円舞曲 ―君とワルツを― - タテ書き小説ネット

円舞曲 ―君とワルツを―
桜庭まこと
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
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︻小説タイトル︼
円舞曲 ︱君とワルツを︱
︻Nコード︼
N4044BU
︻作者名︼
桜庭まこと
︻あらすじ︼
山あいの小さな村で﹁大魔法使い﹂と呼ばれる男に弟子入りして
いる少女。
平穏極まりない日常が唐突に終わりを告げた時、彼女の世界は大き
く変わることになる。
魔法の才能のない少女と、そんな彼女を弟子にした魔法使いの物語。
1
なんの波乱もない暮らし︵1︶
わたしの師匠という人は、とにかく規格外な人だった。
衣食にはさほど不自由はなかったし、弟子としてはほぼ無能に近
いわたしを可愛がってくれてはいたけれど、生まれ持っての性格か、
それとも天才たるゆえんか、生半可な人物ではなかったと思う。
エッタ、とニ音でわたしを呼んだ赤い髪の師匠は、柳の枝で羊を
追いながら、自分にくっついて歩く子供を振りかえった。
﹁人を呪わば穴二つ、と言うね。人を呪えばその呪いはいずれ自分
に返ってくる、という意味だが﹂
当時、師匠の言うことを委細漏らさず頭に叩き込もうと、常に羽
根ペンと羊皮紙の切れっぱしを握り締めていたわたしは、はい、と
かなんとか真剣に頷いた気がする。
そんな弟子に、
﹁ということはさ﹂
師匠はいつものとらえどころのない視線を、わたしから、彼方に
かすむ青い峰のほうに投げた。
﹁穴二つ掘る覚悟があれば、呪ってもいいんじゃないかなあ﹂
万事、そういう人だった。
2
弟子入り1ヶ月半目のその一件以来、師匠に対する尊敬の念とい
うものをうっかり取りこぼしてしまったわたしは、それ以降の3年
を世話係兼弟子、という半端な立場で過ごしていた。
師匠は家事に対する器用さを世間並ほどには持ちあわせていなか
ったから、恩師を差し置いて働くわたしをむしろ重宝がってくれた
のだが、教えてもらった幾ばくかの知識が実は給金がわり、という
実態なのだとしたら、さすがにちょっと物悲しい。
朝は日の出から、水汲みと掃除。
大麦のパンとチーズで朝食を取ったら、羊と山羊を山に追ってい
くのは師匠の仕事。
わたしは羊の毛を梳いて、紡いで、洗濯や繕いものや、食事の支
度。
夕方近くなって師匠が帰ってきたら食事を摂って、師匠が道々摘
んできた薬草をより分ける。
他愛もない話をしている間に夜になるから、明かりを使いすぎな
いように早々と就寝。
時々、わたしはどこに弟子入りしたのかと自問する。
﹁近在一の大魔法使い、アーデレオン様、よねえ﹂
アーデレオン
わたしが預けられた﹃大魔法使い﹄は、子供の怪我や羊の乳腺炎
を治したりはするものの、川を逆流させたり山を砕くような大魔法
を使ったことはない。
一度だけ、大嵐で氾濫しかけた川を、村に来たばかりの師匠が鎮
めたという話も聞いたけれど、わたしは死んだ母と一緒に避難して
いたからよく覚えていないし。
物語に出て来るような大魔法を使わないのか、と、師匠に聞いた
ことがある。
3
返答は、ちいさな笑みだった。
﹁川を逆流させたり、山を砕いたら、そこの生き物はどうするんだ
い?﹂
濃い青の目は静かだったけれど、あれは明らかに叱責だったと思
う。
それ以降、わたしが師匠に魔法をねだったことはない。
わたしの魔法使いとしての能力が壊滅的で、薬草を煎じる程度し
かできなかったことも、理由の一つではあるけれど。
羊を追って、野菜を作って。
時々訪ねてくる村の人たちに薬を渡す。
まれに師匠が急病人を診るために村に行くこともあるけれど、ほ
とんど二人きりの暮らし。
それがずっと、少なくとも、まだしばらくは続くと思い込んでい
た。
変わることなど、想像もしなかった。
4
なんの波乱もない暮らし︵2︶
村人たちが﹁お山﹂と呼ぶ、高山に続く丘の上に、その小さな小
屋はあった。
ずっと昔は重々しかったろう扉は塗りが剥げ、石積みの壁は風雨
に晒されてところどころ脆く砕けている。
みるからにうらぶれた様子だが、雑草も枯れ葉もなく掃き清めて
おけば、とりあえず空き屋だとは思われまい。
その昔、里に降りているわずか3日の間に、打ち捨てられた猟師
小屋と間違えて無宿人が住み着いていたことは、エッタにとって苦
い思い出である。
壁の隙間にまで生えてくる雑草を、石組みを壊さないよう慎重に
抜き、軒先にかかった蜘蛛の巣を小枝で払う。
高いところは小柄なエッタではとりきれなくて、無闇に飛び上っ
ていると、後ろの方から嗤うような羊の声がした。
﹁マノー、あんまり馬鹿にしてばっかりだと、今度の毛刈りで尻尾
までむしるわよ﹂
振り返りついでに睨むと、軽やかに鈴の音を立てる羊をたしなめ
ながら、赤い髪の男が笑った。
﹁さすがに尻尾は残しておいておやり。どれ、かしてごらん﹂
ふしだった手で小枝を受け取ると、残った蜘蛛の糸を絡め取る。
日頃猫背気味の師匠は、エッタとそれほど変わらない背丈だが、
そのわずかな差で届くところもある。
﹁空を飛べればいいのに﹂
口をとがらせた弟子に、ややかすれた笑い声が応えた。
﹁それは鳥に任せておくんだな。さあ、食事にしよう﹂
8匹の羊と1匹の山羊を柵に追い込んで、師匠が振りかえる。
5
﹁山の草場で、ホグに鹿肉を貰ったんだ。使えるかね?﹂
きれいに捌かれたひとかたまりの肉が差し出され、エッタは目を
輝かせた。
﹁うれしい、干し肉が少なくなったから、今日は野菜のシチューだ
けだったの。すぐ作り足すわ﹂
ホグは腕のいい猟師だが、先月、猪に突き飛ばされて足を痛めた
という。
ひと月で仕事に戻れたなら、師匠の治療が効いたのだろう。
往診の礼金のほかにも、こうして義理堅く礼をしてくれる村人た
ちのおかげで、エッタ達の生活は成り立っていると言っても過言で
はない。
なにしろ師匠の受け取る礼金は、文字通りの﹁謝礼﹂でしかない
のだから。
もっとも、都から遠く離れたこんな山の中では、銅貨や銀貨より
肉や野菜の方がずっと価値がある。
年に何度も来ない行商相手にしかつかえない金銭よりも、とれた
ての肉の方がよほど食事の役に立つというものだ。
渡された肉を捧げ持ってほくほくと家に入るエッタを、濃い色の
髭に覆われた顔が面白そうに眺めた。
﹁健全な光景だなあ﹂
﹁けんぜん?﹂
耳慣れない言葉にまばたく弟子の頭を、大きな手が軽く撫でる。
﹁いや、なんでもないよ﹂
肉を貰ったことを喜ぶのがなぜ健全なのか。
自分にとってはごく当たり前の状況に、首をかしげるエッタだっ
た。
6
なんの波乱もない暮らし︵3︶
エッタが母親を失ったのは、11の冬だった。
大病どころか風邪さえ引いたことがない働き者だったが、ちょっ
とめまいがすると言った二日後には床から起き上がることもできな
くなり、動転した父親が村はずれの魔法使いを呼びに行った間にこ
ときれてしまった。
あまりにも唐突過ぎて、そのあたりのことは今でも靄の中に手を
突っ込むような、おぼろげな記憶しかない。
ただ、部屋の隅で呆然と葬儀を見守る自分の頭を、そっと撫でて
くれた人がいることは覚えている。
大きくて、ふしだって、少しざらざらした手のひらで、その温か
さにふうっと力が抜けた。
氷がとけたようにぽたぽたこぼれる涙をぬぐってくれた手は、セ
ージや薄荷や雛菊や、エッタの知らない薬草の匂いがした。
母親が倒れてから看病に3日。そこから葬儀に2日。
ほとんど眠れずにいたけれど、泣くだけ泣いて、その人の膝で眠
ってしまったのだと、後から隣家の奥さんに聞いた。
父親はそこそこの木工職人だった。
山から切り出した木を選ぶ目も確かで、それらを組み合わせて作
った家具で人を感嘆させることもできたけれど、仕事となると山や
小屋にこもりっきりで他には目もくれない人だった。
それは冷たいわけではなく、単に不器用なだけで、まだ嫁にいけ
るわけでもない歳の娘を一人で家に置いておけないと悩むだけの分
別はあったらしい。
妻の遺した娘をそばに置いておきたいという気持ちと、自分の性
分とのあいだで思案すること幾月か。
7
父親が選んだのは後妻を娶ることではなくて、娘が手に職をつけ
られるよう、人に頼むことだった。
アーデレオン
誕生日を超えて12になっていたエッタが連れて行かれたのは、
﹁お山﹂の中腹より少し下にある、﹁大魔法使い﹂の小屋だった。
﹁無理なお願いを、聞いて頂いて﹂
両手の間で帽子をこねくり回して恐縮しきりな父親の横で、エッ
タはぽかんと口を開けた。
朝靄の消えきらないなか、微妙に傾いている小さな家の扉を開け
たのは、あの日エッタの頭を撫でた、薬草の匂いのする人だった。
当時はまだエッタが見上げるほど背丈の違った﹁大魔法使い﹂に、
父親が深々と頭を下げる。
﹁ですが、アーデレオン様が、この娘にはちっと魔力があるようだ
とおっしゃったと、村長から聞きまして﹂
日頃着慣れない一張羅を着こんだ父親は、今思えば相当に緊張し
ていたのだろう。
そのときは、そんなにひねくったら一つしかない帽子がこれっき
り使い物にならなくなるんじゃないかと、見当違いな心配をしてい
た。
﹁もし使い物にならなそうなときは、お返しくださって結構です。
ですが、もし見込みがあるようでしたら、なんとか弟子にしてやっ
てください﹂
もう一度頭を下げる間も帽子をねじっている父親から、﹁大魔法
使い﹂に目を移す。
大柄な父親より頭一つは低い背丈。
ぼさぼさでくすんだ赤茶の髪は、目元を隠すほど長い。
顔も半分は髭に覆われて、どんな顔をしているのかよくわからな
い。
そういえば、頭を撫でてくれた人の顔もそんなふうで、ただ手の
大きさと不思議な匂いだけを覚えていた。
8
その手が、またエッタの頭に乗った。
﹁この子の魔力はそれほど強くない。教えられることも少ない。そ
れでもいいかね﹂
低い、少しかすれた声に、父親は今までで一番深く頭を下げた。
家にあるだけの銀貨をかき集めた小さな袋を、﹁大魔法使い﹂は
もの柔らかくながら頑として受け取らなかったから、父親はエッタ
の手にそれを握らせた。
夫婦で少しずつ貯めた金銭は将来娘の持参金にするつもりだった
が、魔法使いに弟子入りした娘が嫁入り先を見つけられることは少
ない。
どういう将来にせよ、金があって困るということはないはずだか
らという、せめてもの親心だったのだろう。
その銀貨は、使い道もないまま、いまもって暖炉の隅の隠し場所
にしまわれたままである。
長い坂を振り返り振り返り父親が村へ帰って行くのを最後まで見
送ったエッタが振りむくと、同じように黙って横に立っていた﹁大
魔法使い﹂は、その大きな手でまたエッタの頭を撫でた。
﹁とりあえず、お前さんの寝床を作ろうな﹂
その他愛ない一言が、彼女が魔法使いになる最初の一歩だった。
9
風向き︵1︶
ふと目が覚めたのは、夜明けにはまだ程遠い時間だった。
周囲に人家のない山の中だから、月でも出ていなければ夜は真っ
暗になる。
星さえ見えない曇り空なら、なお暗い。
目を開けても閉じてもそう変わらない闇の中、エッタは目が覚め
た理由を探した。
手洗いではない。
もちろん起床時刻でもない。
鳥が鳴いたわけでも、獣の遠吠えも聞こえない。
日頃の眠りは深い方だから、どんな理由にせよ、こんな真夜中に
起きること自体が珍しいのだ。
まあいいか、と寝がえりを打った時、窓を覆う鎧戸の隙間に、何
かが動くのを見た。
波打つように明滅し、不規則に移動する、光。
誰かが明かりを持って、小屋の外を探っているのだ。
野盗、押し込み、人さらい。
いくつかの単語が脳裏に浮かび、エッタは寝台の傍らに吊るして
おいた火かき棒を掴んだ。
こんな山の中、いつ獣が羊たちを襲いにくるかわからないから常
10
備しているものだが、一応人間にだって使えるだろう。
この部屋の扉は二つ。
一つは居間へと続き、もう一つは井戸のある裏庭へとつながって
いる。
不審な光は井戸の方へ向かっているから、捕まえるには好都合だ。
足音がしないよう、木靴は履かずに素足で扉に向かう。
重い樫の扉だが、エッタが毎日油をさしたり磨いたりしているか
ら、少しのきしみも立てずに動いてくれた。
うっすらと開いた隙間のむこうに、夜の庭がある。
案の定、光は井戸の傍でうろうろしているようだ。
ごく弱い光だからか、持ち手の姿ははっきりとは見えない。
光が腰高の井戸の淵より少し上にあるところをみると、やはり大
人なのだろうという程度。
一瞬、道に迷った旅人が水を飲みに来たのかとも思ったが、だと
したら表の扉をたたけば済むことだ。
そうしないということは、やはり悪党。
至極明快な解答に、眉間にしわが寄る。
︱︱︱ 井戸を探るなんて、まさか毒でも入れるつもりかしら。
この近隣ではついぞ聞かないが、人の多い所では、いざこざのあ
げくにそんな事をする慮外者がいると聞いたことがある。
﹁冗談じゃないわ﹂
音には出さず、口の中で悪態をついた。
この井戸は、山から続く大事な水脈から引いている。
もしもここに毒など入れられたら、里の水にまで被害が及ぶ。
そこまで計算の上だとしたら、途方もない大悪人と言うことにな
る。
なんとしてでも阻止し、とっ捕まえてやらなければならない。
極悪人の持つ燈火が、井戸の向こうに沈んだ。
かがみこんでなにかしている、とわかったのは、光の加減で丸め
11
た黒っぽい背中が見えたからだ。
かがむ。
埋める。
なにを?
先方にとって、もしくはこちらにとって都合の悪いものをだ。
エッタは足音を殺して庭に滑り出た。
かがみこんでくれたのならもっけの幸いというものだ。
こちらに背を向けている間に一撃してくれよう。
どうやら相手はまだこちらには気づいていない様子で、庭と畑の
境目あたりで地面を探っているらしい。
顔を見られないようにか、頭まで布のようなものをかぶっている。
火かき棒の柄を両手に握りしめ、その頭めがけて横薙ぎに振りぬ
いた。
刹那。
目の前を真っ白なものが覆った。
白、いや、漆黒の闇が透けて見える。
半透明。
ちがう、なにか、いきものじゃない。
幽体。
︱︱︱︱︱︱ 死霊
薄黄色の瞳孔と視線が合った瞬間、エッタの意識は途切れた。
12
風向き︵2︶
﹁エッタ、エッタ!﹂
耳元で、しつこいほど繰り返し名前が呼ばれている。
ついでに、これでもかというほど頬をびたびた叩かれている。そ
の音も結構うるさい。
耳触りな音の割に痛くないのは、振り抜くほどの勢いがないから
だろう。
なんでこれほどまでに叩かれなくてはならないのか。
わざわざ起こさなければならないほどの変事でもあったのか。
急激な覚醒で淀む意識に顔をしかめながら、ようやく目をひらく。
﹁⋮⋮お師匠様⋮⋮?﹂
至近距離には、ろうそくの明かりに照らされた師匠の顔がある。
とりあえず師匠は無事らしい、と判断して、問題はそこではない
ことを思い出した。
﹁お師匠様!庭に悪党が!!﹂
勢いよく起き上がろうとした額を、大きな掌に止められた。
﹁急に動いてはいかん、どこか痛むところはあるかね﹂
頭、首、肩、腕、といちいち確認されて、一応全身問題ないこと
を申告する。
弟子の無事を確認した師匠が、大きなため息をついた。
﹁いきなり悲鳴がしたと思ったら、庭に倒れていたんだからな。あ
まり驚かさんでくれ﹂ その段になって、エッタは自室の寝台にいることに気がついた。
﹁⋮⋮お師匠様が?﹂
﹁他に誰がおるんだね。山羊には運べんぞ?﹂
13
傍らの丸椅子に腰かけた師匠が、重々しく腕を組む。
すみませんでしたと頭を下げて、なるべく簡潔に説明する。
﹁庭に、明りを持った誰かがいたんです。何か探してるようにウロ
ウロして、そのうち庭の隅に屈みこんだから、捕まえてやろうと﹂
﹁それでこれか﹂
﹁はい﹂
師匠に持ち上げられた火かき棒は、もちろんエッタが捕り物に使
おうとした得物だ。
﹁最初は旅人か、羊泥棒かとも思ったんですけど。井戸の周りに行
ったものだから、毒でも入れられたら大変だなって﹂
至極真面目な説明に、師匠はさっきの数倍の息を吐く。
﹁エッタ﹂
﹁はい﹂
弟子の名を呼ぶしみじみとした声は、説教と言うより嘆息の色が
強かった。
﹁山犬程度ならまだしも、盗人に火かき棒で殴りかかる娘がどこに
いる﹂
﹁棍棒でもあればよかったんですけど、他に道具がなかったから﹂
﹁殴る以外に思いつかんのか﹂
﹁だって素手じゃ力が足りないし、縄はうまく使えないし、昏倒さ
せて後から縛ればいいかなと思って﹂
指折り数えるエッタに、師匠は片手で顔をぬぐった。
﹁隣にいるんだから声をかければ済むだろう。そんなおおごと、一
人でやろうとするものじゃない﹂
﹁⋮⋮すみません﹂
全く思いつきませんでしたとか言ったら、更に呆れられるに違い
ない。
普段は比較的おとなしいエッタだけれど、ときどき後先考えない
行動に出て、師匠にお小言を貰うことがある。
それは大抵の場合、自分より誰かのために懸命になった結果なの
14
だが、それで自分自身が逼迫することも少なくない。
そういえば、崖から降りられなくなった仔羊を抱えて岩壁にしが
みついていたエッタを見たときも、今と同じような溜息をついてい
た師匠だった。
自分の言動も常人を逸脱しているくせに、弟子の無軌道には常識
人ぶって嘆息する師匠が、さてと首をかしげた。
﹁お前の悲鳴を聞いてすぐに庭に出たが、誰にも行きあわなかった
がなあ﹂
家の裏は山肌に沿って羊の囲いがあるから、通り抜けることはで
きない。
夜の中とはいえ燈火を持っていたし、それを消せば自分が動くこ
ともできないから、師匠に見つからずに逃げおおせるのは至難の業
だ。
﹁でも、たしかにいたんです。うしろから殴ろうと思ったら﹂
思ったら。
言いつのった口が止まる。
白い靄。
向こうが透ける、半透明の﹃なにか﹄。
正面切って視線が合った、金色の瞳孔。
瞬時に口の中が干上がる。
﹁エッタ?﹂
師匠の訝しげな声に、大きく息を吸った。
﹁死霊が﹂
口がうまく回らない。
﹁白い、ぼんやりして、金色の目の影が、目の前に現れて﹂
だから、情けなくも悲鳴をあげてひっくり返る羽目になったのだ。
仮にも魔法使いに弟子入りしている人間が、死霊ごときで気絶す
るとは情けない。
今更ながら不明を恥じる弟子に、師匠の眉間に深いしわが寄った。
﹁金の目の、白い影?﹂
15
唸るような声と共に立ち上がる。
蜀台を手に速足で裏庭に出て、ざっと周囲を見渡した。
﹁お師匠様?﹂
今度は部屋履きを履いて追いかけると、ちょうど侵入者の屈みこ
んだあたりに、師匠の背中がある。
﹁お師匠様、なにかありました?﹂
﹁いや﹂
地面を探っていた手が、諦めたように草を払った。
﹁なにかしようとしたにしても、お前の悲鳴で逃げ出したなら、掘
るも埋めるもできなかったろう。良かったやら悪かったやら﹂
﹁むこうにとって﹃良い事﹄は、こちらには﹃悪い事﹄だと思いま
すけど﹂
普通そこは﹁よかったよかった﹂で済む話のはずだが。
いまひとつ真っ当な感想と言いきれない師匠に口をとがらせると、
ごまかすように頭を軽く撫でられた。
﹁まあ、お前に怪我がなかったのは﹃良かった事﹄だな。朝までも
うひと眠りしなさい﹂
次の野盗は一人で退治しないようにな、と釘を刺されて、エッタ
は首をすくめた。
16
風向き︵3︶
寝台にもぐってはみたものの、今更易々と睡魔は戻ってきてくれ
ない。
再び真っ暗となった部屋の天井を睨みながら、もぞりもぞりと姿
勢を変える。
師匠の目をかいくぐって逃げた盗賊︵仮︶。
いたのかいないのかはっきりしない死霊もどき。
師匠の中途半端な反応と言い、気になることは山積みだ。
賊は、もしかしたら庭か畑のどこかに潜んでいたのかもしれない。
師匠が︵無様にも気絶した︶自分を部屋に運んでいる間に地面を
這って逃げれば、できないことではない。
死霊に関してはあまり思い出したくないけれど、師匠が何も言わ
ないのだから、見間違いという事にしておこう。
白い鳩とか白い蝙蝠だったかもしれないし、一瞬だったから私も
はっきり見たわけじゃないし。
﹁あいつの連れてた、シロフクロウかもしれないわ﹂
シロフクロウの体が、向こうが透けて見えるほど透明なわけはな
いが、このさいそれはどうでもいい。
正直死霊でないほうがありがたい。主に、今後の被害的な意味で。
だって、死霊に祟られるほど悪い事をした覚えはないし。
せいぜい、死霊の持ち主︵飼い主?︶かもしれない盗賊の頭を、
火かき棒ではり飛ばそうとしたくらいで、それはむしろ正当防衛、
当然の権利だ。
むこうにどんな理由があったって、夜の夜中、無断で人の敷地に
忍び込んで庭を漁っているような輩に、文句を言われる筋合いはな
17
い。⋮⋮はずだ。
考えれば考えるほど目はさえて、エッタはむやみに寝台の上を転
がった。
鳥が鳴いている。
呼びかけるような、耳につくような、このあたりではあまり聞か
ないさえずりだ。
﹁⋮⋮うるさい⋮⋮﹂
枕の下にもぐってやり過ごそうとするけれど、一度気になってし
まったらもう耳から離れない。
しばらくあがいた末に、あきらめて起きあがった。
﹁なんなのよ、もう⋮⋮﹂
昨日は夜中にひと騒動、やっと眠れたと思ったら鳥に起こされて。
そこまで考えて、寝台から飛び降りた。
﹁ちょっと!寝てる場合じゃないわ!﹂
朝。たしかに鳥が鳴くぐらいには朝だが、日はすでに高く上って
いる。
いつもなら夜の明けないうちから起き出すエッタにとっては、大
寝坊にもほどがある刻限だ。
寝間着を脱ぎ捨て、手早くエプロンドレスにそでを通す。
部屋履きではなく皮靴をつま先にひっかけて、扉を突き倒す勢い
で居間に駆け込んだ。
﹁遅くなりましたお師匠様!﹂
いまが何刻だか見損ねたが、通常の朝食時刻を軽々過ぎているこ
とは間違いない。
家事取り仕切りを自らに任じる身としては、自分が体調不良で寝
込んだなどと言う非常時を除いて、こんな失態は断じて許せるもの
18
ではなかった。
まして、大魔法使いだろうが変わり者だろうが、とにかく師匠で
ある人に朝食抜きを命じる権利は、エッタにはないのだ。 淡い金茶の髪を振り乱して飛び込んできた弟子を、窓辺にいた師
匠は、中型の鳥を手にのんびりと振り返った。
﹁なんだ、もう少し寝ていてよかったのに。一食ぐらい抜いたとこ
ろでたいして変わらん﹂
弟子をいたわっているのか皮肉っているのか、それとも単に事実
なのか。
多分最後だろう。
3年一緒にいてもまだ読み切れない師匠の性格に顔をひきつらせ
ながら、エッタは首をかしげた。
﹁その鳥⋮⋮﹂
大きさは鳩だか鴉だか。
色も黒から灰色と、光の加減で揺らめくように見える。
めったに見ない、つまりエッタを叩き起こした鳥は、師匠の腕に
とまってこちらを見た。
暗色の羽根の中で、金色の目が正面からエッタを睨んだ。
たかが鳥、というには威圧感があり過ぎる視線に思わず身がすく
む。
﹁ティルトフィニア﹂
エッタと鳥の攻防など気にもせず、師匠が声をかける。
名前なのか何かの合図なのか、その言葉だけで、鳥が大きく羽ば
たいた。
鶏が飛んだ程度では受けようもない風圧に、エッタの髪が舞い上
がる。
その風と、威嚇を込めた強い鳴き声に目をつぶった一瞬に、黒い
珍客はかき消えるように飛び去った。
19
︻閑話休題 登場人物紹介︼
<i86368|9703>
主人公・エッタ。
髪は淡い金茶、瞳はブルーグリーン。
村には子供がそれほどいないので、エッタがたまに里に行くと可愛
がられます。
父親は相変わらず家具職人。
実は師匠の小屋を手直ししたのは、エッタの父親。
役に立たないかもしれない娘を預ける手前、それくらいはしなくて
はと思った様子。
たまーーーーに、山から下りてきたりする途中に顔を見せたり見せ
なかったり。
<i86369|9703>
先住﹃羊﹄のマノーは、羊のリーダー。
でも、羊だけだとオオカミなどが出た時に散り散りに逃げてしまい
かねないので、目印役として山羊が一頭います。
20
風向き︵4︶
羊と山羊を連れて、師匠がいつものように山に向かった後。
木皿を洗いながらエッタは考え続けた。
昨夜は慌て過ぎたが、朝になって少しは落ち着いて見返せる。
あの謎の人物は、迷いなく裏庭に進んできた。
屈みこんでいる時も、エッタが後ろから見ている限り、思案して
いるふうはなかった。
この家は人里離れているから、ちょっと道やら家やらを間違えま
したなどという迷子はあり得ない。
当然ここを目指してきたとしか思えないが、エッタにあんな知り
合いがいるわけもないから、必然的に師匠への訪問客ということに
なる。
自分がここへ弟子入りしてから三年、師匠を訪ねてくるのは村の
人間だけだったのに?
ましてあんな夜中に、裏庭でこそこそと?
誰がどう考えたって、真っ当な訪問の仕方ではない。
それならやはり、悪意ある人間なのではないか。
それなのに、師匠はあまり気にしたふうはなかった。
もっとも、この家で盗む価値のあるものといったら、エッタが父
親から預かった銀貨の袋ぐらいだ。
あとは山に行けば無数に生えている薬草と、二人の日用品。
高級品と言えなくもない本は、エッタも少し習った神話集と簡単
な薬草の辞典だけで、師匠は魔法使いのくせに、魔法の古文書など
は一切持っていない。
だから、師匠が気にしないのも無理はないとは思ったのだけれど。
21
なにより、あの悪党とおぼしき人影は、家には見向きもしなかっ
た。
まっすぐ裏庭を目指して、地面をあさっていただけ。
あんな井戸端の地面を掘り返したって、出てくるものはなにもな
いのに、だ。
それに、と、エッタの眉間にしわが寄る。
疑問はまだある。
盗人と言いながら村に知らせに行くでもなかった師匠が、死霊と
聞いて顔色を変えた。
魔法使いは、妖獣や魔獣あいてに魔法を使うことはあっても、死
霊を相手にすることはない。
死霊は人間の魂が冥府から彷徨い出たものだから、神官が諌める
事はあっても魔法使いが退治するべき相手ではないからだ。
死霊は災いをなすというから、警戒した?
それならもっとなにかしてもいいようなものを、まあよかった程
度で済まされた。
﹁あのお師匠様なら、たしかにそれで済ませる人だけど﹂
途中までは普通なのに、最後へきて﹁なぜそうなる!﹂という選
択をするのは、師匠のおさだまりだ。今更悩んだところで始まらな
い。
皿を洗い、ふきんで拭いて、棚に戻して、洗濯を済ませて。
考えながらも手は動き続けて、最後の洗濯物を勢いよく叩いた。
﹁私が考えたって、しかたないわ。お師匠様が決めるんだから﹂
山から吹き下ろす風にはためく洗濯物をくぐって手桶を片付けて、
大きく伸びをする。
﹁さあ、今日の分の薬を作らなくちゃ﹂
悩みながらでも家事はできるが、薬草の選別や精製はそうはいか
ない。
薬は神聖なもの。
辛い誰かを癒すもの。 22
だから大切に扱って、丁寧に作るのだと。
いつものとぼけたような物言いではなく、そのときだけは真摯だ
った師匠の言葉を、薬草を手にするたびに思い返す。
弟子入りはしたものの、小さな魔法の明かりを作ることさえでき
なかったエッタに、師匠が与えてくれたたった一つの魔力の使い道
が、薬作りだった。
落ち込む自分を膝に抱えて、一つ一つ薬草の種類や見分け方、使
い道とそのための作り方を教えてくれたのだ。
エッタの生まれた里には、医師がいない。
隣の町は山一つ越えた向こうで、往診などしてはもらえない。
代々伝わる古いやり方で熱を下げたり、知る限りの薬草で気休め
ていどの煎じ薬を作る以外は、めったに来ない行商から、高価な薬
を買うしかないのだ。
だから、この村に来た魔法使いが熱病の子供を直してくれた時、
大人たちは泣き伏して喜んだという。
村に子供が少ないのは、子供が育たないからだ。
大人になる前に、まだ乳飲み子のうちに、ひとりまたひとりと失
われていく。
そのこどもたちを守ってくれる人が現れたと、この小さな庵には
人が溢れたのだそうだ。
アーデレオン
村人たちはめったなことでは師匠を頼らないが、それは師匠を信
頼していないのではない。
子供の命を救ってくれる﹃大魔法使い様﹄を軽々しく使うことな
どできないのだ。
エッタの父が母の臨終に間に合わなかったのも、ぎりぎりまで師
匠を呼ぶことをためらったからで、その後、弟子にしてやって欲し
いとエッタを預けたのと同じ理由。
あれから三年を経て、なお村人たちを癒すことを怠らない師匠に
対する村からの信頼は、神殿への祈り以上になっている。
エッタの作る薬草は、師匠を頼る人たちの気持ちにこたえるもの
23
だ。
万に一つの間違いがあってもならない。
薬草の束を抱えて、エッタは気合を入れた。
24
風向き︵5︶
キャベツ
鹿肉の残りを炙り、甘藍の漬けたものを添える。
昨夜のシチューは大鍋に作ったから、今夜の分にも十分足りるだ
ろう。昨日と今日は、いつもよりちょっと豪華な夕食だ。
焼きたてのパンを竃から拾って、エッタは窓の外に見える山を振
り返った。
木々の生い茂る山が、夕闇に沈み始めている。
いつもなら日が沈む前に戻るはずの師匠が、今日に限ってまだ帰
ってこない。
﹁なにか、あったのかしら﹂
羊が逃げたとか、山羊が帰ろうとしないとか。
想像してみたけれど、これまで一度もなかった話だ。
エッタがどんなに頑張っても大人しくさせられない羊でも、師匠
のあとには喜んでついて行った。
それこそ、魔法でも使っているようにだ。
他に考えられることは?
もしも里から用事があるのなら、まずこの家を訪ねて来るはずだ。
師匠はいなくても、エッタがいることが分かっているのだから、
みんなここに伝言を残すか、緊急ならばそこから山へ向かう。
どのみち、山の牧草地へ行くならこの道しかないのだし。
降りてくる途中で怪我人を見つけた?
それとも。
﹁まさか、お師匠様が⋮⋮?﹂
昨夜の今日だ。
またあの悪党がなにかしでかしたとしても、おかしくはない。
そもそも、あの盗賊もどきが師匠に悪事を働こうとしたと推測し
25
アーデレオン
たのなら、なぜその可能性まで考えなかったのだろう。
師匠は確かに魔法使いだ。
しかし、里で呼ばれている﹃大魔法使い﹄はあくまで尊称であっ
て、実際師匠が盗賊を討伐できるような大魔法使いかと言えば、大
いに疑問が残る。
師匠を信頼していないわけではない。
濁流の押し寄せる川を魔法で押し返したというのだから、それな
りに魔力もあるのだろう。
しかし、鎮め癒す力と闘う力は別物のはずだ。
そもそも、魔獣や竜を退治できるような大魔法使いが、こんな辺
鄙な山奥に来るものか。
握りしめた手の中で、堅焼きパンがみしりと鳴った。
﹁どうしよう、お師匠様⋮⋮﹂
師匠に何かあったら。
今まで想像もしなかった事態に、指先が細かく震える。
母親が逝った時は、ただ呆然とするだけだった。
今は、その意味も、喪失も知っている。
血縁ではないけれど、三年間ずっと一緒だった人。
家事はできてもろくに文字さえ書けなかったエッタに、根気強く
経典や薬学を教えてくれた。
普通の大人とはどこか言動がずれていて、時々呆れることもある
けれど、一度だってエッタを邪険に扱ったことはなかった。
たしなめる時でさえ穏やかな、大きな温かい手の、たったひとり
の師匠。
その師匠が、いなくなる?
まさか。
アーデレオン
そんなこと、あるわけがない、あっていいはずがない。
だって、師匠は﹃大魔法使い﹄なんだから。
血の気が引いて、手や足の先が水を浴びせられたように冷たくな
っている。
26
かたかたと間断なく聞こえるのは、自分の歯が鳴っているのだと
気がついた。
︱︱︱どうしよう、どうしよう、どうしよう。
探しに行こうか。でも師匠が戻ってきたら行き違いになる。
里へ知らせに? それもおなじことだ。
第一、自分が動いたところで何ができよう。
僅かばかりの魔力があるだけで、なんの魔法も使えない、役立た
ずの弟子のくせに。
急速に闇に包まれ始めた部屋の中で、竃の小さな炎がエッタの不
安を煽るようにゆらゆらとざわめいた。
﹁お師匠様⋮⋮ッ﹂
どうしていいかわからないまま、心細さに半泣きの情けない声が
漏れる。
かすかに、羊の鳴く声がした。
帰ってきた。
はじかれたように玄関へ向かい、閂を外す。
﹁おかえりなさい!!﹂
勢いよく開け放った扉の向こうには、見たこともない風体の人影
があった。
目深にかぶった濃い色のフード。
異国のものらしい長衣。
︱︱︱しまった⋮⋮!
なんて不用心な。
外にいるのが師匠だけとは限らないのに。
早く扉を閉めればいいものを、突然の出来事に手も足も動かない。
部屋からの薄明かりに浮かぶ口が、やんわりと笑みの形に持ちあ
がる。
その手が自分に向かって伸ばされるのを見て、エッタはたまらず
27
目をつぶった。
﹁いてェっ!﹂
何かが勢い良くぶつかる音、若い男の悲鳴。
そして聞きなれた足音が駆け寄る気配。
﹁エッタ!﹂
﹁お師匠様!﹂
一瞬で硬直がとけ、師匠に飛びついた。
﹁ティルーダ、何の用だ﹂
エッタを背にかばい、師匠が低い声で問いただす。
﹁伝言なら鳥に託しただろう﹂
では、あの鳥はこの人のもので、この人は師匠の知り合いなのだ
ろうか。
師匠の背中から覗いた先では、旅装の男がほこりを払って立ち上
がったところだった。
﹁やれやれ、えらいもんつけてやがんな。せっかくはるばる来たっ
てのに、手荒い歓迎だ﹂
﹁礼儀をわきまえんお前が悪い。弟子を怖がらせた罰だ﹂
﹁弟子ねえ?﹂
常になく厳しい声音の師匠に対し、ティルーダと呼ばれた男はに
やりと笑い、気安い態度でエッタに手を振った。
﹁いやあ、昨夜のこともあるし、挨拶しといたほうがいいと思った
んだけどさ。怖がらせちゃったならごめんよ﹂
では、やはり彼は昨夜の盗賊もどきなのか。
どこから来たか知らないが、師匠の知り合いにしてはへらへらと
軽薄な笑い方が気に入らなくて、軽く頭を下げるだけで挨拶に代え
た。
非礼だと咎められたら謝るつもりだったが、師匠も異論はなかっ
たらしい。
知り合いに向けるには棘のある視線を外さないまま、エッタを振
りむく。
28
﹁エッタ、彼と少し話がある。家に入っていなさい﹂
もちろん、エッタに否やはない。 軽く背を押され、一つ頷いて小走りに玄関へ駆け込んだ。
29
邂逅
扉がしっかりと閉まったのを見届けて、傍らの男を振り返った。
アーデレオン
﹁昨夜庭にいたのはなぜだ﹂
最初から詰問調の﹃大魔法使い﹄に、ティルーダはにやにや笑い
を崩さない。
﹁たまには違う連絡手段もいいかなーと思ってさ。あとはアンタの
腕がなまってないか心配で﹂
﹁嘘をいえ﹂
﹁即否定かよ、ひでェな﹂
魔法使いの知り合いは年齢も性格も様々だが、これまでこの男と
気があったことなど一度もない。
仲間内でもひときわ若く、それゆえか慢心した言動や悪戯めいた
真似をしては周囲に疎まれていた。
もっとも、以前の自分を思い返せば、ティルーダを非難できた義
理でもないのだが。
だとしても、この男の笑い方は気に入らなかった。
﹁三年半ぶりに来てみれば、なんかかわいい弟子とやらがいるじゃ
ないか。そりゃ気になるってもんだろ﹂
あからさまな意図を含めた揶揄に、不快感はいや増す一方だ。
むろん、エッタに余計な不安を与えたことは、別口として仕返し
の計算にいれておく。
﹁気にしてもらう必要はない。鳥にも持たせたろう。王都へ戻る気
はない﹂
余計な手出しはするなと睨みつけたが、相手は怯まない。
ちゃりん、と音がして、ティルーダの掌に白い光が踊った。
30
暮色の迫った中でも、わずかな光を受けてあわあわしく輝くのは、
魔法使いたちだけが使える、指環を模した印章である。
エレメンタル
水晶に風の元素で銀を編み込み、その上に幾重もの魔法を載せる
ことで、単なる印形としてだけでなく、身分の証や護符としても使
えるものだ。
数歩を隔てて立つ男が見せびらかしたそれに、眉間のしわが一段
と深くなった。
﹁⋮⋮なぜ、お前がそれを持っている﹂
﹁さあて、なんででしょうかね﹂
不愉快さの水位が一気に上がる。
一歩踏み出せば、さすがに殺気を感じたのかティルーダが手の中
のものを放ってよこした。
てだれ
﹁そんな怒らないでも、これだけ厳重に保護がかかってりゃ悪用な
んか出来ねえよ﹂
近寄られた分だけあとじさったのは、やはり彼もそれなりの手練
だからか。
軽薄を装っていても、決して腕の届く範囲には近寄ろうとしない。
宙を飛んで難なく手の中におさまった小さな印章が、奇妙にずし
りと重く響いた。
一流の彫刻師が見ても唸るほどに精緻な文様を描く銀が、薄青く
光る水晶を包み込み、輪を成している。
懐かしくも苦い記憶の中にある、己の証。
あの美しく醜い王都にそびえる白亜の学舎を離れるとき、打ち捨
てようとして止められたものだった。
31
めい
﹁学院長は、戻れと仰せだ。俺はその命を伝えに来た﹂
印章を預けた師の名に、掌に落としていた視線を睨みあげる。
あかがね
ティルーダが自分の右手をかざしてみせた。
日に焼けた指に、赤金の指環がきらめく。
まほうし
﹁王立魔法学院学院長グルダス・アザンの名と命により、シャーグ
リーウスへ召還する。魔法司デュー・アルドヴィエル。主命に従い
王都へ帰還せよ﹂
逆らいようのない命令に、指環を握った掌が鈍く痛んだ。
32
光の都︵1︶
そう長い旅にはならない、と師匠は言った。
携行していくのは、当座の着換えと、数日分の携帯食。
日用の細々したものと、自分にとって大切なものいくつか。
結局一度も使わなかった銀貨。
母親の遺髪を収めたブローチをいれた、父から貰った小さな木箱。
平たく言って、自分の財産すべて。
それらの入った革の鞄を抱えて、エッタは乗合馬車に揺られてい
る。
行き過ぎるのは、青く霞む山を遠景にした、どこまでも続く緑の
野原。
どうしてこうなったのか。
ガタガタと振動を伝えてくる馬車の壁に頭をもたせかけて、声に
は出さずに唸った。
あの夜。
師匠が家に入ってくるまでに、それほど時間はかからなかった。
そして、戻ってきた師匠は、いつもとそれほど変わらなかった。
里の人たちなら、おそらく気付かない程度に。
残念ながら、三年一緒に暮らしているエッタにはわかってしまっ
たけれども。
33
機嫌が悪い、というのとは、少し違う。
シチューを盛り分け、食事の支度をする弟子に、食卓に座った師
匠は少し笑った。
﹁すまないな、怖かったろう﹂
﹁ううん、驚いただけ。大丈夫です﹂
怖かったのは、あの人じゃない。
でも、なんとなくそれを師匠に言うのははばかられた。
母親の死をまだ引きずっていると心配させたくなかったし、それ
に。
︱︱︱子供じゃあるまいし、お師匠様がいなくなると思っただけで
泣くなんて。
何がそんなに怖かったのか、自分でもわからないのだから、わざ
わざ言う必要なんてない。
やや上滑りする気持ちのせいでパンを切る手に力が入ってしまっ
たけれど、師匠は気付かなかったようだ。
いつもなら、そんな些細なことでも話の種にして軽口を言うのに。
どっちもどっちな夕食だった、と思う。
一見、ごくごく普通の食卓。
なのに、どちらも意図的にそうしているような奇妙な違和感。
普段の師匠なら、謝罪と一緒に頭の一つも撫ででくれたはずだ。
あの奇妙な知り合いのことも、少しは話してくれたかもしれない。
エッタも、遅いから心配したんですよ、程度のことは言うべきだ
ったのかもしれない。
それに、いつものエッタだったら、第一印象が最悪でも師匠の知
り合いなら夕飯を勧めるくらいのことはしただろうし。
そんなことに気を配っている余裕はなかった。
師匠も、何も言わなかった。
34
どちらも平静を装って、かえってよそよそしかった。
そしてお互いそれに気づかないまま夜が明けて、師匠は朝食のあ
むらおさ
と、里に下りると言って家を出たのだ。
﹁村長のところへ行ってくるよ。遅くはならないから、心配しなく
ていい。それから、昨日の奴は来ないとは思うが、もし顔を見せた
らマノーに言って踏んでもらいなさい﹂
知り合いを羊に踏ませろという師匠もたいがいだが、一も二もな
く頷いたエッタも同類である。
﹁今度は狙っていいんですね?﹂
エッタが右手に掲げた火かき棒を見て、師匠は意を得たりと笑っ
た。
﹁存分に退治して構わんよ﹂
朝食の片付けに掃除洗濯、いつものように働くエッタのあとを、
仔羊たちが物珍しげについて歩く。
時々洗濯物を引っ張ったりして邪魔をするのは御愛嬌だが、薬草
ひるひなか
の束に近づいた時は謹んで進路変更していただいた。
羊たちが晴れた昼日中に家にいることはめったにないから、お互
い物珍しくて少し楽しい。
昼が来て、昼が過ぎ、空の色が少し変わり始めた頃、マノーが低
く鳴いた。
洗濯物を片づけた庭で薬草を干していたエッタが顔を上げると、
急な斜面のむこうで師匠が手を振った。
﹁マノーは目ざといわね。さすがお師匠様の一番弟子だわ﹂
えらそうに振り返る黒い頭を撫で、全然気付かなかったとぼやく
と、羊が得意げに歩き出す。
エッタもついていって、師匠を出迎えた。
﹁おかえりなさい、お師匠様﹂
﹁ただいま、日暮れ前には帰れたな。やあマノー、エッタをありが
とう﹂
35
いつもどおりの気楽さで羊の背を叩く師匠を見ながら、エッタは
内心息を吐いた。
顔を見るまで師匠の無事が心配だなんて、これまでなかったこと
だった。
﹁まだ夕飯の支度をしていないんです。お茶を入れますか?﹂
﹁うん⋮⋮﹂
夕餉には早い時間だから聞いてみたのだが、師匠の返答は歯切れ
が悪い。
﹁先に、ひとつ話がある。中に入ろう﹂
促されて入った扉の外に、マノーがまるで見張りのように寝そべ
るのが見えた。
36
光の都︵2︶
まだ日の高い時刻。
こんな時間の明るい部屋に師匠と二人で家にいることは、久しぶ
りだった。
おき
師匠が、暖炉の灰をおこす。
もぐっていた熾がぱっとはじけた。
そういえば、火をおこすにしても、師匠が魔法を使ったことはな
かったな、と思い返す。
魔法を使うのは、薬を精製する時と傷を癒す時だけ。
普通の人ができることに、魔力を使うことは一度もなかったと思
う。
炎が安定したのを見届けて、師匠は暖炉の前の敷物に︱︱︱師匠
の定位置に腰を下ろした。
手招かれて、エッタも相向かいの自分の敷物に座る。
山深いエッタの里よりさらに高地にあるこの家では、一年を通し
て暖炉に火が欠かせない。
自然、師匠と一緒にいるのは、この暖炉のそばが一番多かった。
さて、と吐息をついた師匠が、エッタを見る。
た
﹁王都にある魔法学院から命令があって、あちらに戻らなければな
らなくなった。数日中に、ここを発たなければならない﹂
王都。
一瞬何を聞いたかわからなかった。
王の都、国の中央、王様の住むところ。
こんな山の中では、遠い異国かおとぎ話のなかのような言葉だ。
37
そこに、師匠が行く、いや師匠にしてみれば帰るのか。
どちらにせよ、ここからいなくなるのだという。
あと、ほんの数日で。
あまりに唐突な話で、ただ瞬きしかできない。
﹁後任もそれまでには来てくれるから、里のことは心配いらない。
優秀で、腕のいい医師でもある﹂
話について行き切れないまま、こくんと頷く。
急に師匠がいなくなってしまったら、里の人たちはさぞ心細いだ
ろう。
あとの人を師匠が知っていて、腕も確かだというなら、すこしは
安心できるに違いない。
里の人は。
たしかに自分も﹃里の人間﹄ではあるけれど、いまは師匠の弟子
で、だから師匠がいなくなってしまったら自分は里に戻るのか、そ
れとも新しい﹃師匠﹄に弟子入りするのか?
︱︱︱それはいや。
ふっと浮かびあがってきた言葉を、自分で不思議に思う。
いやもなにも、わたしが選ぶことじゃないのに。
でも、家に戻れと言われるのも、次の師匠から学べと言われるの
も、いやだと感じた。
﹁エッタ﹂
﹁はい﹂
自分をそう呼ぶのは、この﹃師匠﹄だけなのに︱︱︱。
﹁魔法学院へ行って学ぶ気はあるか?﹂
疑問形が来た。
﹁国中の、いや大陸中の魔法使いの学び舎だ。肌に合わないと思っ
たら、戻ってくることもできる。一緒に王都に行くかい?﹂
38
﹁でも⋮⋮わたし、魔法の才能ない、ですけど⋮⋮﹂
家でも次の師匠でもない、予想外の選択肢にエッタはやっとのこ
とで返事をする。
そう、自分には魔法が使えない。
そんなこと、誰より師匠が一番よく知っているくせに。
﹁薬は精製できるだろう、使える魔法の種類が違うだけだ。学院な
ら、そちらを専門にした勉学もある。ここにいるよりもっと高い技
術を学べる﹂
王都の魔法学院。
そこで師匠が学んだという話を、最初の頃に聞いた気がする。
でも、憧れるより先に、自分に才能がない事がわかってしまった
から、今までほとんど関心を持っていなかった。
﹁わたしくらいの魔力でも、入れるんですか?﹂
﹁魔法学院は、一つでも秀でた魔法の才があれば受け入れる。エッ
タなら大丈夫だろう﹂
魔法学院に入る。
魔法使いの見習いとして。
たとえ薬師としてであっても、師匠のようになれるのかもしれな
い。
そう思うと胸の中がわき立つようだったが、エッタは唇を噛んだ。
﹁でも、父が﹂
ここには、エッタのただ一人の肉親がいる。
師匠に弟子入りはしたけれど、里は山のすぐ下だ。その気になれ
ばお互いいつでも顔を見ることができる。
王都に行くとなれば、何かあっても会うどころか連絡すらおぼつ
かないだろう。
それに、父親が否と言えば自分は逆らいきれない。
どちらとも選びがたくうつむいてしまったエッタの前に、師匠が
小さな箱を置いた。
39
樫の木で作られたその箱は掌に乗る程度で、角も表面もよく磨き
込まれている。
﹁お父さん⋮⋮﹂
縁の飾り彫りから、表面を彩る細かな装飾まで、誰のものか言わ
れなくてもわかる。
間違いなく、エッタの父親の手による細工だった。
開けてごらん、とうながされ開いた小箱の中には、古めかしいブ
ローチが入っていた。
錫の地に小さな花がたくさんあしらわれた、地味だけれどかわい
らしいブローチ。
生前の母もめったに取り出すことはなかった、祖母のそのまた祖
母から伝わるという古いもの。
母が亡くなった時、父がこのブローチの隠しに母の髪をひと房し
まっていたことを、エッタは覚えていた。
﹁エッタが望むなら、王都へ行くよう伝えてくれと言っていたよ﹂
師匠の言葉に顔を上げた瞬間、浮かび上がっていた物が睫毛の先
からぽろりと落ちた。
行っていいと。
自分の作った小箱に、妻の形見を入れて。
これを持って、行って来いと。
︱︱︱そばにいる。遠くたって、いつもいっしょにいる。
不器用な人だったけれど、いつだって父はエッタのことを考えて
いてくれた。
師匠に弟子入りさせてくれたのも父だった。
だったら、今度だって。
﹁行きます﹂
小箱を掌で包み込んで、頷く。
﹁魔法学院で、もっと学びます﹂
40
いつかこの里に戻って、師匠みたいにみんなを守れるように。
しっかりと見つめ返した弟子の頭を、師匠は笑って撫でた。
41
光の都︵3︶
王都に発つと決めてからは、目が回るような数日だった。
次の魔法使いに引き継ぐと決めた家は、エッタがこまめに片付け
ていたおかげでそれほど面倒はなかったものの、問題は里の方だっ
た。
翌日、師匠がエッタを連れて里に行くや、否、山を下ってくる姿
を見つけたのだろう、村に入る前から二人の周りにはたちまち人垣
アーデレオン
ができてしまったのである。
むらおさ
大魔法使いを囲んで感謝の言葉を繰り返す村人たちから、騒ぎを
知った村長が救い出してくれて、向かった先は神殿だった。
道中の息災を祈る言葉と共に、小さな銅符が渡される。
一つは、神殿の護符。もう一つは、エッタと村の名が書かれた、
身元の証となるもの。
その二つを革ひもに通した手形である。
旅人が必ず所持する銅符で、これがないと入れない場所もあるら
しい。
どんな時に使うものかエッタには見当がつかないが、命の次に大
事にと神官に申し渡され、ありがたく押し頂いた。
次は、むしろ神殿より緊張する場所だった。
日干しレンガの赤い屋根、藁まじりの漆喰壁。
掃除が行き届いているとは言えないが、鎧戸も枠組みも一つとし
て歪んでいない。
なんで自分の家なのに、こんなに構えなくちゃいけないんだろう
42
と思いつつ、家主の几帳面さを示すようながっしりした扉を、一つ
息をしてから開く。
﹁ただいま﹂
喉に少しからんだ声に、中にいた人が振りかえった。
﹁おう﹂
短い返答。
いつもと変わらない声。
﹁⋮⋮おとうさん﹂
それきり言葉が出ない。
行かせてくれてありがとうとか、一人で残してごめんなさいとか、
いいわけじみたことまで色々考えてきたのに。
のしのし、と形容するような足取りで近づいてきた父親が、大き
く分厚い掌をエッタの肩にのせた。
﹁体に気をつけてな﹂
﹁⋮⋮うん。おとうさんも﹂
﹁ああ﹂
ただそれだけのやり取り。
エッタが弟子に出てから幾度か交わしたのとおなじ会話。
けれど、今まで何気なく答えていたそれに、もっと深い意味があ
ったと気づいた。
元気でいてさえいれば、どこにいたっていい。
妻を、母を亡くした二人の間で、これ以上の言葉はなかった。
父親が、エッタの後ろを見る。
﹁娘を、よろしくお願いします﹂
いつかのように深く深く頭を下げられた師匠が、礼に応える。
﹁必ず﹂
短い返事に、父親がもう一度頭を下げ、それからエッタの肩をた
たいて送り出した。
無愛想なのも、言葉が少ないことも、愛情の深さとは関係ない。
それがわかっているから、笑顔で行ってきますと告げることがで
43
きた。
﹁後任を承りました、薬術師のウィルナです﹂
エッタに向かっておっとりと会釈した魔法使いは、年の頃ならエ
ッタの父親より少し下だろうか。
長く伸ばした灰色の髪が印象的な、温厚そうな男だった。
師匠とは親しいのか、ほんの二、三言挨拶らしきものを交わした
あとは、早々に村人たちの既往歴や周囲の森に自生する薬草など仕
事の引き継ぎに入った。
薬術師と言うだけあって、医療に詳しいのだろう。エッタの親指
ほども厚さのある診療簿をざっとめくって頷いた。
﹁この近くは、よい薬草が取れるようですね。村のことは私が責任
を持ってお預かりします。どうぞお心おきなく﹂
﹁よろしくお頼みする﹂
丁寧に診療簿を扱うウィルナの手付きから、人柄が見て取れる。
︱︱︱どうか、皆をお願いします。
師匠の横で、エッタも一緒になって頭を下げた。
ささやかな夕食を共にしたウィルナを、仮宿の村長の屋敷へ師匠
が送っている間、エッタは裏庭の羊たちの中にいた。
8頭の羊、1頭の山羊。
その1頭1頭の名前を呼んで、頭をなでてやる。
ごめんね、と言いながら。
︱︱︱ごめんね、一緒にいられなくて。
最後の1頭、黒い羊が横目でエッタを見た。
﹁マノー、今度の魔法使いさんは、羊の番はできないんだって。前
にあんたを飼っていたゼインさんが全員引き取ってくれるそうだか
ら、また皆をよろしくね﹂
屈みこんで羊と目線を合わせてみる。
目つきの悪い先輩羊は、横目のままベエと鳴いた。
44
﹁⋮⋮ハイとかヤダとか言いなさいよ、最後まで嫌味なんだから﹂
嫌がらせにその首にしがみついてやると、今度は本当に嫌そうな
鳴き声がする。
すこしやり返せた気がして、暖かい毛皮にごしごしと顔をこすり
つけた。
後ろから足音がするのに気がついたが、誰だかわかっているから
振り向かない。
﹁ひどいんですよ。マノーったら、最後まで言うこと聞いてくれな
いんだもの﹂
羊にしがみついたままの弟子の頭を、大きな手が軽く撫でた。
その優しい掌にまた涙がにじんで、もう一度マノーで拭いてやる。
しみじみと迷惑そうに鳴く羊に、二人で少し笑った。
この家で過ごす最後の夜は、少しさみしくて、いつものように穏
やかだった。
45
光の都︵4︶
ウィルナに後を託し、村人たちの盛大な声援で送り出された二人
ろば
は、山を越えた先の街から乗合馬車で王都に向かった。
馬車と言えば驢馬の引く荷車にしか乗ったことのないエッタには、
乗り方から運賃からわからないことだらけで不安だったが、頑丈な
だけが取り柄のような古い四人掛けの箱馬車は、二人を乗せるとき
しみながらも重々しく動きだした。
道はそこそこ整備されており、山間の小道と違って、馬車が大き
く跳ねることもない。
狭いながらも横になれるくらいの幅がある座席におさまって、エ
ッタはようやく息をついた。
荷物も一緒に持ち込んだ馬車内は、大柄な大人が相向かいに座っ
たら膝がぶつかるような距離だ。
師匠と二人だから気兼ねせずいられるが、本当に乗合だったらさ
ぞ窮屈な思いをしただろう。
そう考えて、思いだした。
﹁お師匠様、さっき御者の人に見せたのはなんだったんですか?﹂
御者の男は当初、客が定員通り四人集まるまで待つつもりらしか
った。
それが師匠とエッタを乗せただけで走りだしたのは、師匠の見せ
た証書らしきものが効力を発揮したかららしい。
﹁魔法学院の発行した証明書だよ。急ぎの旅だから便宜を図って欲
しいと書いてある﹂
向かいの席に座った師匠が、掌ほどの大きさの紙片をかざす。
細かい意匠の紋章と何かの文言が入ったそれは、表面が不思議な
七色に輝いている。
46
見た目だけでも高価そうで、うっかり落としでもしたらあっとい
う間に取っていかれてしまいそうだ。
﹁じゃあ、それを他の人に使われたら大変ですね﹂
﹁そうかい?﹂
気安く手渡された紙片は、エッタの手に触れた途端、白紙になっ
てしまった。
表にも裏にも、何も書かれていない。光ってさえいない、ただの
紙だ。
絶句した弟子に笑いかけて、師匠が紙片を取り戻す。
師匠の手に戻った瞬間、紙片が元通りの証書になるのを見て、エ
ッタは思わずため息をついた。
﹁⋮⋮魔法、なんですね?﹂
﹁そうだね。﹃あらわしの魔法﹄のひとつかな。特定の条件で文字
が見えるようになる魔法だ﹂
消すのではなくて、見せる魔法だった。
薬草を煎じるしか能のないエッタにとっては、どちらにしても想
像のむこうにある技だ。
もしそれを自分も学べと言われたらどうしようと思わないでもな
いのだが、そもそも魔法学院に入れない可能性もある。
王都にたどり着いてもいない時点で悩む話ではなかった。
乗合馬車はその後も他の客を乗せず、街道をひた走る。
途中二晩を馬車で眠り、着いたのは城壁に囲まれた大きな街だっ
た。
﹁州都マクニラだ。ここで迎えの馬車に乗りかえるよ﹂
師匠のあとについて馬車を降りたものの、とたんに耳に飛び込ん
できた音の洪水に思わずあとじさる。
周囲にぐるりと高くそびえる大きな建物は、何に使うものなのか
すらわからない。
47
エッタが乗ってきたような乗合馬車や、それよりももっと高価そ
うな辻馬車が、石畳の大路を幾台も行き交う音。
村全員が総出になっても数が足りないような人波。
大きな川ほどもある道幅の、向こうとこちらで鮮やかな天幕を張
った物売りの、よく通る客引きの声。
どれもこれもがめまぐるしくて、あいた口がふさがらない。
荷物を抱えて立ち往生していると、弟子の様子に苦笑した師匠が
手を引いてくれた。
﹁⋮⋮お師匠様、今日はお祭りか何かですか?﹂
﹁いや、これが普通だな﹂
普通といわれても納得がいかない。
なんでもない日なのに、どうしてこんなに人がいるんだろう。
時間は昼過ぎで、村ならみんな農作業に追われている頃合いだ。
街の人たちは畑仕事などしないだろうけど、だとしたらみんなど
うやって生計を立てているのか謎である。
道を行く人たちはおおむね仕立ての良い服を着ていて、およそ金
に困っている風情ではないが、都会はみんな働かなくてもいいよう
な金持ちばかりなのだろうか。
﹁大丈夫かい、王都はこれより賑やかだぞ?﹂
﹁⋮⋮はあ﹂
これよりと言われても、これ以上どこに人間を増やす隙間がある
のかわからない。
生返事を返して、ひたすら師匠について行くエッタだった。
48
光の都︵5︶
馬車を降りたのはどうやら表道だったようで、角を一つまがると
急に雑踏が遠ざかった。
石畳の路面は変わらないまま、路地を囲む建物は幾分地味になっ
ている。
エッタの手を引いた師匠は、そのなかでもひときわ目立たない小
さな家の戸を叩いた。 ﹁こりゃあお早いお着きだ。休んでいきな﹂
名乗りもしないうちに出てきた小男が、にやりと笑って中へ招く。
その、あまりの悪党顔にエッタが頬をひきつらせると、師匠がく
っくと笑った。
﹁心配しなくていい、顔は怖いがいい奴だ。ここは魔法使い専用の
宿屋だよ﹂
うながされてくぐった扉も踏んだ床も、これで大丈夫かと言うほ
どよくきしむ。
かしいだ机と椅子が二組、それに上へと続くらしい階段。
外から見たとおりに狭い室内にあるものは、それでおしまいだっ
た。
﹁今日はここへ泊って、明日王都へ向かおう﹂
ここに?
口から出そうになった言葉をすんでで止めたものの、師匠も宿の
男も、エッタの顔だけで何が言いたいのかわかったらしい。
叱られるかと首をすくめたが、返ってきたのは二人分の含み笑い
だった。
﹁心配するな。古いが汚いわけじゃねえし、取って喰ったりしねえ
49
さ﹂
言いながら、宿の男が師匠に鍵を投げてよこす。
﹁あんまりお嬢ちゃんが気にするようなら別の宿も案内できるが、
どうする﹂
﹁ここより安全な場所はないと思うがな﹂
呟いた師匠が、エッタを振りむいた。
﹁見た目ほど悪い宿じゃない。厭かい?﹂
急いで首を振り、小男に頭を下げる。
づら
﹁失礼をして、ごめんなさい。お世話になります﹂
一拍口を開けた男が、またあの悪党面で笑った。
﹁おう、ゆっくり休んでいくといい﹂
踏み抜かないか不安になるほど歪んだ階段の上は、各階一部屋ず
つの客室になっていた。
相部屋が基本らしく、衝立で仕切った寝台が二つと、文机が二つ。
外見同様古びた作りの内装は壁紙もないほど質素だが、宿主の言
っていたとおり、古くはあっても意外なほど小ざっぱりしている。
布団など、エッタが使っていた物より上等なくらいで、腰を下ろ
すとふんわり沈み、きしみ一つ立てなかった。
宿主の手製だという野菜のスープと堅パンの夕飯をすませ、これ
も驚くほどきれいだった湯殿を借りて部屋に戻ると、入り口側の文
机にいた師匠が振り向いた。
﹁馬車を手配してくれたそうだ。明日中には学院に着けるだろう﹂
﹁⋮⋮王都はもっと遠いんじゃないですか?﹂
エッタの村から州都に出るまでにこれだけかかったのだ。噂話に
もめったに聞かない王都に明日一日でたどり着けるとはなんの冗談
だろう。
だが師匠はちょっと笑っただけだった。
﹁魔法学院の馬車だからさ﹂
50
つまり魔法がかかっているということか。
いままで、魔法使いの弟子でありながらほとんどそれを実感した
ことはなかったのに、魔法学院に行くと決めた途端このありさまだ。
本当に学院に入れたら、一体どうなることやら。
やや遠い目になった弟子に、師匠が手を差し出した。
﹁これを﹂
小さな布袋から滑るように渡されたのは、細い鎖のペンダントだ
った。
エッタの掌で包み込めるくらいの涙型の台に金色の片翼が飾られ、
その下に小指の爪ほどの紅い石がはめ込まれている。
裏には、エッタには読めない文字と言葉が細かく刻んであった。
片翼と赤の石は、冥府の女神タニトゥワの象徴だ。
この世とあの世で最も強い力を持つ女神の意匠は、それゆえに護
符として珍重されているが、神殿でも魔法使いの手によるものでも、
非常に高価なのが常である。
ましてこれは、掌にかかるずしりとした重みから察するに、本物
の金細工と宝石だろう。
﹁お師匠様、これ⋮⋮﹂
﹁学院にはいれば、傍についていてやるわけにいかん。なにがあっ
てもお前の身が守れるよう、できるかぎりの護りを施しておいた。
肌身離さず付けていなさい﹂
薬草について教えてくれた時と同じ声。
必ず守らなくてはならないことを言い含める声音に、エッタはし
っかりと頷いた。
nomine
Domini,
Domini,
qui
qui
fecit
fecit
頷き返した師匠が、護符を乗せたエッタの掌に手を重ねた。
In
nomine
c?lum,
In
51
nomine
meo,
terram,
In
mensis
nobis,
nomine
pro
In
Ora
inanis,
聞いたことのない音の言葉が響き、同時に手の中の護符がぴりっ
と跳ねる。
驚く間もなく、そこから全身に細かな痺れが走った。
髪の毛が逆立つような感覚に、思わずきつく目をつぶる。
謎の静電気が一瞬で通り過ぎると、護符が羽のように軽くなって
いた。
促されて、ペンダントを首にかける。
﹁エッタ。この護符はお前にしか効力がない。けして手離さず、人
に渡してはいけないよ﹂
はため
静かだが重々しい師匠の忠告を胸に刻む。
効力の有り無しなど、傍目にはわからない。
これほど大粒の金細工で、しかも明らかに手の込んだタニトゥワ
の護符ならば、効果などなくとも欲しがる者は多いだろう。
そうでなくとも、師匠が自分の身を案じてくれたものを、誰かに
渡したくなどない。
これから先は、もう一緒にはいられないのだから。
今更のように気づいてしまったことに、不意に目元が熱くなる。
﹁ありがとうございます。大事にします﹂
にじむものを隠すように、今までの恩全てに一礼した弟子の頭を、
師匠はいつものように優しく撫でてくれた。
52
53
光の都︵6︶
翌朝、宿の前に止まっていたのは、うっかりすれば目の前にあっ
てさえ見落としそうな、どこまでもありきたりな箱馬車だった。
馬は一頭、車輪は二つ。
昨日まで乗っていたのが四輪馬車だったことを考えれば、格下で
さえある。
魔法学院からの迎えだと言うには、華美さも迫力もなさすぎた。
︱︱︱別に、自分たちがそんな出迎えされるとは思わないけど。
荷物と一緒に乗り込んだ馬車は二人用らしく、案外ゆったりして
いるだけでなく、座面も背もたれも埋もれるほど柔らかい。
居心地よさそうな椅子に座ると、相変わらず盗っ人の親玉のよう
な顔で笑った宿の主が扉を閉めてくれた。
﹁気をつけてな。また機会があったら寄ってくれ﹂
礼を言おうと身を乗り出すのと同時に、馬車が動き出す。
きしみも馬の蹄の音もない、すべるような走りだった。
驚いて窓の外を見れば、たった今そこにあった宿の姿どころか、
大きな街そのものがない。
馬のひと駆け、車輪の一回りごとに、みるみる景色が変わってい
く。
﹁あまり見ていると目が回るよ﹂
呆然と窓にしがみついているエッタに、師匠が笑った。
﹁もしかして、この馬車は他の人には見えないんですか?﹂
﹁気がつかないようにするまじないは、かけてあるね﹂
見えないのと気づかないのはどう違うのだろう。
それがいつもの師匠の癖か魔法使い特有の言い回しなのか、わか
らなくなってきたエッタだった。
54
太陽が中天を通り過ぎた頃、馬車の速度が落ちた。
窓に頬をつけていつのまにか眠っていたエッタは、肩を揺らされ
目をあけた。
﹁シャーグリーウスに入るよ﹂
空を飛ぶように無音だった馬車は、いつのまにか軽やかな音を立
てて走っている。
﹁⋮⋮王都⋮⋮﹂
﹁そうだね。ここが王都・シャーグリーウスだ﹂
こがね
最初に目に入ったのは、天をつくような尖塔だった。
傾き始めた陽光を浴びて、黄金のように輝いている。
きらきらと光っているのは、窓にはめ込まれた無数の色硝子だろ
う。
尖塔の周りを、もう少し背の低い塔が幾重にも囲み、さらに城壁
が取り巻いて、宙に浮かぶ城のようだった。
通り過ぎる街路には青々とした枝を広げる木々。
そのあいだに、巨大な行燈をてっぺんに付けた柱が立ち並ぶ。
道幅は広く、馬車が五台は軽く行き交えそうだ。
馬車が通る場所と人が歩くところは隔てられているようで、喧騒
は遠かったが人の多さは当然ながら州都に勝っている。
整然と並びどこまで続くか知れない建物は、様々な色壁や木枠や
屋根に飾られていながら一つの景色してまとまり、重厚で美しかっ
た。
王の都だ、大陸随一の花の都だと話には聞くが、それがどんなと
ころかなど想像もできないでいたが、これではどんな物語でも語り
きれないに違いない。
大路の中心を走っていた馬が、緩やかに道を分かれ、尖塔から離
れた別の城壁へと鼻を向けた。
声もなく、ただただ窓の外を眺め続けるエッタをのせて、馬車は
55
飴色の壁門をくぐった。
※
門の内側は、緑豊かな広大な森のように見えた。
つい今しがたまで走っていた都とはうってかわった光景の先に、
壁門と同じ柔らかい色合いの大きな建物がある。
エッタの感覚では﹁丘一つ分﹂とでも数えたくなるような建物全
体が、魔法学院なのだと師匠が言った。
﹁生徒だけでなく、教師や研究者も多い。とにかく広いのは間違い
ないから、最初のうちは、迷うのも勉強のうちだな﹂
﹁⋮⋮部屋に帰れなくなりそうです﹂
﹁なに、そのうち誰かが見つけてくれるさ﹂
見つけて貰えればいいというものでもないだろうが、そこを師匠
に求めても無駄なのは三年間の生活でよくわかっているから、今更
問題にはしない。
要は自分で覚えろということだと納得している間に、馬車はゆっ
くりと動きを止めた。
テラス
学院の入り口にあたるだろう場所は、数段の階段を経て、師匠の
庵が三つは並ぶくらいの広い露台になっている。そのむこうに、細
く長い回廊が続いていた。
師匠に手を借りて馬車を降りると、もう仕事は終わったというこ
となのか、馬が早々に駆けだした。
何気なく目をやった御者台には、誰も乗っていない。
ぎょっとして目を凝らしたが、どう見ても馬が勝手に走っている
ようにしか見えなかった。
州都からここまで御者なしで来たのかと思うと、恐ろしいやら感
心するやら、さすが魔法使いの使う馬車だとしか納得しようがない。
ここまできたら驚くのも馬鹿馬鹿しい。
自分の無知さに呆れていると、師匠が眉根を寄せてため息をつい
56
た。
﹁お師匠様?﹂
師匠を嘆かせるほど子供じみた反応をしていただろうかと心配に
なったが、理由が違ったようだ。
﹁いや、行こうか﹂
きざはし
いつになく気の重そうな様子で、露台へ向かう。
エッタも師匠に続いて階に足をかけた瞬間、まるで水の膜をとお
りぬけたような違和感が頬を撫でた。
﹁⋮⋮え?!﹂
慌てて振り向いても、もちろんそこにはなにもない。
風か何かの思い違いかと反対を確かめると、目の前に白い布がた
なびいた。
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まっさらの布を裁ったような純白の外套。
縁には、金糸で細かな文様が縫いとってある。
それを纏う背丈は、一段上であることを差し引いても見上げるほ
ど高い。
三年前、自分が師匠を仰ぎ見たように。
師匠がいるはずの場所に立っているのは、赤い髪と青い目の若い
男だった。
色合いはよく見知っているはずなのに、背の高さと顔立ちは全く
知らない人が、エッタを振り返る。
﹁エッタ?﹂
呼ぶ口調も同じでありながら、あきらかに声色が違う。
凍りついたように立ち止まったエッタに、その人が手を伸ばす。
いつもエッタの頭を撫でていたのとは、全く違う手を。
57
思わず身を引くと、深い空色の目が瞬いた。
﹁⋮⋮ああ、そうか﹂
自分の手を見て、苦く笑う。
差し出されていた手は、エッタの手を引くことなく外套の中に戻
された。
﹁こっちへ。学院の本館だ﹂
うながされて、ようやく足が動く。
荷物を抱き締め、紐で引かれるようについて露台を歩きながらも、
頭の中は真っ白だった。
ついさっきまで自分の先を歩いていたのは、村にいるときと同じ
格好をした、いつもの師匠だったのに、若くなっているだけでなく、
服装まで変わってしまっているのは一体どういうことだろう。
︱︱︱このままついて行っていいの?
あの一瞬で師匠と入れ替わってしまったのかもしれない。
だとしたら、目の前を歩く人は誰で、師匠はどこへ行ったのか。
もしかしたらもっと前に、師匠ではなかった?
怯えに似た感情がよぎるのに、足は止まらない。
ここは大陸で唯一無二の魔法学院で、魔法使いがたくさんいて、
そのなかには師匠なんて簡単に負かしてしまえるような強い人がい
るかもしれない。
それとも、それとも。
めまいがするほど考え込んでいるあいだに、回廊の突き当たりに
なっていたらしい。目の前の白い外套が立ち止まったことにも気付
かず、その背中に頭から突っ込んだ。
相手が振り返るより先に、慌ててかかとであとじさる。
﹁⋮⋮ごめんなさい﹂
背中の真ん中に頭突きを喰らった人は、荷物を抱えてうつむいた
まま頭を下げるエッタに口を開きかけたが、結局何も言わずに目の
前の扉を押しあけた。
神代の伝説を模した恐ろしく細かな彫刻を施された巨大な石の扉
58
が、風に押されるように緩やかに開いていく。
その先、重厚な石造りの部屋かと思った場所は、柔らかな陽光の
差し込む中庭だった。
思い思いに枝を広げる若木がまばらに生える庭の真ん中に、黒髪
の人影がある。
その姿を見るや、傍らの青年が片膝をついた。
﹁デュー・アルドヴィエル、主命により帰還致しました﹂
﹁来たか﹂
もの柔らかな笑みをたたえた初老の男がこちらを向き、ゆったり
と頷いた。
ひざまず
﹁無事の到着、何よりだ﹂
自分も跪くべきか迷っていると、男の金褐色の目がエッタに移る。
﹁そなたの弟子とは、このお嬢さんかな﹂
﹁はい。三年前から弟子として預かっておりました。此度の召還に
あわせ、学院への入学を希望致しましたので、院長のご許可をいた
だきたく存じます﹂
院長。ということは、この魔法学院で最高位の人と言うことか。
︱︱︱そういうことは先に教えてください師匠!!
姿が変わろうと若返ろうと、相変わらずの非常識っぷりに安心し
たようなそうでないような恩師に腹の中で毒づきながら、慌てて荷
物を床に置き、軽く膝を折って礼をとる。
﹁お初にお目にかかります、院長様。リュエナ・マルチェリエッタ
と申します﹂
礼儀にかなっているかわからないが、それ以上言いようもないエ
ッタに、院長が笑みを返した。
﹁ようこそ魔法学園シャーグリーウスへいらした。当院は門を叩く
者を拒まぬ故、存分に学ばれよ﹂
﹁⋮⋮ありがとう存じます﹂
これで入学が許可されたのならずいぶん簡略なものだが、この後
に試験でもあるのだろうか。
59
受かる自信は皆無なのだが。 ﹁デュー、語らねばならぬことは多いが、またあとにしよう。リュ
エナ・マルチェリエッタ、望む者にこそ道は開く。励みなさい﹂
﹁はい、院長様﹂
エッタが今一度頭を下げるのと同時に、隣の青年も立ち上がって
一礼する。
二人が顔を上げた時には、重厚な扉が中庭と廊下を隔てていた。
60
光の都︵7︶
デュー・アルドヴィエル。
そう名乗った人を見上げる。
かお
︱︱︱そういえば、わたし、お師匠様の名前も知らなかった。
端正な貌、というのだろうか。
青の目を伏せて溜息をついた青年は、傍で自分を見上げる弟子を
見て少し笑った。
いつものようにエッタの頭に手を伸ばし、思いとどまるように止
める。
その背後で、壁に光が灯った。
同時に、回廊の横壁のひとつが開く。その奥は小部屋になってい
るのか、橙色の明かりが漏れている。
﹁今日はここから行けるのか。院長のご厚意かな﹂
青年がぽつりと呟いて、誰もいないのにぽかりと口をあけている
扉を示した。
﹁あそこにいけば、入学手続きができるはずだ。難しい試験がある
わけじゃないから、怖がらなくても大丈夫だよ﹂
顔も声も覚えのない人は、口調だけが﹁お師匠様﹂だった。
その違和感を受け止め切れなくて、エッタはただうつむいた。
魔法学院の院長が通し、親しげに声をかけたのだから、この人は
確かに自分の師匠なのだろう。
けれど、エッタの知っている師匠は、父親よりもずっと年上で、
身長もこんなに高くなくて、ちょっと変わってはいるけれど優しい、
祖父のような人だった。
エッタが三年の間学びながら、一緒に暮らし、時には叱りさえし
たのは、髪も目も同じだけれど姿形は全く違う、この人ではない。
61
小さく、けれど強く唇を噛む。
返して、と。
わたしのお師匠様を返して、と。
言ってはならないだろう言葉を、必死で飲み込んだ。
﹁⋮⋮驚かせてごめん。事情があって、姿を変えている必要があっ
たんだ﹂
ひどく言いにくそうに、低い声がした。
﹁君の村に赴任したのも、学院を、王都を離れる必要があったから
で⋮⋮だけど、結果としてみんなを騙していたことになる。本当に
すまなかった﹂
下を向いたままのエッタの視界に、赤い髪が映る。
﹁⋮⋮どうして、ですか﹂
謝罪されても、はいわかりました、などとたやすく言えなかった。
言いたくなかった。
﹁どうしてそんなことしたんですか﹂
噛んでいた唇を、ようやっと動かす。
﹁いまは、まだ言えない。許しがないから﹂
応える声は苦い。
﹁ただ、嘘も本当もごちゃまぜな噂としては学院内に溢れてる。こ
こにいる以上、耳にすることもあると思うけど、どれもろくな話じ
ゃないから、他の人に俺の名前は言わない方がいい﹂
俺、という聞いたことのない一人称に、肩がすくむ。
﹁だけど﹂
短い言葉が、強く紡がれた。
とっさに仰いだ青い瞳と、真っ直ぐ目が合う。
﹁本当に困った時は、俺を呼んで。どこにいても、どんなことがあ
62
っても、君を守ろう﹂
﹁⋮⋮お師匠様﹂
思わず零れた言葉に、青年がふわりと微笑んだ。
促されて入ったのは、陽光の入る大きな窓の部屋だった。
なにげなく振り返った先は、薄暗い回廊ではなく、明かり取りの
窓がふんだんに設けられた白壁の廊下に変わっている。
なるほど、あの人の言っていた﹁院長のご厚意﹂とは、場所をつ
なげる魔法のことなのか。
さすがに慣れてきた﹁魔法﹂に納得しながら、目は白い外套を探
す。
場所が変わってしまった廊下に、あの人の姿があるわけはないの
だけれど。
﹁いらっしゃい、入学希望の人ね?﹂
後ろからかけられた声は柔らかい女性のものだった。
かけていた椅子から立ち上がった顔は若く、温かそうな濃い緑色
の長衣に、腰までの栗色の髪がつややかに映えている。
そういえば、入学の手続きをするよう言われたんだった。
挨拶もなしに部屋に入ったうえ、後ろを向いて突っ立っているな
んてとんだ無作法だ。
﹁失礼しました。入学希望の、リュエナ・マルチェリエッタです﹂
慌てて頭を下げると、いそいそと近寄ってきた女性がエッタの両
手を取った。
﹁初めまして、講師のキーラ・オルトレイです。ちょっと失礼する
わね﹂
ひんやりとした華奢な手が、エッタの手を包み込む。
まるで鼓動を聞くかのように目を伏せ、ややあって長衣と同じ深
緑の瞳がにっこりとほほ笑んだ。
63
﹁はい、ありがとう。このくらいの魔力なら、十分入学可能です。
シャーグリーウスへようこそ﹂
その言葉を聞くのは院長に次いで二回目だが、その前の一言にま
たたいた。
講師だというこの女性は、触れただけで魔力のありなしどころか
その高さまでがわかるのか。
驚くエッタに構わず、キーラと名乗った講師は机に戻り、楽しそ
うにさらさらと何かを書きつけた。
﹁リュエナ・マルチェリエッタ。院長の承認は済んでいますので、
これで正式に入学が許可されました。どうぞ学院生活を楽しんでく
ださい。これからよろしくね﹂
64
杜の学び舎︵1︶
まずはお部屋に案内しましょう、と言われて向かった先は、馬車
を降りた時に見た正面の大きな建物だった。
﹁⋮⋮これが全部、生徒の部屋なんですか?﹂
﹁多いときには、生徒だけで千を越えるし、研究するためにいくつ
もの部屋を持つ人たちもいるわ。ただ、個人部屋にうつれるのは成
績優秀な人が優先だから、最初はみんな相部屋で生活するの﹂
キーラの先導で進む廊下は、堅牢だがそっけないくらい実用一点
張りの作りで、魔法の荘厳さも恐ろしさも感じない。ここに来る前、
街で泊ったあの宿のようだ。
﹁はい、この部屋よ。先に一人入室しているから、仲良くね﹂
示された壁には、なるほど小さな木板に先の入室者の名前が書い
てある。
その文字が、縮みながらすうっと木板の上のほうへずれた。
何が起こったか飲み込めないまま目を見開いていると、新しくで
きた空欄に、エッタの名前がするすると現れた。
口を開けて隣を見れば、先導講師の綺麗な笑顔がある。
﹁便利でしょ?﹂
こんな反応には慣れているのだろうキーラは、ね?と可愛らしく
首を傾げてみせると、扉を叩いた。
﹁サヴィナ、あなたと同室になる新入生を連れてきました。入って
おとな
いいかしら?﹂
訪いをうけて出てきたのは、エッタの感覚では旅芸人と見間違
うほど豪華な格好をした娘だった。
いや、州都や王都で見かけた女性たちも賑やかな色合いの服を着
ていたから、これが王都あたりでは普通の服装なのだろうが、山奥
65
ひだ
育ちのエッタには、到底普段着になど見えない格好である。
襟は高く、襞が幾重にも重なった裾も床に届くほど長い。肩は柔
らかく膨らみ、袖口はゆったりと広がっている。
いたるところに贅沢なほど布地を使い、その一面に細かい刺繍、
端々には目の詰まったレース。もちろん鮮やかな色で染めてあるう
えに、素材は全部絹らしい。
一目見ただけで惜しみない手間暇と金額がかかっているとわかる
衣装だった。
迫力に押されて一歩下がりつつも相手を見ていると、サヴィナと
呼ばれた娘も淡い鳶色の瞳でこちらを見返してきた。
こがね
エッタの、一見して田舎から出てきたとわかる木綿作りの簡素な
服装にかすかに鼻を鳴らすと、きらきら濃く輝く黄金色の長い巻き
髪を、肩の後ろに流す。
﹁わたくし、サヴィナ・レダニスよ。よろしく﹂
﹁リュエナ・マルチェリエッタです、はじめまして⋮⋮﹂
どうやら個性豊からしい寮友にとまどいながら、よろしくと頭を
下げる。
その横で、キーラが﹁えーと﹂と小首を傾げながら、紙片と小さ
な本を取り出した。
﹁起床や食事の時間はこの紙の一覧を見てね。規則についてはこち
らの冊子を。設備の案内は、サヴィナにお願いしていいかしら﹂
﹁わかりましたわ﹂
﹁ありがとう。校内は迷いやすいかもしれないけどそのうち慣れる
から大丈夫よ。入ってはいけない場所は開かないようになってるか
ら割合安全です。あまりないと思うけど、もしも怪しいものがあっ
たら触らないで講師に連絡してね。それから、授業の選択は適性を
見てからだから、いまから慌てて決めないように。では、しっかり
学んでください。学院生活を楽しんでね﹂
おっとりした口調ながら、あれよあれよと言う間に説明を片付け
たキーラがにこにこしながら出て行くのを、エッタはぽかんと見送
66
った。
扉が閉じたのを見届けると、サヴィナが髪を波打たせて振り返っ
た。
﹁さあ、知りたいことがあったら遠慮なく聞いて頂戴﹂
つんと顎をあげ、胸を張る。
﹁わたくしは、先々週こちらに入学しましたの。でもまだ正式に受
講科目は決定していませんから、そういう意味ではあなたと一緒で
すわね。ですけど、ひととおりの案内と説明はできましてよ﹂
自信たっぷりに言われても、なにから聞くべきかもわからないエ
ッタとしては、はあ、としか言えない。
荷物を持ったまま立ち尽くす﹁田舎娘﹂に、サヴィナが綺麗に整
えられた左眉をあげた。
﹁⋮⋮とりあえず、荷物はその棚に置いていただけるかしら﹂
優雅なしぐさで示されたのは、窓を挟んで部屋の左側に据えられ
た棚机だった。並んで、古いながら天蓋のかかった寝台がある。
反対を見れば、まるきり同じつくりの家具に、サヴィナのものら
しい私物があれこれ詰め込まれていた。
ここに至ってようやく室内をみまわす余裕が出たエッタに、室友
となった娘が口を尖らせる。
﹁リュエナ、とか言ったかしら。夕食前に館内を案内をしたいので
すけど、早くしてくださらない?﹂
明らかに険を含んだ語調に、エッタは肩をすくめた。
67
杜の学び舎︵2︶
サヴィナに急き立てるように連れ出され、まず向かった先は図書
室だった。
二人の居室からは、あちこちの廊下を挟んで上ったり下ったりを
都合十回以上繰り返し、長い回廊を渡った先にある、建屋の一番は
ずれの大きな区域である。
﹁学院に来たからには、それなりに学ぶ気があるのでしょう? で
したら、一番大事な場所は、ここですわ﹂
古めかしい扉を開いた先は、壁だけでなく無数に並んだ棚のすべ
てが、見渡す限り本で埋め尽くされている。
﹁すばらしい蔵書量でしょう。王宮の古書庫にもない古文書でも、
ここでは閲覧自由ですのよ﹂
自分のことのように胸を張るサヴィナに先導されて踏んだ床は、
靴が沈むほど毛足の長い絨緞が敷き詰められていた。
やかた
図書室、とはいっても、広い吹き抜けを中心に三階層にわかれた、
一つの館のような部屋だ。
こんなに広い場所など、神殿以外で見たことがない。
まして、そのすべてが本の為だけに存在しているなど。
本と言えば師匠のもの数冊しか見たことのない身には、この膨大
の紙の山に一体何が書いてあるのか想像もできない。
いや、間違っても畑の耕し方でないことだけは確かだが、これだ
けの場所を占領する本がすべて魔法に関することだなんて。
金銀で箔押しされた題名は擦り切れて読めなかったりするが、並
ぶ背表紙はどれも古めかしく、布張りだけでなく錦や革で装丁され
ているらしいものもある。
四方から押し寄せる古文書の気配に圧倒されそうだった。 68
横で巻き髪を梳きながら自慢そうに立っていたサヴィナが、ぽか
んと口を開けたままのエッタにぴくりと片眉をあげた。
﹁⋮⋮ご感想は?﹂
﹁え?﹂
鈍い反応に焦れたのか、長く綺麗に整えられた爪がぐるりと周囲
を指した。
﹁大陸中を探してもあるかどうかわからない古い本もございますの
よ? すばらしいとかなんとかおっしゃいな﹂
﹁⋮⋮え、はい、すごいですね⋮⋮?﹂
実のところ、驚き過ぎて声も出なかったのだが、この返答では先
輩には喜んでいただけなかったらしい。
案内した甲斐がございませんわ、と口を尖らせながら身をひるが
えすと、さっさと部屋を出るよう促した。
﹁他にも教える場所はありますのよ、早くいらっしゃい﹂
◆
こちらが共有の浴場、それが洗面所、向こうへ行くと監督室、そ
っちの広間は特別修練室、とめまぐるしく連れ回されたなかでエッ
タが意外だったのは、洗濯室がなかったことだ。
﹁あの、着替えはどこで洗えばいいんでしょう?﹂
﹁は?!﹂
小走りにあとを追いながら問いかけたせいで、頓狂な声とともに
振り返ったサヴィナに頭から突っ込むところだった。
あやうく踏みとどまりながら、そういえば彼女の絹のドレスはど
うやって手入れしているのだろうと不思議に思った。
見るからに良い家の令嬢で、爪を伸ばしている手はとても水仕事
などできそうにない。
もしかして、定期的に実家に持ち帰っていたりするのだろうか。
問われたサヴィナの方は、面妖なことを聞いたと言わんばかりに
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額を押さえている。
﹁⋮⋮あなたのおうちでどうだったとしても、ここでは生徒は勉学
に集中するために家事一切は学院の管轄ですの。衣類や寝具は、洗
濯室に預けますのよ﹂
とう
あ
ほら、と示された先には、籠が積まれた小部屋があった。
籐で編まれた籠は、ご丁寧に鍵つきのふたがかかっている。
むらおさ
まさか自分の洗濯を全くの他人にしてもらうとは思ってもいなか
った。
そんな御身分など、自分の村では小間使いを雇っていた村長の家
くらいだ。
申し訳ないという以上に、下着まで洗ってもらうのかと冷や汗が
出そうになる。
﹁もちろん、してほしくないものは自分でしても構いませんし、部
屋の寝具は自分で整えますけど﹂
サヴィナの言葉にほっとしたが、見上げた顔は凄味を込めて微笑
んでいた。
﹁わ・た・く・し・た・ち・の・部屋に、洗濯物など干さないでく
ださいませね?﹂
﹁⋮⋮はい⋮⋮﹂
四の五の言わず洗濯室へ出せという無言の圧力に、共同生活の難
しさを垣間見たエッタだった。
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杜の学び舎︵3︶
どんな魔法が飛び交うかと身構えていた食堂は、だだっ広くはあ
ったものの、ごく普通の大広間だった。
一斉に食事をとるとか何かの序列を守るとかの面倒もなく、みな
来た順に思い思いの場所に席を取っている。
サヴィナに連れられたエッタも、まだそれほど混んでいない真ん
中あたりに腰を下ろした。
古びた机と椅子だが、きしむこともささくれが刺さることもない。
年を経た木の持つ温かさのせいか、あの古い庵にいるような気持
ちになる。
物珍しく見上げた視界に、湯気を立てた皿がぬっと差し出された。
危うく飛び上がりそうになりながら振り返ると、こざっぱりした
エプロン姿の給仕が一礼してさがっていく。
注文を取るのか、自分で受け取りに行くのかと思っていたら、何
も言わないでも食事が出てくる仕様になっているらしい。
自分で食事を作らないばかりか、配膳までしてもらうのが学校と
いうものなのか。
エッタの常識では一家の主か金持ちにしか受けえない待遇に、冷
汗が垂れそうだ。
向かいに座った同輩はあきらかにかしずかれるのに慣れた階級ら
しく、今日はお野菜ばかりですのね、などとこぼしながら品よく食
器を手に取っている。
ふと、鳶色の瞳がエッタを見て瞬いた。
﹁嫌いなものがおありなの? 多少の変更はできましてよ?﹂
目の前で頬をひきつらせて固まった新入生が食事に不満を持った
と思ったのか、優雅に首をかしげる。
﹁いえ! 大丈夫です﹂
作っていただく料理に文句などあるわけがない。
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目の前には、色鮮やかな野菜をふんだんに使った肉の煮込みと、
酢漬けの|甘藍≪キャベツ≫、柔らかそうな焼きたてのパン、まだ
切り口から雫の滴る果物が並べられている。
大振りの肉がごろごろ入っているこの状態をして﹁お野菜ばかり﹂
と言うサヴィナが家でどんなものを食べているのか思いつきもしな
いが、絹を普段着にできる家だ、さぞや豪華な食事なのだろう。
一口含んだ煮込みは、濃厚な味付けでいくらでも食べられそうだ
った。
そもそも、塩と庭先のハーブくらいしか調味料のないエッタの料
理とは雲泥の差である。
うっかりこんな生活に慣れてしまったら、村に帰った時が恐ろし
い。
︱︱︱お師匠様、わたしの料理まずくなかったのかな。
ふとよぎった考えが、重く胸に刺さった。
エッタが思う﹁お師匠様﹂は、廊下で別れた﹁あの人﹂ではない。
姿が変わっただけ、なんて、そんなふうに割り切れない。
息が詰まって、眉間にしわが寄る。
﹁どうかなさって?﹂
怪訝そうなサヴィナに、無理と笑った。
﹁⋮⋮ちょっと、熱かったです﹂
村では到底味わえないごちそうが、舌に苦かった。
食事を終らせて戻った居室では、大きな籠が二つ、エッタを待ち
受けていた。
洗濯室で見た鍵のかかる籐籠の一つには、靴や外套まで含めた真
新しい制服が三揃い、もう一つには、夜着に始まり日常のこまごま
とした衣類がぎっしりつまっている。
これも﹁学院が管轄する衣食住﹂に含まれているというのだから
驚きだ。
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もちろん、サヴィナのように自分で私服を持ち込むのも自由だと
いうが、学生の誰もが裕福なわけではないから、この恩恵にあずか
る者も多いらしい。
﹁魔法学院で学ぶ者は、一定以上の魔力を持つことが必須条件でし
ょう? ここで学ぶということは、いずれ王宮や町の役に立つ確率
が高いわけですもの、国として当然の投資ということですわ﹂
当座の着換えといくらもない金銭だけでどうやりくりするのか謎
だったが、なるほどこれだけ至れり尽くせりならば生活の心配はな
さそうだ。
問題は、果たして自分にそれだけの価値があるかどうか。
エッタには、ほとんど魔力がない。
学院に入ることを認められる程度にはあるようだが、そもそも師
匠が引き取るときに念を押し、実際薬を作ることしかできなかった
ようなありさまだ。
こんな半端な身ではたして何を学べるのか、いまさらになって後
悔が湧き上がる。
肌に心地よい制服のシャツを抱えながら浮かない顔をしていると、
サヴィナがくすりと笑った。
﹁不安?﹂
ぽかんと見返せば、作り付けの文机に座った娘がちょっと肩をす
くめて微笑んだ。
﹁わたくしも、初日はそうでしたから。でも、学院が認めてくださ
ったんですもの、あなたにもここで学ぶ権利があるはずだわ。だい
たい﹂
最初に見た、つんとすました顔で軽く顎を上げた。
﹁入学した生徒を育てられないなんて、魔法学院の名がすたります
わ﹂
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いかにも気位の高い令嬢然とした物言いをしながら、片目をつぶ
って見せる。
その愛嬌のある仕草に、思わず笑みが戻った。
﹁⋮⋮そうですね﹂
﹁そうですわよ﹂
二人でくっくと笑いながら、この人とはうまくやっていけそうな
気がした。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n4044bu/
円舞曲 ―君とワルツを―
2014年8月29日03時11分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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