信心を持つということ

信心を抱くということ...
信心を抱くということは、神の意志について未だに理解でき
なかったり、それがたとえ私たちを喜ばせてくれるものでな
かったとしても、受け入れることです。
もし私たちに、神と同じように全てを出発点からその結末ま
で見る能力があったとしたら、どうして私たちの人生が慣れ
ない道や私たちの理解や望みと相反する道をたどるのか、
わかるでしょう。
信心を抱くということは、私たちに何かが不足している時
や、私たち自身が求めている時に、与えることです。
一見何も存在していないところに、信心はとても価値のあ
るものを見つけ出してくれます。貧困の間に、寛大さという
宝が光り輝くことにより、与える者と受ける者の心を感謝
で満たすことができます。
信心を抱くということは、疑
い続けることの方が容易な
時に、信じることです。
私たちの中から、よりよい事
に対する信頼の炎が消えて
しまっては、 他の手段に
よって、私たちはやる気を
保ち続けることはできませ
ん。
善意や可能性、能力、同胞
に託す私たちの信頼は、人
生を勝利に導いてくれるた
めのエネルギーなのです。
信心を抱くということは私た
ちの人生を目で導いていく
のではなく、心で導いていく
ことです。
理性に立ち向かうには多く
の証拠を必要とします。
心には、一筋の希望の光
があればよいのです。
人生が私たちに与えてくれ
る最も美しく偉大なものは、
見ることもできなければ、
手でさわることもできませ
ん。私たちの魂によって確
かめることができるのです。
信心を抱くということは、
倒れた時に、立ち上がる
ことです。
人生におけるどんな分類
の失敗や弱体化も、私た
ちを悲しませることになり
ますが、不満と苦しみを
抱え、自分を憐れみ、フラ
ストレーションと痛みを感
じ続ける方がもっと悲しい
ことです。
信心を抱くと言うことは、夢や、愛情、理想と引き替えに、危
険に立ち向かうことです。多少であれ、犠牲を払わずに手に
入れることのできる価値というものはこの人生には存在しま
せん。何かを、あるいは誰かを手放させるような犠牲を払わ
ずに、価値を手に入れることはできず、それによってのみ私
たちの世界とその他の人々の世界をよりよくするものを得る
ことができるのです。
信心を抱くと言うことは、
過去がどれだけ痛ましく、
未来がどれだけ不確実で
あったとしても、人生の未
来を肯定的に見つめるこ
とです。
信心を抱く者は、明日を築
く基礎を今日という日にお
いており、今日の日が過
去になったときには、あり
がたい思い出として振り返
ることができるのです。
信心を抱くということは、物
だけではなく、それ以上に
大切な人に信頼をおくこと
です。
多くの人が物質を信頼して
いますが、同胞との関係に
おいて空虚な関係を築いて
います。
もちろん、あなたの信頼を
裏切る人も必ずいるでしょう。
私たちに必要なのは、私た
ちが信じる相手に対して注
意深くありながらも、信じ続
けていくことです。
信心を抱くと言うことは、不可
能と思われることを、やろうと
努めることです。
その日が曇り、泣き過ぎてし
まったために目が乾いてし
まったような時に微笑むこと。
信心を抱くということは、例え
悲しくとも、口に笑みを絶やさ
ないことです。なぜなら、あな
たの笑顔が、あなたよりつら
い状態にある誰かの人生に、
いつ光と希望をもたらすこと
になるか、わからないからで
す。