カイ コの記憶 - 毛呂山町

特集
カイコの記憶
昭和初期の養蚕風景
最盛期には町内の約8割の世
帯が育てていた蚕。少し前まで
は、近所のいたるところで、桑
畑も見ることができました。
養 蚕 は、 一 昔 前 ま で 農 家 に
とって貴重な現金収入源でし
た。養蚕を行っていた人たちは、
土 間 は も ち ろ ん、 居 間、 天 井、
あらゆる場所で蚕を飼育し、夜
寝るときは蚕が葉を食べる音を
聞きながら眠りました。
毛呂山町で一つの時代を築い
た養蚕。しかし、今、養蚕農家
の減少によって、過去のものと
なりつつあります。
食欲旺盛な蚕のため、早朝か
ら 桑 を 摘 み、 深 夜 ま で、 没 頭
した桑くれ・・・。幼虫が繭を
作りはじめようとするオコアゲ
のときは、一家総出で、ときに
は近所や親戚中が集まったこ
と・・・。
養蚕の記憶は、このまま消え
ていってしまうものなのでしょ
うか。
2
第一章
回顧
∼歴史を紐解く∼
稚蚕協同飼育所が滝ノ入・平山・沢
田に設置され、集団桑園、壮蚕用ハ
ウスなどの施設が改善されたことに
より、稚蚕期の作業が共同でおこな
需要や輸出が減少し、中国や韓国か
毛呂山町の養蚕の歴史
年
代 主なできごと
明治時代
温暖飼育法の創始
各村とも春の養蚕が普及
江戸時代中期 わずかながら各村で春の養蚕
明治 年
年
養 蚕 農 家 戸 数 が、 町 域 全 体
秋の養蚕が公認となる
で約 %になる
世界大戦の影響で主要農産
年
大正時代
45 11 10
で あ る 生 糸・ 綿 糸 の 相 場 が 下 落 し、 えるようになりました。しかし、昭
繭の値段にも直接影響を及ぼしまし
毛呂山町で養蚕をさかのぼると、 た。しかし、当時の一般農家は、既
ら安い生糸が輸入されるようにな
毛呂山の養蚕の歩み
に現金収入を養蚕に頼っていたた
り、小規模な養蚕農家は減少し始め、
年代も後半となると生糸の国内
江戸中期にわずかながら各村で春
め、早急な蚕の品種改良が求めらる
年
年
年
年
年
年
麦の2倍になる
金 融 恐 慌 の 際、 繭 の 価 格 が
大幅下落
∼第2次大戦から終戦へ∼
毛呂山養蚕農業協同組合が
設立
川角養蚕農業協同組合が設立
平山・沢田に設置
年代 稚 蚕 協 同 飼 育 所 が 滝 ノ 入・
年
年
戸に大幅減少
︵参考資料﹃毛呂山町史﹄
︶
養蚕農家戸数が大幅減少
飼育戸数が
が完成
岩井地区に稚蚕協同飼育所
輸入
年代 国内需要・輸出がともに減少
後半 中 国・ 韓 国 か ら 安 い 生 糸 が
改善
年度 稚 蚕 協 同 飼 育 所、 集 団 桑 園、
から 壮 蚕 用 ハ ウ ス な ど の 施 設 が
昭和 年
昭和時代
大正 年頃 毛 呂 村 で は 繭 の 生 産 額 が 米、
具の改良がなされる
蚕 種 の 品 種 改 良 や 蚕 室・ 蚕
物の価格が下落
81
和
の養蚕がおこなわれていました。
大規模におこなっていた養蚕農家も
縮小化が進んでいきました。そして、
ようになりました。当時は国や県で
明
治
期
年代も半ばとなると蚕を飼育
する戸数が大幅に減少し、平成に入
昭和
果、糸の質量ともに新品種が飼育さ
ると急激に衰退していきました。
も積極的に蚕種の改良を奨励してい
明治時代に入ると、各村とも繭、 たため、蚕種業者も研究を重ねた結
生 糸、 生 絹 の 生 産 を 行 う ま で に 春
れ、普及、発展しました。また養蚕
の発展にともない、蚕室や簇などの
昭和
昭和 年
昭和
昭和 年
昭和
昭和
昭和
昭和
平成2年
平成7年
年に温暖
の 養 蚕 は 広 ま り、 明 治
飼育法が創始されてから急速に普
蚕 具 の 改 良 が 図 ら れ て い き ま し た。
そ し て、 大 正
100
年に秋蚕
が公認されると年々改良進歩が行
の 生 産 額 が 米、 麦 の 生 産 額 の 2 倍
年に毛呂山
50
200
及しました。その後明治
われるようになり、これとともに桑
に な る ほ ど、 ま す ま す 収 入 源 を 養
し、戦後になり、昭和
年に川角
100
300
年の毛呂村では繭
の 品 種 改 良 も 行 わ れ て、 桑 園 が 急
蚕に依存するようになりました。
年ごろには養蚕農家戸数が
昭和期以降
増 す る こ と に な り ま し た。 そ し て
明治
町 全 体 で 約8 割 に ま で な り ま し た。
また、生産した繭はそのまま売却さ 昭和に入るとまもなく世界的な金
れることはなく、大部分の農家は繭 融恐慌により繭の価格が大幅に下落
を加工し、生糸にしたり、機織をし、 し、 養 蚕 農 家 が 困 窮 し ま し た。 ま
軒を超えるまでになり
生絹としました。このころ、毛呂山 た、第二次世界大戦などの影響によ
町 で も 多 数 の 機 工 場 が で き て お り、 り養蚕業は一時衰退しました。しか
その数は
養蚕農業協同組合、昭和
養蚕農業協同組合が設置されるなど
400
15
平成時代
95
ました。
大
正
期
して、養蚕は、次第に活気を取り戻
していき、集団就職者も毛呂山町の
150
500
24
30
42 37
40
55
60
55
50
45
40
35
30
25
24
37
大正期に入ると第一次世界大戦
600
15
10
11
工場に来るようになりました。また、
0
50
資料:『農林業センサス』
40
50
養蚕農家戸数 (ha)
桑園面積
200
700
45
の影響で大正3年には、輸出の中心
3
毛呂山町における養蚕農家戸数と桑園面積の推移
(戸)
カイコの記憶
特集
戦前まで、ほとんどの家が農業によって
生計を立てていました。一般の農家にとっ
ようさん
て、 養 蚕 は 現 金 を 得 る た め の 大 切 な 手 段。
多く の農家では、家屋の一角に蚕のための
部屋があり、文字通り蚕とともに生活して
いました。
金融恐慌や戦争による繭の価格の暴落に
も 耐 え、 戦 後、 明 治 以 来 の 最 盛 期 を 迎 え た
毛呂山の養蚕。その第一線で活躍した人び
との記憶。
それは、毛呂山の養蚕を語るのに欠かせ
ない貴重な生きた証です。
4
もう養蚕をやめてから、およそ
年ぐらいになりますが、一番の最盛
まゆ
期にはおよそ400貫(約1500
キログラム)の繭を出荷していまし
た。毛呂山町では多いほうだったと
思います。当時は、鉄骨やアルミの
ハウス、2棟の物置だけでなく家の
なかまで蚕を飼っていました。
私の家は、父親が養蚕をおこなっ
ていたため、私も幼少のころから蚕
5月から9月の養蚕の時期には、朝
に 囲 ま れ た 暮 ら し を し て い ま し た。
10
も 4 時 ご ろ か ら 桑 を 取 り に 出 か け、
一日中蚕の世話をおこない、夕飯を
食べるのも夜の8時。毎日その繰り
返しでとても忙しかったことを覚え
ています。とにかく夢中になってた
くさん繭をとっていました。そのこ
ろはいい繭をたくさんとることが一
年ぐらい毛呂山町養
番の楽しみでした。
時でした。
と思います。生涯忘れることのない
ても大切な一ページを飾ってくれた
ころの生活は、私の生涯のなかでと
今、振り返ると、養蚕をしていた
だきました。
やりがいを感じて養蚕をさせていた
を感じていましたが、同時にその分
をとらなくてはならないという責任
ました。そのときは少しでも多く繭
蚕農業協同組合長をさせていただき
私はおよそ
10
懐古
~時代を語る~
秋山博昭さん(大師一区)
一日中、蚕に囲まれた暮らし。
いい繭をとることが
一番の楽しみでした
元 養蚕農家
第二章
▲ 昭和初期の養蚕風景
買い付けた生糸を絹織物に
遠くは鹿児島から集団就職で毛呂山へ
生活で、休む間もなかったように記
いったら有名で、越生、毛呂山、坂
めんの工場などの見学に行き まし
ことがあり、京都府にある丹後ちり
にっさい
が 数 件 あ り ま し た。 昭 和
うめぞの
近くは越生町の梅園、遠くは鹿児島
県から働き手が来ていて、およそ
が
人くらいの人を雇っていました。当
こ
時、 遠 く は 茨 城 県 古 河 市 や 群 馬 県
しぶかわ
渋川市にある糸屋から糸を買い付け
て、織り上がった絹織物を主に越生
町に卸しに行くのが私の仕事でし
た。
私も忙しく仕事をさせていただい
ていましたが、特に女性が忙しかっ
たようです。毎日、機を織るために
工場に行ったり、雇っている人のま
に熱心に勉強しました。
ように記憶しています。
は、楽な時期はあまり長くなかった
したが、実際のところ生活に関して
織物工場をして、人を雇っていま
10
年 に は、 た。少しでも効率よく生産するため
戸の入西には比較的大きな織物工場
たんご
当時は、飯能・越生・小川の裏絹と また、先進的な工場に見学に行く
うらぎぬ
和 末 期 ま で 機 屋 を 営 ん で い ま し た。 憶しています。
はたや
私の家は、大正中期のころから昭
田島政治さん(毛呂本郷)
かないを作るために炊事場に行った
▲ 生糸(かつて田島さんの 絹織物工場で使われたもの)
▲ 職安依頼の
集団就職募集の
パンフレット
(昭和29年)
▲ 機織りの様子(昭和15年ごろ)
元 絹織物工場経営
28
りとその往復で一日が過ぎてしまう
5
カイコの記憶
特集
ようさん
毛呂山町の「地域文化」とも言える養蚕を今でも
続けている2軒の養蚕農家の人たち。
養蚕農家
養蚕の手順
はき た
掃立て
さんしゅし
じょうぞく
上 簇
みんき
蚕の卵をあらかじめ産みつけた 蚕は眠起といって脱皮を繰り返
「蚕種紙」を種屋などから購入し、 し ま す。 掃 立 て 後 5・6 日 く ら い
種紙や種箱に入っている孵化した
三 眠、 四 眠 と 繰 り 返 し、 そ の 度 に
で 初 眠( 齢 ) を し、 そ の 後 二 眠、
か
ばかりの蚕(毛蚕)を羽ぼうきで
体も大きくなります。四眠が終わ
ふ
掃き下ろすことを「掃立て」とい
り、しばらくすると桑を食べなく
毛蚕を掃き下ろしたら桑を与え
蚕 が 繭 を 作 ろ う と し て い る の で、
のような状態になります。これは
ご
い、蚕の飼育はここから始まりま
な り、 体 が 透 き 通 っ て き ま す。 蚕
て飼育用のタナに給桑用のカゴの
木 鉢( 蚕鉢 ) で 蚕 を 拾 い、 繭 を 作
け
す。
は、孵化してから1 カ月ほどでこ
蚕の飼 育は手 間のかか る仕事
ま ま さ し て お き ま す。 そ の 後、 桑
らせるために簇に蚕を置いて、繭
~文化を守る~
この2軒の養蚕農家の人たちは、貴重な地域文化
の守り手として、こんにちも蚕の飼育に精を出して
います。
蚕
桑こしらえ
私 は、 こ の 家 に 嫁ぐ 前 か
で す が、 手 間 を か け た ぶ ん 応 え
時
ることが 当たり前 のように
手塩にかけて育てるといい蚕に
がします。一生懸命に桑をあげ、
といって、細かく刻んだ桑を与え
蚕 が 小 さ い う ち は「 稚 蚕 飼 育 」
さんばち
まゆ
ら 養 蚕 を し て い ま し た。 実
て く れ る。 蚕 を 育 て る の は 赤
を1 日5 回程度、早朝から夜
きゅうそうよう
家も養 蚕をおこな ってい た
ちゃんを育てるのと似ている気
な っ て い ま す。 私 の 住 む 地
育 っ て く れ る。 少 し で も い い 糸
ます。桑は桑畑から摘んできます。 上簇後、一週間ぐらいで蚕は繭
かいてんまぶし
を つ く り、 サ ナ ギ に な り ま す、 こ
繭かき・収繭
しゅうけん
アゲ(上簇)」といいます。
を 作 る 巣 に し ま す。 こ れ を「 オ コ
区 は、 も と よ り 養 蚕 が 盛 ん
が と れ、 重 み の あ る、 し っ か り
桑くれと棚飼い
のころをみはからって簇から繭を
ちさんしいく
で あ っ た た め、 こ れ ま で 一
と し た 大き な 繭 を 作 っ てく れ た
養蚕で最も神経を使うのは室温
は ず す 作 業 を し ま す。 こ れ を 繭
ごろまでの間に与えます。
生懸命 にな って蚕を 育て て
ときは、本当に嬉しく思います。
を保つことです。そのために火鉢
つ
き ま し た。 今 ま で 養 蚕 を し
私 は、 根 っ か ら 蚕 が 好 き な の で
か き と い い ま す。 回 転 簇 の 繭 か
さんだな
たなが
てき て辛い と思ったこと は
を タ ナ(蚕 棚 )の 側に 置き、 温 度
きには繭かき棒という道具を使
じょうまゆ
計を見ながら、常に一定の温度を
ま し た。 と て も 寂 し い こ と だ と
的にもずいぶんと減ってしまい
た た め、 養 蚕 を す る 農 家 が全 国
ま す。 蚕 を カゴ にの せ、こ れ を 座
桑摘みをしては桑くれをおこない
を1 日5 回程度、朝から夜中まで
蚕は桑しか食べませんので、桑
できるのは上繭で、上繭はケバト
た繭のことです。出荷することが
もで、屑繭とは蚕の排泄物で汚れ
とは二匹の蚕が一つの繭に入った
玉繭・ 屑繭 に 選 別 さ れ ま す。 玉 繭
くずまゆ
思 い ま す。 し か し 私 は、 蚕 が 好
敷や土間などに設置した蚕棚にさ
リ キ で 毛 羽 を 取 っ た の ち、 繭 袋 な
たままゆ
い ま す。 は ず さ れ た 繭 は、 上 繭・
き で す か ら、 こ れ か ら も 体 が 元
し、収納する飼い方を棚飼いとい
保つようにします。
気 な う ち は養 蚕を 育 て 続け てい
います。
どに入れて出荷します。
まゆぶくろ
はいせつぶつ
きたいと思っています。
が減り、絹があまり売れなくなっ
今 と な っ て は、 着 物 を 着 る 人
しょうね。
まぶし
の で、 今 で も 養 蚕 を し て い
野原道子さん(大 類)
一度もありません。
10
第三章
根っから蚕が好きなのでしょうね
6
ようさん
私 たちの家では昭和
年 ご ろか
ら養 蚕 を お こ な っ てい ま す。 今 と
な っ て は飼 育 す る 蚕 の 数が 減 っ て
じょうそうだい
い ま すが、 昔 は 家 の な か で 部 屋 の
な か に 条 桑台 を 置い て、 と こ ろ 狭
し とい っ ぱい飼 っ てい ま し た。食
事も 蚕 を 見 な が ら で し た し、 まさ
に 生 活 を 共 に し て い た 感 じ で す。
で すか ら 今 でも 蚕に は 愛着 が あ り
ま す。 桑 の 葉 を食 べ て い る 音 を 聞
い たり、 蚕 の 顔 を 見 たり す るだ け
で疲れも忘れます。
蚕 の飼 育 は、 良 質 の 桑 生 産か ら
温 度管 理など細か な ことに気 をつ
か い な が ら の 作 業が あ り、 と て も
大 変 な 作 業 が 多 い の が 事 実 で す。
しか し、 蚕 は、 桑 を あ げ る と 目 に
見 え て 大き く な る様 子 が わか り ま
す し、 と て も 忙 し い 仕 事 で す が、
やり が い を 感 じなが ら でき る 仕 事
まゆ
で あ る と も い え ま す。 昔 は、 家 で
と れ た 繭 を 品 評 会に 出 し、 表 彰さ
れたこともありました。
今 は、 後 継 者 不 足 な ど で養 蚕 農
家が 減 っ てき てい ま すが、 国 産 の
すた
生糸 は と て も 良 質 の も の で あ る た
め、 決 し て こ の 文 化が 廃 れ る こ と
はないと思っています。
蚕 を 育 て る 作 業 は 大 変 で す が、
こ れか らも 二 人 で 協 力 し て、 よ り
①飼育小屋の内部
②上簇(蚕を網のままとる)
③上簇(簇に蚕を乗せる)
④簇に散らばっていく蚕
⑤収繭(回転簇)
⑥収繭(繭の毛羽取り)
⑦収繭(蚕棚にさしておく)
⑤
写真協力/小室正夫さん(平成7年)
⑦
⑥
③
②
30
よい 繭を生産していき たい と思っ
ています。
7
カイコの記憶
特集
養蚕農家
西山 茂さん
てるさん(大 類)
桑の葉を食べる音を
聞いたり、蚕の顔を見るだけで疲れも忘れます
①
④
第四章
紡ぐ
∼文化を後世に∼
と非常に好評でした。やはり子ど
私は、現在小学4年生の担任を
が終わった後に絵を描いてもらっ
が印象に残りやすく、社会科見学
実習で毛呂山町歴史民
今 年 の7 月 に 学 芸 員
地域文化は教材でもある
日に社
たのですが、体験したものの絵が
俗資料館にお世話にな
文化は体験すること
で 後 世 へ 伝 わ る
会科見学で子どもたちと一緒に歴
多かったことが印象的でした。
もたちには、実際に体験したもの
史民俗資料館に行きました。テー
り、蚕の飼育についての企画展示
しています。今年の9 月
マは﹁過去100年さかのぼって、 また、川角小学校では以前に学
ら 服 を 作 っ た の?﹂ な ど 様 ざ ま な
物を見学するだけでなく、石臼を ﹁虫を飼っていたの?﹂とか﹁虫か
ていたことを知り、毛呂山町の人
は、以前養蚕が盛んにおこなわれ
を調べているなかで毛呂山町で
歴史民俗資料館の資料や収蔵品
いことには分からないことが多い
し た。 何 事 も 自 分 の 目 で 見 て み な
大きさに驚かされたことがありま
ましたが、実際に見てみるとその
ほど大きくないものを想像してい
をおこないました。
挽いたり、昔の洗濯板を使用して
反応がありました。今の子どもた
たちに養蚕の歴史や文化について
校 で 蚕 を 飼 っ て い た こ と が あ り、
ハンカチを洗ったりと様ざまな体
ちには、生き物から服を作るとい
も っ と 知 っ て も ら い た い と 思 い、 ということを痛感しました。
昔の生活を知る﹂ということで歴
験もできました。子どもたちにも
う感覚があまりないらしく、興味
養蚕のことを企画展示にしようと 養蚕だけでなく地域の文化など
そのことを子どもたちに話すと
﹁ た い へ ん だ け ど、 面 白 い ﹂ な ど
を示したことに驚きがあり、機会
考 え ま し た。ま た、私 の 母 の 実 家
のための手助けをしていきたいと
が各々の自己を確立していく。そ
し、 そ し て、 一 人 ひ と り の 子 ど も
を養い、それぞれの子どもが成長
学ぶことで、地域を誇りに思う心
えていくことです。地域の文化を
は、地域の文化を子どもたちに教
そ の な か で、 私 た ち が で き る の
大 抵 の こ と で は な い と 思 い ま す。
地域で文化を守っていくのは並
ま し た。当 初蚕具 に つ い て、 そ れ
質は分からないということを学び
実習では、想像だけでは物の本
がら帰宅した思い出があります。
学路にも桑畑があり、よく眺めな
になりました。中学生のころは通
ったことも養蚕を取りあげる理由
しまったことに対しての危惧があ
こと。最近、近所に桑畑が減って
があったため養蚕に興味があった
私も子どものころ蚕を育てた経験
いきたいと考えています。
くのことを今後の人生に活かして
す。 私 は、 今 回 の 実 習 で 学 ん だ 多
目で見て発見することも多いので
たくさんあります。実際に自分の
を読むだけでは分からないことが
ますが、考古学も同様で文献など
在私は大学で考古学を学んでい
一番大切なことだと思います。現
が文化を後世に伝えていくために
体験が感動につながる。そのこと
都築淳郎さん(川角小学校教諭)
考えています。
についても同様であると思いま
があればこのような地域文化を体
で は 昔、 養 蚕 を お こ な っ て お り、 す。 実 際 に 見 て、 体 験 す る。 そ の
平山美由紀さん(大学生・鶴ヶ島市)
験させてあげたいと思いました。
史民俗資料館にある様ざまな展示
20
つづきあつお
8
毛呂山町で一つの時代を築いてきた養蚕。
時代が進むにつれ、養蚕を行う農家も減少し、今となっては、
養蚕農家も2 軒となってしまいました。時代の流れによって、
これまで行われてきたものが減っていくことは仕方のないこと
かもしれません。けれども養蚕が行われていた事実は、決して
消えることはありません。
今もなお、この文化を守っている人がいます。文化を後世に
伝 え て い こ う と し て い る 人 が い ま す。 歴 史 民 俗 資 料 館 に お い て
も常設展示で養蚕に関するコーナーを設置し、文化を後世に伝
えるための展示をしています。
文化を受け継いでいくことは、たいへん難しいことです。し
かし、こうして人びとが語り継ぐことによって、決して忘れら
れないものへと変わっていきます。
﹁ カ イ コ の 記 憶 ﹂ は、 私 た ち の 町 に 深 く 根 付 い た 地 域 の 記 憶
ださった皆さん、貴重な資料を
集をとおして、取材に応じてく
最後になりますが、今回の特
︻資料提供︼田島政治さん、野原道子さん、
越生町の絹織物工場の今昔﹄岡野恵二氏
録﹄毛呂山町歴史民俗資料館、﹃毛呂山町・
︻参考︼
﹃毛呂山町史﹄、﹃常設展示解説図
。
です。道端に桑畑を見かけたら思い出してください。私たちの
ー
快く提供してくださった皆さん
小室正夫さん、栗原大次郎さん
町でも養蚕が盛んに行われていたことを
に心より感謝を申し上げます。
特集
カイコの記憶
完
9
カイコの記憶
特集