月氏の伊存に つ い て

二世紀)、 に含 ま れ る類 似 の記 事 を 対 照 し、 後 二者 に し た が
月 氏 の 伊 存 に つ い て
つて問 題 の記 事 の二 番 目 の ﹁受 ﹂ を ﹁授 ﹂ と訂 正 し、 通 典 に
晟
仏 教 の中 国伝 来 に関 す る伝 承 のな か で、 魏 略 の それ は大 き
し た が つて ﹁日復 立 ﹂ の前 に ﹁国 ﹂ の字 を補 い、 次 の よ う な
方
な 重 要 性 を も つ。 こ の伝 承 は直 接 的、 間 接 的 に いろ い ろ な文
訳 を 示 し た。
定
献 に引 用 さ れ て い る が、 三 国 志 の斐 松 之 注 に みら れ る伝 承 を
に、この博士 の弟 子である景盧が大月氏王 の使 者、伊存 口と いう
中イ ンドに沙律昔 と いう名 の聖人 が いた。漢 の哀帝 の元 寿元年
示 し てみ よう。 議 論 の都 合 上、 前 後 の文 章 を 非 ゴ チ ック体 で
もめ を迎え、かれに 一仏典 を授けた。そ の仏典 には ﹁この国 (イ
添 え て おく。
天 竺又有神人名沙律。昔漢哀帝元寿元年博士弟子景盧受大月氏王
はこの男 である﹂と書 いてあ つた。
(4)
ンド)にお いて新たに (王座 に)立 てられるであろうも の、それ
使伊存 口受浮屠経。 日復立者其 人也。
(1)
西 洋 の学 者 で早 く この記 事 に触 れた も の に レミ ュザ、 ボ ー
チ エ、 カ ニンガ ムら が い る。 ポ ー チ エは右 の記 事 を 次 の よ う
に お い てイ ンド 人 の景盧 が 大 月 氏 の使 者 を迎 え た こと を述 べ
スペ ク ト の解 釈 に お い て注 意 す べ き は、 こ の記 事 は イ ンド
漢 の哀帝の元寿 元年 (西紀前二年)、あ る学識者 の弟子 であ る景
る も の であ ると し た こ と と、 大 月 氏 は ま だ イ ンド侵 入前 の段
に訳 し た。
盧が大月氏 王の使 者、伊存 口と いうものを迎 え、一仏典を受け た。
階 にあ り、 大 月 氏 か ら イ ンド に送 ら れ た使 者 は仏 典 を-授
な わ ち、 伊 存 口 の原 音 はouchkで
aあ り、 そ れ は ラー ジ ャタ
け と つた の だ、 と いう こと で あ る。 ス ペ
け るど ころ か-受
(2)
カ ニンガ ムは この 記事 に 基 き、 西 紀 前 二年 に大 月 氏 が 中 国
に使 節 と仏 典 を 送 った こと、 し た が つて イ ンド は西 紀 前 に す
ク ト は こ の文 を 予 言 の形 を と つた 歴 史 的 記 録 と解 釈 し た。 す
(3)
で に 大 月 氏 に征 服 さ れ て いた こと、 を 結論 し た。
方)
スペ ク ト は 太 平 簑 宇 記 (十世紀)、通 典 (九世紀)、通 志 二
月 氏 の伊 存 に つ いて (
定
-25-
方)
た であ ろ う時 期 に 近 い 七 世紀 の文 献 (弁 正論、 沙門不応拝俗等
月氏 の伊 存 に つい て (定
ラ ン ギ ニー に 現 わ れ る ト ル シ ュカ 三 王 の初 代 フ シ ュカ で あ っ
事、広 弘明集) を 援 用 し て 自 説 (月氏 は仏教 を-受
国 に還 つたが、か れが齎 した仏経は道 経とほとんど同じ であ つた。
duで imp自e分rの
i息a子lで
eあ)る皇太子に命 じて、仏教 を口授 させた。秦景は中
前漢 の哀帝 のとき に秦景 (=景
盧) が月氏 国に赴 いた。そ の王は
あ げ、 次 の よ う に 訳 し て いる。
(12)
レヴ ィ は 弁 正 論 P (本 論 付 録 の文献 集 参 照) を 代 表 と し て と り
け た のだ と いう 説) を 補 強 す る こ と が で き る、 と。
(11)
けた のでは
て、 使 者 フ シ ュカ が 西 紀 前 二 年 の あ と、 つ ま り 西 紀 一世 紀 に
な く-授
(5)
イ ン ド の王 に な る に至 つた こと を 示 す と考 え た。
これ に対 し、 レヴ ィは、 景 盧 は 中国 人 で あ り、 大 月氏 は仏
titulaire
教 を 受 け た の で は な く、 授 け た (教えた)の だ と 反論 し、 次 の
(6)
国立学院 の正規学 生 (eleve
よ う な訳 を考 え た。
ある景盧は大月氏の王の使 者を迎え た。か れ は 口頭 で仏典 を 受
レヴ ィは これ ら 仏 教 文 献 の伝 承 に信 を お いて、 ﹁受⋮⋮使 ﹂
に ついて のさ き の訳、 す な わ ち ﹁景 盧 が 使 者 を 迎 え た ﹂ を
け、それを記憶 した。
レヴ ィに よ れば、 景 盧 は漢 の武 帝 が設 け た ﹁博 士弟 子﹂ の
﹁景 盧 が使 者 を 命 ぜ ら れ た﹂ に変 え て いる。 次 に シ ャヴ ァン
(14)
ポ スト にあ るれ つき と した 申 国 人 であ る。 ま た 伊 存 口 の口 は
ヌが魏 略 を翻 訳 し、 そ の注 のな か で こ の問 題 を 論 じた。 か れ
は 秦 景 (=後漢明帝派遣 の秦景) と は区 別 さ る べ き で あ る。 ﹁受
シ ャヴ ァ ン ヌ に よ れば、 景 盧 は 正 し く は 景 憲 で、 こ の二 つ
ことを命 じた。
命 した。王は自分 の皇太 子にかれ (景盧) に対 し仏経を 口授す る
昔、哀帝 の元寿元年 に博 士弟子 である景盧が大月氏 への使 いを拝
(13)
音 訳 文字 で は なく、 次 の受 に つけ て考 え る べ き 語 で あ る。 伊
﹁景 盧 は 大 月 氏 王 か ら 伊 存 へ
で あ る か ら、 ﹁伊 存 ﹂ の意 味 は ﹁か れ は 記 憶 し た ﹂ と な る。
(7)
存 の ﹁伊 ﹂ は 指 示 代 名 詞、﹁存 ﹂ は 動 詞 ﹁保 存 す る﹂conservの
e訳
rは-
レ ヴ ィ は ド ゥ ヴ ェリ ア の 解 釈
ア に よ る と、 伊 存 と は ウ デ ィ ヤ ー ナ か ウ ッ ジ ャ イ ニー の こ と
⋮⋮使 ﹂ の解 釈 に つい て は、 景 憲 が 使 いす る (歴代 三宝紀、弁
の使 い の 役 を 仰 せ つか つた ﹂ を も 紹 介 し て い る。 ド ゥ ヴ ェリ
で あ る と い う。 レ ヴ ィ は カ ニ シ カ 王 な ら 中 国 人 を イ ン ド へ の
正論P)、往 く (破邪論、釈迦方志、法苑珠林)、至 る (弁 正論 P)
(8)
る。
の書 き損 じ で あ る。
と す る文 献 に従 う べき で あ る。 ﹁伊 存 ﹂ は P等 の ﹁令 太 子﹂
使 者 と し て徴 用 す る こ とも 可 能 であ る と コメ ン トを 付 し て い
(9)
こ れ に 対 し て ス ペ ク ト が 反 駁 を お こ な い、 レ ヴ ィ が ま た 自
(10)
説 を 弁 護 した。 レヴ ィ は いう、 自 分 は魏 略 が ま だ 存 在 し て い
-26-
シ ャヴ ァン ヌ の こ の翻 訳 を ペ リ ォ が書 評 し た。 ペ リ オは 伊
存 に つい て は シ ャヴ ァ ン ヌ同 様、 令 太 子 の誤 写 と考 え た。 と
と同 じ こと を い って い る にす ぎ な い。 も し か す る と、 劉 孝 標
の誤 ま り であ る こと が 推 測 で き る。 劉 孝 標 注 の ﹁伝 ﹂は ﹁授 ﹂
斐 松 之 注 の ﹁受 ﹂ は他 の文 献 を 参 照 す る こ と に よ り、 ﹁授 ﹂
は ﹁授 ﹂ が ﹁受 ﹂ と ま ぎ ら わ し い の で ﹁伝 ﹂ に変 え た のか も
(15)
く に ﹁太 子﹂ は接 近 し て書 か れ る と ﹁存 ﹂に ま ち が わ れ易 い、
し れ な い。 通 典 の ﹁匿﹂ は ﹁盧 ﹂ が字 形 の類 似 に よ って誤 写
(16)
と。 ペ リオ は この見 解 を そ の後 も 保 持 し て い る。 景 盧、 景
一方、 仏 教書 に 表 わ れ る 記 事 は、 瓢 正論 を除 け ば、 一般 の
に よ る誤 写 であ ろ う。
慮、 景 憲、 秦 景、 秦 景 憲 に つい て は、 秦 景 を 原 形 と 考 え た。
(18)
さ れ た 結 果 であ ろ う。 他 の文 献 の ﹁慮 ﹂ や ﹁憲 ﹂ も同 じ理 由
(17)
伊 存 に関 す る議 論 は フラ ン スで 活 発 に お こな わ れ た が、 ド
イ ツ人 の フラ ンケや ア メ リ カ 人 のウ ェアも これ に 言 及 し た。
ウ ェアは 伊存 に つい て、 シ ャヴ ァ ン ヌや ペ リ オ の見 解 を 踏 習
わ が 国 で は藤 田豊 八、 羽 田享、 白 鳥 庫 吉、 境 野 黄 洋、 春 日
れ な いだ ろ う か。 す な わ ち、 こ の結 果、 王 使 の使 は 名 詞 (使
王 使 伊 存 口受 (授)浮 図 経﹂ と 切 つた た め に起 つた と 考 え ら
太 子 と な つて いる。 これ は 魏 略 の文 を ﹁⋮⋮景盧 受 大 月 氏。
史 書 類 とか な り相 違 を 示 す。 あ る 一群 の文 献 で は、 伊 存 が 令
礼 智、 重 松俊 章、 石 川博 道、 塚 本 善 隆 な ど が 問 題 の記 事 に触
者)で は な く 動 詞 (せしめる)と解 さ れ、 王 使 以 下 は ﹁王 は 伊
し、 令 太 子 發伊 存 と 注 し て いる。
れ て いる が、 白 鳥 は この記 事 を 信 ぜ ず、 石 川 は 疑 い、 他 の学
漢 の哀 帝 の元 寿 元年 に 博 士 弟 子 で あ る 景 盧 が、 大 月氏 王 の使
に正 しく 伝 え て いる と の感 を 深 く す る。 す な わ ち、 ﹁む か し
宋版)を 並 べて み る と、 これ ら の文 献 は た だ 一 つの事 実 を 実
た とえ ば 三 国 志 の斐 松 之 注、 世 説 新 語 の劉 孝 標 注、 通 典 (北
徒 のそ れ と の二 群 に 分 け、 前 者 に 信 頼 を お く。 前 者 のう ち、
私 自 身 は こ の伝 承 を伝 え る 諸 文 献 を 一般 の史書 類 と、 仏 教
こと が 見 失 わ れ、 かえ つて景 盧 が 大 月 氏 に使 いし た と 解 さ れ
いう構 文 を把 握 し そ こな った人 に よ って、 伊 存 が 使者 であ る
る 人 に よ つて ﹁至 ﹂ と と り違 え ら れ る。 ﹁授 く る を 受 く ﹂ と
ら に、 受 大 月氏 の ﹁受 ﹂ は、 安 易 に意 味 を 通 じさ せ よ う と す
す る こと が知 ら れ て い て ﹁太 子﹂ に 書 きか え ら れ た、 と。 さ
を さ け るた め に令 に書 き か え ら れ る。 ﹁伊 存 ﹂ は 太 子 を 意 味
存 に 浮 図 経 を 口授 さ せ た﹂ を意 味 す る と さ れ る。 使 は 二義 性
(19)
者 た ち は お お む ね 信 じ て いる。
者 であ る伊 存 が浮 図 経 を 口授 す る のを 受 け た﹂ と い う事 実 で
る よ う に な つた、 と い う ふ う に 考 え ら れ な いだ ろ う か。
さ て、 伊存 と いう 言 葉 に つい て 日 本 の学 者 は と く に 見解 を
あ る。
方)
斐 松 之 注 と 劉孝 標 注 で は ﹁受﹂ と ﹁伝 ﹂ の違 い し か な い。
月 氏 の伊 存 に つ いて (定
-27-
方)
いが、 サ カ語 の形 はや や後 の文献 に よ つて い る。
近 い。 ﹁存 ﹂ の語 頭 子 音 はjhより む し ろ サ カ語 系 の 図yに
s近
(20)
月氏 の伊 存 に つ い て (定
発 表 し て い な い。 私 は 伊 存 は 西 北 イ ン ド の 碑 文 に 現 わ れ る
僅 か な 手 が か り で は あ る が、 これ を も と に 私 は 次 のよ う に
ャヴ ァン ヌや ペ リ オ は ﹁太 子﹂ が 正 し く、 ﹁伊 存 ﹂ は そ の 誤
推 理 し て み る。 中 国 の文 献 の ﹁伊 存 ﹂ と ﹁太 子﹂ に ついて シ
よ る タ フ テ ィ バ ー イ 碑 文 に 次 の よ う に 書 い て あ る。
erjhun
のa音 訳 語 で あ る 可 能 性 を 提 案 し て み よ う。 コ ノ ウ に
大 王 グ ド ゥヴ ハラ の (
治 世 の) 二 六 年、 一〇 三 年 のヴ ァイ シ ャー
写 であ る と考 え た が、 両 者 は実 は と も に 正 し く、 一方 は音 訳
カ 月第 一日、 こ のめ で た き半 月 に、 救 済 者 バ ラサ ミ が息 子 と娘 と
と も に、 救 済 者 ミ ラの名 誉 の た め、 カ バ太 子 (erjhuna)の
(21)
名 誉 のた め、 母 と父 の名 誉 の た め に (この) 祠 堂 を布 施 す る。
自 身 であ ると は限 ら な い。 クジ ュー ラ は西 紀 一世 紀 の約 九 十
し か し、 魏 略 の ﹁伊 存 ﹂ が ク ジ ュー ラ ・カ ド フ ィ セ スか れ
で あ り 浅 一方 は意 訳 であ る。
こ の エ ル ジ ュナ に つ い て コ ノ ウ は 次 の よ う に の べ て い る。
コー タ ン の 古 サ カ 語 で は サ ン ス ク リ ッ ト のkumara
(太子) を
翻 訳 す る の にalysana
のiち
、に はeysanaす
i、
な わ ちalzanai年
、 間 を 生 き た と推 定 さ れ て い る。 これ が 正 しけ れ ば、 か れ が
ezana
(i
ys=zと
)い う 語 が 使 わ れ た が、 エ ル ジ ュ ナ を こ れ と
れ た 人物 が 存 在 し た こと は 大 いに あ り う る。 そ し て伊 存 が ク
子 を 意 味 す る と す れ ば、 クジ ュー ラ の同 族 中 にそ の名 で呼 ば
西 暦 前 の伊 存 であ り え た はず が な い。 し か し、 ﹁伊 存 ﹂ が 太
(22)
ィ セ スと し、 一〇 三 年 を 古 サ カ 暦 で解 釈 し て 西 紀 一九 年 に 相
同 一視 し た く な る、 と。 コ ノ ウ は カ バ を ク ジ ュー ラ ・カ ド フ
ジ ュー ラに 先 だ つこと 僅 か の時 代 の人 物 と す れ ば、 魏 略 の記
604a
dz'uen/ts'un
er/i/yi
事 は に わ か に 現実 性 を 帯 び て く る。 そ れ は、 後 漢 明帝 の金 人
の夢 のよ う な 非 現実 的 要 素 を も つ後 の伝 承 よ り ず つと 信 頼 性
中 国 人 に な じ み が な く、 現 代 西 洋 の学 者 の多 く が つま ず い
に富 む。
の化 石 の よ う な存 在 で あ る。 し か し、 地 層 の脈 絡 が い か に か
(ancient
た)この ﹁伊 存 ﹂ と い う言 葉 は、 ひ つか き ま わ さ れ た地 層 の中
き 乱 さ れ よう とも、 こ の化 石 ひ と つが、 この地 層 が西 紀 前 二
中古 音
(23)
当 す る と し て い る。 ベ イ リ イ の コ ー タ ン サ カ 語 辞 書 に は
GSR
432a
の 形 も 出 て い る。
伊
GSR
伊 存 の発 音 は カ ー ルグ レ ン
alysanaa
目下項にeysaunai
存
で i-dz'u
にe
なnり、 藤 堂 氏
に よ つ て、 上 古 音 (archa
でi
dc
z)
'wen、
二頁) に よ っ て、 上 古 音 (周 秦 漢 の発 音)erjhuna、中 古 音
年 こ ろ に属 す る可 能 性 を力 強 く 証 明 し て い る。 し か も得 体 の
﹁漢 字 語 源 辞 典 ﹂ (七 二〇 頁、 六九
(階 唐 の発音) ・dzuen に な り、 い ず れ に し て もerjhunに
a
-28-
知 れ ぬ こ の化石 の存 在 は こ の記 事 の神 話 化 を は ば ん だ。 (﹁太
子﹂ と記 す文献のほう では老子に因 む神話 化が 行 われ て いる。)
伊
存 と いう 一般 人 には 理解 し に く い言 葉 が使 わ れ て いる 事実 こ
sur
les
et
Buddhism,
19
20
21
これ ら の学 者 の文 献 に つ い ては 鎌 田 茂 雄 ﹃中 国 仏 教 史 ﹄ (岩
p.2.
p.62.
史学 雑 誌 三 五-七 の五 九 四頁 に、 重 松 俊 章 が 伊存=Insihara
波 全 書) 16 頁 24 頁 等 参 照。 特 に重 松 氏 の論 文 を み ら れ た い。
に あ ら ざ る か と質 問 し たと あ る。
Kharosthi
Grammatical
II-1,
Saka
Konow:CII,
22 Emmerick:
氏 は ヒ ン ド ゥ ー ク シ ュ山 脈 の北 に い て、 ま だ 仏 教 を 知 らず、 ゾ
JA.18
2390白 鳥 が 魏 略 の伝 を 否 定 す る 理由 は ﹁元 寿 元 年 の ころ に は大 月
-一
般 の史書
昔漢哀帝元寿元年 博士弟 子景盧受大月氏王使伊存
口受浮屠経
昔漢哀帝元寿元年博 士弟 子景慮受大月氏王使伊存
口伝浮屠経
嚢 松 之 注
I'e三
poq国
ue 志
世 説 新 語
劉 孝 標 注
哀帝元寿元年博士弟 子秦 景憲受大月氏王使伊存 口
授浮屠経
昔漢哀 帝元寿 元年博 士景匿受大月氏使 王使伊存 口
授浮 図経
昔漢 哀帝 元寿 元年博 士弟子景盧受 大月氏 王使伊存
口授浮 図経
存 口授 浮 図 経 (北 宋 版) ︹殿版 で は秦 景館 ︺
昔漢 哀帝元寿 元年博 士弟 士景匿受 大月氏 使王使伊
哀帝時博士弟子秦景使伊存 口授浮 屠経
魏 書釈 老 志
階
典
書
三五
巻 一九 三
巻
通
巻 一九 六
志
太平 簑 宇 記
巻 一八 三
pp.110通
et
I'epoque du Kani◎ 哀 帝 時 仏 教 伝 来 記 録 集 (配 列 は ほ ぼ年 代 順)
西 紀 前 に バ ク ト リ アに い て仏 教 を 知 る こと は 不 可 能 で は な い。
JA.1897,pp. ロ ア ス タ ー教 徒 だ つた から ﹂ (趣 旨)であ る。 し か し、 大 月 氏 が
sur
les
Note
そ が、 こ の 記 事 が 仏 教 徒 の た め に す る 捏 造 で な い こ と を 何 よ
2、 3、 4、 5、Specht:
り も よ く 物 語 つ て い る。
1
on
pp.29
(未
5-見3)05.
pp.を
4み
5よ
0。
-468
13,
shou
方)
T'oung
Indo-Scythes
pp
を.み
1よ
6。
6-191
Indo-Scythes
Notes
Les
7、 8、Levi:
pp.180-1
を8
み5
よ。
6
1900,
MSOS
Wei
Les
JA.1987,
Specht:
14-2
0 を み よ。
9
c
hka,
JA.
10 11、
12、Levi:
China,
-111.
18 Ware:
月氏 の 伊 存 に つい て (定
-29-
月氏 の伊 存 に つ いて (定
論
論
論
52,478c
邪
52,534c
正
52,552b
正
方)
前漢哀帝元寿年使景憲 往大月氏国因諦浮図経還漢
哀帝元寿年使景憲往大月氏 国因諦浮図経還漢
漢 哀帝元寿元年使景憲往 大月氏国因諦浮図経還漢
ィ の いうP)
前 漢 哀 帝時 秦 景 使 月氏 国 王令 太 子 口 授 於 景 (レヴ
(レヴ ィ の いう P)
前 漢 哀 帝時 秦 景 至 月氏 国其 王 令 太 子 口 授 浮 図 経
文 献 通 考 哀帝時博士弟子秦景使伊存 口授浮屠経
巻 二二六
-仏 教書 (数字 は大 正大蔵経 の巻 と頁)
歴 代 三 宝 紀 哀帝世 元寿年中景憲使於大月氏 国受得 浮図経
49,29b
弁
弁
破
52,970b
釈 迦 方 志
53,378c
法 苑 珠 林
論
(東海大学教授)
景憲使西域大月氏 王令木子 口投献浮 図経
元寿元年遣景憲使大月氏得其王 口授浮 図経還
至哀帝 元寿 元年博 士景憲受大月氏王使伊存 口授浮
図之経
前漢 哀帝元狩中秦景使月氏国王令太子 口授於景
哀帝元寿中使景憲往大月氏国因諦浮図経還
前漢哀帝時秦景使月氏国王令太子 口授於景
広 弘 明 集 哀帝元寿中景憲受大月氏王 口授浮図経
5
2,101a
広 弘 明 集
52,101a
集 沙 門 ⋮⋮
52,456b
正
52,470a
集 沙 門 ⋮⋮
頸
52,565b
49,329a
仏 祖 統 紀
仏祖歴代通載
49,506b
-30-