用水には水車がかけられて、水車の力で精米や粉引きなどを行っていました。また、堰 ようすい の代わりに、「じゃばら」という揚水水車で水をあげるところもありました。 米や麦をつく水車の利用 水車の種類 用水の流れは水車にも利用されました。米や麦 ①水を汲み上げる「揚水水車」 などの穀類を粉にする作業は重労働で、水車はと ②水の力を原動力として利用 す る「 動 力 水 車 」 ても役立ちました。水はきれいな水や、水田に使っ あくすい があります。 た後の悪水といわれる排水も利用しました。水車 は、個人で持っていることは少なく、村、あるい じゃばらという揚水水車のイメージ は何人かで共同所有して使っていました。 明治末ころから大正はじめころが最も盛んで、 耕地の水車 日常生活の中で水車が活躍していましたが、大正 元住吉にあった 「耕地の水車」は、臼が7つもあ 中ごろに電気が通ると る大きな水車でした。精米するのに一昼夜ほども 少 な く な り、 昭 和 10 かかるため、農家の人たちが仮眠する小屋があり 年代後半にはほとんど ました。年に一度の泊まりがけの精米作業の間、 の水車はやめていたよ お酒を飲んだりすいとんを食べたりして、コミュ うです。 ニケーションの場にもなっていました。利用者が P6- 大倉山などの遠くからも訪れました。 関東一といわれた中丸子の野口家の水車 特に大きな水車として有名だったのは、中丸子に 水車のあった場所 あった野口家の水車です。関東一といわれるほど大 今ではすっかり住宅街になっている中原です きく、遠く東京から粉をひきに来るお客もいて、繁 が、みなさんの思い出の中にあった水車の場所を 盛しました。幅は2間、直径5間もあり、米の臼が 地図に示してみました(7ページ)。渋川周辺では、 うす 1 度に 10 俵、麦臼が 5 俵もひきました。臼は 25 個、 「白玉屋の水車」(法政二高のあたり)、「田中の水 粉ひき臼は4個あり、昼も夜も精米と粉ひきが続け 車」(櫓橋の近く)、「森の水車」など、たくさんの られていました。ここで働く若い人は常に 7〜8 人 水車があったことがわかりました。 ほどいて、上棟式や俵を担ぐ競技にもあちらこちら 働き者の水車も、子どもたちにとっては楽しい にかり出され、力自慢がかわれて、新城の囃子曲持 遊び場になっていたようです。危険を顧みず水車 にも出かけていったそうです。この水車は大正 12 にぶら下がったり、水車の近くに堀をつくって遊 年(1923 )の関東大震災で倒壊してしまいました。 んだという思い出も聞きました。 やぐら はやしきょくもち ※1間は約 1.8m、1 俵は 60kg 懸水 平 面 4間 かえり P7- P7- 、 、 、 背 面 二つつながっている 2間 7間 6間 米臼 万力二個 水輪心棒 欅 16 角 2 尺 万力二個 粉臼 懸水 麦臼 4個 大万力 樫 2 重歯直径 6 尺 川巾 2間 米 麦をつくる 地盤 流出し 水のトンネル 中丸子の水車 出典:「文化なかはら」第 31 号 藤嶋とみ子さん記事 作図:野口家 15 代当主 野口輝郷さん 二ヶ領用水竣工 400 年記念 11
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