吉田 幸雄:寄生虫研究に明け暮れた人生 - 京都府立医科大学

医学フォーラム
「私の歩んできた道」
寄生虫研究に明け暮れた人生
京都府立医科大学名誉教授 吉 田 幸 雄
《プロフィール》
年
年
年
年
月
月
月
月
日
日
日
日
京都市で出生
京都府立医科大学卒業
京都府立医科大学研修員(医動物学教室勤務)
第
回医師国家試験合格,医師免許証交付(医籍
第
号)
年 月 日 京都府立医科大学助手(医動物学教室勤務)
年 月 日 医学博士
年 月 日 京都府立医科大学講師(医動物学教室勤務)
年 月 日 京都府立医科大学助教授(医動物学教室勤務)
年 月 日 米国
大学に留学( 年間)
年 月 日 京都府立医科大学教授(医動物学教室勤務)
年 月 日 京都府立医科大学学生部長兼務(
年 月 日
まで)
年 月 日 京都府立医科大学図書館長兼務( 期 年間)
年 月 日 京都府立医科大学定年退職
年 月 日 京都府立医科大学名誉教授
年 月 日 京都府衛生公害研究所長就任
年 月 京都府立医科大学学友会会長,青蓮会理事長就任
年 月 日 京都府保健環境研究所(旧称京都府衛生公害研究
所)退職
年 月 京都府立医科大学学友会会長,青蓮会理事長退任
学会活動・役員並びに公職
日本寄生虫学会会長(
∼
)
日本熱帯医学会会長(
∼
)
日本寄生虫学会名誉会員(
∼)
日本臨床寄生虫学会名誉会員(
∼)
文部省学術審議会委員(
∼
,
∼
,
∼
)
文部省大学設置審議会委員(
∼
)
厚生省エイズ調査検討委員会,エイズ対策専門家会議委員
(
∼
)
非常勤講師
(京都府立西京大学 年,関西医科大学
年,広島大学 年,金
沢大学 年,大阪市立大学 年,滋賀医科大学 年,岡山大学
年,三重大学
年,愛媛大学 年,熊本大学 年,福井医科大学
年,山形大学 年,高知医科大学 年,新潟大学 年,秋田大学
年,宮崎医科大学
年,東京医科大学 年,東京大学 年)
受賞
年 第 回 小泉賞(鉤虫の感染経路と発育に関する研究)
年 第
回 桂田賞(ニューモシスチス・カリニの研究)
年 叙勲,勲三等瑞宝章
医学フォーラム
この度,
“私の歩んできた道”というテーマで
回顧談を書くよう編集委員会から依頼があっ
た.今年(
)は丁度,私の母教室である医
動物学教室の開講 周年の節目に当たり,
月 日に記念の会が開催される.時代は既に
分子生物学の時代であり,私の研究回顧談が若
い方々のお役に立つことは少ないと思うが,そ
の時代の最先端を目指して情熱を傾けたよき時
代を思い出してみたい.
略歴と主な出来事
私は大正 年の生まれで,昭和 年に同志
社中学を卒業し,同年,本学予科に入学した.
当時,医学部は徴兵猶予の恩典があったため受
験者が殺到し競争率は十数倍という難関であっ
た.既に同志社から数名の先輩が入学してお
り,頑張れと白線帽にマントを翻して応援に駆
けつけてくれた.戦争が終わった翌昭和 年
に同志社から本学に入学した学生,女子医専生
を含め十数名が“暁鐘会”という親睦の会を結
成した.この会はその後毎年入学してくる学生
を加え 年を経過した現在も尚続いている.
学生時代のもう一つの思い出は同級生数名と語
らって昭和 年,本学にヨット部を創設したこ
とである.これも大いに発展し,今年創部 周
年を迎え 月 日に盛大な祝賀会を催した.
昭和 年に本科を卒業した私はインターン
と国家試験を済ませ,開講間もない医動物学教
室に入れて頂くことになった.この理由につい
て述べると,当時,日本中が寄生虫に汚染され
ていたこともあるが,衛生学者である私の父
が,将来何をやるにしても最初に基礎医学で研
究心を身につけておくことが大切だ,最近,小
林晴治郎という偉い先生が府立医大に招聘され
たので一度考えてみてはどうかとアドバイスし
てくれた.私もなるほどと思い,とにかく数年
ここで研究してみようと考え入局させて頂い
た.ところが研究を始めてみると面白くて,の
めり込んでしまい,とうとう一生をこの道で過
ごすことになった.
研究テーマの詳細については次の項目で述べ
るとして,略歴について続けると,昭和 年助
手に採用され, 年に講師, 年に助教授に昇
進し, 年 月,
の
を得てニューオルリーンズの
大学に
留学した.ここには私の研究(鉤虫)に関係の
深い
教授や
名誉教授という高名な
学者がおられたからである. 年間,極めて丁
重な待遇を受け,帰国後も長きにわたって色々
な便宜を図ってくれた.この奨学金の額は
(
円時代)で,往復の旅費はもと
より毎月
の生活費が送金され,その他,研
究費,書籍代などが支給され,最後の ヶ月は
希望する米国内の諸施設を歴訪させてくれた.
私はテキサス大学を皮切りに
,
,ロッ
クフェラー研究所,コロンビア大学,シカゴ大
学,
その他の研究機関に同学の士を訪ね
た.
帰国後,研究のアイデイアは山ほどあるのだ
が,当時,府の財政は逼迫し, 教室の年間研
究費は 万円前後で,とても実施不可能であっ
た.そこで昭和 年太平洋学術会議で再会し
た
教授に相談したところ,当時日本の理
学・医学の基礎的研究に対し資金援助をしてい
た米軍研究開発局を紹介された.複雑な手続き
の後
交付されることが決まった.ところ
がこれが大事件となった.本学百年史にも記載
がないので少し触れておくと,昭和 年 月
日に朝日新聞がスクープを行い,日本の 大
学・研究機関の学者が米軍から資金援助を受け
て研究している,
“ねらいは生物兵器?”
,
“アジ
ア作戦に利用?”などの見出しが踊っている.
紙面には東大,京大を始め全国の著明な研究者
の名前が並んでいる.本学では吉村寿人学長と
私が受けていた.蜷川革新府政の大学において
あるまじき,即刻返還との,申請時とは打って
変わったお達しで,私が学長の親書を持って座
間の米軍基地へ契約破棄交渉に行く事になっ
た.高額な違約金を要求されるなら契約を続け
るしかない,との内意も受けていたが,面会し
た担当の
大佐は快く返還に応じてくれた.
当時は 年安保後数年,学園紛争を間近に控え
た騒然たる時世であった.
学園紛争については本学百年史に詳しいので
医学フォーラム
省略するが,当時,助教授であった水越,楠,
岸田,上田の諸氏と共に私も教授会と学生との
間の連絡や交渉に右往左往したのを思い出す.
紛争の余韻さめやらぬ昭和 年 月,私は長花
操教授の後任として教授会の 員となった.そ
して翌年 月には新しく発足した中村恒男学長
の下で新米の私が学生部長に選出された.紛争
の収拾にまだ困難が続いており,教授会も紛糾
し,私も学生に屡々呼び出された.
その後,本学における役職としては昭和 年
図書館長を拝命し, 期 年間,館員と楽しい時
を過ごした.この旧図書館は昭和 年(
)
の建立で歴史的建造物としての威厳はあるもの
の学問の中枢としては他学に後れを取っていた
が,時あたかも誕生した林田府政の下で大学整
備構想が発足し,私も各大学の図書館を見学し
て建物や書誌管理方法の構想を練った.丁度時
や好し昭和 年は本学創立
周年にあたり,
学友会は記念募金約
万円を大学に教育用
として寄付してくれた.私は森本学生部長と交
渉し,学生の視聴覚機器整備と図書管理のコン
ピュータ化に使うこととし,早速,丸善を呼ん
で電算機を導入した.その後 年を経て現在
の立派な図書館が完成したのである.
平成元年(
) 月,私は無事定年を迎え,
引き続いて京都府衛生公害研究所(現保健環境
研究所)所長を拝命し 年間奉職した.本研究
所については本誌通刊
号に井端泰彦現所長
が詳しく紹介しておられるので業務については
省略するが,私は所員にやる気を起こさせるた
めに日常業務に加え研究することを薦め,成果
が上がれば学位請求の紹介の労を執ろうと鼓舞
し,その結果,工学博士,医学博士各 名が誕
生した.
さて平成 年になって,はからずも谷道之学
友会長の強いお薦めにより会長職を引き受け,
母校創立
周年記念事業に取り組むことに
なった.これはなかなかの難事業で,話せば長
い物語となるが,とにかく母校愛に燃える役
員,会員ならびに大学当局の絶大なご支援によ
り平成 年 月 日には盛大な記念式典が開か
れ,募金も目標の 億円に近づいて平成 年に
は新しい青蓮会館も完成したので私の仕事は終
わり平成 年に会長を辞した.この 年間を
振り返ると,募金のために全国の支部を訪問
し,その地の老若学友と膝を交え,杯を傾けて
談論した楽しい思い出が今更のように脳裏によ
みがえる.
研究のあらまし
インターンで胃腸科を回っていたとき川井銀
之助教授が患者のおなかを押さえ回虫がいると
呟いた,すると,すかさず増田正典講師がどれ
どれと触診し,雌だ!と叫ばれたのを思い出
す.当時日本人の約 %は何らかの寄生虫に
感染していたので,幸運にもその後,長年の間
に,教科書に出ているような寄生虫の患者には
殆ど全部出くわした.その都度,丹念にデータ
を取り,写真を撮って後年執筆する「図説人体
寄生虫学」の資料とした.このような臨床経験
の他に大学在職中の研究テーマは三つに大別す
ることが出来る.曰く,①鉤虫,②肺吸虫,③
ニューモシスチス,である.
鉤 虫 の 研 究
日本も含め世界でヒトを固有宿主として感染
している鉤虫はズビニ鉤虫(
)とアメリカ鉤虫(
)で
ある.
によると現在でも世界の感染者は
億,わが国では激減したが私の研究開始当
時,農村では ∼ %の人が感染し貧血に苦し
んでいた.ところがこの 種の鉤虫がどの様な
経路でヒトに感染し,感染後どの様に体内を移
行して成虫になるのかよく判っていなかった.
年から
年に亘る東大の宮川米次と台
北帝大の横川定(横川吸虫の発見者)の有名な
論争がある.宮川の主張は経口摂取された感染
幼虫は消化管粘膜に侵入し,次いで血流によっ
て肺に運ばれ,肺胞に出て気管,食道を経て腸
管に戻ったもののみが成虫にまで発育可能であ
ると主張し(肺循環説)
,一方横川は人の消化管
に入った感染幼虫はそのまま小腸において成虫
に発育する,肺などに移行している幼虫もある
が,これらは気まぐれ者の脱線行為であると反
医学フォーラム
論した.両者は主としてズビニ鉤虫や犬鉤虫を
マウス,ラット,モルモット,兎,犬などに感
染させ,その後,動物を剖検して幼虫の移行と
発育の状況を調べて論拠としたものである.私
はこの論争が曖昧な点は,両者とも鉤虫を非固
有宿主に感染させ,その結果を以て議論してい
る点にある.寄生虫は非固有宿主に感染すると
固有宿主体内とは異なった行動をするというこ
とは既に知られていた.しかしズビニ・アメリ
カ両種鉤虫は人以外に固有宿主が知られていな
かったため仕方のないことであった.私はこの
人以外の固有宿主となる実験動物を見出せば解
決すると考え探索したところ,幸運にも生後
ヶ月以内の子犬の体内でなら容易に成虫にま
で発育することを発見した(東京医事新誌 ( )
,
)
.そこで多数の子犬を用い実験を繰
り返したところ,ズビニ鉤虫が経口感染した場
合は,第 期感染幼虫は小腸粘膜に侵入し,数
日滞在し, 期幼虫となって腔内に現れ,その
後成虫にまで発育する.一方,経皮感染した幼
虫は血流によって肺に運ばれ,肺循環の後腸管
に達すると再び小腸粘膜に侵入し上記と同じ経
過をたどる.他方,アメリカ鉤虫の場合は皮膚
から浸入した第 期感染幼虫は血流により肺に
運ばれ,約 週間滞在して 期末期にまで発育
し,肺胞に出て気管,食道,胃を経て腸管に達
すると 期となり,成虫へと発育する.一方,
感染幼虫が経口摂取された場合,胃に入ったも
のは胃液によって殺滅されるが口腔粘膜からは
侵入可能で,上記経皮感染の場合と同じ経路で
その後の発育を遂げる.
之を要するにズビニ鉤虫は経口感染を主と
し,アメリカ鉤虫は軽皮感染を主とすること,
並びに両種の感染後体内移行経路を明らかにし
た.この一連の研究で長年論争が続いた鉤虫の
感染経路と発育の問題はほぼ解決し,昭和
年,寄生虫学会で小泉賞が授与された.
鉤虫の研究はその後さらに熱帯地方の鉤虫に
発展した.要約して述べると,
年の初頭に
ブラジル鉤虫(
)とセイ
ロン鉤虫( )という 種の鉤虫が
発見されたが,その後,後者は前者の異名同種
(
)であるとされてきた.私はスリラン
カの友人から送られてきた多数の鉤虫を分類し
てゆく内に両種は別種であるとの確信を持つよ
うになり,台湾,マレーシア,フィジー,ブラ
ジルなどからも材料を集め,両種に明らかな形
態差のあることを光学顕微鏡並びに電子顕微鏡
的に確認し,且つ動物に感染させ,両種が交配
しないことも確かめて別種説を確立した.そし
てセイロン鉤虫の方は容易に人体に感染し,成
虫にまで発育することを証明した.
肺 吸 虫 の 研 究
肺に寄生して血痰を出し, 線像からも結核
や肺癌と誤診されやすいウエステルマン肺吸虫
症は昔からわが国各地に流行していた.昭和
年 月,兵庫県豊岡保健所の小山幸男所長
(本学昭和 年卒)から送られてきた円山川産
モクズガニ 匹を検査したところ 匹に上記肺
吸虫の幼虫が見つかった.恐らく患者が存在す
るに違いないと考え住民
名の検診を行っ
たところ成人 ,学童 名に感染が見つかった.
翌昭和 年 月には京都府網野保健所で捕獲さ
れたカニ 匹中 匹からも幼虫が見つかり,
名の検診を行ったところ成人 名,学童
名の感染者を見出した.患者の内のある例
は豊岡病院で肺葉切除により成虫を摘出し,そ
の他の例はビチオノール内服により治療した.
この他,兵庫県社保健所管内にも新流行地を
見出すなど,従来知られていなかった地域に本
虫の流行を発見し診断,治療など臨床的研究を
続ける一方,
の研究も平行して行った.
それは上記円山川に大平肺吸虫(
)という別種の肺吸虫が濃厚に分布してい
ることを見出したことに始まる.この肺吸虫の
第 中間宿主はクロベンケイガニということは
判っていたが第 中間宿主が不明で,各研究者
はその発見を目指していた.昭和 年夏,千葉
大学の横川宗雄教授は,当時病床にあった小林
先生を見舞われ,ウスイロオカチグサという貝
に大平肺吸虫の幼虫を発見したといって,その
貝を渡された.小林先生は早速私を呼んで検討
するようにと云われた.私はかねてより貝類学
医学フォーラム
について教えを受けていた京都大学の黒田徳米
先生にその貝を見せたところ大変驚かれ,これ
はウスイロオカチグサではなく,
属
の新種とすべき貝であり横川教授に連絡するよ
うにと言われたので早速その旨連絡したとこ
ろ,既に東京医事新誌に発表済みであり,変更
には応じられない,黒田先生に同定を依頼した
覚えはないという,きついお返事がお弟子さ
ん名で帰ってきた.実は私も同じ貝を円山川
で多数採集していたので,黒田先生はやむな
く円山川を
とし,
(和名ムシヤドリカワザンショウ)
と命名して雑誌ヴイナスに新種の記載をされ
た.後年,横川教授も之を承認されて,今日,
大平肺吸虫の第 中間宿主はムシヤドリカワザ
ンショウとして定着している.
この一連の研究のおまけとしてもう一つ新種
の貝が登録された.それは私が加古川の小形大
平肺吸虫の流行地で見付けた貝で,黒田先生は
命名するに当たりヨシダという姓は多いのでと
云って
(和名ヨシ
ダカワザンショウ)という学名を付けられた.
之は大平肺吸虫の第 中間宿主にもなってい
る.詳しく述べる紙数がないがこの他に,肺吸
虫のセルカリアが第 中間宿主の貝から第 中
間宿主の蟹へ感染するルートについて横川教授
は蟹が貝を食べて感染すると主張されてきた
が,私は大平肺吸虫を用いて実験を行い,セル
カリアをカニに食べさせても感染せず,体に接
触させると感染するところからセルカリアは貝
から外界に出て蟹の関節など軟部から経皮的に
侵入すると主張した.私は若輩の頃から約
年先輩の横川教授と論争することが多かった.
横川教授の恩師である予研の小宮義孝先生か
ら,中に入って手打ち式をやろうと云われたこ
ともある.
ニューモシスチスの研究
はじめに少しニューモシスチスについて解説
すると,本種は
年
によりパリの鼠
の肺から発見され
と命名さ
れた.その後これが免疫不全の人に重篤な肺炎
を起こすことが世界的に判明し,特にエイズ患
者の主要な死因となり重要性を増してきた.和
名はカリニ肺炎と一般に呼ばれてきた.ところ
が最近
の解析によると人に寄生するのは
本種でなく
であるという
説が承認され,カリニ肺炎という名称は不適当
となった.私は目下,単純にニューモシスチス
肺炎と称するのが適当ではないかと提唱してい
る.さらに本種はその発見以来原虫(単細胞の
寄生虫)と考えられてきたのであるが,これも
解析の結果,真菌界の生物ということに
なった.
さて我々はこの病原体の形態,生態,生活史,
診断,治療などすべての領域に於いてわが国で
先駆的研究を行ってきた.わが国でぼつぼつ症
例は報告されていたが基礎的研究は殆ど始まっ
ていなかった
年,本疾患の重要性に気付き
教室をあげて取り組むこととし,私の定年の
年までの 年間本研究に集中した.参加
した教室員は,有薗,塩田,山田,猪飼,松田,
荻野,松本,手越,岡林,吉川,竹内,栗本,
嶋田,陳,盛,の諸君である.研究の内容は,
野生動物における本虫の感染状況,各種動物へ
の感染実験,感染経路,光学ならびに電子顕微
鏡による本虫の形態ならびに肺における寄生状
況や病理像,本肺炎の診断法(喀痰集シスト法,
肺吸引,
など)
,
培養,動物実験に
よる治療薬の開発および発症抑圧法の研究など
で,病理,小児科,内科,移植外科,放射線科
と共同研究を行い,診断・治療に携わった症例
は
例に及んでいる.中でも特筆したいのは
詳細な電子顕微鏡による研究(松本芳嗣大学院
生担当,現東大準教授)で前嚢子期の核内に
を見出し,本種が有性生
殖をする生物であることを確認し,ニューモシ
スチスの生活史の全貌を明らかにした点であ
る.
本症に関する発表業績としては著書(ニュー
モシスチス・カリニ肺炎, 頁,文献目録,
頁,南山堂)
,総説・原著論文
篇,学会発表
回(特別講演 回,シンポジウム国内 回・
国際 回)であり,科学研究費は一般
回,
医学フォーラム
総合 回, , は数回交付された.また
年には本研究に対し寄生虫学会から第 回桂
田賞が授与された.
そ
の
他
上記の主なテーマの他にチャンスがあれば何
にでも手を出した.小林先生は“医動物のこと
なら何を聞かれても答えられなければいけな
い,そして自分がやっている研究は世界一流で
なければいけない”と常に云われた.手を出し
たテーマは回虫,毛様線虫,ブユ,肝蛭,肝吸
虫,棘口吸虫,糸状虫,各種条虫,マラリア,
赤痢アメーバ等々である.このように私は約
年間ムシに囲まれて楽しい研究生活を過ご
したが,最後の締めくくりとして
年,幕張
メッセで行われた第 回国際寄生虫学会で,
“
”と題して
をさせ
て頂いた.縄文時代からのわが国の寄生虫感染
の記録ならびに寄生虫学者の活躍を世界の寄生
虫学者に知って頂いた.天皇,皇后両陛下もご
臨席になり,あとで色々ご下問のあったことも
忘れ得ぬ思い出である.
余
生
平成元年に大学を退職した後奉職した保健環
境研究所の仕事,母校学友会の仕事も終わっ
て,最近は拙著“図説人体寄生虫学 版”およ
び“医動物学 版”の改訂作業や陶芸,水墨画
など趣味に多くの時間を費やす幸福を享受して
いる.古稀,喜寿,傘寿と三回個展を開き,
作った陶器の一連番号は今日
を示してお
り,遺族が処理に困るのは目に見えている.
最後に私のように基礎医学で優雅な一生を送
るのも悪くないぞと医学生に告げて筆を擱くこ
とにする.
第 回国際寄生虫学会で講演中の筆者
ろくろで作陶中の筆者