17号 2010年 (PDF5.6M) - 加茂市

民俗 資料館だより
March 31St,2010
KAMO CITY MUSEUM OF HiSTORY NEurS No.17
i加 茂市民俗資料館
館報 第 1 7 号
平成 2 2 年 3 月 3 1 日 発行
編集 ・発行
加茂市民俗 資料館
新 任 ごあ い さつ
加茂 市 民俗 資料館 館 長
齋
藤
淳
昨年 の 11月 、 中滝孝 明前館長 の ご退任 に伴 い 、
20年 振 りに私 は民俗資料館 に帰 つて きま した。
私 が文 化財保護 を担 当 した 1980年
代後 半は、
ま さにバ ブル 経済 の絶頂期。 文化行政 にお いて は、
盛 んに 「
行政 の文化化」(行政全般 を人 間性 ・地域性 ・
創造性 ・美観性 な どの文 化的 な視点 か ら捉 え直す こ
ラ
と)が 叫ばれ 、芸術文化振興 の気運 が 高 ま る ととも
ふ る さと創 生
に、各地 で ハ ヨ ものが 次 々 と造 られ 、「
資金」 に よる町お こ し事業 の展 開に、各 自治体 がア
イデ ィア を競 つてい ま した。
当時設 置 され た彫刻群 は今 も加茂 山公 園 に文 化 の彩
りを加 えて い ます 。一 方 では 、開発 が どん どん進 み、
変貌 を遂 げて い く加茂市 にあ つ て 、「
開発」を前 に し
た 「
文化」 の肩身 の狭 さ、文化財保護行政 の難 しさ
を感 じていた頃 で もあ りま した。
―
旧下条 中学校 の校舎 を転用 した 当時 の 民俗 資料館
は、現在 の 下条 コ ミュニ テ ィセ ンター の場所 にあ り
ま した 。私 の母校 で もある下条 中学校 の 中庭 にあ つ
たテ ニ ス コー トは、千葉 県 ・検 見川遺跡 出上 の二 千
大賀 ハ ス」 の 池 と、加茂
年前 の 種子 か ら発芽 した 「
が 昔漢方薬 の集散 地で あ った ことに 因 んで 作 られ た
薬草 園 に 、そ の 姿 を変 えて い ま した。
同年8月︶
無 事 に咲 いてよ か った ! ︵
、
後ろに見える資料館 の 事務室から
。
眺める大賀ハスもまた格別でした
ちなみ に加 茂市 では 、加 茂 山観 光開発 の一 環 で実
施 した 「
野外彫刻展」 に も資金 の一 部 が 充 て られ 、
新 しい ハ ス池 を掘 り終 えて ( 昭和6 3 年 5 月 、現下条コミセン地内)
元公民館長、北村英雄 ・
元民俗資料館長、
写真左から故中山隆夫 口
。
筆者、服部隆行 現温水プール参事、青柳芳樹 。
現福祉事務所長
そ こへ 下条体育 セ ン ター が建 設 され るこ とにな り、
昭和 63年 5月 、「
貴重 な大賀 ハ ス を枯 らした ら大変
だ !」 とばか り、加茂農林 高校 の先生 に ご指導 を仰
ぎなが ら、社会教育課職員総 出 で泥ん こに な つて レ
ン コ ン を掘 り出 し、今度 は別 の場所 に新 しい 池 を掘
旧 下条 中 学 校 校 舎 を 転 用 し た 民 俗 資 料 館
、
当初 は ここに図書館中村 配本所と理科 セン
。
ターが併設され ていた ︵
昭和六 二年当時︶
つて堆肥 を入れ て 、何 とか無事 に移植 完 了。 夏 には
以前 に もま して鮮や かな ピン クの大 輪 を咲かせ るこ
とができ、一 同胸 をなでお ろ しま した。
苦 心 して移 したその新 しい 蓮池 も、下条 コ ミュニ
テ ィセ ン ター の建 設 に伴 つて 平成 4年 に 、一 部 を残
して浄化 セ ン ター に移 され 、そ の後 千刈公 園 に も株
分 け され て 、途絶 えることな く現在 に至 っ て い ます 。
また資料館 自体 も、 これ に伴 って現在 の加 茂 山公 園
内 ・旧図書館 の建 物 に移転 しま した。
私が在籍 した 当時、資料館 では 日々収蔵 資料 の台
平成 21年 度遺跡発掘調査 について
社会教育課 係長 伊 藤 秀 禾
口
本年 の遺跡調査 は 、開発事業 に 関連 した確認調査
が 5遺 跡 、緊急雇用創 出事業 に 関連 した試 掘 ・確認
調査 が 1遺 跡 、1地 区を対象 に行 われ た。
1 古 見 道遺 跡 一 近 世 ―
下条体 育 セ ンター の 建設 が 始 ま り、 コ ンパ ク トに生 ま
れ 変わ つた 民俗 資料館 ( 昭和 6 3 年 8 月 )
その後、下条 コミュニティセンターの建設に伴つて平成 6
年、資料館は加茂山の旧図書館の建物に移 り、現在に至る。
調 査 面積
約
帳作 りに追われ て い ま した。 それ以前 には 、約 八千
調 査 期 間
平 成 21年 4月 30日
二 百点 と言 われ た 、考古 か ら民俗 、山 株 か ら漁労 に
調 査 原 因
ほ 場整備 (個人 による区画整理)
至 る他 に誇 るべ き豊 富な収蔵 資料 を、学術 的 に分類
調査の概要
所 在
地
加 茂市下大谷地 内
150ぱ
した台帳 がなか ったか らです 。日 本考古学協会会員
古見道遺跡 は大谷川右岸 の丘 陵裾 部 に立地す る縄
の川 上 貞雄 先 生 には、文字通 り手取 り足取 りの ご指
文時代 の遺跡 と考 え られ ていた。し か し、今回 の調
導 をい ただ き、整理作業 の意義 、展示 資料 をいか に
査 では近 世 の集 落跡 が確認 され た。柱根 を遺す ピ ッ
見せ るか、そ して 、博物館 の何 た るかを教 えていた
トや 土坑 な ど約 170基
の遺構 が明陳 に確認 され デ
だ きま した。
出土遺物 は少 な く、石製 品 (砥石)1点
、陶磁器 1
また、資料館 の創 立 に多大 な尽力 を され た横 山旭
点 の みであるが、陶磁器 は肥前 の磁器 で 17世 紀 前
二 郎初代館長 (平成 2年 御逝 去 )を 始 め 、加茂市文
半頃 と考 え られ る。 また、柱根 につい ては分析 の 結
化財調 査 審議会 の釘 々 た る先生方 か らは、常 に温か
い ご指導 とご支援 をい ただ き、失礼 な言 い方 をお許
果 、樹種 はク リである ことが判 明 した。
しい ただけれ ば、「ご高齢 の先 生方がお 元気 な うちに、
何 とか貴重 な資料 を記録 に留 めな けれ ば 」、そ して
「
何 とか 、加茂市民俗資料館 をいい博物館 に したい 」
との一 念 で 、 日々の 作業 に励 む ことがで きま した。
美術館 であれ歴 史博物館 であれ 、 いい博物館 に身
をお い た時 、人 は落 ち着 き と癒 し、あ るい は知的興
奮 と感動 …等 々 、様 々 な感情 がない 交ぜ にな っ た 、
何 とも言 えず心地 よい 、満 ち足 りた感覚 に捉 われ ま
す。館 の 大小 に関わ らず 、大人 も子 どもも何度 で も
来 た くな る、ず つ とそ こにいた くな る… そんな博物
館 が理想 だ と思 い ます 。 昭和 49年 の創 立以来 、変
遷 をた ど りなが らも皆様 に親 しんでいただいた加 茂
市民俗 資料館。 も う一 度初 心 に帰 って 、 いい博物館
図 1 古 見道遺跡 位置 図
を 目指 してい けた らと思 い ます 。 た とえ我 が 民俗 資
現 在 の民俗 資 料 館
、
昭和 一六年 現在 の北越銀行
加茂 支 店 の地 に建 てられ た
、
、
図書館を 昭和 四 二年 加茂
、
。
山 に移設 さ ら に平成六年
。
民俗資料館と し て転用した
皆様 の ご指導 を、 よろ しくお願 いい た します。
図 2 古 見道 遺 跡 確 認 調査
Jヽ
さな博物館 だ と して も。
料館 が 、古 い 、ノ
2 川 向遺 跡 一 縄文晩期 ―
所 在
地
会 い 、遺構 の確認 と遺物 の採集 を行 つ た。 これ まで
の発掘調査 の成果 と同 じく、馬越遺跡 、太 田遺跡 、
荒又遺跡 か らは、古墳 ∼ 中世 の 上器 が 出土 した。新
加 茂市下高柳 地 内
約 17ポ
調 査 面 積
調 査 期 間 平 成 21年 7月 7日 ∼ 7月 21日
堀遺跡 か らは遺物 、遺構 ともに確認 され ていない。
調 査 原 因 学 術調査 (緊急雇用創 出事業)
4 下 大谷 地 区 一 化石調査 一
調査 の概 要
所 在
川 向遺跡 は加茂川左岸 の 比 較 的狭 い段 丘上 に立地
地
加 茂市下大谷地 内
調 査 期 間 平 成 21年 7月 6日 、 9月 14日 ∼
す る。 現況 は山林 で ある。川 向遺跡 は加 茂市 にお い
11月 20日
て最 も古 くか ら遺跡 と して把 握 され ていた地点で あ
調 査 原 因 学 術調査 (緊急雇用創 出事業)
ったが 、遺跡 の詳 しい内容 につ いて は不 明な点 が 多
調査 の概要
い ままで あ つた。今 回 の調 査 では 3ヶ 所 に トレンチ
を設 けた。全 ての トレンチか ら ピ ッ ト、土坑 な どの
調査地 は大谷川 右岸 の三柱神社北側 にある露頭 で
ある。 露頭 は新潟大学 。卜部厚志先生 の観 察 に よ り、
遺構 が確認 され 、縄文 土器や石器 が 多 く出土 した。
新第 二 紀 の地層 で 、寺泊層 の 下部 に相 当す る とされ
縄文土器 は粗製 土器 が主 体 であ るが、文様 の特徴 か
た。化石 は魚 類や植物片 が 多数 出上 した。種 の特定
ら縄 文 晩期 の もので ある。 石器 には石鏃や磨 製石斧
は困難 な資料 が大 半 であるが 、魚類 の 中で 、ト ゲ ウ
があ る。加茂川 上 流部 に営 まれ た貴重 な縄文晩期 の
オの仲間 と特定 され た ものが ある。
集跡 で あ る。
図3 川
向遺跡 位置 図
図 5 下 大 谷 地 区化 石 調 査 位 置 図
地
加 茂市下条地 内
調 査 期 間 平 成 21年
10月 5日 ∼ 11月 10日
調 査 原 因 県 営 ほ場整備事業吉津川地 区
調査 の概要
ほ場整 備 事業 の 暗渠 工 事 に伴 う掘 削 工事 の 際 に立
、
図 7 出 土 した トゲ ウ オ
の仲 間 と みら れ る 魚 の化 石
所 在
図 6 化 石調 査 の様 子
図 4 川向 遺 跡 確 認 調査
3 馬 越 遺 跡 ・太 田遺 跡 口荒 又遺 跡 B新 堀遺 跡
一古代 ・中世 一
加茂の経済人関真次郎 と
日本画家 土田麦悟、安 田靭彦
に就任 した。 この他 、加 茂銀行 の取締役 な ど、 この
ころの加 茂経済界 で幅広 い活躍 が 目立つ (『
力日
茂市史
資料編 3』)。
加茂市文化財調査審議会
副委員長 長 谷 川 昭 一
は じめに
大正 8年 (1919)に
は絹織物 での片腕 であつ
た弟真 平 が死亡 し、北辰舎 の経営 を含 め 、一切 の責
任 が真 次郎 の双肩 にかか るよ うにな る とともに、経
関真 次郎氏 は、近代産業が成 立す る明治後期 か ら
昭和初期 にか けて、絹織物業 に とどま らず 、広 く加
茂町産 業 の 近代化 の先頭 にた つて業界 を リー ドした
代表 的 な経済人 で あ つた。
氏 はその一 方 で
、 日本美
営 は絹織物業 に傾斜す る。
昭和 4年
(1929)で
は、織物生糸業 で 350
円の営業収益税 を納 め 、加茂町第 2位 であつた (『
新
潟県商 工人名録』)。
術 の 良 き理解者 と して 、若 く して他界 した佐渡 出身
昭和 5年 、世界大恐慌 が 日本 に も波及 し、 10月
の 日本 画家 土 田麦客 ( ばくせ ん) を 経済的 に支 え、
には生糸価格 が 明治 29年 以来 の安値 にまで大 暴落
また 、文化勲章受章者 の安 田靭彦 ( ゆきひ こ) を 良
を示す な ど、各 地で工場 の 閉鎖や倒 産 が相次 いだ。
寛 の書 にひ きあわせ 、両者 の 芸術家 として の 才能 を
真次郎 の事業 も不況 に巻 き込 まれ 経営不振 とな り、
大 き く開花 させ た重要 な人物 で もあ つた。 この こと
昭和 9年 には竹 内栖鳳や 土 田麦徳 の絵 な ど 547点
は、真 次郎氏 の 曽孫 関岳夫氏 が所蔵 してお られ た麦
俸 ・靭彦 両画伯 の真次郎宛 の 多 くの書簡 が示 して く
の所有美術 品を売却 しなけれ ばな らな くな った (「
関ジ
ここでは、加藤信 一著 の 『新潟大学退官記念加藤
土田麦憾 の書簡」 と 『安 田靭彦
信 一論文集』所収 「
の書簡』及 び横 山秀樹著 の 『新潟県立万代島美術館
土田麦徳 の関真次郎あて葉書」に
研究紀要』所収 「
よつて、二人 の 日本画家 と関真次郎 のかかわ りの一
端を紹介す る。以下は敬称を略す。
土 回 麦倍
昭 和 十 三年 ﹁
麦層遺 作集 ﹂掲 載
しる。
オ
家蔵 品入札競売 目録」)。
昭和 1 1 年
5月 12
日、加茂川 の 大橋畔で行
われ た 「
明治天皇布晒天
覧聖蹟碑 」の 除幕式に主
唱者 と して 夫 婦 で 招 か
れ、2年 後 の 昭和 13年
5月 17日
に 77歳 で
亡 くな つてい る。加茂織物 工業組合 の監事 であった。
1 関 真 次郎 の こと
真次郎」
関真次郎 は、上条 の商家関金六家の分家 「
家 の二代 目として文久元年 (1861)に
2 土
田麦層 の書 簡
生まれた。
関真次郎 に宛 てた美術 関係者 か らの 書簡類 は、土
初代真次郎 のころか ら関東方面 との商取引を営んで
田麦徳 が 、手紙 53通 、葉書 14通 。安 田靭彦が、
いたが、明治 28年
福井市か ら絹織
42通 、京都相 国寺 の橋本独 山禅 師 か らが 40通 残
物 の羽 二重織 りの技術 を習得 して帰郷 した弟 の真平
つてい る とい う。 この うち麦徳 の 書簡 67通 は、現
とともに、近代式大工場 の北辰舎を設 立 して、絹織
物業へ進出 した。
在 、新潟県 立美術館 、万代 島美術館 の所蔵 である。
越佐商
行の 『
の死の前年 昭和 10年 まで 、 24年 間にわた つて文
しか し、明治 31年
(1895)に
(1898)発
麦徳 と真次郎 は 、明治 44年
11月 16日 か ら麦徳
工人名録』には 「
蒟蒻 (こんにゃく)粉 卸商関真次
・
郎 正絹製造北辰舎関真平」 と記載 され、当時はま
通 を続 けた。
だ絹織物 の製造を弟 の真平が担当 して、兄の真次郎
京都芸術大学)別 科 を卒業 した ところで 、師 の竹 内
は関東方面か ら仕入れた蒟蒻粉 の卸売 りが主体であ
栖鳳 の家 か ら出 されて い る。「
未熟 な る小生等 に御清
ったことを うかがわせ る。
嘱 の義 、誠 に恐縮 に存 じ候 」 と真次郎 が学校 を卒業
最初 の手紙 は、麦徳 が 24歳 で京 都 専門学校 (現
明治 38年 の県立羽 二重精錬所 の加茂への建築 に
したばか りの若 手 の画家 に作 品を注文 した こ とがわ
あたっては、真次郎を中心 とす る誘致合戦が功を奏
し、新潟 ・長岡 ・三条 ・栃尾に うち勝 った。 また、
か る。 商用 で京 都 へ い く ことの多 かった真次郎 が 、
竹 内栖鳳 を通 して 「
新潟県 出身 の有望 な画 家」 とし
明治 41年 には、蒸気機 関による大規模な製材 工場
て紹介 され た こと も考 え られ る。 ちなみ に、 この絵
加茂製材株 式会社 の設 立発起人 とな り、後に取締役
の代金 は 35円 であつた。
この ころ、同門 で後 に文 化勲章 を受章 した小 野竹
3 安
田靭 彦 の 書 簡
喬 を紹介 し、「
価格 の義 は 、寸法 は非常に小 さい もの
安 田靭彦 の真次郎宛 の手紙 は 41通 残 つてい る。
です が 、非 常 に苦 心 した ものです か ら 20円 位 ゐは
最 も古 い とされ るの は 、 2月 7日 付 けで 「
良寛 上 人
御送 り願 ひたひ と思 い ます 」 と同僚 の作 品まで売 り
伝 、此 の度御恵贈 を辱ふ し御 芳情 の程 、御厚礼 申上
つ けて い る。「
市 内三 条東洞院下ル 東側 、長谷川様方
候。過 日拝見 の上 人 の御筆 は、実 に忘れ難 き もの に
関真次郎様 」 な ど京 都 市 内宛 が 4通 が残 る。
これ あ り候」 とい う文面である。靭彦 が 自身 の思 い
また 、冬期 間は避寒 に熱海 温泉 へ も行 ってい た と
み え、 3通 が 「
伊 豆 国熱海 新 玉屋 関 真次郎様」
とな っ てい る。大 正期 は新 玉屋 が 定宿 だ つ た らしく
安 田靭彦 も同 じ旅館 へ 出 したのが 2通 ある。
麦徳 の 代表作 とな る 「
大原 女」製作 につい て 、 モ
デ ル 代等 の費用 に困 つて 30円 の借用 を申 しでてい
出を綴 った 『書 を思ふ』で、 「
大 正 元年 の春 だった と
お もふ。越後 の加 茂 の 関 とい ふ老人 が 来 られ た時 、
隅 々 、長歌 を書 いた一 巻 を見せ て 貰 つて 、万葉仮名
の ほのぼの とした高古 とも言 へ る美 しさに打 たれ た。
それ が 良寛 の書 であった」と記 され てい ることか ら、
大 正 元年 と推 定 され てい る。
る。文 面 は 「
何卒金参拾 円拝借願 ひ度 、誠 に申 し兼
大 正 元年 、真次郎 は 51歳 、 老人 とい うの は少 々
ね候 ひ し も、此度 の 出品大原 女 な る為 、 日々のモ デ
気 の毒 な気 がす るが、真次郎 との長 い親 交 の 中で 、
ル 費 に 閉 口致 し候 、近 々御 上京遊 ば され候哉 。小 生
靭彦 に とっては 「ご老 台」 な ので あろ う。 いずれ に
、ヵ 来月 十 日頃再び大原 へ 出掛 ける考 へ に御座侯 、先
は右 御 願 ひ迄 、早 々頓首」 である。真次郎 が京都 ヘ
せ よ、先 の麦徳 とほぼ同 じ時期 に文通 が始 まった と
くるの を首 を長 く して待 ってい る様子 が 良 くわか る
考 え られ る。 良寛 の書 に出合 っ た靭彦 は、以後 良寛
へ の興味 を深 めて い く。
大 正 8年 の手紙 に 「
八 年以前、尊台 に よ り給 はれ
手紙 で あ る。
「
大原 女」 は、大正 4年 10月 に 開 かれ た第 9回
候 良寛和 尚 との機縁 は小生 に と り多幸此 上 もな く、
文部省 主 催 の美術展 (文展)に 出品 して 、 3等 賞 を
この御 恩恵 は永 く忘却す べ か らざるもの に御座候 」
受賞 した。この年
とある。
5月 か ら京 都 府
最 後 に 安 田靭
大原 村 に滞 在 し
彦 の 手紙 の 中 で 、
て 「
大原 女」を描
い た。金 地 六 曲一
自身 と真 次 郎 の
絵 が書 いて あ る
双 の屏風絵 で 、風
手紙 を紹介す る。
「
寸暇庵老 、青牛
景 と人 物 を 融 合
`/し 、桃 山障壁画 を
紡 彿 させ る 装 飾
生 清談 の 図」と書
土 田 麦層 「
大原女」
を追求 した 作品 として高 い評価 を受 けて い る。
真 次郎 は麦徳 の絵 を加茂 の 主要 な人 々 に紹介 した
現在 、東京 口山種 美術館 所 蔵
い てある。寸暇庵
は真次郎 で青牛 生 は靭彦 の別 号。真次郎 は晩 年 、耳
の 資産 家 の名前 がでて くる。 なかで も石 田友蔵 (紺
温まる絵 である。
つ てい る。 この旅費 につい て も真次郎 は援 助 を惜 し
一ヽ
まなか った よ うで 、出発 直前 に餞別 の礼状 をだす と
ともに 、 ヨー ロ ッパ 各地 か ら 10通 の絵葉書 を出 し
てい る。 この絵 はが きは、昨年 、長 岡 の県 立 美術館
で 開 かれ た特別展 に展示 された。
\
(ラ
イ/
関 真 次 郎 と安 田靭 彦 の
麦徳 は大正 10年 か ら 12年 まで ヨー ロ ッパ ヘ 取
材旅 行 にい き、 ヨー ロ ッパ 各地 の美術館や名所 を巡
加 藤 信 一著
﹃安 田靭 彦 の書 簡 ﹄ よ り
目され る。
清 談 の図
友様 )が 大正 7年 に良寛 の書 を麦客 に送 っ たのが注
想雑 F 移
よ うで、市)││、
石 日、皆川 、服部又 七 な ど、加茂町
が遠 くな ってい た よ うで、長 い ラ ッパ 状 の もの を耳
にあてて話 してい る図が ユ ー モ ラス で 、 いか に も心
人 数
平成 21年 度 の歩み
2名
新潟大学 ・教育人 間科学部 学 生 1名
1入 館 者 数 (平成 21年 4月 ∼平成 22年 3月 )
区 分
市 内
大 人
260
424
684
5
小 中学 生
270
47
317
0
計
530
471
1,001
5
市 外
計
人文学部
生 1名
学
団 体
古文書講座
【
第 1回 】平成 21年 9月 1日
時 間 午 後 7時 ∼ 8時 40分
(毎回) =
会 場 加 茂市公民館第 1研 修室 (毎回)
2資
講 師 加 茂市文化財調査審議会
料収集の状況
本年度は、 8名 の方 々か ら計 19件 163点
委員長 溝 日 敏 麿 先 生
の資
料を ご恵贈 いただきま した。厚 く御礼申 し上げます。
(寄贈品名〉
り
バリカン
墾。ドリル・
ヤスリ・飽類・窮 類・
・
葵禄 宵讐旗・
深縮,ばんどり・
村縄・
雲・
受講者 51名
テーマ 「 青海神社 と新発 日藩 の関わ り」
明治期 の資料 か ら、青海神社 と新発
田藩 の関係 を解 き明かす。
わ らじ ・除草機 ・ばつ こ ・綿線線 ・屋根ふ き ・
すた。
馬鍬個誰式、
難 氏)・
宙議筆(ハッタン)。
。
すき 軍隊用乗馬用蘭揺 ・緑入れ篇天聾 ・
紙紫経 ・
警格
菊
治
様
阿 部
佐
藤
久
雄
様
中 山
坂
上
幸
彦
様
有 本
茂 岡
増
様 様 様
小 柳
一
二
房 勇 一
〈
寄贈者 ご芳名〉
溝口
明 与司 様
レ フ ァ レ ン ス ・サ ー ビス (問い合わせ 30件 )
◇ 4年 生の児童 を加茂川源流 へ 連れて行 きた いが 、
第 2回 】平成 21年 9月 8日
【
講 師
◇ 加茂 の考古 の 資料 が ほ しい。
加茂市文化財審議会
委員 関
道 はあ るか。 また 、 どんな様子 か。
◇ 青海神社 の 古 い 時代 の建物 の配置 につい て。
敏麿 先 生
受講者
テーマ
正 平 先 生
36名
「
俳諮書 『
既望笠』を読む」
加茂市小橋出身 の菊文 (村越 七右衛
◇ 加茂市 内 の城跡 の地図はな いか。
◇ 桐箪笥取材 を させ てほ しい。
門)が 、旅先 の地や各地 の俳諧者 か ら
◇ 全 国 を回 つて い るが、加茂 の 山城 、文化財 の位
寄せ られた句をまとめた俳諸書 「
既望
笠」を基に解説を加 える。
置 が知 りた い。
◇ 上 条城 と下条 城 の位 置 が知 りた い。
◇ 須 田地 区 の遺跡 があるか。
【
第 3回 】平 成 2 1 年
講 師
◇ 加 茂 地 内 に あ るNTTド
コモ の 数 箇所 の 鉄塔
につい て 、埋 蔵文化財包蔵地であるか ど うかの
調 査 が 、過 去 にな され た のか ど うか。
加茂市文化財審議会
委員 佐 藤 賢 次 先 生
◇ 永井慈現 の資料 が欲 しい。
◇ 加 茂市史 (旧版)の 下巻 がほ しい。
9月 15日
受講者
テーマ
42名
「
青海神社高橋神 主の神 仏分離 の試み」
江戸時代 の青海神社 につい て 、神仏
習合 の社 か ら仏教色 を排 斥 し、吉 田神
道 に傾倒す る過程 を、古川神 主が新発
博 物館 実 習生 受入れ
期 間 9月 7日∼ 9月 15日
田藩 に訴 えた文 書 か ら読み取 る。
慈現 の親 は三代 目の宗智 である。慈現 は、父
の 宗智 よ り、 「
医業 を以 つて生 業 とせ よ」 と
諭 され独 立 し、寺 に伝 わ る秘薬 (神脳 丸)を
源 に、精神病者 の施療 を した と思われ る。
も フ ラ ンス にお ける ピネ ル の頭彰 は世界周知
の事柄 であるが 、 ピネル の精神病者 の 開放 と
い う劇 的 な業績 よ り 1世 紀 近 く前 の 時代 か
ら精神病 に取 り組 んだ 日本 の漢方 医 こそ、世
界 中か ら賞賛 されて しか るべ きであろ う。
佐藤 賢 次 先 生
【
第 4回 】平成 21年 9月 24日
加茂市文 化財審議会
講 師
副委員長 長 谷川 昭 一 先 生
受講者
テー マ
34名
「
明治初期種痘 の 関連文書 を読む 」
明治 9年 大谷村 の種痘児取調御届や
じ
明治 11年 の種痘謝礼送書、明治 28年
事務報告 な どを読み、 当時 の種痘児 の
丸山 朝 雄 先 生
年齢や代金 な どを読み取 る。
【第 5回 】平成 21年
講 師
9月 29日
7 特
加 茂市文化財審議会
委員 丸 山 朝 雄 先 生
受講者 41名
テ ー マ 「 北潟 の新 田開発」
作免状や 開発請 状 を解 読 し、新 田開発
の状況 を組 解 く。
会 場
講 師
日 時
平 成 21年
会 場
加 茂市公民館 第 1研 修室
14日
演 題
(土)
受講者 43名
講 師
立 教大学名誉教授
藤木 久 志 先 生
史講演会
11月
平 成 22年 3月 20日
加 茂文化会館 小 ホー ル
「 戦 国を生 きた人 々」
立教 大学 名 誉 教 授
藤 木 久志 先生
6 歴
日 時
受講者 170名
現在 の北潟村 の元和 ∼延 宝年 間 の 開
し
別歴史講演会
加 茂市文化財 審議会
委員 丸 山 朝 雄 先 生
演 題
「 精神病施療 の先駆者
永井慈現 につい て 」
<内
容 >
§ 享保 の 時代 か ら 9代 にわた り 9人 の 慈現
(同一名)が 、 この地 で 200年 にわたって
藤木先生は旧東請原郡上川村で ご幼少を過 ごされ 、英語教師で
あ つたお父様の勤務の関係で、須田中学校、
加茂高校に学ばれた。
講演会前 日の 3月 19日 には、縁の深い須回の地で、小学 6年 生
と保護者、教職員を前に、上杉謙信について熱 く語 られた。
精神病者 の施療 にあたって きた こ とは驚 くべ
<内
き ことで ある。
も 慈現 家 の成 り立 ちを、順行 寺 の系譜 か ら解
き明かす 。永井麟
等 の元祖 は宗祐 といい 、
容 >
も 戦 国時代 は大 名 だ けが武器 を持 ってい たわ け
ではな く、農 民 も弓や槍 で戦 う能力 を持 ってい
た。敵軍 の 兵檀 部 隊を襲 うこともあ つた。
も 戦 国 の戦争 は、食 うた めの戦争 、 生 き延 び る
歴史講演会
た めの戦争で あ った。 上 杉謙信 は 、農 閑期 に兵
11月 に開催 の予定 (同時は未 定)
を出 した。関東 の 実 りを求 めて 出兵 した り、大
会場 加 茂市公民館 第 1研 修室
阪城 篭 城 では 、
農 民 が備兵 の よ うな形 で参加 し
講師 加 茂市文化財調査審議会委員
た りした。
関 正 平 先 生
も 戦争 が稼 ぎ場 にな る こ ともあつた。食料 、物
特別歴史講演会
品、牛馬 、人間 といわず 、「
乱取 り」を した り、
・
さ らわれ た 親戚 縁者 を買 い 戻 した りす る習慣
平成 23年 3月 19日
もあ つ た。ま た 、人身 の売買 も 日常 の よ うに行
講師 加 茂市文化財調査審議会委員
山崎 完 一 先 生
われ 、後 の秀吉 に よる 「
人身売買禁 止 令」につ
なが っ た。
も 戦火や略奪 か ら身 を守 る避難所 の役割 を果 た
したのが 各地 の城や神社 であった。天守 閣 の あ
る城 ではな く、山 の上 に築 かれ た 山城や麓 の館
な どであ る。加 茂 の場合 は 、青海神社 の背後 に
札
筋ミ
危検首城が連なっている。
要害山城、
浜
峯
城、
城 や 神 社 は、加 茂 の 住 民 の避 難 場所 で あ つ た可
性が あ る。
能′
平成 22年 度 の事業予定
資料 の収 集 ・調査 ・展 示 随 時
レファ レンスサ ー ビス 随 時
古 文書 講座
第 1回
(土)
会場 加 茂文化会館小 ホー ル
<新 規事 業 >
加茂市の遺跡に触れる会 (仮称)
開催 日時 ・会場 は要望 に応 じて 随時実施
昔 の 加 茂 を 映 像 で ふ り返 る会 ( 仮称)
開催 日時 ・会場 は未 定
※ 加 茂市民俗 資料館 では 、平成 2 2 年 度 、新 た に
これ ら二つ の事業 の 実施 に取 り組 んでまい ります 。
編集後記】
【
◆ 新 館 長 の あ い さつ 文 に もあ ります よ うに、民
俗 資 料 館 も幾 多 の 変 遷 をた ど りな が ら現 在 に至
つてい ます 。社 会 の 変化 も急激 に進 み 、やや もす
る と足元 を見失 い そ うに もな ります 。 そ ん な時 、
8月
30日
( 月)
関
第 2回
9月
7日
(火)
満 口 敏 麿 先生
私 た ち の 祖 先 が 英 知 を結 集 して 創 造 して きた 文
一
化財 を、も う 度 立 ち止 ま っ て見 つ め 直す こ とも
第 3回
9月
14日
(火)
意義 の あ る こ と と思 い ます 。新 規 事 業 に も順 次取
第 4回
9月
21日
(火)
佐藤 賢 次 先生
長谷川 昭 一 先生
9月
28日
(火)
丸 山 朝 雄 先生
待 ち してお ります 。
第 5回
正 平 先生
会場 加 茂 市公 民館
時 間 午 後 7時 ∼ 8時 4 0 分
■ 開館 時 間 9iOO∼
17iOO
■休 館 日 月 曜日、毎月第 1,3,5土 日曜日
視日、年末年始
※ lBし、4,5月 は月曜日のみ (祝日に当た
るときは次の平日)
■入 館 料 無 料
■展 示 内容 市 指定文化財を含む、者古 ・民俗 ・歴史資料
約 1200点
■加 茂 駅 か ら徒 歩 8分
お車でお越 しの方は,力
B茂山公園駐車場をご利用ください
潟県加茂市大字加茂 229番 地 1
TEL/FAX:0256-52-0089
E―mail i minzoku③ city.kamo.ntigataJp
◆ ご 多忙 の 中、玉 稿 をお 寄 せ いた だ い た 長 谷川
一
昭 氏 に深 く感 謝 申 し上 げ ます 。
文化会館
!加茂市民俗資料館
り組 んで い きます ので 、多数 の 方 々の ご利 用 をお
〒959-1372新
加茂山公田 FT青 海神 社