視点使いの転生勇者 - タテ書き小説ネット

視点使いの転生勇者
きあ
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︻小説タイトル︼
視点使いの転生勇者
︻Nコード︼
N3838BX
︻作者名︼
きあ
︻あらすじ︼
高校一年生の藍原ユウトは帰宅する途中、包丁を握りしめた男か
ら幼い女の子を助けて命を落とした。しかし女神の計らいを受け、
彼は﹃容姿を想像した相手の視点で物事を認識出来る﹄という超能
力﹃サイド﹄と共に勇者として異世界へと送り出される事になる。
自らが死んでしまったという認めきれない事実を抱えながら、ユウ
トは彼と同行するように指示を受けた天使のアリテシカ、通称﹃ア
リーテ﹄と共に、﹃世界を少しでも良い方向に導く﹄という何とも
目的が曖昧な旅に出て⋮⋮。﹃修行中の見習い天使・見かけ倒しの
1
女騎士・力を奪われた悪魔の美女﹄と、戦いなんかロクにした事も
ない転生勇者﹃ユート﹄の物語。第1回オーバーラップ文庫WEB
小説大賞に応募した、異世界転生ファンタジー作品です。2014
年2月2日に完結しました。
2
プロローグ
﹁助けて!﹂
高校から家に帰る途中。その微かに聞こえてきた悲鳴に気がつい
たのは偶然だったかもしれないし、或いは神が俺に下した必然だっ
たのかもしれない。
クリスマス・イヴには似つかわしくない曇った空が印象的な、身
に染みる冷たい風が吹き荒ぶ日だった。
︱︱なんだ?
心の中で戸惑いつつ、俺は声のした方向へと足を向ける。いつも
急ぐ事など滅多にないのに、いつの間にか息を切らして走っていた。
距離が縮んでいくにつれ、叫び声はより鮮明に耳へと入ってくる。
その所為で、俺は助けを求めている人物が幼い女の子だという事を
直感した。足を懸命に動かしながら、周囲の大人に助けを求めよう
と考える。しかし、この近辺はまだ人の開発が行き届いていない、
自然が豊富な山道だ。民家なんて全くないし、車の通行だってそん
なに多くない。俺の通っている高校でも、この抜け道を使っている
のは俺くらいのものだろう。それでもせめて人が通りがかれば望み
はあったが、タイミングの悪い事に、俺は誰とも出会わなかった。
大声を出そうとしたが、既に痛いくらい心臓が脈打っていて、そん
な余裕すらなかった。少しでも早く相手のところに到着しなければ。
そんな一心だった。鞄と補助バッグは既に道端へと放り投げていた。
3
︱︱よし、後少しだ⋮⋮あっ!
俺の走っている山道の前方から二人の人物がやってくるのが見え
た。一人は赤い服を着た、ショートカットの小さな女の子。恐らく
は助けを求めていた少女だろう。その証拠に、普段なら愛くるしい
だろうその顔は恐怖に歪んでいて、そのパッチリした両目からは大
粒の涙が溢れ、白い頬を伝っている。
もう一人の人物は、そんなか弱い女の子の怯えきった様子が心底
嬉しくて堪らないとでもいうように、悪魔の笑みを浮かべながら彼
女を追いかけていた。背の低いずんぐりとした体格の男で、顔には
無精髭が生えている。その毛むくじゃらの右腕には怪しく光る包丁
が握りしめられていた。
︱︱殺す気だ。
正直な気持ち、人の命を容易に奪う事の出来る凶器を目の当たり
にし、俺が先ほどまで抱いていた決意は大きく揺らがされた。はっ
きり言えば、怖くなったのだ。女の子を助けようとすれば、自らの
命を危険へと曝す事になってします。そんな真似をするくらいなら、
この状況は見て見ぬ振りをーーせめて最寄りの民家や警察へ助けを
求めはして、自分の安全だけはしっかり守った上で少女に出来るだ
けの事をした方が百倍利口だ。
それが最善なやり方じゃないのかと、俺の中で俺が甘い提案を持
ち掛けてくる。
けれど。
﹁助けて!﹂
4
前から走ってくる俺の存在に気がついた少女は、必死に懇願の叫
びを向けてくる。
︱︱ッ!
その潤んだ瞳が、俺の迷いを一気に払った。
﹁うおおおおお!﹂
無我夢中で拳を振り上げながら、俺は男へ突進する。相手は喧嘩
慣れしていないのか身を怯ませ、俺はその隙を狙って変質者の両手
首を掴み上げた。即座に振り向き、立ち止まって俺達の方を見つめ
ている少女を怒鳴りつける。
﹁早く遠くへ逃げろ!﹂
女の子は一瞬ビクッと体を震わせたが、俺の真意を理解したのか、
すぐに駆け出す。
︱︱これで当面は、安心だ。
少なくとも、俺がこの男の動きを封じている限りは。
﹁離せ⋮⋮離せってんだよ! この野郎!﹂
5
﹁うわっ!﹂
突如、男は金切り声を上げながら今までより激しい抵抗を始める。
必死に相手を押さえつけようとしたが、高校生としては平凡な運動
神経である俺と大人では、流石に分が悪かった。このままでは、不
味い。そう直感した、その時だ。
﹁お嬢ちゃん、大丈夫かい!?﹂
﹁アイツを捕まえろ!﹂
背後から女の子のそれとは違う声がして、頭だけで振り返る。す
ると、そこには泣きじゃくる女の子を抱きしめている青年と、俺達
に向かって走り寄ってくる中年の男達の姿があった。どうやら、彼
女の悲鳴を聞きつけたのは俺だけでは無かったらしい。心の中で、
俺はホッと一息をつく。
︱︱これでもう、大丈夫だ。
﹁お前⋮⋮お前のせいでええええ!﹂
だが、その僅かな油断が、結果的に命取りとなってしまった。自
らが捕まってしまう事を悟ったのか、変質者の男は俺の拘束を振り
解くと、手に握りしめているナイフを勢いよく俺の腹へと突き刺し
たのだ。
﹁⋮⋮ぐはっ!﹂
瞬間、内蔵をグチャグチャにかき回されるような苦痛と共に、俺
の視界は大きく揺らいでいった。そのまま俺は力無く地面に叩きつ
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けられる。焦点が合わなくなったものの、俺の体に赤い液体が飛び
散っている事は容易に分かった。何か複数の影が一つの影を押さえ
つけている。多分、先ほどの大人達が女の子を襲っていた男を捕ま
えたのだろう。複数人なら、きっと大丈夫な筈だ。安心感が心に広
がると共に、深い虚無感も押し寄せてくる。
︱︱俺、死ぬのかな。
とうとう、痛みすら感じなくなってしまった。死期を悟ると同時
に、今まで過ごしてきた人生の思い出が走馬燈のように浮かび上が
ってくる。父さん、母さん、既に亡くなっているお婆ちゃんにお爺
ちゃん、沢山の友人達。子である自分が先に逝く事を考えると、両
親に対する罪悪の念が湧いてきた。昨日の夜、些細な事で大喧嘩し
た事が、今になって悔やまれる。今朝は結局、一言も口を利かなか
ったっけ。
︱︱何だか、眠くなってきたな。
誰かが俺の体を揺さぶってくる。誰かが何やら言葉を掛けてくる。
しかし反応は出来ないし、聞き取れもしなかった。次第に睡魔は強
まっていき、俺は自然と目を閉じ、そして深い眠りの中へと落ちて
いく。
こうして俺、藍原ユウトの十六年間に及ぶ生涯は幕を閉じた︱︱
︱︱筈だった。
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1
初めに感じたのは、体中を包むような温もりだった。
﹁⋮⋮ん﹂
意識を取り戻した俺はぼんやりと目を開き、そして驚愕した。
﹁どこだよ、ここ﹂
動揺しつつも、辺りを見渡す。俺の周囲は摩訶不思議な空間とな
っていて、右も左も目映い白光で埋め尽くされている。ふと足下を
見やると、そこにも地面などというものは存在しておらず、光があ
るのみ。俺はようやく、自分の身体が宙に浮いているのだと気づい
た。
︱︱俺、確か死んだんじゃ。
﹁お目覚めのようですね﹂
こめかみに手をやり、非現実的な状況を受け混乱中の記憶を整理
していると、急に女性の声が耳に入ってくる。まるで、頭に直接語
りかけてくるような、不思議な感じがした。その時、ある事に思い
当たり、俺はこの不思議な現象の正体を察する。途端、安堵の笑い
が自然と洩れてきた。
﹁ああ、これはきっと夢なんだな﹂
そう。恐らく現実の自分は重傷ながらも一命を取り留めていて、
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今は気を失っているのだ。だから、俺はこうやって奇妙な夢を見て
いるのだろう。
﹁違いますよ﹂
冷徹なまでに感情のこもっていない女性の声が、再び聞こえてき
た。
﹁現実世界の貴方は、既に死んでいます﹂
﹁⋮⋮な﹂
残酷な言葉を突きつけられて、俺は絶句する。いや、これもただ
の悪夢に過ぎないのかもしれない。本物の身体が耐え難い苦痛を味
わっているから、その影響で。
﹁信じられないのも無理はないでしょう。しかし、これがただの夢
だと本気で思えますか?﹂
﹁そ、それは⋮⋮﹂
心の中を見透かされるような言葉を投げかけられ、俺は動揺する。
夢だと思うには、あまりに現実感がありすぎるのだ。
︱︱それじゃあ、本当に。
ついこの前まで続いていた筈の日常は、永遠に戻ってこない。
﹁じゃあ、お前は誰なんだよ﹂
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心の乱れをかき消すように、俺は姿の見えない声の主に叫ぶ。
﹁私は神です﹂
あっさり彼女は答えた。
﹁尤も、貴方の住む世界とはまた別の世界を担当している者ですが﹂
﹁神⋮⋮?﹂
あまりに突拍子な回答に、俺は戸惑う。だが、困惑以上に強い、
一つの疑念が首をもたげ、それは俺の口から自ずと飛び出していっ
た。
﹁じゃあ、何でその別の世界の神様とやらが、他の世界で死んだ俺
と話したりなんかしてるんだよ﹂
﹁貴方に頼みがあるからです﹂
﹁頼み?﹂
﹁はい。私の作り上げた世界は今、心の腐敗や魔物の増殖によって
危機に瀕しています。そこで、貴方には勇者となり、私の世界をよ
り良い方向へと導いてほしいのです﹂
﹁何でだよ! 俺には関係ねえよ!﹂
話を聞き終えた俺は、怒りから叫んでいた。
﹁勇者だか何だか知らねえけどよ! アンタの世界の人間に頼めば
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いいじゃねえか! どうして俺を巻き込むんだよ!﹂
ただでさえ、様々な思いが大きな渦となって心の中を強く揺さぶ
っているというのに。他の世界の心配なんて出来る余裕なぞ、持て
る筈もなかった。
一時の沈黙の後、女神が淡々とした口調で言った。
﹁そうですね、その返答は予想していました﹂
ですが、と彼女は若干語気を強めつつ、
﹁様々な面から考えて、これが最善の方法なのです。貴方を勇者と
して選んだ理由は、貴方の魂が消失しても、元の世界に殆ど悪影響
を及ぼさないからです。偶然、そういった状況にあった魂達の中で、
私の求める役割を遂行出来そうな存在が貴方だけだった、というわ
けです﹂
︱︱貴方の魂が消失しても、元の世界に殆ど悪影響を及ぼさないか
ら。
この文章が暗に示している意味を察し、俺の拳は自然と強く握り
しめられていた。
﹁ですが、勿論タダで、というわけではありません﹂
俺の腸が煮えくり返っている事を知ってか知らずか、女神は平然
とした調子で言葉を続ける。
﹁先ほど伝えた通り、私の世界には貴方が元々住んでいた世界とは
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異なり、人の命を脅かす強力な魔物が存在しています。戦いに不慣
れな貴方だけでは、あまりに危険すぎる旅路となるでしょうし、証
拠も無ければ人々も貴方の事を勇者とは認めないでしょう。そこで、
私の下で修行中の天使を一名、貴方に遣わします。また、勇者とし
て悪しき者と渡り合える強大な力を一つ貴方に授けましょう﹂
途端、光の靄が出現し、俺の周囲に漂い始めた。体内に異物が入
り込んでくるような感覚に襲われ動揺するも、俺は女神に質問する。
﹁おい、その強大な力って何だよ﹂
﹁それは世界に降り立ってから、貴方につけた天使から説明を受け
て下さい。それでは、貴方の幸運を祈っていますよ﹂
女神の声が聞こえてくると同時に、俺の身体は先ほどのそれより
も強い輝きを持った光に包まれていく。
﹁ちょっと待て! 俺はまだ引き受けると言ったわけじゃ⋮⋮うわ
っ!﹂
だが、叫んでいた途中、俺は目には見えない力に引っ張られ、猛
スピードでどこかへと連れ去られていく。先ほどまで俺がいた光の
空間は跡形もなく消え去り、何とも形容し難い奇妙な光景が高速で
過ぎ去っていく。
やがて、身体を襲う強力な加速に耐えきれず、俺は気を失った。
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2
﹁あのー、藍原ユウトさーん。起きて下さーい﹂
誰かが自分を呼ぶ声が聞こえてきて、俺はゆっくりと重い瞼を開
いた。
﹁うわっ⋮⋮﹂
瞬間、寝起きの視界に明るい光が差し込み、とっさに顔を左手で
庇う。徐々に目が慣れていくにつれ、この眩しさの原因が、青空高
く昇っている太陽なのだと分かった。
そして、今の自分がどんな場所にいるのかも。呼び掛けてきた者
の正体も。
﹁あっ! やっと起きましたね!﹂
俺が目を覚ました事に気がついた相手が、嬉しそうに言った。一
方、俺の方はというと。話しかけてくる相手の非現実な姿を目の当
たりにし、驚きから目を見開く。
︱︱いや、落ち着け。取りあえず現在の状況を整理しよう。
まず、俺はあの自分勝手な女神によってこの場所へ飛ばされた。
そしてここは、緑生い茂る大草原のど真ん中。俺は柔らかい草々の
上で仰向けに倒れている。
それで、問題は。膝を折ってこちらを覗きこんでいる、このヘン
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テコリンな奴である。
俺は上半身をゆっくりと起こしながら、眉を潜めつつ訊ねた。
﹁⋮⋮それ、コスプレか?﹂
目の前の相手は何とも奇妙な姿をしていた。とはいっても、見る
からに人外の恐ろしい化け物だった、というわけではない。まず、
パッと見では普通の女性に見える。身長は俺より低いが、年齢は恐
らく同じくらいだろう。黄色い目は大きくパッチリとしていて、と
ても愛嬌のある顔立ちをしている。腰まで伸びている金髪は太陽の
日差しを受け、綺麗に輝いていた。正直、可愛いと思ったのは内緒
だ。体つきもほっそりとしていて、普通の姿で高校に通っていれば、
行動力のある男子の二、三人くらいはラブレターを送っている事だ
ろう。
その華奢な体に纏っているのは神々しい光を帯びた白い服で、そ
れ自体には何も不思議な事はないのだが、問題はその背中側だった。
その衣装は後ろ側がぱっくりと空いていて、その白く美しい素肌が
露出しているのだが、驚くべき事に、そこから二枚の白い羽が飛び
出しているのである。その大きさは相手の腰から肩までくらいだろ
うか。そして、履いているのは純白の靴。
︱︱天使。
まさに、そう形容するにふさわしいような、そんな姿だった。
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﹁コスプレじゃないですよっ﹂
半ば現実逃避の質問を、彼女はあっさりと否定した。
﹁これは本物です﹂
ほら、と彼女は羽をバサバサと動かす。なるほど、確かにその付
け根にはテープなどの類は微塵も見られなかった。
﹁じゃあ、お前は﹂
呆然として呟くように言った俺に対し、
﹁あれ? もしかして、まだ寝ぼけてるんですか?﹂
と、彼女は愛らしく首を傾げた後、人差し指を天に向けて語り始
めた。
﹁えっとですね、確認の為に一応伝えておきますけど。貴方、藍原
ユウトさんは自分の世界で女の子を助けようとして命を落としまし
た。そして私の上司、つまりこの世界の女神様により、勇者として
この地上に送られたんです﹂
﹁⋮⋮う﹂
彼女の説明を受け、非現実な体験の連続ですっかり忘れていた記
憶が鮮明に甦り、俺は苦痛から顔を歪めた。家族にも友人にも、も
う二度と会えないのだ。しかし、そんな俺の様子にも気づいていな
いらしい彼女は得意げな調子で言葉を続ける。
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﹁そして、勇者である貴方をお助けする為に遣わされた天使、それ
が私なんですよ!﹂
﹁俺を⋮⋮助ける?﹂
心の痛みを紛らわそうと、俺は立ち上がりながら彼女に問いかけ
る。彼女も俺に倣って起立すると、
﹁はい!﹂
と、元気よく返事をして、くるりと一回転をした。彼女の動作に
合わせ、ふわりと金髪が宙に舞う。その可憐な美しさに俺は思わず
見とれてしまい、心中に秘めていた悲しみが少しだけ安らいだ。再
び向かい合った彼女に、俺は親しみを抱きつつ訊ねる。少し子供っ
ぽい印象は受けるが、少なくとも悪い人間、もとい天使には見えな
かった。
﹁お前、名前は何ていうんだ?﹂
﹁アリテシカといいます﹂
彼女はハキハキとした調子で俺の質問に答え、芝居がかった動作
で自身を指し示すと、
﹁﹃聖なる光を身に纏う美少女天使・アリテシカ﹄とお呼び下さい﹂
﹁いや、自分で美少女とか言うなよ﹂
﹁むっ。何か文句でもあるんですか。こう見えても私、バリバリな
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実力派なんですよっ﹂
﹁別にそういう事は関係ないだろ⋮⋮あ﹂
と、俺は自分をこの世界へ強引に飛ばした女神の言葉を思い出す。
﹁そういえば、あの神様って﹃修行中の天使を一名﹄とか言ってた
けど﹂
ギクリとでも言うように、アリテシカの肩が震えた。
﹁ななな、何言ってるんですかっ﹂
どう考えても動揺している口振りで彼女は言った。
﹁これ以上ないくらい、私は思う存分、現役を謳歌しています﹂
﹁言葉使い、滅茶苦茶じゃねえか。やっぱり修行中なんだろ﹂
﹁修行中じゃないですよ。見習いなだけです﹂
﹁同じような意味だろ!﹂
﹁漢字が違います!﹂
﹁なんで天使が漢字知ってんだよ⋮⋮って、あれ?﹂
この時。俺は一つ、奇妙な事に気がついた。
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﹁アリテシカ、どうしてお前と俺、言葉が通じてるんだ?﹂
18
3
﹁あ、鋭いところに気がつきましたね﹂
僕の質問を聞き、アリテシカは両手をポンと叩きながら解説を始
めた。彼女の説明によれば、この世界に連れてこられる際、俺は神
様からとある魔法を掛けられたのだという。その効力のおかげで、
俺はこの世界の言語を元いた世界の言語として使用出来るようにな
っているのだそうだ。その他、重力の違いなどの問題も既に解決済
みらしい。
﹁要するに、アレですね。脳内の記憶とかをチョイチョイっと弄く
って、異世界に適応するよう改竄したというか﹂
﹁おい、サラリと怖い事言うなよ﹂
体を勝手に改造された身としては、堪ったものではない。
﹁まあ、いいじゃないですか。服も新調されてますし﹂
﹁服? おわっ!﹂
ふと自分の姿を見て、俺は驚きの声を上げた。俺が着用していた
高校の制服が、全く別の衣装に様変わりしていたのだ。まるでゲー
ムに出てくる狩人等が着用しているような、素朴で動きやすい材質
の服だ。それだけではない。何故か腰に剣の収められた鞘が装着さ
れている。
﹁い、いつの間に﹂
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﹁着心地で気がつかなかったんですかっ﹂
﹁そんな些細な事を気にする余裕なんて、今まで無かったんだよ⋮
⋮﹂
というか、お前にだけは言われたくない台詞のような気もする。
﹁とにかく、そういう訳なんです﹂
アリテシカは強引に話を終わらせて、
﹁それじゃあ良い機会なので、今から貴方に与えられた力の説明を
始めますね﹂
﹁与えられた、力?﹂
彼女の言葉に、俺はあの摩訶不思議な空間で女神と繰り広げた会
話を思い出しつつ訊ねる。
﹁それって、あの女神様が俺に授けるとか言ってたやつか?﹂
﹁はい、それです﹂
彼女はコクンと頷く。
﹁その力は私達天使の間で﹃サイド﹄と呼ばれるものなんです﹂
﹁サイド? 視点でも変えられるとか、そんなのか?﹂
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正直なところ、俺は語感のイメージから適当に言葉を発しただけ
だった。
しかし。
﹁おおっ! 凄いです!﹂
﹁え?﹂
出任せが、まさかの大当たりだったらしい。
﹁お、おい。冗談だろ?﹂
﹁いえいえ、冗談ではありません﹂
コホン、とアリテシカは咳払いをした後、厳かな口調で話し始め
た。
﹁サイドとは﹃容姿を想像した相手の視点で物事を認識出来る﹄と
いう能力なんです﹂
﹁⋮⋮イマイチよく分からないんだが﹂
﹁なら、実際に使ってみましょう!﹂
﹁使ってって、どうするんだよ﹂
﹁それは簡単ですっ﹂
彼女は自らの胸に当てて、
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﹁﹃視点を覗き見したい人に対してサイドを使う﹄と念じれば、そ
の能力は自然と発動します﹂
﹁⋮⋮何だか、随分とアバウトな発動方法だな﹂
詠唱するとか手をかざすとか、そんな予備動作がいるものだとて
っきり思っていたのだが。
﹁でも、便利でしょ﹂
﹁まぁ、そりゃな﹂
﹁じゃあ、ほらほら﹂
﹁う、分かったよ﹂
アリテシカに促され、俺は心の中で、彼女に対してサイドを使う、
と強く念じた。
SIDE︱︱アリテシカ
もう心の中を覗かれているのかな、と思うと、少しくすぐったい
気分になる。
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︱︱でも、やましい事なんて全然ないんだから、特に気にする必要
もないよね。
それに、相手はエルミテ様が選ばれた方だ。他人の、いや他天使
の心を見てどうこうしようなんて魂胆は抱いていないだろう。今は
ただ、上から与えられた役割をしっかり果たせばいい。
気持ちを落ち着けるため、フゥと小さく息を吐く。そして、目の
前に立っている彼の様子を眺めた。﹃サイド﹄を使用している所為
か、両方の瞳は灰色に輝いている。今頃、意識は私の心中に潜って
いるに違いない。体格は一般的な人間の子供といった感じで、身長
も体重も平均くらいだろう。特に運動を好んでいるわけでもなさそ
うで、体の線はどちらかというとほっそり気味だ。髪型は無難な感
じに仕上げてある。
︱︱でも、改めて見ると結構カッコいいかも。
向けられている釣り気味な目は鋭く、私を射抜いているかのよう
だ。全体的に無愛想な印象の顔立ちをしているが、何となく﹃作っ
ている﹄ような気がする。内面に関しても勇者に選出されるくらい
だからお墨付きだろう。
︱︱って、心を覗かれてるのに何を考えてるんだろう、私っ。
さっきまで考えていた事が全て相手にバレているのかと思うと、
もの凄く恥ずかしい気分になる。私の好意を知られたばかりに、今
日の夜中にでも寝床を襲われたらどうしよう。いや、でも勇者に選
ばれる人だからそういう事はしないか、というより、されてもまあ
良いかもしれない。いやいや、駄目。天使がそんな過ちを犯しては
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いけないもの。エルミテ様にバレたら、天界追放されちゃうかもし
れないし。でも、スリルがあるから燃え上がる恋愛もあるしなぁ。
人間と天使の禁断の恋物語は沢山あるけれど、その当事者になって
みるのもいいかもしれない。いやいやいや、でもやっぱりそんな事
はいけない。けど、無理矢理にベッドに押し倒されて愛を告げられ
たらどうしよう。ちゃんと断らなきゃいけないけど、それを口にす
る前に首筋へ熱いキスの雨を降らされて、そのままあれよあれよと
︱︱。
24
4
﹁⋮⋮って、いきなりどうしたんですか?﹂
急に頭を抱えてうずくまった俺に対し、アリテシカが不思議そう
に声を掛けてきた。
﹁いや、どうしたって⋮⋮﹂
俺は顔を上げて彼女の顔に目線をやり、訊ね返す。
﹁お前は何とも思わないのかよ﹂
﹁何をですか?﹂
﹁そりゃ、その﹂
説明するのも躊躇われたが、俺は目をアリテシカから逸らし、ポ
ツリポツリと言う。
﹁お前の心を俺が覗いて、それについて何も思わないのかって、そ
ういう事だよ﹂
﹁あー、そういう事ですか﹂
途端、彼女がパンと両手を叩く音が聞こえてくる。そして、
﹁うーん、そうですね。ちょっとは恥ずかしいですけど﹂
25
と、しばらく悩み続けた後、彼女は朗らかな口調でこう言ったの
だった。
﹁⋮⋮でも、エルミテ様から勇者に選ばれた方ですし、私も貴方を
信頼していますから﹂
﹁⋮⋮え﹂
驚きの呟きを洩らし、俺は自然と逸らしていた視線を戻し、アリ
テシカを見つめた。彼女は俺の眼差しに気がつくと、無邪気そうに
ニッコリと微笑む。まるで太陽のような、眩しい表情。瞬間、俺の
心臓は勢いよく跳ね上がった。と同時に、自分の頬が急激に熱を帯
びていくのを感じる。
︱︱何だよ、それ。
動揺を覚えつつも、俺は心の内で呟く。大体、アリテシカとはま
だ初対面な筈だ。それなのに、彼女は俺に対し、こんなに全幅の信
頼を寄せてくれる。先ほどの言葉が嘘じゃないのは、彼女自身の心
を﹃サイド﹄とかいう力で覗いた、俺自身がよく知っている。しか
し、何故そこまで、赤の他人である俺を信じきれるのだろう。彼女
が天使だからだろうか。
少なくとも、人と人とじゃ、こうはいかない。
それなのに。
26
︱︱あんな物言いされたら、こっちが更に恥ずかしくなっちまうじ
ゃねえか。
先程から続いている理由の分からない疲労が、更に強まったよう
に感じられた。
﹁あの、どうしました?﹂
急に黙り込んだ俺の様子を変に思ったのか、アリテシカが心配そ
うに声を掛けてくる。
﹁⋮⋮別に、何でもねえよ﹂
俺がぶっきらぼうに返答した後、彼女は安堵したように胸をなで
下ろして、
﹁それは良かったです。力の使用で消耗したせいで、このまま倒れ
ちゃうかと思いましたよっ﹂
﹁⋮⋮力の使用で、消耗?﹂
聞き逃せない言葉を耳にし、俺はオウム返しに訊ねる。
﹁はいっ﹂
アリテシカは力強く頷いて、再び解説を始めた。それによると、
﹃サイド﹄の使用は俺の体に強い負担をかけるらしい。また、誰に
でも使えるというわけではなく、ある程度自分の近くにいて、なお
かつその存在を知っている者に対してのみ使用可能なのだそうだ。
27
﹁存在を知っているって⋮⋮名前でも覚えていればいいのか?﹂
﹁いや、そういうわけじゃないんですけどっ﹂
アリテシカは可愛らしい唸り声を上げて考え込みつつ、言葉を続
ける。
﹁えっと、名前じゃなくって、どっちかっていうと外見みたいな感
じです。頭の中で、思考を読みとりたい相手の姿を思い浮かべられ
るかどうか、っていうか﹂
﹁⋮⋮もしかして、お前もよく分かってないんじゃないか?﹂
﹁あ、実はそうなんですよー。テヘッ﹂
ガクッ。
そんな擬音語と共に、舌を出しながらはぐらかし笑いを浮かべる
天使の前で、俺は盛大にずっこけた。
﹁おい! 本当に大丈夫なのかよ!﹂
﹁だ、大丈夫ですっ。多分、恐らく、きっと﹂
﹁めちゃくちゃ不安なんだが⋮⋮﹂
﹁だって、エルミテ様の説明、分かりにくかったんですもん﹂
﹁キチンと確認くらいしとけよ⋮⋮って、そのエルミテ様って、一
28
体何者なんだ?﹂
ずっと心に引っかかっていた疑問を口にすると、アリテシカはあ
っさり答えた。
﹁貴方をこの世界に勇者として召喚した女神様の事です﹂
﹁ああ、なるほど⋮⋮って、あれ?﹂
ある事に気がつき、俺は首を捻った。
﹁俺がお前の心を読んだ時、どうしてその事が分からなかったんだ
?﹂
相手の考えを知れるのだから、その知識も得られて当然だと思っ
たのだ。すると彼女は顔を曇らせて、
﹁要するに、私にサイドを使った時、エルミテ様の名前を知ったっ
て事ですよね? えーっと⋮⋮これもまた説明するのが難しいんで
すけど。簡単に言えば、﹃サイド﹄は﹃相手の心や知識を完全に読
みとる﹄んじゃなくて﹃相手の視点で見た風景や、その時に相手が
心の中で呟いた言葉などを知る事が出来る﹄能力なんです﹂
﹁⋮⋮なんだよ。その覚えるのも面倒で、やけに扱いづらそうな力
は﹂
要するに、と俺は心の中で耳にした文章を整理する。つまり、﹃
飴玉を買おう﹄という心の呟きを聞いたとして、﹃アメダマ﹄とい
う言葉の読みに対し、それが具体的にどんな物は指すのか分からな
い場合もあるというわけだ。
29
ようやく彼女の言わんとしていた事を理解した俺は、小さく溜息
をついた。
﹁⋮⋮もっとシンプルな能力じゃダメだったのか? 単純に時間限
定のパワーアップとか﹂
正直、授けてもらったこの能力を、俺はどうしても喜べずにいた。
︱︱これって、他人の心に土足で入り込むような力じゃないのか?
﹁⋮⋮まあ、ほら。タダですから﹂
俺が心中で呟いた感想を知らない彼女は相変わらずの笑顔を浮か
べ、不満を洩らした俺を宥めるように言う。
﹁でも、俺って勇者なんだろ? もうちょっと制限ゆるくて強力な
の貰っても、バチは当たらないと思うんだけど﹂
﹁強すぎる力は身を滅ぼすって言いますし﹂
﹁何だよ、そのえらく格好いい言い方は﹂
﹁とにかく、説明を続けますね﹂
それからアリテシカが話したところによれば、サイドを使用する
30
際の疲労や発動出来る距離などの問題は、この能力に慣れていくう
ちに自然と軽減されていくのだという。
つまり、今の俺ではまだ、この力を完璧には使いこなせないのだ
そうだ。
31
5
﹁⋮⋮大体、説明はこんな感じですっ。それじゃあ早速、出発しま
しょう!﹂
﹁あ、ちょっと待ってくれ﹂
言うが早いか歩きだそうとしたアリテシカに、俺は慌てて声を掛
けたっ。彼女はクルリと振り向いて、
﹁ん、何ですかっ?﹂
﹁一つ、質問があるんだが﹂
ゴホン、と一つ咳払いをして、俺は訊ねる。
﹁俺の能力に関しては何となく理解できたよ。でも、お前はどんな
事が出来るんだ?﹂
﹁えっ?﹂
途端、彼女の浮かべていた笑みがひきつったのがよく分かった。
﹁ま、まぁ。凄い事が出来ます﹂
﹁具体的には?﹂
﹁こう、ドーンというか、ズバーンというか﹂
32
全くもって抽象的である。
︱︱となると、もしかして。
修行中の天使である彼女は、ひょっとすると。俺の懐疑的な視線
に気がついたのか、アリテシカは慌てたように、
﹁な、なんですかっ。その﹃もしかして、この天使は全く役に立た
ないんじゃないか﹄とか考えてるような眼差しはっ﹂
﹁⋮⋮やっぱり、自覚あるんじゃないか﹂
俺の言葉に彼女は一瞬ドキッとしたようにたじろいだ後、何やら
ヤケになったような剣幕で、
﹁わ、分かりましたよっ! そこまで言うなら、私の力、とくと見
せて差し上げます!﹂
と声高らかに叫び、俺に背を向け両目を瞑り、何やらぶつくさと
呟き始める。
﹁うおっ!﹂
俺は驚きから、つい声を上げてしまっていた。アリテシカの足下
に、光輝く魔法陣が急に出現したからだ。
そして、次の瞬間。
33
﹁いきますよっ! ホーリー!﹂
前にも増して大声を張り上げた彼女は、開いた両手を前方にかざ
す。するとたちまち、掌からバレーボールくらいの大きさをした光
球が発射され、草原を直線上に駆け抜けていった。通り過ぎた場所
に生えていた草々が、周りのそれよりも激しく揺れる。
﹁うわっ! 本当に凄いな!﹂
﹁ふふふっ﹂
自然と感嘆の声を上げていた俺に向き直り、アリテシカは得意げ
に胸を張る。
﹁これが私の力⋮⋮聖なる光を前方に向けて撃ち出す魔法﹃ホーリ
ー﹄ですっ﹂
﹁おおっ、何だかとてもカッコいいぞ﹂
﹁えへへっ、そんなに褒められると照れちゃいますよっ﹂
﹁でも、随分と安直なネーミングだな﹂
﹁何事も分かりやすさは大切なんです﹂
﹁そういうもんなのか﹂
﹁そういうものです﹂
34
﹁で、他には何が出来るんだ?﹂
﹁⋮⋮えっ、他にですかっ?﹂
俺の問いかけに、アリテシカは硬直する。
﹁いや、さっきのやつ以外に、何か使える魔法とかないのかなって﹂
﹁も、勿論ありますよっ!﹂
彼女は先ほどのように構えて言葉を唱え出す。
﹁これが﹃ダブルホーリー﹄ですっ!﹂
掌からバレーボールより少し小さめの光球が二つ発射され、草原
を直線上に駆け抜けていった。
﹁そして、これが﹃トリプルホーリー﹄ですっ!﹂
掌からバレーボールよりかなり小さめの光球が三つ発射され、草
原を直線上に駆け抜けていった。
﹁そしてこれが﹃スーパーホーリー﹄で⋮⋮﹂
ガシッ。再び魔法を詠唱しようとした彼女の肩を俺は掴み、顔を
俺の方へと向けさせた。そして、優しく言葉を掛ける。
﹁もういい分かった。ホーリーしか出来ないんだな。いや、それで
も全く問題ないんだ。お前は十分、凄いと思うぞ。別に気にしなく
35
とも﹂
﹁そ、そんな哀れんだような目で見ないで下さいっー!﹂
あれから、程なくして。落ち着きを取り戻したアリテシカはこう
口を開いた。
﹁⋮⋮まあ、とにかく出発しましょうっ﹂
﹁出発ってどこへだ?﹂
﹁勿論、人がいそうな場所へですよ。勇者は人助けをしないと﹂
そういえば、と俺は心の中で呟く。あまり自覚はしていなかった
が、俺は元々、勇者としてこの世界に連れてこられたのだった。
﹁でもさ、勇者っていったら魔王を倒すとか⋮⋮﹂
﹁今の私達で、魔王にはかないっこないですよっ。高いハードルを
越える為には低いハードルからコツコツと練習しないと﹂
﹁あ、それもそうか﹂
しかし、人助けが低いハードルというのは、言い得て妙な気もし
た。天使と人間とでは価値観が違うのだろうか。
いや、それよりも。
36
︱︱何で天使が、ハードル跳びなんかを例に出すんだよ⋮⋮。
﹁というわけで早速、果てなき旅路へレッツゴーですっ!﹂
﹁しかし、一体どの方角に行けば人がいるんだ?﹂
﹁それは私も分かりませんが、目印はありますっ﹂
と、アリテシカは草原の一点を示す。その白くほっそりとした指
の先には川があった。
﹁水のある場所には生き物がいます。生き物がいるなら、人間も当
然いる筈です﹂
﹁なるほど、そういう事か﹂
彼女の分かりやすい説明に、俺はあっさりと納得した。
﹁じゃあ、行きましょうっ﹂
﹁おおっ﹂
俺達は川に近づき、その流れに沿って歩き始める。澄み渡るよう
に清らかな水の側では、沢山の命が育まれていた。可愛らしい鳴き
声を上げながら空を舞っている小鳥達、草の陰でピョンピョン飛び
跳ねている虫達、水中を優雅に泳ぎ回っている魚達。俺がずっと忘
37
れていた穏やかな時間が、この地では流れているように思えた。
﹁なあ、アリテシカ⋮⋮って﹂
傍らの彼女に呼び掛けようとして、俺はある事に気がついた。
﹁ん、どうしたんですかっ?﹂
﹁いや、アリテシカって何だか呼びづらい感じがしてさ⋮⋮そうだ、
﹃アリーテ﹄ってどうだ?﹂
﹁アリーテ?﹂
不思議そうに目を瞬かせた彼女に対し、俺は説明する。
﹁お前のニックネームだよ。アリテシカ、の最初の三文字を取って
アリーテ﹂
﹁ニックネームですか⋮⋮﹂
アリテシカはしばらく考え込んだ後、やがてはにかむように笑っ
た。
﹁それ、いいですねっ﹂
﹁じゃあ、決まりだな。これからよろしく、アリーテ﹂
﹁はいっ! よろしくお願いしますっ!﹂
どちらからともなく差し出された手が握りしめ合う。
38
その時だった。急に獰猛な獣の叫びが周囲に響き渡り、俺達はギ
ョッとして振り向く。
﹁おわっ!﹂
﹁く、熊ですっ!﹂
そう。アリーテが口にした通り、俺達の目の前にいたのは大柄な
熊だった。茶色い体毛をしていて、口元からは鋭く尖った牙が露わ
になっている。明らかに、敵対心剥き出しだった。
﹁こ、こういう場合は、ま、魔法で、えっと﹂
﹁ちょ、ちょっと待った。死んだ振りした方が良いんじゃ﹂
俺の提案も聞かず、焦っている様子の彼女は詠唱を行い、
﹁えーい! ホーリー!﹂
と、先ほど俺に見せた目映い光球を発射した。それは勢いよく敵
の腹にぶつかり。
何の外傷も与える事なく、周囲に光を散らせるようにして、消滅
した。
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﹁⋮⋮え?﹂
せめて、仰け反るくらいの反応を期待していた俺は唖然とする。
一方、相手は先ほどの攻撃を宣戦布告と取ったのだろう。更に恐ろ
しい形相をしていた。
﹁お、おい。どういう事だよ﹂
﹁だ、だって、だって⋮⋮﹂
俺が問いかけると、アリーテは呆然と呟いた後、やがて自暴自棄
になったように、ギュッと両目を閉じて叫んだ。
﹁聖なる力が、そこら辺の野生動物に効くわけないじゃないですか
ー!﹂
﹁やっぱり全然使えないじゃねーか! ってか、それならどうして
使ったんだよ!﹂
﹁気が動転してたんです! 若気の至りだったんです!﹂
﹁若気の至りじゃ済まな⋮⋮うわっ! こっち来た!﹂
﹁ふにゃーっ! いたーい! もう駄目ーっ!﹂
﹁おい! 一度殴られたくらいで倒れるな! 俺は戦いなんてした
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事な⋮⋮うわーっ!﹂
こうして、俺の勇者としての旅が、後先不安ながらも始まったの
だった。
41
6
﹁よ、ようやく町に着きましたね⋮⋮﹂
﹁ああ、そうだな⋮⋮﹂
時刻は陽も山の陰に半分沈みかけた夕方。俺達はとある町の入り
口に、息を切らしながら立っていた。野生の熊に襲われ、命辛々逃
げ出したものの、それからずっと災難続きで走りっぱなしだったの
である。川辺のスライムを踏んづけてしまったり、遭遇したゴブリ
ンの集団から執拗に追いかけられたり。そんなこんなで、ようやく
安全な場所に到着出来た頃には、俺達はすっかり疲弊しきっていた、
というわけだ。
﹁とにかく、どこか泊まれる場所を探しましょう﹂
荒れた呼吸を整え、アリーテが口を開く。俺は額に浮かぶ大粒の
汗を手で拭いながら、
﹁でも、どうするんだ? 俺達、お金ないだろ?﹂
﹁その辺は大丈夫ですよっ。まぁ、私に任せて下さいっ﹂
︱︱ほ、本当に大丈夫なのかよ。
不安に思いながらも、意気揚々とした足取りで歩いていく彼女の
後に続き、俺は町の中へと足を踏み入れた。高く掲げてある看板に
﹃ケーリア﹄と書かれてあるところを見ると、どうやらこれが町の
名称なのだろう。木製の家屋が立ち並んでいるところや、通りに洗
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濯物やランプの灯火などが伺えるところから考えて、ここの住人達
は一応、それなりの生活を送っているようだ。流石に機械の類など
は見かけられないが。
︱︱しかし、俺達ってかなり目立ってるんじゃ。
周りの事を全く気にせずに進んでいくアリーテの後ろ姿、特に背
中から生えている白い羽を見つめながら、俺は心中で呟く。彼女の
特異な外見のせいで、俺達が群衆から好奇の視線を一手に受けてい
るのは半ば当たり前の事だった。気まずい思いをしながら町を歩い
ていると、
﹁あの、申し訳ございません﹂
と、急に一人の女性が俺達の前に立ちはだかり、深く頭を下げた。
﹁急な御無礼をお許し下さい。その背中に生えている美しい羽⋮⋮
貴女様はもしや、天使様ではございませんか?﹂
﹁はい、その通りですっ﹂
アリーテが元気一杯に返事をすると、女性の目がハッと見開かれ、
その視線が後ろにいた俺に注がれる。
﹁それじゃあ、この方は﹂
﹁そうですっ﹂
アリーテは彼女の質問を皆まで聞く前に力強く頷き、僕を両手で
指し示しながら声高らかに叫んだ。
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﹁この方は、神に選ばれこの地に召喚された勇者様なのですよ!﹂
途端、俺達の周囲で様子を見守っていた町人達の間から、大きな
ざわめきが起こり始めた。そして、
﹁勇者様!﹂
﹁勇者様が来られたぞー!﹂
﹁キャー!﹂
﹁カッケー!﹂
たちまち、凄まじい勇者コールが俺に向けられてきた。
﹁え、いや、その﹂
正直、どんな反応をすればよいのか全く分からず困っていると、
急に人々の作り上げている輪の一角が割れる。その奥には白髪の老
人がいて、杖をつきながら俺達の方へよろよろと近づいてきた。今
にも倒れてしまいそうな、そんな危うい歩き方だ。俺の元いた世界
で考えると、七十歳は軽く越えているだろう外見だ。
﹁勇者様、天使様。突然の御無礼をお許し下さい﹂
老人は先の女性のように深く一礼をして、
﹁儂はこの町、ケーリアの長でございます﹂
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とささやかな自己紹介の後、色々と話し始めた。それによると、
ケーリアは俺やアリーテの訪問を心から祝福し、宿やら食事やらを
全て無償で提供してくれるとの事だった。
︱︱おいおい、本当かよ。
町長の話を聞きながら、俺は驚愕する。勇者や天使というだけで、
これほどの好待遇を受けられるとは。天使詐欺とか勇者詐欺とか起
こらないか、甚だ心配である。
︱︱あ、だからアリーテは自分に任せろって言ってたのか?
彼女の羽を見れば、誰もが普通の人間ではないと分かる筈だ。こ
れが俺一人だけならば、勇者であると伝えても信じてはもらえなか
ったかもしれない。
とにかく、心配していた寝床の心配もあっさり解決し、俺達は前
をいく町長の後に続き、与えられた宿へと向かう。中に入ると、
﹁初めまして、勇者様、そして天使様。お会いできて光栄です﹂
と、透明に透き通った声で、一人の女性が頭を下げてきた。俺は
思わず、その姿に見とれてしまう。垂れ目気味で紅く艶のある唇、
腰までかかるサラサラとした黒髪。清楚な白い服の上からでも分か
る、その豊かな肢体。おっとりとした顔つきの、超絶美人だった。
年齢は恐らく、二十代から三十代といったところだろう。
﹁この宿で働いているリーネと申します。どうぞ、よろしくお願い
します﹂
45
さあ、こちらへどうぞ。促してくる彼女の後に続き、俺達は宿の
階段を上る。案内されたのは二階突き当たりの部屋だった。丸い窓
が一つ、小さな机が一つに椅子が二つ、ベッドが二つ。
﹁⋮⋮ベッドが二つ?﹂
﹁あ、別々の部屋がよろしかったでしょうか?﹂
﹁いえいえ、全く問題なしです﹂
﹁お、おいっ﹂
﹁そうですか、良かったです。それでは失礼致します﹂
最後にニッコリと微笑んでお辞儀をした後、リーネは静かに部屋
を退室していった。残されたのは俺、アリーテ、そして町長。
︱︱あれ?
俺が疑問に思った事を、アリーテがそっくりそのまま代弁してく
れた。
﹁町長さん、もしかして私達に用があるんですかっ?﹂
何か言いたそうにもじもじとしていた町長が、ハッとした顔つき
になる。
﹁⋮⋮その、実は﹂
しばらく躊躇った後、彼は意を決した様子で、こう告げたのだっ
46
た。
﹁是非とも、勇者様に解決してほしい事があるのです﹂
47
7
あれから。町長は椅子に腰掛け、俺とアリーテはベッドの縁に腰
掛ける。向かい合った俺達の間に置かれている机には、リーネが運
んできた紅茶のカップが人数分置かれていて、杖も立て掛けられて
いた。町長は紅茶で少し口元を潤した後、おずおずといった調子で
口を開く。
﹁実は最近、二つの妙な事件が起こっているのです﹂
﹁二つの、妙な事件?﹂
﹁はい﹂
俺の言葉に老人は頷き、はぁと小さい溜息をつく。
﹁一体、どんな事件か、教えてもらえませんかっ﹂
人助けのチャンスが巡ってきたせいか、やる気満々らしいアリー
テは身を乗り出すようにして訊ねる。彼はすぐに答えた。
﹁一つは子供誘拐事件、もう一つはポーション盗難事件です﹂
﹁子供の誘拐に⋮⋮﹂
﹁ポーションの盗難、ですかっ?﹂
俺達は顔を見合わせ、そして町長に再び視線を向ける。すると、
老人はポツリポツリと語り始めた。彼の話によれば、ここ最近にな
48
って、先ほど申した二つの事件がほぼ同時に起き始めたのだそうだ。
まず、年端もいかない幼い男の子達が何人も行方不明となってしま
い、その数はだんだんと増え続けている。そしてもう一つ、この町
の特産品である魔力補給のポーションが、店から大量に盗まれ続け
ているのだという。
﹁あの、ちょっと質問してもいいですか?﹂
町長の説明が終わった後、俺は口を開いた。幾つか、確認してお
かなければならない事があったからだ。
﹁まず、子供の誘拐について。さっき、﹃幼い男の子が﹄と言って
ましたけど、それじゃあ女の子は﹂
﹁そこが不思議なところなのです﹂
老人は眉を潜め、考え込むように腕組みをする。
﹁全くもって不可解なのですが、女の子はみんな無事で、男の子だ
けが何故かいなくなってしまうのです﹂
確かにそれは変だと思った。子供であれば誰でもいいというなら、
男の子よりはむしろ、力の弱い女の子に優先して危害を加えようと
する筈だからだ。
俺の命を奪った男が、そうであったように。
︱︱クソッ。
元の世界の事を思い出し、膝の上に置かれていた両拳に力が入り、
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血が通って震える。あの少女は、無事に両親の元へ戻れただろうか。
今となっては、確かめる術もない。
︱︱落ち着け、今は目の前の問題に集中しよう。
頭を振り、気持ちを落ち着ける。俺の奇妙な仕草に、町長もアリ
ーテも目を瞬かせた。二人に構わず、俺は質問を続ける。
﹁それと、もう一つ。魔力補給のポーションって、一体どんな物な
んですか?﹂
﹁なんと﹂
老人は心底驚いたかのように目を見開いた。
﹁勇者様、お知りにならないんですか?﹂
﹁え、と﹂
何と答えればいいのか反応に困っていると、アリーテが助け船を
出してくれた。
﹁勇者様はまだ召喚されたばかりなので、この世界の事には疎いん
です﹂
﹁なるほど、そうでしたか﹂
あっさり納得した町長は、ゆっくりと頷いて、
﹁魔力補給のポーションとは、その言葉通り、それを飲んだ者の魔
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力を補給する薬です﹂
彼の解説を聞くに、どうやらこういう事らしい。この世界では魔
法を使ったりなどすると、魔力という一種のエネルギーを消耗する。
魔法を生業とする魔術師達にとって、こういった類の魔力回復薬は
必需品なのだそうだ。このポーションは魔石と呼ばれる魔力がこも
った石を原料に作られ、この町の近くではそれがよく採掘されるら
しい。だから、ここケーリアでは﹃魔力補給のポーション﹄を特産
品としているわけである。
﹁それが盗まれ続けているという事は⋮⋮﹂
﹁はい、住民の商売はもう上がったりなんです﹂
肩を落とす老人の顔に表れている皺が、気持ちのせいかいっそう
深くなったような気がした。
﹁子を失った親達は仕事も手につかなくなり、品物を失った店は利
益を得られず⋮⋮このままいけば、町は崩壊してしまいます﹂
お願いです、勇者様、天使様。町長は悲痛な叫びを上げて椅子か
ら立ち上がると、床の上に土下座をした。
﹁どうか、この町をお救い下さい!﹂
﹁あ、あの﹂
突然の事に狼狽しつつも、俺は顔を伏せている老人に慌てて声を
掛けた。
51
﹁その、どうか顔を上げて下さい。事情はよく分かりました。俺⋮
⋮いえ、すみません。自分に出来る事があるのなら、精一杯協力し
ます⋮⋮どれだけ役に立てるかは、分からないですけど﹂
﹁本当ですか!?﹂
再び向けられた町長の表情はとても晴れやかなものだった。俺は
半ばその場のノリで控えめに頷く。彼は次にアリーテへ視線を移し
たが、彼女もまたニッコリと微笑んだ。それを了承と受け取ったの
だろう。心から安堵したのか、町長は胸をなで下ろしながら立ち上
がり、杖を手に取る。
﹁それでは、私は一度戻り、皆にこの事を伝えにいきます。この宿
の者には、お二人にすぐ夕食を用意するよう伝えておきますから﹂
﹁本当ですか? ありがとうございます﹂
﹁いえいえ、礼を申さねばならないのはこちらの方ですよ⋮⋮と﹂
部屋のドアを開いた矢先、何かを思い出したように老人は足を止
める。
﹁そういえば、まだお二人の名前を伺っておりませんでしたな﹂
﹁私はアリーテですっ﹂
﹁自分はユウトといいます﹂
俺達は少し遅れた自己紹介をする。彼女の本名はアリテシカの筈
だが、どうやら愛称の方を名乗る方にしたらしい。そちらの方が呼
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びやすいだろうし良いだろう、と俺は心の中で頷いた。
だが。町長が発した次の言葉に俺は戸惑う。
﹁勇者ユート様、そして天使アリーテ様ですね。それでは、今晩は
ゆっくりとお休み下さい﹂
﹁え、いや﹂
ドアに手を掛け、廊下に出ようとした老人に、俺は慌てて話しか
ける。
﹁あの、自分はユートじゃなくてユウト⋮⋮﹂
﹁では、ユート様にアリーテ様。今度こそ本当に失礼致します﹂
しかし、その声に気がつく事なく、町長は静かにドアを閉め、そ
の杖をついた特徴的な足音は次第に遠ざかっていった。
53
8
﹁⋮⋮だから、俺の名前はユウトだって言ってるのに﹂
﹁別にいいじゃないですか﹂
うなだれる俺に、アリーテはあっけんからんとした調子で言った。
﹁ほら、ユウトよりはユートの方がこの世界に合った名前ですし﹂
﹁それでも、俺の本名はユウトなんだよ﹂
﹁けど、私にもニックネームつけたじゃないですか﹂
﹁う、そりゃそうだけどさ﹂
少し痛い所を突かれ、俺は言葉尻を濁らせる。一方、彼女はいつ
ものように邪気のない笑顔を浮かべピョンと立ち上がり、向かいの
ベッドの端に腰掛けている俺の隣に座ると、
﹁まあまあ、新しい人生のスタートなわけですし。心機一転って事
で﹂
明るい口調と共に、背中をポンポンと叩いてくる。だが、彼女の
全く他意がないであろう一言が、俺の心を鋭く抉った。
︱︱新しい人生のスタート。
そう、藍原ユウトはもう死んでしまった。今まで築き上げてきた、
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与えられてきた全てはもう失われているのだ。帰る事の出来る場所
も、頼る事の出来る家族も、名前によって得られる最低限の保証も、
この世界にはもはや存在していない。
急に、変なイメージが脳裏をよぎった。前も後ろも分からない、
真っ黒な空間に佇んでいる、俺独りの姿。
﹁ど、どうしたんですかっ?﹂
﹁え?﹂
慌てた声に顔を向けると、そこには心配そうに表情を曇らせてい
るアリーテの姿があった。俺と目が合うと、彼女は躊躇いがちに、
﹁今、すっごく悲しそうな目をしてたので、なんか私、悪い事を言
っちゃったのかなって﹂
﹁⋮⋮いや、アリーテのせいじゃない﹂
俺はなるべく自然にと努力しつつ、笑顔を取り繕った。正直な気
持ち、彼女の言葉が引き金になったのは紛れもない事実だ。けれど、
だからといって自分の抱いているやり場のない気持ちを彼女にぶつ
けるのは、それもどこか良くない事のように感じられたのだ。大体、
俺だってアリテシカに呼びやすいからという理由で愛称をつけたの
だし。
﹁少し、変な事を思い出しただけだからさ。気にしないでくれ﹂
﹁⋮⋮そうですか﹂
55
アリーテは未だ納得していない様子だった。恐らく、俺の強がり
を何となく察しているのだろう。けれど、彼女はすぐにいつもの眩
しい笑顔を浮かべ、自身の胸をポンポンと叩きながら得意げに口を
開く。
﹁まあ、これから幾多の試練が待ち受けているかもしれませんけど、
この﹃聖なる光を身に纏う美少女天使アリテシカ﹄がくっついてい
る限りは心配御無用ですからっ﹂
﹁何だか、凄く不安だな﹂
﹁えーっ、どうしてですかっ﹂
苦笑を洩らした俺に対し、アリーテは唇を尖らせて抗議を口にす
る。その時だ。ノックの音がしたかと思うと、
﹁失礼しますね﹂
部屋のドアが開き、リーネが室内に入ってきた。彼女の手に乗っ
たお盆の上には、湯気の立っている数々の料理が並べられている。
﹁食事をお持ちしました﹂
﹁あ、どうも﹂
スタイル抜群の美女に極上の笑顔を向けられ、照れくささを覚え
つつも小さく頭を下げる。その時になってようやく、自分が空腹感
を抱いている事に気がついた。そういえば、この世界に来てからま
だ何も口にしていない。異世界の食べ物に関して若干の不安を覚え
たものの、机の上に置かれた料理は、どれもこれも美味しそうに見
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えた。パンやステーキなど、元いた世界でも馴染み深い食べ物も散
見される。どうやら世界を越えても、食というのは案外似通ってい
るものらしい。
﹁勇者様、お名前は何と仰られるのですか?﹂
お盆を胸の前で畳んだリーネが、聞き惚れてしまうような美しい
声色で訊ねてきた。心臓が高鳴るのを感じつつも、俺は平然とした
調子を装って答える。
﹁あ、えっと⋮⋮ユートといいます﹂
﹃ユウト﹄とどちらを口にするか迷ったが、考えた末にこちらを
選ぶ事にした。アリーテの言った通り、新しい人生のスタートを迎
えるにおいて、心機一転する事にしたのだ。
﹁ユート様、ですか﹂
俺の新しい名前を独り言のように呟いた後、リーネは再びニッコ
リと笑って、
﹁素敵なお名前ですね﹂
﹁あ、あの。敬語呼びなんていいですよ。お⋮⋮自分の方が年下で
すし﹂
ふと、横から視線を感じてチラリと横見する。アリーテがまるで
﹃甘酸っぱい青春ですねっ﹄とでも言いたげなニタニタ笑みを浮か
べて俺を眺めていた。ああ、そうだよ。甘酸っぱい青春だよ。悪い
か。
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﹁あら⋮⋮それじゃあ、お言葉に甘えて﹂
と、リーネはあっさり気軽な口調で話し出した。
﹁ユートさんは幾つなの?﹂
﹁十六です﹂
﹁まあ﹂
彼女はお盆から離した左手を口元にやり、
﹁まだ、随分とお若いのね﹂
﹁いえ、そんな﹂
﹁十六で勇者として各地を回ってるんでしょう? とても凄い事よ﹂
﹁ありがとうございます﹂
甘い口調で褒められ、俺の心はまるで天に昇らんばかりだった。
隣からの視線すら、もう気にならないくらいだ。
﹁あのリーネさんは、年幾つなんですか?﹂
俺の質問を受け、彼女の瞳がいたずらっぽく笑ったような気がし
た。
﹁あら、どうして?﹂
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﹁いえ、その、何となく﹂
思わずとろけてしまうような声で、問いを返される。俺がしどろ
もどろになりながらも返答すると、
﹁あのね、ユート君﹂
リーネは小さく屈み、俺に身を乗り出しきた。お盆や服の上から
でも分かる豊かな胸が、その動作のおかげでいっそう強調されてい
く。更に、甘美な温かい吐息が、ふう、と俺の耳元に吹きかけられ
た。瞬間、頭に血が上っていき、俺は強烈な混乱状態に陥る。そし
て、
﹁女性に年を訊ねるのは、失礼な事なのよ。ウフフ﹂
と艶のある声で囁いた後、彼女は身を引いた。
﹁それじゃあ、失礼致しますね。何かあったら、お呼びになって下
さい﹂
最初に会った時と同じ清らかな口調で告げた後、リーネは部屋を
出ていったのだった。
59
9
﹁はぁー、食った食った﹂
﹁もう食べきれないですー﹂
あれから。運ばれた料理を全て平らげた俺達は、大きく膨らんだ
腹をさすりながらそれぞれのベッドに倒れこんでいた。既に空っぽ
となった皿はリーネによって片づけられている。外は既に真っ暗で、
空高くには月が雲の切れ間から顔を覗かせていた。
﹁へえ、この世界にも月があるのか﹂
何気なくはあるが、珍しい事のような気がして、俺は自然と呟く。
少しだけ開いている窓から入ってきた微風のせいか、部屋を照らし
ているランプの明かりが穏やかに揺れた。
﹁何だか、暇だな﹂
﹁それじゃあ早速、事件について調べましょうっ﹂
﹁でも、どうするんだ﹂
アリーテの提案を聞き、俺は上半身を起こして未だ仰向けに寝て
いる彼女を見た。綺麗な素肌が眩しい両足の膝から下は、ベッドの
端からぶらぶらと気だるげに動かされている。
﹁もう夜だし、聞き込みとかするにしても、この辺りを調べるにし
ても、明日になってからの方が良いんじゃないか?﹂
60
﹁いやいや、この部屋にいながらでも出来る事はありますよっ﹂
と、彼女は両足で勢いをつけ、その反動でベッドの上から立ち上
がる。そしてそのまま壁に寄って窓を閉じ、外を見やる。そして何
かを発見したようにパアッと目を開き、無言で俺を手招きした。何
をしているんだと疑問に思いつつ、俺は彼女の指示に従い、その側
へ歩いていく。アリーテは近づいてきた俺に、か細い声で言った。
﹁ほら、あそこにいる人。見るからに怪しそうです﹂
外に向けられた彼女の指先を辿っていくと、なるほど。確かに変
な奴がいた。年は二十代から三十代くらいだろうか。ボサボサ髭が
目立つ男で、着ている衣服も薄汚れている。一見して、浮浪者のよ
うだという印象を抱いた。更に、その人物は不審な動きを見せてい
た。人気のない通りを直進する事なく、何やら地面を凝視しつつふ
らふらと歩いているのだ。
﹁確かに不自然に見えるけど。じゃあ今から、話を聞きにいくか?﹂
﹁そんな事をしなくても、ユートさんには﹃サイド﹄の力があるじ
ゃないですかっ﹂
﹁あ﹂
そういえば、すっかりあの能力の事を忘れていた。彼女の言う通
り、サイドを発動させれば、わざわざ外に出なくてもあの人物の思
考を読み取る事が出来る。
だが、俺はこの力を使う事に、とある理由から躊躇いの感情を抱
61
いていた。
﹁あのさ、ずっと考えてたんだけど⋮⋮人の心って、そんな簡単に
覗き見て良いものなのか? 俺には違うように思えるんだ﹂
もし、逆の立場であったなら。例えば、友人が俺の心を勝手に盗
み見していたと知ったなら。俺はその友人に対して、たちまち激怒
してしまうだろう。誰にも見られたくない記憶、もしくは気づかせ
たくない感情等を覗かれてしまったのなら、尚更だ。
サイドを使ってアリーテの気持ちを知った時、俺は少し恥ずかし
くなった。まだ初対面だった筈なのに、彼女が俺に、到底根拠があ
るとは思えない信頼と好意を抱いている事に気づいてしまったから。
その時、自身の心の内を知られたにも関わらず、彼女が俺に憎し
みや怒りを覚えなかったのは、彼女自身が俺に指示した為だ。﹃サ
イド﹄の能力を使い、俺に自らの心中へ入り込むように、と。
じゃあ仮に、彼女がサイドの事を知らなかったとして。俺がこの
力でアリーテの心を覗き、その事を彼女に気づかれてしまったらど
うなるのか。俺が無償で受けていた好意や信頼は、決して揺るがな
いのか。
俺は、揺らいでしまうと思う。
だから、こんな力を闇雲に多用するのは駄目な気がしてならない
のだ。
﹁それじゃあ、ユートさんが勇者として召喚された意味が無くなっ
ちゃいますよっ﹂
62
﹁⋮⋮え﹂
平然と発せられた言葉に動揺し、言葉を失う。そんな俺に、アリ
ーテは両目を閉じ、右手の人差し指を天井に向け、まるで教師が講
義するような口調で話し出した。
﹁いいですかっ。ユートさんや私がこの世界にやってきたのは、こ
の地をより良い世界にする使命があるからです。だから、ユートさ
んは勇者として、常人では得難い力を与えられました。普通の人間
より少しだけ優遇される事で、世界に蔓延る災いや争乱の種を見極
めやすいように﹂
﹁俺は、普通の人間だよ﹂
﹁もう違いますよっ。こんな体験、普通の人間ならしません﹂
うっ、と言葉に詰まる。まさしく彼女の言う通りだったからだ。
﹁でも、ユートさんだけじゃないですよっ。私だって、そうです﹂
俺の心中を察している様子もなく、アリーテは無邪気な明るい声
で言う。
﹁ユートさんを邪な者達から守るため、ユートさんがより良い支援
を受けるため、そして何よりユートさんの力になるため、私はユー
トさんの所に遣わされたんですからっ﹂
まだ、修行中ですけどねっ。最後にそう呟きながら、彼女ははに
かむような笑顔を浮かべつつ、えへへ、と頬を掻く。心を和ませる、
63
とても愛らしい仕草。けれど、そんな彼女の姿も、俺の胸中に広が
っているもやもやとした霧をかき消してしまうには至らなかった。
﹁⋮⋮お前の言いたい事は、よく分かったよ﹂
未だ悩みながらも、俺は言葉を探しつつ口を開く。
﹁こうしている間にも、さらわれた子供達が危ない目に遭ってるか
もしれないもんな。けど⋮⋮﹂
その時だ。
﹁あった! 財布だ! 良かったぁ!﹂
聞こえてきた歓喜の叫びに、俺とアリーテはほぼ同時に外へ視線
を向ける。そこには土で汚れた巾着を片手に、小躍りしている先ほ
どの男の姿があった。
﹁ありゃりゃ、もしかして外れだったりします?﹂
﹁もしかしなくても、外れなんじゃないか? 確証は無いけどさ﹂
﹁けど一応、サイドで心の中を覗いていた方が良い気もしますっ﹂
﹁でも、あの喜びようが演技とは思えないし。取りあえず、保留で
いいんじゃないか?﹂
俺は自分の胸に手をやり、アリーテを真っ直ぐに見つめた。
﹁俺も少し、この力と向き合う時間が欲しいんだ。少しだけで、い
64
いからさ﹂
﹁向き合う時間、ですか?﹂
﹁ああ﹂
俺が小さく頷くと、彼女はキョトンとした後、うーんと腕組みを
して考え込んだが、やがて表情を崩し、
﹁⋮⋮まぁ、ユートさんがそう言うなら。事件の調査は、明日から
でも遅くないですもんね﹂
彼女の言葉を受け、すうと肩の荷が下りたような気がして、俺は
自然と安堵の息をついていたのだった。
65
10
あれから。結局、事件の調査は明日からになり、夜も更けてきた
ので、俺達は就寝する事にした。窓に鍵をかけて、ランプの灯火を
消す。室内は途端に薄暗くなり、俺は自分のベッドへ潜り込んだ。
﹁お休み、アリーテ﹂
﹁お休みなさい、ユートさん⋮⋮あ﹂
﹁ん、どうした?﹂
何か言いたげな彼女の様子に、俺は枕から頭を上げ、隣のベッド
を見やる。月明かりで仄かに照らされた中、アリーテは恥ずかしそ
うに俺を上目使いで見つめながら、か細い声で呟くように言った。
﹁⋮⋮あの、襲わないで下さいね﹂
﹁そんな事、するわけないだろ!﹂
近所迷惑にならないよう、俺は掠れた口調で叫んだ。そのまま勢
いよくベッドに倒れ込む。何となく天井を見つめるうちに、そうい
えばこれが異世界に来て最初の夜なのだという事に気がついた。最
初は興奮して眠れないかもしれないと思ったが、だんだんと瞼が重
くなっていく。どうやら自分の考えていた以上に、体には疲労が溜
まっていたらしい。
押し寄せてくる睡魔に抗わず、俺は深い深い眠りの底へと落ちて
いったのだった。
66
きっかけは、些細な事だった。
﹁ちょっと、ユウト。聞いてるの?﹂
三人で食卓を囲む、夕食の席。向かい側で黙々と食事を続けてい
た俺に、母は尖った口調で説教を続けていた。
﹁うっせーな。聞いてるよ﹂
ずっと聞いているうち、流石に煩わしくなって、俺は飯の入った
椀を叩きつけるように置く。母の隣で味噌汁を啜っていた父が、不
快そうに眉を潜め、会話に割り込んできた。
﹁行儀悪いぞ。感心しないな﹂
﹁鬱陶しいんだよ。食事の度にいちいち小言聞かされて﹂
﹁母さんの話を真面目に聞こうとしないお前にも問題があるんじゃ
ないのか﹂
﹁私はあんたの為を思って言ってるのよ!﹂
父の言葉に被せるようにして、母が激高する。
﹁どうして今のうちからしっかり勉強しておかないの!﹂
67
﹁クラスで十番以内には入ってるし﹂
﹁クラスの順位なんか、進学には関係ないのよ!?﹂
﹁三年になってから慌てても、もう遅いんだぞ。将来の為にはな⋮
⋮﹂
二人がかりで畳み掛けてくる両親に対し、俺もとうとう血管がぶ
ち切れた。
﹁だから、うるさいって言ってるだろうが!﹂
テーブルを思い切り殴りながら立ち上がり、俺は自室へと足音荒
く歩いていく。
﹁ちょっと! ユウト! どうして親の話をしっかり⋮⋮﹂
皆まで耳に入る前に、俺はピシャリと居間の扉を閉める。
両親との、最後の会話だった。
﹁⋮⋮夢か﹂
68
目を覚ました俺の額には、冷たい汗がいく筋も流れていた。目眩
がして、頭を右手で支えながら上半身を起こす。ふと窓の外を見る
と、時刻はまだ深夜のようだった。雲に隠されているのか、差し込
んでくる月の光は細々としていて、か弱い。隣のベッドにふと視線
を移すと、そこには幸せそうな顔で安眠を貪っている天使の姿があ
った。自身がくるまっている柔らかい布団を両手で抱きしめながら、
スヤスヤと小さな寝息を立てている。その微笑ましい光景を眺めて
いるうち、僅かだが気分が晴れた。
︱︱これから、どうするかな。
あまりに目覚めの悪い夢を見てしまったせいで、もう一眠りとい
う気分ではない。かといって起きていても、この室内じゃ暇つぶし
も出来ない。
︱︱少し、外に出てみるか。
ベッドから立ち上がり、俺はアリーテを起こさないよう静かに部
屋を後にする。廊下を進み、階段を下り、宿の扉をくぐった。たち
まち、涼やかな風が体を吹き抜けていく。夜の町は閑散としていて、
通りに人影は全く見られなかった。とはいえ、奇妙な事件を起こし
ている犯人と出くわすかもしれない。俺は周囲に気をつけながら、
静かな道を独り歩いていく。
︱︱これじゃ、まるでパトロールしてるみたいだよな。
そうこうしているうちに、町の外れに小高い丘が見えた。休憩す
るにはうってつけだと思い、俺はそこを目指して足を動かし続ける。
程なくして目的の場所に到着した俺は、一息つきながら腰を下ろし
た。この丘はちょうど町全体を一望出来る位置にある。ざっと見渡
69
してみたが、不審な人影は全く見当たらない。という事は、ひとま
ず安全だろう。安堵しつつ、何となく空を見上げる。電気の光が皆
無なせいか、漆黒のカーテンに散りばめられている満点の宝石達は
目立ちすぎるくらいに輝いていた。
﹁元の世界じゃ、こんな綺麗な夜空は見られなかったよな⋮⋮﹂
思わず感嘆の呟きを洩らす。と同時に、先ほど見た夢の記憶を思
い返し、心に深い影が差した。もう帰る事の出来ない、居場所。仲
直りする事の叶わない、両親。最近は喧嘩ばかりしていたけれど、
それでも大切な家族には変わらなかったのだ。俺の遺体を目の当た
りにした母と父の感情を思うと、俺は目頭に熱いものがこみ上げて
くるのを感じた。そして沸き起こる、耐え難い後悔。どうして最後
の時くらい、素直に親と話が出来なかったのだろう。永遠に喧嘩別
れとなってしまう事が、こんなに辛いものとは思いもしなかった。
けれど、今更どんなに嘆いても、最早どうしようもない。
今の俺は﹃藍原ユウト﹄ではなく、この世界に勇者として召喚さ
れた﹃ユート﹄なのだから。
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11
﹁⋮⋮勇者、か﹂
自身に課せられた重い使命が、口からポツリと洩れる。漫画やゲ
ームの世界で幾度となく耳にした事のある単語。だが、その役割を
果たすのに、俺は本当にふさわしい人間なのだろうか。元々はただ
の男子高校生に過ぎず、人より優れた特技も持ち合わせていない、
この自分に。
︱︱いや、違う。
一応、今の俺には常人を凌駕する得意な力が備わっている。﹃サ
イド﹄だ。﹃容姿を想像した相手の視点で物事を認識出来る﹄とい
う、便利な能力。
だが、その力に対する抵抗感は、未だ俺の胸中に巣くい続けてい
た。最初は躊躇なんて感情は微塵も無かった。しかし、だんだんと
時間が経っていくにつれ、相手の心を覗き見るという事がどれだけ
卑劣な行為か、実感するようになったのだ。
けれど。
﹁⋮⋮サイドを使わない今の俺じゃ、何の役にも立てやしない﹂
剣の扱いに関してはド素人、魔法だって使えない。犯人の正体を
探るにしても、町の人達と同じような情報しか得られないだろう。
となると、やはり。﹃サイド﹄を活用して犯人を見つけださなけ
71
ればならない。人々の心を盗み見、邪念を持つ者を探し出す。
﹁⋮⋮普通、勇者がやるような事じゃないよな﹂
自嘲気味に呟きながら、丘の上に寝転がる。綺麗な星空が視界一
杯に広がった。眼前に広がる光景をぼうっと見つめていると、俺の
脳裏に死ぬ間際の記憶が走馬燈のように浮かび上がってくる。女の
子の悲鳴。駆け出した俺。男の愉悦に歪んだ顔。身体を貫かれる苦
痛。力及ばず殺された時の無念感。
もし、俺が力を使うのを躊躇い、事件の解決が遅れてしまえばど
うなるだろう。たとえ勇者の俺が滞在している間は大丈夫だとして
も、ほとぼりが冷めれば、品物の盗難や少年達の誘拐は更に続いて
いく可能性が高い。それに犯人が少女を追いかけ回していたあの男
のような人物なら、最悪の場合、子供達は殺されているかもしれな
いのだ。そして。俺は既に一回、サイドを使うのを躊躇っている。
丘の上はやけに静かだった。微風にさらわれた一枚の木の葉が星
空を舞い、近くの地面にポトリと落ちる。それを見届けた後、俺は
両目を瞑った。視界は暗闇一色に染まり、聞こえてくるのは空気の
揺らぎ、獣達の鳴き声、そして虫達の合唱。
どれくらいの間、そうやって悩み続けただろう。時間の感覚を忘
れるくらいに思案した俺は、やがて目を開き、そして決心を固めた。
﹁⋮⋮よし﹂
力強い言葉を呟きながら、俺は上半身を起こし、眼下の町並みを
眺める。
72
﹁俺は⋮⋮サイドを使ってでも、この町の人達を助ける﹂
決して、誉められたやり方じゃないかもしれない。けれど、力は
使いようだ。俺が悪用さえしなければ、この力で不利益を被る者は
いない。それに、このまま放っておけば、更なる犠牲者を増やすだ
けなのだ。なら、僅かでも可能性の高い方法に賭けてみようと思う。
たとえ自らの良心が痛んでしまうとしても、それを乗り越えて。
だが、決意を新たにした直後。俺は奇妙な光景を目の当たりにし、
思わず目を疑った。真夜中に、人目を避けるようにして歩き続ける
一人の人物がいたのだ。
﹁リーネ⋮⋮さん?﹂
そう。それは宿屋で働いている彼女だった。昼間と同じ白い服を
身に纏っているし、何よりあの麗しい美貌は見間違えようがない。
彼女は俺の座っている丘の近くを、自身を見つめる存在には気がつ
いていない様子で足早に進んでいる。
︱︱こんな時間に、どこへ行くんだろう。
確か、リーネは宿に泊まり込みで働いていると本人の口から聞い
た。ならば何故、このような遠い所まで、しかもこんな夜更けにや
ってきているのか。まさか、俺と同じで夜のお散歩をしているなど
とは考えにくい。何しろ、この町は現在、怪奇事件が二つも起こっ
ているのだ。普通であれば、大人しく家の中で過ごしている時間帯
の筈。
となると、第一に考えられる理由は。
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︱︱まさか、そんな事って。
自分でも信じられないような推測が脳裏をよぎった、その頃。リ
ーネは町の外れにある森の中へと足を踏み入れていくところだった。
少し悩んだ後、俺は立ち上がり、急いで丘を下る。
︱︱取りあえず、リーネさんの後をつけてみるか。
走った甲斐があり、木々の間を少し進むと、すぐに彼女の後ろ姿
を発見する事が出来た。見失わないよう、そして気づかれないよう、
微妙な距離を保ちつつ、俺は彼女の尾行を始める。
しかし、そんな俺の努力も虚しく。
︱︱やべっ。どっち行った?
森の中は薄暗く、月の光もその殆どが枝葉に遮られて届かない。
その為、彼女の姿は呆気なく視界から消えてしまった。パニック状
態に陥る中、しょうがないので引き返そうかと思い悩む。だがすぐ
に、とある考えが閃いた。
︱︱そうだ。サイドの力を使えば。
アリーテから受けた説明から考えるに、別に対象の姿を視認して
いなくとも、一定の範囲内にいればサイドの力を使用して心を覗く
事が出来る。それを使えばリーネの現在地も、彼女がどんな気持ち
でこの暗い森の中を歩いているのかも、すぐに判明する。
︱︱でも、まさかリーネさんに使う事になるなんて。
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少しだけ気が咎めるが、先ほど決意したばかりだ。
心を鬼にして、俺は﹃サイド﹄を発動した。
75
12
SIDE︱︱リーネ
煌めく星々の輝きさえ阻み続ける、深く暗い闇の世界が支配する
森。ねじ曲がった蔦をそこらかしこに侍らす気味悪い植物達の蔓延
る野道を歩きながら、私は安堵の息を吐いた。
︱︱どうやら、私をつけていた奴は撒けたようね。
どこの誰かは知らないが、好奇心旺盛な奴が私の事を尾行してい
たのはとっくに気がついていた。尤も、私の美貌に惚れ込んだ若い
男が、人気のない場所で標的をモノにしようと鼻息荒く意気込んで
いたのかもしれないが。
︱︱フフフ、美しいというのは罪なものだわ。
一度引き離しておけば、そうそう見つかる事はない筈だ。外から
では分からないだろうが、この森は同じような景色ばかりで迷いや
すい。町に住む者ならそれを熟知している筈だし、早々に引き返す
だろう。それに万が一、鉢合わせになったとしても、今まで通り、
気絶させて直前の記憶を改変させてしまえば良いだけだ。
︱︱ま、可愛い男の子だったら、いつものように捕まえちゃうけど。
76
今から向かう心のオアシスを思うと、私の気分は高揚した。森の
奥に存在する、小さな洞窟。その中には店から奪ったポーションの
山と、私が集めた少年達のコレクションが存在するのだ。早く安ら
ぎの地に赴きたいと思うと、自然と足早になる。
だが、一つだけ気がかりな事があった。
︱︱まさか、勇者と天使がこの町にやってくるなんて。
あまりに計算外な事態だった。少し会話をしてみた限り、まだそ
こまで驚異的な相手ではないようだが、それでも用心に越した事は
無いだろう。この地に現れる勇者は、尋常ではない力を持つと相場
が決まっているからだ。天使の操る聖魔法だって、まともに食らえ
ば命取りになる危険性はある。
︱︱そろそろ、引き上げ時かもしれないわね。
幸い、十分な量のポーションは既にネメラ山にある別の拠点へ移
してある。洞窟に残してある分だけは回収するとして、明日からは
怪しまれるような行動を出来るだけ謹んだ方が良い。あの子達と過
ごす時間が減ってしまうのは残念だが、背に腹は代えられない。あ
の計画を完成させる為だ。
︱︱シュバトゥルス様の計画が成功すれば、この地だってすぐに私
達のものになる。
来る素晴らしい未来を想像し、私は自然と舌なめずりしていた。
そして、今頃は宿で何も知らずに惰眠を貪っているだろう彼らに向
け、私は心の中で高らかに叫ぶ。
77
︱︱煩わしい勇者に天使、今に見てなさい。世界を支配するにふさ
わしいのは、私達悪魔なのよ!
効果範囲から相手が離れたせいか、彼女の目線で見ていた目の前
の景色が、プツリと途切れた。
﹁⋮⋮まさか、リーネさんが悪魔だったなんて﹂
側の大木に力無く寄りかかりながら、僕は呆然と呟いた。これほ
どまで身近に犯人がいようとは。しかも、あの清楚な雰囲気を漂わ
せていたオットリ風の美女が、である。俺の受けた動揺は計り知れ
ない程に大きなものだった。
﹁い、いや。取りあえず落ち着け﹂
頭を強く殴りつけ、俺は何とか平静を取り戻した。こうしてはい
られない。相手が人外だと判明した以上、早急に策を練らなければ。
とにかく、宿に戻ってアリーテと話し合わなければ。その一心か
ら駆け出そうとした俺の足が、ふと止まる。
﹁あれ、どこをどう行けば戻れるんだ﹂
そういえば、とリーネの言葉を思い出す。この辺りは同じような
景色が多く、迷いやすいとかどうとか。その言葉通り、今の俺は方
向の感覚を綺麗サッパリ失っていた。
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﹁⋮⋮こうなりゃ、とにかく走るしかない﹂
目印なんてものは残していなかったのだし、とにかく町を目指し
て進むしかないだろう。半ばヤケになった俺はやけに重い足を懸命
に動かす。
︱︱それにしても、体が凄くダルい。力を使った反動か?
﹃サイド﹄を使うと、かなり体力を消耗する。更にもう一つ、大
きな弱点がある事に俺は気づいた。他者の視点や思考を覗いている
間も、自分自身の体の感覚や目の前の光景は残っているのだが、相
手の心を読みとるのに神経を集中させるせいで、自分は全く身動き
が取れないのだ。つまり、サイドを発動している間は自らが無防備
になる、という事である。相手の心を読み取りながら自分は食事を
取るといった芸当は、今の俺では到底無理だろう。身の安全を確認
出来なければ、サイドは使わない方が賢明だと思った。
そうこう思考を巡らせているうちに、俺は森の入り口まで戻って
いた。どうやら、今日の俺はツイているらしい。ここまで来れば、
後は迷う事もない。宿を目指し、ただひたすらに走り続ける。心臓
は悲鳴を上げ、目には大粒の汗が流れ込んでくるが、構うものか。
一刻も早く、彼女と話し合わなければ。
目的地に到着した時、俺は既に疲労困憊していた。フラフラにな
りながらも宿の中に入り、階段を上り、廊下を進んで、部屋のドア
を開く。鍵を閉めてから近寄ると、どうやらアリーテは未だ夢の中
らしい。
﹁むにゃむにゃ、もう食べられないよ⋮⋮﹂
79
と、寝言を呟きながらグッスリ寝入っている。正直、起こすのも
気が引けるが、今は一大事である。心を鬼にして、俺は彼女に呼び
かけた。
﹁おい、アリーテ。起きてくれ﹂
80
13
﹁ぐぅ⋮⋮﹂
だが、呼び掛けに応じる事なく、アリーテは未だ眠り続けていた。
しょうがないので、俺は彼女の両肩を掴んで激しく揺さぶる。
﹁アリーテ、起きろ。大変なんだ﹂
﹁ううん、ミックスベジタブルはいやぁ⋮⋮﹂
︱︱どうして天使がミックスベジタブルなんか食べてるんだよ⋮⋮。
ささやかな疑問が浮かんでくるが、取りあえず今は関係のない事
だ。気を取り直し、俺は彼女の体に込める力をいっそう強め、
﹁起きてくれ、今すぐに話し合わなきゃならない事があるんだ﹂
﹁ふみゅ⋮⋮?﹂
ようやく起きたらしいアリーテは、半分閉じかかった目で俺を見
つめる。そして、たちまちそのパッチリした瞳が大きく見開かれた
かと思うと、
﹁ユ、ユートさん? これって⋮⋮﹂
と、戸惑いながらも俺と自身の姿を確認し、やがて頬を桜色に染
めながら、消え入りそうな声色で呟くように言う。
81
﹁⋮⋮やっぱり、襲う気だったんですね﹂
﹁⋮⋮は?﹂
呆気に取られ、俺は自然と声を上げる。一方アリーテの方はとい
うと、恥ずかしそうな表情を浮かべながらも、熱っぽい眼差しで俺
を見つめていた。
﹁でも、その、私達まだ出会って一日しか経ってませんし﹂
﹁い、いや。誤解だって﹂
慌てて訂正しようとするも、既に暴走しきっている彼女は俺の言
葉など耳に入っていない様子で、一人で何やら語り始めた。
﹁ユートさんの気持ちはよく分かりましたし、私も嬉しいんですけ
ど⋮⋮まだ心の準備が色々と必要というか、やっぱりこういうのは、
キチンとした順序を経て進めていかなければならないものだと思う
んですっ。だから、取りあえずディープキスから始め﹂
﹁だから誤解だって﹂
﹁ふにゃ﹂
頭の上をポンと叩くと、アリーテは小さく声を上げて両目を瞑っ
た。
﹁な、なんで急に叩いたりするんですかっ﹂
﹁お前が勝手に妄想を広げまくってたからだよ﹂
82
﹁だって、現にユートさんは私の両肩を掴んで、無理矢理ベッドの
上に押し倒してますし﹂
﹁そんな誤解を招く表現は止めろ﹂
﹁じゃあ、どうして眠れる宿の美少女天使を起こしたりしたんです
か?﹂
﹁実は、かくかくしかじかなんだ﹂
﹁えっ! この宿で働いているリーネさんが二つ事件を起こしてい
た張本人で、しかもその正体は悪魔だったんですか!?﹂
詳しい事を説明すると、アリーテは先ほどより更に驚いた様子だ
った。俺は重々しく頷く。
﹁ああ、その通りだ。後、もう少し声を潜めてくれよ﹂
﹁まさか、驚愕の新事実です⋮⋮なるほど、それで私を起こしたん
ですね﹂
﹁リーネさんが帰ってくる前に作戦を練りたかったからな﹂
彼女は確か、森の奥にあるという洞窟に用事があるという。それ
ならば、当分は宿に戻ってこれない筈だ。話し合う時間は十分にあ
る。
﹁もう策とかあるんですか?﹂
83
﹁それが⋮⋮﹂
彼女から両手を離し、俺は自分のベッドの縁に腰掛けつつ問いに
答えた。
﹁色々と考えてみたけどさ。ほら、俺は戦いなんてした事ないし、
お前もまだ天使見習いだろ? 真っ向勝負じゃ勝てないように思う
んだ﹂
あの口振りからして、リーネは恐らくそれなりの実力を持つ悪魔
だろう。情けない話だが俺は戦力にならないし、かといって修行中
のアリーテだけでは分が悪すぎる。
︱︱何か、彼女を無力化させられる手だてがあればいいんだけど。
しかし、素晴らしいアイデアが思いつく事は一向になかった。し
ばらく思案に耽った後、俺は彼女に話しかける。
﹁なあ、アリーテ。良い案はあるか?﹂
﹁ありますよ﹂
﹁そうか、あるのか⋮⋮え?﹂
意外な返答を受け、俺は彼女に驚きの視線を送る。すると、アリ
ーテは両目を閉じ、人差し指をピンと立てて、
﹁要するに、リーネさんを戦えなくすればいいんですよね?﹂
﹁ああ﹂
84
﹁それなら、話は簡単ですよ﹂
と、彼女は自らの立てた作戦を俺に説明し始める。その概要を聞
き終えた後、俺は、
﹁え﹂
と、思わず驚愕の声を上げてしまっていた。一方、彼女はという
と得意げな様子で、
﹁こうすれば、リーネさんも恐れるに足らずですっ!﹂
と、高らかに宣言する。
﹁で、でもさ﹂
正直、その提案に乗り気でない俺は彼女に言った。
﹁さ、流石にいくら何でもそれは⋮⋮﹂
﹁むむっ。私の立てた素晴らしい策に文句でもあるんですかっ?﹂
﹁いや、だって﹂
言葉を濁す俺に、彼女は頬を膨らませて、
﹁ユートさん、相手は悪魔ですよっ。いくらリーネさんが異性とし
て好みだからって、油断しちゃいけません﹂
85
﹁べ、別に好みとか、そういうわけじゃ﹂
﹁嘘です。ユートさんはリーネさんに﹃甘酸っぱい青春﹄のような
ものを感じていた筈ですっ﹂
﹁ぐっ、それは⋮⋮﹂
完全に論破され、俺は言葉を失う。アリーテは更に語気を強めて
言葉を続けた。
﹁私達は、世界をより良くする為にやってきたんです。人々の生活
を脅かすような悪魔は、何があっても絶対に退治しなきゃならない
んですっ﹂
﹁わ、分かったよ⋮⋮お前の作戦に、乗る﹂
彼女の剣幕に気圧されるようにして、俺は渋々、彼女の立てた作
戦を了承したのだった。
86
14
あれから。話し合いを終えた俺達は、窓から外の様子を確認して
いた。やがて、通りの向こうから一人の女性が歩いてくる。勿論、
リーネだった。彼女は二階から自身を観察している俺達の存在には
気がついていない様子で、宿の中へと入っていく。それを見届けた
後、俺とアリーテは無言で頷きあった。
しばらく経った頃。部屋を出た俺達は階段を下り、廊下を進み、
標的の部屋の前に立つ。深い深呼吸をして気持ちを整えた後、意を
決した俺は扉を軽くノックした。やがて、ベッドから這い出るよう
な音がした後、ガチャリと鍵の解除される音がして、ドアが開く。
隙間から顔を覗かせたのは、寝間着姿となったリーネの姿だった。
演技なのか少し眠たそうな表情をしているものの、美女は寝起きも
様になっていて麗しい。
﹁どうしたの? こんな時間に﹂
目元を擦りながら、彼女は訊ねてきた。
﹁まだ、朝というには早すぎると思うけれど﹂
﹁あの、実は﹂
前もって決めていた嘘を俺は口にする。
﹁俺達、腹が減って眠れなくなっちゃって﹂
﹁まあ﹂
87
俺の返事にリーネは目を丸くしたが、その顔にはすぐにからかう
ような笑みが浮かんだ。
﹁二人揃って、随分と食いしん坊さんなのね﹂
﹁私は人じゃなくて天使ですっ﹂
﹁すいません、こんな夜遅くに起こしてしまって。どうしても我慢
出来なかったんです﹂
大事なところで至極どうでもいい抗議を始めたアリーテの足を軽
く叩きつつ、俺は深く頭を下げる。
﹁いいのよ。そんなに畏まらなくても。貴方達は大事なお客様なん
だから﹂
ついてきて。部屋を出たリーネは僕達にそう告げた後、歩き始め
る。俺達は彼女の後に続き、廊下を進んだ。
リーネが訪れたのは突き当たりにある食料庫だった。
﹁真夜中に食べるんだから軽い物がいいわよね⋮⋮ビスケットとか
林檎とか⋮⋮﹂
独り言を呟きながら、彼女は俺達に背を向けてそこらかしこの棚
を物色し始める。
﹁ユートさん、今がチャンスですよっ﹂
88
すかさず、アリーテが俺にしか聞こえない程度のか細い声で囁い
てくる。
﹁あ、ああ⋮⋮﹂
﹁何ですか、そのすっごく気が引けてそうな返事﹂
﹁いや、良心の呵責ってもんがあるんだよ﹂
﹁あー、もう。分かりました。それじゃ私が代わりにやります﹂
﹁え、ちょっと待っ﹂
俺の返答も皆まで聞かず。彼女は俺の腰に付いた鞘から剣を抜き
取ると、そのまま夜食を選んでいるリーネの背後に近寄って、
﹁えいっ! えいっ! えいっ!﹂
グサリ、グサリ、グサリ。
そんな擬音語と共に、彼女の背中を滅多刺しにした。
﹁うっ!﹂
流石に悪魔でも、この不意打ちは強烈だったのだろう。リーネは
苦しそうな声を洩らしながら、振り向こうとする。しかし、アリー
テはそれを許さなかった。彼女は相手を血に塗れた剣で何度も何度
も突きまくる。情け容赦ない彼女の猛攻に耐えかねたのか、
﹁お、お願い。もう止めて⋮⋮﹂
89
と、やがてリーネは哀願をこめた口調で訴える。だが、アリーテ
はその訴えを無慈悲にも拒否した。
﹁嫌ですっ! 悪魔に容赦はしませんっ!﹂
彼女はいっさい手を緩める事なく、リーネへの攻撃を継続する。
その様を眺めながら、俺は首筋を冷や汗が伝っていくのを感じた。
︱︱おい、ちょっとやり過ぎだろ。
相手は悪魔だとはいえ、流石にここまでやる必要はないのではな
いかと思った。リーネはもう立ってすらいられないのか、その美し
い顔を苦痛に歪めながら、棚に寄りかかるようにして倒れている。
辺り一面には夥しい量の鮮血が飛び散っていて、彼女の受けた傷の
酷さを示している。そして、既に抵抗する気力すら失っていそうな
のにも関わらず、アリーテは未だ剣で彼女の背を刺し続けているの
だ。
次の瞬間。俺は自分でも無意識の内に、アリーテの手を掴んでい
た。
﹁ユ、ユートさん!? 何するんですかっ!﹂
﹁アリーテ、もういいだろ。剣を下ろせ﹂
﹁で、でも。相手は悪魔ですよっ﹂
﹁こんな状態じゃ、もうマトモに戦えないだろ。これ以上は可哀想
だ⋮⋮おわっ!﹂
90
彼女を諫める言葉を投げかける途中で、俺は驚きから叫びを上げ
た。倒れていたリーネの体が変に湾曲しているように見えたかと思
うと、彼女の姿が急に変貌したからだ。衣服に関してはそのままだ
が、白く輝いていた肌は人のそれとは思えない紫に染まり、清らか
だった黒髪はド派手な桃色に変わった。頭には二本の角が生え、服
がちぎれて露わになった背中からは立派な漆黒の翼。顔に関しては
以前の面影が殆どなく、おっとりとしていた目つきは正反対に鋭く
なり、ギラついた紅い瞳や口の端から覗く牙など、その凶悪さを増
している。
︱︱これが、悪魔の姿。
強い動揺の中、俺は自然と心中で呟く。まさか、あのリーネがこ
のような姿だったとは。
﹁う、く⋮⋮﹂
やがて、異質な風貌となったリーネが、苦しそうなうめき声を洩
らす。アリーテはそんな彼女を一瞥して、
﹁どうやら大怪我のせいで、人間に化ける体力が無くなったみたい
ですねっ﹂
と、冷ややかな口調で言った。
91
15
リーネは、すぐにはアリーテの言葉に答えなかったが、俺達に憎
々しげな視線を向けた後、恨みを込めるように呟いた。
﹁不意打ちだなんて卑怯な⋮⋮﹂
人間の姿だった頃のそれとはかけ離れた、清楚さなど微塵も感じ
られないような口調だった。 だが、アリーテは彼女の言葉にちっ
とも怯む様子なく平然として、
﹁卑怯でも姑息でも構わないです!﹂
と、声高らかに宣言した。
﹁この世を少しでも良くする為なら、手段なんて問いません!﹂
﹁お前、本当に天使かよ﹂
ボソッと呟いた俺の言葉を、彼女は華麗にスルーする。一方、リ
ーネの方は苦々しげに、
﹁まさか、こんな小娘にアタシの完璧な擬態を見破られるなんて⋮
⋮﹂
﹁ふふん、この﹃美少女天使アリテシカ﹄に分からない事は無いの
です﹂
﹁いや、気づいたのお前じゃないだろ﹂
92
﹁キーッ! く、悔しいいいい!﹂
勝ち誇った笑みを浮かべるアリーテに対し、傷口が開くのにも構
わず、リーネは両手で床を激しく叩き始めた。態度のギャップに、
俺は驚愕してしまう。
︱︱元々、こんな性格だったのか?
というか、よくもまあ、そんな重傷で動けるものだと感心せざる
を得ない。やはり、人間とは体の作りが違うのか。
﹁⋮⋮なぁ、リーネさん。聞きたい事があるんだけど﹂
﹁フン、アタシはそんな名前じゃないわよ﹂
﹁へ?﹂
思わぬ返答に目をパチクリさせた俺を鼻で笑った後、﹃リーネだ
と思っていた彼女﹄は得意げに告げた。
﹁宿で働く看板娘リーネとは仮の姿! その正体は、名高き悪魔、
メファヴェルリーアよ!﹂
彼女が真の名前を告げた後、シーン、と辺りを静寂が支配する。
長い沈黙の後、俺は確認の為に口を開いた。
﹁えっと、メファヴェラさん?﹂
﹁違うわよ!﹂
93
﹁じゃあ、メファベルラさん?﹂
﹁それも違う!﹂
﹁分かった、メファベロベロさんだ﹂
﹁全然ちがーう!﹂
彼女は顔を真っ赤にして、
﹁メファヴェルリーア! ちゃんと覚えときなさい!﹂
﹁そんな簡単に覚えられるわけないじゃないですか!﹂
俺と同じ感想を抱いていたらしいアリーテが激高した。
﹁いくら何でも長すぎですよ! もっとシンプルな名前考えられな
いんですか!?﹂
﹁う、うるさいわね! 親が名付けた人の名前にケチつけるなんて
最低よ!﹂
﹁貴方、人じゃなくて悪魔でしょ!﹂
﹁こ⋮⋮これは言葉の綾ってものよ!﹂
﹁へー、すっかり人間生活が板についてるんですね。悪魔の癖に﹂
﹁あー、生意気なガキ娘! ああ言えばこう言う!﹂
94
︱︱あー、なんか変な感じにヒートアップしちゃってるよ。
二人、いや一天使と一悪魔のしょうもない喧嘩を他人事のように
眺めながら、俺は深い溜息をついた。だが、早く重要な本題を切り
出さなければならない。
﹁あの、メファヴェルリーアさん﹂
彼らの間に割って入るようにして、俺は口を開いた。
﹁そろそろ教えてほしいんですけど。さらった子供達と、盗んだポ
ーションの事﹂
﹁⋮⋮う﹂
メファヴェルリーアはしばらく口を噤んでいたが、黙っていても
無駄だと悟ったらしく、やがてボソリと言った。
﹁町外れ森の中にある洞窟に隠してあるわよ。尤も、ポーションの
殆どはもう使っちゃったけど﹂
﹁具体的にはどこですか?﹂
﹁森の奥。探せば分かるわ﹂
﹁そうですか、分かりました﹂
俺は大きく咳払いをして、次の質問に移る。
﹁じゃあ、二つの事件をどうして起こしたのか、目的を聞かせて下
95
さい﹂
彼女はそっぽを向いて、
﹁別にどうだっていいでしょ﹂
﹁﹃計画﹄ってヤツに使う為じゃないんですか?﹂
﹁え﹂
思いも寄らぬ単語を耳にしたからか、悪魔の両目が驚きに見開か
れる。その艶やかな唇から発せられた言葉には明らかな狼狽がにじ
み出ていた。
﹁ど、どうしてそれを知ってるのよ﹂
﹁貴方に質問する権利はありませんっ﹂
アリーテが有無を言わせぬ調子で口を挟んでくる。
﹁ただ、私達の訊ねた事に答えればいいんですっ﹂
﹁⋮⋮フン、分かったわよ。随分とやり口の汚い勇者様御一行ね﹂
皮肉を飛ばした後、メファヴェルリーアは再び話し始める。
﹁まあ、確かにポーションを盗んだのは計画の為よ。けど、誘拐に
関してはまた別の理由﹂
﹁別の理由って、何ですか?﹂
96
﹁それは、まあ些細な事よ。あ、言っておくけど、さらった子供達
はみんな無事だから安心していいわよ﹂
何故だろう。早口で弁明する彼女の顔が、先ほどまでとは少し違
う感じで紅潮しているような気がした。
﹁⋮⋮なーんか、怪しいですねっ﹂
アリーテがジト目で彼女を凝視する。
﹁もしかして、﹃可愛い男の子達に囲まれて幸せ∼﹄とか何とかや
ってたんじゃないですか?﹂
﹁いや、流石にそれはないだ﹂
ろ。最後の言葉が、俺の口から発せられる事はなかった。ボンッ、
と何かが爆発するような音がした後、アリーテの言葉を受けたメフ
ァヴェルリーアの頭が、まるで茹で蛸のように真っ赤っかになって
しまったからだ。桃色の髪からは湯気すら立ち上っている。
﹁え、えと﹂
適当な推測を述べた張本人もまた、まさか、といった表情で彼女
を見つめている。そして、痛いほどの静けさが流れきった後、アリ
ーテは呆然とした口調で、半ば独り言のように呟いたのだった。
﹁つまり、ショタコンなんですか⋮⋮﹂
97
16
﹁な、何よ!﹂
開き直った様子のメファヴェルリーアが、少々後ずさった俺達に
怒鳴った。
﹁どんな趣味を持ってたって、人の勝手じゃない!﹂
﹁だから貴方は悪魔じゃないですかっ﹂
﹁それに誘拐してる時点で駄目だろ﹂
﹁ぐぐっ⋮⋮﹂
俺とエリシアの指摘に、彼女は不服そうな唸り声を上げながらも
言葉を失った。
﹁まあ正直、貴方がどんな性癖を持っていようと興味はないんです
けど﹂
﹁お前、たまに容赦ないよな﹂
﹁それより、まだ聞きたい事があります﹂
いつになく険しい表情で、アリーテは言葉を続けた。
﹁さっき出てきた﹃計画﹄について、詳しく話してもらいましょう
か﹂
98
天使の言葉に、メファヴェルリーアは苦虫を噛み潰した顔つきに
なり、
﹁悪いけど、それについては口が裂けても教えられないわね﹂
と、頑なな口調で告げた。そんな彼女をアリーテは睨みつけなが
ら、
﹁今の自分の状況、分かって言ってますか?﹂
﹁当たり前でしょ﹂
﹁それなら、言葉通りにしてあげます﹂
アリーテは右手に握っていた俺の剣を再び振りかぶり、メファヴ
ェルリーアへと近寄る。
﹁お、おい﹂
俺は慌てて両者の間に割って入った。傷だらけの悪魔に背を向け、
両手を広げて天使と相対する。そんな俺を一瞥して、真剣な様子の
アリーテは、彼女に似つかわしくない冷淡な口調で告げた。
﹁ユートさん、そこをどいて下さい﹂
﹁もう、いいだろ。いくら悪い事したからって、これ以上メファ⋮
⋮リーネさんを傷つけるのは﹂
﹁ユートさん、貴方の後ろにいるのは人間じゃありません。世界に
99
仇なす悪魔なんです﹂
﹁そんなのは分かってるよ。でもさ⋮⋮﹂
﹁でも、何ですか?﹂
言葉に詰まる俺に、彼女は先を促してくる。俺はすぐに答えられ
なかった。正直、どうしてこのような行動に出てしまったのか、自
分でもよく分からなかったのだ。胸の奥にうずまく曖昧な気持ちを
何とか形にしようと、俺は強く悩みながら、ゆっくりと言の葉を紡
ぐ。
﹁そりゃあ、薬を盗んだり人をさらったり、彼女の行いは許される
事じゃないと思う。だから、その裁きは受けるべきだ﹂
﹁なら⋮⋮﹂
﹁でもさ﹂
発せられたアリーテの声に被せるように、俺は語気を強めた。
﹁悪魔だからって差別したりとか、身体を容赦なく傷つけたりとか
⋮⋮そういうのって正しいのか? 悪魔だったら殺しても罪になら
ないのか?﹂
﹁そ、それは﹂
今度は、アリーテの方が言い淀む番だった。背後でも、メファヴ
ェルリーアがハッと息を飲むのが耳に届いてくる。俺は自分の思い
をアリーテに理解してもらおうと、少し口調を和らげ、必死に語り
100
続けた。
﹁それにさ、彼女の言い分が本当なら、子供達には危害を加えてな
いって事になるだろ? 勿論、ポーションの損害とか、弁償しても
らわなくちゃならないものは沢山あるけどさ。少なくとも、命まで
奪う必要はないんじゃないか?﹂
しばらく、アリーテは顔を俯け、何も発しないままだった。静け
さを取り戻した室内に、夜空を飛び回っているだろう鳥の鳴き声が
虚しく響きわたる。
やがて、上目遣いで俺を見つめたアリーテは、ポツリと言った。
﹁⋮⋮ユートさんがそう言うなら。私は構わないです﹂
︱︱良かった。
彼女が説得を聞き入れてくれた事で、俺の心の中には安堵の気持
ちが広がっていった。
だが、すぐに後ろから、突っ慳貪な声が聞こえてくる。
﹁それで、恩を売ったつもり?﹂
振り向くと、メファヴェルリーアが俺を強く睨みつけている事に
気がついた。その表情を崩さないまま、彼女は言葉を続ける。
﹁始めに言っておくけど、坊やの言葉で改心しようなんて気はちっ
ともないわよ﹂
101
﹁別に、今すぐ反省しろとは言わないさ。それよりも⋮⋮あ、いい
ところに﹂
周囲を見回すと近くの棚に包帯があった。何故ここにあるのかは
分からないが、そこら辺はまあ適当に何か理由があったのだろう。
俺はそれを手に取り、メファヴェルリーアの側でしゃがみこんだ。
そして。
﹁ちょ、ちょっと。何し⋮⋮﹂
悪魔の甲高い狼狽えた声に、俺は笑って答えた。
﹁見て分かるだろ。傷を塞いでるんだ﹂
﹁け、けれど私は敵なのよ⋮⋮﹂
﹁だから、さっきも言ったろ﹂
血だらけの背中に白い包帯を巻き付けながら、俺は言葉を続ける。
﹁たとえ相手が敵だからって、悪魔だからって、どんな酷い仕打ち
でもやっていいわけじゃないって、そう思ってるだけさ﹂
﹁⋮⋮その甘さ、いつか命取りになるかもしれないわよ﹂
﹁それでもいいよ﹂
﹁⋮⋮馬鹿な坊やね﹂
102
やがて、応急処置が終わり、俺はふうと小さく息を吐いた。
﹁それじゃ、朝が来たら取りあえず町の人達に謝ってもら﹂
﹁謹んでお断りするわ﹂
﹁え?﹂
途端、俺は見えない力に押されるようにして、後方へと吹っ飛ぶ。
﹁うわっ!﹂
﹁ユートさんっ!﹂
アリーテが抱き止めてくれたおかげで、何とか怪我を負わずに済
んだ。ふと視線を向けると、腕組みをして立ち上がっているメファ
ヴェルリーアが視界に入る。彼女はフンとソッポを向いて、
﹁絶対、この礼なんか言わないわよ! それに、今度会った時だっ
て手加減はしないわ! 覚えておきなさい!﹂
と、尖った口調で叫んだ。そして、次の瞬間。彼女の姿は、忽然
と消失したのだった。
﹁やっぱり逃げられちゃったじゃないですかー! ユートさんのバ
カー!﹂
﹁わ、悪い⋮⋮﹂
103
17
あれから。メファヴェルリーアが逃走してからすぐ、俺達が昨夜
の出来事について報告しにいくと、町長はすぐに住民達を召集し、
早朝には森へと大規模な捜索隊が出発した。彼らの調査によって、
彼女の証言していたらしい森奥の洞窟は発見され、男の子達は一人
残らず無事に救出された。ちなみに子供達は皆、自らが誘拐されて
いた時の記憶が欠落していたそうだ。ただ、全員が傷一つ負ってい
なかったそうなので、どうやら彼女の言っていた事は真実だったら
しい。
また、洞窟内からは魔力補給のポーションも大量に発見された。
ただ、盗難被害に遭っていた総量には程遠く、こちらもまた、メフ
ァヴェルリーアの話していた通り、その大部分が別の拠点へと移さ
れてしまっていたらしい。
森から引き上げた後、町長達は悪魔を雇っていた宿の主人を問い
ただした。彼が身を縮こませて語ったところによると、彼もどうい
った経緯でリーネを雇ったのか、全く覚えていないのだという。た
だ、気配りの出来る美しい看板娘はいつの間にか働いていて、客か
らの評判もすこぶる良い彼女のおかげで宿が繁盛していたという事
もあり、彼自身もその事を全く気にしていなかったのだそうだ。
とにかく、事件の犯人だった悪魔も何処へ消え去ったため、取り
あえず事件はこれで一件落着となった。町の住民達はこちらが恐縮
するくらい何度も何度も頭を下げてきた。町長は代表として惜しみ
ない援助を申し出てくれ、その厚意にあずかり、俺達は旅に必要な
物品を分けてもらう事にした。荷物を詰め込むバックパック、替え
の衣類に調理器具、日持ちのよい食料等々。
104
﹁もう出発なされるのですか? せめて一晩でも泊まって頂けまし
たら、最大限のもてなしを振る舞えるのですが﹂
出立の際に町長から告げられた有り難い申し出を、俺達はやんわ
りと断った。確かに事件は解決したが、未だ謎は残っている。メフ
ァヴェルリーアの告げていた﹃計画﹄と、その鍵を握る者﹃シュバ
トゥルス﹄だ。一刻も早く、俺達はその真相を解き明かし、必要と
なればその計画を阻止しなければならない。その旨を説明すると、
彼は残念そうながらも納得してくれた。
﹁そういう事なら、仕方ないですな。お二人の旅路に幸多き事を祈
っておりますぞ﹂
私は人間じゃないですっ、と空気を読まずに幾度目かの抗議を上
げたアリーテの首根っこを掴み、俺は御礼の言葉を告げた後、彼女
を引きずるようにして、ケーリアを後にしたのだった。延々と続く
草原の中を歩き始めた俺の耳には、町の人々の歓声が長い間、ずっ
と届いていた。
だいぶ時間が経ち、町がすっかり見えなくなった頃、すっかり膨
れっ面をしているアリーテが口を開いた。彼女の気持ちに呼応して
いるのか、その背中では二枚の羽がパタパタと元気にはためいてい
る。
﹁全くっ。どうして人は天使を単位﹃人﹄で数えようとするんです
かっ﹂
﹁お前って変なところに拘るよな﹂
﹁じゃあ、ユートさんはどうなんですかっ﹂
105
﹁え?﹂
﹁もし自分の事、﹃一匹﹄扱いされたらどう思います?﹂
﹁あー、確かにそれは嫌だな﹂
なるほど、と俺は彼女の憤りにすんなりと納得していた。実に分
かりやすい喩えだったと思う。ただ、同時に一つの疑問も浮かんで
きた。
﹁じゃあさ、お前って自分をどう数えてほしいんだよ﹂
﹁それはもう、決まってるじゃないですかっ﹂
俺の質問に、彼女は朗らかな笑顔を浮かべ、歌うように宣言した。
﹁﹃一羽﹄ですよっ!﹂
予想の遙か斜め上をいく回答に、俺は開いた口が塞がらなかった。
﹁⋮⋮は?﹂
﹁違いますよっ。﹃は﹄じゃなくて﹃わ﹄ですっ﹂
﹁お前は本当にそれでいいのか、それで﹂
106
﹁え、どういう意味ですか?﹂
﹁だって、羽って鳥とかの数え方だぞ﹂
﹁むー、それは聞き捨てなりませんね﹂
アリーテは再びしかめっ面に戻って、
﹁そういう言い方は私達だけでなく鳥類や可愛い兎達に失礼なんで
すがっ﹂
﹁いや、別にそんなつもりじゃ﹂
﹁謝って下さいっ。全ての天使と鳥と兎達、その他諸々に!﹂
﹁す、すいません⋮⋮﹂
︱︱もうコイツ、本当に訳分かんねぇ⋮⋮。
天使とはどうやら、人間の想像を遙かに越えた感覚を抱いている
生き物らしいという事だけは理解出来た。いや、つまり。彼女の言
い分を整理すると、天使は人間より鳥に近しい存在なのだろうか。
﹁⋮⋮うう、色々と考えすぎて疲れちまう﹂
﹁そんな、まだ旅を始めて二日目なんですよ﹂
殆どお前のせいなんだよ、そう口を開きかけようとしたところで、
彼女の言葉にはたと気づかされる。
107
﹁あ、そういえばそうだな﹂
もう、かなりこの世界で過ごしていたような感じがしたのだが、
実際はまだ一日程度しか経過していない。
﹁昨日が大騒ぎ過ぎたんだよなぁ、色々と﹂
﹁とんでもなく慌ただしい初日でしたねっ﹂
﹁全くだ﹂
ああいった日々がこれからも続いていくのかと思うと、何となく
げんなりしてしまう。落ち込んでいく気分を首を振って紛らわし、
俺は気分転換に懐から地図を取り出した。町で貰った道具の一つだ。
﹁ええと、ネメラ山っていうのは、こっちの方角であってるんだよ
な﹂
隣から覗き込んできたアリーテは小さく頷いて、
﹁はい、そうみたいですよっ﹂
と、同意の声を上げる。
﹁よし、それじゃあ張り切っていくかっ!﹂
﹁はいっ!﹂
俺の高らかな叫びに、彼女もまた元気よく返事を続けた。燦々と
108
輝く陽光と雲一つない晴れやかな青空の下、俺達は目的地を目指し
て進み続ける。
こうして、俺とアリーテの長く険しい旅路は、本格的な始まりを
告げたのだった。
109
1
﹁もう歩けないですよーっ﹂
陽も沈みかけ、空も鮮やかな朱色に染まる夕刻。険しい林道を登
っている最中、後ろから疲労感溢れる叫びが聞こえてきた。振り返
ると、地面にペタンと座り、両目をキュッと瞑っているアリーテの
姿が映る。
﹁早く休憩したいです。疲れましたぁ﹂
﹁そりゃ、俺もそろそろ休みたいけど﹂
彼女に話しかけ、俺は頬を掻きつつ辺りを見回した。
﹁でも、ここじゃテントだって張れないだろ﹂
周囲には木々や野草の群が鬱蒼と連なっていて、至るところに獣
や魔物が隠れられそうな茂みがある。こんな危険に満ち溢れた場所
では、おちおちキャンプなどしてはいられない。もう少しで完全に
日が暮れてしまうし、一刻も早く進まなくては。
﹁せめて、もう少し安全そうなところを見つけるまで頑張ろうぜ﹂
﹁後、何時間何分何秒で見つかります?﹂
﹁そんな子供みたいな事言うなよ⋮⋮ほら、行くぞ﹂
俺は口をへの字に曲げている彼女に手を差し出す。少々の時間を
110
おいて、アリーテは俺の手を握って立ち上がった。
幸いにも、少し進むと林を抜け、夜を過ごすには最適な開けた場
所に出る事が出来た。すぐに野営の準備をして、焚き火を起こす。
しばらく時間が経つと、熱していた鍋の中では、適当な野菜や肉を
入れた雑炊がグツグツと、美味しそうな湯気を立てて煮えていた。
椀に各々の分をよそい、俺達は夕食を始める。ふうと息を吹きかけ
て冷ましたスプーンを口に運ぶと、アリーテは幸せそうに顔を綻ば
せ、
﹁あー、生き返りましたっ﹂
﹁朝からずっと歩きっぱなしだったもんな﹂
﹁しかもずっと登り道でしたし、クタクタになりまいたよっ﹂
早口でそう言った後、彼女は再び雑炊を夢中になってかき込み始
める。その様子が微笑ましく、自然と俺の口元は緩んだのだった。
程なくして、すっかり鍋の中身も空になってしまった。パチパチ
と燃え盛る炎をぼんやりと眺めつつ、俺達は食事の余韻に浸る。涼
しげな夜風が、腹の膨れて熱を帯びた体に心地よく感じられた。
﹁ケーリアを出てから、だいぶ経ったよな﹂
俺は自然と、半ば独り言のように呟いていた。
﹁そうですねっ﹂
と、アリーテは同意の言葉を告げる。
111
﹁もう少しでネメラ山だけど、計画って一体どういうものなんだろ
うな﹂
﹁うーん、私にもサッパリです。ついてみたら分かるんじゃないで
すか?﹂
﹁まあ、そうだな﹂
﹁それにしても、ここら辺って全く人がいませんね﹂
と、アリーテは話題を変えた。俺は小さく頷き、
﹁地図にも町も見当たらなかったしな。右も左も自然だらけだし﹂
はぁ、と彼女は盛大な溜息をついて、
﹁人がいないと、人助けも出来ませんし⋮⋮どこかに困ってる人、
落ちてませんかね﹂
と、突っ込みどころ溢れる嘆きを口にしてきた。俺はすかさず口
を開く。
﹁いや、落ちてない方が良いだろ。絶対﹂
﹁でも、困ってる人がいないと助けてあげられないじゃないですか﹂
﹁⋮⋮そういう考え方って、本末転倒じゃないか?﹂
そんな他愛もない会話を広げていた、まさにその時。
112
﹁ぐあーっ!﹂
急に、人の叫び声が聞こえてきて、俺達は思わずギョッとして立
ち上がった。
﹁な、何ですかっ!? 今の悲鳴!﹂
﹁向こうから聞こえてきたぞ!﹂
言うが早いか、俺は無意識のうちに駆け出していた。
﹁あっ! 待って下さいよっ!﹂
アリーテは声を上げ、俺の後ろに続く。どうやら、悲鳴の主は俺
達の進む方向にいるらしい。再び林の中へと入り込んだ俺は、全力
で木々の間を走り抜ける。もしかすると、相手は凶暴な獣や魔物に
襲われているのかもしれない。もしそうであるなら、時間が経てば
経つほど事態は深刻になる。手遅れにならないためにも、散々歩き
続けたせいで疲れきっている足を懸命に動かし、俺は声の元へと急
ぐ。
そして。とうとう現場に到着し立ち止まった俺は、思わず呆然と
呟いていた。
﹁⋮⋮あれ?﹂
113
﹁わわっ!﹂
﹁ぐおっ!﹂
アリーテがもの凄い勢いで背中にぶつかってきたので、俺はその
衝撃で地面に崩れ落ちる。彼女もまた強く打った頭を抱え、うずく
まっていた。
﹁うう⋮⋮急にストップしないで下さいよっ﹂
﹁ああ、わりい﹂
﹁でも、一体どうしたんですか?﹂
涙目で問いかけてくるアリーテに、俺は肩を竦め、
﹁ほら、あれを見ろよ﹂
と、先ほど目にした光景を指さした。その方向へ視線をやった彼
女もまた、あっ、と小さく声を上げる。
そこには、一人の人物がいた。その身体は銀色に輝く軽装の鎧で
覆われていて、何となくファンタジーに出てくる西洋騎士を連想さ
せる。頭に兜は着用しておらず、その長く美しいシルバーブロンド
の髪は露わになっていた。ただ、顔は分からない。というのは、そ
の人物は地面にうつ伏せとなって倒れているからである。ちょうど
こめかみの下には大きな岩が存在し、恐らくはあれに頭をぶつけて
しまい、この人物は気絶してしまったのだろうと推測がついた。そ
して、スラリと伸びた足先の靴が踏んでいるのは、黄色い果物の皮。
114
そう。バナナの皮である。
﹁⋮⋮この人、バナナの皮を踏んで転けちゃったんですか?﹂
しばらくして、俺の横でアリーテがポツリと洩らしたのだった。
115
2
﹁⋮⋮どう考えても、そうだろうな﹂
天使の問いかけに返事をした後、俺は倒れている人物へと歩み寄
った。
﹁あの、大丈夫ですか﹂
﹁う、うう⋮⋮﹂
しゃがみこんで呼び掛けてみると、僅かながら反応があった。ど
うやらうなされているらしいが、生きてはいると分かってホッとす
る。取りあえず、岩に頭をぶつけたままにしておくのは忍びないの
で、身を仰向けにしようとして。
﹁⋮⋮あ﹂
相手が女性だという事に気がついた。近づいてきたアリーテも、
﹁女の騎士さんですか?﹂
と、声を上げる。
﹁ああ、そうみたいだな﹂
彼女の言葉に相槌を打ちながら、俺は腕に抱えたままである女性
の顔に思わず見入ってしまっていた。端正で美しい顔立ちをしてい
て、何となく茶道や生け花を嗜んでいそうな印象を受ける。年齢は
116
二十代くらいで、大和撫子風の凛とした雰囲気をたたえた美女とい
えば分かりやすいだろうか。体格に関してはお世辞にも戦いに向い
ていそうではないものの、銀色の甲冑はよく似合っていて、気絶し
ているのにも関わらず凄腕の雰囲気を醸し出している。手に触れる
肌の感覚は女性らしく柔和だが、その指先には無数の腫れたタコが
出来ていて、自らに課している鍛錬の厳しさを暗に物語っていた。
腰に差している剣を軽く扱って敵を簡単に薙ぎ払う女性の姿が、何
となく脳裏をよぎる。
︱︱けど、そんな人がバナナ踏んだくらいで転ぶか?
色々と考えを巡らせているうち、頭を抱えているような状態であ
るがゆえ、胸元が自然と目に入ってしまった。
︱︱な、何というか。結構ボリュームが⋮⋮。
着用されている鎧の上からでも分かる女性特有の膨らみに、俺の
心臓は思わず高鳴る。
﹁なるほどなるほど、ユートさんはそういうタイプの女性が好みな
んですか⋮⋮長髪長身、大人の色気、ふっくらLサイズ、メモメモ
っと﹂
面白がっている声が耳に届いた事で、俺はたちまち我に返り、彼
女の方を振り向いて怒鳴った。
117
﹁い、いや! 別にそんなんじゃねえよ!﹂
﹁嘘ですね。だって以前も愛しのリーネさんに骨抜き状態だったじ
ゃないですか﹂
キッパリ言い放つアリーテはギラギラな光を目にたたえ、口元に
は怪しげな笑みを浮かべ、開いた手帳に鉛筆で何やら書き込んでい
た。
﹁べ、別に骨抜き状態だったわけじゃ⋮⋮ていうかお前、どこから
そんな物を引っ張りだしたんだよ﹂
﹁それは企業秘密です﹂
﹁企業⋮⋮?﹂
﹁冗談です。まあ、その事は色々とおいといて﹂
パパッと筆記用具を何処へ隠した彼女は話題を転換させた。
﹁この人、どうしますか? ここに放っておくわけにもいきません
よね﹂
﹁うーん、取りあえずテントの方に移して⋮⋮あ﹂
俺は考えをまとめた矢先、とある懸念材料に気がつく。
︱︱この人、俺一人で運べるのか?
女性に対してこんな感想を抱くのは失礼にあたるかもしれないが、
118
彼女はかなり重そうだ。まず第一に、銀色鎧を身に纏っている。女
性の為か軽さを重視したタイプのようだが、それでも結構な重量で
あるのは間違いないだろう。それに加え、標準的な男子高校生であ
る俺よりも高身長だ。恐らく年齢のせいなのだろうが、いくら体つ
きが華奢だとしても、背が高ければそれだけ重みは増す。それに、
抱えるのにも一苦労だろう。
となると、真っ先に考えつく解決案は一つ。
﹁アリーテ、この人を運ぶの手伝ってくれよ﹂
俺は側にいた天使に、そう声を掛けた。
数十分後。大量の汗水を流し、俺達はようやく女性を野営地まで
運び込んだ。町で提供してもらったアリーテの寝袋を枕代わりにし
て、地面の上に寝かせる。取りあえずはこれで大丈夫だろう。
﹁はああ、せっかく回復していた体力が尽きましたー﹂
すっかりくたびれた様子のアリーテが、未だパチパチと燃え続け
ている焚き火の近くに腰掛けながら言った。俺は二人分のコップに
革袋から水を注ぎつつ、
﹁まあ、いいじゃないか。念願の人助けも出来たろ﹂
﹁そりゃそうですけど⋮⋮でも、どちらかというとあまり疲れない
119
人助けの方が﹂
﹁それって俺達がやる意味あるのか?﹂
彼女に近寄り、飲むか、とコップを一つ差し出す。アリーテは、
飲みまくります、と応答して受け取り、その言葉通り僅か数秒で飲
み干した。その後、俺の瞳を上目遣いで見つめ、何か言いたそうな
視線と共に空となった容器を握りしめる。その様子を目にした俺は、
次は自分で注ぎに行け、と彼女の頭を軽くはたいた。ううう、と両
目から滝のような涙を流し、彼女は地の上をまるで芋虫のように、
革袋の方へ這い進んでいく。俺は彼女の座っていた場所の反対側に
腰を下ろし、水を飲みながらその様子を観察した。器用にも両手を
使わず、アリーテはニョキニョキという擬音語がふさわしい動作で、
時折休憩を挟みつつ、何とか目的地まで到着する。その後、コップ
に水を注ぐと、それを両手で大事そうに掲げつつ、彼女は同じよう
な動きへ自分の場所まで戻り、座り直してコップを口に含んだ。し
かし、またもや水がすぐに尽きる。彼女は深い溜息をついた後、今
度はノロノロと立ち上がって、革袋のところまでトボトボと歩いて
いく。
最初から歩いていけば良かったのに、ついでに言えば革袋も自分
のところまで持っていけば良かったのに、と感じたのは言うまでも
ない。
120
3
﹁ん⋮⋮?﹂
火に当たりながら身を休ませていると、ふと掠れた呟きが聞こえ
てきた。ふと見やると、寝かせていた女性が上半身を起こし、未だ
鈍く痛んでいるのだろう額に右手を当てて呻いている。
﹁ユートさん、目を覚ましましたよっ!﹂
アリーテのはしゃぐような声に、彼女はようやく俺達の存在に気
がついたらしい。ハッと顔つきを変え、顔を上げてまず俺にその澄
んだ蒼い瞳を向け、次にアリーテへとその視線を移す。途端、彼女
は驚愕からか目を瞬かせて、
﹁天使⋮⋮か?﹂
と、戸惑った口調で独り言のように言った。その声色は外見に違
わず凛としていて、仄かな威厳すら含まれているように感じられる。
﹁そうですよっ﹂
相手が自身の異質な姿に動揺しているのにも関わらず、アリーテ
は人懐っこい笑みを浮かべ、胸を張る。
﹁私は何を隠そう、天界からこの世界へ使わされたバリバリの現役
天使なのですっ﹂
﹁まだ修行中だろ﹂
121
ツッコミを入れると、騎士は再び俺の方を向いて、
﹁君は⋮⋮﹂
美人に真っ直ぐな瞳で見つめられ、俺は内心で照れながらも、
﹁俺はユートっていいます﹂
﹁私はアリーテです。ちなみに、ユートさんは勇者なんですよっ﹂
今度は天使の方が横槍を入れてきたのだが、天使の言葉を聞いた
途端、彼女の血相が変わった。
﹁ゆ、勇者殿!?﹂
その声色はとても上擦っていて、俺は少し面食らいながらも、
﹁あ、はい。一応、勇者です﹂
と、無難な返答をする。
﹁私達、近くで倒れてた騎士さんをここまで連れてきたんですよっ﹂
﹁それは⋮⋮﹂
彼女は両目を大きく見開き、しばらく言葉を失っていた様子だっ
たが、やがて地面の上に姿勢を正し、
﹁素性を知らずに御無礼を働いた事、本当に申し訳ない﹂
122
と、深い土下座を俺に向けてくる。俺は慌てて彼女に声を掛けた。
﹁いや、そんなにかしこまらなくていいですよ。多分、俺の方が年
下ですし﹂
﹁ですが﹂
﹁大丈夫ですよ。ユートさんは勇者とはいっても、まだまだ駆け出
しのひよっこですから。そこまで気を遣わなくても大丈夫です。敬
語じゃなくて全然オッケーです﹂
お前だってひよっこじゃないか、と思わず口に出してしまいそう
になったが、それを懸命に堪える。何にせよ、ここで彼女の言があ
るのは有り難い。
﹁はい、アリーテの言う通りですよ﹂
騎士の女性は俺達の言葉に気を許したらしく、
﹁それでは⋮⋮お言葉に甘えさせてもらおう﹂
と、平静を取り戻した様子だった。
﹁私の名はセイーヌ、メデキア王国の第九十六騎士隊に属する者だ﹂
﹁メデキア王国?﹂
首を傾げたアリーテに、セイーヌと名乗った騎士は説明を始めた。
彼女の話によれば、メデキアはケーリアとは別方向に存在する強大
123
な王国なのだそうだ。ここから遙か遠い地にあるのだという。
﹁そんな王国の騎士さんが、どうして遙々こんな所までやってきて
るんですか?﹂
アリーテが不思議そうに目をパチクリさせながら質問すると、彼
女は真剣な表情で、
﹁その理由は⋮⋮王都内で、奇妙な事件が起こったからだ﹂
﹁奇妙な、事件?﹂
聞き捨てならないフレーズを受け、俺の背筋に緊張が走る。
﹁一体、どんな事件なんですか?﹂
﹁話せば少し長くなるが﹂
そう前置きしてセイーヌは語り始める。王都には沢山の店が存在
し、凄惨な商売戦争を繰り広げられているらしいのだが、ここ最近
になって、魔力補給を効能とする薬の類が、大量に盗まれる事件が
多発しているらしい。標的となっているのは、主に道具屋や魔法店
なのだが、その全てが被害を受けていたので、犯人の調査は著しく
難航したのだそうだ。
だが、王国にやってきていた幾人もの旅人達の証言で、事態は一
気に進展を迎えた。悪魔とその手下である魔物達が、盗まれた物品
をネメラ山の方向へ運んでいる事が判明したのだ。そこで国王は、
第九十六騎士隊に対し、現地へ赴き調査を行うよう命じたのだった。
124
︱︱それって。
話を聞き終えた俺とアリーテは、自然と顔を見合わせる。
﹁ユートさん﹂
﹁ああ、俺も同じ事を思った﹂
困惑の表情を浮かべる彼女に、俺は同意の頷きを返し、そしてセ
イーヌへ向き直ると、
﹁セイーヌさん、実は俺達の方も話しておきたい事があるんです﹂
これまでの経緯を説明すると、彼女もまた驚いたように目を見開
き、自身の口元へ丸めた人差し指を当てて考え込む。微風と友に、
彼女の艶のある銀髪が僅かに揺れた。俺は言葉を続ける。
﹁メデキア王国で起こってる事件と、俺達が遭遇した事件。もしか
したら、何か関連性があるんじゃないんですか?﹂
﹁確かに⋮⋮私もそんな気がする﹂
俺は事件に関して話し合いを更に続けよう口を開きかけた。だが、
俺が言葉を発するその前に、
﹁⋮⋮あれ? ちょっと待って下さい﹂
と、何かに気がついたらしいアリーテが、可愛らしく首を傾げて
会話に割り込んできた。
125
﹁さっきの話だと、セイーヌさんは騎士隊の皆さんと一緒にここま
で来てたんですよね? それなのに、どうして今はお一人なんです
か?﹂
︱︱あ。
彼女の疑問に、俺もまたハッとさせられる。確かにアリーテの言
う通りだ。セイーヌの話が本当なら、彼女の他に隊員がいて当たり
前な筈だ。いくら何でも敵地に近い場所で単独行動など、普通なら
有り得ないだろう。
にも関わらず、彼女は一人で道に倒れていた。
その状況が示す理由を考え、俺の脳裏を真っ先によぎったのは。
﹁それは﹂
表情を曇らせたアリーテは、やがて、言葉を震わせながら告げた。
悔しさと憤りと、そして悲しみの綯い交ぜになった声色で。
﹁⋮⋮私を残して、全滅したからだ﹂
126
4
冷たい夜風が、俺達の間を吹き抜けていく。近くの林からバサバ
サと翼をはためかせる音が聞こえてきたかと思うと、漆黒の鳥が一
羽、場にそぐわない賑やかな鳴き声と共に飛び立っていった。そし
て再度訪れる、痛いくらいの沈黙。普段は騒がしいアリーテもしん
みりとした面持ちで、何かを察したように口を噤んでいた。重苦し
い空気を破り、俺は静かに口を開く。
﹁あの、全滅って事は⋮⋮﹂
﹁ここへ来る道中、強大な力を秘めた魔物に出くわしてな﹂
顔を悲痛に歪めながら、セイーヌはポツリポツリと語り出す。
﹁一人、また一人とやられ⋮⋮最後まで生き残っていた団長も私を
庇い、怪物と差し違えて死んでいった﹂
私だけ、生き恥を曝しているようなものさ。そう自虐気味に洩ら
した彼女に、俺は掛ける言葉を見つけられなかった。人生経験のな
い俺が、彼女を励ます事すら、おこがましいように感じられたのだ。
しかし。
﹁そんな⋮⋮恥なんかじゃないですよっ!﹂
いつも空気を読まない見習い天使が、深くうなだれて沈みこんで
いる彼女へ、訴えかけるように声を張り上げる。俺は唖然として隣
を向いた。セイーヌもまた顔を上げ、発言の主を見つめる。二人か
127
ら注目を浴びているにも関わらず、アリーテは緊張感を欠片も感じ
させない調子で、しかし悲しげな表情を浮かべ、
﹁騎士団の人達が亡くなられたのは、セイーヌさんにとって、確か
に辛い事だと思います⋮⋮でも、生きてる事が恥だなんて、そんな
事は絶対に無いです! セイーヌさんを庇った団長さんだって、セ
イーヌさんが生きててくれて良かったって、心から思ってる筈です
っ!﹂
﹁アリーテ⋮⋮﹂
正直、今の俺には、彼女の発した言葉が正しいものなのか判断出
来なかった。アリーテが一生懸命励まそうとしていたのは十分に伝
わったのだが、その意気込みが空回りして、逆にセイーヌを傷つけ
てはいないかと、それが本当に心配だったのだ。恐る恐る、俺は物
言わぬ騎士の方へと視線を移す。彼女は唇を強く結び、何か思い詰
めているような面持ちだった。きっと胸の内で、アリーテが口にし
た文章について思い悩んでいるのだろう。
やがて、セイーヌの口元に湛えられた僅かな微笑みが、彼女の抱
くどのような気持ちを表していたか、俺には分からない。ただ、彼
女は、
﹁有り難う、アリーテ殿﹂
と、深く穏やかな声色で天使へと話しかけた。
﹁私自身、色々と投げやりな気分になっていた事におかげで気づけ
た。感謝する﹂
128
﹁いえいえ、そんな大した事は⋮⋮﹂
二人の会話を聞き、俺は内心でホッと安堵の息をつく。ハッキリ
とは分からないが、セイーヌの様子を観察するに、悪い方にはさほ
ど影響していないように思えた。
﹁そういえば、セイーヌさん。お腹は減ってないんですか?﹂
﹁ん、いや。助けてもらった上、そこまでお世話になるわけにはい
かな⋮⋮﹂
皆まで話し終える前に、セイーヌの腹がグゥと盛大に鳴る。たち
まち、彼女の端正な顔が羞恥心からか真っ赤に染まり、アリーテは
真っ先に吹き出した。一方、俺は堪えきれない分の笑みを洩らしつ
つ、
﹁そんな、気になさらないでいいですよ。今から準備しますから、
ちょっと待ってて下さい。料理とか慣れてないので、大した物は出
せないですけど﹂
再び食事の用意をするのに、さほど時間はかからなかった。粥の
入った椀を、セイーヌは感謝の言葉と共に受け取る。よほどお腹が
空いていたのだろう。最初こそ行儀よくスプーンを丁寧に扱い、料
理をゆっくり口へ運んでいたものの、次第に食事のペースは上がり、
終いにはかき込むような食べ方になっていた。
十分と経たないうち、鍋の中身は空っぽになる。取りあえず腹ご
しらえを済ませたところで、
129
﹁そういえば、まだ聞いてませんでしたけど﹂
と、少し膨れ上がったお腹をさすりながら、アリーテが口を開い
た。
﹁セイーヌさんはどうして、ここまで来てたんですかっ?﹂
﹁ああ、それは﹂
女騎士が語るところによると、たとえ自分一人になったとしても、
彼女は任務を遂行するつもりらしい。だから、ネメラ山を目指して
歩いていたのだという。話が終わった後、アリーテはパアッと顔を
輝かせ、
﹁それなら、私達と一緒にいきませんか!?﹂
彼女の言葉を受け、セイーヌは戸惑ったように、
﹁⋮⋮良いのか?﹂
と呟くように言い、俺の方を向く。全く異存がない俺もまた、大
きく首を縦に振った。
﹁目的地も目指す理由もほぼ同じですし、人が多い方が心強いです。
セイーヌさんさえ良ければ﹂
俺とアリーテの意見を聞いたセイーヌは腕組みをして考え込んだ
が、やがて肩の力を抜き、
130
﹁それなら、しばらく共に行動させてもらおう﹂
嬉しい返答に、俺とアリーテは自然と顔を見合わせ、そして彼女
に向き直ると、
﹁わーいっ! 大歓迎ですよっ!﹂
﹁セイーヌさん、これからよろしくお願いします﹂
﹁ユート殿にアリーテ殿、こちらこそよろしく頼む﹂
﹁あ、まだまだ聞き忘れてた事がありました﹂
と、急に手をポンと叩いた天使は、無邪気な声で騎士にこう訊ね
る。
﹁結局あれは、バナナの皮で転んでただけだったんですか?﹂
﹁そ、それは⋮⋮﹂
︱︱美女が恥ずかしがると、絵になるなぁ。
頬をこれ以上なく紅潮させているセイーヌを目にしながら、俺は
心の中で呟いたのだった。
131
5
翌朝。朝食を終えた俺達は、再びネメラ山へ向けて歩き始める。
とはいえ、肝心の山頂は見えているし、道だってずっと登り調子な
のだから、実質既に登山中のようなものだ。目的地に近づくにつれ
傾斜は急になっていき、地面には大小様々な岩や転び石が目立って
くる。
﹁セイーヌさん、足下には気をつけて下さいねっ﹂
ぴょんぴょんと小刻みにジャンプしつつ、アリーテが前をいく騎
士に明るく声を掛けた。ちなみに隊列は前からセイーヌ、俺、アリ
ーテの順番だ。そんなに距離が離れているわけでもないから、自然
と二人の動きは俺の視界に入ってくる。
﹁また、いつバナナの皮が落ちてるか分かりませんからっ﹂
すると彼女は頬を紅潮させ、ゴホンと盛大な咳払いをした後、
﹁べ、別に私はアレを踏んで転んだわけじゃないぞ﹂
と、勝手に弁明を始めた。
﹁厄介な敵に襲われてだな、何とか退けたものの、私は満身創痍と
なって力尽き﹂
﹁あれっ。私、セイーヌさんがバナナの皮を踏んで転んだなんて言
ってませんよっ﹂
132
﹁う、それは﹂
ギクッとしたように、前に進む彼女の体が一瞬仰け反る。俺は深
い溜息と共に、天使の頭を軽くはたいた。途端、
﹁ふにゃっ﹂
という、何ともふぬけた叫びが洩れる。
﹁ユートさん、ヒドいですよ。いたいけな女の子の頭を強烈に殴り
つけるなんて、勇者にあるまじき非道ですっ﹂
﹁お前がセイーヌさんをからかうからだ﹂
﹁からかうような気持ちなんて、半分くらいしか無かったですよぅ﹂
﹁半分はあったんじゃねえか﹂
﹁もう半分は愛情です﹂
﹁嘘だろ﹂
﹁ジョークです﹂
俺は彼女の頭をもう一度はたいた後、前を向いた。後ろから、う
わああん、という盛大な泣き声と共に恨み節が耳に届いてくるもの
の、断固として無視する。少しだけ足早に進んだ事で、セイーヌと
並ぶような位置になった。なびく長髪と同じ銀色の鎧を纏った長身
の彼女は歩き姿も堂々としていて、まさに百戦錬磨の戦士といった
雰囲気がある。俺は彼女にフォローの意味も含めて話しかけた。
133
﹁でも、セイーヌさんが一緒に来てくれて本当に頼もしいですよ。
俺は獣を追い払えるくらいがやっとですし、アリーテが扱う魔法も
野生動物とかには効かなくて。戦い慣れた現役の騎士が同行してく
れてると思うと安心感が全く違いま⋮⋮セイーヌさん?﹂
相手の様子がおかしいように思え、俺は心配から呼びかける。俺
の話を聞くうち、セイーヌの表情がだんだんと強ばっていくように
感じられたのだ。
﹁ん、ああ﹂
名前を呼ばれて我に返った様子の彼女は小さく肩を竦め、
﹁少し、考え事をしていてな﹂
と、外見に違わない落ち着いた調子で言う。
﹁あーっ!﹂
突然、後方から耳をつんざくかのような叫び声が上がり、俺は思
わず飛び上がりそうになった。足を止め、驚きを与えた張本人に振
り向く。
﹁おい、いきなり大声出すなよ﹂
134
﹁そこそこ、そこ見て下さいっ!﹂
尋常ではない様子で前を示すアリーテの指先を、俺は追う。そし
て、おや、と心の中で呟いた。とある物体が地面の上に落ちていた
のだ。俺は近づき、その黄色い抜け殻をつまみ上げる。
﹁ここにも落ちてるのか、バナナの皮﹂
﹁でも、おかしくないですかっ?﹂
口元に手を当てたセイーヌが、考え込みながらも言の葉を発する。
﹁そうだな⋮⋮この近辺にバナナの木なんて見当たらないし、奇妙
といえば奇妙だ﹂
﹁農園があるとも思えませんしね﹂
立地が悪すぎるし、何より人を今まで全く見かけていないのだ。
そういった線は考えにくい。
﹁不思議ですよね﹂
アリーテが首を傾けて言った、まさにその時。先ほどよりも強烈
な衝撃が俺を襲った。獣の低い砲哮が聞こえてきたのだ。続いて、
何かが駆け下ってくるような足音。俺達は慌てて周囲を見回す。
﹁なになに、何なんですかっ!?﹂
﹁俺にも分からねえよ!﹂
135
そして、パニックになる俺達の正面に、ソレは姿を現した。人間
のような体つきに、顔以外を覆う茶色い体毛。一見してアレを連想
した俺は、呆然と呟く。
﹁⋮⋮猿人?﹂
そう、まさに相手は、猿のような人間のような、そんな姿をして
いたのだ。そして、その表情は険しく、敵意丸だしである。
﹁い、い、い﹂
アリーテは歯をガチガチ震わせながら、
﹁今にも襲ってこようとしてません?﹂
俺はとっさに考える。この状況、戦闘が避けられないとなれば、
最善なのは。
﹁セイーヌさん、頼みます!﹂
俺がそう告げると、ずっと沈黙を保っていた銀の騎士が、驚いた
ように目を丸くする。
﹁わ、私か?﹂
﹁はい!﹂
俺は力強く頷いて、
﹁俺もアリーテも戦いは素人なので、一緒にいると足を引っ張って
136
しまいますから! 俺達は下がっています!﹂
俺の説明を聞き、セイーヌは何故か身を硬直させていたが、やが
て、
﹁わ、分かった!﹂
と、腰につけている鞘から剣を抜き、眼前に構え、既に戦闘態勢
に入っている猿人と対峙する。次の瞬間。猿人はもの凄い唸り声と
共にセイーヌへ走り出した。彼女もまた剣を構えたまま、前方へと
ダッシュする。
そして、両者の体が遂に交差したかと思うと、
﹁ぐあーっ!﹂
猿人の強烈なパンチを食らったセイーヌは、その容貌に似つかわ
しくない情けなさ溢れる叫び声と共に、勢いよく後ろへと吹っ飛ん
でいった。
137
6
︱︱え?
予想外の展開に驚いている間に、セイーヌは盛大な音を立てて後
方の木に激突し、そのまま力無く地面に倒れてしまった。その目は
まるで漫画のようにグルグルと回っていて、彼女が戦闘不能に陥っ
た事を明確に示している。
しかし、まさかセイーヌがたった一撃でやられてしまうとは思わな
かった。絶句してしまったと同時に、ある推測が脳裏をよぎる。
︱︱もしかして、セイーヌさんってあんまり強くないんじゃ。
よくよく考えると、激突する前の動作も何となくぎこちなかった
気がする。
﹁ユ、ユートさんっ! どうしましょう!?﹂
アリーテの呼び掛けで、俺は我に返った。見ると、第一の敵を早
くも破った猿人は、次の狙いを俺達に定めている。明らかに襲って
くる気満々だ。こちらは残り二名。しかし、そのうち一人、いや一
羽はお世辞にも戦力とは言い難い。
︱︱となれば、俺が頑張るしかないのであって。
﹁⋮⋮アリーテは下がってろ!﹂
俺は自らの剣を抜き、猿人との戦闘に突入したのだった。
138
エンカウントから、数十分後。
﹁わわ⋮⋮酷い傷です﹂
地面に座る俺の目の前にしゃがみ、薬の染み込んだ布を手に握る
アリーテが、俺の体を見回した後、呆然とした口調で言った。
﹁まあ、勝てただけでも良しだ﹂
返答しつつ、俺は切れて出血中の唇を舐める。途端、舌の上に鉄
と塩気の入り交じった味が広がった。
﹁すみません、私がお役に立てれば良かったんですけど﹂
﹁別に気にするなよ﹂
柄にもなくシュンとしている天使を宥めつつ、
﹁それより、手当を早く頼む﹂
﹁あっ、そうでした﹂
ハッとした様子のアリーテは、
﹁えい!﹂
と、勢いよく布を首筋の傷口に押し当てる。途端、全神経が逆立
つような電流が体中を駆け巡った。俺は歯を食いしばって、その激
139
痛に耐える。
﹁アリーテ、もう少し優しくやってくれ﹂
﹁わわっ! ごめんなさいっ!﹂
そんなこんなで傷の治療も済み、俺はゆっくりと息を吐きながら、
辺りを見回す。襲撃者との戦いで、周囲の木々もまた沢山の傷を負
っていた。尤も、それらを斬りつけてしまったのは、剣の扱いに不
慣れな俺だったのだが。また、土や草には夥しい血痕もこびりつい
ていた。ただ、敵の死体は無い。何度もガムシャラに剣を振ってい
るうち、奇跡的に刃が猿人の肩に命中し、相手は苦痛に顔を歪めな
がら逃げていったのだった。
﹁⋮⋮あの﹂
回想に耽っていた俺は、天使とはまた別の声を聞き顔を上げる。
銀髪の女騎士が、申し訳なさそうな表情で俺の前に立っていた。
﹁本当に済まない。全く役に立てなくて﹂
﹁いや、そんな⋮⋮﹂
言葉を濁してしまったが、すぐに思い直す。これは生死に直結す
る問題だ。気は引けるものの、しっかり確認しておかなければなら
ない。だが、どう切り出していいか分からず悩んでいると、やがて
彼女の方から、
﹁⋮⋮私は、未熟な騎士なんだ﹂
140
と、言の葉一つ一つを洩らすように話し出した。
﹁実をいうと、属していた部隊も、そういう者達の寄せ集めだった
んだ﹂
﹁確か、九十﹂
﹁第九十六騎士隊だ﹂
よくよく考えてみれば、九十六という数字は百番台にも近い。そ
れだけ騎士隊の中で、優先順位が低かったのだろう。言い方は悪い
が、俗にいう落ちこぼれ集団というやつなのかもしれないと思った。
無論、口が裂けても本人に告げられないが。
﹁もっと早く伝えるべきだったんだが、どうしても言えなかったん
だ⋮⋮頼られて、嬉しかったから﹂
暗い表情で謝ってくる彼女を見て、俺の心中に重い罪悪感が広が
っていく。特に、最後の言葉が胸に刺さった。彼女はきっと、俺達
の中で年長であるという事に、責任も感じていたに違いない。騎士
隊同士の交流でも、数々の辛酸を舐めてきたのだろう。言葉を掛け
ようにも、その言葉自体が見つからなかった。下手な同情や励まし
は、彼女の心を更に傷つけ、古傷を抉る結果に繋がってしまうだろ
う。
︱︱なら、どうすればいい?
口にするべき文章に悩み続けているうち、辺りが暗くなったよう
な気がして、頭上にに目をやる。晴れ渡っていた空にいつの間にか
雲がかかり、枝葉の間から差し込む僅かな日光すら奪っていたのだ。
141
偶然といえばそれまでだが、何だか俺とセイーヌの心境を代弁して
いるような気がして、更に胃袋がひどく落ち込んでいく。
﹁まあ、別にいいじゃないですか﹂
彼女のあっけんからんとした声が響きわたった、まさにその瞬間。
暖かい日差しが、俺達を照らし出した。
﹁私達みーんな、似た者同士ですし。これも何かの縁ですよっ﹂
人差し指を天に向け、アリーテは相変わらずの得意げな口調で話
し出す。
﹁私も、セイーヌさんも、ユートさんも。まだまだ足りないトコだ
らけですけど、その分、これから成長していけば良いんですし﹂
﹁これから、成長⋮⋮﹂
天使の口にした言葉を、騎士は繰り返し呟く。アリーテはおもい
っきり首を縦に振って、
﹁はいっ!﹂
と、元気よく叫んだ。
︱︱こういうところは、コイツの長所だよな。
142
心の中で呟いた途端、俺の口元は自然と笑っていた。ポジティブ
というか、脳天気というか。この天使が紡ぐ裏表のない正直な声は、
何だか、人を和ます不思議な力を持っているような気がする。聞い
ているこちらも、素直な言葉を吐き出したくなるような。
だから、思わず口に出してしまっていた。
﹁ま、なかなか面白いパーティだよな﹂
戦いに不慣れな転生勇者。唯一の魔法が普段全く使い物にならな
い天使。雰囲気に実力の伴っていない騎士。ロールプレイングゲー
ムで例えるなら、全員がレベル一のようなものだと思った。
︱︱ザ・半人前パーティ。
ふと、そんな言葉が思い浮かんだ。
﹁⋮⋮そうだな﹂
いつの間にか、セイーヌは憑き物の取れたような、爽やかな微笑
みを浮かべていた。彼女に似つかわしいような、表情だった。
﹁よし、それじゃ﹂
皆の気分も晴れやかになった事だし、と俺は声を張り上げた。
143
﹁そろそろ、出発するか!﹂
144
7
あれから。頭上高く上っていた太陽もすっかり地の底へと沈んで
しまい、辺りには夜の影が下り始めていた。そろそろ野宿でもしよ
うかと話していた矢先、アリーテが小さく声を上げる。その視線の
先を目で追うと、そこには異様な光景が広がっていた。無数の空洞
が岩の表面に出来ていて、そこから無数の猿人達が出入りを繰り返
していたのだ。俺達は取りあえず近くの茂みに隠れて様子を伺う。
﹁あんな穴ボコだらけなのに、山が崩れたりしないんですかね?﹂
﹁さぁ、意外にバランス取れてるんじゃないか?﹂
﹁二人共、あれを見ろ﹂
セイーヌがそのほっそりとした指先で示した先には、両手に様々
な荷物を抱えている集団があった。その中にはケーリアから盗み出
されたポーションも見受けられる。俺の中に存在していた推測が、
明らかな確信に変わっていった。
﹁どうやら、ここが例のアジトみたいだな﹂
﹁でも、中はどうなってるんでしょう?﹂
﹁どうにか侵入出来ればいいのだが⋮⋮﹂
亜人の行き交う様を観察しつつ、俺達は内部で入り込む方法を探
す。しばらくして、横の天使が俺の服の袖を引っ張った。
145
﹁あそこはどうでしょう?﹂
アリーテが提案してきたのは、岩壁の隅に存在していた空洞だっ
た。目立たないのか、それとも隅っこに位置するそこをわざわざ通
ろうとも思わないのか、猿人達はその他の大きな入り口から山の内
部へとのろのろ歩いていく。俺達は無言で頷きあうと、抜き足差し
足でそうっと移動し、素早く穴の中へ身を滑り込ませた。空洞の中
は月明かりすら遮られ、前方は漂う闇で殆ど視界が効かない。手探
りで進んでいると、アリーテは心細そうな調子で、
﹁暗いですね⋮⋮明かりつけませんか?﹂
﹁いや、そんな事したら忍び込んだのが気づかれるかもしれないだ
ろ﹂
﹁あっ、そうですね﹂
﹁面倒だが、慎重に進むしかないようだな﹂
一方、セイーヌの方は冷静な声色だった。やはり、年の功という
ものだろうか。
互いの足を踏まないよう注意しつつ、俺達は前へと音を立てない
よう進んでいく。やがて、洞窟の向こう側に小さな出口の灯りが見
え始め、緊張に苛まれつつも、俺達は岩の影からそっと辺りの様子
を確認した。やがて、隣の二人が小さく声を上げる。
﹁わわっ、ポーションが一杯です﹂
﹁都からの盗まれた品も沢山あるぞ﹂
146
そう。山の中は巨大な空間が広がっていて、そこらに盗難品と思
しき物が無造作に散らばっていた。猿人達もまた、せわしなくそれ
らを運んでいる。ここまでくると、最早間違いない。
﹁けど、ここで一体何してるんだ?﹂
﹁ユートさん、サイドで猿人達の考えを調べてみたらどうですか?﹂
﹁えっ、これって人外にも聞くのか?﹂
﹁うーん、分からないですけど、ものは試しという事で﹂
﹁分からないのかよ⋮⋮﹂
だが、情報を集めるにはそれが手っとり早そうだ。俺は近くを通
りがかった猿人に目標を定めると、自分の力を発動した。
SIDE︱︱猿人
ずっと働かされ続きで、体が重いウホ。
けれど、アイツからバナナを貰う為には仕方ないウホ。
147
アイツの指示に従えば、美味しいバナナを貰えるんだウホ。
しかし、どうして山の地下にこんな通路が出来てるんだウホ?
まあ、細かい事は気にしてもしょうがないウホ。
オデがやらなければならないのは、このみょうちくりんな物を通
路の向こうのお屋敷まで運ぶ事ウホ。
さあ、もう一踏ん張りウホ。
﹁⋮⋮バナナの皮が落ちてたのはそういう事だったのかよ﹂
﹁何か分かったんですか?﹂
サイドを使用して体力を消耗した事もあって、俺はげんなりとし
た気分に陥る。アリーテが訊ねてきたが、セイーヌもまた、不思議
そうに眉を潜めて俺を見つめていた。そういえば、彼女にはまだこ
の力の事を伝えていない。
﹁今、何をしたんだ?﹂
案の定、戸惑いの問いを投げかけられ、俺は一瞬考えた後、
﹁セイーヌさん、細かい事は後で話します﹂
148
と、前置きして先ほど得た情報を彼らに伝えた。
﹁なるほど、つまりこういう事だな﹂
神妙な面持ちの騎士が、要点を整理するように話し出す。
﹁この山の地下には別の場所⋮⋮お屋敷と呼ばれるどこかへ繋がる
通路が通っていて、ここの猿人達は報酬のバナナと引き替えにして、
そこへ盗んだ物品を運び込む作業をしていると﹂
﹁でも、そのお屋敷って、一体どこにあるんでしょう?﹂
﹁それに、どうしてこれらの物品を運んでいるかもまだ分からない
よな﹂
謎に次ぐ謎に、俺達の考えは混乱していく。まだまだ、分からな
い事だらけだ。ただ一つ確かな事は、これらの奇妙な作業を取り仕
切っている奴は、きっとろくでもない事を考えているに違いない、
という事。
︱︱で、肝心なのはこれからどうするかだけど。
脳細胞をフル回転させて考えてみるが、一向に良い案は思い浮か
ばなかった。強行突破は俺達の力から考えて無理だが、それじゃあ
他に作戦はあるかというと皆無である。
三人とも黙り込んでそれぞれの考えに耽っていた、まさにその時。
149
﹁ほらほら、テキパキ動きなさい!﹂
どこかで聞き覚えのある高飛車な叫びが、俺の耳に届いてきた。
150
8
﹁ユートさん、この声って⋮⋮﹂
隣のアリーテが、目を瞬かせて呟くように言う。恐らく彼女も俺
と同様、声質に聞き覚えがあったんだろう。返事をする前に、もう
一度怒声が辺りに響きわたった。
﹁キチンと働かないと、バナナあげないわよ!﹂
やはり、聞き違えるわけがなかった。
﹁ああ、間違いない﹂
俺は首を縦に振って、
﹁ケーリアで騒動を起こしてたアイツだ﹂
﹁名前は確か⋮⋮メガベロベロリでしたっけ?﹂
﹁そんな感じだったな﹂
﹁知り合いか?﹂
真剣な表情で訊ねてきたのセイーヌに事情を話すと、彼女は眉を
潜め、
﹁なるほど、人間に化けて宿働きしていたとかいう、例の犯人なの
か﹂
151
﹁その通りですっ﹂
﹁だが、これは厄介だな﹂
﹁そうですね⋮⋮﹂
俺は彼女に同意の言葉を発する。前回はアリーテの卑怯な不意打
ちのおかげ、と言うには少し抵抗があるが、とにかくその所為で何
とか撃退に成功した。だが、今度はそう簡単にはいかないだろう。
何しろ、この広い空間には無数の猿人達が汗水流して働いている。
悪魔がどこにいるか探ろうと広い空間に足を踏み入れれば、たちま
ち気がつかれてしまうだろう。当然、背後からの奇襲だって難しい。
︱︱じゃあ、どうするべきか。
心の中で、俺達がここに来た目的を確認する。セイーヌは、王都
で起こっている事件に関しての調査。これに関しては、既に目的を
果たしたといえるだろう。こんな事を考えるのは彼女にも、彼女の
同僚達にも申し訳ないが、任務を与えたお偉いさん方も、そこまで
期待して戦闘に不慣れな彼らを送り出したわけではなかった筈だ。
もしかすると、他に重大な問題が幾つもあり、相次ぐ盗難の方へと
割く人員がいなかったのかもしれない。とにかく、この山で怪しげ
な動きが起きている事さえ報告してしまえば、働きとしては十分だ
ろう。少なくとも、セイーヌが咎められる事はない筈だ。
一方、俺やアリーテの方は、厳密にいえば神様からの命だが、誰
かに明確な指示を受けたわけでも、仕事としてここへやってきたわ
けでもない。この世界をより良くする指名があるとはいえ、しばら
く様子を見ても、罰せられはしないわけだ。現状、正面突破はあま
152
りに無謀なのだから、そうした方が賢明だろう。
︱︱ここは一度退いて、セイーヌさんが働いてるっていう王国に助
けを求めるべきか?
考えがまとまりかけ、口を開こうとした時だった。両手をパンと
強く打つ音が聞こえてきたかと思うと、
﹁はい! じゃあ今日の仕事はこれで終わり!﹂
高らかな宣言と同時に、歓声にも似た猿人達の砲哮が湧き起こっ
ていく。
﹁どうする、ここを出るか?﹂
セイーヌの問いかけに、俺は小さく首を振って、
﹁いや、もう少し様子を見ましょう﹂
俺達が隠れている場所はちょうど内部の猿人達からは死角のよう
になっている。行きにこの入り口を使う者が皆無だったのだから、
逆も然りと考えたのだ。上手くいけば、全員がこの場所から去った
後、内部を調べる事も出来る。
﹁ほらほら! さっさと一列に並ぶ﹂
苛立ちを滲ませた叫びが上がると、アリーテが頭を傾げて、
﹁一列に並ばせて、何するんですかね? 持ち物検査?﹂
153
﹁いや、それは絶対にないだろ﹂
全裸だし、という言葉は、流石に周りが女性二名なので飲み込ん
だ。岩陰から様子を伺うすると、散らばっていた猿人達がのろのろ
とした動きで列をなしていくのが見える。あの列の先頭に、恐らく
例の悪魔がいるのだろうと容易に推測がついた。
﹁今日のバイト代もらったら、とっとと帰りなさいよ!﹂
﹁あっ、お給料配ってるんですか﹂
なるほど、といった調子でアリーテが小さく両手を合わせる。観
察していると、報酬を受け取った猿人達が、黄色き果実を握りしめ
て続々と出口へと向かっていく。御馳走を手に入れた歓喜のせいか、
その動きはとても軽やかなものだった。
﹁日給バナナ一本⋮⋮﹂
哀れな労働者の姿を眺めながら、俺は彼らの境遇に対して同情の
溜息をつかざるを得なかった。
﹁とんでもないブラック企業じゃないか﹂
﹁知らぬが仏、ですね﹂
﹁そうか? 別に普通だと思うが﹂
平然として言い放った騎士の言葉に、俺と天使は思わず固まって
しまった。俺達の態度に動揺したのか、
154
﹁な、なんだ。そんな珍しいものでも見るような目をして﹂
と、セイーヌが戸惑いの声を発する。
﹁いや、その。何でもないですよ。ハハハハ﹂
﹁と、ところでセイーヌさんのお給料って、一体どれくらいだった
んですかっ?﹂
﹁私のか? 私の場合は月給なのだが⋮⋮﹂
彼女が告げた額を耳にし、俺は愕然とする。その金額はなんと、
この世界で安物のリンゴを三つ買える程度だったのだ。一ヶ月分で、
リンゴ三つである。恐らく寝床や食事は与えられているのだろうが、
どれだけ彼女の待遇が悪いのか、察するのは容易も容易だった。
衝撃に言葉を失っていると、急にアリーテが俺の服を引っ張り、
セイーヌから離れた位置まで引き寄せた。その両目は今にも溢れそ
うな涙で潤んでいる。彼女は鼻水を啜りながら俺の耳元で、
﹁ううっ⋮⋮セイーヌさんって苦労してたんですね﹂
と、震える声で囁いてくる。
﹁アリーテ⋮⋮一般人の生活水準は本人のためにも内緒にしとくぞ、
いいな﹂
小声で念を押すように言うと、天使は力強く首を縦に振って、
﹁勿論ですっ。人のささやかな幸せを摘み取ったりはしませんっ﹂
155
と、並々ならぬ決意のこもった誓いを立てた。一方、当の本人は
全く訳の分かっていない様子で、
﹁ユート殿? アリーテ殿?﹂
と、困惑の眼差しで俺達を見つめていたのだった。
156
9
﹁あー、やっと配り終わった﹂
収入談義に夢中になっていた俺達を現実へと引き戻したのは、悪
魔の気だるげな声だった。ふと周りを見渡すと、あれほどいた筈の
猿人達は、いつの間にか全員がいなくなっていた。どうやら彼女の
言葉通りに日給を受け取り、そのまま外へと一人残らず出ていって
しまったらしい。
つまり、この場にいるのは俺達と彼女だけ、という事だ。
﹁⋮⋮これって、もしかして結構チャンスじゃないですか?﹂
アリーテが声を潜めて言う。俺達は顔を見合わせ頷いた後、音を
立てないよう忍び足で、空洞の内部へと足を踏み入れた。そこら十
に放置されている物品の陰に隠れ、慎重に歩を進めていく。角を曲
がりかけたところで、俺は後方の二名を手で制止した。そっと顔だ
けを出して、様子を伺う。無造作に置かれていた椅子に腰掛け、だ
らしなく背伸びをしている悪魔の女性が視界に入った。ちょうど俺
達の位置が斜め後ろで死角になっているので、見つかる心配なく様
子を観察する事が出来る。腰までかかるピンクの髪、人ならざる者
と暗に示している紫の素肌、現在は畳まれている背中の黒き翼、そ
して頭から突き出している二本の角。相変わらずの異様な外見が目
を惹いた。ただ宿の時と服装は違っていた。もう人間に化ける必要
も無くなったので、恐らくはその所為だろう。今現在、彼女が身に
つけているのは自らの翼と同じ色をした漆黒の衣装で、そのデザイ
ンは悪魔らしく大胆なものだった。太股はその大部分が露出してい
て、健康的な色ではないとはいえ、そのきめ細やかな素肌はとても
157
眩しく映る。胸元も開いていて、豊かな二つの膨らみが生じさせて
いる深い谷間は、正直、俺には些か刺激的過ぎた。
思わず見取れてしまっていると、彼女が手を動かす。忽ち緊張を
取り戻した俺は身構えたが、すぐに拍子抜けしてしまった。相手は
ただ、大きな欠伸をしただけだったのだ。その拍子、彼女の艶めか
しい唇の中から、短い牙が顔を覗かせる。その様すら色っぽいと思
えてしまうのは、その一際優れた美しい容姿が成せる技だろう。
﹁傷だらけの体には堪えるわよ、全く⋮⋮バナナを盗みにいくのも
大変じゃないっていうのに﹂
と、悪魔は肩を回しながら愚痴を吐き始める。やはり、俺達の存
在には未だ気がついていないようだ。もしかすると、前の騒動で受
けたダメージのせいで、感覚が鈍っているのかもしれない。
さて、これからどうするか。心の中で呟くと、服を誰かに引っ張
られる。顔を向けると、それはアリーテだった。彼女は無言でジェ
スチャーし、俺とセイーヌに何かを訴えかける。推測するに、どう
やら私に任せろ、という事らしい。色々と悩んだ末、俺はセイーヌ
と目配せした後、小さく首を縦に振って同意を示す。若干の不安は
あるものの、特に名案が思いつかない以上、彼女に任せても構わな
いだろうと考えたのだ。それに、前回はそれで上手くいっている。
続いて、見習い天使は身振り手振りで俺達に下がるよう指示する。
異論を挟む事なく、俺と女騎士はその指示に従い、悪魔の姿が確認
出来る位置を確保しつつ、一歩後ろへと退く。それを確認してから、
アリーテは両目を瞑ってか細い声で何やら呟き始める。忽ち、その
足下に光輝く魔法陣が出現した。その輝きは詠唱が進むにつれだん
だんと強まり、空気も心なしか張りつめていくような感じがする。
158
そして、流石にここまでくれば先方も異変に気がついたのだろう。
悪魔は弾かれたように立ち上がり、俺達の方を向いた。だが、その
紅き瞳が驚きに見開かれた時にはもう遅く。
﹁ホーリー!﹂
叫んだ天使の掌から放たれた目映き光弾が宙を駆け、彼女の腹部
へと直撃した。
﹁ぐうっ!﹂
悪魔はその端正な顔を苦痛に歪め、後ろへとふっとんでいく。や
がて、彼女は積まれていた物品の山へと叩きつけられる。この好機
を逃す手はない。俺とセイーヌは目配せした後に飛び出し、左右か
ら彼女の喉元へと剣を突きつける。悪魔は苛立った様子で息を荒く
するも、抵抗する素振りは見せない。近づいてみて分かったが、腹
を抱えてうずくまる彼女の身体には、未だ無数の酷い傷跡が残って
いた。俺の巻いた包帯こそ既に取り去っているものの、やはりダメ
ージは完全に回復していないらしい。
﹁フフフ、どんなもんですかっ﹂
得意げに胸を張って歩いてくるアリーテに、俺は明るい調子で声
を掛けた。
﹁お前の魔法、悪魔には役に立つんだな﹂
﹁そりゃあ、聖なる力ですからねっ﹂
なるほど。ゲームとかの相性で良くあるパターンだ。かなりアバ
159
ウトな説明である筈なのに、俺はすんなりと納得してしまう。
﹁ところで、コイツはどうする?﹂
﹁決まってるじゃないですか﹂
セイーヌの問いに、アリーテは悪そうな笑みを浮かべ、
﹁どんな手を使ってでも、情報を全て吐かせるんですよ﹂
神聖なる力を扱う者とは思えない鬼畜な物言いである。そんな彼
女の発言を聞き、悪魔は歯軋りしながら、
﹁そんな簡単に私が口を割るとでも思ってるわけ?﹂
と、憎々しげに言った。
﹁そうやって大口が叩けるのも今のうちだけですよ、メガベロベロ
リさん﹂
﹁そんなフザケた名前じゃないわよ!﹂
よほど気に食わなかったのだろう。悪魔は激高して、
﹁私はメファヴェルリーア!﹂
と、再び名乗りを上げた。一方、アリーテは冷めた目つきで、
﹁ふーん。まぁ、貴方の名なんてどうでもいいです﹂
160
﹁キーッ! ムカつくガキ天使ね!﹂
﹁おい、そのくらいにしろよ﹂
このままでは埒があかないと感じ、俺は会話に割り込んだ。俺の
言葉を受け、天使と悪魔は強くにらみ合った後、ほぼ同時にプイッ
と顔を背ける。少し時間を置き、俺は口を開いた。
﹁えっと⋮⋮メファヴェルリーアさん、でしたっけ?﹂
﹁そうよ﹂
横を向いたまま、彼女はぶっきらぼうに肯定を口にする。
﹁じゃあ、メファヴェルリーアさん。俺達に話してくれませんか。
貴女達の﹃計画﹄について﹂
﹁だから言ってるじゃない。簡単に口は割らないって﹂
彼女はフンと鼻を鳴らし、
﹁どうせ、全部話したら殺す気でしょ? そんな見え透いた罠には
乗らないわよ﹂
と、突っ慳貪な口調で吐き捨てた。
﹁チッ、バレてましたか⋮⋮﹂
﹁おい、アリーテ﹂
161
側で悪態をつく見習い天使に、俺は諫めの言葉を掛ける。彼女は
頬を膨らませたものの、
﹁分かりましたよっ。ユートさんの指示に従いますから
と言ったきり口を閉じた。俺は心の中で盛大な溜息をつく。前々
から感じていた事だが、どうやらアリーテは悪魔に関しては並々な
らぬ敵対心を抱いている気がする。恐らく、天使の性分というもの
なのだろう。
そして、その独り言を聞き洩らさなかった悪魔も、
﹁やっぱりね﹂
と、憎悪剥き出しで呟く。どうやら、こちらの印象はかなり悪化
してしまったらしい。
﹁いえ、もう悪さをしないと誓うなら、俺達は貴女の命までは奪い
ません﹂
﹁そんな上っ面だけの言葉、信じられるわけないでしょ﹂
﹁上っ面ではないです﹂
俺はキッパリ言い放ち、彼女を真っ直ぐに見据えた。その宝石の
ような紅の瞳が、僅かだが一瞬揺らぐ。それが彼女の心をほんの少
しでも動かした証拠だと望みを抱き、俺は語気を強め訴えた。
﹁大体そんな事をするくらいなら、前に宿で会った時、あんな真似
をするわけないじゃないですか﹂
162
﹁う⋮⋮﹂
悪魔は言葉を失って、その視線をあらぬ方向へとさまよわせた。
今こそが説得のチャンスだと直感した俺は、その傷だらけの手を握
る。彼女は俺の動作にたじろいだものの、俺の手を振り払おうとは
せず、ただ俺を見つめていた。血の気のない紫の頬に、仄かな朱色
が差していく。小さく息を整えた後、俺ははっきりと、真摯な気持
ちをこめて彼女に言った。
﹁俺を、信じて下さい﹂
163
10
俺の説得を聞いたメファヴェルリーアの険しい表情が一瞬だけ微
かに緩んだような、そんな気がした。
しかし、俺がそんな気を覚えた直後にはもう、
﹁⋮⋮どうせ、そうやって油断させる魂胆でしょ! 騙されないわ
よ!﹂
と、彼女は激しい口調で俺に棘のある言葉を投げかけてくる。
﹁いえ、そんな気はこれっぽっちもないです﹂
﹁どうして? 何で? 私は悪魔で貴方は勇者、敵同士なのよ?﹂
﹁確かにそうです。けど⋮⋮﹂
そこで俺は言葉に詰まった。別に、発するべき事が思い浮かばな
かったわけじゃない。ただ、口にするのが何となく恥ずかしいとい
う、至極単純な理由だった。だが、俺を除く全員が口を挟まず、俺
の話を待ち続けている事に気がつく。いつまでも口を噤んではいら
れないと意を決した俺は、一つ深呼吸をして、気持ちを落ち着けて
から語り始めた。
﹁メファヴェルリーア⋮⋮いや、リーネさんと話して、それで思っ
たんです﹂
かつて人間に化けていた頃の名を口にすると、彼女の目が大きく
164
見開かれた。しかし、その艶やかな唇は結ばれたままだ。俺は言の
葉を一枚一枚、確かめるように文章を紡いでいく。
﹁何だかからかわれもするけど、仕事も気配りも出来て、それで優
しい人だなぁって。正体を知ったときも、まさかあの人がって気持
ちが強かったんです。俺が夜中に訊ねたときも、眠い目を擦って食
料庫まで案内してくれましたし。だから﹂
だから。そこで一旦話を切り、俺は彼女の心に届くよう、強い想
いをこめて言葉を発した。
﹁あの時のリーネさんが全く嘘なわけじゃないって、俺はそう思う
んです﹂
白い服を着て、清楚な雰囲気を身に纏い、宿でも評判の美女。接
した時間はほんの僅かだったけれども、それが全て偽りのものだっ
たとは、到底信じられなかったのだ。
だから、俺もまた信じたい。俺の事を信じられないと言った、彼
女の事を。
俺が口にした精一杯の気持ちが、メファヴェルリーアに通じたど
うかは分からない。ただ、顔を俯けたところをみると、少なくとも
何か心に響くものはあったらしい。
だが、彼女が何かを伝えようと口を開いた、まさにその時。
165
﹁わわっ!﹂
﹁な、何だ!?﹂
アリーテとセイーヌが同時に驚きの声を上げる。それもその筈、
メファヴェルリーアが倒れている右横の空間が、急に歪み始めたの
だ。異変を察した俺達はほぼ同時に後ろへと下がり、構える。
やがて、空間の捻れが収まった頃、同じ場所には見慣れない男が
立っていた。
﹁メファヴェルリーネ、どうやらしくじったようだね。何か起こる
ような気がして立ち寄ってみたが、どうやら正解だったらしい﹂
彼は地面に崩れている彼女へ、親しげに声を掛ける。その口調は
穏やかなものだったが、立ち振る舞いには確かな存在感と、そして
静かな威圧感が混在している。俺は直感した。
︱︱コイツ、絶対にただ者じゃない。
身を強ばらせつつ、俺は相手の様子を観察する。まず、人間でな
い事は一目見れば分かった。メファベルリーアと同様に紫色の肌を
していて、頭には彼女のそれより大きな二つの角がついていたから
だ。肩までかかる髪は闇夜のように暗い。身長は俺よりも遙かに高
く、大人男性の平均よりは間違いなく上だろう。体格はほっそりと
していて、顔つきは柔和だが、冷たい光を宿した青い瞳が、彼を侮
ってはならないと暗に警告していた。
﹁⋮⋮おや﹂
166
やがて、自らを凝視する者の存在に気がついた彼は俺の方を向い
た。いや、恐らくもっと前から気がついていたのだろう。知ってい
て、それでいて今さっき視線を感じたような素振りを見せているに
違いない。
﹁まあまあ、そんなに殺気だった目で初対面の相手を見つめるもの
じゃないよ﹂
口元に微笑みを湛えた彼は、気さくに話しかけてくる。だが、無
難な返事すらしない俺に対し、彼は小さく息をついて、
﹁残念だ、どうやら早くも嫌われてしまったようだね﹂
と、独り言のように呟くと、傍らの同胞へと向き直る。
﹁メファヴェルリーア、大丈夫かい?﹂
優しげな問いと共に差し伸べられた手を、彼女は握り、遅延な動
作で立ち上がると、か細い声で言った。
﹁シュバトゥルス様⋮⋮申し訳ございません﹂
その名を聞き、俺の背筋には寒気が走った。隣でアリーテが息を
飲むのが耳に入ってくる。
﹁シュバトゥルスとは確か⋮⋮﹂
同じく驚愕している様子のセイーヌが、俺に視線を向けつつ呟く。
俺は彼女に対し、僅かに頷いた。
167
シュバトゥルス。例の﹃計画﹄とやらの首謀者。
一方、平然とした様子の相手は、
﹁おや、私の事を既に知っているようだね﹂
と、目を瞬かせながら言う。
﹁それに、彼女の背中に生えた白い羽⋮⋮となると、メファヴェル
リーアの報告にあった、例の勇者御一行という事かな? 何故かも
う一人増えているみたいだが﹂
﹁⋮⋮お前の目的は何だ﹂
首筋を伝う冷や汗を感じつつ、俺は低い声で訊ねる。すると、彼
は微笑みを浮かべたまま、小さく肩を竦めた。
﹁やれやれ、分別をわきまえる少年だと思っていたが、全くの見当
違いだったらしい。年上に質問をする時の態度を知らないとは﹂
まあ、自己紹介くらいはしてあげてもいいかな。彼はそう呟いて、
自らの髪をかきあげる。
﹁私の名はシュバトゥルス。これでも悪魔の間では少しばかり名の
知れた者だ。君達から散々な目に遭わせられたメファヴェルリーア
は、私の部下みたいなものだよ﹂
﹁そんな事はもう知っている﹂
身に纏う雰囲気だけは超一流の騎士にも劣らないだろうセイーヌ
168
が、鋭い口調で言った。
﹁私達が知りたいのは、お前が様々な場所で盗みを働いている理由
と﹂
﹁計画の詳細かい?﹂
計画。その単語を耳にした途端、俺の体は無意識に強ばる。それ
がきっと動作の節々に表れていたのだろう。彼は嘲笑するように噴
き出して、
﹁どこからそれを聞きつけたのかは知らないけれど、あまり詮索す
るような真似はしない方が良い。私を怒らせたくないならね﹂
それは淡々とした、まるで俺達に助言するような声色だった。
︱︱完全に俺達を舐めてやがる。
自然と、剣の柄を握る力が強まる。しかし、それだけだった。相
手の発言がその実力に見合ったものだと心のどこかで察していたか
らだ。
下手な真似をすれば、簡単に殺される。
男として情けないが、そんな危機感が俺の行動を縛っていたので
ある。アリーテとセイーヌも、同様の気持ちを抱いているに違いな
かった。
絶対に攻撃が襲ってこないと確信したのか、彼は俺達の存在など
眼中にないように、傍らの同胞へリラックスした口調で話しかけた。
169
﹁さて、メファヴェルリーア。とっととここから脱出しよう。この
場所は破棄するから﹂
﹁え﹂
彼の言が意外だったのか、彼女の顔に戸惑いの色が浮かぶ。
﹁シュバトゥルス様、どうしてですか?﹂
﹁何、理由は些細な事さ﹂
彼は心底困った、とでもいうような深い溜息をついて、
﹁君がここの住人に配っていた果実の主が、とうとう何か感づいた
らしくてね。只でさえこの山の占拠を白い目で見られていたのに、
これ以上刺激しても良くない。だから、引き上げるというわけさ。
計画の実行にはもう十分な量が集まったしね﹂
﹁なるほど⋮⋮では﹂
と、メファヴェルリーアは俺達をチラリと見た後、
﹁この者達はどうするのですか?﹂
と、彼に訊ねる。その口調が心なしか不安そうに感じられたのは、
俺の気のせいだろうか。
﹁そうだな⋮⋮﹂
170
彼女の問いに、シュバトゥルスは腕組みをし、両目を閉じる。
﹁うーん万が一の事もあるしね⋮⋮﹂
独り言を呟く彼のこめかみに、小さく皺が寄る。しばらく考えこ
んだ後、やがて彼は目を開き、俺達を見る。そしてニコッと笑顔を
浮かべた後、明るい声色でこう告げたのだった。
﹁やっぱり、君達には消えてもらう事にしたよ﹂
171
11
﹁なっ!?﹂
俺が動揺の叫びを上げたと同時、シュバトゥルスはその右手を頭
上へとかざす。その掌から邪悪な光が空中へと発射されたかと思う
と、次の瞬間には岩の天井にぶつかり炸裂した。途端、空洞全体が
強烈な振動に包まれ、パラパラと砕けた岩の破片が俺達の体に降り
懸かってくる。足場が不安定になり、立っていられなくなった俺は
堪らず地面に剣を突き、しゃがみこむ。アリーテは完全にバランス
を崩し盛大な尻餅をついていて、セイーヌは四つん這いになり、転
倒しそうになるのを苦しそうな形相で耐え続けていた。一方、悪魔
達はいつの間にか数センチばかり地上から浮遊していて、高見の見
物を決め込んでいる。転ばないように姿勢を必死に制御しながら、
俺は相変わらずの微笑みを浮かべている男に向かって叫んだ。
﹁おい! 計画の詮索しなくても結局は殺しにかかるんじゃねーか
!﹂
﹁怒らせないなら殺さない、とは約束してないからね﹂
平然とした調子で彼はぬけぬけと言う。
﹁ま、私が直接に手を下さないだけマシというものさ。この洞窟が
完全に崩れさってしまえば、大して痛みもなくあの世へ逝けるだろ
うからね﹂
それじゃあ勇者諸君、さようなら。最後に丁寧な別れの言葉を告
げた後、シュバトゥルスの体は光と共にこの空間から消え去った。
172
数秒遅れてメファヴェルリーアもまた、無表情に俺達を見つめたま
まどこかへとテレポートする。
﹁ユ、ユートさんっ! ヤバいですよっ! このままじゃここ崩れ
ちゃいますよっ! そしたら私達ペシャンコですよっ!﹂
彼らの姿が視界から消滅した後、アリーテが大声を上げた。気が
動転しまくっているようで、彼女の瞳はグルグルと急速回転してい
る。絶賛混乱中らしい。
﹁落ち着け! とにかくこの洞窟を出て﹂
﹁おい! マズいぞ!﹂
俺の言葉を、セイーヌの焦燥感溢れる叫びが遮る。彼女の視線を
目で追い、俺はその発言の意味していた状況をすぐに悟った。なる
ほど、確かにマズい。何しろ、俺達の脱出口は全て、天井から落下
してきた岩の破片群によって塞がれてしまっていたからだ。
つまり、今の俺達はこの空洞の中に閉じこめられてしまったも同
然。
︱︱何か⋮⋮何か方法はないのか?
考えろ、考えろ、考えろ。俺は必死の思いで脳を巡らせ、俺達全
員が助かる方法を模索した。
だが、何度思案しても導き出されるのは結局、そんな方法は有り
もしないという回答。
173
絶望が心中を満たしていく、その時。俺達の頭上から降ってきた
二つの大岩が、俺達をバラバラに引き裂いた。
﹁わわっ!﹂
﹁ぐうっ!﹂
﹁アリーテ! セイーヌさん!﹂
誰も落下物の下敷きとならなかったのは、まさに不幸中の幸いだ
った。だが、両脇に高くそびえ立つ巨岩のせいで俺は二名の姿を視
認出来なくなってしまう。忽ち、先ほどまで抱いていなかった強烈
な孤独感が胸の内に広がっていく。
そして、とうとう真上から、途方もなく巨大な岩石が、俺めがけ
て落下し始めるのが目に入った。
︱︱そんな、嘘だろ。
ケーリアを出発した日が、ついこの間のように思い出される。ま
だ、この世界に勇者として召喚されたばかりだというのに。たいし
て自らの使命を果たす事も出来ず、暗躍する者の計画を止める事も
叶わず、ここで命を落とすとは。耐えがたい悔しさが目にこみ上げ
てくる。
174
﹁⋮⋮ちくしょおおおおおおお!﹂
俺が絶叫したのと同時、岩石は俺の体を押し潰さんとすぐそこま
で迫ってきていた。
意識を失う直前。邪悪な紫色の光が俺の眼前に広がったような、
そんな気がした。もしかするとそれは、俺を死者の国へと誘う、死
神の手招きだったのかもしれない。
光が眩しくて、俺は目を覚ました。途端、うつ伏せになっている
体の節々を堪え難い激痛が襲ってきて、思わず顔をしかめる。こめ
かみもズキリと痛み、何か生温かい液体が肌を伝っていくのを感じ
た。どうやら、洞窟が崩壊した際に傷を負ってしまったらしい。
﹁う⋮⋮﹂
呻き声を洩らしつつ、力を振り絞って背後を確認する。岩の山が
俺の体を下敷きにしているのがすぐ分かった。これじゃ身動きも取
れない筈だ。這い出ようとする気力も最早なく、俺は再び地面に頭
を預ける。意識を取り戻したのも束の間、俺の視界に白い靄がかか
り始めていく。
︱︱アリーテ、セイーヌさん。
175
ぼんやりした思考の中で、俺は彼らの名を呟いた。途端、二人の
顔が脳裏に浮かびあがる。せめて、二人だけでも無事でいてほしい
と、強く願った。
どれくらい、時間が経っただろう。ふと、足音が聞こえた。瓦礫
の山をゆっくりゆっくりと踏みしめて進むような、そんな足音だ。
やがて、完全に焦点すら合わなくなった俺の眼前が急に暗くなる。
人影だ、という事だけは何となく察した。
﹁ふむぅ、随分と惨い真似をするわい﹂
年老いた男性の声が微かに聞こえてくる。
﹁お主、もう少しの辛抱じゃぞ。今、儂が助け出してやるからの﹂
その心強い言葉に、俺は心の中で、ホッと安堵の息をついた。
︱︱助かるんだ。
しかし、すぐに別の心配が首をもたげ、俺は自然とそれを口に出
していた。
﹁まだ、仲間が⋮⋮﹂
﹁分かった、案ずるでない﹂
穏やかな声は、俺の発言を労るように遮った。
176
﹁お主を重荷から解放したら、すぐに他の者も探しにいく。だから、
お主は喋らずゆっくりと休め﹂
﹁⋮⋮ありがとうございます﹂
緊張の糸がプツリと切れ、顔も知らぬ老人に感謝の言葉を告げた
後、俺の意識は深く深く沈んでいったのだった。
177
12
気がついた時、俺は白い布団の中に寝かされていた。
﹁ここは⋮⋮?﹂
困惑しつつも体を起こして周囲を見回す。室内には畳が張り巡ら
され、四隅を支える柱は木製、開いた障子の向こうには縁側が見え
た。その奥には緑溢れる庭、そして小さな池がある。どうやら純和
風木造建築の一軒家らしい。あまりに日本らしい光景を眺め、俺は
一瞬、今までの出来事は全て夢だったのではないかという考えに駆
られるも、すぐにそれが誤りだった事に気がつかされた。
﹁うっ⋮⋮﹂
頭が鈍く痛み、とっさに手で支える。すると、指先が布に触れる。
誰かが包帯を巻いてくれたらしい。すぐ、意識を失う前に会話した
老人の事が頭に思い浮かんだ。
﹁おや、目覚めたのかね﹂
不意に声を掛けられ、俺は再び縁側へ目をやる。いつの間にか、
例の男が立っていた。外見からして、若くても七十代くらいだろう
か。色素を失い真っ白に染まった髪、顔に深く刻まれている皺、た
っぷりと蓄えられた顎髭。それら全てがこの老人に貫禄と威厳をも
たらしていた。背丈はそこまで小柄というわけでもないが、流石に
衰えているのだろう、地味な茶色い衣服から覗く手足は枝のように
細い。特に印象的なのは、右手に握る太い木の杖だった。
178
﹁あの、貴方が助けてくれたんですか?﹂
俺が訊ねると、老人は小さく頷いた。
﹁うむ、ちょっと気になる事があって足を向けてみたのだが、君達
を助ける事が出来て幸運じゃったよ﹂
﹁⋮⋮本当にありがとうございます﹂
俺は頭を深く下げて感謝を示す。彼は皺だらけの手を軽く振って、
﹁そこまでかしこまらんでも良い。どれ、そろそろ腹も減ってきた
事じゃろう。ちょうど、昼食をお主の仲間達に振る舞うところだっ
たんじゃ﹂
﹁アリーテとセイーヌさんは無事なんですか!?﹂
﹁ああ、二人とも君より軽い怪我で済んでおるよ﹂
老人の言葉に、俺はホッと胸をなで下ろした。
﹁さて、お主は歩けるか?﹂
﹁はい﹂
返事をしながら、俺は立ち上がる。足は未だふらつくものの、歩
くのに支障があるわけでもなかった。
﹁よし、それならついてきなさい﹂
179
老人に続き、俺は寝かされていた場所を後にする。縁側を歩いて
いき、廊下を進み、襖を開く。そこは小さな部屋で、旅館で出され
るような食事が三人分と、俺と共に旅をしてきた二名の姿があった。
﹁ユートさんっ!﹂
﹁ユート殿!﹂
俺の姿を目にしたアリーテとセイーヌは、安堵の笑みを浮かべた。
﹁助かったんですね、良かった⋮⋮﹂
﹁俺の方こそ安心したよ。二人が無事でいてくれて⋮⋮あ、一人と
一羽か﹂
﹁まだ、傷は痛むのか?﹂
﹁俺の方は平気です、セイーヌさん達の方は⋮⋮﹂
﹁ああ、私達は軽傷で済んだんだ。だから全く心配いらないぞ﹂
なるほど、多少のかすり傷は目に入るものの、彼女達の体には目
立った外傷は見受けられなかった。
﹁正直、死を覚悟してたんだ。みんな無事だなんて少し信じられな
いよ﹂
心の内をそのまま口に出すと、セイーヌもしみじみといった口調
で、
180
﹁私もユート殿と同じ気持ちだ。あれだけの岩が落下してきて、生
きて脱出出来るとは思ってもみなかった﹂
﹁きっと、運勢が良かったんですよっ﹂
ただ、アリーテだけが平常運転だ。いつも通りの発言に、俺は自
然と苦笑する。だが、不思議と心はなごんだ。
﹁どれ、三人は先に食べ始めていなさい。儂は自分の分を作ってく
る﹂
﹁え、いいんですか?﹂
部屋を出ていこうとした老人に俺は思わず訊ねていた。アリーテ
とセイーヌの対面に置かれた料理は、彼の分なのだとばかり思って
いたからだ。すると老人は微笑んで、
﹁病人に食を待たせるのは酷というものだ。お主が先に食べなさい。
なあに、儂の分の用意はすぐ済む﹂
と告げると、返事も聞かずに歩いていってしまった。こうなれば、
躊躇う理由もない。俺はアリーテとセイーヌの対面に座る。そして、
彼女達に話しかけた。聞きたい事があったのだ。
﹁なあ、あの爺さん。一体何者なんだ?﹂
するとセイーヌは神妙な顔つきになり、
﹁いや、私達もまだ分からないんだ﹂
181
と、腕組みをしながら答える。アリーテも首を傾げ、
﹁私もセイーヌさんも気がついたら別々の部屋で眠ってて、起きあ
がったらあのお爺さんがやってきて、それでここに案内されたんで
す﹂
﹁俺と一緒か⋮⋮﹂
どうも、謎の多い老人だ。単に人の良い爺、と考えるには些か雰
囲気が異質過ぎる。それに、どうしてネメラ山まで来ていたのかと
いう疑問も残っていた。
︱︱取りあえず、注意しないといけないな。
助けてもらった御恩は勿論感じているが、あまりに不透明な部分
が多すぎる。罠という事も有り得るし、慎重になっておくに越した
事はないと思った。
﹁アリーテにセイーヌさん、今はあの人をあまり信用し過ぎないよ
うに⋮⋮﹂
﹁ははは、なかなかに用心深い少年だな﹂
彼女達に用心を促そうとしたところで、背後からしわがれた笑い
声が耳に届いてくる。俺はギクッとしつつ振り返った。そこには自
らの分であろう料理を抱えた老人の姿。
︱︱足音も聞こえなかったのに、どうして⋮⋮。
﹁まあ、安心しなさい。儂はお主達に危害を加えるつもりはない。
182
何しろ天の使いが共にいるのじゃからの﹂
驚愕する俺を後目に、老人はアリーテに向かって微笑みながら腰
を下ろす。
﹁さて、話は食事をしながら進めるとしよう﹂
183
13
振る舞われたのはその殆どが山菜をふんだんに使った食事だった。
汁物に漬け物、そして揚げ物など、自然の食材を存分に生かした料
理はどれも美味しく、日本食に近い味付けは懐かしく感じられた。
従って、何度も何度も白飯をおかわりしたのはある意味必然だった
といえる。望郷の念を少々掻き立てられはしたが、空腹の感情がそ
れに勝っていたので、酷いホームシックにはかからずに済んだ。
昼食の間、老人に求められるがまま、俺達はこれまでの経緯を彼
に説明した。俺とアリーテが遭遇した事件、セイーヌの住む都で起
こった奇妙な出来事、そして最後にはネメラ山での一件。老人は俺
達の話に一切口を挟む事なく、神妙な面持ちで聞き入っていた。
やがて、全員の食器が綺麗に空となった頃。俺達が全てを語り終
えると、彼はまるで独り言のように呟いた。
﹁なるほど⋮⋮それではやはり、あやつはアレを企ててるというわ
けじゃな﹂
﹁あの、今度は私達の方から訊ねたいんですけどっ﹂
俺達を代表するかのように、アリーテが妙にかしこまった口調で
質問した。
﹁ズバリ、お爺さんは何者なんですか?﹂
すると老人は苦笑を洩らした。
184
﹁随分とストレートな物言いをする天使様じゃな⋮⋮だが確かに、
お主達の素性を聞いた以上、儂自身の事も話さなければ公平ではな
いな﹂
コホンと小さな咳払いをした後、彼は俺達の顔を見回して告げた。
﹁儂はドーネル。魔術師だ。とはいえ、誰かに仕えたりは今のとこ
ろしておらんがの﹂
﹁魔術師⋮⋮?﹂
老人の自己紹介を聞き、俺はひどく驚いた。天使や悪魔と御対面
しているのに何を今更、と思われるかもしれないが、それでも魔術
師がいるのはファンタジーの中だけだという無意識的な前提は未だ
俺の心中に強く根付いていたのだ。だが実際に、空想の職業を名乗
る人間が、俺の眼前に存在している。俺は改めて自らのいる世界の
異様さを思い知らされたような気がした。
一方、セイーヌの方は平然としていて、
﹁魔術師の方でしたか。メデキアに御縁は?﹂
﹁先代の王と少しばかり交流はあったが、それくらいだな。最近は
サッパリ立ち寄っとらん。ここでの生活が忙しくての﹂
﹁忙しいって、やっぱり農業生活ですか?﹂
いきなり突拍子もない事をアリーテが言い出したので、俺の目は
点になる。
185
﹁⋮⋮は?﹂
思わず戸惑いの声を上げると、アリーテは得意げな顔つきで、
﹁だってほら、料理の食材が野菜ばっかりだったじゃないですか?
だから、自分で育ててるんじゃないかなと思って﹂
と、聞かれてもいないのに自前の推理を披露する。俺は自らの頭
が重くなっていくのを感じた。
︱︱急に何言い出すんだ、コイツ。大事な話をしてる最中なのに。
一方、ドーネルと名乗った老人の方はというと、
﹁ハハハ、聡明な天使様だ﹂
愉快そうに笑い声を上げ、彼女を誉めるような言葉を口にする。
意外な反応に俺は面食らった。
﹁少しばかりずれてはおるが、大体は当たっておるよ﹂
﹁聡明だなんて、そんなこと⋮⋮えへへっ﹂
アリーテの謙遜が体裁だけなのは、火を見るより明らかだった。
何しろ、汚れを知らぬほどに純白の羽がピョコピョコと嬉しそうに
動いているのだから。名探偵でなくとも容易に察しがつく。
﹁おっと、いかんの。話を戻そう﹂
と、見習い天使より遙かに聡明な雰囲気を纏っている老人が話題
186
を変えた。
﹁どこまで話したか⋮⋮そう、儂が魔術師である、というところま
でじゃな﹂
確認するように独り言を呟いた後、ドーネルは自ずと聞き入って
しまうような深い声色で語り始める。彼の話によれば、ある日、こ
の家の近辺にあるバナナの木から、実が大量に無くなる現象が頻繁
に起こるようになったのだという。最初のうちは食い意地の張る獣
の仕業かと思っていたらしいが、だんだんと日にちが経つにつれ、
どうもおかしいと考え始めた。
それから調べを進めていくにつれ、この地からさほど離れていな
い場所に名のある悪魔シュバトゥルスが拠点を構えた事を知った。
これは何かあるに違いないと思ったドーネルは少しずつ探りをいれ
ていき、そして遂に彼がとある危険な計画を押し進めている事実を
掴んだ。また、ネメラ山で彼の一派が活動している事も突き止め、
自らの目で事態を確認するために現地へと赴いた。そこでユート達
を発見したのだという。
﹁その﹃計画﹄とは一体?﹂
﹁ふむ、話せば長くなるが﹂
セイーヌの問いを受け、ドーネルの顔に刻まれた皺が、いっそう
深くなった。
﹁だが、この問題についても、お主らには知る権利があるだろう⋮
⋮いや、むしろ知ってもらいたいのじゃ。勇者であるお主には、特
にな﹂
187
老人から意味深な眼差しで見つめられ、俺は些か落ち着かない気
分に陥った。
︱︱俺に、知ってもらいたい? どうしてだ?
心の中で、小さな疑問がだんだんと膨らんでいく。一方、彼は俺
から目を逸らすと、アリーテやセイーヌにも視線を向け、大きく息
を吸った後、意を決したように口を開いた。
﹁お主達は﹃トルーミアの水晶﹄という品を知っているかの?﹂
188
14
︱︱トルーミアの水晶。
語感からして、何かいわくがあるのだろう事は想像に難くなかっ
たが、この世界に来てまだ間もない俺の知識内にその名は存在しな
かった。
﹁いえ、俺は知らないです﹂
俺は正直に老人の質問に答える。セイーヌもまた、
﹁私も聞いた事がないな⋮⋮﹂
と、少し曲げた人差し指を顎に当てて呟いていた。アリーテはと
いうと、高速で頭を横にブルブルと振りまくっている。動作に釣ら
れ、目映い金髪もまたゆさゆさと激しく揺らめいている。もうツッ
コミを入れるのも疲れた。
﹁ならば、その品についての昔話をまずせねばな﹂
そう前置きしてドーネルが語ったのは、まるでおとぎ話のような
物語だった。
かつて、トルーミアという名の美しき魔女がこの大陸に住んでい
た。彼女は強大な魔力を持ち、貧しい者にも進んで救済の手を差し
伸べていたために、人々からも尊敬の念を集める存在だった。だが、
189
彼女の本性は野望高き人物であった。善良な女性の仮面を被る傍ら、
裏では世界を自らの手中に収める準備を着々と進めていたのだ。
そして、トルーミアは遂に大陸の征服に乗り出した。彼女の作り
出した魔物の大群は瞬く間に沢山の町を蹂躙した。その勢力は一時
期、大陸の半分をも支配するほどだったのだ。
だが、絶望と恐怖に打ちひしがれる人々の下に、一筋の希望がや
ってきた。神によって遣わされた勇者が、その従者である天使と共
に大陸へとやってきたのだ。勇者の力と、戦う気持ちを取り戻した
人々によって、トルーミアの軍勢は次第に押し返されていき、終い
には彼女を一つの城まで追いつめる事に成功した。
最後の戦い。城へと乗り込んだ勇者とトルーミアが繰り広げた三
日三晩にも及ぶ激闘の末、幾多の悲劇と殺戮を起こした魔女は、誇
り高き英雄の奮った虹色の刃によって敗北したのだった。だが、彼
女の死体は結局、城の中のどこにも見つからなかったのだという。
話を最後まで聞き終えた後、俺は物語の余韻に浸りながら口を開
いた。
﹁⋮⋮驚きました。こんな話が実際にあったなんて﹂
﹁少しは脚色があると思う﹂
即答したドーネルの前で、俺達は座ったまま盛大にずっこけた。
﹁ここまで話しといて誇張アリなんですかっ!?﹂
190
案の定、アリーテが両手をグッと握りしめて甲高い叫び声を上げ
る。
﹁そりゃ、儂も文献でしか事実を確認出来ないからの﹂
老人は苦笑しつつ肩を竦めた。
﹁幾ら何でも、三日間眠らずに戦ったとは、流石に信じられんじゃ
ろ?﹂
なるほど。それは確かに正論だ。心の中で納得しているうち、セ
イーヌが眉を潜めながら言う。
﹁しかし、さっきの話を聞く限り、水晶なんて言葉は欠片も出てい
なかったように思いますが﹂
﹁ああ、トルーミアの物語はこれで終わりというわけではないのじ
ゃよ﹂
コホンと一息ついた後、ドーネルは再び語り始めた。
トルーミアの脅威は去ったが、とある危険な品が城の中に残され
ていた。それは掌にすっぽりと収まるサイズの透明な水晶だった。
トルーミアはその品に禁断の魔術を用いてとある仕掛けを施したの
だ。後世に伝えられている限りでは、その水晶は膨大な魔力を取り
込む力を帯びているのだそうだ。そして、水晶に蓄えた魔力を放出
すれば、その量に応じてたちまち強大な破壊をもたらす事が出来る
191
のだという。一説によると、最大限にまで魔力を注げば、大陸を消
し飛ばせるほどの威力が出せるとの事らしい。
トルーミアはどうやら、その水晶を大陸制覇の切り札とする予定
だったらしい。彼女は手下を使い、大陸中のありとあらゆる場所か
ら魔力の秘められた物品を城へと運ばせた。時には生きた魔法生物
からそのまま魔力を抽出しようとも試みた。だが、水晶は極めて純
粋な魔力しか蓄える事が出来なかった。恐らく、トルーミアの使用
した魔術の限界だったのだろう。その事が災いしてか、水晶に十分
な魔力が集まる事なく、彼女は切り札を使えないまま敗れてしまっ
たというわけだ。
トルーミアの水晶はしばらくの間、勇者と親交の深かった王国の
城に厳重な警備体制で保管されたらしい。しかし、その王国が崩壊
した時、その混乱に乗じて、何者かがそれを持ち去ってしまった。
ある時はトルーミアと同じく野望高き魔女が、ある時は真の価値に
気づかぬ盗人が、ある時はその異様な美しさに見惚れた大貴族が。
持ち主は転々としていき、やがてその行方は誰にも分からなくなっ
てしまったのだという。
﹁⋮⋮もしかして、シュバトゥルスの計画って﹂
﹁うむ、お主の考えている通りだ﹂
嫌な予感が脳裏をよぎった俺の言葉に、ドーネルは深刻な面持ち
で頷いた。
﹁どうやってかは知らんが、あやつはトルーミアの水晶を手に入れ、
192
その力を用いてこの地を支配、もしくは壊そうとしている﹂
﹁それで、魔力補給のポーションとかを盗んでいたわけか⋮⋮﹂
セイーヌが独り言のように呟く。ドーネルの解説を信じるなら、
水晶は純粋な魔力しか受け付けない筈だ。となると、彼らがそうい
った種の薬を集めていた事にも納得がいく。
﹁それでドーネルさんは、シュバトゥルスの計画を阻止しようとし
ているわけですねっ﹂
﹁⋮⋮うむ、平たく言えばそういう事になるかの﹂
アリーテの問いかけに彼が答えるまで、何故か不自然な間があっ
た。おや、と思って俺は老人の顔を見つめる。すると、顔を俯けた
ドーネルは、か細く聞き取りにくい声量でボソリと呟いた。
﹁⋮⋮気がかりな奴もいるのでな﹂
193
15
︱︱気がかりな、奴?
聞き捨てならない発言を耳にし、俺は目の前の老魔術師に詳しい
話を聞こうとしたのだが、
﹁さて、ずっと話ばかりで疲れたろう。今日はゆっくり体を休めな
さい﹂
四人分の食器を抱え、ドーネルは足早に部屋を去っていってしま
ったのだった。その後も何度か話す機会はあったものの、俺は結局
その事について彼に訊ねられずじまいだった。
そして深夜。俺は与えられた部屋に敷かれた布団に仰向けに寝て、
木製の天井をぼんやりと見つめていた。ドーネルから聞かされた事
実が頭を駆け巡っていたために眠れなかったのだ。室内は暗く、閉
じた障子の向こう側から微かな月の光が差し込んでくるのが唯一の
明かりとなっている。庭からは虫達の風情ある合唱が聞こえてくる
が、俺の心を和ますにはあまりに力不足だった。
︱︱大陸を滅ぼせるほどの力、か。
流石に、分が悪すぎると感じずにはいられなかった。一応は勇者
の肩書きを持つとはいえ、俺はまだろくに剣の使い方も知らないド
194
素人だ。第一、ついこの間に旅を始めたばかりなのである。ゲーム
で例えるなら、まだ最初の町を出発して、少しばかり強敵が蔓延る
ダンジョンを突破した、それくらいだろう。まだまだ序盤真っ盛り
といったところに、いきなり強大な力を持つボス登場である。動揺
するなというのは無理な話だ。
︱︱俺達が、勝てる相手なのか?
口だけを動かして、声に出さず呟いた途端、胸にのし掛かってい
た重圧感が増したように思えた。ネメラ山での一件で、敵の親玉ー
ーシュバトゥルスの強さは嫌になるほどよく分かった。分からせら
れた。彼が最後に放った魔法は、まるでその威力を俺達に見せつけ
るかのように凄まじかった。
勝てない。
こんな後ろ向きの言葉を、俺の心に植え付けるくらいには。
﹁⋮⋮あんまりネガティブになってても、しょうがねえだろ﹂
耐えられなくなり、俺はとうとう独り言を洩らす。だが、どれだ
け自分に言い聞かせようとしても、一度身に染み着いた不安と恐怖
はそう簡単に拭えないものらしい。
︱︱このまま眠れなくてもしょうがないよな。
ふぅ、と小さく溜息をつき、俺は布団から出て立ち上がった。気
分転換に、外の空気でも吸おうと思ったのだ。障子を開き、縁側に
出る。
195
そして、固まった。先客がいたのだ。
﹁⋮⋮あ﹂
思わず声を上げる俺を、既に縁へ腰掛けていた相手もまた、驚き
の眼差しで見つめていた。
﹁⋮⋮ユート殿?﹂
女性にしては若干低く、しかし確かな上品さを秘めた呟きが、そ
の艶のある唇から発せられる。そう。縁側で佇んでいたのは彼女だ
ったのだ。
﹁セ、セイーヌさん? どうしたんですか、こんな夜中に﹂
俺の問いに、セイーヌは曖昧な笑みを浮かべて、
﹁ちょっと、眠れなくてな﹂
と、静かな声で言った。
﹁ところで、ユート殿の方はどうした?﹂
﹁あ、俺もセイーヌさんと一緒で、少し外の空気を吸おうかなと﹂
﹁隣に座るか?﹂
﹁え、えと、それじゃあ失礼します﹂
些か普段より甲高い声を無意識のうちに上げてしまいつつ、俺は
196
彼女がポンポンと手を叩いた場所に腰掛けた。途端、セイーヌの美
しい銀髪が穏やかな風に吹かれてなびく。同時に甘美な香りが俺の
鼻孔をくすぐり、俺は心臓は強く高鳴った。容姿端麗な美人の隣に
座っていると思うと、何となく落ち着かない。ざわめく気持ちを抑
えつつ、俺はチラリとセイーヌの方を見やる。彼女は口元に微笑み
を湛え、無言で庭を見つめ続けていた。その整った美しい顔立ちに、
俺は思わず見取れてしまう。だが、彼女の蒼い瞳が少しばかり潤ん
でいる事に、俺はようやく気がついた。
︱︱えっ?
﹁ん、どうした?﹂
俺の視線に気がついたらしい彼女は、平然とした調子で問いかけ
てくる。俺は慌てて、
﹁い、いえ。何でもないです﹂
と、彼女から庭へと顔を向け、最初に目に止まった桃色の花に意
識を集中させた。まさか見取れていたなど、口が裂けても本人に言
える筈もない。それに、女性の目に浮かんでいた涙の理由を率直に
訊ねる勇気もなかった。しばらくお互いに何も話さないまま、イタ
ズラに時間だけが過ぎ去っていく。
やがて、セイーヌの方がおもむろに口を開いた。
﹁ユート殿は、どうして眠れなかったんだ?﹂
﹁俺は﹂
返答に一瞬、詰まる。本当の事を告げるべきか、告げないべきか。
197
俺は悩んだ末、
﹁昨日は昼まで寝てたので、それで﹂
と、嘘をついた。セイーヌにはどうしても言えなかったのだ。倒
さなければならない強大な相手が怖くて、布団の中で震え上がって
いたなどと。それこそ、口が裂けても。
﹁そうか、なるほどな﹂
彼女は俺の言葉を疑わずに信じてくれたようだった。俺は内心ホ
ッとしつつ、同じ問いを投げかける。聞かない方が良いかもしれな
いとも思ったが、そうすると些か不自然のような気がしたのだ。そ
れに、もし彼女が誰かに話して楽になりたいと考えているなら。せ
めて聞くだけでもしてやりたいと思った。
﹁セイーヌさんの方は、どんな理由なんですか?﹂
﹁私か? 私は⋮⋮﹂
彼女は言い淀み、しばし躊躇している様子だった。だがやがて、
セイーヌは夜空に浮かぶ月を悲しそうに見つめながら、消え入りそ
うな声色で言った。
﹁⋮⋮また、私だけ生き残ってしまったと思ってな﹂
198
16
﹁⋮⋮え﹂
俺は思わず絶句した。
︱︱また、私だけ生き残ってしまったと思ってな。
﹁⋮⋮済まないな、変な事を言ってしまって﹂
言葉を探して狼狽える俺に対し罪悪感を覚えたのか、セイーヌは
暗い表情で謝ってくる。俺は慌てて、
﹁いえ、そんな﹂
と返したものの、どう反応すればいいか分からず、言葉尻を濁し
てしまう。結局、少し間を置いて俺の口から発せられたのは、
﹁どんな人達だったんですか? その、騎士隊の人達って﹂
という、無難な問いかけだけだった。途端、もっと気の利いた事
が言えればいいのに、と自己嫌悪に陥る。
﹁そうだな⋮⋮﹂
彼女は遠い目をして、しばし考え込んだ。多分、仲間達と過去に
過ごした日々を思い返していたのだろう。
﹁みんな、良い奴だったよ。隊員で唯一の女だった私を皆、不当な
199
扱いをしたりせず真摯に接してくれた﹂
﹁そうだったんですか﹂
﹁私が一人では持ちきれない荷物を抱えていれば、手伝って運んで
くれたり。一人だけ拾得出来ていなかった剣技を全員で夜遅くまで
指導してくれたり﹂
﹁親切な人達だったんですね﹂
﹁苦手な筋トレを半分に免除してもらえたり。早朝ランニングでへ
ばっていると、必ず誰かが水やポーションを手渡してくれたり﹂
﹁⋮⋮へ?﹂
何故だろう。だんだんと話がおかしくなってきているのは気のせ
いだろうか。横目でセイーヌの様子を伺ってみると、彼女は先ほど
までとは打ってかわり懐かしむような表情で、両目を瞑り過去の回
想に耽っていた。口調もだんだんと穏やかになっていく。
﹁訓練で疲れきって、地面にうつ伏せで休んでいた私の体をほぐし
てくれたりもしたな。みんな、マッサージが上手だった﹂
それはセクハラと呼ぶのではないだろうか。
﹁大好物のプリンが隊に支給されると、みんな自分の分を私に譲っ
てくれた。一度、隊長が高価な生プリンを買ってきてくれた事もあ
ったな。あれは本当に美味しかったし、何より嬉しかった﹂
それは貢ぎ物という奴です。というか、この世界にもプリンがあ
200
るのか。
﹁副隊長は綺麗な宝石のついた指輪を私にプレゼントしてくれたん
だ。値段が張りそうだから最初は断っていたんだが、どうしてもと
言われたので、ご厚意に甘えて受け取ったんだ。途端、﹃ずっと一
緒にいてくれるか﹄と訊ねられてな、私も居心地の良いこの場所か
ら離れるつもりもなかったから、﹃副隊長殿がこの隊に残られてい
る限りはずっと一緒です﹄と言った。すると副隊長はたいそう喜ば
れて、﹃今度の長期休暇には俺の故郷に招待するよ﹄と旅行の提案
までしてくれたんだ﹂
いや、それは明らかに婚約の申し出じゃないか。厚意じゃなくて
好意だって。流石に気づきましょうよ、セイーヌさん。
﹁まあ、話の直後にどこからか湧いてきた隊長達が副隊長を引っ張
ってどこかへ連れていったので、旅行に関しては結局お流れになっ
てしまったんだがな﹂
うわあ、絶対にボコされたんだ。間違いない。俺は顔も見た事の
ない副隊長に深い同情を送らずにはいられなかった。
︱︱けど、ひょっとして。
先ほどから続く昔話を聞いているうち、俺の心にはある疑念が芽
生え始めていた。
︱︱セイーヌさんって、もしかして重度の天然⋮⋮?
だが、いつの間にか訪れていた和やかな雰囲気も、彼女の表情に
影が差した事で終わりを告げた。
201
﹁本当に優しい仲間達⋮⋮だった﹂
ポツリと、悲しげな笑顔と共にセイーヌは呟く。その声色に秘め
られていたのは、慣れ親しんだ仲間達を犠牲にしてたった独り生き
延びた者の苦しみ。彼女の言葉を聞き、俺の心にも辛い感情が沸き
起こってきた。
︱︱セイーヌさんは、俺の反対なんだ。
ふと、そんな事が頭に思い浮かぶ。彼女が残された者なら、俺は
残してきた者。一人っ子だった俺を失った両親の事を想うと、胸が
引き裂かれるような感覚に苛まれた。父さんも母さんも、セイーヌ
同様、俺の死を悲しんでいるのだろうか。もしそうだとしたら、二
人が自分の事をすぐに忘れてくれるよう、俺は心から願う。両親よ
り先に死んだ親不幸者の息子の事なんかさっさと忘れて、新しい子
供を育ててほしいと強く思う。
そして、きっと。彼女を残し、先に戦死していった騎士隊の人々
だって、同じような気持ちを抱いている筈だ。
だから、俺は躊躇いながらも口を開いた。
﹁俺は⋮⋮その、セイーヌさんより年下ですし、そんな大した事は
言えませんけど。セイーヌさんを庇って亡くなった隊長さんも、副
隊長さんも、他の隊員さん達も、セイーヌさんに笑っていてほしい
202
んじゃないかって、そう思うんです﹂
俺の発言を受け、彼女はハッとしたように目を見開き、その潤ん
だ眼差しを向けてくる。
正直な気持ち、言葉ではなく、別の方法で彼女の苦しみを和らげ
てあげたかった。彼女の長身ながら華奢な体をギュッと抱きしめて、
その艶やかな髪を優しく撫でてあげたい。そんな抑え難い衝動に駆
られていた。
けど、彼女にとって、会って日の浅い俺がそのような事をやって
あげられる存在ではない事は、俺自身がよく分かっている。
だから、代わりに。俺が取れる唯一の方法で助け出したいのだ。
悲しみに打ちひしがれる彼女を、深く暗い罪悪感の海から。
203
17
﹁だから、えっと﹂
上手く、言葉が見つからない。女性の扱いに慣れていれば、気の
利いた発言でも出来たのだろうが、生憎、誰かと交際した経験なん
て皆無だった。一度、年下の後輩から告白を受けた事はあるのだが、
当時の俺が中学三年生で受験を控えていた事、そして彼女が将来有
望な弓道選手で、俺の第一志望校にその部活が存在しない事の二つ
を理由に断ってしまった。性格も明るく愛嬌たっぷりで、俺自身も
彼女に惹かれていたといえば惹かれていたのだが、彼女の将来を考
えると付き合えなかったのだ。初彼女と遠距離交際を成功させる自
信が皆無だったという事もある。
だが、今更引くわけにもいかない。俺は高熱を帯びている頭をフ
ル回転させて、自分の伝えたい気持ちを何とか表現しようと懸命に
口を動かす。
﹁え、ええとですね、俺もセイーヌさんには悲しんだ顔より笑顔で
いてほしいっていうか、少しばかり戦いが下手でも可愛げがあって
良いと思いますし、ちょっとドジって転んでもギャップがあって大
変ナイスですし、騎士団の人達も同じ気持ちなんじゃないかなと﹂
︱︱って、俺は何を意味不明な発言してるんだ!
勢いに任せた結果、とんでもなさ過ぎる文章を口にしてしまった。
忽ち強烈な自己嫌悪感と羞恥心に苛まれた俺は両手で頭を抱え、ガ
ックリとうなだれる。
204
だが、返ってきた反応は、俺の予想に反していた。
﹁ふ、ふふ⋮⋮﹂
押し殺すような笑い声が耳に入ってくる。戸惑いつつも、俺は恐
る恐る顔を上げてセイーヌの方を伺った。彼女は肩を小刻みに震わ
せている。だが、その動作が悲しみから生じたものではない事は、
彼女の顔を見れば一目瞭然だった。
﹁す、済まない。ユート殿が真剣に話していたのは分かっているの
だが、つい﹂
目尻に涙を溜めて、セイーヌは言った。やがて、笑いの発作が収
まったらしい彼女は、
﹁優しいな、ユート殿は﹂
と、穏やかな声色で呟く。俺は照れ笑いと共に頬を掻いた。
﹁いえ、そんな﹂
﹁私も駄目だな、年下に励まされているようでは﹂
﹁セイーヌさんは立派ですよ。だって、自分一人になっても与えら
れた任務を果たそうとしていたじゃないですか﹂
俺は嘘偽りない本音を力強い口調で言った。すると彼女は頭を軽
く振って、
﹁いいや、ユート殿の方が立派だ。まだ若いのに、勇者という大役
205
を果たしているのだから﹂
そういえばまだ、年齢を聞いてなかったな。セイーヌは興味深げ
な眼差しを俺に向けて、
﹁ユート殿は一体いくつなんだ?﹂
と、問いかけてくる。当然、サバを読む理由なんてある筈もなく、
俺は素直に返答した。
﹁十六歳です﹂
﹁そうか。すると、私の二歳年下か﹂
﹁ああ、じゃあセイーヌさんは俺より二歳年上なんですか⋮⋮﹂
︱︱えっ?
思いがけないタイミングで判明した驚愕の新事実に、俺は自然と
硬直してしまっていた。十六歳より二歳年上、という事は。彼女の
年齢は。
︱︱セイーヌさんって、まだ十八歳なのか!? 嘘だろ!?
外見からして、若くても二十代前半だろうと踏んでいた。何しろ
長身だし、何せ立ち振る舞いが落ち着いているし、何とも抜群なス
タイルだし。世が世なら、一流企業のキャリアウーマンとか国会議
員の秘書でもやってそうな印象だったのだ。
それが、俺とたった二歳しか違わない、世が世なら、高校三年生
206
でもおかしくない年頃だとは。
﹁⋮⋮ユート殿? どうしたんだ、固まって﹂
﹁え、いや。何でもないですよ、アハハハハ﹂
心底不思議そうに呼びかけてきたセイーヌに対し、俺は笑顔を取
り繕って返答した。まさか、女性に対して﹃若くても二十代だと思
ってました﹄なんて、そんな失礼な本音は出せるわけがない。
﹁申し訳ない。もう少し年を取っていれば、シュバトゥルスとの戦
いでもっと役に立てるのかもしれないが﹂
﹁そんな、別に関係ないですよ⋮⋮って﹂
先ほどとはまた別の意味で驚き、俺は神妙な面持ちの彼女を呆気
に取られて見つめた。
﹁⋮⋮セイーヌさんも、シュバトゥルスと戦うんですか?﹂
﹁ユート殿も、そのつもりなのだろう?﹂
﹁⋮⋮それは﹂
当然そうだと言わんばかりの口調に、俺は返答に困って押し黙る。
その態度を肯定だと受け取ったのだろうセイーヌは、自らの胸に手
を当てて、
﹁私はまだ未熟な騎士だが、それでもユート殿と最後まで、シュバ
トゥルスと戦うぞ。散っていった仲間達の為にも﹂
207
散っていった仲間達の為。そのフレーズに、俺はハッと気づかさ
れる。
﹁⋮⋮セイーヌさんは、やっぱり強いですよ。俺なんかより、ずっ
と﹂
自然と、そんな呟きを俺は洩らしていた。だが、彼女が何か言う
前に俺は立ち上がり、
﹁セイーヌさんのおかげで、俺も吹っ切れました。ありがとうござ
います。それじゃあ、お休みなさい﹂
と一礼して、自分の部屋へと戻った。障子を閉め、布団を被り、
天井を見上げる。今度は恐怖心を、微塵も感じなかった。
︱︱セイーヌさんだって、戦うんだ。
俺なんかよりよっぽど辛い気持ちを抱えている筈なのに、だ。な
らば、男の俺が怖がっていてどうする。
︱︱だから、俺も戦う。戦って、シュバトゥルスを倒す。そして、
その為に。
柔らかい布団の上に置かれた二つの拳が、無意識のうちに強く握
りしめられていた。
︱︱今よりもっと、強くなる。
208
1
まだ、夜空に朝焼けすら見受けられない早朝。寝床を訪ねると、
寝間着姿のドーネルは上半身をもそもそと布団から起こした。
﹁なんだね、こんな朝早くから﹂
大欠伸をかましつつ、彼は眠たそうに呟く。布団の横で正座して
いた俺は、意を決して口を開いた。
﹁シュバトゥルスと戦える力がほしいんです。どうか、鍛えて頂け
ませんか﹂
途端、ドーネルの半分閉じかかっていた瞼が見開かれる。俺の発
言を受け、急激に目が覚めたらしい。
﹁⋮⋮ふむ﹂
顎に手を当てつつ、彼は神妙な面持ちで考え込む。
﹁神に選ばれた勇者には、常人が容易に持つ事の出来ないような力
が与えられると聞くが。お主にも、それは備わっているのだろう?﹂
﹁はい、でも﹂
俺は返答に詰まった。アリーテとの話し合いで、﹃サイド﹄の力
についてはみだりに他言しないと取り決めている。もし、この力に
ついて一度広く認知されてしまえば、警戒は勿論の事、何らかの対
策を講じられてしまう可能性もあるからだ。特に効果範囲が現状狭
209
い点や、体力を激しく消耗してしまう点などに気がつかれてしまっ
ては致命傷となってしまう。ネメラ山の一件で疑問を感じていたセ
イーヌに対しても、所々をはぐらかし、或いは嘘を混ぜて説明を行
っていた。
だからこそ、この老人に対して本当の事を伝えるべきかどうか躊
躇したのだ。
悩んだ末、俺は彼に言う。
﹁俺の力じゃシュバトゥルスに対抗出来なくて。だから、新たな力
がほしいんです。今すぐにでも﹂
﹁⋮⋮なるほどな﹂
幸いにも、ドーネルは俺の力について詮索してこなかった。ひょ
っとすると、俺の考えを看破していて、それでも敢えて見逃したの
かもしれない。
とにかく、彼はしばらく何かを思案している様子だったが、やが
て口を開いた。
﹁だが、お主の年ならば、既に分かっているだろう。この世には、
苦労せずして簡単に手に入る力など、そうそう存在しないと﹂
﹁それは⋮⋮﹂
俺は再び、言い淀む。この老人の言う通りだ。大して時間もかけ
ず楽して強くなれる、そんな都合の良い方法など、ある筈もない。
210
﹁年老いたとはいえ、儂も一人の魔術師だ。お主に魔法を教える事
くらいは出来る。だが、儂も一朝一夕で魔力を行使する技術を身に
つけたわけではない。最初は初歩的なものから練習していき、そし
てより難度の高い魔術に挑戦していった。失敗も成功も経験してき
たからこそ、今の儂がある。その過程を丸々飛ばして強大な力を得
たとしても、それは殆ど仮初めの強さに過ぎんよ﹂
それでもなお、お主は今すぐに力を手にしたいか。問いかけと共
に、ドーネルは真剣な面持ちで俺を見つめる。その目に湛えられた
翡翠色の眼光は鋭く、俺はまるで自身の心を射抜かれているような
錯覚に陥った。
﹁俺は⋮⋮﹂
か細い声で呟きながら、俺は自問する。自分は一体、どうしたい
のか。勇者の肩書きからくる重圧、退く事を良しとしない男として
のプライド、悪しき計画を見過ごせないという正義感。複雑な感情
のうねりが、俺の心に押し寄せてくる。しかし。ふと、昨晩の出来
事が脳裏をよぎった。
︱︱私はまだ未熟な騎士だが、それでもユート殿と最後まで、シュ
バトゥルスと戦うぞ。散っていった仲間達の為にも。
強固な決心に支えられた、力に満ちた言葉。彼女の声を思い返し
ているうちに、今まで抱いていた筈の様々な迷いは、まるで霧が晴
れたかのように消し飛んでいった。
﹁確かに、虫の良い話だとは思います。けど﹂
いったん間を置き、深く息を吸ってから、俺は再び話し出す。半
211
ば自分自身に言い聞かせるように。
﹁けど、それでも俺は強くなりたいんです。アリーテやセイーヌさ
んを守れるような、そして苦しんでいる人々に手を差し伸べられる
ような、そんな強さがほしい﹂
﹁なまじ力を得たとしても、その所為で辛い目に遭うかもしれんぞ﹂
﹁それでも構いません。どんな過酷な試練でも耐え抜いてみせます﹂
いつの間にか、俺は老人の目を真っ直ぐに見据えていた。お互い
に視線を逸らさないまま、時間だけが過ぎていく。やがて、鶏の鳴
き声が朝日の到来を告げた頃、ドーネルはふぅと息を吐きながら両
目を閉じ、どこか疲れたような声色で告げた。
﹁うむ。お主の決意が固い事はよく分かった﹂
﹁それじゃ⋮⋮!﹂
自然と表情を輝かせる俺に、彼は苦笑しつつ、
﹁だが、儂はお主に何かを教えるわけではないぞ。本格的に弟子入
りするというなら受け入れるが、それだと時間がかかりすぎるから
の。ただ、お主にとって幸いな事じゃが、ここには地の利というも
のがある﹂
﹁地の、利?﹂
老人が発した文章の意味が理解出来ず、俺は思わず戸惑いの声を
上げていた。﹃地の利﹄という言葉を知らなかったわけではないが、
212
その単語が意味する事が分からなかったのだ。
﹁ふふふ、まあいずれ分かる事だ。今は気にせんでよい﹂
困惑している俺の反応がおかしいのか、ドーネルは噴き出した後、
含むような口調で言ったのだった。
﹁朝食を済ませてひと段落したら、またここへ来なさい。お主を案
内したい場所がある﹂
213
2
朝の食事を済ませドーネルの部屋へと向かうと、彼は既に寝間着
から普段の服装への着替えを済ませていた。
﹁じゃ、行くかの﹂
そう告げた彼の後に続き、俺も歩き始める。廊下を進み、家の奥
へと進んでいくと、俺の寝室の前に広がるのとはまた別の庭が姿を
現した。塀の代わりに巨大な灰色の岩壁が生い茂る草花を取り囲ん
でいるのだが、その中心に人が入れるほどの大穴がポッカリと空い
ている事が目を引いた。そして、老人は躊躇する事なく、屈んでそ
の内へ入っていく。
﹁ほれ、何をボサッとしておる。早くついてこんか﹂
﹁あ、はい⋮⋮ん?﹂
穴をくぐった瞬間、奇妙な感覚が俺の全身を襲った。まるで体中
を見えない手にさわさわと撫でられるような、そんな感じだ。だが、
不思議な事に鬱陶しい気分は抱かなかった。
﹁あの⋮⋮﹂
﹁うむ、変な気分になったんじゃろ﹂
質問しようとした矢先、ドーネルは訳知り顔でうんうんと頷き、
俺の言葉を遮った。
214
﹁別に不安がる必要はないぞ。体には何の影響もないから安心して
よい﹂
﹁そ、そうですか﹂
岩壁の中が空洞となっている事に気がつく。その広さを目算する
と、この家の一室と大体同じくらいだ。何故か内部が明るいのでふ
と見上げると、頭上には燦々と輝く太陽が顔を覗かせていた。ちょ
うど岩の中心がバームクーヘンのようにくり貫かれているらしい。
所々に苔が生えているこの場所には、俺が入ってきたのとはまた別
の出口が存在していた。その奥がどうなっているかひどく興味をそ
そられたのだが、俺がその事について質問するより、ドーネルが喋
り始める方が早かった。
﹁それじゃ、そろそろ先ほどお主が抱いた違和感の正体について話
すとするか。ここの周辺には目には見えない結界が張ってあっての﹂
﹁目には見えない、結界?﹂
﹁その通り﹂
オウム返しの問いに、彼は小さく頷いて、
﹁その入り口の周辺がちょうどその境目の部分となっておる。だか
ら、お主は妙な気分に苛まれたわけだ。その境界線からこちらには、
心の奥底から邪な考えを抱く者は入ってこれんようになっておる﹂
﹁つまりここは聖域みたいな所なんですか?﹂
﹁まあ、そうともいう﹂
215
俺は自身の立っている岩の内部を見渡す。事情を知ってから改め
て見ると、確かにどこか神秘的な雰囲気が漂う空間であるような気
がした。本当に気がしただけなのだが。
﹁でも、って事はここって凄い所なんですよね? 一体どんな場所
なんですか?﹂
老人に質問を重ねつつ、俺は首を傾げる。ドーネルはあっさりと
俺の疑問に対する答えを返してくれた。
﹁ここはな、かつて偉大なる精霊が暮らしていた地なのじゃよ﹂
﹁偉大なる精霊って⋮⋮﹂
俺は元いた世界でプレイしていたテレビゲームの知識を記憶から
引っ張りだし、
﹁火とか水とか、そんな感じのですか?﹂
﹁ああ、自然の要素を司る者も確かにおるが、この地にいた精霊は
そういった種ではない。むしろ、生物の要素を司る者じゃな﹂
﹁生物の要素?﹂
先ほどからドーネルの言葉をそのまま口にし続けているような気
がする。だが、それだけ俺の心に当惑の感情が広がっていたのだ。
﹁腕とか、足とか﹂
216
﹁違う違う。そっちではない﹂
俺の呟きを受けた老人は苦笑いを浮かべ、木の幹のような手をぶ
らぶらと振った。
﹁体というよりは心だ﹂
﹁体というより心?﹂
腕組みをし、頭を捻って思案を巡らす。しかし、どれだけ考えて
みてもやはり意味が分からない。
半ばギブアップの意味も込め、俺は髪を掻きつつ口を開いた。
﹁じゃあ、ここにいた精霊が司っていたのは、一体どんなものなん
ですか?﹂
俺が問いを投げかけると、ドーネルは不意に頭上へと顔を向ける。
摩訶不思議に貫かれた岩の向こう側に浮かぶ太陽を見つめる皺だら
けな横顔は、何故だろう。まるで遠い過去を懐かしんでいるようで、
どこか寂しげだった。そのまま、穏やかな時間が過ぎていく。外か
らチュンチュンと、小鳥の楽しそうなさえずりが仄かに聞こえてき
た。
やがて、老人はふぅと小さく息を吐いて、その視線を俺へと戻す。
そして、彼は俺の問いかけに対する答えをゆっくりと告げた。
﹁﹃願望﹄じゃよ﹂
217
︱︱願望。
その二文字が、俺の頭の中で繰り返し反響していく。
﹁あの﹂
俺は頬を掻きつつ、まだ一向に解消されていない疑問を口にする。
﹁その願望を司る精霊がここにいた、ってのは分かりました。けど、
どうして俺をこの場所に連れてきたんですか?﹂
﹁お主に力を授ける為じゃよ﹂
ドーネルはゴホンと大きな咳払いをして、真剣な面持ちで語り始
める。
﹁お主には今から、ここで瞑想をしてもらう﹂
﹁瞑想?﹂
﹁だが、別に気を張らずともよい。ただ、この中で座って目を閉じ
ていればそれで十分だ﹂
﹁それで、本当に力を得られるんですか?﹂
正直、俺は半信半疑だった。その心の内を見透かしたのだろう彼
は神妙な表情で、
218
﹁少なくとも、昔はそうだった﹂
﹁昔は?﹂
﹁うむ﹂
小さく首を縦に振り、ドーネルは再び長い説明を始めた。
﹁ここで暮らしていた精霊は生き物の心に抱かれた願望を、その者
の力とする能力を持っていた。かの精霊が去っても、この地にはそ
の強大な魔力の残滓が今もなお根付いておる。それらを媒介とし、
瞑想によって精霊と心を通わす事が出来た者はその恩恵を預かる事
が出来た。だが、その力もだんだんと弱まってきておる。お主が精
霊と交信出来るかどうかについて、儂は保証出来ないのじゃ﹂
219
3
﹁つまり上手くいくかどうかは、この地にどれだけ精霊の魔力が残
っているか、にかかっているんですね﹂
﹁それと、お主の気持ち次第じゃな﹂
︱︱俺の、気持ち次第?
自然と首を傾けた俺に対し、ドーネルは解説を始める。
﹁かの精霊が力を授けるのは、断固たる﹃願望﹄をその身に宿して
いる者だけじゃ。そして、その気持ちが強ければ強いほど、得られ
る力も強大なものとなる﹂
﹁なるほど、そういう事なんですか﹂
﹁それじゃあ、また後での﹂
﹁え? 一緒に残ってくれないんですか?﹂
踵を返し歩きだそうとした背中に声を掛けると、彼は頭だけ俺の
方を向き、
﹁向こうも一対一の方が話しやすいじゃろう。それに、儂のせいで
お主の気が散ってもいかんからの﹂
老人は最後にそう言い残し、穴をくぐって外に出ていってしまっ
た。一人の岩の中にポツンと取り残され、俺は仄かな孤独感を覚え
220
る。
﹁えっと、とにかく適当に座って目を閉じていればいいんだよな﹂
独り言を呟きつつ、周囲を見回す。ちょうど近くに、苔の殆ど生
えていない箇所があった。俺はその場所に歩いていき、腰を下ろす。
背中を硬質な灰壁に委ねると、冷たい感触が服越しに伝わってくる。
最初こそ瞑想の邪魔に感じられたが、俺の体温が接する岩に移って
いくつれ、だんだんと気にならなくなった。
︱︱それじゃ、始めるか。
深呼吸して呼吸を整えた後、俺は両目を閉じる。しばらくは何も
起こらなかった。若草の匂い、花のそよぎ、枝葉の揺れ、獣の足音。
鳥の羽ばたき、虫の鳴き声。自然の音色が微かな風に乗って、俺の
周囲を満たしていく。
やがて、仄かな変化が起こり始めた。真っ暗な筈の視界に、不思
議な光が広がり始めた。緑、赤、青、黄、茶、紫、紺、様々な色が
溶け合うようにして絶えず移ろっている。その様を呆然と眺めてい
るうち、今度はずっと耳にしていた音や声が聞こえなくなった。い
や、それだけではない。匂いも、感触も、全てがいつの間にか分か
らなくなっている。
︱︱何だよ、コレ。
思わずそう呟こうとしたが、口すらも動かない。目も開かなくな
っていた。どうやら、声を発する事や周囲を確認する事すら封じら
れてしまったようだ。そして忽ち、自分の意識だけがすうっと身体
から抜けてしまうような感覚に襲われる。異変は急激に俺の全身を
蝕んでいった。正直な気持ち、瞑想が成功したのだろうという安堵
221
より、自分がこれからどうなってしまうのかという不安の方が大き
くなっていた。
そして。動揺の真っ直中にあった俺に対し、ふと誰かが呼びかけ
てくる。
﹁貴方は何を願い、そして何を望むのですか?﹂
その問いかけは女性のもののように感じられた。耳がきかなくな
っている筈なのだが、まるで脳に直接語りかけているかのように、
その声は明朗で聞き取りやすいものだった。
︱︱もしかして、この声の主が例の精霊なのか?
思案に耽っているうち、先ほどと全く同一の質問が再度投げかけ
られる。
﹁貴方は何を願い、そして何を望むのですか?﹂
﹁俺は⋮⋮﹂
もう、急に口がきけたからといって驚く事もなかった。ここは相
手の作り出した一種の精神世界。そんな根拠のない確信があったの
だ。
﹁俺が願うのは⋮⋮望むのは⋮⋮﹂
まず脳裏をよぎったのは、元の世界で培った思い出の数々だった。
続いて、アリーテ、メファヴェルリーア、セイーヌ、シュバトゥル
ス、ドーネル。この世界にやって来て出会った人々の顔が、まるで
222
走馬燈のように浮かんでは消えていく。そして、最後に現れたのは、
現世で助けようとした少女。その姿を目の当たりにした時、俺の心
は揺るぎなく定まった。
﹁俺は、助けを求めている人達を守りたい。そして、困っている人
達に少しでも力を貸したいんだ﹂
﹁本当に、心の底からそう思っていますか? 他者からの干渉では
なく、自らの意志で﹂
﹁ああ﹂
俺はハッキリと首を縦に振る。強引にこの世界へと連れてこられ
た時は、確かに不満もあった。けれど、今は違う。俺に勇者として
の資格があるのなら、その名にふさわしい人間になりたい。傷つい
た人々の盾となり、助けを必要とする者に手を差し伸べられる、そ
んな勇者に。
そのための力が、欲しい。
﹁⋮⋮分かりました﹂
謎の声が聞こえてくるのとほぼ同時、またもや奇妙な感覚を抱い
た。俺の全身を温かい水のようなものが包んでいき、体内に不思議
な活力が注ぎ込まれていくような、そんな感覚だ。そして、時間が
立つにつれ、心地よい睡魔が押し寄せてくる。
﹁その地に残る、私の力はもう僅かです﹂
朦朧とする俺の頭に、再び彼女の声が響きわたる。
223
﹁そのため、貴方の抱いている願い、望みに見合った力を授ける事
は出来ません。ですが、その志を忘れずに日々を暮らしていけば、
自ずとその力は増していくでしょう﹂
決して忘れないで下さい。気を失う直前、精霊と思しき声の主は、
確かにそう俺に語りかけていた。
﹁今の貴方が抱いている、その強き想いを﹂
224
4
﹁ん⋮⋮﹂
気がつくと、俺の身体は五感を取り戻していた。夢見心地が覚め
ぬ頭を右手で支えつつ、俺は頭上に目線をやる。だいぶ時間が過ぎ
てしまったのか、空はすっかり暗くなっていて、月も天高くから地
上を照らしていた。だが、朝食から何も口にしていない筈なのに、
不思議と空腹は感じない。あの世界での出来事から、まるで数十分
くらいしか経っていないような錯覚すらある。
︱︱だけど、あれは絶対に現実だった。
根拠のない確信を抱きつつ、俺はふと目の前に視線をやる。
そして、忽ち驚愕し、声にならない叫びを上げた。
﹁⋮⋮ッ!﹂
俺が腰を下ろしている岩壁の対角線上に、同じく背中を預け佇む
者がいた。尤も、俺の方は座っているが、向こうは立ってこちらを
見下ろしている。ドーネルではない事は明白だった。何しろ、体型
も服装も全く違うし、相手の背中には漆黒の羽まで生えている。人
間ですら、ないだろう。そして、その曲線美が際だつ女性的なシル
エット。そんな容姿を持った者を、俺は一名しか知らない。
やがて、俺が目を覚ました事に気がついただろう彼女は、うんざ
りしたような声色で言った。
225
﹁随分と長い昼寝だったわね。いつ起きるか、こっちも待つのにい
い加減飽き飽きしてきたところだったわよ﹂
﹁⋮⋮メファヴェルリーア、さん﹂
相対している悪魔の名を呟きながら、俺は立ち上がる。腰に差し
てある剣の柄に手をかけ、不穏な状況に陥った時は即座に抜けるよ
うに身構えた。すると、彼女は肩を竦めて、
﹁別に警戒しなくていいわよ﹂
と、突っ慳貪な口調で耳を疑ってしまうような事を告げる。俺は
気を緩める事なく訊ねた。
﹁何故、ですか﹂
﹁今日は忠告しにきただけだから﹂
﹁忠告?﹂
﹁そうよ﹂
メファヴェルリーアは顔を強ばらせて、
﹁シュバトゥルス様の力は、貴方達が思っているよりずっと強大な
の。計画を邪魔したら、勿論タダじゃ済まないわ。下手すると命を
落としかねないのは、貴方も身に染みているでしょ?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
226
ネメラ山での邂逅で目の当たりにした、洞窟を崩壊させるほどの
魔法を思いだし、俺は口を濁した。
﹁この前の一件だって、私が庇っていなかったら、貴方達全員とっ
くに死んでるのよ﹂
﹁⋮⋮ちょっと待って下さい﹂
聞き逃せない言葉を耳にし、俺は自然と声を張り上げていた。
﹁﹃私が庇った﹄って、どういう事ですか?﹂
すると、彼女は眉をひそめて、
﹁⋮⋮もしかして、気づいていなかったわけ?﹂
と、逆に訊ね返してくる。
﹁気づくって、何に⋮⋮あ﹂
と、俺はある光景を思い出した。崩壊した天井が俺に降りかから
んとした、まさにその時。意識を失う直前に垣間見た紫色の輝きを。
﹁まさか、あの光って﹂
﹁そうよ﹂
俺が呆然と呟くと、メファヴェルリーアはぶっきらぼうに言う。
﹁落下物がぶつかる直前、私が闇の力で貴方達を守ってあげたわけ﹂
227
﹁でも、どうして⋮⋮﹂
俺は問いかけずにはいられなかった。
﹁あの時に俺達を助けて、それで今も、わざわざ忠告をしにきて⋮
⋮どうしてなんですか?﹂
彼女にとって、俺達は敵の筈。何度も説得したお陰で改心したよ
うにも思えない。さっぱり、彼女のとった行動の理由が分からなか
った。彼女は鼻をフンと鳴らして、素っ気なく答える。
﹁二回、命を救われたから。そのお返しをしただけよ﹂
﹁二回?﹂
﹁宿であの生意気な天使の小娘に殺されかけた時と、洞窟で私が口
を割らなかった時﹂
とにかく、と彼女は真剣な眼差しで俺を見つめた。
﹁ただし、もう次は無いわよ。次に貴方達が私の前に現れたら、今
度は容赦しないから﹂
﹁久しぶりじゃな、メファヴェルリーア﹂
ふいに声がして、俺はギョッとして振り向いた。いつの間にか、
老魔術師が大杖をつき、この場所に来ていたのだ。
﹁ドーネルさん、久しぶりって⋮⋮?﹂
228
困惑しつつも、俺は横目で悪魔を見やる。彼女は血のように紅い
瞳を大きく見開いて、目の前の老人を凝視していた。だが、最初こ
そ動揺している様子だったものの、すぐに険悪な顔つきとなって、
﹁そっちの顔なんて、二度と見たくないと思ってたわよ﹂
と、俺に接する以上に刺々しい声色で言う。その口振りに紛れも
ない負の感情が現れていたので、俺はまたもや驚かされる。一方、
ドーネルは平然とした、しかしどこか悲しそうな表情で、彼女を見
つめ返していた。そして彼は、ゆっくりと口を開く。
﹁お主にはずっと、申し訳ないと思っておった。どうか、謝らせ﹂
﹁うるさい! 言い訳なんて聞きたくないわよ!﹂
彼女は激高し、老人の言葉を遮る。どうやら、過去に両者の間で
何かがあった事は間違いないらしい。だが、確執の理由を知らない
俺は、目の前の状況を黙って見ているだけしか出来なかった。
﹁貴方を信じたせいで⋮⋮﹂
荒々しく息を吐きながら、彼女は俯いて独り言のように呟いた後、
急に顔を上げ、
﹁私は貴方を、絶対に許さない!﹂
と、吐き捨てるような口調で叫んだ。途端、彼女の体は目映い光
に包まれていく。
229
そして、次の瞬間。彼女の姿はこの場所から完全に消え去ってい
た。
230
5
悪魔が去った後、ドーネルは頭を小さく振り、独り言のように呟
いた。
﹁やれやれ、随分と嫌われてしまったものじゃ⋮⋮尤も、仕方のな
い事ではあるが﹂
﹁あの⋮⋮﹂
﹁おお、そうだ﹂
呼び掛けると、老魔術師は何かを思い出したように瞬きをして、
俺の方へと杖をついて歩いてきた。
﹁どうだ、精霊には会えたか?﹂
﹁あ、はい﹂
そういえば、予期せぬ来訪者のせいで、先ほどの摩訶不思議な体
験もすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。俺が小さく頷くと、
彼はその顔を綻ばせて、
﹁それは良かった。で、どんな力を得たのじゃ?﹂
﹁えと⋮⋮分からないです﹂
しまった、という思いが胸を渦巻く中、俺は視線を地面に向ける。
よくよく考えると、あの精霊は俺に何の説明もしてくれてはいなか
231
った。こちらから訊ねるべきだったのかもしれないが、今更悔やん
でも仕方がない。
だが、ドーネルは平然とした様子で、
﹁分からない事はないだろう。お主の頭の中にはちゃんと、かの精
霊が授けた知識が存在する筈だ。よく考えてみなさい﹂
そんなまさかと思って思考を巡らせてみると、
﹁⋮⋮あっ﹂
確かに、あの精霊が与えてくれた能力の詳細を、俺は知っていた。
﹁どうして⋮⋮いつの間に﹂
俺が呆然としていると、老人は快活な笑い声を上げて、
﹁彼らは言葉を用いなくても、他者に知識を伝える事が出来るから
の﹂
さあ、儂に見せてみなさい。ドーネルに促され、俺は練習した事
もない謎の力を、取りあえず発動させてみる。すると、忽ち俺の眼
前に透き通る障壁が出現した。
﹁うわ⋮⋮﹂
自然と俺は声を上げる。一方、魔術師の方は感嘆した様子で、
﹁ほう、相手の攻撃を防ぐにはうってつけじゃな。これがお主の得
232
たいと願っていた力か﹂
﹁ドーネルさん、その﹂
些か困惑しつつも、俺は彼に言った。
﹁もう一つ、あるみたいなんです﹂
﹁もう一つ? 精霊から授かった力が、か?﹂
﹁はい﹂
﹁なんと﹂
ドーネルは驚嘆したように目を見開く。その深い緑色の瞳が、キ
ラリと光った。
﹁そんな者、儂の知っておる限りではお主だけだ。流石は勇者様と
いうべきかの﹂
﹁いえ、そんな﹂
﹁で、その二つ目の力とは一体どんなものなのだ﹂
﹁えっと、こんなのです﹂
俺は目の前の老人を対象にして、先ほどとは別の力を発動させる。
ドーネルは一瞬ドキッとしたようで、その痩せた体をたじろがせた
が、やがて自らにかけられた術の正体に気がついたようで、
233
﹁ほお、これは興味深い。どれ、儂も試してみるかの﹂
と、体を支えていた杖を握りしめ、両目を瞑る。すると、彼の真
正面に先ほど俺が作り出したのと同じ障壁が現れた。しばらくする
とそれは消失し、老人は好奇の眼差しで俺を見つめる。
﹁実に珍しい能力じゃの。﹃他者に自らの力を移し変える﹄とは﹂
そう。俺があの精霊から授かったのは、﹃攻撃を防ぐ障壁を素早
く出現させる力﹄と﹃魔法を唱える知識や剣の技術なども含めた自
分の能力を指定した相手に貸し与える﹄の二種類だった。ただ、ド
ーネルには伝えないのだが、後者には﹃誰かに力を移している最中、
俺はその力を失う﹄という一つの欠点がある。また、前者は俺の力
量に応じてその強さを変えるので、現段階ではそれほどの硬さでは
ない。後者も、俺が魔法などを使えない以上、現状さほど役に立た
ないだろう。
精霊が言っていた通り、使いこなすには結局、俺自身の成長が不
可欠という事らしい。
︱︱サイドなんか、誰かにやすやす貸しちゃいけない能力だしなぁ。
﹁では、夕飯も出来ておる事だし、話の続きは食事を囲んでするか
の﹂
﹁待って下さい、ドーネルさん﹂
屋敷へ戻ろうとした彼を、俺は慌てて呼び止める。いますぐ、聞
きたい事があったのだ。
234
﹁メファヴェルリーアさんと、知り合いだったんですね﹂
彼女の名を持ち出すと、老人の小柄な背がピクッと僅かに反応す
るのが分かった。やがて、ドーネルは俺に振り向き、
﹁⋮⋮ああ、そうじゃ﹂
と、些か沈んだ声色で口を開く。
﹁一体、彼女と何があったんですか?﹂
﹁もう、昔の事じゃ。お主には関係のない﹂
﹁教えて下さい!﹂
彼の言葉を遮り、俺は自分でも驚くくらいの強い語調で言った。
それほど、彼女の事が気がかりでならなかったのだ。彼女はどうし
て、俺の事をわざわざ助け、警告までも残していったのか。借りを
返しただけと本人は説明していたが、どうも納得がいかなかった。
老魔術師と彼女の過去を知れば、その疑念に対する答えに行き着け
るのかもしれないと思ったのだ。
﹁お願いします!﹂
﹁うむぅ⋮⋮﹂
ドーネルは最初、俺に話すのを躊躇っていた様子だった。だが、
俺が諦めずに真っ直ぐな眼差しを向けていると、彼は目を逸らして
俯き、唸り声と共に考え込む。そのまま、穏やかな時間がしばらく
過ぎていった。やがて、老人は再び顔を上げ、俺を見つめる。その
235
表情には、確かな決心の跡が浮かんでいた。
﹁⋮⋮長い立ち話になるが、構わんかの?﹂
老人は静かな声で言った。
236
6
﹁はい、構いません﹂
俺が力強く言うと、ドーネルは弱々しく頷いて、
﹁そうか⋮⋮﹂
と杖の先端に両手を重ね、空へと視線を移す。その深緑色の瞳は、
彼方に浮かぶ月ではなく、遙か遠い過去の記憶を見つめているよう
な気がした。
やがて、万感の入り交じったような息をついた後、ドーネルはポ
ツリポツリと語り始めた。
﹁思い起こすと、もう十年近く前の事になるか。儂が住まいを構え
ているこの地に、近くの村から⋮⋮とはいっても、距離自体はけっ
こう離れておるのだが、とにかくそこから一人の青年が儂を訪ねて
やってきた。理由を聞くと、自分の暮らす村に厄介な悪魔が出没す
るようになったので、魔術師である儂に退治してもらいたいとの事
だった。
その悪魔は人間も見ほれてしまうほど魅力的な女の姿をしておっ
て、村に住む男をかどわかして金品や家畜を奪ったり、それはそれ
は散々な悪行を尽くしていた。村の自警団が幾度となく追い払おう
とした事もあったそうじゃが、怪しげな魔法で気絶させられた上、
身ぐるみ剥がされた上に意識を失う直前の記憶まで奪い去られる者
237
が続出したらしい。
断る理由はなかった。既に隠居したような身だとはいえ、儂は今
でも、そこまで現世との関わりを捨てとらんからの。こんな老いぼ
れに会う為、遠い場所から遙々やってきた若者の頼みを聞き、儂は
彼の案内でその町へと赴いたのじゃ。
結論からいうとな、儂は例の悪魔を村から追い払う事に成功した。
ちょうど、その村に魔道の才がある子がおっての。その子にも少し
手伝ってもらい、村全体にちょっとした仕掛けを施したのじゃ。そ
の所為で例の悪魔はかの村を去らざるを得なくなった。
じゃが、久々の遠征で疲れはて、この屋敷でじっくり体を休めて
いた儂の下へ、またしても訪問者が現れた。先ほどとはまた別の村
に住んでいる男じゃった。しかし、用件は全くの同じ。自分の村に
悪魔がやってきたから、退治してくれ。勿論、行かないわけにもい
くまい。儂の予想が正しければ、その村に害が及んだ責任の一端は
他ならぬ儂にあったわけじゃからな。溜息をつきつつ、儂はまたし
ても外出して、今度は例の悪魔をとっ捕まえた。
本当はそのまま命を奪ってしまおうとしたのじゃが、その悪魔は
見逃してほしいと懇願してきての。非情になりきれんかった儂は悩
んだ末、その悪魔を自宅に引き取り、一つのテストを課した上で、
召使いとする事にしたのじゃ。老いた体に一人暮らしは厳しいもの
があったし、この周辺には村や町が少ない分、空腹に困った者が屋
敷を訪れる事も多々ある。そういった者達に食事を運ぶような者が
いれば助かると考えた。力を術で封じ、普段から注意しておけば脅
威にはならんしの。
こうして、例の悪魔はこの屋敷で働き始めた。あれだけ見逃して
238
くれと懇願していたのに、いざ仕事をやらせると不満タラタラでな。
ただ、ぶつくさ文句は言うものの、炊事や洗濯やらはキチンとこな
してくれたので、儂は大助かりじゃったよ。
時折ふらっと現れては寝床と食事をせがんでくる旅人達にも、こ
の悪魔はたいそう好評だった。元々、若い男から好かれるような容
姿じゃったからな。角と羽を帽子や衣服で隠し、儂の魔法で肌の色
を誤魔化せば、それは人気が出るのも必然といえた。悪魔の方も訪
問者の前では猫を被って大人しくしていたから、中には故郷に連れ
帰って嫁にしたいという者まで現れおった。ただ、本人は乗り気な
風を装って相手をけしかけておったものの、その申し出は流石に儂
が丁重に断った。いくら反省していると口で言ったところで、儂の
目の届かない場所に連れていかれれば、その悪魔が何をしでかすか
分かったものではないからのう。勝手に果実をくすねて頬張るよう
な素行の悪さは未だ健在だったし、儂はまだ、そこまでその悪魔を
信じてはおらんかった。
しかし、些細なトラブルは日常的に起こっていたとはいえ、儂と
その悪魔の共同生活は至って順調だった。儂自身、不思議なくらい
だがのう。今にして思えば、月日が経つにつれ、儂と悪魔の間にも
一種の信頼が芽生え始めていたのかもしれん。儂もその悪魔がそこ
まで性悪な者ではないと確信を抱き始めていたし、ひょっとすると
相手も同じように考えていてくれたのかもしれん。小さな悪さを行
う癖は一向に直らなかったが、まぁ、それは言ってしまえば、人間
の子がするイタズラと何ら変わりないからのう。相手は儂なんかよ
りずっと年のいった悪魔だったが、種族の違いというものもあるし、
大目にみておった。長く共に過ごした事で、情が湧いてきたという
理由もあったのじゃろうな。
捕まえた頃は高飛車だったあの悪魔も、ここの暮らしを経て次第
239
に丸くなっていった。完璧に対等な関係だったとはいえんが、それ
でも儂達は人と悪魔という種族の壁を越え、争いとは無縁の生活を
確かに送っていた。
だが、とあるきっかけで、そんな穏やかな日々は終わりを告げた
のじゃ﹂
長く話しすぎて疲れたのか、ドーネルは話を中断してふぅと一息
つく。だが、はやる気持ちを抑えられず、俺は自然と彼に質問を浴
びせていた。
﹁一体、何が起こったんですか?﹂
すると、老魔術師は天に向けた瞳を細め、しみじみといった口調
で言った。
﹁人の青年に、恋をしたのじゃよ﹂
240
7
﹁⋮⋮え﹂
︱︱恋?
思わぬ返答に、言葉を失う。そんな俺をチラリと見た後、老人は
話の続きを語り始めた。
﹁その男は旅人でな。この屋敷にたどり着く者の例に漏れず、食べ
物と宿に困っておった。いつもと同様、儂はその男に食事と寝床を
提供したが、ずっとひもじい生活を続けていたのか、彼はひどく衰
弱していた。そこでしばらく屋敷において、例の悪魔に介抱させる
事にしたのじゃ。そして、男である儂の目から見ても、その青年は
美麗な容姿をしていてな。着ているものこそボロボロで汚かったが、
服装をちゃんとすれば一国の王子と称しても違和感がないくらい整
った顔立ちをしておった。性格も控えめで礼儀正しくてな、好感の
もてる良い若者じゃったよ。
そして、儂だけではなく悪魔もまた、彼の外見と人柄に惹かれた。
恐らく、人間にそういった類の好意を抱いたのは彼女にとっても初
の経験だったのじゃろうな。そして、青年の方もどうやら自身の世
話を焼いている女の事を憎からず想い始めたようじゃった。楽しそ
うに会話を繰り広げる彼らを遠目から眺めていると、儂も心が和ん
だよ。
だが、仄かな恋心は同時に、彼女にどうしようもない葛藤をも与
241
えてしまった。自らが悪魔である事を知れば男は自分を拒絶するか
もしれない、とな。
思い悩んだ悪魔は儂に相談してきた。その話を聞き、儂も考え抜
いた末、かの悪魔をこの場所へと案内したのだ。彼女へ一つの道を
授けるために、の﹂
﹁この場所へ、って事は⋮⋮﹂
﹁そう。お主の考えている通りじゃ﹂
俺の呟きにドーネルは小さく頷く。
﹁お主と同様に、その悪魔もまた、この地に宿る魔力を用い、精霊
と交信した。﹃悪魔の姿を捨て人間になる﹄という自分の強き願い
を叶える為に、の﹂
﹁⋮⋮あれ? ちょっと待って下さい﹂
老人の説明に一つの疑問を覚え、俺は口を開いた。
﹁話に出てくる悪魔って、メファヴェルリーアさんの事ですよね。
でも、彼女は確かに人に化けられますけど、普段は悪魔の姿じゃ﹂
﹁そう、それが儂の犯した間違いじゃった﹂
俺の言葉を遮り、悔やむように老人は表情を歪めた。その顔に刻
まれた無数の皺がいっそう深くなっていく。
242
﹁すっかり、失念していた。だが、その時までは夢にも思っていな
かったのじゃ。まさか、この地に宿る魔力が、精霊が認めた筈の清
き願望を、完全に実現出来ないほどに弱まっていたとは﹂
﹁⋮⋮あ﹂
この場所に来た際にドーネルから告げられた説明の事を思い出し、
俺は自然と声を上げていた。一方、老人は沈んだ声色で再び口を開
く。
﹁その悪魔が授かったのは﹃力をあまり消耗せずに人に化ける力﹄
となった。しかし、本人にとってはささやかな違いだったのじゃろ
う。悪魔のそれとは全く別の美しさを秘めた、新しい自分の身体を
目の当たりにしたその時、彼女はとても喜んでおったよ。
完全に回復した彼が旅立った後、儂は力の封印を解いて悪魔を解
放した。そして恐らく、かの悪魔は精霊から授かった力を用いて人
に化け、どこかの町で別人として青年に会い、そしてまたもや彼と
恋に落ちたのだろう。
しばらくは、何の音沙汰もなかった。じゃが、あの日。かの悪魔
がこの屋敷にやってきた。最初は顔でも見せに来たのだろうと思っ
たのじゃが、儂の推測は外れておった。あやつはその顔を怒りと悲
しみに歪め、恨みのこもった眼差しを儂に向け、刺々しい声で青年
とのその後を語り始めた。
どうやら、あやつは自分が青年を騙している事に罪悪感を覚え、
自分が悪魔である事を彼に打ち明けたらしい。恐らく、種族の違い
を補って余りある愛情が自分達の間には築けてあると思っていたの
243
じゃろうな。だが、真実を知った青年は彼女を拒絶し、彼らは破局
してしまった。
そして、儂にその事を荒々しく告げた後、かの悪魔は何処へと去
っていった。その後の行方は分からなかったが、彼女らしき悪魔が
再び悪さを始め、しかも妙な趣味に走っているらしい、と風の頼り
に聞いたくらいかの﹂
儂の話は、ここまでじゃ。長い語りを終え、老人はゆっくりと息
を吐く。一方、俺は強烈な衝撃を受けていた。
︱︱まさか、メファヴェルリーアさんにそんな過去があったなんて。
﹁⋮⋮それじゃあ、今度こそ宿に戻るとしよう。夜風は老いた身体
には堪える﹂
﹁あ、まだ後一つだけ聞きたい事が﹂
﹁ん、何じゃ?﹂
﹁どうして、ドーネルさんがシュバトゥルスと戦わないんですか?﹂
メファヴェルリーアを捕まえて召使いにした等の話を聞く限りで
は、彼がごく一般的な魔術師だとは到底思えなかった。だからこそ、
彼自身が眼前の脅威に対して動かないのが不自然に感じられたのだ。
﹁⋮⋮うむ、訊ねられるとは思っておったよ﹂
俺の問いを受け、老人はまるで独り言のように呟いた後、
244
﹁普通の人間には話せないが、勇者であるお主になら構わないじゃ
ろう。ついてきなさい﹂
と、俺を手招きするような動作を見せた後、朝に入ってきたとは
また別の穴をくぐり、外に出ていった。
245
8
空洞に空いた別の穴から外に出て後、ドーネルが何やらぶつくさ
と唱えると、ぼうっと火の玉が宙に浮いて周囲を照らす。眼前に広
がる光景を目にして、俺は自然と感嘆の息をついていた。
﹁うわあ⋮⋮﹂
薄暗い夜の中でも分かるくらい、そこは美しい世界だった。様々
な果実を身につけた。色とりどりの木々が立ち並ぶ中、可愛らしい
栗鼠などの小動物が元気にはしゃぎ回り、美しき羽の小鳥達は木の
枝でぐっすりと安眠している。獰猛な魔物の姿も全く見受けられず、
生き物達は皆、外敵の脅威を感じる事もなく、穏やかに過ごしてい
る。
まるで楽園のようだと、俺は感じた。その旨を伝えると、老人は
満足げに笑って、
﹁この地はお主の感じた結界によって守られているからの。ここに
住む生き物達にとってはそうかもしれんのう。ただ﹂
と、彼は急に険しい顔つきになり、真剣な口調で言った。
﹁そのために、儂はこの場所から離れられないのじゃよ﹂
﹁⋮⋮どういう事ですか?﹂
﹁それはな﹂
246
ドーネルの説明によると、この地に住む生き物達を脅威から護る
結界は、彼自身が遠ざかれば遠ざかるほどその力が弱まってしまう
らしい。その強度を維持出来るギリギリのラインがネメラ山までで、
シュバトゥルスの拠点まで赴けば、その留守中に相手の方が強力な
魔物をけしかけ、この聖域を破壊しつくそうとする事にもなりかね
ないのだという。
﹁それで、俺達に奴を退治させようとしていたんですか⋮⋮﹂
﹁うむ。済まないが、そういう事なのじゃ﹂
彼は申し訳なさそうな面持ちで真っ白の顎髭に手を当てながら、
﹁シュバトゥルスはきっと、儂の張っている結界に興味を持ってい
る筈じゃ。そして奴が目をつけている以上、儂はどうしても、ここ
を離れるわけにはいかん。だから、お主達にどうしても、あの悪党
を退治してほしいのだ﹂
そして、あやつの事も。呟くように言った後、ドーネルはその翡
翠色の眼差しを細めて大自然をじっと見つめる。
﹁メファヴェルリーアさんの事ですね﹂
老人は小さく頷いて、
﹁まだ若いお主に無理難題を押しつけておるのは分かっておる。だ
が、出来るならあやつを説得してほしいのじゃ。この地に入り込め
るという事は、あやつもまだ、そこまで邪悪な意志を抱いてはおら
んのじゃから﹂
247
その言葉に、俺はハッと気づかされる。老魔術師の説明によれば、
この聖域には結界が張られていて、悪しき心を持つ者は入れない筈
だ。それなのに彼女は平然として俺の前に姿を現した。その事実が
告げるは、ただ一つ。彼女は根っからの悪人ではない、という事だ。
﹁⋮⋮頼めるかの?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
彼の問いに、俺はゆっくりと頷いた。
精霊との邂逅を果たした翌日。出発の準備を済ませた俺達は屋敷
の前まで見送りに出てきたドーネルと対面していた。ささやかな会
話を済ませた後、彼は俺の手に小さな小瓶を渡してきた。その中を
覗くと、何やら黄緑色に光る液体が視界に入る。
﹁これ、何ですか?﹂
﹁ヒュドリアスという希少な生物の角を細かく砕いて、特殊な液に
混ぜた薬だ﹂
老人の話すところによると、この薬品を一気に飲めば、忽ち能力
が強化されるのだという。頭の回転も早くなり、反応速度も増し、
身体も強靱になるそうだ。ただし時間が経てば、その効力は薄れて
いき、やがては消えてしまうのだという。
248
﹁シュバトゥルスとの決戦で役立つ筈じゃ。持っていきなさい。こ
こぞという時に使うんじゃぞ﹂
﹁ドーネルさん⋮⋮ありがとうございます﹂
﹁礼は言らんよ。儂に出来る事は、このくらいしか無いからのう﹂
老人は小さな背を丸め、嘆息の息を吐いた。
﹁そんなに心配なさらないで大丈夫ですよっ﹂
隣のアリーテが自身の胸をドンと強く叩いて、元気よく言った。
﹁私達にかかれば、あんな澄まし顔のカッコ付け男はちょちょいの
ちょいです!﹂
﹁⋮⋮お前、何でそんなに自信満々なんだ?﹂
俺が呆れながら言うと、彼女はフフンとふんぞり返って、
﹁決まってるじゃないですか。この世に悪の繁栄が長続きした試し
はないからですよっ﹂
﹁何でそんなややこしく言うんだ。普通に﹃悪の栄えた試しはない﹄
で良いだろ﹂
﹁それだと少し語弊があります﹂
という事は、どうやら短期間なら悪でも栄える事は今まであった
らしい。
249
︱︱じゃあ、駄目かもしれないって事じゃねえか!
﹁まあ、気持ちだけでも上向きにしておいた方が良いのかもしれな
いな﹂
白銀の鎧を身に纏う騎士が、やけに真剣な表情で口を開いた。
﹁セイーヌさんまで⋮⋮﹂
﹁でないと、心が折れてしまうかもしれない﹂
﹁うっ、なるほど﹂
どうやら、彼女の方はどこかの楽天家と違って、自分達と相手と
の戦力差を理解しているらしい。
そして、その楽天家は意気揚々と両手を上げて、
﹁何にせよ、善は急げです。早速、出発しましょう!﹂
と、声高らかに告げる。俺は最後に、命の恩人へ深く頭を下げた。
﹁ドーネルさん、今まで色々とありがとうございました﹂
﹁うむ⋮⋮お主達、頼んだぞ。この大陸の未来を﹂
﹁はい!﹂
250
こうして、俺達は敵の本拠地へと向け、再び旅を始めたのだった。
251
9
あれから。ドーネルの家を出発した俺達は彼に教えてもらったシ
ュバトゥルスの拠点に向かうため、数日間を徒歩移動に費やした。
野を進み、川を渡って、森を抜け、時折魔物に出くわしながらも、
時には真正面からぶつかり、時には戦闘を避け逃走し、幾多もの障
害を何とか切り抜けた。
そして。そんなこんなで、俺達はようやく敵の本拠地の側まで到
着したのだった。
﹁あれが、あの澄まし顔の家ですか⋮⋮﹂
﹁立派な館だな﹂
草原を吹き抜ける風に異なった色の長髪をなびかせながら、アリ
ーテとセイーヌがそれぞれ声を上げる。俺達の立ち尽くしている場
所の向こうに、その館は存在していた。見た目からして、ホラー映
画に出てくるような典型的洋館だが、時間帯が昼で太陽の日差しが
照りつけているせいか、不気味さのようなものは感じない。高さや
外見から考えて、恐らく二階建てか三階建てだろうと推測をつける。
建物の周囲は俺達同様、微風にそよぐ草々が蔓延っているだけで、
穏やかな野原の中心に悪魔が住み着いている人工の建造物がポツン
と立っている様は少しだけシュールに感じられた。
﹁さて、どうする?﹂
俺達三人の中で、いち早く館から目を外した女騎士が口を開いた。
252
﹁隠れられるような岩影も無いし、バレないようあの中へ侵入する
のは多分不可能だと思うぞ﹂
﹁確かにそうですね﹂
元々の計画では、敵に悟られないように、こっそりと忍び込むつ
もりだった。だが、こんなに開けっ広げな立地では姿を消しようも
ない。
﹁何も心配する必要はありません!﹂
見るからに何も心配していない様子の見習い天使が、とある物を
握りしめながら、
﹁ここは真っ正面から突っ込みましょう! 正義の美旗を掲げ、前
進あるのみですっ!﹂
﹁おい、ちょっと待て﹂
﹁ふにゅ﹂
手に持つ旗を振りかざしながら、勢いよく歩きだしたアリーテの
襟をむんずと掴む。彼女は頬を膨らませて振り返ると、
﹁どうして止めるんですかっ﹂
と、むくれた口調で言う。俺は溜息をつきながら、彼女の握る旗
を指さした。
﹁いや、それ正義の美旗じゃなくて白旗じゃねえか。降参の合図だ
253
ろ﹂
﹁いいえ、違います。正義の美旗です。ほら、キチンと見て下さい﹂
彼女が広げた布の部分を眺めると、なるほど。確かに目を凝らさ
ないと見えないくらい小さく掠れた文字で﹃私達は悪に屈しません
!﹄と書いてある。
﹁だから、こちらが攻撃しても全然問題無しという事です﹂
﹁⋮⋮つまり、降伏と勘違いして出てきた相手の手下達を油断させ
たところで一気にしとめるって寸法か﹂
﹁その通りです!﹂
自信満々で腰に手をやるアリーテ。一方、黙って話を聞いていた
セイーヌが俺の心境を代弁するかのように複雑そうな表情で口を開
いた。
﹁それって、かなりセコくないか?﹂
﹁いいえ、全くセコくないです。もし向こうが勝手に勘違いしたら、
それは向こうの自己責任です﹂
﹁⋮⋮お前、よくそういう手思いつくよな﹂
﹁えへへへ、それほどでもないですよ﹂
︱︱いや、全く褒めてないぞ。
254
頬を桜色に染めて得意げに胸を張る彼女に対し、俺は心中でツッ
コミを入れた。
﹁⋮⋮まあ、アリーテ殿の策を採用するかはおいといて﹂
セイーヌはそう話題転換して、
﹁とにかく、ここで突っ立っていてもしょうがない。どこか身を潜
める場所を探した方が賢明かと思うが﹂
﹁あ、その意見には俺も賛成です﹂
現状、草原の真ん中にいる俺達の姿は非常に見つけやすいだろう。
もしかすると、今この瞬間にも館の方で不審者を発見したという報
告がなされているかもしれない。
﹁でも、身を潜めるったってどうするんですか?﹂
アリーテが首を傾げ、背中の羽と手に握る旗を連動させるように
パタパタと動かしながら言う。
﹁ここら辺、綺麗さっぱり平地ですよ。森とかも山も見当たりませ
んし﹂
﹁そうだな、それが問題なんだよ⋮⋮﹂
俺は髪を掻きながら、周囲を見渡す。どの方角も草原、草原、草
原のオンパレードだ。身を隠しながら移動出来るなら、とっくにや
っている。
255
︱︱やっぱり、真正面から本拠地に切り込むしかないか⋮⋮?
アリーテの案は流石に卑怯で姑息で屁理屈過ぎるから却下するに
しても、正面突破ではこちらに分が悪いのは明らかだ。ここまで来
る途中で何匹か野生の獣や弱小モンスターを倒したものの、そこま
で戦闘のスキルが身についたわけでもない事は俺自身がよく分かっ
ている。悪魔に対してアリーテの魔法は役に立つだろうが、俺やセ
イーヌは正直、戦力に入れられないといっても過言ではない。良く
て壁、悪くて時間稼ぎにしかならないのが現実だろう。となると、
やはり正攻法は避けたい。
︱︱いや、細かい事は後で考えるとして、今は。
考えを纏めた俺は、渋い表情で思案に耽る仲間達に声を掛けよう
とした。
﹁取りあえず、一旦引き上げよう。発見されるとマズいし⋮⋮﹂
﹁もう、遅かったわね﹂
その聞き覚えのある声が後ろから聞こえた瞬間、俺は背筋がゾク
リと震えるのを感じた。
256
10
︱︱この声は!
即座に振り向くと、そこにはやはりあの悪魔がいた。他の一人と
一羽もまた、身を強らばせる。セイーヌは腰の剣を抜いて構え、ア
リーテは相手にビシッと白旗を突きつけて、
﹁メガベロベロリ! どうして私達がここにいると分かったんです
かっ!﹂
﹁だからそんなヘンテコな名前じゃないって言ってんでしょうが⋮
⋮﹂
艶やかな桃色の髪を掻き上げながら、突然の来訪者ーーメファヴ
ェルリーアは渋い表情で溜息をついた。
﹁まぁ、その事はおいておくとしても⋮⋮アンタ達を発見するのは
造作もなかったわよ。館から丸見えだったし﹂
﹁そんなわけある筈がありませんっ。だって、こんなに離れてるん
ですよっ﹂
確かにアリーテが言っている通り、俺達の現在地と洋館の間には
かなりの距離がある。俺自身、先ほど退こうと言いかけたわけだが、
それはあくまで念には念を入れるためだった。それが、まさかこん
なに早く見つかるとは。
﹁あのね、少しは頭を働かせたらどうなの?﹂
257
メファヴェルリーアは呆れたように息をついて、俺達を見回しな
がら、
﹁私達のアジトの周りが見た目通り無防備だなんて思ってたなら、
お生憎様。ここにはしっかりと目には見えない防衛線が張り巡らさ
れているのよ。異質な侵入者がやってきたら、即座に反応するよう
にね﹂
﹁そ、そうだったのか⋮⋮﹂
呆然とした顔つきで、セイーヌが呟くように言う。今にして考え
れば、確かにそうだ。あの見るからに頭の切れそうなシュバトゥル
スが、自らの計画を阻もうとする者が現れる可能性を危惧していな
いわけがない。対抗策は既に準備してあったのだ。
︱︱つまり、俺達の思慮が浅かったってわけか。
﹁とにかく、ここまで来てしまったのなら仕方ないわね﹂
悪魔の両目がすっと細められる。﹃もう警告は済ませたのだから、
容赦はしない﹄と、彼女の紅い瞳は暗に告げていた。
﹁シュバトゥルス様の邪魔は誰にもさせない。貴方達をここから先
へは進ませないわ﹂
﹁⋮⋮フン、それなら貴方を倒すまでですっ!﹂
旗を道ばたに投げ捨てて、アリーテ声高らかに叫んだ。
258
﹁現在の状況は三対一! 圧倒的にこちらが有利なんですからっ!﹂
そうだ、俺達の方が人数では勝っている。それに奇襲続きだった
とはいえ、仮にも二度は倒した相手だ。更に、アリーテの魔法が彼
女に有効であるという事実もあった。俺の心中にも、もしかしたら、
という希望が湧いてくる。
だが、その認識は甘かったと、すぐに気づかされる事になった。
﹁私も舐められたものね﹂
不適な笑みを浮かべたメファヴェルリーアの姿は次の瞬間、立っ
ていた筈の場所から風の音と共に消失する。
﹁消えた!?﹂
﹁一体、どこにいったんですかっ!?﹂
﹁気をつけろ!﹂
剣を抜きつつ、俺は両側の二名に注意を促す。
しかし。
259
﹁⋮⋮遅いわよ﹂
静かな呟きが聞こえ、俺がその方向へと振り向いた途端。視界の
中に邪悪な閃光と、それに吹き飛ばされるようにして宙を舞う騎士
の姿が映った。銀色の鎧が太陽の日差しを受け、空に虚しく煌めく。
﹁ぐあーっ!﹂
﹁セイーヌさん!﹂
絶叫するセイーヌは姿勢を整える間もなく、勢いよく地面に激突
した。そして、彼女は力なく草原の中に倒れ込む。微かなうめき声
が耳に届いてきた。その端正な横顔の両目は閉じられていて、彼女
が気を失っている事は一目瞭然だった。
﹁言っておくけど、私の怪我はもう完治しているの。この前のよう
にはいかないわよ﹂
﹁くっ⋮⋮!﹂
メファヴェルリーアに剣を向けるものの、それを握りしめる両手
が俺自身の意に反して震えていた。
﹁でも、この魔法は絶対に効く筈ですっ!﹂
大声にハッとして横を見ると、既に詠唱準備に移っていたアリー
テの姿があった。その足下には聖なる光を帯びた魔法陣が展開され
ている。
260
﹁ホーリー!﹂
高らかな叫びと共に、アリーテは彼女の掌から目映い光球が発射
され、メファヴェルリーアへと向かっていった。だが、漆黒の翼を
持つ悪魔は全く慌てる様子もなく、むしろ余裕しゃくしゃくといっ
た表情で自らの手を魔法弾へ向けかざす。すると、彼女の掌からも
即座に邪悪な光球が放たれた。光同士は空中で勢いよくぶつかり合
うも、白き輝きは瞬く間に消え失せ、闇の波動がその勢いを失わな
いまま、恐怖を顔に浮かべた天使へと直撃する。
﹁ひあああああああ!﹂
﹁アリーテ!﹂
セイーヌ同様にノックアウトされたアリーテの両目はグルグルと
動き回っていて、
﹁や⋮⋮やられました⋮⋮﹂
と、呂律の回らない言葉が口から洩れ出ている。どうやら、彼女
もまた死んではいないようだと、俺はささやかな安堵を覚える。
だが、状況は更に悪化した。
﹁どう、まだ続けるかしら? それとも降参する?﹂
メファヴェルリーアはただ一人残った俺に挑発的な言葉を掛けて
くる。一瞬、俺の脳裏にあの薬の事がよぎった。ドーネルから受け
取った、ヒュドリアスとかいう生き物の角から作ったという例の薬
261
だ。あれを服用すれば、取りあえずこの状況は打開出来るかもしれ
ない
しかし。
︱︱切り札は、最後に取っておかないとマズいよな。
シュバトゥルスとの戦いまで、もしくはどうしても使わざるを得
ない時まで温存するべきだと判断した俺は、ちょうど近くに落ちて
いた白旗を拾うと、相対している相手に向けて小さく振った。
﹁⋮⋮こっちに勝ち目はない事はもう分かった、潔く降参する﹂
262
11
メファヴェルリーアがどこからともなく呼び出してきた魔物達か
ら囲まれるようにして、俺はシュバトゥルスの本拠地である洋館の
中へと足を踏み入れた。内装は至って平凡な印象で、恐らく元々は
人間が住んでいたのだろう。この家の持ち主がどうなったか、想像
するだけで身の毛がよだつ。せめて命だけでも助かっていればよい
のだが。
どこかの物置に押しこめられるか、自由を奪われ親玉の前に投げ
出されるかだろうとこれからの境遇に推測をつけていたのだが、俺
は何故か地下へ向かう階段を歩かされた。地下室、などという場所
に縁のない生活を送っていた俺は不思議に思いながらも暗闇へと続
く階段を下りる。蝋燭の明かりだけが頼りとなる薄暗い廊下を進ん
でいき、突き当たりの部屋の中に入ったところで、俺はようやく彼
らが俺達をどうしようとしているのか分かった。部屋の隅に大きな
檻がはめ込められていたのだ。映画によく出てくる地下の牢獄のよ
うな感じだ。
屈強な魔物に背中を押されるようにして、俺はその中へと足を踏
み入れた。気を失ったままのアリーテとセイーヌもまた、乱暴に檻
の内部へ投げ入れられる。ちなみに荷物は全て没収され、どこかへ
と運ばれていった。
﹁貴方達には今からずっと、そこで大人しくしてもらうわ。命があ
るだけマシと思うのね﹂
メファヴェルリーアは無表情でそう告げ、側の蝋燭に魔法で火を
つけた後、配下達と共に地下を出ていった。
263
さて、どうやってここを脱出するか。そんな事を考えていると、
しばらくしてか細いうめき声が聞こえてくる。見ると、セイーヌが
目を覚ましたようだった。少し遅れて、アリーテもまたゆっくりと
体を起こす。
﹁ここは、どこだ⋮⋮?﹂
重たそうな瞼を擦りながら呟く騎士に対し、俺は嘆息をついて答
えた。
﹁洋館の地下です。俺達、ここに閉じこめられたんですよ﹂
続いて、天使の騒がしい声がする。
﹁ええええっ! 私達、捕まっちゃったんですかっ!﹂
﹁まあ、そうだな﹂
﹁つまりそれは、ユートさんがメガベロベロリに敗北したという事
ですか﹂
﹁ああ、ていうか降参した﹂
﹁降参とは⋮⋮何て馬鹿な真似をしたんですかっ。勇者としてひど
く愚かな行い﹂
﹁お前だって真っ先にやろうとしてただろ﹂
アリーテの言葉を遮り、ポン、と努めて優しく彼女の頭に拳骨を
264
食らわす。彼女は渋い表情で俯き、
﹁それはあくまで隙を見せた敵を叩くための手段なわけですし⋮⋮﹂
と、何やらぶつくさと言い訳を始めた。それをスルーし、俺は深
刻な顔をしているセイーヌに話しかける。
﹁とにかく、このままじゃマズいですよね﹂
﹁ああ、早くここから抜け出さないといけない﹂
﹁でも、これってそう簡単には破壊出来ないみたいですよ﹂
鈍い光沢をした鉄格子を両手でガンガンと揺らしつつ、アリーテ
が沈んだ表情で言った。セイーヌは辺りを見回しつつ、
﹁他に脱出口も見当たらないな﹂
天井、壁、床。地下なので当たり前だが、牢獄内には通風孔のよ
うなものは全く見当たらず、窓も付いていない。まさに、八方塞が
りというべき状況だ。
﹁こ、このままじゃ終わりですよぅ⋮⋮﹂
﹁とにかく、話し合おう。何か解決策が思いつくかもしれない﹂
だが、どれだけ議論を重ねても、名案が誰かの口から飛び出る気
配は一向になかった。
全く成果の出ない話し合いを続けていると、誰かが通路を歩いて
265
くる音が聞こえてくる。ガチャリ、とドアが開くと、姿を現したの
はメファヴェルリーアだった。
﹁ここで会ったが百年目です! メガベロベロリ!﹂
途端、涙目のアリーテが瞬時に反応し、泣き叫びながら鉄格子を
激しく揺さぶった。
﹁早くここから出しなさいっ!﹂
﹁敵意丸だしの奴を、出せと言われて出す馬鹿はいないわよ﹂
全くもって、正論である。
﹁うううう⋮⋮ここで飢え死にしたら末代まで怨みますよっ⋮⋮﹂
﹁その心配はしなくても大丈夫よ﹂
﹁それは何故だ?﹂
セイーヌが鋭く問うと、悪魔は肩を竦めながら、
﹁さあ、そこまでは知らないわ。ただ、シュバトゥルス様からそう
指示を受けてるだけよ﹂
それよりも。メファヴェルリーアは騎士から視線を逸らし、その
紅い瞳を俺へと向ける。その艶めかしい唇から発せられたのは、呆
れたような声だった。
﹁せっかく忠告してあげたのにノコノコ来るなんて⋮⋮貴方もとん
266
だ大馬鹿ね。もう少し利口な坊やだと思ってたけど﹂
﹁これでも一応、勇者ですから﹂
﹁勇者⋮⋮ねぇ。まあ、私にはどうでもいい話だけど﹂
フン、と鼻を鳴らして彼女はそっぽを向く。常人ならすぐさま見
取れてしまうだろう美しい横顔を眺めながら、俺は頭の中に思いつ
いたある方法について考えていた。もしこれが成功すれば、ドーネ
ルの願いを叶え、同時にこの状況を打開出来る。しかし失敗すれば、
ともすれば俺の命が危うくなるだろう。
︱︱だが、やらずに終わるより、やって失敗した方が百倍マシだ。
意を決した俺は、牢獄の向こう側に立つ彼女に向け、提案を持ち
かけた。
﹁⋮⋮メファヴェルリーアさん、ちょっと二人きりで話したい事が
あるんです。俺をここから出してもらえませんか?﹂
267
12
最初、メファヴェルリーアは呆気に取られた様子で俺を見つめて
いたが、その表情はやがて鋭く変わった。
﹁⋮⋮そんな馬鹿げた申し出、私が応じるとでも思っているわけ?﹂
﹁思ってはいません﹂
俺は彼女の瞳を真っ直ぐに見据え、本心から口にした。
﹁だからこそ、頼んでいます﹂
拒否の言葉は、すぐには返ってこなかった。ほっそりとした人差
し指を唇に当て、彼女は思案に耽る。アリーテとセイーヌは心配そ
うな表情で俺と悪魔を交互に見つめていた。
﹁⋮⋮いいわ﹂
やがて、メファヴェルリーアはぶっきらぼうに言った。
﹁貴方一人じゃ、どうせ危険でもないし。逃げ出す事だって出来な
いだろうから﹂
彼女は素早く詠唱した魔法で俺以外の二名を牽制しつつ、檻の扉
を開く。牢獄の外に出た俺は彼女に連れられて部屋を出た。来る時
も通ったぼんやりとした明るさの廊下を進んでいき、途中の部屋に
俺達は入っていった。カビ臭い室内には古びた木製のテーブルを挟
むようにして、椅子が二脚置かれている。その他に家具などの存在
268
は全く見当たらなかった。もしかすると、かつては看守達の休憩室
のような場所だったのかもしれない。
俺とメファヴェルリーアは向かい合って腰掛ける。その美麗な脚
を尊大に組んで、彼女は口を開く。
﹁で、私と二人きりで話したい事って何よ?﹂
﹁⋮⋮ドーネルさんから、昔の事を聞きました﹂
彼の名を持ち出した途端、彼女の目つきは変わった。
﹁そう、それで?﹂
言葉ににじみ出る不快感を隠そうともせず、メファヴェルリーア
はキツい口調で、
﹁あのジジイの差し金で、慰めの言葉でも掛けようって思ったわけ
?﹂
﹁いえ、そういうわけではないです﹂
﹁じゃあ、なんだっていうのよ!﹂
声をいっそう強く荒げ、メファヴェルリーアは一気にまくし立て
た。
﹁そういう同情が一番癪にさわるのよ! どうせ心のどこかでは、
私達悪魔を忌み嫌っている癖に! あの人だってそうだった! 一
生私を愛してくれると言ってくれたのに、私が人間じゃないと知っ
269
た途端、一目散に逃げ出したのよ!﹂
なおも続く彼女の激しい感情の吐露に耳を傾けているうち、俺は
彼女の気持ちがほんの僅かだけ理解出来たような気がした。
︱︱口ではああ言ってるけど、メファヴェルリーアさんはきっと、
寂しいんだ。
かつて愛し合った存在が、ずっと隠してきた自らの秘密を思い切
って打ち明けた途端、掌を返す。それがどんなに辛い出来事か、俺
には全く想像がつかない。だがきっと、彼女にとっては自暴自棄に
なってしまってもしょうがないくらい、重く衝撃的な事だったには
違いないと思った。
﹁結婚して⋮⋮子供も育てようって約束してたのに⋮⋮男の子が欲
しいって⋮⋮それなのに⋮⋮!﹂
いつの間にか、彼女の叫びには嗚咽が入り交じっていた。ひょっ
とすると、彼女が町で少年を誘拐していたのは、やがて訪れる筈だ
った幸せな生活を忘れられなかったからなのかもしれない。ふと、
そんな事を考える。
やがて、全てを吐き出しきったメファヴェルリーアは顔を俯け、
それまでが嘘のように黙り込んだ。痛いほどの沈黙が、俺と彼女の
間に流れる。その静けさを破り、俺は思い切って口を開いた。
﹁俺にはきっと、メファヴェルリーアさんが抱えている気持ちの半
分も理解出来ていないと思います﹂
彼女は何も言わない。顔を伏せているので、表情も分からない。
270
俺は口にするべき言の葉に迷いつつも、話し続ける。
﹁でも、最初に宿でリーネさんに会った時、とても感じのいい人だ
なって思いました。そしてそれは、今でも変わらないです。たとえ
リーネさんが悪魔であったとしても﹂
彼女はまだ、何も言わない。
﹁だから、俺はメファヴェルリーアさん⋮⋮いえ、リーネさんの事
を信じます。大陸を破滅に追い込むような、そんな事をするような
人じゃないって。そして、それはきっとドーネルさんも同じ筈です。
あの人も、本当にリーネさんの事を心配しているんです﹂
こんな言い方をすれば、彼女は激高してしまうかもしれない。そ
んな不安が首を擡げたが、彼女は僅かに体を動かしただけだった。
﹁お願いです、リーネさん。シュバトゥルスに協力するのを止めて
下さい。奴の計画が成功したら、本当に引き返せなくなってしまい
ます。ドーネルさんだって、貴方とは戦いたくないって、そう思っ
ている筈です﹂
﹁今更⋮⋮﹂
ポツリ、と彼女は呟いた。
﹁遅くなんてないです。まだ、間に合います﹂
俺は首を振って、自らの本心を打ち明けた。
﹁俺は⋮⋮その、リーネさんが好きになった人の代わりにはなれな
271
いだろうと思います。けど、どうか信じてもらえませんか﹂
しばらく間をおいて、彼女はまるでフッと吹き出すように笑いな
がら言葉を洩らした。
﹁貴方って本当にお人好しなのね﹂
﹁⋮⋮そんなんじゃ、ないですよ﹂
﹁お人好しよ、悪魔を説得しようとするなんて⋮⋮まぁ、言い得て
妙な感じはするけど。そういうの、嫌いじゃないわ﹂
再び顔を上げた彼女の顔には、穏やかな微笑みが浮かんでいた。
﹁⋮⋮分かったわ。私も、貴方の事を信じてみる﹂
272
13
﹁ユート殿、これは一体⋮⋮?﹂
﹁何がどうなってるんですかっ﹂
開けられた檻の扉をくぐりつつ、騎士と天使はそれぞれ異なる反
応を示した。セイーヌは戸惑った様子で俺に問いを投げかけ、アリ
ーテの方は敵意丸だし歯も丸だしで悪魔を睨みつけながら、
﹁メガベロベロリが私達をこんな簡単に解放するなんて⋮⋮絶対に
裏があるに決まってますっ!﹂
﹁そんな変な名前じゃないって言ってるでしょうが﹂
メファヴェルリーアはツンとそっぽを向いて、
﹁⋮⋮ったく、相変わらず生意気な小娘ね﹂
﹁生意気とは何ですかっ!﹂
﹁言葉通りの意味に決まってるじゃない﹂
﹁むむー!﹂
﹁お、おい。アリーテ、取りあえず声を抑えてくれ。誰かに聞かれ
て様子を見に来られたらマズいだろ?﹂
火花を散らせ、今にも殴り合いが始まりそうな二名の間に割って
273
入り、俺は悪魔に突っかかっている天使を宥めにかかった。アリー
テは俺の言葉を取りあえず聞き入れてくれたようだったが、
﹁ううううう﹂
と、まるで怒った犬のように低く唸りながら、メファヴェルリー
アを鋭い眼光で見据えるのは止めなかった。まあ、天使と悪魔なの
で相性が悪いのは仕方ないといえば仕方ないのだろう。騒ぎがひと
段落したところで、俺は二名に事情をぼかしつつ説明する事にした。
ドーネルから聞かされた話は、むやみやたらに喋らない方が彼女の
為にも良いと思ったのだ。
﹁まあ簡単に言えば、メファヴェルリーアさんはシュバトゥルスに
協力するのをやめてくれたんだ﹂
﹁何故だ?﹂
セイーヌは訝しげな視線をかつての敵に向けながら、
﹁ユート殿も重々承知の筈だが、相手は悪魔だぞ。そんなにたやす
く信用しない方が⋮⋮﹂
彼女の言葉を聞いた途端、メファヴェルリーアの拳が無言で握り
しめられたのを、俺は見逃さなかった。このまま、彼女のトラウマ
を抉るわけにはいかない。警戒を一向に解かない騎士と不満を露わ
にしている天使に対し、俺は強い口調で訴えた。
﹁セイーヌさんの言う通り、メファヴェルリーアさんは確かに悪魔
です。けど、彼女の本性は優しい人だと俺が知っています﹂
274
﹁どうして、そう言い切れるんですかっ。騙されてるかもしれない
んですよ?﹂
﹁詳しい事は言えない。けど、色々あって俺は確信したんだ﹂
﹁色々あって⋮⋮まさか!﹂
と、何かに気づいた様子の天使は悪魔に不信感溢れる眼差しを向
け、怒りに顔を歪めて声高に叫び始めた。
﹁ユートさんがいたいけな十六才男子だという事を利用して、あん
な事やこんな事をしてその心を籠絡したんですねっ! 何て不純な
! ふしだらな!﹂
﹁馬鹿! そんなんじゃねえ!﹂
思わず俺まで大声を上げてしまう。直後、セイーヌから諫めの言
が飛んできた。
﹁ユート殿、どうか声を抑えて﹂
﹁う⋮⋮すみません﹂
コホン、と咳払いをして息を整えた後、俺はある行動に出た。途
端、アリーテとセイーヌの口から、
﹁ユートさん!?﹂
﹁ユート殿!?﹂
275
と、驚きと狼狽の入り交じった言葉が発せられる。傍らの悪魔も
息を飲んでいた。
俺は彼女達に、深く頭を下げたのだ。
﹁確かに⋮⋮すぐ信頼し合うっていうのは無理かもしれない。でも、
少なくとも今、メファヴェルリーアさんは俺達の敵じゃないって、
それだけは信じてほしい﹂
長い沈黙が流れた後。
﹁⋮⋮分かった、取りあえず今は共闘しよう﹂
﹁⋮⋮ユートさんがどうしてもというなら、異存は大有りですけど
従います﹂
彼女達の言葉を聞き、俺は深く安堵したのだった。
それから。牢獄を抜け出した俺達はまず、別の地下部屋に移され
ていた荷物を取り戻した。その後、階段を慎重に上る。メファヴェ
ルリーアの計らいで、警備の手下達は全員休息を取らせてあり、現
状の安全は保証されているも同然だ。
﹁一階についたら、どうするんだ?﹂
セイーヌの問いに、メファヴェルリーアは真剣な面持ちで、
276
﹁まず、この館を出るわよ﹂
﹁何故ですかっ。シュバトゥルスを倒すチャンスなんですよっ﹂
アリーテが刺々しい口調で質問すると、彼女は表情も変えずに。
﹁貴女はシュバトゥルス様の本当の恐ろしさを知らないのよ。何の
準備もなく挑んでも、むざむざやられるだけだわ。ここはまず逃げ
出して体勢を整えるのが先決よ﹂
そうこう話しているうちに、地上へと到着する。周囲を警戒しつ
つ俺達は足早に廊下を進み、玄関ホールまでやってきた。そのまま
外へ通ずる巨大な扉を開こうとして、
﹁⋮⋮あら?﹂
メファヴェルリーアが戸惑いの声を上げた。俺達全員でどれだけ
押しても、扉はビクともしなかったのだ。
﹁変ね、いつもは開きっぱなしなのに⋮⋮﹂
﹁まさか、やっぱり私達を騙して﹂
﹁アリーテ、そういう言い方はもうよせ﹂
﹁理由は分からないのか?﹂
セイーヌの問いに、メファヴェルリーアは困惑を浮かべたまま首
を横に振る。
277
﹁それじゃあ、外に出るのは不可能って事か⋮⋮﹂
俺は腕組みをしてそう言葉を発した、次の瞬間。
﹁フフフ、やはりこうなるだろうと思っていたよ﹂
穏やかな、それでいて冷酷な響きを含んだ声が、ホール中に響き
わたった。
278
14
﹁この声は⋮⋮﹂
﹁まさか⋮⋮﹂
血相を変えたセイーヌと俺が呟いたとほぼ同時、玄関ホールの天
井にぶら下がる絢爛なシャンデリアの真下に暗黒の輝きが瞬いたか
と思うと、次の瞬間には長身の男の姿が宙に浮かんでいた。邪悪な
心をそのままに映したように感じられる漆黒の髪、氷のような冷た
さを秘めた青き瞳、人ならざる者が持つ紫色の肌、そして力の強大
さを物語るかのように広げられている悪魔の翼。その端正な顔には
穏和な笑みが浮かべられているが、余裕すら感じられるその表情が
かえって、剣を抜いて相対している俺の心に恐怖感を植え付けてく
る。
そう。紛れもなく、奴だった。
﹁つつつつ、遂に来ましたね、澄まし顔!﹂
気が動転しているのか舌を噛みながら、それでもアリーテは威勢
良く眼前の敵に人差し指をビシッと向ける。すると、彼︱︱シュバ
トゥルスは虚を突かれたように目を見開いた後、また元の微笑を口
元にたたえ、
﹁澄まし顔? 私の事かい?﹂
と、まるで友人と喋っているかのように気さくに口を開き、快活
な笑い声を上げた。
279
﹁ハハハ、面白いあだ名をつけてくれたものだね、気に入ったよ。
ありがとう﹂
﹁いえいえ、礼には及びません⋮⋮って、そうやって暢気に構えて
いられるのも今のうちですよ!﹂
︱︱こんな状況で一人ツッコミをやるのはある意味スゴいよな。
そんな事を頭の片隅で思いつつ、俺は啖呵を切った天使と相手の
様子を伺っていた。少しでも不穏な気配があれば、すぐさま行動に
移らなければならない。束を握る手先に、冷や汗が滲む。一方、ア
リーテは声高に叫び続けていた。
﹁貴方の腹心は既に裏切りました! これでこっちが断然有利な筈
ですっ!﹂
﹁⋮⋮ふむ、どうやらそのようだね﹂
小さく頷いたシュバトゥルスと、未だ声すら発せずに立ち尽くし
ているメファヴェルリーアの視線が、言葉を交わす事なくぶつかり
合う。かつての味方と対峙した彼女の顔は元から紫色な筈であるの
に、いっそう生気を失って青白くひきつっている。その全身が僅か
に震えている事に気がつき、俺は息を呑んだ。
︱︱メファヴェルリーアさんが、怯えている⋮⋮?
この館に連行される際の一件で、本気を出した彼女がどれほど強
いか、思い知らされた。あの彼女でさえ、目を合わせただけでここ
までひどく動揺するのだ。相手の実力がどれほどのものか、戦わな
280
いうちから身に染みこまされた気分だった。
やがて、元部下へ向けていた視線を逸らし、シュバトゥルスは嘆
かわしいとでもいうような大袈裟な溜息をついた。傍目にはひどく
落ち込んでいるように見える。
だが。次の瞬間。
﹁けれど、さっきも言ったろう?﹂
凍てつくような声と共に、彼が俺達全員を見回す。悪魔の顔には、
今までのそれとは打って変わった、冷たい嘲笑が浮かんでいた。
﹁こうなるだろうと思っていた、ってね﹂
そこで初めて、狼狽した様子のメファヴェルリーアが口を開いた。
﹁それじゃ⋮⋮﹂
﹁ああ、そうさ。メファヴェルリーア、君が裏切るのは計算の内だ
ったんだよ﹂
君は人間への情を未だ捨て切れていなかったみたいだったしね。
彼は彼女を嘲るような口調で言葉を続ける。
﹁しばらく様子を見ていたが⋮⋮やはり私の考えは正しかったよう
だ。保険を掛けといて正解だったよ﹂
﹁え⋮⋮?﹂
281
彼の発言を聞いたメファヴェルリーアの紅い瞳に、戸惑いの色が
浮かぶ。
﹁保険だと? どういう事だ﹂
セイーヌが鋭い語調で質問を飛ばす。シュバトゥルスは意味深な
笑みを浮かべ、ゆっくりと右手をメファヴェルリーアに向けてかざ
すと、声高らかに告げた。
﹁こういう⋮⋮事さ!﹂
刹那、どこからともなく瞬時に現れた青白き光の糸が、メファヴ
ェルリーアの身体に巻き付いてその動きを封じた。そして、
﹁な、何よコレ⋮⋮ぐうっ⋮⋮きゃああああ!﹂
彼女の絶叫が、ホールに木霊する。全身に巻き付いた糸から、ま
るで電撃のような閃光が放出され、彼女に苦痛を与えているようだ
った。堪えられなくなったのか、彼女は力無く床に崩れ落ちる。
﹁メファヴェルリーアさんっ!﹂
慌てて俺は彼女に駆け寄り、苦しむ彼女を光の帯から助けだそう
と試みた。だが、光の糸は剣でも切れず、しかし手で掴もうにも掴
めない。俺が手を加えようとしても、まるですり抜けるようにかわ
されてしまうのだ。
282
﹁大丈夫ですかっ! しっかりして下さい!﹂
﹁く⋮⋮魔力が⋮⋮れて⋮⋮!﹂
﹁な、何ですか!?﹂
必死の思いで呼びかけると、彼女は途切れ途切れに何か伝えよう
とする。
﹁魔力が⋮⋮吸い取られて⋮⋮!﹂
﹁魔力が、吸い取られる⋮⋮?﹂
︱︱それって、まさか。
彼女の言を耳にした途端、とある品の名前が脳裏によぎる。かつ
て、古代の強大な魔女によって作り出された、恐るべきアイテム。
俺達がこの洋館までやって来た、その根元たる理由。
﹁さて⋮⋮そろそろ仕上げといくかな﹂
283
そう呟いた彼が懐から取り出したのは、掌にすっぽりと収まるサ
イズの、妖しいほどに美しい透明な水晶だった。
︱︱トルーミアの水晶。
284
15
﹁さあ、偉大なる魔女が遺したクリスタルよ!﹂
シュバトゥルスは手に握る水晶をメファヴェルリーアに向け、声
高に叫んだ。
﹁強大なる魔力を存分に喰らえ!﹂
彼の言葉に応じるかのように、透明の水晶が輝き始める。そして、
次の瞬間。メファヴェルリーアの身体を拘束していた青白い糸がひ
ときわ強く発光したかと思うと、水晶の中へと勢いよく吸収されて
いった。
﹁ぐうっ!﹂
﹁メファヴェルリーアさん!﹂
やがて、全ての糸が水晶の中へと吸い込まれる。彼女は息を荒げ、
額に大粒の汗を浮かべながらも、よろよろと立ち上がった。どうや
ら、命までは奪われなかったようだ。
﹁ほう、あれを受けながら気を失わないとは、流石は君だ﹂
﹁⋮⋮くっ!﹂
シュバトゥルスを睨みつけながら、メファヴェルリーアは自らの
掌を彼に向ける。恐らくは、魔法で反撃しようとしたのだろう。
285
だが、彼女の怒りに満ちた表情は、すぐに狼狽のそれへと変貌し
た。
﹁あれ⋮⋮何で⋮⋮﹂
﹁どうしたんですっ! メガベロベロリ!﹂
何故か困惑している彼女に対し、アリーテが大声を掛けた。
﹁早くお得意の魔法をこの澄まし顔に!﹂
﹁やろうとしてるわよ!﹂
彼女が発した悲痛な叫びが、ホールに虚しく響きわたった。
﹁でも⋮⋮出来ないのよ⋮⋮!﹂
﹁それはそうさ﹂
シュバトゥルスが事も無げに口を開いた。
﹁君の魔力は全て、この水晶が吸い取ってしまったからね﹂
﹁なっ⋮⋮﹂
彼女の燃え盛るような瞳が驚愕に見開かれる。
﹁いや、そんな筈はない! その水晶は純粋な魔力しか吸収出来な
い筈だっ!﹂
286
︱︱確かにそうだ。
セイーヌの言に、俺はハッと気づかされる。ドーネルの説明によ
れば、生物から魔力を搾取出来なかった為、トルーミアは魔力の収
集にかなりの苦労を費やさなければならなかった。そして結局時間
が足らず、当時の勇者に敗北したという話だ。
︱︱じゃあ、目の前で起こった現象は、一体何なんだ?
﹁へえ? この道具の力を知っているのか﹂
少し驚いたように目を瞬かせた後、シュバトゥルスは合点がいっ
た顔つきで、
﹁⋮⋮ああ、あの老魔術師が、君達に教えたんだろうね﹂
と独り言のように呟いた後、嘆かわしいとでもいうように首を横
に振った。
﹁でも、彼でさえ全ての真実を知っていたわけではなかったという
わけか﹂
﹁それはどういう意味だ?﹂
﹁簡単な話だよ﹂
問いかけた俺を、シュバトゥルスは真っ直ぐに見つめてくる。海
の底のように青く暗い瞳を見返していると、まるで凍てつくような
威圧感を覚え、俺は背筋がゾクッとするのを感じた。そんな俺の内
心に気づいているのかいないのか、彼は薄い笑みを浮かべたまま質
287
問にあっさり答える。
﹁トルーミアが様々な場所に自分の手駒達を向かわせていたのは、
何も魔力の込められた品々を奪い集めたかったという理由だけじゃ
ない。同時に、古代の秘術をも探し求めていたのさ﹂
﹁古代の秘術⋮⋮?﹂
ドーネルからは聞かなかった話だ。困惑している俺達に、シュバ
トゥルスは勿体ぶった口調で語り始めた。
﹁確かに君達が知っている通り、この水晶は極めて純度の高い魔力
しか吸収出来ない。だからトルーミアはその事で難儀した。生き物
から魔力を奪い取っても、その殆どが純粋からはほど遠い産物にし
かなるからね。しかし、過去に失われた秘術の中には、生き物から
純粋な魔力を抽出出来るものがあった。だから、トルーミアもそれ
を血眼になって入手しようとしたのさ。彼女は失敗してしまったけ
どね⋮⋮だが! 私は彼女とは違い、私はその秘術が記された書物
を手に入れる事に成功したのさ!﹂
歓喜に満ちた笑みを浮かべ、シュバトゥルスは声高に叫んだ。
﹁⋮⋮ただし、その秘術を用いるにはかなりの時間を必要とするん
だ﹂
と、落ち着きを取り戻したらしい彼は、茫然自失に陥っっている
メファヴェルリーアに視線を移す。
﹁だから、もしもの保険も兼ねて、君を実験台にしたというわけさ。
気づかれないよう、少しずつ術を進行させていってね⋮⋮さてと、
288
そろそろ長話にも疲れてきたよ﹂
︱︱マズい、仕掛けてくる気だ!
そう直感し、俺は反射的に懐へと手を伸ばす。
だが、その取っておきに手が触れるまでの、その僅かな時間すら、
俺には残されていなかった。
﹁じゃ、また牢獄に戻ってもらうよ。君達は大事な魔力源なのだか
ら、命までは取らない。幸運に思うんだね﹂
間髪入れず放たれた邪悪な光が、俺達全員に向け放たれる。とっ
さに剣を構えて防御の姿勢を取るが、気休めにもならず、俺の身体
は呆気なく吹っ飛ばされ、意識もまた、深い闇の底へと落ちていっ
たのだった。
289
1
頭をポンポンと叩かれる衝撃で、俺は意識を取り戻した。続いて、
誰かさんの間延びした呼び掛けが耳に入ってくる。
﹁ユートさーん、いつまで居眠りしてるんですかー﹂
すぐに目を開き、返事をしようとは思った。だが、瞼が異常に重
く、頭も殆ど働かない。敗北の余韻が心を満たしていた事もあった。
後、もう少しだけ。いつ何度湧いたかしれない想いと共に、俺は狸
寝入りを決め込もうとする。
﹁起きて下さーい、朝ですよー。出勤時間ですよー﹂
だが、声の主はそんな俺の意を汲み取るわけもなく、ゆさゆさと
身体を揺らしてくる。
︱︱悪いけど、もう少し寝かしてくれ。
大体、出勤時間って何なんだよ。胸の奥でそう呟き、俺はあくま
で眠っているフリを続けようと試みる。
しかし。
﹁早く起きなきゃ会社に遅刻してしまいますよー! 上司に怒られ
ますよー!﹂
ドカッ、バキッ、ドゴッ。擬音語を仮に付けるとするならばこん
な感じだろうか。とにかく、俺を起こそうとする行為がエスカレー
290
トしてきたので、俺は堪らず跳ね起きた。
﹁おい! 俺は会社員でも何でもないだろ!﹂
﹁あっ、ようやく起きましたね﹂
﹁ようやく起きましたね、じゃねえ!﹂
と、目の前で悪びれる事もなく平然としているアリーテに怒鳴り
つけながら、俺はハタと気づく。
﹁⋮⋮って、ここは﹂
﹁あの牢獄ですよっ﹂
天使は溜息混じりに言う。その背中に生えている純白の羽も、心
なしか萎れているように感じられた。
﹁あれから私達、またここに閉じこめられちゃったんです﹂
﹁そうだったのか﹂
頬を掻きつつ、周囲を見回す。脱出を阻む頑丈な鉄格子。俺達は
その内に閉じこめられている。ただ、前回と違うのは、収容されて
いる数が一名増えた事くらいか。俺と会話している彼女の他、セイ
ーヌは暗い表情で壁に背を預け、メファヴェルリーアは神妙な面持
ちで檻の外を眺めている。ちなみに、目に入る剣やら荷物やらは全
て没収されたらしい。
皆、意気消沈している様子だった。
291
﹁私達はすぐに目が覚めたんですけど、ユートさんがあまりに眠り
っぱなしなので、それで起こしたんですよ。今後の事について全員
で話し合いたかったですし﹂
﹁今後の事って?﹂
﹁勿論、ここを脱出する方法です﹂
﹁ああ⋮⋮けど、もう打つ手がないよな。二度目は流石に警戒され
るだろうし﹂
すこぶる目覚めが悪い中、俺は額に手を当てて思案する。最初は
メファヴェルリーアの手引きで何とか脱出に成功した。だが、今や
彼女は俺達同様に捕らわれの身だ。魔力すら奪われた今、その援助
は期待出来ないと考えた方が良いだろう。となると、ここから逃げ
出す策は新たに捻り出す必要がある。
﹁見張りとかはいるのか﹂
アリーテはコクンと頷いて、
﹁はい、頻繁に様子を見に来ます﹂
やはり、警戒は強まっているらしい。どうやら、一筋縄ではいか
ないようだ。その時、ふとシュバトゥルスが最後に告げた言葉を思
い出す。
﹁アイツ確か、俺達の事を魔力の源とか言ってたよな?﹂
292
﹁私に仕掛けたような魔術を貴方達にも使うつもりなのよ﹂
と、メファヴェルリーアが渋い顔つきで会話に割り込んでくる。
セイーヌもまた、口を開いた。
﹁けど、それだと変だぞ。既に魔力を吸収された筈なのに、何故、
お前は処分されない?﹂
すると、悪魔は苦々しい口調で、
﹁さっき、魔法を幾らか試してみたのよ。そうしたら、初歩的な術
はまだ扱える事が出来るみたい。尤もかなり威力は落ちてたし、上
級の魔法は発動すら出来なくなってたけど﹂
﹁じゃあ、お前の力は完全に吸い取られたわけではないのか?﹂
﹁まあ、そういう事ね﹂
﹁それなら、メファヴェルリーアさんの力でこの状況を何とか出来
ませんか?﹂
俺の問いかけに、彼女は残念そうに深い息を吐いて、頭を小さく
振る。
﹁そういう力が残っていれば、もうとっくにここから逃げ出してる
わよ﹂
﹁⋮⋮そうか、そうですよね。じゃあ、この館の構造を教えてもら
えませんか?﹂
293
﹁構造?﹂
彼女の問いかけに俺は頷いて、
﹁はい。取りあえず、どんな場所に閉じこめられているか把握して
おきたいので﹂
﹁なるほどね、分かったわ﹂
メファヴェルリーアの解説によると、この館は三階建てであるら
しい。地下は俺達が閉じこめられているこの一帯のみ。各階を繋ぐ
階段は一ヶ所しか存在せず、シュバトゥルスのいる三階までの道の
りは厳重に守られているそうだ。
﹁多分、外へ通ずる扉の方も今は警護されているわね﹂
﹁ううむ、退くのも仕掛けるのも一苦労ってわけですか﹂
﹁その前に、ここから再び逃げられるかどうかも危ういぞ﹂
﹁誰か、思いついた作戦とかないか?﹂
俺の問いかけに良い反応を示した者は皆無だった。セイーヌは浮
かない表情で目を落とし、メファヴェルリーアは唇を結んで天井を
見上げ、アリーテは超高速で頭を横にブルブルと振る。俺もまた、
約一名の既視感を覚えるオーバーリアクションにツッコミを入れる
気力すらなくしていた。はぁ、と嘆息をついて、壁に背中を打ちつ
ける。
294
何か固い、小瓶のような物の感触を体に覚えたのは、その時だっ
た。
295
2
﹁⋮⋮あれ?﹂
戸惑いながらも、俺は服の裏ポケットからある物を取り出す。黄
緑色をして液体が詰まった、透明な小瓶。そう、ドーネルからいざ
という時にと手渡された、あの薬だ。
﹁どうして、これが⋮⋮﹂
剣などが没収されていたのだから、てっきりこれもまた剥奪され
ているとばかり思っていた。すぐに服用出来るよう、衣服の中に収
めていたのが幸いしたのか。
だが、このアイテムが手元にあるという事は。絶体絶命の危機に
萎んでいた心の奥深くに、一筋の希望が湧いてきた。いざという時
の為に取っておいた道具だが、今を﹃いざという時﹄と呼ばずに何
というだろう。
﹁ユート殿、それは⋮⋮﹂
﹁あ! どこに隠し持ってたんですかっ!﹂
俺が手に持つ代物に気がついた騎士と天使が、その表情を綻ばせ
ながら口々に言う。一方、悪魔は目を細めて訊ねてきた。
﹁何よ、それ﹂
﹁メファヴェルリーアさん、これは⋮⋮﹂
296
この薬品について説明すると、彼女は目を見張って、
﹁へぇ⋮⋮あのヒュドリアスの角を﹂
﹁知ってるんですか?﹂
﹁実際に見た事はないけど⋮⋮強大な力を秘めているって言い伝え
られている魔法生物よ。人や悪魔が滅多に近寄らない危険な谷底に
好んで住み着いてるらしいわ。朝露が大地を濡らす音で目を覚まし、
植物が花を咲かせると共に眠りにつくそうよ﹂
﹁晴れた日がずっと続くとスヤスヤなんですねー﹂
﹁とにかく、これがあれば何とかなると思います﹂
天使の戯れ言を無視して、俺はメファヴェルリーアとセイーヌを
交互に見つめる。忽ち、
﹁ユートさん、完全スルーだなんてあまりに酷いですっ⋮⋮ううう
っ﹂
と、アリーテが両目を手で覆い泣きじゃくりながら訴えてくるが、
それどころではないのでこれまた完全に聞き流す。
﹁取りあえず、ここを抜け出さないといけないので﹂
前置きして、俺は頭に浮かんだ考えを話し始めた。
297
作戦を全員に説明した後、俺は深呼吸して、小瓶の中身を一気に
飲み干した。これはある意味、賭けだ。薬の効果があまりにも弱け
れば、その時点で打つ手がなくなる。
しかし、その不安はすぐに杞憂となった。
﹁ユート殿、大丈夫か?﹂
﹁どう、効果はあった?﹂
﹁美味しいですかっ?﹂
三者三様の質問が耳に届いてくるも、俺はすぐに返答出来なかっ
た。それほど、体内を駆け巡る感覚が凄まじかったのだ。血管とい
う血管が膨張していき、筋肉という筋肉に活力が沸き上がってくる。
視界はいっそう鮮明となっていき、今なら一キロメートル先の物体
ですら詳細を見分けられるような気がするくらいだ。何も体の変調
だけではない。思考は澄み渡っていき、果てしない高揚感が胸中を
支配していく。
﹁ああ⋮⋮! 力が⋮⋮力が漲る⋮⋮!﹂
ようやく声を振り絞り、ふと顔を上げると、俺達の自由を妨げて
いるソレが目に入る。
﹁はあっ!﹂
298
叫びを上げながら繰り出した拳は、甲高い金属音と共にたやすく
鉄格子を破壊した。
﹁おおおっ! ユートさん凄いですっ!﹂
﹁何をしている!﹂
アリーテが歓声を上げた途端、部屋のドアが開き、豚のような顔
をした悪魔が二匹入ってきた。恐らくは騒音を聞きつけた見張り達
だろう。どちらも手に長い槍を握りしめている。
だが、彼らが武器を構える僅かな時間すら与えず、俺は接近して
強烈なボディーブローを両者に叩き込んだ。どうやら俺の予想以上
に薬の効果はテキメンだったらしく、
﹁ぐほっ!﹂
﹁がはっ!﹂
掠れるようなうめき声と共に、悪魔二匹はドサリと床に倒れ込む。
その手から二つの槍を奪い、俺は振り向いて仲間達に声を掛けた。
﹁俺についてきて下さい!﹂
地下の廊下を進みつつ、通りがかり一室一室の様子を確認する。
幸いな事に、俺達の荷物は前と同じ部屋に置かれていた。自身の剣
を取り戻したセイーヌ以外の二名に槍を渡した後、階段を駆け上が
る。一階へ到達すると、すぐさまシュバトゥルスの手下達に発見さ
れる。
299
﹁また脱走だ!﹂
﹁急げー!﹂
様々な叫びが飛び交う中、俺は先陣を切って悪魔達を素手で殴り
倒していく。殆どの敵を一撃でノックアウトしていったので、外へ
と通じる扉まで到達するのに、さほど時間はかからなかった。
﹁てやあ!﹂
掛け声と共に全力のパンチを浴びせると、扉は木っ端微塵に砕け
散り、外の景色が露わになる。どうやら捕まっている間に、時間帯
は夜になっていたらしい。空の彼方には仄かに輝く月が顔を覗かせ
ていた。
﹁さあ、早く脱出を!﹂
メファヴェルリーア、セイーヌ、アリーテと順調に館を出たとこ
ろで、俺は再び館の中へと足を踏み入れる。
﹁ユート殿!?﹂
﹁どうして戻るんですかっ!?﹂
騎士と天使が、それぞれ困惑の声を上げる。それもその筈。作戦
の段階では、館からの脱出口が見つかった後、全員でドーネルの屋
敷まで逃走するという手筈になっていたからだ。彼に現状を伝え、
場合によってはセイーヌを通してメデキア王国に助力を請う。それ
が元々の計画だった。
300
しかし、俺は最初から逃げ出すつもりはなかった。敢えて、その
事を今まで黙っていたのだ。
﹁メファヴェルリーアさん達は予定通りドーネルさんの家に向かっ
て、この事を知らせて下さい!﹂
﹁それじゃ⋮⋮貴方はどうするのよ!﹂
﹁俺は薬の効き目が切れない内に、シュバトゥルスと戦ってきます
! 少しくらいはアイツの邪魔が出来るかもしれない!﹂
﹁そんなの無茶ですよーっ!﹂
アリーテの叫びに返事する事なく、俺は振り返らずに走り始めた
のだった。
301
3
﹁ノコノコ戻ってきやがって!﹂
﹁やっちまえ!﹂
様々な姿をしたシュバトゥルスの手下達が、声高に集まってくる。
奴のように黒い羽を生やした小悪魔達を筆頭に、剣と盾を構えた骸
骨の戦士、傭兵と思しきゴブリンなど、相手は混成部隊の様相を呈
していた。地下で見かけた豚のような衛兵もいる。
﹁どけえ!﹂
俺は鞘から剣を抜き、その動作で彼らの先陣を忽ち一薙に切り捨
てた。途端、切り傷から勢いよく噴き出した血の奔流が床や壁を紅
く塗らし、バラバラとなった肉片や白骨が辺りに散らばる。しかし、
味方の屍を踏み越え、敵は雪崩のように俺めがけて押し寄せてくる。
薬の効力のおかげで身体能力が著しく上昇している俺は、かすり傷
一つ負わずに剣と拳を存分に振るって悪魔や魔物達を撃退していっ
た。
︱︱けど、このままじゃ流石にマズいな⋮⋮。
筋肉組織や心肺機能が増強されても、疲労まではどうにもならな
いらしい。目元を流れる滝のような汗を拭う暇もなく、俺は戦闘を
継続していく。だが、敵を倒しても倒しても、相手の増援が止む気
配は全くない。その為に俺は防戦一方を強いられ、メファヴェルリ
ーアから聞いていた階段まで一向に到達出来ずにいた。
302
一方的な、数の暴力。洋館のどこにこれほどまでの人員が潜んで
いたのかと、そんな疑問を抱かずにはいられなくなる。
︱︱でも、ここで奴の手勢を少しでも減らしておけば!
たとえ、俺が敗れたとしても、シュバトゥルスが手下を失えば失
うだけ、奴の計画を僅かでも遅らせられるかもしれない。その隙に
アリーテから話を聞いたドーネルや、セイーヌによって大陸の危機
を知ったメデキア王国が何らかの手段に打って出る事が出来れば、
俺の勝ちだ。敵の内情を知るメファヴェルリーアも、彼らが策を練
る大きな助けとなるに違いない。
︱︱その為に、一匹でも多くの敵を道連れにする。
﹁うおおおお!﹂
自らを鼓舞するように絶叫しつつ、俺はひたすら手下共を斬り、
そして殴る。屍や気を失った者達が続々と小さな山を作り上げてい
くが、敵はそれを物ともせずに攻撃の手を緩めない。少しは怖じ気
付いてくれてもいいじゃねえか、と心の中で吐き捨てるが、その願
いが叶う筈もない。倒しても、倒しても、敵の数は減るどころか、
だんだんと増加していった。
そして、気がついた時にはもう遅く。俺は相手の軍勢に四方八方
を囲まれていた。
︱︱これじゃ、どう頑張っても背後ががら空きになる。
唇を噛み、拳や剣を強く握りしめる。次の瞬間。
303
﹁一気にいくぞ!﹂
﹁やっちまいなぁ!﹂
勝利の確信に満ちたような雄叫びと共に、敵は俺めがけて一斉に
突進してきた。勿論、ここで逃げ出すわけにはいかない。腹を括り、
俺は剣を構えて駆け出す。一番最初に迫ってきた豚兵士を真っ二つ
に切り裂き、背後から剣を振りおろさんとした小悪魔に鉄拳を喰ら
わす。その勢いに任せて身体を一回転させ、その動きと連動した刃
で周囲の敵を一掃した。身体からちぎれた腕や頭や胴が、血しぶき
を上げながら宙を舞う。
だが、体勢を整える為に足を止めた、その隙を突かれた。
﹁しまっ⋮⋮!﹂
気づいた時には、既に遅し。骸骨戦士の剣が、俺の頭めがけて振
り下ろされようとする。
その時だ。どこからか飛んできた目映き光弾が炸裂し、俺の眼前
で白骨がバラバラに砕け散ったのは。
﹁えっ?﹂
思わず、戸惑いの言葉を呟く。次の瞬間。
﹁ユートさんっ!﹂
聞き慣れた呼び掛けが耳に入り、俺は声の方向へ視線を向ける。
玄関ホールの方から、彼女達が駆け寄ってくるのが見えた。
304
﹁アリーテ、セイーヌさん、リーネさん、どうして⋮⋮﹂
﹁水臭いぞ、ユート殿﹂
騎士は愛用の剣を握りしめ、
﹁シュバトゥルスをこの手で倒したいのは、私も同じだ﹂
﹁その通りよ、それに﹂
悪魔は呆れたような表情で、
﹁貴方一人で、この数に勝てるわけないじゃない﹂
﹁私達も、ユートさんと一緒に戦います!﹂
天使は普段通りの明るい口調で、
﹁一緒に、あの澄まし顔を思いっきり叩きのめしましょう!﹂
感極まり、何かが喉元までこみ上げてくるのを懸命に堪える。
﹁みんな⋮⋮! よし、一緒に戦おう!﹂
合流した俺達は、階段目指して前進を始める。アリーテはお得意
の光魔法を悪魔や魔物にお見舞いし、セイーヌは慣れない手つきな
がら必死に剣を振るい、メファヴェルリーアは闇魔法を扱いながら
槍で近づいてきた相手に対応する。
305
全員が死力を尽くした甲斐あって、俺達は何とか階段の下まで到
達した。だが、そこで新たな問題が立ちふさがる。
﹁このままじゃ、挟み撃ちですよっ!﹂
アリーテが悲鳴を上げる。彼女の言う通りだった。二階からも騒
ぎを聞きつけた者達が続々とやってきていたのだ。
﹁けど、ここで退くわけにもいかない! 一気に突破するぞ!﹂
声を張り上げながら、俺は階段を勢いよく駆け上がる。アリーテ
とセイーヌも続いた。
しかし、彼女だけは一階に留まり、何やら呟いていた。
﹁メファヴェルリーアさん!?﹂
振り向いてその名を呼ぶと、彼女は俺を見て、僅かに微笑み、槍
を持たない左手を階段へと掲げる。
忽ち、天井まで続く透き通った紫色の壁が、俺達と彼女の間に立
ち塞がった。
306
4
俺は反射的にメファヴェルリーアの下へ駆け寄ろうとした。だが、
紫色をした光の壁は、手で押してもビクともしない。これが彼女の
作り出した防御壁なのだろう事は容易に想像がついた。こんな魔術
を扱うくらいの力は、未だその身に残されていたという事だろう。
だが、その行動の意味する真意を俺は認められなかった。察せなか
ったわけではない。認められなかったのだ。
﹁メファヴェルリーアさん、どうして!?﹂
﹁貴方達はそのまま上に行きなさい。ここは私が食い止めるから﹂
槍で身を庇いつつ膨大な数の敵と相対しながら、彼女は振り向き
もせず、自身の置かれている状況からは信じられないほどに冷静な
口調で言った。
﹁けど、これじゃメファヴェルリーアさんが!﹂
﹁私は大丈夫よ。上手くやるわ﹂
﹁上手くやるって⋮⋮その身体じゃ無茶ですよ!﹂
シュバトゥルスによって、彼女は力の大部分をトルーミアの水晶
に吸収されている状態だ。先ほどまで使っていた攻撃魔術だって、
アリーテの扱うそれより幾分か威力が上に感じられるくらいだった。
少なくとも、俺達と戦っていた時のような圧倒的実力は失われてい
る。ましてや、敵の大部分は闇の魔法が殆ど効かない悪魔や魔物の
類だ。相性の観点から見ても圧倒的に不利なのは間違いなかった。
307
﹁⋮⋮あら、心配してくれてるの?﹂
俺の心境を感じ取ったのだろう彼女はクスッと笑い声をこぼした
後、ひどく穏やかな声色で告げた。
﹁坊や、こう見えても私は結構な修羅場を潜り抜けてるの。これく
らいの雑魚がいくら群がったところで、簡単にやられたりはしない
わよ﹂
それに。彼女はいくらか真剣味の増した口調で、
﹁早く進まないと、あの生意気な小娘達が危ないわよ?﹂
その言葉に呼応するかのように、上からアリーテの慌てたような
叫びが木霊する。
﹁ユートさんっ! 早く来て下さーい!﹂
迷っている時間は、無かった。
﹁⋮⋮分かりました。けど﹂
メファヴェルリーアに背を向け、最後に一言だけ、俺は伝えた。
﹁絶対に、無茶はしないで下さい⋮⋮!﹂
彼女からの返事は、耳に入らなかった。
308
流石に一階に比べて、二階にいる敵は少なかった。だが、それで
も俺達の進行を遅らせるには十分な数だといえるだろう。
﹁何で、一階から二階にいく階段と二階から三階にいく階段が別々
の所にあるんですかあああああ!﹂
大声を張り上げながら、アリーテが聖なる魔法﹃ホーリー﹄を骸
骨集団に向けて放つ。屍の身体にはかなり堪えるのだろう。くぐも
ったうめき声を残し、彼らは忽ち成仏していった。彼女は即座に詠
唱を再開し、そして魔術を乱発する。
﹁家を建てる時に、不便そうだとは思わなかったんですかああああ
あ!﹂
俺は近くにいた小悪魔の顔に拳をめり込ませながら、俺は苦笑す
る。
﹁⋮⋮こんな時に、よくそういう事考えつくな﹂
﹁ある意味、羨ましい気もするな﹂
ゴブリンの振り下ろした剣を何とか防ぎながら、セイーヌが微笑
みながら言った。
﹁そうですか?﹂
彼女の支援に回り、ゴブリンの腹を蹴りつけながら俺は会話を続
ける。
309
﹁ああ、それだけ余裕があるという事だろう﹂
﹁余裕があるっていうか⋮⋮単に何も考えてないだけじゃないです
かね?﹂
﹁はは、そうかもしれないな﹂
下から追撃が来ない事もあり、三階へ続く階段へは容易に到達す
る事が出来た。
﹁よし、ここを上ればシュバトゥルスの場所までもうすぐだ!﹂
﹁けど、ここにもまだまだ敵が残ってるみたいですよっ﹂
アリーテの視線は、俺達が通ってきたものとは別の通路に向けら
れていた。通りがかりに遭遇した敵はあらかた片づけたが、そうで
ない場所からは敵の増援が未だ続々とやってきている。いちいち掃
討している暇はない。タイムリミットを過ぎれば、俺の服用してい
る薬はその効力を失ってしまうからだ。
﹁ここで時間を食うわけにもいかない。取りあえず前進あるのみだ
! 行こう!﹂
仲間達を促し、階段を上がろうとする。天使は俺に続く意志を見
せた。
だが、騎士はその場から動こうとしなかった。
﹁セイーヌさん?﹂
310
戸惑いつつも一種の予感を覚えながら、俺はその名を呼ぶ。する
と。彼女はゆっくり首を横に振って、
﹁私はここに残って敵を食い止めよう﹂
﹁そんなの駄目ですよっ!﹂
俺が口を開く前に、アリーテが悲痛な面持ちで叫んだ。
﹁一人で残るなんて絶対に駄目ですっ! メガベロベロリの事は別
にどうでもいいですけど⋮⋮セイーヌさんじゃ﹃ぐあーっ!﹄とか
断末魔を上げてあっという間にやられてしまうのがオチじゃないで
すかっ! 一緒に行きましょうよっ!﹂
﹁お前、良い事喋ってる風に見せかけて、すんごく失礼な事サラッ
とぶちまけたな﹂
﹁いや、本当の事だ。気にしなくてもいい﹂
セイーヌは自嘲のような弱々しい笑みを洩らして、
﹁この廊下で戦いながら、ずっと考えていたんだ。もし三階への階
段を発見したとして、誰がこの場所に留まって時間稼ぎをした方が
良いのか﹂
やはり、私が適任と思うんだ。どうだろう。彼女は問いを口にし
ながら真っ直ぐな瞳で見つめてくる。俺はその質問に対し、すぐに
は答えられなかった。頭では理解していた。薬で身体能力を強化し
ている勇者の俺と、悪魔に有効な光魔法の使い手であるアリーテ。
俺達がシュバトゥルスを倒しに上へと赴き、残りのセイーヌが時間
311
稼ぎをするのが適当といえば適当だろう。
﹁そんなに、私を案じなくてもいい﹂
葛藤を察したのか、彼女はやけに朗らかな口調で言った。
﹁私は確かに未熟だが、これでも一人の騎士であるつもりだ。それ
に正直、少し嬉しいんだ﹂
﹁⋮⋮嬉しい?﹂
予想外の言葉に、俺は困惑する。その時、数が揃ったらしい敵が
ゆっくりと階下に近づいてきた。セイーヌは彼らと相対し、同時に
俺へ背を向けながら、それでも自身の気持ちを話し続ける。
﹁今まで、私はずっと足手まといだった。騎士隊でも、ユート殿や
アリーテとの旅でも。だから今、時間稼ぎの駒として仲間達の役に
立てる事が、何よりも嬉しいんだ﹂
﹁⋮⋮分かりました﹂
本音を告げられ、俺も腹を括った。アリーテも同じ心持ちだった
のだろう。俺達は互いに顔を見合わせ、頷きあった後、
﹁セイーヌさん、後は頼みます!﹂
﹁絶対、あの澄まし顔をぶっ倒してきますからっ!﹂
と、白銀の背中に声を掛け、三階を目指して駆けだしたのだった。
312
5
遂に最上階へと到達した俺達は、遭遇した敵を倒しつつ廊下を走
る。殆どが階下へと向かっていた為か、相手の数はこれまでに比べ
てかなり疎らだ。
﹁セイーヌさん、大丈夫だろうか﹂
出会い頭の相手に先制攻撃を叩き込みつつ、俺は呟いた。その場
の感情に任せて彼女を置き去りにしてしまった事が、今更ながら不
安感を煽ってくる。
﹁多分、大丈夫ですよっ⋮⋮恐らく、きっと、もしかすると、流れ
星にキチンと願い事が出来るくらいの確率で﹂
﹁だんだんと下がってるぞ、パーセンテージ﹂
﹁ほら、万が一という言葉もありますし。セイーヌさんが情けない
断末魔を上げずに善戦する事も無きにしも非ずというか﹂
﹁⋮⋮お前、やっぱり天使の皮被った悪魔じゃないのか?﹂
俺が白い目で隣のアリーテを見やった、まさにその時だ。
﹁ぐあーっ!﹂
313
突然、二階の方から聞こえてくる、聞き慣れた悲鳴。俺達は自然
と足を止め、硬直してしまっていた。周囲に敵は見当たらない。こ
の辺りの衛兵達は全てやっつけてしまっていた。アリーテの様子を
伺うと、彼女もまた強ばった笑みを浮かべている。どうやら、同じ
感情を抱いているらしい。やっぱり、と。
戻るなら、今しかない。
﹁やっぱり下へ⋮⋮﹂
﹁だ、駄目ですよっ!﹂
振り向いて走り出そうとした俺の首を、アリーテがむんずと掴ん
だ。
﹁けど、このままじゃセイーヌさんが!﹂
﹁ユートさんの言う事も分かりますけど、ここで早まって彼女の思
いを無駄にしてはいけませんっ!﹂
﹁⋮⋮くっ﹂
彼女の言は紛うことなき正論だった。ここで引き返してしまえば、
身の危険と引き替えに俺達を上へと送り出してくれたセイーヌの好
意を無に帰してしまう。今、俺達が彼女の為にも成さねばならない
事は、この洋館の主であるシュバトゥルスを倒し、彼の計画を阻止
する事だ。
﹁そうだな、俺達は前に進まないと﹂
314
拳を握りしめ、俺は振り向く。通路の先には、俺達の事を聞きつ
けたらしい子悪魔やゴブリンの部隊が慌ただしくやってきていた。
﹁アリーテ、いくぞ!﹂
﹁はいっ!﹂
床を蹴り、一直線に突撃する。詠唱の声が耳に届く中、俺は怯み
下がろうとしたゴブリンに剣を突き刺した。横から繰り出された槍
を空いている手で掴み、その柄を思い切り豚兵士の胸元にぶつける。
反動で相手は後方へと吹っ飛び、同胞達を巻き添えにして床に倒れ
込む。その隙に俺は剣を抜き、頭上から飛びかかろうとしてきた小
悪魔を斬りつける。そして、詠唱の準備を終えたアリーテが白き光
球を骸骨軍団へと発射した。タイミングを見計らい、俺は体勢を整
えようとしている兵士達へ突撃する。
それから、死闘に次ぐ死闘が繰り広げられた。やはり最上階であ
るせいか、数こそ確かに減ってはいれど、その質は下の者達よりも
上のように感じられた。俺とアリーテは持てる力の全てを尽くして、
少しずつ着実に歩を進める。
そして、ようやく敵を一掃した俺達は、他のそれよりも遙かに豪
華に彩られた扉の前に立った。メファヴェルリーアに教えてもらっ
た情報が正しいならば、ここが奴の自室。
﹁やっと、ここまで来ましたね⋮⋮﹂
315
感慨深げなアリーテの言葉に、俺はゆっくりと頷く。
﹁ああ、そうだな﹂
﹁やっぱり、澄まし顔はこの中でふんぞり返ってるんでしょうか?﹂
﹁さあな、これだけ外で騒ぎが起これば、部屋から出てきてもよさ
そうだけど﹂
扉に聞き耳を立ててみる。部下から報告の一つでも受けているだ
ろうに、不思議と中からは物音一つしなかった。
﹁もしかして、罠だったりしませんかね?﹂
不安げに問いかけてくる彼女に対し、俺は腕組みをして、
﹁たとえそうだとしても、真正面からぶつかるしかないな⋮⋮アリ
ーテ、お前はセイーヌを助けに行ってくれ﹂
﹁えっ?﹂
戸惑ったように、黄色い瞳がパチクリと見え隠れする。俺はその
顔を真っ直ぐ見据えて、
﹁シュバトゥルスは生半可な強さじゃない。最初から俺は、一人で
アイツと戦うつもりだった。お前まで無理に付き合わせる必要は⋮
⋮﹂
﹁何言ってるんですかっ﹂
316
俺の言葉を遮り、アリーテは強い口調でまくし立てた。
﹁ここまで一緒にやって来て、今更戻れだなんて言わないで下さい
っ。私はユートさんを助ける為に地上までやってきたんです。だか
ら、たとえ命を失いかねないとしても、私はユートさんについてい
きますっ﹂
﹁アリーテ⋮⋮﹂
彼女の決意に満ちた表情が、俺の胸を打つ。この世界に連れてこ
られてからずっと、俺はアリーテと共に旅を続けてきた。勿論、そ
れは彼女の使命だったのだろう。だが、眼前の彼女からはそれ以上
の強い気持ちを感じた。それはきっと、この旅で培われてきた、お
互いの間に芽生える信頼の証。
﹁ユートさんっ﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
俺は無意識のうち、微笑みを浮かべて目の前の天使に告げていた。
﹁アリーテ、一緒に闘おう﹂
すると、彼女はコクンと元気一杯に頷いて、
﹁はいっ﹂
と、ハキハキとした返事をする。
317
﹁⋮⋮いくぞ﹂
俺は深呼吸した後、洋館の最奥へと続く扉を開いた。
318
6
扉の装飾に比例するように、宴会が開けるくらい広大な室内もま
たきらびやかな装飾で彩られていた。絢爛な調度品が四方八方に配
置され、壁には高価そうな風景画が幾つも飾られている。まるで人
間みたいな趣味だな、と何となく思った。
そして、奥に置かれている玉座のような椅子にゆったりと腰掛け、
部屋の主は突然の来訪者達を見下ろしていた。悪魔の象徴でもある
紫色の肌と漆黒の翼、それに頭から生えた二本の角。長身の体には
洒落たマントを羽織っている。その背後には、頑丈そうなガラスケ
ースに収められたトルーミアの水晶が安置されていた。
﹁おや、ここまで来たのかい﹂
シュバトゥルスはその青く暗い瞳をすっと細め、驚いたような、
それでいて楽しんでいるような声色で言った。その口元には薄い笑
みが浮かべられている。
﹁てっきり震えて逃げ出したか、私のしもべ達に殺されてしまった
とばかり思っていたよ﹂
﹁そうやって楽勝ムード漂わせていられるのも今のうちです!﹂
敵の親玉にビシッと人差し指を突きつけ、アリーテは声高に叫ん
だ。
﹁澄まし顔! 今日こそ貴方を叩きのめしてやります!﹂
319
﹁ほう、言うじゃないか﹂
彼は愉快そうに肩を竦める。余裕の態度は崩さない。
﹁しかし、残りの仲間達はどうしてしまったのかな? 私を本気で
倒そうとするなら、全員でかかった方が最も得策な筈だろう?﹂
﹁そ、それはっ⋮⋮!﹂
﹁そうかそうか、なるほど。事情は何となく飲み込めたよ﹂
言い淀む彼女の姿を見て、シュバトゥルスの浮かべていた笑みが
残虐さに歪む。
﹁仲間達を見捨て、その命を犠牲にしてまで、君らはここまで来た
というわけだね﹂
﹁見捨てたりも、犠牲にもしていない!﹂
堪らず、大声を上げた。
﹁メファヴェルリーアさんも、セイーヌさんも絶対に生きている!﹂
俺の発言を受けてか、かつての部下の名を耳にしてか、彼の眉が
つり上が
る。
﹁ほう、どうしてそう言い切れるのかな?﹂
それは残酷な問いだった。どれだけ頭を悩ませても、苛立ちや不
320
安を歯軋りで誤魔化しても、反論の文章が思い浮かばない。一向に
答えを返さない俺の様子を眺め、彼は満足げに頷いた後、嘆かわし
いとばかりに深い溜息をついた。
﹁全く、根拠のない望みほど見苦しいものはないよ。あの裏切り者
にしろ、見てくれだけは一人前のあの女にしろ、今頃は亡骸となっ
て屋敷の中に横たわっているかもしれない﹂
﹁この⋮⋮!﹂
﹁ん? 私は可能性の話をしただけだよ﹂
そんなに熱くならないでくれ。そう言ってシュバトゥルスは快活
に笑う。そんな奴の態度を穴の空くほどに見つめ、俺は腸が煮えく
り返る思いだった。
﹁⋮⋮一つ、聞いていいか?﹂
感情の高ぶりを必死で抑え、俺は辛うじてその質問を洋館の主に
投げかける。
﹁うん、何だい? 私に答えられる事なら答えるよ﹂
﹁どうして、大陸に危険を及ぼそうとするんだ﹂
﹁ああ、それは簡単な事だよ。私はただ、自分の王国が作りたいだ
けさ﹂
﹁王国⋮⋮?﹂
321
﹁そうさ、王国だ﹂
隠すつもりもないのだろう。シュバトゥルスはまるで自慢話でも
披露するかのように意気揚々と語り始める。
﹁この大陸を支配し、頂点に君臨する。しかし、その為にはゴミの
ように山ほどいる人間という種族が厄介だ。何しろ、自分達がこの
世界の主導者にふさわしいと考えている、思い上がった連中だ。普
通に侵略しようとすれば、必ず邪魔に入るだろう。そこで私は、か
つてのトルーミアと同じ、平和的な解決法を用いる事にしたのさ﹂
﹁平和的、だと?﹂
予想外の言葉が悪魔の口から飛び出したので、俺は思わず耳を疑
った。
﹁そんなに驚かなくてもいいじゃないか。私も無駄に血を流すのは
嫌いなんだよ。戦争は色々と面倒だからね﹂
と、シュバトゥルスは小さく首を振って、後ろの美しいクリスタ
ルを見やった。
﹁この水晶が秘めた力を真に発揮出来るようになれば、その事実を
知った人間達も迂闊に反抗は出来なくなるだろう。何故なら、この
大陸の存続と滅亡が、私の裁量に委ねられる事になるのだからね。
彼らは私にひれ伏し、従わざるを得なくなるというわけだ。当然、
争い事も無くなる。どうだい? 実に平和的解決方法じゃないか?﹂
俺が口を開く前に、隣の天使が噛みつくように叫んだ。
322
﹁結局、典型的独裁者の考えじゃないですかーっ!﹂
すると、悪魔は彼女を鼻で笑い、
﹁おや、君達天使にそれを言われるのは心外だね﹂
﹁どういう意味ですっ﹂
﹁言葉通りだよ。自分達が絶対だと信じて疑わない連中が、そうい
うごたくを並べても説得力に欠ける。さて、そろそろ長話も飽きた
な⋮⋮﹂
ゆっくりと、シュバトゥルスは椅子から立ち上がる。俺は剣を構
え、アリーテは俺の後ろに下がった。俺達が体勢を整えるのを見届
けた後、彼はその青く冷酷な視線で俺達を射抜き、確かな威圧感を
秘めた口調で告げた。
﹁屋敷をこれだけ踏み荒らされた以上、もう容赦はしない⋮⋮今度
こそ、本当に消えてもらうよ。勇者君﹂
最後の戦いが、始まる。
323
7
﹁アリーテ、気をつけろよ﹂
俺は自分の背にいる天使に対し、眼前の敵から目を逸らさないま
ま注意を促す。彼女は言葉こそ発しなかったものの、唾をゴクリと
飲み下す音が代わりの返答となった。
一方、俺達と相対しているシュバトゥルスは身じろぎ一つしない。
穏和で邪悪な笑みを保ちつつ、こちらの出方を伺っている。その待
ちの姿勢が、ひどく気になった。
︱︱何故、玄関ホールで使った魔法をすぐに使わない?
俺が奴の立場なら、あの驚異的な威力の衝撃波を用い、時間を掛
けずにケリをつけようとする。なのに、攻撃を仕掛けるが微塵も見
られない。また、部屋の隅に上等そうな剣や槍が幾つも置かれてい
るにも関わらず、一向に武器を手に取る気配がない事も気になった。
︱︱少しくらい遊んでも、負ける気はないって事かよ。
だが、相手が慢心しているのは、こちらにとっては有り難い事だ。
その隙を狙えば、万が一だって起こりうるのだから。
︱︱このままアイツの攻撃に備えていても、いつかはジリ貧になる
だけだ。それなら⋮⋮!
こちらから、動く。幸い、相手の知らないカードは一枚、いや二
枚持っている。それらの切り札を使って、勝負に出る。
324
﹁うおおおおお!﹂
叫びを上げつつ、俺は剣を構えたまま地を蹴った。途端、シュバ
トゥルスの両目が僅かに見開かれる。流石の奴も、俺がこんなに素
早く動けるとは予想していなかったらしい。彼はとっさに身を翻し
て俺の斬撃を避けたものの、俺の手には衣服を僅かに切り裂いた感
触が残っていた。見ると、彼の身につけている衣服の肩辺りがパッ
クリと裂けている。
﹁⋮⋮へえ、なかなかやるじゃないか﹂
シュバトゥルスは相変わらず余裕しゃくしゃくといった様子で言
う。多少の誤算はあったものの、まだまだ焦るような状況ではない
と踏んだのだろう。
﹁だがやはり、私を相手にするには力不足だな⋮⋮さて、今度は私
の番だ﹂
今度は向こうの方から仕掛けてくる。宙を恐るべき速度で飛んで
くる悪魔に対し、俺も真っ向勝負を挑む為に走り出す。だが、俺の
振り下ろした剣は虚しく空を裂き、床にぶつかって甲高い反響音を
立てた。互いの体が交差する直前で、シュバトゥルスが軽やかに俺
の背後へと回り込んだのだ。しかし、その鋭き爪が繰り出されんと
したその時、
﹁ホーリー!﹂
アリーテの大声と共に、目映き光の魔法が彼めがけて放たれる。
悪魔は苛立たしそうに目を細めた後、俺から離れて光弾をかわした。
325
その反応から察するに、どうやら奴ほどの力を持っていても、聖な
る魔法は少なくない脅威となりえるらしい。
彼女は再び詠唱に入ったが、今度はシュバトゥルスもまた魔法を
唱え始めた。勿論、易々と攻撃の準備を整えさせるわけにはいかな
い。俺は敵の行動を阻止せんと猛ダッシュする。
しかし。剣の切っ先が奴の喉元を貫くと同時、その姿はまるで霧
のように掻き消えた。
︱︱幻!?
冷や汗が伝う首の後ろに、邪悪な気配を感じ取って即座に振り向
く。一メートルほど離れた場所に、闇の魔力を掌に溜めて宙に浮く
悪魔の姿があった。
﹁さて、ささやかな余興も終わりにしよう。少々、名残惜しくはあ
るけどね﹂
そう事も無げに呟いて、彼は手を振り上げる。
﹁これで⋮⋮フィナーレだ!﹂
︱︱今だ!
完全に勝利を確信し、防御が疎かになる。そのチャンスを待って
いた。攻撃を避けようともせず、身を庇う事もせず、俺は目の前の
相手に向かって駆け出した。恐らく、自棄になったのだとでも思っ
たのだろう。シュバトゥルスの表情に嘲りの色が浮かび、その口元
326
がほくそ笑む。しかし、俺がとっておきの秘策を披露した瞬間、そ
の顔は驚愕に歪んだ。
﹁な、何っ!?﹂
初めて狼狽を見せた彼は、自身の眼前に展開された半透明の障壁
を凝視する。そう。それはドーネルの屋敷で俺が精霊から授けられ
た、護りの力だった。薬によって増幅された魔力で形成された障壁
は、悪魔の発射した闇の波動を何とか防ぎきる。
僅かな距離。斬撃を放つには十分だった。俺は奴の懐に飛び込み、
思い切り剣を振り下ろす。シュバトゥルスは慌てて身を翻そうとす
るも、時は既に遅く。
﹁ぐうっ!﹂
その高貴な衣装を切り裂き、俺は確かに奴の脇腹を捉えた。とっ
さに俺は叫ぶ。
﹁アリーテ、今だ!﹂
﹁はいっ!﹂
威勢のいい返事は、すぐに届いた。ずっと機会を伺っていたらし
い天使は、悪魔が姿勢を崩したところを見計らって、
﹁これでも食らいなさい! 澄まし顔!﹂
と、お得意の聖魔法を繰り出した。目映い光球が飛び、満足に防
御の構えも取れなかったシュバトゥルスへと直撃した。衝撃を受け
327
止められなかった彼は、勢いよく後方へと吹っ飛び、やがて部屋の
壁へと激突する。途端、その一部が砕け散り、粉塵となって俺の視
界を遮った。壁が崩壊するほどの衝撃だったのか、奴が故意に起こ
したのか、それはまだ分からない。
︱︱やったか?
柄を握る力を無意識のうちに強めつつ、俺は心の中で独り呟いた。
328
8
やがて、視界を遮っていた霧がだんだんと薄まっていき、その中
に朧気な影が見え始める。とっさに俺は魔力の壁で身を庇おうとし
た。だが、僅かに間に合わない。次の瞬間、影が放った闇の波動を
モロに食らい、
﹁ぐううっ!﹂
﹁ユートさんっ!﹂
体中を襲う激痛に苦悶しつつ、後ろに吹っ飛ぶ俺に、アリーテが
呼びかけてくる。何とか踏ん張り、転倒だけは避けたものの、俺の
視界は新たな危機を捉えていた。崩れた壁の場所から即座に移動し、
天使の背中で残酷な笑みをたたえる悪魔の姿。顔から血の気が引い
ていく。瞬時に俺は叫んでいた。
﹁アリーテ、後ろだ!﹂
﹁へっ?﹂
間の抜けた声と共に、天使は振り向く。途端、その表情が凍り付
いた。だが、彼女が声を上げる暇も与えず、シュバトゥルスはほぼ
密着した状態の彼女へ闇の魔法を直撃させる。その威力は凄まじく、
アリーテの身体は軽々宙へと投げ出された。
﹁ひあああああ!﹂
﹁アリーテ!﹂
329
無意識のうちに俺は駆け出し、地面にぶつからんとする彼女の身
体を受け止めようとする。
﹁そうはさせないよ﹂
﹁⋮⋮ちっ!﹂
敵は間髪入れず闇の魔法を俺に狙いを定めて発射した。こうなる
と、防御せざるを得ない。幸い、今度は十分な距離が保たれていた。
一旦足を止めて障壁を展開し、俺はその攻撃を受け止める。
しかし、その遅れが響き、アリーテは床に身を打ちつけてしまう。
どうやらかなりのダメージを負ってしまったらしく、立ち上がるの
も満足にいかない様子らしかった。慌てて駆け寄ろうとするも、敵
が彼女の首根っこを左手で掴むのが一歩も二歩も早かった。そのま
ま、悪魔は天使の身体を盾にするように、自身の前面に構える。勿
論、不用意に近づく事など出来ず、俺は足を止めた。
﹁フフフ⋮⋮さっきの技は予想外だったよ﹂
壁にぶつかった衝撃で切ったのだろうか、唇に塗れる血を右手の
甲で拭いつつ、シュバトゥルスは凍てつくような瞳で俺を睨みつけ
た。口調は平静を装っているが、その声には隠しきれていない憤怒
の感情がにじみ出ている。
﹁君の身体の事も考えると、恐らくは例の魔術師の仕業か⋮⋮味な
真似をしてくれるものだ、あの老人も﹂
﹁アリーテを放せ!﹂
330
﹁おや、そんな事を言っていいのかい?﹂
彼は残虐な愉悦に口元を歪めつつ、彼女を掴む指に力を込める。
喉元を絞められて息苦しくなったのか、アリーテは辛そうなうめき
声を上げた。
﹁私の機嫌を損ねればこの小娘がどうなるか、君にも分かっている
だろう?﹂
﹁⋮⋮くっ﹂
歯軋りするも、歯軋りしか出来ない。下手な真似をすれば、彼女
の命を奪われかねないのだ。
最早、抵抗すら出来ない。
しかし。
﹁ユートさんっ!﹂
掠れるような、しかし威勢よく、アリーテは俺に向かって叫んだ。
﹁ユートさんと一緒に地上に降りた時から、もう覚悟は出来てます
っ! 私に構わないで、この澄まし顔をぶちのめして下さいっ!﹂
﹁⋮⋮ほう、こんな状況でも、まだそんな口が叩けるのかい﹂
シュバトゥルスは恐怖すら感じさせるくらい満面の笑みを作り、
天使に込めていた力を更に強める。アリーテは顔を真っ赤にして苦
331
しみながらも、それでも泣き言一つ洩らさなかった。彼女の姿を満
足げに見つめた後、奴は俺に視線を移して、そして問いかけてくる。
﹁さあ、どうする? 勇者君﹂
俺の取るべき選択は、一つしか無かった。そして、それは向こう
も分かりきっていたのだろう。シュバトゥルスがかざした右手に、
邪悪な魔力が凝縮されていき、強大なエネルギーの奔流が俺めがけ
て放たれた。
抵抗は、しなかった。呆気なく俺の身体は後ろへと吹っ飛び、シ
ュバトゥルスのように壁へ勢いよく激突する。
﹁ユートさんっ!﹂
アリーテが俺の名前を呼ぶのが耳に入ってきたが、返事する気力
は無かった。そのまま、俺は床へうつ伏せに倒れる。
やがて、勝利の確信に満ちた声が聞こえてきた。
﹁⋮⋮少々てこずったが、まあ面白い余興にはなったかな﹂
安心しなよ、勇者君。シュバトゥルスの言葉と同時、アリーテが
小さく悲鳴を上げ、何かが壁に叩きつけられる音がする。衝撃に今
だ痺れる頭を何とか動かし、俺は目を開いて様子を確認した。部屋
の壁に、四肢を暗黒の光で出来た鎖で繋がれた天使が張り付けにな
っている。
﹁君の悲嘆に暮れる面を見てみたいのは山々なんだけどね﹂
332
﹁何せこの娘は純粋な魔力を秘めた天使だ。このまま殺すには惜し
い。彼女は我が計画の糧となってもらうよ⋮⋮だが、君は残してお
くと後々の面倒になりそうだ﹂
︱︱アリーテは生かし、俺は殺す。最初からそのつもりだったって
わけかよ。
身体の節々を走る激痛より、悔しさの方が遙かに心中を埋め尽く
していく。ここで俺が倒れたら、メファヴェルリーアやセイーヌ、
そしてアリーテの頑張りは無に帰してしまう。けれど、だからとい
って今の俺に何が出来る。ドーネルから受け取った薬で身を強化し
ても、精霊から授かった能力を使っても、シュバトゥルスには叶わ
ない。最早、相打ちにもちこめるすら残されていなかった。勇者と
しての力も、この状況では何の役にも立たない。相手の考えを読み
とっても、全く無意味⋮⋮。
︱︱待てよ?
それは、会心の閃きだった。まるで冷水を浴びせられたように急
激に覚醒し始めた脳内で、ドーネルが俺に告げた説明が鮮明に再生
される。薬の効果。身体能力の強化、魔力の増強。それだけではな
かった。頭の回転も早くなり、反応速度も増す。その事を利用した、
一発逆転の策。疑念がないわけではなかった。けれど、他に有効な
手も思いつかない。どうせこのままでは、むざむざ奴に倒されてし
まうだけだ。それなら。
︱︱ダメ元でも、やってみるしかない!
333
意を決した俺は、﹃サイド﹄を発動した。
334
9
SIDE︱︱シュバトゥルス
散々館を荒らし回った無礼者をようやく始末できると思うと、清
々する。無様に力尽きた勇者の姿を堪能しつつ、私は口を開いた。
﹁どうだい、君が土下座して謝るならというなら、命だけは助けて
あげる事を考えないでもないよ?﹂
勿論、本当に命を奪わない気なんて微塵もない。悩む素振りを見
せた後、少年の心を地獄の底まで突き落とし、その様をじっくりと
楽しみたいだけだ。受け入れるなら楽しみが増えて良し、断られて
も強がる彼をなぶり殺しに出来るので良し。どちらに好んでも楽し
める。
︱︱まあ、彼の性格からして、選択する方は分かりきっているけど
ね。
﹁誰が、土下座なんて、するかよ﹂
私の予想通り、勇者は吐き捨てるように返答した後、若干よろめ
きながら立ち上がった。その顔は未だ床へと注がれている。表情は
確認出来ないが、恐らくは怒りと悔しさに歪んでいる事だろう。フ
ン、と私は嘲笑するように鼻を鳴らして、
﹁まだ、そういう台詞が言えるだけの力は残っているみたいだね⋮
335
⋮でも、残念だ﹂
一歩、二歩と、ゆっくり彼へと歩み寄りながら、右手に力を込め
る。闇の魔力が凝縮され、掌の内で球を形作っていく。全力は出さ
ない。相手をいたぶるに足るだけの威力があれば十分だ。じわじわ
と体力を消耗させ、その命尽きる瞬間の絶望に満ちた表情。それが
何よりの御馳走なのだから。
足を止めた私は、眼前の少年を見下しながら告げた。
﹁もう一度チャンスを与えるよ、どうするかい?﹂
返答は無い。あくまで、プライドを大事にして死ぬつもりか。ま
あ、それも良いだろう。私は右手に更なる力を込め、
﹁⋮⋮なら、仕方ないな!﹂
叫びつつ闇球を放ち、少年の体に更なる苦痛を与えた。
いや、与えた筈だった。
刹那、顔を俯けていた筈の彼が、まるでタイミングを見計らった
かのようにステップし、こちらの魔法をかわす。
﹁なにっ!?﹂
336
思わず驚きの叫びを上げるも、とっさに右横へと身を翻そうとす
る。少年が回避の構えから流れるようにして、鋭い斬撃を繰り出し
てきたからだ。
しかし、その顔を伏せたまま、彼は絶妙な剣捌きを披露した。私
が横に避ける事を計算してか、切っ先を微妙にずらしてきたのだ。
﹁くっ!﹂
またしても、我ながら情けない声を洩らしてしまう。あわやとい
う所で、私はとっさに闇魔術の障壁を展開し、相手の攻撃を防ぐ。
このまま距離を詰められたままではマズい。そう直感した私は、浮
遊したまま床を蹴り、少年から離れた。間が空いた事で、私の心も
幾らか平静を取り戻す。だが、疑念は絶えず頭の中を駆け巡ってい
た。
︱︱何だ、この違和感は。
先ほどまでと比べ、少年の動きは見違えるくらいになっている。
何か強化魔術でも使ったのかと考えるが、今までそんな素振りは伺
えなかった。
︱︱だが、それならさっきの動きは何だ!?
その両目を床に向けていた筈なのに、どうして魔法を避けられた。
ただ振り回すだけの拙い剣捌きしか出来なかった筈なのに、どうし
て私を見もせずに攻撃を仕掛けてきた。それも、まるでこちらの行
動を見切ったような斬撃を。微塵も、狂い無く。偶然か、だが都合
のいい偶然がそう何度も続くのか。あの時、私は少年の動きに異様
な不気味さを確かに感じたのだ。決して、達人のような挙動ではな
337
い。決して、闇雲に抵抗した結果でもない。そう、それはまるで。
それはまるで、こちらの動作を全て見透かされているような。
ふと、少年がずっと俯けていた顔をゆっくりと上げた。途端、悪
寒が全身を走り抜ける。冷たい汗が頬を伝っていく。心臓を鷲掴み
されたような錯覚に陥る。少年の黒い眼は、今や別の色に染まって
いた。灰色に濁った、妖しい光をたたえた瞳。その面持ちが、今ま
で露わにしていた激情が嘘のように無表情な事も相まって、私に奇
妙な感覚を植え付けてくる。
私を視ているようで、見ていない。何故か、そんな言葉が脳裏を
よぎった。
︱︱私があんな小僧に怯えているだと、そんな事はない! ある筈
がない!
胸にふと湧いた感情を絶対に認めるわけにはいかなかった。心を
無理矢理に奮い立たせる。どんな手品を使ったかは知らないが、所
詮は満足に一人で戦う事すら出来ない若造。私が本気を出せば、一
338
撃であの世行きだ。
即座に、私は動いた。魔法で瞬時に少年の背後へと移動する。流
石に、この奇襲には対応出来ないだろう。そんな確信があった。魔
法を唱える僅かな時間も使わず、私は鋭利な爪で彼の心臓めがけて
振り下ろす。
しかし。私の攻撃は展開された魔力の障壁に、たやすく阻まれた。
﹁な、何っ!?﹂
狼狽えて叫びを上げるのはこれで何度目か。数える暇もなく。少
年はまるで、最初から私の位置が分かっていたかのように素早く振
り向き、剣を繰り出す。まるでスローモーションのような、しかし、
一瞬のうちの出来事だった。
刹那、素早く突き出された剣の切っ先が、私の身体を貫いた。
339
10
︱︱やった!
確かな手応えは、あった。シュバトゥルスの胸へ深々と突き刺し
た剣を抜き、一旦距離を置いて様子を見る。奴は力無く倒れていて、
その周囲には大量の鮮血が飛び散っていた。取りあえず、まともに
動ける状態ではなくなったと見える。サイドを発動した事で体にも
脳にも尋常ではない疲労が押し寄せていたが、それでも気分は晴れ
やかだった。安堵感を噛みしめているうち、後ろから物音がする。
﹁いぎゃあああ!﹂
突然の絶叫にビックリして振り返ると、半泣き状態のアリーテが
床に盛大な尻餅をついていた。どうやらシュバトゥルスが大怪我を
負った事で、彼女の四肢を拘束していた術が解けたようだ。
︱︱でも、いぎゃあって何だよ。いぎゃあって。
いつもの癖でツッコミを入れてしまいそうになるが、今はそんな
発言を口にする状況ではないと思い直す。だが、こういった事が頭
にふと湧くようになったのも、張り詰めていた緊張感がプッツリと
切れたお陰なのだろう。自然と、俺の口元は緩んでいた。
﹁アリーテ、大丈夫か?﹂
歩み寄りながら、俺は声を掛ける。すると瞳を潤ませた彼女は自
身のお尻を両手で押さえながら、涙声で言った。
340
﹁うううっ、ひぐっ、これが大丈夫に見えますかっ﹂
﹁大丈夫みたいだな、良かった﹂
﹁だから大丈夫じゃないって暗に言ってるじゃないですか⋮⋮ふえ
っ!?﹂
しゃがみこみ、その華奢な身体を優しく抱きしめると、天使は素
っ頓狂な叫びを上げた。らしくないと自分でも感じていたが、どう
しても止められなかったのだ。
﹁本当に⋮⋮本当に、良かった﹂
俺の口から発せられた言葉は、無意識のうちに震えていた。彼女
の背に回した両手に込められた力が、自然と強まっていく。
﹁⋮⋮ユートさん﹂
しんみりとした口調で呟いた後、アリーテもまた俺を抱きしめ返
してきた。鼻孔をほんのりと甘い匂いがくすぐり、サラサラした金
髪が俺の頬を優しく撫で、素肌の柔らかな温もりが服越しに伝わっ
てくる。
だが、穏やかな時間は長く続かなかった。
341
﹁ぐうっ、私が、この私がこんな所で負ける筈は⋮⋮!﹂
途切れ途切れに発せられた声が、耳に届いてくる。どちらからと
もなく抱擁を解いた俺達は立ち上がり、シュバトゥルスの方を向い
た。彼は苦痛に悶え、床の上を両手で這いずるように動いていた。
その視線の先にあるは、トルーミアの水晶が収められた半透明のケ
ース。
﹁勝負はつきましたね、澄まし顔﹂
先ほどまでとは打って変わり、調子づいた態度のアリーテは、勝
ち誇ったような笑みを浮かべて言い放ち、その白い人差し指を悪魔
に向かってビシッと突きつけた。
﹁これでもう、貴方の計画はおしまいですっ!﹂
﹁おしまい⋮⋮だと?﹂
天使の高らかな叫びに反応した悪魔は、しかし妙な反応を見せた。
その事を訝しく思いながら、俺は口を開く。
﹁⋮⋮何がおかしい?﹂
そう。身を切り裂かれた激痛を確かに味わっている筈であるのに、
シュバトゥルスは歪んだ笑みを浮かべていたのだ。
﹁⋮⋮まだ、私の計画は潰えてはいないからさ﹂
342
﹁フフン、負け惜しみを幾ら並べても無駄です﹂
﹁負け惜しみ⋮⋮か。残念だけど、私は負けないよ。負けようがな
い﹂
︱︱負けようが、ない?
妙な言い回しがひどく気になった。勿論、アリーテの言っていた
ように、負け惜しみと受け取る方が自然ではある。だが、それにし
てはやけに確信めいた口調のような感じがしたのだ。
︱︱けど、何でそう言い切れるんだ?
シュバトゥルスの怪我は致命傷といっても過言ではない。傷口か
ら流れ出した血の量も尋常ではないし、いくら名のある悪魔といえ
ども、最早マトモに戦える状態ではない筈だ。能力で心の内を探っ
た時も、明らかに奴は狼狽していた。
︱︱もう一回サイドを発動すれば、その何かを読み取れるかもしれ
ない。
﹁どういう意味ですかっ﹂
アリーテが詰問の言を口にした事で、俺は思考の中から現実へと
引き戻される。見ると、シュバトゥルスは既にガラスケースのすぐ
側までたどり着いている。
﹁言葉通りの意味さ、私は負けない。勝てないとしても、ね。つま
り、君達は私に勝つ事が出来ないのさ。絶対にね﹂
343
奴は勝てないとしても、負けない。俺達は絶対に勝てない。
︱︱まさか!
言葉の裏に隠された真意に、俺はようやくたどり着いた。だが、
時は既に遅し。
﹁私はここで死ぬかもしれない⋮⋮だが、タダで死ぬつもりはない
のさ!﹂
悪魔は自身の血に塗れた右手をかざす。途端、途轍もない量の闇
の魔力が奴の掌に凝縮され、ガラスケースを粉々に砕いた。
﹁アリーテ、伏せろ!﹂
﹁へっ?﹂
状況を理解できていない様子の彼女を、俺が両手で無理矢理しゃ
がませるのとほぼ同時。邪悪な波動が露わとなったクリスタルめが
けて零距離から放たれる。美しい水晶が木っ端微塵に砕けたかと思
うと、とてつもない爆音が起こり、視界が真っ白に染まっていく。
﹁君達も道連れさ! ハハハハ!﹂
狂気に満ちた笑い声を上げながら、シュバトゥルスは水晶に込め
344
られた魔力の暴発に巻き込まれ、その体は塵となって消えていった
のだった。
345
11
﹁くっ!﹂
爆発が俺達を飲み込もうとしたが、能力の発動が間一髪のタイミ
ングで間に合った。無理矢理しゃがませたアリーテと、彼女に覆い
被さるような体勢となっている俺に周囲に、半透明の魔力で構成さ
れた障壁が円形に展開される。取りあえず、当分はこれで安心だ。
︱︱けど、メファヴェルリーアさんやセイーヌさんは⋮⋮。
恐らくこの階だけではなく、洋館の周囲までこの衝撃波は及んで
いるだろう。下の階にいるであろう彼女達の生存は、認めたくはな
いが絶望的だった。いつの間にか、自分の唇を痛いくらいに噛みし
めている事に気がつく。皮が裂ける痛みを感じたかと思うと、仄か
な血の味が口の中に広がった。
シュバトゥルスが自身の命を捨ててまで残した置き土産は、凄ま
じいものだった。正直、障壁を維持するのも精一杯な状況だ。もし、
薬で魔力を強化していなかったとしたら、とてもじゃないが耐えき
れられなかっただろう。体中から汗が迸るのを感じつつ力を集中さ
せ続ける俺の脳裏にふと、奴が死の間際に遺した言葉が再生される。
︱︱私は負けない。勝てないとしても、ね。つまり、君達は私に勝
つ事が出来ないのさ。絶対にね。
346
今なら分かる。最悪でも引き分けに持ち込める。そんな確信があ
ったからこその発言だったのだ。最大限まで魔力を吸収させれば、
大陸の一つを吹き飛ばせるほどの力を引き出せるトルーミアの水晶。
だが、たとえ魔力を完全に蓄えさせていなくとも、ここら一帯を吹
き飛ばせるだけの威力はあった訳だ。そして、あのシュバトゥルス
は自らの身を滅ぼしてまで、俺達と心中する道を選んだ。名のある
悪魔としてのプライドか、それとも単なる憎悪の為か。
︱︱どっちにしろ、このままじゃヤバいな。
正直、一人と一羽分の障壁もいつまで維持出来るかは分からない。
薬の効き目が薄れていけば、そこで万事休すだろう。その前に魔力
の拡散が収まってくれればいいのだが、残念ながら障壁への衝撃が
弱まる気配は全くない。これほどの爆発が身近で起きているにも関
わらず、未だ足場が崩れていないのは幸運だった。だが、それもい
つまで続くか。少しでも気を抜けば、そこでジ・エンドだ。
﹁あの⋮⋮ユートさん﹂
しゃがんでいたアリーテが、顔を伏せたままポツリと呟くように
言った。
﹁ずっと黙ってましたけど⋮⋮私、実は天界でも落ちこぼれだった
んです﹂
﹁⋮⋮実をいうと、そんな感じはしてた﹂
会話で気を散らすわけにはいかない。魔力の制御をこなしつつ、
返事をする。
347
﹁成績も下から数えた方が早くて﹂
﹁⋮⋮何となくそうだろうとは思ってたよ﹂
﹁仕事の手伝いをしても、すぐ怒られて﹂
﹁⋮⋮なるほど、どうりで﹂
﹁死ぬ! 死にます!﹂
半狂乱になった天使は泣き叫びながら、障壁を保とうと意識を集
中させている俺の身体を両手で激しく揺さぶり始めた。
﹁ついでにユートさんも道連れです!﹂
﹁おわ! 待て! 早まるな!﹂
自暴自棄になって自殺衝動に駆り立てられた彼女を、俺は必死の
思いで宥めた。何しろ、床が崩壊しただけでも人生終了である。
とにかく、彼女の気を落ち着かせてから、俺は障壁の維持に神経
を集中させつつ言った。
﹁けど、今は過去を気にしてる場合じゃねえだろ。まず、一緒に生
き残るのが先決だ﹂
﹁⋮⋮でも﹂
すると天使は、先ほどまでの激昂状態が嘘のようにシュンとして、
348
﹁私、ユートさんとの旅でも殆ど役に立たなくて⋮⋮﹂
﹁そんな事はないって。アリーテには随分と助けられたよ﹂
これは本心からの言葉だった。実際、彼女の扱う聖魔法が役に立
った事も、少なからずあったのだ。
﹁でも、澄まし顔との戦った時だって結局は足を引っ張っちゃいま
したし⋮⋮今もそうですよね﹂
﹁今も?﹂
最初こそ天使の発言の意味を理解しかねたが、すぐに気がつく。
一人と一羽を護る障壁より、俺の身だけ庇う方がずっと消耗する労
力は少ない。彼女はその事を言っているのだ。
ならば、今までの言動の真意は。
﹁だから、ユートさん﹂
顔を上げたアリーテは意を決した表情で、真っ直ぐに俺の目を見
据えて告げた。
﹁私まで守らなくていいです。このままじゃ私もユートさんも助か
らない。なら、ユートさんだけでも﹂
﹁馬鹿な事、言うなよ﹂
皆まで言い終わらないうちに、俺は強い口調で彼女の言葉を遮っ
349
ていた。
﹁俺もお前も、生き延びるんだ﹂
﹁でも、もしどちらも助からなかったら⋮⋮﹂
﹁助かるよ、少なくともアリーテだけは絶対に助けてみせる﹂
﹁そんなの嫌ですよぅ﹂
天使の瞳から、大粒の涙がポタポタとこぼれ落ちる。俺は強く動
揺した。彼女に拒絶されるような事を口にしたつもりは無かったか
らだ。感情の揺れに呼応してか、障壁に込めていた力が無意識のう
ちに弱まり、俺は慌ててそちらにも意識を向ける。一方、アリーテ
は顔をくしゃくしゃにして告げた。
﹁⋮⋮私、最後までユートさんの足手まといになりたくないんです。
役立たずなのは、嫌なんです﹂
﹁アリーテ⋮⋮﹂
一瞬、俺は彼女に掛ける言葉を見失った。一体何を、どんな風に
伝えればよいのか。だが、じっくり考える余裕さえ与えられない。
俺、お前を足手まといとか、役立たずだなんて思ってねえよ。そう
口にしようとしたが、思い直す。今の彼女の様子では、何を言って
も信じてもらえないような気がしたのだ。アリーテを救えるのは、
350
空虚なその場しのぎの言葉じゃない。けれど、俺の馬鹿な頭じゃ、
そんな文章しか思いつかない。
︱︱俺の正直な気持ちを、そのまま見せられればいいのに。
そんな事を頭の中で呟いた、瞬間。俺の脳内にまたしても閃きが
起こった。精霊から授かった、もう一つの能力。それを用いれば。
﹁⋮⋮アリーテ﹂
即座に、呼びかける。返事はなかった。ただ、啜り泣きが聞こえ
るだけ。俺は深呼吸した後、彼女に努めて優しく告げた。
﹁俺は本当に、お前の事を足手まといや役立たずだなんて思ってね
えよ。今から、それを証明するから﹂
﹁⋮⋮えっ?﹂
戸惑いの言を彼女が発したのとほぼ同時。
351
俺は﹁サイド﹂の能力を、アリーテに移し替えた。
352
12
SIDE︱︱ユート
正直、アリーテの事を笑ったり蔑んだり出来るほど、俺だって勇
者にふさわしいような人間じゃなかった。
勉強も運動も人並みには出来たし、学校生活だってまあまあ楽し
んでいた。その場その場で話友達を自然に作って、教室で流行った
ものにはそこそこに手を出し、誰とでも程々の人間関係を維持する。
クラス替えの毎に、進学の毎に、それを繰り返し、繰り返し。宿
題に不満を吐き、親の悪口を洩らし、友人の溜息には相槌を打ち、
行き過ぎた行為はやんわりと諫める。そんな日常を延々と送ってい
た。
どんな困難にも耐え抜ける強い意志。極悪非道を絶対に許さない
正義感。困難に陥った者に手を差し伸べる思いやり。そのどれか一
つでも自分にあるかと問われれば、首を横に振るだろう。そんな完
璧な聖人君主ではない事を、俺が一番よく知っている。
ずっと、流されるように毎日を生きてきた。だから今でも、あの
女神が俺を勇者として選んだ事には疑問を抱く。どうして俺だった
のか、もしかすると人違いだったのではないか、と。強靱な心を持
っていたわけではない、かといって獰猛な獣を殴り倒す力も持たな
い俺が、何故。
353
思い当たる節は一つだけ。俺が死ぬ間際に、女の子を助けた事。
けれど、あの行動は衝動的なもので、決して正しい行いをしようと
考えたわけじゃなかった。悲鳴が聞こえてきて居ても立ってもいら
れず、後先考えずに飛び出しただけだ。それが原因で殺される羽目
になったのだから、思慮が浅かったのだと蔑まれても文句は言えな
い。
ただ、怯えた少女の瞳を見つめた時、俺の心の内に湧き起こった
感情だけは、誰からにも否定させはしないものだった。そして、そ
の気持ちが未だあるからこそ、俺は絶対にアリーテを犠牲にして生
き延びたりはしない。
誰かを見捨てて逃げるくらいなら死んだ方がマシだと、心底思っ
ているから。
354
13
︱︱伝わっただろうか。
容赦なく障壁を割らんとする衝撃波を何とか抑えつつ、俺は視線
を下へと向ける。アリーテは無言で顔を俯けていて、その表情は伺
いしれない。その胸の内に、どんな思いを抱いているのかも。
︱︱しかし、やっぱ俺らしくなかったか。
息を洩らさず、顔の筋肉だけを歪めて苦笑する。元の世界にいた
頃は、赤の他人に自分の本心を曝す事なんて、中学に上がってから
は一度もなかった。血の繋がった両親にさえも、だ。本音を隠して
生活するのは平穏な日々を過ごすのに不可欠な技術だった。建前を
並べ立てて自らを守る殻とし、集団の中に理想の自分を仕立て上げ、
埋没する。
一度死ぬ前の俺なら、こんな危ない橋を渡るような事、絶対にし
なかっただろう。
︱︱多分、原因はコイツなんだろうな。
天使の背中から生えた純白の羽を、温かい気持ちで見つめる。い
つも、後先考えずに発言し、突拍子のない行動に出て、馬鹿みたい
に喜怒哀楽が激しい。けれど、アリーテはいつだって、良くも悪く
も、自分の心に正直だった。そんな彼女の愛くるしい仕草は、俺の
心を幾度となく和ませてくれた。本音同士で話し合う心地よさを教
えてくれた。だからこそ、俺は今、自分の心を在るがまま、抵抗な
く曝け出せているのだろう。
355
そこまで考えたところで、全身にマズい感覚が走ってきた。ガク
ッと、倒れてしまいそうになる体を、とっさに支える。
︱︱やべえ、力が⋮⋮。
どうやら、服用した薬の効果が、とうとう切れ始めたらしい。副
作用なのか、それとも限界を越えた疲労のせいなのか、様々な症状
が俺の体を一気に蝕み始めた。手足にあれだけ漲っていた活力が、
だんだんと萎むように失われていく。鮮明だった視界も、何時にな
く冴えていた思考も、靄がかかったようにぼやけていく。だが、一
番の問題は、俺達の身を護っている魔力の障壁が、だんだんとその
強度を弱め始めた事だった。一方、四散したトルーミアの水晶が放
つ膨大なエネルギーは未だ止まる事を知らず、俺達を飲み込まんと
激しく荒れ狂っている。
︱︱早く、早く収まってくれ!
柄にもなく祈りながら、俺は力を振り絞って障壁を維持し続ける。
自分の命はもう、どうでもいい。せめて、アリーテだけでも守り抜
きたい。藁にも縋る気持ちで、死力を尽くす。
だが、俺の願いとは裏腹に、体内にあれだけ満ちていた筈の魔力
は、もはや枯渇し始めていた。そして、脳内に未だ存在している現
実的な思考が、現実を無慈悲にも伝えてくる。
これ以上は無理だ、と。
356
﹁ごめん、アリーテ﹂
自然と、謝罪が口を衝いて出てくる。言わずにはいられなかった。
﹁もう、駄目みたいだ﹂
諦念の言葉を発した途端、それに呼応するように、全身から力が
急激に抜けていった。顔を上げ、崩壊しかかった障壁を何とか保た
せる。マンガやゲームに出てくる勇者なら、この絶妙なタイミング
で﹃諦めてたまるか! 絶対に君を守りきってみせる!﹄とか何と
か、格好いい台詞を口にするのだろうが、生憎と俺はそんな上等な
勇者じゃなかった。この現状は最早、根性だけで何とかなるもので
はないと、俺の中の極めて冷静な部分が喚き続けている。
強がりの嘘は、吐けなかった。
﹁⋮⋮ユートさん﹂
突然の呼び掛けがしたかと思うと、俺の背中に両手が回される。
ふと視線を下に移すと、アリーテが俺の胸に顔を擦りつけていた。
服の上から、温かい涙が染みてくる。
﹁ずっと、最期まで一緒ですっ﹂
357
顔を埋めたまま、彼女は涙声でそう告げた。その様子を眺めてい
ると、いつの間にか、俺は微笑みを浮かべていた。
﹁ああ、ずっと一緒だ﹂
穏やかな声と共に、俺は愛おしい彼女の身体を抱きしめ返す。美
しい金髪を優しく撫でると、天使は自らの頭をいっそう強く俺の体
へ押しつけてくる。啜り泣く彼女の気持ちを和らげようと、震える
両肩を抱く。途端、強烈な悔しさが目元までこみ上げてきた。命に
代えてもと彼女だけはと誓った筈なのに、心から慕ってくれる女の
子すら守れない、そんな無力な自分がとてつもなく歯がゆかった。
自嘲の言葉が、心の中に渦巻いていく。
︱︱本当、駄目な勇者だよな。あの女神が人選ミスしたとしか、考
えられねえよ。
鼻を突く感情を抑える為、俺は頭上を見上げる。水晶から発せら
れた膨大なエネルギー波は、すぐそこまで迫っている。とうとう、
俺の全身に満ちていた魔力が底をついた。自らを形作る燃料が切れ
た障壁に小さな亀裂が入り始め、その線はだんだんと伸びていき、
交わっていく。その様を眺めながら、俺は独り胸の奥で呟いた。
︱︱次、生まれ変わった時は。
粉々に障壁が砕け散り、妨げを失った魔力の激流が、嬉々として
俺達を飲み込まんと押し寄せてくる。何か、アリーテがか細い声で
358
呟いたような気がしたが、内容までは聞き取れなかった。
︱︱命を賭けずとも大勢の人々を助けられるような、そんな強い自
分になりたい。
刹那、閃光が全てを覆い尽くした。
359
14
気がつくと、俺は真っ暗な空間に浮かんでいた。
︱︱ああ、死んだのか。
やけに理解が早いなと自分でも思ったところで、思わず苦笑する。
そりゃ、そうだ。何しろ、既に一度死んでいるのだから。
︱︱けど、女神に会ったのはこんな場所じゃなかったよな。
もしかすると、前回がイレギュラーなだけで、普通の死者が真っ
先にたどり着くのはこんな世界なのかもしれない。そんな考えを巡
らせ始めた矢先。暖かい光が広がっていく。
︱︱なんだ、やっぱり明るいんじゃないか⋮⋮。
﹁寝ぼすけユートさあああん! 起きて下さあああああい!﹂
﹁うおっ!?﹂
いきなり耳元で怒鳴り声が発せられ、俺はたちまち上半身を跳ね
起こした。そして、頭上で燦々と輝く太陽の日差しに、堪らず目を
細める。
360
﹁何だよアリーテ、驚かすなよ⋮⋮って﹂
ハッとある事に気がついたと同時、俺は自分の身体を見回す。所
々、度重なる激闘の傷跡が散見されるものの、手も足もちぎれては
いない。関節の節々が鈍く痛むが、それはさほど問題ではなかった。
﹁俺、生きてるのか⋮⋮﹂
信じられないという思いと共に、深い安堵感が胸に広がっていく。
お陰で、自分だけではなく、周囲の状況へ視線をやる余裕も出来た。
どうやら、爆発の及ばなかった草原地帯に寝かされていたらしい。
ふと前を向くと、瓦礫の山と化した洋館の姿と、巻き添えを食らっ
て焼き払われた野原の一部分が目に入った。恐らく、敵の殆どが下
敷きとなって埋まっているに違いない。
︱︱そして、セイーヌさんも、メファヴェルリーアさんも⋮⋮。
心中に、深く暗い悔恨の念が押し寄せてくる。その矢先。
﹁良かった⋮⋮無事で安心したぞ﹂
﹁ま、ちょっと頭を打ってただけだしね。すぐ目覚めるとは思って
たわよ﹂
︱︱え?
聞き覚えのある声が同時に聞こえてきて、振り向く。俺の側にし
ゃがんで羽をピョコピョコと嬉しそうにはためかせている天使の他
に、二名の姿があった。片や、塵埃等で薄汚れた銀の鎧を身に纏い
ながらも、顔を綻ばせて腰を下ろしている女騎士。片や、異質な紫
361
色の素肌を衣装の下から惜しげもなく曝している妖絶な悪魔。
﹁ふ、2人とも⋮⋮﹂
考えるより先に、言葉が口から飛び出していた。
﹁無事だったんですね⋮⋮でも、どうして﹂
﹁私もさっき起きたので詳しくは分からないんですけど、どうやら
メガベロベロリのお陰みたいです﹂
﹁だから、その変な名前で呼ぶのは止・め・な・さ・い﹂
とうとう堪忍袋の緒が切れたらしいメファヴェルリーアは、固く
握りしめた両拳でアリーテの頭をグリグリとやった。いわゆる﹃梅
干し﹄である。天使は勿論、
﹁い、いだあああああい﹂
と、大粒の涙をポロポロと流し始めた。
悪魔の逆鱗がひと段落した後、俺は改めて質問を投げかける。
﹁メファヴェルリーアさん、一体何があったんですか? 俺やアリ
ーテも、後少しで死ぬところだったのに﹂
﹁⋮⋮まあ、話せば長くなるんだけど﹂
彼女は桜色をした髪を無造作に弄くりつつ、眉を潜めて語り始め
る。
362
﹁貴方達、上でシュバトゥルス様⋮⋮ううん、シュバトゥルスを倒
したのよね﹂
﹁はい﹂
﹁詳しい事情は分かんないけど、その時に私の魔力がどうやら戻り
始めたみたいなのよ﹂
﹁え?﹂
﹁どういうごどでずがっ?﹂
頭を両手で押さえながら鼻水を啜るアリーテと、俺が同時に疑問
の声を発する。すると、彼女は肩を竦めて、
﹁だから、詳しい事情は分からないわ。ただ推測すれば⋮⋮多分、
シュバトゥルスが私に掛けた秘術は完全じゃなかったか、元々欠陥
を抱えていたのでしょうね﹂
﹁欠陥?﹂
﹁つまり、﹃術を掛けた本人が対象より先に死ぬと、奪っていた筈
の魔力が全て対象へ戻される﹄とか、そんな感じよ﹂
とにかく。ゴホンと大きな咳払いをして、悪魔は解説を続けた。
﹁自分の身体に力が戻りつつある事を悟った私は、取りあえず敵を
一掃して二階へと上がった。そして、そこの女がだらしない体勢で
床に伸びている事に気づいた﹂
363
気絶していた事を暴露されたせいか、無言を貫いているセイーヌ
の頬にほんのりと朱色が差した。
﹁で、問題が起きたのはそこからね。上で何か途轍もない現象が起
こったと気づいた私は、彼女を庇いつつ魔法で身を防御した。すぐ
に察しがついたわ。トルーミアの水晶が暴発したんだろうってね﹂
﹁知ってたんですか?﹂
俺の問いに彼女は小さく頷いて、
﹁シュバトゥルスから聞いてたのよ。話を戻すけど、力が戻りつつ
あったし、私達の安全自体は問題なかったの。けど、貴方達はそう
もいかないだろうと思った。だから私は、強引なやり方で水晶の爆
発を食い止めたわけ﹂
﹁強引なやり方?﹂
﹁詳細に説明しようと難しくなるからある程度省略するけど⋮⋮﹂
そう前置きした後、メファヴェルリーアはどこか気落ちした声色
で、俺達が生き延びる事の出来た理由を告げた。
﹁簡単にいえば、﹃水晶に閉じこめられていた私の魔力で、その他
の魔力を相殺﹄したのよ﹂
364
15
﹁魔力を魔力で相殺⋮⋮? そんな事、本当に出来るんですか?﹂
﹁出来たから、貴方達はここにいるのよ⋮⋮まあ、かなりの力技だ
ったし、それなりの代償も支払ったけどね﹂
その呟きに、セイーヌは目を驚きに瞬かせて、
﹁代償? その話は私も初耳だぞ﹂
彼女の言に乗って、俺も訊ねる。
﹁一体どういう事ですか?﹂
すると、メファヴェルリーアはひどく落ち込んだ様子で、肩を落
としながら言った。
﹁時間が無かったから、荒技で私の体内に取り込まれる筈の魔力を
そのままぶつけたのよ。手っとり早く結論をいえば、私が取り戻す
予定だった力は殆どパーになっちゃったわけ﹂
﹁って、事は⋮⋮﹂
その説明が暗に示す事実と彼女の気持ちを察し、俺は言葉尻を濁
した。だが、元気を取り戻したらしい約一名は、悪魔を指さしなが
ら嬉々とした口調で叫んだ。
365
﹁つまり、メガベロベロリは一生弱体化したままって事なんですね
っ!﹂
﹁ねえ﹂
恐ろしいくらい無表情のメファヴェルリーアが、俺を向いて問い
かけてくる。
﹁もう一度、やっちゃっていいかしら?﹂
﹁良いですよ﹂
俺はあっさり同意して、
﹁徹底的に気が済むまでどうぞ﹂
﹁そう、じゃあお言葉に甘えるとするわ﹂
次の瞬間。再び﹃梅干し﹄を食らった天使の絶叫が草原に響きわ
たったのだった。
しばらくして。時折手足の先をピクピクと痙攣させつつ、ガック
リと草原に横たわる無言の天使を眺めていると、横から声を掛けら
れた。
366
﹁ユート殿、これを﹂
振り向くと、セイーヌがある物を俺に差し出していた。旅の荷物
を詰めていたバックパックだ。てっきり爆発に巻き込まれたものだ
と思っていたので、俺は驚いた。彼女によると、一人で洋館の中へ
と戻った俺を追いかける前、メファヴェルリーアが初歩的な魔法で
安全なところまで飛ばしていたらしい。そのお陰で爆発にも巻き込
まれる事なく無事だったというわけだ。
︱︱良かった⋮⋮これで無事に旅が続けられる。
俺はホッと胸をなで下ろし、彼女から荷物を受け取った。
﹁そういえば、セイーヌさんはこれからどうするんですか?﹂
﹁私か?﹂
騎士は腕組みをしてしばらく考え込んだ後、
﹁私は⋮⋮メデキアに戻るとするよ。隊の生き残りとして、今回の
一件を報告しなければならないしな﹂
﹁そうですか⋮⋮﹂
メファヴェルリーアさんは、と口を開きかけて、済んでのところ
で思いとどまった。恐らく会話を聞いていたらしい彼女が、変わり
果てた洋館を寂しげな表情で見つめている事に気がついたからだ。
また帰る場所を失ってしまった彼女に、そういった質問を投げかけ
るのは良くないと思った。
367
︱︱じゃあ、どうする?
悩んだ末、俺は出来るだけ明るい声色を心がけつつ提案した。
﹁あの、二人とも、もう少し俺達と一緒にいませんか?﹂
途端、騎士と悪魔の視線が俺に集まる。タイプは違えど、どちら
もかなりの美女である事に変わりはない。若干の気恥ずかしさを覚
えつつ、俺は髪を掻きながら言葉を続ける。
﹁えと、その。男としては、セイーヌさんを一人でメデキアまで行
かせるのは気が引けますし。ほら、何か事件に巻き込まれた時に一
人だと危ないじゃないですか。それに、メアヴェルリーアさんが魔
力を失ったのは俺達を助けようとしてくれたからですよね? だか
ら、その力を取り戻すお手伝いをさせてほしいんです﹂
正直、上手く喋れた自信は無かった。彼女達から食い入るように
見つめられ、完全に気分が上がってしまっていたのだ。一度も噛ま
なかったのは奇跡といっても過言ではないだろう。
俺の言葉を聞いた彼女達は一瞬だけ目を交わし、それぞれで思案
に耽る。しばらく経った後、両者はその美しい顔を俺へと向け、魅
力的な笑顔を浮かべてほぼ同時に告げた。
﹁確かに人数がいた方が心強いな﹂
﹁ま、どうしてもっていうなら仕方ないわね。付き合ってあげるわ﹂
彼女達の返答を耳にし、俺の顔は自然と綻んだ。何だかんだ理由
があったとしても、美人の女性方と共に行動する事になったのは、
368
やはり嬉しい。
﹁それじゃあ、セイーヌさん。これからまた、宜しくお願いします﹂
﹁ああ、こちらこそ宜しく頼むぞ。ユート殿﹂
朗らかな笑みと共に、彼女の手が差し出される。勿論、俺は握手
に応じた。
﹁メファヴェルリーアさんも⋮⋮俺とアリーテの命を助けてくれて、
本当にありがとうございました﹂
俺が深く頭を下げると、彼女はぶっきらぼうな口調で言った。
﹁別にお礼なんていいわよ⋮⋮﹂
その時、背後からか細く唸る声がした。
﹁う、ん⋮⋮﹂
振り向くと、どうやらアリーテが気絶状態から回復したらしく、
のろのろとした動作で立ち上がっていた。とはいっても未だ後遺症
は残っているようで、頭を手で支えている。
﹁お、アリーテ。起きたのか﹂
﹁ユートさん⋮⋮よくも裏切りましたねっ。信じてたのにぃ⋮⋮﹂
﹁いや、裏切ってはないぞ﹂
369
﹁メガベロベロリの言葉に同調してたじゃないですかぁ⋮⋮﹂
﹁ま、まあまあ、そんな事より大事な話があるんだ﹂
多大な恨みのこもった視線を向ける天使を宥めつつ、俺は先ほど
決まった同行について彼女に話した。
370
16
﹁えーっ﹂
話を聞き終わったアリーテはあからさまに不満げな表情となって、
頬をハムスターのように膨らませた。するとメファヴェルリーアは
不愉快そうに鼻を鳴らして、
﹁何よ、文句でもあるわけ?﹂
﹁だって、メガベロベロリってトラブルメーカーじゃないですかぁ。
絶対に問題起こすに決まってますよぉ﹂
︱︱お前も同じようなもんじゃねーか。
心の中で、ポツリと呟く。下手にツッコんで火に油を注ぐ結果に
なったらマズいと思い、にらみ合って火花を散らし始めた天使と悪
魔の姿を静観する。ふと、側でクスリと笑い声が起こる。見ると、
傍らに兜を置いた騎士が頬を緩ませていた。俺の視線に気づいたら
しい彼女は、照れくささを紛らわすように頭を撫でつけた。草原の
穏やかな風に吹かれ、麗しいシルバーブロンドの髪が優雅になびく。
﹁どうしたんですか、セイーヌさん﹂
﹁いや、これから随分と賑やかになるだろうと思うと、ついな﹂
﹁賑やかになりすぎるのも、困りもんですけどね﹂
﹁それにしては、ユート殿も嬉しそうじゃないか﹂
371
﹁え?﹂
虚を突かれたような感じがして、俺は戸惑った。そして、彼女の
言を聞いてようやく、自分の顔もまた綻んでいたという事に今更気
づく。どうやら、アリーテとメファヴェルリーアの喧噪を眺めてい
るうち、俺もいつの間にか微笑んでいたらしい。途端、その事をセ
イーヌに見抜かれた気恥ずかしさを覚え、自然と苦笑した。先ほど
と打って変わって、立場逆転だ。
﹁そうですね﹂
俺は頬を掻きつつ、小さく頷く。
﹁騒がしいのも、悪い事ばかりじゃないですから﹂
口にしてみて、自分自身の変化に我ながら驚く。いつからだろう
か、本音をぶつけ合えるのが心地よいと感じるようになったのは。
︱︱もしかしたら、アイツのせいかもしれないな。
悪魔との口喧嘩を延々と繰り広げている天使の姿を見つめながら、
そんな事を心中で思う。ふと、洋館で力尽きた時、脳裏に浮かんだ
言葉を思い出した。次、生まれ変わった時は。命を賭けずとも大勢
の人々を助けられるような、そんな強い自分になりたい。
今の俺は、まだまだ至らない勇者だ。シュバトゥルスを倒せたの
も、他者から与えられた能力や薬、そして仲間達の助けがあったか
らこそ。自分自身の実力で成し遂げられた事は、何一つ無いだろう。
372
︱︱だけど、いつかは。
いつかは、その名にふさわしい人間になりたい。何かの助けに頼
る事なくとも、一から培った自らの力だけで他者を救えるような、
そんな勇者に。
︱︱その為にも、これから頑張らなきゃな。
決心と共に立ち上がりながら、頭上を見上げる。広大な青空を、
鳥達が彼方まで飛び去っていった。その姿が消え去るまで見届けた
後、俺は全員に向かって声を上げる。
﹁それじゃ、そろそろ行こうぜ﹂
これからも、俺達の果てしない旅は続く。
胸に秘めた固い決意と共に、そして。
373
この、かけがえのない仲間達と一緒に。
374
あとがき
﹁視点使いの転生勇者﹂をお読み頂きありがとうございます。今
作は無事に完結となりました。以下の文章は作品に関するちょっと
した雑記になります。
この作品を執筆するきっかけとなったのは、去年目にした﹁第1
回オーバーラップ文庫WEB小説大賞﹂の広告でした。この作品を
執筆する前に﹁アイスクリームの魔法を手に入れた!﹂という作品
を書いていたので、構想を練り始めたのはそちらが完結してからに
なります。
今作の内容は賞の募集テーマである﹁異世界×女の子いっぱい︵
ハーレム︶﹂を意識しました。もっと沢山女性キャラクターを出せ
れば良かったのですが、物語をしっかり収められそうになく、結果
として三名としました。
執筆を始めたのが十二月下旬だったので、その影響で物語のスタ
ートもクリスマス・イヴとなっています。当初の考えでは十万∼十
一万文字程度の作品の筈だったのですが、書き上げてみると予定よ
り約三万文字ほどオーバーしてしまい、そのせいで締め切りを少し
過ぎた辺りでの完結となってしまいました。出来るだけ期限内に完
結させたかったのですが、取りあえず応募規定の方は満たせたので
ホッとしています。ただ、色々と反省点も多く感じた作品でした。
それらは今後、他作を執筆していく上での財産に出来ればと思いま
す。
今後の執筆についてですが、去年から投稿を続けている﹁目覚め
たら僕はダンジョンにいた﹂に加え、四月末が締め切りの﹁小説家
375
になろう大賞2014﹂各部門に応募予定の作品を連載していく予
定です。MFブックス部門用の﹁ダメダメテイマーなんてもう嫌だ
!﹂と、アリアンローズ部門用の﹁勝手に召還されて、騎士にされ
たワタシ﹂の二作品となります。もし気が向きましたら、そちらの
方も御一読して頂けると幸いです。
今作はひとまず完結となりましたが、またストーリーが思いつけ
ば続編を書きたいと思っています。いつの事になるかは分かりませ
んが、宜しければ、その時はまたお読みいただけると幸いです。最
後になりましたが、この作品を無事完結させる事が出来たのも、ひ
とえに読者の皆様のおかげです。お気に入りや評価、そして皆様の
アクセスが何より執筆の励みとなりました。厚く御礼申し上げます。
﹁視点使いの転生勇者﹂を読了して頂き、誠にありがとうござい
ました。
2014年2月2日 きあ
376
PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n3838bx/
視点使いの転生勇者
2014年9月4日07時33分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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