【K:】Server/地域史研究/地域史研究第3 7巻1号/田中 現 し た の だ っ た ︵ ﹃ 重 編 応 仁 記 ﹄ ︶ 。 尼 崎 と 堺 は そ れ ぞ れ が 拠 点 と し た 港 湾 都 市 で あ っ た と の 67 4 勇 哀 れ を 込 め て 、 高 国 勢 の 凄 惨 な 敗 戦 を ﹁ 大 物 崩 れ ﹂ と 表 か ら こ そ 大 物 に 逃 げ 込 ん だ の で あ ろ う 。 後 世 の 人 び と は 方 の 拠 点 と な っ て い た と み ら れ 、 大 敗 し た 高 国 は そ れ だ の 大 物 城 は 前 年 一 一 月 に 薬 師 寺 国 盛 が 降 参 し て の ち 高 国 王 寺 の 陣 を 攻 撃 し 、 高 国 方 を 打 ち 破 っ た の で あ る 。 尼 崎 沢 長 政 な ど の 加 勢 に よ り 大 軍 と な っ た 三 好 ・ 晴 元 方 が 天 撃 に 遭 っ て 天 王 寺 に 退 い た 。 六 月 、 阿 波 か ら の 援 軍 や 木 元 を 攻 め た が 、 阿 波 の 三 好 元 長 の 加 勢 を 得 た 晴 元 方 の 反 望 む 浦 上 村 宗 に 擁 さ れ て 堺 の 細 川 晴 三 月 、 細 川 高 国 は 播 磨 守 護 の 座 を 護 代 浦 上 氏 と の 大 阪 湾 の 経 済 的 利 権 を 巡 る 争 い が あ り 、 次 代 の 雄 と な る 実 力 者 で あ る 阿 波 守 護 代 三 好 氏 と 播 磨 守 と な る 。 そ し て 、 両 細 川 家 当 主 間 の 覇 権 争 い の 裏 に は 、 お け る 水 上 戦 で の 大 敗 ﹂ を 意 味 す る と 考 え る こ と が 可 能 る 。 し た が っ て 、 ﹁ 大 物 崩 れ ﹂ は 、 ﹁ 大 阪 湾 北 岸 の 浦 々 に 部 か ら 尼 崎 辺 の 大 阪 湾 沿 岸 浦 々 と い う 広 義 の 地 域 名 で あ で あ っ た こ と に な り 興 味 深 い 。 ﹁ 大 物 浦 ﹂ は 、 淀 川 河 口 上 戦 と 理 解 さ れ て き た も の が 、 実 は 水 上 戦 な い し は 河 戦 の 細 川 晴 元 や 三 好 元 長 な ど 阿 波 衆 と の 諸 合 戦 は 、 従 来 陸 ﹁ 河! 衆! ﹂ が 水 軍 を 意 味 す る と す れ ば 、 数 日 に わ た る 堺 ︵ 当 時 、 播 磨 守 護 代 ︶ 享 禄 四 年 ︵ 一 五 三 一 ︶ "# 第﹃た 一尼な 巻崎か 分市い 科史さ 会﹄む チを ュ読 ーむ タ会 ー 校 細 川 高 国 の 切 腹 と 大 田 物 中 ・ 富 松 勇 ・ 京 都 史 煙 $% の と ら え 方 が 変 わ っ て く る 。 な る が 、 ﹁ 没 す る と こ ろ の 河! 衆! ﹂ と 読 む と ﹁ 大 物 崩 れ ﹂ 家 記 ﹄ ︶ の 解 釈 と 変 わ ら ず ﹁ 河 で 水 死 し た 衆 が 一 万 人 ﹂ と が 壱 万 余 人 ﹂ と 読 め ば 、 従 来 の ﹃ 細 川 両 家 記 ﹄ ︵ 以 下 、 ﹃ 両 新 た に わ か っ た 。 こ の ﹁ ⋮ 没 河 衆 ⋮ ﹂ を ﹁ 河 に 没 し た 衆 嶋 村 以 下 没 河 衆 壱 万 余 人 云 々 ﹂ と 表 現 さ れ て い る こ と が ︵ ﹃ 姫 路 市 史 ﹄ 第 八 巻 、 平 成 一 七 年 刊 所 収 ︶ に は 、 ﹁ 浦 上 掃 部 助 こ の 合 戦 時 の 戦 い 振 り を 伝 え る ﹁ 東 寺 光 明 講 過 去 帳 ﹂ Chiikishi Kenkyu 【K:】Server/地域史研究/地域史研究第3 7巻1号/田中 こ と に な る 。 介 錯 し た の は 晴 元 方 の 三 好 山 城 守 ︶ 尼 崎 京 屋 に お い て 従 う 家 臣 一 人 も 無 く 、 単 身 で 切 腹 し た こ の ﹁ 日 記 ﹂ と い う 毎! 日! の! 生なま の 記 録 に よ れ ば 、 高 国 は え ら れ る 京 都 と の 関 係 の 強 さ も 考 慮 す れ ば 、 本 業 は 為 替 想 定 す る こ と が で き る 。 さ ら に 、 京 屋 と い う 屋 号 か ら 考 都 を 結 ぶ 港 湾 都 市 尼 崎 に 、 藍 玉 商 ・ 藍 玉 荷 問 屋 の 存 在 を ︵ 一 秀 カ 桓 今 暁 於 尼 崎 京 屋 切 腹 云 々 、 不 便 ︵ 介 錯 ︶ 也 、 運 命 至 極 之 故 歟 、 只 一 人 切 腹 、 彼 [ 被 ] 官 一 人 無 之 波 が 唯 一 の 藍 生 産 地 ︵ ﹃ ・ 両 積 家 み 記 出 ﹄ ︶ し か 地 ら で 、 あ 当 っ 時 の 。 た 西 こ と 国 の い 諸 こ う ︵ 港 と 今 と と 谷 国 一 帯 で は 阿 波 以 外 の 地 域 で 染 料 の 運 漕 記 録 が 無 く 、 阿 ろ う 。 応 仁 の 乱 の 少 し 前 、 文 安 二 年 と な っ た 。 ﹁ 紺 屋 ﹂ と い う 記 載 云 々 、 一 日 一 夜 及 酒 宴 ﹂ と 書 き 綴 っ て い る こ と が 明 ら か 明 ﹃ 戦 国 三 好 一 族 ﹄ 新 人 物 往 来 社 、 昭 和 六 〇 年 刊 ︶ Vol. 37 No. 1, Sept., 2007 云 々 、 無 念 之 次 第 歟 、 三 好 山 城 寺 [ 守 ] 令 ! 妁 4 勇 ︵ 不 憫 ︶ 言 語 道 断 之 儀 ︵ 一 四 四 五 ︶ 当 時 、 西 ら に ﹁ 言 語 道 断 之 儀 ﹂ と 嘆 い て い る 。 さ ら に ﹁ 八 日 摂 州 之 儀 、 常 桓 る 高 国 自 刃 の 場 と な っ た の で あ る か ら 相 当 規 模 の 家 で あ 屋 ︶ ︵ 高 国 法 名 ︶ 敗 軍 凡 落 居 云 々 ﹂ と 述 べ 、 常 さ 四 ﹄ ︶ で は 、 享 禄 四 年 六 月 四 日 の 記 事 に ﹁ 午 後 風 聞 云 、 こ こ で 、 京 屋 の 商 い も 再 検 討 し て み た い 。 紺 屋 説 ・ 酒 屋 説 が あ る が 、 敗 れ た と は い え 戦 国 武 将 ︵ で 染 あ 物 日 記 ﹁ 二 水 記 ﹂ ︵ 東 京 大 学 史 料 編 纂 所 編 ﹃ 大 日 本 古 記 録 二 水 記 下 敷 き に し て 生 ま れ た 口 承 と い う こ と に な る 。 と こ ろ が 、 近 年 よ う や く 公 刊 さ れ た 室 町 後 期 の 貴 族 の 日 流 布 し て い る 大 物 広 徳 寺 で の 自 刃 説 は 、 ﹃ 両 家 記 ﹄ を 校 物 広 徳 寺 に て 切 腹 し た と さ れ て い た 。 し て 、 京 屋 ﹁ 紺 屋 ﹂ に 隠 れ て い た と こ ろ を 見 つ か り 、 大 は 、 今 ま で 同 時 代 に 編! 纂! さ! れ! た! ﹃ 両 家 記 ﹄ の 記 載 に 依 拠 ろ 仮 さ う 説 て か が 、 。 成 尼 り 崎 立 の つ 大 。 物 魅 で 力 高 的 国 な が 仮 捕 説 わ と れ 考 、 え 自 る 刃 が し 、 た い 状 か 況 が 描 で 写 あ 記 ﹂ と い う 今 ま で 衆 目 に 触 れ な か っ た 日 記 に よ れ ば 、 今 て 、 そ の 供 養 を し た 寺 院 が 広 徳 寺 と 考 え ら れ る 。 ﹁ 二 水 に 供 養 し た 人 物 は 山 城 守 自 身 と 考 え て よ い だ ろ う 。 そ し た ら し い ︵ ﹃ 両 家 記 ﹄ ︶ 。 そ う で あ れ ば 切 腹 後 の 遺 骸 を 丁 重 末 期 の 酒 杯 を 交 わ し 、 高 国 の 辞 世 句 も 彼 が 関 係 者 に 届 け で あ る 。 三 好 山 城 守 は 高 国 と ﹁ 一 日 一 夜 ﹂ の 酒 宴 を し て 68 【K:】Server/地域史研究/地域史研究第3 7巻1号/田中 同 十 三 日 条 に ﹁ 坂 東 屋 今 日 焼 亡 不 便 云 々 ﹂ 、 同 十 四 日 条 け た と 記 さ れ て い る 。 辞 世 の 句 を 持 参 し た の で あ ろ う 。 に 坂 東 屋 入 道 と 坂 東 武 士 二 人 が 訪 問 し て 連 歌 の 指 導 を 受 遺 し て い る ︵ ﹃ 両 家 記 ﹄ ︶ 。 高 国 切 腹 二 日 後 の 十 日 、 実 隆 亭 し て い た 高 国 の 死 を 悼 ん で い る 。 高 国 は 辞 世 の 句 を 彼 に 語 道 断 ﹂ ︵ ﹃ 実 隆 公 記 ﹄ ︶ と 短 く 記 し 、 文 人 仲 間 で 深 く 交 際 4 勇 三 条 西 実 隆 は 、 日 記 に ﹁ 後 聞 、 今 日 卯 刻 常 桓 生 涯 云 々 言 こ こ で 高 国 切 腹 当 日 の 様 子 を 伝 え る も う 一 人 の 公 家 ・ 係 が あ っ た も の と 私 は 推 測 し て い る 。 京 区 坂 東 屋 町 ︶ ・ 尼 崎 京 屋 は 、 為 替 の 流 通 を 通 し て 深 い 関 を 率 い る 高 国 と 、 京 都 の 坂 東 屋 ︵ 店 舗 の 推 定 地 ・ 現 京 都 市 下 と し て も 活 動 し て い た の で あ る 。 東 国 浪 人 衆 で あ る 東 衆 隔 地 取 引 を す る と 共 に 、 蔭 で は 東 国 政 情 を 睨 む 高 国 側 近 古 文 書 伊 達 家 文 書 ﹄ ︶ 。 坂 東 屋 は 東 国 商 人 相 手 に 盛 ん に 遠 一 族 と 見 な し て よ い だ ろ う ︵ 東 京 大 学 史 料 編 纂 所 編 ﹃ 大 日 本 点 か ら さ ら に 検 証 を 重 ね る 必 要 が あ る と 考 え て い る 。 69 校 奥 州 大 名 伊 達 家 の 古 文 書 に 登 場 す る 富 松 氏 久 は 坂 東 屋 の 松 氏 が い た 。 永 正 か ら 大 永 期 を 一 連 の 出 来 事 と し て 確 定 す る に は 、 高 国 の 死 と い う 観 れ ら の 記 載 内 容 ︵ 一 五 〇 四 ∼ 二 八 ︶ に か け て 、 ︵ 連 歌 指 導 、 坂 東 屋 焼 亡 [ 放 火 か ] と 家 人 逐 電 ︶ 当 時 の 京 都 に は 、 高 国 の 側 近 で あ る ﹁ 政 商 ﹂ 坂 東 屋 富 政 商 の 坂 東 屋 が 京 都 を 退 去 し た と み ら れ る 。 し か し 、 こ 商 ・ 両 替 商 で あ っ た と も 考 え ら れ る 。 に ﹁ 坂 東 屋 悉 焼 亡 、 皆 逐 電 ﹂ と あ る 。 高 国 の 滅 亡 に よ り 、 Chiikishi Kenkyu
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