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シミュレーション
吸入麻酔シミュレーション
Understanding Inhalation Anesthesia
by Simulation
宇部興産中央病院麻酔科 部長
森本 康裕
Yasuhiro Morimoto
筆者が麻酔科医に入局した当時,諏訪邦夫先生の書かれた「吸入麻酔のファーマコキネティッ
クス」1)という本をよく読んだ.麻酔ガスモニタがなく,ハロタンやエンフルランといった導入・
覚醒の遅い旧世代の麻酔薬を使用するには吸入麻酔薬の薬物動態に関する知識は不可欠だった.
麻酔薬がより導入・覚醒の早いセボフルランに変わり,麻酔ガスモニタの普及した現在,意外に
吸入麻酔薬の薬物動態は知られていない.標的濃度調節持続静注(Target Controlled Infusion:
TCI)の普及により,薬物動態といえば静脈麻酔薬に特有のものと理解されているかもしれない.
しかし,麻酔ガスモニタ下に吸入麻酔薬を使用する際も,薬物動態を知っておくことが役に立つ
状況は多い.本稿ではシミュレーションの結果を示しながら,吸入麻酔薬,特にセボフルランを
臨床使用する上で知っておくと有用な薬物動態の知識をまとめてみたい.
くことで吸入麻酔薬の薬物動態を理解することができる.
吸入麻酔薬のシミュレーション
本稿ではバージョン3.1.9(windows版)を使用し,体
重70kg,麻酔回路は半閉鎖回路を用いてシミュレーショ
吸入麻酔薬のシミュレータとして最も有名なのはGasMan
ンしている.
(http : //www.gasmanweb.com/ )である.Windowsと
Macintoshの両環境で動作する.現在最新のバージョン
は4.0である.
薬物動態モデル
亜酸化窒素,ハロタン,エンフルラン,イソフルラン,
セボフルラン,デスフルランを選択可能で,患者の体重,
吸入麻酔薬の薬物動態モデルとしては,臓器のうち血
麻酔回路,新鮮ガス流量,肺胞換気量,心拍出量を入力
管豊富群(Vessel Rich Group : VRG)
,筋肉(MUS)
,脂
すると,経時的な各組織での濃度を計算できる.また,
肪組織
(FAT)
,血管の乏しい組織群
(Vessel Poor Grop:
付属の解説書にしたがってシミュレーションを重ねてい
.
VPG)からなるモデルがよく用いられる(図 1 )
26
(2106) Feature Articles
Understanding Inhalation Anesthesia by Simulation
VRGには,脳,心臓,肝臓などが属する.これらの器
できることは吸入麻酔薬の薬物動態の把握に有用であ
官は体重の10%程度であるが,心拍出量の75%の血流を
る.各組織群での麻酔薬濃度は肺胞濃度によって規定さ
占める.脳神経系はVRGに属し,静脈麻酔薬で使われ
れる.肺胞から血液への麻酔薬の取り込みは,心拍出量
る効果部位濃度は,VRGでの濃度に相当する.
と溶解度により規定される.肺胞から血液への溶解度は,
麻酔薬の投与時は,肺胞濃度が最も重要である.した
血液/ガス分配係数と呼ばれている.セボフルランの血
がって肺胞濃度とほぼ一致する呼気麻酔薬濃度をモニタ
液/ガス分配係数は 0.65 である.これは平衡状態におい
てセボフルランの血中濃度は肺胞濃度の 0.65倍であるこ
とを示している.血液/ガス分配係数が1.4であるイソフ
動脈
ルランと比べ,セボフルランは血液に溶解しにくい麻酔
薬であることを示している.
新鮮ガス
肺胞
ALV
血管に
富む組織
VRG
筋肉
MUS
脂肪
FAT
麻酔の導入
静脈
血液/ガス分配係数が大きくなるほど,血液に多くの麻
酔薬が取り込まれる.このため麻酔の導入期には肺胞濃
図 1 吸入麻酔薬の薬物動態モデル
度の上昇が遅れ,麻酔の導入が遅くなる.同様に心拍出
量が多いほど麻酔の導入は遅くなる.
麻酔薬吸入開始後はまず VRG に
セボフルラン濃度(%)
(A)
6L/分 3L / 分
麻酔薬が大量に取り込まれる.しか
ALV
VRG
MUS
4
3
し,VRG の組織容量は小さいため,
10 分程度で動脈血と平衡に達する.
2
図 2 A は 5 %セボフルランによる麻
1
酔導入期の肺胞(ALV),VRG,MUS
でのセボフルラン濃度をシミュレー
0
0
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
量 6 L/分(実線),心拍出量 5 L/分,
時間(min)
換気量 4 L/分とした.吸入開始後肺
(B)
イソフルラン濃度(%)
ションしたものである.新鮮ガス流
2.0
胞濃度は,吸入濃度に近づいていく
ALV
VRG
MUS
1.5
が,VRG の濃度はこれに遅れて上
昇し 10 分程度で肺胞濃度とほぼ一
1.0
致する.一方,新鮮ガス流量を 3 L/
0.5
分にすると(点線),肺胞,VRGとも
に濃度上昇は遅くなる.麻酔導入期
0
0
1
2
3
4
5
6
7
時間(min)
8
9
10
には十分なガス流量と,高濃度の吸
入麻酔薬により,急速に肺胞濃度を
上昇させる必要がある.また,麻酔
図 2 麻酔導入期のシミュレーション
(A)5 %セボフルランによる麻酔導入期シミュレーション
(B)3%イソフルランによる麻酔導入期シミュレーション
肺胞,血管豊富群,筋肉組織の濃度を示す.
ALV:肺胞,VRG:血管豊富群,MUS:筋肉組織
ガスモニタで得られる呼気麻酔ガス
濃度は,脳内の濃度(VRG)と乖離
がみられることに注意が必要である.
図 2 B は 3 %イソフルランで導入
Anesthesia 21 Century Vol.11 No.2-34 2009 (2107) 27
した時のシミュレーションである.
5
肺胞濃度の上昇はセボフルランより
CKT
ALV
VRG
MUS
FAT
セボフルラン濃度(%)
4
も遅く,10分後でも吸入濃度の50%
に留まる.同様に VRGの濃度上昇
も緩徐であり,1 MACまで上昇する
のにセボフルランでは4分かかるの
3
に対して,7 分程度必要である.通
常の麻酔導入時には静脈麻酔薬で入
2
眠後吸入麻酔薬の吸入を開始する
が,イソフルランでは静脈麻酔薬の
効果消失時に,イソフルランの効果
1
が十分でない可能性があり,気管挿
管時には注意が必要である.
0
0
30
60
90
120 150 180 210 240 270 300 330 360
時間(min)
麻酔の維持
図 3 麻酔維持期のシミュレーション 麻酔回路内(CKT)
,肺胞(ALV)
,血管豊富群(VRG)
,筋肉組織(MUS)
,脂肪組織
(FAT)の濃度を示す.新鮮ガス流量は導入時 6 L / 分,10 分後からは 3 L / 分とし,
肺胞内セボフルラン濃度が 1.5%を目標に吸入セボフルラン濃度を調節した.
麻酔導入期にVRGに取り込まれた
後は筋肉(MUS)への取り込みが主
となる(図 3 ).筋肉は体重の50%を
占めるが心拍出量の20%の血流しか
1.6
4 L / 分(ALV)
4 L / 分(VRG)
4 L / 分(MUS)
1.4
0.5 L / 分(VRG)
8 L / 分(VRG)
4 L / 分 → 0.5 L / 分(VRG)
間が必要であり,動脈血と平衡に達
するには数時間を必要とする.この
1.2
セボフルラン濃度(%)
受けていない.このように血流に比し
て容量の大きな組織を満たすには時
筋肉への麻酔薬の取り込み量の較差
1
により,麻酔時間による覚醒速度の
較差を説明できる.その後は脂肪組
0.8
織への取り込みが主体となる.
脂肪組織は体重の20%を占め,心
0.6
拍出量の 6 %の血流を受ける.した
がって,同じ重量あたりの血流量は
0.4
筋肉とほぼ同様である.しかし,セ
ボフルランの脂肪/血液分配係数は
0.2
48で,筋肉/血液分配係数の 3.1より
もはるかに高い.つまり,脂肪組織
0
0
5
10
15
20
時間(min)
図 4 麻酔覚醒期のシミュレーション 換気量が 4 L /分,0.5 L / 分,8 L / 分の場合について示す.
ALV:肺胞,VRG:血管豊富群,MUS:筋肉組織
28
(2108) Feature Articles
25
30
は筋肉よりも麻酔薬への親和性が高
く,平衡に達する時間は24時間程度
である.このことは,数時間の麻酔
では脂肪組織での麻酔薬分圧は低
く,覚醒時に脂肪組織の麻酔薬が影
Understanding Inhalation Anesthesia by Simulation
響することは少ないことを示している.よくいわれる肥
に低下する.このとき注意したいのは,導入時と同様に
満患者では脂肪組織に麻酔薬が蓄積して覚醒が遅れると
ALVと,VRG の濃度には乖離がみられることである.
いう説は,覚醒時の呼吸状態や筋弛緩薬など他の薬物の
つまり覚醒早期時には呼気セボフルラン濃度は必ずしも
影響が大きいと考えられる.
脳内濃度の指標にはならないことがわかる.
覚醒に重要なのは,十分な換気である.レミフェンタ
ニルなどオピオイドの濃度が高い間は自発呼吸が出ない
覚醒
ため,覚醒時には人工呼吸を継続して十分な換気を維持
する必要がある.換気量を0.5L/分にするとセボフルラ
麻酔からの覚醒は,麻酔導入時と逆の状態と考えると
ンからの覚醒は著明に遅れる.逆に,過換気にすると
理解が容易である.血液/ガス分配係数の小さいセボフ
( 8 L/分)軽度覚醒は早くなるが,実際にはPaCO2 の低
ルランは,イソフルランと比べて覚醒が早い.これは血
下により脳血流量が低下するため,
覚醒は早くならない.
液/ガス分配係数の高いイソフルランの方が血液中に溶
近年注目されているのは,二酸化炭素吸収剤をバイパス
解している容量が大きいからである.
したり,少量の二酸化炭素を吸入させながら,過換気と
図 4 はセボフルランを呼気濃度1.5%で 4 時間維持した
する方法である2).ただし,今回のシミュレーション結
後の,覚醒時のシミュレーションである.新鮮ガス流量
果からは,セボフルラン麻酔での,過換気による覚醒の
を維持中は 3 L/分,覚醒時は 6 L/分,換気量は 4 L/分と
促進効果は限定的と考えられる.
した.ALV,VRGともに急速に濃度が低下する.VRG
覚醒時にはMUSの濃度の低下は遅れ,患者覚醒時に
の濃度が 0.5%で覚醒するとすると,約10 分で覚醒濃度
は筋肉組織にセボフルランが蓄積している.換気が維
血管豊富群(VRG)
セボフルラン濃度(%)
持されていれば問題ないが,換気が
制限されると血液中に還流するセボ
1.6
1.4
1.2
1.0
0.8
0.6
0.4
0.2
0
フルランにより,VRGの濃度は上昇
1 時間
2 時間
4 時間
6 時間
する可能性がある.セボフルランか
ら覚醒し,15分時点で抜管したもの
の呼吸抑制がみられたとき(換気量
4 L/分→0.5L/分)のシミュレーショ
ン(図 4 )では,VRGの濃度は0.5%
0
5
10
15
20
25
30
中止後時間(min)
呼吸抑制やその他の要因で換気が制
限されると,患者は再度入眠してし
1.2
血管豊富群(VRG)
イソフルラン濃度(%)
まで再上昇しており,オピオイドの
まうことに注意が必要である.
1 時間
2 時間
4 時間
6 時間
1.0
0.8
0.6
麻酔時間によって組織での麻酔薬
分圧が異なる.維持でも述べたよう
に VRG の麻酔薬分圧は肺胞麻酔薬
0.4
分圧と平衡に達しているが,MUSの
0.2
分圧は麻酔時間によって異なる.し
たがって,麻酔からの覚醒はある程
0
0
5
10
15
20
25
30
中止後時間(min)
度は麻酔時間に依存している.
図 5 は,呼気セボフルラン濃度
を1.5%で 1 時間から 6 時間維持した
図 5 麻酔覚醒と麻酔時間 セボフルラン(黄色)
,イソフルラン(紫色)において,麻酔時間 1 , 2 , 4 , 6 時間の
場合の覚醒時の血管豊富群(VRG)の濃度を示す.
後に覚醒される時のVRGのセボフル
ラン濃度をシミュレーションで示し
Anesthesia 21 Century Vol.11 No.2-34 2009 (2109) 29
た.VRG 濃度が より下に入ると覚醒する.セボフル
で差がなく,麻酔時間が長くなっても延長しなかった.
ランの場合,麻酔時間による影響は少なく麻酔時間によ
一方,80% decrement timeはイソフルラン,エンフルラ
らず約10 分で覚醒する.ただし,吸入中止30 分後の濃
ンではデスフルラン,セボフルランと比べて長く,麻酔
度は, 1 時間の麻酔では0.1%であるが 6 時間では 0.3%で
時間により延長した.デスフルランとセボフルランに差
あり病棟帰室時の覚醒状態はやはり麻酔時間が短い方が
異はなかった.90% decrement time は90分以上では,セ
良好である.これは日々の臨床での感覚と同様と思われ
ボフルランがデスフルランに比べて長かった.この結果
る.一方,イソフルランでは短時間の麻酔ではセボフル
からMAC-awake の 2 倍程度の濃度で維持すれば麻酔覚
ランと大差ないが長時間になると明らかに VRG の濃度
醒に必要な時間は麻酔薬による差異はないが,それ以上
低下が遅くなる.セボフルランと同様に維持濃度の 3 分
の濃度で維持すれば,デスフルランやセボフルランの覚
の 1 の0.33%で覚醒するとすると,1時間の麻酔では10
醒は他の麻酔薬と比べて早いことを示している.
分で覚醒するが,6 時間では20分必要でありその後の濃
度低下も緩徐である.
そこで維持濃度の麻酔覚醒への影響について検討して
みる.セボフルランの維持濃度を 2 %,1.5%,1.0%,0.75%
Bailey 3)は静脈麻酔薬で用いられるdecrement timeや
として各濃度で 4 時間維持した後の覚醒時のVRG の濃度
context-sensitive half-timeの概念を吸入麻酔薬にも適応
変化を示す(図 6 ).VRG の濃度が 0.5%以下になるまで
してシミュレーション結果を示している.VRG での濃
の時間は,それぞれ15分,10分,7分,5 分であった.現
度が維持濃度の50%に低下する時間(context-sensitive
在使用されているセボフルラン濃度は1.0∼1.5%であり4),
half-time=50% decrement time)はデスフルラン,セボ
10 分程度で覚醒することがわかる.0.75%はより覚醒が
フルラン,イソフルラン,エンフルランの 4 種の麻酔薬
早いがその較差は 2 分程度であり,術中覚醒のリスクが
増す 4)ことを考えると高齢者以外で
はメリットはなさそうである.一方,
2 %で維持すると覚醒は遅くなる.
2.5
また 2 %で維持した場合の30分後の
2 %セボフルラン
1.5%セボフルラン
1 %セボフルラン
0.75%セボフルラン
血管豊富群(VRG)
セボフルラン濃度(%)
2.0
セボフルラン濃度が 0.3%であるの
に対し,1 %で維持すると0.15%と 2
分の 1 となる.レミフェンタニルを
併用して低濃度セボフルランで維持
すると病棟帰室時の覚醒状態が良好
1.5
であることが理解できる.
1.0
0.5
0
0
5
10
15
20
中止後時間(min)
25
30
図 6 セボフルランからの覚醒と維持濃度 セボフルランを 0.75%,1 %,1.5%,2 %で 4 時間維持した後,覚醒時の血管豊富
群(VRG)の濃度を示す.
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おわりに
要約
吸入麻酔薬の薬物動態についてシミュレーションを用
吸入麻酔薬,特にセボフルランに関する薬物動態の知
いて示した.静脈麻酔薬ではリアルタイムのシミュレー
識をシミュレーションの結果によりまとめた.麻酔導入
ションや,シミュレーションを薬物投与に応用したTCI
期には十分なガス流量と,高濃度の吸入麻酔薬により,
が行われているが,吸入麻酔薬では麻酔薬濃度がモニタ
急速に肺胞濃度を上昇させることが必要である.麻酔導
できることもあり,シミュレーションはオフラインで薬
入期にはセボフルランは血管豊富群に取り込まれるが,
物動態を理解するのに用いられているのが現状である.
初期の10分以降は筋肉組織への取り込みが主となる.こ
一見安定している麻酔の維持中も刻々と体内での薬物の
の筋肉への麻酔薬の取り込みの較差により,麻酔時間に
分布が変化し,それが覚醒に影響を与えている.薬物動
よる覚醒速度の較差を説明することができる.覚醒に重
態の知識を深めることで日々の麻酔の質がより向上する
要なのは,十分な換気である.併用しているオピオイド
のは明らかである.本稿では紙面の都合で割愛した点も
の濃度が高い間は自発呼吸ができないため,覚醒時には
多い.シミュレーションを活用して,吸入麻酔薬を自在
人工呼吸を継続して十分な換気を維持する必要がある.
に操れる麻酔科医を目指していただきたい.
薬物動態を知ることでセボフルラン麻酔の質がさらに向
上することが期待される.
■ 参考文献
1)諏訪邦夫:「吸入麻酔のファーマコキネティックス」. 東京, 克
誠堂, 1986
2)Sakata DJ, Gopalakrishman NA, Orr JA, et al.:Rapid recovery from sevoflurane and desflurane with hypercapnia and
3)Bailey JM:Context-sensitive half-times and other decrement
times of inhaled anesthetics. Anesth Analg 85:681-686, 1997
4)森本康裕, 野上裕子:本邦におけるレミフェンタニルの使用状
況(第 2 報)
. 臨床麻酔 32:1983 - 1988, 2008
hyperventilation. Anesth Analg 105:79 - 82, 2007
Anesthesia 21 Century Vol.11 No.2-34 2009 (2111) 31