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第297回 平成27年3月月例会 ② 空手道の歴史と現状 渡邊 幸太郎 空手道(からてどう)もしくは空手(からて)とは、琉球王国時
代の沖縄で発祥した拳足による打撃技を特徴とする武道、格闘技で
ある。 私の空手道五十年の軌跡 昭和37年(1962)厚木市空手道道場入門 昭和38年(1963)日本体育大学空手道部入部 昭和41年(1966)全日本学生空手道選手権大会3位入賞 昭和45年(1970)神奈川県立中央農高校柔道部卒業生に 空手道指導 昭和52年(1977)神奈川県立藤沢北高等学校教諭空手道部創設 昭和58年(1983)同上空手道部全国空手道大会準優勝 ・関東高校空手道大会優勝 昭和59年(1984)全国高体連空手道専門部副委員長 昭和60年神奈川県教職員空手道大会個人優勝 昭和61年(1985)全日本空手道連盟評議員 平成元年(1989)全国教職員空手道大会優勝 平成4年(1992)神奈川県立藤沢西高等学校教諭 空手道部顧問・監督 平成7年(1995)神奈川県空手道連盟理事長 平成8年(1996)神奈川国民体育大会空手道競技実行委員長 平成19年(2007)日本体育大学武道学科講師 平成27年(2015)現在 日本体育大学武道学科講師 横浜市社会福祉協議会歴史講座講師 神奈川県空手道連盟参与 空手道六段・柔道三段・剣道弐段 ・刀剣道初伝 空手道概要 空手道の起源には諸説があるが、一般には沖縄固有の拳法「手(テ
ィー)」に中国武術が加味され、さらに示現流など日本武術の影響も
受けながら発展してきたと考えられている。空手道は、大正時代に
沖縄県から他の道府県に伝えられ、さらに第二次大戦後は世界各地
に広まった。現在では世界中で有効な武道、格闘技、スポーツとし
て親しまれている。現在普及している空手道は、試合方式の違いか
ら、寸止めルールを採用する伝統派空手と直接打撃制ルールを採用
するフルコンタクト空手に大別することができる。このほかにも防
具を着用して行う防具付き空手(広義のフルコンタクト空手)など
もある。 今日の空手道は打撃技を主体とする格闘技であるが、沖縄古来の
空手道には取手(トゥイティー、とりて)、掛手(カキティー、かけ
て)と呼ばれる関節技や投げ技や掛け掴み技も含んでいた。また、
かつては空手道以外に棒術、釵術、ヌンチャク術といった武器術も
併せて修行するのが一般的であった。沖縄では現在でも多くの沖縄
系流派が古来の技術と鍛錬法を維持しているが。最近の本土系の流
派では、失伝した技を他の武術から取り入れて補う形で、総合的な
体術への回帰、あるいは新たな総合武道へ発展を目指す流派・会派
も存在する。 「空手」の表記がいつから始まったかについては諸説がある。1
8世紀に編纂された正史『球陽』に、京阿波根実基が「空手」の使
い手であったことが記されているが、この「空手」が今日の空手の
直接の源流武術であったのかは、史料が乏しいため判然としない。
船越義珍によれば、もともと「沖縄には『から手』という呼び方が
あったことは事実である」とされ、しかしそれが「唐手」なのか「空
手」なのかは不明であるという。つまり、琉球王国時代から空手と
いう表記が存在した可能性は考えられるが、これを史料から追跡す
るのは困難なのが現状である。 今日知られている廃藩置県以降での空手表記の初出は、1905
年(明治38)に花城長茂が空手空拳の意味で使い始めたものであ
る。次に大正年間の船越義珍の著作や本部朝基の著作に断片的に「空
手」の文字が使用されている。そして、1929年(昭和4)に慶
應義塾大学唐手研究会(師範・船越義珍)が般若心経の空の概念を
参考にしてこれを用い、その後この表記が東京を中心に広まった。 1936年(昭和11)10月25日、那覇で「空手大家の座談
会」
(琉球新報主催)が開かれ、この時、唐手を空手に改めることが
決まった。1960年代までは唐手表記も珍しくなかったが、現在
では空手の表記が一般化し定着している。また、1970年代から
は、主にフルコンタクト空手の流派において、カラテやKARAT
Eと表記されることも多い。 琉球王国時代の歴史ー唐手佐久川の以前と以後 琉球の歴史において、唐手(とうで、トゥーディー)の文字が初
めて現れるのは唐手佐久川(とうでさくがわ)とあだ名された佐久
川寛賀においてである。佐久川は20代の頃(19世紀初頭)、当時
の清へ留学し中国武術を学んできたとされる。この佐久川が琉球へ
持ち帰った中国武術に、以前からあった沖縄固有の武術「手(ティ
ー)」が融合してできたものが、今日の空手の源流である唐手であっ
たと考えられている。 佐久川以降、
「手」は唐手に吸収・同化されながら、徐々に衰退し
ていったのであろう。一般に空手の歴史を語る際、この唐手と「手」
の区別が曖昧である。それゆえ、狭義の意味での唐手の歴史は佐久
川に始まる(さらに厳密に言えば、佐久川はあくまで「トゥーディ
ー」=中国武術の使い手であり、
「日本の武技の手・空手」の起源を
考えるならば、佐久川の弟子の松村宗棍以降になる)が、
「手」も含
めた沖縄の格闘技全般という意味での空手の歴史は、もちろんそれ
以前にさかのぼる。以下、広義の意味での空手の歴史について叙述
する。 手(ティー)の時代 古くは16世紀、命を狙われた京阿波根実基(きょうあはごんじ
っき)が「空手」という武術を用いて暗殺者の両股を打ち砕いたと
の記述が正史『球陽』
(1745年頃)にあり、これは唐手以前の素
手格闘術であったと考えられているが、これが現在の空手の源流武
術であったのかは証明する史料に乏しく、その実態ははっきりしな
い。また、17世紀の武術家の名前が何人か伝えられているが、彼
らがいかなる格闘技をしていたのか、その実態は明らかではない。
明確に手(ティー)の使い手として多くの武人の名が挙がるのは、
18世紀に入ってからである。西平親方、具志川親方、僧侶通信、
渡嘉敷親雲上、蔡世昌、真壁朝顕などの名が知られている。 また、土佐藩の儒学者・戸部良煕が、土佐に漂着した琉球士族よ
り聴取して記した『大島筆記』
(1778年)の中に、先年来琉した
公相君が組合術という名の武術を披露したとの記述があることが知
られている。この公相君とは、1758年に訪れた冊封使節の中の
侍従武官だったのでないかと見られており、空手の起源をこの公相
君の来琉に求める説もあるが、組合術とは空手のような打撃技では
なく、一種の柔術だったのではないかとの見解もあり、推測の域を
出ていない。 1784年に没した琉球士族の阿嘉直識の遺言書に「からむとう」
なる武術の名前が記されているが、これが空手の起源であるかどう
かは未詳である。また同遺言書は柔術を指す「やはら」についても
記されており、少なくとも「からむとう」と柔術は別の武術と認識
されていたようである。 廃藩置県後ー唐手(からて)の公開(明治時代) 元来、琉球士族の間で密かに伝えられてきた唐手であるが、明治
12年(1879)、琉球処分により琉球王国が滅亡すると、唐手も
失伝の危機を迎えた。唐手の担い手であった琉球士族は、一部の有
禄士族を除いて瞬く間に没落し、唐手の修練どころではなくなった。
不平士族の中には清国へ逃れ(脱清)、独立運動を展開する者もいた。
開化党(革新派)と頑固党(保守派)が激しく対立して、士族階層
は動揺した。 このような危機的状況から唐手を救ったのが、糸洲安恒である。
糸洲の尽力によって、唐手はまず明治34年(1901)に首里尋
常小学校で、明治38年(1905)には沖縄県中学校(現・首里
高等学校)および沖縄県師範学校の体育科に採用された。その際、
読み方も「トゥーディー」から「からて」に改められた。唐手は糸
洲によって一般に公開され、また武術から体育的性格へと変化する
ことによって、生き延びたのである。糸洲の改革の情熱は、型の創
作や改良にも及んだ。生徒たちが学習しやすいようにとピンアン(平
安)の型を新たに創作し、既存の型からは急所攻撃や関節折りなど
危険な技が取り除かれた。 このような動きとは別に、中国へ渡った沖縄県人の中には、現地
で唐手道場を開いたり、また現地で中国拳法を習得して、これを持
ち帰る者もいた。湖城以正、東恩納寛量、上地完文などがそうであ
る。もっとも、日中国交回復後、日本から何度も現地へ調査団が派
遣されたが源流武術が特定できず、また中国武術についての書籍や
動画が出回るにつれ、彼らが伝えた武術と中国武術とはあまり似て
いないという事実が知られるようになると、近年では研究者の間で
彼らの伝系を疑問視する声も出てきている。 船越義珍。本土において初めて空手を本格的に指導し、また史上
初の空手書の出版などを通じて、その普及に尽力した。 最近の研究によれば、最初に本土へ唐手を紹介したのは、明治時
代に東京の尚侯爵邸に詰めていた琉球士族たちであったと言われて
いる。彼らは他の藩邸に招かれて唐手を披露したり、揚心流や起倒
流などの柔術の町道場に出向いて、突きや蹴りの使い方を教授して
いたという。 また、1908年(明治41)、沖縄県立中学校の生徒が京都武徳
会青年大会において、武徳会の希望により唐手の型を披露としたと
の記録があり、このとき「嘉納博士も片唾を呑んで注視していた」
というように、本土武道家の中にはすでにこの頃から唐手の存在に
注目する者もいた。 しかし、本格的な指導は、富名腰義珍(後の船越義珍)や本部朝
基らが本土へ渡った大正以降である。1922年(大正11)5月、
文部省主催の第一回体育展覧会において、富名腰は唐手の型や組手
の写真を二幅の掛け軸にまとめてパネル展示を行った]。この展示が
きっかけで、翌6月、富名腰は嘉納治五郎に招待され、講道館で嘉
納治五郎をはじめ200名を超える柔道有段者を前にして、唐手の
演武と解説を行った。富名腰はそのまま東京に留まり、唐手の指導
に当たることになった。 同じ頃、関西では本部朝基が唐手の実力を世人に示して、世間を
驚嘆させた。同年11月、たまたま遊びに出かけていた京都で、本
部はボクシング対柔道の興行試合に飛び入りで参戦し、相手のロシ
ア人ボクサーを一撃のもとに倒した。当時52歳であった。この出
来事が国民的雑誌『キング』等で取り上げられたことで、本部朝基
の武名は一躍天下に轟くことになり、それまで一部の武道家や好事
家のみに知られていた唐手の名が、一躍全国に知られるようになっ
たと言われている。本部は同年から大阪で唐手の指導を始めた。富
名腰や本部の活動に刺激されて、日本本土では大正末期から昭和に
かけて大学で唐手研究会の創設が相次いだ。また、本部のこの試合
の勝利は、屋部憲通のハワイ唐手実演会(1927)でも紹介され
た。 昭和に入ると、摩文仁賢和、宮城長順、遠山寛賢らも本土へ渡っ
て、唐手の指導に当たるようになった。1933年(昭和8)、唐手
は大日本武徳会から、日本の武道として承認された。これは沖縄と
いう一地方から発祥した唐手が晴れて日本の武道として認められた
画期的な出来事だったが、一方でこの時、唐手は「柔道・柔術」の
一部門とされ、唐手の称号審査も柔道家が行うという条件を含んで
いた。 1929年(昭和4)、船越義珍が師範を務めていた慶應義塾大学
唐手研究会が般若心経の「空」の概念から唐手を空手に改めると発
表したのをきっかけに、本土では空手表記が急速に広まった。さら
に他の武道と同じように「道」の字をつけ、
「唐手術」から「空手道」
に改められた。沖縄でも1936年(昭和11)10月25日、那
覇で「空手大家の座談会」
(琉球新報主催)が開催され、唐手から空
手へ改称することが決議された。このような改称の背景には、当時
の軍国主義的風潮への配慮(唐手が中国を想起させる)もあったと
されている。なお、空手の表記は、花城長茂が、明治38年(19
05)から使用していたことが明らかとなっている。 本土の空手道は、大日本武徳会において柔道の分類下におかれて
いたこともあり、差別化のために取手(トゥイティー)と呼ばれた
柔術的な技法を取り除き、打撃技法に特化した。また、併伝の棒術
やヌンチャクなどの武器術も取り除かれた。松濤館空手に見られる
ように、型の立ち方や挙動を変更し、型の名称も、新たに日本風の
名称に改める流派もあった。さらに、沖縄から組手が十分に伝承さ
れなかったため、本土で新たな組手を創作付加し、こうして現在の
空手道が誕生した。これらの改変については、本土での空手の普及
を後押ししたとの評価がある一方で、空手の伝統的なあり方から逸
脱したとの批判もある。 このような徒手格闘としての空手の競技化に当たり、当初もっと
も研究されていたのは防具付き空手であった。昭和2年(1927)、
東京帝国大学の唐手研究会が独自に防具付き空手を考案し、空手の
試合を行うようになった。これを主導したのは坊秀男(後の和道会
会長・大蔵大臣)らであったが、当時この師範であった船越は激怒
し、昭和4年(1929)東大師範を辞任する事態にまで発展した。
なお、船越が空手の試合化を否定した動機は不明だが、初期の高弟
であった大塚博紀(和道流)や小西康裕(神道自然流)によると、
船越は当初15の型を持参して上京したが、組手はほとんど知らな
かったという。 ほかにも、本土では本部朝基、摩文仁賢和、澤山宗海(勝)山口
剛玄(剛柔流)等が独自に防具付き空手を研究していた。また、沖
縄では屋部憲通が防具を使った組手稽古を沖縄県師範学校ではじめ
た。こうした中で東京都千代田区九段に設立されたのが、後に全日
本空手道連盟錬武会に発展する韓武舘である。いずれにしろ戦前の
空手家が目指したのは、防具着用による直接打撃制空手であった。 戦後(本土)ー武道禁止令と活動再開ー 連合国占領期に連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の指令に
よって、文部省から出された「柔道、剣道等の武道を禁止する通達」
のため、空手道の活動は一時、停滞した。しかし、この通達には「空
手道」の文字が含まれていなかったため、空手道は禁止されていな
いとの文部省解釈を引き出して、空手道は他武道よりも、早期に活
動を再開することができた。 全国組織と競技空手の誕生 世界空手道連盟の試合風景(世界空手道選手権大会)空手道の競
技化(試合化)は戦前から試みられていたが、試合化そのものを否
定する考えもあり、組織的な競技化は実現していなかった。しかし
1954年(昭和29)錬武舘が「第1回全国空手道選手権大会」
を防具付きルールで実施した。錬武舘(旧名・韓武舘)は遠山寛賢
の無流派主義を受け継ぐ道場で、戦後の空手道言論界をリードした
金城裕が防具付空手を主導した。この大会は全日本空手道連盟錬武
会主催の全国防具付空手道選手権大会という名称で、空手道界最古
の全国大会として現在も開催されている。 拓殖大学空手道部などが中心になって創案した「寸止めルール」
が、次第に主流を占めることとなった。当たる寸前に技を止めるこ
のルールは年齢・性別を越えて容易に取り組むことができるとして、
多くの流派で用いられることとなった。 こうして1950年(昭和
25)に結成された全日本学生空手道連盟の主催により1957年
(昭和32)に寸止め空手ルールによる「第1回全日本学生空手道
選手権大会」が開催。同年には、日本空手協会主催により「全国空
手道選手権大会」が開催された。また1962年(昭和37)には、
山田辰雄が後楽園ホールで、
「第一回空手競技会」としてグローブ空
手の大会を開催した。 1964年(昭和39)には、全日本空手道連盟(全空連)が結
成された。全空連は四大流派をそれぞれ統括する日本空手協会(松
濤館流)、剛柔会(剛柔流)、糸東会(糸東流)、和道会(和道流)、
それ以外の諸派を統括する連合会、全日本空手道連盟(旧)であり防
具付き空手諸派を統括する錬武会の6つの協力団体を中心に、
「日本
の空手道に統一的な秩序をもたらす」ことを目的として結成された。
そして1969年(昭和44)9月、全空連主催による伝統派(寸
止め)ルールの「第1回全日本空手道選手権大会」が日本武道館で
開催された。 しかし同年同月、伝統派空手に疑問を抱き、独自の理論で直接打
撃制の空手試合を模索していた極真空手創始者の大山倍達によって、
防具を一切着用しない、素手、素足の直接打撃制(足技以外の顔面
攻撃禁止制)による第1回オープントーナメント全日本空手道選手
権大会が代々木の東京体育館で開催され空手界に一大旋風を巻き起
こした。一方の全日本空手道連盟は翌年、第1回世界空手道選手権
大会を開催した。 流派の乱立と空手の多様化 このように、空手道の全国化・組織化は着実に進んでいった。し
かし、その一方で、もともと流派、会派などが存在しなかったと言
われていた空手道界であったが、大日本武徳会を機に流派、会派な
ど増え始めていった。1948年(昭和23)、東京では船越義珍の
門弟たちによって松濤館流最大会派である日本空手協会が結成され、
1957年(昭和32)4月10日、日本空手協会を社団法人とし
て文部省が認可した。しかし1958年(昭和33)には早くも空
手道の試合化を否定する廣西元信たちが戦前からの松濤会を復活さ
せ、独立していった。分裂、独立については、ほかの流派も事情は
似たり寄ったりであった。遠山寛賢やその高弟らによって設立され
た錬武会のように、無流派主義を標榜する空手家や連盟もいたが、
多数にはなり得なかった。 また、全空連の試合規則、いわゆる「寸止め(極め)」ルールに対
する不満などから、大山倍達の極真会館に代表されるような、フル
コンタクト空手という、直接打撃制スタイル(中には顔面攻撃を認
める流派もある)を採用する会派もあらわれ、一大勢力を形成する
ようになった。しかし、大山倍達が存命中は一枚岩と言われていた
極真会館もまた、大山の死後、極真を名乗る複数の団体に分裂した
り、独自会派を立ち上げる者が多数出現することになる。そして、
極真出身の大道塾空道に代表されるような、打撃技に特化された現
在の空手へのアンチ・テーゼとして、空手道に関節技や投げ技を取
り入れて、かつての空手がそうであった、総合武道の姿へと復元を
目指す会派などもあらわれた。 戦後(沖縄)——統一組織の誕生—— 戦後の沖縄では、戦争の爪痕も深く、県下の各流派・道場は個別
に活動しており統一組織は存在していなかったが、まず1958年
(昭和31)、上地流、剛柔流、小林流、松林流の4流派によって沖
縄空手道連盟(会長・知花朝信、沖空連)が結成された。その5年
後の1961年(昭和36)、比嘉清徳(当時本部流、現・神道流)、
島袋龍夫(一心流)、上原清吉(本部流、現・本部御殿手)、祖堅方
範(現・少林流松村正統)、兼島信助(渡山流)、中村茂(沖縄拳法)、
島袋善良(少林流聖武館)等、古武道系諸団体を中心に沖縄古武道
協会(会長・比嘉清徳、古武道協)が結成された。 1963年(昭和38)、沖空連から知花朝信一派が脱退、その4
年後の1967年(昭和42)に沖空連は解消され、全沖縄空手道
連盟(会長・長嶺将真、全沖空連)が新たに結成された。古武道協
も、1967年(昭和42)、新たに全沖縄空手古武道連合会(会長・
比嘉清徳)へと再結成がなされた。 国体参加問題1981年(昭和56)、沖縄空手界では、国体への
参加問題と、これに伴う全日本空手道連盟(全空連)への加盟問題
がこじれて大問題に発展した。全空連は、沖縄県体育協会(会長・
大里喜誠)傘下の全沖空連に対して、沖縄側の加盟にあたって審査
資格を八木明徳(剛柔流)、比嘉佑直(少林流)、上地完英(上地流)
の長老三氏にのみ認め、ほかは本土側の審査を受けると通告したた
め、沖縄側が本土の支配下に置かれるとして反発した。しかし、海
邦国体を間近に控え、業を煮やした沖縄県体育協会はついに、全沖
空連を「不適当団体」として脱会処分にし、代わりに剛柔流(宮里
栄一)、小林流(宮平勝哉、比嘉佑直)、松林流(長嶺将真)、本部御
殿手(上原清吉)等によって結成された沖縄県空手道連盟(県空連、
会長・長嶺将真)の入会を認めた。全空連加盟を容認する県空連に
対して、全沖空連側は「沖縄伝統の空手が日本空手道連盟の支配下
に置かれることは納得できない」と強い不満を表明したが、県空連
側も「全空連の内部にとび込んで、沖縄空手の向上を図るべき」
(長
嶺将真)として両者の主張は平行線をたどった。 揺れる沖縄空手 1982年(昭和57)、くにびき国体(島根県)の予選も兼ねた
県空連主催の第一回空手道選手権大会が開催された。そして、19
87年(昭和62)、沖縄県で海邦国体が開催され、沖縄勢は型で全
種目優勝を果たすなど空手道競技9種目中5種目を制覇して、本場
の面目を保った。 しかし、当初全空連に加盟して内部から改革すると意気込んでい
た県空連の改革姿勢も、本土側によって無視され不発に終わった。
特に国体における指定型は、当初全空連(江里口栄一専務理事)は
首里系四つ、那覇系四つの「名称のみの指定である」と沖縄側へ説
明していたが、実際は本土四大流派の型であり、同一名称でも沖縄
の型で試合に出ることはできなかった。この事実を知らされショッ
クを受けた県空連は全空連に要望書を提出したが、沖縄に型の権威
を奪われることを警戒する本土側によって黙殺された。 組手(略) 寸止め(略) 防具付き空手(略) 空手の流派と歴史 講道館に統一されている柔道とは異なり、空手道には多数の流派
が存在し、流派によって教える型や訓練法、試合規則も大きく異な
る。大別すると、空手道の流派は伝統派空手とフルコンタクト空手
の二つに分類することができる。 糸洲安恒によれば、空手道はもと昭林流と昭霊流の二派が中国か
ら伝来したものが起源とされる。前者は首里手となり、後者は那覇
手となったとするのが一般的な解釈であるが、上記二派は中国でも
その存在が確認されておらず、どの程度歴史的事実であったのかは、
疑問の残るところである。そもそも「……流」という表記は日本的
であり、中国では「……拳」と称するのが一般的であるとの指摘も
ある。 今日の空手流派は本土に伝来して以降のものである。最古の空手
流派は、本部朝基が大正時代に命名した日本傳流兵法本部拳法(本
部流)が、文献上確認できるものとしては最も古い。船越義珍の松
濤館流も実質的には同程度古いが、この流派名は戦後の通称であり、
船越自身は生涯流派名を名乗らなかった。昭和に入ってからは、宮
城長順が昭和6年(1931)に剛柔流を名乗っている。その後は、
知花朝信(小林流・1933年)、摩文仁賢和(糸東流・1934年)、
小西良助(神道自然流・1937年)、大塚博紀(神州和道流空手術・
1938年)、保勇(少林寺流空手道錬心舘・1955年)、菊地和
雄(清心流空手道・1957年)と、流派の命名が続いた。 伝統派空手 広義には、文字通り伝統的な空手の流派、すなわち、古流空手、
全空連加盟等の本土空手、沖縄空手を含む。防具付き空手をこちら
に分類することもある。伝統空手とも言う。狭義には、
「寸止め」ル
ールを採用する全空連の空手およびその参加流派を指す場合が多い。
下記の分類はあくまで概略的なものであり、それぞれにまたがる流
派も多い。 古伝空手(古流空手) 伝統派空手のうち、競技化、スポーツ化を志向せず、古伝(古流)
の空手スタイルを重視する。特徴としては、伝統的な型稽古や組手
稽古、沖縄古来の鍛錬法の重視、武器術の併伝などを挙げることが
できる。沖縄空手とほぼ同義で使われることもあるが、沖縄空手の
中でも、特に糸洲安恒による空手近代化以前のスタイルを指して使
われることもある。 古伝空手(唐手)もしくは古流空手(唐手)という用語自体は、
比較的最近のものである。1990年代以降、伝統派空手の内部か
ら空手の近代化に批判的な論客(柳川昌弘、新垣清、宇城憲治など)
が現れ、彼らの著作がベストセラーになるようになった。特に20
00年以降、甲野善紀らによる古武術ブームの影響もあり、古伝(古
流)空手への回帰論は空手言論界に大きな影響を及ぼした。こうし
た研究者のすべてが古伝(古流)を標榜しているわけではないが、
近代空手と一線を画する論調が相互作用して一つの潮流を形成して
いる。 古伝(古流)空手では、型の再評価や型分解の見直し、また競技
化される以前の組手にあった技法―急所攻撃、取手(関節技、投げ
技)等―の探究、さらには「気」、丹田といった東洋的な概念の再評
価が行われている。 古伝(古流)空手の流派には、湖城流、本部流、心道流などがあ
る。他に沖縄本島の松林流喜舎場塾、日本本土の空手道今野塾、清
心館大久保道場(全日本清心会)などの古流稽古スタイルの会派・
道場がある。 狭義の伝統派空手(全空連空手、寸止め空手) 一般には本土空手を指す場合が多い。全空連に加盟し、空手道の
競技化、スポーツ化に力点をおいている。全空連が寸止めルールを
採用していることから、寸止め空手と呼ばれることも多い。競技空
手、スポーツ空手とも呼ばれる。本土空手は、剛柔流、松濤館流、
和道流、糸東流が規模の上から一般に四大流派と呼ばれ、よく知ら
れている。 本土空手は、大学空手を中心に発展してきた。それゆえ、より若
者向けに型や組手も沖縄より全体的に力強く、ダイナミックで、見
栄えがするように変化してきている。しかし、近年では生涯武道と
いう観点から、また古伝空手ブーム等の影響もあって、近代化への
反省も見られる。他に本土という土地柄、柔術など日本武術との融
合や影響が見られるのも特徴である。 近年では、勝負の判定を従来よりスポーツライクなものとしたポ
イント制や、拳サポーターの色分け(青と赤。従来は両者が白で、
赤と白の区別は赤帯を用いていた)、細かなものでは審判の人数や立
ち位置など、ルールにかなりの見直しが施されている。これらはオ
リンピック種目化を目指しての革新と見られるが、スポーツ化した
とき見た目にはさほど違いのないテコンドーが既にオリンピック種
目となっているため、実現は容易ではないと考えられる。 沖縄空手 沖縄に本拠をおく空手流派である。スポーツ化の傾向にある本土
空手と距離をおく意味で、
「沖縄空手」が本来の伝統武道空手として
用いられる場合も多い。本土の流派が主導する全空連が指定形から
沖縄の形を排除したことに反発して、沖縄は本土と距離を置くよう
になった。しかし、沖縄県空手道連盟のように全空連に加盟してい
る組織もある。 沖縄空手の特徴としては、伝統的な型稽古や鍛錬法を重視してい
る。組手は、本土よりも遅れていたが近年は全空連式の寸止め方式
が逆輸入されて盛んになっている。以前は防具組手も行われていた。
ほかに武器術や取手術の併伝などを挙げることができる。しかし、
沖縄空手も糸洲安恒以降近代化しており、また本土からの影響もあ
って、琉球王国時代そのままというわけではない。明治以降、東恩
納寛量や宮城長順による那覇手の改革、新たに中国からもたらされ
た上地流等の普及により、琉球王国時代の特徴をそのまま継承する
流派はむしろ少数になっている。湖城流のように戦後県外に流出し
た古流流派も存在する。しかし、少数の道場では、今日でも古くか
ら伝えられた技や稽古法の保存に努めている。近年では沖縄県自体
も空手の発祥地を意識して、
「沖縄空手」の国際的な宣伝に力を入れ
ている。 沖縄空手の流派には、三大流派として剛柔流、上地流、小林流が
あり、他に沖縄拳法、少林流、少林寺流、松林流、本部御殿手、沖
縄剛柔流、沖縄松源流、劉衛流、金硬流などがある。本土の空手会
派とは組織形態が異なり、多くの沖縄空手会派、流派は単独組織を
維持し、本土より世界各国に、より数多くの支部道場を持ち、世界
的な大きな広がりがある。 フルコンタクト空手 いわゆる寸止めではなく、直接打撃制ルールを採用する会派のこ
とで、実戦空手ともいう。開祖となった極真空手がもっとも有名で
あるが、広義には以下のものも含まれる。そもそも直接打撃制ルー
ル自体は寸止めルールよりもはるかに歴史は古い。 狭義のフルコンタクト空手(極真空手) 狭義では、極真会館とその分派の多くに代表される「手技による
顔面攻撃以外」の直接打撃制ルールを採用する会派のことをさす。
しかし、近年では国際FSA拳真館や極真館など一部の試合で手技
による顔面への直接打撃を認める会派も増えている。また、近年は
幼年部・少年部・壮年部の人口が増加しているため、上級者以外で
はヘッドギアやサポーターをつけることが多くなっている。極真会
館の分派以外には伝統派空手の分派や、少林寺拳法の分派である白
蓮会館、国際FSA拳真館などがある。 アメリカのフルコンタクト空手 フルコンタクト空手のもともとの意味は、アメリカで始められた
キックボクシング的なプロ空手のことである。道着を着用せず、上
半身裸で行う。2分の1ラウンドで、プロの世界王座決定戦では1
2ラウンドを争う。ボクシングとの差異を計るため、1ラウンドに
つき腰より上への蹴りを8本以上蹴らなくてはならないルールが特
徴的。参加選手の出身流派は、沖縄や日本の空手諸流派だけでなく、
韓国のテコンドーやタンスドーやアメリカなど欧米諸国で誕生した
独自の流派の出身者も多い。現在はキックボクシングの一種として
“フルコンタクト・キックボクシング”という呼び名で知れ渡って
おり、競技として成熟しつつあるせいか、かつてのように必ずしも
伝統的な空手のバックグラウンドは必要で無くなった。 日本国外への影響―アメリカ合衆国― 最初にアメリカに空手を紹介したのは、戦前アメリカに移住した
沖縄系移民達だったと考えられているが、公的な記録に乏しく、文
献から追跡するのは難しい。著名な空手家では、屋部憲通がアメリ
カ本土に8年間滞在した後、1927年(昭和2)4月、帰国途中
に沖縄系移民の多いハワイへ立ち寄り空手道の講習会を開いた記録
が残っており、屋部以降も、本部朝基、陸奥瑞穂(船越門下)、東恩
納亀助(本部門下)、宮城長順といった空手家たちがハワイを訪れ、
空手道を教授している。 アメリカ本土で本格的に空手が普及し始めたのは戦後からで、沖
縄や日本本土で空手を習得した米国軍人たちによって伝えられた。
代表的な人物には、しばしば「アメリカ空手道の父」とも言われる
ロバート・トリアス(1923~ 1989)がいる。トリアスは第
二次世界大戦中、ソロモン諸島で本部朝基の弟子の中国人より空手
道を習ったとされ(61)、1946年、アリゾナ州フェニックスに
空手道場を開設した。 日本国外への影響―ヨーロッパー ヨーロッパにおいては、1960年代以降、日本から空手道指導
員が派遣されるという形で広まった。ドイツやイギリスで指導に当
たった金澤弘和(松涛館流)やポルトガルで指導に当たった東恩納
盛男(剛柔流)などの活躍が知られている。 日本国外への影響―韓国― 韓国の空手は、韓国併合中に韓国から日本へ渡った人々が韓国へ
持ち帰り、1940年代中盤に「コンスドー(空手道)」または「タ
ンスドー(唐手道)」の呼称で広まった。1950年代に入り、松濤
館空手を源流に持つグループを中心として名称統合が行われ「テコ
ンドー」に発展した。今や世界空手道選手権大会が開催され空手道
は全世界に広まっている 空手道雑感 私の空手道との出会いは高校3年生のときでした。当時、柔道二
段でしたが自分より身体の大きい者にはどうしても勝てない事もあ
り、悩んでいました、そんなとき空手道と出会いすぐに空手道場に
入門しました。それから五十年が過ぎ去っていきました、その空手
道の試合、審判、人との出会いは、かづしれずありました、そして
空手道からいろいろ学ぶこともできました。そして現在、大学生に
その空手道の精神と技術を指導出来ることに深く感謝いたしており
ます、今も毎日健康のため空手道の形や巻きわらを突き励んでおり
ます。 空手道は何歳になっても、場所もとらず用具もいらず、自己鍛錬
の方法としても、最適な武道だと確信します。私は身体の続く限り
生涯現役としてがんばるつもりでおります。皆様にも是非お勧めい
たします。 ・・・命限りの道である・・・道場訓より 参考文献 富名腰義珍 『琉球拳法 唐手』 武侠社、1922年。(復刻版・普及版)榕
樹書林、 2006年 富名腰義珍 『錬胆護身 唐手術』 広文堂、1925年。(復刻版)榕樹社、
1997年 富名腰義珍 『空手道教範』 大倉広文堂、1935年 船越義珍 『空手道一路』 産業経済新聞社、1956年。
『愛蔵版・空手道一
路』(復刻版) 榕樹書林、2004年 本部朝基 『日本傳流兵法本部拳法』壮神社(復刻版)1994年 岩井虎伯 『本部朝基と琉球カラテ』(復刻版収録)愛隆堂、2000年 小沼保 『本部朝基正伝 琉球拳法空手術達人(増補)』壮神社、2000年 摩文仁賢和・仲宗根源和 『空手道入門―攻防拳法』
(復刻版・普及版)榕樹社、
2006年 仲宗根源和編 『空手道大観』 東京図書、1938年。
(復刻版)緑林堂書店、
1991年