『存在と時間』 第32節 了解と解釈: 要約 1.この節の位置づけ: 31節では

『存在と時間』
第32節
了解と解釈:
要約
1.この節の位置づけ:
31節では、現存在が、自らの可能性を投げかけつつ開示する了解(Verstehen)が論じられたが、この節では、了解(Verstehen)と解
釈(Auslegung)の関係が、として-構造(Als-Struktur)、予-構造(Vor-Struktur)、意味(Sinn)、循環(Zirkel)などの現存在の存在構造を捉え
るキーワード(実存範疇:Existenzial)に即して論じられる。
2. 了解(Verstehen)と解釈(Auslegung)の関係:
解釈は了解をより明確に形作る働きである。それは、了解されたものを認識することではなく、了解のうちで企投されている諸可
能性を練り上げることである。解釈のうちで了解は、何か他のものになるのではなく、了解自身になるのである。
3.解釈のとして-構造(Als-Struktur):
現存在は、日常性において手元にあるもの(das Zuhandene)、すなわち、何らかの道具をしている。このような使用は、手元にある
ものが、それがなんのために役立つのかを分析し、その分析に基づいて遂行されている。手元にあるものは、すでに常に「・・・
のため」に役立つという形で分析されおり、「何のために」と言い渡されているのである。「何のために」と言い渡すことは、た
だ単に何かを名指すことではなく、名指されているものを、何かとして言い渡しているのである。すなわち、了解されているもの
は、「何かを何かとして」という構造を持っている。つまり了解されているものは、常にすでにそれにおいてその「何かとして」
が、際立たされうるように接近可能になっているのである。この「として」が、了解されたものの構造を形成している。そして、
この「として」を明確に際立たせることが解釈なのである。見回し的に-解釈しつつ環境世界的に手元にあるものと交渉すること
は、手元にあるものを机として、ドアとして、車として、橋として見ているのだが、この見回し的に解釈されたものは、必ずしも
言葉として口にだされる必要はない。見回し的に見ることはすべて、手元にあるものを言葉にださずともそれ「として」それ自身
においてすでに了解しつつ-解釈しつつあるのである。
4. 了解の予-構造(Vor-Struktur):
解釈は、目の前にあるもの(das Vorhandene)の上に「意味」を投げ、それにある価値を貼り付けるのではない、そうではなく、世界
内部的に出会ってくるものそのものには、その都度すでに世界の了解の内で開示されたしかるべき機能と位置(適所性)があるの
であり、この適所性が解釈によって明確に取り出されるのである。了解はこの手元にあるもののしかるべき機能と位置(適所
性:Bewandtnis)を予め保持している(「予持」:Vorhabe)。解釈は、了解の「予持」Vorhabe の内で受け取られているものを一つ
の特定の解釈可能性へ向けて切り取る一つの「予視」Vorsicht に基づいて行なわれる。予持の内に保たれ、予視的に狙いを定めら
れている了解されたものが、解釈によって明らかになってくるのである。解釈は、解釈されるべき存在者に属している概念性をこ
の存在者自身から汲み取ってくることができるが、また一方で、この存在者をその存在のあり方からして誤った概念の内に押し込
めてしまうこともある。つまり解釈は常に、すでにある特定の概念性へと決定を下してしまっている。すなわち、解釈は、予握
Vorgriff に基づいているのである。解釈は、提示されたものの無条件の把握なのではない。何かを何かとして解釈することは、了
解のうちに含まれている予持、予視、予握に基づいて遂行される。了解の「予:Vor」という構造と解釈の「として:Als」という構
造は、どのように関係しているのか。そして両者は、企投とどのように関係しているのか。
5.意味(Sinn):
意味はここで次のように定義されている。
“Sinn ist das durch Vorhabe, Vorsicht und Vorgriff strukturierte Woraufhin des Entwurfs, aus dem her etwas als etwas verständlich wird. „
「意味は、予持、予視、予握によって構成さてている企投のそこへ向けてであり、そこから何かが何かとして了解されるようにな
るのである。」
意味が、「予-構造」と「として-構造」と「企投」を結びつけているものとして語られている。意味は「企投のそこへ向けて」
Woraufhin des Entwurf なのだから、現存在の可能性と置き換えてみることができるだろう。現存在の可能性は、「予-構造」によっ
て構成されている。それは「予め」企投されているからである。そしてこの予め企投された可能性の方から、手元にあるものが、
何かに役立つもと「として」了解されるのである。意味とは現存在の可能性であり、可能性が実存範疇ならば、 意味も、現存在
を捉える実存範疇である。この「意味」の理解が、保持されるなら、現存在という存在様式を持たないすべての存在者は、無意味
なもの、意味一般を欠いているものとして理解されなければならない。
それゆえに存在の意味を問う場合、存在が、現存在の了解性の中へと入り込んでいる限りで存在それ自身を問うのである。
6.了解と解釈の循環(Zirkel):
解釈は、了解を前提とし、それを用いるのであれば、解釈されるべきものをすでに了解してしまっているのでなければならない。
解釈が、その都度すでに了解されたもののうちを動いており、了解されたものの方から近づかなければならないのだとしたら、解
釈は、ある循環の内を動いている。しかし、循環は、論理学の最も基本的な規則に従えば「悪循環」である。例えば、歴史家は、
循環をさけることができ、自然認識と同様に観察者の立場に依存しない歴史学を創設するという希望が叶えば、理想的だと考える
だろう。しかし、この循環の内に何か悪しきものを見、それを避け、単に不完全なものとして受けとめることは、了解を根本から
了解しそこなうことである。了解と解釈をそれ自身了解の変種にすぎない特定の認識の理想に近づけることが問題なのではない、
そのような試みは、本質的な非了解性のうちでの目の前にあるものの把握というあたかも正当に思える課題のうちに迷い込んでい
くのである。決定的なことは、循環から抜け出すことではなく、循環のうちに正しい仕方で入り込むことである。了解のこの循環
は、任意の認識の仕方が動いている円環ではなく、現存在自身の実存論的予-構造の表現である。循環のうちには最も根源的的な
認識の積極的可能性が隠されているが、その可能性は、解釈が、予持、予見、予握を思いつきや通俗的な概念によって与えず、事
柄自身から了解した場合にのみ正しい仕方で把握される。了解は、現存在自身の存在可能であるがゆえに、最も厳密な学の厳密と
いう理念を原理的に凌駕している。数学は、歴史学より厳密なのではなく、数学にとって重要な実存論的基礎の圏域が狭いだけな
のである。了解の内にある「循環」は、意味の構造に含まれており、意味の現象は現存在の実存論的体制に、すなわち、解釈しつ
つある了解に根を張っている。世界-内-存在としてその存在自身が問題となっている存在者は、一つの存在論的循環構造を持って
いる。この循環構造の中で、いわゆる厳密な学も含めあらゆる認識が目覚めてくるのである。