第6章 総括と課題

第6章 総括と課題
辻田 淳一郎
1.嘉穂地域における古墳時代の開始
本報告書では,山の神古墳と金比羅山古墳を分析対象として,嘉穂地域,そして北部九州地域の古
墳時代社会の様相について検討を行ってきた。最後に本章ではその成果と今後の課題について整理し
ておきたい。
嘉穂地域の古墳時代については,金比羅山古墳の調査を通じて,前期から中期にかけての様相がよ
り具体的に明らかとなった。弥生時代以来北部九州の内陸における東西交通の要衝であった嘉穂地域
に,前期前~中葉前後に遠賀川流域の前中期では最大級の81m の前方後円墳である金比羅山古墳が築
造され,忠隈古墳や辻古墳,そして前期後葉~末には沖出古墳が築かれるなど,近畿とのつながりを
早くから持ちながら古墳時代が始まった様相が確認された(第 3 章)
。金比羅山古墳については,埋
葬施設周辺の調査が行われておらず,また土器などの出土も少量であったため,築造時期や他地域と
の関係などを含め未解明の点も多く残されている。また金比羅山古墳が築造された穂波川流域南部の
桂川町寿命の丘陵では,中期にかけて他にも少なくとも宮ノ上・大平といった40~50m 級の前方後円
墳が 2 基築かれ,またおそらく中期に大型円墳とみられる茶臼山古墳が築かれており,これらが金比
羅山古墳とどのような関係にあり,また時期的にどのように位置づけられるのかが本地域の前期後半
~中期の様相および以下に述べる山の神古墳の出現を考える上で極めて重要な位置を占めている。こ
れらの調査と実態解明が今後の大きな課題である。また前期については集落の様相についても不明な
点が多く,日常土器などからみた他地域との交流や具体的な土地利用,生産活動の実態などについて
も今後の課題である。
2.山の神古墳の初葬と追葬の被葬者の時代:
「雄略朝」~「継体朝」期の東アジアと地域社会
古墳時代中期以降において,嘉穂地域の最も大きな画期の 1 つが,中期後葉~末における山の神古
墳の築造であった。穂波川流域北部の西岸地域では,中期以前は赤坂 1 号墳などが知られるが,具体
的な地域社会の様相は明らかになっていない。ここに中期後葉段階で東西に延びる丘陵周辺の開発が
行われ,全長約80m の前方後円墳である山の神古墳が築造される。周辺には小正西古墳や櫨山の初期
横穴墓など,対半島交渉に参画したと目される地域集団の墓が築造されており,山の神古墳の被葬者
はそれらを統括する代表者・指導者的立場にあったものとみられる。また穂波川流域北部周辺は渡来
系集団である「穂波吉士」の本拠地であることが知られ(第 5 章第 1 節・第 7 節参照)
,胡籙金具や
鋳造鉄斧をはじめとした副葬品の内容が具体的に示すように,山の神古墳の被葬者については渡来系
集団と対外交渉に関わる地域集団を束ねる役割を担った地域の代表者といった像が導かれる。
本報告書の成果として,従来山の神古墳については新旧 2 セットの馬具が含まれていることなどが
断片的に知られていたが,墳丘や横穴式石室などの発見当時の状況や, 2 セットの馬具なども含めた
副葬品組成の全体像が明らかになったという点が挙げられる。その結果,なお出土状況も含めて不明
な点は多いが,TK23~47型式前後の北部九州型初期横穴式石室を構築し,TK47型式前後の時期を主体
とする副葬品をもつ初葬の被葬者と,TK10型式前後の新相の馬具を副葬する追葬の被葬者の少なくと
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も 2 人の被葬者が埋葬されていることが具体的に明らかとなった(第 2 章)
。
初葬の被葬者は,この時期に北部九州各地で共有されていた北部九州型初期横穴式石室を構築し,
鋳造鉄斧や胡籙金具を多数副葬している点などからも,大加耶地域や洛東江以東地域をはじめとする
半島南部諸地域との交渉に関わり(第 5 章第 9 節・第 2 章第 2 節第 5 項)
,かつ中央政権ともつよい
パイプを持った在地の有力者であるとみられる。また第 2 章および第 5 章で各執筆者により詳細な検
討が行われた結果,初葬に伴う副葬品の内容からは,種々の稀少な玉類を保有し,かつ鉄製刀剣・
鉾・鏃などの多量の鉄製武器類とともに,衝角付冑や小札甲に加え,襟甲や籠手をはじめとする種々
の付属具を備えた武具を身に纏った武人的性格のつよい被葬者の姿が見出される。そしてその被葬者
に,瓢形杏葉の胸繋を含めた壮麗な金銅装馬具を纏った馬が伴うといったあり方が想定される。筆者
は同型鏡である画文帯環状乳神獣鏡もこの初葬の被葬者に副葬されたものと考えているが,こうした
初葬被葬者の副葬品組成は,銘文鉄剣や同型鏡を副葬した埼玉県稲荷山古墳礫槨をはじめ,列島各地
の同時期の資料との共通性が高く,
「雄略朝」期後半の時代に活躍した北部九州の有力者の 1 人とみ
なされよう。80m 規模の前方後円墳や 4 m を超す横穴式石室の規模はこの時期の北部九州では最大級
であり,北部九州型初期横穴式石室を共有する周防灘沿岸地域や筑後川流域の浮羽地域,佐賀平野周
辺などの上位層とも密接に連携していたと考えられる(第 5 章第 2 節)
。半島系遺物の豊富さとそれ
らの系譜からは,独自に半島諸地域と活発な交流を行いつつ中央政権の対半島交渉にも参画していた
被葬者像が想定される。その際,南海産貝製品の流通や阿蘇溶結凝灰岩製石棺の動きなどからも,遠
賀川上流域の嘉穂地域が半島南部および南九州,有明海沿岸地域とつながり,また瀬戸内海沿岸から
近畿・紀伊半島といった地域につながる内陸交通の要衝として近畿中央政権からも重視されたといっ
た点(cf. 橋本2010;嶋田2014)は,この時期における山の神古墳の出現と 6 世紀以降の本地域の歴
史的位置を考える上であらためて重要であることが確認される。
6 世紀初頭~前葉頃は山の神古墳の初葬被葬者の次世代の時代である。 6 世紀代になると嘉穂地域
では,嘉麻川流域南部で50m 級の前方後円墳が相次いで築造され,一方で穂波川流域南部の寿命丘陵
付近では,装飾古墳の王塚古墳が築造される。全長86m の規模は遠賀川流域で最大である。この王塚
古墳の初葬被葬者と同時代に活動したのが山の神古墳の追葬の被葬者と想定される。山の神古墳の副
葬品組成においては,多くが初葬被葬者に属しており,追葬の被葬者には馬具の B セットと三輪玉を
伴う捩り環頭大刀を含めた鉄製刀剣類の一部を主体とする副葬品が伴ったものと想定される。この追
葬の被葬者や王塚古墳の被葬者は,筑紫君磐井や「磐井の乱」と同時代に生きた人物であり,後述す
るように磐井や磐井の乱とも何らかの形で関わっていた可能性もある。
山の神古墳の追葬の被葬者は,豊富な馬具などの副葬品を持ちながら,独自の古墳を築造すること
なく,山の神古墳の横穴式石室に追葬された人物であり,いわば「独立した古墳を築造しなかった
(もしくはできなかった)
」被葬者であるということになる。この追葬の被葬者は,人制からミヤケの
設置,部民制への転換期にあって,中央に上番して仕えた後,馬具 B セットなどを贈与され,在地で
は家長として独立した古墳を築造せずに山の神古墳に追葬された人物である可能性が高い。山の神古
墳の周辺では,頭割古墳や山王山古墳などの後期~終末期古墳の築造が知られており(第 5 章第 1 節,
飯塚市教育委員会2014)
,山の神古墳との年代的関係や変遷,追葬の被葬者との関係などが今後の課
題である。
山の神古墳の追葬の被葬者について,今述べたような,
「馬具 B セットのような卓越した副葬品を
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持ちながら家長として独立せず,新たな古墳築造を行わなかった被葬者像」を想定した場合,この山
の神古墳の追葬の被葬者と同時代に生きた人物の墓で,かつ追葬の被葬者よりもさらに卓越した内容
をもつ嘉穂地域の古墳となると,上述のように現状では王塚古墳より他に見当たらない。王塚古墳の
被葬者が山の神古墳の初葬被葬者の直系の次世代で,かつ家長として独立した人物とまで限定するこ
とは現状の資料では困難であるものの,可能性の 1 つとして想定しておく必要がある。もしくは,山
の神古墳を築造した地域集団と王塚古墳を築造した地域集団を「別個」の地域集団と捉えた場合,王
塚古墳の被葬者が卓越していたが故に地域の中で別の古墳築造が認められなかったといった見方も別
の可能性として想定され得る。ただし寿命の丘陵周辺では茶臼山古墳から王塚古墳に至る系譜や連続
性について不明な点が多く,穂波川流域北部まで含めて同一の地域集団であったのかどうかという点
は集落遺跡などのあり方などからも考えていく必要があり,今後の大きな課題である。いずれにして
も,王塚古墳の被葬者と山の神古墳の追葬の被葬者はともに, 6 世紀前葉の継体政権下で活動し,政
権とのつよいつながりを持った人物であったとみなすことができよう。王塚古墳の馬具と山の神古墳
B セットの馬具の種類の違いは,このような意味での両者の社会的・政治的地位の違いに起因してい
る可能性がある。王塚古墳にみられる三葉文楕円形杏葉や捩り環頭大刀,そして大型倭製鏡(交互式
神獣鏡系)は,継体政権とのつよい政治的結び付きを示す点であらためて重要である。また山の神古
墳の追葬の被葬者についても捩り環頭大刀が伴うとすれば,同様に継体政権とのつながりを示すこと
になる。この点では山の神古墳の追葬の被葬者と王塚古墳の被葬者の関係は必ずしも排他的ではない。
また王塚古墳の被葬者は,阿蘇溶結凝灰岩製の石屋形の存在や壁画装飾などからも,八女地域をはじ
めとした有明海沿岸地域などとの関係が想定される点で同様に重要な意義を持つ。そして王塚古墳の
石室形態は栄山江流域でも新徳古墳などとの共通性が指摘されており(柳沢2002・2004・2014)
,5
世紀後半の山の神古墳の初葬被葬者段階以降も,本地域の集団が継続して対半島交渉の重要な役割を
担っていたことが想定される。この点において,王塚古墳の被葬者は, 6 世紀前葉の継体政権の時代
に,半島諸地域・筑紫君勢力・中央政権のいずれともつよいつながりを持ちつつ,加耶地域をめぐる
百済・新羅の競合関係や筑紫君磐井の乱にも深く関与していた可能性が想定される。山の神古墳の追
葬の被葬者は,王塚古墳の被葬者と連携しながら,これらの諸勢力との関係を維持していたものと想
定される。その結果として,磐井の乱の収束後にこの地域に穂波屯倉が設置されることになったもの
とみることができるのではないか。その場合も,嘉穂地域全体に対して 1 つのミヤケを設置するので
はなく,穂波屯倉と鎌屯倉の 2 つを設置して区分した点には,中央政権の戦略も介在しているものと
推察される。 6 世紀中葉以降,穂波川流域では王塚古墳に次いで天神山古墳が築かれた後,周辺で多
数の横穴墓群が営まれる(第 5 章第 1 節・第 3 節)
。おそらく渡来系の穂波吉士を擁しつつ種々の生
産活動が行われたものと想定され, 6 世紀末~ 7 世紀初頭には山の神古墳の近くの穂波川流域北部に
敲打技法装飾を持つ山王山古墳が築かれる。他方で,嘉麻川流域では井手ヶ浦窯跡で拠点的須恵器生
産が開始され,平底土器の存在などから栄山江流域などとの関係も想定される。それを管轄した被葬
者の墓と目される寺山古墳の規模は68m であり,穂波川流域の天神山古墳とほぼ同時期・同規模であ
る。そして本地域でも多数の横穴墓群が営まれるとともに群集墳の川島古墳群の11号墳では壁画装飾
が施されている(第 1 章・第 5 章第 1 節)
。いわば穂波川流域・嘉麻川流域の両地域それぞれに別系
譜の装飾古墳が営まれているのであり,あたかも穂波屯倉と鎌屯倉の設置に呼応しているかのようで
ある。こうした状況においても横穴墓の諸要素においては嘉穂地域としての共通性がみられることが
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指摘されており(第 5 章第 3 節),地域社会としての嘉穂地域の共通基盤の中で,政治的な区分がな
されたものと考えることができよう。これ以降,本地域は後に穂波郡と嘉麻郡に再編され,豊前国と
大宰府を繋ぐ官道が設置されるが,こうした状況はここでみてきたような 5 ・ 6 世紀代以来の状況を
基盤としていることが窺われる。穂波川流域南部地域に新羅系の瓦を持つ大分廃寺が建立されたのは,
以上にみてきたような 5 世紀代以来の本地域の歴史的背景があったが故のことであると理解すること
ができよう。こうした問題を考える上でも, 5 ~ 7 世紀代の嘉穂地域における集落遺跡や生産遺跡の
実態,また牧をはじめとした渡来人の活動(嘉麻市教育委員会編2014)などの具体的様相の解明が今
後の課題といえよう。
3.結語:5・6世紀の列島社会と東アジア-「雄略朝」期以降の地域社会と古代国家形成-
最後に山の神古墳の初葬・追葬の被葬者の時代背景をめぐる諸問題とそれに関連する課題について
述べ,結びとしたい。山の神古墳の初葬の被葬者が主に活動した時代は「雄略朝」期の後半期であり,
高句麗の南下により百済の漢城が陥落して熊津へと遷都し,479年の東城王即位に際して九州から500
人の軍士が動員された時代でもある。初葬被葬者の副葬品における半島系要素からすれば,こうした
雄略政権の半島での活動や対半島交渉に関わっていた可能性も想定されよう。TK23~47型式段階に併
行する時期においては,宗像地域,筑後川流域,有明海沿岸地域,また南九州のえびの盆地や宮崎平
野部での地下式横穴墓群をはじめとして,九州各地で活発な古墳造営や広域的な地域間交流が行われ
た時期である。前述の南島産貝製品の半島での出土などもこうした広域交流の一環であり,嘉穂地域
の社会もこうした広域的関係の中の一部として位置づけられる。また紀伊半島の和歌山県大谷古墳や
関東の埼玉県稲荷山古墳,群馬県井出二子山古墳など,馬具をはじめとした副葬品組成で共通したあ
り方が認められ,
「雄略朝」期における相互の関係が課題となる。また上述のように半島南部でも大
加耶地域や洛東江以東地域などとの関係が注目され,半島内での諸地域と列島諸地域との多元的な交
流がこの時期の特徴として確認されたところであり,より具体的な様相の追求が課題といえる。
また追葬の被葬者は,先述のように王塚古墳の被葬者と同時代に生き,磐井の乱から穂波屯倉設置
に至る歴史的経緯に立ち会った人物である可能性がある。また王塚古墳の石室や井手ヶ浦窯跡での須
恵器生産などから,嘉穂地域の集団は栄山江流域の地域集団や前方後円墳の築造などとも深く関わっ
ていた可能性がある。峠を越えた糟屋・福岡平野では糟屋屯倉・那津官家が設置された時代であり,
北部九州各地にミヤケが設置された時代でもある(cf. 桃崎2010;岩永2014;柳沢2014;辻田2012・
2013)
。この磐井の乱後のミヤケ設置の時期を画期として列島では古代国家形成が大きく進展したこ
とが想定されてきており(cf. 熊谷2001;岩永2003;吉田2005;吉村2006)
,追葬の被葬者が生きた
のはまさにその転換期であったことになる。この点で,嘉穂地域は,上にも述べたように, 6 世紀中
葉以降の前方後円墳築造と須恵器生産,横穴墓群の造営,前方後円墳の築造停止,終末期における装
飾古墳,穂波・鎌屯倉の設置,古代寺院と官道など,律令国家形成期における地域社会の変遷を具体
的に考えることができるという点でも極めて重要な地域であるということができる。北部九州各地の
初期のミヤケ設置のあり方との比較のみならず,列島各地の 6 ~ 7 世紀の様相と比較することが将来
的な課題といえよう。
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本共同研究の遂行にあたっては,本報告書に原稿を執筆していただいた皆様をはじめ,非常に多く
の方々にお世話になりました。最後となりましたが,本報告書および本共同研究に関わってくださっ
た全ての皆様にあらためて厚く御礼申し上げます。
【参考文献】
飯塚市教育委員会 2014 『山王山古墳』,飯塚市文化財調査報告書第45集.
岩永省三 2003 「古墳時代親族構造論と古代国家形成過程」『九州大学総合研究博物館研究報告』 1 .
岩永省三 2014 「ミヤケの考古学的研究のための予備的検討」高倉洋彰編『東アジア古文化論考 2 』,中国書店.
嘉麻市教育委員会編 2014 『 6 世紀の九州島 ミヤケと渡来人 記録集』,嘉麻市教育委員会.
熊谷公男 2001 『日本の歴史03 大王から天皇へ』,講談社.
嶋田光一 2014 「福岡県目尾の阿蘇石製家形石棺に関する一試考」『先史学・考古学論究』Ⅵ,竜田考古会.
田中良之 1995『古墳時代親族構造の研究―人骨が語る古代社会―』,柏書房.
田中良之 1995『骨が語る古代の家族―親族と社会―』,吉川弘文館.
辻田淳一郎 2012 「雄略朝から磐井の乱に至る諸変動」『一般社団法人日本考古学協会2012年度福岡大会研究発表資
料集』.
辻田淳一郎 2013 「古墳時代の集落と那津官家」『新修福岡市史特別編 自然と遺跡からみた福岡の歴史』,福岡市.
橋本達也 2010 「古墳時代奥龍の豊後水道・日向灘ルート」『弥生・古墳時代における太平洋ルートの文物交流と地
域間関係の研究』,高知大学人文社会科学系(人文学部).
柳沢一男 2002 「全南地方の栄山江型横穴式石室の系譜と前方後円墳」『前方後円墳と古代日朝関係』,同成社.
柳沢一男 2004 『描かれた黄泉の世界 王塚古墳』シリーズ「遺跡を学ぶ」010,新泉社.
柳沢一男 2014 『筑紫君磐井と「磐井の乱」岩戸山古墳』シリーズ「遺跡を学ぶ」094,新泉社.
吉田晶 2005 『古代日本の国家形成』,新日本出版社.
吉村武彦 2006 「ヤマト王権と律令制国家の形成」『列島の古代史 8 古代史の流れ』,岩波書店.
桃崎祐輔 2010 「九州の屯倉研究入門」『還暦,還暦?,還暦!』武末純一先生還暦記念事業会.
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