江戸時代の見世物小屋

江戸時代の見世物小屋
-見世物となった舶来鳥獣-
吉村
大樹
第1章
動物見世物と舶来鳥獣
①
江戸時代に当時としてはめずらしい舶来鳥獣たちがなぜ見
世物として定着したのかを述べてみた。
川添裕(二〇〇〇年)によると、当時の動物の見世物には
名号牛などのように普通の牛に手を加えて、めずらしい動
物のように見せるものがあったが、実際の動物の見世物の
中心は、長崎へ渡来したゾウ、ヒクイドリ、ラクダ、ヒョウ、ト
ラといった、当時としてはめずらしい舶来の動物が当時の動
物の見世物のメインとなり、めずらしいだけで当時では価値
があったようである。
②
ヒクイドリは、めずらしいだけでなくご利
益があるとされているが、とくに、ヒクイドリの羽は「疱瘡麻
疹疫疹のまじなひ」として、見たり、ふれたりすることにより、
悪病除けになるといわれていたというように動物の見世物
には、めずらしいだけではなくご利益もあるということで人々
をにぎわせていたようで、ほかにもアザラシ、ロバ、ヒョウな
ど、見世物の動物は霊獣、聖獣、神獣などと呼ばれ、その
動物の体の一部をふれたりするのもあったが、ほとんどは
見るだけで、ご利益になるそうで、その効果は、病気除けで
あり、小児の疱瘡、麻疹に効くとされて、動物の見世物小屋
はとくに幼い子どもづれが多かったようである。
③
ラクダの見世物については、唐人の服装をした人がにぎや
かな演奏をしてそれに合わせてラクダがひきだされ、場内を
めぐるのが基本の見せ方で、それを一日に何度も繰り返し
て、踏み台を使ってラクダの背に乗ってみせたり、日本人の
男の人が、化粧やひげなどを変化させて異国のイメージを
つくりだして、異国の動物にふさわしい演出をしている。
観客には、ラクダの餌として、大根の葉や茄子、薩摩芋を販
売して、それをラクダに食べさせたとされているそうで、当時
の動物の見世物の中でも、一、二を争う人気の見世物で
あったとされているように、ラクダは、当時の人々にとって、
とても親しまれた見世物であった。
また、ラクダにもご利益があるとされ、ラクダのおしっこが、
死にそうなひとを救う霊薬になるとされていて、ラクダの毛も
疱瘡除けになるそうである。
④
海の生き物も海獣として見世物にされていてことについてみ
てみると、まず、鯨が一七三四年に江戸で、一七六六年に
大阪で見世物としてみせられてめずらしさで人々の人気を
とっていて、一七九二年に大阪で水豹(アザラシ)と名づけ
られた海鹿(アシカ)が曲芸をして人気を集めていた。
それは、いけすの中にいれられていて、口上が手を水に入
れて鳴らすとはいあがってフナやドジョウを食べて、口上の
呼びかけに、アーと答えたり両ヒレを打ち鳴らしたり、横に
寝たりするの人々に可愛らしいとして評判であった。
⑤
孔雀の見世物については、孔雀の見世物はいちばん古くか
らあるようで、孔雀に芸を仕込んで見世物にされていたが当
時の人々はそれほどめずらしがらず、姿が美しいことだけで
見世物になっていたが、孔雀茶屋としてお茶を飲みながら
孔雀を見物するのが、当時の人々にのんびりできるとして
人気があったようである。
⑥
虎と豹の見世物については、まず、虎は一六四八年に京都で、一六七
五年に大阪で見世物として現れたが、一八五二年に江戸の両国で現れ
た虎は大猫で、鳴く声が聞こえないように拍手や鳴物でごまかしていた
ことから、それまでの虎は本物ではなかったのではないかといわれてい
る。
そして、一八六一年に本物の虎がオランダ船によって横浜に来て見世
物として人々が満員になるほどの人気になったそうである。
豹の見世物が、一八三〇年に名古屋でオランダから来た豹が現れた
がよく虎にごまかしてみせられていたようである。
豹の見世物小屋の中には竹が植えられ、豹がその中にいて見物人が
集まると、豹に一羽の鳩を投げ入れて豹がそれに飛びかかる姿をみせ
ていた。
中には世話人の手に咬付いた豹もいたそうで、豹が撲殺されてしまうこ
ともあった。
⑦
象の見世物については、一八六三年に西両国広小路で印
度産の三歳の象が見世物として現れた。この象は、ポルト
ガル船によって横浜へきたもので、両国のにぎわいはほと
んど象の見物人だとされて、当時の流行の大津絵節にも替
歌が現れて、「大象の云う事にゃ、ほんに妾は誠に仕合せ
な、神風にひかれて、夢にも知らぬ日の本へ、今度初めて
勤めに出たも、普賢菩薩の引合せ、ちょいと目見えにワラ喰
えば、象さん可笑しいからだと笑ひ草、こんなえにしが唐や
天竺にあるものか、年が明いたらたった一度国へ帰って、
鼻を伸ばして聞かしたい」と唱われたそうである。
⑧
このように、動物の見世物が人々に見られているのは、当
時の日本では見られないめずらしい物が海外の国からやっ
て来て、それを見た人々は、驚いたり、感心したりして、動物
の見世物が江戸時代に定着していったのだろうと思われる。
また、動物たちは神の使いのような存在で、ご利益があると
されて、麻疹や疱瘡などの悪病除けになるという見世物の
売り文句が人々にうけたのである。
第2章
見世物による江戸時代の娯楽
①
現在では人々の娯楽はテレビや映画などがあるけども、
江戸時代では芝居や錦絵などがありその中でも見世物は
芝居よりも手軽で最も人々に親しまれた大衆娯楽のひとつ
であった。
当時の見世物は曲芸や細工見世物があるけども動物見
世物とくに舶来鳥獣の見世物が人気があったのである。
江戸時代に見世物がおもに行われていたのは江戸の両
国橋東西と浅草寺、大阪の難波新地と京都の四条河原で
あって庶民が気軽にあつまる盛り場であった。
とくに盛り場は大道芸人などが芸を見せて、銭がなくても庶
民にとってはのんびり一日を楽しむことができる場所である。
②
江戸時代の民衆にとって、娯楽とは当時「悪所」と呼ばれて
いた遊女町と芝居町で憂さをはらすことだった。しかし吉原
から夜鷹まで、階層に応じて幅の広かった娼家は別として、
かなり金のかかる常設小屋での芝居見物はそう出来るもの
ではない。
この時代の庶民の娯楽の中心は、見世物や小屋掛け芝
居のあつまる火除地や寺社の門前、河原などにあったので
ある。このように見世物は庶民にとって身近で手軽なもので
あった。
③
その当時の両国の風景を見てみると両国はすぐににぎわいをみせたのではなく、
元禄十六年(一七〇三年)の大火の後、火除地として川沿いに防火線がつくら
れ、橋手前に広小路ができたのがきっかけであった。寛保二年(一七四二年)両
国橋がかけかえられて宝暦ごろから賑わしくなりはじめ、安永、天明のころには
見世物小屋が立ちならび、江戸随一のにぎわいを示すようになった。
さらに両国は近くに浅草寺などの寺社があり人が集まる場所であったがもうひ
とつ近くに馬喰町の旅人宿が軒をならべ地方から江戸へ出てきた人間がみんな
ここへ泊まり、すぐ近くの両国へと見物の足をのばすのが江戸見物の手はじめ
であって、それが両国が繁栄するきっかけであった。
両国では東と西に分かれており西両国だけは将軍のお膝元であるとみなされ
て、因果物やイカサマ物などの興行がゆるされなかった。
また、西両国は小屋掛けなどについての条件がうるさく、興行が大がかりになる
にしたがって河岸を替えて東両国に集まりだし、文化文政のころには東両国の
ほうが一層にぎわいを見せるようになったのである。
④
次に見世物小屋の風景を見てみると江戸時代の見世物の
特徴のひとつは仮小屋で興行されていたことである。
見世物には興行地域を与えられず取払いを命じられるため
にいつでも取払える小屋で興行をしなければいけなかった
のであった。
しかし、このような興行は、一見不便そうにも思われるが、
見物人にとってはこの仮小屋はいかにも庶民的で気軽に出
入りできる良さが見世物を江戸時代のいちばん大きな民衆
娯楽にした一因でもある。
⑤
見世物の中でも呼び込み口上が民衆の楽しみのひとつで
あった。
面白おかしくはやしたて、あるいはしんみりと因果を説く、こ
のような口上で人々の足を止め、耳をかたむけさせることに
より見世物小屋へと興味をさそい出すのである。
また、見世物小屋の入場料は高くはなく中には入場料をと
らない所もあった。
そういった入場料をとらない所は演技中に見物人から銭を
もらいにくるのである。
⑥
見世物にはイカサマがつきものであり人の好奇心をひき
つけるためには、珍しいものをごまかしてネタづくりすること
があった。
このイカサマにも種類があって、ひとつは評判の高いほか
の見世物をつくりもので真似をするものと、大蛇、河童など
をつくってみせるイカサマ物である。
しかし、こうしたイカサマの見世物を見て人々はうまくはめら
れたと思い、見る方が心得ている場合が多く、イカサマも見
世物としての楽しみのひとつであった。
⑦
両国などの盛り場以外にも寺社でも開帳の見世物として人
を集めていた。
当時の人々はそれほど信仰心が厚かったわけではないが、
来世への不安や病苦災難を退散し富貴を願う現世利益へ
の思いから、この開帳を見に足を運んでいたのである。
しかし、その開帳は造り物でできたもので開帳が盛んになる
とさまざまな細工の名人が造り物を作っていた。
たとえ開帳の見世物が造り物であっても庶民にとっては参
詣半分、見物半分で開帳を娯楽のひとつとしてにぎわせて
いたのである。
⑧
このように、江戸時代では娯楽は庶民にとって最高のたの
しみであって、イカサマの見世物であっても、造り物の見世
物であっても、庶民にしてはそれも
また見世物の醍醐味として受け入れられているのである。
このことから、江戸時代の庶民の気質はいかにおおらかで、
イカサマでも受け入れられるぐらいのユーモアが当時の庶
民の人々にはあったのである。
また、いかに金をかけずに楽しむかということが庶民にとっ
ては重要であって、盛り場があることによって庶民にしては
そこが一番の娯楽なのである。
第3章
その後の見世物小屋
①
江戸時代からの見世物小屋は明治ぐらいあたりからサーカスとして姿を
変えていくのであるが動物の見世物もサーカスの演目の一つとして残っ
ていくのである。
まず、サーカスとして始まった事については、サーカスは、西洋人の見
世物が日本へ来日してきたのは元治元年(一八六四年)に初めてアメリ
カのリズリー・サーカスが横浜に来日して、二回目は明治四年(一八七
一年)にフランスのスリエ曲馬団が来日し、三回目は明治十九年(一八
八六年)にイタリアから来たチャリネ曲馬団が来日し、猛獣を含むサーカ
ス興行をしているのである。
また、チャリネ曲馬団は明治二十二年(一八八九年)に再度来日して、
西洋曲馬といえばチャリネと言わしめるほどの大きな反響を残し、以降
はサーカスをチャリネと呼ぶ人もあった。
②
そして、日本でもサーカスの一座が発足し、まず、日本
チャリネ一座が明治三十二年(一八九九年)に登場した。
日本チャリネ一座は、大阪千日前の興行師、山本政七が太
夫元(所有者)で、日本チャリネ一座を組織して、東京麹町
平河天神社内で興行をしたのである。
その次に登場したのが益井商会興行部であり、明治四十年
前後に益井喜蔵が運営をし、明治末から大正にかけて益井
商会興行部は、益井サーカス、大竹サーカス、柿岡サーカ
スといわれるようになり、これらが日本の近代サーカスの基
盤を創りあげた。
しかし、これらのサーカスの一座は新しい一座がさらにユ
ニークな芸をするたびに衰退していくのである。
③
日本チャリネ一座や益井商会興行部などは、曲芸から始まった一座で
あるが動物見世物から始まったところがあった。
それは、矢野サーカスの前身である矢野巡回動物園である。
矢野巡回動物園は一八九〇年代半ばに、矢野岩太が創立し、香川県
を拠点にヤマネコ一匹の見世物から始まったのだった。
矢野動物園を本格的にするために、矢野岩太は、ライオンを買い付ける
ためにドイツ行きを決意して神戸まで行くが、中田和平という動物商の
紹介で、ベルグマン商会を経て、ハーゲンベック動物園からライオン購
入の商談がまとまり渡航しなくても、輸入できるようになり、このライオン
によって、矢野巡回動物園は大当たりするのである。
それは、明治四十年(一九〇七年)の話で、それまでの矢野巡回動物園
は、ヒョウや虎などを購入して、本格的な動物園へとしてきたが、ドイツ
から来たライオンにより全国で人気が出て、当時の人々もライオンをい
ままで見た人が少なく、誰も疑う人はいなかったのである。
このライオンの人気によって矢野巡回動物園は第二の動物園を組織し
て、日本列島を二手に分けて巡回していくのである。
④
第二の動物園の方は、矢野岩太の甥にあたる矢野庄太
郎が館主としてまかされ、本部の動物園と区別するために
動物館という名称にして、看板の猛獣にキリマンジャロ産の
ライオンがいたのであったがこの二つの巡回動物園が存在
したのは、明治四十二年初めから、四十五年頃までのよう
だった。
この、明治四十二年から四十五年の間に本部の動物園の
方は朝鮮へ渡って興行をしたとされ、第二の動物園の方は
長崎の出島などで興行をしたがその他に関する資料が残っ
ていないのである。
そして、大正五年(一九一六年)に矢野巡回動物園のサー
カス部門をスタートをさせる。
⑤
この矢野巡回動物園のサーカス部門は、矢野サーカスと
して活動し、初代団長に第二の動物園の館主であった矢野
庄太郎であり、彼を団長に置いたのは、木下サーカスの団
長で庄太郎の兄である木下唯助であった。その後、矢野巡
回動物園は矢野岩太が大正十五年(一九二六年)五月七
日にこの世を去ったために木下唯助、矢野庄太郎の長兄の
金助が動物園を継ぐことになるが動物の死など不運が重
なった矢野巡回動物園は昭和三年(一九二八年)に解散し
てしまったのである。残った矢野サーカスの方は戦後になっ
て徐々に衰退の道を歩み平成八年(一九九六年)に八十年
の歴史に幕を下ろした。
⑥
このようにサーカスが繁栄と衰退をくり返して現在まで続い
ているのである。
江戸時代から続いた見世物小屋もこうしてサーカスへと変
化していくのには西洋からきた見世物の文化が日本の見世
物の文化と融合したということが重要であったのである。
リズリー・サーカスから始まって、スリエ、チャリネといった、
西洋の見世物が日本へ来日してきて、見世物がサーカスへ
と発展していく一方でそれまでの古い形の見世物が衰退し
ていくというメリットもあったが、それは人々の関心がつねに
新しい物を求めているため、しかたないのである。
しかし、サーカスはこうした苦労や努力によって、やっと今
の形のサーカスを作り上げ、現在でも残っている、木下サー
カスやキグレサーカスが今でも活躍していけるのであろう。