かくれ念仏とは? - 三股町

かくれ念仏
かくれ 念仏とは
念仏 とは?
とは ?
「かくれ念仏」という言葉は比較的新しく、昭和年代にできた言葉のようです。
「かくれ念仏」は、九州ではかなり知られているでしょうが、「かくれキリシタン」ほど全国的に知
しん こう
だん あつ
られていないでしょう。両者ともに信仰の灯を守り続けましたが、その歴史は弾圧を受け続けた歴史
え
ど ば く ふ
きんきょうれい
に ち れ ん しゅう
ふ じゅ ふ
せ
でもありました。江戸幕府が禁教令で信仰を禁止したのは、キリスト教と日蓮宗の一部(不受布施
は
さ が ら
ひ と よ しは ん
し ま づ
さ つ ま
りゅうきゅう
あき づき
たか なべ
派)の2つでしたが、相良氏の人吉藩、三股町が属した島津氏の薩摩藩・琉球、そして秋月氏の高鍋
じょうどしんしゅう
いっこうしゅう
藩では、浄土真宗(一向宗)も禁制とされました。以下では、簡単にその歴史に触れていきます。
< 目 次 >
1.弾圧の始まり
1
2.弾圧の原因
2
3.天保の法難
2
4.薩州内場仏飯講
6
5.三股町の仏飯講関連史跡
8
6.参考文献
13
1.
1.弾圧の
弾圧の始まり
たん
南九州のかくれ念仏は、薩摩藩による浄土真宗禁制に端を発します。浄土真宗はいつ頃薩摩
藩に伝わったのでしょうか?詳細は不明ですが、1470年代には浄土真宗寺院が宮崎県日向市
しょうか くじ
せ んそ う じ
そう けん
(正覚寺)や大分県大分市(専想寺)に創建されていたという記録から、少なくとも15世紀後
ほん がん じ
そ う し ゅれ ん に ょ
半には南九州に伝わっていたと考えられています。この時期は、本願寺第8代目宗主蓮如~9
じ つに ょ
ふき ょう
代目宗主実如の時代に当たり、浄土真宗の全国布教への展開時期と重なるようです。
けいちょう
よし ひろ
弾圧の明確な始まりとして確認できるものは、慶長2年(1597)に島津家第17代当主の義弘
おき ぶみ
えき
ま ぎ わ
せん だい
より出された二十ケ条の置文です。置文は、慶長の役により朝鮮へ出兵する間際に川内で書か
れたもので、その中に下記の一文があります。
い っ こ う し ゅ う の こ と
せ ん ぞ い ら い
ご
き ん せ い
の
ぎ
そうろう
じょう
か の し ゅう たい
な
そうろうもの
く せ ご と
こ と
一、一向宗之事、先祖以来御禁制之儀ニ候之条、彼宗躰ニ成リ候者ハ曲事タルベキ事
これが薩摩藩全域に出された最初の弾圧命令と言われています。「先祖以来」というのは、
じっしん さい
ただ よし
義弘の祖父の島津日新斎(忠良)以来とも解釈できますが、15世紀後半に浄土真宗が伝わって
け い か いか ん
以降、島津氏の浄土真宗に対する警戒感は強かったようです。程度の差はあっても義弘の代以
だ と う
前から一向宗は既に禁制で、弾圧も行われていたと考えるのが妥当でしょうか。
-1-
2.
2.弾圧の
弾圧の原因
だいみょう
いせいしゃ
弾圧の原因は諸説あります。代表的な説は、大名という為政者の立場から見た浄土真宗に対
きょ うふ
き
き
きょ うぎ
びょうどうし そう
する恐怖感・危機感が弾圧につながったとする説です。その恐怖感は、教義(平等思想)から
い っ き
し じ つ
め
ば
だけではなく、一揆を組んで権力側を攻撃してきたという史実からも芽生えたものでしょう。
か
が
まつだいら
とく がわ
いえ やす
み か わ
お
だ のぶ
その史実とは、加賀の一向一揆を始め、松平(徳川)家康を苦しめた三河一向一揆、織田信
なが
いし やま
こう そう
長を10年にわたり苦しめた石山本願寺の一揆との抗争の歴史です。
とり しま
いじゅういん こう
また、都城地方が他の地域よりも取締りが厳しかった原因に、慶長4年(1599)の伊集院幸
かん
た だむ ね
しょうがい
た だざ ね
しょうない
侃(忠棟)生害事件によりその息子忠真が起こした庄内の乱が挙げられることがあります。幸
しん じゃ
き い ん
侃一族が一向宗信者であったことに起因しているようですが、地域的・時期的に限定された見
方でしかないでしょう。
こう
一方、薩摩藩の財政事情は他藩と同様に苦しいものでしたから、「講」(信仰集団)を通じ
じょうのう
おさ
て本願寺へ上納されていた金銀の流出を抑えたいという財政的な理由もあったようです。
けいぞく てき
ぎ も ん し
かく
現在では、弾圧が300年にわたり継続的に行われたかについては疑問視されており、藩政の確
り つ き
てんかんき
けん かい
すい
立期と転換期に集中しているとの見解があります。薩摩藩の戦略的・政治的・経済的状況の推
い
こうしょう
きゅうめい
移を時期毎に考証することが、弾圧の原因究明に必要とされています。
※弾圧原因の諸説は、浄土真宗の解説書や、今では市町村史や郷土の研究会誌等でも紹介さ
れていますので、ここでは割愛させていただきました。
3.
3.天保の
天保の法難
ほう なん
だん あつ
はく がい
法難というのは、仏教を広める際に受ける弾圧や迫害のことです。
め い じ
しんきょうじゆうかいきょうれい
ふ た つ
浄土真宗に対する弾圧は、明治9年(1876)に「信教自由開教令」が鹿児島に布達されるま
か こ く
てん ぽう
で約300年続き、その間の取締りは過酷を極めました。中でも、天保6年(1835)の法難は激し
かったようです。2
2.弾圧の
弾圧の原因で財政的な理由もあったと触れましたが、天保の法難は正に
原因
がい とう
それに該当します。
ほう れき
だいちすい
財政が苦しかったのは全国諸藩同様でしたが、薩摩藩は宝暦の大治水(宝暦4年(1754)に
き
そ
幕府の命令で行った木曽3川の治水大工事)以降、借金が500万両にふくれ上がり、藩の財政は
はたんすんぜん
しじょうめい だい
破綻寸前でした。江戸時代の中期から後期にかけて、藩の財政改革は至上命題であったので
とう かく
ずしょしょうざえもんひろさと
す。そして、天保年間(1830~1843)に頭角を現したのが調所笑左衛門広郷でした。(調所の
だん こう
改革は強引でしたが、彼の断行した財政・軍事・農政における様々な改革が無ければ、明治維
新における雄藩としての薩摩藩の姿は無かったという評価もあります。)
じょうざい
このような時期に『御改革上納帳』という本願寺の財政改革に伴う全国からの浄財送金の記
録が薩摩藩に奪われてしまいます。その内容に驚いた藩は上納金阻止にやっきとなり、浄土真
こん ぜつ
かく さく
宗信者根絶を画策します。まずは、京都にスパイを送り、本願寺周辺を見張り、情報収集に着
手します。本願寺側も上納帳が奪われたことは薩摩藩内の門徒・講により報告されていました
せんにゅうそ うさ
ので、対応策は万全でした。しかし、宿帳の買取や本願寺への潜入捜査(役人を門徒に仕立て
ろ け ん
るなど)は続けられ、上京してくる門徒1人1人の名前は露見してしまい、天保6年の大法難
へとつながってしまうのでした。
-2-
さつまのこくしょき
いん よう
この天保の大法難に至る経緯は、『薩摩國諸記』からの引用で、多くのかくれ念仏関連
書籍の引用元となっている史料です。本願寺史料研究所所蔵で、『日本庶民生活史料集
しゅうさい
成』の第18巻(P.479~537)に収載されています。(残念ながら三股町立図書館の蔵書に
はありませんが、都城市立図書館にはあります。)
○三股町の
三股町の法難の
法難の一例
ふ
あ
てき はつ
ごう もん
天保の法難の嵐は、三股町でも例外なく吹き荒れ、強引な摘発が行われ、摘発者を拷問にか
みっ こく
てってい てき
けて情報を引き出し、密告という手段も用い、徹底的に門徒を捕らえました。『宮崎県史 史料
しげひさけきゅう ぞう
みょ うず
編 近世5』所収の「重久家旧蔵文書」(勝岡郷蓼池村南屋敷名頭日誌、または勝岡郷蓼池村年
代記とも。798~812ページに掲載)を見ますと、天保6年(1835)の大法難で、勝岡郷では894
てき はつ
かつ おか
たで いけ
もち ばる
かば やま
人もの門徒が摘発されたようです。当時の勝岡郷は、蓼池村・餅原村・樺山村の3村によって
構成されていましたので、現代の勝岡地区とは範囲が異なります。また、894人という人数が、
当時の勝岡郷の人口の何割であったかというのは史料がなく、わかりません。ただ、明治初期
ひゅ うが ち
し
ひらべきょうなん ちょ
であれば、『日向地誌』(平部嶠南著)を参考にできますので、下記に各村の人口を抜粋して
も ろ か たぐ ん
みました(諸県郡の調査は明治13年(1880)実施)。
単位:人
村
名
士族男性
士族女性
平民男性
平民女性
蓼池村
101
109
342
335
887
餅原村
10
16
110
98
234
樺山村
571
537
582
567
2,257
合
682
662
1,034
1,000
3,378
計
合
計
勝岡郷における浄土真宗信者割合=894人/3378人=26%(約4人に1人)
まず、この人口比較は十分な考察が必要であり、あくまで参考資料であることを前置きしておきま
す。その考察とは、天保6年から明治13年という45年の経過があることはもちろんですが、その間の明
みしまみちつね
さんのうばる
治3年から明治4年にかけて、地頭の三島通庸によって樺山村の中に「山王原」(『日向地誌』では
「三王原」)という新しい集落が作られたことです。『三股町史 改訂版』(昭和60年発行)の140ペー
かみながえ
ジには、「梶山・勝岡両郷を主として、その他、寺柱・田辺・安久・上長飯から70戸の士族を移住させ
たので、明治4年には大集落ができた」とあります(実際には70戸を大きく越えていました)。また、
山王原稲荷神社にある石碑:「三股開拓之碑」の背面の碑文には、政庁や学校を建てたとありますか
ら、人口は更に増えたでしょう。ただ、三島が明治4年に三股を去って以後、山王原から元の村に帰っ
た者や新しく入ってきた者もいたとありますので人口の増減はあったと思われます。山王原について
は、『三股町史 改訂版』に書かれているような三島が開拓するまで全くの原野であったというのは誤解
で、小さいとは言え集落は形成されていたのではないかとも言われています。
近い時代の資料で比較検討するということは、資料がない以上は仕方がないのですが、十分な説明を
しないと誤解を与えてしまいます。以上のことを考慮しますと、勝岡郷における信者の割合は更に高
かったはずです。3
3人に1人くらいと考えるのが妥当でしょうか。
-3-
天保の法難で、勝岡郷の多くの信者が摘発されたことは前ページのとおりです。では、その
信者はその後どうなったのでしょうか?前ページで挙げた『重久家旧蔵文書』に若干の記事が
ありますので、以下に抜粋しました。(『宮崎県史 史料編 近世5』800ページより)
同年三月廿七日より一向宗御糺方始り、同閏七月十六日誓紙相済候、御咎目なし、
御本尊五幅出、門徒人数勝岡中八百九拾四人、都而誓紙半日計之内ニ相済候
うるう
同年というのは、天保6年(1835)のことです。勝岡郷では3月27日から閏7月16日まで一
しょ ばつ
向宗の取り締まりがありました。その間、取り調べや拷問はあったでしょうが、全員を処罰す
ほう めん
るには人数が多すぎたということでしょうか。藩としては放免策を取ったとも解釈できるの
しゅ うし が
せ い し
ほん ぞん
ふく
が、宗旨替えの誓紙と本尊五幅を差し出しなさいというものでした。宗旨替えの誓紙とは、今
せいやく しょ
後一向宗を信仰しませんという誓約書でしょう。本尊というと、仏像を思い浮かべますが、五
か
じく
幅の幅という点から掛け軸でしょう。実際にこれらによりほとんどおとがめはなかったようで
す。しかし、信仰のよりどころを差し出すわけですから、当時の信者の心中を現代の私たちの
感覚で推し測ることはできないかもしれません。
薩州内場仏飯講の宝物の一部(2008年10月3日、報恩講にて)。同講の宝物は現
在、都城市山之口町の安楽寺にて保管されています。薩州内場仏飯講について
は後述。
『重久家旧蔵文書』については、『第二 三股の研究-微視の郷土史-』(桑畑初也著、元三股
郷土史研究会員)で詳しく解説されていますので、一度ご覧になっていただきたいのですが
ひっ しゃ
(三股町立図書館にて閲覧可能)、『重久文書』の筆者について若干触れておきます。
そ う そ ふ
筆者は何代かに渡っており、最初の筆者は直助となっています。その出自は、曽祖父與作が
とが
元々は桜島の郷士で、何かの咎によって百姓身分に落とされて勝岡へ移された(所移し)と書
はく だつ
かれています。名字も剥奪されており、文書中でも明かしておりません。名前も百姓風に変え
たのでしょうか。天保6年の法難記事は直助が書いたものです。天保の法難記事はこの他にも
あります。
-4-
記事は天保8年(1837)のことで、以下のとおりです。(『宮崎県史 史料編 近世5』802
ページより)
桑畑熊次郎殿腹切被成候、天保八酉十月十八日、同廿六日死去候
よ
この記事の後には、直助が詠んだ歌が書かれています。直助の執筆した部分には歌が書き込
あい とう
ふん
まれている箇所が多いのですが、ここでの歌は、熊次郎に対する哀悼と己の生き様に対する憤
がい
慨が読み取れる歌となっています。ただ、記事自体はこれだけです。熊次郎が信者であると
か、法難で捕らえられて切腹させられたとも書かれてはいません。では、桑畑熊次郎とは何者
いた
なのでしょうか?直助はなぜ一人の郷士の切腹に心を痛めたのでしょうか?
○「仏飯講古系図」
仏飯講古系図」
ぶっぱん こう こ け い ず
さっしゅうう ちば
「仏飯講古系図」とは、薩州内場仏飯講に関する由来や役員等の人名系図が書かれたもので、
き ん せ い お し お き しゅうせい
へ ん さ んか い
『近世御仕置集成』(編著者:小寺鉄之助、発行:宮崎県史料編纂会、昭和37年12月)の235~
けい さい
238ページに掲載されています。桑畑熊次郎の名前は同書の236ページに見られ、仏飯講2番組
つと
の役員を務めていました。以下に抜粋します。
桑畑熊次郎
勝岡新馬場惣代助役重ミ
右熊次郎事ハ天保六年未年法難ニ掛リ都城会所ニ被引出、無言訳切腹シテ死ス
そ うだ いす けや く
桑畑熊次郎は、勝岡郷樺山村新馬場の郷士で、仏飯講2番組の惣代助役をしていたとありま
ほ
さ
す。惣代を補佐する役目でしょうか。2番組の惣代は2名見受けられますが、2名とも百姓で
す。郷士(武士)が百姓の下で組織を支えていたということでしょうか。浄土真宗の平等思想
ならではとも言えますが、郷士と農民の協力・共存関係は『庄内地理志』でも確認されつつあ
し は い
さく しゅ
ります。武士が農民を支配・搾取していたというイメージとは異なります。
『重久家旧蔵文書』と「仏飯講古系図」から、桑畑熊次郎は浄土真宗信者であったために、天
こうりゅう
ごう もん
と
しら
保6年に捕まり、都城会所に引き出され、2年近く拘留され(拷問や取り調べはあったでしょ
む ご ん
つらぬ
う)、無言を貫いたまま切腹して果てたということが分かります。
「仏飯講古系図」の役員系図を見ますと、さらに興味深いことがあります。2番組惣代に「此
ふで なし
田(武田)与八」、桑畑熊次郎と同じく講役員に「筆無十右衛門」という名前があることで
す。「与八」とは、『重久家旧蔵文書』の最初の筆者「直助」の父であり、「十右衛門」は弟
です。直助も信者であったでしょうが、講役員に名前はありません。この辺りの事情にも、直
助の詠んだ歌に己の生き様が恥ずかしいと思わせた要因があるのかもしれません。
桑畑熊次郎はあくまで一例で、拷問によって死んだ人、処刑された人、切腹した人がいたと
いうのが歴史的事実なのです。
では、なぜそこまでして信仰の灯を守り続けたのでしょうか?
『都城市史 通史編 中世・近世』は、星野元貞氏の説(1985年、「かくれ門徒の意識構造」)
を引用しておりますので以下に紹介します(1000ページ目に掲載)。
た ん い
①藩の支配の単位を超えた信仰組織は、藩の支配から開放される場になったこと。
こうりゅう
②本願寺との交流を通して中央の文化に触れることができたこと。
ほ う き
ご く ら くじ ょ う ど
③信仰を放棄してしまうと極楽浄土の道が閉ざされるという思いがあったこと。
-5-
4.
4.薩州内場仏飯講
とう ざ え も ん
三股町には、かくれ念仏を語る上で欠かせない人物が2名います。蓼池の藤左衛門と樺山の
さん ざ え も ん
さん う え も ん
しゃくけんりゅう
三左衛門(三右衛門とも。法名は釈憲隆)です。前節で触れた「仏飯講古系図」に見られる初
め い わ
代惣代はこの2人です。「仏飯講古系図」によれば、藤左衛門は明和3年(1766)頃に一向宗
てん めい
たまわ
を広める活動を行い、その後、天明元年(1781)頃に西派本願寺から「仏飯講」の御名を賜っ
たようです。以上のことから、薩州内場仏飯講発祥の地は三股町と考えられています。また、
かん せい
し ん ら ん しょうにん
れん
寛政5年(1793)には、三左衛門は危険を伴いながらも京都に上り、本願寺より親鸞聖人・蓮
に ょ しょうにん
れ ん ざ み え い
みょうごう
か
し
如上人の連座御影と大幅の名号を下賜され、帰ってきたそうです。
< 小林市野尻町三ケ野山八所の「内場仏飯講之碑」>
遠景
記念碑正面
記念碑基壇正面の碑文(碑文は左側面に続く)
み
か
の
薩州内場仏飯講発祥の地は三股町と「考えられている」と書きましたが、小林市野尻町三ケ野
やまやところ
きだん
めいおう
山八所に建立されている「内場仏飯講之碑」の基壇碑文には、明応元年(1492)に講の創設が図
えいしょう
られ、永正10年(1513)10月18日には本願寺より仏飯講の講名を許可されたとあります。三股町
が発祥と考えられている仏飯講から約270年前には既に野尻町で同講が組織されていたということ
かんせい
になります。ただ、碑文中には藤左衛門・三左衛門の名もあり、寛政10年(1798)には講を3組
に分けるとありますので、「仏飯講古系図」を参考に碑文を作成したと思われます。「発祥の地
はどこか?」というのは様々なテーマで議論されていますが、仏飯講に関しては史料が少ないの
が現状です。今後は、史料を積み重ねて、考証していくことが必要でしょう。記念碑は昭和16年
(1941)に建立されました。
-6-
○講とは?
とは?
こう
こ うせ つ
そう りょ
「講」とは元々、仏教経典を研究・講説したりする僧侶集団、あるいはその集会を指していま
ほ う え
した。中世以降には、法会に講の名称が付けられるようになり、次第に様々な信仰集団に使わ
れるようになります。
けん のう
しい たけ
浄土真宗の講・講社は本願寺に献納する品物によって講の名前を与えられたり(「椎茸講」
た ば こ
ほう よう
しょうこう
「煙草講」など)、法要に必要なものが講名(「仏飯講」「焼香講」など)になっています。
めいしょう
同じ名称の講は数多くありますので、区別するために地域名が付けられたようです。内場と
は、都城盆地内を指しての名称だと思われますが、6ページに掲載した内場仏飯講之碑に関す
る小林市教育委員会が設置した説明板には「内場とは京都の本願寺に代表が献納金をもって参
詣の折には内陣までの参入を許され、直門徒しての取扱いを受けるという意味である」ともあ
ほこ
ります。薩摩藩内の講社は、それぞれが本願寺と直接の関係を持っていましたし、それが誇り
でもあったようです。ちなみに、禁制区外(他藩)における本願寺と信者の一般的な関係は、
だんなでら
「本願寺-檀那寺-講社-講員(信者)」でした。
にっしゅう
さっしゅう
薩州内場仏飯講(地理的には「日州」でも薩摩藩内で「薩州」ということでしょうか)は、
宮崎県の北諸県郡・西諸県郡、そして鹿児島県の一部にもまたがる大きな組織で、「仏飯講古
かん せい
系図」によれば、寛政10年(1798)には1番組、2番組、3番組に分けて組ごとに惣代や惣代
助役などの役員を置いたようです。
に し も ろ か た ぐ んた か は る
たか さき
1番組
小林市野尻町・西諸県郡高原町・都城市高崎町
2番組
都城市・北諸県郡三股町・曽於市末吉町
きたもろかた ぐん
たる みず
3番組
きり しま
そ
お
すえ よし
ふく やま
たか らべ
おお すみ
垂水市・霧島市福山町・曽於市末吉町・曽於市財部町・曽於市大隅町
さとでら
しゃとう
市域・町域全てを含むという意味ではありません。その中の一部の地域で里寺(社頭寺)を形成
し、里寺同士のネットワークが講です。昭和57年版の『薩洲内場仏飯講必携』によれば、三股町
については、上米・中米・谷・宮村に里寺がありました。里寺というのは代表者(番役)の家で
りんばん
あったり、講の世話をする宿元であったり、輪番で変えたりと様々で、実際にお寺があったわけ
ではありません。
○「取次寺」
取次寺」の存在
じ さ ん
「講」が本願寺と直結していたと言っても、講員が直接上納金を持参したり、本願寺から直接
し そう
こん なん
きわ
使僧を薩摩藩領内へ送り込むというのは困難を極めました。番所越えが最大の関門でしたし、
ほ ば く
捕縛されたり病気になったりなど、目的が達成されない危険性が高すぎます。江戸時代の薩摩
藩領に浄土真宗の寺院は一つもありませんでしたが、薩摩藩を一歩出れば浄土真宗寺院があり
かい
ましたので、そこを介して本願寺との関係を取り次いでもらっていました。本願寺から下賜さ
とり つぎ
あがた
れた宝物類も一時的に取次寺に保管されたこともありました。薩州内場仏飯講の取次寺は、縣
のべ おか
と
ち
じきじゅ んじ
うりゅうの
しょう
藩(後に延岡藩)の飛び地であった宮崎の直純寺(宮崎市大字瓜生野)でした。直純寺は、正
ほ
あ り ま
なお ずみ
保4年(1647)に延岡藩有馬氏初代藩主直純により創建されました。『薩摩國諸記』には、直
純寺と薩州内場仏飯講の親密な関係の記事が掲載されています。
-7-
5.
5.三股町の
三股町の仏飯講関連史跡
じ せ き
薩州内場仏飯講の初代惣代であった蓼池の藤左衛門、樺山の三左衛門の事績は町内外広範囲
たた
のうこつ どう
しゃくけんりゅう
かみ よね
に及ぶものです。三左衛門の功績を称え、樺山納骨堂には「釋憲隆之碑」があり、樺山の上米
みつ
満の大村家の元屋敷地内には「釋憲隆之墓」があります。釋憲隆とは昭和11年(1936)に三左
ほうみょう
衛門の法名として本願寺より賜ったものです。つまり、この石碑とお墓は、釋憲隆という法名
か
し
け い き
下賜を契機に仏飯講2番組の方たちによって建立されたものです。さらに、平成17年には「釋
憲隆之碑」・「釋憲隆之墓」のそばに仏飯講2番組の方たちによって立派な説明板が設置され
ました。残念ながら、藤左衛門の足跡は追えません。
樺山地区納骨堂敷地内にある釋憲隆之碑と説明板
釋憲隆之碑背面の碑文(一部)
三左衛門の法名:釋憲隆
(現在は山之口町安楽寺にて保管)
-8-
<参考資料1>
本資料は8ページで紹介した「釋憲隆之碑」背面の碑文です。
『みまたの石造文化 続編』(三股町教育委員会、平成15年3月31日発行)よりの抜粋です。
-9-
○釋憲隆の
釋憲隆の墓
釋憲隆の墓は、上米満の個
人敷地にあります。この墓石
の背面には、釋憲隆の略歴・
事績が刻まれています。『ふ
るさとみまた』第9号の14
ページに池田宗男氏による拓
本が掲載されていますので、
下に示しました。
また、同地には石仏や灯篭
も見られます。この近辺に宗
教施設があったことを想起さ
せますが不明です。やや離れ
て「樺山どんの墓」が所在す
る満福寺跡と伝わる場所があ
りますが、当地との関連性も
不明です。樺山地区に関して
はまだまだ不明なことが多く
『三股町史 改訂版』におい
ても研究の余地ありとして言
及していません。
<参考資料2>
『ふるさと みまた』第9号
(三股郷土史研究会編、平成
3年12月発行)所収、「三股
町の古石塔-庶民文化のモ
ニュメント-」(池田宗男
著)より抜粋
-10-
〔 追加説明 〕
三股町指定文化財第3号の「蓼池かくれ念仏洞」は、薩州内場仏飯講の念仏洞(ガマ)では
ありません。三股町の内場仏飯講2番組にガマがあったのかは不明ですが、「釋憲隆の墓」の
ぼ う く うご う
そばにガマがあったという地元の方の話もあります。ただ、防空壕の可能性も否定できません
(ガマを利用して防空壕としていたのかもしれませんが)。現在は埋まってしまい、現地確認
が出来ない状況です。
蓼池のかくれ念仏洞は、「薩州東仏飯講」のガマのようです。東仏飯講は、都城市山之口
お
び は ん き よ た け ご う あ ん ら く じ じゅうしょく さ
さ
き し んど う
町、都城市高城町、三股町の人たちで結成された講で、飫肥藩清武郷安楽寺住職の佐々木深道
(通称:大学)の導きによるものとされています。安楽寺は、明治26年(1893)に清武町から
と みよ し
い て ん
都城市山之口町富吉に移転し、現在に至っています。
①
②
①安楽寺(都城市山之口町)
②安楽寺に伝わる拷問石
③
拷問の様子は細布講(ほそぶこう:鹿児島県知覧
町)より本願寺へと報告され、『薩摩國諸記』に書
きとめられました。現在に伝わっている拷問の様子
はこの報告によるものです。拷問石は、信者を割木
の上に正座させ、その足の上に乗せたとあります。
拷問の目的は、一向宗信者であることを自白させ、
他の宗派へ改宗させ、仲間を白状させ、本尊の場所
を聞き出すことです。白状しなければ、さらなる非
人道的な拷問を行ったようです。この拷問石は都城
会所で使われたものでしょうか…取り締まりを行っ
たのは、宗門方(宗体方、後に宗門改方)であり、
そこで発行された宗門手札(木札)に基づきどの宗
派に属するかを調査しました。他藩の寺請制度とは
異なった宗教統制を取っていたということです。
③蓼池かくれ念仏洞の隣にある「讃誓碑」
次ページに正面碑文を抜粋しましたが、東仏飯講の
名前は出てきません。背面は同志の人名録が刻字さ
れていましたが、剥離しています。
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<参考資料3>
さんせい ひ
本資料は11ページで紹介した「讃誓費」正面の碑文です。
『みまたの石造文化 続編』(三股町教育委員会、平成15年3月31日発行)よりの抜粋です。
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6.
6.参考文献
『近世御仕置集成』(編著者:小寺鉄之助
宮崎県史料編纂会 昭和37年12月25日発行)
~「隠れ念仏帯解き仏法」-薩藩日州諸県地方隠れ念仏仏飯講系図(P.235~238)
『日向地誌(復刻版)』(著者:平部嶠南
青潮社
昭和51年11月20日発行)
~「諸縣郡郡誌」-三股郷(P.1482~1500)
『宮崎県史
史料編
近世5』(編集:宮崎県
平成8年3月31日発行)
~「重久家旧蔵文書」(P.798~812)
『都城市史 通史編 中世・近世』(編集:都城市史編さん委員会 平成17年6月30日発行)
~第2編-第3章-第6節-4-(2)一向宗の禁止と「かくれ念仏」(P.993~1000)
~第2編-第4章-第3節-2 かくれ念仏と一世訴人(P.1091~1095)
『三股町史 改訂版』 (編集:三股町史編集委員会 昭和60年11月1日発行)
~第2編-第5章-第4節-4 かくれ念仏と田の神(P.97~102)
『みまたの石造文化 続編』
(編集:三股町教育委員会・三股郷土史研究会
平成15年3月31日発行)
『薩摩のかくれ念仏 -弾圧された一向宗-』
(編集:ミュージアム知覧
平成11年7月15日発行)
『薩摩のかくれ念仏 -その光りと影』
(編者:かくれ念仏研究会
株式会社 宝藏館
平成13年3月25日発行)
『図説 西諸・北諸の歴史』(株式会社郷土出版社 平成19年2月28日発行)
~「かくれ念仏の洞窟」(P.150~151)
『親鸞教団弾圧史』(著者:福永勝美
雄山閣出版
平成7年1月20日発行)
『第二 三股の研究 -微視の郷土史-』(著作・発行:桑畑初也
平成17年10月10日発行)
~1.仏飯講の由来 -「佛飯講古系圖」と釋憲隆之碑・釋憲隆之墓-(P.1~32)
~2.腹切り熊次郎 -仏飯講天保六年の法難と「重久文書」-(P.33~49)
~6.重久文書を読む -勝岡郷蓼池村南屋敷名頭日誌-(P.145~257)
『薩摩かくれ念仏と日向 -一向宗禁制と六十六部』(みやざき文庫73)
(著者:前田博仁 有限会社 鉱脈社 平成22年10月22日発行)
~第3章-2.薩州内場仏飯講(P.79~107)
~第4章-1.宮崎直純寺(P.131~134)
( 三股町教育委員会 教育課 生涯学習係
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/ 2011年8月8日更新 )