1 『存在と時間』を読むために12 『存在と時間』と他の著作の関係(4

『存在と時間』を読むために12
『存在と時間』と他の著作の関係(4):『芸術作品の根源』2
吉次基宣 1987 年 3 月
ハイデッガーにおける共存在の問題:作品と人間
目次
序
I
製作活動という視点
II 作品の機能
III 作品と人間
序
ハイデッガーの哲学全体の中で、しばしば指摘され、批判されるのは、人間存在の社会的
側面の考察が不十分であり、他者との共存在(Mitsein)が、積極的な意味を持つものとして
は、理解されておらず、そこからしてまた、現存在の歴史性についての記述も具体性を欠
いているという点である。『存在と時間』では、現存在が、先駆的決意性(Vorlaufende
Entschlossenheit)という概念の下に死へ向かう最も自己的な在り方へと捉え返される。こ
こでは、すべての他者との関係から切り離されたかに見える単独者としての自己が、一切
の真理を切り開く決定的な真理の本質として把握されているのである。他者との共存在は、
もちろん世界-内-存在の本質的契機として語られているが、それは道具使用の分析を通じて
間接的に現れてくるにすぎず、単独化された本来的現存在から見るならば、道具の使用際
して、そこに共に顧慮(Fürsorge)されている他者は、あくまで頽落した現存在、人(Das Man)
にすぎない。それは、単独者としての自己にとってなんら積極的意味を持つようには見え
ない。こうして他者との共存在の真の意義は、道具使用に注目する世界分析の背後に隠さ
れ、見失われるように見える。確かに『存在と時間』のみに即して見るならば、上記のよ
うな批判は、妥当であるように思われる。そこでは、本来性へ立ち返った現存在が開くと
される状況なるものが、具体的に展開されていないからである。根本的不安のただ中で単
独化された自己から世界の中で実際的な活動をしている他者への通路は欠けているように
見える。しかし、このあまりにもあからさまな欠如、そこには、一つの問題が潜んでいる
のではないか。つまり、次のような事をここで確認しておかなければならないのである。
現存在の根本体制である世界-内-存在における世界なるものが、最も広い意味での存在者の
総体、すなわち、世間というようなものではなく、むしろ現存在が、存在者の全体から取
る距離のことであり、存在者を存在者として開示するための地平であるということである。
それと連関して『根拠の本質』では、超越を本質とする現存在の超越の目指す先(Woraufhin)
が、世界とされるが、一方『形而上学とは何か』では、それは無とされ、現存在は、無の
1
内に保たれていること(Hineingehaltenheit in das Nichts)といわれている。世界とは、存
在者の総体のことではなく、むしろ現存在が、なんらかの仕方で生みだす無的なものなの
であり、したがって、『存在と時間』で有意義性の全体(Bedeutsamganzheit)と規定された
世界の世界性も、その全き本質においては、無的性格を持つものとして理解されなければ
ならないのである。そして、他者との共存在が、世界-内-存在の根本契機であり、また、こ
の世界が無的性格において理解されなければならないのなら、共存在も無的なものとの密
接な連関の下で把握されなければならないはずである。そうであれば、次のような事もあ
りうるのではないか。単独化され無的なものに晒された自己のみが、真の共存在を可能に
し、各々の人間が、自己の死を死すべく運命づけられているが故に、共存在が可能になる
ということ、人々が互いに遠ざかっているが故にこそ形成される遠みにおける近さという
ことが考えられるのではないか。そして、逆に世界がその無的性格を失い、単なる世間と
考えられ、共存在が単なる人間の集合とされ、この共存在が、いよいよあからさまに組織
され、公共の討論の場となる時、真の共存在が失われ、世間が人間を抹殺するということ
もあるのではないか。
ハイデッガーは、『根拠の本質』の末尾で次のように言う。「かくて人間は、実存的な超越
として可能性へと跳躍しつつ距離的な存在 ein Wesen der Ferne である。人間がその超越
において一切の存在者との間に設ける根源的な距離を通じてのみ、人間のうちに事物への
真実の接近が立ち昇ってくる。距離の中に聞き入ることのできる力のみが、自己としての
現存在に対して共存在の応答を目覚め時熟せしめる。-かかる共現存在との共存在のうち
にあって現存在は自己を本来的自己として獲得せんがために自我性を犠牲に供することも
できるのである。
」1
ここには、
『存在と時間』で語られた道具使用の下で現れてくる共存在とは別の共存在が暗
示されている。根源的距離を通じてのみ現れてくる事物への近み、そして距離の中に聞き
入ることのできる力によってのみ目覚める共存在、これはどういうものなのか。いかにし
て可能になるのか。さらに『存在と時間』における積極的な意味での他者との共存在への
通路のあまりにもあからさまな欠如、これはどんな意味をもつのか。以上のような点に注
目しつつハイデッガーの哲学における共存在が積極的な意味を持つにいたる可能性を『存
在と時間』以後の歩みに即して垣間見てみようというのが小論の目的である。
I
1
製作活動という視点
Martin Heidegger „Wegmarken“ 2. Aufl. Frankfurt am Main, Vittorio-Klostermann, 1978,
S. 173 (斎藤真治
訳 『根拠の本質』理想社、1952)
2
『存在と時間』では、他者は、人(Das Man)という形ではあっても、世界-内-存在の本質的
契機として論じられている。その際、他者は、広い意味での道具の配慮(Besorgen)の内で、
直接露呈され開示されていると考えられており、道具の存在と共に、それを通じて語られ
ている。そればかりではなく、世界の構造分析や現存在自身の存在構造の分析も、道具の
存在を導きの糸として行われており、現存在の歴史性の論究に際しては、過ぎ去った世界
に属する道具、すなわち遺産(Erbe)が問題とされる。また、
『芸術作品の根源』では、
『存在
と 時 間 』 で 語 ら れ る 有 用 性 (Dienlichkeit) を 本 質 と す る 道 具 と は 、 別 の 信 頼 性
(Verläßlichkeit)を本質とする道具が語り出されている。道具の存在と道具を配慮し、それ
に関係していく現存在の在り方が、様々な仕方で繰り返し論じられている。そして、それ
はその都度、非常な照射力を持って事柄を照らし出す。なぜなら、広い意味での道具の存
在、およびそれに対する現存在の振る舞い一般は、ハイデッガーのいう根源的真理、非隠
蔽性(ア・レテイア)と何らかの関係性を有しているからである。道具の存在が一つの決
定的な役割を果たす所にハイデッガーの哲学の一つの特徴があるのである。そしてまた、
道具の存在が、勝れて人と人とを媒介し、共存在の可能性を開くものであるとすれば、本
来性へと立ち返り、単独化された現存在のある別の共存在が問題になるときにも、道具と
道具に対する現存在の振る舞いに注目することが、決定的に重要なことになってくるので
ある。
道具を配慮し使用し、再び別の道具を作製していく現存在の振る舞いは、一見、問題化す
ることが不可能に思われるほど単純で自明なことなのであるが、それは、ハイデッガーの
哲学の内部だけで重要性を持つことではない。さらには、ヨーロッパの哲学の歴史全体を
その根底で統裁する存在了解に関わる決定的な意味を持つとされるのである。ハイデッガ
ーのテンポラリテートの問題圏からすれば、プラトン以来、ヨーロッパ哲学においては、
存在の意味は終始、恒常的現前性(Ständige Anwesenheit)として理解されてきたとされる
のだが、この存在了解は、存在を製作されてあること(Hergestelltheit)と解する見解と連動
しているのである。哲学上の主要概念もことごとくこの存在了解に端を発している。した
がって、端的に言えば、ヨーロッパの哲学全体は、人間の製作活動に根ざしており、製作
活動のもたらす存在についての元初的理解と、製作活動を導く根源的明るみの展開にすぎ
ないとも言えるのである。
このことを少し具体的に確認しておこう。ハイデッガーによれば、例えば、プラトンの洞
窟の比喩の意味を解く鍵も製作活動という視点であり、これに注目することによってのみ、
比喩の意図が明確に読み取れるようになるのである。洞窟の比喩において洞窟内に壁に向
けて繋ぎ止められている人々とは、第一次的に知覚に定位しつつ物を見る者達である。彼
らが、まず見てとるのは、個々の者である。彼らは、全く直接にこの家やあの樹などのそ
れぞれの存在者を見るのだと思っており、それらが先行的なイデアの光の下でのみ、その
3
ようなものとして見られていることに気がつかない。知覚を第一次的な物への接近の仕方
とする通常の立場からすれば、個物の具体的な形態を基にして、それらを比較反省し、そ
こからイデアが引き出されてくるように見える。しかし、古代の存在論においては、逆に
イデアが、個物の形態に先行するものとされ、それらを規定するものと考えられている。
この場合、知覚ではなく、製作活動の眼差しが、存在了解を導いているのである。製作者
は、製作活動による個物の現実化に先立って、製作さるべき物の模造(イデア)をよく心
得ており、つまり、先行的に常にすでに知ってしまっている。この先行的知に基づいて製
作活動が可能になるのであり、個物の現実化も可能となってくる。このようにイデアは、
直接見られている存在者が、そこから、それとして理解されるものであり、したがって、
ある存在者が、すでにそれであったところのもの(ト・ティ・エン・エイナイ)であり、
また、そのようなものとして、直接知覚される存在者よりも本性上よく知られ、したがっ
て、学びえるもの(タ・マテーマタ)である。そしてイデアは、上記のようなものとして、
さらに適所性(Bewandtnis)や方域(Gegend)の了解を伴っており、開示作用の驚くべき深さ
と広さを有している。こうしたイデアを内に孕んだ製作活動の開示作用こそ、あらゆる哲
学上の基本概念の母胎である。それ故、知覚の地平から、製作活動の地平へと目を転じる
者こそ、洞窟の比喩において戒めを解かれ、壁から洞窟の入り口の方へ目を転じる者なの
である。その時、戒めを解かれた者は、製作者が想起のうちで見てとる物のイデアが真に
存在するものとして、その広範な開示力によって、知覚される物をすべて導き照らし出し
ていることを見て取るのである。知覚によって捉えられたものは、壁に映る影にすぎない
のだが、第一次的に知覚に定位して物を見る人々は、それを現実的なものと信じている。
だが、洞窟内で物を照らし出しているのは、製作活動の持つ照射力にほかならないのであ
る。
さらに、洞窟の比喩において洞窟の外に、すべてを照らし出すものである太陽が語られて
いる。それは、イデアのうちのイデア、善(アガトン)のイデアの比喩であるとされる。
ハイデッガーによれば、この場合の善(アガトン)は、倫理的善とか、価値とかとは何の
関係もなく、端的に何かに役立ちうるもの(das, was zu etwas taugt)である。イデアとは、
個々の存在者をそれが何であるかを見えるようにし、それが、そのものとして存在するこ
とを可能にするものである。それ故に、イデアのイデア、すなわち、イデアをイデアとし
て可能にするものは、すべての現存するものが、その全可視性において顕現することを可
能にするものである。このような意味において存在者を存在せしめるのに、その根底にお
いて役立つもの、これが善(アガトン)のイデアだと考えられているのである。
だが、この善(アガトン)のイデアは、製作活動とどのように関係しているのであろうか。
製作者が製作活動において、製作されるべきものの形態、そのもののイデアが直観される
ためには、製作されるべきものの可能性が先行的に了解されていなければならない。つま
4
り、製作されるべきものが、その可能性に向けて企投されていなければならない。しかし、
このことを可能にするのは、製作者自身の可能性の了解である。製作者自身が、自己自身
をその可能性をめがけて企投するかぎりで、製作されるべきものは、そのイデアにおいて
直観されるのである。製作活動を可能にする製作者自身の可能性の先行的了解、これがイ
デアをイデアとして可能にするものであり、すなわち、善(アガトン)のイデアである。そし
て、まさしくこれこそが、すべての現存するものを、その可視性において顕現させるので
あり、現存在の開示性をその根底で支え担うものであり、すべての存在者を照らし出す内
的な太陽である。それ故に、善(アガトン)のイデアと製作活動の根源的連関からして、善(ア
ガトン)のイデアは、デミウルゴス(製作の神)にほかならないとされるのである。2
この善(アガトン)のイデアは、
『存在と時間』の道具連関から出発する世界性の分析から見
れば、Um-Zu(~ために)の錯綜した連関がそこに結集していく Worumwillen(究極的な
ためにということ)に対応しているということができるだろう。
以上のようにハイデッガーは、
『存在と時間』で展開した現存在分析に拠りつつ、製作活動
という視点から洞窟の比喩を解釈する。ヨーロッパの人間的現存在が、それを通じて存在
者の領域に突進したイデア論が、その根底で製作活動と連動しているのであれば、人間的
現存在は、製作活動を通じて物や他者のただ中に突進するのであり、すべての存在者を存
在者として開示する、ということができるだろう。このように、製作活動は、ア・レテイ
ア(非隠蔽性)における出来事なのである。ただし、『存在と時間』では、製作活動とア・
レテイア(非隠蔽性)の関係は、十分には捉えられていない。というのもほかならぬイデ
アの出現とそれに端を発するヨーロッパの哲学そのものが、この関係を隠蔽しているから
である。それ故、ハイデッガーは、
『存在と時間』以後、ヨーロッパ哲学史を解体し、イデ
アに基づく存在了解を克服しようとする歩みの中で、製作活動と非隠蔽性(ア・レテイア)
との関係を捉え返し、もって存在が根源的な仕方で経験される領域へ移行しようとするの
である。このような意味で非隠蔽性(ア・レテイア)に関係する製作活動をハイデッガー
は、ギリシャ語のテクネー(τέχνη)の下で理解しようとするのである。それに関連してテク
ネーによって製作されるものが、道具という有用性をめざすものではなく作品(Werk)とい
う概念で捉え返されることになるのである。
人間が存在者の領域へそれを通じて突進していく製作活動は、根源的にはテクネーとして
理解されなければならない。そして非隠蔽性(ア・レテイア)は、元来、テクネーが作り
だす作品の下に生起するのであり、そこでは、もはや存在はあの恒常的現前として経験さ
2
Vgl. Martin Heidegger „Die Grundprobleme der Phänomenologie“ 1. Aufl. Frankfurt am
Main, Vittorio-Klostermann, 1975, S. 405.
5
れるのではなく、作品に宿る存在者の充実として、テクネーのただ中での運動として経験
されるのである。常に運動を孕む生成としての存在、これがフュシス(φύσις)と呼ばれる。
フュシスは、テクネーによって無理やりに作品へと置かれなければならない。こうしたフ
ュシスとテクネーの対立抗争のうちで非隠蔽性が生じているのである。
しかし、先に述べたごとく根源的製作活動としてのテクネーと非隠蔽性の関係が、イデア
によって隠蔽されるとはいかなることなのか。イデアは製作活動のただ中で生じ、しかも
あれほどの開示力を有するというのに。確かにこのような開示力を持つイデアは、根源的
な製作活動であるテクネーの有する開示性以外のどこにも現れることができない。だがテ
クネーのただ中にイデアが出現すると、他ならぬイデアそのものの広範な開示作用によっ
て、イデアが製作活動を全面的に支配するという事態を招く。ここにテクネーそのものに
微妙な変容が生じてくる。そして、この一見ささいなことのように思われる変容が、ほと
んど決定的な意味を持つのである。イデアは、あるものが、それがなんであるかにおいて
現れ、それが、常にそれであったし、これからもそれであるようなものとして、すなわち、
その恒常性において現存することを可能にする。そしてついに、この開示力そのもののた
めに、イデアが、存在者を存在者として可能にするという意味で、唯一の存在そのものと
解されるとき、存在は恒常的現前性として現れてくる。こうして、存在の生成性格は忘却
され、テクネーとフュシスの対立抗争は、消滅し、非隠蔽性(ア・レテイア)の運動は、
停止し、非隠蔽性(ア・レテイア)そのものが隠蔽されるのである。要するに、非隠蔽性
(ア・レテイア)が、イデアのくびきの下に繋がれる。これが、ヨーロッパの哲学、ひい
ては歴史全体の発端なのである。
それと関連して元来は作品に関係するテクネーは、イデアの出現によって製作者の意思を
一定の目的に向けて貫徹しようとする技術的性格を帯びてくる。イデアは、テクネーとい
う根源的な制作活動を技術という意味での制作活動へと変容せしめる本質的性格を持って
いる。このことが、ヨーロッパの哲学全体を性格づけており、近代科学の技術的性格に反
映し、また、存在者の存在を力への意思と解するニーチェの哲学の背後に潜む自らの意思
の貫徹を企てる技術的性格もそれに由来している。そしてそれが究極的には現代の技術的
世界をもたらすとされる。ハイデッガーが現代の技術的世界の本質をほとんど翻訳不可能
な語 Ge-stell で捉え、それを非隠蔽性(ア・レテイア)の出来事であるというとき、この
語をその真意において理解しようとするなら、非隠蔽性(ア・レテイア)が、テクネーの
意味での製作活動に結びついていることに目を向けなければならない。現代の技術が
Ge-stell というその本質において非隠蔽性(ア・レテイア)に、しかもイデアの出現によっ
て技術的性格を帯びた非隠蔽性(ア・レテイア)に帰属しているが故に、それはすべての
存在者を特定の目的に向けて調達しつつ、存在者を存在者として露呈し、この技術的世界
のただ中に打ち立てるのである。現代技術の本質としての Ge-stell において、あらゆる存
6
在者はことごとく露呈され、非隠蔽性(ア・レテイア)は、その広範さと徹底性という点
で極限に達しているかに見える。しかし、それはテクネーが技術へと変容することに基づ
く非隠蔽性(ア・レテイア)そのものの忘却に他ならない。したがってこの存在者の調達
の場所では、存在者が存在者として露呈され意のままにされる瞬間に、それが見失われて
おり、人間がこの調達の場へと組織され緊密に結び付けられる時に共存在が欠落し、そし
て逆に物や人間が近みを獲得し、それらがその真相において現れ出ようとする瞬間に人間
は孤立に晒されていると感じ、そこからの逃避を企てるという事態が生じるのである。そ
れ故にハイデッガーは、Ge-stell を最高の危険と呼ぶ。しかしいずれにせよ製作活動の元初
的開示力によって存在者のただ中に突進することが、人間の本質であり、人間的真理のす
べての始まりがここにあるのなら、人間の滞在の場は、この製作活動意外にはない。それ
故にハイデッガーは、ヘルダーリンの口を借りてこう言うのである。
「されど危険の存するところ、おのずから救うものもまた芽生う。」3
ここで危険の存するところとは、Ge-stell としての非隠蔽性(ア・レテイア)が生起してい
る現代の技術的世界にほかならない。危険そのものの中に救うものが芽生うとは、Ge-stell
と類似しつつもそれとは異なる制作活動のうちで根源的な非隠蔽性(ア・レテイア)が目
覚めるということである。すなわち、ハイデッガーがこのヘルダーリンの言葉を通じて言
わんとするのは、イデアの出現によって、そのくびきの下に繋がれた非隠蔽性(ア・レテ
イア)からイデアを通過して元初的な非隠蔽性(ア・レテイア)へ越えていかなければな
らないということなのである。テクネーの意味のあの微妙な変容を逆に辿ることが重要で
あるということである。イデアの出現によって技術という性格を帯びるにいたったテクネ
ーから、元初的な制作活動としてのテクネーへ、さらに言えば、技術が製作する特定の目
的に指し向けられた製作物、すなわち広い意味での道具から、元初的な意味でのテクネー
が作り出す制作物、すなわち作品に注目することが問題なのである。作品が非隠蔽性(ア・
レテイア)との関係から捉えられなければならない。『存在と時間』では道具が、その展開
の全体を導いていく決定的な役割を果たしており、また人と人を結び付ける役割も果たし
ていた。作品は道具以上に根源的に非隠蔽性(ア・レテイア)に属しており、いわば本来
性における制作物である。それ故に道具が『存在と時間』全体を導いたように、作品がそ
れ以後のハイデッガーの思索を導いていく。そして、道具が人と人とを勝れて結びつけた
ように、作品はさらに本来的な仕方で結び付けるにちがいない。ここに『存在と時間』で
3
Martin Heidegger „Holzwege“ 5. Aufl. Frankfurt am Main, Vittorio-Klostermann, 1972, S.
273 (手塚富雄、高橋英夫
共訳
『乏しき時代の詩人』理想社、1958) bzw. „Vorträge und
Aufsätze“, 4. Aufl., Pfullingen, Günther-Neske, 1978, S.32. bzw. S.39. (小島威彦
論』理想社、1965)
7
他訳『技術
は展開されなかた別の共存在が、作品を核として開けてくる。だがこの新たな共存在を論
ずる前に作品の持つ機能を確認しておくことにしよう。
II
作品の機能
作品の機能が最も立ち入って論じられているのは『芸術作品の根源』と『形而上学入門』
の二つの著作である。これらの著作を中心に作品の機能を明確化し、そこから共存在のあ
らたな可能性を検討してみよう。ハイデッガーが作品という語を用いるとき、この語の下
で考えられているのは、いわゆる芸術作品だけではない。それと並んで哲学や宗教や政治
も作品として考えられており、作品はきわめて広い意味を持っているのである。ここで共
存在が問題であるのなら、政治が作品という点から問題にされていることに特に注目する
必要がある。政治の作品は、他のすべての作品を根拠づけ守る歴史の場として思索されて
いるからである。しかし、こうした見解を正しく見て取るためには、
『芸術作品の根源』に
おける作品分析を通過しなければならない。
作品とは、非隠蔽性(ア・レテイア)の場であって、すべての物がその最高の充実に達す
る特記的な制作物である。それ故、物を通過して、作品に至ることはできず、作品の充実
を出発点として初めて物に至る道が開けるのである。それ故に作品における充実せる存在
者を正しく捉らえるために、従来の物の概念は、放棄される。それらは先述したように有
用な道具を製作する根本経験から生じてきたものであり、そこに真理が宿る物としての芸
術作品の実態を捉えることができないからである。作品を真理の場たらしめ、物を照射せ
しめるためには、伝統的哲学の概念をすべて放棄し、作品を作品として自立させ、その充
実を保持しつつ、それを見つめるのでなければならない。
このような仕方でハイデッガーは作品を見つめる。すると、ゴッホのあの無愛想な靴の絵
からは、靴という道具の本質的な本質が滲み出てくる。それは、有用性(Dienlichkeit)とと
いう帰納的に取り出される本質ではなく、信頼性(Verläßlichkeit)という全く別種の本質で
ある。それは、普遍的な一般者という意味での本質ではなく、作品のただ中で生きて生き
て生成し、別のより強力な普遍性を持つあの動詞の意味での(wesen)なのである。
また、別の作品、例えばギリシャの神殿を建築作品として自立させる。すると、空に向け
て高く突き出た石柱は、単なる石材ではなくなる。この作品は、石材を内部から輝き露わ
しめ、石材を初めて石として存在せしめる。石材はそのようにして内部からの充実におい
て存在しつつ、空へと高く突き出ることによって初めて空の広がり、石柱に吹き付ける嵐
の激しさ、その背後の海の波濤の響もしなどのすべてを存在せしめ、世界を世界として開
示するのである。そして自らは、その内部の底なしの暗闇に引き籠り、逆にすべてを隠蔽
8
しようとする。石柱は、こうしたハイデッガーのいう無尽蔵の秘密の領域としての大地に
引き籠っていく限りでのみ逆に世界を開け放つのである。作品とは一般に非隠蔽性(ア・
レテイア)の場として、開けようとする世界と引き籠もろうとする大地の闘争の場所なの
である。この闘争こそが存在者を存在者として開示するものであり、すなわち存在そのも
のである。ここに新たな存在の新たな概念が提出されている。作品における闘争とは、い
わば、美の運動であり、存在とは、その運動において存在者を衝撃の内で開示するものと
して美そのものである。美として存在は、すべての存在者を初めて存在させ、すべてを包
み込むものでありながら逆に作品という一つの存在者の内に宿っている。この作品の内で
生成する存在という新たな存在了解の中から後期のハイデッガー哲学の主要概念が生じて
くるのであり、それに基づいて新たな思索の展開が試みられるのである。それ故に、ハイ
デッガーはこう言う事ができる。
「我々が、我々の歴史的現存在を歴史的なものとして作品
へと置こうと志すならば、存在は根底から、その可能的本質の広がり全体にわたって新し
く経験されなければならない」4と。
以上、作品の機能についてみてきたわけだが、ここで新たに経験される作品の内での闘争
という意味での存在の性格を今一歩つき進めて明確化し、その過程で後期のハイデッガー
の主要概念が、どのように作品に関係するのかを見届けておくことにしよう。伝統的な存
在の概念は、恒常的現前性として生成と対立すると同時に、仮象、思考、当為(Sollen)と対
立するものと考えられてきたが、作品のもとで働いている美の運動としての存在は、真理
をその隠され隠蔽された状態から作品へと置くこと(Ins-Werk-setzen)(ハイデッガーは、エ
ネルゲイア(ενέργεια)をこの語で訳す)であり、つまりデュナミスからエネルゲイアへの運動
なのであり、隠蔽からの絶えざる奪取として常に仮象につきまとわれ、けして仮象と対立
するものでなく、常に仮象を内に孕んでいる。また存在は、思考によって定立され、対象
としてそれに対立するものではなく、存在は、それを作品へと置く人間の創作活動すなわ
ちテクネーのただ中で、自ら目覚めるのである。存在はここでは、テクネーとしての知の
ただ中で呼び起こされるものとしてテクネーという知の本質を内に含み込んでいる。さら
に存在は、当為とも対置されえない。作品の創造活動においては、その目的である作品は、
他の製作活動の場合とは異なり、イデアとして、すなわちあるべき姿として現実の作品と
対置されているのではない。作品の完成とは、創作活動がそこで自ずから止まる点でなく
てはならない。それは作品を構成する諸要素を作品へと集約する活動、すなわちロゴスが、
そこで終局に至る点、すなわちテロスであり、存在は、このテロスにおいて輝き現れる
(εντελέχεια)
(自己を-終了の-中で保つこと)
。このような終末としての当為は、存在そのも
のの中に含み込まれている。以上のように存在は、従来とは全く別の仕方で、生成、仮象、
4Martin
Heidegger „Einführung in die Metaphysik“ 4. Aufl. Tübingen, Max Niemeyer, 1976,
S. 155. (川原栄峰
訳
『形而上学入門』理想社、1960)
9
思考、当為と対立し、それらによって限定されるものではなく、それらを逆に包み込むも
のとして了解される。こういう意味での存在が、フュシスなのである。そして、このフュ
シスの経験に基づいて、非隠蔽性(ア・レテイア)
、デュナミス、エネルゲイア、エンテレ
ケイア、ロゴス、テクネー、また質料に代わるものとしての大地、形相に代わるものとし
ての世界などの諸概念が獲得されている。後期のハイデッガーの哲学は、これらの諸概念
の展開であり、いわば、これらの諸概念に基づく伝統的なヨーロッパ哲学の解体であり、
また同時に、新たな思索の可能性を目指す現象学的構成の作業でもある。
こうして存在が新たに経験されると同時に、我々は作品のもとに置かれることとなった。
したがって、ここで新たな形の共存在が問題になるときにも、作品が思索の核となるので
ある。作品への関係から人間存在とその共同体の意味が捉え返され、作品を巡って形成さ
れたあの諸概念に基づいて記述されなければならない。
III 作品と人間
『存在と時間』においては、現存在の存在は憂慮(Sorge)とされ、憂慮(Sorge)の意味は時間
性とされる。その分析の過程は、事物について使用される範疇(カテゴリー)によるのではな
く、実存という人間存在独特のあり方を捉える実存範疇の展開である。ところで現存在分
析の発端は、道具の特有な存在の仕方に注目することであった。その考察の深みと広範さ
は、道具の有する開示作用に基づいていたのである。しかし、ここでは道具と類似しつつ
もその存在の仕方全く異なる作品が考察の端緒となるのである。そして作品は、道具より
一層根源的に非隠蔽性(ア・レテイア)に関係する限り、作品を出発点とする考察には、
道具を出発点とする考察以上の開示の深さと鋭さが期待されうるのである。『存在と時間』
が道具の分析を通じて人間の本質規定に行き着いたように、ここでは、作品に定位しつつ、
それを見つめることを通じて、別の新たな人間の本質規定に至り、さらにそこから別の共
存在の可能性を検討してみよう。
我々は、作品のもとに留まらなければならない。そして、伝統的なヨーロッパ哲学の内部
で生じてきたすべての物の概念を捨て去り、いかなる拠り所もない不安の中に立ち、作品
を作品として自立させ、それが作られてここにある(daß es ist) という衝撃のうちに保持し、
作品をして語らしめなければならない。ここでは、もはや人間が語るのではない。存在そ
のものが作品を通じて人間に語りかけるのである。このような仕方で憂慮(Sorge)や時間性
を突き抜けて人間の本質を問わなければならない。あの生きて生成する動詞の意味での人
間の本質が問われなければならない。それは、ゴッホの絵を通じて道具の本質が取り出さ
れたように、作品をして語らしめるという方法によってのみ可能なのである。そしてその
一つの試みがハイデッガー自身によって行なわれているのである。まさしくソフォクレス
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の『アンティゴネー』という詩作品のただ中で、この詩作品に人間の本質を語らせる努力
のただ中で、それはエッセンティアとエクジステンティアに分離する以前の存在そのもの
からする人間の本質規定である。この詩作品の第二幕の冒頭のコーラスは、こう始まって
いる。
「不気味なものはいろいろあるが、人間以上に不気味に、ぬきんでて活動するものはある
まい。
・・・・」5
人間は、ただ一言で言えば、最も不気味なもの(το δεινότατον)(das Unheimlichste)である。
このコーラスの他の部分は、この最初の語を説明する形になっている。ハイデッガーは、
これを人間をぎりぎりの限界と深淵において捉えた定義と見ている。しかし、我々には、
さしあたってはこの定義の厳しさと奥行きは見えてこない。我々には、人間の本質のみな
らず、この本質規定そのものの厳しさも隠蔽されてしまっている。それは記述によってこ
の詩作品全体の中から奪取されなければならない。こうしてハイデッガーは、人間存在の
不気味さ、この不気味なるもののうち最も不気味なるものをそれがこの作品において現れ
てくるがままに記述し、奪取しようとするのである。記述はこのコーラスの推移を追って
ゆく。コーラスは、人間の様々な暴力行為と避けがたい死について語る。
人間は、制圧的な威力を孕む海へと乗り出し、大地という不壊の支配の中にたゆまず侵入
し、掘り起こし、生きとし生けるものを捕獲し征服する。人間はこのような暴力行為に委
ねられている。このような暴力行為に委ねられた者は、確かに不気味である。しかしそれ
だからといって最も不気味なものとまでは言えない。また、人間はそのような暴力行為に
委ねられつつ、絶えず逃げ道なく死に直面させられている。人間は、存在するかぎり死と
いう不気味さの内に立つものであり、生起する不気味さそのものとでも言うべきものであ
るが、そこにも不気味なるものの本領はない。人間が最も不気味なるものとして理解され
るためには、人間の行なう暴力行為が、まさしく、あの根源的な制作活動、すなわちテク
ネーとして捉えられなければならないのである。そのとき人間は、最も不気味なるものと
して、その真相において姿を現すことになる。
テクネーとは、作品を創造する元初的行為として、存在者を作品の内に置き、存在者をそ
の都度新たに存在せしめることである。こういう意味でのテクネーは、諸々の存在者に加
えられる暴力行為ではなく、存在そのものを無理やり作品に置くことという意味で、存在
そのものに加えられる暴力行為なのである。最も不気味なる出来事とは、こうした存在そ
5
Martin Heidegger „Einführung in die Metaphysik“ 4. Aufl. Tübingen, Max Niemeyer, 1976,
S. 112. (川原栄峰
訳
『形而上学入門』理想社、1960)
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のもに加えられる暴力行為のことなのであり、このことを通じての存在そのものの最初の
裂開のことであり、また、美の突然の出現のことである。テクネーは、初めて非隠蔽性(ア・
レテイア)を呼び起こし、人間に存在そのものについての知を提供するするものという意
味で、人間の最初の行為であると同時に最初の知である。このような行為と知を通じて初
めて存在者の領域へ突進し、存在者を存在者として知り、人間を人間として知ることがで
きるようになる。すなわち人間は、テクネーによって作品に委ねられ、作品が作られてあ
る(daß es ist)という衝撃としての不気味さに唯一晒されうる最も不気味なるものであると
いうことを知ることができるようになるということである。したがって、テクネーの作り
出す作品のうちに、人間が自らを自らの全存在を賭けて委ねる時にのみ、あの定義の真意
を知ることができるのである。ただしこの場合、人間が作品を通じて人間の本質を定義す
るというのではなく、逆に作品が、人間を目覚めさせ、その本質へと呼び起こし、最も不
気味なるものという人間の本質を知らしめるのである。こういう意味で作品とは人間の定
義そのものなのである。それ故、ハイデッガーは、
『アンティゴネー』という詩作品に語ら
しめつつ、我々を作品という最も不気味な出来事へと呼び起こし、そこからあの人間の本
質規定へと運び入れようとするのである。そして、ここで我々が運び入れられて行く先は、
最も不気味なることが出来事として働いている場所であり、この場所に留まることだけが、
あの人間の本質規定の唯一の了解の仕方なのである。つまりこの本質規定の了解は、非隠
蔽性(ア・レテイア)のただ中への突進によってのみ可能である。したがってここでは人
間の本質規定が、
『存在と時間』におけるように、日常の製作活動に定位して、それを外か
ら観察するという仕方で行なわれているのではなく、作品の創造活動に定位しつつ、それ
を内側から生き抜き、それに耐えるという仕方で行なわれているのである。それ故にハイ
デッガーは、最も不気味なるものという人間の本質規定を、人間をそのぎりぎりの限界で
捉えた定義であると言うのである。
だが、ここで人間の本質が全く別な仕方で捉え返されているなら、かかる人間の本質規定
に基づいて、人間の共同体、共存在も別な仕方で理解され、ハイデッガーにおける共存在
の積極的な意味を見て取る可能性も開けてくるにちがいない。そしてその場合にも作品と
人間の関係が考察の核となるにちがいない。ただしこの場合、作品を先に述べたような広
い意味で受け取らなければならい。ハイデッガーは次のように言っている。
「非隠蔽性(ア・
レテイア)は、それが、作品を通じて成就されるときにのみ生起する。詩としての言葉の
作品、思考としての言葉の作品、これらをすべて基礎付けて保護する歴史の居場所として
のポリスの作品などを通じて。
」6ここではいわゆる芸術作品や哲学の作品のみならず、国家
(πόλις)をも作品に数えいれているのである。すべての他の作品を基礎付け保護する歴史の居
6
Martin Heidegger „Einführung in die Metaphysik“ 4. Aufl. Tübingen, Max Niemeyer, 1976,
S. 146. (川原栄峰
訳
『形而上学入門』理想社、1960)
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場所としてのポリスの作品とは何か。どうして国家(ポリス)が作品と考えられるのか。
ハイデッガーは、
『アンティゴネー』の第2幕冒頭のコーラスから滲み出す人間の本質を見
て取り、それを最も不気味なるものと定義した際に、このコーラスから、この本質規定に
決定的に関係する語としてのポリスを取り出し、この語について次のように説明している。
「・・・・人間自身の現存在そのものの根拠と場所、すべての軌道の交叉する所、すなわ
ちポリスが語られている。ポリスは、普通、国家とか都市国家とかと訳される。これは、
この語の意味を十分汲み尽くしてはいない。むしろポリスとは居場所であり、所(Da)つま
り、そこで、またそのようなものとして現存在が歴史的なものとしてあるような、そんな
所をいう。ポリスは歴史の居所であり、その中で、そこから、そのために歴史が生起する。
このような歴史の居所に、神々、神殿、僧、祭り、競技、詩人、思想家、支配者・・・な
どのすべてが属している。これらがすべてポリスに属し政治的(ポリティシュ)であるの
は、決してそれらがある政治家とか将軍とか、あるいは国務とかになんらかの関係を持っ
ているからではない。むしろ詩人は詩人である限り、ただし真に詩人である限り、思想家
は思想家である限り、ただし真に思想家である限り、
・・・・すべて政治的(ポリティシュ)
であり、歴史の居所に居るのである。
」7おそらくこのポリスというギリシャ語において共存
在が、しかも本来性という性格を持つ共存在が考えられているのである。
『存在と時間』に
おいては、人間をその世界における役割に注目して、世界の方から~として理解することは、
人間の自己自身の実存を完全に見失うことであり、すでに人間の非本来的在り方、つまり
退落を意味した。しかし『形而上学入門』のこの箇所では、ポリスへの関係の中から、自
らの役割が決定されるのであり、しかも、その時自らが一体何であるのかを知るに至ると
されている。ここでは、人間の世界における役割が積極的意味を持つものとして語られて
いる。ここで、
『存在と時間』で現れ出てこなかった共存在の積極的意味が何らかの仕方で
取り返されているのである。その仕方とは、人間の共存在の真のあり方を「非隠蔽性(ア・
レテイア)そのものから、すなわち、作品が作品として働いていることに注目して捉える
ことに他ならない。
『存在と時間』によれば、一つの道具というのは原理的にありえない。
道具が道具として働くことが可能であるためには、先行的な道具連関が存在していなけれ
ばならない。それと同様に一つの作品というのも原理的にありえない。作品が作品として
可能であるためには、先行的な作品の連関とでもいうべきものがなくてはならない。つま
り、ある一つの作品と別の作品が呼応し合い、すでに存在した作品が、新たな作品を呼び
起こし、作品と作品が錯綜し、一つのテクネーと別のテクネーが絡み合う。こういうこと
がすでに成立している場合に作品は作品なのである。すなわち、作品が作品として働き、
非隠蔽性(ア・レテイア)が生起するためには、諸々の作品が一つの場所に集約されなけ
7
Martin Heidegger „Einführung in die Metaphysik“ 4. Aufl. Tübingen, Max Niemeyer, 1976,
S. 117. (川原栄峰
訳
『形而上学入門』理想社、1960)
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ればならないのである。この作品の集約の場所が、作品のための作品として、つまりポリ
スとして思索されているのである。ここでは各々の人間はテクネーへと単独化されつつも
他の諸作品に呼応しており、己自身の行為を単独で遂行する場合に他者を承認し、共存在
の側から自の役割を理解しているのである。したがって、『存在と時間』で語られる本来性
へと立ち返って単独化された現存在が開く情況なるものは、具体的にはこのポリスとして
受け取りうるのである。
ポリスは、政治の作品として他の諸々の作品を一つに集約する。その時にはじめてすべて
の作品は呼応し合い、非隠蔽性(ア・レテイア)において輝き現れるのであるから、ポリ
スは真の意味での非隠蔽性(ア・レテイア)の場であり、いわば非隠蔽性(ア・レテイア)
の非隠蔽性(ア・レテイア)である。こここそが創造的人間の居場所であり、つまりは人
間の唯一の居場所である。こうした居場所では、人間は、すべての物や人々と慣れ親しん
でおり、したがって居心地がよい(heimlich)。heimlich? しかし人間の本質は、最も不気味
なもの(das Unheimlichste)と規定されたのではなかったのか。そうだとすれば、人間は、
ポリスという非隠蔽性(ア・レテイア)の居所に慣れ親しんでいるときには、まさしく、
最も不気味なものとしての本質的な在り方をしていないことになるのではないのか。この
矛盾はどういうことなのか。ここで、人間の最も不気味なるものという本質規定が考え直
されなければならない。つまり、das Un-heimlichste の Un が、この人間の本質に深く食
い込んでいる無的性格なるものが、heimlich なもの、つまりポリスという人間の居所との
関係から改めて理解されなければならない。その時人間の最も不気味なるものという本質
規定も、さらにこの両者の関係も一層明確なものになってくるのである。
先の引用ではこう言われていた。
「詩人は詩人である限り、ただ真に詩人である限り、政治
的(ポリティシュ)である。
」ここで真に詩人である限りとは、創造者として高く抜きん出て、
最も不気味なるものであることである。一方政治的(ポリティシュ)とは、ポリスの内に居所
を持ち、そこに慣れ親しんでいる(heimlich)ということである。この矛盾相克が十分注意さ
れなければならない。ハイデッガーは先の引用に次のように続けている。
「しかし、ここで、
それらが真にそれらである限り、という場合のそのあるとは、暴力行為的な者として力を
行使し、歴史的な存在の中で、創造者として高く抜きん出た者になることをいう。歴史の
居所の中で高く抜きん出ると、彼らは同時に α-πόλις(ア・ポリス)になる、つまり都市も
居所もなく、孤独なもの、不気味なもの、全体としての存在者のただ中で逃げ道もなく、
また規則も限界も構造も秩序もなくなってしまう。というのは、彼らこそ創造者としてこ
れらすべてのものを初めて創設しなけらばならないのだからである。」8すなわち人間は、作
8
Martin Heidegger „Einführung in die Metaphysik“ 4. Aufl. Tübingen, Max Niemeyer, 1976,
S. 117. (川原栄峰
訳
『形而上学入門』理想社、1960)
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品を創造するものとしてポリスに対して α-πόλις(ア・ポリス)反・政治的に行為するか
ぎりでのみポリスの内に安らい、居場所を持つものなのである。とするなら最も不気味
なものという人間の本質規定は、人間を十全に捉えていない。もしそれが、その本質を
十全に捉えるべきものであれば、人間とは、最も慣れ親しんだものとして、かつ同時に
最も不気味なるものとして規定されなければならない。
だが、このことを正しく理解するためには、作品の創造活動のみならず、ハイデッガー
が、作品が作品として存在するために欠かすことのできないもう一つの別の行為として
挙げている作品の保存(Be-Wahrung)が考慮されなければならない。作品の保存というこ
とがあって初めて、作品は意味を持ち始めるのである。作品を保存することは、作品と
作者が評価され認められ、何らかの公共施設に保管されることではない。それは、むし
ろ批評、評価などといった作品と人間たちとの日常の関係を断ち切ることである。それ
は作品がそこに作られてあることを明らかにすることであり、この作品があるのであっ
て、むしろかえって無ではないのだというこの目立たない衝撃を維持し、作品を不気味
さの内に保持することである。作品の創造と保存という人間の根本行為によって作品が
作品として働き始めると、他者は、作品の内にある働きを引き受けることによって私に
従属し、また私が他者の作品を引き受けることによって他者に従属するようになる。こ
のような錯綜と秩序のうちで、共通の理解の領野が開け、一にして同一なるものが開示
ざれ、初めて対話が可能になる。この時我々は初めて我々と言いうるようになるのであ
る。そして、対話が作り出すこの統一が、新たな作品を生み出し、その作品の内で生起
するエポック的な存在の真理を呼び起こし、存在そのものの自己贈与としての存在の歴
史を可能にするのである。このような遺産としての作品が、それに所属している者を、
作品の創造と保存へと義務付け、本来的な共存在へと結集させる。こうして『存在と時
間』では十分に展開されなかった本来的現存在における共存在が、ここで作品の創造と
保存という形で捉え返されている。このような共同体は原理的に声高に語りうるもので
はなく、また、特定の目的のために意図的に組織されるものでもない。こうした作品を
巡る密約において自ら成立してくる共同体においては、進歩、福祉などといったことが
問題となっているのではなく、あの非隠蔽性(ア・レテイア)という根源的真理だけが、
美の突然の到来における存在そのものの裂開だけが問題となっているのである。こういう
共同体をハイデッガーは、ポリスと呼ぶのである。
このように、人間の居所としてポリスが捉えられて初めて、あの最も不気味なるものとい
う人間の本質規定は、その真価を示す。ある作品が創造され、それが作品を秩序付ける作
品、つまりポリスという政治の作品のうちで保存されると、新たな真理が働きだし、人間
や物は居所を獲得する。するとこの秩序はいよいよ働きだし、いよいよ真理として輝き、
情況を照らし出すのであるが、一方では唯一の真理としてのさばり、ますますこの秩序を
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形式化し、硬化させる。すると作品は、あの初めの不気味さを失い、もはや慣れ親しんだ
のもとして、それは作品の輝きを失う。作品が断固として出現すればするほど、それがも
はや作品でなくなる危険もいよいよ大きなものとなる。作品を作品として守るポリスなし
には、作品は、いかなる意味も持たないが、ポリスは、作品を守りつつ、作品を隠蔽し、
その息の根を止めもする。作品は必然的に凝固するという性格を持ち、したがって、それ
は常に新たな作品として創造され、ポリスによる隠蔽から暴力行為によって奪取されなけ
ればならない。作品の出現とは、安全な親しみのあるものの突き崩し、転覆であり、そう
いう反政治的(ア・ポリティッシュ)なものとしてのみ人間の居所を守ることができるの
である。したがって作品を働かせることを本質とする人間は、よりどころなく途上にあり、
作品から作品へと移り、ある場所から他の場所に移り出口がない。障壁という意味ではな
く、先へ先へと進み、いたるところで途上にあるという意味での出口なし。こういう意味
でのアポリアこそ、作品を作品たらしめる唯一の方法なのである。一度獲得したものに決
して固執してはならない。これが作品の真理を巡る厳しい掟である。それ故、ハイデッガ
ーは次のように言う。
「だから暴力行為的なものは、普通の意味での慈悲とか和解とかを知
らず、成功や威信の確証による慰留と慰撫とを知らない。こういうものはすべて完成の仮
象にすぎぬと、創造者としての暴力行為者はみなして、これを蔑視する。法外な志を抱い
て彼はすべての援助を退ける。彼らにとって没落こそは、圧制的なもの(存在)に対する
最も深い肯定なのである。
」9創造者はこのことをよく心得ている。本質的創造者であって、
しかもその創造力の最も充実した時期に、このような没落の地点に立たなかったものがい
ただろうか。外部の事情が、あるいは何らかの偶然事が、彼らをこのような没落の地点に
へ追い込むのではない。彼らは作品の本質に呼びかけられて、つまり非隠蔽性(ア・レテ
イア)そのものの要求に応じて、自ら進んでかかる地点に身を置こうとするのである。そ
こでは、没落こそが、自らの現存在、および存在そのものの最高の肯定であり、秩序の暴
力的破壊そのものが、秩序そのものの最高の創設であり、一切の他者の理解と慰撫を拒絶
することが、同時に共同体への最も親密な加入であり、共存在の最高の実現なのである。
存在そのものの真理から見られた人間存在とは、πόλις-α-πόλις(ポリス・ア・ポリス)と
いう裂け目として存在していることであり、没落においてのみ自らを肯定する悲劇的存
在として、それはまことに不気味である。それゆえ、人間を最も不気味なるものとする
人間の本質規定は、この裂け目、この欠如の α そのもの、人間のうちに深くくい込んだ
無的なものを、外からながめるのではなく、我々がそれを創造するものとして引き受け、
それを内側から生きるとき、いよいよ不気味なものとして我々を脅かし、迫り、その妥
当性を獲得するのである。
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Martin Heidegger „Einführung in die Metaphysik“ 4. Aufl. Tübingen, Max Niemeyer, 1976,
S. 125. (川原栄峰
訳
『形而上学入門』理想社、1960)
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したがって『存在と時間』において、死へと向けて先駆している単独者としての自己が、
決定的重要性を有し、共存在の積極的意味が欠如しているように見えても、それは決し
てそうではない。むしろこの欠如そのものこそ、創造活動を巡るより深い共存在の可能
性への最初の予感であり、また、あの世界や情況へのあの距離そのものこそが、人々と
物どもが、近みを獲得する根源的共存在の領域への突破口なのである。
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