見る/開く - 琉球大学

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教材研究(芥川龍之介)
小澤, 保博
琉球大学教育学部教育実践総合センター紀要(17): 41-66
2010-03
http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/handle/123456789/19036
教育夷践総 合セ ンター紀要
第1
7号
201
0年 3月
教材研究 (
芥川龍之介)
小樽
保博●
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1 「
鼻」
弘学館書店」明治四十三年十月)には
代小品」(「
アン ドレーエフ「
歯痛」以外にヴィー ド「
午後一
(1) 「
鼻」の素材考 (
その-)
和田芳英 「ロシア文学者昇曙夢&芥川龍之介
論考」(
「
和泉書院」第四章)に「
鼻」典拠の詳細な
時」t
J
I
'
1
)
が収録 されている。r
毎 日午後 になって
ニーひ-
そうがわ しゆ
いざよう
伽耕店『
ベルニナ』にやってくる象皮鹿の異形な
わいし▲うIiとこ
考察がある。最初にこの研究について網羅的に
壊小男に対 して、神経質な著述家のベン トがい
紹介し、自説で補強して見たい。「
全インドが ・-
われもない敵意にみちた差別感から、あからさ
書けす
・・・」(
葛巻義敏編 「
芥川龍之介未定稿集」
)
が、
まな態度で、か らかい、蔑み、常軌を逸 した攻
「
鼻」の草稿としての意味合いがあると
「
羅生門」
撃的な行動をとる。 これに対 して主人公のF
僕』
いう指摘である。さらにこの未定稿は、レオニー
は、できるかぎりの良蝕を持って冷静に対処し、
ド ・アン ドレ-エフ「
地下室」(
昇曙夢翻訳)と
ベン トの暴走的行為を制止 しようと努めるので
「
歯痛」(
森鴎外翻訳)の合体であるという考察。
あるが、とうとうベ ントの強引さに誘発されて
さらに「
鼻」の典拠の一つとしてグスタフ ・ヴィー
彼自らもまた象人間の日に爪弾きをくらわそ う
ド「
午後一時」(
森鴎外翻訳)を挙げている。ゴー
「こ
とする寸前に妄想 にとりつかれて しまう。」
ゴリ「
鼻」を芥川龍之介 「
鼻」の典拠としてきた吉
の作品は身体的欠陥を持った象皮鹿の小男に対
田精一説を最終的に退けている。最初に引用さ
する悪意や蔑視、冷笑が露骨に表現されていて、
れているのは、未定稿「
全インドが ・・・・・・」
ぺだ
か らで三箇所を引用 している付
川。 この「
吠舎城
人間の内部に巣食う醜い一面が別挟されている。
神経質な著述家ベン トと主人公のF
僕』の敵意に
の乞食クシャラの寮を特徴つける赤い典は数カ
みちた他者への態度には、芥J
J
r
の『
鼻』の主人公、
月後『
鼻Jの主人公禅智内供の五、六寸もある異
禅智内供に対する周囲の悪意や、蔑み、からか
様で奇型な鼻として登場するのである。」と結論
いの態度 と共通する性質があるといえよう。
」と
付けている。 さらにアン ドレーエフ「
歯痛」か ら
結論付けている。
三箇所を引用Lで
つt び
ぞ うがわしo
てっけつ
r
F
歯痛』の主人公商人ペン・
さらに「
羅生門」執筆以後 に記述された断片
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t2)
トヰツ トが激 しい歯痛のために苦 しむ様子を芥
「
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と自分」「
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e
r
と自分
川の作品では主人公、禅智内供が異状に長い鼻
のために社会的身分も忘れて苦悩する様に置き
Jt
l
川を二箇所引用 して 「
鼻」の断片草稿と結論付
けている。
換えて創作 している。」 (Jt3)と意見を述べた。
(2) 「
鼻」の素材考 く
その二)
芥川龍之介が読んだと思える森鴎外翻訳 「
現
●琉球大学教育学部
- 41-
蕗」とその主題を同じくする「
芋粥」の成立に
「
関係 して後年、芥川龍之介は次のような認識 を
子大学論集」昭和 四十二年九月)か らその核心部
示 した。
パルタザアル」摂取の状
分、 フランス 「
タイス」「
ま さL'
ねi
iく ち ▲う
(
前文省略)正宗 白鳥氏の 「
死者生者」である。
いf
}
h
(
め
これは僕の 「
芋粥」と同 じ月に発表された為、
況 を紹介 し、最終的に 「
鼻」成立問題に及びたい。
特 に深 い印象 を残 した。「
芋粥」は 「
死者 生者」
文学人系谷崎潤一郎集」(「
戯麟」角川書店)を併せ
ほ ど完成 してゐな い。 唯幾分か新 しかっただ
て参照 させて裁 いた。r
麟麟」冒頭 のエ プグラフ
続文番的な,余 りに文番的な」-)
けである。(「
「
鳳号。鳳号。 何徳之 嚢。 往者不可練。来者猶
ほう
」(
「
鳳や鳳
可追。己両。 己両。今之従政者殆而。
L
t
き
t
J
や、何ぞ徳の衰へたる。 往 く者は疎むぺか らず。
I
:
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<・
来 る者は猶追ふべ し。 巳みなん己みなん。今 の
あや う
I
v
(し
論語 」(「
微子第十八」)に
政 に従ふ者は殆 し」)。「
自然主我文学隆盛時 に 「
芋粥」が、脚光 を浴び
たのは素材の新 しさに拠 る と作者 自ら自戒 して
いる一文で ある。「
鼻」(「
新思潮」大正五年二月)
発表後、「
典」を黄賛 した夏 日軟石番簡 「
材料が非
あた
わ
常 に新 らしいのが眼 につ き ます」(「
芥川龍之介
以下の記述 に就 いて は、大島真木注釈 「
日本近代
せつ よ
ある挿話、楚の国に行 く孔子 を接輿が留めよ う
書 簡」大 正 五年二 月十 九 日)によ り、 商業雑誌
とす る一節で あるが、「
パ ル タザ アル」冒頭 のエ
「
新小説」(「
鼻」大正五年五 月)に再掲載 にな り、
次回の 「
芋粥」(「
新小説」大正五年 九月)発表の端
プグラフりt7'の 模倣で あ る 。 さ らに r
殿麟」終結
とう
と
部「
此 の言乗は、 彼の食 い論語 と云ふ古物 に載
緒 を掴んだのである。 こうした一連の芥川龍之
せ られて、今 日迄伸 はって居 る。
」り18)は、「
パル
介文壇登場 の経緯 につ いて、私 には一つの仮説
タザ アル」結未 で福音番の三博士 の基督 降誕 の
がある。芥川龍之介 と経歴 を同 じくす る先輩作
場面(
s
t
g
)
に結 びつ ける手法 を借用 している。
家谷崎潤一郎の数年前の文壇登場の事跡をなぞっ
大鳥真木前掲論文 は、「
戯輯」の冒頭文 と終結
て いる。作品創作 の細部 に至るまで前人の軌跡
文の 「
パルタザ アル」との類似を指摘する。「
麟麟」
を踏 瑛 して いる、 とい う仮 説 で あ る。r
刺 青」
は、作品本文の肪展開 を「
論結」に拠 りなが らも
(
「
新思潮」明治四十三年十一月)「
戯麟」(r
新思潮 」
「
タイス」か ら借用 して
細部は、「
パルタザ アル」
明治 四十 三年十二 月)等 の作品 を永井荷風 に賞
いる事 を指摘す る。最初の借用箇所は、孔子の
賛 されて文壇登場 した先輩作家 の創作行為を手
串 を見送 りなが ら衛 の霊公の南子夫人が噴 く言
法に於 いて も追随 した という、仮説である。
葉r
『
妾は世の中の不思議 と云ふ者に遭って見た
自分は殊 に この 「
麟麟」の文章 を以て、優 に
い。 あの悲 しい顔 をした男が真の聖人な ら、妾
アナ トオル、 フランスの 「
タイス」
や「
パル プ、
にいろいろの不思議 を見せて くれるであ らう。
』
プ リユ」の書 き出 しに も比較 し得 るもの と倍
か う云って、夫人は夢みる如き瞳 を上げて、進
オ ベ ラ
ず る。若 し此れ を歌劇 の舞壷幕明きに前奏さ
に隔た り行 く車 の跡 を眺めた。」 tltLO)さ らに孔子
れ るプレリユ- ドや ウ- ヴエルチュールの管
に面会 した折 の南子夫 人の発音 「この衛の団 を
絃楽を聞 くや うな心持 にも皆へるな らば、か
まさ
の「
刺 青」の轟き出 しの如 きは正 しく三味線の
訪れて、 妾の顔 を見た人は、誰 も彼 もF
夫人の
ひた い だつ せ
F
i
うL
:
鮪は坦妃 に似 て居 る。夫人の 日は褒轍に似て居
前弾きであ らう。(r
三田文学」明治四十四年十
る。
』と云って発かぬ者はない。先生が其の聖 人
一月)
であるな らば、三王五帝の古か ら、妾よ り美 し
ま1 び
まこと
作家の
この永井荷風 「
谷崎潤一郎氏の作品」(「
い女が地上に居たか どうか を、妾に教へては呉
I
il1
めん
感激の背面には過去の文明が構ってゐるのであ
れ まいか 。」(紘ll
)
夫 人南子が、夫霊公 に対す る支
る」)とい う批評は、「
羅 生門」や 「
鼻」
「
芋粥」の評
配の言動が孔子の教えで弱体化 した事 を認識す
価 に繋が る側面がある。殊 に後者は、作品構造
る場面の発言 「
あ ゝ、 あの孔丘 と云ふ男は、 何
その ものが 「
戯 鱗」成立の構成 を模倣 して いる。
時の間にかあなた を妾の手か ら奪って 了った。
以下、 この件 に就 いての考察 を進める。
妾が昔か らあなた を愛 して居なかったのに不思
大島真木 「
谷崎潤一郎のデ ビュとアナ トール ・
束京女
フランス ー『
麟麟』をめ ぐる諸問題 -」(「
議はない。 しか し、あなたが妾 を愛 さぬ と云ふ
」(
化1
2'
以 上は南子夫人 とシバの
法はあ りませぬ。
-4
2-
女王パルキスとの類似であるが、一時的に南子
訳で 日本に輸入された二つの作品を完壁に摂取
夫人への寵愛 を捨て孔子の舌を受け入れて天文
した谷崎潤一郎は、 この自家薬龍中のものにし
に没頭する霊公は,シバの女王 との愛 を捨てて
た作品に依拠 しなが ら古老か らの聞書き、ある
陰陽博士 と星の運行について誇るパルタザアル
「
戯鱗」
いは論結の挿話 を衣裳に纏わせて 「
刺 青」
の借用であると「
其 の 日か ら霊公 の心 を左右す
を書き上げた、 と言える。創作過程で無意識裡
るものは、夫人の青菜でな くって聖人の言葉で
に行われたか も知れない谷崎潤一郎の創作手法
ぴ⊥うどう
あった。朝 には廟堂に参 して正 しい政の道を孔
てんt
.
ん L I
:
11いだい
子に尋ね、夕には霊壷に臨んで天文四時の運行
「
谷崎
を第一に見抜 いたのは、永井荷風である。
潤一郎氏の作品」では、 自分の慧眼が森鴎外、
ねや
を、孔子 に学び、夫人の閏を訪れる夜 とてはな
上田敏の同意 を得た ものである事 を明か してい
」り【13)
かった。
る。三者の統一的見解であった意見を最年少の
「
麟麟」冒頭部分 に続 いて、孔子一行が二人の
隠者 と哲学的な問答をする場面である。子路が
永井荷風が、文章化 したのが (
刺青)「
作家の感
ママ
激の背面には過去の文明が横ってゐるのである。
」
渡 し場を聞きに行 くと二人は、孔子は何でも知っ
(
麟麟)r
『タイスJや F
パル プ、 プリユ』の書き出
ている筈だと言い、 さらに時勢を批判 して孔子
しにも比較 し得るものと倍ずる。
」(「
谷崎潤一郎
の実践よ りも我 らが、二人の隠者 と共に生きる
氏の作品」)という言辞であった。「
刺青」
「
麟麟」
べきと語 る-挿話 (「
論語」微子第十八)の再構成
の創作衣裳 を細部に至るまで点検検証 していた
である。 この挿話の最後尾での孔子 の発音 「
鳥
同時代人は,年少の芥川龍之介であった。「
鼻」
とも
獣には与に群を同 じうすべか らず。吾斯の人の
r
芋粥」等の創作作品を執筆する一年前の文学的
徒 と与にす るに非ず して誰 と与にせん。天下道
か
」(
「
論 晒」微子第十八)の
あれば、丘与に易へず。
営為を一瞥すると、その一角に創作行為の源泉
や、その典拠となった作品翻訳群が弛別される。
み谷崎流 に変形 されて生かされて いる 「
なかな
「
パルタザ アル」(「
新思潮」大正三年二月)「
タイ
か話せる老人であるが、然 し其れはまだ道 を得
イス」(
大正三年七月)「
シング紹介」(
「
新思潮」大
て、至 り重 さぬ者 と見える。
」(「
麟 鱗」
).
「
赦麟」
正三年八月)「
シンダ続稿」(
大正三年七月)等は、
冒頭箇所 に続 く隠者 との語 らいは枠組みのみを
芋粥」の草稿の意味合 いがある。
「
鼻Jr
「
独語 」(「
微 子第 十 八 」)か ら借 用 した ので あ
(3) 「
鼻」の素材考 (
その三)
「
刺 青」
「
麟麟」等 の作品 をその依拠 した 「
タイ
る(
J
t
W。
・
とうと
「
其れはまだ人々がF
愚Jと云ふ貴 い徳 を持っ
さ
し
て居て、世の中が今のや うに激 しき乱み合はな
「
パルタザ アル」に至るまで精練 に熟読 し作
ス」
い時分であった。」(「
刺青」冒頭)は、「
パルタザア
介であった。「
パルタザアル」(
「
新思潮」
大正三年
や「
タイス」冒頭 の一文 を想
ル」冒頭 の一文 -LtJ5-
二月、「
新小説」大正八年七月に再掲載)は,芥川
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ろカ
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てん かわごろも
起 させ るt
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G
)
.「
元気の好 い子路は紫 の朝 の鼓 を
翻 して、 一行の先頭に進んだ。 考深い眼つきを
がんえん
とくじっ
ふ うさい
そ うしん
品構造を完壁 に把握 したのは、後進の芥川龍之
くつ
龍之介によ り謙遜 の「
序」を付辞 して再録された
が、「
刺 宵」
「
掛麟」の評価の定着 とr
鼻」
「
芋粥」の
した顔淵、篤実 らしい風采の曹参が,麻の層 を
I
まん ち
I
i
穿いて其の後に続いた。正直者の御者の奨遅は、
しは く
つわ
細馬の衝 を執 りなが ら、時々車上の夫子が老顔
作品的な成功の証である。「
タイス」に就いては、
「
『タイイ ス』の英 評 な どを改み Lを記憶す 。」
(「
学校友だち」(「
中央公論」大正十四年二月)と
を窃み見て、傷ましい放浪の師の身の上に涙 を
東京府立第三中学校時代の級友西川英次郎との
流 した。
」(
「
戯麟」冒頭)も「
パルタザアル」冒頭 に
「
パルタザア
読書経験 を記録 している。「
タイス」
類似する(批17)。
ル」の精読、さらにこの二作品に依拠 した「
刺青」
新人の谷崎潤一郎を文壇 に押 し出 した代表作
「
戯 鱗 」愛読か ら「
鼻」
「
芋粥」の作品創造は直線的
は、「
刺青」
「
戯 鱗」の二作である。そ して この作
に成されなかった。 アイルラン ド文学の隆盛 と
品の典拠 となったのは、 フランス 「
タイス」
「
パ
精力的に翻訳紹介 した片山康子 (
筆名 「
松村みね
ル タザ アル」の代表的な作品であった。 当時英
子」)の介在が必要であった。芥川龍之介が片山
-4
3-
庸子歌集 「
窮翠」(
「
心の葺叢番」大正五年三月)杏
が「
鼻」
「
芋粥」創 作主題の直接的な契機になった
新思潮」大正五年六月)で
批評 している「
窮翠」(「
と思われる。翻訳 「
パルタザアル」と「
シング紹
ある。
新思潮」掲載 と言 う
介 Ⅰ」とは,共 に同人雑誌 「
1
の
rシング紹介」(
「
新思潮」大正三年八月)tlt18
事 もあって菊池寛 に対す る影響 も甚大である。
詳細な解説文か ら伺い知るのに芥川龍之介は、
「
屋上の狂人」
(
「
新思潮」大正五年五月)あるいは
シング「
聖者の泉」(
「
Th
eWe
l
lo
f仙eSa
i
n
t
s
」)
中央公論」大正十一年四
後年の 「
石見重太郎」(「
の翻案小説 「
霊験」(
「
金港堂 」大正四年二月)を熟
月)はシング「
聖者の泉」の直接的な影響に拠る
読 している。 この辺の事情 に就 いては、後年早
作品成果であるという指摘が成されているuI・2L" 。
稲田英文科で坪内逝適の論説に連なった宇野浩
シンダ「
聖者の泉」(
冶遥翻案題名 「
霊験」)は、
二が,「
芥川龍之介」(
四)で明瞭 に記述 している。
互いに美貌を認め合っていた一組の乞食夫婦が、
『
鼻1とF
芋粥』のテエマは、両方 とも、理想
聖者の泉の霊験で奇跡的に開眼の体験を共有す
(
あるひは空想)は理想 (
あるひは空想)である
る。 しか しこの夫婦が直面 したのは醜悪な現実
うちが花 といふ程の意味である。 とすると、
である。二人は互いが美貌 とはかけ離れた存在
芥川や (
殊に)菊池が愛読 した、アイル ラン ド
である事を認め合わない訣には、行かなかった。
の劇作家 のシンダの 『
聖者の泉』(
川
Th
eWe
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霊験の一時的な効用が失われる事で再び失明 し
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e Sa
in
t
s
n-F
霊験』といふ題で翻案 され
たこの乞食夫婦は、再度の奇蹟によ り永遠の開
た)とまった く同 じ趣向である。
眼の機会を拒否 して闇の世界に止まるのである。
虫こと
第一高等学校在学中の芥川龍之介は、山宮允
永年親 しんでいた自分達が認め合った世界、想
とr
愛蘭土文学研究会」tftt9)
に参加 している。京
像樫に止まり生きる事が幸福だと納得する。ち
都帝国大学法学部に去った友人井川恭宛番衝に
なみに私が学生時代、一世を風廓 した不条理劇
は、彼が参加 していて井川恭 もその周辺に居た
アイルラン ド出身劇作家サ ミュエル.ベケ ッ ト
と思える「
愛蘭土文学研究会」周辺の知識が散在
「
ゴ ドーを待ちなが ら」ぐ
●
Wa
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H
)
は、
する。第一高等学校卒業直前退学 して京都帝国
「
聖者の泉」か らの影響があるそ うである。
大学英文科 に去った菊池寛 において もアイルラ
前掲宇野浩二の指摘によ り、「
鼻」
「
芋瀬 」の主
ン ド文学の影響は、顕著である。芥川龍之介に
題が,シング「
聖者の泉」(
松村みね子訳)「
霊験」
は、 シ ンダ と並 んでイ ェ ー ツ に就 いて の翻
(
坪内過遥翻案)に内包されているという指摘を
釈
(
t
t
2
0
)
が数篇ある。
以下、具体的に検証する。検証作業の有効な手
芥川龍之介が、イェーツに引かれたのはその
段 となるのは、「
シング紹介 I」
「
シング紹介 Ⅱ」
作風の神秘的な傾向である。その延長線上で親
の芥川龍之介自身の文言である。
盲目の一組の夫婦マーチン ・ドウルとメアリー ・
交のあったシングに対 して も多大な関心を持っ
ていた筈である。
ドウルは互いに美男美女であるという認識で生
1
1
2
日と「
シング紹介 Ⅱ」との関
「
シング紹介 I」く
活 している。マーチンは一方では村人の雰囲気、
については、詳弧は不明で ある。 これに
連tlt22)
噂か ら妻メアリーの美貌を幾分かは疑っている。
合わせて 「
パルタザアル」
「
タイイス」等の翻訳作
村人チミ-の発言か ら、二人の奇蹟な一時的開
業 によ り、「
鼻」
「
芋粥」の創作意図は作者の脳喪
眼についての情報が もた らされる。海の彼方に
で明瞭 にな った と思われ る。「
パル タザ アル」
ある聖人の墓の畔 に泉があ り、その聖水によ り
(
「
新思潮」大正三年二月)「
シンダ紹介」
(
「
シング
盲人の奇跡的開眼が可能である。マーチンの胸
紹介 I」)は、創作作品 とそれを裏面で支える理
中は妻の美貌を確信 したい、実見 したいと思っ
論の意味合 いがある。「
愛蘭土文学研究会」での
ている。
若手の研究成果が、稀代のシエクス ピア学者で
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あった坪内逝遥の琴線に触れてシング 「
聖者の
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泉」が、翻案小説 「
霊験」として刊行 された こと
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」
よろよる
(
おれは長 い夜々考える ことがある、 もしおれ
て馬声を浴びせ られる場面である。
たちにたった一時間でも、たった一分間でも、
して彼は、開眼の奇蹟、神の恩寵を後悔する。
自分の姿が見えた ら素敵だろうと思 うんだ、お
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ひが し
れたちが東部の方の七つの県に誰ひ とり追つけ
ないほどの立派な男や立派な女だと、 自分たち
で見ることが出来た らなあ「
松村みね子持」)
マーチ ンとマア リーの盲 目の夫婦は、舞台登
神の奇蹟 を享受 したマーチンは,冬の荒姑た
さ
い
な
る自然の内部で絶望感に苛まれる事になる。そ
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」
(
毎 日柾 目しめつばい、 いやな 目ばか り束る、
場の最初か ら風雨に晒されてお り周囲の季節は、
おれは盲人でいて、山の上に吹きまくられるう
明 らかに初冬である。聖者によ り開眼の奇蹟を
す黒い雲なんぞ見ない方がいい「
松村みね子評」)
体現 した時に二人は、初冬の季節感の中で神の
第三帝において二人は、再び盲目になって登
恩寵 と言 うべき自然の輝きを見ることはなかっ
場す る。冬が終わ りかけた時に聖者は、再度神
た。二人の美 しい金髪の娘モ l
Jイ とメアリーに
の恩寵を施す為に聖水を持って登場するも、器
より乞食のマーチンは.聖者の外套を羽綴 らさ
れ、開眼の奇癖が不幸な予兆の招来であるとい
の聖水は開眼の奇蹟 を望まないマーチ ンにより
こ
ば
溢される。結局、夫婦は神の恩寵の輝ける初夏
う暗示がある。
を知 らずに初冬の季節感を体現 し、同時に人間
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同士の醜悪を認識 し、再度の開眼を拒否するの
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である。池遥翻案 r
霊験」では、季節は.第二♯
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第三 帯 とも初冬で あ る。r
時候 は初冬の早朝」
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(
「
霊験」第二幕)「
前の幕 と同 じ時候。 七八 日頃
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の宵月。」(
「
霊験」第三幕)とある。「
聖者の泉」で
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」
(
月 日の光 も見ることが出来ず、神 に祈ってお
は,神の恩寵の降注 ぐ春 に設定されている。
「
I
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聖いひ じりの姿を見ることも出来ぬお前方の身
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」(
春のは じめごろのある
日「
松村みね子 評 」)。開眼によ り神の祝福 を得
の上はつ らいものであろう、 しか し、お前方の
られなかった乞食夫婦は、「
春のはじめ ごろのあ
eよ
がた
がた
ように不幸の中で元気よくしている者 こそ今 日、
る 日」に再度訪れた聖者の行為を侶ずる事が、
めのちから
神がお前方に与えて下さる視力をも立派に役に
出来ない。神の恩寵 に満ちた季節 「
春のは じめ
立てることであろう。「
松村みね子押」)
ごろのある日」(
「
聖者の泉」
第三章)を「
前の幕と
聖者による奇蹟の開眼を経験 したマーチンは、
同 じ時候。(
時候は初冬の早朝)
」(
「
霊験」
第三幕)
教会か ら出て来た直後 に金髪の美 しい娘モ リイ
と悉意的 に変更 した坪内冶適は、「
聖者の泉」に
を自分の妻 と間違えて彼女の肉体に触れる。発
仮託 したシングの季節感の意味、神の恩寵 とし
情の美 しい娘モ リイは、マーチンに馬声を浴び
ての自然の意味を理解 していなかった。
シンダは、アイル ラン ド西海岸アラン諸島の
せる。「
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hi
n.
」(
退 いておいで、 わた しの顎
をよごさないでお くれ。(
人々、大声に笑 う)「
松
原始的な自然の営みで覚醒 し、戯曲の台詞や詩
村みね子謂」)こうして第一幕は、二人の盲 目の
える誤謬に坪内逝適は、 気付かなかった。聖水
乞食の失望、落胆で終 り、聖者による奇蹟の開
をもた らす飛雲上人の出て立ちは、「
役の行者そ
眼は幸福をもた らさない結果で終わる。第二串
っ くりといふ扮装」(「
霊験」第一♯)とあ り、「
役
は、開眼により美貌の娘モリイに愛情を示すマー
「
法難 」と連錦す る遭遇劇に基督教の恩
の行者」
チ ンが,娘モ リイの愛人チ ミー と自分の醜い妻
寵は無線であった。「
霊験」の主題か ら示唆を受
メアリーの面前で美貌の金髪の娘モ リイによっ
けて 「
鼻」
「
芋粥」を番 いた芥川龍之介は、「
西方の
想に新局面を見出 した`
托
2
4
。 この決定的 とも言
い
た
ふんそう
- 45-
人」で基智 の救 済 を希求 した。 シンダ 「
聖者 の泉」
翻訳 「
歯痛」)
を翻案 し、 基菅 の恩寵 の意 味 を理解 しなか った
(
証 3) 「
内供がかう云ふ消桶的な苦心をしながらも、
池遥 「
霊験」の限 界 につ いて 芥 川龍之介 は、理解
・
方では又、穂楯的に鼻の短 くなる方法を拭みた事
を及 ぼ した 筈で あ る。
は、わざわざこ ゝに云ふ迄 もない。内供はこの方面
こん と
1
.
-1t う l
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lん
でも殆佃来るだけの事をした。鳥瓜を舶 じて飲んで
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I
)
見た事もある。鼠の尿を鼻へなすって見た事もある。
は
(
4)「
鼻」の素材考 (
結語)
「
そ れ か らこの 自分 の頭 の 象徴 のや うな書 斎
で 、 当時 番 いた 小 説 は、『羅 生 門Jと『鼻』との二
しか し何をどうしても、弗は依然 として,五六寸の
つだった。」(「
あの頃の 自分 の事」別稿 「
中央公論 」
長さをぶらりと帝の上にぶ ら下げてゐるではないか。
」
大 正八年 一 月)とあ る 「自分 の頭 の 象徴 のや うな
(「
鼻j)
書 斎」の具体 的 な 内容 を (1)芥 川 龍 之 介愛好 の
(
註 4)「
君はもうベン トを知ってゐるね。あの小さ
鴎外 著作 集 「
諸 国物 語」「
十 人十 話 」との関係検 証
い、神経質な著述家だ。 いつかあいつが料理屋で、
(2)フランスr
タイス」
r
パルタザアル」に依拠 し
た谷崎潤 一郎 「刺 青」
「
戯麟 」との関 係検 証 (3)シ
アプサ ン ト ・オオ ・レエ (
牛乳入アプサ ント酒) と
A.
)I
)
いふ変なものを桃へて発か したといふ話のある、あ
ング r
聖 者 の泉」(
池遥 翻案 r
霊験」
)との関係検 証
の男だ。僕は君に斉ふがね。世の中にあの位結構な
で「
鼻」
「
芋粥 」創作 の主題 に迫 った詳論 であ る。
人間はないよ。併 しあの男の神軽質な事と云ったら、
どうかすると言婚同断だよ。 さういふ時はあの男は
危険人物 と言っても好い。 なぜと云ふ と、そんな時
(
証 1) 「
クシャラはしば らく.寝たま ゝ赤い弟のさ
は.その神経質が周囲のものに伝染するか らね。僕
きへ蝦をよせて考へて見た。そしてその身の上には、
短い黒い糸くづが 一
・
本 Sと云ふ字の形をしてひっか ゝ
んな 目に連ふ ことだか、その場合になるまでは、誰
ってゐる。」r
唯赤い鼻だけが共中に椴をよせたま ゝ
にも分か らないのだか ら困るよ。その頃僕なんぞは
のこってゐる。そ してそのあたまには矢張黒い糸 く
毎 日午後にベルニナ (
飲食店の名)に寄ったものだ。
づがぶ らさがってゐた。J 「
此時彼の顔は上と下と反
給仕頭に云はせると.伽排を飲みに人 らつ しゃると
対な二つの方向にひきよせ られて来た。唇の 〔
二号
云ふのだ。僕なんぞは大抵 -番奥の間のソファに腰
不明〕は下あごの方にむいて眉 と眼 とは冷汗 をかい
を掛けるのだ。 あの台所 と背中合せになってゐる壁
た軸の方へひっは られたのである。
」(
未定稿 「
全イ
の前に掘ゑてあるソファなのだ。丁度僕なんぞの掛
ン ドが ・・・・・・」)
けるソファと向き合ったソファに、樽まって来て陣
(
鉦2)「
頬べたの上に我つけると利 くといふ織部に
ね fみ
ふん
を掛ける小さい男がゐた。縦 も横 も気になるやうに
きモ I
)
した鼠の弟や ら,味の鋭い鍋の浸汁や ら,昔摩西が
かi
了
打壊 した法律の石板の秋 らや らを持って来たのであ
る。鼠の糞は少 し利いたが、長持は しなかった。蝿
小さいのだね。 なんでもその男の生命はみんな頭へ
上ってゐるやうに思はれるのだ。その外の体の部分
こ
つし▲
は、 どこもか しこも、無法に忽緒にせ られてゐるの
の浸汁だの,石板のかけらだのも同 じことで.痛は
だ。その男が遭って来て、手足を色々に働かせて、
エ
・
旦好 くなっても又向に勢を盛 り返 し来る。」 「
但し
やつ との事でソファへ寄っ掛かるのだね。 さうする
先刻の鼠の糞が利いたのかも知れない。兎に角ベン ・
と足が床までは届かない。ぶ らりと下がってゐて、
トヰツ トは下へ降 りて少 し眠った。そ して今度目の
味の上に何かあった ら,足の指で釣 らうととでも思
覚めた時には痛はあ らかた止んでゐた。只右の頬べ
そl
∫
l
▲
たが.傍か らは知れない位腕れてゐるのである。」
ってゐるか と云ふ凪なのだ。その様 7
T
・
を形容 して云
って見れば、なんでも両方のずぽんの中を始終風が
「
痛は又前よ り激 しく起って来た。ペン ・トヰツ トは
吹き抜けてゐるといふ工合なのだ。 もう一つ形容 し
寝床の上へ座って.体 を懸錘のや うにゆさぶ り始め
て云って見れば、なんで も足の下に、人の目に見え
た。 この男の顔は この時四方か ら締んで真申の大き
ないオルガンか何か ゞあって、前世の報で、のべつ
L
lくい
な鼻の方へ寄って来た。そ してその身の上には,冷
にそれを糟んでゐな くてはな らないといふ工合なの
たい汗が玉のや うになって湧き出てゐる。」 (
森鴎外
だ。その男も伽排を飲む。それが済むと.丁寧に鼻
-4
6-
い ただ さ
をかむ。それか ら右の腕 を頂へ掴 して,それに頑 を
は 余 り上品に見える ものではない。 自分はこの弗
持たせて、 目を半分喋ってゐるのだ。その時左の手
を見てゐると よ く ナポレオ ンか誰かが
はだ らりと脇へ垂れてゐる。手の平はぢつとしてゐ
を向いた男ばか り集 めて
身の上
近怖兵にした と云ふ話を
て、ム本の指は開いてゐる。所がそれを見てゐると、
思ひ化 した
その指が段々曲って、手が扇のや うな格好 になる。
気の轟な鼻である。 ミユ ラアは.鼻 こそ近衛兵にな
その扇が次第 に速度を増 して,ひらひ らと軌くのだ。
J
tJユ
丁度左の股の所に熱い所があって、それを扇いで、
胸の狭 い所が 自分によ く似てゐる 独乙人と云へば
冷 してゐるといふ工合だ。 それ と同時 に. 蛸足は上
必安酒がすきで
人 と喧嘩 をす る事が
それよ り猶
がった り下がった り、上がった り下がった りする。
すきな人間のや うに思ってゐた 自分は
この男が独
兎 に角
る資格があるが
三十何才かの地乙人にしては
体格は甚振はない 痩せてゐて
ぴ- ち
と巾と
留度 もな しだね。そ して鼻か らは窄気が規則正 しい
乙帝国の臣民だと思ふ と どうも矛盾の感があった。
J
間隔で噴き出されてゐるのだ。
(
r
Er
ns
tM屯1
1
erと自分」)
言って見れ ば恭気力で眠ってゐるといふわけだ。
「
先第一に眼を惹 くのは
この男の鼻である。重曹
どうもそ いつの腰を掛けてゐるソファが、今にも動
な鼻柱が始はまっす ぐに上か ら下 りて来たが途 中で
き化 して,線輪の上を走るや うに、兵直に客間を通
気が変ってちょいと又果た上のカを顧晒 したとで も
r
)
土
形容 した らよかろう。 先の方が抑んで持上げたや う
こぺん
って、酒や料理 を化 して来る卓の前を通って.戸の
ゆく
J
.
外へはて、往方知れず になって しまひさうでな らな
に上を向いてゐる。 か う云ふ鼻は
いくら西洋人で
い。それにその面だね。僕は二三年前に、或る若 い
も 到底滑稽の枕を免れない。 自分は之を見ると
娘を見た事がある。好 い7・
だった。所が、その子が
背読本か何かで読んだ串 のある ナポレオンが身の
戎日の事、変な病気になった。耳 も、 目も、舟も段々
上を向いた男ばか り典めて近衛兵にした と云ふ話を
大 きく勝れ 上がって、延びて行 くのだ。恐ろしいわ
思ひ化 した。 シャ ッツマイエルは正にこの近衛兵 に
けなのだ。僕はそいつを見る度に.胸が悪 くなった。
なる資格のある男である。 しか し過怯なが ら体格が
しまひには、その女が戸 口に顔 を出す と、近所の子
悪い。尤 も背だけは 日本人よ りも少 し高いが
供が泣き出 したものだ。象皮膜 といふ病気なのだね。
狭 くって 痩せてゐる所が 自分によく似てゐる。 自
この病気になると、なんでも人間の体の飛び出した
分は椅子をひきよせて腰 をかけなが ら 私に同病相
胸が
こ-ひ-てん
所が長 く延びるのだ。伽耕店で向側のソファに際を
ち ▲ う こう
たし
掛 ける男は、健かにこの嫡気の最 も発達 した徴候 を
憐んだ。 シャ ッツマイエルは 痩せてゐる癖に昂然
具へてゐるのだ。耳はまだ好い。弗がたまらない。
例の雀斑のある手をもみ合せてゐるのである。」
と頑をあげて
自分 と成瀬 とを等分に見比べなが ら
そ1
.
Jかf
1ぷ た
(「
Ka
r
lSc
ha
t
z
me
ye
rと自分」)
かえって、頬っぺたの上に付 いてゐる。それか ら目
(
姓 6) 「
主人公,イワン ・イ リッチが死んだと聞い
の中に黄いろい肉があって.その上を其赤な血筋が
た とき,執務室に集 まった連中の一人一一
人がまっさ
通ってゐるのだ。 どうだい。気味が惑いだ らう。 ベ
きに考えたのは、その死が彼 ら自身や知人の異動も
ン トのや うな神経質な人間が、そ いつ と向き合って
しくは昇進 に, どんな影響を与えるだろうか、 とい
ゐるのだか ら、神経 を刺戟せ られずにはゐないとい
う掩めて卑小でエゴイスチ ックな俗吏の心理である。
ふ ことは、君だって承認 して くれるだ らうね。
」
身近にいて世肺を尽すべき医者や妻子までもが、 身
(「
午後一時」 冒頭)
勝手な態度をとり、 もがき苦 しむ病人の心情を少 し
(
証5)「
鼻 と云へば
この男の舟は 実際
人が眺
も汲もうとは しない。ただひ とり若い食聴番の下男、
めるばか りでな く、 当人が眺めるのにも 甚都合が
ゲラー シムだけが甲斐甲斐 しく世話をし、イワン ・
よく化束上ってゐた。拳蓉な鼻柱が
イ リッチの心 を癒す。 イ ワン ・イ リッチはおのれの
いや
始は率樽に上
又元
死に直面 して初めて寂淡 とした人世の重 しさを味わ
来た上の方 を 昭 一晒 した とで も 形容 した らいい
「
}
土
のだ らう。 先の方が まるで机んで持ち上げたや う
うのである。主人公、イ ワン ・イ リッチは死の恐怖
に
との疑いか ら苦 しみぬ くが、死ぬ二時間前になって
か ら下 りて来たが
ぺん
途 中で不意 に気が変って
上を向いてゐる。 いくら所洋人で もか う云ふ弗
と闘い, 自分の全生涯は間違っていたのではないか、
-4
7-
か ん ざ し たい よい こ うが IL
Iん いi
TLlLや う
普,黄金の銃、珊瑚の井 を差 して,鱗衣究裳 を纏っ
J
息 7・
や妻への憐れみを契機 として心境 に転機 をきた
し.光 につつまれて生涯 を終 える。
」(
和田方英 「ロ
た南7・
の笑敵は、 日輪の輝 く如 くであった。」(r
戯麟」)
シア文学者昇曙夢&芥川穂之介論考」第四帝)
この絢傭衷華な修辞 に彩 られた ・
文 の依拠する処は,
(
註 7)作品冒頭 にエ プグラフを付加す る手法、 さ
らにラテン晴で賢人の椅句 を使用する事な ど「
束邦は
「
陛下、陛下は御隣邦のカンデエケの女王に恋 をして
tのか.
_
いらっ しゃ るさうで ございますね。其方 はわた くL
方術を知れ るものをおはむね 王 となせ り。 テ ィル ト
よ り美 しいございますか。嘘 をおつきになっては嫌
ウ リアアヌス」(「
パルタザ アル」 冒頭)このエ ピグラ
で ございますよ。」(「
パルタザアル」 .
)
J
)千
フを芥川龍之介翻訳 r
パルタザアル」は省略 している。
(
旺1
2
)「
パルタザ アル王がパルキスを愛 さな くなつ
Mr
s
J
o
h
nt
Anの翻訳 よ り)」の但 し轟きを付
末尾 に「(
た と云ふ噂がエイチオ ピアと近隣の王国 とに掃った。
加 しているので英訳者が省略 している可能性がある。
其知 らせが シバ の国に伝はる と.パルキスは癖切で
ひ)
)i
モう
(
鉦8)「翌くる日の朝,孔 子の一行は、管の国をさ
もされた様 に腹を立てた。
」(「
パルタザアル」 ユi
)シバ
して再び侍道の遠に上った。『
古米見好徳如好色者也。
J
^ Ll
これが衛の国を去る時の、 聖 人の最後の青菜であっ
こう⊂
た。 此の 吾桑は,彼 の貴い論縛 と云ふ古物 に載せ ら
の女王はバルクザ アル を愛 してはいなかったが、王
」(「
戯麟」終結部)「
古来見
れて,今 日迄博はって居る。
L
I土
脊未だ徳 を好む こと色を好むが
好徳如好色者也」(「
A
い
(
1
い
し かん
が 占星術 に没頭す る串で 自分 に対す る関心が細れる
と王に対す る愛 を自覚す る。
「
わた くLはあの人を恋
してゐる。あの人は もうわた しを思ってゐないのだ。
J(「
パルタ
それだのにわた しはあの人を恋 してゐる。
ザ アル」ii)パル タザ アルの 自分に対す る関心が希薄
如き者を見ず」 (
子苧第九、循盟公第十五)
(
証 9) 「
家の中に入ると.彼等は小児が母のマ リア
にな るにつれて王に対す る愛 を再認識するシバの女
と共 にゐるのを見た。 そ こで身をひれ伏 して、彼等
麟 醗」)
王は、其っ当な女の肖像である。南子夫人 (「
は共助な児を礼拝 した。それか ら其財宝 をひ らいて、
は、霊公の愛の喪火を嘆 くのではな く、相手に対す
金 と乳香 と投薬 とを捧 げたのは.福音番 に番 いてあ
る支配力を失 う事 に対 して怒 りを覚える。 これは、
る通 りである。
」(
芥川臆之介翻訳 「
パルタザアル」終
前掲大島兵木論文脚注に拠れば,ワイル ド 「
サ ロメ」
結部)この一節が依拠 しているのは、 「
マタイ伸第二
とb い
J
:
草十一」(「
家に入 りて、幼子のその母マ リヤ と借に在
1
1
こ
す を見、平伏 して挿 し、かつ宝の匠をあけて、黄金 ・
の影響があると言 う。
l
=) こ J
)
t
}つ や く
せんせII
L
:+つ
(
旺1
3) 「
英 日か ら王は魔術 にも占星術 にも長足の進
こ 9か い
歩 を した。綿密な注意 を払って星の交会を研究 した
れいt
J
つ
り、セムポ ビチス と寸毒 も変 らず正確 に占星図を引
文は、 「
パルタザアル」執筆十年後 に再度記述 される
いた りする。
」(r
パルタザアル」四)パルタザアルの関
「
鬼の園の博士たちはクリス トの星の現はれたのを見、
心は占星術か らやがて基督降誕の不思議な星に導か
たか ら
i
壬こ
黄金や乳香や投薬を資の食に入れて捧 げに行った。
」
れ る. 恵公は, 繭 7・
夫人 と括 り合いなが ら孔 子 一行
(「
F
t
I
一
方の人」七)
の到着 を眺望 し. ・・
時的 に聖 人の教えに身を委ね る
∼)
ど
o
)以下、 南子夫人 (「
蹴麟 」)に類似す るシバの
(
註l
女 王パルキス (「
パルタザ アル 」)の引用は、芥川龍之
介翻訳 「
パルタザアル」(「
新思潮」 大正二年二月)杏
)i
そ rt
使用す る 「
わた くLは怖 と云ふ 事を知 りた いので ご
上
々か
ねや
も再び夫人の閏 に帰 る。盟公が高台か ら孔子一行 を
くには・
'
J
1
1
いだい
は くL
tL' (
}fモ
恵基の柵 に近 く(
中略)自発の裳板を垂れた夫人の繭
さ ↓ち ▲J
)
7・
と、香の高い枢機を酌み交は しなが ら、深い出の底
JIモ れ
ざいます。
」「それで も夜中、わた くLは怖 の嬉 しい
かよ
をののきが体に通ふのを待って居るので ございます。
依拠 しない虚構 であると大.
9
7
1
真木論文は、断定 して
おそ ろ しさに髪が逆 立つのを待ってゐ るので ござい
いる。
ます。 に はがるJ と斉ふ事が どんなに嬉 しい事で ご
ざいませ う。
」(「
パルタザアル」 ・
)
に眠る野山の春を眺めて居た。
」(「
麟 鱗」
) は、換掛 こ
(
証1
4)孔 子の命によ り畦 に走る子田 に括る林類の
発 言内容 「
わ しの楽 しみ とす るものは、世間の人が
(
註 11) 孔 T・
に謁見す る繭 7・
は、 自分の絶対的な美
皆持って居て、却って豪 として居 る。幼 い時 に行を勤
と【
∫l
)
を孔 子によ り確認す る 「
夫人は椎 を排 して晴れやか
はう)
I
う
に笑ひなが ら. 一行 を膝近 く招 いた。 鳳風の冠 を兜
めず、長 じて時を親 はず.老 いて妻子 もな く、漸 く死
期が近づいて居 る。 それだか ら比のや うに楽 しんで
-4
8-
かへ
居 る。」「
死 と生 とは、 ・
度経って ・
度反 るの ぢや。
かしこ
此処で死ぬのは、彼処 で生まれ るのぢや。 わ しは、
^ くせ く
tどひ
生 を求 めて醍鮭す るのは感 ぢや と云ふ事 を知って居
る。 今死ぬ る も昔生 まれたの と担 りはな い と思 うて
てん f い
居 る」 は, 「
烈 チ」 ( 「
天満」) の忠実な古き直 しであ
水野成
る。 しか し, 類似 の発 副 ま、 「
舞姫 タイス」 (
郎の数年 前の創意 工夫の苦節 の足跡 を辿 った筈であ
タイイス」 を作品の慈面
る。 この 「
パルタザ アル」「
戯麟」 の創造世界を構築 した先確
に据 えて 「
刺 脊」「
作家 の創作行程 を無意故椎 に追体験 した事が.数年
芋粥 J の創作行為を射 した。
後 「
鼻」「
壬は
マー
(
「シンヂ はよみ完 っ た DEI
DRE OF SORROWS
夫訳) に も散在 して いる 「
助 も不動 もこれ窄。 生 も
(
「
嘆 きのデア ドラ」) と云ふ のが大へんよかった」 (
死 もJ
L
;
東無差別 じゃ」 (r
第一
一編 J 白蓮 )。 舞姫 タイ
「
井川恭宛 苗簡」 大正二年十 月十七 円) 「
先達は早速
スを探 してア レキサ ン ドリアへの旅 を続 ける神 父パ
井川恭宛沓
意イェー ツを送って下すって難有 う」 (「
フニ ュスは, ナイル の畔でイエスの存在 を知 らな い
簡」大正二年三 月十 円) 「
時 々山宮 さん と話 しをする
老 人に遭遇す る。 上記のチモ ク レスの発 割 ま、 フラ
(
中略) ひ とりで供をシング (
小山内さんにきいた ら
ンス 「
エ ピクロスの園」 を集約 した感がある。
シンダが ほん とうだ と云った) の研 究家 にきめて い
証1
5) 「
共頃はギ リシア人にサ ラシンとよばれたパ
(
井川恭宛書簡」大正
ろんな帝 をき くので こまる」 (「
ル タザールがエチ オ ピアを治めてゐた。」 ( 「
パル タ
三年三月十九 日) 「
パ リで下宿ず まひをしてゐる中に、
ザアル」 冒頭)
シンダが碑な もの を番かなかったのは当然す ぎる事
ア ナコ レー ト
(
鉦1
6) 「
その頃砂浜 には独居修道士たちが植 民 して
いた。
」 (「
タイス」 冒頭)
の番筒 は芥川龍之介が第一高等学校時代属 した 「
愛
追随す るのは魔法師のセムポ ピチス と官官
(
註 17) 「
のメンケ ラとであ る.
(
「
井川 恭宛番簡」 大正六年九月四 日)、 これ ら
だよ」(
r
パル タザ アル」 冒頭)
蘭土文学研究会」 の側面 を垣間見せ r
シンダ紹介 I」
「
シンダ紹介 Ⅱ」 の翻訳、研究 の惑画を窺わせ る。京
証1
8) 「
シンダ紹介」
(
「
新思潮」大正三年八 月) は、
(
都 に去 った井川恭 も第 日
・
高等学校時代 に芥川穂之介
芥川聴之介全集未収録であった。 葛巻義敏篇 「
芥川
と連れ立 って 「
愛 蘭土文学研究会」周辺 に居たので
シンダ紹介J
) 紘,おそ らく前者
龍之介未定稿集」(「
あろ う。
の草稿断片 と思われ る。今回前者は, 「
シンダ紹介 I」
旺1
9) 「
愛蘭土文学研 究会」 に第一高等学校在学中
(
(「芥川沌之介全集第二十田巻」) に収録 されて いる。
の芥川臆之介は、 山官 充 と参加 している。研究会の
芥川舵之介全典第二十二
後者は r
シンダ紹介 Ⅱ」 ( 「
発足 人は、 西条八十、 日夏秋之介、松 田良四郎で中
シンダ紹介 Ⅰ」が,
巻」) として再収録 されている。 「
心人物 は吉江藤松である。
や モ
こ うの 丁 け
たか tつ
全集未収録 であった事 に就 いて 旧 「
芥川 能之 介全銀
(
牲20) 「『
ケル トの沖命J
Iよ り」 (「
新思潮」 大正
月報十二」編集室よ り)に説明がある。
第十二巻」 (「
bとは^,
最初の芥川稚之介 全集未収録 の故 に、 元版全集福娘
(
「
新思潮」大正三年六月) 「
火
三年四月) 「
春の心臓 」
委員 の意 向 を改 み取 り全典未収録 に した との事 であ
等の作品翻訳。
る。 芥川偲之介が, シンダやイ ェー ツに関心 を寄せ
と影 との呪 -W.
B.
Yea
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s-J(
「
未定稿訳」 大正三年)
r
F
ケル トの蒋明J (
"
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l
'
)は彼の物
たのは 「
愛蘭土文 学研究 会」 の一員で あった事 は結
語典。 今 円アイル ラン ドな どに住 むケル ト民族 の妖
果 で、 その神秘 的な文学傾向 に関心 を寄せた事が原
精な どに関す る神秘な幻想的俗信に取材 した小品典 。」
因である。
元版全集未収
今回の新全集 で 「
シンダ紹介 IJ (「
『
ケル トの薄明1 よ り」 は,そ の小品典か ら三篇 を軸
芥川穂之介未定稿集収録」)
録」) 「シンダ紹介 Ⅱ」 (「
訳 した。 「
春 の心臓 」 (
'
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)
共 に再収録 にな った。 シング 「
パルタザ アル」 (「
新
思潮」 大正三年二 月) 「
タイイス」 (
大正三年 七 月)
注 )「火 と影 と の 呪 」ぐTh
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の翻訳は,後者 に戯 いては私は現時点で未見である。
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の中の ・
蔚 (
斉藤秀
パル タ
この時期 「
シ ンク紹介 I」 「シンダ紹介 Ⅱ」「
雄 r芥川 稚之介 新 辞 曲」) 「
ケ ル トの沖明」 (
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me
タイイス」 を典 中的 に執筆 していた芥川龍
ザ アル」「
Ce
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つ は, 高橋龍夫 「
全作品事典」 に拠
戯 鱗」 を創作 した谷崎油 ・
之介 の脳 喪は、 「
刺 帝」r
れば, 日本近代文学館所蔵 の芥川沌之介文庫 に現物
。
-4
9-
がある。ケル ト民族の楕盟、え)
想の小品、挿話集今
に彼の自然愛好の趣向である。第二は、彼の音楽方
四十帯の内三串を芥川龍之介は翻訳 している秋であ
面の才能 とその結果 としての椿学の力画の才能に就
る。キ リス ト教の神によ り辺境に追いや られた神々
いての指摘である。 「
シンダ紹介 I」「
シング紹介 Ⅱ」
への関心が、後年の r
神々の微笑」の主題.r
河鹿」
「rケル トの沖明Jより」r
春の心臓」r
火と影との呪J
創作の契機になった可能性がある。 r
春の心職J r
火
等の翻訳業親か ら推察するに r
聖者の泉」理解に及 .
と影との呪」 (
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'
) は、同 一
・
作品集の
ぷ縫蹄は十分納得し得る。
中からの訳はであるが後者は中絶 している。前者は.
永遠の辞春を希求する老人が、妖精の加韓で束の間
Ⅱr
少年」
が少年の前に顕現する筋展開であ り.キリス ト教普
は しが き
及以前のケル ト民族の宗教の ・
端を覗かせている。
「
少年」(「
中央公論」大正十三年四月、五月)は、
後者も宗教戦争に関連 した挿話の断片で渦教徒に敢
芥川龍之介 が番 いた 自伝 的な作品 「
保 書物」の一
減させ られた先住民の宗教の破什を記録 している。
つ で あ る が 評価 の 高 い作 品 で あ る。「
邪 宗 門」
進攻する清教徒の兵が、老婆が死体を洗濯するのを
(「
大 阪毎 日新 聞」大正 七年十 月一十二 月)中絶後
目撃する場面、「
折か ら、揺曳する月色が、その上に
に新機軸 を模索す る方 便 の一つ と して堀川保 吉
落ちたので、彼等は、それが人の屍骸だと云ふ串を
を主 人公 にす る一連 の 自伝 小 説、「
保 書物」と呼
知った。」 (「
火と影 との呪」大正二年)の ・
文など
ばれ る作 品が創作 され た。 その内訳 を発 表順 に
羅 列すれ ば、「
魚 河岸 」(「
婦 人公論」大正十 一年十
に利用されている可能性がある。「
バラ」を永遠の女
一月)「
保 吉の手帳か ら」(「
改造」大正十二年五月)
性の象徴として作品化し.心虚字の要素の多いイェー
「
お辞儀」(「
女性」大 正十二 年十 月)「
あばばばば」
ツに就いての学習は、シンダやプラウニング等の同
(「中央公 論」大 正十 二年 十 二 月)「
文章」(「
女性」
類の作家達 と同じく芥川龍之介への影響として、 さ
大正十三年四月)「
寒 さ」(「
改造」大正十三年四月)
らなる検証が必要だ。
「
少年」(「中央公 論」大正 十三 年 四 月一 五 月)「
或
(
鉦21
)「
シンダ紹介 I」 (「
新思潮」大正三年八月)
恋愛 小説」(「
婦 人 グ ラフ」大正十三年五 月)「
十円
に就いては.鈴木暁世 「
芥川龍之介 rシング紹介j
f
L
」(
「
改造」大 正十三年 九 月)「
早春」(「
東京 日日
論- r
愛蘭土文学研究会J との関わ りについて」 (
新 聞」大正 十 四年一 月一 日)で ある。 これ らの十
「円本近代文学」第七八集)に拠れば、 「
日本近代文
編 に及ぶ身辺雑記風の作品群 を番 くのに力与か っ
学館所威芥川舵之介文庫 (
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たのは,菊池寛 「
啓書物」の作品的な成功である。
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しか し、残 念な事 に芥川 龍之介 「
保書物」は、「
啓
あすか
1
91
3'
'
)
からの翻訳に近い引き写 しだそうである。
書物」程 に世 評が好 くな か った し、作 品的 な成
(
証22) 「
シング紹介 ⅡJ ( 「
芥川緒之介未定稿集」
功 を収め る事が 出来なか った。 これ につ いては、
所収)は、未完に終わった 「
シンダ紹介 1」既発表
三島 由紀 夫 が作 品 「トロッ コ」の解 説で述 べた批
箇所の続意が草稿で残され、葛巻義敏に依 り 「
芥川
評が参考 にな る。
維之介未定塙集Jに収録されたのではないか。
芥川 もか ういふ 日本独特 の、作文的短編、
(
鉦23) 「
シンクが r
聖者の泉Jをかき自分が (
不倫
トロッコといふ物 象にまつわ る記憶 を描 いて、
をゆるせ)F
屋上の狂人Jを香くのはその反動だ」( 「
劇
それ を徐 々に人生の象徴 へ もってゆき、最後
壇時事」
大正十ム年ii月),片山宏行 「
菊池寛の軌跡」
に現在 の心境 に仮 託 させ る、 といふ型 の短編
(
「
イギ リス、アイルラン ド文学の投影」) には, 「
岩
年四月)が r
聖者の
見亜太郎」(
「
中央公論」大正十 一
をい くつ か番 いてゐ るが、 これ は さ ういふ系
かr
)
▲う
列 の中で は もっ と も任 良な ものの一つで、か
泉Jから示唆されて創作されたと指摘 している。
の保書物 な どの比ではな い。(
中略)芥川は ジャ
「
忠敬」説解の手引きになったと思える筒所は,第-・
の質を上げる ことので きなかった作家である。
一
ンル と しての一つ の型 を意識せず には、作品
-5
0-
保書物の失敗は、型の意識のことさらな排除
の道路事情は、彼に習慣の車中の読啓を許さな
南京の基督」
解説)
にあるのだ。(「
い程に揺れている。以下の見聞は、芥川龍之介
先に列挙 した「
保吉物」が作品的な成功 を収め
の実体験ではあるまい。中年の仏蘭西人神父は、
得なかったのは、芥川龍之介が、菊池寛 「
啓書
横揺れの車内でr
Es
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a
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rl
e
s・- - ・」(r・・
物」の作風に影響されて、 自己の固有の方法論、
・・・・に関する試論」)を読み続ける。途中大
型を捨てたか らである。翻って考察するのに十
伝馬町で乗 り込んできた一人の少女に話しかけ
編の 「
保書物」の中で 「
少年」のみ作品的評価を受
る。「
けふは何 日だか御存知ですか ?Jr
ではけふ
〟/
L
,
l
=ち
けているのは、「
少年」の叙述が従来の芥川龍之
は何の日ですか ?御存知な らば云って御覧なさ
介作品と同様の型を踏 まえているか らである。
布教を強要する神父の言動に導かれて、十
い。」
先の三島由紀夫の言を踏まえて考察すれば、「
少
「
ええ、 それは
二歳の少女は,臆せずに応える。
年」のみが 「
保書物」の中で 「トロッコ」と同様の
知ってゐるわ。」
「
けふはあた しのお誕生日。
」こ
形式美を保 っている故に作品的な成功を収め得
の二人のや り取 りは、 とりわけ少女の応対は堀
た、 と言える。芥川龍之介に作品的な成功をも
川保育を見知 らぬ少年時代に導いて行 く。仏蘭
た らした構造、型はいかにして彼固有の創作手
西人が下車 した尾張町のカフェで寛 ぐ彼、保吉
法と成 り得たか。先輩作家,谷崎潤一郎 「
麟麟」
は二十年前の幼児の記憶を辿ることになる。
たんじやうび
だいと(ゐん
えんにち
.
i
:
1
ごう もち
(
「
新思潮」明治四十三年十二月)の作品的な成功
大穂院の縁 日に葡萄餅を買ったのもその頃
が、アナ トオール、 フランス 「
パルタザール」の
である。二州楼の大広間に活動写真を見たの
作品構造をなぞる形で終結 していることか ら示
もその頃である。(
-)
に しうろう
唆を受けている。虚構の作品世界を歴史上の真
山の手で知故人 としての 日常を送る彼は、喫
実 と連結 させる事で、仮構の文学評を歴史の内
茶室でのひと時を隅田川の向う、下町に生を受
部に埋没 した史実 と錯覚させる手法である。「
少
け幼児を過 ごした記憶の断片を辿るのである。
年」は、保吉が幼児を回想する六編の小編か ら
2 (「
二 道の上の秘密」)
構成 されるオムニバス形式を取っていて、すべ
「
少年」に点描 された幼児の記憶の断片は、後
ては現在の成人 した視点か ら幼児の記憶を収赦
年「
追憶」(
「
文蓉春秋」大正十五年四月一昭和二
させる。幼児の記憶 の断片は、安定 したそれで
年二月)で再生理 されて記述されている。従 っ
はなく不安定な、唆味模糊 としたものであって、
て、「
追憶」の記載事項 と重なる「
少年」の挿話は、
それ らが現在の成人 した保吉の現在を逆に透写
芥川龍之介 自身の幼児の記憶であると見倣 して
している。その象徴的な文学的手法は、よ り先
いい。芥川龍之介四歳の年 (
明治二十八年)に本
鋭化 して後年「
或阿呆の一生」の自伝的作品とし
所小泉町十五番地の芥川家は、新築 している。
て結実する。
「
僕の記憶の始 ま りは数へ年の四つの時のこと
はこり
である。」(
「
追憶」
填)とある。
1
(
「
-ク リスマス」)
りゃうこく
ていしゃは
おたけ<ら
たけやぷ
堀川保育 を主人公にした 「
保書物」は作者芥川
両国の停車場になった、名高い御竹倉の竹薮
龍之介の分身が、海軍機関学校勤務時の見聞、
である。 本所七不思議の一つに当る狸の莫迦
体験 を記録 した身辺雑記の ものである。「
少年」
噸子と云ふ ものはこの薮の中か ら聞えるらしい。
は、全体的作品構造が重層的で明 らかにアナ ト
(
二)
はん じ上なな ふ
し ぎ
たbe
は か
はや し
「
本所七不思議」(
吉田精一脚注 「
本所 に伝わる
オール。・フランスの影響がある。映画 「
アラビ
はや し
アのロレンス」では、英国の対アラブ工作員の
七つの奇怪な伝説。置いてけ堀 ・ばか磯子 ・
劇的な人生を田舎での隠遁生活の果てのオー ト
送 り提灯 ・落葉なき椎 ・津軽家の太鼓 ・片葉の
バイ事故の結未か ら始めているが、監督のその
芦 ・消えずの行灯 」)の内 「
莫迦噂子」以外 に も
手法はアナ トオール ・フランス流である。
「
おいてき堀」
「
片乗の宙」も「
御竹倉」(
墨田区横
ちLうちん
あし
しい
あんどん
かた l
▲
たいこ
は
よし
か
はや し
LJ
たけ<ら
農災後の年末の- 臥 堀川保吉は須田町か ら
綱町辺の俗称)にあると幼児の芥川龍之介が記
新橋行きの乗合自動車に乗った。震災後の東京
憶 していた、 という回想がある。幼児、怪奇趣
ー 51-
味に染まった芥川龍之介は、 「
車の輪の跡」に無
実感 したと語った ことがある。列車内の自分の
限の幻想を抱き続けてその意味 を問 うが、女中
視界か ら一人の少女が、その存在が消滅する。
は「
何でせ う ?坊ちゃん、考へて御覧な さい。」
これ こそが 自分が迎える死の意味であるとくこ
と返事を繰 り返すのみである。
れは仏教で言 う唯識論の世界認識である)。 高
あと
い土
「これは串の輪の跡です 。」(
中略)保吉は未
橋義孝は、芥川龍之介 「
少年」(
三)の挿話 を視聴
ふ くよ う
だにこの時受けた、大 きい教訓 を服膚 してゐ
者に向かって繕 った決である。我は、何処よ り
る。(
二)
来た りて何処へ去 るのか。 柴田期 「
され どわれ
神秘主義に傾 く幼時の記憶は、明瞭な合理的
らが 日々 - 」にもエ リー ト階層 の学生が、社会
な説明で消 し飛んで しまう。 同時 に二輪の跡に
に出て唯我独尊の特権意識 を喪失 して、その他
無限の浪浬を覚えた 自身の幸福 を自覚する。人
大勢の一人であるとい う現実に向き合えずに死
生は、謎のままに未知なる物 を残 して置 く事に
を選ぶ場面がある。「
徒然草」(
第二四三段)にも
意味があるか も知れない。幼児の記憶 をその合
生の根源 を問 う場面、子供の追及 に困惑する親
理主義で破壊 して、龍之介 に痕跡の断片 を残 し
を描 いている。少年誰 もが最初に直面する人生
つ うや 」)での記載 によると
た女中は、「
記憶」(「
の苦痛,死の自覚 とどう対処す るか。死の苦悩
反対の性格であった事が、判明す る。
は,それを予感することか ら苦悩に昇華する。
,
,
「
つうや」は替 り前の女よ りもロマ ンティッ
ク趣味に富んでゐたのであ らう。僕の母の許
中島敦 「
悟浄 出世」(
二)には、「
死への恐怖」の為
によれば、法界節が二三人編笠 をかぶって通
を伝授する。「
生ある間は死な し。死到れば、す
に放浪する魂 となった惜浄に妖怪が、 救済の道
はうかいぷ し
LI
た
一i
モ
るのを見ても「
敵討ちでせ うか ?」と尋ねたさ
でに我な し。また、何をか憎れん。
」というのが、
追憶」)
うである。(「
中島敦流 の救済 への道である。菊池寛 「
我在る
「
少年」(
-)の挿話は、明 らかに実話ではな く
とき死来 らず。死来るとき我在 らず。我 と死 と
つひに相会はず。 我何ぞ死 を怖れんやJを模倣
て作 られたものである。「
少年」(
二)は、
「
追憶」(「
つ うや」
)と重なる部分があ り事実であ
した箇所であるが、典拠はアナ トール ・フラン
ると思えるが、作品として成功 していない。空
ス「
エ ピクロスの園」である。中島敦の持病であ
想樫に生きる少年 と夢想を現実で打ち壊す、教
る死の形而上学か らの脱却の道は、所謂行動主
育熱心な少女の対比が生か されているとは言え
義の勧めである。「
惜浄よ。 まずふさわ しき場所
な い。「
つ うや」に馬車に乗 る事 を禁止 された回
に身を置き、ふさわ しき働きに身を打ち込め。」
想が、「
追憶」(
馬車)にある。
(
「
悟浄出世」六)、これも依拠する所は、ニーチェ
3 く「
三 死」)
暫句集 「
想い起 こせば、まず身を起 こせ」である。
「
少年」(
三)の挿話は、「トロッコ」の経験 と同
菊池寛 自身は、アナ トール ・フランスの警句を
じく幼児に誰で もが経験 し、認識す る死の現実
自戒の言辞にしなが ら、それで も我々が死の不
である。死を実感 として認赦 し得な い保吉は、
安を抱き続けるのは、死 を予感す るか らである
父に納得できる説明を求めるも虚 しい。風呂か
と付け加えている。
そつ じ
ら先に上がる父の姿 を寂 しく見送る彼は、卒蘭
「
四 海」)
4 (
として理解する、死 とは父が永久に彼の視線か
ら消え去る事であると。
「
少年」第四話は、堀川保吉の-挿話か ら成 り
立っている。少年が、初めて海を体験、実見、
死 と云ふ ものを発見 した。 一死 とはつまり
経験する場面である。三島由紀夫の場合 もそう
父の姿 の永久 に消 えて しまふ こ とで ある !
だが、書物で 日々を過 ごした少年にとっては、
(
三)
梅は予感 と神秘、幻想、 さらには空想裡の根源
森鴎外、芥川龍之介の理解者である高橋義孝
である。不安 と予兆 との深淵である海は、宵色
は、列車で乗 り合わせた一人の少女が停車駅で
の原色の予感で少年の脳盛 を占鎖 しているが、
下車 して消えた瞬間、社会 における自己の死を
叔父や父 と初めて大森の海岸に海水浴に行った
-5
2-
た'
-1
しやいろ
保吉の前面に展開 しているのは代柿色であった。
しまう。無論 この少年時代の挿話は、小林秀雄
帰宅 した保吉は、「日本昔噺」(「
浦島太郎」)の挿
の指摘を受けるまでもな く虚構のそれである。
絵の青い梅を現乗の大森の海の色、代赫色に塗
海は、生の根源であ り死を収蝕する場所でもあ
り替えて しまう。
るので、梅を現前にして永遠について闘うのは、
かt
J
亡l
一人三島由紀夫だけではない。「
あの船や鴎は何
L
=ほんt7
かしは(
zし
芥川龍之介の文学上の行 く手を遮ったのはプ
たいとう
ロレタ リア文学台頭である。過番 「
或 旧友へ送
る手記」(「
何か僕の将来に対す る唯ぼんや りし
処か ら来、何処へ行って しまふのであらう?海
il
くへ
の I
) そ だ
は唯幾重かの海苔粗菓の向 うに宵あをと煙って
た不安である。」)は、直接的には台頭するプロ
「
少年」四)
ゐるばか りである。●
・・・・・・」(
レタリア文学である。 よ り具体的には共産主義
「
少年」(
「
四」
)は、「
少年」全六章のうちで捉え
マルクス ・
社会到来に対する危機意誠であるが、「
がたい、難解な抽象的な挿話である。それは、
エ ンゲルス全集」(「
改造社」二十七巻)を政治的
作者が少年時代の現実の回想を再現 したのでは
に実践化する道は、治安維持法で消滅 した。実
ないか らである。言 うなれば印象としての過去
現化 したのは、天皇を戴く社会主義国家である。
の記憶 を再現 した訣であるが、相当に抽象的、
芥川龍之介 「
或旧友へ送る手記」(
「
東京 日日新聞」
寓話的に過去の生活の一場面を素描 しているか
昭和二年七月二十五 日)を契機 に二つの提言が
四」)は、「
或阿呆の
らである。明 らかに「
少年」(「
成された。一つは宮本顕治 「
敗北の文学」(
「
改造」
一生」に結実する芥川龍之介の人生の縮図の色
昭和四年八月)であ り、もう一つは小林秀雄 「
様々
合いがある。作者の主観的な心象に映 じた過去
なる意匠」(「
改造」昭和四年九月)である。二つ
の生活の叙述を象徴的に把握 している。
I
zdさ
は共に芥川龍之介の死 と台頭す るプロレタリア
代縮色の海の渚に美 しい貝を発見 しよう。
文学を主題に据えている。前者は芥川能之介の
梅 もそのうちには沖のや うに一面に脅あをと
死を乗 り越え政治的に戦略的に共産主義社会実
なるかも知れない。が、将来に愉れるよりも
現を提言するものであるが、後者は教条的な共
寧ろ現在に安住 しよう。(
四)
産主義理論か ら離れたものである。そ して、後
最初保吉は、代赫色の海を何 とか青い海にし
者には前者の提言 「
プロレタ リア社会実現の目
ようとする意志があったが、断念 したという前
あ こが
うんさんむし上う
的意識を持て」を解消,雲散霧消す る説明 もあ
番きがある。 この場合の 「
海-人生」というよう
る「
何等かの意味で宗教を持たぬ人間がな い様
に読解すると理解 しやすい。「
梅-人生」である
に、蓉術家で 目的意誠を持たぬ ものはないので
ある。 目的がなければ生活の展開を規定するも
事は、 作者が作 品 中引用す る万葉歌 「
大船 の
かとり
いかり
香取の海に碇おろし如何なる人かもの恩はざら
のがない。然 し、 目的を目指 して進んでも目的
二四三六番」
)か ら類推するに、海を前に
ん」(「
は生活わ把握であるか ら、 目的は生活に帰って
どんな人でもゆった りと物 を思わずにはいられ
来る。
」(「
様々な意匠」三)というものである。そ
ようか,である。つま り、海を練 りなが ら保吉
して.前記の引用に続いて 「
少年」(
「
四」)につい
は自己の人生について思いを巡 らすのである。
45お.
訂ね
「
彼は従来海の色を脊いものと信 じてゐた。
」(
四)
ての教祖の解釈が、載っている。
子供は母親か ら梅は青いものだ と教へ られ
という記述か ら、人生の旅立つ芥川龍之介の覚
る。 この子供が品川の海を写生 しようとして、
悟 と夢想とが知 られる。 しか し、現実の大森の
眼前の海の色を見た時,それが青 くもな く赤
海岸で初めて経験 した海は代赫色であって保吉
くもない事を感 じて、樗然 として,色鉛筆を
の期待 を惑切るものであった。その時か ら堀川
投げだ した とした ら彼は、天才だ、然 し、嘗
保吉の人生の、芥川龍之介の場合で言えば創作
て世間にそんな怪物は生まれなかっただけだ。
を介 しての敬いの 日々が、始 まるのである。
[
L
L
か
「
保吉は母 との問答の中にもうーっ重大な発
(「
様々の意匠」四)
たいし
や
い
ろ
「
浦島太郎」の挿絵が宵でなくて、代赫色で塗っ
見をした。それは誰 も代枯色の海には、-人生
た ことを留め られた保吉は、絵本を引き裂いて
に横はる代赫色の海にも目をつぶ り易いと云ふ
-5
3-
5 (
五
ことである。」(
四)
幻燈)
す′
く
人間が、生きる術 として過酷な現実を詑織せ
七歳の時の保吉の記憶である。父に買っても
ずに自己の観念の色彩で世界を認識するもので
らった幻燈 を玩具屋の主人が操作 していた時に
けんとう
J;l
.
Iちやや
かんせい
あるという、人間共通の心理学的な陥葬につい
画面に寂 しいイタリアのペニスの風景画が、投
ての指摘である。人間の感性は、世界の事象の
影 される。その時大きな リボンをした一人の少
現葵を正確に認識 し、判断を下すほどに精巧で
女が、少年の保吉に向かって微笑みかけて一瞬
はない。代赫色の海を眺望 した くないという意
に して消え去った出来事を回想する。その少女
思は、そ こに代砧色の海を青い色 と認織する感
は、何度幻燈を操作 しても再び保吉の視界に登
性である。 しか し、代縮色の梅は、時 として刻
場する事はなかった。 これについて後年、次の
一刻帝い海にその眺望を変貌させる。 この一瞬
ように堀川保吉は自ら述懐する。
て う しぜ ん
ずつに色彩を変色させる巨大な海を終始一貫青
少女は実際何か超 自然の霊が彼の目に姿を
い海 として持続的 に認識 させる為には、代赫色
現は したのであ らうか ?或は又少年に起 り易
の海を青い海 として統一 して把握する五感を作
い幻覚の一種に過ぎなかったのであ らうか ?
け^,
か(
り上 げな くてはな らない。その手段は教育であ
(
五)
るが、個別的には宗教的な人間革命、あるいは
この挿話は、 どうであろうか。 これが少年期
特有の幻覚の板であろうともこの記憶を三十年
共産主義国家の思想統制が有効である。
(
lみ
のみな らず満潮は大森の海にも青い色の娘
後に反萌 し、現在の自己の人生に思いを馳せる
を立たせてゐる。すると現実 とは代赫色の海
のは、やは り芥川龍之介流である。七歳の保吉
し上せん
か、それ とも亦青い色の海か ?所詮は我我の
あて
の視界に突如半身を現 して、微笑みかけて姿を
I
1か
リアリズムも甚だ当にな らぬと云ふ外はない。
消 した少女は,一回性の人生の象徴である。幻
(
四)
燈の映像 に少女の影を目撃するのは、神秘に傾
この記述か ら世界の実在の認識について、保
吉自身が上記の心理学上の錯誤 を犯す可能性が
く芥川龍之介の性向を暗示 している。 さらに成
は
か(
I
人後に年少の惨い記憶 を脳轟に浮かべる現在の
ある串を予想 していた事が判明す る。以上の考
彼は、 自己の人生そのものを幻想,夢に連なる
察か ら判明する通 り「
少年」(
四)は、保吉の少年
ものと認識 しているか も知れない。
ご
こんにち
じんろう
時代の回想ではないし、少年の頃の挿話に現在
保吉は三十年後 の今 日さへ、 しみ じみ塵労
の視点か ら分析を加えた回顧で もない。少年か
に疲れた時には この永久に帰って来ないヴェ
ら現在に至る自らの心象風景を極度に抽象化 し、
ネチアの少女を思ひ出 してゐる(
五)
さらに象徴化 して提示 して見せたある種の文整
「
少年」(
五)の挿話は、直接に「
点鬼簿」(
二)に
理論である。 このよ うに理解 しないと「
少年 」
連鎖 してゆく作者の不安定な精神状態を暗示 し
(
四)の末文は、意味不明瞭である。
て
いさ
t
ヽ
が、話の体裁は ?-芸術は諸君の云ふやう
ね る芥川龍之介の精神状態、その象徴がヴェネ
に何よ りもまづ内容である。形容などはどう
チアの運河 に沿った家の窓か ら半身を投げ出し
でも差支へない。(
四)
て少年の彼 に微笑みかけた少女の残像である。
「
少年」(
四)を保吉の少年時代の回顧的な記憶
ている。実態の無い女人の幻想に漠然と身を委
この 「
少年」(
五)の挿話自体は、何かか ら類推さ
れた虚構であろう。
の断片として読むと意味不明瞭であるが、
芥川龍之介固有の文蛮理論 として読了すると最
「
ヴェネチアの少女」(
五)が、何に依拠 してい
後の一文が、生きて くる。二年前に菊池寛 と里
るかについては作者自身が、その典拠を作中で
見辞 との間で論争になった 「
内容的価値論争」を
明 らかにしている。
踏 まえた記述である。 これについては学習院で
「
イタ リヤのベニスの風景で ございます。
」
の紳演記録 「
文蛮雑感」(「
輔仁合雑誌」大正十二
三十年後の保吉にヴェネチアの魅力を教へた
年七月)での発言記録が、参考 になる。
のはダンヌンチオの小説である。(
五)
-5
4-
幻燈 の映像 に少女の残影を目撃 したのは、「
七
憶はない。回向院でのこの時の経験を保吉は長
歳の保吉」(
五)であるが少年の記憶の断片を整
年、川島か ら自分に投げかけ られた意地悪だと
理するのは、二十五年後の「
塵労に疲れた」(
五)
思っていた。 しか し、二十年後の異郷上海での
成人 した保吉である。成人した保吉の脳喪に記
日本人看積婦 との会話によ り、自身の少年時代
憶 された 「
ヴェネチアの少女」の映像は,吉田精
の記憶に遡及 して川島か ら投げかけられた噸笑
一脚注が指摘す る如 く「
ダンヌンチオの小説」
は事葵であったかも知れないと疑 う。悪知恵で
(「
死の勝利」)によってもた らされた、 と言うよ
少年達を統率 し、回向院の境内で泣き続ける血
じん 7
)ラ
そさl
,
Lう
はいえん
りこの作品に依拠 した森田草平 「
煤煙」に拠る。
まみれ泥 まみれの保吉を、仲間の少年達 と一緒
「
少年」(
五)の挿話の構造は、成人 した保吉の
に置き去 りにした陸軍大将の川島は、小学校時
視点か ら,二十五年以前の「
七歳の保吉」の記憶
代に熱病で死んで しまった。 もし、現在存命な
を辿ったものである。対象は、少年時代の記憶
ら政治の世界で活躍 していただろうか、 という
を横切った少女の断片であろうか。成人 した彼
保吉の追憶が続 く。オムニバス形式の六つの挿
の「
死の勝利」の文学的な感興を少年時代の記憶
話の中で 「
少年」(
六)の回想が一番優れていると
モモI
:
・
う
に遡及させて作品は成立 した。
思 う。成人 した保吉の現在の肉体、精神の衰弱
6(
六 お母さん)
の間隙を縫って忘れ られた、少年の日の悲 しみ
也
「
少年」(
六)の挿話は、よ り直接的に「
点鬼縛」
が蘇る。芥川龍之介の実母の不在が、彼にもた
(
二)に波及 して行 く肪展開 と言える。「
少年」最
らした現在の不安定な心のあ り様を鋭 く突いて
後のこの小編そのものが、芥川龍之介作品特有
いる。「
少年」(
六)の物繕展開、型は明 らかに彼
の「
型」の美を整えている。数年前、大阪毎 日新
が愛読 したアナ トオール ・フランスの作品形態
聞社梅外特派員の肩章きで中国視察旅行の時の
を模 している。「
少年」(
六)は、松本清張 「
影の串」
経験 を踏 まえた体験である。 上海到着直後 に
(
「
潜在光景」)の原型である。少年時代の原体験、
ら (王くえん
肋膜炎を患い三週間ほど入院 した折.異国の地
成人後には忘れて しまった意放下の経験が再浮
での病床生活に無意識に母を呼んだ事が、括 ら
上 して現在の人生そのものを規制 してゆく。「
天
れる。
城越え」
「
火の記憶」等の松本滴張が得意 とす る
「
あ ら、お 目覚になっていらっ しゃるんで
作品の主題の萌芽が、芥川龍之介 「
少年」(
六)に
どうして ?」「
だって今お母さんって
すか ?」「
内包されていることが判明する。膨大な業績を
仰有ったぢやありませんか ?」(
六)
残 した松本晴張,その作品創作の源泉は,芥川
日本人経営の里美病院での看韓婦 とのや り取
龍之介作品である事が推測される。滴張 自身は
りは、たちまち保吉に二十年前の回向院での自
繰 り返 して生前芥川舵之介 に対する批判的な言
身の体験を思い出させる。保吉を含む少年達は、
辞を残 したが、度重なる発言の数、それ自体が
敵味方両軍に別れて散会 して戦闘状態に陥る。
関心の深さを証明 している。
)5
つしや
この時の少年達の模擬職争体験は日滴叫争のそ
回向院の境内で陸軍大将川島の命令で柄唆 し
れであるが、少年の装備は 日露戦争のそれを模
や1'
I
)や
かわ し
ま
している。 餓鬼大将である 「
櫨屋の子 の川島」
て負傷 した保吉は、遊び友達に見捨て られて傷
だ らけ血まみれで置き去 りにされる。川島の噸
ぢらい くわ
ぢらい くわ
敢 に敵陣地 に向かって突撃する。敵の大将に肉
笑に唱和する形で保吉に地雷火の役割を奪われ
たJ
t
'
こ よ bの
て、唯の工兵の役割 をあてがわれた小間物屋の
薄する保吉は、石につまずいて転倒 し、鼻血ま
子の小栗は、「
可笑 しいな。 お母さんて泣いてゐ
みれ泥まみれで泣き続ける。味方の陸軍大将で
や
(
六)によ り地雷火に命 じられた保吉は、勇猛果
]
3< l
)
を か
やす りや
がる !J(
六)と言 って鍵屋の子、陸軍大将川
とっかん
になって泣き続ける保吉を切実する。
島に同調する。 この挿話は、駒尺喜美 「
少年」の
こう
か
解説によれば、若 くして高度に登った芥川龍之
「
やあい、お母さんて泣いてゐやがる !」(
六)
介に対する文壇仲間での嫉妬、中傷の作品化で
保吉に敵陣への哨嘘を命 じた川島は、前後不覚
保吉は、体全体で泣き続けたが母を呼んだ記
ある。保吉は、全身全霊で泣いたかもしれない
-5
5-
が「
お母 さん」と言った覚えはない。 しか し、二
芥川君のこと-」)という評価がある。「
奉故人の
十年後に上海の病院での看韓婦の発言で回向院
「
妖婆」等の虚構性の高い作品を絡めずに「
お
死」
での昔に思 いを馳せて 「
川島 も或は意地の悪い
辞儀」のよ うな作文的短節 を評価す る志賀直哉
うそ
嘘 をついたのではなかったかも知れない。
」(
六)
の態度は、後年太宰治によ り厳 しく弾劾 される
と反省す る場面は、過去の自作 に就 いての悪評
「こしらへ物のは うが、 日常生活の 日記みたい
を是認する場面 という事 になる。
な小説よ りも、 どれ くらゐ骨が折れるものか、
最晩年、死に赦 した芥川龍之介は継母の関係
さうしてその割 に所謂批評家たちの気にいられ
に悩む後進の作品を読了 した折に、その作品の
ぬ といふ ことは、君 も『クロー デ ィアスの日記』
虚構性 を見破っている。 人生の行路に悩む この
」(「
如是我聞」四)。
な どで思ひ知ってゐる筈だ。
青年に向かって実母の存在 を指摘 して、その家
うI
'
}や
庭の幸福な事を羨んだ。
Ⅱ「大導寺信輔の半生」
むすび
三島由紀夫は、「
保書物の失敗は,型の意蝕の
は しがき
ことさらな排除にあるのだ。
J(
「トロッコ」
)と述
「
大等寺信輔の半生」(「
中央公論」大正十四年
べたが,「
少年」のみは型 を崩 さず に作品 として
一月)の自叙伝 としての意味合 いについては、
の成功 を治めた。少年時代の断片的記憶の収蝕
恒藤恭 「
幼少年の ころの芥川龍之介の真実のあ
で、現在 の自らの人生の不毛を浮かび上が らせ
りかたの混合量は約二十五パーセ ン トくらいの
る象徴的手法に拠る作品である。「
或阿呆の一生」
ものではなかろうか」(
「
青年芥川の面影」昭和三
で結実す る独 自な自伝小説であ り、記憶 の断片
十三年六月五 日)という評価が、その後 も引き
か ら現在の人生を鳥轍させる手法は見事である。
継がれている。森本修 「
改訂版新考 ・芥川龍之
帰納法で 自らの人生の秘事 を告 白 し、その衝撃
介伝」(「
北沢図番出版」昭和五十二年四月)もこ
的な事実 の重みで危機を回避 した島崎藤村 「
新
れを受け継 ぎ、吉田精一 「
芥川龍之介集」(「日本
生」に対する芥川龍之介の批判が,思 い出され
近代文学大系」角川書店)も解説で これ を踏越 し
る。
ている。 これにつ いて参考 になるのは、山敷和
ろうかい
一彼は 「
新生」の主人公ほど老給な偽善者に
男r
F
'
大串寺信輔の半生Jと『
女中の子』
」(
「
比較文
出会った ことはなかった。(
「
或阿呆の一生」四
十六)
この優れた比較文学論考に導かれて、「
大串寺信
保書物で も「
十 円札」な どは、佐藤春夫 「
堀川
輔の半生」の自叙伝 としての意味を考えて行 く。
保 吉君は どうも少 々、火星人のや うで ある。
」
r
r
女中の子』ス トリン ドペ リイはまづ彼の家族
(
「
報知新聞」大正十三年九月十五 日)と酷評 され
に反叛 した。それは彼の不幸であ り、同時に又
1
1んはん
ている。 しか し、同 じ保書物でも「
お辞儀」は,
彼の幸福だった。
」(
「
西方の人」
十)、 という記述
川端康成 「
作者の理屈張った才筆は、 この話の
か ら推測す るに芥川龍之介が 「
女中の子」を愛読
甘 さを抜いて、美 しさを残す ことに成功 してゐ
ママ
る。 しか し材料の平凡 と小さに対 して、文章の
していた事は、確実である。
1 (
「
一
みで試みた挑戦が、憎むべき成功 を遂げた と云
ふ に過 ぎない。」(「
時事新報」大正十二年十 月三
本所J)
前掲、山敷論文は 「
大串寺信輔の半生」(
ト
」-
「
六」)の全六章の該 当箇所 を「
女 中の子」か ら選
十日)とい うよ うに川端流
の批評の対象にされ
l
‡
け1
【
び出 して比較検討 しているが、「
大串寺信輔の半
ている、つまり褒め上げて腔 されて いるのであ
生」(
-)のみ該 当の下書きに当たる 「
女 中の子」
題は忘れた
る。 この作品 に就 いては志賀直哉 「
の箇所を提示 していない。 冒頭の この一節のみ
ていしゃは
が停車場で始終骨ふ女に淡 い愛情 を感ずる短篇
「
女中の子」に依拠す る事無 く独 自に成立 したこ
とかには感心 した。その後、骨ふ機会 もな くそ
とを憶測 させ る。 作品執筆時、 芥川龍之介は
れを云へなかったのは残念である」(
「
沓掛にて-
「
大導寺信輔の半生」全体 を自己の人生に寄 り掛
-5
6-
か りつつ轟 く意欲 を持 っていた可能性がある。
実家本所区小泉町十五番地 (
墨田区東両国三 r
「
女中の子」を鞄 として, 自己の過去人生を執筆
かく
ひ
つ
に臨むも「
大串寺信輔の半生」(
-)欄筆後に型を
介の生まれ故郷である。隅田川の畔で育まれた
放棄 した新機軸の方向性 に危快を覚えて、従来
彼の感性は、r
山の手」
「
本郷」
「日本橋」さらに成
の作風に戻った可能性はある。「
大等寺信輔の半
人後は、「
荒あ らしい木曾の自然」
「
優 しい瀬戸内
生」(
-)のみ 「
女中の子」を典拠 にしていない事
の自然」をも拒絶す る感覚であると本人が、述
について、 この場面が最晩年の作品 「
本所両国」
懐する。つまり、 r
大串寺信輔の半生」(
-)の前
(「
東京 日日新聞」昭和二年五月)の冒頭箇所 (「
大
半部分の記述は、十年前執筆の「
大川の水」(「
心
柄」「
両国」)と盛なっているか らである。r
本所両
の花」大正三年四月)を焼直 した箇所である。
目)に引き取 られて いる。 この地が、芥川龍之
き そ
やさ
t
! と うt
,
'
国」(「
東京 日日新聞」昭和二年五月)は、「
大東京
自分は、大川端に近い町に生まれた。家 を
毎 日新聞」)の一環 として芥川龍之介
繁盛記」(「
出て椎の若葉に掩はれた.黒塀の多い横綱の
が、昭和を迎えたばか りの本所両国を素描 した
小路をぬけると,直あの幅の虜 い川筋の見渡
ものである。東京 日日新聞は、侮 日新聞の前身
される.百本杭の河岸へ出るのである。(
中略)
で久保田万太郎、高浜虚子、田山花袋,小山内
自分はどうして、か うもあの川を愛するのか。
すく
黄、泉鏡花等が執筆者である。芥川龍之介 「
本
(「
大川の水J)
所両国」が、事実の羅列であることにつ いては
さらに「
大串寺信輔の半生」(
-)
後半部の挿話、
他者の傍証がある。
ひや つI
iん <ひ
隅田川の河岸、俗称百本杭の畔 に溺死体を発見
「
本所両国」はこの種の雑文中の長編だが、
する場面は、少年期の記憶 として印象深いもの
同 じ棒組で深川を番いた泉鏡花や、浅草をう
両国」
)で再度回想され
と思われて 「
本所両国」(「
けもった久保田万太郎が、 自分の趣味や情緒
ている。
にとけこませた勝手な書き方をしているのに
2(
「
二 牛乳」)
以下 「
大導寺信輔の半生」
(
「
二」-「
六」)は、典
対 し、 しごく尋常な行き方 をとり,それだけ
個性的な特色にもとぽしいものになっている。
拠 としてス トリン ドベルグ「
女中の子」
(
吉田精一 「
筑摩全集類衆芥川龍之介全集」解
に依拠 している場面である。前掲、山敷和男論
説)
文を参考にしなが ら各挿話を見て行きたい。
「
女中の子」(「
四 家を去る」
)には、主人公が
事実の列記によ り構成 された 「
本所両国Jに
「
大串寺信輔の半生」(
-)の記載事実が、再記述
母の庇埠の許を小学校時代に離れた時の経
されていることは、 この冒頭部分のみ 「
女中の
験 を記載する。 自分の生活の支柱 として母の存
子」に依拠 していない証明である。「
本所両国」は、
在を路鼓 した彼は、母の庇l
aな くして生きて行
「
現代 日本文学全集」(
改造社)宣伝旅行出発 (
五
けない自己の存在を隠蔽する為に危険な行動に
月十三 日)の為に東京 日日新聞の沖本常吉の口
出る。
「
大串寺信輔の半生」(
-)は、その創作意図を
述筆記で成ったものである。
「
大串寺信輔の半生」(
-)には彼の生まれ育っ
「
女中の子」(
四)に示唆されている事が判明する。
た土地、本所に就いての二つの事項が記載 され
典拠に依拠 しなが らあるいは、示唆を受けなが
ている。一つは、彼の感性 を育んだ生まれ改称
ら芥川龍之介は自己の人生の側面を浮かび上が
としての認識である。
らせている。
だ 日だ うじしんすけ
はんじ▲
ぷ
点 か うb ん
さ
み
や
大等寺信輔の生まれたのは本所の回向院の
彼は只頭ばか り大きい、無気味なほど痩せ
近所だった。(
中略)信輔は もの心 を覚えてか
た少年だった。(
中略)伏見鳥羽の役に銃火を
I
1んじ▲
ふ しみ
と
は
え書
たんゆう じ土ん
ら、絶えず本所の町々を愛 した。(
-)
くぐった、 日頃胆勇自慢の父 とは似ても似つ
芥川龍之介生誕の地,つまり実父新原敬三の
かぬのに遥ひなかった。彼は一体何歳か らか、
家は京橋区入船町八 丁目一番地の築地の外人居
又 どう云ふ論理か らか、 この父に似つかぬ こ
留地 (
中央区明石町)で生母新原 フク発狂で母の
とを牛乳の為 と確信 してゐた。(
二)
-5
7-
前半の記載事項は、芥川能之介の伝記に照 ら
(
両国)で再度記述 されている。少年の日この回
して事実ではあるが、後半には作為が見 られる。
想が、生まれ育った本所両国の追憶に暗い陰影
「
新潮 日本文学アルバム芥川絶之介」(4頁)に実
を与える事になった。「
この一枚の風景画は同時
母フクに抱かれた生後間 もない龍之介の肖像を
に又本所の町々の投げた精神的陰影の全部だっ
掲げているが、実母の肖像は芥川龍之介に生き
た。
」(
-)
いんえい
山敷前掲論文は、墨田川百本杭のこの記憶が、
写 しである。 これ に反 して実父新原敏三の肖像
に後年の芥川龍之介の面影は、見出せない。芥
故郷の風物、情景に纏わる追想に暗いかげを投
川龍之介出生の謎の生まれる所以である。 自己
げかけた挿話に示唆 を与えたのは、「
女中の子」
の性格、体格等の弱点を隠蔽する積極的な努力
の主人公が少年期墓地の傍で育った事で精神に
を「
スパルタ式の訓練」(
二)と名付けたが、後年
影を投げた事であるとする。
まで芥川龍之介の習性 となった。「(
この勇気に
3 (
三
貧困)
しんすけ
もつと
ひんこん
信輔の家庭は貧 しかった。尤も彼等の貧困
乏 しい癖 に忽ち挑戦的態度 をとるのは僕の悪癖
tl
ねわ J
)ながや
の一つだった。
)
」(
「
歯車 」
三)とある。
は棟割長屋に雑居する下流階級の貧困ではな
自らの弱点 を覆 う為に積極的な攻勢に出る自身
かった。が、体裁を繕ふ為によ り苦痛 を受け
の性格を認識 していた事は、「
由来最大の臆病者
なければな らぬ中流下層階級の貧困だった。
ほど最大の勇者に見えるものはない。
」(「
保儒の
(
≡)
てtヽ'
3い
つくろ
くつ う
ゆ(
,Lヽ
言葉」
外見)という警句に出ている。 さらに芥川
生活水準に対するこの認識は. どうであろう
龍之介が、性格的な弱さの詑織によって人生を
放瀕するような積極的な攻勢に出る事を最晩年
か。記述か ら判明するように主観的な貧困意識
ひ
ねわl
)
な
がや
である。主人公 自身が 「
株制長屋 に雑居する下
に記述 して見せた。「
若 し勇気を持ってゐるとす
流階級の貧困」(
≡)では無いことを十分詑織 し
れば、僕は獅子の口に飛び込まずに獅子の食ふ
ている訣である。「
追憶」
(
「
文蛮春秋」昭和二年一
のを待ってゐただ らう。」(「
暗中問答」二)、以上
月)の断片等か ら類推するに芥川龍之介の少年
の傍証か ら芥川龍之介自身の果敢な行為は、 自
時代は、同世代の仲間か ら比較 しても伸びやか
己の性格的な弱点 を隠蔽す る為の自暴 自棄的な
なもの、恵まれた境遇である。
「
大串寺信輔の半
積極的攻勢であることが判明する。
11 く
生」(
三)の色調が、全体的に自虐的なのは、依
ぢ
「
貴様は意気地 もない癖 に、何 をする時で も
拠 した 「
女中の子」の影響である。 これについて
が うじや う
剛情でいかん。
」(
二)
は、r
吉田精一『日本近代文学大系芥川龍之介』解
実父との生理的な違和感 を覚えず芥川龍之介
説」に要領 を得た説明がある。
は、作品の中に吐露 している。 自身,新原敏三
芥川家に親友 として早くか ら往来 し、その父
を実の父として疑 っている節は見 られない。彼
が無意識に記述 した文意は、後年生前の彼の思
母 とも親 しかった恒藤恭は、芥川の母が、カス
ろう
テラをとりかえるような トリックを弄する人が
惑を超えて疑惑の広が りを見せるのである。
らではけっ してなかった こと、父 もまた 「
勤倹
きんけん
ふ しみ
と は
^さ
たんゆ う
しようぷ
しゃ しぷんじT
・
く
伏見鳥羽の役に銃火 をくぐった、 日頃胆勇
尚武」や 「
蓉修文弱」を口にする人間 とは全然肌
自慢の父 とは似て も似つかぬのに途ひなかっ
合いの適 った、滑脱な父親であったことをあげ
た。(
二)
ている。
じ 王ん
し<
.
だつ
実父新原敏三の方でも、おれの子に何故あん
しか し、養父芥川道章が退職官吏であ り、そ
なのが出来たのか という述懐を過 している。父
の生活が恩給生活に負っていた事は事実である。
と子共は互 いの存在に違和感 を覚えていたので
芥川龍之介の受身的な処世があれば、多少は養
ひ↑.つI
Eん<ひ
ある。墨田川、百本杭での少年の 日のある日の
ゆ
父の経済基盤が影響 しているかも知れない。現
(
1う1t?
た土
回想 「
朝焼 けの揺 らめ いた川 波 には坊主頭 の
し
かい ひとり いそくき みで(さ ご み
(
,んぐひ
死骸が一人、磯臭 い水草や五味のか らんだ乱杭
実の芥川龍之介は、経済的な側面は石橋を叩い
の間に漂ってゐた。」(
-)は、数年後 「
本所両国」
は、その人脈作 りの勇猛果敢な ことは、賛嘆に
^ひだ ただよ
-
て渡る憤重な側面があった。 しか し、対人関係
58-
値する。 これは完全に個人の資質に拠 る、 とり
わけ少年時代か ら水泳に長けていた ことが考慮
それか ら奥へはひる前に、「
どうぞ御ゆっくり。
いす
あす こに椅子 もあ りますか らJと言った。(
三)
される。
壁も唐紙 も古びた八愚問で話 し続ける信輔に
.
+
.
{
}がみ
僕の水泳を習ったのは日本水泳協会だった。
向かって、退職官吏である友人の父は廊下に置
水泳協会に通ったのは作家の中では僕ばか り
かれた半世紀以前の古色を帯びた椅子を勧める
ではない。永井荷風氏や谷崎潤一郎氏 もやは
のである。 この挿話は、 どうだろうか。大導寺
りそ こへ通った筈である。(「
追憶」水泳)
信輔が、大学卒業後に法科に在学中の友人を訪
未知の人間関係構築に対する勇気は、彼の少
問 した折の友人の境遇に仮託 した自身の,芥川
年時か らの水泳鍛錬の成果の一つとして考えら
れる。さらに専門の学問を究める事においても、
龍之介自らの経験の可能性がある。人生を受身
/
・
}
イド
に、 しか し自尊心 を朋 さずに生きる姿を傍観 し
さらには創作行為においても水泳鍛錬の成果は、
たのは、井川恭かも知れない。
迫憾な く発揮 された。その換骨奪胎の手法の大
4 (
「
四
学校」)
土たしんすけ
うす<ら
胆 さで、典拠の略奪の水際立った見事さで余人
学校 も亦信輔には薄暗い記憶ばか り残 して
の成 し得ぬ大胆 さを示 した。 これに反 して正反
ゐる。彼は大学に在学中、 ノオ トもとらずに
対の嘘の記述 も存在 している。
出席 した二三の辞義 を除きさへすれば、どう
彼は本を買はれなかった。 夏期学校へも行
言ふ学校の授業にも興味を感 じたことは一度
くわいた う
かれなかった。新 らしい外套 も着 られなかっ
もなかった。(
四)
た。(
三)
「
大串寺信輔の半生」(
四)は、全六章にあって
この記述が、芥川龍之介自身の実生活か らかけ
一番芥川龍之介の実情か らかけ離れた記述であ
離れた虚構のそれであることについては、多 く
る。学校 こそが芥川能之介がその存在を発揮 し、
の証言がある。蔵書については、松岡譲 「
大変
その学力によ り他を圧倒 した唯一の場所である
な蔵番家だといふ話をきいた事 もある。
」(「
芥川
か らである。む しろ, こう在 りたかった自己の
のことども」昭和二十二年十二月)という回想が
発露 として理解すべき箇所である。最晩年迫番
あ り、 さらには伯母芥川フキの特別な擁硬によ
で芥川龍之介は、「
大串寺信輔の半生」(
四)のよ
り夜学で英語 (「
ナショナル ・リイダー巻 -」)漢
うに生きられなかった 自己を後悔 している。
僕は養家に人とな り,我健 らし我健を言っ
学 (「
日本外史」)習字 (「
千字文」)を習ったことが、
「
追憶」(
学問)に記録されている。服装について
たことはなかった。(
と云ふよ りも寧ろ言ひ得
も松岡談、久米正雄、菊池寛等他の仲間か ら比
なかったのである。僕はこの養父母に封する
べて遜色なく、む しろ洗練されたものであった。
「
孝行に似たもの」を後悔 してゐる。 しか しこ
一着の外套の為に、佐野文夫の身代わ りにな り
れ も僕にとってはどうすることも出来なかっ
第-高等学校 を放逐された菊池寛の境遇か ら比
たのである。
)今僕が 自殺するのは一生に一度
べても格段なものがある。
の我億か も知れない。(「
追啓」)
こうした背景に関わ らず芥川龍之介の意織下に、
「
大串寺信輔の半生」(
≡)のような自虐的な色彩
もし、芥川龍之介が 「
大導寺信輔の半生」(
四)
のような青年時代 を過 ごした ら上記のよ
に彩 られた自伝を書 く内的な必然を見出そ うと
うな追啓を番 く事 も無かった筈である。伯母芥
するな らば,生活を退嬰的にした生活環境であ
川フキの為に、翻っては養家である芥川家の為
る。「
退職官吏だった彼の父」(
三)の財政基盤が、
に自我 を抹殺 して生きな くてはな らなかった。
ようか
恩給であったことによる「
中流下層階級の貧困」
「
女中の子」の主人公 も学業を習得すること、学
(
≡)である。体裁を繕い、尊大な態度 を保持す
校生晴に対する嫌悪感 を抱いていた。大導寺信
るだけの財力を持ちえず虚栄に生きる同 じ階層
輔 もまた学校 という項境にそ ぐわない自己を認
の者の姿をも描いている。
織 していた。彼は,「
中流下層階級の貧困」(
三)
むし
がうぜん
あいさつ
老人は寧ろ倣然と信輔の挨拶を聞き流 した。
か らの脱化の為に学校生活の苦痛に耐え続ける。
- 59-
(
J
^
,
i
)
「
彼は大学や高等学校にゐる時、 何度 も廃学 を
5 (「
五 本」)
この「
大串寺信輔の半生」(
五)は、芥川龍之介
計画 した。
」(
四)
これは養家に束縛された芥川龍之介の大串寺
個人生活 に密着 した記載事項である。中でも仮
信輔に仮託された夢想である. この種の我値を
想の大串等信輔の体験 を突き抜けて、芥川龍之
.
J
J
.
いし
{
・
介個人の人格の側面として広 く人口に胎灸され
青年期に貫いていた ら芥川龍之介は、最晩年上
記のような迫香 を啓かな くて済んだ筈である。
f
L
土
大串寺信輔に反感を覚えた教師の尾声は、「
生
いさ
「
お前は女か ?」というものである。
意気である」
た文脈 もある。
かう言ふ信輔は当然又あらゆるものを本の
これ らの発言は,芥川龍之介 自身の経験の可能
中に学んだ。(
中略)実際彼は人生を知る為に
か うL
:
ん
t
lし
街頭の行人を眺めなかった。寧ろ行人を眺め
性はある。前者は英語において教師の能力を圧
る為に本の中の人生を知 らうとした。(
五)
倒 した芥川龍之介に限 り、府立第三中学校時代
「
女中の子」の主人公 も読書を好んだが、 番に
に教室で交わされた可能性 はある。後者は 「
武
淫するほど過激な ものではなかった。「
所詮告白
芸や競技に興味のない」(
四)芥川龍之介 に対 し
文学 とその他の文学 との境界線は見かけほどは
て詰問の言辞として発せ られたか も知れない。
っき りしてゐないのである。」(「
株侍の言葉」告
少な くても「
先生は男ですか ?」(
四)
白)という考えに拠 る芥川龍之介は、虚構の己
は、芥川龍之介発音 として有効である。 しかし、
を記述 しなが ら赤裸 々な 自己を表現 している。
し▲せん
ひろせたけし
こ づか
を
ぢ
府立第三中学時代の担任である広瀬雄 との在学
r
彼は小道ひを貨ふ為に年 とった叔父を訪問 し
中か らの交際は友好的なものである。晩年、同
1
1ちた みつ上し
じく府立第三中学校校長であった八田三善が勤
た。叔父は長州萩の人だった。」(
五)という作中
務する新潟高等学校で「
ボオの一面」の演題で講
仮想の表現である。 しか し、「
水耕伝」
愛読の記
演 をしている。
述は、とりわけその作中人物に対する肩入れは、
ちやうしうI
lぎ
表現などは、実父新原敏三を容易に想像させる
さ わ くわい
彼等の或ものは家族 を加へた茶話会に彼を
せ うたい
れふ L
:んL
=つ
e
三十年間彼の情熱の源泉に成っている。
けいや うがeか
招待 した。(
中略)「
猟人 日記」の英訳を見つけ、
おはとち
さいAんt
ちゃ うせい
替天行道の旗や景陽岡の大虎や菜園子張青
〈わんe
はり
歓喜 して読んだことを覚えてゐる。(
四)
つ
t
)ら
の梁に吊った人間の腿 を想像 した。(
中略)いちぢやう せいこさんぢや う
これは、府立第三中学校時代 に同級生の西川
くわおしやうろ
ちしん
かくとう
一丈 脊雇三娘や 花和尚魯智深 と格闘 した。
英次郎 との実体験を変型させて記述 したのであ
(
五)
る「
中学の四年か五年の時 に英評のr
猟人 日記』
これ らの「
水餅伝」作中人物 との一体感が、彼
だの『
サツフォオ』だのを韻み噛ったのは西川な
のその後の情熱の源泉である、 という説明は芥
しには出来なかったであ らう。」(「
追憶」西川英
川龍之介 自身の年楢の中の一項 目、「
水耕伝」を
次郎)
。
愛読するを超えて作者の野性味の一環を成 した。
)には、府立第三中学時代
「
追憶」(
「
発火演習」
「
澄江堂」に出入 りした年少の弟子筋である川端
の経験 として発火演習、起動演習に参加 した経
康成、堀辰雄は、芥川龍之介が持っていた野生
験が記録されている。旧友の目撃談は、発火演
の美を「
今昔物語」に希求する精神を、喪失して
習の中隊長を務める芥川龍之介の敵髄心に満ち
いた。「
水餅伝」が、芥川龍之介 に現状 に留まる
た姿 を捉えている。
ことを厭 う変革の過激な性格を付与 した。
た
び
信輔は試験のある度 に学業はいつも高点だ
いI
iゆる
の1
1
った。が、所謂操行点だけは一度 も六点を上
欧州の世紀末文学の耽溺が,彼に厭世主義を
植え付けた ことも括 られている。
「
本を、 一殊に
せい さ よっ
らなかった。(
四)
ヨーLlツパ
う
q台J
.く
世紀末の欧羅巴の産んだ小説や戯曲を。
」(
五)、
この前者の記述は正 しく、後者の記載事項が
この世紀末文学愛読は致命的 とも言える厭世主
嘘であることは青うまで もない。府立第三中学
義を年少の芥川龍之介に与えた。 もし、 これ ら
時代の芥川龍之介が、性向は模穐的で学業は優
虚無的な思想に海されなかった ら彼は、一人の
秀であった ことは広 く知 られている。
聡明な憂愁の感情を持った青年で終わった筈だ。
-6
0-
世紀末文学は、一人の厭世観を抱いた青年の憂
分の文学世界創造の手助けに供 した。 これ も今
愁 に思想的基盤を与えて最終的に彼を死に尊い
日では、 旧制高校消滅で消えた浪厚な人間関係
たと言える。
の一つである。
「
大導寺信輔の半生」(
-)に記述 したように彼
「
大串寺信輔の半生」(
六)は、彼の友人を求め
は、本所の町を嫌悪 した。 しか し、本所の自然、
き そ
t
! と うち
大川の畔で育つ ことで 「
木骨の自然」
「
瀬戸内の
る範噂が三段落で順次記述され、それぞれの段
し
ん
すけ
落には定型の一文 「
侶輔は才能の多少を問はず
自然」にも親 しむ ことが出来ない感性 を持つこ
に友だちを作ることは出来なかった。
」(
六)とい
とになった。生まれ育った本所に対する感情は、
う文句が,最初 に来 る。最初の一文は、学生時
愛憎半ばするものである。
代の信輔の学友 に吹き込んだ虚言が、二十年後
彼が育った本所に対 して自己の感性の根源で
に再度信感性を帯びた情報 として活字になった
あるという認識を抱き、その生活環境に美を見
事に対する噸笑を挿話にしている。話題の素材
出 したのは元禄の俳胎に拠 る。彼は、 ここで自
は、バイ ロン、そ して リヴインダス トンである
身の感性の拠ると思える例を具体的に列挙 して
が、 これ らも旧制高校消減 と同時に今 日では古
なI
)
王ったけ
いる。惟念 「
松茸や都 に近き山の形」(「
続猿炎」
色を帯びて しまった。話題の二は、信輔が頭脳
凡兆 「
朝露や欝金島の秋の風」(
「
猿蓑」)去来 「
い
し<t
l J: は かた は
そが Lや沖の時雨の真帆片帆」(「
猿蓑」
)芭蕪 「
稲
において対等でなければ友情を結ぶ ことの出来
うこんはたけ
ご ゐ
なかった現実を記す。深夜の及ぶ級友 との知識
妻や闇のかた行 く五位の声」(「
横猿袋」
)の四人
を競 う闘争が彼の頭脳 を鍛えたという層歴 を記
の元禄俳人の影響で、生まれ育った本所の美を
述 している。
たと告白している。
ぞう
を
実際彼の友情はいつも幾分か愛の中に憎悪
こんにち
I
i
ら
を卒んだ 情熱だった。信輔は今 日もこの情熱
6 (「
六 友だち」)
以外に友情のないことを信 じてゐる。少くと
確認 し、さらにその自然の移 り変わりに鋭 くなっ
「
大串寺信輔の半生」(
六)は.作者 自身の学校
汀u
n
dKn
e
c
h
t
の臭味を
もこの情熱以外 にHe
生活 を表面的になぞっている。東京府立第三中
帯びない友情のないことを信 じてゐる。(
六)
学校、第-高等学校、東京帝国大学 という経歴
大串寺信輔の半生」(
五)で話題
この一文は、「
上の友人関係である。華腰な学歴、履歴 を見て
)の引き写 し
になった 「
ツアラ トス トラ」(
「
友情」
今 日の視点か ら考察すれば.男だけの過当競争
である。頭脳 を信 じて周辺の友人を論破 した後
の世界を彼が生きてきたことが分かる。 こうし
に訪れて来る寂審感 もまた 「
ツアラ トス トラ」の
た緊張 を強いる特殊な学歴による階級世界の存
引き写 しである。話題の三は、出身階級を異に
在が.消えて しまった後か ら考えると友情その
す る友人 との闘争であるが、 明 らかに「
女中の
ものが、過去の遺物である。旧制高校の男だけ
子」の主人公の立場に依拠 した肪展開を見せる。
の世界での友情は,消滅 した。 しか し、同性の
交際に情熱、愛、憎悪を伴った交際を持ちえた
信輔の苦痛は、中産階級の倦怠を伴 う孤独で
し
ん
す
り
もっと
ひん
ある。「
信輔の家庭は貧 しかった。尤も彼等の貧
のは、実母喪失で精神的支柱を失い、放浪する
困は株制長屋に雑居する下流階級の貧困ではな
こん
t
I
ねわ1
)
J
zがや
T
半身となった芥川龍之介の特殊な事情 も考慮さ
かった。
」(
三)とあるように中産階級のそれであ
れる。彼の女性関係は,知 られている醜聞ほど
る。「
大串寺信輔の半生」(
六)の結未には、金銭
には華艶、膨大なものではない。 これに反 して、
で若い女の行動を促す男爵の息子が登場する。
「
澄江堂」
サ ロンに集 う文化人の顔ぶれの多彩な
ことは、驚 くべきものがある。 自分の書斎に数
侶輔は、 この上流階級の若い男の「
残酷な微笑」
けんし
(
六)と「
鋭い犬歯」(
六)とを記述 している。 自己
多の人材を常時集結させる才能 こそ、彼が旧制
の出 自を中産階級 と把握 し, 自覚 したのは 「
女
ぎんこく
高等学校で身に付けた交際術の事実上の具体的
中の子」に主人公 を擬 したか らである。 この最
な成果である。後進の太宰治 も今 日か ら見れば、
終場面には芥川龍之介の彼か ら見た上層階級に
自己の周辺に煩雑な程の取 り巻きを構築 して自
対する気持ちが、その反感が無意識に露出して
- 61-
いる。周辺 には、遺産で洋行 し食 いつな ぐ有島
作品の独訳 (
シェ リング独訳)が流布 したので,
武郎、永井荷風の存在がある。江 口浜は前者に
それを英訳で読んだ訣である。事実、前掲山敷
石川啄木は,後者に対す る反感を隠さなかった。
和男は、 シェ リング独訳 にはス トリン ドベルグ
芥川龍之介周辺 にも遺産で落ち着いた文壇生
の批判精神、攻撃的態度、反抗心があるが、英
活を送る志賀直哉の存在があ り、 銀行頭取の父
訳では削除 されている。英訳 「
女中の子」を典拠
なる せ 廿いいち
の援助で米国、欧州 に留学する成潮正一の存在
とした結果、「
大串寺信輔の半生」か ら批判精神
もある。同 じ中産階級で も芥川龍之介が、「
澄江
が消えた と結論付けている。
堂」で執筆 に苦吟 している時 に三菱商事社貝 と
I
またとよさち
して遠 く独逸在住の友人、秦豊吉のような存在
もある。 自分よ り境遇が、上層に位置す る者に
Ⅳ「蓉気楼 」
対する謡曲 を「
大串寺信輔の半生」(
六)最終場面
は しがき
の挿話が示 している。中産階級 に出自を持つ主
「
嶺気楼」(「
婦人公論」昭和二年三月)は、谷崎
人公の下層、上層の者 に対する現状把握 には、
潤一郎の疑問に答えた芥川龍之介の主張 r
F
話』
「
ツアラ トス トラ」(「
上を見て も賎民、下を見て
らしい話のない小説は勿論唯身辺雑事を描いた
も頗民」)の啓旬が介入 して いると考える。
だけの小鋭ではない。それはあ らゆる小説中、
むすび
最 も詩に近い小説である。」(「
文葱的な、余 りに
「
大串等信輔の半生」の内部構成は、虚実の混
文芸的な」-)を実作で示 して見せたものだ。 こ
合である。その虚虚 を実実が、庄倒 した場合は
の作品については、久米正雄が 「
鬼気 にも富ん
r
点鬼簿」(「
改造」大正十五年十月)になる。 さら
でゐるし、深い暗示を含んだ作品だと思った。
に作品全体 を作中人物の意織の流れで、象徴的
さうしてあれだけの力がある作品は、芥川の全
さ さ
に表現すれば 「
戎阿呆の一生」(「
改造」昭和二年
作を通 じて矢張 りなかったや うに思ふ。
」(「
新潮
十月)にな る。最終的に芥川龍之介の人生の苦
合評会」昭和二年九月)と最大限の賛美を寄せて
痛を基菅 に仮託 し、虚の内部に自己の実が隠蔽
いる。
されたのが 「
西方の人」である。「
大串寺信輔の半
芥川龍之介は、妻 と三男 とを連れて鵠沼の東
生」は、芥川龍之介晩年 の 自伝的作品の端緒 を
屋旅館に滞在 (
大正十五年四月二十二 日)、以後
この地が生活の拠点になるが、芥川龍之介の避
成 した作品 との認識が妥当である。
尤も洋 と云って も語学 は、弼乙練 も仏蘭西
暑地滞在は新聞報道にな り休息にはな らなかっ
もものにな らなかったか ら、比較的 ものにな
た「
芥川龍之介氏、上京 中のところ一昨 日放沼
らなさの甚 しくない英語で,一番余計本を読
に赴 き今月一杯 同地に滞在すると」(
「
読売新聞」
んだ。(
中略)読んだ本の中で、義理 にも自分
大正十五年九月八 日)。その実僧は、「
鵠沼に一
が感服 しずにゐ られなかったのは、何よ りも
月ゐる間の客の数は東京 に三月ゐる間の客の数
先ス トリン トベル グだった。その頃はまだシ
に匹敵す。」(「
佐佐木茂作宛書簡」大正十五年六
ェ リングの訳本が沢山あったか ら、手あた り
月一 日)というものである。
次第読んで見たが、 自分は彼を見 ると、まる
室生犀星 「自分は此の作品の中にある甘い静
で近代精神のプリズムを見るや うな心 もちが
かさを愛好 した。
」(「
春陽堂 」昭和四年九月)とい
した。「
あの頃の自分の事」(
別稿)
う久米正雄評 と反対の感想 もある。前者は、二
これに就 いては,山敷和男 「
『
大串寺信輔の半
ケ月前の 「
悠 々荘」(「
サ ンデー毎 日」昭和二年一
生』と『
女中の子』」(「
比較文学研究芥川
月)と一体 の作品 と見倣 してポー 「
アッシヤー家
龍之介」朝 日出版社)で 「
独訳でよんだ ことにな
の崩壊」に比 した見解である。後者に就いては、
るが、 この文は前後少 し矛盾 している」
(
「
註 2J
)
作品舞台 となった鵠沼が当時の 日本で珍 しい避
と疑問を呈 しているが、芥川龍之介はスウェー
暑地であった ことが理由として考えられる。室
デ ン語で書かれたス トリン ドベル グの
生犀星は、それ以前に芥川龍之介と二夏を軽井
-6
2-
沢で過 ごして避暑を経験 している。二度に亘る
楼」は、 この東屋旅館の貸別荘、玄関 と三間の
軽井沢滞在で、芥川龍之介は作品として格別な
家での簡素な生活の中か ら生まれた。
ものを残 しえなかったが、その時の備忘録は後
貸別荘に東京か ら大学生の K君が訪ねて来た
牛堀辰雄に多大な文学的な成果をもた らした。
のを機会に、隣家に住む0君を誘い僕は妻と同
二度 とも室生犀星は同席 して創作に坤吟する芥
伴で海岸まで壊気様 を見に行 く。大学生のK君
川龍之介ではな く、社会主義の文献を読みなが
が東京に帰った後に僕は、 0君と妻 と三人で夜
ら片山広子 と語 り合 う友人の束の間の休息を目
海岸を散少 して帰宅する。隣家の0君と別れた
撃 している。軽井沢での避暑 を共有 した視線で
後に妻 と僕は二人で無意識で自宅の玄関に戻っ
「
塵気楼」を読了し、鵠沼での芥川龍之介最後の
ていたという話である。
息抜き、平和 を感 じたのであろう。
昼間,四人は海岸で蟹気楼を待望するがそれ
「
噴気楼」のようなある種の人生の諦観、静寂
の中の苦痛 を覚えさせる作品を執筆するにおい
らしいものを目撃することが出来ない。見える
かl
▼
ろ
ふ
からす
のは,青い一筋の陽炎のみで、その陽炎に鶴の
て芥川龍之介の脳裏 に去来 したであろう先行作
影が逆さに映っているのを目撃 しただけだった。
品が ある。 大胆な仮説 をすれば、 国木 田独歩
一筋の陽炎を「
あれを噴気楼 と云ふんですかね ?」
r
鎌倉夫人」(「
太平洋」明治三十五年十月一十一
(
-)とK君が言い、陽炎に映った鶴の影を見た
月)であ り, この作品を摂取 して成立 した有島
0君は,「これでけふは上等の部だな。
」(
-)と発
叢文閣」大正八年六月)である。
武郎 「
ある女」(「
言する。一行は、初秋の避暑地に一組の男女が、
すね ど
前者は、国木田独歩が最初の妻である佐 々木信
ささが 卓
子 との鎌倉での奇跡的な再会を創作 した もので
砂止めの笹垣を背に海を眺望 しているのを目撃
(
i
(
かを
1
1
はう
する。インバネスに中折帽の男は, 旧態依然の
あ り、同伴 しているのは彼女 と生涯を伴にした
服装である。 しか し、女の方は断髪で性の低い
再婚相手である。 この 「
鎌倉夫人」の筋書きを借
靴を履いてパラソルを手にしている。 この男女
用 して後年有島武郎 「
ある女」(
「
後編」三十七)が
の組み合わせに対 して、東京か ら来た大学生の
執筆 された。後者には、国木田独歩 「
運命論者」
K君は「
新時代ですね ?」(
-)と微笑で発言する。
(「
山比古」明治三十六年三月)も競分反映 してい
この一組の男女は、相変わ らず梅を眺望 した使
る。明治か ら大正時代、鎌倉の海岸はハイカラ
仔んでいたが、彼等に似た別の男女が知 らぬ間
だんはつ
かかと
な色彩に彩 られた避暑地 として有名である。芥
に一行の前に現れる。 この偶然を僕は「
僕は何
川龍之介の脳轟には、「
蟹気楼」を執筆する上で
こうした過去の文学作品の反映に拠る影響を視
だか気味が惑かった。」(
-)と発言 して、0君の
i
方は と言えば 「
僕はいつの間に来たのか と思ひ
野に入れての操作が行われた。身近な例では、
」(
-)と応 じる。 この現象を僕は、明
ましたよ。
夏目淑石 「
心」(
冒頭)の「
先生と私」の出会 いの場
-」
らかに頃気横 と認織 して いる。「
唇気楼」(「
も鎌倉 の海水浴場である。 当然芥川龍之介は、
「
二」)全体 を通 して神秘現象であ り自然現象で
「
塵気楼」執筆時に脳遍に浮かべた筈である。
ある屡気楼は、現れない。では層気楼とは何か。
1(
「
-」
)
言 うまでもな く作中の 「
僕」の精神の内部に屈折
鵠沼海岸の近 くの東屋旅館 に滞在 した芥川龍
して入 り込み絃鼓 された事象が、「
僕」の塵気楼
之介は、来客が多 く静養にな らないので斉藤茂
である。偶然の重複、 これを「
僕」は必然の事象
吉の勧めで東屋の貸別荘 「
イの四号」に移 る。
と錯覚 している。 これが 「
蜜気楼」(
僕)の実体験
「
唯今をる所はヴァイオリン、ラヂオ、蓄音機、
した寒気楼である。
;
i か はや
うたい
かんせい
莫迦噂 し、謡攻めにて閉口、近々もう少 し閑静
一行四人は、海岸で水葬 した死体に付随 して
な所へ引き移 らうと思ってをります。
」(
「
下島勲
いた と思える黒枠 に人名を番き込んだ木札を見
宛書簡」大正十五年八月十二 日)
。 しか し、 ここ
付ける。彼等はエスペラン ト譜で記述された死
も安住の地ではな くてその家の轟の二階家に一
者の点鬼簿を参考にして、水葬された人物に関
時移っているが、再び「
イの四号」に戻る。
r
辱気
して憶測を交えた無資任な発言を繰 り返す。
- 63-
し
/
L
,
舌 ろう
す<
「
辱気楼か。
」0君はまつ直に前を見たまま、
ひ と ごと
急にか う独 り語を言った。それは或は何げな
判明す る。
人格の崩壊、意識操作の不可能の予感である
が、「
蜜気楼」(
二)の本文 中に挿入 された この挿
しに言った言葉か も知れなかった。が,僕の
か
1
' ふ
心もちには何か幽かに触れるものだった。(
-)
話は「
翰沼雑記」(「
迫稿」大正十五年七月二十 日)
この場面は、「
僕」が無名の水葬 された死者 と
の一文に明瞭に説明されている。
の無意識な一体感を覚える場面である。「
僕」は.
僕は夢 を見てゐるうちはふだんの通 りの僕
日頃か ら死を志向 している、生者 と死者が意識
である。ゆうべ (
七月十九日)は佐佐木茂作君
下で交差 して0君の発言 r
噴気横か。
」で整合性
と馬車に乗って歩きなが ら、麦藁帽をかぶっ
ざ▲し↑
一
た駁者に北京の物価な どを尋ねてゐた。 しか
t
Tdわ I
)1
1う
を得る。直前に目撃 した一組の男女の取 り違え
が、死者 と生者との交換の意識 に結びついてい
しはっき り目がさめてか ら二十分ばか りたつ
る。
うちにいつか慶鯵になってしまふ。唯灰色の
2 (
「
二」)
天幕の裂け目か ら明るい風景が見えるや うに
時々ふだんの心 もちになる。 どうも僕は頭か
大学生の0君が東京に帰ったその夜,僕は賓
と0君との三人で夜の鵠沼の海岸を散歩・
する。
らじりじり参って来るの らしい。
その時僕は、 0君に昨夜見た夢 の話を聞かせる
この一文は、彼の最晩年のスウイフ トに就い
が、一種怪奇に満ちた顛末で話 自体が噴気横の
ての発言 と文意全体が重なる。「
スウイフ トには
すご
凄い話があ ります。冬の象った 日,窓か らしき
よ うに取 り止めがない。文化住宅の前で トラッ
ク運転手 と話 し込んだ記憶であるが、運転手の
りに外を眺めてゐるのださうです。F
何を見てゐ
顔だけは三、四年前に何気なき話 し込んだ婦人
るのか』と家人が聞 くと、一本の枯木を指 しな
雑誌の記者の顔をしている。 0君相手のこの発
が ら,『
僕 もあの木の様に頭か ら先に参って7ふ
言は、それ自体精神分裂病患者のそれである。
もちろん
「
いや、勿論男なんだよ。顔だ けは唯その
のだJと云ったさうです。
」(r
芥川龍之介未定稿
集」談話)。
人になってゐるんだ。やっぱ り一度見たもの
「
鶴沼雑記」が一番早 くて、次は「
墳気楼」(
二)
は頭 の どこか に残ってゐるのかな。」(
中略)
の記述があ り、「
統括」(
r
新潟高校講演後」昭和二
「
けれ ども僕はその人の顔 に興味 も何 もなか
かへ
せ み
ったんだがね。それだけに反って気味が憩い
年五月二十三 日夜)は、 これ らの記述 を気軽な
し卓ゐ
モと
「
改話」で繰 り返 したのである。
んだ。何だか意織の閥の外 にもいろんなもの
「
塵気楼」(
二)は、「
僕」と「
妻」の次のような会
二)
があるや うな気が して、 ・・・- ・」(
話のやり取りで突然終結する。「
(
前文省略)・・・・
嘗て蛮術活動をすべて 自己の意放下に制御成
「
バタは
・・東京か らバタは とどいてゐるね ?」
し得ぬ事は、芸術活動の破綻であると「
蓉術そ
」(
二)
。
まだ。とどいてゐるのはソウセエヂだけ。
の他」で公言 した芥川龍之介は、今 自己の意曲
二人のさり気ないや り取 りは、昭和初期の日常
で統制出来ない何か、意識の外で浮動 している
生活 を離れた鵠沼での避暑地の生活を浮き上が
固定 した観念で自分の理性が制御 されていると
らせている。 この手法は、後年弟子の堀辰雄に
認識する。 自分の内部の理性を超えた何か、あ
よ り軽井沢を舞台 に華戯な展開を見せる事にな
る種の観念で自分の理性が認識 を自覚する。 こ
る。
の外部の自己では把握 し難 い観念が偶然を必然
むすぴ
と認識 し、 さらには進んで錯覚を覚えさせる。
「
塵気楼」の副題は、「
一或は『
続海のほとり』-」
自己の精神状態の事実上の破綻 を予感 している
中央公論」大正十四年九
である。「
海のほとり」(「
のである。「
唇気楼」(
僕)は、 自分の理性 で認識
月)は、芥川龍之介が久米正雄 と同伴で千葉県
する事象と外部の観念が把握する認識 との故別
一宮海岸の滞在 した時 「
大正五年八月十七日一
(
に苦 しみ、 この自分の精神内部の二つの識別作
九月上旬」)の体験 を技巧 を凝 らした手法で形象
用 との落差、屈折を噴気楼 と理解 している事が
化 したものである。 この大学卒業直後の友人と
-6
4-
のつか の間の休息 については、一 ケ月後に 「
微
上記の事情 を了解 していないと理解出来ない。
笑」
(
「
東京 日日新聞」大正十四年十月十五 日)に
芥川龍之介に拠れば、谷崎潤一郎 「
麟塀」冒頭
即物的 に記録 している。「
海のほ とり」で実験的
めた芥川龍之介の技巧的手法について以下、考
の一文 「
西暦 紀 元前 四百 九十三 年。 左丘明、
王 うか
し は せん
ろ ていこ う
孟拘、司馬遷等の記録によれば、魯の定公が十
かう
こうし
三年 目の郊の祭 を行ほれた春の始め、孔子は数
察する。
人の弟子達 を串の左右に従へて、其の故郷の各
「
唇気楼」については,三 島由紀夫 「
いはゆる
L
t
t
1
ろう
F
筋のない小説』を番いて、芥川が玲傭たる一筋
」は、「
通俗的興味」
の園か ら樽道 の途 に上った。
さき う めい
に試み られ、さらに「
続海のほとり」で成功 を収
の典型である。 当時、論語の知識が今 日よ り普
を成 したのは、 これ くらゐの ものではあるまい
遍的であった時に読者に対 して、次の作品肪展
か。
」(r
F
南京の基督』解説.『
塵気楼j
」
)
開を期待 させるに十分な冒頭一文であった。 こ
という批評が的を射ていると思 う。「
梅のほとり」
うした作品設定は、「
通俗的興味」で読者 を釣る
まと
い
については、「
贋気楼」で完成 に至る「
筋のない小
もので邪道である、 というのが芥川龍之介の主
説」の過渡期的作品であるが、吉田精一 「
肪 らし
張である。アナ トール ・フランス 「
タイス」に依
い筋のない、彼 としては珍 しい率直なスケ ッチ
拠 しなが ら「
論語」を典拠 に完成 された 「
麟麟Jに
であ り、一種の心境小説である。強いて批評す
対する反発は、上記の創作工程 を模倣 して処女
れば,よくまとまってはいるが、深い暗示にも、
作 を成 した自己批判 に通ずる。
きび しい実感にもとぽ しい。同 じよ うな作では
あるが、 のちの r
塵気楼Jには遠 く及 ばな い。」
「
芋粥」は、谷崎潤一郎 「
戯鱗」創作手法を
「
鼻」
ろう
ちr
)
う もの
じ
かやく
自家薬龍中の物 とした芥川龍之介が、谷崎潤一
新潮文庫芥川龍之介」三十)という批評が、後
(「
郎の創作工程 をなぞ る形で シンダ 「
聖者の泉」
の評価 を決定 している。 この見解 を引き継 ぐ形
(
松村みね子訳)に依拠 して創作 したものだ。「
僕
で三好行雄 「
龍之介のは じめて番 いた く「
話」ら
が僕 自身を鞭つ と共 に谷崎潤一郎氏をも鞭ちた
しい話のない小説)は、r
海のほとり』(
大正十四
いのは」
(
「
文轟的な,余 りに文蕗的な」(
二)とい
むちう
r
午)である。(
中略) 焚火』の題材 と手法を露骨に
う発音は、上記の意味である。 自分が作 り上げ
追いなが ら、作品の完成度ははるかに及ばない。
」
た作品創作の手法 を捨て、新 しい新境地 を開拓
(r
朝:
摩番房芥川龍之介」過 されたもの)と番いて
せん とする自己の姿 を芥川龍之介 自身、肯定的
「
麟麟」の
に捉えていた。そ して、処女作 「
刺青」
いる。
r
噴気楼」潤筆後の芥川龍之介は、r
話の筋 と云
初期の創作手法に拘泥 してマンネ リズムに陥 り、
ふ ものが蛮術的な ものかどうか と云ふ問題、純
停滞気味の先輩谷崎潤一郎 を非難 した 「
大いな
蓉術的なものか どうか と言ふ ことが、非常に疑
る友よ、汝は汝の道 にかへれ。
」(
「
文磐的な,余
」(
「
新潮」昭和二年二月)と発言 した。
問だ と思ふ。
りに文番的な」(
二)。 こうした芥川龍之介最晩
この発言は、谷崎潤一郎 「自分が創作す るに し
年の姿を志賀直哉は、一部肯定的に理解 してい
て も他人のものを姐むにして も、 うそのことで
た「
兎に角私が合った梅園では芥川君は始終 自
ないと面白くない。
J(「
暁音線」昭和二年二月)と
身の亜術 に疑ひを持って居た。それだけに、 も
いう記述 を踏 まえている。つ まり、芥川龍之介
」(
「
沓掛にて一
つと伸びる人だと私は思ってゐた。
の「
新潮合評会」での発言は、前記谷崎潤一郎の
芥川君の こと-」)。
々んぢ
芥川龍之介が 目指 した新境地 とは、「
詩的精神」
新潮合評会」
一文か ら触発 された ものである。「
の芥川龍之介発言を受けて、谷崎潤一郎 「
二月
(「
文番的な、余 りに文峯的な」(
二)であ り、谷
紙の新潮合評骨 に出てゐる私の批評のことに就
崎潤一郎のそれは,「
構造的美観」(「
陵青緑」)で
き一言 したい。
」(
「
改造」昭和二年三月)という発
ある。芥川龍之介 に拠れば 「
刺青」には、「
詩的精
言になったのである。r
僕は『
話jらしい話のない
神」があった。「
詩的精神」の代表的な模範は 「
志
小説 を最上の もの とは思ってゐな い。
」(「
改造」
賀直哉氏の諸短篇 を, -「
焚火(
たきぴ)
」以下の
昭和二年四月)の芥川龍之介発言の唐突 さは、
諸短滴 を数へ上げたいと思ってゐる。
」(「
文番的
- 65-
な、余 りに文轟的な」-)というのが、芥川龍之
介の説明である。
(
「
中央公論」昭和二年七月)の内
「
冬と手紙 と」
「
二
「
白樺」
手紙」は、志賀直哉 「
城の崎 にて」(
大正六年四月)の模倣であ り,「
詩的精神」の発露
の唯一の成功作 と目される 「
審気楼」は 「
焚火」を
模倣 しなが ら、その依拠 した典拠 を超えて作品
的成功を収め得た。 三島由紀夫は、「
辱気楼」を
評 してダリの絵に摸 した。
これを読むたびに、私はダ リの絵 を想起す
る。あのとてつ もない広大な澄んだ秋空 と、
奇怪な形の漂流物 と。「
蜜気楼」は、 いはば梶
ぶつし
▲う
井基次郎的な小税であって、鮮明な物象が提
示されて,物象が物象のまま、作者の心の状
態の象徴をなし、そこに詩が漂ってゐる。(
≡
島由紀夫 「
r
南京の基督』解説、『
壊気楼』」)
芥川龍之介 自身晩年の新傾向を是認 し、「
ピカ
ソはいつも城を攻めてゐる。(
中略)僕の とりた
かぷ と
はのお
や(
;
いのはピカソである。兜の毛は炎に焼け、槍の
i
柄は折れたピカソである。 ・・ ・(「
続文轟的な、
余 りに文垂的な」十)と記述 して 自らの立場を鮮
明にしている。
詩的精神」を問われた芥川
「
鰻青線」の主張で 「
龍之介が、「
志賛直哉氏の緒短編」を模稚例に選
んだ事を松本晴張は、後年噸笑 した。「
噴気楼」
には、その依拠 した 「
焚火」を超えた何か、作者
の精神の不安定を海の秋 に投影 させた象徴的な
自然の造影がある。「
焚火」の創作行為の延長に
あるのは綴 り方教室の作文である。 これに就い
うぬ(
1
ては、太宰治 「
自身の 日常生活 に自惚れてゐる
やつだけが、例の 日記みたいなものを轟 くので
ある。
」(
「
如是我聞」四)と「
志賀直哉氏の緒短篇」
を属倒 した。「
如是我聞」(
四)を書 いた最晩年の
太宰治の脳基には、「
辱気楼」が 「
焚火」を超えた
蓉術的な達成であるという認識があった筈であ
る。
- 66-