福音のヒント 聖家族 (2012/12/30 ルカ 2 章 41-52 節)

福音のヒント
聖家族 (2012/12/30 ルカ 2 章 41-52 節)
教会暦と聖書の流れ
降誕祭の後の日曜日は「聖家族」の祝日です(ただし 12 月 25 日が日曜日の年は次の日曜
日が 1 月 1 日になりますので、その場合は「神の母聖マリア」の祭日になります)。イエス、
マリア、ヨセフの家族に思いを馳せますが、この家族は伝統的に「聖家族」と言われて、
わたしたちの家族の模範と考えられてきました。3 年周期の福音朗読の箇所は毎年さまざ
まで、A 年がマタイ 2 章 13-15,9-23 節、B 年がルカ 2 章 22-40 節、今年(C 年)の箇所はル
カ福音書が伝えるイエスの少年時代のエピソードです。
福音のヒント
(1) ルカ福音書だけが伝える 12 歳の少年イエスのエピ
ソードです。「過越祭(すぎこしさい)」は春分の日の後に行なわ
れる春の祭りで、エジプト脱出という神の根本的な救いのわ
ざを記念するものでした。ユダヤ人にとって最も大切な祭り
で、この祭りのとき、多くのユダヤ人がエルサレムの神殿に
訪れました。ガリラヤのナザレに住んでいたヨセフも家族を
連れてエルサレムに巡礼していたということになります。な
お、当時の成年は 13 歳からでしたので、イエスはまだ成人
前ということになります。
43 節で「少年」と訳される言葉はギリシア語では「パイス
pais」です。この言葉はまず第一に年少者を表すので「子ど
も、少年」と訳されますが、家の中で小さい者の意味で「僕
(しもべ)」の意味にもなります。同じルカが書いた使徒言行録
の 3 章 13 節、4 章 27,30 節で「僕イエス」と訳されている
箇所には、ここと同じ「パイス」が使われています。この背
景にあるのはイザヤ書の「主の僕」(イザヤ 42 章 1 節など)
で、神から特別な使命を受けた者を指しています。イエスは「少年」であるだけでなく「主
の僕」でもある、きょうの箇所でもそのことが暗示されているのかもしれません。
(2) 両親はイエスを見失い、探して、三日後に神殿でイエスを見つけます。「三日後」
や「探す・見つける」は復活を感じさせる言葉です(ルカ 24 章 5,23,24 節参照) 。ルカはこ
の少年イエスのエピソードの中にイエスの生涯全体が表れていると見ているようです。
49 節の「自分の父の家」は直訳では「わたしの父のところ」です。
ルカ福音書の中で神殿は大切な場所のようです。福音書の冒頭で祭司ザカリアは神殿の
聖所の中で天使のお告げを受けました。エルサレムでのイエスの活動は最後まで神殿の境
内でのことでした。
「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリ
ーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイ
エスのもとに朝早くから集まって来た」(21 章 37-38 節)。12 歳のイエスが神殿で学者たち
と問答している姿は、大人になったイエスが神殿で人々に教えている姿を前もって表すも
のだと言ってもよいでしょう。ルカ福音書の最後の場面は、イエスの昇天後の弟子たちの
姿を伝えていますが、「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶え
ず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(24 章 52-53 節)と結ばれています。
ルカ福音書が書かれた時代(紀元 80 年ごろ)、すでにエルサレムの神殿は崩壊していまし
た。ルカ福音書の中での神殿とは、ある特定の地上の場所であるというより、
「父のところ」
であり、そこが本来イエスのいるべきところだということになるのでしょう。
(3) 49 節には「当たり前だ」という言葉がありますが、これはギリシア語の「デイ
dei」という言葉の訳です。
「必ず~することになっている」
「どうしても~しなければなら
ない」と訳されることもあります。典型的なのはいわゆる受難予告です。ルカ 9 章 22 節
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、
三日目に復活することになっている」。これは「単なる必然」というよりも、
「神が定めた
ことであるから、そのことは必ず実現する」あるいは「神の意思であるから、必ず人はそ
うすべきである」というニュアンスのある言葉です。
復活されたイエスの言葉、
「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだった(=
デイ)のではないか」(ルカ 24 章 26 節)から考えると、イエスが「父のところにいる」とい
うことも、死と復活をとおして本当の意味で実現することだと言えるかもしれません。
(4) マリアは「これらのことをすべて心に納めていた」(51 節)とあります。イエスの
誕生にまつわる話の中でも「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らして
いた」(ルカ 2 章 19 節)とありました。51 節の「これらのこと」には、12 歳のイエスの神
殿でのエピソードだけでなく、
「イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えて
お暮らしになった」ということも含まれるようです。
「仕える」は直訳では「服従する、従
う」です。イエスが両親の思いを超えた神の子でありながら、それでも両親に従って生活
する。マリアはそこに神の不思議な計画を感じていたと言ってもよいのでしょう。
(5) クリスマスから正月にかけて、家族と共に時を過ごすという人は多いでしょう。
逆に家族と共にいられない寂しさを感じる人もいるかもしれません。いずれにせよ、誰も
が自分の家族を意識する時だと言えそうです。そんな中で聖家族の祝日は祝われます。
「聖家族」というと温かな家庭で、何の問題もないように感じられるかもしれません。
「神と人とに愛された」(52 節)という言葉はホッとさせられる言葉です。この世界のすべ
ての子どもに何よりも必要なのは、このことではないでしょうか。子どもだけでなく、す
べての人が神と人からの愛を受け取る場、これこそが家族本来の機能だと言えるでしょう。
一方で、きょうの福音は、少年イエスが両親の考えを超えた行動をし、両親にはそれが
理解できないという話でもありました。ある意味では、どこの家庭にもある子どもの反抗
期や親子の断絶の問題に似ているかもしれません。理想的で問題のない家族などどこにも
ありません。イエスはわたしたち人類の一員となり、そんな問題を抱えた家族の一員とな
ってくださったのです。わたしたちの家庭の中にもイエスがいてくださる、そう感じるこ
とができれば、「わが家も聖家族」ということになるのではないでしょうか。