『黄蕨』と羈縻(きび)政策 『熊山遺跡出土品』

吉備国の語源『黄蕨』と羈縻(きび)政策
平成 22 年 4 月 17 日
『熊山遺跡出土品』の考察
丸谷憲二
1
はじめに
岡山県には古代において強大な政権が存在していた。
「吉備国」である。吉備氏の始祖伝
承は古事記、日本書紀に記録されている。その記述量は地方豪族の中では突出している。
しかし、吉備国の語源については明確になっていない。その理由は、文献史料として『古
事記』、『日本書紀』、『続日本記』のみを使用しているからである。
せ ん だ い き く じ ほ ん き たいせいきょう
吉備国の最古の記録は、推古 30 年(622)成立の『先代旧事本紀大成経七十二巻本』で
ある。吉備は「黄蕨」「黄蕨津彦神」と記録されている。『黄蕨』は古代地名であり漢音で
こうけつ
「コウケツ」と読まなければならない。地名学より黄蕨国の蕨は突厥国からの渡来者を意
味している。
突厥国を調査していて羈縻(きび)政策を知った。羈縻とは「羈:午の手綱、縻:牛の
鼻綱」を意味している。つまり、
「手綱・鼻綱で周辺諸国を中国から離反しないように繋ぎ
止めておく」古代中国の間接支配の方法である。地名学と神道史による調査研究内容を報
告したい。
『騎馬民族史-2
正史北狄伝』平凡社より
2 突厥国の人名「中国の正史(二十四史)突厥伝 622 年以前調査」と岡山県地名の比較
突厥伝(周書・随書・北史・旧唐書・新唐書)
突厥国の人名地名
岡山県の地名
説明
みのしま
可汗(カガン)
可汗とは君主号。
汗入(あせり)
岡山市南区妹尾近くの箕島に汗入がある。
伯耆国(鳥取県)六郡に汗入郡がある。
1
阿波(アパ)可汗
阿波村(あぱ)
西粟倉村
鳥取県西伯郡の古名が汗入郡である。
津山市阿波 古代製鉄法「タタラ吹き製鉄」
弥生中期・後期の土器片出土→出雲族の開殖説
鉄穴内(かんのうち)・金屋寺・金山
伊利(イリク)可汗 伊里
イル(国)に関係か。
備前市伊里 伊部 忌部(いんべ)氏由来説有。
忌部氏は神祇祭祀に携わる部民。熊山遺跡は忌
部氏の古代祭祀跡。(阿波国にも忌部神社)
バガ(587~588)
ハガ
高祖(唐の武帝)
高祖山
高祖一族
岡山市ハガ(高島小学校)遺跡 羊形硯出土
おかやま し は が
び ぜ ん の く に つ だかのこおり はが
岡山市芳賀(備前国津 高 郡 波 河 )
岡山市建部町
瀬戸内市牛窓
鉄勒(テツロク)
鉄
岡山市東区鉄
金山(アルタイ山)
金山は形が兜に似て
いた。
兜を突厥と言った。
金山
御津金山
岡山市北区金山寺・北房町阿口・川上町地頭
御津郡御津町大字北野
金山彦命金山姫命
金山彦命
金山彦命
金山彦命
金山彦大神
金山彦命
金山彦命
青江神社(倉敷市酒津)青江鍛冶の守護神
阿口神社(真庭市阿口)
中山神社(津山市一宮)
吉備津神社 末社一童社
吉備津彦神社(岡山市一宮吉備中山)
金彦神社(備前市吉永町金谷)
金切神社(井原市神代町)後冷泉天皇康平5年
(1062)領主橘氏高に願い出て金山彦命勧請。
地頭
智頭
鳥取県智頭町
ようけいけん
3
弥生時代の吉備(黄蕨)国
弥生時代中期の紀元前 1 世紀ごろ、日本列島(倭国)は百余国に分かれていた。紀元後
1 世紀後半には、
「倭国乱れ、相攻伐すること暦年」とされている。高島村のある旭東平野
に人々が暮らし始めたのは縄文時代である。弥生時代になると多くのムラができて雄町遺
跡のような大きなムラも見られる。弥生時代とは水稲栽培を中心とする生産経済の本格化
と共に、金属器の使用という大革命の時代であり百間川沢田遺跡(多くの土器・炉床・貯
蔵穴を発見)、百間川原尾島遺跡の時代である。
注目すべきは「高島村古跡略図」のハガという地名である。テュルク(突蕨)国の国名は
530~540 年代には中国人に知られ、突厥国成立は 552 年。随への侵入は 582 年である。
『テュルクのカガン系図』には、①イリク(552~553)⇒②乙息記(553)⇒バガ(587
~588)とあり、ハガという地名はバガ縁の渡来人と考えられる。
突厥国の東西分裂は 583 年である。分裂による混乱により吉備(黄蕨)国へ渡来したと
考える。
2
「テュルクのカガン系図」『世界の歴史⑩草原とオアシス』収録系図
ようけいけん
3.1 ハガ遺跡と羊形硯
ハガ遺跡は岡山平野の中央部に位置している。岡山三大河川の一つである旭川の東岸平
野の北半になる。『ハガ(高島小プール)遺跡発掘調査現地説明会資料』には「遺構面は 4 面
で、最も古いのは 7 世紀の遺構面で、比較的小さな柱穴と溝が検出された。」と報告されて
ようけいけん
いる。ハガ遺跡から出土した羊形硯は頭の部分のみの破片であるが、羊をかたどった焼き
物の硯(岡山市埋蔵文化財センター所蔵)である。突厥国からの渡来人縁の焼き物である。
魏志倭人伝に「その地には、牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし」と記録されている。
ぎ し わじんでん
魏志倭人伝とは中国の正史『三国志』中の「魏書」(全 30 巻)に書かれている東夷伝倭
人条の略称である。正式には「『三国志』魏書東夷伝倭人条」である。全文で 1988(又は
2008)文字から成立している。著者は西晋の陳寿であり 3 世紀末(280~290 年頃)に書か
れたものである。他にも三彩陶器等、奈良の都に遜色ないものが多数発掘されているハガ
遺跡は岡山平野の中央部に位置している。
ハガ遺跡出土
羊形硯
3
魏志倭人伝
4 熊山遺跡出土 陶製容器の考察
4.1 熊山遺跡
岡山県赤磐市奥吉原にある備前一の高峰、熊山(508m)山頂付近に方形・階段式・石積
み遺構がある。正方形の基底部の上に3段の基壇を重ね、各面は正確に東西南北を向いて
いる。全体の高さは約 3.5m。各辺の長さは基底部が約 12m、初段が約 7.7m、2段は約 5.2m、
3段は約 3.5m で、第2段の各面の中央には、龕(がん)と呼ばれる棚状くぼみがある。
基壇の中央には、縦穴の石室(約2m)が作られ、その石室に陶製筒形の陶製容器(高
さ約 1.62m)の中に 15 点の遺物が収納されていた。天理大学付属天理参考館(奈良県天
理市)に『熊山遺跡と陶製相輪』として収蔵されている。陶製筒形容器と三彩釉小壺から、
石積遺構の建立年代は、熊山神社境内 1 号と南山麓 3 号は奈良時代後期(岡山市埋蔵文化
財センター)とされている。熊山のクマは、朝鮮語で神とか神聖な場所を表す言葉です。
突厥国の東西分裂は 583 年である。分裂による混乱により吉備(黄蕨)国熊山へ渡来し
たと考える。熊山には残骸的な石積みを含め 30~40 基の石積跡が確認されている。
熊山遺跡
熊山神社境内 1 号
4.2 陶製容器 頭部形状の考察
熊山町教育委員会編『熊山遺跡調査報告書』には、
「国指定石積遺跡出土 陶製筒型容器」
と命名し頭部を蓋としている。蓋の形状の説明は無い。陶製筒型容器との根拠は、筒の中
に 15 点の遺物が収納されていたからである。須恵器であり日本では他所での出土例は無い。
石田茂作氏(東京国立博物館)は火焔を作り出した宝珠形から国宝 東寺金剛露盤宝珠に似
ているとして、
『熊山戒壇出土瓦製宝珠円筒』と命名している。若狭鉄六氏は「炎帝、即ち、
太陽の神を祀った祭器」としている。炎帝とは「医薬の祖 炎帝神農氏」である。しかし、
私は兜形祭祀遺跡と考えたい。発掘に関する友光醒太氏の手記が、若狭哲六氏(熊山を語
る会・備前市東片上)により公開されている。
重要なのは熊山遺跡の発掘が 12 年後に一般市民に知らされたという事実である。手記を
読んで頭に浮かんだのは「スキタイ黄金兜」である。ウクライナを中心に紀元前 7 世紀に、
黒海北岸に一大勢力を築いたスキタイ出土の黄金兜(BC 4 世紀・ウクライナ国立歴史宝物
博物館所蔵)である。騎馬民族の文化が中国をう回し、朝鮮半島を経由し熊山にたどりつ
いたと考えた。しかし、天理大学収蔵の写真を入手すると、少しイメージが異なっている。
スキタイは BC 7~3 世紀にかけて、北コーカス、黒海北岸からドナウ川下流を支配したイ
ラン系遊牧騎馬民族である。
4
ヒンズー教のリンガ(男根像)(Lingam)説(佐藤光範氏)がある。リンガは「しるし」
を意味する。語根は男根で生殖のシンボルである。リンガの基部は四角形で、中央部分は
八角形、上部は円筒形である。熊山遺跡出土 とは明確に形状が異なっている。
友光醒太氏の手記
スキタイ黄金兜
ウクライナ国立歴史宝物博物館蔵
陶製筒型容器
4.2.1
天理大学蔵
カンボジアのリンガ(プリア・カン)福岡県出土の兜
赤磐市山陽郷土資料館 展示物の考察
古代兜に関する注目すべき展示がされている。福岡県出土の兜はモンゴルの帽子と同一
形状である。しかし、正崎 2 号墳出土(5 世紀初頭)甲冑の兜は形状が異なっている。
がんぎだま
岩田 14 号墳出土(6 世紀初頭)の雁木玉はガラス製で、胴径 1.1cm、高さ 0.8 cm である。
かんとうの た ち
環 頭 太刀が出土し枝頭が百済の武寧王(~523)陵出土の柄頭に似ている。大阪府の長持
山古墳より、ほぼ完全な挂甲(けいこう)が出土している。児島湾を北に望む岡山市北浦
にある八幡大塚 2 号墳からも鎧の一部が出土している。古墳時代後期とされている。
5
雁木玉
ガラス製
環頭太刀
甲冑の兜(5 世紀初頭)
赤磐市山陽郷土資料館パンフレットより
4.2.2 備前市伊里川と突厥国のイリ川
熊山より備前市伊里へ伊里川が流れ、突厥国バルハシ湖へイリ川が流れこんでいる。
突厥国イリ川
熊山の近くに弓削金山がある。突厥とは金山(アルタイ山)の形が兜に似ていたので、
兜を突厥と言った。突厥国金山の南麓で柔然の支配下にあったトルコ部族の阿史那氏は、
たんてつ
遊牧民には珍しい鍛鉄技術で実力を伸ばし、552 年に独立して突厥(トルコ)と称した。
トルコ系民族の遠祖である。552 年は現在のトルコ共和国でも民族史上の建国の年とされ
ている。角川地名辞典は、備前市伊部(いんべ)の由来を忌部氏の私有民である曲部(か
きべ)としている。備前市伊里地区は新しい備前市の中心地を占めている。
大河内智之氏(和歌山県立博物館)は、熊野川の中州に本宮があった事例を上げ、本来、
中洲が神祀りをする場所であったとして川が神様と説明している。熊野本宮は熊野川との
関係、水との関係で聖地として成立していると主張している。
6
たんてつ
4.2.3
忌部氏と鍛鉄技術
忌部氏は大化前代の部民の一つ、中臣氏と並び王権・国家の祭儀に奉仕し、主に幣帛や
供神調度に関する職務を担当した神祇祭祀に携わる部民である。熊山遺跡は忌部氏の古代
石積祭祀遺構となる。忌部氏の遠祖は天太玉命(あめのふとだまのみこと)である。
たんてつ
忌部氏は突蕨国(トルコ系遊牧民)からの渡来人となる。突厥国は鍛鉄技術で勢力を拡
大した。
たんてつ
鍛鉄とは鉄をきたえること。きたえた鉄を意味している。備前刀作刀の基礎技術である。
バルハシ湖はソ連カザフ共和国の東南部に位置し、表面積は四国ほどでテンシャン山脈
の雪解け水がイリ川などの7つの河川によって流入する。流出する河川は一つもなく閉塞
湖である。ウズンアラル海峡を境として、湖の西部は淡水、東部は塩水である。11~4 月
中旬の間は氷結する。イリ川は、中国新疆ウイグル自治区の北部のイリ・カザフ自治州か
らカザフスタン南西部のアルマトイ州にかけて流れる川である。長さ 1439 km のうち 815 km
がカザフスタンを流れる。天山山脈に源を発し西に流れバルハシ湖に注ぐ。河口には巨大
な三角州がある。流域のイリ地方では烏孫、チャガタイ・ハン国、ジュンガルといった遊
牧国家が興亡した。
イリ・カザフ自治州は中華人民共和国新疆ウイグル自治区北部に位置するカザフ族の副
省級自治州。グルジャ(伊寧)市を州都とし、全国で唯一、タルバガタイ(塔城)、アルタ
イ(阿勒泰)の 2 地区を管轄する地区級行政単位である。唐代には突厥旧属カルルク部の
地であり、後にカラハン王朝の領土となった。1124 年、契丹貴族耶律大石がイリのカルル
ク部を臣服させて西遼を樹立した。1211 年カルルク部はモンゴル帝国の支配下に入り、チ
ャガタイ・ハン国に分封された。
4.2.4
熊山山塊の『鉄鉱石(岩鉱)鉧』
平成元年に熊山山塊で発見された『鉧(けら)』について、若狭哲六氏は「渡来品か国産
品か、我国の古代製鉄技術の謎を解く上で極めて重要」と指摘している。
鉧(けら)とは、出来上がった製品のことである。科学分析の結果、
「チタン成分は極め
て少なく、マンガンを多く含有しており、砂鉄系製錬ではなく鉱石系精錬である」。製鉄炉
の存在を証明する鉄滓(てつさい・スラッグ)も多く発見されている。スラッグの科学分
7
析結果は、
「チタン・バナジュームの含有量は比較的、他地域より少なく鉱石系による鉄製
錬のもの」である。今後の詳細な調査結果によっては「日本の製鉄技術史を変えるかもし
れない」と報告している。
熊山より発見された『鉄鉱石(岩鉱)鉧』
4.2.5 鉄勒と鉄(岡山市東区鉄)
トルコ系諸民族を統一した突厥国ができたため、当時の中国人は、突厥以外のトルコ人
を総称し「鉄勒(てつろく)」と呼んでいた。同じトルコ系であっても、王家と被支配諸部
族を区別していた。
「鉄勒」と呼ばれたトルコ系部族の中には、アルタイ山脈を拠点にした
鉄鍛冶を特技とする部族がいた。「鉄」という文字は鉄勒(てつろく)に由来している。
アルタイ山脈は中国・カザフスタン・ロシア・モンゴルの国境にまたがる約 2000km にわ
たる山脈である。「アルタイ」の語源はトルコ・モンゴル語の「金(アルトゥン)」に由来
している。中国では今でもアルタイを「金山」と呼んでいる。
アルタイ山脈に標高 7435mの「托木爾(トムール)峰」が含まれる。「トムール」とは
ウイグル語で「鉄山」の意味である。
「金山」と呼ばれるアルタイ山脈は、金、鉄をはじめ
とする鉱物資源が豊富なことで知られている。
突厥の首長であった「阿史那(あしな)氏」は、首長であると同時に呪術師でもあった。
当時、金銀より貴重であった鉄の兜を用意させ、それをかぶり巫術を行った。突厥はモン
ゴル系「柔然(じゅうぜん)」の支配下にあり、トルコ系「突厥」の役割は鉄工であった。
柔然に仕える鉄工の突厥が反旗を翻し、柔然に代わって6世紀半ばから約 200 年間、途中、
東西の分裂や唐による被支配時代を経験し、一大遊牧国家を形成し維持できたのは、
「鉄の
技術力」によるものである。
『鉄の力』を握るものが世界を制した。鉄を自由に扱える技術
を持つということは、現在の核兵器を持つことと同義である。
「製鉄技術」は、世界を制す
ることができる秘伝中の秘伝であった。製鉄技術は特定の部族によって門外不出のワザと
して継承された。
岡山市東区鉄の近くに、西祖山方前遺跡(岡山市東区西祖)がある。吉備国における初期
段階 6 世紀後半頃の鉱石製鉄の製鉄炉が発見されている。突厥国の東西分裂は 583 年であ
たんてつ
る。突厥国は鍛鉄技術で勢力を拡大した。分裂による混乱により吉備(黄蕨)国へ渡来し
た。時代が符合している。
4.2.6 製鉄の守護神「金山毘古神と金山彦命」
『古事記』に金山毘古神、『日本書紀』に金山彦と記される製鉄の神がある。
「金山彦」を祀る総本宮は南宮山麓の「南宮大社(岐阜県垂井町)」である。金山祭とし
8
かなや ご
て「鞴(ふいご)祭」がある。天目一箇神(アマノマヒトツノカミ)の別名を「金屋子神」
という。「金屋子神」の総本宮は金屋子神社(出雲の安来市広瀬町西比田)である。「金山
彦」を祀る末社は全国に約 3000 社。「金屋子神」の末社は全国に約 1200 社である。
吉備の国の製鉄の守護神は『日本書紀』の金山彦であり、
『古事記』の金山毘古神ではな
い。製鉄民の移動・金屋子神=金山天目一箇神は、播磨→吉備→出雲と移動している。
金山とはアルタイの語源となった「金山」であり、「吉備津彦神社の祭神 金山彦大神」は
突厥国からの渡来者となる。
5
「鉄は力なり」
部族の奪い合い、産鉄技術を持つ民をいかに自己の支配下に組み込み、その技術力を手
にするか。突蕨国は、騎馬民族の興亡の陰に、数々の支配者によって翻弄され数奇な運命
をたどった、鉄工とされた突厥国は様々なトルコ系連合である。製鉄の技術に長けていた
のは被支配者となっていた「鉄勒」の中の特定部族である。世界を制する製鉄の技術をも
つ民が、逆に支配され時の支配者によって利用されていた。突蕨国は、これを記憶してお
り、鉄に関する伝統を強く継承している。日本刀を鍛錬する際、刀鍛冶が白装束に身を包
み、精進潔斎した後、聖水によって鉄を打つ光景を思い浮かべれば納得できる。
中央アジアでも製鉄に携わったのは、野卑な職人でも荒々しい武人でもなく、神官かそ
れに近い存在であった。騎馬民族の鍛冶師尊重の伝統、突厥の鉄に対する宗教的な行為は、
こうした事情が関係している。製鉄技術を有する部族は神事儀式を司る民(忌部氏)であ
った。世界を制覇する技術を持っていたにもかかわらず、常に支配される側にまわり、時
の支配者の道具として利用され続けた。
6 突厥国と古代中国
6.1 古代中国の羈縻政策
日本の古代史を、東アジア史の一環として捕らえようとする試みは戦後さかんになって
きている。東アジアとの関係を無視しては歴史学の体をなさない。
古代中国の羈縻(きび)政策が適用された地域を羈縻(きび)州という。羈縻(きび)州
の長官は中国の一地方官吏であり、部族内部からは王または酋長である。
漢代からの異民族政策であるが、古代中国特有の支配-統御法である。
領域化とは支配地に内地と同じ州県を設置し,唐朝から官僚を送り込み,住民を唐の国法
下に置いて直接支配することである。
冊封(さくほう)とは周辺民族・国家の首長に唐の官爵を与え、中国王朝の支配秩序に組
み込むことである。中国に近い友好的な国王・酋長を選び、都督・刺史・県令に任じ、彼らの統
治権を唐の政治構造における官吏として行使させた。
羈縻(きび)政策とは、中国王朝による周辺の異民族への統御政策の呼称である。漢の時
代に始まり、唐の時代に最も巧みに利用された。周辺の異民族・諸国家に対し政治的・軍事
的・文化的に従属関係をつくりあげた。この具体化が領域化(内地化)・覊縻・冊封である。
6.2 突厥国と羈縻政策
突厥国の配下部族の首領は、647 年に都督府の長官である都督や州の長官である刺史に
9
任命されている。唐朝の官僚を都護とする燕然都護府の統制下に置かれていた。
突厥の可汗についても唐(隋)と突厥に父子(舅婿)関係や君臣関係があった。
冊封関係の根拠は『新唐書』「太宗紀」に太宗が「天可汗(てん)」と号したと記録され
ている。突厥は冊封関係から羈縻(きび)支配に移行されていた。
唐は、
、突厥・
・朝鮮・ヴェトナム等に対し冊封政策をとっていた。しかし、次第にその支
配力は弱まり、節度使が辺境防衛に当たるようになった。
唐 3 代皇帝高宗(在位 649~683)の晩期から則天武后の時代(7 世紀末~8 世紀初)、周
辺諸民族が独立の気運を高めた。羈縻支配から離脱しはじめ羈縻政策は弱体化した。
突厥国は7世紀末に唐から独立し、683 年に突厥第2帝国が成立し 744 年に滅亡した。
7
吉備(黄蕨)国と羈縻政策
古代中国皇帝が周辺諸国の君主と名目的君臣関係を結び、国際秩序が維持されていた。
突厥国の東西分裂は 583 年である。分裂による混乱により吉備(黄蕨)国へ渡来した。
突厥国への羈縻(きび)支配が、そのまま吉備(黄蕨)国に持ち込まれた。
日本は遣唐使が 894 年に停止されるまで羈縻(きび)政策で管理されていた。
①
②
③
④
⑤
⑥
⑦
⑧
⑨
⑩
9
AD57 年に倭の奴国の王が後漢・光武帝より「漢倭奴国王」の爵号を受ける。
239 年に邪馬台国の卑弥呼が、魏の首都洛陽に使者を派遣し、明帝から親魏倭王に任
じられた。『三国志 魏書』
南北朝時代に入り、倭の五王が南朝より冊封を受けた。
この時代は百済・新羅は倭の影響下にあった。
5 世紀の倭の五王による中国南朝への遺使の後、倭国から中国王朝への遺使は約 120
年間途絶した。
倭国は、600 年に遣隋使を煬帝に送り、二回目の遣隋使は 607 年である。
「日出處天子
致書日沒處天子無恙云云」
(『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國)で始まる国書
を送った。
唐使の高表仁が倭国王(『旧唐書』舒明天皇 5 年 1 月 26 日(633)
「與王子爭禮 不宣朝
命而還」)と礼を争い帰国した。
白村江の戦いに敗れた倭国は、大宝 2 年(702)第 8 次以降の遣唐使により朝貢を再開
した。
唐の隆盛により冊封体制も安定期を迎え冊封体制を通じて各国に唐文化が伝達された。
各国では唐の制度を模した律令制が採用された。
吉備(黄蕨)国の安定期である。
まとめ
① 突厥国の東西分裂は 583 年である。分裂による混乱により吉備(黄蕨)国へ渡来した。
突厥国の冊封体制、羈縻(きび)政策が吉備(黄蕨)国に持ち込まれた。つまり、吉備国
の語源は羈縻(きび)政策となる。羈縻(きび)政策を隠すために、古事記、日本書紀の
著者は吉備という当て字を考案した。『先代旧事本紀大成経』のみが黄蕨国の正史である。
10
② 平成 22 年 2 月 14 日に備前市教育委員会へ「伊里」が「イル(国)」に関係しているか、
「崇神天皇」伝承について質問したところ、2 月 18 日に福本様(生涯学習課文化係)より、
「図書館や教育委員会にある書籍を探してみましたが、該当するものが見つかりませんで
した。」との返答を戴いた。黄蕨国の起源について最も重要な伊里の調査研究が実施されて
いないことが確認された。
すじん
「イリ」の名前の付く歴代天皇は、第十代崇神天皇(みまきいりひこいにえのすめらみ
すいにん
こと)と、第十一代垂仁天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと)のみである。
すじん
騎馬民族の後裔であり、記紀に豊富な伝承が記録されている。崇神10 年に四道将軍を各地
に派遣している。西道に派遣された四道将軍の一人が「黄蕨津彦」である。
すじん
おくりな
第十代崇神天皇の和風 諡 号は『日本書紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいり
びこいにえのすめらのみこと)。御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)とある。
事実上の初代天皇である。備前市を流れる伊里川の中州が古代における聖地であった。
③
黄鐘調の鐘
おおきみ
「大和黄鐘」
「大王」の銘文のある「黄鐘調の鐘」が発掘されている。発掘された遺物は、
全て忌部氏が神祇祭祀に使用していた神祇祭祀物である。古代史における国宝級の発見で
ある。特に重要な忌部氏の神祇祭祀物について考察したい。
すじん
イリ馬に乗る第十代崇神天皇
④「黄鐘」の考察
「大王」
おおきみ
天皇は始め大王と呼ばれていた。天皇の初見は天武天皇六年(667)である。
奈良県飛鳥池古墳より出土した木簡の記録である。天武天皇は第 40 代天皇である。それ以
おおきみ
前の天皇は全て大王と呼ばれていた。
おおきみ
すじん
「黄鐘(コウショウ)」の「大王」とは第十代崇神天皇である。突蕨国からの渡来人である。
イリ・カザフの人達は駿馬に乗ることを誉れとし、騎馬民族であることを誇りとしてい
る。その強さと美しさによって漢の武帝に「天馬」とたたえられたイリ馬を生み出した。
すじん
すいにん
駿馬に乗る像も同時に発掘されている。イリクが第十代崇神天皇、イリが第十一代垂仁天
おかやま け ん わ け ぐ ん さ えきちょう
だいおうざん
皇となる。岡山県和気郡佐 伯 町 に大王山
435mがある。佐伯荘は和名抄の物部郷である。
11
「大和」
史料初見は「続日本紀」の和銅元年(708)九月乙酉条の「大倭国添上」である。藤原宮
出土木簡は「大倭国 葛下郡」とあり年記は無い。発掘された「黄鐘(コウショウ)」の「大
和」表記は「大和」の初見史料と考える。年記が無いのが残念である。
「黄鐘」
律管(りっかん)は中国古代の黄帝の時代に発明された。黄帝は伶倫に命じ十二律を決
めた。これが律管の起源である。中国では陽の六律の最初が「黄鐘(コウショウ)」である。
忌部氏が神祇祭祀において最も重要視したのが音である。
「雅楽の五行配当表」の黄鐘調の説明は、「黄は火の色なり赤けれども、赤くはにざる也。
鐘はさかつきとよむ水、萬水の源なり。銚子にすみたる酒の入りたるを見るが如く吹く。
心よろこばしき風情有るべし、水音という。」とある。
黄鐘は、臨済宗妙心寺派本山妙心寺(京都市右京区花園妙心寺町)の「黄鐘」が国宝に
指定されている。釣鐘の音調について、吉田兼好(従然草)が「凡そ鐘の声は黄鐘調なる
べし、これ無常の調子、祇園精舎の無常院の声なり、西園寺の鐘、黄鐘調に鋳られるべし
とて、あまた度、鋳かへられけれどもかなはざりけるを、遠国より尋ねいたされけり、浄
金剛院の鐘の声、また黄鐘調なり。」と書かれ、鐘の音は古くから黄鐘調が理想とされてい
る。黄鐘調とは、日本雅楽にもちいられる六調子の中の一つで 129Hr(ヘルツ)、ハ調の
ラ音でオーケストラの最初の音合せに用いる音階といわれ、妙心寺,永観堂,天王寺六時
堂の鐘がこの黄鐘調を出すといわれている。
⑤「爵・太伯」の考察
「太伯」の銘文が刻された遺物「爵(シャク)」が発見された。3 本の足で支え上部に注ぎ
口と紐を括りつける突起がある器である。酒や水を注ぐ時に用いられた。仏住山蓮昌寺 仏
教美術館並資料館(岡山市北区田町 1 丁目 八木大慈 館長)蔵である。
太伯(たいはく)とは周王朝の古公亶父の長男で、呉の祖とされる人物である。『論語』
泰伯篇では、季歴に地位を譲ったことについて孔子が「泰伯(太伯)はそれ至徳と謂う可
きなり」と評価している。中国、日本、李氏朝鮮までの朝鮮半島において、
「倭人は太伯の
子孫である」とする説があった。『翰苑』巻 30 の『魏略』逸文や『梁書』東夷伝に「自謂
太伯之後」
(自ら太伯の後と謂う)とある。鹿児島神宮(大隈国隅正八幡)に「太伯」が祭ら
れている。
平成 21 年発行『邑久町史 通史編』の「オホクの名称」に、「邑久は古代ではオホクと
読んだ。邑久との表記は、和銅 6 年(713)5 月郡郷名に好字を命ぜられて以降である。藤
原宮出土の木簡に「大伯」と有り、
『先代旧事本記』に大伯国造と有り、大伯海で生まれた
皇女は大伯皇女(おほくのひめみこ)と有る。非常に説得力がある説明である。しかし、
大正 4 年発行の『邑久郡誌 第二編』には、
「太伯(たいはく)村 神崎、乙子 分岐」と
ある。現在も太伯(たいはく)と呼ばれている。太と大との点の違いである。蓮昌寺は松
田元喬(富山城主・金川城主)創建、備前法華の中心道場として栄えた日蓮宗寺院である。
12
爵(シャク)
シヴァ神像
⑥ 「鉄は力なり」と熊山山塊で発見された『鉧(けら)』に関する若狭哲六氏の調査研究
内容を、「忌部氏は突厥国からの渡来人」として補説した。
⑦ 金光久子氏(赤磐市教育委員)の実家が山上に有り、先祖インド渡来伝承がある。
熊山遺跡よりインドのシヴァ神像が発掘されている。ガンダーラも突厥国に含まれている。
伝承が正しいことが証明された。山上の意味は外敵への見張り役の意である。
⑧ 仙田 実氏は「奈良三釉小壷と皮革様固形物は盗掘のさいに同時に取り出された。皮革
様固形物は、所在も、実態も、性格づけも、まったくはっきりしない。」としている。しか
し、梅原末治氏は皮革様固形物の発見を報告していない。
皮革様固形物は「騎馬民族の必需品である羊の胃袋を干して作った皮の水筒」である。
突厥国からの渡来者を証明する最も重要な遺物が行方不明になっている。
⑨ 若狭哲六氏は出土遺物の写真を、奈良国立文化財研究所へ持参し年代鑑定を依頼した。
「奈良時代或は奈良時代までに到らない」と示峻されている。熊山遺跡の築造年と出土遺
物の製造年に時間差がある。熊山遺跡は忌部氏の古代祭祀遺構であり祭祀遺跡である。
最後の祭祀終了後、記念に祭祀使用物を収納したものである。最後の祭祀が実行されたの
は、『古語拾遺』が成立した大同 2 年(807 年)頃である。『古語拾遺』の著者が、忌部氏
いんべのひろなり
の末裔である斎部広成である。斎部氏(忌部氏)は中臣氏と共に朝廷の祭祀を担当してい
た。中臣氏から藤原氏が出て権力を持ち、中臣氏は祭祀を独占した。斎部氏(忌部氏)は
権力闘争に負けた。200 年間祭祀が行われた。卒業記念のタイムカプセルである。
⑩ 仙田 実氏は発掘された遺物を層別し、「道教・仏教・儒教・ヒンズー経とアジア大陸
こうけつ
の主要宗教を網羅している。」と報告している。地名学より黄蕨国の蕨は突厥国からの渡来
者を意味している。
『騎馬民族史-2 正史北狄伝』の
の突厥国の地図を確認されたい。アジア
大陸の主要宗教が渡来して当然である。私が注目するのは、原始キリスト教(景教)遺物
が発見されないことである。西暦 600~640 年頃、唐の首都長安にペルシア寺が建立され、
712 年頃に大秦教寺と名称変更されている。天平 8 年(736)に、景教徒が日本を訪問し聖
13
武天皇と会見したことが『続日本紀』に記録されている。景教とは古代ユダヤ教である。
や す こ
『騎馬民族征服王朝説(江上波夫)の後継者』・岡山大学東洋史専攻の小林惠子氏は、
古代日本を東アジア史の中に位置づけ聖徳太子の出身地を西突蕨国としている。随帝国成
たっとう
たっとう
立の時代に、北方騎馬民族の中に台頭してきたのが大王達頭である。達頭はササン朝ペル
シャ史料や、東ローマ帝国史料にたびたび登場する名前である。随の煬帝や、北方騎馬民
たっとう
族内部に葛藤があり達頭が日本に渡来した。そして、
「聖徳太子は達頭その人だ」と断定し
ている。
すじん
すいにん
すじん
「イリ」の名前の付く歴代天皇は、第十代崇神天皇と、第十一代垂仁天皇である。崇神天
や す こ
皇は事実上の初代天皇である。今回の調査結果は小林惠子説の一部を補説するものである。
たっとう
大王達頭とは、「テュルクのカガン系図」のタルドゥである。
⑪
⑫
熊山発掘遺物は、皮革様固形物以外は全て鋳物である。日本へは BC300 年頃から青銅
器と鉄器が大陸から渡来し、BC100 年頃から中子付き石製合せ型で渡来青銅原料による銅
剣や銅鐸の鋳造が始まった。日本の製鉄は 400 年頃とされている。鋳鉄鋳造の開始は仏教
渡来に伴う鋳造技術の再渡来(6 世紀)以後とされている。熊山神社の末社に鍛冶宮があ
る。伊里地区に鋳物の鋳造地があった。800 年頃に鋳物師(いもじ)が伊里から移転して
いった。奈良時代に宮中工房に所属していた鋳物師は、鋳物に必要な土を採取していた。
河内鋳物師の発祥は丹南郡である。鉄や銅を溶融し鋳型に流し込み、生活道具、梵鐘(釣
鐘)
・仏像を鋳造した。全国の梵鐘に“河内国丹南郡○○”という銘がある。忌部氏が神祇
祭祀において最も重要視したのが音である。
「黄鐘」の鋳物としての音の技術は寺院の釣鐘
として伝承されている。河内国は物部氏の本拠地である。
⑬
熊山発掘遺物と伊部焼
鋳物師は鋳物に必要な土を採取していた。鋳物に使用する土が伊部焼の原点である。貞
観 13 年(871)
『貞観式』に備前国からの須恵器貢納の記録がある。伊部焼発祥に伊部独立
説がある。他に類例の少ない独特の陶器である。1721 年成立の『備陽記』に「土は邑久郡
磯上村から出る土取」とあり、原土(ヒヨセ・鉄分 2.2%含有)に山土を混ぜて土の粘り
を持たせている。山土はハガネ土と称する黄土叉は笹土を使用している。黄土をハガネ土
と呼ぶのは伊部のみである。ハガネ土とは鋳物に必要な土を意味している。伊部焼の焼成
温度は松割木を使用し、最高 1320 度で 1 週間以上焼き続ける。この焼成温度には鋳物師の
基礎技術が応用されている。鉄鋳物の溶解温度は、1200℃であり、注湯温度は 1300℃~
1500℃である。
⑭
三彩陶器
陶製筒型容器から、奈良の都に遜色ない三彩陶器が発掘されている。三彩陶器は、ハガ
遺跡からも発見されている。
『ハガ(高島小プール)遺跡発掘調査現地説明会資料』には「遺
構面は 4 面で、最も古いのは 7 世紀の遺構面で、比較的小さな柱穴と溝が検出された。」と
報告されている。笠岡市大飛島の洲の付根近くで多数の土器が発見され、それが遣唐船(8
さ い し
~9 世紀頃)の海路祈願祭祀用のものであることが明らかとなり国指定重要文化財(大飛
14
島祭祀遺跡出土品 308 点)に指定されている。
「海の正倉院」と呼ばれる多彩な出土品であ
る。三彩陶器も発見されている。つまり、三彩陶器は 7 世紀の遺物となる。
⑮ 熊山遺跡出土遺物は、皮革様固形物以外は全て鉄器である。類似品が中国の文献『殷
周青銅器通論 容庚,張維持著 1984 科学出版社』に写真掲載されている。中国の殷周時
代の青銅器が、伊里では鋳物・鉄器として製造されていた。重要なのは材質確認である。
中沢護人氏(『技術的・文化史的にみた鉄の歴史』訳者)は「東アジアへの鉄文化の伝播
を担ったのはウラル・アルタイ語族ではないか。ウラル・アルタイ語族こそは金属の民で
あり、鉄の民であり、金属の技術の伝播者ではなかったのか」と述べている。
⑯
備前市「船山遺跡」の鉄器と大集落
備前市畠田の微高地、船山遺跡が和気郡内唯一の弥生前期遺跡である。鉄の断片が中期
住居跡から 1 つ、後期住居跡から鉄細片が 1 つ発見されている。どんな形の物であったか
は推定できない。船山遺跡は弥生前中期と続いたあと、かなり長い期間、人の気は中断し
ている。そして後期も終わりになって、ようやく生き返り再び人が住み着いた。
⑰
熊山神社鍛冶宮と岡山市瀬戸町大内鍛冶屋
熊山神社の末社に鍛冶宮がある。鍛冶宮のあった場所が鋳鉄鋳造地である。瀬戸町に鍛
冶屋という地名が 3 ヶ所ある。瀬戸町鍛冶屋、瀬戸町弓削に鍛冶屋前、鍛冶屋上、瀬戸町
大内(オホチ)の小字に鍛冶屋がある。弓削の鍛冶屋と大内(オホチ)の鍛冶屋に注目し、
大内(オホチ)神社、大内山(オホチ)に注目したい。
⑱
赤磐市門前池遺跡と赤鉄鋼
土が赤色になるのは褐鉄鋼が赤鉄鋼になることである。褐鉄鋼の中の水分が無くなる現
象である。埴輪の埴は赤土のことである。鍛冶炉として赤磐市門前池遺跡(弥生中期後半)
の焼土遺構が知られている。穴の内部に多くの鉄鉱石(褐鉄鋼)と細い棒状の鉄製品が出
土している。原始的な鍛冶遺稿は平坦な焼土遺構である。
⑲
炎黄と陶製筒型容器
陶製筒型容器の色は黄色であり黄帝を意味し、火焔は炎帝(神農帝王)を意味している。
炎黄である。中国人は「炎黄子孫」と主張する。中国甘粛省蘭州大学生命科学学院の謝小
東教授の研究により、黄帝と炎帝の出身地が「北狄」と判明した。甘粛省と陝西省にまた
がる黄土高原地域である。宝鶏市に炎帝祠と炎帝陵がある。頭の角に注目されたい。
15
10 参考文献
吉備国の語源・黄蕨
①『吉備国の語源・黄蕨について』吉備学会 丸谷憲二 平成 20 年 8 月 24 日
第 2 回歴史研究部会 基調報告『吉備とはなんぞや』 岡山県立博物館 講堂
こうけつ
②『吉備国の語源・黄蕨について-2』 黄蕨国の解析 『突厥国からの渡来者集団が建国』
吉備学会 丸谷憲二 平成 20 年 10 月 26 日 岡山県立博物館 講堂
③『吉備国の語源・黄蕨について-3』『吉備(黄蕨)国・高嶋宮伝承の解析』
吉備学会 丸谷憲二 平成 20 年 12 月 13 日 ピュアリティまきび
④『吉備国の語源・黄蕨について-4』
『吉備(黄蕨)国の元伊勢・伊勢宮・名方浜宮の考察』
吉備学会 丸谷憲二 平成 21 年 8 月 29 日 岡山県立博物館 講堂
⑤『先代旧事本紀大成経(一)・続神道体系 論説編』 小笠原春夫 平成 11 年 神道体
系編纂会
⑥『先代旧事本紀・新訂増補 国史大系 7』昭和 41 年 吉川弘文館
⑦『古代物部氏と先代旧事本紀の謎』安本美典 平成 15 年 勉誠出版
⑧『謎の根本聖典・先代旧事本紀大成経』後藤隆 2004 年 徳間書店
とっけつ
突蕨国と羈縻政策
①『東洋文庫 223 騎馬民族史 2 正史北狄伝』山口信夫他 訳注 昭和 47 年 平凡社
②『世界の歴史⑩ 草原とオアシス』山田信夫 昭和 60 講談社
③『シルクロードを知る事典』長澤和俊編 平成 14 年 東京堂出版
④「隋唐帝国と東アジア世界」『アジアの歴史と文化2』藤善眞澄 同朋舎
⑤「三国史記」『アジアの歴史と文化』1998 同朋舎
⑥『アジアの歴史と文化』笠沙雅章 1999 同朋舎
⑦『東アジア 民族の興亡』大林太良 生田滋 1997 日本経済新聞社
や す こ
⑧『聖徳太子の正体』小林惠子 1990 文芸春秋
⑨『謎の契丹古伝』佐治芳彦 1990 徳間書店
⑩ 歴史学叢書『隋唐の国際秩序と東アジア』金子修一 2001 名著刊行会
⑪「七・八世紀の東アジア世界」『隋唐帝国と東アジア世界』栗原益男 1980 汲古書院
⑫ とっとり発弥生文化シンポジュム『とっとり倭人伝』2008 年 鳥取県文化財保存協会
⑬『日本史資料総覧』村上直他 昭和 61 年 東京書籍
⑭「日随関係と国書」『改訂 日本古代史新講』梅村喬 2004 梓出版
⑮「冊封体制と朝鮮半島からの文化」『日本古代史を学ぶ』大津透 2009 岩波書店
⑯「唐初の対外関係」『中国史概説』熊本崇 1998 白帝社
⑰『瀬戸町地名考』矢部秋夫 平成 11 年
熊山遺跡
①『熊山遺跡調査報告書』 熊山町教育委員会 1974 熊山町文化協会
②『熊山遺跡』熊山町教育委員会 1975 熊山町教育委員会
③『角川日本地名大辞典 33 岡山県』1989 角川書店
④「誌上フォーラム 熊山遺跡」『熊山町史 参考資料編』平成 7 年 熊山町
16
⑤「備前熊山戒壇遺跡考」1925 年 沼田頼輔 考古学雑誌 第十五巻第六号
⑥「史跡 熊山戒壇に関する調査報告」
『岡山県通史』永山卯三郎 昭和 5 年 岡山県通史
刊行会
⑦『熊山石積遺跡のなぞに迫る』平成 22 年 2 月 13 日 赤磐市立中央図書館
⑧『古代国家形成のなぞ-熊山とシルクロード-』若狭哲六 昭和 62 年 備前焼伝産会
⑨『先史日本の夜明-熊山と東西交流史-熊山遺跡築造の意義』若狭哲六 昭和 63 年
⑩『先史日本の夜明-世界史的に見た吉備-女王終焉の地 熊山』若狭哲六 平成 2 年
吉備先史古代研究会
⑪『韓国研修報告書 熊山遺跡群のルーツを求めて』平成 13 年 若狭哲六 熊山遺跡群の
調査・保存・顕彰を進める会
⑭『女王国 邪馬台国の謎に迫る』若狭哲六 1991 吉備先史古代研究会 クリエイティ
ブ岡山
⑮『岡山文庫 225 霊山熊山』仙田 実 平成 15 年 日本文教出版
⑯『天理大学付属天理参考館』http://www.sankokan.jp/
⑰「備前熊山の上之宮と下之宮」『歴史研究第 200 号』吉崎志保子 1977 新人物往来社
⑱『備前熊山上の遺跡』梅原末治『吉備考古 第 86 号 熊山特輯号』昭和 28 年 7 月
⑲『熊山遺跡』潮見定秋(熊山神社宮司) 昭和 45 年
⑳『熊山遺跡は仏塔だった!韓国からの逆照射』2003 就実大学国際文化交流シンポジウム
21『ふるさとの歴史講座Ⅱ熊野神社遺跡から佐治町の歴史を探る』シンポジウム「熊野遺
跡の謎に迫る」平成 22 年 佐治町熊野会・佐治町中央公民館(鳥取県佐治町加瀬木)
22『日本仏塔の研究』石田茂作 1969 講談社
23『日本仏塔
図版』石田茂作
1969
講談社
熊山古墳出土物
①『中国の古代文化Ⅰ 人類史の哲学的研究』米川 浩 2008 米川研究所
②『世界の考古学⑦ 中国の考古学』小谷正人他 1999 同成社
③『春秋戦国時代青銅器の研究 殷周青銅器総覧三』林巳奈夫 1989 吉川弘文館
④『中華民国・国立故宮博物館蔵の鼎』http://www.npm.gov.tw/exh99/bell/1_jp.htm
⑤『図説 中国の歴史 1 よみがえる古代』伊藤道治 昭和 51 年 講談社
⑥『中国文明史 2 図説殷周 文明の原点』稲畑耕一郎 2007 創元社
⑦「備前熊山仏教遺跡考」近江昌司『天理大学学報 学術研究会誌 第八十五輯 澤田瑞
穂教授還暦記念特集』 1973 天理大学学術研究会
⑧『出口王仁三郎聖師と熊山』1995
みいづ舎
(大本教
研修資料 5)
鋳物・鋳造・鉄
①『鉄の古代史 2 古墳時代』奥野正男 1994 白水社
②『鉄の古代史 3 騎馬文化』奥野正男 2000 白水社
③「吉備中心部の鉄事情」『吉備の弥生集落』柳瀬昭彦 2007 吉備人出版
④「剣工遺跡」『改修 赤磐郡誌 全』昭和 15 年 岡山県赤磐郡教育会
⑤「金山彦大神」『備前一宮 吉備津彦神社』平成 14 年 備前一宮 吉備津彦神社
17
⑥『岡山文庫 岡山地名考』宗田克巳 昭和 60 年 日本文教出版
⑦「備前市船山遺跡の鉄器と大集落」『和気郡史 通史編上巻』昭和 56 年和気郡史刊行会
⑧『瀬戸町歴史事典』平成 18 年 瀬戸町教育委員会
⑨「柴狭神社」『瀬戸町史』昭和 60 年 瀬戸町史編纂委員会 瀬戸町
⑩「物部郷」『改修 赤磐郡誌全』昭和 15 年 岡山県赤磐郡教育会
⑪『岡山文庫 吉備のたたら-地名から探る-』2009 岡山地名研究会編 日本文教出版
天皇家
①「特集 天皇家 125 代 皇位継承の真相」『歴史読本』2002 年 8 月
②『天皇の本』1998 年 学習研究社
③「天皇」『国史大辞典 9』昭和 63 年 吉川弘文館
④『崇神天皇とヤマトタケル』神 一行 2001 学習研究社
新人物往来社
関連項目
①『国史大辞典 1』昭和 54 年 吉川弘文館
②『はたしてハタ氏か』(吉備の古代史)佐藤光範 平成 21 年
③『日本の地名 歴史風土の遺産』谷川健一 昭和 57 年 講談社
④『日本古代地名の謎』本間信治 昭和 50 年 新人物往来社
⑤『日本古代史大辞典』上田正明 2006 大和書房
⑥ 歴史シンポジウム『岡山県古代・中世史研究の最前線 資料集』2008 就実大学吉備
地方文化研究所
⑦『邑久町史 通史編』平成 21 年 邑久町史編纂委員会 瀬戸内市
⑧『邑久郡郷土読物』昭和 59 年 邑久郡教育会
⑨『プリア・カン』 http://www.geocities.jp/takakuri_1125/mypage61-4.htm
⑩『雅楽の五行配当表』http://www.geocities.jp/gagaku_ryuteki/gogyou.html
⑪『バルハシ湖・イリ川』フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
⑫『岡山文庫 52 吉備津神社』藤井駿 昭和 48 年 日本文教出版
⑬『伊里 自然と歴史』平成 21 年 伊里マップ作りの会
⑭『赤磐市山陽郷土資料館』パンフレット
⑮『吉備古代史の展開』吉田 晶 1995 塙書房
⑯『岡山古代史の謎と渡来人』谷淵陽一 2001 吉備人出版
⑰『歴史とロマンの旅 古代吉備国』平成元年 山陽新聞社
⑱『ユダヤと日本』M トケィア- 昭和 50 年 産業能率大学出版
⑲『備前焼の鑑賞』日幡光顕 昭和 42 年 備前焼鑑賞会
⑳『備前焼』日幡光顕 昭和 41 年 備前焼陶友会
21『仏住山蓮昌寺』パンフレット
11
補記
熊山遺跡基壇の中央石室から発掘された陶製容器以外の 15 点の遺物については、所在確
認が実施されていない。僅かに若狭哲六著『女王国 邪馬台国の謎に迫る』に紹介されて
18
いるのみである。15 点の遺物が「熊山遺跡の謎」解明に結びつく唯一の史料である。
『女王国 邪馬台国の謎に迫る』若狭哲六著 1991 より抜粋
特に、熊山遺跡から出土されていた初見の遺物については、遺物秘蔵者が半世紀にわた
り、他に発表することなく、私にのみ知らせたものである。つまり、遺物秘蔵者は、昭和
25 年、梅原博士による熊山遺跡の調査当時、考古学者は自分から見れば納得できないとし
て遺物を世に出すことをしなかったのである。幸い、私の熊山遺跡に対する研究の熱意が
通じ、秘蔵者は昭和 60 年 11 月、ついに同遺跡から出土されていた遺物を私に見せてくれ
たのである。同時に遺跡発掘の真相をも彬かにしてくれた。発掘からおよそ半世紀(50 年
間)の間、一部の遺物を除く他、出土されていた多くの遺物は、学会には全く知らされる
ことなく、今月まで眠っていたのである。
熊山遺跡発掘記録
発掘
年月日
発掘者名
敬称略
住所
明治の中頃
古墳発掘熱
東方の一番遠く離れた大きな分を、南麓地方の某が発掘したとこ
ろ、両刃で三尺位な錆びた剣が一口あったとか云う話を聞いたこと
がある。
「霊山熊山の世に出るまで(三)」牧慎平(大本教津山支部長)小森国
嗣(岡山裁判所勤務)『神の国』昭和 8 年 3 月号
昭和 05 年 5 月 20 日
大本教
昭和 13 年 6 月 24 日
竜文白銅鏡発見
小橋壮一(白龍)
『熊山延命地蔵大権現利生記』発行
備前市香登
小橋某(かなり発掘)
備前市香登
出口王仁三郎聖師来山
⇒岡武某(小橋壮一の学友)
⇒兵庫県相生市の古物商へ販売
⇒香登の古物商へ販売(海獣葡萄鏡)
⇒四国高松に流失(所在不明)
⇒東京に流失
(所在不明)
守時桂太・出土品現物確認
守時桂太・出土品現物確認
横山某⇒円筒(相生市で修理)
備前市香登
水原岩太郎
(昭和 17・18 年三彩袖小壷 盗難)
筒型陶器 所蔵者⇒天理大学
岡山市横井(郷土史家)
著書:『参修高島考』昭和
15 年
友光秀男
備前市大内(好事収集家)
(小橋壮一より購入秘蔵)
守時桂太(京都大学考古学教室友の会) 備前市福田(香登史談会会
⇒昭和 24 年秋 京都大学
長)梅原末治へ報告
昭和 22・23 年
山田某→小橋壮一
赤磐市奥吉原
友光醒太
備前市香登
(発掘に関する手記)
新田 輝
赤磐市奥吉原
重野博士の弟
東京
ソロバン博士⇒霊仙寺什物⇒下へ
赤磐市奥吉原
19
寺務所
昭和 25 年
梅原末治
京都大学教授
大本琢寿(郷土史家)
・近藤義郎(岡山
大学)・守時桂太・その他同行調査
山伏姿 2 人
昭和 26 年頃
石田茂作⇒実査
昭和 31 年 9 月
国指定・国史跡
昭和 32 年
石原某
楠原清馬
昭和 36 年
小倉豊文
広島文理大学教授
昭和 48~50 年
文化庁発掘調査
布目瓦等、多数出土
東京国立博物館
地元
寄贈(吉備先史古代研究会) 備前市香登(郷土史家)
この遺物の離散防止が熊山遺跡調査研究者の使命である。若狭哲六氏が熊山遺跡出土遺
物の存在を公開したのが昭和 62 年(1987)である。発表から 23 年、発掘関係者の中に生
存者は居られるのでしょうか。何よりも出土遺物の離散防止。具体的には「所蔵者を発見
確認し、赤磐市山陽郷土資料館への預託」実現と展示公開。そして、
「中国新疆ウイグル自
治区のイリ・カザフ自治州~インド間の遺跡発掘遺物との比較研究」が熊山遺跡調査研究
者の使命であると考える。
11-1
熊山遺跡出土遺物
古代中国古墳副葬品『編鐘』。編鐘は多数埋葬。「千秋漫才・富貴長命」刻印。BC5 世紀。
20
湖北省博物館に編鐘の類似品有り。
鼎(テイ)日本先史古代研究会 蔵
中華民国・国立故宮博物館 蔵の鼎
毛公鼎
西周晚期(宣王時代)中銅 高さ 53.8cm 口径 47.9cm 肉や魚を煮た
中華民国 国立故宮博物館
漢字源流展の解説
中華文化は夏・殷・周の三代の王朝で確立され、その文化の主軸となったのが「礼」と
「楽」です。孔子が常々周公の「制礼作楽」を文化確立のための広い模範としていたこ
とからも、その重要性がうかがえます。 礼楽文化は、国家の重宝である銅器に体現され
ています。礼器の中では「鼎」が首位にあり、楽器では「鐘」が上位に位置付けられて
います。これは祭祀の陳列と演奏に列鼎と編鐘が欠かせないものであったからです。
古代、
「金」とは黄金色に輝く銅のことも指していたため、銅器に鋳刻されている銘文は
「金文」とも呼ばれています。また、銅の礼楽器は鐘と鼎が中心となるため、「鐘鼎文」
とも言います。銅器に鋳刻された銘文は、功績や徳行を述べて宗廟に示し、祖先の名を
上げるとともに子孫に代々伝えるものであり、史料・実録として確かなものであるだけ
でなく、漢字の発展史においても極めて貴重な根源とされています。伝世の「宗周鐘」
は、西周の天子-厲王・胡が直々に製作させた礼器の中でも最も重要な楽器です。
「毛公
鼎」は西周の宣王の叔父で重臣であった毛公が鋳造させた礼器であり、鼎の中には世界
最長の篆書の銘文が鋳込まれています。「宗周鐘」には百二十三文字、「毛公鼎」には五
百文字の銘文が鋳込まれており、これをもって殷周時代の金文すべてを総括することは
できませんが、
「嘗鼎一臠」、
「聞鐘半響」などのことわざにあるように、部分から全体を
推し量ることができます。この二器合わせて六百二十文字あまりの「鐘鼎文」は、漢字
の源流を探る題材とするには充分と言えるでしょう。謹んで「鐘・鼎の銘文」を展覧テ
ーマとし、ここに漢字王国の末永い繁栄を祈ります。
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りゅうび
龍文白銅鏡
喰(キ)
穀物を容れる容器
台座銘文
信士刘備像(蜀の照列帝)
獅子の香炉
西周中期
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陶製硯
戈(カ)日本先史古代研究会 蔵
西周中期
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おわりに
熊山遺跡の研究は、若狭哲六氏の長年にわたる調査で発見された発掘遺物の検証から再
スタートすべきである。若狭哲六氏は「出土されている遺物の大きさは、高さが 21 センチ
に統一されていることから、遺物が陶製筒形容器に収められていたことが確実」と報告し
ている。しかし、著書に公開している写真は明確に層別されていない。
熊山発掘遺物と陶製筒形容器収納遺物は層別して調査研究しなければならない。
「中国新疆ウイグル自治区のイリ・カザフ自治州~インド間の遺跡発掘遺物との比較研
究」が熊山遺跡調査研究者の使命である。若狭哲六氏は、中国の書『殷周青銅器通論 容
庚,張維持著 1984 科学出版社』に、類似品の写真掲載を確認されている。
殷(いん、BC17 世紀頃~BC1046 年)は、夏王朝を滅ぼして王朝を立て BC11 世紀に
周に滅ぼされた。周(しゅう、BC1046 年頃~BC256 年)は殷を倒して王朝を開いた。
「周
代」と言えば、BC1046 年頃から、遷都して東周となるまでの BC771 年の間である。
発掘されている遺物の類似品の年代は、全て西周中期であり、材質は青銅器である。
西周(せいしゅう)とは、BC1100 年頃~BC771 年に、中国古代の王朝である周が鎬京(西
安)に都していた時代のことである。
しかし、若狭哲六氏が出土遺物の写真を、奈良国立文化財研究所へ持参し年代鑑定を依
頼した結果は、
「奈良時代或は奈良時代までに到らない」との示峻である。写真鑑定である
が鋳物・鋳鉄・鉄器との鑑定結果と考える。
奥野正男氏は、
「古墳時代に中国地方の内陸部に鍛冶の専業的集団が成立している。
・・・
鉄生産地が中国山地のどこかに存在していた可能性を考えさせる」としている。その鉄生
産地が熊山・大内(オオチ)・伊里地区である。『兵庫県生産遺跡調査報告 第 5 冊 製鉄
遺跡Ⅱ(波賀町)』が兵庫県教育委員会から発行されたのは 1994 年 4 月である。宍栗郡波賀
町原字キハラは突蕨国バガ(587~588)縁の地名である。兵庫県教育委員会では、昭和 63
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年の生産遺跡調査当初から「鉄」を取り上げている。岡山県では鉄の生産遺跡調査が実施
されていない。熊山・大内(オオチ)地区から本格的な調査を開始すべきである。
私は柴狭(オサ)神社(備前国式内社・瀬戸町大内鍛冶屋)の祭神名に注目したい。柴
狭神とは出身地である北狄(ホクテキ)を隠すための名前である。中華意識が台頭するに
従い、北方にいた異民族は狄(テキ)と呼ばれるようになり、一種の蔑称としての意味合
お さ
ほくてき
いが強くなっていった。柴狭という漢字の中に北狄という漢字が隠されていることを読み
うずえ
取らねばならない。末社荒神社の祭神名が素戔嗚命である。皇室関連地名、大内鵜居に諏
たいしゃ
訪神社があり柴狭(オサ)神社が「大社」にある。熊山神社の末社、鍛冶宮は大社にあっ
うずえ
た。四十塚・鵜居で発見されている鉄滓(てつさい・スラッグ)は古いと報告されている。
最後に、イリ王朝の重要性をご指導いただいた野崎 豊先生(神道考古学・神社考古学)、
難波俊成先生に深く感謝致します。
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就実大学
総合歴史学科の教示
(平成 22 年 3 月 5 日)
◆ 研究分野 文化史学:アジアの巨石遺構の研究
盗掘された遺跡なので出土遺物についてしっかり調べる必要があると思
賈鍾壽 先生
います。正式な発掘調査で収集されたものではないので、陶製容器を含
(カ・ジョンス) む出土遺物 15 点についても、しっかり検証する必要があると思っていま
す。すばらしい発表になることを心からお祈りいたします。
会員の皆様にも、よろしく伝えて下さい。
◆ 研究分野 中世宗教社会史:
◆ 荘園における寺社と民衆生活の関りについての研究
苅米一志
先生
出土遺物一覧では、可能な限り品名を提示し、また、天理大学所蔵の陶
製筒型容器の写真も掲載して戴かないと、文中の写真のどれが熊山から
の出土遺物なのか分かりづらいという感想を持ちました。
以上、取り急ぎお伝え致します。
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謝辞
平成 23 年 12 月 10 日に、上西謙介氏(吉備津神社)から「金山彦命
童社」との教示を受けた。
15 講演記録
平成 22 年 3 月 20 日
平成 22 年 6 月 19 日
平成 22 年 7 月 24 日
平成 23 年 1 月 16 日
吉備津神社
岡山市瀬戸公民館「瀬戸町の文化財を語る会」
備前市伊里公民館
赤磐市熊山町中央公民館(熊山遺跡群調査研究会)
倉敷市玉島図書館(玉島歴史研究会)
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末社一