増田神社例大祭 - 唐津観光協会

唐津市肥前町高串地区
増田神社にて開催
※ 唐津市提供
増田神社例大祭とは、佐賀県唐津市肥前町高串にある「増田神社」の祭りであり、
奉納先の増田神社は全国で唯一、殉職警察官を祀っている特殊な神社として有名である。
その歴史は深く、1895年(明治28年)から始まり、現在まで約110年以上地域の伝統行事と
して継承されてきた祭りである。
祭られているのは「増田 敬太郎」氏。
新人警察官であり、過去に肥前町高串地区で疫病が蔓延した際に命をかけてたった一人
で防疫活動に尽力し、多くを救い亡くなられた若き英雄である。
(※増田敬太郎氏の詳しい解説は、別貢参照)
死後、神へと奉られ警神(読み:けいしん 警察の神という意味)と呼ばれるようになった
増田氏を偲び讃えるため、当時から百数年たった今でも多くの住民が祈りを捧げている。
また佐賀県警本部の上官をはじめ、佐賀県警察学校初任科の警察官などが必ず祭りへ
参列し参拝すると共に、己の職務への決意を新たにする場として用いられている。
祭りの当日は、警察の警備艇や漁船などで離島へ参拝に向かい、県警音楽隊の演奏や
増田巡査を型取った人形を飾り付けた山車の巡行などが行われる。
熊本県泗水村(しすいむら)(現在の熊本県菊池市
泗水町の長男として生を受け幼い頃より勉学によく
励み、東京へ遊学し、法律学・鉱山学・英語・速記
術などを学んできた。
25歳の時、増田敬太郎氏は警察官になる夢を抱き
佐賀県警察学校(巡査教習所)に入ることを決意。
家督相続権を弟に譲り自ら分家手続きをするまでの
固い意志を持って臨んだとされる。
増田青年の才能は群を抜いており、通常3カ月程
かかる教習課程をわずか10日間で習得したという。
秀才であった増田青年は、明治28年7月18日に
巡査教習所を卒業すると同時に佐賀県警察巡査を
拝命する事となる。
※唐津市フォトライブラリーより提供
明治28年、疫病(コレラ)が日本中で流行し、全国
でおよそ4万人以上の死者が発生した。当時の
佐賀県東松浦郡入野村高串地区でもコレラが発生
し蔓延。当時保健所機能も兼ねていた警察本部は、
新任の巡査の中に適任者がいないか面接調査を
行ったところ、面構えや見識も申し分ない増田巡査
に感じるものがあり、彼を抜擢。
正義感が強い増田巡査はすぐにその任を受け、
現場へと急行する事となる。
しかし高串地区は、海岸線近くまで山がせり出した
地形をしており、入り江を囲むように作られた場所に
佇む漁村であった。そのため移動も容易ではなく、
当時陸の孤島とまで呼ばれるほど唐津から交通
機関も何もない高串地区に向かうべく、増田巡査は
険しい山道を己の足のみで進んだという。
増田巡査は高串に到着すると、すぐに対策へと取りかかった。
コレラに対する知識、医療器具の不足、地域機能の停止と共に様々な要素が合わさり
拡大に任せるだけとなっていた高串地区は既に多くの感染者と死者を抱えていたという。
既に手遅れであった患者に薬を飲ませた事によって「毒薬を飲ませた」等といった根拠の
ない噂が広まり、身を削ってまで活動する増田巡査の想いとは裏腹に、病の拡大と患者の
増大は進んだ。コレラに怯える住民達を説得し、励まし感染の危険と予防の心得を説い
て回るなどの一方で、住民の誰もが感染を恐れて近寄らなかった遺体を、たった一人で
高串対岸へと担いで運び埋葬し続ける。7月の酷暑の中、不眠不休での防疫活動だった。
警察官との誇りを持ち疫病との孤独な戦いに身を投じた増田巡査であったが、疲労も極限
に達し体力が著しく低下。コレラは増田巡査の身体をも蝕み、高串に入って翌々日に増田
巡査自身もついに発病してしまう。既に彼の身体は限界を迎えていたのである。
「私は既に回復の見込みはないと自覚しています。
しかし高串のコレラは、全て私が向こうに背負っていきます」
死の間際にその一言を残し、増田巡査は25歳という若さと可能性を秘めたまま
遂に帰らぬ人となった。それは明治28年7月24日の午後3時。高串に赴任して4日目、
また警察官としての任を受けてからほんの7日目の事であった。
最後にその一言を残した増田巡査の想いを証明するがの如く、高串地区においてその後
一人の感染者も発生する事はなかったという。
担い手の声(元高串区長
岩本 平三郎 氏との対談)
山車の準備
飾 白馬に乗った増田巡査の人形を飾った警神山車と、
鯛を模った山車が印象的な増田神社例大祭。
これらの山車は毎年作り替えるのではなく、基本的には
毎年同じものを使用している。普段は解体して保管されて
おり、祭りの前日になると再度組み立て装飾を行う。
●子供達が担う山囃子
調 増田神社例大祭の山囃子は、高串地区の子供達が
担当している。囃子は太鼓と鉦、笛などで構成されており
練習自体は祭りの一週間前ほどから短期間で行われる。
高串に住む子供達は幼い頃より警神を敬い、日常的に
祭りに関わり参加しているため囃子(太鼓や鉦のリズム)を
自然と身につけているため、改めての練習は必要ないと
言われている。
●高串と天災~神の加護
護 高串地区では過去幾度かに渡り、台風によって被害を
被った歴史がある。特に昭和62年に高串を襲った台風12
号は非常に強烈で、相当の被害が出ると予想されていた。
実際台風による強風の煽りを受け、高串にある住吉神社と
増田神社の本殿が倒壊し、屋根が風に飛ばされてしまうと
いう大被害が起こる。
しかし不思議な事に、それだけの被害を与える程の台風で
あったが、高串地区の家屋は瓦が飛ぶ程度で収まり、
家屋倒壊などの壊滅的な被害は一切無かった。
「住吉神社と増田神社、警神増田様がきっと身代りに
なってくれたのだ。高串は神々の加護により助けられた」
と住民は感謝し、その後さらに信仰が深まったという。
※唐津市より提供
担い手の声(元高串区長
岩本 平三郎 氏との対談)
●祭りの現状
減 少子高齢化の影響を受け、以前よりも子供
の数は確かに減少している。しかし警神となった
増田様を参拝するために、毎年多くの警察官や
高串の住民、他地区からの参拝者が来訪する
ため祭の賑わいは無くなってはいない。
※唐津市より提供
●増田神社例大祭の見所
献 祭り当日は、まず最初に増田巡査を弔った
離島での献花が通例となっている。
その際、警察の警備艇を船頭に5~6隻前後の
漁船が連なり波を切る漁船パレードが見所。
音 祭りを彩るのは、県警音楽隊の奏でる演奏。
ほぼ毎年必ず参加しており、時には観客のリクエ
ストなども受け付けている。その演奏を是非聴き
に来てほしい。
●祭りを担い、継承してゆくこと
「今、自分達がここに生きていられること」。増田巡査によって守られた高串に住む人々の
命が紡がれ、その恩義は忘れられる事なく現代まで約110年以上に渡り祭は継承されてきた。
人々の為に尽した英雄を敬い、後世に語り継いでゆくことが高串に住む者の使命である。
※唐津市より提供
アクセスガイド
佐賀県唐津市肥前町高串 増田神社
唐津市内から県道33号線を進み肥前方面を目指す。
国道204号線を進むと古保志気の交差点があり、そこを左折し
下り道を進み高串方面へと向かう。
(※道に迷った場合は、まいづる9を目印にすると良いかもしれない)
高串方面へ進むと交番に突き当たるのでそこを左に曲がる。
道なりに進むと高串のバス停があり、すぐ隣が増田神社への通路となっ
ている。民家の間で道が狭く徒歩での移動が必須となる。
唐津市肥前支所産業課 0955-53-7145
●祭り名称
「増田神社例大祭(増田神社夏祭り)」
●開催場所
佐賀県唐津市肥前町高串 増田神社
●開催日程
毎年7月26日直近の日曜日に開催
●祭りの起源(年代など)
1895年(明治28年)~ 平成6年に100周年を迎える
●取材協力(平成25年度担当)
地元担い手 及び
元高串地区区長 岩本 平三郎 氏
●写真提供元
・唐津市
・唐津市フォトライブラリー
編集・構成:唐津観光協会 唐の津風景街道推進室
井手 克洋 武谷 正隆