ぼくは大きく手を振った。
たくさんの気持ちを込めて。
42
おわり
43
青空の向こうから
∼ピコのおはなし∼
﹁オンちゃん、オンちゃん﹂
僕は、いつものように膨らんだ雲の陰に隠れていたオンちゃんの
傍へ駆け寄った。
﹁キリがね、地上へ降りたんだって﹂
僕が言うと、オンちゃんは少し困った顔をして﹁そう、良かった
ね﹂と呟いた。
オンちゃんが困った顔をするのは、キリのことを妬んでいるから
じゃない。どの子よりも地上に関心がないから、こういう時なんて
言ったらわかんなくて困るんだ。
﹁ねぇ、キリが降りたとこ見に行こうよ﹂
﹁私は、いい﹂
﹁いいからいいから﹂
ちょっと強引に左腕を引っ張って、雲穴の近くまで連れていく。
膝をついて、上半身を乗り出し穴を覗くと、蒼い海と緑や灰色の
大地が見えた。僕は、灰色の大地を指差して
﹁ほら、あの辺に降りたんだって。高い建物がいっぱいあるよ。騒
がしくて、何だか楽しそうな所だね﹂
と言ったら、オンちゃんは虚ろな視線を向け﹁そうだね﹂と呟いた。
﹁この辺りは、光もいっぱいあるよ﹂
灰色の大地の上に、虹色に輝く光が星みたいに散らばっている。
﹁ねぇ、あの光はどうかな。すごく良さそうだよ﹂
オンちゃんは首を横に降る。
﹁ダメ⋮⋮、あの人、お酒と煙草してる﹂
﹁僕らが降りたらヤメるよ﹂
オンちゃんは、また、首を横に降る。
44
﹁私が降りたら、きっと、自分のせいにする﹂
オンちゃんは泣きそうな顔になって、穴から離れて雲の陰に隠れ
てしまった。そして左手で右肩を覆う。
オンちゃんには、右腕がない。
それは地上に降りても変わらない。
オンちゃんは、前に一度だけ地上に降りたことがあったんだって。
詳しくは話してくれないけれど、とても悲しいことがあったらしい。
だから、地上に降りるのが怖いんだ。
﹁ねぇ、ピコ。先に降りてもいいんだよ﹂
隣に座った僕に、オンちゃんは言った。
﹁やだ。オンちゃんが降りるまで降りない﹂
ぶぅ、と膨れる僕の顔を見て、オンちゃんは困ったように笑った。
1ヶ月ぐらいして、急にキリが雲の上に戻ってきた。
最近は、珍しい話じゃない。
﹁おっかしーなぁ。俺の目に狂いはないはずだったのになぁ。ま、
また良い光を探せばいいっか﹂
前向きポジティブなキリはそう言って、雲穴に駆け寄っていった。
何回も地上に降りてるせいなのか、慣れてるみたい。
それを見ていた別の子が
﹁灰色のところはやめたほうがいい。戻される可能性が高いよ﹂
とキリにアドバイスしていた。
僕はたまに、オンちゃんの左腕を引っ張って雲穴へ連れていく。
そうしないと、ずっと、雲の陰に隠れてボーっとしてるんだもの。
今日の雲の下は、小さな島だった。小さな島に、さらに小さな島
がいくつも連なっている。
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その島の、灰色のとこに、とっても良い光を見つけてしまった。
でも、オンちゃんは首を横に振る。
﹁ダメだよ﹂
﹁どうして?今度はお酒も煙草もしてないよ﹂
﹁灰色のとこだし、それに、私なんか行っちゃいけない﹂
﹁オンちゃん、あの光、よく見て﹂
遠くから見ると、光はひとつに見えた。だけど、目を凝らしてみ
ると、二つが重なってひとつに見えていたんだ。
﹁僕と一緒じゃ、やだ?﹂
﹁ピコ、そんな⋮⋮﹂
オンちゃんは、穴から離れてうずくまってしまった。
﹁大丈夫、あの人たちなら、きっとオンちゃんを幸せにしてくれる。
だから、一緒に行こう﹂
オンちゃんはうずくまっったままだけど、首を横に振らなかった。
僕がオンちゃんの左手を、そっと握ると、グシャグシャになった
顔を上げた。何か言いたそうだったけど、シャックリで上手く話せ
ないみたいだ。
僕は、泣き続けるオンちゃんを両腕で包み、頭を撫でた。
﹁一緒に行こう﹂
期待
不安
希望
喜び
恐怖
ちょっとの切なさ
僕らが穴を飛び降りるとき、そんな気持ちで心はいっぱいになる。
泣きながらとか、震えながらとか、はしゃぎながらとか、その子
それぞれだけど、穴から落ちた僕とオンちゃんは微笑んでいたよう
46
に思う。
地上に降り立った僕らは、しばらく狭い場所でギュウギュウ詰め
にされたあと、この世に誕生する。
そして、新しい名前を貰い、生まれた場所の言葉や秩序や知識を
覚えていくたびに、僕の記憶は上書きされ、やがて消えてしまう。
オンちゃんのことも、その可愛い右手がない姿も忘れて、ケンカ
ばっかりするかもしれない。
けれども、きっと、君は幸せになるよ。
だって、僕らが選んだお父さんとお母さんだから。
大丈夫、きっと、大丈夫。
さぁ、そろそろ出ようか。
これから、忙しくなるね。
ある日、あるところで男の子と女の子の双子の赤ん坊が生まれま
した。
だけど、女の子のほうには右腕がなく、周りの人たちはとても同
情しましたが、お父さんとお母さんはそんなことよりも、自分たち
の元へ生まれてきてくれたことに大変感謝したそうです。
ありがとう、私たちを選んでくれて、ありがとう
お父さんとお母さんはそう言いながら、赤ん坊を優しく抱き上げ
ました。
47
おわり
48
思い出香炉
﹃思い出香炉﹄
思い出には匂いがある。
僕はそう思う。
たとえば小学一年生のとき、教室で﹁アイアイ﹂を歌ってるシー
ンを思い出すと、蜂蜜と甘いバターの匂いがする。
中学二年生のとき、母が入院する病院に行って初めて妹と対面し
たシーンは桜餅の匂い。
祖父が亡くなったときは、あっさりとシトロンの匂い。
思い出と香りの関連性は無いことが多い。
ミルクだとか線香の匂いはしなくて、僕の場合は全く場違いなフ
レーバーが鼻に記憶されている。
それは、その時には嗅ぐことができない。
後になって、思い出になってから、蜂蜜やシトロンの匂いが思い
出に追加される。
僕は今、高校二年生。
それなりに色々経験し、様々な匂いが思い出に残った。
けれどもまだ、空欄の香りがある。
皆はよく、甘酸っぱいと表現する﹁初恋﹂。
僕にとって、どんな香りがするんだろう。
朝、僕は寝癖のついた頭のまま、ボンヤリとバターを厚く塗った
トーストをかじっていた。
目の前には珍しく、のんびりと新聞を広げてくつろいでいる父が
いる。
いつもは僕が起きる前に家を出てしまうのに。
49
父は、白磁のカップに注がれたブラックコーヒー無糖をすすって
いた。
じぃっと見つめる視線に気づいた父は、僕にカップを差し出した。
﹁飲んでみるか?﹂
手渡されたカップを持って、黒い液体に口をつける。
苦い。
﹁こんなに良い香りなのに、何でこんなに苦いんだろう﹂
﹁まだまだ、大人の味覚に程遠いな﹂
しかめる僕の顔を見て、父は笑った。
大人の笑みだ。
僕もこんな笑みが作れるようになるのだろうかと、口直しの牛乳
を飲みながら思った。
それはある日、突然やってきた。
空から宇宙人が落っこちてくるぐらい、突然だった。
昼休みに教室で、コッソリとMP3プレーヤーで昔ドラマの主題
歌になった﹁ABBA﹂のアルバムを聴いていた。
友人たちは皆最新のJ−POPばかりで、僕だけ時代遅れの洋楽
を聴いてるなんて恥ずかしいから、コッソリと聴く。
その日は五月晴れで気持ちがよく、ついウトウトとしてしまった
から隙ができできてしまったんだ。
うつ伏せで目を閉じる僕の右耳から、イヤホンを抜かれた。
慌てて起き上がると、その人はすでにイヤホンを装着していた。
﹁あぁっ﹂
クラスメイトの桐沢さんだ。
桐沢さんは長い髪を耳にかけて、イヤホンから流れてくるABB
Aに聴き入っていた。
﹁良い曲ね。私は好き﹂
そう言って、イヤホンを僕の耳にねじ込んだ。
柔らかく笑って、自分の席へ戻っていく。
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これで僕はやられた。
大人の笑みに。
それから僕は、意識と無意識のはざまの中で、桐沢さんの姿を追
いかけていった。
特別美人でもないが、不細工でもない。
目立ってもいないし、地味でもない。
でも、独りで居ることが多いみたいだ。
独りになってしまうのではなく、孤独が好きみたい。
それを除けばどこにでもいるような普通の女の子だけれど、僕に
とってあの笑みは、どんなアイドルより最高のものだった。
桐沢さん観察を始めて一週間、あることに気がついた。
とりわけ勉強熱心でもない彼女が、よく数学教師と一緒に居る。
ただ、数学が苦手で教えを乞いに行ってるだけかもしれないけれ
ど、その数学教師は僕らのクラスの担当ではなかった。
それに、あの教師の前では、よく笑っている。
女の子と普通に話せるし、友人もいる。
だけど、桐沢さんとだけはどうも上手く会話ができない。
いつも事務的な質問と答えで終わってしまう。
そして、イヤホンを奪われた日以来、あの笑みを見ていない。
一ヶ月ぐらいして、僕は桐沢さんを放課後、呼び止めた。
誰も居なくなった教室に戻り、学校中が静かになるまで、今月末
の修学旅行の話なんか始めてみた。
最初、いきなりの僕の会話に戸惑っていた桐沢さんだけど、しだ
いに会話の流れに乗ってきてくれた。
緊張の糸が解れてゆく。
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とても話しやすい。次々に言葉が生まれてくる。
桐沢さんは時折、あの笑みを見せてくれる。
それだけで、僕の胸はいっぱいになった。
生徒たちの喧騒がフェイドアウトしてゆく。
夕陽が、桐沢さんを橙色に染めた。
僕は修学旅行の話を止め、何度か深く息を吸って吐いた。
﹁あのさ⋮⋮﹂
僕が気持ちを吐き出す前に、彼女はゆっくりと口を動かした。
思考が停まる。
頭の先から、血の気が引く。
唇が震える。
目の瞳孔が開く。
呼吸が乱れる。
心臓が暴れる。
﹁え?﹂
僕の﹁え?﹂を、聞こえてなかったサインと勘違いした彼女は、
もう一度同じセリフを言った。
﹁私、妊娠してるの﹂
﹁え?﹂
僕は間抜けにも、同じ﹁え?﹂を繰り返してしまった。
﹁だから修学旅行には行かないの﹂
桐沢さんは、あの笑みを作っている。
僕は色々考えたが、色々考え抜いて出した言葉は﹁相手はもしか
して⋮⋮﹂ではなく﹁おめでとう﹂だった。
母が妹を身ごもったとき、父が言っていたのを思い出したから。
あ、桜餅の匂い。
﹁変な人﹂
と言って、桐原さんは小さく声をたてて笑った。
﹁そうかな﹂
﹁そうよ﹂
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﹁はは﹂と、僕も照れ隠しの笑いを作った。
それから﹁学校はどうするの﹂と、素朴な疑問を重ねた。
﹁やめる。夏休みが明けたら﹂
﹁じゃあ、産むんだ﹂
﹁それ以外に何がある?﹂
真っ直ぐに僕を見つめる瞳はとても意思が強く、曲がらない決意
と母になる覚悟で綺麗だった。
﹁桐沢さんなら、素敵なお母さんになれるよ﹂
今度は自然に出たセリフだった。
﹁ありがとう﹂
桐沢さんは大人の笑みじゃなく、褒められて嬉がる子供のように、
無邪気に笑った。
夏休みが終わり、久々に学校へ行くと、クラスメイトが一人減っ
ていた。先生は何も言わない。
それからしばらく経って、数学教師に婚約の話が持ち上がった。
風の噂だけど、桐沢さんの名前は出てこなかった。
また、くだらなくも大事な時間が過ぎ、高校二年の春が思い出に
なった頃、ふと思い出してみる。
﹁それ以外に何がある?﹂
僕が好きだった微笑みをする彼女のワンシーン。
初恋は、甘酸っぱいと言うけれど、僕の思い出にはブラックコー
ヒー無糖のような、良い香りだけれどもほろ苦い、そんなビターな
匂いをしていた。
53
おわり
54
カウント
﹃カウント﹄
﹁365﹂
朝の目覚めと共に声が聞こえた。
俺はまどろみながら首を捻って隣を見た。壁があった。安ぽいク
ロス貼りの白い壁だ。首を反対側に回しても、狭く小汚い部屋があ
るだけだった。今日は平日だから彼女はいない。少し遠い場所での
実家暮らしの彼女とは週末にしか会えない。
目をこすって携帯電話を見た。朝の七時ちょうど、ここでアラー
ムが鳴る。
まあ目覚める瞬間まで夢でも見たのだろうと思い、俺はいつもの
ように支度をして会社へ向かった。
そして何事も無く帰宅し、寝た。
﹁364﹂
朝の目覚めと共に声が聞こえた。
昨日と同じように辺りを見回してみるが誰もいない。携帯電話を
見ると七時、アラームが鳴る。
念のためベッドの下を覗いたり、バスルームを開けてみたが誰も
いない。ここは角部屋なので東は何も無い。反対側の西側の壁に耳
を当ててみたが人の気配すらない。先月、隣人が引っ越してからま
だ入居者は決まっていないようだった。だとすると上か下の住人だ
ろうか。
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それでも他に何も迷惑になるような騒音などはなかったし、目覚
まし時計の代わりにもなるので様子をみることにした。
﹁363﹂
翌日もやはり同じ時間に声が聞こえた。壁の向こう側というより、
耳元で囁かれているようで少し気味が悪いが部屋には人の気配はな
い。もしかしたら幽霊のイタズラかもしれないが、俺はそっち系に
は強いようで恐怖は感じなかった。明日はもう少し注意深く聞いて
みようと思う。
﹁362﹂
今日は休日なのでのんびりとした朝を迎えたかったが、例の声は
いつもと同じ時間に聞こえてきた。声は男のようで女のようでもあ
る。﹁さん、ろく、に﹂と言っていたみたいだ。何かの暗号のよう
だ。
昼から彼女と会う約束があるので、気合を入れて支度をして家を
出た。
彼女にこのことを話すかどうか悩んでいる。話すと怖がってうち
へ来てくれなくなるかもしれない。彼女はホラー映画だけは絶対に
観ない人だ。しばらく黙っておこう。
﹁361﹂
隣では彼女が気持ちよさそうに眠っている。深く眠っているので
声に気づかなかったのだろうか。怖いと言って逃げられても困るか
ら好都合だ。今日は上手く聞き取れなかった。
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﹁360﹂
目が覚める少し前から浅い睡眠に移っていたせいか、はっきりと
声を聞き取れた。
﹁さん、ろく、ぜろ﹂と言っていた。これは﹁360﹂のことじゃ
ないか。ゼロ、というのは数字のゼロに違いない。二日前が﹁さん、
ろく、に﹂だった。﹁362﹂だ。そして今日が﹁360﹂
﹁362﹂から2日経って﹁360﹂
数字が減っている。
上の住人か、下の住人か。何かカウントダウンでもしているのだ
ろうか。
﹁359﹂
会社の昼休み、同じ部署の後輩に話してみた。こいつは都市伝説
やら恐怖の実体験のような話を蒐集するのを趣味にしている奴だっ
たから何か知っているかと思ったが
﹁なんすかそれw﹂
と知らない様子だった。ただ、詳しく状況を説明すると﹁なんか面
白そうっすね﹂と食いついてきた。
﹁呪われてるんじゃないっすか先輩﹂
﹁見に覚えがないんだが﹂
﹁人ってどこかしらで恨みを買ってるもんですよ。でも丑の刻参り
でもそんなに回数ないし、超マイナーな呪術かもしれないっすね﹂
﹁ゼロになったらどうなると思う﹂
﹁そりゃもちろん、呪われて死ぬ﹂
後輩は苦しみもがく真似をしてがくっと項垂れた。
﹁マジか⋮⋮﹂
いつもなら﹁お前が死ねっ﹂と言いながら後輩の首を絞める流れ
だが、事実、声は聞こえるのだから冗談として聞こえなかった。そ
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んな俺の様子に後輩も慌てる。
﹁い、いやあ呪いじゃなくて、奇跡が起こるカウントダウンかもし
れないじゃないっすか。何でも悪い方向に考えるのは日本人の悪い
癖ですよ﹂
﹁じゃあゼロに近くなったら宝くじでも買ってみるか﹂
﹁当たったら海外旅行連れてってくださいよ﹂
﹁いかねーよ﹂
俺が軽口を叩いたことで後輩は安心したのか、ばくばくと弁当を
食べ始めた。俺は弁当もコーヒーも酷く不味く感じられた。
﹁324﹂
あれから何度か彼女も泊まりにきたが声に気づくことはなかった。
俺だけが聞こえているのだろうか。
近所の神社に行って﹁呪いを弾き返すお札をください﹂と言った
ら、神主が授与所の奥から出てきた。
﹁なに、呪われたのw﹂
妙に軽い感じの神主だったが、事情を話すと﹁そんな呪い聞いた
ことないけどw﹂と言いながらも札を何枚かくれた。とりあえず部
屋に貼っておく。
﹁298﹂
神社からもらった札は何の変化もなし。
﹁253﹂
ゼロの先にあるものが希望だとか奇跡だとか、そんなものは信じ
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られない。信じられるはずがない。たとえ神様の声だったとしても
奇跡を起こすためにわざわざカウントダウンなんかするものか。
俺が死ぬのか、それとも違う誰かが死ぬのか。もっと、違うこと、
世界が滅ぶ253日前なのか。
先が見えない、ただカウントされていくのみ。
﹁216﹂
彼女と別れた。耐え切れなくなって思い切ってカウントの声が聞
こえることを打ち明けた翌日から連絡がつかなくなった。
こうして少しずつ何かを失っていくのだろうか。
そう言えば大事にしていた時計もなくしてしまった。
﹁165﹂
実家から米が届いた。あまり家で自炊いしないと以前に言ったの
だが、母は聞いていないのか忘れたのか送ってくる。
一応、連絡を入れておく。
﹁︱︱あ、もしもし俺だけど⋮⋮米届いたから﹂
﹁ああ届いた? それな、もう最後の米だから﹂
最後という言葉に俺はドキリとした。
﹁その米作ってたお隣のおじいさんが歳だから辞めるんやて。だか
ら食べとき﹂
﹁⋮⋮わかった、食べる﹂
﹁正月には帰ってくるんやろ﹂
﹁⋮⋮あのさ、どっか悪いとこない?﹂
﹁え?﹂
﹁いや、だからさ、どっか身体悪くしてないんかって﹂
﹁え、ああ、うん、元気やで﹂
俺はそれから一言二言、言葉をかわして電話を切った。
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父は高校の時に家を出ていった。それからは母と今はもういない
祖父母が俺を育ててくれた。
今、俺の家族は母だけだ。もし、俺以外の誰かが死ぬとすれば母
なのだろう。
もし、あの声が神様のものだとしたら、母との残り時間を教えて
くれているのだろうか。
﹁127﹂
母を連れて旅行に出かけた。母と旅行なんて何年ぶりだろう。そ
れに俺の金で行ったのは初めてだった。
母は温泉に入った後の火照った顔で﹁嬉しい﹂と何度も言った。
もう分かったから黙って懐石食えよと言っても、﹁だって嬉しい
んや﹂と子供みたいにはしゃぐ。
俺はビールを飲みながら、こんな事しかできない自分を悔いた。
﹁84﹂
残りも少なくなってきた。それでも俺はいつも通り会社へ行く。
できるだけいつもと同じ行動をとっておかないと、爆発して発狂し
てしまうんじゃないかと思ったからだ。
後輩は﹁まだカウント聞こえるんっすか﹂と聞いてくるが、﹁夢
だったみたいだ﹂と流しておいた。
﹁ふうん、でも先輩顔色悪いっすよ。呪われた?w﹂
﹁お前が呪われろ﹂
﹁俺、呪い返しできますから﹂
それを教えろよ。
﹁47﹂
60
休日ほど辛いものはない。一人部屋にいることが耐え切れなくな
って川辺へと駆けていった。激しく身体を動かして脳みその酸素を
空っぽにしてしまいたかった。
先のことを考えるのが恐ろしい。嫌なことばかり脳裏をよぎる。
誰かが死ぬのはイヤだ。母が死ぬのがイヤだ。俺も死ぬのは怖い。
死にたくない。
何をすればいい、何をしたらいい。何をすればあの声を聞かなく
てすむんだ。
﹁14﹂
母に手紙を書いた。長い手紙になった。
手紙を渡したい人が他にイない。
﹁7﹂
会社に行ったが仕事にならない。
体調が悪いことを理由に一週間の休みをもらった。
俺はここに戻ってこれるのだろうか。
いや、考えないでおこう。
﹁6﹂
後輩からメールがあった。いつになく真剣に心配しているような
内容だった。
﹁俺のくだらない話を聞いてくれるのは先輩だけです。早く良くな
って帰ってきて下さい﹂
と最後に締めくくられていた。
﹁こいつバカだなあ﹂
俺は携帯電話を握りしめて泣いていた。
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﹁5﹂
母から何度か連絡があったが、俺は電話に出ることができなかっ
た。
﹁4﹂
今日はベッドから出なかった。
﹁3﹂
人は案外、ゼロが近づいても何も行動しないものだと気づいた。
よく﹁明日、地球が滅ぶとしたら何をする﹂というアンケートがあ
るが、美味いものを食べるわけでもなく、好きな人に会うわけでも
なく、ヤケを起こして犯罪を犯すわけでもなく、ただ恐怖にじっと
耐えて耐えて明日が来るのを怯えて布団にくるまっているだけだ。
﹁2﹂
あと2日が辛い。いっそのこと今死んでしまいたい。
﹁1﹂
病院でもらった睡眠薬を飲んで眠った。
このまま死んでもいい、もう待つのは辛い。
62
﹁0﹂
目覚めと共に声が聞こえた。ちゃんと﹁ゼロ﹂まで数えてくれる
ものなんだなと妙に関心してしまった。
俺は恐る恐る布団から出て窓を覗いた。外は眩しい限りの青い空
が広がっている。下は車が走り、歩道には出勤のサラリーマンが忙
しそうに歩いていた。
携帯電話のアラームが鳴る。朝の七時。外は何も変わっていない。
実家に連絡したが、母は元気な声で﹁あの手紙どうしたん、嬉し
かったけどびっくりしたわ﹂と笑っていた。
世界は滅ぶこともなく、母も死なず、俺も生きている。
安堵するのはまだ早いのかもしれない。今日一日、何も無いとは
限らない。
けれど俺は何もすることができない。
無事に時間が過ぎることを祈るだけだ。
夜になったが、やはり何も起こらなかった。
時計の秒針が止まって見えるぐらいの苦痛を味わっただけだ。
しかし、俺はこの一年を振り返ってどうだったろう。
時間を常に感じていた。
改めて大切な人の存在を知った。
まさか、これを気づかせるためのカウントだったのだろうか。そ
うだとしたら、どんなお節介な神様なのだろう。けれども、俺はこ
の神様に感謝をせざるを得ない。
ありがとう。
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明日から、もっと時間を無駄にせず、大切な人をもっと大事にし
ていくよ。
こんな平凡なことしか言えないけど、俺は︱︱
俺は久しぶりの安眠につくことができた。
﹁365﹂
朝の目覚めと共に声がした。
おわり
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PDF小説ネット発足にあたって
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2013年6月27日02時22分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
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