中国仏教史「中国三祖の浄土教」

中 国 仏 教 史 「 中 国 三 祖 の 浄 土 教 」 ー道綽教学の研究ー
札幌市慈光寺 八力廣超 平成 27 年 4 月 19 日(日)
<本年の課題>
開祖親鸞聖人(1173-1263)が選択された七高僧、就中、曇鸞大師(476-542)、道綽禅師(562-645)、善
導大師(613-681)は中国三祖と言われる。曇鸞大師と善導大師に関する専門書は浩瀚で、多岐にわた
る研究が発表されている。それに比べ道綽禅師に関する研究は少なく、道端良秀博士は「消極的」
といい、道綽禅師の教学研究がそれほど進んでいないことに懸念を示されている。
最近になり、道綽禅師の人物像を多方面的客観的に捉えようとする傾向が見られ、牧田諦亮博士
は、中国の歴史上に見られる「道綽」の姿をあらためて検討する必要があると指摘する。真宗学で
は、曇鸞大師と善導大師の間に活躍された道綽禅師の存在が希薄に感じるのは否めない。それは、
近年の真宗学研究の影響によるが、その近代の真宗学の基盤は江戸時代に形成されている。しかし
江戸時代に残された書物を調べると、道綽禅師の実像に迫ったものも少なくない。何故、わずか2
00年あまりの間に、道綽教学の研究が少なくなったのであろう。
この点の検討は、専門的、かつ客観的な研究が期待されよう。江戸期の宗学を精査することで、
今日の問題点を再検討する必要性を感じるが、遺憾ながらその暇はない。さらにいえば、道綽研究
だけに留まらず真宗学全体を俯瞰し探求しなければならないであろう。
従来より江戸期の真宗学は「伝統真宗学」といわれ、近年、清沢満之(1863-1903)などによって宗
門開発が行われ、これを「近代真宗学」といい区別するが、それぞれの呼称よりも道綽教学に限定
すれば、史実に基づいた道綽像をあきらかにすることで、時代的な思想背景を加味し、道綽の実像
に迫ることが必要であると考える。一朝一夕にはいかない研究だが、時間をかけながらも、親鸞聖
人が曇鸞大師と善導大師の間に何故、道綽禅師が選ばれたのかを、たとえ推測の域を出なくても、
答えを見つけていく態度は、われわれに問われている課題であろう。なお、以降、高僧の尊称は割
愛する。
<隋代の仏教情勢>
今日までの中国仏教思想の変遷を道端良秀博士は、
『中国浄土教史の研究』の中で以下のように区
分している。道端博士の指摘はとくに浄土教の思想に着目して大別している。スクーリングで使用
する『中国仏教史』の該当する章も以下に示そう。
第一期 準備時代 隋末前後450数年 →第2章から第7章
第二期 立教時代 唐代300年
→第7章から第8章
第三期 融合時代 五代から宋代頃
→第9章
第四期 衰頽時代 元・明・清から今日 →第10章から第12章
道端博士も自ら述べているが上記の区分には問題もある。それは中国浄土教を中心に検討した場
合と各宗派の活躍期を勘案した場合では、若干の相違が生じる。朝鮮半島を経て日本へ伝来した仏
教諸派、就中、天台・真言に至っては、日本と中国との交易により学問研鑽も盛んになる。親鸞の
後の道元は、中国へ渡り禅を研鑽したように相互の思想的交流があった。中国仏教史上では第四期
を「衰頽時代」とするが、必ずしも該当しないのはこのためである。詳細な検討は割愛し、道綽が
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活躍された隋代の仏教事情について焦点を当てて概観しておく。
中国仏教は「三武一宗の法難」といわれる廃仏毀釈が四度断行されている。第二の廃仏運動が道
綽の時代にあった。それは「周武の法難」と言われている。
「周武の法難」は北周の時代、建徳三年(574)に起こる。北周の武帝は、僧侶の怠慢と贅沢な寺院
をみて還俗をさせた。また南の北斉を滅ぼした後もこの廃仏を続けた。その後、文帝が開皇元(581)
年に即位すると、これまで破壊された寺院の復興を行う。約30年間の短い隋王朝だが、唐王朝に
続く仏教興隆の兆しが見られる。
隋代の宗派では、三論宗と天台宗が興る。三論宗の開祖は鳩摩羅什とされるが、その後吉蔵(549-623)
によって宗派は興隆する。天台宗の開祖は慧文とされるが、智顗(538-597)によって基礎が造られ、
その後、湛然(711-782)が体系化し、日本へも影響を与えた。
では我々の浄土教はいかなる立場にあったのであろうか。ここで道綽の存在が重要となる。次項
では、道綽の事績を確認し、道綽自らが当時の仏教をどのように捉えていたか、主著『安楽集』を
短所に考察を進めていこう。
<道綽の事績と著述>
道綽の伝記は道宣『続高僧伝』巻二十と迦才(-627-)『浄土論』巻下に掲載されている。
道綽は幷州の出身で14才で出家し、慧瓉のもとで研鑽する。曇鸞の住した
玄 忠 寺 で 曇 鸞 の 碑 を 見 て 大 業 5 ( 609 ) 年 に 浄 土 教 に 帰 依 し た 。『 観 無 量 寿 経 』 を
講ずること二百余遍にわたり、念仏の教えを人々に広めたという。その方法は
麻豆を用いて念仏の数え名を称える念仏を勧めたとある。
著 作 に は 『 安 楽 集 』 上 下 二 巻 が あ り 、『 観 無 量 寿 経 』 の 宗 旨 を 説 い た も の と
して、後の善導に影響を与えた。
真宗学では「禅師」という呼称に違和感を覚えるものも少なくない。古来よ
り「禅」と「念仏」は仏道修行の重要な要素であったが、本質は異なると理解
されてきた。それ故、真宗学だけでなく、近年では鈴木大拙氏が「禅と念仏」
の類似点と相違点を述べているように、広範な視点で「禅」と「念仏」を捉え
る べ き で あ ろ う 。 ち な み に 、「 禅 」 と 「 念 仏 」 に つ い て は 『 安 楽 集 』 下 巻 第 五
大門でも言及されている。
「道綽」という人物像についても、禅僧としての姿が垣間見られる。上記の
伝記の後に記された真福寺蔵『戒珠集往生浄土伝』には、道綽の修験者として
の姿や、庶民教化に勤しんでいた姿が記されている。とくに道綽の時代には、
小豆などの豆を数えて称える行が流行していた。それを「数珠念仏」と呼ぶ。
道綽は数珠念仏行の推奨者であり、ただひたすら豆を数えながら瞑想する姿が
庶 民 に 見 ら れ て い る 。そ の 姿 を 見 た 庶 民 は 道 綽 を 、禅 定 を 行 じ る 高 僧 と し て「 禅
者 」 と 呼 ん だ 。 道 綽 が 何 故 、「 禅 者 」 と 呼 ば れ た の か は 、 厳 格 な 修 験 者 に 対 す
る 尊 敬 と 畏 怖 の 念 を 込 め た 尊 称 な の で あ る 。 そ の 後 、 し ば ら く し て 、「 禅 」 と
「念仏」は併修して行じられるようになるが、道綽の時代から500年ほど経
った宋代に入ってからである。道綽の念仏行は、時代を先駆けしていたといっ
ても過言ではない。しかし、道綽の著述には『安楽集』二巻のみしか残ってい
ない。
以下に『安楽集』の構成を示そう。
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『安楽集』
巻上
第一大門
教興所由・説聴方軌・発心久近・宗旨不同・得名各異
説人差別・三身三土・凡聖通往・三界摂不
第二大門
発菩提心・異見邪執・広施問答
第三大門
難易二道・時劫大小・輪廻無窮・聖教勧信
巻下
第四大門
大徳嘆帰・諸経宗旨・念仏利益
第五大門
修道延促・此彼禅観・此彼浄穢・聖教証誠
第六大門
十方比校・義推偏勧・諸経住滅
第七大門
此彼取相・此彼修道・
第八大門
諸経来証・二仏比校・釈往生意
第九大門
苦楽相対・彼此寿命
第十大門
引類証誠・釈回向義
第十一大門 勧托知識・受生勝劣
第十二大門 証勧往生
従来の真宗学では上巻を中心に教学研究がされてきた。前回のレジュメと重
複するが、道綽の念仏論の特性について触れておこう。
はじめに『安楽集』冒頭『観経』の宗旨について「観仏三昧」であると述べ
る。従来より『観経』の宗旨は「観仏三昧」が定説であった。道綽も同様の見
解 を 示 す 。『 安 楽 集 』 の 註 釈 箇 所 を 詳 細 に 見 る と 、「 念 仏 三 昧 」 に つ い て 言 及 し
て い る 。両 三 昧 が 厳 密 に 異 な る の か ど う か を 、真 宗 学 で は 常 に 問 題 に し て き た 。
今日、道綽の念仏観は「念観合論」と言われている。中国浄土教においても、
『観経』の宗旨が両三昧のどちらにあるのか取り上げているが、真宗学ほど議
論 が さ れ て い る わ け で な く 、『 観 経 』 の 宗 旨 は 「 観 仏 三 昧 」 が 宗 流 で あ っ た 。
『観経』を読むと、浄土の諸相について説かれているから、観仏の経典と理
解 す べ き で あ り 、「 観 仏 三 昧 」 を 宗 旨 と す る の は 妥 当 な 見 解 で あ る 。 し か し 道
綽 は 、「 観 仏 三 昧 」 と い う 概 念 を 敷 衍 し て 、 た だ 「 仏 を 観 ず る 」 だ け で は な く 、
『観経』の諸説を主体的に捉え、この経典を用いて浄土の観想を行じ、その土
へ往生を求めた。すなわち、道綽は『観経』を往生経典として捉え、弟子善導
に至って「観仏三昧」と「念仏三昧」の両義があると述べるに至る。
道綽がいう「観仏三昧」とはいかなる三昧思想なのかを検討しよう。従来ま
での『観経』解釈は、数ある経典から浄土の様相を観ずるために、もっとも好
便 で あ る と さ れ た 。「 観 仏 三 昧 」 の 語 の 出 典 は 『 観 仏 三 昧 経 』 か ら で あ る が 、
諸 師 が 理 解 す る 「 観 仏 三 昧 」 の 内 実 は 、『 観 仏 三 昧 経 』 の 内 容 で は な く 『 般 舟
三昧経』によるところが多い。
『 般 舟 三 昧 経 』 を 読 む と 「 定 中 見 仏 」 つ い て 説 か れ い る 。「 定 中 見 仏 」 と は 、
現世において厳格な修行を行い、仏を眼前にみることができるようになると説
か れ て い る 。 そ の 仏 と は 「 阿 弥 陀 仏 」 を 指 し て お り 、『 観 経 』 も ま た 阿 弥 陀 仏
の 西 方 浄 土 に つ い て 書 か れ て い る か ら 、相 応 す る も の で あ る と 理 解 さ れ て い た 。
道 綽 は 「 観 仏 三 昧 」 を 標 榜 し つ つ も 、「 仏 を 観 る 」 だ け で な く 、 諸 相 は 多 岐
に わ た る こ と を 『 安 楽 集 』 で 述 べ て い る 。「 念 仏 」 に は 「 観 念 」 や 「 憶 念 」、 そ
し て 、「 称 名 」 な ど の 諸 相 が あ る 。 本 来 、 浄 土 往 生 の 行 と し て の 称 名 念 仏 は 劣
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っているとみるのが主流であった。
しかし、道綽は念仏行を極限まで行じる点を強調する。すなわち、念仏によ
る「三昧行」である。道綽はその念仏行を、相続させることで浄土往生の行と
示 し 、 さ ら に 三 昧 の 局 地 ま で 高 め た 。「 念 仏 三 昧 」 は 往 生 行 の 要 で あ り 『 観 経 』
の 宗 旨 が 「 観 仏 三 昧 」 で あ っ て も 、「 念 仏 三 昧 」 と 相 違 は な い と 捉 え て い る 。『 安
楽 集 』 で は 明 確 な 言 及 は な い が 、『 安 楽 集 』 の 内 容 を 鑑 み る と 、「 観 仏 」「 念 仏 」
は同等の三昧行と捉えている箇所が散見する。
『安楽集』上下二巻には多くの問題を解決しようと道綽の会通が記されてい
るが、その中で「観仏三昧」よりも「念仏三昧」を詳細に説くのは、三昧によ
る 功 徳 や 内 実 が 重 要 で あ る こ と を 説 き た か っ た か ら で あ ろ う 。「 三 昧 行 」 は 主
体的な実践行であるが、往生行としての念仏は西方浄土への往生という目的が
あり、その土へ如何にして生まれることができるか、また他者とともに往生で
きるかを課題にする行である。道綽は多くの者へ『観経』の諸相を説く中で、
称名念仏の重要性を「三昧」という付加価値をつけて説いたと考える。
<道綽の師資相承>
最後に、道綽『安楽集』第四大門から知られる師資相承観を見てみよう。第
四 大 門 第 一 に は 「 中 国 お よ び 此 土 の 大 徳 の 所 行 に 依 る 」 と あ り 、「 菩 提 流 支 三
蔵・慧籠法師・道場法師・曇鸞法師・大海禅師・斉朝上統」の六大徳と呼ばれ
る人物の名があげられている。山本仏骨氏はそれぞれ諸師の間で思想的な師資
相承があるとは道綽は述べていないが、浄土教を宣揚し自らも実践していた点
を、広く内外に敷衍した人物として、紹介したのではないだろうかと指摘して
いる。
六師の中で、我々が注目するのは菩提流支と曇鸞である。先述した道綽が曇
鸞の石碑を見て浄土教に帰依したとあるが、その事実は確認されていない。し
か し 、『 安 楽 集 』 で は 曇 鸞 を 浄 土 教 者 と し て 信 望 し て い た 様 子 が 窺 え る 。 道 綽
は曇鸞について逸話を紹介している。
問いには他の者が十方浄土を求めるのに曇鸞は西方浄土を求めるのは何故な
のかという。曇鸞は凡夫として十方浄土を求めるのは難しく、西方浄土を常に
心にかけるしかないと答えたという。他の諸師に関しては何ら言及していない
から、曇鸞に対しての絶大な信頼が確認できる。
曇 鸞 の 影 響 は 、『 安 楽 集 』 で は 第 二 大 門 「 広 施 問 答 」 で 『 浄 土 論 註 』 の 諸 説
を 引 用 し て い る 点 か ら 知 ら れ る が 、『 浄 土 論 註 』 は 『 浄 土 論 』 の 註 釈 書 だ け で
な く 、 浄 土 の 諸 相 や 大 乗 菩 薩 道 を 追 求 し て い る 文 が 各 所 に 見 ら れ る 。『 安 楽 集 』
は凡夫の選択するべき道をあきらかにしようとしているから、曇鸞の浄土思想
と若干の相違が見られる。高度な浄土哲学を展開する曇鸞に対して、衆生へ浄
土往生を勧める道綽の浄土教者としての立脚点の相違といえよう。
道綽は『安楽集』文中に「勧信求往」という。後の善導は「自信教人信」と
いうが、両師の言葉には共通した点が見られる。道綽が「信」を重視しそれが
善導へと継承されている。道綽の禅者たる姿が『安楽集』において語られてい
ると考える。
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