『原典でよむ タゴール【岩波現代全書】』

目 次
く じ ゃく
10
18
23
18
23
27
めぐみ
…
……………………………………………
27 22
16
21
17
9
…
…………………………………………
7
一 / 四 / 一 一 / 三 五 / 三 九 / 四 五 / 五 七 / 六 一 / 六 二 / 六 三 / 六 九 / 七 三 / 八 七 /九一 /九三 /一〇〇 /一〇一 26
3
はじめに・凡例
5
Ⅰ 詩
…
……………………………………………………………
七 / 八 / 二 三 / 二 四 / 二 八 / 四 四 / 六 〇 /一四八 3
15
15
章 『ギタンジョリ』抄
第
2
1
章 英文詩集『ギータンジャリ』抄
第
3
章 『ギトビタン(歌詞集)
』抄 他
29
第
31
29
12 4
16
20
25
24
11
19
30
今日 わたしの心は 孔雀のように /あなたの慈愛の光が…… /あなたの扉の開く音が /わたしはこの地上で…… /昨夜
31
目 次
xi
xii
一つの歌が /月の笑い声が堰を切り /わたしは 歌の絆で /雲は言う /今日も過ぎ去るだろうことを いのち
章 『木の葉の皿』その他から
第
……
………………………………………………
…
……………………………………………………………
……
…………………………………
62
…
………………………………………………………………………
129
第
42
70
……
…………………………………………………………………
章 日本紀行 抄
章 文明と進歩
61
135
127
133
第
69
39
33
/うんざりする巡礼
/ い ま か ら 百 年 の ち に / 夕 べ が
生命
日没の海で /戦いの太鼓が……
/異国の花 章 最晩年三詩集 抄
52
60
第
40
/ 一 七 / 一 八 / 二 七 / 三 九 病床にて 七
恢復期 一 /一〇
/一四 /二四 /二九 /三二 最後のうた 一 /三 /五 /六 /一〇 /一三 Ⅱ エッセイ・講演
74 68
58
39
/船上にて
/ 大 し け / 船 上 に て / 寄 港 地 に は
出 帆
びこる商業主義 /中国人たち
/日本上陸 /神戸にて 124
第
78
137
34
章 西洋におけるナショナリズム 抄
64
103
83
54
77
71
45
63
123
131
6
76
59
73
4
7
36
32
35
58
72
5
8
123
/日本人の美意識
/日本人の暮らし /大観・原・観山 /
日本人とインド人(ベンガル人)
そしてヨーロッパ文明の心 章 彼の絵について
…
………………………………………………………………
235
224
第
対 談
238
Ⅲ
…
…………………………………………………
章 ロマン・ロランとの対談
/チャールズ・フリアー・アンドリューズ宛 /チェルムズフォー
ド総督宛
/ウィリアム・バトラー・イェイツ宛 /バートラン
ド・ラッセル宛 /エズラ・パウンド宛
/ヴィクトリア・オカ
ンポ宛
/ジョージ・バーナード・ショー宛 /アンドレ・ジー
ド宛 /フランクリン・ルーズヴェルト宛
207
第
151
……
……………………………………………
一 /二 /三 一 /二 章 アインシュタインとの対談
187
マハートマ・ガンディー宛 /ジャワーハルラール・ネルー宛 Ⅳ 書 簡 選
153
160
217
227
9
10
11
146
169
143
191
226
第
180
197
221
229
214
169
191
236
目 次
xiii
xiv
資料 ベンガル暦 241
240
タゴールと日本、そして私 ――解説、あとがきに代えて 参考文献 279
タゴールと日本,そして私
241
解説、あとがきに代えて
タゴールと日本、そして私
―
はじめに
どのような偶然と必然に導かれて、私がインドの詩人ラビンドラナート・タゴールを知り、戦後
の七十年近い年月をとおしてタゴールの書を読みついできたか、初めにお話ししておきたい。この
話は、すでに著書や放送、講演などでも幾度か繰り返してきたが、ここではたんなる個人的な思い
出というより、日本のタゴール受容と拒否のかかわりから、もういちどそれを振り返ってみたい。
、私は京都のキリスト教系の私立大学の予科[当時の学校制度では、中学五
敗戦の翌年(一九四六年)
年(私たちは戦時下の学徒動員のため四年)
を卒業し、高等学校
(私立大学では予科)
三年を経て大学に進学した]
に 入 学 し た が、 学 部 選 択 で は、 敬 虔 な 仏 教 信 者 で あ っ た 母 や 兄
(父は、終戦一カ月前に空襲がもと
で亡くなっていたため、兄が私の勉学を支援してくれていた)の猛反対を押し切って神学部を選択
した。小学校入学から中学卒業(敗戦)まで、年を追って強化されていった軍国主義教育の「申し
いちず
子」であった私は、新しい時代を生きていくためには、まず戦勝国アメリカの精神(宗教)
を理解し
なければならないと、若者らしく一途に考えたからであった。
242
ところが神学部に入ってまず驚いたのは、
同級生のほとんどが聖職者(牧師)
の子弟か、
信仰深いクリスチャンの家庭で育った学生
たちで、初めから聖書にも讃美歌にもなじ
んでいたことだった。なによりも戸惑った
のは、神学生たちは毎週日曜日に、京都市
内や近郊の教会へ赴き、日曜学校で子ども
たちに聖書の話や讃美歌を指導するという
ある日、私は牧師館の書斎で、本棚の整理を手伝っていた。そのとき私はふと、
「やさしい英語
何度も振り落とされそうになったことを思い出す。
り、民家の戸を叩いて道を尋ねた。道路も、田舎道はまだどこも舗装されておらず、助手席の私は
あった。戦後まもない地方では、今日のような道路標識はほとんどなく、途中で私は何度も車を降
回る宣教師の道案内と、説教の通訳(といっても、前もって英文の原稿をもらって準備していた)で
うので、手伝いに行かないかという話を担任の教授からいただいた。仕事は、ジープで県内各地を
そんなとき、折りよく私の故郷の和歌山県で、若いアメリカ人宣教師が伝道活動を開始するとい
経験もなく、はたと困り果ててしまった。
奉仕活動に従事することが義務づけられていることだった。私は子どものころ、日曜学校に通った
タゴール(1929 年,東京にて)
(25 Portraits of Rabindranath
Tagore, Visva‒Bharati, 1951より)
タゴールと日本,そして私
243
で書かれた読みごたえのある本をお借りできませんか」と厚かましい願いを申し出た。宣教師は書
とあ
Rabindranath Tagore: Gitanjali
架を見ながら、「すでにお読みになっているかもしれませんが、この詩集はすばらしいですよ」と
言って、一冊の古びた紺色の本を手渡してくれた。表紙には、
った。私が読みにくそうに著者の名前と書名を口ごもっていると、宣教師は、一瞬、驚きというよ
り、日本の大学生はタゴールの名も知らないのかと、いくらか呆れた表情で、
「タゴールはアジア
人として最初にノーベル賞を受けた偉大なインドの詩人で、私の好きな一冊です」と、一読を奨め
てくれた。
―
かつて私は、初めてタゴールの詩を読んだときの強烈な印象をこのように書いた
その夜家に帰って、私は詩を読むというより、語学の勉強をするといった味気ない態度で、表
題の意味もわからぬまま、マクミラン版の小さな詩集を開いた。そして、その第一歌の最初の
それがあなたの喜びなのです……」 読みながら、稲妻にも似たふしぎな
一行に、誇張ではなく、決定的な衝撃を受けたのである。
「あなたは、わたしを限りないもの
―
になしたもうた
感動の戦慄が、一瞬私の体内をつらぬき、身ぶるいしたことを、私はいまも鮮明に記憶してい
る。脆く、はかなく、とるにたりないと思っていた人間の生命が、そのまま永遠なるものに繋
がっていると、この詩人はうたうのである。
244
戦時中に受けた私たちの教育では、個人の生命が永遠なるものに繋がっているなど、思いもよら
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ぬことであった。私は驚喜して、原文を一篇一篇ノートに写しとっては、自分なりの拙い訳文を書
きこんでいった。
ところで、どうしてあのとき、私はアジアで最初のノーベル賞詩人の名前を知らないというぶざ
0
まな失態を、アメリカ人宣教師の前で演じたのだろうか。私は中学生時代からどちらかというと読
書が好きで、漱石や鴎外、芥川、志賀直哉、吉川英治、外国文学では、ゲーテやトルストイ、ジー
ドなど、小遣いをはたいてはつぎつぎに買い求め、また読書好きの級友たちとよく本の貸し借りを
したものだった(戦時下の中学生は映画館に行くことすら禁じられ、楽しみといえば、読書か許さ
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れたいく種かのスポーツ、あるいは友人と手回しの蓄音機に耳を傾けることや、新聞の戦勝記事に
興奮して、だべることであった)。しかし、いま考えても、あのころ私の周囲でタゴールを読んで
いた友人はひとりもいなかったし、学校でくれる「夏休みの読書案内」にも、タゴールの名前はな
かった。
ところが、後で知ったことだが、一九一三年にタゴールがノーベル賞を受けたあと、一時期日本
でもたいへんなタゴール・ブームが巻き起こったと聞く。ヒンディー語文学研究者の長弘毅氏は、
「プレームチャンドと日本」(坂田貞二編『厳寒の夜』日本アジア文学協会、一九九〇年)のなかで、
―
その間の事情をつぎのように書いている
タゴールと日本,そして私
245
日本人がインドの近代文学に触れるきっかけとなったのは、一九一三年(大正二年)
、ベンガル
がノーベル賞を受賞したことである。
の詩人ラビーンドラナート・タゴール(一八六一―一九四一)
「インド人」がこの権威ある賞を受けたという事実は、日本近代の担い手を自負する日本の文
人にとっては、衝撃的な事件であったようだ。翌一四年から、受賞の対象となった詩集『ギー
タンジャリ』をはじめ小説、戯曲、評論など、タゴールの著作が次々に翻訳されるようになる。
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当初三年間の出版点数は、雑誌と単行本合わせて三八点を数える。しかも月平均一点というこ
の出版現象は、タゴールに対する当時の日本知識人の困惑と妬みを推測させるほど、異常なも
のである。(文中傍点は筆者)
それでは、このように一時期ブームまで巻き起こしたタゴールの書が、私の中学時代、なにゆえ
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完全に忘れ去られてしまっていたのか、タゴールと日本の歪んだ関係が、なぜ起こったのだろう。
この問題は、今日私たち日本人が直面しつつある新ナショナリズムとけっして無縁ではない。
ノーベル文学賞受賞まで
ここで八十年にわたるタゴールの生涯(当時のインド人としてはかなり長寿であった)
をあらため
て紹介する暇はないが、二十世紀初頭からノーベル賞受賞前の十数年を通して、
「人間タゴール」
246
の本質を垣間見たい。
二 十 世 紀 初 頭、 四 十 歳 の タ ゴ ー ル は、 コ ル カ タ の 北 西 一 五 〇 キ ロ の シ ャ ン テ ィ ニ ケ ト ン
(平和の
棲家)と呼ばれた広大な父の所領(といっても、当時は樹一本生えていない荒漠たる原野)の一角で、
長年心にあたためてきた教育の理想の実験をはじめた。それは、彼自身が幼少期に受けた英国式
(イギリス本国ではどうであったかは別として)のスパルタ教育に耐えられず不登校児となった苦い
経験をふまえ、生徒たちが、インドの古代ウパニシャッド時代の森の学校でのように、樹の下で師
アーシュラム
を囲んで坐り、小鳥のさえずりを聞きながら師から教えを受けるという教育の理想を現代に再現し
と呼
ようとするものであった。そのため学園は古代の森の学校にならって修道場[B=アッスロム]
ばれた。この伝統は今日も守られ、シャンティニケトンの学園では、いまも幼稚園児や小学生たち
はじ
は野外の樹の下で授業を受けている。
たす
さて、学園を創めるために、タゴールはプーリーの持ち家や蔵書の一部を売り払い、妻ムリナリ
(内
ニも持っていた宝石類を提供して夫を扶けたが、学園は初め、タゴール自身を入れて教師五名
一人はイギリス人、一人はキリスト教徒であった)
、生徒も五名
(うち一名はタゴールの息子)とい
う文字どおりの「寺子屋」からの出発であった(余談ながら、私が初めてタゴール大学を訪ねたと
き、迎えてくれたS・R・ダス副学長は、長くコルカタの高等裁判所の判事を務めた人物であった
が、最初の五人の生徒の一人であったと聞いた)
。この詩人の、気まぐれ呼ばわりされた学校が、
二十年後の一九二一年には大学へ、そして独立後は、ガンディーやネルーが亡き詩人の遺志を継ぎ、
タゴールと日本,そして私
247
小さな森の学校をビッショ・バロティ(通称タゴール国際大学)
へと発展させた。この間のタゴール
の苦労が尋常でなかったことは、本書書簡選の両人宛の手紙に読むことができる。晩年、見るから
に体力の衰えた老詩人が、生徒たちを連れて、北インドの各都市をめぐり、自作の舞踊劇を演じて
募金していると知ったガンディーは、「あなたのとるにたりない同志たちからの贈物」として六万
ルピーを詩人に贈り、「さてこれで、旅程の残りの取り消しをお告げいただき、国民のこころを安
堵させてください」と書いた。
こうしてタゴールは、四十歳にして長年の人生の夢の一つを実現させたが、それから間もなく、
妻と三女を相ついで亡くし、ついで彼の思想の尊師であった父[一般から「モホリシ(大聖)」と呼ばれ
た十九世紀ヒンドゥー教の宗教改革者の一人]
も八十八歳の天寿を全うした。加えて、当時長男は、父
あいだ
の唱導する農村改革事業を遂行すべくアメリカのイリノイ大学で農学を学んでいたし、長女と次女
までは、子どもたちを呼ぶ妻の声や、
はすでに歳若くして他家へ嫁いでいた。ついこの間[数年前]
笑いさざめきながら遊びまわる子どもたちの騒ぎが家中にみなぎっていたのに、詩人はいま、深閑
と静まり返った家の中に独りつくねんと座し、人間の孤独をいやというほど味わわなければならな
おさなご
かった。そんなとき詩人は、学園の生徒たちにどんなに慰められたことか。
『ギータンジャリ』第
うた
八七歌は、妻への挽歌であり、第六一、六二歌は、母を亡くし病床に病む幼子のために、枕辺で聞
かせた父の子守唄であった。
タゴールは、どんなに心嬉しいときにも悲しいときにも、感情のままを直接詩に吐露し、絶叫す
248
0
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ささ
ることはなかった。彼は神の前に敬虔に手を合わせ、
「わたし」の悲しみや怒りを浄化し、清めら
(歌のささげもの)
』である。
れたことばを神に献げた。それが『ギタンジョリ
はか
そんなとき、傷心の詩人をシャンティニケトンからコルカタの争乱の渦中にひきだしたのは、
じつ
「鉄の帝国主義者」と渾名された総督カーゾン卿であった。一九〇五年に総督は人民に諮ることな
く、統治の実をあげるためと称して、広大なベンガル州を二分するという、世に言う「ベンガル分
割案」を発表した。狙いは、十九世紀後半以来、他州にさきがけて民族覚醒の気運の高かった同州
の勢力を二分し、西ベンガル地方に多いヒンドゥー教徒と、東ベンガル地方に多いムスリム[イス
ラ ー ム 教 徒]
の対立を煽り、民族運動に先制をかけることにあった。これには、ベンガル州ばかりか、
ノ ー
インド中が騒然となり、コルカタを中心に反対運動が始まった。これまで積極的に政治運動に関与
したことのなかったタゴールも反対の声をあげた。詩人は運動の渦中に飛びこんで、つぎつぎに愛
ボイコット
国歌をつくり、新聞や講演会の壇上から民衆に郷土愛を呼びかけ、デモ行進の先頭に立ついっぽう、
イギリス製品の 不 買 運動を提言した。これに対して州政府は、政府関係者や親英主義者のもとに
秘密文書を回し、子弟をタゴールの学園に送らないよう命じた。
今日、タゴール研究者たちは、タゴールの郷土愛や愛国心をうたった作品を「パトリオティッ
ク・ソング」として分類するが、それらは相手(敵)
を憎悪し罵倒し、正義は我が方にありと叫ぶよ
うな、いわゆる「軍歌」調の歌ではなかった。ついでながら、インド、バングラデシュ両国の国歌
の作者はタゴールである。
タゴールと日本,そして私
249
しかし、やがて闘争が長びくにつれて戦列は乱れはじめた。すなわち、イギリス政府の善意を信
じて、延々と交渉を続けていこうとする穏健派と、言葉の無力を排して直接行動
(暴力)に訴えても
ののし
分割に反対すべきだとする過激派の従来の対立が、いよいよ鮮明になっていったのである。陣営内
に猜疑心が横行し、罵り合いが日常化した。タゴールは両派に和解と団結を呼びかけたが、彼はど
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0
0
こまでも詩人であり、ガンディーのような政治力はなかった。今となっては、戦列を離れるほかに
グル
道はなかった。こうして詩人は「逃亡者」「臆病者」
「裏切り者」などの嘲笑や怒声のつぶてを背に
受けながら、愛する師を待つシャンティニケトンの子どもたちのもとへ帰っていった。
いまや詩人タゴールは、人生でもっとも旺盛な創作期を迎えた。詩集『渡し舟』『ギタンジョリ』
、
代表長篇小説『ゴーラ』ほか、いくつかの戯曲や、数々の文学論・哲学論が書かれたのもこの季節
り出た
「二十世紀初頭の十年間に嘗めた人間のすべての悲愁と苦悩、死別と
な
であった。この期の代表作『ギタンジョリ』について、
『タゴールの生涯』の著者K・R・クリパ
―
ラーニは次のように言う
挫 折、 闘 い と 失 意 が、 一 九 〇 九 年 か ら 一 〇 年 に か け て、 彼 の 円 熟 し、 純 化 さ れ た 心 か ら
数々の詩篇となってこの一冊の詩集にまとめられたのである」
。
それは真夏の昼下がりのことであった。この時間は、シャンティニ
かつて筆者は、晩年の詩人と起居をともにしたことのある友人の教授から当時の創作中のタゴー
―
ルの話を聞いたことがある
ケトンではどの家も窓の板戸を閉めて外気を遮断し、みんなじっと寝台に体を横たえて陽の沈むの
を待つのである。いわゆるシエスタ(午睡)の時間である。あるとき教授は急用があって真昼時に詩
250
すがた
―
ス ラ
「あのとき、わたし
人の部屋を訪れた。ドアの隙間から室内の様子を覗いたとき、彼がそこに見たのは、髪を逆立て脇
ア
目もふらずにペンを走らせている詩人の形相であった。教授はこう言った
でした」と。
が見たのは怒れるルドラ[阿修羅とも呼ばれる]
ノーベル賞
学園の創設、相つぐ肉親との死別、慣れない政治運動、そして壮絶な創作活動と、いまやタゴー
ルは心身ともに疲労の極にあった。これまでも彼は、作品に行き詰ったり、人生の問題に思い悩む
ときには、しばしばヒマラヤ高原のダージリンやカリンポン、アーグラ、アラハーバードというふ
0
0
0
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うに住まいを転々と変え、シャンティニケトンにいるときにも、よく学舎を渡り歩いた。しかしこ
のころ、彼の心は、もっと遠くへ行きたいと、しきりに願うようになっていた。おりしも、詩人の
もとに、イギリス在住の友人たちから、「いちど気がおけない友たちに会いに来るように」との心
あたたまる誘いの声が届いていた。
一九一二年五月、タゴールはすでにアメリカから帰国していた長男夫婦を伴い、年来の痔疾の治
療もかねて、第三回イギリス訪問に旅立った。タゴールはこのころ、気分転換にと、十年来の[ベ
ン ガ ル 語 の]
詩集『ささげもの』『渡し舟』『歌の花環』
『ギタンジョリ』から選んだ詩を英語に翻訳
う
ち
していた。英訳といっても、ベンガル語の原詩をそのまま逐語的に英語に書き改めるのではなく、
「過ぎ去った日に、わたしの内面にあれほどの祝福をもたらしてくれた情緒や感情を、もういちど