中学生による広島市訪問事業 - 会津若松市

平成 25 年度 核兵器廃絶平和都市宣言事業
「中学生による広島市訪問事業」
文 集
原爆ドーム前にて
会 津 若 松 市
は じ め に
会津若松市は、昭和 60 年8月6日に、日本国憲法の平和精神に基づき、核兵器の廃絶
を誓う全世界の人々と相携え、永久平和確立のため、「核兵器廃絶平和都市」を宣言いた
しました。以後、「広島・長崎原爆被災写真パネル展」や「平和推進フィルム上映会」を
開催し、宣言塔や広告板を設置するなど、様々な事業を実施しています。
この事業の一環として、今年度も市内中学生の代表による原爆被災都市広島市の訪問を
実施しました。
平和記念公園、平和記念資料館等の見学、平和記念式典への参列やさらには「ヒロシマ
青少年平和の集い」への参加による、被爆体験講話やワークショップをとおし、戦争や原
爆がもたらした深い悲しみと癒えることのない心の傷を真摯に受け止め、命の尊さや平和
への願いを心に刻みました。
その想いを感想文としてまとめましたのでご覧ください。
1
目 次
広島を訪問して 会津若松市立第一中学校 五十嵐 里咲・・・ 3
広島を訪問して 会津若松市立第二中学校 菊地 凌多 ・・・ 4
広島を訪問して 会津若松市立第三中学校 五十嵐 あい・・・ 5
広島市訪問事業に参加して 会津若松市立第四中学校 生江 優夏 ・・・ 7
広島を訪問して 会津若松市立第五中学校 本名 麻由子・・・ 9
広島の歴史を体感して 会津若松市立第六中学校 小林 芳大 ・・・ 10
広島を訪問して 会津若松市立湊中学校 三星 美友奈・・・ 11
今回の体験を通して 会津若松市立一箕中学校 穴澤 悠太郎・・・ 12
広島を訪問して 会津若松市立大戸中学校 白岩 祥吾 ・・・ 13
ヒロシマ、そしてフクシマ 会津若松市立北会津中学校 若林 ゆい ・・・ 14
本当の平和 会津若松市立河東中学校 松﨑 虎太朗・・・ 15
広島市訪問事業を終えて 会津若松ザベリオ学園中学校 佐藤 祐里 ・・・ 16
広島を訪ねて 福島県立会津学鳳中学校 郷間 未森 ・・・ 17
2
広島を訪問して
会津若松市立第一中学校 五十嵐 里咲
今から 68 年前の8月6日、広島に一発の原子爆弾が投下されました。それにより広島
の街は焼け野が原になり、何万人もの人々が亡くなりました。資料館には、爆風によって
曲がった鉄骨、皮膚がケロイドになった人々の写真、さらにはボロボロになった衣服が展
示されていました。私はそれを見て、戦争の恐ろしさ、むごさを肌で感じました。
それと同時に、あきらめずに復興に励んだ広島の人々に感動しました。2日目の被爆体
験講話によると、終戦直後の広島では、性別や年齢に関係なく、人々は街の立て直しを
行ったそうです。生活必需品も少なく、ゼロからのスタートでしたが、今や広島は日本の
大都市になり、商工業も活発になりました。近代的なビルが立ち並び、まるで戦争が無
かったのではないか、と思うような街並みです。だからこそ私は、原爆ドームは広島に
とって大切な建物だと思います。もう2度と、このような悲劇をおこさないようにするた
めです。ビルの中に建っている、ボロボロになった原爆ドームは、今を生きる私たちに、
戦争や核兵器の恐怖を伝えているのではないでしょうか。
私はこの3日間、平和について日本各地のさまざまな人と考えてきました。平和な状態
とは何か、どうすれば世界は平和になるのか、などについて、真剣に考えました。そして
私たちが出した答えは、「国境のない世界を目指す」ことです。これは、記念公園内にあ
る平和の鐘に刻まれた地図を意識しています。国境がなくなることで、戦争も対立もなく
なると思ったからです。今の私たちにできることは、限りあるかもしれませんが、今回の
体験を胸に、「あたりまえの日常」に感謝して、生きていきたいと思います。
本当に貴重な体験をさせていただき、ありがとうございました。
3
広島を訪問して
会津若松市立第二中学校 菊池 凌多
私は8月の4日、5日、6日と3日間広島を訪問しました。2日目に原爆ドーム、原爆
が無くなるまで消えない火、「父をかえせ、母をかえせ・・・」あの有名な石碑、国境の
無い地図が描かれている平和の鐘などを見学しましたが、特に印象に残っているのは、平
和記念資料館と原爆の子の像・千羽鶴と被爆体験講話です。
資料館には、「はがれた爪」、「ぬけ落ちた髪の毛」、「8時 15 分で止まった時計」、
パンフレットでよく見るような「焼け焦げた弁当箱」、「ぼろぼろの三輪車」、後遺症で
ある「ケロイドの女性の写真」など、ショッキングで、目を覆いたくなるものばかりでし
た。12 歳で亡くなった佐々木貞子さんをモデルとしている原爆の子の像と、その周りの
ものすごい数の千羽鶴には圧倒されました。被爆体験講話では、当時 10 代で被爆された
男性のお話を聞くことができました。男性はこうおっしゃっていました。
「アメリカが悪いわけでもない、日本が悪いわけでもない。世界中の人が過ちをおかし
ていた。」と。
私は講話を家族や学校で伝えなければならないと感じました。
資料館も貞子さんも講話も、今の私と同じぐらいの歳であり、今の私じゃないと感じら
れないこともたくさんあったように思います。だから、この中学生の期間に広島を訪問で
きたことはとてもすばらしい貴重な体験となりました。参加させていただいて、本当にあ
りがとうございました。
4
広島を訪問して
若松第三中学校 五十嵐 あい
「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」
広島にある平和記念公園の慰霊碑に刻んであるこの言葉を見て、私は胸が苦しくなりま
した。
8月4日から6日の3日間、会津若松市の中学生広島訪問事業に参加させていただいた
私は、派遣生徒 13 名と共に原爆投下の地として知られる広島を訪問しました。
初めて広島の街並みを目にした時、本当にこの街に原爆が落ちたのかと思うほど復興し、
活気が溢れていました。原爆が投下されたことを私達に思い起こさせてくれるものは、崩
れ落ちた瓦礫とともにある原爆ドームでした。広島の街は、こうして今元気を取り戻すこ
とができていますが、あの日被害にあった多くの人々の傷は、68 年経った今でも癒える
ことはなく、いつまでも彼らを苦しめているという事実を忘れてはいけないと改めて感じ
ました。
2日目に訪れた平和記念資料館には、抜け落ちた髪の毛や爪、私と同じくらいの年齢の
子供たちの皮膚、原爆によって全身が焼け爛れた人の写真や、それを再現した蝋人形など
たくさんの展示品がありました。
それは、あまりにも残酷なものばかりで、思わず目を背けてしまうこともありました。
しかし、私たちはこの出来事と、戦争や核兵器の恐ろしさに向き合い、2度と同じ過ちを
繰り返してはならないと心に刻むことが何よりも大事なことだと思いました。
展示品の中には、広島に落とされた原子爆弾「リトル・ボーイ」の模型もあり、私はそ
の模型の前からしばらくの間動くことができませんでした。この一発の原子爆弾が、小さ
な幸せを、生きることを望んでいた大勢の人々の命を、家族を、家を、そして広島という
街を、一瞬にして奪ったのかと思うと、とても憎く思えて仕方がありませんでした。原爆
の被害にあった方々は、私たちの身代わりとなって、平和とは何かを、戦争がどれだけ憎
むべきものなのかを、今こうして伝えてくれています。原爆の被害にあった方々はもちろ
んのこと、戦争で亡くなった方々や辛く苦しい思いをした人はたくさんいます。
私達の手で平和を作りだす事は可能ですが、それを壊すことも簡単にできてしまうこの
5
世の中で、この出来事をいつまでも忘れずに、平和を守り続けることが、私たちの使命で
あると強く思いました。
この3日間の広島訪問で、さまざまなことを学び、体験することで、原爆がもたらす恐
ろしさや平和の尊さをしっかりと感じることができました。
この広島訪問で学んだことを、ひとりでも多くの人にしっかりと伝えることが、私たち
派遣生徒 13 名の大きな課題だと思います。
6
広島市訪問事業に参加して
会津若松市立第四中学校 生江 優夏
日本は世界で唯一の被爆国である。しかし私は今まで戦争や原爆について関心が無かっ
た。「太平洋戦争」や「原爆」という言葉は教科書にのっている歴史上の言葉でしかな
かった。今回、広島市訪問事業に参加し、原爆や平和について考えさせられた。
1番印象に残っているのは、語り部の川本省三さんの講話である。主に「原爆孤児」に
ついて話された。原爆孤児とは、田舎に疎開して被爆はまぬがれたが、両親を原爆で亡く
した子供のことである。
「周りのみんなが敵だった。誰も助けてはくれなかった。」
と、川本さんはおっしゃった。食料の奪い合いや、人には言えないような法に触れるよう
なこともしたそうだ。餓死してしまえばゴミと一緒に捨てられる。被爆せずとも犠牲と
なった人々がいたという事実に衝撃を受けた。
「くり返さないでほしい。そして話し合ってほしい。あなた達は世界の人々と話せるの
だから。広島もアメリカも悪くない。世界が過ちを犯した。戦争が起こるのは話し合うこ
とをせず、相手を理解しようとしないからなんだ。」
川本さんはとにかく話し合ってほしいということを何度も訴えていた。その言葉は私の心
に深く刻み込まれた。
平和記念資料館でもショックを受けた。それは、可哀想とか痛々しいとかそんな言葉で
は表現できないものだった。本当に日本でこんなことがあったのか、とても人間の世界と
は思えなかった。それは生き地獄そのものであった。
戦後 68 年。戦争を体験した人々の高齢化が進んでいる。いつか戦争体験者はいなく
なってしまう。「世界で唯一の被爆国」である日本は、先頭に立って平和の大切さを訴え
ていく必要がある。被爆国だからこそ、日本にしかできないことである。私は、広島で他
県の中学生と平和について論を交わした。そんな小さな活動でも繰り返して行えば大きな
力になる。平和を伝える力になる。あるボランティア団体の人が言った。
7
「平和は戦いである。」
私達は伝えなければならない。
「戦争のおろかさを。」
私たちは伝えていかなければならない。
「平和の尊さを。」
日本は、平和のためにさまざまなことと戦っていかなければならないと私は思った。
8
広島を訪問して
会津若松市立第五中学校 本名 麻由子
私は、8月4、5、6日と、各中学校の人と広島に行きました。3日間という短い期間
ですが、とても充実していました。
私は特に、2日目の資料館と被爆体験講話が印象に残っています。資料館の1枚1枚の
写真はとても本格的で、どれも目を背けたくなるものばかりでした。人間なのに人間の姿
をしていなく、一発の原爆でどれほどの被害が出たかよくわかりました。その後に聞いた
被爆体験講話は凄くリアルであったし、被爆者でないとわからない事も聞くことができま
した。いつも通りの朝を迎え、突然目の前が明るくなり、一瞬で景色が絶望に変わってし
まう、私にはそんなこと想像できません。家族がいない、帰る場所がない、食べる物が無
い、それとは逆の生活を送れている私達は凄く幸せだと改めて講話を聞いて思いました。
他にも、当時の現状を物語る原爆ドーム、平和式典にも参加しましたが、3日間の広島
研修は、今まで知っていた原爆の知識を深めさせる良い経験になりました。
私が大人になる頃には、当時のことを知る人はもういないかもしれません。だから私は、
広島で学んできたことを多くの人に伝えたいと思います。広島研修、とても勉強になりま
した。
学校の代表として自分が行けた事、今となってはどれだけ貴重なことだったのかが実感
できます。行く前は凄く不安でいっぱいで、皆と仲良くなれるかも不安でした。しかし、
すぐに皆と打ち解けることができてとても楽しかったです。もっと広島に居たかったな、
と思います。3日間あっという間でした。本当に充実した3日間でした。成人を迎えたら
また広島に行きたいです。
9
広島の歴史を体感して
会津若松市立第六中学校 小林 芳大
とても暑く、長いようで短かった3日間が終わった。普段教科書やテレビでしか見たこ
とのない建物や景色を自分の目で見ることが出来たのは、貴重な経験であり財産となった。
1番印象に残っているのは、原爆ドームでもなく資料館でもなければ平和記念式典でも
ない、広島の街だった。今はビルが建ち、道路は整備され、暑いものの、住みやすい街だ
ろう。しかしたった 68 年前の8月6日には、見るに耐えない光景が広がっていたのだと
いうことを、資料や被爆者の方の話を聞くことで実感した。
広島市は当時より土地が1から2メートル程高くなっている。原爆が落ちた後、土が盛
られたからだそうだ。私はこの話を聞かされ、街を歩いたときは怖くて怖くて震えて仕方
がなかった。自分が歩いているたった数メートル下は8月6日、あのときが残されている、
そう思ってしまったからだ。自分が歩いた道に何があったかなど考える人は少ないだろう。
私は怖くて仕方なかった。
原爆が落ちて 68 年が経過した今でも問題は解決されていない。被爆された方々は死ぬ
まで当時の自分が見た、体験したものを忘れられず苦しむだろうし、今もなお核は無く
なっていないのだ。
私たちは今幸せに暮らしている。しかしその幸せの影には、戦争・原爆でもがき、苦し
み、死んでいった人たちがいることを忘れてはならない。亡くなられた方々のためにも、
私達の後の世代のためにも、後世に伝え、ひとりひとりが「平和」のために行動していか
ねばならない。
10
広島を訪問して
会津若松市立湊中学校 三星 美友奈
私は今回、この「広島訪問」を通して命の尊さ、戦争と核の恐ろしさについて感じるこ
とができました。
今回見学した、原爆ドームや平和記念資料館の中は、8時 15 分で止まった時計や、黒
こげになった弁当など、原爆の威力を感じるものばかりでした。一発の原子爆弾が、人々
の生活と幸せを一瞬にして奪い取ったと考えると、恐ろしくなります。しかし、原子爆弾
を作ったのは人間であり、2度とこのような悲惨な使い方をしてほしくないと思いました。
また、被爆者の川本さんの話を聞きました。川本さんは、「原爆が落ちてから何年経と
うが関係ない。ずっと、この悲しみと生きていく。」と言っていました。
現在の広島は、68 年前に原子爆弾が落とされたとは思えないほど発展していました。
しかし、被爆者の心の傷は、いつまでも消えることなく、忘れられない出来事だと思いま
す。また、戦争は国境があるから起こるのだと言っていました。68 年前と同じことをく
り返さないためにも、世界の人々にもっと広島や原爆、人間が犯したこと、そして人は愚
かであることについて知ってもらうことが大切だと思いました。私たちが、生活していく
中でできることとして、差別をしないということが平和への第1歩だと考えています。国
境をなくすことはできないけれど、お互いを認め合い平等に考えることで、争いが少なく
なると思います。
これからは生きたくても生きられない人がたくさんいたことを忘れず、その人達の分ま
で1日1日を大切に過ごしていきたいです。
最後に、私にとってこの3日間は平和について考えることができ、また他の中学校の人
達とも交流をし貴重な研修となりました。ありがとうございました。
11
今回の体験を通して
会津若松市立一箕中学校 穴澤 悠太郎
僕は、今回の広島訪問の参加によって多くのことを学びました。その中でも得たことが
多かった2つについて発表したいと思います。
まず1つ目は、広島と原爆の関係についてです。この広島で起きた出来事は、ある程度
自分も知ってはいたのですが、実際に行ってみて知らなかった事実を多く知ることができ
ました。資料館や原爆ドームを見学した後に、ヒロシマ青少年平和の集いを行い、そこで
被爆者体験講話を聞きました。その講話では、被爆時 11 歳だった川本省三さんの話を聞
きました。
僕は、この話を聞いてすごく酷いと思ったのは、原爆のせいで多くの幼い命が奪われて
しまい、中には名前すら分からないまま亡くなってしまう子供や、売られてしまう大人の
話を聞いて、とても心が痛みました。また、省三さんの家族と一緒に生活できた時間がと
ても短く、ばらばらに分かれてしまったという話も、とても可哀想だと思いました。
2つ目は、やっぱりこの体験を通して分かり合える仲間が増えたことです。市内代表の
中学生や、広島で行ったワークショップで出会うことのできた他県の生徒との交流があっ
たからこそ、今回の広島訪問はみんなと時間の共有をして楽しく終われたのではないかと
思いました。
以上、今回の広島訪問で学んできたことの中で、特に良かったなと思ったこと2つの発
表を終わります。
最後に、このような事業を行ってくれた方々に感謝します。ありがとうございました。
そして、この3日間の行動を共にしたみんなへ、ありがとう。
12
広島を訪問して
会津若松市立大戸中学校 白岩 祥吾
まず、今回の広島訪問をこのメンバーで行くことができて本当に良かったです。1 日 1
日楽しんで過ごすことができました。
今回の旅では「平和」について学ぶということで、資料館の見学や青少年平和の集いに
参加したりしました。特に平和の集いでは、他県の中学生と交流し、平和についての考え
を深めることができました。ひとりひとりが考える平和のあり方や、平和な未来にするた
めに自分ができる事は何かについて意見を交換し合い、1 枚の紙にまとめることができま
した。
被爆体験講話では、その頃は現在の広島と比べどのような違いがあったか、その時の広
島の様子はどんなだったかなどを話を通して知ることができました。原爆を落とされ親を
失った子ども達は、当時靴みがきなどをして過ごしていたという話なども聞き、今まで原
爆が落とされ、ものすごい被害が出たという意識しかなかったけれど、落とされた後の話
を聞いて、「落とされました。終わり。」じゃないんだと、話を聞く前よりも強く思いま
した。
資料館では、原爆が落とされる前の広島の様子から、原爆が落とされた後の広島の様子
までさまざまな資料を見ながら順をおって知ることができました。さらに、原爆のおそろ
しさを物語る遺品の数々を見て、こんな兵器は2度と使ってはならないと再認識させられ
ました。そのような資料を見ていって、資料館の最後にあった、原爆が落とされた後の広
島の地に咲いた花のパネルを見てとても感動しました。あのパネルは、資料館の最後のあ
るからこそ感動できると思いました。
このように、平和について今まで以上に触れて、「平和とは毎日楽しく過ごせること
だ!」と思っていたけれど、3日間通して「平和とは世界中の人が毎日笑顔で過ごせるこ
とだな」と、平和についての意識が変わりました。このような平和な未来をつくるために、
自分が常に笑顔でいることを心がけようと思いました。
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ヒロシマ、そしてフクシマ
会津若松市立北会津中学校 若林 ゆい
「ビルがたくさん」
これが広島に到着して見た最初の感想です。現在の広島は 68 年前、本当に原子爆弾が
落ちたのか?と、疑わせるほど発展していました。
平和記念資料館には、「8時 15 分に止まった時計」「着物の柄が皮膚に焼きついてし
まった女性の写真」「焼けこげた三輪車」などが展示してあり、どれも原爆の恐ろしさを
物語っていました。
平和記念式典では、諸外国からの多くの人々が参列しており、その関心の高さに驚きま
した。それだけ外国でも、この式典が重要視されているのだと感じました。午前8時 15
分、全員で黙祷を捧げました。この時間に原爆が落とされ、多くの尊い命が失われたのか
と思うと、とても胸が痛みました。私は心より、この世界から「戦争」という言葉がなく
なってほしいと思います。戦争のために何の罪もない人が大勢亡くなりました。戦争がな
ければもっと長く生きられ、楽しい事もたくさん経験できたはずなのに…。
忘れもしない 2011 年3月、東日本大震災が起きました。会津はまだ被害が少なかった
のですが、テレビや新聞などで見た被災地の悲惨な様子は、今でも脳裏に焼き付いて離れ
ません。少しでも早く広島のように復興してほしい、これも私の願いです。
私にとってこの広島訪問は、初めて自分自身を見つめなおす機会になりました。今まで
当たり前だと思っていた日常に感謝することができました。
これからの私達、中学生に出来る事は何でしょう?それは、戦争によって亡くなった人
の分まで1日1日を大切に生きていくことです。そして、世界中の全ての人々に平和が訪
れるためにはどうしたらいいのかを、常に考え、行動していくことだと思います。
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本当の平和
会津若松市立河東中学校 松崎 虎太郎
「にんげんの にんげんのよのあるがぎり くずれぬへいわを へいわをかえせ」
これは、実際に原爆で被爆し、原爆被害を人々に広めようとした詩人、峠三吉の詩を一
部抜粋したものです。これには、原爆の被害にあった人々の、平和への渇望が詰まってい
るのだと、私は今回の広島訪問で考えました。
私は先日広島で、戦争の悲惨さと、原爆の事実をこの目で見てきました。原爆が広島に
投下されてから、当時広島市の人口約 35 万人のうち、約 14 万人の人々がその年のうちに
命を落としました。原爆は一瞬で広島の街を破壊しました。強力な熱線により、屋外にい
た人々は内臓組織に至るまで全身の水分が蒸発・炭化しました。そして、その遺体は道路
などに大量に放置されました。私は、自分の体がそのようになるのを想像してしまい、寒
気を感じました。核兵器は絶対に存在してはならない、絶対悪だ。その時、私は強くそう
思いました。
しかし、今世界では沢山の核兵器が次々と製造され、日々核実験が行われています。核
兵器を持つことで戦争をけん制し、平和を保つ核抑止という考えもありますが、核で保た
れた平和などは本当の平和ではないと私は思います。
それでは、本当の平和とはどういうものでしょうか。それは、誰もが自分らしい生き方
をできるということだと思います。原爆は、人々の希望を、夢を、家族を、未来を、爆風
で吹き飛ばしました。今を生きる私達の使命は、核兵器によって奪われた平和を取り戻す
こと、そして、決して崩れぬ平和を作り上げ、未来へと残していくことです。戦争をする
のは人間だけですが、戦争を止めることができるのも人間しかいないのです。私は、今回
の体験を沢山の人に伝えて、ともに本当の平和について考えて生きたいと思っています。
15
広島市訪問事業を終えて
会津若松ザベリオ学園中学校 佐藤 祐里
私が小学校1、2年の時、曾祖父から戦争について話を聞いたことがあります。
曾祖父が小学校低学年の時、「友達のほとんどが父親が戦争に行ったっきり帰ってこな
かった。自分は、シベリアに送られ強制労働を何年もさせられた。しかも1日の食事は、
湯飲み茶碗1杯分の豆を配給されるだけで、それも毎日ではなかった。戦争には青春や大
切なものを奪われてしまった。戦争はあってはいけないことだ。」などという話を聞きま
したが、その時はあまり実感がわきませんでした。しかし広島に行ってみると、改めて原
爆と戦争の恐ろしさや、平和の大切さを知りました。
広島が受けた原爆の被害は、私が想像していたよりも遥かに超えていました。写真でし
か見ることがなかった原爆ドームを近くで見てみると、教科書や写真では見ることがない
崩れ落ちたレンガや、今にも崩れ落ちそうな階段などを見ることができました。それらを
見た時大きなショックを受けました。
しかし、1番ショックを受けたのは資料館です。資料館には、原爆が投下された時少年
が抱えていた弁当箱、中学生が残したツメと皮膚など、当時を思い出す物がありました。
私と同じ中学生がこんなにも早く死を迎えてしまった。何故、罪の無い人が亡くなってし
まったのか。色々な思いがこみ上げてきました。
最終的には、私にできる事は何かに辿り着きました。私に出来る事は限られています。
学校の人たちに原爆の恐ろしさを知ってもらう。また、署名運動を行う。ほんの小さな活
動かもしれませんが、小さな活動でも人に伝えられることはたくさんあると思います。私
は、「原爆」という過去に日本に恐怖をもたらした物を、1人でも多くの人に知ってもら
いたい。そして、今だからこそ分かる曾祖父の思いを感じながら会津に帰ってきました。
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広島を訪ねて
福島県立会津学鳳中学校 郷間 未森
私は今回広島を訪ねて、原爆がもたらしたものや、平和の大切さについて、改めて考え
ることができました。今回見てきたもので特に印象に残ったものは、平和記念資料館に
あった、8時 15 分で止まった時計です。普通、時間というものは、何があっても動き続
けるものだと私は思っていました。しかし私は、あの時計を見た瞬間、
「広島に流れていた時間は、一瞬そこで止まってしまったのだろうな。」
と、思いました。あの日、広島で亡くなった人々にも、本当は未来があったはずです。け
れど、そのようなものも、原爆というひとつの武器によって、一瞬で奪われてしまったの
です。あの時計は、そういったことの象徴だと私は思いました。
今世界には、約1万9千もの核弾頭があるといわれています。これほどの数の核兵器を
誰かひとりだけの力でなくすことは、まず不可能です。多くの人々の協力が不可欠だと思
います。しかし、私の周囲には、原爆が投下されたのは遠い昔のできごとだと認識してい
る人がたくさんいます。そのような人たちに、今回経験したことを伝える。これが、みん
なで協力してこの世から核をなくし、さらに世界平和を築くために、今私が出来ることで
す。
そして、核をなくすために、次に私ができることは何なのか、そういったことを日々考
えていきたいと思います。
いつかこの世界から核兵器が無くなるように…。また、人々がみんな笑いながらくらせ
るように…。そんな世界が訪れてほしいと、広島を訪ねて思いました。
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