防災工学レポート

防災工学レポート
福井地震の被害に関するレポート
02T3094F 山田 匠
・震源
県坂井郡丸岡町付近
• 発生日時
1948年 6月28日 午後16時13分頃発生
• 規模
M 7.1
・ 主な被害
死 者:3,728人
負傷者:21,750人
家屋全壊数:35,382戸
火災による焼失家屋:3,851戸
• 被害の概要
県坂井郡丸岡町付近を震源とする直下型の断層型地震。主として九頭竜川沖積層地帯に甚大なる被害
をもたらした。
福井平野部で全壊率が60%を超えるなど被害は甚大であった。特に、福井市・丸岡町・金津町では火
災も発生し被害を拡大させた。
福井地震の特徴は、直下型だけに振動が非常に激しかったこと、福井平野周辺の限られた範囲にお
ける被害が甚大であったこと、が挙げられる。
この地震を期に気象庁震度階級に震度7が作られた。死者数の分布は都市に集中している。農村地
区が100%全壊地区が多い割には死亡者数が比較的少なかったのは、農作業で外に出ている人の割
合が多かったせいといわれている。
戦後の混乱がしずまらないうちに福井を襲った福井地震、そのため地震についての詳しい研究とデータ
の整理が不十分となっている。阪神大震災に次いで、戦後2番目となる大きな被害を出している。
福井地震は典型的な直下型地震であり、地震が起きた時には、田んぼの水が波打ち噴き上げ、もうもう
とたつ土煙の中に一瞬のうちに集落が消えていったといわれている。
・ 福井市の被害状況
死者 930人 全壊家屋12,270戸 半壊家屋3,158戸
焼失家屋2,069戸 全壊率79.0% 出火点数24カ所
地震当時、福井市の行政区域面積は33.5k㎡で、大きく市街地区と農業地区に分かれて
いたが、市街地の面積は総面積の約18%に過ぎない。一方当時の人口は約86,000人でそ
の大部分が市街地に居住し、非常に高密度であった。そのため都市部での被害数字が非
常に高くなった。
そのころの福井市は戦災復興の最中であり、まだバラック建てが多く不安定な構造であっ
たことが全壊率の高さにつながっている。しかしながら市内の全壊率の分布を見ると、中心
部から離れるに従って高くなっている。全壊率は地震動の大きさが要因であり、直接密集度
とは関わりが少ない。
密集地区ではむしろ火災による被害が大きかった。焼失区域は町中央部であり、全壊率
は50~60%程度であったと思われる。
出火件数は福井市内で24カ所とされている。大きく拡大したものは国際劇場付近ほか中
心部の7カ所から出火した炎であった。この火災は丸1日たってようやく鎮火したが、全地域
の完全消火には5日間かかった。地震火災の特徴である同時多発火災・道路障害・水道の
破損などの理由で、消防活動が十分になされなかったことが大火災になった。
• 木造建築の被害
南北方向の断層が地割れの連続として出現し、福井市および断層線に沿った町々では
家屋が一瞬にして倒壊し、多くの圧死者をだした。
木造建築の被害が極めて大きく、断層線に近い町村(丸岡、春江)では全壊率が100%あ
まりに達した。
鉄筋コンクリート造建築の被害
一方、鉄筋コンクリート造りの高層建築では、大和百貨店の大破壊があるだけであり、そ
の他は壁が壊れるものはあっても倒壊はなかった。
大和百貨店は震災で焼けた経歴があり鉄筋が弱くなっていたことや地盤が埋立地であっ
たことおよび基礎が貧弱であったことが明らかにされている。この百貨店の崩壊の主原因
は不同沈下で、昔の堀を埋めた跡の基礎が70cmも不同沈下した(大崎順彦 地震と建築)
らしい。
建築物の被害写真
• 鉄筋コンクリート造建
築物
大和百貨店(上写真)の
大破壊と隣接する福井
信宅銀行(下写真)の被
害状況の写真
大和百貨店と福井信託銀行の
地盤及び図面
•
右断面図が大和百貨店、左立面図が福
井信託銀行である。
•
福井信託銀行の基礎に較べて、大和百
貨店は建物の規模が大きいにも拘らず
基礎が貧弱であったことが分かる。
・
問題のある大和百貨店を除けば、それ
に隣接する福井信託銀行の例のように、
鉄筋コンクリート造りの耐震性が確かめ
られた地震であるともいえる。
守屋喜久夫著「地震と地盤災害」より
土木建築物の被害状況
•
道路は各所で路面の陥没や亀裂、横ずれなどが生じ、国道一二号線、県道福井加賀吉崎
線をはじめ総延長五九九キロメートルにわたって損壊した。とりわけ九頭竜川架設の舟橋・
中角橋(鉄筋コンクリート)、足羽川架設の板垣橋(鉄筋コンクリート)・木田橋、日野川架設
の明治橋などが落橋したため、交通は致命的な打撃をうけた。
•
これにより行政の中心地としての福井市と、被害著しい坂井郡一円とが九頭竜川によって
南北に分断される結果となり、そのために河北部の被災状況把握と、その後の救援物資や
応急復旧資材の輸送に、深刻な影響をあたえたのである。
•
また、九頭竜川をはじめ各河川の堤防は、一~五メートルも沈下、各所で亀裂や崩壊がお
こり、これが一か月後の大水害を引き起こす原因ともなった。
福井震災誌
より
地震以前、以後の福井市
防災を考える上で都市計画も重要な要因であることから福井市の地震以前以後
での状況を紹介する。
•
地震以前の福井市
福井市は藩政時代前から城下町として栄えていたが、明治時代に入り鉄道の開
通、織物の発達、県庁の設置等により急速に膨張した。
しかし、城下町から近代工業都市へと発展したので、道路の狭隘・土地利用の
混乱など都市状態は不完全で、都市発展の限界点に達していた。そこで福井市
は、昭和2年に都市計画法の適用を受け、町の中心街を駅前に移動させる流れ
に追従して土地利用計画を決め、さらに中心は格子状の道路網、周辺部は放射
環状の街路パターンを使用して近代的な都市空間の形成を目指した。
そのような時期に太平洋戦争に突入し、都市計画は中断・中止を余儀なくされ、
さらに空襲で市街地の95%を焼失し、市街地の全面復興を必要とした。
敗戦後、戦災復興都市に指定され政府の指導のもと事業が行われ、区画整理
で困難な状況にはあったが、特別都市計画法で指定された中では順調に復興が
なされていた都市であった。
• 震災被害原因として継のようなことが挙げられた。
戦後復興期の都市部直下型地震 出荷危険度の高い時間帯
城下町の持つ細街路・袋小路など
・ このことから福井市の復興には次のような特徴がある
戦災復興事業との融合と計画面での変更
非常に広範囲にわたる都市計画であり道路網の全面的な変更が行われている
都市基盤整備に非常に重点がおかれた計画でその基盤は現在にも引き継がれている
基本方針
大災害を転機として街路整備・上下水道の改良・公園緑地等の拡充、防災施設の完備等
により、福井市を住み良い文化都市とすると同時に、本県の産業・経済・交通の中心都市と
しての面目一新を企画する。
(引用:福井震災誌)
都市計画街路
総延長25.200mの設定。幅員44mが567m、幅員36mが4.014m、幅員27mが9.480m
など。
上水道・河川水路の整備
公園緑地の整備
都市計画区域の変更
戦災・震災にかんがみて従来の都市計画地域を廃止、新たに土地の合理的統制をはか
り、将来を見据えて決定。
土地区画整理事業
約557万m2にわたる事業を展開
復興計画事業の特徴
・ 度重なる災害により、戦災復興計画よりさらに強力な官主導の計画事業を実施
・ 都市中心部の格子状道路の整備、幹線道路の拡幅、周辺道路の放射環状化
・ 水路網の一新を含めた十分な公共事業の実現
・ 公園、道路幅、緑地街路など都市内空地による環境、防災面での配慮
・ 当初の戦災復興計画に対する住民の反対運動が、震災により弱まったこと
・ 地方中心都市、度重なる災害、県庁所在地といった面で豊富な資金を確保できた
終わりに
福井地震では、前述したように大和百貨店以外では、鉄筋コンクリート造の耐震性の
高さが示されたわけであるが、同時に建築物の要素で建築物が崩壊する原因が存在す
ることも示された地震であったともいえる。それが大和百貨店の大破壊のおおきな原因
である地盤の問題である。
日本が、地震列島であることは周知の事実であり、そのため建築や都市計画をおこな
う際防災計画上地震のウェイトは大陸に存在する国より大きくなることは不可避である。
鉄筋コンクリート造高層建築物のスラブ厚は、たとえばスペインのそれと比べると目測で
あるが1.5倍ほどもある。また木造建築物における耐震設計基準の規制から壁に設ける
筋違いの本数を増やす必要性が生じたことにより、日本の木造建築の特徴である広い
空間をつくりにくくなった。ここで規制に反することなく、筋違いの本数を減らす研究も福
井地震を機に防災研究所を設立した京都大学でなされている。
このように地震と建築物は日本にいる限り離れることはなく未だ地震による被害は多く
損材する。よって発生した地震から何を学び取るかが常に重要である。