特集 コ 都市人類学の再構築 - 慶應義塾大学学術情報リポジトリ(KOARA)

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鈴木榮太郎論 : 「辺境」の位座からみた社会学原理の構築
阿久津, 昌三(Akutsu, Shozo)
三田社会学会
三田社会学 (Mita journal of sociology). No.10 (2005. ) ,p.67- 80
Journal Article
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AA11358103-200500000067
特 集:都 市 人 類 学 の 再構 築
鈴 木 榮 太 郎 論
「
辺 境 」 の 位 座 か らみ た社 会 学 原 理 の構築
阿久津
1.は
昌三
じめ に
鈴 木 榮 太 郎 は 、『日本 農 村 社 会 学 原 理 』 『都 市 社 会 学 原 理 』 『国 民 社 会 学 原 理(遺 稿)』 と い う三
っ の 社 会 学 原 理 を 構築 し よ う と し た こ とは 周 知 の 事 実 で あ る 。 鈴 木 榮 太 郎 の 社 会 学 原 理 は 、 社
会 学 で は 「農 村 」 「都 市 」 「国 民 」 と い うテ ー マ 別 に 、 農 村 社 会 学 、 都 市 社 会 学 、 政 治 社 会 学 と
い う領 域 社 会 学 に よ っ て 学 説 史 的 に 検 討 され る の が 一 般 的 で あ る。 しか しな が ら、 鈴 木 榮 太 郎
が 「農 村 」 「都 市 」 「国 民 」 の 三 層 構 造 に お い て 総 合 的 な 社 会 学 理 論 の 体 系 化 を 図 ろ う と し た こ
と は 論 じ られ て い な い 。
鈴 木 榮 太 郎 は 、1947(昭 和22)年
に 北 海 道 大 学 法 文 学 部 教 授 に 就 任 す る が 、そ の 年 に 行 っ た 「社
会 学 概 論 」 の 講義 内 容 が 『社 会 学 概 論(遺 稿)』(北
海 道 大 学 法 文 学 部 社 会 学 講義 集 録)と して 残
され て い る 。 こ れ は 、 斉 藤 兵 市 が 講 義 を 筆 記 して 、 笹 森 秀 雄 が1981年
で あ る 。 こ の 章 立 て は 、第1章
第4章
「緒 論 」、第2章
「社 会 本 質 論 の 問 題 性 」、 第5章
立 の 条 件 」、 第3節
「社 会 学 の 対 象 」、第3章
「社 会 統 一 体 の 成 立 」(第1節
「
社 会 的 結 合 」、 第4節
に20部
コ ピー した も の
「社 会 科 学 と社 会 学 」、
「
序 説 」、 第2節
「
結 合 の 組 織 化 の 過 程 」、 第5節
「
結合成
「行 動 雛 型 と社 会 意
識 」)か ら な る 。 こ れ が 出 版 され た な ら ば 、 高 田 保 馬 の 『社 会 学 概 論 』(岩 波 書 店 、 初 版1922
年 、 改 訂 版1950年)、
戸 田 貞 三 の 『社 会 学 概 論 』(有 斐 閣 、1952年)と
と も に 、 『社 会 学 概 論 』
の 三部 作 が 世 に 出た こ とに な る。
高 田 保 馬 は 鈴 木 榮 太 郎 よ り も11歳
年 長 、戸 田 貞 三 は 鈴 木 よ り も7歳
年 長 で あ る が 、鈴 木 榮 太
郎 は 『日本 農 村 社 会 学 原 理 』 の 「序 」 で 「戸 田 先 生 は 日本 社 会 の 実 言
登的 研 究 者 と し て 何 人 も 其
権 威 を 認 む る と こ ろ で あ る が 、 私 は 敷 年 來 先 生 の 験 尾 に 附 し調 査 研 究 を 共 に す る の 幸 を 得 て 居
る。 私 は 高 田保馬 先生 に は直 接 に 師 事す る の機 會 は 得 な かつ たが 、 著 書 を通 じて私 を教 え た学
者 と して 高 田 先 生 の 如 く私 を 啓 発 す る と こ ろ 多 き 人 は 外 に は な い 」(時 潮 社 、1940年)と
述べて
い る 。 鈴 木 榮 太 郎 が 、 高 田 保 馬 、 戸 田 貞 三 とい う同 時 代 の 社 会 学 者 の 影 響 を 受 け た こ と は 事 実
で あ ろ う。 しか し 、 本 稿 は 、 高 田保 馬 、 戸 田 貞 三 、 鈴 木 榮 太 郎 の 『社 会 学 概 論 』 を 比 較 検 討 し
よ うとす る もの で は な い。
本 稿 で は 、 三 つ の 社 会 学 原 理 が ど の よ うに 構 築 され た の か を 鈴 木 榮 太 郎 の 足 跡 を た ど る こ と
に よ っ て 検 討 す る こ と が 課 題 で あ る。 つ ま り、 鈴 木 が た ど っ て き た 足 跡 一 壱 岐 、 対 馬 、 東 京 、
京 都 、 岐 阜 、 京 城 、 札 幌 、 東 京 と い う場 所 性 一 中 心 と周 縁 の 関 係 の な か で 一 鈴 木 榮 太 郎 の 社 会
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三 田 社 会 学 第10号(2005)
学 原 理 が どの よ うに構築 され るの か を鈴木 を と りま く人脈 の な か で検 討 す る こ とが課 題 で あ る。
2。 鈴 木 榮 太 郎 の 学 譜
鈴 木 榮 太 郎 は 、1894(明 治27)年 に 、 長 崎 県 壱 岐 郡 郷 ノ 浦 町 に 生 ま れ た1)。 対 馬 厳 原 中 学 、 第
一 高等 学 校 を卒 業 後 に
、東 京 帝 国 大 学 文 学 部 に 入 学 す る。在 学 中 に は 、建 部 遜 吾 が 主 宰 す る 『日
本 社 会 学 院 年 報 』 に 「国 際 連 盟 に 対 す る 北 米 合 衆 国 の 真 意 」 「米 国 戦 後 の 軍 隊 」 「産 業 的 温 情 の
実 験 各 種 」(第7年
、1920年)、
「
社 会 実 測 社 会 学 」 「旬 牙 利 の 近 情 」 「基 督 教 と産 業 」 「国 際 主 義
に 対 す る 心 理 学 的 側 面 」(第8年
鈴木榮太郎は
、1921年)を
「日本 の コ ン ト」(「
発 表 して い る2)(第1期
「東 京 帝 国 大 学 の 時 期 」)。
トン ゴ」)を 自 称 して い た 建 部 趣 吾 と反 りが あ わ な く な り、
卒 業 を 目 前 に し て 社 会 学 か ら 倫 理 学 に 移 籍 す る。
1922(大 正11)年
に 、京 都 帝 国 大 学 大 学 院(社 会 学 専 攻)に 入 学 し 、米 田 庄 太 郎 に 師 事 す る 。 蔵
内 数 太 、 田 辺 寿 利 、 秋 葉 隆 た ち と発 足 し た 東 京 社 会 学 研 究 会3)で は 、 英 国 社 会 学 の 理 論 に 関 心
を し め して 、1924(大
正13)年
に 、J・S・
ミル の 学 説 に つ い て 研 究 発 表 を 行 っ て い る 。 こ の 年
に 、 ホ ブ ハ ウ ス の 『国 家 の 形 而 上 学 的 学 説 』(不 及 社)を 翻 訳 して い る(第II期
「
京都帝国大学の
時 期 」)。
1925(大 正14)年
に 、岐 阜 高 等 農 林 学 校(現 在 の 岐 阜 大 学 農 学 部)教 授 に 就 任 す る 。 倫 理 学 と独
逸 語 を 教 え る こ と に な る 。 これ は 文 部 省 の 督 学 官 で あ っ た 山 内 雄 太 郎 の 推 薦 に よ る も の で あ っ
た4)。 米 田 庄 太 郎 の 饒 の 言 葉 に した が っ て 鈴 木 は 農 村 社 会 学 の 研 究 に 励 む こ と に な る。 英 米 の
農 村 社 会 学 を 精 力 的 に 読 み な が ら 『農 村 社 会 調 査 法 』(刀 江 書 院 、1932年)、 『農 村 社 会 学 史 』(刀
江 書 院 、1933年)を
ま と め て い る 。 こ れ らの 研 究 成 果 は 『日本 農 村 社 会 学 原 理 』(時 潮 社 、1940
年)と し て 体 系 化 され る 。
鈴 木 榮 太 郎 に は、 社 会 学 関係 の論 孜 以 外 に も、木 曽川 や 長 良 川 な どの流 域 調 査 に も とつ い た
も の や 、 民 族 学 や 民 俗 学 の 学 問 領 域 か ら執 筆 され た 論 孜 が あ る。 特 に 、 後 者 に っ い て は
郡 粥 川 部 落 に お け る鰻 に 関 す る 俗 信 と トー テ ム 」(『 各 務 時 報 』 第37号
的 重 要 性 と 美 濃 飛 騨 の 峠 」(『 雷 鳥 』 第2号
15号 ∼ 第17号
、1932年)、
、1930年)、
第2号
1935年)、
、1935年)、
、 「峠 の 社 会
「東 北 と こ ろ ど こ ろ 」(『 郷 土 科 学 』 第
「水 無 ケ 原 縁 起 」(岐 阜 高 農 創 立10周
「
飲 食 を 強 い る 慣 習 の こ と 」(『 読 売 新 聞 』1935年1月18日)
第1巻
、1929年)
「
郡上
年 記 念 『各 務 時 報 』、1934年)、
、 「屋 敷 神 考 」(『 民 族 学 研 究 』
「血 縁 に 関 す る 二 つ の 方 面 」(東 京 社 会 学 会 編 『社 会 学 研 究 』1輯
「
農 村 に 於 け る 通 婚 地 域 に 就 い て 」(『(年
報)社 会 学 』 第3輯
、1935年)、
、
「郷 土 史 家
の 不 安 」(『 読 売 新 聞 』1936年1月15日)
「
氏 子 集 団 の 研 究 」(『(年 報)
慣 習 」(『 富 民 』 第11巻1∼2号
、 「オ ジ 村 の 話 」(『 大 阪 朝 日新 聞 』1937年1月3日)、
社 会 学 』 第5輯
秋 季 号 、1938年)、
「農 村 に お け る 労 力 交 換 の
、1939年)、
と 日本 農 村 社 会 学 」(『 民 族 学 研 究 』 第6巻
聞 』 第872号
、1941年10月)、
「
社 会 人 類 学 上 と し て の エ ン ブ リー 氏 の 『ス エ 村 』
第3号
、1940年)、
「
美 濃 の 山 村 」(『 雷 鳥 』 第3号
俗 学 と き わ め て 接 近 し て い た こ と が わ か る。
68
「宮 座 に つ い て 」(『 帝 国 大 学 新
、1941年)な
どで あ る。 柳 田 民
特 集:都
市人類学の再構築
鈴 木 榮 太 郎 は 、 日本 民 俗 学 の 創 始 者 の 柳 田 國 男 と の 出 会 い を 次 の よ うに 語 っ て い る 。
「
柳 田先 生 の 御 葬儀 の 時 、青 山斎 場 の休 憩 室 で有 賀 喜 左 衛 門君 、 喜 多 野 精 一 君 、 大藤 時彦
君 、 関 敬 吾 君 等 と一 つ の テ ー ブ ル を 囲 ん で 先 生 の 事 な ど 話 して い た 時 、 〈あ ん た は 先 生 に は
何 時 頃 か ら近 づ い て 来 た の か 〉と云 っ た の は 有 賀 君 で あ っ た と 思 う。 〈た しか 四 谷 あ た りの 古
い 大 き な 侍 屋 敷 に 住 ん で い られ た 頃 伺 っ た こ と を 記 憶 して い る 〉と 云 っ た ら 、 〈あ の 頃 か ら知
っ て い る 人 は も うそ ん な に 多 く な い だ ろ う〉と 云 っ た 」5)。
鈴 木 榮 太 郎 は 、岐 阜 高 等 農 林 学校 教 授 に就 任 した 後 に 、 草葉 栄 喜 の懲 愚 と指 導 、奥 田或 、岡
村 精 次 との 交 流 に よっ て農 村 社 会 学 を始 め る とと もに 、柳 田 國男 を 中心 とす る民俗 学 に接 近 し
て い る。 欧 米 の農 村 社 会 学 の 理 論 を 学ぶ と ともに 社 会調 査 を実 施 しな が ら農 村 社 会 学 を体 系 化
して い った。 ま た 、エ ン ブ リー の 『スエ 村 』 の 書 評 の な か で 「
社 会 人類 学 は私 らが 日本 農 村 社
会 学 の名 に お い て 考 え て い る もの と きわ め て近 縁 な もの で あ る 」6)と 述 べ て い る。 これ は 、鈴
木 榮 太 郎 と社 会 人 類 学 との 出会 い とも解 釈 す る こ とが で き る(第 皿期 「
岐 阜 高 等 農 林 学校 の 時
期 」)。
鈴 木 榮 太 郎 は、1942(昭 和17)年 に京 城 帝 国 大 学助 教 授 と して 朝鮮 に赴 任 す る。 この経 緯 につ
い て は、 蔵 内 数 太 が 「
若 き時 代 の 鈴 木 榮 太郎 」 の なか で 次 の よ うに 語 って い る。
「京 城 の 社 会 学 の 教 授 は 秋 葉 隆 君 で あ っ た が 、 夏 の 或 る 日 、 当 時 福 岡 に い た 私 の 宅 に 秋 葉
君 がや って 来 て 、 この た び社 会 学 の 助教 授 が採 用 出 来 る こ とに な った の で 、 人選 につ い て話
を 聞 い て 欲 しい と い う。 話 を して い る 間 に 数 名 の 名 前 が 上 っ た が 、 彼 は っ ぎ に 岐 阜 に 立 ち 寄
っ て鈴 木 君 の 意 見 を 聞 くのだ とい って 出 て行 った 。 其 後帰 任 の 途 中 で あ っ た か 、 ま た私 の と
こ ろ に 来 て い うに は 、 岐 阜 で 鈴 木 君 と話 し て い る と 、 突 然 同 君 よ り く秋 葉 さ ん 私 を 採 用 し ま
せ ん か 〉と言 い 出 し た の で 、 余 り話 が 旨 す ぎ て 一 寸 不 審 な 気 持 ち が し た が 、 ほ ん と う の 意 向
で あ り、 そ こ で 願 っ て も な い 結 果 に な っ た と い う。 秋 葉 君 に して み れ ば 当 時 す で に 農 村 社 会
学 の 大 家 で あ っ た 鈴 木 君 を 京 城 ま で 一 助 教 授 と して 招 く こ と は 不 可 能 で あ る と の 前 提 で 話
を し て い た の で 、驚 くや ら嬉 しい や ら で 、即 座 に 鈴 木 君 を 迎 え る こ と に した と い うの で あ る 。
形 は 自薦 で あ る が 、 そ の と き の 鈴 木 君 の 心 塊 も私 に は 分 か りす ぎ る位 よ く 分 っ た 。 こ れ を 伝
え る と き の 秋 葉 君 の 得 意 な 口調 は 、 福 岡 南 郊 の 夏 の さ わ や か な 風 と と も に 、 い ま も私 の 脳 裡
に 鮮 か に よ み が え る 」7)。
鈴 木 榮 太郎 の
「心 境 」 が い か な る も の で あ っ た の か は 推 測 に な っ て し ま う の で 述 べ な い が 、
京城 帝 国 大 学 で は
「
朝 鮮 農 村 社 会 瞥 見 記 」(『 民 族 学 研 究 』 第1巻
農 村 社 会 集 団 に つ い て 」(朝 鮮 総 督 府 『調 査 月 報 』 第14巻
の 農 村 」(東 亜 社 会 研 究 会 編 『東 亜 社 会 研 究 』 第1輯
69
第1号
、 第9、11、12号
、1943年)、
、1943年)、
、1943年)、
「朝 鮮 の
「朝 鮮
「湖 南 農 村 調 査 野 帳 抜 書 」(『 朝
三 田 社 会 学 第10号(2005)
鮮 』353号
、1944年10月)、
『朝 鮮 農 村 社 会 踏 査 記 』(大 阪 屋 号 書 店 、1944年)な
どを ま とめ て
い る 。 著 作 集 で は 『朝 鮮 農 村 社 会 の 研 究 』 と い う題 名 で 収 録 され て い る 。 鈴 木 榮 太 郎 は 、 「道 」
「
郡 」 「面 」 「里 」 「
洞 」の行 政 地 域 区分 の最 後 の最 小 単位 で あ る 「
洞 」 につ いて 人 類 学 的 な意 味
で の機 能 主 義 的 な 視 点 か ら次 の よ うに分析 して い る。
「山神 堂 を共 同 維 持 崇敬 す る祭 祀 体 を組 織 して い る事 、 自治 的機 関 と して 洞 中契 を組 織 し
て い る事 、 共 同 奉 仕 作 業や 洞 宴 が あ る事 、 共 同 労働 組 織 と して ツ レを組 織 して い る事 、洞 に
総 有 の 財 産 が あ る事 等 に よっ て 、 少 な く と も屯 山 洞 は 一 つ の村 落 共 同 体 を構 成 して い る」
(『朝 鮮 農 村 社 会 瞥 見 記』)。
朝鮮 総 督 府 の行 政 再 編 成 に よっ て 、郡 も面 も 旧来 の もの が統 合 再編 成 の な か で拡 大 され て 、
い くっ か の 旧 洞 を 含 ん だ 里 が 総 督 府 に と っ て 行 政 単 位 と し て き わ め て 重 要 で あ り、日本 式 の 「部
落 」 と い う 呼 称 で 呼 ば れ て い る こ と を 発 見 して い る こ と は 、 鈴 木 榮 太 郎 が 「自然 村 」 の 概 念 を
再 認 識 し た とい う意 味 で も 重 要 で あ る 。 以 下 に 引 用 す る よ う に 、 ま さ に 朝 鮮 は 、 シ カ ゴ 学 派 に
とって 都 市 が
「実 験 室 」 で あ っ た よ う に 、 鈴 木 榮 太 郎 に と っ て 農 村 は 「研 究 室 」 で あ っ た 。
「こ の4月 か ら朝 鮮 に移 り住 む 事 にな っ た 時 、私 は これ か ら 自分 の 直接 の 研 究 事 項 を あれ
や これ や と考 えた の で あ るが 、そ れ らの い ずれ の 問題 に対 して も朝 鮮 の 農 村 は も っ と も多 く
私 の 研 究材 料 を蔵 して い る とこ ろで あ る と思 っ た。 私 は 必ず し も農 村 社 会 学 とい うよ うな形
で私 の これ か らの研 究 を統 一 しよ うと思 うの で は ない の で あ る けれ ども、 や は り農 村 が私 に
は これ か らで も も っ と も親 しむべ き研 究 室 で あ る よ うで あ る」(『 朝鮮 農 村 社 会 瞥 見 記』)。
鈴 木 榮 太 郎 は 、1945(昭
の な か に は 「特 別 の 本2冊
和20)年11月
に敗 戦 で 京城 を 引揚 げて 帰 っ た 時 に 、 リュ ックサ ッ ク
の 外 に 数 冊 の ノ ー ト(大 正14年
と 著 書 お よ び 論 文 の 目録1冊)」8)を
以 来 書 込 ん で い る 「旅 行 日誌 」3冊
も っ た だ け で 蔵 書 な ど の 資 料 を す べ て 失 っ た 。 鈴 木 は 、京
城 か ら引 揚 げ 後 に 伊 豆 の 山 村 に 生 活 す る 日々 を 過 ご す 。1946(昭 和21)年
学 博 士 の 学 位 を 授 与 さ れ る。 そ の 年 にGHQの
民 間 情 報 教 育 部(CIE)の
に 東 京 帝 国 大 学 よ り文
世 論 及 び 社 会 調 査部
に 勤 務 す る 。 戦 前 か ら 調 査 経 験 の あ る 社 会 学 、 民 俗 学 、 人 類 学 、 地 理 学 等 の 研 究 者 がCIEに
結 衆 した こ と(喜 多 野 精 一 、 小 山 隆 、 関 敬 吾 、 竹 内 利 美 な ど)、 ま た 、 ア メ リカ か ら の 新 し い 学
問 一 特 に 、都 市 社 会 学 が 直 輸 入 され た こ と は 重 要 で あ る(第IV期
鈴 木 榮 太 郎 は 、1947(昭
和22)年
別 講 義 を 開 講iす る の は1951(昭
で あ る 。 こ の 時 期 に は 「『生 活 白 書 』 の 構 想 」(『 総 合 開
の 設 定 』(北 海 道 総 合 開 発 委 員 会 事 務 局 、1953年)、
第5号
、1954年)、
時 期 」)。
に 北 海 道 大 学 法 文 学 部 教 授 に 就 任 す る。 「
都 市社 会 学 」 の特
和26)年
発 』 「北 海 道 総 合 開 発 委 員 会 事 務 局 報 」1952年)、
第45巻
「
京 城 帝 国 大 学/CIEの
『北 海 道 に お け る 社 会 構 …
造 の研 究 一 社 会 地 区
「都 市 社 会 調 査 方 法 論 序 説 」(『 都 市 問 題 』
「北 海 道 だ よ り」(村 落 社 会 研 究 会 編 『村 落 研 究 の 成 果 と課 題 』、1954
70
特 集:都 市 人 類 学 の再 構 築
年)、 「聚 落 社 会 の 概 念 及 び 都 市 の 概 念 」(『 北 海 道 大 学 文 学 部 紀 要 』 第6号
、1957年
〉、 「
都市
社 会 調 査 法 ノ ー ト」(笹 森 秀 雄 と 共 著(遺 稿)な ど を発 表 し て い る。 最 終 的 に 『都 市 社 会 学 原 理 』
(1957年)、
『都 市 社 会 学 原 理
増 補 版 』(1965年)と
し て 体 系 化 され る(第V期
「北 海 道 大 学 文 学
部 の 時 期 」)。 さ ら に 、 北 海 道 大 学 文 学 部 を 定 年 退 職 前 後 か ら 「国 民 社 会 学 原 理 」 関 係 の 論 文 を
準 備 して い た こ と は よ く知 られ て い る(第VI期
3.三
「東 洋 大 学 の 時 期 」)。
つ の 社 会 学 原理 一 「
農村」「
都市」 「
国民」
社 会 学 関係 の論 評 で は 、鈴 木 榮太 郎 の 『日本 農 村社 会 学 原 理 』 『
都 市社 会 学 原 理 』 『国 民 社 会
学 原 理 ノー ト』が切 り離 され て 論 じられ る こ とが 多 い。鈴 木 榮 太 郎 の 学 譜 で も分 析 した よ うに、
『日本 農 村社 会学 原 理 』 は岐 阜 高 等農 林 学 校 の 時 代 に 体 系化 され た もの で あ る。 京 城 帝 国 大 学
法 文 学 部 の秋 葉 隆教 授 の招 聰 に よっ て朝 鮮 半 島 の 農村 調 査 が実 施 され 『朝鮮 村 落 社 会 の研 究 』
が ま とめ られ る。 ま た 、北 海 道 大 学 文学 部 の 時 代 に は 『都 市 社 会 学 原 理』 が体 系化 され る。 ど
ち らの モ ノ グラ フ も 「
農村 」 と 「
都 市 」 とい う限 定 詞 を冠 した 「
社 会学 原 理 」で あ るが 、「日本 」
とい う地域 限 定詞 を冠 して い るか ど うか に決 定 的 な違 い が あ る。 しか し、朝 鮮 半 島 を調 査 す る
こ とで 、日本 列 島 を越 えた 『農 村 社 会 学原 理 』を希 求 した もの と読 み と る こ とも で き るだ ろ う。
あ るい は 、社 会 学 、民 俗 学 、 民族 学 とい う超 学 問 的 な領 域 を希 求 した ともい え るだ ろ うか。
富永 健 一 は 、「
鈴 木 栄 太 郎 の社 会 学 理 論 」とい う論 文 の な か で 、『日本 農 村 社 会 学原 理』 と 『都
市社 会学 原 理 』 とい う二つ の 主 著 を と りあ げて 、「
原 理 」 とい う一般 理 論 を指 向す る強 い 語彙 を
表題 に もち い て い る こ とに 着 目 して い る(草稿 だ け に終 わ った第 三 の主 著 も 『国 民社 会学 原 理 』
で あ る。 著 作集 で は 『国民 社 会 学原 理 ノー ト』)。富 永 は 、鈴木 榮 太 郎 の 学 問 が 「
普 遍 的認 識 に
指 向 した命 題 定 立 的(命 題 の シ ステ ムが す な わ ち理 論 で あ るか ら 『命題 定 立 的』 と 『理 論 的 』は
同義)な 性 格 の もの で あ る」 と述 べ て い る。
ま た、 富永 は、 これ らの 二 つ の主 著 を と りあ げ て 、 「
農村」 と 「
都 市 」 とい う領域 指 定 が な さ
れ て い る と とも に、『日本 農 村 社 会 学原 理 』 には 「日本 」 とい う地域 的 限 定 が な され て い る こ と
に着 目 して い る。鈴 木 榮 太 郎 が 「
農村」「
都市」「
国 民 」 とい う領 域 指 定 を行 うこ とで 、 「
具体的
に調 査 し得 る もの 」 に 限 定 して 、 有 賀 喜左 衛 門 の石 神 村 調査 の モ ノ グ ラ フ とは 異 な り、 異 な っ
た地 域 か ら と らえ た数 個 の農 村 や 都 市 を調 査 対 象 と して 、理 念 型 と しての 農 村 と都 市 に 関す る
モ ノ グ ラ フ を創 造 した と解 釈 してい る9)。 さ らに 、 地域 的限 定 につ い て は 、 鈴 木榮 太郎 が 『日
本 農 村 社 会 学原 理』 『都 市社 会 学 原理 』 の 冒頭 の なか で 、 次 の よ うに述 べ て い る。
「日本 農 村 社 会 学 は 、社 会 学 上 の研 究 で は あ るが 、 それ が 日本 だ け に関 す る とい う意 味 に
お い て第 一 の限 定 が あ り、農 村 だ けに 関 す る とい う意 味 で 第 二 の限 定 が あ り、 ま た特 に 主 と
して現 時 に 中心 をお い て い る とい う意 味 に お い て第 三 の 限 定 を して い る。 か くて 日本 農 村 社
会 学 は 、現 時 の 日本農 村 にお け る社 会 的 事 実 に 関す る社 会 学 的研 究 で あ るが 、 そ れ は 現時 の
日本 の農 村 生 活 の社 会 的側 面 の全 般 的 ・基 礎 的 ・組織 的研 究 で あ る とい う意 味 にお い て体 系
71
三 田 社 会 学 第10号(2005)
的 で あ る 」(『 日本 農 村 社 会 学 原 理 』)。
「私 の 都 市 社 会 学 の 研 究 が 、 国 の 内 外 の 先 輩 諸 学 者 に 学 ぶ と こ ろ が 相 当 に 多 か っ た 事 は 当
然 で あ る け れ ど も 、 し か し私 の 研 究 に 最 も力 と な っ た の は 、 私 の 教 室 の 助 手 と 学 生 達 で あ っ
た 。 私 の こ の 研 究 は 、 全 く そ れ ら の 諸 君 との 協 力 に よ っ て 完 成 し た も の で あ る。 私 の 二 人 の
助 手 笹 森 秀 雄 君 と 富 川 盛 道 君 が 、 私 の 手 と な り足 と な り、 私 自身 が 試 み る よ り も も っ と活 発
に 正 確 に 調 査 し て くれ な か っ た ら、 こ の 研 究 は と て も成 就 で き な か っ た も の で あ る 」(『 都
市 社 会 学 原 理 』)。
鈴 木 榮 太郎 の学 問 は、 「
農 村 」「
都市」「
国民 」 とい う領 域 を設 定 して社 会学 原 理 を構 築 しよ う
と した。 特 に 、国 民 社 会 学 原理 の構 築 は、 第1期
「
東 京 帝 国 大 学 の 時期 」 か ら第V期
「
北海 道
大 学 文学 部 の時 期 」 とい う循 環 の なか で 、 第1期
「
東 京 帝 国 大 学 の時 期 」 と第II期
「
京都帝国
大学 の時 期 」 の原 点 に も どっ た と見 る こ とが で き る。 そ の最 も影 響 をあ た え た 同 時代 の社 会 学
者 に は高 田保 馬 が い るこ とは最 初 に と りあ げた と ころ で あ るが 、 それ だ け では ない だ ろ う。
4.秋
葉 隆 と泉 靖 一 一 京 城 帝 国 大 学 の 学 問
坪 井 幸 生 は 、1936(昭 和11)年
に京 城 帝 国 大 学 法 文学 部 法 科 を卒業 して い るが 、 当時 の京 城 帝
国 大 学 に は 「文 科 に は 哲 学 科 の 安 倍 能 成 、 宮 本 和 吉 、 上 野 直 昭 、 支 那 文 学 の 藤i塚 隣 、 辛 島 尭 、
国文 学 科 の 高 木 市 之助 、麻 生 磯 次 、 時 枝誠 記
(中 略)
法 科 で も法 理 学(法 哲 学)の 尾 高 朝 雄 、
憲 法 の 清 宮 四 郎 、 ロー マ 法 の 船 田 享 二 、 経 済 学 の 鈴 木 武 雄 な どの,,..々た る 教 授 陣 が い た 」 と 回
想 して い る(『 あ る 朝 鮮 総 督 府 警 察 官 僚 の 回 想 』 草 思 社 、2004年)。
この外 に も、京城 帝 国大 学
に は 鈴 木 榮 太 郎 を 招 聰 す る こ と に な る 秋 葉 隆 が い た 。 そ し て 、『朝 鮮 巫 俗 の 研 究 』 の 秋 葉 と の 共
著者 で もあ る宗 教 学 の 赤松 智 城 もい た。
秋 葉 隆 は 、1921(大 正10)年
に 東 京 帝 国 大 学 文 学 部 本 科(社 会 学)を 卒 業 して い るlo)。翌 年 に 東
京 社 会 学 研 究 会 を 蔵 内 数 太 、 田 辺 寿 利 と発 足 させ た こ と は す で に 述 べ た 。1924(大
正13)年
に大
学 院 を 退 学 して 、 発 足 間 も な い 京 城 帝 国 大 学 予 科 講 師 に 就 任 す る。 同 年 よ り社 会 学 と 民 族 学 を
学 ぶ た め に 、 フ ラ ン ス 、 ドイ ツ 、 イ ギ リ ス 、 ア メ リカ に 留 学 した 。 特 に 、 ロ ン ドン 大 学 に 留 学
中 に マ リ ノ フ ス キ ー の 影 響 を 受 け た 。 秋 葉 隆 の 末 弟 子 に あ た る村 武 精 一 は 、 秋 葉 隆 の 炉 辺 談 議
を 次 の よ う に 述 べ て い る。
「先 生 が ヨー ロ ッパ に 留 学 され た と き(大 正13年
か ら 大 正15年
に か け て)、 ロ ン ドン の ブ
リテ ィ ッ シ ュ ・ ミュ ー ジ ア ム で しば し ば 調 べ も の を され た 先 生 は 、 博 物 館 内 の 研 究 者 用 特 別
室 で い っ も 早 く か ら遅 く ま で 熱 心 に 読 書 に 励 ん で い る ひ と りの 学 者 を 発 見 した 。 い っ 訪 ね て
も 同 じ場 所 、 同 じ 姿 勢 、 同 じ雰 囲 気 で あ っ た 。 そ の 人 がB・
マ リノ フス キ ー 教授 で あ っ た。
先 生 が マ リ ノ フ ス キ ー 教 授 に 直 接 問 わ れ て み る と 、 トロ ブ リア ン ド諸 島 に お い て 蒐 集 した 調
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特 集:都 市 人 類 学 の再 構 築
査 資 料 の 分 析 の た め に 、ひ た す らい ろ い ろ な分 野 、周 辺 諸 科 学 の 理 論 を 学 び検 討 してい る と
の こ とで あ っ た 」ll)。
マ リ ノ フ ス キ ー の 『西 太 平 洋 の 遠 洋 航 海 者 』12)が出 版 され た の が1922年
で あ る か ら 、秋 葉 隆
が ロ ン ドン 大 学 に 行 っ た の は そ の 直 後 と い う こ と に な る 。 こ こ で は 、 秋 葉 隆 の 業 績 に つ い て 記
述 す る こ とが趣 旨 で は ない。 京城 帝 国大 学 には 鈴木 榮太 郎 とも調 査 を す るこ とに な る泉 靖 一 と
い う文 化 人 類 学 徒 が 誕 生 す る こ と に な る 意 味 で あ る。 あ る い は 、 京 城 帝 国 大 学 と い う植 民 地 に
設 置 され た 帝 国 大 学 の 意 味 で あ る 。 京 城 帝 国 大 学 予 科 に 入 学 した 泉 靖 一 は 竹 中 要 教 授 た ち と 予
科 ス キ ー 山 岳 会 を 設 立 させ る が 、泉 靖 一 は 「孤 立 と後 進 性 の 悲 哀 」(梅 樟 忠 夫)1'3)を 味 わ う こ と
に な る 。 そ れ は 、1934(昭
和9)年
の 終 わ りか ら 翌 年 の は じ め に か け て の 、 今 西 錦 司 博 士 を 隊 長
とす る 、 京 都 帝 国 大 学 の 冬 期 白頭 山 遠 征 隊 の 来 訪 で あ る 。 つ ま り、 内 地 の 学 生 山 岳 連 盟 の 水 準
と比 較 し た 京 城 帝 国 大 学 の 後 進 性 で あ る。 さ ら に 、 こ れ は 泉 た ち の 済 州 島 で の 遭 難 が 決 定 的 な
もの とな った 。
「
私 は た だ ぼ ん や り と 国 文 学 科 に 席 を お い て 、 山 に ば か り登 っ て い た が 、 そ れ か ら さ き 、
ま え の よ う な 立 場 で お こ な え る 学 問 を し た い(中 略)ち ょ う どそ の こ ろ 、 京 城 帝 国 大 学 の 宗 教
学 ・社 会 学 研 究 室 の 赤 松 智 城 ・秋 葉 隆 の 両 先 生 が 、 朝 鮮 の シ ャ ー マ ニ ズ ム 巫 俗 の 実 態 調 査 に
よ る 研 究 を お こ な っ て い た(中 略)私 は 秋 葉 先 生 を 訪 ね て 、 社 会 学 を 専 攻 し た い と 、 お 願 い し
て み た 。 京 城 帝 国 大 学 の 法 文 学 部 で は 、 ま だ そ の こ ろ 社 会 学 は 独 立 の 学 科 で は な く、 倫 理 学
科 の うち の1コ
ー ス に す ぎ な か っ た 。 開 講iして10年
もた って い た が 、 専攻 の学 生 は 一 人 も
い な か っ た 。 秋 葉 先 生 は 、 私 が た ま た ま 済 州 島 で 遭 難 した の で 、 済 州 島 の 巫 俗 に 興 味 を も っ
て 、 社 会 学 を 専 攻 し よ う と して い る の で は な い か と 、 思 わ れ た よ うだ 。 そ れ も あ た りま え の
こ と で 、 事 実 は た しか に 先 生 の 心 配 に ち か か っ た の で あ る。
先 生 は 、マ リ ノ フ ス キ ー の 『西 太 平 洋 の 遠 洋 航 海 者 』 を 貸 して く だ さ っ て 、〈こ ん な の こ と
を 一 生 や る の で す よ 。 だ が 、 就 職 口 は ほ と ん ど な い で し ょ う。 い い で す か?〉 と つ け 加 え られ
た 。 私 は 、 分 厚 い 英 語 の 本 を も っ て 、 家 に 帰 っ た 。 お も て に で る と、 狭 い 京 城 の 日本 人 社 会
の こ と だ か ら、 済 州 島 で の 遭 難 に つ い て は 、 だ れ で も 知 っ て い た 。 そ して 、 ま る で 心 中 の か
た わ れ を み る よ うな 視 線 が 、 私 の 背 後 を 迫 っ た 。 私 は 家 に 閉 じ こ も っ て 、 こ の 本 を 読 み ふ け
っ た が 、 西 太 平 洋 の 原 住 民 の 生 活 に 、 あ や し い ま で に ひ き つ け られ た 。 も し、 私 に お な じ よ
う な 機 会 が あ た え られ た ら、 ど う し よ う
そ ん な幻 想 に も とらわれ た。 済州 島の 人
び と の 生 活 を 、こ ん な 角 度 か ら描 き だ す こ と が で き れ ば 、素 晴 ら し い に ち が い な い 。そ れ に 、
野 外 調 査 を 方 法 とす る 学 問 は 、 文 献 に ひ き ず りま わ され る 学 問 に く らべ る と 、 性 に 合 っ て い
る よ うだ 。 山 登 り と 、 両 立 す る か ら で あ る 。
秋 葉 先 生 を ふ た た び お 訪 ね して 、私 は 素 直 に 自 分 の 考 え を 述 べ た 。 先 生 は 、10年 ぶ りで よ
うや く弟 子 が で き そ うで す ね と 、 よ ろ こ ん で 、 社 会 学 を 専 攻 す る こ と を 許 し て くだ さ っ た 」
73
三 田 社 会 学 第10号(2005)
M)
0
1938(昭 和13)年 に 「済 州 島 一 そ の 社 会 人 類 学 的 研 究 」 と い う卒 業 論 文 を ま と め て い る 。 泉 靖
一は
、 卒 業 論 文 の 審 査 が 終 わ り、 京 城 帝 国 大 学 法 文 学 部 の 助 手 に 就 職 す る。 当 時 、 助 手 か ら講
師 や 助 教 授 に 昇進 した京 城 帝 国 大 学 の 卒業 生 は い なか った が 、泉 靖 一 は 京城 帝 国大 学 蒙 彊 学 術
調 査 隊 に 参 加 す る(当 時 の 山 岳 部 長 は 尾 高 朝 雄 教 授)。1939年
か ら41年
ま で 、 軍 隊 に 入 隊 し、
本 籍 の あ る 北 海 道 の 旭 川 と満 州 を 往 復 す る こ と が 多 く な り 、 ス キ ー 部 隊 の 教 官 と な り、 陸 軍 少
尉 と な っ て い る 。1941(昭 和16)年5月
、 大 連 で 井 関 貴 美 子 と結 婚 、旭 川 に 住 む が 、10月 に 除 隊
して 京 城 に 帰 り、 京 城 帝 国 大 学 理 工 学 部 助 手 に 復 職 す る15)。 泉 靖 一 は 「大 学 は 社 会 の 変 化 に 敏
感 で は な く、 万 事 テ ン ポ が ず れ て い た し、 こ ん に ち も な お そ の ほ う が い い と 考 え て い る ひ と も
す く な く な い 」 と 回 想 して い る 。 日本 内 地 で は 大 政 翼 賛 会 が 組 織 され る よ うに な っ た が 、 朝 鮮
で は そ れ を モ デ ル と し て 国 民 総 力 連 盟 が 組 織 され る よ うに な っ た 。 こ の よ うな 時 代 に 鈴 木 榮 太
郎 も 大 学 版 の 総 力 連 盟 を 組 織 して 秋 葉 隆 、 泉 靖 一 と と も に 調 査 研 究 に 従 事 す る こ と に な る 。
「
私 は(こ ち らに来 て 日も浅 く家 庭 や 大 学 で の 生活 も)まだ そ ん な 落 ちつ きが 充 分 に で き て
い な い うち に第1回 目の 調 査 に 出か け る必 要 に迫 られ た。 それ は城 大 の 総 力 連 盟研 究班 で こ
の夏 休 み に学 生40名
が参 加 して南 部 朝鮮 群 山郊 外 の 不 二農 場 附 近 の 農 村 生活 を 、 医学 や 法
律 学 や 経 済 学 や 社 会 学 の方 面か ら調 査研 究す る事 にな り、 そ の社 会 学 的調 査研 究 の予 備 調 査
に秋 葉 教 授 と私 とそ れ に研 究 班 の マ ネ ー ジ ャー 格 で あ る学 生 主 事 補 の 泉 靖 一 君 と三人 が 出
か け る事 に な っ た。 秋 葉 教 授 は 出発 直前 に都 合 が 生 じて行 けな くな られ た の で 、 け っ き ょ く
私 と泉 靖 一 君 と二人 で 出か けた 」is)。
泉 靖 一 の 『遥 か な 山 や ま 』(新 潮 社 、1971年)に
は鈴 木 榮 太 郎 の名 は で て こ ない が 、秋 葉 隆 の
巫 俗 の 調 査 方 法 と は 違 う も の を 鈴 木 榮 太 郎 か ら学 ん だ こ と で あ ろ う。 そ の 後 、 泉 は 大 興 安 嶺 の
オ ロチ ョンを調 査 す る。
「オ ロ チ ョ ン 族 の 調 査 を 終 っ て 京 城 に 帰 る と 、 さ っ そ く報 告 書 を ま と め て み た 。 い うま で
も な く 、 秋 葉 先 生 の 指 導 に よ る も の で あ る。 先 生 は 私 の 報 告 を 聞 い て い て 、 や が て 一 枚 の 原
稿 用 紙 を わ た され た 。 そ こ に 、 こ れ か ら 書 こ う と して い る 報 告 書 の 目次 が 書 か れ て い た 。 そ
れ だ け で あ る 。 しか し、 こ の 一 枚 の 原 稿 用 紙 を に ら み な が ら 、 私 な りに 報 告 書 を 書 き あ げ た
と き は うれ しか っ た 。 写 真 帖 を そ え て 秋 葉 先 生 に 報 告 書 を 渡 す と 、 気 が 晴 れ ば れ して 、 澄 み
き っ た 秋 の 空 の した を 走 っ て み た 。 い う ま で も な く 、 こ の 報 告 書 が 印 刷 され る と は 夢 に も思
っ てい な か っ た。 秋 葉 先 生 に読 ん で い た だ けれ ば 、 それ で よか っ た の で あ る。
と こ ろ が 、 そ こ に 、 ほ ん と うの 福 の 神 が ま い こ ん で き た 。 故 渋 沢 敬 三 さん が 、 多 島 海 の 調
査 の の ち 、 同 行 の 人 び と と も に 京 城 に き て 、 私 た ち の 研 究 室 を 訪 ね て こ られ た 。 た し か 、 麻
74
特 集:都 市 人 類 学 の 再構 築
の 服 に 、 白 い パ ナ マ 帽 を か ぶ っ て い た よ う に 記 憶 して い る 。 秋 葉 先 生 に 紹 介 され た と き 、 渋
沢 敬 三 さ ん が な に も の で あ る か を 、 私 は 知 ら な か っ た 。 〈ち ょ う ど興 安 嶺 か ら 帰 っ て き た ば
か り で 、 報 告 書 が で き あ が っ た と こ ろ で す 〉と い っ て 、 私 の 報 告 書 を 秋 葉 先 生 が 渋 沢 さ ん に
示 した 。 渋 沢 さ ん は 、 百 枚 ば か りの 原 稿 を ひ ろ い 読 み 、 写 真 帖 を く っ て い た が 、 や が て 、 次
の よ う に い わ れ た こ と を 、 生 な ま し く記 憶 して い る。
こ れ を 『民 族 学 研 究 』 に の せ ま し
ょ う。 そ っ く り、 そ の ま ま が い い 」17)。
「大 興 安 嶺 東 南 部 オ ロ チ ョ ン族 踏 査 報 告 」 が 学 会 機 関 誌 の 『民 族 学 研 究 』(第3巻
1937(昭 和12)年)に
第1号
、
掲 載 され る の で あ る 。
「そ の こ ろ の 京 城 は 、 日本 の 末 端 で あ っ た の で 、 自 主 的 に 物 を 考 え 評 価 す る精 神 が 、 学 者
や 知 識 人 に 欠 け て い た 。 し た が っ て 、 す べ て 東 京 で の 評 価 が 、 す る ど く京 城 に は ね か え っ て
き て い た の で あ る 。 中 央 の 学 会 誌 に 堂 々 と論 文 が 掲 載 され た た め に 、 ぐ うた ら学 生 の 典 型 と
み られ て い た 私 に 対 す る 評 価 が しだ い に 変 っ て き た 。 そ の こ とは 、 た し か に 私 の 一 生 の う え
で 、 大 き な 意 味 を も っ て い た 。 生 れ 変 っ た よ うに 勉 強 も し、 調 査 に も で か け た 」is)。
京城 帝 国 大学 は、 日本 内 地 とは遠 くへ だ た っ た周 縁 にあ る植 民地 に形 成 され た 大 学 で あ り、
学 問 に お い て も帝 国 の なか の後 進 性 に あっ た こ とは否 めな い。 しか し、 泉 靖 一 の渋 沢敬 三 との
出 会 い は 、助 手 か ら講 師 、助 教 授 にな った先 例 は ない とい う京 城 帝 国 大 学 ど ころ か 、東 京 大 学
に文 化 人類 学 学 科 の創 設 につ なが るの で あ る。 これ は 大英 帝 国 の辺 境 か らオ ック ス ブ リ ッジの
教 授 に就 任 した 人 類 学者 と も類 似 して い る。 植 民 地 の な か の帝 国 大 学 に は も うひ とつ 台 北 帝 国
大学 が あ るが 泉 靖 一 と同様 に戦 後 の人 類 学 界 の 重 鎮 とな る馬 渕東 一 が い る19)。そ して 、京都 帝
国大 学 の 今 西 錦 司 博 士 を隊 長 とす る 白頭 山遠 征 隊 や 大 興安 嶺 調 査 隊 か ら梅 樟 忠 夫 、 富 川 盛 道 、
和 崎 洋 一 とい う若 い 人類 学 者 も同 時代 的 に 「
辺 境 」 の地 で 調 査 に 従事 してい た の で あ る。 鈴木
榮 太 郎 に も どす が 、泉 靖 一 が鈴 木 か ら学 ん だ こ とは 、敗 戦 で フ ィール ドを失 った 泉 靖 一 が奈 良
県 の 十 津川 村 とそ の分 村 で あ る北 海 道 の 新 十津 川 村 でお こな っ た調 査 で あ るだ ろ う。 泉 は この
調 査 で蒲 生 正 男 とい う人類 学 者 を育 て る こ とに な る。
5.鈴
木 榮 太 郎 の フ ロ ンテ ィア 精 神
鈴 木 榮 太 郎 が 、北 海 道 大 学 法 文 学 部 に 赴 任 し た の は1947(昭
和22)年
で あ る 。鈴 木 は 「北 海 道
だ よ り」 の な か で 次 の よ う に 語 っ て い る 。
「
私 は 、北 海 道 に 来 て ま も な く病 気 に罹 り、 また研 究上 の 関 心 が い ち じる し く都 市 の研 究
に 向 って い った の で は あ ります が 、 しか し、 私 が 北大 に来 た 一 つ の大 き な理 由は 北海 道 の農
村 を よ く調 べ て み た い た めで あ りま した。 北海 道 の都 市計 画 の 景観 や 、家 屋 の様 式や それ に
75
三 田 社 会 学 第10号(2005)
農 家 の 農 具 や 作 物 の 品 種 等 が ア メ リ カ に よ く 似 て い る 事 は 一 般 に よ く 知 られ て い る 事 で あ
りま す が 、 北 海 道 の 農 村 の 社 会 構 造 が ア メ リカ の そ れ と も っ と も よ く似 て い る 事 は 、 内 地 の
人 に は あ ま り知 られ て い な い の で は な い か と 思 い ま す 」(村 落 社 会 研 究 会 編 『村 落 研 究 の 成
果 と課 題 』1954(昭 和29)年
、『鈴 木 榮 太 郎 著 作 集 皿
家 族 と民 俗 』未 来 社 、1971年 、p.323)。
鈴木 榮 太郎 は 、北 海 道 とい う近代 日本 の 国 家 形成 の な か で創 られ た植 民地 の農 村 社 会 学原 理
を探 求 し よ うとす る意 図 が あ った よ うに思 わ れ る。 つ ま り、 日本 内 地 の農 村 、朝 鮮 の農 村 、 そ
して 北海 道 の農 村 との 比 較 とい う視 点 を とお して 日本 農 村 社 会 学原 理 を体 系 化 しよ うとい う意
図 で あ る。 つ ま り、植 民地 支 配 の過 程 の な か で少 数 民 族 の 後 背 地化 と 日本 内 地 の殖 民 の定 着 化
が どの よ うに 北海 道 の農 村 の集 団 編成 過 程 を た どった の か を探 求 す る こ とで あ る。 しか し、 鈴
木 榮太 郎 は 大病 に罹 り農 村 の 実 態 調査 に従 事 す る こ とは で き なか った。 だ が 、札 幌 とい うか っ
て の植 民地 都 市 を舞 台 に、都 市 とは どの よ うに形 成 され るの か とい う峰 が 見 えて きた は ず で あ
る。っ ま り、都 市 社 会 学原 理 の探 求 で あ る。塚 本 哲 人 は、『国 民社 会 学 原 理 ノー ト(遺稿)』 の巻
頭 に も掲 げ られ て い る和 歌一 首 「
学 業 の 一つ の峰 を今 越 えぬ行 手 に見 ゆ る峰 は数 な し」 を 引用
しな が ら、 次 の よ うに回 想 して い る。
「昭 和32年12月
、暮 れ もお しつ ま っ て か ら 、病 魔 と闘 い な が ら の 札 幌10年
も の され た 『都 市 社 会 学 原 理 』 初 版 第1刷
の研 究 生活 で
が 発 行 され た 。 そ して そ の 数 冊 が 年 内 に 博 士 の 手
元 に と どい た 。 私 事 に わ た っ て 恐 縮 で あ る が 、 昭 和33年
の 元 旦 、年 賀 に 参 上 した筆 者 に も
そ の 一 冊 を 恵 与 さ れ る折 、 右 の 一 首 を 色 紙 に し た た め られ 、 あ わ せ て 下 され た の で あ る 。 粉
雪 の 舞 う寒 い 日で あ っ た が 、 博 士 の 書 斎 に は ス トー ブ が 真 っ 赤 に燃 え て い た 。 心 の こ も っ た
豪 勢 な 正 月 料 理 が な らん だ テ ー ブ ル の ま わ りに は 、 和 洋 の 都 市 社 会 学 研 究 書 が うず 高 く積 ま
れ た ま ま で あ っ た の が 、 今 に 印 象 鮮 烈 で あ る 」20)。
『都 市社 会 学 原 理 』 を上 梓 した とき に鈴 木 榮 太 郎 は 、東 京 帝 国 大 学及 び京 都 帝 国 大 学 で の 主
題 で もあ っ た 国家 社 会 学 原 理 とい う峰 々が 見 えて き た の で は ない か。 それ は 「日本 」 とい う国
家 の統 治 機 構 と統 治 支 配 の メ カ ニ ズム を探 求 しよ う とす る もの で あ る。
とこ ろで 、 鈴 木 榮 太郎 に は、 北 海 道 大 学文 学 部 の弟 子 の な か で も、 鈴 木 門 下 の双 壁 と され る
笹 森 秀雄 と富川 盛 道 が い る。布 施 鉄 治 、
藤 木 三 千人 と ともに 著 作集 を編 集 した弟 子 た ち で あ る。
笹 森 秀 雄 は 、都 市 の社 会 関係 、 住 民組 織 、開 発 、 住 民 運 動 な どを研 究 対 象 とす る鈴 木 榮 太 郎 の
都 市 社 会 学 の 後継 者 とな った 。 も うひ と りの弟 子 で あ る富川 盛 道 は 、鈴 木 の フ ロ ンテ ィア 精神
を継 承す る後 継 者 で あ る。
富 川 盛 道 は 、1923(大 正12)年
に 沖 縄 に 生 ま れ た 。母 は 琉 球 王 朝 の 王 族 の 系 譜 に 連 な る と い う。
京都 一 中 を卒 業 後 、1948(昭 和23)年 に大 阪 高 等 医 学 専 門学 校 を卒 業す る。 こ の期 間 、今 西 錦 司
博 士 を隊 長 とす る大 興 安嶺 探 検 隊 に参加 す る。 後 のア フ リカ学 術 調 査 の 中核 とな る梅 樟 忠 夫 、
76
特集:都
和 崎 洋 一 た ち との 共 同 調 査 で あ る。1948年
す る 。 ア イ ヌ 調 査 の た め で あ っ た 。1952(昭
市人類学の再構築
に 北海 道 大 学 法 文 学 部哲 学 科 実 験 心 理 学 専 攻 に入 学
和27)年
、知 里 真 志 保 博 士 の も とで 、文 学 部 アイ ヌ
語 ア イ ヌ 文 学 研 究 室 の 助 手 とな り、1953年 に は 鈴 木 榮 太 郎 が い た 社 会 学 研 究 室 の 助 手 と な っ た
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。 米 山 俊 直 と と も に 都 市 人 類 学 の 創 始 者 と な る 日野 舜 也 は 、 富 川 盛 道 と の 出 会 い を 次 の よ う
に 語 っ て い る。
「
映 画 少 年 くず れ で 行 き 先 を 失 い 、 鈴 木 榮 太 郎 先 生 の ご 好 意 で 社 会 学 に 受 け 入 れ られ た わ た
しが 、 生 涯 の 師 で あ る 富 川 さ ん に 出 会 っ た の は 、56年
の 冬 の こ と で あ っ た 。 深 夜3時
過 ぎ 、友
人 とふ た り で 飲 み 明 か し、 北 大 の 脇 を 歩 い て い る と き 、 た っ た 一 っ あ か りが つ い て い た 富 川 さ
ん の 助 手 室 の ドア を た た い た の が 、 最 初 の 出 会 い だ っ た 。 来 週 日 高 の ア イ ヌ の フ ィ ー ル ドワー
ク に ゆ くの だ が 、 手 伝 い に 来 な い か と誘 っ て くれ た の が 、 わ た く しの 一 生 を き め た の だ っ た 」
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0
富 川 盛 道 は 、 ア イ ヌ 調 査 と と も に 今 西 錦 司 た ち と遠 野 の 共 同 調 査 を 行 っ て い る23)。 ま た 、 鈴
木 榮 太 郎 の も と で は 都 市 社 会 学 の 調 査 も 同 時 に 進 行 し て い た 。 日野 舜 也 は 、 そ の 当 時 の 都 市 調
査 の様 子 を次 の よ うに回想 して い る。
「(富川 さん は)社 会 学 研 究 室 の 助 手 と し て 、 当 時 、『都 市 社 会 学 原 理 』 を ご 準 備 され て い た
鈴 木 榮 太 郎 先 生 の 、 資 料 収 集 の た め の フ ィ ー ル ドワ ー ク を 、 笹 森 秀 雄 さ ん 、 布 施 鉄 治 さん な
ど と ご 一 緒 に 精 力 的 に 行 っ て い た 。 わ た し も 、 そ の 下 っ 端 と して 、 お 風 呂 屋 や 映 画 館 の ま え
で 来 客 の 住 所 調 査 を し た り、 家 々 を ま わ っ て 買 い 物 先 を 尋 ね た り、 の ち の 都 市 調 査 の 基 礎 を
ま な ん だ の で あ っ た 」29)。
こ れ が どの よ うな 調 査 で あ っ た の か は 鈴 木 榮 太 郎 の 『都 市 社 会 学 原 理 』 を 読 め ば わ か る だ ろ
う。 富 川 盛 道 は 、 北 海 道 大 学 文 化 人 類 学 協 会 、 北 海 道 大 学 社 会 心 理 学 研 究 会 、 ア ジ ア ・ア フ リ
カ 地 域 研 究 室 な ど の 共 同 研 究 会 を発 足 させ た 。 富 川 盛 道 ・布 施 鉄 治 ・日野 舜 也 『都 市 人 と映 画 』
(北 海 道 大 学 社 会 心 理 学 研 究 会 報 告No.1)(札
幌 映 画 協 会 、1957年)、
富 川 盛 道 ・布 施 鉄 治 ・日
野 舜 也 ・富 田 浩 造 ・和 田 正 平25)・ 和 田 耕 一 『都 市 人 の 映 画 行 動 とテ レ ビ行 動 』(北 海 道 大 学 社
会 心 理 学 研 究 会 報 告No.2)(札
幌 映 画 協 会 、1960年)な
ど を 発 表 して い る。 ま た 、1960年
の根
訓 原 野 雪 上 車 調 査 隊 は 梅 樟 忠 夫 た ち 京 都 大 学 探 検 部 との 共 同 演 習 で も あ っ た 。 そ の 年 に 、 今 西
錦 司博 士 を隊 長 とす る 「
京 都 大 学 ア フ リカ 類 人 猿 調 査 隊 」 が 組 織 され て 、 富 川 盛 道 は 人 類 班 の
班 長 と して ア フ リカ に 旅 立 つ こ と に な る。 札 幌 が 日本 列 島 の 新 し い 都 市 で あ っ た よ うに 、 ア フ
リカ が 独 立 を と げ て 新 しい 都 市 が 誕 生 し よ う と し て い る 時 で あ る 。 後 に 、 京 都 大 学 ア フ リ カ 学
術 調 査 に 参 加 した 日野 舜 也 、 米 山 俊 直 が 都 市 人 類 学 を 構…
想 す る こ とに な る。
富川盛道の
「サ バ ン ナ の 木 」 と い うエ ッセ イ は 次 の よ うな 言 葉 で は じ ま る26)。
77
三 田社 会 学 第10号(2005)
山 と 山 とは め ぐ りあ わ な い が
人 と 人 と は め ぐ りあ う
これ は タ ン ザ ニ ア の ダ トー ガ 牧 畜 民 の こ と ば で あ る が 、 鈴 木 榮 太 郎 に と っ て 、 壱 岐 、 対 馬 、
東 京 、 京 都 、 岐 阜 、 京 城 、 札 幌 、 東 京 と い う足 跡 は 、 山 と の 出 会 い で あ り、 人 との 出 会 い で あ
っ た よ うに 思 わ れ る。鈴 木 榮 太 郎 は 、「
辺 境 」の 位 座 か ら 、社 会 学 原 理 を 構 築 す る こ と に な っ た 。
〔追記 〕 地 名 等 につ い て は 原則 と して鈴 木 榮 太 郎 の執 筆 時 の 呼 称 に したが って い る
。
【註 】
1)鈴
木 榮 太 郎 の 年 譜 と業 績 に つ い て は 、三 浦 直 子
「
鈴木 栄 太 郎
代 日本 社 会 学 小 伝 一 書 誌 的 考 察 』(勤 草 書 房 、1998年
世 界一
1894-1966」
、pp.369・376)、
川 合 隆 男 ・竹 村 英 樹 編 『近
眞鍋知子
「
鈴 木 栄 太 郎 の学 問的
『都 市 社 会 学 原 理 』 を 中 心 と し て 」(『奈 良 女 子 大 学 社 会 学 論 集 』 第5号(1998):182-192)が
参考
に な る。
ま た 、 鈴 木 榮 太 郎 と同 じ壱 岐 出身 の 日高 六 郎 の 「鈴 木 先 生 の な か の壱 岐 」(『 鈴 木 榮 太郎 著 作集
4巻
農村社会の研究
第
月 報4』 未 来社 、1970年)に よ る と、榮 太 郎 は 郷 ノ浦 町 の 旧家 今 西 家 に 生 まれ 、
同郷 の 山 口麻 太 郎(柳 田 門 下)と は 毎年 の年 賀 状 を欠 か さ なか った とい う。 壱 岐 に は 中学 校 が な い の で 、
対 馬 の厳 原 中 学 で 学ぶ が 、厳 原 は 当 時船 便 の 時 間 か らい え ば下 関 よ りも釜 山が 近 か っ た。牧 野 巽 は 「
著
者 の 朝鮮 に 関す る知 識 や 興 味 は朝 鮮 赴 任 前 か ら恐 ら く一 般 の 日本 人 とは異 な って い た で あ ろ う」と述べ
て い る(「 朝鮮 の 自然村 を 中心 と して 」『鈴 木 榮 太 郎 著作 集V
p.501)。
朝 鮮 農 村社 会 の研 究 』未 来 社 、1973年 、
意 味 の あ る言 葉 で あ る。
2)『 日本 社 会 学 院 年 報 』 総 目録(第1年
∼ 第10年)(1914(大
男 編 『近 代 日本 社 会 調 査 史(II)』(慶 磨 通 信 、1991年)の
正3)年
・1923(大 正12)年)に
つ いて は
、川合隆
「
付 録 」 を 参 照 され た い 。
3)岡 正 雄 は 、 当時 の 東 京 帝 国 大学 文 学 部 の 社 会 学 科 に つ い て 「当時 の 先 生 方 は建 部 教 授
、今 井 助 教 授 、
綿 貫講獅 、小野 講 師 な どで、助 手 に赤神 さん。 先 生方 の講 義 は 、率 直 に い っ てお も しろ くな か っ た 」 と
感 想 を述 べ て い る。 続 け て 「
私 が 社 会 学 の 方 々 と接 触 す る よ うに な った の は 、卒 業論 文 を書 い て か らの
こ とだ った。 大正13年
で はな か った か と思 うが 、 先輩 の蔵 内 、 田辺 、 秋 葉 、鈴 木 君 た ちが 中 心 とな っ
て 、東 京 社 会 学 研 究 会 とい う もの が 発 足 し、私 は 先輩 の どなた か か ら誘 われ て この サ ー クル に入 れ て も
ら っ た ・(中 略)私
the Western
は こ の 会 の 例 会 で ・ 多 分 田辺 さ ん に す す め られ て
Pacificの
特 に そ のkula交
、 マ リ ノ フ ス キ ー のA,g。n。ut,。f
換 貿 易 エ キ ス ペ デ ィ シ ョ ン の 紹 介 報 告 を させ られ た こ と を 覚 え
て い る 。 従 来 の 研 究 室 の 空 気 で こ う した テ ー マ な ど問 題 に な ら な か っ た と 思 う。 こ の 頃 か ら従 来 の 観 念
的 社 会 学 の傾 向 に あ き た らず 、実 証 主 義 的研 究 が台 頭 して きた の で はな い か 、そ して この 新 しい動 向の
温 床 が 東 京 社 会 学研 究 会 で は な か っ たか と考 え られ る 」 と述 懐 して い る(岡正 雄 「東 京社 会 学研 究 会 の
78
特集:都
頃 」 『鈴 木 榮 太 郎 著 作 集
第8巻
国民 社 会 学 原 理 ノー ト
月 報7』(未
市人類学の再構築
来 社 、1975年)。
竹 内利 美 は 、東 北 大 学 在 任 中 に 田辺 寿 利 か ら東京 社 会 学 研 究 会創 立 の内 幕 話 を聞 きだ して い る。
「そ の こ ろ の 大 学 ア カ デ ミ ズ ム と して の 社 会 学 の 在 り方 に 大 い な る 憤 葱 を 抱 き 、そ の 沈 滞 を 打 ち 破 る
べ く、気 鋭 の 士 を糾 合 して 、鮮 新 な研 究 方 法 をひ ろ く導入 しよ う とい うこ とで 、期 せ ず して そ こ で
は 新 し い 実 証 精 神 の 昂 揚 とい う点 が 強 調 さ れ た と い う こ とで あ っ た 。 そ して く蔵 内 が ドイ ツ 、鈴 木 が
イ ギ リ ス 、 ア メ リ カ 、 そ し て 自 分 は フ ラ ン ス と い う分 担 が 、 暗 黙 の う ち に 約 束 さ れ た の だ 〉と 、 故 田
辺 先 生 は よ く冗 談 ま じ りにい わ れ 、博 士 がル プ レー学 派 や ア メ リカ農 村 社 会 学 の 研 究 方 法 に学 び な
が ら、 独 自の視 角 に よ る現 地調 査 の実 践 を重 ね て 、 「
原 理 」 の 完成 に到 達 した次 第 を、 い つ も引 き合
い に 出 して 話 に
「
落 ち 」 を つ け られ た こ と を 、 蔵 内 博 士 の 追 憶 に あ わ せ て 、 筆 者 は 思 い お こ す の で
あ る 」(竹 内 利 美
「探 求 の 道 程 一 『日本 農 村 社 会 学 原 理 』 の 完 成 ま で 」 『鈴 木 榮 太 郎 著 作 集 皿
民 俗 』 未 来 社 、1971年
4)蔵
内数太
1970年
5)鈴
家族 と
、p.341)。
「
若 き 時 代 の 鈴 木 榮 太 郎 」 『鈴 木 榮 太 郎 著 作 集
第4巻
農 村 社 会 の研 究
月 報4』
未来社、
。
木榮太郎
「
柳 田 国 男 先 生 の 思 い 出 」 『定 本 柳 田 国 男 集
月 報 』1963年(『
鈴 木 榮 太 郎 著 作 集m
家族
と 民 俗 』 未 来 社 、1971年
所 収)。 柳 田 国 男 が 東 京 の 牛 込 区加 賀 町 の 旧 居 か ら 市 外 の 砧 村 喜 多 見(現 在 の 成
城)に 移 っ た の は1927(昭
和2)年
ま で 」 『鈴 木 榮 太 郎 著 作 集m
6)鈴
木榮太郎
で あ る と い う(竹 内 利 美
「
探 求 の道 程一
家 族 と民 俗 』 未 来 社 、1971年
『日本 農 村 社 会 学 原 理 』 の 完 成
、p.343)。
「
社 会 人 類 学 上 の 研 究 と して の エ ン ブ リー 氏 の 『ス エ 村 』 と 日本 農 村 社 会 学 」(『 鈴 木 榮 太
郎 著 作 集 皿 家 族 と民 俗 』 未 来 社 、1971年
所 収)。 鈴 木 榮 太 郎 は エ ン ブ リー の 須 江 村 調 査 を 援 助 し て い
る 。 な お 、 エ ン ブ リー は ラ ドク リフ=ブ ラ ウ ン の 愛 弟 子 で あ る 。
7)蔵
内 数 太 、 前 掲 書 、p.2。
8)鈴
木 榮太 郎
集IV
9)富
「わ が 国 農 村 社 会 学 の 回 顧 と展 望 」(『 喜 多 野 博 士 記 念 論 文 集 』1965年)(『
農 村 社 会 の 研 究 』 未 来 社 、1970年
鈴 木榮 太 郎 著 作
所 収)。
永健一 「
鈴 木 栄 太 郎 の 社 会 学 理 論 」『現 代 社 会 学 研 究 』(北海 道 社 会 学 会)第2号
、1989年
ま た 、 富 永 健 一 『戦 後 日本 の 社 会 学 一 一 つ の 同 時 代 学 史 』(東 京 大 学 出 版 会 、2004年)を
10)伊
藤亜人
「
秋 葉 隆 一 朝 鮮 の 社 会 と 民 俗 研 究 」 綾 部 恒 雄 編 『文 化 人 類 学 群 像
出 版 会 、1988年
11)村
武精一
12)Bronislaw
3
、pp.1・26。
参 照 され た い 。
日本 編 』 ア カ デ ミア
。
「末 弟 子 か ら み た く秋 葉 隆 〉」 『社 会 人 類 学 年 報 』Vbl.3(1977)、
Malinowski,
Argonauts
Company,lnc/London:Routledge&Kegan
of
Paul
the
Western
Ltd,1922.ま
トロ ー スー 人 間 の 科 学 と し て の 文 化 人 類 学 」(『 世 界 の 名 著
中 央 公 論 社 、1967年)を
Pacifrc,
た 、 泉靖 一
59
pp.182・183。
New
『Ybrk:E.PDutton
&
「
マ リ ノ フ ス キ ー と レ ヴ ィ=ス
マ リ ノ フ ス キ ー!レ ヴ ィ=ス
トロ ー ス 』
参照 され た い。
13)梅
樟忠夫
「泉 靖 一 に お け る 山 と 探 検 」 泉 靖 一 『遥 か な 山 や ま 』 新 潮 社 、1971年
14)泉
靖 一 『遥 か な 山 や ま 』 新 潮 社 、1971年
15)大
貫良夫
。
、pp.79・80。
「泉 靖 一 一 日本 ア ン デ ス 学 の 創 始 者 」 綾 部 恒 雄 編 『文 化 人 類 学 群 像
79
3
日本編 』 ア カデ ミ
三 田 社 会 学 第10号(2005)
ア 出 版 会 、1988年
16)鈴
木 榮 太郎
。
「
朝 鮮 農 村 社 会 瞥 見 記 」 『民 族 学 研 究 』 第1巻
鮮 農 村 社 会 の 研 究 』 未 来 社 、1973年
第1号
、1933年(『
鈴 木 榮 太 郎 著 作 集V
朝
所 収)。
17)泉
靖一
一 『遥 か な 山 や ま 』 新 潮 社 、1971年
18)前
掲 書 、p.108。
19)京
城 帝 国 大 学(1924年
、pp.107・108。
設 立)と 台 北 帝 国 大 学(1928年
設 立)に つ い て は 、 白 永 瑞(趙 慶 喜 訳)「 想 像 の な か
の 差 異 、 構造 の な か の 同 一 一 京 城 帝 国 大 学 と台 北 帝 国 大 学 の 比 較 か ら み る 植 民 地 近 代 性 」(『 現 代 思 想 』
第30巻
第2号
、2002年)を
参 照 され た い 。 ま た 、 サ 健 次
は 何 か 」(『 思 想 』 第778号
の
、1989年)は
、1989年)、
ぐ っ て 』(三 元 社 、1998年)、
(風 響 社 、2000年)、
年)、 趙 寛 子
2003年)を
安 田 敏 朗 『植 民 地 の な か の
崔 吉城
「
帝国意識」 と
、 朝 鮮 お よ び 満 州 に 暮 ら し た 日本 人 植 民 者 を と り あ げ て 、 そ
「
帝 国 意 識 」 を 分 析 した も の で あ る 。 さ ら に 、 姜 尚 中 「昭 和 の 終 焉 と 現 代 日本 の
(『 思 想 』 第786号
20)塚
「
植 民 地 日本 人 の 精 神 構1造一
「
心 象 地 理 二歴 史 」」
「国 語 学 」 一 時 枝 誠 記 と京 城 帝 国 大 学 を め
「日帝 植 民 地 時 代 と朝 鮮 民 俗 学 」中 生 勝 美 編 『植 民 地 人 類 学 の 展 望 』
梶 山 季 之 『李 朝 残 影 一 梶 山 季 之 朝 鮮 小 説 集 』Uil村 湊 編)(イ ン パ ク ト出 版 会 、2002
「日 中 戦 争 期 の
「朝 鮮 学 」 と 「
古 典 復興 」 一 植 民 地 の
「知 」 を 問 う」(『 思 想 』 第947号
、
参 照 され た い。
本哲人
「鈴 木 社 会 学 総 体 系 化 へ の 指 向 一 そ の 壮 絶 な 探 求 の 意 志 」 『鈴 木 榮 太 郎 著 作 集V皿
学 原 理 ノ ー ト(遺稿)』 未 来 社 、1975年
国民社会
、pp.389-390。
21)「 富 川 盛 道 教 授 一 年 譜 と 業 績 」 『ア ジ ア ・ア フ リカ 言 語 文 化 研 究 』(東 京 外 国 語 大 学 ア ジ ア ・ア フ リ カ
言 語 文 化 研 究 所)第31号
、1986年
、pp.182-186。
22)日
野舜也
「
富 川 盛 道 博 士 の お し ご と 」 『日本 ア フ リ カ 学 会 会 報 』 第29号
23)柳
田 国 男 と今 西 錦 司 、 貝 塚 茂 樹 、 梅 樟 忠 夫 た ち 京 都 学 派 と の 関 わ り に つ い て は 、鶴 見 太 郎 『民 俗 学 の
熱 き 日々 一 柳 田 国 男 とそ の 後 継 者 た ち 』(中 央 公 論 社 、2004年)を
、1998年
、p.2。
参 照 され た い 。
24)日
野 舜 也 、 前 掲 書 、p.2。
25)和
田正 平
「富 川 盛 道 」 『社 会 人 類 学 年 報 』Vbl.25、1999年
26)富
川盛道
「
サ バ ン ナ の 木 一 ア フ リ カ の あ る 牧 畜 部 族 に お け る 生 と死 」 『理 想 』452(1971):34-43。
、 pp.119-130。
(あ くつ
80
し ょ うぞ う
信 州 大 学 教 育 学部)