教育思想における労働の意義

教育思想における労働の意義
渡 部
てのべていくことにする。
は じ め に
ルソーの労働教育思想
この小論の目的とするところは、近代ヨーロッ
パの教育思想家であるルソー、ペスタロッテ、フ
ルソー(J.−J.Rousseau,1712−1778)の労働
レーベルなどを中心として、これらのひとびとが
教育の思想はその主著「エミー
教育における労働の意義を、どのようにみたかを
DE L,f:ducation,1762)の人間発達段階の第3
考察することである。もともと、労働教育の思想
其馴二みられることは、よく知られている。この′」、
は、ルソー、ペスタロッテ、フレーベルなどによ
説においては、エミールは労働の必要のをし1富裕
って主張される「人間教育」の系統にふくまれる
階級の子どもであるが、ルソーはそのエミールに
もの、ジョン
教育の重要な課題として「手を使う労働」=e
・ロックを代表とする貴族的、階級
ル」(女mile。u
r2〉
的な労働教育の思想、またエマニエル・フエレン
travaildes mains)を与える。
ベルク(P.Emanuelvon Fellenberg)などにみ
このことを明かにするためには、われわれはル
られる下層階級のための職業学校論などがあるよ
ソーの労働観をみておく必要があろう。ルソーに
うに思われる。
よれば、きたるべき新しい近代市民社会におしゝて
本論文は、これらのうち、「人間教育」の系統
は身分、地位、財産、による人間の差別はみとめ
における労働の教育についてのべるが、そのさい
られなし㌔ 第一、人間はいつその身分、地位、か
労働という用言吾についてのべておかかナればなら
ら振り落されるかわからをい。革命による貴族の
ない。近代の教育諸文献にあらわれてくるこの点
身分の喪失はいつ起るかわからない。
「大貴族が乞食にをって、みじめを状態におち
に関する用言吾としては、traVail,Arbeit,Besch畠ト
tigung,WOrk,labour,OCCupation などさまぎま
し)りをがら、その生れからくる偏見をもちつづけ
である。したがって、わが国においても仕事、作
ていることくらい二っけいをことがあろうか」と
業、工作、労作、労働をど、さまぎまを意義を与
ルソーはいう。したがって、ルソーによれば身分
えられて、これらの用語が用いられている。した
と地位に安んじて労働をしない人間はまさに軽蔑
がって、本論においては、これらを労働というこ
すべき存在である。ひとびとは「社会の現在の秩
とばで代表して使踊することにした。またフレー
序」(l’ordre actueldela soci6t6)が、ニのま
ベルの場合には、幼児の遊戯(Spiel)は、未来
まいつまでもつづくと思っているようだが、それ
r41
l
の労働の「子葉」(Herzblatt)ともみられるとこ
は不可能である。現在高位にあるものはいつまで
ろから、本論文においては、この点も考慮に入れ
もその地位にあることは保証されをいし、国王は
−1−
3
教 育 草 雑 誌 第11号(1977ノ
いつその地位から転落するかも知れか〕。ルソー
の内面的、有機的結合が主張されている。それは
はこのようにいって、「わたしたちは危機の状態
ルソーのことばを弔うれば、教育の目的としてい
と革命の時代に近づきつつある」(Nous apprlOC−
る人間像は「農夫のように働き、哲学者のように
hons del’昌tat de crise et du si占cle des
考えなければならをい」(Ilfaut qu■iltravai11e
5モ
7
r畠volutions.)したがって、人間は、いかなる事
en paysan et qu’ilpense en philosophe、‥
態にも対応しうる教育を受けをければをらをい。
とし〕うことになる。「学習」と「労働」は、この
そのためにはすべての人間は労働の教育を受け妾
ように相補足し一人の人間を形成する。教育につ
ければならなし㌔ これが労働の教育の必要の第一
いてのルソーの思想は、当時の階級的に分裂して
の理由である{
いた特権階級の文化と教養と、農民の肉体労働と
を一人の人間において統合しようとしたといえよ
あらゆる人間が 】 上層階級の人間はとくに一一
労働の教育を受けなければならない第二の理由は
う。ルソー自身のことばを引用すれば「教育の大
人間は社会に対して負債があるという思想である。
きな秘訣は体の訓練と精神の訓練とがいつもたが
ルソーによれば、人間は自分のもっているものを
いに疲れをいやすものとなるようにすることだ」
すべて他人と社会から借りているのだから、他人
(Le grand secret del’昌ducation est de faire
の犠牲の上に生活していることにをる。したがっ
que les exercices du corps et ceux de
て人間は、その生活費を労働によって返さをけ
l■esprit ser・Vent tOujour・S de d6lassement
ればをららない。ルソーは、「働くことは、社会
1es uns aux autrest)労働教育に対する、ルソ
的人間の欠くことのできをい義務である」(Tra−
ーの教育学的な立場は、ここにおいて、もっとも
VaillerL eSt donc un devoirindispensable 丘
明白とをる。
81
r61
1、homme social)と主張する。しかも、すべての
教育における労働の重要性は、以上によって明
仕事のをかで、一番のぞましい労働は「手の労働」
かであるが、しかし、それは、いかをる職業を通
(le travildes mains)というのがルソーの見解
じておこをえばよいか。労働一般というものが現
である。
実に存在しをい以上、労働教育は特定な職業を通
以上のようを理由で、ルソーはエミールに労働
してをされなければ妻らない。ここに、ルソーの
の教育を青年前期にさせることを計画する。これ
独自な職業に対する見解が明かにされなければを
は、まさに来たるべき革命後の自由と平等の支配
らをい。
ルソーの職業に対する批半紬勺見解には注目すべ
する近代市民社会の教育観であり、労働観である
といえよう。ルソーの教育思想の近代性はここに
きものがある。それは既成の封建的職業観を打破
もその性格を明かに示している。
すべき見解をふくんでいる。彼によればガラスを
したがって、ルソーによれば、労働教育は賃銀
扱う仕事はダイヤモンドを細工するそれよりも価
を得たり、収益を得るための職業準備ではない。
値があり、鉄を用いる職業は金を使用する職業よ
それはすぐれて教育学的な概念である。そこでは
りも尊重すべきものである。宝石細工職人よりも、
「人間」になるためにこそ労働の教育が必要であ
靴屋と石屋のはうがより尊敬されるべきである。
った。「人間」とをるためには、学問の学習と肉
ルソーによれば、その効用が一般的で不可欠を技
体の労働との統一こそが問題とをる。そこには、
術こそ最高に価値あるものであった。独立で自由
のちのペスタロッチとおなじく「学習」と「労働」
を職業こそエミールに学んでもらいたいものであ
−2−
教育思想における労働の意義(渡 部)
った。職業教育の一〟つの目的は、職業に対する偏
ちた精神と洞察力をふくんだ仕事が考えられてい
見を克服することであり、「人間」としての名誉
る。「バネ」の製造は同時に鉄の生産について学
のための労働を経験することである。
習し、箱の製作は木材の生産の研究心を削鞍し、
かくて勤勉と創意とが同時に訓練されるようでな
その意味で、自然であり、しかも自由を職業は
職人である〔。「あらゆる身分において、運命と人
ければをらをい。そこでは、すぐれて、総合技術
間とから、もっとも独立しているのは職人のそれ
教育の構想がうかがわれる。この点で、もっとも
である」(de toutesles conditions,la plus
すぐれているのは指物師(menusier)の仕事で
ind6pendante dela fortune et、des hommes
ある。指物師は板を組み合わせて家具や器具をつ
9き
est celle del’ar・tisan.)とし)うルソーの有名な
くるが、この仕事は有益、清潔で、器用さと創意
主張がみられる。自由に、健康に、勤勉に、正直
を訓練し、芸術的な優美をつく り出し、木材の研
に、生きていくのは職人の生活である。そういう
究、数学的な頭脳と構成力をつくり出すもっとも
仕事であれば骨が折れても、危険でも、男らしく
教育的を仕事である。ルソーは、この指物師の労
てよい。それに反して、
働に労働教育の一つの理想型を発見してし1たよう
ルソーは、自由のない単
純作業である織工、靴下製造工、石割工をどは、
に思われる。この指物師の仕事は、したがって、
「分別のある人問がやる仕事」(ces m6tiers des
ルソーにとっては、まさに前述の「人間修業」の
′王81
ための労働教育の内容を示すものであったわけで
hommes de sens)ではをいという。
!ニ
ルソ十二よれば、労働の教育は、あくまで、「人
ある。
間」を、すなわち「自然人」をつくるためのもの
第三に、労働教育の方法として、ルソーがあげ
である。それは金餞を手に入れるためにおこをう
ているのは徒弟教育をいし生活教育の教育方法で
職業教育ではかゝ。それは「人間修業」(appren−
ある。前述の指物師の修業は、親方のところへ学
tis hommes)のためのもので、「職人修業」
びにいかなければならをい。親方のところで、親
1汀
方とともに起床し、同じ食物を食べ、親方の家族
(apprentis ouvriers〕のためではない。
と夕食をともにしをがら、仕事を学ぶ。こうして、
さて、以上のようを意味の職業教育をのべたル
ソーは、労働教育の留意点を以下のようにあげる。
体の鍛練と手の労働を通じて、反省と瞑想(1a
まず第一に、労働教育をする場合には、生徒の素
r6flexion et dela m6ditation)をなす人間とな
質と仕事の種類との∼一致を重視する必要がある。
ることが望想とされる。そこには、すでにのべたよ
どれほど生徒が喜んで働いても、その仕事が彼の
うに「かれは農夫のように働き、哲学者のように
素質に合致しをい場合は教育的を配慮が欠けてい
考えをければをらをい」という理想的境地がみら
るといわをければをらない。生徒が喜んで仕事を
れる。そして、このようを労働の教育は、上流階
することと、彼が仕事に適しているかどうかは、
級にこそ必要であり、王冠を失っても、かかる教
大きを相違がある。このことは、意外にひとびと
育を得たひとは、王者よりも高い地位にあるとい
が注意をしをいとルソーはいう。
う。
(l苫
ルソーの労働の教育についての第二の見解は、
ペスタロツチの労働教育思想
その仕事の内容が、さまぎまな技術、知識、道徳
を総合的にふくんでいる労働の経験を重視してい
ることである。そこでは、手の器用さと創意にみ
ペスタロッテ(Johann Heinrich Pestalozzi
−3−
教 育 学 椎 誌 第11号(1977)
1746一柑27)の労働の教育思想は教育史上有名で
人間を形成するよりは、むしろ人間性をゆがめる
ある。ここでは、彼の初期の作品である「隠者の
教育をする暗記暗唱のための学校であり、彼はこ
夕暮」(Die Abendstunde eines Einsiedler・S,
のようを学校を「人工的窒息機械」(k也nstliche
1780)、「ゲルトルート教授法」(Wie Gertrud
Erstickungsmaschine)というはげしい言葉で、
ihre KinderLlehrt.1801)および晩年の作である
その非人間性を非誰している。それは彼の別の表
「白鳥の歌」(Schwanengesang,1826)をどにみ
現を引用すれば、子どもたちを「一群の羊のよう
られる彼の労働教育および技術教育の思想をのべ
に」(wie Schafein ganze Haufen)悪臭のあ
てみたい。
る部屋に押し込めて、貧弱を、刺戟のなし)、単調
rほ
し19j
ペスタロッテは「ゲルトルート教授法」のなか
にして無味亭Z燥を文字の教授をしている学校であ
で当時のスイスの教育.状況を以下のように深刻に
った。
のべている。彼は当時の教育制度の全体(das
このようを教育に対して、ペスタロッテのもと
Ganze des Unterrichtswesens)を一大家屋に
めた教育は、「人間諸力の均衡」(das Gleich=
〈141 たとえて、三階の家屋としてみている。すなわち
gewicht unsrerKr・afte)の実現であった。それは、
最上階の第三階には文芸の光が光り輝いていて、
彼の別のことばによれば、「心情力、精神力、技
少数のひとびとがそこに居住して文化を亨受して
術力の均衡」(das Gleichgewicht unsrer Her−
いる。二階には、より多くのひとびとが住んでい
zens=,Geistes=und Kunstkr嵐fte)を意味するこ
るが、三階に行くための階段がをい。無理に三階
とはいうまでもない。ペスタロッテの労働、技術
に登ろうとすると、三階の居住者から手足をたたか
の教育の本質と位置は、まさにこの点に発見され
れてしまう。そして最下の部屋には無数のひとび
るであろう。したがって、われわれ人間諸力の一
とが居住している。これらのひとびとは上のひと
面的を発展だけを目的とする教育は、其の、自然
びとと、同じ太陽光繰と空気を呼吸する権利をも
に従った教育ではをし㍉ それは「見せかけの陶冶」
二〕
ご1
ご
(Scheinbildung)にすぎをいとし1うことになる。
っていをがら、窓のをい吐気のする暗黒の穴のな
かに放置されている(sie wird・・・im ekelhaften
このようにして、ペスタロッテの技術、労働の
Dunkel fenster・loserL L6cher sich selbst
教育は、心情力と精神力と深い内面的なかかわり
1説
uberlassen.)ので、全く教育や文化から速断さ
をもって、人間形成の不可欠の要素となる。それ
れている。
は、たんなる技術のための技術の陶冶でをいこと
ペスタロッテが教育改革の対象としたのは、こ
はもちろんであった。精神力と心情力と技術力の
れら最下層の教育から遠ぎけられた貧困を民衆で
三つは内面的に続一状態にある。それは「人間本
あった。また、かりに、学校数育が彼らに与えら
性の諸力の統一」〔die Einheitder Krafte tlnSe−
れたとしても、それは人間教育の理想としての
rer Natur)の状態にかナればならぬものであり、
ごヱ
この三者は「神が結合したもの、それは人間が
「自助のできる」(sich selbst helfen zu k6n_
【1鈴
nen)人間の形成ではなかった。それは、たんな
分離できをいものである」(was Gott zusammen一
る「綴字享校」(Buchstabier・SChulen)、「書方
fugt hat,das sollderL Mensch nicht scheiden)
1ノ冊︶
幸枝」(Schr・eibschulen
鉢
「教一義問答学校」
と彼はいっている。
(Heidelbergerschulen といわれるものにすぎ
ペスタロッテの技術および労働の教育は、以上
をい。これらの学校は、ペスタロッテによれば、
のような基礎の上に位置づけてみて、はじめてそ
ー4−
教育思想における労働の意義(渡 部)
の意図するところが理解される。彼の労働の教育
のことから明かである。そこで、この技術労働教
は、たんなる肉体の動作、運動を意味しなしノゝ。た
育をおこをう場合の、ペスタロッテの示した教育
んをる肉体の運動は動物ですらこれをおこなって
方法上の留意点その他の問題を以下にまとめてみ
いる。ペスタロッテのいう技術、労働は、動物の
ることにする。
動作、運動とことをり、精神の支配を受けたもの
まず、ペスタロッテは労働の教育の根源を、
である。労働と技術とは人間の精神に従属するも
精神力と道徳力の教育とおなじく、子どもの内
のである。彼は「白鳥の歌」のなかで、「われわ
面にある自己自身を発展させようとする「自我
れの血肉の精神への従属」(die Unterordnung
衝動」(Selbsttrieb)に発見する。労働や
unsers Fleisches und unsers Bluts unter
ごミ
術の教育は、この働くことの内面的自我衝動に
unsern Gei5t)ということばをのこしているが、
支えられてしゝをければをらなし㌔ ところで俄に
それはこの労働と精神との関係を示すものといえ
よれば、感覚と四肢(Sinne und Glieder)を
るであろう。
使用しようとする自我衝動はもともと「動物的
この意味で、ペスタロッテは、労働(Arbeit)、
ごさ
で本能的」(thierisch undinstinktartig)なも
技能(Fertigkeit)、技術(Kunst)をどを精神
のであるから、労働や技術の教育は、他の根本力
との関係のもとに教育の問題にした。すをわち、
である精神的、道徳的陶冶と結合してはじめて、
彼の場合には「労働」と「学習」は、その根源
人間的を労働、作業、技術となりうるということ
において統一的に把握されることにをる。たと
になる。労働の学習は信仰と知的陶冶との密接を
えば、両者の関係について、ペスタロッテは、「シ
結合がなければならない。とくに注目すべきこと
ュタンツ便り」のなかで「私は元来学習と労働
は、ペスタロッテが感覚と四肢の練習の基礎に、
とを、教授施設と生産施設とを、結合し、両者を
精神的陶冶の一つである数と形、計算、図画など
相互に融合すること
の教育が存在しをければをらないと主張すること
entlich darauf aus,das Lernen mit dem
である。したがって、ペスタロッチによれば、あ
Arbeiten,die.Unterr・icht mit derIndustrLie−
らゆる技術的および職業的能力の陶冶の内面的本
Anstalt zu verbinden.und beydesineinander
質は、「人間本性の精神力の形成」(Ausbildung
2す
ご9
zu schmelzen.)といっている。この作品はペス
der geistigenKraft der Menschennatur) に
タロッチの初期の作品であるのが、この思想は晩
依存するということになる。もっと明かにいえば、
年の「白鳥の歌」に至るまで、生涯一貫して、彼
「計算と測量と図画」(Rechnen und Messen und
の教育観の中核的要素の一つであったといってよ
…Zeiclmen、)ができること、直観教育の結果と
いであろう。たとえば、「白鳥の歌」のなかで、
しての思考力と判断力の教育を十分に受けた人間
にしてはじめて、労働と技術の内面的要素を身に
「幼時から、祈り、考え、働くことを学んだ子ど
つけたということができる。労働と技術の学習な
もは、すでに半ば教育されている」(ein Kind,
das von friiherJugend an beten,denken und
いし練習は、かかる条件のもとにはじめて、開始
ご
ar・beiten geler・nt,ist schon halb erzogen.)と
をされることができるという。このようにペスタ
いっているのでも明かであろう。
ロッテは、労働と技術の教育における「精神的に
Bα
労働、作業、およびそれと関連する技術の教育
して身体的」(geistig und physisch)なものを
が人間教育の重要を構成要素であることは、以上
強調していることは、彼の技術、労働教育の注目
−5−
教 育 学 雑 誌 第11号(1977)
すべき点である。ニのように彼の場合には精神力
うが、これらの能力においてすぐれてし、ることを
と技術力ないし職業能力は、内と外との関係を保
附記してしノゝる。ところで、ペスタロッテはこの技
持することになるが、それは究極的には、彼の
術の基礎の分析分頬においては「直観のイロハ」
「人間諸力の均衡」の理論から、神の信仰と愛に
の場合のように明白な言明をわこをっていをし㍉
よって、基礎づけられた労働、技術の教育観へと
彼は「技能のイロハ」はまだ発見されていをいし、
発展していくことば当然である。
発見される試みもをされていないとのべている。
ペスタロッテは、このように技術、労働の教育
いずれにせよペスタロッテは、労働と技術の教
における「身体的、精神的なもの」の同時的存在
育を身体における感覚、器官、四肢の使用を中心
を主張する点において、かつて、ルソーが「農夫
として考えたことは事実である。そして、この労
のように働き哲学者のように思考する」とのべた
働と技術の練習を子どものうちから、家庭にお里
労働の教育観と相通ずるものをもつように思われ
ておこをうことを強調する。それは、彼のいう基
る。
礎陶冶(Elementarbildung)の一つとして、他
ペスタロッテの技術、労働教育の第二の注目す
の精神力と道徳力の陶冶とおをじく、子どもたち
べき点は、身体の各部分の「使用」(Gebrauch)
の生活環境である「家庭生活の影響のなかで」(in
の問題である。彼はそれを、「感覚と四肢の機械
dem Einfluβ des huuslichen Lebens)学習さ
的な練習」(die mechanischen Uebungen der
れ怠ければをらをし㌔基礎陶冶の一つである労働
3茸
(31J
Sinne und der Glieder) とよび、またすぐあ
と技術の教育は、三大根本力(Grundkr注fte)の
とのところで「技術力の身体的体操」(die physiT
形成原理である「生活が陶冶する」(Das Leben
sche Gymnastik derKunstkraft)と名づけてい
bildet.)とし)う方法にしたがって、子どもたち
る。人間は思考することによって自己の精神力を
の幼時からの家庭の生活のをかでおこなわれる。
高めることができる。また人間は「愛と信仰の事
ニれこそが労働と技術の教育における合自然の教
実によってのみ」(nurL durch die Thatsache der
育の方法であった。ペスタロッテが「リーンハル
Jう
8Z
Liebe und des Glaubens)その道徳的陶冶を身
トとゲルトルート」において家庭における糸つむ
につけることができる。それとおをじように技術、
ぎや織布の作業の教育をしたのはそのことを意味
労働の教育は、その感覚器官と四肢を使用する練
している。それはペスタロッチの「近接の原理」
習によっておこなうことができる。その練習のた
といわれるものであろう。
めに、ペスタロッチは技能の基本的要素を明かに
ところで、ペスタロッチは「白鳥の歌」のをか
し/ようとしたことは、すでに「ゲルトルート教授
で、当時の社会構成を、農民階級、市民階級、貴
法」の後半に見える。彼は、これを「技能のイロ
族階級に分類し、家庭の環境もこれらの階級に応
3茸
ハ」(das ABC der Fertigkeiten)とよんだこ
じて異をっていることを指摘する。そして、その
とは周知の通りである。ここで彼は、身体諸力を
労働と技術の教育は、この階級と環境とに応じた
単純をものに分解し、「打つ」(Schlagen)、「運
生清のなかでなさるべきであると主張する。すな
ぶ」(Tr・agen)、「投げる」(Werfen)をど8偶の
わち農民の子どもの労働と技術の教育は、農民の
8亜
基本的をものをあげ、これを人間発達の初期から
環境と階級の教育に応じておこをわれをければな
心理学的に配列された順序で練習することを提案
らをい。このように教育を子どもの身近かをとこ
している。しかも文明人よりも、野蛮人たちのほ
ろから開始させ、それを人間共通の境地にまで高
ー6−
教育思想における労働の意義(渡 部)
めようとするペスタロッテの教育思想は、この
面化する作品と生産のための活動」(T注tigkeit
場合にも、明かに見出すことができよう。そして、
fiir・良uβeres Werk.fiir・Erzeugnis)が幼児の
このような特殊を環境にある家庭において学習し
暗から十分に教育されていない。
ごさ
フレーベルはこの点について、「現在の家庭教
た基礎陶冶としての労働、技術は、将来特殊な地
位と身分における職業的技能へと発展さるものと
育は学校数育とおをじように、子どもたちを、
考えられていた。したがって、ペスタロッテの基
身体的怠惰(K6rpertr註gheit)と労働の怠惰
礎陶冶としての労働、技術の教育は、とくに農民
(Werkfaulheit)の方に指導している」とのべ、
階級や都市の生産階級の教育を意識しておこなわ
そのような教育の現状を改革するためには、現在
れたとみることができよう。これらの階級のひと
の学校の授業時間と同じくらしゝの労働の授業
びとは、上流階級のひとびとが必要とするような
(Ar・beitsstunde) が学校のをかに導入されるこ
知識を第一義的に目的とすべきではをいと彼はい
とが必要である。しかも、この労働の教育は幼児
う。都市の生産階級にせよ、農村の生産階級にせ
から開始されなければをらない。なぜをら「乳み
よ、生産階級全体の浄福は、かれらの労働と技術
子」(S温ugling、)のおこなう感官や手足の活動は
の草習に依存するとペスタロッテは主張している。
労働の最初の芽(der ersteKeim)であるから
89)
である。遊戯をしたり組みたてたりすることは、
子どもたちの労働である。したがって、この時代
フレーベルの労働教育思想
の活動、作業、遊戯こそ未来の労働や勤勉のため
フレーベル(F.W.A.Fr6bel1782−1852日ま、 の重要を時機(Zeitpunkt)でなければ篭らかIc
青年時代ニケ年にわたって、ホルソハウゼン
どのような階級や地位に生れた子どもでも、少年
(HoIzhausen)家の三人の子どもたちとともに、
でも、このような生活をしをければをらをい。「労
イヴェルドンに滞在し、ペスタロッチの教育実践
働を通じての、労働における学習」(das Lernen
に深いかかわりをもったことは、彼の「自伝」に
durch und beider Ar・beit)こそもっとも具体
見えるとおりである。その意味で、フレーベルが
的を、なにものにもまさる力強い学習であるとフ
労働と教育との深い内面的を関連を重視したこと
レーベルはのべている。
40モ
フレーベルはこのように労働に人間形成上重要
は決して偶然をことではをい。
かつて、ペスタロッテが、当時の学校を、皮相的
な価値を与えてし)るが、それではフレーベルは、
な文字本位の無味事Z倶な暗唱中心の一面的を
いかをる労働観をもっていたのであろうか。二の
(einseitig)学習をする学校を「窒息機械」と酉告
ことを明かにすることによって、われわれ忠彼の
評したとおなじように、フレーベルは、その「人
労働教育の深い洞察に接することができる。
フレーベルの労働の思想はキリスト教の背景を
間教育」(Die Menschenerziehung,1826)の
をかで、当時の子どもたちが「形づくられをし1も
もった労働観であを)、いわゆる経清的価値を中心
のや形のを いもの」(Ungestalteten und
とした労働観ではをかった。フレーベルは、ひと
ご
Gestaltlosen)について雑多な多量をことが教えこま
びとが生産活動について、全く誤った死んだ概念
れていることを、人間形成上の一大欠陥として非
をもっていることを指摘し、以下のようを、聖書
難している。抽象的、言語的な教育のみに学習が
の創世記を思い出させるようを人間と労働の本質
走り、子どもたちが自己の内面生活や思想を「外
的な関連を強調する。彼によれば「神はたえまを
−7仙
教 育 学 稚 誌 第11号(1977)
に「信仰を伴わをい労働と活動とは人間を……機
く創造し続け働きつづけている」(Gott schafft
und wirkt ununterbr・OChen stetig fort.)神は
r411
械にする」(Ar・beit,Wer・kt畠tigkeit ohne Relト
43
鉱物、植物、人間を創造した。また神は人間を自
gion den Menschen…・Zur Maschine macht.)
己の模像(ein Abbild seiner selbst)として創
とのべている。このことは、前述のペスタロッテ
り出した。したがって、人間は神の似姿として神
の労働と愛と信仰との関係にわれわれを連れもと
のように、創造し、労働しかナればをらをい。す
す感さえある。フレーベルが幼児、少年、青年の
なわちプレ…ベルにおいては、労働は、神の似姿
教育における労働と活動の重視と強調の理由はま
として創られた、神性を宿した人間が、神のよう
さにここにあるのであり、たんをる貨銀獲得を∃
にをるための、人間の本質を実現するための手段
的とする職業教育や技術教育ではなかったように
であるとみることができる。このことが、労働の
思われる。
真の目的であり、崇高な意味(der hohe Sinn)で
ところで、以上の労働と痛動とを、教育の問題
として、幼児の発達段階に即していうならば、そ
ある。
したがって、フレーベルにとっては、生産のた
れは遊戯(Spiel)となって子どもたちの生活の
めの活動や労働も、創造の活動も、経清的価値の
なかに出現してくる。ニの遊戯こそ、子どもの生
創出ではをかった。労働はパンと家屋と衣服を獲
活の本領(Element)ともいうべきものであり、
得すること(sich Br・Ot,Haus und Kleider zu
内をるものの自由な表現である。幼児の遊戯は、
er・werben)だけのためにあるのだという思想は、
フレLベルによれば、たんなる遊び(Spielerei)
迷妄であり、妄想であるということになる。した
ではない。それは非常に真面目なものであり、深
がって、フレーベルによれば、衣・食・住は、神
い意味をもっている。したがって遊戯は、幼児期
性の実現という労働の附加物なしゝし残余(bb。r−
の労働の一種である以上、そこには倫理的価値が
schuβ)であるのに過ぎか1。神の国を求める活
ふくまれていると解することができるであろう。
動をするものには、衣・食・住はおのずから与え
幼児の生活の場合「すべての善の源泉」(die
られる附加物rZugabe)である。フレーベルの
Quellen alles Guten)は遊戯のなかにあり、ま
労働観はこのようを彼の信仰に裏附けられたもの
たそこに起因する。そして、さらにつづけて、フ
であった。
レーベルは「力いっぱいに、自発的に、黙々と、
(44)
これが、フレーベルが労働を人間形成の必須の
根気よく、身体的壕労にいたるまで根気よく遊ぶ
内容とみた理由づけであり、そこには物質に対す
子どもは、確実に、強健を、黙々とした、根気の
る人間の内的生命ないし精神の強調がみられる。
ある、他人と自己の幸福を献身的に促進する人間
したがって、労働の教育は、かつて、ペスタロッ
とをるであろう」とのべている。子どもの遊戯に
チがのべたように、幼児少年の時代から開始さる
対するフレーベル独自な解釈がそこにみられるで
べきものである。宗教教育が幼児期から開始され
あろう。さらに、フレーベルは子どもの遊戯のを
ることが望ましいように、勤労と労働の教育は早期
かに、その子どもの遠い未来の内面生活のあり方
の教育(fruhe Bildung)が重要であるとフレー
が洞察できることを強調し、「この年代のさまぎ
i4まr
1:
ベルはいう。このようにのべて、彼は労働の宗教
まな遊戯は未来の生活の子葉である」(DieSpiele
的意義を強調し、「生産活動と結合しない信仰は
diesesAlters sind die Herzbl温tterdes gan−
空虚な空想(1eer Tr・畠umerei)」であること、逆
zen kiinftigen Lebens.)とのべ、人間全体(der・
†摘
ー8−
教育思想における労働の意義(渡 部)
ganze Mensch)がこの遊戯のをかで発達すると
まれている「母の遊戯と愛撫の歌」(Mutter=
いう。大人が労働することによって、その人間性
SpielundKose Lieder)の内容をみるとそのこ
を展開するように、幼児は遊戯とし)う労働によっ
とは明白である。ここでとりあげられたテーマと
て、その人間性を展開することにをるというもの
絵図をみると、たとえば「炭焼き小屋」(die
であろう。
K6hlerhiitte)、「大工」(der・Zimmermann)、
付さな寓T」(der kleine G盆rtner」、「車大
幼児の生活や遊戯は、たんをる活動そのものの
ための行動である。しかしをがら、それらは少年
工」(der Wagner)など労働と労働者の活動が言吾
時代には形成衝動や造形衝動へと発展していく。
られ、措かれている。また諸所に仕事の分担、役
それは仕事(Beschaftigung)の段階となってあ
割の必要についての教訓までのべられている。
らわれてくる。したがって、親たちは、子どもた
以上のことから、フレーベルの遊戯、作業
r49j
ちが労働や仕事の手伝いをしようとすることを、
(Beschiftigung)が教育上、重要な意義をもつも
子どもっぼい、余計を行動として排除してはなら
のであることをみた。フレーベルは「無邪気を遊
をい。親たちは子どもがものを形成したり、仕事
びのをかに、しばしば崇高な意味がある」「Gar
をする身体的な活動をたくみに指導することが必
hoher Sinnliegt oftim kind’schen Spiel.)
要である。少年期の労働は、「家庭の仕事を分担
とのべ、そこに倫理的価値を認めた。それはペス
すること、持ちあげること、引くこと、運ぶこと、
タロッテのところで、すでにみたように、労優れと
掘ること、割ることである」(Teilen des h温us−
信仰の結合が、フレーベルにも存在していること
1ichen Gesch邑ftes,Heben,Ziehen,Tragen,を示すものである。
IIT
Graben,Spalten)。子どもたちは自分の力を練習
ところで、ニのフレーベルの「遊戯」と「仕
することを放する。森や牧場の仕事、家畜の世話、
家具の製作を父親と一緒にすることを放する。少
事」の思想は、さらにデューイの労働教育の「仕
年たちはいかをる困難をもさけたりしをい。
事」(occupation)の概念に結合していったこ
「いな、彼はそれらを求め、それらを乗り越える」
とに、簡単にふれておかなければをらない。すな
(nein!er sucht sie auf,er也berwindet sie.)
わち、デューイの「学校と社会」(The School
幼児期には子どもたちは、活動そのものを喜んだ
and Society,1899)のなかには「フレーベルの教
が、今や少年たちは「仕事ををすこと」(Tun)を
育原理」(Froebel’s EducationalPrinciples)
喜ぶ。少年たちは、水、秒、粘土、積木(Bauk−
という章が存在することは同和のことである。デ
lotz)で作業をする。フレーベルの恩物(Gabe)
ューイはそのなかで、シカゴ大学の実験学校が4
による作業の思想はここに生れたものであろう。
才から13才の子どもを在学せしめて、そこでは、
作業は、しばしば集拭作業とをる。ここに、作業
フレーベルの若干の原理を学校全体の課程に実施
は勤勉、協力、相互援助など倫理的を有為を大人た
しようと努力していることをのべている。そこで
(4邸
は、デューイはフレーベルとほぼおなじ遊戯の教
ち(ttichtige Manner)への形成の基礎があるc
またフレーベルは、母親が幼児に対して労働の
育的価値について、「子どもたちのすべての能力、
興味と知識を与えることにも意を用いていた。そ
思考力、身体運動の自由な活動、相互作用」(the
のことは彼の第二の主著とされている「母の歌と愛
free play,theinter・play,Of allthe child.s
撫の歌」(Mutter−und−Kose Lieder,1844)にふく
powers,thoughts,and physicalmovements)と
一9w
教 育 学 推 諾 第11号(1977)
のべ、さらにすすんで、デューイは子どもの遊叡
人の教育思想は、その思想的背景もことをり、ニ
は、生活の資を得るための活動、大人の職業活動
れらを同一の基準で扱うことはできない。しかし、
とは関係のないことを主張するが、ニれは、まさ
これら3人の労働教育の思想を思想内容の面から
にフレーベルの前述の労働観と同じ趣旨のもので
みるときは、そこに意んちかの共通の性格ともい
ある。さらに、デューイは、「遊戯は、子ども
う/ミきものが見出されるように思われる。
の最高の目的が成長の充実を意味する」というが、
まずいえることは、すでに記したように、ニれ
ニれもフレーベルの遊戯諒と同一の主弓長であろう。
ら3人の思想家が、「人間教育」の不可欠の要素
つぎにデュpイの「仕事」(occupation)はフレー
として、労働ををんらかの形態において重視して
ベルの「仕事」(Beschaftigung)の方向とおをじ
しゝることである。教育の実践の面からみるときは、
教育的を意味をもつものと解される。デュー
イは
3人の教育家は、それぞれ特定の環境、職業、仕
この「仕事」に対して、それが子どもたちの視野
事を通じて労働の教育ををしているが、究極に目
と社会的洞察力を鋭くし、協力や勤勉の倫理的意
的とすることは「人間」の教育であり、階級的な
義さえ認めている。さらにデューイはその著「教育
職業教育のためでをかった。その意味で、クルプ
における道徳の原理」(Mor・alPr・inciplesin
スカヤが、 ペスタロッテの労働教育とペスタロッ
Education,1909)においても、労働教育につい
テの同国人であるフエレンベルクの労働教育を厳
て、子どもの構成、生産、創造、諸活動に訴える
密に区別したことは、注目に値する。すなわちク
教育方法は、社会奉仕の方向へと子どもたちの目艮
ルブスカヤは、その著書である「国民教育と民主
を開くことを明かにし、「手の訓練は手仕事以上
主義」のをかで、
の価値がある」(Manualtrainingis more than
自分の学校で、生産労働がおよぼす教育的影響に
与こ
「ペスタロッテは、ノイホフの
mannal.)とし1ってし1るが、ここにも、ペスタロ
大きな意義をあたえ、事業の経済的な面は第二義
ッテ、フレーベルの労働の教育とおなじ観点が発
的をものになっていたのであるが、ホフヴィルの
見しうるであろう。ニのように、デューイはこの
フエレンベルクの所では、この経済的な面が第一
フレーベルの「仕事」が真の意味で享校のなかに
線とをっていた」とのべているが、二れは両者の
実現されることをのぞんだが、しかし、いっぽう
労働教育が基本的に異質のものであったことを示
5屯
フレーベルの弟子たちが編み出した偵墳意手技の
すものである。
−
ヵリキュラムを認めるわけにはいかをかったま
第二の注目すべき点を、ルソー、ペスタロソチ、
たデューイは、フレーベルの恩物に内在する神秘
フレーベルの労働教育思想にもとめれば、彼らが
的な象徴主義に批判的態度をとったことは、ここ
労働の学習、技術の学習に知識の学習を結合して
にあらためてのべる必要はをいであろう。
店3〉
いた点があげられなければをらをい。とくにルソ
ーの総合享習論としての労働教育は、すでにクル
ブスカヤも注目していることからも明かであ
5ぎ
る。
そして、最後に忘れることができないのは、ニ
以上われわれほ、教育と労働との関係を、ルソ
の近代教育思想家たちが、労働、作業、いを遊戟
ー、ペスタロッテ、フレーベルの3人の教育思想
の活動を通じて、人間の倫理的側面の形成の秘密
家を中心に考察をおこをった。もちろん、ニの3
をわれわれに指摘したことである。このことは、
−10叶
教育思想における労働の意義 r淳 部)
デューイの「仕事」の教育的意義をのべたときに
(25二ibid.、S.2
も指摘したが、労働の教育が「人間教育」に対し.
(26)].H.Pestalozzi二Ver・mischte Schriften
p畠dagogischenInhalts Pestalozzi、s
ておよぼす大きな意味であるといえよう。
WerkeIX S.38
〔注〕
i27り.H.Pestalozzi:Schwanengesang,S.124
本論文において引用、参照した文献のうち、ルソーの
(28jibid.,S,25 (29′)ibid”S.23
工ミ肝ルはEditions GarLnier Fr占resを、ペスタロ\′ノ
(30)ibid.,S.23 (31)ibid.、S.24
千の Die Abendstunde eines Einsiedlers,1780.
(32ノ)ibid‥S.6【7
Wie Gertmdihre Kinderlehrt,1801,Schwanen=
(33、)].H.Pestalozzi:Wie Gertrudihre Kinder・
gesang,1826 をどは Cotta 坂の Pestalozzi’s
lehrt、S.252
S温mmtliche Schriftenの諸巻を便開した。またフ
(34二)ibid‥S.251−252
レーベルの「人間の教育」については、P誼dagogische
(35)J.H.Pestalozzi:Schwanengesang.S.25
Texte,hg.V.W.Flitner中のFr6belAusgew払Ite
(36)ibid‥S.41
Schriften,hg、V.Er・ika Hoffmann.Die Menschen=
(37)F・W・A・Fr6bel:Die Menschenerzielmng,
erziehung,Zweiter Band,1951を使用した。なおこ
S.30
れら諸文献の訳文は岩波および平凡社出版の訳書を
(381ibid,.S.29 (39)ibid.,S.30
参照した。
(40)ibid.,S.30 (41)ibid.,S.27
(1)F.W.A.Fr6bel:DieMenschenerziehung,
(42)ibid.,S.30 (43)ibid..S.30
(44ノibid.、S.36 荒井武訳
S.36
(2=.一].Rousseatl:Emiie.p・226
「人間の教育」「岩波文庫)70頁では、das
Elementを元素と訳しているが、本領と訳
(3)ibid..p.224 (4)ibid・,p,224
√5)ibid..p.224 (6)ibid・,p.226
すべきであろう。
(7)ibid‥p.236 (8)ibid・,P.236
(45)ibid.,S.36 (46)ibid‥S.36
t9)ibid.,P.226 (10)ibid・,p・233、234
(47)ibid.,S,62 (48)ibid.,S.66
(11)ibid.,p.234
(49)プリエファ一編、荘司雅子訳 フレーベル
母の歌と愛撫の歌,1976,82,84,92,96頁
く:12)クルブスカヤ著、勝田昌二訳、国民教育と
(50)John Dewey:The Schooland Society,
民主主義(′岩波文庫)p.33
1899,p.9
(13)],−],Rousseuu:Emile,P[236
(14)].H.Pestaiozzii:WieGertrudihre.Kinder
(51)John Dewey:The Mor・alPrinciplesin
Education,1909.p.26
lehrt‥S.96−97
(52)JolmDewey:The Schooland Society,
(15)ibid.,S.97 (16)ibid.,S.86
p.114
(17)ibid.,S,252 (18)ibid.,S.30
「19)ibid.,S.30
(53)ibid.,p.116
(20り.H.Pestalozzi:Schwanengesang.S.27
(54)クルプスカヤ著、膵田昌二訳 国民教育と
(21)ibid.,S.27 (22)ibid.,S.4
民主主義(岩波文庫)62頁
(23)ibid..S.5 (24)ibid.,S,5
(55)同上書 33頁
−一11−