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マザーテレサ
群馬医療福祉大学 看護学部
氏名 ○○ ○○
提出日 平成24年
マザーテレサとは
本名はアンティゴナ・ゴンジャ・ボヤジ(アグネサ)という。
1910年8月26日-1997年9月5日
カトリック教会の修道女にして修道会「神の愛の宣教者
会」の創立者である。
マザーテレサの歩み
12歳 将来、インドで修道女として働きたいという望みを
もっていた。
18歳 聖座の許可を得て、故郷を離れ、ロレト修道女会
に入ってカルカッタ(現・コルカタ)へと赴くことになる。基
礎教育を受ける修練女としてインドのダージリンに赴いた。
初誓願の時、選んだ修道名がテレサであった。
1937年 終生誓願を宣立し、以後シスター・テレサと呼
ばれることになる。
1929年から1947年 カルカッタの聖マリア
学院で地理を教えていた。
1944年 校長に任命されている。上流階級
の子女の教育にあたりながら、テレサの目に
はいつもカルカッタの貧しい人々の姿が映っ
ていた。
1948年、ようやく修道院外居住の特別許可が
得られ、修道院を出て、カルカッタのスラム街
の中へ入った。インド女性の着る質素なサ
リーを身にまとい、手始めに学校に行けない
ホームレスの子供たちを集めて街頭での無料
授業を行うようになった。
さまざまな施設の創立
1950年から修道会設立の許可を得た。これが「神の愛の
宣教者会」である。テレサによれば、同会の目的は「飢え
た人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、
必要とされることのないすべての人、愛されていない人、
誰からも世話されない人のために働く」ことであった。テレ
サは修道会のリーダーとして「マザー」と呼ばれるように
なる。
インド政府の協力でヒンズー教の廃寺院をゆずりうけたテ
レサは「死を待つ人々の家」というホスピスを開設した。以
降、ホスピスや児童養護施設を開設していく。
テレサの活動は認めれらた
1971年 教皇・パウロ6世は自らが制定した勲章「ヨハネ
23世教皇平和賞」の最初の受章者としてテレサを選んだ。
これを機に多くもの賞がテレサに与えられることになる。
ケネディー賞(1971年)、アルベルト・シュバイツアー賞
(1975年)、アメリカ合衆国大統領自由勲章(1985年)、ア
メリカ合衆国名誉市民(1996年)、議会名誉黄金勲章
(Congressional Gold Medal、1997年)、これらにくわえて
数多くの大学の名誉学位を受けた。アメリカ合衆国名誉
市民としては5人目、またアメリカやその同盟国の政治
家・軍人以外としては初めての授与である。
最も有名なのが
ノーベル平和賞である
1979年に受けたノーベル平和賞である。テレサは授賞式
の際にも特別な正装はせず、普段と同じく白い木綿のサ
リーと皮製のサンダルという粗末な身なりで出席した。賞
金19万2000ドルは全てカルカッタの貧しい人々のために
使われることになった上、授賞式の場においては、「私の
ための晩餐会は不要です。その費用はどうか貧しい人々
のためにお使い下さい」とも要望した。賞金を受け取った
時、「このお金でいくつのパンが買えますか」と言ったとい
う。インタビューの中で「世界平和のために私たちはどん
なことをしたらいいですか」と尋ねられたテレサの答えは
シンプルなものであった。「家に帰って家族を愛してあげ
てください」。
晩年と死
1983年 高齢のテレサはローマで心臓発作に見舞われ、1991年
にはペースメーカーをつけた。テレサは健康状態を理由に総長
の辞任を願い出たため全会員による無記名投票が行われた。
結局賛成票を投じたのはテレサ本人だけであとはすべて反対で
あったため、彼女は総長に留任することを同意した。
1997年4月 テレサは転倒して首の骨にひびが入り8月にはマラ
リアに罹患した。すでに心臓の状態が悪化していたため、総長
職は1997年3月に退いていた。1997年9月5日、世界が見守る中、
テレサは87年の生涯を終えた。
テレサが亡くなったとき「神の愛の宣教者会」のメンバーは4000
人を数え、123カ国の610箇所で活動を行っていた。活動内容は
ホスピス、HIV患者のための家、ハンセン病者のための施設(平
和の村)、炊き出し施設、児童養護施設、学校などである。