P244-245

そういんぎょくさい
2『総員玉砕せよ!』
□
/
まん が か
みず き
ベーリング海
ぎょくさい
みずか
● 日本軍が玉砕したおもな島
漫画家・水木しげるは,自
アッツ島 1943年5月
れんぽう
らのニューギニアでの戦
ソビエト連邦
モンゴル
場体験をもとに,玉砕を
えが
描いた。
日本海
中華民国
講談社文庫〉
日本
朝鮮
ちゅう か みんこく
〈水木しげる
『総員玉砕せよ!』
太平洋
ミッドウェー諸島
おきなわじま
い おうとう
沖縄島
硫黄島 1945年3月
ハワイ諸島
台湾
サイパン島 1944年7月
フランス領
インドシナ フィリピン諸島
フィリピン海
南シナ海
イギリス領
北ボルネオ
ぎょくさい
ジャワ島
玉砕を報じる新聞
トラック諸島
ニューブリテン島
ソロモン諸島
ガダルカナル島
ニューギニア島
サンゴ海
オーストラリア
〈「朝日新聞」1944年
8月19日〉
マーシャル諸島
テニアン島 1944年8月 クワジャリン島
1944年2月
グアム島 1944年8月
ペリリュー島 1944年11月 マキン・タラワ島 1943年11月
オランダ領東インド
1 サイパン島の
□
アメリカ
合衆国
3 日本軍が玉砕したおもな島
□
いました。
か えんほうしゃ き
ほう か
守備隊は,米軍の戦車・火炎放射器などの砲火の中へ,
銃剣で突撃をくり返し,玉砕しました。約1万人の日本人住民やサイ
ま
(11)餓死、玉砕、
特攻隊
が
パン島民も,これに巻き込まれて死亡しました。
5
̶ 戦局の転換̶
ました。
1942 年8月から,南太平洋のガダルカナル島では,日米両軍の激戦
ばく だん
には銃剣で突撃をくりかえし,次々に倒されました。
1944年から,日本軍は,戦闘機が爆弾を抱え,パイロットもろとも
とつげき
たお
せんとう き
あっ とう
だん やく
こうくう ぼ かん
10
えい よう しっ ちょう
弾薬を補給できません。熱帯のジャングルの中で,兵士は栄養失調と
なり,マラリアや赤痢にかかり,餓死する人があい次ぎました。
強く求められた隊員も多くいました。特攻隊は,約 3000機がアメリカ
日本軍の司令官は,ガダルカナル島3万の兵のうち「戦闘で倒れた
かん たい
艦隊めがけて出撃しましたが,米軍のレーダーにとらえられ,多くは
戦死者 5000 人, 餓死者1万 5000 人」と記しています。遺骨の多く
撃墜されました。特攻隊の戦死者は,4000人にのぼりました。
せん とう
しる
い こつ
まって、もう2週間になる。木の実、
は,今も現地に残されたままです。同じことは,ニューギニア島やフィ
草の根も、またつきてしまい、川底の
リピン諸島など多くの戦場で起こりました。
に ほんぐんさんぼう
(電報を受けた日本軍参謀の手記から)
〈辻政信『ガダルカナル』より〉
15
たい へい よう せん そう
い
いは病死した兵士は,140 万人とみられています。ガダルカナル島
おきなわせん
り,1945年4月,沖縄戦で戦死した。出撃の命令を受けた日に,母への長文の遺書を書き残していた。
「お母さん,とうとう悲しい便りを出さねばならないときが来ました。
1944 年6月,7万の米軍が,サイパン島に上陸してきました。この
くう しゅう
島からは,日本本土への空襲が可能となるため,4万の日本軍守備隊
はきびしい戦いを強いられました。しかし,サイパン近海の海戦で日
はずかし
虜囚( 捕虜 )の 辱 めをうけず」という
せんじんくん
てってい
「戦陣訓」の教えが徹底されていた。
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し
ぐん かん
し ょ
はやしいちぞう
林市造は,大学で経済学を学んでいたが,動員されて海軍に入隊した。訓練を受けて特攻隊員にな
てんかん
という美しい言葉で表した。
「生きて
りょしゅう
ついらく
5 撃墜されて墜落していく特攻機
□
【ある特攻隊員の母への遺書】
の戦いによって,アメリカ側の優勢が明らかとなり,アジア太平洋戦
こと。現場は悲 惨 だが,玉が砕 ける
くだ
として,体当たりで生命を犠牲にすること自体がたたえられました。
アジア太平洋戦争での日本軍の戦死者 230 万人のうち,餓死ある
(う)
▶玉砕の島――サイパン島
ひ さん
しかし,新聞などでは,特攻隊は国のために若い命をささげるもの
ぎ せい
10
ぎょくさい
最後まで戦って全員が死んでいく
しゅつ げき
げきつい
争は大きく転換していきました。
玉砕
とくべつこうげきたい
米軍の航空母艦などに体当たりする戦法をとりました( 特別攻撃隊 )
。
この特攻隊員は志願という形をとりましたが,上官などから志願を
5
せき り
を準備するのみ。
とっ こう たい
▶爆弾を抱えて体当たり ―― 特攻隊
ほう げき
海でも空でも,アメリカ側が圧倒していて,日本軍は食料や兵器・
ない。全員、銃剣と軍刀で最後の戦い
かか
が続きました。米軍の戦車攻撃や激しい砲撃の中を,日本軍は,最後
じゅうけん
ミズゴケまで食いつくした。弾薬も
ほ りょ
弾薬も食料もなくなり,戦う力を失ったときは,降伏する(捕虜に
そう いん ぎょく さい
し
せん しゃ こう げき
酒を飲み,
スルメを食べている。
ため,残されたのは玉砕だけで,司令官は「総員玉砕せよ」と命令し
にちべいりょうぐん
すべての部隊で食料がつきてし
こう ふく
4 出撃直前の特攻隊員/
□
なる)道があります。しかし,日本軍は捕虜となることを禁じていた
▶餓死の島 ―― ガダルカナル島
ガダルカナル島からの電報
こ
本は軍艦も航空機も失い,守備隊へ物資を送ることができなくなって
(ん)
親思ふ心にまさる親心 今日のおとずれ何ときくらむ
この歌がしみじみと思われます。ほんとに私は幸福だったのです。わがままばかり通しましたね。
あま
15
ごころ
けれどもあれも私の甘え心だと思って許してくださいね。
しゅつじん
晴れて特攻隊員と選ばれて出 陣するのはうれしいですが,お母さんのことを思うと泣けてきます。
6 学生時代の林市造
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母チャンが私をたのみと必死で育ててくれたことを思うと,何も喜ばせることができずに,安心させることもできずに死んで
ゆくのがつらいのです。」 ( 一部要約)
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