がん哲学の花 ― 一般社団法人「がん哲学外来」関西支部ニュースレター 第 16 号 ― 発行日:2015 年 6 月 15 日 ■□■去る 2015 年 5 月 30 日・31 日に大阪で第 5 回がん哲学外来コーディネーター養成講座 が開催されました。ご参加くださった 120 名のなかから、東京都の東村山がん哲学外来メディカ ルカフェを主催されている大弥さまにご寄稿いただきました。■□■ 第 5 回がん哲学外来コーディネーター養成講座を受講して 東村山がん哲学外来メディカル・カフェ 大弥佳寿子 この度の第 5 回がん哲学外来コーディネーター養成講座は、昨年の福井に続き 2 度目の受講でした。乳がんの治療を続けながら 講座へ参加できることは、私にとって大いなる歓びであり、正に「病気であっても、病人でない」深い学びと沢山の出会いをいた だいた 2 日間でした。 実行委員長の東先生をはじめ関係者の方々・社団法人の皆様に心より感謝申し上げます。 プログラムの中の佐藤先生や沼野先生のお話には、ユーモアが溢れ笑いも起こる中、心の琴線に触れるエピソードに何度も熱い ものがこみ上げました。人は安心して心の内を語れた時、その想いを、話して→離して→放すという構造で動かせること、それは 問題解決にならなくても、自身が視点を変えずらしていけることで境遇を問わなくなるのでは?と新鮮な気づきでした。そして、 温かな存在感に触れ一人じゃないと思えたなら、生きられる!それは病気に限らず様々な問題において相通じるものだと感じまし た。 また、パネルディスカッションの「地域の力とがん哲学外来」においては、4つの地域の活動の様子や事情を共有させていただ き、助けを必要としている人に、その地域のオリジナリティで間口の広い柔軟な対応ができれば、それこそが、がん哲学外来の本 質的な寄り添いでは?と感じた次第です。自身の運営するカフェのヒントにも繋がりました。 最後に参加者全員がグループに分かれて、 「私の考えるがん哲学外来の寄り添いの在り方」というテーマについて考えました。私 たちグループ 9 は 11 名がそれぞれの経験を交えながら語らい、カフェの意義(くくりがない、気付きを与えたり貰ったり、気持ち が解き放されるなど)、コミュニケーション(受け止め方は相手が決めている、誤解の存在、不用意な情報発信など)、そして寄り 添い(一人じゃない、その人が思い浮かぶ、ありのままを受け入れる、軟着陸ができるようになど)といったポイントを挙げ、そ うしたいろいろな点を共に考え見つめて走る、そして時には止まる「がん哲号」という汽車に例えてみました。 今回初めてサブ・ファシリテータをさせていただきましたが、緊張と焦りから私は出過ぎてしまいました。ファシリテータもコー ディネーターも想いだけではできないことを改めて感じ、メイン・ファシリテータの「ひろしさん」の温かなフォローに救われ、 グループの皆さん(まさよさん、みむたくさん、りかこさん、まきこさん、内山さん、いずみさん、かもめさん、風さん、みゆき さん)の寄り添いを深く感じたひとときでした。 皆さんとの出会いに感謝し、講座での学びをこれからの日常のいろいろな場面に心がけて参りたいものです。 <<編集後記 by あず>> 樋野先生のご講話にいつもヒントをいただく。第 5 回がん哲学外来コーディネーター養成講座では、ノートルダム清心学園理事 長 渡辺和子さんの「置かれた場所で咲きなさい」の本をご紹介された。私のネタ帳には「背伸びしなくても咲く場所はちゃんと ある」と書いてあった。 ■□■片岡さんが初めてカフェに来られたとき、まだ苦しみの中でもがいておられるとは思えませんでした。それほど頑張って 参加してくださっていたのでした。 「がん哲学外来」と出会って初めて癒されたとおっしゃった片岡さんに今のお気持ちを綴ってい ただきました。■□■ 「がん哲学外来との出会い」 看護師 片岡 東先生からがんカフェで「何か書いて貰えないですか」とお声掛け頂いて「私に?」と戸惑いましたが、父との思い出を書かして 戴けたらと思います。 私と「がん」との関わりは、20 年ほどになるでしょうか。母子家庭で小さな子供がいる私自身がたまたま受けた子宮がん検診で まさかの子宮頸がん前段階、再検査の結果を聞きに行った当日に「極初期なので子宮頸部を切除して、抗癌剤とホルモン療法をし ます。このまま入院で」ボーとする中で一人で「はい」としか言えず、真っ暗な穴の中に投げ込まれた衝撃を受けました。初期と いわれても「死」を覚悟しました。遺書も書きました、身辺整理もしました、子ども達を残して逝くのとはできないと必死で生き ました。幸い私は完全治癒しましたが、私が治療を終了しホットした矢先、父の末期がんが判明しました。その父も 2 年前に 10 年間「がん」と戦い続けた静かに微笑みながら旅立ちました。風邪を引いたと胸のレントゲ撮った時に転移性の肺がんが見つかり、 その後腎臓がん末期であること、手術をしても抗癌剤の適応時期をすでに超えており余命は半年、長くて1年と病名とともに余命 宣告まで受けました。当時父は 61 歳、年に 1 度は人間ドックを受け、大きな病気をしたこともなく健康そのものでした。腎臓摘 出術だけを受け、在宅での闘病生活を選びました。 後の 10 年は、肺転移による血胸、膵臓転移によるインスリン治療、脳転移、骨肉、腸閉塞、次々と多臓器ががんに蝕まれ、教科 書通りの全身がん状態になり、その都度対処療法と、悪いとこだけの摘出術を受け痛みと苦しみの繰り返しでした。でも父は、わ がままも愚痴も言わず「すまんな、手をかけるな」 「ありがとう、お前も忙しいのにもうええで」といつも家族を心配していました。 もっとわがままを言ってほしかった。何がしてほしいのか教えてほしかった。大きかった父がどんどん小さくなって弱くなってい く様を見ているのは耐えれないものがありました。 「明日は来なくていいよ、休みの日くらいゆっくりしなさい」ハグをして笑顔で 別れたのが最後の会話でした。覚悟はしていたつもりでしたが、その時が数時間後に迫っているとは思いもせず眠りについた途端 病院から電話で父のもとに行くと、父がすべての苦痛から解放され、眉間のしわも消え微笑ながら静かな呼吸で眠っていました。 家族全員が揃うのを待って母に抱きかかえられながら、孫たちに手を握られ、静かに静かに、いつ最後の呼吸だったかわからない くらいスーと旅立ちました。告別式の後に見た父の手帳には、「なんでや?」「もう終わりか」「最後は痛いのか」「もっと苦しいこ とが起こるのか」「人間はどこまで耐えられるのか」等一人で耐えていた走り書きがいくつもありました。10 年間死刑宣告を受け たまま苦しみの中で生きていかなければならなかったのか、私は父のがんを早期に見つけてあげれなかったこと、次から次へ彼を 襲う病魔から救えなかったこと、10 年もの間父を苦しめたこと、何よりも命を救えなかったことを娘として、看護師として自分自 身を責め続けていました。看病が終わり、告別式も終わったのに私は苦しみから解放されることなく、色々な思いを抱えていた時 に、がん哲学外来にいろんな人との縁のおかげで繋げてもらうもとが出来、東先生や、がん哲学外来で出会った方々と私自身が父 との思い出を語ることで、心の整理ができ、父との 10 年間が看護師としての私を成長させる大切な時間であったこと、 「生きる」 を教える父親としての時間であったこと、家族の大切さ、寄り添う暖かさを戦いながら生き抜いたことで教えてくれた父にありが とう、自慢の父でありがとう。いなくなったことは、悲しいけど私は今素晴らしい人の輪の中で生きています。父に報告すること が出来るようになりました。きっと頭をよしよしと撫でてくれでしょ、少し元気になった私が参加させていただくことで、もし独 りでに悲しみや、迷いの中で出口が見えなくなっている方が傍に居るのなら、一緒に泣き笑いしましょう。何もできないかもしれ ませんが、話すだけで心が楽になることがあると思います。笑顔で過ごせる日々をお手伝い出来ればさせて頂けたら嬉しいです。 これからも細く長くがん哲学に関わって行きたいと思います。微力ですが、父の思いを語りつくことが 今の仕事だと考えています。どこかでお会いしたら気軽にお声ください。とりとめのないことを書いて しまいましたが、愛する父に褒めてもらいたくてペンをとりました。最後まで読んでいまだきありがと うございました。これからの活動にも、東先生や、樋野先生指導を受けながら私磨くを精進します。 ■□■本号のお知らせはカフェの問い合わせ先一覧に掲載されています。■□■
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