大 哉 お お い な る か な け ん げ ん 乾 元 Okamoto Seminar V 平成9年度 岡本貞雄ゼミナール 「学ぶ会」報告書 Okamoto Seminar.V Contens 1st 『多様な生き方と、価値観』 広島テレビ 報道局副部長 徳永 博充 氏 5 2nd 『アメリカ放浪記』 株式会社大宮建鐵 取締役 花見 忠之 氏 17 3rd 『その人らしく生きるために』 広島総合病院 放射線腫瘍科主任部長 本家 29 好文 氏 4th 『外から見た日本』 広島経済大学 留学生 邱 剛 氏 41 5th 『21 世紀の広島について』 広島市総務局 企画調整課長 濱本 康男 氏 2 53 6th 『私の生き方∼思想的遍歴を経て∼』 山下江法律事務所 弁護士 山下 江 氏 66 7th 『白髪の増える話』 (株)サンフレッチェ広島 広報部 74 佐伯 寛 氏 8th 『就職について』 (株) ザ・メディアジョン CEO 代表取締役 91 山近 義幸 氏 海上自衛隊呉基地及び 江田島教育参考記念館見学報告 104 この冊子は平成9年5月から翌年3月まで、岡本ゼミナール5期生によって 行われた学ぶ会、及びその活動をまとめたものです。 ご多用の中、ご協力いただいたきました多くの方々に、厚く御礼申し上げま す。そして、これからもより一層のご指導とご鞭撻の程をよろしくお願い申し 上げます。 岡本ゼミナール5期生一同 3 はじめに 大哉乾元も早いもので五巻目になり ました。毎年積み重ねた学生諸君の努 力が、このような形で残されていくこ とを嬉しく思っています。 毎月講師の方をお招きして、その講 演内容を文章化していく作業は、一見 なんでもないように見えますが 、受け 身だけで育った学生にとっては大変な 作業です。詳細なマニュアルがあるわ けではなく、自分の判断が要求される 場面で四苦八苦していました。投げ出 してしまった者もおりますし、先輩の 作った物をまねて終わりにした者もい ました。しかしながら、自分たちの学 年(五期生)の誇りをかけて、最後に まとめあげた意地と努力に対して敬意 を表します。 今回も多くの方々にお世話になりました。特に、ご多用の中を時間をさ いてくださった、講師の方々には深く感謝いたしております。ありがとう ございました。学生たちはこの体験をそれぞれの場面で生かしてくれるも のと信じております。 学生の資質も年々変化しており、このような形がいつまで続けられるかと も思いますが、縁の続く限りはやっていきたいと願っております。今後と もご指導、ご支援の程よろしくお願い申しあげます。 担当教員 岡本 貞雄 1st 徳永 博充 氏 『多様な生き方と、価値観』 海外に出ていろんな人や場面に遭遇すると、自分たちとは 違うんだなと意識することがあると思う。例えば、北欧に 行って金髪の人の中で旅をしている時、違う国にいることを 実感して孤独になるという具合に。 でも、孤独と同時に、違うという楽しさやうれしさを感じ ることだってある。そういう肯定的な部分は、マスコミに携 わる人間としてできるだけ伝えたい。 第1回学ぶ会 平成9年5月27日火曜日 講師 広島テレビ放送 報道局副部長 徳永 博充 氏 講師プロフィール 1949年 4月25日、広島に生まれる。 1972年 上智大学新聞学科卒業 1974年 広島テレビ放送に入社 総務課人事課、報道局報道部、東京支社営業部等を経る 1994年 NNNニューヨーク特派員 4月以降、報道局ニュースセンター情報部勤務 現在、報道局ニュースセンター情報部、ニュース担当デス ク副部長 演 題 『多様な生き方と、価値観』 国際化とは 『SAPIO 1998・8・5』 私は地方局の記者にしては少し異色な経 験をしているのかもしれません。アメリカ に滞在していたのは1991年から94年まで の3年間でした。ちょうどバブル景気で日 本が傲慢になっていたというか、アメリカ が自信を失っていた時期だったんです。ソ ニーがコロンビア映画を、松下がMCA(映 画会社ユニバーサルの親会社)を買収し て、よくメディアで「日本がアメリカの魂 を買った」というふうに取り上げられまし た。映画はアメリカの代表的な文化です。 アメリカ人は映画に誇りを持っていますか ら、それを買い取られたというのは大きな ショックだった。アメリカ人の中で日本人 日本バッシング REPORT1 に対する優越感が崩れ、敵対心が芽生え始 めた時期でもあったと言えます。 ジャパンマネー 89年のソニーによるコロンビア 映画と、翌年の松下電器による MCA 社の大型買収は、ジャパン・ マネーのハリウッド進出、娯楽メ ディアの相乗効果を狙った戦略と して大きな話題を呼ぶ。しかし、95 年4月松下がMCA株をカナダの大 手飲料メーカーのシーグラム社に 売却、日本企業の見通しの甘さと、 ハリウッドへの参入の難しさを浮 き彫りにした。 よしにつけ悪しきにつけ、日本の躍進ぶ りが国際社会において非常に目立ってい た。傲慢な成金の日本に対する冷ややかな 視線があって、そんな中で働いていたわけ ですが、私にとって決して居心地は悪くあ りませんでした。この頃、日本人が強迫観 念のように繰り返していたのが「国際化」 という言葉です。アメリカでは「国際化」 は「Internationalization」と言いますが、私 は3年間アメリカにいましたけど、この言 葉を聞いたことなど一度もありません。な ぜなら、アメリカにいる人や社会そのもの が国際化されているので、このような言葉 を必要としないからです。もちろんアメリ カのような国際化の進んでいる国でありな がらモンロー主義 (欧米両大陸の相互不干渉を主張するアメリカ合衆国 の外交政策の原則) のように国内に閉じこもろうとする歴史的傾向はあ ります。 私の子供が幼稚園に通っていた頃、 そこで仲の良かった友達の家族と 一緒に食事をしました。 アメリカでは仲の良い家族同士でよく食事をす るのですが、その席で「日本人は違う人種の人と結婚することがあるの か」という質問をうけました。日本でのそれは「国際結婚」ということ になりますから、英語にすると「International Marriage」になります。と ころがそう言うとアメリカでは笑われてしまう。 「国際結婚」などとい う言葉はアメリカには存在しないのです。せいぜい「異人種間の結婚」 と表現されるくらいです。そういった意味で、海外で生活している人の 常識、ずっと日本から出たことのない人の常識、そして世界の常識は違 うものなのだということを感じます。 皆さんも異文化というものを肌で 触れ、考えてみて下さい。 アメリカのジャーナリズム ニューヨークにはアメリカのジャー 『SAPIO 1998・12・23』 ナリズム、メディアがたくさん集積し ています。それだけ社会、政治、文化、 経済などニュースになるような素材が あるということなのです。政治面では 最近、国連を舞台にして展開されてい るところがあって、湾岸戦争でもその 存在意義が問われたりしました。国際 連合の本部はニューヨークです。社会 面ではホームレスや人種差別等の問題 が挙げられ、やはりニューヨークはア メリカの中では群を抜いている。経済 面においてもニューヨークにあるウォ ール街、世界市場の中心地なくして語 れない。私もニューヨークでいろんな ユーロの登場でウォール街も熱くなる 面白い取材をしていきました。 アメリカのジャーナリズムは確かに軽薄な面もありますが、日本と比 べて非常に重厚、かつ野心的で、奥が深いと感じました。NBC(米国3 大放送局の一つ:National Broadcasting Company)の玄関にある大理 石には「Thy wisdom and knowledge shult be the stability of the time. (汝の知性と知識が時代の礎となる)」という言葉が刻まれています。こ れは非常に謙虚な言葉なんです。つまり、ジャーナリズムが人々を引っ 張っていく、啓蒙的な役割を果たすというのではない。人間にはそもそ も知性と知識があり、 そのような人間が形成する成熟した社会の支えに 過ぎないという意味合いがあるのです。 ここにアメリカジャーナリズム の健全さを垣間見ることができます。 アメリカで質の高い新聞として挙られるのが「ニューヨークタイム ズ」です。一日50∼60ページあり、日曜版だと100ページぐらいに増 えます。一面記事も注目されている事件とか、事故を取り上げず、自社 の価値観やスタンスを持って、 深く調査または取材をした記事をトップ にもってくる。なおかつ圧倒されるのが記事の量と分析の深さ。ニュー ヨークタイムズは難しい単語もよく使われていますが、 質の高い情報を 提供する伝統的なメディアです。このような伝統はテレビにもあり、映 像でどのように見せるかという努力がなされている。レポーター、キャ スターが洗練され、プロフェッショナルです。日本には帰属意識という 言葉があって、上司に忠実か、あるいは会社に忠実かということが一つ の基準になっているところがあります。 しかしアメリカのジャーナリズ ムの基準は決してそのようなものではありません。何が正しくて、何が 間違っているのかということを判断する。 このような個人の意識という のが日本の企業、メディアとは違う部分ではないかと思います。 REPORT2 アメリカと国連 ∼Peace Keeping Operation∼ 実質、国連の中で力を持っているのは、アメリカ、イギリス、フランスの三 国である。その中で、最も重要な位置にいるのがアメリカだ。 エジプト人で国連の前事務総長ガリ氏は、任期を残して辞めている。その背 景には、アメリカとの対立があった。ガリ氏は「Peace for Agenda」政策 を打ち出し、平和を強制させようとした。今までのPKO(国連平和維持活 動)は、主に仲裁が目的だった。しかし何世紀も殺し合い、憎み合いが繰り返 されている中東の歴史を知っていた彼は平和に反対する者を武力で制圧しに掛 かった。平和は尊いものという彼の一徹な信念。アメリカも一時はそれに同調 していたが、ソマリアで民族紛争があった時、アメリカの兵隊が殺され、死体 をロープで引き回される姿が報道された。 その映像は非常にナイーブなアメリ カ人を刺激し、大統領はやむなく軍を戦地から引き上げさせた。それが対立の 背景となっている。ちなみに残りの一期は、アフリカ出身のアナン氏が締めく くることとなった。 日本人とアメリカ人の文化の違い 日本とアメリカの摩擦をテーマに取材をして、 4回のシリーズにまと めたことがあります。 私はその取材から多くの日本人に摩擦を乗り越え ようとする建設的な動きがあるということ、 そのためには何が必要なの かということを伝えたかったのです。 いくら人種が溶け合おうと努力し たとしてもやはり「違いは違い」 。昔よくニューヨークが「Big Apple」 と形容され、一攫千金の夢がある、すてきな街と言われていました。し かし、現実には厳しい人種差別がある。いつまでも黒人は差別され続け ている。そこで理想主義的な言葉「Melting Pot」が出てきた。ポットの 中で人種や文化が混ざり合うという比喩ですが、 現実とは程遠いもので す。私は「違いは違い」として理解して、むしろそのことを楽しもう、 お互いの調和の中で生活していこうとする意志が必要だと思う。 そして「Melting Pot」から発展して「Salada Bowl」という言葉が聞 かれるようになりました。トマトがあり、レタスがあり、色々な野菜が 盛り付けてある。それぞれが個性を持ちながら、サラダという一つの料 理として成立している。 やはり違いというものを活かさなければならな い。 髪の色とか皮膚の色とかほかの人種を真似ても日本人はやはり日本 人なのです。ありのままの日本人として、他の人種との違いというもの と上手く付き合っていく。私は「違い」というものを楽しいと思います。 違うということに目をそむけたり、耳をふさいだりせず、楽しんでいた だきたい。好奇心というか、物事に興味を持てばそのような感覚が鍛え られるのではないでしょうか。よく、アメリカ人が何か起きた時に 「What s up?」と言って集まってきますが、日本人にもそのような野次 馬根性的な感覚というものを大事にして欲しいものです。 皆さんに感じて欲しいのは、 「違い」を認め合う気持ち。 「違い」は素 晴らしい、面白いと感じることができれば、人間同士の諍いなど防げる のではないでしょうか。アメリカから3年前、日本に帰って痛感したの が、日本人とアメリカ人の違いです。謙虚なるがゆえに日本人は無表情 に見られるのか、それとも本当に無関心なのか、あるいはきちっとした 心根を持った上での表情なのか。ちょっとわかりませんが、人である以 上、 マニュアルとかテクノロジーを越えた人間の優しさみたいなものを 信じて欲しいと思っています。人間のやさしさというのは、弱いもの、 虐げられるものへの配慮、同情、共感から生まれます。想像力をもって その人達の気持ちをわかってあげる力を是非身につけて下さい。 質疑応答 梅田真理子 なぜ、ジャーナリズムの世界に入られたのですか? 『SAPIO 1998・1・14』 講 師 小、中学生の頃は、漠然と弁護 士か記者になりたいと思っていた んです。それから年齢を重ねてい くうちに世間様にお役に立てると いうよりも、おもしろい仕事がし たくなって、テレビ局に入りまし た。表に出て形ばかりのことをす る(アナウンサー)よりも、実の あることしたくて記者の道に進み コロンビア大学院は優れた報道に対して与えら れるピュリッツァー賞を主催している ました。 「ジャーナリズム」というのは私にとって高邁な言葉です。心の中で は、いつか本物のジャーナリストになりたいと思っています。それは世 間の評価等より、自分の心に自問して「ジャーナリストに近づけたな」 と感じられるようになることです。現在は後輩の面倒をみたり、原稿直 しやニュースの項目づくり、演出を手がけたりしています。室内での仕 事ですが、今でも現場の記者のつもりでいます。 工藤耕輔 警察官が嫌いと聞きましたが、どうしてですか? 講 師 権威を持っているがゆえの人に対する精神的、 肉体的なプレッシャー を掛けているように感じるからです。 権力の使い方を履き違えた人をた まに見掛けるが、そういうのが嫌い。 「嫌い」というのは理論的でなく 感情的な言葉であり、あまりにちゃんとした定義になっていません。私 個人の一つの感情を、皆さんにぶつけるのは卑怯だと思いますが、そう いう気持ちがある。力を持っているか、いないかという時、どちらかと いえば持っていない人の立場に立ちたい。それが、記者の仕事を続ける モチベーション(動機)となっているのではないでしょうか。 REPORT3 ユダヤ人と日本人 徳永さんは交差点で警察に取り締まりを受けたが、 納得がいかず友人のゴー ドン弁護士と共に裁判を起こす。そして無罪となった徳永さんは裁判を通し て、多くのユダヤ人が住む町スカーレスを知った。そこでユダヤ人の歴史や考 え方を肌で感じたのだった。日本人の多くは、彼らに対し偏見を持っている。 それは、世界の黒幕として汚いことを重ねてきたからだ。しかし、ユダヤ人の 方はダビデ神殿を壊されて以降、世界を巡り、異質なものとして排除され続け ていたという歴史がある。 十字軍は神聖なものとして伝えられているが、結局はユダヤ人を苦しめた。 昔、ローマの傭兵として使われたドイツ人は多くのユダヤ人女性を襲った。そ んな中でユダヤ人が生き残る上で身につけたことが金貸しだった。十字軍は、 借金の形を消すためにユダヤ人を殺し、証文を焼却処分したのである。歴史を たどれば、故なき差別を徹底的に受けたのがユダヤ人の方であった。 池尻利行 違う人種や考え方の違う人がお互いを認めあって、争いを防いでいく のはもっともだと感じました。報道をするにあたって、ここははずせな いと考えてる点や、 これからこういう問題を取り上げてみたいという考 えがあればお聞かせ下さい。 講 師 海外に出ていろんな人や場面に遭遇すると、 自分たちとは違うんだな と意識することがあると思う。例えば、北欧に行って金髪の人の中で旅 をしている時、違う国にいることを実感して孤独になるという具合に。 でも、孤独と同時に、違うという楽しさやうれしさを感じることだって ある。そういう肯定的な部分は、マスコミに携わる人間としてできるだ け伝えたい。 古代ギリシア人たちは異教徒のことをバルバロイと言っていました。 これは、言葉や文化の違う人を見下げるという意味があります。このよ うに誰にでも自分達の方が上だという気持ちはあるでしょう。しかし、 いろんな事を見たり、聞いたり、知ることにより、そのような気持ちを セーブする理性は絶対働くはずなのです。 理性を働かせるということを ニュースを通じて伝えていきたい。だけど一記者として、そのようなこ とに対してどういう切り口で迫っていけばいいのかということが分から ないのが本音です。 REPORT4 神戸からの伝言 阪神大震災は5000人もの被害者を出し、多くの命を奪い去った。そのうち の一人に加藤貴光さん(21)がいた。彼は夢に向かって一生懸命だった。両 親もそんな一人っ子の息子を支えていった。彼の大学入学式に参加した母。彼 は母のコートのポケットにそっと手紙を忍ばせた。 その中には母に対する感謝 の想いが綴られていた。あまりにも出来すぎたことに悲しみが増幅する。発見 された時、とても無念そうな顔をして眠っていたという。結局あの手紙が彼の 遺言状となった。 徳永さんはこの取材ビデオから、多くの被害者が出たということだけでな く、多くの夢を失った若者がいたことも知って欲しかったのではないか。亡く なった彼と同じ年代の私たちにもそれぞれの夢がある。また、大学生活の中で 夢を探そうとしている者もいる。そんな私たちの周りには、いつまでも見守っ てくれている家族や友人達がいる。だからいくらでも夢を持ち、前に向かって 生きていってほしい。また、生きるすばらしさを大切にして欲しい。それが阪 神大震災のもう一つの教訓であると徳永さんは言いたかったのではないか。 森田理恵子 ご講演の中で、日本人に優しさや表情がないと言われましたが。私た ちが生きていく上でこういうことに気を付けていけばいいのではないか ということがありましたら教えて下さい。 講 師 日本人に優しさがないとは言いましたが、優しい日本人はいるし、優 しくなれる日本人もいると思っています。ただ、その優しさを伸ばせる のに伸ばそうとしていないように感じます。 日本人は人に対する興味が希薄です。人に興味を持つこと、また興味 を持たれる人間になるよう自分を磨くことが必要です。 橋口千聖 祖父の話で、戦時中に宇品から軍隊が出ていたと聞きました。私は被 爆したのも軍隊を出したのも、両方が広島だと思います。その両方を飲 み込める広島にするには、どのようにすればよいとお考えでしょうか。 講 師 まさにそれが私のテーマなんです。大戦中、戦争をバックアップして いた広島がどこかに戦場を作っていたという考え方もできる。この事を 口先だけではなく、心の底で理解して欲しい。その上で、もし外国へ行 くことがあったら、 現地の人に広島のそういう歴史を話して上げたらい いと思いますよ。それから、アメリカで日本と言えば、 「ニンテンドー」 とか「スシ」など企業や食べ物しかイメージされなかったのですが、嬉 しいことに最近では野茂英雄という野球選手がアメリカに進出してくれ ました。皆さんも将来は顔の見える日本人となって頑張って下さい。 小倉恵子 メキシコやキューバへの興味はアメリカに行かれてから持たれたので しょうか。また、アメリカの人々はメキシコやキューバをどのように 思っているのでしょうか。 講 師 ラテンに興味を持ったのはアメリカに行ってからです。 何語でしたか「グリンゴ」という言葉があるのですが、メキシコ人は のろまで怠惰で、貧乏だという意味なのだそうです。そのようにラテン の人たちは非常に見下げられていたところがありました。 ラテン圏でもあるキューバは昔、 カストロが社会主義を宣言するなど の革命を起こしたため、アメリカと対立する格好となっています。アメ リカはこのキューバに対して、経済制裁などの圧力を加えてきました。 国連でこのような制裁は不当であると結論づけられているにも関わら ず、いまだにいざこざが絶えません。しかし、このような制裁から解除 されればキューバは必ず伸びる国です。教育レベルが高いですし、観光 資源もある。しかも、アメリカから近い。おまけに安い人件費で生産、 輸出もできるのです。 キューバは実にいい国です。社会主義なのに底抜けに明るいし、お人 好しの人が多い。それだけ安全な国なのです。一度行ってみて下さい。 感 想 阿部文恵 これから「興味や関心のアンテナ」を広く持たなければならないと強 く思えた講演だった。いろいろな所へ行きいろいろなものを見て、いろ いろなものに触れた講師の方の話だったからおもしろかったし、説得力 があった。世界の中で日本は、どうあるべきなのか。もっと広い視点か ら見なければと思った。 庭谷育壮 世界中の多くのニュースを我々は日々目にし、耳にしているが、こう して実際にその現場にいた人の話はさすがに興味深かった。世界的に物 事を見ていくと、様々な文化や生活様式の違い、価値観や生き方がある ことを改めて感じた。その中でも特に考えさせられたのが、様々な人種 間での対立問題だ。ビデオで戦争の残酷さを見て、そして徳永さんのお 話を聞いて、なぜもっと平和にならないのかと悲しくなった。サラダ ボールのように人種間の違いはあっても、 それを全体としてうまくサイ クル出来たらすばらしい。世界の国々やそこで暮らす人々がもっとグ ローバルな視野を持ち、お互いを認め合い、海のような深い愛情を持て たらきっともっと戦いは減るのに、 自分の力ではどうにもならないもど かしさがある。 谷本美紀 初めての学ぶ会で緊張しっぱなしだった。 どれだけ自分が何も出来な いか、物事を知らないかを思いしらされた。徳永さんはとても良い方 で、私たちの緊張をほぐして下さり、講演後の会食も楽しめた。印象的 だった言葉は「サラダボール」で、今のゼミにピッタリだと思った。卒 業するまでにおいしいサラダになればと願う。外国に行かれているの で、考え方が大きいというか、自分が今まで型にとらわれていたり、視 野が狭いということを痛感した。違いは違いと受けとめ、違いを楽し み、好奇心を持ち、笑顔を心掛け、自分に自信を持って頑張っていきた いと思う。 2nd 花見 忠之 氏 『アメリカ放浪記』 私が日本を離れて一番実感したのは 「やはり自分は日本人で ある」ということです。周りが外国人ばかりだからそのように 自覚し始めたのかはよく分かりませんが、 「自分は日本人だか ら、このようにすべきだ」ということを考えられるようになっ たのはよかったと思っています。 第二回学ぶ会報告書 平成9年6月17日 講師 花見 忠之氏 おおみやけんてつ (株式会社大宮建鐵取締役) 略歴 1952年 広島で生まれる 1971年3月 広島修道高校卒業 10月 渡米 72年9月 ボストンのミュージアム スクールへ入学 べにばな 日本食レストラン「紅花」 でアルバイトをする傍ら、ボストン、ロサンゼルス、ノックス ビルテネシー等を放浪 92年 帰国後、現在大宮建鐵取締役 演題 「アメリカ放浪記」 あめりか合衆国 私の中のアメリカ アメリカで放浪するつも りはなく、結果的にそうなっ てしまったのですが、最初 は絵の勉強をする目的で日 本から旅立ちました。日本 の芸術大学に合格するとい うのは大変難しいことなの です。覚悟はしていたので すが、結局浪人することに なって、どうせならアメリ ロサンゼルスの街角 カで絵の勉強をしてしまおうと思い始めました。 ちょうど伯母からもボ ストンにいい美術学校があると聞かされていたので、 アメリカ行きを決 心しました。 以前から伯母は時折小包み等を送ってくれていて、 開けると何とも言 えない「香り」が漂ってくるんです。何だか甘酸っぱいような独特の 「香り」。そこから「これがアメリカなんだ」という先入観を抱き始めた ものです。 私がアメリカに旅立った1971年は、まだ成田空港が開港しておらず、 羽田から飛行機が出ていた頃です。アメリカに到着して、飛行機のドア が開いた瞬間、生の空気を吸い込んだのですが、以前から抱いていたあ の「香り」とは異なっていたのでショックだったのを今でも憶えていま す。 「なんだ、日本と同じなんだ」と思うと同時に、 「やっぱり、同じ地 球上であることに変わりはないんだな」 ということを強く実感しました。 また言葉の違いということも痛感しました。日本では中学校から英語 の勉強をしますが、その時ほど日本で教えられている英語は何だったの であろうかと考えさせられたことはありません。相手の言葉を理解する というのが一番大変でした。ですから、半年ほど語学学校に通って、ま ずは英語を分かるように訓練したのです。 言葉を理解するにはまず耳を慣らす機会を持つことです。このような 機会を持つことは一昔よりも可能だと思います。例えばテレビや映画な どから頻繁に生の英語に触れてみるといいのではないでしょうか。 始まりはボストン ボストンには7年近く滞在していたので、 私にとっては第二の故郷と言 えます。美術学校にも入学し、3年程通っていました。その間、日本レス トラン「紅花」でアルバイトして、後にそこで働くことになったのです。 住んでいたところがケンブリッジという町のハーバードスクウェアと いって、ハーバード大学のすぐ裏にありました。ですから、ハーバード のキャンパス内をくぐって、 美術学校やアルバイトに通うといった生活を 送っていました。 ボストンからデトロイドのすぐ北がカ ナダだったので、学生時代なんかはビザ があればよく出かけていきました。とこ ろが学生でなくなると、規則でアメリカ 国外へ出るのもままならなくなります。 そこで、グリーンカード(アメリカ政府 が外国人に対して発行する永住許可書) を取得するために、紅花で働いていたの です。カードを取得した後、カナダのモ ントリオールやケベック、オタワを旅し て回りました。アメリカとカナダにまた がったところにナイアガラの滝がありま す。あれはアメリカから眺めるよりもカ ナダ側から見た方がきれいです。 次にノックスビルテネシーという町に サンフランシスコ 移りました。ちょうどその頃、1982年にアメリカでもほとんどの人が知 らないという万博があったというのが移った理由です。 シーズンパス (開 催期間中ならいつでも入場できる)チケットを買っていったんですけど、 何が展示されていたのか今では思い出せないくらいたいしたものではあり ませんでした。 ボストンで一緒に働いていた仲間の一人がフロリダのケープケネディに いるということを知り、遊びに行ったり、キー・ウエストという町にも立 ち寄ったりしたものです。特にキー・ウエストは晴れた日にキューバが眺 められるほどのアメリカ最南端の町で、 トロピカルな雰囲気のあるところ でした。 自動車で大陸横断 ノックスビルテネシーから今度はロサンゼルスに移りました。車での アメリカ横断は初挑戦だったこともあり、要領が掴めず、かなり厳しい 旅でした。地図を手に入れ、距離を計算しながら自分なりに計画は立て たものの、なかなかままなりません。夜遅くガソリン不足になり、スタ ンドまでガス欠寸前の状態で走ったこともありました。 ロサンゼルスに着いてからは近郊を色々と回りました。その後、カル フォルニア、ラスベガスと渡っていったわけですが、特に印象強いのが ラスベガス。ここは砂漠の中にあるので、冬でも温かいというイメージ を持つかもしれませんが、それは大きな間違いです。冬にラスベガスに 行かれる方がいらっしゃいましたら、気温をご確認下さい。私は冬のラ スベガスでマイナス19度という痛い体験をしたことがあります。 日本を離れて感じたこと 車で東から西へと旅をする。目的地に向かう途中に見つけることが出 来る町並み。そこを歩くことを私は面白く感じます。アメリカという国 は意外と大きな町は少ないものです。もしかしたら、日本の町の方が大 きいのではないかと感じることすらあります。しかし、それぞれの町に 活気というものを感じる。ニューヨークやボストンなど夜でも賑やかで す。活気というものは町中の雰囲気で大体分かります。 私がデトロイドに行った頃はちょうど自動車企業が衰退していた時期 でした。昼間のダウンタウンには結構人がいますが、夕方になると黒人 ばかりが残っている状態です。ロサンゼルスは町自体の面積がかなり広 く、ダウンタウンの雰囲気がデトロイトに似て、寂しい感じがしました。 私が日本を離れて一番実感したのは「やはり自分は日本人である」と いうことです。周りが外国人ばかりだからそのように自覚し始めたのか はよく分かりませんが、 「自分は日本人だから、このようにすべきだ」と いうことを考えられるようになったのはよかったと思っています。 質疑応答 Q&A Question 旅をすると世界が広がるとよく言われますが、花見さんが アメリカへ行かれて、 お気づきになったことなどを聞かせて くだ さい。 Answer アメリカから日本に帰ってきた時に、 まずアメリカと日本の差 を感じましたが、だんだんアメリカと日本の違和感がなくなっ てきたと思います。 Question 花見さんがアメリカに滞在していて、 日本との違いを一番最初 に感じられたのは、何をされていた時ですか。 Answer 日本ではないと感じたのはやはり言葉の違いでした。そし て、アメリカの公園は緑が多く、リスなど、きれいな環境でな いといないような小動物がいたというのには驚きました。 Question アメリカは銃の携帯も許 されていますし、私には 犯罪大国というイメージが強いので すが、旅をされている時や、お仕事 をされている時など事件に巻き込ま れたり、またそのような場面を目撃 したことがりますか? Answer 幸い事件に巻き込まれた ことはないです。確かに 銃の携帯は自由ですが、州によって 法律が違ってきます。東部の方はだ んだん銃規制がされてきていますが、 西の方はまだまだ自由です。やはり、 危ない所に近づかないことが一番だ と思います。ニューヨークだったら、 とにかく表通りを歩くことです。絶 対に裏通りは歩かないで下さい。 Question 私は本で、ハーバー ドビジネス関係の方 が紅花のケーススタディという 研修をしているのを拝見して、 大変おもしろく感じました。よ ろしかったらもう少し紅花のお 話をしていただきたいのですが。 Answer 紅花はもともと日本 橋にあるお店で、ロッキー青木というレスリングのオリン ピック選手がアメリカ遠征した際に、ビジネスとして始めたようです。 お客さんの目の前にある鉄板の上でステーキを焼くというスタイルがう け、話題になりました。またお客さんに口を開けさせ、その中に食べ物 をぽんと飛ばしてみせたりと衝動的なことをして見せていました。 僕が 最初に入った時は12件位しかなかったんですけど、今では全米に50件 以上あります。最初のうちは、メンバーを日本から集めていたようで、 その人達はある程度年数が経ったら自分の店を開いていました。 僕と同 期の人もニューヨークの郊外にそういうスタイルでステーキハウスを開 いています。 Question 広告や新聞に取り上げ られるくらい大変有名 なシェフでいらしたようですが、な ぜ辞めてしまわれたのですか? Answer 年齢的にこの仕事はせ いぜい30代が限界だ と感じていました。今でこそ40代位 で現役という方はおられますが、か なりの重労働です。ある程度の年齢 になればマネージャーや自分の店を 持つというスタイルでやっていかな いと、体力的にきついです。 Question 若い頃絵を描いていらしゃったようですが、 どのような絵を お描きになっていたのですか?また、 その事がご自身の人生 にどのような影響を与えたのかお聞かせください。 Answer 日本にいる時は、デザイン方面を目指しておりました。日 本は水彩画の方が人気があるようですが、 アメリカではむし ろ油絵の方があったみたいです。我々が若かった頃は、ポップアートが 主流を占めていました。スーパーリアリズムやネオリアリズムという、 写真のような実物に近い作品を作っていたように思います。 その影響か どうか分かりませんが、鉄板では一番最初にもやしを焼くんですけど、 それを使って新婚さん等にはハートの形にしたり、 色々なかたちで絵を 描いていたことが仕事に活きていたと思います。 Question アメリカに行かれてカルチャーショックはありましたか? Answer やはり、車の運転です。車は日本では左側通行ですが、アメ リカでは右側通行なので戸惑いました。そして、アメリカで は交通手段が車だけだったので、 バスや電車などの公共施設の利用の仕 方に困りました。 Question アメリカに馴染みにくい人はどんなタイプですか? Answer 人付き合いの嫌 いな人はアメリ カでの生活に馴染みにくい でしょう。しかし,それだ けに人付き合いが上手くな るという考え方もできます。 人付き合いが上手く行くと 楽しい生活が送れると思い ます。 ゴールデンゲートブリッジ 立食のマナーについて ビュッフェとは 日本で一般的に言われている立食パーティーのことです。 フランス語 で“簡単な食事”という意味で、どちらにしろ格式ばらない気楽な食事 形式。バイキングになっており、料理は自分自身で取ります。 小皿へ取るときの注意 ビュッフェは料理を小皿に取るようになっています。そこで気を付けた いのが一緒にとってはいけないものです。例えば、熱い料理と冷たい料理 のような相反するものは同じ皿にのせてしまうと料理の味を損なうため、 やってはいけないことです。 料理を取る順番 料理をとる順番は、基本的にフルコースと同じです。ただ、かなりの混 雑が予想出来るため、順番に取ることができないようであれば、別の料理 をとっても構いません。 フルコースの順番 ①オードブル ②魚料理 ③肉料理 ④デザート 立食の風景 小テーブルの役割 料理をのせているメイン テーブルとは別に、小テー ブルがあります。これは、 歓談中に皿を下に置きたい 時のほかに、いらなくなっ た皿を片づけるために使い ます。残った物は、皿の隅 に寄せておきましょう。ま た、皿は重ねて置かないのが基本ですが、重ねた方が見苦しくない時は 重ねておきましょう。 その他大切なことは次の通りです 1、料理を取ったらテーブルから離れるようにしましょう。多くの人が テーブルの料理を各自の小皿にとっていくため、 他の人の邪魔になら ないようにしましょう。 2、食べながら歩くことはやめましょう。近くの人の所へいきたいとき は、食べ物を飲み込んでからにしましょう。 3、基本的に料理の皿は左手、飲み物は右手に持つようになっていま す。また、歓談中は料理を小テーブルに置いて、グラスだけ持って歓 談しましょう。 最後に、会場では常に周囲に気を配りましょう おしゃべりに夢中になると、 手を振ったりして人やテーブルにぶつか ることがあります。常に周りに気を配って、飲み物や料理をこぼして会 食を台無しにしないようにしましょう。また、目上の人の料理をお取り することを忘れないようにしましょう。 面倒くさがって人に言われるま で取りに行かないような確信犯的行動は嫌われるかもしれません。 感 想 伊妻 猛 自分は日本人でありながら、 日本についてあまり知らないのではない かと思います。外国へ行って外に目を向けることにより、初めて日本が 見えてくる。同じように「自分」というものも見つめることができるの ではないでしょうか。20年という長い間、アメリカで過ごされた花見さ んとお会いしてそう感じました。私も海外へ出るときは「自分」をしっ かり見つめてみたいです。 吉川 真琴 写真を見たり、お話を聞いたりして、花見さんがとても人生を楽しま れていることを知りました。人にはそれぞれ、その時にしかできないこ とがあると思います。1つのチャンスをものにできるかできないかは、 自分次第。その時々を大切にしていけば、自分の満足できる人生を歩め るということを感じました。 六車 善伸 海外に行かれて、必死で英語を話しても通じず、今まで習ってきた英 語はなんだったのかと言っておられたのを聞き、初めて自分が海外に 行ったときもそうだったので、 みんな同じ思いをしているものなのだな ということを感じた。花見さんのお話から、いろんな所に行くといろん な事が見えてくることが分かり、自分もいろんな所に行きたくなった。 岡本 貞雄 物事の価値を金で換算するという癖がついてしまっている方もおられ ます。日本全体がそういう傾向にあり、その中で、それ以外の価値観と いうものをきちんと持っておられる方は大変貴重だと思います。 花見さ んのように、 『自分の心の赴くままに』という気持ちを持ち続けられ、時 代を過ごしてきたという方のお話を聞かせていただいたということは、 我々にとって非常に貴重な体験だったと思います。 皆さんの今後の人生 の中に折り込んでもらえたら良いのではないでしょうか。 3rd 本家 好文 氏 『その人らしく生きるために』 皆さんと同じ20歳ぐらいの人ががんで入院して、死を目前 にしているという現状があります。一番危ないのは、死を受 け入れないという姿勢でいることです。それはそれで“その 人らしさ”ですから、尊重してやっていけばいい。それより も考えなければいけないのは、大半の人が死ぬ間際になって 真面目に過ごそうなどと考えることです。沢山の亡くなる人 を見てやはり感じるのは、最後だけかっこよく死のうと思っ てもできないということです。わがままに生きてきた人はわ がままに死んでしまうし、人に冷たくしてきた人は最後まで 人から冷たくされて死んでしまうものなのです。そこのとこ ろを頭の片隅に置いて頂きたいと思います。 死んだ後の世界はあります。体が死んだからといって全て が終わるわけではありません。 「どうして自分は死ななければ いけないのか」というこの世で一番難しい問題を考えること が大切なのではないでしょうか。 若い皆さんにも必ず死というものが訪れます。それは決し て避けては通れません。様々な事件から死を考えるチャンス はいくらでもあると思います。今回の話が、皆さんにとって 「死」とはどういうものかと考えるきっかけになれば幸いで す。 Lecture その人らしく生きるために その人らしく生きるために 頃そのような機会はありません。しか 今はまだ、 「ターミナルケア」 、 「ホス も大学の医学部にすら死というものが ピス」という言葉だけが独り歩きして 教育の中に入っていません。従って、 いて、具体的なことまではあまり理解 がんの告知の仕方や、それに伴う精 神的なケアなどという部分について されていない場合があります。 日本人は「死」というものを避け、 の講義は積極的に行われていません。 そのことについて話し合ったりはしま そんな教育の下で学んだ学生ですので、 409号室という病室番号がないところ 国家試験に合格した後、現場に入った にも「死」を避けているということが 途端、戸惑ってしまう場合がほとんど 表れています。もちろん日本の家庭で、 です。このような現状を変えるため、 「死」について話し合う機会なんてあま 死の問題を医学教育の中に入れていく 方向に転換しつつあります。 りないでしょう。 ところが私たちぐらいの年齢になり 放射線治療は再発したとか、転移し ますと、実際に同世代の方ががんにか たとか、手術ができない方に対して行 かる場合もあります。また、自分たち 本家 好文 の両親もがん発病の適齢期に達してし まいます。今のところ私の両親は健康 なんですが、70歳を過ぎ、いつがんに なるか分かりません。平均寿命に近く なってきた人は、死というものを生々 しく感じてしまい、がんになった場合 廣島総合病院放射線腫瘍科主任 どうするかというような話をちょっと 部長 ほんけ よしふみ でも切り出しますと嫌な顔をします。 そういう日本の一般的風潮がある中で、 1945年、広島市生まれ。 死と日本人 突然がんという病気になった人に対し て、そのことを伝えてもいいのかとい うことが、まず問題として挙げられる わけです。本人が元気な時に家族で話 し合い、自分の意志を表明していれば その通りに進めていけるのですが、日 1975年、広島大学医学部を卒業後、同 大医学部付属病院、広島赤十字・原爆病 院、放線医学総合研究病院部などに勤務。 1985年9月よりJA広島厚生連廣島総合 病院放射線腫瘍科主任部長。 1996年9月、英国セント・ペーター・カ レッジにて緩和医療の研修。 本家 好文 氏 廣島総合病院放射線腫瘍科主任部長 ほんけ よしふみ 1945年、広島市生まれ。 1975年、広島大学医学部を卒業後、同大医学 部付属病院、広島赤十字・原爆病院、放線医学 総合研究病院部などに勤務。 1985年9月よりJA広島厚生連廣島総合病院 放射線腫瘍科主任部長。 1996年9月、英国セント・ペーター・カレッジ にて緩和医療の研修。 死と日本人 今はまだ、 「ターミナルケア」 、 「ホス ピス」という言葉だけが独り歩きして いて、具体的なことまではあまり理解 されていない場合があります。 日本人は「死」というものを避け、 そのことについて話し合ったりはしま 409号室という病室番号がないところ にも「死」を避けているということが 表れています。もちろん日本の家庭で、 「死」について話し合う機会なんてあま りないでしょう。 ところが私たちぐらいの年齢になり ますと、実際に同世代の方ががんにか かる場合もあります。また、自分たち の両親もがん発病の適齢期に達してし まいます。今のところ私の両親は健康 なんですが、70歳を過ぎ、いつがんに なるか分かりません。平均寿命に近く なってきた人は、死というものを生々 しく感じてしまい、がんになった場合 どうするかというような話をちょっと でも切り出しますと嫌な顔をします。 そういう日本の一般的風潮がある中で、 突然がんという病気になった人に対し て、そのことを伝えてもいいのかとい うことが、まず問題として挙げられる わけです。本人が元気な時に家族で話 し合い、自分の意志を表明していれば その通りに進めていけるのですが、日 頃そのような機会はありません。しか も大学の医学部にすら死というものが 教育の中に入っていません。従って、 がんの告知の仕方や、それに伴う精 神的なケアなどという部分について の講義は積極的に行われていません。 そんな教育の下で学んだ学生ですので、 国家試験に合格した後、現場に入った 途端、戸惑ってしまう場合がほとんど です。このような現状を変えるため、 死の問題を医学教育の中に入れていく 方向に転換しつつあります。 放射線治療は再発したとか、転移し たとか、手術ができない方に対して行 うことが多く、結果として容態が変わ らない場合がほとんどなのです。その ような治療を受けている方たちを担当 していますと、どうしても最期「死を 看取る」というところまで関わらざる を得なくなります。そして、現在のよ うにターミナルケアとか、ホスピスと いうものに関心を持つようになってき ました。 もともとは治らないがんをなんとか して治してやろうという気持ちで私は 医者になりました。学生時代、あるい は卒業した後の医療現場でも、医者と しては少しでも長生きしてもらうこと が最も重要なことであると教育されて きました。ですから、もう亡くなると 分かっていても、いろんな薬剤を使う ことが当たり前のように行われてきま したし、呼吸が止まっていようとも平 気で人工呼吸器を付けるなどというこ とも行われてきました。ただ、そんな ことをしていながらも、自分や親には こんなことはされたくないなという思 いはずっとありました。けれども、大 学病院という大きな組織に身を置いて いますと、目上の先生もいますし、ど うしても自分勝手な事ができません。 そこから出て主治医になり、自分の 小さな城を持てるようになって、初め て自分なりに考えることができるよう になりました。実際、患者さんと距離 が近くなり、その人が望んでいること についても話し合えるようになったの です。そして、だんだんと延命第一主 義から手を引くことになったのだと思 います。 告知ー真実を伝えるということ 実は、最近のがんの治療法の進歩と いうのはある程度頭打ちというところ まできていて、その治し具合というの は遅々として向上していません。けれ ども、がんの苦痛をとるという主義に 基づいた医療はどんどん進歩してきて います。がんで苦しんでいる人がいれ ば、それは明らかに医療側の責任で、 十分なケアがなされていないというこ とですし、痛みをなんとかしてほしい と患者さんの方からどんどんアピール すべき時代になってきているというこ となのです。 医者ですから、何とか病気を治して、 患者さんの家族に良い知らせをしたい という心理がどうしても働きます。 仕事だからといっても、 「再発しまし た」 「転移しました」などという悪い 知らせはしたくないものです。現在で は、悪い知らせでも告知できるという 医師が増えてきました。しかし、悪い 知らせを上手に患者さんたちに伝えら れる技術を持った医者は非常に少なく、 とにかく事務的に事実だけを言い放つ ような場合が多いというのが現状です。 無論、本人に隠す方が非常に難しいと いわれる現在でも、未だに自身の口か ら「あなたはがんです」と言わない医 者もいます。 今までのがん告知は患者を飛ばして、 まず家族にされていました。そのやり 方が、がんの告知を非常に難しくして いる原因でした。治らないがんだと 知って、 「告知して下さい」と言う家 族の人はそんなにいるはずがありませ ん。先に家族に告知すると、必然的に 患者に告知されないという方向になっ てしまいます。外国では、そのような やり方は許されていません。なぜな ら、患者さんの情報を家族に相談する こと自体がいくら身内とはいえ、個人 のプライバシーを侵していると考えら れているからです。まず患者に伝え て、その上で「家族に伝えますか」と 相談するのがアメリカのスタイルで す。もちろん、それをそのまま日本に もってくればいいというわけではあり ません。最近の日本では、病気の結果 を言う時、本人と家族とが一緒に座っ てもらい、医者自身は患者さんと話を するというスタイルをとっています。 患者さん自身が病気のことをどう思っ ているのかを家族の人にその場で聞い てもらうようにすれば、より一層本人 の希望に近づくことができるのではな いか。告知の場に本人と家族を同席さ せるのにはそのような狙いがあるから です。 廣島総合病院 心を繋ぐコミュニケーションの工夫 できるだけその人が最期までその人 らしく生きてもらえるようにサポート するという考え方がホスピスとかター ミナルケアの理念です。 その人らしくという時に、本人が病 気のことを知らない状態、つまり騙さ れたままではその人らしさというのが 何なのかを考えることが非常に難しく なります。それだけ告知というものが 重要になってくるのです。辛い告知に なっても、どうやったらコミュニケー ションをとっていけるのかという工夫 をしていくことが求められてきている と思います。 回診の時、病室のベッドで寝ている 患者さんの側にいって、白衣姿で立ち ながら「どうですか」などと声を掛け ます。そういう状況では、なかなか患 者さんの本心や悩みを引き出すことは できません。そこで、ホスピスやター ミナルケアをやっていく場合、まず患 者さんの側で座って話をするというの が基本となります。座り方にもいろい ろあって、例えば恋人同士が4人掛け のテーブルに座る時は、向かい合うよ り90度斜め隣に座る方がより親密度 が増します。このようにコミュニケー ションの工夫をしながら患者さんと意 思の疎通を測っていければいいのでは ないでしょうか。 ターミナルケアの研修でもコミュニ ケーションの取り方などが取りあげら れています。そこでも医者が白衣を 着て、寝巻を着た患者さんに、面と向 かって、となればよけいに威圧感を感 じるので、時々視線がクロスする90 度横の位置に座るようにすればお互い がリラックスできると言われています。 また、外来での診察時には、患者さん に左斜め前に座ってもらいなさいとい うこともよく言われました。ちょうど カルテが見える位置に座ってもらい、 何も隠していないということをアピー ルするためです。その他、患者さんと 話をしている時に、ちらっと時計を見 るとか、外を見るとか、何気ない些細 な素振りが不信感を与えるということ も教育されています。 しかし最近では、出来るだけ両者を離 さずに別れられるように心がけていま す。 「さよなら」の言葉を言えるかどう かで、残される者の満足感というもの が随分違ってくるということにも配慮 するようになりました。 最近、「インフォームドコンセント」 という言葉が話題になっています。直 訳すると「説明と同意」という意味に なりますが、今までの日本医療特有の 「お任せ医療」に対する批判、そしてこ れからどうあるべきかという問いかけ がこの言葉が話題になった背景になっ ているのではないでしょうか。確かに、 旅立つ人のためにできること 医療知識のない患者さんにどんな医療 全ての人ががんになるわけではあり 方法を選択するかと問いかけてもなか ませんが、死ぬということは避けられ なか決められないものです。ですから ません。その避けられない「死」とい 必然的に「インフォームドコンセント」 うものがないと、どう生きたらいいの は確率の問題になってきます。成功率 か考えはしないと思います。 「死」に直 が何パーセントだから、この方法でと 面して初めて、こんなこともしたい、 いう勧め方をするのが医者であると考 あんなこともしたい、こう生きたいと えられてきました。いずれにせよ、こ いう考えが働くのではないでしょうか。 こまですすめるためには病名の告知と しかし、不思議なことに限られた時 いうものが欠かせなくなります。でき 間しか残されていないと分かった時で るだけ正確な情報を提起して、何度も も、特別なことをしたがる人はそんな 念を押しながら、その人の考え方や意 にはいないものです。 「こう生きたい」 思を尊重していくというのが今後の医 ということが、今まで通りに生活がし 療だろうと思います。ですから、他人 たい、家に帰って家族と普通に過ごし 事としてではなく、常に自分に置き換 たいという場合がほとんどなのです。 えて考えていくことが必要なのでは ただ、その中にも人それぞれで希望が ないでしょうか。もちろん、 「死」と 違うということを踏まえながら、その いうものに直面したことがないので 人がどうしたいかということを聞いた どこまで想像できるのかわかりませ 上で、援護していくというのがターミ ん。しかし、私たちが言えるのは「一 ナルケアの基本だろうと思います。 生懸命わかろうとしています」とい 「死」ということを避けて医療がなさ うことだけなのです。 れていた頃は、最期の場面になって医 師が患者と家族を離していました。 Interview あと残り少ない時間しか残され Q がんには良性と悪性があるそう Q ていないと告知された方がパ ですが、どう違うのですか。 ニックに陥り、自ら命を絶とうとする 放っておいたら限りなく大きく こともあると思います。そのような なるとか、転移するという点で ケースに応じた対策のようなものがあ 良性、悪性の区別をしています。ただ、 るのでしょうか。 良性だから手術をしなくてもいいとい 自殺を恐れて告知できなかった うわけではありません。例えば、大腸 という時代は確かにありました。 ポリープは悪性化する可能性が高いと 例えば、訴訟を起こされるのではない 言われていますので、良性であっても だろうかとか、責任を追及されるので 切除するというのが原則です。 はないだろうかというような問題にも なりかねないわけです。しかし私の経 「安楽死」についての見解を教 験上に限って言えば、告知したために 自殺されたということはありません。 えて下さい。 ただ、様々な事例を見ると、痛みとか 日本では法律上認められていな それに伴う苦痛というものを放ったら いというのが現状です。しか かしにしていたために、自殺された方 し、 「安楽死」についての問題は多々起 はいらっしゃるようです。それでもこ きています。率直に言えば、もっと症 の場合、告知が直接の原因になってい 状をとる方法が残されているはずなの るとは言い切れません。仮に遠回しに に、積極的に安楽死を実行することは 関連があったとしても、そういう方は 特殊だと考えないと告知は積極的にさ 問題だと私自身は思います。 薬剤を調合し、ただちに心臓の動き れなくなってしまうでしょう。 を止める前に、症状に合わせた処置の 自ら命を絶とうとする方にハッキリ 方法が発展しているのだから、そのよ とした対策はありません。とにかく、 うな知識をもっと学ぶべきです。全て 医療者としてできる限りのことをやっ の医者が様々な症状からくる痛みに ているという姿勢さえ感じて頂ければ A A Q A もっと関心を持つべきだし、そのよう なことを学ぶ教育体制を確立していく 方が大事ではないでしょうか。 自殺する患者さんはいないと思います。 Q がんという病気のもつイメージ Q 20代ぐらいの若い年代がどのく の大きさに自分らしさを失って らいの割合でがんにかかるのか。 しまいそうです。がんに向かっていく また、どのような症状が出るのか教え 心構えはどうあるべきか教えて下さい。 て下さい。 A がんだけが治らない病気のよう A 15∼20歳前後は最も病気が少な に扱われていますが、絶対治ら い世代と言えます。ですから、 ない病気ではありません。確率的にい えば、心臓の血管が詰まる心筋梗塞や、 肝臓が硬くなり、機能が悪くなる肝 硬変という病気と変わりありません。 ちなみに5年間の生存率は、肝硬変、が んのいずれも約4割となります。 そんなことを念頭におきつつ、心構 えとしては、やはり最初は戦うとい う姿勢も必要であるということです。 本人の意欲がなければ治る病気も治り ません。また同時に、ささいなことだ と思っても聞きたいことがあればき ちっと聞くことが大切です。医者が忙 しそうだから聞きづらいという患者さ んや家族の方がたくさんいます。もち ろん聞こうという雰囲気を作っていな い医者側にも問題があるのかもしれま せんが。とにかく、自分の命に関わる ことなのでお任せにせずに、その点に おいては自立すべきだと思います。 がんはまずないと思っていただいて構 いません。特殊な例として、白血病な どにかかる場合もありますが、大腸が んや胃がんにかかるということはほと んどありません。 症状ですが、髪の毛と爪と歯以外は どこからでも表れてきます。 もちろん、 できた場所によって症状は変わってき ます。場合によっては、それが早期発 見に関わってきます。例えば声帯に5 ミリのがんができたとします。 しかし、 それだけで声がかれたりします。声が かれるなんてことは日常よくあること ですので、判断が難しくなるわけです。 治りやすいがんと治りにくいがんとい うのがやっぱりあって、 自覚しづらく、 体の奥にあるがんは治しにくい。自覚 できればそれだけ早期発見につながりま すので、治る確率も高くなるでしょう。 (平成9年7月4日 講演) Impression 石川 綾子 私にとって、 「死」というものは身 近ではない。 「死」がわけもなく襲って きてすぐ側にあるような気がしていた 時もあったけど、今の私にはピンとこ ない。それは全てが「死」とは無縁の ところで、うまく幸せに廻ってるから なのだろう。しかし、 「死」というもの が根底になければ、 「生」もまた、あや ふやなものとなってしまうだろう。 「死」の捉え方・迎え方・受け入れ方、 そんなことを教わり、考えさせられた。 そのことにより、自分の「生」も見え てきたような気がする。また、「死」 が全ての終わりではないということを 知った。そこから生まれてくるものが あるのだと。そして、残るということ も。身体はなくなってしまっても、願 わなくとも、生まれてきた以上、何か を残すのだと。その人が存在したとい うことを。いろんなものに。私が自分 の存在を嫌いだった頃、死ぬとしたら 自分の全部を一緒に殺してしまいた かった。残したくはなかった。けれど 今は、私が死を迎えた時、私の愛する 人が私の身体の一部を必要としている としら、そこまでして生きたいのだと 言ったとしたら、まだやりたいことが あるのだとしたら、使ってもらいたい。 誰にでもという訳にはまだいかないけ ど、今は愛する人がいっぱい増えると いいなと思う。死と向き合う時、それ を受け止め、乗り越える力を持ってい たいと思う。死を迎える時、安らかで ありたい、幸せでありたい。独りじゃ ないといいな、最後まで自分でありた い。そこに近づけるのが、ホスピスの 根本なのではないかと自分なりに思っ た。そして、ホスピスに限らず、周り もそうであってほしいし、そう接した い。私らしい死を迎えるために、私ら しく生きたい。今回の学ぶ会で人とし て得た物は大きかったと思う。 伊妻 猛 「死」というものは、常々考えては いたが、今回の学ぶ会で生きることの 大切さと「死」への考え方を再認識さ せられた。放射線科の本家先生はがん を中心に話されて、私のおばや母もが んにかかり、最近手術したばかりで、 私にとってはとてもタイムリーな話で あった。がん=死というイメージを今 まで強く感じていたが、実際そうでは ないわけなので、近いうちにおばや母 に今回の話をしてあげたい。日本の食 事では「死」についてあまり話すこと もなく、私の家庭でも例外ではない。 講演後の食事の時も終始暗い雰囲気 だったが、私はそれでよかったと思 う。これを機会に家庭でも話してみよ うと思う。講演のなかで20歳で今、 がんという病と闘っている話を聞いて 深い悲しみを覚えた。今、私に出来る ことは、その瞬間を精一杯生きること である。長生きできる保障はないから、 明日死ぬかもしれない。でも、もし死 んだとしても、悔いのない人生を送る ことができたと言えるような生き方を 目指したい。 てくれたら、恐怖というものはかなり 薄れていくのではないかと思う。ホス ピス、ターミナルケアなど、言葉でし か聞いたことがなかったけれど、それ がいかに大切であり、必要であるかを 強く感じた。遠くに感じていることが 近くに感じられた。 小川 美代子 以前、知人が「人間には死が二度訪 れる」という話をしてくれました。そ の話によると一度目の死は肉体が滅び る時で、二度目の死は人々の記憶の中 から自分が欠落していく時なのだそう 藤野 高正 です。それである意味キリストが永遠 今の自分には関係ないと思ってた の命に例えられている事を知りました。 「死」だけれど、今から考えても決して 私は肉体が滅びる事に関しては、そん 早すぎることではないことがわかった。 なに怖くありません。しかし、自分を 自分が死ぬと何人か悲しむ人がいるだ 知っていた人達の記憶から消されてし ろうけれど、周りの人よりも自分が死 まう事に関しては、すごくさみしく思 ぬということを考えようと思った。人 います。だから、生きている間は家族 間はいずれは死ぬのだから、どうせ死 や友人達と深い思い出を作るために時 ぬのならいい死に方、自分らしい死に 間を費やしたいなと思います。 方をしたい。いくら頭がよくても、自 分には医者は努まらないだろう。 橋本 泰孝 死という言葉を改めて考えるのも大 切ではないかと思う。命あるものは、 いつか消えるものだけど、その消えて しまい方が寿命だったり、事故だった り、その訪れ方によって、その死を見 守っていた者の心境は様々だろう。今 回は死というものを感じた人への身体 的な介護はもちろん、さらに精神面で のケアの難しさ、大切さを感じさせら れたお話だった。自分が死ぬと感じた とき何を考えるかは分からない。自分 らしさを失うことなく生きられるか、 自分が死ぬという事をうまく人に伝え られるか不安は尽きない。病名を伝え られてからどのくらい生きられるかわ からないけれど、医者が専門家として ではなく、一人の人として自分と接し 岡本 先生 たいへん重いお話でした。しかし、 私はこのようなことを考えるのが人間 として当たり前だと思います。このよ うなことを認識したうえでの楽しみ、 遊びができない、今の世の中がおかし いのではないでしょうか。死を知らず して、生きていくことほど無責任なこ とはありません。今回本家先生がお話 しして下さったことをゼミ生全員が心 の中に入れ、自分自身で考えながら 日々をすごしてもらいたいと願います。 ゼミ生のこれからの人生に非常に大切 なことをお話しいただいた本家先生に 感謝いたします。 Books 『がんを知るとき伝えるとき』 『ここが僕たちのホスピス』 本家好文 家の光協会出版 山崎章郎 東京出版 医療者の知識不足により、多くの患 者を苦しめている我が国の医療現場に 一石を投ずるこの作品。緩和ケアを実 践していく中で出会った数多くの患者 さんたちを通じて、学び、経験した著 者の思いが凝縮されている。 著者が一般病院でターミナルケアに 取り組んでいたころから、現在の聖ヨ ハネ・ホスピスに身を置くまでの軌跡 を描く。重兼芳子氏をはじめとするさ まざまな人々との出会いの中でみつめ てきた命の輝きとは何か。 『死とどう向き合うか』 『「死への準備」日記』 アルフォンス・デーケン NHK出版 千葉敦子 朝日新聞社 突然のがん告知、身近な人を襲う死、 そしていつかは必ず訪れる自分の死。 この世に生を受けた全てのものにとっ て、死は避けられない現実である。私 たちは、この「死」とどう向き合って 生きたらいいのだろうか。 がんに侵されながらも、ジャーナリ ストとして活動し続けた著者。自らの 生存期間を見据え、生と死の問題を 扱った著作は十数冊に上った。「朝日 ジャーナル」に連載されていたこの作 品は後世への遺言ともとれる。 『「死の医学」への序章』 柳田国男 新潮社 「死」をタブー視してはいけない。 「死」を考えることによって、より充足し た「生」を得ることができるのだから。 自らの死を直視し、闘病期を綴って 逝った精神科医の軌跡を辿り、終末期 医療のあり方を考える。 『生と死の接点』 河合隼雄 岩波書店 グリムの昔話やミヒャエル・エンデ の『モモ』。具体的な臨床例などわかり やすいモデルで、老いや死など“人生 の後半”の課題について、深い考察を めぐらす一冊。現代は、生と死の均衡 が崩れているとの警鐘も。 4th 邱 剛 氏 『外から見た日本』 私は中国でガイドのアルバイトをしていたことがあります。 観光客をあちこちに案内する仕事だったので結構忙しかったで す。 欧米の旅行者等はその国の文化や歴史について尋ねてくる のですが、日本人の旅行者は、 「疲れた」、 「休憩はまだか」、 「安 い買い物が出来るところはどこか」と言うばかり。欧米の旅行 者は、 仕事は仕事で旅行はリフレッシュとして楽しんでいるの ですが、 日本の旅行者は疲れるために旅行しているように見え ました。日本人は仕事帰りの電車の中でも、みんな眠っていま す。 日本という国全体がどこか無理をしているような気がして なりません。 第4回学ぶ会 平成9年9月 24 日 題目「外から見た日本」 講師 邱 剛 氏 【講師プロフィール】 1970年4月8日 吉林省 長春市生まれ 1982年 外国語学校 日本語専攻 中学・高校6年間を 寮生活で過ごす 1988年 北京外語大学 日本文学専攻 1997 年 日本企業数社の北京 駐在 事務所に勤務 5月 広島経済大学 経済学部経済学科入学 豊かさに囲まれた日本は限りなく 悪い方向へ向かっている 『SAPIO 98・10・14』 設備の質に感激、しかし 学生の質には幻滅 日本の若者が向かう先は? 私の日本への訪問は今回を含めまし て4回になります。ほとんど仕事の出 張というかたちで毎年一回、いずれも 一ヶ月以上の滞在でした。その度に日 本は変わったなと、つくづく感じてい ました。日本で生活している方々に とってはあまり感じられないことだと 思いますが、一外国人から見れば日本 は激しく変化していると言えます。 以前、大阪の梅田へ行った時、赤信 号を無視している大勢の人を見て大変 驚きました。信号など、交通ルールを 守らない人が増えているのは、その地 域が悪い方向に向かっている一つの表 れではないかと思います。幸いにも広 島では、赤信号で横断歩道を渡ってい る人の姿はあまり見かけません。 広島経済大学に来る前までは、「地 方の私立大学だからあまりたいした学 校ではないだろう」と思っていまし た。しかし、入学してから、 「素晴らし いな」と感心してしまいました。まず キャンパスの雰囲気です。建物はオレ ンジ色で、見ると心が落ち着きます。 それに、立派な体育館、図書館があり 感心しました。何より驚いたのが各教 室にクーラーが付いているということ です。私の卒業した北京外国語大学も 一応地元では名門なのですが、こちら と比べて設備が整っていないというこ とを痛感いたしました。日本の学生は 幸せだと思います。 入学直後はこちらの大学で4年間勉 強できることに幸せを感じていたので すが、講義に出てみてがっかりしまし た。他学年の講義はどうなのか分かり ませんが、1年生の講義は本当に騒々 しい。講義が始まって約50分ぐらいの 間に、ぞろぞろゴキブリのように学生 が教室を出たり、入ったりしていま す。例え方が悪いですが、本当にそう いう印象を持ちました。後から入って きても堂々としていますし、先生の話 など聞こうともしない。それどころ か、講義を真面目にうけている人にお かまいなしに私語をする。 「中国には遅刻する大学生など一人 もいない」とは言いませんが、圧倒的 に少なく、いたとしても一人か二人ぐ らいです。それに遅刻をしたら静かに 入室し、後ろの席に座っておとなしく 講義を受けるというのが中国の常識で す。ですから余計にショックを受けま した。先生のほうにも責任はありま す。騒々しい教室の中で平気で講義を 進めるというのは、本気で勉強してい る学生を無視していることでもありま す。言い過ぎかもしれませんが、それ では学費泥棒をしているようなものな のではないでしょうか。 イメージを変えたがる心理 何より驚きなのは、若い日本人の茶 髪現象です。キャンパス内にいると、 学生全員が茶髪にしているのではない かと錯覚してしまうくらいよく見かけ 『SAPIO 97・9・24』 ます。人間の価値観はそれぞれ違いま すが、いくら流行といってもこんなに 多くの人が茶髪にしているのは、どこ かおかしいのではないかと思います。 何人かに茶髪にしている理由を聞いて みたのですが、その答えは皆さん同じ ようなものでした。 例えば「自分の好きな歌手が茶髪に しているから」という意見。人間には 他人と同じ行動をとる心理があるので すから、これは理解しやすいです。そ れと興味深かったのが、「自分のイ メージを変えたい」という意見でし た。考えてみたら、自分のイメージを 変える手段などそれほど多くはありま せん。普段のとは違う雰囲気の服を着 てみたり、化粧をしてみたりするぐら いしかやりようがないわけです。美容 手術という手段もありますがお金がか 明日の中国へ向けて 「21 世紀、100 の重点大学」 中国の大学進学率は100人に2、3人。 大学生というだけで、既にエリートとされる にも関わらず、 入学後でも勉強に対する熱意 は冷めることを知らない。放課後、エアコン のない教室に居残って黙々と勉強し続ける学 生の一番の関心事は「語学力」を身につける こと。特に外国語学部の「英語コース」はそ 上海復旦大学 のような学生のあこがれの的である。 中国では「211工程」という国家プロジェクトが推進されている。これは国内 にある1000以上の大学からさらに100校を選び抜き、重点的に建設を行うという 計画。選ばれた大学は特別に、政府から補助金が与えられる。しかし、選ばれる ためには施設、学術、指導者など各方面において高いレベルが要求される。その ため大学によっては学生に対し、厳しい管理を施しているところもあるようだ。 実質的に「211工程」が建設し終わるためには5∼15年の歳月が要するのではな いかと言われている。 『SAPIO 97・9・24』 かることなので若い人たちはそんなに 利用しないでしょう。 中国には上海や広東などの経済発達 地域で茶髪にしている人を見かけるも のの、ほとんどの人はしていません。 また、欧米人も自分の髪の色を変えよ うとしません。日本人はどうしてそん なに変えたがるのか、そうしなければ ならないのは何故か。そのことを自分 英才教育が盛んな中国・上海の私立学校の様子 なりに考えてみました。 経済の発展のみに目を向け 人間らしい生活を忘れている 国全体が無理をしている ように見える 「休憩はまだか」、「安い買い物が出来 るところはどこか」と言うばかり。欧 ここ2、3年、日本各地で起きた一 米の旅行者は、仕事は仕事で旅行はリ 連の悪質な犯罪事件、例えば中学生が フレッシュとして楽しんでいるのです 起こした神戸の殺人事件とかオウム真 が、日本の旅行者は疲れるために旅行 理教のサリン事件は皆さんの記憶にも しているように見えました。日本人は 新しいことと思います。このような悪 仕事帰りの電車の中でも、みんな眠っ 質な事件が短いサイクルで起きてい ています。日本という国全体がどこか る。これはおそらく、戦後日本が経済 無理をしているような気がしてなりま 面ばかりに目を向けて発展させてきた せん。 ツケではないかと思います。日本人が 中国という国からイメージできるこ 人間らしく生活するということを考え とは、広い土地、または過密した人口 ないままに、ここまできたということ なのではないでしょうか。確かに人口 ではないでしょうか。 は13億人、世界の4分の1を占めてい 私は中国でガイドのアルバイトをし ます。経済面から見ると世界のどの国 ていたことがあります。観光客をあち にとっても、魅力的な大きな市場で こちに案内する仕事だったので結構忙 す。よく例えに挙げられますが、中国 しかったです。欧米の旅行者等はその 人一人一足ずつ靴を買えば13億足の 国の文化や歴史について尋ねてくるの 靴になるという、極端ですがそれくら ですが、日本人の旅行者は、 「疲れた」、 い莫大な規模なのです。 第15回中国共産党大会(1997年9月12∼18日) 新体制で行われた共産党の党大会で、江沢民総書記は「株式制を国有企業改革 に導入する」と発言した。いわゆる「国営企業の株式会社化」が党大会の最大の テーマだったのである。企画経済下ではモノさえ作れば売れていたのだが、市場 経済化が進むにつれ、気に入ったモノしか買わない消費者が増え始めた。それに より国営企業が品質やファッション性を無視して、 生産したモノを単に売りさば いていた時代は終焉を迎えることとなった。 優秀な会社の株式を公開して合理化 を図ったり、経営に難がある会社を外国資本に売ったりするなど、中国の市場経 済化はますます急速化している。 台湾在住の経済評論家の邱永漢氏はこのような中国の動きに注目する。 「中国人は商業的でバクチの大好きな国民で、土地の次に投機の対象となるの は株だから、私は今後、香港の株式市場と上海の株式市場が世界の一大カジノに なると見ている。つまり、中国の株式市場に世界のお金が集中する時代がくるこ とはほとんど間違いない」 ( 『SAPIO 1997・10・22』 ) 。 中国政府は1994年以降、2回に分けて優良国有企業株を香港市場に上場した。 これから、 企業中心の社会に変化しようとしている中国が日本にどのような影響 を及ぼすのか。 そして、面積は日本の26倍、皆さん の想像もつかないほど広いわけです。 道から地平線がみえるところもありま す。歴史も長く、5千年と言われてい ます。西安のあたりの道や田舎の畑を 深く掘れば必ずなんらかの文物が出て くるというくらいです。普通の考え方 では多分、中国という国を理解するこ とは難しいと思います。 このような国を一つにまとめる力の 源は中央集権主義にあるのではないか と思っています。いわゆる、社会主義 制度です。世間では社会主義制度の終 わりが謳われていますが、中国の社会 主義はしばらくの間続いていくのでは ないかと私は考えています。中国はい ずれ資本主義に変わっていくことで しょう。しかしながら、今のところ社 会主義が中国の現状に一番合うのでは ないかと思います。もちろん、色々な 問題や矛盾もあります。 最近、中国で閉幕した「第15回中国 共産党大会」で正式に株式制度を導入 するという方針が打ち出されることに なりました。これから資本主義の経済 制度を本格的に導入して、それと同時 に社会主義の政治制度を引き続いて行 おうということになるのではないで しょうか。いずれにしても、これから 中国は大変困難な時期、変換期に入る というところです。それは日本にとっ ても一つの大きな隣国のことですの で、良くなる、悪くなるに関わらず影 響はとても大きいと思います。私は今 後も日本と中国が良い関係でいられる ことを願わずにはいられません。 質疑応答 Q 中国が資本主義化されていく 上で、デメリットがあるとすれ ばそれはどんなことでしょうか? A 今、中国は大きな転換期を迎 えているところです。ところ が、それによって現在、荒れた若者が 増えています。古い体制から新しい体 制へ変化していくことで、いろいろな 考え方が模索され始め、混乱している 状態なのでしょう。その動揺の中でも 前向きに生きていこうとする若者も結 構います。 今までの中国は共産主義、マルクス 主義の教育を行ってきました。新しい 体制になっていくことでこれまでの教 育に多少なりとも疑問を持ち始めてい る人は少なくありません。だから、あ ちこち海外に行ったり、国内で企業を 起こす人が増えているのではないで しょうか。とにかくこれからの社会に 対する不安があることは間違いありま せん。 会社に入っていれば、一生そちらの給 料や、退職金に頼って生活できる状況 でした。しかし、そのような日本の社 会は根本的に変わりました。ある意味 で頼るべきものはなくなったわけで す。だから、自分なりに能力を身につ けていないと、これから社会では生き ていけないということを認識すべきで す。つまり他人と違う自分を確立しな ければならないということです。 中国は人口が多いだけに競争が激し い。大学を卒業しなければ就職先があ りません。自分のやりたい職業に就き たい一心で、どうしても大学入学を希 望する人が多くなってしまいます。そ のような激しい競争社会の中で育った 若者は、精神的に自立し、とてもよく 物事を考えています。 日本の大学生も今まで通りに構えて いるようでは社会の変化についていけ なくなるでしょう。 Q 中国では「教育」というもの がどのように考えられているの Q お話を聞いて、日本の若者の 精神年齢は中国の若者と比べて 低いのではないかという印象を受けま した。日本の若者がもっと大人になる ためにはどういった考え方、意識が必 要だと思われますか。 A 私から言わせれば、今の日本 の若者はモルモットのようなも のです。働かなくても生きていける時 代に甘えている。以前まではどこかの でしょうか。 A 地方によって違いがあると思 います。例えば私の故郷の長春 では、小・中学生は宿題を家に持って 帰らないようにしています。つまり、 宿題は全部学校でやって、家に帰った らしっかり遊ぶという教育的な目的が あるのです。授業の内容もこれから新 しい制度を導入しながら改革していこう という段階になってきています。 教育に対する様々な価値 中国の貴州省と雲南省を取材した際、現地の学校をいくつか訪れたというジャー ナリストの落合信彦氏はそこで「教育」が国の基本であるということを改めて実 感したと語る( 『SAPIO 1997・9・24』 ) 。落合氏が取材した地域の多くは、食べる こともままならないような極貧の村村だったのだが、地元の政府関係者は口々に こう嘆く。 「貧しくて教育を受けられないから字が読めない。 字が読めないから新しい農業 技法を教えても理解できないし、出稼ぎに行きたくてもいけない。それがまた貧 困を生むのです」 。 貧しさゆえに学校に行けない子供たちがうらやましそうに外から授業風景を眺 めている。こんな世界があるということを日本人は想像できるだろうか。 「今の日本では、まず経済的に学校に行けないという人はいないから、教育の大 切さはなかなか実感できない。できれば学校なんて行きたくない人さえ多いので はないか」 「教育レベルが同等の先進国を見渡しても、日本と欧米の一番の違いは 教育のあり方だといえるだろう。この違いはこれからジワジワと利いてくる」。 教育とは何であるか ―日本は今一度、 この原点に立ち返らなければならない。 ぬるま湯の中でその価値さえも忘れられている日本の教育が再び甦ることはある のだろうか。 そんな日本と対照的なのがシンガポール。小学校入学から大学卒業までの15年 間、気の抜けない競争を続けなければならない。例え、大学に入学したとしても 在学中の成績が就職に直接影響し、出来によっては初任給にまで差が生じるとい う凄まじさ。この競争に勝てなければ貧乏人はずっと貧乏のまま。このように完 全な能力主義を貫くシンガポールでは「教育」が生活や人生に直結するほどの価 値をもっているのだ。日本の教育の場にはそのような緊張感はない。 これからの教育は学生が自主的に考 え、学んでいくことを目的として制度 を作っていく方向に向かっています。 例えば、学生に正確な答えがでない問 題を考えさせたり、環境破壊や中国と 日本の友好関係をどう考えるかという ような議題でクラス全員で一緒に討論 してもらうといった授業形式が導入さ れていくようです。おそらく日本も似 たような方向で教育改革がなされてい くことでしょう。中国と日本、また韓 国は似たような教育形式だと言われて いますが、これからは世界各国、特に アジア諸国から教育を変えていかなけ ればいけないと思います。 Q 中国の一人っ子制度について どう思われていますか? A 中国の現状を考えれば、一 人っ子政策は実施していかなく てはならないでしょう。 中国の土地面 積は世界の7分の1ですけど、 人口は 世界の4分の1。 数字的にもこれ以上 人口が増えると、 国内だけで全ての民 族を抱えていくことはできなくなりま す。その結果、中国人のイメージを悪 くしている密入国の問題に発展してし まうのです。中国は人が多い上に住む 場所も、食べるものも、着るものにも 不自由している。もし、一人っ子政策 が実施されなかったら、どんどん中国 人は海外に出て行かなければならなく なることでしょう。 漢民族は完全に一人しか産むことが 許されていませんので、もし二人産ん でしまったら、3千元から5千元ぐら いの罰金が課せられる。これは一般的 なサラリーマンだと2年分の年収に相 当します。ただし、少数民族の場合で あれば一人以上産むことが許されてい ます。 をとってもらわなくてはいけないとい う気持ちが日本人にあるのではないか と思います。 華僑の人は柔軟性を持って、どの国 でも忍耐強く生きていけます。そして 訪れた場所で、自分なりの事業を展開 することができる人種なのです。実の ところ、今では華僑のそのような姿が 中国人の典型だと思われている節があ ります。上手く現地人とつき合って、 相手にあわせて自分の利益を最大に 作っていく強靭性は中国人の典型だと さえ言われているのです。 Q 学生からまた社会人になられ る時、自分で起業してみようと いう考えはありますか。 Q 中国の華僑の人達と日本の企 業の人達との根本的な違いとい うのは何だと思われますか。 A 民族性なのかも知れません が、日本人には柔軟性が足り ず、自分たちの固定観念をそのまま海 外に持ち込み、上手くいかない場合が 多い。中国で事業を展開している日本 企業が成功している例は全体の約3分 の1だそうです。残りのほとんどが派 遣スタッフと中国人スタッフとの間で 妙なごたごたがあって、関係が上手く いかなくなるというパターンで失敗し ています。その原因として、派遣ス タッフが中国の民族性について、あま り勉強したがらないという点が挙げら れます。自分と同じように他人も行動 A 様々な経験をしたと言って も、例えば人前で話すチャンス などなかなか持つことができませんで した。今日も皆さんにお話ししたいこ とをいろいろ準備してきましたが、結 局ほんの一部しか消化でませんでし た。そういった意味ではまだまだです し、経験も足りません。 自分には起業したいという気持ちが ありません。それよりもいろいろな本 を読んだり、どこかに旅行に行ったり できる自分の時間を持っていたいで す。実は将来ヨーロッパとかアメリカ で生活してみたいという思いがありま す。日本で2、3年勉強した後、中国 の情勢を見ながら、自分の進路を決め たいと思っています。 感想 阿部文恵 石川直子 外から日本はどう思われているの か、気になっていたから、邱さんの話 を聞けて良かったです。これからの日 本をどうするかは、若い私達にかかっ ているのではないだろうか。まず最初 はマナーの悪さを直し、一人一人が気 をつけていかなければならないと思 う。他の国々の文化に敬意を払わない ときちんとした扱いを受けられないだ ろう。 邱さんの話は分かり易く、端的に私 たちの年代や日本への問題を提起して 下さったので、とても集中できていた ように思います。 現在の中国も、日本が抱えているよ うな、しかも差し迫った問題を背負っ ているという話には親近感をおぼえた し、それに際して中国が変換期を迎え ていると邱さんが真剣な表情で言われ たときには、このままじゃいけないと いう焦りも感じた。自分の中でいろい ろに考えるよい契機をもらった会でし た。 石川綾子 逃げている。そう思った。日本とい う国は、人は。逃げてきた結果の日本 が、今あるのだと。 邱さんの言われた「日本人は考える ことをしない。今の日本は、考えなく ても生きていける」という言葉が、心 に残った。言いわけはいくらでもある のだけど、結局そういうことなのだと 思った。利己的、刹那的生き方。都合 がよく,楽な方へと流れる。その中に ずっぽりはまっている自分が、とても イヤだ。どんな事に対しても、向き合 えるようにならないと。 今回は、自分の住んでいる日本とい う国について、自分が日本人であると いう事について、考えさせられた。表 面だけではなく、深く求めるようにな りたいと思った。焦りは禁物だけど、 変な安心感の中に積もっていてもしょ うがないので、自分なりにあがいてい こうと思う。 橋本泰孝 日本で生まれ、育ち、日本人である という限り、絶対的に感じることがで きない外から観た日本。経済的には上 位レベルにいる日本だが、人間的レベ ルとなるとまだまだだと思った。大学 の生徒の授業態度が悪いと講師の方が 言われていたが、話を良く聞くまでは さして感じなかったが、今はひどいと 思う授業がけっこうあるのではと思っ た。又、現在おこっている悪質な犯罪 は、戦後の高度成長の経済発展のツケ ではないかという話も興味が深かっ た。 日本のダメな点について話が多かっ たが、納得させられる点もあり、大変 おもしろかった。 脱・「遊学」宣言 ∼宮城大学の挑戦∼ 宮城大学は1997年に4月に開学。事業構想学部(事業計画学科、デザイン情 報)と看護学部(看護学科)の2学部で構成されている。大学設立の費用は240 億。新しい公立大学を目指すこの大学が現在様々な方面から注目されている。 例えばユニークな名前の事業構想学部では入学時から学生にノート・パソコン を買わせ、全員必修で講義を受けさせている。また、講師陣には元民間企業の管 理職や公認会計士、大新聞の論説委員など多彩な顔ぶれとなっている。 初代学長の野田一夫氏(多摩大学名誉学長)は「宮城大学は学問を習うためで なく、目的を達成するために学問を学ぶ」 ( 『SAPIO 1997・9・24』 )という理念 で、 “県民のために稼ぐ大学”をめざす。その一環として、同大学は地元・宮城 県の行政改革プラン「経済自立10ヶ年計画」の実験プロジェクトに賛同する形で 「宮城大学総合研究所」という収益団体を設立した。今後、この研究所を通じて、 受託研究や調査の他、社会人を対象とした英語講座、留学企画などを実行してい く予定だ。 もう一つの看護学部ではただ 看護婦を育成するという従来の 枠を超えた「ホスピタリィ・マ ネジメント」が教え込まれる。 看護婦不足に悩んでいる地方公 『SAPIO 97・9・24』 共団体は多い。宮城大学は病気 の人を看護することに留まらず、 “人間に対するケア”という広い 視点で看護婦資格を持ちながら いろいろな企業やサービス産業 宮城大学 の現場で働いていける人材養成 を目指している。 実学を重視したこのような大学作りが日本の大学教育の状況を少しずつ変えて いくものとなり得るか。宮城大学では学生が市民や地元企業とパイプを持ち、実 際に事業計画を立て、実行していくことで、そのシステムを学んでいる。大学が 社会に出る前のモラトリアムとして終わるのではなく、 国家が担える人材を育成 する場となる日はそう遠くはない。 5th 濱本 康男 氏 『21 世紀の広島について』 今まで東京にあるものを欲しがって、 それを作ろうという発 想がありました。 そういう発想で成立するのはせいぜい大阪ま で。あれだけの人口が近畿圏にあるから可能なのです。それ以 外の都市がやれば経営的に失敗する確立の方が高いと思いま す。 東京で売っているブランド商品を全く同じように広島でも 買えるようにしたとしてもどこか無理があります。 東京にしか ないようなブランド店を広島に出したって意味がない。 欲しい 人は東京まで買いに行くわけですから。 それよりも逆に広島に しかないブランドがあれば東京から買いに来るはずです。 そう やって地域が個性を発揮して、 バランスがとれていくことが大 切なのです。 第5回 学ぶ会 (平成9年10月30日) 講師 広島市企画総務局企画調整課長 濱本 康男 氏 昭和27年 6月20日、広島市で生まれる 昭和51年 広島市役所採用 平成4年 財団法人広島アジア競技大会 組織委員会へ出向(運営要員 課長) 平成7年 市民局振興課長 昭和60年 総務局人事部組織管理係長 昭和62年 総務局人事課人事係長 昭和63年 総務局人事課課長補佐 平成9年 企画総務局企画調整課長に就任 (市の施策の総合調整を担当) 平成10年 市民国際平和推進室長に就任 【講師プロフィール】 講演議題 「21 世紀の広島について」 政令指定都市とは 地方自治法第252条の19∼21により、政令で指定される人口50万人以上の市で、大 都市行政の特殊性に応じて一般の市長村とは異なった行財政上の特例を設けたもの。 実 際には人口100万人以上の市が制定されている。 政令指定都市には、道府県または知事などの事務権限のうち、福祉、衛星、都市計画 などの18項目が一致して移譲されるほか、個別法により市内の国・県道の管理などの 権限も委譲されており、いわば都道府県並に扱われている。政令指定都市は、市の事務 を分掌させるため、市内をいくつかの区に分け、区別に区役所を置き、区長以下の市職 員を配属させている。 1956年に制度化され、同年に大阪市、京都市、名古屋市、横浜市、神戸市、63年に 北九州市、72年に札幌市、川崎市、福岡市、80年に広島市、89年に仙台市、92年に 千葉市が制定され、現在は12市。埼玉の浦和・大宮・与野市では合弁により、政令指 定都市への昇格を目指す動きがある。 広島と福岡の活気の違いは民 間企業の元気の差でもある 広島という都市の魅力について市民に アンケート調査を行ってみると、「国際 色豊かである」、 「若い世代が多い」、 「公 園等の緑が豊かである」という意見が多 いです。その他、 「パッとしない」、 「遊ぶ ところが少ない」、 「あやふやな感じ」と いう声もあります。確かにその通りだと 感じますし、だからこそ広島をもう少し 魅力のある都市にしたい。そのために何 をしていったら良いかということを私は 企画調整局という市の重要な施策に携 わっていく中で考えています。 広島はよく「元気のいい大阪と福岡に 挟まれ活気がない」と言われます。つい この間もキリンビールが広島工場を閉鎖 するという発表をしました。このままで は広島がますます地盤沈下するのではな いかという声が新聞にも掲載されていま す。そんな広島と比較される福岡です が、次々と新しい再開発事業が進められ ていて、見かけは大変活気があります。 しかし、福岡にも色々と抱えている問題 があるのです。 福岡は民間会社の元気がいい。いわゆ る地場企業なのですが、広島だとマツダ や広島銀行、中国電力といったところで しょうか。しかし、現在それらの会社は あまり元気がありません。マツダにい たっては一時、販売戦略が失敗して、大 変な状態でした。今でこそ随分立ち直り 次代を開く福岡・流通戦争 福岡市・天神は大型店舗が集積している町だ。この地で繰り広げられる流通戦争は 不況化の昨今においても絶え間なく拡大し続けている。 1996年9月、老舗の岩田屋は若者をターゲットに「新館Zサイド」をこの天神に開 業した。しかし、天神の百貨店の売上高はZサイド開業前の5割増ほどで留まり、不 況下ということからオーバーストア(店舗過剰)の感を誰もが抱いている。その一方 で、繁華街・中州に近い博多区住吉に1996年4月開業したキャナルシティ博多など、 顧客吸引力のある店舗は少なくないという見方もある。そして1998年、福岡市中心部 で新商業施設が相次ぐように完成を予定している。 例えば4月、西日本鉄道グループが天神にある福岡三越と岩田屋の間に「ソラリア ステージビル」を開業。生活雑貨専門店や大型ビアレストランなど今までの天神にな いタイプの店を揃える予定だ。また、博多区下川端には1300億円強を投じた三つのビ ルからなる「博多リバレイン」が3月に開業する。そして、市西部にあたる福岡ドー ム周辺では大型アミューズメント施設、ライブホール、複合映画館を備えた商業ゾー ンをダイエーグループが建設。ドーム地区の開発がこの商業ゾーンを中心に行われて いる。JR博多駅前のバスセンターも商業ビルに衣替えする。大型書店やアミューズ メント施設に加え、吉本興業の劇場も出来るというこのビルは5月に開業予定。当分 の間、天神を軸とした福岡の商業集積が進んでいきそうな気配だ。 関東圏を基盤としている家電量販売店のコジマやヤマダ電機が九州進出を本格化さ せた。 今後安売りを武器に地元大手のベスト電器としのぎを削ることになるだろう。 こ のような専門店業界の勢力争いの激化はなにも広島に限ったものではないのである。 消 費が冷え込む中で「勝者なき戦い」と題した福岡・流通戦争は一層熱く燃え上がって いる。 広島市広域商圏 「広島家電戦争」に代表されるように、ここ数年大型店の出店が相次いでいる。特に 八木・緑井地区の変貌は目覚ましく、新たな商業拠点として集客力を高めつつある。市 が進めるJR緑井駅前再開発は郊外型商業ゾーンの玄関口を目指し、2002年に完成が 予定されている。その大型商業施設の核テナントに「マイカルサティ」が名乗りを上 げた。今後、紙屋町・八丁堀地区と広島駅・段原地区などに並ぶ主要商圏として注目 されることであろう。 を見せていますが、それでも一番よかっ た91 年頃に比べればまだまだです。ま た、広銀などの金融業界も厳しい。どこ の銀行もそうですが、バブル景気時に沢 山の土地を担保で抱えていたため、土地 が下がってしまった現在、危機的状況に なっています。中国電力などの電力会社 だって例外ではありません。以前まで電 気は電力会社だけが売っていましたが、 今では工場を持っている会社でも自社で 電気を作っています。例えば、福山にあ るNKK という製鉄会社は自社で余った 電力を中国電力に売っている。また、中 国電力がその電力を一般向けに売ってい ます。中国電力だって、今までのように 作っていれば売れるという時代ではなく なってきて、現在、社内的な経営の見直 しがなされています。 福岡の場合、例えばダイエーがドーム 球場を作ったり、また、福岡に大きな開 発をする会社がありますが、そこが天神 の方の開発をしたりしています。広島と 福岡の活力の差は、民間企業の活力の差 でもあるのです。 この間、福岡市の職員と話をする機会 がありました。市はほとんど開発にタッ チしていないにも関わらず、「福岡市は 良いですね」と羨ましがられるので、そ の職員は少し照れくさそうでした。 広島の町にもそれなりに新しいものが 作られています。皆さんもご存知のよう に緑井周辺が開発され始めています。段 原にはサティが出来ましたし、新しい商 圏として楽しみな場所が増えてきまし た。それから広島駅周辺にも大きなビル が新たに建ち始めています。この件にも 市が株式会社の形態を取って関わってい ますが、口に出せない苦労をいろいろ やってあそこまでこぎつけることができ た事業なのです。ただ広島と違い、福岡 はちょうど景気がピークだった頃に一連 の事業を進めている。一方その頃、広島 ではアジア大会に向けての準備で祇園新 道やアストラムラインの建設をやってい ました。そもそも都市の再開発の場合は 事業に移す前に調整ごとを済ませなけれ ばなりません。広島駅前の開発は土地権 利のについての調整が手間取り、建設工 事に入れないという厄介な状態でした。 そしてバブルがはじけ、やっと調整が済 んだ頃には広島の財政は苦しい状態に なってしまっていたのです。波に乗るタ イミングを福岡は掴めたが、広島は掴め ませんでした。結局それが今の差を生む ことになったのだと思います。でも、そ れを運命みたいなものと諦めずに、もっ と知恵を出せばいいわけです。今の広島 に問われているのは、そういう部分なの ではないでしょうか。 広島にしかないブランドがあれば 他から人が集まってくる 呉ポートピアランド 広島県呉市の第3セクター遊園地。 スペ インのリゾートをイメージして建てられた。 開園から6年半で経営が破綻し、98年8 月末に閉園。負債は133億円に達する。 広島の皆さんからの意見で「広島発の ものがもっとあったらいいのではない きいところには絶対に出来ないことをす か」とか、 「ないものを付け足すのではな れば良いわけです。それが最近はやりの く、あるものを活かして町を作って欲し い」というような非常におもしろい声が 「町興し」ということになります。 あります。実は今、 「広島発」がいろいろ 例えば、湯布院ではアマチュア映画祭 と考えられています。これからの時代、 が行われています。小さな温泉の街です 全国どこの都市でもあるようなものを が、湯布院にある温泉と自然を活かし 作って競争しているようでは、大都市に て、このような新しいイベントで人を集 勝つことはできない。結局、東京の一人 めています。東京には湯布院のような温 泉は出ないわけですから、この場合は湯 勝ちで終わってしまう。例えば「東京 布院の勝ちになるのです。地域特有のモ ディズニーランド」があの規模を維持で きているのも莫大な人口を持つ東京都の ノを上手く見つけだして、それを組み合 近くにあるからです。広島だとそうはい わせて町を作っていくと、新しい魅力が きません。 「東京ディズニーランド」は年 生まれてきます。 間入場者数は1600万人です。広島の市民 今まで東京にあるものを欲しがって、 球場が年間100万人くらいですから、そ それを作ろうという発想がありました。 れだけ比べても一定の規模の都市が持て そういう発想で成立するのはせいぜい大 る施設というのは周辺を含めた人口に 阪まで。あれだけの人口が近畿圏にある から可能なのです。それ以外の都市がや よって制約されるということが分かりま す。 「呉ポートピアランド」ぐらいの規模 れば経営的に失敗する確立の方が高いと でも維持するのがなかなか難しいわけで 思います。東京で売っているブランド商 すから、同じようなことを東京と広島が 品を全く同じように広島でも買えるよう 始めていくと、必ず東京が勝つ。だった にしたとしてもどこか無理があります。 ら、小さいところはずっと連戦連敗かと 東京にしかないようなブランド店を広島 いうとそうではなく、小さいところは大 に出したって意味がない。欲しい人は東 「あるモノ」を活かして! ∼アストラムラインと路面電車の改善∼ 【新交通システム3路線案】 ○西部丘陵都市線:西広島駅接続ルートを優先的に整備する案。約6km延長で整 備事業費は約800億円の見込み。 ○東西線:高架、または地下で整備する案。約6km延長となり、整備事業費は高 架で約800億円、地下で約1600億円の見込み。 ○南北線:広島大学本部跡地付近までを優先的に整備する案。約1.4km延長、整備 事業は約600億円の見込み。 【路面電車網の改善案】 ○平和大通りルート:西観音町から白神社前までの約1.8kmで平和大通りの中央に 軌道を設定する案。 ○相生通りルート:相生通りの路面電車を十日市から西へ延長する案。 京まで買いに行くわけですから。それよ りも逆に広島にしかないブランドがあれ ば東京から買いに来るはずです。そう やって地域が個性を発揮して、バランス がとれていくことが大切なのです。 広島市内には6本の川が流れています が、100万都市の中でこんなにきれいな 川が流れているところは他にありませ ん。ですから、この川をなんとか活かせ ないだろうかということが言われていま す。確かに周辺の住民にとって、川は交 通渋滞の元凶になっているのかもしれま せん。しかし、このような川でさえも広 島にとっては大きな財産なのです。自分 の目の前にあるものだけに財産という見 方ができにくいのかもしれません。ま た、川の側に河岸緑地という散歩道があ りますが、あれをもっときれいにして、 カフェテラスや喫茶店にしてみたらおも しろいのではないかというアイディアも あります。このように、広島にある財産 を活かしていくこと、すなわち「ないモ ノ」を付け足すのではなく、 「あるモノ」 を活かすという発想が必要なのではない でしょうか。 「あるモノ」を活かす発想から の町作り 現在、広島市内の本通りからさらに南 の宇品までアストラムラインを伸ばして いこうという案があります。そしてさら に、広域公園前からもう少し先に伸ばし ていく3 つのルートが考えられていま す。一つ目が広域公園前からトンネルを 掘って己斐駅を抜け、平和大通りに出る という東京にある山手線のような環状線 式ルート。二つ目は、五日市の石内とい うところを高架などで通すルートです。 そして、その二つのちょうど真ん中にあ る田方に出るルートが三つ目になります。 以上の案で現在検討中ですが、どれも多 額の費用を必要とします。確かに借金で まかなえば出来なくもない案はあります が、市民がらの反発は強いです。そこで、 広島市内を走る路面電車が注目されるよ うになりました。 この間、広島電鉄から路面電車網の改 善が提案されました。己斐駅から市内に 入り、広島駅に向かう際、西区役所と十 日市間でいくつもの屈曲部を通過しなけ ればなりません。それを減らして、走行 時間を短縮するために100メートル道路 (平和大通り)を活用し、白神社までつな げていく案が考えられています。こちら だとアストラムライン整備と違い、特別 に高架を作らなくてもよいし、電車自体 は広島電鉄が持っているので、新たに線 路を敷く費用ぐらいしかかかりません。 広電の案はまさに「あるモノ」を活かし て町を作っていくという発想なのです。 ただし、この案には交通処理や将来の交 通体系からみて様々な問題があると言わ れており、これからどうするか検討され ると思います。いずれにしてもこのよう なことは行政だけで決められる問題では ありません。 これまで行政はついつい無理をし、い い格好をしてしまうことが多かった。そ れが今の国や地方の大赤字につながって いる原因の一つでもあるのです。そのよ うな意味では「今あるモノ」を使う、 「あ る資源」を活かす発想がこれからどんど ん出てくると思います。また、そうしな いと市民の皆さんが納得しない、許さな い時代になっていくことでしょう。これ からは昔のように、とにかく新しいモノ 配ってくれる地方交付税や補助金、それ に市の借金である市債ということになり ます。これでは少ないので地方の職員は 東京の霞ヶ関へ陳情に行くという慣例 が、残念ながらまだ続いています。本当 は、地方の側からこのようなことを止め ていかなければいけないのでしょうが。 将来を見据えた行政のあり方が 問われていく 「景気」という言葉がありますが、景気 の気というのは気持ちの気なのです。景 気がいいと思えば景気は良く、景気が悪 いと思えば気持ちもそうなるからみんな が沈んでしまうのです。 景気というのは基本的にお金が市場を どのくらい効果的に回るかということが ポイントになります。そのためには景気 の「気」にあたる「気持ち」をどれだけ 前向きに持つかということが大事です。 経済学者が、「個人消費をもっと起こさ ないと景気が本格的に回復しない」とい います。もう大きな橋を架けるなど、公 共投資をするだけでは景気は回復しな い。日本の銀行等には約1200兆円の個人 資産があると言いますが、国民全員がお 金を引き出して使い始めたら景気はすぐ 回復します。しかし、 「景気が悪いからお 金を使わず持っていた方がいい」という ことで財布の紐をしめていると、お金が 世の中を回っていかないため、ますます 景気が悪くなるという悪循環に陥りま す。安い物を要るだけ買うことは、資源 の面から見れば無駄なことにならなくて 良いのですが、生産面から見るとそれだ け需要が一定に限られてしまうので、景 気のためにはなりません。ですからどち らが良いかは意見が分かれるところで しょう。 現在、広島市の財政が5年後に赤字で 苦しんでいるようなことがないように、 無駄な出費などを見直しているところ す。それでも民間からは生温いと怒られ ています。 一旦染み着いた体質はなかなか治りま せん。今までのような借金をしながら大 きな事業を進めるということは止めて、 お金の有効な使い道を考えていこうと行 政改革をしているのです。しかし、だか らと言って行政までも財布の紐を締めて しまったら、世の中の景気がもっと悪く なるのではないかということも心配で す。将来を考えると都市基盤施設など、 取りかからなければ後になってやろうと 思っても出来ないものもあるのです。だ からこそ、そういう事業なのか、贅沢な 事業なのかというところを見極めること が非常に大切なのです。 先日、ドーム球場を作るべきかどうか 市民球場の入場者全員にアンケートをし ましたが、作ったらよいのが48%、作ら なくても良いのが36%でした。どちらか が過半数を超えていたら決断できます が、どちらも50%を切っているので困っ ています。この事業を上手くやれば50年 先まで使えるので、そのメリットも十分 考えなければなりません。ドーム球場を 作るのに500億円かかると言われていま す。これから高齢化社会になると、なか なか税金が入ってこなくなるので、今 やっておくべきなのか、もしくはお金が ないのでやらないのかという選択になり ます。ておくべきものは借金しながらで もやるべきだと言われています。「あの 時作ってくれていたら良かったのに」と 高齢化社会になってから言われても遅い ですから、それを上手く見極めて考えて いかなければなりません。これからの行 政は非常に難しい判断をせまられると思 います。 ドーム球場構想 東広島駅跡地地区開発整備計画検討調整委員会が提 言した構想。跡地を中心にドーム球場、シティーホテ ル、アミューズメント施設、駐車場などを整備すると いった計画がなされている。しかし、公共事業の3割 削減を目指す市にとって、400億円を超す建設費を確 保するのは厳しいといった見方をする人が多く、ドー ム教条の賛否はいまだに分かれている。 また、広島東洋カープの本拠地にといった声もある が、年間約6億円に上る球場しよう量のアップは球団 側にとっても大きな障害となりうる。そして、なによ りもファンからの現球場を支持する声が強いこともあり、 無視できない。利用計画が決ま らない段階で、 跡地の所有者である国鉄清算事業団から処分期限ぎりぎりで購入した経緯 を快く感じていない市民もいる。 「夢のある21世紀」を描いたこのプロジェクト、さらなる建設的な論議が必要とされる のではないだろうか。 質疑応答 質問 広島を都市としてもっと伸ばすために は、長所・短所をつかむことが必要だと 思うのですが? 講師 広島の長所……というよりも財産だと 言えるのは瀬戸内海だと思います。あれ だけ波のない海は世界中探してもありま 質問 せん。この点を使って何かできればなと 広島は、あまり若い人の力がうまく活 思います。 かされていないように思いますが、市と しては若者へのアプローチをどのように 考えていますか? 質問 もっと広島から発信するものがあれ 講師 ば、若者が他県(東京・大 阪等)に流れ 若い人が活性化すればいい都市という ることはないのでは? のではなく、例えば京都のように若者の 町でありながら、全体的には落ちついて 講師 いるというのが理想です。大学(若者) 広島は原爆都市ということで、知名度 というのは、都市を活性化するキーポイ は世界的に高いです。しかしながら、そ ントになりうると思います。 れだけではなく広島は広島なりに、小さ くても輝くような情報を発信できればと 思います。 質問 若者が生き生きとしている都市には大 きな祭りがあります。広島にもフラワー 質問 フェスティバルがありますが、少し盛り 原爆記念日の式典のコンセプトを教え 上がりに欠けるのではないでしょうか? て下さい。 講師 講師 元々は広島カープの優勝パレードから 式典は、正式には「広島市原爆死没者 まった祭りですので、伝統的な側面はど 慰霊式並びに平和祈念式」と言います。 うしようもありません。現時点ではこれ 50年前から行っていますが、コンセプト 以外にももっと100m道路を活かしたイ はその時代その時代で多少異なると思い ベントが出来ないか検討中です。 ます。しかし、 「祈り」という意味あいを 持っているということは変わっていませ ん。式典のアピールとして、インター ネットも活用するようになりました。 質問 広島の平和の祈りが、どうも平和公園 の中だけの祈りというように見えるので すが? 講師 質問 365日平和を祈れ、というのも無理な なぜ公務員になろうと思われたのです 話だと思います。8月6日を祈ることに か。また、これから公務員になりたいと よって、364日を平和に暮らせるという いう人に何か注文がありますか。 のが理想だと思います。 講師 これといった崇高な理念があったわけ 質問 ではありません。それと注文ですが、現 木を伐採した時、植林をすれば緑は回 場に居る立場か ら言わせてもらうと、 楽 復しますが、川は一度埋めてしまうと、 をするために公務員になろうというので もうそこには水は流れなくなってしまい あればやめた方がいいです。どこの職場 ます。現在、自然を取り戻しながらの開 にも言えることですが、そ んな人にいい 発がどこかで企画されているのでしょう 仕事を回すところはないと思います。 か? 講師 質問 「開発と保全」は永遠の課題です。都市 企画調整課長という役で、何か苦労は 計画法で、市街化区域と市街化調整区域 ありますか。 という2つの地域分けがなされています。 市街化区域は、どんどん開発できるも 講師 ので、市街化調整区域は、自然を残すた 今はかつてのようにお金が入ってきま めに開発を原則として禁止しています せんし、行政だけが頑張っても何も出来 が、調整区域の住民の方からは「自分の ないんです。市民と行政が一体になって 土地が開発されることがないから売れな やらないといけないと思います。市民の い」などという声も実際にあります。そ 理解や協力をどうやってとりつけるか、 こを調整するのは、難しい課題だと思い いろんな意見をどうやってさばいていく ます。 か、そのあたりに苦労しています。 感想 池尻 利行 小倉 恵子 講師の濱本さんがすごく積極的な方 “広島”について色々と考えさせられ だったこともあり、大変活気のある会 た。政令指定都市としての広島。中四国 だったと思う。講師の方が一方的に話す 地方の核としての役割を担う広島。原爆 ことなく、学生の意見をうまく引き出し 投下の地としての広島を限りある財源を てくれたように感じた。それは、やはり 活かしていく必要を痛切に感じた。 普段されているお仕事が立場的に行政側 “あるものを活かして開発していく” の考えと、市民の意見とを両方採り入れ 広島には他の都市にはない個性を活かし ながら、ベストな決定を下すという大変 て、快適な都市空間を形成していくこと 難しい判断を行っているからだろう。そ が、これからの広島に課されたテーマな の為のまわりをよく見る力と冷静な考え のだろう。戦後復興から高度成長を経て 方、中立的立場における必要な対応のや バブルの崩壊した現在、やみくもに無秩 り方を短い時間の中でも感じることがで 序な整備、開発をしてきたこれまでを振 きた。そういったことができるようにな り返ることができるのではないだろう るには、まず自分自身に対する自信と、 か。 相手を受け入れることのできる余裕が必 要となるだろう。そして最後に決めたこ とを実行する力を持てなければ、市民の 工藤 耕輔 先頭に立ち、1つの都市をより良い方向 私達の住む広島は平和都市として世界 へ導いていくことができないのだとつく 的に有名だが、広島県民はどの程度自覚 づく実感させられた。 しているのだろうか。小学校の頃、被爆 地として平和教育を受けてきた。しか 上重 十郎 し、現在ではそのほとんどを忘れてしま 広島の今後の事をよく考えて頂いて嬉 い、感心も薄れてきた。 広島県を誇り しかった。僕達一般市民は、もっとこう に思っているとおっしゃる濱本さん。そ して欲しいと思う事をどんどん提出し、 の理由は広島が世界的に知名度が高いか 検討してもらうべきだ。濱本さんも市民 らだとのこと。日本では一地方だとして の声はたくさん欲しいと思っていると思 も、世界から見れば東京に匹敵する。そ う。僕達が一番の問題と思うのが、今か れは、原爆が最初に落とされた平和都市 ら社会へ出て行くのにこの景気の悪さだ だからで、こんな広島を誇りに思ってい と思う。広島だけの問題ではないが何か るのだと感じた。 対策を考えて欲しい。広島は何かまだ隠 れている大きな力があると思う。それを 濱本さん達を中心に僕達の力も添え、出 河内 秀雄 して行ってもらいたい。 市のこれからの行動、現状を知ること ができ、良かったと思う。ポイントとし 野の広さは必要不可欠であると感じた。 て印象に残ったのは「600億のドームを 同じ日本人、しかも同じ広島市の中でこ 作るとしてその100億の借金をするのは うなのだから、世界になれば大変な視野 あなたたち市民なのです」という言葉で が必要だろう。 した。僕も広島市民だが自覚はなく、 「え 「机の上に立てば、それだけで視点は ∼!?どういうこっちゃい!!」と思ったが、 変わる。そんなものだ……」 (映画『今を そうですよね、我々の借金の上での建設 生きる』より)。 ですから、でも僕のようなピンとこな この域まで視点を高めるのは簡単ではな かった市民は沢山いるのではないでしょ い。しかし、気負わず、自分なりの「机 うか。 の上」を早く見つけようと思う。 高橋 宏之 藤野 太郎 今回は、担当班ということもあり、 今回の学ぶ会は話を聞くまでは、退屈 少々忙しかったが、日頃行政の方のお話 そうな内容だと思っていたが、話を聞い を聴く機会がないので非常に有意義な会 てみると全然そんなことなく、広島住民 だったと思う。正直行政に対して良いイ にとって必ずためになるし、社会の構造 メージを持っていなかったのだが、行政 を知ることができた。こうしのかたのお に携わる方のご苦労されておられるお話 仕事柄からなのか、自分達の意見も聞い を聞いて少々考えが変った。もっと市民 てくださり、それに対するしっかりとし の側が行政について知る必要があること た答えも返していただけたので嬉しかっ を感じた。 た。 田村 智宏 今回は実際に行政に関わる人の考えが 三島 守登 聞ける貴重な機会だったと思う。広島経 「企画」─ この言葉に対する興味は 済の不振が長い間、変わりばえのないよ あったのだが、講演を終えて「しんどい うに思える平和活動への取り組みなど、 な」と感じてしまった。このゼミの中だ 市政に対し不安に感じることは色々あっ けでアンケートをとっても、多数の意見 たのだが、それらに対する市側の考え、 が出てくるのに、市民一人ひとりの声を また迷いも率直に聞けたことは20 年近 聞いていたら、収集がつかないと思う。 く広島に住む私にとって大きな収穫で これをまとめつつ、行動に移すのは困難 あった。 なことであるし、またその意見が通らな かったら、市民は不満をぶつけてくるだ 橋口 千聖 ろう。そのような中で仕事をするのは大 講師の方も話せるところが限られてい 変であるが、また同時にやりがいもある るにも関わらず、かなり核心まで話して と思う。今回の講演を聴いて、私もその くださった。そのお話を聞いて改めて視 ようにやりがいを見つけたいと感じた。 6th 山下 江 氏 『私の生き方∼思想的遍歴を経て∼』 確かに大学は自由です。しかし、自由と責任は表裏一体だと 思います。自由だから何をやってもいいのではなく、責任を もって自分で考え、行動しなければなりません。 大学ではいろんな経験を持った友や先生との出会い、知的 で思想的な出会いがあります。人の意見を自分の中で考え、 それが違えば自分の人生は自分で責任をとる。大学とは自分 で考え、行動するスタイルを身につける場所だと思います。 私の生き方 ∼思想的遍歴を経て∼ 混沌とした世の中だ。21世紀を目の前にして、 『SAPIO 1998・4・8』 世界の社会情勢はその行方を見失いつつある。 日本もまた首を傾げたくなるような出来事が相 次いでいる。長引く不況による金融機関の倒産、 官僚の汚職、絶えない青少年の犯罪……。何が正 しく、何が間違っているのかさえ見えにくくなっ てしまったこの国で、例えようもない不快感だけ が蠢いている。その巨大な恐怖に対抗しうる生き 方とは一体何か。 折しもオウム心理教の問題でも注目を浴びた弁 護士。その職に身を置く山下江氏 は様々な経験 を経て自身の価値観を構築していった。 「自分の頭の中で前提としていた考え方なり、 仕組みなりが積み上がっていき、例えば高校の卒 業ぐらいまでに一つの思想的なものになるとする。 しかし、そうやって積み上げていったものでさえ、 厚生省、薬害の根源は汚職にあり 大学に行って全部壊され、また新しいものに変わる。 またさらにそれを越えるということを何回も繰り返す。そういった感覚というのは、 非常に面白いなと思います。 世の中が発展していく過程は、決して直線的ではない。沈んで、また乗り越え ていき、違う新しいものが組み立てられていくことで世の中は進んでいるように 思える。だから、日本が今後どうなっていくかは、今の段階では全く分からない と言ってよいのではないか。様々な価値観があって、考え方があって、仕組みが ある。今の世の中に矛盾があるなら、そういうものを、既存の価値観にとらわれ ないよう、もっと自由な発想をもてば有意義な人生になるのではないか」と語る 山下氏。そのような生き方、思想を模索する山下氏の姿勢は大学時代にまで遡る。 Lecture 学生運動という体験 害による矛盾が生じたりしている現実を見る 社会的なことに関心を持ち始めたのが高校 と、世の中を根本から何とかしなければなら ないと運動を通じて感じていました。もう25 年前のことですし、運動の是非なんて、100 年経たないと何とも言えないと思います。 2年生の頃で、大学生の時には学生運動の先 頭に立っていました。単純で正義感が強かっ たので、運動にのめり込み易かったのでしょう。 大学卒業後も活動を続けていました。 運動を通じて、例えばベトナム戦争で日本 が出撃基地に利用されたり、水俣病などの公 学生運動には様々な傾向がありましたが、 根本的には共産主義の思想が背景となってい ます。腐敗に満ちている世の中を根本から覆し、 理想的な社会を目指すのが共産主義の革命思 想でした。それは資本家による労働者の搾取 のない社会、いわゆる個人の自由と平等が保 証された社会を指します。 なぜ学生が中心に立って運動が起こったのか。 それは、大学生が世の中を再生する一過程だ とみなされていたからだと思います。だから 大学自体を解体し、より開かれたものに変え ようということで、非常にラディカルな運動 が行われたわけです。現在活躍している著名 人の中にも、学生運動で暴れた経験を持って いる方は結構いらっしゃいます。 * 学生運動は1918(大正7)年12月、 東京帝国大学の学生によって結集され た「東京新人会」 に端を発している。 社 会主義、共産主義思想の浸透を背景に 登場したこの会からいわゆる学生運動 は様々な広がりを見せるようになった。 その学生運動も一時期の停滞を経て、 1968∼69(昭和43∼44)年の全共闘 による大学闘争で再び高揚期を迎える。 ベトナム戦争への加担や、学費の慢性 的値上げの一方で行われていたマス・ プロ教育、教育現場における管理強化 などの学生を取り巻く状況が運動を激 化させた。その典型として登録医、イ ンターン制など医学部教育体制の改革 要求に端を発した東大闘争や、20億円 の使途不明金問題に対する告発により 火がついた日大闘争などが挙げられる。 ピーク時には約8割にあたる165校が 紛争状態に入り、 その半数の70校でバ リケード封鎖が行われたといわれている。 学生運動をしていた頃のことについ て、山下氏は「今思えば理想が高かっ た」と振り返る。 「高度経済成長に関わる公害の矛盾、 また貧富の矛盾とがあって、そのよう な社会情勢の中での大学というのは一 体なんなのか。自分たちは世の中でど 山下 江(やました・こう)氏 昭和27年4月11日生。大柿町出身。昭和46年 修道高校卒業。同年、東京大学(工学部)へ。平成 5年4月から弁護士になられ、平成7年7月に山下 江法律事務所開設。 のような役目を果たさなければならな いのか……。様々な問題を突きつけら れたという感じがしていました。 その 当時、今と比べて矛盾は多かったです し、何も日本だけに限ったことではあ りませんでした。米国ではベトナム反 戦運動が起るなど、世界全体が反体制 的な流れだったと言えます」 。 父親から学んだこと 私の父親は若い頃に、戦後革命運動経験を 持っています。そんな父親から多分に思想的 影響を受けてきました。その中でも一番印象 に残っているのが「全てを疑え」という言葉 です。思想家のマルクスが好きだった言葉で もありますが、これは今の世の中でも通用す るのではないでしょうか。 例えば、何か現象が起きるとする。その現 状を「あぁ、そうか」と流すのではなく、 「何 故かな」と一旦は考えてみる。あるいは「こ 『SAPIO 1998・6・24』 れでいいのかな」などと考える。 そうやって、 「全てを疑った」と きに初めて学問的な進歩とか世 の中の進歩とかがあるのではな いか。別に全てを懐疑的に見よ うと言っているのではありませ ん。 「全てを疑う」 、そこからい ろんな事が始まるのではないか ということなのです。物事には 様々な側面があり、変化する。 一面にとらわれない自由な発想 や考え方を父親から学びました。 そんな父親から受けた影響も インドネシアの学生運動がスハルト政権を揺るがした あり、運動に深入りするようになりました。 学生運動の中では今生きていること自体が奇 跡的と言っていいくらいの修羅場を経験しま した。大学から何かを教えてもらうというの ではなくて、自らが考える機会、刺激を与えて もらったと思います。 * 「あまり詳しくは言えませんが」 とし ながらも、父親の影響を多分に受けた と山下氏は振り返る。大学4年生の就 職活動期になって止める人がほとんど の学生運動をその後も続けていった背 景には、父親から植え付けられた正義 感があった。それは、ある現状に対して、 「これでいいのか」 と絶えず自問するこ とが進歩に繋がるという山下氏の思想 に深く関係している。 しかし、その姿勢を保つことは決し て容易なことではない。物事には様々 な側面があり、そして常に変化し続け ている。大学生活だけでなく、その後 も様々な経験を経た山下氏がこのよう な考え方に行き着くまでにはそれなり の苦しみがあったようだ。 プラス思考 私は2年半ぐらい前に離婚を経験しています。 学生運動で出会ってから20 年くらい連れ 添っていた人との別れです。それまで私はマ ルクス主義という宗教とは無縁の世界で生き ていました。しかし、離婚して非常に苦し かった私を救ってくれたのが親鸞だったのです。 離婚直後、宗教絡みの本を10冊ぐらい読 みました。そして、親鸞の『歎異抄』に出 会ったのです。 『歎異抄』の中には「善人です ら救われるのにどうして悪人が救われないこ とがあろうか」という意味の文章がありま す。非常に逆説的な文章なのですが、罪の意 識を持っていた自分には随分と励みになりま した。 心の苦しみを洗うということにおいて、 宗教はそれなりに必要なのだなとその時感じ たのです。 人生をどう生きるかということを考えてい く上で、プラス思考は大切だと思います。 物事には決まって、プラス面とマイナス面 がある。その両面をどう見るかによって、そ の後の人生は全然違ってくるのではないで しょうか。私の離婚についても、辛いことで はありますが、見方を変えれば新しい出会い の始まりでもあります。また新しい恋ができ ると思えば人生は明るい方へ向かっていく。 確かに、なかなかそのようには考えられない ものです。しかし、できるだけ自分にとって よいことだと思う癖を習慣にすれば、プラス 思考は身に付くのではないかと思います。 * 仏教には「自力」と「他力」の二つ の流れがある。しかし、山下氏はこの 二つを根本的には同じであると言う。 「他力」は「昨日のことや明日のこと をくよくよ悩まず、ただ全てを仏に任 せればいい」という考え方である。一 方自力の方は「今ここでしていること、 今を生きることが重要である」という 考え方である。山下氏は、この二つに ついて、「他力」は否定的表現をもって、 「自力」は肯定的表現をもって主張して いるが、両者とも過去や未来を考えず に今を大切にするということにおいて 同じであるという見方をしている。 山下氏のこの様な視点からも、物事を 多面的に見るという姿勢がうかがえる。 もっと強くなるというのが私の生き方の指針 です。その根本にプラス発想があるのだと思 います。 プラス発想は多面的な見方にも繋がって います。私は弁護士ですから、例えば正義に ついて考えてみましょう。そこでおもしろい 小話を紹介します。まず、キリストは正義を 「愛」であると言いました。次にマルクスは 「物」であると言いました。つまり、世の中を 動かすのは経済力や経済体制であり、その物 質的な成長が人間を栄えさせているというこ とです。精神分析学者のフロイトは、性的な 衝動が世の中の成功を生むということで、正義 は「セックス」であるとしています。そして、 最後に、アインシュタインが登場し、正義は 「相対的」と言いました。 私はいろいろな正義があると思っています。 私のモットーは「自分にとって不都合なこ 依頼者には依頼者の正義がある。相手方には 相手方の正義がある。それを法律的にどう調 整するかというのが裁判であるわけです。私 とが生じても、常に感謝の気持ちで臨む」と いうことです。例えば、自分にとって非常に 嫌なことが起こったとします。しかし、考え 方を変えれば、それは自分を鍛えるというこ にとっての正義というのは、相対的正義を認 めることではないかと思っています。「それ をけしからん、認めない」という人もいるで しょう。しかし、相対的正義は、その人たち とでもあるのです。苦しみを乗り越えて、 をも認めるということなのです。 私の生き方 Interview ―学生運動に参加されたということで すが、あの時の精神が現代にどの様な形 で影響を与えていると思われますか。 山下:人によってもその信念とか、レベルに 違いはありました。例えば、学費を上げる大 学に大勢の人が反対デモを起こしたとしても、 その全員が世の中を根底から変えようとして いたわけではありません。 私自身は根本から世の中を変えたいという 側の人間でした。そのような人たちが、共産 党よりも過激である新左翼というグループを 形成して、いわゆるノンポリ学生も組織して いました。そのような運動は確かにラディカ (平成9年11月25日 講演) ルでした。実際、ベトナム戦争に日本が巻き 込まれていくような流れはくい止めたと言え ます。その他、福祉の充実とか、男女の雇用 均等とか、新たな流れが生まれた。今の大手 企業や官僚やマスコミなどの中堅は、学生運 動で中心になって活躍した連中なんです。い ろんな意味で無駄ではなかったと思います。 かなりラディカルではありましたが。 経済体制によって人の暮らし方が決まる。 今の世の中が経済体制が資本主義という人が 人を搾取する社会であるから、資本主義社会 を変えようとしていた。資本主義が正しいの かどうなのか最終的にはわかりません。 おもしろい話があって、ロシア人が共産主 義だった時に日本に来て、日本はもう共産主 ―山下さんの「スタイル」と言えばプ 義になっていると言ったという。多く稼いだ 人は、多く税金を払っています。資本家が労 働者を搾取するという単純な構造ではない。 時代は変わる。「何のために」という目的が そのことに関して、今までの経験を教え てください。 山下:最近、相手方が、依頼者の借金を私自 身に払えと迫ってきました。拒否するとイヤ あっての思想だと思います。統計によると日 本では、自分を中流以上と考える人の割合 が、7∼8割もいる。このような現状にあっ て、資本主義が即「悪」とは必ずしも言えな ガラセ電話電話で再三してくる。仕事上のト ラブルとはいえ、そのようなことが延々と数 カ月も続くと、やっぱり法律事務所としては頭 が痛い。けれど、そんな業務妨害も繰り返さ いのではないか。変革すべき点も多いとは思 うが。 れると、私の秘書が対応慣れしたり、事務所 全体で闘おうという連帯感が生まれたりしま す。単なる嫌がらせが事務所の潤滑油にさ えなる。そのようにとらえると、嫌がらせの ―大学では自分で学び たいことを学べ るという自由があります。しかし、 そ の中で、何をすればよいのか分からなく なる部分もあると思います。山下さんに とって大学とは何ですか。 山下:確かに大学は自由です。しかし、自由 と責任は表裏一体だと思います。自由だから ラス志向ということになると思われますが、 電話があっても非常に楽しいものとなる。こ れもプラス志向と言えるのではないでしょ うか。ちなみに、嫌がらせの電話などは全て 録音し、証拠として残しています。 何をやってもいいのではなく、責任をもって 自分で考え、行動しなければなりません。 大学ではいろんな経験を持った友や先生と の出会い、知的な思想的な出会いがありま す。人の意見を自分の中で考え、それが違え ば自分の人生は自分で責任をとる。大学とは 自分で考え、行動するスタイルを身につける 場所だと思います。 Impression 阿部 直文 講演の中で「全てを疑え」という山下さん のお話が心に残ったのは、非常にインパクト に考え、理解することができた。また、講演 を通じて、私は残りの学生生活の中で学生時 代にしか得られないものと、学生時代に得る のあった具体的な話のせいだったからだろ うか?「全てを疑え」というお話は物事を 疑ってかかることによって一面的な考え方か ら多面的な考え方ができるようになり、自分 べきものを発見し、そして自分のものにした いと考えた。そのためには今までの自分に不 足していた多面的な見方も必要と考えた。 まずは自分なりに努力していきたい。 に新しい発見ができるようになると自分なり 池尻 利行 動するのかが一番大切なことだと思った。自 学生運動などの大きな目標から、些細な日 常生活まで、 何事にも積極的に取り組んでこ られた過去があるからこそ、現在の幅広い 人格が形成されているのだという事が伝 分で考えて行動する。これができてはじめて 刺激が活かされるのだと思う。 また、講演の中で「すべてを疑え」というお 話があった。自分のことをこれで良いのかと わってきた。そして、弁護士という難しい 職業をこなしていく上で最も必要とされる、 それぞれに存在する正義に対する理解、相対 的な考え方、個人個人の価値観について考 思えないと進歩はない。私も高校の部活動を 通して、その時その時の結果が良かったとし ても絶対に自分に満足してはいけないといい きかせてやっていた。 そういう思いを持って えさせられた。それからの集約として、自分 の立場だけで物事を考えず、 “まずは全てを 疑う(自分を含めて)”という考え、接し方 が生まれるのだろう。その結果、すべての情 部活をしていた高校時代と大学に入ってから の自分を比べてみると考え方一つで自分の やっていることがどう結果に出るのがよく分 かります。今回のお話を聴いてもっと自分を 報を得て、理解した上で、最終的に自らを確 立していくべきであるという事を学んだ。 見つめ直さなければいけないと思いました。 自分の中で活かしていきたいと思います。 石川 直子 人生の教訓というか「こう考えたら楽だよ」 といった感じのヒントをいっぱいもらった気 谷本 美紀 「陸上を続けていて何か意味があるのだろ がします。人生経験やもっておられる知識の 多さに、やっぱり「すごい人だな」と思いま した。「教養のある人程、分かり易い言葉を 使っていわんとしていることを伝えられる」 うか?」最近そんな事を考えていた。続けて いてもあまり成長が見られないのならやめて も一緒ではないかなと。大学に入った事も 時々後悔をしていた。だけど、今の自分は 様々な選択肢の中から悩み苦しんで、自分で という言葉を思い出したのですが、人の前で “これだ”と思ったからここに存在している。 話をする、自己を表現する、そう言ったこと 「自分が生きてきたことを全てプラスに考え を私はもっともっと学ばなくてはいけないなと、 る 方 が 得 で あ る 」。 山 下 さ ん が そ う お っ 山下さんの講演を聞いていて、思わず自分に しゃった時、答えが見つかった気がした。間 確認をしました。―山下さんの人柄に、と 違いではない、意味もある。プラス志向がど ても惹かれた会でした。 れだけ大切か、陸上を身を持って感じた。 400メートルという種目は気持ちがとても大 上重 十郎 切で、プラスに考えるかどうかで、レース内 過去の失敗にくよくよせず、プラスに考え 容や記録は良くも悪くもなる。自分に負けた るという言葉に感動した。今まで様々な失敗 ら達成感は決して得られない。自分と常に勝 があるし、これからもたくさんあるだろう。 負である。残念なことに精神的に弱い私は、 しかし、それらすべてに意味があるとは思え その勝負に負ける事が多い。大学に入り、 ず、プラス思考へと考えていくことはなかな 様々な刺激を受けた。 その度に立ち止まったり、 かできなかった。まだ若いし、これからは失 後悔したり、成長したり、価値観が崩れたり。 敗を恐れず、いろんな事に挑戦し、視野の広 経験が良くも悪くも人を成長させる。これか い人間になっていきたいと思った。 ら先、様々な壁にぶつかっていくと思う。破 ることが出来たり、光が差さなかったりする 吉川 真琴 かもしれない。今回の学ぶ会はそんな道を突 確かに大学では、いろんな場面で刺激を与 き進む私に少し勇気を少し与えてくれた。 えてもらえる。だけどそこから自分がどう行 7th 佐伯 寛 氏 『白髪の増える話』 私は性格上、人を騙すということがへたくそで、嘘はすぐ にばれてしまうのです。 私は人と話をする、人と付き合うという上で大切なのは 「正直さ」だと思っています。でも、そればかりだと痛いとこ ろをつかれてしまうので、電話の時は平然と嘘を言います。 人の顔が見えなかったら嘘がつける。誰でも一緒だと思いま すが、顔が見えないから大きな事が言えるのだと思います。 でも、人と会ったときには正直に話します。相手を目の前 にして嘘をついてら、結局は分かってしまうものなのです。 しかし、どうしても仕事上、嘘をつかなければならない時が あります。それを許してくれるかどうかは、日頃からの人間 関係によるところが大きい。なるべく普段の時は嘘をつかず に正直に対応すること。これが一番必要なのだと思うのです。 第7回 学ぶ会報告書 1997年12月18日(木) 演 題 白髪が増える話 講 師 (株)サンフレッチェ広島 広報部 Jリーグ 広報委員 佐 伯 寛 さん 【講師プロフィール】 1987年 中国電力株式会社 入社(広島営業所勤務) 広島大学 入学(経済学部 第二部経済学科) 1992年 広島大学 卒業 矢野サービスセンターへ転勤 1996年 広島北営業所へ転勤 1997年 サンフレッチェ広島へ出向 いまから就職してゆく皆さんへ 学生時代のつきあいというのは、クラブやサークル、学校、アル バイト先など、比較的同年代の中での閉鎖的なつきあいでしかな かったと思います。私の場合は、高校を卒業して突然社会に放り投 げられました。社会ではいろいろなお客様(取引先)と相対するこ とになります。 私が以前まで勤めていた中国電力は独占企業ですので、中国地方 に住んでおられる全ての方のお相手をしなければなりません。電気 というのは生活の必需品であり、これが無いということなど考えら れない。そのため、料金滞納のため電気を止めた際、また停電のた めやむを得ず電気を配送できなかった場合、お客様からのお叱りを 受けることもあります。あと、電気料金が高いという苦情を受ける こともありました。 中国電力にいた10年間、このようなやりとりをお客様としていき ました。言い方が悪いかもしれませんが、クレームに対応するコツ は“どうやってお客様を丸めこむか?”なのです。 お客様を説得するにはどういう方法があるのか。それには二つあ ると思います。まず、理論的に、理路整然と並びたてて説明してい く方法。もう一つが人情に訴える方法です。大事なことは、この2 つをどう使うかということ。私が実際お客様と接する時、まず二、 三言交わしてどちらの方法でいくかを考えます。 ただし、例外もあります。台風19号が広島に大被害をもたらした 年がありました。その時、私は広報車に乗ってお詫びをしに走り 回っていました。車の周りをお客様に取り囲まれて怒られました が、怒られても電気は送れないわけです。理論的に説明しても、情 に訴えても通用しないこともあります。 やはり肝心なのは「言ってもどうしようもないことだ」と分かっ ているお客様を追い詰めないことです。相手もピンチに陥ると反発 してきます。それを避けるため、相手方に逃げ道を用意しておくわ けでです。 以前、夜中2時に酔って理論的な話ができそうもないお客様から 呼び出され、監禁状態にされたことがありました。危険な交渉にな りそうな場合、いざという時を考えて二人一組で行くものなので、 あの日は私が家に入ったのですが、何と2時間も正座させられて、 怒鳴られ放題。あとで上司が助けに来てくれて、何とか収拾をつけ ることができました。普通の商社なら、都合の悪いお客様とは二度 と取引をしなければいい。しかし、中国電力のような独占企業だと そういうわけにはいかないわけです。 皆さんも、夢や理想があると思いますが、思ったとおりの仕事は させてもらえないものです。私も中国電力に入って、まさかこんな 仕事をすることになるとは思ってもいませんでした。 そういうこと を頭に置いて、就職する会社を選んでいただきたいなと思います。 白髪の増える話 中国電力はサンフレッチェの出資会社だった関係で、 出向社員が 一人ほど球団へ送られることになっています。私は小学時代から サッカーを続けていて、 中国電力にいたころはサッカーの審判もし ていました。 中国電力の人事部長はサッカー部の部長もしていたのですが、 あ る年の忘年会の席上で、その部長に酒を注ぎながら「サンフレッ チェに行くことはないんですかね」 なんて酒が入った勢いで言った わけです。その発言が効いたのかどうか分かりませんが、次の年に はサンフレッチェに出向となってしまいました(笑) 。よく日本で は“飲ミニケーション”と言って、酒の席で相手とのコミュニケー ションを図るようですが。あの日の私は失敗だと思いましたね。今 はちょっと後悔しています。 私がサンフレッチェに出向した当時はJリーグが社会現象になる ほどフィーバーしていたので、 ある程度いいイメージを持っていま した。また、広報という仕事がどんなものか分からず、会社の決定 事項をマスコミなどに発表するだけでよいというぐらいの認識しか なかったのです。しかし、それはとんでもない誤解でした。 最近、サンフッレッチェ広島は全国版で新聞紙面を賑わせて (?)いますが、いろいろな方面からつきあげられ、ストレスがた まります。ストレスだけが残ります。そうなると、白髪が増えるわ けです(注1)。 信頼関係を築くということ 中国電力にいた頃にも「Y県S市の社員は2、3年で髪が真っ白に なる」という類の噂などありました。そんなことを聞く度に「自分 は絶対行きたくないな」などとよく思っていたものです。それが今 や、……自分も例外ではない状態です(笑)。 ストレスというものは何とか解消しなければなりません。 実は昨日、選手と会社側とによる交渉が行われたのですが、94年 の優勝以来ではないかと思われるほどのマスコミが、この交渉を取 材しにきました。マスコミは食いついたら絶対に離しません。その 時の様子を報じた映像の端に私もチラッと写っていたのですが、死 にそうな顔をしていたと思います。マスコミとしては当然、社長の コメントが欲しいところなのでしょうが、私としては社長を守らな ければいけないわけです。とにかくマスコミを下がらせるのに必死 です。周りを囲むマスコミ関係者の肘が(故意にではないのです が)飛んできて、頭に直撃したりと、ストレスだけではなく体の痛 みも伴ってすごく疲れてしまいました。このように、仕事をしてい るといろんな人との接衝があるわけです。 私もサンフッレッチェに来た当初は右も左も分からない状態でし た。選手にしても他人である私に警戒心を持っていたはずです。そ こでどうやって選手たちと仲良くなるか、相手の心に入り込むかを 考えました。 サッカーの素人で、運動も得意でなかった前任者は、無謀にもパ ス回しをしている選手たちの輪の中に飛び込んでいったそうです。 ボールも取れずにクタクタになって、選手たちに笑われたものだと 言っていました。でも、そのことで何とか選手たちに受け入れても らったのです。私は前任者と同じことをやっても仕方ないと思っ て、正攻法で行きました。選手が紅白(練習)試合をする際、審判 をやったのです。 選手側にしてみたら私は「フロント」側の人間ということになり ます。選手側を「現場」と言います。違う立場を分かろうと思えば、 そこにいる人と同じことをする、要は同類と認めてもらえばいいわ けです。 もう一つ大切なのは、相手を大切にするということ。選手も人間 ですからスランプに陥ることもあります。そういう時は人と会いた くないことだってあるはずです。選手が苦しんでいるということを 察して、マスコミの取材が入っても、「断っておくね」と声を掛け る。そしてもう一言、「復調したら、優先的にそこの取材に応じて あげてください」とつけ加える。このように選手を守ってあげる、 大切にする、そういうことから理解し合って、いい人間関係が築き 上げられていく。私はそのようなプロセスを大切にしています。け れど、互いの距離が近くなればなるほど、こきつかわれるようにな ります(笑)。いい関係を保ちつつ、自分の本来の仕事をスムーズ に進めるためにも、これでいいのだと思っていますが……、土曜日 も日曜日もあったものではありません(注2)。 例えば、日曜の朝などに、選手から電話が掛かってくることもあ りますし、今日は早く帰って寝たいと思ってもマスコミから取材の 依頼があれば対応しなければなりません。取材対象の選手を探し始 める。なかなか捕まらず、方々に電話を掛けまくっている間にもマ スコミから再三催促を受ける。そんなこんなで結局(マスコミの都 合で設定されている)最終期限の9時まで、仕事をしなければなら ないわけです。時には11、12時まで仕事がズレ込むこともありま す。年中無休です。ストレスもたまります。そうするとますます白 髪も増えるわけです。 人と話をするときのコツ! それでは「人に上手く話をする」ときのポイントをいくつか挙げ てみます。 まず、人の気持ちを考えながら話をするということ。 こちらから一方的に言わず、まず相手の言いたいことを言わせて あげます。話を聞いてもらうと相手は納得します。そのあとで、こ ちらの言わなければならないことを、相手にトーンを合わせながら 伝えるんです。 そして、相手と目線を合わせる、つまり目を見て話をすること。 心理学の見解からも言われていますが、子どもと接する時には目 線を低くして話をすることで、納得し合えるようになるそうです。 ですから私も、控え室で座っている選手に対しても、同じように自 分もしゃがんで、目線を合わせてから話をします。 1対1で話をするときなど、目を合わせていると落ち着きますか ら、交渉をするときなどは特に、視線を外さない。下を向いたりし ていると不信感を持たれてしまいます。 社会に出て行かれた際にはその辺りを気をつけてみてください。 最後に 社会に出るとストレスも大変たまります。精神的に疲れると、よ い仕事もできません。 ストレス解消と言っても人それぞれです。私も特効薬というほど のものを持ち合わせていませんが、やはりサッカーが好きなので ボールを追っかけたり、体を動かすことによってほんのひとときで もストレスを忘れるようにしています。みなさんそれぞれ趣味があ ると思いますので、その趣味を楽しんでいる瞬間だけでもつらいこ とを忘れていけばよいのではないでしょうか。 趣味などを持って、ストレスを上手く発散しながら、仕事に勉強 にがんばってください。 (注1) この当時、サンフレッチェ広島は、高木琢也選手や森保一選手らを、他のチームに放出 するかしないかの決断を迫られていました。 結局、数週間のちには、放出が決定されま した。 (注2) 佐伯さん、せっかくのおやすみの日。 朝早くから電話のベルが鳴り響き、受話器を上げてみると、選手の声。 「東京の新幹線、飛行機は、何時のがあったかいね?」 | 本当は時刻表を調べれば、すぐ分かるはずのことなのですが……。 受話器を置いたあと、必死に時刻表をめくる佐伯さんの姿が……。 質疑応答 伊妻 私の友達に熱烈なサポーターがいます。その人がよく、「無料の チケット」をもらって試合を観に行っているようなのですが、それ で採算がとれるのでしょうか。 佐伯さん プロの球団というのは、本来お客様から入場料をいただいて経営 していくものなのです。けれど残念ながら、あまりにもスタンドが 寂しすぎるというのが現状です。 今年の平均入場者数は6千8百人だったのですが、例えば広島ス タジアムという器でこれだけ入れば、結構うまったなという感じが しますけど、ビックアーチだとまさに閑古鳥が泣いているような状 況なのです。 ではどうするかと言うと、お客様を呼ぶために、まず一度試合を 見てもらって、「なかなか面白いものなんだな」、 「次も見に来よう かな」といった呼び水的なこともしていくのです。その一つとして 「無料チケット」というのが出回っているのは事実です。 そこで「無料チケット」で商売が成り立つのかということですけ れども、例えばお金を払って見に来て下さる方が1万人だとトント ンで赤字はありません。お客様がスタンドを埋めているということ は、そこにいるお客様とかテレビを見ている人に対して一つのア ピールになる。そして、無料で来られたお客様がサッカーの面白さ を感じ、また観に来てみようと思われれば、それも一つ。「無料チ ケット」でお客様を集めることでそういった何らかの形の効果がで てくる。確かに「無料チケット」分の収入はないけれど、次回はそ れを越えるプラスが期待できるんです(図参照)。 同じようなことは、航空業界でもよくあります。飛行機にはエコ ノミークラス、ビジネスクラス、ファーストクラスの3種類に分け られていて、料金がそれぞれ違う。エコノミーにはお客がいっぱい 入るのに、その他の料金が高いクラスにお客が入らなという航空会 社はわざとエコノミーの空席数以上の航空券を販売することがあり ます。そして、溢れたお客をビジネスクラスに座らせるのです。こ サンフレッチェ入場者数 参照図 6800 ↑ 10000 ↑ ❷呼び水効果 昨年度平均入場者数 6800人 有料チケットでの入場者 (赤字なし) 無料チケットでの入場者 (赤字覚悟) 1万人 れを、オーバーブッキングといいます。 エコノミーの料金でビジネスクラスに座らせるということは一見 損をしているようにも見えます。ですが元々ビジネスクラスは空席 だったわけですから、料金は半額になりますが、収入になるので す。また、お客様の中で「もしかしたら、またエコノミー料金でビ ジネスに乗れるかもしれない。もう一度この飛行機を利用してみよ う」という消費者心理が働き、結局のところ航空会社側は儲かると いうしくみです。サンフレッチェの場合、このように上手くはいっ てないです。そんなに現状はあまくないものなのです。 森田 最近、サンフレッチェの経営が苦しいというお話をよく耳にしま す。今後どのような経営戦略をお考えでしょうか。 佐伯さん 今、実際に新聞などでサンフレッチェの「長期ビジョン」が問わ れています。そこで、これからどうしていくかということなのです が、最終的にサンフレッチェにいる選手の顔がどれだけの人に知ら れているかという話になると思うのです。 日本代表を経験した高木選手、柳本選手、路木選手、森保選手、 前川選手クラスは知られていると思いますが、恐らく他は知られて いないと思います。では、プロ野球、広島カープの選手はというと 試合中継も多いですし、ある程度顔が知られてると思います。まず そこから違います。ですから、とりあえず選手をもっと知っても らって、多くの方に親しみを感じてもらう、ここが一つのポイント です。知っている選手がいれば試合を観にスタンドへ足を運んで下 さるようになると思います。ですからもっと選手を身近に感じても らって、「同じ広島のもんじゃけえ、応援しちゃろう」という世界 を作らなければいけないのではないかと思います。その為に(広報 の私の担当ですけど)、サイン会とか、土曜日に試合が広島で行わ れる場合などはサッカー教室を開いたり、様々な形で選手とふれあ える機会を作っています。また、それだけでなく選手をもっとテレ ビやラジオに出したり、新聞で取り上げてもらったり、マスコミを 使って選手の認知度を向上させていくいうことも必要だと思ってい ますので、このような活動も始めたいと計画しています。 チームを維持する為には多額のお金が必要なので、安定的な収入 を得ていくということも大切です。収益にはお客様から直接頂く入 場料と、スポンサー料、そして放映権料があります。放映権料は試 合をテレビ中継するという局から得るもので、スポンサー料とはス タジアムの周りに看板を設置することを条件にいただくお金のこと です。そうやって集めたお金は選手の補強などに使われています。 まず第一にスポンサーを獲得することが必要なので、今も一生懸命 営業に回っています。 サンフレッチェ広島の選手は残念ながらほとんどが無名です。し かし、そのような選手にさえも年俸は支払わなければいけない。か と言って、有名どころの選手を他チームから引っ張ろうと思っても 何億というお金がかかります。鹿島アントラーズはブラジル代表の 超一流プレイヤーを10数億で獲得しようとする。これが本当の意味 での強化策なのです。 すごい選手が来る。その選手を観にお客様が集まる。その選手が 良いプレーをして、鹿島が優勝する。優勝すれば賞金が入る。これ が普通のサイクルだと思うのですが、残念なことにサンフレッチェ はその前段階で、まずは地道にお客様に愛してもらい、支援しても らうための営業活動を行わなければならないのです。 石川直子 私は、今回高木選手を引き抜こうとしているヴェルディー川崎 (すごく弱いんですけど)とかジャイアンツが大嫌いなんですけど、 佐伯さんはJリーグの中でどのチームが一番お嫌いでしょうか。 佐伯さん やはりお金を持っているヴェルディー川崎は嫌いです。サンフ レッチェは10億円でモタモタしているのに、川崎は一年で20億円 赤字出しても平然としているから本当に頭にきます。 実際にベルディーにもいい選手が多い。しかし、更に補強して もっと強く、人気のあるチーム作りを考えられていらっしゃるよう です。その上で高木選手はどうしても外せないというのがヴェル ディー側の考えだったのです。金に糸目をつけないやり方で動いて いたヴェルディーの監督が解任されたようなので、これからどうな るか分かりませんが、とにかくそれだけ高木選手は高い評価を受け ているわけです。私には権限はありませんが、強化担当にがんばっ てもらって、広島に残って欲しいという気持ちは強いです。そして 広島の高木選手が、 「アジアの大砲」から「世界の大砲」へと変わっ てくれれば最高だと思っています。 池尻 プロサッカーのクラブチームが成立するためには、サポーターが いないことには話になりません。その点で言えば広島の場合、すこ し盛り上がりに欠けてるのが実状だ思うのです。 ヨーロッパあるいは南米などでは、サポーターが一番底辺となっ てクラブを支えている。しかも若い年齢よりは中年層の40、50代の サポーターの力が大きな支えとなっているように私は感じます。日 本でも鹿島とか浦和が実際そうような感じで、親が子を連れて応援 に行く土壌がある。プロ野球の広島カープも中年層がすごく支えに なっているところからも、高年齢層がスポーツを支える一つのポイ ントだと言えます。以前までサッカー所と言われた広島が鹿島や浦 和となぜこのように差がでてしまうのかということについて、どの ようにお考えでしょうか。 佐伯さん プロ野球には五十年単位の歴史があり、子供の頃、野球好きだっ た方々が、 大人になって自分の子供とともに応援するようになった ことは自然な動きだと思うのです。 サッカーの場合は、プロとして成立してから5年目なので、プロ 野球のようにある程度年齢が高い方が応援していただけるまでに は、もうちょっと時間がかかるのではないでしょうか。 プロ化された影響で中、高年世代のサッカー人口は急増しまし た。しかし、その子たちは子供がプレーするのが精一杯で試合を観 に来るという余裕はないと思います。その子たちが大人になって、 子供と一緒に見に来れるぐらいには20年単位の時間が必要だと考 えられています。そしてはじめて定着したと言えるのではないで しょうか。 確かに鹿島と浦和は高い年齢層の方が中心となって支えていま す。なのにかつては「サッカー所」 「御三家のひとつ」であった広 島が鹿島と浦和よりも応援の熱が低いのか。結局は「地域性」なの です。広島で言えば、かつてその頃東洋工業でプレーされていた 方々はゴール側で応援するのではなくて、 バックスタンドで愚痴を 言ってる。その土地、その人の楽しみ方というのが「地域性」に表 れるのではないでしょうか。だから、このことはまだ時間のかかる ことだと思っています。 私は昨年ドイツに行って超人気がある「バレムミューヘン」とい うチームの試合を観戦しました。若い方、年配の方が一緒になって 応援し、すごく盛り上がっているなという印象を受けました。何故 こうやって応援できるのかと考えてしまいました。 ここで注目すべ きは、アウェー(遠征してきた)チームのサポーターが大挙して押 し寄せて来るということ。 日本で言えば広島と東北ぐらい離れてい る所から、何千人という人が駆けつけて来るわけです。この根本に は「オラが町のチーム」という高い意識があるようなのです。加え て、昔の都市国家の名残なのか結束が固い。残念ながら日本とは規 模が違います。 そういう意味でも熱烈なサポーターがいないのかな と思います。 感想 阿部 直文 講演で佐伯さんの仕事における苦労が分かった。心に残ったのは 佐伯さんがサンフレッチェの選手達とサッカーをすることで顔と名 前を覚えてもらったというお話だ。 人の心に入り込むこと、つまり、人と親しくなることは学生生活 はもちろんのこと、社会に出てからはもっと大切になってくるだろ うと感じた。私自身、人の心に入り込める人間になりたいし、その ための努力をしたいと思う。 佐伯さんは仕事で大変苦労なさっているにも関わらず、反面大変 充実した日々を送っていらっしゃるのだと感じた。私も苦労はあっ ても充実した仕事に就きたいと思う。 石井 瑞穂 「白髪の増える話」を聞いて社会の厳しさを少し学んだような気 がした。でもその反面、好きなこと、やりがいのあることをやられ ていて、うらやましい気もした。本当に自分の好きなことだったら 苦労しても満足できるのだな。私もそんな仕事に是非就きたい。 それから、「上手に話をするコツ」を教えてくださったが、しゃ べるのがあまり上手でない私にとって、非常に勉強になった。 梅田 真理子 サッカーの事に関してもそうだが、このところ日本という国自体 に忍耐とか根気とかいわれるものがなくなってしまった様に感じ る。即効性のある事、ある人、即売れるもの、そういうものばかり 取りざたされる。サンフレッチェ離れもその中の一つのように思 う。 今だけを見て、今の判断で全てを判断する。それは正しいようで 正しくない側面も持ち合わせている。長い目で物事を見る事も大切 であるように思う。 橋口 千聖 今回はJリーグに携わる、一企業戦士である講師の話をおもしろ おかしく聞かせてもらった。しかし、その内容は学生である自分に はまだ実感できないものである。同時に、社会の深さの一端を見せ られた感じもして、空恐ろしいような、何とも言えないものが残った。 一度社会に出ると、今度は社会からはみ出すのが恐ろしくなると いう。何にしても、半端な気持ちではつとまらないようだ。 堀川 竜太 佐伯さんは本当に大変な仕事をされているのだなと思いました。 常に会社、選手、マスコミ、サポーターの注文を受ける窓口のよう な立場にあり、土、日曜もないと言われていた時の顔からは苦労が うかがえました。中電からサンフレッチェへ出向となったきっかけ は酒の席で人事部長にふともらした言葉から。少し後悔していなが らも、今の仕事にやりがいもあると言われていたのが立派だなと思 います。人付き合いのアドバイスは、これから社会に出た時、非常 に役に立つもので参考になりました。 本川 晶子 中電時代の辛そうな営業のことも、笑顔でおもしろおかしく話さ れている佐伯さんを見て、なんてすごい人なんだろうと思いました。 サンフレッチェという組織においても、会社とマスコミに挟まれて 仕事をなさっている佐伯さん。大変なこともある中で仕事に生き甲 斐を持っていらっしゃっることが話されていることからも伝わって きて、とてもうらやましく、私もそんな仕事を見いだしたいと感じ ました。 また、相手に自分を受け入れてもらうためにはどうすればよいか ということを経験に基づいて話して下さった時、自分にも似たよう な経験があったので共感できました。相手に自分の言いたいことを 納得させるために逃げ道をつくってあげるという話がありました が、私はいつも相手を逃げ道がなくなるほど追い詰めて失敗するの で、そういうテクニックがあれば少しは要領よく世の中を渡ってい けるのではないかと思っています。 サンフレッチェ広島 そのときとその後 佐伯さんを講師にお招きして、学ぶ会が行われた1997年12月頃からサンフ レッチェの約1年間を振り返る。横浜フリューゲルスの問題を発端に浮上したJ リーグチームの経営難。 「地元自治体、地域住民とサポーター、出資企業の三位 一体化」というJリーグ理念とクラブの親会社が直面している現実とのギャッ プ。今、Jリーグは新たな曲がり角に立たされている。 サンフレッチェ球団が描くビジョン 『アスリートマガジン 1998年6月号』 1993年からスタートしたJリーグは 予想以上のブームを引き起こした。連 日、どの競技場も満員御礼、Jリーグ チケットは「プラチナ・ペーパー」と 化した。選手年棒は高騰の一途をたど り、チーム数も18に増えた。しかし、 そんなJリーグも今まさに不況の波に 飲み込まれようとしている。1995年か ら観客減少する競技場が目立ち始め、 親会社からの赤字補てんで維持してい かなければならないチームも少なくな い。「経営難」−それは決してサンフ レッチェも例外ではなかった。 1997年11月30日、サンフレッチェ 広島は球団経営のスリム化を発表した。 それに伴い、選手たちは年俸の大幅 カット、折り合いがつかなければ移籍 もやむなしという苦渋の選択を迫られ る。その日を境に放出要員として高木、 森保、路木らの主力選手の名前が新聞 Jリーグ元年は全スタジアムに活気があった。 紙上を賑わす。サポーターの選手残留 を訴える署名や抗議活動が日を増すこ 初優勝の原動力となった選手たちが広 とにはげしくなっていった。 島を去っていった。 そんな騒動の中で選手たちはつぶや く。 「金の問題ではない。この球団のビ 危機感の中で見えてきた光 ジョンが見えないんだ」。 これからのサ 選手、サポーター、フロントが対立 ンフレッチェがどうあるべきかという の中から何かを模索し始めた1年だっ ことを明確に出来ないままに、高木琢 た。1994年の前期優勝を果たしたチー 也のヴェルディ川崎への移籍をはじめ、 ムが3年後にはその存続さえも危ぶま れている状態にある。もとも 『アスリートマガジン 1998年6月号』 と母体のマツダは一旦Jリー グ参加を見送っていた経緯が あるため、スタートからサン フレッチェには親企業からの 赤字補てんは望めなかった。 前球団社長の信藤整氏は「い ろいろ言われたが、身の丈に 合った経営にするには避けて 通れなかった」(中国新聞 サンフレッチェはホームゲーム時に、応援のためのフ 98年12月25日)と一連の騒 ラッグ・メガホンを無料貸出している。 動を振り返る。 ファンに愛される球団を目指して また、信藤氏からバトンタッ チを受けた現社長の久保允誉 1998年6月末、3代目のクラブ社長 氏も「主力の移籍や年俸の削 に久保允誉氏が就任した。 減がなければ、経営はもっと深刻なも 「3 年以内にリーグ優勝を果たし、 のになったはず」と大胆な刷新を評価 2002年日韓共催のワールドカップへ選 している(中国新聞 98年11月8日)。 手を送りだす」ことを目標に掲げた久 いずれにしても広島に住む多くの 保社長の体制下で新たなサンフレッ 人々に自分たちの地域からサッカー チェが動き始めた。まず、球団の立て チームが消えてしまうということにつ 直しのために外せないのが離れていっ いて考えるきっかけを与えた出来事で たファンを呼び戻すことだ。インター あった。主力が抜けるということは確 ネットの公式ページ開設、オフィシャ かに大きなマイナス要因である。しか ルショップ「Vポイント」を復活など し、主力が抜けた危機感から結束力と ファンに対するサービスが強化、J いうプラス要因が生まれることだって リーグの理念である「三位一体」型の ありうる。この危機感から結束力とい チーム作りに余念がない。そしてこれ うプラス要因が生まれることだってあ らの活動に後押しされるようにサンフ りうる。 レッチェは「1部残留」という課題をク この危機感が1部リーグ残留の大き リアーした。 な原動力となったという見方をする人 ただ、もう一つの課題でもある「観 も少なくない。だが、危機感だけで選 客数の増加」が残されたままになって 手を引っ張っていけるものでもない。 いる。今後もいくつも存在する後援会 一度は沈みかけたサンフレッチェが再 組織の一元化やファンとの連携、様々 び息を吹き返した裏には危機感の中で なイベントの実施など、スタンドに観 戦う選手たちに希望を与える球団フロ 客を埋めていくための活動が続けられ ントの意識改革があった。 るであろう。 8th 山近 義幸 氏 『就職について』 もう1つ面接に関してですが、やはり「努力」をしていない 人間が「自信」を持っていると言うのは嘘だと思います。 努力をした人間こそが、自信を持つことができる。先程から 面接を楽しめとか、就職活動を楽しめとか言っていますが、楽 しむためにはやはり努力は必要です。 「やりがいのある仕事に 就きたい」と言う人はたくさんいますが、努力をしない人間に そのような仕事は絶対に回ってきません。 第8回 学ぶ会 平成 10 年3月 17 日 就職について 昭和36年11月22日に山口県玖珂郡 由宇町の農村に生まれる。山口県立岩 陽高校卒業後、27歳の独立まで出版業 界で修業時代を過ごす。8年前から (株)ザメディアジョンを法人化し、就 職情報誌業界に進出。 『内定の達人』を1993年に創刊。中四 国では『メンタツ』を圧倒するベスト セラーとなった。続いて発刊された 『仕事の達人』『採用の達人』も話題を 呼んだ。 自分なりに語る 『SAPIO 97・9・24』 ここ最近の就職活動の実態について お話ししたいと思いますが、実は先程 まで広島サンプラザで、ある流通会社 の面接をしていました。5人一組で計 4グループの集団面接という形です。 来春卒業予定の3年生が3月という 今の時期で自身がどういう人間なのか リクルートスーツに身を包み、就職戦線へ 語れない、 「自己分析」の足らないとい うのは大きな出遅れです。就職活動を 職活動が3月の今から始まるとすれ する上で自己分析をしていないという ば、残り3ヶ月が勝負になります。遅 学生は絶対いません。今日の面接でも くても5ヶ月経てば決まっているで 最初のグループは決定的に自己分析が しょう。 できていないタイプですので、内定を ちなみに、国立理系の学生だともう することはできませんでした。 決まっている人もいます。私立文系の 別にボソボソしたしゃべり方でも構 学生は最低あと3ヶ月、長くて5ヶ月 わないのです。今の段階で正しく敬語 間は生き残るため、勝ち残るために必 が使えて、方言もなく、面接官の心を 死の思いで就職活動しなければなりま 掴む話し方など期待していません。た せん。そのためにはまず、 「戦略」を立 どたどしいながらも自分のことをちゃ ててください。戦略というとマニュア んと話せる。例えば、 「私は今、こうい ルみたいに聞こえるかもしれません うことを考えている」、 「こういう形で が、計画を立てるということです。例 就職活動をしている」ということを自 えば、「3月末までに自己分析は絶対 分なりに語っていただきたいのです。 終わっておく」とか、 「合同説明会は5 就職活動で足りないと言われている 社くらいはブースを訪ねる」といった のが「企業研究」です。これをしてい ようなスケジュールを立てることで ないという人が実に多い。現在日本の す。特に面接は最初に慣れておかない 失業率が3%を超えています。しばら と絶対無理ですから、希望する会社を くすれば5%を超えることになるで 受ける前に最低5回は経験しておく必 しょう。ほとんどの会社が2時間くら 要があるでしょう。 い会社説明をした後、面接、面談をす 最近の就職活動で重視され始めてい ると思いますが、その段階で会社の経 るのが「レセプションカード」という 営状況や仕事内容を、あるいは業界の ものです。企業は皆さんの履歴書など 全体像を把握するという形で確実に企 あてにしていません。履歴書よりも 業の研究をしてもらいたい。そして、 「レセプションカード」、「訪問者カー 戦略ミスだけは絶対にしないこと。就 ド」、 「エントリーシート」といったも のに重点が置かれている。第一勧銀や サントリーなどは6ページにも渡るレ セプションカードを使用しています。 それを書けるような人でないと内定は むずかしいようです。 面接はコミニュケーション 面接官の8割はあなたの持ち味を出し やすく、喋りやすくしてあげようと 思っています。 もちろん、例外もあって、皆さんも よく耳にされるような「セクハラ面 接」や「圧迫面接」も現実にあります。 しかし、だからといって緊張すること はありません。例外ということは、ほ とんどないということですから。 先程も言ったように、面接は絶対に 慣れが必要です。だから、最初に第1 希望とか、本命に行かないようにして ください。 作文も当然書けないといけません が、一番大切なのは「面接」です。大 手企業なら試験が優遇されると勘違い する方もいらっしゃいますが、どの企 業に聞いてみても面接を100パーセン ト重視しています。 私からのアドバイスとして心に留め 就職と恋愛は同じ ていただきたいのですが「面接はコ ミュニケーション」です。もちろん、 はっきり言いますと、就職活動は恋 プレゼンテーション的な要素も必要で 愛と同じです。初恋の人と結婚すると しょう。ところが、学生というのはど いうデータはほとんどありません。多 うしても自分の思いを前面に出したが くの人は、少なくとも何回目かの恋愛 る。つまり、自分を売り込みたがるの をした人と結婚するでしょう。就職も で、どうしても相手に伝わらない。話 同じです。様々な会社を訪問して、そ を聞いてコミュニケーションを取ると の中から自分と合っている会社と出会 いうことを意識していただきたいもの える。なのに、去年の10、11月頃から、 です。もしかしたら就職部の指導なの 「私はここに就職するために生まれて かも知れませんが、自分を売り込まん きた」と言う人もいますが、それでは ばかりに喋り過ぎて、何を言っている 就職などできません。 のか分からないという学生を何人も見 就職活動とは様々な会社を見るせっ てきました。 かくのチャンスです。皆さんが企業の 最初はコミュニケーションから入っ 経営者に「御社はどんな会社ですか」 て、少しずつ自己PRなどをしながら と堂々と聞けるのは人生の中でこの時 思いを伝えていくこと。最初から自分 しかありません。これは、就職活動し を売り込もうなどと思わないことで ている学生の特権なんです。私も様々 す。それと、間違ってもらうと困るの な企業の面接に携わっていますが、社 ですが、 「面接官は敵ではない」という 長さんが「今度〇〇に出店するのだ」 ことです。よく、「面接官に勝ってこ と学生に喋ったりすることがありま い」とか、 「今日は面接で勝負だ」など す。ついつい企業も学生にがんばって と言われますが、それは間違いです。 いるということを言いたくなってしま うようなのです。いろいろな会社を訪 問して欲しいなと思います。 気分転換する時間を持つ 面接において必要なことは「リラッ クス方法」を増やすということです。 デートをするのも、映画を見て感動す るのも、リラックス方法の一つです。 そういうリラックスできる方法をこの 就職活動の時期に減らさないでくださ い。就職活動と大学受験とは違いま す。よく、 「就職活動が大事ですから」 と言って、やりたいことを我慢する人 がいますが、それは絶対おかしいで す。 大事なことは、リラックスをするこ と。皆さんはこれからストレスが溜 まってくるわけですから、それを発散 するためにも今まで通りやることで す。その方が絶対に表情が明るく、生 き生きとしていられます。セーブして いる人に限っていい結果は出ていませ ん。 しかし、それでは企業研究や自己分 析をする時間がないと思うかもしれま せん。でも、学生の段階で時間を目一 杯有効に使っているという人なんてい るでしょうか。私は今まで会ったこと はありません。リラックスする時間を 減らさないで、もう一度自分の日常を 振り返り、無駄だと思う時間を減らせ ばいいのです。とにかく、充実した時 間や楽しいことをしながら就職活動を 続けたいと思うのでしたら、ちょっと 朝早く起きればいいのです。絶対に人 間は夜より朝の方が集中できます。そ ういう理由で夜型から、朝型に変える ならいいと思います。そのようにし て、無駄な時間を消去すると、自分の 時間は絶対出てきます。私はタクシー に乗ると必ず本を読むようにしていま す。ずっと景色を眺めているというの が時間がもったいなくて一番嫌いで す。皆さんも無駄な時間を減らしてい けば、絶対に睡眠時間を減らしていく ことなどないと思います。 どうしても無駄な時間がないという 方は睡眠時間を削っていただくしかあ りません。私が勤めていた頃の睡眠時 間は5、6時間でした。今は平均3時 間55 分と一日の睡眠時間を決めてい ます。そのくらいでも全然眠たくあり ません。20代の皆さんは1、2時間ぐ らいなら削っても大丈夫でしょうから 最悪の場合、睡眠時間を削ってくださ い。就職するとまともに睡眠時間を 取れることなどまずありませんから。 『SAPIO 98・4・22』 日々戦いのビジネスマンにひとときの休息 常識をわきまえる あと、 「常識」というものを学んでも らいたいです。常識やマナーは決して マニュアルではありません。 常識とマナーは本当に大切です。発 言の中に敬語がきちんと使える方、使 えなくても敬語が気持ちの中にあると いうか、失敗しても相手を敬う心があ るということは本当に大切なことで す。面接などで堂々と遅れてくる方が いますが、これではいけません。マ ナーはきちんと身につけたいもので す。 電話も大切です。私は学生に「遠慮 しない電話してきなさい」と言ってい るので、一日5本くらいかかってきま す。しかし、電話の基礎ができていま せん。学校名や名前を名乗るとか、挨 拶をするとか、かく言う私も20代の頃 は、そういった基本的なことで3年間 くらいは非常識だと怒られ続けまし た。皆さんにはそうなって欲しくあり ません。 『SAPIO 合同就職セミナーはどこも長蛇の列 今の世の中「個性」をはき違えてい る人が多い。個性というのは、最低限 の常識やマナーを守った人間だけが許 される。人に迷惑をかけたうえでの個 性は世の中に必要ないと思います。 個性はすごく大切です。確かに面白 い個性の学生は採ります。しかしその ような学生は採っても、嫌な個性の学 生は採りません。最低限の相手を敬う 心、最低限の常識などは身につけてお かなければいけません。人が一生懸命 話をしているのに、携帯やポケベルを 目の前で鳴らすのは一番失礼なことで す。私は人前や打ち合わせ中は絶対に 電源を切っておくと決めています。目 の前で電話を取って話す、人前で音を 鳴らすのは絶対に嫌です。 東京、大阪ではセミナー中に電話を 鳴らせば、容赦なく退場させられま す。ですから、常識やマナーだけは しっかりと学んで欲しいですね。 マナーというのはそれまで生きてき た人生の中で養われているものです。 私は親に感謝しているのは、 時間を守れと厳くしつけられ 97・4・9』 たことです。あと、食べもの を残すなとか、人に迷惑をか けるなとかしつこく怒られま したので、今でも体に染み付 いています。皆さんも教えら れたことでいいなと思ったら、 きちんと守ってください。 また逆に自分の親もチェッ クしてみてください。例えば 私たちは約3万9千人の学生 に、 「来週企業博を広島と山口 で開催します。どうですか」などと いった電話をかけることがあります。 そういった電話に対して、決まって最 低な受け方をする大人がいる。「うち の息子にそんな会社の就職は必要あり ません。」、「就職はゼミの教授が決め てくれますから」と言って、まともに 話を聞いてくれないのです。 いくら我が子の就職のことだからと 言っても、用件くらい聞いて欲しい じゃないですか。一方的に「うちはい いです」なんてガチャと受話器を置 く。あれは本当つらいです。そういう 情報を遮断するというのは息子さんや 娘さんにとってかわいそうなことだと 私は思います。 いろいろな方との「縁」 私は就職活動する学生に決まって言 うのですが、 一人でも二人でもなるべ く多くの方と出会ってもらいたい。 私 がここまで生きてこられたのは周りに いた人々がいろいろと刺激してくれた からです。そういう刺激的なネット ワーク、つながりは針治療の針のよう なもので、たるんでいる自分を刺激し て元気にしてくれます。 それから、受け売りではなくて、自 分自身が考えたことですが、 「縁」と いう言葉があります。この「えん」と いう読み方は人とのつながりの「縁」 であると同時に、丸いという「円」に もなります。本当に「縁」には助けら れます。今、私の会社の資本金は5千 550万円となっています。20人に満た ない会社でこれだけの資本金というの は珍しいことなのです。 ご縁があった 皆さんが株を出してくれているので す。およそ6割を僕が持って、残りの 4割はそういった人たちが株主になっ て下さっています。「あの時助けられ たから」、 「就職の世話をしてもらった から」ということで出資してくれた人 もいます。 つながりの「縁」という言葉の読み は、丸い形の「円」にもあてはまりま す。円になって、わいわい騒げば宴会 ということで、もう一つの「えん」は うたげの「宴」です。特に私は独身で すから、月に1度コンパをするように 決めているのですが、これが結構楽し いし、ストレス発散になる。 そして、ストレスが発散された人は 艶やかです。この妖艶というのも一つ の「艶」だと言えます。人に磨かれた り、揉まれたりすると、艶が出てくる ものです。あまり人と会っていない、 パソコンばっかり一日中やっている人 間には艶というものがりません。人に 会うということが大切なのです。もち ろん、パソコンをやっても構いませ ん。インターネットやEメールなど ネット上の友達もいいでしょう。しか しそれはバーチャルな世界に過ぎない のです。 今、私は経営者なので同じ立場の人 と会うようにしています。世の中には 私よりも歳を若くして重役を勤めてい るというような立派な人がたくさんい る。そのような方のところへ毎年1回 は会いに行くようにしています。皆さ んも自ら足を運んで積極的に就職活動 という名目を利用して、いろいろな方 と会うようにしてください。 私の履歴書 「山近さんは聞き上手ね」と言われ始 め、だんだんと仕事が入るようになり ました。遂には売り上げの3分の1を 占めるようになって、そこから発言力 が増してきました。やはり20代のうち に苦労するか、しないかは30、40代に なって随分違ってくると思います。 私は18 歳の頃から完璧な不良とい いますか、グレていましたから大学行 かずに適当に就職という道を選びまし た。ところが、広告業界や出版業界と かで働いてみたくなり、1ヶ月で辞表 を出してしまったのです。いろんなと 『SAPIO 98・10・14』 ころに電話して、広島ではちょっと有 名なみづま工房という会社に潜り込 み、1年間がんばりました。 その後、広島タウン情報に入社しま した。募集では大卒しか採らないこと になっていたのですが、みづま工房で の経験を完璧にPRして一応内定をい ただくことが出来たのです。これには 完璧に恩を感じました。当時の広島タ 女性の社会進出はどこまで容認されているのか? ウン情報はガタガタの会社でした。明 日会社が潰れてもおかしくない、中国 今になって一つだけ反省しているの 電力が電気を止めると言ったらおしま は、自分自身がんばったと思うのです いの中でエキサイティングしていまし が、やはりもっと経営についての勉強 た。今は安定しているのであまり面白 しなかったということです。人から話 くないですけど。 だけ聞いて、経営が何たるかというこ その頃、社員は朝11時くらいに出社 とも知らずに、数学の勉強などをがむ していました。僕はこれではダメだと しゃらにやっていても、基礎ができて 思って、入社して1週間経った頃、会 いないだけにとても苦労しています。 議で「皆さんは世の中のたいていの会 皆さんは後1年くらいの時間を就職 社が朝9時を出社時間にしているとい 活動に費やすことと思いますが、やは うことを知っているのですか」と言っ り勉強するというのはいいことです。 て変えました。そのようにして、だん 30代よりも20代の方がよく学べます。 だん自分の発言力を高めるためには、 私は36歳の割には、頭がまだ若いと思 売り上げを伸ばさなければならなかっ いますが、やはり20代の頃より吸収力 たので死にもの狂いで営業をしまし が少し無くなってきていると感じま た。その中で営業は人の話を聞けばい す。そういう意味でも今のうちにがむ いんだなと途中で解るようになったの しゃらにやってください。もちろん勉 です。喋らなくていい、何でもいいか 強や仕事も大切ですが、大いに遊ぶこ ら6、8割を聞いていました。すると、 とも忘れないでください。 質疑応答 相手と話をする場合、 仕事にお いてもプライベートにしても短 時間でいかに上手く相手に伝えるかと いうことが大事になりますが、その場 合に気を付けなければならないことは なんでしょうか? Q A 裸になること、 常に白旗を揚げ ることです。 戦闘体制を取らず、 まず相手に白旗を揚げて、負けを認 め、相手に教えてもらうことです。裸 や白旗からスタートすると、実際本当 に何もない所からのスタートになりま す。自分をさらけ出し、飾らないこと。 もちろん、服装はきちんとしますが、 自分をよく見せようとしないことで す。 低姿勢、謙虚がうちの社風なのです が、まず相手を見下さないことです。 そういう所から相手と対等になってい けるのです。年下の方や、自分より弱 い立場にある方の場合でも絶対に目線 を落とします。学生との面接でもそう です。 山近さんが就職活動をバック アップするという仕事にこだわ る理由はなんですか? Q A こういう仕事を始めたのもなり ゆきです。ザ・テレビジョンを やっている時にグルメガイドをやって いました。ある時ダイヤモンドという 経済雑誌から5000万円でできるとい うことで今のやっているような仕事を やり始めました。3年位してから、就 職ほど人の生き甲斐に関われることは ないと感じ始め、就職関連の本を書く ようになりました。私達は企業と学生 の中間点として、どちらに対してもや さしく、厳しくしていこうと思ってい ます。 いい就職をしている人から手紙をも らうと嬉しいです。ブライダルガイド も手がけていきましたが、目の前で人 と人とが結び付くのを見ていると嬉し くなります。そうすると自然に私達の 周りにいてくれて支えてくれるので。 似合わないかもしれませんが、いつの 間にか「世話焼きの兄ちゃん」になっ ている。私のやっていることは人と人 とをくっつけて喜んでいる仕事なので す。 山近さんにとって仕事とはどう いうものですか? Q A 快楽、昇天です。それぐらい楽 しいことだと思っています。家 庭も大切ですけど、仕事も同じくらい 私にとっては大切です。世の中に私の ような仕事に携っている人間がどれだ けいるか分かりませんが、私は幸せで たまらない。私の書いた本や雑誌を読 んでいただいて、多少でも自分の考え ている事を聞いてくれたり、メモを とってくれる。このような立場を崩し たくないです。そのためだったら、努 力は惜しまないし、がんばっていくこ とが一歩ずつの成長につながる。だか らこの仕事はやりがいがあると思いま す。休み、お金のことはあまり興味あ りません。 なぜ、 「仕事はつまらないモノ だ」という人がいるのでしょう か。仕事を楽しもうとする私の足を 引っ張るのですが。 Q A 価値観の違いだと思います。 「仕事はつまらない」という人た ちの、それも一つの価値観ですから否 定する気はありません。その人達が 嫌々仕事をしていても、明るい家庭が あり、幸せならそれもいいのではない でしょうか。 ただし、私の周りには仕事を嫌がっ たり、辛いと思っている人はいませ ん。マスコミ、タレント、公務員、い ろんな人を知っていますが、皆さん仕 事を楽しんでいます。時々過労死する 人もでてきますが、そういう人たちは 仕事を嫌々やっているのではないで しょうか。経営者が過労死するなど、 あまり聞かないと思います。なぜなら 大抵の経営者が仕事を楽しんでいるか らです。楽しんで仕事をしている人に は努力、目的意識、問題意識が生まれ ます。もちろん、経営者は楽しんでば かりでもありません。社員の首を切る という断腸の思いをしなければならな い時もあります。しかし、苦しいこと に比べたら楽しいことの方が多いもの です。 私は今アルバイトをしていま すが、母親には「バイトをしな いでもっと勉強をしなさい」と言われ てしまいます。お金が欲しいというの も理由の一つですが、私としては色々 な企業を見たいのです。何とか両方を こなしているのですが、どっちを今優 先すれば良いと思われますか? Q A 両方ですよ。勉強もアルバイ トも大切です。なぜなら、どち らか片方にすることは非常に楽なこと です。両方しているから、それだけ落 ち着いている自分があるのです。アル バイトぐらいできるうちにしておくほ うがいいのではないでしょうか。 企業が採用期間を長期に設定 しているというのが昨年(1986 年)の見通しだったと記憶していま す。今年は早くなるという見方がある ようですが、全体的な数字で見ると何 割程度になりそうですか? Q A 昨年より今年は厳しいという ことは確かです。数字的に言え ば3週間ぐらいでしょう。企業側とし てはたぶん早く終わりたいというのが 本音だと思います。ただ、学生側が決 め兼ねてしまって、時間がかかった り、途中で逃げたりする。そういう場 合は、結果的に長期戦になって、おそ らく内定が6月に集中します。特に中 四国の企業に関してはそうなるでしょ う。 私は就職志望先として考えて いる企業に、資料請求、会社訪 問のお願い等を葉書でマニュアル通り だしました。しかし、今だに返事が 帰ってきません。そういう時に電話を しようかと迷っていると、某女子大に 通っている知人がやはり私と同じよう なことで電話をかけたら、逆に会社か ら怒られたという話を聞いて電話をす るのが怖くなっています。自分を売り 込むためにはこのようなことも必要な のかもしれないと思っていたのです が、あまり電話はしないほうがよいの でしょうか。 Q A 資料請求に対して返事がない という必要な電話なのですか ら、かけることは200%正解です。 「怒 られた」というのはおそらく言い方が 悪かったのだと思います。あるいは何 回もしつこく電話したのであれば、怒 られるかも知れません。普通に電話し て怒られたという話を私は聞いたこと がありません。 仕事をやっていて本当によかっ たなとか、やりがいを感じた時 のエピソードを聞かせていただけない でしょうか。 Q A 本が完成した時とかイベント が成功した時とかはやはり感動 しますね。また、来週と再来週と広島 で就職のイベントを行わせていただく ことになっています。1万人は無理か もしれませんが7、8千人は来ていた だけると思います。 このイベントも最初の頃は86人し か集められなくて、苦労しました。そ の頃は、ゲストを呼ぶのが主流で、す ごかったのがプロレスラーの大仁田 厚さんをお招きした時でした。2800 人が、並木パラストの6階の階段か ら長い列を作っていたので、警察が 出動する騒ぎになってしまったので す。これには警察から大目玉をくら いまして、 「すみません」と涙を流し ながら謝りまくりました。その当時 は社員が8人いたのですが、2人が 救急車で運ばれて、そのうち1人が 死にかけるぐらいすごかった。今で もあの思い出にかなうのはちょっと ありません。 人との「出会い」は大切だと おっしゃっていましたが、山 近さんにとって新たな転機となった 「出会い」というのがあれば教えてく ださい。 Q A 困ってしまうくらい沢山あ ります。よく、 「尊敬する広島 の社長はだれですか?」と聞かれま すけど、難しい質問です。 ……そうですね、先ほどお話したプ ロレスラーの大仁田厚さんとの出会 いでしょうか。彼の礼儀正しさから、 ちゃんとしたマナーを身につけるこ とを学びました。 感想 梅田 真理子 「20代のうちで苦労するかしないか で大きく違う。勉強においても30代だ と20 代より弱い。」この言葉は20代 真っ直中の私の心に強く印象に残る言 葉になった。20歳になった時は20代 をどう生きていこうなんてことをもの すごく考えたものだったのに、たった 2年の間でその考えも日に日に薄らい でいっている。漠然と日々を過ごすこ とも多くなった。しかし、今回も山近 さんにお会いして自分の甘さが身にし みて分かった。口ではいろんなことが 言えるが実際、行動に移してみれば口 で言っているほどのことはできていな い現状に気づく。「努力という資格が 成功のポイント」と言い切れるように なるためには、私にはまだまだ努力が 足りていない。山近さんのように「仕 事は快楽」と言い切れる様になりた い。やりたいことを仕事にして、バリ バリ働きたいと痛切に思った。 小川 美代子 就職というものは、学生時代という モラトリアムを終え、初めて、自分自 身のための生き方を決定する“チャン ス”だと私は考えている。実際、仕事 をするかどうかは別として就職活動自 体は経験として味わう価値がある。現 実を突きつけられ、自分というものを 思い知らされ、辛いことは辛いが、認 められたときは大きな喜びを感じるだ ろう。 しかし、焦らなくても良いと思う。 まず、自分がどうしたらいいか、それ を見極めなくては何も始まらない。動 機と目的も生まれない。 その分析とチャンスが重なったと き、人は本当に幸せになれるのだと私 は思っている。 堀川 竜太 私は山近さんの「面接官を敵に思う な」という言葉で、かなり面接に対す るイメージが変わった。今までは、良 いところばかり見せようとして本当の 自分を隠し通していた。要するに「マ ニュアル君」だった。よくよく考える と、そんなものは何度も話を繰り返す うちにばれてしまうものである。これ からは自分をさらけ出していこうと思 う。 森田 理恵子 『私にとって仕事は快楽です。そし て今の仕事は天職です』。 現在、日本全国のどれだけの人がこ うはっきり断言できるであろうか。 『仕事は金を得る手段』と言う俗説が まかりとおるなかで山近さんのこの言 葉はこれから就職活動をする私にとっ て衝撃的で決定的であった。いよいよ わたしたちは就職戦線に突入する。自 分にとって価値のあることは何なの か。そして自分が一生をかけても悔い のないものとは。少しでも地域社会に 貢献でき、自己実現につながる仕事そ して会社を見極めていきたい。 海上自衛隊呉基地及び 江田島教育参考記念館見学報告 五省 一、至誠に悖るなかりしか 一、言行に恥づるなかりしか 一、気力に缺くるなかりしか 一、努力に憾みなかりしか 一、不精に亘るなかりしか 海上自衛隊 呉基地 護衛艦内見学 私たち岡本ゼミナール5期生平成9年5 月18日、呉基地にて護衛艦見学を行った。 まずは艦内の一室で隊員の方から艦内見学 のための説明を受けた。その後、三班に分 かれて居住区、食堂、甲板、操舵室などと いう普段の生活において見ることが出来な い所まで案内していただいた。見るもの全 てが珍しく、また驚きの連続であった。 各班の説明のために同行して頂いた副 艦 長の氏原さんをはじめとする隊員の方々は、 非常に気さくで時折ユーモアを交えながら 説明して頂き、私たちは思う存分見学がで きたように思う。また、質問などにも快く 答えてくださり、海上自衛隊に対して抱い ていた固いイメージは随分変化した。 江田島教育参考館見学 旧海軍兵学校は明治 21 年8月東京築地 から江田島に移転以来、アメリカのアナポ リス、イギリスのダートマスとともに世界 の3大兵学校としてその名をはせたが、終 戦により昭和20年12月1日、約60年の幕 を閉じた。その後、10年間は連合軍が教育 施設等に使用していたが、昭和31年1月に 返還され、当時横須賀にあった術科学校が 移転し、また、昭和42年5月に幹部候補生 平成9年5月18日 が開校し、その後、江田島病院、第一術科学 校生徒部の開設があり、現在に至っている。 教育参考館には、旧海軍がたどってきた 歴史が見られるようにと、海軍関係者の書、 遺品、そして、第二次世界大戦において、特 攻隊員として命を散らした若き隊員達の遺 書、遺品が保存されている。また、海軍兵学 校の学生達の日常風景などを撮った写真、 卒業していった学生達の名前、歴代校長の 写真などから、当時の兵学校の様子なども 見ることができる。 この教育参考館を見学することで私達は、 東郷元帥が連合艦隊解散のときに発した文 章に託した思い、特攻隊員達が自分の愛す る者や未来の私達の幸せのため、そして、そ れを守るため、彼らがどのように考え、思っ ていたのかということにほんの少しでも触 れられ、わかることができたように思う。 見学者感想 江田島見学を終えて 阿部 直文 私は江田島見学の中で教育参考館の見学が一 番印象に残った。 90分という見学時間の中で、すべてに目を通 すことは出来なかったし、うまく理解できな かった文章もあったが、当時の戦争に関わった 人達の心が垣間みれた気がした。江田島見学に 参加したことによって自分にプラスになったか はわからないが、教育参考館の見学や呉で見学 した護衛艦など貴重な体験が出来たと思った。 遺書に囲まれて 石川 直子 戦死をしたことで軍神として崇められる。 そういった政治的な状況があった反面で、 今の僕らとなんら変わりなく友人を家族 を想いつつ死んでいった兵隊がいたとい うのが事実であろう。 敗戦間近の沖縄にて、死ぬ直前の遺書 に「必ず撃沈です。ニッコリ笑って体当 たり」とあった。無駄とでも言うべき死 に直面した時、彼らは本当に「思い残す ことはなし」と思っていたのだろ 特攻隊の方々の遺書を何十通と見て歩 いた際、「何も言い残すことはありませ ん」、 「国の為に」、という言葉がとても目 についた。父や母、他の家族を気遣う言 葉で締められた文章上に、「死にゆくこ と」を拒否出来ない状況にあった隊員の 方々の本音はあったのだろうかと思う。 隊員の方々と同年代の私だけど、今現 在ある私に当時を生きていくこと、他へ の忠誠のために死ぬことができただろう かと考えたとき、自分がひどく未熟な人 間に思えた。 生きることも死ぬことも自由で、本音も 自由に表現できる今の時代に生きている 私が「自分への甘さ」、 「他人への甘え」を どれだけ持っているか、自分を振り返る 良い機会となった資料館見学でした。ま た、護衛艦の見学では艦内を探検してい るみたいだと、かなりはしゃいでました。 江田島の自衛隊見学 護衛艦に乗れたこと、すごく嬉しかった です。 石井 瑞穂 私は自衛隊の事を余りよく知らなかっ た。こんなに身近なところに海上自衛隊 池尻利行 が存在することも。まずは呉の港でたく 資料館の中には胸に数多くの勲章をつ さんの護衛艦を見た。その巨大で灰色の けた軍人の姿があった。彼らはみんな日 護衛艦は、私の目に不気味にうつった。 本の為に前線で闘い、そして戦死した。 そこにある全ての艦船の色は灰色で、大 そんな悲惨な歴史の上に今の日本がある。 きなアンテナやミサイル発射台がついて しかし幹部クラスの将軍だとか大将だと いた。中も案内してもらったが、拳銃が か、全てが遠い物語の中にあるような印 備えられたりしていて怖かった。 象を受けた。国民の上に立ち指揮してい 呉を後にして、江田島の海上自衛隊第 た人間が何を考えていたのか、自分の人 一術科学校を見学した。そこの資料館に 生をどう感じていたのか、なぜ戦争なの は私とほぼ同年齢の人々の遺書が展示さ か正直まったくわからない。それは今の れていた。戦争中に特攻隊として国のた 僕だけでなく戦時中のいわゆる捨て駒的 めに戦い、そして死んでいった人々の遺 存在だった若い世代も同じだったのでは 書だ。目を覆いたくなるような文面ばか ないだろうか。ごく普通の青年が劇的な りで、その中でも血で書かれてあったも '97・5・18 自衛隊見学 のを読んだ時は本当にいたたまれない気 持ちになった。 私は自衛隊に賛成も反対もしないが、 戦争がない時代になった日本でも災害は なくなることがない。そのことを考える と自衛隊は私達に必要不可欠なものでは ないかと思う。 このことは結局自分のため、そして人の ためになると思う。 自分はこのように先をどんどん見つめ て生きていける。でも戦争に行っていた 人達はいろんな事が頭には浮かぶだろう が、全部が全部プラスには考えられな かっただろう。今の時代に生まれてこれ たことをやはりうれしく思うべきだ。 今私達が出来ること 伊妻 猛 江田島の自衛隊の見学をして、改めて 戦争の悲惨さを確認させられました。私 達と同じ歳には、天皇のため、国のため に飛行機に乗り込み、相手陣に飛び込む ことを正しいとする考えは、今の時代に は考えられないことです。それから、相 手陣に突撃する前に書いた遺書を読んで、 どれも深い悲しみをおぼえました。今こ の時代に生きている私達は何不自由なく 平和に暮らしてますが、この様な時代が あったことを決して忘れません。そして、 後世に伝えていくこと、それが今の私達 に出来る役目であり義務だと思いました。 江田島見学 上重 十郎 今、自分が生きている中で何といった つらいこともなく、それはうれしく思う べきなのか悲しく思うべきなのか。江田 島で見学した戦争に行った人達は食べる ものはちゃんとあったのだろうか。毎日 生きるか死ぬかという身の凍るような中 でとてもつらかっただろう。自分にこれ ほど緊張感を味わった時が今までに1日、 1時間とあっただろうか。今、自分はこ ういった緊張感を味わえる場へ行き、精 神的に強くなりたい。そして、いろんな 所に目をやり、自分に取り入れるべき事 はどんどん取り入れていきたいと思った。 豊かさの代償 梅田 真理子 「世の中が豊かになった」とよくいわれ る今日。 「豊かさ」ばかりが注目され、そ の「豊かさ」を支えた歴史だったり人々 だったりする事はもう忘れられたに等し いような気もしなくもない日常において、 今回の江田島見学は強烈だった。私が広 島に来て間もない頃は、あんな街中にド カンと戦争のあとが色濃く残る原爆ドー ムがある事自体驚きと恐怖でいっぱい だったのに今ではもう見慣れてしまって ただの風景でしかなくなった。それだけ 過去は遠くなってしまっていると思う。 特に強烈だったのは、海軍の資料館に あった様々な遺書だ。最初の方はまだま だ日本の勢いがあった時期に兵隊として 様々な軍役についた時のせいだろうか、 とても力に満ち晴れ晴れしささえあるも のも多くあった。しかし、だんだん戦況 も悪くなった時期、いわゆる死を持って 国へ報いるという特攻戦死の人々の遺書 には、誇りと共に死を覚悟したまさに遺 書という文面であった。父母、兄弟への 最後の言葉や、未来の人々のために自分 の命を捧げるなどの言葉、血で書いたも のなど、涙が止まらなかった。自分達と ほぼ同じ年の人達がこんな思いで死んで いったなんて信じられないの一言だっ た。今の「豊かさ」はこんな人々の血と 涙で培ったものなのだとあらためて痛感 した。 「豊かさ」にひたりきっている私達に はこのような人々の存在を忘れてしまっ ているところが往々にしてある。幸せな 毎日、安全な社会に甘えることなく自分 の力を最大限に伸ばしていこうとする姿 勢が、たくさんの豊かさを培って下さっ た人々に対する恩返しではないかと考え させられた1日であった。 う向きに向かせないのが戦争なのだ。純 粋な気持ちは、利用の仕方で大変な武器 になる。とはいっても、全世界の人を平 等に愛するというのも非現実的な話であ る。とにかく戦争がバカらしい事は間違 いない。 江田島の自衛隊見学で 小倉 恵子 「高校までの歴史の教科書にない“何か” を見つけることができた」これが私の江 田島資料館見学で感じたことです。“何 か”とは、敗戦により、歴史の最も奥の 場所に追いやられた勝者側である連合軍 に不都合な部分であり、戦時中の個人で あり、日本人という精神性などのことで す。 私にはこれらが現在において、特に30 代よりも若い年代の人々が年配の人々か ら受け取り損ねたモノであるように感じ られました。私達はこの場所で生を受け 見学の感想 た以上、過去のこととして知っておくべ 小川 美代子 きことがあるし、また忘れてはならない 自らの命を賭けて、愛する者を守る、 ことがあります。たとえ、それが自分達 それはとても美しい姿だ。特攻隊員の写 が生まれる以前のことであってもです。 真を見ると、説得力が増す。……過去、 私にとって史上の人物である、東郷平 どういった出来事があり、それによって 八郎、山本五十六、広瀬武夫らによって どのような結果となったかを知るのは大 書かれた文章を目にすることは、現在ま 切なことだ。今回の見学は、それには大 でにさまざまな人々や歴史によってねじ 変役だった。 曲げられた歴史観から解き放ってくれる しかし、見学をしていて、戦争の恐ろ 役を果たしてくれました。この文章を読 しさ(カラクリ)について一つ気が付い むことで、 “歴史上の人物”から一個人と たことがある。自分の家族や愛する者を して彼らを見ることができました。 守り大事にする気持ちはあっても、相手 回天や特攻隊の出動命令を受けた人々 (敵国)にも同じ様にそれがあるという に対しても同じです。それまでは、どち 思想が、すっぱり抜けてしまっている。 らかといえば彼ら全般に時代の流れに巻 “愛する者を守る”という思考のベクト き込まれた人々として同情の念を持って ルを決して、“敵国の兵士にも愛する者 いたように思えます。けれども、一部で があり、自分が撃てばどうなるか”とい はあっても彼ら一人一人の遺書を読むこ とによって彼ら個人個人の価値観、死を 受け入れるときの気持ち、思いやり等を 背景とした歴史を見ることができまし た。現在の人々が多様であったように当 時も多様な人々がいたのでしょうが、今 回ごく一部であれ、その時代のその瞬間 の人々を垣間見ることができ、本当に良 かったと思います。 今回の見学で本当にさまざまなものを 学びました。このことを心にとめて、改 めて現在を見直しながら、生きていきた いと思います。 見学の感想 吉川 真琴 私にとっての死とは、とても遠い存在 で、平和に浸かって生きてきたために、 今までを何の不自由もなく、人に支えら れながら生きてきた。この見学に行き、 遺書や写真を見ながら、自分が情けなく なった。どんな気持ちで短い人生を送っ たのだろう。今の私と変わらない歳で何 を思いながら、遺書を書いたのだろう。 遺書からは、書いた人が誇りを持って人 生を精一杯生きたという事が伝わってき たように思う。この江田島見学で多くを 学んだ。私も自分の人生に誇りを持って 人間らしく生きていきたいと思う。 下級軍人達の悲劇 工藤 耕輔 護衛艦に乗った時、規律がしっかりし ているのを感じ、イメージ通りだった。 何をするのか分からなかったので、一日 入隊でもするのかと冗談で言っていた が、そんなことはなかった。護衛艦の中 では特別な感動はなく、 「へー、そうか」 と言うぐらいだったが、昼食のカレーは うまかった。 その後は資料館へ行った。最初は字が 多くて、しかも読めなくて、頭が痛かっ た。しかし、遺書の所へ行くと、考えが 変わった。写真に写っている人の顔は、 たいていの人が堂々と、しかも笑ってい る。また、読める遺書を読むと、お国の ためとか天皇のためとか書いてある。本 当に死ぬ時はそんなことよりも、自分や 家族や恋人のことを思うのが普通だと思 うが、そんなことは書けない時代なの か、国の教育がそれほど徹底しているの かと考えたりした。死ぬ時まで本心を隠 さなければならない。いやもしかしたら それが本心なのかも知れない。そう考え るとその時代の悲劇が伝わってくるよう だった。 23 河内 秀雄 回天の立案をした人の年が、僕らと同 じような世代ということを知り……正直 言って驚きはありませんでした。 「……かもしれないな」。 敵と闘うことを勇ましいとし、闘える ことを誇りに思っていたとしたら、巨大 すぎる敵ではあるが、自分の能力をぶつ けられる、そして軍部内で自分の立案が 認められた時のことを考えれば、23才 の彼の、ある一事を成し得ようという充 実感にああふれていたのではないだろう か。もちろん、実際に製作していたその 時、作っているものから考えてみても、 負けはわかっていたはず。しかし、これ を作り上げ、発射しなければならない、 尊すぎる人命を乗せて…、しかもこれを 立案したのは自分自身。苦しかったろ う、いやすでに狂おしくもあったかもし れない。その心境は例えようもないもの だったろう。 時を越えて伝わることは 岡本先生の言われた精神的なものとは? 崎本 孝 高橋 宏之 教育参考館に入ると、静寂な風が私を 出迎えてくれた。階段に敷かれた赤い絨 毯をゆっくりと踏みしめる。 山本海軍大将の継ぎ接ぎだらけの靴下、 連合艦隊解散時に行われた東郷平八郎司 令長官の訓示などを見て、伝えたかった のは殺戮ではなく、人として欠くことの できない心だということがわかった。い い事なのか悪い事なのか、わからなく なっていることだけがわかっている程度 の若者には想像できないような揺るぎな い精神が、過去の日本にはあった。 特攻隊員の数々の遺書。その中に綴ら れた愛する人々への言葉。えもいわれぬ 迫力に胸がいっぱいになった。空に、海 に、大地に散った幾多の魂の上に、私の 日常があるということを思い知らされた 瞬間の、何とも言えない後ろめたさが心 を支配する。 帰りの車の中で、これまでの大学生活 をふりかえってみた。平和な時代の、な んでもない日常さえも満足に生きられな い自分は、一体何者なのか。その答えを みつけるまで誠実に生きていくことが、 戦火の中で命を懸けて戦った人々への恩 返しだと思う。 この見学会で私が資料館で目にしたも のは、国の為に命を投げ出して戦おうと 志し、特攻などで死んでいかれた方々の 遺書でした。当時は、 「お国の為」という 言葉のもとに個人の命より国が大切とさ れた時代と聞きます。 「精神主義の前では 個人的な弱音や、主張も許されなかった」 というイメージが強いのですが、現代に おいては精神主義はもうあまり存在して ないように思えます。その理由として乱 れた言葉での個人的主張があふれている、 といったことなどが挙げられるのではな いでしょうか。自由の名のもとに、いい たい放題にしている自分の姿に気付いた ような気もしました。 決して戦時中の日本が良かったとは思 いませんが、平和と自由を手にしたのを きっかけに、人は自分のことばかり考え、 人生に対してもあまりにもお気楽になっ てしまったように思いました。岡本先生 が言われたかったことはそういうこと だったのでしょうか? 現在があるということ 谷本 美紀 情けなかった。何も知らなさすぎてい た。自衛隊の活動も過去の歴史も。何も かもが当たり前、平和にどっぷり浸って いるこの身体、そのことに何の疑問も持 たないこの脳は麻痺している。 文明は進化しているけれども、人の心 は退化しているように思う。戦場という 死と隣り合わせの場で沈む船の中で乗組 員の遺族を気遣う遺書が書けるだろうか。 自分が火だるまになっても指揮が取れる だろうか。行方不明の乗組員一人のため に攻撃されている船に探しに戻ることが 出来るだろうか。自分は出来ないと思う。 もし自分が特攻隊として戦場に行かなく てはならない時、「自分の人生悔いなし」 と言えるだろうか。逃げてばかりの毎日 で自分は一体何をしているのだろうか? どんな状況でも他人のことも考え、行動 できるような心の広い人間になりたい。 死ぬときに笑って死にたい。「悔いはな し」と。 過去の歴史も知らず、過去の上に成り 立つ現在ということを忘れていてはこれ 以上自分の成長は無いと思う。成長した い。この1年が勝負だと思う。江田島見 学は様々な事を考えるよいきっかけに なった。 る要素の一つではないでしょうか。誰で も自分の生きる道、死に時こそは自分で 決めたいでしょうから。 見学の感想 人の持つ死に対する価値 田村 智宏 橋本 泰孝 守るべきもの、やるべき事が明確に存 在していた当時の社会状況は、何不自由 ない世界に寄生して生きている私にとっ て、羨ましいと感じさせる点も多少あり ます。問題はその状況、生きる理由と死 ぬ意味を比較的簡単に手に入れることが できる世界は、実際に死んだ若い人達自 身によって全てつくり出されたわけでは ないということでしょう。 結局その辺りが、“戦争は否定される べきもの”という考えの根っこの方にあ 人ハ何時カハ死ス 死スベキ時ニ 人タルノ値生ズナル 亀田尚吉(18)の遺書より 私が見てまわった資料の中で一番気に かかった言葉です。この言葉を見たと き、なぜ、死ぬ時にこの言葉が思いつく のか、だいたいの人は両親に対しての メッセージが多い中、自分自身の栄光の ための遺書だったのではないかと私は受 けとめました。回天・神風共に自らの命 を犠牲にして国のために死ねるという精 江田島感想 庭谷 育壮 僕の心に残ったのは、大きな護衛艦や 大砲よりも資料館にある数々の遺品だっ た。資料館に入ってすぐに、立派な造り と、多くの遺品や絵などに感動を受け た。でも正直言って途中ぐらいから退屈 になっていた。 「回天」、それが僕の目に 飛び込んでその人達の遺書を読んでいく うちに退屈な気持ちは吹っ飛んだ。それ どころか、胸に熱いものがこみ上げてき て、僕は涙した。同年代の若者らが当時 こんな思いで、死を覚悟して、人のため と国のために戦ったのだと思うと、いろ んな思いが胸を駆けめぐる。こういう過 去の歴史があって、こういう人達がい て、今の僕らが生きているんだなと、そ んな思いでいっぱいだった。この江田島 見学は意味のあるものだと思う。これか らも続けていくべきだと思う。カレー代 600円だけで行けるし。 神を持つ事ができた、自分と同じぐらい の若者に会って話をしてみたいです。 私が将来子供ができて、自分で考える 力が身についたら、連れて行き自らの目 で平和がなかった人々の心境を感じとっ てほしいです。私自身が感じたように。 たりにした驚きとともに、ちょっとした 恐怖を感じた。江田島の資料館の中で一 番ショックを受けたのは特攻隊員の遺書 を見たことだ。その遺書の一文に「死の 恐怖よりも鬼のような教官との地獄の訓 練がなにより恐怖だった」とあり、これ は今から迎える死をもろともしないとい う想いを起こさせるほどの軍事訓練の徹 底ぶりを強く感じさせるものだった。そ の他には、隊員が自分の家族の体を気づ かっている一文を見てとてもつらかった。 江田島の資料館の遺書を読んで 本川 晶子 見学の感想 藤野 高正 今回、特に印象的だったのは神風特攻 隊の方の遺書だった。最初はこれから死 ぬというときによく言葉が出てくるなあ と思っていたが、ある遺書の前に止まっ たとき足が竦んでしまった。もの凄く綺 麗で力強く書かれたその遺書を書いたの はなんと18歳の人だった。今の自分より も若い人間があんな立派な文章を書ける ……しかも死ぬことが解っているのに。 もし自分が同じ立場でも彼等のようには なれないと思う。戦争は多くの人間を殺 してしまうだけでなく、人間そのものを 変えてしまうものだと思い知らされた。 特攻隊と私 堀川竜太 今日の江田島見学はとても貴重な経験 になった。呉で護衛艦を見て回ったと き、そのスケールの大きさに圧倒され た。どんどん進歩していく兵器を目の当 江田島の資料館の特攻隊の人達の遺書 を読んでいた時、一番はじめに思ったこ とはみんな命を捨てることにためらいを 持ってないのかと思った。それは遺書に そんなことは書いてなかったし、その気 持ちがよくわからないのかもしれない。 その遺書の中で「そんなに悲しまないで 下さい」というフレーズがあったがそれ は無理だろうと思った。家族にとっては 大切なひとだから、それを読んで何だか 泣きたくなった。 ためにはなったと思うが自分の考えと は合わず、反感をおぼえることが多かっ たように思える。 江田島見学をして 三島 守登 私がいちばん深く感じたことは、今の 時代と過去ではかなり違うということで ある。何が違うかというと、考え方の違 いを大きく感じた。現代人の自分本位の 考え方でもし戦争になったら、きっと世 界中はパニックのになるだろう。現代人 は過去の「人のため、国のため」という 考え方を学ぶ必要があるのではなかろう か?このことは私自身にも言えると思 う。自分の興味がないことや知らない ことなどは、自分の中に取り込もうと しない……つまり自分の心の殻から抜 けだそうとしないのは、自分自身の成 長を妨げることになると思う。このよ うに、江田島見学は今後の自分にとっ て、とても参考になった。 江田島自衛隊見学 六車 善伸 呉基地の方ではまず艦隊を見てすごく 驚いた。そして船に何か起こった時に、 1、あわてるな 2、服は着用 3、早 く船から遠ざかれ 4、集団を作れ 5、無理泳ぎするな 6、水中爆発、鮫 に注意 という教訓や細かい計器類など の説明を受けていると、こんなに自衛隊 は危機管理について考えているのかとい うことが分かった。 江田島の方ではいろんな施設の説明と 資料館を見せてもらった。資料館の中で は、遺書がやはり一番考えさせられた。 父、母、兄弟への配慮が多く、その頃は 特に家族思いだったのだなと思った。そ して、 「国のために死ぬ」とか「花のよう に散る」のように死を例えていて死が美 化されているのが、今の日本からでは考 えられない。 江田島での遺書 森田 理恵子 私達は戦争を文章や、絵を見たり聞い たり考えたりすることはある。しかし、 戦争を感じることはどれほどあるだろう か。どういうことかというと、私が小学 生の時のことである。平和教育として、 いろいろな話を聞き、戦争がいけないこ とだと思っていたし、知っていたつもり でいた。知識として。 しかし、先生に勧めていただいた『は だしのゲン』を読んで子供心に衝撃を受 けた。読んだ日の夜は寝付きが悪く、寝 ても夢にまで出てくる始末。その後、平 和学習と言うことで平和公園に行った が、資料館の展示物が怖くて、よく観る こともできず、作文にも手がつけられな かった。私は戦争を感じるということ は、こういうことだと思う。 今回は江田島の遺書や遺品から、戦争 を感じた。これは、文章やデータでは見 えない一人一人の生き方であったり、顔 が読みとれたからだ。 私達はもっともっと戦争を感じなくて は、また感じる機会をもたなければ動け ない。 動けなければ、未来の平和はいつまで たっても、夢物語に終わるのではないだ ろうか。 学ぶ会・担当 第1回 第5回 石川 直子 上重 十郎 工藤 耕輔 高橋 宏之 石川 綾子 伊妻 猛 梅田 真理子 高橋 宏之 谷本 美紀 田村 智宏 藤野 太郎 田村 智宏 橋口 千聖 本川 晶子 第2回 第6回 阿部 直文 石井 瑞穂 小川 美代子 吉川 真琴 伊妻 猛 庭谷 育壮 橋本 泰孝 本川 晶子 工藤 耕輔 河内 秀雄 崎本 孝 藤野 太郎 森田 理恵子 藤野 高正 第3回 第7回 石川 綾子 梅田 真理子 石川 直子 小倉 恵子 小倉 恵子 崎本 孝 橋口 千聖 藤野 高正 上重 十郎 谷本 美紀 庭谷 育壮 堀川 竜太 三島 守登 六車 善伸 第4回 第8回 阿部 文恵 池尻 利行 小川 美代子 吉川 真琴 阿部 直文 阿部 文恵 池尻 利行 石井 瑞穂 河内 秀雄 堀川 竜太 六車 善伸 橋本 泰孝 三島 守登 森田 理恵子 おわりに この報告書を作成する上である前提がありました。それは「自分が担 当した報告書は責任を持って携わる」という事です。会の運営は班単 位で行われてきました。準備から本番、そして最後のまとめまでやり 通すということ。それが、ボランティアで講師を引き受けて下さった 方々に対する礼儀だと考え、ゼミ生全員に理解を求めたのです。結局、 完成するまでに一年近くかかってしまいましたが、ゼミ生一人ひとり が自身の責任と能力の範囲内で制作しております。ぜひ、お手にとっ て一読して下さることを願ってやみません。 社会で働くということがどんなことなのか想像しきれない学生時代 に、角界の一線で活躍されている方をお迎えして、お話を伺えたこと は大変貴重な経験でした。 責任を持って仕事をする方の言葉には重みがあります。「やらなけれ ばならないこと」に対して誠実に生きていく人の姿をどう受けとめた か……ゼミ生一人ひとりが自身の生きていく道のりの中でその答をだ していくことでしょう。 岡本ゼミが運営している「学ぶ会」も5年という節目を迎えました。 その間、実に多くの講師の方、OB・OGがこの会に携わってこられた ことになります。私たち5期生一同も、ほんの一時ではありますが、 このような会に参加できたことを嬉しく思っております。講師の先生 方をはじめ、お世話になった全ての方々に厚くお礼申し上げます。 報告書編集担当 崎本 孝 学ぶ会・講師一覧 平成5年度 第8回(平成6年1月17日) 「今、思うこと」 【1期生】 広島経済大学 第1回(5月24日) 「禅から見た人材観」 仏通寺持地庵住職 浜田 徹道 川村 毅 第9回(2月16日) 「主体性を持つ」 前広島県議会議員 第2回(6月21日) 「企業から見た人材観」 株式会社ライトウェル 岡本 明 亀井 郁夫 第10回(4月26日) 「運命と生き方」 占術家 第3回(7月24日) 「女性の目から見た就職選び」 藤木 蘭 月刊ぴ∼ぷる 平成6年度 児玉 真美 【2期生】 第4回(9月30日) 「目的意識を持つことの重要性」 前広島県議会議員 河井 克行 「緊張感をもった生活」 前広島市会議員 中原 好治 三健物産 第5回(10月25日) 「今、伝えたいこと」 広島テレビ放送 上重 五郎 岡本 英昭 第2回(6月21日) 「これからの学生のあるべき姿」 TSSテレビ新広島 第6回(11月22日) 「広島の開発と銀行の役割」 広島総合銀行 村上 隆治 田辺 清隆 第3回(7月12日) 「今、ここで生きている」 株式会社キウイ 第7回(12月12日) 「白紙の原稿から」 合気道師範、小説家 第1回(5月31日) 小田 敏彦 池田 好隆 第4回(9月20日) 「あなたも大切、私も大切」 第2回 (6月15日) 「性と生」 親業訓練シニアインストラクター 河野産婦人科クリニック 植木 マユミ 河野 美代子 第5回(10月27日) 「警察と警察官」 広島県警察本部 第3回(7月6日) 松岡 一正 中村 誠吾 第6回(12月15日) 「潜在能力」 キウイ浜松 第4回(9月25日) 舩川 明雄 山坂 哲郎 第7回(11月15日) 第5回 (10月25日) 「どう人とつきあうか」 「企業」 広島管財株式会社 「自動車産業」 株式会社バルコムヒロシマモーターズ 「サラリーマンの能力開発」 己斐商事 社団法人日本経営士会 河野 高信 瀬戸 武治 第8回(平成7年1月12日) 第6回( 11月30日) 「仕事のできる人間とは」 「インターネットについて」 中国新聞社 広島経済大学 富沢 佐一 山本 雅昭 第9回(3月14∼17日) 「阪神淡路大震災」のボランティア活動 第10回(4月26日) 「人に愛される個性」 タレント 松本 裕美子 第7回(12月11日) 「社会人としてのマナー」 広島総合銀行 金谷 信子 第8回(平成8年2月6日) 「心豊かな人間であれ」 広陵学園 平成7年度 二宮 義人 【3期生】 第1回 (5月25日) 「対人関係」 第9回(3月11日) 「私の経験」 仏通寺持地庵住職 株式会社ポプラ 浜田 徹道 目黒 俊二 平成8年度 第5回(11月20日) 「何か始めたくて……」 【4期生】 広島ホームテレビ 第1回(5月23日) 「就職戦線を勝ち抜くために」 酒井 立夫 株式会社みどり 中村 祐二 第6回(12月16日) 「就職活動について」 株式会社リクルート中国支社 第2回(6月17日) 「個人と集団について」 株式会社キリンビール中国支社 宇田 亮一 青山 明美 第7回(平成9年2月10日) 「ひろしま国体について」 ひろしま国体局 第3回(7月11日) 「面接時の自己表現の仕方」 RCC中国放送 藤尾 めぐみ 久傳 昌典 第8回(3月26日) 「起業について」 株式会社プローバ 第4回(10月9日) 「エフピコ方式のトレー TOトレー」 平本 将人 株式会社エフピコ 松尾 和則 所属は講演当時によるものです。あら ためまして、全ての講師の方々に、厚く 御礼申し上げます。 大哉乾元V 1999年3月1日 発行 編集・発行 岡本貞雄ゼミナール5期生 〒731-0192 広島市 安佐南区 祇園5丁目 37番1号 広島経済大学岡本貞雄研究室 TEL 082(871)1000【大学代表】/ 082(871)1476【研究室直通】
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