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民家研究と年代測定
─その 3 2列縦割り型の畿内古民家─
武蔵大学総合研究所 科研費研究員 中 尾 七 重
1.はじめに
前稿「民家研究と年代測定─その 2 縦割型民家について─」で,2 列縦割型民家の平入化について
述べ,五間取りおよび六間取りの畿内古民家を,平入化した縦割型民家と捉える可能性を述べた。本
稿では,この観点から畿内古民家を再検討し,畿内古民家の重要な遺構である重要文化財吉村家住宅
の放射性炭素年代測定の中間報告を行う。
近畿地方には日本最古の民家である箱木千年家をはじめ,中世に遡る古民家や近世初頭の古民家が
多く残されている。林野全孝によってこれらの畿内の民家調査が行われ,日本の他地方の民家の古形
が広間型平面を持つのに対し,近畿地方では近世初頭に遡っても広間型にはならないことが発見され
た。そして畿内四間取りと喰い違い三間取りが近畿の民家の原型であり,前座敷三間取りがその祖型
とされ,それらの歴史的変遷過程が明らかにされた1)。この畿内の重要な古民家を網羅した 18 世紀
以降の変遷過程とその考察に付け加えるものは持たないが,ここでは 17 世紀の大規模な民家と町家
について,縦割り型という観点から再検討し,五間取りないし六間取りの畿内古民家と 2 列 6 室町家
古遺構が,平入り化した縦割り型平面を持つこと,中世土豪・豪商住宅の系譜の民家であること,近
世の畿内四間取りを原型にした「規模の大きい畿内四間取り民家」ではないことを述べたい。
2.畿内四間取り系古民家の間取り
17 世紀の畿内四間取り系民家の代表的な遺構である重文吉村家住宅(大阪府)は,土間境にデイ
とオイエの 2 室,上手にイマとナンドが 2 室ある五間取りで,仏間付き五間取りの範疇に入る間取り
である。重文民家の高橋家住宅(大阪府),奥田家住宅(大阪市),藤田家住宅(奈良県),片岡家住
宅(奈良県),笹岡家住宅(奈良県),村井家住宅(奈良県)は,いずれも整形四間取りの後部下屋に
小間の寝室が 2 ~ 3 室ある六間取りである。一方,大阪府の重文山本家住宅,重文左近家住宅,奈良
県の重文中家住宅は整形四間取りである。このほか重文高林家住宅(大阪府)は畿内四間取りとは異
なる 4 室構成で,前記「近畿の民家」では特殊遺構とされ,17 世紀末から 18 世紀初期には喰い違い
三間取り系平面へと改造される。すなわち,畿内四間取りとされる重文民家 10 棟のうち,7 棟が,
四間取りの後部に寝室を持つ仏間付き五間取りか古六間取りで,3 棟が整形四間取りとなる。特に 17
世紀前半以前の建築はほとんど五間取以上の平面である。畿内の古民家の遺構から見る限りでは,整
形四間取りが仏間付き五間取りや古六間取りに先行するとは言えない。仏間付き五間取りや古六間取
りは土間に沿って表側より「座敷空間」「調理空間とネマ(寝室)」が並び,この床上の間取りは 2 列
縦割り型の平面である。一方,畿内四間取りは土間に沿って 2 室が並ぶ間取りで縦割り型平面ではな
1)林野全孝 近畿の民家─畿内を中心とする四間取り民家の研究─ 相模書房 1980
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い。畿内古民家の六間取りは,江戸時代後期以降の続き座敷のある六間取りとは室配置と民家史上の
位置づけが異なるため,ここでは「古六間取り」と表記した。
3.三間取り系古民家
前座敷三間取りの重文箱木家住宅(兵庫県)と重文古井家住宅(兵庫県),重文堀家住宅(奈良県)
は,中世に建築されたと考えられている。喰い違い三間取り系民家は,重文奥家住宅(大阪府),重
文中家住宅(大阪府)があり,いずれも 17 世紀前半建築であるため,前座敷三間取りから喰い違い
三間取り,そして畿内四間取りに変化したと考えられている。
これまで,室町時代に遡る箱木家住宅と古井家住宅が前座敷三間取りであったので,前座敷三間取
りが畿内四間取りの祖型とされてきたが,近年の堀家住宅保存修理工事にかかる変遷調査によって,
堀家住宅の当初平面が前座敷三間取りの上手後部に,寝室と思われる小室のある間取りであることが
判明した2)。土間沿い 2 室,上手 3 室の仏間付き五間取りと室構成が近く,正面から「座敷空間」
「板敷居間と仏間」「(板敷居間と)ネマ」という並びの 2 列縦割り型平面と考えられる。室町時代か
ら既に,前座敷三間取りと縦割り型の小部屋つき前座敷五間取りが併存していた可能性があることに
なる。
4.町家の古遺構
畿内 17 世紀の 2 列型町家古遺構については,17 世紀に遡る奈良県の古い町家は平面的には四間取
り型農家と大差はなく構造も梁組架構の形式は同型農家と共通する3)とされる。重文の町家では奈良
県の栗山家住宅,中村家住宅,豊田家住宅,今西家住宅,音村家住宅,滋賀県の大角家住宅などいず
れも奥行きが 3 室以上の 2 列 6 室の間取りで,仏間付き五間取りや古六間取りと同様,整形四間取り
の後部にダイドコやナンドのある 2 列縦割り型平面である。構造は小屋梁を桁行梁(牛梁)で受け,
柱は桁行梁を受け,柱どうしは内法位置の差物(差鴨居)でつなぐ,大梁型の架構である4)。小屋梁
上は,農家の場合茅葺であるから,叉首で棟木を上げ,屋中を渡して垂木を掛ける。町家の場合は和
小屋を組んで本瓦葺となる。畿内古民家(農家)と町家古遺構は,葺き材が違い屋根勾配も異なるた
め,外観の印象は全く違うが,平面も軸組みも同形式の民家といえる。同じ縦割り型の住居形式が身
分に応じた外観を整えたと見なすこともできよう。2 列 6 間取りの町家は江戸時代を通じて変化は少
ない。大場修は日本各地の町家調査をもとに,日本の町家は近世近代を通じて,在来構造の大梁型か
ら京都の町家に見られる通し柱型へと構造を転換させたことを明らかにしているが,奈良盆地の街道
集落では大梁型の 2 列 6 室町家と通し柱型の 2 列 6 室町家の事例が見られ5),大梁型から通し柱型へ
と構造を転換しても,2 列 6 室の間取りは建てられ続けることがわかる。一方,民家(農家住宅)は,
重文永富家住宅(兵庫県揖保郡揖保川町)や重文北田家住宅(大阪府交野市大字私部)のように古六
間取り系の大型民家の系譜も残るものの,整形四間取りが主流となってゆく。農家における古六間取
2)重要文化財堀家住宅修理工事報告書 奈良県教育委員会 1998
3)前掲 林野 1980
4)大場修 近世近代町家建築史論 中央公論美術出版 2004
5)前掲 大場 2004
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りから四間取りへの転換は,江戸幕府の本百姓制度を基本にした身分政策の反映である。町家は面路
するため,ファサードが主規制の対象だったが,農家は梁間制限による規模規制と,身分相応という
キーワードで屋根・棟・庇などの外観全体や内部装飾にも規制が行われたと考えられる6)。
5.2 列縦割り型と畿内古民家
長野県では,2 列縦割型の本棟造り民家が松本平に分布し,そこに隣接した茅野市に 1 列縦割り型
の茅野の民家が分布している。畿内では摂丹型民家が 1 列縦割り型であるが,縦割り型の平面を持つ
民家は妻入りに限定されていたため,畿内に 2 列縦割り型は存在しないと考えられてきた。しかし,
前稿で述べたように,縦割り型平面の民家には,江戸初期から既に妻入りと平入りがあり,畿内古六
間取りや畿内町家古遺構は,平入り化した 2 列縦割り型と見なせるのである。
図 1 2 列縦割り型平面
2 列縦割型平面について,本棟造りの六間取りの例として長野県下伊那郡大鹿村の宮下家7)を,畿
内古六間取りの例として奈良県宇陀郡大宇陀町の重文笹岡家住宅を見てみよう。
両者とも片側に奥まで通る土間があり,もう片側が床上である。床上は,表側が座敷 2 室,中央が
土間境を開口した板敷のダイドコロと上手の寝室,奥側は土間に張り出した板敷と寝室 2 室である。
土間の厩と釜屋や流しは煙返し梁で分割あるいは別構造となり,主屋部分とは一線を画している。本
棟造りの中央板敷間上手は,宮下家ではナカノマとなっているが,17 世紀の遺構では 1 軒幅の狭い
寝室となっている。笹岡家ではミセノマ・土間境は建具が入り開放となるが,奈良県下の古遺構では
ここは壁で閉じられる。本棟造りと古六間取りは,平面規模は違うが,室構成は共通する。
6)丸山俊明 京都の町家と町なみ─何方を見申様に作る事,堅仕間敷事 昭和堂 2007
7)大鹿村の民家 長野県民俗資料調査報告 8 長野県教育委員会 1966
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軸部は畿内古六間取りの場合,柱上に桁行梁をかけ,その桁行梁が上屋梁を受ける。茅葺のため小
屋組は叉首と棟束併用である。上屋の梁間はミセノマとダイドコロ部分で,オチノマやナンドは後部
下屋となる。妻入りの本棟造りでも,柱上に桁行梁をかけ,その上に上屋梁をかけ,板葺のため和小
屋を組むが,平面の幅いっぱいに上屋梁が架けられ,基本的に下屋は無い。宮下家など大鹿村の本棟
造りは,下手の厩と流し部分は別構造であるが主屋の大屋根のなかに取り込まれている。屋根の葺き
材が違うので小屋組みや屋根勾配,屋根型は異なるが,軸部と小屋組みを分離した大梁型であること,
桁行き梁が上屋梁を受ける軸部の組み方や土間下手の釜屋部分が構造的に区分されることが共通する。
6.土豪の帰農土着
2.3.4. より,古六間取り ・ 小部屋付前座敷三間取り ・ 仏間付五間取り ・2 列 6 室町家古遺構は,同じ
祖型を持つグループと考えられる。これらの民家所有者の家系は,いずれも中世の武士や土豪に出自
を持ち,近世初頭の身分編成時に身分を下げて帰農土着し,それまでの在地支配層から,農民や町民
などの被支配者最上層となった階層の住居である。かれらは,戦国期には大名の家臣に編成されたが,
それ以前から所領と本貫地をもつ小領主であった。織豊政権による国内平定と身分令により帰農した
際に土着したのは,もちろん従来からの本貫屋敷地であり,屋敷地には従前より住宅や付属屋なども
存在していたと思われる。このような土豪の帰農土着の意味は,武士身分でなくなったこと,農民と
なったということである。彼らは地元の御館さまから筆頭百姓となり,本百姓制度の浸透の過程で,
村内一般農民層の突き上げに対処,従来保持していた利得の侵食に抗してゆかなければならなかった。
天正三年(1575)織田信長の河内平定と豊臣秀吉の身分統制令(1591)により帰農土着した吉村家が
直面した元和の島泉村方騒動からも,そのことがうかがえる8)。
彼らの帰農土着とは,大名への伺候をやめただけではなく,身分の変更であったから,身分表象と
しての住まいの形態,特に外観を変更することが必要だったと思われる。さらに江戸初期の幕藩体制
確立期には当然警戒された階層であるため,ことさら恭順の体を示す必要があったかもしれない。江
戸時代の建築規制は町家と農家では内容が異なるが,「表通りから目で見える「心得ちがい」だけは,
地役人たちは決して許しはしなかった。─中略─地役人たちの方も,他人の目にみえないところの見
のがしには,面子がたったけれど,表むきに目だつ心得ちがいはがまんのならないことであった。」9)
という飛騨高山の例からも窺えるように,外観が身分をあらわす最も重要な要素だった。
吉村家を始め畿内四間取り系民家の屋根の多くは,現在は高塀造(大和棟)となっているが,これ
は 18 世紀に現在見られる形に変更されたもので,江戸初期には茅葺入母屋造であった。解体修理工
事による調査で,茅葺入母屋屋根が当初の屋根形式と判明した。この入母屋屋根の形状は,近世初頭
に武士から農民に身分を下げた元土豪たちが,それまでの住居の形を改めて,農民として採用しなけ
ればならなかった屋根形態だと考えられる。
それ以前の屋根の形は,ひとつには重文今西家住宅(奈良県)に見られるような八棟造りが想定さ
8)浅野清 重要文化財住宅吉村家修理報告書 吉村家修理事務所編 大阪府教育委員會 1953,中尾七重 14C ウ
ィグルマッチングの文化財建造物への応用 第四紀学会研究委員会公開シンポジウム配布資料 2007.3.17
9)伊藤ていじ 民家は生きてきた 美術出版社 1963
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れる。1957 年に伊藤ていじは,重文今西家住宅(奈良県)に見られるような八棟造りが「その地域
の住民にとって社会的地位の最高の象徴で─(中略)─武士にとっても庶民にとっても桃山風の豪華な
建物の総称であった。─中略─八棟造りの方は木割も太く城郭のように豪放で,内部よりも外観に金
をかける。それは新興商人層の勝利の凱歌」10)であったとし,重文大国家住宅(岡山県)や重文豊島
家住宅(愛媛県)を八棟造りの例としてあげている。今西家は瓦葺の町家で 2 列 6 室間取り(2 列縦
割り型)である。大国家も豊島家も茅葺民家であるが,その平面はやはり 2 列縦割り型の間取りであ
る点が興味深い。この他,重文中家(大阪府)の妻入り正面外観は入母屋屋根の巨大な破風に紋を掲
げて「入母屋妻正面の意匠は中世の豪族の住宅を思わせる」11)もので,中世民家の形態を伝えている
と思われる。中家もまた小部屋付き前座敷三間取りの平面を持つ 2 列縦割り型民家である。
畿内四間取り系民家の当初屋根である茅葺入母屋屋根が身分下降に伴うものであり,当事者には不
本意な屋根形態であったため,17 世紀初頭に捨てさせられた過去の屋根形式を,18 世紀的技術と美
意識と権威表象を以て高塀造として再現したのだと私は思う。それは,①漆喰で白く強調した切妻破
風 ②落ち棟の釜屋 ③瓦葺きで強調した庇,の 3 点である。
①については,破風は縦割り型民家が持つファサードの意匠の重要な要素である。中南信の本棟造
りや畿内の摂丹型民家においても,ファサードの妻入破風に,在地における既得権益や特権の表象が
推測されている12)。関口欣也は,上野原町の文化十四年の古文書に,「前略─破風製作先規違フ以テ,
取除ヲ争フテ復規ス」と,実際に破風が身分規制された山梨県の近世の事例を紹介し,また破風の小
さい入母屋屋根と大きな破風を持つ入母屋屋根に型を分けている13)。破風が格式表現だとする言説
に対する異論として,格式表現とは思えない入母屋屋根民家の例を挙げられるが,破風の小さい入母
屋屋根の破風は煙出しなのであって格式表現ではなく,その起源は②に述べる付属屋としての小規模
な台所かもしれない。一方,大きい破風を持つ入母屋屋根は切妻庇つきなのである。庇の意味は③に
述べるが,この大きな破風が特権や支配の標識から近世の格式表現へと変化したのである。古六間取
り ・ 小部屋付前座敷三間取り ・ 仏間付五間取り ・2 列 6 室間取り町家古遺構はいずれも平入りで,妻
入り民家のような破風を正面に掲げたりはせず,その点から古六間取り ・ 小部屋付前座敷三間取り ・
仏間付五間取りは町家の影響を強く受けているように思えるが,いずれにしても,高塀造の漆喰で白
く塗られて強調された破風は,近世初頭に失った室町後期の家格と権威を再現しているように見える。
②については,川島宙次が「前略─奈良県橿原市今井町にある重文の今西家では,土間と居室部と
の間に雨戸が立っています。─中略─つまり土間棟に対して居住棟の外部であるということを示唆し
ているように思えます。─中略─もう一つは,卯建というものは屋端に立つものですが,大和棟にか
10)伊藤ていじ 日本の民家〔第 1〕美術出版社 1957
11)平山育男 近畿農村の住まい 日本列島民家の旅④近畿Ⅰ INAX 出版 1994
12)永井規男 摂丹型民家の形成について 日本建築学会計画系論文集 251 号 1977,
中尾七重 本棟造民家の分布と信濃小笠原氏支配地域の関連について 日本建築学会計画系論文集 603 号 2006
13)関口欣也執筆 山梨県教育委員会編 山梨県の民家 山梨県教育委員会 1982
坂本高雄 山梨の草葺民家 伝統的形式住居の終焉 山梨日日新聞社 1994
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ぎって,釜屋との間に立っています。」14)と分棟型を示唆することを述べたように,古六間取り ・ 仏
間付五間取り ・2 列 6 室間取り町家古遺構では,台所空間である釜屋が視覚的に居室部と分離され,
又は煙返し梁で空間を分割され,さらに高塀造(大和棟)では釜屋を落ち棟として,外観でもはっき
り区別しようとしている。
マーティン・モリスは,上層住宅では食物の調理や配膳などは使用人の仕事で家人が関わらないた
め,居室部(主屋)と釜屋(台所)が別棟であり,一方釜屋を同一棟に収める住まいは,家人が家事
をする庶民住居に適した形態であるとし,別棟のサービス部分は上層の生活様式を庶民のそれと区別
する最も重要な要素の建築的表現であると述べている15)。農民に身分を下げた元在地支配層の民家
では,実際には使用人が家内に存在し,釜屋は使用人の空間だったが,表向きには民家全体を台所住
まいの農民らしい家屋表現にせざるを得なかった。近世中期に大庄屋など出自にふさわしい処遇を得
た時,釜屋を落ち間にして「台所住まいするような身分ではない」ことを高塀造で表現したのだと思
う。
③については,庇は本来構造から生じ,往古には間面記法で表わされて,建物の規模を表したが,
中世以降の庶民住居では,庇はまた別の社会的な意味を帯びるようになった。伊藤裕久は 15 世紀末
から 16 世紀前半に成立したとされる「近江菅浦棟別掟」について,家役の負担額と居住形態が対応
することを指摘している16)。それによると「本家」層の棟別銭 173 文に対し,主屋より突き出した
「つのや」層は規定の中では最低額の 50 文の負担である。「つのや」は主屋からの張り出しで棟があ
るために賦課されるが,居住も主家に依存する所従は主屋に取り込まれた庇下に居住し独立した棟を
持たないため,賦課の対象外である。これを主家の方から見ると,土間側や後部の庇は所従を従えて
いる表現となる。庇は家来のいる身分を示しているので,古六間取りや小部屋付前座敷三間取り民家
の茅葺入母屋屋根は,正面側は葺き下ろしにして庇が無く所従を持たない身分を表現したが,後に高
塀造では,庇を瓦葺にして,庇を強調している。
高塀造は近世初頭に遡らないため,その意匠は近世の経済発展の結果と考えられてきたが,漆喰塗
の切妻壁,うだつ,平入り正面の瓦庇は,町家古遺構との共通性が高い。近世中期に大庄屋が新しい
意匠を生み出す階層的な必然性は見いだせず,中世末期土豪・豪商住居のリバイバル形式の可能性が
あるのではないだろうか。
7.畿内四間取り
古六間取り ・ 小部屋付前座敷三間取り ・ 仏間付五間取り民家は畿内四間取り民家を原型とし拡大発
14)討論日本のすまいをめぐって(二) 杉本尚次編 日本のすまいの源流─日本基層文化の探究─ 文化出版局
1974
15)モリス・マーティン・N 近世初期上層住宅の台所と庶民住居 建築史学第 26 号 1996 ここでは,上層住
宅台所と民家が同じ原型からそれぞれ枝分かれしたとされるが,その場合の民家は,1 土間と居間からなる
ような最小限の住居タイプと,小部屋つき広間型などの庄屋,名主,組頭,肝煎等,村の役人を勤めた上層
農民の間に利用されていた住居タイプが想定され,“「摂丹型」や「本棟造」のタイプに代表される立派な縦
割平面の妻入農家─中略─と類似する縦割の妻入上層住宅台所の例を発見できなかった。”と述べられ,縦割
り型民家と上層住宅台所系民家とは別系統の成り立ちが推測される。
16)伊藤裕久 中世集落の空間構造─惣的結合と住居集合の歴史的展開─ 生活史研究所 1992
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達したのではない。ここでは,古六間取り ・ 小部屋付
前座敷三間取り ・ 仏間付五間取り民家と畿内四間取り
民家の関係について述べる。
前項で述べたように在地支配者から被支配者に身分
を落とした元土豪農民が家屋表現において捨てなけれ
ばならなかった破風・分棟・庇はそれらが表す社会的
機能ゆえに身分表象となったのである。破風は,摂丹
型と本棟造りでは役屋の標識であった。分棟と庇は所
従を抱えた支配者階級に属することを示している。
重文笹岡家住宅を例にして(図1),古六間取りの
図 2 畿内四間取り平面
(重文山本家住宅)
室の機能を見ると,土間はウマヤとカマヤからなる。
床上表側列は,ミセノマ・ザシキは上位の客人を応接する座敷空間で,小部屋付き前座敷三間取りで
は 1 室となっている。中央列のダイドコロは板敷間で,日常の接客を行う主人の居所であり,カマヤ
やウマヤを監督する場所でもある。その上手のネマは,笹岡家では台所側にも上手妻側にも開口して
おり,それが笹岡家の寛永年間建築にふさわしくないという考えが生じる原因になっている17)。他
の 17 世紀前期に遡る古民家のネマ部分の古形式は,ダイドコロ境は半間の片引戸や帳台構えで,上
手妻側は壁で閉鎖される。ネマはナンドと呼称される例が多く,主人の寝所兼貴重品収納場所であり,
仏間付き五間取りでは仏間となる閉鎖的な室である。裏側列は,土間側がオチノマ,上手側にナンド
が 2 室復原された。寝室が何室もあるのはなぜだろうか?この裏側は使用人の生活空間と思われる。
オチノマは使用人が控える場であり使用人の食事や家内作業が行われたと考えれば,床高が一段下が
った板敷間の意味がよく分かる。ナンドはオチノマと主人の寝室へ行き来でき,使用人の寝室兼私室
と推測される。
次に,畿内四間取りの重文山本家住宅(17 世紀末 図 2)の場合は,土間にはカマヤとマヤがある。
表側列には接客用のクチノマとザシキが置かれる。中央列はダイドコとナンドである。ザシキ・ナン
ド間の閉鎖やダイドコ・ナンド境の半間開口も,同時期の古六間取りと同じである。後部庇下の使用
人の空間が無いことが古六間取りと違う。この違いから推測されるのは,古六間取りは人的支配関係
が残存する住み込みの使用人を持つ階級の住居であり,畿内四間取りは単婚小家族の住居なのである。
重文山本家住宅は当初より別棟座敷の存在が判明しており,中世末までに畿内惣村で胚胎していた名
主・地侍層で江戸期には近世村落におけるリーダーとなった階層の住居である。室町末期の家内被官
を多く抱える土豪・国人領主層と,畿内村落名主層は階層が異なり,名主層の住まいは既に畿内四間
取りや前座敷三間取りの形式であったと思われる。江戸時代中期以降に畿内四間取りを住居とした単
婚小家族の自営農民は,近世の小農自立政策によって生じた階層である。小農自立とは,中世の在地
土豪の中間搾取を排除し近世大名権力が小農民を直接支配し貢納させるもので,太閤検地により貢租
負担者として掌握された直接生産農民が小農自立を果たし,畿内四間取りを住まいとしていった。
古六間取りや仏間付き五間取りと畿内四間取りの関係は,土豪・国人領主層に系譜を持つ大庄屋と
17)前掲 林野 1980
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近世の自営農民(高持百姓)の社会関係に対応する。小部屋つき喰違い三間取りと喰違い三間取りの
関係も同様である。小部屋付き前座敷三間取りの堀家の建築年代が室町後期で,14 世紀末の琳阿彌
邸18)も小部屋付き喰い違い三間取りと考えられる一方,箱木家住宅は室町時代初頭まで遡る19)。畿
内四間取りが小部屋つき五間取りや古六間取りから生み出されたのか,室町時代の名主住居である前
座敷三間取りから直接発達したかどうかは分からないが,いずれにしても畿内の自営農民は,箱木家
のような荘園名主層と前座敷三間取り民家が本百姓のイメージモデルとなったと考えられる。
8.重要文化財吉村家住宅 放射性炭素年代測定調査 中間報告
大阪府羽曳野市島泉の重要文化財吉村家住宅は昭和 12 年(1937)に民家で最初の国宝指定を受け,
昭和 25 年の国宝保存法の廃止・文化財保護法制定により重要文化財に再指定され,その後表門,土
蔵と宅地が追加指定された。昭和 28 年(1953)には民家として最初の保存修理・復原整備が行われ
た。さらに御当主吉村尭氏は,1977 年に国指定重要文化財民家(略称「重文民家」)の所有者有志が
結成した「全国重文民家の集い」および 2007 年に発足した「特定非営利活動法人 全国重文民家の
集い」の代表幹事として,重文民家の維持・管理・保存・活用・啓蒙および文化財・文化遺産の保護
保存活動に取り組んでおられるなど,まさに日本の民家保存の歴史を先導してきた民家である。
吉村家は近江源氏佐々木高綱を祖とし,鎌倉時代に平家没官領の会賀牧に入り土着した丹下氏の子
孫である。河内大塚山古墳に丹下城を築いた丹下氏は南北朝時代には北朝方に属し,楠正成などの南
朝方と闘っている。以降戦国時代にかけて在地土豪として勢力を張り,15 世紀には河内守護畠山氏
の被官となり,河内国人衆として家臣団に編成され,16 世紀には有力な内衆であり奉行人として活
動した。天正 3 年(1575)の織田信長による河内国城郭破却令により丹下城が廃城となり,丹下氏は
城を退去し,天正年間には帰農して姓を「吉村」に改めた。天正 19 年(1591)には「まんどころ
(政所)」と呼ばれており,河内の在地支配を担っていたことが窺える。江戸時代初期から庄屋で,享
保 14 年(1729)以後は丹北郡大庄屋をつとめた。代々名字帯刀・袴着用を許され,周囲に堀を持つ
屋敷内には郷蔵・高札場・常番屋が置かれていた。
吉村家住宅主屋は元和元年(1615),大坂夏の陣で以前の住宅が焼失し,その後間もなく再建され
たと考えられている。放射性炭素年代測定の信頼性を証明するため,年代の判明している民家におけ
る年代調査として,重文吉村家住宅主屋の年代調査を行った。
調査は,福武学術文化振興財団研究助成20),国立歴史民俗博物館基盤研究21),科学研究費補助
金22)の研究助成で,吉村家当主吉村尭氏のご協力を頂き,2005 年に吉村家住宅の柱 2 ~ 7 を試料採
18)前掲 伊藤 1958
19)中尾七重 重要文化財箱木家住宅の放射性炭素年代測定調査について 日本建築学会大会学術講演会梗概集
2007
20)AMS 分析による成立期近世民家の年代測定(研究代表者 中尾七重)平成 16 年度研究助成
21)歴史資料研究における年代測定の活用法に関する総合的研究(研究代表者 今村峯雄・坂本稔)平成 18 〜
20 年度
22)平成 18 ~ 20 年度科学研究費補助金 基盤研究(B)課題番号 18300306
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図 3 吉村家年代測定解析結果
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取し,今村峯雄国立歴史民俗博物館教授(当時)に放射性炭素年代測定23) と解析をお願いした。
2007 年に床下の柱材確認調査と試料の追加採取を行い,2008 年に坂本稔国立歴史民俗博物館准教授
に柱 5 と柱 8 の追加測定24)と解析をお願いした。
柱 2・3・4・5・7・8 はニヨウマツの角柱で,柱 6 はスギの面皮柱である。マツ柱は芯持ちだが偏心した
木取りで,辺材は除去されているようであった。測定結果は,柱 2・3・4 は 12 世紀後期~ 13 世紀後期
に伐採されたマツ材と思われる。しかし 1 点のみの測定なので年代を絞り込めない。今後ウィグルマ
ッチング測定を行う必要がある。柱 5・6・7 は 15 世紀後半~ 16 世紀前半あるいは 16 世紀末~ 17 世紀
前期に伐採されたマツ材である。柱 8 は 16 世紀半ばの年代あるいは 17 世紀前半の年代となった。柱
5 は根継柱で,その根継下部は 16 世紀最末期の年代となった。
吉村家住宅居室部は元和元年の焼失後直ちに,あるいは 17 世紀中に再建されたと考えられてきた。
その後 18 世紀初頭に,別の場所に建てられていた書院座敷を接続し客室部としたとされる。今回の
測定では吉村家主屋の建築年代の判定に至らなかったが,吉村家住宅は伐採年代が異なる部材で構成
されていることが判明した。
居室部は,イマ・ナンド境の「2・3・4」柱が鎌倉時代末期から室町時代初めに伐採された材木で
ある。修理工事報告書によれば「2・3・4」柱は当初材で,転用等の痕跡は特に無いらしい。またオ
イエ・ナンド境の「8」柱は 16 世紀(1540 年ごろ)あるいは 17 世紀(1640 年ごろ)となり,イマ・
ナンド境の「2・3・4」柱と同時期ではない。但し現状の柱の最外部分の解析結果であるから,製材
時削除部分を 10~20 年程度加算する必要がある。柱 2・3・4 は前身建物の再用材と考えられるが,「8」
柱の年代は元和より少し時期が下るため,吉村家住宅の建築年代推定には居室部のナンド周りやオイ
エの当初材の追加測定が必要である。
客室部はもともと主屋居室部とは別の建物であって,17 世紀後期に主屋居室部に接続改築された
際,当初の柱が根継され面皮柱が加えられたと考えられてきた。しかし以下に述べるように客室部が
接続されたのはそれよりも古い。
測定結果は「5」柱の根継上部が 1470~1535 年あるいは 1558 年~1635 年で,根継下部が 1600 年
ごろとなった。客室部の面皮の「6」柱は 1435~1530 年あるいは 1550 年~1635 年となり,面皮で削
除部分の無いためこの年代が伐採年となる。面皮柱は茶室に始まり数寄屋に用いられた柱で,15 世
紀~16 世紀前半の年代は不適として排除され,後者の 1550 年~1635 年が該当する。根継の上部より
下部が新しいはずであることと面皮柱の年代から,2 つの可能性が考えられる。一つは室町時代の
1470 ~ 1535 年に他所に建築された書院座敷が近世初頭に現在地に移建され,その際一部の柱を面皮
柱に入れ替え数寄屋風書院として居室部に接続したというもの。もう一つは近世初頭(1558~1635)
に面皮柱を伴い建築された数寄屋風書院が,建築後あまり時間の経たないうちに移建され居室部に接
続されたとするもの。現在の客室部は面皮柱を用いてはいるが,庇の垂木に面が取られていることな
ど古風な手法が見られることから前者の可能性を感じる。一方,丹下氏は天文~永禄ごろには畠山氏
23)ベータ線法:前処理を含む測定一式を地球科学研究所・ベータアナリクス社に委託,AMS 法:前処理は国立
歴史民俗博物館,測定はパレオ・ラボ社に委託
24)AMS 法:前処理は国立歴史民俗博物館,測定はパレオ・ラボ社に委託
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の重臣で丹下城(河内大塚山古墳)を拠点にしていたが天正三年に丹下城を破却した経緯から,客室
部は丹下城の建物を移建したと思われ,後者の可能性も否定できない。書院座敷の移建と主屋接続の
時期は,年継下部の測定結果では 1555~1643 年と年代幅が広いため,主屋の再建と同時期か,それ
に遅れるのかも不明であり,追加測定が望まれる。
吉村家前身建物の大阪夏の陣(1615)における焼失については今後の解体修理の機会に発掘調査が
望まれる。現在の吉村家の屋敷地は中世以来の丹下氏の本拠地であって,丹下城を破却・退去しての
ちに新たに住まいした場所ではない。吉村家長屋門は幅の狭い道に面し,その敷地東端に江戸期の高
札場があったが,この道は江戸期に整備された道と考えられる。それは,近世の島泉村地割図25)に
よれば吉村家屋敷地を含む約 120 メートル四方が堀で囲まれており,この約1町四方の屋敷地は中世
武士の方形居館と考えられるからである。丹下氏の屋敷地内に居住する被官が独立して文禄検地の島
泉百姓となり,かつての屋敷地内の門屋と領主館の間に近世の道が敷かれ,その道を境に帰農した吉
村家の長屋門が建築されたと思われる。すなわち吉村氏が帰農土着する以前の丹下氏時代から現在の
屋敷地は居館であったと考えられ,前身建物の遺構や焼失時の痕跡が地下に存在する可能性がある。
このほか,当初と思われる柱の床下部に番付らしい墨書も散見され,これに関しては改めて調査す
る必要がある。当初柱床下部の着色試料測定の結果は異常値となり,修理工事時のタールなどによる
保存処理加工の可能性がある。重要文化財吉村家住宅の年代調査は非常に複雑な様相を呈しており,
居室部・客室部とも建築年代を絞り込めなかった。本稿は現時点の中間報告であり,今後さらに測定
部材数を増やした追加調査を行いたい。
9.おわりに
本論は,畿内古民家を 2 列縦割り型平面とする試論であり,実証や論証は今後の課題である。近世
は中世秩序の解体の上に築かれた身分制社会であり,民家遺構はその大転換後の近世在地秩序に適応
図 4 吉村家測定柱位置と年代
25)羽曳野市教育委員会 羽曳野市史別巻 古地図・絵地図 1985 但しこの地割図は書入面積と表示された図
の面積がおおきく異なることが前掲「重要文化財吉村家修理報告書」にも指摘されているが,吉村家屋敷地
周辺の概況は把握できる。
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した住居である。近世民家の成立研究や,中世在地住居を探求する試みは,この中世から近世への大
転換について,それぞれの地域がたどった歴史を軽視しては成り立たない。
重要文化財吉村家住宅の放射性炭素年代測定による年代調査は,建築年代や変遷年代を特定するに
至らず今後の課題となった。中世から近世への大転換をくぐり抜けた古民家は,前身建物の部材使用
を含めて,一筋縄では捉えられない事を痛感した。吉村家調査および放射性炭素年代研究や民家研究
にご理解ご協力くださる御当主吉村尭氏に感謝申し上げ,ひきつづき年代調査研究を進めてゆきたい。
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