鎌倉武士の生活 6年 藤組 黒須 麗香 武士•武士団の始まり • 地方の豪族たちも新しい土地を開拓し、農地を広げて いった。特に関東は、多摩川や相模川などの大きな河川 が多く、それらが作り出していた平野や湿地域(しっち いき)は次々と田や畑に変わっていった。 しかし、立場の弱い豪族の土地はしばしば争いや、中央 からきた国司、国主の代理である目代によって領地をお びやかされていた。 そこで、親戚一同や一族でまとまりを強め、自分達の土 地を守るため、武装した。 さらに、武士団同士が結びつくときには、自分達よりも 身分の高い人をリーダーに選んだ。 それらが源氏と平氏。彼らの事を、武士の棟梁(とう りょう)の言う。 • 〜武士の位〜 《豪族》 豊かな農民。村をまとめ戦の時は主人とし て兵をまとめる 《郎党》 豪族ほどの力はないが、自分の土地を持っ ている。豪族の家来として戦に参加 《下人》 土地を持たない小作人。豪族、郎党に従っ て馬の世話や主人を守る 《所従》 下人と同じような立場で、その家の使用 人。下人と同じような働き ※豪族、郎党は馬に乗り、下人、所従は歩いたり走っ たりして戦に参戦していた 〜頼朝の立場〜 棟梁をまとめたさらに上の棟梁。こうした人の事を 武士の棟梁という 《御恩と奉公》 • 将軍と御家人の主従関係(しょじゅう)。 頼朝 土地 ⇦⇦ ⇦⇦ ⇩ 御恩 土地を認めても らったり 新しくもらったり 奉公⇒戦う 御家人 ↓ 豪族 生活、食事、修行 • • • • • • 4:00〜5:00 起床 5:00〜6:00 行水、修行 17:00〜 自由 20:00 就寝 食事は1日2回(朝、夕)戦の時は1日5食 玄米、干し魚、昆布とにごぼう、大根汁、酒などを食べて いて、戦時には3000㌔㌍を摂っていた。この時代貴族と武 士の食事は大幅に違っていた。栄養バランスが悪く、寿命 も短かった。 〜修行〜 (弓の練習) • 主に、笠懸(笠を的に討つ練習)、流鏑馬(馬で走りなが ら的を討つ練習)、犬追物(犬を放して馬に乗って追いか けて先のとがっていない矢で討つ練習) 武士の家(農民・御家人) • 農民の家 『掘り建て小屋』と いう家に住んでいた。 ・御家人の家 館(たて/たち)と 呼んでいた。 後ろに山を控え、前に小高い所に作られてい る所が多かった。 館のまわりには、水堀・空堀(からぼり)・ 築地塀(つきじべい)・垣根(かきね)など で囲われていた。 《付属家屋(ふぞくかや)》 • この建物の役割は分からず、収穫した農作物、 農具、馬具などをしまう納屋かもしれない。 又、大仏をまつった持仏堂(じぶつどう)か もしれない。 • 引退した元の主人の • 住んでいたところ。 《廚(くりや)》 • 廚とは、現代の台所にあたる調理場。 • 冷蔵庫がないから魚と肉類は塩付けか乾燥品。 • 調理の仕方は、焼く・煮る・蒸すの3種類が 基本。 • 燃料の薪(まき)は • 男が山の中に入って • 集めていた。 • これは重労働だった。 《主屋(おもや)》 • • • • • • • 主屋は主人一家が 寝泊まりしていた。 客を迎えた。 支配者の象徴。 床は板張りで、部分的には畳(たたみ)。 照明はひょうそくという小さな明かり。 燃料の油は貴重品のため必要な時にしか使わ ない。 • 夜の家の中はとても暗かった。 • 本は、明かりの近くでないと読めない。 《門と見張り》 • 鎌倉時代の屋敷を館(たて・たち)と いう。 • 館の回りは柵と堀、崖で守られてた。 • 警備は厳重で、門の近くには出入りす る人や荷物を点検する人がいた。 《表語(ひょうご)》 • 武士の心を表した言葉の事を『表語』という • 一所懸命・・・御家人が将軍から与えられた 領地を命がけで、守ったことから作られた。 今では、一生懸命と言われている。 • いざ鎌倉・・・幕府が非常事態の時には、い つでも真っ先に駆けつけて戦うことを誓った から。 《まとめ》 • 最初は、ごく普通の農民だったのに、自分た ちの土地を守るために、命がけで戦う武士に なるには、とても勇気がいると思った。そし て、少し間違えると命を落としてしまうとい う修行に耐えていたのにはとても驚いた。 こうして毎日、いつ死ぬのかを心配しつつ、 その場から逃げない勇気を持った武士は、と てもすごいと思った。 画像は下のURLからです。 http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/
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