風の鳥瞰 - 日本ペンクラブ

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村山 精二
むらやま せいじ
詩人
1949年北海道生まれ。掲載作は1
985年『中央文学』通巻301号に初出。
風の鳥瞰
耳もとで風が鳴っている。右の耳と左の耳とでは風の音色が少し違って聞こ
える。どちらもゴウというふうに聞こえるのだが、多少、右を抜ける風の方が
高い音だ。風が向きを変えたのかも知れない。コントロールバーの右手を引い
た。身体がハーネスの中に食いこんでいく。ハンググライダーはゆっくりと右
旋回を始めた。
眼下はほぼ緑だ。この山は冬はスキー場になっているが、今は雪もなく芝が
いっせいに青い葉を太陽に向けている。ゲレンデの端にリフトが赤錆びたまま
伸びている。黄色い何百というベンチが揺れている。二列に並んで止まったま
まのベンチは風が吹くときだけ冬の生命をとりもどしているようだ。裾野から
頂上へと点々と続く鉄塔の向こうに、ゴルフ場が広がっている。その芝はゲレ
ンデの芝よりも輝いて見える。幅の狭い林で区切られたコースが複雑に入り組
んでバンカーだけが白い。キラリと一瞬反射したのは、ゴルファーの振り降ろ
すクラブだ。腹の出はじめた男は管理された芝の上を大股で歩いているに違い
ない。
北村浩二はもう一度コントロールバーを引いた。右旋回を始めた機体がニュ
ートラルポジションに戻っていく。安定している。ゆっくりと下降しているが
風を真正面に受けて、セールがバタバタと規則正しく鳴っている。浩二はこれ
でしばらく楽しめるなと思った。このままなら五分や十分は何もしないでもま
っすぐ飛行するはずだ。上を見た。セールを通した太陽の光は淡い。その光が
セールの青や赤や黄色をすかして浩二の身体を包んでいる。ワイヤーにしばり
つけたピンクのリボンが目の前で泳いでいる。それはともすればワイヤーから
離れて勝手に泳いでいるように見えた。リボンはテイクオフに必要なだけだが、
こうやってステンドグラスを通したような光の中にいると、もう一匹の生き物
のように思えた。光と風の中の浩二とリボン。リボンはかつてはケンのものだ
-1-
った。
「グッド・ランディング。でも早かったのね。もう少し飛んでいるのかと思っ
たわ」
息を弾ませながら道子が走ってくる。
「うん、ケンの奴のこと思い出しちゃってね。少し休んでからまた飛ぶよ」
「そうね。今日は風もいいみたいだから、休もう休もう」
浩二がヘルメットとハーネスを外している間に道子はコントロールバーをた
たんでいる。芝と雑草の境にハンググライダーはペったり伸びたような格好で
置かれた。ヘルメットとハーネスが翼の中に放り込まれた。ついでに浩二は地
面に両手をついた。そうやって地面のぬくもりを感じた。掌に芝がチクリと刺
さる。しかしその下には土の感触と臭いがあった。今朝さわったときのような
水分はない。
「上がだいぶあったまってきたな」
「そうよ、だってもう十時近いのよ。下で見てると暑いくらいよ」
足元で歩くたびに芝やら雑草やらが足の分だけ沈んでいく。そしてすぐに元
に戻っていった。浩二はその弾みがうれしかった。やっと長かった冬が終わっ
たのだ。
「もうそんな時間になるのか。降りてきてちょうどいい時間だったのかな」
「そうよ、あんたは飛び出すといつまでも飛んでるんだから。まるで、もうこ
れっきり飛べなくなるっていうみたいにガツガツしてるんだから。もっと優雅
にやんなさいよ」
「別にそういうつもりで飛んでるんじゃないよ。ただ俺はね、飛んじまったら
降りるのが面倒くさいだけなんだ。だいたい君はだね、いつもそうやって俺の
こと…」
「わかった、わかった。わかったからそんなことより早くコーヒー飲みに行こ
う」
道子は笑いながら走り出した。コットンのスラックスが揺れている。丸い肉
づきのいい尻がジャンプしながら走っている。Tシャツの袖が揺れて陽焼けを
始めた腕が健康な道子の肉体を語っているようだ。浩二は走る道子を見ながら
裸体を思い出した。
「早くおいでよ」
ふりむきながら道子が叫ぶ。
「ちきしょうめ」
浩二も走り出した。足の下で雑草が折れていく音がする。スニーカーが心地
よく土にくいこむ。太腿の筋肉が伸びて縮む。手をあててみた。筋肉が手の中
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で別の生き物のようにふくらんでいた。道子の太腿も今こんなふうに弾んでい
るのだなと思った。
「待て」
「嫌だよ、ここまでおいでだ」
道子が舌を出してふりむいた。逃がすものか。浩二は両手をふり上げて走っ
た。道子の足元で鳴る雑草の音が聞こえる。ザワザワと道子の足の動きにつれ
て鳴る雑草。その音が浩二のものと一緒になった。
「ほら、つかまえたぞ」
道子の肩に手をかける。
「助けて」
道子が大仰に叫ぶ。
「誰も助けなんか来るもんか」
浩二は道子の肩を引き寄せた。もつれこむように二人は倒れた。草が頬に当
たる。青臭い臭いがした。道子のあえぐ息があった。
「バカ、転んじゃったじゃないの」
「ハハハ、でもこうやって草の中にいるのもいいもんじゃないか」
浩二の右手が道子の胸に這った。あまり大きくもないが、ちょうど掌に入る
弾力があった。
「なあ、もう寝よう」
「バカバカバカ、何言ってるの昼間から」
「もう飛ぶのやめた。寝よう寝よう」
「ダメ」
道子がパンと飛び起きた。縞模様のTシャツの肩に枯れた草がついている。
浩二も同じように飛び起きると、それをはらった。それからゆっくりと肩に手
を回した。足元で二人分の草が踏まれていく。道子の肩が汗ばんでいる。首筋
に手をかけると、浩二の手の汗と道子の汗が何のためらいもなく溶けていった。
「ねえ、さっきケンのこと思い出したって言ってたけど、やっぱり忘れられな
い?」
「そりゃそうだよ。もう一年たったけど忘れることはないみたいだよ。本当は
忘れてもいいんだろうけどね。飛んでるときに限ってふっと思い出すことがあ
る」
ケンの本当の名前は知らない。この山に来て初めて会った男だ。名前を知ら
なくても他の誰ともそうなるように、フライヤーということで親しくなった。
フランス製のハンググライダーを持っていた男だった。腕は浩二よりも上だっ
た。きりもみから立ち直るような男だった。いつもケンの技術を盗んでやろう
と見ていた。白一色のグライダーにもあこがれていた。浩二の日本製のものと
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はどことなく風格が違っていた。ノーズ角は今はやりの広いものではなく、そ
れよりやや狭いものだったが、気品があった。ああこれがフランス人好みなん
だなと思っていた。そのケンが死んだのは一年前の五月だった。
浩二の前をケンが歩いている。ケンが歩くというよりはグライダーが歩いて
いると言った方が適切だ。グライダーに隠れてケンの身体は膝から下ぐらいし
か見えない。グライダーに足が生えているようだ。ノーズを下にして逆三角形
に足がついている。それがユサユサ…ガクンガクンと歩いている。ケンが一歩
前に出るたびに空気がセールにはらむ。ちょうど大きなうちわであおっている
ように空気を押しながら歩いていく。その後を浩二が追っている。身体の大き
なケンに浩二はなかなか追いつけない。コントロールバーが肩に食いこんでく
る。背負うグライダーの傾きをわずかに変えるだけで空気の抵抗が違ってくる。
いちばん抵抗の少ない傾きを保とうとするのだが、歩くたびに角度が変わって
くる。それをケンは無視して力で持っていける男だ。
「コージ、風向きが変わったぞ」
先に丘の頂上に着いたケンが叫んでいる。浩二は中腹にグライダーを置くと、
ふもとを見た。ゲレンデのふもとには野生化した芝と所々に背の低い潅木があ
る。その真中をジープ道が横切っている。道端に吹き流しが立てられていた。
口の部分が白く尻尾が赤いふき流しはこちらに赤い部分を向けていた。上下左
右に、白地は小さく赤地は大きく揺れていた。風が丘を登ってくる。ランディ
ングエリアから吹き上げてくる風は浩二の顔に当たった。それはまぎれもなく
真正面の風だった。
「いい風じゃないか」
浩二は下からどなり返した。
ケンはかがんで草をむしり取ると、それを頭の上に放り投げた。生まれたて
のうす緑の数本が不器用に身をよじりながらケンの後に飛んで行った。丘の斜
面からまっすぐに吹き上げている風だ。草の流れる方向といい速度といい、申
し分ない風だ。ケンは機体を見渡した。セール、スパー、キール、コントロー
ルバー、バテン、全て異常なしだ。カラビナを機体に着ける。スーッとグライ
ダーのノーズが上がった。グライダーは翼を水平にした。コントロールバーが
地面に着いていて、その真中にケンは腰をかがめている。斜面を見ている。こ
れから走るべき斜面を見ている目は何か思いつめたような光を放った。飛ぶコ
ースを頭に描いているようだ。グライダーが動いた。ケンは立ち上がった。両
手でがっちりとコントロールバーを持っている。両足が広げられた。グライダ
ーの左右をチラッと見た。それから再びまっすぐ前に頭が向けられた。ケンの
身体が前に傾く。片足が出る。グライダーがグッと前に動く。次の瞬間、ケン
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は走り出した。大地を蹴る音がドッドッと響く。グライダーが浮き上がった。
走り始めた貨車に飛び乗るようにケンは走った。コントロールバーを腹に抑え
こむ。ザーッと空を切る翼の音が浩二の耳に届いた。
「うまいもんだ。万全のテイクオフだ」
浩二はつぶやいた。テイクオフがうまくできれば飛行の80%は成功したよう
なものだ。グライダーはまっすぐに進みながら高度を上げていった。思ったよ
り風の状態がいいようだ。動力を持たないハンググライダーは本来自分の飛び
出した地点より沈下するしかないのだが、風さえあれば上に行ける。とんびの
ように翼をいっぱいに広げてケンのグライダーはだんだん小さくなっていっ
た。リッジが出ているようだった。斜面上昇風とも呼ばれるリッジは、うまく
すると山の幅以上出ているときがある。そうすると幅数キロに渡って上昇風の
帯となり、そこで遊んでいることができる。この丘はせいぜい300∼400mの幅
しかないが、それでも充分リッジ・ソワリングを楽しむことができる。ケンは
左右に小刻みなターンをしながら高度を上げていった。150mほども上がった
だろうか。グライダーは旋回を始めた。リッジのパワーがなくなって、もうそ
れ以上は昇れないのだ。あとは旋回しながら高度を落し、再びリッジをつかま
えてまた昇るということをしなければならない。とんびのように大きく回って
いるグライダーが陽の中に入る。そうするとグライダーは太陽にかくされて一
瞬見えなくなる。次に太陽の中で金色に輝く物体になり、それからまた姿を現
わした。青空の中で蝶のように光った。だが蝶のようにせわしなく羽を動かす
ことはない。翼をいっぱいに広げた鷹のように悠然としている。突然変異を起
こした大きな鷹だ。ケンはその翼の中で下界を見渡しながら風の歌を聴いてい
るのだ。浩二は重い機体を運んできた疲れが急に消えていくのを感じた。
「よし」
再び自分の機体に戻るとかつぎ上げた。さっきよりはいくぶん軽くなったよ
うだ。だが足元の芝は確実にグライダーの重さ分だけへこんでいく。しかしそ
れも快いと浩二は思った。自分の翼だ。自分の翼の重みだ。
グライダーをテイクオフ地点の真中に置いた。息が弾んでいる。いつもそう
だ。何度飛んでも飛ぶ直前というのは息が弾む。だがケンならそんなことはな
いのではないかと思った。あまり表情に変化はない。いつも大きく表情を変え
ない男だから、顔に出ないのかもしれない。それでもケンの目だけは光ってく
るのがわかる。やはり同じことなんだなと思った。
グライダーのまわりをぐるりと回った。セール、ワイヤー、パイプすべてO
Kである。三点支持で置かれているグライダーの中に入りこんだ。ノーズを持
ち上げる。風が急に入ってきて浩二の全身をとりまいた。風がセールをバタバ
タと打ちながら通りすぎていく。目の前には新緑が息づいていた。名も知らぬ
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草が頭をいっせいにこっちに向けて揺れている。真正面の風だ。風速10メート
ル程度、絶好の吹き方だ。その下にはずうっと斜面が続いている。ここは冬ス
キー場の中級者用ゲレンデとして使われている。平均斜度15度程、最大斜度30
度ぐらいだろうか。ここがそうだ、ここが30度の斜面だ。スキーをするときの
スタートとは違った興奮を浩二は感じた。それから斜面の一番下にはほぼ平ら
なランディングエリアがある。その真中の吹き流しがシラスのように小さく見
える。あの赤白のシラスが風向きを刻一刻とフライヤーに知らせてくれる。吹
き流しが一本立っているだけでいかにも飛行場という雰囲気を漂わせている。
ハーネスに着いているカラビナを機体につなぐ。カチッと小気味よい音をたて
てくいついていった。もうこれで浩二とグライダーは一身同体だ。セールは羽
となり浩二はバランスを保つ重りとなって一つの飛行物体ができ上がったの
だ。あとは走るだけで飛行する。浩二はこの瞬間が好きだった。カチッという
音を聞いたときから自分が別の生物になったような気がした。変身するには何
かきっかけが必要だ。浩二の場合それは音だった。
グライダーを持ち上げる。両腕にその重みがグッと伝わってきた。ノーズを
3cmほど持ち上げてやった。風がセールの下に入りこみ嘘のように機体が軽く
なった。これ以上ノーズを上げると、今度は風にあおられてしまう。いい位置
―ニュートラル・ポジションだ。だがちょっと気を許すと風はグライダーをひ
っくり返そうとする。そのたびにノーズをほんの1cmか5mm上下させてやって
ニュートラルをつかむ。もう大丈夫だ。もうこれで今日の風のニュートラルが
判った。風が線になって浩二の身体を通りすぎて行く。風の流れが目に見える。
そう思える日は浩二の身体のコンディションがいい証拠だ。グッと奥歯をかみ
しめる。上体を5cmほど前に傾ける。機体が前につんのめりそうになる。今だ。
浩二はもっと大きく上体を前にやった。それからすぐに右足が出た。左、右、
ドスンという地響きが身体全体に伝わってくる。自分の体重がいつもの数倍に
も感じられる。風がグライダーをあおろうとする。さらに力を入れる。四歩目、
それから五歩目。もう風にさからえない。全身がグーッと後方に引きずられる
ような感じを受けた。六歩目、足が地面に着いていない。ぶざまに両足とも空
回りしている。浮いた。
それはちょうど波に乗っているのと似ている。平泳ぎで沖をまっすぐに見な
がら進む。遠くで波頭が砕けて白い花が咲いたように見える。そいつに向かっ
て泳ぐ。次から次と上下しながら波が向かってくる。身体はそいつに弄ばれな
がら上下していく。グーッと持ち上げられて水平線が見える。次の瞬間には急
激におし下げられて青い波しか見えない。飛び出したばかりのグライダーはそ
れと同じだった。翼全体に風をはらんだかと思うと、機体はいっペんに高度を
上げた。そしてすぐに風が弱くなるとフワリと下降を始めた。浩二はコントロ
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ールバーを引いた。グライダーはスピードを出して下降していく。そして弱い
風を翼いっぱいにためて再び上昇を始めた。風の波の中で浩二はピッチングを
くり返しながら徐々に高度を上げていった。
ケンはどこにいるのだろう。浩二はあたりを見渡した。だが下と左右しか見
えない。その視野の中にケンはいない。きっと上だ。上を見上げるが大きなセ
ールにじゃまされて何も見えない。セールが太陽の光に透かされて淡い色彩に
なっている。原色の赤や黄色が白味を帯びている。飛ぶたびにその色彩は違っ
ている。今日が一番きれいな色だと浩二は思った。太陽の光は強い方がいい。
ケンの翼の中はどうなっているんだろうか。ケンは真白いフランス製のグライ
ダーだ。その中はどんな色彩になっているのだろう。白だから色彩なんかあり
はしないけど、何か別の色合いがケンのグライダーの中では見えるような気が
した。それは空気の色かもしれない。
風が耳もとをかすめていく。いや、かすめるなんて生やさしいものではない。
吹き抜けていくのだ。まるで風洞実験室の中にいるように耳を打っていく。ゴ
ウゴウといつまでも長く続く。それは強い音だが、しかし安定した音だ。浩二
はこの風の音、身体に受ける風の抵抗でグライダーの状態を知る。それは動物
的な勘のようなものだ。顔の左右に受ける風のわずかな強弱で一瞬でも早く風
向を知ろうとする。鼻をぴくつかせ風の臭いをかぎとる。吹き抜けていく風の
臭いはほとんどの場合無臭だが、時として甘い臭いを突き刺すことがある。そ
れは女の臭いと同じような気がした。そう思える日はコンディションがいいの
だ。浩二はその臭いをかぎながら、ゆっくりと下を見た。浩二が飛び出した斜
面が広がっている。真中に巨大な三角形をした斜面、上が10mほどで裾野が幅
200mほどに広がっているゲレンデだ。
いま、浩二は誰にもじゃまされない大空にいる。いや、そうではない。ケン
がいる。浩二はもう一度あたりを見渡した。ハンググライダーから水平に吊る
された身体ではそう自由が効かない。頭だけをゆっくりと回していった。見え
た。斜め後を横目でにらんだはじっこにケンのグライダーの翼が片側だけ見え
た。50mほど後だ。リッジのパワーがなくなって一度下降したところだろう。
これからもう一度リッジに突っ込む気だ。浩二もその後に続くことにした。大
きく旋回して斜面に向かった。ケンのグライダーがはっきりと見える。白い翼
を白鳥のように広げている。左端のCABINの赤文字が鮮明に読める。ケン
は丘の頂上に向かっている。滑るように丘に近づいている。左にターンした。
左斜め前に突っこむような形でターンしている。と思うと急激に上昇しはじめ
た。セールの下に隠れていたケンが今度はこちらに向いている。コントロール
バーを腹の下まで押し下げて、まるで鉄棒に乗っているようだ。白いヘルメッ
トの中の陽焼けした顔が笑っている。視線が合った。何か叫んでいるが聞きと
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れない。たぶん早く来いと言っているのだろう。そのまま横滑りをするような
格好でケンは高度を上げていった。もう浩二の視野から外れた。だいぶ上がっ
ていったようだ。200mぐらいは上がったのかもしれない。いい風だ。いいリ
ッジになっている。浩二も斜面をめざした。追い風に押されるようにスピード
を上げた。機体が心もとない。何の重量感もないような感じだ。まるで真空の
中を飛んでいるような気になる。だから追い風は嫌なのだ。下手をするとこの
まま失速する。浩二はコントロールバーをグングンと引いた。追い風に負けな
いスピードが必要だ。丘だ。丘の頂上に来た。スピードを殺す。一瞬耳元の風
が無くなった。エアポケットのような真空状態。今だ。浩二は体重を左にいっ
ぱい持っていった。一瞬止まったグライダーがガクンと左に傾く。と同時にグ
ンとノーズが持ち上げられた。ハーネスに身体がくいこむ。重い。さっきまで
の無重量感が嘘のように吹き飛んでいく。両腕に思い切り力をかけた。斜め後
に押し上げられるような格好でグライダーが一気に高度を上げた。風だ。風が
塊りとなって浩二にぶつかってくる。息ができないくらいの風量が浩二をおし
包んだ。息を詰めながら高度を上げていった。
ケンが左横に見える。リッジのパワーとグライダーの沈下速度とがちょうど
つり合ったところに来たようだ。ケンのグライダーも動かない。ほとんど静止
したように丘の反対側の山に向かっている。耳もとの風を聞いているといかに
も速く飛んでいるような音だが、まったく動かない。これでちょっとノーズを
下げてやれば急激に動き出すのだが、しばらくはそのままでいることにした。
ケンと浩二のグライダーが二機とも大空で静止している。下から見るとちょっ
と異様な光景かもしれない。下にはランディングエリアを取りまいて三十人ほ
どの人たちがいる。家族連れでいたり、ペアでいたり、思い思いのピクニック
気分だ。やはり赤い服を着た人が一番よく目立つ。青い草原に赤いシャツやト
レーナーが点々と咲いている。丘の中腹ではこれから飛ぼうとするグライダー
が黙々と登っている。もちろん上からはグライダーの中のフライヤーが見えな
い。大きな蝶が丘にへばりつくように五、六機登っている。今ごろフライヤー
は汗だくになって機体をユサユサとゆらしながら持ち上げているに違いない。
彼らがいっせいに飛び出したら、この静かな山あいもにぎやかな航空ショーに
なることだろう。
高度200m。新宿副都心の超高層ビルよりもさらに高い所で、空中に貼りつ
いている浩二とケン。しかもビル風などという乱気流の無い、安定したリッジ
のまっただ中だ。遠くに噴煙を上げている高い山が見える。その向こうはかす
んで空と山との区別がつかない。雲が手に届きそうに近い。かすかに光ってい
るのが湖だ。湖に続く川は山と山との落ちこんだ間を流れているはずだ。近く
の山肌は植林された針葉樹が規則正しく並んで樹木の高さを隠している。それ
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からこちらが枯れ葉色の丘だ。丘の中腹に別荘の赤い屋根が点々と見えている。
赤い屋根に灰色の四角い大きな煙突、あの下はきっと暖炉だ。丘の下がランデ
ィングエリアになっている。幅100m、長さ200mの長方形のエリアだ。もちろ
んまっ平な場所ではない。丘と丘に挟まれた小さな盆地のような所だ。その南
端が駐機場になっている。十機近くが思い思いの格好をして停っており、思い
思いの色づけをされている。そのさらに南が駐車場。山道をほこりだらけで登
ってきた車が置いてあり、ここからもくすんだ色あいが見える。その中で最も
汚れたジープが浩二の愛車だ。頭を半分林の中に突っこんでプラモデルのよう
に見えている。それから反対の北側がもう一つ小さな丘で、ジープ道がだらだ
らと奥山へ消えている。風が鳴っている。いつ切れるともわからない長さでい
つまでも耳元で鳴り続いている。風は常に浩二の頭から肩、腕、腰、足、それ
からスニーカーをはいた足元へと順番に流れていく。風がすべてだった。グラ
イダーから吊り下がって、上半身を反り身にして浩二は風の口笛を聞いていた。
何で飛ぶのだろうかと思った。いつもではないが時々そう思う。どうして山
へ登るのかという質問と同じで、答は決まっているのだが、ふと無性に本当の
答を知りたくなるときがある。今もそう思った。こうやって大空に貼りついて
いることは、物理的には風とグライダーとのバランスの問題なのだが、そんな
ハードのことではない。ソフトが知りたいのだ。降りてゆっくりコーヒーでも
飲みながら考えてみようかと思った。ケンにも話してみよう。ケンとそんな話
はしたことがないけど、たまにはいいだろう。本当のことっていったい何だろ
う。浩二はそれは風かもしれないと思った。風に身をまかせ風の歌にひたりた
くて飛んでいるのかもしれない。風はリズムをもっている。浩二がコントロー
ルバーを強く引けばグライダーは急激にスピードをつけ、何も聞こえないほど
のうなり声を耳におしつけてくる。いや耳ばかりではなく身体全体にだ。そし
てコントロールバーをちょっと押し出してやると、風はうなり声をやめてブウ
ブウブウと耳元をかすめる。そうやって風にリズムをつけて、浩二は風ととも
に大空を散歩しているのだ。ここでは太陽でも雨でもない、風だけが唯一の味
方だ。そうやって風の歌を聞いて一体感を感じたいだけなのかもしれない。ち
ょうど台風の夜に無性に外に出てみたくなってしまう気持ちに通じている。ふ
るえながらも雨戸をたたく風の音を聞いていた子供のころを思い出した。
ケンのグライダーが近づいてきた。横滑りしながら20mぐらいまで近寄って
きた。何かしゃべっている。風に消されて聞きとれない。笑っているから、た
ぶん最高じゃねえかぐらいのことを叫んでいるのだろう。白いセールの下で陽
焼けしたケンの顔はおだやかな光を放っている。ふいにケンが片手を上げた。
手をふった。
「バカなことするな!」
-9-
驚いて声を張り上げたときにはもう手はひっこめられていた。何という奴だ。
フライト中に片手になるとは。車の運転とは違うんだ。しかしケンは相当リラ
ックスしているようだ。普段は慎重な男だが久々のフライトでよっぽどうれし
いんだろう。
疲れを覚えた。どのくらい飛んでいるのだろう。三十分、いやもう一時間近
いかもしれない。ハーネスに抑えつけられて胸が苦しい。腕と肩の筋肉がガチ
ガチに固まっているようだ。同じような風の音を聞き続けていて頭がボーとし
てきた。息苦しい。こんなにたくさんの空気が取り巻いているというのに空気
が足りないようだ。血液の鼓動が聞こえる。浩二は一度降りることにした。
リッジを離れるとグライダーは下降を始める。大きく弧を描きながら降りて
いく。直径100m。人間のつくりだす雄大な螺旋だ。地上の風景が刻々と変わ
っていく。ゴルフ場が見え、別荘が見え、リフトに変わっていく。それからま
たゴルフ場だ。ジェット機のような金属音もなく、プロペラ機の腹に響くレシ
プロエンジンの音もない。浩二の耳にはもちろん風の歌が聞こえているが、地
上の人たちにはそれは聞こえない。何の音もなくゆったりと旋回しているよう
に見えるだろう。事実浩二は疲れ切った身体であったが、ゆったりした気分で
降り続けた。高度100m。この辺までならゆったりと降りていける。万一何か
異変があっても、この高度なら態勢のたて直しがきく。だがこれから先が問題
なのだ。一般の航空機もそうだが、事故の八割は着陸時に起きている。浩二は
グッと奥歯をかみしめた。80m、グライダーはまだゆっくり降下していく。50
m、コントロールバーを抑え続ける腕と手首が痛い。ランディングエリアの吹
き流しが見える。相変らず尻尾を丘に向けている。40m、旋回をやめた。これ
から先は180度のターンを何度かくり返して高度を落とす。30m、もう展望が
効かない。低い潅木や若草が風になびいている。20m、もう後もどりできない。
この高度まで降りたら後は着陸するしかない。10m、人の顔がはっきり見える。
カメラを構えている男がいる。そうだ、いいシャッターチャンスだ。高空を飛
んでいるハンググライダーを撮るより、離陸寸前か着陸寸前を撮るほうが気が
きいている。どんなにうまい奴でも離陸と着陸は神経を使っている。その顔つ
きを狙うのだ。5m、機体が小刻みに上下する。地表の乱気流をひろった。2
m、浩二は身体を起こした。風がまともに身体にぶつかってくる。草がスニー
カーに着きそうになるがまだ着かない。檻に両手でぶら下がっている猿のよう
な格好で地面をめざす。1m、数本の背の高い草がスニーカーにぶつかってく
る。そのまま、そのまま。今だ。グッとコントロールバーを押し上げる。セー
ルがいっぱいに風の抵抗を受けて、ガクンとグライダーが落ちた。足元に大地
の感触が帰ってきた。チョコチョコと二、三歩あるくとグライダーは完全に止
まった。筋肉が一度にほぐれていく。いや逆に固くなっていくと浩二は思った。
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気分的には筋肉がほぐれていく感じなのだが、実際には急に固くなっていく。
緊張がフッとゆるんだ瞬間に、首といわず肩、腕、腰が強い力で握られたよう
にコチコチになっていく。ハーネスを脱ぎ捨てると浩二は地面に大の字になっ
た。煙草を一本取り出す。吐き出された紫色の煙が風にちぎられてすぐに消え
てしまった。飛びながら吸ってみたいものだと浩二は思った。煙草をくわえな
がら大空を散歩する。これ以上のぜいたくはない。フッと口元がゆるんだ。
ケンもそろそろ着陸する気らしい。リッジから抜けて弧を描き始めた。晴れ
渡った五月の空にケンのグライダーが浮いている。白いセールが透き通るよう
に輝いている。翼をピンと張って滑空している鷹のように、鋭角な翼の両端が
浩二の目を射た。わずかにバンクをつけながら回っている。時々思い出したよ
うに強いバンクをつけて急降下してくる。遊んでいるな。いい調子じゃないか。
くるりと回るたびに太陽の光がその動きに引っぱられて揺れているようだ。ケ
ンのかき分ける風が光って見える。もう50mぐらいまで降りてきている。ケン
の黄色いトレーナーの色がはっきりと見える。まだ旋回を続けている。さて今
度はどんな降り方をするだろうか。あのまま最後まで旋回を続けてしまうだろ
うか。そうすることはかなり度胸のいることだ。地面に近づくほど旋回の範囲
を狭くしてやらなければ、このエリアでは着陸できない。もう少し広いランデ
ィングエリアならば着陸に長い距離をとれるのだが、ここではそうはいかない。
それに何といっても飛行場のようにダラダラと長い距離を使って着陸するので
は、どうも格好が悪い。浩二はそうしてしまったが、ケンにはバンク角を大き
く取って地面に激突するような格好で着陸してほしいものだ。
汗が引いて肌寒くなってきた。背筋をブルルと悪寒がかけ昇る。ほっペたに
プツンと何かが当たった。草だ。肌寒くなったのは汗が引いたせいだけではな
い。風が強くなってきたのだ。枝がだいぶ動き出した。これだから山の天気は
あてにならない。つい一時間前は逆の風だったし、やっと安定してグライダー
好みの風になったと思ったら、今度は強すぎる。プツン、プツンと今度は二、
三本の草が浩二のほっペたを狙った。ザワザワと丘の草が波打っている。まず
いな、もうちょっとでケンが降りるというのに。ケンは20mぐらいまで降りて
きている。あとちょっとだ。急に風が強くなったのでケンは旋回をあきらめて
ターンに入っている。強引には降りられないと判断したのだろう。浩二の頭の
上をまっすぐ通過していく。普通ならばザーッという音とともに通過するのだ
が、ケンのグライダーはバタバタという音をたてている。わずか20m上空でも
ここより風が強いらしい。両腕もいっぱいに伸ばしてコントロールバーを押し
つけている。ゴーッという突風が浩二の身体を打った。浩二は自分のグライダ
ーが飛ばされないように抑えた。スキー用リフトのベンチが大きく振れだした。
赤白の吹き流しが狂ったように踊っている。グライダーの動きが不安定だ。左
- 11 -
右にガクガク揺れている。時々前に進まずまったく止まってしまう。グライダ
ーの落下速度と風の揚力がつり合ってしまったのだ。歯をくいしばっているケ
ンの顔が見えるようだ。つり合いが破れるとグライダーは急に前進する。しか
しそれはスムーズなものではない。波乗りしているように上下にピッチングし
ている。だがそれでもグライダーは着実に沈下している。がんばれ、あと5m
だ。ケンが身体を起こした。風の強いときは早めに身体を起こして、どんな条
件にも素早く対応するという定石通りだ。落ちついているな。そう思ったら少
し胸が軽くなった。ケンは懸垂するように両腕を開いている。そうだ、そうや
って風を身体全部で感じてコントロールするのだ。負けるな、もう少しだ。
ゴーッと再び強い風が浩二を打った。少しよろめいた。
「ケン!」
降下していたグライダーが一瞬2、3m上空に持ち上げられた。ケンの両腕
が万歳をするようにまっすぐ上に上がった。次の瞬間にはケンの姿はグライダ
ーの影になって見えなくなった。ノーズが真下を向いて巨大な扇のようになっ
て地面に突っこんだ。ドスーンという腹に響く音が、空中と地面を伝わって浩
二に届いた。音が聞こえるのと、浩二が走り出すのとどちらが早かったのかわ
からない。草が足にからんで転んだ。浩二には転んだという意識がなかった。
再び走り出したのも意識になかった。ただ、走り出した後で、自分のグライダ
ーが風にあおられてひっくり返るのだけがわかった。
「ねえ、なに考えているの。ねえってば」
「ん」
「嫌ね、人の話まじめに聞いてよ」
目の前で冷めかかったコーヒーがうすい湯気をたてている。その向こうで道
子が怒ったような顔をして浩二をにらんでいた。
「ごめん、ごめん。ちょっと考え事をしていたもんだから」
「まったく人の話をうわの空で聞いているんだから、頭にきちゃう」
「ごめんよ。ところでどんな話だっけ」
「忘れちゃったわよ」
「何だ、じゃたいして重要な話じゃないんだ」
「そりゃあ、そうだけど」
道子がコーヒーカップを唇に持っていく。小さく開いた唇に白いカップが触
れた。柔かい肌と肌が触れ合うようにコーヒーを飲んでいる。浩二はその唇が
好きだった。
「ところでなに考えていたの。ケンのこと?」
「そう。あいつのグライダーから持ってきたリボンを見ると、どうも思い出し
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ちまって」
「でも、それは浩二がどうしてもと言って持ってきたんじゃない」
「うん、そうなんだけど。何かこう、もうちょっとやんわりとぼくの気持ちの
中に、あのリボンが残ると思っていたんだけどな」
ケンがいつも使っていた風見用のピンクのリボンを、浩二はクチャクチャに
なったケンのグライダーから外してきた。道子には止められたけど、浩二はそ
れを無視した。形見のつもりだったのかもしれない。しかしその時の浩二には
そんな重いという意識はなかった。
「じゃあ、外したら」
「いや、いいんだ。あのリボンを見ているとケンのこと思い出すけど、妙に安
心するときもあるんだ」
形見というのはもっと重く心にのしかかってくるものだろうけど、反面ケン
の使っていたものということで安心することもある。強い人間の残した物を欲
しがった昔の人のような気持ちが浩二にもあるのかもしれない。ケンのように
もっとうまく空を飛べたら。浩二は安心感の方が次第に強くなっていくだろう
と思った。
「あら、あれヒロミじゃないの」
道子がドアの方を見た。山小屋風に作られたコーヒーショップの木造りのド
アを開けて入ってきたのは確かにヒロミだった。ほっそりとした腰を細めのG
パンに隠している。連れの男がその後からのっそりと入ってきた。
「まあ、また彼氏が変わったみたい。お盛んね」
ヒロミは確かまだ短大に行っているはずだった。去年あたりからこの山に出
入りしていて、ほぼ毎週のように来ている。飛んだり飛ばなかったり、飛ばな
い日の方が多いかもしれない。一緒に来る男たちも様々だった。ハングをやっ
ている奴もいたし、シティボーイ風のハングなんか絶対にやりそうもない男と
も一緒だったこともある。グライダーは持っているが車は持っていないような
ので、男たちは足がわりにされているのかもしれない。しかし、ヒロミならば
誰だって喜んで足がわりを務めるだろう。細身のボディと、化粧はちょっとき
つすぎるが整った顔立ちをしている。サーフギャルのような軽薄な言葉もない。
ハンググライダーをやっている女の子というのもまだまだ珍らしい。それに何
より、意外と簡単に寝てくれる。浩二は道子の横顔をチラリと盗み見た。この
ことはまだ道子は知らない。ヒロミが気がついて手を振った。連れの男は視線
を外さずに軽く頭を下げた。ヒロミより二つ三つ年上の感じがする。眼つきの
鋭い男だ。今度はレーサーでもひっかけたのかなと浩二は思った。
「ねえ、今度の彼氏ちょっとイカすじゃない。浅黒い顔って、私好きなんだな」
少し離れたところに座った二人を見ながら道子がささやいた。
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「それにあの頑丈そうな身体もだろう」
「バカ!」
道子がおおげさに手を振り上げた。木造りの窓から強い光が射している。空
気が動いた。チリがキラキラと反射してその光の中だけを飛びまわった。
ヒロミとは二度寝たことがある。道子が一緒に来なかったときだ。連れの男
とケンカしたらしく、ヒロミのグライダーを帰りがけに運んでやった。固いジ
ープのシートの上でヒロミは居眠りをしだした。ドアも何もないジープの中で
よく眠れるものだと浩二は感心したが、ふとそれを口実に誘ってみるかという
気になった。モーテルで一眠りしてそれから帰るという浩二の提案をヒロミは
あっさりとOKした。長いハンググライダーを二機も積んだジープは案の定モ
ーテルの車庫には入りきらず、入口に放り出して部屋に入った。国道からまる
見えの位置に置かれたジープは仲間が見ればすぐに浩二のものだとわかる。し
かし構うものか。そんなことを道子につげ口するような奴は一人もいない。皆
似たりよったりだ。ヒロミは着やせのする女だった。Tシャツやトレーナーの
上からは想像もつかなかった豊かな乳房があった。浩二は片側ずつ両手で抑え
て、伸び始めた不精ヒゲを押しつけた。陰毛は薄かったが体液はどの女よりも
多い。テクニックはまだ下手くそだったがそんなものは時間の問題だとすぐに
わかった。これじゃあ男がいろいろ変わってもしょうがないなと浩二は思った。
「何ヒロミばっかり見ているのよ」
道子の声に浩二はハッと我に返った。
「いや、何。しかしヒロミはいつ見てもいい女だね。いい女に眼を奪われるの
は男の本性だよ」
「浩二は誰にだって眼を奪われるでしょう」
「そりゃあ、そうだ」
ハハハと二人で笑い合ったが、道子の眼は一瞬チクリと浩二の腹の底を見抜
いたようだった。二度目はいつだったかあまりよく憶えていない。たくさんの
女と寝て、たくさんのよくわからない愛の言葉を吐いて、今日まできてしまっ
た。どの女も最初の夜はよく憶えている。しかしそれから後の交渉はほとんど
忘れてしまっている。それでいいのかな……。本当はもっともっと一回ごとの
セックスを大事にしなければいけないはずなんだと思った。でも、ベッドの中
で女の名前を間違わないだけ立派なものだとも思った。意外と自分でもわから
ないうちに大事にしているのかもしれない。
「俺ももう三十になるもんな」
「え、なに突然」
「急に自分の年を思い出しちまったんだ」
「どうしたの一体。あっ。わかった。ヒロミと自分の年を比べたんでしょう」
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「そうじゃないよ」
「じゃあ、どうしてなのよ」
どうしてなのか浩二にもわからない。ヒロミを契機に他の女のことを思い出
しているうちに、急に自分の年に気がついた、と言ったら正直なのかもしれな
い。煙草をとり出した。いつもならカチッとオイル臭い音とともに道子のジポ
ーが飛び出してくるのだが、それはなかった。道子はヒロミの方を見て知らん
顔を決めている。しようがないから浩二はズボンのポケットをゴソゴソかき回
してマッチを取り出した。マッチを見て浩二はハッとした。ホテルのマッチだ。
あわてて火を点けるとすぐにポケットにしまった。道子は気づいていないよう
だ。フーッと煙を吹き上げる。白く濁った煙が天井に昇っていった。天井にと
どく前に拡散して空気と一緒になってしまう。しかし、このマッチは一体誰と
行ったときのものだったんだろう。ことによったら道子と行ったときのものか
もしれない。自信はないが可能性は高い。そうしたら、あわててしまうことは
ないじゃないか。そう思うと急におかしさがこみ上げてきた。ああ、俺も年だ
な。もうそろそろモラトリアムも終りか。
「道子」
「何よ」
あい変らずそっぽを向いたままだ。
「俺が年のことを言ったのはね、もうモラトリアムもお終いかなって思ったか
らなんだ」
「……何なのそれ」
やっとこっちを向いた。浩二はうまくいったと思った。道子は好奇心の強い
女なので、自分の知らないこととなるとすぐに興味を示す。その興味がなくな
らないうちは他のことを忘れてしまう。
「モラトリアムってのは、直訳すると支払猶予期間ってことなんだ。もうち
ょっと詳しく言うと、非常のときに法律によって借金の支払いを一定期間猶予
することなんだけど、俺なんかその期間中だったなって気がしていたわけ」
「何だか良くわかんないけど、どういうこと」
だんだん興味を覚えたらしい。しきりに足を動かしている。
「つまりね。青春というのは長い人生から見ればモラトリアムなんだな。社会
という支払い機関に猶予をもらっている状態なんだ」
「わかるような気もするけど、こういうこと、つまり社会が刑だとすると今は
その執行猶予中ってわけ」
道子は目を輝やかせて乗ってきた。意外と道子はこういう観念的な話も好き
だ。
「刑はよかったな。まあそんなようなものかな。俺、実際にはとっくに働いて
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いるけど、会社人間っていう意識もあまりないし、社会人っていう意識もない。
そういう奴のことをモラトリアム人間って言うらしいよ」
「まあ、浩二はそうでしょうね。浩二は自分の好きなことしか気を向けないん
だから。そこへいくと私なんか立派なもので…」
「仕事もよくやってるし、ハングなんか単なるレジャーって言いたいんだろ。
それはよくわかってる。で、俺の話だ」
道子が浩二の煙草に手を伸ばした。一本つまみ出すと唇に持っていく。浩二
はすかさずマッチに手をやって、やめた。道子はひもつきのジポーをスラック
スの後ポケットから引っぱり出した。ライター全体の三分の一もある大きなフ
タがカチッと開かれる。とたんにオイルの臭いが浩二の鼻をついた。
「いつまでもモラトリアムでいるのは気が楽だけど、そろそろそんな年ともお
さらばなのかなと思ったんだ」
「それ、年と関係あるの」
「あるみたいだよ。みんな若いときはモラトリアムなんじゃないかな」
ライターに火が点く。風に吹かれても消えない強力な炎が道子の顔を赤く染
めた。
「浩二も大人になったのね。うれしいような悲しいような。ねえ、それ、ケン
が死んじゃったからそう思うんじゃないの」
「そうかもしれないね。結局ケンはモラトリアムのままで死んじまったんだな」
道子はほほ杖をつきながら煙草をくわえている。薄く開いた唇から白い歯が
見える。
「でも、モラトリアムやめるって大変ね。浩二、会社人間になるの」
煙草をくわえながらニヤリと笑う。
「そうは言ってやしないけど、もうちょっと人生について深く考えようかと…」
「ははは、浩二らしくないからやめなさいよ。浩二はハング馬鹿が一番似合っ
てるよ」
「……」
道子の煙草の煙と浩二のそれが一緒になって天井に昇っていく。浩二は天井
を見上げた。ほとんど風のない喫茶店の中で、煙はわずかに左右にゆれるだけ
で広がっていく。外で動いている風がグライダーを押し上げるだけの力を持っ
ているのに、ここにはそれがない。同じ空気なのに、ここの空気にはなんの力
もない。それがモラトリアムなのかなと浩二はふと思ってみた。
結局、俺も、ここの空気のようにいつまでも喫茶店の中にばかりいるわけに
はいかないのだろうか。いつかは外へ出なければならない…。それが自分にと
っていいことなのか悪いことなのかははっきりしなかったが、そのうちには選
択を迫られるように浩二は感じた。それはおそらく道子なのだろう。道子とは
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もう五年のつき合いになる。道子とは遊ぶことばかりに専念してきた。ジープ
で野山を駆け回ったり、スキーに行ったり、結局はハンググライダーまでも一
緒にやるはめになってしまった。お互いに結婚などということは考えないで、
ともかく楽しければいいじゃないかということでここまでやってきた。しかし、
それがここのところ浩二にとってはちょっと違ってきた。もちろん今までも結
婚のことを考えないわけではなかった。学生時代の友人や会社の同僚たちが次
々と結婚していくのを見て、馬鹿だな、と思う反面うらやましくも思っていた。
しかし俺はまだまだ、もうちょっともうちょっとと伸ばしているうちに、もう
三十になろうとしている。やはり自分の年齢を考え始めたのかもしれない。そ
れともケンのことが引き金になったのだろうか。ケンは好きなことをやって死
んでしまったのだから、それはそれでいいのだろうけど、何か借金を残して死
んでしまったような気もする。天井の煙はいつの間にか消えてしまっていた。
浩二は軽い頭痛を感じた。ガラにもなく考えこんでしまったらしい。
「どうしたの浩二、そんな顔して」
「ん」
「今日は何か変よ。いつもの浩二らしくない。考え込んでいるみたいで」
「じゃあ、何かい、俺はいつも何も考えないアホかい」
「ハハハ、そうは言ってないけど、近い」
「おい、こらちょっと待て。何ということを」
浩二も笑いながら右手を上げた。道子が両手を合わせて、拝むように浩二を
見る。
「何か、こう頭が重くなってきた」
「そうでしょう。浩二は考え込むようなタイプじゃないんだから、似合わない
よそんなの」
「そうかもしれんな」
「ねえ、そろそろ出ましょうか。そして飛ぼう。今度は私も飛ぶわ。飛んで頭
を空っぽにしよう。こうやって地面に足が着いてると頭が重くなってくるわ」
そうかもしれない。地表は重たいことばかりだ。立ってるだけで身体が重く
なってくる。飛ぶしかないか。飛べば頭が確かに空っぽになる。二人は立ち上
がってドアに向かった。ヒロミがゆっくりとこっちを見ているのが浩二の左目
の端に写った。
浩二はゆらゆらと空を泳いでいた。平泳ぎのように両手を前に出し、横にか
き分ける。足を縮めて一気に後を蹴る。そうすると、地上2mほどの空間を浩
二の身体がフワフワと移動していくのだった。同級の小学生が道を歩いている。
頭上スレスレの所を浩二は平泳ぎで「やあ」と声をかける。相手は当り前のよ
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うな顔をして返事をする。浩二はそれからまた泳いでいく。電信柱がある。電
信柱のちょうど真中ぐらいで浮いている。それ以上の高さになることはない。
黒く焼かれた電信柱の横で泳法がクロールに変わる。狭い路地を過ぎて小川に
出る。小川の橋の上で今度は立ち泳ぎをしてみようと、身体を起こしたとたん、
浩二は小川に向かってまっ逆さまに落下していく。そこまでくるといつも夢は
破られた。
風が吹いている。長い冬の生活を強いられていた草花や木々が、たまりにた
まったエネルギーを発散するかのように一斉にゆれている。丘をおおいつくす
植物たちが、それぞれの色で春をかみしめているようだ。木々は葉をいっぱい
に開いて太陽に向かっているし、名も知らぬ小さな花は、そのうすいピンクの
花びらを風におしげもなくさらしている。浩二は今すべてのものがまぶしいの
だと思った。空は青く輝き、雲が太陽を反射して浮かんでいる。道子はふくよ
かな笑顔を浩二に向けている。浩二は俺も同じように輝いた顔つきを、今して
いるのだろうなと思った。何も自分をしばりつけるものはなく、自分の目に見
える全てのものが自分の意のままになる気がした。空も地も道子も、そして風
さえも自分に好意を向けている。ああ、俺は自然なんだな、と浩二は思った。
人間として自然の中にいる。自分は人工的な人間としているのではなく、自然
の中の人間という自然なのだと思えた。草むらに寝そべった。トレーナーの背
中を通して芝か何かがちくりと刺さる。それが心地よかった。
「道子、ハンググライダーって自然だな」
道子も浩二の横に座る。
「そうよ、とても自然なスポーツよ」
「何で自然なんだと思う」
「自然の中でするスポーツだからじゃないの」
浩二と同じようにあお向けになりながら答えた。
「違うな。音がないからだよ。エンジンの音がない。自然のエネルギーをその
まま使っているからエンジンなんかいらないんだ。だから音がない。だから自
然なんだ」
浩二は長めの草を引き抜いて口にくわえた。草の先が風にゆれている。
「おや浩二さん、今日はバカに哲学的じゃない」
「そういう日もあるさ」
上空を三機のグライダーがゆっくりと回って弧を描いている。ここから見て
いると何の音もせず、のんびりと飛んでいるようだ。しかしフライヤーの耳元
では風がうなりを上げているだろう。それでもその音はエンジン音ではない。
自然のエネルギーの音だ。彼らは風に頬をたたかれながらも、その音を楽しん
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でいるだろう。眼下に広がる風景と、グライダーのわずかなきしみや、風圧の
中につり下げられて、一番楽しい時間の中にいる。女の腹の上で過ごす時間よ
りもいいものに違いない。少なくとも浩二はそうだ。道子やヒロミやその他大
勢の女たちの肉体の上では感じられないものがそこにはあった。
ハンググライダーは理論で飛ぶ。揚力と沈下力の関係式でグライダーは飛ん
でいるし破られれば落ちる。それだけのことだ。その冷静な二つの力の関係式
に浩二はとりつかれているのかもしれない。しかし女と浩二との間には理論な
んてものはない。あるのは感情とかけひきだけだ。
だが、それら二つとも浩二は好きだと思う。単なる有機質としての浩二と、
脳を持つ浩二。そのどちらも自分にとって必要なように。その二つの中で浩二
はバランスをとっているように思えた。道子と他の女たちとの間でバランスを
とるように。
「さあ、行くわよ」
道子がパッと飛び起きた。仁王立ちになって、腰に手をあてて浩二を見降し
ている。逆光になって顔がよく見えない。
「おお、行こうか」
浩二は額に手をかざす。道子が大胆に笑っている。飛ぶ気だな、と浩二は思
った。道子は飛ぶ気になると、いつもこういう顔になる。
道子が先にたって駐機場に向かった。道子の背越しに黄緑色をした丘が見え
る。しかしよくみるとその丘の色は、枯れた草の黄色と新しく成長を始めた草
とが混然となったものだ。点描法で描かれたように筆の先ほどの面積で交互に
置きかわっている。若い草の中でも成長の早いものは他の倍ぐらいの背たけに
なっている。それがチョコンチョコンと群から頭を出している。風に吹かれる
とそいつだけが大げさな身振りをする。長い茎に、陽も余計に反射されている。
黄緑色の丘の中で、それだけはキラキラと白く光って見えた。丘のふもとがラ
ンディングエリアになっている。その真中に赤白の吹き流しが立っている。竿
の先で勢いよくクネクネと身をよじっている。広いエリアの真中で、たったひ
とり何かに反抗するかのように赤と白の布切れは踊っていた。
浩二の機体はもう組み上がっているので、道子の機体の組み立てを手伝うこ
とにした。袋づめになったグライダーの片方を持ち上げる。袋は直径20cm、長
さ8mもある。それを太腿に挟んで抜いていく。ズルズルとたくし上げていく。
少し冷えた身体がまた汗ばんでくる。抜きとられたカバーが蛇の抜けがらのよ
うに浩二の脇の下にたまった。汚れ気味の赤色のカバーがだらしなく草むらに
はいずっていく。腕が痛い。もう少し余裕のあるカバーにしてやればよかった
と浩二はいつも思う。道子のグライダーを買ったときに、カバーは浩二のお古
で間に合わせた。それがいけなかった。道子は放り投げられたカバーをただ畳
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んでいくだけだったが文句も言えない。
折り畳まれたグライダーは単なる化学繊維の固まりでしかない。ベルクロス
トラップで四、五カ所をしばられている柱みたいなものだ。ウィンドウサーフ
ィンのセールも畳まれればこれと大差はないだろう。極端に言ってしまえば色
あざやかなビーチパラソルを畳んだのと変わりはない。ただ大きいだけだ。だ
が、このでくの坊は空を飛ぶことができる。
キングポストを立ててセールをサラサラと広げていく。道子のグライダーの
セールの色は、内側から青、赤、オレンジ、黄、黄緑となっている。これが左
右対称に色分けされていて、浩二はなかなか好ましい色合いだと思っている。
この色合いについては二人とも納得して買った。これが空中に浮かぶと、グラ
イダーが浮いているというより色が浮いているという感じになる。それがいい。
派手な色合いのグライダーほど見ていて楽しい。以前、真黒なセールのグライ
ダーを見たことがあるが、空を散歩するという楽しさが全然伝わってこなかっ
た。飢えたカラスが獲物を狙っているようだった。
組み上がったグライダーを担いで道子が先に立って歩いている。その後に浩
二が続く。死んだケンが先に歩いているときは膝から下は見えていたが、道子
の場合足首ぐらいしか見えない。三角形のグライダーだけがゆっくりと丘を登
っているようだ。道子のグライダーの左端にはハーネスがぶら下がっている。
右端にはヘルメットが下がっていて、歩くたびにクロスバーに当たった。カチ
ンカチンとアルミにぶつかる音がする。浩二はその音に合わせて登っていった。
汗がふき出してきた。普段はあまり汗をかかない浩二だったが、この時ばか
りは汗だくになる。俺は何でこんなことしているのだろうと浩二は思った。頭
を空っぽにしたいから飛ぶのかもしれない。確かに道子の言う通り地面に足を
つけているときは頭が重い。一度飛んで頭を空っぽにしてしまうと、その味が
忘れられず、また飛びたくなる。山に行っている奴も同じような感じを持って
いるのだろう。
女にもてたいからだろうと勘ぐる奴もいるが、それもまったく否定すること
はできない。現にハングをやっているからというだけで近づいて来る女はたく
さんいる。しかし、それだけだったらウィンドウサーフィンでも、ヨットでも
同じことだろう。だが俺はそんなものはやりたくないと浩二は思った。飛ぶこ
とと舟とはまったく違うのだ。人間の能力の中で、走るという延長線上に自動
車が出現してきた。同じように泳ぐという能力の延長線上に舟がある。サーフ
ィンもヨットも皆同じことだ。だが飛ぶということは、本来の人間の能力には
ないものだ。そこに浩二は魅かれているのかもしれない。
確かにハングのおかげで女たちはよく遊んでくれた。呑み屋に行ってそれと
なくハングの話をすると、店の女の子はこっそりと看板まで待っていてくれと
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言う。ハングの話をもっと聞きたいというのが口実だったが、本心は知れてい
る。どうしてこうも女というのは珍らしいものが好きなんだろう。いやいや、
そんなふうに悪く言っては遊んでくれた女の子に申し訳ない。夢を追いかけて
いるのかもしれない。自分の知らない世界をのぞいてみたいという純粋な気持
ちからだ。だが、それにしてもどうしてどの女もすぐに寝てしまうのだ。それ
が自分の知らない世界ならいざ知らず、とっくに何人もの男たちと知り尽くし
ている世界なのに。スナックでアルバイトをしていたカズミは人妻だった。二
人の子供がいると言っていたが、とてもそんなふうには見えなかった。腰の線
もくずれていなかったし、腹にしわも寄っていなかった。若いときに子供を産
んだのだろう。二十五、六という感じだった。カズミにはいろいろな場所の利
用法を教わった。車の中はもちろん、ヨットの中、寝台車、風呂場、果てはデ
パートのトイレの中。良く考えつくものだと感心したものだった。今でも時た
ま電話がくると「ねえ、今度はどこにしようか」だ。いっそのことハングで飛
びながらなんてのはどうだい。
ハルコとノリエとは結局三人で寝てしまった。同じ会社の子たちだ。三人で
ドライブをしているうち、ハルコが「私モーテルって行ったことない」なんて
言い出すものだから、ついその気になって入ってみたけど、案の定だだっ広い
ダブルベッドに三人でもぐり込むことになってしまった。刺激的といえばこれ
が一番刺激的だったかな。
ユキコとはアナルの攻め合い。バックでユキコの腰を抱いていると、アナル
が大きく開くものだから指を入れたら入ってしまった。それからはもう会うた
びにお互いにアナルの攻め合い。ホモって本当にいるんだなと実感させてくれ
た女だった。
ミチヨとは小便のかけ合い。頭から足まで、あげくの果ては膣の中までいっ
ぱいにして。結局、浩二はいい女に出会わなかったのかなと思った。もちろん
遊びとしていろんな女たちとつき合ってきたのだからそれもしょうがなかろ
う。そんななかで、道子だけはノーマルな女だった。そこにほれたのかもしれ
ない。
「何をぶつぶつ言ってるのよ」
道子が丘の上で叫んでいる。いつの間にか道子は登り切ったらしい。
「何でもない、すぐ行くよ」
浩二は空気を切り裂いていた。スピードを上げた。翼の先端でぶつかった空
気が、急激に速度を早めて後へ流れていく。翼の上の方に当たる空気は粗く、
下で当たる空気は密度を高めている。そうやって空気の密度の違いでグライダ
ーは上昇する。航空力学の初歩の理論だ。浩二はふとそれを思いだした。だが
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不思議な気持ちになった。当り前と言えば当り前の話だが、現実に自分がその
中にいるとそんなふうには思えなかった。見えない空気に自分が突っ込んでい
くのだと思った。地中に自分の身体分だけのスペースを開けて潜っていくよう
に、空気に穴を開けてその中に潜り込んでいくように思えた。自分の体積の分
だけ空気を押し広げていく。その方がずっと安定しているように思えた。
自分はペニスなのかもしれない。膣を押し広げて潜り込んでいくあの感覚に
似ている。抵抗する膣が最後にはスムーズに自分を受け入れてくれる。空気も
同じだ。巨大なペニスと化した翼が空気の中に入っていく。だから浩二は飛び
たいんだなと思った。
煙を噴く山が見える。灰色の山から灰色の煙をかすかに上げている。上の方
は空気と混然となって境目がはっきりしない。だが確かに煙の粒子たちは空気
の中に入っているのだろう。煙の根元の方ははっきりと空気と境を保っている。
ゆらゆら揺れながらも空気の中に自分の体積を確実に持っている。
山は空気の中につっ立っている。家も木々も見える全てが空気の中に確実に
立っている。その中で浩二と道子だけは空気の中に浮いている。不思議と言え
ば不思議なことだが、立っていようが浮いていようが空気を媒体としているこ
とに変りはない。不思議でも何でもないと浩二は思った。
前方に道子のグライダーが見える。ターンをくり返している。コントロール
バーの左端に身体を持っていったかと思うと、グライダーは急激に左下に落ち
ていく。それからすぐに身体を右に持っていく。落下をやめたグライダーがニ
ュートラル・ポジションに戻っていく。そして今度は右に。そうやってターン
をしながら上昇気流を見つけているようだ。うまくなったものだ。浩二に初め
て連れてこられた当時は、飛ぶどころかまともにグライダーさえ持てなかった。
テイクオフには何度も失敗するし、腕はすりむく顔はぶつける、いつやめると
言いだすか待っていたものだった。あるときなどは着地に失敗して顔の右半分
をお岩さんのようにふくらませてしまったことさえある。それでもやめなかっ
たのだから、浩二の影響というより、根が好きだったんだなと思った。ふと浩
二は、自分がペニスとして飛ぶのだったら道子は何として飛ぶのだろうと考え
た。膣が膣の中へ飛ぶというのはどうも。一度聞いてみよう。
ガツンと身体がハーネスにくい込んだ。上昇気流だ。コントロールバーを力
まかせに引き寄せた。ランディングエリアの吹き流しがグングン遠のいていく。
セールがバタバタと鳴っている。風が耳の中まで渦を巻いて入ってくる。鼻が
急に冷たくなっていく。来た。いい風だ。
「ィヤッホー」
道子に向かって叫ぶが届かない。だが道子も風をつかまえたようで、浩二に
顔を向けて笑っている。小刻みにターンをしている。上がっている。やはり上
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昇気流をつかまえたのだ。
「ノ・ボ・ル・ヨー」
かすかに風に乗って道子の声が浩二に届いた。
「オー・ケー」
言葉を区切って浩二も答えた。二機のグライダーは大きく弧を描き始め、五
月の青空に舞った。
ケンのリボンが揺れている。そのまわりだけ時間がゆっくりと過ぎているよ
うだ。耳もとを風がうなりを上げて通り過ぎていく。セールも気流の中でバタ
バタと打たれている。しかしケンのリボンのまわりだけは風がゆっくりと流れ
ているようだ。ワイヤーにしばりつけられたピンクのリボンは上下左右に弧を
描くようにまわっている。生まれてからずうっとそうだったように泳いでいる。
浩二はそのリボンに自分をだぶらせた。浩二自身もリボンのように何かにしが
みついて、ゆっくりと流れてきたのかもしれない。学校を出て、会社に入って、
たくさんの女たちと寝て、妹が結婚して子ができて、オイルショックがあって、
コンピューターが出てきて、ジョン・レノンが死んだ。いつも自分のまわりは
風のように荒く過ぎていった。しかし浩二はそれらからとり残されたように生
きてきたなと思った。自分のまわりのできごとにあまり深く入り込んだ憶えが
なかった。いつも一歩距離をおいていたように思えた。かと言ってまったく無
関心でいたわけでもなく、ただリボンのようにヒラヒラと生きてきてしまった
ような気がした。熱するということがなかったのだ。ハンググライダーが気流
の中でもて遊ばれていても、セールの下のリボンはそれにひっついてヒラヒラ
としている。グライダーが上がれば上がる。下がれば下がる。いつも一定の距
離をおいてヒラヒラしているだけだ。そう気がついて浩二は苦笑した。ケンの
残したリボンに教えられたな。風が浩二の頬をなぐって流れていった。
高度が落ちた。山肌をなめている自分のグライダーの影が六畳間ぐらいにな
った。上昇気流から外れたようだ。コントロールバーを引いてスピードを上げ
た。蛇のようにゆっくりと山肌をなめていた影が、驚いて逃げるとかげのよう
に走り始めた。風が高音になる。頭を振った。耳鳴りのように風が音程を変え
る。リズムをつけて頭を振る。耳もとで鳴る風にリズムと音程がつく。まるで
コンサートだなと浩二は思った。たった一人で聴く大空のコンサート。自分で
リズムをつくり音程をつくり、演奏し聴く。眼下を走る影はそうすると音符か。
五線紙上の音符はだんだんと小さくなっていった。
海岸線を浩二と道子を乗せたジープが走っている。小石を蹴る音が津波のよ
うに聞こえてくる。海に注ぐ小さな川を一瞬にして渡った。水しぶきがジープ
- 23 -
の後から追いかけてくる。フロントウインドーを倒しているので、風がまとも
に当たってくる。
助手席で道子が何やら騒いでいるのだが、風とジープのエンジン音と小石の
立てる悲鳴でよく聞きとれない。浩二はアクセルを離した。ジープが勢いよく
小石にのめりこんで止まった。
「何」
ジープのダッダッダというエンジン音だけが聞こえる。シフトレバーがその
音に合わせて小刻みに左右にふれている。
「あっちの砂丘に行ってみようよ」
「OK」
浩二はシフトをローに入れた。小石がフェンダーにけたたましくぶち当たる。
石にタイヤを取られて車体が斜めになったまま走り出した。
秋だ。長い海岸線には釣りをする人たちがポツンポツンといるだけだ。ジー
プはその後をうなりを上げて走り抜けた。古着屋で見つけた米軍のジャケット
を通して風が冷たくつき当たる。
砂丘の砂はかなり粒子が細かい。タイヤが見る見る食われていく。そして止
まった。
「だめだ、こりゃあ。スタックしちまうぞ」
「四駆(よんく)のローよ。ハイじゃ無理でしょう」
「了解」
アクセルをふかす。わずかに前進する。それからすぐにバックだ。そしてま
た前進。振り子のようにジープを前後にゆすってやる。砂が噴水のように四本
のタイヤからふき上げる。と、見る間に急に前進しだした。
「出たぞ」
「レッツ・ゴー」
砂を巻き上げて、風を乱してジープは走った。
渚に満潮の波が広がっている。浩二はその中に突っ込んだ。波しぶきが頭か
ら降ってくる。何も前が見えない。波の抵抗でスピードが落ちていく。ジープ
をターンして再び砂浜に出た。
「バカ、何するのよ、冷たいじゃないの」
髪からしずくを垂らして道子が口をとんがらかしている。
「でも気持ちいいだろ」
「風邪ひいたらどうするのよ」
「あとであっためてやるよ」
「バカ」
ボディのあらゆるところから水を垂らしてジープは砂丘に向かった。
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前方に小高い丘が見える。浩二はふと飛んでみようかと思った。
「ジャンプするぞ、つかまってろよ」
「OK、飛んでみて」
一瞬、砂を蹴る音が止まった。エンジンの音も風の音も無くなってしまった
ようだ。目の前の砂丘は見えない。秋の深い空が見えた。それからすぐに水平
線が見えた。目の前に広がるはずの水平線が、やけにかたまって、小さな沼の
はずれのように見えた。
ドスンという音とともに道子が前のめりになるのがわかった。浩二も危うく
ハンドルに胸をぶつけそうになった。しばらくの間、二人は何もしゃべらなか
った。
「飛んだわね」
道子がポツンと言う。
「ああ、飛んだ」
浩二はハンドルに上体をおおいかぶせて答えた。エンジンの鼓動がハンドル
に伝わって浩二の身体を小刻みに動かした。
「俺、本当に空を飛んでみたい」
真下に愛用のジープが見える。愛用とは言ってもほとんど洗ってやったため
しがない。オリーブ・ドラフに塗られているので汚れがまったく目立たないの
だ。それでもこれまでは年に一度位は洗ってやった。シートを取り外して車外
といわず車内といわず、思う存分水をかけて洗ってやったものだ。それがここ
のところまったく洗っていない。浩二が本当に空を飛ぶようになってからは、
ジープは汚れ放題汚れ続けた。林の中に頭を突っ込んでいるジープは、うっか
りすると樹木と見違えてしまう。自分のジープだからこうやって空から見てい
ても判るのだが、他のフライヤーなら判るはずがない。たまには洗ってやらん
とな、と浩二は思った。重いグライダーを二機もかついで、片道300kmもある
こんな山の中まで毎週毎週やってくる。ただガソリンを食わせるだけでは済ま
ない気がした。思えば道子との出会いもジープであった。道子をジープに乗せ
る前もいろいろな女の子たちを乗せていた。だが、フルオープンで走るジープ
に誰も似合う者はいなかった。ある者は変に気取ってみたり、怖がったり、寒
がったり、自然とジープの轟音に釣り合っていると浩二が感じられる女の子は
誰一人いなかったのだ。最後に道子を乗せてみた。道子はジープの持っている
乗用車とは違った条件を、すべて自然に受け入れた。首都高速を走るときでも、
腰まで水に浸かりながら河を横断するときでも、何のてらいもなく、気取りも
なく遊びとして素直に乗っていた。それ以後、浩二がジープで遊び回るときに
はかならず道子の姿があった。米軍の水兵帽とジャケットを着て。
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身体が上下にピッチングを始めた。ノーズもケンのリボンも揺れている。乱
気流だ。ジープに見とれて林に近づきすぎた。浩二はあわててコントロールバ
ーを握り直した。下界の林も丘もスキー場のリフトも揺れて見える。上下に揺
れる風にワンテンポ遅れるようにグライダーは揺れた。浩二はコントロールバ
ーを強く引いた。耳もとを流れる風が強くなる。グライダーは風を追いかける
ようにスピードを上げた。グライダーの右端が持ち上げられる。上昇気流のは
じっこが当たっている。浩二は身体を右に持って行った。機体はわずかにピッ
チングしながらターンを始めている。地面が斜めに傾いて見える。樹木も草も
ジープも傾いて流れて行った。風も浩二の身体を斜めに通り過ぎて行く。風の
音がピユーと高くなった。ピッチングが無い。乱気流を抜けたのだ。浩二は機
体をニュートラル・ポジションに戻した。
道子のグライダーが見えない。今のターンでだいぶ高度を落としてしまった
ようだ。浩二は再びリッジに戻ると上昇気流に乗った。道子のグライダーが前
方の上空に見える。ノーズの先で見え隠れしている。浩二より30mぐらい上空
にいるようだ。浩二は上昇気流に乗って道子を追いかけた。その光景が何かに
似ていると思った。そうだ。海底から海面を泳いでいる道子を追いかけている
のと同じだ。
スキンダイビングは道子に教えてもらった。海底まで潜って、青い魚を追い
かけたり、水中で踊ってみたり、海の中の道子は陸上や空中にいるときよりも
生き生きと見えた。呼吸法を浩二に教えているときの道子は文字通り水を得た
魚のようだった。浩二はそれに一種のいらだちを感じていた。常に道子より優
位に立っているという先入感がそうさせたのかもしれない。口では男女平等と
は言っていても、内心では女を見下していたのだろうか。浩二はそのとき、そ
のことをあまり深く追求しないことにした。ただ、それ以後は道子の得意なこ
とはあまりやらないようにし、浩二の分野へと移っていったのである。それが
ジープであったり、ハンググライダーであったりしたのだ。
道子を追いかけながら、この光景は海と同じだなと思った。そう言えば空か
ら大地を見ていると、時々錯覚に陥ることがある。海面で水中メガネを通して
海底を見ていると、陸地と同じように、丘があり、平地があり、海草は林のよ
うに見える。陸地も海も同じ地球の一部なのだから、あたり前だろうが、自分
が今、本当は飛んでいるところなのか、海面に浮いているところなのか、ふと
わからなくなるときがある。そんな時、浩二は無性に不安になった。自分は本
来は陸地を歩いているべきなのに、空にいたり海にいたりする。何か間違いを
犯しているのではないだろうかと思った。魚は水に棲み、鳥は空に棲む。人間
だけが天地水、果ては宇宙までも自分の勢力の中に入れた。浩二は錯覚に陥る
たびに人間の間違いを自分一人で背負ってしまったような気になった。
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道子のグライダーと並んだ。海で二人で泳いでいるときは、抱き合ったり足
をつかまえたりできるが、ここではそうはいかない。二機が仲良く同じ風に立
ち向かうだけだ。それもあまり近づくことができない。空中衝突なんて考えた
だけでもいい気がしない。しかしふと、浩二は心中するならグライダーもいい
ものだろうなと思った。人類始まって以来の心中方法である。高度50mもあれ
ば確実に死ねる。問題は心中する理由がないだけだ。
道子のグライダーが横すべりしながらターンに入っている。もっと高く持ち
上げられる上昇気流を探しているのだ。セールの先端がわずかに揺れている。
気流が少し変わってきたようだ。浩二はそれを見ていて、ずいぶん不安定なも
のだなと思った。鳥のようになめらかに飛ぶにはグライダーは大き過ぎる。道
子がコントロールバーの中に吊り下げられて前後左右へとせわしく身体を動か
している。重心をわずかに動かすだけで機体の動きが変わってくる。そうやっ
てしかグライダーは飛べないのだ。浩二は海面から水中メガネを通して見た海
底を思い出した。波間に揺られながら海底を見ているときは、一番安定した状
態だ。だが今は違う。海底も陸地も同じように丘があり林があるが、今は最も
不安定な状態で見ている。結局、海にあき足らなくなったのは、道子の得意な
分野だったということもあったけど、その辺の違いもあったなと思った。いつ
も不安定なものを求めてきたように思えた。ジープで砂丘を走り回るのも、海
底まで潜ってみるのも、何かしら不安定な要素がともなう。その不安定さの究
極がハンググライダーだったのかと浩二は思った。魚のように海を泳いだり、
走る機能の延長線上にジープがあるのは、いくらその中に不安定な要素があっ
ても、人間の本来持っている生の能力の化身だ。だが鳥のように空を飛ぶとい
うことは、そうではない。
ゴルフ場が見えてきた。どのコースにも人影が見える。連休を利用しての遊
びなんだろう、いつもより人が多い。白いバンカーの中からキラリとクラブが
反射する。グリーンの中ほどには赤い旗も見える。小さな細長い林で区切られ
て、18のコースは見事に組み合わされている。その中でゴルファーたちは安定
した仕事と、安定した家庭、そして安定したレジャーに興じているのだ。何が
面白いのだろうと浩二は思った。キャディをあごで使って、じっと止まってい
るボールを打つ。風が吹けばボールの方向だけが気になり、風を楽しむなんて
ことはない。ただひとつの穴にボールを入れるためだけに、多くの時間と金を
かける。整備されたフェアウェイを歩き、仲間たちと談笑する。その中には何
も不安定なものはなかった。だが、そういう人たちが実際に社会を動かしてい
るのだ。中小企業のオヤジであったり、一流会社の重役であったり、あるいは
町工場の工員であっても、そういう人たちが社会の主人公なのだ。たまの休み
に自然の中の空気を吸いたいと思ってやってくるのだろう。彼らは安全でなけ
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ればならないのだ。安全に遊んで次の日は職場に家庭に戻らなければならない
のだ。不安定な要素などあってはならないのだ。そこが自分とは決定的に違う
と浩二は思った。浩二も一応働いてはいるけど、夢中になって仕事をやったと
いう記憶はない。遊ぶ金が無くならないように会社に行っているようなものだ。
仕事も今の会社でなければならない必然性はない。ただ同じ会社にいた方が給
料が上がりやすいから、同じ所にいるだけなのだ。家庭なんかもちろん無い。
自分でかせいだ金は自分で勝手に使えばいい。不安定なものが好きだなんてこ
とは、要は恵まれているから言えることなんだなと浩二は思った。
だが、これから先はそうはいかないだろう。道子と結婚することになれば、
今の狭いアパートで暮すという訳にもいかない。子供ができたらなおさらだ。
自分の金は自分で勝手にするなんてことは考えられない。そうすると俺もあの
ゴルファーたちと同じように、安全で整備された遊び場でしか遊べないという
ことになっていくのだろうか。仮に道子と結婚するとして、その後ハンググラ
イダーを道子自身がやる気があるのか無いのか、聞いてみなければわからない。
もし道子が自分はやらないと言い出したら、俺はどうするだろう。やるかもし
れないし、やらないかもしれない。はっきり続けるとは言い切れない。所詮は
そんな程度の〝不安定さへの欲求〟なのかもしれない。浩二はそう思ったとき、
何かひとつ、自分の時代が去っていくような気がした。
しかし、それも仕方のないことなのかもしれない。これまでは好きなことや
りたいことをやってきた。やれたというだけで幸せだったように思える。その
弁償としてこれから他のものにしばりつけられるのだったら、それも可と考え
よう。案外その中にも面白いことはあるのかもしれない。だからみんな同じよ
うに結婚して子供を産んでいくのだろう。何の面白みもなかったら、人類が今
までまったく同じくり返しを続けてくるはずがない。ただ自分が知らない世界
であるというだけなのだ。飛ぶことだって同じだ。人はいろいろとハングにつ
いて質問してくるけど、知らない世界だから聞いてくるのだ。知ってしまえば
どうということはない。至極あたり前の世界なのだ。結婚という自分の知らな
い世界をのぞいてみるのもいいことじゃあないか。浩二は何かふとふっ切れた
ような気がした。
耳もとの風が止まった。今まで何も聞こえないぐらいうなりを上げていた風
が、嘘のようにパタッと止まった。一瞬、浩二はキーンという耳鳴りを感じた。
クラッとめまいがした。まずい、追い風に乗ってしまった。グライダーの進行
速度と風の速度がつり合ってしまったのだ。ぼんやりと考えていたら、自分の
置かれている状況を忘れてしまった。こんなことは今まで無かったことだ。浩
二はあわてた。早く追い風から抜け出ないと失速してしまう。あらん限りの力
を出してコントロールバーを引いた。手応えがない。まるで陸の上のボートの
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オールを操作するように、何の抵抗もなくコントロールバーは浩二の腹に引き
寄せられた。まだ追い風のスピードの方が勝っているのだ。浩二は思いきり上
体を前に突き出した。両手をいっぱいに伸ばしてコントロールバーを腰まで持
っていった。唇をかみしめた。奥歯がガチッと鳴った。腕の筋肉が固くなって
いくのがわかった。
耳もとで風がブウブウと鳴り始めた。それから次の瞬間にはピユーと鳴った。
グライダーは浩二が今まで経験したことがないようなスピードで滑り出した。
涙が出た。目尻にたまった涙が真横に飛び出して行った。膝がふるえた。ハー
ネスの中で浩二は小刻みにふるえた。ターンをしなければ。ターンをして風と
正対しなければ、失速する。浩二は少しずつ身体を左に持って行った。セール
がガツガツとゆれている。もう少しだ。もう少し左へ。ノーズがわずかに向き
を変えた。それから急激に左旋回に入ろうとした。浩二はパッと重心を右に変
えた。
風が規則正しく鳴っている。ゴーゴーと安定したリズムで浩二の顔をなでて
いる。浩二は自分でも信じられないくらい心臓が高鳴っているのに気づいた。
それから奥歯もガチガチと鳴り続けている。歯をかみしめて抑えようとしたが、
思う通りにはならない。フーッと息を吐いた。何度も続けて吐いた。そのたび
に筋肉の固まりが少しずつ溶け出ていくように思えた。浩二は頭を振った。今
日はこれでヒャッとしたのが二度目だ。だいぶ神経も参ってきたようだ。今日
はこの辺で降りようと思った。道子のグライダーが前方100mぐらいに見える。
浩二よりも20mほど下だ。二人ともだいぶ長いこと飛んでいる。もう一時間近
いだろう。浩二は道子のグライダーをめざした。
目の前に一羽のカラスが近づいてくる。いつものせわし気なはばたきをして
いる。カラスというやつはどうしてああも下品な飛び方をするのだろう。もう
少しゆったりとした飛び方をしてもよさそうなものだ。本物の鳥なんだから。
驚いたようにガアガアとわめき散らしながら近づいてくる。浩二は苦笑した。
自分は危うく失速しそうになったというのに、下品であろうが何であろうが鳥
は鳥だなと思った。しかし、それにしてもカラスが珍らしがり屋だというのは
本当のことのようだ。グライダーで飛んでいると、本物の鳥が興味深げに近づ
いてくることはよくあるけど、カラスが一番しつこく追いかけてくる。
「おい、俺はもう降りるんだ。あまりしつこくつきまとわんでくれ」
濁った目をしてカラスが浩二を見ている。その目を見て浩二はハッとした。
誰かの目に似ている。そうだ、ケンの目だ。落ちて死んだケンが同じ目をして
いた。赤く血を滲ませてケンは目を開けていた。
「あっちに行け」
言いようのない悪感が背筋を走った。浩二はグライダーをターンさせた。だ
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がカラスはノーズの先から消えない。そのうち羽をいっそうばたつかせて、リ
ボンを口ばしで突つき始めた。
「こら、何をするんだ、やめろ」
浩二はコントロールバーを強く引いて、逆方向に旋回させようとした。風が
耳もとでうなる。カラスがグライダーの視界から消えた。地平が傾むく。ゴル
フ場も遠くの山脈も斜めに見えた。そしてニュートラル・ポジションに持って
行こうとしたとき、目の前に道子のグライダーがあった。赤・黄・グリーンと
鮮やかに色分けされたセールに、自分のノーズが突き刺さって行くのが見えた。
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