真言宗醍醐派 龍北山 持法院 愛知県岡崎市井田町1-107 TEL/FAX.0564-21-4007 山川 良憲 × パンチ佐藤 対 談 l “心のよりどころ”として地元に愛される古刹 京 都 で 修 行 に 励 み、二 十 四 歳 で 郷 里 前 に 亡 く な り ま し た。私 は 六 年 ほ ど 山川 十世です。先代は父親で、三年 パンチ ご住職は何世ですか。 の方々で終日賑わいますよ。 の 行 事 は 二 月 三 日 の 節 分 会 で、地 元 所 と な っ て お り ま す。ち な み に 最 大 び 大 師 堂 が 二 十 五 番・二 十 六 番 の 札 寺 院 を 巡 る 霊 場 巡 り で し て、当 寺 及 二日で三河地方のお大師様ゆかりの 山川 は い。三 河 新 四 国 霊 場 は 一 泊 あるそうですね。 パンチ 三河新四国霊場の札所でも 北の祈祷所だったとのことです。 は岡崎城下の東西南北に配置された 明 治 時 代 に な っ て か ら で、江 戸 時 代 お り ま す。現 在 地 に 移 っ て き た の は 山川 当寺は真言宗醍醐派に属して るお寺とお聞きしております。 パンチ 持法院さんはとても由緒あ 山川 木 俣 選 手 は 最 初、 自慢になりますね (笑) 。 パンチ それはちょっと なりません (笑) 。 の記憶がないのは残念で た こ と が あ る そ う で、そ 手とキャッチボールをし した。私は幼い頃、木俣選 選手の父とは友人関係で 彦 選 手 が お り、父 と 木 俣 中日ドラゴンズの木俣達 出 し て お り ま す が、そ の 中 の 一 人 に ば、岡 崎 市 は プ ロ 野 球 選 手 を 多 く 輩 父 は 友 人 知 人 に 著 名 人 が 多 く、例 え いたそうです。また、人望が厚かった ん も、御 子 息 に 同 様 の 指 導 を さ れ て 山川 歌舞伎役者の故中村勘三郎さ を繰り返さないですよね。 パンチ そういう教えは同じ間違い される感じです (笑) 。 したが、正しい読み方はこうだ」と正 「先程お前はこういう読み方を 経文なども読ませておいてから るという指導法でした。例えば、 ら さ れ、後 か ら 間 違 い を 指 摘 す 方 針 で、ま ず 最 初 に ひ と 通 り や 切なく 「見て覚えなさい」という 山川 手取り足取りの指導は一 いらっしゃいましたか。 パンチ お父様はどういう方で した。 父と一緒に寺を守ってまいりま の生活がお父さんやお母さんに支え 前 の こ と を 当 た り 前 と 思 わ ず、普 段 えば、道具を大切にすること、当たり つ い て の 指 導 に 重 き を 置 き ま す。例 山川 プレー以上に心のありように 何を大切にしておられましたか。 と が あ り ま す が、子 ど も 達 の 指 導 で パンチ 私も少年野球を指導するこ チームで指導しておりました。 ん で、数 年 前 ま で は 地 元 の 少 年 少 女 に岡崎市はソフトボールが非常に盛 よ く 観 戦 に 行 っ た も の で す。ち な み た学生時代は当時の阪急西宮球場に (笑) 。私も野球が大好きで、京都にい 山川 後年よく自慢しておりました パンチ 的確なアドバイスです (笑) 。 イスしたそうです。 ら、地元チームに入団しろ」とアドバ いて到底レギュラーにはなれないか で す。し か し、父 は 「野村克也選手が 南海ホークスにスカウトされたそう かせて頂き、 良い勉強になりました。 パンチ 本日は心に触れるお話を聞 これからもしてまいりたいですね。 先代からの教えを広く伝える努力を をして頂きたい」という話をします。 い、年 輩 者 は 次 の 世 代 に 伝 え る 努 力 講話でよく 「若い人は年輩の人を敬 た 方 が 数 多 く 助 か り ま し た が、私 も 元のお年寄りから津波の経験を聞い いかと。例えば、東日本大震災では地 ら教えてもらわなかったからではな 人 が 増 え て お り ま す が、そ れ は 親 か 山川 最 近、六 十 代 で も 仏 事 に 疎 い かれるおつもりですか。 を檀家さんや地域の方々に伝えてい 切ですね。さて、今後どのようなこと パンチ 感謝の気持ちは何よりも大 大切にすることなどです。 ちゃんおばあちゃんなどご先祖様を さんお母さんを生んでくれたおじい られていることに感謝し、また、お父 三河新四国霊場の札所 に 戻 り ま し た。そ れ か ら 約 三 十 年 間 WORLD GRAPH 71 タレント・元プロ野球選手 住職 iINFORMATION
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